しもた屋之噺(203)

杉山洋一

幼稚園から中学までミラノの現地校に通っていた息子が、突然日本語を勉強したいと言い出し日本人学校に転校して一ヶ月。朝の弁当作りにも、漸く慣れてきました。前から習いたがっていたスキエッパーティのレッスンに息子が出かけると、出抜けに二週間後の国立音楽院の入試を受けるように言われ、そのままノヴァラの国立音楽院にも入学してしまいました。自我の芽生えとともに生活に大きな変化を迎えた秋が、気が付けばもう過ぎようとしています。

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11月某日 三軒茶屋自宅
三軒茶屋の小さなホールで、篠崎功子先生と並んでマルモ・ササキさんの演奏を聴いた。3年前に書いたチェロ曲から、マルモさん自身の言葉が聴こえる。溢れるような彼女の伝えたかった言葉が楽譜に書かれた音符を通して、我々のところへ届く。
「この楽譜を勉強しながら、宝物を沢山見つけました。ありがとう」。イタリア語で届いた彼女からの便りを思い出しつつ、黙って耳をかたむける。
傍らの功子先生が「作曲家と一緒に勉強したから、今のわたしがあるの。わたしの読譜能力は、一緒に音楽をつくってきた作曲家の仲間から教えてもらったものね」と呟いた。

11月某日 三軒茶屋自宅
早起きして自転車で早稲田まで出向く。10年前に書いた「カワムラナベブタムシ」を、若林ご夫妻のお陰で、初めて聴かせていただいた。お二人の名演を前にぼんやり思い出すものがあって、それは曲の内容というより、3歳の頃の息子の姿や、アラブ人の子供たちが集う、スカラブリーニ広場の幼稚園の朝の風景のような、当時の身の回りの懐かしい風景だったりする。甘酸っぱい味わいが残るのは、意図せず浮かび上がるあの頃の息子の日常を描いたような曲調のためかもしれない。

11月某日 三軒茶屋自宅
エマニュエル・マクロン大統領が語った、国家主義は愛国心への裏切りだという意見に、心からの共感を覚える。馬齢を重ね日々自らの愛国心は実感しているけれど、愛国心から国粋を導くのには違和感を禁じ得ない。我が国の文化が素晴らしいのは、他国より秀でているからではなく、外からもたらされた素晴らしい文化が幾層にも織り込まれているからだ。
国内でさえ諍いは絶えなかったのだから、長い時間のなかで諸外国と政治的に齟齬が生じるのは止むを得ないのかもしれないが、せめて我々音楽家は、政治的対立と一線を画す立場でありたい。
純粋な愛国心ゆえはっきりと声に出しておきたい。国内で滞在する外国人に対して、同じとまでは言わなくとも、それ相応の処遇をとりなしてほしい。彼らへの対応が良化すれば、それだけ日本に還元されるものも良化すると信じる。彼らが故郷に戻ったとき、日本がどれだけ素晴らしかったか話してくれれば、より素晴らしい人材が日本に集まるにちがいない。
一時的な視点を一先ず置いて、どうか長期的に見て本当に有効な手段を講じてほしい。そして、本当に日本を愛するのならば、日本がどう見られているのか、相応の理解を深めてほしい。どう見られてもよい、という思いが国民の総意であれば仕方がないが、それならば諸国の尊敬を期待するのもやめるべきだ。愛国心とは、日本を豊かな国にしたいと願う心だと信じる。

11月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんとすみれさんの二重奏。艶のあるビロードを纏ったような沢井さんの音と、深く身体の奥底まで沁みるような、すみれさんの音が出会う。お二人の音が聴きたくて書いたのだったな、と思い出す。沢井さんの音は、発音の直後の揺らぎと、幽遠な空間に消えてゆく余韻の雄弁さ。すみれさんの音は、発音の瞬間そのものが纏う、やさしさと自立心の雑じった薄い空気の層。そうして、何かとてつもなく遠いところまで、反響がのびつづけるのを見る。二人の間を行き来するつぶやきとともに。
まだ小学生だったが、湯河原の祖父が夏になると吉浜に開いていた海の家に、真木さんや田中賢さんが、何度か遊びにいらした。今も昔も泳ぎは苦手で、沖に浮かぶ休憩用の筏から、真木さんが、危なくないからここまでおいで、とニコニコ手招きするのを、波半ばで恨めしく眺めていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
頼暁さんの「挑発者」を説明するのに、ブレヒトとワイルのキャバレー・オペラを思い出す。短いながら三幕から成立していて、それぞれ一曲ずつアリアが挿入され、幕終りには合唱もつく。ごく普通のオペラ形式を大真面目に踏襲しつつ、「月光の曲」やヴェルディ「マクベス」を雑じえ、早いテンポで会話をすすめて、現代社会や体制について器用に諧謔を弄する。表面的に聴きやすい旋律は、意外なほど演奏に困難を強いたりする。頼暁さんのバランス感覚のよさは、作品の素材選択にあって、徹頭徹尾、理知的に書かれる音楽の硬度を守りつつ、自在に表面の仕上がりを変化させることができる。

11月某日 三軒茶屋自宅
荒木さんと鷹栖さんと一緒に、悠治さんの「オペレーション・オイラー」を読む。意外なほど重音の羅列はよく鳴るが、指定された超高音は楽器の構造上どうやっても出ない。バルトロッツィと特殊奏法を研究したオーボエ奏者のリードが極端に薄かった可能性もあるが、今後の演奏のために、何らかの対策を立てなければならない。
「クロマモルフ」「6つの要素」「オペレーション」を悠治さんに聴いていただいてみて、思いの外長いフレージング感覚に愕くことがあって、その昔ピアノのための「クロマモルフ」や「ローザス」を聴いて、実際の楽譜の印象と違ったことを思い出す。若輩者が読んだ譜面の印象では、極小単位が積上げられ構成されているようだったのが、実際作曲者が聴いていた音の流れは反対だった。
乱暴な言い方をすれば、目の前に或る複雑な音の動きがあるとして、極小単位を積み上げる演奏方法なら、その複雑な音の動きが聴こえるように演奏するだろうし、全体のフレーズのなかにその音の動きを感じたいのであれば、あえてその複雑な動きを際立たせずに、全体の流れに沿って音をしのびこませる。
クセナキスが、悠治さんのヘルマに感銘を受けた逸話から、クセナキスも同じように音楽を捉えていたことがわかる。尤も、クセナキスの場合、独奏作品では印象は違うかもしれないが、大規模な楽器編成を扱うと、かかる傾向は如実に楽譜に顕れている。
こうした悠治さんのアドヴァイスは、「歌垣」を読むうえで、非常に役に立つ。クセナキスの「戦略」のような鬩ぎあいを想像していたので、滔々とたゆたうような流れの「歌垣」の譜面との差異に愕いた。悠治さん曰く、同じ技法をつかっても、クセナキスのように暴力的にはできなかったそうだ。
テンポやディナミークをゆらすことで、歌い掛けるというカガヒの語源に近づけるかもしれない、と助言を頂戴する。来月の演奏会では、「たまをぎ」の録音のような、大らかで土臭い祭りの音、夜松明を囲んで歌いあう男女の野太い歌声を表現してみたいが、さてできるだろうか。

11月某日 ミラノ自宅
演奏にあたってどのように楽譜を読むべきか。恣意的なルバートを極力排除し、まっさらな原典版を使って、余計な思いを籠めず演奏するのを良しとするのが、全て正しいかどうか。
われわれ演奏家は現代作品、それも身近な作曲家の作品を、もっと演奏すべきだ。彼らと一緒に曲を仕上げることで、作者の意図を実現する意味を、より深く理解すべきだ。作曲家はそれぞれ性格がまるで違うのだから、一人の作曲ではいけない。一人でも多くの作曲家と交流を深め、「作曲家の思考」という一義的な固定観念を捨てるべきだ。
実際に作曲家と付き合えば、それぞれどれほど隔たった人間であるか実感させられるに違いない。同じ作曲家でも、20年前、10年前、5年前と現在でどれだけ思考が変化し、彼の周りの環境が変化したのか、自らの20年前を思い浮かべるだけで充分だろう。
世界は、加速度的に環境は変化している気がするが、それは正確だろうか。100年前の作曲家の環境は、20年間で変化しなかったか。世界が等しく欧米式近代化を遂げているわけではないが、西欧音楽の作曲家が住む地域は、元来ごく限られた地域であって、似たような近代化を経て現在がある。そこで人間の根源的な本能に則り、生きた証を残そうとする生理、摂理の一つに作曲がある。多分それ以上でもそれ以下でもない。


(11月30日ミラノにて)

仙台ネイティブのつぶやき(39)ひいおばあさんの時代

西大立目祥子

カレーで有名な新宿中村屋を興した相馬黒光は、仙台の人である。明治8年(1975)、城下町の西のはずれ、木町末無(きまちすえなし)というところに生まれ、横浜のフェリス女学院に入学するまで多感な少女時代をこの街で過ごした。

幼年期から少女期にかけてのことは、自伝的随筆『広瀬川の畔』にくわしい。この秋、この本をテキストに話をする必要に迫られて少していねいに読んだ。黒光自身に興味を持つ人は、のちに事業家として成功し、サロンをつくって若い美術家や作家を育てた一人の女性がどんなふうに育まれたのかを読み込もうとするのだろうけれど、私がいちばん心ひかれたのは明治初めの士族の没落していく暮らしぶりだった。

黒光がこの随筆を書いたのは還暦を過ぎて数年がたったころ。抜群の記憶力で少女の眼がとらえた生活の変化を再現していて、明治という新しい時代の中で困窮していく武家の暮らしの記録としてもとても貴重なものだと思う。

黒光のもともとの名前は星良(ほし・りょう)。星家は伊達家の中級武士で、祖父の星雄記(ほし・ゆうき)は藩に建白書を出すなど剛毅な行動で知られる人だった。そんな名をなした武家も、仙台藩が戊辰戦争に負けて明治を迎えると、みるみる生活が逼迫していく。
黒光が子ども時代の明治10年代、まだ仙台市は誕生していないし東北線も開通していない。草ぼうぼうの武家屋敷が点在する荒廃した旧城下に軍隊がやってきて軍人がサーベルを鳴らして歩き、控訴院や監獄などの疑似洋風の木造建築が出現し始める。風景は定まらず混沌としている。そして、江戸時代の風習も生活も残る一方で、近代の新しい文化がまだまだ定着しておらず、宙づりにされて動くに動けないでいるような人々の姿が生々しい。

社会の激変についていけず立ち尽くしているような父親に代わって、一家を切り盛りしていくのは黒光の母親だ。生活のために日々こなしていたのは、農事。たぶん500坪に及ぶような広大な屋敷地を頼りに、春夏は茶を栽培し、作男を使って製茶し、蚕を育て、秋には柿をむき、冬は漬物を仕込み、休みなく機を織る。まるで農家の嫁のような毎日が続くのだけれど、資料にあたってみると、養蚕や製茶や地織りを奨励し士族に自活の道を開くことが仙台藩の最後の仕事だったらしい。

江戸時代、城下の武家屋敷には自給のためのたくさんの樹木が植えられていた。たとえば、杉や檜は家を建て替えるときの用材に。梅、柿、梨、桃、リンゴ、栗など実のなる木は食用に。それは家族が楽しみに待つ味わいでもあったのだろうけれど、生活が行き詰まっていくと大量に採れる梅の実などは売りに出されるようになり、やがて代々大切に守ってきた梅の大木まで手放さざるを得なくなる。

「愛樹を売る」と題された一節には老梅が根回しされて荷車に積み込まれて門を出ていくようすが記されている。
「ある日、人足体の男が、ドヤドヤと裏に入り込み、老梅の周囲を掘り始めました。やがて根に土をつけたまま荒縄で縦横にしばり、枝をそちこち伐り落して、手をもぎとられたようになった胴体を、ごろりと横ざまに荷車に積み、エンヤラエンヤラとかけこえ賑やかに曳きだしました。けれども屋敷を出るところで梅は急に動かなくなった。……それを見ていると老いた幹から血でも滴るような気がして、長く棲み慣れた屋敷から離れて行くのを、いやがるのではないかと悲しくなり、いそいで家に駆け込みますと、茶の間では祖母と母とが、眼を泣き腫らしておりました」
この梅を買ったのは、生糸の売買で成功し、銀行や生命保険会社の重役を務めていた佐藤三之助なる人物。才覚ある新興勢力が力を増して旧武家地を手中に納め、城下町の構造が変わっていくようすが見えるようだ。

やがて星家は、離れに軍人や官吏などの借家人を置いて賃料をとるようになり、母は持ち込まれる縞見本を手に賃機に精を出し、ついに代々守ってきた家財も売りに出し始める。大切にしてきた具足櫃やおひな様の長持ちがいつの間にか消え、家の中ががらんとした中に取り残されていくようなさびしさを、少女の黒光はしっかりと見届けている。

こうした箇所を読むと、同じように少年時代から苦労を重ねた私の祖父の顔が思い浮かんでしまう。祖父は明治34年(1901)生まれなので、黒光の息子といっていい世代なのだけれど、同じように伊達家の武士の末裔で、頼りにならない父、細腕で奮闘した母を持ったその少年時代の経験は、少女時代の黒光の経験にぴったりと重なる。

私がそう言い切れるのは、祖父が子ども時代の経験を書き記した何冊ものノートを残してくれたからだ。
たとえば質屋通い。町はずれにある質屋に質草を入れるとき、大人は子どもに使いをさせたらしい。黒光は肩に食い込みそうな大きく重い荷物を背負わされ、母をいっしょに夜道を歩いていくのだが、質屋が近づくと母は提灯の明かりを消して黒光に背中の荷物を店の主人に渡してこい、といいつける。祖父もまた母親が柳行李から質草を選び出すのを見ていて、手渡された風呂敷包みを黙って受け取ると質屋へと小走りに走り出す。
たとえば、お蚕。星家では、桑の木を植えてたくさんの蚕を飼ったのだと思うが、祖父は母と2人、朝仕事に近所の農家に行き桑の葉摘みをしてお金を受け取っている。

ひと世代下がっても繰り広げられていたまるで同じ生活に、明治初期の仙台の街の停滞ぶりを教えられるようだ。
ある家族の暮らしが、ひと世代下がったもう一つの家族の暮らしとつながり、地域史を想像させる線になっていく。やはり、書き残しておくって大事だなぁとあらためて思ったこの秋。新宿中村屋の黒光さんは、私のひいおばあさんでもあるのだ。

本屋の二階

植松眞人

 東京の鶯谷には正岡子規が住んでいた旧居がある。
 上野界隈には明治から昭和にかけて文豪と言われた小説家が住んでいた場所が数多くあって、地域では文豪の街として活性化を図っていたりもする。
 鶯谷にも何人かの文豪の痕跡があるらしいのだが、それよりもなによりも鉄道の駅前がラブホテルで埋め尽くされていて、文豪の街だと喧伝するには困難なものがある。
 正岡子規の旧居の前をたまたま通りかかり、ここがそうなのかと独りごちたのはもう何年も前のことだ。しかし、きちんとした看板が掲げられて記念館のようになっている旧居に立ち入ったことはない。そもそも、小説家の記念館のような場所に行って、生前使っていた万年筆や原稿用紙を見たところで何がどうなるというものでもない。ごくたまに、あまりにも小さな座卓の上にこじんまりと筆記用具が並べられている様子を見て、こんなに狭い机上からあんなにも大きな物語が生まれていたのかと感嘆するようなことはあるが、そんなことは希だ。
 しかし、この正岡子規の旧居の前を通ると、不思議に行き着く書店がある。鶯谷と日暮里の中間。少し日暮里寄りの場所にその書店はある。小さな民家を改装したような作りで、二階建てになっており、いかにも趣味の良さそうな古書店の様相を呈している。だが、実際に硝子戸を引き、中に入ってみるとそこは新刊書ばかりの普通の書店で、場所柄なのかどうか店先の一番目立つところには売れ筋のファッション雑誌と漫画雑誌が並べられている。そして、レジがありレジの脇から奥へ続く通路の両脇には成人雑誌が驚くほどの種類並べられているのである。
 数年前に初めてこの書店に足を踏み入れたときには、いったい世の中にはこんなにたくさんの種類の成人雑誌があるのかと呆然とした覚えがある。品のいいヌードグラビアがあるかと思えば、男の私でも目を背けたくなるようなあからさまに卑猥な裸の表紙がある。男の同性愛、女の同性愛、変態性欲などなど趣味趣向によってジャンル分けされていて、さらに枝葉は細部へと伸びていく。どちらかと言えば、同性愛ものが多く、五年ほどの間に、数回しかここには来ていないのだが、それらしい常連客と出くわすことがたまにある。しかし、みな目的の本があってそれを手に入れるためだけにやってくるので、あまり店内をうろうろとすることがない。
 私はいつも店内に入ると、すぐ脇のレジに座った、夏でも毛糸の帽子をかぶった中年の男性店主をちらりと観察する。おそらく五十代の半ばくらい。真面目そうな男で、いつも、手元の本を読んでいる。客が声をかけるまではほとんど顔を上げることはない。本を見て回るばかりで買ったことがない私は、まだ店主の顔を真っ正面から見たことがないのだった。
 この日も私はほぼ一年ぶりに仕事の打ち合わせのために午後遅く鶯谷の駅で降りたのだった。そして、日暮里方面に歩いている時に正岡子規の旧居の前を通り、この本屋へと自然に足を向けたのだった。
 以前に来たときと同じように、硝子戸を引き店内に入ると、その日はレジに店主の男性がいなかった。私は漫画雑誌の前を通り、成人雑誌の棚の方へと向かった。相変わらず様々な種類の成人雑誌があり、妙に湿気て重くなったような空気を楽しんでいた。
 すると、いつも気付かなかったのだが、成人雑誌の奥の方に続く通路があり、その先に階段があるのだった。前に来たときにも、もしかしたら気付いていたのかもしれないが、だとしたらあまりのさりげなさに、二階の生活圏への入り口だと考えたのかもしれない。しかし、下からのぞくと本棚のようなものが見えたので二階にも本があるのだろう。私はぎしぎしと音を立てる階段をゆっくりと上がった。
 二階には毛糸の帽子を被った店主がいて、棚の整理をしていた。座った姿しか見たことがなかったのだが、立ち上がった店主の背は高く、百七十センチは優に超えていて、百八十センチ近いのではないかと思われた。古い作りのこの書店の作りだと、鴨居に頭をぶつけることだってあるだろうと余計な心配をしたくなるほどだ。
 私が驚いていると、整理に集中していた店主も驚いたようで、「こんにんちは」といつも言わない挨拶をするのだった。
「二階にも本があるとは思いませんでした」 あたしがそう言うと、店主は
「二階に上がってこられたお客さまは初めてです。みなさん、目的の本があって来られるので」
 というと手元にあった本を棚に並べていく。その並べられた本を見ると、背表紙には『あの頃』という題名が見えた。著者は田中隆実とあった。そして、私は驚いた。店主が並べた本の隣にも同じ田中隆実の『あの頃』が並べられていて、その隣にも、さらにその隣にも同じ本があり、よく見ると、二階の棚の本はすべてが同じ本で埋め尽くされているのだった。
「これは、先代が書いて自費出版した小説なんです」
 そういうと、店主は薄く笑った。
「先代というのはお父様ですか」
 私が聞くと、店主は首を横に振る。
「父親のようによくしてもらいましたが、血のつながりはありません」
 店主はしばらく黙っていたが、私が勝手に二階に上がってきてしまったことで戸惑っているのだろうか。
「私は大阪の生まれなんですが、こっちの大学を目指して上京しまして。働きながら大阪からこっちの大学に来て、このあたりで下宿をしていたんです。その頃に田中さんと知り合って、ひょんなことからこの店を継ぐことになったんです」
 店主は諦めたように話し始めた。
「まったくの他人なのに、ですか」
「はい。田中さんには身寄りがなくて、遺産を継ぐ人もいなかったものですから」
 もともと、二階は田中隆実が居住していて一階はいまよりもさらに成人雑誌ばかりだったらしい。それを引き継いだ店主が、通学路に成人雑誌の専門店があるのは由々しき問題だ、というPTAのクレームを受けて一般雑誌を正面に置くようになったのだという。
「田中さんが寝泊まりしていた場所で暮らすというのはなんとなく気が引けて、結局棚を置いたんです。そして、貸倉庫に預けてあった田中さんの本を並べてみたんです。一冊も売れたことはないんですけどね」
 そう言うと、店主は笑いながら愛おしそうに『あの頃』と書かれた田中隆美の本の背表紙を撫でた。
 打ち合わせの時間が迫っていた。私はふいに二階に上がったことを詫びたあと、『あの頃』を一冊手にとって買うと申し出たのだが、店主は差し上げます、と金を受け取らなかった。
「これも何かのご縁ですから、ぜひ読んであげてください」
 柔らかい笑顔でそう言うと、店主は小さく頭を下げた。私はそのまま本を受け取ると自分のバッグにしまい一礼して階段へと向かった。一段二段と階段を降りたところで私は二階を振り向いて、
「田中さんとはどこで知り合ったんですか」
 と、聞いてみた。
 すると、店主ははにかむように笑う。
「私がこの店の常連だったんですよ」
 店主はそう言うと、再び私に頭を下げた。 私は階段を降り、成人雑誌が並べられた棚の前を通り、店の外に出た。
 田中隆実の『あの頃』の入ったバッグを片手で抱えながら、陽の暮れた鶯谷の街に私は立った。ほんの少し冬の訪れを予感させる風が吹いた。(了)

芸大スラカルタ校のキャンパス(2)レッスンの空間

冨岡三智

私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出話の第二弾は、舞踊の授業やレッスンをしていた場所について。

舞踊学科の実技の授業で使うのはE棟の1,2階とI棟の2,3階の教室だった。ワンフロア1教室で、40〜50人くらいの集団レッスンができるくらいの広さがあり、壁面に鏡がある部屋もあった。それ以外に、少し離れた所にあるF棟がコンテンポラリ舞踊や舞台装置の授業に使われていた。体育館のように天井が高く、小劇場や大劇場ができる以前はここで規模の大きい作品(野外大劇場でセットを組んで上演されるような作品)のゲネプロが行われていた。

教室は授業以外にも各種練習で使われ、届けを出せば個人レッスンにも使用できた。しかし、私はこの広い教室で個人レッスンをしてもらったことがほとんどない。

私は男性優形舞踊を芸大教員のP氏に師事し、個人レッスンを受けていた。留学するまで男性舞踊をやったことがなく、呑み込みも遅い私は、芸大の集団授業に全然ついて行けず、P氏に師事することにしたのだった。

最初の1セメスターは、I棟1階にある化粧室(今は別の部屋になっている)でレッスンを受けた。幅が一間半くらいの細長い部屋の両サイドに鏡と椅子がずらりと並んでいて、手狭である。音響設備もない。友人が広い教室でレッスンを受けていたので、私もそうしたいと言ったのだが、ダメだと言われた。理由は後になって判明するのだが、師は、当時の私はまだ広い環境では舞踊に集中できないだろう、狭くて静かで他人の目がない空間の方が良いと判断していた。

化粧室で音楽なしできっちりと動きを指導してもらい、1曲目の舞踊作品の振付を最後まで覚えると、師は初めて広い教室でレッスンをやろうと言って空いている教室に入り、カバンやノートを床に置いて四角い舞台空間を区切った。その中で初めて向きだとか理想的な空間の取り方を指導してもらい、音楽に合わせて踊った。しかし、1回だけである。

その次のセメスターでは、F棟入口前のロビーでレッスンが行われることになった。屋根と床があるだけの空間である。レッスンに使えるのは四畳半くらいのスペースだ。教室の中ではなく、音響機材がないから、私はカセットデッキを抱えてレッスンに行った。このレッスンは夕方にやっていたのだが、師はいつも最低半時間くらい遅れて来る。ポツンと待っていると、F棟の中からは課外活動の少林寺拳法の声が響いてくるし、周囲では別の練習の音も聞こえてくる。F棟の前にはワルン(屋台)があって、この周辺で下宿している学生がいつもたむろしている。その時間帯にポンキーという愛猿を肩に乗せた学生がいつも散歩する(彼の名前は忘れた)。キャンパスのモスクからアザーン(イスラム礼拝の時刻を告げる詠唱)が聞こえてきて、山羊の集団がこのF棟のロビーを横切って疾走する。たぶん、彼らはF棟裏にあるテニスコートで草刈の仕事をし、人には聞こえない合図を聞いて一斉に帰路につくのだろう…。さらに雨季の走りとてスコールが降ってくると、一気に周辺は雨の音に包まれる…。と、一転して開放的過ぎる環境に私はイライラしたが、師はあえてここを選んでいた。2曲目に習ったのは『パムンカス』という宮廷舞踊の系統の内面的な曲だったのだが、舞踊が始まる前の正座して待つ部分(パテタンと呼ばれる音楽がつく)で、集中力が足りない!もう一度パテタンを聞いてろ!と何度もパテタンを聞かされたことがある。こんな環境の中でも自分に集中しなければならない、と言う。その当時の私はあの環境にイライラを募らせていたというのに、今となってはあの混沌さが一番懐かしい…。

続・一ダースの月

北村周一

嫡男としてのつとめは果たすべく離縁覚悟に迫る一月

頂上は空洞にしてみはるかすお堀のみずも華やぐ二月

さらばとて花にあらしのお別れも傘も差さずに走る三月

不敬罪は死語と雖も仄暗くかくれみえする暦(れき)あり四月

天窓に青葉若葉の光(かげ)みだれピアノ弾く手を休める五月

死に至るまでの時間の短さを問いつつきみに触れる六月

火星今大接近の声のありてみるものなべて紅き七月

肉眼でたしかめたきに土星の輪 追えば追うほど曇る八月

秋かぜやR付く月牡蠣を手にこころゆくまで味わう九月

むらさきの忌日を前にひとり寝の 重い毛布を嘆く十月

画家が来て湖面にうかぶ月影をやさしく掬い取る十一月

誕生日いつしか旗日となりしことも恩寵にして聖十二月

焚き火

璃葉

最後に焚き火をしたのはいつだったか。暗闇のなかでおどる炎を見ながら、まったく思い出せない自分に驚く。焚き木の燃える匂いだけは、ちゃんと覚えている。

落ち葉に覆われた平らな地面と川、林。友人と訪れたのはそんなキャンプ場だった。標高が高いので張り切って防寒着を準備してきたのだが、予想外に暖かかったので、やはり今年は暖冬なのかもしれないと心配してしまう。

タープやテント、火起こしに夢中になっているうちに、時間はあっという間に過ぎる。折りたたみ椅子に座り、ほっとして周りを見回すと、思っていたよりも夜は深まっていた。新月の空に星が瞬く。秋の星座がくっきりと見えるのがうれしい。
火を絶やさないように、落ちている細い枝を折って、燃料にしていく。
臆病者の私は、林の奥の闇が恐ろしく、なるべく火の近くで焚き木を拾う。しょっちゅう星を見に行って歩き慣れていても、暗闇そのものには慣れない。ふだんは思い出さない鵺などの妖怪が頭に浮かんでしまい、余計に怯える羽目になる。
火という大きな明かりが、冷気だけではなく、得体のしれない鳴き声や気配から守ってくれているような気がした。まるで魔除けのようだ。圧倒的な強さを感じるからこそ、数々の神話や儀式、祭りに登場するのだろう。

友人と私は、一言二言話しては、しばらく無言で炎のゆらめきを見つめ続けた。パチパチと音を立てながら舞い上がる火の粉が、星のように見える。
一定ではない不規則なリズムに、心底安心するのだった。

アジアのごはん(96)腸内細菌にゴハン!その2

森下ヒバリ

前回、発酵食品などの有用菌を食べるだけでなく、自分のお腹の腸内細菌たちにゴハンを与えることが実はとっても重要、という話を書いた。腸内細菌たちのゴハンは食物繊維である。発酵食品だけをたくさん食べていても、腸内細菌は実はあんまり喜んでくれないのだった。ええっ。むしろ食物繊維を食べることのほうが、重要だったのですね。そして、食物繊維と有用菌をたくさん含む発酵食品を一緒に食べると最強である、と。

今回はその実践編です。
野菜をある程度食べていれば、非水溶性の食物繊維・セルロースは充分に取れるが、水溶性の食物繊維の方が不足しがちだ。腸内細菌には水溶性食物繊維が重要なので、こちらは意識的に食べる必要がある。

水溶性食物繊維を豊富に含むものは、海藻類、きのこ類、果物、豆&ナッツ類、ねばねば野菜、ゴボウ、イモ類、納豆、オートミールなどがある。イモ類でもキクイモはイヌリンが突出して多いし、ラッキョウやゆり根、エシャロットなどの鱗茎類は非水溶性食物繊維よりも水溶性食物繊維の方が何倍も多い稀有な存在だ。豆類は、豆腐に加工すると食物繊維はがっくり減ってしまうので、なるべく豆の状態で食べたい。

食物繊維は、適量を、毎日がのぞましい。食物繊維を含む食べ物は、できるだけいろいろな種類を食べるのがよい。でも、野菜や海草で毎日の必要量を満たすのは、なかなかむずかしいし、あ~今日は食物繊維食べてない、ということもままある。大腸の腸内細菌たちは、自分でエサを探しには行けないので、宿主のワタクシが食物繊維を食べてくれるのをじっと待っているしかない。あ、今日は野菜少なかった~~テヘッ、でワタクシは済むが、腸内細菌は飢えて、力を失くしていくのですよ。

そこで、食物繊維が豊富な食材を作り置きにするのだ。まずは炒り豆である。大豆を一晩水に浸して、さっと熱湯をかけてから乾かし、フライパンで炒る。‥なかなか大変だ。30分ぐらい炒って、なんとかサクッとなった。塩も何も味付けしないで、食べる。インレー湖で食べたほどではないが、いや~同じくらいウマイ! 相方とポリポリ食べていたらあっという間になくなった。あ、あんなに苦労したのに~!

ちょうど、青大豆(山形秘伝豆)を入手したので、また炒り豆にしてみた。う~ん、これもおいしい。やはりすぐになくなってしまう。わたしが求めているのは、毎日少しずつ食べていける、常にテーブルの上に乗っている炒り豆だ。そうなると、3日に一回ぐらい炒り続けなきゃならないの?

そうだ、青大豆なら簡単なひたし豆がいい。ひたし豆は山形や福井などの郷土料理だ。ようは、茹でた青大豆を醤油だし汁に浸して味をしみこませたもの。秘伝豆は、一晩水に漬けておき、沸騰したお湯に入れて5~6分で茹で上がる。大豆の若い豆である枝豆に似て青いけど、ちゃんとした成熟した豆。なのに、こんなに簡単に煮豆が作れるとはすばらしい。普通の黄色大豆より油分が少なく、糖分が多いのが特徴だ。タンパク質の量は同じぐらい。食感はちょっと歯ごたえがあって枝豆みたい。まあ、長く煮ればやわやわにもなりますが。

やや固めに茹でた豆を、醤油だし汁に浸す。1日置いて食べてみると、うん、おいしい。おいしいが・・何か足りないような。ふ~む。これ、ポン酢みたいな味の方が合うんじゃない?漬けていた醤油だし汁を半分捨てて、そこにポン酢を投入。ちょっと鷹の爪も入れておこう。もう1日置いて、出来ましたポン酢ひたし豆! 少しずつ小皿に盛って、酒のつまみにぴったり~。

浸しておく漬け汁は、あまり濃くなり過ぎないように。もちろん、市販のポン酢を半分ぐらいに水でうすめたものでもいいし、自分で好みに調合してもいい。新たに作るとき、ヒバリはあまり酸味の強くない自家製のマコモ酢でポン酢を薄めてみた。醤油だし汁のひたし豆よりもポン酢ひたし豆の方が、ずっと保存が利きます。角切り昆布を少し入れ、赤唐辛子も一本。豆の和風ピクルスとでもいいましょうか。もちろん、洋風ピクルスにしてもおいしいです。

青大豆にも色々種類がある。種類によって茹で時間も違うようだ。今回使ったのは山形おきたま興農舎の無農薬・秘伝豆。ここの青大豆はすばらしい味。まとめて注文するためにHPを見たら、炒り豆も売っているではないか、さっそく注文。食べてみると自分で炒るほうがやはりおいしい・・がこれも十分おいしいので、気に入っている。これだと、テーブルの上に置いておいても食べすぎないのでちょうどいい。

黄色い普通の大豆の炒り豆や煮豆も試してみたが、やはりわたしには青大豆が身体に一番あっているようである。もともと黄色い大豆は苦手で、煮豆は身体が受け付けない。でも青大豆ならいくらでも食べられるのだ。

人はそれぞれ、大腸の中の腸内細菌の種類や分布状態が異なっていて、また変化もしていく。食物繊維といっても、色々な種類があり、それをエサにする菌がいるかいないか、または十分な数がいるか、ということも重要なのだ。たとえば、たいがいの日本人の大腸には海藻の食物繊維を消化する腸内細菌が住んでいるが、歴史的に海藻を食べてこなかった民族の大腸には住んでいない。だから、そういう人がいきなり生の海藻を食べると、消化不良を起こしたり、お腹がパンパンになって苦しんだりする。

なので、色々な種類の食物繊維を食べて、自分の身体に合った食材を見つけるのがいい。ゴボウが好きだったら、きんぴらを常備菜にして毎日少しづつ食べてもいいのである。キクイモやヤーコンが好きなら、これをピクルスにして毎日食べるのもいい。食べる有用菌も同じで、単一菌種のヨーグルトよりも多種の菌が入っている自家製がいい。そして、有用菌と食物繊維を組み合わせると効果倍増。ヨーグルトには、バナナをトッピングとかね。でも、果物は糖分もかなり多いので少量にしておきたい。また、きのこ類も今の日本ではあまり食べない方がいいでしょう。

しかし、食物繊維を食べていると、やっぱりオナラがよくでてくる。食物繊維を食べると腸内細菌は短鎖脂肪酸などのエネルギー源やさまざまな酵素、ホルモン前駆体などなど体に必要な物質を作り出してくれるのだが、水素とメタンガスも作られる。そう、水素とメタンガスがオナラちゃんになって出てくるわけだ。これは困ったなあと思う人は多かろう。とくに会社員とか接客業とか困るよね。

食物繊維を食べ続けていくと、収まってはくるのだが、あまり食べてこなかった人は腸の中で大掃除が始まるので、おどろくほどオナラが出ることもある。ここで、やめてはいけない。食べる量を少しへらして様子を見ましょう。肉ばかり食べていたら出てくる、悪臭の腐敗オナラとはぜんぜん別物なのだ。なんといっても、水素ですから。水素はもちろん外に出るだけでなく身体にも吸収されていて、活性酸素を退治して、酸化した細胞を還元してくれているわけですよ。高い水素水を買っている場合じゃないのだ。そう考えると、おイモを食べすぎると出てくるオナラちゃんもありがたいものに思えてくる。

食物繊維は少しずつ、毎日食べるのがいい。でもこの年始年末、たっぷり食べて腸の大掃除をしてみるのもいいかもしれない。

製本かい摘みましては(142)

四釜裕子

新聞紙の一面に毎日自画像を描いてきた吉村芳生(1950-2013)さんの〈新聞と自画像 2009年〉を東京ステーションギャラリーで見た。近くのコンビニに毎日出かけて新聞を買って、毎日1枚、鉛筆で1年間、描き続けたという。新聞紙いっぱいの顔が縦4つ、40メートルにわたって壁に並んでいた。鉛筆で何回も重ねたところは照明の具合で光って見えなかったり、おでこのあたりに重なるカラー写真の黒々がぐっと突き出て見えたり。紙面に反応するような表情がおもしろい。英字新聞もあった。遠目に見ると、日本の新聞は英字新聞に比べて全体に淡く感じられる。

その後パリで暮らしたときに、現地の新聞に5か月で1000枚の自画像を仕上げて〈パリの新聞と自画像〉としている。会場には数枚展示されていて、残りはきれいに積み上げられていた。タブロイド判で写真の割合が多く、色合いは優しい。ところが表情は厳しく単調で、顔が画面に埋もれているように感じる。緊張みたいなものでぎゅっと詰まって見える。これを描くためにパリに行ったとは感じにくい。改めて2009年版を見ると、一枚一枚が風船みたいにふくらんで見える。むっとした顔すら穏やかだ。百面相やりすぎじゃないかしらと最初は思ったけれども、このとき描いていたのは自画像ではなくて、顔の筋肉がどれだけ動くのか、ほうぼうに寄る皺を観察していたのかもしれない。こうなると、日本の新聞が海外の新聞に比べて淡く感じたのは気のせいだったのだろう。

昔の新聞に比べたら昨今の新聞は淡い。字は大きくなったし組みもゆったりになった。どれくらい変わったのか、朝日新聞デジタルの記事で朝日新聞の変遷を読んでみると、1951年〜15段(一段15文字)、1991年〜15段(一段12文字)、2001年〜15段(一段11文字)、2008年〜12段(一段13文字)、2011年4月以降は13字×12段のまま一文字をより正方形に近づけたそうだ。明朝とゴシックの見分けを強化したりルビを読みやすくするなど、文字そのものの見直しもされている。詰め込みから読みやすさへ。ありがたいと思える年代になってきたいっぽうで、単純計算ながら、30年前の新聞に比べて減った文字数3割は毎日どこにいっているのだろうとも思う。海外の新聞は、どう変わっているのだろう。

吉村芳生さんの個展は大きく分けて3部構成になっている。自画像、モノクロの版画やドローイング、そして、色鮮やかな花々。その多くが、最終的に、画面に大小のマス目を引いて、順番に埋める、という手法だ。小さいマス目は2.5ミリ四方。色鉛筆で描いた花々は巨大なものが多いのだが、それにも、マス目。絶筆となった〈コスモス〉にそれがはっきり残された。思えば自画像の制作も、新聞紙、つまり一日をマス目として埋め尽くすことだったのだろう。〈コスモス〉にあらわれたマス目の大きさを自分の目にセットして、作家の書き順に習い、画面左下から、一枚ずつ写真に撮るように見てまぶたを閉じ、次のマス目に視線を移してみる。このひとの絵は、一枚ではなくページであった。

別腸日記(22)旅の道連れ

新井卓

ツーリスト/Touristとトラヴェラー/Travellerの違いについて──どの本だったかポウル・ボウルズは、前者は帰る家がある者たち、後者は帰るあてもなくひとつところに深く潜伏する者たちである、と言った。日本語では旅行者/旅人とさしたる違いはなく、同様に移動性を含むふたつの言葉に、なぜボウルズは一線を画したのか。Travelの語源は定かではないけれど、厳しい労働を意味するtoil/travailの響きをもつこの語が、中世までのしばしば命がけの旅の困難さを孕んでいることは確かなようである。ツーリストたちの旅が究極的には自宅への帰還を目的とする円運動とすれば、トラヴェラーの道行きは、袋小路の、あるいはオープン・エンドな旅にほかならない。ボウルズ自身のタンジールへの旅のように。

いまこの文章を、南イタリアの小都市・サレルノの海岸に座って(ビールとコロッケを片手に)書いている。はじめて映画らしい体裁で作った拙作、映像詩『オシラ鏡』を、第72回サレルノ国際映画祭に出品しあわよくば表彰台に載ってやろうという皮算用なのだが、その話はまたいずれ書くとして、今度の旅は、いつもと全く違う様相を呈しつつある。なぜなら、今回は年若い双子の少女たちと、とひとりの青年と一緒だからだ。三人は映像詩『オシラ鏡』(*)の出演者で、2年前、別のプロジェクトで銀板写真(ダゲレオタイプ)に写ってくれた若者たちである。正直なところ完全自主制作で予算も厳しく、はじめは私も出席せず作品だけ送ろうと思っていたのが、音声の山﨑巌さんとも話して、結局三人を連れていくことになった。

インターネットの発達は、巨大資本を膨れあがらせ地域性を破壊したが、同時に、見も知らぬ個人と個人が文化/国境をこえて直接に繋がり、それぞれが持つモノや知恵を共有する可能性を生み出した。わたしたちが滞在しているのは山手の集合住宅で、ネットで繋がった一個人から一週間だけ借り受けた、仮の住まいである。

どの国に行っても同じ作法のホテル、査証、クレジットカード、保険や旅客機はおそらく、旅の困難と危険を極力減じるために考え出された近代の偉大な発明なのだろう。しかし今、わたしたちは自分たちでシーツを替え、近所の商店でパンや果物を買い、翌日にはもっといい水曜市を見つけて次はここで用を足そう、と心に決める。ありあわせの材料で料理をし、ゴミを出し交代で洗濯もする。わたしたちには日本に帰る家々があるが、こうしてサレルノに得たもうひとつの家によって、現代の旅はふたたび、わずかに、〈トラヴェル〉の様相を呈する。

海外ははじめてという十四歳のレオナとマイラは、もう町の住人のように堂々と道を渡り、長い髪を風になびかせて坂道を下っていく。高山君はいつまでもベッドでスマートフォンをいじっているが早朝、日の出を見に海まで散歩してきたという。わたしたちの生はまったく不思議なものだ、と思う。この世に複数の家、複数の家族があって、その先に輻輳するいくつもの生があるのかもしれない、といたずらに考えて見、すこし怖くなってまたビールに手を伸ばす。このあたりの名物というコロッケ(イタリア語でもコロッケ)はもうすっかり冷えてしまったが、濃厚なチーズと地元の馬鈴薯のねっとりとした生地は、まだ風味を失っていない。もうそろそろ、わたしたちの映画の上演時間である。

*映像詩『オシラ鏡』予告編

ノーベル平和賞にメリークリスマス。

さとうまき

町にポインセチアが売られると、クリスマスの時期がやってきたなあとワクワクする。12月10日は、ノーベル平和賞の授賞式。今年のノーベル平和賞は、ISの性被害を告発してきたイラク・クルド民族少数派のヤジディ教徒のナディア・ムラド氏がコンゴの医師と一緒に受賞する。

ヤジディ教徒といえば、がんで苦しんで死んでいったナブラスのことを思い出す。彼女はイスラム国が襲ってきたときにすでにがんにかかっていたから、ともかく病院のあるドホークを目指したので捕まらずに助かった。2014年、その冬、僕たちは、鎌田實を連れてドホークに行き、ナブラスの避難している家で炊き出しをし、その時にポインセチアを買ってきて、絵をかいてもらった。クリスマスのシーズンになるとどうしてもナブラスのことがわすれられないのだ。すると小太りのおばさんのことも思い出してくる。

毛布とかストーブを買って、ヤジディ教徒が避難していたキャンプに届けた時、そしたら小太りのおばさんがいて、地味に集めた古着とかを配っていたのだ。ハナーンさんも、ヤジディ教徒で、6月にバシーカ―という村が襲われて避難してきたという。シンジャールが落ちたのは2カ月後の8月だったので、少し先に避難してきたから何か彼らのために支援をしなければと活動を始めたそうだ。名刺をあげたら、いろいろと情報をくれるようになり、いつしか一緒に働くようになった。彼女は、ISの戦闘員にレイプされた女の子の面倒とかをよく見ていた。ハナーンさんは本当に素朴な小太りのおばちゃんだったから、女の子たちも信頼していたのだろう。

僕は、同席したときには、何が起きたかを事細かく説明してくれた。言葉がわからないということそして、やはり日本人だから信用できると思われた。こじつけかもしれないが、優れた工業製品を作る人たちは信頼できる!?と思われているようだった。僕たちは、近所の人たちに知れないようにわざわざ3時間かけて遠くのクリニックまで連れて行って妊娠しているかどうかとか言った検査を受けさせ、性的感染症の薬代なども支払った。
http://suigyu.com/noyouni/maki_satoh/post_10.html
30人ほどの、女性の支援をおこない、彼女たちの証言をまとめて、人権NGOであるHRNを通して国連人権委員会にも提出した。

レイプされた女の子には、アマルちゃんという12歳の子もいた。彼女のインタビューは、ハンケイというハナーンさんの避難しているおんぼろの家で行った。おんぼろだったが庭は広く、古着を集めて配るためにそういう家を借りたのだという。目の前に現れたのは、あどけない女の子だった。「私は、両親、1人の姉と2人の兄弟の、6人家族でした。8月3日に、彼ら(IS)は私たちのコーチョという村に侵入し、100人くらいが撃ち殺されました。男性たちをどこかに連れていき、わたしたち女性は学校に連れて行かれました。その後、彼らは若い女の子だけをモスルに連れていき、2日後に2人の男性が来て、私と2人のいとこはシリアに連れて行かれたのです。彼らは私たちを空き家に連れて行って、3日に1回来ては、強姦して去って行きました。彼らは食べ物を買ってきて、私たちは自分たちで食べたいものを料理していました。何人かの女性たちがヤジディ教徒を助けている男性に電話をかけ、自分たちの住所を知らせた。その人は別の男性を送り、逃げるのを手助けしてくれました。朝4時に男性が来て、11人(2人は子ども、それ以外は女性)を車に乗せた。そして2015年6月19日にドホークにたどり着きました。両親と兄弟らはまだISISに捕まっており、何の情報もありません。」
(後日、親せきは解放の手助けをしてもらうのに、1人5600ドルを支払ったと話している。)

その時に彼女は、自分以外の家族の肖像画をかいて無事でいてくれることを願っていた。ハナーンさんは、自分の娘とかぶさったという。その年の秋には、「実は、イラクを去ることを決めたの」と打ち明けた。目には涙を浮かべていた。「日本人が、私たちを助けてくれているのに、逃げるなんて申し訳ない」という。

イスラム国は、まるで流星のように突如現れたように日本では報道されたが、少数民族への蔑視は、今に始まったものではないから、隣人がいつ自分たちを襲ってくるかもしれないという不安が付きまとう。歴史上74回自分たちは虐殺を受けた。75回目はいつ来るのかと。

ハナーンさんは、トルコの山を越え、ギリシャの海を渡り、今はドイツで暮らしている。そんな彼女にも、ノーベル賞を上げたいし、アマルちゃんも、ノーベル賞を上げたいなあと思う。そして、がんで亡くなったナブラスちゃんも! 今年のノーベル平和賞は、性暴力がテーマのようだが、ヤジディの人たちのことを忘れないでほしいと思う。

彼女たちの苦しみを、残虐なISの男どもの性暴力という風に位置づけるのではなく、やっぱり日本が加担したイラク戦争が生みだしたIS。その結果犠牲になってしまった少数民族の女性たちの悲劇である。おめでとうと言いながらも責任を感じてほしい。

ジョージアとかグルジアとか紀行その2 暮らしの中のワイン作り

足立真穂

ジョージアでワインを作っている人に会いたい。

ずばり、今回の旅の目的はこれに尽きる。
とはいえ、旅は道連れ世は情け。前回に書いたように、ジョージアは最古のワイン生産国であり、最近世界遺産になったので人気急上昇中なのだ。
そこで、一緒に飲みに行こうと友人を誘うことにした。「飲んでみたい!」とさっそくコーカサスくんだりまで同行してくれる腰の軽い人が複数周囲にいたことで準備は加速し、英語さえあまり通じないと聞き「大勢でなら必要でしょ!」と通訳兼ガイドを雇うことに。後から思うに、これは本当に雇ってよかった。
ツテをたどって紹介してもらったのがニアさん、夫婦でワインを作っている40代後半の女性だ。お互いテキトーな英語を駆使してメールでやりとりしつつ、旅程を決めた。これが思いがけずとんでもなく過酷な旅を生み出したわけだが、それはまた後で追い追い語っていこう。

待ち合わせは首都、トビリシのホテルだ。日本から、ヘルシンキから、ベルリンから、ニアさんはジョージア第二の都市クタイシ近郊の村から、全員集合である。地球はまるい。目的のある旅の場合は現地集合現地解散の旅が便利なので、このパターンが最近増えた。

ニアさんとは初対面とはいえ、この夫婦が作るワインを飲んだ経験はあった。『ジョージアのクヴェヴリワインと食文化』(島村菜津、合田泰子、北嶋裕著、誠文堂新光社)という本の刊行記念パーティにお呼ばれし、その時に味わっていたのだ。ちなみにこの本はジョージアに行く際にオススメだ。歴史や観光地についての記述もあるし、特にワインを飲みに行く場合は、ぶどうの品種から生産者の人物紹介まで載っているので、必携だと思う。

あのすばらしいワインを作る人なら安心だ。
この安心感は、旅の間に確信に変わっていく。

最初の夜は、ニアさんオススメのレストランへ。メニューがとにかく豊富、というよりもそもそも何が何だかわからないので「えーい、オススメを持ってこーい!」となるのは常だったが、旅の間終始、つくづくジョージアという国は食が豊かな国だと実感するばかりだった。
私が今まで食べたことのある他の地域の料理ではトルコ料理が一番近い。隣の国なので当たり前かもしれないが、乳製品、特にヨーグルトの酸味をうまく生かしており味わいが複雑で、発酵食文化があると言っていい。
ハーブ系の香辛料を多用し、レストランや家庭では手作りのパンや飲み物を多く見かけた。最初に出かけたレストランでは、手作りのレモネードを何種類も出していたし、それくらいは朝飯前、その場で手作りしているものだらけ。北部の田舎町では、シンプルでなんてことはない山中のレストランで、その場で解体した牛の煮物や、自家製の窯で焼いたチーズパン(「ハチャプリ」という。覚えておきたい旅のジョージア単語だ)を食べることができた。
野菜や果物はそれ自体の味が濃く、口の中で弾けるかのよう。スーパーで買う日本のものは、形は綺麗だが味が薄く感じてしまうのだが気のせいだろうか。
贅沢とはこのこと。今の日本でこんな風に食べられる機会はどれくらいあるだろう?

道中、ニアさんの夫のラマズさんの名前を冠するワインメーカー「ラマズ・ニコラゼ」でのクヴェヴリワインの製造風景を見せてもらった。

まずは畑で収穫だ。なんとこの夏はジョージアでも暑かったそうで、ワイナリー巡りのつもりが「収穫やるんで御免!」と3軒も訪問キャンセルに。「ワインは農業」とはよく聞くフレーズだが、その年の気候に左右されるものだと体感することになった。とはいえ、ラマズさんにじっくりその分話を聞き、見学させてもらえたのはラッキーだった。
ラマズさんのワイナリーは、ジョージアの西部、イメルティ地方にあリ、ジョージア第二の都市、クタイシ近郊の村の一角だ。収穫の最中に出かけると、「村の男たちを呼んだ」そうで、ぶどう畑のそばにあるワイナリーの素朴な小屋(クヴェヴリの埋めてある場所を「マラニ」と呼び、小屋まで含めて称する場合が多いようだった)には、何やら屈強なジョージア男性が10人ほどわいわいガヤガヤ。人海戦術で、この人たちを雇ってこれから数日の間、ぶどうを収穫していくのだという。
ニアさんは「あの人たちのご飯を作るのが誰だか知ってる!?」と叫んでいたが、作っても作っても終わらなそうだ。ごめん、野菜を切るくらいは手伝うよ。頑張れ、ジョージアの肝っ玉母さん!

畑の普段の様子はこちら。

採れたぶどうは、こちらの圧搾機で押しつぶしていく。回してみたら結構な力技だ。去年までは木製のたるの中にぶどうを入れ、足で踏んでいたそうだ。

このジュースの段階で既に美味しく、何杯でも飲めるほどだった。
次がお待ちかねのクヴェヴリ、素焼きの壷の登場だ。地中に埋めて、その中にホースでぶどうジュースを流し込んでいく。果肉や種などすべて入れる。

品種や出来具合によって時間を調整しつつ、1ヶ月ほど、日に数回時々混ぜながらアルコール発酵を待つ。

この後は、赤ワイン用と白ワイン用に分けて果肉などの処理をし、ガラス板や木の板で蓋をする。乳酸発酵したところでしっかりと主に粘土であらためて蓋をし直し、密封の上重しを載せる。地域やワインによって異なるものの、さらなる熟成や瓶詰めをして仕上げていく行程だ。。

別室には貯蔵庫もある。

そこでラベルを貼って完成だ。

と流れを追うのは簡単だが一筋縄でいかないことは言うまでもない。「毎年状況は変わるから試行錯誤だよ」とのことだ。

クヴェヴリは、専門で作る職人がいるとのことでそちらも訪ねた。

ザリゴ・ポジャゼさん、8歳で壷をつくり始めて現在67歳。5代ほど続くクヴェヴリ作りの家系だ。クヴェヴリを作る製作所はジョージア全体で10軒ほどだそうな。

入り口にコンクリートで壁を作った窯の中で2日ほどかけて1000度で焼き(大きさや用途で異なる)、周囲の壁を壊して取り出し、冷ましてから内側に蜜蝋を塗る。これを温めて浸透させ、ワインの浸み出すのを防ぐのだそう。強度をあげる場合は外側にセメントを塗るなど手を加えるという。
最近では世界遺産になったこともあり、海外からの注文でうれしい悲鳴をあげているのだとか。息子さん二人が継ぐそうで、後継者問題もクリアしている愉快な壷職人さんであった。庭からとってきてくれたぶどうのおいしかったこと。
写真は2000リットルは入るというクヴェヴリ。

ラマズさんがワイン作りを実家に戻って本格的に始めたのは10年ほど前のこと、実家ではずっとお父さんが作っていたそうで、小さい頃には手伝うこともあった。Uターンの前はトビリシに学び、その後「ヴィノ・アンダーグラウンド」というトビリシ市内のワインバーで長く店主を勤めていた。
大学の同級生だったニアさんは、トビリシではなんと数学を私塾で教えていたというから驚いた。今住んでいる家(ワイナリーの通りを挟んで目の前)には週末だけ通っていたが、ワイン作りの決意とともに移り住んだ。とはいえ、都会から来て戸惑うことも多く、うまく都会と田舎のバランスを取らないとどちらかだけでは息が詰まる――そんな話が印象的だった。

この「ヴィノ・アンダーグラウンド」に第一夜に出かけた。トビリシはジョージアの玄関口なのでお出かけの際は是非この店へ。「クヴェヴリ・ワイン協会」メンバーのワインをここで味わうことができる。旧市街を歩いていると、あちらこちらでワインショップを見かけるし、多くが立ち飲みできるバーにも早変わりするのだが、ここは雰囲気も良く、落ち着いて選んで飲め、購入もできるのでオススメだ。

とはいえ、クヴェヴリワインというのは、製法からもわかるように非常に生産数が少ない。農薬や添加物を一切使わないので、作られる量が限られているのだ。
そして、当たり前だが「ジョージアワイン」と呼ばれるもののすべてがクヴェヴリワインとイコールとは言えない。販売されている箇所も限定されるので、確認してから買ったほうが良いだろう。

何本かラマズさんのを含めクヴェヴリワインを持ち帰って、友人の小料理屋で試飲会を開いた。一様に参加者が驚いたのは飲んだ後の爽快さだ。私自身がワインに詳しいわけではまったくないのだが、すっきりしたワインの質が格別で、他では飲んだことがない類のものだ。
世界は広い。こんなお酒を壷の中で発酵させて作ってしまう驚愕の国、ジョージア。次回は、この充実の背景を追ってみたい。

169わらべ歌、さいご

藤井貞和

なよたけのさいごのことばは「竹! 竹!」
なよたけ! おまえは何を言ってるんだ!
何を! お月さまが迎えに来るなんて、
そんなことがあるもんか! おまえは、
疲れてるだけなんだ。 からだをおやすめ!

高畑さんが言う、「姫の犯した罪と罰」は、
わらべ歌のなかから聞こえる。 でも、
ぼくらには聞こえないね、わたしたち。
妖怪は引き継がれる、光源氏(源氏物語)へ、
かぐや姫も妖怪変化、その終り方――

箕(み)をあおり、姫をかなたへ飛ばし、
手足を切って籠に編む。 「風立ちぬ」の歌も、
世界が一冊の神話たりえているために、
世界が一冊の神話たりえている限り、
ぼくら、わたしたちの信頼のなかで生きる。

もう、かぐや姫はいない。 犠牲者のあと、
もののけ姫もいない。 おしらさまも、
おりひめも、火のなかから水晶の叫び。
鼠の浄土で逢おう、ぼくら、わたしたち。
そんなにむずかしいことじゃない、逢おう。

(現代詩って何だろうな。どう書けばよいのか。「何を今更」じゃない、わからなくて日歿の時、井戸の涸渇だ。「なよたけ」は加藤道夫『なよたけ』でも、知らない人、多いし、そういう情報、要らないね。「竹! 竹!」がほしいのに、朔太郎の「竹」がじゃまをするかな。そちら 近代で、こちら 月がお迎えにくる時代よ。加藤は折口の『死者の書』を軍装から手放さず、ついに持ち携えて帰国した。そんなこともいま、要らないね。かぐや姫は竹だから、手足を折られ、皮は「竹籠に」と細工されるのさ。哲学者デリダの詩の定義に「大省略」というのがある。すべては大省略よ。なんで「姫の犯した罪と罰」がここに出てくるの? 大省略だから、説明は要らない。アニメ『かぐや姫』のキャッチコピーだった。いや、『もののけ姫』だったかも。)

ドアと蝶番

高橋悠治

マルセル・デュシャンが1927年に住んだパリのラリー街11番地のドアは 一枚のドアが前後に回転して二つの部屋のどちらかを閉める 写真では ドアは中間の位置にあり 両側の部屋がすこしずつ見えている

ドアはゆれている そこから見え隠れする風景もゆらいでいる ドアが手前にひらくか奥にひらくかによって 見える部分がちがうし 一枚のドアには表と裏があり そのどちら側から見るかによって 見えるものはちがう

二つの部屋のあいだを行き来するドアが 一方の部屋を閉じる時は もう一方は開くから 開いていて同時に閉じている このドアの場合 「ドアは開いているか閉まっているかどちらかだ」とは言えない それだけではなく このドアが行き来する空間は第三の部屋のなかにあり その部屋はこのドアでは閉めることができない と考えると このドアは閉めるためではなく 閉められない空間を作るためにあるのかと 言いたくもなるだろう

このドアの両開きの蝶番は バネをもたない自由蝶番で スイングドアのように両側に回転しても どちらかの部屋を閉めた状態に自動的にもどることはない どちらの部屋も開いている中間の位置で手を放せば そこで停まったままでいる どっちつかずで浮いている状態なら どちらかを閉めた時よりは 見える範囲がひろく 見えるものも入り混じっている  

ウィトゲンシュタインは 問題には意識もせず疑いもしない前提があることを ドアは動くが 蝶番は動かないことにたとえた(『確実性について』341.-343, 655. 1969出版 )アーティストがそれまでにないドアを作ってから 哲学者がドアを問題にするまでに 世界は一つの戦争をはさんで変わった 一枚の例外的なドアではなく 見えるドアから見えない蝶番が意識にのぼる  

アルチュセールは1980年代の未完の「出会いの唯物論」で エピクロスからはじまる裏の哲学史を書こうとしていた 生きている世界のいま 落ちてくる偶然とぶつかり 思ってもみない遠くへ飛ばされるか 他のものと絡まり 隙間に閉じ込められて 波打つ 起源も目標もない変化 道でない道をたどり 選ばなかった可能性の束をふりかえり 見えない夢に背を向けたまま 風にはこばれてゆく

ドアを支える蝶番も浮き上がり ドアは透明な厚みのない膜になって 両側から流れてくる雑多なものを通す 通り抜けられなかった重く濃い流動物が両面にひっかかって 輪郭のぼやけた影を残す

2018年11月1日(木)

水牛だより

東京はよく晴れた気持ちのいい日です。暑くもなく寒くもない。しかし秋を満喫している気がしないのはなぜでしょうか。秋といえば秋にまちがいはないけれど、いわくいいがたい不安定さが隠されているような。。。

「水牛のように」を2018年11月1日号に更新しました。
今月から足立真穂さんの連載がスタートです。編集者として活躍している足立さんが遅い夏休みをとってジョージアに行く、と聞いて、考えるより先に「それ、書いて」とお願いしました。ジョージアといえばワイン、という短絡的なわたしの考えが通じたわけでもないでしょうが、やはりワインのことが中心になりそうです。素焼きの壺にぶどうジュースを注いで、それを地中で発酵させる。飲んだことはなくてもおいしいのはわかりすぎるほどです。
そして、ジョージアはシリア、イラク、イランなどとも近いのです。

先月、モンコン・ウトックが亡くなったことをお知らせしました。森下ヒバリさんとの短いメールのやりとりで、モンコンが亡くなったところにヒバリさんが居合わせたと思ってしまい、そのように書いたのですが、実際はその場に居合わせたわけではないそうです。スミマセン。でもバンコクに滞在していたので、ニュースは早かったし、納棺やお葬式にも参列され、遠くにいるわたしたちの愛惜の思いをモンコンに伝えてもらうことができたのでした。

10月12日の遅い朝のこと。いつものようにPCにはりついていたところ、不意に小杉武久さんのことが強く思われたのでした。訃報が届いたのはその日の夕方でした。解放された魂が我が家まで来てくれたのかもしれません。

それではまた!(八巻美恵)

ジョージアとかグルジアとか紀行その1 世界最古のワイン国

足立真穂

「世界でいちばんワインを飲むのはどこの国だと思う?」
「え? フランス?」
「違う違う。アメリカ。じゃあ、いちばん古くから作っているのは?」
「エジプト、とか?」
「違う違う。グルジア!」
グルジア、ってどこだっけ? 旧ソ連、コーカサス、栃ノ心(とちのしん)。あ、黒海も。ってことは黒海沿岸の国なのかな。

「グルジアって、国名を最近ジョージアに変えたんだけど、世界でいちばん古くからワインを作ってるんだって」。

へえ、そうなのか。聞けば紀元前8000年までさかのぼるそうな。その時代の土器からぶどうの種が見つかっているのだ。少なくとも紀元前6000年に作っていたのは確実のようだ。古代エジプトでワインが作られたのは紀元前4000年末期なので、ジョージア(グルジア)は相当に古いということになる。

ちなみに、ジョージアは古くから作っているだけで、世界でいちばんワインを消費しているわけではない。消費国で言えば、1位アメリカ、2位フランス、3位イタリア、以下ドイツ、中国と続く。日本はやっと16位で顔を出す程度だ(the wine institute,2015)。一方で、一人当たりの消費量でいえば、1位はアンドラ公国(スペインとフランスの間)でワインボトル約76本分(日本は年間一人当たり4本)、2位はバチカン市国、3位はクロアチア、……でアメリカは55位で一人当たり1本。国別だと順位はある程度人口に比例するといえそうで、やはりヨーロッパを中心にしっかり飲んでいる人は飲んでいるということか(数字は「デイリーテレグラフ」2017年2月17日記事より)。

そうして意識をし始めると、大してワインに詳しくもないのにジョージアワインが気になり始める。そしてそのうちに、ジョージアという国の名前がどこにでもチラついてくる。調べてみれば、古い文明がドシドシ交錯していたであろう「コーカサス」にあり、国境を接する国は、トルコ、アルメニア共和国、アゼルバイジャン共和国、タゲスタン共和国、チェチェン共和国、ロシア連邦、など。「コーカサス」は黒海とカスピ海の間の、コーカサス山脈を囲んだ一帯をさすそうだ。フライトを調べてみると日本からの直行便はなし。外務省のサイトを見ると在留邦人数は45人。少なっ!

マップラバーなので、コーカサスの地図を見ているだけで盛り上がってくる。オリンピック(2014年)のあったソチは黒海沿いに南下すればジョージアまですぐだ。このあたりは、モスクワなどからもリゾート客がやってくるらしい。

ここでデータをインプットしておこう。たとえば日本と比較すると、国の全体像を把握しやすい。最新と思われるデータを拾うと、1991年のソビエト連邦崩壊で独立したジョージア、その面積は日本の約5分の1で、人口は390万人(2017年、国連人口基金)だ。その多くがキリスト教(ジョージア正教)を信仰している。首都はトビリシで一人あたりのGDPは4086米ドル(世界113位。日本は38449米ドルで25位。2017年、IMF)だ。失業率は11.8%(2016年)と、決して低いとはいえない状況だし、産業は鉱業、農業といったところで、隣のアゼルバイジャンなどと違って石油は出ないこともあり、お金を潤沢に持っているとは言いがたいような。

2015年と最近になって、「グルジア」から「ジョージア」へと日本での呼称を変えた背景には、ジョージアの親欧路線に対してのロシアの牽制、2008年のアブハジアや南オセチアといった土地をめぐってのロシアによるジョージア侵攻、それに伴う経済制裁があるのだろう。国名を「グルジア」とロシア語読みするのを嫌う人が増えたから、と私は旅先で聞いた。当時は、一説によるとロシア軍は首都トビリシまで迫ろうという勢いだったそうだ。そんなことからたった10年しか経っていないとは。

内戦のことは、北西部のスヴァネティに旅する道中の車中から、その前線となった街の一つを見ることができた。ソ連時代の共産主義的モニュメントが街の中心広場を覆い、ソ連時代に建てられた建物の空き家が目立ったのは気のせいだったのか。

さて、2013年には「クヴェヴリ・ワイン」という伝統的なワインの製法が、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。和食やフレンチ料理が登録された、あれだ。なにしろ、地中に埋めた素焼きの壺にぶどうジュースを注ぎ込み、そこで発酵させてワインをつくるのだという。この土地への好奇心は決定的になるというもの。

「ジョージアは、ワインと相撲、これに尽きる!」
こう喝破したのは、その1年半後に出かけたジョージアを案内してくれたニアさんだった。彼女は、ジョージア西部で「クヴェヴリ・ワイン」を手ずから夫婦で作っているワインメーカーだ。おそらく日本人サービスを多少含むにしても、ワインを作る前はトビリシで教師をしていたという彼女の説明は簡潔だ。

もともとジョージアでは、モンゴルと同じでレスリングが盛んで全国大会も開かれるほど、スタイルは違うにしてもレスリング自体が人気競技なのだ。だから、あの「ヘアスタイル」や「巻いているもの」には驚いたそうだが、黒海や栃の心の活躍が我がことのように嬉しいのだという。

ワインは、といえば、これは話が長くなる。ニアさんのところで見たぶどう畑、製作現場、ワインの味を次回は紹介していこう。(つづく)

帰ってきた安田純平

さとうまき

安田純平が帰ってきた。

彼とは、信濃毎日新聞に勤務していた2002年に知り合った。イラク戦争が始まろうとしていた時。その後、「会社からイラク行きの許可が下りない。フリーランスでイラクに行きます」と連絡をもらった。イラク戦争がはじまったとき、ヨルダン国境からなかなかイラクに入国できなくて苦労している姿を見かけた。大手メディアは、イラクのビザを取っていたが、会社が危険だからといって許可をださない。

現場の記者はイライラしていた。大手メディアは、フリーランスと契約して前線からの記事を出そうとしていた。しかし、フリーランスだとイラク大使館がなかなかビザを出さなかった。僕はといえば、人道支援ということでビザを出してもらったが、やっぱり戦争がはじまると、なんでも自分でやらなきゃいけない。寝袋とか、発電機とか使ったこともないし、そういうサバイバル系は苦手だったので躊躇していたけど、大手メディアが声をかけてきた。「ビザ持ってますよね?(イラク)いかれたら一分●●円で衛星電話でレポートしてください」とか言ってくる。

結局安田さんたちは、サダム政権が、もう崩壊しちゃうと判断したイラク大使館が、お金を出せば、ビザを出すとバーゲンセールしてしまったために、無事にビザをゲットしてイラクへ入っていった。

大手メディアは、そのころまだもたもたしていて、僕らと一緒にご飯食べて酒を飲んでいた。「日本のNGOがイラクに入れば、(それを取材するといえば)さすがに本社の方から許可がでるので、行かれるときはぜひ、ご一緒させてください」という。しかし、数日後にはサダム政権が崩壊し、各社とも、一斉にバグダッドを目指して僕は置いてけぼりを食ってしまった。まあ、そういう風にメディアは苦労して、ホットな情報を伝えてきた。

2012年7月、僕はダマスカスにいて、彼はアレッポにいた。同じ国なのに見ているものは全く違った。シリアにどう向き合えばいいのか。アサド政権に惨殺される子どもたちを目の当たりにした彼。でも、アサドを倒したところで、平和が来るとは思えなかった。ダマスカスはアサド政権のおかげで治安が保たれていた。「ダマスカスは、予想に反して普通に人々が暮らしている」というのを、電話で話したのを思い出した。

2015年、シリアの取材がだめなら、イラクに来たいというので、アルビル事務所の地下室を自由に使っていいよっていったら、「ありがたい」という返事が来た。アルビル事務所の地下室といえば、泣く子も黙る地下室として、仲間内では有名である。

夏は50℃近くまで気温が上がるが、地下に降りるとひんやりしている。しかし、みんな近寄りたがらない理由はたまにゴキブリがでるからだ。僕は、それでもくそ暑い日は地下室で仕事をする。自分の部屋にしてもよかったが、ゴキブリ男みたいに言われるのは少し抵抗があった(大体日本人はゴキブリに騒ぎすぎる)。そしてその後連絡がなくどうしているのかなと連絡を取ろうと思ったら、菅官房長官が、安田さんがシリアで拘束されたと発表したのだった。あれから3年以上がたち、安田さんのために開けておいた地下室はゴキブリの巣窟になった。

前々から不思議なことにゴキブリが地化室で死んでいく。餌もないのに台所ではなく地下室で死んでいく。気温も快適なのになぜ死んでいくんだ?最初は一匹死んだだけでも、大騒ぎして処理していたが、次第に放置しておくようになり、気がつくと50匹くらいのゴキブリがカサカサにないって死んでいた。その家も結局10月頭に引き払った。

そして帰国すると、いきなり、新聞社が、安田さんが解放されたことに関するコメントを求めてきた。「よかった! うれしい!」それしか思い当たらない。しかし、案の定、「退避勧告を無視して危険なところに行くなんていかがなものか」という話をメディアが真剣に議論している。いやー、それを言うなら、ジャーナリズムはいらないっていう話をジャーナリストたちがしているわけで、危機的なものを感じてしまった。

今から14年前の自己責任論は、自衛隊の撤退を武装勢力が人質解放の条件にしたから日本政府も必死になって、自己責任論を流布した。しかし今回は違う。政府も、助かってよかったと。問題は、意地悪な市民だ。ありもしないことまでネットで拡散して楽しんでいる。そして、メディアも視聴率が上がるからそういうネタを報道している。新聞も最近はインターネットで読めるようになり、各記事のアクセス数が簡単に出るから、やっぱりそういうありもしないようなゴシップを平気で垂れ流す。

有名なジャーナリストがかつて言った。
「戦争の最大の犠牲者は「真実」である。」
真実なんてどっちでもいい。アクセス数がすべてだ。これがネット社会の恐ろしさだ。

秋の日の片岡義男三昧

若松恵子

片岡義男の新刊『あとがき』(2018年10月/晶文社)は、その書名の通り、彼の書いた「あとがき」ばかりを集めた本だ。発売を心待ちにしていた。多くの片岡ファンも同じ気持ちだと思うが、新刊を手に取るとまず「あとがき」を読む。新刊のあとがきに、彼の最新の声を聞けるような気がするからだ。

今回の本には、1971年の『ぼくはプレスリーが大好き』から2018年の『珈琲が呼ぶ』まで、発行年代順に137の「あとがき」が並ぶ。一度は読んだことがある「あとがき」。今も色あせてはいない。これだけ続けて読んでも飽きないのは、ひとつひとつの「あとがき」が著者自身による最良の作品解説になっているからだ。こんな風に簡潔に、明晰に作品を語ることなんてできないなと思う。

『波乗りの島』(1979年/角川書店)のあとがきのなかに、自分が描く世界について触れたこんな言葉がある。「小説を書くときにどうしてもぼくがこだわるのは、湿りのごくすくない、しかも広い空間のなかに、人の気持が解き放たれるか、あるいはそのような可能性の大きい世界に、舞台を設定したい、ということだ。(中略)陽ざしとか雨とか、空や海の広がりを相手にするとき、人は、気持ちをせまく湿らせたままでいると、役立たずになってしまう。乾かざるを得ないという状態がながくつづけば、ごく自然に乾いていることが当然になってきて、ぼくとしてはそのような世界がいちばんいい。」この言葉を読むことで『白い波の荒野へ』のラストシーン、主人公が祖父の口癖として、その意味もわからずに覚えていた言葉「ようけ働かんと食えんがの」とつぶやく場面がなぜ心に残るのか、その不思議な味わいの意味がわかったような気がした。

作品が生まれたきっかけや作品を書いた季節についての記述も度々登場して、それも「あとがき」の魅力のひとつだ。「太平洋を越える飛行機のなかで原稿を書き続けたことを僕はいまでも覚えている」なんていう記述には、作家の姿が垣間見えて本当にワクワクしてしまう。『ぼくはプレスリーが大好き』が改題されて『音楽風景』となり、さらに『エルヴィスから始まった』という題名でちくま文庫になった時のあとがきには、この作品を書き始める直前、エルヴィスの足跡を訪ねたアメリカの旅のことが語られている。このあとがきは今回の本で初めて読むことができた。本編には出てこない、片岡自身の物語として心に残る。

『スターダスト・ハイウエイ』(1978年/角川文庫)のあとがきには、雑誌に書いた短いエッセイが引用されている。夏の間、牧場の納屋の外に置いたベッドで眠る老夫婦の話だ。
「夜、月が高くのぼるころ、林のずっと遠くから、月光の中を夜の風に乗り、林の樹々のてっぺんをかすめ、コヨーテの鳴き声が、老人夫婦の耳に届く。(中略)ならんでベッドに腰をおろし、夜の林に姿を見せる魔女やゴブリンたちを、ふたりは飽かずながめる。夜の主役たちのじゃまをしないよう、ふたりはそっとむこうの林を指さしては、小さな声で語りあう。」たぶん生涯経験することがないであろう夏の夜の風に、想像のなかで吹かれる。こんなに印象的な「あとがき」を、かつて私は読んだのだろうか。本棚から角川文庫の『スターダスト・ハイウエイ』を探しだして、ページをめくると、確かにその物語は「あとがき」のなかに引用されていた。私の文庫本は、1980年1月発行の第4版だ。

収録されている「あとがき」は、赤い背表紙の角川文庫の1980年代が46と一番多い。書店に並ぶたびに購入して次々に読んだ時代だ。残念ながら解説のみであとがきが無い文庫もいくつかあるが、今回、この時代のあとがきを読んで作品を読み返したくなった。順番に本棚から抜き出してきて読み返していくと、あっという間に時間がたってしまう。あとがきと作品とを行ったり来たりしながら、秋のよく晴れた休日は、片岡義男三昧の一日となる。

多可乃母里

時里二郎

6
里の者は
この子の祖父は
生きているのやら
死んでいるのやらと言うが
この子の祖父の消息は
わたくしが よく知っている
ほかでもない わたくしこそは
この子の祖父なのだから
この子の祖父であるわたくしが
わたくしを作って
わたくしのなかに入ったのだから

7
ようよう
ここまで来た
ここまでが
わたくしの来歴
身を捨てて
このかたい木に変じたわたくしの来歴
里を捨てて
森の奥に分け入り
森に弾かれた者の来歴
その折りに 弾かれまいと
しがみついていた木もろともに
飛ばされたところが
たかのもり
多可乃母里と記された
ことのはの土地

まだこの子に会うまでの日月を
指に折ることすらできないころにまで
さかのぼり
さかのぼる
ことのはのとち
たかのもり
多可乃母里
・・・・

アジアのごはん(95)腸内細菌にゴハン!

森下ヒバリ

9月号にビルマのシャン州の納豆の話を書いたが、シャン州の旅から帰ってくると、妙に体調がいい。そういえば、前回のシャン州の旅のあともそうだった。ヤンゴンで過ごした後は湿気とカビ菌にやられて寝込むほどなのに、この違いはいったいなんなんだろう。シャン州は田舎で空気がいい、人も少なくてのんびり、市場が楽しくてゴハンも美味しくて毎日が楽しいから? う~ん。

シャン州のニャウンシュエから、タイに戻る途中に寄った、マンダレーのビアーステーションで生ビールを頼み、つまみに付いてくる炒り豆をぽりぽり齧りながら考えてみた。
「この炒り豆、うまい!小さいけどひよこ豆かな?」「あ、お兄さん、ビールもう一杯。それと、この豆もおかわり!」

シャン州の食事はやたらと豆製品が多い。ビルマ料理も豆をよく使うが、もっともっと使う。納豆を料理によく使うし、出しにも使う。そして、各種ゆで豆やもやし豆を青菜と炒めたり、カレーに入れたり、豆のスープ、ひよこ豆の粉から作る豆腐、それを薄く切って乾燥させたものを油で揚げるおつまみ‥。米麺のシャン・ヌードルにもコクを出すために仕上げにひよこ豆の粉をふりかけるし、さらに茹でえんどう豆の天ぷらがトッピングされることもある。

市場に行くと、生の豆はもとより、茹でた豆も売っているし、炒り豆のコーナーもある。ニャウンシュエのミンガラーバ市場の炒り豆コーナーは何種類もの炒り豆を売る店が平日で3~4軒、五日市の時は10軒ぐらい出ている。豆好きの相方はもう、はしゃいで一度に何種類もの炒り豆やフライビーンズを買うので、シャン州にいる間は常に部屋に豆があり、毎日外食でも豆を食べ、部屋でのおやつにも豆を食べ、の毎日であった。

しかも、この豆がまたおいしい。前回の旅の時に、市場で「炒り大豆かあ‥」と何気なく味見してみたら、えっとのけぞった。うまいじゃいの、これ。日本で料理するときにはわりと豆を料理に使うほうだ。しかし、大豆をそのまま、という食べ方は好きではないので、炒り豆を食べることもなかった。味付けなしの、ただカリッと炒っただけの大豆やひよこ豆や、名前の知らない豆がこんなにうまいとは。

シャン州に行くと元気になるのは、やっぱり豆をたくさん食べるからかな、と思い至ったところでハヤカワ・ノンフィクション文庫の「腸科学」(ジャスティン&エリカ・ソネンバーグ)の中で語られていた、「腸内細菌に食事を与える」というくだりを思い出した。日本に戻ってから読み返してみると、やはり豆類は腸内細菌の食事である食物繊維が豊富である。(ただし、この本の中では、食物繊維という定義が国によって違ったり、測定方法がまちまちであったりすることから、「腸内細菌が食べる炭水化物microbiota accessible carbohydrates」略してMACマックと呼んでいる。)

近年、腸内細菌の役割と重要性が科学的にもかなり分かってきて、腸内細菌叢を豊かに保つことが健康維持に重要であることは、周知されつつある。では、腸内細菌叢をよい状態にするにはどうしたらいいのか。

たいがいの人はヨーグルトを食べるとか、味噌や納豆などの発酵食品をつとめて食べるのがいい、と答えるだろう。または、ビオフェルミンを飲むとかプロバイオテクス(有用菌)のサプリメントを飲むとか。

これも間違ってはいない。しかし、これは腸内にいる常在菌ではなく、通過していく有用菌と呼ばれる微生物を摂取する方法だ。有用菌は腸内常在菌ではないが、これまた大腸の中で重要な働きをするので、これらを食べることは大切である。また環境から抗菌剤などの菌を殺すものをなくす、むやみに抗生物質を飲まないということも重要である。

そして、もうひとつ大切なのが、腸内細菌が食べる食物、つまり腸内細菌のゴハンを食べることなのだった。腸内常在菌のゴハンとは、人が食べて小腸で吸収されなかった、出来なかった炭水化物(MAC)、(ここではややこしいので日本式に食物繊維と呼ぼう)である。食物繊維とは植物に含まれる難消化性の炭水化物のこと。水溶性食物繊維と不溶性食物繊維とに二分され、水溶性はペクチン、グルコマンナン、アルギン酸などで、不溶性はセルロース、へミセルロース、リグニンなどが含まれる。

腸内細菌は、人が食べた植物性の炭水化物(糖類)のうち、小腸で吸収されなかった(できない)多糖類の炭水化物である食物繊維を大腸で食べる。ちなみに人は胃と小腸で食べ物の消化・吸収をおこない、腸内細菌は大腸に住んで自分たちの食べられる食事が回って来るのをじっと待っているのだ。

この腸内細菌の存在は、ヒトにとってなくてはならぬもので、人類発生以来、共存してきた大切なパートナー。大切なペットと考えてもいい。エサをやらなくちゃ、弱って死んでしまうよ。毎日喜びと健康を与えてくれる、愛おしいペット。ペットが死んでしまったらこちらも弱って病気になり、死んでしまうぐらいの深い結びつきだ。ペットに興味のない人は、大切な恋人、妻や夫でも子供と考えてもいい。

とにかく、自分が食べなければ可愛い腸内細菌くんたちのところに食事が行かないのだから、小腸で吸収する栄養以外にも、ちゃんと腸内細菌用の食べ物を食べてやらなければならないのである。

腸内細菌たちの食事をとるのをむずかしくない。とにかく毎日、植物性の食べ物をたくさん食べればいい。食物繊維は植物に含まれる。食物繊維の中でも水溶性のものが多いものをなるべく選んで食べるのがいい。菜の花や春菊などの青菜、にんじん、たまねぎ、ごぼう、ブロッコリーなどの野菜、にんにく、らっきょう、ゆりねなどの塊茎、いんげん豆、えんどう豆、大豆、ひよこ豆などの豆類、こんぶ、かんてん、ワカメなどの海藻類、りんごやバナナ、プルーン、きんかん、アボカドなどの果物、さつまいもやきくいもなどのイモ類。穀類にもライ麦やオートミールには多い。オクラや納豆、モロヘイヤ、山芋などねばねばした食品にも多い。ゴマやシソ科のエゴマにも多い。同じシソ科のチアシードは群を抜いて多い。

ところが豆類でも、大豆は豆腐に加工されるとぐっと減ってしまう。穀類も精白するとなくなってしまう。にんじんやりんごも濾してしまうジュースでは含まれない。レタスにも少ないので、ファストフード類の食事だけだと、お腹はいっぱいになっても、腸内細菌たちは飢えたままだ。

どうしても、充実した野菜の取れない食事の時には、水溶性食物繊維をとても豊富に含むチアシードを大匙一杯追加する手もある。チアシードは、2~3日分を水に戻して冷蔵庫にしまっておいて、ヨーグルトに混ぜたり、サラダに混ぜたり、そのまま食べちゃってもいい。もちろん、毎日食べるのもお奨めである。

最近のわが家のおやつとビールのアテは、もっぱら炒り豆や殻つきピーナツ、クルミやアーモンドなどのナッツ類だ。おやつが食べたくなったらテーブルの上に置いた炒り豆をちょっとつまんではぽりぽり。甘いものを食べる回数も減った‥。

気をつけたいのは、なるべく無農薬のものを選ぶこと。最近、おそろしい除草剤の使い方が日本でも大規模農業を中心に広がっているからだ。モンサントが開発した除草剤ラウンドアップは名前を変えて三井化学が安く販売しているが、これを収穫まぢかの大豆や小麦に直接かけるのである。雑草を駆除するのではなく、作物本体を立ち枯れさせて収穫を容易にするためだという‥。外国産の大豆や小麦のポストハーベストも真っ青のこの除草剤使用農法、ここ数年でかなり広がってきた様子。

いまのところ、大豆と小麦ぐらいのようなので、少なくとも大豆製品と小麦製品は無農薬のものを選びましょう。いくら食物繊維を食べても、毒を食べた上に腸内細菌まで除草されては、どうしようもないからね。

別腸日記(21)菌食考─その2:ブナハリタケ/Mycoleptodonoides aitchisonii

新井卓

山に登ること、キノコを採ること──この二つを両立させることは、むずかしい。山頂を目指す登山は、災害や事故の危険が少なく、また風光明媚なルートをたよりに計画される。ところがキノコをさがす道行きに、道はない。登山客に踏みならされた、往来の忙しい登山道でキノコを見つけたなら、それはとても幸運な出会いである。もし、かご一杯の収穫を夢見て山に向かうなら、道をそれて広葉樹の斜面へ、あるいは冷たい沢が走る谷間へ、藪を分けて進んでいかなければならない。

一昨年は、遠野早池峰ではキノコの不作が嘆かれた年だった。今年はどうもハァ、だめだね──土地の人のため息を背に、薬師岳に分け入った。いつもの南斜面をいくら歩いても、たしかにキノコたちの気配がしない。なんだか空気みたいなショウゲンジや、すねたようなイグチを細々と拾ってもう帰ろうか、と涸れ沢を下ろうとしたとき、不意に場違いな芳香が鼻をついた。どこかで嗅いだことのある何か──小学校の脇の駄菓子屋で売られていた真っ赤なチューインガムか、洗濯の柔軟剤のような、ケミカルな、甘ったるい匂い。目の前に、ふた抱えもありそうな巨大なブナの倒木が横たわっていた。回り込んでみると、果たして幹の片面に、ビッシリと純白のキノコが群生していた。

ブナハリタケ、のハリタケは「針茸」であり手のひらを伏せたような5センチほどの傘の下に、無数の針状の突起を生やしたキノコである。むしり取ろうとしても意外に強固で樹皮もろともに剥がれてしまい、これでは翌年の再発生によくないから、ナイフできれいに切り落とす。あっという間に背中のかごが一杯になり、それでも四分の一も採りきれていない。籠に両手を伏せて、体重をのせる──山の露をいっぱいに含んだゴム質のキノコから水が染みだし、編み目を伝った。

背中から強烈な甘いが身体を包み、ついに少し気分が悪くなってきた。しかしこの強烈な芳香も、煮炊きすればいかにも美味しそうな香りに変化するから不思議である。
ブナハリタケは、II型糖尿病への効果や発がんの抑制などの薬効が見つかってから、近年注目されているらしい。糖尿境界型の父にあげようか、とぼんやり考えながら、日のすっかり落ちかかった谷間を帰路についた。

眠るブナ林

璃葉

ブナの木の葉はすっかり落ちていた。いつもより寒い日だった。
桜紅葉が散り、すこし物悲しい景色になった近所の道を歩きながら、いつだったか、秋の終わりに歩いたブナ林のことを思い出した。
紅葉を見たくて遠足気分でブナ林に来たものの、一足遅かったのだ。葉っぱがすっかりなくなった木々が連なり、梢が風に揺れてうごめいていた。
林のむこうにはぼんやりとした太陽の光芒があったが、雲が薄くかかっていて暖かさは届かない。不思議な匂いが漂っていた。冷たく澄んだ匂い。
リュックから魔法瓶を取り出す。蓋を開けるとモワモワと赤ワインの香りが立ち昇った。
ホットワインは、古くなった赤ワインの活用法として友人から教えてもらった。温めた赤ワインに、切ったレモン、オレンジ、シナモンを入れるだけ。
冬の散歩のお供に良いのよ、ということばを聞いてから、寒さの到来を心待ちにしていた。
立ち止まって一口、二口飲む。芯がジンと温まり、皮膚の表面の冷たさがさらに際立つ。
霧が薄布のように広がり、虫の音もなく、風もよわく、カラスもおとなしい。ブナの木々は静かに、心地よく眠っているようだった。

芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場

冨岡三智

今年の4月からいくつかの大学に教えに行っている(インドネシアの言語とか文化とか)。大学によって立地やレイアウトはまちまちだが、ある大学のキャンパスを歩きながら、そういえば留学先の大学もこんな感じで高低差があったなあ…と思い出した。というわけで、今回は私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出の話。

芸大のキャンパス構内は、私が留学・調査していた頃(1996-2007)より建造物が増えたり教室が改装されたりして、今ではかなり感じが変わっている。芸大キャンパスは、プンドポ(ジャワの伝統的なオープンホール)や大小の劇場、野外劇場などが集まっている辺りが道路から近く、土地が平らである。船をかたどった門が設けられて、これが現在の正門だ。そこから南へ坂を下るにしたがって、本部棟や国旗掲揚広場(その前にある門がかつての正門)、事務棟や図書館、影絵科、舞踊科、音楽科、造形科と順々に配置されている。

実は芸大キャンパスがこの地に移転完了したのは1985年で、その前はスラカルタ王宮の一画:サソノムルヨにあった。サソノムルヨには国の芸術プロジェクト=PKJTの拠点や3月11日大学(UNS)のキャンパスも同居していて、これら3つの機関が揃って今の地域に移転した。というわけで、道路から芸大の船形正門を越えてさらに東に行くとUNSのキャンパスがあり、芸大から南下するとPKJTが発展解消してできた中部ジャワ州芸術センター(TBS)がある。

現在でこそ、芸大に各種劇場が揃っているが、私が留学した当初にあったのはプンドポのみ。ここで入学式や卒業式、すべての試験公演が行われていた。余談だが、このプンドポはキブラット(方角)が間違っていたことが完成後に分かったそうで、そのためルワタン(魔除けの影絵)をして、その影絵人形をキャンパスからほど近いブンガワン・ソロ川に流しに行ったそうだ。

閑話休題。ソロはコンテンポラリ芸術も盛んな地域だが、それらも伝統的なプンドポで全部上演してしまうところに、私はジャワの伝統の懐の大きさを感じて感動した。しかし、同じジャワでもジョグジャカルタにある芸大には当時からクローズドの額縁劇場があった。私はむしろそのことに驚いたのだが、それは恐らく、ジョグジャカルタ校には西洋音楽のコースがあったためではないかと思う。実は、首都ジャカルタの交響楽団で活躍する人の多くがジョグジャカルタの芸大出身者なのである。一方、スラカルタの芸大のカリキュラムには西洋音楽の実践は全然なかった。ピアノを使うのも国歌、校歌を歌う時だけ…という状況だった。

そんな芸大にクローズドの額縁舞台の劇場が建ったのは1997年末か1998年早々で、こけら落とし公演がサルドノ・クスモ作『オペラ・ディポネゴロ』だった。だが実は、この公演時に劇場の電気系統はまだ完成しておらず、発電機を持ち込んでの上演だったと後で聞いた。当時、アジア通貨危機に見舞われて工事は中断し、2000年に私が再留学してきた後に工事が再開した。小劇場が完成した後、舞踊の試験公演はすべて小劇場で上演されるようになり、同時に多くの有料公演もそこで上演されるようになった。スハルトが退陣しオトノミ・ダエラー(地方自治)体制となったことで、それまで入場無料だった試験公演が有料化された。折しも、インドネシアではアートマネジメントの必要性が叫ばれるようになった。国際交流基金がその専門家をインドネシアに招聘したり、現地の財団が公演制作者の育成プログラムを始めたりしていた。というわけで、スラカルタの芸大では2000年前後がプンドポ芸術から劇場芸術への転換点(少なくとも舞踊にとって)だったと言える。

とはいえ、欧米の劇場と全然違うのがクローズドの度合いである。壁は薄く、劇場外の音もよく聞こえる。さらに外からいろんなものが入ってくる。小劇場のこけら落とし『オペラ・ディポネゴロ』公演では、よりにもよってクライマックスのシーンとした場面で、トッケイ・ヤモリの「トッケイ…トッケイ…」という連続する鳴き声が響き渡った。また、小劇場ではないが、プンドポの裏にある録音室で私が舞踊曲の録音をしたとき、一度バッタが入ってきて中断したことがある。トッケイやバッタをシャットアウトしてこそのクローズド劇場だと思うのだが、これでは音環境についてはプンドポと変わらない…(笑)。(つづく)

蒼吉のこと。

植松眞人

 京都の大学へ通いたい、と息子の蒼吉が言い出したのは高校生活もあと半年あまりとなってからのことだった。
 井筒はさほど驚きもせず、ただそうなった場合の算段を素早くして、そうか、とうなずいて息子を送り出す気持ちを一息に整えた。しかし、母親である恵美はとても驚いて、京都、とつぶやいたきり黙り込んだのだった。
 結局、恵美がもともと希望していた国公立大学であったことと、学費の算段もなんとかできると踏んだところで、蒼吉は希望通りの大学を受験することになった。
 晴れて入学が許可されて、蒼吉は三月の終わりに意気揚々と東京から京都へと旅立った。
 みなが「寂しいでしょう」と恵美に声をかけるのだが、井筒はどうして母である恵美にばかり声がかかり、父である自分に声がかからないのか不思議に思うのだった。しかし、実際に蒼吉の不在が堪えていたのは恵美だった。
 蒼吉が楽しみにしていたテレビ番組が夕食時に始まったりすると、じっと画面に見入って黙ってしまい、「蒼吉がよく見ていた番組だな」と井筒が声をかけると、「さあ」とわざとらしく会話をそらしたりした。
 五月の連休が目前に迫った頃になって、恵美はしだいに蒼吉のことを普通に話題にするようになった。蒼吉がいないことに恵美も慣れてきたのかと思い、「本当は君も蒼吉がいないことが寂しくて仕方がないんだろう」と井筒は軽口を叩いたりするようになった。そのたびに、恵美が「そんなことありませんよ」と強がって見せたりするのも、新しい家族の過ごし方のようで微笑ましく思えるのだった。
 しかし、蒼吉がスマホで「連休には戻らない」というメッセージを送ってきた日の夜、井筒はそうとは知らずに、すっかり気持ちを許して蒼吉の不在を話題にした。つい、料理を多く作ってしまった恵美に、「蒼吉の分まで作ってしまったんだね」と言った瞬間に、食卓へ今まさに置こうとしていた大皿のお煮物料理を恵美は放り出すようにしたのだった。大皿は割れることはなかったが、ドンッと大きな音を立てた。自分でもその音に驚いたのか、しばらく無言で立ち尽くしていたのだが、やがて食卓の隅に置かれた台ふきんで飛び散った煮物の汁を拭き、恵美は食卓に座った。そして、一言も発しないまま黙々と白米と煮物を交互に食べ続け、やがて滂沱たる涙を流し始めた。
 井筒はその姿に驚き、いったいどれだけ蒼吉が恋しいのかと思ったが、もしかしたらほんの少しでも感じている寂しさを知られたことの悔しさからくる涙なのかもしれないと思い直すのだった。しかし、だからとって井筒自身、平静を装って食事をすることが出来ず、やはり少し怒った様子でうまい具合に煮込まれた大根を箸で刺して口に運び、それほど美味くはないという顔をしてみせるのだった。(了)

理性の不安★36

北村周一

臘月や牡蠣と漢字で書いてみる
 r 付く月鍋にしようか
汗掻き掻きねむる幼子われにして
 理性の不安はとき遡る
しろじろき月を背後に子猫たち
 銀杏樹の枝に一、二の三匹
しぶしぶに画廊の主は新酒開け
 博多訛りの毒舌の冴え
声重たし傘を忘れて盗み聞き
 事務イス軋む音に洩れつつ
葉脈にまみずしみこむ宵の口
 海水われのやみふかみかも
梅雨の入り稲荷大祭月は見ず
 アイリッシュバーに浴衣子踊り
つぶやきに自己宣伝のきらいあり
 今は死語かもウナヘンタノム
逃げろとて花に嵐のお別れも
 傘も差さずに走るさんがつ
かんがえて赤子抱きゆく余寒かな
 悠治さんから悠の字貰い
十字架を肩に背負いしひとの傷
 生きて負う苦に順序のありや
雪の日の盲導犬の目に泪
 ゆめは枯野を行きつ戻りつ
海抜は千メートルにあと少し
 気圧低いとこころが弾む
薔薇族の愛にムチ打つ納屋の中
 思春期に触れる昭和文学
月の座に月の句のある一頁
 燈籠好きの父が来ている
柚子味噌をこさえし祖母は能登の人
 隣家の庭に柚子の実たわわ
正調のちゃっきり節はでにあらず
 きゃあるが鳴くんて雨ずうらあよ
半島の先の先までのサクラ花
 さまざまありて菜の花畑

* 擬密句三十六歌仙冬の篇。秋の終わりに。

オイリュトミー

笠井瑞丈

言葉と踊り
音楽と踊り

未だ未知の世界を
そんな迷宮世界に

迷いこむ

カラダの捉え方は
無限の数だけある

頭が理解する事
体が理解する事
心が理解する事

頭を体に繋ぎ
体を心に繋ぐ

言葉と音楽

言葉が体を作り
音楽が骨を作る

空間と時間

言葉が空間を作り
音楽が時間を作る

カラダは
徹底的に自己的な物

コトバも
徹底的に自己的な物

髪の毛一本も自分であり
コトバ一つが自分である

誰にも渡さない
誰にも渡せない

イメージが動きを作り
動きがフォルムを作る

骨の笛で曲線を描く
骨の筆で直線を描く

神々の眼を
動物の眼と

死者の世界を
海底の世界と

置き換える

石の上にも三年
三年目です

オイリュトミー

製本かい摘みましては(141)

四釜裕子

「マルセル・デュシャンと日本美術」展(国立博物館平成館)は、第1部「デュシャン 人と作品」に続く第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」が、とってつけたような、それでいて説教くさくて興ざめした。あとをひいてしまって、売店に中尾拓哉さんの『マルセル・デュシャンとチェス』が置いてあったのにちらっと見て離れてしまった。もやもやしたままエスカレーターを下ると一階ラウンジ前に便器。デュシャンが「泉」を作った1917年にTOTOの前身である東洋陶器社が創立したそうで、1914年に作られた国産初の「陶製腰掛式水洗便器」の復元品が展示してあったのだ。2015年にTOTOミュージアムが開館するにあたって作られたとのこと。壁には、『これが、日本の陶製水洗便器の源「泉」』。笑える。興ざめから我にかえって、『マルセル・デュシャンとチェス』をもっと立ち読みすべきだったと反省する。その夜、ネット本屋で注文しそうになるが、ガツガツ探して買う本ではないし、きっとどこかの本屋で会える気がして、やめる。

ネットで買いたくない本というのはある。鈴木智彦さんの『サカナとヤクザ』もそうだった。鈴木さんのツイッターで料理話などをおもしろく読んでいて、『サカナとヤクザ』なる本が出るというので楽しみにしていた。刊行日、帰り道で本屋に寄った。3軒目、上野アトレの明正堂書店で平積みに遭遇。探すでもなくとはいかなかったけれどわりとさりげなく買えた。地下鉄に乗り本を開くと中から魚柄の栞、氏原忠夫さんの絵による明正堂書店オリジナル栞のうちのひとつだ。今はこの柄だけなのかどうなのか、わからないけれども、『サカナとヤクザ』を買った客には魚柄を入れてくれたに違いないと思い込み、良い気分にひたる。帰宅して本棚を見る。ここ数年はネット買いが増えたとはいえ、ほとんどがいつかどこかの本屋でだいたい一冊ずつ買ってきたのだから、ずいぶんたくさんの本屋さんから手渡してもらってきたものだ。

すぐ欲しい本はネットで買うし、正直に言うと、経費で落とせるものでもより安い値のものを選ぶことが増えている。注文をして確認がきて、配送されて封を開いて。納品書は梱包材といっしょに捨ててしまう。やりとりはシンプルで立ち止まるすきもなく、相手が本屋であることを意識させない。これが互いに望んだ理想形なのだろうか。ところがあるとき、納品書に目がとまった。B5サイズの紙がちょっと厚手で、印字がかすれていたからだ。そのくせ裏面はくろぐろと印刷してあり、「納品書のウラ書き」と白抜きしてある。加古里子さんの『宇宙』(1978 福音館書店)と、林定次さんの『宙の名前』(2010 角川書店)が紹介されている。上田市のバリューブックス発行、第3号、テーマは「宙」だ。楽しいじゃない。よく見ると、紙のひとかどが微妙に直角がとれていない。断裁で失敗したのかどうなのか。いや待てよ、おもて面の印字のかすれも作戦なのかも。考えすぎか。とにかくこの納品書は捨てずにとっておかれているし、客は店の名前を覚え、その客は今またここでその本屋を思い出している。

平出隆さんの『私のティーアガルテン行』も本屋で買った。中に、中学高校の下校時に通った本屋、金榮堂の思い出がある。〈書店の中で、子供は世界の広さにうろたえている〉。買うとなると、〈勘定場で必ずしばし見とれる光景があった〉。〈本に紙の衣裳を着せる。そんな手捌きを、毎度黙って眺めた。子供にはその瞬間だけが、店員さんとの会話であるような気がしたものだ〉。こんな明確な記憶は私にはないし、カバーをかけるのを見るのは好きだけれどカバー付きのまま読むのは好きではないので普段かけてもらうことはない。それでも、わかるわかると思うし、懐かしいと思える。

ティーアガルテンとはドイツ語で、動物園と猟場の意味があるそうだ。〈主なき猟犬なのか、獲物として終るただの生命体なのか分からぬ「私」という動物(ティーア)〉である平出さんが分け入ってきた幾多の迷路の入口にある、恩師や家族、数学、写真、野球、受験、歌……。バットとグローブを担いだ白いユニフォーム姿の少年はカメラに背を向けていて、以来迷路に踏込み続け、迷路であるから出口を目指さない。未知への踏込みは、〈いまここという時空〉への逆らいだと言う。版を組み、翻して刷って綴じる本づくりは新しい迷路を組み立てるに等しく、〈通俗の歴史がこしらえてきた地上に立ちどまること〉に逆らい、それが〈ままごとのようであればあるほど、世界はくっきりと姿をあらわして立ちはだかる〉。〈五十年後のいまでも、まったく同じ幼さをもって、いや、より精巧な幼さをもって、印刷や造本に向かおうとしている自分に気づいているところである。あまりのことに、これは、動物たちが、自然の環境の中で繰り返してきた生存形態の設計力を追いかけているのではないか、と考えるほどだ〉。〈一個の動物として本をつくることができないか、とさえ考えている〉。

『私のティーアガルテン行』の造本は平出さんによる。透明のフィルムが表紙カバー替わりにかけてある。このまま電車の中で片手立ち読みすることはできない。美しい造本だけれども、邪魔だな、とも思う。『私のティーアガルテン行』という迷路へ踏込む者がまず体験する、いまここという時空への逆らいのひとつなのだろう。

しもた屋之噺(202)

杉山洋一

すっかり秋めき朝晩の冷え込みも厳しくなってきました。今年は肌寒くなるのが本当に遅かったのです。ここ二日ほどずっしりと濃い鼠色の雲の下、久しぶりに降り始めた雨は強まるばかりで留まる気配すらなかったものの、先程漸く雨が上がったかと思うと突然黄金色の秋らしい夕日が辺りをさっと美しく染め上げるのに言葉を失いました。
緑色のまま残っている葉、黄色く色が褪せかけた葉、赤く染まった葉が、それぞれにさざめいては光を際立たせ、独特の遠近感を生み出していて、音楽との親和性を思います。親和性というより、恐らく音楽がどこから生まれてきたのか、無意識に実感しているのかもしれません。目の前の空は既に色を失い夜の帳に覆われかけています。

10月某日 ミラノ自宅
何度となく「この楽譜だけは絶対に解読できない」と匙を投げそうになったが、最後になると何かが閃くというのか、心の眼でこの楽譜が読めるようになる不思議。
自筆譜で読むと音現象の解析からではなく、まず作曲家の存在そのものと対峙しなければならないので、恐る恐る楽譜に向かう、ということが出来なくなる。すみれさんとご一緒した時の「カシオペア」の楽譜がそうだった。実は浄書されたスコアもあったことが演奏会直前になってわかったが、ずっと自筆譜で勉強していて、本番もそのまま自筆譜で振った。
筆跡を辿れば、どこの部分から書き進めたかもある程度理解出来るようになるので、思考とまでは言わないが、巨視的な作曲者の視点や意図を繋いゆくことも出来る。
クセナキスの筆跡は到底見易いとは言い難いが、アシスタントが見やすく浄書しているところからは、作曲者本人の筆跡のような迸る情熱は感じられないので、寧ろ物足りない。
ただ、文字通り目を皿のようにしても、どうしても読めない音は幾つかあって、正しいのか分からないままパート譜を参考にしたが、当初休符だと信じて疑わなかった棒が、読返してみると音部記号と気が付いたりする。普段から見えない目が、極端に困憊したのは確かだ。

10月某日 ミラノ自宅
家人の恩師を悼むピアノ小品を書き、追悼アルバムに収録してもらう。暫く前に飛行機で取ったスケッチは見当たらなかった。恩師の名前をよびかけながら、どこに向かってよびかけているのか考える。どこにでもごく身近に気配を感じる気もするし、とても遠くに漂っているような気もする。彼をよぶ声だけが、いつまでもこだましている。

10月某日 ミラノ行車中
クセナキス「クラーネルグ」オーケストラ練習。パート譜もスコアも、所々申し訳程度に分数が書いてあるばかりで、練習番号も小節番号も記載されていない。他の指揮者らも困ったと思しく、パート譜に残されている手書きの練習番号を使おうかと思うと、別のパート譜には別の練習番号が書込まれていて、結局新しく必要最小限のキューサインを決めて、皆で書込む。曲中ずっと二拍子で変拍子のないこのような曲は演奏者が混乱しやすく、その上テープやダンスとの同期もあるので、本番で何が起きても対処できるよう、極力プロセスを単純化する。
それぞれの楽器の発音を整理し、記号に目が馴れるまで暫く繰返す。50年前は、今ほど記譜法も統一されていなかったので、現在の感覚では瞬間的に対応出来ない。伝統や文化は、それぞれ繋がりを持たない個が関わり合い、ある種の混沌を経て収斂に至る。そしてそれがまた一つの個として認識されるようになると、また別の個と交わり、別の収斂を迎える。その繰返しは今も続く。

10月某日 ミラノ行車中
望月京ちゃんが、本当に音楽は分り易くなければいけないのか、と疑問を呈しているのを読む。言葉で説明できるのなら、わざわざ音にする必要があるのか。もう一歩踏み込んだ言い方が許されるのなら、分かり易い言葉で説明するため、簡略化して、大多数に理解されるべく努力する、ポピュリズム一辺倒も怖い。解せない言葉で話すのではなく、分かり易い言葉で、迎合もせず簡略化もせずに自分の意思を伝える。易しそうな言葉の余白に、思索の奥行が垣間見られるように。

10月某日 ボローニャ
良く晴れた朝、ボローニャを母と連立って歩く。劇場すぐ裏のアパートを借りたので、サンヴィターリ通りをゆけばすぐに斜塔広場に出る。斜塔からサンペトローニオまで母の足に併せて歩いても5分とかからない。早朝のサンペトローニオはがらんとしていて、我々以外にこの巨大な教会には一人で熱心に祈る妙齢がいるだけだった。西洋音楽史上、サンペトローニオがどれだけ大切な役割を果たしたかを母に話していると、突然祭壇上のオルガンが美しい響きを放った。
教会つきのオルガニストが早朝練習に来たようだ。サンペトローニオ付きのオルガニストだけあって素晴らしい演奏にしばし聞き惚れる。この教会は特に巨大に造られていて残響も驚くほど長い。だからサンペトローニオ付きの作曲家たちは、この長い残響を活かした作品を書いた。目の前のオルガニストの弾くトッカータ様式の細かい音群は、長い影法師を引き摺りながらまるでリゲティ風のクラスターのように聴こえる。尤も、リゲティ風に聴く方が間違いであって、リゲティが幼い頃から耳にしていた、このような音の混濁を、意識化し体系化したと考える方が自然かもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
クセナキスのオーケストラ曲を振るのは、考えてみれば初めてだった。
楽譜から消失しかかっている音符を一つ一つ丹念に拾ってゆくと、思いもかけぬ旋法的な音が並ぶ。クセナキスの音楽は質量が一番大切な要素に見えるけれども、今回の作品は明らかに旋法が形作っていた。旋法の質感を重層化させることにより、全体の質量を表現していた。それも現在の洗練されたコンピュータに比べて、信じられないほど目の粗いやり方で。「音楽と建築」で「ふるいの理論」や旋法についてずいぶん丁寧に説明していたのは、この部分に相当するのかしら、と勝手に想像していた。
クラーネルグのオーケストラ演奏箇所は弱音が殆どなく最強音ばかりが続くのだが、どれだけ熾烈なのかは実際演奏してみなければ実感できなかった。練習時に本番と同じ音量で弾いてもらうのは、マイクテストの時くらいで、後は体力を温存するため、極力楽に弾いてもらっていた。これがオペラであれば、最強音であれ歌手の声が通るよう中抜けさせつつオーケストラも弾くところだが、クセナキスはバレエで歌手もいなければオーケストラと絡むのは最強音のテープであって、本番中少しでもオーケストラが気を抜くと音楽が急に色褪せてしまう。人間が本当に必死に音を出すと音に独特の輝きが加わるのだ。音量でなく音の光度のようなもの。
当初はオーケストラも一度弾き通すだけで困憊していたのが、回を重ねるたびにクセナキスの面白さに引込まれ、同時にスタミナも付いて来たのか、最後の公演では最後の一音まで気迫が上昇し続けて瞠目した。

10月某日 ミラノ自宅
悠治さんより新作の楽譜がとどく。ご自分で指揮をされるからか、指揮者に対する気遣いとか心配りとかでなく、自分が聴きたい音を、フィルターを通さず透徹に綴った譜面に感激する。もっと多層的で奏者に任せる記譜をされるのかと勝手に想像していたら、ずっと求心的で、全員で空間の同じ部分に耳を澄ますようなアプローチで書かれていて、虚をつかれて幸せな気分になる。皆をあわせるための指揮ではなく、まるで皆の方から指揮にまとわりついてくるようにも見える。どんな演奏になるのか、楽しみで仕方がない。

10月某日 ミラノ自宅
ここ数日かけて、伊左治君から頼まれたブソッティの「イタリアへの五つの断章」の解説を書いていた。かかった時間の殆どは、歌詞を楽譜から書き出し原典を調べ訳出するための時間。当初、詩の訳出までは無理かと思ったが、旧友が八村義夫さんの為に頑張っていて、今後五曲の完全演奏を日本で耳にする機会もそうなかろうと思うとやはり無下には出来なかった。その昔、ブソッティ本人は歌詞なんて訳さなくて良いと笑っていたが、やはり詩の意味や深さを理解できると、作品の印象は全く違ったものになる。特に第一曲「丘たちはまだ耳を澄ましている」で使われている詩は、見事なものばかりだ。

Entro dei ponti tuoi multicolori
L’Arno presago quietamente arena
E in riflessi tranquilli frange appena
Archi severi tra sfiorir di fiori
Azzurro l’arco dell’intercolonno
trema rigato tra i palazzi eccelsi:
Candide righe nell’azzurro: persi
Voli: su bianca gioventù in colonne.
Dino Campana – Firenze

色とりどりのお前の橋に足をむけると
まるで全て見通しているかのごとく、アルノ川の流れは突然落ち着き払い
謐な水の反映のなかに、かすかに映し出す
色を失いゆく花の合間からのびる、厳めしい橋たち
柱と柱にわたされた青い橋が
たちならぶ荘厳な宮殿のまにまに、水面の縞を残し震えていて
青にうつる縞は穢れを知らず、消えてゆく
空の鳥たち。柱のなかの、純白の青春に
ディーノ・カンパーナ – フィレンツェ

カンパーナの「フィレンツェ」は、この古都を形容するに当たり、必ずと言ってよい程引用される代表的な詩で、「色とりどりのお前の橋」は、モザイクのように様々な小さな商店が軒を連ね彩を添えるポンテ・ヴェッキオのこと。そして、その下をたゆたうアルノ川に映る街の風景を詠う。ブソッティがどれほど生れ育ったフィレンツェを愛していたのかよく分かり、訳しながら少し切ない思いにかられる。

Tacciono i boschi e i fiumi,
e’l mar senza onda giace,
ne le spelonche i venti han tregua e pace,
e ne la notte bruna
alto silenzio fa la bianca luna;
e noi tegnamo ascose
le dolcezze morose.
Amor non parli o spiri,
sien muti i baci e muti i miei sospiri.
Tasso

森も川も口を閉ざし
海は波も立てずに、横たわっていて
深く昏い洞窟も、吹きすさぶ風も、
薄ら明かりの夜すらも戦いをやめ、安らかに
どこまでも続く沈黙は、真っ白な月をもたらしていて
僕たちは、ひっそりと
愛の喜びを分かち合っている
愛するお前、声をたてず 息も立てないでおくれ
言葉も要らぬ口づけと、言葉も要らぬ僕の溜息だけで
タッソ

このマドリガルがいつ書かれたものか正確には分からないけれど、タッソの作品でもよく知られた詩の一つ。タッソは同性愛者ではないが、ブソッティがこの歌詞を歌わせる箇所は、耽美的でまるで同性愛的な美しい旋律で縁取られていて、そのままラーラ・レクイエムにも転用していた。改めてタッソの表現力の幅広さと、説得力の強さにおどろく。

Per entro i colli rintronano i corni
Terror del cavriol, mentre in cadenza
Di Lecco il malleo domator del bronzo
Tuona dagli antri ardenti; stupefatto
Perde le reti il pescatore, ed ode:
Tal diffuso dell’arpa erra il concento
Per la nostra convalle; e mentre posa
La sonatrice, ancora odono i colli.
Foscolo

続く丘に雷の角笛が鳴り響き
急転直下、レッコからやってきた
銅鎚の遣い手が地を叩き
燃え盛る口から稲妻が飛落ちる。愕き
思わず漁師は網を手放し、耳を澄ます
打広げられた竪琴の音が、こだましている
大きく開かれた谷のまにまに。楽女が
楽器を置いて憩うとき、続く丘たちは耳を澄ましている。
フォスコロ
 
これもイタリア近代文学で良く知られた名作の一つ。この断片は長編詩の一部に過ぎないが、男性的に切立つ谷に挟まれたレッコ湖の辺りをよく知っているからか、読みながらこの数行の描写に感激して鳥肌が立った。言葉が五感全てを刺激して、湖の匂いまで漂ってくる。

10月某日 ミラノ自宅
楽譜に書かれた音を発音するには、ピアノなら鍵盤を押せばよく、声楽なら歌えばよく、指揮者なら棒を振り下ろせばよい筈であるが、実際はそう単純ではない。
夏に或るインタビューでも話したのだけれど、演奏する行為は楽譜をただ機械的に再現するのではなく、朗読をして読み聞かせするのだと思うと少し分かり易い。
文字をそのまま読み下してゆけば、一応文章にはなるだろうが、何の説得力も持たないだろう。それ以前に、単語の意味を考えずに文字をただ機械的に発音してゆくと、恐らく文章としても成立しないと思われる。
恣意的であれ、と言う積りは毛頭ないが、文法や単語を理解した上で、その文章の言わんとしている対象を念頭に文章を読み下さなければ、説得力のある朗読は成立しない。
楽譜も恐らく同じではなかろうか。楽譜に書かれていることを、書かれているという受動的な理由だけで演奏していては、絶対的な説得力に到達できないのではないか。
それが正しいか正しくないかは別として演奏者なりに文章を咀嚼し、自分なりの言葉で意味を表現し、伝えようとする能動的なアプローチこそ、少なくとも説得力を持つための出発点になり得るのではないか
音符を弾いて音符がそのまま見える演奏では、文章を読んで文字ばかり見える、意味の成立しない文章と同じではないか。
レッスンに来た生徒に、訓練として詩を読むよう薦める。詩を客観的、分析的に読むのではなく、恰もその光景に自らの身を置き、詩人が驚きや感動を持ってその光景を詩に綴る心地を出来る限り実感しながら詩を読んでみて欲しいと伝える。
書かれた文字の意味を理解するのではなく、文字の意味が読み手に露にするその光景に自らを置いてみる。そしてそこに自らが同化出来るまでじっと詩を眺める。実際は詩でなくとも構わないのだろうが、楽譜に近い感覚で読めるのは、どうも詩のような気がする。
棒をどう振れば聴き手が感動するというものではないだろうし、技術が高くても、それで感動する音楽が生まれるわけではないだろう。心から感動して生まれた音は、それだけでやはり他者の感動を呼覚ます気がする。

10月某日 ミラノ自宅
耳の訓練の授業を受持ってもう随分時間が経つ。今年から国の方針で音響技師科が大学課程に組込まれて、音響技師科の新入生16人の授業も受持つことになるのを聞いたのは、学校の授業の始まる10日前程。蓋を開けてみると、前期のクラスだけで器楽科の教室は22人、作曲と指揮の教室が3人、映画音楽作曲の教室は16人、その上、音響技師の教室が16人。
ドイツのトーンマイスターとは随分格が違って、イタリアで音響技師と言うと、今までは基本的にスタジオで実践しながら手に職をつけて仕事を始めるような立場だった。
最初の授業は、彼らの今までの音楽体験などを自由に話してもらう。16人中、楽譜が全く読めない学生が1人、ト音記号は何とか読めるが、ヘ音記号は全く読めないという学生が3人もいる。尤も、彼らに必要な耳の訓練をすればよいわけだから、楽譜が読めればよいわけでもないだろう。
音を聴く、という作業を視覚化するため、黒板に、五線など無視して極端に大きな全音符を三つ縦に並べてかく。適当に三つの音の和音を弾くから、こちらが言う音を眺めながら聴いてみて、と練習を始める。すると、当初三つの音が絡み合って聴こえていたのが、少しずつ頭の中でほぐれて見えてくるのがこちらから眺めていてもわかる。
音は、聴こえると思えば聴こえるし、聴こえないと思えば聴こえない、不思議な存在だが、まず頭の中で音を聞かず、音の存在を目の前で見えるようにする。音が見えれば、必ずそれが聴こえるようになる。下手に音楽の訓練をしていない彼らは、特にその反応が早かった。皆自分の耳が嘘のように聴こえる、と興奮している。音を聴くために、楽譜がどうしても読める必要などない。

10月28日 ミラノにて

168わざうたさん さようなら

藤井貞和

1、すぐ窓の下を通ってゆく幼児の、何とも幼い声で歌う、

からす、なぜなくの
からすのかってでしょ

という歌、「七つの子」の替え歌が聞こえてきて、「ええっ、それって、
ずいぶんまえに流行った歌なのに」。 ドリフターズの志村けんさんの、
一九八〇年代初頭の替え歌で、いまでも歌い継がれているのだ。
当時の志村にしても、近所で聞いた小学生の歌だったと称して、
十年に一度やってくる、わざうたの一つではないかと思える。

2、一九九〇年には、「おどるポンポコリン」(さくらももこ作詞)について、
あれは湾岸戦争(一九九一)を予言するわざうただったと、
当時、ある大学の紀要に研究論文を発表した人がいた(久冨木原玲さんだ)。

いつだって わすれない
エジソンは えらいひと
そんなの常識 タッタタラリラ

3、周東美材さんの『童謡の近代』(岩波現代全書)の書評会があり、
コメンテーターを私は引き受けたのに、ついに当日までに、
本ができてこないという、とんでもない集まりで、しかたがないから私は、
童謡の本だから、わざうたぐらいは話題に出てくるだろうと、
予言ならぬ予想をつけてハンドアウトを作った。 わざうたのことを、
古代中国でも『日本書紀』でも〈童謡〉と書く。

4、ちなみに周東さんのめずらしい「美材」という名は、
平安時代の文人、小野美材(おののよしき)から付けられたというので、
小野美材のほうならば、まあまあ私なりにコメントできるのにと、
軽い愚痴が残った。

5、で、「おどるポンポコリン」の歌詞のなかに、
湾岸戦争が隠されているかどうか。 つまり わざうたとは何か、
ということだが、歌詞のなかに秘密が隠されているのだろうか。
じつを言うと久冨木原さんが「この歌はわざうただ」と言ったとたんに、
「おどるポンポコリン」がわざうたになる。

6、北原白秋が幼児の歌を集めて、詩の原初性をそこに見いだしたとする論旨には、
大いに共感する。 三歳の子の、

オブダウモ            (お葡萄も)
オヤアスミ グッドナイ      (お寝あすみ グッドナイ)

には、〈葡萄への未練がありそうで、かわゆいと微笑させる〉と、
白秋の言にあるという。 「ルッソオの懺悔録に、〈焼肉さん さようなら〉という、
幼年時代の一齣があって泣かせますが、異巧同曲とでも申しますか」と、
白秋が子供の自然状態をルソーに思い合わせたとする指摘は言い当てているな。

さくらももこさん 哀悼します。

(わざうたがこの世から、いなくなって十年、二十年。どこに消えたのだろう、ポンポコリンはさいごのわざうたでしたね。〈宣伝〉『非戦へ――物語平和論』を長崎のちいさな編集室・水平線から出します。水平線を応援してね。)

だれ、どこ(12)小杉武久(1938年3月24日-2018年10月12日)

高橋悠治

時間はゆっくりとすぎる 音の釣り 音楽のピクニック
時の痩せ馬をせきたてていた世紀の前衛が 向きを変え 時間をかけて
ささやかな音を立てるものたちに聞き入る時が来たのか
ちいさなカードに書いた一つの動詞に 時間をかけて
歩きつづける 上着を脱ぐ 袋に入って 裂け目から手を出す
ピアノに触らず音を出す できるだけおそくSOUTHと言ってみる
south 南へ 時も停まる真昼を指して 
タージマハールへの旅も
まず地球の反対側 ストックホルムからバスで10ヶ月かけて回りこむ
またある時は ヒマラヤに飛んでいった魂を追って 逆方向のアメリカへ旅立つ
道の途中の出会い 時間をかけて
ひろいあつめたちいさなものたち
ちいさなテーブルいっぱいに
ゴム風船から空気を押し出す 焼き鳥の竹串をはじく ビンのフタのコマ回し
紐で吊るした発振器を扇風機で揺らす 自転車を乗りまわす 箒で天井を掃く
砂に埋まった時計 塩が 砂糖が時を刻む
用から解き放たれた日用品の休日
無用の用に 反職人の職人芸

遠く思われたタージマハールへの旅も
たどりついたら終わる
どこにもたどりつかない道があるかな
行先から解き放たれた道の休日
道が道をたのしむ 未知の道すじ
曲がりくねって先が見えない 小径
羊を追って角を曲がれば未知の風景 ますます分かれる枝路
いつかは羊も忘れ 
旅が旅する行商人 停まりながらすすむ
小杉さん また同じことをして
草木は萌え 花開き やがて萎れていくだろう
同じことも同じにならない そこにあるものも
いつか見えなくなり

死神から手紙が来た おまえはもうおしまいだ
ハーメルンの笛吹のようには連れていかない ベッドの脇で待ってもいない
姿を見せず遠くから この電子メールの時代に おそい郵便が届く
気がつくと その手紙さえ見当たらない この状態であと10年生きることが
どうしたらできるだろう
じっと見ていると すこしずつ換わる 時間の風合い
風 波 森

2018年10月1日(月)

水牛だより

忘れかけていた暑さが台風のあとにやってきた10月のスタートです。とはいえ、おなじ30度という数字であらわされる暑さですが、10月の30度は夏の30度とおなじではありません。先週あたりは玄関のドアを開けて外に出ると、金木犀の甘い香りの圧力に体がからめとられるようでした。ゆうべの暴風雨にもめげなかったのか、今朝のまぶしい光のなかでもまだほんのり匂っています。

「水牛のように」を2018年10月1日号に更新しました。
台風の来る前に、台風の最中に、そして台風が過ぎ去ってから、といつものように原稿を書いて送ってくださったみなさん、ありがとうございます。
雨やよし風吹き通せ辺野古から

カラワンのメンバー、モンコン・ウトックが亡くなりました。
9月14日にライヴを終えたあと駐車場で心不全をおこして倒れ、15日の未明に息をひきとったということです。67歳でした。その場に居合わせた森下ヒバリさんが知らせてくれました。
タイではお葬式は何日もかけておこなわれるのですが、カラワンのリーダーだったスラチャイ・ジャンティマトンが喪主をつとめた日もあったようです。そして22日の夕方に火葬式があり、モンコンのスピリットだけがこの世に残されました。
youtubeではカラワンやモンコンの演奏をたくさん聞き見ることができます。モンコンが亡くなったせいなのか、「ピンの歌」など100万回以上も再生されているのを見ると、ひとつの終わりなのかもしれないと思ったり、なにか別の新しいことの始まりでもあるのかと思ったり。彼と最後に会ったのは、3年くらい前にカラワンが来日したときでした。別れるときには、じゃあまたね、この世かあの世でね、と言って笑いあったことを思い出します。

それではまた!(八巻美恵)