葡萄の味

イリナ・グリゴレ

土曜日の夜、アゼルバイジャンの作曲家が作ったバレエ音楽をラジオで聴きながら、娘たちと3人で獅子舞の練習から帰る。ドラッグストアでドリトスを買って、久々に食べたくなったから片手で運転してムシャムシャに食べている自分が車の窓から見える気がする。自分が夜行性の野生動物にしか見えない。スナック菓子ではなく、猪を齧っている顔だ。今は車の中なのか、外なのかわからないぐらい浮いている気分だ。それはそう、何年か振りに獅子舞を舞ったから。下手だったが、その時空間では私の身体がものすごく軽かった。何百年も前の踊りを身体に与えるチャンスが生きている間に誰も一度でもいいから体験してほしい。その踊りには全てのこの世の秘密が隠されているから。

言葉はいらない、歴史も地理も、音楽も、国語も、社会も、科学も、全ての科目を一瞬でわかる。その上、身体は透明になってあらゆる生物と繋がるという感覚になっていく。腰を低くしていたせいか、手術の傷あたりに気持ちのいい痛みを感じた。山伏由来の踊りだ。治療された気がした。その夜はお囃子がなかったが、音が身体の奥から響いた。誰か歌っていたかもしれない。こんな美しい世界だったのかと練習を終えた娘に言いたくなる。皆はつながっている。皆は同じ生き物だと周りのメンバーと遊び出す子供を見て、自分の足と頭、腕などバラバラに集会場に広がる感覚となる。帰りのラジオでアゼルバイジャンのバレエを聞いてピッタリだと思った。このバレエで獅子舞をやりたい。

真っ暗の帰り道で育っていた村をよく思い出す。村とは世界のどこにいてもあまり変わらないかもしれない。同じ星が光っていることは確かだが、暗やみも同じ。薪ストーブの匂いも同じ、空気も同じ味がする。私の村にはりんごではなく、葡萄畑が広がっていたのはただのディテールなのか。葡萄の味といえば初恋の味だ。ドリトスを食べながらこのことを思い出すのかと自分に怒っているが、あの頃のイメージが頭の中で苦しいと思うぐらい再生されている。外に出て遊びたい子供のように。きっとどこの村でも、初恋が同じのような同じではないような経験だ。赤松啓介の『夜這いの民俗学』を読むと男女の性は時代、文化、村などによると思う。普遍的な初恋の経験がない。ここ最近の私の疑問—生物の身体、物体の経験は普遍的ではないことが確かなのに、なぜ社会は普遍的にしようとしているのか。社会とは何?誰?

娘がなぜか隣で「パチンコをやりたい」と言い出すから自分の考えが切れた。「やったことがある?」と聞くと、「ない」と答えるけど、キラキラした光に魅力されて入ってみたくなるそうだ。パチンコには入ったことがないけど、初めて日本に来た時に、コンビニ、ドラッグストア、ゲームセンターに入った時の驚きを覚えている。それは私にとっていまだに現代アートの体験のような体験だ。

ドリトスを買った時も、新しくできたドラッグストアで娘とピカピカの床を踏んで足音に敏感になって、棚とたくさんの色鮮やかな商品の間を歩いて目眩がした。毎回そうだ。おやつを選ぶのに10分はかかる。多すぎて、次女がどれにするか「迷っちゃう」と、パッケージの写真を見比べ、一番色鮮やかで、一番綺麗な写真がついているおやつを選ぶ。こんな綺麗なプリンなどリアルの世界では存在しないのにね。パッケージの下に小さく「イメージです」と書いてある。文字が読めない次女は幸せ者だ。ある意味で、色のセンスと想像力が育つかもしれないので楽しむしかない。

お陰で、次女はスイカペペという観葉植物から来年までに大きなスイカができると信じているし、ペットにはキリンがふさわしいと思っている。いつキリンを飼うと思い出すたびに聞かれる。母親として本当の世界を見せる責任があると言われても、当の母親も本当の普遍的な世界が分からないので難しい。でも、スイカペペからスイカができたら楽しいと思う自分がいるので、その想像を壊したくない。世界がつまらなくなる。結局のところ、全ては、人間を含めて種から出るので、その種を植えて何が出てくるか想像することは大事だと思う。想像と体験は同じだ。

初恋の味に戻る。13歳の遅い秋に私は隣の村の従姉妹の家に泊まった。彼女の家の向かいの家に4歳年上で若い頃のジョニーデップそっくりの、村一番のイケメンが住んでいた。彼は私をみて「かわいい、ほっぺは桃みたい」と寒い日に顔が赤くになる私に言った。喋ることはそれだけ。彼の母も私をみて「美人、本当にほっぺが桃みたい」と言った。その夜に従姉妹が私を村のディスコに連れていった。村の若者は酒を飲みながら大きなスピーカーで音楽を鳴らして踊っていた。私は初めてこんな所に入ったから音と光、タバコの煙で目眩したが思い切り踊った。テンポがゆっくりのラブソングが始まったとき、カップルでくっついて踊っている者が多い。彼が私を誘って、初めて暗みの中で彼の黒い目が猫の目のように光ると気づいた。それ以降、このような経験はもうないと思うほど身体が溶けるような感覚で彼と繋がった感じがした。帰りに何も喋れないまま畑の間の道を歩いて、従姉妹の家の前のベンチに二人で座った。ベンチの上に葡萄の木があって、黒いスチューベンの葡萄が見事に実っていた。彼の目も、スチューベンも黒かった。星もお月様もない夜に葡萄を食べた後、人生で初めて男にキッスされた。その後は口の中に広がった葡萄の味が身体に染みて、いまだに感じている。初恋は永遠に私にとって葡萄の味がする。桃ではなかった。次の朝に街に戻って、毎日、彼に会いたくて泣きながら高校の受験勉強をしていた。彼にもう会うことがなかった。たまに本当にこんなことがあったかどうかわからない時もあるが、口の中で広がるスチューベンの味を身体が覚えている。

娘たちと獅子舞の練習から帰って車でアゼルバイジャンの音楽を聴きながら、隣の村の彼と結婚してずっとあの村で暮らす人生を想像した。しあわせだったのか。でも、貧困、低教育、DV、喧嘩の可能性が浮かんできて、想像するのをやめた。しかし、なぜか、車の中でチーズドリトスを食べているにもかかわらず葡萄の味しかしない。

大阪梅田駅

植松眞人

 JRは大阪駅で、阪神電車と阪急電車は梅田駅だった。もともと大阪市には北区梅田という地名がある。鉄道の駅がどこにあるのかをわかりやすくするという意図で考えれば、梅田駅という名称は間違っていない。しかし、JRが北区にあるターミナル駅を大阪駅だと言い、その近くに新大阪駅を作ってしまうと、どうしても梅田駅はローカル色を帯びる。観光客、特に海外からの観光客には梅田駅とは大阪のどこにあるのだと迷ってしまう人が多くなっていたという。そして、東京オリンピックが開催されるという前年の2019年に「大阪梅田」という駅名に改称された。ついでに阪急京都線の「河原町駅」は「京都河原町駅」となった。
 そんな住所を省略して作ったようなわかりやすい新しい名前を見ていると、小馬鹿にされたような気になってしまう。それでも、こちらも還暦を迎えたシニア層の大人なのでとやかくは言わない。言わないけれど改称から二年以上経っているのに、駅で配布された冊子にまれに「梅田駅」と書いてあるのを見ると逐一、駅員に見せてやろうかと思ったりもする。もちろん、思うだけで実行はしない。
 思うだけで、ということが増えた。思うだけで言わない。思うだけでやらない。そんな思うだけが少しずつ体の中に貯まっている気がする。そんな時に、「大阪梅田」という文字を見ると、二行に改行して、

大阪
梅田

と真四角にしてしまいたくなる。
 真四角になった大阪梅田は大阪と梅田のはずなのに、今度は梅大と田阪にも見えてきて、もう世の中の名前など単なる記号なんだ、わかりやすければいいんだ、と言われているようでむかっ腹が立ってきたりもする。もちろん、そう思っているだけで誰かにそれを言うことはないけれど。
 もうすぐ十二月だというのに、コートを着ると汗ばむような陽気の日に阪急電車に乗って大阪梅田に向かっていた時のこと。乗客がガラガラだったからだろうか。車掌さんはアナウンスをした。
「まもなく、梅田、梅田、大阪梅田でございます」
 なんだよ。梅田なのかよ、と嬉しくなった。
(了)

製本かい摘みましては(178)

四釜裕子

松本工房さんのサイトの新刊案内に、花びらが開くような造作のある本の写真を見つけて注文した。大きな紙が四方からトルネード式に折りたたまれて冊子に収まっているようだ。届いたのは『Arts and Media/Volume 12』(2022  編集:大阪大学大学院文学研究科文化動態論専攻アート・メディア論研究室、AD+D+DTP:松本久木) 。さっそく花びらのページを探すと、前後見返しの次の見開きが左右幅をやや控えた観音開きになっていて、それを開くと、折りたたまれた紙端が中央に十字を描いていた。ここから四方に角をめくって、その紙端を動きのままに軽く素直にひっぱると、くるりと開いて大きな1枚の正方形が現れた。おおー。

用紙は40センチ四方くらいか。中央に円形の図版、周りに放射状に配されたテキスト群が、濃茶の紙に金(金風?)1色で細かに刷られている。裏面もしかり。全面に、4×4=16の升目を軸にした縦横斜めの折り線。これ、あれだ。山口信博さんの折形デザイン研究所の「Fold IN Fold OUT」と構造は同じ。こつをつかめば、すうっと折れるやつ。「Fold IN Fold OUT」は2002年の「北園克衛生誕100年記念イベント」のチラシにも使われていて、DMとして用意するのに難儀したのだった。このとき私はこれを勝手に「〈の〉折り」とか「のの字折り」と呼んで、中央の正方形を囲んで「のの字」を描くように紙をたたんでいくのだよと、体に叩き込んだのだった。

『Arts and Media/Volume 12』の花びらのような折りは、「Fold IN Fold OUT」の外側をもう一巡折るという感じで、「トルネード折り」とここでは勝手に呼ばせていただく。のの字折りの感覚が戻ったところで、トルネード折りの折り戻しを試みる。折れ線以外のよけいなシワを作らぬよう注意して、さっき開いたのと逆の動きで折っていく。並製の硬めの表紙が途中でバタンと戻って手元がくるう。背の近くに折れ線が入れてあるので、ここはもう思い切って開ききってしまう。トルネード折りする紙自体はとても折りやすい。折り山の向きと折りぐせに素直に従っていきさえすればうまくいくのに、やっぱり余計な力が入る。それでも不意に、すうっと収まる。このしらっとした何気なさ。気持ちいい。折りの途中で現れる幾種類ものヒラ面も、そのつど左右前後の図柄のコンビネーションが美しい。

別の紙で同じように折ってみる。まずは4×4の升目をつけて、山、谷の折り目をくっきりつける。中央の小さい四角(用紙に対して大きさ1/8、傾き45度)を底辺にして、四方から中央へ、トルネード、トルネード……と紙を寄せるとたちまちすうっと収まった。気持ちいい。この折りの構造は三谷純さんのウェブサイト「折り紙研究ノート」でも「ねじり折り」として紹介されてきた。改めて見ると、〈「ねじり折り」 紙をひねって折り畳む構造をしていて、完全に折りたたむと平坦になります。紙が互いに重なり合ってループします(重なりにサイクルがあります)。中央部分は正方形である必要はありません。(中略)畳紙(タトウ)や「花紋折り」などに見られ、またTessellationと呼ばれる分野の折りにもよく登場します〉とある。確かに包み袋などでも見てきたが、印刷物の舞台として、しかも冊子のページになって機能している実物を、私は『Arts and Media/Volume 12』で初めて見た。

トルネード折りはわかった。しかしこれを冊子の中でページとして成り立たせるために、どんな造作がなされているのだろう。観音開きのページにトルネード折りした紙が貼り付けてあるわけだが、すきまにそっと指を入れてさぐると、接着はごく一部、中央の横ひと筋に入れてある。そのひと筋も、微妙な長さ。快適に開くために、なにかこう、計算すれば数値的にカンタンに出せたりするのだろうか。こちらはその絶妙に関心するばかり。そしてこの折りと貼り、まさか機械ではできないだろう。奥付には、「デザイン・組版:松本久木、印刷・製本:株式会社ケーエスアイ、印刷加工・太成二葉産業株式会社、アセンブリ・ツモロウ」とある。どんなふうに試作が繰り返されて、そして完成したのだろう。この間、そっと扱ってきたつもりだが、気づくとトルネード折りのページは結構よれてしまった。でもきっと大丈夫。折り戻した本を棚にさしておけば自然とシワは抜けていく。いいなあ、シワが抜けるって。

本の機械折りといえば、国産の「オリスター」という印象的な名前の機械があった。今もあるのだろうか。説明書を取り寄せたことがあるのだが、しくみや構造を手書きのイラストも添えて詳しく解説してあり、とてもわかりやすかった。中に折り方のバリエーションを示したページがあって、ここだけコピーしてまだ手元にとってある。大きな用紙を機械に入れて、バタンバタンと縦横からハネを倒して折っていくのだが、いかに多様に折れるかが図示してある。「二つ折」「巻三つ折」から始まって「二つ折平行外々四つ直角二つ折」とか「8頁直角巻四つ折」とか全67種。実際どれほど必要とされたのかはわからないけれど、バリエーションの多さというか多すぎさは、今見ても感嘆を超えた笑いを誘う。たくさんの図を見ながら、ここをノドに、ここを断裁してと、考えるだけで楽しい。

『アフリカ』を続けて(18)

下窪俊哉

 続けていると言っても、随分変わってきてますよね。先月、久しぶりに大阪へゆき懐かしい街で呑んで語っていたら、そんなことを言われた。
 まあね、最初の頃の『アフリカ』と、いまの『アフリカ』では全然違う。似て非なるものというか。
 例えば、こんなふうに捉えてみるのはどうだろう。

  黎明期 2006年〜2008年(5冊)
  展開期 2009年〜2011年(8冊)
  隔月期 2012年〜2013年(8冊)
  マッタリ期 2014年〜2018年(7冊)
  転換期 2019年〜2022年(5冊)

 その時の会話では『アフリカ』誌上で活躍した書き手の名前を冠して「誰 & 誰期」のような言い方をしていたのだが、それでは内輪話にすぎないような気がするので、上記のような見方をしてみた。
「黎明期」には、くり返し書くようだけれど、続ける気がなかった。というより、続ける気はないよと言いながらやっていた。それに、思い返せば最初の編集後記で自分は、『アフリカ』を小説の雑誌だと書いていた(いまの『アフリカ』を小説の雑誌だと思う人は少ないはずだ)。見返してみると、

『アフリカ』は、いちおう「小説」の雑誌だ。「小説」の基準は適当だが、詩を捨てて散文を志す。

 とある。
 詩を捨てるとはどういうことか。詩を読むのは昔から好きだが、そういう話ではない。『アフリカ』は当初、同人雑誌になると思っていたので、詩の同人雑誌はたくさんあるのに、小説の同人雑誌は少なくなっているようだから、小説の雑誌ですよ! とわざわざ宣言したかったのかもしれない。
 それはさておき、「いちおう「小説」の雑誌だ」というふうに「いちおう」をつけたり、括弧つきの「小説」にしたりと芸が細かい。しかも、その「小説」とはどんなものかというと「適当」だと言う。何か言いたげではないか。
 そこには何か、自分の感じ取っている「小説」があるわけだ。商業の上にというよりも、歴史の上に置かれるようなものが。
 身近なところから、その「小説」が生まれる瞬間を見たいし、それが出来る場を感じてみたかった。小説を書きたいという人が、小説らしきものを発表するための雑誌というのではない。小説を書く気のない人も『アフリカ』と出合い、書くことによって、小説を見出してゆく。そんなことが実際に起こり始めたのが「展開期」だった。
 最近になってある作者に話を聞いてみると、自分の体験を書き綴っているだけだと言っていたわりには、ある日の出来事に、数年後に見た風景を加えていたとか、かなりつくる意識があったことがわかって、面白い。
 その人によると、編集人(私)からは、よく「そんなに説明しなくていい」と言われていたという。あまりに言われるので、どうすれば見えるように、聴こえるように、感じられるように書けるか苦心していた、と。
 しかし、逆のことを言われていたと話す人もいて、つまり「もっと説明した方がいい」ということなのだが、作品によるというより書き手によるのだろう。
 そんな時期を過ぎて、続けようという意識が出てきたかもしれない。連載で書きたいという人に付き合って、隔月で『アフリカ』を出していた量産の1〜2年があった。その頃を「隔月期」としよう。

 さて問題は、「マッタリ期」だ。
 こどもが生まれて自分の生活が変わったということもあるだろうし、新しく始めたワークショップの仕事で忙しくて、なかなか『アフリカ』に向かえないということもあった。それでも年に1冊、薄い雑誌をつくるくらいは出来た。
 この編集人がやる気にならないと、『アフリカ』は出ない。でも起き上がれば、仕事は早い(いい加減なところはあるかもしれないが)。呑気といえば、呑気だ。そんなふうに、マッタリ続けていた5年間がその頃にあった。
 雑誌づくりには熱心でなかったかもしれないが、ワークショップのイベントにはよく働かされていた。その頃、『アフリカ』を続けるのに自信が持てなくなっていたかもしれない。ある所では、お互いに協力して一緒にやってゆきませんか、という話を持ち掛けたこともあって、一時はそんな気にもなっていた。
 その流れで2008年6月に、『アフリカ』を主題にしたワークショップも一度やってみようという話になり、「『アフリカ』をよむ会」をやった。その打ち上げの席で、酔っ払って、『アフリカ』以外の本もいろいろとつくってみたいんだよね、という話をしたところ、「まずは下窪さんの本をつくればいいよ」と言った人がいて、それを受けて「いや、下窪さんの作品はどうでもいいんだ」と言った人がいた。
 それで何か、目が覚めたようになった。
 その時の、その声は、いつまでも自分の耳に残った。
『アフリカ』のような場をやってゆくのに、自分の作品はどうでもいいのだろうか。確かに『アフリカ』を支えている自分は裏方のようなものかもしれない。いや、どうだろう。

 前回、「『アフリカ』もワークショップであると言い切ってしまいたい気持ちがある」と書いた。
「小説」と同様に、「ワークショップ」にも、自分の見ているワークショップ像がある。本当にワークショップなら、私自身が参加していないというのはおかしい。それにワークショップはワークショップであって、イベントではない。一時のものではない。でも多くの人には一時のものしか見えていないのかもしれない。気弱になるとそんなことも考えてしまう。
 正直なところ、続けたい? と自分に聞いて、小さく、うん、と言う。
 それなら、やりたいんだから、誰もついてこないということになってもいいから、またやろう、と決めた。

 いつも困った時に助けてくれるのが『アフリカ』じゃないか。よし! 『アフリカ』をプチ・リニューアルしよう。まずは、カタチから? というので装幀の守安くんにメールして、『アフリカ』の背表紙には字を置かず、並べた時に色が並んでいるだけにしようという当初の狙いを崩してしまうんだけど、背表紙をデザインしてみない? と伝えた。そうしたら彼は、そんな話、あったっけ? と言う。あれれ、記憶が変わってしまってる? それから、こうも言われた。でもさ、切り絵(の画像)の一部が背表紙に入ってしまった号があったから、もうその狙いは崩れてしまっているよ。

しもた屋之噺(250)

杉山洋一

先日、偶然知り合った杉山さんという方から、「川崎の杉山神社にお参りしてから、立て続けに縁起の良い事が続きましてね。ずっと誰かに言いたかったのですが、こんな話は杉山さんにしか出来ないでしょう。是非一度足を運んでみてくださいよ」とお話を伺いました。
とはいうものの、調べてみると杉山神社は、町田、横浜、川崎などに集中する神社で、以前は70社以上もあったといい、合祀などで減った現在ですら40社前後が残っているそうです。それほど数も多ければ、確かにどこかで有難いご利益にも預かれそうな気がしますが、川崎の杉山神社と言ってもどれか分からなければ訪れることもままならないので残念です。
信じ難い思いですが、今年ももうすぐ終わろうとしています。この数年で、世界は明らかに新しい時代へ足を踏みこんでいるのは解りつつも、それが何を意味しているのか、まだ誰にも詳らかになっていないように見えます。

11月某日 ミラノ自宅
朝一番でミラノ大学前の理髪店に出向くと、思いがけず学校の同僚のYに会ったので、そのまま暫く隣の喫茶店で話し込む。同世代の彼女も、同じEU圏外出身である。彼女は以前、イタリア人と結婚していたが、ご主人は病気で亡くなってしまった。イタリア人と結婚していたのだから、学校の契約条件も我々とは違って優遇されると思いきや、案外そうでもないらしい。昨年度、彼女は国立音楽院から臨時教員の声がかかり、暫くうちの市立音楽院を休職していた。何故か分からないが、国立音楽院で一定期間長期で働く場合、市立音楽院とは契約出来ないシステムになっている。
その所為か、長年とても慇懃だった市立音楽院の事務局から、途端に冷淡な言葉を掛けられるようになった、と思いつめた顔で呟く。「他を全てを失っても、市立音楽院の職を続けられるよう、身辺を少しずつ整えてきたのに」。
今後、我々のような外国人は、イタリアの右派政権にどうあしらわれることになるのか、彼女は不安で仕方がない。他EU諸国に比べてイタリアは突出して外国籍の教員が少ない。そこには自国民の優先も当然あるのだろうが、押しなべて賃金も低いから、外国人にとって魅力に乏しかったのかも知れない。
直近で何かが起こるとは思えないが、我々のように無期限滞在許可証とフリーランスビザを所得していても、政府の方針転換次第でいかようにでも扱われる可能性は否定できない。
長年懇意にしているタクシーの運転手からも、今回のメローニ政権には期待しているんだ、彼女はよく頑張っているよ、と言われたのを思い出した。ごく当たり前のイタリア国民の民意はこういうものなのだから、我々がそれに対し意見するのも見当違いなのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
目下父子生活中だが、息子曰く虫歯の治療痕が痛むらしく、電話をして歯医者の予約を取る。未成年の診察には基本的に親が同伴する義務があるのだけれど、音楽院の授業が夜9時まで入っていて身動きが取れない。身分証明書の写しを添えた誓約書をメールで提出して、一人で診察に向かわせる。夕方、映画音楽作曲科の学生をピアノの周りに集まらせて授業をしていると、歯医者から電話がかかってきた。「いやお父さん、ちょっと厄介ですよ。先日治療した虫歯ですがね、あれから静かに進行しておりましてね、あと一歩で神経を抜くところで」云々。歯医者の声が大きく、電話の会話は学生皆にすっかり聴こえているので、みなクスクスと笑っている。

11月某日 ミラノ自宅
ミラノでは、毎年10月15日にアパートの共同暖房が開始されるのだが、今年は燃料高騰を受けて11月3日に延期され、それも改めて11月10日まで再延期されたものの、やはり気温の急激な低下を受けて、11月3日開始に訂正され、漸く学校にも拙宅にも暖房が入った。次回の電気代請求が少々恐ろしい。先週は、学校のレッスン中に節約のために暖房が切られたので、教師たちが揃って学校に抗議の声を上げた。
息子とサラの二重奏は、フィエーゾレでチェロのディヴィッド・ウォーターマンに、ビエッラでヴァイオリンのマルコ・リッツィとピアノのアンドレア・ルッケジーニのレッスンを受けてきた。息子は特にルッケジーニのレッスンに感激していた。帰宅後、レッスン風景の録音を聴かせてくれたが、実に見通しのよい、的確で実践的なレッスンで、家人と二人、深く感銘を受ける。最早我々は息子のレッスンを聴いて学ぶような立場になってしまった。ルッケジーニは、晩年のルチアーノ・べリオの協力者でもある。
エマヌエラが国立音楽院の室内楽クラスで彼らに出した課題は、今年はシュトックハウゼンのソナチネと、レスピーギのソナタ、ベートーヴェンの9番ソナタで、室内楽を始めて2年目で随分と踏み込んだ選曲をするものだと驚いたが、寧ろ妙に作品を神格化せず、ともかく気軽にどんどん触れさせるのはとても良いことだろう。息子とサラが、メトロノームをかけながら、楽しそうにシュトックハウゼンを譜読みしている姿は微笑ましい。

11月某日 ミラノ自宅
来月初めの演奏会のため、武満さんの楽譜を日本から送ってもらったのだが、これがなかなか届かない。現在、日欧間の運送は、以前と比較にならぬほど時間を喰うのである。
簡単にネット上で状況は確認できるので、イタリアの税関を通過したところまでは判っていたが、その後いくら待っても届かないので、改めて配送状況を確認すると、今度は「配達済み」と書いてある。こちらは不在票もなにも受取っていない。慌てて運送会社のコールセンターに電話して、辛抱強く調べてもらうと、ジャンベッリーノ通りのコインランドリーで預かってもらっているという。事情も分からず、半信半疑で言われた住所に向かうと、確かに青いペンキで縁どられたコインランドリーの入口には、運送会社のステッカーが貼ってある。中ではアフリカかカリブの出身と思しき、派手なプリント地に身を包んだ、陽気で大柄の黒人妙齢が、足下の大きな盥に洗濯物を入れ、足で踏みながら洗濯していた。
頭が混乱したけれど、ともかく彼女に事情を話すと、馴れた様子で奥から配達物を出してきてくれて、受取りのサインをする。店内にはレゲエが流れていて、武満さんらしいカジュアルな雰囲気に、すっかり愉快な気分になった。

11月某日 ミラノ自宅
国立音楽院の選択授業で、息子はダヴィデの「現代作品演奏講座」の受講を決めた。初めての顔合わせで、ダヴィデから、今年は4人の作曲家の作品を皆で手分けして練習して、後日彼らを実際にクラスに招いて色々話してもらうが、その一人に君のお父さんを頼むつもりだ、と言われたらしい。
翌日ダヴィデから早速連絡がきて、お前のピアノ曲全部の楽譜を見せて欲しいと言われる。結局彼は、エルナンデスの詩につけた「vuelo」、教本をつくるためペソンから頼まれた「biondinetta」、メッツェーナ先生を偲ぶ小品「calling」、東日本大震災のあと、フェデーレに声をかけてもらって書いた「間奏曲VI」などを選び、それぞれの学生に振り分けた。
「間奏曲VI」は、自分でも長い間存在すら忘れていた。震災のショックで作曲できなかったころの作品で、音らしい音もなく薄気味悪い。「自画像」でもそうだが、意識しなくても、自分が身を置く環境の影響が、作品に如実に投影されるのは何故だろう。
うっすら覚えているのは、あのとき実際耳にしたか、或いは夢だったのか、果てしなく続く、何かが少しずつ滴る音である。一番作曲が辛かった頃で、書く喜びも失い、書く意味も分からなくなっていた。

11月某日 ミラノ自宅
聖カリメーロ聖堂でアルフォンソの「20の眼差し」を聴く。
演奏を始める直前、アルフォンソは聴衆に向かって、これから2時間強の旅をご一緒するけれど、皆さん長さを畏れる必要はありません、と語りかけた。全曲暗譜で弾いたからか、実に見晴らしよく、それぞれの作品がどう配置され、それぞれの意味がどうなっているのか、まるで手に取るように解ったし、それら全ては可視化されていたように思う。情熱が滾りひたむきで高邁な演奏は、聴き手の胸を直截に穿つ。
数客の燭台のほむらが、薄暗い教会の剥き出しのざらついた白い石壁と、天井一面に金箔が貼られたクーポラに、アルフォンソの影法師をめらめらと怪しげに映しだし、目の前の風景全てが鈍い金色に耀いている。次第に聴衆は惹きこまれてゆき、静けさのなかで、辺り一面が興奮の坩堝となった。宗教的、官能的な儀式そのものであるが、アルフォンソはとても丁寧に音を紡いでいて、イタリア人らしいメシアンとの付き合い方だと感心する。音楽による官能性の表現は、他の何よりも深く五感に染み透るものかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
メシアンは大学時分よく聴いたし、三善先生は作曲科生のために「移調の限られた旋法」についてていねいな講座を開いていらしたが、極端に理解力が欠落していたのか、結局当時は何も分かっていなかったと思う。本来は、当時の学生にとって「移調の限られた旋法」は不可欠の常識であり、図書館のトゥーランガリラのスコアは人気でいつも借り出されていた。皆と同じことをしても仕方がないと、ヴァッキの規則的な旋法作法を分析して、自分なりの旋法作法を見様見真似で作ったりしていた。あれから暫くすると、学生の興味と常識は「音響解析によるスペクトル技法」へ移行したが、その頃はクラシックのオーケストラ譜を読む方が楽しくて仕方がなかった。ウクライナ軍、ヘルソン奪還。

11月某日 ミラノ自宅
イタリア各紙、外務省付発表として、東京入国管理局にて56歳ペルージャ出身のジャンルーカ・スタフィッソ自殺との報道。直前にイタリア大使館員が品川の入管を訪問、イタリア外務省からの法的および本国送還までの援助の意志を伝えていた。報道によれば、日本の不法滞在の場合、直ぐに送還は不可能で、日本の入国管理局に一定期間留置され、それはしばしば延長されるとある。2007年以降入管に於ける18人目の死亡者で6人目の自殺者。
ポーランドにミサイル着弾、2名死亡と聞き、背筋が寒くなる。当初はロシアから発射と報道されていたから、今後の更なる急激な状況悪化の覚悟を決めていた。

11月某日 羽田行機内
朝8時過ぎ、家人と散歩を兼ねて「ルカ」に出かけパネットーネを購い、町田への土産とする。
リナーテ空港を発つとそのまま北上し、コモ湖東端を掠めてアルプスに入った。山々の雪が太陽光を反射し、澄み切った青空との対比が美しい。
羽田便乗換えのためヒースロー空港に着き、化粧室を探して歩き回っているうち、誤って出口から外に出てしまい、係員に呆れられる。最早戻ることもできず、結局第5ターミナルから第3ターミナルまで地下鉄で移動した。急がないと乗継便に乗り遅れると皆から脅されて冷や汗をかいた。飛行機はドイツを南下中、アイゼンシュタットを通過したところ。このまま南下を続け、中央アジア経由で日本に向かうのだろう。機内は思いの外空いていて、邦楽器新作のスケッチを取る。

11月某日 三軒茶屋自宅
イタリア極右勢力「FN(新しき力)」党幹部を務めた不動産実業家の娘が、現政権の文化省音楽部門顧問就任し話題になっている。女性指揮者ベアトリーチェ・ベネーツィのこと。ムッソリーニ時代、音楽家は望む望まないに関わらず、ファシスト入党を強要され、音楽活動の条件とされていた。これからどういう時代になるのだろう。
アツィオ・コルギ死去。Mazupegul が大好きで昔本当によく聴いた。「嬉遊曲」を出版したとき、コルギが特に強く推してくれていたと人づてに聞き、何時かお礼を言おうと思っているうち時間が経ってしまった。ドナトーニを継いで、サンタ・チェチリアやシエナ・キジアーナなど、イタリア各地の高等課程で教鞭を取っていたが、当時の自分には受講料を払える金銭的余裕も全くなかった。そうして、いつしか知り合う切っ掛けすら逸してしまった。悔やみきれない。
欧州議会、ロシアをテロ支援国家に指定。これからどうなってゆくのだろうか。

11月某日 三軒茶屋自宅
以下、自分が功子先生にヴァイオリンを習うようになった経緯を、町田の母から聞き取った際の備忘録。
母が小学校の頃、横浜の自宅には縦型ピアノが置いてあって、母の姉が弾いていた。戦争で山北に疎開すると、疎開先の川村小学校にもピアノが一台あって、それを母は自由に弾かせてもらえた。弾くと言っても誰にも習っていなかったので完全な自己流だったが、そのピアノを同じように鎌倉の師範学校に通う男性が借りにきていて、彼からバイエルなど、ピアノのイロハを習ったという。
当時山北には、ひばり児童合唱団の指揮者も疎開していて、ひばり合唱団そのものも山北にあった。音楽好きな母はそこで歌うようになり、終戦後も、合唱団でNHKの収録などがあるたびに、山北を夜明けに出て上京したそうだ。物資が不足していたから、本番衣装は浴衣をワンピースに仕立て直して着ていた。
成人後、母は四谷のカワイピアノでアルバイトをしていたが、ピアノを学びたい意志は止まず、ピアノ販売員から芸大の良いピアノの先生がいると菅野緑先生を紹介してもらって、9年から10年、熱心に通った。菅野博文さんのお母様である。通い始めた当初は、反物を解いて仕立て直すのは難儀なのよと言われる程、自己流の灰汁が強い弾き方をしていたらしい。
レッスンの度に、2階の博文さんの部屋でさまざまなピアニストのレコードを聴かせて頂いたそうだが、この頃になると、自分も母に連れられて信濃町の菅野先生のお宅にお邪魔した薄い記憶が残っている。子供心に玄関先のモダンな摺りガラスが素敵だった覚えがあるが、案外全くの記憶違いかもしれない。
かくして母は息子にピアノをやらせようと説得したが、何が何でもピアノは弾かない、ピアノだけは絶対嫌だと拒んで聞かなかったらしい。その時何を思ったか、ヴァイオリンならやってもいいと言ったらしく、銀座のヤマハでヴァイオリンを買ったのだそうだ。
確かに、どこかの電車のガード下で、ヴァイオリンなら弾いてもいい、と言ったような気もする。我乍ら子供というのは本当にいい加減で無責任なものだとあきれる。
そうして菅野先生に紹介されたのが、功子先生のお母様にあたる篠崎菅子先生だった。全く家で練習しなかったので、レッスンで怒られてばかりいたという。ピアノの前のソファーで跳ねまわり、二階から降りてきた史子先生に凄い剣幕で怒られた覚えもある。大らかな時代だった。
母の話を聞くにつけ、子供の頃に合唱を歌い、ピアノだけは絶対弾かないと強情を張り、練習しないところまで、そのまま息子が受継いでいて、妙に感心する。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに本條君とリハーサル。数年前にシベリアに一緒に旅行したのが、今となっては幻のようだと話しこむ。シベリアで出会った彼らはみな元気だろうか、ご飯は本当に美味しかった、などと想い出話はつきない。
オーケストラとのリハーサルでは渡部基一さんに再会。何十年ぶりだろう。大学のイタリア語クラスで基一さんを手伝ったことがあるそうだが、何も覚えていない。あなたのお陰で単位が一つとれたんだよ、と言われて頭を掻く。流石の記憶力だと内心舌を巻いた。
ナポリ湾に浮かぶイスキア島で、大規模な土砂崩れが発生。慌てて、イスキア出身のアンドレアの家族の無事を確認する。現在8人の死亡と4人の行方不明者が発表されている。

11月某日 三軒茶屋自宅
今回はどういうわけか時差ボケが全く抜けない。12時くらいに寝ようと布団に入っても、3時には目が覚めてしまい、今度はそのまま全く眠れない。仕方がないので朝の3時くらいまで起きて、それから9時くらいまで寝ようとしても、今度はそのまま朝の5時くらいまでどう足掻いても眠れなかったりする。睡眠導入剤は、起きた時にふらつくというので、メヌエルを漸く収めている身には到底恐ろしくて手が出せない。もっと不思議なのは、そんな睡眠不足でリハーサルなどやればすっかり困憊しそうなものなのに、終わってもその疲れすら感じないのである。一体どうなっているのだろう。
武満さんの「波の盆」は、当時学生だった我々にとって大きな衝撃だった。武満さんがドラマでとんでもない傑作を書いたと仲間内で話題に上っていた。未だ武満さんの映画音楽全集など出される以前の話だったと思う。テレビドラマの「波の盆」は、笠智衆の号泣が強く印象に残った。大君に練習風景を送るために今日のリハーサル録音を整理していて、ふとリハーサルで通した「波の盆」を聴いたとき、明日が平井洋さんの誕生日なのを思い出した。昨年はお誕生日祝いの便りに、却って年末堺での本番に立会えないことを詫びるお返事をいただき、大いに恐縮したものだった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              江沢民死去。中国国内でゼロコロナ政策に対する抗議激化。

(11月30日三軒茶屋にて)

仙台ネイティブのつぶやき(77) はじまりの、転倒

西大立目祥子

夜9時半過ぎ。2時間半超えのミーティングを終え会館の会議室を出て、お疲れさんと声を掛け合い、蹴るように歩道を歩き出したときだった。ショーケースに貼られていた布施明のポスターに目をやった次の瞬間、何か大きなものにつまずいて前に投げ出されるように倒れ、したたかに膝を打った。痛! 別れたばかりの友人が大丈夫? と駆け寄ってきた。いったい何につまずいた? 頭の中では何か漬物石みたいなでかいものに足をとられたとしか思えなかったのに、見れば歩道が陥没してできたわずか2センチほどの段差ではないか。だいじょぶ、だいじょぶ。こういうときは、誰だって取り繕って立ち上がるものだと思う。公園わきの暗い道を地下鉄駅までそろそろ歩きながら膝を見ると、白いチノパンが大きく破れ血がにじんでいた。座席に座り、向かい側の人が驚かないように持っていた紙袋で膝を隠すようにして家に帰った。

ぼこぼこした敷石の目地の部分にガツンと膝が当たったようで、ぺろりと表皮がむけ二筋凹みができていた。大きめの絆創膏を貼ってもなかなか血が止まらない。やれやれ。それにしても転んで血を流すなんていつ以来だろう。言い訳はあれこれできた。何といっても薄暗い夜道だったのだ。それにいつもの履きなれた先が少し上がったのとは違うスニーカーだった。それにそれに、ポスターに気をとられていたしねぇ。同時に、数日前に会った元の上司が、喜寿を迎え「よくつまずくようになった」といっていたのが耳元に蘇ってくる。70歳を迎えた友人も、「この間、家の前の路地で転んじゃったんだよ」といっていた矢先、そう日が経たないうちに家の階段を踏み外したらしい。

そういえば、今年1月、小正月の行事の取材で小さな神社に出向いた際、帰りに参道の石段で足をすべらせて、反射的に右手をついてしまい手首が腫れ上がったことがあったっけ。翌日から友人たちと新潟に旅行に出ることになっていて、ひどく痛む手首に一晩湿布を巻いたら何とか腫れが引いて新幹線に乗り込んだのだった。あのときも、石段に雪が残っていたとかすべりやすい靴だったとかじぶんに言い訳していた。つまりは今年2度めの転倒なのだ。考えてみればあのときも夜だった。評論家の樋口恵子さんが新聞か何かでしゃべっていた。「70代はつまずいて転ぶんです。90歳になると立っているだけでふわりと倒れるんですよ」 つまずき始める70代。暗がりでは70代と思え、ということなのか。老年のはじまりのお知らせなのかもしれないなぁ、これは。

血がにじむ膝小僧を見ていて子どもの頃を思い出した。どうしてあんなに転んで膝をすりむいてばかりいたんだろうか。でも、すぐにかさぶたが盛り上がってきてむず痒くなり、気になってはがしたくなる。少し無理してはがすと、生まれ出た表皮が破れまた血がにじんできて、しまったと思うのだった。子どもは頭が大きいから転びやすいというのは本当だろうか。2、3歳ならともかく、小学校の低学年から10歳前後の子どもたちなんていちばん敏捷で活発に見える。思えば、ぐんぐん背丈が伸びる時期。1年に何センチも成長するのだからからだを動かすときのバランス感覚は微妙に違ってくるだろう。そのバランス感覚をつかさどる心臓部、パソコンでいったらCPUがその成長の早さになかなか追いついていかないからじゃないのだろうか。老年は逆で、運動をつかさどる心臓部はしっかりと変わらずに動いていても、かんじんのからだの機能が低下しているから、その働きを受け止めきれずにオーバーフロー、次の瞬間ばったり転倒…。そんなふうに思える。

あらためて歩くという行為を考えてみると、二本足歩行のヒトが前に進むためには、一本足立ちになる瞬間がある。一本足でこけそうになるから、支えようとして次の一歩が踏み出せるというわけか。前進するために不安定さを必要とするって、そもそもその存在からして無理があるような。では、ネコは? 四つ足のネコは転ばない。高いところから飛び降りたりするとき以外はね。でも歳をとればネコの足も衰える。来年20歳になるうちの最高齢ネコは、いつも後ろの右足をひきずるようにして階段を上がっていく。これまで看取ったネコたちは、いよいよ死が近づくと四本足でも歩けなくなってへたりこむのだった。

歳をとっても敏捷なのは、私のまわりでは山登りをしてきた人たちだ。H先生は85歳。いつだったか集まりの帰り道にいっしょに歩いていたら、あ、タクシーだ、俺あれで帰る、とダッシュして車を止め乗り込んでいった。意思とからだの動きに何の誤差もタイムラグも生じていない。先月まち歩きでお世話になったS先生は80歳。百名山はもちろん、外国の山々も登攀してきた人だ。何か鍛錬を?とたずねたら、「登山が鍛錬になっているんでしょうね」と明快。お二人とも誰に対しても気持ちを開いていて朗らかで、これは重いリュックを背負いつつ空や木々を仰ぎ見る山登りがつくりあげたものなのかな、と感じさせられる。接していると、何千メートルの山々は無理にしても、数百メートルの山をハイキングしたいものだな、と思わずにいられない。

その前にまずは、転ばないことか。夜道を歩くときは気をつけよう。そして、いい歳をしてかさぶたを無理にはがしたりしないようにするよ。

どうよう(2022.12)

小沼純一

おげんきですか
こちらまいにちせいてんです
あおいそらあおいうみ
しろいいえしろいかべしろいみち
えはがきみたいにそればかり

つれあいまいにちせんたくです
するものなくてもせんたくです
こんなにはれちゃもったいないと
くたびれててもせんたくです
くたびれてるのは つれ わたし
くたびれてるのはあらいもの
すりきれてあながいくつもあいている
いらない まだ いる
いつかせんたくされるかも
つれ わたし
いる それとも もう いらない 

あおいそらあおいうみ
しろいいえしろいかべしろいみち
えはがきみたいにそればかり
せんたくかご
いや
せんたくかくごはてみじかに

ごじあいください

しょうじのむこう
ざいすがきしむ
からだのむきを
ひだりにみぎに
きにしてないのに
きこえてる

ひきどのむこう
テーブルきしむ
ねじがいくつも
ゆるんでる
きにしてないのに
きこえてる

ふすまのむこう
ベッドがきしむ
あぶらのきれた
スプリング
きにしてないのに
きこえてる

せまいうち
それでもどこかに
いなくちゃならぬ
いなくなるのは
むりかもしれない
みえないように
こもっても
みみにはふるえが
おいついて

あたま いた
あたま いた

あたま いない
いない いない

あたま いる
あたま いらない

あたま いたい
あ たま いたい
いた いた いたい
いなかった

かなぶんかなぶん
からだはくすんだ
めたりっく
ちょっとひくめの
おとたてて

かなぶんかなぶん
とびまわる
まるめのからだ
むかしのくるま
あるきはすこし
のたってて

かなぶんかなぶん
だれがよんだか
なづけたか

かなぶんかなぶん
なはたいを
ってほんとかも

かなぶんかなぶん
ぶんぶんぶんぶん
ぶっちぎり

つきあった つっつきあった 
つき あった つぎ あった
なにしたっけ
のんだっけ たべたっけ
あるいたっけ わらったっけ
さわったっけ

しって しりあって
もっとしりあって しろうとして
さぐりあい
あんたしろうと こちらしろうと

はなれそう
かな
はなれはじめる
かなかな 
よかったころはおもいださない
このごろのよくないことばっかり
かな
わかれると
つよくのこるの
わるいことばっか
かな
いいかんじ
とおくの おほしさまみたい
みたことあった か
なかった か
とどかない てがとどかない
かなかな

文体練習

篠原恒木

【客観的に】
三日前から喉に痛みを感じていた。妻は耳鼻科に行くことを勧めた。
二時間後、肌寒いなかを病院へと向かった。
老医師が熱を測ると36.6度だった。
喉に薬を塗られたときに、こみあげてくるものを感じたが、我慢した。

【メモ的に】
三日前。喉痛い。妻「耳鼻科へ行け」。
寒かった。二時間後、病院へ。
先生おじいさん。熱36.6度。
薬を喉に塗布。ゲーッ。

【遡行的に】
吐きそうになった。喉に薬を塗られたからだ。
熱を測ると36.6度。耳鼻科での出来事だったが、医師は老人だった。
それより二時間前に、妻は私に「耳鼻科へ行きなさい」と勧めていた。
私が三日前から喉が痛いと訴えていたのだ。

【びっくり的に】
喉が痛いのなんのって! 三日前からだぜ! カカァは「耳鼻科へ行け!」とホザく!
まったく寒いときたら! 病院へ行ったさ! 
ところが医者はジイさんだ! 熱を測ると36.6度! 微妙じゃねぇか!
喉に薬を塗りやがった! 反吐が出そうだったぜ!

【万葉集的に】
ちはやふる 君は吾病院に行かざれば 思い病になりにけるかも
ひさかたの 雨も降らぬしこの空に 吾病院にひとりさぶしも
しろたえの 衣纏いし老いびとは 熱にしあれば診れば悲しき
あかねさす 薬を塗りて我が喉は 良きにしなれば なりにけるかも

【広告会社のプレゼン的に】
私事で恐縮ですが、三日前から喉が痛くてですね、日頃からイニシアティブを
グリップしている妻が「アサップで耳鼻科へ行くように」と、トップダウンの
案件をオーダーしてきたものですから、このスキームはもうリスケも
ペンディングも無しで、KPIを求められるコミットメントだったわけです。
これはプライオリティの高い自分マターでしたので、タスクをオンスケで
エンゲージメントさせるべく、即アグリーして、アポなしで耳鼻科へ、という
フェーズに移行したわけです。内科でなく耳鼻科というのも、ずいぶんと
セグメントしたシナジーだとは思ったのですが、妻のジャストアイデアは
すでにコンセンサス済みでしたので、リスクヘッジするため、そして
ハレーションを避けるためにケアしました。喉のほうはおかげさまで、
コンプライアンス的にも問題はございません。

【複式記述的に】
三日前の七十二時間前から私の首元の喉が激痛の痛みを起こした。
配偶者の妻にその様子の症状を伝えて述べると彼女は「耳鼻科へ行け」と
助言して告げた。二時間後の百二十分後、極寒の寒さのなか、医院の病院へと
歩行しながら歩を進めた。病院の医師である医者は老人のお年寄りだった。
首元の喉に薬を塗布して塗られた。嘔吐の吐き気を催した。

【現代口語的に】
三日前からぁ、喉がチョー痛かったのぉ。てか、マジ痛いわけ。
ドン引きして耳鼻科っつーの? 知らんけど。耳鼻科しか勝てん。
そこ行ったら、センセーがジジイなのぉ。それってムカつくじゃん。
したらぁ、喉に薬塗るわけ。ヤババじゃない? 笑えるー。ウケるー。
ガチしょんぼり沈殿丸っつーか、おこでしょ、おこ。激おこっしょ。

【色彩的に】
暗黒の三日前から喉に真っ赤な痛みが起こった。青ざめた私は妻に告げると
彼女は「耳鼻科に行きなさい」と黄色い声を張り上げた。
紺碧の空に橙色の日差しのもと、灰色の耳鼻科へと向かった。
白衣を着た老医師は、臙脂色の薬を深紅の喉に塗り、吐きそうになった
私の顔は緑色へと変わった。

【長嶋茂雄さん的に】
スリーデイズアゴーですか、そのへんからですね、マイスロートがアウチでして、
ワイフにセイしたら「ホスピタルがドミナントよ」とのアンサーでしたから、
コールドなウェザーでしたが、ツーアワーズレイターにゴーしたわけですね。
ドクターはオールドでしたが、いわゆるひとつのレッドなメディスンつけて、
ジ・エンドでした。ええ、ええ。

【ニュース的に】
今日の午後、三日前から喉の不調を訴えていた会社員の篠原恒木さん(62)が、
近所の耳鼻科へ治療のため通院しました。診察した医師の話によりますと、
「体温は平熱だが、喉に若干の腫れが認められたため、念のため炎症を抑える
薬を塗布した」とのことです。篠原さんに対しては、野党をはじめとして、
与党の一部からも、「自分の言葉で丁寧に責任説明を果たすべきだ」と、
批判の声が上がっています。

【ギョーカイ的に】
ドーノがタイイーなのでチャンカーに言ったら「ビカジーにクーイーせよ」
と怒られたから、ションテン・ガリサーでインビョーに行ったのよ。
ツーネーはなかったんだけど、スリクをリーヌーされて、
クリビツテンギョー、こちとらローゲー寸前でジラレナイシン。

うーむ、やはりレーモン・クノーには遠く及ばないなぁ。
楽しかったけど。

JOY-POPS

若松恵子

JOY-POPS(ジョイ・ポップス)は、解散してしまったロックバンド、ザ・ストリート・スライダーズの村越弘明と土屋公平のユニットだ。昔、ドラマーがケガをしてバンドが止まった時に、2人でギターを持ってイベントに出かけて行った際に付けられた名前だ。ポップスなんて歌っていなかった彼らの冗談なんだろうと思っていたけれど、とりあえず付けたようなユニット名を今も使い続けているのを見ると、「これがポップスなんだぜ。ギター1本あればワクワクするような、踊っちゃう音楽を奏でて見せるよ」という気概が込められていたのかもしれないと今は思ったりする。

2000年にバンドが解散してから、それぞれの長い月日が経って、2018年に本当に久しぶりにJOY-POPSとしてのライブが行われて、コロナを挟んで再び、久しぶりにツアーが行われた。東京公演の最終日、11月29日にブルーノート東京で行われたライブに出かけて行った。病気療養のニュースが伝わっていたので、エレキギターを抱えて2人が登場した時は、本当に嬉しかった。

新しいアルバムからの曲でライブはスタートした。ただいま現在の歌を歌うのだという彼らの気持ちを感じた。中盤、ストリート・スライダーズ時代の曲「帰り道のブルー」が演奏された。昔の曲を懐かしむために行ったわけではなかったけれど、彼らが若かった頃に作ったその曲が演奏された時、今のアレンジで演奏されているにも関わらず、その曲に閉じ込められている「彼らの若さ」が、今でも燦然と輝いているのを感じて、それは不意打ちの感動だった。ライブが終わって会場を出ると、夕方激しく降った雨のせいで、洗い立てのような夜の街だった。時おり吹く強い南風を受けながら地下鉄の駅まで歩いた。

昔、ストリート・スライダーズのファンになりたての頃、彼らのことが知りたくて、音楽ライター宇都宮美穂が書いた本をワクワクしながら読んだ。『夢の跡』は、1985年の夏のツアーに同行した記録だ。3か月にわたる、30都市でのコンサート。音楽ライターとしての駆け出しの彼女と売り出し中のロックバンド。ストリート・スライダーズに魅せられた女の子の冒険譚に自分を重ねて読んだのだった。彼女も見ただろうか、2022年のJOY-POPSを。

今も大切に取ってあるその本を、久しぶりに本棚から出してきた。すっかり忘れていた新聞の切り抜きが、最初のページに挟まっていた。解散ライブについての天辰保文氏の文章だった。ストリート・スライダーズのことを、本当にわかってくれていた音楽評論家のライブレビューを、一部引用したいと思う。

「最後だからと言って、感傷におぼれることもなければ、饒舌に語り掛けることもない。
もともと、ロックンロールと言えば、こぶしをふりあげながら、客席をあおりたてる、という、類型的なイメージとはほど遠いバンドだった。
世間から弾きだされたところで華と毒を抱え、ひそかに、しかししたたかに生き続けることにこそ、ロックンロールの美しさや誇りをみる、そういうバンドだった。
聴衆にこびへつらうところは一切なかった。深い光沢をたたえたナイフのような、不敵な存在感こそが、彼らの魅力だった。この日は、かつてレコードやCDで親しんだものが、次第にファンキーなリズムを吸収し、表情に豊かさと彩りと強さを身に着けてきたことが、彼らの歴史と重なってくるような演奏だった。」

2022年のJOY-POPSも、この文章そのままの魅力を変わらずに持っていた。

図書館詩集2(犬よ吠えろ)

管啓次郎

犬よ吠えろ
黒犬よ吠えろ
小さな黒犬よ吠えろ
魔を払え
でもこの犬はおとなしく穏やかだ
何もいわずに半島からここまでついてきた
カフーナの橋を虹のようにわたって。
本部半島は山を崩していた
緑が炎のように燃えて
悲鳴をあげていた
山は岩
海には珊瑚の岩
石垣にはぶどうさんご
潮溜まりには非常に細い触手をもった
小さな蜘蛛のようなヒトデがたくさんいる
海の星よ
やわらかい小さな星よ
五本の触手という体制を選んだとき
きみたちはどんな飛躍をなしとげたのか
空を離れることを選んだとき
どんな堕落をなしとげたのか
ひとでだけが知ることがある
かれらだけが摑んだ
世界の把握がある
北風に吹かれた海面が
正午なのにきつね火のようにちらちらする
その水面下であざやかな青の小さな魚たちが
かげろうのように踊っている
かたちを見定めることができないので
まるでそれは色彩のたわむれ
色とりどりの魚は浅い礁湖のかけら
岩礁には外海からの大きな波が打ち寄せ
さわやかに砕け散る
そばの集落はフクギ並木に守られて
タイフーンの名残にいる。
心細さ。
小道を泳ぐように蝶がわたってゆく
長い棘のある貝殻を
魔除けとして並べた家には
黒いマーヤーが住んでこっちを見透かしている
木の枝にはいくつも
マーヤーが吊るされている
私が忘れた前世を
この猫は覚えているかのようだ。
おや、この木はモクマオウ
大木だが土地の樹木ではない
カリブ海の島々でもおなじみの木を
アメリカ人たちがもってきて植えたらしい
その細い葉はいくつもの節に分かれ
節で折り、切り離したあと
またその節でくっつけることができる
どこで折れたか当ててごらん
そうして遊んだのは子供の日の思い出。
海岸の子供はどこでもおなじ遊びをする
海も島も太陽も大洋も
それ自体悠久
ただ人間の経済によりその姿を
大きく変えられるだけ
見方が変わるだけ
人の世が七十年ならそれは
モクマオウにとって一瞬
木、木、木魔王
金星の回転にとっても一瞬
きみがどれほど嘆いても
人間たちの破壊を止められない
水をかけてもらうために
おとなしく列を作って待つダンプトラックは
ただ破壊を目に見えるようにする
黒い陰険なケルベルスのようなものだ
車輪自体には魂も意志もないが
土地の子供たちが何人もここで轢かれたという
「轢」という字のこの悪魔的なアイロニー
(だって「車」の「楽」?
なんという思想だ、それは)
trigger happyという非常にイヤな熟語を思い出す
世界がおびやかされて
舗装道路と走行の快楽が
島の野をずたずたに分断する
止めたほうがいい、こんな生き方は
止めたほうがいい、地表のこんな地図化は
それから本部町営市場のそばで
氷ぜんざいを食べて体を冷やし
ぶらぶら市場を歩いてみると不意に
その黒い犬がいた。
ひんやりとしたコンクリートの床に寝そべって
人の世間に関しては
猫のように無関心に
知らない名で呼ぶと視線をあげて
こちらをうかがうのだ
こんな視線の作り方こそ人と共生してきた
犬の特徴
このかわいいケルベロスは黒のブリンドル
胸は白
去年の夏死んだぼくの犬に
うりふたつなので驚いた
psychopompus
魂の転生か魂の見方の複製?
その子を呼ぶと、やってきて
どこまでも後をついてくる
いったいどういうことだろう
なぜこんなことが起きるのか
神話は反復
神話はおなじ神話が反復して語られ
神話のその内容は反復して起こる
時を超え
土地を超えて
何か人間の世界把握の
非常な根源にふれている
何かがついてくるなら
ついてくるそれが犬だ
どんな姿をしていても
ついてくるものが犬なのだ
私が未知に迷い立ち止まるたび
何か光がさしてくるような
小さくて意味があるとも思われない
出来事が生じるのだ
するとどちらの方角にゆけばよいかもわかる。
そのときにも犬はまだ吠えている
思考の糸はことごとくもつれ
安易に断ち切られる
(犬よ吠えろ
黒犬よ吠えろ
小さな黒犬よ吠えろ
魔を払え)
帰ってきた
カフーナが帰ってきました
カチーナとして帰ってきました
那覇のここはかつての海岸
「仲島の大石」という岩が植物におおわれ
緑におおわれ
それ自体が一種の複合的な存在となっている
ここにかつて吉屋チルーありき
世に隠れなき才あふれる遊女
これは伝言だが疑う理由もない
かつてたしかにそんな若い女がいたのだろう
花のように美しく
鳥のようにかしこく
そして
かつていたものが今いないという保証はない
夢のように脈絡なく
現れたり消えたりする
夢のようにくっきりした
鮮明この上ないvisionだ
visionが分割されてdi-visionになる
joyが分割されてjoy di-visionになる
あらゆる思想や思考が二重化される夕方
橋をわたると闇が迫る中を
大蝙蝠が飛んでいるのだ
果物を食べて闇へと
そのゆたかな糞を落としていく
地面が染まっている
エレクトリック・ギターの空のハードケースが
墓標のように立っている
蝙蝠が聞く音は
私を構成する音とはどれほど異なっているだろう
この亜熱帯の夕暮れを飛びながら
かれらはどこへ行き
どこから帰ってくるのか
行って帰ってくることができるところなら
それは地獄ではない
あるいはただ特別な加護がある者だけが
この往還を達成するのか
誰に守られて?
この緑の島には
場違いなオレンジ色の牝熊(ウルサ)がいる
“I didn’t steal your bicycle!”
と英語で怒鳴りながら傍目もふらずに歩いている
ぼさぼさ髪の垢じみた老人がいる
徒歩旅行の道連れとして
きみはいずれかを選ばなくてはならない
選んだら出発だ、もう猶予はあまりない
「砂原の上にはいちめんに、ふくらんで
火のかたまりが降っていたが、ゆったり落ちてくるさまは、
風のない日に降るアルプスの雪のようだった」(ダンテ『神曲』三浦逸雄訳)
ここでは赤い小さな花が
熱い雪のように降っている
それにハイビスカスが
紅と黄と白のあでやかな色で
太陽に礼拝している
ぼくと老人のうしろを
オレンジ色の牝熊がついてくる
一緒に歩こう
A&Wとはagriculture and worship
もっと農耕暦を守って生きることだ
そこに鉄をもちこまないことだ
鉄は不平等のはじまりだ
火薬や船に翻弄されないことだ
そう誓いつつ
ぼくらは歩いていこう
すると花が降り
不在の雪がうっすらと降りつむ
希望のように
悲嘆のように

沖縄県立図書館(カフーナ旭橋)、2022年10月13日、晴れと薄曇り

むもーままめ(24)口唇ヘルペスとの闘いの巻

工藤あかね

 今、わたしは、口唇ヘルペス発症中である。このひと月ほど、目が回るようなスケジュールで飛び回っているせいか、ストレスもあったのか免疫が下がっているようだ。数日前、唇の端に小さな水脹れがたくさんできているのを発見した。インターネットで調べたところ、にんにくをすりつぶしたものを塗ると良いとか、牛乳を塗っても効くなどと書いてあった。牛乳は切らしていたので、冷凍していた薄切りニンニクを唇に貼ってみた。眠りに落ちる直前まで鼻を刺激するニンニクのかほり。貼った箇所がじんじんと口唇ヘルペスに染みていたので「こりゃあ効きそうだ!」と期待して寝た。

 翌朝見ると、ニンニクの刺激はゼロになっていたが、ヘルペスは生き残っている。ニンニクがヘルペスとの闘いで力尽きたのだ。新しいニンニクスライスを貼ろうかとも思ったが、出かける用事があったので断念した。その夜は、発症箇所にメンソレータムをぎとぎとと塗り重ねてみた。そして今朝、メンソレータムとの闘いの結果なのか、前日のニンニクが頑張ったせいなのかわからないが、該当箇所がべっこう飴のような色になっている。治りかけているに違いないと確信した。

 ここで放っておけば良いのかも知れないのだが、どうも何かを試してみたくなってしまう。子供の頃だったら、かさぶたを早々に剥がして後悔することは何度もあったが、その頃の悪い癖が何十年も経って蘇ってきたのだ。まずはべっこう飴状になった患部にティッシュを押し当てて、悪い水が溜まっているのなら、とっとと出て行ってもらおうと思った。剥がしたティッシュを見るとわずかにべっこう飴が付着している。「そうだ、取り除いちゃえ!」と思い、ゆっくりと患部を拭った。するとべっこう飴の下からは真紅のエリアが出てきた。しまった、まだ早かったか。またやってしまった。表に晒された患部はじんじんと痛む。それでも、この痛みは早く治るために体が闘ってくれているのだと思えば、なんだかありがたい。

 真っ赤に腫れ上がっている自分の下唇を見ていたら、今でも時々テレビや映画のドラマの題材になる素晴らしい小説を残した、某有名作家のことを急に思い出した。画像検索してみたら、この方の若い頃は下唇がそんなに大きくなかった。後年の下唇のイメージがはっきりしていたので、意外だった。となると、いつから下唇が育ったのだろう。どうでもいいか。さて今夜は、牛乳を塗って眠ってみようかな。

『DUOの會』

笠井瑞丈

構成 演出 振付 笠井叡

初演は大野慶人さんが
亡くなった二ヶ月後でした
初演は大野慶人さんに
捧ぐという言葉で始まった

 DUOの會は
笠井叡と大野一雄が踊ったデュオ

3作品 

「犠儀」 
「丘の麓」 
「病める舞姫」 

そして新作1作品

「笠井叡の大野一雄」

この4作品を

笠井瑞丈と川口隆夫が踊る

僕は小さい時から
大野一雄さんを知っていた
なんか不思議な
おじいさんだと
いつも思っていた

ドイツに住んでいる頃
フランスで
『世界の大野』
になった舞台を見た
初大野体験 
確か僕が6歳か7歳の頃だったと思う
カーテンコール
舞台に上がりお花を渡した

今回は自分が舞台上にいる
ふっとあの時の時間が蘇る

カーテンコール
最前列の真ん中に
笠井叡が座っている

薄暗い中
少し笑っているように見えた

今日は舞台ができたのだと確信した

音に押される

冨岡三智

去る11/19に大阪の玉水記念館ホールで開催された『エスニック・ナイト2022 ジャワ舞踊編』公演で「ガンビョン・パンクル」を踊った。その時に覚えた不思議な感覚の話。

それは背中に音がぶつかってくるような感覚だった。音楽にはまな板のように厚みがあって弾力もある。まるで、背中に巨大なコンニャクが飛んでくるような感じである。さらに、チブロン太鼓の音や掛け声が手裏剣のように背中に刺さって、背中や腕がぴくぴくっと動く。今まで踊ってきた中で、音がこんな風に聞こえた…というか身体に響いてきたことは初めてである。

ここで押されるとか刺さるとか言ったけれど、決して否定的な意味ではない。こんなに音に支えられた経験もない気がする。踊ったというより、半ば踊らせてもらった感じだ。大音量のロックコンサートでも、ジャワよりもずっと激しいバリのガムラン音楽でも、音は空間全体を満たしても刺さるまでには至らなかった。この公演ではそこまでの音量はないのに、なぜ筋肉が動いてしまうのだろう。この公演では舞踊スペースと観客席が同じ平面で、舞踊スペースの背後に高さ45cmの演奏者用ステージ台がしつらえられ、その上にガムラン楽器が配置された。ちょうど楽器の高さが私の背中辺りになるが、この高さが絶妙だったのだろうか。PAのやり方も関係あるのだろうか…。

ガムラン奏者は床に腰を下ろして楽器を演奏する。通常の公演では楽器は踊り手と同じ平面に置かれるから、音は踊り手の腰よりも低い位置から聞こえてくる。つまり、音は下から立ち上りながら渾然一体となり、踊り手の耳に届く。あるいは、音は天井までいったん上がり、上から降ってくるように聞こえてくる。ジャワのガムラン音楽はそんな風に聞こえるのが当たり前だと思っていたのだが、音が3次元空間のどこからどんな質感でやってくると動きが生きるのか、もっと探求してみよう…と思ったことだった。

水牛的読書日記 2022年11月

アサノタカオ

11月某日 待望の八巻美恵さんのエッセイ集『水牛のように』(horobooks)を読む。エッセイのことばはもちろん、装丁と造本もまたすばらしい。世界中の日本語読者に自慢したい一冊だ。カバーの白地にちいさく輝く、木村さくらさんの画。あこがれの気持ちをかきたてられ正方形に近いA5判変形のやわらかな本を開くと、パノラマの風景が広がるように気持ちのいいことばの風景が広がる。見開きページの余白は指をかけるのにちょうどよい具合で、ページの区切りで文の流れが止まらないよう、本文の版面をノド側にすこし寄せているのも自分好み。

本を読み、ごはんを食べ、友人と会い、土地を歩き、何かを思い出す。大きな歴史の力と大きな自然の力に、ここのところ人間社会は翻弄されっぱなしだが、八巻さんの本に記された日々の「愉快」は動じない。「愉快」はいついかなるときもそこにある、まるで嵐の後の野原に立つ水牛のように。この本について書きたいことは、まだまだたくさんある。

11月某日 蔦哲一朗監督の映画『雨の詩』を試写で鑑賞。地方の自然生活をテーマにしたスローシネマ。屋久島に暮らした詩人・山尾三省の詩「火を焚きなさい」がモチーフのひとつになっていて、三省さんのアニミズム的世界観とも響きあう作品。印象的な読書のシーンもある。自分が三省さんの詩集やエッセイ集の編集を担当したことからご縁が繋がり、僭越ながらコメントを寄せた。

《陽が昇り、陽が沈む。雨が降り、雨がやむ。人と人、人と自然がただともにあることがむき出しにされる森の静けさの中で、言葉や書物はどんな意味をもつのだろう。読むことではじまり、読むことで終わるこの美しい寡黙に満たされた映画を観ながら、遠い未来に人類が消滅して家々が崩れ、野ざらしにされた詩集のページを、風が翻していく光景を想像した。アサノタカオ(編集者)》

ロードショーがはじまり、東京のポレポレ東中野であらためてこの映画を観た。冒頭、山の家に降りしきる雨の音。室内で窓ガラスを見つめ、流れる水を通過する光のゆらめきを無言で受け止める主人公の顔。劇場でこの音と光を体感しただけで、もう感無量だ。物語の世界をふと離れ、映画自体が川そのものになり、夜そのものになる瞬間がたまらない。野に帰ろうと志向しているシネマ。上映後、蔦監督やスタッフの方とことばを交わした。

11月某日 山尾三省の妹で北海道・小樽在住の詩人・長屋のり子さんからお便りと本が届く。土橋芳美さんの詩集『ウクライナ青年兵士との対話』(サッポロ堂書店)、長屋恵一さんのエッセイ『風呂場で読むドストエフスキー』(響文社)。

11月某日 詩人のヤリタミサコさんからお便りが届く。貴重な詩集をお譲りいただいた。高橋昭八郎『ペ/ージ論』(思潮社)。

11月某日 ダンテ『神曲』(三浦逸雄訳、角川ソフィア文庫)を「地獄篇」から少しずつ読んでいる。長編叙事詩の古典に身構えていたが、読み始めるとなんのことはない、これはイタリア版「地獄八景亡者戯」ではないか。意外と落語みたいでおもしろい。

11月某日 大学の授業で、「私の好きなもの」をテーマに個人メディアをつくる課題を出した。編集者としてうれしい気持ちになるのは、お願いしていた原稿が届いたとき。昨晩から学生からの課題が続々と届き、大変だなと思うけど、やっぱりうれしい。

11月某日 作家・孤伏澤つたゐさんの『浜辺の村でだれかと暮らせば』(ヨモツヘグイニナ)を読む。地方の漁村を舞台に、村で生きる漁師の男「おれ」と都会からの移住者との関わりをテーマにした小説。かれらの同居生活を淡々と描写する語りから、ともにあることの希望がじんわりと感じられる。読み応えのある作品だった。

『浜辺の村でだれかと暮らせば』は、自然に囲まれた土地を舞台に地元民と移住者の同居生活をモチーフにしている点で、蔦哲一朗監督『雨の詩』と通じるものがある。

11月某日 文学フリマ東京35にサウダージ・ブックスとして出店。お隣りは文学ユニット「フラクタル山羊座ロンド」、石川ナヲさんの『Taiwan 行きたい日記』『東京・千葉・台湾日記』を購入。今回は新刊案内を兼ねたフリーペーパー、文筆家の大阿久佳乃さん『「じたばたするもの」のはじめに』を配布した。「大阿久さんのファンです」「かっこいい冊子ですね」という声を複数の人からいただいた。

本の販売のほうはさっぱりだったけど、会いたかった人、読みたかった本とのよい出会いがたくさんあってうれしかった。植本一子さん、小倉快子さん、佐藤友理さん、高田怜央さん。作家・鹿紙路さんの新作、東アフリカの歴史と現在が交差する長編百合小説『征服されざる千年』、これは驚異的な作品だ。

帰路、会場で入手した『私たちの”解放日誌”』(gasi editorial)を読み、ハートに火がついた。安達茉莉子さん、いよりふみこさん、小山内園子さん、渡辺愛知さんの熱き韓国ドラマ本。パク・へヨンの脚本(そして名優たちの演技)に心がさらわれたドラマ「私の解放日誌」、もう一度観なければ。自宅でSNSをチェックして、「あの方もあの方も出店していたのか!」と気づくことも多く、早めに店じまいしてブースを見て回ればよかったと反省。次回はお客さんとして参加しようかな。

11月某日 文学フリマ東京35で出会った一冊。出版社で営業を担当する橋本亮二さんの『手紙を書くよ』(十七時退勤社)を読む。赤阪泰志さん、鎌田裕樹さん、佐藤裕美さん、佐藤友理さん、中田幸乃さんとの共著。「あの人のことを思うとき、光がゆっくりと明滅する」と冒頭に記す橋本さんのエッセイ「光あれ」、そして元書店員の佐藤裕美さんとの往復書簡を読んだだけで胸がいっぱいに。

11月某日 昼前に自宅を出発、新横浜経由の新幹線のぞみで新山口へ。温泉などに寄り道せずに駅前のホテルに投宿し、デスクに校正刷を広げて粛々と編集の仕事をする。旅の道中では、哲学者・三木那由他さんの『会話を哲学する』(光文社新書)を読む。文学フリマ東京で入手した黒田編集&皆本夏樹さんのZine『三人が苦手』VOL.1には、この本の読書会の記録が掲載されていた。三木さんが分析する会話の世界は、まるで奥深く複雑な森のよう。

『会話を哲学する』のなかでは、高橋留美子の漫画『めぞん一刻』を題材に「もういないひとに向けて」というコミュニケーションを分析する箇所に特に胸を打たれた。そして「コミュニケーション的暴力」としての「意味の占有」を学ぶ我が身が痛い。ことばで人を傷つけた無数の思い出が身に残っているからだ。

うちの高校生に借りた『会話を哲学する』を読んでいろいろと痛い思いを味わいつつ、それでも人間が交わすことばの豊かさに開眼した。小説や漫画の会話をこれほど注意深く読み解いたことはなかったので、あたらしい発見の連続。読後には、ヤマシタトモコ『違国日記』(祥伝社)など、漫画をもっと読みたくなった。よい本だった。

11月某日 新山口から取材チームでレンタカーに同乗し阿東へ。島根・津和野に近い山間の地の牧場を訪問。牧場の入り口、真っ赤に紅葉したジャイアントセコイアの並木道が美しい。牛舎や加工場を見学しながら、牧場主からお話をうかがう。できるだけ輸入飼料にたよらない放牧に移行し、土地の恵みで牛たちを育てようとしている。「生き物とともに喜びと苦しみを共有する」ということばが心に残った。うっすらと霧がかかる周囲の山を眺めながら、牧場産のチーズケーキをいただく。絶品。

11月某日 Zine『三人が苦手』VOL.1は、『会話を哲学する』の読書会の記録のほか、インタビューやレビューなどすべての記事が読み応えがあった。なかでも夜燈さんのエッセイ「”ひとり”を”自分”と生きる」がとてもよかった。書かれている内容にも共感したし、文章そのものに惹かれるものがあった。

11月某日 新山口駅の構内には壁面を緑化した「垂直の庭」があり、壮観。新幹線に乗りこみ広島で乗り換えて新大阪へ移動し、夕方、地下鉄を使って大阪の書店を駆け足でまわる。まずは緑地公園駅の blackbird books へ、ついで画家の nakaban さん作の看板が目印、淀屋橋のCalo Bookshop and Cafe へ。フリーペーパー『「じたばたするもの」のはじめに』を届ける。

そして最後に本町、はじめての toi books へ。茨木のり子訳編『新版 韓国現代詩選』(亜紀書房、若松英輔・斎藤真理子解説)など、韓国文学の翻訳書が勢ぞろい。大前粟生さん、町屋良平さん、そして店主の磯上竜也さんの共著『全身が青春』(toi books)を購入。磯上さんのエッセイのことばがとてもいい。

電車を乗り継いで京都・蹴上の隠れ家的な定宿へ直行し、熱いお風呂に浸かり、本を読む。blackbird booksでみつけた、文筆家の佐久間裕美子さん『2020-2021』(wAiwAi)。新型コロナウイルス禍の中、アメリカで暮らす個の視点から書かれた社会批評エッセイ集。「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」をめぐる読み応えのある文章もいくつか収録されている。差別という暴力に抗い、つよくやさしく生きるマイノリティの人々から託された声に変革への希望の兆しを見出す佐久間さん。「楽観的すぎたかもしれない」と本書の「はじめに」で自省しているが、状況に悲観しながら、なお「意志による楽観主義」(エドワード・サイード)を持ち続けることの大切さを僕はこの本から学んだ。

佐久間さんはニューヨーク州北部、森の中の「山の家」で1年半をすごしたそうだ。まるで『森の生活』のソローみたい、そして『市民的不服従』のソローと『Weの市民革命』の佐久間さんの思想の間には通じるものがあるのではないか、なんてことを、窓越しに紅葉の景色を眺めつつ京都の「山の家」で思う。

11月某日 お昼に大阪・高槻で大阿久佳乃さん、デザイナーの納谷衣美さんと駅前の喫茶店で打ち合わせ。大阿久さんのアメリカ文学・海外文学エッセイ集『じたばたするもの』は来年1月サウダージ・ブックスから刊行予定、よい本に仕上げよう。フリーペーパー『「じたばたするもの」のはじめに』を渡し、記念撮影。二人のいい笑顔が、最高のお土産。

11月某日 旅から戻ると、詩人あする恵子さんのノンフィクション『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)が届いていた。ていねいなお便りもいただいた。本書のサブタイトルには、「“かくれ発達障害”と共に37年を駈けぬけた「うたうたい のえ」の生と死」とある。急逝した「のえ」さんは、ほかならぬあする恵子さんの子どもだった。本のずっしりとした重みにためらいつつ、後回しにできないような気がして、覚悟を決めて読み始める。軽々しくわかったような顔をすることが許されない悲痛な体験がつづられているが、著者のことばに正面から向き合いたい。

11月某日 金石範小説集『新編 鴉の死』(クオン)の見本が届いた。編集を担当。デザイナー松岡里美さん(gocoro)の緊張感ある装丁がすごい! 済州島四・三事件を通じて歴史と人間の真実に迫る。日本語文学史に孤高の足跡を残す一冊、書物に手をふれて尊い重みを確かめた。

11月某日 今年2022年に編集を担当した3冊の文学の本。

 李良枝『ことばの杖』(新泉社)
 金石範『満月の下の赤い海』(クオン)
 金石範『新編 鴉の死』(クオン)

仲間とともに、こうした本作りの仕事に関わったことを心の底から「誇り」に思う。

ちょうど30年前、大学に入る直前に偶然の導きで「在日朝鮮人文学」に出会った。作家の李良枝が亡くなった年だった。のちに挑戦した金石範の大長編小説『火山島』には歯が立たなかった。でも無性に惹かれるものがあった。地方都市で語り合う友も教えを乞う師も見つけられない中で、ひとりで読み続けた。

読み続ける中で少しずつ学びを深め、多くの出会いを経験し、やがて読書は必然に変わった。はじめは孤独だったけれど、ふりかえれば読むことの旅の途上で本当に多くの先達、仲間が道を示してくれた。こうした人たちの同行がなければ、こうした「誇り」を抱ける人生の現在地にたどり着くことはなかっただろう。

李良枝や金石範の文学のことばは、これからも自分自身の「生きる」をつよく支えるものになると思う。だから自信をもって堂々とおすすめしたい。いまこのときにも、30年前の自分と同じように文学の扉の前に立つ人がきっといるはず。限りある時間の中で、次の読者のために扉を開ける仕事をしたい。

11月某日 早朝、コーヒーでも飲みながらちょっとページでもめくってみようか、ぐらいの軽い気持ちで読み始めたある本の解説で知った「事実」に、大変な衝撃を受けた。ある本というのは今年2022年に復刊された、詩人・茨木のり子が翻訳・編集をしたアンソロジー『新版 韓国現代詩選』、解説は韓国文学翻訳家の斎藤真理子さん。

1990年に刊行されたこのアンソロジーの旧版は何度も読んだことがあるのだが、新版に収録された斎藤さんの解説エッセイ「時代を越える翻訳の生命」を読み、自分の文学観が大きな地殻変動をおこす音を聞いたような気がする。「翻訳は、揺れている地面どうしの間に橋を架けわたすもの」。斎藤さんが記す「事実」をめぐる慎重な省察のことばに終日、心が立ち止まっていた(詳細については『新版 韓国現代詩選』をお読みください)。

読むこと、読み続けること。ことばを受け取るという営みもまた、安住の地ではなされない終わりのない検証の過程、旅なのだな、と思い知る。朝は動揺しておろおろしながら『詩選』を読んだので、もう一度、解説のことばにゆっくり目を通し、背筋を伸ばした。文学を読むものとして、日本語を生きるものとして、ここには素通りせずに考えなければならないことがたしかにある。途方もなく大きな宿題をもらった。

217 死者の民主主義

藤井貞和

言葉によってきみは狼になれるか。 叙事詩にいわく、
「それ、いまだ、あめつち分かれず、
陰陽の区別、なかりし時、
炎のごとく、ほのかなるあかるみありて、……(中略)
かすかにきざしあり。 灰白の狼を名のる者、
とじられない日に志を継ぐ。 きみの名は、などと問うなかれ。
アジアで滅ぶすべての死者に対して、
生者よ、慎みあれ」。

(ノートに書かれていた題名。)

襞のある時間

高橋悠治

記憶に残る自分の姿、高島屋南館の入口に坐って待っていると、そこにもう一人の自分が通りかかる。それを見ている自分の眼はどこにあるのか。その瞬間が繰り返されるのは、なぜか。そこに置き去りにされて坐っている。なにを待っているのか。

その場所を通って地下道に出る。それを登っていくと二子玉川の駅がある。何度も透ったあの道の角、そこに座り込むと、自分の姿が眼の前を通って行く。そこに折り畳まれた時間の襞があり、その襞がひらいて、内側に隠れているもう一人の自分が後から通り過ぎるのが見える時がある。

こんな時間の襞、襞のある時間でできている音楽、毎日の何事もなく過ぎてゆく時間のそこ・ここに巻きスカートのように拡がる時間の襞があるような。

4月に金沢へ行ったとき、1ページのスケッチを何回も見て、見えたところから思いつく音のかたちを書き留めるという方法で2曲同時に作ってみたが、同じ部屋にいる人の顔を見たとき、同じ顔が何度も違う角度から見えるのと同じように、同じ音楽が何回も違う順序で聞こえてくるとき、これはデイヴィッド・ホックニーがピカソのキュビズム時代の絵を解釈するのと似たやり方で、あるいは、プルーストがプティット・マドレーヌから過去の生活全体を引き出してくるように、記憶と現実の入り混じった結晶体で、根が絡まった木の茂み。