芸大スラカルタ校のキャンパス プンドポと小劇場

冨岡三智

今年の4月からいくつかの大学に教えに行っている(インドネシアの言語とか文化とか)。大学によって立地やレイアウトはまちまちだが、ある大学のキャンパスを歩きながら、そういえば留学先の大学もこんな感じで高低差があったなあ…と思い出した。というわけで、今回は私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)のキャンパスの思い出の話。

芸大のキャンパス構内は、私が留学・調査していた頃(1996-2007)より建造物が増えたり教室が改装されたりして、今ではかなり感じが変わっている。芸大キャンパスは、プンドポ(ジャワの伝統的なオープンホール)や大小の劇場、野外劇場などが集まっている辺りが道路から近く、土地が平らである。船をかたどった門が設けられて、これが現在の正門だ。そこから南へ坂を下るにしたがって、本部棟や国旗掲揚広場(その前にある門がかつての正門)、事務棟や図書館、影絵科、舞踊科、音楽科、造形科と順々に配置されている。

実は芸大キャンパスがこの地に移転完了したのは1985年で、その前はスラカルタ王宮の一画:サソノムルヨにあった。サソノムルヨには国の芸術プロジェクト=PKJTの拠点や3月11日大学(UNS)のキャンパスも同居していて、これら3つの機関が揃って今の地域に移転した。というわけで、道路から芸大の船形正門を越えてさらに東に行くとUNSのキャンパスがあり、芸大から南下するとPKJTが発展解消してできた中部ジャワ州芸術センター(TBS)がある。

現在でこそ、芸大に各種劇場が揃っているが、私が留学した当初にあったのはプンドポのみ。ここで入学式や卒業式、すべての試験公演が行われていた。余談だが、このプンドポはキブラット(方角)が間違っていたことが完成後に分かったそうで、そのためルワタン(魔除けの影絵)をして、その影絵人形をキャンパスからほど近いブンガワン・ソロ川に流しに行ったそうだ。

閑話休題。ソロはコンテンポラリ芸術も盛んな地域だが、それらも伝統的なプンドポで全部上演してしまうところに、私はジャワの伝統の懐の大きさを感じて感動した。しかし、同じジャワでもジョグジャカルタにある芸大には当時からクローズドの額縁劇場があった。私はむしろそのことに驚いたのだが、それは恐らく、ジョグジャカルタ校には西洋音楽のコースがあったためではないかと思う。実は、首都ジャカルタの交響楽団で活躍する人の多くがジョグジャカルタの芸大出身者なのである。一方、スラカルタの芸大のカリキュラムには西洋音楽の実践は全然なかった。ピアノを使うのも国歌、校歌を歌う時だけ…という状況だった。

そんな芸大にクローズドの額縁舞台の劇場が建ったのは1997年末か1998年早々で、こけら落とし公演がサルドノ・クスモ作『オペラ・ディポネゴロ』だった。だが実は、この公演時に劇場の電気系統はまだ完成しておらず、発電機を持ち込んでの上演だったと後で聞いた。当時、アジア通貨危機に見舞われて工事は中断し、2000年に私が再留学してきた後に工事が再開した。小劇場が完成した後、舞踊の試験公演はすべて小劇場で上演されるようになり、同時に多くの有料公演もそこで上演されるようになった。スハルトが退陣しオトノミ・ダエラー(地方自治)体制となったことで、それまで入場無料だった試験公演が有料化された。折しも、インドネシアではアートマネジメントの必要性が叫ばれるようになった。国際交流基金がその専門家をインドネシアに招聘したり、現地の財団が公演制作者の育成プログラムを始めたりしていた。というわけで、スラカルタの芸大では2000年前後がプンドポ芸術から劇場芸術への転換点(少なくとも舞踊にとって)だったと言える。

とはいえ、欧米の劇場と全然違うのがクローズドの度合いである。壁は薄く、劇場外の音もよく聞こえる。さらに外からいろんなものが入ってくる。小劇場のこけら落とし『オペラ・ディポネゴロ』公演では、よりにもよってクライマックスのシーンとした場面で、トッケイ・ヤモリの「トッケイ…トッケイ…」という連続する鳴き声が響き渡った。また、小劇場ではないが、プンドポの裏にある録音室で私が舞踊曲の録音をしたとき、一度バッタが入ってきて中断したことがある。トッケイやバッタをシャットアウトしてこそのクローズド劇場だと思うのだが、これでは音環境についてはプンドポと変わらない…(笑)。(つづく)

蒼吉のこと。

植松眞人

 京都の大学へ通いたい、と息子の蒼吉が言い出したのは高校生活もあと半年あまりとなってからのことだった。
 井筒はさほど驚きもせず、ただそうなった場合の算段を素早くして、そうか、とうなずいて息子を送り出す気持ちを一息に整えた。しかし、母親である恵美はとても驚いて、京都、とつぶやいたきり黙り込んだのだった。
 結局、恵美がもともと希望していた国公立大学であったことと、学費の算段もなんとかできると踏んだところで、蒼吉は希望通りの大学を受験することになった。
 晴れて入学が許可されて、蒼吉は三月の終わりに意気揚々と東京から京都へと旅立った。
 みなが「寂しいでしょう」と恵美に声をかけるのだが、井筒はどうして母である恵美にばかり声がかかり、父である自分に声がかからないのか不思議に思うのだった。しかし、実際に蒼吉の不在が堪えていたのは恵美だった。
 蒼吉が楽しみにしていたテレビ番組が夕食時に始まったりすると、じっと画面に見入って黙ってしまい、「蒼吉がよく見ていた番組だな」と井筒が声をかけると、「さあ」とわざとらしく会話をそらしたりした。
 五月の連休が目前に迫った頃になって、恵美はしだいに蒼吉のことを普通に話題にするようになった。蒼吉がいないことに恵美も慣れてきたのかと思い、「本当は君も蒼吉がいないことが寂しくて仕方がないんだろう」と井筒は軽口を叩いたりするようになった。そのたびに、恵美が「そんなことありませんよ」と強がって見せたりするのも、新しい家族の過ごし方のようで微笑ましく思えるのだった。
 しかし、蒼吉がスマホで「連休には戻らない」というメッセージを送ってきた日の夜、井筒はそうとは知らずに、すっかり気持ちを許して蒼吉の不在を話題にした。つい、料理を多く作ってしまった恵美に、「蒼吉の分まで作ってしまったんだね」と言った瞬間に、食卓へ今まさに置こうとしていた大皿のお煮物料理を恵美は放り出すようにしたのだった。大皿は割れることはなかったが、ドンッと大きな音を立てた。自分でもその音に驚いたのか、しばらく無言で立ち尽くしていたのだが、やがて食卓の隅に置かれた台ふきんで飛び散った煮物の汁を拭き、恵美は食卓に座った。そして、一言も発しないまま黙々と白米と煮物を交互に食べ続け、やがて滂沱たる涙を流し始めた。
 井筒はその姿に驚き、いったいどれだけ蒼吉が恋しいのかと思ったが、もしかしたらほんの少しでも感じている寂しさを知られたことの悔しさからくる涙なのかもしれないと思い直すのだった。しかし、だからとって井筒自身、平静を装って食事をすることが出来ず、やはり少し怒った様子でうまい具合に煮込まれた大根を箸で刺して口に運び、それほど美味くはないという顔をしてみせるのだった。(了)

理性の不安★36

北村周一

臘月や牡蠣と漢字で書いてみる
 r 付く月鍋にしようか
汗掻き掻きねむる幼子われにして
 理性の不安はとき遡る
しろじろき月を背後に子猫たち
 銀杏樹の枝に一、二の三匹
しぶしぶに画廊の主は新酒開け
 博多訛りの毒舌の冴え
声重たし傘を忘れて盗み聞き
 事務イス軋む音に洩れつつ
葉脈にまみずしみこむ宵の口
 海水われのやみふかみかも
梅雨の入り稲荷大祭月は見ず
 アイリッシュバーに浴衣子踊り
つぶやきに自己宣伝のきらいあり
 今は死語かもウナヘンタノム
逃げろとて花に嵐のお別れも
 傘も差さずに走るさんがつ
かんがえて赤子抱きゆく余寒かな
 悠治さんから悠の字貰い
十字架を肩に背負いしひとの傷
 生きて負う苦に順序のありや
雪の日の盲導犬の目に泪
 ゆめは枯野を行きつ戻りつ
海抜は千メートルにあと少し
 気圧低いとこころが弾む
薔薇族の愛にムチ打つ納屋の中
 思春期に触れる昭和文学
月の座に月の句のある一頁
 燈籠好きの父が来ている
柚子味噌をこさえし祖母は能登の人
 隣家の庭に柚子の実たわわ
正調のちゃっきり節はでにあらず
 きゃあるが鳴くんて雨ずうらあよ
半島の先の先までのサクラ花
 さまざまありて菜の花畑

* 擬密句三十六歌仙冬の篇。秋の終わりに。

オイリュトミー

笠井瑞丈

言葉と踊り
音楽と踊り

未だ未知の世界を
そんな迷宮世界に

迷いこむ

カラダの捉え方は
無限の数だけある

頭が理解する事
体が理解する事
心が理解する事

頭を体に繋ぎ
体を心に繋ぐ

言葉と音楽

言葉が体を作り
音楽が骨を作る

空間と時間

言葉が空間を作り
音楽が時間を作る

カラダは
徹底的に自己的な物

コトバも
徹底的に自己的な物

髪の毛一本も自分であり
コトバ一つが自分である

誰にも渡さない
誰にも渡せない

イメージが動きを作り
動きがフォルムを作る

骨の笛で曲線を描く
骨の筆で直線を描く

神々の眼を
動物の眼と

死者の世界を
海底の世界と

置き換える

石の上にも三年
三年目です

オイリュトミー

製本かい摘みましては(141)

四釜裕子

「マルセル・デュシャンと日本美術」展(国立博物館平成館)は、第1部「デュシャン 人と作品」に続く第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」が、とってつけたような、それでいて説教くさくて興ざめした。あとをひいてしまって、売店に中尾拓哉さんの『マルセル・デュシャンとチェス』が置いてあったのにちらっと見て離れてしまった。もやもやしたままエスカレーターを下ると一階ラウンジ前に便器。デュシャンが「泉」を作った1917年にTOTOの前身である東洋陶器社が創立したそうで、1914年に作られた国産初の「陶製腰掛式水洗便器」の復元品が展示してあったのだ。2015年にTOTOミュージアムが開館するにあたって作られたとのこと。壁には、『これが、日本の陶製水洗便器の源「泉」』。笑える。興ざめから我にかえって、『マルセル・デュシャンとチェス』をもっと立ち読みすべきだったと反省する。その夜、ネット本屋で注文しそうになるが、ガツガツ探して買う本ではないし、きっとどこかの本屋で会える気がして、やめる。

ネットで買いたくない本というのはある。鈴木智彦さんの『サカナとヤクザ』もそうだった。鈴木さんのツイッターで料理話などをおもしろく読んでいて、『サカナとヤクザ』なる本が出るというので楽しみにしていた。刊行日、帰り道で本屋に寄った。3軒目、上野アトレの明正堂書店で平積みに遭遇。探すでもなくとはいかなかったけれどわりとさりげなく買えた。地下鉄に乗り本を開くと中から魚柄の栞、氏原忠夫さんの絵による明正堂書店オリジナル栞のうちのひとつだ。今はこの柄だけなのかどうなのか、わからないけれども、『サカナとヤクザ』を買った客には魚柄を入れてくれたに違いないと思い込み、良い気分にひたる。帰宅して本棚を見る。ここ数年はネット買いが増えたとはいえ、ほとんどがいつかどこかの本屋でだいたい一冊ずつ買ってきたのだから、ずいぶんたくさんの本屋さんから手渡してもらってきたものだ。

すぐ欲しい本はネットで買うし、正直に言うと、経費で落とせるものでもより安い値のものを選ぶことが増えている。注文をして確認がきて、配送されて封を開いて。納品書は梱包材といっしょに捨ててしまう。やりとりはシンプルで立ち止まるすきもなく、相手が本屋であることを意識させない。これが互いに望んだ理想形なのだろうか。ところがあるとき、納品書に目がとまった。B5サイズの紙がちょっと厚手で、印字がかすれていたからだ。そのくせ裏面はくろぐろと印刷してあり、「納品書のウラ書き」と白抜きしてある。加古里子さんの『宇宙』(1978 福音館書店)と、林定次さんの『宙の名前』(2010 角川書店)が紹介されている。上田市のバリューブックス発行、第3号、テーマは「宙」だ。楽しいじゃない。よく見ると、紙のひとかどが微妙に直角がとれていない。断裁で失敗したのかどうなのか。いや待てよ、おもて面の印字のかすれも作戦なのかも。考えすぎか。とにかくこの納品書は捨てずにとっておかれているし、客は店の名前を覚え、その客は今またここでその本屋を思い出している。

平出隆さんの『私のティーアガルテン行』も本屋で買った。中に、中学高校の下校時に通った本屋、金榮堂の思い出がある。〈書店の中で、子供は世界の広さにうろたえている〉。買うとなると、〈勘定場で必ずしばし見とれる光景があった〉。〈本に紙の衣裳を着せる。そんな手捌きを、毎度黙って眺めた。子供にはその瞬間だけが、店員さんとの会話であるような気がしたものだ〉。こんな明確な記憶は私にはないし、カバーをかけるのを見るのは好きだけれどカバー付きのまま読むのは好きではないので普段かけてもらうことはない。それでも、わかるわかると思うし、懐かしいと思える。

ティーアガルテンとはドイツ語で、動物園と猟場の意味があるそうだ。〈主なき猟犬なのか、獲物として終るただの生命体なのか分からぬ「私」という動物(ティーア)〉である平出さんが分け入ってきた幾多の迷路の入口にある、恩師や家族、数学、写真、野球、受験、歌……。バットとグローブを担いだ白いユニフォーム姿の少年はカメラに背を向けていて、以来迷路に踏込み続け、迷路であるから出口を目指さない。未知への踏込みは、〈いまここという時空〉への逆らいだと言う。版を組み、翻して刷って綴じる本づくりは新しい迷路を組み立てるに等しく、〈通俗の歴史がこしらえてきた地上に立ちどまること〉に逆らい、それが〈ままごとのようであればあるほど、世界はくっきりと姿をあらわして立ちはだかる〉。〈五十年後のいまでも、まったく同じ幼さをもって、いや、より精巧な幼さをもって、印刷や造本に向かおうとしている自分に気づいているところである。あまりのことに、これは、動物たちが、自然の環境の中で繰り返してきた生存形態の設計力を追いかけているのではないか、と考えるほどだ〉。〈一個の動物として本をつくることができないか、とさえ考えている〉。

『私のティーアガルテン行』の造本は平出さんによる。透明のフィルムが表紙カバー替わりにかけてある。このまま電車の中で片手立ち読みすることはできない。美しい造本だけれども、邪魔だな、とも思う。『私のティーアガルテン行』という迷路へ踏込む者がまず体験する、いまここという時空への逆らいのひとつなのだろう。

しもた屋之噺(202)

杉山洋一

すっかり秋めき朝晩の冷え込みも厳しくなってきました。今年は肌寒くなるのが本当に遅かったのです。ここ二日ほどずっしりと濃い鼠色の雲の下、久しぶりに降り始めた雨は強まるばかりで留まる気配すらなかったものの、先程漸く雨が上がったかと思うと突然黄金色の秋らしい夕日が辺りをさっと美しく染め上げるのに言葉を失いました。
緑色のまま残っている葉、黄色く色が褪せかけた葉、赤く染まった葉が、それぞれにさざめいては光を際立たせ、独特の遠近感を生み出していて、音楽との親和性を思います。親和性というより、恐らく音楽がどこから生まれてきたのか、無意識に実感しているのかもしれません。目の前の空は既に色を失い夜の帳に覆われかけています。

10月某日 ミラノ自宅
何度となく「この楽譜だけは絶対に解読できない」と匙を投げそうになったが、最後になると何かが閃くというのか、心の眼でこの楽譜が読めるようになる不思議。
自筆譜で読むと音現象の解析からではなく、まず作曲家の存在そのものと対峙しなければならないので、恐る恐る楽譜に向かう、ということが出来なくなる。すみれさんとご一緒した時の「カシオペア」の楽譜がそうだった。実は浄書されたスコアもあったことが演奏会直前になってわかったが、ずっと自筆譜で勉強していて、本番もそのまま自筆譜で振った。
筆跡を辿れば、どこの部分から書き進めたかもある程度理解出来るようになるので、思考とまでは言わないが、巨視的な作曲者の視点や意図を繋いゆくことも出来る。
クセナキスの筆跡は到底見易いとは言い難いが、アシスタントが見やすく浄書しているところからは、作曲者本人の筆跡のような迸る情熱は感じられないので、寧ろ物足りない。
ただ、文字通り目を皿のようにしても、どうしても読めない音は幾つかあって、正しいのか分からないままパート譜を参考にしたが、当初休符だと信じて疑わなかった棒が、読返してみると音部記号と気が付いたりする。普段から見えない目が、極端に困憊したのは確かだ。

10月某日 ミラノ自宅
家人の恩師を悼むピアノ小品を書き、追悼アルバムに収録してもらう。暫く前に飛行機で取ったスケッチは見当たらなかった。恩師の名前をよびかけながら、どこに向かってよびかけているのか考える。どこにでもごく身近に気配を感じる気もするし、とても遠くに漂っているような気もする。彼をよぶ声だけが、いつまでもこだましている。

10月某日 ミラノ行車中
クセナキス「クラーネルグ」オーケストラ練習。パート譜もスコアも、所々申し訳程度に分数が書いてあるばかりで、練習番号も小節番号も記載されていない。他の指揮者らも困ったと思しく、パート譜に残されている手書きの練習番号を使おうかと思うと、別のパート譜には別の練習番号が書込まれていて、結局新しく必要最小限のキューサインを決めて、皆で書込む。曲中ずっと二拍子で変拍子のないこのような曲は演奏者が混乱しやすく、その上テープやダンスとの同期もあるので、本番で何が起きても対処できるよう、極力プロセスを単純化する。
それぞれの楽器の発音を整理し、記号に目が馴れるまで暫く繰返す。50年前は、今ほど記譜法も統一されていなかったので、現在の感覚では瞬間的に対応出来ない。伝統や文化は、それぞれ繋がりを持たない個が関わり合い、ある種の混沌を経て収斂に至る。そしてそれがまた一つの個として認識されるようになると、また別の個と交わり、別の収斂を迎える。その繰返しは今も続く。

10月某日 ミラノ行車中
望月京ちゃんが、本当に音楽は分り易くなければいけないのか、と疑問を呈しているのを読む。言葉で説明できるのなら、わざわざ音にする必要があるのか。もう一歩踏み込んだ言い方が許されるのなら、分かり易い言葉で説明するため、簡略化して、大多数に理解されるべく努力する、ポピュリズム一辺倒も怖い。解せない言葉で話すのではなく、分かり易い言葉で、迎合もせず簡略化もせずに自分の意思を伝える。易しそうな言葉の余白に、思索の奥行が垣間見られるように。

10月某日 ボローニャ
良く晴れた朝、ボローニャを母と連立って歩く。劇場すぐ裏のアパートを借りたので、サンヴィターリ通りをゆけばすぐに斜塔広場に出る。斜塔からサンペトローニオまで母の足に併せて歩いても5分とかからない。早朝のサンペトローニオはがらんとしていて、我々以外にこの巨大な教会には一人で熱心に祈る妙齢がいるだけだった。西洋音楽史上、サンペトローニオがどれだけ大切な役割を果たしたかを母に話していると、突然祭壇上のオルガンが美しい響きを放った。
教会つきのオルガニストが早朝練習に来たようだ。サンペトローニオ付きのオルガニストだけあって素晴らしい演奏にしばし聞き惚れる。この教会は特に巨大に造られていて残響も驚くほど長い。だからサンペトローニオ付きの作曲家たちは、この長い残響を活かした作品を書いた。目の前のオルガニストの弾くトッカータ様式の細かい音群は、長い影法師を引き摺りながらまるでリゲティ風のクラスターのように聴こえる。尤も、リゲティ風に聴く方が間違いであって、リゲティが幼い頃から耳にしていた、このような音の混濁を、意識化し体系化したと考える方が自然かもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
クセナキスのオーケストラ曲を振るのは、考えてみれば初めてだった。
楽譜から消失しかかっている音符を一つ一つ丹念に拾ってゆくと、思いもかけぬ旋法的な音が並ぶ。クセナキスの音楽は質量が一番大切な要素に見えるけれども、今回の作品は明らかに旋法が形作っていた。旋法の質感を重層化させることにより、全体の質量を表現していた。それも現在の洗練されたコンピュータに比べて、信じられないほど目の粗いやり方で。「音楽と建築」で「ふるいの理論」や旋法についてずいぶん丁寧に説明していたのは、この部分に相当するのかしら、と勝手に想像していた。
クラーネルグのオーケストラ演奏箇所は弱音が殆どなく最強音ばかりが続くのだが、どれだけ熾烈なのかは実際演奏してみなければ実感できなかった。練習時に本番と同じ音量で弾いてもらうのは、マイクテストの時くらいで、後は体力を温存するため、極力楽に弾いてもらっていた。これがオペラであれば、最強音であれ歌手の声が通るよう中抜けさせつつオーケストラも弾くところだが、クセナキスはバレエで歌手もいなければオーケストラと絡むのは最強音のテープであって、本番中少しでもオーケストラが気を抜くと音楽が急に色褪せてしまう。人間が本当に必死に音を出すと音に独特の輝きが加わるのだ。音量でなく音の光度のようなもの。
当初はオーケストラも一度弾き通すだけで困憊していたのが、回を重ねるたびにクセナキスの面白さに引込まれ、同時にスタミナも付いて来たのか、最後の公演では最後の一音まで気迫が上昇し続けて瞠目した。

10月某日 ミラノ自宅
悠治さんより新作の楽譜がとどく。ご自分で指揮をされるからか、指揮者に対する気遣いとか心配りとかでなく、自分が聴きたい音を、フィルターを通さず透徹に綴った譜面に感激する。もっと多層的で奏者に任せる記譜をされるのかと勝手に想像していたら、ずっと求心的で、全員で空間の同じ部分に耳を澄ますようなアプローチで書かれていて、虚をつかれて幸せな気分になる。皆をあわせるための指揮ではなく、まるで皆の方から指揮にまとわりついてくるようにも見える。どんな演奏になるのか、楽しみで仕方がない。

10月某日 ミラノ自宅
ここ数日かけて、伊左治君から頼まれたブソッティの「イタリアへの五つの断章」の解説を書いていた。かかった時間の殆どは、歌詞を楽譜から書き出し原典を調べ訳出するための時間。当初、詩の訳出までは無理かと思ったが、旧友が八村義夫さんの為に頑張っていて、今後五曲の完全演奏を日本で耳にする機会もそうなかろうと思うとやはり無下には出来なかった。その昔、ブソッティ本人は歌詞なんて訳さなくて良いと笑っていたが、やはり詩の意味や深さを理解できると、作品の印象は全く違ったものになる。特に第一曲「丘たちはまだ耳を澄ましている」で使われている詩は、見事なものばかりだ。

Entro dei ponti tuoi multicolori
L’Arno presago quietamente arena
E in riflessi tranquilli frange appena
Archi severi tra sfiorir di fiori
Azzurro l’arco dell’intercolonno
trema rigato tra i palazzi eccelsi:
Candide righe nell’azzurro: persi
Voli: su bianca gioventù in colonne.
Dino Campana – Firenze

色とりどりのお前の橋に足をむけると
まるで全て見通しているかのごとく、アルノ川の流れは突然落ち着き払い
謐な水の反映のなかに、かすかに映し出す
色を失いゆく花の合間からのびる、厳めしい橋たち
柱と柱にわたされた青い橋が
たちならぶ荘厳な宮殿のまにまに、水面の縞を残し震えていて
青にうつる縞は穢れを知らず、消えてゆく
空の鳥たち。柱のなかの、純白の青春に
ディーノ・カンパーナ – フィレンツェ

カンパーナの「フィレンツェ」は、この古都を形容するに当たり、必ずと言ってよい程引用される代表的な詩で、「色とりどりのお前の橋」は、モザイクのように様々な小さな商店が軒を連ね彩を添えるポンテ・ヴェッキオのこと。そして、その下をたゆたうアルノ川に映る街の風景を詠う。ブソッティがどれほど生れ育ったフィレンツェを愛していたのかよく分かり、訳しながら少し切ない思いにかられる。

Tacciono i boschi e i fiumi,
e’l mar senza onda giace,
ne le spelonche i venti han tregua e pace,
e ne la notte bruna
alto silenzio fa la bianca luna;
e noi tegnamo ascose
le dolcezze morose.
Amor non parli o spiri,
sien muti i baci e muti i miei sospiri.
Tasso

森も川も口を閉ざし
海は波も立てずに、横たわっていて
深く昏い洞窟も、吹きすさぶ風も、
薄ら明かりの夜すらも戦いをやめ、安らかに
どこまでも続く沈黙は、真っ白な月をもたらしていて
僕たちは、ひっそりと
愛の喜びを分かち合っている
愛するお前、声をたてず 息も立てないでおくれ
言葉も要らぬ口づけと、言葉も要らぬ僕の溜息だけで
タッソ

このマドリガルがいつ書かれたものか正確には分からないけれど、タッソの作品でもよく知られた詩の一つ。タッソは同性愛者ではないが、ブソッティがこの歌詞を歌わせる箇所は、耽美的でまるで同性愛的な美しい旋律で縁取られていて、そのままラーラ・レクイエムにも転用していた。改めてタッソの表現力の幅広さと、説得力の強さにおどろく。

Per entro i colli rintronano i corni
Terror del cavriol, mentre in cadenza
Di Lecco il malleo domator del bronzo
Tuona dagli antri ardenti; stupefatto
Perde le reti il pescatore, ed ode:
Tal diffuso dell’arpa erra il concento
Per la nostra convalle; e mentre posa
La sonatrice, ancora odono i colli.
Foscolo

続く丘に雷の角笛が鳴り響き
急転直下、レッコからやってきた
銅鎚の遣い手が地を叩き
燃え盛る口から稲妻が飛落ちる。愕き
思わず漁師は網を手放し、耳を澄ます
打広げられた竪琴の音が、こだましている
大きく開かれた谷のまにまに。楽女が
楽器を置いて憩うとき、続く丘たちは耳を澄ましている。
フォスコロ
 
これもイタリア近代文学で良く知られた名作の一つ。この断片は長編詩の一部に過ぎないが、男性的に切立つ谷に挟まれたレッコ湖の辺りをよく知っているからか、読みながらこの数行の描写に感激して鳥肌が立った。言葉が五感全てを刺激して、湖の匂いまで漂ってくる。

10月某日 ミラノ自宅
楽譜に書かれた音を発音するには、ピアノなら鍵盤を押せばよく、声楽なら歌えばよく、指揮者なら棒を振り下ろせばよい筈であるが、実際はそう単純ではない。
夏に或るインタビューでも話したのだけれど、演奏する行為は楽譜をただ機械的に再現するのではなく、朗読をして読み聞かせするのだと思うと少し分かり易い。
文字をそのまま読み下してゆけば、一応文章にはなるだろうが、何の説得力も持たないだろう。それ以前に、単語の意味を考えずに文字をただ機械的に発音してゆくと、恐らく文章としても成立しないと思われる。
恣意的であれ、と言う積りは毛頭ないが、文法や単語を理解した上で、その文章の言わんとしている対象を念頭に文章を読み下さなければ、説得力のある朗読は成立しない。
楽譜も恐らく同じではなかろうか。楽譜に書かれていることを、書かれているという受動的な理由だけで演奏していては、絶対的な説得力に到達できないのではないか。
それが正しいか正しくないかは別として演奏者なりに文章を咀嚼し、自分なりの言葉で意味を表現し、伝えようとする能動的なアプローチこそ、少なくとも説得力を持つための出発点になり得るのではないか
音符を弾いて音符がそのまま見える演奏では、文章を読んで文字ばかり見える、意味の成立しない文章と同じではないか。
レッスンに来た生徒に、訓練として詩を読むよう薦める。詩を客観的、分析的に読むのではなく、恰もその光景に自らの身を置き、詩人が驚きや感動を持ってその光景を詩に綴る心地を出来る限り実感しながら詩を読んでみて欲しいと伝える。
書かれた文字の意味を理解するのではなく、文字の意味が読み手に露にするその光景に自らを置いてみる。そしてそこに自らが同化出来るまでじっと詩を眺める。実際は詩でなくとも構わないのだろうが、楽譜に近い感覚で読めるのは、どうも詩のような気がする。
棒をどう振れば聴き手が感動するというものではないだろうし、技術が高くても、それで感動する音楽が生まれるわけではないだろう。心から感動して生まれた音は、それだけでやはり他者の感動を呼覚ます気がする。

10月某日 ミラノ自宅
耳の訓練の授業を受持ってもう随分時間が経つ。今年から国の方針で音響技師科が大学課程に組込まれて、音響技師科の新入生16人の授業も受持つことになるのを聞いたのは、学校の授業の始まる10日前程。蓋を開けてみると、前期のクラスだけで器楽科の教室は22人、作曲と指揮の教室が3人、映画音楽作曲の教室は16人、その上、音響技師の教室が16人。
ドイツのトーンマイスターとは随分格が違って、イタリアで音響技師と言うと、今までは基本的にスタジオで実践しながら手に職をつけて仕事を始めるような立場だった。
最初の授業は、彼らの今までの音楽体験などを自由に話してもらう。16人中、楽譜が全く読めない学生が1人、ト音記号は何とか読めるが、ヘ音記号は全く読めないという学生が3人もいる。尤も、彼らに必要な耳の訓練をすればよいわけだから、楽譜が読めればよいわけでもないだろう。
音を聴く、という作業を視覚化するため、黒板に、五線など無視して極端に大きな全音符を三つ縦に並べてかく。適当に三つの音の和音を弾くから、こちらが言う音を眺めながら聴いてみて、と練習を始める。すると、当初三つの音が絡み合って聴こえていたのが、少しずつ頭の中でほぐれて見えてくるのがこちらから眺めていてもわかる。
音は、聴こえると思えば聴こえるし、聴こえないと思えば聴こえない、不思議な存在だが、まず頭の中で音を聞かず、音の存在を目の前で見えるようにする。音が見えれば、必ずそれが聴こえるようになる。下手に音楽の訓練をしていない彼らは、特にその反応が早かった。皆自分の耳が嘘のように聴こえる、と興奮している。音を聴くために、楽譜がどうしても読める必要などない。

10月28日 ミラノにて

168わざうたさん さようなら

藤井貞和

1、すぐ窓の下を通ってゆく幼児の、何とも幼い声で歌う、

からす、なぜなくの
からすのかってでしょ

という歌、「七つの子」の替え歌が聞こえてきて、「ええっ、それって、
ずいぶんまえに流行った歌なのに」。 ドリフターズの志村けんさんの、
一九八〇年代初頭の替え歌で、いまでも歌い継がれているのだ。
当時の志村にしても、近所で聞いた小学生の歌だったと称して、
十年に一度やってくる、わざうたの一つではないかと思える。

2、一九九〇年には、「おどるポンポコリン」(さくらももこ作詞)について、
あれは湾岸戦争(一九九一)を予言するわざうただったと、
当時、ある大学の紀要に研究論文を発表した人がいた(久冨木原玲さんだ)。

いつだって わすれない
エジソンは えらいひと
そんなの常識 タッタタラリラ

3、周東美材さんの『童謡の近代』(岩波現代全書)の書評会があり、
コメンテーターを私は引き受けたのに、ついに当日までに、
本ができてこないという、とんでもない集まりで、しかたがないから私は、
童謡の本だから、わざうたぐらいは話題に出てくるだろうと、
予言ならぬ予想をつけてハンドアウトを作った。 わざうたのことを、
古代中国でも『日本書紀』でも〈童謡〉と書く。

4、ちなみに周東さんのめずらしい「美材」という名は、
平安時代の文人、小野美材(おののよしき)から付けられたというので、
小野美材のほうならば、まあまあ私なりにコメントできるのにと、
軽い愚痴が残った。

5、で、「おどるポンポコリン」の歌詞のなかに、
湾岸戦争が隠されているかどうか。 つまり わざうたとは何か、
ということだが、歌詞のなかに秘密が隠されているのだろうか。
じつを言うと久冨木原さんが「この歌はわざうただ」と言ったとたんに、
「おどるポンポコリン」がわざうたになる。

6、北原白秋が幼児の歌を集めて、詩の原初性をそこに見いだしたとする論旨には、
大いに共感する。 三歳の子の、

オブダウモ            (お葡萄も)
オヤアスミ グッドナイ      (お寝あすみ グッドナイ)

には、〈葡萄への未練がありそうで、かわゆいと微笑させる〉と、
白秋の言にあるという。 「ルッソオの懺悔録に、〈焼肉さん さようなら〉という、
幼年時代の一齣があって泣かせますが、異巧同曲とでも申しますか」と、
白秋が子供の自然状態をルソーに思い合わせたとする指摘は言い当てているな。

さくらももこさん 哀悼します。

(わざうたがこの世から、いなくなって十年、二十年。どこに消えたのだろう、ポンポコリンはさいごのわざうたでしたね。〈宣伝〉『非戦へ――物語平和論』を長崎のちいさな編集室・水平線から出します。水平線を応援してね。)

だれ、どこ(12)小杉武久(1938年3月24日-2018年10月12日)

高橋悠治

時間はゆっくりとすぎる 音の釣り 音楽のピクニック
時の痩せ馬をせきたてていた世紀の前衛が 向きを変え 時間をかけて
ささやかな音を立てるものたちに聞き入る時が来たのか
ちいさなカードに書いた一つの動詞に 時間をかけて
歩きつづける 上着を脱ぐ 袋に入って 裂け目から手を出す
ピアノに触らず音を出す できるだけおそくSOUTHと言ってみる
south 南へ 時も停まる真昼を指して 
タージマハールへの旅も
まず地球の反対側 ストックホルムからバスで10ヶ月かけて回りこむ
またある時は ヒマラヤに飛んでいった魂を追って 逆方向のアメリカへ旅立つ
道の途中の出会い 時間をかけて
ひろいあつめたちいさなものたち
ちいさなテーブルいっぱいに
ゴム風船から空気を押し出す 焼き鳥の竹串をはじく ビンのフタのコマ回し
紐で吊るした発振器を扇風機で揺らす 自転車を乗りまわす 箒で天井を掃く
砂に埋まった時計 塩が 砂糖が時を刻む
用から解き放たれた日用品の休日
無用の用に 反職人の職人芸

遠く思われたタージマハールへの旅も
たどりついたら終わる
どこにもたどりつかない道があるかな
行先から解き放たれた道の休日
道が道をたのしむ 未知の道すじ
曲がりくねって先が見えない 小径
羊を追って角を曲がれば未知の風景 ますます分かれる枝路
いつかは羊も忘れ 
旅が旅する行商人 停まりながらすすむ
小杉さん また同じことをして
草木は萌え 花開き やがて萎れていくだろう
同じことも同じにならない そこにあるものも
いつか見えなくなり

死神から手紙が来た おまえはもうおしまいだ
ハーメルンの笛吹のようには連れていかない ベッドの脇で待ってもいない
姿を見せず遠くから この電子メールの時代に おそい郵便が届く
気がつくと その手紙さえ見当たらない この状態であと10年生きることが
どうしたらできるだろう
じっと見ていると すこしずつ換わる 時間の風合い
風 波 森

2018年10月1日(月)

水牛だより

忘れかけていた暑さが台風のあとにやってきた10月のスタートです。とはいえ、おなじ30度という数字であらわされる暑さですが、10月の30度は夏の30度とおなじではありません。先週あたりは玄関のドアを開けて外に出ると、金木犀の甘い香りの圧力に体がからめとられるようでした。ゆうべの暴風雨にもめげなかったのか、今朝のまぶしい光のなかでもまだほんのり匂っています。

「水牛のように」を2018年10月1日号に更新しました。
台風の来る前に、台風の最中に、そして台風が過ぎ去ってから、といつものように原稿を書いて送ってくださったみなさん、ありがとうございます。
雨やよし風吹き通せ辺野古から

カラワンのメンバー、モンコン・ウトックが亡くなりました。
9月14日にライヴを終えたあと駐車場で心不全をおこして倒れ、15日の未明に息をひきとったということです。67歳でした。その場に居合わせた森下ヒバリさんが知らせてくれました。
タイではお葬式は何日もかけておこなわれるのですが、カラワンのリーダーだったスラチャイ・ジャンティマトンが喪主をつとめた日もあったようです。そして22日の夕方に火葬式があり、モンコンのスピリットだけがこの世に残されました。
youtubeではカラワンやモンコンの演奏をたくさん聞き見ることができます。モンコンが亡くなったせいなのか、「ピンの歌」など100万回以上も再生されているのを見ると、ひとつの終わりなのかもしれないと思ったり、なにか別の新しいことの始まりでもあるのかと思ったり。彼と最後に会ったのは、3年くらい前にカラワンが来日したときでした。別れるときには、じゃあまたね、この世かあの世でね、と言って笑いあったことを思い出します。

それではまた!(八巻美恵)

167物語するブハーリン

藤井貞和

――「だからこそ我々は美をより美しく、
しかもより普遍的にするための活動をしなくてはならない」。
あなたがそう書いたのはW高等学院時代である。
広い校庭にあつまり、ぼくらは十年後の物語探求会をめざして、
KMとともにあることを確認する。 しかし、
KDもまた亡くなる。 大学四年生たちの青春でした、
――「うなじ屈するゆえの反抗」(KD)と。
次ページに、アナキズムのOMが、〈プロレタリア独裁と連合主義〉を書いている。
ぼくらはどこへゆこうとしていたか。 連合主義の、
黒旗に青く刷られた敗北。(黒地なので読めなかったが)――
時間は水の遺骸だとあなたは羊歯の紋章に書き、
――「人知れぬ微笑」(KM)から物語連合へと急ぐ。 

 
(羊歯の紋章というのは、括弧をはずすと羊歯になり紋章になる。括弧にいれると『羊歯の紋章』という誌名になる。1964年創刊、発行人北村皆雄。なかに「喪亡との対話=あるいは巌石と宇宙の詛祝」を書いている江原健人は、物語探求会を私も参加して立ち上げたMKその人である。革命家のなまえは永久に封印するのが仁義だろう(ごめん)。MKが高校生で論じていたブハーリンの本名を私は知らない。むろん、そのころ私はMKを知らず、知り合ったのは七〇年代にはいってからだ。亡くなって十年、だれもが匿名のなかでしか生き死にを迎えられない。「雨やよし風吹き通せ辺野古から」〈当確を聞いて〉。)

2つの評伝

若松恵子

この夏は、ちょうど同じくらいの厚さの文庫本2冊といっしょに過ごした。尾崎真理子著『ひみつの王国 評伝石井桃子』(2018年4月/新潮文庫)と大竹昭子著『須賀敦子の旅路』(2018年3月/文春文庫)だ。語られる彼女と語る彼女。それぞれ2人ずつ、合計4人の女性に触れる時間だった。

川本三郎の新刊を見つけた棚の近くで目が合った『ひみつの王国』は、著者の尾崎真理子が気になっていて手に取った。私とあまり変わらない世代の彼女が、大江健三郎や谷川俊太郎の長いインタビューを本にしていて、どんな人なのだろうと興味を持った。先に読み始めた川本三郎の新刊『それでもなおの文学』(2018年7月/春秋社)のなかに、川本氏が書いた『ひみつの王国』の文庫版解説が収録されていて、この偶然にうれしい驚きを覚えた。

川本氏の解説を引用する。「石井桃子についてのはじめての、そして、最良の本格的評伝である。200時間に及ぶインタビューと膨大な資料、緻密な取材によって丁寧に書かれている。何よりも、まだ女性が社会に出てゆきにくかった時代に、働く女性としてみごとに生きた石井桃子への敬意がある。自立した女性の大先輩への深い尊敬の念がある。それが本書を清々しいものにしている。1959年生まれの著者は、幼ない頃から石井桃子の訳した児童書に接していたという。物語の楽しさだけではなく、言葉の面白さを子どもながらに知った。著者にとって石井桃子は『幼稚園に入る以前から日本語の基礎を授けてくれた、最初の先生だ』という。」

川本氏によるこの要約に全く同感だ。また、評伝を書くにあたっては「安易に登場人物の会話を小説風にして書く」というようなことはなく「資料の引用から会話を引き出している」ことを「丁寧で誠実な仕事のあらわれである。」と指摘している点も、確かにこの本の魅力を語っていて、その通りだと思った。石井桃子への敬意に裏付けられた丁寧で誠実な仕事によって、彼女の人生の多面性が、はじめて紹介されたのではないかと思う。

あとがきで尾崎はこのように書く。『「あなたはやっぱり、調べてお書きになったのね、兵隊さんのことまで・・・」。当人の、当惑した声が聞こえてきそうだ。「でも、お話を聞いてしまったからには、書かない方が罪は重いと考えました。」私はそう応えたい。あえて黙したままとされたことも、忘れてしまいたかったであろう苦しい時代のことも書かせてもらった。』と。そして「掘り出せぬほど深く埋め込まれた秘密はまだ、残されているだろう。」としたうえで、「こんなにもあなたはこの国の幼い子どもたちのため、後輩の女性たちのため、自分でも喜びをもって存分に仕事をして、生涯をまっとうされたではありませんか」と、「何度でも感謝をもって呼びかけたいと思う」と語る。尾崎の、石井桃子への思いを感じる、心のこもった一文だ。生きるただなかにおいて、その時々の選択がどういう意味を持つのか、その後の人生をどう変えていく事になるのか、当人は知らない。ただ懸命に毎日を生きていくのみだ。人生が閉じられたあとに、その全体の軌跡を、その不思議さを評伝は書き記す。私は、自分もまた「存分に生きた」といえる人生を送りたくて、その励ましとして評伝を読む。

犬養毅、菊池寛、井伏鱒二、太宰治、山本有三、吉野源三郎、瀬田貞二、尾崎の丁寧な仕事によって描き出された石井桃子の生涯には燦然と輝く巨星たちが、時代ごとに星座を成している。「その人々と知り合った理由、交友の一つ一つに、日本の近現代史、文学史の軌跡をたどることができる」と、あとがきにあるように、時代を知っていくおもしろさもまた、この評伝の魅力であるといえる。

もう1冊の評伝『須賀敦子の旅路』もまた、著者大竹昭子への関心から手に取った1冊だった。大竹昭子の書く文章に魅かれ、彼女の新刊を探してこの本にたどり着いた。文庫によるこの新刊は、まえがきによると、かつて出版した『須賀敦子のミラノ』、『須賀敦子のヴェネチア』、『須賀敦子のローマ』の3冊を評伝としても読めるように加筆改稿し、あらたに「東京編」を加え、出会いのきっかけとなったロングインタビューを収録して1冊にまとめたものであるという。

須賀敦子の書く文章を「世間のしがらみから一歩引いて物事を見つめる彼女の眼差しには、自分のことに奔走したり、やるせない出来事に汲々としたりしている私たちの呼吸を深くしてくれる不思議な作用が感じられる」と大竹は書く。須賀敦子の文章を読む喜びを「私たちの呼吸を深くしてくれる」と書く大竹に共感する。そして、帰国してから『ミラノ霧の風景』が出版されるまでの20年間の足跡をたどった「東京編」を興味深く読んだ。「若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどうしてか。そのあいだにどのような時間が過ぎ、それは作品にどのように投影されたのか。そんな問いを、須賀の晩年にちかづいた自分自身の人生と重ね合わせつつ、想像した」それが大竹にとっての須賀敦子への旅だったのだ。そして、それは、生きられた人生から文学作品という虚構に飛躍する意味を追った旅だったといえる。須賀の「回想記でありながら自分のことを声高に語らず、むしろ自身を後退させて人間ぜんたいのことを綴ろうとする意志のこもった慈しみ」が人を励ますのだと大竹は語る。自分の体験そのままを語ったのでは文学にならない、文学について真剣に考えていたからこそ、自身が書きだすまでには長い時間を要したのだという事だ。

ミラノ、ヴエネチア、ローマ、東京と須賀の人生を辿ることで、「事実を虚構化することの大切さを主張した作家の事実に触れ、暴いてしまうのが怖かった」が、実際の旅を通じて作品の背景が明らかになり、納得することで「抑制された文章の奥にあるものに近づいていける深い喜びにみたされた」と大竹は書く。大竹の評伝を読む私もまた同じことを感じる。

大竹がはじめて須賀敦子にインタビューをした春の宵に、通りまで送ってくれた須賀敦子は「箱に入れてとっておきたいような夜ね」とつぶやく。そのエピソードを紹介しながら「季節がめぐってくるたびに、箱を開いて、この日の出会いと、語られたことばを思いだすだろう。」と大竹も綴る。人が人に魅せられ、会って話が聞きたいと出かけていく。そのいてもたってもいられない強い思い。大勢のなかから自分をみつけて、理解者が訪ねてくる喜び。大竹が須賀をインタビューした春の宵の情景は、評伝を読むおもしろさの象徴として、尾崎真理子と石井桃子の姿とも重なりつつ胸に残る。

15年後のモスル紀行

さとうまき

初めて僕がモスルをおとずれたのは、今からちょうど15年前の10月6日。バグダッドにずーっといて米軍に囲まれたりして、閉塞感を感じていたので、「鯉の丸焼き」が食いたくなった。イラクではマスグーフといわれる炭焼きの鯉が有名で一度は食ってみたかったのだが、バグダッドでは、核施設が貧乏な盗賊に襲われ、放射能廃棄物が入っていたドラム缶が盗まれなんとそこについていた黄色い粉を川に流してしまったらしい。なのでバグダッドの鯉を食う勇気はなかった。

チグリス川をどんどん北上してモスルまで行けばうまい鯉が食える! 朝バグダッドを出発。途中の村では、米軍とサダムを支持する部族が激しくやりあっていた。道路をふさぐ米軍の戦車の前には10人くらいの歩兵が銃を構えて通行を抑えていた。爆発音。煙が舞い上がり、銃声が響く。“オペレーション”が終わるのを待ってモスルに到着した。そして、僕は鯉を食べた。脂がのっていてうまい。炭で焼くから香ばしいのだろうな。15年の歳月がたち、そんなことを思いだす。

薬を車に積んで、遅めの出発。アルビルからモスルは、一時間もあればつく。日本のTVが取材したいという。僕が張り切って、薬を詰めている映像を撮影されていた。時間がないので、ローカルに詰めかえようとしたら、僕が張り切らないといけないらしい。モスルのイブンアシール病院で働くワサン先生に、検問のところまで薬を取りに来てもらうという設定で、「ここから先は、日本人にはまだまだ危険なので、ドクターに取りに来てもらって持って行ってもらいます」と張り切って説明している映像。我ながら優等生。「決して危険なところにはいきません。ワサン先生! 頼みます。」ということで僕のレポートはここまで。手を振って見送った。

「イブンアルアシール病院は、2014年にISに占領されていました。2016年の暮れには、ISのアジトとなっているということで連合軍が空爆をした。ISは、うちのスタッフを選んで救急車を運転させ武器を運んでいたみたいです。病院に入ってきた救急車めがけてミサイルが飛んできた。そばにいた5人も巻き添えになりました。その時武器を運んでいたのかどうかはわかりません。そして、その後年が明け1月には、イラク軍が病院を解放したのはいいのですが、今度はISが敗走する際に火を放って病院をめちゃくちゃにしていったんですよ。この戦争では、化学兵器も使われて、そのせいかがんの子どもたちが増えている」ナシュワン先生が日本のTVの前で説明していた。

骨髄移植センターを作る予定になっていた建物は医薬品の貯蔵庫として使っていた。米軍は、その建物も空爆した。中に入ってみると焼け焦がれた医薬品が大量に残っていた。焦げ臭いにおいと埃が舞い上がり、インタビューを受けるワサン先生は、せき込んでしまい、しゃべれなくなった。

病院のスタッフは、「そこには何があるかわからないから、行かないで」と止めるが、クルーたちはすすんでいく。不発弾があるかもしれないし、化学兵器を作るための原料かもしれない。クルーが歩くたびにバリバリと割れる音、足元には大量の試験官が散らばっていた。

橋を渡って西側の旧市街を見る。コンクリートの屋根は落ち、柱もほとんどハチの巣のようにコンクリートが銃弾で削られ、やせ細っているような建物ばかり。15年前に鯉を食った町の面影はない。えげつない破壊に言葉を失う。

今、僕たちの中で話題になっているのが、戦場のマクドナルド。Mのマークにouslとあってdonald’sと。つまり モスルドナルズ。Mのマークがそっくり。でも、行くと、怖いおっさんが出てきて「写真を撮るな!」と脅されるらしい。TVの人は、世界中のマクドの写真を撮って、写真展をしたこともあるという。「実は、今回モスルの企画を出したのもマクドがあると聞いて、その写真を撮りたかったんです」と打ち明けられた。地元の人にマクドがどこにあるのかしきりに聞いている。

帰りがけにとうとう見つけた!車窓から慌ててカメラを向ける。隠し撮りに成功! マクドができるくらいモスルは復興している?

モスルから戻ってきたTVの人と話をする。「(モスルはすごすぎて)どこまで(僕らの支援)活動を紹介できるかわからなくてごめんなさい」といわれた。張り切って説明したが、ほとんどカットされるかもしれないという。15分の番組だそうで、おそらくタイトルは「スクープ! モスルにできた偽マクドナルドの正体を暴く!」になるのかな。うーん。

仙台ネイティブのつぶやき(38)身欠きニシンの友

西大立目祥子

親しい友人が、また一人亡くなった。
今年はいったいどうしたというんだろう。4月からずっと毎月のように誰かが亡くなっている。誰しも、こういうことが続く年があるんだろうか。それともじぶんが歳をとったということなのか。日常の時間に、立ち止まって考えさせられるような休止符がふっと入ってくるような感じだ。

亡くなった友人は68歳、男性。最初は、奥さんと知り合い、いろいろ話をするようになったのだが、引っ越して家がごくごく近くになって、家族とも親密につきあうようになった。もう30年くらい前のことだ。

残業してくたびれてバスを降りると、その友だちの家の玄関の白熱灯がぼおっと灯っている。吸い込まれるようにして、「こんばんは」とガラスのはめ込まれた引き戸を開けて上がり込んでしまう。まだ小さかった娘たちは、もう隣の部屋で寝息を立てていて、薄暗い明かりの下で晩ご飯の残りをおかずにビールをごちそうになるのだった。しゃべっていると、いつのまにか外から帰ってきた飼い猫のレイ(本名はレーニンというんだった)が膝に乗ってくる。う〜ん、重い、といいながら2杯目に手を伸ばす。けっこうおなかが満たされたところで、すぐそばのじぶんの家に帰った。

たまに隣の部屋の娘が目をさまして起きてくることがあって、夫婦のどちらかが寝かしつけに行ったまま寝くずれてしまうことがあった。そうかと思うと、ガラス戸を開けると知り合いが飲んでいることもあった。あれれ、こんなところでといいながら同じように上がって話し込む。誰かれいつも人がいたのは、奥さんが塩竈という港町の老舗旅館の娘でいつも大勢家に人がいたのと、その友だちは北海道の炭坑の出身でおそらく濃密な近隣とのつきあいの中で育ったからなのかもしれない。

いったい何を話していたんだろう。本の話や建築の話、政治のことや人の噂なんかだと思うのだけれど、いまいち細部が浮かび上がらない。
それよりずっとくっきりと浮かぶのは、その友だちの料理だ。当時はまだサラリーマンだったから、そんなにひんぱんに料理をつくっていたとは思えないのだけれど、のちに少し離れたところに引っ越し、やがてフリーランスの大工になってからは、晩ご飯のほとんどを友人がつくるようになった。

最初の一撃は、北海道の姉さんが送ってきたという漬物だった。材料はキャベツと大根とニンジンと身欠きニシン、そして麹。麹の白いつぶつぶと黒っぽいニシン、キャベツの淡い緑の彩りがきれいで、麹のまろやかさにニシンの旨味が加わる。これは北海道の人たちが冬支度をするときに用意する漬物らしかった。東北だったら冬支度といえば白菜漬け、たくあん漬けになるのだろうが、漬物にニシンが加わるのがいかにも北海道だ。身欠きニシンて何ておいしんだろう。独特の味わいも身のほぐれ方も、細かい骨までもが好きになり、私自身もよく料理に使うようになった。

シシャモもしょっちゅう登場した。衣を付けて揚げて南蛮漬けにしたり、マリネにもしたりする。そして昆布。煮物には必ず昆布が入る。昆布とニシンをやわらかめに煮合わせるのもおいしい。こうやってあげてみると、生まれ育った土地の食べ物を一生背負って食べ続けていたんだなあと思う。そういえば、学生時代に奥さんと知り合い結婚して、最初にシシャモを焼いて食卓に出したとき、奥さんに「これ、人の食べるものなの?」といわれてショックだったといってたことがあった。北海道の人たちは、本州に暮らす人を「内地の人」とよぶというのも教わったけれど、その生活文化の違いに愕然としたのかもしれない。

もう15年くらい前くらいからだろうか。おせち料理をトレードするのも楽しみだった。初雪が降るころになると、今年は何つくるかなぁと飲むたび料理本や新聞の切り抜きを引っ張り出して話し出す。課題は定番に加えて何をつくるかだ。「よし、今年は鶏肉の八角煮だ」などと結論を出す。やがて大晦日。私が5品つくって持っていくと、友だちは7品も8品もつくって待っている。交換すれば、お重箱に入りきれないほどの充実のおせち料理のできあがり。同じお煮しめでも、全然違う切り方に味つけなのがおもしろかった。もちろん友だちの方がずっとおいしかったけれど。そして、お正月は、今年のおせちはここが失敗だったといいながら、また飲んだ。

友だちが一人死ぬということは、じぶんの中の関心や楽しみが一つ欠落していくようなことなのかもしれない。こんなに手の内を見せ合うような、おもしろがってやる料理の交換を、この先誰かとすることがあるだろうか。身欠きニシンのあの料理、シシャモのあのマリネ食べさせてよ、といっても、つくっておくから飲みにおいでよという人はもうこの世にいない。
奥さんももちろん大切な友だちだから、来年のお正月は喪中だけど、静かに2人で飲もう。友だちの名は久保久。30年くらい前、仙台駅前にあった名物書店「八重洲書房」の営業マンだった、といえば、読書好きの人の中にはあのちょっととぼけた味の風貌を思い起こす人もいるかもしれません。

別腸日記(20)菌食考─その1:タマゴタケ/Amanita Caesareoides

新井卓

(「別腸日記」はそろそろお酒の話の蓄えがなくなってきたので、今後は好きな料理やキノコの話も、折々していこうと思います。あしからず、ご寛恕ください。)

夏の暑熱が目に見えて衰え、弱々しい斜陽に山の緑が色を失うころ、地上に、深紅のかたちがあらわれてくる。森の奥へと点々と続く色鮮やかな球体は、通称「カエサルのキノコ」、すなわちタマゴタケの幼菌である。本菌は長年の憧れだったのが、どういうわけか一度も完全な姿に遭遇したことがなかった。それがつい先週、大阪を発つ日ふと訪れた岩湧山で、タマゴタケの大輪生に出会ったのである。

台風一過、沢山の倒木を踏み越えながら山道を登りはじめてほどなく、あまりにも場違いな鮮烈な紅色が、深い霧を縫って視界に飛び込んできた。はやる気持ちを抑えながら、道を逸れて藪に分け入る。真白い外被膜を破って、つるりとした頭を覗かせたキノコは、つい一、二時間前に花開いたばかりのようだった。その横にひとつ、またひとつ、と、大きさもまちまちなタマゴタケが、ゆるやかな円を描いて森の斜面に並んでいた。堂々と立ち伸びる成菌は霧のしずくに傘を濡らして、深紅から橙色に至るグラデーションを、ジェリー状の皮膜の下に輝かせている。

キノコたちはなぜ、こんなにも燃え立つような色彩を誇るのか──顔料ではとても再現できないスミレ色や、コバルト・ブルーのキノコを目にするたび、生命圏とは決して解きえない謎なのだ、という思いを強くする。

採り尽くさぬよう適度に間隔をとりながら、十か十五も集めただろうか。岩脇山へとつづく尾根に到達するまで、そうした輪生に三度も巡り会った。籠を持ってくるべきだったが、かたちを崩してしまうのを惜しみながら、ひとつひとつ、バックパックに収めていく。こうして、集めたキノコの重みを肩に感じながら歩く山ほど、心躍るものはちょっとない。そしてその喜びは、自らの判断に身をゆだねて収穫物を口に運ぶ緊張を経て、ふたたび、身体の中から立ちのぼってくる。

タマゴタケは生食ができる数少ない菌種のひとつ、であるらしい。翌日、上等のオリーブ油と岩塩、レモンを搾りかけて、薄くスライスした幼菌を口に運んだ。もろく壊れやすい軸は、噛むと思いのほか、ぽくぽくと歯触りがよくまずブルーチーズのような香りが鼻に抜ける。それからわずかにほろ苦い味と、松の実に似た、こくのあるうま味が口の中にひろがった。中甘口の白ワインがよさそうだったが、涼やかな秋の陽の下、はちみつの味がするハイランド・ウイスキーを合わせることにした。

キノコ・スパゲティーのレシピ(2人分)
材料
・野生のキノコ(市販の場合はエノキ、ナメコ、椎茸のミックスがおすすめ)300g
・にんにく 1かけ
・辛口の白ワイン 150cc
・オリーブ油(炒め用)大さじ2
・エキストラ・バージン・オイル 大さじ1
・塩 適量
・胡椒 適量
・乾燥スパゲティー(1.6mmくらいのもの) 2人前

手順
1. フライパンに炒め用のオリーブ油を入れる。刻んだにんにくを入れてから火をつけ、弱火に。
2. にんにくの端がキツネ色になったら、キノコ、塩一つまみを加えて中火で炒める。
3. 鍋に湯を沸かし、ひとつかみの塩を加えてスパゲティをゆで始める。
4. 2のフライパンがにぎやかになってきたら、白ワイン、パスタのゆで汁少々を加えて、炒め合わせる(キノコがくたくたになり、とろみが出るくらいまでしつこく炒めるのがポイント)。塩で味を整える。
5. スパゲティーを味見して、アルデンテより少し固いくらいでざるに上げ、4に加える。
6. ごく弱火にするか、または火を止めて、2分間、麺とソースを天地を返しながらすばやくかき混ぜる。油っこい光沢が消えて全体が乳化したら、器に盛る。
7. エキストラ・バージン・オイル、胡椒を振りかけ、好みで砕いたクルミまたはパルメザンチーズを振って食す。

補足
4のワインを日本酒に置き換え、さらに醤油小さじ3、みりん大さじ1を加えて仕上げに刻み海苔、カイワレ大根を添えると和風スパゲティになる。

しもた屋之噺(201)

杉山洋一

ボローニャの劇場で、クセナキスのバレエ稽古を眺めながらこれを書いています。今月は悠治さん旧作室内楽の練習から始まり、翌日家族で中央シベリアへ発ちました。イタリアに戻ってからは、学校の試験などが続き、漸くクセナキスに集中できる状況になりました。

若いバレエダンサーたちは、恐らく演劇畑から連れて来たのでしょう。休憩中など、仰々しい口調で「吾輩の人生は、左右にふれる振り子のようなもの」などと大声を叫びながらじゃれ合っています。ボローニャは常に若者の街。劇場の周りも、常に大学生で溢れかえっています。

彼らは輪になって走り、倒れ、迷い、闘い、揺れています。少なくとも舞台上に60人はいるでしょう。彼らの激しい息遣いが舞台から劇場一杯にひろがります。リノリウムを引いた舞台から、キュキュと靴が擦れる音がそこに交じります。意図したものなのか、彼らの動きは、ちょうどクセナキスの音楽をそのまま視覚化したものにも見えます。一つ一つのダンサーは端正で静的なルカの演出のうつくしさを描きつつ、それらが集団として激情をほとばしらせるさまは、圧巻です。

9月某日 三軒茶屋自宅にて
高橋悠治作品リハーサル。「6つの要素」の稽古では、まず口三味線で雰囲気を作ってから、流れを感じながら楽器で音をだしてみる。細部を積み重ねてつくる音楽ではなかった。もしかすると最近の作品と演奏のスタンスは違うかもしれないが、音符を載せる箱があるかないかの違いはあっても、本質的には違いはないように感じる。「クロマモルフ」では、悠治さんがヴァイオリンのポンティチェロの響きを探して、あれこれ試してみる。やはり作曲家が目の前にいる意味は計り知れない。音を入れて形を整える前に、音楽の本質を掴むことができる。

演奏しやすく、わかりやすく、バランスよく、スタイリッシュな昨今の現代音楽にはない存在理由。たとえ、作曲の意図は、50年前と同じような武骨なものであったとしても、それを最新式コンピュータのフィルターにかけると、近似値に偏るためなのか、どこかみな似た手触りになる。そんな将来の音楽を知ることもなかった作曲者によって、まだ見ぬ未来へ放たれた、希望とも不安とも戸惑いとも無邪気とも聴こえる音たち。

9月某日 クラスノヤルスク
ハバロフスクの空港のパスポート検査に並びながら、バッハのチェンバロ協奏曲を読んでいたのを思い出す。家人のピアノの伴奏をするのは久しぶりで、新鮮だった。普段はレッスンで彼女が我々の伴奏をしてくれているから、一緒に演奏することそのものは別段珍しくないが、彼女のピアノが引き立つように、演奏家たちの耳を彼女の音に近づけてゆく作業は普段とはまったく違うプロセスとなる。

自分にとってバッハは本当にむつかしく、新古典やロマン派、それ以降のものを勉強してからでないと、バッハを演奏する意味も方法も見いだせない気がしていた。物凄く複雑だから手が出せないのだ。バッハ以外の複雑な音楽は、複雑だからこそそこに端正さ、或る意味での平板さ、単純さを見せることが、自分の演奏のスタンスだと思っている。バッハはどうか。複雑だから、単純に見せるような音楽だろうか。それ以前に果たして単純になど、どうやって見せられるのだろうか。

そんなことを考えているから、頭でっかちで手が出なかった。今回、家人の伴奏のため譜面を読むと、どの小節も演奏する喜びに満ちていて、イタリア音楽への憧憬もありありと感じられたから、その辺りをどう引き出そうと考えているうち、普段の心配などすっかり忘れてしまった。感情を込めることで成立する音楽ではないから、家人の音のうつくしさが際立つ。珍しい夫婦共演に息子は大喜び。

折角家族でやってきているというのに両親がずっとリハーサル続きで、息子はつまらない。今日のリハーサルが終わってから、マウンテンバイクを3台借り、既に昼に一回りしてきた息子が先導して、夕焼けの雄大なエニセイ川を眺めながらサイクリングする。なぜマウンテンバイクなのか不思議だったが、かなり野趣溢れるサイクリングで、一時間は軽くかかる。大人が走っても十分面白く、世田谷公園とはずいぶん違った。

9月某日 クラスノヤルスク
リハーサルは午後からなので、ラリッサに連れられて、息子とアスターフィエフの生家へ出かける。街から30キロ程の距離、クラスノヤルスク水力発電所から6キロほど下ったあたりのエニセイ川のほとりの古い小さな村にある。花壇の美しい木造りの旧家に入ると、これがロシアの伝統的な家の匂い、とラリッサが嬉しそうに呟いた。アスターフィエフの代表作「魚の王様」は邦訳も出ていて、今度読んでみたいと思う。彼の父親はずっと牢獄に繋がれていて、母はアスターフィエフが幼い頃、エニセイ川で投網をしていた折、誤って網に絡まり川底に沈んでしまった。河を一望する展望台には、チョウザメの模型。アスターフィエフの「魚の王様」のモニュメントだと説明を受けたが、何しろ読んでいないので意味がよく分からない。

シベリアに着いて以来、余りに美味なのでウーハという魚のスープを毎日食べている。鮭の場合が多かったが、チョウザメで作るウーハもあって、とても脂こくなるそうだ。シベリアでは肉が食べられないと困るだろうと心配していたが、杞憂におわった。息子は、ロシア風餃子が気に入って繰り返し食べている。家人の好物のピロシキは、日本の揚げパンとはずいぶん印象が違って油ぽくない。野菜や魚のピロシキもあって、これは何度も頂く。文化や人種、音楽はもちろん、料理ももちろんロシアは我々とヨーロッパの中間にある。

9月某日 クラスノヤルスク
ミハイルからいいね、君の「レパ」はとてもいいね、君の「レパ」は、と言われて、最初は何のことだかさっぱりわからなかったが、英語が苦手でいつも仏語で話していたので、「レパ」は曲名の「the steps」を「les pas」と仏語で呼んでいるとはわからなかった。

言葉で細かい手続きを伝えるのも大変そうだったので、指揮なしの作品を作るにあたり、流れは極力単純にする。最初は本條さんの三味線と弦楽オーケストラはそれぞれ別の世界にいたけれど、リハーサルを繰返すなかで、互いの音楽が聴こえてくると、互いが発する音が急に有機的に混ざりはじめ、化学反応をはじめる。

何か作り上げられたものを、実現するために弾いているのではなく、どう弾いても間違った演奏にはならない、という曲を書いてみたい。演奏は正しいことを実現、再現するためではなく、演奏して作り出すために必要とされる。或る箇所では、三味線とオーケストラが互いに聴きあい、刺激しあって進んで欲しいと伝える。言葉ではいとも簡単だが、実現は容易ではない。本條さんはその部分になると聴衆に背を向け、ピアノやチェンバロの弾き振りのように、オーケストラメンバーを見つめながら演奏した。すると途端に、オーケストラの音色も、顔の表情もまるで違ってみえる。

サスナヴァボルスクで演奏したときは、演奏前に、作品の素材がブリヤートのシャーマンの歌の断片であること、これらが日本人の原風景ともつながっていることなどを説明したからか、演奏家たちの音が最初からまるで別人のようだった。シベリアの人々は例えヨーロッパ系であっても、西ヨーロッパ人の感性と明らかに何かが違う、我々に近いものを持っている。

9月某日 ハバロフスクから成田への機中にて
オーケストラの弦楽器の美しさに驚く。子供のころから、ロシアのヴァイオリンは本当によく聴いていた。音の深みや濃さは、オイストラフを思い出す。丸みを帯びた音だけでなく、ふとした瞬間に、すっと線を引くような美しい音が駆けてゆくさまは、少し胸と肩を張り出したコーガンの姿を垣間見る思いがする。とにかく、それぞれの発音の仕方がこれだけ揃うのは珍しい。誰もがミハイルの下で培わられた音だからこそ可能になる表現なのだろう。

しかし彼らの心尽くしには、感服するばかりだ。ボタンが外れたズボンをクリーニングに出せば、丁寧に手縫いで繕ってクリーニングされて戻ってきた。特に肉が食べられないと言わなくても、パーティーでは常に魚料理でもてなされた。ウォッカなどとても飲めないと思っていたが、クラスノヤルスクの白樺の皮で濾した上級ウォッカを頂くと、信じられないほど円やかで美味で、自分が知っているウォッカとは全く別物だった。ソ連時代の名残なのか、時間はとても正確で、こちらがどんな酷いロシア語で話しても、一所懸命理解してくれる、とても心の温かい人々だった。

クラスノヤルスク空港にイタリア風ピザ屋があって、メニューにある「ユージ」ピザを注文した。美味。ハバロフスク朝5時半。飛行場が近づき機体が地面を舐めるように降りてゆくと、真赤な朝焼けの光に、湖沼から湧き立つ白い靄の濃さにおどろく。

9月某日 ボローニャ劇場
クセナキスのスコアは、コピーも薄い上に、細かい動きもあって、本当に判読不可能だと思っていた。まず、2センチごとに、恐らく書かれていたであろうと想像できる箇所に小節線を引くところから始め、遺跡の発掘でもするように、少しずつ音楽がスコアから浮き上がるのを待つ。巨大な遺跡を前にするかのように、塊をつかみながら発掘を進める。ところどころ、年月が経って、崩れかけ粗づくりに見えるのも、ちょうど西洋の遺跡に似ている。自分が演奏するためのキーワードを探しながら、ページをめくる。

悠治さんとクセナキスの音楽は、ちょうどポジフィルムとネガフィルムのようだ。同じ表現を、まるで表と裏から眺めているよう。シルクロードの建造物を西洋と東洋から眺めているようでもある。ルカは一つ一つの動きをていねいに彼らに伝えてゆく。細かい動きの微細は変化というより、鷲掴みにする明快な身振りが、強い表現を生む。静的な表現の印象があったルカの舞台が、クセナキスに突き刺さる。

「文字通りクセナキスの音楽をそのまま舞台で見ているようだ。見事だね」、思わずルカに話しかけると、「そりゃそうだよ、クセナキスの音楽は自分の演出の原点だからね。これが5作目さ。クセナキスから、君ならどんな演出でもやっていい。音に合わせた動きさえしなければね。そう言われて以来、とても自由に感じられるようになったのさ」。嬉しそうに答える。

目の前の無音の舞台では、アリーチェが長い時の流れを彷彿とさせる6メートルほどの細い長い金属棒を掲げ、ゆっくり回転している。傍らではイリーンが、時の流れに翻弄される我々のように、はらはらと回転する。真っ暗の劇場のなか、ヴィンチェンツォの照明が、彼女たちの動きを、傍らから、上部から美しく浮き上がらせては、また深い暗闇へ消えてゆく。

ボローニャ 9月29日

スマホ、柚木香澄の場合

植松眞人

 柚木という名字の人に会ったことがない。ゆずの木と書いて「ゆき」と読む。電話で名前を伝えると、半分くらいの確率で「名字は」と聞き返される。「ゆずの木と書くんです」と言っても、すんなり伝わることはほとんどない。香澄という名前には時々会う。いま通っている大学のゼミにも同じ字を書くカスミちゃんはいるし、字は違うけれどカスミと読む友だちはいる。
 最近はみんながスマホを持っているので、「ゆき」と入力すると、たまに賢い変換だと「柚木」という字が現れる。スマホは便利だ。辞書にもなるし、目覚まし時計にもなる。大学に入学して実家を出てからは、少し時間があるとLINEをしたり、SNSを見たり、簡単なパズルゲームをしたりすることもある。友だちとの写真も全部スマホに入っている。まだ彼氏はいないけれど、同じゼミのカスミちゃんは、彼氏とのキス写真までアップしてリア充ぶりをアピールする。でも、本当はその彼氏とはとっくに別れていて、新しい彼氏もいるんだけどアップした写真は削除していない。なんで、と聞いたら、前の彼氏のほうがかっこよかったしあの写真の自分の顔は彼氏の影に隠れてわかりにくいし、ウラ垢だから新しい彼氏にはばれっこないから、とカスミちゃんは、やばいかなあ、を連発しながら私に笑って言う。
 カスミちゃんのことは馬鹿だなあとは思うけれど、その気持ちはまったくわからないわけではなくて、私はカスミちゃんのことを心からは馬鹿に出来ない。
 だけど、そんな話をしているときに、私はカスミちゃんと一緒にカスミちゃんの昔の彼氏とのキス写真を眺めていたのだけれど、ウラのアカウントを使っているカスミちゃんのほうが、オモテのアカウントのカスミちゃんよりも本物のような気がして、だんだんと気持ちが悪くなってきた。やっぱりこの写真削除したほうがいいんじゃないの、と私が言うと、カスミちゃんは一瞬、真顔になってものすごく私を見下した顔をした。見下した顔というのは、いくら私が何を説明しても決して受け入れないよ、だってあんたは馬鹿だからという顔で、私の友だちのほとんどがその顔を持っていて、時々、互いに見下した顔を向け合っているように思える。私ももしかしたら、人を見下すような顔を持っているのかもしれないけれど、よくはわからない。
 わからないけれど、私はなんだか、そのとき気持ちが昂ぶってしまって、「カスミちゃんてさ」と言ってから、私は自分の名前が目の前のカスミちゃんと同じ字面で同じ読み方なのだということに気付いて、急に吐き気がしてしまって、ごめん、と言って一緒にいたコーヒーショップを出たのだった。
 平日午後の表参道を歩いている人たちはみんなカスミちゃんと同じくらいにはオシャレで、私はこの人たちがみんなウラ垢を持っているんじゃないかと考えてしまい、みんなの輪郭が二重に見え始めて、道行く人たちの人数が急に倍になって道を埋め尽くした。
 私はなるべく人の少ない脇道へと入っていく。オシャレなショップがどんどんと減っていくにしたがって、私は気分は落ち着いていった。小さな路地を見つけては曲がり、小さな路地を見つけては曲がりしているうちに、私は表参道から大きくそれていって、道に迷ってしまったのだった。
 古いビルがあり、その階段に腰を下ろして、私はしばらくぼんやりと汗が引くのを待っていた。路地の奥から風が吹いてきて、私の頬を撫でた。風が私とカスミちゃんを断ち切ったような感覚があった。カスミちゃんと私。表参道と私。SNSと私。大学のゼミ仲間と私。東京と私。さっきの風が、いろんなものと私を断ち切ったように思えたのだ。断ち切ったとまでいかないまでも、なにかクールダウンさせてくれたような感覚があった。

 私は、いま自分がどこにいるのかを確認しようとスマホをバッグから取り出した。するとまた気持ちが悪くなったのだ。SNSとまたつながってしまうような気持ち。またカスミちゃんと連絡を取り合って遊びに行かなければいけないような気持ちがざわざわと私の周囲にわき上がって、私を包み込もうとしているようか気がした。
 私は自分がどこにいるのか、確認するのを諦めて、ゆっくりと知らない路地を歩いた。坂道を上がったり下がったり、また平坦な道を右に曲がり左に曲がった。その間、私はずっとポケットの中にあるスマホをずっと握りしめていた。いままでこうすると私は心細さを隠すことが出来た。なんとなく、スマホのなかにあるいろんな情報が私をこの世の中につなぎ止めてくれているような気がするのだ。
 でも、いま、スマホは冷たいままだった。私はスマホを取り上げて、思い切って電源を入れた。そして、「設定」というボタンをおして、そこから「一般」という項目を選択した。「初期化」という文字が見えて、私は私のスマホを初期化した。個人情報がなにも残らない状態にした。
 私のスマホは、私のスマホではなくなり、私が持っている誰のものでもないスマホになった気がした。
 ちょうど表参道に出たので、私はスマホをコンビニのゴミ箱に捨てた。なにも気にせず、なにも迷わず、私はゴミ箱の中にスマホを投げ入れた。私がそのまま行こうとするとスマホに着信があり、コンビニのゴミ箱の中で着信音を鳴らせ始めた。初期化した直後だったので、私は驚いて立ち尽くした。スマホのなかのアドレス帳を初期化してしまったので、スマホの画面には電話番号だけが明滅していた。はっきりとは覚えていないのだけれど、末尾の四桁がカスミちゃんの番号のようにも思えた。私はしばらく、その番号を眺めていたけれど、スマホの向こうにカスミちゃんが本当にいるとは思えなくなっていた。いままでスマホを通じてやりとりしていたカスミちゃんや大学の友だちやアルバイト先の人たちも、もしかしたらスマホの中にしかいないのではないかと思い始めていた。
 私はコンビニのゴミ箱で鳴っているスマホから逃げるように、駅のほうへと歩いた。すぐ目の前にあった東京メトロの看板の誘導に従って、私は階段を駈け降り、改札へと足早に近づき、スイカを使おうとポケットに手を突っ込んでスマホを……。(了)

個人の自由

北村周一

きょうは、とってもタバコが吸いたい。
ともあれ、タバコを吸いたいと欲する。
欲したおもいが、体内を巡る。
この欲求はなかなか消えようとしない。
タバコとは、単価の安い、欲求(不満)解消の道具である。
火をつけて吸う。
咽や頭が痛くとも、隣人に迷惑だとわかっていても、
灰や燃えカスが危険だと知りつつも、
なにより喫煙タイムは無駄な時間だとわかっていても、
吸わずにいられない。
かくして、一本のタバコを吸いおえて、一気にもみ消すことの悦楽。
この瞬時に消せるところが素晴らしい。
道具たる所以でもある。
 
欲求がまずは芽生え、そしてその欲求を消し去る。
かかる数分の快楽は極めて効果が高いために、また大きな代償を払うことにもなる。
喫煙を個人の習慣や嗜好性とのみとらえ、
禁煙を個人の意志力の強弱と結びつけるこの国では、
世界を敵にまわす覚悟のある、タバコ農家と族政治家と企業人が、
いまもなお健在であることを気づかせる。

習慣的喫煙者の禁煙は難しい。
喫煙は二十歳になってから、と喫煙マナーが声高に叫ばれれば叫ばれるほど、
「高倉健」の孤高と反骨の姿は美しく力強くかがやく。
こどもが親からの独立を宣言するかのごとき喫煙のはじまりは、
企業によるイメージ広告の産物にすぎない。
数年後には、こどもは立派な喫煙者となり、
しかも最初のブランドにこだわる真面目なスモーカーに変身をとげる。

一方喫煙は、こどもだけでなくおとなにとってもデカダンをにおわせる。
禁煙イコール健康指向イメージになじめないおとなはいつの時代もそれなりにいる。
200種類を越える有害化学物質を体内に摂り込むことは、
自己の意志であるとはいえ、寿命を縮める姿勢はたしかに退廃的だ。
しかしながら、既成の価値・道徳に反する美を追い求めた芸術の傾向(辞林21)を、
デカダンスと呼ぶもうひとつの意味ととらえてみるなら、
今日の喫煙スタイルはいかにも格好悪い。

いま一本のタバコを止めることのできない者は、
いや、いま一本のタバコは我慢しよう、
我慢したとしてもその次の一本、
またその次の一本の欲求を空振りにすることはできるかと想像すると、
果てしない欲望の渦が身を取り囲み・・・・・、
この先いつかはその欲求に克てなくなるときが来るだろうことにおもい至り、
それならいまの我慢は何の役にも立たないではないか、
ならばこの一本を吸うことにしよう・・・・・・・。

おもうに、これからの先のことにおもいを巡らせることを中断してみたい。
いまひとときの我慢ですむからだ。
きょう一日の我慢ではなく、いま一本の欲求が通りすぎてゆくのを待つこと。
かくなるひかえめでやや地味な決断は、いささか説得力を欠くようにおもわれるけれど、
個の本来の姿勢に鑑みれば、少なからず能動的に生きているとはいえまいか。
 

*2000年8月に書いた文章を僅かばかり手直ししました。
18年の間に、タバコを取り巻く環境は、幾分変化したように感じているからです。

動きを生み出すもの

冨岡三智

舞踊の動きを生み出す要素は、結局はメロディーかリズムかのどちらかしかない。メロディもリズムも楽曲の形を取ると種々の規則によって制約されてしまうけれど、ここではもう少し広い意味で使っている。流れるような音や声のまとまりがメロディであり、何かがぶつかって生まれる衝動や脈打つものがリズム。一般的な舞踊作品ではメロディとリズムの両方を備え、ある部分では主にリズムによって動きがドライブされ、ある部分では主にメロディに運ばれるように動きが作り出されている。

ジャワ舞踊で言えば、ガンビョン(やキプラハン、ゴレッなど)がリズムによって作り出される舞踊で、これらは民間起源のチブロンという太鼓を使って演奏される。スリンピやブドヨといった宮廷舞踊はブダヤン歌唱のメロディに乗る舞踊だ。ブダヤンでは―特にグンディン・クマナという伴奏楽器がほとんどない古式の編成では―、歌が曲の中心であることが分かりやすいけれど、一般的なガムラン曲では分かりにくい。それは、歌がゲロンという男性斉唱パートと、シンデンという女性歌手のフリーリズムの歌の2種類に分かれ、大編成のアンサンブルのパートに組み込まれ、楽曲形式に当てはめられてしまっているからである。

実は、ジャワの伝統的なガムラン楽曲の旋律の多くはモチョパットが元になって作られている。モチョパットはパンクル、アスモロドノ、ミジル…といった韻律の異なる11種類の詩型を総称したもので、ジャワにはモチョパットを朗詠する伝統がある。伝統的なガムラン演奏会のように、特定の日に人々が集まる会(モチョパタン)やコンテストも行われている。

1970年代になってインドネシアで現代舞踊が模索された時(その先駆者がサルドノ・クスモ氏)、その1つの方向がガムラン音楽の演奏に合わせて踊るのではなく、モチョパットの歌で踊ることだった。そこには、動きを楽曲に当てはめるのが舞踊なのではないという理解があった。楽器という身体の外にある理知的な道具を使うのではなくて、歌という身体の声を聴いて踊ることに目を向け始めたのだった。

私がジャワで伝統的な男性優形舞踊を師事した師匠は、伝統舞踊の名手でもあると同時に現代舞踊家でもあった。師匠が、留学を終えて帰国する私のために授けてくれた最後のレッスンは、私には忘れられない。「これから私が詠うから、それに合わせて好きなように動きなさい。」と言って、師匠はいろんなモチョパットを詠い始めた。それまでの期間、私は師匠の現代舞踊の舞台を見たり、また他の人とのコラボレーションするのを見てきたりしていたから、言わんとすることは理解できた。私なりに流れを感じながら、自分が学んだ伝統的な動きの中からしっくりきそうなものを模索しながら、動きを紡ぎ出した。その時の動きはそれなりに拙いものだったろう。それでも、そのセッションが終わると、師匠は静かに「今の感覚を覚えておきなさい。それがジャワ舞踊の根底にあるもの、スメレ―semelehなものだよ。」と言った。スメレ―は穏やかで落ち着いたという意味で、瞑想修行にもたとえられるジャワ舞踊で到達すべき静寂な境地を指す。わが内なる旋律を見出すこと、そしてその旋律に身を委ねることで生み出される動きを、師匠はジャワ舞踊の本質として示してくれたのだった。

製本かい摘みましては(140)

四釜裕子

上野で『世界を変えた書物展 人類の知性を辿る旅』を見た。主催の金沢工業大学図書館は、1982年に業務のすべてをコンピューターで行うライブラリーセンターとして開館したそうだ。とはいえ図書館の本質は書物にあるとして、科学的発見や技術的発明の原典初版本を集めて「工学の曙文庫」と名付けて中核とした。その2000余冊の中から選んで、大阪、名古屋と重ねた展示の東京版である。古代の知の伝承、ニュートン宇宙、解析幾何、力・重さ、光、物質・元素、電気・磁気、無線・電話、飛行、電磁場、原子・核、非ユークリッド幾何学、アインシュタイン宇宙の13のカテゴリーに分けられて、一冊ずつ、鏡付きのショーケースにおさめられていた。ニュートン、コペルニクス、ダーウィン、デカルト、湯川秀樹、アインシュタインなどなど、本文に組み込まれた図版や写真や手彩色、ときにメモや落書きのような書き込みも見られたし、鏡に映り込んだ表紙や背、綴じ方などを見て、装幀も楽しむことができた。

展示の肝は一冊ずつの稀覯本としての価値を愛でるものではなくて、人類で初めて記録された知の連鎖を、研究者や専門家でなくても書物のつながりとして体感できることだろう。とは言いながら実際は、監修者の竺覚暁(ちく・かくぎょう)さん(金沢工業大学ライブラリーセンター顧問・教授)が名古屋展で行ったミュージアムトークビデオ(2013 82分)を見て、それでようやく、感じられたのだったけれども。会場には、展示書物の関係を色や線を使い分けて図示したり、それらを立体化したオブジェもあった。コペルニクス地動説宇宙からアインシュタイン相対性宇宙への展開がタイトルと著者と発行年が記された一冊ずつの書物で縦横無尽に繋がれているのを目前にすると、実際にその書物らは複数冊でもって世界中の場所と時間を行き交ってきたことが物理的に想像できて、「本」というものはこの世の全てを転写したいという陰謀を持ち、人はその罠にはめられているという毎度の妄想に現実味を覚えてしまう。

昨年『図説 世界を変えた書物 科学知の系譜』(竺覚暁 グラフィック社)が出ている。黒地に金の表紙に金ピカに黒の表紙カバーが豪華だ。なんでも金沢工業大学の工学の曙文庫の入り口が金ピカ的色合いだそうで、本を開けばまさにそこは曙文庫といった具合。本文は、基本、見開きで一冊の書物が紹介される。それぞれ特徴的なページを開いた写真のみならず、表1、表2、背、小口、天からの写真がある。おかげで装幀のようすがわかる。刊行当時の羊皮紙や簡単な紙表紙のものもあるが、留め金付きやらマーブル紙やら豪華な箔押しやら、いつどこで装幀や改装がなされたかを想像するのも楽しそうだ。薄い革を貼った板が表紙で留め金のついたイシドール・ヒスパレンシス『語源学二十書』(アウグスブルグ 1472)。背表紙がすれて3本の綴じひもがあらわになったニコラス・コペルニクス『天球の回転について』(ニュンベルク 1543)、仮綴じのままのアンドレ・アンペール『二種の電流の相互作用』(パリ 1820)。マーブル紙が美しいマリー・キュリー&ピエール・キュリー『ピッチブレントの中に含まれている新種の放射性物質について』(パリ 1898)

ゲオルグ・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン『幾何学の基礎にある仮説について』(ゲッティンゲン 1867)ほか、1800年代のイギリスやドイツで刊行された何冊かに濃淡の青色紙表紙がある。ふと、野村悠里さんの『書物と製本術 ルリユール/綴じの文化史』(みすず書房 2017)のうつくしい水色の表紙カバーを思い出して棚から出してみた。〈表紙カバーと見返しの水色は、民衆本(青本)の色です。青本は17、18世紀フランスの民衆文化を語るときに不可欠のもの。行商人の手で広まり、都市でも農村でも親しまれた青本。その色が、この水色です〉。これとそれは同じ水色なのだろうか。染料は何なんだろう。

野村さんはこの本で、17、18世紀のパリの製本界において、王侯貴族の庇護のもと豪華になる表側に比べて綴じなど内部のつくりが簡素化された(雑になった)謎を追っている。難しくて読みきれずにいたのだけれど、おかげでようやく、とっかかりを得られた模様。今度は読めるかな。

2×3

笠井瑞丈

二つのカラダ
  ×
三つのゲンゴ
  =
三つのコトバ

笠井瑞丈
上村なおか
  ×
笠井叡
近藤良平
川村美紀子
  =
イマハムカシ
かませ犬
事実上の夫婦喧嘩(仮)

二つの身体
三つの作品

見るカラダ=川村美紀子さん作品
聞くカラダ=笠井叡さん作品
語るカラダ=近藤良平さん作品

来月10月

『2×3』

笠井瑞丈×上村なおか

人との関わりという事をいつも
根本におき創作を続けてきました

いままで沢山の方が関わって頂き
作品作り作品に参加して頂きました

ダンスは一人でできる事
ダンスは一人ではできない事があります

人と関わることは自分の知らない鏡の姿を見るような感じ
今回は三人の振付家が作品を作ってくれます

どの作品も全く違う色彩です
この色彩が同じ時間軸に並んだ時
どのような色彩が生まれるのか

踊りを踊り
言葉を語り
音を響かせ

まだ知らない景色世界
まだ知らない身体言語

そんなことを知りたくて

笠井瑞丈×上村なおかダンス公演「2×3」

〜3人の振付家による3つのデュオダンス〜

構成・演出・振付:笠井叡、近藤良平、川村美紀子
出演:笠井瑞丈、上村なおか

日時:2018年10月11日(木)19:00 開演
         12日(金)19:00 開演
           *開場は開演の30分前
場所:国分寺市立いずみホール(JR西国分寺駅ロータリー前)

ススキを探しに

璃葉

今日は中秋の名月なのね、ということばを聞いて空を見上げれば、限りなくまるに近い月が雲間に輝いている。雨ばかりの毎日に少しうんざりしていたということもあり、暫し立ち止まって月を見た。

子供の頃、「お月見」という風習にとても憧れていた気がする。
ススキと積み上げた団子の山をお供えするということをテレビかなにかで知ったのか、母にお月見をしたいとしつこくおねだりしていた。無論、目当ては団子である。実家は団子ではなく、ちいさな器に盛ったご飯とススキをお供えしていたが、母は仕方なく真っ白のお月見団子を作ってくれた。その一度で、私の団子への興味は失せたのだった。

団子のことはさておき、当時、ススキやススキによく似たオギが瞬く間に減少したことが問題になっていた。北米からやってきたキク科のセイタカアワダチソウが猛威をふるっていたためだ。河原や原っぱに生えた植物を食い尽くすように、イエローの花が辺りを覆っていた。そんな理由でセイタカアワダチソウをネガティブなものとして覚えていたけれど、漢字表記の“背高泡立草”を、私はなぜだか気に入っていた。

お月見が近くなると、兄は小学生の私を自転車の子供用チェアに乗せてススキを探しに行った。兄と私は13歳離れている。とてつもなくおもしろい人間なので、私は兄について書きたくて仕方がないのだけれど、本人が嫌がるのでここでは省略する。兄は鋭い嗅覚(?)でふだん人の入ることのない小さな空き地に踏み込んでゆき、いとも簡単にススキのかたまりを発見する。当時すでに絶滅危惧種だったニホンメダカやニホンザリガニもよく見つけていた人だ。ススキなんて朝飯前なのだ。

母は車を走らせているときにススキを見つけると、車を路肩に停めてわざわざ摘みにいっていたほどだった。そうでないときは車窓から見つめて、——ああ、まだここにはあるのね—— と安堵していた。

現在、ススキと背高泡立草の力関係がどうなっているのかは知らないし、今年はまだどちらも見かけていない。そもそもちゃんとした土のある場所がほとんどない。台風が去ったら、この忙しなく、歯止めがきかない街から離れて探しにいこうか。

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

年々 里は蝕まれている
それでも里人が平穏な日常のなごみを失わないのは
むしろ そのことの確かな証左
森の瘴気が里に及ぼす症状は
今が過ぎていることに気づかないこと
時間がとまっている のではない
時の歯車にかみ合う
里の歯車の腐食のせいなのだ

里の歯車が
森の木でできていることは
おそらく里人のほとんどが知らぬこと
トチやホオやサワグルミや
さらにその森の奥にあるブナの材を
複雑に組み合わせて
時の歯車の凹凸にかみ合わせる術(わざ)は
森の人のもの

それを作ったのは
この子の祖父
しかし この子の祖父について
知られることはあまりに少ない
しかし あまりにすくないが
里人ならば 知らない者はない
しかし 知らない者はないが
この子の祖父が作った里の歯車を
見た者はいないし
それよりなにより 
祖父そのひとを 
見たひとも いないのだ

同じか違いか

高橋悠治

自分の過去の作品を聞くことはあまりない 自分の演奏の録音を聞き返すことも どうしても必要な時以外はない それでも作曲や演奏のしかたには ある連続性が聞きとれる こうして毎月書いているコラムは またおなじことを書いていると言われ 書きながら 自分でもまたかと思うこともある 作曲は毎月1曲書くほどではないし そのたびに楽器や演奏者 会場やプログラムの他の曲も考えて決めるので ちがう音楽を書いているような気がしていた

先日『クロマモルフ1』の練習を聞いた 1964年にクセナキスの推薦で「ワルシャワの秋」音楽祭に行くフランスのアンサンブルのために書いたが 演奏できなかった曲 その後日本で一度演奏されたが アメリカにいたので聞いていなかった 書いてから50年以上経っている そのあいだ作曲を続けていても 演奏されなかった曲もあり 一度だけの演奏で忘れられた曲がほとんどで 残った楽譜もひっこすたびに捨てていた

練習を聞いて 半世紀前にほとんど不可能だったことが たいしてむつかしそうでもなく演奏できるのに感心するとともに あの時代に求めていた演奏技術は もう今の時代のものではないと あらためて感じた 

力や速度ではなく 小さく弱い変化に引き込まれていくような音楽は 1960年のミニマリズムがきっかけだったかもしれないが あの頃のミニマリズムでは まだ反復を力として使っていたのかもしれないとも思う 反復のなかに変化をもちこんで崩すのは モートン・フェルドマンにはじまった書きかたかもしれない フェルドマンがペルシャの手織りのカーペットに見た abrash(色斑)のたとえをひろげて考えれば 音程を距離ではなく色差とみなして 音の小さなグループが即興で無限に変化し 音楽の方向が絶えず屈折していく 点描や音列の音楽ではなく 曲線の絡まりと結び目で重力から逃れ はためき揺れる音のモビールができるように

朝 気分がよければ すこしずつ音のスケッチや楽譜を書いてみる 時間をかけると 同じ方向に行き過ぎる 途中でやめたものを あとから糸の端を拾って 別な方向につなぎなおす 一つのことを完成させることより やめてはやりなおすプロセスが作品や演奏になるように 

音を鳴らす前のわずかなためらい 音をあからさまにさしだすのではなく 翳りのなかに隠す作法 行間を多くして 読みを遅くする 動かないものを揺り動かし楽器という物体の抵抗を破って音になる瞬間よりは そうして発した音がまわりの空気に共鳴し 空気を染めてはまた静まっていく時間 手と耳がたすけあう技術

垂直の和音でもなく 水平に感情を載せてうねるメロディーでもなく 斜めの音の網 重心も中心もなく ヒエラルキーを作らない宙吊りの変化

2018年9月1日(土)

水牛だより

猛暑の夏が去っていきそうな気配に満たされた9月の到来。いま「寒い」という感じを忘れているように、あと少し時が過ぎれば、この夏の「暑い」感覚は去っていき、そして次の夏まで忘れてしまうのかもしれません。

「水牛のように」を2018年9月1日号に更新しました。
夏には一度水牛のオフ会をしたいと思っていましたが、猛暑でことしは見送りました。原稿を書いてくださっている人たちの間に思わぬ関係が見出されることもあり、みんなで会ってみると愉快に話がはずむような気がします。夏がいいのは、杉山さんが東京にいることが多いことと、比較的休みがとりやすいかなと思ったからです。忘れていなければ来年は実現したいですね。
杉山さんの連載は今月200回目を迎えました。この間、一度も休みなく毎月掲載できたのはなぜなのか。よくわかりません。先日、杉山さんの新作曲も演奏されたコンサートのちいさな打ち上げで、原稿を催促したことがないと言ったらとても驚かれました。演奏者は、曲は催促します! と。水牛は仕事ではありませんし、毎月のことですから、ある種のリズム(?)が出来ているのかもしれません。

水牛楽団の演奏が聞きたいと、活動終了後に生まれた若い人に言われて、音源を公開するという決意をまた思い出しています。そろそろ始動しなければ。

それではまた!(八巻美恵)

165ははは、独孤遺書

藤井貞和

現われて、
尾花のかげに跪いたぞ。
庭に俳諧する人、
きみ、老い人。 骨は、
五つに。 めぐる足、七回。
帰結の五体じゃ。 
どうしても、句跨がり、
跨がなくちゃならん。
多摩川よ、おまえは幇助する、
尾花のあたりで。
倒れたぜ、季語をのこして。
これが俳句だ、
あら どっこいしょ。
 
 
(十三行からなる俳句があったってよいじゃないか、季節は秋、季語「尾花」。)

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

  3

この子の屋敷は 里のいちばん高いところ
もうその先は里ではない
モリ というが だれも 
モリ とは くちにしない
モリ といえば モリが目を覚まして
タマ を獲られてしまう
だから 里の人が どうしても
モリ と言わねばならぬときは
モリのまえにタカノを付けて

タカノモリ
 
 
  4

モリの入り口は
トチやサワグルミやホオの
見上げるばかりの木が 空をおおう
その森の翳が届くか届かないところに
この子の棲まう離れがあって

この子ひとりで 森の瘴気を吸いこみ
チチのようなあたたかい息にかえる
けれども この子ひとりの息のちいささでは
大きなモリの瘴気をどうすることもできない

四月バカ★36

北村周一

犬とゆく秋の日光二泊ほど
 ラクは月よりパンを喜ぶ
曼珠沙華花なき茎をみず垂れて
 母はシングル・マザーと呼ばれ
漁師町に寺々数多梅雨の入り
 歩いたあとに蝸牛歩む
目に見えるもののみに語る不自由よ
 グループ展の初日を酔いぬ
キッスまでのタイミング推し測りながら
 波止場の道を照らす灯台
父が買ってくれた英雄インク出ず
 ペンには小さくmade in china
雪面に旗立て直す月の夜
 アポロ計画熾火のごとも
飛ぶ鳥の耳の背後に気圧無し
 引力だけが滅びを告げる
花見してはじめての子を産みに行く
 橋のうえから手振る四月バカ
暖かや絵の具ふみたる土踏まず 
 朝のうんどうアトリエ前の
愛用の撫刷毛は純馬毛にて
「賢い馬は孤独を嫌う」
遠雷やひとに父あり母のあり
 二物衝撃レーザービーム
ゆめさめてまつおかさんの家のまえ
 歩いても歩いても六歳のぼく
ゆうぐれの雨のネオンの裏通り
 情事の前の顔なきおんな
月連れて七夕竹をくぐりゆく
 祭りのあとの物売りの声
コスモスを折りゆく子らは塾帰り
 宇宙人襲来セリと脅す
ヴェランダに籠を吊るせばメジロ鳴き 
 うららかに父の声あり若し
かぜにのりはなびら散らす丘の上 
 好きとは言えず揺らすふらここ

*擬密句三十六歌仙秋の篇。夏の終わりに。

仙台ネイティブのつぶやき(37)晩年の自由

西大立目祥子

70代に入ってから絵を始めた叔母がいる。
最初のうちは、あっちこっち出かけて、黒ペンと水彩を使ったいかにも元教師というような生真面目な風景画を描いていた。それが、一度入院したのをきっかけに、たががはずれたというのか、もう恐いものなんか何もないというのか、のびのびと自由に描きたいことを描くという画風に変わった。

退院してきたときだったろうか、病室から見えたという、仙台市民にはなじみ深い正三角形の太白山(たいはくさん)を描いた絵を見せられて驚いた。山は赤く染められていて、赤い着物姿の女の子が山に向かって走っている。叔母は「これ、私なの」といった。連作のように何枚も描かれ、ふもとが落ち葉に埋め尽くされているのがあったり、細かい線で山が色分けされているのもあった。病を得て回復する中で逆にじぶんの生命力が湧き出てきて、それが子どものころの記憶と結びついて描く力になったのだろうかと思った。

朝5時に起きると、高台にあるリビングの窓から、仙台湾に上がる朝日を絵日記のように描いていた時期もある。光まばゆい日もあれば、曇天にぼおっと太陽が上がる日もある。1日のはじまりを確かめるように、叔母はくる日もくる日も朝日のスケッチを重ねていた。
かと思うと、「一人で蓮の花をスケッチしてきたの」と、スケッチブックを見せられたこともあった。でも、それはもうかつての忠実なスケッチではなくて、画面いっぱいに何輪もの花が散りばめられている。呼吸する花が呼応し律動しているような水彩画だった。叔母はスケッチをもとに、そのあと何枚も蓮の絵を仕上げた。
歳をとれば誰しも体力も気力も衰える。でもだからこそ、生きるもの、命の息吹にへの感度は高まるのだろうか。始めて10年を過ぎたころから、作品は小さな美術展で入賞するようになった。

叔母は父の3歳下の妹で、2人の子育てをしながら、長年、宮城県北の高校の家庭科の教師として働き、私にとっては専業主婦の母とは違う生き方を示してくれる存在だった。私自身が社会人になり仕事をするようになってからは、「食」というテーマを持って農山村の台所をめぐり文章を書く叔母を敬服してきたし、誰ともでも屈託なく話すところも好きだった。

人にとって案外とおじさん、おばさんの存在は大切だ。厳格な父親を持つ男の子には、ふらふらと生きているようなどこかいい加減なおじさん。家族のためにきちきちと家事をこなす母親を持つ女の子には、結婚なんかせずに好きなことをまっしぐらにやり続けるおばさん。子どもにとってそんな存在が身近にあれば、それだけで生きるのが楽になるし、違う世界への入り口になる。
私にとっての叔母は、私が日常眺めているのと違う風景を見せてくれる人だったのだろう。

とはいっても、ひんぱんに行き来しておしゃべりするようになったのはここ数年のことだ。30歳の私と還暦近い叔母では、やはり抱えているものはずいぶん違う。それがいまでは還暦を過ぎた私と米寿を迎えた叔母だ。老いの入口と老いの渦中。先を行く叔母の暮らしぶりはこれからの私の水先案内のようであるし、どこか単調になっていく叔母の生活にたまに入り込む私は、いつもとは違う風を吹かせる存在かもしれない。

近しい存在になって気づく。どこか似ているのだ。感じ方や気持ちの動き方。興味や関心、何を大切するか、そんな基本的なことが。これはやっぱり血筋なんだろうか。たとえば、気安く口に出してしまい果たせなかった小さな約束を、私はくよくよと気に病む。叔母も同じで、会うと会話が「ごめんねぇ」で始まることがある。こちらは何のことやらもうすっかり忘れているのに、何か小さな引っかかりがあって謝らなければと感じているのだ。

このごろはいっしょに台所に立つこともあって、先日は食器棚にあった1枚の染め付けの皿を見せられた。手に取って叔母がいう。「これねぇ、昔、使ってた皿。これによくちらし寿司を盛りつけて…」それは、父も子ども時代に使った、仙台空襲をくぐり抜けた皿だった。叔母の胸には、80年前の家族の食事の風景がしっかりと刻まれている。物に宿る記憶。その感じ方は人それぞれで、私も同じように、長く使ってきたもの、濃密な記憶を持つ物は捨てられない。叔母がずっと手もとに置いてきた1枚の皿を前にしながら、またしても似た者同士という思いを強くした。

そんな叔母がこの5月、長年連れ添ってきた叔父を亡くし、ついに一人暮らしになった。娘は千葉にいるし、同じ区内にはいるものの息子の家族とは別に暮らす。連絡がないとちょっと心配になるのだけれど、身の処し方を知る叔母は一人でいるのがもう限界、となると電話をかけてくる。「おいしいお菓子がきたから、来ない?」と。
猛暑日の電話には驚いた。「こんなに暑いのに、天ぷら揚げたの。取りにおいでよ」

お盆に訪ねたら『世界を変えた100の化石』という本を見ながら一心に化石の絵を描いていた。そして盛んに2億年前の話をする。遊んでるなぁ、心のおもむくままに。晩年こそ、毎日毎日、イマジネーション豊かに好きな事に熱中して遊べるのかもしれない。
この稿を書いているのは8月31日。たぶん、今日、叔母は長年続けてきた機織りの織り機に縦糸を掛けたはずだ。そしてきっと、明日1日から織り始めることだろう。
こんなふうになれるだろうか。楽しくおしゃべりをしながら、私はいつも叔母の背中を追いかけるような気持ちでいる。

晩夏の記憶

西荻なな

夏の終わりになると、とりわけ酷暑と呼ぶにふさわしい夏の終わりになると、涼を求めて高原へと車を走らせた叔母のことを思い出す。夏のじっとりとしたむせかえるような暑さ、打ち水をしても陽の高さは落ちることなく、昼寝をはさまなければ動くに動けないようなうだる暑さがまだやってくる前、田んぼに畑に早朝からせっせと出かけていく祖父の姿を見ることなく朝食時にようやっと掃除を終えた祖母とともに顔を合わせる。甲府盆地のどまんなかで暮らしていた祖父母との夏は、東京育ちの姉妹ふたりが田舎という言葉をまざまざと体感する時間だったが、その祖父母の田舎暮らしの傍ら、坂道一本下った家に住まう叔母は、いつもどこか涼しくハイカラな、高原の空気をまとった生活をしていて、それぞれの家を行き来するのがまた1日の楽しみでもあった。午後日が落ちた頃、ミシンで作業をする叔母の家の戸を日課のように開けては夕飯時にまた坂を登る。甲府盆地の、今は日本のどこにもないように思われるあの暑さ。そこから抜け出るように、まだ幼い姉妹を、叔母はよく車で清里方面へと連れ出してくれた。時折濃霧の発生して寒いほどの高原気候の夏の高原に咲きほこるホタルブクロやオニユリ、ツリガネニンジンやクガイソウ。慎ましやかで淡い色をまとった花々が大好きで、シラカバの林の中を颯爽と車で駆け抜けて長靴とともに山の麓に降り立っては、押し花にする花々をちょっと拝借して、いつしかにわか植物学者を気どるほどになっていたが、帰り道苗木を買い、それがまた叔母の庭に加わり、また新たにさらさらとした葉の芽吹きとともに成長を遂げるのだと思うと、それもまた楽しみになっていた。畑で採れた太ったきゅうりと巨大なナスは、塩もみのきゅうりとナスの味噌炒めとなって飽きるほど毎日の食卓を飾り、それぞれを馬の格好にして迎え火と送り火を焚いた。その短い夏の間に、叔母は持ち前のセンスで押し花作業をともにしてくれるばかりか、ワンピースやスカートを作ってくれることも度々あった。月日が経過し、叔母にも家族が増え、迫り来る高齢化の波に変貌する甲府の小さな町の人間模様は、苦く暗い影をも落としていくことになった。夏の暑さも増すばかりだった。そうしていつしか甲府から足も遠ざかっていったが、太宰治が「新樹の言葉」で「庭にシルクハットを倒さかさまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない」と書いた一文に出会った時には、このハイカラさは、私にとってあの叔母の時間とともにある、と思われた。中央線あずさの特急に乗ることは、甲府へ行くことだった。でも、いつしか甲府をとばして高原や山ゆきの拠点駅に降り立つ今がある。でも帰り道甲府を通り過ぎる時、とりわけ晩夏になると、まだ独りだった叔母との時間が涼やかに思い起こされるのだ。

製本かい摘みましては(139)

四釜裕子

6月6日。この日を命日とする2人の詩人、北園克衛(1902.10.29-1978.6.6)とケネス・レクスロス(1905.12.22-1982.6.6)にちなんだ朗読会が東京・銀座で6月9日に開かれた。ケネス・レクスロスはビートの父と称されるアメリカの詩人で、北園と親交があった。邦楽家・西松布咏さんが伝統=前衛をテーマに開催してきた「ニュアンスの会」の6回目で、東京TDCの希望塾の一環としての会でもある。『北園克衛の詩学 意味のタペストリーを細断(シュレッド)する』(思潮社 2010)の大著もある日本文学研究家で詩人のジョン・ソルトさんが全体を構成して、同志社大学教授の田口哲也さんと、青木映子さんが司会を務めた。3人の訳編による『レクスロス詩集』(思潮社 海外詩文庫17)が、昨年9月に刊行されている。

会の1部「ケネス・レクスロス」では、レクスロスと交流のあった片桐ユズルさんと思潮社総編集長の高木真史さん、2部の「北園克衛」では、指月社社主の大家利夫さんと世田谷美術館主任学芸員の野田尚稔さんがゲストでいらした。スライドが流れる中、4人のゲストを含めた20人が客席から次々出て、レクスロスと北園の作品を日本語と英語で朗読していく。

私もいくつか読むように言われて数日前から練習していた。なかで、北園の「単調な空間」に難儀していた。「白い四角/のなか/の白い四角/のなか/の黒い四角/のなか/の黒い四角」で始まるアレ。もうこの際、朗読原稿として、「白い四角のなかの白い四角のなかの黒い四角のなかの黒い四角」と改行なしのテキストを用意してしまおうと思った矢先、ふと、これまで読んでいたのは縦書きだったけれども、『北園克衛の詩学 意味のタペストリーを細断する』に載っていた「VOU」掲載の横書き「単調な空間」のページを開いて読んでみたら、すんなり読めた。なぜだろう。試しにみなさん、横書きと縦書きの「単調な空間」を声に出して読んでみてください。

間違えずに読めれば成功というのが私のレベル。横に文字を追うことで三拍子の流れがつかめてなんとか読み終えることができて、英語版を朗読するジェフリー・ジョンソンさんにマイクを手渡した。棒読みの日本語版を受けて単調に始まったかと思いきや、最後に高々と「スクウェア!」。ジョンソンさんの口から六波羅蜜寺の空也上人像よろしくちっちゃい四角が続々飛び出し、一気に膨張して会場に広がってゆくのが見えて鳥肌が立った。四角が、空間を単調に抜き去ったのがわかった。二次会も含めて終わってみれば、ゲリラ性もあったからなおのこと、2人の詩人への粋な愛をランボウに振る舞う『レクスロス詩集』の3人の編訳者が、この詩集を台本として仕込んだ長い祝宴のような一日だった。本の出版とはひとつの台本を世間に公開するようなものでもあると思った。楽しかった。

7月7日。この日が誕生日の谷口俊彦さんから、自著『オルフェのうた』をいただく。以前仕事でお世話になった。40年の勤め人の生活に別れを告げるにあたって、感謝の気持ちを伝える長い手紙のつもりでまとめたとあとがきにある。当時から俳句をなさっていて、和綴じかなにかでほんの数部、退職を期に俳句をまとめてみようかなとおっしゃるのを聞いたことがある。とてもおさまりきらなかったのだろう。148ページ、空色の、軽やかな丸背の本になって現れた。自作の句や歌がタイトルになったり自解を添えたりと自在で、端的な語り口とあいまっている。ご家族への思いが特にいい。抑えた余韻に、読み手の家族まで迎え入れてくれる。

世間に7月7日を詠んだ句は多い。谷口さんがお気に入りの一句の作者に句意をたずねる一幕がある。自身が思い描いたロマンチックとほど遠い慌ただしさに苦笑しつつ、〈解釈のすべては読み手に委ねられる〉。作り手、読み手。一つの句をはさんで、互いお見通しのうえでの対話がいい。『オルフェのうた』を受け取った日、こちらはにわかサッカー観戦中だった。谷口さんの〈鬱を蹴り憂ひころがし日脚伸ぶ〉に目がとまる。晴れやかで愉快で、作り手の新しい始まりが重ね見えたように思ったけれど、続く自解には朝の通勤電車の憂鬱があった。あの日あの状況でこの句に覚えたよろこびは私だけのものなの、トンチンカンでも、恥じることはないだろう。

8月8日。姉が1つ歳をとってこの日から3つ違いになった。学年という感覚があった頃に2つ上だった名残りで、今も聞かれれば2つ上の姉がいると言う。2つでも3つでもどうでもいいと思っているわりに、3つ違いのきょうだいとはビミョー違う感じはする。7か月たてば2つ違いになり、5か月たつと3つ違いになり、それで2人の1年は過ぎる。