別腸日記(22)旅の道連れ

新井卓

ツーリスト/Touristとトラヴェラー/Travellerの違いについて──どの本だったかポウル・ボウルズは、前者は帰る家がある者たち、後者は帰るあてもなくひとつところに深く潜伏する者たちである、と言った。日本語では旅行者/旅人とさしたる違いはなく、同様に移動性を含むふたつの言葉に、なぜボウルズは一線を画したのか。Travelの語源は定かではないけれど、厳しい労働を意味するtoil/travailの響きをもつこの語が、中世までのしばしば命がけの旅の困難さを孕んでいることは確かなようである。ツーリストたちの旅が究極的には自宅への帰還を目的とする円運動とすれば、トラヴェラーの道行きは、袋小路の、あるいはオープン・エンドな旅にほかならない。ボウルズ自身のタンジールへの旅のように。

いまこの文章を、南イタリアの小都市・サレルノの海岸に座って(ビールとコロッケを片手に)書いている。はじめて映画らしい体裁で作った拙作、映像詩『オシラ鏡』を、第72回サレルノ国際映画祭に出品しあわよくば表彰台に載ってやろうという皮算用なのだが、その話はまたいずれ書くとして、今度の旅は、いつもと全く違う様相を呈しつつある。なぜなら、今回は年若い双子の少女たちと、とひとりの青年と一緒だからだ。三人は映像詩『オシラ鏡』(*)の出演者で、2年前、別のプロジェクトで銀板写真(ダゲレオタイプ)に写ってくれた若者たちである。正直なところ完全自主制作で予算も厳しく、はじめは私も出席せず作品だけ送ろうと思っていたのが、音声の山﨑巌さんとも話して、結局三人を連れていくことになった。

インターネットの発達は、巨大資本を膨れあがらせ地域性を破壊したが、同時に、見も知らぬ個人と個人が文化/国境をこえて直接に繋がり、それぞれが持つモノや知恵を共有する可能性を生み出した。わたしたちが滞在しているのは山手の集合住宅で、ネットで繋がった一個人から一週間だけ借り受けた、仮の住まいである。

どの国に行っても同じ作法のホテル、査証、クレジットカード、保険や旅客機はおそらく、旅の困難と危険を極力減じるために考え出された近代の偉大な発明なのだろう。しかし今、わたしたちは自分たちでシーツを替え、近所の商店でパンや果物を買い、翌日にはもっといい水曜市を見つけて次はここで用を足そう、と心に決める。ありあわせの材料で料理をし、ゴミを出し交代で洗濯もする。わたしたちには日本に帰る家々があるが、こうしてサレルノに得たもうひとつの家によって、現代の旅はふたたび、わずかに、〈トラヴェル〉の様相を呈する。

海外ははじめてという十四歳のレオナとマイラは、もう町の住人のように堂々と道を渡り、長い髪を風になびかせて坂道を下っていく。高山君はいつまでもベッドでスマートフォンをいじっているが早朝、日の出を見に海まで散歩してきたという。わたしたちの生はまったく不思議なものだ、と思う。この世に複数の家、複数の家族があって、その先に輻輳するいくつもの生があるのかもしれない、といたずらに考えて見、すこし怖くなってまたビールに手を伸ばす。このあたりの名物というコロッケ(イタリア語でもコロッケ)はもうすっかり冷えてしまったが、濃厚なチーズと地元の馬鈴薯のねっとりとした生地は、まだ風味を失っていない。もうそろそろ、わたしたちの映画の上演時間である。

*映像詩『オシラ鏡』予告編

ノーベル平和賞にメリークリスマス。

さとうまき

町にポインセチアが売られると、クリスマスの時期がやってきたなあとワクワクする。12月10日は、ノーベル平和賞の授賞式。今年のノーベル平和賞は、ISの性被害を告発してきたイラク・クルド民族少数派のヤジディ教徒のナディア・ムラド氏がコンゴの医師と一緒に受賞する。

ヤジディ教徒といえば、がんで苦しんで死んでいったナブラスのことを思い出す。彼女はイスラム国が襲ってきたときにすでにがんにかかっていたから、ともかく病院のあるドホークを目指したので捕まらずに助かった。2014年、その冬、僕たちは、鎌田實を連れてドホークに行き、ナブラスの避難している家で炊き出しをし、その時にポインセチアを買ってきて、絵をかいてもらった。クリスマスのシーズンになるとどうしてもナブラスのことがわすれられないのだ。すると小太りのおばさんのことも思い出してくる。

毛布とかストーブを買って、ヤジディ教徒が避難していたキャンプに届けた時、そしたら小太りのおばさんがいて、地味に集めた古着とかを配っていたのだ。ハナーンさんも、ヤジディ教徒で、6月にバシーカ―という村が襲われて避難してきたという。シンジャールが落ちたのは2カ月後の8月だったので、少し先に避難してきたから何か彼らのために支援をしなければと活動を始めたそうだ。名刺をあげたら、いろいろと情報をくれるようになり、いつしか一緒に働くようになった。彼女は、ISの戦闘員にレイプされた女の子の面倒とかをよく見ていた。ハナーンさんは本当に素朴な小太りのおばちゃんだったから、女の子たちも信頼していたのだろう。

僕は、同席したときには、何が起きたかを事細かく説明してくれた。言葉がわからないということそして、やはり日本人だから信用できると思われた。こじつけかもしれないが、優れた工業製品を作る人たちは信頼できる!?と思われているようだった。僕たちは、近所の人たちに知れないようにわざわざ3時間かけて遠くのクリニックまで連れて行って妊娠しているかどうかとか言った検査を受けさせ、性的感染症の薬代なども支払った。
http://suigyu.com/noyouni/maki_satoh/post_10.html
30人ほどの、女性の支援をおこない、彼女たちの証言をまとめて、人権NGOであるHRNを通して国連人権委員会にも提出した。

レイプされた女の子には、アマルちゃんという12歳の子もいた。彼女のインタビューは、ハンケイというハナーンさんの避難しているおんぼろの家で行った。おんぼろだったが庭は広く、古着を集めて配るためにそういう家を借りたのだという。目の前に現れたのは、あどけない女の子だった。「私は、両親、1人の姉と2人の兄弟の、6人家族でした。8月3日に、彼ら(IS)は私たちのコーチョという村に侵入し、100人くらいが撃ち殺されました。男性たちをどこかに連れていき、わたしたち女性は学校に連れて行かれました。その後、彼らは若い女の子だけをモスルに連れていき、2日後に2人の男性が来て、私と2人のいとこはシリアに連れて行かれたのです。彼らは私たちを空き家に連れて行って、3日に1回来ては、強姦して去って行きました。彼らは食べ物を買ってきて、私たちは自分たちで食べたいものを料理していました。何人かの女性たちがヤジディ教徒を助けている男性に電話をかけ、自分たちの住所を知らせた。その人は別の男性を送り、逃げるのを手助けしてくれました。朝4時に男性が来て、11人(2人は子ども、それ以外は女性)を車に乗せた。そして2015年6月19日にドホークにたどり着きました。両親と兄弟らはまだISISに捕まっており、何の情報もありません。」
(後日、親せきは解放の手助けをしてもらうのに、1人5600ドルを支払ったと話している。)

その時に彼女は、自分以外の家族の肖像画をかいて無事でいてくれることを願っていた。ハナーンさんは、自分の娘とかぶさったという。その年の秋には、「実は、イラクを去ることを決めたの」と打ち明けた。目には涙を浮かべていた。「日本人が、私たちを助けてくれているのに、逃げるなんて申し訳ない」という。

イスラム国は、まるで流星のように突如現れたように日本では報道されたが、少数民族への蔑視は、今に始まったものではないから、隣人がいつ自分たちを襲ってくるかもしれないという不安が付きまとう。歴史上74回自分たちは虐殺を受けた。75回目はいつ来るのかと。

ハナーンさんは、トルコの山を越え、ギリシャの海を渡り、今はドイツで暮らしている。そんな彼女にも、ノーベル賞を上げたいし、アマルちゃんも、ノーベル賞を上げたいなあと思う。そして、がんで亡くなったナブラスちゃんも! 今年のノーベル平和賞は、性暴力がテーマのようだが、ヤジディの人たちのことを忘れないでほしいと思う。

彼女たちの苦しみを、残虐なISの男どもの性暴力という風に位置づけるのではなく、やっぱり日本が加担したイラク戦争が生みだしたIS。その結果犠牲になってしまった少数民族の女性たちの悲劇である。おめでとうと言いながらも責任を感じてほしい。

ジョージアとかグルジアとか紀行その2 暮らしの中のワイン作り

足立真穂

ジョージアでワインを作っている人に会いたい。

ずばり、今回の旅の目的はこれに尽きる。
とはいえ、旅は道連れ世は情け。前回に書いたように、ジョージアは最古のワイン生産国であり、最近世界遺産になったので人気急上昇中なのだ。
そこで、一緒に飲みに行こうと友人を誘うことにした。「飲んでみたい!」とさっそくコーカサスくんだりまで同行してくれる腰の軽い人が複数周囲にいたことで準備は加速し、英語さえあまり通じないと聞き「大勢でなら必要でしょ!」と通訳兼ガイドを雇うことに。後から思うに、これは本当に雇ってよかった。
ツテをたどって紹介してもらったのがニアさん、夫婦でワインを作っている40代後半の女性だ。お互いテキトーな英語を駆使してメールでやりとりしつつ、旅程を決めた。これが思いがけずとんでもなく過酷な旅を生み出したわけだが、それはまた後で追い追い語っていこう。

待ち合わせは首都、トビリシのホテルだ。日本から、ヘルシンキから、ベルリンから、ニアさんはジョージア第二の都市クタイシ近郊の村から、全員集合である。地球はまるい。目的のある旅の場合は現地集合現地解散の旅が便利なので、このパターンが最近増えた。

ニアさんとは初対面とはいえ、この夫婦が作るワインを飲んだ経験はあった。『ジョージアのクヴェヴリワインと食文化』(島村菜津、合田泰子、北嶋裕著、誠文堂新光社)という本の刊行記念パーティにお呼ばれし、その時に味わっていたのだ。ちなみにこの本はジョージアに行く際にオススメだ。歴史や観光地についての記述もあるし、特にワインを飲みに行く場合は、ぶどうの品種から生産者の人物紹介まで載っているので、必携だと思う。

あのすばらしいワインを作る人なら安心だ。
この安心感は、旅の間に確信に変わっていく。

最初の夜は、ニアさんオススメのレストランへ。メニューがとにかく豊富、というよりもそもそも何が何だかわからないので「えーい、オススメを持ってこーい!」となるのは常だったが、旅の間終始、つくづくジョージアという国は食が豊かな国だと実感するばかりだった。
私が今まで食べたことのある他の地域の料理ではトルコ料理が一番近い。隣の国なので当たり前かもしれないが、乳製品、特にヨーグルトの酸味をうまく生かしており味わいが複雑で、発酵食文化があると言っていい。
ハーブ系の香辛料を多用し、レストランや家庭では手作りのパンや飲み物を多く見かけた。最初に出かけたレストランでは、手作りのレモネードを何種類も出していたし、それくらいは朝飯前、その場で手作りしているものだらけ。北部の田舎町では、シンプルでなんてことはない山中のレストランで、その場で解体した牛の煮物や、自家製の窯で焼いたチーズパン(「ハチャプリ」という。覚えておきたい旅のジョージア単語だ)を食べることができた。
野菜や果物はそれ自体の味が濃く、口の中で弾けるかのよう。スーパーで買う日本のものは、形は綺麗だが味が薄く感じてしまうのだが気のせいだろうか。
贅沢とはこのこと。今の日本でこんな風に食べられる機会はどれくらいあるだろう?

道中、ニアさんの夫のラマズさんの名前を冠するワインメーカー「ラマズ・ニコラゼ」でのクヴェヴリワインの製造風景を見せてもらった。

まずは畑で収穫だ。なんとこの夏はジョージアでも暑かったそうで、ワイナリー巡りのつもりが「収穫やるんで御免!」と3軒も訪問キャンセルに。「ワインは農業」とはよく聞くフレーズだが、その年の気候に左右されるものだと体感することになった。とはいえ、ラマズさんにじっくりその分話を聞き、見学させてもらえたのはラッキーだった。
ラマズさんのワイナリーは、ジョージアの西部、イメルティ地方にあリ、ジョージア第二の都市、クタイシ近郊の村の一角だ。収穫の最中に出かけると、「村の男たちを呼んだ」そうで、ぶどう畑のそばにあるワイナリーの素朴な小屋(クヴェヴリの埋めてある場所を「マラニ」と呼び、小屋まで含めて称する場合が多いようだった)には、何やら屈強なジョージア男性が10人ほどわいわいガヤガヤ。人海戦術で、この人たちを雇ってこれから数日の間、ぶどうを収穫していくのだという。
ニアさんは「あの人たちのご飯を作るのが誰だか知ってる!?」と叫んでいたが、作っても作っても終わらなそうだ。ごめん、野菜を切るくらいは手伝うよ。頑張れ、ジョージアの肝っ玉母さん!

畑の普段の様子はこちら。

採れたぶどうは、こちらの圧搾機で押しつぶしていく。回してみたら結構な力技だ。去年までは木製のたるの中にぶどうを入れ、足で踏んでいたそうだ。

このジュースの段階で既に美味しく、何杯でも飲めるほどだった。
次がお待ちかねのクヴェヴリ、素焼きの壷の登場だ。地中に埋めて、その中にホースでぶどうジュースを流し込んでいく。果肉や種などすべて入れる。

品種や出来具合によって時間を調整しつつ、1ヶ月ほど、日に数回時々混ぜながらアルコール発酵を待つ。

この後は、赤ワイン用と白ワイン用に分けて果肉などの処理をし、ガラス板や木の板で蓋をする。乳酸発酵したところでしっかりと主に粘土であらためて蓋をし直し、密封の上重しを載せる。地域やワインによって異なるものの、さらなる熟成や瓶詰めをして仕上げていく行程だ。。

別室には貯蔵庫もある。

そこでラベルを貼って完成だ。

と流れを追うのは簡単だが一筋縄でいかないことは言うまでもない。「毎年状況は変わるから試行錯誤だよ」とのことだ。

クヴェヴリは、専門で作る職人がいるとのことでそちらも訪ねた。

ザリゴ・ポジャゼさん、8歳で壷をつくり始めて現在67歳。5代ほど続くクヴェヴリ作りの家系だ。クヴェヴリを作る製作所はジョージア全体で10軒ほどだそうな。

入り口にコンクリートで壁を作った窯の中で2日ほどかけて1000度で焼き(大きさや用途で異なる)、周囲の壁を壊して取り出し、冷ましてから内側に蜜蝋を塗る。これを温めて浸透させ、ワインの浸み出すのを防ぐのだそう。強度をあげる場合は外側にセメントを塗るなど手を加えるという。
最近では世界遺産になったこともあり、海外からの注文でうれしい悲鳴をあげているのだとか。息子さん二人が継ぐそうで、後継者問題もクリアしている愉快な壷職人さんであった。庭からとってきてくれたぶどうのおいしかったこと。
写真は2000リットルは入るというクヴェヴリ。

ラマズさんがワイン作りを実家に戻って本格的に始めたのは10年ほど前のこと、実家ではずっとお父さんが作っていたそうで、小さい頃には手伝うこともあった。Uターンの前はトビリシに学び、その後「ヴィノ・アンダーグラウンド」というトビリシ市内のワインバーで長く店主を勤めていた。
大学の同級生だったニアさんは、トビリシではなんと数学を私塾で教えていたというから驚いた。今住んでいる家(ワイナリーの通りを挟んで目の前)には週末だけ通っていたが、ワイン作りの決意とともに移り住んだ。とはいえ、都会から来て戸惑うことも多く、うまく都会と田舎のバランスを取らないとどちらかだけでは息が詰まる――そんな話が印象的だった。

この「ヴィノ・アンダーグラウンド」に第一夜に出かけた。トビリシはジョージアの玄関口なのでお出かけの際は是非この店へ。「クヴェヴリ・ワイン協会」メンバーのワインをここで味わうことができる。旧市街を歩いていると、あちらこちらでワインショップを見かけるし、多くが立ち飲みできるバーにも早変わりするのだが、ここは雰囲気も良く、落ち着いて選んで飲め、購入もできるのでオススメだ。

とはいえ、クヴェヴリワインというのは、製法からもわかるように非常に生産数が少ない。農薬や添加物を一切使わないので、作られる量が限られているのだ。
そして、当たり前だが「ジョージアワイン」と呼ばれるもののすべてがクヴェヴリワインとイコールとは言えない。販売されている箇所も限定されるので、確認してから買ったほうが良いだろう。

何本かラマズさんのを含めクヴェヴリワインを持ち帰って、友人の小料理屋で試飲会を開いた。一様に参加者が驚いたのは飲んだ後の爽快さだ。私自身がワインに詳しいわけではまったくないのだが、すっきりしたワインの質が格別で、他では飲んだことがない類のものだ。
世界は広い。こんなお酒を壷の中で発酵させて作ってしまう驚愕の国、ジョージア。次回は、この充実の背景を追ってみたい。

169わらべ歌、さいご

藤井貞和

なよたけのさいごのことばは「竹! 竹!」
なよたけ! おまえは何を言ってるんだ!
何を! お月さまが迎えに来るなんて、
そんなことがあるもんか! おまえは、
疲れてるだけなんだ。 からだをおやすめ!

高畑さんが言う、「姫の犯した罪と罰」は、
わらべ歌のなかから聞こえる。 でも、
ぼくらには聞こえないね、わたしたち。
妖怪は引き継がれる、光源氏(源氏物語)へ、
かぐや姫も妖怪変化、その終り方――

箕(み)をあおり、姫をかなたへ飛ばし、
手足を切って籠に編む。 「風立ちぬ」の歌も、
世界が一冊の神話たりえているために、
世界が一冊の神話たりえている限り、
ぼくら、わたしたちの信頼のなかで生きる。

もう、かぐや姫はいない。 犠牲者のあと、
もののけ姫もいない。 おしらさまも、
おりひめも、火のなかから水晶の叫び。
鼠の浄土で逢おう、ぼくら、わたしたち。
そんなにむずかしいことじゃない、逢おう。

(現代詩って何だろうな。どう書けばよいのか。「何を今更」じゃない、わからなくて日歿の時、井戸の涸渇だ。「なよたけ」は加藤道夫『なよたけ』でも、知らない人、多いし、そういう情報、要らないね。「竹! 竹!」がほしいのに、朔太郎の「竹」がじゃまをするかな。そちら 近代で、こちら 月がお迎えにくる時代よ。加藤は折口の『死者の書』を軍装から手放さず、ついに持ち携えて帰国した。そんなこともいま、要らないね。かぐや姫は竹だから、手足を折られ、皮は「竹籠に」と細工されるのさ。哲学者デリダの詩の定義に「大省略」というのがある。すべては大省略よ。なんで「姫の犯した罪と罰」がここに出てくるの? 大省略だから、説明は要らない。アニメ『かぐや姫』のキャッチコピーだった。いや、『もののけ姫』だったかも。)

ドアと蝶番

高橋悠治

マルセル・デュシャンが1927年に住んだパリのラリー街11番地のドアは 一枚のドアが前後に回転して二つの部屋のどちらかを閉める 写真では ドアは中間の位置にあり 両側の部屋がすこしずつ見えている

ドアはゆれている そこから見え隠れする風景もゆらいでいる ドアが手前にひらくか奥にひらくかによって 見える部分がちがうし 一枚のドアには表と裏があり そのどちら側から見るかによって 見えるものはちがう

二つの部屋のあいだを行き来するドアが 一方の部屋を閉じる時は もう一方は開くから 開いていて同時に閉じている このドアの場合 「ドアは開いているか閉まっているかどちらかだ」とは言えない それだけではなく このドアが行き来する空間は第三の部屋のなかにあり その部屋はこのドアでは閉めることができない と考えると このドアは閉めるためではなく 閉められない空間を作るためにあるのかと 言いたくもなるだろう

このドアの両開きの蝶番は バネをもたない自由蝶番で スイングドアのように両側に回転しても どちらかの部屋を閉めた状態に自動的にもどることはない どちらの部屋も開いている中間の位置で手を放せば そこで停まったままでいる どっちつかずで浮いている状態なら どちらかを閉めた時よりは 見える範囲がひろく 見えるものも入り混じっている  

ウィトゲンシュタインは 問題には意識もせず疑いもしない前提があることを ドアは動くが 蝶番は動かないことにたとえた(『確実性について』341.-343, 655. 1969出版 )アーティストがそれまでにないドアを作ってから 哲学者がドアを問題にするまでに 世界は一つの戦争をはさんで変わった 一枚の例外的なドアではなく 見えるドアから見えない蝶番が意識にのぼる  

アルチュセールは1980年代の未完の「出会いの唯物論」で エピクロスからはじまる裏の哲学史を書こうとしていた 生きている世界のいま 落ちてくる偶然とぶつかり 思ってもみない遠くへ飛ばされるか 他のものと絡まり 隙間に閉じ込められて 波打つ 起源も目標もない変化 道でない道をたどり 選ばなかった可能性の束をふりかえり 見えない夢に背を向けたまま 風にはこばれてゆく

ドアを支える蝶番も浮き上がり ドアは透明な厚みのない膜になって 両側から流れてくる雑多なものを通す 通り抜けられなかった重く濃い流動物が両面にひっかかって 輪郭のぼやけた影を残す

2018年11月1日(木)

水牛だより

東京はよく晴れた気持ちのいい日です。暑くもなく寒くもない。しかし秋を満喫している気がしないのはなぜでしょうか。秋といえば秋にまちがいはないけれど、いわくいいがたい不安定さが隠されているような。。。

「水牛のように」を2018年11月1日号に更新しました。
今月から足立真穂さんの連載がスタートです。編集者として活躍している足立さんが遅い夏休みをとってジョージアに行く、と聞いて、考えるより先に「それ、書いて」とお願いしました。ジョージアといえばワイン、という短絡的なわたしの考えが通じたわけでもないでしょうが、やはりワインのことが中心になりそうです。素焼きの壺にぶどうジュースを注いで、それを地中で発酵させる。飲んだことはなくてもおいしいのはわかりすぎるほどです。
そして、ジョージアはシリア、イラク、イランなどとも近いのです。

先月、モンコン・ウトックが亡くなったことをお知らせしました。森下ヒバリさんとの短いメールのやりとりで、モンコンが亡くなったところにヒバリさんが居合わせたと思ってしまい、そのように書いたのですが、実際はその場に居合わせたわけではないそうです。スミマセン。でもバンコクに滞在していたので、ニュースは早かったし、納棺やお葬式にも参列され、遠くにいるわたしたちの愛惜の思いをモンコンに伝えてもらうことができたのでした。

10月12日の遅い朝のこと。いつものようにPCにはりついていたところ、不意に小杉武久さんのことが強く思われたのでした。訃報が届いたのはその日の夕方でした。解放された魂が我が家まで来てくれたのかもしれません。

それではまた!(八巻美恵)

ジョージアとかグルジアとか紀行その1 世界最古のワイン国

足立真穂

「世界でいちばんワインを飲むのはどこの国だと思う?」
「え? フランス?」
「違う違う。アメリカ。じゃあ、いちばん古くから作っているのは?」
「エジプト、とか?」
「違う違う。グルジア!」
グルジア、ってどこだっけ? 旧ソ連、コーカサス、栃ノ心(とちのしん)。あ、黒海も。ってことは黒海沿岸の国なのかな。

「グルジアって、国名を最近ジョージアに変えたんだけど、世界でいちばん古くからワインを作ってるんだって」。

へえ、そうなのか。聞けば紀元前8000年までさかのぼるそうな。その時代の土器からぶどうの種が見つかっているのだ。少なくとも紀元前6000年に作っていたのは確実のようだ。古代エジプトでワインが作られたのは紀元前4000年末期なので、ジョージア(グルジア)は相当に古いということになる。

ちなみに、ジョージアは古くから作っているだけで、世界でいちばんワインを消費しているわけではない。消費国で言えば、1位アメリカ、2位フランス、3位イタリア、以下ドイツ、中国と続く。日本はやっと16位で顔を出す程度だ(the wine institute,2015)。一方で、一人当たりの消費量でいえば、1位はアンドラ公国(スペインとフランスの間)でワインボトル約76本分(日本は年間一人当たり4本)、2位はバチカン市国、3位はクロアチア、……でアメリカは55位で一人当たり1本。国別だと順位はある程度人口に比例するといえそうで、やはりヨーロッパを中心にしっかり飲んでいる人は飲んでいるということか(数字は「デイリーテレグラフ」2017年2月17日記事より)。

そうして意識をし始めると、大してワインに詳しくもないのにジョージアワインが気になり始める。そしてそのうちに、ジョージアという国の名前がどこにでもチラついてくる。調べてみれば、古い文明がドシドシ交錯していたであろう「コーカサス」にあり、国境を接する国は、トルコ、アルメニア共和国、アゼルバイジャン共和国、タゲスタン共和国、チェチェン共和国、ロシア連邦、など。「コーカサス」は黒海とカスピ海の間の、コーカサス山脈を囲んだ一帯をさすそうだ。フライトを調べてみると日本からの直行便はなし。外務省のサイトを見ると在留邦人数は45人。少なっ!

マップラバーなので、コーカサスの地図を見ているだけで盛り上がってくる。オリンピック(2014年)のあったソチは黒海沿いに南下すればジョージアまですぐだ。このあたりは、モスクワなどからもリゾート客がやってくるらしい。

ここでデータをインプットしておこう。たとえば日本と比較すると、国の全体像を把握しやすい。最新と思われるデータを拾うと、1991年のソビエト連邦崩壊で独立したジョージア、その面積は日本の約5分の1で、人口は390万人(2017年、国連人口基金)だ。その多くがキリスト教(ジョージア正教)を信仰している。首都はトビリシで一人あたりのGDPは4086米ドル(世界113位。日本は38449米ドルで25位。2017年、IMF)だ。失業率は11.8%(2016年)と、決して低いとはいえない状況だし、産業は鉱業、農業といったところで、隣のアゼルバイジャンなどと違って石油は出ないこともあり、お金を潤沢に持っているとは言いがたいような。

2015年と最近になって、「グルジア」から「ジョージア」へと日本での呼称を変えた背景には、ジョージアの親欧路線に対してのロシアの牽制、2008年のアブハジアや南オセチアといった土地をめぐってのロシアによるジョージア侵攻、それに伴う経済制裁があるのだろう。国名を「グルジア」とロシア語読みするのを嫌う人が増えたから、と私は旅先で聞いた。当時は、一説によるとロシア軍は首都トビリシまで迫ろうという勢いだったそうだ。そんなことからたった10年しか経っていないとは。

内戦のことは、北西部のスヴァネティに旅する道中の車中から、その前線となった街の一つを見ることができた。ソ連時代の共産主義的モニュメントが街の中心広場を覆い、ソ連時代に建てられた建物の空き家が目立ったのは気のせいだったのか。

さて、2013年には「クヴェヴリ・ワイン」という伝統的なワインの製法が、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。和食やフレンチ料理が登録された、あれだ。なにしろ、地中に埋めた素焼きの壺にぶどうジュースを注ぎ込み、そこで発酵させてワインをつくるのだという。この土地への好奇心は決定的になるというもの。

「ジョージアは、ワインと相撲、これに尽きる!」
こう喝破したのは、その1年半後に出かけたジョージアを案内してくれたニアさんだった。彼女は、ジョージア西部で「クヴェヴリ・ワイン」を手ずから夫婦で作っているワインメーカーだ。おそらく日本人サービスを多少含むにしても、ワインを作る前はトビリシで教師をしていたという彼女の説明は簡潔だ。

もともとジョージアでは、モンゴルと同じでレスリングが盛んで全国大会も開かれるほど、スタイルは違うにしてもレスリング自体が人気競技なのだ。だから、あの「ヘアスタイル」や「巻いているもの」には驚いたそうだが、黒海や栃の心の活躍が我がことのように嬉しいのだという。

ワインは、といえば、これは話が長くなる。ニアさんのところで見たぶどう畑、製作現場、ワインの味を次回は紹介していこう。(つづく)

帰ってきた安田純平

さとうまき

安田純平が帰ってきた。

彼とは、信濃毎日新聞に勤務していた2002年に知り合った。イラク戦争が始まろうとしていた時。その後、「会社からイラク行きの許可が下りない。フリーランスでイラクに行きます」と連絡をもらった。イラク戦争がはじまったとき、ヨルダン国境からなかなかイラクに入国できなくて苦労している姿を見かけた。大手メディアは、イラクのビザを取っていたが、会社が危険だからといって許可をださない。

現場の記者はイライラしていた。大手メディアは、フリーランスと契約して前線からの記事を出そうとしていた。しかし、フリーランスだとイラク大使館がなかなかビザを出さなかった。僕はといえば、人道支援ということでビザを出してもらったが、やっぱり戦争がはじまると、なんでも自分でやらなきゃいけない。寝袋とか、発電機とか使ったこともないし、そういうサバイバル系は苦手だったので躊躇していたけど、大手メディアが声をかけてきた。「ビザ持ってますよね?(イラク)いかれたら一分●●円で衛星電話でレポートしてください」とか言ってくる。

結局安田さんたちは、サダム政権が、もう崩壊しちゃうと判断したイラク大使館が、お金を出せば、ビザを出すとバーゲンセールしてしまったために、無事にビザをゲットしてイラクへ入っていった。

大手メディアは、そのころまだもたもたしていて、僕らと一緒にご飯食べて酒を飲んでいた。「日本のNGOがイラクに入れば、(それを取材するといえば)さすがに本社の方から許可がでるので、行かれるときはぜひ、ご一緒させてください」という。しかし、数日後にはサダム政権が崩壊し、各社とも、一斉にバグダッドを目指して僕は置いてけぼりを食ってしまった。まあ、そういう風にメディアは苦労して、ホットな情報を伝えてきた。

2012年7月、僕はダマスカスにいて、彼はアレッポにいた。同じ国なのに見ているものは全く違った。シリアにどう向き合えばいいのか。アサド政権に惨殺される子どもたちを目の当たりにした彼。でも、アサドを倒したところで、平和が来るとは思えなかった。ダマスカスはアサド政権のおかげで治安が保たれていた。「ダマスカスは、予想に反して普通に人々が暮らしている」というのを、電話で話したのを思い出した。

2015年、シリアの取材がだめなら、イラクに来たいというので、アルビル事務所の地下室を自由に使っていいよっていったら、「ありがたい」という返事が来た。アルビル事務所の地下室といえば、泣く子も黙る地下室として、仲間内では有名である。

夏は50℃近くまで気温が上がるが、地下に降りるとひんやりしている。しかし、みんな近寄りたがらない理由はたまにゴキブリがでるからだ。僕は、それでもくそ暑い日は地下室で仕事をする。自分の部屋にしてもよかったが、ゴキブリ男みたいに言われるのは少し抵抗があった(大体日本人はゴキブリに騒ぎすぎる)。そしてその後連絡がなくどうしているのかなと連絡を取ろうと思ったら、菅官房長官が、安田さんがシリアで拘束されたと発表したのだった。あれから3年以上がたち、安田さんのために開けておいた地下室はゴキブリの巣窟になった。

前々から不思議なことにゴキブリが地化室で死んでいく。餌もないのに台所ではなく地下室で死んでいく。気温も快適なのになぜ死んでいくんだ?最初は一匹死んだだけでも、大騒ぎして処理していたが、次第に放置しておくようになり、気がつくと50匹くらいのゴキブリがカサカサにないって死んでいた。その家も結局10月頭に引き払った。

そして帰国すると、いきなり、新聞社が、安田さんが解放されたことに関するコメントを求めてきた。「よかった! うれしい!」それしか思い当たらない。しかし、案の定、「退避勧告を無視して危険なところに行くなんていかがなものか」という話をメディアが真剣に議論している。いやー、それを言うなら、ジャーナリズムはいらないっていう話をジャーナリストたちがしているわけで、危機的なものを感じてしまった。

今から14年前の自己責任論は、自衛隊の撤退を武装勢力が人質解放の条件にしたから日本政府も必死になって、自己責任論を流布した。しかし今回は違う。政府も、助かってよかったと。問題は、意地悪な市民だ。ありもしないことまでネットで拡散して楽しんでいる。そして、メディアも視聴率が上がるからそういうネタを報道している。新聞も最近はインターネットで読めるようになり、各記事のアクセス数が簡単に出るから、やっぱりそういうありもしないようなゴシップを平気で垂れ流す。

有名なジャーナリストがかつて言った。
「戦争の最大の犠牲者は「真実」である。」
真実なんてどっちでもいい。アクセス数がすべてだ。これがネット社会の恐ろしさだ。

秋の日の片岡義男三昧

若松恵子

片岡義男の新刊『あとがき』(2018年10月/晶文社)は、その書名の通り、彼の書いた「あとがき」ばかりを集めた本だ。発売を心待ちにしていた。多くの片岡ファンも同じ気持ちだと思うが、新刊を手に取るとまず「あとがき」を読む。新刊のあとがきに、彼の最新の声を聞けるような気がするからだ。

今回の本には、1971年の『ぼくはプレスリーが大好き』から2018年の『珈琲が呼ぶ』まで、発行年代順に137の「あとがき」が並ぶ。一度は読んだことがある「あとがき」。今も色あせてはいない。これだけ続けて読んでも飽きないのは、ひとつひとつの「あとがき」が著者自身による最良の作品解説になっているからだ。こんな風に簡潔に、明晰に作品を語ることなんてできないなと思う。

『波乗りの島』(1979年/角川書店)のあとがきのなかに、自分が描く世界について触れたこんな言葉がある。「小説を書くときにどうしてもぼくがこだわるのは、湿りのごくすくない、しかも広い空間のなかに、人の気持が解き放たれるか、あるいはそのような可能性の大きい世界に、舞台を設定したい、ということだ。(中略)陽ざしとか雨とか、空や海の広がりを相手にするとき、人は、気持ちをせまく湿らせたままでいると、役立たずになってしまう。乾かざるを得ないという状態がながくつづけば、ごく自然に乾いていることが当然になってきて、ぼくとしてはそのような世界がいちばんいい。」この言葉を読むことで『白い波の荒野へ』のラストシーン、主人公が祖父の口癖として、その意味もわからずに覚えていた言葉「ようけ働かんと食えんがの」とつぶやく場面がなぜ心に残るのか、その不思議な味わいの意味がわかったような気がした。

作品が生まれたきっかけや作品を書いた季節についての記述も度々登場して、それも「あとがき」の魅力のひとつだ。「太平洋を越える飛行機のなかで原稿を書き続けたことを僕はいまでも覚えている」なんていう記述には、作家の姿が垣間見えて本当にワクワクしてしまう。『ぼくはプレスリーが大好き』が改題されて『音楽風景』となり、さらに『エルヴィスから始まった』という題名でちくま文庫になった時のあとがきには、この作品を書き始める直前、エルヴィスの足跡を訪ねたアメリカの旅のことが語られている。このあとがきは今回の本で初めて読むことができた。本編には出てこない、片岡自身の物語として心に残る。

『スターダスト・ハイウエイ』(1978年/角川文庫)のあとがきには、雑誌に書いた短いエッセイが引用されている。夏の間、牧場の納屋の外に置いたベッドで眠る老夫婦の話だ。
「夜、月が高くのぼるころ、林のずっと遠くから、月光の中を夜の風に乗り、林の樹々のてっぺんをかすめ、コヨーテの鳴き声が、老人夫婦の耳に届く。(中略)ならんでベッドに腰をおろし、夜の林に姿を見せる魔女やゴブリンたちを、ふたりは飽かずながめる。夜の主役たちのじゃまをしないよう、ふたりはそっとむこうの林を指さしては、小さな声で語りあう。」たぶん生涯経験することがないであろう夏の夜の風に、想像のなかで吹かれる。こんなに印象的な「あとがき」を、かつて私は読んだのだろうか。本棚から角川文庫の『スターダスト・ハイウエイ』を探しだして、ページをめくると、確かにその物語は「あとがき」のなかに引用されていた。私の文庫本は、1980年1月発行の第4版だ。

収録されている「あとがき」は、赤い背表紙の角川文庫の1980年代が46と一番多い。書店に並ぶたびに購入して次々に読んだ時代だ。残念ながら解説のみであとがきが無い文庫もいくつかあるが、今回、この時代のあとがきを読んで作品を読み返したくなった。順番に本棚から抜き出してきて読み返していくと、あっという間に時間がたってしまう。あとがきと作品とを行ったり来たりしながら、秋のよく晴れた休日は、片岡義男三昧の一日となる。

多可乃母里

時里二郎

6
里の者は
この子の祖父は
生きているのやら
死んでいるのやらと言うが
この子の祖父の消息は
わたくしが よく知っている
ほかでもない わたくしこそは
この子の祖父なのだから
この子の祖父であるわたくしが
わたくしを作って
わたくしのなかに入ったのだから

7
ようよう
ここまで来た
ここまでが
わたくしの来歴
身を捨てて
このかたい木に変じたわたくしの来歴
里を捨てて
森の奥に分け入り
森に弾かれた者の来歴
その折りに 弾かれまいと
しがみついていた木もろともに
飛ばされたところが
たかのもり
多可乃母里と記された
ことのはの土地

まだこの子に会うまでの日月を
指に折ることすらできないころにまで
さかのぼり
さかのぼる
ことのはのとち
たかのもり
多可乃母里
・・・・

アジアのごはん(95)腸内細菌にゴハン!

森下ヒバリ

9月号にビルマのシャン州の納豆の話を書いたが、シャン州の旅から帰ってくると、妙に体調がいい。そういえば、前回のシャン州の旅のあともそうだった。ヤンゴンで過ごした後は湿気とカビ菌にやられて寝込むほどなのに、この違いはいったいなんなんだろう。シャン州は田舎で空気がいい、人も少なくてのんびり、市場が楽しくてゴハンも美味しくて毎日が楽しいから? う~ん。

シャン州のニャウンシュエから、タイに戻る途中に寄った、マンダレーのビアーステーションで生ビールを頼み、つまみに付いてくる炒り豆をぽりぽり齧りながら考えてみた。
「この炒り豆、うまい!小さいけどひよこ豆かな?」「あ、お兄さん、ビールもう一杯。それと、この豆もおかわり!」

シャン州の食事はやたらと豆製品が多い。ビルマ料理も豆をよく使うが、もっともっと使う。納豆を料理によく使うし、出しにも使う。そして、各種ゆで豆やもやし豆を青菜と炒めたり、カレーに入れたり、豆のスープ、ひよこ豆の粉から作る豆腐、それを薄く切って乾燥させたものを油で揚げるおつまみ‥。米麺のシャン・ヌードルにもコクを出すために仕上げにひよこ豆の粉をふりかけるし、さらに茹でえんどう豆の天ぷらがトッピングされることもある。

市場に行くと、生の豆はもとより、茹でた豆も売っているし、炒り豆のコーナーもある。ニャウンシュエのミンガラーバ市場の炒り豆コーナーは何種類もの炒り豆を売る店が平日で3~4軒、五日市の時は10軒ぐらい出ている。豆好きの相方はもう、はしゃいで一度に何種類もの炒り豆やフライビーンズを買うので、シャン州にいる間は常に部屋に豆があり、毎日外食でも豆を食べ、部屋でのおやつにも豆を食べ、の毎日であった。

しかも、この豆がまたおいしい。前回の旅の時に、市場で「炒り大豆かあ‥」と何気なく味見してみたら、えっとのけぞった。うまいじゃいの、これ。日本で料理するときにはわりと豆を料理に使うほうだ。しかし、大豆をそのまま、という食べ方は好きではないので、炒り豆を食べることもなかった。味付けなしの、ただカリッと炒っただけの大豆やひよこ豆や、名前の知らない豆がこんなにうまいとは。

シャン州に行くと元気になるのは、やっぱり豆をたくさん食べるからかな、と思い至ったところでハヤカワ・ノンフィクション文庫の「腸科学」(ジャスティン&エリカ・ソネンバーグ)の中で語られていた、「腸内細菌に食事を与える」というくだりを思い出した。日本に戻ってから読み返してみると、やはり豆類は腸内細菌の食事である食物繊維が豊富である。(ただし、この本の中では、食物繊維という定義が国によって違ったり、測定方法がまちまちであったりすることから、「腸内細菌が食べる炭水化物microbiota accessible carbohydrates」略してMACマックと呼んでいる。)

近年、腸内細菌の役割と重要性が科学的にもかなり分かってきて、腸内細菌叢を豊かに保つことが健康維持に重要であることは、周知されつつある。では、腸内細菌叢をよい状態にするにはどうしたらいいのか。

たいがいの人はヨーグルトを食べるとか、味噌や納豆などの発酵食品をつとめて食べるのがいい、と答えるだろう。または、ビオフェルミンを飲むとかプロバイオテクス(有用菌)のサプリメントを飲むとか。

これも間違ってはいない。しかし、これは腸内にいる常在菌ではなく、通過していく有用菌と呼ばれる微生物を摂取する方法だ。有用菌は腸内常在菌ではないが、これまた大腸の中で重要な働きをするので、これらを食べることは大切である。また環境から抗菌剤などの菌を殺すものをなくす、むやみに抗生物質を飲まないということも重要である。

そして、もうひとつ大切なのが、腸内細菌が食べる食物、つまり腸内細菌のゴハンを食べることなのだった。腸内常在菌のゴハンとは、人が食べて小腸で吸収されなかった、出来なかった炭水化物(MAC)、(ここではややこしいので日本式に食物繊維と呼ぼう)である。食物繊維とは植物に含まれる難消化性の炭水化物のこと。水溶性食物繊維と不溶性食物繊維とに二分され、水溶性はペクチン、グルコマンナン、アルギン酸などで、不溶性はセルロース、へミセルロース、リグニンなどが含まれる。

腸内細菌は、人が食べた植物性の炭水化物(糖類)のうち、小腸で吸収されなかった(できない)多糖類の炭水化物である食物繊維を大腸で食べる。ちなみに人は胃と小腸で食べ物の消化・吸収をおこない、腸内細菌は大腸に住んで自分たちの食べられる食事が回って来るのをじっと待っているのだ。

この腸内細菌の存在は、ヒトにとってなくてはならぬもので、人類発生以来、共存してきた大切なパートナー。大切なペットと考えてもいい。エサをやらなくちゃ、弱って死んでしまうよ。毎日喜びと健康を与えてくれる、愛おしいペット。ペットが死んでしまったらこちらも弱って病気になり、死んでしまうぐらいの深い結びつきだ。ペットに興味のない人は、大切な恋人、妻や夫でも子供と考えてもいい。

とにかく、自分が食べなければ可愛い腸内細菌くんたちのところに食事が行かないのだから、小腸で吸収する栄養以外にも、ちゃんと腸内細菌用の食べ物を食べてやらなければならないのである。

腸内細菌たちの食事をとるのをむずかしくない。とにかく毎日、植物性の食べ物をたくさん食べればいい。食物繊維は植物に含まれる。食物繊維の中でも水溶性のものが多いものをなるべく選んで食べるのがいい。菜の花や春菊などの青菜、にんじん、たまねぎ、ごぼう、ブロッコリーなどの野菜、にんにく、らっきょう、ゆりねなどの塊茎、いんげん豆、えんどう豆、大豆、ひよこ豆などの豆類、こんぶ、かんてん、ワカメなどの海藻類、りんごやバナナ、プルーン、きんかん、アボカドなどの果物、さつまいもやきくいもなどのイモ類。穀類にもライ麦やオートミールには多い。オクラや納豆、モロヘイヤ、山芋などねばねばした食品にも多い。ゴマやシソ科のエゴマにも多い。同じシソ科のチアシードは群を抜いて多い。

ところが豆類でも、大豆は豆腐に加工されるとぐっと減ってしまう。穀類も精白するとなくなってしまう。にんじんやりんごも濾してしまうジュースでは含まれない。レタスにも少ないので、ファストフード類の食事だけだと、お腹はいっぱいになっても、腸内細菌たちは飢えたままだ。

どうしても、充実した野菜の取れない食事の時には、水溶性食物繊維をとても豊富に含むチアシードを大匙一杯追加する手もある。チアシードは、2~3日分を水に戻して冷蔵庫にしまっておいて、ヨーグルトに混ぜたり、サラダに混ぜたり、そのまま食べちゃってもいい。もちろん、毎日食べるのもお奨めである。

最近のわが家のおやつとビールのアテは、もっぱら炒り豆や殻つきピーナツ、クルミやアーモンドなどのナッツ類だ。おやつが食べたくなったらテーブルの上に置いた炒り豆をちょっとつまんではぽりぽり。甘いものを食べる回数も減った‥。

気をつけたいのは、なるべく無農薬のものを選ぶこと。最近、おそろしい除草剤の使い方が日本でも大規模農業を中心に広がっているからだ。モンサントが開発した除草剤ラウンドアップは名前を変えて三井化学が安く販売しているが、これを収穫まぢかの大豆や小麦に直接かけるのである。雑草を駆除するのではなく、作物本体を立ち枯れさせて収穫を容易にするためだという‥。外国産の大豆や小麦のポストハーベストも真っ青のこの除草剤使用農法、ここ数年でかなり広がってきた様子。

いまのところ、大豆と小麦ぐらいのようなので、少なくとも大豆製品と小麦製品は無農薬のものを選びましょう。いくら食物繊維を食べても、毒を食べた上に腸内細菌まで除草されては、どうしようもないからね。

別腸日記(21)菌食考─その2:ブナハリタケ/Mycoleptodonoides aitchisonii

新井卓

山に登ること、キノコを採ること──この二つを両立させることは、むずかしい。山頂を目指す登山は、災害や事故の危険が少なく、また風光明媚なルートをたよりに計画される。ところがキノコをさがす道行きに、道はない。登山客に踏みならされた、往来の忙しい登山道でキノコを見つけたなら、それはとても幸運な出会いである。もし、かご一杯の収穫を夢見て山に向かうなら、道をそれて広葉樹の斜面へ、あるいは冷たい沢が走る谷間へ、藪を分けて進んでいかなければならない。

一昨年は、遠野早池峰ではキノコの不作が嘆かれた年だった。今年はどうもハァ、だめだね──土地の人のため息を背に、薬師岳に分け入った。いつもの南斜面をいくら歩いても、たしかにキノコたちの気配がしない。なんだか空気みたいなショウゲンジや、すねたようなイグチを細々と拾ってもう帰ろうか、と涸れ沢を下ろうとしたとき、不意に場違いな芳香が鼻をついた。どこかで嗅いだことのある何か──小学校の脇の駄菓子屋で売られていた真っ赤なチューインガムか、洗濯の柔軟剤のような、ケミカルな、甘ったるい匂い。目の前に、ふた抱えもありそうな巨大なブナの倒木が横たわっていた。回り込んでみると、果たして幹の片面に、ビッシリと純白のキノコが群生していた。

ブナハリタケ、のハリタケは「針茸」であり手のひらを伏せたような5センチほどの傘の下に、無数の針状の突起を生やしたキノコである。むしり取ろうとしても意外に強固で樹皮もろともに剥がれてしまい、これでは翌年の再発生によくないから、ナイフできれいに切り落とす。あっという間に背中のかごが一杯になり、それでも四分の一も採りきれていない。籠に両手を伏せて、体重をのせる──山の露をいっぱいに含んだゴム質のキノコから水が染みだし、編み目を伝った。

背中から強烈な甘いが身体を包み、ついに少し気分が悪くなってきた。しかしこの強烈な芳香も、煮炊きすればいかにも美味しそうな香りに変化するから不思議である。
ブナハリタケは、II型糖尿病への効果や発がんの抑制などの薬効が見つかってから、近年注目されているらしい。糖尿境界型の父にあげようか、とぼんやり考えながら、日のすっかり落ちかかった谷間を帰路についた。

眠るブナ林

璃葉

ブナの木の葉はすっかり落ちていた。いつもより寒い日だった。
桜紅葉が散り、すこし物悲しい景色になった近所の道を歩きながら、いつだったか、秋の終わりに歩いたブナ林のことを思い出した。
紅葉を見たくて遠足気分でブナ林に来たものの、一足遅かったのだ。葉っぱがすっかりなくなった木々が連なり、梢が風に揺れてうごめいていた。
林のむこうにはぼんやりとした太陽の光芒があったが、雲が薄くかかっていて暖かさは届かない。不思議な匂いが漂っていた。冷たく澄んだ匂い。
リュックから魔法瓶を取り出す。蓋を開けるとモワモワと赤ワインの香りが立ち昇った。
ホットワインは、古くなった赤ワインの活用法として友人から教えてもらった。温めた赤ワインに、切ったレモン、オレンジ、シナモンを入れるだけ。
冬の散歩のお供に良いのよ、ということばを聞いてから、寒さの到来を心待ちにしていた。
立ち止まって一口、二口飲む。芯がジンと温まり、皮膚の表面の冷たさがさらに際立つ。
霧が薄布のように広がり、虫の音もなく、風もよわく、カラスもおとなしい。ブナの木々は静かに、心地よく眠っているようだった。

芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場

冨岡三智

今年の4月からいくつかの大学に教えに行っている(インドネシアの言語とか文化とか)。大学によって立地やレイアウトはまちまちだが、ある大学のキャンパスを歩きながら、そういえば留学先の大学もこんな感じで高低差があったなあ…と思い出した。というわけで、今回は私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出の話。

芸大のキャンパス構内は、私が留学・調査していた頃(1996-2007)より建造物が増えたり教室が改装されたりして、今ではかなり感じが変わっている。芸大キャンパスは、プンドポ(ジャワの伝統的なオープンホール)や大小の劇場、野外劇場などが集まっている辺りが道路から近く、土地が平らである。船をかたどった門が設けられて、これが現在の正門だ。そこから南へ坂を下るにしたがって、本部棟や国旗掲揚広場(その前にある門がかつての正門)、事務棟や図書館、影絵科、舞踊科、音楽科、造形科と順々に配置されている。

実は芸大キャンパスがこの地に移転完了したのは1985年で、その前はスラカルタ王宮の一画:サソノムルヨにあった。サソノムルヨには国の芸術プロジェクト=PKJTの拠点や3月11日大学(UNS)のキャンパスも同居していて、これら3つの機関が揃って今の地域に移転した。というわけで、道路から芸大の船形正門を越えてさらに東に行くとUNSのキャンパスがあり、芸大から南下するとPKJTが発展解消してできた中部ジャワ州芸術センター(TBS)がある。

現在でこそ、芸大に各種劇場が揃っているが、私が留学した当初にあったのはプンドポのみ。ここで入学式や卒業式、すべての試験公演が行われていた。余談だが、このプンドポはキブラット(方角)が間違っていたことが完成後に分かったそうで、そのためルワタン(魔除けの影絵)をして、その影絵人形をキャンパスからほど近いブンガワン・ソロ川に流しに行ったそうだ。

閑話休題。ソロはコンテンポラリ芸術も盛んな地域だが、それらも伝統的なプンドポで全部上演してしまうところに、私はジャワの伝統の懐の大きさを感じて感動した。しかし、同じジャワでもジョグジャカルタにある芸大には当時からクローズドの額縁劇場があった。私はむしろそのことに驚いたのだが、それは恐らく、ジョグジャカルタ校には西洋音楽のコースがあったためではないかと思う。実は、首都ジャカルタの交響楽団で活躍する人の多くがジョグジャカルタの芸大出身者なのである。一方、スラカルタの芸大のカリキュラムには西洋音楽の実践は全然なかった。ピアノを使うのも国歌、校歌を歌う時だけ…という状況だった。

そんな芸大にクローズドの額縁舞台の劇場が建ったのは1997年末か1998年早々で、こけら落とし公演がサルドノ・クスモ作『オペラ・ディポネゴロ』だった。だが実は、この公演時に劇場の電気系統はまだ完成しておらず、発電機を持ち込んでの上演だったと後で聞いた。当時、アジア通貨危機に見舞われて工事は中断し、2000年に私が再留学してきた後に工事が再開した。小劇場が完成した後、舞踊の試験公演はすべて小劇場で上演されるようになり、同時に多くの有料公演もそこで上演されるようになった。スハルトが退陣しオトノミ・ダエラー(地方自治)体制となったことで、それまで入場無料だった試験公演が有料化された。折しも、インドネシアではアートマネジメントの必要性が叫ばれるようになった。国際交流基金がその専門家をインドネシアに招聘したり、現地の財団が公演制作者の育成プログラムを始めたりしていた。というわけで、スラカルタの芸大では2000年前後がプンドポ芸術から劇場芸術への転換点(少なくとも舞踊にとって)だったと言える。

とはいえ、欧米の劇場と全然違うのがクローズドの度合いである。壁は薄く、劇場外の音もよく聞こえる。さらに外からいろんなものが入ってくる。小劇場のこけら落とし『オペラ・ディポネゴロ』公演では、よりにもよってクライマックスのシーンとした場面で、トッケイ・ヤモリの「トッケイ…トッケイ…」という連続する鳴き声が響き渡った。また、小劇場ではないが、プンドポの裏にある録音室で私が舞踊曲の録音をしたとき、一度バッタが入ってきて中断したことがある。トッケイやバッタをシャットアウトしてこそのクローズド劇場だと思うのだが、これでは音環境についてはプンドポと変わらない…(笑)。(つづく)

蒼吉のこと。

植松眞人

 京都の大学へ通いたい、と息子の蒼吉が言い出したのは高校生活もあと半年あまりとなってからのことだった。
 井筒はさほど驚きもせず、ただそうなった場合の算段を素早くして、そうか、とうなずいて息子を送り出す気持ちを一息に整えた。しかし、母親である恵美はとても驚いて、京都、とつぶやいたきり黙り込んだのだった。
 結局、恵美がもともと希望していた国公立大学であったことと、学費の算段もなんとかできると踏んだところで、蒼吉は希望通りの大学を受験することになった。
 晴れて入学が許可されて、蒼吉は三月の終わりに意気揚々と東京から京都へと旅立った。
 みなが「寂しいでしょう」と恵美に声をかけるのだが、井筒はどうして母である恵美にばかり声がかかり、父である自分に声がかからないのか不思議に思うのだった。しかし、実際に蒼吉の不在が堪えていたのは恵美だった。
 蒼吉が楽しみにしていたテレビ番組が夕食時に始まったりすると、じっと画面に見入って黙ってしまい、「蒼吉がよく見ていた番組だな」と井筒が声をかけると、「さあ」とわざとらしく会話をそらしたりした。
 五月の連休が目前に迫った頃になって、恵美はしだいに蒼吉のことを普通に話題にするようになった。蒼吉がいないことに恵美も慣れてきたのかと思い、「本当は君も蒼吉がいないことが寂しくて仕方がないんだろう」と井筒は軽口を叩いたりするようになった。そのたびに、恵美が「そんなことありませんよ」と強がって見せたりするのも、新しい家族の過ごし方のようで微笑ましく思えるのだった。
 しかし、蒼吉がスマホで「連休には戻らない」というメッセージを送ってきた日の夜、井筒はそうとは知らずに、すっかり気持ちを許して蒼吉の不在を話題にした。つい、料理を多く作ってしまった恵美に、「蒼吉の分まで作ってしまったんだね」と言った瞬間に、食卓へ今まさに置こうとしていた大皿のお煮物料理を恵美は放り出すようにしたのだった。大皿は割れることはなかったが、ドンッと大きな音を立てた。自分でもその音に驚いたのか、しばらく無言で立ち尽くしていたのだが、やがて食卓の隅に置かれた台ふきんで飛び散った煮物の汁を拭き、恵美は食卓に座った。そして、一言も発しないまま黙々と白米と煮物を交互に食べ続け、やがて滂沱たる涙を流し始めた。
 井筒はその姿に驚き、いったいどれだけ蒼吉が恋しいのかと思ったが、もしかしたらほんの少しでも感じている寂しさを知られたことの悔しさからくる涙なのかもしれないと思い直すのだった。しかし、だからとって井筒自身、平静を装って食事をすることが出来ず、やはり少し怒った様子でうまい具合に煮込まれた大根を箸で刺して口に運び、それほど美味くはないという顔をしてみせるのだった。(了)

理性の不安★36

北村周一

臘月や牡蠣と漢字で書いてみる
 r 付く月鍋にしようか
汗掻き掻きねむる幼子われにして
 理性の不安はとき遡る
しろじろき月を背後に子猫たち
 銀杏樹の枝に一、二の三匹
しぶしぶに画廊の主は新酒開け
 博多訛りの毒舌の冴え
声重たし傘を忘れて盗み聞き
 事務イス軋む音に洩れつつ
葉脈にまみずしみこむ宵の口
 海水われのやみふかみかも
梅雨の入り稲荷大祭月は見ず
 アイリッシュバーに浴衣子踊り
つぶやきに自己宣伝のきらいあり
 今は死語かもウナヘンタノム
逃げろとて花に嵐のお別れも
 傘も差さずに走るさんがつ
かんがえて赤子抱きゆく余寒かな
 悠治さんから悠の字貰い
十字架を肩に背負いしひとの傷
 生きて負う苦に順序のありや
雪の日の盲導犬の目に泪
 ゆめは枯野を行きつ戻りつ
海抜は千メートルにあと少し
 気圧低いとこころが弾む
薔薇族の愛にムチ打つ納屋の中
 思春期に触れる昭和文学
月の座に月の句のある一頁
 燈籠好きの父が来ている
柚子味噌をこさえし祖母は能登の人
 隣家の庭に柚子の実たわわ
正調のちゃっきり節はでにあらず
 きゃあるが鳴くんて雨ずうらあよ
半島の先の先までのサクラ花
 さまざまありて菜の花畑

* 擬密句三十六歌仙冬の篇。秋の終わりに。

オイリュトミー

笠井瑞丈

言葉と踊り
音楽と踊り

未だ未知の世界を
そんな迷宮世界に

迷いこむ

カラダの捉え方は
無限の数だけある

頭が理解する事
体が理解する事
心が理解する事

頭を体に繋ぎ
体を心に繋ぐ

言葉と音楽

言葉が体を作り
音楽が骨を作る

空間と時間

言葉が空間を作り
音楽が時間を作る

カラダは
徹底的に自己的な物

コトバも
徹底的に自己的な物

髪の毛一本も自分であり
コトバ一つが自分である

誰にも渡さない
誰にも渡せない

イメージが動きを作り
動きがフォルムを作る

骨の笛で曲線を描く
骨の筆で直線を描く

神々の眼を
動物の眼と

死者の世界を
海底の世界と

置き換える

石の上にも三年
三年目です

オイリュトミー

製本かい摘みましては(141)

四釜裕子

「マルセル・デュシャンと日本美術」展(国立博物館平成館)は、第1部「デュシャン 人と作品」に続く第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」が、とってつけたような、それでいて説教くさくて興ざめした。あとをひいてしまって、売店に中尾拓哉さんの『マルセル・デュシャンとチェス』が置いてあったのにちらっと見て離れてしまった。もやもやしたままエスカレーターを下ると一階ラウンジ前に便器。デュシャンが「泉」を作った1917年にTOTOの前身である東洋陶器社が創立したそうで、1914年に作られた国産初の「陶製腰掛式水洗便器」の復元品が展示してあったのだ。2015年にTOTOミュージアムが開館するにあたって作られたとのこと。壁には、『これが、日本の陶製水洗便器の源「泉」』。笑える。興ざめから我にかえって、『マルセル・デュシャンとチェス』をもっと立ち読みすべきだったと反省する。その夜、ネット本屋で注文しそうになるが、ガツガツ探して買う本ではないし、きっとどこかの本屋で会える気がして、やめる。

ネットで買いたくない本というのはある。鈴木智彦さんの『サカナとヤクザ』もそうだった。鈴木さんのツイッターで料理話などをおもしろく読んでいて、『サカナとヤクザ』なる本が出るというので楽しみにしていた。刊行日、帰り道で本屋に寄った。3軒目、上野アトレの明正堂書店で平積みに遭遇。探すでもなくとはいかなかったけれどわりとさりげなく買えた。地下鉄に乗り本を開くと中から魚柄の栞、氏原忠夫さんの絵による明正堂書店オリジナル栞のうちのひとつだ。今はこの柄だけなのかどうなのか、わからないけれども、『サカナとヤクザ』を買った客には魚柄を入れてくれたに違いないと思い込み、良い気分にひたる。帰宅して本棚を見る。ここ数年はネット買いが増えたとはいえ、ほとんどがいつかどこかの本屋でだいたい一冊ずつ買ってきたのだから、ずいぶんたくさんの本屋さんから手渡してもらってきたものだ。

すぐ欲しい本はネットで買うし、正直に言うと、経費で落とせるものでもより安い値のものを選ぶことが増えている。注文をして確認がきて、配送されて封を開いて。納品書は梱包材といっしょに捨ててしまう。やりとりはシンプルで立ち止まるすきもなく、相手が本屋であることを意識させない。これが互いに望んだ理想形なのだろうか。ところがあるとき、納品書に目がとまった。B5サイズの紙がちょっと厚手で、印字がかすれていたからだ。そのくせ裏面はくろぐろと印刷してあり、「納品書のウラ書き」と白抜きしてある。加古里子さんの『宇宙』(1978 福音館書店)と、林定次さんの『宙の名前』(2010 角川書店)が紹介されている。上田市のバリューブックス発行、第3号、テーマは「宙」だ。楽しいじゃない。よく見ると、紙のひとかどが微妙に直角がとれていない。断裁で失敗したのかどうなのか。いや待てよ、おもて面の印字のかすれも作戦なのかも。考えすぎか。とにかくこの納品書は捨てずにとっておかれているし、客は店の名前を覚え、その客は今またここでその本屋を思い出している。

平出隆さんの『私のティーアガルテン行』も本屋で買った。中に、中学高校の下校時に通った本屋、金榮堂の思い出がある。〈書店の中で、子供は世界の広さにうろたえている〉。買うとなると、〈勘定場で必ずしばし見とれる光景があった〉。〈本に紙の衣裳を着せる。そんな手捌きを、毎度黙って眺めた。子供にはその瞬間だけが、店員さんとの会話であるような気がしたものだ〉。こんな明確な記憶は私にはないし、カバーをかけるのを見るのは好きだけれどカバー付きのまま読むのは好きではないので普段かけてもらうことはない。それでも、わかるわかると思うし、懐かしいと思える。

ティーアガルテンとはドイツ語で、動物園と猟場の意味があるそうだ。〈主なき猟犬なのか、獲物として終るただの生命体なのか分からぬ「私」という動物(ティーア)〉である平出さんが分け入ってきた幾多の迷路の入口にある、恩師や家族、数学、写真、野球、受験、歌……。バットとグローブを担いだ白いユニフォーム姿の少年はカメラに背を向けていて、以来迷路に踏込み続け、迷路であるから出口を目指さない。未知への踏込みは、〈いまここという時空〉への逆らいだと言う。版を組み、翻して刷って綴じる本づくりは新しい迷路を組み立てるに等しく、〈通俗の歴史がこしらえてきた地上に立ちどまること〉に逆らい、それが〈ままごとのようであればあるほど、世界はくっきりと姿をあらわして立ちはだかる〉。〈五十年後のいまでも、まったく同じ幼さをもって、いや、より精巧な幼さをもって、印刷や造本に向かおうとしている自分に気づいているところである。あまりのことに、これは、動物たちが、自然の環境の中で繰り返してきた生存形態の設計力を追いかけているのではないか、と考えるほどだ〉。〈一個の動物として本をつくることができないか、とさえ考えている〉。

『私のティーアガルテン行』の造本は平出さんによる。透明のフィルムが表紙カバー替わりにかけてある。このまま電車の中で片手立ち読みすることはできない。美しい造本だけれども、邪魔だな、とも思う。『私のティーアガルテン行』という迷路へ踏込む者がまず体験する、いまここという時空への逆らいのひとつなのだろう。

しもた屋之噺(202)

杉山洋一

すっかり秋めき朝晩の冷え込みも厳しくなってきました。今年は肌寒くなるのが本当に遅かったのです。ここ二日ほどずっしりと濃い鼠色の雲の下、久しぶりに降り始めた雨は強まるばかりで留まる気配すらなかったものの、先程漸く雨が上がったかと思うと突然黄金色の秋らしい夕日が辺りをさっと美しく染め上げるのに言葉を失いました。
緑色のまま残っている葉、黄色く色が褪せかけた葉、赤く染まった葉が、それぞれにさざめいては光を際立たせ、独特の遠近感を生み出していて、音楽との親和性を思います。親和性というより、恐らく音楽がどこから生まれてきたのか、無意識に実感しているのかもしれません。目の前の空は既に色を失い夜の帳に覆われかけています。

10月某日 ミラノ自宅
何度となく「この楽譜だけは絶対に解読できない」と匙を投げそうになったが、最後になると何かが閃くというのか、心の眼でこの楽譜が読めるようになる不思議。
自筆譜で読むと音現象の解析からではなく、まず作曲家の存在そのものと対峙しなければならないので、恐る恐る楽譜に向かう、ということが出来なくなる。すみれさんとご一緒した時の「カシオペア」の楽譜がそうだった。実は浄書されたスコアもあったことが演奏会直前になってわかったが、ずっと自筆譜で勉強していて、本番もそのまま自筆譜で振った。
筆跡を辿れば、どこの部分から書き進めたかもある程度理解出来るようになるので、思考とまでは言わないが、巨視的な作曲者の視点や意図を繋いゆくことも出来る。
クセナキスの筆跡は到底見易いとは言い難いが、アシスタントが見やすく浄書しているところからは、作曲者本人の筆跡のような迸る情熱は感じられないので、寧ろ物足りない。
ただ、文字通り目を皿のようにしても、どうしても読めない音は幾つかあって、正しいのか分からないままパート譜を参考にしたが、当初休符だと信じて疑わなかった棒が、読返してみると音部記号と気が付いたりする。普段から見えない目が、極端に困憊したのは確かだ。

10月某日 ミラノ自宅
家人の恩師を悼むピアノ小品を書き、追悼アルバムに収録してもらう。暫く前に飛行機で取ったスケッチは見当たらなかった。恩師の名前をよびかけながら、どこに向かってよびかけているのか考える。どこにでもごく身近に気配を感じる気もするし、とても遠くに漂っているような気もする。彼をよぶ声だけが、いつまでもこだましている。

10月某日 ミラノ行車中
クセナキス「クラーネルグ」オーケストラ練習。パート譜もスコアも、所々申し訳程度に分数が書いてあるばかりで、練習番号も小節番号も記載されていない。他の指揮者らも困ったと思しく、パート譜に残されている手書きの練習番号を使おうかと思うと、別のパート譜には別の練習番号が書込まれていて、結局新しく必要最小限のキューサインを決めて、皆で書込む。曲中ずっと二拍子で変拍子のないこのような曲は演奏者が混乱しやすく、その上テープやダンスとの同期もあるので、本番で何が起きても対処できるよう、極力プロセスを単純化する。
それぞれの楽器の発音を整理し、記号に目が馴れるまで暫く繰返す。50年前は、今ほど記譜法も統一されていなかったので、現在の感覚では瞬間的に対応出来ない。伝統や文化は、それぞれ繋がりを持たない個が関わり合い、ある種の混沌を経て収斂に至る。そしてそれがまた一つの個として認識されるようになると、また別の個と交わり、別の収斂を迎える。その繰返しは今も続く。

10月某日 ミラノ行車中
望月京ちゃんが、本当に音楽は分り易くなければいけないのか、と疑問を呈しているのを読む。言葉で説明できるのなら、わざわざ音にする必要があるのか。もう一歩踏み込んだ言い方が許されるのなら、分かり易い言葉で説明するため、簡略化して、大多数に理解されるべく努力する、ポピュリズム一辺倒も怖い。解せない言葉で話すのではなく、分かり易い言葉で、迎合もせず簡略化もせずに自分の意思を伝える。易しそうな言葉の余白に、思索の奥行が垣間見られるように。

10月某日 ボローニャ
良く晴れた朝、ボローニャを母と連立って歩く。劇場すぐ裏のアパートを借りたので、サンヴィターリ通りをゆけばすぐに斜塔広場に出る。斜塔からサンペトローニオまで母の足に併せて歩いても5分とかからない。早朝のサンペトローニオはがらんとしていて、我々以外にこの巨大な教会には一人で熱心に祈る妙齢がいるだけだった。西洋音楽史上、サンペトローニオがどれだけ大切な役割を果たしたかを母に話していると、突然祭壇上のオルガンが美しい響きを放った。
教会つきのオルガニストが早朝練習に来たようだ。サンペトローニオ付きのオルガニストだけあって素晴らしい演奏にしばし聞き惚れる。この教会は特に巨大に造られていて残響も驚くほど長い。だからサンペトローニオ付きの作曲家たちは、この長い残響を活かした作品を書いた。目の前のオルガニストの弾くトッカータ様式の細かい音群は、長い影法師を引き摺りながらまるでリゲティ風のクラスターのように聴こえる。尤も、リゲティ風に聴く方が間違いであって、リゲティが幼い頃から耳にしていた、このような音の混濁を、意識化し体系化したと考える方が自然かもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
クセナキスのオーケストラ曲を振るのは、考えてみれば初めてだった。
楽譜から消失しかかっている音符を一つ一つ丹念に拾ってゆくと、思いもかけぬ旋法的な音が並ぶ。クセナキスの音楽は質量が一番大切な要素に見えるけれども、今回の作品は明らかに旋法が形作っていた。旋法の質感を重層化させることにより、全体の質量を表現していた。それも現在の洗練されたコンピュータに比べて、信じられないほど目の粗いやり方で。「音楽と建築」で「ふるいの理論」や旋法についてずいぶん丁寧に説明していたのは、この部分に相当するのかしら、と勝手に想像していた。
クラーネルグのオーケストラ演奏箇所は弱音が殆どなく最強音ばかりが続くのだが、どれだけ熾烈なのかは実際演奏してみなければ実感できなかった。練習時に本番と同じ音量で弾いてもらうのは、マイクテストの時くらいで、後は体力を温存するため、極力楽に弾いてもらっていた。これがオペラであれば、最強音であれ歌手の声が通るよう中抜けさせつつオーケストラも弾くところだが、クセナキスはバレエで歌手もいなければオーケストラと絡むのは最強音のテープであって、本番中少しでもオーケストラが気を抜くと音楽が急に色褪せてしまう。人間が本当に必死に音を出すと音に独特の輝きが加わるのだ。音量でなく音の光度のようなもの。
当初はオーケストラも一度弾き通すだけで困憊していたのが、回を重ねるたびにクセナキスの面白さに引込まれ、同時にスタミナも付いて来たのか、最後の公演では最後の一音まで気迫が上昇し続けて瞠目した。

10月某日 ミラノ自宅
悠治さんより新作の楽譜がとどく。ご自分で指揮をされるからか、指揮者に対する気遣いとか心配りとかでなく、自分が聴きたい音を、フィルターを通さず透徹に綴った譜面に感激する。もっと多層的で奏者に任せる記譜をされるのかと勝手に想像していたら、ずっと求心的で、全員で空間の同じ部分に耳を澄ますようなアプローチで書かれていて、虚をつかれて幸せな気分になる。皆をあわせるための指揮ではなく、まるで皆の方から指揮にまとわりついてくるようにも見える。どんな演奏になるのか、楽しみで仕方がない。

10月某日 ミラノ自宅
ここ数日かけて、伊左治君から頼まれたブソッティの「イタリアへの五つの断章」の解説を書いていた。かかった時間の殆どは、歌詞を楽譜から書き出し原典を調べ訳出するための時間。当初、詩の訳出までは無理かと思ったが、旧友が八村義夫さんの為に頑張っていて、今後五曲の完全演奏を日本で耳にする機会もそうなかろうと思うとやはり無下には出来なかった。その昔、ブソッティ本人は歌詞なんて訳さなくて良いと笑っていたが、やはり詩の意味や深さを理解できると、作品の印象は全く違ったものになる。特に第一曲「丘たちはまだ耳を澄ましている」で使われている詩は、見事なものばかりだ。

Entro dei ponti tuoi multicolori
L’Arno presago quietamente arena
E in riflessi tranquilli frange appena
Archi severi tra sfiorir di fiori
Azzurro l’arco dell’intercolonno
trema rigato tra i palazzi eccelsi:
Candide righe nell’azzurro: persi
Voli: su bianca gioventù in colonne.
Dino Campana – Firenze

色とりどりのお前の橋に足をむけると
まるで全て見通しているかのごとく、アルノ川の流れは突然落ち着き払い
謐な水の反映のなかに、かすかに映し出す
色を失いゆく花の合間からのびる、厳めしい橋たち
柱と柱にわたされた青い橋が
たちならぶ荘厳な宮殿のまにまに、水面の縞を残し震えていて
青にうつる縞は穢れを知らず、消えてゆく
空の鳥たち。柱のなかの、純白の青春に
ディーノ・カンパーナ – フィレンツェ

カンパーナの「フィレンツェ」は、この古都を形容するに当たり、必ずと言ってよい程引用される代表的な詩で、「色とりどりのお前の橋」は、モザイクのように様々な小さな商店が軒を連ね彩を添えるポンテ・ヴェッキオのこと。そして、その下をたゆたうアルノ川に映る街の風景を詠う。ブソッティがどれほど生れ育ったフィレンツェを愛していたのかよく分かり、訳しながら少し切ない思いにかられる。

Tacciono i boschi e i fiumi,
e’l mar senza onda giace,
ne le spelonche i venti han tregua e pace,
e ne la notte bruna
alto silenzio fa la bianca luna;
e noi tegnamo ascose
le dolcezze morose.
Amor non parli o spiri,
sien muti i baci e muti i miei sospiri.
Tasso

森も川も口を閉ざし
海は波も立てずに、横たわっていて
深く昏い洞窟も、吹きすさぶ風も、
薄ら明かりの夜すらも戦いをやめ、安らかに
どこまでも続く沈黙は、真っ白な月をもたらしていて
僕たちは、ひっそりと
愛の喜びを分かち合っている
愛するお前、声をたてず 息も立てないでおくれ
言葉も要らぬ口づけと、言葉も要らぬ僕の溜息だけで
タッソ

このマドリガルがいつ書かれたものか正確には分からないけれど、タッソの作品でもよく知られた詩の一つ。タッソは同性愛者ではないが、ブソッティがこの歌詞を歌わせる箇所は、耽美的でまるで同性愛的な美しい旋律で縁取られていて、そのままラーラ・レクイエムにも転用していた。改めてタッソの表現力の幅広さと、説得力の強さにおどろく。

Per entro i colli rintronano i corni
Terror del cavriol, mentre in cadenza
Di Lecco il malleo domator del bronzo
Tuona dagli antri ardenti; stupefatto
Perde le reti il pescatore, ed ode:
Tal diffuso dell’arpa erra il concento
Per la nostra convalle; e mentre posa
La sonatrice, ancora odono i colli.
Foscolo

続く丘に雷の角笛が鳴り響き
急転直下、レッコからやってきた
銅鎚の遣い手が地を叩き
燃え盛る口から稲妻が飛落ちる。愕き
思わず漁師は網を手放し、耳を澄ます
打広げられた竪琴の音が、こだましている
大きく開かれた谷のまにまに。楽女が
楽器を置いて憩うとき、続く丘たちは耳を澄ましている。
フォスコロ
 
これもイタリア近代文学で良く知られた名作の一つ。この断片は長編詩の一部に過ぎないが、男性的に切立つ谷に挟まれたレッコ湖の辺りをよく知っているからか、読みながらこの数行の描写に感激して鳥肌が立った。言葉が五感全てを刺激して、湖の匂いまで漂ってくる。

10月某日 ミラノ自宅
楽譜に書かれた音を発音するには、ピアノなら鍵盤を押せばよく、声楽なら歌えばよく、指揮者なら棒を振り下ろせばよい筈であるが、実際はそう単純ではない。
夏に或るインタビューでも話したのだけれど、演奏する行為は楽譜をただ機械的に再現するのではなく、朗読をして読み聞かせするのだと思うと少し分かり易い。
文字をそのまま読み下してゆけば、一応文章にはなるだろうが、何の説得力も持たないだろう。それ以前に、単語の意味を考えずに文字をただ機械的に発音してゆくと、恐らく文章としても成立しないと思われる。
恣意的であれ、と言う積りは毛頭ないが、文法や単語を理解した上で、その文章の言わんとしている対象を念頭に文章を読み下さなければ、説得力のある朗読は成立しない。
楽譜も恐らく同じではなかろうか。楽譜に書かれていることを、書かれているという受動的な理由だけで演奏していては、絶対的な説得力に到達できないのではないか。
それが正しいか正しくないかは別として演奏者なりに文章を咀嚼し、自分なりの言葉で意味を表現し、伝えようとする能動的なアプローチこそ、少なくとも説得力を持つための出発点になり得るのではないか
音符を弾いて音符がそのまま見える演奏では、文章を読んで文字ばかり見える、意味の成立しない文章と同じではないか。
レッスンに来た生徒に、訓練として詩を読むよう薦める。詩を客観的、分析的に読むのではなく、恰もその光景に自らの身を置き、詩人が驚きや感動を持ってその光景を詩に綴る心地を出来る限り実感しながら詩を読んでみて欲しいと伝える。
書かれた文字の意味を理解するのではなく、文字の意味が読み手に露にするその光景に自らを置いてみる。そしてそこに自らが同化出来るまでじっと詩を眺める。実際は詩でなくとも構わないのだろうが、楽譜に近い感覚で読めるのは、どうも詩のような気がする。
棒をどう振れば聴き手が感動するというものではないだろうし、技術が高くても、それで感動する音楽が生まれるわけではないだろう。心から感動して生まれた音は、それだけでやはり他者の感動を呼覚ます気がする。

10月某日 ミラノ自宅
耳の訓練の授業を受持ってもう随分時間が経つ。今年から国の方針で音響技師科が大学課程に組込まれて、音響技師科の新入生16人の授業も受持つことになるのを聞いたのは、学校の授業の始まる10日前程。蓋を開けてみると、前期のクラスだけで器楽科の教室は22人、作曲と指揮の教室が3人、映画音楽作曲の教室は16人、その上、音響技師の教室が16人。
ドイツのトーンマイスターとは随分格が違って、イタリアで音響技師と言うと、今までは基本的にスタジオで実践しながら手に職をつけて仕事を始めるような立場だった。
最初の授業は、彼らの今までの音楽体験などを自由に話してもらう。16人中、楽譜が全く読めない学生が1人、ト音記号は何とか読めるが、ヘ音記号は全く読めないという学生が3人もいる。尤も、彼らに必要な耳の訓練をすればよいわけだから、楽譜が読めればよいわけでもないだろう。
音を聴く、という作業を視覚化するため、黒板に、五線など無視して極端に大きな全音符を三つ縦に並べてかく。適当に三つの音の和音を弾くから、こちらが言う音を眺めながら聴いてみて、と練習を始める。すると、当初三つの音が絡み合って聴こえていたのが、少しずつ頭の中でほぐれて見えてくるのがこちらから眺めていてもわかる。
音は、聴こえると思えば聴こえるし、聴こえないと思えば聴こえない、不思議な存在だが、まず頭の中で音を聞かず、音の存在を目の前で見えるようにする。音が見えれば、必ずそれが聴こえるようになる。下手に音楽の訓練をしていない彼らは、特にその反応が早かった。皆自分の耳が嘘のように聴こえる、と興奮している。音を聴くために、楽譜がどうしても読める必要などない。

10月28日 ミラノにて

168わざうたさん さようなら

藤井貞和

1、すぐ窓の下を通ってゆく幼児の、何とも幼い声で歌う、

からす、なぜなくの
からすのかってでしょ

という歌、「七つの子」の替え歌が聞こえてきて、「ええっ、それって、
ずいぶんまえに流行った歌なのに」。 ドリフターズの志村けんさんの、
一九八〇年代初頭の替え歌で、いまでも歌い継がれているのだ。
当時の志村にしても、近所で聞いた小学生の歌だったと称して、
十年に一度やってくる、わざうたの一つではないかと思える。

2、一九九〇年には、「おどるポンポコリン」(さくらももこ作詞)について、
あれは湾岸戦争(一九九一)を予言するわざうただったと、
当時、ある大学の紀要に研究論文を発表した人がいた(久冨木原玲さんだ)。

いつだって わすれない
エジソンは えらいひと
そんなの常識 タッタタラリラ

3、周東美材さんの『童謡の近代』(岩波現代全書)の書評会があり、
コメンテーターを私は引き受けたのに、ついに当日までに、
本ができてこないという、とんでもない集まりで、しかたがないから私は、
童謡の本だから、わざうたぐらいは話題に出てくるだろうと、
予言ならぬ予想をつけてハンドアウトを作った。 わざうたのことを、
古代中国でも『日本書紀』でも〈童謡〉と書く。

4、ちなみに周東さんのめずらしい「美材」という名は、
平安時代の文人、小野美材(おののよしき)から付けられたというので、
小野美材のほうならば、まあまあ私なりにコメントできるのにと、
軽い愚痴が残った。

5、で、「おどるポンポコリン」の歌詞のなかに、
湾岸戦争が隠されているかどうか。 つまり わざうたとは何か、
ということだが、歌詞のなかに秘密が隠されているのだろうか。
じつを言うと久冨木原さんが「この歌はわざうただ」と言ったとたんに、
「おどるポンポコリン」がわざうたになる。

6、北原白秋が幼児の歌を集めて、詩の原初性をそこに見いだしたとする論旨には、
大いに共感する。 三歳の子の、

オブダウモ            (お葡萄も)
オヤアスミ グッドナイ      (お寝あすみ グッドナイ)

には、〈葡萄への未練がありそうで、かわゆいと微笑させる〉と、
白秋の言にあるという。 「ルッソオの懺悔録に、〈焼肉さん さようなら〉という、
幼年時代の一齣があって泣かせますが、異巧同曲とでも申しますか」と、
白秋が子供の自然状態をルソーに思い合わせたとする指摘は言い当てているな。

さくらももこさん 哀悼します。

(わざうたがこの世から、いなくなって十年、二十年。どこに消えたのだろう、ポンポコリンはさいごのわざうたでしたね。〈宣伝〉『非戦へ――物語平和論』を長崎のちいさな編集室・水平線から出します。水平線を応援してね。)

だれ、どこ(12)小杉武久(1938年3月24日-2018年10月12日)

高橋悠治

時間はゆっくりとすぎる 音の釣り 音楽のピクニック
時の痩せ馬をせきたてていた世紀の前衛が 向きを変え 時間をかけて
ささやかな音を立てるものたちに聞き入る時が来たのか
ちいさなカードに書いた一つの動詞に 時間をかけて
歩きつづける 上着を脱ぐ 袋に入って 裂け目から手を出す
ピアノに触らず音を出す できるだけおそくSOUTHと言ってみる
south 南へ 時も停まる真昼を指して 
タージマハールへの旅も
まず地球の反対側 ストックホルムからバスで10ヶ月かけて回りこむ
またある時は ヒマラヤに飛んでいった魂を追って 逆方向のアメリカへ旅立つ
道の途中の出会い 時間をかけて
ひろいあつめたちいさなものたち
ちいさなテーブルいっぱいに
ゴム風船から空気を押し出す 焼き鳥の竹串をはじく ビンのフタのコマ回し
紐で吊るした発振器を扇風機で揺らす 自転車を乗りまわす 箒で天井を掃く
砂に埋まった時計 塩が 砂糖が時を刻む
用から解き放たれた日用品の休日
無用の用に 反職人の職人芸

遠く思われたタージマハールへの旅も
たどりついたら終わる
どこにもたどりつかない道があるかな
行先から解き放たれた道の休日
道が道をたのしむ 未知の道すじ
曲がりくねって先が見えない 小径
羊を追って角を曲がれば未知の風景 ますます分かれる枝路
いつかは羊も忘れ 
旅が旅する行商人 停まりながらすすむ
小杉さん また同じことをして
草木は萌え 花開き やがて萎れていくだろう
同じことも同じにならない そこにあるものも
いつか見えなくなり

死神から手紙が来た おまえはもうおしまいだ
ハーメルンの笛吹のようには連れていかない ベッドの脇で待ってもいない
姿を見せず遠くから この電子メールの時代に おそい郵便が届く
気がつくと その手紙さえ見当たらない この状態であと10年生きることが
どうしたらできるだろう
じっと見ていると すこしずつ換わる 時間の風合い
風 波 森

2018年10月1日(月)

水牛だより

忘れかけていた暑さが台風のあとにやってきた10月のスタートです。とはいえ、おなじ30度という数字であらわされる暑さですが、10月の30度は夏の30度とおなじではありません。先週あたりは玄関のドアを開けて外に出ると、金木犀の甘い香りの圧力に体がからめとられるようでした。ゆうべの暴風雨にもめげなかったのか、今朝のまぶしい光のなかでもまだほんのり匂っています。

「水牛のように」を2018年10月1日号に更新しました。
台風の来る前に、台風の最中に、そして台風が過ぎ去ってから、といつものように原稿を書いて送ってくださったみなさん、ありがとうございます。
雨やよし風吹き通せ辺野古から

カラワンのメンバー、モンコン・ウトックが亡くなりました。
9月14日にライヴを終えたあと駐車場で心不全をおこして倒れ、15日の未明に息をひきとったということです。67歳でした。その場に居合わせた森下ヒバリさんが知らせてくれました。
タイではお葬式は何日もかけておこなわれるのですが、カラワンのリーダーだったスラチャイ・ジャンティマトンが喪主をつとめた日もあったようです。そして22日の夕方に火葬式があり、モンコンのスピリットだけがこの世に残されました。
youtubeではカラワンやモンコンの演奏をたくさん聞き見ることができます。モンコンが亡くなったせいなのか、「ピンの歌」など100万回以上も再生されているのを見ると、ひとつの終わりなのかもしれないと思ったり、なにか別の新しいことの始まりでもあるのかと思ったり。彼と最後に会ったのは、3年くらい前にカラワンが来日したときでした。別れるときには、じゃあまたね、この世かあの世でね、と言って笑いあったことを思い出します。

それではまた!(八巻美恵)

167物語するブハーリン

藤井貞和

――「だからこそ我々は美をより美しく、
しかもより普遍的にするための活動をしなくてはならない」。
あなたがそう書いたのはW高等学院時代である。
広い校庭にあつまり、ぼくらは十年後の物語探求会をめざして、
KMとともにあることを確認する。 しかし、
KDもまた亡くなる。 大学四年生たちの青春でした、
――「うなじ屈するゆえの反抗」(KD)と。
次ページに、アナキズムのOMが、〈プロレタリア独裁と連合主義〉を書いている。
ぼくらはどこへゆこうとしていたか。 連合主義の、
黒旗に青く刷られた敗北。(黒地なので読めなかったが)――
時間は水の遺骸だとあなたは羊歯の紋章に書き、
――「人知れぬ微笑」(KM)から物語連合へと急ぐ。 

 
(羊歯の紋章というのは、括弧をはずすと羊歯になり紋章になる。括弧にいれると『羊歯の紋章』という誌名になる。1964年創刊、発行人北村皆雄。なかに「喪亡との対話=あるいは巌石と宇宙の詛祝」を書いている江原健人は、物語探求会を私も参加して立ち上げたMKその人である。革命家のなまえは永久に封印するのが仁義だろう(ごめん)。MKが高校生で論じていたブハーリンの本名を私は知らない。むろん、そのころ私はMKを知らず、知り合ったのは七〇年代にはいってからだ。亡くなって十年、だれもが匿名のなかでしか生き死にを迎えられない。「雨やよし風吹き通せ辺野古から」〈当確を聞いて〉。)

2つの評伝

若松恵子

この夏は、ちょうど同じくらいの厚さの文庫本2冊といっしょに過ごした。尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(2018年4月/新潮文庫)と大竹昭子著『須賀敦子の旅路』(2018年3月/文春文庫)だ。語られる彼女と語る彼女。それぞれ2人ずつ、合計4人の女性に触れる時間だった。

川本三郎の新刊を見つけた棚の近くで目が合った『ひみつの王国』は、著者の尾崎真理子が気になっていて手に取った。私とあまり変わらない世代の彼女が、大江健三郎や谷川俊太郎の長いインタビューを本にしていて、どんな人なのだろうと興味を持った。先に読み始めた川本三郎の新刊『それでもなおの文学』(2018年7月/春秋社)のなかに、川本氏が書いた『ひみつの王国』の文庫版解説が収録されていて、この偶然にうれしい驚きを覚えた。

川本氏の解説を引用する。「石井桃子についてのはじめての、そして、最良の本格的評伝である。200時間に及ぶインタビューと膨大な資料、緻密な取材によって丁寧に書かれている。何よりも、まだ女性が社会に出てゆきにくかった時代に、働く女性としてみごとに生きた石井桃子への敬意がある。自立した女性の大先輩への深い尊敬の念がある。それが本書を清々しいものにしている。1959年生まれの著者は、幼ない頃から石井桃子の訳した児童書に接していたという。物語の楽しさだけではなく、言葉の面白さを子どもながらに知った。著者にとって石井桃子は『幼稚園に入る以前から日本語の基礎を授けてくれた、最初の先生だ』という。」

川本氏によるこの要約に全く同感だ。また、評伝を書くにあたっては「安易に登場人物の会話を小説風にして書く」というようなことはなく「資料の引用から会話を引き出している」ことを「丁寧で誠実な仕事のあらわれである。」と指摘している点も、確かにこの本の魅力を語っていて、その通りだと思った。石井桃子への敬意に裏付けられた丁寧で誠実な仕事によって、彼女の人生の多面性が、はじめて紹介されたのではないかと思う。

あとがきで尾崎はこのように書く。『「あなたはやっぱり、調べてお書きになったのね、兵隊さんのことまで・・・」。当人の、当惑した声が聞こえてきそうだ。「でも、お話を聞いてしまったからには、書かない方が罪は重いと考えました。」私はそう応えたい。あえて黙したままとされたことも、忘れてしまいたかったであろう苦しい時代のことも書かせてもらった。』と。そして「掘り出せぬほど深く埋め込まれた秘密はまだ、残されているだろう。」としたうえで、「こんなにもあなたはこの国の幼い子どもたちのため、後輩の女性たちのため、自分でも喜びをもって存分に仕事をして、生涯をまっとうされたではありませんか」と、「何度でも感謝をもって呼びかけたいと思う」と語る。尾崎の、石井桃子への思いを感じる、心のこもった一文だ。生きるただなかにおいて、その時々の選択がどういう意味を持つのか、その後の人生をどう変えていく事になるのか、当人は知らない。ただ懸命に毎日を生きていくのみだ。人生が閉じられたあとに、その全体の軌跡を、その不思議さを評伝は書き記す。私は、自分もまた「存分に生きた」といえる人生を送りたくて、その励ましとして評伝を読む。

犬養毅、菊池寛、井伏鱒二、太宰治、山本有三、吉野源三郎、瀬田貞二、尾崎の丁寧な仕事によって描き出された石井桃子の生涯には燦然と輝く巨星たちが、時代ごとに星座を成している。「その人々と知り合った理由、交友の一つ一つに、日本の近現代史、文学史の軌跡をたどることができる」と、あとがきにあるように、時代を知っていくおもしろさもまた、この評伝の魅力であるといえる。

もう1冊の評伝『須賀敦子の旅路』もまた、著者大竹昭子への関心から手に取った1冊だった。大竹昭子の書く文章に魅かれ、彼女の新刊を探してこの本にたどり着いた。文庫によるこの新刊は、まえがきによると、かつて出版した『須賀敦子のミラノ』、『須賀敦子のヴェネチア』、『須賀敦子のローマ』の3冊を評伝としても読めるように加筆改稿し、あらたに「東京編」を加え、出会いのきっかけとなったロングインタビューを収録して1冊にまとめたものであるという。

須賀敦子の書く文章を「世間のしがらみから一歩引いて物事を見つめる彼女の眼差しには、自分のことに奔走したり、やるせない出来事に汲々としたりしている私たちの呼吸を深くしてくれる不思議な作用が感じられる」と大竹は書く。須賀敦子の文章を読む喜びを「私たちの呼吸を深くしてくれる」と書く大竹に共感する。そして、帰国してから『ミラノ霧の風景』が出版されるまでの20年間の足跡をたどった「東京編」を興味深く読んだ。「若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどうしてか。そのあいだにどのような時間が過ぎ、それは作品にどのように投影されたのか。そんな問いを、須賀の晩年にちかづいた自分自身の人生と重ね合わせつつ、想像した」それが大竹にとっての須賀敦子への旅だったのだ。そして、それは、生きられた人生から文学作品という虚構に飛躍する意味を追った旅だったといえる。須賀の「回想記でありながら自分のことを声高に語らず、むしろ自身を後退させて人間ぜんたいのことを綴ろうとする意志のこもった慈しみ」が人を励ますのだと大竹は語る。自分の体験そのままを語ったのでは文学にならない、文学について真剣に考えていたからこそ、自身が書きだすまでには長い時間を要したのだという事だ。

ミラノ、ヴエネチア、ローマ、東京と須賀の人生を辿ることで、「事実を虚構化することの大切さを主張した作家の事実に触れ、暴いてしまうのが怖かった」が、実際の旅を通じて作品の背景が明らかになり、納得することで「抑制された文章の奥にあるものに近づいていける深い喜びにみたされた」と大竹は書く。大竹の評伝を読む私もまた同じことを感じる。

大竹がはじめて須賀敦子にインタビューをした春の宵に、通りまで送ってくれた須賀敦子は「箱に入れてとっておきたいような夜ね」とつぶやく。そのエピソードを紹介しながら「季節がめぐってくるたびに、箱を開いて、この日の出会いと、語られたことばを思いだすだろう。」と大竹も綴る。人が人に魅せられ、会って話が聞きたいと出かけていく。そのいてもたってもいられない強い思い。大勢のなかから自分をみつけて、理解者が訪ねてくる喜び。大竹が須賀をインタビューした春の宵の情景は、評伝を読むおもしろさの象徴として、尾崎真理子と石井桃子の姿とも重なりつつ胸に残る。

15年後のモスル紀行

さとうまき

初めて僕がモスルをおとずれたのは、今からちょうど15年前の10月6日。バグダッドにずーっといて米軍に囲まれたりして、閉塞感を感じていたので、「鯉の丸焼き」が食いたくなった。イラクではマスグーフといわれる炭焼きの鯉が有名で一度は食ってみたかったのだが、バグダッドでは、核施設が貧乏な盗賊に襲われ、放射能廃棄物が入っていたドラム缶が盗まれなんとそこについていた黄色い粉を川に流してしまったらしい。なのでバグダッドの鯉を食う勇気はなかった。

チグリス川をどんどん北上してモスルまで行けばうまい鯉が食える! 朝バグダッドを出発。途中の村では、米軍とサダムを支持する部族が激しくやりあっていた。道路をふさぐ米軍の戦車の前には10人くらいの歩兵が銃を構えて通行を抑えていた。爆発音。煙が舞い上がり、銃声が響く。“オペレーション”が終わるのを待ってモスルに到着した。そして、僕は鯉を食べた。脂がのっていてうまい。炭で焼くから香ばしいのだろうな。15年の歳月がたち、そんなことを思いだす。

薬を車に積んで、遅めの出発。アルビルからモスルは、一時間もあればつく。日本のTVが取材したいという。僕が張り切って、薬を詰めている映像を撮影されていた。時間がないので、ローカルに詰めかえようとしたら、僕が張り切らないといけないらしい。モスルのイブンアシール病院で働くワサン先生に、検問のところまで薬を取りに来てもらうという設定で、「ここから先は、日本人にはまだまだ危険なので、ドクターに取りに来てもらって持って行ってもらいます」と張り切って説明している映像。我ながら優等生。「決して危険なところにはいきません。ワサン先生! 頼みます。」ということで僕のレポートはここまで。手を振って見送った。

「イブンアルアシール病院は、2014年にISに占領されていました。2016年の暮れには、ISのアジトとなっているということで連合軍が空爆をした。ISは、うちのスタッフを選んで救急車を運転させ武器を運んでいたみたいです。病院に入ってきた救急車めがけてミサイルが飛んできた。そばにいた5人も巻き添えになりました。その時武器を運んでいたのかどうかはわかりません。そして、その後年が明け1月には、イラク軍が病院を解放したのはいいのですが、今度はISが敗走する際に火を放って病院をめちゃくちゃにしていったんですよ。この戦争では、化学兵器も使われて、そのせいかがんの子どもたちが増えている」ナシュワン先生が日本のTVの前で説明していた。

骨髄移植センターを作る予定になっていた建物は医薬品の貯蔵庫として使っていた。米軍は、その建物も空爆した。中に入ってみると焼け焦がれた医薬品が大量に残っていた。焦げ臭いにおいと埃が舞い上がり、インタビューを受けるワサン先生は、せき込んでしまい、しゃべれなくなった。

病院のスタッフは、「そこには何があるかわからないから、行かないで」と止めるが、クルーたちはすすんでいく。不発弾があるかもしれないし、化学兵器を作るための原料かもしれない。クルーが歩くたびにバリバリと割れる音、足元には大量の試験官が散らばっていた。

橋を渡って西側の旧市街を見る。コンクリートの屋根は落ち、柱もほとんどハチの巣のようにコンクリートが銃弾で削られ、やせ細っているような建物ばかり。15年前に鯉を食った町の面影はない。えげつない破壊に言葉を失う。

今、僕たちの中で話題になっているのが、戦場のマクドナルド。Mのマークにouslとあってdonald’sと。つまり モスルドナルズ。Mのマークがそっくり。でも、行くと、怖いおっさんが出てきて「写真を撮るな!」と脅されるらしい。TVの人は、世界中のマクドの写真を撮って、写真展をしたこともあるという。「実は、今回モスルの企画を出したのもマクドがあると聞いて、その写真を撮りたかったんです」と打ち明けられた。地元の人にマクドがどこにあるのかしきりに聞いている。

帰りがけにとうとう見つけた!車窓から慌ててカメラを向ける。隠し撮りに成功! マクドができるくらいモスルは復興している?

モスルから戻ってきたTVの人と話をする。「(モスルはすごすぎて)どこまで(僕らの支援)活動を紹介できるかわからなくてごめんなさい」といわれた。張り切って説明したが、ほとんどカットされるかもしれないという。15分の番組だそうで、おそらくタイトルは「スクープ! モスルにできた偽マクドナルドの正体を暴く!」になるのかな。うーん。

仙台ネイティブのつぶやき(38)身欠きニシンの友

西大立目祥子

親しい友人が、また一人亡くなった。
今年はいったいどうしたというんだろう。4月からずっと毎月のように誰かが亡くなっている。誰しも、こういうことが続く年があるんだろうか。それともじぶんが歳をとったということなのか。日常の時間に、立ち止まって考えさせられるような休止符がふっと入ってくるような感じだ。

亡くなった友人は68歳、男性。最初は、奥さんと知り合い、いろいろ話をするようになったのだが、引っ越して家がごくごく近くになって、家族とも親密につきあうようになった。もう30年くらい前のことだ。

残業してくたびれてバスを降りると、その友だちの家の玄関の白熱灯がぼおっと灯っている。吸い込まれるようにして、「こんばんは」とガラスのはめ込まれた引き戸を開けて上がり込んでしまう。まだ小さかった娘たちは、もう隣の部屋で寝息を立てていて、薄暗い明かりの下で晩ご飯の残りをおかずにビールをごちそうになるのだった。しゃべっていると、いつのまにか外から帰ってきた飼い猫のレイ(本名はレーニンというんだった)が膝に乗ってくる。う〜ん、重い、といいながら2杯目に手を伸ばす。けっこうおなかが満たされたところで、すぐそばのじぶんの家に帰った。

たまに隣の部屋の娘が目をさまして起きてくることがあって、夫婦のどちらかが寝かしつけに行ったまま寝くずれてしまうことがあった。そうかと思うと、ガラス戸を開けると知り合いが飲んでいることもあった。あれれ、こんなところでといいながら同じように上がって話し込む。誰かれいつも人がいたのは、奥さんが塩竈という港町の老舗旅館の娘でいつも大勢家に人がいたのと、その友だちは北海道の炭坑の出身でおそらく濃密な近隣とのつきあいの中で育ったからなのかもしれない。

いったい何を話していたんだろう。本の話や建築の話、政治のことや人の噂なんかだと思うのだけれど、いまいち細部が浮かび上がらない。
それよりずっとくっきりと浮かぶのは、その友だちの料理だ。当時はまだサラリーマンだったから、そんなにひんぱんに料理をつくっていたとは思えないのだけれど、のちに少し離れたところに引っ越し、やがてフリーランスの大工になってからは、晩ご飯のほとんどを友人がつくるようになった。

最初の一撃は、北海道の姉さんが送ってきたという漬物だった。材料はキャベツと大根とニンジンと身欠きニシン、そして麹。麹の白いつぶつぶと黒っぽいニシン、キャベツの淡い緑の彩りがきれいで、麹のまろやかさにニシンの旨味が加わる。これは北海道の人たちが冬支度をするときに用意する漬物らしかった。東北だったら冬支度といえば白菜漬け、たくあん漬けになるのだろうが、漬物にニシンが加わるのがいかにも北海道だ。身欠きニシンて何ておいしんだろう。独特の味わいも身のほぐれ方も、細かい骨までもが好きになり、私自身もよく料理に使うようになった。

シシャモもしょっちゅう登場した。衣を付けて揚げて南蛮漬けにしたり、マリネにもしたりする。そして昆布。煮物には必ず昆布が入る。昆布とニシンをやわらかめに煮合わせるのもおいしい。こうやってあげてみると、生まれ育った土地の食べ物を一生背負って食べ続けていたんだなあと思う。そういえば、学生時代に奥さんと知り合い結婚して、最初にシシャモを焼いて食卓に出したとき、奥さんに「これ、人の食べるものなの?」といわれてショックだったといってたことがあった。北海道の人たちは、本州に暮らす人を「内地の人」とよぶというのも教わったけれど、その生活文化の違いに愕然としたのかもしれない。

もう15年くらい前くらいからだろうか。おせち料理をトレードするのも楽しみだった。初雪が降るころになると、今年は何つくるかなぁと飲むたび料理本や新聞の切り抜きを引っ張り出して話し出す。課題は定番に加えて何をつくるかだ。「よし、今年は鶏肉の八角煮だ」などと結論を出す。やがて大晦日。私が5品つくって持っていくと、友だちは7品も8品もつくって待っている。交換すれば、お重箱に入りきれないほどの充実のおせち料理のできあがり。同じお煮しめでも、全然違う切り方に味つけなのがおもしろかった。もちろん友だちの方がずっとおいしかったけれど。そして、お正月は、今年のおせちはここが失敗だったといいながら、また飲んだ。

友だちが一人死ぬということは、じぶんの中の関心や楽しみが一つ欠落していくようなことなのかもしれない。こんなに手の内を見せ合うような、おもしろがってやる料理の交換を、この先誰かとすることがあるだろうか。身欠きニシンのあの料理、シシャモのあのマリネ食べさせてよ、といっても、つくっておくから飲みにおいでよという人はもうこの世にいない。
奥さんももちろん大切な友だちだから、来年のお正月は喪中だけど、静かに2人で飲もう。友だちの名は久保久。30年くらい前、仙台駅前にあった名物書店「八重洲書房」の営業マンだった、といえば、読書好きの人の中にはあのちょっととぼけた味の風貌を思い起こす人もいるかもしれません。

別腸日記(20)菌食考─その1:タマゴタケ/Amanita Caesareoides

新井卓

(「別腸日記」はそろそろお酒の話の蓄えがなくなってきたので、今後は好きな料理やキノコの話も、折々していこうと思います。あしからず、ご寛恕ください。)

夏の暑熱が目に見えて衰え、弱々しい斜陽に山の緑が色を失うころ、地上に、深紅のかたちがあらわれてくる。森の奥へと点々と続く色鮮やかな球体は、通称「カエサルのキノコ」、すなわちタマゴタケの幼菌である。本菌は長年の憧れだったのが、どういうわけか一度も完全な姿に遭遇したことがなかった。それがつい先週、大阪を発つ日ふと訪れた岩湧山で、タマゴタケの大輪生に出会ったのである。

台風一過、沢山の倒木を踏み越えながら山道を登りはじめてほどなく、あまりにも場違いな鮮烈な紅色が、深い霧を縫って視界に飛び込んできた。はやる気持ちを抑えながら、道を逸れて藪に分け入る。真白い外被膜を破って、つるりとした頭を覗かせたキノコは、つい一、二時間前に花開いたばかりのようだった。その横にひとつ、またひとつ、と、大きさもまちまちなタマゴタケが、ゆるやかな円を描いて森の斜面に並んでいた。堂々と立ち伸びる成菌は霧のしずくに傘を濡らして、深紅から橙色に至るグラデーションを、ジェリー状の皮膜の下に輝かせている。

キノコたちはなぜ、こんなにも燃え立つような色彩を誇るのか──顔料ではとても再現できないスミレ色や、コバルト・ブルーのキノコを目にするたび、生命圏とは決して解きえない謎なのだ、という思いを強くする。

採り尽くさぬよう適度に間隔をとりながら、十か十五も集めただろうか。岩脇山へとつづく尾根に到達するまで、そうした輪生に三度も巡り会った。籠を持ってくるべきだったが、かたちを崩してしまうのを惜しみながら、ひとつひとつ、バックパックに収めていく。こうして、集めたキノコの重みを肩に感じながら歩く山ほど、心躍るものはちょっとない。そしてその喜びは、自らの判断に身をゆだねて収穫物を口に運ぶ緊張を経て、ふたたび、身体の中から立ちのぼってくる。

タマゴタケは生食ができる数少ない菌種のひとつ、であるらしい。翌日、上等のオリーブ油と岩塩、レモンを搾りかけて、薄くスライスした幼菌を口に運んだ。もろく壊れやすい軸は、噛むと思いのほか、ぽくぽくと歯触りがよくまずブルーチーズのような香りが鼻に抜ける。それからわずかにほろ苦い味と、松の実に似た、こくのあるうま味が口の中にひろがった。中甘口の白ワインがよさそうだったが、涼やかな秋の陽の下、はちみつの味がするハイランド・ウイスキーを合わせることにした。

キノコ・スパゲティーのレシピ(2人分)
材料
・野生のキノコ(市販の場合はエノキ、ナメコ、椎茸のミックスがおすすめ)300g
・にんにく 1かけ
・辛口の白ワイン 150cc
・オリーブ油(炒め用)大さじ2
・エキストラ・バージン・オイル 大さじ1
・塩 適量
・胡椒 適量
・乾燥スパゲティー(1.6mmくらいのもの) 2人前

手順
1. フライパンに炒め用のオリーブ油を入れる。刻んだにんにくを入れてから火をつけ、弱火に。
2. にんにくの端がキツネ色になったら、キノコ、塩一つまみを加えて中火で炒める。
3. 鍋に湯を沸かし、ひとつかみの塩を加えてスパゲティをゆで始める。
4. 2のフライパンがにぎやかになってきたら、白ワイン、パスタのゆで汁少々を加えて、炒め合わせる(キノコがくたくたになり、とろみが出るくらいまでしつこく炒めるのがポイント)。塩で味を整える。
5. スパゲティーを味見して、アルデンテより少し固いくらいでざるに上げ、4に加える。
6. ごく弱火にするか、または火を止めて、2分間、麺とソースを天地を返しながらすばやくかき混ぜる。油っこい光沢が消えて全体が乳化したら、器に盛る。
7. エキストラ・バージン・オイル、胡椒を振りかけ、好みで砕いたクルミまたはパルメザンチーズを振って食す。

補足
4のワインを日本酒に置き換え、さらに醤油小さじ3、みりん大さじ1を加えて仕上げに刻み海苔、カイワレ大根を添えると和風スパゲティになる。

しもた屋之噺(201)

杉山洋一

ボローニャの劇場で、クセナキスのバレエ稽古を眺めながらこれを書いています。今月は悠治さん旧作室内楽の練習から始まり、翌日家族で中央シベリアへ発ちました。イタリアに戻ってからは、学校の試験などが続き、漸くクセナキスに集中できる状況になりました。

若いバレエダンサーたちは、恐らく演劇畑から連れて来たのでしょう。休憩中など、仰々しい口調で「吾輩の人生は、左右にふれる振り子のようなもの」などと大声を叫びながらじゃれ合っています。ボローニャは常に若者の街。劇場の周りも、常に大学生で溢れかえっています。

彼らは輪になって走り、倒れ、迷い、闘い、揺れています。少なくとも舞台上に60人はいるでしょう。彼らの激しい息遣いが舞台から劇場一杯にひろがります。リノリウムを引いた舞台から、キュキュと靴が擦れる音がそこに交じります。意図したものなのか、彼らの動きは、ちょうどクセナキスの音楽をそのまま視覚化したものにも見えます。一つ一つのダンサーは端正で静的なルカの演出のうつくしさを描きつつ、それらが集団として激情をほとばしらせるさまは、圧巻です。

9月某日 三軒茶屋自宅にて
高橋悠治作品リハーサル。「6つの要素」の稽古では、まず口三味線で雰囲気を作ってから、流れを感じながら楽器で音をだしてみる。細部を積み重ねてつくる音楽ではなかった。もしかすると最近の作品と演奏のスタンスは違うかもしれないが、音符を載せる箱があるかないかの違いはあっても、本質的には違いはないように感じる。「クロマモルフ」では、悠治さんがヴァイオリンのポンティチェロの響きを探して、あれこれ試してみる。やはり作曲家が目の前にいる意味は計り知れない。音を入れて形を整える前に、音楽の本質を掴むことができる。

演奏しやすく、わかりやすく、バランスよく、スタイリッシュな昨今の現代音楽にはない存在理由。たとえ、作曲の意図は、50年前と同じような武骨なものであったとしても、それを最新式コンピュータのフィルターにかけると、近似値に偏るためなのか、どこかみな似た手触りになる。そんな将来の音楽を知ることもなかった作曲者によって、まだ見ぬ未来へ放たれた、希望とも不安とも戸惑いとも無邪気とも聴こえる音たち。

9月某日 クラスノヤルスク
ハバロフスクの空港のパスポート検査に並びながら、バッハのチェンバロ協奏曲を読んでいたのを思い出す。家人のピアノの伴奏をするのは久しぶりで、新鮮だった。普段はレッスンで彼女が我々の伴奏をしてくれているから、一緒に演奏することそのものは別段珍しくないが、彼女のピアノが引き立つように、演奏家たちの耳を彼女の音に近づけてゆく作業は普段とはまったく違うプロセスとなる。

自分にとってバッハは本当にむつかしく、新古典やロマン派、それ以降のものを勉強してからでないと、バッハを演奏する意味も方法も見いだせない気がしていた。物凄く複雑だから手が出せないのだ。バッハ以外の複雑な音楽は、複雑だからこそそこに端正さ、或る意味での平板さ、単純さを見せることが、自分の演奏のスタンスだと思っている。バッハはどうか。複雑だから、単純に見せるような音楽だろうか。それ以前に果たして単純になど、どうやって見せられるのだろうか。

そんなことを考えているから、頭でっかちで手が出なかった。今回、家人の伴奏のため譜面を読むと、どの小節も演奏する喜びに満ちていて、イタリア音楽への憧憬もありありと感じられたから、その辺りをどう引き出そうと考えているうち、普段の心配などすっかり忘れてしまった。感情を込めることで成立する音楽ではないから、家人の音のうつくしさが際立つ。珍しい夫婦共演に息子は大喜び。

折角家族でやってきているというのに両親がずっとリハーサル続きで、息子はつまらない。今日のリハーサルが終わってから、マウンテンバイクを3台借り、既に昼に一回りしてきた息子が先導して、夕焼けの雄大なエニセイ川を眺めながらサイクリングする。なぜマウンテンバイクなのか不思議だったが、かなり野趣溢れるサイクリングで、一時間は軽くかかる。大人が走っても十分面白く、世田谷公園とはずいぶん違った。

9月某日 クラスノヤルスク
リハーサルは午後からなので、ラリッサに連れられて、息子とアスターフィエフの生家へ出かける。街から30キロ程の距離、クラスノヤルスク水力発電所から6キロほど下ったあたりのエニセイ川のほとりの古い小さな村にある。花壇の美しい木造りの旧家に入ると、これがロシアの伝統的な家の匂い、とラリッサが嬉しそうに呟いた。アスターフィエフの代表作「魚の王様」は邦訳も出ていて、今度読んでみたいと思う。彼の父親はずっと牢獄に繋がれていて、母はアスターフィエフが幼い頃、エニセイ川で投網をしていた折、誤って網に絡まり川底に沈んでしまった。河を一望する展望台には、チョウザメの模型。アスターフィエフの「魚の王様」のモニュメントだと説明を受けたが、何しろ読んでいないので意味がよく分からない。

シベリアに着いて以来、余りに美味なのでウーハという魚のスープを毎日食べている。鮭の場合が多かったが、チョウザメで作るウーハもあって、とても脂こくなるそうだ。シベリアでは肉が食べられないと困るだろうと心配していたが、杞憂におわった。息子は、ロシア風餃子が気に入って繰り返し食べている。家人の好物のピロシキは、日本の揚げパンとはずいぶん印象が違って油ぽくない。野菜や魚のピロシキもあって、これは何度も頂く。文化や人種、音楽はもちろん、料理ももちろんロシアは我々とヨーロッパの中間にある。

9月某日 クラスノヤルスク
ミハイルからいいね、君の「レパ」はとてもいいね、君の「レパ」は、と言われて、最初は何のことだかさっぱりわからなかったが、英語が苦手でいつも仏語で話していたので、「レパ」は曲名の「the steps」を「les pas」と仏語で呼んでいるとはわからなかった。

言葉で細かい手続きを伝えるのも大変そうだったので、指揮なしの作品を作るにあたり、流れは極力単純にする。最初は本條さんの三味線と弦楽オーケストラはそれぞれ別の世界にいたけれど、リハーサルを繰返すなかで、互いの音楽が聴こえてくると、互いが発する音が急に有機的に混ざりはじめ、化学反応をはじめる。

何か作り上げられたものを、実現するために弾いているのではなく、どう弾いても間違った演奏にはならない、という曲を書いてみたい。演奏は正しいことを実現、再現するためではなく、演奏して作り出すために必要とされる。或る箇所では、三味線とオーケストラが互いに聴きあい、刺激しあって進んで欲しいと伝える。言葉ではいとも簡単だが、実現は容易ではない。本條さんはその部分になると聴衆に背を向け、ピアノやチェンバロの弾き振りのように、オーケストラメンバーを見つめながら演奏した。すると途端に、オーケストラの音色も、顔の表情もまるで違ってみえる。

サスナヴァボルスクで演奏したときは、演奏前に、作品の素材がブリヤートのシャーマンの歌の断片であること、これらが日本人の原風景ともつながっていることなどを説明したからか、演奏家たちの音が最初からまるで別人のようだった。シベリアの人々は例えヨーロッパ系であっても、西ヨーロッパ人の感性と明らかに何かが違う、我々に近いものを持っている。

9月某日 ハバロフスクから成田への機中にて
オーケストラの弦楽器の美しさに驚く。子供のころから、ロシアのヴァイオリンは本当によく聴いていた。音の深みや濃さは、オイストラフを思い出す。丸みを帯びた音だけでなく、ふとした瞬間に、すっと線を引くような美しい音が駆けてゆくさまは、少し胸と肩を張り出したコーガンの姿を垣間見る思いがする。とにかく、それぞれの発音の仕方がこれだけ揃うのは珍しい。誰もがミハイルの下で培わられた音だからこそ可能になる表現なのだろう。

しかし彼らの心尽くしには、感服するばかりだ。ボタンが外れたズボンをクリーニングに出せば、丁寧に手縫いで繕ってクリーニングされて戻ってきた。特に肉が食べられないと言わなくても、パーティーでは常に魚料理でもてなされた。ウォッカなどとても飲めないと思っていたが、クラスノヤルスクの白樺の皮で濾した上級ウォッカを頂くと、信じられないほど円やかで美味で、自分が知っているウォッカとは全く別物だった。ソ連時代の名残なのか、時間はとても正確で、こちらがどんな酷いロシア語で話しても、一所懸命理解してくれる、とても心の温かい人々だった。

クラスノヤルスク空港にイタリア風ピザ屋があって、メニューにある「ユージ」ピザを注文した。美味。ハバロフスク朝5時半。飛行場が近づき機体が地面を舐めるように降りてゆくと、真赤な朝焼けの光に、湖沼から湧き立つ白い靄の濃さにおどろく。

9月某日 ボローニャ劇場
クセナキスのスコアは、コピーも薄い上に、細かい動きもあって、本当に判読不可能だと思っていた。まず、2センチごとに、恐らく書かれていたであろうと想像できる箇所に小節線を引くところから始め、遺跡の発掘でもするように、少しずつ音楽がスコアから浮き上がるのを待つ。巨大な遺跡を前にするかのように、塊をつかみながら発掘を進める。ところどころ、年月が経って、崩れかけ粗づくりに見えるのも、ちょうど西洋の遺跡に似ている。自分が演奏するためのキーワードを探しながら、ページをめくる。

悠治さんとクセナキスの音楽は、ちょうどポジフィルムとネガフィルムのようだ。同じ表現を、まるで表と裏から眺めているよう。シルクロードの建造物を西洋と東洋から眺めているようでもある。ルカは一つ一つの動きをていねいに彼らに伝えてゆく。細かい動きの微細は変化というより、鷲掴みにする明快な身振りが、強い表現を生む。静的な表現の印象があったルカの舞台が、クセナキスに突き刺さる。

「文字通りクセナキスの音楽をそのまま舞台で見ているようだ。見事だね」、思わずルカに話しかけると、「そりゃそうだよ、クセナキスの音楽は自分の演出の原点だからね。これが5作目さ。クセナキスから、君ならどんな演出でもやっていい。音に合わせた動きさえしなければね。そう言われて以来、とても自由に感じられるようになったのさ」。嬉しそうに答える。

目の前の無音の舞台では、アリーチェが長い時の流れを彷彿とさせる6メートルほどの細い長い金属棒を掲げ、ゆっくり回転している。傍らではイリーンが、時の流れに翻弄される我々のように、はらはらと回転する。真っ暗の劇場のなか、ヴィンチェンツォの照明が、彼女たちの動きを、傍らから、上部から美しく浮き上がらせては、また深い暗闇へ消えてゆく。

ボローニャ 9月29日

スマホ、柚木香澄の場合

植松眞人

 柚木という名字の人に会ったことがない。ゆずの木と書いて「ゆき」と読む。電話で名前を伝えると、半分くらいの確率で「名字は」と聞き返される。「ゆずの木と書くんです」と言っても、すんなり伝わることはほとんどない。香澄という名前には時々会う。いま通っている大学のゼミにも同じ字を書くカスミちゃんはいるし、字は違うけれどカスミと読む友だちはいる。
 最近はみんながスマホを持っているので、「ゆき」と入力すると、たまに賢い変換だと「柚木」という字が現れる。スマホは便利だ。辞書にもなるし、目覚まし時計にもなる。大学に入学して実家を出てからは、少し時間があるとLINEをしたり、SNSを見たり、簡単なパズルゲームをしたりすることもある。友だちとの写真も全部スマホに入っている。まだ彼氏はいないけれど、同じゼミのカスミちゃんは、彼氏とのキス写真までアップしてリア充ぶりをアピールする。でも、本当はその彼氏とはとっくに別れていて、新しい彼氏もいるんだけどアップした写真は削除していない。なんで、と聞いたら、前の彼氏のほうがかっこよかったしあの写真の自分の顔は彼氏の影に隠れてわかりにくいし、ウラ垢だから新しい彼氏にはばれっこないから、とカスミちゃんは、やばいかなあ、を連発しながら私に笑って言う。
 カスミちゃんのことは馬鹿だなあとは思うけれど、その気持ちはまったくわからないわけではなくて、私はカスミちゃんのことを心からは馬鹿に出来ない。
 だけど、そんな話をしているときに、私はカスミちゃんと一緒にカスミちゃんの昔の彼氏とのキス写真を眺めていたのだけれど、ウラのアカウントを使っているカスミちゃんのほうが、オモテのアカウントのカスミちゃんよりも本物のような気がして、だんだんと気持ちが悪くなってきた。やっぱりこの写真削除したほうがいいんじゃないの、と私が言うと、カスミちゃんは一瞬、真顔になってものすごく私を見下した顔をした。見下した顔というのは、いくら私が何を説明しても決して受け入れないよ、だってあんたは馬鹿だからという顔で、私の友だちのほとんどがその顔を持っていて、時々、互いに見下した顔を向け合っているように思える。私ももしかしたら、人を見下すような顔を持っているのかもしれないけれど、よくはわからない。
 わからないけれど、私はなんだか、そのとき気持ちが昂ぶってしまって、「カスミちゃんてさ」と言ってから、私は自分の名前が目の前のカスミちゃんと同じ字面で同じ読み方なのだということに気付いて、急に吐き気がしてしまって、ごめん、と言って一緒にいたコーヒーショップを出たのだった。
 平日午後の表参道を歩いている人たちはみんなカスミちゃんと同じくらいにはオシャレで、私はこの人たちがみんなウラ垢を持っているんじゃないかと考えてしまい、みんなの輪郭が二重に見え始めて、道行く人たちの人数が急に倍になって道を埋め尽くした。
 私はなるべく人の少ない脇道へと入っていく。オシャレなショップがどんどんと減っていくにしたがって、私は気分は落ち着いていった。小さな路地を見つけては曲がり、小さな路地を見つけては曲がりしているうちに、私は表参道から大きくそれていって、道に迷ってしまったのだった。
 古いビルがあり、その階段に腰を下ろして、私はしばらくぼんやりと汗が引くのを待っていた。路地の奥から風が吹いてきて、私の頬を撫でた。風が私とカスミちゃんを断ち切ったような感覚があった。カスミちゃんと私。表参道と私。SNSと私。大学のゼミ仲間と私。東京と私。さっきの風が、いろんなものと私を断ち切ったように思えたのだ。断ち切ったとまでいかないまでも、なにかクールダウンさせてくれたような感覚があった。

 私は、いま自分がどこにいるのかを確認しようとスマホをバッグから取り出した。するとまた気持ちが悪くなったのだ。SNSとまたつながってしまうような気持ち。またカスミちゃんと連絡を取り合って遊びに行かなければいけないような気持ちがざわざわと私の周囲にわき上がって、私を包み込もうとしているようか気がした。
 私は自分がどこにいるのか、確認するのを諦めて、ゆっくりと知らない路地を歩いた。坂道を上がったり下がったり、また平坦な道を右に曲がり左に曲がった。その間、私はずっとポケットの中にあるスマホをずっと握りしめていた。いままでこうすると私は心細さを隠すことが出来た。なんとなく、スマホのなかにあるいろんな情報が私をこの世の中につなぎ止めてくれているような気がするのだ。
 でも、いま、スマホは冷たいままだった。私はスマホを取り上げて、思い切って電源を入れた。そして、「設定」というボタンをおして、そこから「一般」という項目を選択した。「初期化」という文字が見えて、私は私のスマホを初期化した。個人情報がなにも残らない状態にした。
 私のスマホは、私のスマホではなくなり、私が持っている誰のものでもないスマホになった気がした。
 ちょうど表参道に出たので、私はスマホをコンビニのゴミ箱に捨てた。なにも気にせず、なにも迷わず、私はゴミ箱の中にスマホを投げ入れた。私がそのまま行こうとするとスマホに着信があり、コンビニのゴミ箱の中で着信音を鳴らせ始めた。初期化した直後だったので、私は驚いて立ち尽くした。スマホのなかのアドレス帳を初期化してしまったので、スマホの画面には電話番号だけが明滅していた。はっきりとは覚えていないのだけれど、末尾の四桁がカスミちゃんの番号のようにも思えた。私はしばらく、その番号を眺めていたけれど、スマホの向こうにカスミちゃんが本当にいるとは思えなくなっていた。いままでスマホを通じてやりとりしていたカスミちゃんや大学の友だちやアルバイト先の人たちも、もしかしたらスマホの中にしかいないのではないかと思い始めていた。
 私はコンビニのゴミ箱で鳴っているスマホから逃げるように、駅のほうへと歩いた。すぐ目の前にあった東京メトロの看板の誘導に従って、私は階段を駈け降り、改札へと足早に近づき、スイカを使おうとポケットに手を突っ込んでスマホを……。(了)

個人の自由

北村周一

きょうは、とってもタバコが吸いたい。
ともあれ、タバコを吸いたいと欲する。
欲したおもいが、体内を巡る。
この欲求はなかなか消えようとしない。
タバコとは、単価の安い、欲求(不満)解消の道具である。
火をつけて吸う。
咽や頭が痛くとも、隣人に迷惑だとわかっていても、
灰や燃えカスが危険だと知りつつも、
なにより喫煙タイムは無駄な時間だとわかっていても、
吸わずにいられない。
かくして、一本のタバコを吸いおえて、一気にもみ消すことの悦楽。
この瞬時に消せるところが素晴らしい。
道具たる所以でもある。
 
欲求がまずは芽生え、そしてその欲求を消し去る。
かかる数分の快楽は極めて効果が高いために、また大きな代償を払うことにもなる。
喫煙を個人の習慣や嗜好性とのみとらえ、
禁煙を個人の意志力の強弱と結びつけるこの国では、
世界を敵にまわす覚悟のある、タバコ農家と族政治家と企業人が、
いまもなお健在であることを気づかせる。

習慣的喫煙者の禁煙は難しい。
喫煙は二十歳になってから、と喫煙マナーが声高に叫ばれれば叫ばれるほど、
「高倉健」の孤高と反骨の姿は美しく力強くかがやく。
こどもが親からの独立を宣言するかのごとき喫煙のはじまりは、
企業によるイメージ広告の産物にすぎない。
数年後には、こどもは立派な喫煙者となり、
しかも最初のブランドにこだわる真面目なスモーカーに変身をとげる。

一方喫煙は、こどもだけでなくおとなにとってもデカダンをにおわせる。
禁煙イコール健康指向イメージになじめないおとなはいつの時代もそれなりにいる。
200種類を越える有害化学物質を体内に摂り込むことは、
自己の意志であるとはいえ、寿命を縮める姿勢はたしかに退廃的だ。
しかしながら、既成の価値・道徳に反する美を追い求めた芸術の傾向(辞林21)を、
デカダンスと呼ぶもうひとつの意味ととらえてみるなら、
今日の喫煙スタイルはいかにも格好悪い。

いま一本のタバコを止めることのできない者は、
いや、いま一本のタバコは我慢しよう、
我慢したとしてもその次の一本、
またその次の一本の欲求を空振りにすることはできるかと想像すると、
果てしない欲望の渦が身を取り囲み・・・・・、
この先いつかはその欲求に克てなくなるときが来るだろうことにおもい至り、
それならいまの我慢は何の役にも立たないではないか、
ならばこの一本を吸うことにしよう・・・・・・・。

おもうに、これからの先のことにおもいを巡らせることを中断してみたい。
いまひとときの我慢ですむからだ。
きょう一日の我慢ではなく、いま一本の欲求が通りすぎてゆくのを待つこと。
かくなるひかえめでやや地味な決断は、いささか説得力を欠くようにおもわれるけれど、
個の本来の姿勢に鑑みれば、少なからず能動的に生きているとはいえまいか。
 

*2000年8月に書いた文章を僅かばかり手直ししました。
18年の間に、タバコを取り巻く環境は、幾分変化したように感じているからです。