想像できないことを「想像してごらん」( ジョンの命日に)

さとうまき

年賀状のシーズンがやってきた。国際協力年賀状ということで今年で4回目になる。イスラエルとハマスの戦争でガザがたいへんなことになってしまったので、デザインもパレスチナ寄りになってしまった。僕は1997年から2002年までパレスチナにすんでいたので、こういうことになると、なんかしなくてはいけないと思ってしまうのである。とりあえず、当時のことをいろいろ思い出してみようと思って、パレスチナの子どもたちが描いた絵を探しだしてなんだかうっとりしてしまった。

2000年の夏。ボランティアやりたいって若者が訪ねてきた。ビートルズのコピーバンドをやっているとかいう女の子だった。若いのに珍しいなあと思い、ベツレヘムの難民キャンプの子どもたちに音楽を教えてもらうことにした。

僕がビートルズを聞き出したのは、中学生の時で、解散して4年たっていた。初めて買ったレコードは、Let it be のカットバンだったような気がする。そんなにレコードなんか買える時代ではなかったから友達から借りた。だから、友達は大切だった。ビートルズの4枚組ベスト盤になぜかジョン・レノンのイマジンが入っていた。不思議なピアノの旋律。あまり歌詞の内容とか理解しなくても彼らの音楽は好きだった。まだベトナム戦争が終わってなかったけど、中学生の僕は世界の平和とかそんなことはどっちでもよかった。文化祭で誰かが、戦争をテーマにしようと言い出し、戦争って言っても、交通戦争とか、受験戦争とかいろんな戦争があるよね!ってそっちの話になってしまっていた。日本は平和だったというよりも中学生なんてそんなもんだろう?

あれから大人になり、30代半ばの僕は、パレスチナにいた。イスラエルが建国されてから50年。つまりパレスチナ人の大惨事から50年の1998年。1999年にはオスロプロセスでパレスチナができるかもしれない。何よりも20世紀が終る瞬間にそこにいるという盛りだくさんでエキサイティングな時期だった。

ビートルズのLet it beをパレスチナで聞くとこんな風に聞こえた。

And when the broken-hearted people
テロやイスラエル軍の襲撃で家族が殺され,収監され、心が打ちのめされてしまっても
Living in the world agree
国際法で守られた世界で生きている限り
There will be an answer, let it be
答えは見つかる。なるようになる

For though they may be parted
たとえ意見が対立して、交渉は断絶しても
There is still a chance that they will see
チャンスはまだ残されている
There will be an answer, let it be
答えはきっと見つかる なるようにしかならない

当時は、イスラエルのミュージシャンもアラブ人と一緒にビートルズをよく演奏した。
We can work it outもその一つだった。

イマジンはもっとストレートに響いた。

想像してごらん。
国境も宗教もない
殺す理由も、死ぬ理由もない
みんなが平和暮らすことを

毎日パレスチナ人が収監され、殺されイスラエルという国が拡大していく現実。現実はあまりにもひどい。日本で暮らしている僕らには到底想像なんかできない。僕もそうだ、2019年までは、イラクとかシリアで目いっぱいで、パレスチナのことは、殆ど追っかけてなかった。

今年はすでに、かつてないくらいのパレスチナ人がイスラエル軍に殺害され拘束されていた。この夏、僕は、イスラエルとパレスチナの若者たちを日本に招いて「仲良くなる」プロフラムのアドバイザーの仕事をしていた。とはいってもロジのサポートの仕事で中身は参加させてもらえなかったのだが、パレスチナ人とイスラエル人はうまく対話ができなかったらしい。パレスチナ人は、イスラエルの人権侵害をみんなに知ってもらいたかった。イスラエル人にとっては、挑発的に絡んでくるパレスチナ人はうっとおしかったのだろう。

「仲良くなる」という目的を達成するためには、議論を遮るしかない。結果、フラストレーションだけがのこり彼らは帰っていった。そして、我々日本人も彼らがおかれている立場もよくわからぬまま、10月7日がやってきた。ハマスは1200人を殺害し、イスラエルは15000人を殺した。そしてもう精神的に参っている。

パレスチナの若者がかかわっているというイスラエルの団体のHPには、いろいろなファクトが掲載されている。
https://www.btselem.org/

今回、ハマスとイスラエル政府との人質交換で明らかになったのは、8000人ものパレスチナ人がイスラエルの刑務所に拘束されているということ。10月7日以降で3000人もが拘束されているという。中には、SNSでイスラエル政府を非難しただけの人もいる。2200人が裁判も告訴もなくただ拘束されているのだという。

実際にエルサレムのパレスチナ人が教えてくれた。「IDを見るよりも先に、イスラエル警察は携帯を見せろという。それで政府に批判的だったり、ガザに同情的だったら直ちに拘束されてしまう」
11月29日夜の時点で、ハマスが解放した人質は102人。イスラエルが釈放したパレスチナ人は210人となった。しかしイスラエルはあらたに116人のパレスチナ人を拘束したという情報もある。またハマスは、生後10か月の最年少の赤ちゃんはイスラエルの空爆で死亡したと発表している。そもそも人質交換なら、15000人のガザの人々を殺す必要はなく最初からイスラエルとハマスが交渉すればよいのではないか。もう、狂っているとしか言いようがない。

2000年の夏に話を戻そう。僕が働いていたNGOは、ベツレヘムの難民キャンプの子どもセンターを支援していたので、難民キャンプの子どもたちにイマジンを教えることにした。
キャンプのリーダーがやってきて、「なんだい? この曲は?」彼は、いつも周りを気にしていた。「みんな、国境のために命を失っているんだ。宗教がない世界っていうのは、僕ら的には、OKなんだけど、ハマスが聞きつけたら大変なことになるなあ」そのキャンプは世俗派の党派が支配していた。でも彼はとてもこの曲を気に入って、英語の先生を連れてきて、子どもたちにきちんと発音するようにと諭した。

そして、キャンプデービットでは、パレスチナの独立に向けて最終的な調整が進んでいた。イスラエルとの2国共存は目の前に迫っていた。約束の1999年は過ぎてしまったがパレスチナという国家ができることは皆疑わなかった。もう21世紀になったのだから。

難民キャンプで広島の展示をしてそのセレモニーで子どもたちはイマジンを歌った。今じゃ信じられないだろう。難民キャンプの子どもたちがイマジンを歌った。ジョンの世界が想像できたのだから。イスラエルの首相は労働党のバラクだった。「私がパレスチナ人なら、石を投げる気持ちがわかる」とまでかれは言ってのけた。

しかし、私たちはただの夢追い人だった。バラクは支持を失い首相をネタニヤフに譲り渡した。そして和平は死んだのだ。まだ僕らにチャンスはあるのだろうか?

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ゴマ

笠井瑞丈

うちに来て四年半
碁石チャボのゴマ
とりあえずボスです

そして今年来た
白チャボのナギ
暴れん坊です

今年亡くなった
白チャボのマギ
おっとりです

鳥さんとの共存生活
ともにいろいろな所にも旅した
うちの中に光を灯してくれる存在

うちは部屋の中で放し飼いにしてる
鳥さんをそのように育てているのは
かなり珍しいと思っている

うちにやってきて
自分で自分の場所を探し
自分で自分の生活を始めた
だから自由にしてあげたい

それが共存だ

向こうには向こうのルールがあり
こちらにはこちらのルールがある

朝自分でテレビの裏から降りてき
昼間大抵は大好きな枕の上で昼寝
夜は自分達の場所のテレビの裏に戻る
そして僕が寝るのと同じに眠りにつく
基本はこのルーティンの繰り返しだ

しばらくして

一番大事な行事の産卵期がやってくる
基本二日に一個卵を産む
そして多い時は毎日産む
そして三週間くらい続く

それが過ぎ放卵期がやってくる
じっと24時間卵を温め続けるのだ
テレビの裏に長い時は2ヶ月近く篭る
体力をすり減らしただただ卵を温める
仕方なく強制的にご飯を食べさせる
そうしないと自分の身体を削ってでも
卵を温め続ける

人間は誰かに教わらなきゃ何もできないのに
鳥は誰に教わることなくそれを本能で行うのだ

チャボには
全動物には
それができるのだ
これは本当にすごいことだ

生命とは不思議なものだ

しかしそんなゴマが
肺炎になってしまった
巣篭もり中で体力が
落ちていたのだと思う
そしてもうだいぶのお年だ
呼吸が荒く
何も食べない
全く動かない
歩いても
ヨタヨタ

正直かなり危険な状況
注射器に栄養剤をいれ
口に流して食べさせてる

全く自分から食べようとしなくなった
野生であれば自分で食べれないということは
それは遅かれ早かれ死を意味していることだ
それがきっと自然の正しい在り方なんだろう

だから僕がやっていることはそれに逆らう行為
それでも構わないので前のように戻ると信じて
看病する

きっと良くなる
きっと良くなる

先日お世話になっていた
衣装デザイナーが亡くなった
ギリギリで病院に駆けつけることができた
話しかけると手をあげたり目をパチパチさせ
最後の力を振り絞って会話ができた
作ってもらった衣装を着て行ったので
とても喜んでるように感じた

人間であろうが
動物であろうが
平等にいつかは
死は必ず
やってくる

お見舞いに行った一週間後
息をお引きとりになった

そして今日これを書き終えた今
ゴマちゃんが旅立った

大好きなマギちゃんのところへ

たくさんの思い出をありがとう

どうぞ安らかに

228 索(あしたの)引

藤井貞和

新刊書の読み方の一つに、索引を作りながら読むというのがあります。
それはよいのですが(あしたの)がはいりこんできて、うごかないのです。
あしたの索引という理由です。月やあらん、あしたという日がこの索引を、
必要とすることでしょう。中欧、中東戦火のいま、この一冊が出たことは、
あしたを歴史に刻みこむために。

金ヨンロン『文学が裁く戦争』岩波新書を読みながら

 

(赤瓦の家159 明日の知性19 或る遺書について05 イアンフ161 海と毒薬61 奥のほそ道201 折れた剣81 壁あつき部屋46 神と人とのあいだ96 黄色い日日22 キムはなぜ裁かれたのか197 グラウンド・ゼロを書く202 飼育65 小説・東京裁判130 神聖喜劇138 審判71 巣鴨の恋人52 砂の審廷107 赤道の下のマクベス193 戦争犯罪人37 戦争は女の顔をしていない206 蝶の絵27 月や、あらん207 東京裁判(映画)130 東京裁判の判決08 東京プリズン189 閉された言語空間139 ながい旅129 夏98 判決の記05 BC級戦犯とその妻129 非情の庭56 羊をめぐる冒険147 ひとり207 溥儀皇帝の悲劇15 文学以前のこと16 北岸部隊20 迷路13 夢の裂け目170 夢の泪(なみだ)174 夢の痂(かさぶた)179 落日燃ゆ118 レイテ戦記130)

仙台ネイティブのつぶやき(89)人が、いなくなる

西大立目祥子

久しぶりに宮城県北、鳴子温泉で米の配送の仕事をしているササキさんに電話をして、「元気?」とたずねたら、「それが、運転中にクマが飛び出してきてぶつかって、車つぶれて修理したんですよ」と聞かされた。「こけし館のとこの坂道わかります?あの坂を下って、いきなり道路に出てきたんです。ぶつかったあと、立ち上がって車の横を走り出したんで怖かった。こんなの初めてですよ」

このところ東北が話題の全国ニュースというと決まってクマの被害が報道されているけれど、ついに身近なところで事故にあう人があらわれたとは。「日本こけし館」は鳴子の観光スポットで、飛び出してきた道路というのは山形や秋田に向かう車両の多い国道47号線だ。
国道をクマが歩いているのだ。気づけば、地元紙、河北新報の宮城県内版には「クマ目撃情報」の欄が設けられ、前日の出没が報道されるようになった。たとえば「▷午前6時30分 加美町原町道端▷午後6時20分 仙台市青葉区荒巻青葉」のように時刻と住所が記されている。日に5件は下らない。そういえば、数日前、この欄にササキさんの働くすぐ近くの住所を見つけたのだった。「それ、ウエノさんの家ですよ。罠にかかったんです」

ササキさんが働くのは「鳴子の米プロジェクト」というNPO法人の事務所だ。ウエノさんはそこの理事長で農家。米をつくり、牛を飼い、畑をつくっている。牛舎のそばにクマが出たのだから、ひやひやものだったろう。
 
このプロジェクトは、2006年に農家と消費者をつなぎ中山間地の農業を守ろうと始まった。私も農業のことは何もわからないまま、かかわってきた。当時は米の価格が下がって農家の経営が難しくなり、町内でも米づくりをあきらめる人がじわりと増え、耕作放棄地があちこちに目立つようになってきていた。加えて、国の農業政策が、経営規模を拡大して効率化を図る方向に転換されようとしていて、標高の高い山間地に小さな田んぼを維持してきた農家の人たちは生業を継続できるのか大きな不安を抱えていた。

このままではこの町の農業は立ち行かなると考えた役場職員が、本気を出した。まず、標高が高くうまい米はできない、といわれ続けてきた雪深いこの地域でも、おいしく育つ品種を探す。農家が天日干しでていねいに育てて、来年も米づくりをしようと希望を持てる持続可能な価格で売り出す。多少高くても、それが農家の暮らしを守り、自分の食生活の基盤をつくることになる、と理解して買ってくれる人と手を結び、長く付き合う。そんな計画を立て、プロジェクトは始まったのだった。

ササニシキを生んだ宮城県古川農業試験場で寒冷地向けとして開発され眠ったままになっていた「東北181号」という品種を特別に提供してもらい、試験栽培をしたところ、米づくり50年の農家が「山間地でもよく育つ力強い稲だ」と太鼓判を押すほどに苦労なくすくすくと育った。試食してみるともちもちとして冷めてもおいしい。米は「ゆきむすび」という名前で品種登録され、プロジェクトでは事務所経費をのせ、1俵(60キロ)2万4千円で売り出すことに決めた。農家には1万8千円が支払われる。当時の生産者米価は1万3千円を切っていたので驚かれ話題にもなったのだけれど、“農家が希望を持って続けていける価格”に賛同してくれる人は全国に広がり、参画する農家も2年目には21人に、やがて35人くらいまで増えていった。

東日本大震災も乗り切ってきたのだが、このところ参画する農家の数がめっきり減った。今年は12人。プロジェクトが年月を重ねる中で、担い手の農家が高齢化しているのがその理由だ。60歳で参加した人は、もう78歳。あと3、4年が限度だろう。息子が農業を継ぐという人は数軒にとどまっている。先日、NHKスペシャル「食の“防衛戦”主食コメ・忍び寄る危機」という番組を見てひやりとした。日本の稲作農家は、1995年には201万戸だったが2025年には37万戸になるという。あと5年で主食のコメは危機に陥る、と番組は告げていた。中山間地、鳴子の米づくりは日本の稲作の縮図だ。プロジェクトを立ち上げた当初、農業の担い手の高齢化を教えられ、ここで農家を支援する仕組みをつくらなければ私たちの食があやうい、とみんなで勉強したとおりの未来がきた。農業をやる人がいない。農業だけでなく、地方、特に中山間地からは人がどんどん激しく減っている。

話をクマに戻す。ブナがひどい不作だったとか、どんぐりも実らなかったとか、今年の特殊事情はもちろんあるのだろうけれど、クマ出没の背景には、里山に暮らす人の激減があるに違いない。特にコロナ禍以後、米づくり農家、特に外食産業を支えてきた農家が農業をあきらめた。田畑には草が繁り、森の手入れをする人もじりじりと減り、そこにクマが勢力を延ばしているのだと思う。

実際、鳴子の米プロジェクトの事務所の近くは空き家ばかり。18年前の平成の大合併で、町内では3つあった中学校が1つに統合され新校舎で再スタートを切ったのだが、生徒がさらに減りサッカーや野球の部活ではチームがつくれず、隣町の中学校に進学する子も少なくないのだそうだ。町内の公民館の館長さんには「見て、公民館の前の道路は両側ずっと全部空き家」と聞かされる。

でも、食卓に載せる食材がどこで誰がつくっているかを考えない限り、それは見えない。この原稿を書いている窓の外では、先週から恐竜のような姿の3台のパワーシャベルが住宅を解体し、大きな音を立てている。たぶん戸建ての建設がすぐに始まるだろう。近くに地下鉄駅が開業してからというもの、住宅の新陳代謝が一気に激しくなり、少し北側では、東北最大級のマンションの計画が持ち上がっている。やがて何百というファミリーが越してくるのか。その向こうに、私は生い茂る山の中で朽ちていく空き家の風景を見てしまう。

昨日はすぐ近くにサルが出た。なんだかどこもかしこもちぐはぐだ。連続性も秩序も安定もない。何でも手に入るかに見えて、私たちの食が薄氷の上にあることは確か。近い将来、超高層マンションのピカピカのキッチンで飢える人が出るかもしれないことを、想定しておこうと思う。

母の熟したトマト

植松眞人

 母が生まれてすぐに戦争が始まった。もともと貧しい家に生まれたのだが、戦中戦後の混乱の中で辛酸を舐めた。六人兄弟の真ん中に生まれた母は長男長女ほどの愛情も注いでもらえず、弟や妹ほどにお金をかけてもらうこともなかったらしい。
 小学校に入学しても弟や妹の面倒を見るためにほとんど通えず、母はいまも読み書きがほとんどできない。学校の思い出はと言えば、文房具がまともに買えず、消しゴムの代わりにズック靴の底のゴムを刻んで使ったが、ノートが破れるばかりだったとか、弁当を持って行けず水ばかり飲んでいたという貧しさの話しか出てこない。
 子どもの頃に、母からおやつをもらいながら、昔のおやつはどんなだったのか、と聞いたことがあった。母は、おやつなんかなかった、と言った後で、しばらく経ってから、あの時食べたトマトは本当に美味しかった、と呟いた。
 母が子どもの頃、三度の食事を摂ることもままならなったと言う。腹を空かせた母は、学校や用事の行き帰りに、低く茂ったトマト畑を見つけた。そこには真っ赤なトマトが実っていた。けれど、他人の物を盗んではいけない、という教えだけは擦り込まれていて、ただ毎日赤く実っていくトマトをじっと見つめていたらしい。
 ある日、いつものようにトマト畑の前を通った母は、あんなに実っていたトマトが全部なくなっていた。農夫によって収穫されたのだ。誰の口に入るのだろう。どんなふうに食べられるのだろう。母は想像をするだけでぺこぺこのお腹が動き始めた。その活発な動きを支えられなかったのか、なんとなく力が抜けて、トマト畑の側に座り込んでしまったそうだ。すると、目線の下がった母の視界にひとつだけ、形の悪い小さめのトマトがぶら下がったままになっているのを見つけたのだ。
 それから毎日、母はその農夫に忘れられたトマトを見に出かけた。木になっている間は農家のものだが、熟して落ちれば食べてもいいのではないかと思ったからだ。
 来る日も来る日も母は弟や妹を背負いながら、トマトを眺めた。誰にも知られないように、そっと周囲をうかがってから、トマト畑に近づき身を屈めた。トマトは日に日に赤くなった。
 何日めだっただろう。母が畑に行くと、トマトが落ちていた。熟しすぎて、落ちたトマトの皮は破れ、形をなくしていた。それでもトマトは陽の光に輝いていて、母は思わずそれを拾うと多少の汚れも気にせずにむしゃぶりついた。トマトはこの世のものとは思えないほど美味しかった。酸っぱさが鼻を突き、土の匂いがした後に甘みが口の中に広がった。
 あのトマトは忘れられへん、と母は言い、今食べているトマトとどっちが美味いかと私が聞く。母は間髪入れず、そりゃ今食べてるトマトの方がきれいでおいしいがな、と笑うのだった。

『アフリカ』を続けて(30)

下窪俊哉

 コスモス色の表紙のなかで孔雀が、羽をひろげている。その目は、俯き加減ではあるものの、黒々として生命力に溢れている。こちらを見据えてはいないのだが、大きく、画面からはみ出すまでひろげられた羽のなかに、じつは幾つもの目があり、見つめられているような気がして私はハッとする。咲き誇った花に見られているようでもある。羽をひろげている孔雀はオスだろうが、そのなかに、私はある女性の目を感じている。

 10月末、『アフリカ』最新号(vol.35/2023年11月号)の入稿をすませた日の午後、自室の片付けをしていたら、ふとしたところから手紙が出てきた。それは8年前(2015年)の5月、向谷陽子さんから届いた『アフリカ』の切り絵に添えられていたもので、作品を作者に戻した後、その封筒のなかには手紙だけが残されていた。
 いつも『アフリカ』は予定より1、2ヶ月は遅れて完成するので、〆切が来たからと言ってそんなに焦る必要はないのだが、向谷さんはいつも、ギリギリになってごめんなさい、と手紙のなかで謝っていた。が、このときは「かつてないピンチ」だったらしい。「モチーフ選びは大事だな」「でも出来上がったものに関しては満足」していると書かれている。
 その後を読んで、私は思わず仰け反った。
「表紙にはパイナップルをオススメします。孔雀だと拡大した時に切りの甘さが目立ってしまうので。切り始めてから、和紙じゃなくてケント紙にすれば良かったと思いました。後の祭。」
 ああ! そうだったのか。私は今回、そのとき孔雀を表紙に使わなかった理由を「あまりの力作でアフリカの文字の入る余白がなかったのだろう」(編集後記より)と想像したのだが、全くそういうことではなく、作者の希望だった! できれば表紙には使わないでほしい、という。
 その年の夏、珈琲焙煎舎で『アフリカ』をめぐるグループ展(「鳥たちのその後」展)をした際の手紙も、同じ封筒に入って残っていた。そこには、「孔雀は展示NGでお願いします」とまで書かれている。
 よほど納得いってないというか、技術的な問題を感じていたらしい。
 大急ぎで、装幀の守安くんに知らせようと思った。そのメールを書きながら、何かじわあっと熱く、伝わってくるものを感じた。そうか、入稿が終わるまで、待っていてくれたんだね、と。
 守安くんからは、こんな返信が来た。
「それを聞いていたらさすがに躊躇したとは思うけど、やっぱり今回はこの孔雀でしょう、という気がします。展示NGだなんて、こだわってるところが逆にいいよ。作家の人間味がにじみ出てる。毛羽立ちや汚れはいつも気になったらデータを触ったりもしてたんだけど、今回はあえて何もしてなかった。それでよかったな、といまは思っています。」

 8年前のことで、すっかり忘れていた。そのことが判明してからも、果たして本当にそうだったかな? と思う気持ちがまだ残っている。それくらい忘れていた。
 こだわっていた、ということは、それだけ大事なものだった、ということだろうと私は考える。
 なぜ、どのように大事だったのか、いまとなっては訊くことができない。しかし、訊けたとしても、そんなことを容易く話すことが出来るだろうか。
 理由は何であれ、とにかく大事なものだった。
 彼女が突然いなくなった後、その、いなくなった彼女と一緒に『アフリカ』をもう1冊つくろうとした私が、守安くんの助けを借りて、その孔雀を見出したのだと思うと、気持ちが波を立てて、この孔雀の切り絵の良さを、作者に向かって語り聞かせたくなってきた。

 この11月、ザ・ビートルズの最後の新曲(になるだろうとポール・マッカートニーが言っているらしい曲)が話題になっている。あの4人が(時空を超えて)揃って演奏しているというふうに言われているが、何が、どうあれば、”ザ・ビートルズの曲”と言えるのか、当人たちにとって実際にはもっと感覚的な、何とも言えない部分もあるのだろう。

 向谷さんの切り絵という〈顔〉がなくなった後、どうあれば、『アフリカ』だと言えるだろうか。

 そう考えると、もう『アフリカ』でなくてもいいのではないか、という気もしないではない。そうすると、この「『アフリカ』を続けて」も終わってしまうわけだが、などと思っていたら、これまでになかった現象が起こり始めた。
 最新号が出来たばかりで、まだ宣伝もままならない状況のなか、すでに次号への原稿が送られてきている! しかもひとりではない、そういう人が、ふたり、さんにん、と現れてきた。
 止めるなよ、と言われたら私はすぐにでも止めたくなる、天邪鬼である。しかし、送られてきた原稿を疎かにはできない。これを(次号に載せるかどうかは、さておき)どうやって生かそうと考えるのが自然だからだ。

 そこで思い出す。『アフリカ』を始めたときにも、そんなふうだった。もうこんなことは止めよう、でも、すでに生まれてきているものは生かしてあげたい。そう思って始めたのだ。だから雑誌名なんか何でもよかった。つまり、その場限りのものになるはずだった。

どうよう(2023.12)

小沼純一

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
やってるんだが
からだがうごかん
ひふのした
にくがびりびりしびれてる

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
あたまのなかは
あっちにこっちに
あたまとからだが
べつべつで

なにやってんの
なんにもかんにもしてないね
だらだらとろとろ

やってるよ
やってるってば
からだいっばい
いきている
すこしもうごきはしないけど

いしつたわんない
いんりょくさからえない
ここばっかりが
いんりょくがつよい
ほんとかな
ほんと
ほんとだよ
わたしには

しごとのつきあいだった
冗談だって雑談だってかわしてた
食事もしたしお酒ものんだ
そんなひと何人も何人も

何人もってまとめなくって
もすこしよってって
このひとこっちのひと
ひとりひとりの顔
顔、顔、おもいだせず
なまえだけだったりもして
あんなこんなひといたよね

どしてるんだろ
やせたりふとったり
家族がいたりするんだろ 
ホルンはふいてるかな
サーフィンはしてるかな
かわいがってたいぬは
げんきかしらん

あうことなんてないのかな
さほど距離ないところにいても
とおいんだな
おもいだすのもまれだけど
たまにはなぜか
あのひとかのひと
せまいところにいるようで
まわりのひとはいれかわり

おぼえてるおぼえてない
よどみ
かきまわすのも
きまぐれゆうまぐれ
おうまがとき

ほんのいっぽんちがうみち
ねこがけげんにこちらみる
しらないねこのはずなのに
いっぴきよくみるやつがいる

ほんのいっぽんちがうみち
みせでみかけるおばさんと
ねこにえさやるおじさんが
でてくるやしきがありました

ほんのいっぽんちがうみち
ひるましずかなねむるまち
よるはふらふらすいきゃくが
すいこまれてゆくネオンがい

ほんのいっぽんちがうみち
ビニールシートのすぐわきは
くさぼうぼうのかこいべい
ねこさそってるはいおくも

ほんのいっぽんちがうみち
いちがいくにふたつみつ
ながいながいへいがのび
なかのみえないふしぎなやしき

話の話 第9話:つい、うっかり

戸田昌子

天気予報では雨が降ると言っていたのに、家を出るときに晴れていた、などの理由で、「つい、うっかり」洗濯物を干して出かけたあと、土砂降りになる、そんな失敗をしてしまったとき、人はそれを「マーフィーの法則」と呼ぶ。われわれは失敗しないために先回りして対処するという知性を身につけているはずの人類であるが、それでも状況をみくびってしまう癖を持ち合わせているのである。たとえば、「お母さん、牛乳ちょうだい!」と子どもに言われて、面倒くささから、つい「冷蔵庫にあるから自分で入れなさい」と言い捨てたあと、ふと振り返ると子どもがコップから牛乳をだぼだぼと溢れさせている姿を見たとき、わたしは子を叱るよりもまず、自分の愚かさを恥じる。なぜ状況をみくびってしまったのか、と。そして雑巾を淡々と手に取り、絨毯にこぼれた牛乳を拭き取り、消臭スプレーを吹きかける。そう、失敗はなかったことにする、それがわたしの基本原則である。

そんな事例は無数にある。たとえばレストランでトマトソースのパスタを頼んでしまったあとで、自分が真っ白なシャツを着ていることに気づき、仕方ないからできるかぎりそーっと食したにも関わらず、トマトソースを胸元にはね散らかしてしまうなどの悲劇は、年に1回くらいの確率では確実に起こる。例えばその日わたしは、10個入り600円のタマゴを1パック、有機食材のお店で購入した。なぜそんな分不相応に高額なタマゴをわたしが購入したのかはさだかではないが、おそらく気が大きくなっていたのではないだろうか。そしてまだ10歳に満たなかった小さな娘に、そのタマゴの袋を持たせた。なぜならわたしはそのとき、本が何冊も入ったリュックサックと、野菜や肉などの入った大きな買い物袋を抱えていたからである。タマゴの袋を持たされた娘はいつものようにルンルンと私の隣を歩いていた。そして、ものの3分も経たないうちに、その袋は彼女の手から滑り落ち、アスファルトの路上に落ちてカシャンと小気味の良い音を立てた。そのときわたしの頭をよぎったのは、「なぜわたしはよりによってこのタマゴの袋だけを娘に渡したのか?」という疑問だった。その疑問に、わたしは答えることができない。そして自身のうっかりに激怒しながら帰宅してパックを開けると、タマゴはすべて割れていた。割れたタマゴは保存がきかないので、その日の夜ご飯は当然のことながら、とても大きなオムレツとなった。忘れられない600円の激怒オムレツ。

ちょっとしたうっかりが尾を引く事例は多い。たとえば、中学のときの姉の同級生で、ずっと「ジョージ」と呼ばれていた少年がいた。姉がその理由を尋ねると、彼は自分の体操着を「おれのジャージ取ってきて!」と友人に頼もうとして、うっかり「おれのジョージ取ってきて!」と言ってしまったのだという。それ以来、彼は卒業するまで「ジョージ」と呼ばれ続けた。うっかりジョージ。

その昔、中学のときのわたしの同級生に、親分肌のごつい少年がいた。体が大きく、声が大きく、いじめをするクラスメイトを見つけては大声を出して「おまえ何やってんだ」と注意してくれるのはいいのだが、ついでにそいつをゴツンとこづく、という悪い癖もある。その彼が、目の敵にしていた理科教師がいた。その学校に転任してきたばかりの女教師で、気を張っていたせいなのか、あまり空気が読めなかった。のんびりした公立校なのにもかかわらず、宿題忘れや理解の遅い子に対して厳し過ぎる態度を取る。その厳しさが気に入らなかったと見え、彼はその先生の授業中、なにかと先生に反抗したり、腹が立つと教室を出ていってしまうことが多かった。当然、先生はいきりたって追いかける。そのため理科の時間になると、教室には緊張が走った。当時、40歳くらいの独身女性だったこともあり、そのことを揶揄されたり、次第に教師いじめに近い状態になっていた。ある日の授業中、彼は立ち上がって、いつものように先生に対してかみついていた。彼女も感情的になって、しだいに自分が何を言っているかわからなくなり、一生懸命ではあるのだが、話がとんちんかんなことになり始めた。それがきっかけとなって、一触即発だったその場の緊張感が、ふと緩んだ。そして次の瞬間、彼はにやりと笑い「先生、かわいいね」と口にした。実際、そのとき生徒たちはみな、一生懸命な先生の姿がかわいいと思ったのじゃないかと思う。しかし先生はそれに反応しようとして……おそらくは、ついうっかり「あたりまえです!」と怒鳴り返してしまったのである。そして教室は笑いの渦につつまれた。憮然として「何がおかしいんですか!」と怒っている先生。それ以来、彼はその先生が大好きになり、しきりとついてまわるようになった。しまいには、よその教室でその先生の授業中に生徒が騒いでいるのを聞きつけては、わざわざ自分の教室から出張し「お前ら、先生がしゃべってんだから静かにしろよ!」と注意して回る始末であった。「先生を困らせるやつは許さない!」などと彼は言っていたが、その行動によって、先生はちょっと迷惑していたのではないだろうか。しかし卒業まで、先生と彼は仲良しであった。彼は植木屋の息子だったが、のちに植木屋を継いで今でもやはり親分肌である。

ひとが失敗すると、それが「かわいい」と見えてしまうのはなぜなのだろう、と考える。わたしは失敗の多い人間であるせいか、失敗したとき人に笑われ、「かわいいね」と言われてしまうことがある。たいていの場合、失敗したときは、何も言わずに落ち着き払って対処すれば、人目には失敗だと気づかれないことも多い、というのは長年の教師経験から学んで実践していることである。しかし、目ざとい人は、わたしのうっかりには気がついているらしい。たとえば家族や親族には気づかれているわけである。たとえば妹の夫はフランス人で、日本語がほとんど話せない。ある日、彼は簡単な日本語を覚えようと、「まあちゃんは、まるい」という短文を作り出した。そしてそこにさらに文章をつなげようとして、「でも、かわいい」と続けた。「まあちゃんは、まるい。でも、かわいい」という文章を作り出した彼は、それがひどく気に入ったらしく、妹とふたりで「まあちゃんは、まるい。でも、かわいい」と日本語の練習を続けた。しかし気に入らないのはわたしの方である。「まるい、でも、かわいい」などというのは、体型に対する侮辱ではないか。「でも」じゃないだろう!と反論していたわたしだったが、あるとき友人が言う。日本語の「でも」に相当するフランス語の「mais」という言葉には、逆接の意味だけでなく、順接、すなわち「だから」や「そして」などの意味もある、と。すなわち、「まあちゃんはまるい、だから、かわいい」という意味なのではないかと。意外な発見に、ほほう、と感心、うっかり納得してしまったわたしだったが、しかし、ちょっと待て。「まるい、だから、かわいい」……それはどういうことだ。まるいからかわいいなら、結局なにも変わらないじゃないか。

つい、うっかり、やってしまうこと。毛糸のセーターを洗濯機で洗ってしまえばフェルト化してまうのは物理の法則を持ち出すまでもなく必定なのだが、「もしかして大丈夫なんじゃないかな」と思えてしまうのはなぜなのか。つい、洗濯機に放り込んでしまうことがある。アメリカにいたとき、買ったばかりのセーターを、温湯で洗浄する洗濯機につい突っ込んでしまい、みごとなチビT並みのサイズにしてしまったことがある。セーターでヘソ出しルックになるわけにもいかず、泣く泣く手放したわたしとしては、過去の過ちは繰り返したくないのにもかかわらず、時々それをやってしまう。友達の結婚式のために手に入れたステキなウールのカーディガンを、なぜか洗濯機に入れてしまった結果、5分の3ほどのサイズに縮んでしまったときは確かに悲しかったが、そのときはもう子どもがいたので、「もしかしてこれは、子どもの洋服にすればいいのでは!」という天啓が訪れた。娘に着せてみたら見事にぴったり。これははじめから子ども服であったと考えればちっとも惜しくない、高い服だったけれど、子どもに贅沢をさせている、と考えればいいのだ。わたしはそう自らを説得し、長いことそのカーディガンを娘に着せ続けた。そしてそれはとても似合っていた。

論文を書きながらぼんやりとご飯を作っているときには、うっかりミスが多い。肉じゃがを作っているつもりで、いつのまにか豚汁を作っているつもりになってしまい、やたらだぼだぼと水分の多い、大根とごぼうと油揚げの入った肉じゃがが完成してしまったことがある。それをみた夫と娘が「これは何?」と尋ねるので「……おいしいよ」と答えると、「だから、これは何?」と重ねて尋ねられた。しかたなしに「肉じゃがと豚汁の中間」と答えると、「じゃあこれはとんじゃが」だね、と言う娘。「いや、肉汁じゃない?」と言う夫。肉汁。それは聞くだに、とても残念なメニューだね。

失敗の多い人生のなかでも、特に気を付けており、かつ職業的にやってはいけないこと、というのは、校正ミスである。しかしこれはどんなに頑張っても、なかなかゼロにすることができない。特に翻訳ものなどの場合は難題で、最近はカタログ論文などで英訳の校正をしなければならないことが多くて頭が痛い。これは平然とやり過ごそうにも文字として残ってしまうからである。たとえば大阪の問屋街の地名である「船場」を「a dock」と訳されてしまったり、映画会社の「松竹」を「Matsutake」と訳されてしまったりするような事例は、笑うに笑えないし、冷や汗をかきながら修正する。ちなみに自分自身がこれまでやってしまった校正ミスのうちで最も致命的だったのは、2014年に東京都写真美術館で行われた岡村昭彦写真展カタログであった。国内外を飛び回った国際的な報道写真家、岡村昭彦についての文章だから、校正者の力量も問われ、刊行元の編集者は新聞社の校閲部に校閲を外注した。そのためたいへんに緻密な校閲が行われ、内容的には大きなミスなく進行できた(小さなうっかりミスはあった)。しかし、である。その奥付だけは、最後に作られたために、校正の手がまわらなかったのだろう。展覧会オープニングの前日、写真美術館に届けられたカタログをみて「……これ、刊行年が20014年になってます」と気づいたのが誰であったかは、もう覚えていない。20014年って、どんな未来の宇宙なんだろうねぇ、と遠い目で語り合ったわれわれが、どんな対処をしたのかすら、すでに記憶の彼方である。たぶんちょろっとした紙ペラの正誤表が挟まれただけだったのではなかっただろうか。

宇宙、と言えば、数年前、久しぶりに鰻を家で食すことになり、冷蔵庫の山椒の瓶の賞味期限をみたら、2001年だったことがあった。急いでスーパーに走って事なきを得たが、気づかなければ、あやうく2001年宇宙の旅の鰻となるところであった。

マーフィーの法則と言えば、マーフィー岡田さん。実演販売で有名なマーフィー岡田さんは、この業界で50年以上活躍する、その筋では有名人。わたしのキテレツな伯父と岡田さんは高校の同級生である。この伯父に関する逸話は尽きないが、現在は消息しれず。テレビや雑誌で彼の姿をみかけるたび、わたしの母は「ああ、岡田さん」と言う。それにつられてわたしもつい、彼を見かけると「ああ、マーフィーさん。伯父さん、どうしているかなぁ」と、つい呟いてしまう。それで最近、どうされているのか気になって、つい検索をかけたら、なんと、X(旧Twitter)にアカウントが存在している。ああ、お元気なんだとほっとし、うっかりフォローしてしまった。ああ、マーフィーさん……。

プカプカ

篠原恒木

おれは喫煙者である。

この一文を読んで、これから先を読み進めることを拒否する方々もいるだろう。だが、書き出してしまったのだからもう遅い。「可哀想なヒトだ」「馬鹿なヒトだ」「死ねばいいのに」と思いながら読んでいただきたい。

「喫煙」という文字を見ただけで眉をしかめ、嫌悪、拒絶、忌避、軽蔑、罵倒、非難、憎悪、憤怒の念を抱くヒトはあまりにも多い。言語道断、断固反対、悪逆無道、徹底拒否、極悪非道、無法千万、非難轟轟、陰翳礼讃などの四字熟語もアタマに浮かぶ。いや、最後の四文字は違うか。喫煙習慣のせいで、つい筆が滑ってしまった。

とにかく煙草がやめられない。十八歳のときからショート・ホープを一日二十本吸っている。もう喫煙活動四十五周年だ。おお、アニヴァーサリー・イヤーではないか。めでたい。吸い始めたときは一箱五十円だったような記憶があるが、今では三百円だ。よく考えたら高いよ、バカヤロー。気軽に「一本ちょうだい」などと言われたら、そいつには真空飛び膝蹴りをかまして、ダブルリストロックから膝十字に移行、最後は腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪ってやりたい。

ああ、思わず逆上してしまった。話を戻そう。ショート・ホープは一箱十本入りというのがいい。箱も小さくて好ましい。味は独特の辛味があり、吸ったときのキック感も抜群だ。箱の脇に書いてある表示を見ると、一本当たりのタールの量は14mg、ニコチンは1.1mgと書いてある。ちなみにメビウス・エクストラライト・ボックスはタール3mg、ニコチン0.3mgだそうだ。おれはメビウス・エクストラなんたらという煙草を吸ったことがないが、これを見ても、我がショート・ホープはいわゆる「キツい煙草」だということが分かる。いや、誇らしげに書いているわけではない。さぞや体に悪いだろうなあと慄きながら書いているのだ。でもやめられない。

昔はよかった。どこでも吸えた。駅のホームでも吸えた。飛行機の中でも吸えた。病院の待合室でも吸えたのだ。ところが今では喫茶店でも吸えない。「珈琲と煙草」なんて「梅に鶯」ではないか。町中華に入ってラーメンの汁を飲み干したあとでも、その場では絶対に吸えなくなった。「ラーメン後と煙草」なんて「獅子に牡丹」のはずなのに。まだまだあるぞ。ここでおれは「竹に雀」「波に千鳥」「松に鶴」「紅葉に鹿」などの慣用句を駆使して煙草と相性のいい状況、アイテム、場所を列記しようとしたが、知っている慣用句を列記したことで満足したのでやめておく。

時代は変わったのだ。煙草は害悪なのだ。「今日も元気だ たばこがうまい!」「たばこは動くアクセサリー」などという広告コピーは昔々の話になってしまった。今や煙草の屋外広告も掲出不可だし、テレビのコマーシャルからも締め出されてしまった。ドラマでも登場人物が煙草を吸うシーンはご法度だ。昭和三十年代を時代設定にしたドラマでも、煙草を吸う人は誰一人として出てこない。ここまでいくと不自然なのではないかと思うが、すべては時代の変化なのだ。映画配信のチャンネルでもわざわざ冒頭に「+13 喫煙シーンあり」のテロップが小さく映し出される。もはや煙草は「吸ってはいけないもの」なのは常識で、「吸うのを見てもいけないもの」なのだ。当たり前だ。あれほど健康に悪いものはない。周りの方々にも多大なる迷惑および健康被害をおかけしている。

なので、もう煙草をプカプカと吸う場所はない。おれは血眼になって喫煙所を探す。あるいは喫煙可の喫茶店を探すのだが、「喫煙可」と謳っている大抵のカフェも狭苦しい喫煙ブースに閉じ込められるし、場合によっては「電子タバコのみ」などと言われて排斥されてしまう。おれは大手のカフェ、喫茶店チェーンに向かって声を大にして言いたい。
「アンタがたの不味い珈琲を味わうために店に入ったことは一度もない。我がすべての目的は煙草を吸うためだったのだ。勘違いされては困る」

ついでに書いておこう。あの「電子タバコ」というのは何なのだ。太いストローを短く切ったようなものを握りしめて大の大人がチューチュー吸っているさまは見ていて失笑を禁じ得ない。煙が少ない? 匂いが少ない? なに寝ぼけたことを言っている。屁ぇこくときは思いっきり音を立ててこくもんだ。すかしっ屁とは姑息な奴がするものだ。

家でもプカプカできない。我がツマは煙草が大嫌いなのだ。換気扇の真下でも許さない。俺は世にも狭いバルコニーに出て、真夏の夜の蒸し暑さに耐え、真冬の凍てつく冷え込みに耐え、プカプカする。家の中に入れば洗面所に直行し、指先を石鹼で洗い、リステリンを口に含みブクブクする。それでも居間へ戻れば、愛するツマからの罵声が飛ぶ。
「タバコくさい!」

こんなおれでも煙草をやめたくなるときがある。昔、真冬の午前三時に目が覚め、煙草を吸いたくなった。ところが迂闊にも肝心のショート・ホープが切れていた。一本もない。我慢してそのまま再び寝てしまえばいいのだが、一服することに憑りつかれたおれはパジャマからスウェットの上下に着替え、ダウン・コートを羽織って、近所のコンビニへ行き、ショート・ホープをワン・カートン買って、帰宅後に凍えながらバルコニーで吸った。馬鹿な話だ。睡眠時間が大幅に削られた。このときばかりはあまりのバカバカしさに「禁煙しようかな」と思い、一度は試みたのだが、禁煙開始の二日後に見た夢は「トイレで隠れて煙草を吸っている自分」というものだった。この夢はおれにとってダメージが大きかった。隠れて吸っている、というのがあまりにも情けないではないか。精神的に追い込まれていると判断したおれは翌朝から喫煙を再開した。

もう仕事中でも煙草は吸えない。アイデアを練るとき、ラフ・コンテを描くとき、タイトルをつけるとき、原稿を書くとき、すべて昔は煙草をくわえてプカプカしながら行なっていた。そのほうが素敵な案が浮かんだような気がする。煙草を吸いながら物事を考えるのが喫煙者の習慣なのだ。
「よし、仕事がひと区切りした。休憩して一服しよう」
が本来の姿ではないか、というのは嫌煙家の考えである。おれにとって喫煙とクリエイティヴな作業はボーダーレスだったのだ。しかし時代は変わった。よし、ここまで書いたからバルコニーに行って一服しよう。続きはそのあとだ。

煙草を吸ったら次に何を書くのか忘れてしまった。

アパート日記11月

吉良幸子

11/1 水
なんとなく、やなことが続いた10月が去った。神さんがみんな出雲へ出かけてはったから不都合が多かったのやろか。今日から月も変わったし、ええことありますように。と言うてるそばから、夜シャワーしてる時にねずみがぴゃっ!と目の前を走ってギャッ!と叫んだ。

11/2 木
『吉坊ノ会』へ行ってきた。うちのおかあはん共々吉坊さんの落語は大好き。昨日の『吉朝一門会』はええ会やったと電話で聞いたところやった。開口一番の九ノ一さんはパワーが溢れかえる方で、元気で見てて嬉しなった。ほんでお目当の吉坊さんの三十石は、道中色んな人に出会って長旅した気持ちで、終わった時にはほんまに旅が終わったみたいな感じやった。50分くらいやってはったんやけど、途中に掛け合いなんかもふんだんに入って長く感じへんかった。上方落語は鳴り物がたくさん入って賑やかで楽しい。今日はええイチニチやった!
今日の落語:桂九ノ一「時うどん」、桂吉坊「江戸荒物」「三十石夢乃通路」

11/3 金・祝日
昨日の落語会が始まる前に歩いた人形町でお祭りをやってて、今日も仕事前にちょっと寄った。人形町ってごはん屋さんがどこもええ塩梅な佇まいで、甘酒横丁なんかもあって雰囲気がめちゃめちゃええ。これで寄席があったらいるもん全部あるわと思ってたら、昔はあったのよと公子さんが言うてはった。なんと残念な。

11/4 土
今日は3回目のいわと寄席の日。三連休の中日で予約が少なく、一番に来はったお客さんに日本シリーズの日やと教えてもらう。そりゃもうあかんわ。とにかくそんな中、来てくださったお客さんにはほんまに感謝感謝やった。
今回は舞監の晢さんがおらんからアシスタントのはるえちゃんが手伝ってくれた。第1回目に初めて落語を見たというハタチの大学生でええ仲間。今日は二人で高座を作った。
はじめにコバヤシさんのマジック。ふう丈さんはものすごい人の良さが滲み出た方やった。始さんは真打昇進に向けて気合入ってはるみたい。おもろうてよう笑った会やった。会が終わって、演者さんと裏方とで一杯飲んだ。話は弾み、酒は進む。ああ、ええ会やったなぁと感じる。あとの課題はお客さんを増やすことだけ。
今日の演目:コバヤシユウジのマジック、三遊亭ふう丈「タイムパッカー」「ゲセワセワ」、古今亭始「目薬」「片棒」

11/5 日
朝5時からソラちゃんに叩き起こされる。撫でてほしいらしく、半分寝ながらおしりをぽんぽん叩いてあげる。そのまま起きて、二度寝して、昼寝もして、4時くらいから銭湯へ。明るいうちの銭湯は一番贅沢やと思う。あったまって5時に蕎麦屋で公子さんと待ち合わせ。丸屋は私の中では一番のお蕎麦屋さんで、住んでる町にあるのはものすごい幸せやと思う。冷やし紅たぬきそばを食べた。でっかい紅生姜のかき揚げが入ってて、公子さんと半分こにしたらそれをアテに日本酒を飲んではった。

11/8 水
ソラさんが外から帰ってくるときは、必ず派手に、陽気に、賑やかに家へ上がる。にゃぁにゃぁと三言は言うて、私らが恭しく迎え入れるのを待ってから入る。せやからなんも言わんと帰って来たときは、よっぽど注意しないかん。
夜の10時半。公子さんの部屋の庭側から、そ~っとソラちゃんが入って来た。怪しいと思った公子さんが目をやると、口にねずみ!おねぇちゃんにも見せなネ、と私の部屋へ直行!!部屋の中で口離されたらどないもならんし、とりあえず台所へ誘導。ねずみが走って逃げまくる!!戯れるソラちゃんでてんやわんや!幸い、玄関の方へ逃げ隠れて、ほうきで外へ追うたら足元滑りながら必死に外へ駆け出した!!よかった~と玄関を閉める。
そのあと、どこ行ったんや?と探しまくってたけど、あれは夢やったんやとなだめて、ごはんをあげた。もういっぺん外へ、と考えてるおっさん猫を私の膝の上へ乗せて興味をそらす。ほんだら遊び疲れた子どものように寝てしもうた。熟睡のソラちゃんを膝へ乗して日記を書く。猫がおると全然飽きひん。

11/9 木
古道具屋で買った高下駄をおろした。歯が二枚でどうしてもこけそうやから、まずは地元で慣らしてみる。
小豆島からものすごい甘くて美味しい干し柿が届いて、太呂さんち(公子さんの息子さん)とお世話になってる整骨院へ持って行った。帰ったら家に丹さん(公子さんの娘さん)も来てて、今日は公子さんの親戚ほとんどに会った感じ。

11/12 日
昨日から急に寒なった。公子さんが布団を洗ってきてくれはって、毛布2枚に布団でぬくぬくと寝る。
晩ごはんに里芋・ネギ・豚・お豆腐・卵が入った煮込みうどんをさっと作ってくれた。ぺろっと食べる。里芋が最近むちゃくちゃ美味しい。夜に食べるおうどんは身体がちゃんとあったまる。

11/20 月
数日前にソラちゃんが耳を怪我して帰ってきた。初日は、俺って怪我してかわいそうやし慰めてほしいねんと演技がかってしおしおしてた。膿が流れてる時は拭いてあげて、あとは自分で舐めて懸命に治しておる。ごはんもモリモリ食べる。今日は結構元気になって、傷口は相変わらず痛そうやけど本人は平気な顔してる。猫の治癒力はすごいわ。

11/23 木・祝日
いつも行く銭湯は露天もあって、浴室にもテレビがあって、猫もおる。銭湯でしか会わんおばちゃんもおって、銭湯って最高や。今日は日替わり湯がルイボスティー湯で、今までで一番ええ匂いのお湯やったかもしらん。

11/24 金
朝、公子さんの長いうめき声が…うなされてるのか、ちょっと歌みたいにも聞こえた。ソラちゃんはびっくりしたらしく、私の元へきて、どないしたんやろと言うておる。後で公子さんに聞いてみたら、高下駄履いた小天狗の集団に追いかけられる夢を見てたらしい。そりゃ怖いわ。

11/27 月
風呂のサッシが引っかかって開かんようになて、それを直しに朝からおじさんが来てくれた。公子さんが応対してくれはるのを布団の中でソラちゃんと夢うつつで聞く。ソラちゃんは私より真剣な顔で聞いてる。家が古くて傾いてるからどうしようもないんです~とおじさん。開ける時のコツも教えてもろた。

11/28 火
おかあはんとビデオ電話した。彼女はものすごいアクティブで、根っからのスポーツ大好きっ子。そんな母がキラキラした顔で、合気道始めてん!と、その話でもちきり。実に充実してて楽しそうや。

11/30 木
私、実家に帰らせていただきます!!!
(…一泊二日やけどね)

本小屋から(5)

福島亮

 11月はじめ頃は、コートを着ていると昼間など少し暑いと感じる日もあったのに、半ば頃から急に冷えて、朝は寝床から出るのも一苦労だ。壁の薄い本小屋で、しかも窓のすぐ近くに机があるために、冬は寒いだろうなと覚悟はしていたが、パソコンに向かっていると足元や指先や背中がどんどん冷えてくる。

 小学生くらいまでの家族写真を見返すと、冬の写真には褞袍——どてら、ってこんな温かそうな漢字なんだ——を着て雪だるまみたいにふくれた子どもたちが写っている。灯油ストーブに乗せたやかんの笛のけたたましさ、「みかんを焼くと甘くなるんだって」と、きっと友だちか、あるいは「伊東家の食卓」から情報を得て、橙色の皮をストーブで焦がしたときの微かに甘い匂い。そんな遠い記憶がふと甦ったかと思うと、写真の子どもたちは、急にいきいきと灯油ストーブの上で様々なものを炙って食べはじめる。干芋、餅、団子、するめ、林檎。灯油ストーブの上には小さな鍋も乗っていて、酒粕で作った甘酒が熱くなっている。

 5歳か6歳の頃——というのも、7歳の時に子どもたちは田舎の家に引っ越したから——、子どもの膝くらいまで雪が積もったことがあった。彼らが暮らす群馬県渋川市有馬のアパートには、広い共用駐車場があり、その一面が雪で埋もれた。本で読んだ「かまくら」を作ってみたくて、雪をかき集めると、高さ1メートルくらいの山ができた。今度はそれをくり抜いて、人が入れるようにする。どれくらい時間がかかったか、やっと作った小さなかまくらに潜り込むと、ぼんやりとした薄暗さと、不思議な暖かさに包まれた。「雪がかき氷だったら良いのに」と思っていた彼には、かまくらの中から見る雪が、なんとも美味しそうに見えた。指で雪を摘んで口に含むと、冷たさの後に微かな水の甘さと鉱物のような味が残る。もう一口、もう一口、と雪を食べ続ける。と、途端に視界が真っ暗になった。かまくらが崩落したのである。彼は、シロアリが家を朽ちさせるように、かまくらを内側から食べ、崩してしまったのだ。

 その後、誰からか忘れたが、「雪は汚い」と教えられた。確かに、コップに雪を入れて放置しておくと、とても飲みたいとは思わない濁った水になる。雪、というものの成り立ち自体が、空気中の埃を核に結晶ができるわけだから、綺麗なはずはないし、大気中に漂う物質をこれでもかと吸着しているはずだ。だが、それでも彼にとって、雪を口にふくみたいという誘惑に争うことは至難の業だった。今年は雪が降るだろうか。寒々とした本小屋で指先をかじかませながら、あのふうわりとした雪を思い出してみる。

背表紙

北村周一

シロアリに食い荒らされしカント本全六冊の重さとかるさ

背表紙は
どこへ消えたの?
三つある
批判書どれも
岩波文庫

純粋も
判断力も
実践も
捨てるほかなく
焚書の如し

たのしみに
取って置きたる
ユリシーズ
全4巻も
打ち捨てにけり

蟻たちの
餌食となりし
失われた
時を求めての
背表紙いずこ

群れにつつ
闇から闇へと
這いまわる
肌いろアリの
生態淫靡

とりどりにならぶ背表紙いまは亡きひとの住まいにみるは切なし

本棚に
のぞく背表紙
おもくあり 
売りに出されし
家の暗さに

遺品数多
残るすまいに
またも来て
雨戸開ければ
二月のひかり

見上げれば
城跡のこる
鳥羽やまの
そらに半月 
九月が終わる

あたらしき
家の南の
そら高く
のぼる月あり
天竜へ来ぬ

せつせつと
ふりこ時計に
身包みを
着せて抱っこの
お引っ越しかな

トクホンを
貼ってくれろと
振り向けば
ぴたりぴたりと
当たりお見事

つかわないと
毀れてしまう
端末の
一部始終は
雲のみが知る

旧き友と出会いし夜にみていたる夢のつづきは苦くもありぬ

むもーままめ(34)虚空の花見 2023年6月29日

工藤あかね

虚空の花見 
灰色の夜闇一面に
満開の真白な桜
眼をきつく結び
飽かず眺めていたいのだ

されどおまへは留められぬ
微生物のごとく解け
薄明とともに霧散する

6月29日

ワヤン公演『デワルチ(デウォルチ)』

冨岡三智

先月、東南アジアのイスラム化に関する国際シンポジウム:”Islamization in Southeast Asia as reflected in literature, archival documents and oral stories” の一環としてジャワのワヤン(影絵)『デウォルチ』の公演があった。というわけで今回はその紹介と簡単な感想。

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『インドネシア・ジャワの影絵芝居ワヤンとガムラン デワルチ』
■日時:2023年11月3日18:30~20:30
■場所:大阪大学箕面キャンパス・大阪外国語大学記念ホール
■出演
 影絵:マギカマメジカ(ナナン・アナント・ウィチャクソノ、西田有里)
 語り:イルボン
 演奏:ダルマ・ブダヤ、Al-aliyin
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『デワルチ』(ジャワ語読みでデウォルチ)はインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』の一節として上演されるが、実はジャワで創られた演目である。ジャワにイスラムを広めたワリ・ソンゴ(イスラム九聖人)はスーフィズムの系統で、布教にワヤン(影絵)や音楽などの芸能を積極的に利用したと言われる。『デワルチ』の物語は18世紀後半のスラカルタ宮廷詩人ヨソディプロI世の創作とされるが、このような土壌から生まれたと言える。
 
『デワルチ』の主人公はビマ(ジャワ語でビモ)である。『マハーバーラタ』は、王位継承に絡むコラワ一族の100王子とその従兄弟のパンダワ一族の5王子の対立を描く。ビマはパンダワの5王子の1人で、剛勇な人物である。ある日、ビモは師の命令で生命の水を求める旅に出る。実は、これはビマを倒そうとするコラワ側の奸計によるもの(ビマの師匠もそれにのせられた)だった。ビモは大海の底で大蛇と戦って死にそうになった時に、自分に似た小さい人物に出会う。それこそ彼自身の内なる神デワルチだった。ビマはデワルチから生命の真理を授けられ、再び師匠の許に戻る。…という物語で、神との合一、マクロ・コスモス(大宇宙、大自然)とミクロ・コスモス(小宇宙、人)の合一、…などのイスラムの教え、ジャワの教えがテーマになっていると言われる。

会場は平土間形式の四角い空間で、真ん中に影絵の幕を張ってその両側に観客席が設けられた。観客は自由に移動して見て良いとのことだった。ダラン(人形遣い兼語り)はジャワ人のナナン氏で、登場人物の会話は彼によって日本語で語られるが、複雑な状況説明は日本人のイルボン氏が講談のようにハリセンを打ちながら語る。ガムラン演奏はダルマブダヤで、そのメンバーの1人が箏も演奏した。ガムランの伝統曲もあるが、そのオリジナル曲、また箏(こと)のオリジナル曲が多い。このチームのワヤン公演を私は昨年2月にも見ているのだが(水牛2022年3月号記事「カルノ・タンディン(カルノの戦い)」を参照)、ジャワのようにシンデン(女性歌手)が華やかに競演するワヤンより、音楽と語り中心のこのスタイルの方が物語のテーマが際立つ気がする。

なお、演奏にはAl-Aliyinという団体(6,7人)も出演して歌を歌った。これは大阪を拠点とするNU(インドネシア最大のイスラム系組織:ナフダトゥル・ウラマー)のショラワタン団体で、日本在住のインドネシア人たちが参加している。ショラワタンはジャワのイスラム歌唱のことで、ルバナという片面太鼓を叩きながら歌う。ルバナはアラブ起源で、マレー系の国々でイスラムの祈りの音楽に使われる。ちなみに、この団体の人によるとNUのショラワタン・グループは現在日本に11あり、この大阪支部は9番目の設立だそうだ。

さて、今回の演出で印象的なのは第一に音楽構成である。ビマがデワルチに出会うまではインストルメンタルな曲できたのが、その後、歌が入ってガラッと雰囲気が変わるのだ。ビマがデワルチに出会う。音楽は箏がアラブ風のメロディを奏でる。ビマはデワルチに「私の耳から私の体内へと入りなさい」と命じられる。その体内に入ると、月と太陽が互いに引き合うように巡る幻想的な大宇宙がスクリーンに広がる。ここで音楽は『ロジョスウォロ Rajaswala』というガムラン伝統曲に変わり、演奏者が一斉にその歌を厳かに歌い出す。この歌い出しを聞いたとき、本当にぞわっと鳥肌が立った。それまでずっと歌がなかったから、人の声にものすごく力が感じられる。しかも、この曲の歌詞は「太陽、月、そして星」で始まり、「大宇宙」も含んで宇宙を構成する要素が歌い込まれているから、この場面と歌詞がぴったり合ってもいる。そのあと音楽はショラワタンになり、たくさんのビマが出て来てくるくると回る。この場面は、ビマが次第に神との一体感を感じていくことを表現しているとのこと。先ほどの月と太陽といい、回る動きにスーフィーの旋回舞踊が連想される。ルバナの音と男性ばかりの歌声には、さきほどの歌とは異なる高揚感がある。そのあとに静かに『イリル・イリル Ilir-Ilir』の歌が流れる。この歌はイスラム九聖人の1人スナン・カリジョゴが作った歌だとされていて、悟りを得て終焉に向かっていくような境地が感じられる。ナナン氏も、ビマの心の声「私はすでに感じることができる。私がどこから来て、どこへ向かうのかを」を表したとのこと。こんな風に、神との合一の境地に至る過程が音楽的段階的に表現されている。

第二に印象的だったのが、ビマがデワルチの体内に入るシーンの視覚表現だ。自分より小さい者の体内へ、しかもその耳の穴を通って入るという、言葉の上ではナンセンスでしかない現象をどのように影絵で表現するのか、全然見当がつかなかった。だが、ナナン氏は影絵というメディアをうまく使った。影絵では人形と光源との距離を調節することによって、スクリーンに映る人形の大きさを変えることができる。だから、ビマの影はどんどん小さくなり、逆に小さいデワルチの体の影はどんどん大きくなって、デワルチの耳穴の位置に小さくなったビマの影が重ねられることで、ビマがデワルチの耳から体内に入ったことが表現された。これは舞踊劇では到底できないやり方だなあと思う。

というわけで、忘れないうちに書き留めておく。

水牛的読書日記 2023年11月

アサノタカオ

11月某日 「パン屋に爆弾を落とすな」。兵庫・西宮で自家製酵母パン屋 ameen’s ovenを営むパン屋詩人ミシマショウジさんの詩を読み返している。これは2011年以降のシリア内戦を背景に書かれた作品だが、詩のことばは「パリに、ベイルートに……」と別の時間、別の場所に向けても呼びかけている。おそらくは、スペイン内戦中に焼夷弾で空爆がおこなわれたバスクの街、ゲルニカにも。そして現在、イスラエル軍の無差別攻撃によって戦火に包まれているパレスチナ・ガザ地区にも。

パン屋に爆弾を落とすな
パン屋を攻撃するな

そこには旧式の大きなオーブンがあり
そこには一週間ぶりに届いた小麦粉の袋があり
そこにはガタガタ音をたてて回るミキサーがあり
そこにはくろびかりした天板があり
そこには粗悪なイーストのブロックがあり
そこにはこねあげられたパン生地があり
そこには焼きあげられたパンがあり
そこにはパンを求めて駆けつけた人々がおり
そこにはパンを焼きあげる者たちの手があるのであって
機関銃を握る手があるのではない
そこはいのちの最前線であって
おまえたち戦争の最前線ではない
……

 ——ミシマショウジ「シリアのなんとか大統領へ」より

11月某日 東京の表参道アトリエで佐々琢哉さんの絵の展示「Pastel Journal 四万十の日々」を鑑賞。会場で佐々さんとおしゃべりし、刊行されたばかりのエッセイ集『TABIのお話会』と画集『暮らしの影』(TABI BOOKS)を入手。

11月某日 朝の東京・神保町のカフェで、キム・ウォニョンさんに会う。韓国の作家、ダンサー、弁護士で車いすユーザー。大阪・京都で障害者訪問介護事業を展開するNPOココペリ121のスタッフによるインタビューに同席した。知性も人柄も素晴らしく、すっかりファンになった。さすがダンサーで、目力や身振り手振りの表現の豊かさにも感嘆。インタビュー後、日本語を話すウォニョンさんとダンス談義になり、ピナ・バウシュなどの話を。いつかかれのダンス公演を生で観たい。

午後、神保町の日本出版クラブへ移動し、ノンフィクション作家の川内有緒さんとキム・ウォニョンさんの対談「車椅子で韓国からやってきたウォニョンさんと考える:「バリア」ってなんだ?」に家族とともに参加した。

《わたしたちの人生には、それぞれの未知なる荒野がある》。キム・ウォニョンさんは、川内さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社インターナショナル)の韓国語版の一節を朗読。ここは、川内さんの本の中でぼくも好きな箇所だった。対談では、障害や病気のある人々など未知なる存在を、ことばを持つ障害や病気のない者が代弁するのではなく、そのような未知なる存在とかたわらにいる人々が共に語ることの大切さが話し合われた。川内さんの仕事はまさにそのようなものだろう。深くうなずいた。

11月某日 キム・ウォニョンさんとの出会いの余韻を反芻しながら、週末に著書の日本語版『希望ではなく欲望』(クオン)、『サイボーグになる』(岩波書店)を一気に読了。いずれも牧野美加さんの翻訳で、後者はSF作家キム・チョヨプとの共著。どちらの本にも学ぶことが多々あり、特に後者、『サイボーグ・フェミニズム』で知られるダナ・ハラウェイの思想を創造的かつ批判的に受け止める議論に目をみはった。

11月某日 引き続き、キム・ウォニョンさん『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館)を読む。障害や病気のある人々の生は「不当な生」なのか、といった重く厳しい問いを突きつけられるが、読み応えのあるよい本だ。

11月某日 くぼたのぞみさん、斎藤真理子さんの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)、『翼 李箱作品集』(斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)が届いた。キム・ソヨン詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)も、坂上香さん『根っからの悪人っているの?』(創元社)も。読むぞー!

11月某日 一昨日までは、近所の郵便局に行くぐらいであれば半袖半ズボンにビーチサンダルだったのに……。ビーサンをシューズボックスに片付け、ここ数日の急激な気候の変化に「寒い、寒い」と震えながら、翌日の二松学舎大学でのゲスト講義の資料を作成。大学にはちゃんとした靴を履いて行きます。

11月某日 二松学舎大学「文化とコミュニケーション」でゲスト講義。「本のある世界と本のない世界」と題して、編集者としての個人史を話した。「本のある世界」からの学びがあり、「本のない世界」からの学びがあった。寄り道が多い旅の人生なので話はあちこちに飛ぶ。それでも授業後に、「おもしろかったです」という学生が現れて一安心。大学時代に自分がもっとも影響を受け、30年間読み続けている一冊として紹介した文化人類学者の今福龍太先生の主著『クレオール主義』(青土社)を、その学生は読んでみたいと言ってくれた。うれしい。

講義後に、大学の近くの中華料理屋でひとり出版社・コトニ社の後藤享真君とおしゃべり。制作中の「異形の本」の話を楽しく聞いた。

11月某日 東京・上野にて、東京藝術大学大学美術館で開催中の「芸術未来研究場展」を鑑賞。同展の監修は学長で現代美術家の日比野克彦氏。瀬戸内海分校のコーナーで写真家・宮脇慎太郎君が島を撮影した大型のパノラマ写真が展示され、宮脇チームによるインスタレーション「島とタマシイ」(瀬戸内海歴史民俗資料館)の解説パネルも。サウダージ・ブックスから刊行したかれの写真集『霧の子供たち』『UWAKAI』を藝大図書館に寄贈した。

11月某日 明星大学で編集論の講義。「私の好きなものたち」をテーマにした個人ウェブサイト制作の講評。アイドルの推し活、ゲームの解説、サッカー観戦、アニメのコラボカフェやライブハウス巡りのレポートなど、どれもおもしろい。高野文子さんの漫画が好き、というシブい学生もいて「おお、趣味が合うな」と。この授業では今後、グループワークによるZINEの制作に進む。

夜、大学からの帰路、分倍河原駅前のマルジナリア書店へ寄り道。お店を営む小林えみさんの短編小説集『かみさまののみもの』(よはく舎)を購入。帰りの電車の中で読んだ。ミスドを舞台にした表題作がすばらしい。掌編「毛玉から南極へ」も。喪失と回復、遠く離れたものへの思いとその変化。とてもよい本だった。

神話や歴史上の女性をテーマにした後半の作品も大変読み応えがあった。とくに最後に置かれた小説「クリュムタイムネストラ」、ギリシア神話の女たちの迫力ある語りにぐっと引き込まれた。

11月某日 マルジナリア書店では、朱喜哲さん『バザールとクラブ』(よはく舎)も買ったのだった。哲学研究者である朱さんによる思想家リチャード・ローティの短い論文の翻訳と解説。あとがきを含めて60頁。軽やかな出版のスタイルが魅力的。ローティと文化人類学者クリフォード・ギアツの論争が主題となっている。海外の著者の短い小説や論文やエッセイ、1〜2篇の翻訳と解説だけをまとめた薄い本は、サウダージ・ブックスでも真似して出したいと思った。

後日、喫茶店で大学生の娘とおしゃべりした際、「この本、よかったよ」と『バザールとクラブ』を差し出したら、スマホで写真を撮ったりして興味を示すので渡してきた。父親の与太話を聞くより、実際に本を読んだほうがいい。

11月某日 キム・ウォニョンさんの『希望ではなく欲望』『サイボーグになる』『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』をすべて読み終えて、同時代のすばらしい思想家に出会えたことに深い感銘を受けている。翻訳者と出版社の皆様にも感謝。

障害者運動の歴史を踏まえ、「正当な生」と「不当な生」を分ける非障害者中心主義的な権力や制度を批判的に論じる視点から、もちろん多くを学んだ。一方でそれらに対し、当事者によるアイデンティティの政治ではなく、「差異」の思想を提示するところに共鳴した。どういうことか。「障害者だけが障害の問題や魅力について語り、論じることができるという立場」を相対化すること。個人の状況を特定のアイデンティティに還元することなく、「差異」や「交差性」「非一貫性」のもとに考えること。そこから障害者と非障害者の連立可能性を探ること。再読してさらに考えたい。キム・ウォニョンさんは小説も書いているというので、そちらも翻訳出版されるといいな。

11月某日 編集者・文筆家の仲俣暁生さんたちのイベント「軽出版のススメ」。高円寺パンディットでのトークの動画配信をアーカイブで視聴。そこで紹介されていた2冊の本、横山仁美さんの雨雲出版から刊行された南アフリカの作家ベッシー・ヘッドの作品集、小説家・藤谷治さんの『新刊小説の滅亡』(破船房、こちらは仲俣さんが主宰する出版レーベル)は年内に読みたい。

盛りだくさんの内容のトークの中では特に、「すべての本棚を図書館に」というモットーを掲げて本のサービスを提供する会社、リブライズの地藏真作さんの話に引き込まれた。地藏さんによる、ISBN(国際標準図書番号)とは別のオルタナティブな本のIDの提案は大変刺激的で可能性を感じたのだった。

サウダージ・ブックスは以前、ISBNを付した商業出版に踏み込んだものの、そこから離脱。ぼくらは地藏さんのように理路整然と考えていたわけではないが、ISBNという一元的な管理思想に依拠する流通システムとは別のフィールド、別のネットワークで、マイナーなスモールプレスとしてより遊動的に本をつくり、本を届ける活動をしたかったから、という理由が大きい。同時に書誌情報の伝達と共有はきちんとしたいと考えているので、「軽出版のススメ」での話には響くものがあった。

それとは別に。日本文学であれ海外文学であれ、いま商業出版の中で小説などの文芸書を刊行することってほんとうに難しいのだな、と思い知った。最近では大手出版社の文芸誌で作品が掲載・連載されても、書籍化されることなく、文芸誌の愛読者以外の読者の目に触れないまま埋もれることもある。数年前まで出版社で仕事をしていたので業界のこうした状況を知らないこともないのだが、現場からの生々しい報告を聞いて最近のさらに厳しい現実を突きつけられた。

11月某日 『現代詩手帖』2023年12月号のアンケート「今年の収穫」に寄稿。とくに印象に残った下記の5冊の詩集などを紹介。

高田怜央『SAPERE ROMANTIKA』(paper company)
管啓次郎『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社)
キャシー・ジェトニル=キジナー/一谷智子訳『開かれたかご』(みすず書房)
大木潤子『遠い庭』(思潮社)
佐峰存『雲の名前』(思潮社)

同誌の2023年代表詩選に、川満信一さん「胞衣に包まれた詩」が掲載。飯沢耕太郎さん、高良勉さん、管啓次郎さんの作品も。詩人・岸田将幸さんの表紙の写真がよい。これはどこの風景だろう。

11月某日 最寄りの本屋さん、神奈川・大船のポルベニールブックストアがオープンから5周年。おめでとうございます。お店に行って、森元斎『もう革命しかないもんね』(晶文社)を購入。店主の金野典彦さんから神奈川の最新書店情報を教えてもらった。

11月某日 東京・外苑前の Nine Gallery にて開催中、写真家の渋谷敦志さんの写真展「LIVING」(PHOTOGRAPHERS’ ETERNAL COLLECTION 展)を訪問。 CanonDream Labo5000出力の高精細プリントの美しさに驚いた。フォトジャーナリストとして世界各地の紛争や飢餓や児童労働、災害の現場を取材する渋谷さんと会場でゆっくりおしゃべり。戦争化する世界についていま何を考え、どのようなことばを発すればよいのか。人間を数珠つなぎにする集団性ではなく、それぞればらばらの単独性に立った連帯は可能なのだろうか。パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードのいう「冬の精神」を手掛かりにして、渋谷さんと対話を続けている。

初恋と結婚した女(上)

イリナ・グリゴレ

男に殴られたのはその時が初めてだった。男だけではなく、それまでの人生で誰にも殴られたことがなかったので、初めてのときのことをよく覚えている。その日は自分の結婚式だった。そのあとからずっと殴られるような日々が当たり前のように、日常の一部になったせいかあまりよく覚えてない。発熱の時の熱冷ましを飲んだ後とよく似ている、この感覚。もろもろして吐き気があるけど歩ける。自分を失うというより、どうしても元々自分というものが既にこの世に存在していなかったという感覚なのだ。

価値のない、何か、アスファルトに潰されたミミズのようなペタンコになった生物が乾いて、消えていく。そんな感じ。それだけ。ミミズの記憶と細胞がアスファルトに入る。雨ふるとそのアスファルトから湯気が出て、空に登って雲になり、また雨降ったら地面にいるミミズの一部になる。その繰り返しの人生。二人の子供を育て、笑って、食べて、太って、泣いて、仕事して、料理して、ただ忙しく過ごす毎日だった。殴られた跡、愛された跡と同じ、ほぼ残らないし、誰も知らない。自分自身もそんなことがあったかどうか覚えてないが、自分の身体が反応することを否定できなかった。例えば物忘れが激しいところ、家に帰りたくないところ。仕事が終わっても長い買い物と近所周りで小学生の子供を連れて冬でも足が霜焼けになるまで歩く。歩き方も早すぎて、食べ方も同じということも関係している。食べる時に、ほぼ噛めない。喉が詰まったことが何度もある。脳に酸素が届いていない感じが毎日ある。あとはよくため息が出る。怖くて、脳のCTスキャンをしなかったけど、きっと脳に何かが溜まっている。消しゴムのカスのようなもの。

結婚式のことも殴られたこと以外にあまりよく覚えてない。昔からこの忘れっぽいところがあったと思うほど、自分で自分の記憶を消しているように物事を忘れていく。まるで、この世のことを何も覚えていないままあの世に帰ろうとしているのではないかと自分も思う。例えば、子供の頃、過ごした家のこと、自分の両親のことは覚えているが、その後のことを覚えていない。暖かい家庭という言葉はよく当てはまるが、その温かさ以外のこと、二人の顔以外のこと、60過ぎた今ではよく覚えていない。畑の手伝いをしていたこと、大きな犬を飼っていたこと、母親の親戚、父親の親戚、従姉妹のことも覚えている。出来事よりも、人の印象、顔、言葉で覚えている。例えば2年前に亡くなった従姉妹のことを涙が出るほど覚えている。7年間も白血病と戦って、この7年間の間、たくさんの教会を訪ね、聖人の聖体を触った彼女は目の前で違う生き物のようになっていた。

彼女は「リリ」という。綺麗な名前だと子供の時から羨ましいと思ったことがある。リリと毎日のように電話で話して、姉妹のようなつながりだった。リリは自分が絶対に治ると信じていた。それでも60歳になる前に検査のために入院して、その夜に寝ながら死んでしまった。リリらしいと思った。元気な89歳のリリの母はこう言った「彼女は自分が死んでいることをいまだに知らないままだ」。

リリは自分の結婚式に来ていた。全ての親戚と共にあの時のシーンを見たはず。リリの方は自分より大きなショックを受けたのではないかとたまに思っている。彼女は生涯結婚せず、街のクリーニング会社で働き、実家の狭いアパートに住み、50歳に病がわかってからは毎週のように国内や隣国へ巡礼に行き出した。

田舎では、結婚せず子供も産まない女性はこのような病気になるのが不思議ではないと差別を受けることがよくあるけれども、リリは幸せだったと自分で思っていた3。人姉妹の従姉妹の中で結婚したのは未子だけ。お姉さんも子供も産んでないけれど、今も元気。だから病気とは関係がない。リリは人が良すぎて早く眠りに行っただけ。彼女は巡礼をしていた頃何を体験し感じたのか、少し自分に分かる気がした。確かに彼女のことは誰も知らないし、自分と彼女の母親以外、彼女のことを覚えている人はあまりいない。けれども、もしあの世で価値というものがあれば、彼女の魂が眩しい。この世での彼女は、夜の間に降った雪が次の朝になると溶けるというような存在だった。

リリと毎日何を話していたのも忘れてしまった。彼女からもらったイコンが山ほど残っていて、自分の寝室の壁を飾った。幼馴染と両親、親戚が集まった自分の結婚式のことを毎日のように思い出す。あの後、リリのがっかりした顔を一番よく覚えている。彼女は背が低くって、髪を短く切っていた。顔が白く、目は大きくて真っ黒だった。あの日、教会の前で自分が殴られた時、花嫁ドレスが汚れないよう持っていたリリは、倒れる自分を後ろから支えた。その時彼女の顔を最初に見た。顔というより、大きなびっくりした目を見た。絵画のようだった。自分は何が起きているのか分からなかったが、リリの目を見てこれは現実だと理解した。教会の庭にあった「生きている人」と「死んでいる人」に捧げる蝋燭をスローモーションで見た。後ろに倒れる前に。その時、「生きている人」の方の蝋燭が突如吹き始めた風で消えていくのが見えた。

その瞬間、雷が落ちたかと思った。それは彼が、自分の頭を殴ったのが信じ難いことだから。殴ったのと同じ手が自分の身体を触った手、手を繋いだ手、生まれたばかりの赤ちゃんを触った手だとはとても思えなかった。空から大きな石が自分の頭に落ちて、これは結婚してはいけないというサインだと閃いた。それは結婚する前に彼を愛しすぎたあまりに身体の関係を持ち、妊娠し、赤ちゃんを産み、村でお互いの家族に大恥をかかせたからだと思った。そのために教会の前でこの罪を起こした身体なのに白い花嫁姿をして現れた自分は殺されるべきだ、と心の中で思った。次の瞬間、教会の庭に咲いていた薔薇の匂いと自分の赤ちゃんの声で気を取り戻し、何もなかったかのように教会の階段を登って入った。立ちくらみしながら教会に並ぶイコンの目を見て、結婚する前に子供を産んだことは何も悪くないと覚り、そのまま式を挙げた。

しもた屋之噺(262)

杉山洋一

今日のミラノは薄ら寒い雨が降っていて、どんよりと昏く、ここ暫く年末に近づいて界隈が賑やかになってきたのが、すっかり落着いてしまったようにすら感じます。仕事ばかりが溜まってゆく、慌しなく浮足立った一カ月を振りかえりながら、本條君から送られてきた「炯然独脱」リハーサルの録音を聴いているところです。

11月某日 新山口ホテル
パレスチナテレビの記者が、30分前に同僚が爆撃で殺害されたことに憤慨して、ヘルメットも防弾チョッキも脱ぎ捨てた。スタジオの女性司会者も泣きじゃくっている。
イタリアでは洪水被害が拡大している。トスカーナ州などの中部イタリアを中心に、フリウリ・ヴェネチア・ジュリア州など北イタリアでも被害が広がっているそうだ。ミラノでも、大雨のたびに排水が追い付かず、冠水する地区は、被害にあった。
「炯然独脱」は一柳さんらしく、「夢の鳥」は野坂さんらしく書こうと、寸時を惜しんでホテルで机に向かう。とはいえ、余りに時間がとれず、パニック寸前。
円安が進み、対ドル151円。ガザでは複数の難民キャンプ爆撃との報道。コロナ禍、何度となくPCR検査に通ったサンボーン通りの検査センターのトイレに「はじめはヒットラー、そしてハマス。お前たちユダヤ人にガス室を」と落書きが見つかる。その傍らには、ダヴィデの星の落書きも残されていた。ミラノ郊外のユダヤ教を教えるイタリア人教師の家のアパートの壁に、教師の家番号とダヴィデの星が落書きされ、脅迫メッセージが書きなぐられていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台芸術村にて照通先生「香月泰男」演奏会。演奏中、聴衆からすすり泣きがもれ聴こえたそうだが、まったく気が付かなかった。泰男の戦時中の逸話などに、感じ入るところも多かったのだろうか。教育目的に書いたからと申し訳なさそうに仰るのだが、照通先生渾身の力作だと思う。題材はもちろん、初演に携わった教え子の皆さんへの愛情に溢れる。音楽には作曲者の人間性が生き写しになり、思いは音を通して演奏者へとひたひたと沁みてゆく。
一週間ぶりに最終便で羽田に戻ると、軽いショックをおぼえた。人が多く、建物は密集していて、マスクをしている人は数えるほど。山口ではタクシーの運転手が、「何故か田舎に行けば行くほど皆マスクをしているんです。人が集まる博多あたりなら皆マスクはしないんですけどね。この辺りでスーパーにマスクしないで入ると、じろりと見られるかもしれません。本来反対のはずですが」と笑っていた。

11月某日 三軒茶屋自宅
渋谷のサロンで大井くんの弾く「華」を聴く。「さくら」の旋律が聴こえるところで、バチンと大きな音を立てて弱音ペダルが壊れた。フォルテピアノで聴く「さくら」は、旧い摺りガラスごしの懐かしい風景のよう。
都立大学のスタジオへ、山崎阿弥さんのレッスンを見学にでかける。空間把握、自分の躰のなかの空間把握と、自分が置かれている外の空間把握。自分の躰の内部のどこに音が聴こえるか。それが体内でどう反響して、躰がそれにどう反応しているか。
普段、自分が聴覚訓練で教えている内容にとても似ていて、食い入るように見てしまう。山崎さんの課題は、あくまでも自分が発音体になるための空間把握だが、聴覚訓練では、外部で発された音を、自分の体内でどう処理するかが課題になる。

11月某日 三軒茶屋自宅
サーニの作品演奏会。演奏者誰もが彼の音楽に肉薄していることに感嘆する。作曲者がその場にいて、音楽の実体を体現している。演奏者はそれぞれ彼の音楽を咀嚼した上で、作曲者に対して、それならこれでどうだろう、とむしろ逆に演奏者自身の音楽性をぶつけてゆく。そしてそこに、音楽上の有機的な化学反応が起こる。音楽が見事にコミュニケーションの媒体となっていることに気づく。イスラエル軍、以前から包囲していたシファ病院突入。世界保健機関の視察団が医療機能停止を報告。状況は絶望的だという。毎日陰惨な光景ばかりがニュースで報道され、我々はただ無力感に打ちのめされている。

11月某日三軒茶屋自宅
「考」リハーサルで、音を合わせるのも大切だが、いかに自発的に能動的に音楽をつくれるか試す。別の発音体である筝と尺八を、音楽を通して近づけてゆく。音が次第に有機的に変化してくる。音の聴き方を揃えると、まるでアナログラジオでダイヤルを回しながらラジオ放送を探しているときのように、突然ぴたりと音の輪郭が揃ってみえてくるから不思議だ。
夜はスーパーで購入した牡蠣と冷蔵庫に残っていた野菜でパスタをつくった。イタリア料理を日本で作る時、イタリア風の食材を揃えてイタリア風イタリア料理を作ろうとすると、決まって失敗する。日本の美味な食材をつかって、イタリア料理の基本をつかって調理をする方がおいしいものが食べられる。
日本では、ズッキーニを使うより、大根で料理をする方がおいしいとおもうし、無理にあまり美味しくないアンチョビーを使うのなら、シラスで出汁を取った方がいい。
先日リハーサルの後で、戸部の「ブリコ」というイタリア食堂にサーニとでかけたが、すっかり堪能した。コックさんは、これはイタリアで食べるイタリア料理ではないですから、と謙遜していらしたが、見事なブリのアラを見事にグリルして調理してくださった。どの料理もおいしかったが、ニコラは翌日、生まれて初めて魚の頸を食したが、ありゃあ旨いと伊文化会館のアルベルトに自慢していて、アルベルトも羨ましそうであった。イタリア人にとってみれば、日本でイタリア風イタリア料理を食べるより、ずっと美味しく感じたはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
和服の演奏家集団を指揮するのは初めての経験。和服を着ていると、舞台袖でもピンと緊張が張っている印象があったが、実際は賑やかで和やかなものであった。こちらが見馴れていない所為か、女性も男性も揃って少し引き締まって見え、出てくる音もよりきりりと彫りが深く感じる。我々が燕尾服を着る感覚なのだろうが、不思議に少し意味合いが違うようであった。燕尾服はあくまでも舞台上の衣装だろうが、恐らく演奏会以外でも使うことができる和服には、もう少し精神性が付加されているようである。今まで、邦楽の演奏家と演奏する機会は何度もあったし、彼らはしばしば和服で演奏されていたけれども、このように大人数を前にすると、感じる気配が明らかに違った。演奏会の気迫であろうが、緊張と興奮が実に塩梅よく全身にみなぎっていて、流石だとおもう。
今回の帰国では、どうにも町田に足を伸ばすことができなかったので、帰り路、すこし両親と話し込む。

11月某日 ミラノ自宅
一カ月ぶりにミラノの自宅に戻ると、庭の蔓草がすっかり紅葉して目にも優しい。朝1カ月ぶりにクルミを割って庭に置いておくと、先ず小鳥たちが代わる代わる啄みにやってきたが、昼前にはリスが食べていた。その傍らで烏が隙を狙いながら、ちょんちょんと移動していて、リスは時々、凄い剣幕で烏にけしかけては、自分の食料だと誇示してみせる。
作曲中、これなら書き進められると実感するとき、きまって腰椎のあたりにじんと鈍い電流が流れる感覚をおぼえる。これでいいのかと自問しながら作曲していると、奇妙に数列が自分に纏わりついたり、不思議と塩梅よく数字が揃うときことが少なからずあって、そんな時、誰かがそれとなく方向を知らしめてくれるようにおもう。
それと少し似て、今までの人生で、少なくとも2回、明らかに何か特別な力で助けられた。
小学生のころ走ってきた軽トラックと接触して、10メートルほど弾き飛ばされたときだ。ぽーんと飛ばされて気を失ってはいたものの、何かにふわりと優しく運ばれている不思議な感覚は、目が覚めてからも身体の芯に残った。
高校生のころ新島でひとりシュノーケリングをしていると、離岸流で一気に沖に流されてしまった。すると突然波が高くなり、シュノーケルに一気に海水が入りこんで噎せかえってしまった。万事休すと覚悟を決め、岸に向かって泳いだとき、不思議に時間の感覚が捩じれていた。岸に上がって正気に返ると、まるで何かに運ばれたような妙な感覚が身体に纏わりついていた。我乍ら離岸流に逆らって、どう岸に戻れたのかも解せなかった。
数メートルずれただけで、うまく離岸流から抜けられたのかも知れないし、ただトラックに撥ねられて宙を飛んでいただけかも知れない。ただ、あの時は指が2本千切れた以外、10メートルも飛ばされながら脳波にも異常はなく、打撲もなかった。病院の医師たちが不思議がるほど、身体は無傷だった。
まあ、どちらも気のせいかも知れないし、実際はただトラックに撥ねられただけで、気が動転して、途轍もなく岸から離れてしまったように錯覚しただけかもしれないし、やっぱり何かに助けられたのかもしれない。

11月某日 ミラノ自宅
今日から学校の指揮レッスンの新年度が始まって、新入生の一人として息子もレッスンにやってきた。学校で息子に指揮を教える日が来るとは想像していなかったが、今の彼にとって、指揮の基礎を学ぶのはとても有益な経験に違いない。息子を教えるのは、もう少し個人的感情が入り込むものかと思ったが、自分でも呆れるほど他の生徒と変わらなかった。ただ、彼の性格も音楽性も性向も知っているので、それを踏まえて最初から踏み込んだアドヴァイスができるところが、他の生徒と違う。別に指揮者にさせたいわけでもないので、贔屓目に見る必要もないので気楽である。夜家に帰ると、エマヌエラの室内楽クラスでブラームスのホルントリオと、ドビュッシーの2つのラプソディを課題に貰ってきたそうだ。実技では、ウェーバーの2番のソナタと、バッハのトッカータ、それにアレグロ・バルバロを読み始めているが、ウェーバーのソナタなど、息子が練習しているのを聴いて初めて知った。
音楽史のバルザーギ先生の授業が面白いらしく、夕食を食べながらオペラブッファの歴史を我々に話してくれる。ナポリのブッファは、当初ナポリ語で演じられていて、劇場ではなく、街中、路上などで演じられていたそうだ。当然、低級な娯楽と認識されていたが、あるとき、ナポリ語ではなく、アレッサンドロ・スカルラッティを筆頭にイタリア語でブッファを書くようになってブッファの地位が向上し、1820年頃にはブッファ専門の劇場まで造られた。
そこはかとなく、狂言を思いだしたりもしたが、気が付けば、何時の間にかこちらが教えてもらう立場になってきている。ガザで一時的休戦合意、人質交換合意成立。

(11月30日 ミラノにて)

年末の疑い

高橋悠治

11月は忙しい月だった。青柳いづみこと連弾でシューベルトとミヨーを弾き、月末にはショパンから20世紀前半の作曲家たちの作ったさまざまなマズルカの録音をするはずだった。でも、録音はやり直しになった。こんなことがあると、ピアノを弾いているだけの日々には、何かが欠けているのかもしれない、と思ってしまう。

音の現れが空気を変えることより、響きの余韻の時間の方をだいじにしているのではないか、と疑ってみると、この演奏には発見があるのだろうか。では、響きに包まれた線を、どうすれば自由なうごきとあそびの空間に逃すことができるか。纏わりつく和声と伝統から離れて? 

制度のなかでの安定とその快さではなく、不安定と変化の方へ、それぞれの部分が全体から外れていく萌芽であるような、仮の、一時的な集まりとしての一つの曲。そんな演奏ができるのか。演奏だけで、それができるのか。もともと演奏家ではなかった立場を忘れていたのではないか。