引き算の複雑

高橋悠治

サティを弾いていると もっと遅く弾くべきだと感じるときがある 何回も弾いて よく知っているはずの次の和音を 知っているように弾くと まちがった響きがする 音楽のさきまわりをして 音に手綱をつけ 思うままにひきまわしていいのだろうか 一瞬手が停まると ほんとうにまちがってしまう

音符の長さ通りに和音を打つのは 演奏者の思い上がりではないか 見たところ何の謎もない自然な流れの裏に 思わぬ落とし穴が隠れているかもしれない そんな場所がある 同じ曲を弾いていても その予感は毎回ちがうところに現れる 手がこわばると そこに辿り着く前に失敗する

それとさとられないように 気づかぬふりをしながら 手をわずかにゆるめてその和音を調べると かすかな輝きが内側からにじみ出ている

この感じは楽譜の分析からわかることなのか それなら毎回おなじ演奏ができるはずだが そうはならないのは それが作曲のしかただけではなく 演奏するうちに喚び起こされるものでもあるからだろう

サティの作曲法は 断片の貼り雑ぜで これは音楽学校で習うような技術ではなく 20世紀になってcentonizationと名づけられた 単旋聖歌の旋律型や  他の文化でも 旋律型をもつ音楽 ガムラン ラーガ マカームとも共通の技法だが 旋法に見えても パターンは始まり 中心音 終止形といった機能をもたず それを組み合わせる伝統的な構造はない サラバンドやジムノペディ グノシエンヌの ゆっくりした曲の3曲セットは 変化や発展を意図した構成ではなく  断片の貼り合わせは ひとつのものをちがう角度から見て組み合わせる キュビズムのコラージュに近い

音楽は 構造のない音空間に浮かんでいる 音空間は音のない はっきりした境界線のない沈黙の空間で そこに現れる断片の演奏順序は決まっているが 中心もなく 劇的に発展する物語もない 同じ断片 同じ和音 同じフレーズも 見えない光の揺れに照らされて さまざまな翳りを帯びる それは文脈による隠れた意味ではないし その前の断片との差と そのものの表面の角度によって変わる風の戯れかもしれない

サティの音楽のつくりかたから 演奏法を考える 新しい響きというだけでは 音楽の制度のなかにとりこまれて もう一つの可能性になり 新しさも薄れていく

次の和音の意外性を感じるままに 知らない音をそっととりあげて 道の外に道しるべとして置き直すと いままで見えなかった転換点が 一瞬見えるような気がする そこで道を踏み外すかもしれない 逆に それまで辿った道と思っていたのが まちがいだったかもしれない ためらい よろめき さらに思わぬ躓きで 演奏は一瞬ごとに危ない綱渡りになるが さいわい 音楽は突然終わってしまう

サティの貼り雑ぜの作曲法から 危ない足取りの演奏が生まれる この危うさから サティを脱いで 別な音楽が芽吹いてくることがあるだろうか

2018年6月1日(金)

水牛だより

湿度の低い快晴の6月の訪れ。朝から何度も洗濯機を回しています。晴れはあと何日続くのでしょうか。梅雨前線よ、いま少しの間、遠くにいておくれ。

「水牛のように」を2018年6月1日号に更新しました。
自分というものが偶然の産物であると知っていれば謙虚でいられます。そして自分と自分以外とは明確に違うと感じていても、実はここからは自分、ここからは自分以外ときちんと線引きして示すことはできないと思います。皮膚の内側が常に外側の影響を受けているように、自分というものは自分以外に対して、自分が感じている以上にいつも開かれていて、にじみ出ていっているはずです。

洗濯物を干しながら、明るくどこまでもつきぬけているような青い空をぼんやり見ていると、そう遠くない将来に自分がこの世界からいなくなること、私が出会った人すべてもいなくなることが、リアルにせまってきます。だからといって、どうなるというわけではありません。でも空をぼんやり眺めるのはいいことです。

それではまた!(八巻美恵)

リームがやってくる。やあやあやあ!

さとうまき

その時。斉藤くんは、イラクで苦労していた。

うちで働くシリア難民のリームをまだ8カ月にもならない娘と一緒に日本に連れてくるという上司のアイデアは、大歓迎だったが、娘のパスポートを作るために、イラクからダマスカスに行く必要があった。

リームは難民として、イラクで暮らしているが、シリア人だからシリアに帰るのは何ら問題がないのではあるが、イラクに再入国できるようにいろんなところから許可をとらないといけない。そういう面倒な仕事を斉藤くんが任されていたのである。

しかもだ、予定が狂いまくり、一か月早い来日に! そうなると、斉藤くんは、パニックになってしまった。(と想像する)リームも許可が下りずに、精神的にも疲弊していたようである。残された時間はわずか。本当に来日できるのか。と心配していたら、斉藤くんは弾むような声でメッセージを送ってきてくれた。無事にパスポートがとれたらしい。リームは世界難民の日に絡んだ6月30日に広尾で開催するシンポジュームに参加することができそうだ。ところでリームって誰?

2011年3月、リーム・アッバースは、シリア内戦が始まった時、高校を卒業し、ダマスカスの看護学校の学生になったばかりだった。若者たちが、自由と民主主義を掲げ、声をあげたとき、どのように感じていたのだろう。「自由とか、民主主義とか言う言葉はとても新鮮だけども、今のままでも、私たち貧しい一家にとっては、タダで学校に行けて、給料は安くても看護師になれるから。」

彼女はクルド人だった。クルド人は、シリアの中では、差別されていた。国籍を与えられない人もいて、彼らは高校までしか行けないし、働いても低い賃金しかもらえない。ダマスカスから始まったデモンストレーションは、クルド人にとっては成果を上げていた。シリア政府は彼らに国籍を与えたのである。しかし、民主化運動が暴力的な戦いになるとすべては壊されてしまった。

リームは、3人の同級生の女の子と一緒に暮らしていたが、国立の看護学校は、負傷した兵士の手当てに駆り出されるから、体制側とみなされる。学校が襲撃され、ルームメートが誘拐されて帰ってこなかった。自分もブラックリストに載せられていると知らされ、親戚が迎えに来てくれてダマスカスを去ったのだ。生まれ故郷のカミシリに戻ったが、さらに町から一時間も離れた田舎だったので、内戦が激しくなると村が孤立してしまい、2013年に難民として、イラクのクルド自治政府の首都であるアルビルまで逃げてきて、難民キャンプに収容されたのだ。

2013年、私が難民キャンプを訪れたとき、リームは、ほとんど英語もしゃべれなかったが、キャンプ内にできたクリニックで、ボランティアとして働いていた。キャンプの責任者から紹介され、雇うことになった。まだ20そこそこだから初々しかった。難民キャンプで栄養失調の赤ちゃんにミルクを提供したり、子ども達を病院に連れていく。JIM-NETの仕事を気にいってくれて安い給料でも辞めずにいてくれている。なぜ?と聞いたら
「自分のアイデアを取り入れてもらえるから」という。
うむ。私は、いちいち細かいことを指図するのはめんどくさいので、ほったらかしにしておいただけなのだ。

5年経つとリームは結婚して妊娠した。妊娠中でも働くというから、あまり無理はさせずに、会津の伝統玩具の赤べコの作り方を伝授して、産休中の余裕のある時は作らせた。まず、僕が会津に行って、赤べこの作り方を教えてもらった。そして、門外不出といわれている金型。赤べこは金型に和紙を張っていって乾いたら引っ剥がす張り子である。その金型をお借りしてイラクに持ち込んだ。古新聞を糊でペタペタ張っていく。でんぷんのりがイラクでは売っていないので、小麦粉を焚いて糊を作る。そういうところから教えて一緒にものを作っていく仕事は楽しいものだ。

この張り子のべコをたくさん作って、億万長者になるというビジネスプランを説明し、「できるか?」と聞いたら、「できる。できる」と答える。いつも、彼女は「できる、できる」と答える。そう、彼女の辞書に不可能はない。しかし、出来上がった張り子のべコはでこぼこ。ともかく、難民の子どもに集まってもらって、色を塗ってもらって顔を書いてもらった。100個のべコにサッカーのユニフォームをペイントした。子ども達の絵も面白くて凸凹感がいい味を出している。

赤ちゃんも無事に生まれて、すっかりお母さんとしての貫禄が出てきたリーム。間もなくその赤ちゃんと一緒に来日する。

6月9日―7月4日
中東の難民のことを知ってもらうために写真展示と難民たちが作ったサカベコ(張り子の牛にサッカーのユニフォームをペイントしたもの)を聖心グローバルプラザで展示。期間中には後半でリームが来日し、6月30日はトークイベントを行います。詳しくはこちら
https://www.jim-net.org/2018/05/09/2674/

昨年10月、彼女と話して、シリアの様子を見てきてもらうことにした。リームは、カミシリからダマスカスに向かう飛行機の席が取れず、ブローカーにお金を払ってシリア軍の輸送機に乗ることになった。300人ほどの乗客がおり、兵士が席に座っており、リームらは貨物を載せる床に座った。隣には、「イスラム国」に感化されて自爆テロを行おうとした女性が手錠をかけられて座っていた。「私は、バグダーディを知っているわ」と狂ったように笑っていたという。

ダマスカスでは公共交通機関が普通に動いてた。子どもたちが学校に行っているし、報道で見ている状況とあまりに違う町の様子に驚いた。すべてがよく見えた。しかし、混雑している道沿いには30メートルおきにチェックポイントがあった。道をゆく若い男性のほとんどは軍服を着ていた。夜になると銃声と爆撃音が聞こえた。彼女がかつて住んでいたカミシリの村人は、ほとんどがヨーロッパなどに移住してしまったようで年寄りしか残っていなかった。

無事にイラクに戻ったリームは、「シリアで暮らしていくことは、まだまだ難しい」といっていたが、カミシリ―ダマスカスを往復しイラクに戻ってこれたことの意味は大きい。

「この6年間で、一体どれだけの命が失われてしまったのか。そのことを本当に深刻に受け止める必要があると思うの。復讐したいという気持ちはわかるけど、暴力を使えば、また一人の命が失われる」同じように考えるシリア人が増えてくれるように期待したい。

162霊語(ものがた)り

藤井貞和

湧きいづる霊(もの)の栖(すみか)は 見えねども、このうつせみや 住みかなるらむ

(佐竹弥生)

霊がやってくる、杖を投げる、
ものがたりの夜、
うようよする霊に袿(うちき)を着せる、
蓑をとる、笠を脱ぐ、
笹の葉の包帯をする顔、手足、
声にならない小声。

われらの暗鬱なものがたりがやってくる、
戸口を敲け、戸びらを襲え、声がする、
ゆらゆらする入れもの うつせみ、
藻が立ち上がる、詰めものにする、
緜(わた)、はらわた、蛻(ぬけがら)のなかみを探し尋ねる。

もののけが心の鬼なら、われらは 鬼の栖だ、
ゆらゆらする帳(とばり)にかげ一つ、
浮かぶことばは「泪のつぼみ」、佐竹が言う。

かげに見えているわれらの錺(かざ)り、
よそおい、足の鈴、きらきらする環(たまき)、
どこから射してくる夕陽の笄(こうがい)、
錺るわれらのからだは語るか、霊を。

「泪のつぼみ」を通る男を見ることがある、
ひとを行きわかれる男が佇む、
この辺りは鬼の栖、もう行くところがない、
男は鬼になる、もう行くところがないから。

黄色、黄色、たましいの色、
入れもののちいさなすきまにゆれる、
かがやく光を蒐めるつらい庭仕事、
男は手をやすめる、そのつらい庭仕事、
かいま見る嬪(ひめ)の正体 舞台の暗転、
笠のしたの女は蛇だ。

ゆらゆらする玉垂れを打つ だれか、
鱗をでられない女が舞台の上手(かみて)にいる、
「ト書き」によればここから笠が、
生き生きする舞の手をひとつ、
ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、
ななつ、やっつ、戸びらを襲う鬼の声、
笠はかたちを脱ぎ、鱗の包帯をとる。

嬪の秘める結婚の式、
結婚の座とその聖なる意味と、
からだに刻まれる結婚と、たましいの結婚。

どこからきたのか 笠、
ドアをくぐる ここに来る笠、
笠を脱ぐ旅人が暖をとる 色々、
みどり色の灰が色を脱ぐ横座、
杖を取り出す、笠のしたから、
昼は日のことごと、
夜は夜のことごと
かさが よこたわる、ここは最後の座。

おもかげは躬をはなれない、
鬼だと知ってどうなるものでもない、
どうしてはなれなければならないことがあろう?
やまざくらがさいて散る、こころを花のもとに、
捨てる、躬も心もとろける、そうだ、ここは鬼の栖、
鬼の栖にうつせみがのこる、見えない住みか、
「泪のつぼみ」はもう帰らぬ、
ものがたりはくずれる、がらがら、
このうつせみや ついの栖。

 

(鳥取の歌人、佐竹弥生にお会いしたことがある。『大切なものを収める家』(思潮社、一九九二)に「Mono-gatari」(ローマ字詩)および「霊語(ものがた)り」という追悼詩を二篇、私は書いた。今回、ローマ字詩のほうを漢字かな交じり表記に変えて、題は「霊語り」とする。前回の「文法擬」も追悼詩で、高校教育と『源氏物語』とに身心をささげていた北川真理を最期まで見送る。)

しもた屋之噺(197)

杉山洋一

東京はここ暫くよく晴れた気持ちのよい陽気が続いていて、オーケストラのリハーサルや打合せなど、着替えだけ携え自転車で走り回っておりましたが、目の前の灰色の空を眺めるにつけ、恐らく今日は雨具もリュックに入れた方がよさそうです。満員電車が苦手なので、多少の距離ならのんびり自転車で出かける方が余程気楽なのです。ただ、東京は坂が多いので、道すがら自転車通勤している人を見かけると思わず感嘆させられるのも確かです。

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5月某日 ミラノ自宅
久しぶりにローマの日本文化会館を訪れ、本條さんの拙作初演に立会う。短くてイタリア生活が滲むような小品とのリクエストで書き、ローマ初演だしラテン語の題名が良かろうかとludus perpetuusとしたが、演奏会後夕食を囲みながら、新館長の西林万寿夫さんが出抜けに、拙作がヒンデミットの「交響的変容」2楽章のスケルツォ「トゥーランドット」に似ていると仰るので愕く。恥ずかしながらヒンデミットのこの作品は知らなかったので、後で聴いてみて確かに内容も似ているが、何より吃驚したのはludus perpetuusと題名を決めるにあたって、無意識にヒンデミットのludus tonalisの語感を意識していたからだった。
 
5月某日 ミラノ自宅
本條さんと、悠治さんの「夕顔の家」を弾く。ピアノを人前で弾くのは最初で最後だろうが、人と一緒に弾くのは殊の外楽しい。本来は家人と本條さんで弾いてもらおうと思ったが、ちょうど家人が日本に帰っていて、知合いのピアニストに弾き方を説明する時間もなくて自分で弾いた。粒を揃えず、三味線と着かず離れず、少しゴツゴツとした手触りで弾いてみる。
楽譜の音は少ないようだが、実際に音にした途端から、一瞬にして濃密な時間が空間に充満するのに愕く。だから、このくらいの音の密度が丁度よいのだろう。
「夕顔」と、ヴァンクーヴァでやった拙作冒頭が思いがけなく似ていたと悠治さんに伝えると、これらは同じではなくて、「夕顔」は開放絃から演奏を始める伝統的なやり方に則った音型だという。
 
5月某日 ミラノ自宅
何故こんな忙しい最中に、汗だくで庭の芝生を刈るのかと自分でも呆れる。理由は恐らく二つあって、一つは現実的にこれ以上放っておくと、雑草が伸びすぎて芝刈り機で刈れなくなるなり、雑草に花がつくと種が放出され、息子のアレルギーにも良くないこと。もう一つは、やはり芝を刈る草の匂いが、一日机に向かうストレスを軽減してくれること。
とは言え、毎日必要な仕事に専心できるはずもなく、昨日は半日かけ、ボローニャから送られてきたクセナキスのKraanergのテープを、一つずつ検証する。前面、後面用に作られた、全く別のテープ2本に関する添付の使用説明書は皆無で、これらをどのように使用すべきか、バレエの稽古も始まっているから、早急に劇場に伝えてほしいと繰返し頼まれていて、逃げ回っていた。
スコアには演奏に必要なタイムコードが附記されていて、送られてきたテープの秒数とほぼ合致していたが、正確に言えば、全面と後面のテープの長さに少しずつ誤差があり、スコアとテープの間に、数秒の誤差が生じるところもあって、それらをどのように解決すべきか説明を書く。
そうした作業の中で見えてくるのは、思いがけなく人間臭い音楽の作り方であり、音の合わせ方だった。間違いなく合わせられるよう書いてあるのだけれど、縦の合わせ方はデジタル世代のそれではなく、ずっと柔軟でアナログな耳であって、延いては、彼が音楽を作る上で、何を基盤に置いていたかが如実に表れている。とにかく、どう足掻いても音が読めないところが何頁かあって、これはやはりパリの実娘に連絡を取って自筆譜を検証させてもらうしかない。
たかが半世紀の間に消失してゆく情報は数限りない。消失するかどうか、場合によっては本人は興味すらないかも知れないが、情報を必要としているのは本人ではなく、将来この楽譜を必要とする音楽家たちなのだ。
何故我々は、これほど血眼になって人類を永遠に生かそうと必死になるのだろう。DNAにかかる強迫観念が埋め込まれているに違いないし、恐らくまだ我々が一種類の単細胞生物だったころから、そのDNAこそが我々をここまで培ってきたに違いない。そのDNAに駆り立てられ、全てとは言わないが、文化は連綿と受継がれながら現在に至る。遠くから俯瞰すれば、我々も無心で行列を組んで食べ滓を巣に持ち帰る蟻のようではないか。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルが初台なので、毎日自転車で出かけている。茶沢通りから下北沢を抜け、井之頭通りを大山で曲がって甲州街道を少し走れば初台に着く。のんびり走っても20分ほどだから、行き帰り身体を多少でも動かせるのは気持ちがよい。
カニーノさんがちょうど東京にいらしていて、品川で夕食をご一緒する。二人とも鯛のソテーを頼み、彼は睡眠薬代わりだと笑いながらビールを2杯呷った。
50年前に初めて東京に来た頃は、どこも全て日本語しか書いていなかったから何もわからなかったが、今は見違えるように分かりやすくなり、一人でも充分出歩けるようになった。招聘元からは行方不明にならないかと心配されているけれどと笑った。
ちょうど2年前のピアノシティという音楽祭で、息子とカニーノさん、それからピアノシティのディレクターのリッチャルダで、ミラノ中央の普段は入れない小さな公園にピアノを持ち込み、屋外でクルタークのバッハ編曲を一緒に披露した。我々は地面に風呂敷を敷いて朝の木漏れ日の下、座って聴いた。
数日前に開催された今年のピアノシティで、息子は久しぶりに人前でピアノを弾いたが、また左手がおかしくなったらどうしようかという精神的葛藤と闘っていたようだ。だからここ暫く精神的にも不安定に見えたが、今回見事にジレンマを克服して、これからきっと精神的にも変化するに違いない。
そんな話をカニーノさんとしつつ、そういえばリッチャルダも先日ウンスクさんをイタリアに招いたばかりだと連絡を貰ったばかり、などと、あちらこちらの四方山話に花が咲く。ウンスクさんと一緒に写真を撮って、リッチャルダにも送ろうと思う。

5月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに再会したウンスクさんは、リハーサル中、候補曲の作曲者たちそれぞれに、それぞれの個性がより際立つよう、きめ細かくアドヴァイスをされていた。
リハーサルを聴いていたJさんが、地層を見ているようだと形容する作品があって、面白い表現だと思う。その時こちらも丁度地層や断層を遠くから眺めている感覚にとらわれていて、地層を俯瞰したその上に森が茂り、青空が広がるところまで見える気がしていたからだ。
オーケストラそれぞれの音というものは確実にあって、今回はその昔ドナトーニの個展を演奏したときの東フィルの音を何度となく思い出した。音が空間をドライブしていたり、オーケストラが書かれている音楽をドライブさせてくれる、そんな風に感じられるのは指揮をするにあたり、この上なく幸せなことだった。
作曲コンクールの作品演奏審査は一見単純な作業のようだが、実際は正反対だ。このオーケストラがいくら音楽をドライブさせてくれても、別のオーケストラならそうならないかも知れない。その時、作品は何を基準に判断されるべきか。審査はともかく、作曲者一人一人から、演奏に心から喜びを表現してもらえること、演奏者としてこれ以上の喜びはない。
 ヴィオラに須田さんがいらしたので、休憩中に互いの近況報告。彼女を含めオーケストラの皆さんが、本当に深く作品を表現してくださり感激する。フルートの斎藤さんとは息子のフルート話。何でも今の日本では、中学の吹奏楽部で既に「春の祭典」の抜粋など演奏してしまうとか。どうやって演奏できるのかと尋ねると、気合で出来てしまうらしい。

5月某日 三軒茶屋自宅
東京にいると、近所には普通下駄を履いて出かける。当初父が履いていたものを、もう大分前から使わせて貰っている。子供のころ、確かに父が下駄を履いて歩いていた記憶はあるが、彼が何時から履かなくなったのか判然としない。ともかく靴下を履く必要もないし、からから鳴る音が何しろ耳に心地よい。からから云うから、からげるのかしらん、とぼんやり考えていて、何だか変だ、あれあれ、からげるのは下駄ではなくて尻じゃないか、と独りで笑い出した。
先日悠治さんとお会いしたときのこと。終戦後すぐ省線電車で渋谷に降り立ち、目の前一面焼け野原でがらんとした風景を前に、これから全てを作り直してゆく再生の喜びが子供心に湧いてきた話を聞いた。
イタリア語の小瀬村先生曰く、最近東京の街はどこもすっかり変わってしまって、でかけるのが厄介だそうだ。特に渋谷の駅は分からないと仰られて、これは全く同感である。終戦後すぐの渋谷なんて一面何もない焼け野原で、駅前に2軒ほどお汁粉屋があっただけなのよ。甘味処に気の付くところが女性らしい。立て続けに二人からお話を伺い、終戦直後の渋谷は一面の焼け野原で、どうやら二軒お汁粉屋があったらしいことがわかった。
その時悠治さんがマリピエロの楽譜を携えていらして、1920年以前のものが殆どだった。マリピエロと言えば、30年代以降のリコルディで出版された楽譜を見ることが殆どだったから、別の出版社のマリピエロの楽譜そのものも新鮮だった。悠治さんとマリピエロが結びつかないと言うと、これらは彼がまだ幼かったころ、悠治さんのお父上が刊行した雑誌で紹介されたもので、誰かさんの歌垣と一緒で、子供の頃の思い出だと笑った。
演奏方法について確認するためオペレーション・オイラーの楽譜を二人で眺めながら、この速度指定はさすがに早過ぎるでしょう、とこぼすと、若いころは皆早いんですよ、と笑われてしまう。今であれば加減してもう少しゆっくり吹いてもよいのだろう。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラと仕事をしていて気づいたのは、自分が何かを望まない限り、そこには何も生まれないことだ。それには様々な理由があるのだけれど、こうしてみたい、こんな音にしてみたい、という希望がなければ、オーケストラは書かれた音を、ほぼ機械的、ルーティンとして演奏せざるを得ない。
先日、アルゴリズムを使って書かれた複雑な楽譜を演奏したが、最初の打合せで、作曲者はこの曲に息を吹き込んでやってほしい、とこちらの目をまじまじと覗き込みながら話した。
どこまで聴こえるようになるか分からない、と初めから断っておいたが、彼がこれらの音を瑞々しく聴きたいと願っていることは、よくわかった。
リハーサルは、複雑なリズムを虱潰しに合わせてゆくものではなく、殆どの時間を、指揮する人間が欲すべきものを探す旅に等しかった。最初は、各々の微細な形態、その輪郭をどう引き出すかを整理し、失敗し、やり直し、全体をオーケストラと共につかみ、互いに聴き合った。
リハーサル全日程が終わるあたりで、これら全ての音に鮮やかな生命を吹き込んでみてほしいとお願いし、当日のドレスリハーサルの終わりになって漸く、音を押さえつけていたのかもしれないことに気が付いて、空間に存分に浮かばせてやってほしいとお願いした。それまでのリハーサル時間は、指揮者が作品の本質に気づくためにどうしても必要な時間だった。演奏会のあと人から聞いたところでは、「ああいう曲でも音のイメージを持つだけであれだけ変わるんだなあ」、とオーケストラの団員さん二人がトイレで用を足しながら話していらしたそうだ。
何かを望むことで、そこに小さなエネルギーが生まれる。極端に謂えば、何かを望まない選択も、望まないという希望を押通す上でエネルギーを消費しているに違いない。
高校生の終わりころ、権代さんと表参道の喫茶店で話していて、ヨーロッパ帰りの権代さんがとても輝いてみえた。杉山も外に出た方がいいとその時に言われて、その喫茶店もちょっと欧州風の暗めの摺りガラスに煙草で煤けた煉瓦の土壁が周りを這うような造りで、洒落ていた。
あれから、何となく積み煉瓦の土壁がある家に一度は住んでみたいと思っていたが、そんな機会が巡ってくると考えたこともなかった。
子供のころ育った東林間の家には大きな桜の木があって、二階の窓からその葉に触れたものだが結局引っ越すことになった。だからだろうか、庭の大きな木に妙な憧れを抱いていた。
幼いころから鉄道は大好きで、それも当時既になくなりかけていた、鉱山鉄道や森林鉄道のトロッコであったり、今はもう殆どなくなってしまった各地のローカル線に凝っていたから、草生した廃線跡を歩いたりするのは大好きだった。
今住んでいるミラノの家には珍しく庭があって、朽ちかけた煉瓦の土壁が隣の国鉄の線路の境に伸びる。土壁のすぐ向こうには、殆ど使われず下草の繁茂する錆びた引込線があって、一年のうち3、4回、夏の臨時行楽列車の入替えに使われたりする。庭には大きな木が一本生えていて、今や3階か4階ほどの高さまで伸びてしまった。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃の人見知りが未だに残っているのか、相変わらず人に会うのも苦手で、人の顔を覚えるのも苦手なものだから、友人の演奏会を覗きにゆき、誰にも会わぬよう一番後ろに座っているつもりが、杉山さんですね、あの時はお世話になってと声をかけられ、しどろもどろになる。所詮逃げているからいけない。
先週の演奏会後、何でも杉山さん、飛行機で必死に譜読みしていたんですって、風の便りで聴きましたよ、と言われる。最近の風の便りは、随分具体的な内容まで記載できるものだと感心するが仕方がない。デジタル時代の風便り。
どうやってこういう楽譜を勉強されるのですかと妙齢に尋ねられ、暫し思案に暮れる。傍らでRさんに杉山さんは譜読みが早いからなどと揶揄われるが、天地がひっくり返ってもそれはない。ソルフェージュ能力が高い、と言われる人は、例えば藤井一興さんのような耳を持った方であって、ソルフェージュというより、ソルフェージュの直感能力そのものが抜きん出ていらっしゃる。
思案に暮れた後、作品が少しでも解かるようになるといいと心の中で祈りつつ、亀のような歩みではありますが、仕方がないので音を一つずつ読んでゆきますと答えた。あまり的を得た答えではなかったようで、可哀想に妙齢はキョトンとしていた。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ギリシャ音楽を研究している友人が、クセナキスはギリシャ人ではない、亡命して長くギリシャには戻れなかったし、現在ギリシャに基づいた音楽ではない、と力説するのを聞く。意外ではあったが、案外的を得ているかも知れない。クセナキスが古代ギリシャを主題に据えることが多かったのは、確かに少し離れた視点で、祖国を眺めていたからかも知れない。
様々な役職を歴任されて、そろそろ悠々自適の生活に入ろうと言うRさんは、古典ギリシャ語講読会に通っていて、今はホメロスの「イリアス」を読んでおられる。ラテン語とギリシャ語は西洋文化の礎だから、どうしても学びたかったのだと言う。フランス語に慣れているからとラテン語は一先ず置いておき、古典ギリシャ語を始めたそうだ。
そうしてイリアスで使われている英雄詩体、ヘクサメトロンを意識しながら、イリアスを毎週持ち回りで音読していると、ベートーヴェン7番交響曲2楽章のリズムが聴こえてくると言う。Rさんは現在本を執筆中だそうだから、この話ももっと詳しく聞けるのを心待ちにしている。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ヴィオラスペースに、「子供の情景」を聴きにゆく。相変わらず見事な演奏を披露して下さる今井さんやファイトに再会出来たのも嬉しいし、初めてお目にかかるシュリヒティヒさんも楽屋を訪れるととても嬉しそうだった。そんな中、ニアンを初め4人の中国人ヴィオラ奏者が参加できなくなったのは、主催者のスピーチを聴く限り、政治的な理由だったようだ。俄かには信じがたいが、ヴィオラ・スペースにそれだけの影響力があると判断されたのだろうか。ニアンの代りに演奏してくださった佐々木さんが、とても素晴らしい演奏をしてくださったから、もちろん作曲者としては申し分なかったけれど、日中関係がそこまで悪くなっているとは知らず、少なからず衝撃を受ける。
演奏会後、Mさんに昨年急逝された娘さん行きつけの下北沢のバーLJへ連れて行っていただく。思いがけず、茶沢通りの毎日自転車で通り過ぎるところにひっそりとあって、落着いた雰囲気のなか、LP盤のジャズが静かに流れる。娘さんはパブリックシアターで公演があると、決まってこのバーに寄っていらしたそうだ。娘さんの入れたアイリッシュ・ウイスキーをストレートで頂き、しみじみと味わう。ちょうど息子を7月ダブリンに一人で行かせる話などをしていたから、アイリッシュ・ウィスキーと聞いて、嬉しかった。今でも彼女の友人たちが時折ここに寄っては、このウィスキーを呷りながら故人を偲んでゆく。そうして、さまざまな人のさまざまな思いが、深い琥珀色の瓶に積もってゆく。
Rさんと3人で会うつもりだったのが、Rさんは2月に膠原病がわかり、今日はご挨拶しかできなかった。1月にお目にかかったときはあれ程お元気だったのに、言葉もない。
「思い立ったが吉日」と言うけれど、こうなると、単に時間の絶対的不可逆性を諧謔的に諭されているようにしか聴こえない。
共通の友人で奥様がパーキンソンで闘病中のHさんの話になる。ある俳優がテレビで妻が先に逝ってくれて本当に良かったと話していて、つくづくその通りだと思ったという。本当に素敵な人だったのに、とMさんが寂しそうに呟いたとき、カウンターにいたバーテンダーがこちらにやって来て、窓際の小さな観葉植物を手に取った。
「これを娘さんがプレゼントして下さって、もう5年にもなるでしょうか。ずっと元気で、ほら見てください。見事でしょう。こうやって毎日窓際に置いて、陽に当てているのです」。

(5月31日 三軒茶屋にて)

沈黙する世界

笠井瑞丈

誰もいない街をクルマで走る
かつてはヒトが住んでいた街

停止したまま
時だけながれ
色だけがとられ

舗装されてない
凸凹の道を
すれ違う工事車両

綺麗に美しく
敷地一面に
黒いフクロが
置かれている

そこにも
ひとつの生活があった
ひとつの時間があった

生まれるもの
消えてくもの

サクで囲われている道路
雑草に囲われている看板

誰もいないレストラン
誰もいないコンビニ
誰もいないホテル
誰もいない道路
誰もいない街
誰もいない
誰も

空だけは青く
どこまでも
続いてる

そんな世界
残された
地球の生活

もたもたあたふた

大野晋

タイトルに擬音を置いてみたけれど、中味をどうするか決めていない。いくつかあるお話をつないでどうなるかはお楽しみということで。

近所のショッピングセンターにある大きな本屋が閉店してしまった。かの、計画配本の箱や返品の箱、新刊が平積みの上に無造作に放置されていた書店だが、新刊を圧縮して新古本を置いたり、文房具売り場を作ったりしていたがどうもうまくいかなかったらしく、閉店となってしまった。小規模書店の廃業やロードサイドのチェーン店の大量閉店などが続いていたがいよいよ集客力があるはずのショッピングセンター内の書店の閉店となったことでいよいよ出版不況も新しい局面になったような気がする。

円本の時代にも出版不況と言われていたらしいけれど、最近のそれは何やら趣向が違うように感じる。まず、小規模書店の天敵と言われたコンビニエンスストアでも雑誌が売れなくなっている。雑誌が売れないと、例えばコミックのような連載をまとめて単行本を出版するようなビジネスが上手くいかなくなる。雑誌の立ち読みは雑誌の売り上げの邪魔とされていたが、雑誌で読まれないとそこに連載されている作品が知られることがなくなり、単行本が売れなくなる。今では、コミックの単行本の帯に「なになに氏絶賛」のような文字が入ることが珍しくなくなった。単行本の立ち読み防止のためにラップされているから中味を見せるわけに行かずに苦肉の策が有名人の絶賛アピールということなのだろう。ただし、どの程度の影響があるのかは疑問だと思っている。帯のコメントの反対が中味の一部見せという手法で、書店の店頭に薄い冊子をぶる下げてサンプルを読ませている。ただし、冒頭の1話ほどしか見られないこの冊子で購入を決めることはあまりないように思う。これを大掛かりにやるのが最近のアニメ化で、アニメの円盤も不況で売れないらしいので、出版のプロモーションらしき番組も最近は作られているように思う。

この読ませる手法のバリエーションとして、最近はスマホやタブレットのアプリで読ませるという新手が出てきているが、使ってみると意外と良手のように感じた。ただし、無償公開されている作品にはレベルとして低いものも多くあり、玉石混交状態なのだから如何にヒット作候補にアクセスさせるかというのが課題かもしれない。今のところ、はずれ率が雑誌よりも格段に高いのが気になる。

実際の書店がなくなると、決め撃ちで購入する本なら問題ないけれど、新刊の中から新しい本を探したり、既刊の本の中から気になる本を探し出すようなことができなくなってしまう。まあ、後者は提案のできる書店員が少なくなってあまりアテになることはなくなったけれど、新刊を手に取れないのは困ってしまう。とは言え、やはり求められているのは、提案型の棚なんだろう。

本が売れないと言われて久しいが、いよいよ書店がなくなって、この先どうなるか不安しかない最近である。

空梅雨

仲宗根浩

奥さん連休で子供と実家へ。空港まで送っていく。初めて三月に開通した西海岸道路というのを走る。空港へ向かうと右側は海が続き、左側は返還を待つキャンプキンザー、補給基地。四日間のひとりの生活中、休みは二日間。ひとり分の家事、天気が良い日車洗ったりしたらすぐ終わる。

去年五月にうちから歩いて二百歩ちょっとのところに越してきた市立図書館に三月に初めて行き、ちょくちょく行くようになる。前のとこよりかなり広くなり本棚もスカスカになっている。以前置いてあった本が無いので図書館内のパソコンで検索すると書架とある。お願いすると係りのひとが持って来てくれるようになっている。第三セクターで商業施設として失敗した建物の一階すべてが広々とした図書館になった。以前は墓場だった場所。うちの墓は以前ここにあった。

連休が終わると梅雨に入ったが全然雨が降らず、ダムの貯水率も半分あるかどうか。だんだんと暑くなって来て、夜帰ると冷房が稼動しているときが多くなり月の半ば過ぎには毎日稼動になるが、通勤時の車はまだ冷房なしで燃費のことも考え我慢する。

二年ぶりにお箏の演奏会の裏方をする。屏風や山台、毛氈はやってくれる方がいたのでリハ、本番は楽器の転換に専念する。東京から手伝いに来てくれた芸大の大学院生の男の子がよく動いてくれたので楽をさせてもらった。話をしたら東京でも演奏会の裏方を私もよく知っているお箏屋さんのところでやっているとの事。

演奏会の翌日、二年ぶりの日曜休みになったので家族でリゾートホテルでランチに行き、そのあと久しぶりに近くの残波岬に行く。灯台は補修か何かか、イントレと幕で覆われていた。岬のほうに行くと以前と変わらず磯では釣り人が数人。沖を見ると上には雨雲、海面は雨が降っているのがわかる。暫くすると海面を打つ雨がだんだんと近づいて来てパーラーのビーチパラソルまで急ぎ、雨宿り。観光客はきれいになったトイレで雨宿り。十分くらいで豪雨は雨雲とともに過ぎていったあとは日差しが戻る。帰り、ちょっと車を走らせると雨が降ったあとは全然ない。天気予報は六月からやっと雨予報。

雨とそらまめ

璃葉

白い雲に覆われた空、その色に引き立つように桜の木の葉がいつもよりも鮮やかに、グロテスクに呼吸している。雨の時期がすぐそこまでやってきているのだろうか。

雲に閉ざされた世界と湿った空気のお陰で身体は何時よりも重たく、やる気が出ない。外から聞こえる草刈機の唸るような低い音がさらに気を滅入らせた。布団の中の居心地が堪らなく良くて、一日中包まっていたいところだったが、なんとか起き上がる。

読み直そうと思いながらしばらくテーブルの隅に放りっぱなしだった「初版 グリム童話集」のページをめくり、「青髭」を読んでどんどん気持ちが落っこちていく。なぜ、こんなにも気の沈むようなものを自ら吸い寄せているのだろうか、と不思議になる今日の始まりである。こんな日は家の中でいつまでも躙るように過ごす手もあるが、手っ取り早く気持ちを切り替えるには用事がなくても出かけるのがいい。緑だらけの鬱蒼とした遊歩道を抜けて、商店街まで歩く。途中、ぬか漬け屋の女将さんと立ち話をして、ふらふら八百屋へ向かうと、一番に目についたのは軒先のカゴに山ほど積まれたそら豆だった。見た途端、自分がこれをとてつもなく欲していたことに気付く。そういえば、グリム童話集にも「旅に出たわらと炭とそら豆」なんて話があった。そら豆になぜ黒い筋があるのかというと、わらと炭と旅をしているそら豆が道中ではじけてしまい、通りがかりのひとりの仕立て屋が黒糸で縫い合わせたからなのだそうだ。

夕方、網戸の外から小粒の雨の降る音がかすかに聞こえる。湿った風が部屋を通り抜けていくなかで、茹でたそら豆、きゅうりのぬか漬けをつつきながら、麦酒を飲む。黒い糸ならぬ緑の糸で、うまくはまっていない身体と心を縫い合わせられたらな、と想像してみる。

アジアのごはん(92)シャン・カウスエ ビルマ・シャン州の米麺

森下ヒバリ

「あれ‥ビルマのシャン・カウスエ作っちゃった!」
昼ごはんに今まで試したことのない米粉の乾麺をゆでてスープ麺を作った。一口麺を啜ると、いきなりビルマ・シャン州の味がするではないか。味付けはいつも通りにさっぱり豚骨スープと魚醤のナムプラー。カボ酢コ少々。うちの汁麺の味付けはもともとこのアジア風なのだが、いつも通りに作ったのに、いきなりビルマ・シャン州の麺料理、シャン・カウスエそのものに出来上がったのには驚いた。どうやら、初めて使ってみた米粉麺が、この味を引き出したようである。

使った麺のメーカーは新潟の自然芋そば(雑穀めん工房)。ここのあわ麺ときび麺をうちでは愛用している。どちらも茹で加減で、固めならスパゲティ、やわらかめで焼きそば、冷やし中華に使えて、小麦を使わない国内の乾麺ではなかなかのおいしさである。添加物もないので、安心して食べられる。

ここが最近出した米粉の「もちっとつるりお米の麺」という乾麺を試したところ、いきなりビルマの風が吹いてきた、というわけである。「もちっとつるり」とうたわれているので、冷やしたら、ざるうどんみたいな食感になるかもと期待したのだが、そういう食感は全然なかった。いわゆる米粉の麺のテイストで、もちっとしたところと、つるり、(つるり?はあんまりないな‥するり?)とした絶妙のバランスがビルマのシャン族のちょっとだけもちっとした米麺のテイストとそっくりなのだった。

米粉の乾麺はいろいろ試しているが、みな似ているようで微妙に違い、シャン・カウスエ! と感じたのはこれが初めてである。ざるうどんにはできないけれど、これはこれでいいじゃないか。

相方は無類の麺好きなのだが、グルテン・アレルギーである。小麦以外の麺をいろいろ試してみている。蕎麦は、ヒバリが強力アレルギーなので、却下。うちの中にそばがあるだけで鳥肌が立つ。最近、グルテンフリーのブームもあってか、欧米に比べて出遅れていた日本のメーカーもいろいろグルテンフリーの麺やマカロニなどを発売し始めた。そして、ここ1~2年で味や舌触りがぐんぐんよくなってきて、たいへん喜ばしい。

お米が主食の国なのに、どういうわけか米粉の麺はこれまで、ほとんど日本では作られてこなかった。米粉はお菓子の素材として伝統的にあったのに、どうしてお団子や白玉、ういろうなどのお菓子の域を出なかったのだろう。麺といえば小麦麺よりも、まずは米麺であるアジアの国々を旅していると、この点がどうしても謎なのである。

シャン・カウスエというのは、ビルマのシャン族の麺料理だ。シャン族というのはビルマの北東部に広がるシャン州の主な住民で、大きく言えばタイ族である。タイ族は、7世紀~12世紀にかけてそれまで住んでいた揚子江南部から、漢族に追われて西南方向に民族大移動を行ってきた。ビルマ北東部には11世紀ごろに定着したと思われる。いくつかのタイ族系国家が興亡したが、最終的にはビルマ族に国は滅ぼされて、ビルマという国の中のシャン州として現在に至る。

ちなみに現在のタイという国はこの揚子江域からの大移動の流れからわりと最近にチャオプラヤ流域に南下して、先住民族を取り込み、なおかつ中国の福建・潮州からの移民と混血してできた中部タイ人を中心とする国である。タイ族といえばタイ族だが、民族的には色々混じっているし、文化も中国南部の影響が大きい。ビルマのシャン族は、タイ国のタイ人よりも、タイ族のルーツ的なものを色濃く残しているのだ。

シャン・カウスエというシャン族の麺料理は、主な調理法として、米粉の中細麺を茹でて、たれと和えた和え麺と、スープ麺の二種があり、さらに麺の種類としてちょっとだけもっちり麺と強力もちもち麺の二種がある。麺の幅についてはあまり重要ではなさそうであるが、丸い中細麺、平たい中細麺がポピュラーである。

ヤンゴンでいつも食べていたシャン・カウスエはちょっとだけもっちり麺であるが、台湾ビーフンのようにパサッとした食感ではなく、タイのセンレックなどよりも、もう少しもちっとしている。ビルマ族はこちらが好きなようで、ヤンゴンでシャン・カウスエというと、だいたいちょっとだけもっちり麺である。もちろんシャン・カウスエの専門店ではいろいろな麺の種類が選べる。

強力もちもち麺を食べたのはシャン州のニャウンシュエだった。ホテルの近くのごくふつうのラペイエザインと呼ばれるお茶屋さんで、麺類などの軽食も食べられる店だ。

「カウスエはこれしかできないからね」と店のおばちゃんがまだ茹でていない白い麺を見せてくれる。何を言ってるんだろうと思ったが、出てきたものは汁けの少ない和え麺で、麺の上に茹でたからし菜と荒潰しピーナツが乗っているものだった。別椀でスープ、高菜の漬物がつく。テーブルに置いてある揚げ物は別料金だ。和え麺の汁には、シャンの納豆の粉末が仕込まれていて味わい深い。

「いただきま~す。んん? これ、めちゃくちゃもちもちだね!」「歯が丈夫でない人は食べられているのかな?」「あ、はい何とか飲み込んでます」同行した友人の一人はちょっと四苦八苦しているようであった。

いやはや、ヤンゴンのアウンミンガラー・シャンヌードルで、かなりもっちりな麺を食べたことはあったが、こちらはハンパないもちもち度である。これは啜れない。もぐもぐと噛みしめて食べる。初めて体験するレベルのもちもち麺であった。

シャン族の一番の好みは、たれをかける和え麺で、強力もちもち麺のこのタイプらしい。おばちゃんがこれしかないよ、と言ったのはシャン州の住民以外が好む、ちょっとだけもっちり麺の選択肢はない、ということだったようである。

シャン・カウスエの米麺は、いわゆるインディカ米ではなく、日本の米に近いちょっと粘りのあるシャン米で作る。なので、インディカ米で作るタイなどの米麺よりも基本的にもっちりしている。さらに強力もちもち麺の方はどうやらモチ米から作るらしい。モチ米粉で麺を作るのはかなり大変そうだが、これは次回訪ねた時にもっと調べてみよう。

ちょっとだけもっちり麺で汁ありのシャン・カウスエはどちらかというと、中国の雲南省の米線や、ラオス北部のカオソイ(これも納豆ペーストが味のポイント)と近い。どちらもタイ族系の近い民族の麺なので、似ているのもおかしくない。けれども、かつては同じルーツだったものも、地域でそれぞれ独自に発展して今の形に収まっている。麺のもちもち度はどこも微妙に違う。シャン・カウスエの強力もちもち麺は、ビルマのシャン州で独自に発展した米麺なのだ。

またシャン州のローカルな食堂で、シャン・カウスエを噛みしめつつ啜りたいな。ちょっとだけもっちり麺のカウスエは「もちっとつるりお米の麺」さえあれば、わが家で食べられるので、もちろん強力もちもち麺を。

儀礼と見世物

冨岡三智

少し前の出来事だが、大相撲巡業中に土俵上で倒れた市長の救命処置をした女性に対し、行司が土俵を降りるようにアナウンスするという事件があり、大相撲の女人禁制は伝統か? 神事か? と取り沙汰された。この時にツィッタ―で知ったのが2008年の論文「相撲における『女人禁制』の伝統について」(吉崎祥司、稲野一彦)で、女人禁制は相撲界の地位向上のため明治以降に虚構されたと結論づけている。その論文によれば、日本書紀に最古の女相撲の記録があり、室町時代の勧進相撲には女人も参加しており、江戸時代には女相撲の興行があったが、文明開化後も存続するため、相撲は単なる見世物興行ではなく、武士道であり朝廷の相撲節の故実を伝えるものであるという理由付けが必要となったというのだ。

見世物ではないと主張するために儀礼性が強調されるようになったという経緯には私も納得するのだが、逆に、見世物だからこそ相撲協会は儀礼性や伝統を強調したがるのではないだろうか。なぜなら、単に相撲はレスリングの一種だと紹介するより、古代からの伝統や女人禁制の神事だと紹介する方が人々の関心を惹き、集客がアップするだろうからである。

そう私が思うのは、私自身がインドネシアでスラカルタ宮廷様式のスリンピとブドヨの自主公演をそれぞれ実施した経験による。スリンピもブドヨもジャワ宮廷女性舞踊の演目で、私はどちらもほとんど上演されない元の長いバージョンで上演した。スリンピ公演をしたのは2006年11月で、スラカルタの国立芸術高校の定期ヌムリクラン公演(毎月26日に行う公演という意味)に組み入れてもらった。(詳しくは水牛2007年4月号、5月号の記事を参照)。一方、ブドヨ公演をしたのは2007年6月で、これはスラカルタにある州立芸術センターでの単独公演として行った(ただし芸術センターと共催)。ブドヨ公演にはチラシやポスターをデザイナーに作ってもらって印刷したが、スリンピ公演の時は自分でパソコンで作ってコピーしたちらしのみ。しかし、この3年あまり続く定期公演では普段はちらしさえ作っていない。それでも伝統舞踊が見られる場として定着し、観客もついている。私はどちらのケースでも事前にスラカルタのマスコミにプレスリリースをしてPRに努めた。世間の反応は同じようなものだろうと思っていた。

その結果だが、ブドヨ公演の時はプレスリリースを見た芸術制作団体が記者会見の場を設けてくれた。コンパス紙は公演練習の取材に来てくれたし、地元のFMにラジオ出演もした。最終的に計19回、新聞や全国誌に公演情報から公演評まで掲載され、公演後に全国放送のテレビ番組にも呼ばれた。ところが、その半年前のスリンピ公演の時には、メディアには全く取り上げてもらえなかった。同じようにプレスリリースしたのに…。しかし、ブドヨ公演の後で知り合った記者たちがブドヨは儀礼舞踊だから…と言うのを聞いて、私も悟ったのだ。

ブドヨとスリンピは並べて言及されることが多く、振付もあまり違わない。ブドヨがスリンピに、スリンピがブドヨに改訂されることも少なからずある。スリンピであれブドヨであれ、私にとっては現在ほとんど上演されない長いバージョンを復興することに意義があるのだが、記者たちにとっては違った。ブドヨは報道すべき価値のある儀礼舞踊だが、スリンピはそうではなかったのである。確かに、歴史的にはブドヨの方が古く、スリンピの方がより新しい形式である。特に、スラカルタ王家には即位記念日にのみ上演されるブドヨの演目があって、ジャワの王家の祖が南海の海で女神とあって結婚し、王権を得たという神話を描いている(ただし同じブドヨでも他の作品にはそのような意味ははない)。だから、ブドヨ=儀礼という観念はジャワ人には――特に文化記者たちには――馴染みのあるものなのだ。スリンピも宮廷儀礼として説明されることが多いはずだが、ブドヨの方がより定着していたということだろう。このスリンピとブドヨの公演のメディア掲載数の差は、「儀礼」という語が持つ集客力を表しているように見える。

こんな経験をしているので、儀礼というレッテルは、人々の見たいという欲望をかきたて、見世物としての価値を高めるものだと思わずにいられない。それは相撲協会だけでなく、他の伝統儀礼にも多かれ少なかれ言えることでもある。

水曜日の創作クラス(3)

植松眞人

 夏みかんほどの大きさに作られた紙粘土のみかんは、見つめれば見つめるほど素人くさい作品だった。小学校、中学校の美術の時間以来、絵など描いたことがない私が、見よう見まねで作ったとしても、もう少しマシに作れるかもしれない。まじまじと見つめると、本気でそう思えるほどに粗雑な作りだった。
 ところどころに色が塗れていないところがあったり、形がいびつになっていたり、紙粘土が毛羽立って見えるところもあった。正直、私以外の五人の参加者がなにを食い入るように見つめているのか、まったくわからなかった。しかし、一番わからないのは作った本人の気持ちだ。この程度の作り物をみんなにじっと見られて恥ずかしくないのだろうか。
 私は紙粘土のみかんを見るふりをしながら、それを作った七十代らしき男性を盗み見た。男はときどき、作品を見守っている参加者たちの表情に視線を送りながら、自分でもみかんをじっと見つめ続けていた。
 しばらく黙っていた作者以外の四人だが、高橋がふと緊張を緩めて、ゆっくりを息を吐いたところで、みんながもう一度席に座り直したり、作品から視線を外したりした。空気が緩み、各々が今度は雑談を交わすように、目の前の作品について軽く言葉を交わし合った。
「大きなみかんという発想が面白いわ」
「そうそう。大きいとか小さいとかって、やっぱりかわいく見えるし」
「張りぼてっぽい感じもいいのかもしれないなあ」
「それは言えるかも」
「色は軽いけれど、そこがまた味と言えば味ですしね」
 そんな会話がしばらく続いた後、高橋が軽く手を二度叩いた。その手を叩く音を合図に、みんなが口を閉じて、再び目の前の作品に集中した。しかし、少し様子が変わった。大きなみかんに視線は送っているが、先ほどまでの何かを見て取ってやろう、という雰囲気ではなかった。それはなんというか型だった。型として、作品を囲んでいる。そして、何かを待っているという感じだった。
 やがて、作者も含めた全員が待っていたものがわかった。高橋だった。再び作品に視線を送り、みんなが型を作って数分たった頃だろうか。高橋がさっきまでよりも少し大きな声で話した。
「作りが甘いと思います」
 すると、型を作っていた高橋以外の参加者が一斉にうなずいた。大きな機械の一部が動いたような感じだった。
「なるほど、作りが甘い、か。だから、全体にぼんやりとして見えるのね」
「悪くはないけれど、もう少し完成度を上げないと駄目だ、ということか」
 高橋以外の他の参加者がそんなことを言い始める。最初から、言うことが決まっていたかのような発言だった。
「ただ、その甘さがみかんへの親しみを高めていると思います」
 高橋がそう続ける。
 すると、再び参加者が一斉にうなずく。
「親しみ……。そうね。親しみがあるわね」
「確かに、完璧に作り上げてしまうと、冷たい感じになるかもしれない」
 参加者たちは、高橋の発言を吟味することはなく、高橋の発言を認め、何度もうなずく。私は改めて、張りぼてのみかんをじっと見つめる。
 しばらくすると、高橋はこれが締めくくりだ、というような雰囲気で、こう言った。
「水曜日のクラスとしては合格です」
 高橋がそう言うと、全員が安堵のため息を吐いて拍手をした。みんなで集まり、みんなで意見を交わし合っているように見えて、この場は高橋が仕切っている。それがいつものことなのか、今日に限ったことなのかはわからない。おそらく、いつものことなのだろうと私は思った。参加者全員が、高橋のひと言で拍手をしている。

 帰り道。出席者たちと雑談している高橋を置いて、私は先に公民館を後にした。合格だという声を聞いて、いまにも泣き出さんばかりに喜んでいる作者である男性の表情が思い出された。私はトイレに行くふりをして部屋を出ると、そのまま足早に公民館を後にしたのだった。しかし、公民館を出て五分ほどで高橋に追いつかれた。隣に並んだのが高橋だとわかった途端に、私は歩みを緩めた。
「いかがでしたか?」
 高橋はしばらく並んで歩き、息を整えてから声をかけてきた。どう答えていいのかわからずに、曖昧な笑みを浮かべている私に高橋は怪訝な顔をする。
「あのみかんも素晴らしかったでしょう?毎回誰かが何かを作ってきているんです。時には二つ、三つと作品が並ぶことだってあるんですよ」
 高橋は嬉しそうに話す。
「たいした作品じゃないかもしれない。でも、ほら、みんなに褒められることで、お年寄りは生きる勇気を手に入れられるし、若い人も自信を持つじゃないですか」
 高橋は話しながら徐々に声が大きくなっている。
「来週は、きっとあなたに話しかけていた女性がいたでしょう。あの人がドライフラワーの作品を持ってくると思いますよ」
「今日の作品の作者は、あれでもずいぶん良くなったんですよ。それを知っているから、みんなも心から褒めることができるんですよ」
「最初は、人の作品を見ているだけでもいいんです。作ろう、という気持ちになったら、何か作ればいいじゃないですか。絵でもいいし、今日みたいな立体物でもいいし、ほんと、小さなイラストでも粘土細工でもいいんですよ」
 高橋の終わらない話を聞きながら、私はこの町へ引っ越してきてから今までの半年を考えていた。そして、この町へ越してくる前の数年間を考えていた。
 私はどうしてもうまく泳げない組織を抜けて、まったく新しい環境で、妻や子と気持ちよく生きたかっただけなのだ。時間通りに起き、時間通りに会社に行き、働き、考え、笑い、時には泣き、怒り、それでも、愛する家族と町で生きていければいいと思い、ここに来たのだった。
 妻の戸惑いを押しのけてまで、地域のボランティアに参加したのも、この町を早く自分の町にしたかったからだ。
 高橋の声は、そんな私の描いた未来に、ひとつひとつ奇妙な色の絵の具を塗りたくって台無しにしているかのようだ。
「次の水曜日は、いつも一緒に地域の清掃をしている方も来る予定なんですよ」
 その言葉を聞いたときに、私はふと思い当たった。地域のボランティアに参加するまでは良かったのかもしれない、と。私の失敗はそんなボランティアの人たちの中でいちばん人当たりが良さそうで、いろんな人と仲良くなるきっかけになってくれそうな高橋を選んでしまったことなのではないかと思ったのだった。
 そうだ。自然にこうなったのではない。私が高橋を選んでしまったのだ。ほんの少し楽をしようとして罰が当たったのだ。
 私はすべてを賭けてこの町に越してきたはずなのに、肝心なところで楽をしようとしてしまった。それが失敗だったのだ。
 次の水曜日あたり、私はこの町を出るための動きを始めているだろう。私ははっきりとそんな自分をイメージしていた。今夜のうちに妻に話し、妻がどんなに困惑しようと、この町を出るということを納得させなければならない。仕事のことなんてなんとでもなる。とにかく、この町を出て新しい町へと向かわなければ。私は同期の高鳴りを感じながら、少しずつ歩みを速めて、高橋との距離を開けた。
 そして、次の町では決して楽などせず、じっくりと町の人たちと向き合って、ひとつひとつ事柄をクリアしながら生きていくのだ。私はそんなことを考えながら歩いた。高橋との距離が少しずつ離れていく。最初のうち、懸命に付いてこようとしていた高橋の足音だが、やがて諦めたのだろう、足音が離れ始めた。
 明日から、私は次の町を探すのだろう。私の部屋にある大判の地図帳を広げて、次の町にあたりをつけよう。そして、必要なら、いろんな人に話を聞いてみよう。高橋とこの町を出るまで鉢合わせしないように用心しながら。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(34)満月の夜の友

西大立目祥子

親しい友人が亡くなった。闘病中だったので、そう遠くないうちに別れの日がやってくることは覚悟していた。でも、最後はあまりに唐突で、メールで3日後に会う約束をした1時間後に容態が急変して病院に運ばれ、翌日帰らぬ人になってしまった。

ご遺族から弔辞をたのまれたこともあって、彼との30年のつきあいを振り返る。そしてあらためて、こういう友人はめったにいないな、と感じ入った。

何しろ私たちは、友人である前に親族なのだ。私の祖母と彼の父親は20歳くらい歳の離れた姉と弟、長女と末っ子なのである。
滅多に会うことはなかったけれど、私にとって大叔父さんにあたる彼の父親の小柄な体つきや丸っこい頭のかたちに祖母の血筋を印象深く感じ取ってきたし、彼のお姉さんにも、会うたび「わぁ、うちのおばあちゃんそっくり」と感じ、しげしげと顔を見つめてしまう。やっぱり、似ている。

彼は小柄ではなかったけれど、私にとってはあまり話すことのなかった謎の多い祖母に通じる何かを持っているようにも思えて、つきあいながらそれを探っていくのがおもしろかった。独特の物の見方やのユーモアのセンスを感じるとき、祖母もごくごく近しい人には冗談をいうような人だったのかもしれないな、などと。

でも、私たちは30歳くらいになるまでほとんど会ったこともなかった。最初に会ったのは私の祖父の葬儀に、彼が結婚したばかりの奥さんを伴い現れたときだ。これから読経が始まるというのに、叔母たちが「まぁ見て、きれいな人。ああいう顔立ちはうちの親族にはいないわね」とひそひそ話をしていたのが忘れられない。

それからほどなくして、私たちはひょんなことから同じ職場の隣の机でともにコピーライターとして働くことになり、約10年同じ釜の飯を食べたあとはフリーランスのライターの道を選んで楽ではない稼業に耐えてきた。ときどきぼやきのお酒を酌み交わしながら。

やりたいことも似通っていた。お互い仙台に生まれ仙台に育った者として、この街の過去を見据えてこれからを見通したかったのだと思う。昭和30年代から50年代にかけて撮影された仙台の写真を読み解き、当時を知る人を探して話を聞き文章にまとめる連載を地元のタウン誌上で、毎月交代で始めたのは1999年のことだった。でもあきらかに彼の仕事の方がていねいで、結局のところ私は脱落し、一昨年まで17年間続いた連載の後半10年をやり通したのは彼だった。この長い連載は、3冊の写真集にまとまり、秋田の無明舎出版から出版されている。

もっと続けたかったろうに、気持ちをこめてしぶとくやり続けた連載を病のために中断せざるを得なかったときはどんな気持ちだったのだろう。でも当初は治療に希望もあったから、からだが回復したら再開を、と目論んでいたのかもしれない。写真集をもう一冊、と考えていたふしもある。連載終了のあと、もう十分にもう一冊つくれるくらいの原稿はそろっていると聞いて、私が「すぐにまとめたら」というと、「もう少しあとで」と答えていたから。用意周到な彼の頭の中には、回復後の段取りとプランができていたのではないのだろうか。この用意周到さは、私にはまったくないものだ。

この連載の取材のために、彼は街のあちらこちらをうろうろと動きまわり続けたけれど、いつも単独行動。一方の私も一人でまち歩きを続けていた。もしや、この群れを回避する習性も血統なんだろうか。やがて私は市民グループを立ち上げて歴史的建造物の保存活動に取り組むようになったのだけれど、基本的に徒党を組むのは苦手だからなかなか思うようにいかないところもあって、彼を引っ張り込んでずいぶん助けてもらった。お酒の席にいてくれるだけで場が和んで肩の荷が軽くなるような気がした。道化役を買って出てみんなを煙に巻いたりするから楽しいのだ。

自覚症状があって病院の検査を受け闘病に入ったころ、私もまた仲良く検査でひっかかって再検査が続いた。胃カメラだ、CTだというメールのやりとりをしたり、ほぼひと月違いで入院して全身麻酔の手術を受けたり‥。まったくもって戦友のように病状を報告しあう日々だった。振り返れば、何という因縁なんだろう。

彼が亡くなったことを友人知人に知らせると、多くの人が同じことばを返してきた。ある人は、飄々とした温かな人柄が好きでした、と。ある人は、飄々と暮らされている感じ、独特の個性が素敵でした、と。彼を評する「飄々と」ということばに深く納得しながら、ときどき私自身がそういわれることがあるので、まさか一人ふらふらとまちを歩いているのが飄々じゃないよねと考え、つい、これも血筋なんだろうかと親族の顔を思い浮かべた。

飄々というのは、物事への距離感から生まれるのではないかと思う。彼には確かに、物事を離れたところから眺め見るようなところがあったし、ひねった見方もした。だから、ときに鋭く批評的で、そこが話していて共感できて盛り上がるところでもあった。「あたしたちは、俺たちは、仙台のすれっからしだからさ」といい合いながら、古い建物をつぎつぎと壊しつるつるピカピカに変わり果てていく仙台の街を嘆きつつ、ずっとお茶を飲み続けたかったのに。

闘病はかなりきついものになっていたけれど、毎月8日と28日の私が主催している市には、よほど天気が悪くない限り足を運んでくれた。短い時間でも顔を見ながら話をするとほっとして、その表情に、私は、まだ元気まだ大丈夫と、声援を送るような気持ちで気力と体力を見極めようとしていた。でも、4月28日は元気がなかった。食事できる量が減ってきたせいで、何とも気力が湧かないようだった。

不安になった私は、翌日、出張先でささやかなお土産を買い夜に彼のマンションに届けに行った。1階まで奥さんと二人で出てきてくれたので外で二言三言ことばをかわし、別れ際「がんばろうよ、あきらめないでよ」と声をかけた。東の空には大きなまあるい月が上っていて、見上げる二人の後ろ姿を眺めながら、ああ来てよかったと思った。お土産なんかより、夫婦二人で煌煌とした満月に見入るひとときをつくれたのがうれしかった。そして、これが彼に会った最後になった。

ひと月が過ぎ、昨日、5月の満月が上った。たぶん、これからずっと、満月の日には彼のことを思い出すことになるだろう。

彼の名は日下信(くさかまこと)。彼が丹念な取材をもとに書いた『40年前の仙台』『追憶の仙台』(無明舎出版)は、仙台に住んでいる、住んだことがあるという人におすすめです。

製本かい摘みましては(137)

四釜裕子

ここ数カ月ブログの投稿がうまくいかない。こちらのOSの問題なのだけれども、バックアップの気持ちでブログ製本サービス「MyBooks.jp」ボタンを久し振りに押す。goo.ne.jpからエキサイトのexblogに変えたのが2005年6月10日、これまでに1度だけ、2007年3月20日の投稿までをA6判モノクロで冊子にしたことがあった。改めて見ると、324ページで背幅17ミリ、表紙を強く開くと背から3ミリくらいのところにひとつ大きなホチキスが留めてある。当時はまだ接着剤だけでの背貼りは十分でなかったのだろう。

今回はその続き、2007年3月25日からとする。どれくらいまでを1冊にできるのか。試しのpdf出力は何度でもOK、それを見ながら、1冊あたり50ページ〜480ページとのことなので、B6判でちょうど2年分とする。毎投稿に写真があるわけではないけれど、今回はカラーにしてみたい。印刷代は、サイズによるがページ単位でモノクロなら5〜7円、カラーにするとおよそ3倍。お〜。奮発してカラーにしてみる。並製本、カバーなし。印刷代11,578円に送料が540円。

一週間ほどで届く。戯言でもめくれば懐かしい。何かを思い出すためにキーワードをいくつかとブログタイトルで検索してヒットさせることはあるけれど、ブログを通して読み直したことはない。カラーにして良かった。次に作るなら、写真を入れ替えてレイアウトも整理してまたカラーにしよう。「めくる」ってすばらしい。瞬時に目に入り、圧倒的に目が疲れない。いったん放り出したものを胸に取り戻したような感じすらおぼえる。

表紙のデザインはさまざま選べるが前回と同じにした。無味無臭がいちばん。綴じのホチキスはもう使われていない。背ボンドは前回より厚い。奥付はよりくわしくなっている。印刷・製本:欧文印刷株式会社だけだったのが、発行:MyBooks.jp、運営:欧文印刷株式会社、組版・印刷・製本:欧文印刷株式会社。乱丁・落丁本の連絡先もある。欧文印刷さんのブログを見てみる。話題はさまざまあって、ブログ製本についてのコメントは昨今少ない。2017年8月、未来予想のひとつとして〈ブログはいよいよ終わりを迎える〉。2010年頃がブログ製本の盛り上がりの最後か。FaceBookやTwitterからも製本できるようになっているそうだ。

読むうちに、ブログ製本の開発に携わっていた方の記事にいきついた。社内で自動組版するシステムを構築する部署にいた田名辺健人さんは、2004年頃からインターネットを用いた名刺の受発注システムを担当、2006年にMyBook.jpを立ち上げる。2009年にはある大手の提携先が行なった製本キャンペーンが大当たりして、当たり過ぎて、たいへんな苦労をされたようだ。その後、ご両親の介護もあり札幌でリモート勤務、現在は、十勝発信の、クラウド型牛群管理システムを開発提供する会社におられる。「牧場を手のひらに。」。なるほどなぁと思い、じっと手を見る。太陽にかざしてみる。

別腸日記(16)遼菜府の思い出 後編

新井卓

中国東北料理専門店「遼菜府」は川崎は高津駅近く、府中街道沿いにあった。「あった」というのはつまり、もうない、ということである。
十年ほどまえ妙に小綺麗に作り替えられた高津駅を階下に降り、岡本太郎が描いた「高津」の装飾文字(ちなみに敏子さんが代筆したものにちがいない、とわたしは踏んでいる)を横目に改札をくぐり、通りを左へ。

この高津、という町には通いたくなるような店がとても少ない。昔、労働者たちを目当てに営業していた個人商店がどんどん潰れて、そこに大手のチェーンやコンビニが入り込む。そうやって町は、コピー・アンド・ペーストで出来た奥行きのない風景に浸食されていくのだが、この国では、どこでも同じ病気にかかっているのだろう。だから「遼菜府」は、そのなかにあって、ちょっとした避難所の様子を呈していた。

店を切り盛りする女将は、大連(ダーリェン)からやってきたという。40前半くらいだったろうか、大柄で天然パーマの髪をうしろで適当に束ねており、浅黒い顔はいつもにこやかで、ゆったりした雰囲気からか、常連のサラリーマンたちの中には「お母さん」と呼ぶ人も少なくなかった。
最初は生地を包丁で削って湯がく「刀削麺」を売りにしていたのが、猪八戒そっくりのシェフが仕事を怠けるとかで(とはいえ腕はかなりよかった)、あるとき彼をクビにして、新たに二十歳の料理人を大連で見つけて連れて帰ってきた。見るからに初々しい、真面目そうな青年は額に汗して鍋をふるったが、味は前任者の足許にも及ばなかった。みるみる客足が遠のき、常連といっても冷たいもので、女将が通りがかった馴染みの客に声をかけても、顔も向けず素通りしていくのには、心が痛んだ。それならとことんつきあってやろう、とよく分からない義侠心を燃やして、わたしはそれまでにも増して店に通い詰めた。その頃から北京のギャラリーと仕事をするようになり、「遼菜府」の料理が、日本風に調整されていない生粋の東北料理だったことを改めて知った。

東北料理は、韓国、ロシアに国境を接する中国東北地域で供される料理で、ラムや羊肉を好み、パクチーと多量のにんにく、唐辛子を使った激辛のレシピが多い。格別に寒い冬、羊の油は身体をあたためるために必須なのだ、と、北京で学生時代を過ごした画家、ヤン・シャオミンさんから聞いたことがある。
料理を運んでくる度に、女将が「これ味どう?」と聞くので、初めは塩っぱすぎる、とか肉に対して火が強すぎる、とか知ったような風で意見していたのが、そのうちに青年はめきめきと腕を上げ、半年もするとほとんど前のシェフに遜色のない料理人に成長していた。ちなみに、ここのギョウザは皮が手作りで、ココナツ・ファインと自家製ラー油、香酢、揚げネギで作ったほんのり甘いタレとよく合うので、つい老酒が進んでしまう。

2011年3月11日、震災が来た。
女将は「節電」のため店内を減灯し、注文がないときは厨房の電気も落としたので、その暗がりで、くにに置いてきた家族とスマートフォンごしに団らんする青年の顔だけが照らされていたのを覚えている。震災の自粛ムードから少し回復して常連がふたたび戻ってきた翌年、北京で「反日デモ」があって、それがテレビで連日、大きく宣伝された。わたしはその頃、ちょうど北京にいたのだが、わたし自身はおろか、地元の人に聞いても知らないほど小規模のデモで、どこの街区もいたって平静だった。本当かどうかは知らないが、デモの参加者はどこかからお金もらってるらしいよ、と誰かがわたしに耳打ちした。
帰国して「遼菜府」を訪れると、そのありさまに驚かされた。いまだ律儀に「節電」をつづける薄暗い店内には一人の客もおらず、頭上のテレビでは民放のワイドショーがやはり「反日デモ」を喧伝している。テレビは消音になっていて、それを、客席に腰掛けた女将が放心して眺めていた。
客たちの横柄な注文にもにこやかに応え、道ですれ違えばわざわざ自転車を降りて挨拶をしてくれる彼女に対して、人々はなんと冷たい仕打ちができるのだろうか、プロパガンダまがいのテレビを鵜呑みにして──腸が煮えくりかえって居ても立ってもいられなかったが、わたし一人頑固に通いつづけたところで、店というものはどうにもならないのだった。その後「遼菜府」に前のような客足が戻ることはなかった。

これまでいくつかの危機を乗り越えてきた女将は、このとき、心を決めたのかもしれない。
翌年末、ドイツや関西への仕事で忙しく、しばらくぶりに店を訪ねると思いの外店内が賑わっていた。よく見れば客たちがみな黄色に赤字で「遼菜府」と染め抜いたTシャツを身につけている。隣の客に何ごとか、と訊けば、店にある材料がなくなりしだい金輪際閉店するので、みんなで食べて飲んでいるのだ、という。不意のことに、頭を殴られたような気がした──なんてこった、自分はそんなにこの店が好きだったのか……。
女将が、わたしたちの卓にもTシャツを持ってきた。タートルネックのセーターの上にTシャツを重ね着しながら、大連、帰るんですか? と訊くと、そうだ、という。どこかさっぱりしたような顔で、何か肩の荷が下りたかのような表情だった。──大連のどこなのよ? おれ、今度お母さんに会いに行くからさ。客の一人が大声で言ったが、女将は笑顔を返すばかりだった。
折しも大陸から、大寒波が接近しつつあった。
かつて旅大と呼ばれ、渤海に突き出した半島の街から、どのような巡りあわせで彼女はやってきたのだろう。遠くから──ダーリェン/ダルニーは〈遠いところ〉の意ではなかったのか──彼女へと連綿とつづく人の歴史の端緒を、わたしたちは不寛容にも追いたて、そして永遠に失ったのである。

遭遇の力

西荻なな

遭遇してしまった、ということを考える。遭遇といってまず思い浮かべるのは、その衝撃の大きさだろうか。何か方向性をもって不意に飛び込んでくるもの。向こう側から不意に飛び込んできて、その衝撃の大きさに驚くけれども、後からじわじわと、ああ出会ってしまった、掴まれて離れがたい何かに出会ったのだ、と実感されるような動的なもの。今だけでその出会いが終わるのではなくて、何か明るいそれとの関わりがじんわりと前方に照らしだされるような出来事。未来方向へ、しばらくのあいだ進行形としてあり続ける持続的な出来事というかんじだろうか。あるいは、その出会いの衝動がしばらくのあいだ心の中に鎮座して、言葉で語り出したいというようなエネルギー源みたいなもの。言い換えると熱を帯びた何か、といってもいいのかもしれない。遭遇してしまったら、もはや遭遇する前の地点には戻ることができないような熱源。

でもどうやら、遭遇の方向性には何かをさらって不意にちゃらにするような、わだかまりを一瞬にして解くような、マイナスの魔法みたいなこともあるんじゃないか、というのが最近の気づきだ。過剰なプラスが持ち込まれて、何かが宿り、やがて時とともに逓減してゆくというのではなくて、どっかりとすでに心の中に居座っていたものを、ふっと瞬時にさらっていくような、そのあとには新しい爽やかな風が吹き始めるような出来事との遭遇。そうした遭遇がまったく新しいものとして立ち現れたことに驚いたのは、実は同じ出来事にも数年前に出会っていたはずだったからだった。その時にはそれが、人からの優しさによってもたらされた何の他意もないフラットなニュースだったに違いなかったのだが、まるで直角方向から差し込むような印象が感じられて、その瞬間に完全に突っぱねてしまっていたのだ。でも、その日にもたらされたまったく同じはずの話は、静かに、あまりにドラマチックにやってきた。

自分自身が数年間ぐるぐると同じ軌道の上を回り続け、いったいこれはいつまでこうなのだ? と思い続けてきた問題系が、まったく不意にゼロになった、と感じられた。しかも驚いたのは、その出来事が、この頑固な問題系をめぐる軌道のいちばん遠いところにかろうじてのっかっている、くらいの距離感のもので、ごくごく淡い関係性にすぎないにもかかわらず、まさにこれしかない、という角度でやってきたのだ。この問題に、この道具。そんな組み合わせは数年前には思いつかなかったのに、そしてまさにこの一瞬で関わりは終わるのに、大きな塊をさっとかすめとって何事もなかったかのようにしてしまう偶然の遭遇は、まったくの新しい体験だったのだ。

何か熱を帯びる遭遇が力を弱めたり、また強くなりながら、長いこと続いていくものとしてあるならば、ほんの一瞬にして振り出しに戻し、新しい局面をもたらすような、刷新するような遭遇もまたあるのだと思った。まだまだ見知らぬ感覚というものは残されているのかもしれない。

冬の旅★36

北村周一

いずこにも目のあるふうけい彼岸かな
 まぶたとじれば菜ノ花畑
春の日の余白のごとく砂場ありて
 すなよりしろきてのひらとあそぶ
<冬の旅>へいざなうばかり月の下 
 くれゆく秋の谷深きまで
時宜を得てホウシツクツク鳴きはじむ 
 残暑見舞いに打ち直さなとも
端末手によむ・きく・さらう喜びよ
 ebookなかなかやるじゃねえか
果物屋のせがれ手ぶらで来ることなし
 あるくと遠い新婚の家
野薔薇摘み絵を画く室に活けたりき
 みんなみに伊豆の海はもえいて
いくらかの効はあるらしうなぎパイ
 あさの食事の後の話題に
思慮深いおとなはいずこ「サクラチル」 
 未来がぐにゃりとぬかるみを来ぬ
日がのびて酒を飲むにはまだ早い
 棒のメンソレ口許に塗る
窓に向かいオネェことばを真似てみる 
 すこし気分がラクになるわよ
てぶくろや片方ずつをふたり連れ 
 ひとつの傘に雪降るみちを
絵巻物のさいしょの頁は白紙です
 プロトコロンという遊び紙
吹くかぜに旗ははためく夜もすがら 
 つつみかくさず明かしたきこころ
月よりの使者を真中におどりの輪
 盆の支度に戸惑う従妹
襲われてウズラとび立つ塀の内
 のこるひとつはすでに首なし
みずからのちからでひとはねむりたい 
 くだとくだとがさやぐあけぼの
雨晴れていきおう枝の桜花
 老木一樹身震いをせり

 
*連句に挑戦してみました。といっても連句擬き。ルールが難しくて、手に負えません。
ブログに発表していた、4月9日(月)~5月14日(月)までの三十六首からの選抜で構成しました。大幅な修正加筆かつ移動がありますが。一応三十六歌仙のつもり。😅 
タイトルは、ふゆのたびキララ36と読みます。

こんじじじのき……

高橋悠治

6月5日「風ぐるま」コンサートのために ネットで見つけた辻征夫の詩で「まつおかさんの家」を作曲する 「ランドセルしょった」という詩の最初の行から跳ねるような子どもの足取り 背中でカタカタ音を立てるランドセルのリズムとペンタトニックの曲がる線が浮かび 絵巻をほどくように 音楽がすこしずつ現れる 詩の1行を楽譜の1段として その枠のなかに楽器ごとにずらされたリズムが現れ お互いに他のリズムに寄り添ってすすむ 二人三脚のように思うままにならず 予測できない不安定なうごきになる 最初のパターンが次に出てくるときには 音の高さや音程や音の数がすこしちがって 中心になる音がずれていく リズムも音程も支えがなく 浮かんでいる状態にしたいと思っているし 演奏者や演奏状況でいつもちがう風景が見えるように あいまいな書きかたをする

元永定正の絵本『ちんろろきしし』から20枚の絵とそれに対する無意味なことばを選んで 2014年神戸で波多野睦美の声とピアノでパフォーマンスをした こんどはおなじ絵本から8枚の絵を栃尾克樹が選んだ絵とことばで バリトンサックスと声とピアノの『こんじじじのきたくれぽ』を作る やはりルイ・クープラン風の全音符(白丸)だけの楽譜だが 和声も調性も拍もない パネルに貼った絵を見せているだけで音のない時間のほうが多い音楽にしたいと思っている

ジャン・アルプが毎朝おなじデッサンを描く練習をしていた と読んだ記憶がある 手がおなじパターンをたどるとき 「おなじ」とするのが論理 あるいは抽象 おなじかたちの積みかさねが「構成」 20世紀なかばまでは 最初の思いつきをくりかえし確認するのが「創造」と言われていたのだろうか 

毎回すこしちがう感じを追っていけば パターンは崩れ変っていく できれば 始まりも終わりもなく もう始まっている映画を途中から見ているうちに 映写が途中で切れてしまうとか 霧を透かし見る風景が見え隠れしているように 一瞬ひらめいた全体をさがしながら迷い歩いている時間がそのまま音楽であれば それは作曲も演奏も即興もすべて含んだ音楽というゲームになるだろう

2018年5月1日(火)

水牛だより

うるわしき五月の訪れですが、季節はすでにずっと先をいっているようで、きょうの東京は初夏のような気候です。それでも五月というのは気持ちも快適に軽く、どこか遠くまで行ってみたくなります。でも出かけるとしてもゴールデン・ウィークが終わってからにします。

「水牛のように」を2018年5月1日号に更新しました。
ゴールデン・ウィークのまっただなかですが、水牛の更新日を忘れずに原稿を送ってくださった書き手のみなさん、ありがとう。あら、今月はないの? と思われる人がちらほらいますが、少し遅れて原稿が届くこともあります。その場合は追加しますので、連休が終わるあたりにもう一度覗いてみてください。

昨夜は満月でした。そのことを思い出して夜空を見上げると、月は薄い雲のかなたでおぼろにふくらんでいました。久しぶりに見たホロスコープによれば、きょうもまだ満月のムードのなかにあるそうで、私の星座は「ちょっと難しい花を活ける、みたいな日」とあります。きょうの使命はこの水牛の更新だけなので、そのことなのかと思ってみました。

バリトン・サックス(栃尾克樹)とピアノ(高橋悠治)の『冬の旅』を聞きました。ことばのない冬の旅、バリトン・サックスの歌はブルースでしたよ! シューベルトのときにはサックスもブルースもまだなかったはずなのに。

それではまた!(八巻美恵)

別腸日記(15)遼菜府の思い出 前編

新井卓

振りかえれば、通算三十五年以上も同じ街に暮らしている。こんなはずではなかったのだけれど──三十になるまでは、一刻も早くこんな街を出てゆきたい、遠くへ、日本人などが一人もいない、どこかよその国の片隅で暮らしたい、とジリジリと思いつめていた。

記憶の中の川崎、こと溝ノ口は暗くヤニ臭く、町工場から垂れ流される汚水と光化学スモッグに霞む忌まわしい町だった。少なくとも小学生のわたしにとっては。戦時中、沿岸の軍需工場に工員たちを運んだり、秩父から石灰石を輸送した南部線は別名ギャンブル電車と呼ばれており、朝下りの電車にゆられていくと、赤鉛筆を耳に挟んで競馬新聞と首っ引きの労働者たちが、高校生の群れに混じってちらほら見えたものだ。

それが、1990年を境に駅前に歩行者デッキが出現し、変な名前の駅ビルが立ちマルイが開店し、ピンク映画の劇場跡地は高級マンションへと置き換わっていった。

西口商店街はドブ板を占拠して作られた闇市の名残で、立ち並ぶ飲み屋には昼日中から失業者がたむろしていたが、十数年間まえ未明の不審火で半分が燃えてしまった。夜が明けてからシノゴのカメラ(ネガのサイズが4×5インチあるカメラ)を担いで駆けつけると、まだ湯気の上がる黒焦げのバラックの前で、クリーニング屋のおかみさんがうずくまって泣いていた。クリーニング屋は幸いまた商いを始めたが、ほかの多くの店は、見た目だけ昭和風を模したチェーンのもつ焼き屋などに変わった。

いつの間にか「長崎屋」の後釜に座った「ドンキホーテ」で安売りのスコッチを買って表通りに出る。するといつも、不思議な感覚に襲われる。宙に浮いているような、狐につままれたような頼りない感じ、といえばいいだろうか。あるいは安部公房の『燃えつきた地図』の感じ。あんなに嫌いだった街はもう、ない。だから旅立つ必要もなくなってしまった。

「遼菜府」のことは、大学時代アルバイトで通った喫茶店「みずさわ珈琲店」のマスターから聞かされていた。きれいな店ではないけど麺類はまあまあうまい、とかで、それほど興味も抱かなかったのが、都内の広告写真の会社に勤めはじめたころ、初めて店の前で足をとめた夜のことを、よく覚えている。

果てしない葬送のようにひしめく黒い服の勤め人たち。うっすらとした敵意を孕んだ沈黙に身を固くしながら、自分自身もその全体的な感情の一部になっているのではないか、いや、そんなはずはない、そう思いたい、と、悶々と地下鉄に揺られていく日々。終電やタクシーで帰る日がつづき、いい加減神経が軋みはじめたある夜──もう深夜〇時かそれくらいだったと思う──煌々と蛍光灯を照らした「遼菜府」は、スーツ姿のサラリーマンたちで満席で、席は空いていないようだった。中を覗くわたしに気づいた女将が、大丈夫まだ座れるよ! ちょっと待って、ビール、サービス、150円。と言い、店の脇の暗がりからプラスチックの椅子と簡易テーブルを出して、目の前の歩道に据えた。街灯に照らされ夜道に浮かぶわたしの食卓は、なかなかインパクトのある光景だったが、ひどく空腹だったので、勇気を出して腰掛けた。

ほどなく女将さんが運んできたビア・ジョッキは、分厚い霜に覆われた氷塊と化していた。それはたぶん発泡酒だったのだが、ジョッキから遊離した氷片が金色の液体もろともに口中に流れ込み、思わずため息が出るくらい、うまかった。干絲(ガンスー、大豆たんぱくを板状に固めたもので麺のように刻んで使う)とラム肉とピーマンの炒め、水餃子、それに冷菜のじゃがいもの千切りなど──八月のねっとりと淀んだ夜空の下、アスファルトから立ちのぼってくる湿った夜気が、ひんやりして心地よかった。一人路上でほろ酔い加減を味わいながら、あたりを見回すわたしの心を見透かしてか、女将さんが言う。大丈夫、もう遅いだからだれも怒らないよ。ケーサツも寝てるよ。

そう、いったい何を気にすることがあるのか? 路上で。溝ノ口で、東アジアの片隅で。

(つづく)

四月の日焼け

仲宗根浩

新年度、四月に入ると毎年の行事「清明祭」シーミーの季節になる。墓の前で親族集まり重箱料理やご馳走、お菓子をお供えするのだが今年の日曜日はほとんど雨だったが最後の日曜日はまあ見事に晴れて、車に十数年くらい眠っていたビーチパラソルを出して陰をつくったが布製のパラソルは紫外線を見事に通してくれて頭部、腕は見事に焼ける。焼けた箇所の火照りは翌日もおさまらず横になっても落ち着くことはなく。

この日焼けの数日前の夜は激しい胸焼けに襲われ眠れず、これも毎年経過観察と健康診断で言われる逆流性食道炎のきついやつが何年かぶりで来る。二月に奥さんの持病悪化で病院生活、父子家庭だったため次はこっちにまわってきたかと覚悟していたが二、三日朝一食の食事で済ませ通常稼動の状態になんとか戻す。

二月のごたごたが終わり、三月に入ると奥さんは職場復帰し、税金の計算すると職業婦人は扶養から外れ税金を多く支払うことになり、はぁ〜、と思ったら四月は自動車税の催促。自動車税払い、車検の時に重量税払い、古い車に乗っていると自動車税は高くなり、大事に大切に長く乗っていることを良しとしない車関係の税制。

四月に前倒しで横田基地にオスプレイ配備のニュース、テレビでは反対する人々。横田のオスプレイのCVは特殊部隊用でその部隊は嘉手納にあり実際の訓練はどこでやるのとなると関東、長野、新潟方面までとあるが輸送機で沖縄にあるオスプレイと違い、特殊部隊の訓練はほとんど沖縄でやるんでしょ、というのがなんとなく見えてくるような。こっちに住んでいると米軍装備についていつの間にかほんの少しだけ詳しくなってしまう不思議さの中、夜の涼しさを感じる気持ちが良い季節、ずっとこの季節であればいいのに。

161立詩(10)文法擬

藤井貞和

この世へのちいさな「恋」よ、
……、
文末に終助辞を置かないで。
届けられようにして、
最初に置く係(かか)り結びは、文中で、
あなたの詩を輝線にする。 ……、
文の革命でしたね。 物語歌(うた)は、
ない話法や、
なかった承接(しょうせつ)を、
約束する、無文字(むもじ)の視界に。
終りがよければ
 

(「立詩」は立志、律詩。腰斬という刑死がありました。詩人の死です。終止符を打たないで下さい、なぜと問うて。)

ジャワ舞踊作品のバージョン(6)スコルノ

冨岡三智

2015年8月以来、久々にジャワ舞踊作品を紹介しよう。紹介するのは「スコルノ」で、ロカナンタ社から伴奏曲のカセットが出ている(品番ACD-143)。女性舞踊曲で、特に物語はなく、大人になりかけた女性が美しく身を装う風情を描いている。

「スコルノ」は1960年頃にクスモケソウォにより振り付けられた。彼はスラカルタ宮廷舞踊家にして基礎練習法・ラントヨを考案した人である。私が師事したジョコ女史はクスモケソウォの後を継いでコンセルバトリ(国立芸術高校)でジャワ舞踊を指導した人で、この曲を初演したうちの1人であり、また1979年にロカナンタ社で録音された時にも関わっている。今回の内容は、ジョコ女史から聞いていたことである。「スコルノ」はラントヨの後に最初に学ぶ舞踊曲として振り付けられた。実はジャワ伝統舞踊のレパートリーが増え始めるのは1970年代からで、これは宮廷舞踊の解禁(1969年〜)と関係がある。まだ宮廷舞踊が知られていない頃に、ラントヨと併せて宮廷舞踊の基礎的な動きを練習するために作られた曲なのである。他にゴレッという舞踊の要素も採り入れている(後述)ものの、スラカルタ宮廷舞踊のようにバティックの裾を長く引き摺るように着付をする。

次に音楽について。カセット版では伴奏曲は「パンクル」(スレンドロ音階マニュロ調)なのだが、実は元々は「スカル・ガドゥン」(スレンドロ音階マニュロ調)を使っていた。変更はカセット化よりもずっと以前、振付後間もなくのことだという。「パンクル」はガムランをやっている人なら誰もが知っている曲だから、初心者にもなじみがあって踊りやすいという理由で、クスモケソウォ本人が変更したという。さらに、市販カセット版は実は短縮版である。それでも16分21秒もあるが、オリジナル版は22分もある。「スコルノ」の録音監修者はマリディ氏だが、短縮はジョコ女史が手掛けている。なぜ短縮したのかと私が尋ねたところ、カセット会社が要請したとのことだった。ジャワ舞踊曲はだいたい15分以内の長さだが、それはカセット会社がテープの片面(30分)に2曲が収録できるよう、短縮を要請するかららしい。

カセット版の進行に沿って振付の流れを説明する。前奏があって本体の曲に入る…が、踊り手はまだ舞台の端にいて、曲が1周してから舞台に出る。現在ではそんな悠長なことをせず、前奏の最後の音から舞台に出ることが常態化しているが、いきなり踊り出すのは宮廷の美学に反するのである。その後はスリシックという小走りで出ていき、舞台を1周すると、舞台奥から前方に向かって真っすぐ歩いてくる。これは戦いの舞踊(ウィレン)の展開と同じだ。そして床に座ってスンバハン・ララス(一連の合掌に至る振付)をする。そのスンバハン・ララスの前につけられたスメディという型が、カセット版では削られた。これはクスモケソウォ独自の祈りの型で、同じカセットに収録されている別のクスモケソウォ作品「ルトノ・パムディヨ」のオリジナル版にもあるのだが、こちらもカセット版で削られている。クスモケソウォの作品を考える上では重要な振付なのだが、そもそも宮廷舞踊にない振付なので仕方ないかという気もする。床に座るところからテンポは倍の遅さになり、歌が入ってゆったりした流れになる。その後は立ってララスという動きを右、左(右の動きを左右反転したもの)、右と3回やる。ここの動きはラントヨと同じだが、カセット版では1回に減らされている。スンバハン・ララスを経てララスを左右に繰り返すという流れは、宮廷舞踊の定型だ。

ララスの後、太鼓がチブロンに代わり、さらに遅くなってイロモIIIというテンポになる。チブロンは音が高く、いろんな音やリズムパターンが表現できる太鼓である。チブロン太鼓でイロモIIIのテンポで踊る女性舞踊とくれば、スラカルタにはガンビョンがある。しかし、この舞踊は民間起源で性的なニュアンスがあるため、1960年代半ばまでは一般子女は踊らない類の舞踊だった。特にクスモケソウォはガンビョンを認めなかった人だ。大人の女性が踊ることのできる健全で上品な舞踊…ということでゴレッの要素を取り入れたのだと思う。どの辺がゴレッ風なのか。まず、ゴレッの代表的なスカラン(リズムパターン)を使う。ガンビョンのスカランにこそ性的な意味合いが込められているから、これは当然だ。そして、スカラン同士をつなげるつなぎのパターンもガンビョンとは変える。具体的には、マガッと呼ばれるつなぎを使わない。これは私自身が太鼓の先生から指摘されて初めて気づいたことなのだが、マガッにはガンビョンぽさがあると、クスモケソウォは考えていたようである。さらに、イロモIIIからIIへという、ガンビョンにはないテンポの変化がある(ガンビョンではIIIからIに変化する)。なお、イロモIIIの演奏部分は、オリジナルでは4ゴンガン(4周)あるが、カセットでは1周削られて3ゴンガンになっている。こんな風に構成された「スコルノ」はジョグジャカルタのゴレッとはまた別物になっている。

「スコルノ」は元々ラントヨの後で挑戦できるように作られた曲だから、使われるスカランもとても易しく、振りのつなぎも非常にシンプルだ。むしろ、せっかちにはゆっくり過ぎて間がもたないような舞踊である。クスモケソウォの舞踊は、次世代のガリマンやマリディに比べても素朴で、作品としての複雑な魅力や華やかさには欠ける。しかし、ラントヨや「スコルノ」の振付は、ジャワ舞踊の基礎を抽出し教えると言う点で優れた指導者だったと感じさせてくれる。

水曜日の創作クラス(2)

植松眞人

 この町の公民館は、とても古い建物で五階建てなのにエレベータがない。階段も一段一段が高く、注意していないと足を踏み外してしまいそうだ。
 一階と二階は吹き抜けになっていて、広めのスペースがある。そこが集会などに使われていて「ホール」と呼ばれている。そんなに立派なものではないのだが、小さな講演会や踊りの発表会などをやろうと思えばやれる程度の広さだ。
 ホールが吹き抜けになっているので、実質二階がなく、小部屋を使うためにはいきなり三階分の高さを上がらなければならない。年配者の利用が多いので、簡易のモノでも良いからエレベータやエスカレータを後付けできないか、という話は毎年のように持ち上がる。ただ、建物が古すぎて頑強なので融通が利かずなかなか簡単ではないのだった。
 それに加えて、集まってくる年配者自身が「健康のためにはこのくらい」と愚痴も言わずに利用しているのでいつの間にか立ち消えてしまうのである。それでも、休憩のために踊り場ごとに椅子が置いてあったり、お茶のポットが置いてあったりするのはほほえましい。
 私が高橋に誘われて、初めて水曜日のクラスに参加した日は雨が降っていた。二階と三階の間にある踊り場で、腰を下ろして休憩していたお婆さんに会釈をして四階まで上る。それほど長くはない廊下は薄暗く、その突き当たりに灯りが漏れていて、使用されている部屋がそこにあることがわかった。
 これは後々知ることになったのだが、この公民館を夜の六時以降に利用する人はほとんどいないのだった。入り口にある管理室に人は詰めてはいるが、夕食の時間にはどの利用者も出て行くばかりで、新たにやってくる者はほとんどいない。水曜日のクラスが終わり八時過ぎに管理室の前を通ると、担当者が椅子に座ったままウトウトと舟を漕いでいることもあった。
 初めての水曜日のクラス。引き戸を開けると、中は煌々とした今時のLEDの光で満たされていた。集まっていたのは全部で五人。小さなテーブルを一つ真ん中に置いて、その周囲に椅子を円形に並べて五人は座っていた。テーブルの上に置かれていたのは、夏みかんほどの大きなオレンジだった。
 私は入室したとき、五人はじっとオレンジを見つめていた。しかし、私が入室すると同時に、全員が私の方に笑顔と会釈をよこしたのだった。そして、私が会釈を返すと、再び五人は視線をオレンジに戻した。それが瞬時のことだったので、私はしばらく入り口のところにたちずさんでいたのだった。
「さあ、もうそろそろいいでしょう」
 高橋の声にみんなが柔和な顔に戻り、それぞれに目の前のオレンジについて話し出した。私がオレンジだと思っていたのは、どうやら紙粘土で作った大きな温州みかんらしい。作者であるおそらく七十代らしき男性が自分でそう話した。
「私は柑橘類が好きで。久しぶりに紙粘土で何か作ろうと思ったときに、目の前にあった温州みかんを作ってみたんですよ」
 男性は言う。
「すばらしい」と高橋が答える。
「なぜ、大きくこしらえたんですか」と別の参加者が聞く。
「そのままのサイズはつまらないとおもいましてね。しかもほら、私が柑橘類が好きなもんだから、いかにもつくりものって感じでつくらないと、食べたくなっちゃうと困るでしょう」
 男性はそう答えると大きく笑った。男性が笑うとそれをきっかけに五人全員が笑い、笑いが引けると同時に一瞬の静寂が訪れた。その絶妙のタイミングで高橋が私を呼ぶ。
「この方が、今日から参加してくださることになった三宅さんです」
 高橋の紹介に私が自己紹介すると、参加者が口々に「よろしく」と声をかけてくれた。
「あなたはどう思いますか?」
 高橋の隣に座っていた品の良い五十代くらいに見える小柄で柔和な表情をした女性が私に聞く。
「どう、というと」
「このおみかんですよ」
「ああ、このみかんですね」
 私が質問の意味に気づくとみんなが微笑みながら、私の答えを待っていた。
「とてもいいと思います。こういう創作にはあまり詳しくないのですが、なんだかみずみずしくて食べたくなるような出来映えだと思いました」
 私は少し緊張しながら言う。昔から自分の意見を言うのは苦手だったし、ましてやこういう芸術というのだろうかアート系というのだろうか。そういうものに対して何を言えばいいのかわからないのだ。
「良いご意見ですね」
 私に聞いた女性が答えた。
「良い、意見ですか?」
 私が聞き返すと女性がとても嬉しそうに言う。
「良い意見ですよ。素直でわかりやすくて。さすが高橋さんのお知り合いだわ」
「本当に。あなたなら、きっとこのクラスが気に入ると思いますよ」
「いや、本当にそうですね」
 と、みんなが口々に言い出して、まだ状況がよくつかめていない私はとても居心地が悪くなってしまう。そんな私に、今度は高橋が助け船を出す。
「さあ、みなさん、そのくらいで。三宅さんは今日が初めてなんですから、あんまりいっぺんの話すと逃げ出してしまいますよ」
 高橋のそのひと言で、みんなはまた優しく笑う。ふと思い出したように高橋は自分の隣に椅子をもう一つ持ってきて、そこに座るように私に促した。私は改めてその場にいた五人に軽く会釈をして椅子に座る。
「では、もう一度、立花さんの作品『みかん』を見てみましょうか」
 高橋の提案にみんなが一斉にうなずく。私は五人の真似をして、目の前のテーブルに置かれた大きな温州みかんを眺めるのだった。
 私は大きなみかんを目の前に、それをじっと見つめる五人の男女の真剣な眼差しに滑稽なものを感じてしまう。
 素人が紙粘土で作った大きなみかんは、そこそこ巧くは出来ていても、やはりじっと見ればあちこちに粗雑なところがあり、それをじっと「鑑賞」するほどのものなのかと思えてしまったからだ。
 その気配を察したのだろうか。さっき、私の感想を褒めてくれたご婦人がそっと私のほうに口元を近づける。先ほどまでの柔和な表情はなりを潜めて、強い視線で私を見つめながら、「人様の作品を馬鹿にすることだけは許されません。それがこのクラスの一番大切なルールです」と低い声でささやいた。その低いけれど明確な口調に私はたじろぎ、周囲のことも忘れてそのご婦人をまじまじと見つめてしまったのだった。(続く)

灰いろの水のはじまり(その3)

北村周一

いままでの話を、少しまとめてみたいと思います。
対象をもたないキャンバスを、パレットとして扱ってみるという発想(思いつき)は、まあいいとして、そのキャンバスが、同時に、絵(または、絵のようなもの)になるような、そんな可能性はあるのかないのか。
あるとしたら、どのような条件下でそれは可能となるのか。
その条件をまずは設定することからはじめてみようということでした。
パレット代わりのキャンバスに、ほかに何の意図も用意せずに、さまざまな絵具をこねくり回す面白さは、それなりに理解できることですが、ここでは一歩進めて絵になるための方策、いいかえればジャンプできる可能性を見出すための、条件(制約)を与えるということでした。

前置きが長くなってしまいました。
その可能性を満たす条件―――ここでは、灰いろに設定してみたいと思います。
パレットの上に限らず、いくつかの色を混ぜ合わせると、灰いろになるということは、図画工作の時間でも教えられることですが、ちょっとしたはずみに、隣り合う色と色とが混ざり合い、灰いろっぽく濁ってしまったという経験は、だれにでもあるかと思います。
ふだんはやってはいけない濁りの技法ですが、ここでは積極的に応用することにします。

さて、いよいよ実技篇です。
まずは身近にいる、小さな子どもたちを相手に、パレット灰いろ作戦を試みることにしました。
年齢は、4歳児から7歳児まで、男の子ばかりの4名。
キャンバスのサイズは、張りキャンの、P3号(19×27㎝)を選びました。
少し小さめにしたのは、キャンバスに絵を描くことが子どもたちにとってはじめての経験だったこと、そして何より飽きてしまう恐れがあったからでした。
使用する絵具は、すべて水溶性のもの、アクリル塗料や、不透明水彩(いわゆるグワッシュ)などなどです。
子どもたちは、パレットという言葉も、その使い方もすでに知っていたので、キャンバスの上にじかに絵具を絞り出し、それらを筆の先で混ぜ合わせながら、灰いろにしていくという作業は、スムーズにとはいかないまでも、それほどむずかしい感じはありませんでした。
しかしながら、最初にやって置かなければならないことがありました。
数ある絵具の中から、どの絵具を選ぶかということです。
各人、思い思いに好みの色を選び、キャンバスの縁にそってチューブの絵具を絞り出していくわけですが、どのくらいの量が必要なのか、えがく対象がはっきりしていないので、しばしまごつきます。
キャンバスの白いところが、全部なくなるまで絵具を塗ろうと、子どもたちには伝えました。
四つの側面も、すべて塗りつぶすようにとも伝えてありました。
絵を描いている時間は、正味1時間弱、準備や後片付けの時間を入れても2時間ほどで、作業は終わりました。
意外と集中力は途切れずに、ほぼ最後まで塗り終えました。
でも、これで終わりではありません。
絵のタイトルを、自分たちで決めなければなりません。
題名を付けて、はじめて自分の絵になると教えたからです。
それぞれが、描いたばかりの絵を見ながら、楽しそうにタイトルを付けていました。

ところで、肝心かなめの、灰いろはどうなったのでしょう。
結論からいえば、どの絵もなかなか灰いろにはならず、ちょうどいい具合に色が混ざり合ったところで、つまりは、すてきな形や色があらわれたところで、それ以上先には進まずに、次の場面へ展開するといったふうで、画面全部を塗り終えたのでした。
とはいえもし、もっと遠くから見たら、それぞれの絵は、灰いろっぽく見えたかもしれません。
たとえば、
黄緑のような灰いろ、
灰いろっぽい真黄色、
紫のような灰いろ、
そして、灰いろっぽい真っ黒。
(つづく)

*参考資料:3歳児による油彩 F4号(24×33㎝)

今日もお休み

大野晋

4月から毎日が日曜日を決め込んだ。
年金だの、健康保険だのを考えるともう少し働かないといけないのだが、定年退職の気分がどういうものなのかを体験してみている。最初の数日はやることに困った。毎日が出かける先がないと手持ち無沙汰でしょうがなかった。しかし、一週間もすると、休みのペースにだんだんと慣れてきた。

このところ、ご無沙汰していた写真撮影に出かけるようになった。まあ、その前に機材を新調した。今は新調した機材の具合を確かめるためにいろいろと撮影をしてみて
いる。GWが終わったら撮影旅行に出てみようと思っている。この数年で諦めた趣味を復活してみよう。そして、次の仕事に出かけるときにバランスをとってみるのだ。もう1ヶ月休みを延長した。

仙台ネイティブのつぶやき(33)消える庭 動く庭

西大立目祥子

 昨秋のことだったろうか、玄関のチャイムが鳴って、戸を開けると見知らぬ男性が立っていた。不動産屋らしき会社名を名乗るなり、「お隣の家の持ち主をご存知ではありませんか」という。ついにきたか、と思った。近くに新しい地下鉄の駅ができてからというもの、周辺の地価はどんどん上がり古家がつぎつぎとマンションや新しい戸建てに建て変わっているのだ。

 お隣は空き家で、昭和30年代に建てたと思われる瓦屋根の平屋を覆い隠すように、樹木が生い茂っている。100坪を越えるくらいの広さだろうか。もう誰も手をかけない荒れた庭なのだけれど、大きく育った木々が季節季節に花をつける。3月からぽっぽっと明かりを点すように白花をつけるモクレン、春の盛りを教えてくれる深紅のボケ、つややかな葉の赤い椿、秋にはあたり一面を甘い香りで満たすキンモクセイ…。

 特にいまの季節、枯れたような庭が息を吹き返すようにして、淡い緑から濃い緑へぐんぐんと勢いを増していくときは生命力にあふれて、その息吹を分けてもらっているような気持ちになる。鳥のさえずりもひときわ高くなり、はしゃぎ回るように梢をあっちこっちと飛び回るのを見ているのは楽しい。一方で、秋が深まる季節に、夜の暗闇の中で2階の窓を開けキンモクセイの香りに浸るのは、じぶんの境界があいまいになるような不思議なひとときだ。

 林のような庭を楽しんできたのに、ついに消えるときがきたのか。

 このところ、新聞やチラシに「お庭解体」とうたう広告を見かけるようになった。大木伐採とか庭石撤去とか、そんな言葉を胸が痛む思いで読みながら、私の実家の庭を毎年秋に剪定してくれる植木屋さんの一言がぐるぐると頭をめぐる。「こういう庭、もう誰もつくんないよ。維持に金かかるしね」確かにそうなのかもしれない。生い茂っていく庭にもう手をかけられず手離すことを決め、解体業者を呼ぶのだろう。大きく育った木が倒され殺風景な駐車場になるのを、どれだけ見てきたことだろうか。

 でも、私が子どもの頃は、あたりまえにあちこちにあった庭だ。枝が伸びたなと思えば休日に植木ばさみを入れ、秋に葉が落ちればぼやきながらも何度も掃き集め、何年かにいっぺんはなじみの植木屋を入れる。ときには、気にいった樹木を買い求めて植え込み、少しずつ好みの庭を作り上げていくのは特別なことではなかった。

 長い時間をかけて庭は育っていく。そして、そこには家族の物語が宿る。

 60年前、祖父の植えたしだれ桜は、この春も淡いピンク色の花をつけた。いつだったか母が、「おじいちゃんが死んだら花を付けるようになったんだから、不思議なものだねえ」といっていたっけ。祖父はしだれ桜が好きだった。生きて見られなかった花を、毎年祖父の目になって見上げる。

 椿の種類が多いのは、祖母が椿を好んだから。淡い色の乙女椿、紅に白の混じった紅しぼり、深紅の八重…。若い頃はあまり好きではなかった椿の花が、このごろは胸に響いてくるようになって、もしかすると祖母も同じ思いだったのかもしれないなと想像しながら一枝切って花瓶にさす。そして、そう話すこともなかった祖母の生涯を考えてみたりする。生きていたら、114歳だ。

 茂り始めた雑草を引き抜くと、あちこちに芝がするすると伸びている。ここに越してきたとき、父は当時はやっていた緑の芝生を敷き詰めて熱心に手入れをしていたのだけれど、育ち盛りの私と弟がその上で自転車を乗り回したりするものだから、結局のところはうまく育たずあきらめた。でも、その生き残りが50年たっても生き延びて、この季節になると存在を主張し始めるのだ。

 一方で、これまた50年以上、毎年毎年色とりどりの花を咲かせてきたプリムラは、ここ数年めっきり元気がなくなって、もう絶滅するかもしれないと思わせるほどの衰弱ぶり。

 土、水、光、人の踏みつけ…いろんな要素が複雑にからみあって、庭は動き続けている。長い時間の幅で見つめていくと、そこには植物たちの栄枯盛衰も見える。

 草むしりをしながら考える。私がいなくなったら、この庭も解体されるのだろうかと。桜とともに祖父の記憶も、椿とともに祖母の記憶も、ばっさりと伐り倒されて消えてしまうのだろうかと。

 いまはやっかいな木は植えずに、おしゃれなプランターに一年草の花を咲かせて玄関やベランダを飾るのが主流だ。1年ごとに花は初期化されて、記憶をつなぐことも時間をかけて大きく育てることもなくなった。そんな庭先を横目で見ながら、あたりまえにあった庭のつきあいができなくなったのはなぜなんだろう、と考える。落ち葉を掃くことも伸びた枝を剪定することも、いつのまにか、えらくやっかいなことに感じるようになってしまったのだ。

 今年に入って、さわやかな笑顔の引っ越し屋さんが「お隣の荷物運び出しますのでちょっとうるさくなります」とあいさつにきた。そう日を置かず、作業着を着た人が「測量に入ります」とやってきた。もう解体が始まるんだなとこちらも覚悟を決めたが、その後は静かで動きはない。

 ひときわ早く咲いたモクレンを、最後の花と思いながら眺めた。いま、緑の庭は風に揺れ、陽に輝いている。

消えた潜水艇

璃葉

東京にきて間もないころ、生活費を稼ぐために半年ほど街角にある老舗のバーで働いていた。夜7時から数時間、大きなスピーカーからジャズの流れる、照明を極力落とした店内のバーカウンターでお酒を作る仕事だ。キャンドルのようなライトに照らされてぼんやり浮かび上がる空間を、今思えば私は、かなり気に入っていた。真っ黒の重い扉、格子窓、タバコのヤニで黄色くなった壁、ゆったりと過ごせるいくつかのテーブル、舞台やライブのチラシが並べられた棚の上に置いてある、薄ピンク色のダイヤル式電話。小さなタイルが床に敷き詰められた化粧室。目につくものどれも、新しかったものがゆっくりと古くなってここまでやってきたものばかりだ。その格好の良さが好きだった。マスターは料理担当で殆ど厨房の中にいたから、店番は私一人だけだった。客が来ないときは、バーカウンターの中でぼんやりと時を過ごした。ビールケースに座って本を読んだり(暗いのであまり捗らなかったが)、ウイスキーの銘柄をひとつひとつ調べたり、ラベルをスケッチしていた。その退屈さに欠伸が止まらない日もあったけれど、暗い海のなかをすすむ潜水艇の中にいるような感覚に、なにか貴重なものを感じていた。スピーカーからアニタ・オデイの声が聞こえなくなり、いつのまにかCDが曲を終えたことに気づく。引き出しから新たなCDを取り出し、オーディオにセットする。その日にかけるCDの順番はマスターが決めていて、棚の一番前から順にかけていくのがルールのひとつだった。そんなゆるりとした作業をいくつかこなしていると顔見知りの客がやってきて、映画や舞台の話なんかをしてくれる。やがて学生や常連客がぽつぽつ来ていつの間にか満席になり、大忙しになると、あの一人の退屈な時間が恋しくなるのだった。飲食店であくせく働いていると、退屈への恋しさは常だった。

店の料理はどれも美味しく、働いたあとも休みの日にもよく居座った。ブロッコリーとアンチョビのペペロンチーノと、アーリータイムスのソーダ割りを頼むのが私の日課になっていた。

店を辞めたあともしばらく通っていたが、引っ越しをしたり新しい職などに就いてから何となく遠のいてしまい、そのまま2年ほど時が経った。
久々にあのペペロンチーノを食べたくなって、駅から歩いて細い曲がり道に入る。黒い外観と看板、それを引き立たせるような、店名が書かれた筆記体のピンクのネオンが出迎えてくれるかと思いきや、そこに構えていたのはチェーン店の居酒屋だった。明るいライトがぴかぴか輝いて、きつい光が道にまで漏れている。黒い潜水艇は海の静けさのなかに消えてしまったのだった。

しもた屋之噺(196)

杉山洋一

辺り一面、目に眩しい新緑に包まれるこの時期、飛交う夥しい花粉のおかげでアレルギーに悩まされるのは、我々日本人だけではありません。昨年など、一度喉に何か張り付いたようになって、息がびったり詰まってしまいました。流石に突然のことで肝を冷しましたが、このまま気を失うかと慌てていると、息が通るようになりました。13年前、息子が生まれた年の秋に庭に植えた松の丈は、3メートルを超えているでしょうか。この季節、松の天辺にずらりと7、80センチの棒状の新芽が天を向いています。食卓から眺めると季節外れのススキの穂が風に靡くように見えます。傍らの大木は、13年間一度も剪定していないので、どの枝もずっしり葉を蓄え、重みで少し撓ってしまっています。

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4月某日 ニース アパート
年末息子と二人で訪れた時は、彼が歩くのも儘ならず、息子をキックボードに載せて連れまわした。今や彼もすっかり元気になったので、83歳の母のためにキックボードを抱えてきた。アパートに着くなり、息子はすぐに母を連れて、階下の「名人パン屋」にクロワッサンとチョコレートパンを買いに出かける。
観光にエズに出かけたとき、話好きのタクシー運転手が何故息子とイタリア語で話すのかと不思議そうに尋ねた。息子はミラノで生れ育っていると話すと、ここは1860年カヴールとナポレオン三世のプロンビエール密約までサルデーニャ王国だったし、ニースはガリバルディ将軍の生地だ、と嬉しそうに話し始めた。だから、イタリア語だって話せると言うので、何か話してと頼むと、恥ずかしそうに「こんにちは」と呟いた。
毎日天候がとても不安定で、どこに出かけるにも合羽を携えて出かけた。真っ赤でだぶな雨合羽を小柄な母が被ると、まるで奴さんが歩いているよう。晴れ間がのぞけば夏日のようだが、午後には決まって天気が大幅に崩れ、土砂降りの上に気温も肌寒くなる。この運転手も、今年の復活祭休暇は、寒いお陰でまるで観光客の足が伸びないよと愚痴った。

アンティーブの浜を抜けてコバルト色の波が打ちよせる防波堤に腰かけ、老人と彼の息子が浜から投釣りするのを眺めている時は、抜けるような青空が広がっていた。海と空は丁度同じ色をしていて、水平線に沿って白い雲の帯がどこまでも延びていた。釣人に「よく釣れますね」と話しかけると、「でも、こんな小さいし」と照れ臭そうに笑った。今はなくなってしまったが、子供の頃は湯河原の小さな船着き場の傍らには、ちょうど似た感じの岩場が続いていて、魚屋で捨てるアラを分けてもらい、それに紐をくくりつけて岩ガニをバケツ一杯釣り上げた。少なく見ても百匹以上は居ただろう。アンティーブ海岸の岩には、一見もずくのような海藻が貼りついていて、母がそれを確かめると、全くもって無関係だった。息子は足を海水に浸しつつ、主人が投げてよこす木の枝と海中で戯れて止まない大型犬を目を細めて眺めていた。

翌日、息子のたっての願いでオントルヴォーの山に昇る。シタデルラと呼ばれる山上の古城の登山口入口で、入場コインの自動販売機が壊れている。村人から紹介された女性店主にその旨伝えると、まずこちらが履いていたバスケットシューズを眺め、これなら大丈夫と呟いてから、この裏道から川伝いに進んで山道を登れば、急だけれどシタデルラに辿り着けるわと教えてくれる。
登山の用意もない、齢80を超えた母を連れてゆくのは到底無理と思ったが、言われた山道を3分の1ほど昇って、不可能なのを確かめてから先程の壊れた自動販売機に引き返すと、どういうわけか直ったと言う。息子曰く「お父さんどこ行っていたの、探し回ったのに」。
シタデルラまで、山道の足場は石で固めてあるので昇りやすいが、不整脈が酷い母の身体を労わりながら少しずつ休憩しつつ昇る。息子は病気のことなど忘れてしまったのか、一気に頂上まで登り切って、「おおいおおい」などと彼方から大声で呼んでいる。年末も、息子はここに来た途端、別人のように精気を快復したから、息子にとっては最近流行りの「パワースポット」なのだろうと冗談を言うと、母は大真面目に、「これだけ切り立った山なのだし、きっと本当にそうよ」と応じた。
ちょうどニースから乗った電車の隣に座っていたトラッキングの杖をついた老夫婦とその娘が、我々と同じ塩梅でのんびり頂上のシタデルラを目指していて、追越したり、追越されたりを繰返しつつ、顔を合わせるたびに一言二言言葉を交わしたのも、母には励みになったに違いない。「杖を突いたあのお爺さんですら登っているのだから」、と坂の途中、ベンチ状の石に腰かけて母は呟いた。
シタデルラの山の鼻先には、古代の槍先のような、よく研がれた薄い刃よろしい岩山が聳えており、母は「その昔中国人がここに来ていたら、即刻石仏を彫ったに違いない。中国人と言えば、すぐに石仏を彫る人たちだから」とその姿に感動した様子だった。息子が買ってきたコーラで喉を潤しながら、小学生の頃、両親に連れられて何度となく伊勢原の大山阿夫利神社に登った話など、取り留めなく母と話す。大山の風景より寧ろ、山道の料理屋のタラの芽や甘酒ばかりが心に残っているのは何故だろう。

4月某日 ミラノ自宅
国外某所のマスターコースを受講してきたアレッサンドロが、コースの演奏会でも振ってきたブラームス3番を改めて聴いてほしいと言う。オーケストラと本番をやって来たならさぞこなれているかと思いきや、身体が硬直しきって到底音が合わない。聞くと、アレッサンドロが出来る限りオーケストラの音を聴いて、そこから霊感を掬い上げたいと言ったとき、指揮はそんな軟弱なことでは駄目だ、オーケストラに対し自分の音楽を明確に、強気で実現させるつもりで臨まなければいけない、と講師から助言されただけだと言う。教えるというのはかくも難しく、重責。

4月某日 ミラノ自宅
指揮の学生たちがお金を出し合ってオーケストラを3日間借り、全曲モーツァルトの演奏会を開いた。マリオ・ジョヴェントゥーの合唱団に手伝ってもらってK.65小ミサ曲、K.222Misericordias dominiなど合唱つきの作品を入れ、Ergo interest…Quere superna、Sub tuum preasidium、Conservati fedeleなどのアリアを、学校の声楽科の学生をよんで歌ってもらう。
モーツァルト少年最初のアリア”Conservati fedele(貞操を守って頂戴)”は、メタスタージオの同じ台本の名作”Per pietà, dell’idol mio(ああ愛する人お願いだから)”や”Oh, temerario Arbace, per quel paterno amplesso(ああ勇敢なアルバーチェ、父の抱擁によって)”に引継がれる魅力の数々がちりばめられていて、単なる子供の習作と捨置くのは忍びない。ともあれ幼い子供に「貞操を守って頂戴」と曲を書かせる父親もどうだろう。
レッスン合間に指揮の学生を集めてラテン語読み合わせ。小ミサ曲を担当するカブラスが学校でラテン語を勉強して来なかったので、発音やアクセントについて、他の学生も交えてセンテンスを聴かせ方について喧々諤々。

ロックバンドでベースをやって暮しているブラーヴィは、長髪をなびかせ顎髭を蓄え、風貌はロッカーそのままだが、生徒の中では一番厳しくラテン語を学んできていて、実に細かく注文を出すので驚いた。
たとえば、ラテン語tertiaは現代イタリア語terza(3番目の)にあたり、現在イタリアのラテン語教育で広く用いられる発音に従えば、ほぼterziaと同じになる。そのつもりで今までterziaと発音していたが、彼曰く本来はtiとziの間の発音で、先生の発音では子音がきつ過ぎると言う。
ともかく、ラテン語を読める読めないが、かくもイタリア人の誇りや恥の意識、格差意識に繋がっているとは知らなかった。うちの息子も来年から中学でラテン語が始まると話すと、とにかく声に出して読ませてあげてください、と皆から助言を貰う。
第五格変まで丁寧に覚えるより、音にしてしまえば、伊語のネイティブならずっと簡単に頭に入るし、瑞々しく感じられるという。話すための言葉ではないのだし、分からなければ辞書を引けばよい。音に慣れてしまえば、直感的に読み進められるというが、日本の古文でも同じなのだろうか。
ex-. idem, in primis, in extremis, et cetera, alter ego, tabula rasa, ultimo など、意識しないまま、日常会話で口をついて出てくるラテン語は結構ある。ドナトーニの”in cauda”も、”in cauda(尾っぽには)”と言うだけで、下の句”venenum”が口をついて出てくる年配のイタリア人はたくさんいる。我々が「塞翁が」と問いかければ、「馬」と応える塩梅だろう。“in cauda venenum”は蠍の尾に毒がある喩えで、「最後は毒にやられるぞ」というラテン語の故事成句。ドナトーニの曲の邦題は「行きはよいよい、帰りはこわい」と訳した。
この反語表現で後代作られた似非ラテン語成句もあって、“dulcis in fundo” 「デザートは最後、甘いものは最後」という意味になる。今朝ジャンベッリーノ通りのスーパーに出かけると、店内放送が、男性の声で「dulcis in fundo! はい、みなさま ”お楽しみは最後”でございます。毎度パムでお買い上げのお客様有難うございます!月末特価!XX大特売です!」と繰返していた。

4月某日 ミラノ自宅
キプロスからの土産にと、家人が息子のために笛を3本購ってきた。一つは木製の横笛で、二人同時に吹けるように、歌口が二つ向合って穿けてある。それから民族楽器風木製リコーダーともう一つ、竹製超高音域スライドホイッスルで、これは鳥笛の一種。フルートを習っている息子が、このリコーダーや横笛でラベルのボレロの旋律を吹くと、調律のせいで、えも言えぬ民族臭さが出てとても良い。ギリシャ風ともトルコ風ともつかぬ、よたる音。民族楽器風と書いたのは、民族楽器風の装飾が施されているが、実際はミュージックセラピーに携わる女性がつくる創作楽器だから。

本條さんから、長年住んでいるイタリアを主題にして、来月ローマで初演する三味線のための小品を頼まれる。自転車で息子を合唱に送りにゆきながら、頭のなかで何となく流れを決める。これとは別に、夏までに本條さんのために書く三味線と弦楽合奏のための作品は、日本から初演されるシベリアまでの道程を示すつもりで、全く違う音楽を考えている。三味線のことは分からないので、妙な小細工などせず、書きたい音を書き、やりたいことを説明して、本條さんからのアドヴァイスを素直に仰ぐことにする。
この前に書いた17絃と打楽器の作品では、作品の基のテキストの作者、ジョイ・コガワの名前を数字に置換え17絃の調絃を決めたところから、曲が求める音が自然に溢れてきた。この三味線の小品の場合、どの調絃が一番弾きやすいか本條さんに相談する。本條さんはローマの日本文化会館で演奏して下さるのだが、先日ローマの平山美智子さんの訃報を太田さんからいただく。文化会館で平山先生とご一緒したときを思い出して、胸が熱くなる。

4月某日 ミラノ自宅
息子が階下でプーランク「3つの小品」を練習している。中学の終り頃、生まれて初めて練習したピアノ曲が悠治さんの「毛沢東三首」で、その次がプーランクの「夜想曲1番」だった。渋谷のヤマハで自分でも弾けそうな楽譜を探していて、買って帰ったのを良く覚えている。今でこそインターネットでプーランク自演の録音すらすぐに聴けるが、当時この曲の録音は誰のものも聴いたことがなかった。

作曲家が弾いている自作の演奏の方が、実に自然で心に響くことのは、たぶん音符を弾いていないからだろう。自ら書いた音楽が明確に目の前に可視化されているからに違いない。ラフマニノフなどピアニストとして元来有名だが、プーランクやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチなども、自作自演の録音を聴くと、他のピアニストでは、しばしば借りてきた衣を纏った感じに聴こえる部分が、まるで違った血の通った音楽として成立しているのに驚かされる。寧ろ音に感情など着せぬまま、音が投げ込まれ浮び上がる空間を眺めながら、無心で鍵盤に指を滑らせているように感じられる。
音楽家は音を身体に残してはならない。身体の裡は骸骨よろしく極力風通しを良くし、一切残滓ない方がよいのだ。すると、まるで思考の粒にまで昇華された細かな感情が、そのまま音に載って溢れだす。音と感情を身体に溜め込む程に、感情が先走った、鈍重で曖昧模糊とした発音になる。理由は分からないが、口を開け下顎辺りを緩めるだけでも、音の抜けは急に変わったりするので興味深い。
演奏家が書かれた音符に囚われた演奏をすれば、音楽も音符のカプセルに閉じ籠められたまま、こちらに流れ出しては来てくれない。一見単純に見える悠治さんのピアノ曲の楽譜など、音符に頼りすぎる演奏家の心理を鋭く突いていると思う。

4月某日 ミラノ自宅
M君のレッスンで、並んだ音は均等に並べないよう頼む。空から降ってきた音符が地に着いたら、形を揃えずにそのまま触らずにいて欲しい。削ったチーズをたっぷり加えたフランス風オムレツと、押して空気を抜いてつくる和風卵焼きの違いのよう。これがイタリア風になると、空気を押し出すこともなく、ただフライパンの型通りに卵をひき、しっかりとした食感のフリッタータに仕上げる。
日本文化は伝統的に侘び寂の印象が強く、空間性を特に大事にすると西欧から見なされてきたが、浮世絵から現在の漫画に繋がる空間造形の伝統を思い返せば、西欧風な遠近感によらず、空間全体に亘って見えるべきものを全てしっかり見せる志向を感じられはしないか。それも我々の文化の一端であって、否定すべきものではない。音楽に於いても、無意識にそういう特質が残っている気がする。かかる特質を予め伝統的に受継いでいると知るのは、決して悪くはないだろう。

どう演奏すべきかレッスンで話すのは出来るだけ避けたい。正しい演奏など存在しないし、同じ演奏者は同じ演奏を二度と繰り返せない。借りてきた着物で出歩くようなもので、人の演奏を真似ても、そこには真実は芽生えない。テンポが脈絡なく崩れて弾きにくかったり、「てにをは」さえ違っていなければ、基本的に尊重することにしている。
M君のレッスンでは、聴こえるべき音をゆっくり確認してから、原曲のシューベルトをベートーヴェンのように、ハイドンのように、ウェーバーの積りで演奏してもらう。困惑した表情のM君が、最後にじゃあシューベルトのつもりで演奏してと言うと、途端に晴れやかな表情に戻った。もちろん、実際は正しい演奏法などあるはずもなく、半分当てずっぽうだが、少なくとも楽譜の音符から視点を逸らし、音の質感や色や風景にのみ集中して音楽を作ることに役立つ。思いを巡らせることができる。音符ばかりが見える演奏では、機械の利用説明書のようになってしまう。

三つ子の魂に喩えると少し的外れなのだが、最初に身体に染みこんだ手本は、なかなか消すことができない。自分の音楽の礎は、篠崎先生のヴァイオリンを通して培われたと思うし、あの頃聴いていた音の原体験は、何物にも代えがたい。幼少からAIによって自動生成された音楽のみを聴いて育てば、どうなるのだろう。既にそれに限りなく近い状況が生まれつつあるとは思う。
ミラノで新しい現代音楽アンサンブルを作るから手伝ってほしいと頼まれて、アンサンブル作りからアンサンブルが軌道に乗るところまでに関わった。リハーサルの仕方から、楽譜の読み方から、一つ一つ時間をかけて積み重ねていった。あれから10年以上経ちメンバーも入れ替わったけれど、当時培った音楽の方向性は今も全く変わっていない。彼らは今やイタリアを代表するアンサンブルになったけれど、一緒に悩みながら作り上げた音楽が認められたことは、とても誇りに思う。楽譜をどれだけ正確に実現するかより、楽譜が何を望んでいるのかを探し求め、表現する試みだった。

何の為に自分は音楽をやっているのか。イタリアに来たばかりの頃は、本当にそればかり考えていた。イタリアに来る直前に阪神淡路の震災があって、住宅地から吹きあがる火柱を眺めながら、途轍もない喪失感に襲われた。自分は何故何の役にも立たぬことをやっているのか。そんなことを考えつつイタリアに留学生活を始めて、全く作曲が出来なくなった。無気力から脱せぬまま、ストレス性難聴で耳も聞こえなくなった。
経済不況からイタリア政府給費も打ちきられ、路頭に迷って手当たり次第に観光ガイドや通訳のアルバイトで日銭を稼いだ。夜明け前に観光バスのガレージに出かけ、ツアー客を連れてゆく怪しげなレストランで、ガイド用に用意される食事を昼も夜も食べた。
内容はツアー客と同じもので、常に同じリストからメニューを選び、それもお世辞にも旨くなかったから、美味しいですよと連れてゆくツアー客にも申し訳なかった。一日働いて家に戻れるのも夜半だから自然と音楽から遠ざかり、ちょうど作曲も出来なかったので初めは何も感じなかったが、そんな毎日が続いて漸く、自分にとって音楽が掛替えのないものだと痛感した。

食べるために人を騙して仕事する位なら、食べないで音楽をやっていた方が良かった。あの頃は不思議なくらい、食べなくても楽譜を読んだり作曲できるだけで幸せだった。
あの頃に、自分にとって音楽の意味するものは理解できるようになった。子供の頃から競う目的で演奏するものは、自分の音楽とは似て非なるものだ。それでもコンクールに関わらなければならないなら、審査するよりもむしろ、可能な限り審査される側に関わっていたい。
審査される作品を並べて演奏するとき、本当はどの曲が一番好きですか、どれが一番になると思っていましたか、と声を潜めて尋ねられる。優等生の模範解答のようで甚だ厭だが、本当にどの曲も等しく受賞されるよう願いつつ演奏しているし、それぞれ作品の魅力は全く違って、比較できないし、各作品の魅力を最大限引出すべく我々は必死に演奏している。だから、演奏会後に受賞を逃し落込んでいる作曲者に、無意識に「素晴らしかった、おめでとう」と勘違いな発言を繰返し、その度に自己嫌悪に陥る。

家人が結婚前に教えていたS君という生徒がいて、とても不思議なピアノを弾いた。器用ではないが、心に響く純粋な音楽だった。教養に富む頭で感じる音楽というより、もっと素直に語り掛けてくるものがあって感動させられた。プロコフィエフのトッカータなど、無理して弾いているのだけれど、ものすごく切実な音楽で、うつくしかった。
聞けば、S君はニッカポッカを履いてトビ職人をやっていたと言う。そのころ家人は、S君と街を歩いていて、このビルはうちが建てたんですと自慢するのを面白がっていたが、或る日、S君がトビになった切っ掛けは、暴力団から抜けたからと知った時は流石に仰天していた。それから程なくして、S君は忽然と姿を消してしまった。組から抜けるのは大変だと話していたので、連れ戻されて酷い目にあっているのではないか、警察に探してもらえないかと気を揉む日々を送った。彼がどこで何をしているのか、知るすべもないけれど、S君が彼の音楽とともに生きていることを願う。

4月某日 ミラノ自宅
音楽を教えるにあたり、方法論に言及するのは適当ではない。音楽とは一体何か、少なくとも自分にとって何か、それを一緒に考えることしかできないと思う。
こうやって弾けばよい、と自らのピアノの指使いを全てコピーさせるのが、優れた音楽の指導法とは呼べないだろう。どういう訳か、エミリオに習っていたころ、クラシックのレパートリーの彼の書き込み入りの楽譜は、殆ど生徒に見せてくれたことがない。それに反して、勉強した後の現代曲の楽譜はとても気軽に貸してくれたので、それを見ながら、自分なりに楽譜の勉強の仕方を考えた。
ちなみに、自分の勉強した楽譜は、現代曲でもクラシックのレパートリーでも、生徒にはいつも気軽に見せていて、何か役に立てられるのならと言っている。矛盾するようだが、自分の書き込み入り楽譜を学生に見せるのは、そこに音楽はないことを明快に伝えたいからだ。音楽は楽譜の中にはない。楽譜は音楽ではない。答えを導く情報は確かに書いてあるのかもしれない。しかし、楽譜をいくらのぞき込んでも、答えはそこにはない。

4月某日 ミラノ自宅
13歳、文字通りの思春期を持て余している息子にとって、生れて以来母親とのコミュニケーション手段として使ってきた日本語は、春先留守がちだった家人へ甘えを表現する手段でもある。伊語を話すと息子は無意識に年齢相応のしっかりした自我を纏い、日本語を話すと無意識に甘えの精神構造に変化する姿を観察するのは興味深い。父親に伊語で話しかければ精神的に安定している証拠で、日本語で話しかけてくれば、甘え相手を探していると理解する。

4月某日 ミラノ自宅
小学校のときに自転車に乗っていて軽トラックにはねられた。はねられた後は暫く記憶がなくて、遠くにまばゆい扉のようなものを見た気がするが、それも後付けの記憶かもしれない。はねた軽トラックはそのまま暫く走って止まったのか、止められたのか。周りが「轢逃げ未遂」と話していたからか、朧げに走り去ってゆくトラックの後姿を覚えている気がするのだが、これも後から付け加えられた記憶かもしれない。
どういう廻りあわせか、中学に入ると、加害者の娘が同じ学年にいることが判った。どうして判ったのか覚えていないが、何度か彼女のクラスの前を通った時、その女の子を眺めていたとおもう。どうして女の子が誰だか分かったのかすら判然としないが、体育着に名札でもついていたのだろう。ともかく彼女は級友に囲まれクラスの真ん中で楽しそうに笑っていて、指なしと呼ばれている自分が情けなかった。
彼女に何の恨みもなかったし、子供心に彼女に対して何かを思うのは間違っているのはよく判っていたが、彼女の楽しそうな姿を見てから、坂道を転げ落ちるように酷い自律神経失調に陥り、中学終りまで塞ぎこんでしまった。
息子を見ていると、あの時の自分を思い出す。女の子の姿をみて羨ましいと思った感情が、無意識に自分を傷つけていたのかもしれない。加害者に対して憎しみも何も感情が沸かないが、それは単に自分が幼かったからだろう。あの時両親がどんな思いをしていたのか少し理解できる気がする。

久しぶりに両親と電話で話す。今週だけでも病院は3回くらい行ったのだけれど、子育てはなかなか大変だね、と母親に言うと、それも終わってみると、親は良かったことしか覚えていない、とさも愉快そうに笑った。

4月30日 ミラノにて

ハッピーアイランド

若松恵子

遠藤ミチロウと関根真理、2人のライブを4月は2回も見ることができた。
関根真理は、パーカッショ二スト。ドアーズをカバーするミチロウのバンド「THE END」のドラマーとして彼女のことを初めて知った。金髪が似合う、ほれぼれする女ドラマーだ。同じくミチロウ率いる民謡パンクバンド「羊歯明神」にも参加していて、彼女が入る時にはバンド名が「羊歯大明神」となる。彼女のドラムが加わることで、スターリン時代の楽曲が「音頭」に変換してもかっこよさを失わない感じがする。

その彼女が、ギターを抱えてひとり歌う遠藤ミチロウに、パーカッションで花を添えているのが「ハッピーアイランド」だ。企画ものではなくて、今後もこのユニットで演奏していくという意志によって、ユニット名がつけられたのではないかと思う。「ハッピーアイランド」というのは「福島」のことだという。

4月に見たライブは、2回とも街なかの、普段はライブをやらないような会場だった。どこでも演奏できる2人組が、身軽にふっとやってきて、魔法をかけてしまう・・・。そんな印象のライブで心に残った。

ひとつめは、越谷アサイラム。埼玉県越谷市の駅前商店街の様々な店を会場に、有名無名のミュージシャンがライブを行う。アート展やクラフトのワークショップ、食べ物の屋台なども出ている街フェスだ。リストバンドを見せればどの店のライブも聴くことができる。ハッピーアイランドが演奏したのは、普段はダーツバーとして営業している店だ。観客は不揃いの椅子にそれぞれ腰かけ、椅子がいっぱいになったので絨毯に直接坐ってミュージシャンを囲んだ。楽器の設営も、リハーサルもみんな見えてしまう。そんな面でも演奏する者の度量がためされる、そんな会場だった。ミチロウはひるむことなく、いつものように「オデッセイ・1985・SEX」から始める。「やりたいか そんなにやりたいか」と、福島弁バージョンだ。小学生の子どもも聴いているが、パンクは危ないものなのだからしょうがない。この歌が相変わらず歌われる世の中なのだ。私はこの歌をまじめに受け止める。コミックソングのように笑って聞くわけにはいかない。「まるで少年のように街にでよう」と歌う「JUST LIKE A BOY」では、関根真理がコーラスをつける。通りかかってたまたま聞いた人の心にも届くと良いなと思う。

音楽には、「ほんとうに見たかった世界」をつくる力がある。止まったもののつづきを描く力がある。けれどその力は、たった一人では発揮できない。大通りをちょっと曲がった先で、生涯を音楽に捧げる人たち。草の根ミュージシャンたちはその力を合わせ、街に息をふきかける。音楽でしかいえないことが、街の未来に必要だから。

越谷アサイラムのパンフレットに主催者からのこんなメッセージが載っていた。

ふたつめは、埼玉県浦和市の中古レコード&古書のお店「浦和アスカタスナレコード」でのライブ。30名ほどの観客で満員になってしまう店内で、レコードや本の棚に囲まれて丸椅子に座って演奏を聴いた。もとは町工場だったのだろうかと思われる建物。めずらしく歌の合間にぽつぽつ話しながらゆっくり流れるライブで、会場を出た夜空に見上げた丸い月とともに、あの日の特別な時間の余韻が、今でも心に残っている。早川義夫の「シャンソン」や高田渡の「生活の柄」が歌われて印象に残った。

「キミの魂行方不明」と歌う「浪江」、ボブ・ディランのカバー「天国の扉」の日本語詞に歌われる、生きていることの悲惨。やさしいメロディにのって歌われる言葉にじっと耳を傾ける。今、ミチロウが歌いたいと思っている歌の、その理由に共感を覚える。ミチロウの歌をパーカッションで支えている関根真理もまた、共感しているに違いないと思う。