911の思い出

さとうまき

911から20年がたった。僕は当時、JVC(日本国際ボランティアセンター)という団体で、パレスチナ事業を担当していた。ちょうどその日は、とある宗教団体に寄付をお願いに伺うことになっていたのだが、朝から台風かなんかで大雨が降っていた。

革靴が濡れるのが嫌だなあと、どうせなら傷んでもいい古い靴を探しだしてきた。しかし、雨が滝のように流れてきて、右側の靴底がなんとすっぽり取れてしまったのだ。しばらく歩くと今度は左側が取れた。つまり、見た感じは靴を履いているのだか底が取れてしまい、裸足で歩いているのと同じだった。なんともみすぼらしくて恥ずかしい。電車に乗っても気づかれないようにひやひやした。なんか、今日一日はろくなことが起きない予感すらしてきたのだった。立川に着くと駅ビルの中のデパートが開く時間だったので慌てて駆け込んで靴を買った。店員のお嬢さんに、「(はいていた靴)お持ち帰りになられますか?」と真顔で聞かれて、「捨ててください」と答えるのもとても恥ずかしかった。

夜になると雨は止んでいた。友人の妹がアーティストで、パレスチナの子どもたちの絵の展覧会をやろうということになり、彼女のアトリエ兼アパートで打ち合わせをやっているときだった。ドアをたたく音がして、近所のアーティストが駆け込んできた。

「大変だ、NYのビルに飛行機が突っ込んで燃えている!」変なことをいう人だと思った。TVをつけたのはいいが、室内アンテナのおんぼろのテレビで電波も乱れ、ノイズだらけでよく映らない。「映画?」

そうこうしているうちにもう一機がビルに突き刺さるように突っ込んできた。一体何がどうなっているんだろう。

ともかくなんだか大変なことになりそうで、慌てて家に帰ってTVをつけると、今度は、ビルが倒壊しはじめ、見る見るうちに崩れていったのだ。不覚にも「美しい」とさえ感じてしまった。

メディアは、犯人捜しを始めていた。映像では、パレスチナ難民キャンプで、大喜びで踊りながら飴を配っている人たちが映し出された。(後から湾岸戦争時にイラクから放たれたスカッドミサイルがテルアビブに着弾した時の映像だと判明する)翌朝の読売新聞には、「パレスチナ過激派の犯行か?」という見出し。記事には、DFLP(パレスチナ解放人民戦線)は、犯行を否定していると書かれているのに。

事務所に行くとさっそく電話がかかってくる。「テロを支援しているパレスチナを支援しているとはけしからん!」となぜか叱られる。ある程度そういう電話は予期していたが、今度は、画廊から電話が。「すいません、パレスチナの子どもの絵の展覧会は中止してほしい。風当たりが強くて」
まあ、しょうがないなあ。

実は、イスラエルとパレスチナの衝突は、一年前からエスカレートしており、イスラエルは、「テロとの戦いだ!」と言って戦闘機でパレスチナの村々を攻撃。多くの民間人が犠牲になっていた。本当はパレスチナと領土をめぐっての戦いが続いているのだが、「テロとの戦い」と言ってしまえば、パレスチナ人の独立や難民の帰還権を認めなくてもいい。イスラエルの民間人への攻撃はエスカレートしていき、国際社会では「イスラエルがやっているのは国家テロだ」と批判する論調も見られた。

しかし、911でブッシュ大統領が、対テロ戦争を掲げ、「我々側につくのか、テロリスト側につくのか」と問いかけると、「テロと戦うイスラエル」というイメージ戦略に出て、「国家テロ」という言葉は消え失せてしまった。「テロとの戦い」では、いくら民間人が犠牲になろうがそれはお構いなしという「哲学」は、アフガンやイラクにも拡大された。覚醒したブッシュ大統領は、アフガンを攻撃して、イラク戦争に突入して、民間人の犠牲者を出しまくり、破綻国家を作ってしまったのである。気が付けば20年だ。僕は、イラクでは散々な目にあったが、アフガンにはかかわることはなかったので、一体アフガンがどうなっているのかはよく知らなかった。

今年になって、JVCがアフガンの活動を終了すると発表。多分、終了するということはもう支援がいらない状況になったのかと思っていたが、米軍が撤退を表明するとタリバンがアフガンを再び制圧してしまい、一気に振出しに戻ってしまった。

JVCは、HPで約20年にわたってこれまで現地に関わってきたNGOとして、アフガニスタンを取り巻く状況と、国際社会、日本政府やマスメディアの対応に関して、意見を表明している。米軍占領下の20年の検証と、タリバンを孤立させてはいけないというのが趣旨だ。確かにそのとおりかもしれないが、じゃあ、市民レベルでどうタリバンと付き合っていくのか、そう簡単じゃないだろう。この20年、JVCが、どうタリバンと付き合ってきたのか気になるし、これからどう対話していくのだろう。ここぞというときに、活動を終了しているって残念でならないのだが。中村哲さんのように体を張ってほしいが、もうそういう時代じゃないのかもしれないし、僕も無責任なことは言えない。

これから世界がどうなるのか? この20年でアメリカは明らかに疲弊しているし、かつては、希望の光のように輝いていたNGOも私の眼には疲弊しているように見える。何よりもコロナ禍で、いろんなことが変わってしまって、世界のことなんかにかまってられないのかもしれない。でも一方で、リモートの技術やインターネット、AIがどんどん進んでおり、今までとは想像のつかないテクノロジーが出てくるだろうし、コミュニケーションの取り方も今までとは違ってくる。それがいいのか悪いのか、でもなんか、少し僕は希望を持っている。これ以上ひどくならないという気がするからだ。人権とか民主化とか口だけの美しさより、多少汚くても、戦争がない方がいいから。

Water Schools

管啓次郎

しずけさが海からやってくる
何も音がしない午後だ
私たちが屋上にかけあがると
周囲はすべて水
灰色の空が下りてきて
髪や頬を撫でた
たしかに見たのは鳥たち
からす、かもめ、鳩、白鳥が
とまどったように、でも騒ぐことはせず
空をゆったりと旋回している
下を見ると冷たい春の海の中に
無音の風景がひろがっていた
松林あります、町あります
青緑の光の中を小さな船がすすむ
私たちは手をつなぎ体を寄せ合って
今夜歌うための歌をみんなで考える


コンクリートの壁にともだちが住んでいた
いろいろな民族衣装を着ている
みんなでっかい笑顔
ヒジャーブをかぶった女の子
タータンチェックの男の子
キモノを着た私たちが
パンダと手をつないでいる
空から光がさして
平面の子はアニメーションになる
遊ぼうよ、出ておいで
ひどい波だったね、もうだいじょうぶ
ぼくらがひっぱりだすとみんな出てくる
そのあとにつづくのは忘れられた子供たち
平面から出ておいで、記憶から出ておいで
だってあの日はそこにはない
空にある


山に人の子がいなくなって
小学校には河童がくるようになった
狸と兎と鹿と猪と
河童の学校だ
では授業をします
文字の代わりに○や△を描き
不思議なものを見たように笑う
ピアノには音が出ないキーがあって
弾いてみるとキノコ狩りのように楽しい
暑い夏には川まで下りて
水浴びしてはまた教室に戻る
ニンゲンはこのあたりに数百年住んだけれど
もう来ない、もういらない
これからは山の自主管理でやっていく
獣と人をつなぐのが河童の役目
山川草木鳥獣虫魚のニッポンへ

水牛的読書日記2021年9月

アサノタカオ

9月某日 自宅のポストに『現代詩手帖』9月号が届いた。ページを開いて真っ先に目に飛び込んできた文月悠光さんの詩を読む。

 ひとりで死ね!
 巻き込むな!
 無観客の喝采を浴びながら
 私は私の手を強く引いて、
 開会の赤い花火が噴き上がる 
 新国立競技場を目指した。
 ひとりにしない。
 誰も消させない。
 消せるものなら
 「消してみやがれ」

 ——文月悠光「パラレルワールドのようなもの」

新型コロナウイルス禍を背景にした繊細で力強い作品。世界的な感染流行に多くの人びとがつながりを絶たれて苦しむ中で、どうして「東京五輪」が強行されなければならなかったのか。「目の眩んだ者たち」の国家、マスコミ、アスリートを含む五輪マフィアが結託し、この間、金だの銀だの不謹慎に大騒ぎしながら「安心安全」と空言を吐き続けることで、人びとが共有することばの信用を破壊し尽くした。ことばから意味という魂が引き抜かれ、かわりに「無意味」が社会を占拠した。メディアを介して増殖する無意味なメッセージに心身が侵されると、自身の存在すら無意味化されるような虚無感に落ち込んでしまう。
文月さんの詩にはことばをめぐるそのような窮状に抗う批評があり、のみならずぎりぎりの希望がある。「消してみやがれ」の一語に目を瞠った。
読後にこみ上げてきた思いを自己検証すると、詩人と詩のことばに対する深いリスペクトだった。うん、これを大切にしたい。この国のいまに決定的に欠乏しているもののひとつが、詩(うた)だと思う。人びとの詩に対するリスペクトが減少するのに比例して、社会に流通する言語の荒廃度が増加するのではないか。そんな仮説をもっている。敬意を持って広く読まれなくなった詩のことばを、ではどうすればひとりでも多くの読者に届けることができるのか。本を作る編集者として自問自答がつづく。
コロナ禍の状況への詩人からの応答としては『週刊文春WOMAN』2020春号に掲載された文月さんの詩「誰もいない街」も深く内省的で、すばらしい作品だった。

9月某日 引き続き『現代詩手帖』9月号で、詩人の吉増剛造先生と和合亮一さんの対談「「記憶の未来」の先端で」を読む。
《コロナ禍の状況も踏まえつつも、全体的に何か新しいものに心のあり方も変えていかなくてはいけない。それに際して言葉の果たす力は大きい》。和合さんの真摯な発言に居住まいを正す。
「変えていく」と言っても、現代詩がわかりやすさになびくということでは決してない。わからなさ、わりきれなさ、複雑さにおいて現実を捉え直し、新しい「世界」の像を創造することば。何かを外に暴き立てるのではなく、むしろ内に深く折り畳み、隠し込むようなことば。詩人は時代の大声に流されない、消されないための、確かなことばの杖を読む者に渡してくれる。しっかりつかんでおかないと。

9月某日 三重・津のブックハウスひびうたへ、二度目の訪問となる。名古屋駅から近鉄に乗り換えて四日市あたりを過ぎると、車窓の風景が田畑の広がるのどかな感じに変わり、おのずと気持ちがゆるんでくる。
ところでスマートフォンを持たなくなって2か月が経った。出張前、地図と路線情報のアプリを携帯していないことが不安だったが、宿泊先などについては事前に調べておいたし、行けないところには行けないと割り切れば何も問題はない。旅先では野性の勘でなんとかなることもある、という感覚を長いこと忘れていたかもしれない。実際、なんとかなった。
ブックハウスひびうたでは、『のどがかわいた』(岬書店)の著者・大阿久佳乃さんとのトークをおこなった。大阿久さんが詩や文学について語る文章のファンなので、念願叶ってのイベント。いちおう拙随筆集『読むことの風』(サウダージ・ブックス)の刊行記念ということで、お互いの著書についての感想や、また好きなアメリカ文学のことを語り合う。
J・D・サリンジャー、カーソン・マッカラーズ、アレン・ギンズバーグ。大阿久さんはいま関心を寄せているアメリカ文学者の作品の特徴を《じたばたして喚(わめ)くもの》と発言。いやなんかそれすごくわかる! と心の中で思わず膝を打った。
ぼくのほうは、尊敬するアメリカ文学の研究者で翻訳家で詩人でもある金関寿夫先生の本をちいさなちゃぶ台の前に並べて話をした。ビートニクスからエスノポエティクス(民族詩学)までの北米の文学運動を受け止め、本格的なアメリカ先住民詩のアンソロジーを編んだ唯一無二の文学者。亡くなる前には、ミシシッピ川とアニミズムの研究を構想していたという。「世界」という、ここではないどこかへとぼく自身の想像力の背中を押し出してくれた原点にいる人なのだ。
イベントに参加してくださったえこさんが、『韓国文学ガイドブック』(黒あんず編、Pヴァイン)をかばんからさっと取り出した。自分もコラムを2編寄稿したのだった。本をあいだにはさんでおしゃべりを。韓国の作家キム・エランの小説集『外は夏』(亜紀書房)の古川綾子さんの翻訳が素晴らしすぎる! と意気投合。こんなふうにして、ローカルの本のある場所で気軽に韓国文学の話をできることに幸せを感じる。

9月某日 ブックハウスひびうたでのイベントを終えて翌朝は、津の中心地にあるニネンノハコへ。近鉄で久居から津新町へ向かい、閑散とした駅前のロータリーをぶらぶらしたり地元スーパーをのぞいたりしながら迎えを待つ。やはりイベントに参加してくださった「副委員鳥」さんの車で現地へ。
ニネンノハコは倉庫以上お店未満、本とZineのある共同のアトリエ。本棚を管理する複数のメンバーで営む。不連続紙面エッセイのZine『ひっそり』を発行し、またハコTシャツ会や「鳥」のいろいろをテーマにした楽しそうな集いも開催している。「副委員鳥」さんから「鳥」という単語を3年分ぐらい聞いた気がする。おもしろかった。隣には「天むす発祥」のお店の千寿があった。ニネンノハコのみなさんの差し入れ、天むすのお弁当を電車の中でおいしくいただく。また訪ねたい。
ハコのZineコーナーには佐藤友理さんと中田幸乃さんが企画・編集をつとめるエッセイ集の冊子『まどをあける』がおいてあった。

9月某日 さらに名古屋に移動し、昼下がりの地下鉄に乗って東山公園駅で降りる。中学から大学まで名古屋に住んでいたのだが、このあたりを歩くのは何年ぶりだろう。
本屋のON READINGへ。店主の黒田義隆さん、黒田杏子さんにひさしぶりに会えてうれしい。お店の前に犬もいた。ギャラリーで開催されている「並行書物展」をみて、香港を拠点にするイラストレーターで漫画家のリトルサンダーやホモ・サピエンスの道具研究会の本などを買う。
レジの前で杏子さんと、台湾文学についておしゃべり。地元の出版社あるむから刊行されている台湾文学セレクションのことを教えてもらう。倉本知明さんが訳した蘇偉貞『沈黙の島』もセレクションの一冊。お店には台湾文学翻訳家の故・天野健太郎さんの句文集『風景と自由』(新泉社)も置いてあった。編集を担当した思い入れのある本。天野さんの俳句の中国語繁体字訳を掲載した付録冊子を制作したのだが、倉本さんにもご協力いただいたのだった。
ついで地下鉄に乗り昔馴染みの今池駅で降りたものの、まるで方向感覚がつかめない。ランドマークの新今池ビルがない。さら地になっている。通い詰めたレコード店のピーカンファッヂがない(雑誌『中くらいの友だち 韓くに手帖』で連載をしていた李銀子さんが営んでいたことを後に知った)。そしてウニタ書店がない。10代の日々を過ごした記憶の場所がまるごと消滅していた。裏路地をさまよっていると名古屋シネマテークのビルにたどり着き、そこにウニタ書店が移転していた。こちらも前職の出版社で編集を担当した、姜信子さんの旅のエッセイ集『はじまれ、ふたたび』(新泉社)が新刊棚に面陳されていた。読者とのよい出会いがありますように、と念を込める。
歩いてちくさ正文館へ。蘇偉貞『沈黙の島』をここで購入し、隣の公園のベンチで読みはじめる。10代の頃はお金もないしコメダ珈琲などに行く習慣もなく、書店をはしごして入手した本をまずこの公園で読んだ、真冬でも。きれいとはいえないどんより淀んだ空気感が相変わらずだ。
配達員用の大きなリュックを足元に下ろして一心不乱にスマートフォンのモニターをのぞきこむ人たち。さまざまな外国語で会話する声が聞こえる。

9月某日 旅の道中で、金壎我さん『在日朝鮮人女性文学論』(作品社)を読了。深く尊敬する大阪猪飼野の詩人・宗秋月を「はじまり」に据える歴史記述は理屈とは違うところで胸に熱く訴えるものがある。李良枝論もよかったが、この本を読んで深沢夏衣の文学により強い関心を持つようになった。彼女の作品集を読んでみよう。
どうでもいいことだが、ひさしぶりの名古屋行きで思い出したことがあった。大学時代に自分は宝石店で仕事をしていた。ただしジュエリーではなく、鉱物関係の方。アルバイトだったが、入社を熱心に勧められた。その道を選んでいたら、今頃どうなっていただろう。その後、仕事を辞めてブラジル留学を経て本作りの道に進むのだが、宝石店でも日焼けした社長から南米での買い付けを担当しないかと誘われていたのだ。

9月某日 旅から戻ると、編集人をつとめるサウダージ・ブックスのことでうれしい知らせが。ブラジル留学つながりの畏友で写真家の渋谷敦志さんの『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス)が第4回「笹本恒子写真賞」を受賞した。
アフリカ、アジア、東日本大震災以後の福島、ヨーロッパの難民キャンプなどを旅しながら、人間を見つめ、人間から見つめ返される「まなざしの十字路」の情景を記録した写真集。《最新作『今日という日を摘み取れ』に代表される……民族紛争、飢餓、難民、環境破壊といった不条理に晒され、生存を脅かされている弱者に寄り添った、長年に渡る真摯でアクティブな取材活動》が評価された。目下、渋谷さんはコロナ禍の中であえて海外に飛び出し取材活動中、受賞の知らせをアルメニアの国境地帯からバングラデシュに移動した直後に受けたらしい。
笹本恒子写真賞は戦前より日本初の「女性」報道写真家として活動し、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館の「The New Woman Behind the Camera」展で作品が展示されている笹本さんを記念して創設。日本写真家協会による新しい写真賞だが、渋谷さんにふさわしいと思う。
というのも、アフリカ諸国など各地で紛争や飢餓から逃れてきた人びとが集うキャンプを取材する渋谷さんは、現場でまず目にするのが圧倒的多数の「女性」の姿であり、子どもたちの姿であることを常々語っているから。写真集からも、そのリアリティは伝わると思う。制作チームである装丁の納谷衣美さん、印刷をお願いしたイニュニックの山住さんに受賞の連絡。バングラデシュの渋谷さんからも、メッセージが来た。互いに遠く離れながらも共に魂を込めて本を作り、本を届ける仲間がいる。そのことの幸せを噛み締める。感謝。

9月某日 前職時代に取りまとめた山尾三省詩集の韓国語訳の企画、着々と進んでいる様子。この話は『五月の風』と『新装 びろう葉帽子の下で』(野草社)の刊行がひとつのきっかけになっているので、本を世に送り出してやはりよかった。翻訳版は前期と後期の作品の選集で、一冊で三省さんの詩業の全体像を見渡せる本が韓国語ではじめて誕生する。韓国語の読者がうらやましい。
ウェブマガジン『PLAY EARTH KIDS』に「“火が永遠の物語を始める時” — 山尾三省の詩の教え」というエッセイを寄稿した。

9月某日 旅の疲れを癒す休日。神奈川・大船にある最寄りの書店ポルベニールブックストアを訪ねると、すばらしい本に出会ってしまった。しいねはるかさんのエッセイ集『未知を放つ』(地下BOOKS)。江ノ島の海岸で昼過ぎから日没まで読書に没頭し、思考と感情を深く揺さぶられたその余韻を味わっている。《婚活、家族、終活、分断、生活……》。地下BOOKSのブログでこの本の目次をみて、ぴんときたらぜひ読んでほしい。内容も文章も本当にすばらしい。介護やケアに関心のある人にもおすすめ。
ちなみに地下BOOKSの第1作、小野寺伝助さんの『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』もよい本だった。

9月某日 大阿久佳乃さんの自主制作冊子『パンの耳』8号を読んでいる。テーマは《焦り、混乱、うわの空》。大阿久さんや地下BOOKの本のほかにも今年はスモールプレスや自主制作で力作がたくさん。

安達茉莉子『BECAUSE LOVE IS LOVE IS LOVE!』(mariobooks)
ぱくきょんみ『ひとりで行け』(栗売社)
小鳥美茂『Sunny Side』(BEACH BOOK STORE)
植本一子『個人的な三ヶ月』
清水あすか『雨だぶり』(イニュニック)

などなど。昨年の刊行だが、児玉由紀子『新しい日の真ん中に』、田口史人『父とゆうちゃん』(リクロ舎)もよかった。夏葉社の島田潤一郎さんによるインディペンデント出版レーベル、岬書店の本もすばらしい。どれも、ことばは個人的でちいさな声を守るもの、ということを信じている人たちの本。

9月某日 今年亡くなった沖縄の詩人・中里友豪さんが主宰した同人誌『EKE』。終刊して一年、追悼の詩文を集めた『EKE』の番外編が届いた。阪田清子さんの装画が美しい。同人で沖縄・那覇の古本屋ウララの店主・宇田智子さんの作品「封筒」から読み始める。中里さんが逝き、その前には与那覇幹夫さんも逝った。琉球弧、群島詩人たちの声を思いながら、中里さんの最後の詩集『長いロスタイム』(アローブックス)をひもとく。
群島詩人といえば、奄美の詩人・泉芳朗(1905~1959)の未発表作品が発見されたというNHKニュース。いつか読めるようになるといいな。

9月某日 韓国の作家で詩人でもあるハン・ガンの小説『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)を読んだ。韋編三絶しているのだが、今回は物語ではなく詩を読むように、ことばそのものとイメージに心を傾けて。半影の世界でひとつ何かがうっすら見えてくると、ふたつ何かが暗がりに隠れるような。心にひっかかりを感じた文の前で何度も立ち止まりながら読み進めると、物語の流れを味わう時とは少し違う印象を抱いた。ほんとうに不思議で魅力的な小説。いろいろな読み方ができるし、読むたびに目の前にあらわれる景色が変化する。
『ギリシャ語の時間』に引き続き、彼女の小説『回復する人間』(斎藤真理子訳、白水社)、『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社)を読了。どちらも集中して読むのは2回目、ハン・ガンの造形する詩的な世界への感銘が一段深まる。

9月某日 そろそろ中秋の名月。月のせいだろうか。ふと思い立って韓国の作家・韓勝源の小説『月光色のチマ』(井手俊作訳、書肆侃侃房)を読みはじめる。ずっとむかしに「海神」という短編小説を読んで、濃密な民俗の空気を感じてその世界に一気に惹きつけられた。『月光色のチマ』は母親の個人史とその背景にある歴史を題材にした長編小説だが、臆面もなく語られる母なるものへの思慕もここまで突き抜けるとすごいと思った。また、東学農民運動の歴史のことなどを知る。
あすからの旅には韓勝源の子であるハン・ガンの本をふたたび。

9月某日 早朝からモノレール、電車、新幹線、地下鉄と乗り継ぎ、大阪の天満橋へ。認知症の人と家族の会大阪府支部が主催する「認知症移動支援ボランティア養成講座」に2日間参加した。元看護師の哲学者・西川勝さんのお誘いで。
クリエイティブサポートレッツの理事長、久保田翠さんのお話しに感銘+衝撃を受けた。静岡・浜松で芸術や文化という方向から、障害福祉サービスという枠組みを超える人間と人間のおつきあいの場を創造する久保田さんの名言、《かたまって、やらかす!》。そのほか講師陣の議論にもみっちり学ぶ。となりの席の受講者が休憩中、島田潤一郎さんの『あしたから出版社』(晶文社)を読んでいて、うれしい気持ちになった。
本作りに関わる者として個人的には、支部代表の神垣忠幸さんが認知症ケアとの関連で『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著、集英社インターナショナル)を紹介したところで、「おお!」と声を上げてしまった。これは必ず読まねば。
講義のあいまに、淀屋橋のCalo Bookshop and Cafe を訪ねる。世界文学の棚に、サウダージ・ブックスから刊行した「叢書群島詩人の十字路」の2冊『マイケル・ハートネット+川満信一 詩選』『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』が並んでいるのを発見。いまや版元品切れの貴重な本。
お店にはインドネシア語のアートや文学の本、Zineがいろいろあって興味を引かれる。ギャラリーでは森栄喜さんの映像インスタレーション展「シボレス」を開催していたので鑑賞した。

9月某日 認知症移動支援ボランティア養成講座を受講後、桃谷にある大阪市認知症の人の社会活動推進センター「ゆっくりの部屋」を訪問。
このあたりは、子が生まれた病院が近くにあるので懐かしい。布施から鶴橋まで毎日のように自転車を漕いでいた日があったなあ、と。病院への行き帰りに高坂書店やあじろ書林にかならず立ち寄り、金芝河や高銀などの韓国文学や在日文学の本を熱心に探し集めていた。このあたりが韓国文学のマイブームのはじまりだろうか。あのころ、あじろ書林の棚で赤と黄色の『宗秋月詩集』の古本を発見し、子の未来と土地の過去を思いながらなにか切実な思いで彼女の詩のことばをむさぼり読んだのだった。
「ゆっくりの部屋」では、まちライブラリーを開設している。さまざまな本のなかに、西川勝さん『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)や砂連尾理さん『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉』(晶文社)など、自分が編集を担当した本も。
スタッフのみなさんとおしゃべり。手羽先と大根のしょうゆ煮と味噌汁、手料理のお昼ごはんをいただきながら。「ゆっくりの部屋」ピアサポーターの元永まさえさんがSOMPO認知症エッセイコンテスト後期優秀作品を受賞されたとのこと。題して「目標は認知症バレエ団1期生」。これはほんとうにすばらしい文章なので、「ゆっくりの部屋」のウェブサイトからぜひ読んでほしい。
https://sites.google.com/view/osakayukkuri/home

元永さんの文章の印刷されたコピーをいただいて、定宿への帰り道、なんどもなんども読み返した。

9月某日 この数日間で収集した認知症ケアに関する山のような資料やパンフレットに目を通しながら、Caloで購入した和合亮一さん『Transit』(ナナロク社)を読む。よい詩集。そして旅は続く。こんどは、京都へ。

製本かい摘みましては(167)

四釜裕子

〈印刷物のパッケージとしての書物〉、その製本様式が日本で大きく転換したのが19世紀後半から20世紀初頭。洋装本が現れて定着するまでを、大妻女子大学文学部教授の木戸雄一さんが昨春からnoteにまとめておられる(https://note.com/kidoyou/)。〈書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などを照らし合わせつつその変遷と展開を跡付けてみたい〉とのことで、自前の古書の、例えば破れからのぞき見える素材の細部やかがり方がわかる写真、各地の図書館がネットで公開している画像へのリンク、またこれもご自身によるものなのか、構造をわかりやすく図解した手書きのイラストなども添えてあって、いつも更新を楽しみにしている。

〈洋装本の外形の記述を本格的に始めたのは出版広告だった〉そうである。明治6年、「東京日日新聞」(1873.12.17)に出された『医療大成』の広告にある「西洋仕立ニテ簡便ナル美本ナリ」がそれで、「簡便ナル」という表現が気になる。noteには『医療大成』の写真もあって、装飾もなくて確かに簡便、だけどそれまでの和装本に比べたら簡便ではないと思うし、まして初めて「洋装本」であることを売りにするなら「堅牢ナル」とかでもいいように思うけれど、本格的なものではないですという正直がうかがわれる。いずれにしても最初は見た目について述べていたようで、〈少なくとも広告レベルでは、西洋から来た新しい造本(印刷を除く)の呼び名として見た方が妥当であろう〉と木戸さんは書いておられる。

製本家で書籍修復家の岡本幸治さんの仕事にもたびたび言及されている。木戸さんが最初のほうでリンクを張って紹介している岡本さんの講演(1997)録「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」の中から、以前「製本かい摘みましては 63」でも触れたけれども岡本さんの徹底的な探偵ぶりのほんのさわりをここでもちょっと紹介しておこう。

岡本さんは佐竹曙山が残した『写生帳』を修復したとき〈日本最古の洋式製本の事例〉と思ったそうだが、その後『独々涅烏斯草木譜』の修復経験から、〈構造的なことをきちんと理解した上のことではなくて、その場での真似事に過ぎなかったのではないかと思う〉に至る。『独々涅烏斯草木譜』の調査により、これは〈洋式製本の構造をまねしているだけではなくて、表紙を動かすとこのように力がかかる、だからこうして補強しなくてはいけない、ということを製本者は理解している〉と確信できたからだ。例えば表紙布の裏打ちの仕方や布の角の仕上げ方に和装本の技法が見られる、表具師が行う打ち刷毛の跡が和紙に見えるなど、〈和装製本の感覚〉が次々に現れたというわけだ。科捜研には文書分野があるそうだけれど、マリコ(沢口靖子)さんが岡本幸治さんを訪ねる『科捜研の女』を見てみたい。

和装本が洋装本にとって代わられようとする時代にもし生きていたとして、洋装本に憧れを持ち、手持ちの和装本をいじくりまわして試してみようとするならば、やっぱりまずは薄くて硬いもので全体をコの字に包もうとするだろう。そして棚に立て、指で抜き、両手に持って広げ、ページをさらさらめくってみる……。理屈抜きでまずは見た目に走るしかない。では硬いものをどう手に入れるか。周りにある紙は柔らかいものばかりだろうから、ノリでベタベタに何枚も重ねて貼って重石をのせて固めるだろうか。あるいは牛乳パックで紙を作るような塩梅でチャレンジする? あるいは板? いや、板を薄くするのは無理だろう。木戸さんの連載によると、「ボール表紙本」の最初はやっぱり和紙を重ねてプレスして使っていたようだ。これが1871年とか1872年頃、やがてストローボードやミルボードなる輸入板紙も見られるようになるという。

東京の荒川区南千住の小さな公園に「板紙発祥の地」の碑がある。紙を貼り合わせるふうのオブジェはその構造をあらわしているのだろう。1890(明治21)年8月10日、秀英舎の創業者の一人でもある佐久間貞一がこのあたりに東京板紙株式会社の工場を建て、イギリスから抄紙機械を輸入して技師も呼び寄せ、稲わらを原料に板紙の生産を始めたそうだ。佐久間は、洋装本による『改正西国立志編』の印刷製本を請け負うにあたって板紙製造の研究を開始。最初はもちろん手漉きで、明治10年8月上野公園で開かれた第1回内国勧業博覧会に国産初の板紙を出品したそうだ(『大日本印刷130年史 資料編』2007)。機械化して国内量産が始まるまでここからおよそ10年、『改正西国立志編』の表紙ボールは、どのあたりから国産品になったのだろう。ちなみに「朝野新聞」(1876.11.5)に出された『改正西国立志編』の広告には〈活字版にて全部一冊に纏め西洋仕立に致し来る〉〈旧日本の儘を活字版西洋仕立にて発売せんとする〉とあり、活版+西洋仕立が強調されたようだ。

木戸雄一さんのnoteの連載は2021年9月で15回を数える。ここまでで実は一番おもしろく読んだのは、日本の洋装本が米国版の教科書をおおいにまねしてモデルとしたことを解き明かしていくくだり。いわゆるルリユールだけではなくて一般書籍の洋装本化もヨーロッパがモデルとなんとなく思ってきたけれど全然違った。当時の実物を見たことがなかったし、まさかテープを用いた平綴じとか、知らなかった。木戸さんはことごとく残された実物にあたって検証を重ねて証拠を見つけていく。日本の洋式製本化は明治の初めに印書局に招かれたパターソンさんが伝授したことに始まると聞いてきたけれど、木戸さんはそれも同様の検証のすえ、〈1873年にはすでに民間で国産の洋装本を製作できる職人や工房が活動していた〉と断言している。このあとの連載、そしてやっぱり写真や図版たっぷりでの書籍化が楽しみだ。

ベルヴィル日記(2)

福島亮

 ある人へのメールに、住んでいるだけで元気になるような街です、と書いた。そうは言っても、住んでいるだけで元気を失う街にこれまで住んだことはないから、どこに住もうと住んでいるだけで元気になるような街です、と私は口にするのかもしれない。が、ここでなければ言えないことも確かにあって、それは住んでいるだけで食欲のみなぎる街です、ということだ。明日(金曜日)は週に二度ある市場の日である。それを思うと、胃のあたりがもぞもぞと力を帯びるのがわかる。

 パリの市場の魅力というものをこれまでほとんど知らなかった。もったいない。前に住んでいた14区でも、毎週市場は開かれていた。しかし、魅力的だと思ったことはなかった。例外は夏の終りから秋の初めの市場である。前にも少し書いたことがあるが、大小様々色とりどりのプラムが並ぶ様子を見ると、心底嬉しくなる。でも、それは例外で、これまで3年ほどパリで暮らしてきて、市場があってよかったと今ほど思いはしなかった。そもそも、私にとって、市場といえば、パリではなくマルティニックの市場なのだ。フォール=ド=フランスで開催される市場の色彩豊かなこと。コロソル、パンの実、グロゼイユ……どんな味か想像もつかない野菜や果物が山積みになり、所狭しと熱帯の切り花が並び、容易に前に進めないほど人で溢れたあのマルティニックの市場。それが私にとっての市場だった。ベルヴィルの市場は、どこかフォール=ド=フランスの市場を思わせる。さすがに熱帯の切り花はないけれども、店の人々の活気溢れる言語活動が、どこかカリブ海と通じている。

 市場の魅力はなんといっても売り手との距離の近さである。引っ越してきてまだ一ヶ月ほどだが、すでにお気に入りの屋台ができた。根菜を得意とする屋台だ。カブ、大根、人参はそこでしか買わない。ひと月、毎週通って、ようやく顔を覚えてもらえた。ひいきにする理由は、その屋台の根菜にはいつ行っても立派な葉っぱがついているからである。葉つきの人参は二週間くらい冷蔵庫に入れておいてもみずみずしい。対して、スーパーで買った人参は、あっという間に腐ってしまう。前の14区の家で、一度、どうにも部屋が酒臭いと思っていたら、冷蔵庫の野菜室で人参が酒(らしきもの)に変わっていたことがある。

 市場の他にも、ベルヴィルで初めて知ったものがある。アラブ菓子の魅力だ。ベルヴィルは北アフリカ出身の人が多く暮らしており、私の家のすぐ近くにもチュニジア人のパン屋兼菓子屋がいくつもある。見たこともないほど大きな丸パンや、道端の大鍋で調理される作りたての揚げパンなど、視覚的にも嗅覚的にも聴覚的にも楽しいのだが、そういった魅惑的なアラブの食べ物のなかでも、もっとも自制心を強いてくるのはアラブ菓子だ。糖蜜にとっぷり漬けた揚げ菓子や、全体に蜜を絡めた焼き菓子は、頬張れば歯が溶けるのではないかと思うほど甘い。それをこれまた砂糖をたっぷり入れたミント茶と一緒に楽しむのが一般的なのだが、私はほうじ茶と一緒に楽しむことにしている。

 こんなふうに食べてばかりいては健康が心配だ。だから、国立図書館まで歩くようにしている。片道、約1万歩である。歩いてみて気がついたのだが、ベルヴィルは少し歩けばマレ地区なのだ。まだ私にとっては少々よそよそしい感じの、とがった商店や喫茶店が至るところにある。でも、どこか懐かしさも感じる。なんとなくだが、原宿から代々木を通って新宿に向かうあたりの雰囲気とどこか似ているようにも思うのだ。

 7階の家の窓から頭を出すと、隣家の煙突がすぐ近くにある。隣家の一階はパン屋だ。だから、たぶんその煙突からだと思うのだが、早朝、焼きたてのパンの匂いが部屋に漂ってくる。それはいかにもパリらしい匂いだ。だが、一歩外に出ると、そこにはフォール=ド=フランスや、チュニジアや、東京がひしめいている。私は今、そんな街で生きている。住んでいるだけで元気になるような街です、という感想は、やはりここ、ベルヴィルでなければ発せられなかっただろう。

敬老の日

北村周一

秋の日の
充実にして
みちばたに
拾いしへびの
抜け殻ひとつ
*あんなにも完璧な蛇の抜け殻は見たことがなかった・・・
さよさよと
ヘビのぬけがら
わが祖母が
財布の底に
仕舞いゆくまで
*敬老の日が近かったので祖母にあげたらとても喜んでくれた金運御利益願い事成就・・・
つつかれて
逃げゆくヘビを
梨畑に
追い込みにつつ
空井戸のあり
*それは黒くて長い蛇だったので棒で叩いて殺して空井戸に捨てた・・・
舐めごろの
ドロップひとつ
零れ落ち
田んぼの道に
ひらくコスモス
*ドロップ舐めたりガムを噛んだりしながら遊び呆けたしょっちゅう虫歯にもなった・・・
近隣の
騒音悩まし
音を消す
ために聴きいる
〈ミクロコスモス〉
*ご近所に木材屋があり早朝から夕方遅くまで騒音が絶えないその対抗策としてバルトークを聴いいていたのだったが・・・
挿げ替えし
おとこの首の
背後より
あらわれ来たる
政治力学
*賞味期限切れの安倍川餅というべきか・・・
つくり置き
存分にある
ゆたけさも
糠よろこびと
なりにけるかも
*ワクチン信仰目に余るよね抗原検査もしかり・・・
気晴らしに
西の空など
見上げおり
遠のくいろの
むらさきのはての
*中西夏之という画家がいた・・・
絵をえがく
さいしょの動機
つらつらと
思いみるとき
幼児にもどる
*三つ子の魂とはいうけれど侮り難し・・・
ものなべて
幼きころの
記憶へと
帰りゆくらし
絵ふでが誘う
*描くとは絵筆の先と画面とのたゆまざる接触に次ぐ接触の末のできごとなのかもしれず・・・
苦き唾
咽喉にのみ込み
一枚の
自画像はいま
仕上がりにけり
*若い頃よく自画像を描いたあまり楽しくはなかった・・・
目に映る
それより昏く
ながれいる
河口のみずよ
大川に見る
*友人の展覧会が福岡県にある大川市立清力美術館でまもなく開催されるそのパンフレットを見ながら・・・
菊の花
みずにあふれて
長月は
いちにち置いて
命日のあり
*義父と父と一日置いて命日がつづく・・・
舌の脇に
歯科衛生士さんの
おゆびありて
しばしコロナの
災禍忘るる
*かかりつけ歯科医に通う9割以上歯科衛生士が面倒を見てくれる・・・
願わくば
祈りの如き
しずけさに
この身横たえ
ねむりたかりき
*不眠症だから仕方がないのかもしれないが眠剤あまり飲みたくない・・・
年老いて
しまいし父母の
行く末を
案ずるごとも
セミがまだ啼く
*自分の親のことかそれとも自分たちのことなのかやや不明な一首・・・

仙台ネイティブのつぶやき(66)外でゆらゆらと揺れる

西大立目祥子

 体調をくずした4年前、何か定期的に運動したほうがいいかなと考えて思い浮かんだのが太極拳だった。運動が得意じゃない私でも、ゆっくりと体を動かすのならできるような気がしたのだ。フラダンスもいいけど、あれはふくよかな体型でふわふわのロングヘアじゃないとね。
 近くに気軽な感じのサークルはないかなと思っていたら、チャンスは向こうからやってきた。近所でばったりと出会った知人が「私、いま太極拳の帰りなの」というではないか。聞くと、私の家から自転車で7、8分の公園で週に一度の練習をしているという。試しに見学に行ったら、ゆらゆらと揺れるように動き続ける動作がなんとも魅力的に感じられて、その場で入れてもらうことに決めた。

 このサークルはもともとすぐ近くの仙台管区気象台の職員が、昼休みの短い時間を利用して健康づくりのために始めたのだという。やがてOBが増えていって、そこに私が入り、公園でやっているから人の目につきやすいのかウォーキングしている人が入れてくださいと加わり、いまではほとんどが通りすがりに入ってきた人の集団になった。つい2日前の練習でも、また一人新たな人が加わった。でもまだ現役職員の人もいて、週末のくわしい天気情報や異常気象について教えてくれたりする。大型台風接近のとき気象庁の記者会見のテレビを見ていたら、東京転勤になった練習仲間が登場!ということもあった。週一の練習のときだけ会うわけだからちょっと距離がある一方で、1時間半ほどの間は同じ動作をともに繰り返すという何とも不思議な関係が続いている。

 仕事や用事で休むこともままあり、家で復習を繰り返す熱心さにも乏しい私でも3年が過ぎるころから、「24式」という基本のかたちは何とか身についてきた。自転車乗りと同じように、頭で次々と先の動作を考えなくても体は動く。とはいっても、型をそのまままねるように動くだけではもちろん不足で、からだの動きの一つ一つをじぶんの感覚で体得していくのは何とも難しい。自転車なら倒れずに走れれば体得できた、ということになるのだろうけれど、太極拳の場合はただまねているのか、本当に骨盤に体が乗っているのかをまだ習得の途中にあるじぶんが判断するのは至難だ。でも、スポーツのフォームや楽器演奏の姿勢をプロである先生が見れば、打てるか、いい音が出せるかがすぐわかるように、動作のまねにとどまっているか体を使い切って動いているかどうかは、先生はお見通しなのだろうけれど。

 昨年からは新しい人がつぎつぎと加わったこともあり、基本に立ち返り、ひとつひとつをていねいに復習する練習が多くなってきた。たとえば、「両腕で大きな球を持ち抱えるようにして動く」というのが太極拳の基本なのだけれど、あらためて意識しながら動いてみると、これまでのじぶんの動きでは不足していたことがわかる。より大きな弾力ある球体を、常にからだの前に抱え持っていなければならないのだ。これまで私が持っていた球は小さ過ぎたな、と教えられる。体得するとは、こうやって繰り返し繰り替えし基本に忠実に動く中で、からだの実感を深めていくことなのだろう。

 西洋と東洋のからだの使い方の違いについて、気づかされることも多い。たとえば、小学校で習い覚えたからだをピンと伸ばす直立不動の「気をつけ」の姿勢は、もろくて疲れやすい。太極拳では直立不動ではなく、膝と背をゆるめた姿勢をとる。この方が長時間立っていても疲れにくいのだそうだ。そして「お腹」というとき、中国では胴周りを、おへそまわり、その上の胃のあたり、さらにその上の胸に近いあたりと、3つの部位に分けて指し示すのだそうだ。背骨の関節を基本にして、お腹をとらえているのだろうか。だから、からだを前、後ろ、左右に倒す準備運動も、お腹の高さごとに4回ずつ、つまり12回もやるのです。

 と、こんなことを書くといかにも真面目な生徒のようだけれど、外での練習なので、ときおり吹き渡る風にうっとりとし、すこんと抜けたような青空に晴れ晴れとし、曇天は曇天でまた少し落ち着いた心持ちになるという具合で、相当にこの野外で過ごす気持ちよさに支えられているのは確かなことだ。
 いつもすぐ近くには、わざわざテーブルと椅子を運んできて麻雀に興じる年配男女グループがいるし、テリアやプードルや柴犬にリードをつけて集まっている飼い主集団もいる。
 汗だくになって走り続けるランナーがいるかと思えば、フードデリバリーのリュックを背負った若い人がベンチに座り込んでスマホを見続けていたりする。公園ののどかな風景を目にすると、私はすぐ集中力が途切れてしまい、子ども連れよりペット連れが多くなったのはいつごろからなのかなあ、デリバリーのお兄さんは時給いくらくらいなんだろう、などとつい世相を考えてしまう。
 そして、草の上で何かをついばむ鳥の姿に、帰ったら図鑑で名前を調べようと考えたり、腰をかがめば目に入る虫の動きに気をとられて人と違う動きをして苦笑い。振り返れば中学高校のころも、風が入る窓際の席でよそ見ばかりしていたっけ。

 こんな気の抜けた練習ではあっても確かに効果はあるのだと思う。9月はそれを痛感した。用事が重なり2週続けて休んだら、石でも詰まったようにからだが重く苦しくなり、椅子に座っているのもつらくなった。一昨日のわずかな練習で、石はどこかへ消え、ふっと楽な感じが戻ってきている。

 練習は冬も外だ。幸い屋根付きのスペースがあるので、雨が降っても、木枯らしが吹いても、雪がふっても外。みんな「外だからいいんだよね」といいあいながら集まってくる。気象台のプロが、「相当危険だから中止」と号令をかける以外は。

霧の彼方へ

笠井瑞丈

セッションハウス主催ダンスブリッジ
毎年行われているこの企画
今年も参加させていただきました
今年は家族出演の作品を作りました

ダンスブリッジの企画ではないですが
去年8月セッションハウスで
家族総出演の作品を発表させて頂きました

去年の作品構成は
前半ロック クラシック 環境音 様々な音と久子さんの言葉で踊り
後半Mozartのレクイエムの前半ラクリモサまでを踊りました

今回ほその続編という意味合いもあったので
前半にMozartのレクイエム後半部からスタート
後半はモンポーとシベリウス バッハのピアノ曲
今回は島岡さんというピアニストの生演奏で行いました

そしてピアノの生演奏に久子さんの書き下ろしの詩の朗読を
そして長男笠井爾示さんの空を撮った写真を壁に写しました

去年は作品の核となるシーンとして

ベートーヴェンの『テンペスト』をオイリュトミーで踊りました
ことしはバッハの『シャコンヌ』をオイリュトミーで踊りました

父笠井叡にフォルムをお願いし
兄と二人で音解析を行いました

不思議な事で音解析をする事により
今までと全く違うシャコンヌと出会いました

10分以上の長い曲なので五月頭から稽古に入り
四ヶ月近くシャコンヌと向き合った日々でした

この曲はとても大好きな曲で
以前 高橋悠治さんの演奏でも
踊ったこともある思い出の曲です

天使館に週に何度か
家族が集まり

稽古をする

そんな些細な時間

コロナという問題が起きたから
このような時間に向き会う事ができた
やはり家族は小さな宇宙みたいなもの

今はまだ困難なトキ
そして困難な時こそ
身体はそれを克服しようとする力を持つ
そのチカラが作品を生むチカラに変わる

作中に母の言った言葉

「壊れていくカラダを恐れるな」

母の言葉はチカラ強く
誰よりも大きい

今は

恐れるな前に進んで行こう

新・エリック・サティ作品集ができるまで(7)

服部玲治

「全体というのはない」
レコーディングを終えて、ある雑誌のインタビューで悠治さんがそう答えた。探る演奏、そうも言い換えた。テイクを重ねるたびに、異なる道程をさまよう悠治さんのサティ。そのありようを示しているように思う。
それにくわえて、濃密なレコーディングにともなった連日のおびただしい飲酒のせいで、どこに向かうかわからない演奏と千鳥足の酩酊が、記憶の中で奇妙にリンクして今に至っている。

焼き鳥屋での打ち上げ、酒も旺盛に進んだところでわたしは、思い切って、ある告白を悠治さんにした。わたしが3歳のころ水牛楽団のコンサートに連れていったこともある母は、父とともに60年代から学生運動に積極的に参加していた。わたしの名前は、父がつけたもので、子の時分、風呂に入っているときに由来をたずねたら、親友のペンネームからつけた、と言われたことを覚えている。あまりそれ以上詳しくは語りたがらなかった父。けれどやがて母から、その人の名は青木昌彦さんという学者のペンネームであることを知らされた。それは姫岡玲治といった。

時は経ち、レコーディングからさかのぼること1年前、佐野眞一の「唐牛伝」を読んだ母から突然メールをもらった。この姫岡玲治の玲治は、玲はレーニン、 治は親友の高橋悠治からとったと書いてあったという。自分の名前の中に、もうひとつ古層のようなものが垣間見えたようで、さらに以前から演奏に接していた存在が、どこか遠くからつながってきたようで、ひとり興奮を覚えた。
そのことを、酒の勢いも手伝って、鼻息荒く告白したように思う。が、こちらの劇的な告白の高揚感はよそに、そこまで盛り上がらず、いつしか別の話題に移行。宴は狂騒の中終わりを迎え、タクシーで悠治さんを送り出し、果てたように記憶している。

とはいえ、録音翌日、二日酔いのわたしのもとに悠治さんから届いたメールは、なによりの宝物になった。
「2日間きもちのよいチームワークでのしごとができました どんな響きになっているか たのしみです」。

むもーままめ(11)冷蔵庫買い替えの巻

工藤あかね

 調子良く物事が進んでいる時こそ、油断してはならない。そんなこと、すっかり忘れて生きていたのだけれど。

 つい先日、これは順調!と思える日があった。朝はそこそこ早起きし、洗濯機を回し、きちんと朝食をとり、作曲家とのリハーサルに出かけてみっちり稽古をし、いったん帰宅。午後から予約していたエアコンクリーニング業者の作業がサクサクと進んだおかげで、会期終了間際で行くのは無理かもしれないと諦めかけていた展覧会にも、急遽行くことができた。
 
 おまけに、帰り際ふらりと入ったお寿司屋さんが結構良くて、ホクホク。元気が出て調子に乗ってしまったのか、夕食を作る必要もないのにスーパーで生鮮食品などを買い込んで、自宅に到着した。

 ここまでは順調だった。超順調。完璧。

 それなのに、神様はどうして意地悪をするのだろう。私が調子に乗ったから?コロナ禍なのに展覧会とかお寿司屋さんに行ったから?

 自宅の冷蔵庫の下に怪しげな水もれを見つけたのだ。お化け屋敷に入る人みたいに超警戒状態で恐る恐る冷凍庫を開けてみると…ギャーーーーー!!!

 アイスクリームはドロドロに溶けて、ロックアイスは半分以上が液体に戻り、キノコ類はびしゃびしゃ、お魚もお肉も、今すぐ火を入れないと取り返しがつかないレベルまでぬるくなっていた。

 冷蔵庫からも冷気が出ていない。コンセントを入れ直したらなんとなく送風されているような気もしたけれど、だめだこりゃ。さっき買ってきちゃった、お肉やお魚や野菜はどうなるのーっ!!

 救えそうな食材という食材すべてに火を入れ、お弁当を作る時みたいに濃いめの味付けをした。せっかく夕食を食べて帰ってきたのに、おかずが大量にできてしまったので、酒盛りするしかなかった。無理して飲んだせいか、悪酔いした。

 翌日、冷蔵庫を買いに行った。痛い出費だけれど、冷蔵庫なしで暮らすのは厳しいから仕方がない。それにしても最近の上位機種には、共働きファミリーにも便利な機能がバンバンついている。ちょっと心惹かれたのだが、わが家ではハイエンド&大容量は求めていないので、物欲しそうな顔つきを封印してスルー。結局、野菜室が真ん中にある、使い勝手のよさそうな機種に決めた。

 あとは会計だけ、という段になった時、お店に常駐している携帯電話会社の営業が猛攻を仕掛けてきた。携帯電話の料金、自宅のインターネット環境、電気会社を見直さないか。うまくいけば今日の会計から大幅値引きができるという。説明は15分で済むから、ご検討いただいてから会計を、といわれて話を聞いたが、結局いろいろ契約をすることになったので3時間半座りっぱなし。まあ、携帯の料金が安くなるらしいのはありがたいけれど、電気屋さんに冷蔵庫を買いに行って、まさか会計を人質にとられるとは、予想外すぎた。

 数日後、わが家に新しい冷蔵庫が届いた。超快適である。こんな劇的なきっかけでもないと買い替える気にもならなかっただろうから、「塞翁が馬」かもしれない。家電はいきなり寿命がくるから、10年後くらいに壊れないかドキドキしながら構えても無駄だよね。それなら大いに信頼して油断して、バタッと壊れた時に急いで対処すればいいか。

木立の日々(2)「盗まれた工具」

植松眞人

「こだちって、可愛い響きですね」
 いきなりそう話しかけてきたのは今日初めて一緒にレジを組んだ中村くんだった。このホームセンターではレジのシステムにその日の担当者の名前を入力することになっている。そして、入力した名前がモニター画面の一番上にフルネームでカタカナ表示されるのだった。
「どんな字書くんですか」
「どうして?」
 木立はとっさにちょっと迷惑そうに答えてしまう。親しげに話しかけられることに慣れていないのだ。
「だって、わからないことって知りたいじゃないですか」
 中村くんはこの町に十年ほど前にできた大学の一年生で、可愛らしい顔立ちをしている。色白で目が大きくあごが小さい。今どきの若い男の子の見本のような顔で、目の上ギリギリで流された前髪は、流行の歌手のようだ。
「最初、すだちかと思いました」
 人の名前で遊ぶように言うと、中村くんは屈託なく笑う。その声が少し大きくて、通路の向こう側のレジをチェックしていた店長がチラリとこちらを見た。
「ほら、サボっているように見えるから大きな声で笑わない」
 木立がさらに意地悪そうに言うと、
「じゃ、名前の字と由来を教えてください。そうすれば黙っているから」
 この手の大人しいのか強引なのかわからない若いのが苦手だ。木立がこれまでに振り回された男の大半がこのタイプで、結局、こいつらは私を小馬鹿にしているのだと思う。
「木が立つって書いて木立。私が生まれた産婦人科が木立に囲まれていたのよ。私が生まれた日は風が強くてその木立が揺れていたの。でも、折れることなくしなやかに揺れる木立を見て父はその名前を我が子につけることにした。以上」
 私が唇をほとんど動かさず、小さな声で早口で説明すると、中村くんが「素晴らしい」とつぶやいた。何が素晴らしいのかわからなかったが、中村くんはそのまま何も聞かず、やってきた客の対応を始める。中村くんがレジを通した商品を木立は一つずつ客が持参したバッグに入れるのだった。
 朝から勤務していた中村くんが退社したのが午後三時。入れ替わりに木立のレジのサポートに入ってきたのが林さんだった。林さんは私より三つ年下だが、このホームセンターの別の支店からオープンニングスタッフとして移動してきた人なので仕事の上では大先輩といった存在だった。木立の教育係でもあったので、彼女と話す時は少し固い敬語になってしまう。
「中村、どう?」
 林さんが単刀直入に聞く。彼女が中村くんのようなアルバイトを信用していないということは勘でわかっていた。
「頑張ってますよ。若いから覚えも早いし」
 木立がそう答えると、
「覚えが早いのはどっちでもいいのよ。それより安心して任せておける人物かどうかだわ」
 林さんはそう言いながら、木立のほうをみてニヤリと笑う。木立が働き始めて三ヵ月ほど、すでに木立の後に入って辞めていった学生アルバイトが男女併せて三人もいる。男子一人、女子一人の計二名が三日目の朝に電話一本で「辞めます」と伝えてきたらしい。もう一人の女子は二ヵ月ほど働いたあと、店長に「林さんが怖い」と泣きながら訴えたのだそうだ。店長から緊急事情聴取を受けた林さんは、その女子アルバイトのこれまでの不手際と友だちが来店したときの馴れ合いの様子、さらに休憩時間の倉庫裏での喫煙を進言した。
「何も言わなければ、就業時間に遊んでいるし、下手すれば倉庫が火事になっていたと思いますよ」
 林さんがそう言うと、女子アルバイトは芝居がかった表情で、
「全部嘘です!」
 と叫んだそうだ。林さんは「全部嘘です、なんてドラマの中か、歌の歌詞でしか聞いたことがないわよ」と本人の前で大笑いしたそうだ。
「ねえ、でも、中村って、木立のタイプでしょ」
 林さんは木立が独り者だということを知っていて、時折、男関係の冗談を言う。下手をするとセクハラパワハラですよ、と笑って言い返すのだが、木立は特に気にしていない。それよりも、林さんには木立と同じ三つ年上のお姉さんがいて、そのお姉さんが去年病気で亡くなったのだということを聞いていたので、林さんの顔を見ながらお姉さんはどんな顔をしていたのだろうと想像してしまうのだった。
 林さんは背が高い。百七十㎝くらいはあるだろう。男の店長よりも背が高いので林さんを店長だと思っている客も多いらしい。店長は店長で、そのほうが気楽でいいや、と笑える人なので、林さんと店長は仲が良く、それがこの店の雰囲気を作っていると言える。店長はこの店がオープンするときに採用された大卒の中途入社で、前職はファミレスのスーパーバイザーらしい。この店長が一人前になったら林さんは東京の本部に戻るのだそうだ。
 午後八時に閉店し、スタッフが一斉に在庫のチェックや棚の商品の陳列の確認を行う。木立もその日担当していたコーナーの商品をチェックした後、控室に戻り帰宅の準備を始めていた。そこに林さんがやってきて、「ちょっと来てくれる」と木立を連れ出した。
「マキタのドリルセットがないのよ」
 林さんはスタッフ専用の喫煙所に木立を連れていくと、煙草に火をつけながら言った。朝日がカーテンの隙間から差し込んでくるときくらいに自然に言ったので、木立はしばらくそれがリアクションの必要な問いかけだということも失念するほどだった。
「ドリルセット?」
 ようやく木立が答えたときには、林さんは煙草を何度か吸ったあとだった。
「そう、マキタの」
 木立はマキタというブランドネームを受け取り反芻した。
「マキタの」と木立。
「マキタの」と林さん。
「ドリルセット」と木立。
「そう、ドリルセット」と林さん。
 やっと木立の中でマキタのドリルセットの具体的なイメージが浮かび上がってきた。
「手前に陳列してある一万五千円のやつですか」
 木立が答えると林さんは笑う。
「ううん。棚のいちばん奥に置いてある五万円超えるやつ」
 ここで初めて木立は驚いた。それは一週間前に木立が発注して翌日に届いた新製品だった。しかも、いま置いてあるマキタのドリルセットの中ではいちばん高いものだった。
「売れたという話じゃないですよね」
「そう、売れたという話じゃないの」
「盗まれたという話ですか」
「うん。盗まれたらしい」
 少しぼんやりした木立の言葉をいちいち型押しするように林さんは圧の強い物言いで世の中を明確にしていく。
「今日の午後三時過ぎになくなったことがわかっているの。その頃に盗難防止用のタグが解除されている」
「でも、あのタグはスタッフカードがないと外せませんよね」
 木立が言うと、林さんは半歩、木立との距離を詰めた。
「そう。そして、誰のカードで外されたかが記録されているの」
「じゃ、犯人は」
「犯人は木立なのよ」
「えっ」
 木立はここ数年でいちばん驚いた声を、ここ数年で発した中でもいちばん小さな声で口にした。
「わかってる。あなたが犯人じゃないことは。でも、記録上はあなたがタグを外したことになってるの」
 木立は動揺して、汚れた窓越しに店内の様子を見たり、喫煙所にやってくる他のスタッフたちの様子を見たりしていた。早く身の潔白を証明しなければ、という焦った気持ちになってしまっている。
「木立、大丈夫。落ち着いて。犯人は中村なの。あなたのスタッフカードをレジから持ち出して、ドリルセットのタグを外したの」
「いつのことですか?」
「タグを外したのが昨日の夕方。商品を持ち出したのは今日のバイト終わり」
 林さんは極力ビジネスライクに、自分の感情を込めずに話した。それは木立を慌てさせないための林さんの優しさなのだとわかった。
「中村ってミニバイクで通勤してるのよ。で、自分のバイトの制服でドリルセットを包んで持ち出そうとしたのをほとんど同時に入社した子に見られたのよ。で、それなにって聞かれて、慌てたんだろうね。アクセルふかしたら、足元に置いてた工具セットを落としちゃって、それでバレたってわけ」
 とても身近な童話をひとつ読み聞かせて幼稚園の先生のように、林さんは木立にニッコリと笑いかけた。
「というわけで、ドリルセットは箱が汚れちゃったので、明日から二十パーセント割引で出すから」
 そう言うと、林さんは煙草を消して、喫煙所から出て行く。そして、あっ、と小さな声をあげるともう一度木立のところへ戻ってきてこう言った。
「もちろん、中村はもう来ないから。客として来たら断れないけど、相手しちゃだめよ」
 そう言うと、林さんは店内に戻っていった。木立は照明が半分消えた駐車場のほうに顔を向け、一台また一台と消えていく客の車を眺めていた。そして、盗んだばかりのマキタの高級ドリルセットをスクーターの足元に置いて走り去ろうとしている中村くんを思い浮かべようとした。すぐに彼のバイクと彼の顔を思い出したのだけれど、マキタのドリルケースのパッケージデザインだけが浮かばなかった。(了)

『幻視 in 堺~能舞台に舞うジャワの夢~』公演のお知らせ

冨岡三智

もう10月…というわけで、今回は今月23日に迫った主催公演の宣伝である。秋以降にはコロナもだいぶ収束しているのではないか…という期待を持って進めた企画で、練習場所を分散したりオンラインを組み合わせたりして練習を乗り越えてきた。なんとか無事に実施できたらなあと思っている。


公演: 幻視in堺 ― 能舞台に舞うジャワの夢 ―
    ジャワ舞踊&ガムラン音楽公演

日時: 2021年10月23日 (土) ①12:30~ ②16:00~
場所: 堺能楽会館・能舞台

プログラム
前半: 舞踊『ガンビョン』(オリジナル振付)
    間狂言(あいきょうげん)
後半: スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・ロボン』(完全版)

※ 堺市文化芸術活動応援補助金対象事業(舞台芸術創造発信事業)

● 幻視 in ~ シリーズ

タイトルに『幻視 in ~』とあるが、実はこれをタイトルにした公演は今回で3回目である。1回目は1998年10月、最初の留学から帰国した年に国営飛鳥歴史公園の野外で実施した『幻視in飛鳥~万葉人の見たジャワの夢~』で、スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』を単独で上演した(録音使用)。ちなみにスリンピは4人の女性で踊る舞踊。日没時間を調べて、曲の第1部の終わりで日没となり、第2部で篝火を焚くという風に構成した。ただ、台風がきて1週間延期した上に開演前にまごまごしていたら、開始時点ですでに暗くなってしまったが…。古代から異国文化が入ってきた飛鳥の地でふと目にしたかもしれないような舞踊の幻影…というイメージを創り出してみたかった。

2回目は2005年11月に橋本市教育文化会館大ホールで行った公演『幻視in紀の国~南海に響くジャワの音~』。今回の公演にも出演するダルマブダヤの演奏で、自分で振り付けた『陰陽 ON-YO』と男性優形の舞踊『スリ・パモソ(人の歩む道、の意)』を上演した。『ON-YO』は宮廷舞踊のような感じで作ってもらった曲で、私はドドッという宮廷特有の衣装を着て踊った。この時は橋本市で狂言を習っている姉妹が扮する太郎冠者と次郎冠者が、ジャワ王家を守護するという南海の女王の宮殿に迷い込み、女王の私に出会う…という物語構成にした。南紀からジャワの南海が地下水路でつながっていくようなイメージを出してみた。

そして3回目が今回。今回は能舞台でジャワ舞踊を上演する。前半では現世の女性が登場し、その一生を舞踊で語る。それを聞いていたのは、南蛮船の荷にあったジャワの影絵(ワヤン)から抜け出てきた二人の男。彼の地の言葉やらいろんな言葉を駆使して堺の町をさまよっている間に、松原の向こうに天女が降り立つ姿を垣間見て心を奪われる…。この人の男の場面は機能的にはまさしく間狂言(二場物の能で前ジテの退場後,後ジテの登場までのあいだをつなぐ役)なのだが、『幻視 in 紀の国』の公演の時の太郎冠者、次郎冠者のシーンも私は間狂言とプログラムに書いていたことを最近発見した。間狂言を挟んで異次元にいく構成が私は好きらしい…とあらためて気づく。前回は間狂言をはさんで女性から男性へと変わり、今回は現実の女性から天女へと変わる。

● 間狂言とワヤン

今回の間狂言ではジャワ人のローフィーとナナンがワヤン人形から抜け出したキャラクターになって港町・堺をうろうろする。実はこのシーンは2人に任せているので(全体の構想はあるが)、どうなるか私も予想がつかない。声が低くて老成した雰囲気のあるローフィーと、声が高くて年齢以上に若く見えるナナンがコンビで動いたらきっと面白いに違いないと思っている。2人をワヤン人形から抜け出したキャラクターにしたのは、実は会場の堺能楽会館・館主の大澤徳平氏との話から思いついた。この能楽会館は、大澤氏の母が私財を投じて創設した個人所有の能舞台である。大澤家は堺で江戸時代から続く商家で、自宅は空襲で焼けてしまったが、ワヤンのような人形があったのだと言う。最初の打ち合わせで大澤氏と会った時に、共演者たちの舞台写真を色々見せていたところ、ワヤン上演の写真に目を留めて、こんな影絵人形がうちにもあったよ…という話になったのだった。どういういきさつでその人形が大澤家に来たのか今となっては分からないが、なんだか堺を感じさせる話だなあと思っている。

● ガンビョンとスリンピ

ジャワの芸能は大きく宮廷起源のものと民間起源のものに分かれる。女性舞踊であれば、宮廷舞踊はスリンピとブドヨ、民間舞踊であればレデッ、タレデッ、ロンゲンなどと呼ばれる女芸人の舞踊(スラカルタの場合はガンビョン)しかない。1817年に書かれたラッフルズの『ジャワ誌』に掲載されている女性舞踊の種類もスリンピ、ブドヨ、ロンゲンの3つしかない。現在は舞踊の種類も増えているが、それらはスリンピ+ブドヨ極とロンゲン極の間に存在し、両極の性質が混じっている(他の外来要素が混じっていることもある)と言える。だからこの公演ではこの2極を見てもらう形になる。

この2極の特徴を対比してみると、
宮廷舞踊(スリンピ+ブドヨ):ブダヤン斉唱が作るメロディーにのって踊る、歌い手と踊り手が分離、大太鼓を使う、集団で決まった振付を踊る
民間舞踊(ガンビョン):太鼓が作るリズムにのって踊る、歌いながら踊る、チブロン太鼓を使う、1人で半ば即興的に踊る
となる。

留学していた時、私はスラカルタ宮廷のスリンピとブドヨの元々の長いバージョンを全曲修得するという目標を立てたが、同時にガンビョンを自由に踊れるようになりたいという目標も立てた。ガンビョンには、太鼓の展開パターンや規則に従いつつも半ば即興的に踊る余地がある。女性が歌いながら踊るという煽情的な踊りがガンビョンの元になっているため、実はガンビョンが一般子女が踊ることのできる健全な舞踊になったのは1960年代以降である。その健全化の過程の中で、ガンビョンは宮廷舞踊のように集団女性が決まった振付を踊る舞踊へと変化していった(これには市販カセットの普及という要素も大きい)。しかし、太鼓との駆け引きの中で自分の個性で踊るのがガンビョンの醍醐味だと私は思っている。

ガンビョンはチブロン太鼓の奏法と共に発展し、実はどんな曲でも踊ることができる。大別すればラドラン形式の曲で踊るか、グンディン形式という規模の大きい曲で踊るかの2種類しかない。それで、既存の曲(カセット化されている曲)を全部習ったあと、太鼓の先生にいろんな太鼓のリズムを叩いてもらって録音し、それを舞踊の師匠の所に持って行って練習した。師匠のジョコ女史はまだパターン化する前のガンビョンを知っている世代なのだった。というわけで、今回もそうだが、私が生演奏でガンビョンを踊る時は全体の演出と太鼓の手組を自分で考える。カセットと同じこと、そして過去の公演と全く同じことは二度としない。これは太鼓奏者と演奏者の1人がジャワ人で、私の意を汲みとって形にしてくれるからこそできるというのもある。伝統曲で新しいことをするのは意外にむずかしい。外国人ガムラン奏者だと、どうしても正しいか正しくないか(カセット録音されたものと同じかどうか)という点が達成度を測る目安になってしまいがちな気がする。

逆に、スリンピやブドヨは古い長い振付(40分~1時間)で踊るというのが私の信条である。ジャワでも王宮であれ芸術大学等であれ、短縮したバージョン(15~30分)を踊るのが普通になっていて、たぶん短縮しないバージョンを公演した経験では私は多い方に属するかもしれない。宮廷舞踊は曲の展開と振付が対応している。短縮版ではこの対応関係がずれてしまっている場合もあり、不満を感じることも多い。宮廷舞踊はその長い振付構成でなければ場面展開の構成のうまさや動きの妙は伝わりにくい。

思えば、日本で4人揃ったスリンピをした公演するのは今度が初めてである。2012年の島根公演では4人揃っていたが、あの時はインドネシア国立芸術大学スラカルタ校の一行を招聘し、私以外の3人の踊り手も芸大の先生たちだった。しかし、今回の上演では踊り手4人とも日本在住者である。うち2人は元々スラカルタ王家の踊り子で、結婚して日本に在住している。今回の出演者は、岸城神社(岸和田市)で2009年から10年間、毎年『観月の夕べ』公演を一緒にやってきたメンバーが中心だが、もう1人の踊り手の岡戸さんは私と留学先の大学も大学院(大阪)も同じで、何度かこの『観月の夕べ』公演に出演している。

今回上演する『スリンピ・ロボン』では、踊り手は弓を手に優雅に戦う。後にパク・ブウォノVIII世となるスラカルタの王により1845年に創られた。同じくVIII世が即位前に作った作品としては、他に『スリンピ・ガンビルサウィット』(1843)、『スリンピ・ラグドゥンプル』(1845)があり、動きの語彙や展開に共通性が見られる。

というわけで公演PRに終始した今回の記事だが、私のジャワ舞踊観も少し知ってもらえると嬉しい。

『アフリカ』を続けて(4)

下窪俊哉

 この夏、犬飼愛生さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を「アフリカキカク」でつくって、雑誌『アフリカ』と同様に、主にウェブで販売している。犬飼さんは詩を書く人(詩人)で、これまでに詩集を3冊発表しているが、エッセイ集は初めて。2009年から今年(2021年)前半にかけて『アフリカ』に発表してきたエッセイと、『京都新聞』の「季節のエッセー」に書かれた連載を中心に、未発表原稿を含む27篇+α をたっぷり収録した。

「アフリカキカク」というのは、極私的な出版社(出版体?)で、もともとは「アフリカ企画」だった。『アフリカ』を始めた時に、版元は『アフリカ』を企画しているところだから「アフリカ企画」でいいんじゃないか、と考えて適当に名づけた。いつから「アフリカキカク」になったのだろう? 覚えていなかったので調べてみたところ、vol.14(2012年5月号)からのようだ。意味をあやふやにして、「企画」「規格」あたりを匂わせつつ、どうとでもとれるように「キカク」とカタカナにしたのだろうか。あるいは、カタカナにした方が洒落てるな、と思ったのか。よく覚えていない。いい加減だ。
 最近、「アフリカキカク」でつくっている本の大半は書き下ろしではなくて、10年、20年の間に書かれたものを集め、著者と共に(自分が著者の場合はふさわしい誰かに付き合ってもらって)じっくり読み直し、手を入れようとなったものには手を入れて、編集している。そうすると嫌でも、時間の蓄積を感じる。

『それでもやっぱりドロンゲーム』には「デザートのように」と題された前書きがついていて、その文章だけは私(下窪俊哉)が書いている。犬飼さんから「編集者のことばがほしい」と言われて、そのリクエストに応えた3ページ、その中で、『アフリカ』には当初、詩作品を載せないつもりだった、と書いた。ほんとうにそう思っていた。詩の雑誌は当時、身近にたくさんあったから。
 詩を書く人たちの間では、まだ同人雑誌の営みが生きている。小説を書く人たちの間からそれが消えつつあるのは、なぜだろう? と考えると、出版社が公募している新人賞が流行っているからだろうと想像はできた。人は金のなる木に群がるのであり、金の離れていくような木には寄ってこない、というわけか。
 それなら、まあ仕方ないかな、と思う。けれど、なぜ書こうと思うの? といえば、動機の物語は、書く人の数だけあるはずだ。それを読むのにふさわしい場所は、いろいろあるはずなのだ。
 自分はどうか? 私はそんなに、書くことが大好き! というわけではなさそうだ。むしろ、書くことを強制されたら苦しくなる。小説も書いてはきたが、小説をこそ書きたいとは考えていない。理想を言えば、いろんな文章を気ままに書いて、気ままに読むなら、いいのだけど。それではたぶん職業にはならない。
 ただの個人の営みにしてしまえば一番自然なのかもしれない。
「アフリカキカク」は、いわばプライベート・スタジオである。でもせっかくつくるなら、自分だけが使えるスタジオというのでは詰まらない。いろんな人が入ってこられるような「場」をつくりたいと思った。

 最近は、文章教室という名のワークショップをひらいて、『アフリカ』をつくる際にメールで行われている”セッション”を現実の空間の中で、顔を突き合わせてやってみている。そこでは各々が書いてきたものを読んで、例えば、どうしてフィクションが書かれるんだろう? というような話をしたり、個人的なことを書いて、それって他人に読ませるようなものだろうか? という話をしたりする。

 ことばはどこから来るんだろう?

 もともと私は23年前に、大学の文芸創作ワークショップに入って書き始めた。それ以前には、自分の作品ですと言えるようなものは何ひとつ書いたことがなかったし、書こうともしていなかった。たまたま巡り合って、入学したそこで影響を受けて、書き始めた。
 そこで過ごした時間の一端は、今年の春に「アフリカキカク」で本にした『海のように、光のように満ち〜小川国夫との時間』という本の中に書いてある。
 ことばというものを考えるうえで私の先生となった作家・小川国夫さんは、はじめて雑誌をやろうとしている若者(私)に声をかけて「仲間とやりなさいよ」と言った。「親しい友人とやるというのじゃない、雑誌をやることで仲間になるんだ」と。
 そういうわけなので、私はひとりぽっちで書いていた経験がない。いつも必ず身近に読者がいた。彼らはいつも親身であり、厳しくもあった。また自分自身も常に、誰かの身近な読者だった。書き手と並走できる、よき読者に恵まれるかどうかは書く人にとって大きい。雑誌はそういう人との出合いを生み出す「場」でもある。
 よく思うことだけど、雑誌という「場」にとって、ほんとうの主役は書く人ではなくて、読む人なのかもしれない。

 さて、20年前に「消えつつある」と思っていた個人的な雑誌の営みは、じつは社会のあちこちで生きていて、続いていた。自分が知らなかっただけかもしれない。最近はよく、SNSを通じてその存在が見えてくる。「雑誌」と言うと不思議そうな顔をされる。「ZINE」と呼ぶ方がしっくりくるらしい。いまの『アフリカ』にはエッセイも小説も(詩も!)漫画も写真も、対話の記録も載っていて雑誌らしく(?)なってきたが、もともとは短編小説と雑記だけだった。少なくても人が集まって、つくっているのを見るといいなあという気持ちがわく。たまに、こんな書き手がいるのか! と驚くような出合いもある。彼らにはプロフェッショナルの自負どころか自覚もないだろう。洗練されてはいない、粗削りの中にこそ感じられることばの力というものもあるような気がする。

しもた屋之噺(236)

杉山洋一

2021年10月1日。今日はブソッティ90歳の誕生日です。中学生のころ、澁澤全集と漆黒のサド全集を古本屋で蒐集して、ロートレアモンと一緒に読み耽っていた自分にとって、ブソッティは、澁澤の耽美で倒錯した世界を具現化する稀有な存在でした。
尤も、イタリアで知己になったブソッティの印象は少し違って、三輪明宏と寺山修司、そこに政治信条こそ違えども、僅かばかりの三島由紀夫のエッセンスを雑ぜたような、刺激的で不思議な存在でした。
パゾリーニを想像させる部分もありましたが、底辺には常に音楽とオペラが流れていたように思います。

9月某日 三軒茶屋自宅
昼過ぎ、鈴木優人君のオルガンを聴きに初台に出かける。自転車を漕いで渋谷でPCR検査の陰性証明を受取り、そのまま宇田川町を抜け初台へ向かった。躰が困憊しているのを痛感。鈴木君の演奏を聴いていると、溌溂とか颯爽、闊達という形容詞が頭に浮かぶ。
グランドオルガンが、こうも切れ味良く、メリハリのある楽器だと実感していなかったので、認識を刷新した。聴いていて、ふと、シャリーノの2台オルガンのための「アラベスク」の楽譜を、ぜひ彼にプレゼントしたいと思う。
昨年はオーケストラをオルガンに見立て、彼のオルガン演奏、指揮姿を頭に描きながら作曲したが、その想像通りだったので少し驚いた。オルガン奏者も指揮者も、聴衆に背を向け演奏するのは等しい。
アンコールは、この所家人が家で練習しているバッハのフーガであった。
演奏会後、外は酷い雨が叩きつけていて、持参した雨具を着込み自転車に跨る。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京よりお便りをいただく。
「作曲家は間に合わないと叫びますが、間に合います。M式のひとつは、全く違う質やジャンルの仕事を同時並行でやることでした。編曲のことですが、おかしな例えだけど、毛糸のセーターの糸を解いては蒸気に当て、糸を柔らかくして編み直す。色も形も同じだけれど、新しい編み手がいるということかな」。

9月某日 ミラノ自宅
一日、川口成彦さんのための作曲。
パラリンピックが終わるや否や、ドイツは日本を感染拡大国に指定した。
イタリアは市民のワクチン接種を義務化するという。それに対し、8割の国民が賛成しているそうだ。徹底的に経済が打撃を受けたので、仕方ないのだろう。これからどうなるのか。

母が結婚前に世話になった、小田原は関本の大角の照ちゃんの行方を捜していたところ、インターネットの電話帳にそれらしい名前が見つかる。
早速母が電話すると、照ちゃんは肺炎で4年前に亡くなっていた。94歳のご主人は矍鑠としていて、半世紀以上経って初めて電話したのに、直ぐに誰だか分かったのよ、と母は驚いていた。

アリタリア航空が10月で会社を閉めるので、引延ばしていた家人と息子のチケット払戻しのため、朝から電話を繋ぎっぱなしにして仕事をする。新聞では誕生から現在までのアリタリア航空の変遷を紹介する記事が盛んに掲載され、「アリタリア航空」の名義を公に売りに出している。
右肩から腕にかけて、誰かが乗移ったような妙な感覚。

9月某日 ミラノ自宅
イタリアに戻って感じるこの解放感は一体何か。さして日本で清廉潔白に過ごしているわけでもあるまい。正しく音楽をやり過ぎているというのか。
ツインタワーのテロから20年が経った。自分の人生に於いて911は大きな転機となった。同世代で同姓同名の杉山陽一さんが犠牲になられて、まさかお前じゃないだろう、お前は元気かと何度となく連絡を貰い、その度にツインタワーの映像が甦った。
彼のお名前は漢字は少し違うけれど、ローマ字では同じ綴りだ。
その所為か、完全に他人事とは思えず、烏滸がましくも自分は生かして頂いている、暮しの節々でそう感じるようになって、現在に至る。
911を機に自分の音楽も次第に社会に近づいていったが、日本に住んでいれば違ったかも知れないし、やはり同じだったかもしれない。

気にかけてくれる友人も恩人もいるし、彼らは亡くなっても、どこかで等しく気にしてくれているように思う。塞翁が馬だと感じつつ、生き長らえる中で、漸次パズルは解けて来た。パズルが完成してあちらの世界に行ったとき、落語の「朝友」のように、別の生き生きしたパラレルワールドが広がっていることを期待している。

昼過ぎ、電話をしていると物凄い音がして、窓ガラスに鳥がぶつかった。
夕方、窓ガラス下の黒い物体に気が付いて、良く見ると黒ツグミが死んでいた。
目から一筋、細い血が流れていて、躰を持ち上げるとベランダには体液の染みが残った。ツグミの巣のある土壁の袂、随分前に息絶えていたツグミを埋めた辺りに、穴を掘って埋めてやる。

9月某日 ミラノ自宅
明け方川口さんに楽譜を送ったので、これから少し寝ようと思う。次の譜読みにどれだけ時間がかかるか、ある程度の目算を立ててから次の作曲にかかりたい。
前回、巨視的に作曲した同じプロセスを、今回は微視的、内視的にやろうとしている。

ここ暫く、一家総出で庭に集う黒ツグミたちの囀り声は姦しいほどだったが、昨日の一件以来一羽も現れず、静まり返っている。悼んでいるのか、慄いているのか。
昨日死んでいた鳥に何があったのか、判然としない。何かの拍子にパニックに陥り窓ガラスに突進したのだろうか。
附近には背の高い梢が並んでいて大小様々な鳥が訪れるが、空を羽ばたく姿を眺めていると、人間より余程能力が長けているように思えてならない。
玉葱を軽く炒めて古いゴルゴンゾーラチーズを絡め、パスタを加えて茹で汁で全体を伸ばしよく馴染ませてゆく。秋の味がする。

9月某日 ミラノ自宅
家人がメタテーシスやピアソラを弾くオンライン配信を聴く。メタテーシスもこなれて来たのか、彼女が弾くとフリージャズのように響く。元来旋法的に書かれていて、それが目まぐるしく変化し、重複してゆくから、ある意味当然かもしれない。悠治さんのお話を伺っていると、音符をデジタルに再生する必要はないようだから、フリージャズやルイ・クープランのように弾いても構わないだろう、などと思いつつ楽譜を貼っていて、ブソッティの訃報が届く。
シルヴァーノがこの夏も無事にやり過ごせて良かった、10月1日、90歳の誕生日を皆が賑々しく祝うだろうと考えていた矢先だった。

9月某日 ミラノ自宅
学生時分、間借りした部屋の幼児の幽霊に水を出すようになって以来、宗教心は皆無のまま家族や恩師、友人らに水を上げ、手を併せている。今朝からそこにブソッティも加わる。宗教とは無縁だから、彼も気にしないだろうし、死は逝く本人より残された周りの人間が作り上げる概念だろうから、当人は最早興味もないだろう。

ブソッティは火曜に荼毘に附された後、土に帰されるだけだという。宗教儀式を一切執り行わないのは、故人の宗教観に基づく。告別式も葬式もなくてはお別れも言えない。マンカはブソッティの訃報が報道機関から不当に軽視されていると憤慨している。彼曰く、エツィオ・ボッシはテレビの追悼番組まで作られたのに、べリオもドナトーニもブソッティが死んでも、皆一様に知らない振りをしている。

9月某日 ミラノ自宅
亡くなった人を想い浮かべるとき、死後そこには彼らの優しさだけが残る。生前彼らが周りに分け与えた愛情だけが残る。恩師や家族、友人も等しく、その温もりだけが、残り香のように漂う。死ぬと人は誰でもそうなるのか。自分がいなくなった時、誰かに向けて同様に温もりを留められるだろうか。
死ねば数ケ月と待たず自身の痕跡も記憶も消失するだろうが、自分の個が明確でなくとも、何某か微かな温もりが、空気か土か、コンクリートかアスファルトの上に、ほんのり色を加えられれば倖せかもしれない。
ブソッティの訃報を受けて、そう思う。

フォルテピアノの川口さんは、既に「いいなづけ」の本まで落掌されたそうだ。深謝。
今から200年前の1827年、マンゾーニはそこから更に200年遡った1629年から2年間に亙るミラノのペスト大流行の姿を資料に基づき忠実に描いた。
「いいなづけ」から100年後にスペイン風邪、200年後にCovid-19がミラノを舐めてゆくなど、露ほども考えないで書いたのだろう。
さもなければ、ペスト禍のミラノをあそこまで緻密に描きあげなかったに違いない。
昔、ミラノにはこんな惨事があった、と透徹に後世に伝えようとしたのだろう。
スペイン風邪は知らないが、Covid-19に関しては、当時ワクチンこそなかったにせよ、陰謀論者が現れるところまで、マンゾーニが書き残した世界は現在と酷似していて、読んでいて居心地が悪くなる。

9月某日 ミラノ自宅
「水牛」に書く原稿と自分の作曲が、最近頓に似てきている。私事と公事を区別せず、日記を並置してゆく。それは概念的でも観念的でもなく、音や文章を無から捻り出す能力や創造力の欠落であり、それ以上でもそれ以下でもない。
1月に東京で演奏した、ブソッティ「和泉式部」断片を、久保木さんが故人を悼んでヴィデオ編集してくださっていて、感謝している。

9月某日 ミラノ自宅
久しぶりにスカラに出かけ、ティートの演奏会を聴く。
桟敷入口でワクチンパスポートを提示し、検温して入場する。知合いに会うのが煩わしく天井桟敷に席をとると、目の前で6人ほどの若者が天井桟敷最前列から身を乗り出し、熱心に聴き入っていた。
作曲を勉強する一団だったようで、フィリディ新作の演奏が終わると興奮冷めやらぬ様子で絶賛しながら、それぞれ口角泡を飛ばして意見をまくしたてている。
彼らの一致した意見によれば、フィリディの最高傑作は「葬式」だそうだ。そんな瑞々しく情熱的な姿を、好感を持って眺める。
後半ドナトーニが始まると、面白そうに聴くものと、スマートフォンを取り出しチャットを始めるものと別れた。チャットの彼の携帯電話は、目の前で画面が点滅して煩わしいが、平土間前列の婦人など、前半からスマートフォンを触り続けているから、この若者を批難する気はおきない。
演奏後、ティートはドナトーニのスコアを高々と聴衆に掲げて賞賛を示した。冒頭の低弦楽器の部分の扱いが流麗で感嘆する。
演奏会最後はストラヴィンスキー「うぐいすの歌」だったが、オーケストラでピアノを弾くヴィットリオが余りに際立っていて、思わず演奏会後に彼にメッセージを送った。

9月某日 ミラノ自宅
ブソッティの告別式も葬式もないと聞き、ちょうどフィレンツェで行われている、ブソッティ90歳記念行事の一つ、Bussotti par lui-même 上映会に出かける。
LGBT、性的少数者の関わる映画祭の一環でもあるので、カヴール通りのLa Compagnia映画館の受付や観客もそれらしい風貌の人たちが集って賑々しい雰囲気だ。
観客の殆どは音楽関係者ではなかったようで、上映会後、観客からは、彼の音楽をもっと聴きたいとの声が口々にあがった。
上映前の簡単な座談会で、ロッコが、スイス国営イタリア語放送局のこのドキュメンタリー番組制作当時の逸話を話す。
当時自分はまだ23歳で未熟だったから、即興で踊りを繋ぐこともできず、途方に暮れながら3小節間立ち尽くしたこともあるという。尤も、観客には、トルソの3小節も充分深い印象を与えたに違いない。
スイス国営イタリア語放送がデジタル化したこの番組は、原版が傷んでいたというために、ロッコが「友人のための音楽」や「水晶」を踊る場面や、エリーズ・ロスが「サドによる受難劇」を歌う場面も割愛されていた。

ロッコ曰く、マスクをしていたから、最初は誰だか分からなかったそうだが、それにしてもお前はなぜフィレンツェにいるのかと驚かれる。
追悼式の予定がないのは、遺言でもなんでもなく、単に今のところ誰からも提案がないからだそうだ。自分で企画したら、誰に任せて誰を招くのか、到底決めかねると言う。
イタリア国営放送ラジオでは、オレステが特別追悼番組を放送して、ブソッティの死を悼んだ。

9月某日 ミラノ自宅
「50年前の演奏です。50年前のふたりです」
雨田光弘先生から、50年前にご夫婦で演奏している録音が送られてきた。日付は1973年8月16日。今はなき福井の松木楽器店の録音、とある。
サンサーンスの「白鳥」と光弘先生の音楽を奏する動物画とともに始まる。
痩せて華奢な信子先生が、ぴんと背をのばし、飄々とした面持ちで演奏される姿が目に浮かぶ。
先生の掌を思い出しながら、ほろほろ、ほろほろと紡ぎ出される音に聴き入る。
無心で耳が音を追うに任せる。音に先生の思いでを投影しながら聴きはじめれば、きっと落着いて耳など傾けていられない。
去年の正月に先生宅を訪れて、おせちを少しご馳走になった。あれからもうすぐ2年になるなど信じ難い。7年間も習っていたが、それは酷い生徒だった。

9月某日 ミラノ自宅
夜半早朝、秋らしさが増してきたとはいえ、未だ緑の葉に覆われている庭の樹の梢で、今朝はリスが盛んに尾を振っている。裏の線路と隔てるレンガ壁に垂れた枝を伝って、茂みに潜り込んでゆく。

久しぶりに入試でマリアに会う。血栓の出来やすい体質でワクチンが打てないと聞いていたから、ワクチン接種証明がなければ学校にすら入れない昨今どうしているか心配していた。相変わらず元気そうで安心したが、48時間ごとに自費でPCR検査をしているという。「もちろんよ。これがなければ、働かせてもらえないんだから」。

9月某日 ミラノ自宅
東京の家人より日本で打ったワクチン接種証明の写しが届く。一昨日それをグリーンパス発行の保険局のサイトに登録したところ、今日、グリーンパスを発行する暗証番号とQRコードが送られてきた。
母からは、笑顔の父の近影が掲載された小冊子の写真が届く。電話口で「どこの好々爺かと思ったわよ」と笑っていた。

先日の入試で、ヴァイオリンのフランコ・メッツェーナの講習会伴奏をしていたナポリ国立音楽院の大学院生、ガブリエレが入学した。大学院は10月半ばに修了予定だそうだ。
南イタリアの学生らしく、とても慇懃で、幾分古めかしい言い回しのメールが届く。
「先生のクラスへ入学許可を頂き誠に有難うございます。大変嬉しく存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。お礼を申し上げておきながら、早速このようなメールを差上げる失礼をお許し下さい。レッスン開始から2週間は、カラーブリアの実家に戻らなければならず、すぐに先生のレッスンを受けられないのです。大変申し訳ありません。実家のオリーブ収穫を手伝わなければならなくて」。
「全く問題ないですよ。いいね、カラーブリアのオリーブだなんて。羨ましいです」。
「もちろん先生にはお届け致します。これもわたくしどもの習わしです。どうぞ楽しみにしていて下さい」。
(9月30日ミラノにて)

天道虫の赤ちゃんは天道を見ることができなかった(下)

イリナ・グリゴレ

手術を受ける日はすぐ決まった。難しい手術でも成功させるという若手外科医を紹介された。私は黒い水に溺れる感覚だった。この感覚は子供のころにもあった。村の外れの沼地のこと思い出す。育てられた村は沼と森に囲まれていた。この村を出たら、私はあの黒い沼に溺れるに違いないという予感があった。村の外にあったとうもろこし畑にたどり着くためには、森に沿った道を30分歩いてから、沼地の近くを通る。でも、私はあの沼地のそばを歩くと寒気がした。自分の身体の外側にある沼にも関わらず、身体の中側にまで広がっている気がした。

小学校に通うために町に引っ越してから、毎日のように沼で溺れる夢をみ続けた。黒い水の中に自分の体が沈んでいるのを感じた。水草の間で息ができなくなる感覚があまりにもリアルで、夢から起きてもしばらく息が苦しかった。

CTスキャンで自分の体の映像を見たとき、自分の中に沼地の一部があることを確信した。この世界にある、何か黒い、悪い、恐ろしいものが「私」だけのものではなく、みんなにあると思った。私が病気ではなく、世界が病気だ。私はただ、生まれた。生まれてきた命が謝る必要はない。生まれたらどんな状態でも、生きる。

小学校の遠足でブカレストの国立自然史博物館を訪ねたときに、人間の体の構造の展示を見た。たくさんの本物の人間の器官が白くなって、透明なビンに浮かんで、棚に並べてあった。腎臓、心臓、肺、卵巣、脳。その次は、様々なステージの胎児、実物はすべて透明なびんに浮いているままで飾られてあった。生きてないと知っていたが、目が合った気がした。「大丈夫、こっち側も同じだから、こっち側にもあなたと同じ実験を生きている」と言いたくなった。人生で初めて見た展示はかなり衝撃的だったが、共感して、私の身体も世界という大きな展示場にぶら下がっていると思った。

現代とは、客観的にみれば人間の身体に何をしてもと許される時代なのだとなんとなくわかった。でも展示されていた胎児たちのイメージがずっと頭から離れなかった。手術前にあの胎児たちを思い出しながらピンク・フロイド
の『Embryo』という曲を聴いて、病院へ一人で行って入院した。Embryoは胚という意味だ。

麻酔から覚めたら、裸のまま集中治療室のベッドで機械に繋がっていた。痙攣しても、誰も気づいてくれなかった。動けないままで、どうやって前の状態に戻るのかわからなく、ひたすら機械で自分の心臓の音を聞いていた。耳から入ってくる周りの情報を少し把握しはじめた。同じ集中治療室に何人かの患者がいることがわかった。痛みに耐えられなくて大きな叫び声を出している男性の声が体に響く。恐ろしい声だった。やっぱり、手術しても同じだ、同じ世界に戻る。叫ぶ患者の気持ちがわからなくもない。私も叫びたいが痛みが強すぎて声がでない。元々声があったのか。このベッドに置かれている私は世界からみればどうでもいい。あの博物館の胎児と同じだ。透明なねばねしたば液体に浮かんで、身体が白くなるまでここにいるのかもしれない。裸で、寒い、動けない。麻酔のために喉が乾いて唇の皮膚から血が出て、唇がくっついている。あまりの苦しみにただボロボロと涙が出る。自分の涙が頬に流れるところがかゆいけれど、手を使えないから、涙はただただ流れる。意識と感覚だけはあるのに、身体が動かせない。完全に麻酔からまだ覚めてない状態がしばらく続いた。その後、何回も痛みで気絶した。

何時間たっても麻酔からはっきりと自分の体の感覚を取り戻せないから、起きていることに誰も気づかない。しばらくすると病院の男性看護師が私の口を水に濡らした布で拭いた。ものすごく喉が渇いてい、たからあの優しさに感動した。私は裸だと気付いた。寒いと気付いた。他の看護師を呼んで、一緒に私に服を着せてくれる。小さい子供のように私の身を彼に任せる。この人は天国に行くと思った。迷いなく人を助ける人。彼の仕事だとしてもこんなに優しく触れる。今でも彼は本当にいたのか、天使が人間の形をしたのかとおもうほど、優しい気配を感じた。入院している間に彼の姿を二度と病院で見たことがない。まるで幻のような人だった。

その後は医師が来て様子を見る。手術は成功した。でも思っていたより何時間も長くかかった。患部は足にまで広がっていたので、雑草のように手で引っ張った。一度は私の内臓を体の外に出したという。痛みで喋れない私はそのシーンを想像した。生きている人の内臓を体外に出すということできるなんて。このシーンを何回も想像した。その瞬間に自分を上から見た気がする。手術台の上に麻酔で動けない自分の身体から内臓が外に出ているのは、子供の時に遊んでいた人形のお腹からでている綿のようなイメージだ。それは自分なのか、自分ではないのかわからなくなった。医師は嬉しそうにこの手術を研究発表できると言った。

モルヒネを点滴で入れられる。静かな、痛みを感じない、何も感じない世界に入る。体の暑さと、破れたての血管の、点滴の針との違和感、ドレーンや尿のチューブの違和感は感じるけれど、痛みはもう感じない。そうか、あの展示されている胎児はこんな感じでいるのか。ドレーン排液の透明袋の中に溜まっている私の体から出た液体を見ながら、夢のようにまた黒い水に浮かぶ感覚が戻る。その夜に不思議な夢を見た。古代エジプトでの儀礼に参加していた。私は地下の部屋で、石の台の上に横になっていた。ヒエログリフに描かれているような格好の人が火を持って自分の周りに来て、不思議な歌を歌い、火に関わる儀式をし始めた。

回復するまで何ヶ月もかかったが、一度身体がこのような経験をしたら、本当に回復できるかどうか曖昧だ。ダンゴムシのように丸くなって傷の痛みが消えるまで待った。麻酔が強かったせいか、目の網膜に黒い点がふたつ残っている。それ以来、いくら美しいものをみても私にはそのイメージと黒い点二つが同時に見える。

歩いても、話をしても、何をしても傷が痛い。だるさと疲れと闘う毎日が続いた。身体は元の状態に戻らない。しばらくの間、傷跡が生々しい状態なので、バイ菌入らないように一生懸命にケアをしなければならない。人間の肉、皮膚、細胞はこんな生々しい。普通の身体を持つとはどんな状態なのかもわからない。毎日、茶色い液体を痛い傷に塗って、動く度に痛みで叫びたくなる。一番辛かったのは笑う時だった。笑えない世界をどうやって生きるのか? くしゃみをすると、傷が開くような気がして、止めるのに必死だった。私の身体は大きな傷だけでできていた。それでも自分の身体に追いつけないぐらい生きたい気持ちが湧いてくる。しばらは実家にいてから、ブカレストに戻った。シネマテックがあるから。

しばらくするとあの子から連絡きた。会ったとき、私が座っていたベンチの後ろからシャボン玉を飛ばした。振り向いた時、彼の明るい顔を初めてみた気がした。その夜はブカレスト祭という大きな祭りがあって、サーカスとストリートパフォーマンスなど、音楽と風船があちこちから見えて、あの子と手をつないで歩いた。これでいい。このままでいい。全てを忘れる、本当に幸せになれる。子供のように笑って周りのスペクタクルを楽しんだ。そう、私は弱い人間だ。ただ、愛されたい、だから生まれてくる。その後は二人だけの世界を生きることにした。誰もと連絡を取らず、紙袋ふたつで家を出て一緒に引っ越し、そのまま結婚して、二人の女の子を作ろう、と二人で夢を語った。彼はアルコールと薬物から回復し始めた。笑うようになった。バレー、演劇、映画を一緒に見に行ったり、長い間、街の中を歩いたりして、時間は音楽のように流れていた。手術後の私の身体も奇跡のように回復し始めた。人は薬ではなく、愛で治るのだと知った。彼が優しく私の傷を触るたびに、本当に傷が奇跡のように薄くなっていた。

しかし、ある夜、不思議なことを経験した。それは金縛りだった。寝ているときに意識はあるものの身体を全く動かせない状態で、夢だとわかっているのに起きられないし動かせない。声も出ない。しばらく起きられなかった。それは変な予感だった。後日、頭痛でずっと悩まされていた彼は検査の結果、脳腫瘍と診断された。

彼の手術の日の前に子どものようにお風呂に入れて、星形のキラキラした紙を部屋全体に散らした。奇跡を信じるための空間を作りたかった。どこを踏んでも床が光っていて、彼を子どもの感覚に戻したかった。手術を受ける日にオペ室の前で待っていた私は、5分後にドアの向こうから彼が出てくる姿を見た。手術服のままオペ室から逃げたのだ。手術をしたくないとひとこと言って、病院を出た。そうか、その選択肢があったのか。毎日頭痛で苦しんでいた彼は、パニック状態になった家族に引き取られ、私とはもう会えなくなった。一人で家に引きこもって彼を待っていた日々は、あの沼に沈む感覚。二日に一回ドアの鍵が開く音が聞こえ、彼の姿が見えると薄い希望のようなものを感じる。一緒に逃げることを話したが、結局、彼はすぐ家に帰っていく。そのまま時間が止まった感覚に耐えられなくなった。

やはり、この私たちが生まれた世界では愛は許されない。ある日、私は一人で逃げた。ドアを閉めて、鍵を投げて、頭のなかで、アントニオーニ監督の『砂丘』の終わりと同じように、愛が許されない世界が爆発しているのが見えて、一人で逃げた。私は逃亡者だ。逃げることによって世界をいつでも更新させるのだ。

先日のこと、庭の杏の葉っぱにてんとう虫の赤ちゃんを発見した。しばらく観察しようと思って毎日のように様子を見に行ったが、何日経っても初日とあまり変化がなく、そのままの状態だった。葉っぱの裏に透明なフィルムのようなものに囲まれて点が二つしかできてなくて、そのまま死んでいた。家で飼っていた芋虫も、何日間もお腹いっぱい葉っぱを食べて大きくなり、待ちにまった脱皮の瞬間に鮮やかな緑から黒に変わってそのまま死んだ。たまたま公園で出会った幼稚園のお母さんに話すと「今年の天気のせいだ」と息子が飼っていた虫も上手く生きられなかったと言った。私は天気ではなく、この時代のせいではないかと一瞬思った。変身しきれない虫たちのことを考えながら思い出したようにスマホを開いて、「チェルノブイリ放射能を浴びた人画像」を無意識に近い状態で検索し始める。たくさんの赤ちゃんの画像、奇形児が透明のビンに浮いている画像が私の身体を震わせる。「自分と似ている」としか言葉が出てこない。

震える手で、事故当日から二日の間のヨーロッパの放射能マップを検索した。SF映画のような赤に染まっている放射線マップだ。私の村があるところも濃い赤に染まっていた。やっぱり、私もあの奇形児と似たももの同士だ。きっと、私だけではないはず。奇形児は美しく見えた。この世界では印象派の絵と同じで、光の変化で美しく見える。私も光が当たると眼の色も髪の毛の色も変わる生き物なので、太陽の光があるかぎり変身し続ける。

203 原爆の図丸木美術館にて

藤井貞和

終わりの始まり、富山さんの海峡、富山さんの背筋、富山さんが光(ひかり)の
州(しま)に佇つ。 となか(海峡)のまぼろし、となか
地上絵のめぐり、くねり、のたうつ、ゆく、むかう、みんな、みんなして
土偶も、空の神も、むなしい世紀に(1984年の藤井が
光、州を通過したとき)、案内員のBさんが、「ここからは だまります
言いません、若い人たちが、みんなで哲学の徒であろうとしたとき」と、しかし
海つ路を行く念いと、そこにうずくまる若者たちとを、富山さんは見据え
描きとるのでした
(2011年)
  海の炉芯をだきしめよ    幼い神々
こえを涸らして、「東アジアが祈りの姿勢にはいった」と、富山さんは
描き出しました。 表情のない喪志の希望に、難解であることがみんなの
詩らしい詩、そのようにして無為を叩くキーボードのうえで終わる、終わらない
または始まる。 いくり(海石)に立つにんぎょひめです、母よ
若者はすべての比喩をやめる。 みんなの叙事詩のたいせつな情報を載せて
針は斃れ、胎内で聴く母語のはて、やさしいな、待ってて
  海つ路に波がさらう    潮合いの迎え火
現実ならば醒めないで。 遠い原野と至近の原野と
ふたつの過酷さのあいだで、みんなが生まれる、みんなとみんなとの
あいだのように、あいだのように迎え火を振る
  震央の水が凜として向く    潰(つい)える三月
どうあるべきかを問う子供の思想だった、胎内で聴いた鈴の音と、波の音とを
二つに分ける、背中のたてがみのように。 海底のひがし市場と
にし市場とをわける、霧雨のなかで、どうあるべきか、〈子供の科学〉に
希望はあるか
  たいまつをかざして    国つ罪が沸きあがる四海
釜山から向かう昭和二十年(1945)。 十月のぼく(藤井)は広島を通過する
きょうのみんな、わたしたち、おいら。 海の炉芯に祈る
祈るな。 歳月をして語らしめよ。 しめるな。 日本語の背理
歴史の構想力。 抽象による数学的自然。 だれもいなくなったあとの
夕月夜(ゆうづくよ)と かげかたち。 落涙型の土偶のあしどりに
かげがなくなる、いなくなるかげに、それでも希望をかかげる?
  草原に遠き乳牛    かげが斃れて
浜通りよ、空の神が降りてくる、みんな、降りてくるのは乳のあめ牛
浜づたいに啼いている、みんなのあめ牛、病む仔牛を曳いてどこへ去る
母牛のあしおと
  炉の芯を匍いずり    水源がなめ尽くすまで
なめくじら息の緒の銀線をなすりつけて匍いよるところ
かたつむりら舞う国の罪人のために、涸れる海底の井戸
類的実存を一千ページ余のかなたへ、学習するカードには書き記してあった
いまはない、哲学者のみんなが去る
  校舎のありしあたり    神々が浜通りを去る
なあ、叙事詩の主人公たち。 言えなくなった、意志・苦痛、意志・苦痛
「うつく・しい」と、さかさに言おうとしただけなのに、みんな
虫のことばになりました、消える人称的世界!
  負けないでZARD   海底の卒業式ができなくなっても
風のチョウチョがひらひらとただよい去ってゆきます。 それだけ
ただそれだけなのに、きょうはね
  波間からとりだせなくて   風だけが
  はいっていました   USBメモリー
風の音を送ります。 遠雷に載せて、壊れたぼくのEメールで
  送るよ   走り火の海の底から
訪ねて来て! どこ、辺りの「どこ」、眠らずに来て
海底の虹が住む    住所不明のゆうびん番号
どこへ行けばよいのか分からない、みんなの山彦よ
玉つひめ、葛(くず)のしげりに、無色のちりに
  まがつ神おまえの建て屋に祈る   ゆき向かえ いま
  絃を切れ弁財天女    おしら神はかいこをつぶせ
哀吾、哀吾よ、きみの名は「哀吾」。 建て屋を描く
富山さんのシカゴ大学のホームページの表紙
画面の叙事詩に、一人また一人、名まえが浮上する
終りの始まり
  うたへ講義がさしかかる    まがつ火ノート
  こころに波をうち据えるうた    海やまのあいだにうたう
来週は休講ですよ。 原爆の図丸木美術館での
富山妙子展(2016)から帰ってきました。 題名「となか」(渡中)に
霊獣の物語を。  海峡の辺りは白い波です
 
 
(光州にバスが近づくと、アンネーウォンのBさん(おなまえ忘失)が、その〈経過〉を語り出した。まったく知らないことで、仰天した。バスがいよいよ街にはいるというときに、「ここからは言いません」と、彼女は案内を終えた。韓国への「観光」旅行を友人たちと試みたのだった。まだ、富山さんの活躍をぜんぜん知らなかった。博物館などをまわり、そこに一泊したのだが、Bさんの話を聞いたあとだったので、物音のない、人影のない、死の街の底に沈むような思いだった。真鍋祐子さんの著を知るのはずっとあとになってからである。今年の延世大学校での開会イベントのようすについて、悠治さんの先月の「水牛のように」が5時間のユーチューブを紹介していたので、リアルタイムの富山さんにお会いすることができた。真鍋さんのご好意にあまえて、いくつか、『東洋文化』などを送ってもらった。みんな、みんなありがとう。)

遅く、もっと遅く

高橋悠治

今年は休みたいと思っていたのに、しごとに追われているのはどうしたことか。しごとがおそくなったと気づいたのは1年前、それまでは、作曲をたのまれたら演奏のひと月前には楽譜を渡すようにしていたのに、それができなくなっている。

ピアノの練習もおそくなっている。メガネに慣れないだけでなく、いま弾いている音よりすこし先を見ながら演奏を続けるという習慣が、身につかないせいかもしれない。では、メガネがいらなかった時には、それができていたのはどうしてか。

知っている音楽をくりかえし弾いて磨きをかけるより、知らない楽譜を読む、あるいは、知っていると思いこんだ楽譜を、知らないもののように読むと、気がつかなかったものが見えてくるのを待って、そこから立ち上がる響きを聞く。毎回すこしずつちがう結果をためしながら、でもどこかで折り合えるように、一つに固定しないで、ゆるくあいまいな範囲でその場でうごける、即興に聞こえるような流れ。鍵盤の上に垂らした指が歩くようにして、使う指が自然に決まれば、流れはかえって自由にならないか。自分でうごかすのではなく、かってにうごいていった指が触れるかんじ。指だけがすばやくみつけた位置に行くのと、ちいさく、弱く、かすかな響きが生まれるのがひとつのことであるように。

今年はじめに亡くなった岡村喬生とシューベルトの『冬の旅』を練習していたとき、よく言われた、「遅く、遅く、もっと遅く」。