しもた屋之噺(205)

杉山洋一

早朝まだ暗闇のなか自転車に跨りパンを買いに出かけると、ライトに反射して凍った道路が輝き、タイヤの下で心地よい音を立てます。1月の声を聞くと、寒は少し緩むものでしたが、今年は新年を迎えて漸く冬らしくなってきました。凍てついた夜明け前、「Sabbiera(砂撒車)」と書かれた深緑の旧い路面電車を見かけるのも独特の風情です。

1月某日 ミラノ自宅
今年はレオナルド・ダヴィンチ没後500年にあたる。藤木さんと福田さんのための新曲のテキストをつくるため、「鳥の飛翔について」手稿を読む。
1893年にミラノで出版されたサバクニコフ監修による手稿は、研究者用にダヴィンチの誤字も訂正せずに収録した原文と、誤字脱字を多少補筆し、単語が全て少し見やすく整理した中世伊語の原文と、その仏語の直訳が各頁に掲載されている。一見読みやすい文章は現代の綴字法で書かれた仏語だが、意訳ではなく単に直訳だから、中世伊語で不可解な言回しは、意訳された英訳を参考にしながら読む。
尤も、文章を読み込むより、ダヴィンチ科学技術博物館の縮尺模型などを実際に目にする方が、理解がはやい。言うまでもなく、鳥の飛翔の観察は空中飛行器具の設計が目的だったわけだが、博物館を訪れると、実際に触って動かせる巨大な羽の模型やらヘリコプター回転翼の部屋で、課外授業の園児や小学生の低学年の子供たちが楽しそうに集う姿が微笑ましい。
「これが世界で初めて電気的に鋼鉄を製造した炉である。発明者スタッサーノに幸運が訪れなくとも、どうか彼の名をこの世に留めイタリアに栄光を与え給わんことを1900年」。白いペンキで書きつけられたスタッサーノのアーク炉の美しさ、そして1950年のヴォバルノ・ファルク鉄鋼場内部を再現した「ファルクの部屋」に整列する、壮麗な歯車の数々に、機械文明への人類の憧憬を見る。
大学の頃、時間が出来ると鶴見線に乗って芝浦のコンビナートに足繁く通った。運河の対岸に立ち並ぶ巨大なコンビナートのシルエットは、青空に映え途轍もなく美しく、どれだけ眺めても飽きなかった。当時からコンビナートの向こうに、イタリア未来派が賛美したダイナミズムやボッチョーニの彫像を思い描いていた。

1月某日 ミラノ自宅
朝5時過ぎに起きて米を炊く。日本風のご飯を用意するため、少し多めの水で常に中火で炊き、蒸らす。最初と最後に火力を上げると当地の米では粘り気が出ないと家人に教わる。彼女が未だ東京なので、息子が日本人学校に持参する弁当を毎朝作る。野菜を炒めながら生姜焼きのタレを作って豚肉を漬け、家人作り置きのブロッコリーやらハンバーグを解凍する。野菜炒めが出来たら肉を焼き、ご飯に合うよう、わざと半熟のまま仕上げた醤油と砂糖で味付けを濃い目につけた炒り卵風を用意する。
生姜焼きと野菜炒めを一緒に作ればよいと思うが、味が雑ざるのが厭だとかで別々に作って呉れと注文がついている。もう二年も口にしていない食肉は味見すらできないので、適当に頃合いを見てフライパンを火からおろす。それらを弁当箱に詰め階下の息子を起こし、上着を羽織ってパン屋に自転車を飛ばし、朝食のチョコパンを買いにゆく。息子が朝食を摂る間にシャワーを浴び、大学の用意をし8時過ぎに息子を自転車の後ろに乗せ、日本人学校の手前まで乗せてゆく。何でも本来は自転車で通学してはいけないそうで、二人乗りで学校まで送ってもらっていると見つかりたくないらしく、近くの交差点で下ろしてくれと言ったり、どこかに日本人の父兄を見つけると、ここで下ろしてくれと背後から突然騒がれたりもする。
そうして学校に着いてレッスンを始めるころには、既に大仕事を終えた安堵感が訪れる。世界中どこも、朝の子育て風景といえば凡そこんな感じなのだろう。指が動くのが嬉しいのか、息子は誰に言われたわけでもないハノンを、何時までも嬉々として弾いている。

1月某日 ミラノ自宅
学校でのレッスンが終わって、角の喫茶店で音の輪郭について浦部君と話す。指揮の拍に合わせて発音された音を拡大すると、輪郭に見えていたものが実は目の粗い粒子の集りだと気づく。周りの空間と分離しないので、浮上がることもない。音の輪郭に焦点を合わせ、そのピントがずれないように音を発音すると、輪郭が周りの空間から分離し、浮かび上がらせることもできるだろう。
目の粗い点の集合では、ザルのように内部の質感も量感も、外部に洩れだしてしまうが、輪郭があれば、それらが外に流れ出ることも防ぐので、音のそのものの重量を肌で感じることができる。
警官との諍いで命を落としたエリック・ガーナーに衝撃を受け、数年前大石さんのために書いたバリトンサクソフォン曲を、ニューヨークの演奏会に向け、演奏時間を短くしたアルトサクソフォン作品として書直す。ゴスペルとアメリカ国歌を変容させ紐状に撚ったものを十字架状に交差させる。繰返しのない一筆書きの長大な音列は割愛できなくて、楽器と音価を書き換え時間軸に新たなねじれを加えた。数年前吹雪くハーレムでこの曲を考えていた頃、現在のアメリカの姿は想像できなかった。

1月某日 ミラノ自宅
自転車をとばし、国立音楽院横の「情熱の聖母」教会にFの葬式に参列した。Fは音楽院のヴァイオリンの同僚で、子供のような純真さと優しさを湛えて、学生たちから慕われていた。入口で台帳に名前をしたため教会の戸を引くと、学生たちが奏でる弦楽合奏が聴こえる。ヴィヴァルディだった。
空いている席を探して「隣、空いていますか」と紳士に声をかけると、オーボエの同僚Tだった。彼とFと一緒に何度演奏会をやっただろう。もう随分昔の話になる。すぐ目の前、祭壇の左手前には、卒業した懐かしい学生たちも在学生に交って弦楽合奏に加わる。こんな機会でなければ、再会の機会もままならないのが恨めしい。
棺に振りかけた香炉から立ち昇る煙が、クーポラの天窓から射込む正午の太陽を受け、くっきりとした直線を映し出し、まるで宗教画そのままに神々しい。神父が神秘によってFは天上の眩い食卓の饗宴についたと繰返す間、すぐ傍らの女性は肩を震わせながら泣きじゃくっていた。

1月某日 ミラノ自宅
病気で夫を亡くしたMに会いに行く。独りで暮らすのは余りにも侘しい、想い出の詰まったこの家を売払い静かに暮らしたいと涙を溢した。
家人は彼が残した旧いピアノ譜の中から、ロンゴの編纂したバッハ曲集、モンターニの編纂したショパンのワルツ集、タールベルクの「カスタ・ディーヴァ」、コルトーに捧げられたアルベール・レヴェック編「羊は安らかに草を食み」を貰って帰ってきた。
親しかった二人の別離に際し、狭野茅上娘子と中臣宅守の相聞歌を使って、数年前に幾つか連作をした。クラリネットとピアノのための二重奏を書き、続いて狭野茅上娘子の歌で五絃琴の、中臣宅守の歌で七絃琴の曲を書いた。
昨年秋、いままで別々に演奏されてきた五絃琴と七絃琴を、初めて一緒に並べて舞台で聴いて、不思議な安寧と感激をおぼえたが、昨晩クラリネットと二重奏で演奏してきたパートを、アルフォンソがピアノだけで弾き続けるのを初めて聴いた。ただ流刑地の暗闇に空しく吸込まれてゆく相聞歌は、都で待ちわびる妻に届くことはない。
今朝、二年前に加藤真一郎君が演奏した旧作の動画が届いた。これを難病で苦しんでいた同級生の死を悼んで書いたことを思い出し、加藤君の演奏の深さに圧倒される。

(1月31日ミラノにて)

アジアのごはん(97)腸内細菌にゴハンその3 手前味噌

森下ヒバリ

去年の1月、10年ぶりぐらいに味噌を仕込んだ。去年の暮れにそのカメのふたを開けて見ると、香しい匂いがぷ〜んと漂ってきた。この味噌は有機大豆1キロに米麹1.2キロと塩500グラムで仕込んで、カメに詰めた後酒粕で覆って蓋をし、やっぱり心配だからその上に無添加ラップでぴっちりおおってから重石をして1年近く寝かしていたものだ。

重石の下に敷いていた陶器のお皿に黒い液体が溜まり、その表面には産膜酵母が白いちりめんのように浮いていたが、これは別容器にとって濾すと、おいしい溜まり醤油になった。

重石をとってラップを剥がしてみると、次は酒粕である。カメのふちのあたりにはわずかに産膜酵母が付いていたが、ほぼカビは付いていない、すばらしい。ゆっくりと茶色く染まった酒粕蓋を剥がしていく。

「ほおおおお」思わず声が出た、なんとうつくしい、輝くような琥珀色の味噌であることか。さっそくすくってなめてみる。「く〜うまい・・」。「いやいや、なんでしばらく作ってなかったんだよ!」と自分で突っ込みを入れながら、のこりの酒粕を剥がしていく。この酒粕は、そのままおいしく食べられる部分もあれば、産膜酵母にまみれたあまりおいしくない部分もあった。だがこれは魚などの酒粕プラス味噌漬けベースにも使えるな。

さっそく味噌汁を作ってみる。いやはや、なんですか本当にこの香り、うまみ。ハ〜、幸せな味。身体にしみわたっていく。なんで大豆1キロ分しか仕込まなかったんだよ‥。激しく後悔。でもまあ、大豆1キロ分なので思い切って仕込んでみたんだけどね。

それにしても、この味噌作りでわたしが果たした役割はほんのわずか。大豆を茹でてつぶし、麹と塩を合わせてカメに詰めて置いといただけである。あとは菌たちがゆっくりじわじわといい仕事をしてくれたのだ。

1キロの大豆からはだいたい4キロぐらいの味噌が出来る。塩が薄めなので、たくさん使ってしまいあっという間になくなりそうである。取っておいた溜まりを味噌に戻し、かき混ぜてみると、塩分が上がって使いやすくなった。

去年の反省を踏まえて、今年もアジア旅に出る前に味噌を仕込むことにした。今年は思い切って、二倍、いや三倍の量を仕込もう。ならば、半分は去年と同じ大豆だけでなく、最近、食物繊維、腸内細菌のゴハンとしてほぼ毎日食べている青大豆を使ってみよう。

山形おきたま興農舎の無農薬青大豆、秘伝豆を1.5キロ、京都の安全農産の乾燥米麹を1キロ、そしてベトナムのカンホアの塩。もう一種類は去年と同じ北海道の無農薬大豆トヨマサリを1.5キロでいく。豆を洗って水に浸し、二晩かけて豆をふっくら戻してから圧力鍋で煮る。さすがに3キロ分を一日では無理なので、2日に分けて仕込むことにした。

味噌作りで何が大変かというと、この大豆を軟らかく煮るところだろう。買い換えたばかりの日本製の圧力鍋はなかなか思い通りに働いてくれず、圧力がかからなかったり、蒸気が噴出したりして苦労した。もっと買ってからいろいろ使っておけばよかった‥。大きな鍋がある人はじっくり何時間かかけてコトコト煮る方が楽かもしれない。豆を圧力鍋で煮るときには、鍋の容量の三分の一以下の量でなくてはいけないし、皮が圧力弁などにひっつかないよう落し蓋もしないといけない。

戻した1.5キロの大豆を3回に分けて煮ることにし、事前に麹と塩を3回分に分けておく。圧力鍋のコツが何とかつかめたのは、1日目の最後になってからであった。圧力鍋の方が、断然消費エネルギーは少なくて済むが、圧が下がるまで待つ時間などを考えると、大鍋でコトコトの方が時間的には早いかもしれない。

豆は軟らかく煮上がってしまえば、あとはつぶして塩と麹と混ぜ合わせて、カメに入れるだけである。去年の味噌は、てきとうにつぶしたので、豆粒や豆のかけらや麹の形がけっこう残っていた。ちょっと雑だったかもしれない。今回の青大豆はちょっと粘りが強い感じで、ステンレスの穴あきお玉で潰そうとしてもつぶれない。もっと煮るべきだったのか。肩が痛くなってきたので、ハンドブレンダーを使うとあっというまにペーストにできた。

カメに詰めた味噌の表面を平らにならし、板粕を敷き詰めて空気を遮断してふたにする。さらに板粕の上に塩をちょっと振り、無添加ラップをぴったり敷く。これでカメの三分の二ぐらいの量だ。平たい陶器の皿を載せてそうのうえに重石を置く。カメのふたに隙間が出来ないようにラップと麻の布巾をはさんでカメのふたをのせて仕込み完了。

青大豆のほうは、固さ調整で少し煮汁を入れ過ぎてしまい、全体の水分がやや多くなってしまったので、カビが生えないよう時々見守ってやらなくては。トヨマサリはカメに詰めるときにいい感じに丸められたので、問題ないだろう。

味噌玉をカメに詰めて行きながら、味噌というのは食物繊維の豊富な大豆を米麹で発酵させて作るものだから、食物繊維と発酵菌の合わさったスーパーフードだな、としみじみ思うのだった。腸内細菌のゴハンである食物繊維、腸内細菌にとって大切な成分を持つ各種発酵菌がそろうことで、腸内環境はすばらしくなっていく。

味噌は原発事故の後、放射能排出によいとして話題になったことを憶えている方も多いと思う。長崎の医師が原爆の後に味噌と玄米を食べることを指導して患者や看護師たちに原爆症が出なかった、軽かったという話である。この話は、チェルノブイリ事故の後でも関心を寄せられ、ソ連やヨーロッパで味噌の需要が高まった。

チェルノブイリ事故の後、ベラルーシのいくつかの研究所での研究で、体に入った放射性物質の排出に有効として推奨されたのがペクチンである。ペクチンはりんごなどの果物に多く含まれる水溶性食物繊維だ。ペクチンそのぬるぬるした性状で放射性物質を吸着して排出するためと言われていた。また、菊芋も推奨されている。

味噌、ペクチン、水溶性食物繊維イヌリンが突出して多い菊芋・・放射性物質排出に効果があるといわれる食べ物の共通点はどうも食物繊維にあるようだ。その意味するところは、食物繊維そのものがセシウムなどの放射性物質を吸着して体外に出すわけではない、のではないか。なぜなら体内に入った放射性物質はとくに腸内だけに留まっているわけではないからだ。

ベラルーシの研究所の研究成果とはいえ、ペクチンがなぜ腸以外の放射性物質にも排出作用を持つのか、ずっと疑問に思っていた。しかし、水溶性食物繊維が、腸内細菌の重要なゴハンであることを考えると、人の腸内細菌フローラが非常によい状態になることで免疫力が高まり、身体の排毒力が高まり、それが放射性物質の排出につながると考えると納得がいく。

スーパーフードともてはやされる食品の多くが食物繊維が豊富だ。豆類、ゴマ、エゴマ、チアシード、ニンニク、ラッキョウ、エシャロット、ユリ根、菊芋、生姜、昆布、寒天・・。食物繊維と発酵を組み合わせた食品では味噌、納豆、酒粕‥。

味噌は味噌汁だけでなく、これからの季節だと、ふきのとう味噌やじゃこやクルミの入ったミリンの甘み入ったおかず味噌を作って食べるのもいい。季節に合わせた各種おかず味噌は、とてもおいしい。酒のつまみには、切り合えという、ふきのとうなどあくの強い野菜を生のまままな板の上で刻んで、そこに味噌を載せてさらに包丁で切るように混ぜ合わせるだけの甘くないおかず味噌もいけます。

雪で冷やした純米酒に、ふきのとうの切り合え・・冬の日本の楽しみ、なおかつ腸内細菌のゴハン。あなたもぜひ手前味噌、作ってみませんか。まずは大豆1キロからなら3〜4時間で出来ます。カメのふたを開けた時のあの幸福感、自分で作った味噌ならではの喜びとおいしさをぜひ。

日本の冬は味噌を仕込むのに最適の季節。発酵がゆっくり進むためカビにくく、味が安定する。タイのバンコクにたどり着いて1週間たち、朝夕涼しかった日々もつかのま、夜中でも暑くなってきた。そろそろ暑気の入り口である。この気候では味噌は仕込めない。あっというまフツフツと湧いてしまうだろう。さて、タイで注目すべき食物繊維の食べ物は何かな?

別腸日記(24)チキンより来たりてチキンに還らん

新井卓

顔を洗って爪を切り、やけに伸びてしまった髭はそのままにして、真昼の戸外に出る。成層圏の奥まで吸い込まれてしまいそうな青空に雲はなく、気流を確かめる術はないが、地上の風は強かった。多摩川の河川敷を、砂塵に巻かれながら、ゆっくり歩く。不意に街に戻ってきた蒸発者のごとく、所在なく、狐につままれたような気分がするのは、ひどい風邪で、五日間も寝付いてしまったからだ。

ふだんあまり集団で行動することがなく、インフルエンザをもらうのは久しぶりだったが、こんなに苦しいものか、と改めて驚いた。一番近い医院、それから二番目と回ってどちらも休診日だったから、町の総合病院まで朦朧としながらたどり着く。あまりにも足許が怪しかったのか、受付で「車いす、要りますか?」と心配されたが、別のインフルエンザ患者のサラリーマンが瀕死の体で運ばれていくのを見て(何でスーツを着ているんだろう?)、歩けます、と意地を張ってみせた。待合で呆然と座っていると、看護師がウイルスのテスト・キットを持ってきた。鼻腔を長い綿棒で拭って十五分くらいだろうか、診察室に呼ばれると、待ち構えていた医者は聴診器もへらも使わずに、A型ですね、と言った。一回飲むだけでよい、という薬、それに漢方と咳止めが処方された。

それから二日は熱で苦しく、飲みもの以外は何も食べることができなかった。ところが、わずかに熱が下がってくると無性に、フライド・チキンが食べたくなってきた。フライド・チキンといってもどれでもよいわけではなく、カーネルおじさんのニタニタ顔が目印の、ケンタッキー・フライド・チキンが食べたい。

意を決して町へでかけようかとも思ったが、手足にまったく力が入らない。咳もひどいから、これで外出したらバイオ・テロである──思い直して店に電話をかけ、宅配はやっていないのか、と聞くとやっていない、という。そうですか、じゃあいいです、と切ろうとすると「ウーバー・イーツなら届けられますよ、うちの店舗からじゃないですけど」と言う。Uber Eatsとは、個人タクシーをスマートフォンで呼ぶサービス、Uberが始めた事業で、お店に料理を注文すると、だれかが自転車に乗って出前してくれる仕組みで、日本にも最近進出したらしい。

さっそくアプリを入手して、登録を済ませ、注文してみる。わたしの注文はどうやら川向こうの店から届くらしく、難儀なことである。しばらくすると、スマートフォンの地図上に自転車のマークが現れ、彼か彼女か知らないが、出前の人の移動が逐一モニタされるようになった。暇なのでずっと見ていると、彼女か彼はあらぬ方向に走り出した。どうやら第三京浜の橋を渡ろうとしているらしかったが、そこは自転車では入れない──彼女か彼は、おそらく入り口のない高架を仰いで一旦絶望してから、2キロほど西、二子大橋の方へ引き返すのが見えた。可哀想に。しかし、そこからは破竹の勢いで県道を進み、わずか五、六分といったところで、玄関に人の気配が差した。

宅配してくれたのは、学生風の男性で、急いで走ったのか耳を真っ赤にして「遅くなってすみません」と言った。橋、間違えちゃったみたいですね、と言うと厭味と思ったのか、また謝った。あまりに申し訳なかったから、財布の小銭をチップにしたら、丁重すぎる御礼を言われ、余計に申し訳なくなった。いずれにしても、拍子抜けするほど簡単に、まだほんのりと温かいフライド・チキン4ピースにフライドポテトのセットがわたしの手中に収まった。

食前の薬を飲むのも忘れて、チキンに齧りつく。猛烈な塩気、そして手と口の周りにまといつくどぎつい油脂。わたしは胸肉の、肋骨の裏側にへばりついた薄い皮のところが好きで、そこには時々、レバーの破片がくっついていることがある。一方、ドラム・スティックはそんなに好きではない。小学校のころ、プールでマイコプラズマ肺炎に罹って入院して以来、体調を崩すといつも、このフライド・チキンが食べたくなった。

何か道理があるのだろうか、と思って、試みに「チキン」「風邪」と検索してみる。すると、風邪にはフライド・チキンがいいと力説する人々や、アメリカで風邪の民間療法として用いるチキン・スープの話が、次々と表示された。とりわけ骨付きのチキンから染みだすカルノシン、グルコサミン、コンドロイチンといったアミノ酸化合物に抗炎症作用があるとのことで「風邪にはチキン」には、いちおう栄養学的な根拠があるらしい。

ヒトとインフルエンザの歴史は長く、スペイン風邪やソ連風邪、と呼ばれた過去の大流行期には、何百万人もの人々がインフルエンザによって命を落とした。医療の発達したはずの現代にあっても、いつ致死性の高い新型インフルエンザが生まれるか、一触即発の状況がつづく。鳥からヒトへ、異種間を伝染する致命的な突然変異ウイルスは、一説によればヒトと家禽が濃厚に生活圏を共にするアジア、とりわけ中国南部で生まれるのだという。とすればインフルエンザとは、鳥たちを飼い慣らし、食べ利用するわたしたちのカルマそのものではないのか──インターネットのレシピを見ながら、二時間かけて煮込んだチキン・スープの湯気を肺一杯に吸い込みながら、ふと、そんなことを考えた。

伝統的チキン・スープのレシピ(アメリカ)

◆ベース・スープ用
・皮あり鶏肉(できれば骨付き)600g 皮に、フォークで穴を沢山あけておく
・オリーヴ油 大さじ2
・にんにく 1片 つぶす
・セロリ 2本 乱切り
・にんじん 2本 乱切り
・タマネギ 2個 スライス
・パセリ ひとつかみ
・ベイ・リーヴス 2枚
・黒胡椒(ホール)15粒くらい
・粗塩 小さじ2

◆仕上げ用
・長ネギ 2本 半分に割き1センチ幅で小口切り
・にんじん 2本 1センチ角のサイコロに
・れんこん 2株 1センチ角のサイコロに(※アメリカではあまり食べないが風邪に効く)
・パスタ(なんでもよいが、フェットチーネなど幅広いものがおすすめ) 半人前〜1人前
・パセリ 適宜
・あれば、ほか生のハーブ(ディル、タイム、セイジなどがおすすめ)
・レモン汁 半個分
・塩 適宜

◆手順/所要時間:一晩

1. 大きな厚手の鍋を温め、オリーヴ油をしく
2. 熱くなったところに、皮を下にして鶏肉を入れ、こんがりと焼き色がつくまでソテーする。ひっくり返して同様に、焼き色がついたら一度肉を取り出す(火が通っていなくてもよい)
3. 同じ鍋に、ベース・スープ用の残りの材料を入れて、野菜がしんなりするまで(汗をかくまで)中〜弱火でソテーする。ただし、色づくまでは炒めないこと。
4. チキンを鍋に戻して水を注ぎ、強火にかける。水の分量は、鍋の八分目くらいまでが目安。
5. 沸騰直前になったら極弱火にして、スープの表面がほとんど動かないくらいの状態をキープしながら1時間半、煮込む。蓋はせず、途中で水を足さないこと(スープが濁り、水っぽくなります)
6. 鶏肉をとりだし、あら熱が取れたら、骨と皮を外して捨て、冷蔵庫へ。
7. スープは細かい網で漉して、冷蔵庫へ。一晩寝かせる。
8. 翌日、スープが冷えて分離したら、上澄みに固まった油(鶏油)をとりだしボウルに置いておく。
9. チキンをフォークで割き、必要なら食べやすい大きさにカットする。
10. 鶏油大さじ2を鍋に温め、仕上げ用の野菜を、塩少々とともに軽くソテーする。炒めすぎて茶色くならないように。
11. スープを入れ、野菜がやわらかくなるまで弱火で煮る。パスタを固めにゆでておき、スープに加える。
12. 鶏肉をスープに戻し、鶏油を好みの量入れて塩で味を整える。
13. レモン汁を入れて火を止め、刻んだパセリ、ハーブを散らしていただく

※パスタのほか、米やキヌア、豆類などを入れてもよい。

製本かい摘みましては(143)

四釜裕子

去年の豆まきで使ったパンダ豆の残りが出てきた。豆まきはうちの方々に豆を打って季節を割るような実感が持てて好きな行事だ。今年は何の豆にしよう。

豆という字のなりたちは食べ物を載せる台の形だと、日経新聞日曜版で連載中の阿辻哲次さんの「遊遊漢字学」で読んだ。単純に考えるならば、マメの丸いかたちが真ん中の「口」、それを茹でるためのふたが上の「一」、下部は炎?くらいに思うが、〈料理を盛りつけるための浅い皿に長い足をつけた台〉の形をうつした象形文字だという。その器によくマメを盛っていたからマメの字になったのかな、というのもあさはかで、〈この字がのちに「マメ」の意味に使われるのは、食物を盛る台と植物のマメが同じ発音だったので、台を表す文字を借りて、植物のマメを意味する文字に使ったからにすぎない〉(マメを意味しなかった「豆」)。ちなみに、ムンクの『叫び』を見ると「豆」の字が浮かぶ。
 
漢字は、真っ白な紙にゼロから書くより、モニターに表示されるいくつかの候補から選ぶことが多くなった。文を書くことと字を書くことはますます別のことになるのだろう。その分、漢字は、書き方が乱暴だとか間違っているとか教養判定の材料としてではなくて、かたちやなりたちのおもしろさに興味を持つ対象となって、漢字自体のみならず当時のようすも身近に感じられるように思う。阿辻さんの連載を読みながら、いつも出てくる漢字を紙に大きく書いている。

国宝指定の写本の閲覧を申し込んだ図書館から、雨の日は書庫から出せないので閲覧する朝に確認の電話をするように言われた、という話があった。「晴耕雨読」の話題が続くのだが、この出典が実はなかなか見つからないそうだ。阿辻さんの推理が始まる。

中国で書物が印刷されるようになったのは十世紀以後のこと。それまでは写本で、唐代の写本などはそのほとんどが麻を原料とした紙を使い、全体が黄檗で染められていた。黄檗の種子には毒性があって防虫効果が高い。それほど書物を大事にしていたということだ。大切にする人ほど、紙を湿気にさらすのは嫌ったはずである。雨が降れば、書物はできるだけ広げないようにしたのではないか。となれば、「晴耕雨読」という言葉は、印刷で本が大量生産されるようになって、紙に書かれた本を大切に保護する習慣が薄れてからあとにできたのではないか、と言うのである。(「晴耕雨読」はいつ成立したか)

【「韋編三絶」した読書家の伝説】ではこんなことも書いておられる。漢字の歴史は三千年超。紙が発明されたのは紀元前百年前後で、その前は竹や木を削った細長い札(「簡」)に字が書かれていた。複数にわたった場合は順番に紐で綴り合わせたので、それが「冊」という字になった。孔子は簡に書かれた『易』を好んで読んだ。麻の綴じ紐がたびたび切れてしまうのでなめし革に替えたが、それでもすり切れたという。〈ある書物を何度も繰り返して読むことをいう「韋編三絶」も、このような書物の作り方から出た表現であった〉。なめし革で綴じた実物は見つかっておらず、これはあくまで伝説、ともある。

竹や木の札に書いていた時代、間違いを直すとなれば削るしかない。古代の書記たちはそのためのナイフ「書刀」を腰にぶら下げていたそうだし、黄色い写本時代の修正は硫黄を塗ったそうである(「一字千金」は自身の表れ?)。紙の時代には、消しゴム、修正液、修正テープなんていうものがあった。と言われる日がいつか必ず来るんだなあ。「遊遊漢字学」は1月の最終週で100回目。一冊にまとまるのが待ち遠しい。

2019年

笠井瑞丈

2019年1月1日

新しい空気を吸い
まだ明けぬ空の下

スーツケースを転し
これから起きる事を

想像し
予感し

バスの窓から眺める都会の景色
まだこれから眺める未知の景色

頭の中に大きな絵を描いてみる
まだ誰もいないキャンパスの中

どのような登場人物を描き
どのような背景景色を描き

花粉革命再演

ニューヨークの街
道路からの水蒸気

街の匂い
空のいろ

変わらないままだ
身体は記憶している

踊りのカンカクも
憶えているモノだ

どこで空気を吸込み
どこで空気を吐くか

一つ一つ風景を変え
レキシントン通りに

RUNDMCのラップ
落ちてくる金の花粉

初めて踏んだニューヨークの舞台
まずはこの絵を描きたそう

そして一年かけてこの絵を描き上げよう
今年はどのような絵が描きあがるだろう

2019年も始まった

バレンタインの翌日に

さとうまき

あれから、一年がたつ。
「局長! チョコの申し込みが、さっぱりです。」
え?
「チョコのパッケージのマスクが怖いとみんなが言っています」

去年のテーマは、がんで戦っている子どもたちへの応援メッセージそのものだった。売れるチョコレートを作るために、広告代理店に相談に行ったとしたらこんな風だろう。
「それ、直接的すぎます」
「そんなチョコは人にあげられない。つまり、ギフトにはふさわしくありません」
「だから、今年のチョコは、だれが見ても、きれいで、かわいくて、無難なものにしましょう」

不機嫌そうにコンサルの意見を聞いていた局長が口を開いた。
「がんの子どもたちは、髪の毛が抜けて、顔がパンパンに晴れて、鼻血が止まらない。だから、気味悪がられて、いじめられたり、うつる病気だと思われて避けられる。そんな子どもたちが差別されることなく、温かく迎えられる社会を作りたいんだ! イラクだけじゃない。日本だって、どこだって、がんと闘っている子どもたちがHAPPYになれる! そんな社会を作りたいんだ!」
「気持ちはわかりますけど、それじゃあ、お金が集まりませんよ。そんな夢物語を言ってたって駄目です。だって、子どものポップな絵がマスクしているだけで、怖いとか言っているわけですよね。皆が求めてるものは、快感です。お金で快感を買う。あなたが欲しいものは?」
「抗がん剤」
「お金が集まらないと薬は買えませんよ。」

そもそも、チョコ募金を始めたのは、イラク戦争が始まった2003年の暮れ。Baghdadのブンジローに新年の挨拶を送ったら「おめでとうという気分ではないのです。新年の挨拶は控えさせてください」と返事が返ってきた。
日本は、クリスマス、正月、そしてバレンタインデーとHappyだらけの日々が続く。Happyでいいじゃない。百貨店のチョコフェアにも出品出来て、恋人に気に入られるために買ったチョコにワサビが入っていて、涙が止まらない。
あんたが、流した涙は、死んでいったイラクの子どもたちのためさ! おめでとう! バレンタインデー! おめでとう! イラクの子どもたち!
「局長! しっかりしてください。今年のチョコは、花で決まりです。ワサビとか、からしはなしです」

僕は、日本を去り、戦場を歩く。
「あ! そこは、仕掛け爆弾があるかもしれないので気を付けて!」
「この下には、遺体が埋まっています。IS の戦闘員が殺されて、ゴミ捨て場に転がっていた。だれも埋めないから、仕方なく上から土をかけた」
横には迫撃砲の不発弾。ISに占拠されていたモスルの病院はアメリカ軍に空爆された。薬品倉庫は火がついて薬は焼けてしまった。靴の下で、薬瓶がぱりぱりと割れる。かつて、病院の庭には、バラが咲き誇っていたのに、春だというのに、足元には踏みつけられたタンポポの花。

早速、子どもたちが描いたタンポポの花をデザインする。
コンサルに見せると、
「すばらしい、無難です。」

「戦場のタンポポ、命の花。たとえ花は枯れても綿毛となり、遠くへ飛んでいける。というキャッチはどうですか?」
「あ、戦場はとりましょう。多くの人は、戦争とかそういうネガティブな言葉に抵抗を示します。」
僕の心の中の広告代理店の人とそんなやり取りをして出来上がったのが今年のチョコ。

2月15日は何の日?
バレンタインの翌日。
その日、君たちはHappy になれる。
その日のためのチョコレート。
そう。2月15日は、バレンタインの翌日。
My Funnyバレンタインの翌日
それは、世界小児がんの日。

JIM-NETでは、ギャラリー日比谷でさとうまきが2006年から手掛けたチョコ募金のデザインを一挙に展示します。
「戦場のたんぽぽ展」 2月8日―13日まで
https://www.jim-net.org/2019/01/07/4103/

変化のとき

高橋悠治

変化のとき

12月に杉山洋一の企画で『高橋悠治作品演奏会I』があり 忘れていた1960~70年代の曲を聞いた 杉山洋一が子どもだった頃名前しか知らなかった曲の楽譜 二度と演奏されないだろうし 引っ越すたびに持ち歩くのはいやだと思って捨てたりひとにあげてしまった楽譜をアメリカや日本からさがしだして演奏してくれたのには感謝しなければならないが 自分の音楽とも思えないほど遠くにあって かえって知らない響きがあった といっても そこにはもうもどれない 新しく作曲した短い曲をひとつ入れてもらったが それには今の問題が見える

その前9月には青柳いづみこが『高橋悠治という怪物』という本を出版した タイトルがいやだと思ったが やはり1960年代からの演奏記録を集めていて 忘れていたことを思い出すのには便利かもしれないし まだ記憶にあるかぎり 訊かれたことには答えたので 協力した部分もあるし フランスのピアノ・テクニークを習ったり いくつか連弾をしてみてまなんだこともあるにしても もともとの演奏の場もちがうから 距離をおいた眼から書かれた部分はおもしろいと思う でも 最近よくあるサイン会などで その本にサインするのには やはりためらいがある

おなじ9月にOUTSIDE SOCIETY というAYUO(高橋鮎生)の本が出た 1970年代までは息子として知っていたつもりだったが ちがう世界のひとだったと 本を読むにつれてわかってくる

いままでは作曲しながらピアニストとしてはたらいていた 最初はオペラの練習ピアノ それから20世紀後半の音楽を初演する専門家 1972年に日本に帰ってからはバッハやサティを弾くことが多くなり 作曲と演奏の場がだんだん離れていった というよりは ピアニストになっていき 作曲の場は限られてきた

今年は 遠ざかってきたヨーロッパの現代音楽を演奏する機会がある 3月にチャポーの『優しきマリア変奏曲』 6月にはクセナキスの『Morsima Amorsima』 11月にはクセナキスの『Akea』 忘れている技術をとりもどせるだろうか それより いままでとちがう技術 ちがう弾きかたを見つけられるだろうか

1月13日には小泉英政の企画した谷川俊太郎と李政美とのコンサート『暮らしの中に平和のたねを蓄える』で戸島美喜夫の『鳥のうた』と『冬のロンド』を弾き 『カラワン』と『いぇーがらさー』を作った もとうたの記憶の断片とそれについての注釈の組み換え 書かれた即興と言えるかもしれない試み

過去をくりかえさないで そこから自由になるのはむつかしいようだが 流れが土地の傾きに沿って 自然にすこしずつ向きを変え それとは知らずに 思ってもみなかった景色のなかで目覚めるのは 偶然のわずかな偏り(clinamen)にかかっている 目標をもった直線ではなく 始まりも終わりもなく いつも途中でしかない曲線をたどっていくしかない 糸を操るようにゆっくり 力をつかわず うごきを止めずに それも一本ではなく いくつかの曲線の絡まり あやとり 返し縫い また撓みと襞と隙間

2019年1月1日(火)

水牛だより

東京は良いお天気つづきです。
あけましておめでとうございます。
ことしも水牛をどうぞよろしくお願いします。

「水牛のように」を2019年1月1日号に更新しました。
元旦からPCにへばりついて更新作業をするのもどうかと思いますが、1月だけがいわば特殊な日ですし、毎月1日に更新というのは自分が決めたことなので、なんとか変えずに毎年やってきました。原稿を書く人は大晦日や元旦ですから、こちらのほうが大変なはずなので、とりわけ今月は誰にも催促はしませんでした。でもこの通り、長いのや短いのや、いろとりどりの原稿が届いて、おもわずニンマリな初春です。みなさん、ありがとう。

トップページに、著作権の保護期間延長に反対します、というバナーが貼ってありますが、先年末の12月30日、改正著作権法が施行され、著作権の保護期間は従来の死後50年から死後70年へと延長されました。したがって2019年1月1日にパブリック・ドメインに加わる作家はいないわけです。そしてそれがこの先20年続きます。青空文庫では「20年先の種を蒔く――真実は時の娘」と題する「そらもよう」の記事とともにこの日を迎えました。ぜひ読んでみてください。
https://www.aozora.gr.jp/soramoyou/soramoyouindex.html
バナーはこのまましばらく置いておきます。

最近は更新がないままですが、水牛の本棚という地味なコーナーがあります。ここで藤本和子さんの『塩を食う女たち』を公開してきました。それがひとつのきっかけともなって、30年以上ぶりに岩波現代文庫で新しく出版されたのはとてもうれしい出来事でした。『塩を食う女たち』は「生きのびることの意味」からはじまります。これは、真実は時の娘、というのと同じ意味ですね。

それではまた!(八巻美恵)

しもた屋之噺(204)

杉山洋一

目の前のテレビ画面を見ると、乗っている飛行機は新潟上空から日本海へ抜けようとしています。窓の外には美しい少し薄色をした青空が広がっていて、遥か眼下には靉靆と雲がどこまでも続いていて、まるで雪山のよう。このまま高度を上げてゆけば、宇宙に抜けてしまうのです。宇宙と自分がいるところの間に、境界がない不思議をおもいます。そしてまた、余りに驚くほどの速さで時間が過ぎてゆくので、今のようにイタリアに戻る機内にいると、どこまでも地球の自転と反対に時間を追いかけたい思いに駆られることがあります。

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12月某日 ボルツァーノホテル
立て続けに、去年一緒にパレルモで仕事をした連中から、SNSメッセージが届く。メッセージと言っても、手を合わせている絵が送られてくるだけで、事情がわからない。エンニオが亡くなるとは一年前にどうして想像が出来ただろうか。何が起こったかを理解して、暫し言葉を喪う。パレルモの劇場は、彼の死を悼んで昨年の公演のヴィデオの特別放映を決めた。余りに悲しい一期一会。あの作品を同じようには公演することは、永遠に叶わない。

12月某日 ボルツァーノホテル
ブリテンのシンプル・シンフォニーに悩む。プログラムの曲数が足りないので、シンプルシンフォニーでも入れてほしいと気軽に頼まれたが、楽譜を読みだすと難しくて困ってしまう。
この曲は小学校の終わり頃、子供のためのオーケストラで弾いたし、何度となく耳にもしてきた。生徒がレッスンに持って来れば、その場を取り繕う好い加減な助言で執り成してきたが、いざ自分で演奏するとなると、これほど悩むとは思わなかったし、これほど素晴らしい作品だとは理解していなかった。
練習が終わって、第一ヴァイオリンの一人が話しかけてくる。
「お前のブリテンは面白いし、お前の解釈は好きだよ。あの曲は40年近く数えきれないくらい弾いて来たが、こんな演奏は初めてだ」。「ところで、一つだけ疑問があるんだが、お前は4楽章最後のフェルマータを何故あそこに入れるんだい」。
スタンダードの弾き方に馴れると、そこにフェルマータがあることすら気がつかない。

12月某日 ボルツァーノホテル
ボルツァーノの街全体が、華やかなクリスマスの彩りに溢れる。この街に来るたび、どうして日本は近隣諸国と諍いを治められないのか、考え込んでしまう。戦後まで長く憎悪の対象だった者どうしが、こうして豊かに共存できるのは何故だろう。ともかく迎合とも違い、互いの文化への尊敬は間違いなく守られている。EU統合とは少し違う姿勢で、共存のバランスが取れている。

12月某日 ボルツァーノホテル
「今日の遠征先は遠いのよ」とオーケストラの引率役ナンシーが笑う。ボルツァーノからトレントまで下がって、山の麓へ向かったところだと言う。2時間バスで山道に揺られてホールに辿り着くと、バスが遅れたからと早速10分後にリハーサルが始まる。長い山道でくらくら揺れる頭を抱えながら。
軽食が用意されていたのだが、バスが遅れて先に着いた他の演奏者に全て消費されてしまっている。指揮者用控室に牛の絵のついたアルプス名物ミルカチョコが一枚、申し訳なさげに鎮座ましましていて愉快。

12月某日 ボルツァーノホテル
数年来このオーケストラに仕事に来る折は、いつもマルコというイタリア系カナダ人がコンサートマスターだったが、今回はステファノというイタリア人。彼ら二人が交代で演奏しているのは知っていたが、今まで偶然にもいつもマルコに当たった。ミラノ近郊のブスト出身のステファノとは偶然にも共通の友人が。ソルビアティと彼の両親は近所でとても親しく、先週の週末も昼食を共にしていたそうだし、高校の時のステファノの和声の教師はソルビアティだった。

12月某日 ミラノ自宅
近所の自転車屋に、家人の自転車のパンク修理に出かけると、白い何とも魅力的な中古自転車が置いてある。聞けば少なくとも40年か50年前のイタリア製自転車で、ボロボロの状態で持ち込まれたものを、彼が全て磨き上げて塗装し直したのだと言う。車体の組み方も今よりずっと丁寧で角度も今のものよりずっと漕ぎやすいと言う。ヘッドランプも時代がかった摺りガラス製で、美しく値そのものは決して高くはないので、中古自転車を探している留学生Y君に紹介したいが、車高がとても高く彼には乗れまい。とても美しく拙宅に置いておきたい気持ちに駆られるが、家人に叱られるので我慢する。

12月某日 ミラノ自宅
階下で家人が「歌垣」を練習していて、聴いて意見を言ってくれと言う。こちらも曲が分からないので、気が付かれないよう携帯電話で録音して、作曲者に送って助言を仰いだところ、同居人通しイメージの摺り合わせをするのは危険、とのお返事を頂戴する。

12月某日 三軒茶屋自宅
基本的に、松平さんは練習にいらしても細かい注文は出さずに、微笑みながら楽譜を開いて音を追い、必要最小限しかお話にならない。
練習の後で、今日気が付いた点をご教示願うと、「冒頭の日の丸のヴィデオね、あれは短く。それから、退廃チャンネルのポルノの喘ぎ声、あれは女で。後はいいです」。簡潔な指示に終始する。
それまで喘ぎ声は橋本君にお願いしていたのが、画面に映し出されるのが網タイツにはだけた臀部だったから、これ以上内容をを複雑にしたくなかったのだろう。橋本君が落胆しながら、喘ぎ声ですら使って貰えぬ寂しさをこぼしていて、一同の笑いを誘っている。

12月某日 三軒茶屋自宅
松平さんのオペラでは、会話の流れに音楽をどう載せるべきか、方向を決めるまで随分悩んだ。その分決断を下せば後は思いの外明快だった。本番衣装について尋ねられ、ソプラノはSM女王のコスチューム、アルトは胸のはだけた銀シルクのネグリジェに素足、バリトンは貴族風ナイトガウン、テノールは戦時中の特高警察風制服に、バスはざっくり編んだセーターにスラックスと注文を出すと、即座に却下されてしまう。

12月某日 三軒茶屋自宅
通し稽古を見学に来る来訪者数人。皆口を揃えて、この昭和の香り漂う雰囲気が良いと言う。24年もイタリアに住んでいるから、平成という時代を、点でしか捉えられぬまま終えつつあることに気づく。
オペラの練習中、休憩開けに突如皆から誕生日祝いを祝福されて驚く。誕生日ケーキまでていねいにご用意いただいていて感激。一体誰が誰に進言していたのだろう。

12月某日 三軒茶屋自宅
無事に公演を終えた松平さんの「挑発者たち」は、近未来ディストピア社会に於けるデカメロン像かも知れない。
反体制派の若者たちは淫行に明暮れ社会性を否定する。
彼らこそ本来反逆者と見做される存在であるはずだが、対する秘密警察の警察官やスパイを含め、松平さんは何を持って正義とするか、基準を敢えて明快にしない。隣国から発射されたミサイルが着弾し国が全滅する前に、彼らは互いに銃を撃ちあって斃れる。
ミサイル着弾の場面で楽譜にサイレンの指定があって、今回は空襲警報の録音を後藤君に重ねて貰う。
演奏会後平尾先生とお電話すると、「自分はまだ幼かったけれど、微かに空襲警報のサイレンの音を覚えている気がするのよ。凄く厭な音よね。今まで政治的な発言をしなかった松平さんがどうしたのかしらと、考え込んでしまったわ。10年前と言えば、世界各地で色々また違う意味でキナ臭かったから、やはり思う処があったのかしら」。

12月某日 三軒茶屋自宅
重症の腱鞘炎に苦しむピアニストの友人がいて、時々相談に乗っている。単なる腱鞘炎ではなく、ドケルバンだったのだが、それはどうやら腱鞘の脱臼らしい。訪ねる先々の病院でいつも違う見解を出されるので、精神的にとても辛そうだ。
一月末の演奏会を弾きたいと強く願っていて、鎮痛剤を注射してでもやりたいと言うので、とにかくそれは止めるべきだと強く話す。
左手の親指が痛くて動かないと言うが、本当に弾きたいのなら、当座は親指を使わない運指で弾くべきだろう。
中学3年の時、高校入試のために初めてピアノを弾かなければいけなかった時、左手で使える指は親指、人差し指、中指だけの3本だけだった。薬指は脳と全く繋がっていなかったから、全く動かなかったし、第1力が全く入らなかった。事故に遭ってからピアノを弾くまで、薬指など使ったことがなかった。

最初の入試で悠治さんの「毛沢東三首」を弾いたが失敗したので、翌年ヤマハで見つけたプーランクの「夜想曲」の1番を左手は3本指で弾いた。当時プーランクがとても好きだった。
当時家に楽器はあったが習ったこともなく、習うこともなく適当に弾いたのだが、3本指があればそれなりに弾けることがわかった。
高校に入って最初に選んだ曲も、調子に乗ってプーランクの「メランコリー」だった。
初めてピアノを弾くことを覚えたので、面白くて仕方なくて一日中弾いていた。自分なりにどうやったら弾けるか、全部の音に指使いを楽譜が真っ黒になるほど書き込んだのを覚えている。
その後欲が出てきて、薬指を使ってみたくなり、それまで崩して弾いていたオクターブを少しずつ薬指を使って弾いているうち、何時の間にか薬指は動くようになった。
鎮痛剤を打ちながら、手を壊すためにピアノを弾くくらいなら、音を省いてでも無理な指を使わないで弾けばよい。人と違うことをやるのも愉快、くらいに考えて悪いことはないだろう。

12月某日 三軒茶屋自宅
「歌垣」の練習始まる。初めは、書かれている音を指定の奏法で演奏することから始め、悠治さんの考えている「歌垣」のイメージに近づいてゆく。もっと大陸に今も残る健康的な「歌垣」を想像していたのだけれど、悠治さんの意図していた「歌垣」は、もっと官能的で淫靡な「歌垣」だった。皆がその意図を理解すると、発せられる音が突如それらしくなる不思議。それは音楽家としてはわかるのだが、一体何がどう作用してこうなっているのか、誰かに説明して貰いたい。

12月某日 三軒茶屋自宅
オペレーション・オイラー。リハーサルを前に、荒木さんと鷹栖さんが誇らしげに、でも少し困った顔で言う。「出るようになっちゃったんです」。どう足掻いても出る筈のなかった超高音の運指を、見つけたのだと言う。その音を出すために歯でリードを噛むので、音の振動がそのまま全身に伝導して、気持ち悪く鳥肌が立つと言う。
「出るようになったそうです」と作曲者に伝えると、「でしょう」と笑われてしまった。通し練習の後で、「楽しそうに身体を軽く揺らしながら、吹いてみてほしい」と悠治さんより助言を頂く。

12月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんの指揮は、彼がピアノを弾いている時の身体の動きにそっくりだ。ともかく、愕くほどいい音がする。
その昔「少林寺拳法のような高橋悠治の指揮」とどこかで形容されていた。確かに空を切るようにも見えるけれど、音を出す点を打たないから、出てくる音が瑞々しい。
悠治さんが細かく微細なニュアンスについて注文を出してゆくと、演奏者の耳がどんどん開いてゆくのがわかる。
演奏者の耳が開くことでもたらされる新しい空間で、悠治さんの指揮がより自由に動けるようになってゆく。
書かれた音を演奏する姿勢から、互いに、書かれた音を通して交感する姿勢へ変化してゆく。

12月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんとのリハーサル。指揮で音を合わせないつもりでも、楽譜が難しいと無意識に音符を合わせようと手が動きがちで、演奏者も指揮を頼りがちになる。彩の豊かな糸をあわせて縒った、紐のようなもの。自分で制御できない、不安定な音。悠治さんはそう表現していらしたが、指揮に拘らず、演奏者が互いに聴き合って音を紡ぐと、音場は明確に変化し音の輝度が途端に上がってくる。
音が、音楽になる瞬間。

12月某日 三軒茶屋自宅
三日間、悠治さんとの濃密なリハーサルを続けて、見えてくるものがある。半世紀前に書かれた作品は、我々の目に触れないところで生き続けていた。「生き続ける」とは「息を続けて」「呼吸を続けて」いたことであり、呼吸を続けるということは、たとえ表面上の見かけが変化していなくとも、古い皮膚は垢となって剥がれ、古くなった血液は新鮮な血液に取替えられて、生き続けてきたということ。
作品も生きていて、作曲家も同じく生きているということ。生きているということは、変化し続けるということ。

12月某日 三軒茶屋自宅
「歌垣」演奏会が無事に終わった。どの演奏も素晴らしいものだった。
「クロマモルフ」も「6つの要素」も、結局以前抱いていた印象から大きく異なるものとなったから、悠治さんに今回実際練習にお付き合いいただけたのは本当に嬉しかった。「オペレーション・オイラー」も「さ」も、演奏の素晴らしさと相俟って、想像より遥かに素晴らしい作品だと知った。「あえかな光」は聞くほどに美しい作品で、演奏者が音を愛でるかのように発しているのが、強く印象に残った。
「歌垣」は、昼は太陽の下で詳らかになる肉体美的官能性、夜は闇の中、手探りで触感を辿る官能性が、自然と立昇る不思議を思う。

(12月30日ローマ空港にて)

ジョージアとかグルジアとか紀行(その3)無言を語る国

足立真穂

澄み切った空と強い太陽の照り返し。
木陰に座りこちらをじっと見つめる老女、
そして、この世のものとは思えない白い衣を羽織った聖女のごとき乙女……。

前回のワインからは少し離れるが、この年末に見たジョージア映画について書いておきたい。とんでもないものを見てしまって、腰が抜けたままだ。

見たのは、ジョージアの小津安二郎か黒澤明か、という国民的映画監督、テンギズ・アブラゼ(1924〜1994)による作品だ。『祈り』(1967年)、『希望の樹』(1976年)、『懺悔』(1984年)の三作をまとめて「祈り」三部作と呼ばれる。この監督には他にも作品があるが、それぞれの作品の描く時代の心象風景を、痛いほどにえぐり出すこの三作品がジョージアの精神を表していることから、選びこう称されることが多いようだ。

ジョージアの現代史を把握しておくのが理解の近道だろう。
北は5000メートル級のコーカサス山脈の向こうにロシア連邦、南にトルコ、アルメニア、東にアゼルバイジャン(その向こうにカスピ海)、西は黒海という地勢からしてわかるように、交通の要衝であり文明の十字路、古い歴史を持つ。1回目で触れたが、最古のワイン作りの痕跡があることからもそれはよくわかる。北の山岳、西の海に対して、南東のアゼルバイジャンに近い地域は砂漠地帯で、つまり土地柄も気候も多様性に富む。
歴史は、大きくは東西で違う。東はアラブやペルシャ、西はギリシャやローマの影響が文化にも及んでおり、それぞれ古くは東はサザン朝ペルシャ、西はビザンチン帝国の支配下に置かれたこともあるのだ。
その後12世紀になって、東西を合わせて南コーカサスと呼ばれる一帯をタマル女王が統治し、文化的にも栄華を極める。最近ジョージア映画を見られるだけやたらと見ているのだが、この「タマル女王」は、映画の中でもよく「タマル女王のご加護がありますように」と登場する。どうも地元では特別な存在らしい。日本語の音感でもどこか可愛いくてなじみがいい響きだ。
その死後にモンゴルの支配、再統一、ティムールの侵略、群雄割拠、といった変遷を経て、16世紀にはオスマン帝国とサファヴィ朝ペルシャに分割され、ロシア大公国の台頭とともに、徐々にロシア帝国の支配下へ、19世紀後半にはついに全土が支配のもとに置かれることに。
と、大まかに書けば書くほど、ジョージアはよくここまで民族的に自立し、国として独立できたものだとさえ思ってしまう。島国の日本と違い、台風でモンゴルが引くこともないのだ。

ロシアの支配下に入ったものの、第一次世界大戦の頃にそのロシアに変化が起きて行く。ついには、1917年にロシアで革命が起こり、1918年にジョージアは一時的に独立を果たす。
が、結局1921年にはソビエト政権下に組み込まれ、そして1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立した。1924年のレーニンの死後、トロツキーとの後継者争いの末、スターリン(1878〜1953)がソビエト連邦共産党中央委員会書記長に就任、権力を集中させていく。
このスターリン、実はジョージア人だ。ヤルタ会談など第二次大戦の話でよく出てくるが、ソ連の人々を震撼させた1937、38年をピークとする大粛清こそ、いまや人々のスターリン像を塗り替えたと言っていい。この2年で死刑宣告を受けたと記録にある人だけでも70万人近い。スターリンが任期の40年ほどの間に粛清した人数となると、4000万人が犠牲になった、という人もいるほどで、途方もない数に上る。その数はあまりにも膨大で、研究者により未だ数字が異なるようだ。
出身地は、首都のトビリシから70キロほど西にある、クタイシに向かう幹線沿いのゴリという町だ。1883年まで住んでいた生家はスターリン記念館になっているという。この町を移動中に通りかかるというので、少し手前のパーキングエリアに止まった際に地図を確認し、町の表示だけ撮影した。暗い曇り空の下で俯瞰してみるゴリの町は、なんの変哲も無い、どこにでもある風采だった。


 ゴリの町の標識

どうも釈然とせず、「スターリンについてどう思うのか?」と、何人かのジョージア人に聞いてみたが、皆一様に、いい顔をしない。ひとりが答えてくれたところでは、ゴリの年寄りはいまだにスターリンを故郷の錦を飾った偉人として自慢するそうだ。スターリンの後継者のフルシチョフも「大粛清」を批判したし、ペレストロイカでも、そして現在のロシア政府も「悲劇だった」と非を認めているにしても、地元の人にとってはまた違う存在なのだろう。とはいっても、ジョージア人にも粛清の嵐は平等に吹いたそうだし、死後のスターリン批判の矛先は、ジョージア人に対して、出身地ということで苛烈に向かったとも聞く。

ソ連のその後についてはまだ記憶に新しい方も多いだろう。
1985年にはゴルバチョフが大統領に就任し、ペレストロイカ、グラスノスチ、とジョージアからシュワルナゼを外務大臣として迎え入れ、改革を進めていく。
そんな中、1989年にジョージアの北西部、黒海とロシアに挟まれたアブハジア(住民多数のアブハズ人にはイスラム教徒が多い)で分離独立の動きが高まり、首都トビリシで抗議中の民衆に軍部が実力行使をし、政府発表で21人が死亡する。その2年後に、ジョージアは念願の独立を果たし、連邦を離脱する(連邦は1991年に解体)が、その際に、初代大統領のガムサフルディアに反対する勢力が軍事クーデターを起こし、「トビリシ内戦」と呼ばれる戦闘にも発展してしまう。
ジョージアの大変な運命はまだまだ続き、先のアブハジアのみならず、中央部の北、コーカサス山脈でロシアと国境を接する南オセチア(イラン系の民族と言われるオセット人が多い)でも分離独立運動が紛争となり、再びアブハジアでも1992年夏には「アブハジア紛争」が起き、多大な犠牲者と、25万人もの難民を生み出してしまうのだった。
旅の途中、アゼルバイジャンの国境につながるステップ気候の草原の地に、この25万人の難民のために政府が作った集団住宅を見た。道の分岐点にあるドライブインのようなレストランの屋上で、ハチャプリ(チーズパン)にかぶりつきながら、案内のニアさんがそっと教えてくれたのだ。
「ニュースでやっていたのを覚えているんだよね。だいぶ経つのにまだ住んでいるんだなあ。移住した人も多いと聞くのだけれどね」。


 アブハジア戦争の難民が住む町

このクーデターで新たに大統領となったシュワルナゼの政権は腐敗に満ちていき、2003年に「バラ革命」と呼ばれる政変で大統領となったサーカシビリは、親欧米、反ロシアを打ち出した。その意趣返しなのか、ロシアは2008年8月に南オセチアに侵攻する。
「ロシア戦争」と呼ばれるこの「侵攻」によって、昨今のジョージア人の反ロシア感は強くなっているようだ。クタイシの市場の近くで、ロシア人観光客が通りがかると、いかにも外国人な風貌の私たちに伝えたいのか「ロシア人が来た」と英語で憎々しげにつぶやく人がいた。その50代の地元女性に少し話を聞けば「南オセチアに親戚がいるけれど、ずっと会えないまま」と、切実な状況が伝わってくる。何より、その状況が始まったのは、たった10年前のことなのだった。
ちなみに、サーカシビリは2012年に選挙で敗北し、ジョージアの政治はいまだ安定しているとはいいがたい。

そう、こんなこともあった。クタイシから北西部のスヴァネティという地方に抜けていくときに、車窓を眺めていた時だ。町の中心の広場には労働者が腕を組んで行進する巨大な黒いモニュメントが建てられていて勇ましいのに、どこか町の空気が荒んでいて暗く、違和感がある。そこでニアさんに「ここはどこなの?」と聞いたら「セキナ」だという。南オセチアとの紛争時の前線だったことが調べると出てきた。理由が戦争だけなのかはわからないが、この町には、トビリシとは違い、その後の平和な10年の歳月が流れなかったことは見て取れた。
おまけに周りの町も含め、一帯の建物や町並みがすべて一律で、聞けばソビエト時代のもの。共産圏の建築やデザインは、機能を重視する一定の特徴があり、見分けられる人も多いと思う。日本の感覚でいうと、一昔前の気の利かない団地が延々と続くという見た目なのだ。


 団地のような住居が続く

建て直すお金がないので、頑丈な建物にそのまま住み続けるのだという。そして空き家が多く見られる。理由を聞くと、
「ここには仕事がないから、海外にみんな出稼ぎに行くのだと思う」とニアさん。
「トビリシに行くんじゃないの?」と聞き返すと
「トビリシに行っても仕事がないから」とのこと。
道路はといえば、不自然なほどにまっすぐで長くて、飛行機が着陸できそうだった。必要な時には来るのだろう。この国ではすべてがこの道路のようにまっすぐではないのだけれど。

そうして出かけた、年末の「下高井戸シネマ」。
ジョージア映画を長年日本に紹介して来た岩波ホールのはらだたけひでさんの著作『グルジア映画への旅〜映画の王国ジョージアの人と文化をたずねて』(2018年、未知谷)や映画のパンフレット(岩波ホールのものなので、これもはらださんの執筆かと思うが)を参考に触れておこう(見られる機会があまりないため、結末まで書くのでネタバレにはご注意)。


「三部作のパンフレット」

「祈り」(1967年)では、国民的作家の叙事詩を原作にし、宗教をテーマに、辺境に住むキリスト教徒とイスラム教徒の間の争いを描く。闘いで天晴な最後を遂げたイスラム教徒の戦士に、敵ながら敬意と友愛を感じたキリスト教徒戦士が、勝利の印とされる右手を、切り落として持ち帰らなかったことで、問題は起きる。凱旋したはずの戦士は、逆に村から追放されるのだ。一方で、狩りで知り合った異教徒同士が親しくなり、イスラム教徒がキリスト教徒を家に招くと、その客人が仲間を何人も殺していたことから、村人は客人を捉えて墓場まで引きずり、処刑する。旧約聖書の世界を喚起させる芸術的で美しい映像は、何日経っても脳裏を離れない。同時に、その裏腹に、テーマは重くのしかかってくる。

「希望の樹」(1976)は、カラーフィルムとなり、ため息が出るほどに荘厳なジョージアの自然が描き出される。貧乏で母親を早くに亡くしたとはいえ、誰もが目を引くような美しさを持つマリタと、貧しいが心優しくハンサムな牧童のゲディアは愛し合うようになるが、頑迷な村の長老が、マリタと金持ちの息子との結婚を進めてしまう。結婚後にマリタの真意を知った姑は、古い慣習に従って村人とともにマリタを雪の中、村中を引き回して、泥の中で死に至らせるのだった。閉じた社会だからこその牧歌的な親密さと、その因習がもたらす悲惨な結末が、やるせない。
自主的に演じたという役者たちの演技がどれも無駄がなく、中でも、マリタを母親がわりに育てた祖母役の女優の演技が素晴らしくて、あっと声をあげてしまった。泥の中のマリタの美しい遺骸を見た祖母が、何か叫びながら嘆く。それは口から音声を発することのない「叫び」として表現されるのだ。見ているこちらにも、哀しみが振動として伝わって来た。このシーンだけでも見る甲斐がある。
後でパンフレットを読むと、この祖母役の女優は、台本通りにセリフを発声する演技で撮影を終えた後、「セリフを口に出さずに心の中で言う、それをもう一度撮ってくれ」と監督に懇願したのだそうな。

「懺悔」(1984年)では、ジョージアの架空の街で「大粛清」で人々が壊れて行く様子が描かれる。スターリンを思わせる市長の遺体が墓から掘り出される事件から映画は始まり、ミステリーのようにどんどん話が進むので見ていて飽きない。犯人は、芸術家の両親を殺された娘で、裁判で当時の様子を語り、糾弾するのだった。
公開から3年後の1987年にはカンヌ映画祭で審査員特別対象を受賞するなど、評価は高まっていた上にペレストロイカの最中、という環境にもかかわらず、この作品は「反ソビエト」として上映禁止となっていた。関係者は映画をビデオに何本もコピーし、それを回覧して見せたのだそうだ。また、検閲(まだまだ80年代後半にもあったことに驚く)をかいくぐってフィルムを運んでモスクワで上映し、この映画自体が、ペレストロイカの象徴となるのだった

いつも見慣れているハリウッド映画とは対極にある。ありすぎて、頭がぐらぐらだ。あえて「無言」を表現手段とするのが、ジョージアの方法なのだろうか。

同時に、こんなに怖い映画を見たのは何年振りだろう。幽霊や宇宙人よりも怖いのは、人間の「正義」かもしれない。
見終えて以来ずっと、「無言」の意味を考えている。

聞き書きの仕事

西荻なな

書いて書いて、書いた年だった。

普段は黒子として仕事をしているが、昔から「聞き書き」というスタイルが好きで、自ら苦労を買って出てしまうところがある。インタビューを投げて答えが返ってくる、そのやりとりを積み重ねることで立ち上がってくる輪郭に、驚きながらどうも魅惑されてしまうのだろう。まだ見たことのない景色のただ中にいるという実感が、たとえ勘違いであっても降りてくる瞬間のかけがえのなさ。五感を研ぎ澄ませて、こちらが全身耳であるような無私になった時に、まざまざと感じられる手応え。そのあと文字起こしをして、まとめ直してみるという気の遠くなりそうな作業が待ち構えていることがわかっていても、まだ見ぬ何かを形にするぞという熱が不思議とこもる。むしろテープ起こしだって編集しながら書いていることに他ならないのだし、さらに1冊という本の尺にボイスを乗せていくことはさらに文学的な何かを紡いでいることにも等しいじゃないかと熱がこもる。舞台に立つ役者や演奏をする音楽家たちはこのずっと何倍も濃密で張り詰めた緊張感の中にあるのだろうと、ふっと想像をしてみたりする。

思えばスヴェトラーナ=アレクシェービチの仕事も聞き書きだった。ベラルーシという地政学的にはソ連のお膝元で、ソ連崩壊や巨大なものが壊れゆく過程でこぼれ落ちてゆく声を拾って集める尊い仕事を重ねているアレクシェービチ。ノーベル文学賞を受賞した時には驚いたものだったが、まさに「耳をすませる」仕事に他ならない。人の声に耳をすませて、聴いた声の数々を自身の身体を一回通過させた後に紡いでいる話ひとつひとつは、フィクションとは違う、でもノンフィクション的な強い事実の切り取りをする姿勢とは遠く離れたもっと密やかな祈りにも似たものだ、という感触が残る。チェルノブイリの原発事故に遭遇した人たちの声を拾った『チェルノブイリの祈り』は、絶望と祈りと戸惑いに満ち溢れていて、聞き書きによってなされた文学的な仕事の到達点だと思うけれども、はるかその仕事には程遠くとも、音楽を奏でるように身体を使って聴きながら書くような「聞き書き」の仕事に、とりわけ尊さを感じる。大きな仕事を終えた年の瀬にまた、新たにまた「聞き書き」の仕事を始めてしまいそうなのも、我ながらという感じである。

170 赤い土

藤井貞和

以前に、本部半島のユタ(巫女です。)に、私は疲労困憊のとき、
お会いしたことがあります。 「沖縄の土には、
二十万の亡くなった方の人骨が、どこを掘ってもはいっているのよ。」
彼女は何年もかけて、島内をめぐり祈りました。
そういうユタに聖地で何人にも私は出会いました。
歌集『沖縄』の新装版が出たと聞いて、「今度こそは」と手に入れました。
〈基地撤去は芋と裸足に戻ることと
演説せしアンガー弁務官よOKです〉(桃原邑子)
〈眼球に灸すゑ徴兵拒否をせし青年(ニーセー)の家に
石を投げける吾十二歳〉という一首もあります。
桃原さんは十二歳の夏(大正十二年)、自作歌を持って、
釋迢空(折口信夫)を訪ねたそうです。
いまに赤い土が火風(ヒーカジ)になることでしょう。
こんな歌もあります。 〈みるみるに飛行場を作り道を通じ
銃座をかまえるにわれら何を為さん〉
昭和二十年四月一日、上陸米軍のことを詠んだ一首とのことです。

(新装版が出たと、『笛』149号に書評が出ているのを見つけて、あわててアマゾンから購入しました。本部半島でお会いした巫女と、桃原さんとは、むろん関係ありませんが、どちらも歌人です。とうばるさんと呼ぶのでよいと思いますが、新装版にはMomohara Yukoとあります〈六花書林、二〇一八・一〉。OKです。)

仙台ネイティブのつぶやき(40)峠をこえてきた青菜

西大立目祥子

足しげく通っている大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)地区。北は秋田県、西は山形県と接する山間のこの地区には、ここだけで守り育てられてきた在来野菜がある。その名も「鬼首菜」。

地元の人たちが「地菜っこ」とよぶこの青菜、平成2年には100戸ほどの農家が栽培していたというのだけれど、平成も終わり近づいた29年にはわずか2戸になってしまった。このままでは消えてしまう、復活させようという動きが出てきて、昨年夏に3軒の農家が種まきし栽培して漬物などの加工を試みることになり、私もその手伝いにまわることになった。

とはいっても、私は食べたことのない野菜なのである。栽培してきた農家から、小さなカブをつけた20〜30センチほどの鬼首菜の写真を見せてもらい、手にのるような大きさの小松菜やほうれん草のような青菜かと想像はするものの、味はまったくわからない。手さぐりの実験だ。

8月末、種まきして3日目という畑を見に行った。種は畝を起こした畑に等間隔でていねいにまくのではなく、広い畑にラフな感じでぱらぱらとまいていくらしい。暑い日が続いたからだろう、黒い土の上に濃い緑色の何ともかわいい2、3ミリの双葉が一面に芽吹いていた。収穫は11月頃と聞いた。

長年この地に暮らしてきた人に、「鬼首菜ってどんな味?」と聞きまわる。「おいしいよ」と即答の人もいいれば、ああ、と記憶をたぐり寄せるような表情になって、「あの辛みがいいんだ、鼻に抜けてくあの辛みがなぁ」とうなづきながらに答えてくれる人もいる。その顔がいかにもしあわせそうで、暮らしにしっかりと根を下ろしてきた野菜なのだということを教えられる。

ある人はこうもいった。「秋に収穫して漬物にすると、独特の辛みが何ともうまいんだけど、春の食べ方もあるんだよ」。聞けば、雪の下で数ヶ月眠りについた鬼首菜は、春先、ちょうど雪解けのころに春を教えるように新芽を伸ばしてくる。そこを収穫して食べる。「ああ、鬼首に春がきたって思うんだ」。それは、春一番に食べる菜っ葉であり、長い冬がようやく終わり自然がいよいよ動き出すきざしでもある。重い雪に耐えた鬼首菜は甘味を増していて、その甘さはひときわやさしくやわらかな春の到来を感じさせるものだったのかもしれない。春一番に山の動物たちが新芽を求めるように、栄養を蓄え続けてきた冬のからだを浄化して整え直す効能もあったのだろう。

鬼首菜は順調に育って、9月には青々とした葉をつけ、11月に入ったころには霜が降りたという朝の畑の写真が送られてきた。畑一面の緑や赤紫のふさふさと茂った葉っぱが霜で白くふちどられていて、何という美しさ!そろそろ冬到来という季節なのに、強く豊かに葉を伸ばすこの青菜が豪雪地帯の鬼首でつくられてきたわけもわかるような気がする。

11月末、久しぶりに訪ねると、ほら食べてみてと大きなポリ袋にどさっと入った鬼首菜を渡され驚いた。こんなに大きな青菜だったとは。丈は60センチほどで、生育がよければ1メートルほどにもなるという。葉の茎はしっかりと固く葉も薄くはない。カブの部分は小さいもののたくさんの髭がからみつくように伸びていた。確かにこの上部の葉を支えるにはカブだって強くなければ持たない。八百屋の店先に並ぶ食べやすく扱いやすい青菜ばかり見ている私の想像を越えていた。

地元の人が一番に押す「ふすべ漬け」にトライする。「ふすべる」とは「ゆがく」という意味で、カブの部分も含め適当な長さに切ってさっと湯通ししたあと、3パーセントくらいの塩でもんでいただく即席漬けだ。鮮やかな緑の青菜漬けを口に含むと、確かに鼻に抜ける辛みがたっておいしい。歯ごたえもかなりある。でも数日おくと、色はあっという間に抜けて茶褐色になってしまった。

加工の試みに先立って、鬼首菜を研究してきたという高橋信典先生(宮城県農業短期大学名誉教授)の講演会を開いた。20数年前、鬼首出身の学生からこの青菜のことを教わり卒論を指導しているうちに自分も病みつきになって、仙台の自宅でもプランターで鬼首菜を育てているというおもしろい人である。先生によれば、他の地域で栽培してもこの辛みは出ないし、辛みはワサビやカラシと同じシニグリンという成分を含んでいるという。

もう一つ、興味深い指摘があった。鬼首菜は山形からこの地に入ったのではないかというのだ。山形にはいろいろなカブの系統が点在しているのだという。あらためて地図を開いてみると鬼首の西は山形県最上町に接していて、県境には標高1261メートルの禿岳(かむろだけ)がそびえたっている。だが、その南には標高796メートルの花立峠(はなだてとうげ)があって、断崖絶壁をぬって折り畳むような悪路が通っている。先生は、行商人がこの道を通りかなりの数行き来していたはずだと推理するのだ。

12月21日。積雪なった鬼首の公民館で鬼首菜の試食会を開いた。ふすべ漬けのほか、醤油漬け、塩をきつくした保存漬けなど数種類を来た人たちに食べてもらった。だれもが辛みがおいしい、と感想をのべてくれた。40歳代では鬼首に暮らしてきた人たちでさえ、食べた経験があまりないこともわかった。

窓の外には、白い油絵の具を分厚く塗ったような禿岳が神々しい姿で光輝いている。あの山の近く、いまでも冬期間はとざされる細い道を誰かの背に背負われて、けし粒ほどの小さな種が運ばれてきたのだろうか。そして、それはいったいいつ頃のことなのだろう。

この先、食べ方の工夫の試みは続くのだけれど、ルーツをさかのぼるような、辛みが何ともいいと答える笑みに迫るようなものにしていきたいと思う。成果はまた新たな機会に。

寄席

璃葉

夜明けの部屋は冷たくて、青い。
稀に明け方に目が覚めることがある。夜型生活がなかなか治らない私にしては、珍しいことだ。目玉をうごかして部屋を見渡せば、静かすぎる音が聞こえる。本も、食器も、紙の束もたしかに眠っている。
布団から出ている自分の顔半分、髪の毛が冷たい。予報によれば、今日はとびきり寒い日らしい。そのせいか、布団のなかは最高に心地良い。…なんとも出がたい。イモムシみたいに布団の中をうぞうぞするのも楽しいが、すぐに飽きたので起きることにした。

起き抜けに大事な用事を思い出す。ふだんからお世話になっている噺家さんがトリを務める寄席、今日が千秋楽なのだった。友人を誘って、昼間の新宿へ出かける。
ちいさな窓口でチケットを買って木造の演芸場に入場すると、座る席はほとんどないぐらい、人で埋まっている。舞台では奇術師がなにやら紐をいじっていて、お客がそれを見守っている。そんな中で席を探すのに少し戸惑いながらも、二階の窓際に無事座ることができ、安心する。一番奥の高い場所から見下ろすと、座敷席ではお弁当をむしゃむしゃ食べる人もいれば、途中で出て行って戻らない人、くてっと背もたれに寄りかかって半目の人、ぐっすり眠っている人も見えて、みなさん大いにくつろいでいた。
演者は全員おもしろおかしくて、とくに落語はちょっとぐらい声が聞き取れなくても、仕草を見ているだけで本当にたのしい。扇子の使い方、姿勢、表情、飄々として、凛としている。ただそれを見ているだけで、寒さで固まっていた体はほぐれていくし、フフフと笑いが漏れる。ひさしぶりに、陽気な空間というものを味わった。動画や音声だけでは絶対に味わえない、お客と演者でしかつくれない、ほんわかとしたまるい空間だ。自慢にもならないが、私はふだんから会話のなかでよく笑う。でも率先して笑いに出かけることはあまりなかった。笑うためにふらっと寄席にいく、これはとても素敵なことだ。

たくさん笑ったあとはなんだか身体がほかほかして、友人と私の間に暖かい空気がくるくる渦巻いていた。もはや寒さは気にならず、まだ明るく爽やかな空の下、愉快な気分で居酒屋へと向かったのだった。

パノラマ★36

北村周一

ほっこりと西に初富士二子玉や
 駅に晴着のひともちらほら
心中未遂の美大教師が麗らかに
 花束提げてみずうみのべを
月に二度も浮かぶ朧の月明り
 ねむれぬ夜の青空文庫
高気圧を待つらん新車のボンネット
 カーワックスを拭き上げて無口
監督の透ける白シャツ悩ましく
 ロシア・ワールドカップにクギ付け
夾竹桃ふたいろ淡く入り交じる
 その花蔭に求め合う愛
ひとつところ月吐く峰の闇深し
 とろろ食せし口中の熱
カナカナの声に昏れゆく胸の内
 薄水色の日傘回せば
花弁舞う墓石の前の灯油缶
 彼岸の今日を命日とする
親機鳴り子機が鳴りして春の昼
 カネの無心を我が子のごとし
電卓手に武器売り歩く死の商人
 安保理常任理事国戦好き
右隣に眠るあなたの掛布団
 うごく怖ろしわれ金縛り
紋甲にはげしき恋の鸚哥の目
 つつきたいだけつつくを許せり
歩みつつ肩抱くまでの行いも
 電柱の陰ながき夜の道
伊香保湯のそらに真白き望の月
 茸愛せしJ.Cage氏は逝く
川沿いのフェンスをつづくみずの痕
 水平なれば向う岸にも
職安の遠い視線に見え隠れ
 値踏みされてもわたしは非売
身延山は枝垂れ桜の坂の道
 花の向こうに霞むパノラマ
 

*擬密句三十六歌仙新年篇。年の初めに。
 春篇―冬の旅、夏篇―朝日ジャーナル、秋篇―四月馬鹿、冬篇―理性の不安、新年篇―パノラマ、
 これにて連句擬き独吟の了といたします。

空知川、遠く

くぼたのぞみ

 空知川は石狩川の支流である。トップ川も石狩川の支流だ。トップ川の支流がソッチ川という渓流で流れも速い。トップ川が一足先に石狩川に注ぎ込み、少し下流で空知川が流れ込む。この合流点の少し川上の河原で、中学生のころクラスの仲間とキャッチボールをした。すっかり忘れていたが、それぞれの川の位置関係を地図で調べて、ああ、ここだ、と思い出した。
 河原までは自転車ですぐだった。集団行動がまるで苦手なわが人生において、徒党を組んであちこち移動していた唯一の時期だ。中学2年のほんの一時期。教師を試し、親を試した反抗期。それ以前もそれ以後も、そしていまも、集団はまるでダメだ。たぶん、あれは生まれて初めて「みんな」に受け入れられたときだったのだ。
 初めておなじ年齢の女の子たちといっしょになった小学校時代は悲惨だった。思ったことをすぐに口にする性格は、相手が女子だろうと男子だろうと、おかまいなし。理不尽と思ったらずけずけ言って抗議する。教師に怒鳴られても、従順になどならない。ふりができないのだ。男の子から「ナマイキダ!」とさんざんいじわるされて、女の子からは敬遠された。ごつい男の子に毎日のように泣かされる女の子を正義感からかばうと、その女の子のお母さんから「ありがとう、よろしくね!」なんて感謝されたこともあった。小学4年くらいだったかな。
 でも5、6年になると、集団となって群れる、湿気の多い女の子たちから、後ろ指をさされるのがじわじわと堪えた。そんなひとりぼっち感から解放されたのが中学2年のときだったのだ。突然元気になった。元気にならないわけがない。河原でキャッチボールだってなんだってやる。
 でも、いま思い出してみると、せいぜい5人までが限度だった。人数がふえると手に負えなくなる。女王のように君臨する力がないのだ。だって、そこからいつのまにか自分がいなくなるのだから。ひとりになりたくなるのだ。漢の武帝の詩が身にしみる。

 なんでいまごろ川のことを思い出したかというと、ある理由から国木田独歩の「空知川の岸辺」という短編を読んだからだ。(青空文庫よ、ありがとう!)空知太はさておき、「歌志内」という地名は忘れようにも忘れられない。三井住友系の炭鉱町で、そこに母の実家があったのだ。
 独歩の「空知川の岸辺」に何度も出てくる「歌志内」も炭鉱が閉山されてからは人口減に見舞われ、幼いころに母や兄とよく降り立った駅「文殊」もいまはない。はかなく無残な石炭文明。

主よ、みもとに近づかん。

植松眞人

 上野恩寵公園の北の端には大噴水があり、その脇を抜けて木立の中へ入っていくと、たくさんの人々が寒空の下でじっと行列を作っていた。
 百人近い人のほとんどは男性で、みんな地味な色合いの防寒具を着て、ときおり吹く風から顔をそらしながら時間が来るのを待っている。列は二十人程度ずつで折り返していて湿気た布団が折り重なっているように見えた。
 近くの教会の名前が書かれた小さなボードが行列の周辺にいくつか置かれていて、用意された長テーブルの上では湯気を立てたスープの準備が進んでいる。湯気のほうから行列する男たちを見ると、彼らは施しを受ける可哀想な人々だが、男たちから湯気を見ると鼻持ちならない施しを覆い隠す技巧の一つのようで興味深く見えるのだった。
 立花はそんな行列の中程に車椅子で並んでいた。たまたま孫の美由紀に車椅子を押してもらい、公園を散歩している最中に、大きなナベでスープを運び込みカセットコンロで温め直そうとしている若い男女を見かけたのだった。立花が「おいしそうなスープだね」と話しかけると、若い男女は一瞬怪訝な表情を浮かべたのだが、立花の車椅子を見ると、今度は驚くほど屈託のない笑顔を浮かべた。
「近所の教会からの配給です。どなたでも楽しんでいただけますので、ご希望ならこの列の最後尾にお並びください」
 その言葉に、立花がうなずくと、若い男女は再びスープを温め直す準備を始めた。立花は孫の美由紀に「ここでスープをもらっていくから、お前は近くのコーヒーショップでお茶でも飲んでなさい」と財布を預けると、美由紀は中学生らしいわかりやすさで、車椅子を列の最後尾に付けながら、立花のお守りから解放されるうれしさを表情に浮かべた
 立花が並び始めると、その後ろにもたくさんの男たちが並び始め、あっという間に最後尾だった場所はちょうど真ん中くらいの位置になった。二十人程度で列は折り返しているため、立花は百人近い男たちの集団の真ん中あたりに囲まれているのだった。周囲の男たちは、車椅子でならんでいる立花に一瞬目を止めるのだが、スープを作っている男女のように怪訝な顔をすることも微笑みかけてくることもなかった。ただ、スープが配られる時間をじっと待っているのだという潔い目的のために彼らは列に並んでいるのだった。
 立花の車椅子に座った低い位置からは、前後の男たちの息づかいは聞こえてはこない。そのかわりに、湿気を失って荒れた革靴を履いた足元や、毛玉でいっぱいになった厚手のセーターや、ほんの少し足踏みするズボンの裾から見える靴下をはいていないくるぶしのあたりから立ち上ってくる男たちの憤怒と絶望のようなものが、立花の車椅子を包み込むような感覚に襲われたのだった。
 キーン!という甲高い大きな音が響いた。さっきまでいなかった髭を生やしたダウンジャケットを着た男性が、ラッパのような形をしたハンドマイクを握っていた。調子が悪いのか、男性が話そうとスイッチを入れるとハウリングが起こり甲高い音が響くのだった。男性はそのたびに、唇の端を歪めて舌打ちをした。その一瞬見せる下卑た表情をおそらくスープの施しを待つ男たちのほとんどは見逃していないのだろうと立花は思った。
 やがて、ハンドマイクを通して男性の声が響く。ハンドマイクの調子が戻ったことが嬉しいのか、男性は唇の端を歪めることも舌打ちをすることもなく、神父としての言葉を一つ二つ吐く。その言葉を合図に、神父の隣に立っていた厚手のコートを着た初老の男が手にしていたアコーディオンを弾き始める。
 スープの用意をしていた若い男女が小さなカードを列の前と後ろから配布する。中程に並んでいた立花には一番最後にカードが届けられた。立花がそのカードに目を通そうとしたちょうどその時に、アコーディオンによる演奏が一通り終わり、みんなが一斉に歌い始めた。

主よ、みもとに近づかん
のぼるみちは十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ、みもとに近づかん
さすらうまに日は暮れ
石のうえのかりねの夢にも
なお天を望み

 男たちはおそらく何度も何度も歌ってきたこの賛美歌をいつもと同じように歌っているのだろう。つまることなく歌っている。意外にもちゃんと歌っている男が多く、その声の張り具合からみんなそれほど歳を取ってないことを知るのだった。伸びた髪や暗い色の防寒具からなんとなくみんな自分と同じくらいの年配者かそれ以上の年齢だと思っていたのだが、改めて歌っている声や顔を注意深く車椅子の位置から見上げていると、みんな自分よりも歳下らしい。

主よ、みもとに近づかん
主のつかいはみ空に
かよう梯のうえより招きぬれば
いざ登りて

 歌が終わりに近づいてくると、若い男女がスープを使い捨ての容器に注ぎ始める。野菜などのたくさんの具材は入っていることがここからでも見て取れる。男たちは歌いながら、そっとその様子を見つめ、生唾を飲み込む。

主よ、みもとに近づかん
うつし世をばはなれて
天がける日きたらば
いよよちかくみもとにゆき
主のみかおをあおぎみん

 歌い終わるとアコーディオンの伴奏を聞きながら、神父がアーメンと大きな声で言う。それにあわせてアーメンと言うと、列は一斉に動き始める。アコーディオンの演奏は終わらない。教会の人たちと、おそらくボランティアの人たちがさっきの賛美歌を繰り返し歌っているが、並んでいた男たちは、もうお努めは澄んだはずだとばかり押し黙ったままで一歩一歩スープが配給されているテーブルへと近づいていく。立花も車椅子の車輪を押して、前の男の間を詰める。途中から、後ろの男が立花の車椅子を押してくれる。立花が後ろを振り返って礼を言うと、男はにこりともせず、スープのほうを見て白い息を吐いた。(了)

十二月

仲宗根浩

十二月、うちのお嬢さんは制服の衣替えで冬服で初めての登校の日、最高気温二十八度。朝から暑いなかご苦労様の登校。この島で冬服というのは必要か疑問。夏服のままで上から何か羽織ればいいのではないか。十二月に初めてクーラーを使う。冬休みに入ると本土の寒波は沖縄にもきて最高気温十六度。でも少し重ね着で暖房要らず。

「ヴァン・ダイク・パークス」の名前を地元紙で見る。「ロックの重鎮」とあったけど異端、奇才、であり王道にはいない人だろと言いたくなる。ここらへんで新聞をもひとつ信じることができない自分がいる。

最初にヴァン・ダイク・パークスの名前を知ったのは、はっぴぃえんどの「さよならにっぽん、さよならアメリカ」だった。ライ・クーダーの音源を色々集めていたら1stアルバムのプロデュースしていたり、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンド」が初めてCDになったとき何度目かの再評価があったがその盤を入手したあとすぐ回収になり店頭から消え、暫くして再発売された。その後の「スマイル」に作詞家と参加したヴァン・ダイク・パークス。アルバムは完成されず、海賊盤で流通していたので聴いたりしたが所詮海賊盤、未完成の音。レコード屋で働いているときにブライアン・ウィルソンといっしょの「Orange Crate Art」が発売されたときは毎日のように聴いていた。後でこのアルバムのバジェットが少なく、ほとんど打ち込みだったと知ったが、今聴いても全然飽きない音をしている。うちの上の子供がまだ奥さんのおなかの中にいる頃、東京にいた二十数年前。

記事の内容はヴァン・ダイク・パークスがホワイトハウスへ辺野古埋め立ての件で署名をしたというもの。署名を始めたのはハワイの沖縄の移民四世。このことは知らされない。インスタグラムで拡散をしたタレントはネットで叩かれ、テレビでも批判されたり、と沖縄に関して何か発信するといろいろ言われる。県民投票をしないと決めた自治体は分断を生むと言うがその決定がすでに分断を生んでいる。今住んでいるところの議会も県民投票にかかる予算を否決。市長は議会の決定は重いという。県民投票の署名は重たくないんだ。

ちまちまと埋め立ては進む。復帰したあと島の西側はどんどん公共工事で埋め立てをして、昔の海岸線を失った。今度は東側がどんどん埋め立てられる。そんなことをしながら自然遺産を目指す。これほど遺産に値しないことをやってきているのに。

平成の最後、昭和の最後

冨岡三智

平成天皇が万感を込めた誕生日の会見のお言葉を述べて1週間後、平成最後の正月が穏やかに明けた。昭和最後のお正月はこんなものではなかったな…と不意に思い出す。

ご病気の昭和天皇を憚って様々な行事が取りやめとなり、私的イベントまでが不謹慎だと自粛された。その年、私は大学4年生だった。卒論を仕上げるため、帰省せずに1人で下宿に残っていた。1月7日、大家さん(1人暮らしのおばあさん)のわざわざの知らせで私は崩御を知り、卒論締切(10日)間近という緊張感がぷつんと切れてしまった。戦後生まれで格別天皇びいきでもない自分がそのような感情に襲われるということは、経験するまで分からないことだった。あれは、戦後という1つの時代が終わったという虚脱感のようなものだったのだろう。

卒論を提出した翌日、友人と大学の門前のファミリーレストランで卒業旅行の打ち合わせをすることにしていた。しかし、そこも他の店も軒並み臨時休業していて、結局、大学で打ち合わせした。崩御の日から多くの飲食店が休業していたのは本当だった。あの同調圧力の強さは、戦時中はかくやあらんという雰囲気だった。

平成天皇の退位によって、やっと昭和的なものが良くも悪くも終わるのだろう。私は明治〜大正〜昭和と生きた祖父母のように三代を生きることになり、「昭和は遠くなりにけり」なんて感慨をそのうち漏らすのだろう。

身代金を払うのは誰?

さとうまき

2018年も間もなく終わろうとしていて、30日にイラク、ヨルダンの出張から帰国した。年末、いろいろ反省すること。シリアの本を上梓するはずがなかなか筆が進まないので年末年始に一気に書き上げなければ。

シリアといえば、10月安田純平が無事に解放された。身代金は払われていない!と菅官房長官。しかし、新聞各紙が「シリア人権監視団」からの情報として3億円の身代金が払われたと書き立てた。僕は、某新聞社と連絡を取り続けていて、「それ、流すんですか? だって、シリア人権監視団の情報だけで裏が取れていないですよね? 身代金払ったて流すと、安田さんをバッシングしたい人に餌を与えることになる。」

シリア人権監視団をウィキペディアでググれば「この団体が信頼できない組織だということははっきりわかっているが、この世界は競争が激しいから、われわれはそれでも彼らの数字を流し続ける。」(AFP通信社)ていうのがすぐ出てくる。
「他の新聞でも流すみたいなんで、特落ちは避けたいみたい。私も流すのには反対しているのですがデスクが言うことを聞いてくれないんです」と記者。
「後で、絶対後悔しますよ!」と僕はしつこく説得したが、これが、ジャーナリズムだ。

シリアのことを書くとああだのこうだのしつこくディスるジャーナリストがいて、それを真に受ける人たちがリツィートしてくる。そもそも、今までシリアへの関心がほとんどなかったことを考えると、ほほえましいかもしれないけど。

僕は、残虐なアサド政権の擁護をしているらしい。アサド政権からお金をもらってプロパガンダをしている!と思っている人もいるらしいから驚きだ。

僕のスタンスは、あらゆる戦争犯罪は許されるものではないと思っている。犯した罪はきちんと償うべきである。バッシャール大統領を戦争犯罪として訴追するのならば反対しない。ぜひ、専門家の方は、やってもらいたい。 

僕の仕事は、小児がんの支援をすることだ。シリアの小児がんの病院は、アサド政権支配地域にしかないから、その病院を支援しようとすると、アサド政権のプロパガンダに利用されていると批判されるのだ。アスマ大統領夫人が内戦前から小児がん病院を支援してきたことは事実。だから「アサド大統領の病院を支援するのか!」と叱られるわけだ。

プロパガンダという意味では、先のシリア人権監視団といった反体制派の方が上手でスマートなのは間違いない。アサド大統領が失墜するまで支援をするなという人は、がんの子どもたちを全員シリア国内から連れ出して、ヨルダンや、イラク、レバノンでの治療費を全部払ってあげてほいしい。 

12月16日から3日間ヨルダンにいた。ここのシリア難民は、アサド政権には嫌な思いを受けている人ばかりといっても過言ではないだろう。いつも、車を運転してくれるイマッドさんもアメリカに移住してしまい、いとこのジョワードさんが車を出してくれたが、英語がほとんどできず、不愛想なおっさんだった。イマッドさんと、メッセンジャーで連絡を取ってくれるが、アメリカの時差が、昼夜がひっくり返っていて、なかなか時間が合わないから大変だった。手足を切断したシリア難民に何人か再会した。みんな大きくなっておっさんみたいになっている。それはそれでちょっとうれしかった。ヨルダンとシリアの国境が再開したので、シリアに戻る決心をした家族もいた。

シリアの内戦は終結に向かっており、国際社会はアサドが存続するかしないかにか変わらず、国交も回復しようとしている国が目立つ。国内の復興へと莫大な資金が流れるようで、難民たちは見捨てられつつある。

イマッドさんからは、マーゼン君(13歳)を助けてほしいというメッセージがはいる。再生不良性貧血で明日骨髄移植するので入院してるという。それがいつものキングフセインがんセンターでなく大学病院。建物はかなり老朽化している。国立病院なので、費用が安いのか、いろんな患者が訪れる。建物がぼろくても、日本だって大学病院はこんなもんだったような気がする。きっと先生は優秀なんだろう。

集中治療室にいると聞いていたが、普通の病室の前にいきなりパーティションが置いてあって間違えて人が入ってこないようになっているだけだ。正直この病院、大丈夫かなと思ってしまった。
骨髄移植はキングフセインがんセンターだと100,000JD(日本円で1600万円)ここだと60,000 JDそれでも日本円で970万円になる。
マーゼン君は、シリア内戦が始まってすぐのころにお父さんを心臓発作でなくしている。2013年に難民としてダラアからヨルダンに避難してきた。親戚たちに支えられているそうで、クェートにいるおじさんが20,000JD(320万円)を支払ってくれてとりあえず移植手術をすることが決まった。
どう考えても、残りの650万円を工面するのは並大抵ではない。治療半ばで掘り出されることはないのだろうか?看護師がいうのに、
「それは、ありません。治療は最後まで終わらせます。しかし、お金を払ってもらわないと、病院から出れません」
「身代金か?」つまりは人質のようなものだ。
何とかしてあげたいと思いながらも、さすがに、のこりの650万円をぼんと払える器量はない。別の予定もあったので話だけ聞いて去った。

翌日、いままで支援してきたシリア人が運営するNGOに3000ドルを支払うことになっていて、スタッフのムラッド君をカフェに呼び出して手渡した。ムラッド君は、シリア難民支援のプログラムが次々にカットされており、自分も首になりそうだと嘆いていた。通訳が必要だったので、「これから病院に来てほしい」といってマーゼン君の様子を見に行った。本当に骨髄移植は無事に終わったようだったが、どうも信じられない。「だって、骨髄移植したのに、隔離されてないし。」看護師が言うのに、「マーゼン君は、これから感染症など起こさないように観察します。明日からはこの病室は立ち入り禁止にして、お母さんも、おじさんも、そしてあんたもここに入れない」

マーゼン君はしばらく家族にも会えない。ドナーの弟のクサイ君から骨髄を採取するのにかかったのは1100ドル。このお金を払わない限り、クサイ君も病院から返してもらえないとのこと。
「まるで刑務所みたい」
とりあえず、1100ドルくらいならばとシリア難民支援の予算から、払ってあげた。クサイ君も無事に家に帰れるようだ。あとは、しばらく一人きりになるけどマーゼン君が無事にいてほしい。

横にいた、ムラッドが電話をしながら涙を流している。
「実は、会議に間に合わなくなって、僕は首になるかもしれないんだ」
という。あらあら。

僕は、とりあえず、マーゼン君も、ムラッド君もほっぱらかして日本に帰ってきたが、彼らが2019年を無事に迎えられるように祈っている。日本で最初のニュースが「ゴーン日産前会長の勾留延長決定 1月11日まで」というニュース。保釈金が10億をこえるといわれている。こんな金持ちこそ僕らに寄付してほしい。
ゴーンさん、この記事見たら
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別腸日記(23)旅の道連れ(後編)

新井卓

どのような状況であれ、何かの結果を待つのは苦手だ。わたし一人に関する事でもそうなのだから、まして多くの人々を巻き込んだ映画の賞のなりゆきにはなおさらである。

南イタリア、サレルノ国際映画祭の最終日、各賞発表の日。昼下がり、映像詩『オシラ鏡』の衣装を着付けてもらうため、三人の若者たちを駅前のホテルに送り出した。映画の撮影地、遠野から遠野市教育文化財団の石田久男さん、そして当地で美容院を営む多田さん夫妻が滞在しており、みな和装で授賞式に臨もうと張り切っている。主演の高山太一くんがわたしの一張羅を着るので、こちらはふつうの格好でいいことになり、ややほっとして、ひとり海辺の食堂に座った。

ベズビオ山のラベルの赤ワインは軽やかながらもタンニンの引き締まった味で、地元産だという。イタリアの小麦がわたしには重すぎるのか、ピザやパスタに食傷気味だったので、ブルーチーズとルッコラ、酸っぱいケイパーを重ねたハンバーガーを頬張る。もう三分の二が過ぎたイタリアの旅のあれこれを思い出しながら、そして惨憺たる有様だった昨晩の上映会を呪いながら、ほとんど一本空けてしまいそうになる。上映前、真っ赤な眼をして完全に(マリファナで)キマってしまっている上映技師と雑談しながら、嫌な予感はしていたのだが、せっかく4Kで作った映像は無残にも圧縮されており、技師はエンド・クレジットの途中で次の作品に飛ばそうとしたため、座席から飛び上がっておこの男の持ち場に怒鳴りこんだ。いま思い出しても、腹が立つ──とはいえ、まあいいか、と思い直して、残りのワインは着替えがてらアパートに持って帰ることにした。イタリアでは、割とだいたいのことが大したことに思えなくなってくるらしい。街区のあちこちに古代の遺跡がごろごろしているような場所では、ほとんどのことが矮小な悩みに過ぎない。土曜日のきょう、旧市街はどこまでもつづく人並みで賑やかである。

映画はいいものだ、とアパートへの長い坂道を上りながら、ほろ酔いの頭でぼんやり考える。それは「わたし」の作品にはなりえないから、と──もちろん、写真だって一人でできるわけではなく、多くの人々の親切や犠牲によって初めてうまれるのだけれども、やはり何かが違う。それは手に手に転がってゆく不定形のエネルギー体か、あるいは独立した疑似生命である。もしこれからも映画を作りつづけるなら、仕事の仕方はおろか、話し方、身体のありかたも変わらなければならないだろう。

もう15年も前、まだ写真学校の学生だったころ親しい友人二人と実験映画『Aria』を作った。クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』(1962)に心酔していたわたしたちは、同じように写真をモンタージュして映像を編集することにした。作業は遅々として進まず(というのも肝心の写真を任された私が、いつまでも撮る糸口を見つけられずほとんど何もしていなかったからだ)、途方もないアイデアばかりで盛り上がっては、西荻窪の「戎」で酔いつぶれる日々を懐かしく思い出す。それから監督だった友人は身体表現の道に転じ、いっとき日本を去った。制作の友人──ジガ・ヴェルトフやヴェルナー・ヘルツォークを愛する原理主義的シネフィルだった──は映像に関わる著作権や配給の仕事をつづけている。あのように無為で貧乏で濃密な時間を他者と過ごすことは、もうない、そんな風に思っていたのではなかったか。

授賞式のスピーチは、あまりうまくできなかった。東北の被差別の歴史やアベ政治の批判を急に入れたので、通訳のリンダ(※)があたふたとしているのが横目で見えて可笑しかった。映像詩『オシラ鏡』は、短編部門最高賞を受賞した。この賞はこの短い映画に少しでも関わったすべての人々への、祝福である。

明日はローマへ発つ。次の家はコロッセオが見える路地にあるアパートで、また自炊が楽しみである。

イタリアの旅の道連れたち、18才の太一くんと14才のマイラ、レオナたちの生は、つづく。わたしの生、撮影の中川周さんや音響の山﨑巌さんや絵コンテを描いた戸島璃葉の生もまたつづいていくが、そのような人々の一回性の出会いが、ひとつの映画の時空間に凍結されている。そして全ての映画は、フィクティヴ/架空のものであると同時に、そのような数多くの、現実にある生の記録だと考えるのも、悪くないと思う。

※リンダ・デルーカはイタリア字幕を作ってくれた翻訳家で、ニューヨーク在住のピアニスト加藤あやさんの紹介で出会った。加藤さんは、ヴァイオリニストの戸島さや野と一緒に高橋悠治さん作曲『贍部洲の太陽の下で』を録音、映画ではこの曲を使用した。

過去未来

笠井瑞丈

2018年

過去

1月 ダンス現在vol.03『暁二告グ』笠井瑞丈×鯨井健太郒
3月 笠井瑞丈×上村なおか本公演『奇跡の星』
4月 神楽坂セッションハウス ダンス専科『レクイエム』振付
4月 第12回日本ダンスフォーラム賞受賞
6月 『暁ニ告グ』笠井瑞丈×鯨井健太郒 仙台公演
8月 ダンスが見たい 笠井叡振付『土方巽幻風景』出演
9月 『暁ニ告グ』笠井瑞丈×鯨井健太郒 神楽坂セッションハウス公演
10月 笠井瑞丈×上村なおか本公演『2×3』振付 笠井叡 近藤良平 川村美紀子
10月 花柳佐栄秀リサイタル 詩人の魂を踊る『智恵子抄』出演
11月 平山素子振付『digestion fragment』出演 平山素子×笠井瑞丈
11月 神楽坂セッションハウスダンスブリッジ 『薔薇の秘密』笠井瑞丈×奥山ばらば

2019年

未来

1月 笠井叡振付 笠井瑞丈ソロダンス『花粉革命』ニューヨーク公演 
1月 笠井叡振付 『高丘親王航海記』京都 東京公演出演

出会わなければ、それまでだった。

若松恵子

片岡義男の文章によって体の中に呼び起こされる感覚、それがいちばん重要だった。風に吹かれたくて、彼の小説を読む。

「心をこめてカボチャ畑にすわる」は、忘れられない短編だ。アメリカの「荒野をまっすぐに抜けていくハイウエイ」沿いにある、「ガスステーションと休憩所と簡易食堂を兼ねたような店」の、何気ない1日が描かれる。何人かの客が訪れ、そしてみんな出発していく。店を任されているネイティブアメリカンの少年が、必要な業務を静かにこなしていく。荒野にポツンとある店だから、客のリクエストは多様だ。だから、彼も多岐にわたる依頼をある程度は受けられる力を持たなければならない。誠実に対応しているうちに、大抵の事はできるようになってしまった、そんな感じが好ましい印象を残す。

「陽ざしとか雨とか、空や海の広がりを相手にするとき、人は、気持ちをせまく湿らせたままでいると、役立たずになってしまう。乾かざるを得ないという状態がながくつづけば、ごく自然に乾いていることが当然になってきて、ぼくとしてはそのような世界がいちばんいい。」文庫版『波乗りの島』のあとがきにそんな言葉があるけれど、「心をこめてカボチャ畑にすわる」もまさにそんな小説だ。取り立てて事件が起きるわけではないけれど、少年が暮らす風景に身を置いてみるだけで十分な小説なのだ。文字を追って、行ったことのない荒野に身をおいてみる日常とは違う空間で呼び起こされる体感を味わう。

病気で寝たきりの少女が、モーターホームで旅する途中に立ち寄って話をしていく。開け放った後部ドアにもたれて、少年はベッドに横たわったままの少女と話をする。「こんな広々とした素敵なところで毎日がすごせるなんて、風が、素晴らしい」と、少女は言う。同じくらいの年齢の、でも全く違う人生を送る2人がふと言葉を交わす、そのそばに吹いている風。ベッドに横たわったままの体に心地よいと感じる風が吹いている。

こんな時の風を、私はどうやって感じているのだろうか。以前は、自分のなかから、最もふさわしい風の記憶をひっぱり出して、体に蘇らせているのだろと思っていたけれど、純粋なる想像のなかの体感なのではないかと思うようになった。たぶん、文字が、想像のうちに身体的な感覚をはっきりと呼び起こさせているのだろうと思うようになった。何度でも、フリーズドライのコーヒーに湯を注ぐように、物語を読むたびに、風に吹かれることができるのだから。

片岡義男の小説を読むことは、抽象的な経験だけれど、かなり肉体的な経験でもあるのだ。同じ作品を繰り返し読んでも、あらすじがわかっているからつまらないという事にはならない。

こんなことを考えていて、これは好きなロックのシングル盤を繰り返し聴くことに似ているなと思った。繰り返し繰り返し、そのたびに新鮮な感動を持って聞くことができる特別な曲。そのたびに拓かれていく感覚。

「ぼくはプレスリーが大好き」のなかに、ポピュラー・ソングをただ聞き流しただけに終わったのか。それともロックを、自分のなかに入れることができたのか。ロックンロールに出会えなければそれまで、だった。という意味のくだりがあるけれど、片岡義男の文章によってもたらされた感覚について思う時、ちょっとおおげさだけれど、出会わなければそれまでだった、と思ったりする。

犬探し

管啓次郎

犬がいなくなった
夕方の中を名前を呼びながら探した
マリンチェ、マリンチェ
「どこにいるの」というほど空しい言葉はない
その言葉が届く距離にはいない
答えられる場所にはいない
そもそも人の言葉がわからない
夕方の季節がどんどん
移り変わってゆくのがわかる
歩くぼくの周囲で
紫色の光にひたされた夏から
地面にびっしりと霜柱が立つ冬へ
くるぶしが埋もれるほど銀杏が積もる秋から
ダフォディルが群衆のように笑う春へ
抜けた首輪を紐先につけて
ぶんぶん振り回しながら歩いている
それは「牛唸り」のような低周波の音を立てて
草葉の魂たちに耳をそばだてさせる
名前を呼ぶと悲しいので
本当は呼びたくない
でも犬が気づかないといけないので
また呼びつづけている
マリンチェ、マリンチェ
そろそろ住宅もつきて
教会のメタセコイアだけが帆船の
マストのように聳え立っている
おまえはどうしたの
橋をわたって都会のほうまで行ってしまったのか
その橋には路面電車が車と一緒に走り
子供にも犬にも魂にも危ない
夕方の光がどんどん鈍くなる
雲の輪郭だけが虹色に光を発している
犬たちは境界をよく悟る
愛想よく知らないサーカスについていっても
橋をわたることはなかったし
製材所のむこうに行くこともなかった
水の匂いでもおがくずの匂いでも
犬たちには壁のように感じられた
ぼくにこみあげてくる悲哀は
まるで逸れた投球が近所の家の
窓ガラスを割ったときのような悔恨
絶望的な気分で息を切らして立っている
するとぼくの激しい息づかいに合わせるように
ハーハーという犬の呼吸が足下で聞えるのだ
見るとつやつやした黒い短毛の犬が
ぼくの脇に立って一緒に橋を見ている
橋がかかる水面を見ている
夕方を見ている
それはマリンチェだ
おかしいねえ、どこに行ったんだろう?
とぼくはマリンチェに声をかける
行ってみるか、遠くまで、探しに
マリンチェがしずかな目でぼくを見上げる
ぼくは切羽詰まった気持ちで
夕空を傘のように開閉している
それから駆け出した
牛乳屋の前を通り
小学校の校庭をつっきり
お寺の山門を逆に抜け
何もない野原へ
「どこにいるの、どこにいるの」と
ぼくは囈言のようにくりかえす
マリンチェはわんわん吠えながらついてくる
探しているのはおまえだったのに
おまえがついてくるのをおかしいとも思わない
もう何を探しているのかもわからないまま
ぼくは野原に捨てられていた赤い車に乗る
鍵はついたままだ
それどころかエンジンがかかったままだ
車を運転したことがないので
どうすればいいのかわからない
おそるおそるアクセルを踏んでみるが動かない
「ハンドブレーキを解除するんだよ」と
助手席のマリンチェが人間の言葉で指示する
走り出した
地面はうねる丘を行く舗装道路になっている
車なのだがスピードが恐いので
走る人くらいの速さで無人の道を行く
この先の峡谷にかかる橋をわたれば
そこは帰ってきた者のいない土地
「あっちまで行ってみようか」と
ハンドルを握りしめたぼくは
緊張して前方を見つめたまま
マリンチェに声をかける
「いかないでか」とマリンチェが
いったのがなぜか理解できた
だがこんどはそれはヒトの言葉ではなく
犬の遊び吠えなのだ
このまま突っ込んでやれ
「だいじょうぶだよね」
マリンチェがまた答えるように短く吠える
なだらかな下り坂の先は鉄橋
「探しに行くんだ」とつぶやいて
ぼくは初めてアクセルを
ぎゅっと踏み込む

演奏の変化

高橋悠治

1961年クセナキスの『ヘルマ』の楽譜を受け取ったときは ピアノの鍵盤の上に 軽く触れる指がそのたびに変化する音色を創るような演奏をイメージしていた たくさんの音が強い響きを積み重ねる不透明で暴力的な塊になるのではなく どんな音の群も過ぎ去って長い沈黙が残るような経験 ピアノがピアノではなく タブラに触れるチャトゥル・ラルの軽やかなリズムや トンバクのジャムシド・シメラニの語る音を思い描いていた もっと複雑な『エオンタ』でも 速度が一瞬の呼吸の華を見せて消えていく幻で 手の技が見えない 音だけがどこかから聞こえてくるような演奏ができればよかった じっさいはなかなかそこまでいかない クセナキスの場合は もっと直接な暴力と抵抗の表現を要求されていたのかもしれない その頃ヨーロッパで他に演奏していたのは ケージのプリペアド・ピアノの作品のきらめくリズムやブーレーズの『第2ソナタ』の不規則なパターンの組み換え メシアンの厚みのある鳥のけたたましさ それとは対称的な武満徹のかぼそい糸のような余韻 そんな取り合わせだった 

アメリカへ行ってからの6年間 夏のタングルウッドや冬のバッファローでは 構成や数理の勝ったアメリカの東海岸の現代音楽 大音量のオーケストラのなかのピアノの和音 太いクレヨンの線のようなメロディーなど バッファローでは大学の音楽部だったから クラシックも弾いたほうがいいと言われて バッハを弾くようになった

もともと学校を中退したから学位をもたないし コンクールや賞には縁がないから 教える資格もなく興味もないから 演奏で生活する以外にすることがなかった ピアノは初歩しか習っていないので 19世紀のレパートリーはなく 現代と バロック以前でピアノで弾けそうなものしか選べない ピアノの弾きかたも時々忘れるから 奏法の本を読みなおして なんとか続けている 林光や三宅榛名のようにピアノを弾くのがいかにもたのしそうなひとたちを見ても そういう気分にはなれなかった やっと最近になって サティを弾くのはたのしいかもしれないと思えるようにはなったが その響きに溺れるのは危ない やりにくいことも続けないと 技術は衰えていくだろう 2019年はクセナキスを弾く機会もある まだ指が覚えているだろうか ヒロイズムやマチズモではなく といってリリシズムやパッションでもない 風が吹きすぎるのを見まもるように静かに待っていると 音がかってに爆発したり しずくがしたたるような音楽が現れるだろうか それとも ヨーロッパ的な技術や音楽観から離れていた間に 記憶力も能力もなくなっているだろうか

2018年12月1日(土)

水牛だより

薄い筋状の雲の空は午後4時にはもう夕暮れを感じさせます。西の空はほんのりバラ色。その空に似合わずあたたかな空気です。

「水牛のように」を2018年12月1日号に更新しました。
本の未来基金についてはサイトを見ていただくのがわかりやすいと思います。亡くなった富田倫生さんの志を受けて、青空文庫を支援する目的で創設されたので、成り行きとして私も運営に携わっています。微力です。著作権の保護期間が70年に延長となり、当然ガックリ、ではあるのですが、しかし、嘆いていてもはじまりません。
小泉英政さんの「コンサートのおさそい」は、「嘆いていてもはじまらない」ことをふまえて踏み出した一歩(よりも前に?)と見ることができます。こうしたコンサートを実現するには小泉さんの原稿にあるように緻密な考えが必要だと思います。
先月からはじまった足立真穂さんの「ジョージアとかグルジアとか紀行」は写真がたくさん。写真をクリックすると拡大して細部まで見ることができます。というのを今回はじめてためしてみました。

杉山洋一さんから(も)コンサートのおさそい、ふたつ。
高橋悠治作品演奏会 I 「歌垣」
12月29日|土|オペラシティ リサイタルホール15時30分/19時開演2回公演 一般4000円学生2500円
高橋悠治作曲「歌垣」(1971)オペレーション・オイラー(1968)クロマモルフI(1964)Saさ (1999) 6つの要素 (1964)あえかな光(新作・2018) 
黒田亜樹 上野由恵 荒木奏美 鷹栖美恵子 田中香織 原浩介 笹崎雅通 山田知史 守岡未央 上田仁 宮本弦 根本めぐみ 福川伸陽 橋本晋哉 廣瀬大悟 村田厚生 會田瑞樹 神田佳子 窪田健志 伊藤亜美 印田千裕 城代さや香 周防亮介 徳永慶子 松岡麻衣子 内山剛博 蟹江慶行 中木健二 長谷川彰子 細井唯山 澤慧 佐藤洋嗣 杉山洋
一

松平頼暁(作曲・台本)オペラ “挑発者たち” 
12月21日(金)東京イタリア文化会館アニェッリホール 19時開演 前売3000円、学生2500円、当日各500円増
太田真紀 薬師寺典子 琉子健太郎 松平敬 米谷毅彦 藤田朗子 杉山洋一
企画・主催TRANSIENT

お問い合わせは、二つともnaya collective(nayac@mc.point.ne.jp)へ。

次の更新は来年となります。マジですか? よい新年をお迎えください!(八巻美恵)

保護期間延長に関する「本の未来基金」の考え

本の未来基金

政府は10月30日、TPP11が6ヶ国目の批准を得たことで、12月30日に発効することが確定したと発表しました。これによって、既に前倒しで成立していた2016年の改正著作権法も同時に施行されることになり、我が国が1970年以来守って来た著作権の保護期間「死後50年」の原則は、「死後70年」原則へと延長されることになりました。

私たち「本の未来基金」は、故富田倫生の遺志を継いで青空文庫を支援するために設立されました。その立場から、青空文庫をはじめとする様々な草の根の文化活動に対する、この保護期間延長の悪影響を懸念します。また、国内での議論の蓄積を無視して保護期間がうやむやに延ばされてしまった経緯に抗議します。

日本では、2006年から2010年にかけて国内で慎重に議論を尽くし、保護期間の延長は見送られて来ました。2016年、政府はTPPでの米国の要求を受け入れる形で、いわば「TPPを成立させるためにはやむを得ない」という立場で、TPP発効と同時に保護期間を延長する内容の改正著作権法を前倒し成立させました。しかしその後、米国が離脱したTPP11では、各国の要求により期間延長は凍結されたのでした。

にもかかわらず、政府は全く理由を告げることもなく、今年6月にはTPP11でも保護期間延長が発効する内容に法改正を行い、延長を確定させてしまいました。

私たちはこの経緯を、「要するに政府は表向きの説明とは裏腹に保護期間延長の懸念など共有しておらず、TPPを奇貨として(何らかの事情で行いたかった)延長を断行した」と受け取るほか、理解の術を持ちません。そして、こうした考え方と行動を心から残念に思います。

しかし私たちは、政府はじめ期間延長を実現してしまった人々に対し、その責任を追及するより、私たちと共に未来への責任を果たして頂きたいと願います。私たちは先人たちの生きた証である多くの作品が死蔵や散逸を免れ、後世と世界の人々に届けられるよう、一層のデジタルアーカイブ振興策、不明権利者対策、そして作品の流通促進策を進めることを呼びかけます。また、私たち自身も、そうした活動により一層コミットして行きたいと考えます。

本の未来基金

コンサートのおさそい

小泉英政

谷川俊太郎*李政美*高橋悠治コンサート
ー暮らしの中に平和のたねを蓄えるー

2019年1月13日(日)
【開場】13:30【開演】14:00
【会場】東京・両国シアターΧ
【料金3,000円(席は埋まりつつあります)
主催 憲法いいね!の会 kenpoiine@uni-f3ctory.jp

  *

空気のように

少年時代
戦争の罪深さと
憲法のかがやきを知った

大人になるにしたがって
憲法はいつのまにか
空気のような存在になった

あることを意識などしない
あって当りまえ
それでいいだろう

憲法が暗雲のように
ぼくたちの頭上に重くのしかかっては
困る

憲法は権力者の上にのしかかって
暴走に歯止めをかけるものだが
勝手な解釈を押し通して
今や憲法も虫食いだらけ
さらに大きく作り替え
ぼくたちの上に
重しを
のせようとしている

憲法が在ったって
私たちは疎外されている
憲法は私たちを守ってくれない
でもそれは、
憲法が悪いわけではない

憲法を疎んじる人たちと向き合い
声を上げることをあきらめない
不断の努力(第12条)が
求められている
象徴的な場所が沖縄だ

権力者に都合のいいように
一字たりとも
変えさせない

空気のように
日々の暮らしの
かたわらに
あることさえ意識などしない
あって当たりまえ
このままで
いい

  *

ひろがりを求めて

  悠治さんに相談して

僕にとって高橋悠治さんは、最初から、著名なピアニストとしてではなく、水牛楽団の高橋悠治さん(以後、悠治さん)として出会った。
水牛楽団は、タイの抵抗歌を日本に紹介するために、1978年に結成された。その後、タイの歌にとどまらず、ポーランドの禁止された歌を歌ったた。その後、タイの歌にとどまらず、ポーランドの禁止された歌を歌ったり、「カオル(東山薫)の歌」や「よね(小泉よね)の歌」、「管制塔の歌」など、三里塚の歌も作った。

僕が悠治さんとパートナーの八巻美恵さん(以後、美恵さん)と出会ったのは、いつだったのか正確には思い出せないが、1978年頃、東京の三里塚関係の集会の控え室で、前田俊彦さんから紹介された様な気がする。それから、何度か水牛楽団の演奏会を見させてもらった。

水牛楽団が、日本に紹介したタイの抵抗歌の代表的な曲は「人と水牛」で、カラワン楽団の歌だ。カラワン楽団は、1974年に4人の若者によって結成され、タイの民主化運動の象徴的な存在となった。1976年のクーデターでジャングルに逃れたが、1983年、バンコクに戻り、カラワンは再結成された。

カラワンは、水牛楽団の招きで1983年に来日し、コンサートツアーにのぞんだ。その年に三里塚の反対同盟は分裂したが、分裂後のぼくが属していた熱田派の集会に、悠治さんや美恵さんがカラワンを誘ってくれて、全国集会の壇上で「人と水牛」や「カラワンの歌」などを披露してくれた。リーダーのスラチャイの話によると、機動隊も拍手していたと言う。

その後の経過は省略するが、1984年の秋から冬にかけて、3ヶ月間、ぼくは「カラワン農村漁村キャラバン」と銘打って、北は秋田から南は石垣島まで、都市ではなく地方の36カ所を車で移動し、カラワンの生の歌を届けた。つきあってくれたのは、カラワンのスラチャイ・ジャンティマトンとモンコン・ウトックの2人だ。よくぞ3ヶ月間もつきあってくれたと思う。そしてこの旅に欠かせなかったのは友人で社会学者のロバート・リケットさん、通訳兼運転手としてツアーを共にしてくれた。この旅の計画の相談にのってくれたのは美恵さんだ。タイにいるスラチャイ達への打診や航空機の手配、ツアーが休みの時は、悠治さんと美恵さんの家にカラワンの2人が滞在した。

この「農村漁村キャラバン」が動きだすこ頃、水牛楽団は活動を休止していた。というか、5年間も「たたかう音楽」に情熱を注いだのだ。そして終止符を打った。ぼくも、このキャラバンから5年後、「闘いという言葉を/忘れようと/思う」という詩を書いた。

悠治さんは1978年に『たたかう音楽』(晶文社)を出した。ぼくも構成員だった三里塚ワンパックグループも1981年に『たたかう野菜たち』(現代書館)という本を出した。ぼくも悠治さんも、場所は違っていても「たたかうこと」を中心にして生きた時代があった。そしてその後、そのことを生きるという言葉でくるんで(ぼくなりの言い方だが)生活してきた。

いつのことだったか忘れてしまったが、ぼくは悠治さんに「いつか一緒に仕事ができれば」と話したことがあった。悠治さんは「そうだね、いつか」と言ってくれた。そのことを悠治さんは覚えていらっしゃるかどうか分からないが、その言葉を頼りに、ぼくは悠治さんに電話をした。

悠治さんと会うのは久しぶりだった。僕より10歳上、今年80歳になるのに、受ける印象は変わらず若々しかった。悠治さんと会う約束の時間の少し前まで、同じ場所で、憲法いいね!の会の相談会をしていた。3月3日に開催した「憲法いいね!憲法をたたえるつどい」の反省会と今後の取り組みについて話し合った。その中で、今後の取組みについて、ぼくはこんな提案をした。
「この会として、今まで3回の集会を開いて、どの会も、参加者からも評価され、僕たちも学ぶことが多かったけれど、これからどうするか、もう少しひろがりを求めるようなことを考えたい。70名前後の人々の参加を得て、どの会も成功した。しかし、憲法の問題に強い関心を抱いている人を集めてはいるけれど、それ以上のひろがりはない。それで次は、言葉で語る集会ではなく、コンサート風な千人規模の集まりを考えたいのだけれど、どうでしょうか」。

今から思えば、千人規模の集まりとは、大風呂敷を広げたものだと思うが、その時は勢いで、そう言ってしまった。そして、その時、出演者の候補として、ピアニストの高橋悠治さん、詩人の谷川俊太郎さんの名前を上げた。もう1人ミュージシャンの人は決められないでいた。ぼくの提案は、皆さんの大いなる賛意を得た。「実は、この後ここで、高橋悠治さんと合う約束をしていて、悠治さんに出演のお願いをしてみようと思っているんです」と打ち明けた。東京にたびたびは出てこれないので、出てきた機会を活用したかった。僕の提案がいいね!の会の皆さの同意を得られなければ、悠治さんに謝るしかなかっだが、ほっとした気持ちで、悠治さんを待つ席に座った。

悠治さんは1人でいらっしゃった。美恵さんと会うのも楽しみにしていたのだが、残念ながら、家を留守にできない事情があったとのこと。早速、本題に入らせてもらい、いいね!の会で提案した内容を話した。悠治さん家はずっと、循環農場の会員であって、憲法いいね!の会の大体のことをご存知だ。それどころか、ありがたいことに、悠治さんと美恵さんで運営しているウェブサイト『水牛のように』上で、「憲法肯定デモってどうだろう」などの文章やチラシを載せてくれていた。

悠治さんはぼくの相談に、「いいよ。ピアノさえあれば」と言ってくれて、それだけで感謝なのに、さらに「谷川さんとは5月に会う機会がある」と教えてくれ、また、歌い手については「在日コリアンのイ・ヂョンミ(李政美)がいいよ」と名前を上げてくれた。あまり日常的に歌を聴く習慣のないぼくは、失礼ながら、イ・ヂョンミさんのことを知らなかった。家に戻ってから、ネットで探して聞いてみると、美しい声と豊かな声量、そしていつもは気付かずに過ごしている胸の、奥の奥に届くものを感じた。

悠治さんのおかげで、こうしてコンサート風な集いの輪郭が見えて来た。いいね!の会の皆さんに、このことを報告し、谷川俊太郎さんとイ・ヂョンミさんに日程と場所は未定のまま、内諾をいただく方向で進めてみようということになった。規模は、一気に千人は冒険すぎるので、300人が入るホールを探そうと言うところに落ち着いた。

日本近代文学館主催の5月の『第93回声のライブラリー』に高橋悠治さんと谷川俊太郎さんの自作朗読会が予定されていることを知った。司会は詩人の伊藤比呂美さん、定員は80名と言うことで、これは谷川さんに直接会えるチャンスと思って申し込もうとした時には、すでに定員に達していた。少し落胆している時に、悠治さんからメールが届いた。こちら側の事情は知らないのに、そこにはこう書かれていた。「来られるなら 招待券を受付におきましょうか。

  谷川俊太郎さんのこと

悠治さんの有難いお誘いで、「声のライブラリー」の関係者席に座ること出来た。開演の前に悠治さんを見かけたので、谷川さんにお会いしたいとお願いした。「そうだね。じゃあ、こっちに来て」と控え室に案内された。

悠治さんがドアを開けると、部屋の中央に20人ぐらいが囲めそうな大きなテーブルがあって、谷川さんは向かって右側の端の方に、Tシャツ姿で座っていらした。ぼくは若い時に一度、谷川さんの詩の朗読会に参加したことがある。その時も確か、谷川さんはTシャツ姿だった。

悠治さんがぼくのことを簡単に紹介してくれた。開演前の大事な時間なので、ぼくの方から手短かに自己紹介と憲法いいね!の会のこと、そして出演のお願いをすると「出演者が3人だと楽だね」とおっしゃって「このファックス番号に、集会の趣旨などを書いて送ってください」と言ってくれた。

悠治さんの自作の朗読は、劇作家、演出家の如月小春さんへの弔辞、作家、矢川澄子さんへの弔辞などを読まれた。矢川澄子さんはカラワンの「農村漁村キャラバン」の石垣島でのコンサートに同行してくれたのだが、キャラバンの最中のことなので、ゆっくりお話を伺うことは出来なかった。

谷川さんは現在86歳だが、姿も朗読の声も、その年齢を感じさせないものだった。詩の朗読の最後に「今日、憲法の話があったので」と前置きして『中央公論』2017年5月号「特集ー憲法の将来」に寄せた「不文律」と言う詩を読んでくれた。

「不文律」は是非、次のコンサート風の集いで読んで欲しいと思っている。その前半を紹介する。後半は当日のお楽しみに!

憲法は言葉だ 言葉に過ぎない
誰の言葉か? 国家の言葉だ
そこには我々日本人の言葉も入っているが
〈私〉の言葉は入っていない
私はこういう言葉では語らないからだ

憲法の言葉は上から降ってくる
下から湧いてこない
だから私の身につかない
だが憲法が言っていることを
私は日々の暮らしで行っていると思う

憲法の言葉が行いになるのではない
私の中には言葉のない行いがあるだけだ
そこが憲法の有史以来の古里だろう
私は実は国家というものが苦手だ
国家のおかげで生活しているのは確かだが

ぼくが、谷川さんに出演して欲しいと思ったのは、直感だ。悠治さんと谷川さん、2人の組み合わせは、憲法いいね!の会を始めてから時々、頭をもたげていた。

谷川さんに会う前に、全く直感だけでは申し訳ないと思ってあれこれ調べ「不文律」の存在を知った。その時は、それが文章なのか、詩なのか分からなかった。だが、不文律と言う言葉から、ぼくは1998年の朝日新聞に載った鶴見俊輔さんの談話の中の「私の憲法」を連想していた。

「私の憲法をもつこと。慣習法としての憲法で、人を殺したくない、平和であってほしいと願うなら、そのことを自分の憲法にし、心にとめておいたらいい」

憲法いいね!の会を始めた頃にこの言葉を見つけて、ぼくは随分救われた。理論の鎧をまとうことが嫌いなぼくにとって、この言葉から受けたものは大きい。

慣習法も不文律も同じような意味を持つ。法律が成文化される以前の社会の暮らしの中で、お互いに了解し守りあっていた決まりごとを指す。

市立図書館で「不文律」の詩を読み、憲法に対する接し方が鶴見さんも谷川さんも同じだと感じ、ぼくの直感が当たっていたと思った。自分で黙読した時より、会場で谷川さんの朗読を聴いた時の方が気持ちよく胸に響いてきた。谷川さんの朗読の力なのだろう。

その後何日かして、谷川さんから教えられたファックス番号に、講演依頼のお願いを送った。そうすると数日も置かずに谷川さんからファックスが送られてきた。

「お誘い有り難う。歳をとって体調が不安定になることもあるので、先々の約束をすることに不安はありますが、内諾という形でお受けします。(中略)わざわざ図書館で詩を探して読んでくれてありがとう」

「図書館で詩を探してくれて」とは、ぼくが「不文律」を図書館で見つけたと、講演依頼の文章に書いたことによる。わざわざそのことに配慮してくれて恐縮した。そして何よりも、内諾をいただいたことがありがたかった。

もう少し谷川さんのことを知ろうと調べていたら、『現代詩手帖』2015年9月号に対談が載っていて、その中でこう話していた。

『日本が戦争に向かって行っても、自分はあえて反戦詩も書かない。でもその代わりに「地上から戦争はなくならない」事を前提に「自分の中の戦争の芽を摘む詩」を書く』

戦禍の中で生きることを余儀なくされているイラク子どもたちの絵に、谷川さんが詩をつけた『おにいちゃん 死んじゃった イラクの子どもたちと せんそう』(2004年、教育画劇)という本がある。その本の存在とそのあとがきに書いた谷川さんの言葉を、憲法いいね!の会の仲間の人が教えてくれた。彼女は「やまゆり園事件追悼」の市民集会でこの詩に出会ったと言う。そして自分が働く保育園の「園だより」に載せた。その一部を紹介したい。

「戦争をひとのせいにしないで、じぶんのせいだと考えてみる。
ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことを聞かせようとしたり、
じぶんのこころに戦争につながる気持ちがないかどうか。
じぶんの気持ちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、
それでは戦争はなくならない。
まずじぶんのこころのなかで戦争をなくすこと、
ぼくはそこから始めたいと思う」

「あえて反戦詩も書かない」との立場をとることで、より人の胸にとどく言葉が産み出される。「自分の中の戦争の芽を摘む詩」こそ、反戦詩に求められるものだと思うのだが「あえて」と言うところに、谷川さんの覚悟のようなものが感じられる。

鶴見俊輔さんが谷川さんのことをどう見ていたのか。「忘れることの中にそれがある」(『鶴見俊輔集』10巻、筑摩書房)という文章を見つけた。その中で「事件」という谷川さんの詩を引用している。

事件だ!
記者は報道する
評論家は分析する
一言居士は批判する
無関係な人は興奮する
すべての人が話題にする
だが死者だけは黙っているー
やがて一言居士は忘れる
評論家も記者も忘れる
すべての人が忘れる
事件を忘れる
死を忘れる
忘れることは事件にならない

そしてこう続ける。
「これは『政治』と特定されている活動が政治についてどんなに無力かを照らし出す。しかしこの詩は、政治に背を向けているとは言えない。では、どのようにしてこの人は政治に参画するのか」

「それは明日の新聞に出るような政治行動ではない。しかし、たゆみなく、ある方向に、歩みつづける1つの道は、ひらけてゆくはずだ。家庭の中にさえ、1つの道はある。そういう認識は、戦前の日本人の政治観にはふくまれていなかったし、戦後もどれだけふくまれているかわからない」

「家庭をつらぬいて流れ、町をつらぬいて流れ、私をつらぬいて流れる生命。それにそうて政治を見るという、気の長い視点が、この詩人にはある」

引用が長くなったけれど、ぼくがぼんやり感じていたものを、鶴見さんがその輪郭を描いてくれたので、つい頼ってしまった。

谷川さんは若かりしころ石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し60年安保に反対したと言われている。

高橋悠治さんも先に述べたように『水牛楽団』として日々舞台に立っていた。
お二人ともその後「新聞に出るような政治行動」からは離れ、独自の道を歩んで来られた。お二人とも「政治に背を向けている」わけではない。そこから教わることは多い。

『谷川俊太郎 李政美 高橋悠治 コンサート』のサブタイトルを「暮らしの中に平和のたねを蓄える」とした。谷川さんや李政美さん、高橋さんを迎えるのにふさわしい言葉、憲法いいね!の会がこのコンサートに込める思い、それを言い表した。
鶴見さんの言葉を再び借りるとすれば、日常の暮らしや生命にそうて「政治を見るという、気の長い視点」を持って、かつ、現実の政治の動きにも具体的に対応しながら歩を進めて行きたい。

  李政美さんのこと

オフィシャルホームページ『李政美の世界』を開くと、その中に「李政美の世界を深める」というページがある。そこでは政美(ヂョンミ)さんを知るための3冊の本が紹介されている。ここでは『永六輔の芸人遊び』(小学館)をひもといて政美さんの世界を見つめてみたい。

政美さんは1958年、東京の葛飾区に生まれた。両親は2人とも済州島の出身で廃品回収業を生業にしていた。「私は、皆に可愛がられて育ちましたが、小学校にあがる頃には、リヤカーを引いて歩く長屋の人たちと道ばたで会うと、恥ずかしくて逃げ出すような女の子になっていました」と言う。

政美さんは必死に勉強して音大に進んだが、それは「長屋」から逃げ出し、「別の」自分になろうとしていたのだと振り返る。音大の入学前後、韓国の民主化に連帯する集会などで、誘われるままに韓国のプロテスト・ソングを歌い「在日のジョーン・バエズ」と呼ばれたりもしたが、本人はとても恥ずかしいと感じていたと言う。高橋悠治さんの水牛楽団と一緒に歌ったのもその頃だった。
音大でオペラを学んでいた時も、集会でプロテクト・ソングを歌っていた時も「どんなにきれいな声で、うまく歌えても」違和感とむなしさがあったと言う。それから自分の声、自分の歌をさがす歳月が流れる。

私生活では、結婚、出産、そして娘さんが3歳の時に離婚を経験し、夜は定時制の高校で「朝鮮語」の講師、昼間はゴンドラに乗ってビルの窓拭きの仕事に従事し「もう再び歌うことはないかもしれないと」思っていたと言う。

転機は、詩人の山尾三省さんとの出会い。三省さんが朗読してくれた「祈り」という詩に心を大きく動かされ、その詩を歌にして歌いたいと思ったことだ。
「そもそも歌の始まりは、人々の祈りだったんじゃないかと感じたんです。それなら私は、私自身の深い祈りを歌おうと」

「ありのままの自分を表してあげればいいんだよ」と三省さんに教えられたような気がすると政美さんは言う。そうすると、たくさんの歌が湧き出るように生まれたと言う。代表曲『京成線』もその頃生まれた歌。逃げ出したいと思っていた「長屋」こそ、自分のふるさとなんだと。そうして、こう語る。「異質なもの、役に立たないとされて蔑まれているものの中に、私の命の根っこ、歌の根っこはありました」

永六輔さんは政美さんのことを「僕が思う日本でもっとも美しい声の歌手」とこの本に書いた。たくさんの歌い手を知っている永さんがそう言うのだ。また、高橋悠治さんが「政美がいいよ」と推薦してくれて、このコンサ
ートは動き出した。

永さんも、悠治さんも触れたであろう、政美さんの歌の深いところにあるもの、政美さんが依って立つところは何なのか、どこなのか、それを知りたくて、この文章を書き始めた。

最初、悠治さんに勧められて『京成線』を聞いた時のこと。歌が終わったかと思われた時に「アリラン」の歌が流れてきて、ぼくは涙を止められなかった。京成線の走る葛飾「ここもまた ふるさと」と歌い、一呼吸置いて、「アリラン」の歌が流れたので、葛飾もふるさとなんだけれど、心の中のほんとうのふるさとは「アリラン」が流れる朝鮮半島なんだと、望郷の想いが込められていると感じられたからだった。しかし、それは、ぼくの勘違いだった。

政美さんの歌の根元にあるものは民族的なものではない。そもそも「アリラン」に歌われる峠は、伝説上のものでどこにも存在しない、架空の峠だと言う。
「国籍という峠、民族という峠、人の心の光と闇の間にある峠、この世の中のあらゆる峠を、軽やかに超えてゆく歌、聴き手の心をそこへといざなう歌、そんな歌を歌っていきたいなあ、と思います。私の『京成線』も、『アリラン峠』を越えて走っていく歌なのです」

政美さんを知るための3冊の本のうちの1つ『誰が平和を殺すのか』(佐高信著、七つ森書館)の中では、こう語っている。
「私は日本で生まれて国籍は一応韓国なんですけど、日本からも、韓国からも、どの国からも守られているという実感がない。ジョン・レノンが歌っているように、私もやっぱり国家なんかなくて良いと思うんですよ」
ジョン・レノンの『イマジン』は政美さんの持ち歌の1つとなっている。韓国で日本で、多くのファンを惹きつける政美さんの歌の魅力は、歌と歌声の深部にある、国家を越え政治を越えた、命の尊さ、命への感謝、命への祈りのようなものにあるのだろうと思った。

三条堺町

仲宗根浩

年度の上期を終えて下期に入りいろいろ面倒な仕事上の宿題を出し、とやっていたらもう十二月で、今年は東京で猛暑というものを経験し、二度と八月に東京など行かないぞと、誓い、九月上旬に東京に行ったらその思いいっそう強くなった。
でこっちは、もうすぐ十二月となったところで最高気温が二十五度、秋の装いをしている方々がすこしづつ多くなる中、昼間は半袖Tシャツ、夜たまに冷えると長袖Tシャツ。

選挙が終わったと思ったら来年に県民投票をやるとなると協力しない市長が出てきたりと相変わらずめんどうくさい土地ではある。戦争を体験した世代、復帰前と復帰後を知っている世代、復帰後しか知らない世代ばかりと思っていたら、今はより細分化されているようだ。

通勤途中に聴く音楽、「モントローズ」にしてみるとしばらくしてネットの音楽記事でサミー・ヘイガーがロックの殿堂候補に「モントローズ」が挙がるようキャンペーン中というのを目にする。「モントローズ」は彼にとって初のメジャー・デビューのバンド。でも、あのバンドのあの曲そのまんま、というのもがあるモントローズ。サミー・ヘイガー自身はヴァン・ヘイレンのメンバーで殿堂している。世の中の「ボヘミアン・ラプソディ」ブームとは別のところにいる。

十一月に四半世紀振り以上?、京都に行く。最後の京都は、今回の演奏会の主が演奏者として呼んでくれて以来、今度は裏方としてお手伝い。本番の前日に京都に入り、会場ですこしばかり音だしがあったので立会いその日は終わる。本番当日は午前中、時間が空いているので京都といえば寺社仏閣より三条堺町へ向かうべく堀川通りを宿の五条から三条へバスで移動する。堀川通りから烏丸通りへと三条を歩いて移動する。六角堂とかあったが行くべき目的地は「イノダコーヒ」。「コーヒーブルース」に出てくるところ。小学生の頃に家にあったレコードに「ごあいさつ」という高田渡のアルバムがあった。「イノダ」と「三条堺町」はその頃にインプットされた。アニメ・マニアの聖地巡礼と同じようなものだろう。京都といえば「三条堺町」と刷り込まれている。店に入ったとはいえ、コーヒーを嗜まない私、注文する飲み物もフルーツ・ジュースというのは自分の中でも憚られ、アイス・カフェオレを頼む。
中学生になり国語の教科書に掲載されている詩で覚えがあるものがあった。作者は吉野弘で「夕焼け」だった。これも「ごあいさつ」に高田渡が歌にしている。家に帰りレコードであらためて聴く。それ以来、家にある兄が集めたフォーク、ロックのアルバムのクレジットを見始めてから、ソング・ライター、アレンジャー、バック・ミュージシャンに興味を持つようになった。レッド・ツェッペリンの最初のアルバムはすべての曲で作曲者クレジットがメンバーの一部もしくはメンバーになっていたが、後からオリジナルはトラッドだったり、九月に亡くなったオーティス・ラッシュが歌ったウィリー・ディクソンの作品だった、と知るのは後々の話。

京都からもどり、翌日から通常の仕事にもどる。数日すると身体のあちこちがバキバキいいはじめた。

杉田工事舎

笠井瑞丈

杉田工事舎
二十代の時
アルバイトで働いていた
二年位の期間
私のアルバイト経験の中でも
よくこの時期の事を思い出す

ちょうど道に迷っていた時期でもあった

親方は舞踏家杉田丈作さん
父笠井叡の弟子でもある

人がいないと言う事を母から聞き
ちょうど何もやる事もなく
時間も余っていたので
ちょっと働いてみようと思い
働きはじめたのがキッカケ

杉田工事舎のメンバーは
親方の杉田さん
兄貴的存在の青江さん
そして変わり者の武井くん
そして自分の四人体制

朝7時半くらいにウチの近所の
東八道路のクリーニング店の前で待ち合わせ
そこに車で迎えに来てもらい現場へ向かう

車中ではよくいろいろな話をした
舞踏の事やくだらない下ネタ話まで

舞踏の事は当時まだまったく興味がなかったので
その時はそんな世界もあるんだ程度で聞いていた

そしてよく父の事や学生運動の話もしてくれた事を思い出す

車中ではいつもラジオがかかっていた
そして必ずAM放送であった
私はいつもFM放送にしてほしいと
ひそかにいつも思っていた

最初は師匠の息子という事でちょっと
気を使ってくれていた気もする

でもすぐに親方と従業員の関係になり
私としてはそれでよかったと思った

給料日には国立に集まって
よく飲み会をした
飲み会の終盤になると
決まって杉田さんはからみ酒になる

「お前は親父を超えなきゃいけないんだよ」(杉田さん)
「はあ そうですか・・・・!」(笠井)
「おい 聞いてんのかお前」((杉田さん)
「ああはい」(笠井)
「ああはい? 分かってんのかお前」(杉田さん)
「・・・・・・・・・・・・」(笠井)
「おい 聞いてんのかお前」(杉田さん)
「いい加減しつけーんだよ」(笠井)
「なんだとこの野郎」(杉田さん)

そして飲み会が終わる

そして翌日気まずい気持ちでクリーニング店の前で待つ
でも決まって杉田さんはその事を忘れている
そしてその事についていつも何も触れることはなかった

踊りを始めていなかった私には
親父を越えろと言われても
正直よく理解できていなかった

杉田工事舎を退社して二十年近く
この歳になり杉田さんがなにを
言いたかったのかちょっと分かる気がする

杉田さんは私が踊りをするとを分かっていたのかもしない

いやいや
ただの酔っ払いだろう

でもあの時から
きっと踊りの道は始まっていたのかもしれない

そう考えるとなにか不思議な感じだ