真夏日の労働

高橋悠治

毎年夏は秋のシーズンのために作曲していた 今年はそれに加えて コロナ感染予防のマスクやシールドで 肺も脳も酸素がじゅうぶんとは言いきれない

コンサートも観客なしのネット配信や 関係者ばかりの閉じた空間 客席を一つおきに空けた赤字公演を続けながら なんとか支えあって いつまで行くのだろう これからは オーケストラやオペラのように集団による集団のための見世物ではなく 空間にちらばった場所がそれぞれに変化していく生活があり 変化が顕れ 風が起こると 通り過ぎた場所が見えてくる 方向だけがあり 消えないうちに ちがう方向からまた近づかないと 場所は褪せていく

サントリー・ホールで8月の終わりにフェスティバルがあり 昔の曲が2曲再演された 「オルフィカ」は80人のオーケストラを ちがう楽器の組み合わせで8つのグループにわけ 6つをステージの奥・中・前の左右に置き 残りを2階の左右に分ける 1969年に作曲してから50年以上経って コロナ後のオーケストラの空間にも聞こえる

1960年代は 反体制運動があった 近代とともにはじまった革命運動は 結局新しい権力を作ったが 普通教育の反面 平等は徴兵制度を作り 産業革命は工場労働を必要とする 福祉国家の実現は生活全体の監視をともなう 反体制運動の挫折の後に新自由主義が生まれ いまはそれが世界のあちこちで アメリカに従わない国家が制裁され 傭兵から戦争をしかけられる 理想をもとめれば原理主義になる 

三味線弾き語りと合奏のための『鳥も使いか』は1993年に作った 弾き語りの所々で 物語に必要な道具や情景が 合奏の曲になって聞こえる 指揮者はそのタイトルを告げ 合図の楽器を打って曲を停める 合奏する楽器は 左右に振り分け 太鼓は舞台裏から聞こえる この思いつきのもとになった九州の琵琶と合奏の「妙音十二楽」は 奏楽する僧侶の数が集まらず 昨年で800年の伝統が絶えた と後で読んだ

西洋近代のオーケストラは オスマン帝国の軍楽隊にまなんで 宮廷の娯楽やオペラの合間に演奏するようになり 100人以上の集団になったが 国歌と行進曲から離れるのはむつかしいようだ ディジタルの時代には 人数は必要ないだろう 歌ったり楽器を奏でたり踊る身体のたのしみは かんたんにはなくならないだろうし 電子音と映像で済ますのでは なめらかすぎて 手応えがない

練習を見ているうちに思いついた 強い音は 強い力では生まれない 力は音を押しつぶしてしまう 逆に 身体の力を抜いて 楽器がよく響く状態を作ってあげるのがよいようだ 弱い音は 注意を集めて 消えていく音が耐える前に介入して 火を掻き立てる そこに楽器を弾く人の個性が映る それは 楽器のあいだに距離をあけた空間で聞こえてくる 楽器を弾く人は 周りの音を聞きながら 自分の楽器の音を添えて 響く空間の色を変える そのわずかな変化が聞こえれば 次の音の出しかたが決まる それを 合奏するたのしみと言ってもよいだろうか

指揮者が音楽を作るのではなく そこにいて見ているだけで すべてがひとりでに立上り 動いていく 動かす中心ではなく 動きがそこに集まってくる それでも 傘の軸のような中心ではある

一つの中心の周りにさまざまなものを配置するかわりに 中心がなく すべてが周辺であるような状態(メキシコの社会運動家グスターボ・エステーバの『世界を周辺化する」)と何が起こるだろう

2人から20人ほどのグループなら それができるかもしれない 『鳥も使いか』の合奏は そのなかで似たやりかたをいくつか試している ただし 全体は一枚の紙の上に書かれている 小さな合奏 邦楽の三曲のかたちを借りた『瞬庵』(2001)は それに近かった

全体のない部分の集まり 多様な組み合わせ 質のちがいが浮き出ないように混ぜ合わせて おだやかに弱く持続する作用をする 漢方薬にも似ている 

2020年8月1日(土)

水牛だより

東に向いた窓のカーテンを通して入ってくる朝の太陽の光を感じたのはいったい何日ぶりのことでしょうか。東京ははっきりと今日から夏です。夏の太陽が出ていれば、薄い麻のシーツは洗濯して干すと、ほんの1時間くらいでパリッと乾きます。爽快です。

「水牛のように」を2020年8月1日号に更新しました。
毎月欠かさずのみなさんも久しぶりのみなさんも、そして、今月は休みます、と連絡をくださったみなさん、いつも水牛の締め切りを覚えてくださっていて、ありがとうございます。原稿の催促はしないとひとり心に決めたことがこんなに成功する(?)とは思っていませんでした。

久しぶりにお知らせを。
●『〈うた〉起源考』藤井貞和 青土社 2020年6月
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3430
本の背には「『ことば』の起源をめぐる壮大な旅へ」とあります。450ページを超える厚い本ですが、三十章もあるのでひとつひとつの章は案外短くて、おもしろく読んでしまいます。

●サントリーサマーフェスティバル ザ・プロデューサー・シリーズ 一柳 慧がひらく
2020 東京アヴァンギャルド宣言

室内楽 XXI-1
8/22(土)18:00開演(17:20開場)ブルーローズ(小ホール)
森 円花:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲「ヤーヌス」(2020)世界初演
カールハインツ・シュトックハウゼン:『クラング―1日の24時間』より 15時間目「オルヴォントン」バリトンと電子音楽のための(2007)日本初演
権代敦彦:『コズミック・セックス』6人の奏者のための(2008)
杉山洋一:五重奏曲「アフリカからの最後のインタビュー」(2013)

バリトン:松平 敬 エレクトロニクス:有馬純寿 フルート:高木綾子 打楽器:神田佳子 ハープ:篠﨑和子 ピアノ:黒田亜樹 ヴァイオリン:山根一仁 チェロ:上野通明 東京現音計画 サントリーホール室内楽アカデミー修了生によるアンサンブル 指揮:杉山洋一

オーケストラ スペース XXI-1
8/26(水) 19:00開演(18:20開場)大ホール
高橋悠治:『鳥も使いか』三絃弾き語りを含む合奏(1993)
山根明季子:『アーケード』オーケストラのための(2020)世界初演
山本和智:『ヴァーチャリティの平原』第2部
iii) 浮かびの二重螺旋木柱列2人のマリンビスト、ガムランアンサンブルとオーケストラのための(2018~19)**世界初演
高橋悠治:『オルフィカ』オーケストラのための(1969)

三絃:本條秀慈郎* マリンバ:西岡まり子/篠田浩美** ガムラングループ・ランバンサリ** 読売日本交響楽団 指揮:杉山洋一

オーケストラ スペース XXI-2

8/30(日)15:00開演(14:20開場)大ホール
川島素晴:管弦楽のためのスタディ「illuminance / juvenile」(2014/20)*世界初演
杉山洋一:『自画像』オーケストラのための(2020)世界初演
一柳 慧:交響曲第11番(2020)世界初演

指揮:鈴木優人/川島素晴* 東京フィルハーモニー交響楽団


最後はおなじみエドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち』から

8月1日 地にまします我らが母よ
今日、アンデスの村々では、母なる大地パチャママが盛大な祝宴を開く。
彼女の息子たちはこの果てしなく長い日に踊り、また歌う。そして彼らは母なる大地に、ご馳走であるトウモロコシの一片と、歓びに潤いを与える強い酒を一口差し出す。
彼らは最後に、大地を傷つけていること、搾取したり毒を撒いたりしていることに許しを乞う。地震や霜、旱魃や洪水その他の怒りで罰を与えぬように頭を下げてお祈りする。
これはアメリカ大陸で最も古い信仰である。
マヤのトホラバル族はチアパスで、以下のようにわたしたちの母に挨拶を送っている。

 あなたはわたしたちに豆を与えてくれる
 唐辛子とトルティーヤと一緒にして食べると
 とても美味しい

 あなたはわたしたちにトウモロコシと美味しいコーヒーを与えてくれる
 愛する母よ、
 わたしたちのことをお護りください。
 けしてあなたたちを売り渡したりしませんから。

母の居場所は天上ではない。地中奥深くに住み、そこでわたしたちを待っている。わたしたちに食べ物を与える大地は、いずれわたしたちを呑み込む大地である。

それではまた! 来月も無事に更新できますように(八巻美恵)

万華鏡物語(4)流転

長谷部千彩

 七月後半、私はとある撮影に立ち会い、都内をロケバスで移動する日々を過ごした。そのうち一日は、千葉県外房までの遠出となった。コロナウィルス感染症発生以降、外出を控えるよう努めていた私にとって八ヶ月ぶりの東京脱出であった。
 機材を抱えたスタッフとともに切り立つ崖をのぼり、海を眺めると、その日は曇天。空と海を分かつはずの一線は、ぼんやりとかすんでいた。去年ブエノス・アイレスで見た海とも、一昨年に見たドブロブニクの海とも違う、水の色はノルマンディーの海を思い起こさせた。マスクをずらし、潮の香りを嗅ぐと、私は急にフランスが恋しくなり、旅立つことの叶わぬこの事態をひどく恨めしく思った。いつになれば私たちは、気まぐれに列車に乗ったり、飛行機に乗ったりできるのだろう。

 撮影の最終日、次の移動までの待ち時間、数名でテーブルを囲んで休憩していると、それまで寡黙だった撮影アシスタントが、思い切ったように口を開いた。アートディレクターと私の仕事について聞きたいと言う。彼女は美大の四年生。就職活動をしなくてはならないのにまだ何もしていない、気が重い、と伏し目でつぶやいた。

 アートディレクターの丁寧なアドヴァイスを彼女とともに聞きながら、私は彼の話が長引くことを願っていた。そうすれば時間切れになり、この質問から逃げられる。
 アートディレクターは、大きな事務所で働くこと、小さな事務所で働くこと、それぞれのメリットやデメリットを説明したあと、「基礎は大事だよ」と付け加えた。フォトグラファーも「うん、基礎は大事」と言った。私は思わず口走ってしまった。
「どうしよう、私、基礎の勉強していない、私の年だともう基礎の勉強は間に合わない・・・」
 冗談ではなかった。私は文章を書いてお金をもらっているけれど、文章の書き方を学んだことがない。アートディレクターとフォトグラファー、若くして活躍しているふたりは、学ぶべきときに学んだからこその信頼を得ているのだろう。私がいまだにぱっとしないのは、そこをスキップしているからかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。

 余計な発言をしたために、アートディレクターの話に区切りがつき、矛先は私に向かった。
「私は就職活動をしたことがないし、私の話はたぶん何の参考にもならないよ?」
 そう答えたけれど、彼女がそれでも聞きたいと言うので、どういう経緯でいまの仕事に至ったか、私はかいつまんで話し始めた。しかし、いくら、端折って、と心がけても、話がずるずると伸びていく。アートディレクターのようにすっきりと整った話にならないのだ。あのときこういうきっかけがあって。あのときこういうひとと出会って。あのときこういう誘いがあって。話しながら、再確認させられる。私には目指すものもなく、積み重ねたものもなく、選択はいつも行き当たりばったりだった、と。

 就職活動をしなかったのは、深い考えがあってのことではない。私が採用されるわけがないと思っていたのだ。採用されるわけがないのに応募するなんて無駄。惨めな思いをするだけ。恋愛にしても仕事にしても、誰かひとりの代えがたい存在にはなれるかもしれないけれど、自分が大勢のひとの中から選び取ってもらえるような人間だとは、どうしても思えなかった。

 だけど、それだけだっただろうか。これから社会に出て行こうとしている女の子(私には二十二歳の彼女が女の子に見えた)との会話は、私が二十代の頃に胸に描いていたもうひとつのことを思い出させた。
 私はあの頃、“流転する人生”を送りたい、そう考えていた。先のことなんて決めずに、川に浮かぶ一枚の葉のように、右に左に流れていく。時には岩にぶつかり方向を変え、時には小枝の溜まりに留まり、時にはくるくるとその場で回る。どこに向かうのかわからないって楽しいな、そんな風に生きて行けたら、と夢想していた。
「心の中に縦軸を持っているひとが苦手」と言っていた時期もある。名声を博するとか、力を持つとか、裕福になるとか、得ることを目指し、登っていくイメージを持って生きるひとに、私は魅力を感じることができなかった。
 もしかしたら、そんな生き方には、私の与り知らぬ充足感が用意されているのかもしれない。得ることで、より自由になれるのかもしれない。でも、私の目には、そういったものよりも、風に引きずれられアスファルトを転がり駆けるイチョウの黄葉のほうが美しく映ったのである。

 彼女の母親ほどの年齢になった私が、いま振り返るならば、概ね願った通りの暮らしが送れたと思う。その結果、いつもというわけではないにせよ、そこそこ楽しく過ごしてきたとも思う。それで乗り切れたのは、人生の前半、日本の経済がいまほど停滞していなかったからかもしれない。2020年を生きる若いひとたちにとって、現実はもっと厳しいものかもしれない。
 私の話はたぶん何の参考にもならない。私が彼女に示せることは、「就職活動をしなくても、なんとか生きている大人がここにひとりいる」ということだけだ。だから、就職活動の末、良い結果が得られれば、彼女にとって私は無関係な存在で終わるだろう。ただ、もしも良い結果が得られなかったときは、私のことを思い出してくれるといいな、と思う。

 就職活動をしなくても、なんとか生きている大人がここにひとりいるよ。
 就職活動をしなくても、なんとか楽しく生きてきた大人がここにひとりいるよ。

トーキョー・アラート

北村周一

吐く息も吸う息さえもつつぬけのマスク貰ってよろこべますか?

質問は受けず応えずはぐらかす逃げゆくさきの私邸富ヶ谷

一行に終わるいちにちみずからの言葉もたねば籠るほかなし

ものいわぬ報道あいてにボウよみによむに任せし国家の大事

私見なれど髪の毛なべてふさふさなりプーチン以外の独裁者たち

「Stay」あれば「Go」すらもあるこれの世の泣く泣くイヌの振りするわれら

イケイケの声に押されて自粛からめざめしのちの五分余りのユメ

「GoTo」の声が高まるそのかげで官民一体選挙がちかい

夏の旅 行くも招くもうたかたの金が金よぶ「GoTo」地獄

賑々しき声はどこから二階から利権まみれの「GoTo」は行く

なにもかもが蒙昧にして出口なき自粛暮らしに雨止まずなり

わすれやすき都民がたくす一票の重さ軽さも七十五日

フリップを手にしてとくとこのわたし見よとばかりに示す公約

なにごとも他人事のようアナウンス口調にかたる明日の都政は

プーチンとコイケユリコとわが夫婦おない年なりこの世は記録

七いろに揺れる「虹橋」背景に以心伝心自衛のススメ

橋ひとつ深紅のいろにそめ上げてライトアップに手抜かりはなし

二度はないトーキョー・アラートさめざめと目立つところに咲くマンジュシャゲ

赤赤と炎える「虹橋」ありしことも褪めるにはやきトーキョー・アラート

猩猩緋かかるおいろに灯さるる都庁すなわちトーキョー・アラート

看板と地盤とカバン 金銭の出どこは同じひとつの財布

(ワイロ)その恐怖にひとり口噤むのみにはたらく思考停止は

賄賂にもいろいろあると知りながら謝罪即ち不起訴ご赦免

ほんとうのことが知りたい証したいマスクしてても声が震える

「疼き」のようなもの

越川道夫

つい少し前までドクダミが白い花をいっぱいに咲かせていたかと思うと、7月の半ばにはその花も終わり、茶色の花芯を残したまま濃い緑と紫色になった葉が斑になって地表に這いつくばっている。薊の花も終わりかけ、褐色の実が破れたところから綿毛が溢れ出している。林の中でオニユリとヤマユリが咲き乱れるのを楽しみにしていた。葛の花が咲き始めたという知らせがあって、少しだけ足を伸ばして河原に見に行ったのだが、まだ花は咲いてはいなかった。
 
今月は、瞬く間に過ぎていった。
コロナウイルスの影響下で、自分の仕事に何一つ指針が見出せないまま、それでも毎日川沿いを歩いて仕事場に通い、それでも申し訳程度にはある仕事をして少しばかりの収入を得、考えあぐねているばかりなのに気づけばもう深夜になっている。自分の中で何かが大きく変わり、これまでのようにはできないことは分かっても、何が変わったのかは分からない。分かっているのは、読むことができる本と、これまでは読めていたのに、この事態を経験してどうにも読むことのできない本ができてしまった、ということぐらいだろうか。
9年前の大きな震災の後もそうだった。仕事は止まってしまい、部屋の中で、「この本は読める」「この本は読めない」と一冊一冊選り分けていたのを思い出す。しかし、「これはもう読めないな」と判断した本も「いつかは読むことができるだろうか」というさもしい思いがあって、なかなか処分することができなかった。今もそれは部屋の隅に埃をかぶって堆く積まれたままになっている。
 
それだけではない。あの時は、「海」に向き合うことができなくなった。
海沿いの町に育ち、嬉しいにつけ悲しいにつけ海を眺めにいくような人人の中で育った。東海大地震と、津波と、やはり近くの海辺にある原発の脅威に脅かされ続け、ちょっとでも気を許せば死人がでるほどの荒い海にも関わらず、海は自分にとっていつも近しい存在だった。それが、あの震災以降、「海」にどんな顔をして会えばいいのか分からない。震災から4年後に初めて映画を監督した作品でも、初めての設定は海だったのだ。しかし、台本にはそう書いたものの、どう「海」にカメラを向けたらいいのかが分からない、分からないまま、舞台を「海」から「山間の湖」に変えたのだった。
やがて、「海」とは和解した、と感じている。きっかけは何のことはない。震災の二ヶ月前に生まれた息子は、何を知っているわけでもないのに赤ん坊の頃からずっと海を恐れていた。それが5歳になったある日、急に「海で遊んでみようかな」と言い出した。半信半疑で連れていくと、波打ち際に恐る恐る近づき、やがて「海」と対話でもしたか波と打ち解けたように遊び始めた。それを見ていて、なぜか「ああ、もう海を撮っていいのだ」と安堵するように思ったのだった。あの頃は、「子どもたち」と、それから「避難区域に取り残された動物たち」のことばかり考えていた。自分には「子どもと動植物以外撮るものがあるだろうか」とも考えていた。そして、その考えは今も変わってはいない。おそらく、どんなに人間の男女のことを映画で描いたとしても、私はきっと人間ではなく別の動物たちのことを描いているのだと思う。例えば、よく散歩で行く公園で出会う野良猫たちのこととか…。「あの野良猫たちを愛するように人間たちのことも見つめたい」と思っているのかもしれない。
 
緊急事態宣言からしばらくして、深夜仕事場から帰る途中、自分の胸の奥底に「疼き」のようなものがあることに気が付いた。それは何と言えばいいだろう。自分を「分解してしまいたい」ような、何かに自分が「解体されていく」ような、そんな「衝動」というか「疼き」のようなものが鳩尾の奥の方にある。あの震災の原発事故の渦中では感じたことがなかった「疼き」。これが、ウイルスの影響下だということなのだろうか。
 
夏にさしかかり植物たちはいっそう存在が強くなっていく。花は強く匂い、緑は獰猛だと感じるほど爆発的に盛り上がっている。人の手によって植えられた木や草花でさえも人間にとっての存在であることを拒絶して、樹は樹でしかなく、草は草でしかなく、私もまたその中で、生まれやがては朽ちていく生命の一つでしかない。
 
1925年スペイン風邪に罹患したヴァージニア・ウルフが、こんなことを書いていた。
 「空がいくら無関心でも、花たちがいくら取り澄ましていても、直立人たちの軍勢は勇ましい蟻ないし蜂よろしく、いざ戦闘へと進軍していく。ミセス・ジョーンズは予定どおりの列車に乗る。ミスター・スミスは車を修理する。(…)横臥(おうが)する者たちだけが、自然は自分が最後に勝つということを隠そうともしない、と知っている。」(「病気になるということ」片山亜紀・訳)

蛍が光る場所

イリナ・グリゴレ

蛍のいる場所は綺麗な場所だ。人のいる場所から少し離れていて、山の向こうにあって、夜にはとても暗くなる場所だ。津軽には岩木山という山がある。この山は神秘的だ。町からでも、どこからでも見える。

ここに住んでしばらく経つ。海に行ったり、山に行ったりして、いろんな生き物と風景を見てきたが、蛍を見るのは今年が初めてだ。きっと今の瞬間が私の心が一番きれいになって、過去、未来のこと一切考えずに「今」を一生懸命に生きようとしているタイミングだからかもしれない。

蛍はイカと同じ。キラキラしたものに騙されて寄ってくる。道路向かいの温泉宿の人から聞いた。ハザードランプを点滅させると、たくさんの蛍が出てきて思わず手に取ってしまった。そういえば子供の時も蛍の光る場所にいた。夏休みにいとこたち家族と一緒に山の方のティスマナという村に泊まった。私が10歳の時だった。古い修道院があった。夜になると山に囲まれているホテルの近くの沢にはたくさんの蛍が飛んでいた。

日常のいろんなことで心と身体が痛んでいた私にとって、初めての蛍を見た瞬間、手に取った瞬間はマジックだった。小さな生き物が私の手の上で歩きながら光る。私の身体全体が光っているように感じた。そのあまりの美しさに、癒しのような、恵みのようなオーラを感じた。きっとこういう自然治療法もあるに違いない。一週間ぐらい、毎晩蛍に会った。古い修道院の近くだったこともあって、あの場所は全体的に綺麗で、思い起こすと今住んでいる青森県の風景と雰囲気がよく似ている。

毎日、近くの川でいとこたちと野生のイワナを釣って食べ、半分以上私たちも山の生き物になっていた。10歳の女の子があんなに次々とイワナを釣るのも、人生に一度きりだと思う。命をいただく大事さを田舎育ちの私は知っていたし、お魚釣り女の子にしても上手といわれたことがあったが、イワナの動きとは他の川魚とちがってすごく激しくて、パワフルな踊りみたいで、毎日感動した。

ティスマナから帰る途中、またすごい出来事が起きた。オルテニア地方のトゥルグ・ジウにあるブランクーシの「無限柱」、「沈黙のテーブル」、「キスの門」という三つの岩石でできた巨大な彫刻を間近に見た。このとき、私はイメージを形にするということを初めて知った。
その瞬間は、私の人生に大きな影響を与えた。私にとっては息苦しい団地生活から解放された初めてのアート表現との出会いだった。圧倒的に違う世界に導かれて、私がこれから歩む道が現れた。蛍のイメージから無限の新しい世界に志す私の心が生まれ変わった気がする。とにかくインパクトがすごかった。

20歳になって出会った知り合いの人から突然に、私の容姿がブランクーシの名作Cumintenia Pamantului(大地の英知)によく似ていると言われて驚いた。きっと私が見た10歳の時の作品のイメージが自分の心に残って、すこし表面に出ていたに違いない。こんなにいいことを言われたのは人生で初めてだった。これ以上の褒め言葉は一生ないだろう。その人は天才的な脳外科医だったので、人の脳を読むのは得意だったのだろう。ブランクーシの作品から、私の日常が遠ざかっていたことは確かだが、実際の像、裸で座っている女性と表情が人の心と身体の内面のイメージを形にするとしたら、それは素晴らしいプロセスだ。きっと、だれにもこういう島みたいな場所が心の中にある。一瞬だけ、内面のことは表情か身体の使い方によって現れる。

子供の頃、蛍を見たシーンが蘇る。この年になっても自分の娘たちと蛍を見ることができてなんだか安心した。あの時の純粋な自分に戻れた気がした。蛍をまだ見ることができたということが、私の心の内面も綺麗なままなのだと勝手に受け止めた。

20代は自分の心を汚し、汚される場所にいた。その傷跡は消えないが、だんだん薄くなっていると蛍をみながら気づかされた。20代で「ラストタンゴ・イン・パリ」という映画のヒロインのふりをした自分がいた。たくさんの不思議な人に出会ったりしたが、私の内面にはブランクーシの作品のようにおとなしく座っている女の子しかいなかった。蛍が車のライトに騙されるように、自分もキラキラしている演技に騙されていた。知らないうちに、相手役も映画のように日常のなかで苦しんでいた。

30代の今の私の身体は、縄文土器の女性のように、産後のお腹がでて垂れている肉に太い脚。こうして私自身もブランクーシの「沈黙のテーブル」に近づいてきた気がする。


 

夏の方丈記

福島亮

ものすごく暑い。7月31日、現在の気温は39度である。朝は7時くらいになると日が照ってきて、ぐんぐん暑くなってくる。それでもフランスは湿気がないから不快ではない。が、この上昇する暑さがずっと続き、午後になると、西日が照りつけるこの小さな部屋はさながらピザ窯である。夜は9時くらいまで明るいから、この酷熱の時間が最も長い。今の住まいは、ベッドを置けばいっぱいになってしまうような部屋である。当然クーラーなど設置されているはずもなく、窓を開けてどうにかやり過ごす。が、ここにきて新たな刺客が登場した。蜂である。なんと、窓のシャッター格納スペースの内側に蜂が巣を作ったようなのだ。朝8時頃から連中は起きだし、暗くなるまで活動を続ける。刺されたことはないから、どれほど危険な種類なのかわからない。くわえて、巣を直接見ることができないので、連中の規模もよくわからない。暑い。だんだん頭がぼんやりしてくる。

ジョルジュ・デュアメルの本を読んでいたら、蜂の巣の話が書いてあった。子どもが蜂の巣を見つけたので、それを庭師に頼んで駆除してもらったそうだ。燻され、崩れ落ちてゆく蜂の巣を見ていると、人間の文明もこの蜂の巣のごときものではなかろうか、と思った、と、まあこんな感じの話だった。どこかで読んだことがあるような考察である。僕はというと、巣がどこにあるのかも分からず、手も足も出ないから、じっと耐えるより仕方ない。さすがに窓を閉め切っておくのは辛すぎるので、観音開きになる窓のうち、蜂の出入りがない方を開けている。連中を刺激することなく、できることならこの狭いスペースを分けあおうじゃないか、と開き直り、ぼんやりと観察していると、蜂は自分の巣へ一直線に戻り、またすぐ出て行く。なかなか働き者だ、と思った矢先、フラフラ部屋の中に入ってきた奴がいつまでもカーテンにしがみついていたりする。これはどう考えてもサボっているとしか思えない。どうも蜂も人間もサボる奴はサボるのだな、と我が身に重ねてみる。巣があると思われる場所のすぐ下には、力尽きた蜂の死骸がいくつか落ちている。だが、しばらくすると風が吹いて、その軽い体はどこかへいってしまった。

その風に誘われたのか。唐突に、最近読んだ方丈記を思い出す。ある人に勧められて堀田善衛の『方丈記私記』を読んだところ、それがあまりに面白く、それから急いで原文を読んだのだ。方丈記で描かれるのは、それはそれは克明な災殃の映像である。とりわけ、地震で崩れた土塀の下敷きになった子どもの話などは、できることなら想像したくない。長明の詳細な筆致を受けて、堀田は大火や地震に見舞われる京の都を空襲で焼かれた東京に重ねる。堀田の文章を読んだ後では、長明の文章を現代に重ねずに読むのは難しい。長明の書いた文章をパリの一室で読んでいると、この鎌倉時代の文章が、ふといつの時代のものなのか分からなくなることがあるのだ。もしや、ついさっき書かれた文章なのではないか。もっとも、私たちは戦乱の只中にいるのだ、などという全体主義じみた言葉の動員をしたいわけではない。唐突に帰ってきた言葉がやけに真新しく感じられるのは、ひとえにこの10年ほどの間に長明の時代とさして変わらぬ出来事が立て続けに起こったからに他ならない。細々とした生活のレベルでは、たしかに変化はあった。郵便局では入場制限をおこなっているし、消毒アルコールは店舗の入り口だけでなくバス停にも設置されている。それでも、リュクサンブール公園に行けば、人々は顔をあらわにして日光浴を楽しんでいるし、知り合いは先日バーベキュー・パーティーを自宅の庭でしたそうだ。いつかの時間がひょっこり戻ってきたのだろうか。それともいつかの時間の化粧をした忘却がふと忍び込んでいるのか。長明の答えはこうである。「すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。」

ぼんやりとした頭で、方丈記を思い返しながら窓辺の蜂を眺めていると、少しずつ、奴らの動きが大人しくなってきた。時折吹く風が涼しい。この部屋で、僕はあと何回夏を迎えるのだろうか。いつか忘れてしまう涼しさならば、今ここでできる限り味わっておこう。——まあ、その前に夕飯か。

コロナと育児(2)

西荻なな

◯月×日(生後152日)
きょうで生後5ヶ月。体重は8kgが目前だ。体重は平均より少し上、身長はほぼ平均値で順調な成長を見せている。首もしっかりすわり、両親の食事風景を興味深そうに眺めてみたり、唾液の量が増えてきたならば、そろそろ離乳食のタイミングがやってきた、ということになるらしい。往々にしてそれが生後5ヶ月から6ヶ月の頃。5ヶ月の時点でその条件を満たしていればはじめてみてもいい、ということで、どうも食欲旺盛で物足りなさを覚えている感じの様子をみながら、ちょうどぴったり5ヶ月の今日、離乳食をはじめてみた。まずは水とお米の量を10対1の加減で炊いた10倍粥を小さじ一杯から。重湯よりはもう少しもったりするくらいの粘度。小さじにすくってとんとんと下唇にサジの先で触れてみると、口を動かして能動的な姿勢を見せてくれた。初めてなのに上手にサジを口に入れる。口に入れた後も吐き出すこともなく、ごくんと飲み込んでくれた。これは順調に進めそうだ。

ところでこの4、5日間悩まされているのは、夜中の頻回授乳。なぜだか新生児の時並みにお腹が空いたと夜中に泣いて起こされる。2時間に1度くらいのペースだからこちらも寝ていられない。一度はこちらが起こさない限り起きないほどに睡眠時間がのびていたのに、時計の針を巻き戻したかのよう。なぜなのかわからず困り果てネットで検索してみると、ちょうど生後5ヶ月頃に授乳間隔が再び短くなってくる子どもがいるらしく、「睡眠退行」というらしい。平均的には1日5〜6回くらいにまで授乳回数が減り、授乳タイミングも毎日スケジュールが定まってきていて、母親はだいぶ楽に育児をできるようになっている、と育児アプリなどには書き込まれているが、我が子はというと昼間も授乳間隔が2時間空けばまだいいほうで、夜などは30分おきだったりする。身体的なきつさは500メートルくらいの中距離走を何本か連続でこなしているようで、これはほんとにしんどい。

離乳食を始めると徐々に頻回授乳も睡眠退行も解消されていく問題らしいけれど、お粥小さじ1レベルの今では、まだまだ先のことに思われてしまう。頻回授乳をすぐに解消するのは難しくとも、お昼寝の少なさをなんとかできないか。寝てくれれば間隔も自ずとあいてくるだろう、とベビーカーに乗せて頻繁にお散歩に出かけるようにすることにした。この晴れ間のない梅雨の合間をぬって。それにしてもいつしか力も強くなっていて、パシパシパシと手で叩かれたり、二の腕をぎゅうとつねられたり、足でどどんと蹴られたりする。指先の動きも器用になり、つかむ力も着実に強くなっている。タオルもビニール袋もティッシュもなんでもつかんでしまう。顔は柔和で優しげなのに、力の加減しないパワフルさに男の子であるなあ、と思うこと度々だ。あと成長といえば、お風呂上がりに突然、スイッチが入ったかのように一人おしゃべりを始めることが増えた。今日もひとしきりおしゃべりして、そのうち泣き出して、大泣きになり、授乳をしたらコテンと寝た。なぜかモーツァルトのメヌエットを口ずさむと、曲が終わる頃にウトウトし始めて入眠への助走となることが多いのだけど、夜の泣きにはとうとうきかず、授乳に流れてしまった。早く眠るのが上手になってほしい。すべては睡眠の質にあり、という気がしてならない。

◯月×日(生後158日)
昨晩は大泣きで大変であった。お風呂上がりに授乳をしてベッドに寝かせたのが19時30分。この時点ではご機嫌だった。しかし、お風呂上がりの運動タイムを終え、いつものように一人おしゃべりを始めると、おしゃべりの様相がだんだんとカオスをきわめていつのまにか収まりのつかない強い泣きに変わった。耳をつんざくような、空気が張り裂けそうな泣き声になり、お手上げ状態。授乳をしても、扇子であおいでも、トントンしても抱っこをしてもダメ。お昼寝のぐずりの時は抱っこ紐に入れてストンと寝てくれることが多いので、抱っこ紐を持ち出してみるが、眠りにおちてくれない。しまいにはひとしきり泣いたところでミルクを足してみて解決したが、そこまで1時間以上泣きっぱなしだった。これが夜泣きというものだろうか。でも、夜泣きの定義は、寝ていたところから急に泣いて起きることらしいので、ちょっと違う。眠れなくてぐずぐず、の寝ぐずりなのだろうか、泣きのパワーが強烈すぎるけれども。

それにしても眠る前に突然、あーうー、あーうー、としゃべり出す様は、何度聞いてもまるで地球外生命体との交信のように思われてしまう。きっと月から「きょうの地球の様子はどうだ、報告してくれ」「そろそろこっちに帰って来たらどうだ、七夕も近いし」とか言われて、「やだやだ、そろそろ地球にも慣れてきたんだから絶対嫌だ」と板挟みの辛さゆえの泣きなのではないか、と妄想が膨らんでしまう。脳の急速な発達で、昼間に浴びたたくさんの情報を処理しきれずに泣く、というのが夜泣きのメカニズムの有力説らしいけど、そうはいってもはっきりと解明されていないのだから、妄想が現実に近いことだってあるかもしれない。でもミルクを足したおかげなのか、6時間くらいその後は連続で寝てくれて助かった。実に久しぶりによく眠れた気がする。

◯月×日(生後163日)
今朝は家から徒歩3分の保育園見学へ子どもを連れて行ってきた。コロナ対策で保育園見学をしたくてもできない時期が続いたが、ようやく7月になって各保育園がちらほらと再開してくれるようになった。1日1組、もしくは2組の限定対応。マスクはマストだし、入り口で検温もするという。案内してくださった園長先生は朗らかな雰囲気の方で、お庭から園の中を案内してくださる。「今はコロナ対応でお休みしているんですけれどもね、毎年園庭ではこの大きな滑り台を使ってスライダーのように夏のプールを楽しむんです」「コロナ対応で今日は入っていただけないけれども、こちらが0歳と1歳児の保育室です」などなど。

途中、もう一人の保育士さんが加わって、園の説明をしてくださるというので、もうひと組のお母さんとともに椅子に腰掛け、スライドの説明を聞くことに。保育士さんとの間には透明の幕を挟む格好で。説明が進むにつれ、膝の上でご機嫌にしていた子どもがぐずり始めた。保育士さんの説明に、ぐずりの合いの手を入れてゆく。泣き止んでくれるといいなあと膝の上であやしていると、脇で説明を聞いていた園長先生が「よかったらちょっと預かりますよ」と受け取ってくださった。はじめてなのに落ち着くのか、とてもいい子にしてる。グズグズが次第に落ち着いたかと思うと、園長先生の腕に自分の手を絡ませた。和やかな空気が流れる。説明ももう終盤という頃、園長先生の腕に手を絡ませたまま、スヤスヤと寝息を立て始めた! それは幸せそうな実にいいシーンで、別れ際、なんとなく別れがたい気持ちに。園長先生も「色白のハンサムボーイですねえ。預けていってくださっても大丈夫ですよ(笑)」と目尻が下がっていた。家族以外の人に抱っこしてもらったことが思えばなかったものなあ、人見知りもせずに嬉しい気持ちになった。

◯月×日(生後167日)
離乳食はあいかわらず順調。いつもこんなに食べて大丈夫かしら、と心配になるほどの食欲で、一昨日からお粥と野菜に、タンパク質も加わった。きょうのメニューはかぼちゃのマッシュ、10倍粥、そして火を通した豆腐。いつも準備を始めると嗅覚が刺激されるのか、お腹が空いたと泣き始めてしまうので、こちらも気持ちが焦る。品目数が3になると、なかなか用意も大変だ。お粥と豆腐は濾さなくても大丈夫かな?と濾すのを怠ったら、やはり粒子が大きいのか、いつもより食べるのがスローに。ここは面倒でも丁寧に濾すべきなのかも。来週からは冷凍の裏ごし済の野菜にも頼ろうと思う。      

夕方はぐずぐずぐずぐず、夕食前にも大きな声で泣いていた。外の風がそよそよ入ってくるのが好きなので、家の通り沿いの窓を開け放っていたところ、お散歩で家の前に差しかかった3歳くらいの男の子が「赤ちゃんが泣いてる!」と言って通り過ぎて行った。そう、そうだよ! と、それを聞いて新鮮な気持ちに。妊娠前の私が同じように赤ちゃんの泣き声に反応することはなかったんじゃないかな。どこかの家の中から赤ちゃんの泣き声がしたとしても、その泣き声に彼のように耳がとまることはなかったような気がする。彼にとっては、赤ちゃんの存在が年齢的にも、そして存在的にも近しいのだな、と感じ入ってしまった。保育園見学に行ったときに、そういえば我が子は0.1歳児のお部屋前で興味深そうに中を眺めていたけれど、同い年くらいの子どもを見て何か思うところはあるのかな。どんなふうに赤ちゃんの存在が目に映るのかな、と時々とても気になる。

◯月×日(生後171日)
一昨日あたりから発語のパターンに複雑さが加わり、「ぱっ、ぱっ」と破裂音を出して遊ぶようになった。これはパパというワードを口にする日も近いか、と思うけれど、その日の夜中3時くらいに突然起きて、一人で5分ほどしゃべり続けたのには驚いた。喃語とはいえ語彙数がいつもよりもずっと多く、うんぬ、うんま、という言葉も聞こえたような気がする。朝になると、そのおしゃべりの記憶がすっかり遠のくので、その驚きを記憶に鮮明にとどめることができないのが残念でならないが、確かにおしゃべりだ。寝返り返りも完璧に習得したので、寝返り→寝返り返り→寝返り、と連続技を決めることも度々。気づくと「ワープしてる!」と叫んでしまう大移動をしているので目が離せない。でもまだ前進するのは難しいみたいで、それゆえに悔し泣きをしている場面に遭遇する。どうすればハイハイができるのかな? 何か成功体験が必要なのかもしれない。

◯月×日(生後176日)
子どもの動きがダイナミックになってきたので、それまで大人のベッドの上にちょこんと乗せていたベッドインベッドを取り払って、同じベッドの上で寝かせてみることにした。ベッドインベッドのちょっとした高さを乗り越えて大人のベッドにダイブしてきてしまうので、そのタイミングがいつやってくるのかわからないとちょっと危ないだろう、と止むを得ずの判断だったのだが、広い荒野に放たれた途端、ハッスルして目は爛々、さらに活動の幅が広がってしまった。ベッドの端から端まで、面を最大限に活用して、ごろんごろんごろん、止まることなく転がり続ける。一方向に転がるばかりか、途中で時計の針のように方向転換をすることも覚えた。寝返り返りも簡単にできる今、ひとりでに転がり続けるので、部屋の端っこにある新たに「壁」や「カーテン」を発見してその質感を確かめるのにも余念がない。カーテンを両腕で抱えて戯れたり、壁に爪を立ててカリカリとその音を楽しんでいたりする。

◯月×日(生後178日)
梅雨の開けない空の重たい毎日。おそらく低気圧にやられたのかな、と具合が悪そうに目覚めた夫が言う。身体が気だるいようで、言葉も少なくなんだかしんどそうだ。いつも一緒に連れて行く散歩もちょっとしんどいと私ひとりで行くことに。もりもりと食べるご飯も控えめでさすがに心配になる。夕方になり、さらに倦怠感が強いというので熱をはかると37度5分の微熱。まったく身に覚えがないけれど、もしやコロナか? と、いざと言う時に備えて夫には別の部屋で寝てもらうことにした。夫婦でコロナに感染しては、乳児の子育てをどうしたらいいだろう。乳児に感染しないとも限らない。コロナの症状について慌てて検索すると同時に、家の窓という窓を開け、トイレや風呂の拭き掃除を夜中から開始し、とれる対策をすべてとった。翌日には平熱に下がったものの、その翌日、恐れていた事態が。朝になり微熱、夜になると38度7分まで熱が上がった。これはもう、コロナに間違いないだろうと判断。祝日ゆえ保健所の電話がつながらないが、明日になっても下がらなければ保健所経由でPCR検査を頼もうと心に誓う。別室で起き上がれない夫に、家庭内ソーシャルディスタンスで食事と飲み物だけを渡し、子どもと別室でご飯を食べ、寝る。家事と育児だけで1日が終わり、いつにも増して隙間がなく、心理的にも辛い。すでに感染していたらどうしよう、と頭を離れずよく眠れない。翌朝、微熱に下がり、だるさも抜けたという言葉にほっとして、軽症のコロナだった可能性も拭えないが、日常生活へと再び戻っていった。

◯月×日(生後182日)
きょうは生後6ヶ月、ハーフバースデー。もう生まれて半年も経ったのか、と驚いてしまう。まだ出産したのが昨日のことのようでもある。体重は8300g。ムチムチしているだけでなくて、相変わらず軽やかに動き回る。こちらの体めがけて頭をドリルのように突進してきたり、寝た姿勢で両足をばたんばたんと振り下ろしたり、腕をコアラのようにつかんできたりする。エアコンのリモコンとかスマホとかティッシュ箱など、サイズが大きい直方体のものもつかむようになった。エアコン操作ボタンを押して暖房機能に設定を変えてしまったり、電気の明るさ調整ボタンを押して部屋を暗くしたりしている。成長を感じるところは他にもいろいろあるけれど、中でも「笑い」に成長ぶりと独自のセンスを感じる。こちらがモノを床に落としてキャハハ、お菓子の袋が破けなくてキャハハ、私の体操ポーズを見てキャハハ。オノマトペの音にキャハハ。他にもたくさんあるのだが、すぐ忘れてしまう。でもセンスがいいな、とその都度思うのは確か。疲れていても笑いに癒されることが多いのは幸せだ。着実に新しいステージに入っている。

数日前、家庭内コロナ感染の危機があった時には、はじめて母娘ふたりの生活を寝室ですることになり、はじめて私も敏さんをお風呂に入れ、ワンオペ育児の大変さを体感したけれど、裏を返せばいつも3人の生活が基本にあるということ。ありがたいかぎりだ。私もコロナにかかって入院生活するかもと思ったときには、入院の連想で不思議と出産の日々のことを思い返していた。ひとりベッドに横たわり、硬膜外麻酔をしてからまだ今日は生まれない、そして心拍が落ちはじめて足にマッサージ機器をとりつけ、口には酸素マスクを当て、しだいに装備が増えてゆくのは怖かった。思えば酸素マスクもつけていた。酸素濃度を指先ではかるオシレーターをつけたのも初めてだった。いまやすっかりパワフル元気な子どもが隣にいるけれど、緊急帝王切開でお腹を開けてみるまでは、本当に元気かどうかもわからなかった。

たまたま昨晩、高校の同級生チャットで生殖医療と出産をめぐる技術の進歩と倫理について話が盛り上がっていて(そのうち、医師が3人いる)、代理母出産をはじめとする出産にも話が及んだのだが、数々の出産立会経験のある小児科医の友人が、「出産はやっぱり大なり小なりリスクがあって、残念ながら悲しい顛末の出産に立ち会うことも何度もあった。母子ともに健康というのは本当に奇跡」と書いていて、本当にそう、奇跡なのだ、と反芻していた。このチャットのメンバーの一人は、1週間前にコロナの中、3人目の子どもを産んだ。立ち会い出産ができないことを残念がっていたし、入院直前には夫の発熱があり、夫婦二人でPCR検査を受けるというストレスフルな状況を経験したようだったが、何事もなく無事に生まれて本当に良かった。コロナの心配と隣り合わせの中で子どもを産むストレスは想像に難くない。こんな時だからこそ、命が生まれることもいっそう奇跡に感じられる。生後半年、これから胎児の時に私から授かった免疫が切れて、風邪をひきやすくなったり病気になったりしやすくなるみたいだけれど、どうか健康に育ってくれますように。

189 花かずにしも もとな

藤井貞和

へぐり(平群)のいらつめの秀歌を、
書き出してみます。 「麻都能波奈 花可受尓之毛
和我勢故我 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追」、
まつのはな、花かずにしも わがせこが、
おもへらなくに、もとな さきつつ――

あなたは万葉集から、この秀歌を、
書き出しました。 夕日があかあか。 もう、
なぜ、立ち止まるのだろう、
万葉は四五〇〇首をかかえている、
世界有数のアンソロジーなのですよ。

いちいち立ち止まってはいけません。 ざっと、
読み明かして、あるいは暮れゆけば、
ぱたっと閉じて、あなたの時間へ、
帰らなければなりません。 歌集から離れて――

いらつめの恋歌は、花かずでしかない、
むかしの少女の物語ですよ。 あなたは、
あなたの恋歌に、世界への恋に、
心を尽くさなければならない、もとな(わけもなく)


(巻十七、三九四二歌。折口は〈この松の花の譬喩は、当時の譬喩としては破天荒のものであったのだろう。佳作」〉とする(口訳万葉集)。新大系を引いておこう、〈松の花を詠むのは、万葉集ではこれのみ。晩春に咲く目立たない花ではあるが、前歌の「待つ」に続けて、「松の花咲く」とは待ち続けるばかりということの譬喩であろう。「花数」は、花として数え挙げられるほどの花の意。他に例のない表現。「思へらなくに」は、「思へり」から「なくに」に続く形。万葉集では唯一の例」〉とある。平群女郎の手になる、佳作を越える傑作である。)

梅雨プルトニー

璃葉

蒸し暑い日が思ったよりも長く続いている。もちろんだが、この季節は苦手だ。
空間がじっとりと重たく、体中に汗がにじむ。
風を通すために網戸にしてあるはずなのに、通り抜けずに停滞しているのはなぜだろう。横から横へと流れてはくれず、上からじんわりプレスされているような、降りかかって溜まって、この部屋全体を包み込んでしまっているのではないかと思うぐらい、重苦しい。
湿気のせいで、歩くたびに足の裏がぺたぺたと板間に張り付く。ふだんよりも倍遅い自分の動きの気配が部屋中に点々と残っているみたいだった。

この気候のおかげで食欲が失せている毎日だけれど、唯一食べたいと思えるのは酸っぱくて辛いものだ。
冷蔵庫に眠っている鶏ひき肉を生姜とニンニクで炒め、刻んだ玉ねぎ、ししとう、パクチーを加える。紹興酒、鶏ガラの素、ライムリーフやレモングラス、唐辛子なんかを適当に放り込み、ついでライムをたっぷり絞ればできあがり。これをレタスで包んで食べるのに最近はまっている。これを食べると大体元気がでるのだ。

食後のお酒をビールか焼酎ハイボールかで迷ったところ、この時期にぴったりのウイスキーがあることを思い出した。
オールド・プルトニー12年は、ストレートで飲むと塩っぽさとオイリーさが目立つけれど、ソーダで割ったとたんすっきりした味わいになって、とても飲みやすくなる。すっきりしているのに塩気も深みもちゃんとあって、ぱちぱち弾けるソーダも気持ちよく、こんなじとじとした日には最適なのだった。スコットランド最北端にあるプルトニー蒸留所の人たちにいつかお礼を言いたい。梅雨にぴったりのウイスキーなのです、と。

じゃわじゃわと鳴き続ける蝉の声と湿気に包まれながら、潮風のような味のプルトニーハイボールを楽しむ。こうして何とか低気圧とうだるような暑さをやり過ごしたい。

トラ・トラ・トラ

さとうまき

コロナ禍で、すっかり忘れてしまいそうだが、終戦75年の夏をまもなく迎えるのだ。なかなか、広島や、長崎に行くこともできないのだが、やっぱり戦争のことをしっかりと考えたいものだ。

僕は、清瀬に住んでいる。清瀬には、非核平和宣言都市という大きな看板があちこちにあるが、原爆ドームのような戦争に関する歴史的なものは見当たらない。結核療養所(現結核研究所)や、ハンセン氏病の療養所(正確には東村山市)や、その他大病院がいくつか連なっているために、病院の町として有名だ。清瀬で戦争を考えるのにはどうしたものか。

僕がなぜ清瀬に住んでいるかというと,オヤジが気象庁につとめていたので、気象衛星センターを設立する際に呼ばれたのである。当時中学3年生だった僕は、センター内の宿舎で暮らすことになった。

センターの前身は、気象通信所で米軍の大和田基地内にあったそうだ。もともとは日中戦争開戦時、アジア太平洋地域の無線受信および傍受目的の基地として建設された。第二次世界大戦中には、真珠湾攻撃の成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」を受信した。また、原爆投下に関する電信を傍受するのもこの通信所の役割であったという。

米軍基地となった通信所は、ベトナム戦争では重要な役割を果たしていた。僕が、清瀬に来たときはすでにベトナム戦争は終結して一年がたっていたけど。通信所の周りは不思議な空気が張り詰めていた。この地域は日本の中でも通信状態が極めていいらしいから、まさにいろいろな通信が飛び交っていたのだろう。

気象庁の土地があったので、私たち家族は、そこを借りて家庭菜園をやっていた。フェンスの向こう側には、米兵がいて不思議な感じがしたものだ。洋館風にこしらえた建物が廃墟になっていて僕はよく忍び込んで、いろいろな物語を想像してみるのが楽しかった。この建物は米兵相手の売春宿で、時には映画監督のように、「24時間の情事」のような作品に仕上げてみる。あるいは時には、つげ義春の漫画の世界のように。満月の夜になると、わくわくしてきてよく自転車で出かけて行った。

先日、92歳になる親父を車に乗せて久しぶりに出かけてみた。あれから40年以上も立っていた。米軍基地はまだあった。前は、道路が基地の入り口までつながっていたのだけど、今は通行止めになって、さびれている感じがしたが、地下には巨大な基地があるのかもしれない。もっと大きな宇宙戦争に絡むような計画がひそかに進められているのだろう。ここに来ると、本当にいろいろな妄想が湧き出てくる。

今から思えば、初めての国産の気象衛星を打ち上げるという国家の一大任務の傍らを担っていたオヤジは、大したものだと思う。その当時の僕は、国家のことなんか全然わからなかったからただのクソガキだった。

「畑耕したよね」オヤジと思い出話をした。オヤジは嬉しそうだった。なんだか、時空を超えて、宇宙にもつながったような気がした。そうそう、戦後75年の話をしようとしていたんだね。随分話がそれてしまったけど。また、大和田通信所に通信を傍受しに行ってくるよ。

アジアのごはん(103)インドの新型コロナとベチバー

森下ヒバリ

長い梅雨がやっと明けた。久しぶりの青い空だ。シーツを洗って、カバーも洗ってとウキウキだ。しかし、今日からもう8月である。梅雨が明けるように新型コロナ感染症の流行も終わってくれればいいのに。

外国はおろか、国内の移動さえままならないとは、だれがこんな事態を自分のこととして考えていただろうか。感染症のパンデミックはずっといつか起こる、起こると予測されていたのに、人間というのは本当におろかなんだな。もちろん自分も含めて。

ワタクシの場合は連れと1月末からマレーシアを経由して南インドを訪ねていた。クアラルンプールを発つとき武漢閉鎖を知ったが、サーズの時のように地域的なものだろうとタカをくくっていた。インド東海岸のチェンナイ空港も誰一人としてマスクをしていなかった。

マドゥライを経てインド西海岸のケララ州にたどり着いたとき、インドで初めて感染者が出た。しかもケララ州アレッピー。これから行くところである。聞くと、武漢で看護学校に留学していた学生が帰国し、3人が陽性となったとのこと。そのまま入院隔離されているとのことで、アレッピーに行っても問題はなさそうだった。

お気楽に南インドを堪能し、2月の後半になってから日本のダイアモンド・プリンセス号の感染が報道されるようになって、食堂などでテレビニュースが流れていると、ちょっと肩身が狭くなってきた。その頃南インドに来た友人は「コロナ、コロナ」とさかんに揶揄されたとのことだが、ヒバリはたった一度小学生に言われただけである。

インドは、西欧と同じく、マスクは病気の人がするものなので、砂ぼこりを避けるためにマスクをしようとする連れを「お願いだからやめて」と真剣に押しとどめるようになったのもこの頃である。フランス人などの観光客も多かった。アジア人を見る目つきがいやそうな白人旅行者も現れるようになった。

2月末に予定通りタイに移動するか、日本に戻るかインドで考えた。しかし、タイは日本より感染者数も格段に少なく、死者も2人ぐらいでむしろ日本より安全ではないか。バンコクに予定通り飛ぶことにして、コーチン空港に行くとさすがに検疫官や出入国管理官たちはマスクをしていた。街中でマスク姿を見たのは、明らかに風邪をひいていたリキシャのお兄ちゃんたった一人であったが。

そして、インドを出発した3日後、インド政府は3人の感染者が5人に増えた時点で、インドビザの無効を発表する。新規の外国からの入国をお断りするという措置である。さすが、強権国家やることが大胆な、と思っていたが、その後のインドの感染状況はすさまじく、現在は感染者累計163万8000人、死者3万5747人になっている。

2月末のタイは、中国からの観光客が日本よりもさらに多いお国柄のため、日本よりもはやく流行が始まったが、あまり感染は広がらなかった。しかし、外出にはマスクが必須となり、人混みにはあまり出て行かないように気をつけた。空港や飛行機、バスなどが危険と思われたので、どこにも行かず、バンコク引きこもり生活。

3月半ばを過ぎると、帰りの飛行機のキャンセルが何度も出て右往左往した。けっきょくエアアジアは16日で国際便をすべて止めた。なんとか別会社の便を取って3月21日に関西に戻ってきたが、成田行きは21日でもう終了、関西行も2日後に一便飛ぶだけで終了という、けっこうギリギリな帰国であった。そして、22日からバンコクはロックダウンされたのであった。

コロナ禍を縫うような旅であったが、まだインドに居るときはあまり気にせず旅を続けられたのは幸いだった。ケララ州のフォートコーチンにゆるゆると滞在していたが、最後の日の散歩ではじめてオーガニックショップを見つけることができた。同じときにフォートコーチンに滞在していた友達が、自分の宿の近所にそれらしきものがあった、と教えてくれたのである。

大きな道路から海の方に入った路地の奥に、ちょっと外国人旅行者向けのこじゃれた食堂と、オーガニック食品・雑貨の店があり、店にはケララの伝統発酵食の塩辛、カツオのふりかけもあった。味見したら、日本のカツオのふりかけそのもの。そして、精油のコーナーがあったので、そうだインドはベチバーの原産国ではないかと思い出し、訊ねると、あるよあるよとベチバーの精油を出してきてくれた。

ベチバーはVetiverとつづり、イネ科の多年草である。まだ実物は見たことはないけど、レモングラスやすすきに似た葉っぱを持つ。根っこが精油成分をもちインドでは古くから虫除けや香料として使われてきた。

そう、ベチバーは実はダニ除けに素晴らしく効果があるのである。昨年から京都の家にダニが出現し、かゆくてたまらなかったので、ダニ取りシートを盛んに使っていたが効果はあまり感じられない。悩みの種だったところ、ふとベチバーオイルがゴキ退治によいという話をネットで見つけ、読んでいるとダニ除けにも効くという。

なに!さっそくベチバーオイルをネットで購入し、アルコールで希釈液を作り、そのベチバースプレーを足にシュッ。すると、足のかゆみがするすると消えた。すばらしいぞ!そして、いつも使っている床掃除のアルカリ電解水シートにスプレーし、毎日床掃除をすることにした。

その効果のほどは、手足にスプレーすると即効で効くものの、家全体のダニを退治するにはなかなか時間がかかった。けれども、1年後のいま、確実に半減以下。そして、意図してなかったけど、ゴキちゃんもいなくなった〜。というわけで、わが家では今ベチバーオイルは欠かせないのである。

ベチバースプレーを作る場合、エタノールの濃度がコロナウイルスに効くほど高くなくてよい。むしろ、肌が荒れるので濃度は低くていい。濃いのは水で薄めて下さい。エタノールは、ベチバーオイルを薄めるために必須。消毒用の高濃度のエタノールは品薄で高いが、濃度の低いのは出回っているので、それを使えば水で薄めなくても。ただ、イソプロピルアルコールIPAは人体にめっちゃ悪いので、使わないでね。

 浄化した水またはミネラルウオーター100ml
 消毒用エタノール10〜20ml (濃度の低いアルコールは量を増やす)
 ベチバー精油10滴
 
これらをガラス瓶か、アルコール耐性のプラスチックスプレーボトルに入れ、よく振って混ぜる。白く濁っても問題なし。

気になる匂いですがじつはヒバリはこのベチバーの匂いが大好き。大地を感じさせる、ほのかに甘く、スモーキーな香り。多くの香水のベースメントに使われるというが、香水臭くはないのでだいじょうぶ。

虫除けとして、精油や煮出し汁を使うだけでなく、根っこをぶらさげておいたりもするらしい。ケララのフォートコーチンのミニスーパーで細い植物の茎みたいなもので編んだタワシ状のものを売っており、エコなタワシかと思っていたら、それがベチバーの根っこの虫除け&香りボールだった。次に行ったらそれを買おう、と楽しみにしていたのに、いったいいつ行けるのだろう‥。

カブト虫を捕りに行く。

植松眞人

 車の運転はおじさんで、助手席にはおじさんの息子で、僕よりもひとつ年下の従兄弟が乗っていた。「嫌というほどカブト虫が捕れるぞ」というおじさんの言葉を信じて二時間ほど獣道のような場所をうろうろと探したので、僕たちはすっかり疲れて黙り込んでいた。従兄弟は自分の父親の言葉が嘘だったことで、僕たちよりもさらにショックを受けていて、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
 僕はいつも酒ばかり飲んで飲み過ぎると、まだ小学生の僕らにも絡んでくるおじさんがもともと嫌いだった。それなのにカブト虫につられてしまったことに、自分自身に腹が立っていた。従兄弟のこうちゃんは、たぶん僕がおじさんをあまり好きじゃないということを知っていた。だから余計に、カブト虫が捕れなかったことに、混乱していたのだろう。
「こうすけ、そんな顔するな。しゃあないやないか、カブト虫かていろいろあるんや」
 おじさんは照れくさそうな表情でそう言ったが、こうちゃんの気持ちは収まらない。
「うそつき」
 こうちゃんは小さな、でも強い口調でそう呟いた。おじさんは間髪入れずにこうちゃんのほっぺたを張った。パシッという高い音がして、こうちゃんが泣き出した。よほど悔しかったのだろう。こうちゃんの泣き声はいつまでも収まらなかった。僕と弟はこうちゃんがビンタされたことに驚き、泣き続けるこうちゃんを固唾を呑んで見守った。こうちゃんは泣き続けると決めたようで、泣き止んだかと思うと無理矢理のように鼻をすすり、また泣き始める。僕と弟も気持ちとしては、こうちゃんと同じようにおじさんを嘘つきだと思っていたのだが、正直すでにこの状況に疲れていた。そんな様子を察してか、おじさんが僕に話しかけてきた。
「カブト虫おらんかったなあ。帰りにアイスクリームでも買うたるからな。機嫌直しや」
「うん、わかった」
 僕はそう答えたが、こうちゃんはあからさまに僕をにらんでいる。すると、おじさんは自分の息子であるこうちゃんに笑いかけた。
「もう泣くな。お前にはわからんかもしれんけどな。人生にはこんな日があるんや。いつでもうまいこといくような人生、逆にろくな事ないぞ」
 おじさんはそう言うと、力なく笑って、その後、家に帰り着くまで一言も話さなかった。こうちゃんは泣き疲れて眠っていた。

ジャワ舞踊作品のバージョン(8)「クスモ・アジ」

冨岡三智

「クスモ・アジ」は現在は踊られていない曲だが、結婚式で男女のカップルで踊る舞踊として、私の舞踊の師のジョコ女史が振り付けた。実は、録音しようと思って作品を習ったのだが、結局録音は果たせないまま今に至っている。このステイホームの折柄、古い記録類を整理していたら、昔のコンパクトフラッシュからその舞踊に関するメモが見つかった。というわけで、今回は「クスモ・アジ」を紹介したい。

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その前にまず、男女の舞踊というジャンルについて。ジャワ舞踊(スラカルタ様式)には男女のカップルが愛を交わし合う様を描く舞踊作品がいくつもある。それらは初めから結婚披露宴で上演されるものとして作られた。その嚆矢は1970年にマリディ氏が振り付けた「カロンセ」で、スハルト元大統領夫人(故)が親族の結婚式のために依頼したものである。この舞踊ではパンジ物語(ジャワ発祥の大ロマン)用の衣装を身に着ける。つまり男女の踊り手はパンジ王子とスカルタジ姫(パンジ王子の許嫁)という設定なのだ。マリディ氏は他に、「エンダー」(1971年)や「ランバンセ」(1973年)も振り付けている。また、1980年にはスラカルタの芸大教員たちが「ドリアスモロ」という作品を振り付けている。「カロンセ」以外はキャラクターの衣装ではなく、婚礼衣装を模した姿で踊るのが普通である。

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さて、本題。「クスモ・アジ」は、スラカルタ王家のジョヨクスモ王子(パク・ブウォノX世の王子)が1978年に娘の結婚式のためにジョコ女史に委嘱した作品である。王子の希望で、天から降りてきたコモジョヨとコモラティの神(ワヤンに登場する、愛を司る夫婦の神)が花嫁・花婿に祝福を与えるという内容だ。そのため、他の舞踊作品は儀礼が終わって宴たけなわの時に上演されるが、「クスモ・アジ」は儀礼の初めに上演される。ちなみに、上の「ランバンセ」という作品でも踊り手はこの夫婦神という設定なのだが、他作品のように男女が愛を交わし合うという内容で、「クスモ・アジ」とは似て非なる。

「クスモ・アジ」の振付は上述したような作品とは違い、ずっと淡々としている。ガムラン曲はラドラン~ラドラン~クタワン~アヤ・アヤアン形式の曲をつなぐとはいえ、宮廷舞踊のスリンピやブドヨのように、ずっと一定のテンポで進行する。そして、他作品のように男女がくっついたり離れたり、気分が高揚したり悲しみを感じたりはしない。あくまでも神の舞いなのである。遠くに花嫁・花婿を認めて降臨した夫婦神は、女神が男神の周囲を衛星のように廻りながら一周する。ここの動きは「スリンピ・スカルセ」から取られている。その後、夫婦神は揃って花嫁・花婿の前に進み、髪に花を挿してやる。題名の「クスモ・アジ」は「祝福された花」を意味するが、この所作から名付けられたように感じる。そして、2人の周りを廻って祝福を授け、見守りつつ去ってゆく。こう書くだけでも動きやフォーメーションのシンプルさが分かると言うものだが、ドラマチックな盛り上がりに欠けるので、他作品のようにイベント上演には向かない。あくまでも結婚儀礼と一体化してこそ成り立つような舞踊である。

家族

笠井瑞丈

『世界の終りに四つの矢を放つ』

この企画は今年の一月頃
セッションハウスオーナー伊藤直子さんと
オリンピックの頃なにか企画をやろうと
打ち合わせしたのが始まりです
その頃はこのような状況になっているとは
想像もしてませんでした
そして今現在ははコロナ問題でとても
大変な世の中に変わってしまいました
多くの公演が中止になり
多くの劇場が閉鎖されました
しかし大きな困難にぶつかった時
それを克服するチカラを我々は持っています
そのチカラこそ踊りを作るチカラであり
作品を生み出すチカラです

今回の出演者は
全員『笠井』
父 


兄嫁

六人です

各自分担して各々のパートを作り
それをパズルのように並べ
作品を作り上げる形をとりました

その中で兄禮示氏には
ベートベンのテンペストを
オイリュトミー作品で作ってくれと
一つお願いしました
そしてその作品を二人で踊ろうと

5月頭から少しづつ
フォルムを覚え
音階を解析する

良く喧嘩もするが
やはり他人ではない

そこは大きい

そして今回は朗唱で母にも出演してもらうことにした
母が書いているブログから二つの文章を読んでもらう

母の言葉には
ユーモアがあり
ふっとした
優しさがある

小さいカラダから生まれる言葉
何よりも大きなチカラを感じた

そんな優しさに包まれて

今は困難な時だ
しかし
困難な時こそ
新しい
何かを生み出す
チャンスだと思っています

そんな「困難」に4本の矢を放つ

アキハバラ少年(晩年通信 その13)

室謙二

 少年は秋葉原が大好きだった。
 ラジオ少年、模型少年だったのである。
 家が「国電」飯田橋駅の近くだったので、三つ目の秋葉原にたびたび出かけていった。行き始めたのは小学校の高学年ぐらいだろうから一九五〇年代後半で(昭和三十年代のはじめ)で、いまのように電化製品を売る高いビルは建っていない。
 三種の神器と言われた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が売れ始めたころで、東京通信工業(後のソニー)が、トランジスタラジオを発売したのが、昭和三十年(一九五五年)であった。もっとも私は、そういう家電を見に秋葉原に行ったわけではなかった。

秋葉原は学校であった

 秋葉原のガード下に、小さな店がごちゃごちゃと集まっている。人がやっと通り過ぎることができる通りがそこに三本あって、その左右に、人が一人で店番をする部品屋がならんでいる。そこを歩きながら、部品を見たり手にとったりする。いろんな種類のコンデンサーと抵抗が、小さな仕切りにびっしり入っている店がある。大小のトランスが置かれていたり、電線だけを売っている店もある。シャシーだけを売っている店もあって、図面を持っていけばシャシー加工してくれる。フルレインジとか、高域専門、低域専門のスピーカーを売っている店もあった。
 お金をためて部品を買って、ラジオ雑誌の説明どおりに作った。再生検波の低周波一段増幅のラジオ(並四ラジオ)とか、これは発信ギリギリまで感度を上げて聞くので、ちょっとダイアルをずらすとピーピーという。そのあと、検波の前に増幅する高周波一段を、小さなシャーシーに部品を取り付け、回路図を見ながら配線をした。これで感度が高くなる。
 秋葉原は学校であった。歩き回ったり、立ち止まったりして学ぶのである。もっとも店の前をずっと占領したり、売っている部品にいろいろと触ると怒られる。たびたびくる大人は、店番をしている人間とながなが話している。みんな男だったね。女性の世界ではなかった。ガールフレンドを連れて行くと、退屈して、何が面白いのかと不思議がられた。買うわけではなく部品を見ながら歩き回るのだが、くるたびに置かれている部品が変わっていることもない。だけど何か発見がある。あれ、こんなものがあったのか。

ガード下の闇市

 ガード下の小さな店は今でもある。だけどあの当時とは違う。店の数は減っているし、あの頃はもっと雑多であり、いまはキレイキレイである。戦後の秋葉原は闇市であった。それを教えてくれたのは、本多商会の本多(弘男)さんだった。秋葉原の歴史を読めば、そんなことは書いてある。だけど本多さんは具体的に、ムロさん、あの大きなビルの店なんか、日本軍のとか占領軍(米軍)からの横流し品を闇市で売って大きくなったのだよ、つまり違法の取引だったのだね。
 闇市というのは、物価を統制する体制のときに、それに従わないで「非合法」に設けられた市場(マーケット)である。
 食べ物で言えば、敗戦直後の日本では、政府の配給制度によって食料品が配られるはずであった。しかし食料が極度に不足していたため配給は遅れて、都会の人々にはなかなか手に入らない。しかし配給以外で食料を手に入れるのは違法行為である。だがその違法行為をしないかぎり、人々は生きていけない。餓死者が出る。
 法律を守り配給のみで生活をした(多分抗議活動だが)ある裁判官は、餓死した。それで都会の人々は、戦前から持つ価値のあるものを売って、闇市で食べ物を買ったり、汽車に乗り農村に買い出しに行った。もちろんそれらは非合法である。だが合法では生きていけないのだ。
 そうやって私の両親は戦前からもっていた中産階級の宝石類とか着物を持って農村に出かけて、食べ物をと物々交換をしたのである。ところが農村に出かけて手に入れた食料品は食料管理制度違反なので、電車のなかで係官に没収されたりする。母親はそうことについて怒りをこめて、なんども話してくれた。
 生活必需品も圧倒的に不足で、日本軍とか米軍からの放出品、横流し品が闇市に出回る。その闇市が戦後秋葉原の出発だった。本多さんは、秋葉原をいっしょに歩きながら、ほらムロさん、あの大きなビルなんか非合法の闇市で大儲けをした口だよ、と笑いながら話してくれた。

アメリカと通信しているのだから静かにしてくれ

 本多さんはラジオデパートの地下に「本多通商」という店をやっていて、「マイコン」関連のものを売っていた。The SourceとかCompuServeというアメリカのパソコン通信サービスの代理店にもなっていた。私はそこでThe Sourceのアカウントを手に入れて、電話線経由の音響カプラー(これも本多商会で買った)でアメリカのパソコン通信にアクセスしていた。
 そのころ一緒に仕事を始めたMITメディアラボのニコラス・ネグロポンティに言ったら、それではとMITのアカウントをくれた。それで日本から電話線経由の音響カプラーでメディアラボにアクセスする。息子の大輔がまだ三歳とか四歳で、階段を音を立てて二階に登ってくる。「大輔、お父さんはアメリカと通信しているんだよ。静かにしてくれ」と言う。音響カプラーは、ピーヒョロヒョロと実際の音を普通の電話機に送り込んで通信するから、うるさいと外の雑音も拾ってエラーを出すのだ。
 もっともすぐあとに、電話線に直接につなぐモデムを、アメリカに行ったときに買った。あのときは電話線につなぐモデムは、電電公社の許可が必要だったのではないかな。私は無許可で使ったが。
 ネグロポンティとか、同じくMITのシーモア・パパート(人工知能と子供コンピュータ教育の専門家)をつれて本多商会にも行った。本多さんは、私たち三人に秋葉原のいろんなところを見せてくれた。あれは何だったか、どこかの屋上で人工衛星と交信するデモも見せてくれた。それでネグロポンティもパパートさんも、ケンジは秋葉原のいろんな人を知っている「専門家」であると誤解して、本多さんは、ムロさんはMITの偉い人たちと付き合いのある「偉い人」だと誤解した。

がっかりするなあ

 当時は、マイコンが始まったばかりの時代だった。
 それから日本は、高度成長の時代に入る。秋葉原も変わる。ガード下の店はあるものの、家電を売るビルが建ち、前に書いたけど三種の神器の時代である。中心はガード下から、高いビルに移ったのである。闇市から始まった秋葉原は、こうやって時代時代にその電気製品とともに変わっていく。こんな電気街は、世界に類を見ない。バンコックに、小さな規模の電気街があったが。
 アメリカに住むようになって、秋葉原を探したけど、バークレーには秋葉原的な電気部品を売っている店があったが潰れてしまった。みんなオンラインで部品を買うようになったから。それとFly’s があってクルマで四〇分でいける。これは家電から電子部品まで売る大きな店で、アメリカのアキハバラである。シリコンバレーにあって、コンピュータ関連で働く人間がよく来ていた。でも日本に帰ると、まずは神田の本屋街と秋葉原に行く。本屋街から秋葉原までは歩いていき、途中で「藪」とか「まつや」でそばを食べる。
 Fly’sと秋葉原はぜんぜん違う。かたや資本主義パソコン企業の店であり、かたや「戦後歴史的ニッポン文化」である。パパートさんとかネグロポンティを連れていくと、アメリカにはないこの街に感激していた。
 でもあの秋葉原は、どんどんなくなっていく。
 がっかりするなあ。
 本多さんも、亡くなってしまったし。

西瓜の日々 (My Watermelon Days)

管啓次郎

西瓜の建築の中に住めることがわかって
それは西瓜そのものなのだった。
装飾も家具もない。
むずかしいのはどうやって中に入るかで
表面に穴をあけると果汁がこぼれてしまう。
どうやって入ろうか、どうやって入ろうか
いろいろ考え、試みていると、それが起きる。
突然、中にいて、西瓜のジュースが
きみを世界から守っている。
生気にあふれ、甘く、赤く、力をくれる水だ。
西瓜の中ではハッピーバースデイを
歌うのが習慣になる。
Happy birthday, happy birthday
何度でも歌うたびごとにその歌は
亡くした誰かを悼む歌になる。
過ぎたものを。
西瓜の中ではいろいろなことを思い出す。
それは糖を加えられてもいないのに
甘いジュースのせいだ。
西瓜の果汁は動物と植物がひとつだった頃の
血液の名残。
西瓜の中ではきみの声はエコーし
自分が本当よりもずっと歌がうまいと思うのだが
誰も意地悪なことはいわない。
きみの歌のせいで西瓜が振動をはじめる。
すると他の西瓜たちも振動をはじめる。
これはすごくおもしろくてきみはZorbを
思い出すが、それはもしも軌道を逸れて
転がりはじめると非常に危険なのだった。
でも西瓜はきみをとことん
守ってくれるから心配しないで。
生涯の残りをずっと
西瓜の中で暮らすことになるかもしれないし。
「暗い山小屋に住むきみよ
きみにとって西瓜はいつも紫だ
きみの庭は風と月だ」
(ウォレス・スティーヴンズ)
「西瓜畑とそれを横切って流れる川が見える。
松の森にも西瓜畑にもたくさん橋がある」
(リチャード・ブローティガン)
こんなことをぼくは西瓜の中で
西瓜を使って、西瓜のために書いている。
これはなんと想像もできないくらい
さびしいことだろう。
それはトリエステ (Trieste)における
トリステッサ(Tristessa) くらい
さびしい (triste)
そんなぼくの西瓜の日々は
はじまったばかりです。
西瓜で乾杯しよう。
生命のために。

しもた屋之噺(223)

杉山洋一

7月に入って自主待機が終わったら、富山にいる家族に会いに出かけるつもりでしたが、東京の感染状況が突出しているので、相変わらず一人静かに東京で仕事に勤しんでいるうち、気が付けば一ケ月が過ぎてしまいました。落着いたら頃合いをみて、などと悠長に構えているうちに、愈々状況は悪化して、先ほどの都知事の臨時会見では、都独自の緊急事態宣言さえ視野に入っていると発表しています。


 
7月某日 三軒茶屋自宅
日本の新聞を読んでいると、学校内のcovid感染が思いの外多い。イタリアでは、未だに学校を再開させないのが大問題となっていて、第二波を鑑みれば適切な判断だったのかもしれないし、第二波前に全く授業を再開できなかったと、先々後悔するかもしれない。
9月半ばの試験もZoomを使用が通知され、指揮レッスンのみ教室で行うことが許された。生徒を集めたテクニックの集団レッスンも暫く出来ない。広い校庭のどこか木陰に集って、少し散らばりながらやるのは可能だろうか。東京の新感染者数67人。イタリア新感染者数182人、死者21人。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
水揚げされたばかりのメバルとカマス、メギス、アジ、カワハギなどの一夜干しセットが富山の家人より届く。さっそくカマスを焼くと、新鮮な上薄塩だったのですっかり気に入り、立て続けに二枚平らげる。干物と言えば、幼少より食べなれた、アジとカマスに勝るものなし。今夏は寿司屋を訪れる機会もないだろう。好物のサヨリは、もう何年も口にしていない。
 
来月東京で予定している演奏会を、粛々と準備する。今回関わる二つのオーケストラは、少しずつソーシャルディスタンスの内規も違うけれど、現在のCovid影響下で、安全策を講じながら理想の演奏会実現を目指す関係者の姿は変わらない。
オーケストラのみならず、マネージメントやホール、楽譜制作の関係者がそれぞれの立場から、演奏会実現という枠を超えて、今後の我々自身の将来を見据えて、誠実に意見を交わす。
もちろん、作曲者の希望や意見、作品の意図を作曲者から直接聞くのは、現在の極力制限された条件下に於いては、絶対的な意味をもつ。
 
 演奏会実現に向ける情熱はもちろんのこと、今後の展望を切り拓く使命を、それぞれ一身に引受けているのを感じる。医療従事者でも、エッセンシャルワーカーでもない我々に出来ることは、今まで無意識化にあった文化を、実体化させて共有し、再生に向け真摯に力を収斂させるのみ。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
自主待機終了。朝五時半、世田谷観音まで歩く。低い太鼓の音が通りまで漏れ聞こえ、読経が終わるところだった。石段を昇ったところの、楓の美しい深緑の葉は、なめらかな面を形作りながらせり出していて、クセナキスのスコアの美しい折れ線グラフを思う。密集した楓の葉は、薄い雨水をすっかり蓄え、重みで垂れかけているものもある。
楓の葉がポリトープに似ているのではなく、クセナキスが自然を手本に音楽を創造したのだろう。読経を終えたジャージ姿の僧侶と、通りすがり軽く会釈する。
すっかり身体が鈍っている。最低限の体力を回復しなければ、マスクをつけて指揮など出来ない。モリコーネが亡くなり、ミッシャ・マイスキーとベアトリーチェ・ラーナがスカラ座で追悼演奏。ドナトーニに限らず、周りの作曲の誰と話しても、エンニオ程素晴らしい音楽は書けないと絶賛していた。ずっと昔、彼の小さな新作をピエモンテの田舎で録音したことがあって、モリコーネも録音に立ち会うはずだったが、体調を崩して来られなくなった。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
高円寺まで自転車を漕いで、山本君作品の独奏者リハーサルに出かける。マスクをつけ指揮すると、すぐに苦しくなる。自主待機明けで体力が落ちているからだろうか。
自分で弾く拙いピアノの音以外、楽音そのものを長く聴いていなかったので、西岡さんと篠田さんのマリンバの音に、深く心を動かされる。そうしているうち、少しずつ指揮する感覚が蘇ってくる。以前に戻る感覚というより、新発見に嬉々とする新鮮さが勝ったのは、我乍ら不思議だった。常に、山本君の音楽には、揺ぎなく音楽を牽引する、強い求心性が宿る。
山本君の楽譜は、いつも正確に的確に、丁寧に記譜されていて、誰に習えばこう書けるのかと思いきや、作曲は独学だそうだ。
 
今朝、世田谷観音まで歩いた折、いつもの観音像の隣に特攻平和観音堂が、その奥には「神州不滅特別攻撃隊之碑」まで立っていて、おどろく。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
余程達観した人間でなければ、早晩ひたひたと抑制された毎日に疲弊する。戦いであれば罵る相手があり、原子力発電所であれば電力会社を批難もできた。
伝染病となると、これら負の動力の矛先をどこへ向ければよいのか。鬱憤ばかり澱のように溜まりつづけ、精神までしんしんと染みてくる。
感染者や政府を非難してやり過ごしても、長引くほど、熱に浮かれたように生きてきた春まで、我々自身が堆くためこんできた齟齬の屑が刃のようにすっかり鋭く磨き上げられ、自らの喉元に突き付けられているのに気づく。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
渋谷道玄坂地下の喫茶店にて、白石美雪さん、一柳先生と松平敬さんとウェブマガジン対談。久しぶりに再会した皆さんより、揃って、「まあよくぞご無事で」と声をかけられる。写真を撮るときのみ、マスクを外す。
一柳先生がお元気そうで嬉しい。卓球場の閉鎖が解け、休止していた卓球も再開されたそうだ。柔和ながら、精神は若々しく尖っていて、迎合せず泰然としていながら、新しい情報のアンテナの手入れは行き届いている。悠治さんの話をするときの表情は、二人で演奏会を開いていたころとまるで変っていない。横浜で一柳先生の自作ピアノ協奏曲でご一緒したとき、少年のように嬉々としてカデンツァを即興していらしたのが、鮮烈な印象を残した。
尖る、というのは、他人に迎合して丸くなったり諦観したり、ルーティンに甘んじることなく、常に自らを客観視し、律する能力ではないか。
現在の閉塞感と、大戦後の混乱は比較にならない、と話して下さる。怖い憲兵がそこら中で監視している生活が続いた戦争が終わって、アメリカが自由をもたらしてくれたからね。混乱していたとは言え、今とは全く違います。心なしか、そう話す一柳先生の声も弾んで聞こえた。
今の日本を見ていると、戦時中と似ている部分が気になります。
結局、日本人はあまり変わっていませんね。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ(1969)」譜割り。「般若波羅蜜多(1968)」と「歌垣(1971)」の間に作曲されているから、「般若波羅蜜多」や「Kraanarg」で学んだ経験が、読み進む上で役に立つ。似ている部分より、むしろ差異がより明確に浮き彫りになる。昨年暮れ、武満徹さんの60年代作品を集めて演奏した時に実感した音の実体の深さについて、改めて感じ入る。当時の作品が持つ、血の通った音が持つ、説得力の強さ。
「オルフィカ」の楽譜に、不規則に撚られた彩鮮やかな糸を思う。一つの線の周りをさまざまな糸が縁取り、絡めとってゆく。点が生まれ、そこからまた新しい糸が尾を引いてゆく。一つの糸の向こうで、千手観音のように、少しずつずれた無数の影がゆらめく姿を、垣間見たりもする。
音が見えてくる程に、音から離れて楽譜を見つめられる。近くで見ればごつごつしていても、遠くから俯瞰すればなめらかな線に見える。指揮はその稜線をなぞる作業であるべきなのだろう。
明薬通り沿いに古く小さな木造りの祠があって、中には小さな六手観音が鎮座している。長い間撫でられてきたからか、石像の少し角ばった顔の表面は最早なめらかに崩れきっていて、もとの姿は想像できない。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
音楽学者のルチアーナ・ガッリアーノは、日本のそれぞれの町に、固有の「太鼓」があると言う。それは理想だよ、東京ではそんな光景は見られない、今度彼女にそう話そうと思っていたところ、授業の一環なのか、家の前の小学校では小学生が毎日盛んに和太鼓の稽古に励んでいて、これが目にも耳にも心地良い。
三軒茶屋独特の太鼓かは知らないが、少なくとも子供たちの身体にはこの時間、この景色、級友たちの姿とともに刻み込まれてゆくに違いない。
家の近所を歩くとき、何十年も前から持っている下駄を、多少音を抑えながらつっかけてゆく。その乾いたからんころんという、木の柔らかい音は耳にやさしく、足にも馴染む気がして、日本に戻った折の密かな愉しみだ。靴音を立てないヨーロッパで、下駄で闊歩するわけにもいかない。
 
二輪の純白の月下美人の写真が母より届く。
「12時を過ぎると萎んでしまうそうです。下さった方の話では、綺麗ね大きくなってねと話しかけると、どんどん大きくなるそうです。確かに、話しかけると花が動くのです。本当にすごい!生きてます」。
「太陽の塔」のような顔を懸命にもたげているように見える。ここ数日両親揃って咲くのを心待ちにしていたが、これだけ見事な大輪なら当然だろう。良い香りがします、とある。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
元来14型で書いた「自画像」だが、至急12型のソーシャルディスタンス版を作った。作品の性格上、今回は弦楽器を細分して書かざるを得ず、原版のまま12型では演奏不可能だった。ソーシャルディスタンス問題は、コンサート会場に留まらない。リハーサルにおいても、演奏者を感染の危険から可能な限り遠ざけなければならない。
Go To Travel より東京排除決定。帝劇は劇場関係者感染により4公演休演。新宿小劇場の集団感染者数77人との発表。
ソーシャルディスタンスにより、身体的接触は厳しく制限されながら、covid以前に比べ、社会生活に於ける相互の共同責任、依存度は極端に引き上げられた感がある。ともかく健康を死守しなければならない、生まれて初めての強迫的緊張。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
これだけ長く日本で過ごすのも久しぶりだが、これだけ誰にも会わず、どこにも出かけないのも、初めてではないか。友人の演奏会に出かけようと思っても、どのように行動するのが正しいのか、わからなくなった。この状況下、何とか演奏会を実現させようと懸命に尽力する人たちを見ていると、どうしても気軽に足は外に向けられない。一人でも外を歩く人数を減らすのは、感染拡大抑制のささやかな第一歩だし、万が一罹患すれば、演奏会の存続に関わる。
申し訳ない思いにかられつつ、演奏している音楽家たちを、心から応援することしかできない。音楽を愛でる態度とまるで対極にいるようで、何とも気持ちの整理がつかない。
ソーシャルディスタンスで、身体的距離をとりながら、以前よりずっと厳しく相互に関わり合う不思議を思う。困るのは、こうして互いに絡み合いつつ、温もりが培われるのではないところか。今朝早く、世田谷観音へ出掛けると、今年初めて蝉の声。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
山根さん新作のエレクトロニクスについて、有馬さんより電話あり。
一見単純な譜面だが、実は複雑に絡み合っていて、かつ山根さんらしい音の色を引き出すのは、決して簡単ではないと思っている。山根作品の経験が豊富な有馬さんが演奏に参加してくださるのは、非常に心強い。夕日に映えるサイケデリックな色彩の風景を、セピア色のフィルターを通して投影するような印象を持っているのだけれど、実際演奏してみたら、全く的外れかもしれない。他者から距離を置こうとしているようにも見えるけれども、そこに引寄せられる強靭さに目を見張る。
 
昔教えていたアリアンナよりメールが届く。コモ国立音楽院の合唱指揮を110点中110点満点で修了したという。彼女に最初に出会ったときアリアンナは18歳くらいだったが、生まれて一度も音楽教育を受けたことがないが、指揮者になりたい、指揮をやりたい、と言って聞かなかった。周りの誰も真面目に相手をしなかったので、教えることになった。
ピアノを弾いたこともなければ、ヘ音記号すらまともに読めなかった。歌など歌った経験もなく酷い音痴だった。合唱を指揮する姿など、当時は想像できなかったが、人一倍努力しながら、信じられないような成長を遂げ、この便りに至る。彼女は、ベルリン音大のポストディプロマの入学許可の返事を待っている。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「あの演奏に痺れた」「稲妻が身体を突き抜けた」のように、神経に電流が流れる様子を直截に表現することは案外多い。
頸後ろ辺りの神経がじわりと温まったかと思うと、尾骶骨までその感覚が一瞬で到達し外へ抜けてゆくのが、実感する感動だが、文字にすると面白みも情緒もない。作曲中に感動した経験は未だないから、あくまでも聴いた音に対する生理的な反応に違いない。
作曲は頭に溜まっていた澱を整理するアウトプットの作業で、思い切って日記を書くと頭がすっきりするのに似ている。譜読みは当初混沌にしか見えなかった情報を、次第に紐解き整理して意味を形成させるインプットの作業で、小説を読むのにも、パズルを解く快感にも似ている。
身体から外へ排出されるアウトプットが生理的に反応しないのは当然なので、やはり感動とは音を体験する者の特権なのだろう。
今は身体がすっかり演奏者仕様に切替わっていて、作曲したことも忘れている。先日までどうやって作曲していたのか、何か考えていたのか、何も覚えていないし、熱に浮かされたように書いた記憶しか残っていない。これでは感動のしようもない。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
スピード感をもって対処する。緊張感をもって見守る。危機感をもって注視する。
がさつで直截な発言をていねいに避ける、日本語らしい表現。最近流行の構文なのか、全く知らなかった。含蓄があるので、今度リハーサルで使ってみたらどうかと思う。
そこの打楽器、少し遅れて聞こえますね。スピード感をもって演奏してくださらないと。
おや、あなたは入る場所を間違ってしまいました。緊張感をもって演奏してください。
この部分、弦のみなさんの音程がすっかりずれていますよ。危機感をもって演奏してください。
緊張感と危機感に続いて、絶望感が到来しませんように。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
イタリアは10月15日まで非常事態宣言延長を発表。欧州連合、復興基金の合意達成。
感染拡大阻止や、医療充実は当然だろうが、イタリアのように基本的に資金難の国にとって、covid禍を生き抜くにあたり、どれだけ潤沢な復興基金を落掌できるかにかかっていた。
日本はどうなるのだろう、と不安にもなる。多くの自然災害に巻き込まれながら、今後どこまで国や地方自治体が国民を支えてゆけるのだろう。
今日の新聞を開くと、ウクライナとロシアは停戦合意したが、アルメニアとアゼルバイジャン戦闘激化。ヒューストン中国領事館に閉鎖命令。
先日集団感染を起こした新宿の小劇場は、今後ワクチンが発表されるまで、公演はすべて無観客で行うと決定。パリのエミリオよりメールがあって、沢井さんの演奏する「鵠」に感銘を受けたたという。東京で一日366人の新感染者。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃、FMエアチェック雑誌で目ぼしい作品を見つけては、クラシックに限らず、民族音楽やバロック、現代音楽の番組をカセットに録音していた。特に、エマ・カークビーとジュディス・ネルソンのフランソワ・クープラン「エレミアの哀歌」と、演奏者名不明のカバニレスの「皇帝の戦争」という正反対の二曲は大好きで、覚えるほど聴いた。
「エレミアの哀歌」は後年楽譜を見つけてすぐに買ったが、カバニレスは他のオルガン曲集しか見つけられなかった。それをカベソンのティエント集と一緒に、ピアノで遊び弾きしては愉しんでいた。
鈴木優人さんへのオマージュを兼ねて「自画像」冒頭に「皇帝の戦争」を引用したのは、当時への素朴な懐古からだったが、何十年も経った今頃になって、あの演奏は誰だったのか無性に興味が湧いた。
演奏の特徴はよく覚えていたし、典型的スペインオルガンの音だったから、インターネットで演奏を聴き比べて、すぐにパウリーノ・オルティスがトレドのオルガンで録音したものとわかったが、この曲が1525年2月24日ロンバルディア「パヴィアの戦い」の描写とは知らなかった。
「パヴィアの戦い」はミラノ公国を占領したフランスが、今度はスペインに敗北を喫する決定的戦闘で、曲尾の祝典部分は勝鬨の声をあげたスペイン王カルロス1世、つまり神聖ローマ帝国カール5世の姿だと言う。フランスに接収されて以降、直前までダヴィンチらが活躍していたヨーロッパ名だたる芸術都市ミラノは、長大な頽廃期に迷い込んでしまった。
そのほぼ500年後、covidの立ち籠めるミラノで、独り唸りながらこの旋律を弄っていた。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
小野さんより便りが届き、日本近代音楽館で保管していた「たまをぎ」合唱譜を、漸く手に入れたという。オーケストラパートは未だ消失したままだ。
その頃の悠治さんは、1968年アジアを題材に「般若波羅蜜多」をアメリカで初演し、翌69年5月にはギリシャを題材に「オルフィカ」を日本で初演。日本を題材に「歌垣」を71年にアメリカで初演。意識していらしたのか、そうでないのか、題材と初演地が逆転していて、73年日本を題材とした「たまをぎ」で、漸く初演も日本となった。こうしてみると、当時の悠治さんの音楽は、神や目に見えない世界に解き放たれていたようにも見える。ただ、譜面と付き合っていると、実際はそんな具体的な対象物としてではなく、もっとずっと普遍的な「音」や「世界」、「宇宙」や「真理」に繋がってゆく気がする。
悠治さん曰く、「オルフィカ」において指揮者は音を引き出さず、流れる音を眺めていて欲しいそうだ。オーケストラを相手に、それどのように実現すればよいのか、考えることは沢山ある。
80人の演奏者が、通常のオーケストラとは違う相手と並んで演奏し、既存のヒエラルキーから離れて演奏への参加が求められるのは、クセナキスの「Kraanarg」のように、68年5月パリ五月危機の影響だと聞いた。
「オルフィカ」は小沢征爾さんによって初演され、彼に献呈されているが、当初「Kraanarg」も小沢征爾さんが初演する予定で作曲が開始されている。
 
 7月某日 三軒茶屋自宅
コロナ担当大臣と経済再生担当大臣曰く、「少し昔の日常に戻ってしまった」。戻ってはいけない。不要不急の霞を糧に生き永らえてきた我々は、新しい日常で何をめざすべきか。若者たちに、何を伝えればよいか。
経済が疲弊し、下落が止まらなくなれば、誰もが政府の給付金、補助金にすがるしかなくなる。多額の負債を抱えながら、どこまで国が国民を支えられるのだろう。給付金、補助金が際限なく安定して持続されるようになると、感染の危険を冒してまで各人が懸命に働く意思は、消失してゆくかもしれない。
そうして社会主義社会が近づくと、社会に貢献しない不要不急の霞組にも、何某か社会に対して「汗をかく」よう圧力がかかるのが過去の常だった。
尤も、それ以前に、経済の下支えのため、税金引き上げも難しいのなら、最終的には紙幣を増刷して対処を余儀なくされるのかもしれない。その結果スーパーインフレが起これば、不要不急の霞組は、もはや食べる霞すらないだろう。
ワクチンか、さもなくば特効薬か、何が我々を救うことになるのか。幾多の諍いも伝染病もやり過ごしてきた文化という霞は、今回もしぶとく生き残るに違いない。アメリカでcovidによる死亡者15万人突破。東京の新感染者数367人。東京の新国立劇場バレエ公演中止。新宿の劇団で20人感染確認。
 
7月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ」再考。
クロマモルフやローザスのような一段譜のピアノの旋律が、無数に折り重なるイメージ。
一つの旋律が無数の影と足跡を残し、3次元的に増幅されることで、空間の奥行きに無数の影を映し出す。そう考えてゆけば、本質をより単純化して把握できそうだ。複雑なものを単純化して提示すべきか分からないが、一つのステップとしては有効だろう。但し、情報量は極端に多い。
悠治さんの作品は、クセナキスより演奏が難しい気がする。悠治さんも演奏者だからに違いない。音と演奏家の生理がせめぎ合う感じがして、そこが面白い。
 
昨日のイタリア新感染者数は386人。死亡者数3人。
本日東京の新感染者数は463人。日本全国の感染者数1563人。
 
(7月31日三軒茶屋にて)

コロナ後の社会は? そして音楽は?

高橋悠治

コロナ後の社会を予測する文章をいくつか読んだ パオロ・ジョルダーノ(How Contagion Works Nel contagio の英訳)とスラヴォイ・ジジェク( Pandemic!: COVID-19 Shakes the World)の本 ハン・ビョンチョル(韓炳鉄 Byung-Chul Han: COVID-19 has reduced us to a ‘society of survival’)のインタビュー ヘザー・マーシュ (Heather Marsh) の The catalyst effect of COVID-19(https://georgiebc.wordpress.com/2020/04/25/the-catalyst-effect-of-covid-19/) 最初の二つには日本語訳があるが(ジョルダーノ「コロナの時代の僕ら」 ジジェク「パンデミック-世界をゆるがした新型コロナウイルス」) 近所の図書館では予約が多くて借りられなかった

ペストの流行がヨーロッパ中世を終わらせ 近代をひらいたとすれば コロナ・パンデミックはその近代を終わらせるきっかけの一つであるかもしれない 岡本裕一朗:新型コロナ感染症は「近代の終わり」を促すか(https://synodos.jp/society/23663

近代は終わるのか 1968年パリの5月 1990年ソ連崩壊後の新冷戦 イスラエル・アメリカ・サウジアラビアに対して中国・ロシア・イラン・ベネズエラ さまざまな試みと失敗のなかで転換をかさねてきた時代 パンデミックのなかで見えるのは 方針を立てられない政治と大きく複雑になって管理できない社会 古びて現実に対応していないが だれも変えられない制度や規制 失業と経済崩壊を利用してファシズムに向かうエリート支配

民主主義は 選ばれた人間が ヒトラーのように トランプのように あるいはどこかの総理大臣のように irresponsible (呼びかけても応えない)になるのを あるいは大きな声の人間がその場を支配するのを どうやって防げるだろう  

その兆候を見ながら 日々の暮らしのなかでささやかに続けられる手仕事と観察

質のちがう断片を集めて組み合わせるとき エイゼンシュタインのモンタージュは対立のダイナミックにアクセントを置いて 全体の統合を鍛えようとした その試みは反対方向のスターリンのパターナリズムに包まれていく危険があったのではないだろうか

映画もそうだったように オーケストラや合唱 さらにそれらを含むオペラのような芸能が コロナ後に もとの力をとりもどすことができるだろうか

コラージュやアッサンブラージュは 異質の組み合わせの上に やはり作品という一つの全体を置く

それとは逆に 集めた異質な断片が 一つの全体を作れず(作らず) それぞれ別な方向に分散しようとする その崩壊の瞬間をとらえる霧箱や泡箱は 音の響きと遊びながら できるだろうか

2020年7月1日(水)

水牛だより

これまで夏にマスクをすることがなかっただけに、どうにも苦しい、歩いているときなどは特に。たくさんの人が歩いている道は別として、外ではできるだけマスクをはずして歩きます。そして、建物の中に入るときにはマスクをする。建物の中はエアコンがきいていて涼しいので比較的楽ににマスクをかけていられます。

<a href=”http://suigyu.com/2020/07/”>「水牛のように」</a>を2020年7月1日号に更新しました。
否応なくコロナウイルスとともに生きていかなければならない環境でも、こどもは生まれ、大きくなって、そしてやがて命は尽きる。そういう大枠からは逃れられないとして、いまをどのように過ごしていくのか、ある程度はいま生きている自分で決められることだと思います。ある程度であっても、自由は

ここではおなじみ(?)の『日々の子どもたち』(エドゥアルド・ガレアーノ)の7月1日は、「テロリスト、一人減」というタイトルです。
二〇〇八年、アメリカ合衆国政府はネルソン・マンデラを、危険なテロリストのリストから削除することに決めた。
六十年のあいだ、世界で最も信望を集めたアフリカ人は、その不吉な名簿の一人だったのである。

そして、きょうはエリック・サティの命日の95回目の命日でもあります。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

新しい言葉

笠井瑞丈

言葉を書く
言葉を発る

私にとっては
避けることが
出来るなら
避けたいと
思うことの
一つです

人前で何かを発言する
何かを言葉に残す事は
発した言葉
綴った言葉
永遠に時間の中に溶け
空間の中を彷徨い続け
残ってしまう

出来ることなら
そんな責任は負いたくない

そんなこともあり
わたしは小中高
学級委員やほか
人前に出る行為
発言しなければいけない
立場にはならないように
いつも注意してきました

だから踊ることは
喋る必要が無いので
物書きや役者をやるより
自分には都合が良かった

そんな私に水牛通信に
毎月なんでもいいので
何か書きませんかと
お話を頂いた時

なんで私なんかに
執筆のお誘いが来たのだろうと
正直びっくりした

でも

苦手なことをやってみようと
書き始めることにした

毎月15日過ぎたあたりから
今月は何について書こうかと
構想を練って
20日過ぎから
少しづつ
少しづつ
書き始める

いいリズムで書ける時と
全く言葉が進まない時と

やはりコンディションはあるものだ
今月は全くもっていいリズムではない

進まない
困っている
締め切りは明日

苦しみながら
何かを生み出すのは
踊りの作品を作るのと同じだ

今回はこのくらいにしよう
また苦しみはやってくる

新しい言葉を体得しよう

188 記号論

藤井貞和

がっこうのうしろはがけになっています。
わたくしたちはていこうできませんでした。
澄子がまっさきにがけから落ちていったのです。
よう子がそのあとを追うみたいにして、
ずるずる見えなくなりました。
ひろしは自分から落ちたみたいでした。
弓子とひろみとは手と手とを取りあって落ちました。
邦雄はそのばにたおれてうごきませんでした。
あとはだれが落ちたのかよくわからなくなりました。
けっきょく、全校で不明が33名、負傷83名、
逮捕者は42名でした。
お昼までに女生徒8名が釈放されました。
わたくしたちは未成年者ですから、
新聞ではみなAとかGとか、記号で呼ばれます。おわり
 
(思想の初版をひらくと、記号のおわり。きっとどこかで待っている、見者にはそれが見える。)

うれしくて笑い出しそう(晩年通信 その12)

室謙二

 そのころはB29爆撃機が飛んできても、それに対抗する戦闘機はもうなかったのだね。高射砲も爆撃で破壊されていた。B29はゆうゆうと飛んできて、木造建築を焼き払う焼夷弾を落としていった。
 私の父親は、鉄筋コンクリートの江戸川アパートの中庭に出て、B29が飛んでいる空を見上げていたらしい。
 空に爆弾が振りまかれて落ちてくる。その一つが、父親の立っているところに向かって落ちてきた。父親は江戸川アパート四組の入り口に飛び込む。爆発がおこり、入口階段の石壁を焼き焦がし、一階の我が家の窓を破壊して、積んであった本の一部に火がついた。父親は火のついた本に、どんどんと水をかける。こうやって父親が大事にしていた英語の本は、水浸しになった。
 これは敗戦の年、1945年(昭和20年)の5月のことだっただろう。すでに東京は、三月の大空襲で焼けて平らになっていた。鉄筋コンクリート六階建ての江戸川アパートは、その焼け野原に建っていたのである。

 焼夷弾は、我が家の窓の下にあった鶏小屋を直撃した。そして三羽のニワトリは、跡形もなく消滅した。ニワトリにはそれぞれ名前がついていて、オス鶏の名前は権兵衛でみんなに愛されていた。だが鶏たちが直撃弾によって跡形もなくなり、食糧難のおり大切な関白質であったタマゴを、食べることができなくなる。
 その爆撃で庭に開いた穴を、私は覚えている。私が生まれたのは1946年の1月だから、爆撃の八ヶ月あとであとだが、穴は何年も埋められることはなかった。そしてその横にまた新しい鶏小屋が立てられて、鶏たちが毎朝わたしたちにタンパク源を供給してくれていた。まだ温かなタマゴを取りに行くのが、私の朝の仕事であった。

アメリカに来たのね

 私には十二歳年上の兄と、十六歳年上の姉がいる。爆撃の時、兄は学童疎開で東京にいなかったが、姉は工場に働きに行かされて、軍需品を作っていた。学校の授業はもうなかった。5月の空襲のとき、父親は娘は工場への爆撃で死んだと思った。軍需工場はいつも狙われていた。そんなところに、軍部は十代中頃の娘を働きに出す。しかしその工場への爆撃はなく生き延びたのである。
 何十年もあとに、私は姉と一緒にハワイに遊びに行った。姉はフラダンスとウクレレをやっていて、ケンちゃんいっしょにハワイに行こうと私をさそった。連れて行ってくれ、ということだった。
 ホノルル空港で、乗り換え便を待ってベンチに座っていると、「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」とうれしそうにいった。彼女の上に爆弾を振りまいていた、敵国アメリカについにやってきた、ということだった。
「ケンちゃん、お姉さんは怖くて怖くてね、B29の爆音が遠くから聞こえてくるでしょ。最初のころは高い高度だったけど、最後のころは低い高度で爆弾を落とす。音を立てて落ちてくる。それが本当に怖いのよ」と言っていた。
 姉さんの友人の一人は、B29の護衛についてきた戦闘機が急降下してきて、それに狙い撃ちされたらしい。操縦席のパイロットの顔をが見えたとのこと。パイロットにもその女学生の顔が見えたのか?
 パッパッパと地面に弾丸があたったが、彼女には当たらなかった。
 2001年5月の、アルカイダのアメリカへの自爆攻撃テロのとき、姉さんはビルが崩れ落ちる映像をテレビで見て、気持ちが悪くなり吐いてしまった。B29による自分たちへの爆撃を思い出したのである。十代の娘にとっては、空襲は、思い出すと吐いてしまうぐらい、恐ろしい体験だったのである。
 無差別の絨毯爆撃(Carptet bombing)であった。絨毯をひくように、地上に爆弾を落としていく。工場とか港とか軍需拠点と、普通の人びとの暮らしの場を区別しない。おおくの非戦闘員が死ぬことは、アメリカはわかっていた。それが戦争の政治であった。しかし爆弾の雨の中にいた娘にとっては、アメリカがどうのこうの、日本がどうのこうのではなく、ただ恐怖以外のなにものでもなかった。

うれしくて笑い出しそう

 「だからね、戦争が敗戦で終わった時は、もううれしくし笑い出しそうだったわ」
 彼女はすでに戦争が敗戦で終わることを、父親から聞いて知っていたのである。父親は、敵国語の英語は教えなくていいと、高校教師の仕事をやめさせらて、NHK海外放送部門で働いていた。同じ高校が戦争が終わると、英語教師として戻ってきてくれと懇願したらしい。父親は不愉快なので戻らなかった。
 家族は、戦争が終わることを知っていた。
 女学校でみんなが集められて、天皇の放送を聞いたのよ。そしてみんなが泣き出した。だけど私は、もううれしくてね。これで死なないですんだ、と思ったの。アメリカ軍が来たら、若い女性は強姦されるという脅かしがあったけど、英語で放送を聞き、英語を読める父親は、そんなことはないよ、と言っていたから。  
「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」と姉が言うとき、そこには思いがこもっている。ケンちゃん、私の子供の時の記憶は、ずっと戦争だったのよ。日本が中国で盧溝橋事件を起こしたのは1937年(昭和12年)で七歳、真珠湾攻撃のときは11歳で、敗戦は15歳だった。ああ戦争が全部終わったということね。
 父親も早く戦争が終わってほしいと思っていて、それは敗戦であると知っていた。そう家族にも言っていた。姉さんは、そんなこと外で言ったら、特高警察がやってきて父親が逮捕されることを知っていた。だから学校では鬼畜アメリカであっても、知らん顔をしていたのである。二重生活だった。よくあんな危険なことを15歳の娘に教えた、と大人になってから言っていた。
 父親はアメリカが勝ち、日本が負けることは戦争中から受け入れることができた。しかし父親は、アメリカが大都市に対して行った無差別の絨毯爆撃については、決して許さないと言っていた。あれだけ非戦闘員を殺したのは、戦争犯罪だと思っていた。無差別爆撃によって日本の降伏が早まって、多くの人が死なずにすんだというアメリカの言い分を、父親はけっして認めなかった。
 3月の夜間空襲では、十万人の民間人が焼け死んだのであった。木造建築を取り囲むように焼夷弾を落として火事を作れば、多くの人が焼け死ぬことをアメリカ軍は知っていただろう。

8月15日がやってくる

 8月15日がやってくる。しかしその敗戦の日の意味も、いまやすっかり薄れてきている。私は75年前のその日を、母親のお腹の中で経験した。
 妊娠した母親は、お腹の中の子供と自分の体のための食べ物を、戦争末期と敗戦直後で十分に手に入れることができなかった。「私たちには栄養のある食べ物がなかったので、ケンジは私のお腹の中で、内側から私を食べながら育っていったのよ」と笑いながら何度も言っていた。母親は、私と息子のお前はひとつの体なのだよ、と言いたかったらしい。
 毎年やってくる8月15日は、アメリカでは日本ほとんど大きなものではない。もっとも一度だけ、1995年の戦争終結50周年記念、というのが大きかった。新聞は特別記事をのせ、テレビも数日にわたり特別番組を作った。それをアメリカ人の妻と一緒に読み、テレビ番組を見て、私たちが敵同士だったことを思い出した。
 いつもはそんなことは、考えたこともない。不思議なものね、私たちは敵同士だったのよ、と言い合ってわらった。

コロナと育児

西荻なな

今年の1月末に子どもが生まれた。病院を退院すると同時に世の中が新型コロナで騒がしくなってきた。しばらくは慣れない育児に明け暮れ、昼も夜もない授乳とおむつ替えの日々に慣れるのに精一杯だったが、産後の肥立ちの1ヶ月を過ぎ、さてそろそろ外に出られるようになるかな、という頃に緊急事態宣言が発せられ、とうとうそのまま外に出られなくなってしまった。でも、子どもの成長は目覚ましく、見ていて飽きない。ニュースを見て感染者数が増えてゆく事態に不安を覚えながらも、私だけでなく誰もが外に出られなくなってしまったことが不思議で仕方なかった。育児とは、細切れな、それまでの連続的な時間軸とは別の時間軸に突入してゆくことだと体感しているけれども、プライベートな変化が世の中の時空のエアポケット化と連動していたことになんとも言えない感慨を覚えている。育児をする日々が、コロナの日常と軌を一にしていた。子育てがちょうど落ち着き始めてきた4ヶ月目以降の、育児日記を抜き書きしてみる。

◯月×日(生後110日)
昨日は、大変な1日だった。朝起きて授乳したあとに急に右胸にしこりが出てきたのに気づき、痛みを感じたと思うと、胸があっという間に岩のようになりかけた。文字通り岩のようである。7時間もぶっ通しで子どもが寝ていたからだろうか。ハーブティーを飲む、マッサージをする、搾乳をするなど自分でできる対処をあれこれとやってみるけれど、改善の兆しがなさそうで、これは母乳外来に行くしかないと腹をくくる。明らかに母乳マッサージなど濃厚接触であるのだから、それだけは避けたいと思って、乳腺炎になる一歩手前の状態にありながら、自己流でやり過ごしてきたのだが、どうも今回はそれでは乗り切れなさそうだ。産院に電話すると、受付可能なのは最短で明々後日ということで、他の助産院に行くことを勧められる。早いうちに他でやってもらうのがいいです、いま乳腺症が流行っていて、と同じ流派の助産院を紹介された。電話をするとやはり、いま具合悪い人が多くてね、とのこと。梅雨シーズンが近づいて湿気が高いのも悪さするんだろう、コロナのストレスだってあるに違いない。状況を伺うと、前後の人とは時間を少しあけているから、安心してきてくださいという。確かにコロナの感染者数もピーク時よりは減ってきている。今ならば前よりもリスクは低いだろうし、それより何よりこの状況を放っておいたら大変なことになりそうだ。子どもは夫に任せて身一つで行くことに。外出は買い物以外では久しぶりだ。

助産院に着いてさっそくベッドに横たわると、助産師さんは透明のフェイスシールドをつけている。私はマスク。しこりのできている原因を即座に見破って、母乳マッサージを始めてくれた。乳腺炎というよりも、乳管の詰まりのようだ。母乳の生成される量と子どもが飲んでくれる量との兼ね合いで、生成量の方が多いと母乳が滞留して乳管の詰まりが引き起こされるらしい。授乳に慣れてきたころにこそこういうことが起こりがちなのですよ、とアドバイスをもらい、牛蒡の漢方薬をいただいて帰宅する。胸のしこりが落ち着いたのはありがたい限りだが、濃厚接触をしたには違いないので、急いで帰ってシャワーを浴びた。

今日はそれにしても、子どもが急成長を見せてくれた。朝の時点で体重は6400gあまり。お昼前くらいにお布団の端っこの方に仰向けでゴロンとしているのを確認してちょっと目を離したすきに、なんと寝ていた布団の上ではなく、フローリングに腹這いになっている。しかも、あーうー、と元気に声を出している。うむむ、これはさっきの姿勢から考えるに、つまり私が見ないあいだに一人で寝返りをしたということだ。なんと〜、その瞬間を見られなかったのが残念だけど、今日は「寝返り記念日」だ。数日前から寝返りをしたいという姿勢は見せていたし、なにかの弾みで出来ちゃったのかしら。まだ4か月に満たないというのに、成長目覚ましいことだ。

◯月×日(生後116日)
コロナ感染者数が着実に減り、肌寒い雨のお天気にようやく終止符が打たれた昨日、バギーに初めて敏さんをのせて近くの公園までお散歩に行くことにした。座る姿勢も基本的に好きなのか、初めてなのに実に堂々としたもの。足なんて投げ出して、ちょっとオラオラなくらいの雰囲気だ。バギーを押して動き始めると大人しく時々笑みを浮かべている。久しぶりのお散歩が抱っこ紐じゃなくて外が自分の目でしっかり見えるのは嬉しかったんじゃないかな。ここのところ、目の前の世界が急に着実に広がっているはずで、私が実に久しぶりの自転車散歩から帰ったあと、面白いくらいにくるくると寝返りを続けた。思えばその日の朝もそうだったけれど、段差を利用してまぐれ的にできちゃった、ではなくて完璧にコツをつかんで連続技を決めている。よくよく見てみると、片足をもう片方の足にクロスさせて、胸の前で両手をあわせて、体をくるりとひっくり返す遠心力の助けとしている。ちょうどフィギュア選手が空中で回転するときのように。それに付随して、自分の右手と左手をあわせて握ることもできるようになっていた。すごい! どこでそんなコツを体得したんだろう。本人も嬉しいのか、とにかく暇さえあればコロコロくるくるしていて、ちょっと目を離した隙に床に落ちてたりするのであぶないあぶない。お風呂上がりに薬を塗っていてうつ伏せ姿勢にしたときにもゴロンとしそうだし、お洋服を着せるときにもゴロンとしたそうだ。運動量がそんなわけで半端ないのでお腹もよく空くようで、よく飲み、よく成長をしていて、授乳で子どもの身体を左右反転させるのも一仕事。私の腰は悲鳴をあげていて、一昨日にはとうとう鍼に出かけてきたのだった。どうやらほぼぎっくり腰だったらしく、肩首も鉄板のよう、一度ではほぐれきらないらしかったのでまた行かなければならない。コロナのさなか、濃厚接触のきわみゆえにやっぱりまだ気が気でない。でも昨日は再び乳腺炎の危機を感じたのだから、徹底的に身体のケアをしなければならない。藁にもすがる思いで出かけた近所の漢方薬局で虚血ですから、血を補うケアをしておかないと後々大変ですよ、と言われてたしかにその通りだとオイスターの錠剤を買った。朝のうちはまだ元気でも、授乳を繰り返して夕方、子どもをお風呂に入れる頃には身体の前半分が前方に引っ張られるようなクラッとした疲労に襲われるので、貧血っぽさがあるんだと思う。母乳をあげるつど、鉄と亜鉛が抜けてゆくのだからそれも当然か。私が日に日にげっそりしてゆく傍ら、子どもは日に日にぷっくり。ほっぺも落ちそうなら、手首のあたりと太ものあたりがムチムチである。背中の湿疹がはかばかしくないのがやや気がかりだけど、毎日ご機嫌に健やかに成長していて、どんどん喋れる感じになっていて楽しい日々であることだ。

◯月×日(生後119日)
ここ数日、完全に寝返りをマスターしたと思ったら、それでは飽き足りず、ずり這いに突入しつつある。おもに朝、夕食時、ちょうど1日2回くらいのタイミングでその旺盛な運動欲がむくむくと身をもたげてくるのか、くるくるっとしたかと思うと、今度は、うーっあーっと声を出しながら懸命に前に進もうとする。リビングに敷いているベビー布団の端っこに手がかかると、リーチ! という感じで危ないので目が離せない。昨日だったか、ちょっと床に軽くごつんとなって大泣きをしていた。でもまったく懲りる様子がない。もうこのへんにしとこうよ、ほら危ないから、と言ってこちらが止めに入ると、むしろ泣いてもっとやりたいと訴えてくる。4カ月を前にずり這い。このすべてを先取りしてゆくかんじはどうしたことだろう。誰に似たのかしら。運動量が増えるということはすなわちいつも腹ペコということなのだから、授乳をしている私は休みなしで応戦しなければならない。次善の策として、ゆらゆらひとりでに揺れるバウンサー(という椅子)に乗せてみても、わりとすぐに身をよじりはじめる。もっと僕は動きたいの! と言わんばかりだ。今日授乳をするのに子を横抱きにしてみると、こんなにがっちりしてたかしら、と驚いた。見た目はムチムチなのに、思いのほか筋肉質だ。そんなわけでエネルギーを持て余し気味のようなので、今日もお昼どきにベビーカーで散歩。コロナで家にこもりがちだったけれども、最近は近所の公園に少しずつでも脚を伸ばすようになった。ベビーカーに乗ると不思議と足を投げ出して、態度は大きいのだけれど、すっと大人しくなる。多分外に行く刺激があるんだろうなあ。もう家にいるだけでは飽き足りなくなってきた。3回ほど行き交うベビーカーに乗る赤ちゃんをちらりと見たけれど、我が子は白い。白さが際立っていることに気づく。一方で体重は昨日くらいから急カーブを描き6800グラムを超えて、4カ月を前に7キロ台が見えてきた。昨日、一昨日は授乳をしてもしても足りないようで、文字通りずっと授乳をしていたけれど、今日になってやや落ち着きを得たのは助かった。授乳ペースが少しでも落ち着くとこちらも余裕ができるので、ホッとお茶を飲んで一息つけたりする。でも日々食欲は変動があってなかなか読み難いものだ。

○月×日(生後128日)
髪が抜けて、朝も夕もそこかしこに抜ける髪の毛の存在を感じている。授乳をするつど抜けるようだ。このままのペースでは早晩禿げてしまうのではないかと、日に日に薄くなりゆく髪の毛の行方が心配でならないが、子どもは日々面白いくらいぷくぷくしてゆく。数十分のお昼寝から目覚めても、あらまた成長したかしらと思うこともあり、なんとなくここ数日、膝下が長くなったと昨日気がついた。

予防接種も3回目となる今日。予防接種の日はコロナ対策も考えながら外出準備をしたり、何かとバタバタしてしまうのだが、子どもは朝4時くらいにぶりぶりぶりっといつものように豪快な音とともにウンチをした。夫がオムツ替えをして眠りに二人で戻ろうとすると、程なくしてまたもやウンチ。2回目のオムツ替えを見届けることなく私は眠りにおちた。ここのところ夜中の授乳が眠くて眠くて、朝方はやたらと夢を見ている。断片的に夢が次から次へとやってくる。起きても夢の中なのか現実なのか判然としないことも多い。朝方のオムツ替えでひときわ眠気の覚めない今朝、お天気は完全に夏日なようなので、小児科には徒歩ではなくタクシーで行くことにした。家を出る前に再びウンチ、慌ててオムツ替えをして準備万端だ。ベビーカーに乗せて配車アプリでタクシーを呼び、自宅前で待つ。車が来るまで5分と表示される。タクシーが眼前にやってきたその瞬間、ぶりぶりぶりーっと音がする。あら、さっきも家を出る少し前にオムツを替えたばかりだが?

帰宅するまでもうオムツ替えの心配はいらぬと思ったのに。到着して予防接種の前にお肌の確認。透き通るように白いですね、と先生。乳児湿疹に悩まされた数ヶ月、お薬をがんばって塗った甲斐があった。4カ月検診はコロナ対策ゆえ区が見送った旨を伝えると、股関節脱臼がないかどうか、チェックしてくれるそうだ。しかし、それにはオムツのオープンが必要だった! 先生、実は先ほどウンチをしてしまいまして(まだオムツを替えてないのですが)、と伝えたけれど、意に介さずオープン! 股関節は正常で何もなくてよかったのだが、本当にウンチに彩られた日だった。予防接種も無事に終え、夜、お風呂上がりに体重をはかると7160g。ベッドに寝かせて夫婦で会話をしていると、おしゃべりに加わりたいのか笑顔でたくさん声を出しはじめる。あーうーあーうー。合唱のようになってなんとも愛らしい。

◯月×日(生後144日)
昨日は私と母、妹の女3人で吉祥寺を散歩した。妹と会うのは3月の連休以来だから、もう3ヶ月ぶりくらいになる。妹との対面は久しぶりだったけれど、子どもはまだ人見知りをするでもなく(マスクをしたままで、子どもにしてみれば人見知りも何もないのだろうか)、土曜日のすっかり平常モードになったと思われる吉祥寺の人混みを抜けて、小さな公園に向かった。あちらこちらにお昼時の行列があって驚いたけれど、公園に到着して人心地ついた。買ったサンドイッチを広げてさてランチ、という頃には子どもはバギーの上でお昼寝を始めている。とてもいい子だ。大人のペースに合わせてくれるかのようだ。途中で目を覚ましてお腹が空いた感じだったので、その場で授乳ケープをして授乳。昔はもっと公共の空間で授乳をする人を見たような気がしているけれど、この頃はすっかり授乳室で授乳するということになっているのかしらね、と母。授乳ケープがあれば私自身は外で授乳することも気にならないけれど、むしろ周りにいる人がどう感じるのだろう、という方が気がかりかもしれない。 

帰り際、ちょっとその辺の喫茶店でコーヒーでも、と思ったけれど、東急百貨店あたりは混雑がすごかったのでそのまま帰ってお茶することに。帰宅してエネルギーを補給すると、子どもはいつものようにくるくると寝返りを始めた。かと思うと、お尻をキュッと持ち上げてさらに前に進もうと果敢に挑んでいる。その場で両足をバタバタと強く蹴って両手も遠くに伸ばして腹這いになる。けれど思ったように前進できないのか、悔し泣きを続けては、あーうー、と元気に声を出してトライし続けていた。そんな子どもを見ながら大人はおやつタイムで椅子に腰掛けておしゃべりを始めた。途中から僕も混ぜてくれ、と訴えたので膝上に乗せてあげると、手元のテーブルクロスの質感を楽しみはじめた。そういえば最近は布団を敷いているゴザに手を伸ばして、がりがりがり、っとゴザの質感を楽しんでいるけれども、それと同じ要領で新しい素材が目の前に来ると研究に余念がない。食卓に向かってちょこんと座った姿勢でテーブルクロスの質感を両手の全部の指を使って確かめ始めると、その様はまるでピアノを弾いてるかのようだった。大人も楽しくなってしまって途中でジャズをかけ始めると、リズムを完璧に捉えているような身振りで、大人もリズム隊として手拍子で参加した。このワンシーンはかなりおかしかった! 兎にも角にも指先でいろんな質感を楽しむのがここ最近のブームで、今日新たに存在を発見していたのが紙だ。手にもってくしゃくしゃっと丸めで楽しんでいる。お昼すぎには風で揺れる窓辺のカーテンと戯れてもいた。こうなったらもっといろんな素材を教えてあげたくなる。

◯月×日(生後149日)
この4.5日ほど、子どもが夜中に起きすぎである。授乳のために夜中起きる回数はせいぜい2回ほどだったのに、2-3時間間隔で起きては授乳をしていて、新生児の頃に逆戻り状態だ。あまりに授乳回数が多いので、大人のベッドの真ん中に置いているベッドインベッドに子どもを戻したかどうか、あやふやなまま眠りに落ちてしまう。大人が子どもに覆い被さって窒息してしまう、というケースもないではないのだから、気が気でない。あまりに授乳が頻回になっているため、この前は夢の中でも授乳をしていた。そして起きても授乳をする。どちらが現実なのだかわからなくなる。そうやって意識が朦朧とするだけでなく、実際に身体がきつく、今朝は胃痛で起きる始末だった。昼は昼でだいぶ頻回授乳、毎日身体をはっている自覚だけはある。もう5ヶ月近くになり、どの育児書にも授乳間隔は空いて楽になってくる、とあるのだが、それは我が子には当てはまらないようだ。どうしたものかとあれこれ読んでみると、子どもの昼寝時間が決定的に足りないことに気づいた。新生児の頃から眠るのがどうも下手な傾向にある。今の月齢だと、平均的には1日に3ー4回昼寝をするらしい。朝、昼、夕と。泣いてはお腹が空いているのだろうと授乳を始めていたが、うち何回かは眠くて眠れなくて泣いているのだなあ。お散歩も朝夕二回、できるだけ連れて行くようにしているけれども、この梅雨のシーズンで難しいことも。でも本当はもう少し長い時間外に出してあげていたら、リズムができてちゃんとお昼寝もできるのだろうか。

そういえば昨日、いつものようにお風呂上がりの授乳をして、さてこれから入眠ですよ、というタイミングで、子どもが私の人差し指をしっかと握り、こちらの眼をじっと見て、あーうーあーうー、と5分間くらいしゃべり続けた。あまりに真摯な眼差しに、これはきっと何かを伝えたいんだと思ってびっくりして、あれこれと訊いてみた。「私がヘトヘトでちょっとイライラしてたからかな、ごめんね」「元気出してと言ってるのかな」などなど、向こうのおしゃべりに応答するように話しかけてみる。それでも止むことなく、まっすぐな目で、あーうーあーうー、と言い続けたまま、やがてそのまま目を閉じて寝てしまった。まるでETのようだった。ETの造形はこの頃の子どもとの対話にあるんじゃないかと思ったくらいだ。こちらの心情を察していたかのよう。疲れてしまったかな、ごめんね、僕はもう今日は寝るね、と言っていたように思った。昨日今日と、私がちょっとささくれだっていたことと無関係でない気がしてならない。

コロナ貧困ものがたり

さとうまき

自分で言うのもなんだが、僕はいつも最先端を走っている。イラク戦争では、まさに前線で命からがら働いてきたし、福島原発事故では、放射能のせい?で家庭が崩壊して妻子に逃げられた。そして、コロナは。

一年前に失業してから、仕事がない。失業保険で暮らしていたが、そろそろ失業保険も切れかけたころ、前妻から電話があった。北海道にいたムスコが転校したばかりで、友達ができる前にコロナで学校が休みになった。STAY HOMEしていた息子は母親との関係にも行き詰まり部屋から出てこなくなったらしい。暫く東京で預かってほしいといわれたのだ。

急を要するらしく、ともかく慌てて北海道に迎えに行ったものの、息子とは年に3日ほどしか会わないから、どう扱っていいかわからない。児童相談所とか、片っ端から電話した。「いうこと聞かない場合は、どうしたらいいんですか? 殴っていいんですか?」
そういう風に言うと大概は、親身になってくれる。

最初は、ただ、家に帰らせて! と泣いていたムスコも打ち解けてきた。僕は、何とか仕事をせねばならず、夜間学校で職業訓練を受けることになった。昼には出かけて行って、夜の10時ころに家に帰ってくる。

ムスコは先日11歳になったのだが、成長期でよく食うのだ。なんと一か月に5キロも増えているし、ぐんぐんと大きくなっているのがわかる。当然食費がかさむので、近所の子ども食堂がお弁当を届けてくれたりして、何とか食いつないでいるありさまだ。優しい人たちがいるもんだ。しかし、偏食も激しく、僕が作ったおかずの肉だけ食ったりとかするもんだから、僕も自信がなくなり、仕方なく残り物を食うから、こっちまで太ってしまう。

学校の帰りに西友によるとちょうどお弁当が半額になっていたりするのでこれはありがたいのだ。ところが息子ときたら賞味期限にはクソまじめときている。半額の納豆巻を買っておいて、翌朝食べさせそうとしたら、
「酸っぱい味がする」
「すしだから酸っぱいでしょう」
「賞味期限一時間切れている」
「それくらい、大丈夫だって。」
「くさいんですけど」
「納豆だからくさいんだよ」

結局息子は納豆巻には一切手を付けなかった。
「あのさあ、生活厳しいんだからさあ、賞味期限ぎりぎりのものを狙うっていうテクニックわかってほしいんだけど」
僕は納豆は嫌いなので、結局食わずに捨てることになった。結局これでますます食費がかさむ。

すでに、息子と暮らし始めて2か月だ。それでも、最底辺の毛の生えたような貧困生活を楽しんでいる。コロナで似たように生活の苦しい仲間もいるから。

ところで最近シリアに、アメリカが、「シーザー・シリア市民保護法」と呼ばれる経済制裁を課した。人権侵害を繰り返すアサド政権を窮地に追い込むのが目的だが、シリアでは現地通貨が暴落し、コロナの影響もあり、経済活動が成り立っていない。今彼らに必要なのは仕事をして普通に暮らすこと。

アメリカ曰く、人道支援に関しては制裁の対象ではないらしいが、そんな支援にどっぷりつかるような暮らしは好まないだろう。なぜなら、援助関係者が偉そうにふるまって、一部の心無いNGOなんぞは、戦争産業の一部と化して暴利をむさぼる。ローカルスタッフとして雇われた暁には、普通に働いている人の(いや、普通に働けない者がもうあふれているわけで)何倍もの給料をもらって、偉そうに食料を配われたんじゃたまらん。

その構造は、日本でも同じだ。給付金をめぐって、電通はやりたい放題。コロナ禍でたとえ世界が封鎖されようが、我々、庶民は世界とつながっていく。息子は、「お金には価値がない。価値なんてこの世界にはないんだ」ってぶつぶつ言っている。コロナを強く生き抜いてもらいたいもんだ。

落首または自粛のすすめ

北村周一

(アベさんから)このひとことが効いている(バレやしないさ)黙っていれば

トンネルに出口入口あることも巡りめぐって潤う自民

トンネルを掘るに長けたる代理店電通それはべんりな仲間

自重自愛自制自活自助自足自恣自棄自大自己責任大

自粛自戒自衛自警自画自賛自公自堕落自浄力皆無

つかいすてマスクを干すを日課とし缶詰め料理に舌つづみ打つ

としとると笑わぬことの多くなり目じりを下げてそれを繕う

民族を煽るアイテム愛国にして暴力に右ひだりあらず

うそがうそを掻き消す手口それさえも打ち消すように国会終わる

サ協とはサービスデザイン推進協議会の略にしてカタカナ表記がいかにも胡散臭い

ニチギンもエヌ・エイチ・ケイもデンツーもわが意の儘に恐いものなし

トンネルの闇のくらきに安倍かわの蜜をもとめて群がるアリは

ときを超えよみがえり来たる悪行のあれこれ そうだ祖父はあの人

嘘のうえに嘘をかさねてしらじらとなにを嘯くマスクの声に

くらぐらとマスクに浮かぶくちさきの動くをみれば「民度」が知れる

民の声に耳傾けることもなく騙るうそぶく「民度がちがう」

子会社を通り抜けゆくそれだけで利潤を生むをトンネルという

トンネルをひとつ抜けゆくそのたびに利潤を得るを癒着ともいう

絶対的かずをたのみに直走る権力にみる躓きの石

視聴率も支持率もまた権力のちからの証し 人気がすべて 

支持率がすべての君にぶらさがる数の論理は信仰に近し

意に添わぬものは排除の論理にて 死んだふりして逃げのびる蟲

わるさしたらお仕置きをする約束のそれをみのがす上級のひと

悪行のかずかず代々に至るまで紐付けられてわたしは小舟

ぬけ目なく民をとりこむ為政者の独り善がりなゆうべの声は

隠蔽と虚偽と改竄てんこもりの恐怖政治に目詰まりは見ず

看板から「自由」と「民主」は剥がれ落ち無能無策は歯止めかからず

ノンシャランと息吐くように嘘をつく だまされやすき民を狙って

背景にシュプレヒコールの声のこし今日の内閣委員会中継おわる

王さまはハダカですよと告げるべき声なき声はハッシュタグより

とどのつまりあの「手口」に学べということか オキテ破りのならず者らよ

番犬をマクラにねむる飼い主のユメもふくらむサクラ記念日

猫を殺したかもしれない。

植松眞人

 当時の市役所の駐車場は、まだゲートなどもなく用事のある市民なら誰もが自由に利用できるようになっていた。時間の制限もなかったので、駐車場を持たない人たちがマイカーの駐車場として、車を停めるということもあった。
 今となっては信じられないだろうけれど、一九八〇年頃はまだ軽自動車を購入するときに車庫証明を必要としていなかったと記憶している。青空駐車という言葉がまた日常的に使われていて、
「どこに車を停めているの」
「いや、お金がないから青空駐車だよ」
という会話が成立していた。
 もちろん、軽自動車よりも大きなサイズの乗用車には購入時に車庫証明を取ることが義務づけられていた。しかし、僕は親をだますようにして初めての車を手に入れた時には家に駐車場はなく、隣町に住む祖母の家の庭を車庫として申請していたのである。そのため、実際に住んでいる自宅には駐車場はなく、近所の神社の駐車場やこの出来たばかりの市役所の駐車場に勝手に車をとめてしのいでいた。
 このやり方は「車庫飛ばし」と呼ばれていて、厳密には違法だった。しかし、普通にみんながやっていて、中古車販売店の営業マンも「飛ばせる車庫があれば、私が手続きしますよ」と言ってくれて、僕は車を手に入れたのだった。
 まだ二十歳になったばかりの僕は車を運転することが楽しくて仕方がなかった。無茶なスピードを出したり、激しく山道を攻めたり、ということにはまったく興味はなかったが、ただ自分でハンドルを握ってアクセルを踏むという行為が楽しかった。窓を開けて、風を受けながら車を走らせることが楽しくて仕方がなかった。
 二十代の初め頃、僕は映画やドラマの撮影現場で助監督や制作進行をしていた。職場である京都の撮影所やテレビ局のスタジオに行く時には、いつもマイカーだった。サンキューセールの目玉商品として売られていた三十九万円の日産バイオレットという地味な乗用車は、サスペンションがへたり気味だったが、そんなことはまったく気にならなかった。
 その日も深夜、確か零時を少し回ったあたりに、僕は市役所の駐車場に車を滑り込ませた。市役所がこの場所に作られた頃は、深夜に車を停めている人など誰もいなかったが、次第に自由に車を停めておけるということが知られてくると深夜にもそこそこの数の車が停められるようになった。自分でも身勝手に使っていながら、入口にゲートが付けられ出入りが制限されるようになるのも時間の問題だと僕は思った。
 その日は、朝から細かな撮影が続き、気疲れしていた僕は帰り道の高速のインターチェンジで温かなうどんを食べたあと、とても強い眠気に襲われていた。それでも、煙草を吸い、ガムを噛みながらなんとか市役所まで帰ってきた。いつもの場所に軽トラックが停められていたので、少し入口側のいつもは停めない場所に車をバックで駐車させた。上着を羽織り、荷物を持って車の外に出ると、寒くて息が白くなった。車のキーを閉じるのに手間取って、一度鍵を落としたりしている時に、ニャアニャアという猫の声が聞こえた。猫の声は激しく数回聞こえた後、消えた。僕はしばらく耳をすませていたのだが、猫の声は聞こえなかった。どこで鳴いていたんだろう、と思いながら僕は家に帰ろうと車を離れた。すると、またニャアという声が聞こえた。さっきよりも激しく、大きく、とても近くから聞こえた気がした。僕は車の奥の方から聞こえた気がして、自分の車の周りをくるりと見てまわった。猫は見つからなかった。僕はどこだろうと思いながら、仕事の疲れもあって猫を見つけることを諦めて、帰ろうとした。するとまた、猫の声がする。僕は荷物を置いて、ニャアという声がする方に歩いて行く。僕の車の後ろの方だ。何もいない。僕は膝をついて、車のリアタイヤのすき間から車体の下をのぞき込んだ。ニャアという鋭い声がして、何か黒い塊が見えた。駐車場の街灯がアスファルトを照らし、その反射した光が黒い塊をうっすらと浮かびあがらせた。黒い猫だった。ニャアと鳴いた瞬間に大きな口を開けているのが見えて、真っ赤な口が見えた気がした。
 僕はその表情に気圧されて立ち上がった。自分が寝ていた場所に僕が急に車を止めたので怒っているのだろうと思った。犬猫がもともと得意ではなかったので、その怒ったような表情と声が怖くて、僕はその場を離れた。いったん顔を見られたからか、猫はさっきまでよりも激しく鳴き始めた。
 僕はときどき車を振り返りながらも駐車場を出て自宅への道を急いだ。猫の声は次第に聞こえなくなり、一つ目の角を曲がるとただ夜の静寂だけがあった。その時、僕にはふいにさっきの猫の映像が浮かんだ。あの猫は大きな声で鳴くときに真っ赤な口の中を見せていたような気がする。しかし、猫の口のなかというのは普通、真っ赤だっただろうか、と僕は考えた。実際に猫を飼ったことがなかったので、考えてもはっきりとはわからなかった。そして、もう一つ疑問が浮かんできた。なぜあの猫は怒りながらも僕の車の下から逃げ出さなかったのだろう。
 僕は疲れた頭で、そんなことを考えていた。考えながら、ひとつの答えが見えた。僕は猫を自分の車で轢いてしまったのかもしれない。空いた駐車場のスペースで、安心して眠りこけているところに、僕が車を滑り込ませて、あの黒猫を引いてしまったのかもしれない。そんな思いが一瞬浮かんできた。だからこそ、あの猫はその場から動かず、ただ口をあけてニャアニャアと声をあげていたのではなかったのか。そして、動けないほどの怪我をしていたからこそ、口の中に血が溢れていたのではなかったのか。
 僕が自宅にたどり着いたころには、この考えは確信のようなものに変わっていた。しかし、僕は疲れていた。そして、何よりも怖かった。猫を殺してしまったかもしれない、という考えがとても怖かった。駐車場は暗すぎて何もかもがはっきりとは見えなかった。けれど、轢いてかもしれない、という手ざわりのようなものが、ふいに見上げた空と見下ろしたアスファルトの間から、粒子のように僕の掌に降り積もり、消えることはなかった。寒さをしのぐように、手を擦り合わせながら息を吹きかけると、その感覚はますます強くなった。きっと僕が猫を轢いてしまったという事実は、確実ではなくても、まったくの虚実でもないという妙な感覚になった。
 その夜、僕は風呂にも入らずぐっすりと寝てしまい、昼前に起きたときにはすっかり、そのことを忘れてしまっていた。もう一度思い出したのは、昼過ぎに市役所の駐車場に向かった時だった。そして、僕は昨日の夜とは違い、あれはきっと猫がただ居場所を奪われそうになって怒っていただけだと考えようとしていた。駐車場に行ったら、決して車体の下などのぞき込まず、そのままエンジンを掛け、そのまま立ち去ろう。僕はそう心に決めて駐車場に向かった。
 市役所の駐車場に到着すると、これまでには見たことがない光景があった。警察官が一人と、役所の職員が一人。二人の男が駐車場で車を出し入れしようとするドライバーに声をかけていたのだ。僕はこれまでの違法駐車をとがめられるのではないかと思い緊張した。しかし、仕事があるので車を出さないわけにはいかなかった。できるだけ平静を装って警察官と職員が立っている出入り口を通過しようとした。すると、職員が僕に声をかけてきた。四十過ぎくらいの温厚そうな男性だった。それほど高くはないけれど、ちゃんとしたスーツを着ていた。
「申し訳ありません。この駐車場はいつもご利用ですか?」
 職員はそう聞いた。
「はい。わりと」
「そうですか」
 と今度は警察官が答えた。
「実は、来月からこの駐車場が有料になるんです」
「ああ、そうなんですね」
「で、ちょっとだけ利用状況を調査していまして」
 と今度はまた職員が声をかけてきた。
「今回のご利用時間はどの程度でしたでしょうか」
 そう聞かれて僕はほんの少しだけ考えて、
「そうですね。住民票を取ってきただけなので、三十分くらいかな」
 そういうと、職員がメモを取り、二人は僕に頭を下げて、ご苦労様でした、と言った。僕も二人に軽く頭を下げると、ご苦労様でした、と声をかけた。
 僕は二人から離れて、昨夜、自分の車を止めた場所を眼で探し、そこに向かって真っ直ぐに歩いた。運転席のドアを開け、乗り込み、エンジンを掛けて前を見ると、二人のうち警官だけが僕を見ていた。僕はゆっくりと車を出した。二人から離れた方の出入り口に向かうためにすぐに左折した。すると、助手席の窓の向こうにさっきまで自分が車を停めていた場所が見えた。僕はその場所をじっと見た。特に昨夜猫が鳴いていたはずの場所を見つめた。アクセルを緩めて、僕はブレーキを踏んだ。そこには何もなかった。黒い猫の死骸も肉片のようなものも、血だまりのような物もなにもなかった。僕はハンドルを握ったまま、長いため息をついた。運転席側の窓をコツコツと叩く音がした。さっきの警察官が立っていた。僕が窓を少し開けると、彼は笑顔を浮かべながら、どうかしましたか?と聞いた。僕は、いえ大丈夫です、と答えて窓を閉じた。ゆっくりとアクセルを踏み入れ、少しずついかにも普段から安全運転をしているかのような慎重な運転で、僕は駐車場の出口を通りかかった。バックミラーのなかで、警察官も市役所の職員も頭を下げていた。
 僕は駐車場の外を出て、バス通りに車を進めながら、昨日見たことは僕の思い違いで、ただ猫が怒っていただけなのだと思った。その証拠に猫の死骸も血だまりの後もなかったじゃないか。そう思うととても気分が軽くなった。
 しかし、あれから三十年以上の月日が流れたのだが、「あの時、猫を轢き殺したのかも知れない」という思いが僕の中から消え去ってしまうことがない。(了)

インドネシアの公共料金支払いの思い出

冨岡三智

6/16の記事で、インドネシアのモスク評議会は、金曜集団礼拝の時間を携帯電話の番号が偶数か奇数かによって分けることを推奨したとあった。この偶数か奇数かでグループ分けするというのがいかにもインドネシアで、留学していた時の水道料金の支払いのことを思い出した。というわけで、今回は留学中の各種料金の支払いに関する思い出。

私がスラカルタ市(人口約50万人の都市)に留学/調査で住んだのは3回(①1996~1998年、②2000~2003年、③2006~2007年)。いずれも市役所の裏のカンプンバルという地域で、電気、水道、固定電話のある家を借りていた。実は、2019年に『水牛』で4回、当時住んでいた各家について書いている。私が住んでいた当時、この町の中心部でも固定電話のある貸家はあまりなかったし、井戸しかない貸家もあったので、割と贅沢したわけである。

①1996~1998年(5月初めまで)

この時、大家さんはすでにスマトラ島に引っ越しており、私は請求書(名義は大家さん)が家に届いたら自分で支払いに行くように言われていた。水道代は毎月7~20日の間にパサール・ルギ(ルギ市場)近くにある水道局に支払いに行った。ただし、いま水道局は移転して、別の機関がこの建物に入っている。水道局の受付時間は月~木曜日が8:00~13:00、金曜日は8:00~11:00。しかし、15日以降は7:30から開くというメモがある。これは、20日近くになると支払いが混むためである。ちなみに、金曜の昼にはイスラムの集団礼拝があるので、役所や学校は11時で終わる。段取りだが、家に届いた請求書を受付で渡すと番号札をくれるので、あとは番号が呼ばれるのを待つ。会計窓口は2つあり、奇数と偶数に分かれている。各窓口が交互に10~20人ずつ位一度に番号を呼ぶので、呼ばれた方の窓口に行くが、そこから先は早い者勝ちになり、窓口を奇数と偶数に分ける意味があるようにも思えない。日本のように、受け付け順に「〇番さん、x番窓口へ~」と呼ぶ方が公平な気がするのだが…。ここでの支払いはだいたい1時間以上かかり、いつも非効率なやり方だと思っていたものだ。

余談だが、この水道局の前には当時、牛の駅?駐留場?があった。荷物やレンガなどを運ぶのに、当時はまだ牛車も使われていて、ここに待機していたのである。今から思うと、ルギ市場に仕入れに来る人が利用していたのかもしれない。

次に、電気代の支払いは指定銀行に毎月10~20日の間に行く。受付は月~金曜の8:30~13:00。指定銀行の1つが舞踊の師匠の家から比較的近いので、いつもレッスンの前か後に行ったが、ほとんど待ったことがない。

電話代は、我が家から徒歩圏内にある中央電話局に支払いに行く。毎月1~20日の支払いで、月~木曜日は8:00~13:30、金曜日は11:30までだがお祈りで一時中断したのち13:30まで受付。やはり待ち時間は長く、1時間くらいかかったように思う。ここでは受付番号ではなく人名(請求書にある大家さんの名前)で呼ばれたと記憶している。

②2000~2003年

この時は同じ町内に大家さんが住んでいて事務所もあるので、その事務所に支払いに行っていた。大家さんは電気、水道、電話代すべてを口座引き落としにしていたので、全部の引き落としが済んでから合計金額を事務所に支払いに来てくれという話だった。というわけで、この間はどういう状況だったのか分からない。

③2006~2007年

再び、公共料金の支払いを自分ですることになる。①の留学を終えて帰国直後、スハルト大統領は退陣し、インドネシアは民主化された。その後、状況はいつの間にか変わっていた。水道料金は徒歩圏内にある中央郵便局で支払うことができるようになっていたのである。郵便物を出すカウンターの数が減って、代わりに公共料金の支払いカウンターができていた。また、支払いとは関係ないが、局内の壁に有料広告を出せるようになっていたのも大きな変化だ。1996年に日本からダルマブダヤ(関西のガムラン音楽団体、私も所属していた)が公演に来た時、私はポスターを掲示させてもらったのだが、実はその時は無料だったのである。内心、有料でないことに驚いたくらいだ。民主化により、サービスを高め、稼げる体質目指して方向転換したのだろう。②の時期にはすでにそうなっていたのだろうか…。

電気料金は電力公社で支払うようになっていた。ここも徒歩圏内にあるが、①の時期にはまだその場所で支払いはできなかったはずである。建物が新しくなり、中に入ると受付番号の自動発行機が据えられ、日本並みに便利になったなあと感じたものだ。

電話料金の支払いについては、どういうわけか記憶がない。ただ、この1年間で各種支払いに自分で行ったのは最初の1月だけだった。2019年7月号にも書いたけれど、隣に住む元・ベチャ(人力車)引きのおじいさんから申し出られたこともあり、代行を頼むことにしたのである。以前のように延々待つことはないだろうけれど、やはり毎月支払いに回るのはめんどくさいと思ってお願いした。

あれから10年以上経ったけれど、この間に公共料金支払いはさらに便利になったのだろうか?建物や職員の働きぶりは変わっただろうか。ちょっと気になっている。

6月のビートルズ

若松恵子

残念ながら、ビートルズと出会った!と思える鮮烈な体験は無い。「ヘイ・ジュード」は吉永小百合が出ていたドラマ「花は花嫁」の主題歌だったし、「シー・ラブズ・ユー」はエドウィンのコマーシャルで知った。

14歳のころに繰り返し聞いていたのは、ビートルズに大きな影響を受けた日本のバンド「チューリップ」だった。ビートルズみたいなチューリップの曲を、原曲より前に好きになってしまったのだ。アビイロードのB面の最後のメドレーを聞くと今でも胸がいっぱいになるけれど、これまでところどころ聞いてきたのがビートルズだった。

今年の4月28日に片岡義男さんの新刊『彼らを書く』(光文社)が出版された。最初の彼らであるビートルズのDVDを取り寄せて休日ごとに家で見ている。リンゴスターがフューチャーされた映画「That’ll Be The Day」から始まり、「エドサリバンショウ」、エドサリバンショウに出演するビートルズを追いかける3人のファンの女の子たちのコメディ「抱きしめたい」、ハンブルグに出かける前までのジョンレノンを描いた「NOWHERE BOY」、ハンブルグ時代を描いた「BACK BEAT」、初めてのアメリカツアーのドキュメンタリー「THE FIRST U.S VISIT」と見ていって、ビートルズと出会いなおした気がした。

劇映画とドキュメンタリーと混在しているのだけれど、どの作品にもビートルズというもののエッセンスがあって、それらの作品を重ねて見ることでビートルズの存在がより身近なものになった。エドサリバンショウに至るまでの道のりを知ってから見ると、輝くような笑顔で演奏する彼らの姿は、また違った印象にうつる。

『彼らを書く』に紹介されている作品は、さりげないけれど、ビートルズを良く描けているものばかりなのではないかと思う。本の帯に「DVD31作品のなかに、いまも彼らはいる」とあるけれど、その通りだ。

今日は6月30日。夜になっても雨を含んだ生暖かい風が強く吹いている。1966年6月29日に、珍しく関東を直撃した台風の影響で10時間遅れてビートルズは羽田空港に着いた。来日公演の映像を残念ながらまだ見ることができていない。でも、今年の私の6月は、ビートルズの6月になった。

仙台ネイティブのつぶやき(55)鳩の家は、どこ?

西大立目祥子

 庭で、真っ白な鳩が動けなくなっていたことがあった。迷い鳩に違いない。草木の中で、ほとんど歩くこともせずじっとしている。しばらくようすを見ていたのだけれど、何時間がたっても一向に飛び立つ気配はない。どこか傷めているのだろうか。日は暮れるし、このままでは猫やカラスに襲われるんじゃないか、と心配になった。
 保護しようと思ったものの、捕獲に役に立ちそうなのは洗濯カゴだけ。そうーっと近づいて上から静かにカゴをかぶせたら、あっけないほど簡単に捕まえることができた。

 家の中で観察すると、血が出ているとか翼がぶら下がっているとか、外傷はなかった。よく見ると、細いピンク色の足に、銀色の鑑札をつけている。暴れもしないので、抱いて鑑札に目を凝らすと「03-××××-××××」と刻んである。もしや東京03の電話番号ではないのか。思いきって電話をすると、中高年と思われる男性が出た。

私「もしもし、あのーどちら様でしょうか?」
男性「はぁ? どちら様ですか?」
と、おかしなあいさつのあと、「仙台からかけているのですが、庭で白い鳩が飛べなくなっていて…」というと、男性は「また、仙台でだめだったか」と話し、こう続けた。
「数日前に岩手の花巻から出発する鳩レースに出したんです。とうに東京に戻ってもいいのに、帰ってこないので心配していたんですよ。仙台上空は越えるのが難しいんです。そこでいつも何羽かが脱落しましてね」。

 純白の鳩はレース鳩だったのだ。
 岩手を下り、北上川を越え、宮城県北のおだやかな丘陵地を飛び、広大な水田地帯を順調に通過しても、仙台に入ったとたんあちこちから飛んでくる電波で鳩の頭脳は撹乱されてしまうのだろうか。でも、なぜうちの庭に? 思い当たるのは北側300メートルの近さに標高60メートルほどの緑濃い丘陵地があること、そしてうちの庭には何本か樹木が茂り小さな池があることだ。もしかすると、丘陵地の頂上に大きな3基のテレビ塔があることが障害になったのかもしれないし、そこをねぐらにする鳶に襲われたのかもしれない。不時着しようとして、上空から光る水辺が目に入ったのだろうか。

「どうしたらいいですか?」とたずねると、男性は「お手数ですが、日通の鳩便をよんで、それに乗せてください、着払いで」といった。鳩便なんてものがあるのか。住所を聞いて驚いた。「東京都新宿区信濃町」。そんな都心でレース鳩を育てている人がいるなんて。
 翌日、電話をすると日通のお兄さんが鳩便の段ボールを持ってきた。ちょうどバレーボールが入るくらいの大きさで空気穴がついている。中に入れても鳩は静かで、フタをされトラックで運ばれていった。無事に着いたのだろう。数日すると、男性からクッキーが送られてきた。お礼の電話をすると、男性は「あれは友人から譲り受けた大事な鳩でしてね」といい、少し鳩レースのことを話してくれた。日本中に夢中になって鳩を訓練し、レースをめざす男たちがいることを初めて知った。今日も東北の上空を、鳩たちは帰りたい一心で住処をめざし飛んでいるのかもしれない。

 鳩といえば、野生のキジ鳩も動けなくなって庭に避難していたことがある。数日、物置で保護していたのだけれど、これもまた飛び立つ気配をみせないので、仙台市の動物園に電話をしてみた。「野生の鳩なら引き取ります」といわれ連れていくことにした。いったいどうやって運んでいったのだったか。覚えているのは、事務棟の階段を上がっているときに、飛べないはずの鳩が急に暴れて逃げようとしたことだ。人に飼われているか、自然の中で生きているのかで、生きものはまったく違う行動をする。

 それにしても鳥はどうやって水辺を感知するのだろうか。数十メートルの上空からでも見つけられるのは、目のよさなのか、匂いによるのか。命をつなぐために、人には想像もつかないような力を働かせて鳥は舞い降りてくる。このごろは定期的に、シジュウカラが水を飲みにくる。春はカッコウが毎日のように通り道にしていた。隣の敷地の桜の花びらの蜜を吸ってお腹いっぱいになると池のまわりで過ごし、どこかへ飛んでいく。ずいぶん前のことになるが、池で金魚を飼っていた頃は、光る魚を狙ってか、大きなサギが下りてきて驚かされたこともあった。

 小さいし汚いし、ドブのような池である。それでも、春になるといつのまにかアメンボが動き、夏にはヤブ蚊がわいて、それを狙うトンボがくる。トンボはここを産卵の場所にしているようで、夏はハグロトンボもシオカラトンボもヤンマも寄ってきた。去年はメダカを20匹ほど放したら、だめになったかに見えて春になったらどこにひそんでいたのか、数倍の数となって現れ、すいすい泳ぎ回っている。水中生物もいるし、くさむらにはカナヘビもいるから、目のいい鳥は、それをめざとく狙って舞い降りて下りてくるのだろう。

 水辺のまわりの生きものの循環。たったこれだけの水たまりが、見えない微生物を育て虫を集め、高く飛ぶ鳥にまでその存在を知らせて、生きもの図鑑のような大きな世界をつくりあげているのだ。水ってすごいなぁと、ながめるたびに小学生のように感嘆する。
 まぁ、待っていても、レース鳩はあれから一度も訪れてはくれないけど。