松永くんをいじめていた日々のこと

植松眞人

 僕達はいつも松永くんをいじめていた。彼が少し知恵が遅れていたことと実は小狡い性格でみんなから嫌われていたので、ほとんどの同級生が少しずついじめていた。昭和四十年代には小学生たちは、全員で無視をするという高度な技は持っていなかったので、僕たちは個別に少しずついじめていたのだった。
 と言っても、消しゴムを貸してあげないとか、彼の話がいつも長くてしつこいので途中で聞かなくなるとか、そういう感じだった。つまり、いまのような徹底的ないじめではなかったのだけれど、僕たちのなかには確かにいじめているという実感はあった。そのくせ、よそのクラスの子どもたちが松永くんに罵声を投げかけたり、あからさまな意地悪をすると、「やめろ」と声をあげたりするのだから、いま思えば余計にタチが悪い。松永くんは小狡いからちょっとくらいいいんだ、と僕たちは僕たちでかなり小狡い小学五年生だったわけだ。
 ある日、松永くんがクラスの女の子にちょっかいを出した。六月になり衣替えでみんなが夏服を着出した頃だ。ある女の子が薄手のスカートをはいて着た。その子が窓際の席に座っていたのだが、窓から差し込む明るい日差しの中で女の子のスカートが透けて、スカートの中の足がはっきりと見えたのだった。はっきりと見えると言っても、さすがにそれはシルエットではあったのだが、それでも小学五年生の男子にとってはとても刺激的だった。松永くんは好奇心と性的な欲望のままにその女の子のほうへ近づくと、その足元にしゃがみ込んでじっと観察しはじめた。何が始まったのか理解できなかった女の子は松永くんを凝視したまま動けなくなってしまった。すると、松永くんは「すごい見えてるよ!すごい見えてるよ!」とまるで幼稚園児のように女の子のスカートを指さしたのだ。自分のスカートが透けているということを理解した女の子は恥ずかしさのあまり泣きだした。小学校の教室で女の子が泣き出すのはそれなりの事件で、教室が一瞬のうちに静まりかえった。
 松永くんはある意味純粋で、ある意味無垢で、同時にとてもずるい子だった。そのことを知っている父親や学校の先生からは正論で責められ叱られることが多かった。だから、目の前で自分のせいで誰かが泣き出せば、きっとまた叱られるに決まっている。そう思った松永くんは静まりかえった教室の中で、静寂に負けじと声を張り上げた。
「すけすけや!スカートがすけすけや!裸や!裸や!」
 そう叫ぶと、おそらく自分でも限度がわからなくなり、椅子に座っている女の子の足元に座り込むと、スカートをめくろうとした手を伸ばしたのだった。
 教室は騒然とし、まず女子たちから非難の声があがった。そして、その非難の声に背中を押されるように、僕たち男子たちが立ち上がり実力行使で松永くんを女の子から引き離した。それは誰かを助けるということよりも、日ごろ気にしている女子たちの前でいい格好としたいという一心だった気がする。
 その時、男子の一人が「しばいてまえ」と声をあげた。関西では殴ることをしばくと言う。殴ってしまえと誰かが叫んだのだ。すると、僕も含めて松永くんを取り巻いていた男子の数人が、松永くんを殴ったり蹴ったりし始めた。最初は「やめろや」と半笑いで抵抗していた松永くんだが、次第にみんなが本気で殴り始めたので、多勢に無勢だと悟り、ダッシュで逃げようとした。その時、松永くんは誰かの足に引っかかり、もしかしたら引っかけられて転んだのだ。転んだ拍子に松永くんは机の角で顔を打ったようだ。鼻血が床にぽたぽたと落ちた。小学生を黙らせるのに、流血ほど効果があるものはない。松永くんを取り囲んでいた人の輪が一気に広がった。女子の一人が「先生」と声に出しながら職員室に走った。
 数分後、担任の佐藤先生が教室に走ってきた。佐藤先生は算数が得意な女先生で、怒るととても怖かった。松永くんを殴ったり蹴ったりしてしまった男子たちの全員の顔から表情が無くなった。数名の男子は顔の真ん中に目や鼻や口がぎゅっと寄ったように緊張し、佐藤先生が教壇に立つのを待っていた。佐藤先生は教室には駆け込んできたのだけれど、その後、教室の中の様子をひとしきり見ると、今度はとてもゆっくりした足取りで教壇に立った。そして、松永くんを指さして、こっちへ来いと合図を送った。
 鼻血を流しながら松永くんはなぜか少し笑顔で先生の元へと小走りに向かった。おそらく、鼻血を流していることで自分が被害者として確実に認定されると思っていたのだろう。しかし、佐藤先生は自分の前に立った松永くんにニコリともせず、松永くんのあごに手を当てグイッと引き上げると鼻血の様子を確かめた。先生はクリーム色のスカートとジャケットを着ていたのだが、そのポケットからティッシュを取り出すと一枚抜き取り、それを適当な大きさにちぎり丸め、松永くんの鼻の穴に、鼻のかたちが変わるほど強く突っ込んだ。松永くんは「うぎゃ」と妙な声を出して鼻を押さえてうずくまった。
「なにがどうしたら、こんな鼻血を出すようなことになるのか、誰か説明して」
 先生はまるで男の先生みたいに低い声で言うとあとは黙ってなにも言わなくなった。こういうとき、いつもなら学級委員長をしている池田くんが率先して話し始めるのだが、その池田くんも一緒になって松永くんを蹴ったり殴ったりしていたので黙っていた。仕方なさそうに口を開いたのは副委員長の平松さんだった。平松さんはいつも松永くんに「汚い」とか「向こうへ行け」とか言っている女子で尖った三角の赤いメガネをかけた気のきつい子だった。
「先生、私が説明していいですか」
 平松さんが言った。先生はなにも答えなかったので、またしばらく沈黙が続いた。平松さんがおずおずと話し始めた。
「最初に、松永くんが清水さんのスカートが透けているって、エッチなことを言い出したんです」
 すると、松永くんが、
「エッチとちゃう。ほんまに透けてたから透けてたと言っただけです」
 先生は松永くんをにらんだ。松永くんは口を閉じた。
「いえ、透けてる透けてるって騒いで、近くに行ってスカートもめくろうとしました」
 松永くんがまた何かを言おうとしたとき、佐藤先生が大きな声で制した。
「そんなことで、なんで鼻血が出るねん」
 平松さんも松永くんも黙った。そして、その原因となった僕たち男子が下を向いた。
 やがて先生は平松さんと清水さんを呼んで、教室の隅で話し始めた。しばらく話を聞いていた先生は、もう一度教壇に立って、いま二人から聞いた話を整理してみんなに話した。話の中身は、さっき教室で繰り広げられたことと寸分たがわない内容だった。
「間違いない?」
 先生がみんなに聞いた。
「はい」
 とみんなが答えた。
 すると先生は、松永くんを呼んで、教壇にみんなのほうを向いて立たせた。次に殴ったり蹴ったりした男子に手を挙げさせて松永くんの隣に立たせた。ここまでで立たされた人数は八人だった。そして、最後に先生は手を出さなくても囃し立てた人は正直に言いなさいと挙手させた。クラスの半分の男女が前に呼ばれた。
 一列目に囃し立てた男女が九人。二列目に松永くんと手を出した男子が八人。先生はまず一列目の男女一人一人にこう言った。
「手を出さなくても、罪は同じや。殴ったのと同じだけのことをしてるのと同じ。手を出してないから自分は悪くないなんて思うのは言い訳やし、ずるいし、汚い。まず、みんな松永くんに謝りなさい」
 先生がそういうと一列目の端っこに並んでいた副委員長の平松さんが「ごめんなさい」と言いながら泣き出した。それをきっかけに一列目のほとんどが泣きだした。泣きながらみんなが「松永くん、ごめんなさい」と謝った。先生は泣いている男女に、うるさい、というと自分の席に座らせた。
 残された僕たち八人を先生はきれいに等間隔に整列させると、順番に松永くんに謝らせた。そして、その後、順番にビンタを食らわせた。三人目に並んでいた僕は先生の掌が飛んでくる瞬間に少し顔を振ってビンタをかわした。音は大きかったがそれほど痛くはなかった。助かったと思った瞬間、先生の掌は戻ってきて逆の頰を思いっきり張られた。こうして、佐藤先生は僕たちを一人一人、まったく手抜き無く横っ面を張っていったのである。松永くんはと言うと、僕たちがビンタされる度に手を叩いて喜んでいた。確かに手を出したのは僕たちなので、先生にビンタされるのは仕方がない。そんな時代だったし、それだけ悪い事をしたと反省もしていた。だから、松永くんが手を叩いていても、後で仕返しをしてやるとは思わなかった。
 一通り僕たちをビンタし終わると、先生は肩で息をしながら、こう言った。
「どんなに腹が立っても、どんなに調子に乗っても暴力は絶対にあかん。わかったね。それだけは約束してもらわんと、今日は帰されへん」
 僕たちは先生に謝り反省の言葉を伝え、もうしませんと約束した。先生はわかったと声に出してやっと笑ってくれた。その時、松永くんも一緒になってこう言ったのだった。
「わかったか。調子にのんなよ」
 すると、佐藤先生は松永くんの前に行き、思いっきりその横っ面を張った。思ってもみなかったビンタに松永くんは目を見開いて先生を見つめた。
「お前もいじめられるってわかってるのに、しょうもないことするなっ!」
 先生はそう吐き捨てると、教室を出て行った。
 それからも、松永くんは懲りずに日々面白くもないしょうもないことを繰り広げ、僕たちは決して手を出さないようにしながら、松永くんをいじり続けた。(了)

フリーインプロヴィゼーションを聴いていたころ

仲宗根浩

大学に入った頃に学校図書館下の柱や掲示板にICPオーケストラの公演のポスターが貼られていた。ミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンク、近藤等則という名前があった。おもしろそうだなぁ、とおもいながらそのコンサートには行けなかったのか行かなかったのか。しばらくすると趣味がフリージャズで筝曲研究会にいるという先輩がいたのでフラフラと筝曲研究会に出入りするようになる。

その先輩はフリー・ジャズ、インプロヴィゼーションのレコードを色々持っていた。デレク・ベイリー、ハンス・ライヒェル、ペーター・ブロッツマン、スティーヴ・レイシー、フレッド・フリス、エヴァン・パーカー、グローブ・ユニティ・オーケストラ等々。

いなかものには見たこともないレコードばかり。こっちはFMラジオで山下洋輔や加古隆がピアノだった沖至のグループをスタジオライヴを聴くのがやっと、NHK教育テレビの「若い広場」という番組で生活向上委員会を見た高校生はびっくらこいた。地元のレコード屋さんにはその手のレコードは置いてなかった。ミシャ・メンゲルベルクとハン・ベニンクの名前と演奏はエリック・ドルフィーのレコードを持っていたので知っていた。斎藤徹とは「騒」というところで既に知り合った後。

その年のパンムジーク・フェスティバルに忠夫先生が出演し、レオ・スミス、ペーター・コーヴァルト、ハンス・ライヒェルと演奏会にも行った。近藤等則は山下洋輔のレコードに参加している、ということだけ知っていたが音は聴いたことがなかった。しばらくするとエヴァン・パーカーのコンサートが日本青年館の確か地下ホールで近藤等則、森山威男を加えて行われたのを聴きにいった。その時にサックスの循環呼吸の演奏を目の当たりにし、近藤等則の生の音を聴いた。ICPオーケストラの「ヤーパン、ヤーポン」というライヴ盤を会場で売っていたので買うとメンバーの来日時のスナップショットの写真をおまけでくれた。数々の引っ越しの時にLPは人にあげたし写真も処分したかもしれないのでもう無いだろう。前後の記憶は不確かだでごっちゃになっているが、近藤等則がプロデュースし全曲作曲の浅川マキの「CAT NAP」というレコードを買った。レコードプレイヤーが壊れていたので誰かに頼んだとおもうがカセットテープにダビングしてもらい、そればかりを聴いていときがあった。川端民生とつのだひろのベースとドラム、めんたんぴんのメンバーだった飛田一夫のエッジの効いたギター。ロッド・スチュアートの「ガソリン・アレイ」は中学頃に先にめんたんぴんの演奏をテレビで最初に見たんだ。

その後、テレビが無かったこの時期にFMで近藤等則のチベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンド聴いた。法政大学の学祭のオールナイトコンサートで近藤等則IMAを目当てに行った。その前はサンデー&サンセッツで他は全然覚えていたない。カセットブックが盛んなころでムーン・ライダースや坂本龍一などともに「Tokyo Meeting 」というのも持っていたがカセット類は処分したのでブックだけあるかないか。整理しようとラックを二つ組み立てたら全身筋肉痛になり進んでいない。組み立てるラックはあと二つある。

ウクレレ少年、エレキ老人、プリンセス(晩年通信 その15)

室謙二

 私はかつてはウクレレ少年であったが、いまではエレキ老人である。
 それも、エレキベースである。
 エレキギターなんか、チャンチャラおかしいのである。
 エレキベースで低音リズムをがんがん弾けば、音は耳に響くのではなくて、胸に押し寄せる振動となる。だが家庭ではそうはいかない。大きな音でベースを弾き始めたら、妻がすぐに私の部屋に飛んでくるだろうし、一階の住人も天井が振動するのに呆れて、私たちに電話をしてくるだろう。
 だから、そーと、弾かざるを得ないのである。

 クチ三味線の名人である

 私が子供のときに、我が家に戦前の手回しのポータブル蓄音機があった。
 ゼンマイをぐるぐるとまく。それから金属パイプのピカピカ・ピックアップを、回り始めたSPレコードの上に乗せる。その前に、鉄針をつけないといけないね。低音がよく出る、あるいは高音がでる、クラシック用とかジャズ用とかがあったと思うけど、いずれにせよ電気を使わないので、音は小さい。
 金属ピックアップのパイプを通った振動音は、ポータブル蓄音機の小さなホーン(木箱の中)から出てくる。ジャズだとベースとかドラムなんて、分離して聞こえるはずもない。音がダンゴになって、リズムを作っている。クラシックのオーケストラねえ、絶望的だ。
 子供の頃、ショパンのピアノソナタの10インチSPレコードがあった。戦前のクラシックのSPは、それ以外にもあった。落とすと割れてしまうので注意しないといけない。SPは一分間に78回転でぐるぐると回る。LPは33回転だったから、それよりずっとはやい。ともかくクラッシク音楽が聞こえる。
 ところが13歳年上の兄が、高校に入るとジャズを聞き始めた。
 それもビーバップですよ。ポータブル蓄音機から、チャーリー・パーカーが流れてくる。音が小さいと兄貴は不満。それで近くの電気屋さんにたのんで、クリスタル・ピックアップを付けてもらた。その電気信号を、改良した並四ラジオで増幅してU型マグネットのスピーカーで聞く。これで音は少しはましになったが、いまの録音とは比べ物にならない。
 それでもビーバップといっしょに、兄貴はチャットする。幼稚園の私もチャットである。
 ビバビバ・ブー。これが私の最初の音楽体験であった。
 聞くだけではなくて、クチ三味線で「演奏」するのである。

 「シマッタ、チャンスを逸した」

 だから私はいまでも、音楽体験は聞く(受け身)だけではない。すぐ下手くそな演奏に走る。
 私が小学生の高学年だったころ、兄が友人からウクレレを借りてきた。誰からか3コードを教わった。CとFとG7かな。この3つさえあれば、ポロンポロンといろいろな歌を弾ける。でもすぐに飽きてしまった。そのあとリコーダーとかフルートを吹いた。
 フォーク・ギターを弾き始めたのは、二十歳をすぎたころ。
 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の高校生・予備校生が、ギターをつかんで街頭に出たのは1978年(昭和四十三年)だった。ベ平連事務所にいた数年年上の私も、負けずにギターを手に入れた。メジャー・コードを三つ教わって、マイナーを一つ二つ、それにいろんなキーで弾くためにカポを買った。それでもう私は、フォーク・ギタリストであった。
 ベ平連ニュースの編集をしていた私は、反戦フォークを歌い始めていた高石ともやにインタビューして友人になった。そのあと東京に出てきた岡林信康とも、中川五郎とも友人になった。
 五郎ちゃんはまだ高校生で、鶴見俊輔に教わるのだと同志社大学の新聞学科に入ったが、大学に行かずに街頭で歌う。鶴見俊輔も大学で学ぶより、歌うジャーナリストのほうがヨロシイと、それを支持していた。
 五郎は京都から東京に出てくると私の部屋のベットでぐっすりと寝て、夜中に私の恋人が来て、服を脱いてベットに滑り込んでも分からなかった。恋人の方は、「よく見たら五郎ちゃんだったわ」と、服を着て出ていったらしい。それを聞いた五郎は、「シマッタ、チャンスを逸した」と悔しがっていた。

 ケンちゃんウクレレを弾いたわよね

 ウクレレをまた始めたのは、三、四年前で、ガンになった姉さんに電話したら、ケンちゃんウクレレを弾いたわよね(昔のことを覚えていた)、こんど一緒に弾こうと言われた。
 姉さんはハワイアン・ダンスをやっていて、いっしょにハワイに行ったことがあった。それが、踊りながら、ウクレレを弾くことを始めたらしい。ウクレレが手元になかった私は、すぐにハワイのカマカに注文した。ワクワクしてきた。
 ウクレレは断じて「オモチャ」ではない。表現力のある楽器だよ。いまのウクレレは、テナーウクレレが一般的だけど、何十年か前は小さなソプラノウクレレが普通だった。ソプラノとかテナーと言ってもキーの音の高さは同じ。音の大きさとか響きがちがう。
 手に持って構えたときに顔に近い弦が、一番音程が高いG。上から二番目の弦がCで、一番低い音程。それから二番目(E)、三番目(一番下の弦でA)と音程が上がっていく。面白いチューニングだね。ウクレレは一九世紀にポルトガル移民がハワイに持ち込んだものだが、チューニングの起源をさぐると、南米とかアフリカらしい。 
 演奏はしていなかったが、私はずっと「ハワイアン」を聞いていた。ハワイアンと言っても、日本の人が考えるハワイアンではありません。あれは1930年代から40年代の、ハワイをテーマにしたハリウッド映画の音楽らしい。そのころはハワイがアメリカの観光旅行先としてはやって、ロサンジェルスの映画関係音楽家がそれらしい音楽を作ったのが、いまの日本人の考えるハワイアンです。ハワイの人は、あれがハワイアンだとは思っていない。

 ギャビィー・パヒヌイに会う
 
 私はギャビィー・パヒヌイ(Gabby Pahinui)に会ったことがあるんだ。彼の家に行って、音楽家でもある息子たちとのセッションを聞いた。庭に座って、木に寄りかかって彼がうたう写真を撮ったよ。と言うと、ハワイ音楽を知っている若い人は、「本当?」と驚く。
 と言っても、ギャビィー・パヒヌイなんて、いまはみんな知らない。石原裕次郎とか加山雄三のウクレレ先生のオータサン(Ohta-San)だって、ピーター・ムーンだって、「演奏を聞くだけではなくて、会って話して、インタビューしたんだぞ」と威張っても意味ないか。
 気にいると受け身でいるだけではなくて、すぐに始めたくなる私は、Nancyとハワイ島で休暇をとっているときに、スラッキーギター(Slack-key guitar))をはじめた。スラッキー・ギターはいろんなオープン・チューニングがあって、波がやってきて戻るような感じで弾く、始めも終わりもない。

 ギャビィー・パヒヌイのファンだけではなくて、プリンセス・カイウラニ(Kaiulani,1875年生まれ)のファンでもある。追っかけのカンジだ。プリンセスはもう生きていないんだが。
 彼女のことは読んだことがあったが、ホノルルの街を歩いていたらプリンセス・カイウラニ・ホテルがあった。入ってみると彼女の写真があって、混血のすごい美女だ。
 結婚せずに若くして死んだが、ハワイ王室は一時期、彼女を日本の皇室に嫁がせようとしたらしい。アメリカとではなくて、アジアである日本と関係を持ちたいと思った。日本側がまったく興味なし。外国の血を日本の皇室に入れるのなんか、もってのほか。残念だね。ハワイでは、彼女はいまでも人気がある。

 ごちゃまぜダ

 ハワイ音楽は好きだが、わたしはいろんな音楽をごちゃまぜに聞くのが好きだ。もっとも最初の音楽は、小学生のころに兄貴に聞かされたジャズ(ビーバップ)なので、それはいまに至るまで聞き続けている。マイルス・デビスは65年以上聞いていることになる。
 それと中学生の高学年でバロック音楽を聞き始めた。カークパトリックのハープシコードは、どういうきっかけで聞き始めたのかなあ。そして高校に入って、グレン・グールドを発見した。バッハのピアノ曲をたくさん聞いて、レコードを聞きながら、いっしょに口で歌っていた。
 音楽は、ヨーロッパ(クラシックも民族音楽も)から、アメリカ(ジャズも山間部の音楽もモダンフォークも)、中国から、日本のもの、南米(ブラジル)、アフリカ、ハワイ・南太平洋(フィージーに行って発見)となんでも引き受けた。
 息子がフェラ・クティ(Fela Kuti)がいいぞ、と言えば、ひと夏ずっとそれを聞き続けたし、子供の頃に両親がタンゴを踊っていたのを思い出して、それを聞いた。バンドネオンのアストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)を発見。Ono Risa(小野リサ)もいい。
 息子が、インドのドラム音楽を教えてくれた。彼は西アフリカに滞在してドラムを叩いていた。ハリー・ベラフォンテは、その音楽も政治的態度も支持する。トランペットのヒュー・マセケラ(Hugh Masekela)は、何も知らずにカナダのクラブで聞いて驚いた。ジャズとアフリカ音楽の融合だね。ジャズをやっていたマセケラに、マイルス・デビスが、「もっとアフリカ音楽をやれ」としゃがれ声で言ったそうだ。キース・ジャレットのトリオは、原稿を書くときの音楽にちょうどいい。
 キューバ音楽もよろしい。ギターと歌もいいが、ピアノ音楽もいい。
 あるとき妻のNancyが、八代亜紀の「舟歌」を発見した。日本語が分からないのだが、すごくいいと言う。「お酒はぬるめの燗がいい、サカナはあぶったイカでいい、女は無口なひとがいい、明かりはぼんやりともりゃいい」といっしょに歌い、ともかく英語に翻訳した。
 私の方はビートルズが好きで、
 つまり、ごちゃまぜなんだな。
 私の人生も、ごちゃまぜだからね。

デジタルコレクションで遊ぶ

福島亮

とうとうフランスでは二度目の外出禁止がはじまってしまった。一時は1日に5万人以上もの感染者が出てしまったのだから、仕方ないといえば仕方がない。なによりも、クリスマスまでにはどうにか感染者数を少なくしなければならない。外出禁止令下のクリスマスなど、どう考えたって悪夢だからである。

こういう時のために、とっておきの楽しみを用意しておいた。国立国会図書館デジタルコレクションで遊ぶのである。デジタルコレクションとは、国立国会図書館が提供しているアーカイブで、様々な資料を自由に読んだりダウンロードしたりできる、夢のようなサイトである。

「国立国会図書館小史」を参照すると、デジタルコレクションの前身、「国立国会図書館デジタル化資料」の提供が開始したのは平成23(2011)年4月4日からであり、それに先立ち資料提供のための周到な準備が重ねられていたことがわかる。和中幹雄によると、デジタル・アーカイブの構築は、「国立国会図書館ビジョン2004」からはじまったそうだ(『図書館界』という魅惑的なタイトルを付された非常に興味深いジャーナルの、70巻1号にこのことは報告されている)。実は2011年というのは、僕が大学に入学した年である。その頃はこのデジタルコレクションの存在を知らなかった。デジタルコレクションに頻繁にアクセスするようになったのはフランスに留学してからである。フランスにいると、日本語の作品にアクセスするのに手間がかかる。かなりの数の作品が青空文庫に入っているから、日本語の作品を探すときは、まずは青空文庫を参照する。運よく見つかったら、ダウンロードする。ダウンロードしてしまえば、検索機能を使って、言葉の使われ方などを容易に調べられるからである。最近は青空文庫のテクストを利用した無料の電子書籍もあり、縦書きで読めたり、文章にハイライトをつけたりできて便利だから、必要に応じて利用する。しかしどうしても参照できないものもある。例えば図像の多い書籍。それから、文学作品ではない資料。あるいは初版本の細部。そういう時に助けてくれるのがこのデジタルコレクションである。

デジタルコレクションには様々な「資料」が集められている。図書、雑誌、古典籍、博士論文、官報、憲政資料、日本占領関係資料、プランゲ文庫、録音・映像関係資料、電子書籍・電子雑誌、以上がまずはホームページ(https://dl.ndl.go.jp)の目立つところに配置されている。さらにその下には、歴史的音源、手稿譜、脚本、科学映像、地図、特殊デジタルコレクション、他機関デジタル化資料、そして内務省検閲発禁図書が配列されている。もっとも、このデジタルコレクションの資料すべてが公開されているわけではない。権利状況によっては、国会図書館の中でなければ参照できない資料もある(例えば、「手稿譜」は林光の手稿なのだが、インターネット上では公開されていない。「鬼婆」の手稿譜もあるそうだが、内容は自宅のPCからは確認できず、非常に気になっている)。さて、上にあげた資料の中で僕が気に入っているのは、歴史的音源、および内務省検閲発禁図書である。

歴史的音源のうち、自宅のPCからアクセスできるものは現時点で4886点(2020年10月31日)。この中には、例えば坪内逍遥が朗読する『ヴェニスの商人』の録音もある。教科書でしか知らなかった人の声を聞くこともできる(例えば、火野葦平が読む『麦と兵隊』など)。中でも驚いたのは、北原白秋の朗読である。「邪宗門秘曲」のじりじりするような原色ほとばしる詩を、きわめて淡々と、でも艶やかに朗読したかと思うと、今度は短歌に節をつけ、細く細く張りつめた声で詠む。このように、歴史的音源は聞いていて飽きることがなく、ふと気がつくとコレクションあさりに惑溺してしまうことがあるから危険である。

それに輪をかけて危険で面白いのが、「内務省検閲発禁図書」(以下、発禁図書と略す)である。発禁図書の項目を開いてみると、インターネット公開資料は現時点で301点である(2020年10月31日)。検閲に引っかかった本のうち、おそらくもっとも多いのは社会主義、共産主義関連の書物である。それからやはり、性風俗に関連するもの。そして、不敬にあたるとされるもの。だいたいこのあたりが発禁の対象になっているようである。それ以外にも、労働運動や、アナーキズムなど、発禁の理由はいくつもあるだろうが、まとめるなら、「安寧秩序妨害」と「風俗壊乱」となる。

デジタルコレクションの中で興味深かったのは、フローベル作、田山花袋編『マダム・ボヷリイ』、すなわち、フローベールの『ボヴァリー夫人』の翻訳である。『マダム・ボヷリイ』というのは誤植ではない。「ワ」に濁点で、「ヴ」の音を表記しているのである。「姦通小説」として名高いこの19世紀フランス文学が発禁になった理由は、いうまでもなく、「風俗壊乱」である。表紙には「風俗壊乱」を示す「風」の文字が書かれており、「禁止物 高等警察」と朱書きされ、なにやら物々しい。この翻訳は「世界大著物語叢書」の「第一編」として新潮社から出版されたものであり、大正3(1914)年6月6日に印刷完了、発行は同年6月10日となっている。「編」とついているのは、この訳が編訳だからである。巻頭に置かれた「『西洋大著物語叢書』発行の趣旨」によると、ヨーロッパ(泰西)の文学の中には、訳したいのだけれどもあまりに長大なので翻訳するのに躊躇してしまうものが少なくない。そこで、「抄訳を、簡潔なる物語風の筆によって連綴し、梗概を語ると共に原作の感味を髣髴せしめ」たい、とのことである。同じ「趣旨」の中には、「名教に害ありとして官憲に読まれ」市場に出せない作品も、うまいこと選んで加えることにした、とある。検閲を逃れるよう細心の注意をして刺激的な内容の作品も収録しています、という苦心とも、売り文句とも、あるいは検閲への挑発ともとれる文言である。

僕はこの本の存在をこれまでまったく知らなかった。仏文学者の山川篤によると、花袋編の『マダム・ボヷリイ』はごく少数の所蔵機関にしか収蔵されていなかったそうである。デジタルコレクションで公開されたことで、これまで容易に参照できなかった作品に自由にアクセスできるようになったことは本当に嬉しい。ひとつ残念なのは、この本のどこが問題になったのかいまいちわからなかった点である。この文脈で時々取り上げられるのは、人妻エンマが、不倫相手の青年レオンと馬車の中で何やらした後、馬車の窓から千切った紙を捨てる場面である。この紙はレオンに別れを告げるために所持していたエンマの手紙なので、要は、もうこれっきりと覚悟していた不倫に再び溺れていくエンマを表す記号だといえよう。ところが、渡辺一夫によると、『ボヴァリー夫人』の別の日本語訳が検閲にかけられた時、この紙を捨てる場面がよからぬ妄想を招いたという。花袋編『マダム・ボヷリイ』でもこの紙を捨てる場面はしっかり訳されている(188頁)。はたして検閲官たちはここで妄想をたくましくしたのか、それとも「なに、手紙じゃないか」と理解して読み飛ばしたのか、はたまた、やはり姦通はけしからん、と眉をひそめたのか。知れるものなら知りたいところである。

発禁書籍がデジタルコレクションで公開されたのは、平成29(2017)年3月のことだという。それ以前、発禁図書は米国議会図書館に所蔵されていた。なぜ日本の発禁図書が米国に、とも思うが、この辺りの事情については、『国立国会図書館月報』680号、2017年12月の特集が詳しい(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10991743/1)。かいつまんで述べるならば、内務省に保管されていた発禁本が戦後米軍によって接収され、合衆国へ渡っていたのである。接収されていたからこそ、いまこうして発禁図書を楽しむことができるのだとしたら、ちょっと皮肉な感じもする。余談ではあるが、この月報に掲載された眞子ゆかり「本に残された決裁文書」は、発禁図書に書き込まれた検閲決裁文書を細かく検討し、検閲の実際を追っている。読んでいて胸が熱くなるような文章だった。発禁図書公開の裏には、図書館構成メンバーたちの並々ならぬ努力があったはずである。また、発禁図書を読みながら、つくづくこれらの図書が処分されなくて良かった、と思った。先の「フローベル」の本の扉には、「風」と烙印が押されてはいるけれども、同じ箇所には「永久保存」という印も押されている。もちろん、コレクションに収めることができた資料は存在した資料のごく一部に違いない。でも、たとえ一部であるとしても、その一部の保存すらないがしろにされてしまったら、後世の人間はもう手も足も出ないのである。保存されていなければ、こうして自由にアクセスすることもできなかった。ウイルス蔓延につき外出禁止というような「もしもの時」の楽しみが減ってしまうのは、なんといっても惜しいことではないか。

一度も撃ってません!

若松恵子

阪本順治監督の最新作『一度も撃ってません』は、新型コロナの影響で春の公開予定が7月3日からに延期され、まだ映画に出かけるのがためらわれる様な社会状況のうちにロードショーが終わってしまった。

9月のはじめに新百合ヶ丘のアートフォーラムで上映されるのを追いかけて見に行った。見終わった後に、じわじわと面白さがしみてくるような味のある作品だった。

阪本監督が石橋蓮司を主演に映画を作りたいと話した際に、脚本家の丸山昇一が「伝説の殺し屋、実は一度も撃ったことが無い」というアイデアを思いついて、それが今回の企画になったということだ。

確かに石橋蓮司という俳優は、決して使用していないに違いないだろうけれど、覚せい剤を打っているような役がうまい役者だ。(どういうほめ言葉なんだよ)。私は子どもの頃、彼のことを本当に危ない人だと思っていた。実は本当には一度も撃ったことが無い伝説の殺し屋というのは、彼、石橋蓮司を象徴する役柄なのだと言える。さらに、石橋蓮司演じる小説家は、ハードボイルド小説が書きたいというだけで犯罪に手を染める。小説という虚構を生み出すためには(間接的にではあるが)人を殺しても構わないと思っている男なのだ。映画という虚構のためならどんなことだってやりかねない、石橋蓮司のそんなイメージともこの小説家は重なる。阪本順治と丸山昇一という良き理解者によって、このような主人公が、石橋蓮司のためにつくられたのだ。

岸部一徳、大楠道代、桃井かおり、佐藤浩市、豊川悦司、江口洋介、妻夫木聡、井上真央、柄本明という錚々たるメンバーが集まって共演している。かつて阪本作品に出演し、監督と映画づくりへの思いを共有する俳優も多い。ロードショー公開に先駆けて出演した番組の中で、妻夫木聡は「久しぶりに日本映画らしい映画に出演できてうれしい」と語っていた。こんなに年寄りばかりの群像劇をつくって、ヒットするの?と言われてしまいそうだけれど、実際に朝の情報番組に取り上げられることなんて無かったけれど、映画の魅力を感じさせる映画だと思った。

主人公が夜な夜な通う怪しげなバー「y」は、原田芳雄の「y」なのだという。原田芳雄の筆跡から看板の「y」の字が作られたということだ。石橋蓮司、岸部一徳、桃井かおり演じる3人は、新宿騒乱事件の最中に出会い、ずっと友人でいるという設定だ。石橋蓮司、岸部一徳、桃井かおりそれぞれの、日本映画界のなかでの独自の立ち位置と存在感にも重なる。そして、慎ましい日常を忘れて、自分が夢見た人を演じて語り合えるバー「y」も閉店の時を迎える。閉店の日のドタバタ、ラストワルツ。

公開前の宣伝で出演した番組で、コロナ禍において難しくなっているが劇場で映画を楽しむという事について質問されて阪本監督が答えた言葉が印象に残った。

作り手からすると、大きなスクリーンと劇場の音響を前提に作品を作っているので、そこで見てほしいということだ。家でDVDやスマホで見ることもあるだろうけれど、画面の背景に色々なものが見えてしまっていると、チラッ、チラッと別の物に目が行ってしまうので、家で見ていると映画の時間を短く感じてしまうかもしれない(逆の場合もあるかもしれないけれど)スクリーンの主人公だけを追いかけている時とは、時間の感じ方が違うと思うというのだ。また、音響の点でも、特別に設定している場合でない限り、細かい音やある周波数の音は家では聞こえないので、小さなため息を入れているところが、無音になってしまう場合もあるのだという。映画館の暗闇に座って、スクリーンに流れる時間を体験する、この古き良き映画の楽しみ方を失いたくないなと思った。そしてそれに耐えうる映画というものをこれからも作っていってほしいなと思った。

まぶた裏読み

管啓次郎

文字なき午後だった
電車に乗ってついウトウトしていた
閑散とした車内だ
みんな外出しなくなったので
ガラガラなのも当然
空いた席にはピンク色の恐竜や
黒装束の死神が二、三人
ゆったりすわっているばかり
昔とは違う時代になったけれど
昔もよい時代ではなかったので別に
気にもならない
明治のある時期なら
電車はなくて軌道上を馬が曳いていた
路上には馬糞がふくよかに匂い
人々に安心を与えていた
ブエノスアイレスの地下鉄なら
木製の製造後七十年は経過した車両が
電線の継ぎ目ごとに暗闇を吹きかけてきた
それはそれで情緒があるもの
記憶のフェティッシュだ
いま線路は空中を走り
完璧な水平をもって水もこぼさない
そんな車両に存在も時間もゆだねながら
いつものことでぼくは
内にこもっている
公共交通機関であればあるほど
交感を拒否している
ただ目をつぶって
周囲の乗客にも
窓の外の景色にも
気がつかないふりをしている
きみはよく「世界」というが
世界を見たことがあったら教えてください
よく見るためには目を閉じて
周囲を流れる音をよく聞き取るべきだ
鉄道や自動車の機械音も
風が木の葉を楽器として使って立てる自然音も
動物たちのやかましいほどの発声も
ごまかしようのない世界の断面
目をつぶる
耳をひらく
何かをつぶやく
何かが帰ってくる
ひとりでそんな遊びをしているうちに
車窓がどんどん暗くなって
昼下がりの街がまるで
無人のリスボンのように思えてくる
外壕線から甲武線へ
気がつくと街のどこにも文字がない
さっと血の気が引く
乗客はすべて消え
水の中のような光があたりをみたしている
いったいどういうことかと思ってまた目を閉じると
とたんに閃光のように文字が走った
「新しいギターが」
目を開けると目の前の座席にギターがある
その青いギターを鳴らしてみようか
また目を閉じるとまた文字が走った
「夕方のサロマ湖には」
目を開けると窓の外は灰色のみずうみだ
あの水に足を濡らしたい
また目を閉じるとまた文字が走った
「時事はただ天のみぞ知る」
目を開けると何かの通信がラジオのように
車内放送を通じて流れてくる
また目を閉じるとまた文字が走った
「インド亜大陸のベンヤミン」
カルカッタの場末のレストランで
白いゆったりとした服を着たヴァルターが
おいしそうにミールズを食べている
あいつにもあんな一面があったのか
「オルガン演奏とタイプ打ち」
一九五〇年代のようなアメリカ人タイピストが
ハンナ・アレントのように煙草を吸いながら
炸裂するマシンガンの速さでキーを叩きつづけると
それはそのままシンセサイザー音楽となって
空から降ってくるようだ
「一生分の唐辛子を背負って」
アンデスの民族衣装を着た小柄な中年女性が
大きな籠の荷物を背負って電車に乗ってきた
どうやらぼくが目を閉じるたび
まぶたの裏側に文字が浮かんで
目を開けるたびその文字が記すことが
目の前で実体化している
どんなメカニズムでこれが可能になるのだろう
電車はいつしか路面電車
軌道と店先と民家と歩道の区別なく
街が実現されてゆく
人のかたちをした実体のわからないモノたちが
踊るように歩いている
犬のかたちをした実体のわからないモノたちが
ふざけるように遊びまわっている
そうしているあいだも目を閉じるたび
文字が走り
目を開くたび
文字がしめしたことが現実し
あたりはどんどんにぎやかになる
電車を降りるときがきたようだ
だんだん目を閉じるのも開くのも
怖くなってきた
いや恐怖ではなく
億劫になってきた
世界がどんどん充満する
「めざまし時計のぜんまいが壊れた」
「不信感が悪霊のように漂って」
「夫はアルコール依存症」
「宝石くらいいやらしいものはない」
「原子ができたことで光が直進する」
「サウナにはロシア式とフィンランド式がある」
「ほら、ロシアの山が大好物」
「現金取引なんてやめてよ」
「見られたことのない蝶が見つかって」
「いま休憩中です」
それからぼくは意識を集中して
あの文字をなんとか呼び出そうとした
するとまぶたの裏側に現れたのは
もっとも必要としていた文字
天佑のように
「たそがれ」
「黄昏」
「誰そ彼」
歩くぼくの視界が仄暗くなり
足元も覚束ないが不安はない
歩いてゆくだけだ
かつて太陽がなく
夜と昼の区別がなかったころ
蛍たちが小さな太陽であり
光の存在証明だった
しずかな時空に蛍たちが散らばり
われわれの世界に明るみをしめしていた
人称なく所有なく
時間なく好悪のない世界で
われわれは我なく汝なく
薄明の意識としてさまようばかりだった
こんなときのためにぼくはいつも
音叉をひとつ携帯している
A=440 のこの音叉を叩き
耳に当てながら歩いてゆけばいい
音にみちびかれ
音にあざむかれ
音にさまよい
道にさまよう
恐ることなく
迷うことなく
こうして生きることの実験に
初めてたどりついたのだ
文字なき読みの世界へ

月の話をする先生

さとうまき

僕は、6か月間、秘密の職業訓練を受けている。残すところ一か月だが、正直甘く見ていた。WEBを自由自在に使いこなせるようになり、、、、というのが極秘の任務である。たとえば、検索で上位表示させるためには、グーグルのサーバーにもっていってもらって、彼らが気に入るようなものでなければならない。

改めて、日常がいわゆるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)つまりはアメリカに完全に支配されていることを知り少し恐ろしくなったりする。せめてもの救いはというと、ジョブスがシリア人だということだろうか。

還暦が近い僕は、正直ついていくのが精いっぱいで、何とか毎月の試験は少しずるをしながら好成績を上げているものの自分がいかにポンコツかというのを思い知らされる。すごいなあと思うのは、講師の先生はさらに僕よりも年上であるのに衰えを知らない。

授業が始まる前に、「今日は何の日」というのを話す先生がいるのだが、宇宙の話が多い。ここにきているのは、明日食えるかどうかわからないという失業者ばかりで、宇宙で何が起ころうが、そんなものはどっちでもいい話だ。先生も生徒が聞いてようが、いまいがお構いなしに熱く語る。

「どうして、先生は、宇宙の話ばかりするんですが?」と生徒がたまらず聞いた。
「宇宙のことを考えていると、この世の中がちっぽけで、どうでもよくなるんですよ。」
言われてみればその通りである。明日の飯のことなど取るに足らない事なのだ。

「10月は、2回満月がある月です。ハロウィンと満月が重なるのは、46年ぶりですから、帰りに必ず見てください。」
といわれても、授業が終わって、同級生と就活の話をしているとコロナ禍の暗い未来しか見えてこない。池袋の町明かりに月のことなどすっかり忘れてしまっていたが、家に着けば、満月が真上に輝いていた。夜も更けてくると周りも暗くなって、月の存在感が際立つ。

不思議な静寂の中で、聞こえる音。それは月の音ではなくて、満月に覚醒された地上の生物や植物たちのざわめきの音楽がハーモニーを奏でている。”月並み”な話だが、GAFAがすごくても、有史以来、人間はとてもちっぽけな存在であり続けるのである。

製本かい摘みましては(158)

四釜裕子

セブン – イレブンのコピー機で、100ページの「ピーター・ドイグ展の記録」をプリントできるという。ネットに公開された10本のレビューを中心に、鷹野隆大さんの撮り下ろしもあるとのこと。でも所詮コピー機だよね……と思ったのだけれど、〈印刷の実費のみで入手することができ、おうちにある道具を使って簡単に冊子として綴じることができます。ぜひ、お手に取ってみてください〉〈製本にはホチキスと消しゴムが必要です。ハードモードとして糸で中綴じをする方法もご紹介しています。キリと刺繍糸+針をご用意ください〉と言われたら、試さざるを得ないわけで。

2月26日に開幕した東京国立近代美術館の「ピーター・ドイグ展」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のためにまもなく休館となってしまった。再開したのは当初予定の最終日の2日前(6月12日)で、しかしその間に展示期間の延長が決まり(10月11日まで)、それで私も見に行くことができたのだった。このとき会場には図録の見本がなく、「見たいのですが」と申し出ても叶わなかった。残念だけどいたしかたなく、見もしないで買う気にはなれず、そのままになっていた。

「ピーター・ドイグ展の記録」は図録ではない。突然休館せざるを得なくなり、同館の主任研究員・枡田倫広さんは〈再開することなく展覧会が終わることも覚悟しないといけないなと思った〉(枡田さんの編集後記より。以下同)そうである。〈せめて言葉だけででもこの展覧会の記録を残したい〉と、まずはウェブで「現代の眼 特別版――ピーター・ドイグ展レビュー特集」を公開。しかしその可読性と記録性の低さが気になり、〈さりとて小冊子を印刷・製本頒布する予算はありません〉。〈いかにして高めようかと頭を抱えていたところ、研究補佐員の山田歩さんが(略)ネットプリントというシステムがあると教えてくれました〉。

冊子はA4判(一部A5判)100ページ。デザインは、neucitoraの刈谷悠三さんと角田奈央さん。表紙のみカラーであとはモノクロ。コンビニのプリンターで指定された番号を入力してデータを呼び出し、A3サイズとA4サイズを合わせて25枚、両面コピーする。代金は全部で1,080円。すべて2つ折りにして重ね、中綴じとする。留めるのは、ホチキスでも、穴を開けて糸でかがってもいい。同館のウェブサイトにあるプリントや綴じの説明も分かりやすく図解されている。コピー機でお札は使えないことまで示してある。まあ実際はそこまで読み込まなかった私は途中でレジで両替してもらったし、両面印刷の選択ボタンを確認しなかったので片面印刷になってしまったり、いろいろあったわけだけれども。

家に持ち帰りコピー機の墨ベタはすべるなあと思いながら2つに折って、折り山に3つずつ穴を開ける。麻糸を針に通し、「ハードモード」と称されていた方法で仕上げるのはあっという間だ。ページをめくって4ページ、1月からの美術と社会の出来事を記したタイムラインが始まる。WHOが新型コロナウイルスの名称をCOVID-19と発表した2月11日ころから、ドイグ展の展示作品が徐々に到着したようだ。修復士の田口かおりさんが寄せたレビューによると、田口さんはニューヨークで、展示するドイグ作品の点検と梱包に立ち会っており、それら作品とともに貨物便でこのころ日本に飛んだそうである。お立場ならではの作品を「裏」から見ての論考がおもしろい。
タイムラインに戻ると、2月17日にはドイグさんが来日、翌日から展示作業開始。そして2月26日、一般公開初日のこの日、総理が2週間のイベント自粛要請。なんというタイミング。27日、29日から3月15日までの休館を公表。「2月29日 ドイグ展休館」。冊子は次のページからサイズが倍になり、写真が始まる。まずは会場の天井、そして無人の場内が続く。

31ページ、元のサイズに戻って、タイムラインの続きが始まる。3月1日、無観客でドイグさんの講演収録。翌日ドイグさんは帰国。以降、展示再開の検討、断念、検討、断念。会期延長に向けた交渉、さまざまな配信、自宅待機……。特別レビューの依頼、到着、公開。ネットへの公開順に、10人のレビューも並ぶ。そして「6月12日 ドイグ展再開」。
71ページから再び大きな判型に。今や日常となった感染予防対策シーンの写真が並ぶ。タイムラインにあった7月30日の撮影がこれだとすれば、私が出かけた時期にも近い。写っている人のほとんどが白の不織布マスクで、今にしてみると異様だ。当時会場では絵そのものや作家のことよりも、トリニダード・トバコなど描かれた遠い場所のこと、スキーだのボートだののこと、作家がやっていた映画の自主上映会のことなどに思いが飛んでは立ちすくんでしまい、移動への渇望は結構大きく、でも悪くないなと感じたことも思い出した。そういう意味で実は多くのレビューにはピンとこず、椹木野衣さんが「画家ピーター・ドイグをめぐるエセー(企て)」の中で〈心踊る随想的な絵画〉と書いていたところに断片的に深くうなずいてしまう。

タイムラインの8月31日、ここに編集後記が続く。〈何年かあと、書棚の隅でほこりをかぶったこのネットプリント版を見つけたあなたは、ピーター・ドイグ展、あるいはこのレビュー集の記憶とともに、狂騒と虚無感が同時に訪れたかのような、2020年の奇妙な月日のことも合わせて思い出すことでしょう〉。それは、間違いない。ただ若干の問題は、表紙が本文より小さいので、このままでは棚に差したり抜いたりするたびにめくれるであろうことだ。なのでクリアファイルにはさんでおくことにした。中綴じだが背に大きく「Peter Doig」の文字があるので、書棚に並んでもそれなりに分かる。
タイムラインの最後は「9月10日 『ピーター・ドイグ展の記録』配布開始」。奥付に「印刷・製本 あなたと、富士ゼロックスカラー複合機」の文字。

山中剛史さんが『谷崎潤一郎と書物』(秀明大学出版会 2020)の中で、書物を文学の「生態系」と捉えると、書物は実態的な生き証人だと書いていた。〈書物とは、作者のみならず出版社、編集者そして装幀家、また印刷・製本所そして取次から小売書店といった流通サイクルや、また書物が商品として各々の時代にいかように宣伝、売買され読者に受容され版を重ねて浸透していったのか等々の問題について、それぞれの時代における文学のありようと、その中で作者や作品の位置はいかにあったかを示唆してくれる実態的な生き証人でもある〉(7ページ)。
せめて言葉でだけでも残したいという思いから始まった「ピーター・ドイグ展の記録」という冊子も、最後はたくさんの「あなた」に綴じられ、それぞれの「あなた」の棚におさめられて、ひとつの美術展の実態的な生き証人になったのかなと思った。こうしてひとまとまりのかたちを得るのに、この方法がぴったりだったのだと思えた。

『スリ・パモソ』作品と復曲の背景

冨岡三智

このエッセイを書いている今日(10/31)、 オンラインイベントで舞踊『スリ・パモソ』の再演を見た。正直なところ、作品調査や解釈が足りないと感じた。この作品は2003年に復曲されたものだが、実は私はその調査の最初の段階から知っていて、しかもその再演公演の後に出資して曲も録音している。さらに、私自身も数度、日本で生演奏で上演している。それなのに、この作品についてまとまった文を書いていなかったことに、今さらながら気がついた。というわけで、今回はこの作品を紹介したい。

舞踊作品『スリ・パモソ Sri Pamoso』が復曲上演されたのは、2003年2月1日(1月31日リハーサル)、ジョコ・トゥトゥコ氏(以下ジョコ氏)のインドネシア国立芸術大学スラカルタ校大学院修了制作公演においてである。彼自身は踊らず、古い作品の調査・復曲、新しい振付、それらを含む公演制作を手掛けた。このリハーサル映像を私はジョコ氏の許可を得てyoutubeに公開しているので、あわせて見てもらえると幸いである(https://www.youtube.com/watch?v=tYsC_yH88BA&t=2400s 17:10過ぎ~)。なお、『水牛』先月号に寄稿したように、ジョコ氏はこの9月28日に急逝した。

まず、この公演全体については『水牛』2003年3月号~4月号で書いている。以下は4月号の記事「ジャワでの舞踊公演(2)」の抜粋。なお、3がJ作となっているが、このJがジョコ氏のこと。私はこのジョコ氏の作品に出演していた。

 公演プログラム

1「ルトノ・パムディヨ」(Retna Pamudya)  クスモケソウォ作(完全版)
2「スリ・パモソ」 (Sri Pamoso)   クスモケソウォ作(復曲)
3「ダルマニン・シウィ」(Dharmaning Siwi) J作

1は女性戦士・スリカンディが敵のビスモを倒すまでを描いた女性単独舞踊である。1954年に中国への芸術使節(misi kesenian)の演目として作られ、J女史が初演した。その後はスラカルタ舞踊の基本的な演目として一般に定着している。…中略…

2は1969年頃の作品で、廃れていたものを今回復曲させた。クスモケソウォの弟子が海外で踊るため男性単独舞踊の作品を師に依頼してできたものである。今回は舞踊譜を保存していたクスモケソウォの弟子・S.T氏によって上演された。
1と2の演目は両者とも単独舞踊であり、海外公演のために作られたことが共通する。これは海外では1人で踊らざるを得ないことが多いが、本来の宮廷舞踊の演目では男女を問わず単独舞踊は存在しないためである。また両者ともコンドマニュロ(Ldr.Kandhamanyura)を伴奏曲としていることが興味深い。多分クスモケソウォが舞踊を通して表現したいものを一番表現できた曲だったのではなかろうかと思う。

『スリ・パモソ』は男性優形の単独舞踊で、宮廷舞踊の動きだけを使って作られた舞踊作品である。「コンドマニュロ」というスレンドロ音階マニュロ調の曲を使う。「コンドマニュロ」には普通の演奏方法以外に、ブダヤンという斉唱を伴う演奏方法がある。後者は宮廷女性舞踊用の演奏方法である。上の公演では『スリ・パモソ』はブダヤンで上演された。それはクスモケソウォの意図ではなく、同じ曲で伴奏する舞踊曲を2曲続けて上演するという大胆な公演構成の中で変化をつけるためである。

復曲の経緯だが、これはジョコ氏が公演のテーマとして祖父でスラカルタ宮廷舞踊家のクスモケソウォから自身に至る三代の系譜を表現する上で、祖父の作品を復曲したいという想いがあったからなのだ。スラカルタを代表する舞踊家といえばガリマンとマリディが双璧だが、この2人はクスモケソウォの下の世代で、活躍したのが1970年代以降だから、多くの作品がカセット化されている。一方、クスモケソウォは1972年没で、『ルトノ・パムディヨ』ともう1曲ぐらいしかカセット化されていない。ジョコ氏がクスモケソウォの弟子にインタビューしていく中、スリスティヨ氏(上の『水牛』記事ではS.T氏になっている)が同作品の振付をメモしていたノートを見つけたので、それを元に復曲することにしたのである。

実は、ジョコ氏がクスモケソウォの弟子であるスリスティヨ氏をインタビューするときに私も同行して、その時にその記譜を見せてもらった。しかし、昔の記譜というのは現在の芸大で使っているような動きやフォーメーションを緻密に書いたものではなくて、スカランと呼ばれる動きの名前を書いてあるだけである。それも、1ゴンガンごとに1つのメインのスカラン名しかない。ゴンガンというのはガムラン音楽の周期で、この曲の場合は32拍ある。伝統的な舞踊の場合は動きのつなげ方などに法則や習慣があるから、舞踊を相当知っている人はそこから作品を組み立てていけるのである。

振付記譜を持っていたのはスリスティヨ氏だが、実はこの作品はトゥンジュン・スハルソ氏のために作られた。スハルソ氏は1962年に始まった大型観光舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』の初代ラーマ王子役の人で、スリスティヨ氏は2代目ラーマ王子役、どちらもクスモケソウォの弟子である。そして、クスモケソウォは初演以来『ラーマーヤナ・バレエ』の総合振付家を務めていた。スハルソ氏は1969年頃から留学のためラーマ役を辞することになり、海外でも踊れるような男性単独舞踊の作品を師匠に作ってもらったのだった。

『スリ・パモソ』の振付は、ガリマン作の『パムンカス』に雰囲気が似ている。どちらも男性優形の単独舞踊で、宮廷舞踊の動きしか使わず、使用する曲が1曲のみである。また、同じ作者による同じ曲を使った『ルトノ・パムディヨ』にも似ている。宮廷舞踊のテーマは究極的には自己との葛藤を経て三昧の境地に達する過程を描くため、振付の流れが似たようなものになるからだ。

戦い――それは内面の葛藤のメタファでもある――のあと座って瞑想するシーンで、合掌する手を徐々に上げながら空を仰ぎ、肘を付け、まるで蓮の花が開くように肘から先を開く動きがある。これは、元にした記譜にはない動きである。というか一連のシーンは単に「semedi(瞑想、三昧)」としか書かれていなかった。実はこの動きは『ラーマーヤナ・バレエ』にあったシーンである。(『ラーマーヤナ・バレエ』は現在でも続いているが、この動きがまだ残っているかどうかは知らない。)実は『ルトノ・パムディヨ』の完全版振付でも『ラーマーヤナ・バレエ』にあったクスモケソウォのオリジナルの祈りの型が使われており(そのことを私はジョコ女史=ジョコ氏の母から教えてもらっていた)、クスモケソウォの作品を考える上で非常に重要な要素だと私は思っている。

その後立ち上がり、マングルンという風に上体がそよぐような動きをする。これは記譜に書かれている。この動きは宮廷女性舞踊に使われる型で、普通は男性舞踊に取り入れられることはない。しかし、クスモケソウォは女性舞踊の方が男性舞踊よりも型が豊富で複雑なものが多いことから、女性舞踊の動きを男性風にして取り入れようとする傾向があったようである。戦いを経て立ち上がりマングルンに至る流れは、女性舞踊の『ルトノ・パムディヨ』とも共通する。

この舞踊作品の中で最も緊張感をはらむのが、戦いの場面(1人で剣を振る)の最後で突然無音になる場面で、その中で剣でしばらく虚空を突いた後、音楽が戻る。実は、舞踊曲が途中で止まって無音になるという演出は、クスモケソウォが活躍した1960年代以前の宮廷舞踊ではありえない。現在ではあまり違和感が感じられないかもしれないが…。あの変更は公演本番の数日前の練習で急に決まり、そのため議論沸騰したことを覚えている。当初はもっと普通の復曲だったのである。ただ、当時なかった演出だとしても、あの緊張感は宮廷舞踊が目指す本質を突き付けてくる…気がする。

ダンス現在

笠井瑞丈

去年から毎月
天使館でダンス現在と言う
スタジオパフォーマンスを企画してます
自分の作品や笠井叡の公演を中心に行ってきましたが

今年の7月に初めてゲストという形で
鈴木ユキオさんに出演した頂きました

それに続き

九月は岡本優さん

出演者は基本的には
今私が見たいと思っているダンサーに
オファーを出して出演してもらってます

わたしが今まで関わってきたダンサー
一方的にいいなと思っているダンサー

十月は四戸由香さん

『笑う女』を上演しました

彼女とは加藤みや子先生の
公演に出演させてもらった時
別のプログラムに彼女が出演しているのがきっかけで知り合いました
そして僕の企画の公演に出てもらったり
笠井叡の公演にも出演したりもしました
ツアーでイタリアとメキシコにも一緒に回ったりしました

メビウスの
輪のように
外と内
光と闇
生と死

明るさと暗さ
喜びと悲しみ

表裏一体の世界

彼女の作る作品

作品を見れば見るほど
世界観に引き込まれる

今コロナという問題を抱え
踊る場が減っていく中

少人数のお客様でも
踊れる場所を作れたら

そんな想いでこの企画を続けています

12月は高橋悠治さんのピアノと
笠井叡さんのダンスとなります

『透明迷宮』

192 思想の初版――敗北

藤井貞和

あ、「アニメ作家は、昔話の妹を鬼にする。
炭焼き小五郎がやってきても、ぼくらはやられっちゃうんだ。
世界があいてでは、やだな、
負けるのはもうずっと。 先生が青鉛筆のお尻で、
ぴりりと叩いた、あれ以来の錯乱だから、
耐えられない。 教室をお別れして、
沙漠も深海も眼前にひろがっているんだ、見ろ。」
い、「きみは蚊と虎とを助ける、
臼から落ちてくる、瓜から出てくる大洪水で、
思想家になろうと、そりや努力したさ。 おかあさんは、
ぼくらを落盤のしたから救い出してくるとき、
陀羅尼と心経とをすこし唱えて、
あちらでは歌人が笑ったさ、だっておかしいんだもん。
思想なんか、おまえに似合わないよ、せいぜい、
二刷りか三刷りか、または物語かねと。」
う、「言い返してやったんだ、先生はぼくらよりも、
おかあさんよりも、殉死するのが好きだったんだと。
B29さ、援助者が青空からやってきて、
かちかちかち、火を点けてまわる。 おかあさんは、
婆汁になっておいしくいただかれる、茶室で。
納戸では下関の作家の釣り糸に、凍える帝国がいっぴき。
あ、〈白老の古博物館轢死する〉。 役割を終えて、
俳句をならべる涙の抗議もあいつらには届かない。」
え、「仏教が南インドからやってくる、きのうのはなし。
きょうは人身犠牲を廃止する、東京拘置所のはなし。
首里城を再建する(それはどうでもよいけれど)、琉球大学を呼びもどす、
平和がこの国にやってくる、〈式典に妹は鬼呼びもどす〉(無季)、
いらっしゃいな、山姥。」
お、「ははは、あいつらは山姥、
旅人馬に揺られて、手なし娘の両手を切るために(おとうさん)、
あしたは天皇賞で、ぼくらの賭け馬も旅人で、
ちょっぴり劣るちからがかわいそう、いつも負け。
いつになったら思想の初版はひらかれるの、
夢、青空に暮れなずんで時代また暮れそこなって。」

(「白老の古博物館轢死する」〈575、無季〉は以前の白老博物館が懐かしいという、それだけのこと。笑えないことが今年はありすぎて、大和にさいごの服属儀礼か。屈服させられるアイヌ学を、アニメで一服。)

万華鏡物語(6)太陽はゆっくり昇る

長谷部千彩

 年に一度、区の無料健康診断を受ける。
人間ドックのほうが丁寧に診てもらえるのかとも思う。しかし、予約を取ろうと気にかけながら、十年以上ずるずると後回しにしてきた私には、受付期間がはっきり決まっている区のサービスのほうが適しているのかもしれない――届いた案内を手にそう考え、それから私にとって秋は健康診断の季節だ。

 健康診断には楽しみがひとつある。私が受診を申し込む大学病院には、院内のあちこちに絵が飾ってあり、診察を待つ間、そして診察が終わってから、それらを観てまわることができるのだ。コレクションの中には、私の好きな鈴木信太郎の作品も数点ある。特に気に入っているのは、びわの木を描いたもの。私は近づいたり離れたりしながら、じっくりと鑑賞する。そして、立ち去る前にその絵にカメラを向ける。私のスマートフォンの写真フォルダの中に、毎年一枚ずつ、びわの絵が増える。

 ささやかな贅沢を今年も味わった後、病院前の停留所からバスに乗り、駅に向かった。たまに駅ビルの本屋に立ち寄ってみようと思ったのだ。

 エスカレーターで五階まで上り、売り場に足を踏み入れる。最初に目につく棚に、おすすめの本が面陳列されている。コロナ、コロナ、コロナ。どの本も。私はたじろぎ、思わず身を引いた。まるでコロナ祭りだ。この数ヶ月を綴ったエッセイ、これからの経済について、感染対策、ニューノーマルの働き方、パンデミック、コロナ後の世界、あなたはどう生きる?どう生きる?どう生きる?並んだ表紙が一斉にこちらに詰め寄ってくるように感じた。あれ?まだ半年ちょっとだよね?そんなに大急ぎで考えなければ駄目ですか?そんなに大急ぎで書かなければ駄目ですか?だってまだ何もわかっていない。先行きだって全然見えない。誰にも見えてはいない。どうなってしまうのかなあ――そんな気持ちでとりあえず今日もマスクをして歩いている、少なくとも私は。
 編集者たちが商機を逃がすまいと企画書を書き飛ばしている姿が浮かぶ。緊急出版を目指し、キーボードを叩く作家たち。私が家に籠もっている間、みんな大忙しだったのか・・・。コロナ禍に関わる原稿を誰からも依頼されていない自分に一瞬不甲斐なさを感じたが、その後すぐに、三週間前、編集者Sさんと次の原稿について話し合ったことを思い出した。そうだ、私には私の仕事がある。それはコロナウィルスとは何の関係もないけれど。早く帰って書きかけのものを仕上げなければ。私は慌ててその場を離れた。

 その足で地下フロアに下り、スーパーマーケットでレタスを買った。外出自粛生活に入ってから、タコスをよく作るようになった。千切りのレタス、スパイスで味付けした挽肉、オニオンスライス、賽の目に切ったトマト、チーズ。それらをタコシェルに載せてサルサソースをかける。
 私のベランダでは今年の夏はシシトウがよく実をつけた。今年の秋は銀木犀がいままでになくたくさんの花を咲かせた。外出がめっきり減ったこの半年、毎日夕方になると淡く染まった西の空を眺めながら、ホースを片手に水を撒いた。でも、それは以前からもしていたこと。感染が収束した後も植物を育てている限り続く日課だ。

 変わったこともある。変わっていないこともある。コロナウィルスは私の暮らしに斑(まだら)に入り込み、その斑は水面に落としたインクのように刻々と動いている。
 いまはただ、その動きを見つめている。私の中に他人に語れる言葉はまだ生まれない。
 子どもの頃、走るのが苦手だった。徒競走ではいつも最後にゴールした。
私の太陽はゆっくり昇って、ゆっくり沈む。
 びわの絵の写真が増えるのは、一年に一枚だけ。
 まあ、いいか、こんなでも――それがコロナ禍の私を支えている言葉。そして、どう生きる?という問いに私が返せる唯一の答えだ。

空間の音楽

高橋悠治

見えないウィルスに脅かされて コンサートが中止になり 延期され ミュージシャンのしごとがなくなった今年も 録音や わずかに残った演奏のしごとや 作曲をしながら やりすごし 家にとじこもらないで できるだけ外を歩きまわり 残ったわずかな時間でできることだけをする

音の数を減らす まばらな音を 離れた場所に配置する ちがう音色(ねいろ)の楽器を近く 似た音色の楽器を遠くに置いて 音楽を時間の物語ではなく 瞬く空間のひろがりの 隙間だらけのあやうい繋がり 始まりも終わりもない組み換えのあそび 一つの意味にしぼりこめない あいまいさと複雑さの名残り

響きから響きに飛び移る 一つの線を辿るのではなく いくつもの表面の貼りまぜ 別々に書いた楽譜を 順序を乱して 継ぎ合わせるとどうなるか これは今年ピアノ曲『メッシーナの目箒』で試してみた デカメロンの物語を追って書いた楽譜を 音域で三つに分けて 順不同に繋ぎ変える

物語がなくても いったん書いた音楽をばらばらにして 繋がりが感じられないように断片を並べ替えるとどうなるか 流れがなくなっても残るのは 何だろう

2020年10月1日(木)

水牛だより

どこからともなく木犀の花の香りがただよってくる10月のはじまり。開花したての新鮮な強い香りです。曇りの日の多いことしの秋ですが、明日の満月は見えるでしょうか。

「水牛のように」を2020年10月1日号に更新しました。
今月はなぜか「お休みします」というメールがいくつか届きました。お目当ての著者の名前がなかったら、どうか来月を楽しみに待っていてください。

先日、ソ連のフェミニズムの研究をしているという人からメールが届きました。
『水牛通信』の1983年5号に掲載された、ソ連のフェミニスト、タチヤーナ・マモーノヴァ氏の「父権的ロシアの女のたたかい」という記事についての問い合わせです。マモーノヴァ氏は現在アメリカ在住で、ご自分の活動をまとめるために本を編集されているのですが、その中にこの記事の一部を転載したいと言っています。」とのことで、もちろん、どうぞ、と返信しました。どんな本になるのか、出来上がったら連絡をいただくことになっています。
1983年といえば、37年も前になりますが、小さな記事がこうして蘇ることもあるのです。
そして、タチヤーナ・マモーノヴァさんは、1979年にレニングラードで初めて地下出版されたフェミニスト雑誌「女性とロシア」の編集長だと自己紹介していますから、彼女の長い活動の歴史が本人によって明らかになるのはすばらしいことだと思います。

それではまた! 来月も更新できますように。(八巻美恵)

イエメン人のコーヒー売り

さとうまき

6月に、青年海外協力隊でエジプトに行っていた愛媛の大川理恵さんから相談を受けた。難民申請中のイエメン人がいて、出産を控えているんだけどお金がなくて病院に行けないから自宅で出産したいって言っているらしい。それは大変だということで、さっそく様子を見に行く。難民認定されなくとも、出産の費用は、市がいくらか出してくれるそうだが、日本語がわからないと本当にもらえるのか、不安だらけなのもうなずける。

イエメンと聞くと僕は特別な思いがある。1994年に協力隊でイエメンに派遣され、一か月くらい首都サナアで暮らしたことがあったからだ。実は、当時も内戦で、外出は制限されていて、気が付くと空爆、スカッドミサイルが飛んできたり、そこらで銃撃戦が始まって、軍用機に載せられ、ジプチの難民キャンプに収容されたことがあった。それ以来イエメンには行けていないので特別な思い入れがある。

イエメンは、2015年から、内戦が激しくなり、「世界最悪の人道危機」と呼ばれている。

あれ、「世界最悪」って、シリア内戦ではなかったけ? 「世界最悪」詐欺じゃないかと思って、調べてみると、シリアは「今世紀最悪」という風に使い分けているらしい。

にしても、シリアに比べてイエメンは忘れられている。日本のNGOもイエメンで活動しているという話はほとんど聞かないし、難民申請しているイエメン人は、シリア人に比べて冷遇されている感が否めない。

大川さんは、いらなくなったベビー用品とかを集めていたが、「イエメンといえばモカ・コヒーだ」と言ってイエメン産のコーヒーを見つけてきて販売して収益を支援に回すことを考えた。赤ちゃんは8月に無事に生まれて出産お祝い金も10万円を渡すことができた。これからも、コーヒー販売を続けていくというからたくましい。

モカ・コーヒーは、もともとイエメンのモカ地方が起源らしいが、日本で買えるのは、安値のエチオピア産とブラジル産のブレンドがほとんどのようだ。

というのも、イエメンには、カートと呼ばれる覚醒作用のある葉っぱがあり、こいつをくちゃくちゃ噛み続けてカエルのように頬っぺたが膨らませて、そこにため込んで、またくちゃくちゃやっているうちに気持ちよくなってくるらしい。そいつはかなり高価で売れるので、コーヒー農家は、カートを栽培するようになってしまったので、コーヒー産業はすたれてしまったのである。

大川さんが見つけてきたのが、大分のイエメン人が直接イエメンから輸入しているという。やり手のビジネスマンかなと思いきや、2014年に大学留学のために来日したターリックさんが、内戦が激しくなって故国に帰れなくなり、イエメンの復興にイエメン起源のコーヒーで貢献したいと立ち上げた。「支援ではなく、いいものを飲んでほしい」という素朴な好青年で日本語も堪能だ。

何が大変かというと、コーヒー農家は、現在フーシ派が支配している地域にあり、港は、敵対するハーディ政権が抑えている。荷物を運ぶのにいくつかのチェックポイントがあったりで苦労は尽きない。加えて、UAE とサウジの空爆。僕はよくエミレーツを使ってドバイ経由でイラクやらシリアに通っているが、UAEが戦争をしている国というイメージは想像しがたい。

イエメンのコーヒーを売ろうと張り切っているものの、イエメンのことをほとんど知らないのが現状。これじゃいかんと勉強会をしようということなったのだ。
第一回目は、ターリックさんに来てもらうことに。こうご期待。

「イエメン珈琲を飲んで、平和を考えよう」
10月4日(日曜日)20:00-
Zoom にてオンライン開催
1000円でイエメン珈琲付き
申し込みはこちらから➡https://saveyeyemenbabies.peatix.com/

191 草の原

藤井貞和

(うき身 世にやがて消えなば、たづねても
草の原をば問はじとや 思ふ)

沽(う)らんかな、沽らんかな。 伯夷・叔斉は、
旧悪を念わず。 あしたに
道を聞かば、思い
邪(よこしま)なしと曰うべし。 仁に志さば、
悪(にく)まるることなし。
已みなん、已みなん、今の政に従う者は殆(あやう)し。
かならずや聖か。 ああ、
天はわれをほろぼせり。 その
鬼(き)にして祭るは諂(へつら)うなり。
択んで仁に処らず、いずくんぞ知るを得ん。 己れを知ること、
莫(な)きを患えず、みずから、
辱むることなかれ。
たのしみ亦、そのなかにあり。 子(し)、
釣して綱せず。 弋(よく)して、
宿(ねぐら)を射ることなし。
天、徳をわれになせり。
喪に臨んで哀しまずんば、
君子よ、「器」ならず。 詩、
三百を誦するも、己れの、
能なきを患えよ。 過てば則ち改むるに、
憚ること勿れ。
乱邦には居らず、
後れ死す者、この文にあずかることを得ざらん。
薄氷を履むがごとしと、
ともに詩を言うべきなり。
甚だしいかな、われの衰えたるや、
知らざるを知らずとせよ。 鳳鳥、至らず。 河(か)は
図(と)をいださず。 厩(うまや)、
焼けたりとも、人を損えりやと。 詩は以て
興すべく、以て観るべく、
黙してこれを識(しる)し、
ふるきは温めて

(言葉遊び。ときどき「言葉遊び」のたびに非難される。詩はもっと真面目にやれ、藤井さん、って。万葉にだって平安時代和歌にだって、だいじな要素なのにね。「うきみよにやかてきえなはたつねてもくさのはらをはとはしとやおもふ」を行頭に置いてある。『論語』とはかんけいありません。歌は『源氏物語』の朧月夜さん、ごめん。ミスマッチを非難かくごで。「草の原」は墓原。)

製本かい摘みましては(157)

四釜裕子

自分としてはものすごくおもしろくてこれを誰かにしゃべりたい。しかし一番しゃべりたい相手はきっとたぶんそれをただおもしろいと済ますことはできないだろう。どうするか。でも言っちゃいました。笑ってはくれたけど本心はどうだったのか。と言いますのは……。

お待ちかねの冊子が届いた。版元直送、しっかり梱包。分厚くてころっとしてお弁当箱みたい。高さ50ミリはあろうかというアルマイトの。そんな弁当食ったことないけど。開けて早々目が釘付け。50ミリはあろうかという背の白色の表紙カバーが、めくれてる!? めくれた端っこが少々もりあがっていて、5ミリ前後の幅で表紙の背がのぞき見えている。という、そんな感じの空押しがほどこされている。実際、やわい本の背に人差し指かなんかを引っ掛けて乱暴に棚から抜き出せばそうなるような、最初からそんな古着をまとった倒錯のデザイン。凝ってる。

表紙はしかしのぞき見えていた白色ではなく、いわゆるフランスの伝統色のフランボワーズあたりの赤系だった。はずした表紙カバーの裏を見ると、なんと背の天側の端に懐紙をくわえて軽くついたようなフランボワーズ色の口紅のあとがある。シワの具合もほどよくて色っぽいわと思うも、花ぎれの銀色が刃物を思わせ、しおりひものフランボワーズ色は筋を描いてしたたる血のようで生唾を飲み込む。ただならぬ装丁にいそいそと銀色の本扉を開くのであった。

その衝撃に誘われるまま、〈液体ガラスの皮をむく〉なんて一編さえもぴったりだと思いながら一度読み通したところで、表紙カバーと帯を掛け直してまじまじと見る。カバーの端っこのほんのちょっとの微妙な位置。裏に刷られた唇のシワが表の空押しの柄にぴったりで、ぴったりで、ん? これ、ただのつぶれだわ。版元からうちに来るまでのどこかで受けた打撲痕、表紙の丸背のチリの部分が内側にきれいに折れて、フランボワーズ色が向かいの紙にうつるほどの強力な一撃をくらった。

そうか、そうか、そうだよねぇ、そうだよなあ……。だけれども、そういう装丁に見えたのだ。そう見えるような本なのだ。本が本なら即返品してただろう。だけどこれは返すつもりも文句を言うつもりもない。返品交換はむしろごめんだ。もうしわけないと言われるのもまっぴらごめんだ。だからどうかそっとしておいてください。だからこの話はここでおしまいにします。それにしても完璧だ。打撲痕は幅広の背の最上部に横書きされた文字にかぶることなく、いかにもぴったりのバランスで柄を描いている。Poems for なる文字群が、「やれるもんならやってみろ」と一撃を威嚇したかと思わんばかりだ。こんなことってあるんだな。ようこそここへ。クッククック。

団地ラボラトリー

イリナ・グリゴレ

小学生のころ、ソビエト連邦のドキュメンタリーで見たシーンを何度も再現しようとしていた。映画の中では特別の能力を持っている子供がソビエトのラボラトリーで観察されていた。科学者のチームが寝ているとき身体は浮かぶという現象がみられるため脳の電波などを詳しく調べていた。人の能力と可能性、脳の中の使っていない部分についての話だったが、当時の私はあのラボラトリーのイメージをみた瞬間とても懐かしく思った。なぜか、私もあの子と共感して、住んでいたコンクリートの団地がラボラトリーそのものだと思い始めたから。

あの夜から毎晩のように寝る前に身体が浮かぶ練習をし始めた。まずは目を閉じてベッドで横になる。家族が寝付いたあとの静かな時間だったから、自分の心臓の音がはっきり聞こえる。20代の時大手術を2回したあとでいうならば、全身麻酔から覚めて起きるとき聞こえる音は、機械につながっている自分の心臓の音そのものなのだ。この音は自然だ。生きるというサインなのだ。でも、あのとき身体はとても重くて、全然浮かばないのだった。

身体が動かない、無のような状態。そして、最初は手が上に勝手にゆっくり、ゆっくり上がり始める。自分は意識しているが、自分で動かしていないという状態だ。戻そうとしても戻らない。上のほうに誰か透明人間がいて、引っ張っている。心臓の音はものすごく大きく聞こえる。瀬戸内海の豊島にあるボルタンスキーの「心臓のアーカイブ」という美術館を訪ねた時、あの時の感覚を思い出した。私の心臓が聞こえるだけではなく、誰の心臓なのかよくわからないが誰かの心臓が聞こえる。次はもう片方の手が上に上がろうとしている。

自分の身体と周りのものとの距離がない状態だ。浮かぶ感覚が少し把握できて楽しくてしかたがなかった。宇宙飛行士の感覚を味わっているようだった。ベッドに横になったまま足だけ浮かぶ状態は、身体のパーツがバラバラになったようだった。皮膚でつながっているけれど、バラバラに浮かび始める。足の筋肉がピリピリするような感覚があるると、足の片方が上にゆっくり上がり始める。普通ならすごく不自然な状態なのに、腕と足は上に浮かんでいる。でも私にとって苦痛ではなく、逆にこうやってバラバラに感じる身体は自由になった気がした。時間はどのぐらいたったのか、どこにいるのかわからなくなる。暗い中、見えるのは自分の肌だけだったが、透明になり始めたと感じた。

さまざまな想像しはじめる。寒いのでラボラトリーのテーブルの上で私は大きなカエルになった。意識を戻すと、片方の足しか浮かんでなかったのが、もう片方も浮かび始める。ゆっくりと。今度は自分の胸に重さを感じる。足と腕を上に刺したまま、胴体だけベッドの上に残っている。ここから何時間かの作業が始まる。腕と足は違う世界に入ったまだ。胴体は胸のあたりが重くて全然浮かばない。何度試してみても0.1ミリも動かない。結局、諦めて寝る。悔しい。

昼の間はクシシュトフ・キェシロフスキの『デカローグ』にも出ている元社会主義共和国の地方都市の雰囲気を生きる。人と人はすれ違うが、お互いのドラマを知らないまま、すれ違う身体同士は同じ空間を生きている。夜になると私は自分だけの小さなラボラトリーに戻る。しかし、毎晩同じことが起きる。胴体は全然浮かばない。

高校に上がるまで、あきらめずにこの「研究」を続けたが、ある日、答えが見つかった。その日、モンシロチョウが私の腕に止まっていた。晴れた秋の日に団地から解放されて、祖父母の庭に座って遊んでいたとき、弱って飛ぶことのできない蝶が私の腕に止まった。初めて蝶を触る感覚だったのでびっくりして、私の腕の上を歩く蝶を何時間も観察した。蝶は私の手のひらで死んだ。その時、私の身体が浮かばない理由が分かった。人間の心臓が重いからだ。蝶や虫のように軽くなれないのだ。閉じ込められた空間で浮かぶことができない。人間が周りの背景を見る目と視線は限られている。違う側面と虫メガネを通したように世界を見ればいい、とその時に思った。ジョン・ミューアがいうとおり、自然を身体全身で見ることができる、目だけではなく。あの団地に閉じ込められたからだと分かった。結局のところ、社会主義という実験では、人間は自然の一部だと扱われてはいなかった。

思い返すと、あの団地で自分の脳の可能性をもっと訓練すれば、私もグリゴリー・ペレルマンのように天才数学者になれたかもしれない。数学が得意な父はお酒を飲みながら、一生懸命に数学を教えてくれたが、私の脳の可能性はそこにはなかった。詩を読むことが好きだったのだ。世界を表現する方法は一つだけとは限らないと思って、浮かぶ実験をやめた。

「現在、サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)の労働者階級向け高層マンションで、慎重に報道陣を避けつつ母親と暮らしているペレルマン氏は、自分たちソビエト連邦時代の学生は、非常に幼い時から抽象的な言葉で考える方法を学ぶことによって、優れた能力を開発した、と語った。「赤ん坊は、生まれた直後から経験を積み始める。腕や足を鍛えられるなら、頭脳だって鍛えられないわけがない」

ペレルマン氏は、小学校のクラスで「解けない問題」に出会ったことはなかったそうだ。ところがあるとき、聖書の中の逸話でキリストが水の上を歩くことが出来たのはなぜかと問われ、答えに窮したという。「沈まずに水の上を徒歩で渡るためには、どの程度の速度で歩かなければならないか、解決しなくてはならなくなったんだ」

https://www.afpbb.com/articles/-/2797490


アジアのごはん(105)しば漬食べたい

森下ヒバリ

「しば漬食べたい・・」先日、ムラセさんちのボブが(ってだれやねん)、しば漬けを仕込んだ、毎年彼が仕込んでいるという話を聞き、それ以来ヒバリの頭の中で「しば漬食べたい・・」というフレーズが現れては消え、現れては消えしていた。

しば漬けというのは、赤ムラサキ色に染まった、コリコリしたナスやキュウリの漬物である。「しば漬食べたい・・」というのは90年代初めのフジッコ「漬け物百選」のテレビCMのフレーズだが、コンビニに駆けつけても、売っているのは添加物たっぷりの甘ったるい即席調味漬のものばかり。添加物のない昔ながらの漬物をコンビニやスーパーマーケットで見つけるのは至難の業だ。

しば漬は自分で作れるのか・・しば漬は複雑な工程なので漬物屋さんでしか作れないものと思っていた。ふだん料理をしないボブが作れるのであるなら、ヒバリにも作れるかもしれない。あの赤ムラサキ色は赤シソから出る色であろう。うう、もう、とっくに赤シソの季節は終わっているなあ・・あ、あれがあるじゃないかっ。

先日、九州の菊之助さん謹製のカボス果汁入り赤シソジュースを購入していたのである。菊之助さんのシソジュースは砂糖が入っておらず甘くないのだ。

「ふ~む」青い葉っぱのシソもあるし、これを合わせれば作れるんじゃないか。念のためしば漬けの作り方をネットで調べてみると、白ごはんドットコムには正統な赤シソを使う方法と、青いシソに梅干しを漬けたときに出る赤梅酢を加えて作る方法が載っていた。なるほどね、赤梅酢は、梅を漬けるときに赤シソを入れてできるものだしね。今回は甘くない塩入りシソジュースと青いシソの葉で作ってみよう。

作って見ると、キュウリとナスは水分が多いというのを実感する。漬けるとすぐに水が上がって来るからだ。1日置いて、出た水気を捨て、軽く絞ってから甘くないシソジュースとみりんを加える。そして、また重しをして2~3日漬ける・・できました!

「・・うまい」。色はほのかなピンク色だが、味はまさにしば漬。あっさりとしていて、いうならば、しば漬の浅漬けかもしれないが、野菜のおいしさが堪能できる。赤しその風味にショウガの辛みとミョウガの香りがアクセント、カリカリとしたキュウリとナスの歯ごたえ、ほのかな甘みとさわやかな酸っぱ味が絶妙である。おいしくできたので、急にしば漬に対する興味がわいてきた。

愛用している60年前に出版された料理本「つけもの」(婦人画報社刊 酒井佐和子著)をひもとくと、京都の変わった漬物、と書いてある。しば漬は京都の漬物だったのだ。佐和子先生は、しば漬にはあまり愛着がないようで、古漬けや塩漬けの野菜に赤シソの塩漬けを刻んで混ぜろ、とそっけなくいう。さらに梅干し漬の赤シソを取り出して絞って刻んでまぜてもいいと。むむ?

京都のしば漬の老舗のHPには、しば漬は平清盛の娘の建礼門院徳子が京都大原の寂光院に暮らした時にこの鄙の里の赤シソで漬けた漬物を気に入り、紫色の葉(赤シソ)で作ることから、紫葉(しば)漬と名付けたという伝承が紹介されている。寂光院のある京都大原には美味しいちりめん赤シソが古くから栽培されていて、その赤シソがしば漬を生んだのである、と。

「聞き書き京都の食事」(農文協刊)は、明治から昭和初期の地域の食文化が、じっさいに暮らして料理を作っていた古老からの聞き取りからまとめられた本である。そこには京都の北東の上賀茂、大原地区が古くからの農業地域で、京の町の食を支えていたことが書かれていた。そこの農家で、出盛りにたくさん余ったナス、キュウリやミョウガを赤シソで漬けこんだのがしば漬である。じっくりとひと月ほど乳酸発酵させて酸味を出す、と。なるほど、しば漬は、山盛り取れた夏野菜の売れ残ったものを活かすためにうまく考えられた漬け物のようである。

「つけもの」の佐和子先生のしば漬の記述は、どうも古くなった漬物の再利用のように読める。梅干し漬に入れたもみしそを再利用しても作れるし、しば漬は、京都の始末料理的な気配がぷんぷんする。あまりがちな梅干し漬のもみしそをたくさん消費できるからね。

梅漬けを赤く染め、しその香りを移すという役目を終えたもみしそは、そのまま食べてもあまりおいしくはないので、うちではいつも余ってしまう。残ったもみしそを乾燥させてゆかりを作ったりはするが、そんなに消費できない。大きな声では言えないが捨てていたこともある。最近はゆかりが大好きな友人にもみしそを軽く乾燥させてから(ゆかりに仕上げるのは大変なので)、差し上げているのだが。

しぶちん・・いや、始末が大好きな京都人が、残ったもみしそをほかすとは到底思えない。季節の余りものを上手に生かす、工夫から生まれた京都の漬物、しば漬。もったいないから始まったかもしれないしば漬。それがこんなにおいしいのだから、何も言うことはありませ~ん。よし、次は梅干し漬けのもみしそで漬けてみようっと。

〈梅酢ともみしそで作る簡単しば漬〉
1 ナス、キュウリ合わせて500gぐらい。ミョウガ4~5個ぐらい。ショウガ50gぐらい
青しその葉があれば細かく刻んで塩で揉んで汁を捨て(アクを出して)から少し加えると香りがいい。本漬けの時、カボスの果汁を加えてもさわやか。
2 ナスは半分に切って縦に5ミリぐらいの厚さで切る、キュウリは1センチ弱ぐらいの輪切りにする。ミョウガは4~6つ割りまたは細切り、ショウガは薄くスライスし細切りにする。10gの塩で揉んで重しをして下漬する。
3 1日置くと水が上がって来るので、水気を絞って、野菜の1割ぐらいの量のもみしそを刻んで加え、赤梅酢とみりんを各大匙2加える。再び重しをして2~3日常温で漬けて乳酸発酵させれば出来上がり。
4 重しをはずして冷蔵庫で保存する。刻んで食べてもおいしい。
*下漬の水を捨てて本漬けするのがおいしく作るポイント。こんなにと思うほど水分が出るが、えぐみもあるので捨てます。もみしそは、梅漬けに使った後のものでなくても、市販の塩で揉んである袋入りのものがあればそれでも。塩分が多いので入れ過ぎ注意。

バスのなかで本が読めなくなったら終わり。

植松眞人

 いつものバスに乗り、容子はいつもの二人がけシートの奥に腰を下ろした。都心から自宅近くのバス停まで、これから三十分近くこの席に座っていく。よほど疲れていない限り、容子はこの席で小説を読む。大好きな小説家の新刊が出たときには単行本を読み、読みたい新刊がないときには若い頃に読んだ文庫本を本棚から引っ張り出してくることもある。どちらにしても、仕事帰りのバスの中で読むのは楽しみのための小説だけだ。間違っても仕事に必要な資料を読んだり、上司から預かったレポートの数字を確認するようなことはない。
 このバスに乗るようになってもうどのくらいになるだろう。高校まではすべてが自宅の近くに揃っていたので、バスに乗るのは月に一度程度、家族で都心に遊びに行く時だけだった。大学の四年間は実家を離れ、叔母の家に下宿させてもらっていたので毎日自転車を使っていた。社会人になってからはいきなり関西への配属を命じられて、社宅から会社まで毎日歩いて通っていた。いま思うと歩いて通える場所にないと寝る暇がなくなるほど忙しい毎日だった。
 容子が実家に帰ってきたのは父が亡くなって一年ほどした頃だった。その頃、容子は最初に勤めた会社の同僚との結婚生活に失敗して、新しい仕事を探していた。毎年毎年、盆と正月には一緒に容子の実家に顔を出していた夫が、盆も正月も立て続けに顔を見せないことで母は容子の結婚生活の変化を感じ取っていたらしい。電話では単刀直入に質問されてしまい、容子は素直に答えた。
 すると母は、「それじゃ、こっちへ帰ってこない?」とまるで小学生に「晩ご飯だから帰ってきなさい」とでもいうようにするりと言ったのだったのだった。容子も「そうしようかな」と言って、母との二人暮らしがあっさりと決まった。
 実家で母と暮らし始めた頃に、母は冗談めかしてこんなことを言ったことがある。
「あんたと、二人でここで暮らすのが夢だったのよ」
 容子は驚いて、母を見た。
「夢ってどういうこと?」
 容子が聞くと母は笑った。
「だって、お母さん、お父さんのこと嫌いだったのよ」
「嫌いだった?」
 父が亡くなったときにも、あんなに泣いてたじゃない、と言おうとする容子を母は制した。
「あんたが言いたいことはわかるわよ。あんなに仲よさそうだったのにってことでしょ」
 容子は真顔で母を見つめる。
「大嫌いじゃないのよ。少し嫌いって感じかな。で、好きなところもたくさんあるの」
「ややこしいなあ」
「そう、ややこしいのよ。そのややこしいのが歳をとるにつれてもっともっとややこしくなって、時々顔をみるのも嫌になるのよ。もちろん、そんなときも笑ってるけど」
 母はそう言うと笑い出した。
「だから、この家で一緒に住むのがお父さんじゃなくて容子とだったら気兼ねなく楽しいだろうなって思ってたのよね」
容子は母の話を聞きながら、なんとなく思い当たる節があった。そもそも父は杓子定規な細かい性格で、おおらかな母とは意見の合わないことが多々あった。それでも、性格が違うからこそうまくいくこともあったはずで、今になって母が一緒に住みたかったと言い出したのは意外だった。
「でも、本当はもう一人一緒のはずだったのよ」
 面を食らっている容子に母は続けた。
「もう一人って誰よ」
「孫よ。あんたの娘。あんたが結婚して娘を産んで、娘のおむつが取れる前に離婚してシングルマザーになって、お父さんが亡くなったあとの実家に戻ってきて、三人で暮らすのが夢だったのよ」
「なにそれ。子どもなんていないし、女の子ってことまで決めってるし」
「だから、あくまでも夢なのよ。私の妄想」
 バスが大きく揺れた。珍しく本を開いたまま物思いにふけっていたことに気付いて、容子は本を閉じた。そういえば、私が本ばかり読んでいるのも、母に似たのかもしれないと思う。母は若い頃、小学校の先生をしていて、容子に読み聞かせをするのもうまかった。感情移入する一人芝居のような読み聞かせではなく、NHKのアナウンサーのような優しく温かな上手な読み聞かせだった。
 母が夢だと言っていた私との二人暮らしは二十年で終わった。容子がちょうど五十歳の時に母は七十八歳で亡くなった。いま容子は実家で一人で暮らしている。あれは母が六十半ばくらいの頃だっただろうか。こんなことを言ったのだった。
「あんた、バスの中で本読める?」
「読めるわよ。仕事とプライベートのスイッチを切り替えるのよ。バスの中の読書で」
「私もそうなの。都心のデパートに買い物とか行くでしょ。で、この辺にないような大きな本屋さんで大好きな作家の新刊を買って、帰りのバスで最初の何ページかを読むのが幸せなのよ」
 母はそう言うと、本当に嬉しそうに笑った。そして、その後、少し寂しそうな表情になった。
「だけどね、最近辛いのよ」
「なにが」
「本を読むのが…。根気がなくなったなあというのは前からあったの。若い頃は何時間でも夢中で読めたのよ。それこそ、大好きな作家の本なんて夕方が読み始めて明け方までずっと読み続けたりして」
「そんなの私だって同じよ。五十歳を過ぎてから、三十分も読むと肩がこっちゃう」
「でも、最近は根気だけじゃなくて、もう目がかすんじゃって。特にバスの中じゃ本を読みたくても読めないのよ」
「どんな感じになるの?」
「例えば字をじっと見てるでしょ。すると漢字と漢字の間のひらがなが漢字の影みたいにみえちゃって。もうね。読んでられないの」
そう言って、母は寂しそうに視線を落とした。
「家の中なら読めるんでしょ」
「うん。読める。だけど、バスの中で本を読めなくなったらおしまいだなあって。なんだか落ち込んじゃって」
 容子には母の言っていることがなんとなくわかるのだった。容子自身も母と暮らすようになってから、掃除が好きな母の掃除が、以前よりも雑になり、見逃しているゴミを見つけたりするとたまらなく悲しくなり、ふいに涙を流してしまったりすることがあった。そしてそれは、おそらく自分自身にもそんな日がすぐにやってくるだろう、という怖さでもあるのかもしれない。また、母が理想とした孫娘のいる生活を実現してやれるタイムリミットをとっくに過ぎてしまった自分自身の老いを見せつけられているからなのかもしれない。
 容子はしばらく目を閉じて、目頭を押さえた。そして、もう一度本の開いて、ぼんやりと文字の列を追い始めた。ひらがなが漢字の影のように見えることはなかったけれど、少しだけ漢字がその強さを潜めってひらがなに近づいているようにも思えたし、逆にひらがながその強さを増して漢字に近づいているようにも思えた。
 母の言う通りかもしれない。目がかすむとか、集中力が続かないということではなく、仕事帰りのバスの中でぼんやりと本を読むこともできなくなったら、それは愛する人を亡くしたり、仕事ができなくなるということよりもさりげなく、そして、取り返しが付かないほどの喪失なのかもしれない。
 バスはまた大きく揺れた。次の角を曲がれば私がたった一人で住む、父と母が建てた家が見えてくる。(了)

プレスリーが出ない、プレスリー映画

若松恵子

今年の4月に出版された片岡義男さんの『彼らを書く』に紹介されている映像を、順番に手に入れて、楽しんでいる。ザ・ビートルズ、ボブ・ディラン、エルヴィス・プレスリーというロック史に燦然と輝く「彼ら」と再会しなおす体験となっている。

夏には、エルヴィス・プレスリーの章にたどり着いた。エルヴィス、今まで誤解していてごめんなさい!という感じだ。誰かが物まねしていた、ラスベガスの白いジャンプスーツのエルヴィスを、エルヴィスだと思っていたなんて。もったいない事だった。

エルヴィスが最初に映画に出演した「ラブ・ミー・テンダー」、「さまよう青春」、「監獄ロック」と見ていくと、映画の中の歌うシーンで輝いているエルヴィスに会うことができる。どの作品も孤独に生きる青年が歌の才能を見出されて成功していく単純なストーリーだが、彼そのままが出ているような、素直な演技に好感を持った。物まねみたいに大げさでコテコテな人ではないのだ。練習して身につけたダンスではなくて、自由にノッたらこうなりましたという体の動きも良かった。パラりと垂れるリーゼントがかっこよかった。ポマードで固まった髪ではなかったのだ。

ラスベガスのショーの直前の時間からさかのぼってエルヴィスの生涯を紹介する「ザ・シンガー」を見た後、歌う彼の姿をもっと見たくて、『彼らを書く』には紹介されていないけれど「ジス・イズ・エルヴィス」、「’68 カムバック」、「エルヴィス・オン・ステージ」を見た。片岡義男さんのエルヴィスは、入隊するまでのエルヴィスのようだけれど、映画から音楽の世界に戻ってきた、最後までステージに立ち続けたエルヴィスも良い。

そんな風に、だいぶ彼のことが分かってきた頃に見た、エルヴィス本人が出ない2本の映画がとても心に残った。立て続けに見たせいもあるかもしれないけれど、この2本が呼応し合って、今でもかすかに残響している。

『彼らを書く』には、本人が出ない映画がわりと紹介されていて、そこが片岡さんらしくて面白いなと思う部分でもあるのだけれど、「グレイスランド」と「ハートブレイクホテル」は本当に不思議な映画で、この本で紹介されていなければ見ることが無かっただろうと思う。(最後に紹介されているアルゼンチン映画「ザ・ラスト・エルビス(英題)」はどうしても入手できなくて見ることができていない。これが最高だったのになーと言われたら悔しいのだが)

「ハートブレイクホテル」は、1972年の設定で1988年に制作された映画。ツアー中のエルヴィスが、母親を元気づけるために高校生の息子に誘拐されて、その家族と数日を一緒に過ごすというファンタジーだ。エルヴィスなんて時代遅れだと思っていた息子といっしょに過ごすうちに、互いに理解し合い、父親みたいな役目を果たしたり、ロックバンドの先輩として歌い方を指南することになるというストーリー。エルヴィス自身もそんな時間の中でエルヴィスを取り戻したと言って去っていく。「あの頃の自分を取り戻したい母親と、ほんのいっときであれ1957年当時に戻れたエルヴィスとの、共通した到達点というファンタジーがここにある。」と片岡さんは書いていている。映画作者は、ツアー中にもし、こんな心温まるエピソードがあったら、というところからこの物語を発想したのだろうか。青年に拉致されても、その理由を理解したらこんな風に過ごしたかもしれない、そんなやさしい人としてエルヴィスを理解していたからこそ、このような物語を発想することになったのかもしれない。若者世代からエルヴィスは死んだと言われているような70年代に、でも、エルヴィスはロックンロールを共通項に若者にも受け入れられるんだよというファンタジーをエルヴィスのために作ったように思った。たぶん若い映画作者からのエルヴィスへの贈り物だ。

「グレイスランド」は、エルヴィスと名乗る男性を、ヒッチハイクで乗せることになった青年が、その男に助けられて傷ついた人生から再生していくという物語だ。彼はエルヴィスの物まねがうまい人なのか、それとも、ついにエルヴィスと名乗るまでになってしまった熱烈なファンなのか?謎のまま物語は進む。そして終わり近くなって、どうやら、彼は天使になって、今でも色んな人を助けている、エルヴィスその人自身なのだという事が分かってくる。エルヴィスに似ていないままで、エルヴィスなるもののエッセンスを表現したハーヴェイ・カイテルが良い。同じような意味で、マリリンモンローを演じたブリジット・フォンダも良かった。ハーヴェイ・カイテル演じる男が、物まねショーのような舞台でエルヴィスの歌を歌って、精根尽き果てて舞台袖に倒れ込んでしまうシーンがある。天使になったエルヴィスは、その気になれば歌だって歌えるのだけれど、それにはずいぶん魂をすり減らしてしまうというエピソードのようで、ちょっと悲しい。

けれど、この映画によって、エルヴィスは天使に姿を変えて、今でも多くの人を助けている。そう思う事ができてば、エルヴィスの早すぎる死も悲しい出来事ではなくなるのだと思った。

ポワローと過ごす日々

福島亮

急に寒くなってきた。昨夜寝る前に気温を調べると、11℃だった。ミラベルの季節は終わってしまった。こんな寒い夜、恋しくなるのはポワローである。

ポワロー。どれだけ探し求めたことだろう。高校生の頃読んだ、三善晃氏の料理本『オトコ、料理につきる』(文春文庫、1990年)の中で初めて出会った時のことは今でも忘れない。文庫本をお持ちの方は、148頁を開いてみてほしい。「スープ・ヴィシソワーズは女王の味」という見出しで、何やらあでやかな料理が紹介されている。材料を引用しておくと、次の通り。

材料(1人分)
じゃがいも 大1個、ポワロー(ぽろねぎ) じゃがいもと同量、バター 大さじ2、生クリームと牛乳 1カップ、ほかにヴイヨン・キューブ、塩、胡椒

ポワローを除けば、なんてことない材料である。問題はポワローなのだ。「ポワロー(ぽろねぎ)」って何だ? そう思った。残念ながら実家近くのスーパーでは、ポワローは見つけられなかった。それ以来、ずっと気になっていた。「ねぎ」というからには、葱なのだろう。でもどんな葱なのか。高校を出て、上京し、沼袋に住んだ。でも、せっかく東京に出てきたのに、やっぱりポワローは見当たらなかった。たぶん、他のことに浮かれて、熱心に探さなかったからだ。探し物は、案外近くにあるものなのに。

そのポワローが急に身近になったのは、フランスに来てからである。『オトコ、料理につきる』で初めて知ってから、たどり着くまでに10年もかかったのだ。最初の出会いは感動的だった。近所のスーパーに行くと、下仁田葱のようなたくましい葱が3本200円くらいで売っている。ポワローだ、とひと目で直感した。そして、それはポワローだった。以来、寒くなるとポワローが恋しくなり、求めてしまう。

ポワローはフランス語の呼び名で、英語ではリーキというらしい。どっちも何だかかっこいい名前である。姿は下仁田葱だが、いわゆる葱っぽいにおいはまったくしない。長さは60センチくらいだろうか。上半分は緑で、下半分は真っ白。一番下には、短く刈り込まれた体毛のような根が控えめに、でもちょっと大胆に生え、密集している。緑の葉っぱの部分は、変な喩えだけれどもチューリップの葉っぱくらいのかたさで、葉の構造も下仁田葱のように袋状にはなっていない。下の方は、まあ、葱である。これといって特徴はない。だけれども、日本でよく売っている葱よりは、随分と太くてどっしりしている。太さは、そう、ラップの芯くらいだろうか。どっしり、すべすべしていて、愛嬌がある。

このポワローを上と下とに分け、上の部分の柔らかそうなところと、下の白い部分を茹で、フレンチドレッシングをかけて食べると、ポワローの甘さとドレッシングの酸味が手を取り合い、本当においしい。隙間なく詰まった葉と葉の間は、とろりとした甘い汁で潤んでいて、シャキシャキとした歯触りと甘さの両方を楽しむことができる。茹でただけでもおいしいけれども、僕がもっとも好きなのは、鶏肉とポワローを煮込んだ料理である。皮付きの鶏肉を買ってきて、塩胡椒を少し多めにふり、皮面を下にしてしっかりと焼く。そこに適当な大きさにぶつ切りにしたポワローを加え、さっと炒めてから、適当なスープを注いでポワローがちょっと透き通るまで煮込む。ポワローのシャキシャキとした甘さと、鶏肉のさらりとした脂がよく合う。適当にこしらえたものなので、特に名前はない。ポワローが手に入る間は、一週間に一回くらいはこれを作る。玉ねぎやニンニクを入れてパワフルにしてもいいし、人参やじゃがいもを入れてポトフみたいにしてもいい。この前などは、スープを思い切り少なめにして、煮るのと焼くのの中間くらいにし、食べるとき、鶏肉の皮にイチジクのジャムを少しだけ乗っけた。この場合、鶏肉には少し強め目に塩をし、皮面がカリッとなるまでしっかりと焼いておいた方が良いようだ。鶏肉の塩味に、イチジクの甘さがよく合い、付け合わせのポワローがまた優しい甘みを与えてくれてとてもおいしかった。これは昔レストランでアルバイトをしていたときに鴨にオレンジソースをかけていたのを思い出し、試しに冷蔵庫の中にあったイチジクのジャムで応用したものである。当然のことながら、ジャムは欲張ってはいけない。あくまで隠し味としてちょっとだけつける。

寒くなってくると、ポワローが恋しくなる。そうなると、もう我慢はできないのだ。気がつけば、ポワローの白くすべすべした肌に、冷たい包丁を突き立てている。

坂本さん

笠井瑞丈

最近よくまたピアノを弾く

仕事で疲れて帰っても
飲んで酔って帰っても

電気を薄暗くし
ピアノの椅子に座り
坂本龍一さんになりきって
戦場のメリークリスマスの
和音を鳴らしてみる

猫背で弾くあの姿が
妙にカッコよく見えた
後に知ったのですが
あるインタビューで
語っているのですが
あの猫背の弾き方は
グールドを意識して

私がピアノを始めたきっかけは
もう20年くらい前のことですが
クリスマスの日にとある歌番組で
坂本龍一さんが海の上の特設ステージで
戦場のメリークリスマスを弾いているのを
見たのがきかっけでした

そこから坂本龍一さんの大ファンになりました

その時の衝撃はすごいものでした
そこからこれを弾きたいと思い
ピアノを始めました

当時は楽譜も出ておらず
知り合いのピアニストに
譜面起こしをしてもらい
毎日ひたすら練習しました

それまで
譜面も読んだことも
ありませんでした

独学で始めたので
毎日毎日譜面と
にらめっこをして
動かない指を動かし

ちょっとずつ
ちょっとずつ

練習する日々

戦場のメリークリスマスは♭が5つの曲で
超初心者が始めるには指使いも譜面を読むのも
すごい苦労した思いがあります

弾き続け
弾き続け

少しづつ音楽の輪郭が現れてくる
もう何回このフレーズを弾いただろう

家族の人には

また弾いてるのと

何度
何度

言われ

そしてまた

何度
何度

確かに毎日強制的聞かされる方は
たまったもんじゃなかっただろう

そんなこんなで私のピアノとの出会いが始まりました

コロナ

三橋圭介

コロナ。ウィルスであることは知っている。その防御の仕方も知っている。テレビやニュース記事など、いろいろな解説者や専門家たちが入れ替わり立ち替わり、ウィルスの歴史やそれが何か、どうすべきかなどを語ってくれる。生活を脅かすものに、ことばがその亀裂を埋めていく。コロナ禍、医療崩壊、緊急事態宣言、クラスター、3密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、パンデミック、不要不急、ステイホーム、ロックダウン、アベノマスク…。最低限の実生活はマスクをし、あまり人に近づかず、手を洗うということだけ。それだけなのにことばだけが釈明・解釈を要求されて電波のなかを飛び交っている。世界のバランスを取るためのアンバランス。そしてアベノマスク、釈明むなしい無用の長物。

緊急事態宣言となって、アントニオーニの映画を真剣に見た。英語のシナリオを手に入れ、そこにいろいろ書き込んでいく。解釈をしようと思っているわけではなく、逆に解釈から逃れようとする何かを捉えること、それは実際に見ること以外にない「直接性。いいかえるなら映画にある非物語的な隙間を見定める作業。人間関係、都市などの風景、時間の停滞など、意味するものからずれて逃れていく。カメラワークと編集による意味の断片化と中断(繰り返し)。それはアントニオーニの現実という世界への距離感であるだろう。ソーシャルディスタンス。

オンライン授業。パソコン画面に学生の顔が並ぶ。学校にいかなくていい。約往復2時間の短縮。自分の部屋で事足りる。学生も東京ではなく、地方の実家から授業を受けていたりする。海外もありだ。対面で25人くらいの授業なら1人くらいは居眠りしていてもおかしくない。だがウェブカメラの前ではそんなことはない。カメラという視線の欲望が学生を縛る(欲望の前で化粧をする子もいたな)。これはこれであり。大学というものも少しずつ形を変えていくのだろう。ステイホーム。

サントリーサマーフェスティバル(3つのオーケストラコンサート)。全体的にリミックス的な引用と多層性が耳につく。ポストモダンと呼ばれた90年代の新しい傾向の1つは多様式的なリミックスだった。DJリミックスがその代表例だろう。そのなかで高橋悠治の「鳥も使いか」は身体論も含めその最先端だった。それから30年たってアイヴス的な出会い、ベートーヴェン脱構築、いくつかのパターンの組み合わせ、引用の織物など、この流れは続いている。3密、ソーシャルディスタンス、濃厚接触、出会い方の距離はまちまちである。ステイホームと叫べども、帰るべき家はどこにもない。

コンサート。観客だけでなく、舞台上もさまざまな試みがなされている。伝統的な配置は崩れ、ソーシャルディスタンスの配置と響きがが新しい。コロナがこの新しい響きを創造したのだろうか。高橋悠治の「鳥も使いか」と「オルフィカ」はコロナ的な編成の音楽として鳴り響いた。特に「鳥も使いか」は通常のオーケストラの編成から距離をおいた配置が効果的だった。オリジナルはユーピック・システムを使った電子音と三弦の作品。高田和子とステレオ2チャンネルで聴いたことがあるが、本来は音が空間を飛びかうような作品をイメージしていたのだろう。「鳥も使いか」と「オルフィカ」はある意味よく似た作品だった。2つはソーシャルディスタンスによってあるべき姿となって濃厚接触を果たした。

猫。オンライン授業で家にいることが多かった。あいつは「おやつちょうだい」と粘るようになった。もう授業だしめんどうなのであげる。「ラッキー!」。これで味をしめた。がんばればもらえる。この繰り返し。いつしか「ちょっとふとったんちゃう?」。コロおナか、なかなかにして不用心。

白楽駅に行く途中、横断歩道の向こう側に「すき家」がある。大学でポストモダンを説明するときに必ずこの名前が登場する。多様式主義の宝庫なのだ。カレーと牛丼を足してカレ牛。うな丼と牛丼でうな牛。どれも食べたことはないし、今後も食べる予定はない。今日ひとつ発見した。横濱オム牛カレー。オムレツと牛丼とカレーがごはんの同一平面上にきれいに配置される。3密クラスター。もはや味ではない組み合わせのパズルだが、そのアイデンティティを保証しているのは「すき家(は)」という主語のみである。次は何が濃厚接触を果たすだろうか、けっこう楽しみである。

ジョコ・トゥトゥコ氏の訃報

冨岡三智

『水牛』2003年3月号~4月号に「ジャワでの舞踊公演」という記事を寄稿した。残念ながら記事が古すぎて、『水牛』バックナンバーにはないのだが、この公演を主宰したジョコ・トゥトゥコ氏が9月28日13:30に亡くなったという報せがその日の夕方にインドネシアから入って、私はまだ頭が混乱している。トゥトゥコ氏(本当はジョコ氏と呼ばれていたのだが、私の師匠のジョコ女史と間違えそうなので、ここではトゥトゥコ氏とする)、は私の宮廷舞踊の師のジョコ女史の息子だ。スラバヤの国立教育大で舞踊を教えていた。私が国立芸術大学スラカルタ校に2回目の留学(2000年~2003年)をした時、トゥトゥコ氏はちょうど2000年から開校した同芸大大学院1期生として入学して(この当時は、大学院入学者のほとんどは現役の大学教諭であった)実家にいたので、それで師匠の家や芸大大学院のイベントでよく顔を合わせていた。そして、芸大大学院の修了制作の舞踊公演で、私もトゥトゥコ氏の振り付けた作品の踊り手の1人に選ばれた。その時の女性舞踊家は4人で、私以外は私と一緒にジョコ女史に宮廷舞踊を習っていた芸大教員たちだ。そのうちの2人はトゥトゥコ氏と一緒に大学院に入っていた。この時のトゥトゥコ氏の修了制作は、祖父の宮廷舞踊家クスモケソウォ~母の舞踊家・指導者ジョコ・スハルジョ女史~ジョコ・トゥトゥコ氏の3代に渡るジャワ舞踊の系譜をテーマにしていた。私の出た作品以外に、クスモケソウォの作品がその弟子(ジャワ舞踊界の大御所である)たちによって踊られ、観客もクスモケソウォの弟子たちが集まった。半年くらいの時間をかけた練習は私にとってとても大きな経験になっただけでなく、トゥトゥコ氏がインタビューに行くときに私も連れて行ってもらい、多くのことを学ばせてもらっていたのだ。

たまたま今年の2月、このトゥトゥコ氏の公演に出演した舞踊家の1人から連絡があった。公演出演者がもらった記録映像(VCD)が壊れてしまったが、再コピーしてもらえないか、トゥトゥコ氏に聞いてほしいと私に依頼してきたのだ。それで連絡を取ったところ、やはりマスターは残っていなかった。が、私が撮影させてもらっていたリハーサルの映像をyoutubeにアップさせてもらえることになった。というわけで関係者には喜んでもらえたのだが…。そんなやりとりがあり、8月の独立記念日にも色々メールでやり取りしていたのに…。自分がうかうか生きている間に、何の恩返しもできないうちに、お世話になった人に早々と先立たれてしまうのはつらい。

しもた屋之噺(224)

杉山洋一

今月は、前半二週間を息子と二人で自宅待機しながら過ごし、後半二週間は、それぞれ毎日学校に出かけて過ごしていました。後半はあまりに家事に忙殺されて、まだ頭もぼうっとしています。月末、家人も東京から戻ってきて、現在彼女が自宅待機中です。久しぶりに家族三人そろったミラノ生活です。

9月某日 ミラノ自宅
イタリアの新感染者数1397人は先週に比べ38パーセント増加。死亡者数10人。ICU は11人増。ベルルスコーニ陽性発表。昨日川村さんが届けて下さった洋菓子が美味で、どこのものかと思いきや、数年前に亡くなったフランコが好きだったプリニオ通り13番のCorcelliで驚く。日本から戻ってすぐ、フランコから贈られてきたようで嬉しい。未だ自宅待機中で家にいるので、庭の芝を刈る。心配したほど雑草は伸びていなかった。先月末に茅ヶ崎南湖の西運寺を訪れたとき、祖父の墓石を訪れた瞬間、綺麗な明るい緑色の小さなバッタが飛び出してきたのを思い出す。余りに突然で、少し不思議だった。

9月某日 ミラノ自宅
父子二人で自宅待機中。息子は朝8時15分から日本人学校の授業をズームで受けている。彼が1歳のクリスマスに庭に植えた松が6メートルほどに育っているのが、自分のことのように嬉しく誇らしいようだ。彼曰く、ミラノは生まれ育った街で、東京は親戚がいる街として認識しているらしい。スーパーの宅配で食材を購入し、二人で静かに暮らしているが、食事をいつも潤沢に準備出来るとまではいかず、どうしても新鮮な青野菜など直ぐに食べきってしまう。半年一人で巣籠していた経験を活かし、何とかやりくりしている。息子は、夕食時になると決まって、3月、彼が日本へ戻る前に比べ、運河の向こうのアパート群に灯る明かりがすっかり少なくなっていて恐い、と繰返しているが、言われてみればそんな気もする。夏季休暇から、未だ人々が戻っていないのかもしれない。この自宅待機期間に、毎日少しずつでもスカイプで町田の実家に連絡している。

9月某日 ミラノ自宅
西川さんより連絡あり。現在の状況を鑑みて、1月の高橋悠治作品演奏会は、合唱を使わない方向でどうするか、早急に検討を進めることとなった。
「フォノジェーヌ」の総譜がNHKから見つかったので、有馬純寿さんにお願いして残された録音から電子音のみを取り出していただき、テープと12楽器の演奏による蘇演を可能か考えている。「たまをぎ」再構成を1月までに仕上げるのは難しいのではないかと思っていたので、少し猶予が与えられて正直ほっとした。
オーケストラは少しずつ再開しているけれど、合唱やオペラの関係者は、未だに大変なご苦労を強いられている。
1月、安江さんの企画で演奏するブソッティの「肉の断片」を読む。工藤あかねさんと松平敬さんの声と、日野原さんのピアノ、そして安江さんの打楽器によって、演奏可能な部分、そして楽譜として魅力的な部分を拾い上げてゆく。

9月某日 ミラノ自宅
息子はアレルギーが酷く、昨夜は抗ヒスタミン薬を飲んで寝た。雨田先生がお亡くなりになった、と加藤君より連絡をいただく。7月に先生とお電話で話せたこと、コロナ禍の始まる直前の今年の年始にお目にかかれたこと、せめても本当に良かったと思う。光弘先生にお電話すると、彼女が弾いていた作品を聴くと、彼女に会える、音楽を通じて彼女に会えるから、音楽家で良かったと仰る。一緒に弾いた録音からチェロの音だけを消して、彼女のピアノに合わせてチェロを弾きたい、一緒に弾く時は何時も彼女が引張ってくれていた。そんなお話を伺って感動している。
高校から学生生活の終わるまで、本当に家族のように可愛がっていただいた。毎年大晦日の夕食は決まって雨田家にお邪魔し、ご馳走と光弘先生の福井のおろし蕎麦に舌鼓を打って、年が越した夜半、実家に戻るのが恒例だった。
垣ケ原さんよりお便りをいただく。先月の拙作を聴き、三善先生の音楽の精神を思い出されたという。恐れ多いけれど、本当に有難いお言葉だった。恩師の足元にも及ばないが、反戦三部作の影響は間違いなくあるだろう。階下で息子が熱心に「革命」を練習している。

9月某日 ミラノ自宅
湯浅先生と玲奈さんとズーム。湯浅先生の新作「軌跡」のグラフは思いの外進んでいて、ほぼ完成に近い。オーケストラ譜は玲奈さんでさえ知らない間に随分沢山書き上げられていて、ズーム越しに、二人で歓声をあげる。細かく書き込まれた動きも多く、音楽の精神の強さに大いに感銘を受ける。ともかく先生はお元気そうな様子で本当に嬉しい。今までと違うことをしたいんだ、と力強く仰っていらした。ついこの間まで、湯浅先生とズームでお話しするとは考えたこともなかったが、時代の進化を思う。
東京のK先生と電話で話す。1年以上ご無沙汰しているうち、先生の緑内障が悪化して、障碍者手帳を受取っていた。病院は治療には熱心だが、障碍者の補助器具やリハビリなどの相談には殆どのってもらえないのだそうだ。今回のコロナ禍で、視覚障碍者のための補助器具専門店も休業が多かったり、第一、現在の状況では気軽に出歩けなかったりして、実に不便だという。

9月某日 ミラノ自宅
自宅待機が終わり、今日から父子共に学校通いが始まる。朝5時に起きて、以前のようにナポリ広場まで歩くが、二週間殆ど身体を使っていなかったので、歩いている自分の身体に、まるで力が入らない。張りがなく、体力がすっかり落ちている。
昨晩の残りのソースでパスタを作り、サラダを足した父子二人分の弁当を詰め、残りを朝食にして、半年ぶりに学校へ出掛ける。校門は閉まっていて、一人ずつ呼び鈴を鳴らして入れてもらい、アクリル板を立てた受付で体温を測って校内に入る。校内はがらんとして殆ど人気がない。

半年ぶりに会う生徒もピアニストの二人も元気そうだ。窓を開け放って充分換気はしているので、それぞれ離れて座っているピアニスト二人と指揮台の学生は、苦しければ、マスクは外しても構わないことになった。こちらはレッスンをして、話す立場なので、マスクはつけている。
苦しければ、という話だったのだが、ピアニストからすると、指揮する学生の顔半分がマスクで隠れるのは、それ自体心地良くないらしい。表情が半分以上見えないので、演奏しづらいのだと言う。今は未だ暖かいので構わないが、これから寒くなってきたとき、どのような対応をしなければならないのか、まるで想像できない。

半年間実際の指揮もできず、黙々と貯めてきた研鑽の成果への意気込みからか、単に感覚が未だ戻ってきていないのか、最初のレッスンは誰もが少し空回りしていたのが、いじらしくも見えた。昼食は中庭の木陰に置かれたベンチで食べる。自宅待機が解けたばかりで街の様子も分からず、外食は無意識に避けてしまう。特に肉を食べないためか、弁当を持参するのは思いの外便利でもあると気が付いた。
ただ、体力が落ちている上に、学校で10人教えて家に戻ると、体力と精神力と集中力を使い果たし、すっかり困憊しているので、暫く何も出来ない。

9月某日 ミラノ自宅
息子に懇願されて、橋のたもとのピザ屋へ出掛け、以前のように、マルゲリータ地に、焼いた玉ねぎと野菜を載せてもらったピザとキノットを持ち帰った。
ピザ職人もレジ係も以前のままだったが、いつも5、6人は屯っていた配達員は、一人しかいなかったし、ピザが出来るまで10分くらい店内で待っている間、一度も注文の電話もかかってこなかった。それどころか、後から入ってきた恰幅の良い目つきのするどい男とピザ職人が、店の端で何やらこそこそ話し込んでいて、不動産屋に店を売りに出してもらっているように見えた。持ち帰って家で久しぶりに食べたピザは、以前のような喜びにあふれた味ではなくて、何とも悲しい雰囲気が漂っていたのは、恐らく気のせいだろう。ただ、以前よりずっと大きなサイズになっていたけれど、生地に張りがなく食材も新鮮ではなかった。
間違いなく、Covidが彼らを経営不振に貶めたに違いない。入口脇に堆く積まれたままの、持ち帰りピザ用段ボール箱が物悲しさを誘う。

9月某日 ミラノ自宅
今まで溜まっている補講をこなすため、今月は学校には月曜から土曜まで毎日通う。月、水、金と指揮科の生徒を教え、火、木、土と映画音楽作曲科の生徒に、指揮の手ほどきのセミナーをした。この映画音楽作曲科の生徒たちが思いがけなく音楽的で、教えていてもなかなか面白い。映画音楽の作曲が専門だけあって、音楽から映像を想像するのが得意なのだろう、シューマンの「子供の情景」をそれぞれに情景を想像してもらってから振らせてみると、想像する前に振った音とまるで違う豊かな響きがする。
第3曲の「追いかけっこ」は、1930年代、ファシズム時代のイタリアのどこか片田舎の広場で、季節は夏。少し日が落ちかかった午後の日差しのもと、小学生くらいの子供たちが楽しそうに「追いかけっこ」をしている、とか、12曲の「ねむりにつくこども」は、冷たい冬の夜、打ちひしがれた10歳くらいの孤児が、うつろな目をして、道行く人に物乞いをしている。空腹で仕方がない。雪も降っているかもしれない。道行く人は誰もこの男の子に気が付かない。男の子は、微かに幸せな夢を見て、また目を覚まし、悲しい現実を見る、といった具合に自分で話した後で振ると、音がまるで変化する。これは何故だろう。聴いている側の錯覚なのかとも思うが、明らかに音が変化するのは間違いない。
学生たちは一日6時間の3日間のセミナーを受けるために、地方からミラノにやってきて、1週間だけ滞在して、また地方に戻ってゆく。このセミナー以外は、12月末まで全て遠隔授業になってしまった。だから、セミナーが終わるころ、学生たちはそれぞれの別れを惜しんでいる様子が伝わってきた。セミナーの後も、外のベンチに座って、ずいぶん話し込んでいた。学生たちからの最後の挨拶は「先生もどうぞ良いクリスマスを!良いお年をお迎えください!」。
学校内で許されているレッスンは、指揮科と室内楽と実地試験だけなので、相変わらず学校中がらんとしていて、寂しいとも、物悲しいとも、何とも超現実的な時間を過ごしている心地。

9月某日 ミラノ自宅
こちらは毎日学校なので、今まで息子をノヴァラまで付き添っていたのも、一人で行かせることにする。人混みの多いミラノの中心部を避けながら、出来るだけ簡単にノヴァラに行けるような経路を教え、電車の切符と弁当を持たせて送り出した。Covidが心配ではあるが、無事にレッスンを受けて帰ってきたので、一安心した。ノヴァラで会った知人によれば、一人でノヴァラまでやってきたんだ、と得意げだったと言う。
パリ経由で無事に家人もミラノに戻って来た。3月に東京に戻ったときには、6人ほどで一緒に東京行きのフライトに乗って帰ったが、ミラノに戻る便がいつまでも再開されないので、結局彼らは一人ひとり別の経路でミラノに戻ってくることになった。その最後が家人であった。
誰もがそれぞれ3月初めよりずっと逞しくなったような気がする。それぞれの思いを胸に過ごしてきた半年間は、単純ではなかったはずだが、これからの人生に大きな意味をもたらす時間になったに違いない。
フランスの感染状況悪化により、フランス経由でイタリア入国する場合も、フライト72時間以内のPCR検査が義務化され、家人も慌てて東京でPCR検査をやっていた。

9月某日 ミラノ自宅
コモの隣、カントゥーの田舎から、ボーノがレッスンにやってきた。自宅の裏で拾ってきた栗を山ほどビニール袋につめて持ってきてくれた。
3月来ミラノに来たのも、街に出たのすら初めてで、マスクは恐くて外せないという。ミラノには自分で車を運転してやってきたそうだ。
一日の死亡者は19人。このところ20人前後の死亡者が続いている。新感染者数は1851人でICUは9人増。昨日のCPR検査数15379人。
イタリア政府は10月31日期限のCovidの非常事態宣言期間を1月末日まで延期する案について、具体的に検討を始めた。

むかし住んでいた家

仲宗根浩

旧盆、お迎えの日に家でだらだらしていると、子供の学校からバスが15時運休のため午後に帰宅させるとメールが来る。台風が近づいている。勤め先のホームページを見ると18時で営業をやめるとの記載。これは今日出勤しなくてよさそう、とおもいながらなおだらだらしていると、14時過ぎに電話が入る。台風対策のためできるだけ早く来てほしいと上長が言う。わたしはエッセンシャル・ワーカー、行かねばならぬ。いつものバックに着替えてを詰め、業務用靴といっしょにビニール袋に入れ濡れてもいい格好、長靴でビニール袋を抱え駐車場へ向かう。なかなかの風が吹く。出勤してはみたもののそんなに特別にすることなく閉店作業をして帰宅。夜中に久しぶりに建物に風の塊があたるのを感じる。

ここ数か月、いろいろあり毎週病院に通っているようなかんじ。原因不明の咳だったり、労災だったりで。労災の払い戻し手続きで二ヶ月もかかったり、保険の証明の書類をもらうためだったり。デジタルになったらこういう手間はなくなるのか?

中秋の名月の前日、今月ふたつめの葬式があり、知人の手術あり、親族危篤の状況ひとあり、と色々メールやlineが来る。再放送された沖縄題材の番組を見て1970年頃の生活していた家が映像で出ているのを確認する。基地の街が一番栄えていた頃、不安があふれていた頃。

赤い空が広がる(晩年通信 その14)

室謙二

 窓から見ると、赤い空が空全体にひろがっていた。
 日が登ると東の空が赤くなり、日が沈む時、西の空が赤くなる。これは「自然」のこと。ところが朝から昼へと何時間も、空を見回すと全体に赤色、というより濃いピンクである。凄まじいことになった。SF的世界だと思った。
 十一月十六日、東京の六倍の面積が燃える北カリフォルニアの山火事の影響であった。妻のNancyは、凄いわね、Mars(火星)に来たみたい。私は木星(Jupitier)かもしれないと勝手なことを言っている。どうなっているのか?と二人とも驚いている。
 雨が降らないこととグローバル・ウォーミングで、森林が乾燥している。それで何箇所から同時に山火事が始まる。灰が上空に登り、ただよい、それに太陽光線があたり赤くなる。光線の青色は吸収されてしまう。灰は少しずつ落ちてきて、我が家の二階デッキのイスとテーブル、パラソルを白くする。こんな大火事は、歴史的なことらしい。
 赤い空のサンフランシスコの写真を日本の友人に送ったら、「不謹慎ですが、非常にきれいな絵画を見るようで印象的です」との返事が来た。ショパンのピアノ音楽だなあ、美しいけど凄まじいのである。

 そして若いときに読んだSF小説を思い出した。
 細部は忘れてしまったが、全く別の天体に一人でいる。ちょうどこんな赤い世界が広がっていて、ひとりでたたずんでいた。植物も動物もない。生き物は自分だけ。自然の驚異のあとに、私だけが生き残ったのか、どこからか一人でここに来て永遠に住むのか分からない。私はただ呆然としている。
 この赤い空は、というてい、いつものカリフォルニアの空とは思えない。
 そこだけ見ていると、別の天体ではないかと思う。自然というのは、恐ろしいものだ。ふだんはその存在に気が付かないのだが、突然に事を起こす。

 メキシコシティから南へ

 Nancyの息子のTが、まだメキシコシティでアメリカの新聞の仕事をしていたころだから、三〇年ぐらいまえのことだ。遊びに行ったら、皆既日食(Total eclipse)を見に行こうと言う。Eclipseねえ、私たちは何も期待していなかった。そんなものがメキシコであるとも知らなかった。ともかくメキシコシティを出て、南に走ったのである。
 何時間も走り、日食の時間が近づいてくる。もうこの辺だと、部分日食ではなくて皆既日食が見えるはずだよ、と言って車を止めた。ハイウェイのそばに、広い原っぱがあって、あそこにしよう。とのことだが、本当は、いったい何をするのか?
 Tは、ススで黒くなった小さなガラスを渡してくれた。用意万端。
 原っぱに寝っ転がって、黒いガラスごしに太陽を見る。
 しばらくすると、太陽が欠け始めた。
 太陽はどんどんと欠けてきて、少しずつ暗くなる。日食である。ついに、太陽と月が重なった。太陽が黒い円形になった。
 皆既日食が始まる。
 何も期待していなかったので、ともかく驚いた。
 黒い太陽の周りに、揺れ動くコロナが見える。
 犬があちこちで吠え始めた。
 犬も驚いたのである。
 人間と違って、犬は皆既日食が始まるなんて知らない。突然に世界が暗くなり、太陽が奇妙な形になって輝いている。おどろきあわてて、興奮して吠え始め、それを聞いて、太陽を見て、別の犬が吠える。
 ハイウェイを走るクルマは、いっせいにライトを点灯した。
 これは凄い。何がなんだか分からないが、凄いのである。
 山火事の影響で赤くなったカリフォルニアの空を見て、太陽に月が重なり、暗くなりコロナが輝く。それを思い出した。
 「自然」は、いつもは気がつかない。ただそこにあるから。
 しかし突然に、自然は自分を主張する。
 空は真っ赤になって、動かない。あるいは、太陽が欠けて、コロナが輝く。

 八方ふさがりダブルパンチ

 私たちは「老人」というものになった。
 私は七四歳で、妻は七七歳である。
 すると、色んなことを経験するものだ。
 体は弱くなるし、記憶も途切れてくる。
 孫が何人もいて、「おじいちゃん」と私のことを言う。
 おじいちゃんねえ、ついこの間、私は少年とか青年だったのだが。
 死がどんどんと近くなってくる。まあしょうがない。
 そして今回は、日食ではなくて、コロナ・ウィルスである。
 日食は、自然発生であった。中国から始まったコロナ・ウィルスは、動物から人間に移ったものだが、それが自然発生だというか人工的な発生というか、意見の分かれるところ。もっとも人間社会は「自然発生」なのだから、人工だって自然なのだから、コロナだって自然である。
 コロナだからマスクをせよ、他人とは六フィート(二メートル弱)離れること。外から帰ってきたら、手を洗う。ゴシゴシと、石鹸を使って最低二十秒間。いや三十秒だ、とか。
 老人とか病気を持っている人間は、外出禁止。危険だ、と脅かされている。
 妻のNancyは、まだガンのキモセラピーをやっている。これでコロナにとりつかれた大変だ。
 それで私たちは、もう何ヶ月も家に閉じこもっている。
 コロナと山火事のダブルパンチである。
 すでにコロナの外出禁止で、そのうえ山火事の空気悪化だから外出はするな。まどを締めて家に閉じこもる。八方ふさがり。妻はキモセラピーだし私は偏頭痛とあって、ダブルパンチでいいことはない。ということもない。
 Nanami Muroがいるだろ。と言ってもロシアはソチだから、Skypeでしか会えない。
 二歳半の孫娘は、ロシア語と英語と日本語を一緒にカタコトで話す。
 彼女の写真をパソコンに貼り付けて、さてこの文章を書いた。
 前回の連載は、そんなエネルギーもなく、書くのをスキップしたのです。
 八方ふさがりとコロナののダブルパンチでも、いまは少しは気分も良くなった。
 火事の写真とビデオを見てください。ひどいものだ。
 いい日も悪い日もある。
 山火事も私たちも。

二〇二〇年九月一六日、カリフォルニアの山火事

二〇二〇年九月一六日、昼間のサンフランシスコ
https://www.youtube.com/watch?v=x_m9TUP_t_Y

追記。
加藤ケイジにこの文章を送ったら、ムンクのことを書いてきた。
ムンクの絵「さけぶ」の背景の赤い空は、インドネシアのクラカトア島の大噴火の火山灰がヨーロッパまで運ばれてきて、それに太陽光線があたって赤くなったのを描いたそうです。ムンクの日記に、書いてあるとか。1883年です。

スリランカカレーの味わいかた

高橋悠治

一つの物語を構成することなく いくつかの曲線が独自に動いている空間を作ってみる

同じ楽器がかたまらず 遠く離れて 異質な楽器は隣合わせに配置する

それぞれの響き さまざまな組み合わせ 短いフレーズを崩して混ぜ合わせる フレーズは戻るたびに姿を変える

これがスリランカカレーの味わいかた

安定した低音の上になく 和声も対位法も ヘテロフォニーや 長いメロディもなく どこからか浮かび上がり どこともなくさまよい いつともしれず消えてゆく

しもた屋之噺(224)

杉山洋一

息子と連れ立ってフランクフルトへ向かう機中です。羽田空港の国際ターミナルに着いて、運行便の電光掲示板の9割以上が「運航中止」と書かれているのは思いの外衝撃的な光景で、普通の日々からは程遠いのを実感させられます。
店舗もレストランも軒並み休業していて、空港内は閑散としています。係員の女性曰く、以前は喫茶店など文字通り全て店を閉じていて、当時のトランジット客は文字通り路頭に迷い大変な経験をしていたそうです。
羽田からの機内は意外に乗客が多く、6月末にミラノから乗った便とは随分様相が違います。尤も、この便に決定するまで、2度も別便がキャンセルになりましたから、その振替え客で混んでいるのかもしれません。世界にはりめぐらされた動脈は、すっかり干乾びきっているのです。

8月某日 三軒茶屋自宅
早朝明薬通りの祠を通りしな、改めてまじまじと眺めると、像の右上に赤字で貞享二年と彫りこんであるのに気がつく。1685年だから大バッハの生まれた年に、ここに石像を建てていた。百年前程度の石像と思いこんでいたが、急に崇高に見えてくる。以前近所で植木に水を撒いていたおばあさんに、石像について尋ねると、よく知らないようだった。お稲荷さんかねと笑っていたが、お稲荷さんには見えなかった。

東京の新感染者数472人。昨日は463人。どうなるのか。広島のライブハウスや、尼崎の劇団で集団感染。
夜半一柳先生よりお電話を頂戴し、26日の演奏会開催について意見を聞かれる。
毎日のように主催者やマネージメント、オーケストラと話し合いを重ね、可能な限り万全な感染症対策を準備しているが、今後感染爆発や医療崩壊が起きて、政府から公式に自粛要請があれば万事休すでしょうとお答えする。
個人的には、是が非でも開催ありきではない、とはっきりお伝えした。感染爆発に慄きながら数ケ月を過ごせば、誰でもそう考えるようになるはずだ。

8月某日 三軒茶屋自宅 
朝5時半、何時ものように世田谷観音にでかけると、僧侶の家族と思しき小学生ほどの兄妹が、題目を唱えながら梵鐘をついていた。
低く尾をひく鐘の音を聴きながら境内を後にすると、梵鐘の下を走る道路に、一人じっと目を閉じ、手を併せて立ち尽くす老人の姿。

オルフィカの各パートは演奏がむつかしい。少し速度を落としてもよいか悠治さんにたずねる。
「クセナキスの曲の演奏からもわかるかもしれないが、演奏不可能だからテンポを落とすというのは まちがった考え方だと思う
古典ギリシャ語を習うときにすぐ出てくるのは プラトンが「ソクラテスの弁明」に書いたことばです
「試練のない生は生きるに値しない」 能力を超えた難しさに直面して 不可能とわかりながら試みることで 書かれた音を忠実に再現するのではない 演奏の創造性が生まれる
これは クセナキスの書いてくれた曲の演奏だけではなく ケージの曲 あるいはフェルドマンでも それぞれに 物理的不可能を文字通り(つまり新即物主義的)ではなく 楽譜の示唆によって創造的に 意識を超えて行為しながら 身体的疲労を通して生まれる覚醒 演奏者たちをそこへ誘うためには 指揮者(あるいは調整者)は「音楽的に」表現しようとせず 冷静にハードルを提示する役割に徹する これはシェーンベルクやクセナキスや(おそらく)ノーノを指揮したシェルヘンの方法でした シェルヘンが言っていたのは プロイセン的精密さ(近代主義)は世界にひろまったが それとはちがうなにかがあること それを若い時シェーンベルクの指揮で『ピエロ・リュネール』のヴィオラを弾いていたころ学んだのかもしれない 18世紀の啓蒙主義的知でもなく 19世紀的・ロマン主義的自己超越とは似ているように見えても まったくちがう古代的智 クセナキスは「無神論的苦行」と言っていましたが それはオルフィズムの あるいは禅の あるいは老子の「無為」 に近い身体の使いかたとも言えるのだろうか」

8月某日 三軒茶屋自宅
早朝世田谷観音に出かけると、僧侶は未だ読経中で、開いたままの本堂の格子から観音像を眺める。町田の両親から、昨日もいで糠につけたばかりのキュウリ2本が届く。この異様な暑気に糠漬けはよい。スカイプで久しぶりに母の顔を見たが、思いの外元気そうで安心する。

「仰ることの意味は、頭ではよく理解できる気がします。「6つの要素」をリハーサルした経験からもそう思いますし、実際「オルフィカ」には「6つの要素」のようなパッセージが出てきます。
まだ身体に入っていないので判りませんが、そのメタ感覚に近いものを、大集団と共有するプロセスについて考えています。
案ずるより産むがやすしかもしれませんし、楽観はいけないかもしれません。策を巡らせてばかりいれば、本質からずれてきそうです。尤も、これは毎度のことで、今回は特に編成も大きく、個々が複雑なので余計そう思うのでしょう。勉強をしていくうちどこかで吹切れて、これでやろうと思うものが、自ずから生まれてくると信じています。
クセナキス作品に比べ、悠治さんの作品はより演奏が難しいと思います。やはり悠治さんが演奏に係わっていらっしゃるからでしょう。クセナキスは音と身体の生理が隔絶しているので、精神的に扱いやすい部分がありますが、悠治さんの作品は、身体的運動と音楽が、より具体的にせめぎあう気がします」。

8月某日 三軒茶屋自宅
午後から読響の藤原さんと、オーケストラ配置打ち合わせ。その前に本條さんと悠治さんと「鳥も」リハーサル。悠治さんもお元気そうだ。近所に住んでいてやり取りもしているのに、今回会うのはこれが初めて、と笑う。
本條さんの唄に、相聞歌のより女性らしい心情をひたひたと感じたのは気のせいか。毎回お会いする毎に、本條さんの唄の息が長くなっていると思う。フレーズのような稜線ではなく、凛とした佇まいの絹糸が、本條さんの処まで伸びていて、そのずっと先のところで、彼は糸を繰り続けているようにも、撚りをかけているようにも見える。

8月某日 三軒茶屋自宅
モーリシャスでタンカー座礁。ランバンサリのリハーサルに内幸町まで自転車で出かけたのはよいが、溜池を折れた辺りで通行止めになっていて、迂回路を行くうち道に迷う。
店員に道を尋ねようとコンビニエンスストアに駆け込むと、無人操業になっていて愕く。これが未来のコンビニエンスストアの姿なのか。未だ実験段階だとばかり思っていた。感染症対策にも少子化にも好都合なのだろうが、在留外国人のアルバイト先減少と、航空会社の客室乗務員の副業許可のニュースを読んだばかりで、どこか納得がゆかない。オーケストラも閉鎖されてしまうのではないか、とふと恐ろしくなる。将来は無人オーケストラか。今回の感染症で、ピアノコンクールのヴィデオ審査が広がったが、家人曰く、今後コンクール審査は、参加者はデジタライズされたピアノを弾き情報として記録して、審査員は在宅のまま、家にその情報を読み取れるピアノを用意して、デジタルピアノが演奏する参加者の演奏を審査するようになるという。

閑話休題。ガムランを振るのは甚だ不自然ではあるが、響きは楽しいし、子供の頃から憧れていた。本番中の会場での舞台転換を最小限に抑えるため、ガムランは置きっぱなしになるので、金属楽器の反響を調べる。座布団を中に敷いて吸音すると、ほぼ反響が抑えられた。
最近めっきり見かけなくなった右翼の街宣車が、「宇宙戦艦ヤマト」を高らかとかけて、内幸町のあたりを走り回っていた。

8月某日 三軒茶屋自宅
明薬通りの石像は、庚申尊の青面金剛だとわかる。どういうわけか石像には滋養強壮剤が供えてあった。青面金剛の憤怒の相は、最早すっかり滑らかに削られていて、角ばった顎あたり以外は判然としない。朝、世田谷観音に出かけ、特攻観音に手を併せた瞬間、梵鐘が鳴った。
山根作品は、一見単純な繰返しに見える和音を、一つずつ書き出して読み返すだけでも、随分印象が変わる。不安定で思いがけない内声の動きは、ていねいに一音ずつ読まなければ手触りまで行きつけない。落着いた動きのようだが、思いの外すばやい動きの、凸凹のある表面が浮かび上がる。
予約していたミラノ行きフライトキャンセル。

8月某日  三軒茶屋自宅
イタリア新感染者数574人。死亡者数3人。ICUには1人のみ。信じられない。結局生活習慣の違いはあまり関係なかったのだろうか。
楽譜というのは面白くて、作曲者側から眺めるのと、演奏者側から眺めるのとでは、まるで違ったものになる。作曲者にとってごく単純な事象であっても、演奏者は、記号を読み込み咀嚼し、思索を巡らせても到達しえない、複雑で奇怪な存在になったりする。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝、慌ただしく大きな段ボール数箱が宅急便で届き、夜、富山より家人と息子が三軒茶屋帰宅。半年ぶりに会ってそれぞれ感慨は覚えているのだろうが、ごく自然に三人の生活に戻る。息子に背が伸びたか尋ねられたが、背丈より寧ろ、雰囲気が大人びたように感じる。背が伸びた分以前より痩せて見えるが、中学生の頃は、こちらも随分痩せていると笑われたから、自分も似たようなものだったのだろう。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝から森作品リハーサル。関係者一同、感染症予防に最大限の配慮。演奏者の使用する椅子や譜面台に、それぞれ名前が振られていて、共有はしない。演奏者がそれぞれ自分の名前の書かれた椅子や譜面台をとって、定位置にセットする。机なども気が付けばすぐにアルコールで消毒して、換気にも充分気を配りながらのリハーサル。
皆で演奏できる喜びを、それぞれ噛みしめながら音を紡いでゆく。独奏をつとめる山根君と上野君が、とても深く咀嚼し自らの音楽としてあって感嘆する。作曲者と独奏者二人は、素晴らしい共同作業を実現していた。音を鳴らすだけの次元よりずっと深い部分で、互いに音という言葉を交わしている。迸る瑞々しい才気。

三軒茶屋自宅
権代作品リハーサル。先日から録音した通し稽古を聴いていただき、権代さんから助言をもらっていた。
作曲者から直接アドヴァイスをいただける倖せ。主旋律と信じていたものが装飾句で、装飾と信じていたものが主旋律だったりして、自らの読譜力の低さを恨めしく思う。実際、権代さんの助言通りに演奏すると、まるで違った風景が浮き上がる。それまで断片的な情報の並置だったものが、突如として有機的な相関関係を浮彫りにし、作品全体に一貫した意味をもたらす。
今日は権代さんがリハーサルにいらして、久しぶりにお目にかかる。大学時分、留学中だった権代さんから、海外に出るよう強く勧められて現在に至る。表参道の喫茶店で、彼と話さなければ、留学はしなかったかもしれない。日本でずっと過ごしていたら、全く違った人生だったに違いない。
 
8月某日 三軒茶屋自宅
ここ数日、メトロノームをかけながら、日がな一日繰返し「オルフィカ」を練習している。最初は指定の速度の倍の遅さですら、音が全く目に入ってこなかった。繰返しさらいつつ少しずつ速度を上げてきて、漸くほぼ指定の速度でも目がついてくるようになった。今まで4つぶりで頭の中の音を鳴らしてきたが、今日から思い切って、悠治さんの希望通り、2つぶりで練習を始めた。
安達元彦さん制作のパート譜には、4分音符120と指定されているが、悠治さんは2分音符60だと言っていた。現存するオリジナル総譜には、速度も拍子も書かれていない。初演当時に使われたパート譜には、今も演奏者の猥雑ないたずら書きがそのまま残る。

子供の頃よく聴いたレコード録音は、今回全く聴いていない。聴いても分からないし、第一、録音と実際聞こえる音がまるで違うのは経験上分かっている。そうして少しずつ見えてきた音風景は、驚くほど雄弁で、振る度に感激していた。
録音は素晴らしい産物だが、実演とは根本的に違う意味を持つ。録音は写真と同じく、ある瞬間を永遠化するものであり、実演は瞬間毎に新しく創造する作業だ。どちらも等しく意義深いが、ベクトルはまるで違う。

8月某日 三軒茶屋自宅
ドミューンにて放送イヴェント。話すのは苦手なので、このようなイヴェントは本当に困る。しかしながら、楽屋で悠治さんと話し込み、長い間の懸案だった「たまをぎ」再演の目処がついたのは素直に嬉しい。「たまをぎ」合唱部分は明治学院大学に残されていたが、オーケストラ部分は何年探しても出て来なかった。だから、今回は悠治さんのご協力をえて、録音から再構成版をつくることにした。1月24日まで時間がない。
初演は、方陣を組んだ100人ほどの合唱が走り回る、縦横無尽なシアターピースだったが、現在の状況で実現不可能だ。今回は合唱も楽器も小編成の演奏会形式でやり、楽譜をしっかりと用意しておき、将来もとのような形での演奏が可能になったら、あらためて実現を目論みたい。本当に間に合うのか。
ドミューン楽屋で、一柳先生と悠治さんと3人になったとき、一体お二人が何を話すのか興味津々だった。先日悠治さんが弾いたばかりの「告別」について、どこの箇所がむつかしいよね、などと、盛んにベートヴェン談義が愉しそうに話題にのぼっていて、感銘を覚える。

8月某日 三軒茶屋自宅
「アフリカからの最後のインタビュー」演奏終了。「黒人の命は大事」運動の盛上りのなか、この作品をサントリーで演奏すると、また別の意味を持つことになった。
息子も息子の友人の中瀬君もペンライト演奏で参加。今朝、シェル石油が日本撤退のニュースを新聞で知る。サロウィワは何を思うだろう。
久しぶりに「東京現音計画」の皆さんと再会し、演奏にも接してみて、あらためて素晴らしいバンドだと思う。初演より格段と演奏の強度が増していて、何より演奏から音が伝わって来ないのが良い。音ではなく、もっと堅固な何かが我々の喉元に突き付けられる。信念のようでもあり、メッセージのようでもあり、それは実は情熱なのかもしれない。
サントリーの天井にうつろう、ペンライトの茫洋とした光が印象に残っている。

8月某日 三軒茶屋自宅
「オルフィカ」リハーサル。悠治さんリクエストメモ。
強音は身体をゆるめ、楽器の一番良く鳴る音にまかせて出すこと。むしろ弱音の方がよほど演奏がむつかしい。
5連音符、6連音符で書いてあるのは、確率で決めたもの。正確な計算ではない。だから、演奏するとなお不正確になる。あまり拘らなくてよいですね。

音の始まり。その前には音がなく、ピアニッシモであっても、そこから音が始まる。そして余韻を残さずに音を止めることで、各人にあてがわれた別々のパートの各音が、ばらばらになる。
音の終わりは閉じてほしい。管楽器なら、息を残さないこと。弦楽器なら弦の上で弓を止める。どこでそれをやるかは、各自自分が一番いいと思われる部分で音を出してほしい。
それぞれ別だから指揮者を頼ることもできない。 

指揮は、2拍子を何回かやれば、だんだんだらしなくなってくるので、テンポを動かしてほしい。予測つかないみたいになりたい。ああこのテンポだと思ってやっているとそうならない、という風にやってほしい。結局、指揮者がいるが、いろんな音が勝手にでてくる風になりたい。

グリッサンドは最初の音を確定してから動き出すのではなく、最初から動き出す。弦楽器であれば、上がる場合は左手をアッチェレランドしていけば均等に聞こえるし、降りる場合、早く降りてゆっくりおわると均等になる。

揺れる音は、毎回揺れかたを変える。だんだん、死んだようになってくるから、テンポや幅を変えてほしい。自分のアイデアで変えてください。全体の音が聞こえていて、自分からは誰とも違う響きがでていることを意識する。
できなくてもいいんです。整然といくより、できなくて、いろいろなことがでてくることがいいんです。

始まりと終わりなんですけど、楽譜とあんまり関係ないことなんですが、はじまりかたは、はじまるときに、全く何もない空間から、突然と出てくるような感じがほしい。ちょっと一瞬静まったときに、どこからともなく出てくるような、不思議な感じがほしい。
一番最後なんですけど、ちょっと緩めてください。揺れながらふうっと消える。

 8月某日 三軒茶屋自宅
読響との演奏会終了。「鳥も」では指揮せず、銅拍子と鏧子など小道具を演奏し、曲名を言うだけなのに、特に銅拍子は本当にむつかしい。さわりを残さなければいけないと言われても、なかなかうまくいかない。無心になってやるものなのだそうだ。鏧子も、チーンとならせば良いのかと思っていたが、高い倍音を消すように、緩く向こう側に少し撫でるように叩かなければならない。われながら、煩悩の塊だと妙に実感する。

本番、本当に無心になって初めて銅拍子がとても美しく響き、さわりがいつまでも消えなかった。余りに無心になっていて、次に「島」というはずの題名を「鳥」と言い間違えてしまった。もう一生銅拍子は叩きたくない、と思っている。仏具はそれに見合った人格者が触らなければいけない。尤も、演奏は本條君が実に見事に歌い上げてくださったし、オーケストラも彼に美しく沿ってくれたから、全く文句をつけるところではない。自分自身の煩悩に嫌気がさしただけである。

読響とのリハーサルは、リハーサル前の準備段階から、感動させられることばかりだったし、学生時代の仲間に会えたのも本当にうれしかった。たとえば山根さんの作品で、コンサートマスターの長原さんが、第一ヴァイオリン後方で第3パートを先導して下さっていて、オーケストラの細やかな心配りと采配に密かに感動していた。第1パートの小森谷さんと合わせて、実に見事な演奏だった。
オルフィカの冒頭、悠治さんの希望の何もないところから顕れる音を体現して下さったのは、小森谷さんだ。本当にオルフィカなど、自分では何もしていないが、オーケストラの一人一人が、それぞれの音をとても濃密に演奏して下さった。読響の音の印象は、濃密な音と音楽の深さだった。
マスクで苦しそうにしていると、藤原さんがアイスキャンディーの「ガリガリ君」を差し入れて下さったり、悠治さんの難題に四苦八苦していると「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ」なんてオーケストラのM君から声をかけられたり、不思議なくらい人間臭いお付き合いがあってこその渾身の演奏だったのかもしれない。指揮者など、実際のところ本当に何もやっていない。深謝。

8月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルは午後からなので、思い立って、朝湯河原まで墓参に出かける。子供の頃から数えきれないほど通ったからか、小田原を過ぎたあたりから、強烈な郷愁に襲われるのは、相模湾の匂いと海の色のせいだろうか。
英潮院の墓地へ昇りながら、振り返ると、深い色を湛えた海が眼下に広がる。何度ここを訪れても、子供のころから変わらない感動に襲われる。ただ、目に飛び込んできた祖父母の墓石に、これだけ激しく心を動かされたのは初めてだった。来てよかったと思う。

「自画像」リハーサル。鈴木さんが振ると、音楽が溌溂としてくる。
最初に通すと、書いた金管セクションが、想像通り世界を飲み込んでしまって、人生最大の失敗作かもしれないとも思う。成功など目指していないから、失敗にもならないが、もっと普通にオーケストラ曲を書けば良かったのではないか、との疑問が頭をもたげかける。

「アフリカからの最後のインタビュー」を、コロンビア大で聴かせたとき、何故こんなに明るい作品なのか、とアフリカ系の作曲科教授ジョージ・ルイスから投げかけられた素朴な問いが、未だにずっと脳裏に残っている。Black lives matterが全世界的に広がりを見せる、ずっと前の話だ。
もちろん、明るい内容で書いたわけではなく、当該地域の讃美歌をそのまま使ったので一見明るい音の素材になっただけだが、彼の指摘以来、どこか音楽的に成立させるために素材を利用してきたような、後ろめたさを引きずってきた気がする。
特に題材が特殊であれば、音楽的に書くほどに表面的な音楽になる危惧を覚えていた。

オーケストラは、やはり基本的に後期ロマン派までの作品を演奏するために形作られた社会体系だ思う。オーケストレーションは、オーケストラを一つの楽器にみたて、さまざまな響きを作り出すために作曲者がつくるものであり、オーケストラ一人一人の顔は浮かばない。それでいいとも言えるし、自分が同じことをしなくてもよい気もする。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝5時半。澄み切った明け方の空に、くっきりと輪郭を浮かび上がらせる、湧き立つ積乱雲。夜半したたか雨が叩きつけたのか、道はまだ濡れている。
川島君の作品を、漸く最初から最後まで見学できた。素晴らしい!お互い多分高校生くらいから知っていて、彼の印象は当時から今まで全く変わらない。自分には到底真似できない情熱とカリスマがあって、一方的にとても尊敬してきた。確固とした技術と叡智があるから、彼の音楽はどんなに破綻していても純粋に愉しめる。自分が瞬間ごとに忘れてゆく気質だからか、彼のように、知識や経験がすべて蓄積されて、ますます極めてゆく姿に、素直に感銘を受けている。

一柳先生の新作は、闊達で瑞々しい。音楽は縮こまらず、のびやかで、甘くだれたりすることもない。それはご自身の人間性とまるで瓜二つで、いつも自由で本当に不思議な方だ。前に二重協奏曲を演奏したときも、一柳さんと彼のピアノ協奏曲を演奏した時も心底そう思った。どうやったら、あのように尖った、新鮮な感覚を持ち続けられるのだろう。カーターがお好きであったり、悠治さんと音楽の趣味が一致するのだから、もちろん頭では理解しているつもりだけれど。

リハーサル後、鈴木さんと少し話す。互いの子供の話とか、反抗期についてとか。高校のとき、彼は東ティモール問題について論文を書いたという。別の機会に学校でインドネシア大使館を訪れた際、東ティモール問題について大使館員に疑問を投げかけたというからおどろいた。
大使館の方は、学生からの質問に備えて、反駁するために膨大な資料を机に堆く用意して待っていた。鈴木さんはデンハーグの国際裁判所にも親しい友人がいる。

8月某日 三軒茶屋自宅
「自画像」リハーサル。学校でオーケストラについて習うとき、やってはいけないと習うことばかりを集めて書くと、こんな風になるだろうと思う。
こうやったら聴こえない、とか、こうやったら効果がない、ということばかりを集めてやる。聴こえるように、効果があるように書く意味とはなにか。オーケストラは重ねれば聴こえるようになる。背景を消せば、明瞭になる。リズムをそろえれば、一体感が生まれる。
世界中に埋もれ聴こえない声は、聴かなければよいかも知れない。わざわざ賑々しい席で、普通であれば目を背けたくなる現実に、わざわざ目を向ける必要もないかもしれない。
これは作曲とは言えない、とは書き始めた当初から思っていた。最初から最後まで、ストップが極端に限られた古いオルガンのように、音量の強弱も、曲線を描くフレーズも皆無のまま、20分間近くただひたすらドミナントペダルの上に、事象ばかりを連綿と紡ぎ、そこには弛緩も呼吸も存在しない。そんなものは音楽ではない。無情に時間だけが刻まれてゆき、2020年にそれが止まるのみ。

では、音楽を書けばよいのか。自分が無事に日本に戻れるかどうかすらわからず、毎日何百人という人が亡くなり、アパートに防護服姿の看護師たちが救急車で駆け付ける日々のなか、今書いておかなければいけないと思ったことは、書かなければ一生後悔しただろう。今後、書く機会も、書く時間もないと思っていたし、今もそれは変わらない。
オーケストラは、本来皆で一つのハーモニーを紡ぐための社会体系だった。理想論と笑われようが、世界も、本来は皆で一つのハーモニーを紡ぐものであってほしかったが、実際はこの50年間だけ顧みても、一時たりとも世界が平和になった瞬間はなかった。
最初に各国の国歌を書き取り、大きな表に並べてみた時、見えてきた音に思わず鳥肌が立った。あまりに惨く響いて、これを書くべきかどうか、ひと月ほど悩んだが、毎日信じられないほどの人が世界で死んでいく毎日のなか、やはり書かなければ後悔すると思うに至った。
そのとき、聞こえてきた音そのままの音が、目の前で鳴っている。

せっかくオーケストラを使うのなら、もっと希望があって、演奏者も聴き手も心地良く、満足感の得られるものを書くべきだろう。オーケストラを書く力がない、ともいえるし、西洋的なオーケストラを書く行為を放棄しているともいえる。演奏者には聞こえない無力感を与え、希望の象徴であるはずの国歌は、無残に戦禍に塗れて、まるで亡骸にこびりついているようだ。

8月某日 三軒茶屋自宅
自画像演奏会終了。 鈴木さんと東京フィル、文字通り渾身の演奏に聴き入る。自分の作品として聴き入るというより、走馬灯のように駆け抜ける50年の恐ろしさに、そして、鬼気迫る演奏者の姿に、ただ圧倒された。
演奏者は、互いに聴きあって一つの音楽を紡ぐのではない。セクションごとにまるで、それぞれが国となったかのように見える瞬間もあった。演奏者自身もそう感じていたのではないか。
良い作品とは到底思えないし、成功したとも思えないが、少なくとも当初頭に浮かんだ音そのままが、演奏者一人一人の燃え盛る情熱に駆り立てられて浮かび上がり、曲尾のオーケストラがユニゾンで合奏する部分は、本当にベルガモの谷のまにまにいつまでも木霊する弔礼ラッパのように響いて、ますますやりきれない心地に襲われた。
こんなに達成感や満足感のない新作も生まれて初めての経験なので、どう捉えてよいのかわからなくて戸惑っている。ただ、必要だったという思いだけが、いつまでも反芻している。
付き合わされる演奏者や聴衆に甚だ申し訳ない気もするが、世界をとりまく現在の特別な世情を鑑みれば、ある程度は理解してくれるかもしれない。

この状況で実現された音楽祭は、関係者全員の努力の賜物以外の何物でもない。その努力に力を与えてくれたのは、関係者と聴衆の「希望」ではなかったか。3月4月くらいは、無事に日本に帰れるかどうか分からなかったし、曲が最後まで書き上げられるか分からなかったし、演奏されることなど想像もしていなかったし、自分がそれを聴くことができると期待すらしていなかった。
万が一のことがあっても、家族に作曲料が入って生活の足しになれば、と思ったのと、そんな状況なら、書かなければ後で後悔することをやっておこうと思った。それ以上でもそれ以下でもない。

 舞台裏で、笑顔で気軽に挨拶してくださる方がいて、知合いの評論の方かと思いきや、マスクを外すと、思いがけず鈴木雅明さんで大変恐縮した。マスクは、顔の情報を半減させてしまう。
演奏会後、久しぶりに悠治さん、美恵さんと喫茶店でしばらく四方山話。悠治さんの波多野さんとノマドのために書いている新作。原発に関する藤井さんの回文。
2度や7度のようなぶつかる音は今まで散々使い古されている、ともいえるが、それらを異様に排除しようとするのもどうなのか。日本の文化とスペクトルとの融和性か、それとも穢れを排除する風土故か。

8月某日 ミラノ自宅
フランクフルトの空港は、6月に東京に戻った時よりずっと賑わっているようにも見えた。
機内のアナウンスでは、「このような状況にも関わらずご利用いただきまして、まことに有難うございます」「Covid 感染症対策のためXXXは閉鎖されております」という言葉が長々と続く。
フランクフルトの手荷物検査で、タブレットをリュックから出すのを忘れて止められた以外は、滞りなくミラノまで辿り着いた。ミラノへの機中に、渡航歴に関する書類を提出させられ、体温検査をやっている以外、目新しい検査もなく家に着き、拍子抜けするほどだった。

久しぶりの家は、我々が帰ってくるのを待っていたように見え、半年ぶりの帰宅に思わず息子は興奮して歓声を上げた。機中、二人掛けの座席に息子と隣り合って座っていたが、すっかり身体も大きくなった息子が、窮屈そうに身体を曲げ、小さい頃のようにこちらに肩を預けて寝込む姿に、以前彼と訪れた旅行を思い出していた。
(8月31日ミラノにて)