どうよう(2023.09)

小沼純一

たべないの
たべたくないの
たべらんないの

たべるられるものないじゃない

たべられるかと
つくってみても
そっぽむかれて
へちゃむくれ

たべるものないじゃない

もんくはいっきに
のみこんで
はらふくれるのは
どっち
どっちだ

あのみせこのみせ
どしたんだろう

ときどきよって
カクテルいっぱい
バーはほとんどいかないけれど
あのみせだけはごくたまに
バーなのにタイの料理もだしていて
たぶんおなじくらいのひとがマスターで
とりとめのないはなしを
ぽつぽつと
すこしあいだをおいたらば
貸店舗のふだがさがってた

あのみせこのみせ
どしたんだろう

じゃけん
じゃんけん
じゃのめ
じゃのみち
じゃばらひらいて
じゃんばらや

じゃりみち
じゃりたれ
じゃりじゃりふんで
じゃりじゃりかんで
じゃくにくきょうしょく
じゃからんだ

さし 
さわる
さし
さわり
なし
さし
さわり
ない
やりとり
するすると
すすむ
ものごと

さし

ささ
れつ
さし
ぬかれ
さし
もどす

さし

しまいたい
させば
いつか
しまい
がおとずれて

肩を並べる

植松眞人

 社会人になって働くことの面白さや辛さもある程度経験した息子とは、年に数えるほどしか会わなくなったけれど、会うと必ず息子は小生意気な口をきく。小さな頃から小生意気だったので、それほど気にならないのだが私に似て腹の据わっていないところが見え隠れする言動にははらはらしてしまう。
 そんな息子には悪い事をしたなあと思うところがいくつかあり、その最たるものが引っ越しである。私の仕事の都合というか、簡単に言えば、事業の浮き沈みで引っ越しを余儀なくされることがリーマンショック以降多くなってしまい、なぜかそれが息子の受験と重なるのだ。高校受験も大学受験もそうだった。
 引っ越しも小さな家から大きな家へと引っ越すのであれば話が早い。あるものを全部持っていってもちゃんと収まる。けれど、大きな家から小さな家へと引っ越す場合は、持っているものを処分しなければならず、どうしても手間がかかってしまう。引っ越しの経験がある人ならわかるだろうが、持っているものを処分するというのは時間のかかるものだ。加えて、引っ越し前の数週間は家の中が持っていくものと処分するものでごった返して混乱する。
「なんで、僕の受験に合わせて引っ越しするかなあ」
 息子は不平不満で頰を膨らますのだが、仕方がない。ない袖は振れない。ない家賃は払えない。払えるところへ行くしかない。というわけで、リーマンショック以降、私たち家族は流浪の民のように少しずつ家のサイズを縮小しながら暮らしている。しかし、そんな流浪のなかでも住み心地の良かった家があった。数年間住むことになった千駄木の借家だった。猫を飼っていたため、マンションではなく借家を転々としていたのだが、千駄木の借家は隣に住む大家が元々猫好きということもあり、猫を飼うことにも好意的で、築年数は経っていたけれど広くて住み心地のいい家だった。
 千駄木の家に引っ越す前に住んでいたのは上石神井の借家で、ここはなんとなく陰気な感じのする家で、家が建っている周辺もうら寂しくなるような印象だった。神楽坂近くの矢来町から上石神井に引っ越す時がちょうど息子の高校受験と重なっていて、学校が終わると息子は馴染みだった神楽坂の夜はバーになるカフェで受験勉強をさせてもらっていた。バータイムが始まっても、客が少ないのをいいことにカウンターの端に居座って、参考書をめくり、わからないところがあるとカウンターの中にいた大学留年生に質問してページを進めるという毎日だったようだ。そんな暮らしの中でも息子は親孝行で、ちゃんと学費の安い公立高校に入学してくれた。
 しかし、どことなく陰気な上石神井の家にはたった一年住んだだけで千駄木へ引っ越すことになった。引っ越し前、千駄木の借家を下見に行った私は、居間の隣に小さな和室があるのを見てとても気に入ったのだった。静かな場所に建っている家で、その和室の窓からは隣の庭が借景となって気持ちの良い風がいつでも吹いているイメージをもたらしていた。それを見た時に、ここに机を並べれば、息子が毎日受験勉強をしていた神楽坂のカフェのカウンター席のようになるかもしれないなあと思ったのだった。それなら、私も息子の隣に席を並べて書き仕事をして、黙って時間を過ごすのもいいと思ったのだ。さすがに、そんな話を高校生の息子に伝えても嫌がられるだけだと思い黙っていたが、とりあえずそんなふうに作業ができるスペースだけは確保しようと考えたのだ。
 千駄木への引っ越しの日、業者が荷物を運び込んだあとの様子をみて、私は驚いた。荷物が溢れかえっていた。あれもこれも捨てたり処分したりしたはずなのに、まだまだ荷物があり、息子と肩を並べようと思っていた和室も物置と化した。そして、その状態は次の引っ越しまでそれほど変わらないままで、その間に息子は京都の大学に入学を決め、家を出て行ったのである。
 この話は息子にはしたことがない。しても嫌がられるか笑われるだけだと思い話さなかった。私自身もそれほど強く、それを願ってはいなかったはずで、それもいいなあという程度だったと思うのだ。それなのに、私と息子が肩を並べて、隣の木々が揺れる大きな窓に向かって、黙っている様子を今でも時々思い浮かべてしまう。そして、そんな風景を思い浮かべる時、もしかしたら、本当にそんなことがあったのではないかと思うくらいに吹いていたかもしれない風を感じ、どう考えても実際にはありえないような光のきらめきを思ったりするのだ。(了)

しもた屋之噺(259)

杉山洋一

ダヴィデより、トレントの山中レードロのぺルニチ山荘で、マーラーのアダージェットのピアノ編作を弾いているヴィデオが届きました。標高1600メートル、男性的な山肌に囲まれた山小屋のテラスに設えた小さなピアノの響きは、そのまま澄んだ山のまにまに吸い込まれてゆきます。

8月某日 三軒茶屋自宅
台風の接近により強風。小学校の校庭にはられたネットも風に煽られ鉄棒とふれて、カラカラ、チリチリ乾いた音を立てている。墓参の卒塔婆の音を想起させるのは、盆が近いからか。
クセナキスの楽譜を眺めていて、その昔、ギリシャ神殿で神々に畏怖を伝え、祈りを捧げる折、人々は何を思ったのだろうと考える。ひょっとしたら、ほんの少し、今の自分と重複するものがあるかもしれない。おののき、期待、不安、躍動。ディオニソス的な時間に足を絡み取られそうになりながら、なぎ倒されまいと懸命に足に力を籠めていて、とんでもなく巨大で壮大な存在が、うっすら浮かび上がる。外国為替は円安進行・1ユーロ159円とのニュース。日銀介入か。

8月某日 三軒茶屋自宅
毎日楽譜を開くたび、自らの読譜能力の欠落に憤りと不甲斐なさを覚え、呆れかえっている。
クセナキスのリズムは、出来るだけ読みやすく書き換えた。複雑すぎて現実的でない箇所は、一つ一つ近似値を計算し、簡単にして、頭で少しでも音が聴こえるよう腐心する。
尤も、複雑な連符群など、実際は単に音の揺らぎや連続的変化を数的に表現しているに過ぎず、それらも同族楽器群ごとには分けられていなくて、敢えてオーケストラを裁断し細分化したグループごとに変化するので、どう取り扱うのが一番真っ当なのか甚だ悩ましい。
ファジーな視点を排し、決然とした姿勢を心がけつつ、雨が降り、雪嵐にまみれ、つむじ風に翻弄される、自然現象に晒された自らの姿を、我々は直截に再現しなければならない。何某か確固たる指針を裡に築いておかなければ、漠然と立ちすくむばかりで、畏怖に翻弄されて、実体のない音を奏するばかりだろう。夜、息子と連立ち町田を訪ねる。彼はシチューを食べ、こちらは鯵のタタキを頬張る。

8月某日 三軒茶屋自宅
ちょうど1世紀前に作曲されたヴァレーズ作品について。
ピッチが不明瞭とされていた打楽器パートに旋律を与え、通常旋律を奏する管楽器は、使用する音高を徹頭徹尾限定してリズムを際立たせ、打楽器のように扱う。オーケストレーションの変革というより、発想の逆転である。とどのつまり、何の音であっても旋律は成立するのだ、君も漸く気がついたか、と諭されているように感じる瞬間すらある。
何がどう違うのか定かではないのだが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」や「ペトルーシュカ」のような打楽器的音楽とも、根本的に成立過程は相いれない。
ストラヴィンスキーは、機能和声の延長線上で複雑な和声構造が成立しているし、明快な論理に基づき、土俗的リズムを生み出した。オーケストレーションも、伝統的な見地をもってしても全く無駄がない。
ヴァレーズは、オーケストラの楽器が出しにくい音を選び、敢えて書く。ヴァレーズは、ベルリオーズなど、伝統作品の指揮をよく手掛けていたから、譜面から彼が熟知した楽器法はよく見て取れるし、如何にして既存のオーケストレーションの概念から抜け出ようと試行錯誤していたのか痛感する。
新動機や、変奏を忍び込ませつつ、全体は、意図的に把握の容易な二部構造を踏襲したのは、聴き手は遡及しながら作品の物語性の共有が可能であって、確固たる全体の屋台骨は正確に把握を欲していたのではないか。
一見、直感的に演奏すべきかと感じられる音楽だが、常に何かを逸脱しようとしていて、その「何か」を常に意識しておく必要がある。

8月某日 三軒茶屋自宅
ハワイ、マウイ島で大規模火災。マウイ島はおろか、ハワイすら全く知らないが、マウイ島ラハイナと聞き、「波の盆」のラハイナ浄土院「盆踊り」を思い出す。ラハイナ浄土院も大仏以外焼失とニュースが報じている。

8月某日 三軒茶屋自宅
湯浅作品を勉強していて、音楽の息の長さに改めておどろき、息の浅い自分に呆れた。長いフレーズを、モザイク画のように、或いはちぎり紙細工のように、さもなければ点描画法のように細分化しながら、表面の触感を大胆に変化させつつ大きな運動でうねりを生み出す。細部を明確にし過ぎれば、推進力不足でフレーズが角ばってしまう。推進力に重点を置きすぎれば、音の粒子は光沢を失い、くすんでしまう。最後の練習で、突然演奏者全員の力が抜け、靄が晴れた思いに駆られる。離陸後の飛行機が、立ち籠める厚い雲を超えて、澄みきった青空に飛び出した時のような、不思議な感動を共有する。勉強しているとき、時折ドビュッシーのオーケストレーションを思いだしたのは何故だろう。

8月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の最後、湯浅先生は思いの外お元気で、幾度も舞台上で万雷の拍手に応えた。その凛々しい姿には、ただ深い感銘を受けるばかりであった。

8月某日 三軒茶屋自宅
無事に演奏会は終わっても、未だにクセナキスをリハーサルする夢を見ては、あそこが合わない、ここがずれた、と魘され続けている。目が覚めると夢でほっとする。
プリゴジンが搭乗していたとされる、自家用ジェット機墜落。福島原発では処理水放出開始。

8月某日 三軒茶屋自宅
草津音楽祭でカニーノさんのレッスンを受けてきた息子は、レッスン内容を色々教えてくれる。彼はレガートは指で繋ぎ、ペダルでは繋げない。ペダルは音色の変化に特化して踏むのだという。
ポジション移動の際、準備はせず、そのまま飛べるよう訓練すること。スカルラッティ繰返しの変奏は、強弱ではなく、音色と装飾音を変化させること。替え指を頭ではなく、無意識に出来るようになること。小指を強くすること。掌で掴む塩梅で弾くこと。後10年もすれば、誰も暗譜で演奏などしなくなる。暗譜にかけるストレスより、楽譜を見ながら、より開放的に自由に弾くよう望まれる時代に入りつつある、云々。
齢18の息子が嬉々として話し続けていて、思わず感慨を覚える。

8月某日 三軒茶屋自宅
母曰く、義理の妹ミツ代さんが七月十二日に間質性肺炎で亡くなっていた、と息子さんから電話がきたそうだ。ミツ代さんの言いつけで、訃報は暫く経って伝えられたらしい。姉妹の母が眠る大津の信誠寺ではなく、久里浜のお墓に入ることになるという。眼の大きな、明るくはきのある、それでいて芯の強い女性だった。もう長年会っていなかったから、なぜか小柄な印象を持っていたが、実のところ母より背が高かった。
長年、レッスンでピアノを弾いてくれているマルコよりメールが届く。
先日、学校の運営関係者から電話があって、マルコの9月分契約予定日の拘束は必要なくなった、と言われたそうだ。春先だったか、「長年学校に勤めていながら、未だ終身雇用扱いされないのは不当」と弁護士を介し学校に抗議していた。

8月某日 三軒茶屋自宅
レプーブリカ紙、福島産海産物に舌鼓を打つ岸田首相の写真を大きく掲載。中国による日本の海産物輸入拒否と関係あるのか、日本国内の海産物流通価格下落。帆立貝刺身も安くなっていて、町田の両親宅でも二パック分存分に振舞ってもらった。日本の漁業関係者が本当に気の毒だ。
西武池袋本店ストライキ。そごう西武を米投資ファンドに売却とのニュース。アール・ヴィヴァンやカンカンポア、「今日の音楽」や武満徹。ロンドン・シンフォニエッタやネクサス。フランソワ=ベルナール・マーシュやファブリチアーニ。我々の世代にとって、追いかける夢を常に与えてくれる存在だった。
野坂惠璃さんのための新作題名は「夢の鳥」とする。野坂操壽さんが、生前アッシジ訪問を切望されていたと伺い、深く心を動かされた。

(8月31日 三軒茶屋にて)

話の話 第6話:どうしても覚えられない

戸田昌子

わたしはいまひかりの座席に座っている。東海道新幹線のひかりである。京都へ向かっている。なのにどうしてのぞみでなくて、ひかりなのか。周知のように東海道新幹線は、のぞみ、ひかり、こだま、の順番で到着が早い。そしてのぞみは問題なく京都に止まるというのに、なぜわたしはひかりのきっぷを買ってしまったのか。それはたぶん大雨のせいだ。そしてたぶん、わたしのクレジットカードだけはいつも受け付けてくれない駅の(おそらくは旧型の)自動券売機にいらいらして。ホームに入線する新幹線を見てからようやくそれがひかりであることに気づいたという次第で、つい「こだまでしょうか?」「いいえ、ひかりで」とつぶやいている。

一時期ほどではないけれど、新幹線にはまあまあ乗る。いっときは週1くらいで乗っていた。いったい何百回乗れば覚えられるのか、と思いつつ、どうしても覚えられないことはあるのだ、とも思う。たとえばごみの分別収集日。何曜日が燃えるゴミの日で、何曜日が燃えないゴミの日なのかを、わたしは覚えない。覚えないことにしている、と言うべきかもしれない。なぜなら、もし覚えてしまうと、収集日にゴミを玄関先に持っていくのがわたしの仕事になってしまうからである。そうすると、夫の数少ない家事分担率が減ってしまうではないか。妻たるわたしが夫の仕事を奪うわけにはいかない。つまりは夫のためにも、わたしはごみ収集日を覚えるわけにはいかない、という必然的な理由もあるのである。これは、麻雀に似ている。いったん麻雀を覚えてしまうと、先輩諸賢にカモにされてしまうので、覚えないままの方がいい、という例の教訓的なあれである。世の中には覚えないほうがいいこと、というのが確かにある。

覚えないほうがいいことの筆頭が、煙草である。煙草をいったんのんでしまうと、その後、その人は煙草をのむ人生とのまない人生の二つの選択肢のあいだで揺れ動くことになる。のんだことがなければ、のんでみようか、という選択肢があるのみである。たばこをのまない人には選択肢は1択、のむひとには2択である。こういう選択肢の数の増減問題は、意外に気づかれていないようだ。ひとは中立な場所で、ものごとを選ばない。覚えてしまってからやめる、というのは、覚えない、ということと同じにはならないのである。

わたしがもっとも覚えられないのが、人の名前である。覚えようとするのだけれど、むずかしい。人の名前を覚えなければならない局面というのが、大抵、講演の直前や授業時などの、集中と緊張を強いられる状況が多いため、人の名前を覚えるどころではないからかもしれない。そのため、「名前を覚えるのが苦手なので、何度かお名前聞きますけど、いいですか?」とはじめに言うようにしている。アメリカに初めて行ったときも、何度か名前を尋ねても失礼ではない英語の言い回しは、友達に聞いてかなり早くに覚えた。「What did you say your name was?」というのである。これなら、「お名前、いちど伺ったんですけど、もう一回聞いていいですか?」というニュアンスが出る。自分の記憶力の悪さをアピールする方法である。これなら気を悪くされることは、たぶん、ない。

自分が名前を覚えないため、他人が自分の名前を覚えなくても全く気にしないことにしている。むしろ、わたしのような者は覚えてもらっていなくても当然、と思っているので、特に目上の相手には、自分の名前を何度も言うように気をつけてもいる。覚えられていなくても名前が認知できるように、という親切心からである。しかし、あるときだいぶ年上の評論家に10回目くらいに会ったとき「わたし戸田と申します」と言ったら「知ってるよ!」と、ずいぶんとムッとした反応をされたことがある。わたしとしては、飲み会で何度か同席しているくらいで覚えていただかなくても気にはしないのだが。というよりむしろわたしの存在など忘れてほしいといつも思っている。

さらに、最も名前を覚えられないケースというのが、苦手な人の名前である。これはどうやらある種の自動消去機能がわたしの頭脳にはついているようで、たとえばその人の本を何冊も持っていたとしても、覚えられないのである。いつでも、「だれだっけあのムカつくやつ、なんだか木へんがついていた気がする」とか「あのなんだか田んぼみたいな変な名前の……」と、などと言っている。実務的には困るので、パソコンのスティッキーズというアプリに、そんな理由で忘れられがちな人々の名前がリストにしてあって、必要な時にはそれを開く。しかしいったん開くと苦手な人たちの名前がリストになってダーっと出てくるので、それはそれで心の闇に引火する可能性があるため、あまり他人におすすめはできない。

さらには、どうしても覚えられない地名や固有名詞というのがある。なにか響きが似ていて、他のものに頭の中で置き換わってしまいがちなやつである。そうした地名の代表格が、わたしにとっての出町柳と四條畷である。でまちやなぎとしじょうなわて。言うまでもないが出町柳は京都の鴨川デルタの近くの駅名、四條畷は大阪は北河内にある市の名前で、名門の府立高校があることでも知られる。もちろんこの双方には、なんら関連性はない。共通点といえば、それらがともに3文字の漢字からなる6文字の地名であること、最初の漢字の1文字に1音が充てられていることくらいで、その音のリズム感によってこのふたつがわたしのなかで置き換えられる理由らしいのだが、これを関西在住の鳩尾に話しても、きょとんとするばかりで、まったく理解するとっかかりがないようだ。鳩尾にとっては関西の地名は馴染みすぎていて、間違いようがないのである。

ちなみにこの鳩尾とは、いつもカレーを食べる。カレーは烏丸御池のカマルのものである。この店はそのむかし、東京は原宿で伝説的な人気を誇ったカレー店「Ghee」の味を継承している銘店で、京都文化博物館の向かいにある。鳩尾とはいつも一仕事終えたあとにそこへ行く。虹色の美しいお漬物がみじん切りになって提供されるのが嬉しい。かつては乗せ放題だったのだが、今では別料金になっていて、不満を述べつつ、それを必ず頼む。わたしたちは長細い皿の両側に別の種類のカレーを組み合わせる合がけがお気に入りで、わたしはキーマカレーとバターチキンをよく頼む。ゆるベジタリアンの鳩尾は野菜系のものをよく頼む。今回の仕事もハードだったね、などと互いの傷を舐め合いながらカレーを食べ、ビールで乾杯する。ここではかつて、作品のネタとなった事件の話をすることが多い。なぜ喜志田が毎回、話の本筋とは関係なく刺されてしまうのかは謎である。致命傷であったことはない。たぶん前世の因果が悪いのではないだろうか。店内はうす暗くて、妙に静かである。店員の顔もいつも違っているように見えて、どうしても覚えることができない。

みょうがを食べると物忘れをする、と言われている。いろんなことが覚えられない私にとっては、物忘れは大変な問題である。そのため、みょうがを刻むたびに「これでわたしはいったい何を忘れていまうのだろうか」といちいち考えてしまう。つまり、みょうがを見るたび思い出してしまう、というわけで、これではいったいぜんたい、物忘れどころではないのではないだろうか。みょうがを刻むたびに、いつになったらこの言い回しを忘れることができるのだろう、と考えている。

そういえばさっき、レモンをしぼっていて思い出してしまったことがある。むかし、わたしの友人の勤めていた会社に不倫カップルがいた。女性のほうは独身で、男性のほうは既婚者であった。あるとき会社の社員旅行があり、ハワイに行くことになった。友人とその不倫カップルは同じグループで、皆で喫茶店でお茶を飲むことになって、その不倫カップルがともにアイスレモンティーを頼んだ。それだけでは別に変なことではない。しかし、その女性のほうが、自分のグラスのうえにレモンを絞ったあと、その彼のグラスに「わたしのレモンもあげるね」と言って、相手の返事もきかずに自分のレモンを彼のグラスの上で絞ったのだという。きれいにマニキュアを塗った彼女の指から滴り落ちるレモン汁を見ながら、友人は、「このふたり、できてる……」と勘づいたのだ、と私に話していた。わたしといえば、滴り落ちるレモン汁を見つめていた友人の深刻な顔を想像して、思わず笑ったのだった。そのときまで友人にはほぼ恋愛経験がなかったと聞いているので、かえって敏感に雰囲気を察知したのだろうか。レモンを絞るたびにどうしても思い出してしまう話。

「このふたり、できてる……」

慣れない外国語は、覚えづらい。父が母とともに、初めてパリへ行ったときのこと。父は、フランス語のさようならであるところの「Au revoir」を覚えようとして、どうやら楽器の「オーボエ」と覚えてしまったらしく、デパートやお店を出る時にいちいち「オーボエ」と言っていた。「オーボエ」は少し変だね、と姉たちと笑ってしまったが、実際のところ、間違いのレベルとしては、日本語の「さよなら」を「さよなれ」と言うくらいの間違いなんじゃないかね、という話になった。確かに、日本に来ている外国人が「さよなら」を「さよなれ」と言っていたとしても、それはそれで確かに通じないということはない。むしろ微笑ましい間違いという程度のものなのではないだろうか。

「じゃあね、さよなれ!」

「図書館詩集」11(世界というが世界を見た者は)

管啓次郎

世界というが世界を見た者は
誰もいない
世界はまるごとだがわれわれには
それはどうしても体験できない
見ることも聞くこともふれることも
いまの自分が置かれたその場だけのこと
それ以外は潜在する
届かないまま潜在する
隠されている
世界にとってわれわれはもぐら
地中にぷかぷか浮かんで
青空を見上げているように気楽
それでも世界はいつものしかかってくるのだ
大きな亀の背中に乗って世界があると
アメリカ・インディアンのある部族の人々は考えた
それで大陸を「亀の島」と呼んだ
ところがさぬきのこのあたりに来ると
あちこちに亀の背のような山が点在している
この平野はむかし海だったんだなあ
山あり、その陰画のごとく
溜池あり、そしてすべての溜池は
お大師さまが掘ったもの
水よ湧けといって奇跡を起こしたのではなく
独学で身につけた掘削技術を教え
村人たちの作業を指導したのだと考えるほうが
ずっと理にかなっている
そう「考える」ということを中心にしなくては
ほんの少しも世界には近づくことができない
空海さまはまんのう池を改修
その仕事は伝説となればたちまち十世紀を超えて
語りつがれる
弘法大師の実在を疑うわけではないが
人はよく生きるためには物語になる
しかないのかな
その偉業が伝説になればもう生も死もなく
人に代わって物語が生きていく
世界がもともと物語の藪なら
藪は無数の植物の塊として
みずから魂をおび
世代交代しながら時を超えていく
百年の果てに千年あり
千年の反復が万年を生む
亀が生まれ亀を産み
亀が山になりその脚で
溜池を掘り続けるとしたらどうだろう
よい天気の山城にいて
そんなことばかりばくぜんと考えている
むかしはまったく野蛮だったね
こうして城を日本中に建てて
そこにこもって敵をむかえ討ったのか
遊びと殺しの区別もない
そんな目的においてこの城の
このおなじ位置からかつて世界を
見たものがいたわけか
世界かマーヤ(幻影)かまーやー(猫)か
それでもあの海は変わらず、ただいろいろな
工業的施設や人間的墓標が増えただけだ
亀の領土を狭めつつ
しかしこの山城の
場所そのものは本当にすてき
地形がよくわかる
人間たちの動きもうかがえる
ただ心配なのは人間は結局は人間的
スケールでしか何も見ることができない
何も見えていない
この広大な空間に何が住み
この広大な時間で何が変わってきたかを
断然まるで知らずに生きているわけさ
無時の誘惑に身をゆだね
まどろみの中で自分の同類を探す
あまり頭のいい生き方とはいえないね
麦茶を一口飲んだら
そろそろ山城を下りて山城にむかうことにする
美術館は「猪熊」の名を冠して
それだけでboarとbearが意識に登場する
ニンゲンをおびやかす
その名前は強力、これから勝手に
「猪鹿熊ゲンイチロ」とでも名乗ろうかな
そうすればboar deer bear
すべて山の肉(しし)が
ニンゲンを超えている
ここにはチカコの作品を見にきたわけ
もののふたちの山城とは関係なく
こちらの山城の世界もざわめく戦さにみちている
戦いとは直接そのまま破壊行動ではなくても
緊張感をもって場がぶるぶるふるえているので
そうとわかる
それをいうなら「沖縄」のすべては
いまも継続された戦さの中にあるじゃないか
いまここでみずから複数化しながら戦うのは
アイスクリームを食べる彼女
ヤマトの国会議事堂の前で演説する彼女
墓場でテニスウェアを着て踊る彼女
マイクロフォンを束ねて海に沈める彼女
肉屋で働く彼女
肉屋の彼女を撮る彼女
ベラウの花を撮る彼女
ベラウの花を見る父親を撮る彼女
チンビン・ウェスタンを撮る彼女
戦さが継続されるならその戦さに対する戦いも継続
戦いすべて同時並行だ
芸術とは分身の術
ハラハラして見ているうちに
彼女は花や種々の緑や
海や空や土や
すべて生命の見方を教えてくれるだろう
あらゆる事物を体験したくなる
生き死にしつつ生きているすべてを
映像で見るならば
無音で耳がキーンとするような
そんな気分だろう
いつか自分も花畑に埋められて
ただ両手だけを地上に出し
ぱんぱんと手拍子を打ってみるか
何かを訴えるために
百合の花々のあいまから
世界に訴える
ダメだ、そろそろ文字の無音と
絶対的なおとなしさが欲しくなってきた
なつかしくなってきた
こうなったら
図書館で休憩することを許してください
見るもの聞くものふれるものに
(それらが良いものであるかどうかには拘らず)
ぼくは非常に疲れることがある
なのに文字列はおとなしい
どれほど過激で残酷で
騒乱的な内容を記していても
文字列そのものはおとなしい
非常にしずかだ
絶対の沈黙だ
その線まで退却して
またいろいろ考え直してみることにしようか
渇きに渇いて私は
トルストイの民話集を探しました
いま読みたい話があったのです
きみは知っていますか「三人の隠者」を
隠者といっても行者といっても乞食といっても
変わりはない
むかしあるロシアの僧正が
船で旅をしていると
どこかの島に住む三人の
まるでばかみたいな隠者の噂を聞いた
あまり口をきかない人たちで
なんの話もできない
見にゆくと三人は手をつないで岸辺に立ち
こっちをじっと見ている
ふびんに思ったのか僧正は小舟で上陸し
言葉もあまり知らないこの隠者たちに
本式のお祈りを教えることにした
かれらが神さまに救われますように
何度もくりかえさせて
夕方までかかってお祈りを教えた
隠者たちは素直にそれを習い
ぶつぶつと祈りをいえるようになった
かれらとしてはよくがんばった
もう日没なので僧正は本船に戻り
みちたりた気持ちでまた旅をつづけたのだ
そして夜、月夜、川面がよく見える
みんな寝しずまっている
僧正がひとり島の方角を見ていると
何かの影がすごい速さで近づいてきた
「舟かと思えば舟でもなく
鳥かと思えば鳥でもなく
魚かと思えば魚でもない
ちょっと見ると、人間のようでもあるが
人間にしては少し大きすぎるし、
それに第一、人間が海の上を歩ける
はずのものではない」(中村白葉訳、岩波文庫より)*
その正体はあの三人の隠者
手に手をつないで三人そろって
「水の上を、まるで
陸の上を駈けるように駈けているが
足は少しも動かしていない」
隠者たちはお祈りの言葉を忘れたので
僧正にそれを訊きにきたのだ
僧正は鳥肌が立っただろう
胸がぎゅっと苦しくなっただろう
髪の毛が逆立っただろう
僧正はすっかり恐れ入ってしまい
「おまえさんがたの祈りはもう
神さまに届いています
おまえさんがたに教えるものは
わたしではありません」と口にする
すると隠者たちはくるりと方向を変え
島へと帰ってゆく
水上を走りながら
「隠者たちが去ったほうからは
朝になるまで
ひとつの光が見えていた」
なんという恐ろしい話
そして魅惑的な話だろう
われわれは祈りつつ
自分が祈っているかどうかを知らない
祈りの言葉を口にしつつ
その祈りが正当なものかどうかを知らない
口もよくきけない
ばかみたいなニンゲンとして
ただ祈ることを知らない
どうやら船旅が必要だ
三人の隠者が住む
あの島にゆきつくには

*『トルストイ民話集 イワンのばか 他八編』中村白葉訳、岩波文庫、1932年

丸亀市立中央図書館、二〇二三年六月四日(日)、晴れ

私はロボットではありません

篠原恒木

先日、クレディット・カード会社から突然のメールが届いた。
「お客様のカードが不正利用された疑いがあります」
なんだと。それはよくない。まことにもって遺憾である。おれはメールの続きを読んだ。
「このお支払いにお心当たりはありますか」
アメリカのよくわからないECサイトで、おれのクレディット・カードから5,983円引き落とされそうになっているという。身に覚えがないので、
「心当たりがない」
という箇所をクリックしたら、
「それでは即時にお客様のカードを停止して、新しいカードを発行させていただきます」
との一方的な返信メッセージが届いた。こんな簡単なやりとりで瞬時のうちにおれのカードが停止されてしまうものなのだろうか。疑念のカタマリになったおれは、カード会社に直接電話した。例によってカード会社の電話というものはなかなか繋がらない。さんざん待った挙句にオペレーターの声が聞こえた。おれは状況を説明して尋ねた。
「こんなことって、よくあることなのですか? 失礼ですが、偽メールじゃないかと疑って電話しているのですが」
「最近多発しているのです。いまお調べいたしましたところ、確かにシノハラ様のカードが不正利用されております。5,983円のお支払いはストップさせていただきました。新しいカードは一週間ほどでお届けいたしますので、ご不便をおかけしますが、どうかいましばらくお待ちください」
新聞報道によると、最近クレディット・カードの不正利用が後を絶たないという。サイバー攻撃による情報漏洩、カード番号の規則性から有効な番号を機械的に割り出すという手口が横行していて、昨年の被害総額は前年比3割増の約四百三十七億円と過去最高になったらしい。困ったことだ。
カードを一週間も使えないのは不便だが、どうやらおれはカード会社に感謝すべきなのだろうという結論に至った。

だが、ECサイトでよく買い物をするおれにとっては長い長い一週間だった。五日ほど経った頃、カード会社からまたメールが届いた。
「本日、お客様の新しいカードを普通郵便にて発送いたしました」
俺は目を疑った。クレディット・カードを普通郵便で送るわけがないだろう、と思ったのだ。これこそがカード詐欺なのではないのか。猜疑心のカタマリになったおれは、再びカード会社に電話した。これもまた例によって、すぐ繋がるわけがない。自動応答の声が聞こえる。
「電話が大変混み合っております。オペレーターとお繋ぎするまで二十分ほどかかります。時間をおいてもう一度おかけ直しいただくか、このままお待ちください。なお、この電話はサーヴィス向上のため、録音させていただいております」
おれはこのまま待つほうを選んだ。毒にも薬にもならないBGMを挟んで、同じアナウンスが定期的に何度も何度も流れる。

話は横道に逸れるが、なぜああいう場合のBGMはつまらない曲ばかりなのだろう。客をイライラさせないため、ココロを鎮めるような曲調のものを選んでいるのだろうが、おれのココロは一向に鎮まらない。どうせなら「もうすぐ繋がるぜ。頑張れよ」というメッセージを込めて、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」や、ビゼーの「カルメン序曲」、あるいはレッド・ツェッペリンの「移民の歌」などを流せばいいのに、とは思うが、そんな曲を流せば客のアドレナリンが大量に分泌して、やっと繋がったときにはオペレーターが怒鳴られてしまうだろう。

それにしても待たせ過ぎだ。二十分間はゆうに経っている。いったん切って、時間をおいてかけ直すべきだったかと思うが、ここまで待って切るのも業腹ではないか。ずっと耳に当てたスマートフォンは熱を帯びてアチチ状態だ。おれはだんだん腹が立ってきた。その怒りが頂点に達したとき、ようやく電話がオペレーターと繋がった。
「この電話はサーヴィス向上のため録音させていただいております」
という例の機械的なアナウンスが一瞬頭をよぎったが、おれの煮えたぎった怒りはもう誰にも止められない。

のぉ、オドレ、だいたい「サーヴィス向上のため」に録音しているわけなかろうが。モンスター・クレーマーを減らすためじゃないの。そがなチンケな考えしていると隙ができるぞ。

おれの脳内はすっかり「仁義なき戦い」の菅原文太に侵されてしまっていた。電話に出たオペレーターにはこう述べた。
「あなたに申し上げても詮無いことだとは思うのですが、なぜ新しいクレディット・カードを普通郵便で送るのでしょうか。その了見が理解できません。どう考えても書留で郵送すべきではないですか。ウチのような集合住宅の場合は、部屋番号を間違えてポストに郵便物が入っているケースは日常的にあります。コスト・カットが目的なのでしょうが、誤配の危険性を考慮すれば私には愚策としか思えません。カードの不正利用を未然に防いでいただいたことには感謝を申し述べますが、肝心の新しいカードをそのような乱暴な受け渡し方法で済ますことには些かの疑問が生じております」

いや、実際はこのようなロジカルな口調ではなかった。二十分以上の待ち時間がおれを凶暴化させていたのだ。正直に言えば、
「録音上等、喧嘩上等よ。ワシゃ、ワレの命もらうも、虫歯抜くんも同じことなんで、殺るんなら、今ここで殺りないや、能書きは要らんよ。ワシが新しいカードを取りそこのうたら、オドレらどう責任取るのよ。知らん仏より知っとる鬼のほうがマシじゃけの。ワシはイモかもしれんが、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんで。のぉ、のぉ」
というような、きわめてお上品な口調に終始してしまった。
だが、オペレーターは慣れたもので、おれの繰り出すへなちょこパンチをするりするりとかわし、謝り倒されて電話は切れた。プロの接客はすごい。
まあ、そもそもおれのカードの不正利用を未然に防いでくれたのはカード会社なのだから、感謝すべきであって、キレるのはまったくのお門違いなのだが、カードを普通郵便でポストに放り込むのはあまりにも不用心ではないのか、との不満は残った。

結局、普通郵便の悲しさゆえ、新しいカードは土日を挟んで、ようやく月曜日に配達された。だが、ここからが面倒だった。日常的に買い物をしているあまたのECサイトにいちいちログインして、新しいカードの番号をコツコツと打ち込まなくてはならない。

そもそもなぜおれはそんなにネット・ショッピングに依存しているのか。それには理由がある。おれの欲しい本は小さな書店では売っていない。そしておれの欲しいCDやレコードはCDショップでは売っていないのだ。もし売っていたとしても、たとえば渋谷のタワーレコードを例にとれば、6階、もしくは7階まで昇らないと、お目当ての売り場にすら到達できない。そんな気力はもうおれには残っていないのだ。だがネット・ショッピングなら簡単に手に入る。これを利用しないテはないではないか。

さて、各ECサイトに新規のカードを登録する作業に取り掛かった。予想していたことではあったが、この作業が混迷を極めた。新しいカード番号を登録するには、各サイトにログインして手続きをしなければならないのだが、その都度、
「私はロボットではありません」
というボックスにチェックを入れなければならないのだ。こんなにヒトを愚弄する誓約があるだろうか。このおれがロボットであるはずがない。ロボットはニラレバ定食を食べない。ロボットは些細なことで妻と大喧嘩をしない。ロボットは髪の毛が禿げることもない。だいたい前立腺肥大症が持病のロボットなど聞いたことがない。実にバカバカしいチェックだ。だがここでまたPC相手に「仁義なき戦い」の菅原文太もしくは梅宮辰夫あるいは松方弘樹的なアプローチを試みても始まらないので、おれはおとなしく
「私はロボットではありません」
のボックスにチェックを入れる。その徒労感および虚しさはハンパない。

さらにはそのあとに「画像認証」というテストのようなものが待ち受けている。
角版の風景写真が九分割されていて、
「横断歩道の画像をすべて選択してください」
ときたもんだ。ところがこの写真の分割のされ方が実に微妙で、
「ん? このブロックの右端にはギリギリで横断歩道の端っこが入っているような気がするぞ。いや、ここは素直に入っていないと解釈すべきなのか。ううむ、よくわからん」
というケースが多いのだ。横断歩道だけでなく、信号、自転車などといったヴァリエーションもあるのだが、画像が粗くて信号のちょっとした一部分が入っているような入っていないようなブロックがあるのだ。このブロックは選択の対象になるのか、それとも無視していいのか、躊躇してしまう。こういう場合、ロボットならスムーズに選択できるのだろう。だがそれならば、事前の
「私はロボットではありません」
という誓約と大いに矛盾するではないか。ニンゲンだから微妙な箇所にいちいち悩んでしまうのだ。悩んで選択を誤ることが何よりの「私はロボットではありません」の証明ではないのか。ところがこの画像選択をミスすると、何回も違う画像と設問が出て来る。
「ロボットではないから間違えるんだよ!」
と、おれは逆上する。

別のパターンもある。
「私はロボットではありません」
とチェックを入れると、わざと読みにくくしてある数字とアルファベットをランダムに組み合わせた七、八文字の羅列が出てきて、
「上記の文字を正しく入力してください」
ときたもんだ。またこれが判りにくい。アルファベットの小文字「q」と数字の「9」なんて紙一重だ。おまけに文字が歪んでいるので始末が悪い。これもロボットなら一発で判読するはずだから、この「テスト」も意味が分からない。ニンゲンだからこそ正しい文字が入力できない場合があるのではないか。

こうしてすべてのECサイトでカード番号の新規登録が済んだ頃には、おれはへとへとになっていた。せめて一店舗だけでもいいから、
「あまりにも当たり前のことで失笑を禁じ得ないのですが、私はロボットではありません」
という文言が書いてあるチェック・ボックスがあれば、おれはどれだけ救われたことだろうか。いや、いっそ、
「ワシも格好つけにゃあならんですけぇ、人間相手にロボットかと訊く馬鹿がどこにおる、このボケ。アヤ付けられたらカマしちゃれぃ」
というチェック・ボックスがあればと思ったんじゃが、ワシはどこで道間違えたんかのぉ。

ジャワ舞踊のレパートリー(1)女性舞踊

冨岡三智

突然ながら、今までどんなジャワの伝統舞踊(スラカルタ様式)を習ってきたのか、レパートリーを振り返ってみよう。何をどのように習っていくのか、その方法は様々で人によって違うことと思う。自分がやってきたことを振り返るのは恥ずかしく、また誰の参考になるものでもないけれど、ご笑覧下さい…。

私がインドネシア国立芸術高校スラカルタ校に留学したのは1996年3月~1998年5月、2000年2月~2003年2月の2回。その後、同大学大学院をカウンターパートとして、2006年8月~2007年9月に宮廷舞踊調査(公演や記録制作の活動)していた。留学以前に、短期で4回(1か月ずつ)現地に舞踊を習いに行っている。その2回目の短期渡航(1992年)から女性舞踊を師事したのがジョコ・スハルジョ女史で、その当時はジョコ女史はまだインドネシア国立芸術高校スラカルタ校を定年になっていなかった。その時にはまだ気づいていなかったが、スラカルタ宮廷舞踊を全曲修得していたジョコ女史に巡り合えたことは僥倖だった。私は女史が亡くなる2006年までずっと師事することになった。

私が通算5年余にわたる留学で一番やりたかったのは宮廷舞踊:スリンピ10曲とブドヨ2曲の完全版を師匠のジョコ女史から全曲修得することで、幸い目標を達成できた。習った曲名を挙げると、スリンピでは「アングリルムンドゥン」、「ゴンドクスモ」、「ラグドゥンプル」、「スカルセ」、「ロボン」(ここまで完全版で上演済)、「ルディラマドゥ」、「サングパティ」、「タメンギト」、「グロンドンプリン」、「ガンビルサウィット」で計10曲。ブドヨでは「パンクル」(完全版上演済)と「ドゥロダセ」の2曲。実は完全版を習う前にジョコ女史が手掛けた「ゴンドクスモ」短縮版も習ったが、短縮版で習ったのはこれだけである。芸大の短縮版と違っていて非常に勉強になったけれど、やはり長いバージョンの方が充実感があって好きだなあと思う。

宮廷舞踊(スリンピ・ブドヨ)と対極にあるのが民間舞踊(ガンビョン)で、私はこの対極にある舞踊を二本柱にしていた。ガンビョンは太鼓のリズムにのって踊るもので、自分で太鼓の手組を考えたいと思い、太鼓も習っていた。まず、とりあえず入手できる音源は全部踊れるようになりたいと思い、次のような曲を習う:「パンクル」、「パレアノム(ガリマン氏版)」、「パレアノム(PKJT版=2ゴンガン版)」、「パレアノム(ジョコ女史版=3ゴンガン版)」、「ガンビルサウィット・パンチョロノ」。ちなみにゴンガンとは曲の長さのこと。これらは市販の音源がある。他に、芸術高校自主録音の「アユン・アユン」(4ゴンガン、ジョコ女史版)、ジョコ・ワルヨ氏が太鼓を叩いている市販カセット2本。1本は私がどこかの店で買ったもの、もう1本は太鼓の先生が持っていたものだが(テープは半ば伸びていた)、どちらもその後どこの店でも見かけたことがない。古くて再版されなかったものかもしれない。それ以外に、市販のカセットにない太鼓の手組を習いたくて、マルトパングラウィットの太鼓の本に採録されている古い手組を太鼓の先生に叩いてもらって録音し(10ゴンガン、太鼓の音のみ)、それをジョコ女史の所に持って行って習った。

それ以外の曲でジョコ女史から習ったのが「ゴレッ・スコルノ」、「ルトノ・パムディヨ」、「ゴレッ・マニス」。どれも留学前から習っていた曲で市販カセットがある。1,2曲目がクスモケソウォ(ジョコ女史の舅)の曲だが、実は市販カセットは短縮版である。ジョコ女史によると、カセット会社はテープの片面(30分)に2曲収録したいため、長い曲は短縮するようにと要請してくるのだそうで、これらの短縮はジョコ女史が手掛けたという。私は元の完全版も習いたかったので、どちらも完全版を自主録音した。

さらに、ジョコ女史が振り付けた「クスモアジ」も習う。この舞踊作品については『水牛』2020年8月号に寄稿した「ジャワ舞踊作品のバージョン(8)『クスモ・アジ』」で書いているけれど、結婚式で夫婦神が新郎新婦を祝福するために降りてくるという内容で、男女ペアで踊る舞踊で私が習ったのはこれだけである。他の人が振り付けたこの種の舞踊は男女がラブラブな感じで踊るので(演出にもよるが)、私には気恥ずかしい。実はこの曲も録音の準備を進めていたのだが、先生が亡くなるなどで取りやめになってしまった。

最後に、マンクヌガラン王家の「ゴレッ・モントロ」最短版も習ったことがある。同王家の太鼓奏者ハルトノ氏の息子さんの結婚式にミチも踊ってくれと言われて(私は氏が指導するガムラン練習に参加していた)、2,3か月くらいせっせと舞踊練習に通い、多くの踊り手たちと一緒に出た。踊ったのはこの時限りなので、もう忘れてしまった。この王家の舞踊はかわいらしくて好きなのだけれど、どうも自分にはその可愛さが足りない…と気になってしまう作品。

むもーままめ(31)永久凍土系・謎みかんカレーの巻

工藤あかね

9月になるというのに、この暑さはなんなのだ。
食欲はあるけれど、灼熱の太陽の下、わざわざ買い物には出たくない。

ある日わたしは冷蔵庫の中をぼんやりと眺めていた。ほとんど空なのは一目瞭然なのに、冷気にあたってしばし涼んでしまうくらいに、暑さで頭がやられていたのだ。家にある食料は鶏肉とカボチャの煮付け、レタス、きゅうり、いただきもののトマト。あとは缶詰とか調味料か…。鶏肉を焼いて、あとはサラダにするか…と思ったところで、なにげなく冷凍庫の引き出しを開けてびっくり。ロックアイスの下から手作りみかんジャムが出てきたのだ。以前、大量に大きめ柑橘類をいただいて、食べきれない分をジャムにした。だが使うあてもないまま、すっかり忘れていたのだ。永久凍土から発掘されたマンモスみたい。永久凍土系みかんジャム発見。

で、それをどうするか1秒だけ考えた。なにせ暑さで思考停止しているので、とりあえず冷凍みかんジャムのパックを流し台に置いて、使う気でいた鶏肉に塩胡椒して鍋に突っ込んだ。鴨のオレンジソースっていうお料理があるよね…と0.5秒くらい考えて、なぜか鶏肉の上から永久凍土系みかんジャムを載せた。だが、このままではいつまで経っても火が通らないと思ったので、少し水を足して蓋をした。

くつくつと音を立てるお鍋。そろそろ鶏に火が入ったかな、と思い蓋をとると、くだんの永久凍土系みかんジャムは、見事なとろみで鶏にからみついている。色合いもきれいだ。ちょっとだけ期待しながらスープ部分を味見したら…うえっ…ものすごく苦かった。そもそも鍋に白ワインだとか調味料を入れるという発想は完全に失われていた。それにこの永久凍土系みかんジャムは、かなり苦味のある大きめ柑橘類を煮たものだった。この果物の名前もわからない。玄人向けの謎みかんだったので砂糖をかなり入れて煮詰めたのだが、なかなか甘くならなかったことをようやく思い出した。

さてどうする? 煮込み系料理で血迷った時のソリューション、それはカレー化である。とりあえず、煮ているものの味が微妙になった時には、カレー粉やカレールーを入れて最初からそれを作るつもりだった風を装うと、たいてい巻き返せる。謎の永久凍土系みかんジャムで煮てしまった鶏を救うのはカレーしかない。とりあえず、カレー粉をばーっと鍋に撒いた。コクがたりなさそうな気がしたので、そこに洋風だしと、ミニトマトを入れた。そうだ、多国籍にしてしまえ。みりんとお味噌も入れよう、ケチャップも少し、めんつゆちょっと入れよう…。甘味と緑色が足りない。カボチャの煮付けも入れちゃえ。こうやって思い出して書き出してみても、なかなかの気色悪さである。…かくして出来上がったのは、オレンジ色のとろとろの中に、鶏と真っ赤なミニトマト、緑色のカボチャの皮が浮かぶ、謎みかんカレーであった。

全く期待せずカレースープを口に運んだら、ちょっと驚いた。ファーストアタックは普通のカレー、しばらくするとかすかに味噌の風味、そして最後にちょっとさっぱりした苦味がやってくる。大きめ柑橘類の苦味はカレーとしてどうなのかと思ったが、これが不思議とクセになる。夏にゴーヤを食べたくなる、あの感覚とちょっと似ている。

暑さで煮えた脳みそだからこそ出来上がった、謎みかんカレー。思いのほか悪くない出来だったけれど、もう一回やるかと言われればどうかな…。あっ…謎の大きめ柑橘類で作った永久凍土みかんジャムはもう一パック冷凍庫にあるみたい。さて次はどうしよう…。

仙台ネイティブのつぶやき(86)建物とつきあうということ

西大立目祥子

仙台市庁舎の建替工事がいよいよ始まると聞き、8月11日に「解体直前!仙台市役所建築見学ツァー」を開催した。主催は宮城県建築士会仙台支部まちづくり部会と、私たち「宮城県美術館の百年存続を願う市民ネットワーク」。2020年に宮城県美術館の現地存続活動を行い目的を達成した私たちは、会を解散せずに名称を変えて活動を継続している。あのときは全国の方々から会員のお申し込みをいただき、たくさんの署名も頂戴しました。ありがとうございました。

メンバーに建築を仕事にし、建物に関心を抱く者が多いこともあって、“解体”と聞くと何かがムズムズと胸の内で動き出す。長年働いてくれた建物にきちんとあいさつはせねば、とか、あらためてゆっくりと細部を見ておかなければ、とか…。その中には、残そうと思えば残せたのでは…という少しの後悔も入り混じっている。老朽化すると、いまだ直して使うという発想すら持たずに迷わず壊し新しい建物を立てる、何というのか建物への愛着が薄いこの仙台という地方都市で建築文化を育みたいというのが、私たちの共通の思いだ。

仙台市の本庁舎整備室に見学会のお伺いを立てると、拍子抜けするほどあっさりとお許しが出て、祝日なのに庁舎の鍵を開けてもらい、トークのための会場まで用意いただくことになった。

この市庁舎は3代目で、1965(昭和40)年に竣工。設計は山下寿郎設計事務所(現・山下設計)による。仙台は1945(昭和20)年7月10日未明に爆撃を受け、中心部のほとんどを焼失した。昭和20年代後半から仙台市公会堂などが整備されていったが、30年代に入ると現在も残る大きなビルディングが建設され、この仙台市庁舎が整って、戦後の仙台の街の骨格がくっきりと浮かび上がったように思う。

それから60年近く。1989(平成元)年に仙台市が政令市になって区政が敷かれるまでは、市民にとってもさまざまな手続きで出向くなじみ深い庁舎だったわけだが、建替えの話が出たとき、保存を訴える声はどこからも上がらなかったし、私も上げなかった。これまで3回、私は友人たちと解体目前の建物の保存を求める運動を起こしている。結果は3戦3敗。3年前の宮城美術館の現地存続運動が初めての成果なのだった。それは設計者が前川國男というビッグネームだったこと、そして周辺の自然環境を巧みに取り入れたプランに多くの人が深い共感を抱き、私たちの運動を後押ししてくれたことが大きい。では、この市庁舎は? 機能美を供えた好ましい建物だと感じつつも、やはり保存を求める気持ちには至らない。老朽化のせいだろうか? 魅力を捉えきれない自分自身のせいだろうか? 見学会の準備をしながら、自問自答する。

建築士をしているメンバーが、建設にかかわった山下設計の関係者を探し出してきた。
Kさんは96歳。構造設計に携わったという。「もともとは5階建ての計画で進んでいたのを、山下設計の支店長の考えで100尺規制(31メートル)目いっぱい使って、8階建てに変更したんですよ。当時はコンピュータなんてないですからね、そろばんと計算尺とドイツ製のタイガーという手回しの計算機を使ったんです。地震動の数値化されたものも国内にはなくて、米国のデータを使い東大の助けを借りて分析しました。当時の最先端ですよ。実施設計期間はわずか2ヶ月だったから、休みがなくて徹夜の連続、体調を崩したこともあったけど何とかまとめることができました。若かったからできたんでしょうね。現場は2交代制で休みなく働いていた。過酷で病気になる人もいたけど、まぁ、当時は日本中がそんな感じですよ。鉄骨は横須賀の工場で製造したものを船で運んできました。ここは地盤が固くてね、掘削も大変だったんです。地下から水も湧くし。あまりに固くて発破で掘削したこともあります。注意喚起のためにサイレンを鳴らしていたはずです」

うかがった話はまだまだあって書き切れない。
もう1人、Oさんは82歳。大学を卒業して入社するとすぐに市庁舎設計チームに配属されたという。見学会の準備のため、事前に市庁舎に出向いてもらってメンバー4人といっしょに庁内を歩き外観を眺めながら、話をうかがった。建築を生業にするメンバーが驚くのは工期の短さで、「8階建て、3万平米を着工から竣工まで1年7ヶ月でやるなんて信じられない」というのだが、Oさんの話には建築門外漢の私も驚かされた。

「昭和39年の3月に卒業して事務所に入ったんですが、そのときすでに着工されてたんですね。でもね、図面ができていなかったんですよ(笑)。正面の庇は鉄骨が立ち上がってから私がデザインして図面を引いたんです。100尺の高さに8階を収めてるから階高が低くてね、採光もありますけど、視界を開放するために中庭を設けました。でも1階の天井が低いのがずっと気になっていて、やはり今見ても気になるなぁ。そしてこれは「コンクリート打ち放し」ではなくて「コンクリート化粧打ち」。私はコンクリートの匂いが好きでね、型枠をはずすときは必ず現場に出向きました。妻側の壁面のタイルは杜の都をイメージして、あえて緑色のヴァリエーションが出るように窯変タイルを採用しています。そして、前庭も庁舎と一体のものとして整備しました。当時の島野市長が書いています。『都心部において特に不足しがちな新鮮な空気を太陽と緑をいささかでも市民のために取りもどすといったことを考えてこれを造りました』と。庁舎をさえぎらないように、噴水も掘り下げて設置して。私たちは、建築主、仙台市ですね、その後ろにいる市民に応えるために仕事をする、それが山下のモットーなんです」

この時代に“市民のための市庁舎”という明快なコンセプトが立てられていたことに、心を動かされた。そのため当初は、空調も窓口と市民の部屋と市長室にしか整備されなかったという。そしてもうひとつ、Oさんの「コンクリートの匂いが好きで」というひと言も、じんわりと胸にしみた。打ち込まれたコンクリートは熱を帯び、枠をはずすと、型枠の木の匂いも混じり合って、いかにも“生まれた”という実感をもたらすのだそうだ。あくまで固く強靭というイメージしかなかったコンクリートのまるで違う姿を教えてくれるひと言。同じように、現場で昼夜を問わず働いた多くの人が、その人にしかわからない時間と実感を育んでいたのだろうか。その総体がこの建物かと思うと、60年近い建物の生きた時間も重なって、はい、さようならと簡単にはいえないような割り切れない思いにさせられる。

関係者の話を聞くうち、私たちメンバーは口を開けば「いい建物だよ」「気づくのが遅かった」「せめて部材残せないの?」などといいあうようになった。細部のひとつひとつの価値をとらえる眼ができてきたということなのかもしれない。
見学会は午前、午後の2回で60名、そのあとのOさんが登壇してくださったトークには40名が参加。庁内をめぐって解説を重ね、話に耳を傾けるうちに、私たちと同じように建物の魅力に眼を開かれていったようだ。

竣工して58年。こんなふうに設計者の意図や思いを聞きながら、市民がこの建物を見学する機会はあったのだろうか、と考えてみる。もしかするとなかったのかもしれない。解体寸前の建物の見学会にどれほどの意味があるかはわからないけれど、でも確かにこういう機会があってこそ、愛着は生まれてくるものだろう。

Oさんに、「渾身の力を込めて図面を引いた建物が消えていく。そのことにどんな思いがありますか」と聞くと、「社会が変化して役割を終えていくのなら納得がいく。でもただ古くなったから壊すというのはちょっと…」と話された。

仙台の戦後史を振り返ると、新しい建築をつくり新しいことを始めるということが繰り返されてきた印象を受ける。リセットして始める感覚、いわば建物をつぎつぎと消費してきたといってもいいかもしれない。長くつきあいながら傷んだら直し、よみがえらせて新しい価値を創り出す。いまある建物を編集し直しリノベーションして使い続けることを、仙台でやれないものだろうか。東北でもすでに山形や秋田では試みられているというのに。

オスロから30年

さとうまき

この夏、イスラエルとパレスチナの若者たちが来日するというので、手伝いをすることになった。日本に来て、友達になるのが目的だ。参加した若者たちは、異口同音に「敵だと思っていたが、実は人間だった」と言って最後はハグをする という企画を84歳のおばあさんがたてた。平和のためのラボラトリーというのをうたい文句にしていて、2週間、日本の若者も加わって、広島や、長野、東京で共同生活をするうちに仲良くなっていくというロードムービーのような面白さがある。

しかし、イスラエルとパレスチナの関係はかつてないほど悪化している。今年の死者がヨルダン川西岸のパレスチナ人200人以上、イスラエル人約30人に上り、2005年以来、最悪の水準となっている。そんな状況で、仲良くなるなんて言うのは、実にばかげている。戦争している状態で、敵と仲良くするなんて言うのは裏切り者である。誰とでも仲良くなれたら楽しいが、僕の親友が、僕が大嫌いな連中と、仲良くしていたらもうそいつは親友じゃないってなるので、新しい友達を作るよりは、親友を失いたくない、そう考えると参加者がなかなか集まらないというのもわかる。

今から30年前、1993年9月13日のことを思い出す。「オスロ合意」の調印式がワシントンで行われていた。TV中継を見て、当時普通のサラリーマンだった僕はとても感動していた。イスラエルもパレスチナもよくは知らなかったが、ラビンの演説はよかった。「血も涙ももうたくさんだ。私たちは復讐したいとは思わない」。この老人の迫力。一方のアラファトは、まるで何もなかったかのように、さっと手を差し出し、嫌がるラビン首相の手を強く握って振り回していた。僕は、その時、会社を辞めることを決めて数か月後には中東で暮らすことになっていたので、他人事とは思えなかったのであろう。これから始まる新しい歴史に心は踊っていた。

実際に僕がパレスチナを体現するのは、シリアのパレスチナ難民だった。同僚のパレスチナ人が、自分の”故郷”がいかにパラダイスであるかを毎日話してくれる。その話と、ガッサン・カナファーニーの小説とが混ぜ合わされて、僕はパレスチナに夢中になった。ラビン暗殺のニュースもシリアで知ったが、彼らに言わせると、「ラビンこそがテロリストだ!」と語気を荒げていた。

結局僕がパレスチナについたのは、1997年だった。オスロ賛成派、反対派という議論もあったが、ハマスを強く支持する連中以外は、誰もが2年後にパレスチナという国家ができるものだと信じていた。ガザに飛行場ができて、パレスチナ航空が国際便を飛ばしだしたのだから誰にとってもメリットがあり、意見の違いはあってもパレスチナは後戻りはしない。しからば、和平をぶち壊すのではなく、どう和平にノッていくのか。今でいうSDGs的なノリで、誰一人取り残されることのない和平を考える教育が大切だった。

当時、いろいろな議論があった。イスラエルの教育大臣が左派だったこともあり、敵視教育をどう変えていくのかも政治レベルで議論されていたと思う。ヘブライ大学は、イスラエルとパレスチナの若者たちを引き合わせるプログラムを研究していた。ベツレヘムでは難民キャンプの中学生が、イスラエルの中学生と議論するワークショップを見学した。最初はアイスブレーキングで仲良くなって、その次は、自分たちがつらかったことを話す。パレスチナは、親や親せきが殺されたり、逮捕されたりした体験が必ず出てくる。特に難民キャンプはテロの巣窟とされているから、逮捕者も多い。イスラエル側もテロで、知り合いをなくしたという話もあるが、TVや新聞のニュースで見た程度だったりする。それでも、「パレスチナ人がテロをやるから、逮捕されるんだ」「テロではない、占領と闘っている。正義と闘っている」「占領じゃない、神が与えた土地だから」というお決まりの議論になっていき、泣き出す子どもたちもいた。

僕は、そのあとこのプログラムはどういう仕掛けがあるのか見たかったのだが、別の会議が入っていて最後までいられなかった。こういった平和教育の試みはうまくいかなかったのだろう。結局2000年のインティファーダですべて振出しに戻り、紛争は悪化し、僕はというと2002年にイスラエルから追い出されて、2度と入国はできなくなってしまったのである。名誉のために言っておくが、テロを支援したわけでもなく、パレスチナの医療支援をイスラエルの人権のための医師団と一緒にやっていただけだった。アレンビー橋を渡ろうとして、「あなたはダメよ」その一言だけで、追い返された。あまりにもあっけなかった。こで僕は、パレスチナでの思い出はすべて消去してしまったのである。

2023年8月、イスラエル、パレスチナの若者10名が来日した。20歳から29歳までの若者だ。僕は、最初の広島で、一緒に資料館を見学したが、そのあと彼らは長野で一週間合宿をしていろいろ話したらしい。最後の東京では、3つのチームでそれぞれ平和のメッセージを発表する事になっていた。会場に行くと疲れ切った表情の彼らがやってきた。意見が対立して「平和のメッセージ」をまとめることができなかったらしい。僕が嘗て見た、あの中学生たちと同じような議論になったらしい。「仲良くなってハグする」という目標に達せなかったことに、代表のおばあちゃんは、すごく落ち込んでいた。「このご時世で、無理に仲良くなったって意味ないし、それはそれで、現実を見せつけられたので、意味のある事じゃないですか?」と慰めたが、効果はなかった。一週間たっても残念そうに愚痴っている。僕は、別に仲良くならなくてもいいと思う。嫌いなものは嫌いでいい。嫌いだからいじめてやれとか、殺してやれとかそうのが一番よくない。

オスロ合意の調印式では、やたらクリントン米大統領がかっこつけていたのも印象的だが、そもそもノルウェーが、米ソを出し抜いて、秘密裡にラビンとアラファトを仲介したわけで、ノルウェーの手柄。スピルバーグ監督の「オスロ」では、ノルウェーの森で、イスラエル、パレスチナの交渉団が喧々諤々やりながらお互い理解し、尊敬しあっていく様子が描かれている。それでビートルズの「ノルウェーの森」って、どんな歌詞だったっけ? ジョンレノンの詩は政治的なものも多いが、たわいのないラブソングですらすぽっとはまってしまうことがある。まるで、イスラエルとパレスチナの駆け引きのようなである。女の子は、イスラエル? あるいはパレスチナ?

「ノルウェーの森」

僕は女の子を引っかけた
それとも僕が引っかかったと言うべきか
彼女は僕を部屋に招いた
「素敵なノルウェー調のお部屋でしょ?」彼女は僕に泊まっていくように言い
好きな場所に座るよう促した
部屋を見回したけど
椅子なんて無かった

じゅうたんに腰を下ろし
彼女がくれたワインを飲みながら、”その時” を待っていた。
夜中の2時までしゃべった後、彼女は言ったのさ
「もう寝なきゃ」

彼女は朝に仕事があると言って
笑いだした
僕は仕事は無いと言ったけど
バスルームで寝るはめになった

目を覚ますと、僕は一人
小鳥は逃げてしまった
僕は火を灯す
ノルウェー産の木材は素敵だね?

ということで、まだ日本に残っているイスラエルのルイとアンディは音楽ができるので、ノルウェーの森をみんなで歌おうというコンサートをすることになったのだ。

「9.6ピースセッション」
9月6日 中目黒楽 19:30―
https://www.rakuya.asia/event-details/9-6-peace-session-haishinari

トントコトン

北村周一

母と父が手と手をつなぎ児らは駈け
追いつくさきの夏祭りかな

音のする
ところ何処と
夏の夜の
そらにひびかう
祭りの太鼓

お祭りは
妻と子を率(い)て
みちみちに
遠く聞きいる
太鼓のひびき

トントコトン
さがしあぐねて
妻と子と
もどるほかなく
夏の夜の道

浜かぜや七夕竹をくぐりゆく 
祭りのあとの虫売りの声

はつなつの三保沖、江尻、生じらす 
月夜の晩に従姉をさそう

茹でジラス晩夏ほろよいゆうぐれは
袖師、横砂、かぜふくままに

海の面に
顔を出だせば
若夏の
ありてかたえに
妻となるひと

チョコバナナ
五百人前
売り上げて
町の祭りの
ビールに潤う

のこのこと
町内会の
祭りにも
顔を出しおり
秘書を連れいて

政もお祭り騒ぎもことのほか冷え冷えとして一夏過ぎ行く

薄ものを
纏いしのみに
縁台に
涼むじじばば 
こっち見ている

ノイズなき
夜を果無み
イヤホンの
自転車少女が
坂をくだり来

松林の
途切れしところ
青々と
空あり沼津
西高はここよ

体内に
蔓延るものら
粘りけを
なべて保てる、
真夏路上に

フリーダム・
スペース夜の
駅頭を
つぶつぶつぶつ
鳩は眠らず

ハード・コア
うつろなるその
中心に
ひとつあるべき
わが臍を見る

夜見の世の
入口にして
またひとり
テレクラリンリン
明るいお家

草津温泉

笠井瑞丈

車で草津温泉に向かう
夕方の高速を車を走せ
突然の雨で湿った山道

心地よい森の匂いを感じながら

今まで

鬼怒川温泉
水上温泉
銀山温泉

色々な温泉街を
巡ってはいるが

草津温泉は
一番好きな温泉街である

それは

草津温泉には
特別な思い出が

高校生の頃
夏の住み込みのアルバイト
草津温泉でしたことがある
ベットメイキングの募集で
友達四人で応募した

書類だけで無事採用が決まり
ドキドキしながら電車に乗って
草津温泉に向かった事を覚えている

初めての土地
初めての仕事

もし途中で嫌になったら
どうしようとかという不安

ホテルの事務所に着く

なぜか

僕だけ違う仕事に就かされた
三人はベットメイキング
僕はアパート型別荘の管理人の手伝い

多分僕だけ茶髪だったので
見た目が悪かったのだと思う

仕事時間も他の三人と違い
朝から夕方までの仕事

夜は完全にオフだった

他の三人は
朝仕事に行き
昼間はお休みで
夜仕事に行く

なので朝に顔を合わせるだけとなった
三人はいつも共通の話題で盛り上がり
いつも楽しそうにしているのを横目に
僕だけ仲間はずれとなった気分だった

オフの時間を
楽しもうという目的で
東京からはなれた草津に
住み込みのアルバイトを
四人で応募したのに

僕はいつも一人だった

夜は一人で湯畑に行き高校生だったが
ビールを片手に寂れたパチンコ屋で
パチンコを一人打って時間を潰したり
街をぷらぷら散歩をしたりした

ドキドキした初出勤日
上司にあたる管理人の
おじさんに挨拶をする
そしてその時たまたま通った
居住者に「おはようございます」と
僕は挨拶をした

まだ仕事の指導を受ける前に
たまたま通った居住者に挨拶した行動を
なぜかおじさんはすごく評価してくれて
僕のことをすごく気に入ってくれた

挨拶なんて当たり前のことだが

きっと茶髪だし見た目もあまり良くなかったので
変な若者が来たなと思ったのだと思う
なのであまり期待もしてなかったのに

挨拶できたことにビックリしたんだと思う

僕の仕事は

決められた時間に

玄関の掃除
お風呂の脱衣所の掃除
各階の廊下掃除
自動販売機の補充

それ以外の仕事はとくになく

時間を持て余す事が多々
なので仕事は管理人室でおじさんと
お話をする時間が多くを占めてた
本当にたくさんの事を教わった

これで給料をもらってもよいのかと
少し悪い気持ちになるくらいだった

昼食はいつも出前を
その支払いもいつも
おじさんがしてくれた

一度夕飯にも招待してくれた事もあった

なぜおじさんが僕の事をあれだけ
気に入ってくれたのか分からないけど
本当の息子のように面倒見てくれた

仕事のことで注意を受けることはあったが
一度も声を荒げて注意を受けたことはなかった

住み込みの期間が終わり
翌年に一度だけおじさんに会いに
草津温泉に訪れたことがある

本当にとても喜んでくれた

おじさんに会ったのはそれが最後だ

あの時間は僕にとって
貴重な時間だったと
たまにふと思い出す

もしいまおじさんにあえたら

心からありがとうと
今は伝えたい

本小屋から(4)

福島亮

 夏が終わった——と感じる瞬間がある。夕方、空一面に広がる鰯雲を見てそう感じる人もいれば、夜道を歩いていてふと聞こえてくる虫の音によって夏の終わりに気づく人もいるだろう。私の場合、その瞬間は、川面の色の変化に気づいた時だった。

 多摩川河川敷を歩いたり、走ったりしているのだが、ある日の暮れ近く、川面が朱色に染まる瞬間を見て、もう夏は終わってしまったのだ、と思った。あの朱色をどう表現したらよいかわからない。紅鮭色ともいえそうだし、朱鷺色ともいえそうだ。その色が川面に現れるのは、時間としてはほんの数分のことなのだが、それを見た瞬間、もう夏は終わってしまったのだ、と思った。久しぶりの感覚だった。群馬で暮らしていた頃、やはり近くを流れる吾妻川を見て、季節の移ろいを感じていた。忘れていたその感覚が、川を介して再帰したのかもしれない。

 川面の朱色と張り合うように、葛の茂みから真っ赤なカンナが何本も突き出しているのを、ある日見つけた。ダンドク、と和名で呼ばれるこの植物について、博物学者の磯野直秀が「明治前園芸植物渡来年表」に記すところを見ると、すでに寛文4年(西暦1664年)にはダンドクという名前が文献に見つかるという。学名でいうならば、Canna indica。インド(indica)とついているが、これは西インド諸島、つまりカリブ海のことだ。「ダンドク」という和名も、おそらくこの「インド」に由来するのだろう。英語ではカンナのことを「インディアン・ショット」とも呼ぶらしい。黒い種子が散弾のように見えるからである。その用例は、アイルランド出身の博物学者ハンス・スローンのカリブ海調査旅行記(1725年)に見つかるから、「インディアン」の参照先はここでも西インド諸島なのだろう。

 マルティニックでは、カンナのことをトロマン、あるいはバリジエと呼ぶ。トロマンはカンナの地下茎からとった澱粉のことも指す。市場に行けば、バリジエの切花が売られている。しなやかな長い茎に、火炎紋様のような真っ赤な花をつけたバリジエ。それはマルティニックを象徴する花だ。だからなのか、カンナの花が葛原のなかに赤い火の粉を散らしているのを見つけた時は、なんだか不思議な感じがした。マルティニックで見たバリジエの火炎が、地球の反対側のここ多摩川に噴き出しているように思えたのである。

 じっさい、植物は国境線などお構いなしに伝播する。多摩川の岸辺には地球の裏側の植物が「帰化」しており——「帰化」という語には、もともと服従的な語義があるけれども、「帰化」した植物たちはこの語義とはずいぶん遠い位置にいる——、例えば川縁を歩けば、ウチワゼニクサ、つまり、ウォーターマッシュルームと呼ばれて珍重されるあの植物が群生しているし、その近くをよく見ると、ゴワゴワと筋張った葉に、サイケデリックな散形花序をつけたランタナが生えていたりする。

 先日、本小屋の窓辺にやってきた来客も、そういえば、「外来種」であるらしい。キマダラカメムシのことである。カメムシというと、嫌な臭気を発するから毛嫌いされるけれども、その日は、この来客をじっくり観察することにした。濃い灰色の地に、星を散らしたような淡い黄色の模様があり、ゆっくりと歩む姿は堂々としている。彼らがここにいることをどう受け止めるのか、というやや距離を置いた視線と、精密な体の作りに見とれる没入した視線とを行ったり来たりしているうちに、キマダラカメムシはどこかへ行ってしまった。

 本小屋に引っ越してから数ヶ月たち、ようやく小屋の周辺にひしめく書かれていない文字たちを読む気持ちが動き始めたようだ。晩夏の訪れを知らせるあの川面の色は、その最初の徴だったのだと思う。

ゆうべ見た夢 04

浅生ハルミン

 深夜にNHK-BSでやっていた、科学をテーマにした番組を観ていたら、脳の奥には冷蔵庫のようなものがあってふだんは使わない思い出や記憶が整理整頓して保管されている、ふだんは忘れていても必要になったときにそれを取り出して前頭葉で調理する、と脳科学者が記憶について料理に例えて解説してくれていました。へえ、脳の中に記憶専用の置き場があるのか。扉が開くと中が明るくなる冷蔵庫のように、その部位の戸が開いたとき、記憶がスパークして取り出すことができるということ? 私は眠っている間に見た夢を書き留めようとするとき、記憶の薄れるスピードが日に日に速くなって困っている昨今なのですが(困ることでもないのですが)、それは、記憶が消えるというより、ドアが閉まるスピードが速くなったということなのかもと思い至りました。だから私の場合はドアが開いているうちに、つまり目覚めた直後に書き留めるのがベストなタイミング。歯を磨いたり、飲み物を用意したりしてもドアの閉まりに影響はないですが、シャワーの湯を浴びるとたちまちドアはパタンと閉まって、ドアがあったことさえわからなくなります。

 で、今日の夢は「ポメラニアンのハーネスが足首に絡んで転んだ」「俳優Oさんの白いランニング」「ブックファーストへ行く」という、三つの事柄を夢の記憶の冷蔵庫からいち早く取り出し、前頭葉の調理台で合わせてぺったんぺったん捏ねて、コロッケができあがったというイメージ。しかしテレビ番組を観たあと新たに浮上した謎は、日常生活の記憶と、夢のなかで体験したことの記憶は、同じ冷蔵庫に入っているのか? 別なのか? ということ。日常生活の記憶は何十年後にも、ふと、冷蔵庫の最前列に出てくることがありそうだけれど、夢の記憶は賞味期限が短いように思う……と、こんなとるに足らない想像をしているときが一番たのしい。

 夢の中で私は、住宅街のアスファルトの道を歩いているようだった。ひびの入ったアスファルトのところどころにスギナが生えていた。誰かが散歩させている茶色いポメラニアンが、私の足首にまとわりついてきて、足と足のあいだをくるくる何回もくぐったので、ピンク色のハーネスの紐が私の足を絡め取って、私はすてんと転んでしまった。誰かが近寄ってきて、それはポメラニアンの飼い主のようだった。長いハーネスの紐を自分のほうに手繰り寄せながら、私のほうへ来たその人は、テレビドラマの悪役を演じているのを見たことがある、ポマードの似合う俳優Oさんだった。
 それをきっかけに私とOさんは結婚を前提にお付き合いを始めた。
ポメラニアンは私の両手にすっぽりおさまる大きさだった。ポメラニアンを手の平に乗せると、手と犬の腹が触れ合っている面がネオン色に発光した。
 Oさんの部屋は木造の借家だった。カーテンは、適当な針金をカーテンレールにして白木綿の布を垂らしている簡易なもの。その前に焦茶色の木の本棚がひとつあるだけ。それが一切の家財道具。お金はなさそうだった。有名な俳優さんでもこんな感じなんだな、でもお仕事がんばってください、と思いながら、ぺったんこの敷布団の上で、ふたりで一枚のタオルケットをかぶった。
 Oさんと私とポメラニアンは、寺の境内を散歩しているようだった。砂利を敷き詰めた広いお庭。ノウゼンカズラが蔓に真っ赤な花をたくさんつけていた。借家の大家のおばさんは私たちを祝ってくれていたね。Oさんはしばらくしたら仕事に出かけていく。ランニングを着ている剥き出しの肩からも額からも、汗がぽたぽた落ちていた。汗は白いランニングに滲みていた。ちょっとOさん、その格好は似合っていてとても素敵だけど雑菌繁殖しないように気をつけてね。私もこれから自分の仕事へ出かけます。早くしないとブックファーストが閉まってしまう。ボタンのたくさんついたちゃんとした服を着て、ガラス張りの高層ビルの中へ私は消えた。建築中のビルが競うように高くそびえるこの街。

『アフリカ』を続けて(27)

下窪俊哉

 この夏は『アフリカ』をまたやろうと思っている間に過ぎた。しかし例によって夏の暑さは、もうしばらく続くらしい。まだ夏は過ぎ去ってはいないというふうに考えよう。そうやって自分がたいして動いていなくても原稿はぽつり、ぽつりと届くのだが、届くといつも嬉しい。原稿が添付されたメールを見て、おおー! と声を上げてしまうこともよくある。この歓びに代えられるものが他にあるだろうかとまで思っているのだが、これは一体何なのか。

 やろうと考えて、出来ないことは多い。私はいつの頃からか、何かを考え始めるとアイデアがどんどん湧いてくるようになった。『アフリカ』を始めた20代の頃は、でも全然そんなふうではなく、いろんなことを全て困難なことのように感じていた。出来るかどうかを先に考えるから、せっかく生まれようとしているアイデアが元気をなくしてしまうのだ。出来るか出来ないかはアイデアとは関係がない、好き勝手に考えてみよう、とすれば、アイデアは元気よくどんどん生まれてきてくれる。しかしそれを実行に移すかどうか、というのは別問題だ。
 例えば今年の春頃、休止して1年以上たった「道草の家の文章教室」を再び、一回だけ復活させようと考えていた。名付けて、道草の家の文章教室・最終回! いきなり最終回をやろうというアイデアに、ひとりでウケて、しばらく愉しんだ結果、それで満足してしまい、実際にやろうとはしなかった。
 そんなふうなアイデアは日々頭の中にあり、他人に話すこともあって、自分は企画倒れの名人だな! と思う。
 とはいえ、2010年代には、”プライベート・プレス”をめぐるトークイベントや文章教室、よむ会(読書会)など、実際にからだを動かして行った企画もいろいろとあった。
『アフリカ』はそういったことの何をやっても、終わったら帰ってくる場所であり、ベースキャンプのようだと言えばどうだろうか。うまくゆくこと、ゆかないこと、何があっても『アフリカ』に戻ってきて、さあ、また次のことをやろう、と考えることが出来る。
 それにしても、ベースキャンプが、なぜ雑誌のかたちになったんだろう。いや、そうじゃなくて、雑誌が先にあり、そこが次第に私たちのベースキャンプになったのだ。

 そこにはさまざまな人の訪問があり、出入りがあり、いろいろなやりとりが行われる。

 疎遠になった人たちがいる一方で、新しい出会いも『アフリカ』をやっていると次々あり、その不在と出会いの両方に『アフリカ』が支えられているのを感じる。疎遠になった人たちとも、お互いが元気で生きて暮らしていれば、いつか再会することもあるかもしれない。なくてもいいのだ、元気であれば、とたまに考える。

 この原稿を書いている途中で、向谷陽子さんの訃報が飛び込んできた。『アフリカ』が2006年8月にスタートして以来、これまで17年間、その表紙にはいつも、向谷さんの切り絵があった。事故に遭い、急逝されたとのこと。私とは大阪で大学時代に知り合い、とくに20代の前半には深い付き合いをしたが、大学卒業後は故郷の広島に戻って暮らしていた。個人的にひっそりと『アフリカ』を始めることになった頃、たまたま彼女から手紙が来て、パッとひらめいたのだった。この人がいつも私や友人たちに贈っている切り絵を、表紙につかいたい、というより、そうしなければならない、と。
 突然やってきた巨大な悲しみと喪失感のなかで、いま、『アフリカ』最新号の表紙にいる羊の切り絵と、向かい合っている。その対話を、私は言葉にすることが出来ない。

225 見返し

藤井貞和

あたしの非行のことを
わらったやつ
あたしの不良のために
泣いたやつ

あたしの非行のあとを
愛したやつ
あたしの不良のせいで
生まれたやつ

この世の親も
あの世のぼうやも
みんな友達

サインして、みんなに
お返しするね
新著の見返しへ

(前回、紫上の死去を7月と書いた。新暦以後、むずかしくなりました。7月7日は七夕で、お星様を迎え、空を見ながら織姫さんの非行を見届けます。一週間ののち、13~15日が旧盆で、送り火とともに紫上は昇天します。ことしの9月29日がお月見、つまり八月十五夜で、正確にお盆の一ヶ月あとです。お団子のことしは13個ですよ、というような話題は私の不得意領域で、まちがいがあったらだれか、訂正してください。和装本の見返しにも献呈のサインのいたずら書きを見たことがあります。洋装本ではサインできるようになっています。遊び紙に書いてもかまいません。ここでクイズ、月見団子はなぜ13個ですか。答え、閏二月があるからです。)

「而今」から

高橋悠治

本を読んでいると、「而今」ということばに行き当たった。「いま、現在」という意味の漢語、読みはジコン、本来はニコンと読んだようだ。中国語辞典にもおなじ意味で載っている。

朝、目が覚めたとき、ある音、ある響き、フシの切れ端が浮かぶことがある。それは聞いたことのある何かの一部かもしれないが、そう考えるのと、浮かぶものを感じるだけとは、どこかちがっている。

思い浮かぶそれを書きつけてみると、それは記憶のなかに残った音楽の一部かもしれない。そう思えば、それは書くまでもない。浮かんだ音のイメージを書きとるとき、それが本来もっていたはずの、他の音とのつながりから離れて、それだけで宙に浮かんでいるかのように見ること。こうして、読んだことばの続きにあった「前後際断」という、もう一つのことばに辿り着く。

読みながら考えているのは、音楽を創る方法のこと。全体の構成から部分に降りていくのでは脱け出せない、20世紀後半の音楽と、今過ごしている日常の、どことない異和感のなかで、「音楽を創る」とはどういうことか。

「創る」のは、作曲というだけではなく、それに引摺られた演奏のスタイルでもあるだろう。

定義すること、論理を立てるのではなく、瞬間の感触から、何かちがう表面を探り当てることが、どうしたらできるだろう、と思いながらも、ほとんどの時間は、日常のいろいろに溺れていく。

と書いてみると、「日常」と「瞬間の感触」は、ちがうものには見えない。