龍が立ち上る

冨岡三智

今年は辰年。龍というと、私はブドヨ(9人の女性で踊るジャワ宮廷舞踊)を想像する。2004年4月号の『水牛』に寄稿した「私のスリンピ・ブドヨ観」で書いたのだけれど、ブドヨには前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返し、大地を踏み固めるように踊る。踊り手のポジションによっては少々ステップが異なり、それによって隊形が少しずつ変化していく。陰陽師が行う反閇(へんばい、呪文を唱え大地を踏みしめて邪気を払う呪法)のように、歩くという行為はそれ自体が宗教的、呪術的行為になり得る。9人のブドヨの踊り手が大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると徘徊していくうちにエネルギーが生じ、「気」が立ち上り、それが巨大な1頭の龍となって大地を這い、谷を霧のように流れていくような感覚に襲われる。そんな龍が他人の目にも見えてくるようなブドヨ(またはブドヨ的な舞踊)が踊れたら…という目標のイメージはずっと持っていたのだけれど、そう思ってからすでに20年経っている…。いい加減に腰を上げないとということで、自分に発破をかけるべくここに書いてみた。今年の目標である。

どうよう(2024.01)

小沼純一

深夜に電話をかける習慣
いつなくしたんだろ

たあいないなんでもないこと
いくらもあった
ゆたかだった

深夜に電話をかけるともだち
いつなくしたんだろ

おなじものもっていた
もってたんじゃない
ないものをわけあって

深夜に電話をかける恋人
いつなくしたんだろ

たくさんあったあてさきが
すっかりきえて
おとなになるとはそんなこと

深夜電話をおびえてる
いつからこんなになったかな

どなたこなたにあちらさま
かかってくるのは
ふきつなしらせあからさま

深夜電話をさけている
さけをのんでもさけばなくてもさけている

あいてたあいだだんだんつまり
あいてだんだんふえてくる
いつかこちらがかけるばん
いつかこちらがかけられて

かいたはがきがまだここに
とうかんしないといつまでも
eメールだと
すぐおくってしまうから

うえからしたまで
字のおおきさがかわってく
行のあいだもちぢまって
くぎりのあいさつは
おもてにはみだし
差出人のなのわきに

かいた字がひとごとをつげる
みなれてるはずなのに
すこしよそいき
もうかいたきも
きおくもうすく

はがきってなまなまし
かったんだ
うすっぺらいかみなのに
あるとそこに

きのうはおなかがへんだった
これまでになかったへんさ
けさはしんぞうどきどきして
めがぐんるぐんるまわってた

おじいちゃんやらかすんだ
このまえはかきのきのしたでころんで
きょうはげんかんでめまい
あんたがでかけたときばっか

ひとがいないと
たよりない

やどかりて
かいがらぬいで
あめふらし
さかなでしながら
いかめしい
たこあしまぎれ
いそぎんちゃく
おさかなさかだち
すくうてもなく
すくい
なし
すくう
ぬし

あくにん
なりたい
いいひと
いいひとっぽく
ふるまうひと
うんざりさ
あくにんになりきれなくても
せめてせめて
ふりしたい
あくにんの

あくにん
なりたい
いいことなんて
あきあきさ
よこにくちをひらいて
いーっとやりたい
せめて
いいひとってみられぬよに

話の話 第10話:12月と言えば

戸田昌子

年の瀬が押し迫る12月30日である。我が家の動物たちがおしゃべりをしている。

クマ「年末になると、戸締りがいい加減になるじゃんか」
ぼち夫「そんな!空き巣なんていけませんよ!」
クマ「違うよ、意識調査だよ」

クマは我が家に滞在するようになって20年くらいになる。初めてうちに来たのはクリスマスの夜だった。彼は意外に苦労人で、生活苦からパチモンの時計を街で売り歩く仕事をしており、その夜、わたくしどもの家のドアをピンポンした。わたしが扉を開けると1匹のクマが立っていた。「時計買いませんかね」と彼は言いながらすすすいと部屋に上がり込み、わたしの出した茶をすすって残り物のケーキを食べ、その日は我が家で寝た。翌朝、彼はなんてことのない顔をして一緒に朝ごはんを食らい、それ以外、我が家に居候している。かなり危ない渡世であったようだが、最近は羊のローズちゃんと仲良くなって、悪い遊びはすっかり落ち着ちつき、「おれも若い頃はだいぶヤンチャでさ」などと言って得意がっている。

ぼち夫は、娘の片割れになった靴下から生まれた。靴下なので頭のてっぺんは擦り切れていて、顔色は細かいボーダーのマゼンタ。すぐに学校教師みたいなことを言う癖があって、常識人なだけでなく、なにかと平凡でつまらない。口癖は「きのこは体にいいんですよ!」である。

他にも、やよいさんや、兄と生き別れになったゾウなどがいるので、我が家はいつも通り、賑やかな年の瀬である。

毎年、年の瀬のこの時期になると、「そろそろ電話がかかってくるのでは」と思い出す人がある。犬養さんである。こちらは名前に「犬」がついているが、実は人であって、夫の友人であり、わたしにとっては先輩にあたる。この犬養さんは脱ぐのが大好きなので、わたしが彼に初めて会ったときも、ほぼ脱いでいた。風呂桶を手渡すと裸にネクタイで踊ってくれる親切な人で、冬季五輪のスキーのジャンプ競技では、男子アブノーマルヒルの代表になれるのではないかといつも期待されている選手である。いまは結婚していて、3人の人間のお子さんがいる。この時期になると毎年電話をかけてきて、「遊ぼうぜ!」と誘われる。この「遊び」は文字通りの遊びで、公園でバドミントンなどをして遊ぶのである。だいたい晦日などに遊んでいることが多い。

そんな調子で空気が読めない人だから、犬養さんは家族にも適当な扱いをされている。それはコロナが始まったばかりの冬のことだった。いつも通り年末に犬養さんから電話があったのだが、着信するスマートフォンの画面を見た夫が「あ、犬養だ」と言ったきり、さらりと無視した。しかたないのでわたしが電話を取る。LINE電話で顔を見ながら通話をするテクを覚えたばかりの犬養さんは、ビデオ通話である。「おお、戸田か」と犬養さんがスマホの画面に現れる。「あ、犬養さん。お久しぶりです。いまなにしてんですか」とわたし。「おお、おれか。ソロキャン」と犬養さんは言うが、スマホ画面の背景はどう見ても自宅リビングで、キャンプ場ではない。「自宅じゃないですか。ソロキャンって、家族どうしたんですか」「ああ、家族な、実家に帰ってる。義理の両親から、他人からコロナをうつされるの嫌だからお前だけは来るなって言われたんでな、おれは家でソロキャンしてんだよ」と犬養さん。「おれは準家族だからな」と言いながらコンビニパスタをもぐもぐ食べている。冬の風物詩である。

それにしても、今年の12月は実に忙しかった。12月初頭には鳩尾が上京していて、そのお付き合いで、1日に2万5千歩も歩いたりしたのがその始まりだったと言えようか。鳩尾にはいつも京都でお世話になっているので、東京へ来るとなったら、わたしがきちんとお世話をしないといけない責任がある。だから宿泊先や観光スポットなども吟味してオススメをお知らせしたり、旅程を綿密に組んでリストにして渡したり、我が家の近くに滞在させて朝ごはんも用意するなどした。鳩尾はいつも「道に迷ったことなんてありませんよ」というていで、京都の街をスタスタ歩いているので、わたしは道に迷わない人だと思っていたのだが、東京での鳩尾は意外に道を覚えるのが苦手なようである。そんなわけで、我が家へのルートを一生懸命説明したのだが、鳩尾は平然と「もう忘れてしまいましたね」などと言う。「だから!」とわたしも熱が入る。「駅を出たら、とにかく、左!」と言おうとしたところが力が入りすぎて、「駅を出たら、とにかく、しだり!」と言ってしまう。「おっ、”ひ”が”し”になるとは、さすが江戸っ子ですね」と喜ぶ鳩尾。いや、それは江戸っ子だからではなくて、ただの言い間違いだから、と言い訳するが、「落語でしか聞いたことないから新鮮だなあ〜」などと言って、鳩尾はニヤニヤしている。

それから12月には、銀座の教文館に行って、クリスマスの支度をしなければならない、と決まっている。なにしろわたしはクリスマスが大好きなのだ。わたしは子どもの頃、プロテスタントの保育園に通っていたので、自分をキリスト教徒だと思い込んでいたのに、小学校へ入ってから自分がクリスチャンではないことがわかった時のショックは大きかった。入信もしていないのに棄教させられたかのような気持ちであった。それに加えて、世俗的な小学校の同級生たちに心の底から幻滅したことも追い討ちをかけた。世俗的な人たちにはサンタは来ない、サンタは信じる人の元にしか来ないんだ!という強い思いから、後年になって、日本クリスマス教団という新しい宗教団体を立ち上げて、自分がその開祖になることにした。日本ではキリスト教徒は人口の1パーセント程度に満たない。残りはみな非キリスト教徒である。そんな、キリスト教徒ではない人たちが、日本でクリスマスを祝うための新興宗教である。主な活動は教文館に行ってくるみ割り人形を見ることであるが、決して強制ではない。とくにお祈りや経典、決まりごとなどはないが、世界平和と人類平等をめざしている。

そして12月には締め切りがたてこむ。海外の仕事相手はクリスマス前になんとか仕事を滑り込ませようとしてくるし、国内の仕事相手は28日ごろでに仕事を済ませてしまって正月は休もうと言うのだ。こちらは発注する側ではなく、発注される側なので、四の五の言う立場にはない。間断なく続くめまぐるしい催促メールに対して、その場しのぎの言い訳で打ち返すばかりである。どうしようもなってくると、クマが取り扱っている、なんだか怪しい薬でなんとかしよう、などと考え始める。おすすめはメオソラスール1000mg配合の「ゲンジツトウヒ」である。定価670円が今なら480円、という売り文句についつられてしまう。成分としては「キカナーイ」「キニナラナーイ」「ムシムシスール」「ムカンシーン」などが入っているらしい。忙しさのあまりに疲れ果てた時には、「心ガムテープ」や「心修正液」などの商品もおすすめだ。夫婦関係に問題のある人たちには「愛情水増しスポイト」などという商品もあるそうだ。足りない愛情をスポイトで増やしてくれる。

心が問題だ、というのは確かにその通りで、心を全面的に守ってくれる薬としては「心ガードスプレー」というのもある。「元気エキス」「根太さ」「粘り強さ粉」「無神経粉」「ボーっとエキス」などが配合されていて、多角的に心を守ってくれる。ようは、気にしなければいいのである。そんなわけで、「キニシナーイZ」という薬も発売されているらしい。しかし、問題から目を逸らすのが主眼なので、根本的な問題はなにひとつ解決しないところがミソである。

そういうわけで、締め切りをいくつか反射神経で片付けたあと、コーヒーが飲みたくなって淹れている。とはいえわたしはコーヒーを淹れるのが不得意なので、コンビニのドリップパックである。わたしには苦手なことがいくつかあって、まずは卵を割るのが苦手である。つぎに人の名前を覚えるのが苦手である。そしてコーヒーを淹れるのが苦手である。これが苦手ランキング1位から3位を占める。そういうわけで、自分で頑張って淹れたコーヒーを飲みながら話しているところ。

わたし「わたしはXXのお店のコーヒーは苦くて苦手なんだよね」
友人「どんなコーヒーが好きなの?」
わたし「あまり苦くなくて、雑味のないやつ」
友人「ああ、あるよね、そういうの」
わたし「長野にさ、とにかく雑味のないコーヒーを淹れる喫茶店があってさ。もう、水なの?っていうくらい雑味がないのよ」
友人「それ、水なんじゃないの?」

味の違いがよくわからないので、もしかしたら水なのかもしれない。まあ、万が一、もし水だとしても、キニシナーイ。

アパート日記12月

吉良幸子

12/1 金
昨日から2年ぶりに関西へ里帰り。2日間のお目当は全部達成。
着いてすぐ絵本編集・筒井さんの展示へ行って感嘆し、dddギャラリーの久保さんとお昼。その後南船場へ移動して母と松屋町をぶらぶらし、今年亡くなったばぁちゃんのお参りをしに生野へ。底冷えがひどい実家へ帰り、巨大黒猫を撫でながら一緒に寝た。次の日は初の動楽亭! 久しぶりに顔を見せてくらはったざこばさんの体調を心配した後、甲賀さんの文字の暖簾がかかった千鳥温泉でお風呂に浸かり、ほかほかのまま新幹線で東京へ戻るという、何とも愉快な旅やった。次来るときは他の銭湯や寄席にも行きたいなぁ!

12/3 日
東京へ戻ってから休みなく出稼ぎ続きでさすがに疲れた。今年は飲みに出てる人が多いみたいで、駅でよく飲みすぎを見る。飲むのは一向に構わんが、駅員さんのことを考えると家まで持たしてやと毎回思う。

12/4 月
砧図書館へ予約した『桃尻娘』を受け取りに。読んだらものすごい自由でびっくりした。そのまま品川宿の丸屋履物店へ初の草履を作ってもらいに行った。慶応元年からあるお店だけあって、年季が入ってむっちゃくちゃカッコええ。東海道の玄関口は所々に残る古い建物がすごくて圧倒された。相模屋やったところは今はファミマが入ってて、記念に公子さんへどら焼きを買って帰った。『幕末太陽傳』が無性に観たなった。

12/5 火
花緒をすげてもろた草履を早速履くべく、着物を着て友達と美術館へ行った。着物はばぁちゃんが自分が好きな緑色を娘へ買うて、母は緑があんましで一度も着てなかった普段着。昨日公子さんと一緒にしつけ糸を取って、やっと袖を通してもらえた緑の子。友達には着物を着てくと言うてなかったから、会ったとき目が点になってておもろかった。やっぱり下駄屋さんてすごいわ、いくら歩いても足が痛くならんかった。

12/6 水
土曜日の朗読に向けて、滝本さんがうちへやって来る。昼過ぎから大掃除が始まり、ソラちゃんはまた引っ越しか…とヒヤヒヤしておる。15時半に迎えに行って、うちへ来て公子さんと練習。丹さんも滝さんに会いにやって来た。18時になって割烹やまぐちへご飯食べに。なんと!滝さんが奢ってくれた!!!!ありがたや~! 今日は賑やかなアパートやった。

12/8 金
公子さんは相変わらず小天狗たちの夢を見ているらしい。今朝はその中の一人と仲良くなったんやとか。よかったよかった。

12/9 土
朝、勝手口を開けたら小ねずみが横たわってる… 一瞬で察しがついた。公子さんに聞いたら、朝4時半にねずみを連れてソラちゃんが帰宅、走り回ってぐったりしたねずみを出したらしい。かわいそうで庭に埋めて拝んだ。ごめんね。
今日は年内最後のいわと寄席の日。しかも朗読と落語でお客さんは多く、遠方からも来てくらはってありがたかった。賑やかに終わって打ち上げ。公子さん、終始上機嫌やと思たら日本酒飲みすぎ! 帰りはべっろんべろんで、部屋でいっぺんこけてはった。怪我もなかったことやし、今夜は飲みすぎでもええか!

12/12 火
うちのアパートの3階には公子さんの前からの知り合いのゆうさんが住んでいる。東京に引っ越すことになり、ペット可のアパートを決めたら、たまたま同じアパートやったというすんごいご縁。そして泊まりがけで出かけるときは猫の面倒を私がみる。今回は2泊3日で長崎へ行くし、様子をみにちょいちょい行った。ごはんをあげてるとちゃいろいチャロがやって来て、私の周りをくるくる回る。そしてゴロンと寝っ転がって、とにかく嬉しいみたい。うちにおるツートンの雄猫に比べると女の子のチャロはちいさく、肉球もピカピカで柔らかくてかいらしい。

12/14 木
初めて博品館劇場へ。演目は『二階の女』。原作者の獅子文六は一番好きと言ってええ程大好きな作家。二階の女に合わせて桃色の着物で行った。演劇って切符代が落語や映画に比べて高いけど、こりゃ安いわと思えるほどにむちゃくちゃええ芝居やった。小説では掴みきれなかった部分が具体的になってて、原作をまた楽しめそうや。

12/15 金
午後一で三鷹のしろがねGalleryの展示を観にゆく。知り合いの作家が企画してて、DMをデザインさしてもろた。そのデザインを大きくポスターにして貼ってくれてて嬉しかった。そのまま日暮里へ。夜に時々自動の久しぶりの公演があり、それに行く前に帝国湯へ。たまたま入り口に釜じいさんがいて、おいでおいで、とニコニコしながら言うてくれた。お湯が熱いとどこかで見たけど、こんなに熱いとは…温度計を見ると48℃もある!!えいや!と入り、上がって体を冷まし、また入るを繰り返すと身体の芯からあったまってぽっかぽかになった。日暮里へ行くときはこの湯に入りにこな損やわ! 十分にあったまってお目当の時々自動の公演へ行った。感激。途中、泣きそうになる程よかった。ああ、これ生で聴けたら死んでも悔いないわと思えるくらい最高やった。
連日でええもんばっかり観て、ええお湯にも入れて、ほんまにこの上なく幸せかもしらん。ものすごい吸収したし、ぼちぼち仕事もせんならん。

12/25 月
クリスマスも関係なく、公子さんと末廣亭へ。主任の彦一さんさすがよかった~~! 彦一さんは顔見るだけでいっつも嬉しなる。今日は電車ネタが多い寄席で、色物さんも最高やった。

12/27 水・誕生日
朝から出稼ぎ先の納会に行くため、わざわざ埼玉まで行く。副都心線はすいてますなぁ。同僚からむちゃくちゃセンスある誕生日プレゼントをもろた。銭湯好きを常々語っていたら、共通入浴券をくれた!!こういうのがいっちゃんありがたい、これでいろんな銭湯へいけますわ! 夜には公子さんと吉坊さんの独演会へ。年の瀬がいよいよ押し迫ってきたのをなんとなしに感じた。
今日の落語:『化物つかい』『饅頭こわい』『厄払い』

12/29 金
年内最後の落語会。三遊亭萬橘さんの落語は初めて聴いたけども、むちゃくちゃ良かった。ほんまに熱演で、噺に引き込まれた。今年はこれで落語納めやけど、萬橘さんの落語で締められてほんまに良かったという感じ。
今日の落語:『文七元結』

12/31 日
明るいうちにいつもの銭湯へ行ってあったまる。今年もええお湯おおきに。来年もよろしゅう。
うちは年末感が全くない。年越しそばやなくて、昨日の残りの炊きもんにカレーを入れて、和風カレー大盛りで年越しや。
さぁ、来年はどないなるかいな。

2023年

笠井瑞丈

今年は色々あった

悲しい別れ
新しい出会い
新しい事への挑戦

悲しい別れ

家族同然だった
チャボのマギとゴマの死
ずっと同じ時間を過ごし
色々な場所に一緒に旅行した
本当に大好きだった二人
いつも明るく照らしてくれた存在
今は記憶の中に生きている
碁石と白と種は違えど
とても二人は仲良かった
小さい時から二人でウチにきて
二人は何をするにも一緒だった
いまもきっと天国で仲良くしてるだろう

新しい出会い

新しい家族との出会い
チャボのナギとハギとモギ
マギゴマが亡くなって間も無く
里親の大村さんが譲ってくれた
二羽が三羽になって五人での生活
二羽の時は個と個という感じでしたが
三羽になったとたん群れ感になった
この質感の違いは大きな違いだ
皆仲良く性格も違う
いまは人間二人と鳥さん三人
五人での生活です
楽しい日々

モギ ゆっくりの人
ハギ おっとりの人
ナギ せっかちの人

新しい事への挑戦

初めて芝居の舞台
そしてショパンを踊る
言葉と音楽そして踊り
そんな一年でした
年々変化していくカラダ
その変化に耳を傾けて
もう昨日の身体はないのだ

希望だけを持って
踊るしかない

来年もチャボとそして
踊りを続けていきたい

どうぞ来年もよろしくお願いします

仙台ネイティブのつぶやき(90)年取りの準備の時間に

西大立目祥子

この原稿を書きながら、おせち料理の仕込みをしている。まぁ、おせちといっても、このところ広告でよくみかける3段重にぎっちりと豪華に海老やら蟹やらきんとんが詰まっているものには程遠い。

必須は雑煮。それからお煮しめ、ナメタガレイの煮付け、仙台五目引き菜、数の子のひたし豆、なます代わりのマリネ、チキンロール、余力があれば松前とろろに豚の角煮。そして、黒豆、小豆のあんこ。
…んー、とここまで書いてきてけっこうあるじゃない、と気づく。これはやはり段取りが大切だよな。段取りが悪いから、いつもぎりぎり大晦日の夜6時に滑り込みみたいなことになるんだ。元日の朝に味わう雑煮は別にして、仙台では、こういうごちそうを、大晦日の夜に「年取り」と称して食べる。年にいっぺんの弟の家族と開く大宴会と相成って、テーブルには所狭しと皿や重箱が並ぶ。みんなで味わう料理とお酒とおしゃべりはもちろん楽しいが、私にとっては今年の黒豆は固すぎたとか、お煮しめに味のしまりがないとか、3日間の怒涛の中でつくった品々をチェックし反省し、1年の幕引きとなる。

ところで、12月は忙しい月だ。仕事の締め切りに加え、引き伸ばしにしてきた友人との約束があったり、打ち合わせが入ってきたり、親戚にお歳暮を送ったり雑事が重なって疲れがたまり、それに加えて、2週目あたりから日を追うごとに弱まっていく日差しと日没の早まりで、気分はうつに傾いていく。ここ数年は、冬至に向かって命が削られていくような気分にさえなる。今年もあと何日と、終わりの日が押し迫って来るのもなんともつらい。日の短さが底を打って、クリスマスも過ぎると、いくらか気分が上向きになっていくのだが、こういう一年で最もしんどいときに、どうしておせち料理をつくるのをやめないのか。去年は三段重を買って食べきれなかったとか、どこぞのおせち料理はおいしいとか耳にするたびに、買うくらいなら食べなくていいや、とつぶやいているじぶんがいる。

おせち料理の思い出を探ると、まっさきに思い浮かぶのは煮上がったお煮しめを重箱に詰める父の姿だ。煮炊きにもけっこう手出ししていたのかもしれない。いずれにしても、仕事納めのあと買い出しに出向き、そう乗り気でない母をなだめ、台所仕事も手助けして、大晦日の晩の食卓には煮しめとナメタガレイの煮付けと、酒の肴を整えていた。仏壇と神棚に料理を上げ、下ろしてきたら熱燗で乾杯。こういう暮らし方は、さかのぼれば、父から祖父母へ、そしてその前の代へとつながるささやかな家の文化なのだろう。考えてみれば、みんな仙台ネィティブ、宮城ネイティブである。

重箱の中の煮しめは、ゴボウ、こんにゃく、人参と一品ごとに詰められていたから、今思えば、手間暇をかけて一種類ずつ別々に煮炊きしていたのだ。
おせち料理にしか登場しない食材として印象深いのが、クワイだ。ほくほくしていてほろ苦く、一年の悲喜こもごもを口の中で味わうようなクワイ。子どもなのに、私はこの苦味が好きだった。角があるから縁起がよいとしておせちの材料になったのだろうが、父の煮るクワイに角はなく、ゆで卵に包丁を入れてギザギザに切り分けたように2つにされていた。思えば、高価なクワイを家族に2回ずつ行き渡るようにする苦肉の策か。年取りの番から食べ始め、重箱に隙間ができると詰め直すのも父なのであった。

私も一年にいっぺん、クワイを求め、煮る。子どものころのクワイはもちろん国産だったろうが、いま国産は高すぎて手が出ない。角がくずれ落ちないようにやさしく扱いながら出汁と醤油でそぉっと煮る。そして人参も一年にいっぺん、梅と桜のかたちに型で抜いて晴れ姿にする。数年前から抜いた外側もいっしょに煮ることを思いついた。間の抜けた感じが何ともいい。

煮しめは「つきじ田村」の田村隆さんのきょうの料理のレシピを参考に、黒いものと白いものを別々に煮ている。ゴボウとこんにゃくと椎茸をひとまとめに、凍み豆腐と人参と筍をひとまとめに、火の通し方が難しい里芋とクワイをいっしょに鍋に入れる。黒と白と人参の赤のコントラスト、角のあるクワイの造形、その上に緑のスナップエンドウ。味はともあれ、見た目は楽しくきれいだ。
くたびれている12月につくるのをやめないのは、料理の細部を味わいたいからなんだろう。醤油の加減、火の通し方の違いで首尾よくいったり失敗したりを毎年のように繰り返している。年齢を重ねて味の好みが変わってきたじぶんに気づき、鍋をのぞき込むときに家族の記憶がおりてきたりもする。年に一度のこの集中した料理の時間に、生きていることが凝縮されているような気さえする。
と、ここまで書いて、筍を煮るのを忘れていたことに気づく。あと3時間、急がなければ。

冬至から1週間。少し日が長くなり、少しずつ気持ちにも日が差し込んでくる。新しい年もいいことが起こるとは思えないけれど、みなさまどうぞよいお正月をお過ごしください。

むもーままめ(35)飯テロはカレーのにほひ、の巻

工藤あかね

2023年の終わりをひょいと跨いで2024年にたどり着けたようにも思えますが、実は年を越せるというのは、とてもおめでたいことなのだなと思う今日この頃です。みなさまはどんなお正月を迎えられたでしょうか。

年末年始、いつもより膨張した時間の流れを感じながらSNSを彷徨っていたりすると、とにかく人の顔と食べ物の写真がすごく多いなと感じます。食べ物の写真は普段もあるといえばあるのですが、どういうわけか夜、仕事から帰ってきて一息ついた頃に見てしまったりするので、なんだか妙に口寂しくなって、夕食を食べたり散々飲み食いして帰ってきたにも関わらず小腹が空いたような気になってしまいます。これが俗にいう、「飯テロ」っていうものですよね。

最近、この飯テロを経験しました。知人のクラリネット奏者が大のカレーマニアで、しょっちゅうおいしそうなカレーの写真をアップロードしているのですが、彼が掲載している写真は家庭的なカレーライスではなくスパイスが強烈に香ってきそうな、鼻腔を刺激するような本格派カレーなのです。しかもご本人は、インドやパキスタンの方達のように、妙なテンションの高さがある人でもなく、淡々と、粛々と、品よくカレーの写真を、日々の記録がわりに掲載しているのが清々しい。この人の投稿を見るとなんとなく細胞がざわざわと反応しカレー欲がにわかに増してくるのですが、それと同時に、外国人が経営しているお店にわざわざ行かないと味わえないスパイスカレーへの手の届かなさもあって、吸引力の強い飯テロとは言え少し距離を置いて見ていられるなと安心していたのです。

ところが事件はその後起きました。このカレーマニアの方と仕事のメッセージのやりとりをした直後のことでした。メッセンジャーを閉じるやいなや、私のSNSページにどどーんと現れたのは自宅で簡単に作れるスパイスカレーの広告、しかもとてもおいしそうで、すぐに注文できる感じ。なんだこのカレーホイホイは…! 衝撃を受けつつも、おそるおそるそのページを開いてしまう私。するとめくるめくカレーの香りが漂ってくるよう。だめだ、もう抗えない。カレーマニアの方とのメッセージのやり取りには20%くらいはカレーの仄めかしはあったかもしれないけれど、どうしてこの絶妙なタイミングでこんな脳天を直撃するような広告を打ってくるのだ。恐ろしすぎる、インターネット!

しかしながら、ぱっくりと口を開けて私を待ち構えているように見えたスパイスカレーのサイトは怪しくなさそうだったので思考停止したまま口コミを読み、美味しそうだったので勢い余ってポチッと注文してしまいました。果たして数日後に届いたカレースパイスは、これがまたとても調理が楽で美味しい。しかも体に効きそう。食べると汗が体中から吹き出し、細胞が刺激されるような気がする。これにハマった私は、ふと思い出してはこのカレーを作って食べていたのですが、ある時外から帰宅したオットが言いました。

「なんか…すごい匂いだね、この家。」そりゃそうだ。いまならインドのご家庭に負けない勢いでスパイスの匂いが充満している自信がある、と思ったのですが、服にも髪にも体にも、家具にもこうして染み込んでいくのはちょっといけないかもしれないと思い直し、数日間一生懸命換気しました。しかし、2~3日カレーを作らず換気をしても、外から帰宅するとやはりまだカレーの残り香を感じます。そんなこんなしているうちに、また家でカレーを食べたくなってしまうのだから、もうスパイスの匂いが取れる間などないのです。年末の大掃除で、あちこち拭いたり窓を開けたりしていたから、今は少しだけましかもしれないけれど、私ときたら年越しそばも食べず、年が明けたらおせちではなくてカレーを作って食べてしまうのかも。

あああ、某クラリネット奏者のカレー飯テロは、静かに、じわじわと年を跨いで我が家に忍び寄っていたのです。ちなみにそのクラリネット奏者とは、大晦日のランチでカレーを食べたことも追記しておきます。

水牛的読書日記 水俣旅行編

アサノタカオ

12月某日 地図や時刻表を眺めながら、熊本・水俣への旅程をあれこれ検討した結果、空路を使うことにした。自宅から近い横須賀港と新門司港を結ぶフェリーで九州入りし、鉄道でのんびり現地まで向かいたいという思いもあったが、結局、時間的にもお金的にももっとも経済的なルートを選択したのだった。

水俣病の歴史をもつ土地を、はじめて訪れる。旅の前に、書棚に並ぶあれこれの関連書を読んで「予習」などをしようとする小賢しい自分がいた。が、一夜漬けの試験勉強のような読書で仕込んだ知識や情報を持ち歩いたところで、いったいそれが何になるのか。今回はできるかぎり丸腰の、白紙の状態で土地に出会おう。もし水俣への旅から問われるものがあれば、そのあとに本を読み、考えればいい。戒めるようなつもりで、自分に言い聞かせる。

12月某日 リュックサック一つに荷物をまとめて夜明け前に出発し、羽田空港からLCCで鹿児島空港へ。詩集を一冊だけ、リュックに忍ばせた。

空港の売店で地元紙の南日本新聞を購入。先月末から、米軍オスプレイの屋久島沖墜落のニュースを、歯ぎしりするような気持ちで見続けている。このタイミングで鹿児島に来たからには、屋久島に渡りたかった。そしてこの火急の事態について、背後にある世界情勢について、信頼を寄せる島の人たちから意見を聞きたかった。そこには声高に語らずとも大きな力に抗い続け、ひとりで感じ考え、生きることに心を傾ける人がいる。かれらの声に、自分の心の綱を繋ぎ止めておくべき、ぎりぎりの希望を見出したいと思った。が、今回はその気持ちをぐっとこらえ、鹿児島空港からバスで北上する。

出水駅に到着。ローカルの電車が来るまで、誰もいない待合室ですごす。ふと、駅舎に吊り下げられた生々しい鶴の模型が目に入り、ここが韓国の作家キム・ヨンスの小説「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」の舞台だと思い出した。出水でナベヅルを撮影した、亡き写真家をめぐる物語だ(短編集『世界の果て、彼女』〔呉永雅訳、クオン〕所収)。バスの車窓から何羽も灰色のアオサギを見た、と思っていたのだが、あれは鶴だったのだろうか。

午後、水俣駅で恩師の上野俊哉先生と合流。英語圏で『苦海浄土』の作家・石牟礼道子の論考を発表している上野先生の運転で、まずは「エコパーク」なる海岸の人口緑地へ行ってみた。そこの地中には、水俣病の原因企業であるチッソ排出のメチル水銀によって汚染されたヘドロや魚を詰め込んだドラム缶が何千本も埋め立てられている。

海岸の遊歩道から、はじめての不知火海を眺めた。ほとんど波のない穏やかな内海で、想像以上に閉ざされた湾。半島や島々の影にぐるりと囲まれた、まさにアーキペラゴの風景だった。この日の水俣の気候は晴れ。都市生活をする旅行者からみれば「美しい」としか言いようのない青い空、青い海が目の前に広がっている。

そしてこのあたりを歩くと、道路沿いの標識や看板には「エコパーク」「親水公園」「恋人の聖地」などの名称が、能天気な顔つきで並んでいる。風景に散りばめられたこれらの記号が、水俣病の歴史と記憶を埋め立てているのだ。企業と行政があからさまに推進する「歴史の健忘症」に憤りを覚えつつ、それに抗う想像力について上野先生と語り合う。

その後、水俣病資料館やJNC(チッソの子会社)、チッソが猛毒の工業廃水を垂れ流した百間排水口などを見物し、袋という浦の集落をめぐる。そして夕方、丘の上にある水俣病センター相思社へ向かい、集会所で開催された座談会に参加した。

座談会のテーマは「私たちのつながりあう百年の物語」、関東大震災の起こった1923年以降の在日の百年、東北の百年、水俣の百年について。語り手は、震災時に虐殺された朝鮮人の追悼活動をおこなう在日二世の慎民子さん、宮城・南三陸のコメ農家に生まれ育った歴史社会学者の山内明美さん、相思社職員の葛西伸夫さん。葛西さんは、日本による朝鮮支配とチッソの関わりの歴史について詳細に解説。近代と植民地主義の暴力はいまここでも続いている。いろいろな資料をもらったので、しっかり読み直して反芻したい。

12月某日 水俣のあたりをドライブして体感したのはこの地は、名前の通り、水俣川と湯出川という二本の川の流域(watershed)、「水の分かれ目」だということ。今回、ぼくらは湯出川沿いのひなびた湯の鶴温泉に投宿し、旅の興奮を鎮めるために深夜の湯に浸かり、早朝の湯に浸かった。

宿では韓国の詩人キム・ソヨンの詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)を読んだ。詩のことばには日常性に根ざした優雅さがあり、しかし描き出される世界には底なしの不穏を感じる。「定食」という詩などは、一度読めば忘れられない作品だと思う。旅の道中で、詩人のエッセイ集『奥歯を噛みしめる』(姜信子監訳・奥歯翻訳委員会訳、かたばみ書房)も入手した。早速ページを開くと、冒頭に「わたしは母の娘ではなく、母の母として生きてきた」とある。石牟礼道子の文学(たとえば『妣たちの国』)と繋がるものを感じて驚いた。

水俣滞在2日目。作家の姜信子さんのお誘いで、前日の座談会からはじまる「百年芸能祭」に参加するのが、今回の旅の目的だった。水俣病の犠牲者を祀る乙女塚や、エコパークの慰霊碑の前で、姜さんが案内人をつとめる遊芸集団「ピヨピヨ団」による奉納パフォーマンスがおこなわれた。

「これまでの百年の間、周縁に追いやられ、踏みにじられ、つながりを断ち切られ、消されていったすべての命に祈りを捧げ、これからの百年が生きとし生けるすべての命が豊かにつながり合い、命が命であるというそのことだけで尊ばれる世界となることを予祝する、そんな芸能の場を、『百年芸能祭』の名のもとに開いていきます」
 ——「百年芸能祭」ウェブサイトより

さらに相思社の集会所に場を移し、水俣のミュージシャンと「ピヨピヨ団百年デラックスBAND」のライブも。ソーラン節、安里屋ユンタ、アリラン、水俣ハイヤ節など、島々のように歌が連なり、声が渦巻く。夜、会場にアナキスト哲学者・森元斎さんが長崎よりギターを抱えて合流。

「百年芸能祭」のイベントのあいまに、上野俊哉先生とぼくらは古書店のカライモブックスへ。今年の春、京都から水俣の石牟礼道子夫妻の旧宅へ移転した店を、なんとしても訪ねたかったのだ。

途中、場所がわからず、道ゆく人に「すみません、石牟礼さんの……」と尋ねると、「ああ、弘先生の家ね」と教えてもらう。辿り着いたカライモブックスで、久しぶりに会った店主の奥田直美さん、順平さんが元気そうでうれしかった。店内には石牟礼道子が使っていたタンスや机、原稿用紙や文房具、座布団や献立表なども展示されている。順平さんの案内で、旧宅からすこし離れたところにある石牟礼さんのかつての執筆部屋あたりを散策し、そばに立つイチョウを見上げた。黄昏時、斜めから射す冬の光の中で黄色い葉っぱが輝いていた。

不知火海沿いの湯の児温泉にも行った。我が心の師である思想家・戸井田道三(上野先生は戸井田さんの『日本人の神様』〔ちくま文庫〕の解説を執筆)は1975年に水俣病患者の療養施設である明水園を訪れ、ここの温泉宿に滞在。「透明な補助線について」という題で、水俣の人々と出会い、揺れ動く自らの心の模様を道化的・批評的に語るという風変わりな旅行記を残している。この文章にはテレビ・ドキュメンタリー『苦海浄土』への言及がある。これは、一緒に湯の児温泉に浸かった森元斎さんが『国道3号線』(共和国)で書いている木村栄文の作品のことだろう。

ところで、九州の西海岸に来たからには壮麗な日没を見たいと思っていた。相思社のある丘の上で、その願いが叶った。すぐそばの畑で仕事をしているおばあさんが作業の手を休め、「このあたりの夕陽はきれいでしょう」と話しかけてきて一緒に夕日を眺めた。

12月某日 水俣滞在3日目。朝、温泉宿をチェックアウトして相思社にふたたび立ち寄り、水俣病考証館を見学。「百年芸能祭」に集う人たちに別れの挨拶をしたあと、『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』(ころから)の著者で相思社職員の永野三智さんと少しことばを交わした。水俣病について証言する人の声を聞くことはもちろん、これからさまざまな事情で語ることのできない人の沈黙をどう継承していけばいいのか、ということを話していた。透き通ったまなざしが印象的だった。

ここからは上野俊哉先生と森元斎さん、そしてぼくの三人でのドライブ。水俣の南にある長島から天草へフェリーで渡り、各地のカトリック教会を訪ね、さらに長崎へ向かった。森さんの運転で外海地方にも足を伸ばし、19世紀末にド・ロ神父が創設した旧出津救助院も訪問(日本のマカロニ発祥の地、困窮する女性たちのコミューンなど興味深い側面を持つ)。夜の長崎では、木村哲也さん『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』などすばらしい本を出版する水平線編集室の西浩孝さんたちとの、よい出会いがあった。

製本かい摘みましては(185)

四釜裕子

年末、MORGAN SALONで開かれた『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』(TAYLOR MIGNON編 KERPLUNK!刊 2023)のイベントでハサミ詩を読んだ。

「ハサミ詩」というのは切り取り線を組み込んで作った詩で、私が勝手にそう呼んでいる。描かれた切り取り線を読み手が切って初めて作品が完成するもので、いつもは「gui」という同人誌に載せている。自分の手元では、見開き状の紙を舞台に書いて切って折ったりもして、最低一度は完成している。それを毎回、冊子に封印しているようなものだ。なにしろ同人誌だから、自分のわずかな持ち分の中で「ここを切るとこの詩は完成するのでやってみて」と誘うのはかなりの傲慢だろう。実際はほとんどの人が無視してくれている。私も読む側ならやらないと思う。結果、ほとんどのハサミ詩は読まれていない。

生前「gui」の同人でもあったヴィジュアル・ポエット、高橋昭八郎さんに、ハサミ詩を見ていただいたことはない。間に合わなかった。昭八郎さんにはポエムアニメーション5『あ・いの国』(1972)という作品がある。8枚の長い紙を2枚ずつ組み合わせて三角形に折りたたんだものが含まれているのだが、これがまぁ組むのも開くのも相当難しい。そんなわけで、この作品について語る人は結構いるが、体験している人はかなり少ないと思われる。昭八郎さんはこう書いている。組んであるものを開くことからしか、〈いつの間にか大きくひろがっていく触発的な現場に〉〈立ち会う〉という体験はできない。これらは〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉であり、〈次つぎにひらいていくとき、手と眼と目と…読者であるあなたの意識・身体全体をそれらはつつみこむだろう〉(高橋昭八郎「詩集 あ・いの国へのeyEs」『VOU』133号)。

私もハサミ詩で、〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉をやってみようと思ったわけです。

AかBかの二者択一にさらわれないで残っていくものがそれぞれの”自分”で、その可笑しさと頼りなさとかけがえのなさをハサミで切るという作品の特別バージョンを、A5判中綴じに刷って台本とした。1、2、3……とページを順に切り落とし、残った「背」を丸めて「ノド」を開くと、空也が現れ、「小口」から南無阿弥陀仏が続々吹き出す……。『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』の表紙が空也小人像だったのだ。なんとかかんとか最後までたどりつき、足元に落ちた切れ端を拾って客席に戻ると、みなさんに笑って声を掛けてもらえてうれしかった。

背もノドも小口も本の構造の呼び名だが、いかにもうまく人体に見立てたようでいて実際は背とノドが表裏一体なのだからキュビスムだ。日本語以外でノドはなんと呼ぶのだろう。一方、改めて思うと「天」と「地」なんて大げさだけど、斎藤真理子さん訳の『李箱作品集 翼』(光文社古典新訳文庫 2023)のあとがきに、”ページの逆立ち”を思わせるシーンがあったので記したい。斎藤さんが偶然見つけた李箱の詩集が、ひと折だけ天地逆だったことがあるという。あってはならぬが起こりうるミスだ。そこには「嗅覚の味覚と味覚の嗅覚」という作品があったそうだ。〈(立体への絶望に依る誕生)/(運動への絶望に依る誕生)/(地球は空巣である時封建時代は涙ぐむ程懐かしい)〉。天地逆は意図したものではなかったか。あるいはこの折、自分で逆立ちしたのではないか――そう思ったって、いいだろう。

読んでいて「肉体」を感じさせる本といえば、村野四郎の『体操詩集』(北園克衛 構成 アオイ書房 1939)もある。〈中学生のやうなキチンとしたフオームは次第に大学生のやうな仕様のないフオームを示しはじめてゐます。これは勿論年齢のせいもありますが、体操の正課が新たな修身の課目によつておかされてゐることを示すものです〉(自作解説より)。つい先日、旅先の公園で鉄棒を見つけ飛びついたところ、逆上がりができなくてびっくりした。もちろん年齢のせいだが、果たしてそれだけなのか、なにものかにおかされていないか、気をつけておかねばならぬ。

最後にもう1つ。栃折久美子さんは装幀を、「服を着せる」というより「皮膚」に近いというふうに書いていた(『製本工房から』1978)。かつてその生っぽさがやけに重く厳しく感じたことを、澤直哉さんの『架空線』(港の人 2023)で思い出した。この本は、ブックデザイン、特に物としての本についての澤さんの講義をまとめたもので、栃折さんの”皮膚説”にも触れている。〈皮膚としての本を作ること、これは読者を魅了するイメージを拵えるのとはまったく異なる行為であり、まさに作品の「出生」に関わろうとすることでしょう。このように考えられたらどれほどよいか、と思います。しかしこれは大変険しく、厳しい道です〉。

前述の『李箱作品集 翼』における、李箱作品と斎藤真理子さんの翻訳・解説・まえがきとの関係も、これだと思った。

澤さんは続けてこう書く。〈こうした思想を、思いを知っておくことは、どうやったらうまいデザインができるかどうかより、よほど大切なことだと思います。私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない〉。

あかーん

篠原恒木

おれは急いでいたのでタクシーに乗った。日が暮れた頃だった。
目黒の権之助坂に差し掛かったとき、その事件は起きた。
おれが座っている後部座席の尻のそばで、携帯電話が鳴ったのだ。聞き慣れない着信音だったので、おれの携帯電話ではない。誰かが、おそらくはおれのすぐ前に乗った客が、座席に置き忘れたものだろう。
「運転手さん、携帯電話が鳴っているのですが、おれのものじゃないんですよ。忘れ物だと思うのですが」
「ああ、さっきまで乗っていた男性のお客さんの携帯かなあ」
携帯電話は鳴り止まない。もう十回以上はコールしている。鳴り止んだら運転手さんに渡そうと、おれはその携帯を手に持った。ところが電話は切れない。ピロピロ、ピロピロとしつこく鳴り続けている。そうだ、これはきっと落とし主が忘れ物に気付き、自分の携帯に電話をかけているのだろう、いや、そうに違いないとおれは判断した。

おれも携帯電話をいろいろな場所に置き忘れるが、そんなときはとりあえず別の電話からオノレの携帯にかけて、
「頼むから誰か電話に出てくれ。そしておれの電話はいまどこにあるのか教えてほしい」
と、すがるような思いで親切な誰かがおれのコールに出てくれるのを願った経験が何度かある。

この執拗なピロピロ、ピロピロ着信音は、この携帯の持ち主が必死になってかけているに違いない。自分の経験上、そうおれは確信した。ここは出てあげるべきなのだろう。
だが、そのとき、着信音は鳴り止んだ。ほっとしたおれは運転手さんにその携帯電話を渡そうと身を乗り出した。ところがその瞬間、またピロピロ、ピロピロと鳴り出すではないか。
「ははあ、これは携帯を置き忘れて相当焦っているな」
おれは仕方なく電話に出ることにした。声が聞こえた。
「もしもし」
電話の声は女性だった。運転手さんによれば「さっき乗っていた客」は男性だったはずではないか。
「あ……はい?」
女性はおれの戸惑う声にも構わず、勝手に喋り出した。
「あっ、あなた? まだ大阪でしょ?」
おれはすっかり虚を突かれてしまった。大阪? ここは東京の目黒だ。そして大変申し訳ないが、おれはあなたにとっての「あなた」ではない。
「ええと、そのぉ……」
おれはそう口ごもりながら、灰色の脳細胞を活性化させて、次の仮説を導き出した。

1.携帯電話を置き忘れたのは、おれの前に乗った男性客であろう。
2.その男性の携帯に女性が電話をかけてきた。
3.女性は携帯の持ち主である男性と親しい。妻もしくはそれ以外の深い仲だ。

残念なことに、この時点ではこれ以上の仮説は思い浮かばなかった。おれの脳細胞の限界である。しかし、電話をここで切るわけにもいかない。おれはおずおずと切り出した。
「あのぉ、いま私が出ているこの電話、私のモノではないんです。タクシーの座席で鳴っていたものですから、つい出てしまったわけで」
相手の女性は、しばし沈黙した。
「そうなのですか。大阪のかたですか?」
大阪。そうだ、確かに大阪と言っていた。おれの脳細胞が再び活性化されてきて、さらなる仮説を組み立て始めた。

4.携帯の持ち主である男性は大阪に滞在していることになっている。
5.その男性は、妻もしくは深い仲の女性に対して4という嘘をついた。
6.だが男性は「大阪へ行く」と言っておきながら、ちゃっかり東京に居残っている。
7.そしていまおれが話している女性は、その男性の妻に違いない。どうやら深い仲の女性ではなさそうだ。
8.なぜなら深い女性とはこの東京でいまヨロシクやっている最中で、その女性に嘘をつく必要はない。男が嘘をつかなければならないのは妻だ。

おれはここまで推理して、完全に狼狽してしまった。なんだか松本清張のミステリ小説のような展開ではないか。今度はおれが沈黙する番だ。電話からは女性の声が畳みかけるように聞こえてきた。
「失礼ですが、そちらさまは大阪のどこにいらっしゃるのでしょうか」
おれの背筋から冷たい汗が噴き出した。どうしよう。
「せやねん。大阪でっせ、正味なハナシ。ワシはいま北新地やで。なんでやねん」
そんな台詞も頭をかすめたが、あとあと面倒なコトに巻き込まれそうな気がした。いや、もうすでに巻き込まれているやん。わて、ホンマによう言わんわ。

インチキ関西弁での思考は放棄して、おれは正直なところを話すことにした。
「あのですね、こちらは大阪ではなく、東京です。東京でタクシーに乗っている者です」
おれの言葉を聞いて、女性はしばらく絶句していたが、やがて口を開いた。
「昨日の朝、二泊で大阪へ行くって……。いまそちらは東京のどこですか?」
「ええと、ここは……目黒、かなぁ」
「目黒?」
「はい、目黒ですね」
「そうなんですか……」
そう振り絞るような声を出して、女性からの電話は突然切れた。おれにとってもこれ以上の会話はスリルとサスペンスに満ち溢れそうだったので、このガチャ切りは有難いことだったが、苦い後味が残った。
おれは運転手さんに携帯電話を渡し、大きなため息をついた。
「大阪って聞こえましたが」
携帯を受け取った運転手さんはニヤリと笑っておれに言った。
「そうなんです。参りました」

なぜおれがこんなにモヤモヤした気分にならなければいけないのだろう。電話に出なければよかったのだ。しかし持ち主からの電話だと思い込んでいたので、つい出てしまっただけである。小さな親切、いや、大きなお世話が仇となってしまった。
おれは反省しながらタクシーを降り、目的地まで歩を進めた。男は無事に携帯を取り戻せるだろうか。いや、そんなのは些細なことだ。携帯を置き忘れた男とその妻は、今後どうなるのだろう。夫は妻の激しい追及をうまくかわせるだろうか。

「ただいまー。大阪出張、疲れたぁ。これ、おみやげ」
男はそう言って、大阪名物のクッキー「道頓堀の恋人」を妻に渡す。もちろん大阪で買ってきたものではない。帰宅途中に東京駅の「諸国ご当地プラザ」へ寄って、ササッと買ったアリバイ工作のクッキーだ。レシートはその場で捨てた。おれもよくそうしている。いや、してないしてない。それにしても「道頓堀の恋人」はよくない。男が逢っていたのは「目黒の恋人」なのだから。
妻はおみやげには目もくれず、唐突に切り出す。
「あなた、昨日の晩はどこにいたの?」
「大阪だよ、もちろん」
「嘘つき! 目黒でしょ」
それを聞いた夫の眼が虚空をさまよう。
ああ、想像するだけで胃がせり上がって来る。

平和だった家庭に亀裂が入るのだ。すべてはおれが悪いのか。
「あかーん。あかーん。知らんがな、もう」
と、おれは独り言を呟きながら、自分の携帯電話がバッグの中にちゃんと入っているかどうかを確かめた。

麗蘭の磔磔再び

若松恵子

麗蘭(れいらん)は、RCサクセションの仲井戸”チャボ”麗市とザ・ストリートスライダーズの土屋“蘭丸”公平が結成したロック・バンドだ。麗市(れいち)と蘭丸で「れいらん」。日本が誇る2人のロックギタリストは雑誌の対談で出逢い、ちょっとしたセッションをする予定が新曲を作り、ツアーを回り、新しいバンドとなって、30年の年月が流れた。ベースに早川岳晴、ドラムにジャラを迎え、時々集まっては麗蘭としての音楽を奏でる。それまでの時間にメンバーそれぞれが聞いた音楽、奏でてきた音楽が麗蘭に注ぎ込まれて成熟したサウンドを形作っている。曲をいっしょに作るという事は、当たり障りのない付き合いを超えてお互いの中に入り込まなければならない。仲井戸麗市が最初のセッションの時から持っていたその意志を土屋公平も受けて、麗蘭がこんなにも続いたことは幸福なことだと思う。麗蘭は2人の成長(成熟)の物語でもあるのだ。スタジオアルバムもミニアルバムを含めて4枚発表されている。

京都の古い蔵を改装した老舗のライブハウス、磔磔(たくたく)での年末ライブは恒例で、ファンにとってはこれが無ければ年が越せないという特別なライブだった。2020年のコロナ以来できなかったが、今年やっと4年振りに開催されることになった。こんなに嬉しいことはない。年の瀬に新幹線に乗って出かけてきた。

まだ、コロナが完全に終結したわけではないから、以前のようにギューギュー詰めというわけにはいかない。椅子を入れて少し間隔を取って、入場数は減らしての開催だったけれど、磔磔での麗蘭のライブはやはり特別な感慨があった。磔磔では海外の有名アーティストもたくさんライブをしている。100年たつ蔵にはロックやリズム&ブルースの良い演奏をたくさん聞いてきた音楽の神様が住んでいるから、音が特別に良いのだ。

チャボが「新旧取り交ぜてやるよー」と言っていたけれど、今年の新曲が5曲も演奏されたことは頼もしくも嬉しいことだった。そして2つも戦争が起こっている今の時代が、麗蘭の音楽にも大きく影響している。湾岸戦争の時に作ったというコメントで演奏された「悲惨な戦争」は、2023年版アレンジになっていて鮮烈な印象を残した。素朴に平和を願う心、それはロックに教えてもらったし、ロックを聴くこと(体感すること)でその気持ちは確信に変わる。麗蘭の今年の演奏を聴いていてそんなことを思った。

ビートルズの歌詞がちりばめられた「ゲット・バック」という曲では「さあ長い夜に嘆くのはもう終わりにして、俺といっしょに口ずさもう、いつかのあのメロディー」と歌われる。「帰ろう、今夜、いかしてる音楽へ」と。厚みのある肯定的なギターサウンドが、理屈ではなく、体感として大切なものを確信させてくれる。彼らの音楽にも流れ込んでいるビートルズのスピリットも合わさって、揺るがない強さをもたらせてくれる。平気で人を傷つけたり、不正を働いたりする人間にならないようにつなぎとめておいてくれる。まともな人間でいるためにロックを、麗蘭の音楽を聴いているのだと言ったら笑われてしまうだろうか。1年の終わりに、磔磔で麗蘭を聴く理由、聴きたいと思う理由はこの辺にあるようだ。恒例ではあるけれど、前回をなぞるような事は決してしない彼らの演奏を、これからも可能な限り聴きに行きたいと思う。

ヴェンダースが撮る木漏れ日

植松眞人

 渋谷の公衆トイレをリニューアルするという計画が立てられ、これを広くPRできないかと企画された映画が公開されている。かつてニュージャーマンシネマの騎手と呼ばれたドイツのヴィム・ヴェンダースが監督を務めた『PERFECT DAYS』という作品だ。
 ヴェンダースと言えば、小津安二郎に強く影響を受け、日本で『東京画』という日記映画を制作したこともあった。そんなヴェンダースが小津から最も遠い日本の広告代理店の依頼で、小津のようにきらめくような木漏れ日をすくいとったかのような作品を完成させたのだ。
 金に汚れた日本の製作システムの中でも、ヴェンダースの純粋な映画愛は汚されなかったと言うべきか、もしかしたら、単に白人外国人には強く物申せない国民性がこの作品にとって良い方向へ働いたのか。どちらにしても、『PERFECT DAYS』は見事に世界を映画作品として定着させている。
 渋谷で公衆トイレの掃除を淡々と続ける平山という男が主人公。この役所広司演じる男は、ジム・ジャームッシュの『パターソン』のように、同じように見える毎日を繰り返している。しかし、同じように見えて、実は同じではないというところも『パターソン』に似ている。
 そう言えば、若き日のジャームッシュは、若き日のヴェンダースに余ったフィルムをもらって、あの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を完成させたのだった。小津によって刺激されたアメリカとドイツの才能が結びついて、いま再び、『PERFECT DAYS』という作品になったと思うと、なんとも言えない感慨がある。
 ここで、ふと思い出したのは、もう一人、小津に人生を変えられたフィンランドの映画作家、アキ・カウリスマキである。『PERFECT DAYS』が公開される半月ほど前に、引退宣言を撤回したアキ・カウリスマキが撮り上げた新作『枯れ葉』が公開されたばかりだった。この映画はさらに小津の色濃い影響を画面の隅々に反映して、様々な要因で膿んでしまったかのような世界を(映画を見ている時間だけでも)浄化させてくれたのだった。そして、その映画の中に引用されていたのが、ジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』というコメディタッチのゾンビ映画だった。
 どうしようもない日本のどうしようもない片隅で、小津安二郎の影響を受けたドイツ、アメリカ、フィンランドの三人の男たちの名前が繋がることは、奇跡なのか必然なのか。
 『PERFECT DAYS』の中でふいに影踏み遊びを始める役所広司と三浦友和のように、小津の子どもたちが遊んでいる姿を僕たちはこれからも見続けることができるのだろうか。

長い引っ越し

北村周一

ともどもに
判を押したる
その夜を
寿ぐごとも
聖夜は来たり

ももいろの
気泡のどかに
はじけるを
のみ干しにつつ
燥ぐ一月

恥ずかしくて
とても人には
言えざるを
あの手この手の
母さんが怖い

二十年の
月日をかけて
わが母が
済ませしはずの
長い引っ越し

まなぶたに
あの人までも
あらわれて
賑やかなりぬ
不眠時間は

あのイヤミ
得意のポーズを
決めながら
こころ静かに
寝ねんとするも

うちつけに
叫んでみたり
泣いてみたり
自作自演の
ゆめ醒め遣らず

神経を
病んで夢見に
しのび泣く 
さきゆくひとの
石を踏む音

くらぐらと
まぶたの裏に
見入りたる
目覚めし朝の
ブラックボード

朝起きて
さいしょに開く
一ページ 
測量野帳に
種蒔くごとし

日に五たび
根深き闇に
立ち向かう
ごともハブラシ
動かしており

持ち主なき
しじまに向けて
放たるる
音符はなべて
目的格なし

幾重にも
走る細道
さみしきに
萎えにけるらし
性なるみちは

米国産
豚バラ肉の
脂身の
みごとなるさま
星条旗のごとし

古典から
すこし外れて
泳ぎわたる
マティスみたいな
絵の終わり方

おわらいと
食と旅とに
生きのびる
テレビ画面に
消えゆくわれら

パーティの紙皿寒し名刺飛び 冬の星座は大きく動く

『アフリカ』を続けて(31)

下窪俊哉

 先日、井伏鱒二『荻窪風土記』を読んでいたら、「小山清の孤独」と題された文章にぶつかった。私は今回、その人の名を初めて知った。井伏さんによると戦後、同人雑誌は「影をひそめ」ていたそうだ。そんな頃、小山清という人を中心に『木靴』という同人雑誌ができた。小山さんという人はよく書いた人のようだが、やがて『木靴』の原稿集めにばかり熱心になり、自分の書く方は思うようにゆかなくなったらしい。もちろん同人雑誌では暮らしてゆけないので、周囲は「資金カンパ」をよく集めていたという。
 私には何だか、他人事のような気がしない。執筆で暮らしを立てようとしたら、自分も似たような状況に陥ったと想像できる。かといって、文学をめぐる日々の営みは、世間で「出版」と呼ばれているものとは少し違うのである。執筆でも出版でも暮らしを立てまいとすることが、私の仕事においては重要なことになった。しかし「趣味」というような軽いものでもない。説明に苦労するところだ。
「小山清の孤独」には関口勲さんという人の「小山清と木靴」という文章が引用されていて、「年間平均して二冊出るか出ないの遅いペースである。息も絶えだえに続いていると見るのも自由だが、牛歩にも似た息の長さを自讃し得なくもない。」とある。それって、まるで『アフリカ』のことじゃないか! と私は思う。

 編集に手を染めると、自分の書く方が疎かになる、というのは、かつて『VIKING』の編集人だった日沖直也さんから聞いたことがあって、「下窪くんのように両方を、並行して続けている人というのは、あまり見たことがない」と言われたのを印象深く覚えている。私はちょっとびっくりして、そうなのか、と思った。

『VIKING』といえば、この秋、富士正晴の新しいアンソロジーが中公文庫から出た。『新編 不参加ぐらし』という(以前あった同名の本とは違う)。そこに収録されている内容が、文庫で手軽に入手できて読めるようになったことを喜んだ後、しかしその選には、ちょっと感心しないところもあった。選者による解説を読んで、その感触は深まった。
「竹林の隠者」という生前のパブリック・イメージをそのまま受け継いでおり、何やら、その「身の処し方」を見て面白がったり、もしかしたら慰められたいのかもしれない。富士さん自身はそれを受けて文中で煙たがっていることになるので、そう思って読むと面白いような気もしないではないけれど。
 そしてこれが肝心なことなのだが、選者は『VIKING』にあまり興味がないようだ。同人雑誌を、文壇に出てゆく足がかりというくらいにしか見ていないのかもしれない。それでは富士さんの精神が、あまり伝わらない(『VIKING』の話は、この連載の(1)に出てきて、(20)で少し踏み込んだことを書いた)。だから、とくに初めて富士さんの本を読む人には、この本ではなく、ちくま日本文学全集の『富士正晴』を古本屋か図書館で探すことを勧める。ちなみに、その両方の本に収録されている文章がひとつあり、それは「わたしの戦後」だ。

 そんなことをブツブツこぼしていたら戸田昌子さんが「これをふと思い出しました」と言って、岡村春彦さんの「群れの終末 -青銅文学創刊の前後-」という文章を送ってきてくれた。『青銅文学』という同人雑誌の最終号に載っていたものらしい。読むと、戦後すぐの頃の子供と大人の「混乱」と「不信」が描かれている。記録されている、と言ってもよい。子供は、あっという間に成長する。『青銅文学』をつくったのは札幌の高校生たちだった。

「既に高校では旧体制の教師の復権が行われ、若手教師の新らしい教育は壁にぶつかり悲壮感がただよっていた。その中で彼等の中の数人が同人雑誌を作ることを志ざす。それは学校のサークルの外でアウトサイダーとして、独立した雑誌となる。「群れ」が「徒党」への飛躍を試みる。」

「あるものは、小説を、あるものは詩を。だが作品を書かない者もいた。それは何かを表現しようと望む十代の若者たちの集まりであった。従ってそれだからこそ、「徒党」への試みは、「群れ」の部分を残したまま破局へと向う。」

 その雑誌の中心にいたのは、樫村幹夫という人らしい。彼が東京へ行き、続けられた『青銅文学』は、しかしもう元の性格の雑誌ではなくなっていたという。

「“群れ”の雑誌は“個”の雑誌となる。しかしその“個”は何故か私には“他”を求めるものに思えてならない。」

「おそらく、総ては徒労なのかもしれない。だが、やはり、どんなに悪い時代であってもそれは自分の生れ、死んでゆく時代なのだ。それを個としてとらえ、真の連帯の意味を見い出し、“徒党”が生まれるとき、羊の“群れ”は蘇える。」

 その背景には戦争があり、子供時代に「彼らが疎開児童であった」ことがある。太平洋戦争が終わった1945年、彼らは10歳くらいだろう。ちなみに、私がいま書いているこの文章の他の登場人物たちが当時、何歳くらいだったかというと(各々の生年からザッと計算して)井伏鱒二は47歳、小山清は34歳、富士正晴は32歳である。皆、それぞれのやり方で、戦争の影をずっと引きずって行った。私はそれを受け取って、読んだり、考えたりしているのである。

 それにしても、“群れ”が“個”となり、“他”を求めているようだというのは、何だかいまの時代の、私たちの話をしているようにも感じられないか。

 書くということは、そういった試行錯誤のなかに浮かび上がってくる。またそれを記録しておくということ、アーカイブする場を持っておくことの大切さを私は思う。
 岡村春彦さんが『青銅文学』を手元に置きながらその時代を書いたように、『VIKING』が自らの歴史書をその時代、その時代の人たちで書き継いできたように、私は『アフリカ』を傍らに、これから何を書けるだろう。

「道草」の「道」

越川道夫

「道夫」の「道」は「道草」の「道」とは、幼い頃に父親が言った言葉である。小学生の頃、学校から街中で洋品店を営んでいた家に帰ると、店の中で父が地図と睨めっこをしている。そして、言うには、お前はどこをどうやって帰ってくるのだ、と。聞けば、あそこで見た、ここで見た、と私の目撃談が父に届くのだと言う。それをもとに地図を広げてみると、真っ直ぐはおろか、帰る意志があるのかも分からないぐらいの迷走ぶりだそうである。仕方がないのだ。あそこの犬と会って、とか、そういえば貸本屋に寄らなくちゃ、とか、あのドブでイトミミズを相手に遊んで、とか、果ては石蹴りをして、石の飛んだ方に歩いていくのだ、とか、子供は子供でいろいろと忙しいのである。とてもじゃないが、真っ直ぐなど帰ってはいられない。おまけに本を読むことを覚えてからは、歩きながら読むのである。雨が降っていれば傘を差しながら読む。夢中になれば、道にしゃがみ込んだり、公園やら木の上で読む。おまけに電信柱にぶつかって血を流し、近所の人に介抱されたりする。生まれてこの方、真っ直ぐなど歩いたことはないのである。
 
今だって事態はさして変わらない。たとえば映画館に映画を見にいこうとする。映画の上映時間は当然のことながら決まっている。もちろん間に合うように外出するのだが、時間通りについた試しはないのである。映画どころか、ライブも、芝居も、その時間に着くことはない。決まって遅れるか、間に合うために最後は走る羽目になる。したがって、時間が決まっているものは億劫だと言うことになり、出不精にますます拍車がかかるのだ。そもそも、歩きながら河を覗き込み、草叢に分け入ったりしているのがいけない。今日は、真っ直ぐに、と言いながら、畦道に咲く花に蝶が来ているのではないか、そろそろ蛇に合うのではないかとか気もそぞろで足がそっちを優先するのがいけない、それに引き換え本屋はいい。もちろん開店時間も閉店時間もあるのだが、何時何分に行かなければならない、というのがないのがいい。要は50歳を過ぎようがなんだろうが、あの頃とちっとも変わっちゃいないのである。だから目的地にわき目もふらず真っ直ぐ行こうという人、道中キョロキョロしない人と一緒に行動するのは、ひどく苦しい。おそらく、そういう人にとって「道中」は、おそらく「無駄」なのである。こっちはそうではない。目的地に着かなければならないのは分かっている。分かっちゃいるが、目的地に着くよりも、その「無駄」な「道中」の方がむしろ大切なのである。
 
「人」は中枢的身体を持っている。中枢的身体は、その身体が行う行為を、より効率良く行うために、行為のために「有効」な「知覚」を残し、それ以外の「知覚」を排除、選別する。そりゃそうでなくてはならないのだろうが、「人」という生き物の中に、自分にとって「有効」なものを「選別」し、「無効」なのものを「排除」する機能が搭載されていることに絶望的な思いを抱えている。このあらかじめ搭載された機能に抗おうとするのが、「知」と言うことになるのだろうか。一冊の本を読み始める。読み始めれば、あちらこちらを刺激され、連想のようにその本を読み終わらないうちに別の本に手を出すことになる。別の本を開けば、そこからまた別の本へ…。こうして一冊の本は読み終わることがない。そんな読書が面白い。読み終わったらからといって、それがどうだと言うのだろう。そんな読書が面白い。

しもた屋之噺(263)

杉山洋一

今年の大晦日は雨です。とは言っても凍えるような寒さではなく、摂氏8度もあるから、暖冬とよべるでしょう。コロナ禍以来、年の瀬、恙なく一年を過ごした実感などすっかり消え失せてしまいました。ここ暫くウクライナの戦場から送られてくる凄惨な情報で気が滅入っていたところに、今年の秋からは、爆撃された病院であったり、傷ついた乳幼児の映像ばかり目にするようになり、新しい鬱の襞が自分の裡に育っていて、ぞわぞわ毛羽立っているのを感じるのです。最近はウクライナの劣勢を伝える報道が多くなり、教え子の海外在住のウクライナ学生まで召集されないかしらと、薄く慄いてもいます。

12月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院で、イタリア全国の音楽院で選ばれた優秀作品を集めた演奏会。イヴァンとファビオ、ガブリオが審査して最優秀者を決めた。ちょうどケルンから岸野さんがイヴァンの古希を祝いにミラノを訪れていて、演奏がおわると顔を出してくれた。昨夜は彼女とコロンボ・タッカーニ夫妻、ボノーモと一緒に、ミラノの和食レストランで鰻重に舌鼓をうった。
どういうわけか、息子が「水牛」を読んで、なぜ自分を「愚息」と書くのか、「愚息の愚はおろかという意味だろう」と言われ応対に窮す。まあ、その通りだが通例だと体裁を繕う傍ら、家人が大笑いしている。

12月某日 ミラノ自宅
普段なら余り夢は覚えていないが、昨日の夢だけは未だに鮮明に思い出せる。こんもり盛り土された、案外背の高い堤が真っ直ぐ伸びていて、這っている単線のレールを古い1両のディーゼル車が走ってゆく。目の前は見通し良く開けていて、一面大きな池が広がっている。空は澄んだ青空。水辺には背の高い葦がたくさん茂っている。
先ず、そのローカル線の車内から、そのうつくしい風景を眺めてから、池に沿って、水辺を歩いた。近くでみると、葦は自分の背丈より高くてびっくりする。どこからともかく、「ねえ、きれいでしょう」と明るく、そして優しそうな雨田先生の声がする。そうだ、雨田先生のお宅はこのすぐ近くにあって、夢で先生に会いにきたのだった。先生の姿は見えなかったけれど、会いに来たのは覚えている。
先生は今、あののんびりとして素敵な場所で憩っているにちがいない。

12月某日 ミラノ自宅
早朝、運河沿いを散歩していると、暫く見かけなかった魚影が戻ってきていた。水草が繁茂しているあたりに、隠れるように固まって泳いでいる。30センチを超える成魚から、数センチたらずの稚魚まで併せた数十匹単位のコロニーがあちこちに形作られていて、一種の家族のようなものか。こんな寒い最中、何故、わざわざ姿を隠すのだろうかと訝しく思っていると、その視点の先には、鴨の親子が悠々と泳いでいた。あの魚はウグイかクチボソの類なのだろう。

12月某日 ミラノ自宅
何しろミラノに戻ると、溜まっていた授業をこなすために、朝から晩まで学校に残らなければならない。学校にも作曲の道具はもってゆくが、休憩すらままならないから殆ど捗らない。
夜、やっとの思いで家にたどり着くと、困憊で作曲も出来ない。だから夕食を摂り、倒れるように布団に入り、朝早く起きてから学校に出かけるまで作曲する。どうか霊感が下りて間に合うように祈ってほしいと家人にいうと、あなたの作曲ってただ規則通り書いているだけだと思っていた、と言われる。それから息子に向かって、「お父さん大変らしいわよ。あんたもお父さんに作曲の霊感が下りてくるよう神様に祈んなさいよ」、と揶揄される。ガザの地下トンネルにイスラエル軍が海水注入との報道。

12月某日 ミラノ自宅
寒くなってくると、ポロ葱のスープやらひよこ豆のパスタのような田舎料理が身体をあたためる。息子はアマトリチャーナが好物でしばしば作るが、こちらは肉を食べないから彼の分だけ調理する。パスタだけ多めに茹でて、パスタと一緒に何か余っていた野菜でも茹でて、その野菜とパスタを皿に盛り、パルメザンチーズもふんだんにかけてから、生徒の実家で作ったオリーブ油をかけて食べることもあるが、アマトリチャーナよりよほど美味だとおもう。
アマトリチャーナは豚の頬肉をそのまま火にかけ、そこから染み出させた脂をワインで軽く伸ばし、トマトソースをつくる。毎回、きつい脂の匂いに閉口しながら作り、味見も一切しないが、最近息子はこの類のトマトソースのパスタをよく食べる。

家人が日本に発ったので、息子の滋養強壮を優先しながら、いかに簡便に息子と二人の食事を用意するか考えていて、ピッツァ職人風ソースなら、主菜の肉とパスタを同時に用意できて便利だと気が付いた。ピッツァ職人風ソースも同じトマトソースだが、10分ほどかけてソースを用意すれば、パスタを茹でている間に薄切り牛肉をそのソースで調理し、パスタをソースと絡める直前に、肉を取り出して息子の主菜皿に盛り付けて、残ったトマトソースにパスタを絡めれば、別皿でパスタも食べられる。どことなくソースに牛肉の匂いは残っていても、トマトソースだけのパスタであれば息子と一緒に食べられて、一石二鳥。こうやって簡便に二皿用意するのが、本来あるべきピザ職人風ソースの姿だろう。ところが、後で食べると肉が固くなるからと息子は順番を無視して、先に主菜の肉を食べきってから、パスタに手を伸ばす。ともかく、彼との二人暮らしではパスタ料理が多くなりがちで、体が重くなって仕方がない。
学校に行く前日の晩には米を炊く。朝起きたときに一晩解凍して水気を切っておいた冷凍のサーモンのフィレに塩をまぶして二枚焼き、同時に卵焼きもつくる。学校に行く日の昼食は何時も同じだが、献立を考える手間もなく、時間も計算できてよい。
この塩鮭の一枚は弁当に入れ、もう一枚は息子の昼食になる。卵焼きとご飯で朝食を摂り学校に出かける。学校の教室は天井がとても高く広いので、冬は暖房が効かず寒い。温かい紅茶をポットに入れて持参するのは必須である。

12月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、或る伊文の邦訳を日本女性3人と続けていて、これが実に面白い。原文は女性が主人公の官能的な内容を、男性が書いている。今回それを、まず男性が粗訳してから、女性3人と一緒に練り上げているのだが、特に生理的な表現に関して、女性が女性自身の感覚で選択する表現と、男性が想像力を逞しくて女性の感覚を形容する表現とのあいだには、常に微妙な差異が生まれて興味深い。主人公の女性の感覚について、彼女たちは自分事としてずっと切りこんだ大胆な表現をする。
最近、性自認不適合が社会問題視されるようになったが、いわれのない差別根絶は当然ながら、もってうまれた男女の感覚差は、むしろ大切にしたい。必要なのは、相手への思いやりだけである。
本年、イタリアのクリスマス商機は低調との報道。物価が異常な物価の高騰だから、当然だろう。

12月某日 ミラノ自宅
夜明け前から居間の大きな食卓で仕事をしている。夜が明けるかと思しき7時半ころ、庭に面した窓にリスが二匹やってきて、じっとこちらを見つめていて、気が付いたところでクルミをやる。こちらが仕事に没頭していて気が付かないでいると、やがて尻尾でバンバン鉄の手すりを叩いて注意をひく。リスはしゃがれた声を出せるのだが、警戒していたり、諍いのときにしか出さず、食事をねだろうとすると、これはどういうわけか無言である。尤も、至近距離からまんじりともせずこちらを凝視しているだけで、充分な威圧感を醸し出すのだから大したものだ。

12月某日 ミラノ自宅
指揮レッスンの前日、夕食の支度をしていると、学校から帰ってくるなり、息子が「ベートーヴェン1番の冒頭の和音は四度調のドミナントでしょう」と言うのでおどろく。明日初めて「兵士の物語」を読み始める予定だが、息子曰くそちらは自信があるそうだ。ピアノのレッスン前にそんな台詞を聞いた記憶はないが、どういうことか。
ヴァーギ先生から先日頂いた採りたての自家製蜂蜜は、ねっとりと濃厚な味わい。家人が好物のOsellaのクリームチーズと併せてパンにつけて食べると、極上の味。
蜂蜜を採集しようと彼が自分の養蜂場へでかけたところ、巣箱には蜂の姿が全くみえない。何かに追われたのか、蜜を巣箱に残したまま旅立ってしまったらしい。本来、半数の蜂は巣箱に残って巣箱を管理し、巣を離れる半数は蜜を栄養源として取ってゆく。今回、蜜は手付かずのまま残されていたから、蜂たちはどこかで息絶えてしまう恐れがある。
息子とは、テレビで見たスカラ初日「ドン・カルロ」の話。どこかスペイン風の演出に感じられたのは、ウィスキーだったか、昔のテレビコマーシャルを思い出したから。小人ダンサーやアルルカンが登場して、たしかガウディがテーマだった。

12月某日 ミラノ自宅
息子も日本に発った。無人の自宅の鍵を開けながら、ちょっと新鮮で不思議な感覚にとらわれる。誰もいない自宅は珍しくないけれど、普段であれば、家そのものが、そのうち誰かが家に帰って来る、という雰囲気を醸し出している。
年末の散髪帰りだからか、その昔ミラノを訪れた家人から、出し抜けに散髪されたのを思い出した。当時、彼女は人の髪をカットするのが楽しみだったからだが、当時は一文無しで、よほどむさ苦しい格好をしていたのかもしれない。
年末というと、息子が小学生だったころ、しばしば二人でキャヴェンナへ出掛けた。大晦日、二人で小さなホテルのレストランで、慎ましくも美味な夕食に舌鼓をうち、きれいに飾られたケーキを食べるのが、年越しと洒落こんだささやかな贅沢だった。
元旦早朝、夜明け前のバスで北上してアルプス、マデージモのスキー場に息子を連れていったこともある。それよりずっと後、3月くらいの初春に、マジ―ジモで息子にそり遊びをさせた記憶もある。秋だったか、日本から訪れた母を連れてキャヴェンナからスイス・アルプスまで遠出もした。
思えば家人と三人で、お金もないのに随分あちこちに出かけたものだ。早晩、そんなことも出来なくなると分かっていたからかもしれないし、暇を弄んでいただけかも知れないし、単に自分が父にしてもらったことを息子にしたかった、言ってみれば単なる自己満足だったのかも知れない。一人でいると、様々な記憶があちらこちらからひょっこり顔を出す。
いつしか、毎朝、世界の戦争のニュースが流れるのが普通になってしまった。次第にニュースを読むのも聞くのも嫌になってきている。世界保健機構、4割ガザ市民が食糧不足と発表。

12月某日 ミラノ自宅
締切り過ぎたファゴット曲を書く。朝起きてそのまま作曲をはじめ、気が付くと日が暮れている。昨日は朝食も昼食も食べ忘れてしまった。今日も昼食を食べなかった。昨夜は作業しながら、ポロ葱とインゲン豆、それに残っていた屑野菜で簡単なカレーを作ったので、今日は朝も夜もその残りをたべた。冬らしく、固くなったパルメザンチーズの外皮とツナも一緒にトマトソースで煮込んでから、最後にルーをいれる。
ロンバルディア州で、Covidとインフルエンザの感染状況悪化との報道。なんでも、新種のインフルエンザはLa long flu、長期性インフルエンザと呼ばれていて、治るのに従来よりずっと時間がかかり、症状も重いという。街中でマスクしている人の数もめっきり増え、ミラノでは12月3日より病院のマスク着用が義務になった。

12月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための新作は、一柳さんの迸る才気をおもいだしながら、あたかも一柳さんの作品を演奏している心地で書いた。一気呵成というか、音楽が自分をドライブするような感覚にとらわれた。

野坂さんのための曲は、操壽さんと惠璃さん、お二人の演奏を想像しながら、もっと触感で書いた。25絃の独奏は初めてで想像以上に調絃をきめるのに苦労したが、それは当初絃が多すぎると感じられたからだ。ところが、実際書き始めると妙なもので、他の筝のときよりずっと押し手が多くなってしまった。
ところで、仕事机には、操壽さんのお葬式でいただいたカードがおいてあって、その表には祈る聖女の姿が描かれ、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」、そして操壽さんのお名前と洗礼名、生没、洗礼、改宗年月日などが書かれた12cm
x 7cmほどの小さなカードで、日本のカトリックのお葬式では普通に配られるものかもしれない。
いま見ると、聖女の挿絵の左下にはPax-6と印刷され、右下にはほんの小さく、Bonella Milano Copyright F.B. Printed in Italyのロゴマークが入っていた。Fratelli Bonella社は1931年からカトリック関連の印刷物を扱っているミラノの老舗で、このカードがミラノと所縁があったとは、まるで気付かなかった。描かれている聖女も、操壽さんに洗礼名を授けた聖女と関わりがあるのだろう。

塚原さんのためのファゴット曲では、その前に旋法色の強いものが続いたので、敢えてそこから少し身を遠ざけている。当初、叙情的な曲を書こうとファゴットを選んだが、後になって奏者の超絶技巧に焦点をあわせたプログラムだと知った。
先の見えない毎日をやり過ごすのは運河の閘門を進む船に似ている。閘門を閉め水位を調整する間、先の風景はおろか、目の前に見える風景が運河の両壁だけに制限されることだってあるだろう。
この日記を書くのも同じだが、日々の雑感を楽譜に取り留めなく書きつけているだけであっても、以前は影も形も存在していなかったものが、いつしか何某か目に見える形に具現化されているのが興味深い。

12月某日 ミラノ自宅
先日のロシアからの攻撃により、キーウだけで少なくとも23人死亡との報道。ウクライナ全土あわせると、この日だけで42人もの市民が犠牲になったと報道が更新されている。翌日はウクライナからベルゴロドへの報復攻撃があって、市民から22人もの犠牲者がでた。今朝がたのあたらしいロシアからの報復攻撃が、今日のガザの難民キャンプ爆撃とともに報道されている。
もちろん世界の紛争はこれだけに留まらない。アフリカからイタリアへ鈴なりの船で渡航する難民、亡命者は増え続けるばかりだ。
このように、我々の生命はとどのつまり、数字へと変換されてゆく。数字として理解され消化されてゆく。日記や曲を書いてみたり、録音を残そうとするのは、無意識ながら子孫を残そうとする本能に近いかも知れない。自分が土に返ったとき、ささやかながら生きた証をどこかに残したいと思っているのではないか。

12月某日 ミラノ自宅
夜半に楽譜を送ってから、なぜ軽々しく仕事を引き受けてしまうのか暫し沈思する。作曲も日本語も書いていなければ忘れてゆく。その忘却が社会に迷惑をもたらすわけではないが、いよいよ死ぬ段になったとき、自らの裡にひろがる空洞に気が付くかもしれない。
書けば腕のあがる類ではないが、書き終えてこそ見えてくるものはある。無限に続く、ほんのささやかな試行の繰り返しだ。書くときくらいしか頭を使っていないとすれば、単に自分は仕事量が少なすぎると気が付いて、暗澹とする大晦日。

12月31日ミラノにて

229  日記

藤井貞和

蘖曜日
 ひこばえを剪る
哥曜日
 うたを送る
翠曜日
 みどりの糸を垂らす
黙曜日
 沈鬱な高校生
忻曜日
 よし、今週こそは
努曜日
 実りますように
 
(受験生の季節。頑張ってね。)

不連続、跳び跳びに

高橋悠治

ピアノの鍵盤に指を下ろして手を動かす、と想像しながら、紙に音符を書く。1950年代の終わりというと、もう70年も前になるが、その頃から作曲をしているのに、全然馴れない。あの頃も、まず楽器の組み合わせがありきたりに思えて、そこに音符を書き入れることが、なかなかできなかった。

ピアノを弾くほうも、滑らかな動きが気に入らなくて、この音をすこしだけ際立たせ、あの音はちょっとだけ遅らせて、と毎回ちがう細部に気づいているうちに、飽きてしまう。同じ動きを繰り返して手を慣らし、その動きを使って、というより、そのように動く手は半ば忘れて、全身がゆっくり揺れ動く波に乗って漂う、それが音楽の時間であるように、と書いてみるが、その感覚は伝わらないだろうな。

何日もぼんやりして過ごしている。何か仕事があれば、小さく細かい部分を磨いて過ごすかもしれないが、コンサートも作曲も、仕事が減っている分、世界に何が起こっているのか、毎日いくつかのニュースサイトを見ていると、日本のメディアはウソとお笑いしかないような印象を受ける。世界は激しく変わる時期に入ったが、日本は沈んでいく側の最後列にいるらしい。

一つの世界が壊れて、多くの破片になれば、統一や安定を探すのではなく、部分的で多彩な組み合わせ、あるいは矛盾を含んだ運動の、故障・中断・脱落など、未完成なまま放り出された箇所をそのままに、イメージで埋めるか、それとも躓きと片足跳びで隙間を残すか。綻びのある線を絡め、撚り合わせて。

ことばが滑ってゆく。そのまま手から離れないうちに掬いあげて。