製本かい摘みましては(155)

四釜裕子

窓辺の本が、けぶるような雨をぬって射し込む光を表紙カバーの銀に集めてきれいだ。小さく並ぶ銀のポツポツはこの本に登場する350冊の〈美しい本〉のタイトルで、漢字は濃く、かなと○は薄く、雨だれのように光って流れ込んでくる。タイトルは、表紙カバーの裏に続いてカバーを外した表紙にも続く。色合いもすごくいい。臼田捷治さんの『〈美しい本〉の文化誌 装幀百十年の系譜』(Book&Design)だ。
箔押しを担当したコスモテック社の方の「note」によると、繊細な文字の表現と、印刷と箔押しの位置合わせが難しかったそうだ。紙は「アングルカラー」のきぬ白、四六判130キロ。ストライプ模様のテクスチャーがあって、その凹凸に左右されることなく箔を押しとどめるための接着剤選びにも苦心されたようだ。そういうことを何ひとつ知ることなく銀の雨だれに見とれたのは、閉じこもりが始まってまもなくの春の雨が続いたころだ。今夜の雨は梅雨前線によるもので、時折吹きつける強風のために窓を開けておくことができず蒸している。

大きくみて、装画家や版画家が表紙絵だけを担った時代から、グラフィックデザイナーが本文の組にいたるまで尽くした時代、そして現在と、日本における洋装本の装幀文化史はたった110年ということにも改めて驚く。さまざまな立場の人が残した装幀にまつわる言葉をたっぷり引用しながら、臼田さんは350の〈美しい本〉について細かく言及する。膨大な数の人名書名社名に羅列感はなく、読んでまずなめらかだ。カラー写真が添えてあるのはごく一部。全て見られたらもちろんサイコーだけど、読み物としての物足りなさを少しも感じない。字数ミニマムを極めた〈美しい本〉への賛辞には妖艶さすら漂う。三島由紀夫が『聖セバスチァンの殉教』(編集・装幀 雲野良平)について語った話のあとはこうだ。《生き物を菰の上から育て上げるのと類するような手間暇と愛情を惜しみなく注いだ本書が理想の美本の代表格であったろうと推測する由縁である》(p216)。

冒頭の口絵16ページにはこんな言葉が添えられている。「時代を隔てたふたりによる〈共作〉」「象徴詩と近代詩へのしつらい」「『装幀は要するに女房役であって、内容をうまくおさめて行くと云う仕事……』」「独自の世界を究めた昭和の名匠ふたり」「詩人装幀の系譜の清新な流れ」「世界的な創造者による稀有な結実」「画家による仕事の新次元」「本文組を起点とする新しい歴史と東西の造本言語の融合と」「プレモダンの劇を鮮烈にかたちにする」「著者自装と九〇年代〈美本〉の白眉」「〈美の使徒〉への至上のオマージュ」「〈版〉の重みと版画家が紡ぐ物語」「確かな感触を取り戻すチャレンジ」。それぞれどんな本が並んでいるかはページをめくってのお楽しみ。

第4章「装幀は紙に始まり紙に終わる 書籍のもとをなす〈用紙〉へのまなざし」から第5章「〈装幀家なしの装幀〉の脈流 著者自身、詩人、文化人、画家、編集者による実践の行方」への流れが特にいい。時代時代で装幀のメインストリームに立つ職種やムードがあるわけだけど、そういうのに任せっきり、あるいは任せられっきりなのにがっかりする臼田さんの姿がときどき現れる。こういうとき、人の側ではなく本の側からしゃべっているように感じる。《装幀が〈素人〉にも開かれ、門外漢がもっと口出しできるような状況が再び来てもよいのではないだろうか》(p157)と言っているのも、〈素人〉擁護でも〈玄人〉批判でもなく、本たちの窮屈の声に聞こえる。

自装は〈素人〉装幀の代表と言っていいのだろう。1920~30年代ころの自装本は《とくに専門のブックデザイン界からの評価はきわめて低》(p164 )く、古臭いと思われているそうだ。どう言われようが私は好きなのでかまわないが、あの時代の自装本が華やかだったのは《出版界にもそれを受け入れる度量があった》からともあるので、一般読者には分からぬ装幀界の窮屈があるのかもしれない。
大庭みな子の『寂兮寥兮(かたちもなく)』や永井荷風の『来訪者』に触れたあとには、《……その自装本の巧拙をうんぬんしても始まらない。いかに等身大の自分自身を出すか、に尽きるだろう。余計な気取りも背伸びも無用。自然体で臨めばよいことをふたりの実践は示している》(p170)と書く。高度成長期以降を代表する編集者装幀の名人としてあげた、萬玉邦夫、雲野良平、藤田三男について述べたあとはこうだ。

《……渡辺一夫の装幀について串田孫一がそれを余儀だとか専門家級だとか枠づけすることが無益であることを的確に指摘したように、三人の装幀術を玄人はだしだとか、あるいはセミプロ級の仕事だとかといったレッテルを貼ることには慎重でありたい。安易にすぎる〈地勢図〉への落し込みになるからだ。三者の仕事は現在の支配的なブックデザイン作法に照らすと、突き刺さるように鋭角的な洗練度には物足りなさがあるかもしれない。が、そうした比較に意味はないだろう。(略)ブックデザイナーにとっては装幀の仕事ひとつひとつはワン・オブ・ゼン。それに対して編集者のそれは、言ってみればワン・オブ・ワンである。この違いは小さくないはずだ》(p218)。

ここに垣間見えるのも本の側でしゃべる臼田さんだ。本書のタイトルすらそう見えてきて、これは〈美しい本〉の自叙伝なのかなとも思う。いちおう言っておくが、ワン・オブ・ワンの装幀をしている装幀家にももちろん言及しておられる。

北原白秋は、自装した第2歌集『思ひ出』の前書きに「こうしてこの小さな抒情小曲集を今はただ家を失ったわが肉親にたった一つの贈物としたい為めに」「而して心ゆくまで自分の思を懐かしみたいと思って、拙いながら自分の意匠通りに装幀」したと書いたそうだ(p157)。志茂太郎の「ツキつめて行けば、紙と印刷だけで本は成り立つ」(p140)にならい勝手に言ってみるならば、ツキつめて行けば装幀は、それを運ぶため、届けるため、手渡すための包みと思う。
本の表紙が、装幀する人や手がけた人、売る人のギャラリーとなり本屋やネットに鼻息荒く並ぶことへの居心地の悪さがある。装幀には本という商品のパッケージの役割があると言うならば、手に取らせる陳列のためばかりでなく、手渡しする包みとしての思いは浮かばないものなのだろうか。臼田さんの「ワン・オブ・ワン」に、本屋の平台の前でときおりひとりごちるセリフが重なる。

彼らには、それが分かる。

越川道夫

得体の知れない苛立ちと息苦しさの中で日々が過ぎ去ってしまった。それでも、まだ梅雨入りの報せが届かない頃は、近くの神社の境内にある菩提樹の花が満開になり、それを毎日のように見上げに行った。細切れの睡眠が続き、何かを漠然と待ち続けているような日々の中で、今月は菩提樹の花に救われるのかもしれない、などと思っていたのだ。しかし、私は何を待っているのだろう?
この春は、私の周りに限って言えば、蝶やトンボを見かけることが少ないように思う。そこここで行われた工事のせいで、彼らの棲息している場所が壊されてしまったのかもしれない。借家の庭にある柿の木が、植木屋にひどく切られてしまったことがあった。裸の木。そうなってしまうとまた実がなるまでに3年かかった。一度壊してしまえば、修復されるまでに時間がかかる。かかるのだけれど、また修復されるところが自然というものの凄みなのかもしれない、廃屋を緑が覆い、やがてその建物を壊し飲み込んでしまうように。
 
映画の撮影をしていると、こういうことがある。例えば、奄美の島で撮影をしていた時、芝居のテストが終わり、スタッフが忙しく照明などの準備をする。多くの人々が動く。やっと準備が整い、本番に行きましょうか、ということになるのだが、人々が慌ただしく動いたその場所は一見そうは見えなくても、踏み荒らされ、その準備の騒めきが消えていない。消えていないどころか、場所は落ち着きなく震えている。言ってしまえば、そこは登場人物たちが暮らす島の場所でも何でもなくなってしまっているのだ。それは、「奄美」に限らない、「いわき」でも、「長島」でも、どこでもそうだった。言ってしまえば、場所は怯え、どこでもない、ただ怯えた空間がそこにはあった。助監督が、じゃあ、カメラを回しましょう、と言う。しかし、これでは何も写りはしない。スケジュールが立て込んでいるので焦る気持ちはあるのだが、ちょっと待って欲しい、とみんなに頼む。この場所が落ち着き始め、その「場所」であるのを取り戻すのをジッと待つのだ。俳優たちもスタッフもスタンバイのまま、待つ。誰も動いてはいけない。動けば、また同じことだ。待っていると、場所はだんだんその「場所」であることを取り戻していく。どこでもない怯えた空間が、その「場所」に、「島」に戻っていく。鳥が鳴き始める。蝶やトンボが戻ってくる。もういいかい、と「場所」と会話をしながら、それを待っている。
 
いつもならば、仕事場への途中で、とまっている蝶やトンボを素手で捕まえる。一心に花の蜜を吸っている蝶に静かに近づき、人差し指と中指をそっと蝶の羽の横に差し出し、羽をなるべく傷つけないようにゆっくりと挟むのだ。モンシロチョウでもアゲハチョウでも、トンボでも。もちろん、すぐ離すのだけれど。経験的な物言いで申し訳ないが、私と蝶やトンボのリズムが調和していると感じられる時には、慌てて指を挟まなくても、Vの字にした指の間にいる蝶はジッとしていて逃げることはない。調和していない時、例えば私の胸の内が騒ついていたりすると、ちょっと動いただけでも蝶やトンボは飛び去っていってしまう。仕事に向かう数分の間、そんなふうに虫たちに遊んでもらいながら、その日の自分の状態を確かめていたのだろうと思う。数は少ないながらも、今年も試し見てはいるのだが、一度もできたことがない。ただの一度も。私の胸の内は、いま随分と乱れ、騒ついているらしい。彼らには、それが分かる。

透明袋に入っていた金魚

イリナ・グリゴレ

18歳になった頃の自分を思い出すと、今でも理解できないことがたくさんある。高校時代は同級生たちと離れて過ごした気がする。いつも自分と周りの子との距離をとって生きていた。人のことより本が好きだったから。ちょうどそのときガブリエル・ガルシア=マルケスの小説とロルカの詩集を友達の母親から借りて繰り返し読んでいた。授業中もずっと読んで、家に帰っても、夜遅くまで読んで、朝起きたらまた読み続ける。

すると、読めば読むほど自分の言葉を失う現象に気づかされた。たとえば、文学の授業では読んだ本について分析したり、説明したり、クラスの前で議論するが、私はそれが一切できなかった。読んでいるうちにトランスのような状態になって、ただただ本の世界に入ってしまう。今にしてみれば、高校生にしか体験できないことを味わえなかったし、周りとのコミュニケーションもうまくいかなかった。高校を卒業する直前に同じクラスにいた子から「あなたと友達になりたかったがどうにもならなかった」といわれた時などは、初めてその子を見た気がして、自分の冷たさにびっくりした。私はこんな冷たい人ではないはずだと思ったが、周りから見ればそうだったに違いない。

あのころから、自分は周りの世界にとても敏感だった。住んでいた団地のドアから入る光、匂い、音の影響を受けすぎたのか、微細な感覚の持ち主だった。本の影響もあった。映画もたくさん見ていたから身体感覚は何倍も鋭くなって不思議な夢を見続けるという感覚が続いていた。自分の内面の世界にとても疲れていたので、周りとの交流に興味がないというより、余裕がなかった。私の見た目もすごかった。当時はあまり個性が認められなかったが、私だけはジプシーに憧れていたので、ジプシーの女性のファッションを真似て、長い、色鮮やかなスカートに髪の毛をいつも二つに分けて三つ編みにしていた。エミール・クストリッツァの映画をいつも見ていたが、いくら映画を見てもそれについて話す相手がいなかったので、自分の頭の中でいろんなシーンを見直して楽しんでいた。どうやって自分を表現したらいいのか、まだ検討していた途中で、一人ぼっちだった。自分の家族と周りにアートに興味がある人はほとんどいなかった。感じていたことを表現する方法は見つからないままだった。

18歳の誕生日を迎えた時、父は私は望んでいたビデオカメラを買ってきてくれた。カメラといっても、古いVHSのカメラなので、撮った映像をどうやって編集するのかわからない。撮りっぱなしのテープをどこかにおいておくだけだった。今のようにどこでもなんでも映像が取れたら、私も自分の表現の道をもっと磨いていたはずだ。やっと、今の時代はあの時に私が望んでいた世界になってきた。どこでも映像を撮れる。すぐ編集できるし、自由に表現できるからだ。

ルーマニアの社会主義の独裁政治に台無しにされた後の地方の小さな町で生きた私を思い出すと、あまりにも可哀そうに思う。ポスト社会主義を生きる自分がいたことに対して複雑な気持ちになる。チャウシェスクの独裁時代を生きていた私の親と比べてまだましだとは思っても、やはり、あのくらい、ねばねばしたトランジションの時代を思い出すと気持ちが悪くなる。まず父の働いている工場が潰れた。新しい仕事をするようになると、ビジネスができる人とできない人の差がものすごくできて、いろんな意味で貧しかった。これでもミドルクラスだ。団地の前のゴミ置き場で食べ物を探す小さな子供たちを毎日団地の窓から見ていた。これって、資本主義だと思いながら、なにもしてあげられないままただただ見ていた。小学校の先生だった母のクラスにそんな子がたくさんいて、ごみ集会所の前で目を合わせると「先生、他の子に言わないでください」と可哀そうな声で言った。母は一生懸命私たちの小さくなった服を集めて、生徒たちにあげていた。町という人の集まりとはこういう格差を生み出す場所なのだ。

18歳の誕生日の過ごし方も個性的だった。町から離れたところ、周りになにもない畑の真ん中に一本の大きな樫の木があるのを知っていたので、あの木の下で一人ワインを飲みたいと親に言った。父は私を連れていってくれて、私がワインを飲み終わるまで何かの儀式のように車の中で待っていた。あの木のようにまっすぐに、なにがあっても一人で自分の道を進もう、という願いからだったのだが、周りの友達はどの子も18歳の誕生日にはパーティーをやっていたので、私の行いは白い目で見られた。

あの日にもらったVHSのカメラで様々な映像を撮った。編集できる機会がなかったので、自分で撮ったイメージを見ることができず、どこかにしまってあった。とてもシュールな映画を撮り始めたことを、なんとなく覚えている。生きた金魚を水が入った透明のプラスチック製容器に入れ、同じ高校の同級生の男子友達に、団地と工場だらけの町を歩かせるという映像だった。今にしてみれば、とても不思議なもので、なぜあの時その映像を撮りたかったのもわからない。日本に来てしばらくして、共通の友達から連絡があった。彼がひどい交通事故で亡くなったという不幸な知らせだった。涙がとまらなかった。

彼と交わした言葉より、あの日ずっと魂のように金魚を手にとって団地と工場だらけの町を歩いている映像が私の頭から離れない。私が最初に撮った映像はそれだったので、彼が今はこの世にいないとは思い難い。彼はあの映像のなかにずっといる。彼の身体がもう存在しなくても、私と彼しか知らない映像の中にいるので、時空間を通して彼は永遠にいる。こうしてみると、映像とはすごい力がある気がする。

今の時代は映像を誰でも、どこでも撮れるので、この強大アーカイブが様々な時空間で残される。私も最近では毎日のように動画を撮りたくなる。動いているイメージは生きていると感じるからだ。ものと人間の本質が現れている気がする。カメラは私の身体の一部になっている。私はこの世界をもっと詳しく、細かく見たい。カメラは私の観察の助けになる気もする。なんとなく、世界はいい方向に向かっていると感じる時もある。

アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』という映画を久しぶりに見た。世界の終わりがくるので自分の家族を7年の間、家に閉じ込める男性の話がある。ある女性聖人が近くに生きていたイタリアの温泉街で、男性はろうそくの火が消えないまま温泉を渡ったら世界が救われると信じて何度もやろうとしていたが周りから止められた。彼はイカれた人間だと思われているが、本質として世界を助けようとした。彼はイエスの言葉をよく理解し、一人で自分を救うということはできない、周りの人を一緒に救わないと世界は救われないと信じていたのだ。タルコフスキー監督自身、映像は祈りだと言いながら映画を作っていた。彼は思想家なのだ。『ノスタルジア』のメッセージは明らかだ、人類を救うには種のように小さくても信念が必要だ。

最近見た夢の中で、私がある古い建物の階段を上がっていたら、誰かが突然私の手を取って上まで上がるのを手伝ってくれた。

18歳の時の自分に戻れるとしたら、私と友達になろうとした子の話を聞いて、一緒に何か楽しいことをし、一緒に笑うだろう。今の時代では100歳まで生きると言われるので、私は18歳でやりたくて出来なかったことを60歳頃からやる。たとえば、人とともに本格的に踊り始めるし、人とともに映画を作る。これからは、自分の身体が透明になるまで世界に開いていく。

しもた屋之噺(222)

杉山洋一

今年は一体どういう年なのでしょうか。一ケ月前に、現在世界が覆われている状況を想像できたでしょうか。Covid-19確認感染者数は28日日本時間21時の時点で1011万1,639人。死亡者数は50万1874人と発表されています。一分後にサイトを読込みしなおすと、既に感染者数が1増えていました。
BLMはこの一ケ月で想像も絶するほどのうねりを見せ、ジョージ・ワシントン像が倒され、ウィンストン・チャーチル像や奴隷解放の父リンカーン像まで落書きされ、アメリカ、ヨーロッパに限らず、アジアにまでBMLは広がっています。
経済の建直しを迫られる各国に、Covid第二波が始まりつつあるともいわれます。東京の新感染者数は高止まりとも言われていますが、再封鎖して経済を止める余裕はないでしょう。日本は非常に危険だった3月から現在までをやり過ごして来れたのですから、このまま何も起こらないことを祈っています。
音楽界も少しずつ再開し始めていますが、一度失敗すれば、それを取戻すのにどれだけの労力がかかるか想像もつかず、本当に少しずつ試しているようです。
数値上ではイタリアは随分収まってきたように見えます。来月、世界が一体どのような変化を見せているのか、想像するのも少し怖い気がします。
少し前まで、皆の笑顔と再会するまで、あとほんの少しかと思った時期もありましたが、また世界が違うエネルギーに引き摺り込まれて、皆の表情から柔和な笑顔が消えてゆきそうなのが不安です。

・・・

6月某日 ミラノ自宅
今日からイタリアは往来が自由になる。が、殆ど生活に変化はない。
母より孔雀サボテンの深紅の花の写真が送られきた。
「久しぶりに大輪が咲きました。孔雀サボテン、本当は此れが10輪も咲くはずでしたが、鉢を落として割ってしまい、蕾は2個だけ生き残りました。でも今年は家にいましたから、大輪を咲かせてくれました」。
眺めるほどに惹きこまれる。放射状に並んだ花弁の中心から、まるで落ちゆく花火の光跡に見えるのが雄蕊だろう。複数の放物線がはらはらはかなく落ちてゆく。夜空に大輪を浮かび上がらせる花火のようだ。花弁の沈むような紅に、雄蕊と雌蕊は、光加減なのか、黄金色に耀いてみえ、時間が止まる。
昨日朝テレビをつけると、マッタレルラ大統領が、人気のないローマのヴィットリオ・エマヌエレ記念廟で、一人、故国壇に建国記念の花輪を手向けていた。大統領が歩を進める傍らで、弔礼ラッパが一人寂しく吹かれ、頭上を9機の空軍機が三色旗を空に描いて飛び去った。
平年なら、記念廟が聳えるヴェネチア広場には見物客が犇めき、数人一斉にラッパを吹きならす。今年は全てが静謐のもと執り行われていた。
それからマッタレルラ大統領は、ヨーロッパCovid発端の地となったコドーニョの墓地に向かい、入口の壁に嵌め込まれた目新しい「イタリア共和国大統領 Covid-19に斃れたものの追憶に 2020年6月2日」と刻まれた大理石碑に、改めて追悼の花輪を捧げた。
「互助そして寛容の精神に、専門職の誇りに、忍耐に、規則の順守に、わたしたちはこの手で触れました。事あるたび、わたしたちは国家の意味と利他主義をあらためて発見しました。わたしたちは苦難の絶頂を前にして、共和国の真実の顔を見出しました。そして今、この掛け替えのない財産を無に帰することなど、どうして出来ましょうか。何よりまず、わたしたちはこの数週間の間にウィルスに斃れた、医師や看護師、医療関係者のみなさんを思い起こさなければなりません。どんな困難にあっても、この絆こそがこれからもわたしたちをより力強く結びつけてくれるに違いありません」。
カリアリの劇場オーケストラでリハーサル再開。ソーシャルディスタンスを保ち、仕切りを立てて演奏しているから、オーケストラも大変だろう。スタジオ録音のように、指揮者もブース毎の音の整理が先決になる。各セクション毎にそれぞれの呼吸や感覚に任せていたものを、否が応でも指揮で併せざるを得ない。東京アラート発令。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロとナディアの姿を玄関の向こうに認める。家族間の往来封鎖も解けて、早速隣に住むアリーチェの娘を迎えにきたようだ。サンドロが満面の笑顔で「おお、何箇月ぶりだろう」と嬉しそうに声を上げると、2歳になるマリアンナが「おじいちゃん、おばあちゃん」と叫んで、駈け寄った。
サンドロが思わず抱きあげようとすると、「キスは駄目ですよ」と隣からナディアが悪戯っぽくい声をかけた。ナディアは先日定年を迎えるまで、ニグアルダ病院放射線科の医師だったから、サンドロの健康管理には細心の留意を怠らない。恨めしそうにナディアを見るサンドロの姿が子供のようで微笑ましい。

192名が死亡した2009年7月5日ウルムチ騒乱までの新疆ウイグル自治区弾圧の流れ、最近高まる抗議活動の発端の一つ、2011年3月のチベット僧侶の焼身自殺から現在まで、そして2019年の香港夏の抗議活動についても、「自画像」に含めることを決める。

戦争、紛争と弾圧との線引きが素人には難しく、数ケ月悩んできた。当事者ではないからわからないし、陪審員を気取るつもりは毛頭ないが、中国各地の問題は、紛争ではなく一方的弾圧に見える。当初、作品には戦争、紛争のみ収録すると決めていたが、こんな曲を書くことも金輪際ないだろうから、後悔したくなくて結局入れることにした。
紛争であれ弾圧であれ、双方言い分はあるに違いない。アジア解放と大東亜共栄を実現すべく日本軍はアジアで戦争する、本気でそう信じて戦った兵士は多数いたに違いない。
息子がイタリアの小学校に通っていた頃、仲の良かった級友のアドリアンに、「お前のこと好きだけど、日本はフィリピンに昔酷いことをしたんだって。お母さん言ってた」と言われ、どういうことか息子に問い質された。戦争とはそういうことだ。

6月某日 ミラノ自宅
マッタレルラは「国家を再発見した」と言ったが、では国家とは何か。
複数国家間で国民に決定的憎悪を植付けるのは、市民、国民レヴェルでは容易ではない。インターネットが進んだ今日ですら、最初の一歩は、市民レヴェルではなく何らかの煽動が介在あってこそ、踏み出せるのではないだろうか。
例えどこかの国家を恨んでも、国家と市民は全く別だ。そこには善人も悪人もいて、自分と気の合うものも合わないものもいる。悪人も気の合わない連中も、国家ではない。
国家として殺戮に参加しても、裁かれることはないかも知れないが、殺める相手を国家ではなく一市民と認識した瞬間から、自らの脳裏には殺人として記憶に刻まれ、途轍もない懊悩に苛まれる。
酷い薬物中毒下で判断不能にされていても、ほんの一瞬でも正気に戻れば、以後一生絶望に打ちのめされるに違いない。今日、世界各地に多数捨て置かれた過去の少年兵たちの記憶を、誰が癒やせると言うのか。

6月某日 ミラノ自宅
シリア国歌を書いている最中に、さとうまきさんのコラムを読んだのは、 毎月のことだから偶然とは呼べないのかもしれないが、ちょうど香港の州歌を書いていて、香港の国歌条例が成立したのを知ったときには、少し気味が悪かった。現在、香港では中国国歌「義勇軍行進曲」を侮辱するのは禁止されている。
2019年香港デモの部分で、香港記念歌「香港に栄光あれ」を使用したが、以前の西沙諸島、南沙諸島紛争に於いては「義勇軍行進曲」を素材とした。
チベット州歌を書いていると、日本のチベット難民と知合ったためか、無意識に感情を籠めそうになる。聴こえない筈のものを、無理に目立たせようとしていることに気が付き、自らを諫める。各旋律を認識させる目的で書き始めたのではなかった。

3月以降、外食、出前、惣菜など一切食べていない。一日三食全て作り、一人で食べるのは、人生初の経験。以前は街の閉鎖で出来なかったが、閉鎖が解除されても、帰国まで病気に罹るわけにいかなくて、気が付けば自炊が続く。

6月某日 ミラノ自宅
帰国前に更新する身分証明書の写真を撮りに出ると、家の前で、車で駆け付けた川本さん御一家と会う。どうしているかと心配して、買ったばかりのキムチと日本米を届けて下さった。ありがたいことだ。ご家族みなさんお元気と伺い安堵する。
作曲終盤、強弱を書き込んでいくと、音が途端に瑞々しくなる。つい音楽的に音を置きたくなるが、感情に流された音は、大抵翌日消去することになる。そうした音には信念がなく、信頼されていないから、身体に纏わりついてくる。
ウルムチ7.5騒乱を書足す。流れで書きそうになる度、消しては顧みている。

6月某日 ミラノ自宅
日記を書留める時間もない。朝3時半に起きて作曲をして、7時過ぎにナポリ広場まで歩きパンと新聞を買って帰る。それから日がな一日作曲。
マリゼッラとメールのやりとり。
「あれから元気にやっていますか。今や欠かせない習慣みたいになったけれど、フランコに宜しくお祝いを伝えてください」
「いつも心遣い有難う。お陰様でわたしも元気。わたしにとっても、今日はフランコを思い出す特別な一日です。いつも思い出しているけれど。あなたもどうか元気で。もうすぐミラノでの一人暮らし日々も終わるわね」
「未だミラノです。漸くオーケストラを書き終えられそう。くれぐれもよろしくお伝えください。今年はヴェローナに花を届けられそうもないから」
「あなたの曲が完成して嬉しいです。どうか日本の演奏会が実現しますように。わたしも何時ヴェローナに会いに出かけられるか、わからないわ。電車に乗るのは未だこわいもの。でもフランコにはよく言っておくから心配しないで」。

6月某日 ミラノ自宅
リコルディのマルコから「Prom」について連絡があり、直後にティートからも電話がかかる。11月ティートがドナトーニ曲再演を考えていて、どれがよいか相談を受ける。電話を切った途端、今度はパオロから「最後の夜」の再演に手を貸してほしいと連絡が入る。まるで皆が彼の誕生日を待っていたかのようで、不思議な心地。
歿後20年。生前、自分が顧みられるのは歿後5年くらいのものだ、10年でも凄い、などと笑って話していたから、20年経ってこうして話題に上るのは、本人はきっと大喜びしている。

日本のSさんより電話あり、この春、封鎖下のミラノで邦人芸術家Aさんが自死されたと聞く。思いつめてアパートから飛び降りた。
街全体が重苦しい空気に圧し潰されそうだったあの頃、誰でもそうなる可能性はあったのかもしれない。
ダヴィデより「diventa pi? chiara quando ridi(微笑めばより澄んでゆく)」の楽譜を送ってくれとメッセージが届く。昨年失った娘がそこにいると言う。
大学研究科終わりに書いた曲だが、していることは現在と大差ない気もする。無意識に同じ場所へ戻って来ていたのか。昔は確信ないまま音を置いていたものが、煩悩も消え媚びる意味も感じなくなって、裡に沸々していたものが、吐露されるようになったのか。向学心の欠落か。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」作曲の過程で取上げたリベリアについて思い出す。
解放された黒人奴隷のアフリカ帰還計画に基づき、1822年初めてアメリカからの帰還者が入植をはじめた。
1847年アメリア合衆国憲法を手本に憲法を制定し、リベリアは建国された。
解放奴隷の入植者、アメリコ・ライべリアンは、同じ黒人の先住民族を差別弾圧し、労働力としてゴム農園で奴隷同様にあしらい、1931年には国際連合から告発されている。
1980年、先住民族出身者によるクーデターで、アメリコ・ライべリアンの大統領は暗殺されると、今度は別の部族出身者が先住民族出身の新独裁者に攻撃を加えるようになった。こうしてリベリアの凄惨で長大な内戦が始まった。
1989-97年の第一次内戦で40万人から62万人が、99-2003年の第二次内戦で15万人から30万人が死亡したと言われる。
リベリアでは、現在でもアフリカ系住民以外投票権を持てないはずだが、黒人が黒人を支配し、互いに怨恨を重ねてきた歴史は、内戦後漸く落着きを見せつつある。併しながら、これだけの命を失った国力は、簡単には戻らないだろう。単に黒人がアフリカに帰れば幸せに暮らせるわけではない。物事を単純化しなければ理解できなくなったのは、我々が思考を放棄しつつある証左かもしれぬ。

ここ数日、ジョージアでアントニオ・スミスが警察に誤認逮捕され手首を骨折したり、ボルチモアのOuzo Bayで、マルシア・グラントと9歳の息子がレストランから拒否されるさまが、インターネットで伝播されている。特に彼女の9歳の息子が唇を噛みしめ屈辱に耐える姿は正視できない。
人口比率が大幅に逆転し、早晩黒人が白人を統制する立場になったとき、黒人が白人を対等の友人として受け止めてくれることを切に祈る。

6月某日 ミラノ自宅
69年から現在に至る紛争地域を巡る「自画像」では、ソマリアやジブチ、エリトリア、リビアの国歌を複数用いる必要があった。言うまでもなく、この半世紀に繰返し戦禍に見舞われた地域で、これら三国及びエチオピアが、第二次世界大戦までイタリア植民地だった。
殊に、1885年から1941年までイタリア統治下にあったエリトリアのアズマーラは「アフリカのローマ」と喩えられ、特に美しい街と仄聞する。未来派建築、ファシズム建築傑作の宝庫で、近年ユネスコ世界遺産に登録され、ミラノ工科大が修復に携わる。
未来派建築は昔から大好きだったから、1938年ジュゼッペ・ペタッツィが設計した飛行機形「Fiat Tagliero」が現在も無事に残っていると知った時には、すっかり興奮した。ファシズム期文化遺産のなかでは、音楽や文学、絵画と比べても、建築は傑出している。これだけ芸術品の名に相応しい建築物の犇めく街はイタリアにも皆無だから、ただ羨ましい。
アズマーラ人はイタリア植民地文化を現在まで受継ぎ、バールでエスプレッソを啜り、アニス酒を舐め、オリーブ油を胡麻油で、小麦をヒヨコ豆粉で代用し、美味しそうな植民地風イタリア・エリトリア料理を食べる。
アズマーラには、最大級のイタリア人学校があって、伊語話者は現在も一定数残っている。ムッソリーニがエチオピア戦線を始めるまでは、イタリア人とエリトリア人は平和的に共存していたとも読んだ。
エリトリア難民は1974年のエチオピアクーデター以降急増し、93年のエリトリア独立戦争後彼らの多くはエリトリアに帰国したが、今度はエリトリアの独裁体制に耐えきれず、イタリアに戻ったものも多いそうだ。
現在イタリアには9000人余りのエリトリア人が暮らし、そのコミュニティの中心はローマとミラノにある。リビアやジブチから船でイタリアを目指したものも多いが、エリトリアを出国できず国境で処刑されるもの多し、とある。

それとは別に、イタリア人とエリトリア人の間に生まれたイタリア系エリトリア人も数多い。
当初入植者として平和に暮らしていたイタリア人と現地人との間に生まれた子供は、80年間に少なくとも15000人にのぼるが、その実、彼らイタリア人の殆どはイタリアで既に結婚しており、本国に妻を残してきたものばかりだった。
そのため、「イタリア系アフリカ人の血統を保護する」という理由をつけ、ムッソリーニは、dqala=混血児と蔑まされた子供たちが父姓を名乗るのを禁じる法律を施行した。本国のイタリア人の血統を重んじたのだ。
その結果、6年前の統計でさえ、未だ300人以上のイタリア国籍申請がアズマーラで滞っていて、認められた国籍申請は現在まで80人足らずと言う。
エリトリアに限らず、イタリア本国に引揚げたアフリカ系イタリア人は確かに多く、良く知っている音楽家仲間にも一人いる。周りは全く気にしていなかったが、暫く前に苗字をイタリア風に改名して、愕いた覚えがある。
彼は特に打楽器奏者だから、アフリカ風の名前なら一層格が上がる気すらしたけれど、それは他人の勝手な言い分であって、本人は複雑な過去を引き摺って生きてきたに違いない。

6月某日 ミラノ自宅
離れていても毎日電話するような関係ではないが、週に一回ほど富山に滞在している息子から電話がかかる。そんな時、息子は決まって伊語で話しかけてくる。日本に滞在していて、伊語も自身のレゾンデートルの一部と気が付いたのだろうか。単語が出て来ないと繰返していて、随分変わったと思う。以前は伊語など絶対話さないと拒絶していた。
イタリアで「中国人」とか「你好」と揶揄われるのが、堪えられなかったようだ。そんな事かと笑いたくなるが、思春期の息子にはさぞ辛かったのだろう。
確かに幾度となく「中国人!」と声をかけられた経験はあるが、こう罵られる中国人を可哀想とこそ思えども、こちらは中国人ではないので、何時の間にか何とも思わなくなっていた。
人種差別は悪だろうが、差別や偏見を持たぬ人間など、どれだけいるのか。自分だって、きっと無意識に人種差別や偏見に参加しているに違いない。せめても他人に向けて言葉を発する前に、今一度顧みる努力を惜しまずに、成るべく美しい言葉を選びたい。

早朝散歩の折、二三日に一度、トルストイ通りのキオスクに立寄っては「レプーブリカ」新聞を買って読むのが日課なのだが、今朝は、ファンファンの封鎖下武漢日記「Wu-han」を購った。報道されない市民生活や政府への不信が赤裸々に綴られている。封鎖期間をミラノで過ごした人間にとって、自らの数ケ月と重なる部分も多々あって、胸が締め付けられる。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」の楽譜データを送付。
3月初めに家族とノヴァラへ向かった際、夜半、宿から友人宅に泊まっていた家人とメッセージのやりとりをして、このままミラノに残り未曽有の経験と対峙した方が、納得できる作曲が出来ると励まされたのを思い出す。
学校の仕事もミラノで闘病を続けていた留学生も含め、家人がそう言ってくれなければ、残ることはできなかった。不安定な状況下で、半年に亙って息子の面倒を一人でみて貰い、感謝に堪えない。
謝意は息子に対しても等しく抱く。家人を支えるよう繰返してきたが、今度会う時には、以前より格段に逞しくなっていると確信している。
毎朝3時や2時半に目を覚まし、5時半くらいまで作曲をしてから、無人の街を暫く歩き、授業や試験がなければ1日作曲を続け、22時くらいには困憊して眠り込む。そんな生活をしていると、身体が文字通り空洞になるほど、感覚が鋭敏になってゆく。
メルセデスから連絡あり。ミラノの成長学研究所(Auxologico di Milano)で血清検査を受けてきたという。結果は陰性。

6月某日 ミラノ自宅
学校から通知が届いた。6月15日より、漸次校内使用を許可してゆくとのこと。尤も、校内の使用は年度末の実技試験が中心で、恐らく室内楽の補講なども行われるのだろう。
務めている音楽院は、ミラノ市立学校というミラノに四つある大学資格の専門学校の一つで、音楽(クラシック・ジャズ)、語学(翻訳・通訳)、舞台(演劇・ダンス)、映画とそれぞれ別組織から成り立っている。
それら四校を取りまとめている財団より、先日の遠隔授業に関するアンケートの結果が送られてきた。興味深いので書き出しておく。各学校は2月24日から遠隔授業を開始している。
全校併せて144名の教師より回答あり。
そのうち73%が今回初めて遠隔授業に携わった。
そのうち58%が理論実地の混成授業。32%が実地授業、10%が理論授業を行った。
それら遠隔授業のうち、65%がヴィデオ会議形式の集団授業、17%がヴィデオ会議形式の個人授業、9%がそれらの混合、3%が資料の共有によるもの、3%が授業実施が不可能、3%が録画、録音を使って行われた。
遠隔授業に際して、33%がスカイプ使用、同じく33%がZoom使用。17%がMicrosoft Teams、2%がWebex、同じく2%がWhat’s app 1%がGoogle meetを使用した。音楽の教師のうち13%は複数の方式を採用していた。
そのうち54%の教師が、遠隔授業は有効と回答。そのうち38%はどちらかと言えば有効、15%は有効と回答。語学校の教師のうち70%有効と回答したのに比べ、映画43%、舞台36%に留まった。
全体の62%の教師が、遠隔授業方法について、何らかの訓練、サポートが有効と回答。そこには語学の68%、音楽の57%の教師が含まれる。
全体の53%の教師が、covid終息後、遠隔授業継続は不可能と回答。しかし語学の62%は継続可能と回答。
全体の71%の教師は、今回の経験に学生は満足していると回答。そのうち59%はどちらかと言えば満足している、12%は明らかに満足していると回答。しかし、肯定的回答は、映画では57%、舞台では46%に留まった。
自由記入欄には、学生側の通信事情の難しさや、人間的な相互の関係構築の困難、精神的、肉体的、視覚的な疲労、教師の準備量の増加など、否定的な意見として挙げられているのに対し、より密な学生との関係構築の可能性、学生が各自より責任意識をもって参加、資料共有などの簡略化、移動省略によるストレス軽減、環境への負担軽減、授業時間の柔軟対応の可能性、他国からの参加の可能性など肯定的な意見も挙げられている。
今後の可能性については、学生に等しくデバイスを供与し、アプリケーションなどの無償使用許可を与えること。独自のシステムの構築。授業外の準備に対する給与保証。

6月某日 ミラノ自宅
あれだけ沢山の音を書いて、曲に書き込めた思いは、せいぜい一つくらいではないだろうか。その一つが確かに演奏者や聴き手に伝えられれば、それ以上の幸せはないが、きっと難しいことだろう。
悲しみと怒りと恐怖。或いは、連帯感に対して、身体の芯に燻る感動や使命感の自覚、足を踏み出すために必要な自己肯定感や、それに対する喜びに近い感情の混交だろうか。
言葉として表現不可能な、混沌、混濁した何か。

長い間RFIのアフリカ関連の番組を愛聴していたから、今回これらの国々の歴史をより深く知る機会にもなった。誰とも会わずどこにも出かけず、家に籠っていただけだが、各地を探訪する心地すら味わえたのも、きっと寂しさを半減させてくれたに違いない。

各国の国歌に触れられたのも大きな喜びだった。初めてソ連邦アルメニア国歌を聴いたときは、端麗で愕いたが、アラム・ハチャトリアン作曲と知り納得した。ハチャトリアンは1942年にコルホーズを舞台にガイーヌを書き、その2年後ガイーヌ三幕の主題を基にこの国歌を書いたのは、ソ連邦賛美の意味もあっただろう。

各国歌それぞれに思い入れはあるが、戦時中に使用されていなかったため「自画像」には使用しなかった現ラオス国歌の旋律も、ソ連邦アルメニアやグレナダの国歌と同じように壮大で美しい旋律だ。
ビルマ国歌から素材を作るため、ずいぶん時間をかけた。往々にして軍事政権が行進曲風旋律を国歌に制定する傾向にあるなか、ビルマ国歌は個性的な前奏を伴い、不思議な魅力をもつ。
複数の国にまたがるカシミール地方のように、独立を目的として独自のスローガン歌を持ることもあった。やはり音楽は力を生み、協調を助けるのだろう。

日本帰国前に片付けなければいけない厄介で、地下鉄に乗ってセストの会計士事務所に出かける。
「車内のソーシャルディスタンスがとれない場合、次の電車をお待ちください」。一駅ごとに煩いほど車内アナウンスが入るが、既に乗りこんた乗客に向かって説教しても仕方がない。車内はある程度混んでいる。座席は隣り合って座らないよう、ステッカーが貼られている。
音楽院の院長選挙の結果、マルチェッロが圧倒的多数で院長に選出された。ジストニアが悪化する前まで、彼には指揮レッスン伴奏など随分世話になっていたから、早速お祝いを書き送る。

6月某日 ミラノ自宅
出発前に体調を崩したら困ると、必要以上に神経質になっていたのか、朝目が覚めると頭が重い。心配しながらナポリ広場まで歩く。日本に戻れば、暫く外出もできない。
歩いているうち気が紛れたのか元気になり、帰国前最後の機会と通っていた焙煎屋に顔を出した。2月以来の再会を喜び、何時ものようにコーヒーを呷ると、実に美味であった。
帰宅後、意を決して芝を刈り、気掛りだった雑木を軒並み切倒す。食卓前に聳えていた雑木は、気が付けば高さ3、4メートルにまで育っていた。

6月某日 東京行機中
朝6時半にタクシーを呼び、久しぶりにミラノの街を出た。とてもよく晴れていて、目の前に未だ雪を頂く雄大なアルプスが広がっていて、思わず歓声を上げた。
ミラノのタクシー運転手は併せて5000人ほどだそうだが、市民は未だ以前のように移動せず、特に夜間の利用客はほぼ皆無で、以前は夜間働いていた運転手も日中勤務に変わったため、現在全く仕事にならないと言う。
一ケ月も家に籠っていると、感覚もおかしくなってくる。ニュースを見れば気分が沈むので、最近はテレビも見なくなったそうだ。
SF小説が好きでよく読むが、我々はSFの世界を超えた状況を生きていて、本当に信じ難い、と繰返した。
週末の早朝だからか、道はとても空いていた。間もなく到着した半年ぶりのマルペンサ空港は、入場可能なゲートが2箇所のみに限定されており、全員検温を受けるようになっている。
早朝だからか、店は軒並み閉まっていて、人も少なく、がらんとしている。アリタリア便は未だ日本へ飛んでいないので、ルフトハンザ便でフランクフルトを経由して戻る。
朝食を摂ろうと喫茶店に入るが、外食は3月初旬以来初めてだから、妙な心地がする。
食後は水と新聞を買い、人混みを避けて時間を潰した。飛行機に乗り込むまで落ち着かず、緊張していたが、こんな思いは本当に初めてだった。
フランクフルトまでは、機体も小さくほぼ満席でよく揺れたが、深く眠り込んでいたからよく覚えていない。ヨーロッパ人が揃ってマスクをしているさまは、奇矯で愉快ですらあった。今後はこの姿が当たり前になってゆくのか。
眼下にフランクフルトの街が見えてくると、こうして外国へ来られたことが信じられず、感慨深い思いに駆られる。
フランクフルト空港に着くと、自由な往来が許可されているヨーロッパ便ターミナルは人も多く活気がある。様々な言語が飛び交う賑々しい風景に、懐かしさを禁じ得ない。少々怖い反面、嬉しくもある。
パスポートコントロールを抜け、ヨーロッパ圏外への航空便ターミナルに足を踏み入れた途端、まるで休止中のターミナルに間違って足を踏みいれたのかと思うほど、人の気配がすっかり失せて、店舗も全て閉まっている。
イタリアよりドイツは開放が進んでいると想像していたから意外だったし、不気味なほど殺風景な光景は、封鎖下のミラノの風景を彷彿とさせた。
羽田便は空いていた。隣の席は空席で、全体を見渡してもせいぜい2割か1割程度しか埋まっていないようだ。これで満席なのかどうか分からないが、Covidの厄介を除けば、機内は快適である。
乗客はそれぞれゴム手袋をつけたり、思い思いに自衛策を講じている。長時間のフライトだから当然だろう。靴を脱ぐ客はあまり見かけなかった。このような状況下で、働いている客室乗務員には、頭が下がる。
機中すっかり「武漢」を読み耽った。「無人の武漢の街は思いがけなく美しく」との下りに、数か月前、久しぶりに訪れたミラノをマンカが形容した言葉を思い出した。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝、羽田空港に着くと、先ずゲートに全員が集められた。日本人のみ30人ほど。揃って海外在住者のようだが、当然だろう。外国人の姿が皆無なのは、乗客は日本人のみだったからのか、それとも外国人は別のゲートに集められているのか、政府が外国人入国を制限しているからか。
機内で予め書き込んだ問診票を検疫官に確認してもらい、順番にPCR検査を受け、別のホールで待機する。近隣のホテルに移動するためには、検査の結果が出るまでホールに留まる必要があるが、公共交通機関を使わなければ、迎えが到着した時点で帰宅が許可される。早朝だったためか、思いがけず全ての手続きが迅速に進んだのは意外だった。
ホールを出てトランクを引取りにゆくと、全てのトランクが名前ごとに並べてあり、一つ一つに手書きの感謝のメッセージが貼ってある。日本人らしい心遣いに感銘を受ける。
予約してあったcovid対応ハイヤーで自宅に戻り、すぐに風呂を使って休んだ。家族が富山に行っていなければ自宅には帰宅できなかったので、有難い。
夕刻、家人が手配しておいてくれた食材宅配が届く。大根、ズッキーニ、玉ねぎ、小松菜、サラダ菜、プチトマトなどの野菜に、牛乳、卵、納豆など。今はこんなものも宅配できるのかと愕きつつ深謝。ドイツ、スペインの一部地域が封鎖されたと読む。

6月某日 三軒茶屋自宅
普段から和食を作るのは家人で、調理下手のせいもあるが、米はつい食べ過ぎて身体が重くなるので、家にある食材でパスタを作る。結局この方が炭水化物を総じて減らせるとこの数か月の経験で分かった。
解凍した桜エビを食べきらずに残しておき、小松菜一把とズッキーニ、大根少々に併せてパスタを作る。イタリアの大根をパスタに入れようとは思わないが、日本産は甘くて柔らかいのでズッキーニとの相性もよく、桜エビの出汁がよく絡む。
夜、先に帰国していたAさんより久しぶりにメッセージ。すっかり元気になり、イタリアの遠隔授業に参加するようになったと聞き、とても嬉しい。
国際通貨基金の経済予測発表。イタリアは前回発表時より大幅に悪化し−12.8%。日本は− 5.8%。イタリア各新聞に、IMF「壊滅的経済予測発表」の文言躍る。

6月某日 三軒茶屋自宅
6月のイタリアCovid推移新感染者数178-318-321-177-270-197-280-283-202-379-393-346-338-303-210-329-333-251-262-224-218-122-296-175 etc.
国内死亡者数60-55-71-85-72-53-65-79-71-53-78-44-26-34-43-66-47-49-24-23-18-31-34-8 etc.
ロンバルディア州死亡者数19-12-29-29-27-21-32-15-32-25-31-23-21-8-9-14-36-18-23-13-3-6-7-22 etc.月別致死率推移
3月1日3.15%-4月1日16.96%-4月21日18.52%-5月1日18.12%-6月1日18.12%-6月25日17.78%
数値でしか表せない人間の命とは何だろう。むしろ、数字は複雑な人生を歩み、人生がたくさん詰まった人間すらも表現できるもの、と考えるべきかも知れない。

ナポリの南、カゼルタ州のモンドラゴーネ、ボローニャ近郊、ジェノヴァ、ピエモンテの北にあるオッソラで新しい集団感染発生。新感染者数ではローマのあるラツィオ州がロンバルディアを超えた。ロンバルディアより早く全面解除された他州で、再感染が始まった。
東京都の新感染者数も55-48-54と続く。検疫所よりPCR検査陰性との連絡あり。引き続き自宅待機を続けるようにとのこと。
マリでデモ激化のニュース。写真でしか知らない、トンブクトゥやジェンヌの壮麗なモスクを思い出す。北朝鮮が対韓国軍事演習の可能性、中印国境紛争再燃。黒人差別問題だけでなく、書ききれなかったさまざまな世界の綻びがより広がってゆく。
目の前の小学校校庭では子供たちが歓声を上げ、体育の授業をやっている。イタリアでは学校は封鎖が続いていたから、久しぶりに聞く子供たちの声に感動する。

6月某日 三軒茶屋自宅
「ウスティカの悲劇」より40年。
1980年6月27日の20時59分、南伊ウスティカ島沖で81人搭乗のイタヴィア機が、不詳の二機の戦闘機からミサイル攻撃を受け墜落。
本来同時刻にリビアのカダフィが同海域を飛行するはずだったが、北太平洋条約機構軍の監視を察して早々にカダフィは引返した。イタヴィア機はこのカダフィ搭乗機と誤認されたと言われる。
裁判で証言するはずだった関係者が全員、揃って裁判直前に謎の自死を遂げ、真相は未だに明らかになっていない。
近海で訓練をしていたのが、唯一フランス艦のみだったため、イタリアではフランス軍の誤爆と考える市民が多いが、フランスは当然一切認めていない。81人の命と引き換えに、第三次世界大戦開始が、水際で回避されたとも言われる。
その三年後の1983年の9月1日、ソ連防空軍によって、領空を侵犯した大韓航空機が宗谷沖で撃墜され269人が死亡した。世界のどこでも冷戦の緊張がはりつめていた。
北大西洋条約機構のなかで、イタリアだけ国内の共産党勢力が突出していて、疎ましいことも多々あったのだろう。その名残は現在の一帯一路、果ては今日のCovidまで連綿と繋がる。
近代まで欧州の支配階級だった英仏独と、イタリアはどこかで一線を画している。昨年8月、追悼の作曲コンクールに指揮で参加した1980年8月2日のボローニャ駅爆破テロとウスティカの悲劇も密接に繋がっていると言われるが、どちらも真相は明らかになることはないだろう。左派テロとも、右派テロとも言われるが、巻き添えになるのは何の関わりもない我々市民に他ならない。
当時はそんな時代だったとも思うが、マレーシア航空がウクライナのドネツクで誤爆され298人も亡くなったのは、今からわずか6年前のことだ。
本日イタリアの新感染者数174人。死亡者22人。


(6月30日 三軒茶屋にて)

「出口の町」

管啓次郎

さびた橋をわたってゆくといい
電柱が樹木に変身中だ
垂直と水平がどこでも戦っている
また窓の不安がつづく
水路が心にひび割れさせる
あれはセイタカアワダチソウなのそうなの?
この風景こそ人の世のキワだ
そして終わりはいつでもやってくる
居住が無くなって土地にシメナワが張られる
だが土の下は1kmはあるはずだ
掘ってゆくつもりなら根気よく
決算を裏返して否定するのか
用水路は潜在的には奔放な大河
車がランダムな方向に逃げてゆく
また終わった、途切れた道が
明るい墓にぽつんと立つ女は白い服を着て
空は鏡のように曇っている
五色の吹き流しで苗床を守れ
どんなに守っても空にさらされている
雲の美しさ、美しい重さ
幽霊のように十字架が立っている
幽霊のように鳥たちが舞っている
土は山脈
もぐらは見えない
この先で直進するか左折か
水の光にふるふると脅かされている
ビニールハウスほど恐いものはない
つづく窓の恐ろしさ
区画された天国の扉
舗装なき道が川のように流れて
住宅を岸壁に変える
巨大なプレートが翼のようだ
おかげで川が生気を取り戻した
生気を与えることで生気が湧いてくる
この道には舗装がない
木々もすっかり裸になって
美しく瘦せている
葉のない枝が空をかきむしる
空に読めない文字を篆刻するのだ
古墳のような丘があって
聖域を定義しなおしているらしい
遊ぶ子は神々か、踊るのか、泣くのか
枯草が海のように荒れている
道のすぐ脇の通行不可能
突然に西洋が現われた
どこにもない西洋の亡霊だ
「暴戻」という言葉は使ったことがないな
人間はみんなそれだ
それが得意なのだ
人が占有した空虚が道路なら
私が花を咲かせましょうと樹木がいう
夕方の光がルートインを燃やし
すでに闇にある水を怒らせる
その家の住人は知りません
空が重いから必ず右へゆけ
「れ」の命令を守れ
霊は死にません組に投票しましょう
命がカナトコのように重い
水のように重くて運べない
氷のようにすべってほしい
ペイント屋の手前で花が道を守る
この道路もやはり誰も通らない
まるで牢屋のようにフェンスがつづく
この小川は渡るなと鎖がいう
重機(ローラー車)がぽつんと待っている
サッポロビールを飲みにゆこうよ
ほら、その先の紫の花を曲がってください
江戸切り蕎麦のそばに変な屋根がある
またニセの西洋
ここにホンモノは何もない
すべては既視の光景だったが
歩いていると
どんどん見慣れないものになってゆく
SALVAGEというが何を救うんだ
頬にエンボスされたタイトルの光
アスファルトが水の皮膜におおわれて
その奥の小さな部屋に住むのはきみだ
「住宅」と書かれた軽乗用車
水田の中を曲がってゆきな
整った白い箱に住む人々もいる
あの片流れの屋根を見ていると
どうにも苦しくなる
広すぎる駐車場に車はいない
草が飛んで戻ってきた
水の層を避けて生きるのか
かまぼこ型の孔があいた建物や
丸い木に守られた家がある
山は遠いか、気配は近いか
車たちが集まり出口は見つからない
家が問題だ家の屋根が
区画のゆがんだ水田
壊している/放置された建物の構造
光が棄権する
危険な角度において太陽を避けようと
塀際を歩く
一本の電線の下をゆく
誰も着ない洋服を由麻はどうする
樹木が頭髪のように刈られて
むきだしの地面を見ている
下着姿の女
2/4は軽乗用車、窓は黒い
アパートの窓が観客席のように多いな
スリットになった窓は機械山羊の目
白い砂利をばらまきながら
太陽光発電を支援している
ここまで来たら住めないでしょうというくらい
ブロック塀の中は森に戻った
クリスがクスリのアオキに通うため
地面に道ができました
もう作物はできない
水たまりは湖のように広がる
使われない車に青いシーツをかけておく
過去十年のうちに塀が倒れてしまった
それも緑の反乱だ、遠くが明るい
雲は厚いが夕方の光がやってきた
影を連れて
小さな人が歩く姿が光の刷毛で
暗い緑にさらりと描かれている
道が終わった
道が道を回避する
鳥が飛んで道を回復する
その先では亜熱帯を制作中
棕櫚が泣きながら灰色に抵抗する
この道を使ってはいけないこのアスファルトを
標識が三角形の白い顔をして
さびしそうに笑っている
高架があるときその下で何かが途絶えた
行き場がなくもう出口もない
だんだん写真に映らなくなってきた
もうこの絵を見ているだけでいいよ
そこで出てそこを走ると
THE SPORTS AUTHORITY があり
TOYS ‘R’ USがある(Rは鏡文字)
荒れる海のような中央分離帯だ
命を預けたくないので
病院のまえは必ず迂回する
ここにも奇妙な西洋パティスリあり
とても人が住める気温でない夏だ
温度や湿度というより雲の色だ
灰色だ、人を拒絶している
鳥獣や霊を歓迎している
そしてまた濡れた路面があって
草が勇気のように湧いてくる
側溝にかぶせた網目の蓋が
心を割る
それから非常に場違いなigrejaがあった
ポルトガル語の祈りが聞える
不法投棄された石の群れが
血を流しているように見えるだろう
そこからゆっくりカーヴする道は
誰も住まない充満した町
あの街路樹はなんといったっけ
桐生に海はないのに競艇場があるのか
そこに広大無辺な無料駐車場あり
森を作るつもりか雨上がりの地面では
緑の予感がゆれる
そして整地された廃屋(まだ人が住んでいる)
そしてピュアな恋愛ホテルの裏は墓場
突然出現する朝鮮飯店で
しゃぶしゃぶでも食べようかな
スロープありて軽が並びし夕方を
そのまま絵にしたわけだ
この道はもう使わないので
植物たちに返そう
アスファルトも自由に割ってください
マグマを割るように
この広場なら水たまりでいいです
車はおとなしくお尻をむけている
この季節にはツツジ咲き
できそこないのアメリカのようだ
その証拠にはごらんあちらに
自由の女神が立っている
手前には「土」がつまれて
(さくらっ子? もぐらっ子?)
さらに地面に孔が開いている
いらないものは高架道路下で回収します
ここにきみの心や
誰であれ死体を捨てないでください
その先にぽつんと立つ新建材住宅は
もうじき太陽からも捨てられそうだ
そうなったらさようなら
さようなら
すべてが救われて
出口はまだない


(吉江淳写真集「出口の町」全3冊の観察から)

梅雨の日々

高橋悠治

人間が地球の隅々まで入り込んで そこにいた動物たちを追い出し 草木を切り倒しているうちに バクテリアやウィルスをお返しにもらうことは これからもなくならないだろう だからといって 閉じこもって暮らすのは 長続きしない 人間はじっといてはいられない動物で さまよい歩くほうが向いている と言いたくもなる

6月は毎日のように出歩いていた 小さな店がならぶ通りや 裏の小径 大通りは人気がなく 大きな店は閉まっていた

録音が二つ 声とピアノのために書いた曲を波多野睦美と フローラン・シュミットの連弾やダリウス・ミヨーの朗読とピアノの曲を青柳いづみこと 知らない音楽で 自分では選ばないような曲に出会うと それが自然にできる他人の手がふしぎに見える

それが終わって 7月のリサイタルの練習にもどると 手が まるでちがう動きかたに とまどってしまう 1966年にはじめてアメリカに行った時に出会い それから何年かつきあっていたポール千原の音楽 近藤譲を通じて知ったリンダ・カトリン・スミスの曲(井上郷子が2013年日本初演している)

ポールの『サヨナラ』という ベートーヴェンの『告別』ソナタと美空ひばりの『リンゴ追分』が聞こえる曲で終わるので プログラムの最初に『告別』を置いてみた 引退公演だと思うひともいて それもいいかもしれないが 生活のためには まだピアノを弾いているだろう それでも 大きなホールではもうリサイタルはできないだろうし しない感じがする リサイタルというかたちよりは その前からある 何人かの合奏やソロの入り混じったかたちのほうがおもしろいだろうし まだ知られていない可能性があるかもしれない

小さな曲を作る機会はまだある 長い曲は 他人の時間を使って作られる オーケストラや合唱は それぞれちがう人たちをひとつにまとめようとする 反対に まとまろうとするものを散らし 続こうとするフレーズを邪魔して 隙間をいれる サティやモンポウのように短い曲 ヴェーベルンの結晶のようにまとまって閉じていない 言いさしのように 先が見通せない曲がった道のように 断片のように 途切れとぎれて いつか聞こえなくなる音楽 そう思っていても 終わったところで 終わった感じができてしまう これをどうしたらよいのか

2020年6月1日(月)

水牛だより

東京の6月は雨であけました。気温も低く、梅雨が近いことを感じます。明日はまた暑いという予報。暑くて湿度が高いときのマスクはつらそうですね。できるだけ薄くて楽なのを、などと考えていると、マスクをする意味を見失いそうになります。

「水牛のように」を2020年6月1日号に更新しました。
「シリア水牛物語」を読んで、パソコンで検索できることを知ったとき、最初に検索してみたのは水牛という動物についてだったことを思い出しました。しかしほとんどなにもわからないというのが当時の実情でガッカリ。タイでは農耕のために飼われている水牛は家族みんなにかわいがられている農家の財産でもあったことは知っていました。木製の鈴を首にかけられて、歩くたびに乾いた木のいい音がします。鈴はみな違う音がするので、自分の家の水牛の音は聞き分けられる。もうすでに失われた光景かもしれません。
最近、というのは自粛生活の少し前のことですが、水牛のミルクで作ったモッツアレラチーズをはじめて食べたのですが、想像どおりのやさしい味でした。

きょうはBSで映画「タクシードライバー」を見ました。そして、水牛通信でも1980年6月16日に光州について手書き(!)の号外を出したことも思い出しました。当時ともっとも違っているのは通信手段だと、あらためて感じます。

来月も無事に更新できますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

シリア水牛物語

さとうまき

赤ベコがアラブ人にとっては豚のように見えるらしい。そこで、いろいろ考えてサッカーのベコにしてしまえという奇策を編み出した。しかしもうこうなると、赤い牛という本来持っていた無病息災のパワーがなくなってしまうのだ。まさに、赤ベコは会津地方に天然痘が流行した時に子どもを病気から守るお守りとして重宝されたのだ。

シリアの小児がんの子ども達も封鎖が続き病院に行くのも大変だ。我々が支援しているイブラーヒーム君8歳は、サッカーが大好きでFCバルセロナのメッシのファンだという。久しぶりにサカベコを作りってイブラーヒーム君に送ってあげたいなあと思ったのだ。

コロナ禍は我が家にも襲ってきた。10歳の息子が1月に、札幌から倶知安に転校して、あまり学校になじめていなかったそうだが、コロナで学校が休校になり、STAY HOMEで母親との関係に行き詰まり、部屋に閉じこもってしまったという。それで、しばらく面倒を見てくれないかと別れた妻に頼まれたのだ。

うちの息子は、何か役に立ちたいと思いながらも、思春期に差し掛かり、自分ではどうしていいかわからずに、癇癪を起していた。
「あのさあ、君とね、同じくらいの男の子ががんと闘っているんだけどさ、ちょっと手伝ってくれない?」
いやだ、いやだ、を繰り返す息子も、素直に顔を赤く塗って目とか口を描いてくれた。で、水牛の角を付けたらどうだろうって話になり、紙で角を作ってみるとこれは、どう見ても水牛。豚には見えない!

ところで、シリア人は水牛を知っているのかなあ。イラクには水牛いたけどシリアにはいるのかなあと思ってググってみると面白い記事を見つけた。
https://www.middleeasteye.net/features/where-they-no-longer-roam-syrias-disappearing-water-buffalo

水牛は、普通の牛より空腹にも耐え、乳を出す量も多いらしい。水牛のミルクから作ったゲマルと呼ばれるバターというか生クリームはとてもおいしくて蜂蜜や、ナツメヤシのシロップと一緒に食す。イラクでも南部バスラの湿地帯でよく見かけた。

シリアでもハマという町の北部は、オロンティス川が流れ、水牛の放牧が盛んだったらしい。しかし、2011年の内戦が始まると川を挟んで、アサド政権と反体制派が激しい戦いを繰り広げる。この地域にいた水牛は600頭から200頭に減った。戦闘が激化して、避難するために水牛を置き去りにし、飢え死したり、食肉用として屠殺されたり、実際に空爆や銃撃戦で水牛が被弾して亡くなった牛もいる。

この記事は2017年に書かれており、今はこの地域は完全に政府軍が支配している。牛飼いたちは、また水牛の放牧を始めたのだろうか? 水牛を追い求めてまたシリアに行きたくなった。水牛のベコはきっと戦争とコロナで疲弊したシリアに福をもたらすはずだ!

さらに調べていくと2004年にシリアで発行された水牛の切手が出てきた。私がシリアで働いていたのは1994年から96年だったが、もちろんその当時はインターネットなんかなかった。電話すらアパートに引くことはできず、国際電話をかけるのには電話局に行って、とてもめんどくさい手続きをしなければならず、一度もそういうのは使ったことがなかった。日本には手紙をよく書いた。切手はというとアサド大統領(当時はバッシャールの父のハーフェズ)の肖像画。値段が違うと色違いになるだけ。ベロンと独裁者をなめるのはどうも気が引けるし、苦い味がするに違いない。しかし、それ以外の選択肢はないからひたすらべろんべろんとなめ続けた。民主主義がないというのはつまりそういうことなのだ。

そのあと1997年からパレスチナで5年間暮らしたが、当時は、パレスチナ自治政府ができて、初めてパレスチナの切手ができたというニュースで沸いていた。切手はというとアラファト議長。ベロンとなめると甘かった。民主主義は置いておいて、彼岸のパレスチナ切手だから苦い筈はない。そしてイラクに行くと今度は、サダム・フセイン切手。さすがにイラク戦争のころはインターネットでの通信ができるようになり、切手はお土産に売ってただけでなめる必要はなかったが相当苦そうな感じ。

この水牛切手が発行された2004年といえば、シリアはすでにバッシャール大統領に代わっていたが、バッシャール大統領は当初は、自身を偶像崇拝の対象にはしたくないというタイプだった。そしてインターネットの通信がシリアでも主流になりつつあったので、バッシャール切手は作られなかったのだと思う。2011年の内戦をしぶとく生き抜いたバッシャールは、立派な独裁者になっていて、先日シリアに行くと2000シリアポンド紙幣にバッシャール大統領の肖像画が刷り込まれていた。まあ、お札はなめる必要がないので救われるのだが。
ともかく、これからは、水牛のベコが活躍するので乞うご期待ということで。

しもた屋之噺(221)

杉山洋一

月末までに書きあげようと思っていた新曲は未だ仕上がらず。この場に及んであろうことか、昨日一昨日は眩暈にやられて、30時間ほど昏々と寝込んでしまいました。関係者のみなさんには、ただただ申し訳ない思いに駆られています。
本日イタリアの死亡者総数は70人。新感染者数は593人。ロンバルディア州知事は、これなら6月3日以降ロンバルディア州を完全に開放可能だろうと話しています。現在イタリアの確認されている感染者総数は231732人。そのうち快復者は150604人で64パーセント。死亡者総数は33142人で14.3パーセント。現在の患者総数は47986人で20.7パーセントと書かれています。

5月某日 ミラノ自宅
明日からイタリア開放への一歩が始まる。15人までの制限つきながら、禁止されていた葬式がようやく再開。
初めてスクリャービンの自作自演で2番ソナタを聴く。聴いてみたかった演奏に思いがけず近くて、愕いた。特に声部は整理されないから、むしろ雑然とした印象すら与えるかもしれない。ただ、それぞれの音が一つの空間に同等にきらめき、漂い、主張しながら、感情には流されない。聴かせたいものを提示するために音があり、感情発露の手段ではない。
1969年の北イエメン国歌を、誤って新国歌で作り、一から作り直し。イタリア一日の死亡者数は174人まで減少。総計28884人の死亡。快復者81654人で17242人が入院中。

5月某日 ミラノ自宅
封鎖解除2日目。朝五時半、二か月ぶりにナポリ広場まで歩く。この時間は人通りもなく、今までと変わった印象はない。敢えて言えば、使用禁止だった24時間営業の自動販売機が使われていたことくらいか。パン屋より先に足を延ばしたのが2か月ぶりで、遠出を禁じられていた子供が、冒険心につられてちょっと遠回りするような新鮮さは味わうことができた。
7時半にパン屋に出向き、封鎖が解けて何か変わったか尋ねるが、やはり今日のところは余り違いはないと言う。「未だみんな怖いんでしょう」。日本政府は非常事態宣言延長を発表した。

朝10時から夜8時半までズームを使って授業。いつも教室で教えていても十分疲れるものを、オンラインで教えれば、教師も学生も困憊は倍増する。朝5時過ぎから作曲したが、困憊しきった夜はほとんど机に向かえない。オンラインでの授業はおそらく秋以降も続くだろうと聞いた。
6月以降許可される予定の限られた教室の使用は、指揮や室内楽のレッスンなど、どうしても対面でなければ出来ない課程に宛がう必要があって、教室もそれぞれ広さによって入れる人数が厳しく制限されている。一番大きい講堂ですら同時に入れるのは最大10人で、何時もレッスンや授業に使う109番教室は最大5人というから、指揮の個人レッスンは伴奏ピアニスト2人入れても何とか使用可能だが、15人、20人と学生が集う耳の訓練の授業など、現在の状況では到底教室では行えない。

学校のマッシモとズームで話す。現在の状況は、深い霧の中、船乗りが目視で恐る恐る進んでいるようなもの。来年以降のことなんて想像も出来ない、と笑った。とにかく今年のカリキュラムを片付けなければならない。指揮レッスン補講は9月後半文字通り毎日入れてやりくりし、来年度の始業も一ケ月遅らせる運びだと聞いた。

5月某日 ミラノ自宅
無限に並列された情報に塗れていると、選ばれた言葉や音の方が、ずっと心の深い部分に沁み通るのを改めて実感する。言葉や音は感情表現の手段として発達してきたが、古来それは不完全なままであって、言わば四捨五入された表現とすらよべるものであった。
かかる端数が切り捨てられた大雑把な表現だからこそ、伝える内容に幅が生まれ奥行きが広がり、それらの歪さが豊かな表現を生み出して、我々に強い印象を残すのだろう。

戦後、コンピュータ開発が進み、大雑把だった素材が悉く現実に肉薄するようになり、人間の表現能力、判断能力を超えるようにもなったが、それは四捨五入の時代、読み手や聴き手が無意識に補っていた、人間本来の想像力すら侵食しつつあるのかもしれない。
形にして録音を残す意義、後世に資料を残す責について思いを巡らす。消費とは何か。今まで消費と効率ばかりが評価基準に充てられてはいなかったか。
ここよりもう少し郊外にあるチスリアーノで、血清実験開始。今日は195人が亡くなり、1225人が快復した。

5月某日 ミラノ自宅
美恵さんへのメール。
「イタリアに予定調和は皆無ですが、各人が毎日の人生を大なり小なり発明しつつ生きぬいてきていて、肝が据わっているかもしれません。政府を信じてもいないし、自国を持ち上げる気風もないけれど、他の欧州諸国より優れた文化を育ててきた妙な自尊心もあって、不思議な国です。昔から列強のヨーロッパ諸国から植民地扱いされてきているから、強かなところもあり、結局他国を信じていない」。

そんなイタリアが事もあろうにCovid最初の感染拡大国となり、急遽防疫体制を仕立て、欧州から援助も得られぬまま、孤立無援で対応を迫られた。その後、結果的にイタリアが作った防疫体制を各国が倣い、それを下敷きに各国が対応に当たった。有事で何より重要なのは、潤沢な資金だとイタリアの誰もが痛感させられた。本日クレモナの死亡者は0人で、73日ぶりだそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
朝4時半、家のすぐ傍で、保線車両が大きな汽笛を鳴らした。封鎖解放に併せ保線作業を進めているのだろうか。
朝5時過ぎ、ナポリ広場に向かって歩いていて、身体の強張りを不思議におもう。数か月間の思考の強張りが身体にまで影響しているのかもしれない。この時間、鳥たちの囀りが賑やかで、全方角から燦燦と降り注ぎ、人間より余程知能に長けているように聴こえる。我々が進歩と信じてきたことは、著しい退化の一途ではなかったのか。ふと疑心暗鬼が頭をもたげる。

フランクフルトよりAさん帰国。空港での検査は陰性だったが、暫く空港周辺のホテルを借りたとメッセージが届く。
「思い出すと辛くなるんです。色々とよい経験をしたのに、よくわからない怒りがこみあげてきたりして。何とも言えない気持ちです。誰が悪いわけでもないし」。
イタリアの不法滞在者をこの機会に正規滞在者に認定し、アスパラガスやイチゴの収穫に借り出す試案をベッラノーバ農林政策大臣提出。不可視だった不法滞在者をゲットーから解放し、健康管理をすることこそ、イタリア国民全体の安全に繋がるという。
イギリスの死亡者数がイタリアを上回ったが、それでもイタリア国内で1444人もの新感染者。369人の死亡者と8014人の快復者。

5月某日 ミラノ自宅
月。赤く巨大な月。早朝歩いていると、目の前で月が沈んでゆく。月も燃え尽きるようにして沈んでゆく。庭の階段の下に、燕が巣を作ろうとしている。
朝パン屋に出かけると、このところ、以前より街に人が溢れていて怖いという。毎日日がな一日家で仕事をしていると変化を感じない。家人にはサティのVexationsを全世界とズームで繋いで一日がかりで演奏しようとの誘いが届いた。Aさんからは2回目の検査も陰性と連絡が届く。記憶に蓋をして溢れる思いを堰き止めていると言う。
イタリアは今日一日で243人が亡くなり、総計30201人に達した。イギリスに次ぎ、3万人を超える犠牲者を数える。

5月某日 ミラノ自宅
ニグアルダ病院のベルガモーニ先生とやり取りをし、小児科・小児脳神経科が担当している社会的有用性の非営利団体あてに日本のAAR難民を助ける会から寄付金1万ユーロが届けられる運びとなる。柳瀬房子さんからの有難いご提案を押し頂いた。
ニグアルダ病院に寄付する、と言っても、受付先は何ヶ所かあって、そのどこにするかを何度か相談した上で、結局寄付金の使用用途が確認し易く、covidで治療に支障をきたしている子供たちの話を伺い、息子もお世話になった小児脳神経科へ直接寄付を決めた。Covidのため病院で受け入れられなくなった、遠隔治療を強いられる家庭への支援器具等も含まれている。
深山さんより新しいCDが送られてきた。彼女と音とを真空の空間が繋いでいて、音が発せられる瞬間まで、彼女の感情は無為に音を歪ませない。

5月某日 ミラノ自宅
現在のところ、まったく使う必要のない公共交通機関だが、今後はバスや路面電車に乗る際、手袋をしなければいけない。使い捨てゴム手袋をスーパーや薬局で探すが、全く見当たらない。息子が通っていた小学校前の文房具店が思いがけず開いていて、A4コピー紙を購入した。「どうなるのかね」。久しぶりに女店主と話す。「とにかく仕事しないとね。先ずは学校が開いてくれないことにはね」。

もう何年も指揮伴奏を担当してくれているマルコに女児が誕生し、写真が送られてきた。不思議に、自分が最初に息子を抱いて撮った写真や、家人の写真にも似ている。母親は出産の大仕事を終えて、顔つきが似るのも分かるが、父親の姿もどことなく似るのは面白い。小さすぎる赤ん坊に少し戸惑い、初めて抱くと、これでいいのか、という表情になるのが初々しい。
友人より日伊便6月欠航決定の知らせ。「今朝延期のメッセージを見て、気持ちが崩れ落ちました。メッセージには、ほぼ世界全土の長距離便キャンセルが書いてあり、事態の深刻さが示されていました」。153人が亡くなった。封鎖後最も低い死亡者数という。

5月某日 ミラノ自宅
誰もが少しずつ精神を病んできている気がする。子供の頃から、時として無性に叫びたくなることがあったのを思い出す。ベッラノーバ大臣が不法就労者を正規化する法案を成立させ、涙ながらに発表。朝歩きながら、何箇月も全く人と触れ合っていないことに気付く。当然ながら、釣銭一つ手を介してやりとりしていない。2月には、アメリカにいたジョンのお母さんがCovidで亡くなっていた。
ベルガモでは墓地が開いた。ウクライナの国歌を書いている最中、2014年スラヴャンスク紛争で命を落としたイタリア人報道写真家アンドレア・ロッケルリの記事が新聞で目に留まり、ルワンダの国歌を書いているとき、フェリシアン・カブガがパリで逮捕と知る。偶然に違いないが、これらの出来事が日常とこれほど近しいとは、全く気付いていなかった。

レプブリカ紙、ピッコロ劇場演劇アカデミー所長インタビュー。
今回の事態についてアカデミアは、来年度の大学初等課程に相当する三年コースを特例として一年増やし、そのうち半期は本年度分の捕捉に充て、残りの半期は続く上級課程に等しい準備期間として充実させると言う。授業料の問題や教師の補充さえ解決できれば、理想的な方法には違いない。
古来、演劇は幾度となく伝染病を乗り越えてきた。だから今回どんな状況で置かれても、きっと演劇は未来に残ると確信し、より深く踏み込み、充実した授業計画を立てたと語る。何かを信じている。

ストラヴィンスキーは迫りくるスペイン風邪流行の中「兵士の物語」を書いた。彼自身もスペイン風邪で床に臥したのち、ディアギレフの依頼で「プルチネルラ」を書き、結果的にそれが彼の新古典時代を切り拓いた。しかしこの古典回帰は、本当にディアギレフだけが切っ掛けだったのか。第一次世界大戦や感染症で荒廃した世界は無関係だったのか。無意識であれ、何か顧みる思いがそこには生まれなかったのか。今後、我々がどうなってゆくのか興味がある。
94人の死亡者。そして2月以来初めての500人以下の新感染者数。

5月某日 ミラノ自宅
2月、家人が自分で開けたシャンパンの蓋を、誤って自分の眼に命中させた。翌日どうも調子が変だと言うので、二人で救急病院に出かけ順番を待っていて、不安に駆られた家人から、結婚して一番幸福だった思い出を尋ねられた。
家人曰く、息子の出産だと言う。暫く考えて、自分には、息子が退院した時が一番幸せだったと気が付いた。退院した日そのものの記憶は曖昧だが、その前後の日々をまとめて、幸福を噛みしめていた。窓を開けると、小さなトカゲが頭を傾げ、こちらをじっと見つめていたが、暫くして逃げてしまった。

家人より「お父さんがすべて間違っている。あのままミラノにいれば無駄なお金も使わず、離れて暮らす必要もなかった」との息子の言葉を聞き、妙に嬉しい。
結果的に彼がそう思える状態こそ、この不自由な日常で最良の選択だったと思う。漸く自らの選択に納得することができた。今回の事態に限っては「何もこの必要はなかった」と云われる程度で丁度良い。

5か月ぶりにミラノ大学の前まで散髪に出かける。ナポリ広場より先へ出掛けるのは4か月ぶりだ。
マスクをつけて自転車を漕ぐと息苦しく、急いではいけない。人通りはほぼ前と同じに見える。もっと感動があるかと思ったが、不思議なもので、全て夢のようにも見える。
車の通りも前と変わらず、抜け落ちたこの数か月の実感が湧かない。バスや地下鉄を使えば違うのかもしれないが、一人で自転車を漕いでいる限りでは分からない。

今も自分の精神状態が以前の通りに戻ったとも思えないが、少なくとも2月から5月の半ばまでは、特に緊張を強いられていたのはわかる。鏡に映る自分の姿が老けたように感じるのは、白髪が目立つからだけなのか。ところで一日中、あちらこちらで教会の鐘がひっきりなしに鳴っているのは何故だろう。

何年も連絡が取れなくなっていた母の姉の消息が思いがけなくわかる。残念ながら、叔母は2年前に既に他界していた。
こうして書き出しながら、頭の中を空にしてゆく、頭の中の要素を少しずつ減らしてゆく。すると必要なものが漸く見えてくる。

5月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めて間もなくだったから、もう25年近く前、当時ライプツィヒに留学していた同期のピアノの学生と二人でベルガモの街を訪れた。彼がライプツィヒをそろそろ終えるから、とイタリアを訪問したような記憶もあるが、定かではない。

初めてベルガモを訪れ、どのようにして丘の上の旧市街まで着いたのかも、今となっては思い出せない。ただ覚えているのは、コルレオーネ礼拝堂の荘厳なだんだら模様のファサドと、その左隣、聖母大聖堂(サンタマリア・マッジョーレ)の翼廊口に鎮座する、二頭の赤獅子像のみなのは何故だろう。印象的な赤味を帯びたヴェローナ石で彫られた獅子たちは、長年の手垢でてかりを帯びていて、1353年ジョヴァンニ・ダ・カンピオーネの作だと言う。なるほど、当代一の彫刻家の作だから、印象に残ったのかも知れない。
その時、日本の神社の境内の狛犬に似ているのが不思議だったのと、古い微かな記憶の奥で、小学校三年生終わりの自分が、狛犬の上で遊ぶ小学三年生の自分が写りこんだ、日に焼けたモノクロのスチール写真を思い出していた。

この写真は、代々木八幡神社の境内で、大原れいこさんが写真家の人と一緒に番組用に撮ってくださったもので、恐らく今も町田の実家のどこかに残っている。
当時、母がマッシュルームカット風に髪を切り揃えてくれていたから、狛犬に跨り、その長めの髪を垂らして、愉快そうに斜め下に視点を落としていた覚えがある。
何十年も経って沢井さんと野坂先生の演奏会に大原さんが駆けつけて下さったとき、初めて紹介した息子は、ちょうど同じ歳頃だった。彼女の記憶はそのころの洋一くんで止まっていたから、何度となく息子に向かって「洋一くん」と声を掛けては、「あらごめんなさい、また間違えちゃった」と無邪気に笑っていらした。

どういう経緯で、大原さんと今井さんの間で「子供の情景」のアイデアが持ち上がったのかよく分からないが、ともかく大原さんから頼まれた「子供の情景」を書いているとき、左半身が麻痺した息子と二人で、ニグアルダ病院のよく冷房の効いた病室から、暑く気怠そうな外の風景をぼんやり眺めていた。

大原さんと最後にお会いしたのは、表参道の路地裏にある彼女の行きつけの蕎麦屋だった。岡村さんと三人でささやかに彼女の誕生日をお祝いした。道すがら、すっかり元気になった息子が、この夏アイルランドに英語研修に行くと張り切っていると話すと、彼女もアイルランドがとても好きなこと、オハラという名字がアイルランドにあって親近感を覚えてね、などと、嬉しそうに話していらした。

あれから、ほんの短い電話だけは何度か通じたけれど、殆ど会話らしい会話もできぬまま、先日届いた訃報に言葉を失った。
「考えれば考えるほど寂しくなります。どうしてでしょうね。天国にいらっしゃるはずなのに。遠いんでしょうかね」。そんなことを岡村さんに愚痴ったりした。
今朝、荒木さんから「子供の情景」のヴィデオがインターネットに載せられていると便りを頂戴して早速拝見した。最後に大原さんと演奏会でお会いした時の記録だった。

5月某日 ミラノ自宅
三善先生から頂いた端書を棚に飾り、毎日何となしに眺める。ざくっとした太めの筆感、しっかりとした指先で、じっと筆重をかけ、ねじこむように書かれた筆跡を眺めると、無意識に背筋が伸びる。
軽井沢から送られてきた端書だが、裏面には瀬戸内海の風景画が描かれていて、何故だろうと思う。すると、何の気なしに階下に足が向かい、気が付くと寝室の書棚から詩画集「いきてる」を手に取っていた。三善先生が詩を寄せ、雨田光弘先生が絵を描かれたもので、町田とミラノと一冊ずつとってある。
夜明け、ふらふらと病院に吸い寄せられるようにして思いがけず立ち会った祖父の臨終のように、自分の意志とは関係なく、誰かに呼ばれるようにぼんやり手に取っただけだが、ふと函に書かれた先生の題字に目を落とすと、突然涙が溢れた。
「いきてる」と先生の声が聞こえた。
何年も開けていなかったから、蝋ひき紙にくるまれた布表紙の本を出すのに苦労したが、目にした途端、年甲斐もなく号泣した。この数カ月身体に溜まっていたものが突然噴出したように、誰もいないのを幸いに声を上げて泣き、木の机の涙の染みを腕で拭いつつ日記を書く。

いきてる 三善晃 1986年

こないだ おかしかったな
        いもうと

ふたりでけんか  してたら
とうちゃんが  おこったろ
なにしてる  って

いきてる  と  おれ

いきしてる  と  おまえ


とうちゃん  ぽかんとしてたな

         それから

そりゃ  すばらしい  がんばれ

         だとよ

ひとりでいると 
 みんながいる

みんながいると 
 じぶんがいる

なにもないとき 
 ぜんぶがある
    みたい

おれが ぜんぶだ
 なにもないから

—-

ここで
ながいこと おまえを
まっていた   のは

おまえがいないことは
なになのか  を

おれにわからせるのに
どれだけひつようだ  と
おまえがかんがえたのか  を

かんがえるため  だったのさ

—(中略)

あそうぼうぜ みんなと

あそびのはじめは
だれもえらくない

    あそぶと
えらいやつと
えらくないやつが
   できるけど

それだけさ

あしたはあした
  はじめから

おまえが なけば
おまえのなかのおれは
たいがい なく

みんなが わらえば
みんなのなかのおれは
たいがい おこる

おれは しねない
  いそがしくて
  ややこしくて

   ずいぶん
いじわるしたな
   おまえに
いじめたな
   おまえを
けっこう たのしく

おれのしたことで
おぼえているのは
それだけだ ほんと

 だから おれが
 ごめん いったら
それだけよそれだけよ
 いみ あるのは

 それ
 いつか いう

いきてるか
 と おれがきいたら
いきしてるか
 と おれにきいてくれ
      いもうと


いもうと

あき
はなみずきのめが
らいねんのはるを
だきしめている いま

(5月29日ミラノにて)

コロナ蟄居

冨岡三智

5/25の全都道府県の緊急事態宣言の解除を受けて、また状況が変わる。先月号で「4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった」と書いたけれど、残りの1校が6月1日から対面授業に決まった。この大学は医大で必修科目が多いため、オンライン授業も当面(最短で5月末まで)という予定だったのだ。さて、来月はどんな状況になっているだろう…。

閑話休題。

この緊急事態宣言下での家籠り生活が長くなってきた頃、昔の武士にとって蟄居閉門が刑罰になるという意味が分かったという内容のツイートを見かけて、なるほどと思う。家にこもるのがわりと好きで落ち着いていると先月書いたけれど、少し気疲れがたまってきて、最近それがあまり抜けなくなってきた。人に自由に会ったり話しかけたりできないのも拘束感を覚えるものなのだ。これが蟄居生活というものか…。6月からは週に1コマだけだが通勤が発生する。もう1セメスターの半分は過ぎたから、今さらの通勤に少しめんどくささも感じているけれど、気分が晴れるかもしれない。

ちあう、ちあう

イリナ・グリゴレ

ヴァルター・ベンヤミンのエッセイを読み始めると、2歳の娘は私の手から本を取って、ページをめくり始めた。翻訳することについて読むところだったが、彼女の動きに集中している顔を夢中になって観察し続けた。最近では、本棚からいろんな本を出して読むふりをしている。「これはすごい」というリアクションをしたり、ずっと文字を見続ける時もあったり、写真だけ見て本を床に置いたりする。絵本を渡すと「ちあう、ちあう」(違う)と大きな声で言って、邪魔しないようにとアピールする。彼女にとっては文字と言葉は、日本語であっても英語であっても大人とは違うものだ。目で写真を撮っているように、一枚、一枚のページを見ている。ベンヤミンがいう理想的な翻訳に近いかもしれない。彼女にとって読むことはまだ言語化することではないので、すべて違う、すべて同じような言葉が「見える」。

子供が新しい言葉を作る能力はすごい。長女もそうだった。いまだになにを意味するのかわからない言葉がたくさんある。例えば「シャバデイ」という言葉を長女は1歳半から使っているが、まだ意味を掴めていない。次女も5月に「モモイ」という言葉をずっと使っていたが「鯉のぼり」のことを指していたことがはっきりした。こうしてみると人間は幼い時からイゾラドかもしれない。たくさんの習慣と言葉が心の中にこもり、通訳と解釈は常に難しくなる。

『悲しき熱帯』では、先住民たちが自分の身を綺麗な花とビーズを使って飾るシーンが私には印象的だった。母親になって自分の娘たちが同じ行動をするのを見た。次女は素裸になって過ごすことに加えて、飲み物と食べものをもらうときに一つの儀式を通さないとなにも始まらない。それは「クラ」に似ているともいえる。「クラ」とはトロブリアンド諸島で行われる交易のこと。娘は牛乳を欲しがっているが、最初にコップを渡そうとすると、「ちあう」と言って、受け取ろうとしない。大体三回ぐらいこの動作を繰り返し、最終的に満足した顔でもらって飲んでいる。

まだ解釈できない習慣がたくさんあるなか、踊りと歌が大好きな娘たちをみて、21世紀の人類学のことを考えてしまう。人間の一人一人の身体は島であると感じる。各島の環境と植物、動物、細かいところ、細胞まで解釈も翻訳もできない、言葉で押し付けることのできない生き物の本質の現れを探る。例えば、日本語で翻訳されても翻訳しきれない本、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの『千のプラトー』、一つの全体としての身体を翻訳しきれない。翻訳をするのではなく、「一つの言語」から「一つの言語」へではなく、子供の感覚に戻るといいかもしれない、いつか、お互いに言葉だけではなく、イメージなど、もっと様々なコミュニケーションができるかもしれない。『不思議の国のアリス』のティーパーティーを思い出してみよう。参加者はお互いに話し合っているけれど、お互いになにを喋っているかわからない。言葉だけで足りないのだ。

娘たちを観察して思った。もしかたら人間とは「イヤイヤ期」がまだ終わってないのではないか? 昔見た『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』という映画では、たくさん詰まった言いきれない言葉が溢れるまでのパフォーマンスが描かれていた。最後は主人公が川に落ちて子供のように泣いているシーンだった。人間の身体に詰まっている感覚、感動、愛情の塊は「言葉」だけでは伝えにくい。私たちの日常の中では、「言いつくせないもの」でお互いの「コミュニケーション」の壁を破けない日々を生きている。

「人類学」の最初の授業では、丹野正先生が狩猟採集民アカ・ピグミーのところにいらっしゃった最初の日のことについてお話ししてくださった。荷物も水も食べものも持っていかなかった。もちろん、言葉も知らないまま、ただ彼らの近くに座って待っていた。すると、夕方になると、一人の女性がその日男性たちが狩りをした肉を丹野先生のところへ持ってきたのだ。言葉の先に人間は「分かち合う」ことをする。このイメージは私の頭からずっと離れなかった。子どもも「笑う」こととか、踊ることを分かち合おうとする。はじめて会う人にも持っている食べものなどをあげようとする。

ベンヤミンの言葉も翻訳されて、解釈され続けている。彼が「アウラ」と呼ぶものは非常に興味深い。なぜ「アウラ」という言葉を選んだのか、少し分かる気がする。彼の遊び心が現れている。「アウラ」は、あるイメージを直接的に読んでいる側に伝える。彼の書き方は非常にパフォーマティブだ。この意味でベンヤミンは「言葉」から「言葉」にではなく、「言葉」から「イメージ」への道を提案したのだ。

そういえば祖母に久しぶりに会った時、最近みた夢について家族で語り合った。皆の夢のイメージがリアルすぎて、祖母の家の小さな部屋にいくつものプロジェクターがあって、それらが投影されているような気がしていた。

仙台ネイティブのつぶやき(54)今日も塗り、明日も塗る

西大立目祥子

 4月の初め頃、軒並み中止に追い込まれていく新聞下段のコンサート情報を眺めていたら、小さな記事が目に入った。
 「第60回東日本伝統工芸展」とあって「東京・日本橋三越本店で開催予定でしたが中止します」の一文。もう工芸展までだめなんだ…と思いながら記事に目を戻して、おっと思った。「写真は、朝日新聞社賞の伴野崇さん(長野県佐久穂町)「乾漆合子『残照』」」と記され、卵を寝せて下を切ったような赤い漆塗りの蓋付き容れ物がカラー写真で紹介されている。伴野くんだ!彼は私の若い友人なのだ。

 確か数年前にも同じ工芸展で同じ朝日新聞社賞を受賞していた。年末に「作家によるうるしおわんうつわ展」という展示会が、池袋の西武アート・フォーラムで開かれ、出品するという案内をもらったまま、連絡もせず気にになっていた。がんばっているんだなあ。おととし、人間国宝である師匠の小森邦衛のもとから年季明けで独立し、輪島から故郷の長野に戻って工房を構えたところだった。このタイミングでの受賞は、きっと励みになるはずだ。
 何年かぶりで電話をしておめでとうというと、変わらない口ぶりで「そうですね、独立して受賞できて、よかったかな…そうなんです、なぜか前と同じ朝日新聞社賞で。載ってるよと知らせてくれた人がいて、自分もそれから新聞を買いにいって」などとぼそぼそと話す。浮き足立つこともなく、いつも静かな水面が胸の内にあるような感じだ。

 伴野くんと初めて会ったのはもう15、6年も前。仙台で幕末からつくられてきたという仙台箪笥の取材のために「門間箪笥店」という箪笥づくりをする工房を訪ねたときのことだった。仙台箪笥は、指物と塗りと金具という3つの職人技がなければ完成しない。表の店舗にしか入ったことのなかった私は、このとき初めて奥の工房まで足を踏み入れることができ、古めかしい木造の工房の中で鋸を巧みに引くベテラン指物師や床に座って黙々と塗りを続ける若手塗師や女性塗師の姿を見ることができた。その中に伴野くんもいたのだった。うつむいて絶え間なく手を動かしあまり喋らない。職人さんの中では際立って若く20歳を過ぎたくらい、まだ少年っぽさが残る、目の涼やかな若者という印象だった。

 そのあと何回か会ううち、高校中退のあと、ものを作る仕事がしたい、箪笥はどうだろうと考えて全国の箪笥産地を訪ね歩き、門間箪笥店がいいと仙台にやってきたのだと聞いた。確か当時、伴野くんはやけに頑丈なつくりの黒い自転車─仙台ではかつて米の運搬に使われていたことから運搬車と呼ばれている─に乗っていて、足元はいつも下駄だったような。朝8時から働き4時半過ぎに仕事を終えると、急ぎ市立高校の2部に通うのだった。えらいね、というと、淡々とした口調で「でも、昔の人はみんなこうだったと思いますよ」という。真面目で、静かなのだけれど芯棒のようなものが一本通っていて、昔の青年はこうだったのかなぁと会うたび思わされた。「明治とか大正とかに生まれた方がよかったんじゃないの、生まれる時代を間違ったのかも」とつい口に出し、はははと笑いあったような記憶がある。

 知り合ってしばらくして、私は伴野くんと、その同僚でちょっと年上の指物師の阿部くんに呼び出された。門間箪笥店の近くの喫茶店に行くと2人は隅の席に窮屈そうに並んで座っていて、あいさつがすむと思いつめたような表情で「仙台箪笥を伝承する会をつくるので協力してほしい」というのだった。聞けば、伝統的な技術を受け継いで見える仙台箪笥も、その形、材料は明治期とはずいぶん違っている。一度、昔の素材と工法で一棹製作して原点に立ち戻り、人とモノのつき合い方を問いたいという。その後、2人は自治体の助成金を獲得するために審査会のプレゼンテーションに臨み、箪笥研究では第一人者の小泉和子さんに原稿の依頼をし、冊子を制作の費用を捻出しようと広告とりに歩いたりもして、「仙台箪笥復活祭」をやってのけた。1年近く準備にかけたのではなかったろうか。いま振り返れば、ファストファッションのような安い使い捨ての暮らし方が広がる中で、世代をこえて使われるような伝統的な箪笥をつくり続けることへの若い人ならではのひりひりするような危機感があったのだと思う。

 この会の代表としてあれこれ考え、人に会ううちに伴野くんは変わっていったに違いない。あるとき「輪島の漆芸研修所に行って勉強し直します」と聞かされた。箪笥は堅牢さを追求しながら大きな面を均一に塗るような仕事だけれど、もっとたくさんの漆芸の技法を学んで繊細な仕事を極めたいという気持ちになったのだろう。 
 居酒屋を貸し切ったお別れ会には、30人か40人かとにかく大勢の人が集まり門出を祝った。私と伴野くんとのつきあいは限られたものだったし、暮らしぶりもよくわからなかったのだけれど、10年に満たない仙台在住の間にずいぶんと友だちをつくり、いろんな人に親しまれていたんだなあと、親戚のおばさんのような気持ちで人の輪の中にいる伴野くんをながめた。

 何かいい餞別はないだろうかと思案して、ああ、そうだと思いついたのは、宮城県北、鳴子温泉に残っている澤口悟一(1882〜1961)が製作した「猩猩の大皿」を見せることだった。この町出身の澤口は漆芸の研究に生涯を捧げた人で、集大成として昭和8年に著した『日本漆工の研究』は日本学士院賞を受賞した。東京美術学校時代、夏の休暇で帰省するたびに製作したというのが、直径120センチの見る人を圧倒するようなこの大皿である。結局在学中には仕上がらなかったというエピソードが残されている。鳴子には澤口の弟子となり、いまも塗師として活躍する小野寺公夫さんもいるから、その話も聞かせてやりたい。がんばれよの気持ちで、私の仕事のときに車に乗せて連れて行った。

 石川県立輪島漆芸研修所で5年、さらに小森邦衛の弟子となって4年。その間、どんな思いで何をつくり、どこをめざしてきたのかは私にはわからない。でも、作品展のパンフレットや工芸展のHPに掲載されている作品をみれば、細やかな目と腕を持つ自立した作家になったことが伝わってくる。私にはとうてい見えないものを見て、想像もできない道に分け入っているのだと思う。昨年暮れに送ってくれたパンフレットに載っていたポートレートはきびしい大人の顔だった。

 一度、人から譲り受けた2段重ねの弁当箱を輪島に送り修理を頼んだことがある。傷んではいたのだけれど、はげ落ちた漆の下はしっかりと麻布でまいてあるので、手入れをすればよみがえるかな、と思ったのだった。1年以上がたって戻ってきた弁当箱は見違えるようだった。漆の盛り方、蓋の縁の処理などに勉強ぶりがうかがえた。お節を詰めたり雛祭りの料理を盛ったり、伴野くんの顔を思い浮かべながら大切に使っている。ていねいに手をかけてつくったものを使うときは、蓋の開け閉めにしても使い終わって洗うにしても、使い手の扱いもおのずとやさしくなることを教えられる。

 伴野くんに限らず、これから塗師たちはどんな道を歩んでいくのだろうか。精進、献身…そんなことばを身の内に構えとしてつくられなければ、続けられない仕事だろう。見るたびに美しいと感じられ使用にも耐える暮らしの道具をつくる仕事でありながら、連綿とつながってきた技術をつぎの塗師へと手渡す使命も負う。考えれば考えるほど、かけることばが思いつかない。今日も塗り、明日も塗る。それ以外に道はないことを誰よりも知っているのは、彼ら自身なのだから。

 ところで、伴野くんは最近結婚した。おめでとう。よかったなあ。私は祝福しながら、やっぱり親戚のおばさんみたいにどこかほっとした気持ちでいる。彼の中のいつも静かな水面にも、ときおり楽し気な水しぶきが立っているだろうか。 

みね子のモダン本

璃葉

実家からもどる際、祖母のみね子が所有していた本をいくつかもらってきた。
明治・大正期の作家の初版本を昭和中期に復刻したもので、そこそこ貴重なものなのかもしれない。神保町の古本屋街でも同じものをたまに見かけることがあったが、そのたびに実家の畳部屋の隅に置いてある、みね子の古びた書棚が頭に浮かぶので、もはや私の脳内では“みね子の本”という位置づけでしかなかった。
実家整理中のいま、飾りのように並んでいるその本たちをなんとなく放っておけず、勢いで東京行きの段ボールに仕舞ったのだった。

東京の自宅アパートに戻り、段ボールからみね子の本を取り出す。
本はどれも二重函仕様で、本体はグラシン紙に包まれていた。グラシン紙はとても繊細ですぐに破けてしまう。でもこの薄くて脆い紙のおかげで、色褪せることなく良い状態に保たれているのだ。触るたびにぱりぱり鳴る乾いた音は嫌いじゃない。
慎重にグラシン紙をはずすと、表紙はずいぶん派手な朱色だった。ページも小口もヤケどころか汚れもなく、真っ白と言っていいほど綺麗で、自分が生まれたときにはすでにあった本であるのに、もしかするとほとんど読まれていなかったのかもしれない。汚してしまわないように、丁寧に扱わなければと再び慎重に函に戻すが、一冊一冊確認するたび、どうしても読み始めてしまう。
部屋いっぱいに雨の気配がたちこめる深夜2時、名だたる作家たちの文章に、さっそくページをめくる手がとまらない。

製本かい摘みましては (154)

四釜裕子

広辞苑を買った。3月末にいきなりテレワークが申し渡されて数日後、ひと月くらいで終わる感じではないし図書館も閉まったし、うちには広辞苑がないのでなんだか急に心細くなり、せっかくだから近くの本屋で買おうと出かけたら閉まっていて、悔しいけどネットで買った。翌々日、配送屋さんがピンポンを鳴らして「重たいものです」と届けてくれた。ここ最近はお互いのために「ボックス置きでお願いしまーす」と言うわけだけれども、生ものです、とか、大きいものです、とか、言ってくれるのだ。いつもありがとうございます。

前にあった広辞苑はその昔、高津駅前の新刊書店横の小道を入ってラーメン屋の隣の古本屋で函なしカバーなしを買ったのだったが、まだ営業しておられるだろうか。2年前に郷土史家の鈴木穆(あつし)さんを高津に訪ねたとき、落馬打撲とか腎盂腎炎とか急性難聴とかで何度もお世話になった病院が駅前をすっかり飲み込んでいてびっくりした。駅前の府中街道を右に数分、大山街道の交差点にあった名物店(骨董屋というかガラクタ屋というか目の前を通るバスやダンプぎりぎりに掲げるディスプレイと裸電球が絶妙)もなくなっていた。この店のことは写真家の鬼海弘雄さんが『東京夢譚』の「第13話 アルミの急須と愛の証」に書いている。しかしちょっと離れると以前のままの家並みもあって、当時の私は鈴木さんをはじめ近隣のひとと親しくしていたわけでもないのに、思い出すままに話すうちにこの町に懐かしく迎えられたような気になるのはいい気なものだ。鈴木さんが「タウンニュース」高津区版の創刊(1996.5.23)から22年9か月、1085回連載した「高津物語」は、『高津物語(上・中・下)』としてまとまっている。

さてその広辞苑は数年前の引越しで処分していた。第七版が出た2018年には自宅で紙の辞書を引くことはなくなっていたので買っていない。充電さえできているスマホがあれば、いつでもどこでも誰かと話をしているときですら、なんでもだいたい調べて分かった気になれる夢のような暮らしだ。しかし分からないことがあまりにもさっと分かるのから、そもそもその程度の分かる・分からないはどうでもいいんじゃないかとか、分かる・分からないにたいした違いはないんじゃないかとか、調べてるつもりが調べられてるだけだよって検索のむなしさにフッと気が遠くなる。それはたぶん、答えが一瞬で目の前に出るという登場のしかたにも問題がある。パッとあらわれるということはパッと消えるということで、実際なにもかもほとんどパッと消えている。

辞書で引いたところでパッと消えるのは経験的に分かっている。だけど、辞書は引くもの、調べるものというよりは読むものだなと今は実感できていて、だからそれはパッと消えてもいいんじゃない、とも思える。いまだ広辞苑に「新村出編」とある理由を聞かれた岩波書店辞典編集部の平木靖成さんは、〈国語辞典でありながら百科事典も兼ねて一冊本を作るというコンセプトからずれたら『広辞苑』とは言えないので、そのベースを新村先生が作ったという記念として将来もはずせないものだと思います〉(ブクログ通信 2017.11.30)と言っていた。姉に初めて辞書の使い方を教わった日を思い出す。姉の赤い国語辞典を借りて何か言葉を引いたのだけれど、説明に書いてあることがまた分からないのであった。すると姉が「それをまた辞書で引くんだよ」と言う。あっちをめくりこっちをめくりすればいつか分からないことがなくなるということだった。すごいと思った。ただし、それは辞書ではなくて教えてくれた姉がすごいと思ったというのがかわいいところ。しかしあの異様な驚きがこのタイミングで蘇ったのは意味があるかもしれない。

広辞苑のつくりをじっくり見てみる。外函にうっすら浮かび上がるのはオーロラの写真か。辞書本体と付録の冊子も入ったこの函ごと全部で3.3kg。本体の厚みは8cmある。表紙カバーの紙はごく淡いクリーム色で、全体にマットな黒を引いて文字と岩波書店の種まく人のマークを紙色に抜いてある。表紙のクロスは、はなだ色と言っていいのかな。背に銀箔でタイトルなど。そして、実は今回初めて気付いたことがある。背に、安井曾太郎による白鷺に葦とさざなみ(かな?)の絵柄が浮き出ているのだ。背の凸凹には気付いていたけど、使い古してノリが浮いた跡とばかり思って気にしてじっくり見たことがなかった。見返しは灰色。扉は、表紙カバーの紙色に近い淡いクリーム色で、見返しの紙に近い灰色と錆色の2色で枯れ木立ち風の絵とタイトルがある。

本文紙は扉に比べると少し赤みがある。刊行時に特に話題になった「ぬめり感」を確かめてみる。自分の指と紙の関係のぬめぬめもさることながら、この薄い紙どうしの関係におけるぬめぬめがすごいと感じる。実は今、いっときのトイレットペーパー不足により紙問屋の店頭でようやく買った一枚仕立てでかたく巻いてあるタイプを使っていて、なかなか気に入っているのだけれど残り8分の1くらいになると巻きがうまくはがれてこなくなるのだ。トイレットペーパーよりずいぶん薄い広辞苑専用の本文紙も抄紙後は巨大トイレットペーパー状になっていたわけで、ひとロールどれだけの重さになるのか、それがみなすっとむけるとはなんてすごいことだろうと、思うのであった。

広辞苑の本文紙が特注品である理由も刊行時に話題になった。製本の機械が厚み8cmまでしかできないので、より多くの項目を入れるためには紙を薄くするしかない。開発に5年。結果、第六版から1万項目追加で140ページ増えても厚みは8cmにおさまった。第七版の140ページで5mm弱あるから、そうとう薄くなったと考えていい。薄いと透けるが、それではまずい。不透明度を高めるために「酸化チタンがまぶされた」という表現を当時のニュースで読んだ。開発した王子エフテックスのサイトを見ると、不透明度を保つポイントの一つは〈紙の中に填料を留める技術〉。流れ出ないように定着するということだ。それと、通常は抄紙の際に上から下の一方向に脱水するのを両側から行うなどして、鉱物である填料が偏らないようにするそうだ。版元がこだわるぬめり感(静電気で指にまとわりついたり、次のページが一緒にめくれたりせず、快適にページをめくっていける絶妙な触感)は、特別なコーティング材のたまものらしい。

5月25日は1955年の初版の発売日で、「広辞苑の日」として毎年誕生日を祝っているそうだ。昨年、DNPプラザ(DNP=大日本印刷株式会社。初版から秀英体で広辞苑を印刷)で開かれた「広辞苑大学」では、初版1冊分の清刷(組版を印刷したものを撮影して5分の3に縮小したものを製版としてオフセット印刷。片面印刷なので5冊に分けてある)や、コピー用紙で作った「広辞苑のコピー本」を展示したり、刷り出しで缶バッジを作ったりしたようだ。今年は静かに誕生日を迎えたのかな。遅ればせながら、7度の全身改造を経た65歳に羨みと敬意を表しつつ、第七版に記された装丁に関わる表記のいくつかをここに抜き書きしてみます。

『広辞苑 第七版』岩波書店

扉裏)
装幀 安井曾太郎

p1618)
せいほん【製本】原稿・画稿・印刷物・白紙などを糸・針金・接着剤などで綴じて表紙をつけ、小冊子・書籍などに形づくること。和装本(和綴じ)・洋装本(洋綴じ)に大別→装丁(図)

p1695)
そうてい【装丁・装釘・装幀】(本来は、装(よそお)い訂(さだ)める意の「装訂」が正しい用字。「幀」は字音タウで掛物の意)書物を綴じて表紙などをつけること。また、製本の仕上装飾すなわち表紙・見返し・扉・カバーなどの体裁から製本材料の選択までを含めて、書物の形式面の調和美をつくり上げる技術。また、その意匠。装本。
*付されたイラスト〔装丁〕には「角革・平(ひら)・角・地(罫下)・ちり・しおり・耳・背・溝・平の出・みきり・天・小口・扉・花ぎれ・のど・見返し・カバー・帯紙・遊び紙・見返しの遊び」が記される。

p1699)
そうほん【装本】本の表装。装丁。
ぞうほん【造本】書物の印刷・製本・装丁、また、用紙・材料などの製作技術面に関する設計とその作業。

p2569)
ブック【book】(略)―・デザイン【~ design】本の、装丁から本文の書体まで全般にわたるデザイン。(略)

p3185)
後記
(略)
 装丁は初版以来、安井曾太郎氏の手になるものである。外函の写真はInmagine123RF株式会社のお世話になった。(略)
 大日本印刷およびDNPメディア・アートの方々にはコンピューターを駆使した編集資料の作成と組版・印刷において、王子エフテックスの方々にはより薄く高品質の本文用紙の開発・抄造において、牧製本印刷・松岳社の方々には堅牢で使いやすい造本において、多大なるご尽力をいただいた。
(略)

奥付裏)
本文用紙 王子エフテックス株式会社
表紙用クロース ダイニック株式会社
見返し・カバー用紙 特種東海製紙株式会社
本文製版 株式会社DNPメディア・アート
本文印刷 大日本印刷株式会社
扉・函印刷 株式会社精興社
製函 株式会社加藤製函所
製本 牧製本印刷株式会社

マスクドットコム★2020

北村周一

ほんのりとマスクの表に色づくは神の絵すがたはたまた黴か
 
煩雑な経路をたどりゆくゆくは届くのであろう配給マスク
 
舌の根も乾かぬうちにあらたなるウソが飛びだす マスクを伝い
 
かの総統の手口にまねぶ男ありて一に恫喝二に布マスク
 
嘘と狡とマスク二枚が束ねられ 民をあざむく手口の暗さ
 
ほんとうのことは言わない(言わせない)マスクつけても嘘は飛びちる
 
減らず口かくすためある愛用のガーゼ・マスクはいつも新品
 
マスク越しに交わす挨拶ぎこちなくじゃあまたねとはいえない死角
 
目には目を口には口をほころばせマスクしててもあすは満月
 
いろいろのマスクさまざまにあることもちょっとうれしいこのよのじじつ
 
薄っぺらなコトバゆき交う初夏の カメラ止まればマスク脱ぐかれ
 
マスクの声てぶくろの手に交わりはことば少なにレジを離りぬ
 
顔の上の白いマスクに護られて足に蹴散らすさくら花びら
 
粛粛とマスク購う人つける人脱ぐ人ありてそを拾う人
 
捨てマスク顔のかたちにひらきしを風が舞い上ぐ天までのぼれ
 
マスクから目鼻耳くち脱ぐように両のてのひら浄めいるなり

山本久土がいい!

若松恵子

新型コロナウイルス感染拡大防止のために、ライブハウスが営業できない。
ライブハウスを回って直接音楽を届けることをしていたミュージシャンは全く仕事ができなくなってしまった。文字通り、手の届く距離で唄っていた、その魅力に支えられていた仕事が全くできなくなって、どうしたものかというまま4月、5月が終わる。

山本久土(ひさと)は、PHEWがボーカルを担当するMOST、遠藤ミチロウとのMJQ、羊歯明神のギタリストで、自身もギター1本で歌う。MJQでも羊歯明神でも、1本のギターで分厚いサウンドを作り出していて、リードギターもセカンドギターも、ベースも1人でやってのける、ギタリストとしての凄さがまずあったのだけれど、ミチロウが亡くなった後は覚悟が決まったのか、歌にも磨きがかかった感じだ。率直に自分らしい歌い方で、ミチロウの曲が歌い継がれていることに魅力を感じる。

演奏することは、収入の面だけでなく、自分の生活の軸としても必要なことなのだろう。ライブハウスの協力で、無観客ライブの配信をしていて、これがなかなか良い。
ラモーンズみたいな髪型(前髪がうっとうしく伸びていて、目を覆い隠している。早く床屋に行きなさい!と叱られる髪型)で、ギターをかき鳴らし、歌う。
配信でがまんしておこう、というレベルではなく、配信でも十分いいのだ。
画面のこちらから拍手を送りながら見ている。
こんな時だから歌いたい歌、歌われるべき歌が演奏されている。
先日は、高校生の時以来だと言って、RCサクセションの「あきれて物も言えない」がカバーされた。

どっかのヤマ師が オレが死んでるって言ったってさ
よく言うぜ あの野郎よく言うぜ
あきれて物も言えない

ところが おエラ方 それで血迷ったか
次の週には 香典が届いた
前の土曜日にガンバローって乾杯したばかりなのに

オイラ その香典集めてこうして遊んでるってワケさ
ますます 好き勝手な事ができる
さあ オマエに何を買ってやろうか

ヤマ師が 大手を振って 歩いてる世の中さ
汗だくになってやるよりも 死んでる方がまだマシだぜ
「あきれて物も言えない」(作詞・作曲 忌野清志郎)

この曲を今、選んで歌う山本久土はいかしてると思う。

ゴジラの逆襲(晩年通信 その11)

室謙二

 私は科学少年であった。
 鉱石ラジオと、星座早見盤の少年であった。
 読むものは「子供の科学」に「初歩のラジオ」(いずれも誠文堂新光社)、それと「模型とラジオ」(科学教材社)かな。
 科学少年という言葉が、今でも一般に使われているのだろうか?
 使われていたとしても、私が子供だったころ、1950年代の中ごろとは違うだろう。あの当時、少年にとっては科学が万能の時代だった。科学が世界を変える、科学が世界を救うはずだった。鉱石ラジオ少年は、いま風に言えばテック少年だが、その「未来の科学」に参加していたのである。
 鉱石が高周波を低周波に検波して聞こえるようにする「鉱石ラジオ」が、少年にとっては大変なテクノロジーであった、といっても単純なもので、部品数はいくつかしかない。全部が目に見える形で触ることができた。いまのテックと違って、自分で作ることもできた。鉱石ラジオには、電源(電池など)は必要ない。しかしまずアンテナが必要だ。木に登って電線を引っ掛けてアンテナとした。次はアースである。庭の土を掘って水を注ぎ込み、そこに金属片を差し込む。それにつないだ電線を、アースとして鉱石ラジオにつなぐ。ドロンコである
 このアンテナとアースがないと、かの鳴くような音のラジオさえ聞こえない。イヤホーンは、耳に差し込むタイプのクリスタル・イヤホーンだった。
 エナメル線を買ってきて、紙の筒にコイルを巻く。雑誌に何回巻くとか全部書いてある。コイルに並列にコンデンサーをつなぐ。並列と直列のつなぎ方がわからない人は、困ったなあ、でも説明しない。コンデンサーがなにかも説明しないけど、これがバリコンでなくて固定の値のものだと、コイルからタップを出したり、表面をけずって電線で触ってコイルの値(インダクタ)を変えないと、周波数を変えられないね。周波数の仕組みがなんだって?ああ、絶望的だ。
 こういう単語がわからない人には、全部が「ギリシャ語」であろう。という言い方は英語で、It’s Greek to Meで、日本語だとチンプンカンプでわからない、という意味だ。だけど続ける。

宇宙競争がスゴイ

 わからない人がいる反面、私なんかこういう昔の「テック」の話をするとうれしくなる。ああいう時代があったのだなあ。
 バリコンてなに?バリアブル(可変)コンデンサーのことで、言葉で説明するのが難しいので写真を添付した。もっともこのバリコンは古典的なもので、もう使っていないだろうね。今ではもっと小さくなって、金属の間にポリエステルをはさんでポリバリになった。それに対応して、写真の古いバリコンは、素朴に空気バリコンと呼ばれていた。
 子どもたちにとって、科学が万能に思えたのは、ソ連が一九五七年の冷戦時代に最初の人工衛星(スプートニク)打ち上げて、世界中が驚き、アメリカはソ連に先を起こされて大騒ぎになったからでもある。一九五八年にはアメリカでNASA(アメリカ航空宇宙局)が設立された。アメリカの子供の科学教育・数学教育が大きく立ち遅れているというので、新数学(New Math)カリキュラムが始まる。ずっとあとで、数学者・人工知能の専門家のシーモア・パパート(MIT)さんと仕事をしたとき、この新数学カリキュラムが教育現場をどのように混乱させたか教えてくれた。それまでは、アメリカの女子は数学はやらなくてもよろしい、「家庭科」をやっていないさい、だったそうだ。日本の女の子は受験勉強で、男子と対抗して難しい数学を勉強している。と言ったら、パパートさんは驚いていた。
 ソ連とアメリカの間で宇宙競争がはじまった時に、日本の子供はそれを見て「わー、スゴイなあ」ということになったのである。というわけで、バリコンの模型ラジオ少年は、ボール紙で筒を作り、両端にレンズをいれた手製望遠鏡と星座早見盤の宇宙少年にもなった。

 光年という単位にも驚かされた。
 光が飛ぶ、移動するのに、時間がかかるということも信じられなかった。しかし科学は、光の移動には時間がかかるという。そしてその光が一年間飛ぶ距離が「光年」という単位だと知ったときは、うーん。それは想像を絶する距離だ。
 Googleの光年のページによれば、光が太陽から地球まで飛んでくるのに八分かかる、太陽系にもっとも近い恒星は、太陽から四光年の距離だそうだ。わが銀河系の直径は十万光年で、アンドロメダ銀河までは250万光年だそうだ。つまり私たちがいま見ているアンドロメダ銀河は、250万年以前のモノ(光)である。地球から観測可能な宇宙のはてまでは457億光年である。宇宙少年の私は、こういう数字を知って、夜空を見上げていたのである。
 その宇宙に向かって、ソ連とアメリカのロケットが飛び出す。と言ってもまだ宇宙の手前でウロウロしているにすぎない。いま地球からもっとも遠くにある、人間が作ったもの(ボイジャー一号)が、地球から一光年の距離まで行くには一万8000年かかるというのだから。観測できる宇宙の端までボイジャーが飛ぶには、一万8000千年の457億倍かかる。
 片手に鉱石ラジオをもち、片手に自作の望遠鏡をもっていた私は、科学はスゴイなあと思っていた。鉱石ラジオは蚊の鳴くような音をかなで、夜空を見上げれば、457億光年が広がっていたのである。

ゴジラの登場

 ところがそこに、ゴジラが登場する。
 人間の作った都市と、人間が使う科学を破壊する。口から火炎のような白熱光・放射線を発するのである。スプートニクとかアメリカのへなちょこ人工衛星など問題ではない。人間の文化を破壊する怪物である。
 もっとも最初のゴジラ映画は、スプートニク(1957年)以前の1954年に始まっている。1955年に第二作の「ゴジラの逆襲」、七年後の1962年に、三作目「キングコング対ゴジラ」で日米対決となる。科学万能の科学少年は、科学に立ち向かうゴジラに唖然としたが、バンザイ、ゴジラも頑張れであった。
 ゴジラ映画の直接の引き金は、第五福竜丸事件であった。1954年のアメリカのビキニ諸島での核実験のときに、アメリカの指定した危険水域の外にいたにもかかわらず、第五福竜丸は放射性降下物「死の灰」を浴びて半年後に無線長だった久保山愛吉が死亡、大事件となった。
 ゴジラはジュラ紀(一億五千万年ほど前)の生き物であったが、海底洞窟で生きていたのである。アメリカの核実験で洞窟が破壊され、放射能で性格も変化して獰猛になり、口より白熱光=放射熱線を発するようになった。この怪物が東京にやってくる。破壊につぐ破壊である。1954年のゴジラ攻撃は、アメリカ軍による東京・大阪への民家への無差別爆撃、長崎・広島へ核攻撃の九年後の出来事だ、都市の破壊のシーンは、当然おおくの人びとに戦争による被害を思い出させたであろう。
 しかし今回は、それに対して科学で対応する。水中の生物をすべて破壊する化学物質を発明した科学者が、それを使ってゴジラを殺す。同時にその科学者は、発明に関するすべの資料を破棄して、それを発明した自分自身をも殺して、地上からその化学物質の危険性を消し去る。
 ゴジラは、科学によって殺されるのだが、同時にこの映画は、科学というものがどれほど危険であるかも伝えようとする。何十年ぶりにインターネットで、オリジナルの「ゴジラ」を見たがよくできている。感心した。

 いまはコロナの時代である。ところがコロナは、まだ科学でコントロールできないらしい。
 ワクチンもなく、治療法も確立されていない。
 でもコロナが、科学によってコントロールされる時期はやってくる。
 ゴジラは科学(核実験)に怒って立ち上がったが、科学によって殺されてしまった。コロナも科学によって殺されるだろうが、だけどゴジラもコロナも、また必ずやってくる。
 二作目の映画「ゴジラの逆襲」(1955年)があるので、すぐ見ないといけない。昔の科学少年は、いまだに科学少年(科学老年)でもあるが、ゴジラに共感をよせる科学批判老年でもある。

新しい目覚め

笠井瑞丈

私には二人の兄がいます
長男は写真家
次男はオイリュトミスト
三男私はダンスをやってます

三人集まってお酒なんかを飲み交わす
よく喧嘩に発展することもありますが
そんなに悪い兄弟関係ではありません

次男とはエレキギターを弾くという共通の趣味もあり
そして家も近いとういうこともあり
二人でたまにジャムセッションをしたりもします

彼は日本の高校を卒表してから
ドイツのオイリュトミーシューレに行き
オイリュトミーを学んで日本に帰国しました
今は学校でオイリュトミーを教えています

そして彼の奥さんというのは私がダンスを始めた頃からの古い友人で
私は彼より先に奥さんとは知り合いでした
まさかその後結婚するとは当時思ってもいなかったので
人と人の出会いは不思議なものだ

彼の奥さんはもともとはダンスをしていて
自分のグループも持って活動していました
その後オイリュトミーの勉強も始め
今はダンスそしてオイリュトミー
二つの分野で活動をしています

そして私の奥さんもダンスをしています
そして彼女もオイリュトミーを学び
二つの分野で活動をしています

こんなに身近に舞台活動をしている人が
三人もいるとはこもまた不思議なものだ

そして父も舞台を生業としているので
父を含めると一家五人が舞台人です

父とは仕事をする事はありますが
兄夫婦とは今まで一度もありません

こんなに近くいるのに共に作品作りをした事は一度もありません

作品を作ろうと思うには
二つのきっかけがあります
一つは誰かに依頼されて作品を作り始める場合
一つは自発的に自分から作品を作ろうと決意する場合です

どちらの場合も嬉しい事です

でも

二つの性質には違いがあります
外から始まりを作ること
中から始まりを作ろこと

私は何か新しいダンス作品を自発的に作ろうと思うきっかけは
街でばったり昔の友人に会った時に得る感覚と同じようなもので
この感覚が生まれた時に新しい作品を作ろうと決意します

この感覚はとても私は好きです
この時にダンスをする喜びを感じます
何かが頭の中で泡のように膨らんでいき
作品を作ろうと思う瞬間に出会うのです

これは長い眠りから覚めるのと同じで
時に数年眠り続けることもあります

新しい目覚め

2020年7月31日金曜日
2020年8月7日金曜日

『世界の終わりに四つ矢を放つ』
神楽坂セッションハウス
構成 演出/笠井瑞丈
出演 振付/笠井瑞丈 笠井禮示 上村なおか 浅見裕子 笠井叡

新しい作品を発表します

どうぞよろしくお願いします

187 汚職

藤井貞和

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰ってきません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたはこころに従いました。

むずかしい時代になると、
けがれた手で書いて、
もっとだめにしました。

汚れた言葉を遠慮せよ、
だれもが父に言いました。

怒りで汚れたこころを、
ぼくはうたいますか。


(おとうさん、50年が経ちましたね。だめなぼくは50年、自粛に明け暮れてきました。)

オンライン授業

植松眞人

 非常勤講師をしている大学のオンライン授業を担当することになった。新型インフルエンザが世界中で大流行してから一年がたった。
 すでに世界はそんな感染症の流行などすっかり忘れいてるけれど、いまだに世界地図の片隅にある名前も知らない国で、急に集団感染があったり、国内でもふいに有名人の感染が報道されたりする。ただ、すでにワクチンが開発されているので、以前のようにテレビの報道も恐怖心を煽るようなことはなく、淡々としたものにとどまっている。
 パンデミックと言われる大流行は、世界中の経済活動を停止させて、私たちの生活を一変させた。本来なら、そのままじっと息をひそめて感染症が感染する先をなくしてしまうのが賢明なのだろうと思うけれど、世界中の首脳陣はその道を選ばず、感染症を抱えながらも経済活動を再開する道を選んだ。お金こそがこの世界の血液なのだということをみんなが再確認し、お金の前には誰もが黙り込んで通勤電車に乗り込むしかなかったのだ。
 しかし、自宅で仕事をすることが実は可能なのだと知ってしまった人たちは、朝の通勤電車に無自覚に乗っているわけではなかった。虎視眈々と会社組織に属しながらも、テレワークを再開するための根回しを始めていた。
 私が働く大学というところは、パンデミックの間、オンライン授業という新しい道を見つけることで、学生からの授業料返還要求を最低限に抑えることができた。オンラインだけれど授業はちゃんとやっている、という事実には学生も世間も、学校も被害者なのに頑張ってくれている、ということが伝わったのだった。
 同時にオンラインなら学校の施設をほとんど使わずに、学校のブランドだけで新しい商売を始められるのだということに気がついたのだった。いま、私が担当しているオンライン授業はいわゆる大学生のためのものではなく、社会人に向けた一般教養の講座だった。これまで「社会人のための大学講座」として開講していたものをパンデミック時に整えたオンライン授業のインフラで行おうという商売だ。今回のウイルスは高齢者にこそ感染しやすいらしいという情報もあり、高齢者をあまり外に出したくない、という家族にもアピールしたらしくどの講座もすぐに満員になってしまうらしい。私が担当する講座は「メディアと社会」という不要不急を絵に描いたような講座なのだが、それでも半期の一度の募集はすぐに二十人の定員一杯になり、半年間脱落者がほとんどいないらしい。
 この講座も元々は大学の一室で直接対面で行っていた講座だが、その時よりも人気が出て、そのおかげで私の首もギリギリで繋がっていると言ってもいいだろう。オンライン授業はやりにくいとか、文句を言っている場合ではないのである。むしろ、ありがたい。そして、回数を重ねていると、だんだんオンラインでのやり取りも面白くなって来たのである。
 オンライン授業の面白さは、一人一人の受講者との距離がほぼ同じだということかもしれない。距離的にも参加者が小さな格子状のマス目の画面の中に一人ずつ並び、誰かが発言するとその画面が大きく表示される。声が小さいから印象に残らない、ということもない。表情でアピールされなくても、キーボードのボタンを押すとその人に発言権がいく。そんな今までにない感覚が面白い。そう思い始めると、私はオンライン授業にはもっとたくさんの可能性があるのではないかと思い始めた。
 ある日、受講生の一人が映っている一マスが大きく揺れた。大丈夫ですか、と声をかけるとそこに映っていた年配の女性が、スマホが倒れたんです、と答えた。最近、パソコンを持っていなくてスマホで参加している受講者が多いとは聞いていたので、なるほど、と私は言って淡々と授業を進めた。しかし、ふと思ったのだ。メディアと社会などという講座をやっているのなら、例えば、それぞれの受講者が発信してくるような内容も面白いかも知れない、と。そう思うといても立ってもいられなくなり、私は先ほど画面を大きくゆらした女性に、オンライン上から呼びかけた。
「いま、家の中ですか?」
 私がそう聞くと、女性は少し驚いた様子だったが、
「はい、そうです」と答えた。
「ちなみに、あなたのスマホもメディアのひとつですね」
「どういうことでしょう」
「いま、あなたはこちらからの情報を受け取っているのだと思いますが、私からするとあなたの映像という情報を発信されているわけですから」
「なるほど」
 女性がそう答えて笑うと、その周囲のマス目の中からも一斉に受講生たちが笑いかけてきた。
「例えば、あなたの部屋から見える窓の外の景色を見せてもらえますか」
 私が言うと、女性は少しだけ手間取ったあと、窓の外を映した。青い空が見えた。私がいる大学の部屋にも小さな窓があり、青い空が見えていた。ああ、空は繋がっているのだなあと思った。すると、他の何人かの受講生も窓の外の空を映し始めた。パソコンのカメラを空に向けたり、なかにはパソコンからスマホに切り換えてわざわざ空を映す人もいた。受講生は二十人程度なのだが、そのうち、私のデスクトップのパソコンにある二十のマス目に様々な色の空の映像が並んだ。
「ああ、メディアと社会ですね」
 私はそうつぶやいていた。
 そうつぶやいてから、こんな叙情的なものに流されていてはいけないと気持ちを引き締めてみようとしたのだが、その弾みに私は涙を流していた。一人だけ、デスクトップのモニターのなかに顔を映していた私が泣いていた。青空に囲まれながら泣いている私はとても美しかった。(了)

楽園

越川道夫

「いや、世界は残る。…失われるのは、ぼくらのほうだ」
           エドワード・アビー『砂の楽園』
 
家と仕事場を往復して引き籠る生活をつづけている。決まった道を通り、決まった道を帰ってくる。誰が決めたわけでもないのに。このような日々の前は、少しはいつもと違う道を通って、とか、少し遠回りをして、とか考えたはずなのに、それをするのもすっかり億劫になっている自分に気付く。それでもと自分を励ましながら遠回りをしてみれば、塀のわずかな隙間という隙間からドクダミが顔を出し、花の咲く頃は壮観だった古い家は跡形もなく取り壊されて、そこは更地になっている。あんなに茂っていたドクダミもすっかり抜かれ、庭木も根こそぎ倒され、家であったはずの瓦礫の間に横たわっている。テニスコート脇の路肩の土が剥き出しになったところにアザミが覆い茂っていて、それを見るのを毎年楽しみにしていたのだが、そこも何の工事が始まるのかすっかり白い塀で囲われ踏み荒らされてしまった。街路樹はばっさり切られ、どういうわけか切り口がコンクリートで固められている。川岸の草むらを、草刈機が唸り声をあげて刈り払っていく。
 
なんだか痛々しい気持ちになってしまった。
ある時、借家の小さな庭をひと夏伸ばし放題に伸ばしたことがあった。植えたものも自然に生えてくるものも。ヘクソカズラやヤブカラシ、ゴーヤと言った蔓の類は庭木を覆い尽くし、その下で隠花植物たちが繁茂した。蝶がその上を飛び、ヤモリやヒキガエル、ニホンカナヘビが徘徊する。そんな庭の姿は、なんというか「楽園」だった。そうとしか言いようがない。
 
卒業した中学校の昇降口の脇に大銀杏があった。「あった」と書いたのだから、今はもう「ない」。その大銀杏は、太平洋戦争の前、その場所に高等女学校があった時からあった、と祖母に聞いた。祖母はその女学校に通っていた。校舎は焼けたが、樹は戦災を奇跡的に免れ、女学校だった場所に新制中学校ができても、樹はそこにあった。父や叔父叔母もその樹のある学校に通った。わたしがその中学校に通った頃は、大銀杏は昇降口の脇にあり、生徒はその樹に迎えられるようにして通学した。校舎は、どう考えても樹を避けるようにして建てられていた。大銀杏はその校舎に通う子供たちを見守るようだった。それからずいぶん時が経ち、近年、その中学校が小中一貫校になることになって全面的に校舎が建て替えることになった。しかし、もう人々が樹を避けることはなかったのだ。大銀杏は伐られ校舎は建てられた。
 
2015年に奄美で映画の撮影をしていた。9月の奄美は、本土では聞くことができない、キュアンキュアンというようなオオシマゼミの声で溢れかえっていた。奄美に育った島尾伸三さんが、幼い頃夏に外で友達と話していて、蝉の声があまりに大きくて友達の声が聞こえなくなることがありましたよ、と話してくれた。その蝉の声をマヤ(島尾さんの妹)はとても怖がっていました、とも。
そんなオオシマゼミの声の中で、私たちは撮影した。ラブシーンの撮影の最中、奄美の固有種のカエルが鳴いた。なんというか、ゲロゲロではなく、ブヒッというような声で。甘いラブシーンの中で突然響くその声は笑ってしまうような、ラブシーンの興を削ぐような声だったけれど、わたしたちはその声をそのままにした。やはり夜の撮影でカメラのレンズを一瞬、照明に寄ってきた巨大な蛾が覆ってしまった。さすがにNGになったのだが、そのことに南の島で育った老優は激しく怒った。これが島だ。本土で撮ってるんじゃないんだ。なぜ今のがNGなんだ。
音の仕上げをするダビングルームでも、わたしは何度か声を荒げた。なぜドラマの都合で、人間の勝手な都合でカエルや蝉を鳴かせたり、その声を消したりするのか、と。蝉は蝉の都合で鳴く。カエルはカエルの都合で鳴く。あの島で、何を聴いてきたのか。映画の撮影中、ヒロインが夜の縁側で島の唄を歌い始めると、森の闇の奥でコノハズクが鳴き始めた。一頻り歌い、鳥は鳴き続け、歌い終わるとコノハズクも鳴き止んだ。バラバラに有るものが一瞬唱和した、そんな瞬間もあったのだ。
 
夜、雑木林の横を通って仕事場から帰る。
その雑木林を抜けたところには縄文時代の遺跡があって、この雑木林がその時代ずっと続く林だということが分かる。夜になると樹樹は一層鬱蒼として見える。風もないのに波打ち、ざわめいて私語をしている。
彼らは彼らとして、そこに在る、と思った。
枝と枝の闇からコサギがこちらを見つめている。

音楽の気象と感染力

高橋悠治

コロナ・ウィルスの見えないはたらきのなかで 音楽のかたちが変わていくだろうか オーケストラやオペラのような多くの人の集まりは 疫病のときにはできないといって オンライン会議システム ZOOM でバラバラの空間とずれた時間をあわせて コンサートの代用にするというレベルではない もっと大きな変化が起こるのか 

世界にひろがる感染症のあと 今のような社会がそのままで 以前の姿にもどるのか そうでなければ ファシズムや 相互監視の息苦しい社会になるのか その兆しはじゅうぶん見えているが 方向はそれひとつではないだろう 混乱がつづくにしても いまの社会はいずれは崩壊して 予想をこえたかたちが現れてくるのだろうか

音楽を見えないはたらきと言ってしまえば これもウィルスのように感染力をもっている 楽譜や演奏の動画はその仮の現れで うごき 変化する振動は そのたびにかたちを変え はたらきも変わる

音のうごきを組織するのが いままでの演奏論であり 作曲論だった うごこうとする意志が 動きを作り その瞬間 音がはじまる その動きを制御している時間が音の長さになり リズムは数えられ 音符として見えるかたちで組み合わされるが 音符は音のはじまる瞬間と持続を管理する手段で 楽譜を通して 作曲し演奏する能力がある人間が 音楽を使うことができる そこに社会的な意味が生まれるなら その意味は いまの社会を管理しているエリートの意志にしたがっているとも言えるだろう

鳥が鳴き声で自分の領域を主張するように 人間の音楽も意識しないでも 社会を支配する者たちの意志を伝えてしまう 

と書いていれば 書いたことばが論理を組み立てて かってにうごいていくだろう ことばを意味や論理の支配から自由にすることは 無意味な音や文字の組み合わせにもどさなくても できるかもしれない 世界を映すだけでなく まだない世界を夢みる 意識にしばられない組み合わせが 浮かんでくるかもしれない

音楽でも 20世紀の実験とはちがう さまざまなかたち というか まだかたちにならない断片を とぎれとぎれに 撒き散らしておくほうが いいのかもしれない

ティム・インゴルドの区別を借りれば 音をつらねる線の物語から 響きという痕跡へ 意志をもった発音から 耳元に囁きかける 途切れがちの記憶の表面 その気象学へ

2020年5月1日(金)

水牛だより

晴れて急に気温が高くなった今日の東京。マスクをして午後の町を歩くと、光は満ちているし、そこここの庭にも路端にも花々は咲いていて、季節は美しいのでした。人と会わない道ではマスクをはずして歩きます。そうすると花の香りや風の香りが気持ちよい。この先もっと気温が高くなってもマスクは必要そうな状況ですが、顔をなかば覆うことにいつまで耐えられるのか? 先は見えないまま、どう行動することが正解なのかわからない世界を生きる日々です。

「水牛のように」を2020年5月1日号に更新しました。
初登場は映画監督の越川道夫さんです。まだお会いしたことはありません。ツイッターで毎日のように越川さんが投稿する小さな植物や鳥や猫や子どもの写真を見てきました。写真に言葉はほとんどついていないのですが、どのような被写体に興味があるのかわかります。越川さんがつけた「人嫌い」というタイトルがすべてを物語っています。人が嫌いな映画監督、おもしろいですね。

先月も引用した『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)から、今月も5月1日(メーデー)のところを以下に。

五月一日 労働者の日
 協力して飛行する技術とはこういうものだ——一番目に飛ぶ雁は二番目の雁に道を開き、二番目は三番目が飛ぶ準備を整え、三番目が飛ぶときの力が四番目を飛ばし、四番目は五番目を助け、五番目の推進力が六番目の背中を押し、六番目は七番目が飛ぶ風を送ってやる……
 一番目の雁は疲れると、群れの最後尾に回って別の雁に場所を譲り、その雁が、群れが空を飛ぶときに描く例のV字形の頂点に行く。全員が後ろに回ったり先頭を行ったりと入れ替わる。先頭を飛ぶから自分が上級の雁だと思う雁はいないし、最後尾を飛ぶから下級の雁だと思う雁もいない。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

人嫌い

越川道夫

映画監督などという商売をしていて言うのもなんだが、人間があまり好きだとは言えない。もちろん自分も人間の端くれではあるので、自分のことも含めて。子供はまだしも、大人の姿を目の中になるべくなら入れたくない。だから、朝起きて、顔を洗っても、鏡で自分の顔を見ない。もう見ないことが習慣になっているので、わざと避けるのでなく、そもそも見ない。一度も自分の姿を見ない日もあれば、例えば出先のガラスに写る姿を見て初めて、ハハァ、今日オレハコノヨウナ姿ヲシテイルノカ、と思う日もある。毎日自宅を出て、二駅ほど離れたところにある仕事場に歩いていく。コンクリートで固められた川とも言えないような東京の川沿いを歩いていくのだが、その時、もなるべく人間の姿が目に入らないように歩いている。要するに空を見上げているか、それとも下を、地面を見ているか。地面を見ていれば、そこには植物が生えている。道端に、コンクリートやアスファルトの割れ目に。そこし前まで、ナズナが繁茂していたところに、カラスノエンドウが覆い繁って、それもすぐに実をつけて終わるだろう。オオイヌノフグリは、まだ咲いている。虎杖が立ち上がったと思うまもなく、雨のたびにぐんぐんと背を伸ばして、サツキやツツジの生垣を突き抜けている。晩春である。
村田了阿という人の書いた「花鳥日記」を識ったのは、若い頃に偶然読んだ石川淳の短編小説の中だったと思う。「雅歌」だったか。了阿は江戸後期の俳人であり博学多識とあるが、詳しくは知らない。「雅歌」の主人公は、「花鳥日記」のその肉筆の原本を渇望し、その原本が手に入るとしたならば、「ふだんほしくてたまらない金銭も入らず、しゃれた服装もいらず、酒とたばこは…これはちょっとつらいが、ウソをついて、絶対にいらないということにして、まして婦女子ごときもの、櫻子1からnまで全部ひっくるめて、西の海にさらりとして、何もかもなげうって、ただこればかりの、うすっぺらな花鳥日記一冊ととりかえる。」と言う。その「花鳥日記」は、『近世文藝叢書 日記十一』で活字では読むことができるのだが、本文二段組みでわずか4ページほどの日記である。
 
◯正月
四日、朝報春鳥鳴く、
六日、朝またしきりに鳴く、
二十二日、晝過より春雨長のどかに降りて、雪も消えあたたかになりければ、廿四日の朝、比叡のふもと山王下の御寺の竹園にて鶯しきりに鳴く、
 
といった具合であり、「一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、木、蟲などの消息がきはめて清潔にうつされている他には、このみぢかい日記の中には他の何もない。感想とか詠嘆とか、歌とか句とか、よごれっぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたというふようすで、立ちすがた。みごとである。」と石川淳は書いている。
原本が欲しいとは思わないが、わたしもまた『近世文藝叢書 日記十一』のわずか4ページの「花鳥日記」を事あるごとに読み返している。読み返して、「花や鳥が、自然みづからが」書いた文というものを夢想して、ひとり震える。あの大きな地震の後で、わたしは、もう動物や虫、植物か子供のことしか描くものはない、人間のましてや大人のことなど描くことはできない、と真剣に考えていた。それは今もさほど変わっていない。人の色恋沙汰を描きながら、どこかあの路地に溜まる野良猫たちの恋のことを、自分は書いている気がしてならない。
 
それでも買い物をしなければならず、駅前のスーパーに立ち寄る。疫病が流行し、いくつかの店は自治体の要請でシャッターを下ろしている。国家は金勘定はしても、町で暮らすわたしたちと向き合っているとはとても思えない。人の心が次第に荒んでいくのを感じるが、この国の権力を持ったものたちはもともと人の心の荒んだ部分を弄び、心の荒みを糧にして権力の座に居座り続けているように見える。道端で子供に当たった当たらないで親子と犬を連れた初老の男が口論している。思いもかけないような怒号が町中に響き渡る。自分の思ったように進めない自転車の男が、目の前歩く人に罵声を浴びせる。
買い物を終えて、また川の方へ降りると、ギシギシが赤い小さな花をつけている。群れて咲いていたセイヨウタンポポが、全て綿毛を散らしていいる。芽生え、立ち上がり、花をこぼれるまで咲かせて、実をつけ、そして枯れる。白鷺がコンクリートの川底から小さなナマズを捕らえ、食べていた。
 

仙台ネイティブのつぶやき(53)とりとめなく春が過ぎ

西大立目祥子

 世界中が疫病に巻き込まれるなんて。9年前に東日本大震災が起きたとき、おびただしい人が亡くなって、家も町も流されて、もうここまで深刻な災害を体験することは生きている間にはないだろうと思っていたのに。世界中から恐ろしい死者の数が日々伝えられてくる。
 いまもまだ毎日、地元紙の河北新報の1面には、東日本大震災の死者数が掲載されている。「宮城9543人(1217人)、岩手4675人(1112人)、福島1614人(196人)」という具合に。かっこの中は行方不明者だ。
 あのときの体験があるので、何万という人が亡くなったときに一体どういうことが起きるか、少し想像はできる。地元で火葬できない人たちは、山をこえて新潟や山形に運ばれていった。新聞には連日たくさんの死亡広告が載り、そこに見覚えのある名前をみつけることもあった。親しい人を失った人たちは、いま、お別れもできずに悲嘆にくれているだろう。

 仙台は3月のお彼岸くらいまではまだどこか呑気で集まって打ち合わせをしたりしていたのだが、4月に入り繁華街のパブがクラスターになったことがわかると、さすがに緊迫してきた。会議は全部中止になって書面で決済とか、延ばした日程をまた先延ばしにするとか、美術館も図書館も閉館になるとかで外出はめっきり減った。時間はあるはずなのに、なんというのか所在がない。ニュースを眺め、やりかけの仕事やってみるものの進まず、桜を眺めても心踊らず、集中力が全然出ない。

 それなのに、いろんなことが起きた。認知症の母がベッドから落ちてお尻の骨にヒビが入り、介護認定を見直したり部屋の中あちこちに手すりをつけたりでバタバタする。そうこうするうち猫の食欲が落ちてきてまったく食べなくなった。カゴに押し込み病院に連れて行くと、先生が一目見るなり「これはまずい」というではないか。血液検査をしたりレントゲンを撮ったり右往左往する。さらに「今晩預かってもいい」とまでいわれ動揺した。いい猫なのだ。私はこの猫といっしょに母の介護をしていると思っているので、なでるたび「長生きしてよ」と耳元でささやいてきた。戦友が奪われるのは困る。絶対に困る。
 
 幸い、母は回復して痛みを訴えることはなくなり、歩行も以前と同じまではいかないけれど、そろそろと歩けるようになった。つくづく食べてる人は強いと感じる。入れ歯なし91歳の母は、夕食は私と同じ量を食べる。グラタンもミートソースのパスタも食べる。そして、猫も回復した。皿に入れておいたごはんが空になっているのを見つけたときのよろこび。ああ、今日は食べてくれたと感じると、一瞬じぶんの中にも感応するように元気のスピリットがわき起こる。今日食べる力があれば、明日は生きられる。昨日今日食べたものが、翌週の血肉になるというのをリアルに感じる日々だ。

 ほっとしたのもつかの間、頭痛と吐き気で今度はじぶんが起きられなくなった。理由はわかっている。前々日の晩、集中力が出なくてあげられない原稿を無理して徹夜してやっつけたからだ。3年前に手術をして以来、それまでの頑健さはどこへやら、頑張り過ぎると決まってへたって吐いたり下痢したりする。でも深刻なことには至らなくてならなくて、お腹を休めて眠るとすぐ回復する。
 目にした新聞記事に福岡伸一さんがこう書いていた。「病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ」。からだはいったんリセットされて、新たな動的平衡をつくりあげるためにゆらゆら揺れながらいい状態を見つけようとしているんだろうか。いや、これがもう新たな動的平衡なのか。とすれば、まだ頭がついていってない。先行するからだに合わせて、つい頑張っちゃうクセの硬直した頭も揺らさないとだめなんだなあ。

 コロナ後の社会も、新たな動的平衡を求めて揺れることになるのだろう。人と人のかかわり方は変わるだろうか。3日前、初めてズームで打ち合わせのテストを試みた。確かに数人で集まって顔を見ながら話ができるのだから、集まり方を変えるかもしれないけれど、これが「場」になるのかどうか私にはまだわからない。

 ときどき車を走らせる宮城と秋田と山形の県境、鬼首という山間地に暮らす知人が山菜のコゴミを送ってくれた。すり鉢でゴマをすり、アーモンドやクルミを刻み入れてさらにすり、お醤油をちょっとたらしてナッツ和えにしたらおいしかった。春の味だ。ひと畝に何種類もの野菜を育て、こまめに料理をして暮らす知人は、春は決まって近くの禿岳(かむろだけ)に山菜採りに出かけて野性味あふれる味を楽しむ。都市がウィルスに翻弄されていても、山里の春はいつもどおりなのだろう。
 麓に広大な草原が広がり急峻な山道を持つ禿岳を、山登りする人たちは「アルプスのような山」と絶賛する。谷筋には雪が残り、尾根が黄緑色に染まっていく山を、ああ見たい、と思う。でもじぶんが感染源になる恐れがないとはいえないからこの春は無理だなぁと舌打ちしつつあきらめている。ニュースを見ていてもつくづく感染症はすべてが密な都市の病なんだと感じる。

 連休は庭でがまんしよう。でも目を凝らせば、シラネアオイ、イカリ草、二輪草、エビネ、一人静…と、さながら山にいるようにあちこちに山野草が小さな花を咲かせている。父が何年もかけて植え込んだ。絵ばかり描いていた高校の頃、祖父に幽玄な薄紫のシラネアオイを描いてくれといわれ、ものすごく閉口したことがあった。どこが魅力なのかちっともわからなかったから。30歳を迎えた頃だったろうか、楚々とした独特の白い花を咲かせる一人静を愛でる父に「おまえ、可愛いと思わないのか」と真顔で問われ、返答に窮したこともあった。その歳になってもわからなかったのです。いまはわかる。静かで可憐で目を凝らさないと存在を見出せないような花たち。しゃがみこんで向き合えば、その呼吸、命の明滅が胸に響いてくるよう。地べたに目を凝らして、5月。

すべては変わっていく(晩年通信 その10)

室謙二

 晩年通信の原稿が書けそうもない。コロナで鬱なのかもしれない。それで手紙を書くことにしました。
 原稿は、ひとつの作品でしょ。公の要素を持つ。手紙は個人的な通信で、今回はそれでいこう。
 原稿として書こうと思ったのは、鎌倉時代の仏教の天才たちが生きていたら、いまのコロナ騒ぎについて何と言うのだろうか、ということです。それで法然(1133 – 1212)を取りだして、日蓮(1222 – 1282)も、道元(1200 – 1253)も一遍(1239 – 1289)も取り出してきて読んでみた。すぐに気がつくのは、あの時代はいまのコロナと比べもにならないぐらいタイヘンな、ひどい時代だったこと。鴨長明(1155ー1216)の方丈記(1212)には、そのひどさが書かれている。
 まず大火事(1177)があって、京都の三分の一が焼けてしまう。つぎに京都の中心で旋風(1180)が吹いて、街を破壊した。「家の内の資材、数を尽くして空にあり(中略)、もの言ふ声も聞こえず、かの、地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ぼゆる」という次第であった。次に都が移る福原遷都(1180)があり、養和の飢饉(1181)が起こる。
 飢饉の次は地震(1185)が起こる。
 それだけではなく、一二七四年には外国から元が攻めてくる。
 養和の飢饉にについては、特に詳しく方丈記は書いている。
 京都の街の道端で、多くの人が倒れて、餓死している。臭いに満ちている。
 親子・夫婦などでは、「その思いまさりて深きも者、必ず、先立ちて死ぬ」とある。食べ物を、子供なり夫に渡して自分は食べないので、先に餓死してしまう。「さまざまの御祈り始まりて、なべてはならぬ法ども行はるれど」、まったく効果なし。「この世の地獄とでも言うべき」と書いている。

 あの時代の公家の日記などあつめて編集した、百錬抄(十三世紀末に成立)という記録がある。それによれば、嬰児が道路に捨てられ、死骸に満ちている。「夜、強盗、所々放火」、「京中狼藉多」ともある。別の養和二年記には、「天下飢餓す。清水寺の橋の下、二十余ばかりある童、小童をを食う。又、犬たおれるを、又、犬食う」と書かれている。ひどいものだ。(いずれも、講談社学術文庫「方丈記」の解説より。)
 つまりコロナ騒ぎどころの話ではないのである。
 そういう時代に鎌倉仏教の天才たちは生きて、修行して、人々に仏教を教えた。たとえば法然は、四三歳のとき(1175)国家仏教の比叡山を下りて、京都で民衆の仏教である浄土宗を始めるのだが、そこでは前に書いたように大火事(1177)があり、旋風(1180)が吹いて街を破壊、養和の飢饉(1181)、大地震(1185)が起こる。その中で上からの目線ではなくて、地べたからの目線で、民衆の目線で南無阿弥陀仏と浄土を教えた。ナムアミダブツには、そういう悲劇を救う音声が込められている。加藤周一は、「一五〇〇年以上の日本仏教思想史のなかから、もしただ一人の思想家を挙げるとすれば、まず法然を挙げる必要があろう。(「十三世紀の思想」)と書いている。
 
 法然の死んだ年に書かれた「方丈記」に戻れば、鴨長明はその最後の方で突然に(私には突然に、唐突にと思われるのだが)、「それ三界は、こころ一つなり」(我らが生き死にを繰り返す世界は、こころ一つで決まる)と言っている。法然も鴨長明も、南無阿弥陀仏であり西方浄土なのだが、法然にはそこに確信があり、鴨長明には確信はない。「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」と書いて、「はたまた、妄信の至りて狂ぜるか」とある。
 そして「その時、心、さらに答ふる事なし。ただ、傍に、舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」(迷った心が高じて、わが修行を狂わせているのか?そう自分にたずねても、心はこたえようとしたない。そこでやっとのこと舌根を動かして、南無阿弥陀仏と念仏を二、三度となえて、終りにしてしまった)
 私たちの多くは、南無阿弥陀仏も西方浄土も「信じて」はいない。南無阿弥陀仏と心の底から唱えることも、「浄土の存在」を認めることもしない。だから法然の確信より、鴨長明の「舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」の方に共感する。
 
 一九六〇年代の終わりに、サンフランシスコ禅センターを始めた鈴木俊隆老師は、一九六八年にカリフォルニアのタサハラ山中で修行中の一人に、「仏教は一言でいえば何なのか?」と聞かれた。白人修行僧たちは、そのあまりにまっすぐな質問にザワザワして、そして笑った人もいたらしい。鈴木老師はあわてずに、”Everytihng changes”と言ってから、「次の質問は?」と、付け加えたらしい。
 仏教を一言で言った、「すべては変わっていく」という言葉と、それ三界はこころ一つなり、は近い言葉のように思える。法然の問答集を読むと、そこには確信はあるが、人々に対応した揺れ動く教えがあるがあり、身動きできない確定した教えはない。Everytihng changesと、それ三界はこころ一つなり、はともに揺れ動く教えである。
 手紙のつもりで書こうと思ったけど、なんだか「作品」みたいになったかな。

追記1 一遍聖絵と踊り念仏のことを書くつもりだったが、そこまで行かなかった。一遍なら、コロナについてなんと言うか?ただ南無阿弥陀仏と唱えなさいと言うだろうが。

追記2 一遍のことを読み直したのは、柳宗悦「南無阿弥陀仏」を本棚に見つけたから。一遍のことを書いている。これは父親の本で、あちこちに英語の書き込みがある。この本の柳の文体は、美しい口語文体ですね。

追伸3 法然は面白い。だけど私は道元の学生で、南無阿弥陀仏とは唱えないで、座禅をする。道元は南無阿弥陀仏の合唱を、田んぼのカエルがガーガー鳴くようでうるさい、とからかっている。

追伸4 コロナに引きずられて、真面目すぎる文章になった。次回はもっと愉快なものを書くぞ。

シーグラス

イリナ・グリゴレ

ある日、家の前に植えた小さな梅の木の花が満開になっていた。わずかな梅の香りが二階の窓から家に入ってきて、繊細な空間を生み出した。梅の木はあまりにもちいさくて、木と言いえないぐらいミクロな世界の矢印のようにしか見えなかった。これでも夏になると20個の梅が実る。私はその小さな梅を梅干しにする。

梅はすごくデリケートだといつも思う。梅を干すというのはすごく手間がかかる。カビだらけならないように、天気のいい日だけ外に出す。梅を干す時期には私もすごく天気や湿度に敏感になって、梅が生まれ変わるまでの時間を儀礼的な繰り返しの動作で見守る。

春の晴れた日、毎日のように子供たちを車に乗せる動作は、日差しの差し方に関係するのかもしれないが、スローモーションのように感じる。梅の香りのせいでもある。この香りは私の脳に0.2秒で届くらしい。車のドアで小さな梅の木を倒しそうになった。

梅の木を近くで見るとミツバチが花の近くに飛んでいる。そうしてこのミツバチのバイブレーションだけが聞こえてくる、リピートで。頭の中で場所と時間が変わる。子供の時がフラッシュバックで蘇る。私は祖父母の家にいる。毎年、春になると祖父と村から町に出かけ、市場でチューリップとヒャシンスのブーケを売った。この手伝いは私のお気にいりだった。家の前の庭と葡萄畑の中には何百本もの鮮やかな色のチューリップと、ピンクと青色のヒャシンスがあった。この花をブーケにする動作をいまも思い出す。

春の夕焼けの時、家族全員で集まってたくさんの花束を作る。ヒャシンスの肉々しい感触がいまでも手に残っている。香りは光のスピードで家に広がる。ブーケを作りながら祖父は幼い頃、修道院の近くに住んでいた時のことを話したり、教会でお手伝いしていた時、若かった頃の馬と森の話をしたり、時間はあっという間にすぎた。いまでも祖父母の声をもう一度聞きたい。特別な機械で録音したい。その声の内面まで、魂の奥まで録音したい。祖父は機械を作ることが好きだった。不思議な自転車を作っていたことを覚えている。森から薪を運ぶ自転車だった。

あのときは、祖父母の声を残すことを考えていなかったが、今はできれば特別な装置で再生したい。最近気づいたのだが、私は人の声に非常に敏感だ。娘が色に敏感なのと同じく、私は音それ自体ではなく、人の声に敏感だと分かった。心臓の音と同じ。声は人によって全然違うので、声というのは各人に限る音になる。その声は私の身体に響くので、人によって私の身体に毎回違う反応が起こることに気づいた。

話の内容より、私は声に夢中になるときがある。トランス状態のような現象で、不思議にその時は様々なイメージの連続が起きる。例えば、今、こうして書いているときに祖父の声を頭で再生すると、スクリーンショットの連続のようなものが出てくる。ものすごいスピードで。この間見た夢の中では、祖父母のもう一つの庭でスズランの花を見ていた。夜中に私は暗みの中でスズランの白い花を見ていた。あの庭にはスズランがたくさんあったのに、夢の中ではスズランが減っていた。葉っぱをよけて白い花を一生懸命探していた。

そういえば、あの庭には土で作った小さな小屋があって、そこで祖父は昼寝をしたとき不思議な夢を見たと言った。祖父の夢の中では、地獄の入り口で行列を作る男たちがいた。彼らは制服を着て、おでこに数字が書かれていた。祖父もその一人だったが、誰かが祖父を行列から引っ張っていき、おでこに書いてあった数字をさして「まだ、あなたの番ではない」と言ったという。この夢はとても怖かったと祖父は言った。子供の私にはこの夢の雰囲気は骨まで伝わった。当時、ロマの女の子の友達が、私たちを狙う悪魔がいると教えてくれた。世界の終わりのことも子供たちで毎日のように話して想像をふくらませて、その日のための準備をしていた。家から隠してもってきたカーペットなどでテントを作って避難の準備もしていた。畑からトマト、ピーマン、キュウリを取ってきて待っていた。結局、持って来たものを食べて夕方には家に帰ったが、繰り返し何日もこの行動を行って、世界の終わりを待っていた。

カルロス・レイガダス監督の映画『闇のあとの光』にあるように、突然、家に赤い悪魔が歩いてくるシーンは印象深い。村の子供たちはみんな知っていた。私もある日、夕方に畑から一人で家に入ったら鏡にあの姿が映った。赤くなかったけど、今でも身体が震えるぐらい恐ろしかった。

前の日に見た夢の中では、どこかで見たことのある若い金髪の男の子が何もない道で新聞を売っていた。素敵な笑顔で私に近づいて「ジュースください」と可愛い声で言った。この男の子に会うのは初めてではない気がした。この声は知っていると思ったが、思い出せない。誰の声だったのか。子供のときの祖父の声だったのか。父は私たち家族を守る聖人、ルーシのジョンだったのではないかと言った。そのあと、私は地下室(ルーマニアではワインと自家製の瓶詰などを保存するため農家に必ず地下室がある)のようなところに入って、スイカと葡萄が並んだテーブルからおいしそうなスイカと葡萄を選んだ。

梅の木のその日に戻ると、なぜ祖父母の家を思い出したのか分かった。祖父母の家と庭が生まれ変わったからだ。あそこで今はハチミツが採れる。ミツバチを飼い始めて、あの庭と近くの森と畑から蜜が運ばれて甘いハチミツができる。こうやって見ると、場所の命の反復力はすごい。遠く離れた今も、私は自分が育った家、村、庭の蜜、あの場所を食べている。繰り返し私の身体の一部になっている。世界の肉がミツバチのおかげで、私の肉になっている。

今はジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる。イントロダクションにこう書いてあった。「反復することは何らかのやり方で振舞うことである。しかし、何かユニークな特別な何かに置き換えられない関係の中で繰り返される。」また「そして、そのような外的行動としての反復は、それはそれでまた、秘めやかなバイブレーション、すなわちその反復を活気づけている特異なものにおける内的でより深い反復に反響するだろう」。

この「内的でより深い反復」に注目したい。誰もいない公園で娘たちと遊んでいるときに、アザミの若いツルツルの葉っぱに水玉が溜まっていてキラキラしていた。娘は繰り返し水玉を指でつぶして喜んだ。この「外的な行動」は彼女とそれを見ている私に、桜が咲いている誰もいない公園という場所に繊細なバイブレーションを与え、内的な反復が生まれた。彼女の水玉を「初めてを見る」、「触る」体験、その瞬間は永遠に反復される。

私は、自分のふるまいによって、内的に、幼い時に暮らした家、背景、そのとき出会った人々の暮らしを永遠に繰り返し再現しようとしている。

この晴れた日は私の誕生日だった。保育園からの帰り道、カーラジオからプッチーニの「ある晴れた日に」が流れてきた。初めて聞くわけではないのに、はじめて聞いた気がした。ソプラノの声は非常に苦労した声のように感じて、美しかった。

後日、子供たちと日本海に行き、たくさんのシーグラスをひたすら夢中で拾った。石ころの間に小さな、ユニークな、青い、緑、ピンクのガラスのかけらを見つけて喜びを感じた。私たちの命もこの小さなシーグラスのように繰り返し現れるだろう。

ルーマニアのハチドリそっくりな蛾 花の蜜を食べている

天球のなかで

璃葉

世界のうごきによって、気づけば前の生活に戻ることができなくなっていた。とにかく今はひとり部屋にこもって、ひたすら鉛筆で落書きをし続けている。この奇妙な暮らしのなかで、とにかく自分を安心させてくれるのは身のまわりの物と、電話越しに聞く友人の声。
机の下にゴミのように転がっていたメモを見て、改めてそう思った。なぜこれを書いたのかは忘れた。でもこの単語を見るとなんだかとてもときめくのだった。

本 裏紙 ノート ペン 鉛筆 PC 女友達との電話
コーヒー タバコ ビール おいしいウイスキー 

部屋に閉じこもって何日経ったか。鬱々するどころか、最近はご飯もどんどん美味しく感じられる。
散歩がてら食料を買いにいくのも。
時間を忘れて本を読みふけるのも。
夕暮れの星と月をみる楽しさも、どんどん研ぎ澄まされていく。
体内のどこかで、仄かに光が灯ってくれている。

NASAの運営する「Astronomy Picture of the Day」というwebサイトには、毎日何かしらの天体写真や動画がアップされる。ある日更新されていたのは、世界各地の星の動きを定点カメラで、早回しで見せる動画だった。ピピピと輝く無数の星が、山脈や光る街の後ろで一定の方向にぐんぐんと上がって沈んでいくのを、何度も繰り返し再生しては凝視する。このような動画は腐るほど見てきたはずなのに、目が離せなかった。
現実の空の動きはあまりにも緩やかで星も見えにくく、自分が立っている場所がじつはまわっていることも、そこにある空が無限の宇宙の窓であることも忘れてしまっている。そういえば私は、元素が集まったとてつもなく不安定な球体に、奇跡的に生きている。

アジアのごはん(102)おから三昧

森下ヒバリ

さて、緊急事態宣言下、外出自粛生活もひと月にならんとする今日この頃、皆さまいかがおすごしでしょうか。ワタクシは3月にインドからタイに移動してからは、バンコクでもSTAY HOME状態だったので、3月末に日本に戻ってからと合わせてほぼ2か月STAY HOME状態が続いております。

う〜ん、飽きてきた・・。

しかし、ウイルス感染が蔓延しては困るので、なんとかやり過ごさなくてはならない。まあ、いつも日本ではけっこう引きこもりなので、家にいるのは構わないのだが、問題は同居人だ。うちの同居人はミュージシャンで、3月末からライブがほぼ中止になり、ずっと家にいる。いままではだいたい金土日月はライブで不在だったので、これは厳しい。食事作りがヒバリの担当のため、毎日毎日2回(うちは朝食は食べない)食事を作るのである。(一人の時は適当)

え、ワタシ以前から毎日3食作っていますが?・・という方にはスイマセン。とにかく料理の回数が普段の2倍になったのである。そこで、作り置き副菜おかずをまとめて多めに作っておくようにしてみた。切干大根と糸こんにゃくの煮物とか高野豆腐の煮物とか、たけのこの煮物とかだ。3〜4日は副菜を一品作らなくて済む。

そして今日はちょっと暑かったので、さっぱりとしたおからの酢の物を作ってみた。

おからはふつうに炊いてもおいしいけれど、目先を変えて酢の物もいいのですよ。これは京都のおばんざいのひとつだろう。いいおからを使えば、炒る必要もなく、とても簡単だ。

材料は何でもいいが、今ならきゅうりの薄切り、新玉ネギの薄切り、あればきくらげ、にんじんも。薬味にシソやみょうが、ショウガを加えるとさらにいい。ワカメもおいしい。野菜は塩で揉んでおいて、そこにおからを加える。米酢かりんご酢、しょうゆ、塩などで味をつけて和える。ちょっとだけみりんを入れても。

出来上がりのイメージは、おからの炊いたものよりは具材が多く、ほんの少し水っぽいぐらい。べちゃべちゃしてはいけない。しっとり、です。茶色くなると見た目が悪いので、出来るだけ薄口しょうゆか白醤油を。そして、これにしめ鯖の薄切りやアジの酢じめなどを混ぜ込むとごちそうになる。かまぼこやカニかまでもいける。野菜や海草だけの精進でもおいしい。ちょっと冷やしてどうぞ。

おからは基本火が通った状態で市販されているので、酢の物の場合は炒る必要なしで、火を使わずさっと作れる。あ、さっき出雲から届いたたけのこ、薄切りにしていれてみようっと。豆のピクルスや茹で枝豆も合う。

おからは食物繊維のかたまりである。免疫力をあげるには食物繊維をたくさん食べて、腸内細菌を元気にすることが重要だ。発酵食品も重要だが、もっと大事なのが、腸内細菌のエサである食物繊維なのである。「腸内細菌がよろこぶエサをあげる」ことを食事作りの時に忘れてはいけない。毎日ささっとおいしい食物繊維たっぷりのおかずを作って、ウイルスに負けない体を作りましょう。薬は治してくれないよ。

新しい生活

笠井瑞丈

緊急事態宣言
家を出ることのない生活
毎日をチャボのマギちゃんゴマちゃん
なおかさんとの四人の生活
ほとんどあまり人と会わず
たまに行うzoomミーティング

チャボのマギちゃんゴマちゃん
うちにきてもう少しで一年
今はもう完璧に家族の一員

ゲージは置いてはあるものの
ほぼ放し飼いで
いつも部屋を歩き回っている

最初うちに来た時は怖くて
ゲージから出てこれなかったのに
今となっては我が物顔で部屋を徘徊している
ちょっとでもゲージに閉じ込めようものなら
「出せ!出せ!出せ!出せ!!!!!」と
言わんばかりに叫び続ける

テレビの裏の隙間が
今は彼女たちの寝床

夜になるとぴょんとそこに登って
朝になるとぴょんとそこから降りる

降りると必ず枕元でおまんじゅうみたいな形になって
顔をカラダの中にねじ込んで残りの睡眠を続ける

一日おきに卵を産む
一日おきに体の中で
殻を作り
卵を作る

卵を産む時もテレビの隙間に登り
じっとそこで生まれる瞬間を待つ

その瞬間を眺める

生命の力を感じる瞬間
モノを生み出す力瞬間

神聖な時間

ちょっとした事にすぐ怯え
すぐ慌てて逃げだすチャボ

臆病なのに強く生きている姿が
けなげでとても可愛らしく思う

チャボにありがとうと言う

そんな変わらない毎日をチャボと過ごす
世の中はコロナ問題で日々変化している

いまはチャボさんと過ごす平凡な時間がとても愛おしく思う

早く収まる事祈るばかり