仙台ネイティブのつぶやき(36)勉強好きの系譜

西大立目祥子

見上げるように高い白漆喰の土蔵。堂々として重厚な黒壁の店蔵…。目を見張るような土蔵があちこちに残っているのに驚きながら、初めて福島市飯野町を歩いたのは2010年のことだった。

「地元学」という活動のサポートのためだ。「地元学」は地域活動の手法の一つで、30年ほど前に仙台と熊本で始まった。地元住民とよそ者がいっしょに歩いて、風景をあらためて見つめ直し足元に眠る資源を再発見していく。毎日見慣れているものも、外からの目で別の視点で見直せば、光を帯びてくるというわけだ。

飯野町は福島市の北東端に位置する地区で、2018年に福島市に合併するまでは単独の小さな自治体だった。その中心に不釣り合いなほど充実した町場が形成されていて、時代はくわしくわからないが近代以降に建てられた造り酒屋や味噌醸造屋などの豪壮な土蔵が残っている。また、明治末に建てられ芝居小屋や映画館として使われた建物が、緞帳も映写機もそのままに静かな時間を刻んでいる。

そして、2、3の神社には実に立派な石鳥居が築かれ、それらは江戸時代に信州高遠藩の石工たちが出稼ぎにきて、地元の石工たちを指導しながら建てたものであるというのだった。ちなみに阿武隈山地は花崗岩の産地で、山間にはときどきごろりと巨石が横たわり信仰の対象になっていたりする。

確かにここには明らかに、とてつもなく豊かな時代があったのだ。数々の遺構はそうはっきりと物語っている。その豊かさは、絹が生み出したものだ。江戸時代から阿武隈山地一帯は養蚕が盛んな土地柄で、明治期になると絹は輸出品の花形となり、農家は春から晩秋まで養蚕に精を出した。蚕には様を付けて「おかいこさま」とよび、家の中はお蚕様にのっとられるほどであった、と年配の人々はいう。

ほとんどまだ誰にも知られていない資源群。私はすごいすごい、おもしろいとつぶやきながら土蔵や鳥居や、境内の狛犬の写真を撮って歩いたのだったが、地元の人たちにはいまいち伝わらないようだった。

そうこうするうち東日本大震災が起きた。町内の道路の法面は崩れ落ち、巨石は大崩落し、何より原発事故は外を歩くことさえ困難にした。除染作業が始まり、農地は放射能の軽減のために天地替えやゼオライト散布が行われた。地元学の活動を続けるような余裕などなくなり、活動は中断したのだった。

1年後、除染作業が続く中で活動は再開したのだけれど、もう私は地域を捉え直すための地元学活動をどう考え、何をどうしたらいいのか正直わからなくなっていた。せめて、この大災害と未曾有の事故の現実を写真に残そうと参加した人たちに伝え、それまで撮影した写真に文章をつけてもらい、1冊の冊子を編んで納品し、その後飯野町を訪ねることはなかった。脳裏には町の風景が生き生きと刻まれてはいたのだけれど。

今年5月、携帯が鳴ってなつかしい声が響いた。斎藤憲子さん。飯野町の地元学活動で人一倍がんばってたくさんの文章を書き、子どもたちを引き連れて町内を歩いてくれた人だ。「冊子は上がったのに話ができなかったし、みんな歳をとってきて活動は停滞気味。あらためて冊子を読み直すところからやってみようかと思って」と話す。7月中旬、6年ぶりに飯野町を訪ね、活動に参加してくれた人たちと再会を果たした。

亡くなった人もいたが、みんな元気だった。
それにしても勉強好きの面々でなのである。斎藤さんは子どもたちに飯野町の民話を伝え伝統遊びを教え、毎年春の吊るし雛まつりにかかわり、観光ガイドの会も主宰している。町内の巨石群を調べ歩いた人がいるかと思えば、自宅の畑から安土桃山時代に輸入され貨幣が発掘されたと話しかけてくる人もいる。そして首都圏から移住してきた人は、これからの飯野について真剣な議論をしたがっている。

そのようすを見ていて、この町は江戸時代から文化的活動が活発だったことに思いあたった。『飯野町史』によると、18世紀の終わり頃から村々には、書、絵画、
俳諧、和歌、狂歌、お茶、挿花、将棋などのサロンが生まれ、合評会を行ったり、別のサロンと交流したり、と熱心な学びの活動を展開している。江戸に出かけて学んだり、他地域の名人と交流したりもあったろう。そしてその主役には武士層だけではなく農民もいた。和算も盛んで、中には100名を越える弟子をとるものもいたという。

これもまた経済的余裕が生んだ生活のゆとりといえるものかもしれない。おそらく養蚕がもたらした余裕なのだろう。晴れた日は田畑で働き、雨の日は俳諧に興じる。そんな生活があり、それは見えないかたちで脈々と受け継がれてきているのだと思える。勉強好きが、学びの意識が、そう簡単に生まれるわけがない。

いまは使われなくなった土蔵を残し苦労しつつ維持しているのも、精神的ゆとりのなせる技だろう。これが例えば仙台のような都市なら、役目を終えたものはさっさと解体されて新しい建物が建つに違いない。でも時間を刻んできた建物が目の前にあることは、住む人に知らず知らずのうちに歴史を伝え、静かな誇りを授ける。あらためて、再会した人たちに声を大にしてそう伝えた。
こういう町は、きっとしぶとい。

新しい世界

笠井瑞丈

言葉を飲み込み
噛み砕く
そこから
生まれてくる形





眼球

思考

踊る

空を覆うカラス

笑う青年
泣く少女
叫ぶ老人

四人の僧侶
病気の少年
狂った老人

音楽と踊
踊と音楽

遠くから聞こえるバイオリン

二十代前半目黒通う
アスベスト館

初めての舞踏経験

ヤミの先を歩く
時間の上を歩く

稽古場の床
煙草の匂い

まったく理解できない
まだ見ぬ世界がそこに

あれから20年

少しは何かが変わった気がする

少しは何かが変わった気がする

だけ
かも

迷いを捨てて

走って打つかって
粉々になるまで

そこから新しい世界へ

真夏のひととき

璃葉

自宅だとまったく仕事に集中できない日がある。そんな話を何気なく仕事仲間兼友人にメールしたら、「だったら、うちで仕事してみる?」と誘われる。
その日は人を殺しそうな暑さも少し和らぎ、涼しい風が吹いていた。電車で1時間もかからない場所に住んでいる友人のことばに甘えて、ノートパソコン、筆記用具、原稿などの仕事道具を一式持って出かける。

友人−−−彼女とは数年前、仕事先で出会った。一緒に本をつくる作業をするうちに打ち解けていき、何時しかとても信頼できる、数少ない友人になっていた。
お酒を呑むことが大好き(重要)で、どんなに遅い時間に仕事が終わっても、かならずお酒を美味しく呑んでから眠る。たまにソファでそのまま眠りこけてしまうことも多いらしいから、少し心配ではあるけれど。

校正という仕事を、彼女は非常に真面目に、細やかにする。赤い文字をすらすらと、きっちり原稿にのせていく。紙を扱う作業を毎日しているひとは、紙の扱いがとてもうまい。紙の束が手に吸い付いついているような、めくる動作ひとつさえも綺麗で、少し変態めいているかもしれないが、わたしはこの日、それを見たくて彼女の家に足を運んだのかもしれない。

大きめの木のテーブルで、各自作業をする。たまに一息ついて、仕事を絡めた近況をポツポツと話し、そのうちお互い作業に集中して自然と無言になり、あっという間に時間が流れていく。

日が暮れていくにつれて、部屋がじわじわ薄暗くなる。窓から見える空は広い。住宅街の屋根、公園の木々と、電線。遠くに走る電車がまるでおもちゃのよう。二人で窓から顔をだして、薄ピンクに染まる空と、南東から昇ってきた月をしばし眺める。今日は空気が綺麗だから月がよく見えるね、火星、近くなってきてるね、とか言いながら。
小さな白熱灯をつけて、さて、そろそろ麦酒で乾杯でもするか、ということになり、散らばった紙を片付ける。もはやこの麦酒のためにこの会を開いたということは、言うまでもない。

別腸日記(18)橋の下の水(中編)

新井卓

京浜急行線を黄金町で降り、大岡川を渡って左へ──風俗店「ピンクライオン」のY字路の右手に、「黄金劇場」があった。東日本大震災から一、二年経ったころ、突然警察が踏み込み経営者と客の何人かを検挙して去って行った。「公然わいせつ」の咎ということだった。長年の経営難、そして建屋の老朽化を、常連客の大工などが廃材でつぎはぎして凌いできたというストリップ劇場は、こうして、およそ四十年の歴史にあっさりと幕を下ろしたのである。

二〇〇八年、黄金町の芸術祭に参加が決まってから、はじめて「黄金劇場」を訪れた。日本のストリップに馴染みがなかったから、友だちの売れないミュージシャンを誘って、つきあってもらうことにした。昼下がり、日ノ出町駅で待ち合わせて、明るいうちから開いている居酒屋に座り、ほろ酔い加減になってから川縁を歩き始めた。
薄暗い入り口をくぐり、モギリの初老の男性に入場券を求める。「お兄さんたち初めてだろ? ビールはサービス。少し後ろが初心者向きだよ、さ、どうぞ入って」と、愛想よく劇場に通された。中は思いの外広く、客の多くは仕事を早く上がった(か、あるいは勤怠中の)勤め人という風情で、女性客もちらほらと見受けられた。早い時間の回だったせいか客は五割くらいといったところだったが、佇まいから察するに、こなれた客ばかりのようだった。

ほどなくして、それらしいムード歌謡が流れ、照明が落ちショーが始まった。年増から年若いダンサーへ、番組はそのように進行するらしかった。一番手の女は表情やポーズを変えながら踊り、客席に繰り出しては常連たちに腕を回して、なにやら談笑するのだった。ここまで来たらどんな顔をしたものか、と少し焦ったがそこはベテランの余裕で、新参者のわたしたちには大仰な一瞥だけを送って、舞台へ戻っていった。

毎回ダンスが終わると照明が明るくなり、有料の「ポラロイド・ショー」が行われる決まりになっていた。希望する観客が舞台に上がり、インスタント・カメラで裸の踊り子たちを撮影する。写真はあとで踊り子がサインを入れて、帰り際に客に手渡す、という段取りだ。隣の客が、これが、給料の少ない踊り子たちの大切な現金収入だという。それを知ってのことなのだろう、初老の男たちが代わる代わる、舞台に上がっては、踊り子と軽妙な会話を進めながら、シャッターを切っていく。観る者が、ふと、観られる者になっていた。

淡々とした場の空気には、淫靡さや性的興奮よりもむしろ、触れれば壊れてしまいそうな、弱々しい、いたわりに似た何かが、確かに混じっていた。ダンスのクライマックスで投げられる紙テープや種々のかけ声、それらは時間の蓄積によって形づくられた、固有の様式といってよかった。
しんがりの年若い踊り子は、もうすぐ臨月で来月からは舞台に上がりません、と客席に向かって挨拶した。唐突に「こんにちは赤ちゃん」が流れ、彼女は、露わになった大きなお腹を揺らし、綿を詰めた人形を抱いて踊った。

夕方の部は、こうして幕引きとなった。消化しきれない何かを腹のあたりに感じながら、しばらくの間、わたしたちは無口だった。そのまま帰る気がしなかったから、日ノ出町に戻って「第一亭」に腰を落ち着けた。この中華店の隠れた名品は「パタン」という油そばで、無闇にうまいが、一皿平らげてしまうと翌日まで、ニンニクの残り香と胃のあたりから来る胸苦しさを我慢しなくてはならない。弾力のある麺をカラメル色の紹興酒で流し込みながら、黄金劇場の人々を撮って芸術祭で発表しよう、わたしはそう心に決めていた。

深夜便

仲宗根浩

七月に入り、沖縄は十日おきに本島、先島、本島と交互に台風が来ると思ったら、台風になりそこなった低気圧。台風ごとにだんだんと暑くなってくる、と思ったら北海道と沖縄以外のほとんどがもっと暑くなっている。でもこっちは最低気温27度以下になることは無い。その後にえげつない曲がり方をした台風が災害地を通る。

七月四日、静かな日。その翌日も静かだった。合衆国は連休にしたのだろうか。空は何も飛ばない。

ある日、お願いメールが来る。添付されたテキストは歴代の沢井忠夫、沢井一恵両先生の歴代内弟子リスト。リストは2010年まで。送り主は七代目の内弟子栗林秀明氏こと栗さん。この後の情報収集を頼まれた。わたしに箏の手ほどきしてくれた方であり、大学でも先輩、いいっすよ、と軽く引き受ける。最初にテキストファイルを表計算ソフトに取り込んで少し体裁を整える。そのファイルを添付し返送。お互い拡張子が同じフリーウェアのソフトを使っていることがわかり、こちらが収集したものを情報を逐一送り、リストはどんどんヴァージョンアップしver.3.3で一旦作業終了。八月一日にいま海外にいる歴代内弟子さん含め集まる、という会があるのでそれを経て不明なところ、修正しなくてはいけないところを整理することになった。

それもこれも、最初8.1集会の話は昨年シドニーから誘いの話があったが、その頃は所定休以外の曜日に休みなど取れない状況でお断りしていたのだが、ここ数ヶ月微妙に休みが動かせる労働環境が整ったため流れで参加することになり、であれば最新版を、となったため。

参加するとなれば八月の沖縄便は高い! 羽田に行くのはそうでもないが、帰りの沖縄に行く便が安くない。なれば羽田に行く便の最安値を探すと8,690円というものがある。空席あり。那覇発午前は3時35分、羽田着は5時55分。夏場だけ運航している深夜便。即予約し購入。往復26,180円というシーズン真っ只中で中々の値段に抑えられた。

仕事を終え豪雨の中、23時過ぎに帰宅したあとシャワー。身支度をし深夜、車で那覇空港へと向かう。

朝日ジャーナル★36

北村周一

シラス漁のはじまりし伯父の家熱し
 声から先に茹(う)で上がりつつ
校庭の大空たかく放られて
 上履きひとつ逃げ去るごとし
古タイヤ燃やすけむりの上に月
 案山子のごとき農婦うごかす
一発でみんな失格になればいい
 ひだり周りに走る白線
入隊後2、3㎝は伸びるらし
 朝鮮人民軍兵士の背丈は
キャタピラーは毛だらけの猫灰だらけ
 毛虫のような人柄をいう
月の海海の月かもサンタ舞い
 セロトニンにはカラオケが効く
「アカイ、アカイ、アサヒ・・・」の上にひかり射し
 目映かりけり朝日ジャーナル
花冷えの京の町屋の人模様
 ツケで飲みだす画商は長閑
ユスラウメに薄ら笑いのひびきあり
 公的年金受給の年に
最終の下り電車は遅れがち
 ホームの客はみな西を向く
本キャベツ紫キャベツ花キャベツ
 芽キャベツ芽花キャベツ同根
時計屋と通じ合うごと小鳥屋は
 眼力のみに占う未来
堕ちろという声に振り向く闇の中
 ダムの水路の八重桜夢
カンヴァスの絵の具の奥の月明り
 秋の星座を結ぶ筆先
啼く蝉の声を恃みに教会へ
 ひとりわかれて告解へ行く
虫下し飲み飲みひとはそのむかし
 花粉症とは無縁の日々を
寒すぎて暖かすぎて早すぎて
 それでもたいへんよく咲きました。

*懲りずに、連句にふたたび挑戦。といっても、相変わらずの連句擬き。いわば擬密句三十六歌仙夏篇。

併走する窓

植松眞人

 そこに写っていたのは確かに自分だったと思う。
 深夜に高速道路を走る長距離バスに乗って、梨木正治は窓の外を見ていた。
 高速道路の高架のつなぎ目が、心地の良い振動となって伝わってくる。時折、外灯が密集したエリアがあり、煌々とした光に高速バスの窓が、唐突に浮き上がってくる。
 梨木は前日の仕事がなかなか終わらず、いったん家に帰って着替えてから出ようという計画も無駄になり、スーツ姿のまま深夜十一時過ぎに発車するバスに乗り込んだのだった。新宿は平日の深夜だというのに人がいっぱいで、JRの駅前も人でごった返していた。そんな人混みをぬってバスに乗り込むと、不思議と梨木が乗ったバスだけが乗客が少なく、梨木の隣も空席のままだった。
 スーツの上着も脱がず、ネクタイを緩めないまま、梨木は窓ガラスに頭を付けて眠ってしまい、気がつくとバスは高速道路を走っていた。せめてネクタイだけでも緩めようとしたのだが、疲れ切っていたのか、身体がうまく動かせず、そのまま心地よい振動に身をゆだねた。
 時折バスを包む外灯の光に目を細めていた時だった。梨木の乗ったバスの真横を、同じようなバスが併走していることに気付いたのだ。うとうととしながら、それに気付いた梨木は、ぼんやりと隣を走るバスに目をやっていたのだが、次第にそのバスが奇妙に思えてきたのだった。
 まず、高速道路をバスが同じ速さで併走することが不思議だった。どちらかが追い越していくならわかるが、ほぼ同じ速さで走り続けることなどあるだろうか。そして、この二台のバスが同じように揺れているのだった。その証拠に、梨木が窓に額をつけてぼんやりいと眺めているとき、隣を併走するバスがまったく揺れているように見えないのだった。同じタイミングで揺れているのだ、と梨木は思った。この二台のバスはまるで鏡に映っているかのように、同じ速度で同じように揺れて隣を走っているのだった。

 昨日、梨木は二十年勤めた会社を辞めた。大学を出てすぐに勤め始めた会社だが、営業という仕事は梨木には向いてはいなかった。人と話し信頼を勝ち得て商品を売るという、いたってわかりやすいオーソドックスな仕事だったが、向いてはいなかった。ひとつ商談をまとめる度に彼は何かを失う気がしたし、その対価である収入もそれ相応には思えなかったのである。
 勤め始めた頃には、歩合給ではないということが梨木の心を安定させていた。毎月、いくつの商品を売ったのか。どれほどの会社の信頼を勝ち得たのか。そんなことをひとつひとつ気にすることがとても不自由な生活のように思われたのだった。
 しかし、それは最初の数ヶ月の話だった。やがて、一定の収入を得るために、大事な時間を売り渡しているような気がして、通勤電車の窓ガラスに映る自分の顔を見ることができなくなった。それでも、梨木が仕事を続けることができたのは、幸か不幸か致命的なミスをすることもなく、決定的なトラブルを被ることもなく、淡々と社会人としての人生を送ることが出来たからだ。梨木の社会人としての人生はいわゆる平々凡々なものであった。若手と言われた頃から、中堅と呼ばれるまでキャリアを積み、いよいよ管理職へと歩みを進めるあたりで、梨木は立ち止まってしまったのだった。
 梨木は妻の芙美子と大学時代に知り合ったのだが、彼が就職を決めた時、彼女はこう言ったのだった。
「ねえ、あなたが思うほど、あなたは営業に向いていなくはないと思うの。でも、心配なのは管理職になってからよね」
 喫茶店のウエイターくらいしかやったことがなかった梨木には、芙美子の言っていることがあまりよくわかってはいなかった。しかし、四十代に入り、部下を持たされ、自分も管理職になると、その意味を思い知らされるようになったのである。
 自分には管理能力がない。部下を二人持たされた一ヵ月後にはそう思わざるを得なかった。
 梨木の下に配属された若い男女二名の新入社員は最初の一週間、とても熱心に梨木の話に耳を傾けていたのだが、二週間後には梨木の話を聞くよりも、新人二人で話すことが多くなり、三週間後には互いの目と目だけを見ることが多くなった。四週間後、梨木は上司に呼び出された。そして、高い求人募集広告費を使って採用した新人二人が入社後わずか数週間で恋愛関係に陥り、しかも揃って会社を辞めたいと言っているということを伝えられた。これは梨木の監督不行き届きであり、管理者としての能力のなさを露呈したものだと叱責したのである。
 以降、何人かの新人が梨木の下に配属されたのだが、いつも別の管理職とのダブルマネジメントという状況だった。つまり、梨木は管理職としての能力を疑われ、試されながら約一年を過ごすことになったのである。そして、その結果が芳しくないものであることは、梨木自身が一番よく知っていた。日に日に覇気がなくなっていく夫を見て、芙美子は何度か言葉をかけたがその度に大丈夫だと梨木は答えた。
 梨木は本当に大丈夫だと思っていたのだ。自分はこの仕事を深追いすることはない。向いていないならきっぱりと辞めようと考えていた。無理をしてもろくなことはないとわかっていたからだ。ただ、辞めざるを得ないと感じ始めてから、別の心配が心を浸食し始めた。
 収入だった。梨木のバランスが崩れたのは金の心配をした瞬間だった。入社から二十年。そつなく仕事をこなしていた梨木の収入は悪くなかった。いや、同年代の友人たちに比べると梨木の収入は比較的多く、妻の芙美子と裕福な暮らしを送ることができたし、高校生になる娘もなに不自由なく育てることができたのである。
 仕事にも出世にも欲というものがなかった梨木だが、それは彼が生まれてこの方、金銭に不自由することなく暮らしてきたからだった。普通に仕事をしていれば、普通に暮らせる。その事実が、管理能力がなかったら辞めればいい、という楽観的な気持ちにさせていたのである。
 しかし、実際に仕事を辞めなければならない、という状況が差し迫ってくると、梨木は目の前がくらくらするような恐怖を感じるのだった。そして、いまの暮らしを可能にしている仕事が出来なくなるという事態は避けなくてはならない、と強く思うようになった。そして、そのためには管理能力を強化しなければならないし、それに加えて、上司に対しては「できない」という言葉を発してはならないと強迫観念のように思うのだった。
「ねえ、会社でなにかあったの」
 そう芙美子が聞いたのは半年前の夏の夜だった。
「なにもないよ」
 梨木が答えると、芙美子はこれまでに見たことがないほどの悲しい目をして梨木を見つめるのだった。
「お金のことを最初に考えるようになったのね」
 芙美子はそう言って、梨木と目を合わせることがなくなった。その一言が梨木の思考に強く影響を与えた。確かにそうだった。上司から何かを言われても、それができるかどうかよりも、その仕事をすることで収入がなくなることはないのだ、と考えるようになってしまっていた。
 お金のことを最初に考えるようになったのね、と芙美子に言われた瞬間から、梨木は金銭のことをより明確に、一番に考えるようになった。実際にはずいぶん前からそうなってしまっていたのかもしれない。
 もしかしたら、と梨木は考えた。お金のことを最初に考えている、という指摘を芙美子にされなければ、知らぬ間にお金のことを考えない日々が戻ってきたかもしれないのに、と。しかし、はっきりとそう言われてしまったら、もうどうしようもない。あの日、芙美子が言葉にしてしまったことで、梨木の思考は「お金のことを最初に考える」という形に限定されてしまったのだ。
 金のことを最初に考える、ということは損得を最初に考えるということだった。最初に損得を考えるということは道徳を後回しにするということだった。
「ああ、私は人後に劣る人間になってしまった」
 梨木は自らを嘆いた。

 深夜バスは高速道路を走り、梨木を故郷へと運んでいた。もうすぐ正月も終わる。とにかく、墓参りに行き、菩提寺に参詣し、身を清めようと梨木は思った。
 いま、併走するバスの窓に映る、自分そっくりな男はどちらの自分なのかと梨木は考えた。
 これまで何不自由なく生きてきた、金のことを最初に考えるような人間ではない自分自身なのか。それとも、金のことを最初に考える人後に落ちてしまった自分自身なのか。そんなことをうとうとした頭で考えているうちに併走していた深夜バスをさっきよりも間近にあり、窓に映った梨木そっくりな顔はとても大きくなっていて、その表情は軽蔑してもしきれないほど卑下たものだった。(了)

多可乃母里(たかのもり)

時里二郎

  1

わたくしは この子の人形
この子に庇護されているゆえに
この子を庇護せねばならぬ
声の無いこの子が ただひと口
わたくしの口の端(は)に語らせる
 takanomori
それも 唇(くち)を動かさずに
わたくしの口に言わせる傀儡(くぐつ)のわざを
どこでさらったのか

 takanomori
これがわたくしの名なのか
この子にそう呼ばれているように聞こえるが
兄だか弟だかわからぬ男の子が
この子に呼びかけるのも
 takanomori
この子の名ではないにしても
この子の呼び名か

takanomori
この子は そのひと口しか
ことばをこぼさないのだから
男の子も
takanomori
そうかえすしかないのだが

  2

この子に母がいないわけを
わたくしは知らない
父はいるが いつもにぎやかな団欒に紛れるように
この子がいるのだかいないのだかわからぬようすで
この子とふたりでいるところを
わたくしは 見たことが無い

この子の家族は父とこの子と男の子の三人だが
家には親密で思いやりの深い親戚や父のなかまが出入りしていて
いつも明るくて 
ことばがあふれている

それなのに
この子の世話を任されているのは
わたくしと
この子の兄だか弟だかわからぬ男の子だけ

タカノモリ 
男の子が呼びかけると
takanomori
この子が言わせて わたくしが
応じる

プロセスから構造へ その逆でなく

高橋悠治

詩に作曲するとき 斜め読みで目に止まったことばから 音のうごきを思いつく 詩のことばはまず響きで 意味やイメージがその響きの表面から透けて見えることもあるが 詩は響きのリズムですすむ 詩の一行が 縄文字の細縄のように 太縄から短冊のように下がっているとすると 波打つ細い縄には 太縄に結んだ最初の結び目から ことばの節ごとにいくつかの結び目が見える

ことばの細縄に 音の縄文字が向かい合って その細縄の結び目から別な細縄が枝分かれして 音の網を編んでいく 一つ一つの音があって そこから網ができるのではなく 結び目から伸びる細い線が 蜘蛛の糸のように翻り 次の結び目を作る 結び目から網ができていくとき 音は線の通り道で 踊るように 舞うように 跡を残して過ぎていくが 結び目はそこに引っかかって足が思わずおそくなるところ と言ってもいい 詩の線に寄り添う音の線は ことばから音への翻訳ではなく 誤読も含んだ別の展開 というより 付かず離れずで 絡まるもう一つの線 声のリズムと並行か ちがうリズムで進むか 背景の空気を染めるだけか

喉を通り抜ける空気が声になるとき 風が吹きすぎた後の空き地に 回り込んだ空気が集まってくるように 喉に残った予熱が次の声をさそいだす 声は空間がないと響かないが 空間のなかのどこに音があるのかわからなくても 聞こえてくる方向はある 遠い音・近い音があっても 音がここにあるとは言えないだろう 風とちがって 音がどこに向かうかもわからない 音は空間のなかにあるものではなく 音が空間だということなのか 音が空間なら そこには区切りも 境界線もない

池に石を投げ込むと波紋がひろがるように 音が楽器から周りにひろがるイメージはわかりやすいが 楽器は波打っていても 音はそこに停まってはいない  音が変っていくのが聞こえる 変化するから音になる 音符に書くと楕円形の小石のようだから 碁石のように並べたり 順序を変えたりして 文字絵のように記号を組み立てて 形にすることもできる その場で消えて行く音から耳の記憶が作りだす形は それと似ているようでちがう イメージが作られるその場で消えていくと同時に 別なイメージが起き上がってくる

縄文字や文字絵は 読みかたがわかれば 意味が定まる 詩のことばは意味だけでなく イメージでもあり 読むときはまずリズムのある響きの列になる 音の網は雲のようにひろがっている バロック音楽のようにレトリックや音の絵である場合も ことばにならない感じが伝わってくる 歌のような声が シラブルに区切られてことばになったとき そしてことばが文字になり あるいは目印としての記号がことばとして声に出されるときに失われるもの 楽譜が音の散りばめられた平面として読まれ メロディーが音符の列になったとき抜け落ちるもの それだから逆に 音楽や詩は書くだけでなく 演じるだけでなく その場でさまざまに聞かれ 感じられると 意図も構造もない人間の集まりのなかに投げ込まれた小石となり 予想できる未来からのひとときの自由がそこに垣間見られたような だが それが錯覚でないと だれが言えるだろう

2018年7月1日(日)

水牛だより

雨があまり降らないうちに早々と梅雨明けしてしまった東京は真夏なみの暑さが続いています。夏のあいだの水はだいじょうぶかなのと気になります。いまもう真夏だとしても、秋が早く来るとは限らず。これまでは確かにめぐっていた季節というものがしだいに変化しているのを感じます。

「水牛のように」を2018年7月1日号に更新しました。
最近は夜になると比較的早い時間にPCをシャットダウンするようにしています。きょうお届けする原稿は6月30日の夜にはまだ二つしか届いていませんでした。7月1日の朝、起きてすぐPCを起動してみると、ずらずらずらっと原稿が並んでいたので、ニンマリしました。深夜や早朝の送信時刻を見ると、なぜかニンマリ度が高まります。自分が意識もなく眠っているときにしらじらと起きていて原稿を書いている人たちの姿をつい想像してしまうからです。

今月もぼんやり考えていること。今年は水牛楽団など、以前水牛レーベルで出したCDの音源をいくつか公開しようと思っています。水牛楽団はメンバーの西沢幸彦さんが亡くなり、「冬の旅」は歌った斎藤晴彦さんが亡くなり、彼らといっしょにこれから実際に何かをおこなうことは出来なくなりました。だから彼らとともに過ごした記念に、と言ってしまうと少々おおげさかもしれませんが、誰でも聞けるようにしておきたいと思うのです。長そうなこの夏の間にあれこれ考えて、秋には具体的にしたい。ぼんやり、決意として書いておきます。

それではまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(35)1951年の海辺の人々

西大立目祥子

うっすらと雪の残る道ばたで、もこもこした冬のコートを着こんだ子どもたちが笑っている。足元はみんな下駄で、あでやかなピンク色の爪掛け(下駄の前の部分の覆い)がかわいい。その屈託のない無垢な表情に見入るうち、なぜだか泣きたい気分になってしまった。

この写真を撮影したのは、アメリカ人のジョージ・バトラーさん(1911〜1974年)。朝鮮戦争の勃発に際し、1951年3月から約9ヶ月間、軍医として「キャンプ・マツシマ」(現・松島基地/宮城県松島市)に滞在した。写真は、その滞在中に訓練の合間をぬって撮影されたもので、松島を中心に、塩釜、石巻、牡鹿半島、仙台など、宮城県の沿岸部の日常の暮らしが切り取られている。仙台で5月1日から展示が始まると、長男のアランさんとその家族が来仙したこともあって、地元紙やテレビにも取り上げられ話題になった。

9ヶ月の滞在期間中に撮影した写真は約2000枚。息子のアランさんはその写真を整理していて、多くが東日本大震災で壊滅的な被害を受けた地域であることに気づき、一枚一枚の修復作業に取り組んできたという。

終戦から6年目の沿岸部で、どんな暮らしが営まれていたのか。写真はそのようすをリアルに伝える。戦争が終わったという開放感からなのか、人々の表情は明るい。終戦直後のきびしい食糧不足をくぐり抜け、わずかではあるけれど暮らしに落ち着きが生まれ、真っ白な割烹着を着込む母親が話し込んでいたり赤い晴れ着をまとう少女がいたり、暮らしの上向き加減が見て取れる。

でも、農作業に限らず、工事現場も山の現場も機械化以前。田んぼで、山で、海で、人々は汗だくで労働している。カラーフィルムは、夏の強い日差しや生い茂る緑もよく再現していて、男たちは炎天下で日に焼けた上半身をさらし黙々と体を動かしている。汗して働いているのは男ばかりではない。女たちはそろってどんづき作業(家を建てる前の基礎工事)に精を出しているし、子どもたちも自分のからだの数倍もあるような薪を背負って山を下ってくる。

誰もがまだ貧しかった。貧しい生活を支えるために、身を粉にして働かなければならなかったのだ。写真は細部までクリアに映し出して、包み隠さずその貧しさを伝える。バトラーさんが家族にあてた手紙にも「仙台は人口20万人の都市なのに、とても貧しい」「貧しい暮らしにもかかわらず、どの集落の家屋も小さな森に囲まれていて…」とある。小さな木造の家屋も土ぼこりの舞う道も、アメリカ人の目にはひどく窮乏した生活の風景に映ったのだと思う。

でも、だからこそ、よく働く人たちに感心を抱いたのもしれない。「アメリカ人の男性でも投げ出しそうな荷物を背負った小柄な女たち」という手紙の一文もあるし、農夫、漁師、大工、花売り、鉱夫…写真に働く人の姿を共感と愛情を持って写している。

アメリカにはない暮らしの中の意匠にも目をとめている。寺の鬼瓦、舟の舳先の飾り、稲のはせ掛け、大根干し、屋敷構えなど、興味は実に幅広い。バトラーさんは帰国してから日本の家具を置き、盆栽を楽しんでいたというから、日本の文化への興味はこの滞在中に培われたのかもしれない。

そして、子どもたちは、どこでもにこにことした笑顔をカメラに向ける。バトラーさんの身長は196センチあり、それだけで子どもたちの笑いの対象になったらしい。

写真は、近代化以前の暮らしを事細かく伝える。暮らしの中のあらゆるものがまだ天然素材。女たちは打ち込みのしっかりとした地織りの木綿で仕立てた作業着を着込み、藁で編んだ草履をはき、日よけに菅の笠をかぶる。街を行くのは肥桶を積んだ馬車で、その車輪はまだ木製だ。船は地元の船大工が手をかけたに違いない和船で、捕れた魚を下ろすカゴは竹製。店先の乾物はリンゴの木箱に詰めて売られ、芋に至っては土のついたままムシロに広げられている。

そして、果物店の店先を写した一枚をじっくりと眺め、色鮮やかなリンゴやミカンのわきに置かれた竹のカゴが目に入ったところで、私自身の記憶が揺り動かされてくる。そうだっけ、子どものころ、病院にお見舞いに行ったりするとき、こんなふうな細い竹で編んだカゴに入れたんじゃなかったっけ。深いところに沈んでいた記憶が浮き上がってきて、高度経済成長期の中にまだ残っていた一つ前の生活の断片を自分が知っていることがうれしく思えてくる。写真の中には、自分の過去も見つけられるのだ。

古い写真は、なつかしさを呼び起こすだけのものではないと思う。写真は、私たちはここからきたんだよ、と教える。自分の生まれる前の写真であっても、それは私たちの原点を指し示している。貧しかった、とひと言では決して片づけられない暮らしの総体。今日の目で振り返ると、写し出された世界はうらやましいような豊かさも隠し持っている。

バトラーさんの写真はこちらで見ることができます。
https://www.miyagi1951.com/

世界難民の日とワールドカップが重なる日

さとうまき

ワールドカップがはじまった。日本が予選リーグを通過してしまったもんだからTVや新聞は予想以上に大騒ぎになっている。

6月20日は国連総会で決議された「世界難民の日」。難民の保護や援助に対する世界的な関心を高めること、難民支援を行なう国連機関やNGOの活動や支援への理解を深めること、故郷を追われた難民の逆境に負けない強さや勇気、忍耐強さに対して敬意を表す日。

そんな日に、ワールドカップの試合があれば、難民のことなどに思いをはせる暇はない。そこで、ワールドカップ出場国の難民事情を調べて展示することにした。

僕が実際に難民キャンプで知り合った難民がたどり着いた国がW杯にでる。イングランド、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、オーストラリア、ブラジル、そして日本。そういった国が対戦するときはそれぞれの国の難民政策、そして実際の難民の事情などを思い浮かべながら試合を見る!これが、世界難民の日にW杯を見る正しいやり方だ。

たとえば、6月19日、日本VSコロンビア戦。
日本は、2017年の難民受け入れが19,623人の申請のうちたったの20人しか認定されていない。コロンビアの知り合いはいないが、調べれば世界で最も国内避難民が多い国。麻薬戦争で難民になった人もいる。しかし50年以上にもわたる内戦はサントス大統領の努力で終結したに近い。いろいろ調べて、コロンビア人が経営するバーで試合を見に行った。実際試合が始まると、難民のことなどすっかり忘れてしまう。コロンビア人がたくさんバーに集まってきて楽しかった。W杯だけあって白熱している。日本が勝ってしまい、TVや新聞は大騒ぎ。難民に関するニュースはかすんでしまう。

6月21日、デンマークとオーストラリア。
両国とも、知り合いの難民がいる。試合を見ているとイラクから同居している部下のアーデルから電話が入る。アーデルはヤズィディ教徒で、ISに襲撃されて逃げてきて、うちのイラクのアパートに居候している。
「フランス大使館から連絡が来て、移住してもいいっていうんだ。家族のビザも出してくれるんだ。どうしたらいい?」
と聞いてくる。こんなチャンスは二度とはない。もう会えないのは寂しいけど、
「君の将来を考えたらいくのがいいと思う」
「しかし、お兄ちゃんは嫌がっているんだ。そして、今まで君に雇ってもらって、仕事に生きがいもあるし。。。」ともじもじしている。
「寂しいけど、フランスに行った方が簡単に会える」
そうこうするうちに、フランスVSペルー戦が始まった。
「じゃあ、こうしよう。フランスが勝ったら君はフランスに行けばいい。負けたらいかない」
フランスガンバレ! ついに運命のゴールをフランスが決めた。
「世界難民の日のプレゼントだよ」
「よし、僕はフランスに行く!」

6月30日
イラクからシリア難民のリームが日本にやってきて支援を訴えている。講演会をやった。会場からの質問。
「難民という困難な状況でどうやって生活を楽しめるのですか」
「サッカーを見ています。日本が勝つことを応援しています。ただし私はロナウドが好きです」
ポルトガル戦でクリスチアーノ・ロナウドを見たら、シリア難民を思い出そう。

アジアのごはん(93)らっきょう漬における考察

森下ヒバリ

「う~ん、なんかピンと来ない」去年漬けたらっきょうの醤油漬けをバリバリ噛みしめながら、わたしは悩んでいた。今年もらっきょう漬けの季節がやって来たのだが、なにか今ひとつ醤油漬けのらっきょうに食指が動かないのである。何か、こう、もっと違うものを身体は求めているようなのだ。

今食べているのは去年漬けこんだものだから、さすがにらっきょうの瑞々しさはない。まだなんとかザクザクとした歯ごたえはある。不味いわけではない。いや、うまいと思う。ヒバリのらっきょう漬は、らっきょうの皮を剥いてから沢山の塩で下漬してから甘酢漬け‥などという面倒くさいことはせずに、いきなり醤油と酢と砂糖かはちみつ少々で漬ける甘すぎない酢醤油漬けである。これは手間がかからないが、最低2か月ぐらいは漬けておかないと味が染まない。一番おいしいのは3~4か月たってからだ。

しかし。らっきょう漬けは涼しくなってくると、忘れられる。カレーを作った時に思い出される程度で、基本的に暑いときや湿気が多いときに食べたくなり、また食べるべきものだろう。醤油漬けはしばらく寝かせる必要があるので、ようやく食べ頃になった頃にはらっきょうへの希求がうすれている。

そして、ああ、らっきょう食べたいと思う初夏には去年のらっきょう漬を、なんかパンチないな‥と思いつつ食べているのだった。醤油漬けをまだつけが浅いうちに食べるという手もあるが、やはりどんなに早くてもひと月は漬けておかないと。と、なると何とか食べられるひと月を経過する頃には恒例の夏の旅に出て家にいない‥。

じゃあ、今年は漬けるのはちょっぴりでいいかと、らっきょうが出回り始めた頃に500グラムだけ醤油漬けにした。しかし、500グラムというのはほんとにわずかだ。やっぱり、もっと漬けるか‥。

そうこうしていると友達のミケちゃんが「ウチもらっきょう漬けたよ、ウチはいつも塩漬け。もうすぐ食べられる~」とFBでメッセージを送って来た。ふむふむ、ミケちゃんちは塩漬けなのか。あれ、もう食べられるってどういうこと? らっきょうの塩漬けって甘酢漬けの下漬のことじゃないのか。15%ぐらいの塩で漬けこみ、食べるときには塩出ししてから甘酢漬けにするための塩漬けとはどうも違うようである。だいたい塩15%というのはものすごい量だ。やや塩分控えめの梅漬けと同じぐらいだ。

さっそくどんな作り方か聞いてみた。「う~ん、皮むいたらっきょう1キロに‥塩は適当‥大匙2杯ぐらいかな。まぶして、ビンに入れてカップ3分の2ぐらいの呼び水を入れて置いとく。そんで、3日ぐらいから食べられるよ」「え、3日で!」「うん、そやねん。そんで、上がってきた水がプクプクしてきたら冷蔵庫に入れるねん」「え、プクプク‥」「おいしいよ~。あっという間に食べてしまうで~」

沖縄の島らっきょの塩漬けが思い浮かび、口の中が唾液でいっぱいになった。ミケちゃんちのらっきょうは、島らっきょの塩漬けに限りなく近いのではないか。これだ。わたしが夏に食べたいのは、こういう(たぶん)フレッシュでパンチのきいた、でも生じゃなくてちゃんと漬かった塩漬けのらっきょう、に違いない。しかも、プクプクしてくる、ということは発酵しているということである。らっきょうの発酵漬、酸味も出てくればさらにおいしそう。どうして、今まで気がつかなったのか~。らっきょうとて野菜である。水キムチみたいにして食べればよかったのだ。

プクプク発酵といえば、去年の夏に、初めてパイナップルの皮と芯を使って、水を加えて作る酢を試してみたら、おいしくて簡単で、それ以来季節の果物で酢を作って楽しんできた。この季節、熟した梅の実で作る酢がおいしい。

 *熟した黄梅(キズ梅、熟れすぎでもいい)500g
 *水1.5リットル
 *砂糖80~100g 水に溶かす。酵母のエサ。

これらを広口瓶に入れてガーゼなどで覆ってひもやゴムでとめ、虫が入らないようにする。毎日かき混ぜるか、ゆすって、浮いてきた梅が空気にあまり触れないようにする。2~3日すると、プクプクと発酵してくる。1週間ぐらいして液が濁ってくれば、梅を引き上げて、一度濾して液体だけを再び熟成させる。ときどきゆすってやるが、白い膜(酢酸菌膜)が張ったら、そのままでもいいし、ゆすって混ぜ込んでもいい。そのまま静置は酸素の無い環境で働く菌が、ゆすってやると酸素が好きな菌が酢を作る。臭みが出ることもあるが、数か月たてば消えるので、心配いらない。2か月ぐらいしたら出来上がり。ガーゼで濾して瓶などで保存する。

この梅の酢は2か月熟成させなくても、2週間ぐらい(砂糖の甘みが消えて、酸っぱくなっている状態)で十分おいしくなるのでソーダや冷たい水で割って飲むと、夏の暑い日の水分補給にばっちりである。甘いジュースは後で身体がぐったりするが、この甘くない梅の酢ソーダ割りなら身体がしゃきっとする。熟成させたものは、さわやかな酸味が料理に使いやすい。梅漬けで出る梅酢はおいしいけれども塩辛すぎてなかなか使いにくいので、塩辛くも甘くもないやさしい酸っぱさのこの梅の酢は重宝する。

白い膜をカビだと思う人は多いのだが、カビではないので濾してしまえば、すっきりした酢になる。漬けた実がつぶれていたりすると、白く濁った酢になるが、問題はありません。エキスを全部搾り取ろうと、果実を潰してぎゅうぎゅう押して濾したりする人もいますが、雑味が出やすくなるので、おすすめできない。

いちおう、ネットや料理本で「らっきょうの塩漬け」を調べてみた。しかしほとんどが塩漬けというと、甘酢漬けの下漬で塩分15%のものばかり。もしも塩漬けで食べるときは、塩抜きしてから食べろ、と。中にひとつかふたつ、塩分4%で漬ける、島らっきょの塩漬けみたいにというレシピがあった。しかし、熱湯を回しかけろとか意味不明。う~ん、ここはやはりミケちゃんレシピで、行こう。もっとプクプクさせるために水を少し多めに入れて、と。塩は足りなかったら追加すればいいや。

らっきょう漬けを、梅干しのように保存漬としか考えていなかったので、少ない塩での塩漬け、という方法に思い至らなかったが、いやはや、この漬け方はまさに目からウロコである。

塩をまぶして1日たって、プクプクと泡が出始めた。水も上がって来て、顔を出していたらっきょうも水に浸かった。味の変化を見るために、毎日味見をしてみようと、小さいのをひとつかじってみる。ふむ、漬かりは浅いが1日でもう生とはちがうまろやかさが出ている。よしよし。赤いとうがらしを2本入れ、ゆすってやる。ぷ~んとらっきょうの匂いが立った。はやく、おいしくな~れ。

灰いろの水のはじまり(その4)

北村周一

つづいて、パレット灰いろ作戦第二弾です。
いよいよおとなの登場です。場所は、武蔵野市立吉祥寺美術館の音楽室。
フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前展の、関連イベントのひとつとして企画されました。
題して、「えのぐのゆくえ、パレットのおしえ」。
去年の四月某日、総勢12名の参加を得て、ワークショップははじまりました。

当然のことですが、抽象的な絵画を描くことはほぼはじめて、という方々が多く参加されました。
何を、どこから話せばいいのか、思い悩みましたけれども、まずは導入部として、絵具の物質性や、パレットの中間領域としての役割について、自分なりの考えを話すことにしました。
それから、色の三原色は、光の場合と、色材の場合とでは異なることも説明し、とりわけ光の場合には、混合すると限りなく白色に近づくこと、色材の場合には、混合すると黒(ごく暗い茶色)に近づくことも話しました。
それゆえ、今回用いることになっている、水溶性のアクリル塗料の場合、発色の効果が強すぎる絵具は、極力外すように伝えました。
たとえば、黒、茶色、藍色などです。
ところで日本語というのは面白いもので、青、赤、白、黒の四つの色に限っては、形容詞として活用できますし、また色という語を付けなくても、単独で色を表すように工夫されています。
水色、桃色、黄色などなどとは、別格の扱いを受けているといえます。
さらに、青、赤、白、黒の四つの色は、四季のそれぞれにも対応していて、青春、朱夏、白秋、玄冬というお馴染みの言葉となって、息衝いてもいます。
また、色の三要素についても、少しく触れました。
明度、彩度、色相、すなわち、色の明るさ、鮮やかさ、いろあい、についてです。

手短に話したつもりですが、正味2時間ほどの枠組みの中で、途中若干の休憩をはさみながら、参加者全員が、それぞれの絵を完成できるところまでもって行けるかどうか、不安なままに作業ははじまりました。
キャンバスのサイズは、おとな向けにF3号(22×27㎝)と、僅かながら大き目にしました。
最初に、好みの絵具のチューブを選ぶところは、子どもたちのときと同じです。
キャンバスをパレットに見立てて、チューブから絵具を絞り出し、各人ひとり一本しかない絵筆を用いて、絵を描きはじめました。
ミッションは、絵具を混ぜ合わせながら、ひたすら灰いろに近づけること。

はじめのうちは、どのように描いたらよいのか、戸惑っていたみなさんでしたが、手慣れてくると、
参加者それぞれが、さまざまな技法や思いつきを駆使しながら、先へ先へと筆を進めていました。
四つの側面も含めて、塗り残しのないように、キャンバスの白いところをすべて絵具で満たすこと。
みなさん最後まで、一心不乱に絵を描いていましたが、やはり周囲の目が気になるのでしょうか、
互いに見比べながら、作業を進めるといった具合でした。
絵の描き方というよりも、絵の描き手の性格かもしれませんが、比較的早く描き終えてしまった人と、
なかなか描き終わらない人と、フィニッシュがバラバラになってしまいましたが、合評の時間を少しだけ残して、12名すべての絵が仕上がりました。
大勢の人に囲まれながら、絵を描くことはとてもしんどいことです。
みなさん描き終わってホッとしていました。

でもこれで終わりというわけではありません。
そうです、絵のタイトルを決めなければなりません。
描き終わって、それぞれが思いを込めながら、絵の題を発表しました。
作者が付けた絵のタイトルとその絵を見比べながら、うん、なるほどと頷いたり、笑ったりと、
反応はいろいろでしたが、ひとりだけ無題がありました。
もしかしたら、その後タイトルが決まったかもしれませんが。

それはそうとして、灰いろの方は一体どうなったのでしょうか。
限りなく灰いろに近づいたとはいえ、思い描いたような灰いろにはならなかったようで、いわば灰いろの一歩手前に留まったような感じの色合いに終始したように見受けられました。

しかしながら、テーブルの上に目を移すと、各人一個ずつあてがわれていた筆洗用の透明のプラスチックカップの中の水が、なんと灰いろになっているではありませんか。

微妙にそれぞれ色合いが異なっているといっても、総じて灰いろに間違いありません。
参加者12人、十二色の灰いろが、目の前のテーブルの上に並んでいたのでした。(つづく)

しもた屋之噺(198)

杉山洋一

この一か月ほど、週末の夜になると、線路の向こう側の運河沿いの駐車場で、屋外コンサートが開かれています。最初はアフリカン・ポップスなどやっていて、楽しんで聴いていたのですが、何しろ大音量で日付が変わる頃までやっていて、演奏中はこちらも落着いて仕事できる状況にないので少々困っていて、息子に愚痴ると、他の人は皆喜んでいるからでしょう、とあしらわれてしまいました。
まあ、尤もな話ではあります。

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6月某日 ヴェローナ宿
ヴェローナのサン・ゼノ教会の傍ら、サン・プロコロ教会でブルーノ・カニーノのシューベルトD960を聴く。先月終わりに東京で会ったとき、このソナタを演奏するのは人生で2回目、本当に難しいとしきりに話していたが、それだけ作品に愛情が深いことがよく分かった。今度何時聴けるかも分からないので、思い切って家族連れでヴェローナへ出かける。一楽章が始まった途端に聴きながら涙がとまらず、何故涙が流れるのだろうとしきりに自問してみたのだが、答えが見つからなかった。倍音の豊かさ、和声感の充実、弱音の明瞭なキャラクターが際立つ。気が付くと外で鳥が甲高い声で啼いていて、まるでピアノとやり取りしているように聴こえる。シューベルトがいなければ、西洋音楽史は大きく変化していたに違いない。ブルックナーやマーラーの交響曲もなければ、プーランクの歌曲もピアノ曲も生まれなかっただろうし、ブラームスに至る和声の発展もなかったに違いない。誰に対して感謝しているのか分からないが、ともかくシューベルトという人がこの世に生を受けたこと、そして彼の音楽を我々に残してくれたことに深い感謝を覚えるばかりだ。

6月某日 ミラノ自宅
ヴェローナの宿で朝ベッドでラジオをつけると、べンバ元副大統領が国際刑事裁判所で無罪となったことに絡み、コンゴの賛成反対両意見をラジオフランス国際放送が流している。コンゴと言えば、エミリオの長男が国連で働いているので、コンゴの状況がニュースで流れると思わず気にかかる。
天気もよく、歩いてヴェローナの記念墓地まで歩く。入口で仏花を買おうとすると、お墓に供えるのかと尋ねられて、ここまで自宅用の花を買いに来る人もいると知る。ドナトーニの墓の花さしがとても小さいので、枝を短く切ってもらい、水がなくなってもそのままドライフラワーになりそうなものを選ぶ。最初の墓地を通り過ぎ、Piis lacrimus と書かれた神殿の教会の傍らから裏の墓地へ廻る。ドナトーニの墓は、ちょうどコインロッカー状に並ぶ一番奥の墓地の一番左、そこを入って左奥の右上、ちょうどとても暗いところにある。息子は大分昔に一度ここへ連れてきたときのことを覚えていた。
花を活け、積もった埃をウェットティッシュで拭った。ロウソク型のオレンジ色の電灯が切れていて、電球が緩んでいるのかとガラスの蓋を外すと電球が入っていないので愕く。ドナトーニの墓は、とても高い処にあって、梯子で昇ってゆくのだが、ここに墓を備え付けるのもさぞ大変だろう。墓の蓋には、重さのない重力、gravità senza pesoという、ドナトーニの好きだった言葉を表題にして、彼の曲名を散りばめて作られた詩が刻み込まれている。息子も梯子を上ってみたいと言うのでやらせてみると、salve! やあ!と声をかけ半分ほどで怖がって降りてきた。

この区画の前あたりには、「何某家の墓」と書かれた、立派な家づくりの豪奢な墓地が並んでいる。日本の公衆便所くらいの厳めしい石造りの建物が、刈り込まれた美しい芝生の上に点在している。そこに一つだけすっかり蔦に覆われた緑の墓地があって、近くで作業をしていた庭師にこれはどういうことか尋ねると、10年来一度もこの墓主は手入れに来ないのだそうで庭師たちはすっかり怒っていた。彼らは毎日頼まれた墓の掃除に来ているのだと言う。

入口裏の事務所に顔を出すと、墓地の管理事務所らしく、黒い服に身を包んだ中年の女性が一人残っていて、電球が外されているのは、契約を破棄したか、料金が未払いだから事務所が故意に外したものだと言う。年に18ユーロだと言うので、それならここで支払うと言うと、契約を取交した本人でなければいけないと言う。そのままIngenio clarisの神殿の石碑を訪ね、ドナトーニの名が刻まれている辺りに、供えきれなかった残りの花を手向けた。

駅に戻ると、まだ少し時間があったので、タクシーを拾って、ドナトーニ広場へ出かける。想像通り、タクシーの運転手はドナトーニ広場など知らなかったので、うろ覚えで、作曲家の名前の道ばかりが並ぶ音楽家界隈の、ヴェルディ通りとポンキュエルリ通りに挟まれた小さな広場があるだろうと言うと、犬に用を足させるような広場しかない、あんなところに本当にお前は行きたいのかと何度となく念を押される。
果たして、アパートの立ち並ぶごく普通の一角に、よく手入れの行き届きた小ざっぱりとした芝生に、小さな滑り台とブランコがあるだけの広場があって、確かにgiardini Donatoni, compositore, maestro di musicaと銘板が立っていた。もう18年前に亡くなった恩師で、ミラノに長く住んでいたが出身はヴェローナで、記念墓地のingenio clarisの石碑にも名前が刻まれているのだと言うと、それならせめてヴェローナのどこかの広場に名前をあげればよいものを、とタクシーの運転手に言われる。
ここは正確にはヴェローナ市内ではなく、サンタ・クローチェという地域だそうで、現在のインターネット地図でも、ドナトーニ広場がある場所はただ「無料駐車場」としか書かかれていない。ドナトーニらしくて悪くはないが、少し寂しい。昼食時だったからか、人気がなかった。

ミラノに着いて、マリゼルラに墓の電灯のことで電話をすると、それは恐らく急逝したドナトーニの長男名義になっていたのかも知れないと言う。そんな話から、ドナトーニは当然ミラノの墓地に埋葬されるはずだったのが、ふとマリゼルラが生前ドナトーニが死んだらヴェローナに埋めてくれと言っていたのを思い出して、急遽ヴェローナに場所を拵えた話やら、息子が7月、一週間ダブリンに出かけるのだが、ドナトーニの妻だったスージーがダブリン出身で、ウィスキーのjamesonの創業者の家の出だったことについて話し込む。スージーは、子供のころ住んでいた城のような家の写真を何度か見せてくれた。晩年のスージーは片時もウィスキーのグラスを手放さず、すっかり中毒になっていたが、或いはアイルランドの家が懐かしかったのだろうか。
家に着くと、息子はすぐにピアノを触っている。しばらくクレメンティのソナタを弾いていて、厭きたのか今度はフルートでマルチェルロのソナタを吹く。息子は日本風に一音ずつ感情を込めて弾いたりしないので、旋律はとてものびやかに響き、少しばかり羨ましい。

6月某日 ミラノ自宅
息子と連立って2年ぶりのべレグアルド運河を訪れる。それぞれの自転車を携えてサンクリストーフォロからモルタラゆきの電車に乗り込むと、周りには多くのアフリカ人が屯している。車掌が近くで検札を始めると、無賃乗車をしていたのか、彼らのうちの何人かは、辛うじて開いていた扉から外へ逃げ出してしまった。目の前に残った一人は、廻ってきた車掌に、切符を買う時間がなかったと言い、ここで切符を買うと言い張るが、差し出したクレジットカードにお金が入っていないと車掌に指摘され、次の駅で降ろされてしまった。

無賃乗車を容認するつもりは毛頭ないが、例えば彼らが船でアフリカから渡ってきた難民、もしくは移民だとしたらどうなのだろう。難民が鈴なりになった船が難破した、というニュースは数えきれない程聞いた。人道的見地から、つい最近までイタリアは彼らの上陸を許してきて、最近になって、イタリア政府は方向を転換したわけだけれど、彼ら難民が上陸を許され自由になった後どうしているのかは、よく知らない。
ラジオでは連日トランプ政権の不法移民政策のニュースをやっている。幼い子供たちが親から引離され泣き叫ぶ姿に際し、女性報道官は「サマーキャンプにゆくようなものですから大丈夫です」と応えなければならない。仕事とは言え、気の毒な気もする。
各国の難民、移民政策に意見を言える立場にはないが、政権が変わり政情が大きく変化したなら、自分だって「一週間以内に一億円税金を納めなければ不法滞在と見做す」と言われる可能性もある。二十年前に二年の約束で伊政府給費を取ってイタリアに留学した時も、政府から一方的に一年で給費が打ち切られた。そうして路頭に迷って食い繋いで暮らしてきて挙句、結局未だにミラノに残っている。当時奨学金が打切られた理由は何も知らされていない。だから、何時また「不法移民」と呼ばれる日が来るかもしれない、と覚悟している。無賃乗車のアフリカ人を嘲ることなど到底できないし、アメリカで家族が引離されたと聞けば、他人事とは思えない。ラジオを聴きながら、思わず涙がこぼれた。

間もなくアッビアーテ・グラッソの駅に着く。2台の自転車を下ろしていて、列車のドアが閉まりかけた。駅から自転車で5分も行けば、ベアグアルド運河沿いの自転車専用道路に出る。周りは見渡す限りの水田とトウモロコシ畑。澄み切った青空が心地よい。
昨年の今頃は、ずっと窓も開けられないニグアルダの小児病棟に入院していたから、こうして息子と二人でサイクリングが出来る日が訪れることなど、想像すら出来なかった。二年前と比べてすっかり成長した息子の姿を後ろから眺めつつ、思わず感慨に耽る。朝買ってきたピザとキッシュを水辺で齧りながら、息子は船着き場に腰を下ろし、足を運河の水に浸して喜んでいた。

後ろから息子の足の具合を注意深く眺めつつ、どこで引き返すべきか必死に見計う。彼に自信をつけさせたくて、体力の許すところまで頑張って走らせたいが、失敗して途中でリタイヤすることになれば、精神的に立ち直すのに時間がかかるのも分かっていて、慎重に後ろから様子をうかがう。息子は「疲れた、家に帰りたい、帰ろう」と繰返していたが、モリモンドの修道院に寄って、それからまた運河沿いに進んでカッシーナ・コンカの牛舎を訪れる。2年前に来たとき、ここで息子が牛の鳴き声を真似しているうち、乳牛たちが集まってきた。

ベザーテ辺りで休憩し、アッビアーテグラッソに向かって来た道を戻り始めると、息子の左足がするりとペダルから外れてしまう。足が疲れて力が入らなくなった時の典型的な症状で、こちらは内心生きた心地がしなかったのだが、気が付かない振りをしていた。
針の筵の思いで暫く走って彼方にアッビアーテ・グラッソの街が見えてきたところ辺りから、突然彼の身体は見違えるように活力を取戻した。魔法でも見ているようだったが、彼はすっかり元気になって顔つきも精悍になった。
果たして首尾よく駅にも戻ると、あろうことか乗るつもりだった列車が、突然運休とアナウンスが流れるではないか。次の列車まで1時間以上あるので、近くの喫茶店で時間でも潰そうと提案すると、息子はそれなら家まで自転車で帰りたいと言う。ここからミラノまで20キロ弱あるし、もう6時間近くサイクリングしたのでやめるべきと説得するが試してみたいと言い張るので、こちらも腹を決め、水と菓子パンを買い込んでミラノまで走ることにする。
極力早くならないよう先導しつつ、適宜休憩をとりつつのんびり走る。飽きもせず作曲家のしり取りをしながら走っていて、気が付くと目の前にミラノの街並みが迫っていた。信じられない思いで、すっかり逞しくなった息子に目を見張る。
真っ黒に日焼けした顔に満面の笑みを湛え、無事に家に着いて最初に息子が発した言葉が「また明日もまたベアグアルドにサイクリングに行きたい」、だった。

今月の初めには、学校に行きたくないと駄々をこねる息子を一喝して、パジャマ姿の息子を雨の中を抱きかかえ、トラムまで無理やり連れていったこともあった。トラムに一度は無理やり乗せたが、二人とも裸足のままだったで、息子も観念して学校へゆくと約束したので、一度家に戻ることを許しトラムを降りたところ、どこかのおばさんが、これをお履きなさいと靴下を渡してくれた。
父親に羽交い絞めにされながら、息子は誰かが警察に通報してくれると思っていたらしいが、こちらも腹を括って連れ歩いていたから、年度末でこの父親も余程必死なのだと誰もが理解してくれたようだ。
その一件のあって息子も学校にゆくようになったが、こちらは数日全身が筋肉痛に悩まされ、あの日はその後こちらも学校へ出勤し、一日授業をした挙句に夜はリハーサルまであった。ドナトーニのリハーサルに出かけて楽譜を開くと、持参したのはグリゼイの楽譜だった。

息子は今月、劇場の合唱団のインスペクターをやっている彫刻家のキアラの工房に足繁く通っている。まず最初に訪れた際に龍を作り、無心で土を触る時間が余程気に入ったのか、次に出かけた折には竪型ピアノを、そしてその次にはピアニストを作った。ピアノを作った時にもその精巧さに感心していたが、その後でピアニストを作った時には心底感嘆した。父親には到底できないのはさることながら、息子がピアノを弾く時に伝わってくる情熱と同じものを、息子のピアニスト像に見出したからだった。これはどういうことなのだろう。

6月某日 ミラノ自宅
マスターコースのテーマにミヨーを選んだ。本来はハイドンの中期の交響曲の続きをやるはずだったが、学生たちの集めたお金でオーケストラを借りるので、予算がぐっと少なくなった。もちろんオーケストラの弦編成を減らせば良かったのだが、せっかく編成を減らすのならば、本来その編成のために書かれた作品をやる方が、学ぶことも多いに違いない。今回はいつも一緒にやっている現代音楽アンサンブルが一緒にやってみようと話してくれたので、それならばと考えたのがミヨーだった。自分が今まで何曲か演奏した中で、演奏が決して易しくなかったが、作曲家として魅力的だと思ったので、小交響曲以外はどれも実際知らない曲ばかりだったが、アンサンブルが提示してきた予算に見合う編成の楽譜をレンタルした。

1918年、ちょうど100年前に書かれた小交響曲2番「牧歌」と1921年に書かれた3番「セレナーデ」。1番「春」は子供の頃から好きだったが、ハープあってフルートも1本多いので却下した。1919年作の「農機具」と1920年作の「花のカタログ」。それからマーシャ・グラハムバレエ団のためにアメリカで1944年に書いた「春の遊び」。1968年から69年に書けて書かれた「グラーツのための音楽」。「春の遊び」と「グラーツのための音楽」に関する資料は、殆ど見つからなかったし、実はもう1曲、「家庭のミューズ」室内オーケストラ版をぜひ演奏したかったのだが、アメリカの出版社が倒産していて、こちらは楽譜の所在が見つからなかった。

これだけミヨーの楽譜を続けて読んだこともなかったが、本当に素晴らしい作品であることに驚く。それぞれがまるで違った内容で、特に1920年前後の作品は視覚的、絵画的だ。ちょうどピカソやミヨーが一緒に仕事をしていたレジェのキュビズムを思い出せばよいかもしれない。もっと正確に言えば、ピカソはこれより10年くらい前にキュビズムの世界に到達していて、ミヨーが「小交響曲」やその他の作品を書いたころには、これらのキュビズムは既にダダに到達しかかっていた。ストラヴィンスキーの「火の鳥」が1910年、「ペトルーシュカ」が11年、「春の祭典」が1913年だから、キュビズムの時代は正確に言えばこれら3大バレエの時代でもある。

南仏の美術館で息子がピカソの絵を前に得意げに説明してくれたところによれば、キュビズムは、重力の解放と視点の多角化だと言う。その意味に於いて「小交響曲」などは、文字通りキュビズムの絵画そのものではないか。特に重力から解放されたコントラバスの面白さなど、合点のゆくことばかりだ。
多調とか複調、ブラジル音楽などと表面的に総括してしまうと、ミヨーの音楽の核心を全く捉えていない。本来の素材を、視覚化し、切り出し、別の色を付けて、別の視点から再度貼りこむ。絵画として二次元の素材を切り出して、3Dプリンターにかけ、視点や遠近法に変化を与えて、三次元の彫刻として再構成しているようにも見えるし、時には、その再構成した彫刻の断面図を切り出して見せているようにも見える。
端を丁寧に揃えたりして妙に体裁を整えたりせず、もとの素材の新鮮さを、出来る限り生かそうとする。そのちょっとしたぞんざいさが、魅力的だ。その意味ではダダの時代性との繋がりも感じる。順次進行する長いパートは、拡大された経過音だろう。
ただ残念なのは、完成した作品を視覚的に把握できるのは本人だけなのかも知れない。彼が自分で指揮している演奏では、どんなに音がぶつかる復調であっても、それらが円やかにブレンドされて響き合う。他人が演奏すると、往々にして耳障りな音に響く。これが音楽作品として成立する上での限界か。

作品が「六人組」の仲間にそれぞれ献呈されている「農機具」は、農機具博覧会で目にした「草刈機」「結束機」「播種機」などの、機能や構造説明、使用用途、性能や値段について書かれたテキストを歌うソプラノに、アンサンブルは機械的を模するオスティナートや、歌と無関係なロマンティックな旋律で軽妙洒脱に応え、社会の近代化、現代化への共鳴が明るく伸びやかに謳われる。

1919年のイタリアと言えば、ムッソリーニが社会主義に見切りをつけて、地方の農家を支持基盤に「戦闘ファッショ」を組織してファシズムへと駆け出した頃で、その後、イタリアでは未来派のダイナミズムに影響された、重厚な音楽ばかり聴かれるようになるのは対照的で興味深い。個人的には5曲目の「耕作機」が、「大地の歌」の「青春について」を揶揄しているように聴こえて仕方がない。冒頭のファゴットの旋律には、わざわざ「chanté-歌って」と註がある。
「農機具」と「花のカタログ」をプログラムに入れ「春の遊び」と演奏会にタイトルをつけたので、ミラノ市の公共公園事業部から後援が取れたとか。

(6月30日 ミラノにて)

富士と龍

植松眞人

 立花秀一が東京に移り住んで、もう二十年近くが過ぎた。住めば都と言うが、東京という町は秀一にとって決して住みよい町ではなかった。
 人混みが苦手、賑やかな場所が嫌い、と言い出せばきりがないほどだし、最近は歳のせいか気が短くなり、電車で妊婦に席をゆずらない女子高生を見かけてしまうと、怒鳴りつけずにはおられない。しかし、実際にそんなことをしてしまうと、妊婦さんに喜ばれることもなく、ただただ驚かれ、なんならおなかの子ども障ります、という顔をされてしまうのである。
 とかくこの世は住みにくい、ということを東京という町は秀一にこれでもかと見せつけながら二十年近く過ぎたのである。
 それでも、これだけ東京にいれば、少しは慣れというものがあり、妻や子はすっかり生まれも育ちも東京のような顔をして、大阪弁でテレビに突っ込みを入れていたりする。秀一だって同じようなものだ。慣れない慣れない、と言いながら、東京の銭湯の四十五度を越えるような異様な熱さの湯舟に平気で入り、極楽極楽とつぶやいて、風呂上がりにそばをすすったりするのである。

   ■

 さて、銭湯である。
 秀一は月に何度か銭湯へ行く。だいたいは土曜日。仕事のない土曜日の午前中にゆっくりと起き出すと、もう妻はいない。仕事仲間と買い物に出かけたり、食事に出かけたりしているのだ。大学生の娘になると土曜日に限らず、ほとんど顔を合わすこともなくなっている。大学での勉強とサークル活動。その他にも友人関係や彼氏関係で忙しいらしい。一週間ほど前に珍しく一緒に朝食を食べながら「とうさん、久しぶりだね」と同じ屋根の下に暮らしているとは思えない会話を交わしたばかりだ。
 土曜の朝、妻がごそごそと起き出す時間に目が覚めていることもあるが、知らぬふりをして二度寝する。眠たくはなくても寝る。そして、妻が出かけた頃に、顔も洗わず、朝飯も食べずに下着だけを着替えて、タオルも持たずに歩いて五分ほどの銭湯へ行く。着替えてから家を出れば、新しい下着を持って行く必要も、着古した下着を持ち帰る手間もかからない。タオルや石けんも百円で貸してくれる。
 いつもは、三十分くらい銭湯にいる。髪を洗い、身体を丹念に洗っても五分ほどだ。そから、東京の熱い湯に身体をつける。何度入っても、何年通っても熱いものは熱い。正直、隣で平気な顔をして入っている年寄りを見ると死んでしまわないかと心配になる。
 しかし、熱いからと言って、水で埋めたりすると年寄りが黙っていない。やれ、ぬるくなるだの、熱いからいいんだの、うるさい。この間などは、さすがに四十七度はないだろうと、水を注いでいたら、
「久しぶりに良い湯加減なんだ、ぬるくしないでくれ」と言われ、
「お前さん、日本人じゃないね。中国人はすぐ湯を薄めやがる」と言われたので、
「いや、日本人です。というか、元関西人です」と笑いながら答えると、
「関西人てえのは、根性がないんだな」と神経を逆なでされる。
 そんなやりとりがあってから、秀一はどんなことがあっても、湯を薄めなくなった。誰かが水を入れていても応援こそすれ嫌な顔一つしないのだが、自分ではどんな熱い湯にもそのまま入る。入ったら入ったで、熱湯のような風呂にもそれなりの良さがあるのだということには気がつくのだ。
 熱い湯がいいのは気付けになることだ。ぼんやりとしていた寝ぼけた頭がすっきりする。土曜日の遅い朝、休日をすっきり過ごすために俺は銭湯に来ているのかもしれないと秀一は思うのだった。そして、いったん熱い湯で目を覚まし、入り口の待合に置いてある最先端のマッサージチェアに座って、一週間の疲れをもみほぐすために、ここに来ているのだと言っても過言ではなかった。
 それに、東京の下町の「湯を埋めるんじゃねえ」とすごむ、それでいて脱衣場に出ると急によぼよぼの気弱になるジイさんたちが嫌いではなかった。彼らが威勢良く、最近亡くなったばかりの友だちの話をしみじみしている様子は、いつ見ても笑いと涙を同時に誘う。

    ■

 そんな銭湯にも何ヶ月かに一度、誰も先客がいない、という日がある。開店から三十分ほど経っているのに先客がいない。そして、それから三十分ほどして、秀一が上がろうと思う頃になっても誰もいない。脱衣場を見ても誰もいない。そんな日が何ヶ月かに一度あるのだった。
 しかし、今日はいつもの「誰もいない日」とは少し趣が違った。男湯には誰もいないのだが、女湯が騒がしいのだ。近所の者同士が、近所の者の近況を伝え合っている。商店街のあの店が閉店したのは、主人の浮気が原因だとか、東京マラソンのコースがこの近くに変更になったのが不安で仕方がないとか。そんな他愛もない話が続き、笑い声が響き、それじゃお先に、という声が聞こえてくる。
 秀一は、いつも通り、これ以上浸かっているとのぼせてしまうかもしれない、という頃合いで湯舟を出た。のれんをくぐるとコーヒー牛乳を買い、お釣りで小銭を作り、マッサージチェアに腰掛ける。ここから十五分ほどが秀一の至福の時間だ。
 全身コースを選び、スイッチを押し、身体をゆだねた、その瞬間に、さっき女湯の天井の方から「それじゃお先に」と言った声がすぐそばから聞こえた。
「ねえねえ。あれ、注意した方がいいわよ」
秀一は身体を少しだけ起こして、首をひねって受付の方を見る。料金などを受け取る受付にはこの銭湯の親父さんか奥さん、最近はごくたまに息子が座っている。今日は親父さんだ。
「注意ですか?」
 親父が返事をしたので、おばさんの声が一段高くなる。
「そうよ。あれはね、だめよ。だって、背中に墨が入ってるのよ」
 親父がちょっと苦笑しながら答える。
「ああ、タトゥーですか」
 すると、おばさんが勢い込む。
「タトゥーなんてもんじゃないわよ! あれはね、もうね入れ墨よ。だって、背中一面に龍の入れ墨、あれなんていうのかなあ。昇り龍っていうのかしら。あれなのよ。こわいわよ。タトゥーなんて生やさしいもんじゃないの。もんもんね。昔で言うところの」
 親父は、一瞬、女湯ののれんの方を見る。顔はまだ苦笑したままだ。おばさんは何を笑っているのかと少し憮然としている。
「うち、禁止してないんですよ。昔からのお客さんが多いんで」
 そう言われて呆然とするおばさん。
「え、禁止じゃないの?」
「ほら、あっちの筋の人が多いじゃないですか。このあたり。でもまあ、昔から騒ぎがあったってこともないし。スーパー銭湯とかは禁止にしてますけどね。うちは、まあ良いんじゃないかって」
 おばさん、そう言われて、あげた拳の下ろす場所が見つからない。秀一はそんなおばさんを視野の端に捉えながらことの成り行きを見守っている。
「でもね、怖いわよ。女の子でね、大人しそうに見えて、服を脱いだら背中一面がドラゴンなんて、あなた見たらすくむわよ」
 いくら言われても禁止してないものをいまさら禁止にするわけにもいかず、それでも常連の声をむげに却下するわけにもいかない。
 秀一はいま女湯にいるはずの、背中一面に昇り龍が彫られた若い女の背中を想像した。壁に描かれた鮮やかな青空を背景にした富士山があり、その手前の大きな湯舟の中に若い女が肩まで浸かっている。湯あたりしそうになったのか、女が上気した顔でほんの少し苦悶の表情を浮かべて腰を浮かす。そして、その腰をそのまま湯舟の縁に移動させて、女は背中をこちらに向けて湯舟の縁に腰掛けた形になる。すると、女の背中一面の昇り龍が秀一の眼前に大きく迫ってくるのだ。昇り龍はいわゆる和彫りで細かな意匠と細かな色彩で描き込まれていた。頭を右に傾けながら、龍は空へと登っている。背景にある富士山の絵と一体となって、龍そのものが大きく秀一には見えた。龍の伸びやかな筆致がそのまま長い髭へと流れ、胴体に継承され、そのままくねくねとした尻尾へと続く。尻尾は曲がりくねりながら大地へと伸びていくわけだが、女の背中というカンバスからはみ出して、龍の尻尾は、形のいい女の尻の割れ目へと吸い込まれていく。龍の尻尾が男性器のように、女の性器へと分け入っているところを秀一は想像した。女の背中に描かれた龍が女の身体の中に入り込み、その龍が女を身体の中から操っているように秀一には思えたのだ。
「だからね、怖いのよ」
 おばさんの声で秀一の意識は再び、銭湯の入り口へと移る。銭湯の親父はいかにもよくわかる、という顔をしながらおばさんの話を聞いている。
 その時、はらりと女湯ののれんがゆれた。出てきた女は三十を少し過ぎたあたりか。ジーンズに白いシャツという地味な格好だ。色白ではあるが一重まぶたではっきりしているとは言えない目鼻である。秀一にはとても大人しく見えた。
 しかし、この女が出てきた瞬間におばさんは黙り込んだ。おそらく、背中に昇り龍の入れ墨があるというのはこの女なのだろう。この白いシャツを脱がせれば背中に昇り龍があるのかと秀一は思う。地味な顔立ちの女をマッサージチェアから眺めている。
 秀一はおばさん越しに女が入り口の引き戸を開けて、下駄箱に向かって行くのを見ている。おばさんは受付の親父さんと他愛のない天候の話などをしている。秀一はおばさん越しに女を見ている。女は下駄箱からスニーカーを出すと足を通す。かかとがうまく収まらず、女は身体を曲げ、かかとに指をかける。その時だった。女が身体を曲げたまま秀一を見たのである。
 秀一と女の視線はまっすぐに結びついた。そして、女は秀一のほうを見つめたまま、にこりと微笑んだ。その微笑んだ顔が、秀一にはさっき思い浮かべた龍の顔に似ているように思えた。(了)

ブドヨ・クタワン

冨岡三智

『ブドヨ・クタワン』はジャワのスラカルタ王家に伝わる舞踊で、王の即位式と毎年の即位記念日に上演されてきた。マタラムの王が王家を守護する南海の女神と結婚するという神話を描いているとされる。現当主パク・ブウォノXIII世は、今年の4月12日に14回目の即位記念日を迎えたのだが、舞踊だけで1時間半、入退場も含めると2時間近くかかるこの舞踊が、今年は15分、入退場を入れても約30分しか上演されなかった。私はジャワに住む知人からこのことを知らされ、新聞で確認してみた。『ブドヨ・クタワン』は3部構成なのだが、今回上演されたのは第3部のみ。XIII世の健康状態が思わしくないため短縮した、あくまでもそれは今年だけの措置であると王宮関係者がインタビューに応えている。しかし、昨年も15分しか上演されなかった、XIII世即位後にはイレギュラーなケースが続いていると報じた新聞もある。舞踊継承を担当してきたムルティア王女と王家の軋轢も報道されている。今年の踊り手の写真を見ると、アクセサリが王家所有のものではなく、一般的なデザインになっている。踊り手を王宮外(芸大や芸術高校)から集めたと報じたものもあり、通常の踊り手や衣装が使えない状況にあったことが分かる。私も通算5年の留学期間を通じて舞踊の練習に参加させてもらい、また様々な儀式を参与観察させてもらった王宮だけに、この状況は悲しい。

製本かい摘みましては(138)

四釜裕子

今日もまた紙を半分に切るところから始めてもらう。「え〜またですかぁ〜」という顔。製本ワークショップなのにカッターで何枚も紙を切るなんてばかばかしい、(前もって裁断機で半分に切って持ってきてよ)というのが本音だろう。実際最初に真顔で「裁断機はないのですか?」と聞かれたくらいだから。毎回あっさりカッターで切り始める人はいる。カッターは苦手だからとはさみで切る人もいる。折り目をつけて両手で左右に引き切る人がいたのには驚いた。もっとも彼は3回目からカッターを使うようになったけど。わずかな誤差が許せなくて何度も紙を替える人、延々切り揃えてひと回り小さくする人もいる。紙を半分に切ることのバリエーションと学習の多様を見せてもらう。切り口の違いを見比べるサンプルが自ずと揃う。

思い当たるふしがある。ルリユールを習っていたとき、延々続く革漉きにうんざりした。ルリユールを習いにきているのにどうしてこう革漉きばっかり続くわけ? と、自分の苦手を棚に上げて何なんだけれども、それが理由で足が遠のいた。漉いた革の細かなくずが腕につくのを防ぐための革漉きエプロンを作って、ごまかしていたほどだ。スキッと貼られた革の裏側にあれほど繊細な手間がかけられているとは想像も及ばなかった。仕上がりが凸凹してもいいから革漉きをちょっとさぼって先に進んでしまいたかった。後で聞くと私はコツをつかむ前に放棄してしまったようで、なれればそれほど面倒ではないという。細かな工程が60以上あり、得手不得手がいろいろあった。かがりと花ぎれ編みくらいかな、満足に仕上がるまでやり直しをいとわなかったのは。苦手と思うと時間は延びる。

古本屋で『活字礼讚』(1991 発行者:近東火雄 発行所:活字文化社 題字:布川角左衛門 装訂:府川充男 序文:西谷能雄)を買う。活版で糸かがり、丸背、函入り、しおりは2本、定価6,500円。宮下志郎さん、杉浦康平さん、横溝健志さん、木島始さん、府川充男さん、岡留安則さん、栃折久美子さん、日下潤一さんなどが書いておられる。

中垣信夫さんの「僕の掌には活字があった」から、杉浦康平さんの元で手伝った読売交響楽団の機関誌「オーケストラ」のところを読む。編集の向坂正久さんとデザインの杉浦さん、印刷屋の営業の永寿さんと「僕」は、定期演奏会が決まるとそのつど集まる。あるとき隅田川沿いの二階家の印刷工場で出張校正兼印刷に立ち会って徹夜、朝になって杉浦さんのお宅で休み、夕方には東京文化会館に向かい出来たばかりの機関誌を買って、そのできを確認しながらオーケストラを聞いたという。職人が手早く活字を締めて整然となった版面が放つ鈍い光、入らなくなった版を金属鋸で切る音、電話、真っ暗な川面……、ごくごく端的なドキュメントなのだけれど、中垣さんが掌に握りしめていたであろう「活字」の熱が伝わってくる。ほかに2、3の思い出がある。〈今から思えば、スムーズに進んだ仕事は総て忘れ、このような思い出ばかりが鮮烈である〉。

ドイツから帰国

笠井瑞丈

シュタイナー学校
から
日本人学校に転校

小学校4年生

モノクロからカラー
アナログからデジタル
その位の違い

森でサッカー
をして
森でドングリ
をして
森で駆けっこ
をして

そんなドイツ時代の遊び

そこから

ファミコンブーム真っ只中
流行りの音楽チェッカーズ

ついたあだ名は
『西ドイツ』

いつもみんなに
「おい西ドイツ」
と呼ばれたいた

毎週放映の金曜ロードショー
テレビの前に椅子を並べる
映画館のように並べる
自分だけの映画館作り
それが自分の楽しみだった
お客さんはいつも祖母一人

雨宮先生
担任先生

今どうしているだろう
良い先生だった

日本にすぐ馴染めない私を
いつも優しく助けてくれた

教科書等忘れものをすると
デコピンをする先生だった
それがとても強烈の痛さだ

いまでもフッと思い出す

白髪でニッコリ笑う先生
そしてとても厳しい先生

人は出会う
べき時に
人に出会う

それはちょとした奇跡

別腸日記(17)橋の下の水(前編)

新井卓

ひとつの生活や、ひとつの仕事が、十年という年数で円弧を描き──年数とは所詮、人がヒトの限られた生の時間から切りだした仮構にすぎないのだとしても──ふたたびよく似た風景に回帰してくる、という感覚が否定しがたく、ある。

いま、横浜の関外地区の果てるところ、高砂町というところに仮の事務所を構えている。黄金町、日ノ出町といった瑞祥地名がならぶこのあたりは、言うまでもなく戦後有数の赤線地帯だったのが、2005年の違法飲食店(「ちょんの間」と呼ばれた細長い建物で、表向きは飲食店の一階部分と、買売春を行う二階部分に分かれている)一斉摘発を経て、今ではすっかり様変わりした。

今からちょうど十年前、この町で、横浜市と京急電鉄、地元の商工会が共同で立ち上げた「黄金町バザール」という芸術祭に参加した。広告写真の会社で心身を壊してから仕事を辞め、ようやく細々と作家活動を始めた時期だった。その頃は今よりも輪をかけて美術の世界(つまり「世間」ということだが)に不案内で、金もなく、突然舞い込んだ話に飛びついた格好になった。

話が決まった初夏、黄金町を訪れた。京急線で三浦あたりから帰るとき、車窓から垣間見る輝く川縁の風景──夕闇にひときわ眩しく、怪しい光を放っていた──だけが記憶にあって、真昼その街区を歩くのは初めてだった。芸術祭の事務局から名札を渡され、これを首から提げていれば面倒なことにならないから、と言われた。ライカを右手に握りしめ、従順に名札をひらひらとさせながら大岡川のほとりを歩く姿は、いま思えば弛緩しきった情けない有様で、ひっぱたいてやりたい気持ちになるけれど、過去の自分であることは拒絶できない事実と言うほかない。

やがて、町のいろいろな相貌が少しずつ、焦点のぼけたわたしの頭の中にも入ってくるようになった。当時、警察の摘発後とはいえまだ一握りの街娼や客引きが辻々に立ち、このあたりの元締めの暴力団も健在だった。あるとき終電を逃してしまい、映画館のレイトショーからバー「アポロ」に逃げ込んだ。夜明けごろふらふらと川辺を歩いていると、暴力団事務所の前で、肌脱ぎになった刺青の男が、たわしで何かを洗っていた。よくみれば分厚いまな板と出刃包丁で、いったい何を切ったものか、と一気に酔いが醒めたのを覚えている。

近隣の飲食店や商店は、どうひいき目に見ても繁盛しているようには見えず、性風俗に集まる客を失ったあおりを、もろに受けているのが見て取れた。芸術祭を支える地元のグループは「環境浄化推進協議会」という看板で数年来活動してきた、と聞かされた。このあたりから微かに感じ始めた違和感を──それが「浄化」の二文字から来ることは明白だったが──「作品」に昇華することはおろか、もっと直裁な行動や思考にうつすことのできなかった自分の足りなさが、今も時折、すきま風のように、夜の町の景色に吹いてくるのを感じる。(つづく)

赤い惑星

璃葉

真昼の強い日差しが暖かい色味に変わりゆき、夕雲のあいだから透き通った空が見える。家々の壁に伸びる淡いピンクの光が、しっとりした青い空気と風に混ざり合い、薄むらさきの世界になってゆく。雨の時期は終わったのだろうか。

晴れた日が続くようになってからよく話題にのぼるのは、やはり火星のこと。現在地球に接近中の火星は、ほかの星よりも明るく輝くから見つけやすいよといわれて、「ほう」と思いながらも、きっと夕暮れや明け方に現れる金星ぐらいの明るさなのだろうな、とぼんやり想像していた。が、とんでもない。

電車も終わる時間、一本道を歩いていると、まるい月のそばに強烈に輝く火星を見つける。星のことに興味がなくても、あれは何だろう?と思うのではないだろうか。まるで空の向こう側から何か合図をするためにライトを当てているような、奇妙な赤さが心にかかる。風がざわざわと吹くなかで、ルビーみたいな赤い惑星をしばらく眺めた。

地球にもっとも近くなる7月31日にはどんな輝きを見せてくれるのだろう。日に日に明るくなっていく火星を見ることが、始まったばかりの夏の楽しみなのだった。

164擬俳

藤井貞和

灰色の虹 六月に立ちにけり

(炉心にくべよ燃ゆる声の火)

思想の詩終わる六月 逢いがたし

(遠雷の句をきみはのこして)

炎天に苦しむこともなくなろう

(涼しきを見よ句稿のうずに)

かかる時かかる六月 きみが問う

(貨客船影火の五七五)

水売りの声 幽明のさかいより

(野の花の忌のななたびの日に)

 

(清水昶の晩年は、五七五のすしざんまい。五月三十日は七回忌でした。おいらにはまったく「からきし」で、六年まえの追悼句のままです。昶さん、ごめん。)

引き算の複雑

高橋悠治

サティを弾いていると もっと遅く弾くべきだと感じるときがある 何回も弾いて よく知っているはずの次の和音を 知っているように弾くと まちがった響きがする 音楽のさきまわりをして 音に手綱をつけ 思うままにひきまわしていいのだろうか 一瞬手が停まると ほんとうにまちがってしまう

音符の長さ通りに和音を打つのは 演奏者の思い上がりではないか 見たところ何の謎もない自然な流れの裏に 思わぬ落とし穴が隠れているかもしれない そんな場所がある 同じ曲を弾いていても その予感は毎回ちがうところに現れる 手がこわばると そこに辿り着く前に失敗する

それとさとられないように 気づかぬふりをしながら 手をわずかにゆるめてその和音を調べると かすかな輝きが内側からにじみ出ている

この感じは楽譜の分析からわかることなのか それなら毎回おなじ演奏ができるはずだが そうはならないのは それが作曲のしかただけではなく 演奏するうちに喚び起こされるものでもあるからだろう

サティの作曲法は 断片の貼り雑ぜで これは音楽学校で習うような技術ではなく 20世紀になってcentonizationと名づけられた 単旋聖歌の旋律型や  他の文化でも 旋律型をもつ音楽 ガムラン ラーガ マカームとも共通の技法だが 旋法に見えても パターンは始まり 中心音 終止形といった機能をもたず それを組み合わせる伝統的な構造はない サラバンドやジムノペディ グノシエンヌの ゆっくりした曲の3曲セットは 変化や発展を意図した構成ではなく  断片の貼り合わせは ひとつのものをちがう角度から見て組み合わせる キュビズムのコラージュに近い

音楽は 構造のない音空間に浮かんでいる 音空間は音のない はっきりした境界線のない沈黙の空間で そこに現れる断片の演奏順序は決まっているが 中心もなく 劇的に発展する物語もない 同じ断片 同じ和音 同じフレーズも 見えない光の揺れに照らされて さまざまな翳りを帯びる それは文脈による隠れた意味ではないし その前の断片との差と そのものの表面の角度によって変わる風の戯れかもしれない

サティの音楽のつくりかたから 演奏法を考える 新しい響きというだけでは 音楽の制度のなかにとりこまれて もう一つの可能性になり 新しさも薄れていく

次の和音の意外性を感じるままに 知らない音をそっととりあげて 道の外に道しるべとして置き直すと いままで見えなかった転換点が 一瞬見えるような気がする そこで道を踏み外すかもしれない 逆に それまで辿った道と思っていたのが まちがいだったかもしれない ためらい よろめき さらに思わぬ躓きで 演奏は一瞬ごとに危ない綱渡りになるが さいわい 音楽は突然終わってしまう

サティの貼り雑ぜの作曲法から 危ない足取りの演奏が生まれる この危うさから サティを脱いで 別な音楽が芽吹いてくることがあるだろうか

2018年6月1日(金)

水牛だより

湿度の低い快晴の6月の訪れ。朝から何度も洗濯機を回しています。晴れはあと何日続くのでしょうか。梅雨前線よ、いま少しの間、遠くにいておくれ。

「水牛のように」を2018年6月1日号に更新しました。
自分というものが偶然の産物であると知っていれば謙虚でいられます。そして自分と自分以外とは明確に違うと感じていても、実はここからは自分、ここからは自分以外ときちんと線引きして示すことはできないと思います。皮膚の内側が常に外側の影響を受けているように、自分というものは自分以外に対して、自分が感じている以上にいつも開かれていて、にじみ出ていっているはずです。

洗濯物を干しながら、明るくどこまでもつきぬけているような青い空をぼんやり見ていると、そう遠くない将来に自分がこの世界からいなくなること、私が出会った人すべてもいなくなることが、リアルにせまってきます。だからといって、どうなるというわけではありません。でも空をぼんやり眺めるのはいいことです。

それではまた!(八巻美恵)

リームがやってくる。やあやあやあ!

さとうまき

その時。斉藤くんは、イラクで苦労していた。

うちで働くシリア難民のリームをまだ8カ月にもならない娘と一緒に日本に連れてくるという上司のアイデアは、大歓迎だったが、娘のパスポートを作るために、イラクからダマスカスに行く必要があった。

リームは難民として、イラクで暮らしているが、シリア人だからシリアに帰るのは何ら問題がないのではあるが、イラクに再入国できるようにいろんなところから許可をとらないといけない。そういう面倒な仕事を斉藤くんが任されていたのである。

しかもだ、予定が狂いまくり、一か月早い来日に! そうなると、斉藤くんは、パニックになってしまった。(と想像する)リームも許可が下りずに、精神的にも疲弊していたようである。残された時間はわずか。本当に来日できるのか。と心配していたら、斉藤くんは弾むような声でメッセージを送ってきてくれた。無事にパスポートがとれたらしい。リームは世界難民の日に絡んだ6月30日に広尾で開催するシンポジュームに参加することができそうだ。ところでリームって誰?

2011年3月、リーム・アッバースは、シリア内戦が始まった時、高校を卒業し、ダマスカスの看護学校の学生になったばかりだった。若者たちが、自由と民主主義を掲げ、声をあげたとき、どのように感じていたのだろう。「自由とか、民主主義とか言う言葉はとても新鮮だけども、今のままでも、私たち貧しい一家にとっては、タダで学校に行けて、給料は安くても看護師になれるから。」

彼女はクルド人だった。クルド人は、シリアの中では、差別されていた。国籍を与えられない人もいて、彼らは高校までしか行けないし、働いても低い賃金しかもらえない。ダマスカスから始まったデモンストレーションは、クルド人にとっては成果を上げていた。シリア政府は彼らに国籍を与えたのである。しかし、民主化運動が暴力的な戦いになるとすべては壊されてしまった。

リームは、3人の同級生の女の子と一緒に暮らしていたが、国立の看護学校は、負傷した兵士の手当てに駆り出されるから、体制側とみなされる。学校が襲撃され、ルームメートが誘拐されて帰ってこなかった。自分もブラックリストに載せられていると知らされ、親戚が迎えに来てくれてダマスカスを去ったのだ。生まれ故郷のカミシリに戻ったが、さらに町から一時間も離れた田舎だったので、内戦が激しくなると村が孤立してしまい、2013年に難民として、イラクのクルド自治政府の首都であるアルビルまで逃げてきて、難民キャンプに収容されたのだ。

2013年、私が難民キャンプを訪れたとき、リームは、ほとんど英語もしゃべれなかったが、キャンプ内にできたクリニックで、ボランティアとして働いていた。キャンプの責任者から紹介され、雇うことになった。まだ20そこそこだから初々しかった。難民キャンプで栄養失調の赤ちゃんにミルクを提供したり、子ども達を病院に連れていく。JIM-NETの仕事を気にいってくれて安い給料でも辞めずにいてくれている。なぜ?と聞いたら
「自分のアイデアを取り入れてもらえるから」という。
うむ。私は、いちいち細かいことを指図するのはめんどくさいので、ほったらかしにしておいただけなのだ。

5年経つとリームは結婚して妊娠した。妊娠中でも働くというから、あまり無理はさせずに、会津の伝統玩具の赤べコの作り方を伝授して、産休中の余裕のある時は作らせた。まず、僕が会津に行って、赤べこの作り方を教えてもらった。そして、門外不出といわれている金型。赤べこは金型に和紙を張っていって乾いたら引っ剥がす張り子である。その金型をお借りしてイラクに持ち込んだ。古新聞を糊でペタペタ張っていく。でんぷんのりがイラクでは売っていないので、小麦粉を焚いて糊を作る。そういうところから教えて一緒にものを作っていく仕事は楽しいものだ。

この張り子のべコをたくさん作って、億万長者になるというビジネスプランを説明し、「できるか?」と聞いたら、「できる。できる」と答える。いつも、彼女は「できる、できる」と答える。そう、彼女の辞書に不可能はない。しかし、出来上がった張り子のべコはでこぼこ。ともかく、難民の子どもに集まってもらって、色を塗ってもらって顔を書いてもらった。100個のべコにサッカーのユニフォームをペイントした。子ども達の絵も面白くて凸凹感がいい味を出している。

赤ちゃんも無事に生まれて、すっかりお母さんとしての貫禄が出てきたリーム。間もなくその赤ちゃんと一緒に来日する。

6月9日―7月4日
中東の難民のことを知ってもらうために写真展示と難民たちが作ったサカベコ(張り子の牛にサッカーのユニフォームをペイントしたもの)を聖心グローバルプラザで展示。期間中には後半でリームが来日し、6月30日はトークイベントを行います。詳しくはこちら
https://www.jim-net.org/2018/05/09/2674/

昨年10月、彼女と話して、シリアの様子を見てきてもらうことにした。リームは、カミシリからダマスカスに向かう飛行機の席が取れず、ブローカーにお金を払ってシリア軍の輸送機に乗ることになった。300人ほどの乗客がおり、兵士が席に座っており、リームらは貨物を載せる床に座った。隣には、「イスラム国」に感化されて自爆テロを行おうとした女性が手錠をかけられて座っていた。「私は、バグダーディを知っているわ」と狂ったように笑っていたという。

ダマスカスでは公共交通機関が普通に動いてた。子どもたちが学校に行っているし、報道で見ている状況とあまりに違う町の様子に驚いた。すべてがよく見えた。しかし、混雑している道沿いには30メートルおきにチェックポイントがあった。道をゆく若い男性のほとんどは軍服を着ていた。夜になると銃声と爆撃音が聞こえた。彼女がかつて住んでいたカミシリの村人は、ほとんどがヨーロッパなどに移住してしまったようで年寄りしか残っていなかった。

無事にイラクに戻ったリームは、「シリアで暮らしていくことは、まだまだ難しい」といっていたが、カミシリ―ダマスカスを往復しイラクに戻ってこれたことの意味は大きい。

「この6年間で、一体どれだけの命が失われてしまったのか。そのことを本当に深刻に受け止める必要があると思うの。復讐したいという気持ちはわかるけど、暴力を使えば、また一人の命が失われる」同じように考えるシリア人が増えてくれるように期待したい。

162霊語(ものがた)り

藤井貞和

湧きいづる霊(もの)の栖(すみか)は 見えねども、このうつせみや 住みかなるらむ

(佐竹弥生)

霊がやってくる、杖を投げる、
ものがたりの夜、
うようよする霊に袿(うちき)を着せる、
蓑をとる、笠を脱ぐ、
笹の葉の包帯をする顔、手足、
声にならない小声。

われらの暗鬱なものがたりがやってくる、
戸口を敲け、戸びらを襲え、声がする、
ゆらゆらする入れもの うつせみ、
藻が立ち上がる、詰めものにする、
緜(わた)、はらわた、蛻(ぬけがら)のなかみを探し尋ねる。

もののけが心の鬼なら、われらは 鬼の栖だ、
ゆらゆらする帳(とばり)にかげ一つ、
浮かぶことばは「泪のつぼみ」、佐竹が言う。

かげに見えているわれらの錺(かざ)り、
よそおい、足の鈴、きらきらする環(たまき)、
どこから射してくる夕陽の笄(こうがい)、
錺るわれらのからだは語るか、霊を。

「泪のつぼみ」を通る男を見ることがある、
ひとを行きわかれる男が佇む、
この辺りは鬼の栖、もう行くところがない、
男は鬼になる、もう行くところがないから。

黄色、黄色、たましいの色、
入れもののちいさなすきまにゆれる、
かがやく光を蒐めるつらい庭仕事、
男は手をやすめる、そのつらい庭仕事、
かいま見る嬪(ひめ)の正体 舞台の暗転、
笠のしたの女は蛇だ。

ゆらゆらする玉垂れを打つ だれか、
鱗をでられない女が舞台の上手(かみて)にいる、
「ト書き」によればここから笠が、
生き生きする舞の手をひとつ、
ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、
ななつ、やっつ、戸びらを襲う鬼の声、
笠はかたちを脱ぎ、鱗の包帯をとる。

嬪の秘める結婚の式、
結婚の座とその聖なる意味と、
からだに刻まれる結婚と、たましいの結婚。

どこからきたのか 笠、
ドアをくぐる ここに来る笠、
笠を脱ぐ旅人が暖をとる 色々、
みどり色の灰が色を脱ぐ横座、
杖を取り出す、笠のしたから、
昼は日のことごと、
夜は夜のことごと
かさが よこたわる、ここは最後の座。

おもかげは躬をはなれない、
鬼だと知ってどうなるものでもない、
どうしてはなれなければならないことがあろう?
やまざくらがさいて散る、こころを花のもとに、
捨てる、躬も心もとろける、そうだ、ここは鬼の栖、
鬼の栖にうつせみがのこる、見えない住みか、
「泪のつぼみ」はもう帰らぬ、
ものがたりはくずれる、がらがら、
このうつせみや ついの栖。

 

(鳥取の歌人、佐竹弥生にお会いしたことがある。『大切なものを収める家』(思潮社、一九九二)に「Mono-gatari」(ローマ字詩)および「霊語(ものがた)り」という追悼詩を二篇、私は書いた。今回、ローマ字詩のほうを漢字かな交じり表記に変えて、題は「霊語り」とする。前回の「文法擬」も追悼詩で、高校教育と『源氏物語』とに身心をささげていた北川真理を最期まで見送る。)

しもた屋之噺(197)

杉山洋一

東京はここ暫くよく晴れた気持ちのよい陽気が続いていて、オーケストラのリハーサルや打合せなど、着替えだけ携え自転車で走り回っておりましたが、目の前の灰色の空を眺めるにつけ、恐らく今日は雨具もリュックに入れた方がよさそうです。満員電車が苦手なので、多少の距離ならのんびり自転車で出かける方が余程気楽なのです。ただ、東京は坂が多いので、道すがら自転車通勤している人を見かけると思わず感嘆させられるのも確かです。

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5月某日 ミラノ自宅
久しぶりにローマの日本文化会館を訪れ、本條さんの拙作初演に立会う。短くてイタリア生活が滲むような小品とのリクエストで書き、ローマ初演だしラテン語の題名が良かろうかとludus perpetuusとしたが、演奏会後夕食を囲みながら、新館長の西林万寿夫さんが出抜けに、拙作がヒンデミットの「交響的変容」2楽章のスケルツォ「トゥーランドット」に似ていると仰るので愕く。恥ずかしながらヒンデミットのこの作品は知らなかったので、後で聴いてみて確かに内容も似ているが、何より吃驚したのはludus perpetuusと題名を決めるにあたって、無意識にヒンデミットのludus tonalisの語感を意識していたからだった。
 
5月某日 ミラノ自宅
本條さんと、悠治さんの「夕顔の家」を弾く。ピアノを人前で弾くのは最初で最後だろうが、人と一緒に弾くのは殊の外楽しい。本来は家人と本條さんで弾いてもらおうと思ったが、ちょうど家人が日本に帰っていて、知合いのピアニストに弾き方を説明する時間もなくて自分で弾いた。粒を揃えず、三味線と着かず離れず、少しゴツゴツとした手触りで弾いてみる。
楽譜の音は少ないようだが、実際に音にした途端から、一瞬にして濃密な時間が空間に充満するのに愕く。だから、このくらいの音の密度が丁度よいのだろう。
「夕顔」と、ヴァンクーヴァでやった拙作冒頭が思いがけなく似ていたと悠治さんに伝えると、これらは同じではなくて、「夕顔」は開放絃から演奏を始める伝統的なやり方に則った音型だという。
 
5月某日 ミラノ自宅
何故こんな忙しい最中に、汗だくで庭の芝生を刈るのかと自分でも呆れる。理由は恐らく二つあって、一つは現実的にこれ以上放っておくと、雑草が伸びすぎて芝刈り機で刈れなくなるなり、雑草に花がつくと種が放出され、息子のアレルギーにも良くないこと。もう一つは、やはり芝を刈る草の匂いが、一日机に向かうストレスを軽減してくれること。
とは言え、毎日必要な仕事に専心できるはずもなく、昨日は半日かけ、ボローニャから送られてきたクセナキスのKraanergのテープを、一つずつ検証する。前面、後面用に作られた、全く別のテープ2本に関する添付の使用説明書は皆無で、これらをどのように使用すべきか、バレエの稽古も始まっているから、早急に劇場に伝えてほしいと繰返し頼まれていて、逃げ回っていた。
スコアには演奏に必要なタイムコードが附記されていて、送られてきたテープの秒数とほぼ合致していたが、正確に言えば、全面と後面のテープの長さに少しずつ誤差があり、スコアとテープの間に、数秒の誤差が生じるところもあって、それらをどのように解決すべきか説明を書く。
そうした作業の中で見えてくるのは、思いがけなく人間臭い音楽の作り方であり、音の合わせ方だった。間違いなく合わせられるよう書いてあるのだけれど、縦の合わせ方はデジタル世代のそれではなく、ずっと柔軟でアナログな耳であって、延いては、彼が音楽を作る上で、何を基盤に置いていたかが如実に表れている。とにかく、どう足掻いても音が読めないところが何頁かあって、これはやはりパリの実娘に連絡を取って自筆譜を検証させてもらうしかない。
たかが半世紀の間に消失してゆく情報は数限りない。消失するかどうか、場合によっては本人は興味すらないかも知れないが、情報を必要としているのは本人ではなく、将来この楽譜を必要とする音楽家たちなのだ。
何故我々は、これほど血眼になって人類を永遠に生かそうと必死になるのだろう。DNAにかかる強迫観念が埋め込まれているに違いないし、恐らくまだ我々が一種類の単細胞生物だったころから、そのDNAこそが我々をここまで培ってきたに違いない。そのDNAに駆り立てられ、全てとは言わないが、文化は連綿と受継がれながら現在に至る。遠くから俯瞰すれば、我々も無心で行列を組んで食べ滓を巣に持ち帰る蟻のようではないか。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルが初台なので、毎日自転車で出かけている。茶沢通りから下北沢を抜け、井之頭通りを大山で曲がって甲州街道を少し走れば初台に着く。のんびり走っても20分ほどだから、行き帰り身体を多少でも動かせるのは気持ちがよい。
カニーノさんがちょうど東京にいらしていて、品川で夕食をご一緒する。二人とも鯛のソテーを頼み、彼は睡眠薬代わりだと笑いながらビールを2杯呷った。
50年前に初めて東京に来た頃は、どこも全て日本語しか書いていなかったから何もわからなかったが、今は見違えるように分かりやすくなり、一人でも充分出歩けるようになった。招聘元からは行方不明にならないかと心配されているけれどと笑った。
ちょうど2年前のピアノシティという音楽祭で、息子とカニーノさん、それからピアノシティのディレクターのリッチャルダで、ミラノ中央の普段は入れない小さな公園にピアノを持ち込み、屋外でクルタークのバッハ編曲を一緒に披露した。我々は地面に風呂敷を敷いて朝の木漏れ日の下、座って聴いた。
数日前に開催された今年のピアノシティで、息子は久しぶりに人前でピアノを弾いたが、また左手がおかしくなったらどうしようかという精神的葛藤と闘っていたようだ。だからここ暫く精神的にも不安定に見えたが、今回見事にジレンマを克服して、これからきっと精神的にも変化するに違いない。
そんな話をカニーノさんとしつつ、そういえばリッチャルダも先日ウンスクさんをイタリアに招いたばかりだと連絡を貰ったばかり、などと、あちらこちらの四方山話に花が咲く。ウンスクさんと一緒に写真を撮って、リッチャルダにも送ろうと思う。

5月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに再会したウンスクさんは、リハーサル中、候補曲の作曲者たちそれぞれに、それぞれの個性がより際立つよう、きめ細かくアドヴァイスをされていた。
リハーサルを聴いていたJさんが、地層を見ているようだと形容する作品があって、面白い表現だと思う。その時こちらも丁度地層や断層を遠くから眺めている感覚にとらわれていて、地層を俯瞰したその上に森が茂り、青空が広がるところまで見える気がしていたからだ。
オーケストラそれぞれの音というものは確実にあって、今回はその昔ドナトーニの個展を演奏したときの東フィルの音を何度となく思い出した。音が空間をドライブしていたり、オーケストラが書かれている音楽をドライブさせてくれる、そんな風に感じられるのは指揮をするにあたり、この上なく幸せなことだった。
作曲コンクールの作品演奏審査は一見単純な作業のようだが、実際は正反対だ。このオーケストラがいくら音楽をドライブさせてくれても、別のオーケストラならそうならないかも知れない。その時、作品は何を基準に判断されるべきか。審査はともかく、作曲者一人一人から、演奏に心から喜びを表現してもらえること、演奏者としてこれ以上の喜びはない。
 ヴィオラに須田さんがいらしたので、休憩中に互いの近況報告。彼女を含めオーケストラの皆さんが、本当に深く作品を表現してくださり感激する。フルートの斎藤さんとは息子のフルート話。何でも今の日本では、中学の吹奏楽部で既に「春の祭典」の抜粋など演奏してしまうとか。どうやって演奏できるのかと尋ねると、気合で出来てしまうらしい。

5月某日 三軒茶屋自宅
東京にいると、近所には普通下駄を履いて出かける。当初父が履いていたものを、もう大分前から使わせて貰っている。子供のころ、確かに父が下駄を履いて歩いていた記憶はあるが、彼が何時から履かなくなったのか判然としない。ともかく靴下を履く必要もないし、からから鳴る音が何しろ耳に心地よい。からから云うから、からげるのかしらん、とぼんやり考えていて、何だか変だ、あれあれ、からげるのは下駄ではなくて尻じゃないか、と独りで笑い出した。
先日悠治さんとお会いしたときのこと。終戦後すぐ省線電車で渋谷に降り立ち、目の前一面焼け野原でがらんとした風景を前に、これから全てを作り直してゆく再生の喜びが子供心に湧いてきた話を聞いた。
イタリア語の小瀬村先生曰く、最近東京の街はどこもすっかり変わってしまって、でかけるのが厄介だそうだ。特に渋谷の駅は分からないと仰られて、これは全く同感である。終戦後すぐの渋谷なんて一面何もない焼け野原で、駅前に2軒ほどお汁粉屋があっただけなのよ。甘味処に気の付くところが女性らしい。立て続けに二人からお話を伺い、終戦直後の渋谷は一面の焼け野原で、どうやら二軒お汁粉屋があったらしいことがわかった。
その時悠治さんがマリピエロの楽譜を携えていらして、1920年以前のものが殆どだった。マリピエロと言えば、30年代以降のリコルディで出版された楽譜を見ることが殆どだったから、別の出版社のマリピエロの楽譜そのものも新鮮だった。悠治さんとマリピエロが結びつかないと言うと、これらは彼がまだ幼かったころ、悠治さんのお父上が刊行した雑誌で紹介されたもので、誰かさんの歌垣と一緒で、子供の頃の思い出だと笑った。
演奏方法について確認するためオペレーション・オイラーの楽譜を二人で眺めながら、この速度指定はさすがに早過ぎるでしょう、とこぼすと、若いころは皆早いんですよ、と笑われてしまう。今であれば加減してもう少しゆっくり吹いてもよいのだろう。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラと仕事をしていて気づいたのは、自分が何かを望まない限り、そこには何も生まれないことだ。それには様々な理由があるのだけれど、こうしてみたい、こんな音にしてみたい、という希望がなければ、オーケストラは書かれた音を、ほぼ機械的、ルーティンとして演奏せざるを得ない。
先日、アルゴリズムを使って書かれた複雑な楽譜を演奏したが、最初の打合せで、作曲者はこの曲に息を吹き込んでやってほしい、とこちらの目をまじまじと覗き込みながら話した。
どこまで聴こえるようになるか分からない、と初めから断っておいたが、彼がこれらの音を瑞々しく聴きたいと願っていることは、よくわかった。
リハーサルは、複雑なリズムを虱潰しに合わせてゆくものではなく、殆どの時間を、指揮する人間が欲すべきものを探す旅に等しかった。最初は、各々の微細な形態、その輪郭をどう引き出すかを整理し、失敗し、やり直し、全体をオーケストラと共につかみ、互いに聴き合った。
リハーサル全日程が終わるあたりで、これら全ての音に鮮やかな生命を吹き込んでみてほしいとお願いし、当日のドレスリハーサルの終わりになって漸く、音を押さえつけていたのかもしれないことに気が付いて、空間に存分に浮かばせてやってほしいとお願いした。それまでのリハーサル時間は、指揮者が作品の本質に気づくためにどうしても必要な時間だった。演奏会のあと人から聞いたところでは、「ああいう曲でも音のイメージを持つだけであれだけ変わるんだなあ」、とオーケストラの団員さん二人がトイレで用を足しながら話していらしたそうだ。
何かを望むことで、そこに小さなエネルギーが生まれる。極端に謂えば、何かを望まない選択も、望まないという希望を押通す上でエネルギーを消費しているに違いない。
高校生の終わりころ、権代さんと表参道の喫茶店で話していて、ヨーロッパ帰りの権代さんがとても輝いてみえた。杉山も外に出た方がいいとその時に言われて、その喫茶店もちょっと欧州風の暗めの摺りガラスに煙草で煤けた煉瓦の土壁が周りを這うような造りで、洒落ていた。
あれから、何となく積み煉瓦の土壁がある家に一度は住んでみたいと思っていたが、そんな機会が巡ってくると考えたこともなかった。
子供のころ育った東林間の家には大きな桜の木があって、二階の窓からその葉に触れたものだが結局引っ越すことになった。だからだろうか、庭の大きな木に妙な憧れを抱いていた。
幼いころから鉄道は大好きで、それも当時既になくなりかけていた、鉱山鉄道や森林鉄道のトロッコであったり、今はもう殆どなくなってしまった各地のローカル線に凝っていたから、草生した廃線跡を歩いたりするのは大好きだった。
今住んでいるミラノの家には珍しく庭があって、朽ちかけた煉瓦の土壁が隣の国鉄の線路の境に伸びる。土壁のすぐ向こうには、殆ど使われず下草の繁茂する錆びた引込線があって、一年のうち3、4回、夏の臨時行楽列車の入替えに使われたりする。庭には大きな木が一本生えていて、今や3階か4階ほどの高さまで伸びてしまった。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃の人見知りが未だに残っているのか、相変わらず人に会うのも苦手で、人の顔を覚えるのも苦手なものだから、友人の演奏会を覗きにゆき、誰にも会わぬよう一番後ろに座っているつもりが、杉山さんですね、あの時はお世話になってと声をかけられ、しどろもどろになる。所詮逃げているからいけない。
先週の演奏会後、何でも杉山さん、飛行機で必死に譜読みしていたんですって、風の便りで聴きましたよ、と言われる。最近の風の便りは、随分具体的な内容まで記載できるものだと感心するが仕方がない。デジタル時代の風便り。
どうやってこういう楽譜を勉強されるのですかと妙齢に尋ねられ、暫し思案に暮れる。傍らでRさんに杉山さんは譜読みが早いからなどと揶揄われるが、天地がひっくり返ってもそれはない。ソルフェージュ能力が高い、と言われる人は、例えば藤井一興さんのような耳を持った方であって、ソルフェージュというより、ソルフェージュの直感能力そのものが抜きん出ていらっしゃる。
思案に暮れた後、作品が少しでも解かるようになるといいと心の中で祈りつつ、亀のような歩みではありますが、仕方がないので音を一つずつ読んでゆきますと答えた。あまり的を得た答えではなかったようで、可哀想に妙齢はキョトンとしていた。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ギリシャ音楽を研究している友人が、クセナキスはギリシャ人ではない、亡命して長くギリシャには戻れなかったし、現在ギリシャに基づいた音楽ではない、と力説するのを聞く。意外ではあったが、案外的を得ているかも知れない。クセナキスが古代ギリシャを主題に据えることが多かったのは、確かに少し離れた視点で、祖国を眺めていたからかも知れない。
様々な役職を歴任されて、そろそろ悠々自適の生活に入ろうと言うRさんは、古典ギリシャ語講読会に通っていて、今はホメロスの「イリアス」を読んでおられる。ラテン語とギリシャ語は西洋文化の礎だから、どうしても学びたかったのだと言う。フランス語に慣れているからとラテン語は一先ず置いておき、古典ギリシャ語を始めたそうだ。
そうしてイリアスで使われている英雄詩体、ヘクサメトロンを意識しながら、イリアスを毎週持ち回りで音読していると、ベートーヴェン7番交響曲2楽章のリズムが聴こえてくると言う。Rさんは現在本を執筆中だそうだから、この話ももっと詳しく聞けるのを心待ちにしている。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ヴィオラスペースに、「子供の情景」を聴きにゆく。相変わらず見事な演奏を披露して下さる今井さんやファイトに再会出来たのも嬉しいし、初めてお目にかかるシュリヒティヒさんも楽屋を訪れるととても嬉しそうだった。そんな中、ニアンを初め4人の中国人ヴィオラ奏者が参加できなくなったのは、主催者のスピーチを聴く限り、政治的な理由だったようだ。俄かには信じがたいが、ヴィオラ・スペースにそれだけの影響力があると判断されたのだろうか。ニアンの代りに演奏してくださった佐々木さんが、とても素晴らしい演奏をしてくださったから、もちろん作曲者としては申し分なかったけれど、日中関係がそこまで悪くなっているとは知らず、少なからず衝撃を受ける。
演奏会後、Mさんに昨年急逝された娘さん行きつけの下北沢のバーLJへ連れて行っていただく。思いがけず、茶沢通りの毎日自転車で通り過ぎるところにひっそりとあって、落着いた雰囲気のなか、LP盤のジャズが静かに流れる。娘さんはパブリックシアターで公演があると、決まってこのバーに寄っていらしたそうだ。娘さんの入れたアイリッシュ・ウイスキーをストレートで頂き、しみじみと味わう。ちょうど息子を7月ダブリンに一人で行かせる話などをしていたから、アイリッシュ・ウィスキーと聞いて、嬉しかった。今でも彼女の友人たちが時折ここに寄っては、このウィスキーを呷りながら故人を偲んでゆく。そうして、さまざまな人のさまざまな思いが、深い琥珀色の瓶に積もってゆく。
Rさんと3人で会うつもりだったのが、Rさんは2月に膠原病がわかり、今日はご挨拶しかできなかった。1月にお目にかかったときはあれ程お元気だったのに、言葉もない。
「思い立ったが吉日」と言うけれど、こうなると、単に時間の絶対的不可逆性を諧謔的に諭されているようにしか聴こえない。
共通の友人で奥様がパーキンソンで闘病中のHさんの話になる。ある俳優がテレビで妻が先に逝ってくれて本当に良かったと話していて、つくづくその通りだと思ったという。本当に素敵な人だったのに、とMさんが寂しそうに呟いたとき、カウンターにいたバーテンダーがこちらにやって来て、窓際の小さな観葉植物を手に取った。
「これを娘さんがプレゼントして下さって、もう5年にもなるでしょうか。ずっと元気で、ほら見てください。見事でしょう。こうやって毎日窓際に置いて、陽に当てているのです」。

(5月31日 三軒茶屋にて)

沈黙する世界

笠井瑞丈

誰もいない街をクルマで走る
かつてはヒトが住んでいた街

停止したまま
時だけながれ
色だけがとられ

舗装されてない
凸凹の道を
すれ違う工事車両

綺麗に美しく
敷地一面に
黒いフクロが
置かれている

そこにも
ひとつの生活があった
ひとつの時間があった

生まれるもの
消えてくもの

サクで囲われている道路
雑草に囲われている看板

誰もいないレストラン
誰もいないコンビニ
誰もいないホテル
誰もいない道路
誰もいない街
誰もいない
誰も

空だけは青く
どこまでも
続いてる

そんな世界
残された
地球の生活

もたもたあたふた

大野晋

タイトルに擬音を置いてみたけれど、中味をどうするか決めていない。いくつかあるお話をつないでどうなるかはお楽しみということで。

近所のショッピングセンターにある大きな本屋が閉店してしまった。かの、計画配本の箱や返品の箱、新刊が平積みの上に無造作に放置されていた書店だが、新刊を圧縮して新古本を置いたり、文房具売り場を作ったりしていたがどうもうまくいかなかったらしく、閉店となってしまった。小規模書店の廃業やロードサイドのチェーン店の大量閉店などが続いていたがいよいよ集客力があるはずのショッピングセンター内の書店の閉店となったことでいよいよ出版不況も新しい局面になったような気がする。

円本の時代にも出版不況と言われていたらしいけれど、最近のそれは何やら趣向が違うように感じる。まず、小規模書店の天敵と言われたコンビニエンスストアでも雑誌が売れなくなっている。雑誌が売れないと、例えばコミックのような連載をまとめて単行本を出版するようなビジネスが上手くいかなくなる。雑誌の立ち読みは雑誌の売り上げの邪魔とされていたが、雑誌で読まれないとそこに連載されている作品が知られることがなくなり、単行本が売れなくなる。今では、コミックの単行本の帯に「なになに氏絶賛」のような文字が入ることが珍しくなくなった。単行本の立ち読み防止のためにラップされているから中味を見せるわけに行かずに苦肉の策が有名人の絶賛アピールということなのだろう。ただし、どの程度の影響があるのかは疑問だと思っている。帯のコメントの反対が中味の一部見せという手法で、書店の店頭に薄い冊子をぶる下げてサンプルを読ませている。ただし、冒頭の1話ほどしか見られないこの冊子で購入を決めることはあまりないように思う。これを大掛かりにやるのが最近のアニメ化で、アニメの円盤も不況で売れないらしいので、出版のプロモーションらしき番組も最近は作られているように思う。

この読ませる手法のバリエーションとして、最近はスマホやタブレットのアプリで読ませるという新手が出てきているが、使ってみると意外と良手のように感じた。ただし、無償公開されている作品にはレベルとして低いものも多くあり、玉石混交状態なのだから如何にヒット作候補にアクセスさせるかというのが課題かもしれない。今のところ、はずれ率が雑誌よりも格段に高いのが気になる。

実際の書店がなくなると、決め撃ちで購入する本なら問題ないけれど、新刊の中から新しい本を探したり、既刊の本の中から気になる本を探し出すようなことができなくなってしまう。まあ、後者は提案のできる書店員が少なくなってあまりアテになることはなくなったけれど、新刊を手に取れないのは困ってしまう。とは言え、やはり求められているのは、提案型の棚なんだろう。

本が売れないと言われて久しいが、いよいよ書店がなくなって、この先どうなるか不安しかない最近である。

空梅雨

仲宗根浩

奥さん連休で子供と実家へ。空港まで送っていく。初めて三月に開通した西海岸道路というのを走る。空港へ向かうと右側は海が続き、左側は返還を待つキャンプキンザー、補給基地。四日間のひとりの生活中、休みは二日間。ひとり分の家事、天気が良い日車洗ったりしたらすぐ終わる。

去年五月にうちから歩いて二百歩ちょっとのところに越してきた市立図書館に三月に初めて行き、ちょくちょく行くようになる。前のとこよりかなり広くなり本棚もスカスカになっている。以前置いてあった本が無いので図書館内のパソコンで検索すると書架とある。お願いすると係りのひとが持って来てくれるようになっている。第三セクターで商業施設として失敗した建物の一階すべてが広々とした図書館になった。以前は墓場だった場所。うちの墓は以前ここにあった。

連休が終わると梅雨に入ったが全然雨が降らず、ダムの貯水率も半分あるかどうか。だんだんと暑くなって来て、夜帰ると冷房が稼動しているときが多くなり月の半ば過ぎには毎日稼動になるが、通勤時の車はまだ冷房なしで燃費のことも考え我慢する。

二年ぶりにお箏の演奏会の裏方をする。屏風や山台、毛氈はやってくれる方がいたのでリハ、本番は楽器の転換に専念する。東京から手伝いに来てくれた芸大の大学院生の男の子がよく動いてくれたので楽をさせてもらった。話をしたら東京でも演奏会の裏方を私もよく知っているお箏屋さんのところでやっているとの事。

演奏会の翌日、二年ぶりの日曜休みになったので家族でリゾートホテルでランチに行き、そのあと久しぶりに近くの残波岬に行く。灯台は補修か何かか、イントレと幕で覆われていた。岬のほうに行くと以前と変わらず磯では釣り人が数人。沖を見ると上には雨雲、海面は雨が降っているのがわかる。暫くすると海面を打つ雨がだんだんと近づいて来てパーラーのビーチパラソルまで急ぎ、雨宿り。観光客はきれいになったトイレで雨宿り。十分くらいで豪雨は雨雲とともに過ぎていったあとは日差しが戻る。帰り、ちょっと車を走らせると雨が降ったあとは全然ない。天気予報は六月からやっと雨予報。