雑草

高橋悠治

畑に 植えたはずのない草がはいりこんで かってに育っているとしたら
まわりになじめず ちがう感じかたや考えが浮かんで
ふるさとや国に おちついていられない
どこかよそに 自分の場所があるとも思えないなら
ここで めだたないように ぬきとられないように
見えない根をはって ほかの草のあいだに かくれているよりないだろう

ともだちは遠くにいて 離れたところで似たうごきをする
近くにあるもの同士はちがうかたちをとって 補いあうのかもしれない
こうして時はしずかに過ぎる


ファティマ・メルニーシーを読んで 11世紀アンダルシアのイブン・バーッジャの名を知った バーッジャの本『孤独者の経綸』は近くの図書館にあった ここに書きとめたことばは その本とおなじではない

『アパートの鍵貸します』のローロデック

野口英司

映画の中で小道具が効果的に使われていると、もうそれだけでその映画が好きになってしまう。そして、その小道具が欲しくなってしまう。手に入れることができさえすれば。

ビリー・ワイルダー監督の『アパートの鍵貸します』(1960年)は、気分によってはオールタイムのベストワンに挙げてしまうほど大好きな映画だ。ストー
リーが面白いのはもちろんのこと、それを補う小道具がどれも素敵だったからだ。邦題に使われている「鍵」からして重要な小道具であるし、他にも「コンパク
トの鏡」「帽子」「シャンパン」など、どれを取っても気の利いた使い方がされている。ストーリーを左右するほどの小道具ではないけれども「テニスラケッ
ト」「ジン・ラミー」なども印象的だ。そんな中でも、この映画を最初に見た時から釘付けになってしまったのが、ローロデックスの回転式名刺ホルダーだっ
た。

(YouTubeにスペイン語吹き替え版が消されずに残っていたので貼り付けてみる。ジャック・レモンがスペイン語を喋っているのでおかしなことになってるけど。)

保険会社の社員であるジャック・レモンは、上司が愛人と逢引きする場所として自分のアパートの部屋を提供している。しかし、風邪を引いてしまったために、
今日予定している上司に断りの電話を入れる。その時に電話番号を調べるために使っていたのがローロデックスの名刺ホルダーだった。

奥行きのある巨大オフィスの中の仕事机を真正面から捉え、中央にはジャック・レモン、左側には今では考えられないほど大きな計算機、右端にはローロデック
ス。片手で受話器を持ち、もう一方の手でローロデックスを回して素早く電話番号を調べる姿は、フレームの中に収まった構図としても美しいし、と同時に
ジャック・レモンの手際の良さを象徴するシーンでもあって、その中でローロデックスが小道具として異彩を放っていた。

ローロデックスの名刺ホルダーが発売されたのは1958年(
だそうだ。となると、販売してからすぐに映画で使われたことになる。映画のシーンを効果的に見せるためには小道具ひとつとっても重要で、いかにして的確な
ものが配置できるかは、絶えずいろいろな方向にアンテナを巡らせている必要がある。ネットも無い時代に、ビリー・ワイルダーの映画はそのセンスが抜群だっ
た。

『アパートの鍵貸します』をはじめて見てから長い年月が流れ、すっかりネットショッピング時代に入ったちょうど2000年のころに、なぜかふと思い立って
「ローロデックス」で検索してみると、扱っているネットストアが次々と出て来た。うわぁっ! と、すぐさま購入してしまった。今ではパソコンやスマートホ
ンがあるので使う機会は失われてしまったけれど、クルクル回すのがとても小気味良いので、たまに意味もなくクルクルと回している。もうすっかり名刺を入れ
替えてないので、クルッと回して出て来た名刺がもうどこの誰かもわからない場合もあるのだけれど。

ローロデックス

風が吹く理由(11)彼女の名前

長谷部千彩

姪は、誕生日を迎え、四歳になった。女の子は男の子にくらべ、成長が早いというけれど、彼女を見ていると、つくづくそれは真実だ、と思う。最近は髪の毛が伸びてきたのが嬉しくてたまらないらしく、幼稚園に行く前に髪を結ってやってもほどいてしまうと妹がこぼしていた。髪をなびかせて歩くことに得意になるなんて、子供も大人も同じだな、と笑ってしまう。

彼女が大人になる頃、二十年後には、どんな世の中になっているのだろう。私の世代には間に合わなかったけれど、例えば、夫婦別姓は選択できるようになっているだろうか。結婚することと自分がどう名乗るかは別個の問題である―ということが、当然と考えられる世の中になっているといいけれど。少しでも多くの自由を―自由というのは選べるということで、選ぶという行為は時に厄介さをともなうけれど、それでも少しでも多くの自由を彼女の世代が享受できますように、そう願っている。

もしもその時、姓の選択について姪に相談されたら、私は何と答えるだろう。とりあえず相手に、「別姓にしたい」と言ってみたら?と答えるかな。そこでどんな話になるか、相手を知る絶好の機会だと思うから。現実には、別姓が問題として浮上するとすれば、当事者間のどうこうよりも、相手の家の考え方によるところが大きいだろうけど。姓なんてさほど重要ではない、ふたりが納得いくようにすればよいという家。名前を残すことに重きを置く、「家」という概念の強い家。こちらの姓を名乗らないなら、結婚は許しません、とか?
墓には入らないと決めている私のような人間にはリアリティがないけれど、信教だとか地域社会だとか、日常会話には出て来ない、それぞれの家の”当たり前”がきっとこの世には無数に存在し、絶えず擦れあい、ひとびとは違和感を呑み込んだり吐き出したりしながら暮らしている。そして、それはいまも昔もこの先も、たぶんずっと変わらない。

ただ、その時が来たら、私は彼女にこのことだけは伝えたい。
「昔はね、大抵の日本の男のひとは、結婚したら女性が自分の姓を名乗るものと思い込んでいたの(女のひともね)。それがデフォルトで、それ以外は何か事情があるとか、イレギュラーなことだと思っていた。どちらの姓を名乗ることもできるのに、どちらの姓を名乗ろうか、というフェアな話し合いをするカップルはほとんどいない。そして、婚姻時に名前を改変することが当たり前だと思われているという現実が、やはり女性に―対等であることを望んでいた女性たちにも―強烈ではないにしろ、自分が脇役であるかのような意識をじわじわと与えていたと思う。だから、名前について自覚的に考えられるとか、ふたりでちゃんと話し合って決められるというのは、長い目で見た時には結構大事なことなのよ」

受話器を取ると、姪の弾んだ声が耳に飛び込んできた。姪は、近頃、長電話の楽しさを覚えたようで、時々、こうして電話をかけてきては、小鳥のさえずりのようなお喋りを私に聞かせる。
「ちいちゃん、今度、お山に一緒に行こうね、お山で一緒にアナとエルサとオラフの歌、歌おうね!」
「いいわよ、一緒に歌おう!」
「一緒に歌ったら楽しいね!」
「そうね、一緒に歌ったら楽しいわね!」
何がそんなにおかしいのか、姪はくすくす笑っている。
ありのままに、と歌いながら育つ彼女が、どんなことを”ありのまま”と感じるようになるのか。それがわかるのはもう少し先のこと。ならばいまはこう言おう。
大きな声で歌っていいのよ。自分が好きな歌を好きに歌っていいのよ。
言えることは、いまはそれだけ。私が言えることは、ただそれだけ。

障の神

璃葉

真昼の裏側を駆けまわる  鈍色の山奥から
静けさを受け止めている対岸まで

空は緑だった その下に樹々があった 樹々は緑ではなかった
土の上を転がるように 障の神は 一筋の風や葉に成り代わり、走り回る
音がしたと思えば音は消えている
我々が気づくのはいつも過ぎ去ったあと
振り返り、じっと考える  対岸に耳を澄ませながら

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夜のバスに乗る。(5)「バスジャックってどう思いますか?」と僕は犬井さんに聞いた。

植松眞人

 小湊さんからバスジャック計画の一部始終を聞かされた僕は、夏休みの宿題を突然思い出した八月三十一日の小学六年生のような気分だった。物理的には絶対に不可能なのに、何とかなるんじゃないかと楽観的な気持ちに捕らわれていた。バスジャックをして、先生を誘拐して、湘南の海を眺めて帰ってくる。しかも、誰にも知られず、叱られず、穏やかに他人に迷惑をかけずに明日の朝を迎える。
 そんなことができるとは思えなかったが、できないと言い切れるような気分でもなかった。それに、どんなにできないと思ったことでも、小湊さんがそうしたいって言っているんだから。僕は少し小湊さんのせいにしながら、この計画を楽しみ始めている自分に気付いていた。
 しかも、こういうことは考えれば考えるだけ不安になってくる、ということくらい高校生になればわかるものだ。僕はバスが信号待ちになった瞬間に、犬井さんがいる運転席に向かった。そして、自分が迷わない間に、と意を決して聞いてみた。
「バスジャックってどう思いますか」
 僕の言葉を聞いた瞬間、犬井さんが怒り出したり、最悪、僕の手をつかんだりするようなら、この計画は最初から実現不可能なのだ。小湊さんはがっかりするだろうけれど、いっそその方が清々しい。僕だって、どうせなら小湊さんの願いを叶えてあげたいと思う。あんまりぼんやりと生きていると、すべてが中途半端にうまく行ってしまいそうで、僕は怖かった。多少の失敗にも、多少の辛いことにも目をつむってしまえば、何とか乗り切れる。実際にそうやってここまで来たような気がする。そんな時にバスジャックだ。とても穏やかにバスジャックを実行せよ、という妙な成り行きだ。これはもしかしたら、これからの僕にとってとてもいい課題なのではないかと、僕には思えた。
 犬井さんに声をかけておきながら、僕の頭のなかは、そんな勝手な言い訳でぐらぐらとしていた。すると、そんな僕を正気に戻すように、犬井さんが素っ頓狂な声をあげた。
「誰が?」
 誰が、という答えは想像していなかったので、僕はしばらくなにも答えられなかった。すると、犬井さんがさっきよりも落ち着いた声で、「誰がバスジャックするの?」と言った。
「僕たちです」
 まるで学芸会のお芝居のように大げさに視線を小湊さんに送って丁寧に返事をした。大人に話を聞いてもらうには、丁寧な言葉づかいをしないといけない。僕は犬井さんが「誰がバスジャックするの?」と答えてくれたことで、このバスジャックは決行されるのだろうと確信した。犬井さんは嫌がっていない。「僕たちです」と答えると、案の定、「高校生がバスジャックかあ、穏やかじゃないなあ」と笑うのだった。
 犬井さんはしばらく、どうしたものかと考えていたようだが、
「とりあえず、もうすぐ終点だから」
 そう僕に話しかけた。
「このバスは、今日はこのまま車庫に入れなきゃ駄目なんです。だから、終点過ぎるまでもう少し待っててもらえますか」
 犬井さんは、バスジャックの話をした後も、僕たちがお客さまのような話し方をした。きっと、癖になっていて運転席から話すときには、丁寧に話してしまうのだろうと僕は思った。僕は「わかりました」と返事をしたまま、犬井さんの隣に立っていた。すると、犬井さんは、
「このまま走って警察まで行っちゃうなんてことはしないから、座っててもらって大丈夫ですよ」
 と笑いながら、僕に言うのだった。僕は「よろしくお願いします」と言うと、小湊さんのところに戻った。
 小湊さんには、犬井さんはいい人だ、協力してくれそうだと伝えた。小湊さんはそんなこと知ってるわよ、という表情で僕を見た。
「だから、犬井さんが運転している最終バスを狙ったんじゃない」
 そう言って、小湊さんはとても楽しそうに笑った。

島だより(11)

平野公子

さっそく提案書はグルリと回り、招集がかかった。
町長はじめ役場の担当者(文化財担当、企画財政)、地域アートプロジェクトリーダー、地域起こし隊支援員
そして当の宿屋の元ご主人(当時はこどもであった)が集まった。
役場のメンバーは北川フラム氏や京都芸大の先生方と瀬戸内芸術祭で大いに活躍されている若いひとたちである。いわゆる役場の人という感じより、こちらの意向をグングン汲み取っていくリキがあるのだった。が、私ははじめから瀬戸芸では何もしません!と宣言している、その上でのおつきあいがはじまっている。

公民館の一室で円卓になり、残されていた絵の来歴、いままでの町としての取り組みなど聞かせていただいた。
「猪熊(弦一郎)さんが東京の友達に電報打つて、小豆島まで呼んだんですよ」
そうなんですかぁ。
「そりゃ、みなさん喜んでました。ウチのバーさんとおふくろの接待が気に入られて」
そうなんですかぁ。
「みなさん、スケッチばかりしていたと聞いてます。宿にも絵をたくさんいただいて」
それは宿代のかわり?
「いえいえ、みなさん宿代はキマリ以上のもの払ったと聞いとります」
そうなんですかぁ。
どんな方を覚えていますか。
「猪熊さんは優しい人だった、とおふくろが言ってました」
どこまでもイノクマさんかぁ、、、。
「町でも一度、旅館に残された絵のおひろめ展示をしたことがあるのですよ、これがその時の写真です」
そうなんですかぁ。

当時、というのは戦前戦後の数年のことなのだが、そこをキッチリと記憶されている方は現在はおられないようだった。しかも投宿した画家たち、残された絵の画家たち数十人が全て頻繁に島に来ていたとは限らず、これは残されている絵から、どんなメンバーが、どんなことから彼らをして島へのスケッチ旅となったのか、読み解いて行く方法がいいのかもしれないと思った。

それから数週間後、もう一度絵を見せていただく事にした。今度は時間をかけて裏をかえしサインを確認、表裏画像に撮りそのデーターをまとめて私のPCにおくっていただくことにした。ほんというとひとりでじっくり見たかっただが、その日も若者たちはワサワサと参集、テキパキと作業してくれる。とても助かるのだが。わたしと言えば、ペッタリと床に座り込んで一点ずつ、絵に見入ること数時間。ここで大きな発見があった。向井潤吉のスケッチ(絵もサインもしっかりしていた)、宮本三郎のスケッチを数点見つけたこと。これはさっそく世田谷美術館へ画像を送り確認することができたし、彼らの資料までおおくりいただいた。あと、ないと思われていた若いときの猪熊弦一郎のスケッチを2点発見。他にこれが今の最大の謎であるが、彼らよりひと世代前の画家、つまり師匠筋の大物画家のスケッチがあるのだった。昭和7年、昭和11年の記載がある。サインも略字である。ウーン、これはまだまだ奥がありそうだ。

ガール・ミーツ・ボーイの物語

若松恵子

今年のバレンタインに、日本のロックバンド「シーナ&ロケッツ」のシーナが亡くなった。昨年の7月に体調を崩して、6年ぶりのアルバム『ROKKET RIDE』のリリースや9月の日比谷野音の35周年ライブなどを見守りながらも、ファンは心配していたのだった。

突然の訃報だった。
それはシーナが、最期までロックを歌っていたいと決めて、闘病については特に公表しなかったからでもある。『サンデー毎日』3月8日号の鮎川誠(シーナの
夫でもありバンドのギタリストでもある)のインタビューによると、シーナは「ロックは生きとる喜びを歌うものじゃけん」と言って、抗がん剤や放射線治療を
しないで「歌いたい限りは歌う」ことを選んだという。

高校3年の頃に、シーナ&ロケッツの「YOU MAY DREAM」がヒットしていたのを懐かしく思い出す。文化祭の準備をする教室で、ラジカセから流れていたシーナのうれしさに溢れた曇りのない声を、未知の
世界の入口にいた頃の空気と重ねて思い出す。「YOU MAY DREAM」は、今も大切な曲としてライブで歌われていた。この歌に込められている夢を見る事への肯定感は、歳を経てますます確信を強め、若者ではなく
なった今もなお、胸に響く1曲だった。この曲名を書名にしたシーナの自伝エッセイ『YOU MAY DREAM』(2009年 じゃこめてい出版)は、シーナ&ロケッツのロックと同じように、正直で肯定感にあふれた1冊だ。

シーナはグルーピーでもなく、家で待ってるロックンローラーの妻でもなかった。鮎川誠のギターの横で歌う、彼女自身もロックンローラーだった。『YOU MAY DREAM』には、バンド結成のいきさつが書かれている。ある日、鮎川のリハーサルに同行したシーナに、歌うチャンスが突然めぐってくる。

1枚でいいから、自分で歌ったレコードを作りたい!
というのが、子どもの頃から抱いていた大きな夢だった。
その夢は、マコちゃん(鮎川誠)にさえ話したことがなかった。
歌った後ではじめてマコちゃんに言った。
「私、歌いたいの」
告白したら、
「よし、作ろう。シーナがヴォーカルをとるバンドを作ろう!」
いきなり、言い出した。マコちゃんの反応は、胸がドキドキするほどうれしかった。こんなに長い間暮らしてきたのに、言い出せなかった秘密。しかし、マコ
ちゃんは、いつもレコードに合わせていっしょに歌っている私を見ていたので、その前から胸にアイデアがあったのかもしれない。
(『YOU MAY DREAM』p.90)

言い出せなかった、心の奥にしまった夢を、いちばんの理解者に受けとめてもらう幸せ。そしてふたりは夢をかなえていく。シーナの本名が悦子だから「ロック+悦子」で「ロケッツ」というバンド名になった。シーナというのは、ラモーンズの名曲にちなんでいる。

『YOU MAY DREAM』に綴られているのは、ひとりの女の子が男の子と出会って、お互いを認め合って、愛し愛される幸福な物語だ。おとぎ話を読むように、私はこの本を時々読み返す。

私はいつも欲求不満で、焦燥感でいっぱいだった。ひとりっ切りで突っ張って生きてき
た。頑張って「自分の人生」を探し求めてきた。気が強かった。泣くのが悔しい。根をあげるのは絶対に嫌い。そんな私の性格が、マコちゃんと出逢って、一瞬
にして崩れた。自分がクルッとひっくり返ったような気がした。
素直に、純粋になれた。なんか自分が子どもになってゆくような気がした。
(『YOU MAY DREAM』p.71)

ロックのハードなイメージとはうらはらに、シーナはとても柔らかく、温かく、でしゃばらない女性だった。テレビ番組で「大人になって子どももできると、た
まにレコード聴くくらいになってしまう。鮎川さんたちみたいなロックンロールライフがうらやしい」と言われて、「1週間に1度だっていいじゃない。自分が
それを欲しいと思うかどうか。私は欲しがって楽しい日々を送っているの。今日好きか嫌いか。今、今日の問題。」と語っていて印象に残る。ひとつの考え方に
縛られたり、その物差しでひとを批判したりすることが無かった。必要以上に謙遜もしない人だった。ロックの最良のものを持ち続けている人だった。好きなも
のを好きなように着てかっこよかった。

シーナの告別式を知らせるホームページの記事には、昨年9月の、たぶん日比谷野音の時の写真が添えてあった。彼女はグリーンのきれいなスパンコールのミニドレスを着て、雲の上を歩いているように見えた。ロックな女のお手本として、私はシーナを尊敬している。

製本かい摘みましては(107)

四釜裕子

ドアにハンガー。外から戻ると上着をかける。ビルの一室の無彩色の小さな事務所。窓を背に机と椅子がワンセット。左右の棚には書類が整然と並んでいる。無駄なものがいかにもなさそう。その男の動きにさえも。電話が鳴った。黄色い小さなりんごをかじっていた手で受話器をとる。続いてBICのボールペンでメモをとる。役所の民生係ジョン・メイのところにはこうして管轄内の誰かがひとりで亡くなると連絡が入る。そのひとの家に行き身寄りのあてを探して、連絡をして亡くなったことを伝える。身寄りが見つかっても拒まれることが多く、その場合に代わって見送る方法が独特らしい。遺品から暮らしぶりを探り教会を選んで葬儀のだんどりを組む。そこでかける音楽をみつくろい、弔辞の原稿を作って牧師に渡し、自分がただひとりの参列者となる。ウベルト・パゾリーニ監督の『おみおくりの作法』の話。

一人一ファイルの調査資料に一枚ずつ顔写真がゼムクリップで留めてある。パスポートやスナップ、若き日の写真などさまざまだ。調査が終わると写真をはずして封筒に入れて自宅に持ち帰る。アパートのドアにもハンガー。上着をかけていつもの夕食。アイロンのきいた白いクロスをダブルクリップで留めたテーブルに、ナイフとフォーク、白いナプキン、それと、アイロン。白いお皿に魚の缶詰をそのままあけて、トースト一枚。紅茶にりんご。終えるとリビングに移って文房具が整理されたテーブルの上に青色のアルバムを広げる。ちょっとした金の装飾柄付きの。厚い台紙のページをめくって、空いたところから、持ち帰った写真を三角写真コーナーを使って貼っていく。文字を書き込むこともなく、ひとりごちるわけでもなく。一枚一枚をじぃと眺めて。

ある日電話で告げられた住所に聞き覚えがあった。自分が暮らすアパートの棟違い、ちょうど向かいの部屋である。その人と一度も会ったことはないし自宅の窓の向こうに人の気配を感じたこともないジョン・メイである。散らかった部屋に半分も埋まっていない古ぼけたアルバムが遺されていた。娘だろうか。連絡先がわかったので(写真を渡そう、新しいアルバムにして)と思いつく。そうすれば(葬儀に足を運んでくれるかもしれない)。雑貨店に行く。いろいろあるのに結局いつも使っているのと同じ青いアルバムを選ぶ。家に帰って食事を済ませてリビングのテーブルへ、いつものように。元々のアルバムに比べるとだいぶゆとりを持って貼り替えたようだ。終えて、ジョン・メイは裏窓のカーテンを開ける。灯りのないその人の部屋の窓に自分が映って見えた。

映画の佳境はこれからだが、写真をじぃと眺めながらアルバムをめくるジョン・メイさんが良かった。互いに知り合うこともなく亡くなった人たちである。ただ一冊のアルバムの中で、生前知ることもなかったジョン・メイという人になぜだか何度も何度も繰り返し見られている。その様子をみせられて、みんなひとつながりと思えた。もともとひとつながりじゃないか――。鬼海弘雄さんが浅草で撮り続けている人物写真に重なった。近著『誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録』(2015 文藝春秋)にも何人か登場している。鬼海さんの展覧会や写真集、著書を通して繰り返し目にしてきた人たちは、誰にとっても見ず知らずにもかかわらずもはや誰にとってもいとしく懐かしい人になるだろう。もとがひとつながりだったことを記憶の外から思い出す、というような。

分厚い台紙に三角の写真コーナーで貼るアルバムというスタイルは今もあるのだろうか。ちいさいころ両親がカワイイ我が子の写真を整理した分厚い台紙のアルバムを見るのが好きというか面白かった記憶がある。若い夫婦のコメントも思い出されて笑った。あれからまもなくアルバムは粘着性のある台紙にフィルムで貼るタイプに代わり、台紙を一枚ずつ買い足す「フエルアルバム」やバインダー式が増えた。「フエルアルバム」は昭和43年に現在のナカバヤシ(株)が売り出した。社長の息子がラジオのアンテナを伸ばしたり縮めたりしたことにヒントを得たそうである。同社は大正12年、図書館の本の修復や病院のカルテの製本をしていた製本職人・中林安右衛門が大阪で中林製本所を開業、昭和34年に手帳製造開始、38年に中林製本手帳(株)、45年にナカバヤシ(株)と改称。現在も製本事業を続けており、その一つとして、賞状や絵画、雑誌の切り抜き、年賀状などをまとめるサービスをうたっているのがとてもユニークだと思う。

しもた屋之噺(158)

杉山洋一

息子と二人、ローマに向かう機中でこれを書いています。
ここ暫く息子が合唱の端役で出させてもらうカルメンの練習が続き、家人が日本に先に戻ってからは、小学校へは友人に迎えにいってもらい、リハーサルが終る頃にナポリ広場の少し先のスタンダール通りの「アンサルド」に迎えにいくのが今週の日課ですが、とても暖かい日差しのもと、手がかじかむ底冷えに震え上がりながら帰りの路面電車を待っていて、同じ方向に帰る中学生のカルロッタと一緒になりました。

息子が昨日は学校の校外学習でお芝居を見に行ったというと、
「それ私も行ったわ、あのエジプトのお芝居でしょう? それで見るほうもファラオになったり、スフィンクスになったり、色々と仮装させてくれるのよね。楽しいわよね。で、あんたは何になったの?」
「僕はミイラの仮装をしたよ。で、こう手をダランとして」。
「あのお芝居は面白かったわ! でも、それから何年かしてあそこにまた校外学習で行ったときは、それは詰まらなかったわ」。
「へえ、何のお芝居?」
「死刑」。
「ふうん、死刑って何?」
「人を殺めたりしたら、罪をつぐなうためにお前は命をたたなければならない、とか国がきめることね。もっとも、そんなことやっている国は、今どき殆どないらしいわ。ともかく、お芝居がちっとも面白くなかったのだけは覚えているの」。

  —-

 2月某日 三軒茶屋自宅
友人のSが脳出血で倒れたときき、渋谷の駅前でイチゴを買って板橋の病院をたずねる。顔色はいつもよりも赤紫色にみえたが、左脳に出血があったため会話も普通にできて、記憶もしっかりしている。これならすぐに治るに違いない。良かったと安心しつつ、どう励ませばよいか見当もつかない。本人の辛さは如何ばかりか。

夜半に渋谷でみさとちゃんと会い、演奏会の打ち合わせ。最近は何のため、誰のために作曲をするのか、考えるようになったという。消費社会にただ貢献するために垂れ流すように作曲すべきかどうか。考えさせられることが多いという。互いに近親者や親しい友人に色々あっりして、何より命あっての物種だよね、というところに落ち着く。互いにそういう年齢に達しつつある。

 2月某日 グラマシー・ホテル
リハーサル初日。一人一人短いリハーサルをし合わせてみる。全体を大凡8分くらいで演奏してと言うと、ウォンジュンは几帳面に電話を取り出しストップウォッチを使って歌い、クラリネットのリチャードは自由に演奏したいからと何も見ないで演奏した。初めは、互いに同時演奏をする感じだったが、何度か繰り返すうちに、互いを聴き合うことに面白みを発見してくれたようだ。音と音との角がとれて、全体がしっとり有機的に呼吸をはじめると、にわかに室内楽らしく聴こえるようになった。
「スオナの音色なんて真似できないよ、あれはダブルリードだよ」、と当初はどうやって演奏するのかと訝しがっていたリチャードも、ウォンジュンの歌声に寄り添って、様々なアプローチで演奏してくれ、彼の独特のヴィブラートに触発されて、ヴィオラのアンリーンもぺったりした音色やフラウタートやら、胡弓のようなヴィブラートやら、互いに互いの音に近づきながら音色のパレットがどんどん増えてゆく。こんな単純なピアノパートってさ、と笑っていたスティーブも、一つ一つの音を丹念に他の楽器に絡めようと専心していた。

 2月某日 グラマシー・ホテル
今日のリハーサルは、いわゆる貸しスタジオという感じ。細い廊下をほんの5メートルもゆくと突き当たりに受付があって、3つ4つ入口が四方に並んでいる。我々の部屋は入ってみると古めかしい小さな木造の応接間のような雰囲気で、意外な感じ。

練習が終ると、リチャードが「あれクラリネットの蓋がない」という。クラリネットをケースにしまうときに、黒いプラスチックの丸い蓋を管の上と下にかぶせて仕舞うのだが、それが片方見つからない、という。こんな狭い部屋で一体どこに消えたのだろうと訝しく思いつつ、それほど大切なものなのかと不思議に思う。他の演奏者が帰った部屋で、あらためて隅々まで探すと、黒い縦型ピアノの蓋をしめたところに載せてあった。

「これはね、実は自分にとってものすごく大切なもので、師匠から貰った贈り物なんだ。彼は本当に厳しくて、良しと言ってくれたことが一度もなかったけれど、それが嬉しかったんだよ。プロとして活動を始めてからもずっと通っていてね。だから、楽器を開けるたびに、この蓋を取り、蓋をつけながら、彼を思い出すんだ。見つけてくれて、本当にありがとう」。

 2月某日 グラマシー・ホテル
今日はリハーサルが午後からなので、ホテルで少し仕事をしてから、昨日大西くんに教えてもらったイーストヴィレッジの「象と城」まで20分強歩いてブランチを食べに行く。昨日、大西くんとは、互いのルーツ、音楽や文化のルーツについて随分話し込んだ。指揮しにくるのと違って、自由時間が随分長く、身体も殆ど動かさないので、歩かないとどうも気持ちがわるい。随分寒かったが、後で聞くと朝は零下10度くらいにはなっていたらしい。積もった雪は凍りついていて、ビルの合間にはものすごい風が巻き起こり、立っているのも辛いほど。

スモークサーモン入りスクランブルエッグを注文し、巨大なカフェラッテ・ボールを飲んでから、チャイナタウンを目指す。ニューヨークは久しぶりで、最後にニューヨークを訪ねてから10年近く経っているから、土地勘がないのも仕方がないと諦める。前は息子が生まれてすぐのクリスマスのころだった。

雪のなか、チャイナタウンをひたすら歩く。ミラノの中国人街の裏通りと雰囲気は似ていて、それが20倍くらい膨れ上がった印象をうける。国土に比例しているものだと妙に納得する。路地のカソリック教会が開いていたので、暖を取りがてらミサを眺める。中国のキリスト教の数はかなりに上り、多くは地下教会だと読んだことがある。ミラノの中国人街に教会はないので、全てが興味深く、説教しているのは白人の神父だったが、マリア像もキリスト像も中国人の出で立ちをしていて、中国系の年輩の信者たちが熱心に祈りを捧げている。運河通りの角の粥屋からは、もくもくと白い湯気が外に吹き出していて、以下にも美味しそうに見える。もうすぐ正午になろうとしていたから、ニューヨークでは粥は昼でも食べられるらしい。

 2月某日 グラマシー・ホテル
今日も午前中時間があったので、地下鉄で125丁目までゆき、2時間ほどひたすら歩く。地下鉄は手前から地上を走っていたので、雪が降りしきっているのは知っていたが、125丁目の高架駅を降り立つと、吹雪。観光客よろしくゴスペルのミサを見たかったのだが、平日だから無理だろうと諦めていて、ましてや酷い雪で殆ど誰も歩いていない。ともかく教会が見たくて、東に向かって歩き出すと、最初の赤い小さな教会が開いている。こんな時間に何だろうと訝しく思いつつ中に入ると、教会は信者でひしめきあっていた。神父は黒人で、見渡す限り周りは黒人ばかり。

神父の前には木棺が慎ましく置かれている。葬式にしては、参列者に泣いている人もいないけれど、熱心に神父の言葉に耳を傾けていて、仕事を抜けて駆けつけた感じの男性も多かった。きっと、亡くなったのは年輩で、信望も篤い人だったのではないかしら、と想像を逞しくしていると、15、6歳の少女が壇に上り、オルガンとともに聖歌を歌いだした。その歌の素晴らしさに、思わず鳥肌が立ち涙が流れた。

酷い雪だったが、とにかく少女の歌声が身体に残っていて、そのままずっと歩き続けていても苦にならない。路地という路地に、バプテストの教会が文字通り軒を連ねて並んでいるさまに、色々と思いは尽きない。

古い黒人霊歌「この身体を横たえて」を思い出しながら、歩く。
「ああ墓所よ。ああ墓所よ。わたしは墓所を通って歩いてゆく。この身体を横たえるため」。
彼らの過去を思えば、宗教心の篤さは理解できる。たとえ、その宗教そのものが彼らの過去を生み出す要因の一つだったとしても。

 2月某日 グラマシー・ホテル
本番前、楽屋で演奏者たちと雑談していて、ヴィオラのアンリーンが神戸で生れ育ったと聞いておどろく。学校は神戸の中華学校だったそうだが、神戸弁は普通に話せる。
チェロのフレッドが、タッシ時代の話をずいぶんしてくれて、特にユージさんの「この歌をきみたちに」が大好き言うので、四方山話に花が咲く。演奏会後のアフタートークも、フレッドは、この音楽祭は僕らがわかいころ、高橋悠治の「この歌をきみたちに」をやったときから、と切り出した。じゃあ君にとって音楽とは何だいと質問されて言葉に困る。何しろ楽屋では、今朝のお前の朝食の献立を尋ねるから、などと笑っていたから。

 2月某日 三軒茶屋自宅
一日だけ東京に寄った夜、代官山に電車で出掛け、この歳まで一度もこの駅に降りたことがなかったことに気づく。大原さんと吉田さんがオーケストラの収録でのカット割りについて話していて、音楽に映像をつけたくないことがしばしばあるという。カラヤンは音楽の邪魔になるから、自分以外の演奏者が映り込むのを嫌がったそうだ。何でも視覚は相当の割合で集中力をさまたげるのだとか。指揮をしていて、楽譜をみて振るのと、振らないで振るのとでは、耳の容量が随分変わるのを実感しているので、気持ちはよくわかる。

 2月某日 ミラノ自宅
朝起きてダイニングに上がると、庭の前の窓が開いている。その傍らで寝ていたY君曰く彼が開けたのではないと言う。どうやら夜半に訪問者があったらしく、目の前で寝ているY君に気兼ねして退散されたらしい。番犬ならぬ、文字通りの番人だと大笑いする。当然部屋は冷え切っていたが、Y君は寝ていて気がつかない。

トリノまで佐渡さんのフィガロを見にゆき、幕間につまめそうな菓子でもとトリノを徘徊するが、目につくのはチョコレートばかりだった。佐渡さんの息の長さ、深さはどこから来るのだろうと思い、指揮者ばかりを目が追ってしまう。割合常に低いところで振ってらして力が抜けているから、演奏するのもとても楽そうだし、何より出てくる音がとても自然で新鮮な響きをうみだす。息が深いのもそこから分かるけれど、どれも当たり前と言ってしまえばそれまでで、音楽を生業にしているものの意見としては、甚だ心許無い。

その佐渡さんが終演後開口一番、モーツァルトはむつかしいね、と仰ったので吃驚する。
「芝居が深刻なところで、愉快な音が並ぶのは、やっぱり観客の視点で作曲しているからなんだよね。どこまでも計算されていると思わない」
佐渡さんからの口からは何度も「調性感」という言葉が聞かれた。リハーサルまでお邪魔させて頂いたが、ショスタコーヴィチの練習でも彼は調性について話していて、鶴の一声でオーケストラ全体の音の色が見事に揃った。
フィガロを見にいらした小栗さんとご一緒させて頂き、いろいろなお話を聞かせていただく。
歌手やら魅了されたさまざまな指揮者や歌手の話は尽きることがない。オペラは何よりまず演奏だから、と仰ったのが忘れられない。

2月28日 ローマフィミチーノ空港にて

決まっているという事と決まっていないこと

大野晋

1月下旬から2月上旬は、忙しいのと体調がおかしいので全くモノを書ける状態ではありませんでした。メールも書くどころか、読めなかったので多くの方に不義理をおかけいたしました。

2月に気になったことというと、TPP関連の新聞記事で、著作権の保護期間が70年で基本合意間近というニュースが流れたことでしょうか。非親告罪化の話題と一緒に日本の著作権が大きく動きそうな印象を受けました。著作権の延長というと、青空文庫などにとっては悪い影響が思い浮かびますが、ここのところ、本当にそうなのか? 疑問が湧いています。

現在の日本の著作権法は保護期間が著作権者の死後50年。そして、著作権違反については親告罪として、告訴されなければ、違反を問われないという制度のもとで動いています。このため、コミックやアニメに多い二次創作に対しては、厳密に問えば著作権違反となるところ、著作権者側の「お目こぼし」で利用しているという状態です。このため、非親告罪化すれば、著作権違反は著作権者のお目こぼしかどうかを問わず、罪に問われるようになってしまいます。
一見すると著作権が使いにくくなるように思いますが、このようながちがちな状態で創作が進むわけがありません。二次創作がなければ、多くのコミック作家は育ちませんし、サンサーンスの「動物の謝肉祭」やマーラーの交響曲など、多くの作曲家は曲が書けないということになります。そこで、ルールとして、著作権を行使しないケースを明文化することになるはずです。そこが、著作物の利用者にとってはねらい目となるはずです。

現在は、決まっていないが故に、お目こぼしがあることを願うか、または著作権保護期間が切れなければ、著作物は使えません。ある著作権管理団体の悪名高いやり口は、初期の状態では著作権を行使せずにお目こぼし状態で利用させていて、利用が広がるといきなり著作権を主張して、課金を要求するという手口ですが、このような後出しじゃんけんは親告罪として中途半端な状況があるがゆえに起きているわけです。青空文庫が50年を過ぎた著作物しか収蔵できないという状況も、保護期間中に使えるルールがないが故に起きているわけです。要は、決まっていないが故に使いにくい状態になっているのです。

ところが、著作権が70年になり、非親告罪化されれば、中途半端な状態は逆に許されません。明確に、使える状態を定義することをしなければ、著作権は使いにくいものになるからです。これからは、決める中で、使いやすいルールにしていくことが大切になるのだと思います。

文化庁のお役人も、多くの著作権関係者も、孤児著作物の問題は大きいことは認識しています。そして、たった50年であっても多くの著作物が死蔵されてしまう事実も前回の著作権延長に関する検討の中で理解していることでしょう。

決まっていない50年よりも、決めた70年の方が、埋もれる著作物がないように法律が決まっていくように、多くの力を使うべきなんじゃないのかな? と思うこの頃です。

124アカバナー(9)軽石

藤井貞和

軽い詩を浮かべよう、
軽い詩で、
詩あわせになる?
わた詩のことを、
  詩ってね、きっとだよ、
なに詩にきたの?
ふ詩あわせ、
もう詩にたいよ、
  詩っぱいばかりでさ、
かな詩いね。

こうふくじさん、
  詩ろい屋根、
やくしじさん、
詩かくい屋根、
とうだいじさん、
詩ま詩まの屋根、
さいだいじさん、
詩んごんりっ詩ゅう、
ああ、屋根職人が、
詩のかたちで葺く、
さいごの藁で。

(世もすえの、軽石をならべて、きょうも行く、詩人〈しにん〉たち。「あい詩てる?」「あい詩てない?」「あい詩てる?」「あい詩てない?」―石占〈い詩うら〉をくりかえ詩ているあいだに、きょうも詩めきりです。)

ジャワ舞踊作品のバージョン(4)アダニンガル・ケラスウォロ

冨岡三智

2月19日の春節にちなんで、今月は中国の姫が出てくるジャワ舞踊「アダニンガル・ケラスウォロ」を紹介しよう。これは、アミル・ハムザ(イスラム聖人マホメットの叔父)に懸想する中国の姫=アダニンガルが、彼の妻の一人であるジャワの姫=ケラスウォロに戦いを挑み、負けるというメナク物語を題材にしている。メナク物語はペルシャ由来のイスラム布教の物語である。中国の姫が出てくるので、この作品は通称「プトリ・チナ(中国の姫の意)」とも呼ばれる。ここでは、マンクヌガラン王家(スラカルタ王家の分家)、スラカルタ芸術大学、ジョグジャカルタ王家の3バージョンを比較してみたい。

マンクヌガラン王家版は、「スリンピ・ムンチャル」というタイトルで、スリンピ形式(4人で踊るため、中国とジャワの姫が2組出てくる)に仕立てている。中国の姫の上半身の衣装は少し清王朝風(ただし袖はない)、化粧と髪飾りが少し京劇風で、三つ編みを背中に垂らす。下半身に巻いた布、上半身の服、サンプール(腰に巻く布)の色のコントラストが赤×黄×青など、派手だ。またその所作だが、合掌とか所々のシーンで、ペコちゃん人形みたいに首を振る。ジャワの姫のおっとりした動きと対比させているのだろうが、私の目には華人を戯画化しているように見えて、実はあまり好きではない。ジャワの姫は弓、中国の姫はピストルを持って戦う。中国の姫は負け、おいおい泣く。大げさだけれど、少し可愛げも感じられる。

スラカルタ芸術大学版(1970年代初めに伝統復興運動の一環で振付けられた)では、中国の姫は長袖のベルベットの赤の衣装で、襟元が黒。髪型はジャワの花嫁のように黒のパエス(一種の隈取)を施し、ジャスミンの花房を垂らす。中国風だがシックだ。が、所作は大げさで、つっぱったような動きが多い。そして、ジャワの姫との戦いのシーンはかなりスピーディーで激しい。2人は最初は剣を突き合わせて戦うが、お互いの手から剣を叩き落とし、ついに中国の姫はジャワの姫の顔をビンタする…。女の戦いは恐ろしい…と感じさせる振付だ。このあと、ジャワの姫は弓で中国の姫を負かすのだが、中国の姫は倒れているだけで泣かない。

ジョグジャカルタ王家版では、2人の姫はズボンを穿く。中国の姫は頭や長袖の上着にジャラジャラとコインのついたチェーンを巻きつける。バブルの頃に、こういうコインをジャラジャラさせたチェーンベルトが流行ったなあ…とふと思い出すが、中国人=お金をジャラジャラさせているという発想のように見える。それはともかく、ジョグジャカルタ版の特徴は、姫2人の動きが木偶人形振りであること。そのため、戦いに押し合うような動きが出てくる。中国の姫はいつも手の人差し指と中指を立てているので、中国拳法のような動きにも見える。この中国の姫は腰に鉄球みたいな武器をぶら下げていて、これをぶんぶん振り回す。ジャワの姫が勝利すると巨鳥ガルーダが舞台に出てきて、ジャワの姫を載せて去っていく。このガルーダは被り物で中に人間が入っており、キッチュな代物だ…。この鳥は2人の女性が取り合う男性を象徴しているとも言う。

これら3バージョンを見ると、ジャワ人が抱いていた中国の姫のイメージは、京劇、中国拳法、お金、派手な色、激しい性格…というところだ。同時にこれは、欧米人受けしそうなイメージだなとも感じる。おそらく、ジョグジャカルタ王家でもマンクヌガラン王家でも、ショー的な要素の強い舞踊だったのではないだろうか。

グロッソラリー ―ない ので ある―(6)

明智尚希

 1月1日:「大学受験の時、俺なんかスッテンテンの浪人生だったにもかかわらず、あちこち遊び回ってたのに、三郎のやつときたら高校二年生になってすぐ
に入試問題集や参考書を山積みにして、さっそく受験勉強を始めてた。勉強が好きだったんだろうし、そもそも勉強に向いていたんだろうな、ああいう生真面目
一本の人間は――」。

…..φ(o ‘ ∀ ‘ o) お勉強のお時間♪

 文化といえばエンタメと直結する時代になった。本来なら人を楽しませるはずのものが、異常な増大によって無味乾燥にしてはいないだろうか。それからそれ
へと新しい名前が「作品」が登場し、圧倒的な供給過剰である。伝統文化のほうは端っこでちまちま活動するのみ。エンタメが誰のために何のためにあるのか、
考える素材にはなる。

サイコ━+゚*。:゚+(人*´∀`)+゚:。*゚+.━━!!

 これは花ですか? いいえ馬です。

ププッ ( ̄m ̄*)

 何か大切なことを忘れていると思っていたが、これを書き始める前に思い出していた。自己紹介じゃ。まあざっと簡単に書いてみるか。長所:短所が一つしか
ないこと。短所:長所が一つしかないこと。座右の銘:私は嘘つきですが、嘘つきではありません。趣味・特技:うっちゃり、肩すかし、そそのかし――こ、こ
れがわしなのか……。

┌(。Д。)┐ あはは♪

 ザクロは弾けて改めてザクロとなるように、おならは放出されてはじめておならとなるようにじゃな、人間は内爆発の外部化によって人間になる。怒髪がしぶ
といかつらを突き上げた時、そしてかつらをなおざりにした言動が表れた時、好人物分子が熱で蒸発し、覚めるべくもなく冬眠をしていた人性が、はじめてあぶ
り出てくるもんなんじゃよ。

( ̄□ ̄#)ψむき〜(怒)

 1月1日:「まあ実際、三郎は勉強がよくできた。全国模試なんかでも名前が載ってたからな。載ってたどころか全国で3番とか、とにかくすごかった。驚い
たねえあれには。たぶん死んだじいさんに似たんだろうな。下のほうのじいさんな。やっぱりかなり優秀だったみたいで最後は官僚だかなんだかになったってい
う話だよ。たぶんだよ――」。

(゚<_、゚ ξ

 ベロアの3ピースほどのインパクトはないが、宙づりにされた神社でビートルズ自体の物まねをして、さあどうするんじゃ、こともあろうに中村屋と成田屋を
オープンした。あらゆる玉屋とあらゆる鍵屋のほうは、自己批判してあらゆるセクトであらゆる裸踊りにうち興じた。やれブラウニーだ、やれブラウニーだ、聞
き上手もお手上げのアポリア。

┗(`o´)┓ウッ┏(`○´)┛ハッ

 幼い頃のジャニス・ジョップリンは、空に向かって叫んだ。「神様、もし本当にいらっしゃるなら、パパにメルセデスをあげて」。神様はいなかった、いや、
無情の神はいた。何に対しても手を下さず、意見を述べず、いないかの如くいる、もしくはいるかの如くいない。この何でも屋ほど長きに渡って、作者である人
間を困らせる者はいない。

(○ `人´ ○) タノンマスー!

(MEMO)

やっぱやーめたφ( ゜゜)ノ ゜ ポイ

 一歩目から目的地の逆を行く。御託の限りを尽くして動かない。全力疾走すればありつけると信じている。誰も気にしない一点を修飾し異様に肥大化させる。
空想と想像をはき違えている。常識を尊重しすぎて非常識になっている。詭弁で逃れたつもりが正しいことを言っている。気取らないと人並みになれない。実在
する愛すべきろくでなし。

(^-ェ-^).oO (ろくでなし)

 現状は緑色。おまえのせいはおまえのせい。おすそ分けにひたすら孤独に黙っていたこともあったなあ。恵んでくだせえ恵んでくだせえってな。どうしたこと
か500人でだよ。そうしたら取れ立てのブロッコリーがす〜っとなにやらめかしこんで、ああだこうだやかましいやい。もうね、夢も希望もない。「彼のモノ
が私の中へ」ってさ。

il||li(つд-。)il||li

 現にまさおし がるべじを
 ぶっさぶさ乗り 忍ちょらけ
 子べくりだんかれ 干支きとな
 乱じゅうそはまま 聞こしなと
 ひん住からかけ 仇ぶるせ

〜(´・ω・`〜)(〜´・ω・`)〜

 生き続けようとしてもつぶされ続けてしまう暇とは裏腹に、退屈にとって人間界はきっと有意義で居心地のいい場所なんじゃろう。不特定多数の者どもにリズ
ミカルにキ印を押していき、調子がいい時なんざ欲望機械や戦争機械を作動させる。退屈の共犯者でもある、血へどを吐かれた倦怠がやってきて曰く「俺たちゃ
忙しくてしょうがねえ」。

┗(・o・)┛ナハ┗(・o・)┛ナハ

 小便をするかしないか、それが問題か。和式便所なのにキン隠しがないからといってどうしたというんじゃ。ティファニーで朝食をとり、王様のブランチを楽
しみ、裸のランチを満喫し、最後の晩餐を吟味しやがって。わしときたら、三食全てにウオッカ、入浴にウオッカ、就寝にウオッカ、ウオッカにウオッカと剥製
化を勝手に進めておる始末。

o口(・∀・ ) ゴクゴク

 1月1日:「そうそう、じいさん。会ったことあるだろ? え、たったそれだけか。まあいいや。じいさんの名前知ってるよな、四郎っていう。いやいや嘘
じゃないって。ほんとだって。ほんとだって言ってるだろ! ああごめんごめん。俺、子供いないだろ。会社でもぺーぺーだから、年下の人間をしかったことが
ないんだよ。ごめんな――」。

m( ̄ ー ̄)m ゴメン

 古い言葉でいえばオートメーション、要するに機械化。それを嘆く輩の数は知れぬが、なによりかにより人間自身がオートマチックじゃないか。食べたら食べ
たきり。飲んだら飲んだきり。あとは内蔵に任せて出るのを待つだけ。もし肉体がスケルトンだったらゴミ袋と変わらんし、内外の動きに神経質になり地球規模
の変化が見られるじゃろう。

┏ご飯┓φ(ω・@)イタダキマス

 かたや、まず遠くに石を投げて、その軌跡を一つずつ点検していき、やがて石や着地点の正しさを証明する。かたや、疑問に逐一の解答を出しながら、牛歩の
ごとくに進み、やがて石の存在とありかを知る。スキゾイドというのは、どうやら前者らしい。なぜって、その時々の現実世界との平和交渉が、とにかくうまく
いかないからじゃ。

ε=(・д・`*)ハァ…

ヘンリー・プールのジャケット姿で、ブリクストンを闊歩する。みみっちい武勇伝。

┣o(・ω・。)ガード!!

 喧嘩を売ってはいけない。けなすより褒めよ。いかなる侮辱にも耐えよ。これらは、海外へ行く友人に宛てて、ニュートンが送った手紙の一部である。ニュー
トンは生涯を通じて海外など行ったことがない。どういうことか。つまり彼にとってドアの向こうの世界は外国であることを意味していた。だからスウィフトに
あんな風に描かれる。

σ(≧∀≦

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 1月1日:「やっぱり怒られるのって嫌だろ。自分がいろいろ怒られてきたから、そういう気持ちよくわかるんだよな。怒らないっていうか怒れない。それに
怒ったほうも怒られたほうも、そのあとの空気、すごく気まずい感じになるだろ。あれも苦手なんだよな。わかるだろ。だから俺はいつも安定した気持ちでいた
いと思ってるんだよ――」。

ヾ(*`Д´*)ノ”彡☆ ケシカラン!!

 スタニスラフスキー・システムやビオメハニカに従って、こと細かな計画をふんどしいっちょで立てる。その際、ちょんまげは当然筆である。合間合間に女性
を相手にする。唇、胸、女陰の三所攻めである。べとべと。ぬるぬる。んあふんあふ。潮を吹かれたら、制限時間一杯、また計画立案に戻る。これを四十回繰り
返し、ようやく起床となる。

(。・・)ノぉはょぅ♪

 この国の人々よ、急増するこいつらで本当にいいのか!? ここで死んではならん。車窓を流れる街灯りが霞んでいく中、安心とは両親だと思う。包茎治療へ
の不安を解消する安心がある。直接の電話に抵抗のある方は、敵味方を論ぜず、町の人が言うところの世界一おいしいご飯を作り、大真面目におもちゃで撃退し
ようとするべきであろう。

o_ _)ノ彡☆ ばんばん

 まず電源のボタンを押す。少し待つ。画面が立ち上がったら「スタート」をクリックする。続けて「すべてのプログラム」をクリックし、「アクセサリ」を見
つける。クリックすると一覧が表示される。その中から「メモ帳」を選ぶ。新しく白い画面が立ち上がる。指の一つで「A」を軽く押して指を離す。すると画面
左上に「a」と表示される。

(^-^)p

 一つを手に入れたと見るか、一つが失われたと見るか。少なくとも巷間からこの理屈は外せない。本当はそのはずだった。汚れたみなりで朝から缶ビールを手
にし、乱杭歯を丸出しにして呵々大笑しているホームレス。すれ違うのは、スーツを身にまとい眉間に皺を寄せ、携帯電話で仕事の話をしているビジネスパーソ
ン。幸せって何だ?

σ(∧_∧;)エ、ワタシ?

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(o゜ー゜o)??

 恐ろしいものが二つある。デジャブーとフラッシュバック。これらの根っこには、思い出という名の魔物が横たわっている。良すぎる思い出も悪すぎる思い出
もトラウマになる。限界状況を導く要因である。逃れようと、音楽、食べ物、酒、買い物に頼っても、再起不能な副作用がすり寄ってくる。やけくそでもいい。
投企せよ。無茶苦茶投企せよ。

トーキ!! (ノ`∀´)ノ ⌒ .、●~

 解熱剤とシアナマイドをたらふく飲んでフラメンコ。全校朝礼でスピーカーを使っての棒読みファド。なんなんだろうな、ああいう儀式は。秘密ってのはあれ
かい? 現実世界の澱ってことでいいのかい? そんならどんどん醸造されて現実と入れ替わっちまうわな。まあまあ、感情の起伏ってやつぁこわいね。恐さの
あまりバースデイスーツ。

つまらぬことを(゚ー゚メ)†言ってしまった

 酩酊者は天才か白痴のどちらかじゃな。科学哲学かなぞなぞのような内容を、身ぶり手ぶりで饒舌に語る。とある作家が眠る際に枕元にメモ帳と鉛筆を置いて
いるという話を聞いたことがある。深酒が行方不明の着想を拉致してくるんだそうな。そんなわけで実践してみた。ああ書かれていたとも書かれていたとも――
「自てん車」と。

,;.:゙:..:;゙:.::旦(゚∀゚ゞ)ダハッ!

アジアのごはん(67)チベット仮面舞踊とシッキム漬物

森下ヒバリ

急な坂道をやっと登り切って、心臓をばくばくさせながら寺に着いた。かなりの人が集まってはいるものの、まだまだ観客席にはゆとりがあるのでほっとする。首尾よくベンチ席を確保して、儀式が始まるのを待つ。やがてぶおおおっとラッパが鳴ったと思ったら、中央広場に仮面をつけた道化たちが出てきて、狂言みたいなことをやり始めた。走り回ってずっこけたり、観客をからかったり。笑っているうちにまた、ぶおおおおっと何度もラッパが鳴って、本堂の入り口の垂れ幕が上げられた。そこから赤い帽子をかぶった僧たちが手に手に銅鑼や鐘、太鼓をもって音を出しつつ、ゆっくりと舞いながら本堂前の広場に降りてくる。

チャム舞踊がいよいよ始まった。ここはインド北東部のシッキム自治州ペリンにあるチベット仏教ニンマ派のペマヤンツェ寺院である。ついにチベット正月にこの寺で行われる仮面舞踊チャムを見ることが出来る。実は、この寺に来るのは二度目である。7年前ふとシッキムに行ってみたくなり友人たちを誘ってインドに来た。コルカタ、ブータン国境の街、カリンポンを回って、このペリンにたどり着いたところ、その日がチベット暦でおおみそかと教えられた。何か行事があるかもしれないというのでこの寺を訪ねてみると、大勢の車や人が帰っていくところだった。

入り口にいた寺男の爺さんが「エブリシング、フィニッシュ!!」と笑いながら迎えてくれた。寺の見学はして行ってもいいというので、本堂の中に入ると、いま脱ぎ捨てられたばかりのきらびやかな錦の衣装がひもに何枚もかけられ、色鮮やかな仮面が床に並べられていた。本堂前の広場ではなにか大きな布状のものを数人がかりで巻いている。
「あ、もしかしてチャム舞踊があったのか!」「あれは大タンカ(曼荼羅図)御開帳の後片付けか!」ああ、なんという間の悪さ。以前から興味のあったチャム舞踊などのチベット仏教の行事がすべて終了した時にたどり着くとは‥。

そのうえ、ペリンの宿には一切暖房がなく寒くて寒くてたまらない。ヒマラヤが見えると聞いて出かけて来たのに、山は遠くかすんで気配のみ。宿のスタッフは態度が悪く、ペリンの記憶は最低であった。ペリンに来ることは二度とないだろうと思った。

その後、ダージリンは何度も訪れたが、なかなかチベット正月には合わない。2年前にもシッキムの州都ガントクの近くにあるルムテク寺院でチャム舞踊を見ようとしたのだが、ルムテク寺院のHPにチベット正月の1日目から3日目にチャム舞踊があると書いてあったので、正月当日にガントクに行ったら、すべて終わったとまた言われてしまった。どうやら1日目から3日目という表現は、チベット正月の3日前から大晦日をさすらしい。しかもチベット正月は中国正月とは同じようで同じでなく、ずれることも多い。なかなか事前に日にちが分かりにくいので、計画が立て難いのである。

しかし、今年急きょまたダージリンに行くことになって、1月末にタイについてからインドに旅立つ直前に「そうだ、いちおうチベット正月はいつか調べておくか」とあまり期待せずにネットで探すと2月19日だと分かった。コルカタで落ち合ってその後ダージリンに一緒に行く京都の女性2人がコルカタに来るのが14日。彼女たちの旅程は10日間あるのでダージリンだけでなく「コルカタもおもしろそう」「シャンティニケタンにも行ってみたい」などと聞いてはいたが、ここはシッキムに行くしかないでしょう。

いやだと言ったらおいて行ってしまおうかな。「チベット寺院の仮面舞踊を観ることが出来るかもしれないので、ダージリンに行く前にその先のシッキムに行きませんか」と打診すると「うわ〜行きたい!」と響くような返事。2人とも仏教を学んでいるので、ちょうどよかった。

正月の2日前と大晦日との2日間チャムが行われる。赤い帽子の僧の舞いの次には、色とりどりの錦の衣装をまとい、伝説の動物スノーライオンや聖山カンチェンジェンガの山奥に住む神の使い鹿、ガルーダ神、やチベット仏教の神様マハーカーラなどの仮面をつけた僧たちが現れ、輪になって舞っていく。

ゆっくりとした音楽とくるくる回る舞い。舞うことでその場が浄化されていく、清められていくのを感じる。ヒバリの生まれは岡山の備中で備中神楽の盛んな地域だったので子供の頃から神楽には親しんでいるのだが、この緩急のテンポ、舞い、道化が入る部分、剣舞、退場の仕方など神楽にとても近しいものを感じる。

備中神楽はそのほかの出雲系の神楽同様、おそらく大和系の征服者の都合の良いように直されたストーリー展開だが、このチャムにはあまりストーリーはなく、繰り返される音楽と舞いによって演者に神を降ろすことに重きがあるようだ。

大晦日に仲良くなった、チャム舞踊に魅せられて7年もシッキムに住んでいるというウクライナ出身の映像作家アレクによると、一般に言われるような悪魔祓いとかの単純な儀式ではなく、チャムは神を招いてすべての命あるものの罪と厄災を払い、幸せを祈る奥深いものだという。演者の僧たちは2週間前から瞑想に入り、準備をするという。

演目の間には走り回ってお客さんを笑わせたり、緊張感のある舞いが行われている横でおどけてみたり、舞いに使う小物を配ったりと活躍する数人の道化たちの存在も興味深い。観客も真面目に見たり、笑ったり、おやつを食べたりと終始リラックス。道化たちの存在は、アレクによると世界の二面性を表現しているとか。なるほど。

日が陰ると客席は冷えてくるなあ、と思っていたら喜捨であろう無料のあったかいチャイが回ってきた。ああ、あったまるねえ。どぶろくも回ってきた。酔っ払いそう。朝10時ぐらいから始まって初日は夕方4時過ぎまでみっちりいろいろな踊りがあり、2日目の大晦日は途中で雨もあったが2時には終了した。天気があまりよくないので最後の大タンカの御開帳が中止されたのは残念だった。

そろそろ2日間のすべてが終りかけたころ、有力者らしいイケメンのチベット人男性が「奥の建物でランチがふるまわれているからどうぞ」と教えてくれた。最後の僧の舞いが終わってから、そこに行ってみると、おいしそうな匂いがする。他のチベット人たちにならい、自分で白いごはんをよそい、何種類かのおかずをごはんにかける。豆のダルスープ、じゃがいものカレー煮、キャベツ野菜カレー炒め。チベット料理というかネパール料理というか。家庭のごはんのようにやさしい味だ。辛かったけど。今回のインド旅行中もっともおいしいと思ったごはんであった。

「なんてすばらしい2日間」「最後にこんなおいしいごはんまでごちそうになって」わたしたちは全員、すばらしい舞踊を見せていただいた上に、お腹まで満たされてこの上なく幸せな気分になっていた。寺から歩いて2キロぐらいの道の途中で何度も踊りのステップを真似してくるくる回りながら帰った。

このチャム舞踊に関しては、大きな宣伝もなく、ペリンでもネパール系の住民やホテルはほとんど知らないなど、よほど求めて探すか、運がいいかしないと出会うことができない。チャムの1日目の朝にホテルの食堂で会った白人のおじさんも知らなかった。チャムがあると教えると、どこかに観光に行く予定だったのを変えて、寺に4人で現れた。2日目の朝に食堂で会った日本人の男の人も知らず、その日山が見えなかったので別の街に移動しようとしていたのを、チャムの話をすると一緒に行った。少し見たら帰ると言っていたが、結局最後まで堪能していた。その5人はわたしたちと食堂で会って話をしなければ、ペリンにいるというのにチャムが行われていることも知らずに、観ることもなかったわけである。少しは善行積んだかもしれないな。

まだ本格的な暑さの季節にはなっていないはずのタイのバンコクでこれを書いているが、今日は35度もあった。2500メートルの高度のペリンの寒さが嘘のようである。ペリンの宿は前回とは変えて、ガルーダホテルというチベット系のホテルにしたところ、大正解ですばらしく快適だったが、やはり暖房はなく芯から凍えた。それでも新年のお祝いの儀式をしてもらったり、早朝の窓から見えたヒマラヤの山々の大パノラマは心震える美しさで、かつてのペリンのイメージを一新することができた。ここの食堂で食べたシッキムの無塩乳酸発酵の漬物グンドラックのスープについて書こうと思ったが、続きはまた来月。

青空の大人たち(8)

大久保ゆう

 実家には本を家族で共有するための本棚がある。各自それぞれ読み終わった本をジャンル問わず(小説もあれば実用書もマンガもあるが)そのなかへ並べていく。もちろん自分のお気に入りの本などは自分の手元に置いておくこともあるが、読んで面白かったからこの本棚に入らないということでもなく、やはり面白かった本でもここにやってくる。特にお互いにおすすめするということがなくても、置いておけばいつか家族の誰かも読んでくれるかもしれないなと思うことはあり、実際に棚に入ってから数年後に読後の感想を聞くことだってある。家族によって買い継がれていくシリーズもあり、姉が1〜3巻を買って兄が4、5巻を購い、私が6〜10巻を足して、弟が最終巻までと番外編を揃えるということもありうる。
 姉妹兄弟のいる家では少ないお小遣いをやりくりするためこうした本のシェアをすることがままあるわけだが、別に欲しい本が重なることはそう多いわけでもないので単にお金の問題というより、お互いの趣味を影響させてゆくといった側面の方が強い。個性のある本棚に何かしら刺激されていろいろなものを読むようになるというのはごくありふれた話でもある。
 実家の近所にあった(今はもうない)小児科の待合室にも、本棚があった。身体の強い方ではなかったから就学前にはたびたびその開業医のお世話になっていたのだが、子どもを待たせておくためだろう、小さな本棚があり、その本棚にはいろいろな――いや正確には、雑多な本があった。そこにある本は、いらなくなった本、もう読み終わった本、という感じの寄せ集めの本たちばかりだった。マンガは途中の巻しかなくいつ行ってもその巻しかなくて全編通して読んだことなど一度もなかった。それはその開業医が誰かからもらったものを置いているのかもしれないし、適当にみつくろって買っているのかもしれない。
 それでもその本棚がいつも楽しみではあった。行ってはそこの本を読み、名前を呼ばれて医者の前に座ってベロを出すと金属のへらみたいなもので舌をぐっと押さえられてうぇっとなってそのあと一日三回飲んでねと妙な味をしたオレンジ色の液体を渡され、おしまいに待ち時間で読み切れなかった本を受付の人に断って持って帰る。そしてまたすぐ病気になってその開業医へ本を返しに行くことになるのだが帰るときにはまたオレンジ色の液体と別の本を手にしている。少なくともその一連の流れを愉快には感じていた。どのようにして出来上がったのか本棚なのか、どのような性格を持った棚なのかはわからないが、その中途半端な蔵書は強烈な印象として残っている。今でもどんな話があったか、あの待合室の匂いとともに鮮明に思い出せる。
 青空文庫にしても、個人的にはインターネット上にそうした本棚があった、というだけなのかもしれない。一般家庭にもパソコンが普及し始め、さらにインターネット接続環境も整いつつあった時代、検索エンジンから「図書館」というフレーズで検索してみれば何気なく見つかった青空文庫は、インターネット図書館を謳ってはいても、やはりその本質は本棚である。誰かが手間暇かけて電子化してネット上の本棚に置いていったものを、また誰かしらがその本棚から持って行く。「本を電子化して、誰でも読めるようにしておくと面白い」と考えた数人が集まって1997年7月に生まれた青空文庫は、「インターネットさえあれば誰にでもアクセスできる〈青空〉をひとつの公開書架として、自由な電子本を集める活動」である。
 初めて青空の書架(Open Air Shelf)の存在に気づいたのは、1998年の7月頃だろうと思う。このたび日記を――思春期のあいだにだけつけていた恥ずかしい日記を――久しぶりに読み返してみると、9月14日(月)の記述に、青空文庫の活動に参加してみようという意思が書き付けられてあるので、おそらくその翌日あたりにはメールを送ったのだろう。「一片の悔いも残さぬために、参加しよう」と日記には強い表現があるけれども、逡巡してもなお踏み出すのはやはり震災の余韻だろうか。翌年にHONCO双書から出た『青空文庫へようこそ』に、自分はこんなことを書いている。

インターネットを始めて間もない頃、なにげに検索した言葉に青空文庫が引っかかりました。初見の感想は正直言って、「うわぁ、奇特な人たちやなぁ。まだ日本にもこうゆう人達がいたんやなぁ。マジすごいやん」でした。[…]しばらくして、その興味が、協力したいという思いに変わっていったわけですが、したいと思っても高校生。古い本の知識もなければ現物もありません。入力なんて到底出来るわけがなかったのです。それでも、何とか関わりたいという気持ちが強かったものですから、必死で考えて思いついたのが海外文芸の翻訳だったわけです。自分の好きなシャーロック・ホームズならどうにかなるのではないかという浅薄な考えを抱いて(どうしてこのとき校正という手段を思いつかなかったのでしょうか。今でもわかりません)。

 手元にあるこの本の謹呈票には、当時本とコンピュータにいらっしゃった木村祐子さんが、こんなことを書いてくださっていた――「この本は大久保さんにとってはじめての本(ISBNコードのついた)かも知れませんが最後の本には決してならないことでしょう」
 そして9月17日(木)付けの日記には、「青空文庫に参加。まずすることは「シャーロックホームズの冒険」の「ボヘミアのしゅう文」を訳すことになった。青空文庫の浜野智さんが翻訳に丁寧な指導、アドバイスを下さいましたので、頑張ろうと思う」とある。
 『青空文庫へようこそ』への寄稿文冒頭にも、「重要なことは、誰かがやってくれるのをじっと待つのではなくて実際に動いてみることなんですね」と書いているが、なるほど実に自分らしい論理だと納得せざるを得ない。虚弱でろくに外で動けない少年も、ネットという青空でようやく自由に動けたというわけだ。

凍てついた朝

さとうまき

1月20日夕方、サッカー・アジアカップのヨルダン対日本の試合をTVでみていた。予選リーグ最終戦。日本は手堅く勝ち進むだろう。試合が始まって間もなく画面には、「日本人がイスラム国に拘束」と字幕に流れる。あわててチャンネルをかえると、後藤健二と湯川春菜と思われる日本人がジハーディ・ジョンに首根っこをつかまれナイフを突きつけられていた。72時間以内に、2億ドルを払えと要求している。
「なんてこった。。」
後藤健二がシリアで行方不明になっているという話は知っていた。私は冷静になろうとして、TVを、サッカーの試合に戻す。前半24分、岡崎のシュートをキーパーがはじき、本田がゴールを決めた。歓声が沸き起こる。週刊誌から電話が入る。
「後藤さんを知っているか」
「はい。私もTVを見て驚いた。これ以上は何も知らない」
後半82分、武藤が左サイドを駆け上がり、クロスをあげて、香川がシュート。キーパーがはじくも、ボールはゴールの右隅に転がり込んだ。日本は2-0で勝利した。

私は、2003年、後藤さんと出会あった。彼がイラク取材をしているときは、わりと連絡を取り合っていたが、最近は、疎遠になっていたこともあり、コメントするような立場でもなかった。しかし、産経新聞が、2010年のブログの記事を見つけて、コメントを求めてきた。「後藤さんの取材活動への思いやお人柄など、ご存知の範囲で教えて頂きたくご連絡させて頂きました。後藤さんの人柄を伝えることが、救出への国内世論を高めることにもつながると考えております。」というのだ。それで、産経がそういうのなら、できる限りのことをしたいと思った。まずは写真の提供。僕の持っている写真は、一歳の息子を抱っこしてもらっている写真だったが、赤ちゃんと一緒に写っていることが感じられるように、頭の少しだけが入るように切り取ったものをリリースした。

1月24日、準々決勝で、UAEと対戦した日本は、1点を先制されるが、後半で追いつき、延長戦でも決着がつかず、PK戦となり、まさかの本田と、香川がゴールを外して、惜敗した。悔しい思いでいると、夜の11時ごろには、「イスラム国」が新たなビデオを公開したという。湯川さんが殺害されたようだった。そして「イスラム国」の要求はお金ではなく、ヨルダンでつかまっている死刑囚のサジダの釈放だという。条件がしぼりこまれ、具体化するにつれて、解放される可能性は高まったのではないかと少し楽観的になっていた。

イブラヒムにも連絡をしてコメントを出してもらう。
2005年、イブラヒムは妻を白血病で亡くしてる。後藤さんは、ジャーナリストとしてイブラヒムに寄り添い、妻が亡くなる瞬間を映像に収めていたのだ。私達は、その映像を公開した。NHKの「おはよう日本」が取り上げた。
28日には、アジアプレスの綿井健陽から、声がかかり、「イスラム国」に向けたメッセージをアラビア語に通訳してもらいヨルダンのTVや、インターネットで配信した。
1月30日は、大雪になり、新幹線で福島に移動。イラクと、UAEが3位決定戦を行う。イラクはミスが目立ち2-3で敗れた。
1月31日アジアカップ決勝 オーストラリアが韓国を下し優勝を決め、すべての試合が終わった。

テレ朝から電話。翌日の報道ステーションサンデーで、イブラヒムの電話インタビューを流すことになり、事前に電話インタビューを行うことで、話がまとまり、イブラヒムと話す。
朝方5時くらいまで、作業をしており、うとうとしていたら、NHKから電話が入る。
「新たなビデオが公開されました。後藤さんは殺されたようです。コメントをもらえますか」という。私は、気持ちの整理がつかなかった。「申し訳ないが、勘弁してほしい」
「敗北」という言葉。
その後、マスコミからの電話があいつぎ、もう解放に向けた戦略とかそういうものも必要なくなったので、ただ、淡々と答えていたように思う。
福島から車で帰る途中、イブラヒムに電話して、後藤さんが殺されたことを伝える。イブラヒムは電話の向こうで号泣していた。私も、悔しくなって、涙が出てきた。

その後、取材の内容はいつしか、「なぜ、あなたは、危険なところに行くのですか?」というものが主流になっていた。もはや、私たちは、数年前から危険なところにはいかなくなっている。今問われていることは、どこまで、目をそむけようと思ったらできることを、あなたは目をそむけないで食いついていくのですかと問われている。そう聞かれたら、意地になって、理屈をならべる。でも本当は、目をそむけてしまえばどれほど楽だろう。いつもそういう誘惑に駆られている自分がいる。

朝未き

高橋悠治

目が覚めたとき
花は惜しまれて散り ということばが浮かび
時よ停まれ と続く
瞬間は 時間のあいだに織り込まれ
時間のなかからきわだち 現れる
波が引いたあとに 岩

風が吹くと 水の表面にさざなみが立つ
きらめきのかけらが 波間から散る
波が通りすぎると またたきの網がゆれる

灰は春を待たず
水あかるく 月は暗い


しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。(道元『現成公案』)
時よ停まれ、おまえは美しい! (ゲーテ『ファウスト』)

労働時間は時計で計る。不意に現れ、いつか消える時間の穴は 売り渡せない時。
瞬く光が暗い空間に反射して、おぼろげなかたちが浮かぶ。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。(『現成公案』)

声を聞きながら、思いはさまざまに散る。

青空の大人たち(7)

大久保ゆう

「まだ子どもやからね、わからへんやろ」とおだやかに言われてもたいていのことは子どもにもわかるものであってむしろそういったことの方が大きな痕跡を残すものでもある。

先の言葉は本家の曾祖母が亡くなったあと、葬儀の際、棺のまわりをちょこまかと歩いていた自分に向けられたものなのだが、当地ではさる無形文化財の夫人として知られた人であれ、子どもにとってはただ自分を溺愛してくれた数少ない大人であり、その人物が動かないことは幼児自身を当惑させるにはじゅうぶんだった。

車に乗せられ山を越え、そしてさらに進んで丘の上にその居宅があり、曾孫であった自分は、亡き配偶者お気に入りの義理の息子の孫ということもあってか、何かと目を掛けられ、そのかわいがられ方から曾祖母が守護霊として憑くとしたらこの子だろうと親戚一同に言わしめたほどであった。

そうした愛護者をなくすということは子どもの生活にとってはまさしく大変化であって何も感じないわけがあるまいし、自分に注がれる愛情の総量が減るということによる心境の変化もやはりまたあるものだ。たとえ概念が分からなくとも状況というものには敏感であるし、定義が理解できなくとも感じることはできる。

一九九五年一月十七日にしてもそうだ。朝早く、おそらくP波のために目を覚ましたところへ、さらに下から突き上げるような振動。ベッドのなかで布団にくるまりながらじっとこらえるが、しばらくおさまる気配はない。家の壁にひびが入るがやがて落ち着き、TVで地震速報を見ながらも家族はひとまず身支度を始めるが、自分と言えばどうにも気分がすぐれず、体温計には三八度の数字。

その日は小学校を休むことにして、ひとり自分は居間に座り毛布を身体に巻き付けてブラウン管と向き合っていたのだが、目の前に映るのは一面の焔だ。一日じゅう、延々と火を見つめていただろう。自分の住んでいたところはまだ震度五の強震で幸いにも周囲に甚大な被害はなかったものの、それでも風邪を引いてしまっていたことで、運悪くも赤という色をじっと見ることになってしまったのである。燃え始めから徐々に広がっていき、延焼していくそのさまの空撮を、とりあえず家人のでかけてしまった家のなかで心細くも見つめていた。

とはいえ炎の赤をどこまで認識できていたかというと高熱の頭では相当にあやしく、それによって多大な人命が失われた事実をどれほど理解できたかは心許ない。しかし少なくとも小学六年の少年にとって実感として訪れた恐怖として揺れのほかに強烈だったのは、〈路線図の空白〉である。多くの子どもの例にももれず少年はそれなりに鉄道も好んでいたわけであるが、そのぶんかえって自分のよく知る路線図において突如として現れた空虚は果てしない恐れをもって受け止められた。地元の駅から目をずらして路線をたどっていくと、そこから一続きになっているところが、あるところから赤く塗りつぶされ消されていく。

JRでは芦屋から向こう、阪急では西宮北口から先は不通であり、少年にはそこからがまるで異界になってしまったようなイメージすら抱かれた。経験のない子どもにとっては、鉄道で行けるところが世界のすべてであり、それまで行けたはずの世界に入れなくなってしまったことが、言いようのない衝撃として心を襲ったのである。それは今の自分にも、〈電車〉という言葉を極端に避けてしまうところに名残としてある。そのときまでは頻繁に口にしていたはずのものが、どうしても使用に抵抗を感じるようになってしまい、現在ではできる限り〈列車〉や〈鉄道〉という用語へと換えている。

全国へ張り巡らされた鉄道の万能感は、少年には将来の希望然としたものでもあった。ゆえに世界の喪失により、同時に未来の可能性までもが失われたようにも思われた。線路のつながったところには――つまり自分のゆける場所には――自分がこれから先に、もしかしたら友だちになる人が住んでいるのかもしれないし、近い遠い未来に何かを教えてくれたりする大人がいることもあれば、たとえばそのあたりにおのれの将来の恋人や伴侶がいた確率もゼロではなかったはずだ。

その場所が真っ赤に染められ、そのあと黒く塗りつぶされる。何の前触れもなく、昨日と今日と明日のあいだで、世界はいきなり変わってしまう。盤石に思っていた生活空間は、自分の日頃の行いとは無関係に崩壊しうる。輝かしいと信じているはずの未来も消えてなくなる。自分にとってそうした実感を象徴するものが〈路線図〉だったわけだ。当時の本人とってはまだ言いしれぬその感覚は、かなり後を引いた。高校生の時分にもやはり心の奥底にあっただろうし、大学生に入っても脱け出せたかどうかあやしいものだ。

人は生まれてから、どこかで一度は大規模災害や戦争、大事件に出会う。歴史を学べば学ぶほど、生涯の平和というものは希少であることを知り、初めての遭遇が実感を生み、そしてまたいつか再び訪われることも心のどこかで自覚せざるを得なくなる。

そうした不安から、少年はどういうふうに日々の生活を過ごすようになったかというと、非常に素朴な回答である――「楽しい方がいいな」。つまり毎日が明日にも崩れうる脆いものであれば、今日一日はつらいよりも楽しめるものであった方がいい、ということだ。そもそも体調からして芳しくないのが少年の常であったから、何もしなければ日常は不快しか待っておらず、してみれば〈楽しい〉とはむろん〈努力〉が求められることになる。

できるだけ笑おう。うきうきするようなことをしよう。読んで面白い物語のように、そして自分がその主人公となれるように。お手本は、マンガやアニメのなかの学園生活である。変人たちと付き合おう。突拍子のないこともやってみよう。大人らしくない大人について行こう。いやな自分から、少しでも好きな自分になれるよう改造していこう。ひとつずつ、ひとつずつ。

これはもちろん、同時に〈(必要最低限以外は)いやなことは絶対にしない〉という拒絶もその裏にあるものだから、大人にとっては厄介この上なかったに違いないが、こちらは自分の世界が懸かっているから抵抗も真剣である。〈面白くなる対案が出せなければ〉そちらの要求など絶対に飲むものかというわけだが、ただ強情であっただけはけしてでなく、〈目の前のできごとを面白く思えるようにしよう(あるいは力づくで面白くねじ曲げていこう)〉というように、物の見方・やり方を工夫していくことだって少年はしていたのであって、それでもにっちもさっちも行かないときは、突っぱねることで周囲から解決策を出してくれるよう助けを求めていたふしもある。

それにしても、楽しそうなこと、面白そうなことに対して躊躇しない、と意識的に動いていけるようになったことは、また別の変化へとつながっていくことになる。そして舞台は、部屋のなかから青空へと転ずる。

夜のバスに乗る。(4)朝までに小湊さんがしたかったこと。

植松眞人

長い信号待ち。
 小湊さんは立ち上がって、運転席に向かった。そして、二言三言、運転手と話すと戻ってきた。
「犬井さんっていうんだって」
「いぬいさん?」
「運転手さんの名前。乾くって言う字じゃなくて、犬に井戸の井って書くんだって」
「犬井さんか」
「可愛いよね」
「まあ、そうだね」
 小湊さんは笑ってまた僕の隣に座った。そして、犬井さんから貸してもらったらしいボールペンをカチカチと鳴らした。
「メモ用紙とかノートとかある? なんでもいいんだけど、書けるもの」
 僕はバッグからルーズリーフを取り出して小湊さんに渡した。小湊さんはその紙を裏返して、それから元に戻し、『バスジャック』と書いた。僕はしばらく、『バスジャック』という文字をぼんやりと眺めていた。『バスジャック』というのは、バスをジャックするという意味だ。そう思いながら、バスをジャックスということがよくわからなかった。バスを奪い取ってしまうバスジャックという言葉をなぜ小湊さんが書きつけたのか、その真意がわからない。小湊さんと、僕とがいるこのバスの中という空間と、バスジャックという言葉との間には、ただ、『バス』という連想ゲームのヒントのような言葉があるだけだった。
「やるのよ」
 小湊さんが言ったときに、なぜだか僕は運転手の犬井さんの後ろ姿に目をやった。
「このバスをバスジャックするの」
「なんで?」
「行きたいところがあるのよ」
 小湊さんはまるで、今日の昼ご飯はあのお店に行きたいの、というOLのように楽しそうに言った。僕がまったく飲み込めずにいると、小湊さんは小さくため息をついた。
「手短に説明します」
「よろしくお願いします」
「いまからバスジャックして、海に行きます」
「えっと、どこの海へ」
「説明の最中だから、少しだけ黙っててもらっていいかな。質問は後で受け付けるから」
 小湊さんは僕が以前通っていた学習塾チェーンの受付のお姉さんが入塾手続きについて説明しているような口調でそういった。
「いまからバスジャックして、海に行きます。どこの海でもいいんだけど、朝までに帰ってこなきゃいけないから……。そうね、湘南とか、あのあたりかな」
 僕は聞きたいことが次から次へと浮かんできていたのだけれど、言われた通り黙って聞いていた。
「まず、犬井さんに話をして承諾をもらう。そして、そのままバスで渡辺先生を誘拐する。もちろん、誘拐と言っても渡辺先生にはちゃんと話をして承諾をもらって、誘拐させてもらう」
「誘拐させてもらう……」
 思わず僕が声を出すと、小湊さんは僕を軽くにらんだ。
「そして、私たちは渡辺先生と一緒に湘南に行って海を見て、朝までに帰ってくる。それだけの計画です」
 しばらく僕は小湊さんが話した内容を反芻していた。
「質問してもいいかな」
「どうぞ、斉藤くん」
「このバスをバスジャックして、渡辺先生を誘拐して、みんなで一緒に海を見に行って帰ってくる、朝までに。ということでいい?」
「うん。その通り。朝までにね」
「うん。朝までに。その、朝までに、というのが大切なんだね」
「そう。大切なの」
「朝までに戻らないと……」
「朝までに戻らないと、バスジャックされたということをバス会社の人が知ってしまうし、渡辺先生のご家族が騒いでしまうかもしれないし、つまり、これが事件になってしまう」
「ということは、事件にしないように、バスジャックをして、先生を誘拐して、朝までに帰ってきて、ことを穏便に済ませる、ということだね」
「そう。さすが、斉藤くん。飲み込みが早いわね」
「ありがとう。でも、そんなことできるのかな。それからもう一つ質問があるんだけど」
「なに?」
「どうして、渡辺先生を誘拐するの?」
 僕が質問すると、小湊さんはしばらく
どう説明すればいいのか迷っているような表情を見せてから、話出した。
「こないだの春。ほら、三年生になったばかりのころ、修学旅行があったでしょ。あれに、私が行かなかったの、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ。休んだの、小湊さんだけだったから」
「その理由は知ってる?」
「親族の方に不幸があったから、と聞いたと思うんだけど」
「実は渡辺先生を好きになっちゃって、好きすぎて休んだの。もうちょっと詳しく説明するね。
 私ってけっこうもてるんだ。教室の後ろからみんなをじっと眺めているような女の子って、先生が目を付けるのよ。なんとなく、他のとは一線を画していて、大人びて見えるのかもしれない。ホントはそんなことないんだけど。だから、けっこう中学の高学年くらいから先生に声をかけられたりしたのよ。高校になってからは、特にひどかったわね。いまの高校の先生って、バカだから後先考えずに女子生徒に手を出そうとするの。なんとなく嘘っぽいでしょ。でもね、本当なの。口が硬そうな女子に声をかけてきて、『僕の奥さんの若い頃に似てるなあ』なんて言いながら近づいてくるのよ。すぐにどうこうするわけじゃないけど、隙あらばってことがわかるのよね。だけど、私は見ての通り実は子どもだし、真面目だから、そういうのに弱いの。なんか、そんな素振りを見せられただけで、軽蔑しちゃうの。そこまで極端にならなくてもいいくらいに、そんな先生のことを避けちゃうのよ。
 だけど、渡辺先生は違ってたの。あ、私と渡辺先生はなんでもないよ。付き合ったこともないし、手を握ったこともない。だけど、あ、渡辺先生は私のこと、嫌いじゃないんだなあってことはわかったの。うぬぼれとかじゃなく、女の子って、そういうの感じるものなのよ。だからって、付き合うとかそういうんじゃないの。先生として『真面目でいい子だな』って思っているのがわかる。そして、時々、十代の女の子のきらめくような若さに、クラッときているんだけど、それをおくびにも出さない。そんなふうに思われて、嫌な気持ちになる女の子はいないでしょ?」
「うん。たぶん」
「つまり、説明は長くなったけど、私は先生として渡辺先生が好きだったの。だけどね、修学旅行の一週間ほど前。授業中にみんなが問題を解いていて、先生が教室の中を見て回っていたのよ。その時、私が質問をしたの。数式を指さしながら質問していたら、先生がなんの加減か、私の指先に注目しちゃって、『小湊って指がきれいだなあ』って言ったの。言ってしまってから先生も驚いた顔して、一瞬黙ったあと、問題の解き方を教えてくれたんだけど、先生がうっかり本当に思っていることを言っちゃったんだ、ということがものすごくはっきりとわかったのよ」
 そう言って、小湊さんは右手の指を左手で覆って隠した。でも、その左手の指も充分にきれいだった。
「その瞬間に、わたしはもうダメだった。先生に恋をした、ということじゃなくて、私本当に子どもだから、なんかどぎまぎしちゃって、先生の顔をまともに見れなくなっちゃったのよ。で、いつも教室の後ろから、みんなを訳知り顔でみていたような子だから、先生の顔を見れない、なんてことを他の子に知られたらもう生きていけないって、そんなふうに思っちゃって。結局、一週間後の修学旅行も行けなかったの」
「それで、修学旅行の代わりに、バスで先生と一緒に海を見に行くの?」
「そう。修学旅行で瀬戸内海を見たんでしょ」
「うん。きれいで穏やかな海だったよ。だったら、瀬戸内海まで行かなくていいよ」
「そこまではしなくていい。ちかばでいい。でも、卒業までに海だけは見ておきたい」
 僕は小湊さんが朝までにしたいことは理解した。理解はしたけれど、なぜ、そうしたいのかは充分にわかっていなかったような気がする。ただ、小湊さんが朝までにしたいことを、事件にならないように穏便に決行することはできるような気がしていた。なんの根拠もないくせに。(つづく)

123アカバナー(8)ガガガガ

藤井貞和

以前にみた漫画で、子どもに「おじいちゃん、どんな女優さんが好き?」と聞かれて、
(介護の関係で、どんな話題でもよいから、子どもは話しかけていたようです。)
ご老人が「うん、レイディー・ガガ」と答えたもんで、周囲が心配する、というのが
ありました。 (あっ、黒田喜夫没後30周年特集『gaga』をありがとうございます。)
ずっと以前に、高校生が、「我」という字を調べて、「刃がぎざぎざになった戈(ほこ)を
描いた象形文字だ」(新字源)と教えてくれました。 おどろいて、私は、我(われ、
わたし)が、どうして刃のぎざぎざの戈なのか、と心配になりました。 ははは。
別の辞書には、「のこぎりのかたちを描いている」ともあって、もっとびっくりしました。
ホームセンターの製材屋さんに、そんなのがありますよね。 (で、ここに、

廻転のこぎりの絵を描いてください。)
私は電動廻転のこぎりです。 我我我我(がががが)、と廻転して切ります。 一日中、
廻転しながら、都内を切りきざみまして、お疲れです。 我執(がしゅう)ですね。

(峨峨とつづく山の稜線はぎざぎざです。我(ぎ)我(ざ)我(ぎ)我(ざ)でしょうか。象形でなく、ガという音(おん)を借りて「われ」〈=ガ〉をあらわした、仮借(かしゃ)文字だ、というのがまた別の辞書の説明です。カシャカシャ。わが廻転のこぎりはようやく帰宅できまして、今夜はどんな悪夢を見るか、また心配ですね。)

風が吹く理由(10)インタールード

長谷部千彩

一月に入ってからずっと悪い夢でも見ているような気分が続いて、私はあっさり萎れてしまった。でも、心のどこかで、萎れるのも人間にはよくあること、自然なことで、だから萎れていいとも思っている。
世の中には、風が吹いていると、反射的にその風に向かっていこうとするひとがいる。吹き飛ばされないように身をかたくするひともいる。
だけど、私は、風が吹く日は、草みたいに震えていたい。枝から離れ、空に舞う葉っぱのように、身を委ね、風に飛ばされることをあえて望む。
早く寝て、たくさん寝て、ぐうぐう眠っている間に時間は流れ、嫌なことも悪いこともみんなみんな片付いて、目覚めた時には春が来ていたらいいのに。
眠る前に飲む粉薬はわずかに苦く、子供の頃に飲んだピンク色の甘いシロップを、私いま懐かしく思う。”甘くないものを飲む”という行為が、大人であることの証なのかしら―。そんなことを考えながら、テーブルの上に置いたコップの水を眺める。

しもた屋之噺(157)

杉山洋一

日本へもどる機中です。2日ほど東京に滞在し、そのままニューヨークを訪ねる予定です。暖冬にしては珍しく昨夜雪の降ったミラノを後にして、南アルプス辺りまでは地上もよく見えていましたが、スイスの湖沼地域にかかったあたりからぐっと高度を上げ、雲の中に飛び込んでゆきました。

元旦夜明け前、熱川から前回の原稿を送って今までわずか一月の間に、フランスのテロがあり、回教徒の怒りが世界中に伝播し、その直後日本の首相歴訪中のタイミングで、我々もすっかりテロに巻き込まれ、今は囚われの人々が解放されるようにただ祈りながら、これを書いています。

自分は何のために生きていて、何のために音楽をしていて、何のために作曲をし、何のために演奏をするのか。一日毎にますます殺伐とする世相に震えながら、書き留めておかなければ、伝えておかなければと思うことばかりが募ります。自分に残された時間にどれだけ出来るのか、焦燥感にかられているのに気がつきます。

今は各々が自分の人生を、改めて見直すべきときに差し掛かったのかも知れません。本来それぞれの人生に同じ価値があり、喜びがあり、悲しみがあり、意味を持っているに違いありません。それらが平等に与えられているかは分からないのですけれども。

時間は思いの外早く過ぎ、人の生命の駆け抜ける速度も、この歳になって漸くどれだけ早いものか思い知りました。今の自分にとって音楽とは、自分や他人が何かを思い、感じ、伝えようとする切欠に過ぎず、それ自身には何の価値もないけれど、演奏者がそれに命をあたえ、聴くものがそこにまた何かを見出す化学反応を、未だに信じているのかもしれません。随分楽観的だと呆れもするけれど、それすらなくなってしまったら、自分の息子の世代に何を伝えればよいのかわからない気もするのです。

 1月某日
熱川で夜半家族が寝てから水牛を書き、夜明けに書き終え朝に温泉に入って寝る。東京にもどる車中で杜甫の浄書。12月末までに終えるつもりでいてこぼれた。SNSをしていないと、イヴェントに際してメッセージは必要以上に届かない。波多野さんに杜甫のパート譜を送る。「李白の大らかさも好きでしたが、杜甫の湿り気が慕わしかったのを思い出します」。

 1月某日
毎日練習に間に合うかと祈る思いで三善作品の譜読み。新聞に沢井さんとご一緒の写真が載り、休憩中、学生が届けてくれる。響紋の鈴の音、ピアノ協奏曲の緩徐楽章のグロッケン、ヴァイオリン協奏曲のティンパニ、波摘みのチューブラーベル。三善作品の打楽器は、通常オーケストラに要求される演奏法とは全く違うもの。打楽器だけでなく、弦楽器の鬩ぎ合う音すら、恐らく現在の大学生の日常には存在しないようだ。彼らのその音から乖離しているのは、日本が平和で豊かな証拠であって嘆かわしいとは思わない。ただ、それを一つ一つ説明することが、我々の世代の役割であるはずだが、時間が足りないのが口惜しい。自分が大学生の頃は、特に意識しなくとも、現代音楽を弾く時の音には独特の興奮と凄みがあって、どちらかといえば、自分はそこから逃げだしたいと思っていた。品川駅の喫茶店で吉原すみれさんと会ったとき、楽譜に書きつくされていないものを、我々は伝えていかなければならないと話した。我々は一番微妙なハイブリッド世代だとおもう。

 1月某日
沢井さんの演奏会に出向く。沢井さんのための十七絃の作品では、羽ばたく大きな鵠を一羽、手本をなぞりながら自動書記的に何も考えずに描いた。否、鵠を描いたのは、沢井さんなのではないか。音譜は彼女に白鳥を描かせるための仕掛けにすぎない。
言葉とて文字の中は実は伽藍堂なのと一緒で、音楽は自分の中には何もない。
沢井さんは、時に音の中に佇むようにも見えるし、音という予定調和の空間に、鋭利に切り拓いてみせるときもある。かと思えば、彼女の身の廻りは真空のように張りつめ、彼女の身体のなかに音が息づいているように感じることもある。
由紀子さんに「あんなに大きな白鳥を書いて頂いて、彼方できっと喜んでいますよ」と声をかけられ、少しだけ救われた気がする。「でも飛んで行ってしまったわね」と少し寂しそうにおっしゃられた。30年ぶりに大原れいこさんにお会いする。30年前、丁度今の息子の年頃にお世話になったので、傍らの息子をみて大原さんは大喜びしていらした。性格はだいぶ違うが、確かに顔は当時の自分に瓜二つ。
ユージさんの百鬼夜行を本番を含めて3回も見られたのは本当に幸運。見ればみるほど面白いが、今度は音と朗読だけで聴きたい。3回も見れば各々の妖怪も頭に浮かぶに違いない。聴きながら、ユージさんがカンフーを習っていたことを思い出したのは何故だろう。芯に強さと風のようなものを感じたからかもしれない。

 1月某日
世田谷警察にあてた不審メールをうけて、息子の小学校は集団下校。今日の14時、世田谷区のこどもを殺すという。
洗足で大石さんの現代音楽ゼミの演奏を聴き、感銘を受ける。若い演奏家に対して、本当に自然で、そして豊かな音楽に触れる素晴らしい機会を与えていると思う。家人は、彼らと一緒にプラティヤハラ・イヴェントをやり、イヴェントのところでサンドウィッチを作って食べた。大学生は体操をしたり、風船で人形を作ったり。各々の日常はこんな形で反映されるのを一柳さんは当時から見透かしていらしたのかと感嘆。
帰り途、大石くんとシャルリーについて少し話す。イタリアに住んでいるものから見ると「わたしはシャルリー」は、少しだけフランス人のスノッブな部分を見る気がする、と正直に話した。フランス革命によって生まれたかの国において、法の前では誰もが平等であり、自由が保証されていることが誇りなのはよく分かる。でもイタリア人の手に掛かると、それはあくまでも理想論であって、平等だなどとは誰も言わない。イタリアはやはりマキャベリズムの生まれた国であって、理想を謳うより、現実の自らを蔑めて笑い転げるところがある。風刺の視点が少しだけ違う。

 1月某日
昨日は波多野さんと三軒茶屋でお会いして、そのまま味とめでユージさん夫妻と福島君と落ちあう。黒糖を嘗めつつキリタンポ鍋をつつき、サザエの刺身を喰らう仕合わせ。黒糖頂戴と騒いでいたら、わざわざ購いに走って下さった。
朝は自転車で幡ヶ谷に駆けつけ、大井くんのウェーベルンのパッサカリア編曲を聴く。オーケストラで聴くのと違って、ピアノではどうしても増三和音が明快に浮き上がるので、勢いベルクのピアノソナタのように響く。尤も、ベルクのソナタはシェーンベルグの室内交響曲のように聴かれるべきなのだろうし、室内交響曲やこのパッサカリアはベルクのソナタのように奏されるべきではないか、などとつらつら思いながら家に戻り、午後は学校でヴァイオリン協奏曲の変拍子を固め、響紋を少しさらう。
あれ程面倒な変拍子なのに、学生たちの身体に一度入ると、それは活き活きとした律動感に支配され「水を得た魚」という言葉が頭を過るほど。同時に響紋がこれほど論理的に構築されているとは楽譜を改めて勉強するまで知らなかったと内心頭を掻く。
風邪気味なのが気にかかり、帰り途、件の上海料理屋で熱い紹興酒を呷りながら中華そば。

 1月某日
東京からミラノに戻った翌日、早朝の特急でローマに出かけ、初めてMatteo D’amicoに会う。車中、旧い黒人霊歌をあれこれ調べ、O君のための作品の素材を集める。黒人霊歌と米国国歌を絡ませたいのは、先日警官とやりあって死んだエリック・ガーナーが作曲の切っ掛けになっているからで、来月ニューヨークでそんな話をする積りは毛頭ないが、とにかくニューヨークへ行って感じたままを書きたいと思う。白人による人種差別なのか白人の恐怖心の裏返しなのか、数日滞在したとて何が分かるわけではないが、ずっと耳の奥でリフレインしているものを取り除きたい。形のないものが少しずつ姿を顕す。それは人そのものの姿かも知れないし、尊厳であるかも知れない。恐怖であるかも知れないし、現実に目を背け光り輝く天国を謳う霊歌かもしれない。

昨日の学生のオーケストラのドレスリハーサルの最中、エキストラで呼ばれてきているプロの演奏家の私語が酷く、しまいに休符を数え間違えて落ちるに至って堪忍袋の尾が切れる。貴方方は自らの生徒にオーケストラでそのように仕事をするよう教えるのかと問うと、黙って下を向いた。今日はロンバルディア州庁舎で記念演奏会。警備が物々しいのはテロ対策だと言う。近年、日本では自己責任という言葉をよく聞くようになった。個人主義が徹底しているイタリアでは、全てが自己責任であるわけだが、同時に個人の主義主張行動に対して、喩えそれがどのようなものであれ一定の理解を示そうとするところが違う。

 1月某日
学校から家に戻ると、シモーナとステファノがうちに預けていたグリエルモを迎えに来ていた。聞けば、11月に産後一週間で脳出血で亡くなったダニエラは、とても敬虔なカソリックで、毎日教会で祈りを捧げていたという。2年前のある日、息子のダニエレの夢に預言者があらわれ、11月24日に不幸が訪れると告げ、朝起きて泣きながら母親にそれを伝えた。2年経って自身の出産が11月と分かったとき、帝王切開の日程をとにかく24日から外すようダニエラが医師に懇願したのは、生まれてくる息子に不幸が訪れると信じて疑わなかったから。そうして26日が予定日となったものの、直前になって医師の都合で24日に急遽変更されてしまった。ダニエラはとても怯えていたけれど、周りの誰も預言者の夢など気にも留めなかった。無事にガブリエレが生まれて一週間後、彼女は突然頭痛に襲われ還らぬ人となった。
ダニエラの話を聞いたばかりで、今度は親しい作曲のI君が脳出血で入院との便りを受取り言葉を喪う。慌てて今週末、東京に寄る折に見舞うべく弟さんに容体をたずねると、幸い症状は酷くないようで、溜飲を下げた。しかし年末に彼に会ったばかりで俄かには信じられない。次は愈々自分の番かと思ってしまう。

 1月某日
先に演奏会を聴きに行って感銘を受けた洗足の大石くんのゼミの学生さんたちが、「悲しみにくれる女のように」を素材にした拙作を演奏して下さることになり、本当に嬉しい。11月に村田厚生さんと菊池かなえさんによる古典楽器二重奏のために書いたこの曲は、バンショワの原曲と、パレスチナとイスラエルの国歌のみによって作られていて、ガザ地区で死んだ母親の胎内から取り出されたシマーという女の赤ん坊の名前が耳なし芳一のように刻み込まれている。大石くん曰く、学生の多くはまだ選挙にすら行ったことがないかもしれない、でも彼らに何かを考えてもらう切っ掛けにはなるかもしれない。自分の音楽は無価値かもしれないが、せめて何かの役に立って欲しいと願っているから、彼の言葉に心が躍った。パレスチナとイスラエルとどちらが正しいという問題ではなく、ただそこに目を留め、互いの音に耳をそばだて何かを感じて欲しい。5日間しか生きられなかった赤ん坊の名前は、たぶん彼らの裡のほんの片隅にでも残るかも知れないし、残らないかもしれないが、たぶん彼らが演奏するとき、そこに何かが生まれるはずだと信じている。

(1月31日 東京行き機上にて) 

製本かい摘みましては(106)

四釜裕子

銀座線の上野から浅草まで乗って5分の距離に、上野、稲荷町、田原町、浅草の駅がある。銀座線で一番乗降客が少ない稲荷町駅の出入り口は、日本で初めてこの区間に地下鉄が開通した昭和2(1927)年当時のままだそうである。地上の浅草通りから狭い階段をトントン降りるとすぐ改札、出たらそのままホームで、初めてだと拍子抜けする。さすが一番最初にできた地下鉄だ。「○○駅下車徒歩○分」という表示にうそが入り込む隙がない。ただし、相対式のホームで駅構内で行き来することができない。トイレは渋谷方面に行く1番線側のみ。今もってエスカレーターもエレベーターもない。これはかなり珍しいだろう。どんな事情があるのだろうか。銀座線は再来年までに浅草〜京橋間、東京オリンピック・パラリンピックまでに残り全駅をリニューアルするそうだ。稲荷町の出入り口や構内のリベット柱はそのまま残すと聞いた。

版画家・藤牧義夫の作品に、《地下鉄稲荷町駅出入口から見上げた空》がある。タイトルを読まなければそうだとわからないくらい、白と黒のはっきりした構成は単純だ。そうだと知って改めて同じ場所から眺めると、まるで同じではないけれども似たように単純な構図があらわれるのがちょっと可笑しくてうれしい。藤牧義夫は、1911年に群馬県の館林に生まれて27年に上京、稲荷町駅から歩いて数分の浅草神吉町に下宿。新版画集団に参加して旺盛に活動していたが、35年、24歳で突然失踪してしまう。稲荷町駅の作品は、冊子「新版画」の藤牧義夫特集号、第17号の表紙を飾っており、タイトルやNO.17の文字とのかかわりもいい。『生誕100年 藤牧義夫展 モダン都市の光と影』(2012年 神奈川県立近代美術館)の図録に〈1935年7月以前に制作〉とあいまいに記されているのは、のちに発覚した贋作問題とともに今もって失踪のいきさつが謎に包まれているからだ。

この義夫氏、四男七女の末っ子で、書画に親しみ城下町で風流に暮らしていた父・巳之七(1857〜1924)が教員を退いてから生まれている。ひじょうにかわいがられたようだが、13歳で67歳の父を亡くしてしまう。翌年高等科を卒業して、父を追悼する本の制作を思い立つ。家族などに資料収集の協力を要請し、家系図やその歴史を丹念に調べ、愛用品の模写や肖像、ゆかりの地を訪ねたスケッチのほか、父にまつわることがらをことごとく集めて父の雅号を冠した『三岳全集』『三岳画集』を完成させる。前述の図録によると、『三岳全集』は、1926(大正15)年6月完成/墨、貼込、他/私家本(洋装本仕立て)/21.8×15.3×5.5cm、『三岳画集』は、1927(昭和2)年1月1日完成/水彩、墨、貼込、他/私家本(洋装本仕立て、174図)/20.2×15.3cm、となる。展覧会では、どちらも既成の無地のノートに手描きして表紙に絵を描いたり布を貼ったものと見えた。

駒村吉重さんの『君は隅田川に消えたのか』に、この2冊についても記述がある。最後にこう書いてあったそうである。

 昭和二年一月一日装訂成る。
 群馬県館林町裏宿六八四番地 藤牧義夫著之。
 大正十五年秋ヨ里稿を起し 昭和一年より二年に致り之著完成す。
 せい姉に表紙布を戴き 画紙の大半を藤牧分福堂にて購入す
 巳之七の関著は今日之を以て絶す。…著者識…

家長亡きあと藤牧家は日用雑貨品を扱う「藤牧分福堂」を営み、義夫もしばらく手伝ったようだ。『三岳画集』には父に続く家族の記録として店のことも詳しく記してあり、材料を律儀に〈購入〉したことを律儀に記すのはごくあたりまえのことだったのだろうと思える。〈画紙〉とあるから、本体は既成のノートではなくて画用紙を折って束ねてなんらかの方法で綴じたのかもしれない。〈せい姉〉がくれた〈表紙布〉というのは、スズラン柄の〈せい姉〉の着物の端切れだったかもしれない。『三岳画集』の表紙は上部を父の着物の端切れと思われる布でくるんであり、別の布から切り取ったと思われるスズランの柄をトリミングを変えて複数コラージュしてあった。2冊ともひとの指になじんでいた。こういうのをボロボロというのだろう。長く遺族の手元にあったそうである。

グロッソラリー ―ない ので ある―(5)

明智尚希

 1月1日:「三郎おじさんはな、ああ見えて酒がほとんど飲めないんだよ。知らなかったろ? 酒
好きみたいな顔して、ビール一杯でぐったり。そのくせ『俺と飲んだら大変なことになるぜ』なんて言いやがる。大変なことになるのは、自分自身なのにな。は
はは。二三年前の正月なんて大変だったんだよ。今でも語り草。見てないか?――」。

ヨッパライヽ( ̄_ ̄*)……(|||__ __)/オエー

 チサネッリのヨーロッパ中世二階建て風。グッサーネとネッサーグのコンペラチャンテあえ。トケチのアンデパンダン蒸し。肉。三十五歳独身プログラマーの
築10年アパートの内見後。甲州街道に差し掛かった辺りで右折と左折を間違えてしまったあとの気まずい車内の空気をまぎらわす一方通行逃れ。わしのお手製
の晩飯のほんの一部じゃ。

(*)´ー`(*)”モグモグ

 文句ばかり言う人は、楽な人生を送ってきたのだろう。自力では何一つやろうとせず、やる能力もなく、コネとカネにものをいわせる。幼い頃から判断基準や
価値基準の真ん中にいて、大人へのとばくちの門を跨いで渡る。孤独な熟慮を知らず、アホーダンスに気軽に従う。時には軌道修正という名の抗議をし、「有意
義」な一生を送る人間。

[○´・ω・]ノヂャァネッ

 シーシュポスの神話の石をレバレッジでVトップからネックラインへ転げ落とさせたのはわしだけじゃろ。しかもダブルトップときた。次は三尊天井じゃな。
ぎくしゃく登るから単純移動平行線ではない。じゃが登り一辺倒じゃからトレンドは読みやすい。力はフィボナッチ数列的に増加する。腰にゃボリンジャーバン
ドを巻いてるっての。

オォォーーー!! w(゚ロ゚;w

 1月1日:「まだその時は三郎が下戸だなんて誰も知らなかったもんだから、ビールやら日本酒やら焼酎やら、どんどん飲ませた。そしたらどんどん顔が青く
なっていった。飲ませた側も異変にばたばたしだして、やれ吐かせろだのやれ救急車だの、そりゃあもう大騒ぎだ。肝心の三郎はといえば、しばらくは壁にもた
れてじっと座ってた――」。

(癶;:゜;益;゜;)

 プロザック、パキシル、ジェイゾロフト、デプロメール、アビリット、トレドミン、トフラニール、トリプタノール、ルジオミール、セルシン、デパス、メイ
ラックス、ソラナックス、レキソタン、アモキサン、タンドステロン、ジプレキサ、コントミン、リスパダール、エピリファイ、リボトリール、シアナマイド、
マイスリー、アモバンテス。――僕らはみんな生きている。

(ー△ー;)エッ、マジ?!!!

しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

異性に恋心や愛情を抱くというが、いったいどういうことなのか。人間は細胞が集まってできている。心と呼ばれる脳も、異性を魅了する容姿も、ちっぽけなも
のの集合体でしかない。しかも新陳代謝を繰り返す集合体。有機的な機械に思いを寄せるとは摩訶不思議な話である。同時にこれは失恋の理屈っぽくて安っぽい
言い訳にもなる。

┣¨キ(*゚д゚*)┣¨キ

 ピグマリオン対ガングリオン。見えないミツバチが頭の周りをぐるぐるするから、条件反射的によけるはめになる。あぐらをかいたまんまラジコンで浮遊でき
る日はいつになるのだろう。灰汁を取ってないナスとホウレンソウを食べるとせきが出る。でもオリオン座だけは脅迫的に毎日確認している。わしはいったい何
と戦っているのじゃろうか。

(っ`・ω・´)っフレーフレー!!!

 失業して、何もせず、のんびり暮らし、疲れて、自殺する。

(;≧皿≦)。゜°。ううううぅぅぅ

 1月1日:「そのままでいるのかと思ったら、急に『オロロロロロロロ』と滝のように吐きだした。そこら中は大変なことになってたけど、全部戻してリセッ
トすれば、またしらふになると楽観視してたから、吐くに任せてた節はある。まあ戻している最中に止めることなんかできやしないけどな。で、三郎のやつ、急
に吐くのをやめた――」。

うっ。。。( ̄x ̄;);

 だったら素っ裸のまたぐらに華やか過ぎるフルーツポンチを置いて、ちょいとメルヘンを気取った蛇行運転をしたり、まあるいけどぐにゃぐにゃだったりと
か。直立不動で最後っ屁ってのもあるぞ。だから他人の作ったおにぎりは食べられない。怒るんじゃないない! なんたって原宿だよ確かこっちゃあ。正座して
丁寧に畳んだ清潔な下心。

オムスビ( ゚∀゚)つ (■) (■) (■) (■) (■)

 地球環境を破壊し、生態系を脅かすだけでは満足できないらしい。好奇心や科学の成果という名のもとに、必ず役に立つと言い切れるかどうか不明な一物を宇
宙に向けて放り投げている。今では宇宙空間はスペース・デブリが蔓延しているという。六畳間に掃除機をかけぞうきんで畳を拭く。わしはそういう性質を持つ
国から来た。

σ(≧口≦мё)

 1月1日:「そこからの三郎はすごかった。戻すのをぴたっとやめて、急に真顔になって垂直にぴーんと立ち上がったかと思いきや、あ、その前に、三郎おじ
さんは親戚の間じゃあ生真面目一辺倒で知られてたんだ。俺の弟とは思えないくらいにな。言葉づかいや態度もきっちりしていて、まあいわゆる堅物に近いとこ
ろがあったなあ――」。

(ᅙᆺᅙ)

 まあなんというか、犯罪をおかしたあとは善行のあとに似てるな。誰でもない人よ、一つ覚えておくがいい。猫は必ずしもニャーとは鳴かないということを。
事実は生もの。時間は腐敗促進剤じゃな。マタドールがひらりとやれば、そこには何もない。沈み彫りがやがて平文になって、最後はつるつるになるだけ。あ
あ、ご都合主義の現実様よ。

ダレ?(・ω・)σ

 人はすれ違う時、相手の顔を見る。どういう魂胆からなのか見当がつかない。何かを確かめたいのか、単なる興味本位からなのか。アリはすれ違う際に頭同士
をコツンとやる。それに似たようなものだとしても、アリに聞いてみなければわからない。共依存関係にあるとはいえ、あの目つきは敵や異分子を探していると
しか思えない。

スッ≡( ̄ー『+』ゝ

長年この世に存在してきたわしじゃが、思い出すことは、全てを仕損じたこと、女性が女性でなくなったこと、この世にいるという以外に人間と共通項がなく
なったこと、人生の入口からして暗澹としていたことじゃ。お花畑なぞ想像だにできない。たとえ脳のレベルにおいても。前世での後悔が遅まきにやってきたと
いうことか。

♦♫⁺♦・*:..。♦♫⁺♦*゚¨゚゚・*:..。♦♫⁺♦*゚¨゚゚・*:..。♦♫⁺♦*゚¨゚・*:..。♦♫⁺♦*

 どうでもいいことにも一理ある。そうしたくだらぬ局面に立たされ、打開するに値する程度の生活しか送っていないということを意味する。視覚の情報はコン
テクストに乏しい。満場一致のエートスは、たとえそれがエートスだとしても民主主義では説明がつかない。多数決原理のお偉いさんも、公衆の面前でのおもら
しくらいは体験しなければ。

( ̄▼ ̄*)ニヤッ

くすむ霧と

璃葉

カラスが夜を吐き出した日
くすんだ霧を頭の中に閉じ込めただろう
手や脳天から漂う空気はその所為だ

思考は悲しい方角へ向きたがる

朝は明るい
明るい光に木々が集まっている
サアサアと葉を鳴らしている時
君の中の恐れは淡い靄になっている

次の夜が根から伸びてきた時
孤独の喜びと一緒に君は歩き回る
そうしてふたたび流れてくる霧に
君は手をかざすのだ

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島便り(10)

平野公子

小豆島移住からほぼ1年が経ちました。あれこれ見聞きしたことをとりとめなく掲載させていただいています。コレいったい読んでくださる人がいるのでしょうか? 読み返してみますと、自覚していたとはいえあまりにも散漫です。あいすみません。

一年かけて島で私がやりたい、やれそう、やらねばの意地で、ほぼふたつの方向に活動を集約してきましたので、
今後はそのうちのひとつ「小豆島ミュージアムを作ろう!」を水牛に報告していきます。

ちなみにもうひとつは「小豆島に馬の牧場を作ろう!」です。こちらはまだまだ霞のなかですが数人で勉強会からスタートしました。こちらの記録は「屋上」ウエブマガジンでそのうち連載はじめます。

  ☆

12月の水牛「島便り8」に記した、島に残された絵をめぐって、ダンボールの中にあったもの全て広げて見せていただいた。その日から、あのまましまわれていたら気の毒な絵をどうしたらいい形で常設できるかを考え出してしまった。

絵は昭和の始め頃から1970年代までの90点ほど。色紙や画帳もあるし額装入りもある。いわゆる美術館にかかっているような大掛かりな絵はひとつもな
い。だが、なんだか惹かれるタッチの絵なのだ。風景画(当時はめずらしかったであろうオリーブの絵が多い)、人物画(定宿のおかみさんやおやじさん、それ
に同宿の絵仲間たち)。とくに人物画は生き生きとした巧さに唸った(調べてわかったが、宮本三郎の絵であった)。

島にはギャラリーは2、3あるが、美術館はない。絵を見てから3日後に、いつも私の動きをフォローしていただいている町役場の方にメールを出した。必ず町長にも、担当部所にも伝わることになっているらしい。

  「陽光に惹かれて小豆島を描いた画家たち」展示の提案

町の財産である画家たちが残した絵を常設できる場をつくれないか考えています。

1930年代から香川出身の猪熊弦一郎(1902―93)が始まりの気がするが、おおくの画家、画学生が小豆島に滞在、海岸やオリーブの樹や海と朝日夕日
を描いている。猪熊弦一郎と友人であった小磯良平もそのひとりであった。糸口の資料によるとその数40数名。主に東京美術学校(現東京芸術大学)の出身画
家、学生のほかにも香川や関西の画家たちの名が見える。画家のなかには小磯良平、古谷新をはじめ島にアトリエを建てた人まで数人いる。また、彼らの絵には
島の陽光に惹かれている様子、当時はめずらしいオリーブの樹、あきらかにヨーロッパへの憧れがにじみ出ている。たしかにこのあと画家たちが必ずヨーロッパ
へ留学していることからもそれがわかる。
著名な画家たちの若き時代の絵はそれぞれ貴重なもので、1枚ずつ調査あとづけをして、ストーリーをつくり、額装を直し、ないものは新しく作り、人の目に触れられるように仕立てる。小冊子も作れそう。
また同時代に湾を挟んだ坂手地区に文学者黒島伝治、壷井栄がいたことは重要なことで、俯瞰で島をとらえる必要性がありそうです。いま、黒島伝治の朗読会を
小規模で始めていますが、これもいずれ集約していくつもりです。また、島には貴重な古文書や民具ものこされていると聞いています。これらを同時にみること
ができるスペースがあったらいいと想像すると島の真ん中の海辺にできたら素晴らしいのではないでしょうか。島民にも島外のひとたちにもゆっくり過ごせるス
ペース、どこかに新しくハコをつくるのではなく、空き物件の再利用で小さなミュージアムを計画していきたいと、提案させていただきます。

10日後にさっそく関係者のミーテイングが開かれた。

怠惰な一月

仲宗根浩

お正月の寒波は沖縄にも襲ってきた。う〜、さむい。年末に頭を丸めたのでなおさむい。

かき氷を食べたときのツーンとする痛さをともなう。しかし一月半ば過ぎに大阪へ行った奥さんは、「沖縄の寒さはゆるいよね。」と言っていた。大阪では夜には外出できないくらい寒かったらしい。

一月は極力何もしなようにしている。去年のクリスマス後の風邪が約一ヶ月。加齢だろうか。からだが動かない。仕事以外はほとんど寝ている怠惰な生活。

沖縄のお正月の模様も変わったか。御節料理が多くなった。昔ながらの重箱料理がだんだん減ってきているようだ。今年のお正月の料理を見て母親が言った言葉を日本語にすると「豚をしめなかったか?」と。元旦に豚の三枚肉や赤味肉がなかった。

地元新聞と全国新聞の記事。全然見出しや取り上げることが違う。「辺野古」という地名はある程度は知らているだろうが、「高江ヘリパッド」に関して内地のメディアは言及ししているだろうか。

沖縄の東側と西側の違い。西側は観光開発。東側に基地。原子力潜水艦が寄港するホワイト・ビーチ、辺野古、その昔は天願からのパイプライン。辺野古移転とともにヘリパッドも南下する。

テレビで伊能忠敬の地図より早く作成された沖縄本島の精密な地図が作成された番組を見る。フランスの三点測量が清へ、それが琉球へ伝わった歴史。この事で琉球が大和より優位であった、という感じで語るひともいる。平らにすればさはど時間軸では差はないのではと思う。時間の差より、技術をどのように使うか、継承する術の差だろか。

来し方テロ事件〜インドネシア

冨岡三智

「イスラム国」の動向がとても気になっている。インドネシアでバリ島の爆弾テロ事件などを起こしてきたイスラム過激派団体:ジェマ・イスラミア(JI)の精神的指導者とされるアブ・バカル・バシル受刑者も、「イスラム国」支持を呼びかけている。インドネシアにもこれからいろいろと影響が及ぶかもしれない。テロが活発だった2000年代始め、私はインドネシアのソロに滞在していた。自分の経験から少し思い出してみる。

2000年のクリスマス・イブに、JIのメンバーによりインドネシア各地のキリスト教会で同時爆破テロ事件が起こる。この日、私は外国人留学生(欧米出身)の友達と10人くらいで夕食に出かけたのだが、その後、日本人以外はみな教会のミサに行ってしまった。2000年代に入ってから全国で教会爆破事件は頻発し、ソロでも起こったことがあるから私たちは止めたのだが、「教会で死ねたら本望だ」と彼らに返されてしまった。テロも怖いが、本望と断言できる欧米人の宗教心も畏敬すべきものだった。彼らの行き先は無事だったけれど、テロが起こるたびに真っ先にこのことを思い出す。

2001年、9.11事件が起こる。これはJIとは関係がないが、ソロでもデモが頻発した。メインストリートのS.リヤディ通り沿いをパサール・ポンの辺りから郵便局まで、ウサーマ・ビンラーディンの写真を掲げた人で埋まったこともある。郵便局前のロータリーでは、ちょうど車の流れが滞る所なので、デモがよく行われていた。私はこの近くに住んでいたので、デモがあると音で分かるのだった。9.11の1か月後、インドネシア人舞踊家(男性)を連れて日本に行く。滞在中に警察から職務質問され、舞踊家の写真入りの公演ちらしを見せて納得してもらえたことがある。顔写真入りチラシはこういう時に役立つものだと悟った。関空で出国手続きをする時には、インドネシア人だけ別の列に並ばされた。9.11関連なのか、明らかにインドネシア人をマークしている。前述の警察官にもインドネシア人との関係をしつこく聞かれた。もしかしたら、私もテロリストの手引きだと思われたのかも知れない。

2002年10月、JIのメンバーによりバリ島爆弾テロ事件が起き、緊急日本人会が開かれる。インドネシア人も外国人もバリなら安心だと思っていただけに、かなりショックな出来事だった。1998年の暴動の時のように混乱するかもしれないから、各自逃げられるよう心構えをせよと訓示がある。私はその会合に自転車で出かけていたのだが、帰りにパンクしてしまい、仕方なく自転車を押して歩く。PKU病院の前までさしかかると、何だか雰囲気が異様だ。警察トラック(幌掛けのトラックの荷台に、警官が10人くらい座れるようにベンチがついたもの)が停まっている。道端には警察官がずらっと並び、一斉に私の方を睨む。訳が分からずに下宿に戻り、テロ事件の情報をネットで探していたら、JIのバシルが、その晩にソロのPKU病院に入院したと分かる。どうやら私は、バシル入院直後のピリピリした雰囲気の中に、自転車を押してのこのこ現れたようだ。しかも夜の9時か10時過ぎ、普通のインドネシア人女性は1人で出歩かない時間帯に。あまりにも間抜けなタイミングだ。翌朝、大学に行く前にPKU病院の様子を見に行ってみると、果たして、バシル入院を知った人たちが病院の前の道に押しかけ、1ブロックくらい人で埋まっていた。

その後、インドネシア国内の芸術イベントに招聘された海外団体の渡航自粛が続く。私も、楽しみにしていた海外団体の公演がキャンセルになって、がっかりしたことがある。観光客によるチャーター公演が多かったマンクヌガラン王宮でも、ぱったりとチャーター公演が途絶えてしまった。こういう事態に対して、過剰反応だ!ジャワは危なくない!と怒る芸術関係者も少なくなかったが、1998年の暴動以来、教会爆破事件やらテロやらが続いてきたから、インドネシアに一度も来たことのない外国人が怖がるのも無理はなかったと思う。安全であるというイメージは観光立国にとって何よりも大事なのだ。

2003年8月、JWマリオット・ホテル爆破テロ事件がジャカルタで起こる。この年の2月に私は留学を終えて帰国していたが、7〜8月にまたインドネシアに来ていた。ジャカルタでマリオットの近くの安宿に泊まって、毎日その前をタクシーで通っていた。私がジャカルタからソロに移った翌日、テロ事件が起きた。本当なら、私はその日にジャカルタを発つ予定だったので、知人からの安否確認の電話でテロを知った。間抜けなことに、私は1日間違えてチケットを買っていたため、テロの混乱に巻き込まれずに済んだ。

その後もしばらくJI関係のテロがインドネシアで続いた。普段は気を付けるようにと言われても、気を付けようがないのがテロだ。それでも、いつでも、何か起こり得ると考えて行動するしかないのだと思っている。

飛ぶ矢も停まる

高橋悠治

循環する時間には
始まりも終わりもない
循環は往復とはちがう
起源も目標も見えない
もし時間を線と見るなら
どれほど遠くても行先があり
一つの方向があるだろう
思ってもみなかったことが起っても
どこか似たことが どこかに見つかれば
ふりかかる偶然にも理由が見つかった気になる
循環と言っても毎回やりなおしではなく
記憶が残り 積もっていく
その記憶も少しずつ入れ換わっている
何かが変わると時間を意識するが
何かをしているうちは時間は経たない
どれほど長くても一瞬のうち


ことばはことばでないものを指し示す。飛ぶ矢より藪を叩く棒にすぎなくても、そこから何か出てくるかもしれない。ことばは発達し分岐しているから、狙ったものに当たらなくても、そのほうがおもしろい場合だってあるだろう。時間はカテゴリーで、線も循環もたとえだが、瞬間はそのどちらでもなく、時間でさえもないのだろう。

夜のバスに乗る。(3)小湊さんが僕を好きになった理由。

植松眞人

「ねえ、もう少し、僕のことを好きになった理由を教えてくれないかな」
 僕は思いきって小湊さんに聞いてみた。だって、なんだかこんなふうに同じ空間にいて、同じ時間を共有しているのに、僕はなんだかひとりぼっちのような置いてけぼりを食っているようなそんな気持ちだったから。
「私が斉藤くんのことを好きだった期間は本当に短いの。でも、かなり好きだったのよ」
 小湊さんは言った。
「例えば、教室の中でみんなが動きはじめる瞬間ってあるじゃない。授業が終わって、一斉に立ち上がるとか、そういう時。マスゲームのように同じタイミングで、同じ方向を向くとか、そういうんじゃないの。一応区切りはあって、でも、動き方は人それぞれってときがあるじゃない。私はそういう瞬間が好きなのよ。そういう瞬間を眺めていたいの。だから、教室の後ろの方の席が好きだし、みんなが出て行ってしまったあとの教室から、一人で出て行ったりするのが好きなの。こんな話をすると、私がいろんなものを達観しているような、妙に収まったものの見方をしているように思えるかも知れないけど、そうでもないのよ。私はどちらかと言えば、気が弱いし、知らない人とはあまりうまく話せない。だから、きちんと人を見ていたいし、状況を把握しておきたいのかも知れない。まあ、そうやっていても、なんだかうまく行かないことばかりだし、同じクラスの女の子のことだってなにひとつ分かってはいないんだけどね。それでも、少し安心するの。なんだか教室にいるのに、一人だけぬるいお風呂に入っているような、そんな気分になっちゃうのよ。膝小僧を抱えてね。唇のギリギリのところまでお湯に浸かってね。そこへあなたなのよ。いつもいちばん最後まで動き出さないでしょ、斉藤くん。みんなが教室から出て行ってから教科書を片付けて、冬ならコートを着て、ゆっくりマフラーを巻いて。なのに、私のようにみんなの様子を見ているわけじゃない。ただ、自分のペースが遅いだけ。そんなゆっくりしたサイトウさんを教室のいちばん後ろから見ていると、なんだかものすごく幸せな気持ちになったのよ」
 小湊さんはそこまで話すと、僕の方を見てにっこり笑った。
「でもね、先週、好きじゃなくなったのよ」と小湊さんが言って、僕はほっとした。小湊さんの話を聞きながら、小湊さんのような女の子に好かれるのはちょっと大変なことかも知れないと感じていたからだ。
「どうして好きじゃなくなったの」
「好きじゃなくなったって言われて嬉しそうね」
「嬉しくはないよ。ほっとしたけれど」
「やっぱり面白いね、斉藤くんは」
「面白いと好きとの境目はどのあたりにあるんだろう」
「ほんとね。でも、そういうことを言っちゃうところが面白いのよ」
 そう言って、小湊さんは僕を見た。
「私が斉藤くんを好きじゃなくなった理由はね。というか、嫌いになったわけじゃないのよ。好きじゃなくなった、というのもちょっと違うわね。大好きじゃなくなった、という感じかな」
 そこは僕にとって大きな問題ではなかった。
「先週、授業が全部終わって、教室を出て行くとき、斉藤くん、私のほうを振り返ったでしょ」
「覚えてないよ」
「振り返ったのよ。あの時、なんだか悲しくなっちゃったの」
「どういうこと?」
「なんだろう。振り返るタイミングじゃなかったんだよ。きっと、私にとって」
「じゃまくさいな」
 僕が笑うと、小湊さんも笑った。
「じゃまくさいね。でも、人は勝手に思い込む生き物だもねの」
 小湊さんが僕のことを好きではなくなった理由は、正直よく分からなかったけれど、でも、僕が振り向いたタイミングが、小湊さんのタイミングじゃなかったという話は、なんだか僕の腑に落ちた。どんな物事にも最適なタイミングというものがあって、みんなそのタイミングを求めて右往左往している気がする。だけど、なにをやっても最適なタイミングでなにかができる、ということは滅多になくて僕たちはそのことに一喜一憂したり、誰かのことを勝手に、素敵だと思ったり、いまいちだなと思ったりしている気がする。そんなふうに思いながら見ていると、小湊さんは本当に抜群のタイミングで、バスのシートに身体を預けて目を閉じた。
 僕のタイミングで目を閉じた小湊さんを眺めた。小湊さんは割りに細くて、色が白いのでいままで気付かなかったのだけれど、唇や耳たぶが厚くてとても柔らかそうだった。でも、温かそうには見えなくて、それがじゃまくさい小湊さんには似合っている気がした。
(つづく)