手続きと想定外

高橋悠治

7月末に福井桂子の詩による歌曲 8月末に伊藤比呂美の詩による合唱曲を書き終え 9月の作曲予定は 福井桂子の詩で歌曲あと2曲 夏宇の詩句によるピアノ曲『遇見・歧路・迷宮』 イエーツの詩句によるアンサンブルのFaint Lights[あえかな光] ずっと座って楽譜を書いているのは 健康によいとは言えない 速く書くことは どうやればできるのか むかしは構造を決め 方法を決めるのに時間をかけ 書くことはその結果として かなりの速度ですすんでいった いまは構造や構成をあらかじめ考えたりしない ちがうものに出会い それに応じて それまでの予定とはちがうやりかたをためすようにすると どこからでもはじめられても 終わりに近づくと 速度がおそくなってくる ある程度の経験から身についた技術なり手続きを いちいち考えなくても先にすすめるのはよいとして 予測されるような目標にたどりついたのでは 道中の発見の意味がない

音はひとつではなく いくつも集まっては うごいていく線や 現れては消えるかたちをつくる その変化を音符という点で書きとめ 楽譜にする作業も 作曲家ひとりのものではなく 演奏され 音楽として聞こえる場をめざしているかぎり 演奏家や聴衆も含んだ協同作業の一部を担っているはずだ 音は楽器や声が発音するだけのものではなく その場の空気のようなひろがりで 人びとをとりかこみ 響きの余韻で包む

楽譜は過ぎていく時間のなかの絵で 線の束や響きの変化をあらわす見えない網のひろがりを見せる 最近は 記号をすくなくし 長い音を2分音符 短い音 を8分音符 それに音の中断をコンマでしめすだけにして それらの長さが均等にならないように介入するもう一つの線や 響きをあしらってみる アシラヒやツケということばは邦楽で使われる 詩を声にのせるには シラブルごとに音をつけるよりは 一語一音 あるいは一句一音くらいにして 歌うよりは語る 楽器の場合は 思いついたかたちをそのまま反復しないで 二回目にはちがう音をはさんだり 一音省略したり 音程を変える かたちはくずれ そこから別なうごきが現れてくる はじまりは偶然であり それが予想しない曲がりかたで さまよっていき 完結することなく 消えていく こうして ひとつのしごとから 次のしごとにひきつがれ あるいはそこで捨てられるものもある そうやって音楽だけでなく 音楽をする側も 感じかたや考えかたが変わっていかなければ やっていても おもしろくないだろう

2018年8月1日(水)

水牛だより

8月がはじまったばかりだというのに、夏だから暑いというだけではすまされない暑さが続いています。言うまいと思えどきょうの暑さかな。。。

「水牛のように」を2018年8月1日号に更新しました。
初登場の岡田こずえさんは若いカメラマンです。岡田さんが片岡義男『珈琲が呼ぶ』の写真撮影の担当だったことから知り合い、いま編集中の片岡さんの新作電子本のためにも撮影をお願いしています。アメリカ出張の話を聞きながら写真を見せてもらい、おもしろいので、水牛に書いてとお願いしました。ここに載せたのは写真の一部です。そのうちすべてを公開したいと思っています。
時里二郎さんの『多可乃母里(たかのもり)』の連作がスタートしました。

久しぶりに近々のコンサートのお知らせをひとつ。
YxS Crossing第2回「高橋悠治作品とともに」
打楽器:安江佐和子 ピアノ:加藤真一郎
高橋悠治:吹き寄せ、花の世界、打バッハ/クセナキス:プサファ/杉山洋一:Jeux(世界初演)
8月3日19時開演  8月4日14時開演 東京コンサーツラボ
一般:4000円学生:3000円 予約・お問い合わせ 東京コンサーツ 03-3200-9755
詳細はこちら

昨夜見た火星は赤かった。来月の更新のときには涼しくなっているでしょうか。地球よ、だいじょうぶ?

それではまた!(八巻美恵)

8月のジェノサイド

さとうまき

イラクに取材に来た新聞記者が、ネタを探していたので、「8月3日って知ってますか? ヤジディ教徒は歴史上74回の虐殺を受けていて、最後のそれが2014年8月3日だったんですよ」
そもそもヤジディ教徒は、日本ではほとんど知られていなかった。
「8月3日の一面に記事を書いてくださいよ。それって、めちゃかっこいいですよ」とたきつけて、その記者をドホークで避難生活を送る「ナブラスの家」に連れて行った。

2014年8月3日、ISがシンジャールを襲ったとき、銃声を耳にしたナブラス(当時12歳の少女)の一家は慌ててドホークに避難。ナブラスは、7月には、がんだと診断され、ドホークの病院に通うことになっていました。モスルはその時すでにISの支配に置かれていたからです。逃げ遅れたナブラスのおじいさんと息子は、10日間イスラム国の攻撃にさらされましたが自力で脱出したといいます。ナブラスの一族は、建てかけ中の建物を見つけそこで暮らしていました。避難生活と闘病生活が同時に始まったナブラス。

2015年の暮れ、鎌田實先生と一緒にシンジャール山に登り、避難民に支援物資を配り、山を下りると大雨になりました。ぬかるみの中ナブルスの家にたどり着くと彼女はぐったりしていました。先生はレントゲンを見ながら、お父さんを別室に連れていき、ナブルスの死を宣告したのです。「もう長くないから好きなことをさせてあげてください」

数日後も雨の中、安田菜津紀さんを連れていくと、やせ細ったナブルスは、苦しみもがき、そして、疲れ切って、静かに眠りました。安田菜津紀さんは静かにシャッターを切ってくれました。外に出ると、太陽が出ました。奇跡のような光に希望を託しました。空には白い鳩が一斉に飛び立ち巡回していました。数日後彼女は逝きました。
あれから、2年半が過ぎました。灼熱の太陽が降り注ぎ雲一つない青い空。
「ナブラスの家」はまだ建てかけのままでした。ナブラスのおじさんが出てきて、一家が隣に引っ越していったことを教えてくれました。息子が結婚して、家族が増えたので、家を借りることにしたそうです。お父さんは、クルド自治政府軍のペシュメルガで働いていましたが、去年の国民投票の後、シンジャールがイラク中央政府の支配になり、そこでの従軍は無くなりましたが、給料はもらっていて、息子が日雇いの仕事をしているので何とか生活はできているとのことでした。
明るい知らせもあります。

「イスラム国」に連れ去られた姪、当時19歳だった女の子が、昨年の7月13日にモスルが開放されたときに、自力で逃げてきて、ペシュメルガに保護されました。無事に両親のところに届けられました。その女の子は、精神的なケアを受けて、いまでは、そのNGOで働いてます。しかし、男の子はまだ行方不明のままですが。

イスラム国が、去ったあと希望は持てますか? と聞くと、
「状況は変わらないと思います。イスラム教の教えを受けた隣人たちは、いつでもヤジディ教徒を迫害する可能性があるからです」
どうしている時が一番幸せかときたらお母さんは、
「自分たちの生活は苦しいですが、まだましな方だと思っています。楽しいことがあれば、苦しいことを忘れることができますが、またすぐに思い出すのです。何が悲しいかというと、ナブラスのことを思い出しますし、ヤジディ教徒がおわされたこの苦しみをまた思い出してしまうのです」
どういった支援が必要でしょう? と聞くとお父さんは、
「国際社会が、ヤジディに起こったことをジェノサイド(虐殺)だと認めてほしいのです」
息子が結婚して6か月前に赤ちゃんが生まれました。名前をナブラスと付けたそうです。僕たちはナブラスのことを忘れちゃいけないんだと思いました。

8月3日、果たして新聞の一面にナブラスのことが出るのかな?

バブル時代と宗教

冨岡三智

オウム真理教の教祖以下の死刑が執行された。執行された人たちの若かりし頃の写真を見ると、バブル期に流行ったデザインのフレームの眼鏡をかけて笑っている。私も学生時代にあんな形の眼鏡をしていた。レンズが大きくて重かった。いつ頃だったか、私は学生時代の眼鏡のレンズを削って、その当時流行していた小さな楕円形のフレームに入れ直してもらった。その眼鏡のつるが昨年折れて、また新しいフレームに入れ直そうと思ったら、当世風のレンズはもう少し大きく横長になっていて、私のレンズは寸足らずになってしまっていた。そんなに時間が経過していたのに、オウムの人たちの時間はあの大きなレンズの時代で止まってしまっていたのだ。

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大学時代の友人Tは春休み中にある宗教団体に入信した。大坂城公園で友人同士集まってお花見をしたときにその話が出た。すでにTと会った数人がそれぞれ脱会するよう説得したらしいけれど、Tは洗脳されて態度がかたくなになっていると言って泣いた。折しも世はバブルのピークに差し掛かろうとしていた。公園ですれ違ったOLがワンレンの髪をソバージュにして、黄色いボディコンのワンピースを着て腰にチェーンベルトを巻いて闊歩していたことを思い出す。

それからしばらくして大学の食堂でTに会った。Tは久しぶりと言い、私に宗教の話をしてくる。ここで説得するより、ひとまずは彼女を受け止めようと黙って話を聞いていたら、Tは逆に「あなたは私を止めないの? みんな私を説得してきたわよ!」と切れてしまった。こんな時は、本当はどうしたらよかったのだろう…。私の反応は冷静すぎたのだろうか。彼女は止めてほしかったのか、認めてほしかったのか。あるいは説得されると思い身構えていたのに肩透かしを食らったので苛立ったのか。

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大学卒業後に就職した企業では勤務5年目の女性が受ける研修があった。私も受けてから辞めることになるのだが、この研修を受けた先輩から「なんだか洗脳されているように感じる」と聞いていた。今にして思えば、あればバブル期頃からはやり始めた自己啓発セミナーの一種だった。X JapanのToshiで話題になったような過激な手法ではないが、やる気を他者に操作されているような感覚があった。悪い意味での宗教に似ていた気がする。

私の肌感覚では、バブル時代は一種の宗教の時代だった。私がその当時の宗教に影響を受けなかったのは、私自身、葬式仏教で良しとする仏教徒であることに誇りを持っているからかもしれない。そう、根っからの土着派なのだ。ジャワのイスラムやカトリックでは死後1週間、40日、100日、1年、2年、1000日目に法要をするのだが、その先祖崇拝という点については分かるという感覚があるし、そういう私の仏教心はわりとジャワの人に理解してもらっている気がする。上に上げたような宗教では先祖崇拝にベクトルが向かわないようだ。私は特に先祖を敬っている自覚もないけれど、その点が落ち着かない。

しもた屋之噺(199)

杉山洋一

もう今年が半分以上終わったというのを、正直信じたくないという思いです。半年の間にやろうと思っていたこと、会おうと思っていた人、したいと思っていたこと、殆どがやり残してきている気がします。早すぎる日本の夕焼けの訪れを恨めしく眺めながら、今日はあと何を片付けられるのか、必死に知恵を絞ってみているところです。

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7月某日 ミラノ自宅
生徒たちが振るミヨーの演奏会を聴きに出かける。中庭に面した扉を開放していたので、リハーサル中に老若男女構わず、ふらりと入って来ては、半時間とか1時間とか、随分長い時間、ニコニコとミヨーのリハーサルを聴いて立ち去ってゆく。別に邪魔もしないので、客席が随分予定外の訪問客で埋まっていても気にならない。意外だったのは、小学生低学年くらいの子供たちが、別に親に促されたわけでもなく、嬉しそうにいつまでもミヨーの多調音楽に耳を傾けていたこと。
息子が一週間ダブリンに出かけるので、朝空港まで送ってゆくと、リナーテ空港は同じく中学生くらいの子供たちの長蛇の列。

7月某日 ミラノ自宅
息子が通うシュタイナーの整体師から、歯ぎしりで頸の後ろが固く詰まっているからと、デントゾフィー医を訪ねるよう言われる。
調べると確かに下歯が多少陥没していて、噛み合わせが悪くなっている。デントゾフィー医の勧めるままattivatoreというグミ状の歯固めを噛ませると、息子曰く、突然頭の後ろがぱっと開くような快感を感じるらしい。
そこで紹介された痩せた初老の整体師が息子の重心を治すのを眺めていて、これはどんな治療なのかと興味を覚える。マッサージでもなく、尾骶骨と頭を少し触る程度で何をやっているのか判然としないが、確かに施術後、前屈みだった重心が踵で支えられるようになった。
ちょうどこちらも先月から左肩から頸にかけて激痛で動けなくなっていたので、興味半分で彼に診て貰うことにして、日を改めて出かける。
息子も同じように言われたのだが、首から頭へ髄液を送る管が曲がっていて、流れが極端に悪くなっていると言う。本当かな、何だ同じ文句を言われるだけかと少々落胆しつつ、黙って施術を受ける。
時に深呼吸をしてみてと言われる程度で、何をしているのかさっぱり分からない。
暫くして、頭と尾骶骨を軽く触りつつ「畜生め、何だこれは」と独り言を呟くので、吃驚して「何か悪いのですか」と尋ねると、「積年の何かがあるようだ。全く通らない」と困ったように言う。
「どこかにぶつかったりした記憶は」「先ほどお話した通り、小学生の時に交通事故で10メートルくらい飛ばされたらしいですが、何処を打ったかよく分からないのです」「もしかしたら関係あるかも知れないが、どうも解せないんだ。他にはどこか打った覚えはないかね」「特には覚えていませんが」。「顎のあたりをぶつけた記憶は」「子供の頃に転んで顎から血を出しましたが」「それかなあ」。
そこまで話したとき閃くものがあって、幼い頃に母から聞いた話をふと思い出した。
自分は難産の末、吸引のせいで頸が曲がって生まれ、その後、かなりの大手術で首を真直ぐに治したこと、手術痕が頸のどこかに残っているはず、などと彼に説明すると、なるほどと言いながら、丹念に首の周りを調べ始めた。
「どうもここに手術痕らしいものがある。ちょっと触って良いかい」と彼が手を当てると、左肩を引き攣っている筋のずっと先にある、遠く懐かしいじんわり痺れるものに触れ、思わず鳥肌が立つ。子供の頃から常に薄く感じていた正体を、思いがけず目の前に引き出され、動揺とも当惑、安寧ともつかぬ、生まれて初めて感じる不思議な心地。

7月某日 ミラノ自宅
家人からメールが届いて、オリヴァー・ナッセンの訃報を知る。翌日東京のKさんからもメールが届く。
「ナッセンがなくなりましたね。A、Yには連絡したけれど訃報は出ませんでした。寂しいです」。
武満さんの最後の「Music Today」で、ロンドンシンフォニエッタとナッセンによる作曲のワークショップが催されたとき、Kさんの奥さんが通訳をしてくださって、当時英語などまるでわからなかったが、とても優しい口調でナッセンが「キューリアス」と言われたことと、「なんだかこの先が早く聴きたくなってきたよ」とMさんがそれを微笑みながら訳してくださったことを、鮮明に覚えている。
何度かナッセンの曲を演奏したことがあって、思いの外演奏がむつかしかった。音が全部聴こえて書いている作曲家の作品は、流れに任せて音を並べれるという単純な作業では終わらなかった。彼の楽譜を開くと、あの「キューリアス」が聴こえる気がした。

7月某日 三軒茶屋
ミラノから成田への機中、打楽器とピアノのための小品を書く。暫く前に読んだジェラルド・グローマーの「瞽女うた」は、音楽的視点からも社会的見地からも、大いに感銘を受けた。彼女たちのような、現在では社会的弱者と呼ばれる人々を、日本の伝統的社会がどのように扱い、或いは手を差し伸べて来たのか。この本を読む限り、健常者は弱者を助けるためでなく、むしろ民衆がもっと素朴に瞽女の音楽を心待ちにしていた場合も多かったに違いない。
少し時代を遡るし、音楽的性格も違う部分が大いに見受けられるが、聴き手が心待ちにしていた側面から、彼女たちの姿の向こうに、ふとヨーロッパ中世からルネッサンスにかけての吟遊詩人を思い出す。もちろん、宮廷に仕える吟遊詩人は多かったけれども、民衆のために歌う吟遊詩人やハーディガーディを抱えて歌う辻音楽師たちも存在した。
盲目のハーディガーディ弾きを描いた絵画は思いの外多く残っているが、フィンクボーンズ(David Vinckboons)やジョルジュ・デラ・トゥールの有名な作品を思い返しても、瞽女の社会的位置も音楽的価値も、ヨーロッパを放浪する裏ぶれた辻音楽師とは違い、誇り高き吟遊詩人に喩える方がしっくりくる。
打楽器はほぼ原曲の三味線をそのままなぞり、ピアノは榎本ふじの残した「一口松坂」の祝い唄を7回読み返しつつ、最後に原曲にたどり着く。
アリタリアの機長のアナウンス。「当機はこれより成田国際空港に向けて高度を下げて参ります。地上からの連絡によると、天候は曇り、気温は摂氏31度。ああ暑い…本当に暑い…」。
機内のイタリア人乗客たちも、機長と一緒に溜息をついている。

7月某日 三軒茶屋
酷い熱波のなかを自転車を漕いでインタビュー会場へ向かうと、最後の坂を登りきったあたりで、頭が少し朦朧とする。
楽譜を読むのは、本を読むのに似ている。演奏するということは、本の朗読に似て、意味を理解しないまま朗読しても、聴き手に意味が伝わらないのと、楽譜の音符を咀嚼しないまま演奏することも、よく似ている。
では、咀嚼して読んだからと言って、意味が本当にわかっているのか、と改めて問われると言葉に詰まるところも同じ。
読んだばかりの加藤周一の「読書術」から、役立つヒントを沢山教えてもらった。
捉えどころのない難しいものは出来るだけ簡単にして伝える。一件単純なものは、それがいかに豊かな深さを含んでいるかを伝える。
本でも楽譜でも、ともかく自分の言葉でもう一度説明できなければいけないだろう。演奏者も作品を造り上げる上で、重責を担う。
矛盾しているけれど、音楽を理解する必要などない気もする。現代音楽を理解するのは難しい、と言われるけれど、それなら我々はモーツァルトやハイドンやバッハの楽譜を理解できているのか。現代音楽は、作品を取り巻く社会背景、環境は我々の生きている世界であるから、むしろ理解し易い部分もあるかもしれない。
シューベルトを取り巻いていた社会情勢を、資料を通して知ったところで、現代社会のように、実感をもって接することは出来ないだろう。

7月某日 三軒茶屋
猛暑が続く中、玄関を開けると年の頃二十歳を少し過ぎたくらいの、あまり人相の宜しくない若い二人組が訪ねてくる。
湯沸し器の付替え工事を、マンション全体でやるのだが、お宅の確認が取れないと言う。家の者が居ないので分からないと断ると、今度は自称現場監督という25歳前後の、似た感じの男性がやって来た。
「こちらの機種の定価は31万円、それに工事費など入れ、総額35万円程度になります」。
「そうですか。先ほども申し上げたのですが、本当に申し訳ないのですけれど、家の者がおりませんもので、お話のみ承らせていただきます」。
「総額35万円なのですが、それを今回は世田谷区全体で仕事をまとめてやらせてもらっているので、25万円で結構です」。
「なるほど、素晴らしいですね。それではその旨、家の者に申し伝えます」。
「来週の工事になりますので、せめて機材だけでも至急注文したいのですが、口約束でいいのです、ここで決めてもらえませんか。ご主人は、奥さまと相談しないと決められないのですか」。
「すみません。お恥ずかしい限りですが、全くその通りでして。何しろ何も分からないものですから、すみません。名刺かなにか、ご連絡先をいただけますか」。
「仕方ないですね。この携帯電話の番号は今は使われていませんから、今手で書いたこちらの方をお使いください」と言ってから、少し後ろめたそうに、
「多分ですね、インターネットなどで調べていただくと、もっと安い値段で引受けている業者もいると思うんですが、ああいうのは、新品の機材を使わずに古い型落ち機材を使っているんです」。
「おやおや、それはいけませんね。同じ業者で人をだますようなことをされると、さぞお困りでしょうね」。
「そうなんです。あの…ただ、本当に出来るだけ早くに機材を注文しなければならないので、早くご連絡いただけますか」。
「わかりました。出来るだけ早くにいたします」。
「必ず、ご連絡いただけますか」。
「もちろんです。これほどお暑い中、わざわざご足労おかけしてすみませんでした」。
「きっと電話くださいね」。
「はいご心配なく。どうかお気をつけて」。
名刺に書いてある会社名で検索しても何も見つからず、書かれている住所は普通の分譲住宅。管理組合曰く、湯沸し器付替え工事の予定はないそうだ。
もしかして彼らも改心して仕事に打ち込んでいるのかもしれない、こんなに夏の暑い最中にやってきたのだし、それなら多少高くても彼らに頼んだらとも考えたが、残念だった。
こちらも伊達にイタリアに20年以上住んでいるわけではなく、かかる土地では狐と狸の騙し合いは日本の比ではない。
最後まで恨めしそうに電話を催促すると、女々しい上に余計疑われるから罷めた方が良いと助言したいが、却って詐欺を増長するので止しておく。

日がな一日、ブリアート族のシャーマン音楽を採譜している。本條さんの三味線とロシアとポーランドの弦楽合奏団の新曲のためで、シベリアで初演する。「杜甫二首」では陝西省の民謡を、「馬」では四川省のチベット族自治区道孚県の民謡を使った。チベットからモンゴルを越えて地図上でずっと上に辿ってゆくと、この曲を初演するクラスノヤルスクあたりにぶつかる。
民族音楽学者でもないので、聴いた印象でしかないが、ブリアートの民謡はトゥバ、それを越えたモンゴル、チベット、中国、朝鮮、場合によっては日本の民謡に通じるものを感じるが、同じブリアートのシャーマン音楽は、むしろカムチャッカ族のシャーマン音楽に近い気がする。きっとアイヌやイヌイットまで続いてゆくのだろう。国境など関係なく海を渡ってカナダまで音楽は続いてゆく。
ところで、懐かしいロシアの「メロディア」レーベルが出している「トゥバ音楽選集」は、アコーディオン伴奏がロシア的な寂しさを紡ぐが、合唱はモンゴルや中国の歌手にも通じる明るい声調の元気な歌声で、不思議な調和を織りなす。これは「イーゴリ公」などを聴いて、どこか懐かしいと感じる勘所に少し近いかもしれない。ボロディンはタタール人の血を引いているせいなのか、サンクトペテルブルク生れであっても、中央アジアの文化への共感は、他の作家たちが民族的旋律を異国趣味的に使ったのとは、一線を画す気がする。

7月某日 町田実家
6人の死刑執行とのニュース。実家の本棚に、古い小さな楽譜を見つける。
音楽の友社刊 石井真木 9楽器のための前奏と変奏 ヴァイオリンとピアノのための四つのバガテレン
表紙裏に 黒マジックでメッセージ。
杉山洋一君 このヴァイオリンとピアノの曲は、ぼくが作曲をはじめてから、第3曲目にあたる作品で、ぼくはその時25歳でした。
「オーケストラがやってきた」の洋一君の実に立派な演奏を記念して、この譜面を贈ります。がんばって下さい!
石井真木 29 Apr. ’79
自分が10歳の時に贈っていただいたもの。あれからちょうど40年が経って来年は齢五十歳。真木さんのバガテレンの倍の歳。
この世の中で二つ、恐らく真理に近いものを挙げるとすれば、一つは、時間は不可逆的に流れてゆくこと。もう一つは自分が死ぬということ。

7月某日 三軒茶屋自宅
個人的に死刑判決に違和感を覚えるのは、死刑が随分昔から廃止された国に住んでいるからであって、日本に住み続けていたら何も感じなかったかも知れない。社会常識や習慣など、そうした日常における意識の積重ね方次第で、どうにでも変化し得るのかもしれない。
日本の憲法改正が盛んに話題にのぼっていて、普段日本にいることの少ない自分が何も言えないと、黙って動向を見守るしかないなかで、ふとした切欠から溜飲が下がった。
東京オリンピックの開催に併せて、政府が都内の大学生に協力を促す発表をしたところ、学徒動員だと猛反発を買ったと言うではないか。そうであるなら、これが近隣国からの突然の軍事介入であったとしても、日本中の成人男性が我先に日本政府に身を捧げる状況だとは思えない。自衛隊に任せたいがための憲法改正かも知れないが、それでは国民として無責任な気もする。ただ長い目で見て、そちらの方向に我々の意識は流れつつあるかもしれない。

ちょうど10年前に松平頼暁さんが書いていらしたオペラ「挑発者たち」の台本は、頼暁さんご自身で書かれた。未来のどこかの国は、国民は全てよく政府によって悉く管理され、「生産性」を高めるため男女は別に暮らし、性的リビドーさえ極力抑える暮らしが求められる。
そんな日々の中で「革命分子」が周りの仲間を挑発し、新しい世界を求めようとするけれど、時既に遅し、近隣諸国から国境封鎖、軍事介入を受けミサイルが発射されてしまう。頼暁さんがどんな思いを込めて台本を書かれたか、考えるに余りあるものがある。戦争を経験した世代だから言える言葉もきっとある。

7月某日 町田実家
都内某所で父が巨大なムカデを見つけて驚いたとか。この位あったと両手で20センチほど示してくれたが、そんな大きなムカデはいないと笑い飛ばすと、確かにこのくらいだと憤慨している。ミラノの拙宅にもしばしばムカデは出没するが、ずっと小さいし益虫ではなかったかと言うと、そんなことはない、咬まれれば激痛が走ると反論する。どうもこちらが勘違いしている気がして写真で確認すると、果たしてミラノの自宅のはゲジで、毒もなく体長もムカデよりずっと小型だった。
ミラノで暮らし始めて以来、ムカデとヤスデとゲジが混乱すると思っていたが、西洋語で百足(centopiedi)は確かにムカデだが、ミラノの自宅のゲジも百足(centopiedi)と呼び、ヤスデが千足(millepiedi)だった。ギリシャ語を混ぜて千((chilopiedi)と書くと、これはどうもムカデ属全体を表すらしいので、面倒だ。
進化論は詳しくないが、世界中の人類も動物も煎じ詰めていけば、同じ穴の貉になると聞いたことがあるが、百足など眺めながらそう言うと、少し気まずい心地がする。

(7月30日 三軒茶屋にて)

7月最後の月曜日に

若松恵子

7月最後の月曜日に、渋谷のライブハウスで泉谷しげると仲井戸麗市のライブを見た。

会場となったCLUB QUATTROの30周年企画。久し振りの競演だったが、変わらない2人の少年心に打たれた夜だった。

1970年代、渋谷にあったライブハウス「青い森」に古井戸というバンドで出演していた仲井戸麗市と、客として来ていた泉谷しげるが出会う。RCサクセションで出演していた忌野清志郎とともに「またあいつ来ている」と噂していた変な客だった泉谷しげるが、店のオーディションを受け、出演するようになる。初めて泉谷の舞台を見た時の印象を「何かチャーミングだった」と仲井戸は語っていた。世の中には乱暴者のように伝わっている泉谷の印象だが、彼の歌に、彼のほんとの姿を見たのだろう。自分を理解してくれている人、仲井戸麗市との共演に、泉谷しげるも本当にうれしそうだった。

照れずにまた歌えよ。チャボ(仲井戸麗市)が添えるギターはそんな事を言っているようでもあった。今の時代にも古びない、いい詩だなと思いながら泉谷の歌を聞いた。

CLUB QUATTROができた頃は、泉谷しげるWith LOSERで2人はロックしていた。その頃のかっこいいナンバーも、アコースティックギター2本で、2人きりで演奏された。泉谷の呼びかけで、ライブの後半は舞台前に客が押し寄せて盛り上がる事になった。

懐かしくて盛り上がったんじゃない。20代で出会った頃から、今も2人が持ち続けている何かに、触れて感激したのだと思う。

CLUB QUATTROの30周年を祝福する、良い夜だった。

はじめてのアメリカ

岡田こずえ

「来月、サンディエゴに10日間行ける女性カメラマンを探してる人がいるけど、岡田さん行ける?」
4月はじめに知り合いのカメラマンから連絡がきた。同行するのはクライアントとカメラマンの男性二人、私はカメラマンのアシスタントという立場での仕事。アイ キャント スピーク イングリッシュの私がアメリカに行けるなんて! 英語が話せない私がアメリカで仕事ができるのか、そして長時間のフライトも体験したことがない。不安もありつつ、こんなありがたい機会はないのでその場で「行きます!」と返事をした。

アメリカでの10日間は、初日と最終日が移動日。最初の3日間は時差ボケを治すための日、最後の5日間が仕事。という日程だった。

初日
成田空港で、クライアントとカメラマンと合流した。二人ともJALのお得意様なので、ステータスを持った人しか入れないラウンジで搭乗時間まで寛ぐという。私もお二人のご厚意でファーストクラスラウンジに入れてもらった。テロテロの服に大きなリュックを背負った私は確実に浮いていたと自負している。
ファーストクラスラウンジは、とてもゆとりがあった。マッサージ機が置いてあるのに、誰も使っていない。大声で騒いでる人なんていない。靴を磨いてくれるサービスがある。寿司職人がカウンターで寿司を握っている。このお寿司がとても美味しく、3回おかわりした。

そして長時間のフライト。クライアントはファーストクラス。私とメインカメラマンは当たり前だがエコノミー。11時間も座りっぱなしなんて発狂したくなったらどうしよう…耐えらるか…
耐えられた。出された機内食をきっちり食べ、映画を見て、少し寝て、また起きてぼーっと映画を見る。到着した時には「もう着いてしまったのかぁ」と、少し寂しささえ感じるほどだった。

サンディエゴの空港での私にとって最大の難関、入国審査。この練習は場面別の英会話練習ができるケータイアプリをダウンロードして、何度もシュミレーションしてきた。私が呼ばれたのは太った黒人男性のカウンター。何を聞かれたかはよくわからなかった。聞き取れなかった。でも「How Long」そこだけはわかったので、「8デイズ」と答え、あとはニコニコして何とか乗り切った。

空港のロビーでクライアント、カメラマンと合流し、レンタカーを借りて宿に向けて出発。ここからは英語の話せる二人と一緒なので安心だ。サンディエゴの空気は乾燥していて、快適だった。空の色も日本より濃い気がする。

サンデイエゴの道を走っていて驚いたのは、とにかく道が広い。車線が何本もある! そして映画で見たことのある黄色いスクールバス! あちこちにあるアメリカ国旗! 仕事で来ているので、声には出さなかったが気持ちは高揚していた。

宿はホテルではなく、airB&Bの高級マンションの1室を3人で使った。3ベッドルームに広いキッチンとリビング、マンションの43階だった。海外に行き慣れているクライアントが「ホテルだと毎回外食になるし、疲れがとれない。ここなら自炊も洗濯もできるし、自分の家のように帰って来た気持ちになれる。」
たしかにその通りで、海外でありがちな食べ疲れもなく、体調を崩すこともなかった(ただ、生牡蠣を食べに行った日はクライアントだけお腹を下していたが)。
ここから8日間、私たちは朝起きてから夜に自分のベッドルームに引き返すまでずっと一緒に行動することになる。 …息苦しくなるかもしれない…この2人を家族だと思い込むしかない…そう心に決めた。

荷物を部屋においたら、まずは当面の食料の買い出し。憧れていた海外のスーパーマーケット! カラフルな野菜がギッシリと並べられている。そして牛乳のボトルの大きさ! バケツのようなアイス! その場で絞り出すピーナツバター! カラフルすぎるグミ!
映画で見てきた世界に気持ちが高ぶる。今回のアメリカで一番楽しかったのはスーパーマーケットだったかもしれない。

マンションでの料理はメインカメラマンが担当、私は洗い物と洗濯係。仕事の時もおにぎりを握っていくというので、カメラマンが3キロのお米をスーツケースに入れて日本から持って来ていた。サンディエゴ1日目は買い出し、荷物の整理をして終わった。

2日目
アナハイムまで大谷翔平選手を観に行った。17時の開場前から観客たちがゲートの前に並ぶ。まだ16時半だというのに大勢の観客がいるのを見て、クライアントが「この人たちは仕事していないのか?」と、ボソっと言った。エンゼルスでも大谷翔平人気は高く、日本人の私たちとすれ違う時に「OOTANI! OOTANI!」とハイタッチをしてくれる人が何人もいた。
試合は19時からだったので、17時に入った私たちは大谷選手の練習を見ることができた。私の隣で練習を見ていたハーフの(後ろに日本人のお父さんが立っていたのでアメリカ人とのハーフだと思う)女の子は、「大谷ー! 大谷ー! サインちょうだい!」と大絶叫。顔を見ると目に涙を浮かべていた。日本語で「大谷選手に恋してるんですね?」と聞くと、「恋です!」と返ってきた。その時はサインをもらえなかったが、あの子がいつかサインでも握手でもしてもらたらなぁと思う。
試合開始になると、平日なのに観客席はほぼ満席だった。私たちの席は1階の1番後ろの席。せっかくなら大谷選手の写真を一番前まで行って撮りたいが、そのブロックに行くにはガードマンがチケットをチェックしているため勇気が出ない。しかし大谷選手の打順前にガードマンがいなくなった。その隙に一番前のブロックに降りて行き、一応遠慮して3列目の階段でシャッターを切っていた。ところが見回りに来たガードマンに見つかってしまい「怒られる…ここはアイ キャント スピーク イングリッシュでごまかそう…!」と頭をフル回転させていたのだが、ガードマンは「大谷だろ? 一番前で撮れよ」と言ってくれた(いや、英語がわからないので本当のことはわからないが、そう言ってくれたと信じている)。その言葉に甘えて一番前まで行くと、今度は一番前の席に座っている地元のおじさんが、「ここの席に座って撮れば?(これも私の勝手な解釈かもしれない)」と、席を譲ってくれようとまでしてくれた。
大谷選手のおかげで、みな日本人にとても優しかった。エンゼルスは負けてしまったが、大谷選手が最後の打席でホームランを打った。ホームランを観れたことも嬉しかったが、それ以上に地元の人の優しさがとても嬉しかった。

3日目
私が行きたかったラホヤのビーチに連れて行ってもらった。野生のアザラシを間近で見られる海岸だ。アザラシは想像以上にたくさんいて、普段なら触れるくらいまで近付けられるそう。この時は波が高くて近づけなかったが、いつかアザラシを撫でてみたい。

その帰りに寄ったmeat shopで衝撃を受けた。同じパンが長いショーケースの前にズラッと大量に並べられている。このパンは賞味期限内にさばけるのか…?
この写真を日本に帰ってきてから片岡義男先生に写真を見せた。片岡先生いわく「賞味期限なんて気にしてないね。もしかしたら創業当時からずっとあるかもしれない」と、恐ろしいことをおっしゃっていた。

4日目から8日目
いよいよ仕事。
朝6時に起き、まず昼食用のおにぎりのために鍋でお米を炊く。朝ごはんを食べ、身支度をし、おにぎりを握って出発。マンションから仕事場まではシェアサイクルを利用した。日本のシェアサイクルのように決まった場所に自転車が集められているわけではなく、あちこちに乗り捨てられている。うまくいけばマンションを出て3台一度に見つかるが、そうでない時の方が多い。仕事場に徒歩で向かいつつ、一台ずつ確保していく。スーツ姿の大人3人が一列になって黄色い小型自転車で走る姿は滑稽だったと思う。
仕事の内容は難しいものではなく、私のネックは英語が話せないこと。しかし皆さんとてもやさしく「This…How…」を駆使して必死で喋る私の英語に一生懸命耳を傾けてくれ、私のレベルに合わせて答えてくれた。私が話しかけたアメリカ人全員がやさしかった。嫌な顔なんてされなかった。

私たちは初日から最終日までずっと一緒に行動していた。私が写真を撮りたくて、「一人で街を散歩してこようと思います。」と言っても「外に出るの? そしたら俺たちも行くよ」と。
海外に慣れていない私を心配してくれてのことだが、本当に自由時間がなかった。だから写真も走る車の中から撮ったもの、マンションのバルコニーから見える景色、たまの外食の際に撮ったもの。これしかない。

しかし心配していた「息苦しさ」は感じなかった。共同生活も終盤になると、夜は3人で大きなソファーに座り、TVの野球中継やミスコンを見てくつろいだ。そんなに仲良くなったのに、日本に帰ってきてからは一度も連絡を取っていない。でもまた会えばあの時の連体感にすぐ戻れるような気がする。8月末も同じメンバーでドイツへ出張に行く予定だったが、ドイツの話は無くなったと今朝連絡がきた。残念。

最終日
帰りの空港で、一人床で寝ている男性を見た。倒れているのではない。ヘッドフォンをし、スマートフォンを空港のコンセントで勝手に充電し、完全に寝る体勢をとっているのだ。私が珍しがって写真を撮っているのを逆に周りの人が珍しそうに見ていた。アメリカではよくある光景なのかもしれない。人の目を気にしないその姿勢、私も見習いたいと思った。

私が初めてのアメリカで知ったことは、アメリカは英語が話せなくても親切にしてくれる。アメリカの肥満は日本の肥満の比じゃない。そして日本のご飯がいかに美味しいかということ。野菜も果物も、日本の方が味が濃い。料理の味付けも深みがある(それを当たり前だと思っていた)。お菓子もケーキもどれを買っても失敗しない。日本の食事の素晴らしさに気付き、日本に帰ってきて1週間で2キロも太ってしまった。片岡先生にこのことを伝えると笑ってくださったので、太ったこともまぁ良しとする。

165仔鹿

藤井貞和

わかくさの 掛けぶとんに
すや すや あかちゃん

月の光も はつかねずみも眠る
なつくさの 跳ねぶとん

夜空のべっどのうえに
それでも眠る すや すや

かれくさの 敷きぶとん
野のかぎあなを あけて

生駒連山のあなたへ まだ
まだ足りない眠りです お寝み

(いつまでも寝ていたい君へ。起きて。旧作。)

仙台ネイティブのつぶやき(36)勉強好きの系譜

西大立目祥子

見上げるように高い白漆喰の土蔵。堂々として重厚な黒壁の店蔵…。目を見張るような土蔵があちこちに残っているのに驚きながら、初めて福島市飯野町を歩いたのは2010年のことだった。

「地元学」という活動のサポートのためだ。「地元学」は地域活動の手法の一つで、30年ほど前に仙台と熊本で始まった。地元住民とよそ者がいっしょに歩いて、風景をあらためて見つめ直し足元に眠る資源を再発見していく。毎日見慣れているものも、外からの目で別の視点で見直せば、光を帯びてくるというわけだ。

飯野町は福島市の北東端に位置する地区で、2018年に福島市に合併するまでは単独の小さな自治体だった。その中心に不釣り合いなほど充実した町場が形成されていて、時代はくわしくわからないが近代以降に建てられた造り酒屋や味噌醸造屋などの豪壮な土蔵が残っている。また、明治末に建てられ芝居小屋や映画館として使われた建物が、緞帳も映写機もそのままに静かな時間を刻んでいる。

そして、2、3の神社には実に立派な石鳥居が築かれ、それらは江戸時代に信州高遠藩の石工たちが出稼ぎにきて、地元の石工たちを指導しながら建てたものであるというのだった。ちなみに阿武隈山地は花崗岩の産地で、山間にはときどきごろりと巨石が横たわり信仰の対象になっていたりする。

確かにここには明らかに、とてつもなく豊かな時代があったのだ。数々の遺構はそうはっきりと物語っている。その豊かさは、絹が生み出したものだ。江戸時代から阿武隈山地一帯は養蚕が盛んな土地柄で、明治期になると絹は輸出品の花形となり、農家は春から晩秋まで養蚕に精を出した。蚕には様を付けて「おかいこさま」とよび、家の中はお蚕様にのっとられるほどであった、と年配の人々はいう。

ほとんどまだ誰にも知られていない資源群。私はすごいすごい、おもしろいとつぶやきながら土蔵や鳥居や、境内の狛犬の写真を撮って歩いたのだったが、地元の人たちにはいまいち伝わらないようだった。

そうこうするうち東日本大震災が起きた。町内の道路の法面は崩れ落ち、巨石は大崩落し、何より原発事故は外を歩くことさえ困難にした。除染作業が始まり、農地は放射能の軽減のために天地替えやゼオライト散布が行われた。地元学の活動を続けるような余裕などなくなり、活動は中断したのだった。

1年後、除染作業が続く中で活動は再開したのだけれど、もう私は地域を捉え直すための地元学活動をどう考え、何をどうしたらいいのか正直わからなくなっていた。せめて、この大災害と未曾有の事故の現実を写真に残そうと参加した人たちに伝え、それまで撮影した写真に文章をつけてもらい、1冊の冊子を編んで納品し、その後飯野町を訪ねることはなかった。脳裏には町の風景が生き生きと刻まれてはいたのだけれど。

今年5月、携帯が鳴ってなつかしい声が響いた。斎藤憲子さん。飯野町の地元学活動で人一倍がんばってたくさんの文章を書き、子どもたちを引き連れて町内を歩いてくれた人だ。「冊子は上がったのに話ができなかったし、みんな歳をとってきて活動は停滞気味。あらためて冊子を読み直すところからやってみようかと思って」と話す。7月中旬、6年ぶりに飯野町を訪ね、活動に参加してくれた人たちと再会を果たした。

亡くなった人もいたが、みんな元気だった。
それにしても勉強好きの面々でなのである。斎藤さんは子どもたちに飯野町の民話を伝え伝統遊びを教え、毎年春の吊るし雛まつりにかかわり、観光ガイドの会も主宰している。町内の巨石群を調べ歩いた人がいるかと思えば、自宅の畑から安土桃山時代に輸入され貨幣が発掘されたと話しかけてくる人もいる。そして首都圏から移住してきた人は、これからの飯野について真剣な議論をしたがっている。

そのようすを見ていて、この町は江戸時代から文化的活動が活発だったことに思いあたった。『飯野町史』によると、18世紀の終わり頃から村々には、書、絵画、
俳諧、和歌、狂歌、お茶、挿花、将棋などのサロンが生まれ、合評会を行ったり、別のサロンと交流したり、と熱心な学びの活動を展開している。江戸に出かけて学んだり、他地域の名人と交流したりもあったろう。そしてその主役には武士層だけではなく農民もいた。和算も盛んで、中には100名を越える弟子をとるものもいたという。

これもまた経済的余裕が生んだ生活のゆとりといえるものかもしれない。おそらく養蚕がもたらした余裕なのだろう。晴れた日は田畑で働き、雨の日は俳諧に興じる。そんな生活があり、それは見えないかたちで脈々と受け継がれてきているのだと思える。勉強好きが、学びの意識が、そう簡単に生まれるわけがない。

いまは使われなくなった土蔵を残し苦労しつつ維持しているのも、精神的ゆとりのなせる技だろう。これが例えば仙台のような都市なら、役目を終えたものはさっさと解体されて新しい建物が建つに違いない。でも時間を刻んできた建物が目の前にあることは、住む人に知らず知らずのうちに歴史を伝え、静かな誇りを授ける。あらためて、再会した人たちに声を大にしてそう伝えた。
こういう町は、きっとしぶとい。

新しい世界

笠井瑞丈

言葉を飲み込み
噛み砕く
そこから
生まれてくる形





眼球

思考

踊る

空を覆うカラス

笑う青年
泣く少女
叫ぶ老人

四人の僧侶
病気の少年
狂った老人

音楽と踊
踊と音楽

遠くから聞こえるバイオリン

二十代前半目黒通う
アスベスト館

初めての舞踏経験

ヤミの先を歩く
時間の上を歩く

稽古場の床
煙草の匂い

まったく理解できない
まだ見ぬ世界がそこに

あれから20年

少しは何かが変わった気がする

少しは何かが変わった気がする

だけ
かも

迷いを捨てて

走って打つかって
粉々になるまで

そこから新しい世界へ

真夏のひととき

璃葉

自宅だとまったく仕事に集中できない日がある。そんな話を何気なく仕事仲間兼友人にメールしたら、「だったら、うちで仕事してみる?」と誘われる。
その日は人を殺しそうな暑さも少し和らぎ、涼しい風が吹いていた。電車で1時間もかからない場所に住んでいる友人のことばに甘えて、ノートパソコン、筆記用具、原稿などの仕事道具を一式持って出かける。

友人−−−彼女とは数年前、仕事先で出会った。一緒に本をつくる作業をするうちに打ち解けていき、何時しかとても信頼できる、数少ない友人になっていた。
お酒を呑むことが大好き(重要)で、どんなに遅い時間に仕事が終わっても、かならずお酒を美味しく呑んでから眠る。たまにソファでそのまま眠りこけてしまうことも多いらしいから、少し心配ではあるけれど。

校正という仕事を、彼女は非常に真面目に、細やかにする。赤い文字をすらすらと、きっちり原稿にのせていく。紙を扱う作業を毎日しているひとは、紙の扱いがとてもうまい。紙の束が手に吸い付いついているような、めくる動作ひとつさえも綺麗で、少し変態めいているかもしれないが、わたしはこの日、それを見たくて彼女の家に足を運んだのかもしれない。

大きめの木のテーブルで、各自作業をする。たまに一息ついて、仕事を絡めた近況をポツポツと話し、そのうちお互い作業に集中して自然と無言になり、あっという間に時間が流れていく。

日が暮れていくにつれて、部屋がじわじわ薄暗くなる。窓から見える空は広い。住宅街の屋根、公園の木々と、電線。遠くに走る電車がまるでおもちゃのよう。二人で窓から顔をだして、薄ピンクに染まる空と、南東から昇ってきた月をしばし眺める。今日は空気が綺麗だから月がよく見えるね、火星、近くなってきてるね、とか言いながら。
小さな白熱灯をつけて、さて、そろそろ麦酒で乾杯でもするか、ということになり、散らばった紙を片付ける。もはやこの麦酒のためにこの会を開いたということは、言うまでもない。

別腸日記(18)橋の下の水(中編)

新井卓

京浜急行線を黄金町で降り、大岡川を渡って左へ──風俗店「ピンクライオン」のY字路の右手に、「黄金劇場」があった。東日本大震災から一、二年経ったころ、突然警察が踏み込み経営者と客の何人かを検挙して去って行った。「公然わいせつ」の咎ということだった。長年の経営難、そして建屋の老朽化を、常連客の大工などが廃材でつぎはぎして凌いできたというストリップ劇場は、こうして、およそ四十年の歴史にあっさりと幕を下ろしたのである。

二〇〇八年、黄金町の芸術祭に参加が決まってから、はじめて「黄金劇場」を訪れた。日本のストリップに馴染みがなかったから、友だちの売れないミュージシャンを誘って、つきあってもらうことにした。昼下がり、日ノ出町駅で待ち合わせて、明るいうちから開いている居酒屋に座り、ほろ酔い加減になってから川縁を歩き始めた。
薄暗い入り口をくぐり、モギリの初老の男性に入場券を求める。「お兄さんたち初めてだろ? ビールはサービス。少し後ろが初心者向きだよ、さ、どうぞ入って」と、愛想よく劇場に通された。中は思いの外広く、客の多くは仕事を早く上がった(か、あるいは勤怠中の)勤め人という風情で、女性客もちらほらと見受けられた。早い時間の回だったせいか客は五割くらいといったところだったが、佇まいから察するに、こなれた客ばかりのようだった。

ほどなくして、それらしいムード歌謡が流れ、照明が落ちショーが始まった。年増から年若いダンサーへ、番組はそのように進行するらしかった。一番手の女は表情やポーズを変えながら踊り、客席に繰り出しては常連たちに腕を回して、なにやら談笑するのだった。ここまで来たらどんな顔をしたものか、と少し焦ったがそこはベテランの余裕で、新参者のわたしたちには大仰な一瞥だけを送って、舞台へ戻っていった。

毎回ダンスが終わると照明が明るくなり、有料の「ポラロイド・ショー」が行われる決まりになっていた。希望する観客が舞台に上がり、インスタント・カメラで裸の踊り子たちを撮影する。写真はあとで踊り子がサインを入れて、帰り際に客に手渡す、という段取りだ。隣の客が、これが、給料の少ない踊り子たちの大切な現金収入だという。それを知ってのことなのだろう、初老の男たちが代わる代わる、舞台に上がっては、踊り子と軽妙な会話を進めながら、シャッターを切っていく。観る者が、ふと、観られる者になっていた。

淡々とした場の空気には、淫靡さや性的興奮よりもむしろ、触れれば壊れてしまいそうな、弱々しい、いたわりに似た何かが、確かに混じっていた。ダンスのクライマックスで投げられる紙テープや種々のかけ声、それらは時間の蓄積によって形づくられた、固有の様式といってよかった。
しんがりの年若い踊り子は、もうすぐ臨月で来月からは舞台に上がりません、と客席に向かって挨拶した。唐突に「こんにちは赤ちゃん」が流れ、彼女は、露わになった大きなお腹を揺らし、綿を詰めた人形を抱いて踊った。

夕方の部は、こうして幕引きとなった。消化しきれない何かを腹のあたりに感じながら、しばらくの間、わたしたちは無口だった。そのまま帰る気がしなかったから、日ノ出町に戻って「第一亭」に腰を落ち着けた。この中華店の隠れた名品は「パタン」という油そばで、無闇にうまいが、一皿平らげてしまうと翌日まで、ニンニクの残り香と胃のあたりから来る胸苦しさを我慢しなくてはならない。弾力のある麺をカラメル色の紹興酒で流し込みながら、黄金劇場の人々を撮って芸術祭で発表しよう、わたしはそう心に決めていた。

深夜便

仲宗根浩

七月に入り、沖縄は十日おきに本島、先島、本島と交互に台風が来ると思ったら、台風になりそこなった低気圧。台風ごとにだんだんと暑くなってくる、と思ったら北海道と沖縄以外のほとんどがもっと暑くなっている。でもこっちは最低気温27度以下になることは無い。その後にえげつない曲がり方をした台風が災害地を通る。

七月四日、静かな日。その翌日も静かだった。合衆国は連休にしたのだろうか。空は何も飛ばない。

ある日、お願いメールが来る。添付されたテキストは歴代の沢井忠夫、沢井一恵両先生の歴代内弟子リスト。リストは2010年まで。送り主は七代目の内弟子栗林秀明氏こと栗さん。この後の情報収集を頼まれた。わたしに箏の手ほどきしてくれた方であり、大学でも先輩、いいっすよ、と軽く引き受ける。最初にテキストファイルを表計算ソフトに取り込んで少し体裁を整える。そのファイルを添付し返送。お互い拡張子が同じフリーウェアのソフトを使っていることがわかり、こちらが収集したものを情報を逐一送り、リストはどんどんヴァージョンアップしver.3.3で一旦作業終了。八月一日にいま海外にいる歴代内弟子さん含め集まる、という会があるのでそれを経て不明なところ、修正しなくてはいけないところを整理することになった。

それもこれも、最初8.1集会の話は昨年シドニーから誘いの話があったが、その頃は所定休以外の曜日に休みなど取れない状況でお断りしていたのだが、ここ数ヶ月微妙に休みが動かせる労働環境が整ったため流れで参加することになり、であれば最新版を、となったため。

参加するとなれば八月の沖縄便は高い! 羽田に行くのはそうでもないが、帰りの沖縄に行く便が安くない。なれば羽田に行く便の最安値を探すと8,690円というものがある。空席あり。那覇発午前は3時35分、羽田着は5時55分。夏場だけ運航している深夜便。即予約し購入。往復26,180円というシーズン真っ只中で中々の値段に抑えられた。

仕事を終え豪雨の中、23時過ぎに帰宅したあとシャワー。身支度をし深夜、車で那覇空港へと向かう。

朝日ジャーナル★36

北村周一

シラス漁のはじまりし伯父の家熱し
 声から先に茹(う)で上がりつつ
校庭の大空たかく放られて
 上履きひとつ逃げ去るごとし
古タイヤ燃やすけむりの上に月
 案山子のごとき農婦うごかす
一発でみんな失格になればいい
 ひだり周りに走る白線
入隊後2、3㎝は伸びるらし
 朝鮮人民軍兵士の背丈は
キャタピラーは毛だらけの猫灰だらけ
 毛虫のような人柄をいう
月の海海の月かもサンタ舞い
 セロトニンにはカラオケが効く
「アカイ、アカイ、アサヒ・・・」の上にひかり射し
 目映かりけり朝日ジャーナル
花冷えの京の町屋の人模様
 ツケで飲みだす画商は長閑
ユスラウメに薄ら笑いのひびきあり
 公的年金受給の年に
最終の下り電車は遅れがち
 ホームの客はみな西を向く
本キャベツ紫キャベツ花キャベツ
 芽キャベツ芽花キャベツ同根
時計屋と通じ合うごと小鳥屋は
 眼力のみに占う未来
堕ちろという声に振り向く闇の中
 ダムの水路の八重桜夢
カンヴァスの絵の具の奥の月明り
 秋の星座を結ぶ筆先
啼く蝉の声を恃みに教会へ
 ひとりわかれて告解へ行く
虫下し飲み飲みひとはそのむかし
 花粉症とは無縁の日々を
寒すぎて暖かすぎて早すぎて
 それでもたいへんよく咲きました。

*懲りずに、連句にふたたび挑戦。といっても、相変わらずの連句擬き。いわば擬密句三十六歌仙夏篇。

併走する窓

植松眞人

 そこに写っていたのは確かに自分だったと思う。
 深夜に高速道路を走る長距離バスに乗って、梨木正治は窓の外を見ていた。
 高速道路の高架のつなぎ目が、心地の良い振動となって伝わってくる。時折、外灯が密集したエリアがあり、煌々とした光に高速バスの窓が、唐突に浮き上がってくる。
 梨木は前日の仕事がなかなか終わらず、いったん家に帰って着替えてから出ようという計画も無駄になり、スーツ姿のまま深夜十一時過ぎに発車するバスに乗り込んだのだった。新宿は平日の深夜だというのに人がいっぱいで、JRの駅前も人でごった返していた。そんな人混みをぬってバスに乗り込むと、不思議と梨木が乗ったバスだけが乗客が少なく、梨木の隣も空席のままだった。
 スーツの上着も脱がず、ネクタイを緩めないまま、梨木は窓ガラスに頭を付けて眠ってしまい、気がつくとバスは高速道路を走っていた。せめてネクタイだけでも緩めようとしたのだが、疲れ切っていたのか、身体がうまく動かせず、そのまま心地よい振動に身をゆだねた。
 時折バスを包む外灯の光に目を細めていた時だった。梨木の乗ったバスの真横を、同じようなバスが併走していることに気付いたのだ。うとうととしながら、それに気付いた梨木は、ぼんやりと隣を走るバスに目をやっていたのだが、次第にそのバスが奇妙に思えてきたのだった。
 まず、高速道路をバスが同じ速さで併走することが不思議だった。どちらかが追い越していくならわかるが、ほぼ同じ速さで走り続けることなどあるだろうか。そして、この二台のバスが同じように揺れているのだった。その証拠に、梨木が窓に額をつけてぼんやりいと眺めているとき、隣を併走するバスがまったく揺れているように見えないのだった。同じタイミングで揺れているのだ、と梨木は思った。この二台のバスはまるで鏡に映っているかのように、同じ速度で同じように揺れて隣を走っているのだった。

 昨日、梨木は二十年勤めた会社を辞めた。大学を出てすぐに勤め始めた会社だが、営業という仕事は梨木には向いてはいなかった。人と話し信頼を勝ち得て商品を売るという、いたってわかりやすいオーソドックスな仕事だったが、向いてはいなかった。ひとつ商談をまとめる度に彼は何かを失う気がしたし、その対価である収入もそれ相応には思えなかったのである。
 勤め始めた頃には、歩合給ではないということが梨木の心を安定させていた。毎月、いくつの商品を売ったのか。どれほどの会社の信頼を勝ち得たのか。そんなことをひとつひとつ気にすることがとても不自由な生活のように思われたのだった。
 しかし、それは最初の数ヶ月の話だった。やがて、一定の収入を得るために、大事な時間を売り渡しているような気がして、通勤電車の窓ガラスに映る自分の顔を見ることができなくなった。それでも、梨木が仕事を続けることができたのは、幸か不幸か致命的なミスをすることもなく、決定的なトラブルを被ることもなく、淡々と社会人としての人生を送ることが出来たからだ。梨木の社会人としての人生はいわゆる平々凡々なものであった。若手と言われた頃から、中堅と呼ばれるまでキャリアを積み、いよいよ管理職へと歩みを進めるあたりで、梨木は立ち止まってしまったのだった。
 梨木は妻の芙美子と大学時代に知り合ったのだが、彼が就職を決めた時、彼女はこう言ったのだった。
「ねえ、あなたが思うほど、あなたは営業に向いていなくはないと思うの。でも、心配なのは管理職になってからよね」
 喫茶店のウエイターくらいしかやったことがなかった梨木には、芙美子の言っていることがあまりよくわかってはいなかった。しかし、四十代に入り、部下を持たされ、自分も管理職になると、その意味を思い知らされるようになったのである。
 自分には管理能力がない。部下を二人持たされた一ヵ月後にはそう思わざるを得なかった。
 梨木の下に配属された若い男女二名の新入社員は最初の一週間、とても熱心に梨木の話に耳を傾けていたのだが、二週間後には梨木の話を聞くよりも、新人二人で話すことが多くなり、三週間後には互いの目と目だけを見ることが多くなった。四週間後、梨木は上司に呼び出された。そして、高い求人募集広告費を使って採用した新人二人が入社後わずか数週間で恋愛関係に陥り、しかも揃って会社を辞めたいと言っているということを伝えられた。これは梨木の監督不行き届きであり、管理者としての能力のなさを露呈したものだと叱責したのである。
 以降、何人かの新人が梨木の下に配属されたのだが、いつも別の管理職とのダブルマネジメントという状況だった。つまり、梨木は管理職としての能力を疑われ、試されながら約一年を過ごすことになったのである。そして、その結果が芳しくないものであることは、梨木自身が一番よく知っていた。日に日に覇気がなくなっていく夫を見て、芙美子は何度か言葉をかけたがその度に大丈夫だと梨木は答えた。
 梨木は本当に大丈夫だと思っていたのだ。自分はこの仕事を深追いすることはない。向いていないならきっぱりと辞めようと考えていた。無理をしてもろくなことはないとわかっていたからだ。ただ、辞めざるを得ないと感じ始めてから、別の心配が心を浸食し始めた。
 収入だった。梨木のバランスが崩れたのは金の心配をした瞬間だった。入社から二十年。そつなく仕事をこなしていた梨木の収入は悪くなかった。いや、同年代の友人たちに比べると梨木の収入は比較的多く、妻の芙美子と裕福な暮らしを送ることができたし、高校生になる娘もなに不自由なく育てることができたのである。
 仕事にも出世にも欲というものがなかった梨木だが、それは彼が生まれてこの方、金銭に不自由することなく暮らしてきたからだった。普通に仕事をしていれば、普通に暮らせる。その事実が、管理能力がなかったら辞めればいい、という楽観的な気持ちにさせていたのである。
 しかし、実際に仕事を辞めなければならない、という状況が差し迫ってくると、梨木は目の前がくらくらするような恐怖を感じるのだった。そして、いまの暮らしを可能にしている仕事が出来なくなるという事態は避けなくてはならない、と強く思うようになった。そして、そのためには管理能力を強化しなければならないし、それに加えて、上司に対しては「できない」という言葉を発してはならないと強迫観念のように思うのだった。
「ねえ、会社でなにかあったの」
 そう芙美子が聞いたのは半年前の夏の夜だった。
「なにもないよ」
 梨木が答えると、芙美子はこれまでに見たことがないほどの悲しい目をして梨木を見つめるのだった。
「お金のことを最初に考えるようになったのね」
 芙美子はそう言って、梨木と目を合わせることがなくなった。その一言が梨木の思考に強く影響を与えた。確かにそうだった。上司から何かを言われても、それができるかどうかよりも、その仕事をすることで収入がなくなることはないのだ、と考えるようになってしまっていた。
 お金のことを最初に考えるようになったのね、と芙美子に言われた瞬間から、梨木は金銭のことをより明確に、一番に考えるようになった。実際にはずいぶん前からそうなってしまっていたのかもしれない。
 もしかしたら、と梨木は考えた。お金のことを最初に考えている、という指摘を芙美子にされなければ、知らぬ間にお金のことを考えない日々が戻ってきたかもしれないのに、と。しかし、はっきりとそう言われてしまったら、もうどうしようもない。あの日、芙美子が言葉にしてしまったことで、梨木の思考は「お金のことを最初に考える」という形に限定されてしまったのだ。
 金のことを最初に考える、ということは損得を最初に考えるということだった。最初に損得を考えるということは道徳を後回しにするということだった。
「ああ、私は人後に劣る人間になってしまった」
 梨木は自らを嘆いた。

 深夜バスは高速道路を走り、梨木を故郷へと運んでいた。もうすぐ正月も終わる。とにかく、墓参りに行き、菩提寺に参詣し、身を清めようと梨木は思った。
 いま、併走するバスの窓に映る、自分そっくりな男はどちらの自分なのかと梨木は考えた。
 これまで何不自由なく生きてきた、金のことを最初に考えるような人間ではない自分自身なのか。それとも、金のことを最初に考える人後に落ちてしまった自分自身なのか。そんなことをうとうとした頭で考えているうちに併走していた深夜バスをさっきよりも間近にあり、窓に映った梨木そっくりな顔はとても大きくなっていて、その表情は軽蔑してもしきれないほど卑下たものだった。(了)

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

  1

わたくしは この子の人形
この子に庇護されているゆえに
この子を庇護せねばならぬ
声の無いこの子が ただひと口
わたくしの口の端(は)に語らせる
 takanomori
それも 唇(くち)を動かさずに
わたくしの口に言わせる傀儡(くぐつ)のわざを
どこでさらったのか

 takanomori
これがわたくしの名なのか
この子にそう呼ばれているように聞こえるが
兄だか弟だかわからぬ男の子が
この子に呼びかけるのも
 takanomori
この子の名ではないにしても
この子の呼び名か

takanomori
この子は そのひと口しか
ことばをこぼさないのだから
男の子も
takanomori
そうかえすしかないのだが

  2

この子に母がいないわけを
わたくしは知らない
父はいるが いつもにぎやかな団欒に紛れるように
この子がいるのだかいないのだかわからぬようすで
この子とふたりでいるところを
わたくしは 見たことが無い

この子の家族は父とこの子と男の子の三人だが
家には親密で思いやりの深い親戚や父のなかまが出入りしていて
いつも明るくて 
ことばがあふれている

それなのに
この子の世話を任されているのは
わたくしと
この子の兄だか弟だかわからぬ男の子だけ

タカノモリ 
男の子が呼びかけると
takanomori
この子が言わせて わたくしが
応じる

プロセスから構造へ その逆でなく

高橋悠治

詩に作曲するとき 斜め読みで目に止まったことばから 音のうごきを思いつく 詩のことばはまず響きで 意味やイメージがその響きの表面から透けて見えることもあるが 詩は響きのリズムですすむ 詩の一行が 縄文字の細縄のように 太縄から短冊のように下がっているとすると 波打つ細い縄には 太縄に結んだ最初の結び目から ことばの節ごとにいくつかの結び目が見える

ことばの細縄に 音の縄文字が向かい合って その細縄の結び目から別な細縄が枝分かれして 音の網を編んでいく 一つ一つの音があって そこから網ができるのではなく 結び目から伸びる細い線が 蜘蛛の糸のように翻り 次の結び目を作る 結び目から網ができていくとき 音は線の通り道で 踊るように 舞うように 跡を残して過ぎていくが 結び目はそこに引っかかって足が思わずおそくなるところ と言ってもいい 詩の線に寄り添う音の線は ことばから音への翻訳ではなく 誤読も含んだ別の展開 というより 付かず離れずで 絡まるもう一つの線 声のリズムと並行か ちがうリズムで進むか 背景の空気を染めるだけか

喉を通り抜ける空気が声になるとき 風が吹きすぎた後の空き地に 回り込んだ空気が集まってくるように 喉に残った予熱が次の声をさそいだす 声は空間がないと響かないが 空間のなかのどこに音があるのかわからなくても 聞こえてくる方向はある 遠い音・近い音があっても 音がここにあるとは言えないだろう 風とちがって 音がどこに向かうかもわからない 音は空間のなかにあるものではなく 音が空間だということなのか 音が空間なら そこには区切りも 境界線もない

池に石を投げ込むと波紋がひろがるように 音が楽器から周りにひろがるイメージはわかりやすいが 楽器は波打っていても 音はそこに停まってはいない  音が変っていくのが聞こえる 変化するから音になる 音符に書くと楕円形の小石のようだから 碁石のように並べたり 順序を変えたりして 文字絵のように記号を組み立てて 形にすることもできる その場で消えて行く音から耳の記憶が作りだす形は それと似ているようでちがう イメージが作られるその場で消えていくと同時に 別なイメージが起き上がってくる

縄文字や文字絵は 読みかたがわかれば 意味が定まる 詩のことばは意味だけでなく イメージでもあり 読むときはまずリズムのある響きの列になる 音の網は雲のようにひろがっている バロック音楽のようにレトリックや音の絵である場合も ことばにならない感じが伝わってくる 歌のような声が シラブルに区切られてことばになったとき そしてことばが文字になり あるいは目印としての記号がことばとして声に出されるときに失われるもの 楽譜が音の散りばめられた平面として読まれ メロディーが音符の列になったとき抜け落ちるもの それだから逆に 音楽や詩は書くだけでなく 演じるだけでなく その場でさまざまに聞かれ 感じられると 意図も構造もない人間の集まりのなかに投げ込まれた小石となり 予想できる未来からのひとときの自由がそこに垣間見られたような だが それが錯覚でないと だれが言えるだろう

2018年7月1日(日)

水牛だより

雨があまり降らないうちに早々と梅雨明けしてしまった東京は真夏なみの暑さが続いています。夏のあいだの水はだいじょうぶかなのと気になります。いまもう真夏だとしても、秋が早く来るとは限らず。これまでは確かにめぐっていた季節というものがしだいに変化しているのを感じます。

「水牛のように」を2018年7月1日号に更新しました。
最近は夜になると比較的早い時間にPCをシャットダウンするようにしています。きょうお届けする原稿は6月30日の夜にはまだ二つしか届いていませんでした。7月1日の朝、起きてすぐPCを起動してみると、ずらずらずらっと原稿が並んでいたので、ニンマリしました。深夜や早朝の送信時刻を見ると、なぜかニンマリ度が高まります。自分が意識もなく眠っているときにしらじらと起きていて原稿を書いている人たちの姿をつい想像してしまうからです。

今月もぼんやり考えていること。今年は水牛楽団など、以前水牛レーベルで出したCDの音源をいくつか公開しようと思っています。水牛楽団はメンバーの西沢幸彦さんが亡くなり、「冬の旅」は歌った斎藤晴彦さんが亡くなり、彼らといっしょにこれから実際に何かをおこなうことは出来なくなりました。だから彼らとともに過ごした記念に、と言ってしまうと少々おおげさかもしれませんが、誰でも聞けるようにしておきたいと思うのです。長そうなこの夏の間にあれこれ考えて、秋には具体的にしたい。ぼんやり、決意として書いておきます。

それではまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(35)1951年の海辺の人々

西大立目祥子

うっすらと雪の残る道ばたで、もこもこした冬のコートを着こんだ子どもたちが笑っている。足元はみんな下駄で、あでやかなピンク色の爪掛け(下駄の前の部分の覆い)がかわいい。その屈託のない無垢な表情に見入るうち、なぜだか泣きたい気分になってしまった。

この写真を撮影したのは、アメリカ人のジョージ・バトラーさん(1911〜1974年)。朝鮮戦争の勃発に際し、1951年3月から約9ヶ月間、軍医として「キャンプ・マツシマ」(現・松島基地/宮城県松島市)に滞在した。写真は、その滞在中に訓練の合間をぬって撮影されたもので、松島を中心に、塩釜、石巻、牡鹿半島、仙台など、宮城県の沿岸部の日常の暮らしが切り取られている。仙台で5月1日から展示が始まると、長男のアランさんとその家族が来仙したこともあって、地元紙やテレビにも取り上げられ話題になった。

9ヶ月の滞在期間中に撮影した写真は約2000枚。息子のアランさんはその写真を整理していて、多くが東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地域であることに気づき、一枚一枚の修復作業に取り組んできたという。

終戦から6年目の沿岸部で、どんな暮らしが営まれていたのか。写真はそのようすをリアルに伝える。戦争が終わったという開放感からなのか、人々の表情は明るい。終戦直後のきびしい食糧不足をくぐり抜け、わずかではあるけれど暮らしに落ち着きが生まれ、真っ白な割烹着を着込む母親が話し込んでいたり赤い晴れ着をまとう少女がいたり、暮らしの上向き加減が見て取れる。

でも、農作業に限らず、工事現場も山の現場も機械化以前。田んぼで、山で、海で、人々は汗だくで労働している。カラーフィルムは、夏の強い日差しや生い茂る緑もよく再現していて、男たちは炎天下で日に焼けた上半身をさらし黙々と体を動かしている。汗して働いているのは男ばかりではない。女たちはそろってどんづき作業(家を建てる前の基礎工事)に精を出しているし、子どもたちも自分のからだの数倍もあるような薪を背負って山を下ってくる。

誰もがまだ貧しかった。貧しい生活を支えるために、身を粉にして働かなければならなかったのだ。写真は細部までクリアに映し出して、包み隠さずその貧しさを伝える。バトラーさんが家族にあてた手紙にも「仙台は人口20万人の都市なのに、とても貧しい」「貧しい暮らしにもかかわらず、どの集落の家屋も小さな森に囲まれていて…」とある。小さな木造の家屋も土ぼこりの舞う道も、アメリカ人の目にはひどく窮乏した生活の風景に映ったのだと思う。

でも、だからこそ、よく働く人たちに感心を抱いたのもしれない。「アメリカ人の男性でも投げ出しそうな荷物を背負った小柄な女たち」という手紙の一文もあるし、農夫、漁師、大工、花売り、鉱夫…写真に働く人の姿を共感と愛情を持って写している。

アメリカにはない暮らしの中の意匠にも目をとめている。寺の鬼瓦、舟の舳先の飾り、稲のはせ掛け、大根干し、屋敷構えなど、興味は実に幅広い。バトラーさんは帰国してから日本の家具を置き、盆栽を楽しんでいたというから、日本の文化への興味はこの滞在中に培われたのかもしれない。

そして、子どもたちは、どこでもにこにことした笑顔をカメラに向ける。バトラーさんの身長は196センチあり、それだけで子どもたちの笑いの対象になったらしい。

写真は、近代化以前の暮らしを事細かく伝える。暮らしの中のあらゆるものがまだ天然素材。女たちは打ち込みのしっかりとした地織りの木綿で仕立てた作業着を着込み、藁で編んだ草履をはき、日よけに菅の笠をかぶる。街を行くのは肥桶を積んだ馬車で、その車輪はまだ木製だ。船は地元の船大工が手をかけたに違いない和船で、捕れた魚を下ろすカゴは竹製。店先の乾物はリンゴの木箱に詰めて売られ、芋に至っては土のついたままムシロに広げられている。

そして、果物店の店先を写した一枚をじっくりと眺め、色鮮やかなリンゴやミカンのわきに置かれた竹のカゴが目に入ったところで、私自身の記憶が揺り動かされてくる。そうだっけ、子どものころ、病院にお見舞いに行ったりするとき、こんなふうな細い竹で編んだカゴに入れたんじゃなかったっけ。深いところに沈んでいた記憶が浮き上がってきて、高度経済成長期の中にまだ残っていた一つ前の生活の断片を自分が知っていることがうれしく思えてくる。写真の中には、自分の過去も見つけられるのだ。

古い写真は、なつかしさを呼び起こすだけのものではないと思う。写真は、私たちはここからきたんだよ、と教える。自分の生まれる前の写真であっても、それは私たちの原点を指し示している。貧しかった、とひと言では決して片づけられない暮らしの総体。今日の目で振り返ると、写し出された世界はうらやましいような豊かさも隠し持っている。

バトラーさんの写真はこちらで見ることができます。
https://www.miyagi1951.com/

世界難民の日とワールドカップが重なる日

さとうまき

ワールドカップがはじまった。日本が予選リーグを通過してしまったもんだからTVや新聞は予想以上に大騒ぎになっている。

6月20日は国連総会で決議された「世界難民の日」。難民の保護や援助に対する世界的な関心を高めること、難民支援を行なう国連機関やNGOの活動や支援への理解を深めること、故郷を追われた難民の逆境に負けない強さや勇気、忍耐強さに対して敬意を表す日。

そんな日に、ワールドカップの試合があれば、難民のことなどに思いをはせる暇はない。そこで、ワールドカップ出場国の難民事情を調べて展示することにした。

僕が実際に難民キャンプで知り合った難民がたどり着いた国がW杯にでる。イングランド、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、オーストラリア、ブラジル、そして日本。そういった国が対戦するときはそれぞれの国の難民政策、そして実際の難民の事情などを思い浮かべながら試合を見る!これが、世界難民の日にW杯を見る正しいやり方だ。

たとえば、6月19日、日本VSコロンビア戦。
日本は、2017年の難民受け入れが19,623人の申請のうちたったの20人しか認定されていない。コロンビアの知り合いはいないが、調べれば世界で最も国内避難民が多い国。麻薬戦争で難民になった人もいる。しかし50年以上にもわたる内戦はサントス大統領の努力で終結したに近い。いろいろ調べて、コロンビア人が経営するバーで試合を見に行った。実際試合が始まると、難民のことなどすっかり忘れてしまう。コロンビア人がたくさんバーに集まってきて楽しかった。W杯だけあって白熱している。日本が勝ってしまい、TVや新聞は大騒ぎ。難民に関するニュースはかすんでしまう。

6月21日、デンマークとオーストラリア。
両国とも、知り合いの難民がいる。試合を見ているとイラクから同居している部下のアーデルから電話が入る。アーデルはヤズィディ教徒で、ISに襲撃されて逃げてきて、うちのイラクのアパートに居候している。
「フランス大使館から連絡が来て、移住してもいいっていうんだ。家族のビザも出してくれるんだ。どうしたらいい?」
と聞いてくる。こんなチャンスは二度とはない。もう会えないのは寂しいけど、
「君の将来を考えたらいくのがいいと思う」
「しかし、お兄ちゃんは嫌がっているんだ。そして、今まで君に雇ってもらって、仕事に生きがいもあるし。。。」ともじもじしている。
「寂しいけど、フランスに行った方が簡単に会える」
そうこうするうちに、フランスVSペルー戦が始まった。
「じゃあ、こうしよう。フランスが勝ったら君はフランスに行けばいい。負けたらいかない」
フランスガンバレ! ついに運命のゴールをフランスが決めた。
「世界難民の日のプレゼントだよ」
「よし、僕はフランスに行く!」

6月30日
イラクからシリア難民のリームが日本にやってきて支援を訴えている。講演会をやった。会場からの質問。
「難民という困難な状況でどうやって生活を楽しめるのですか」
「サッカーを見ています。日本が勝つことを応援しています。ただし私はロナウドが好きです」
ポルトガル戦でクリスチアーノ・ロナウドを見たら、シリア難民を思い出そう。

アジアのごはん(93)らっきょう漬における考察

森下ヒバリ

「う~ん、なんかピンと来ない」去年漬けたらっきょうの醤油漬けをバリバリ噛みしめながら、わたしは悩んでいた。今年もらっきょう漬けの季節がやって来たのだが、なにか今ひとつ醤油漬けのらっきょうに食指が動かないのである。何か、こう、もっと違うものを身体は求めているようなのだ。

今食べているのは去年漬けこんだものだから、さすがにらっきょうの瑞々しさはない。まだなんとかザクザクとした歯ごたえはある。不味いわけではない。いや、うまいと思う。ヒバリのらっきょう漬は、らっきょうの皮を剥いてから沢山の塩で下漬してから甘酢漬け‥などという面倒くさいことはせずに、いきなり醤油と酢と砂糖かはちみつ少々で漬ける甘すぎない酢醤油漬けである。これは手間がかからないが、最低2か月ぐらいは漬けておかないと味が染まない。一番おいしいのは3~4か月たってからだ。

しかし。らっきょう漬けは涼しくなってくると、忘れられる。カレーを作った時に思い出される程度で、基本的に暑いときや湿気が多いときに食べたくなり、また食べるべきものだろう。醤油漬けはしばらく寝かせる必要があるので、ようやく食べ頃になった頃にはらっきょうへの希求がうすれている。

そして、ああ、らっきょう食べたいと思う初夏には去年のらっきょう漬を、なんかパンチないな‥と思いつつ食べているのだった。醤油漬けをまだつけが浅いうちに食べるという手もあるが、やはりどんなに早くてもひと月は漬けておかないと。と、なると何とか食べられるひと月を経過する頃には恒例の夏の旅に出て家にいない‥。

じゃあ、今年は漬けるのはちょっぴりでいいかと、らっきょうが出回り始めた頃に500グラムだけ醤油漬けにした。しかし、500グラムというのはほんとにわずかだ。やっぱり、もっと漬けるか‥。

そうこうしていると友達のミケちゃんが「ウチもらっきょう漬けたよ、ウチはいつも塩漬け。もうすぐ食べられる~」とFBでメッセージを送って来た。ふむふむ、ミケちゃんちは塩漬けなのか。あれ、もう食べられるってどういうこと? らっきょうの塩漬けって甘酢漬けの下漬のことじゃないのか。15%ぐらいの塩で漬けこみ、食べるときには塩出ししてから甘酢漬けにするための塩漬けとはどうも違うようである。だいたい塩15%というのはものすごい量だ。やや塩分控えめの梅漬けと同じぐらいだ。

さっそくどんな作り方か聞いてみた。「う~ん、皮むいたらっきょう1キロに‥塩は適当‥大匙2杯ぐらいかな。まぶして、ビンに入れてカップ3分の2ぐらいの呼び水を入れて置いとく。そんで、3日ぐらいから食べられるよ」「え、3日で!」「うん、そやねん。そんで、上がってきた水がプクプクしてきたら冷蔵庫に入れるねん」「え、プクプク‥」「おいしいよ~。あっという間に食べてしまうで~」

沖縄の島らっきょの塩漬けが思い浮かび、口の中が唾液でいっぱいになった。ミケちゃんちのらっきょうは、島らっきょの塩漬けに限りなく近いのではないか。これだ。わたしが夏に食べたいのは、こういう(たぶん)フレッシュでパンチのきいた、でも生じゃなくてちゃんと漬かった塩漬けのらっきょう、に違いない。しかも、プクプクしてくる、ということは発酵しているということである。らっきょうの発酵漬、酸味も出てくればさらにおいしそう。どうして、今まで気がつかなったのか~。らっきょうとて野菜である。水キムチみたいにして食べればよかったのだ。

プクプク発酵といえば、去年の夏に、初めてパイナップルの皮と芯を使って、水を加えて作る酢を試してみたら、おいしくて簡単で、それ以来季節の果物で酢を作って楽しんできた。この季節、熟した梅の実で作る酢がおいしい。

 *熟した黄梅(キズ梅、熟れすぎでもいい)500g
 *水1.5リットル
 *砂糖80~100g 水に溶かす。酵母のエサ。

これらを広口瓶に入れてガーゼなどで覆ってひもやゴムでとめ、虫が入らないようにする。毎日かき混ぜるか、ゆすって、浮いてきた梅が空気にあまり触れないようにする。2~3日すると、プクプクと発酵してくる。1週間ぐらいして液が濁ってくれば、梅を引き上げて、一度濾して液体だけを再び熟成させる。ときどきゆすってやるが、白い膜(酢酸菌膜)が張ったら、そのままでもいいし、ゆすって混ぜ込んでもいい。そのまま静置は酸素の無い環境で働く菌が、ゆすってやると酸素が好きな菌が酢を作る。臭みが出ることもあるが、数か月たてば消えるので、心配いらない。2か月ぐらいしたら出来上がり。ガーゼで濾して瓶などで保存する。

この梅の酢は2か月熟成させなくても、2週間ぐらい(砂糖の甘みが消えて、酸っぱくなっている状態)で十分おいしくなるのでソーダや冷たい水で割って飲むと、夏の暑い日の水分補給にばっちりである。甘いジュースは後で身体がぐったりするが、この甘くない梅の酢ソーダ割りなら身体がしゃきっとする。熟成させたものは、さわやかな酸味が料理に使いやすい。梅漬けで出る梅酢はおいしいけれども塩辛すぎてなかなか使いにくいので、塩辛くも甘くもないやさしい酸っぱさのこの梅の酢は重宝する。

白い膜をカビだと思う人は多いのだが、カビではないので濾してしまえば、すっきりした酢になる。漬けた実がつぶれていたりすると、白く濁った酢になるが、問題はありません。エキスを全部搾り取ろうと、果実を潰してぎゅうぎゅう押して濾したりする人もいますが、雑味が出やすくなるので、おすすめできない。

いちおう、ネットや料理本で「らっきょうの塩漬け」を調べてみた。しかしほとんどが塩漬けというと、甘酢漬けの下漬で塩分15%のものばかり。もしも塩漬けで食べるときは、塩抜きしてから食べろ、と。中にひとつかふたつ、塩分4%で漬ける、島らっきょの塩漬けみたいにというレシピがあった。しかし、熱湯を回しかけろとか意味不明。う~ん、ここはやはりミケちゃんレシピで、行こう。もっとプクプクさせるために水を少し多めに入れて、と。塩は足りなかったら追加すればいいや。

らっきょう漬けを、梅干しのように保存漬としか考えていなかったので、少ない塩での塩漬け、という方法に思い至らなかったが、いやはや、この漬け方はまさに目からウロコである。

塩をまぶして1日たって、プクプクと泡が出始めた。水も上がって来て、顔を出していたらっきょうも水に浸かった。味の変化を見るために、毎日味見をしてみようと、小さいのをひとつかじってみる。ふむ、漬かりは浅いが1日でもう生とはちがうまろやかさが出ている。よしよし。赤いとうがらしを2本入れ、ゆすってやる。ぷ~んとらっきょうの匂いが立った。はやく、おいしくな~れ。

灰いろの水のはじまり(その4)

北村周一

つづいて、パレット灰いろ作戦第二弾です。
いよいよおとなの登場です。場所は、武蔵野市立吉祥寺美術館の音楽室。
フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前展の、関連イベントのひとつとして企画されました。
題して、「えのぐのゆくえ、パレットのおしえ」。
去年の四月某日、総勢12名の参加を得て、ワークショップははじまりました。

当然のことですが、抽象的な絵画を描くことはほぼはじめて、という方々が多く参加されました。
何を、どこから話せばいいのか、思い悩みましたけれども、まずは導入部として、絵具の物質性や、パレットの中間領域としての役割について、自分なりの考えを話すことにしました。
それから、色の三原色は、光の場合と、色材の場合とでは異なることも説明し、とりわけ光の場合には、混合すると限りなく白色に近づくこと、色材の場合には、混合すると黒(ごく暗い茶色)に近づくことも話しました。
それゆえ、今回用いることになっている、水溶性のアクリル塗料の場合、発色の効果が強すぎる絵具は、極力外すように伝えました。
たとえば、黒、茶色、藍色などです。
ところで日本語というのは面白いもので、青、赤、白、黒の四つの色に限っては、形容詞として活用できますし、また色という語を付けなくても、単独で色を表すように工夫されています。
水色、桃色、黄色などなどとは、別格の扱いを受けているといえます。
さらに、青、赤、白、黒の四つの色は、四季のそれぞれにも対応していて、青春、朱夏、白秋、玄冬というお馴染みの言葉となって、息衝いてもいます。
また、色の三要素についても、少しく触れました。
明度、彩度、色相、すなわち、色の明るさ、鮮やかさ、いろあい、についてです。

手短に話したつもりですが、正味2時間ほどの枠組みの中で、途中若干の休憩をはさみながら、参加者全員が、それぞれの絵を完成できるところまでもって行けるかどうか、不安なままに作業ははじまりました。
キャンバスのサイズは、おとな向けにF3号(22×27㎝)と、僅かながら大き目にしました。
最初に、好みの絵具のチューブを選ぶところは、子どもたちのときと同じです。
キャンバスをパレットに見立てて、チューブから絵具を絞り出し、各人ひとり一本しかない絵筆を用いて、絵を描きはじめました。
ミッションは、絵具を混ぜ合わせながら、ひたすら灰いろに近づけること。

はじめのうちは、どのように描いたらよいのか、戸惑っていたみなさんでしたが、手慣れてくると、
参加者それぞれが、さまざまな技法や思いつきを駆使しながら、先へ先へと筆を進めていました。
四つの側面も含めて、塗り残しのないように、キャンバスの白いところをすべて絵具で満たすこと。
みなさん最後まで、一心不乱に絵を描いていましたが、やはり周囲の目が気になるのでしょうか、
互いに見比べながら、作業を進めるといった具合でした。
絵の描き方というよりも、絵の描き手の性格かもしれませんが、比較的早く描き終えてしまった人と、
なかなか描き終わらない人と、フィニッシュがバラバラになってしまいましたが、合評の時間を少しだけ残して、12名すべての絵が仕上がりました。
大勢の人に囲まれながら、絵を描くことはとてもしんどいことです。
みなさん描き終わってホッとしていました。

でもこれで終わりというわけではありません。
そうです、絵のタイトルを決めなければなりません。
描き終わって、それぞれが思いを込めながら、絵の題を発表しました。
作者が付けた絵のタイトルとその絵を見比べながら、うん、なるほどと頷いたり、笑ったりと、
反応はいろいろでしたが、ひとりだけ無題がありました。
もしかしたら、その後タイトルが決まったかもしれませんが。

それはそうとして、灰いろの方は一体どうなったのでしょうか。
限りなく灰いろに近づいたとはいえ、思い描いたような灰いろにはならなかったようで、いわば灰いろの一歩手前に留まったような感じの色合いに終始したように見受けられました。

しかしながら、テーブルの上に目を移すと、各人一個ずつあてがわれていた筆洗用の透明のプラスチックカップの中の水が、なんと灰いろになっているではありませんか。

微妙にそれぞれ色合いが異なっているといっても、総じて灰いろに間違いありません。
参加者12人、十二色の灰いろが、目の前のテーブルの上に並んでいたのでした。(つづく)

しもた屋之噺(198)

杉山洋一

この一か月ほど、週末の夜になると、線路の向こう側の運河沿いの駐車場で、屋外コンサートが開かれています。最初はアフリカン・ポップスなどやっていて、楽しんで聴いていたのですが、何しろ大音量で日付が変わる頃までやっていて、演奏中はこちらも落着いて仕事できる状況にないので少々困っていて、息子に愚痴ると、他の人は皆喜んでいるからでしょう、とあしらわれてしまいました。
まあ、尤もな話ではあります。

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6月某日 ヴェローナ宿
ヴェローナのサン・ゼノ教会の傍ら、サン・プロコロ教会でブルーノ・カニーノのシューベルトD960を聴く。先月終わりに東京で会ったとき、このソナタを演奏するのは人生で2回目、本当に難しいとしきりに話していたが、それだけ作品に愛情が深いことがよく分かった。今度何時聴けるかも分からないので、思い切って家族連れでヴェローナへ出かける。一楽章が始まった途端に聴きながら涙がとまらず、何故涙が流れるのだろうとしきりに自問してみたのだが、答えが見つからなかった。倍音の豊かさ、和声感の充実、弱音の明瞭なキャラクターが際立つ。気が付くと外で鳥が甲高い声で啼いていて、まるでピアノとやり取りしているように聴こえる。シューベルトがいなければ、西洋音楽史は大きく変化していたに違いない。ブルックナーやマーラーの交響曲もなければ、プーランクの歌曲もピアノ曲も生まれなかっただろうし、ブラームスに至る和声の発展もなかったに違いない。誰に対して感謝しているのか分からないが、ともかくシューベルトという人がこの世に生を受けたこと、そして彼の音楽を我々に残してくれたことに深い感謝を覚えるばかりだ。

6月某日 ミラノ自宅
ヴェローナの宿で朝ベッドでラジオをつけると、べンバ元副大統領が国際刑事裁判所で無罪となったことに絡み、コンゴの賛成反対両意見をラジオフランス国際放送が流している。コンゴと言えば、エミリオの長男が国連で働いているので、コンゴの状況がニュースで流れると思わず気にかかる。
天気もよく、歩いてヴェローナの記念墓地まで歩く。入口で仏花を買おうとすると、お墓に供えるのかと尋ねられて、ここまで自宅用の花を買いに来る人もいると知る。ドナトーニの墓の花さしがとても小さいので、枝を短く切ってもらい、水がなくなってもそのままドライフラワーになりそうなものを選ぶ。最初の墓地を通り過ぎ、Piis lacrimus と書かれた神殿の教会の傍らから裏の墓地へ廻る。ドナトーニの墓は、ちょうどコインロッカー状に並ぶ一番奥の墓地の一番左、そこを入って左奥の右上、ちょうどとても暗いところにある。息子は大分昔に一度ここへ連れてきたときのことを覚えていた。
花を活け、積もった埃をウェットティッシュで拭った。ロウソク型のオレンジ色の電灯が切れていて、電球が緩んでいるのかとガラスの蓋を外すと電球が入っていないので愕く。ドナトーニの墓は、とても高い処にあって、梯子で昇ってゆくのだが、ここに墓を備え付けるのもさぞ大変だろう。墓の蓋には、重さのない重力、gravità senza pesoという、ドナトーニの好きだった言葉を表題にして、彼の曲名を散りばめて作られた詩が刻み込まれている。息子も梯子を上ってみたいと言うのでやらせてみると、salve! やあ!と声をかけ半分ほどで怖がって降りてきた。

この区画の前あたりには、「何某家の墓」と書かれた、立派な家づくりの豪奢な墓地が並んでいる。日本の公衆便所くらいの厳めしい石造りの建物が、刈り込まれた美しい芝生の上に点在している。そこに一つだけすっかり蔦に覆われた緑の墓地があって、近くで作業をしていた庭師にこれはどういうことか尋ねると、10年来一度もこの墓主は手入れに来ないのだそうで庭師たちはすっかり怒っていた。彼らは毎日頼まれた墓の掃除に来ているのだと言う。

入口裏の事務所に顔を出すと、墓地の管理事務所らしく、黒い服に身を包んだ中年の女性が一人残っていて、電球が外されているのは、契約を破棄したか、料金が未払いだから事務所が故意に外したものだと言う。年に18ユーロだと言うので、それならここで支払うと言うと、契約を取交した本人でなければいけないと言う。そのままIngenio clarisの神殿の石碑を訪ね、ドナトーニの名が刻まれている辺りに、供えきれなかった残りの花を手向けた。

駅に戻ると、まだ少し時間があったので、タクシーを拾って、ドナトーニ広場へ出かける。想像通り、タクシーの運転手はドナトーニ広場など知らなかったので、うろ覚えで、作曲家の名前の道ばかりが並ぶ音楽家界隈の、ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りに挟まれた小さな広場があるだろうと言うと、犬に用を足させるような広場しかない、あんなところに本当にお前は行きたいのかと何度となく念を押される。
果たして、アパートの立ち並ぶごく普通の一角に、よく手入れの行き届きた小ざっぱりとした芝生に、小さな滑り台とブランコがあるだけの広場があって、確かにgiardini Donatoni, compositore, maestro di musicaと銘板が立っていた。もう18年前に亡くなった恩師で、ミラノに長く住んでいたが出身はヴェローナで、記念墓地のingenio clarisの石碑にも名前が刻まれているのだと言うと、それならせめてヴェローナのどこかの広場に名前をあげればよいものを、とタクシーの運転手に言われる。
ここは正確にはヴェローナ市内ではなく、サンタ・クローチェという地域だそうで、現在のインターネット地図でも、ドナトーニ広場がある場所はただ「無料駐車場」としか書かかれていない。ドナトーニらしくて悪くはないが、少し寂しい。昼食時だったからか、人気がなかった。

ミラノに着いて、マリゼルラに墓の電灯のことで電話をすると、それは恐らく急逝したドナトーニの長男名義になっていたのかも知れないと言う。そんな話から、ドナトーニは当然ミラノの墓地に埋葬されるはずだったのが、ふとマリゼルラが生前ドナトーニが死んだらヴェローナに埋めてくれと言っていたのを思い出して、急遽ヴェローナに場所を拵えた話やら、息子が7月、一週間ダブリンに出かけるのだが、ドナトーニの妻だったスージーがダブリン出身で、ウィスキーのjamesonの創業者の家の出だったことについて話し込む。スージーは、子供のころ住んでいた城のような家の写真を何度か見せてくれた。晩年のスージーは片時もウィスキーのグラスを手放さず、すっかり中毒になっていたが、或いはアイルランドの家が懐かしかったのだろうか。
家に着くと、息子はすぐにピアノを触っている。しばらくクレメンティのソナタを弾いていて、厭きたのか今度はフルートでマルチェルロのソナタを吹く。息子は日本風に一音ずつ感情を込めて弾いたりしないので、旋律はとてものびやかに響き、少しばかり羨ましい。

6月某日 ミラノ自宅
息子と連立って2年ぶりのべレグアルド運河を訪れる。それぞれの自転車を携えてサンクリストーフォロからモルタラゆきの電車に乗り込むと、周りには多くのアフリカ人が屯している。車掌が近くで検札を始めると、無賃乗車をしていたのか、彼らのうちの何人かは、辛うじて開いていた扉から外へ逃げ出してしまった。目の前に残った一人は、廻ってきた車掌に、切符を買う時間がなかったと言い、ここで切符を買うと言い張るが、差し出したクレジットカードにお金が入っていないと車掌に指摘され、次の駅で降ろされてしまった。

無賃乗車を容認するつもりは毛頭ないが、例えば彼らが船でアフリカから渡ってきた難民、もしくは移民だとしたらどうなのだろう。難民が鈴なりになった船が難破した、というニュースは数えきれない程聞いた。人道的見地から、つい最近までイタリアは彼らの上陸を許してきて、最近になって、イタリア政府は方向を転換したわけだけれど、彼ら難民が上陸を許され自由になった後どうしているのかは、よく知らない。
ラジオでは連日トランプ政権の不法移民政策のニュースをやっている。幼い子供たちが親から引離され泣き叫ぶ姿に際し、女性報道官は「サマーキャンプにゆくようなものですから大丈夫です」と応えなければならない。仕事とは言え、気の毒な気もする。
各国の難民、移民政策に意見を言える立場にはないが、政権が変わり政情が大きく変化したなら、自分だって「一週間以内に一億円税金を納めなければ不法滞在と見做す」と言われる可能性もある。二十年前に二年の約束で伊政府給費を取ってイタリアに留学した時も、政府から一方的に一年で給費が打ち切られた。そうして路頭に迷って食い繋いで暮らしてきて挙句、結局未だにミラノに残っている。当時奨学金が打切られた理由は何も知らされていない。だから、何時また「不法移民」と呼ばれる日が来るかもしれない、と覚悟している。無賃乗車のアフリカ人を嘲ることなど到底できないし、アメリカで家族が引離されたと聞けば、他人事とは思えない。ラジオを聴きながら、思わず涙がこぼれた。

間もなくアッビアーテ・グラッソの駅に着く。2台の自転車を下ろしていて、列車のドアが閉まりかけた。駅から自転車で5分も行けば、ベアグアルド運河沿いの自転車専用道路に出る。周りは見渡す限りの水田とトウモロコシ畑。澄み切った青空が心地よい。
昨年の今頃は、ずっと窓も開けられないニグアルダの小児病棟に入院していたから、こうして息子と二人でサイクリングが出来る日が訪れることなど、想像すら出来なかった。二年前と比べてすっかり成長した息子の姿を後ろから眺めつつ、思わず感慨に耽る。朝買ってきたピザとキッシュを水辺で齧りながら、息子は船着き場に腰を下ろし、足を運河の水に浸して喜んでいた。

後ろから息子の足の具合を注意深く眺めつつ、どこで引き返すべきか必死に見計う。彼に自信をつけさせたくて、体力の許すところまで頑張って走らせたいが、失敗して途中でリタイヤすることになれば、精神的に立ち直すのに時間がかかるのも分かっていて、慎重に後ろから様子をうかがう。息子は「疲れた、家に帰りたい、帰ろう」と繰返していたが、モリモンドの修道院に寄って、それからまた運河沿いに進んでカッシーナ・コンカの牛舎を訪れる。2年前に来たとき、ここで息子が牛の鳴き声を真似しているうち、乳牛たちが集まってきた。

ベザーテ辺りで休憩し、アッビアーテグラッソに向かって来た道を戻り始めると、息子の左足がするりとペダルから外れてしまう。足が疲れて力が入らなくなった時の典型的な症状で、こちらは内心生きた心地がしなかったのだが、気が付かない振りをしていた。
針の筵の思いで暫く走って彼方にアッビアーテ・グラッソの街が見えてきたところ辺りから、突然彼の身体は見違えるように活力を取戻した。魔法でも見ているようだったが、彼はすっかり元気になって顔つきも精悍になった。
果たして首尾よく駅にも戻ると、あろうことか乗るつもりだった列車が、突然運休とアナウンスが流れるではないか。次の列車まで1時間以上あるので、近くの喫茶店で時間でも潰そうと提案すると、息子はそれなら家まで自転車で帰りたいと言う。ここからミラノまで20キロ弱あるし、もう6時間近くサイクリングしたのでやめるべきと説得するが試してみたいと言い張るので、こちらも腹を決め、水と菓子パンを買い込んでミラノまで走ることにする。
極力早くならないよう先導しつつ、適宜休憩をとりつつのんびり走る。飽きもせず作曲家のしり取りをしながら走っていて、気が付くと目の前にミラノの街並みが迫っていた。信じられない思いで、すっかり逞しくなった息子に目を見張る。
真っ黒に日焼けした顔に満面の笑みを湛え、無事に家に着いて最初に息子が発した言葉が「また明日もまたベアグアルドにサイクリングに行きたい」、だった。

今月の初めには、学校に行きたくないと駄々をこねる息子を一喝して、パジャマ姿の息子を雨の中を抱きかかえ、トラムまで無理やり連れていったこともあった。トラムに一度は無理やり乗せたが、二人とも裸足のままだったで、息子も観念して学校へゆくと約束したので、一度家に戻ることを許しトラムを降りたところ、どこかのおばさんが、これをお履きなさいと靴下を渡してくれた。
父親に羽交い絞めにされながら、息子は誰かが警察に通報してくれると思っていたらしいが、こちらも腹を括って連れ歩いていたから、年度末でこの父親も余程必死なのだと誰もが理解してくれたようだ。
その一件のあって息子も学校にゆくようになったが、こちらは数日全身が筋肉痛に悩まされ、あの日はその後こちらも学校へ出勤し、一日授業をした挙句に夜はリハーサルまであった。ドナトーニのリハーサルに出かけて楽譜を開くと、持参したのはグリゼイの楽譜だった。

息子は今月、劇場の合唱団のインスペクターをやっている彫刻家のキアラの工房に足繁く通っている。まず最初に訪れた際に龍を作り、無心で土を触る時間が余程気に入ったのか、次に出かけた折には竪型ピアノを、そしてその次にはピアニストを作った。ピアノを作った時にもその精巧さに感心していたが、その後でピアニストを作った時には心底感嘆した。父親には到底できないのはさることながら、息子がピアノを弾く時に伝わってくる情熱と同じものを、息子のピアニスト像に見出したからだった。これはどういうことなのだろう。

6月某日 ミラノ自宅
マスターコースのテーマにミヨーを選んだ。本来はハイドンの中期の交響曲の続きをやるはずだったが、学生たちの集めたお金でオーケストラを借りるので、予算がぐっと少なくなった。もちろんオーケストラの弦編成を減らせば良かったのだが、せっかく編成を減らすのならば、本来その編成のために書かれた作品をやる方が、学ぶことも多いに違いない。今回はいつも一緒にやっている現代音楽アンサンブルが一緒にやってみようと話してくれたので、それならばと考えたのがミヨーだった。自分が今まで何曲か演奏した中で、演奏が決して易しくなかったが、作曲家として魅力的だと思ったので、小交響曲以外はどれも実際知らない曲ばかりだったが、アンサンブルが提示してきた予算に見合う編成の楽譜をレンタルした。

1918年、ちょうど100年前に書かれた小交響曲2番「牧歌」と1921年に書かれた3番「セレナーデ」。1番「春」は子供の頃から好きだったが、ハープあってフルートも1本多いので却下した。1919年作の「農機具」と1920年作の「花のカタログ」。それからマーシャ・グラハムバレエ団のためにアメリカで1944年に書いた「春の遊び」。1968年から69年に書けて書かれた「グラーツのための音楽」。「春の遊び」と「グラーツのための音楽」に関する資料は、殆ど見つからなかったし、実はもう1曲、「家庭のミューズ」室内オーケストラ版をぜひ演奏したかったのだが、アメリカの出版社が倒産していて、こちらは楽譜の所在が見つからなかった。

これだけミヨーの楽譜を続けて読んだこともなかったが、本当に素晴らしい作品であることに驚く。それぞれがまるで違った内容で、特に1920年前後の作品は視覚的、絵画的だ。ちょうどピカソやミヨーが一緒に仕事をしていたレジェのキュビズムを思い出せばよいかもしれない。もっと正確に言えば、ピカソはこれより10年くらい前にキュビズムの世界に到達していて、ミヨーが「小交響曲」やその他の作品を書いたころには、これらのキュビズムは既にダダに到達しかかっていた。ストラヴィンスキーの「火の鳥」が1910年、「ペトルーシュカ」が11年、「春の祭典」が1913年だから、キュビズムの時代は正確に言えばこれら3大バレエの時代でもある。

南仏の美術館で息子がピカソの絵を前に得意げに説明してくれたところによれば、キュビズムは、重力の解放と視点の多角化だと言う。その意味に於いて「小交響曲」などは、文字通りキュビズムの絵画そのものではないか。特に重力から解放されたコントラバスの面白さなど、合点のゆくことばかりだ。
多調とか複調、ブラジル音楽などと表面的に総括してしまうと、ミヨーの音楽の核心を全く捉えていない。本来の素材を、視覚化し、切り出し、別の色を付けて、別の視点から再度貼りこむ。絵画として二次元の素材を切り出して、3Dプリンターにかけ、視点や遠近法に変化を与えて、三次元の彫刻として再構成しているようにも見えるし、時には、その再構成した彫刻の断面図を切り出して見せているようにも見える。
端を丁寧に揃えたりして妙に体裁を整えたりせず、もとの素材の新鮮さを、出来る限り生かそうとする。そのちょっとしたぞんざいさが、魅力的だ。その意味ではダダの時代性との繋がりも感じる。順次進行する長いパートは、拡大された経過音だろう。
ただ残念なのは、完成した作品を視覚的に把握できるのは本人だけなのかも知れない。彼が自分で指揮している演奏では、どんなに音がぶつかる復調であっても、それらが円やかにブレンドされて響き合う。他人が演奏すると、往々にして耳障りな音に響く。これが音楽作品として成立する上での限界か。

作品が「六人組」の仲間にそれぞれ献呈されている「農機具」は、農機具博覧会で目にした「草刈機」「結束機」「播種機」などの、機能や構造説明、使用用途、性能や値段について書かれたテキストを歌うソプラノに、アンサンブルは機械的を模するオスティナートや、歌と無関係なロマンティックな旋律で軽妙洒脱に応え、社会の近代化、現代化への共鳴が明るく伸びやかに謳われる。

1919年のイタリアと言えば、ムッソリーニが社会主義に見切りをつけて、地方の農家を支持基盤に「戦闘ファッショ」を組織してファシズムへと駆け出した頃で、その後、イタリアでは未来派のダイナミズムに影響された、重厚な音楽ばかり聴かれるようになるのは対照的で興味深い。個人的には5曲目の「耕作機」が、「大地の歌」の「青春について」を揶揄しているように聴こえて仕方がない。冒頭のファゴットの旋律には、わざわざ「chanté-歌って」と註がある。
「農機具」と「花のカタログ」をプログラムに入れ「春の遊び」と演奏会にタイトルをつけたので、ミラノ市の公共公園事業部から後援が取れたとか。

(6月30日 ミラノにて)

富士と龍

植松眞人

 立花秀一が東京に移り住んで、もう二十年近くが過ぎた。住めば都と言うが、東京という町は秀一にとって決して住みよい町ではなかった。
 人混みが苦手、賑やかな場所が嫌い、と言い出せばきりがないほどだし、最近は歳のせいか気が短くなり、電車で妊婦に席をゆずらない女子高生を見かけてしまうと、怒鳴りつけずにはおられない。しかし、実際にそんなことをしてしまうと、妊婦さんに喜ばれることもなく、ただただ驚かれ、なんならおなかの子ども障ります、という顔をされてしまうのである。
 とかくこの世は住みにくい、ということを東京という町は秀一にこれでもかと見せつけながら二十年近く過ぎたのである。
 それでも、これだけ東京にいれば、少しは慣れというものがあり、妻や子はすっかり生まれも育ちも東京のような顔をして、大阪弁でテレビに突っ込みを入れていたりする。秀一だって同じようなものだ。慣れない慣れない、と言いながら、東京の銭湯の四十五度を越えるような異様な熱さの湯舟に平気で入り、極楽極楽とつぶやいて、風呂上がりにそばをすすったりするのである。

   ■

 さて、銭湯である。
 秀一は月に何度か銭湯へ行く。だいたいは土曜日。仕事のない土曜日の午前中にゆっくりと起き出すと、もう妻はいない。仕事仲間と買い物に出かけたり、食事に出かけたりしているのだ。大学生の娘になると土曜日に限らず、ほとんど顔を合わすこともなくなっている。大学での勉強とサークル活動。その他にも友人関係や彼氏関係で忙しいらしい。一週間ほど前に珍しく一緒に朝食を食べながら「とうさん、久しぶりだね」と同じ屋根の下に暮らしているとは思えない会話を交わしたばかりだ。
 土曜の朝、妻がごそごそと起き出す時間に目が覚めていることもあるが、知らぬふりをして二度寝する。眠たくはなくても寝る。そして、妻が出かけた頃に、顔も洗わず、朝飯も食べずに下着だけを着替えて、タオルも持たずに歩いて五分ほどの銭湯へ行く。着替えてから家を出れば、新しい下着を持って行く必要も、着古した下着を持ち帰る手間もかからない。タオルや石けんも百円で貸してくれる。
 いつもは、三十分くらい銭湯にいる。髪を洗い、身体を丹念に洗っても五分ほどだ。そから、東京の熱い湯に身体をつける。何度入っても、何年通っても熱いものは熱い。正直、隣で平気な顔をして入っている年寄りを見ると死んでしまわないかと心配になる。
 しかし、熱いからと言って、水で埋めたりすると年寄りが黙っていない。やれ、ぬるくなるだの、熱いからいいんだの、うるさい。この間などは、さすがに四十七度はないだろうと、水を注いでいたら、
「久しぶりに良い湯加減なんだ、ぬるくしないでくれ」と言われ、
「お前さん、日本人じゃないね。中国人はすぐ湯を薄めやがる」と言われたので、
「いや、日本人です。というか、元関西人です」と笑いながら答えると、
「関西人てえのは、根性がないんだな」と神経を逆なでされる。
 そんなやりとりがあってから、秀一はどんなことがあっても、湯を薄めなくなった。誰かが水を入れていても応援こそすれ嫌な顔一つしないのだが、自分ではどんな熱い湯にもそのまま入る。入ったら入ったで、熱湯のような風呂にもそれなりの良さがあるのだということには気がつくのだ。
 熱い湯がいいのは気付けになることだ。ぼんやりとしていた寝ぼけた頭がすっきりする。土曜日の遅い朝、休日をすっきり過ごすために俺は銭湯に来ているのかもしれないと秀一は思うのだった。そして、いったん熱い湯で目を覚まし、入り口の待合に置いてある最先端のマッサージチェアに座って、一週間の疲れをもみほぐすために、ここに来ているのだと言っても過言ではなかった。
 それに、東京の下町の「湯を埋めるんじゃねえ」とすごむ、それでいて脱衣場に出ると急によぼよぼの気弱になるジイさんたちが嫌いではなかった。彼らが威勢良く、最近亡くなったばかりの友だちの話をしみじみしている様子は、いつ見ても笑いと涙を同時に誘う。

    ■

 そんな銭湯にも何ヶ月かに一度、誰も先客がいない、という日がある。開店から三十分ほど経っているのに先客がいない。そして、それから三十分ほどして、秀一が上がろうと思う頃になっても誰もいない。脱衣場を見ても誰もいない。そんな日が何ヶ月かに一度あるのだった。
 しかし、今日はいつもの「誰もいない日」とは少し趣が違った。男湯には誰もいないのだが、女湯が騒がしいのだ。近所の者同士が、近所の者の近況を伝え合っている。商店街のあの店が閉店したのは、主人の浮気が原因だとか、東京マラソンのコースがこの近くに変更になったのが不安で仕方がないとか。そんな他愛もない話が続き、笑い声が響き、それじゃお先に、という声が聞こえてくる。
 秀一は、いつも通り、これ以上浸かっているとのぼせてしまうかもしれない、という頃合いで湯舟を出た。のれんをくぐるとコーヒー牛乳を買い、お釣りで小銭を作り、マッサージチェアに腰掛ける。ここから十五分ほどが秀一の至福の時間だ。
 全身コースを選び、スイッチを押し、身体をゆだねた、その瞬間に、さっき女湯の天井の方から「それじゃお先に」と言った声がすぐそばから聞こえた。
「ねえねえ。あれ、注意した方がいいわよ」
秀一は身体を少しだけ起こして、首をひねって受付の方を見る。料金などを受け取る受付にはこの銭湯の親父さんか奥さん、最近はごくたまに息子が座っている。今日は親父さんだ。
「注意ですか?」
 親父が返事をしたので、おばさんの声が一段高くなる。
「そうよ。あれはね、だめよ。だって、背中に墨が入ってるのよ」
 親父がちょっと苦笑しながら答える。
「ああ、タトゥーですか」
 すると、おばさんが勢い込む。
「タトゥーなんてもんじゃないわよ! あれはね、もうね入れ墨よ。だって、背中一面に龍の入れ墨、あれなんていうのかなあ。昇り龍っていうのかしら。あれなのよ。こわいわよ。タトゥーなんて生やさしいもんじゃないの。もんもんね。昔で言うところの」
 親父は、一瞬、女湯ののれんの方を見る。顔はまだ苦笑したままだ。おばさんは何を笑っているのかと少し憮然としている。
「うち、禁止してないんですよ。昔からのお客さんが多いんで」
 そう言われて呆然とするおばさん。
「え、禁止じゃないの?」
「ほら、あっちの筋の人が多いじゃないですか。このあたり。でもまあ、昔から騒ぎがあったってこともないし。スーパー銭湯とかは禁止にしてますけどね。うちは、まあ良いんじゃないかって」
 おばさん、そう言われて、あげた拳の下ろす場所が見つからない。秀一はそんなおばさんを視野の端に捉えながらことの成り行きを見守っている。
「でもね、怖いわよ。女の子でね、大人しそうに見えて、服を脱いだら背中一面がドラゴンなんて、あなた見たらすくむわよ」
 いくら言われても禁止してないものをいまさら禁止にするわけにもいかず、それでも常連の声をむげに却下するわけにもいかない。
 秀一はいま女湯にいるはずの、背中一面に昇り龍が彫られた若い女の背中を想像した。壁に描かれた鮮やかな青空を背景にした富士山があり、その手前の大きな湯舟の中に若い女が肩まで浸かっている。湯あたりしそうになったのか、女が上気した顔でほんの少し苦悶の表情を浮かべて腰を浮かす。そして、その腰をそのまま湯舟の縁に移動させて、女は背中をこちらに向けて湯舟の縁に腰掛けた形になる。すると、女の背中一面の昇り龍が秀一の眼前に大きく迫ってくるのだ。昇り龍はいわゆる和彫りで細かな意匠と細かな色彩で描き込まれていた。頭を右に傾けながら、龍は空へと登っている。背景にある富士山の絵と一体となって、龍そのものが大きく秀一には見えた。龍の伸びやかな筆致がそのまま長い髭へと流れ、胴体に継承され、そのままくねくねとした尻尾へと続く。尻尾は曲がりくねりながら大地へと伸びていくわけだが、女の背中というカンバスからはみ出して、龍の尻尾は、形のいい女の尻の割れ目へと吸い込まれていく。龍の尻尾が男性器のように、女の性器へと分け入っているところを秀一は想像した。女の背中に描かれた龍が女の身体の中に入り込み、その龍が女を身体の中から操っているように秀一には思えたのだ。
「だからね、怖いのよ」
 おばさんの声で秀一の意識は再び、銭湯の入り口へと移る。銭湯の親父はいかにもよくわかる、という顔をしながらおばさんの話を聞いている。
 その時、はらりと女湯ののれんがゆれた。出てきた女は三十を少し過ぎたあたりか。ジーンズに白いシャツという地味な格好だ。色白ではあるが一重まぶたではっきりしているとは言えない目鼻である。秀一にはとても大人しく見えた。
 しかし、この女が出てきた瞬間におばさんは黙り込んだ。おそらく、背中に昇り龍の入れ墨があるというのはこの女なのだろう。この白いシャツを脱がせれば背中に昇り龍があるのかと秀一は思う。地味な顔立ちの女をマッサージチェアから眺めている。
 秀一はおばさん越しに女が入り口の引き戸を開けて、下駄箱に向かって行くのを見ている。おばさんは受付の親父さんと他愛のない天候の話などをしている。秀一はおばさん越しに女を見ている。女は下駄箱からスニーカーを出すと足を通す。かかとがうまく収まらず、女は身体を曲げ、かかとに指をかける。その時だった。女が身体を曲げたまま秀一を見たのである。
 秀一と女の視線はまっすぐに結びついた。そして、女は秀一のほうを見つめたまま、にこりと微笑んだ。その微笑んだ顔が、秀一にはさっき思い浮かべた龍の顔に似ているように思えた。(了)

ブドヨ・クタワン

冨岡三智

『ブドヨ・クタワン』はジャワのスラカルタ王家に伝わる舞踊で、王の即位式と毎年の即位記念日に上演されてきた。マタラムの王が王家を守護する南海の女神と結婚するという神話を描いているとされる。現当主パク・ブウォノXIII世は、今年の4月12日に14回目の即位記念日を迎えたのだが、舞踊だけで1時間半、入退場も含めると2時間近くかかるこの舞踊が、今年は15分、入退場を入れても約30分しか上演されなかった。私はジャワに住む知人からこのことを知らされ、新聞で確認してみた。『ブドヨ・クタワン』は3部構成なのだが、今回上演されたのは第3部のみ。XIII世の健康状態が思わしくないため短縮した、あくまでもそれは今年だけの措置であると王宮関係者がインタビューに応えている。しかし、昨年も15分しか上演されなかった、XIII世即位後にはイレギュラーなケースが続いていると報じた新聞もある。舞踊継承を担当してきたムルティア王女と王家の軋轢も報道されている。今年の踊り手の写真を見ると、アクセサリが王家所有のものではなく、一般的なデザインになっている。踊り手を王宮外(芸大や芸術高校)から集めたと報じたものもあり、通常の踊り手や衣装が使えない状況にあったことが分かる。私も通算5年の留学期間を通じて舞踊の練習に参加させてもらい、また様々な儀式を参与観察させてもらった王宮だけに、この状況は悲しい。

製本かい摘みましては(138)

四釜裕子

今日もまた紙を半分に切るところから始めてもらう。「え〜またですかぁ〜」という顔。製本ワークショップなのにカッターで何枚も紙を切るなんてばかばかしい、(前もって裁断機で半分に切って持ってきてよ)というのが本音だろう。実際最初に真顔で「裁断機はないのですか?」と聞かれたくらいだから。毎回あっさりカッターで切り始める人はいる。カッターは苦手だからとはさみで切る人もいる。折り目をつけて両手で左右に引き切る人がいたのには驚いた。もっとも彼は3回目からカッターを使うようになったけど。わずかな誤差が許せなくて何度も紙を替える人、延々切り揃えてひと回り小さくする人もいる。紙を半分に切ることのバリエーションと学習の多様を見せてもらう。切り口の違いを見比べるサンプルが自ずと揃う。

思い当たるふしがある。ルリユールを習っていたとき、延々続く革漉きにうんざりした。ルリユールを習いにきているのにどうしてこう革漉きばっかり続くわけ? と、自分の苦手を棚に上げて何なんだけれども、それが理由で足が遠のいた。漉いた革の細かなくずが腕につくのを防ぐための革漉きエプロンを作って、ごまかしていたほどだ。スキッと貼られた革の裏側にあれほど繊細な手間がかけられているとは想像も及ばなかった。仕上がりが凸凹してもいいから革漉きをちょっとさぼって先に進んでしまいたかった。後で聞くと私はコツをつかむ前に放棄してしまったようで、なれればそれほど面倒ではないという。細かな工程が60以上あり、得手不得手がいろいろあった。かがりと花ぎれ編みくらいかな、満足に仕上がるまでやり直しをいとわなかったのは。苦手と思うと時間は延びる。

古本屋で『活字礼讚』(1991 発行者:近東火雄 発行所:活字文化社 題字:布川角左衛門 装訂:府川充男 序文:西谷能雄)を買う。活版で糸かがり、丸背、函入り、しおりは2本、定価6,500円。宮下志郎さん、杉浦康平さん、横溝健志さん、木島始さん、府川充男さん、岡留安則さん、栃折久美子さん、日下潤一さんなどが書いておられる。

中垣信夫さんの「僕の掌には活字があった」から、杉浦康平さんの元で手伝った読売交響楽団の機関誌「オーケストラ」のところを読む。編集の向坂正久さんとデザインの杉浦さん、印刷屋の営業の永寿さんと「僕」は、定期演奏会が決まるとそのつど集まる。あるとき隅田川沿いの二階家の印刷工場で出張校正兼印刷に立ち会って徹夜、朝になって杉浦さんのお宅で休み、夕方には東京文化会館に向かい出来たばかりの機関誌を買って、そのできを確認しながらオーケストラを聞いたという。職人が手早く活字を締めて整然となった版面が放つ鈍い光、入らなくなった版を金属鋸で切る音、電話、真っ暗な川面……、ごくごく端的なドキュメントなのだけれど、中垣さんが掌に握りしめていたであろう「活字」の熱が伝わってくる。ほかに2、3の思い出がある。〈今から思えば、スムーズに進んだ仕事は総て忘れ、このような思い出ばかりが鮮烈である〉。

ドイツから帰国

笠井瑞丈

シュタイナー学校
から
日本人学校に転校

小学校4年生

モノクロからカラー
アナログからデジタル
その位の違い

森でサッカー
をして
森でドングリ
をして
森で駆けっこ
をして

そんなドイツ時代の遊び

そこから

ファミコンブーム真っ只中
流行りの音楽チェッカーズ

ついたあだ名は
『西ドイツ』

いつもみんなに
「おい西ドイツ」
と呼ばれたいた

毎週放映の金曜ロードショー
テレビの前に椅子を並べる
映画館のように並べる
自分だけの映画館作り
それが自分の楽しみだった
お客さんはいつも祖母一人

雨宮先生
担任先生

今どうしているだろう
良い先生だった

日本にすぐ馴染めない私を
いつも優しく助けてくれた

教科書等忘れものをすると
デコピンをする先生だった
それがとても強烈の痛さだ

いまでもフッと思い出す

白髪でニッコリ笑う先生
そしてとても厳しい先生

人は出会う
べき時に
人に出会う

それはちょとした奇跡

別腸日記(17)橋の下の水(前編)

新井卓

ひとつの生活や、ひとつの仕事が、十年という年数で円弧を描き──年数とは所詮、人がヒトの限られた生の時間から切りだした仮構にすぎないのだとしても──ふたたびよく似た風景に回帰してくる、という感覚が否定しがたく、ある。

いま、横浜の関外地区の果てるところ、高砂町というところに仮の事務所を構えている。黄金町、日ノ出町といった瑞祥地名がならぶこのあたりは、言うまでもなく戦後有数の赤線地帯だったのが、2005年の違法飲食店(「ちょんの間」と呼ばれた細長い建物で、表向きは飲食店の一階部分と、買売春を行う二階部分に分かれている)一斉摘発を経て、今ではすっかり様変わりした。

今からちょうど十年前、この町で、横浜市と京急電鉄、地元の商工会が共同で立ち上げた「黄金町バザール」という芸術祭に参加した。広告写真の会社で心身を壊してから仕事を辞め、ようやく細々と作家活動を始めた時期だった。その頃は今よりも輪をかけて美術の世界(つまり「世間」ということだが)に不案内で、金もなく、突然舞い込んだ話に飛びついた格好になった。

話が決まった初夏、黄金町を訪れた。京急線で三浦あたりから帰るとき、車窓から垣間見る輝く川縁の風景──夕闇にひときわ眩しく、怪しい光を放っていた──だけが記憶にあって、真昼その街区を歩くのは初めてだった。芸術祭の事務局から名札を渡され、これを首から提げていれば面倒なことにならないから、と言われた。ライカを右手に握りしめ、従順に名札をひらひらとさせながら大岡川のほとりを歩く姿は、いま思えば弛緩しきった情けない有様で、ひっぱたいてやりたい気持ちになるけれど、過去の自分であることは拒絶できない事実と言うほかない。

やがて、町のいろいろな相貌が少しずつ、焦点のぼけたわたしの頭の中にも入ってくるようになった。当時、警察の摘発後とはいえまだ一握りの街娼や客引きが辻々に立ち、このあたりの元締めの暴力団も健在だった。あるとき終電を逃してしまい、映画館のレイトショーからバー「アポロ」に逃げ込んだ。夜明けごろふらふらと川辺を歩いていると、暴力団事務所の前で、肌脱ぎになった刺青の男が、たわしで何かを洗っていた。よくみれば分厚いまな板と出刃包丁で、いったい何を切ったものか、と一気に酔いが醒めたのを覚えている。

近隣の飲食店や商店は、どうひいき目に見ても繁盛しているようには見えず、性風俗に集まる客を失ったあおりを、もろに受けているのが見て取れた。芸術祭を支える地元のグループは「環境浄化推進協議会」という看板で数年来活動してきた、と聞かされた。このあたりから微かに感じ始めた違和感を──それが「浄化」の二文字から来ることは明白だったが──「作品」に昇華することはおろか、もっと直裁な行動や思考にうつすことのできなかった自分の足りなさが、今も時折、すきま風のように、夜の町の景色に吹いてくるのを感じる。(つづく)

赤い惑星

璃葉

真昼の強い日差しが暖かい色味に変わりゆき、夕雲のあいだから透き通った空が見える。家々の壁に伸びる淡いピンクの光が、しっとりした青い空気と風に混ざり合い、薄むらさきの世界になってゆく。雨の時期は終わったのだろうか。

晴れた日が続くようになってからよく話題にのぼるのは、やはり火星のこと。現在地球に接近中の火星は、ほかの星よりも明るく輝くから見つけやすいよといわれて、「ほう」と思いながらも、きっと夕暮れや明け方に現れる金星ぐらいの明るさなのだろうな、とぼんやり想像していた。が、とんでもない。

電車も終わる時間、一本道を歩いていると、まるい月のそばに強烈に輝く火星を見つける。星のことに興味がなくても、あれは何だろう?と思うのではないだろうか。まるで空の向こう側から何か合図をするためにライトを当てているような、奇妙な赤さが心にかかる。風がざわざわと吹くなかで、ルビーみたいな赤い惑星をしばらく眺めた。

地球にもっとも近くなる7月31日にはどんな輝きを見せてくれるのだろう。日に日に明るくなっていく火星を見ることが、始まったばかりの夏の楽しみなのだった。

164擬俳

藤井貞和

灰色の虹 六月に立ちにけり

(炉心にくべよ燃ゆる声の火)

思想の詩終わる六月 逢いがたし

(遠雷の句をきみはのこして)

炎天に苦しむこともなくなろう

(涼しきを見よ句稿のうずに)

かかる時かかる六月 きみが問う

(貨客船影火の五七五)

水売りの声 幽明のさかいより

(野の花の忌のななたびの日に)

 

(清水昶の晩年は、五七五のすしざんまい。五月三十日は七回忌でした。おいらにはまったく「からきし」で、六年まえの追悼句のままです。昶さん、ごめん。)