芽ライオン

芦川和樹

微ソーダ△△がアルファロメオ喉を燃やす
燃えないや。立ち漕ぎするしかない。夏
に向かって、キャラメルは消滅するかも
直面するもの、直面。するもの、すもも
をニードル(蜂、の丈夫なやつ)などで
つついて口→胃に届ける。
肌は、太陽だと思うものを跳ね返すのよ
不安定な、不安定できらきらするソーダ
△△がころぶ。床で、眠るマンモス
冷えそうだからスリッパでいく(か
煙を踏む、足。エスカレーター(さ

長葱、菜の花、長葱、菜の花…
バス停が傾いて、こっち見てる?
たましいのようなものは
昆虫
せめて
斧を持つ(角つ、の。たましいのような)
斧を追加します(オオカミ→ライオン!)

フグは船だ、食事付き
三半規管よわよわで
たんぽぽしかいらない。たんぽぽ料理を
ください。それを見て、過ごす
春夏
なにかを読む。読めるときもある食玩
の蔕へた。アメーバ ※
ラベンダーを溶接する。ラベンダー畑
として会う。台所の花瓶。開花する布
オ)リーブをかざして開く扉
鴨、角行灯かくあんどん、鴨、角行灯…
めまい
船(フグ、フグ)を
光にかかわるものとして枕にすると
焼いた林檎の夢でもいかが
お皿に載せてくださいどうも、なんていう
甘いものがすきですアジサイがまだUFO
で、天使がたむろするかいだん
わかる。快諾である。いただきますナイフ

※眼   天    砂
  鏡  使   漠
 で   か  を
  見る    歩
        く
ナイフを使う。喉仏には、金魚鉢と床のあいだに残ったというか、いまある光の帯が(普通)生息域で、鋏はさみ。蛋白の流出。えんどう豆は煙突を掃除する仕事をしていました。木製の木星しっかりした金星。が前転する、アルバムはないけど覚えている。と思っている。アスファルト(のア)。食品は、友人が人でなくても困らないぜんぜん。そしてライオンを起こす→ロウソク!(子どものためのライオン)よろしくお願いしますこれから。芽があう。ドラム

紫陽花とポチ

植松眞人

 ポチがうちに来てもう十八年たった。ポチも歳をとったが私も歳をとった。出会った頃は四十五歳だった私も還暦を過ぎた。
 私たち家族がひょんなことから手に入れた中古の建て売り住宅に引っ越したその日、ポチはうちに来た。来たというよりも、段ボール箱に入れられて軒先に置かれていた。
 仔犬のなく声に引き寄せられた子どもたちが見つけて、少し温めた牛乳をもらって飲むと、仔犬は小さく尻尾を振った。その姿にやられてしまった子どもたちは、すっかり自分たちで飼う気になっていたが、私と妻は乗り気ではなかった。何人かの知り合いに電話をかけて、可愛い仔犬がいるんだけれど、と言ってはみたが見事に断られた。挨拶がてら向こう三軒両隣に仔犬の話をしたのだが、これも気の毒そうな顔をされて終わった。
 さすがに、引っ越してきた当日に出会った仔犬を保健所に差し出す気にもなれず、妻も仏心を出して承諾し、結局、ポチはうちの飼い犬になった。ポチという名前は私がつけた。一家の主人である私はお前を飼うことに乗り気ではなかったのだ、という意思表示のようなつもりがあったのかもしれない。十八年の間、なんどか犬の名前を問われ、「ポチです」と答える度に笑いをこらえられたり、あからさまに笑われると、自分が適当に名付けたことを責められているような気がしたものだった。
 十八歳のポチが私の目の前を歩いている。真っ白い毛を揺らして歩いていたポチの毛も、最近ではツヤを失い、少しゴワゴワしてきた気がする。明らかに雑種なのだが、ポチはどんな両親をもった犬なのだろう。若い頃よりもヨタヨタと歩くポチの後ろを同じようにヨタヨタと歩きながら、私は初めてポチの両親に思いを馳せた。けれど、頭に浮かんでくるのはポチの両親ではなく、私自身の父と母の顔だった。どちらもすでに他界しているが、そう言えば、二人とも犬が苦手だった。母は犬などの世話をすることが嫌いで、子どもだった私が金魚を飼いたいというだけで世話が大変だと反対した。父は嫌いと言うよりも犬が怖かったのだと思う。子どもの頃に噛まれたことがあると聞いていたのだが、前から犬が歩いてくるだけで、路地を曲がってしまうほど犬との接触を避けていた。そんな両親から生まれ育った私が、十八年もポチを飼っていますよ、と私はポチの尻の穴を眺めながら天国の両親に声をかけたい気分だった。
 子どもたちはとっくに家を出て、ポチの散歩は三年ほど前から定年退職した私の日課になった。しかし、この三年の間にもポチの足腰は明らかに弱っていた。ときど、立ち止まってみたり、引き返そうとすることもあった。そんなとき、ポチは私を振り返り情けなさそうな顔をした。私はそんなポチの情けない顔と尻の穴を交互に見ながら、歳をとったなあお互いにと声をかける。
 いつもの散歩道が公園に差し掛かる。舗装されていない土の道の柔らかさが心地良い。ポチも同様なのか、いつもこの公園に入ると、足取りが軽くなる。朝、ほんの少し降っていた雨が土を濡らしたからか、しっとりとした空気が散歩道を満たしている。ポチがちょうど見頃の紫陽花に鼻っ柱を近付ける。水滴が鼻につく。ポチは顔を左右にふって水滴を払う。その動きで、紫陽花が大きく揺れて、たくさんの水滴が飛び散り、ポチにもかかる。ポチは驚いて、紫陽花から跳ねるように離れて小さく吠える。
 ポチが私の家にやってきたのもちょうど紫陽花が咲いている季節だった。うちにはなんの花も咲いていなかったが、隣の家の花壇にいくつかの紫陽花がきれいに咲いていた。
 そうか、あれから十八年か、と私は紫陽花とじゃれているポチを見て笑う。そして、笑いながら、やっぱり歳とったなあ、ポチ、とポチの尻の穴を見ながら思う。(了)

花の咲くを見て

越川道夫

梅雨入りのニュースを聞くようになって、烏瓜が花を咲かせ始めた。紅く熟れていく小ぶりの実も好きだけれども、独特の形状を持つこの白い花をわたしは偏愛してやまない。昼間のうちは魔法の杖のような形状の蕾を固く閉じているが、日没が近づくと先端から割れるように綻び始め、糸状のまるで触手のような花弁の縁が伸び切るまでおよそ30分か40分ぐらいだろうか。暗さに反応して夜にしか咲かず、咲いても一夜だけ。夕方に咲き始めた花は、午前0時過ぎにはもう触手のような花弁の先を丸く縮らせてしまい、もはや閉じていく風情である。夜半に雨などが降り、糸を完全に閉じることができず葉に張り付いたままになっている姿は凄惨なものがあるが、それもまた美しいと思わずにはいられない。
 
世阿弥の『花伝書』をぱらぱらと拾い読みしていると、「花伝第七別紙口伝」の有名な一節にぶつかる。「この口伝に、花を知る事。先、假令、花の咲くを見て、萬に花と譬へ始めし理を辨うべし。抑花と言ふに、万木千草に於いて、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しき故に、翫(もてあそ)ぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり」と。花が咲くのを見て、あらゆることを「花」という比喩で表現したその根本の道理を理解すべきである、と言うのだろうが、この「花の咲くを見て」に引っ掛かる。引っ掛かると言うのも変だが、世阿弥が一輪の花を前に端座して、蕾から花が開き切り、やがて萎んでいく姿を凝っと見つめ続けている姿を思い浮かべてしまうのである。それはいつ始まるのかも、どのようになるのかも、いつ終わるとも分からぬような時間であり、凝視である。しかも、見ている彼にはそれはどうすることもできない。始まりも終わりも花、次第。花が開くと言うことに、そのことだけに奉仕するような時間なのだろうと思う。馬鹿なことを言うようだが、こういう一文に出会うと現代に生きる私は、すぐに花が開く姿を微速度撮影してわずか数分で引き切る映像を思い浮かべる。確かにそれは美しく神秘的で、労力もかかった映像なのだが、その美しさはカメラの技術が作り出した、誤解を恐れずに言えば「幻術」なのである。花は決してあのようには咲かない。世阿弥の時代には、このような技術もカメラもないのだから当たり前といえば当たり前だが、微速度撮影された花の開花の映像を見るのとは、それはまったく別の経験なのだ。世阿弥が「花の咲くを見て」と言う時、彼はまさにいつ果てるとも知れない時間を、花と供にしている。それは一体どのような経験なのだろうか。
 
ここまで書いて思い出したことがある。小学生の頃だったか、今ではさほど珍しくはないのかもしれないが、近所の月下美人が咲きそうだからと言って、家族で見に行ったことがある。烏瓜と同じように、月下美人も夕方から咲き始め、朝には萎んでしまう花である。ひと鉢の月花美人を囲んで大人たちは酒とつまみである。子供だったわたしたちも遊びながら花の開花を待つことになった。やがて、18時を過ぎた頃だろうか、ゆっくりと蕾は綻び始め、満開になったのは22時ぐらいだったろうか、4時間ぐらいをかけて、強く香る白く透き通るような花は開きり、私たちもまた散会となった。もちろん、世阿弥のように凝っと花を見つめ続けていたわけではない。しかし、月下美人の開花を見るのは初めてで、花が開き切るまで一体どのくらいの時間がかかるものなのか、さっぱり見当もつかなかった。おそらく大人たちも同じだっただろうと思う。月下美人の開花を待っていたあの時間は、どういう時間だったのだろう。今夜は咲かなかったね、ということもあり得たと思う。ただその時、わたしたちの時間は、いつ咲き、いつ咲き切るかも分からない「花の時間」と共にあったのである。
 
どんな花も「その時を得て」咲くべき時に咲く。それが、いつなのかわたしたちには分からない。花は花自身の都合で咲く。私たちの意図とは無関係に。花は「宇宙的時空の絶対的必然の瞬間に、ふと、咲く」(観世寿夫)のである。烏瓜は今日も蕾を膨らませていた。

水牛的読書日記2024年6月

アサノタカオ

6月某日 月刊『地平』創刊号を神奈川・大船の最寄りの書店、ポルベニールブックストアで購入した。《コトバで新たな地平をひらく》という編集部のメッセージが誌面に大きく印刷されている。創刊特集は「コトバの復興」、もうひとつの緊急特集は「パレスチナとともに」。社会思想史の研究者・酒井隆史さんの論考「“過激な中道”に抗して」、現代アラブ文学、パレスチナ問題を論じる岡真理さんの「ガザ 存在の耐えられない軽さ」など読みごたえのある記事が多い。

本誌には、4月に刊行した拙随筆集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)の書評が掲載されていたのだった。書店員によるリレー書評「個と場と本」で、評者は京都・鴨葱書店の大森皓太さん。

《風を感じる本》《著者が旅と暮らしの中で受け取ってきた「さびしい」という言葉は、まさにそうしたうつくしさを放つ詩の言葉である》

素晴らしい評のことばを贈ってもらってうれしかった。と同時に、メディアの世界に華々しく打って出た話題の雑誌で、こんな少部数で地味なスモールプレスの本が取り上げられることに正直驚いた。

6月某日 近所のジュンク堂書店藤沢店に行くと、詩集コーナーに「山尾三省」の棚差し著者名プレートが設置されているのを発見し、感無量だった。ついに、「山尾三省」が書店でひとつのジャンルとして認められるようになったか、と。前職で三省さんの詩文集『火を焚きなさい』『五月の風』(野草社)など生誕80年出版企画の編集を担当したのだが、当時、ひそかに目標にしたのがかれの著作を「ジャンルとして確立すること」「海外で翻訳紹介すること」の2点で、これでどちらも実現した。翻訳紹介に関しては、再編集された詩文集の韓国語版が刊行されている。

最近も、詩人の大崎清夏さんが雑誌で『火を焚きなさい』を紹介してくださり、読者の輪がさらに広がっていると伝え聞く。いまも思いがけないところで、2021年刊の三省さんの講義録『新装版 アニミズムという希望』(野草社)を読んだという若い世代の人たちと出会うことがある。屋久島で生きた詩人のことばを、それぞれの土地で生きるための道しるべにしてくれているのだ。

6月某日 京都へ出張。四条通り近くの徳正寺を訪問し、建築家の藤森照信が設計した茶室「矩庵」で取材後、住職の井上迅さんやお母様からいろいろな昔話を聞かせてもらった。井上さんは、筆名・扉野良人として文筆と編集をおこなう。著書に『ボマルツォのどんぐり』(晶文社)。井上さん=扉野さんが主宰するプライベートプレス「りいぶる・とふん」から刊行された詩誌『百年のわたくし』を入手した。徳正寺を辞し、地下鉄の車内で『百年のわたくし』のページをひらくと、ほんのりとお寺の香りがした。メアリルイーズ・パターソンの講演録「まだ、叶わぬ夢 アフリカ系アメリカ人の解放闘争とラングストン・ヒューズの詩的ヴィジョン」や、ぱくきょんみさんの詩を読む。

夜はこもれび書店で、拙著『小さな声の島』の刊行記念トークイベントをおこなった。文筆家の大阿久佳乃さんとの対談で、テーマは「さびしさ」について。「望まない移動を強いられる人の旅と、観光旅行者の旅のちがいとは?」と大阿久さんから本質的な問いを向けられたのだが、十分に応えられなかった。考え続けたい。参加者や、準備をしていただいた関係者のみなさまに感謝。終了後、大阿久さんの通う大学の仲間や、京都の知人友人と歓談した。

こもれび書店は、丸太町駅から徒歩3分とアクセスがよいシェア型書店で、イベントスペースもある。雑誌『K』を刊行するNPO法人Knit-K(ニッケ)のおふたりが営む、人の温もりを感じる本の空間だった。また訪れたい。

6月某日 《誰かにとって羅針盤のような言葉に出逢う場所となることを願い、開店します》。快晴の京都の朝、東九条にオープンしたばかりの鴨葱書店を訪問。店主の大森皓太さんが、月刊『地平』に拙著の書評を寄稿してくれたのだった。お礼を直接伝えることができて一安心。古い平屋の建物を改装した店内に、多すぎず少なすぎず程よい冊数の本が並んでいる。土壁があり緑があり、気持ちのよい風が流れる空間でゆっくり書棚を拝見。

《羅針盤のような言葉》に出会いたい。そう思って書店で購入したのは、文芸評論家・宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』(ちくま文庫)。冒頭の一編「打算的な優しさと「○を作る理論」」からして日々の暮らしと地続きのところにある知性に裏打ちされた名文で、心がぐっと引き込まれる。とてもよいエッセイ集で共感することしきり。

京都駅からバスに乗って銀閣寺方面へ移動し、ホホホ座を訪問。店内で開催中の香港生まれの漫画家・イラストレーター、リトルサンダーさんの『KYLOOE』原画展を鑑賞し、店主・山下賢二さんの『にいぜろにいぜろにっき 11がつ』を購入。「昨日、徳正寺に行きました」というと、「井上さんはぼくの高校の先輩なんです」と山下さんがおもしろいエピソードを聞かせてくれた。

ついで、歩いて古書・善行堂へ。山本善行さんと出版や文学のことについておしゃべりするたびに元気をもらう。よい本を読みたいし、よい本を作って届けたい。明日もがんばろう、という気持ちになるのだ。書物エッセイストとしての山本さんが監修した田畑修一郎『石ころ路』を買った。早世の小説家の3編の作品を収録し、表題作は三宅島を舞台にした小説。灯光舎の「本のともしび」シリーズの一冊で、美しい装丁の本。詩人・荒川洋治さんが執筆した書評のコピーを山本さんに見せてもらい、興味を引かれたのだった。帰り際、「こんど京都に来たら、深夜喫茶/ホール多聞に行ってみるといいよ」と教えてもらった。

京都の誠光社で堀部篤史さんに挨拶し、梶谷いこさん『和田夏十の言葉』(誠光社)を購入。昭和の名脚本家のことばを手がかりにして、日々の感情生活をこまやかに観察する随筆集。これで今回の京都書店巡りは終わり。

6月某日 岩手・盛岡から、さらに新幹線を乗り継いで秋田方面へ。車窓から見える岩手山と田んぼの緑がなんとまぶしいこと! いつかあの緑の中を歩きたい、と憧れの気持ちを掻き立てられる。

秋田・大仙のBAILEY BOOKSを訪問。アロマの香りが心地よい店内、書棚の前で静かで豊かな時間を過ごすことができた。店主の渋谷明子さんにおすすめいただいた、くどうれいんさんのエッセイと小説を購入。お店があるのは大曲駅の目の前で、学習塾の多いエリア。地元の高校生たちもここで本を買い、本を読むというお話を聞いた。

BAILEY BOOKS では、最首悟さん『能力で人を分けなくなる日』(創元社)を面出しで棚に並べている。「いのちと価値のあいだ」をテーマに中高生との対話をまとめた本。最首さんの著作を含む創元社のシリーズ「あいだで考える」の作品はどれも、高校生をはじめとする若い世代の人たちにぜひ読んでもらいたい。読者とのよい出会いがありますように、と念をこめておいた。

盛岡に戻り、駅地下の冷麺店で「温麺」を頼んだ。注文を取ってくれた人に「温麺?」と4回ぐらい聞き返され、不安になる。移動が続いて疲れたので、宿でくどうれいんさんのエッセイ『コーヒーにミルクを入れるような愛』(講談社)を半分ほど読み進める。小説『氷柱の声』(講談社)は家に帰ってから読もう。

6月某日 岩手・紫波町で開催される「本と商店街」という即売イベントにサウダージ・ブックスとして2日間出店。岩手、青森、秋田、東北各地からやってくるお客さんと、本をあいだに挟んでゆっくり語ることができた。

会場の同じ部屋の出店者、rn pressの野口理恵さんのエッセイ『私が私らしく死ぬために』(rn press)を買って初日の帰りに電車の中で読む。凍結した遺体をフリーズドライ機にかけて堆肥化するなど世界の遺体処理方法の最新情報のほか、死のリアル(実務)をめぐる野口さんの洞察やオランダでの体験など読みどころが多い。

6月某日 「本と商店街」の2日目。窓越しに青空が広がる。盛岡駅から始発のローカル線車内で座っていると、出発間際に見覚えのある人物が駆け込んで来た。夏葉社の島田潤一郎さんだった。

島田さんは同じイベントに出店していて、昨日はトークをおこなっていたのだが、会場では会えずじまい。「こんにちは、久しぶりですね」と声をかけると、右手をあげて制して「ちょっと……ちょっと待ってください!」とぜいぜい喘いでいる。となりの座席に腰掛けてぜいぜい喘いでいるあいまに、島田さんは紙袋をそっと開いて、「朝から……福田パンに並んで……コッペパンを……買って……どうしても……これ買いたくて……」と3種類の大きなコッペパンを秘密めかして見せてくれた。朝昼晩とひとつずつ食べるそうだ。

島田さんとは3年に1回ぐらいのペースですれ違うようにして会い、短くことばを交わす間柄だ。出版の世界で、ぼくがもっとも尊敬する人のひとり。この日も道中、息を吹き返した島田さんとあれこれおしゃべりしをして楽しかった。楽しかったし、とても大切なことを話したような気がする。紫波中央駅から会場までののどかな道のりをゆっくり歩きながら、本について、本屋さんについて語り合った20分ほどの時間は、風景の記憶とともに脳裏に焼き付いている。

「本と商店街」では、鉱物のような光を放つお客さんの真摯な「まなざし」にいくつも出会った。そういうお客さんとは、セールストークをこえて、真剣勝負のことばを交わすこともあった。出版者として、編集者として、本を通じてこの時代に何を届けるべきか。原点を見つめ直す機会になった。

上海出身のジャズボーカリストと「さびしい」の意味について語り合ったことも忘れがたい。「さびしい」は、中国語では「寂寞 Jìmò」というそう。旅に生きる彼女との対話から、さびしさという感情は必ずしも個人の所有物ではないのでは?という直観が芽生えた。ひとり悲しんでいるようなイメージで捉えられることが多いが、集団的な感情として考えることができるのではないか。これから育んでいきたい問いだ。また、隣県・秋田からのお客さんのなかに、これから地元に本の場所をつくります、という若い人たちが何人かいた。岩手でも秋田でも、本の世界の未来は明るい。

ひとりで店番をしていたので、残念ながらほかの出店者(出版社や書店など)のブースを見ることがほとんどできなかった。30分ほど早く店じまいして複数の別の会場を回ろうと思ったら、天候が急変してあいにくの大雨となり、町歩きをすることが叶わず。いつかまた、出会いの機会が訪れますように。

6月某日 自宅に戻ると、韓国の詩人パク・ジュンの『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』が届いていた。すばらしい詩集で、一気に読み終える。訳者の趙倫子さん、出版社クオンのIさんに感想を伝えた。

6月某日 読書会にオンラインで参加。課題図書はブルカーコフ『巨匠とマルガリータ』下(水野忠夫訳、岩波文庫)。語ることそのものが人間(および猫)に憑依しながら時空を超えて旅するようなSF的な大長編。訳者解説によればロシアで1400万部以上も発行されているそうだ。これにはびっくり。

6月某日 三重・津の HIBIUTA AND COMPANY では、自分が主宰する読書会「やわらかくひろげる」の第12回を開催。こちらの会にもオンラインで参加。宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』の第16章「エメラルドの密林の奥」、第17章「国境の沖」を参加者とともに読んだ。人間のアイデンティティとは何か、それを乗り越えることはできるのか。1年かけて、ようやく壮大な問いのゴールが見えてきた。この自主読書ゼミでは、2021年7月より以下の本を読んできた。山尾三省『新装 アニミズムという希望』、真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)、そして宮内さん『ぼくは始祖鳥になりたい』。10月以降の新シーズンでは、石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)を課題図書にする予定だ。

6月某日 韓国の作家イ・ジュへの作品集『その猫の名前は長い』(牧野美加訳、里山社)が届く。これから読むところだが、解説は大阿久佳乃さんということもあり期待が高まる。『里山通信』1号も届いた。

6月某日 沖縄慰霊の日に詩を読む。

 地中の暗闇から 真夏の青空へ
 やがて父や母たちが 捕虜となって
 はい上がってくる ノミやシラミ
 ウジ虫に喰われた 身体を引きずって
 その母の子宮の中 小さな
 私の命が宿っている
 ガマから生まれた 戦後の命が

 ——高良勉「ガマ(洞窟)」より

6月某日 二松学舎大学での編集デザイン論の授業前、旬の文芸書を求めて機械書房へ。受講生の中には文学や写真好きの学生もいるので、いつか一緒に行きたいと思う。お店では、新しい文芸誌『SLOW WAVES issu03』を購入した。

夜は東京・青山の FLAT BASE で開催された文筆家・編集者の仲俣暁生さんのトークイベント、「「軽出版」は出版の未来を救うか」に参加。こちらについては以下で、レポートを公開している。

https://note.com/asanotakao1975/n/n5776a5c6814a

サウダージ・ブックスの本づくりの姿勢を再確認したいと思って会場に駆けつけたのだが、予想通りいろいろな発見があった。仲俣さんは4月に『橋本治「再読」ノート』という文芸評論の著作を破船房という自主レーベルで出版して販売しており、話題になっている。イベントの前に『橋本治「再読」ノート』と、同じ破船房から刊行された作家・藤谷治さんの『新刊小説の滅亡』を読んだ。どちらもよい本だった。

6月某日 島田潤一郎さんの『長い読書』(みすず書房)を読了。3部構成で、各部から極私的ベストエッセイを選ぶとしたら「アリー、僕の身体を消さないでくれよ」「沖縄の詩人」「そば屋さん」。島田さんの飾らない、しかし魂のこもった文章の余韻を味わううちに、本について本をもっと読みたくなり、永井宏さんの散文集『BOOK OF LOVE』(河出書房新社)を久しぶりに棚からひっぱりだした。

6月某日 詩人の川満信一さんの訃報に接する。サウダージ・ブックスより『マイケル・ハートネット+川満信一詩選』(今福龍太編)を刊行し、それ以来、多くのことを教えていただいた。川満さん、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

 生と死の細い境をふはりと越えて
 その向こうにひょこりと立つと
 あ ここが天国
 あそこが浄土
 ふり向く地獄の無量寿光

 奥やんばるの海に
 切ない涙のような水脈は流れ
 その先はぼう洋とかすむ

 あの岬を過ぎると
 そこから先はもう未知への旅だ

 ——川満信一「風」より

話の話 第16話:なんの話

戸田昌子

誘惑者というのは、こんなふうである。壁の上にあぶなげに立っている。気づいて、こちらに向かって手を振る。だからこっちは、そっちは悪所だからこっちへおいで、と声をかける。するとこっちへ来そうなそぶりをわざとみせる。でも、結局はあちら側へ落ちるのだ。ハンプティ・ダンプティはなぜ壁の上に立っているの? それはアリスを誘惑するためさ。アリス、ぼくはそっちへ行くよ、もしアリスがぼくの相手をしてくれるならね。アリスは近づく。ハンプティ・ダンプティは言う。こっちへおいで、ぼくにそのスカートの中身を、そうでなけりゃその素敵なおつむの中身を、見せてよ。そうやってアリスが近づいたところで手を取ろうとし、その手を振り払おうとしてひっくり返ったアリスは水たまりに落ちて、素敵なスカートは泥でぐちゃぐちゃ。
あれ、そういう話だっけ。

雨が降ったら待ち合わせに行かないんですよ、とショーダ先生が言う。ショーダ先生は装束の研究者で、会うと2回に1回はお着物を着ていらっしゃる。いまは梅雨である。お着物はいろいろたいへん。草履のうえにカバーをかけないといけないし、お着物は高価なものは濡らしてはいけない。「昔の人は携帯電話もないし、雨が降ったから待ち合わせに行くのをやめたいと思っても、連絡もできない。どうすると思います?」とショーダ先生はわたしに尋ねる。「わかりません」とわたしが言うと、ショーダ先生はおごそかに「行かないんです。雨が降ったら、行かなくても約束を破ったことにはならないんですよ」とおっしゃった。

雨が降ったら約束は反故になる、そういう共通理解がある昔の待ち合わせでも、どうしても会いたかったりすれば、これくらいの雨なら、と片方が出かけてしまい、もう一方が来ない、などということはあったのではないだろうか。待てど暮らせど来ぬ人を、などという恋の情緒も、半分は来なくて当然、半分は来るかも、という半々の割合の期待感なのであれば、約束が反故になった悔しさ苦しさにただ心奪われることもないかもしれない。そんな中、濡れそぼってりんごの木の下で待っているうら若い女。恋はまもなく終わる予感を感じているけれど、約束を頼りに雨の中、待ち続けている。そんな中。ちりんと自転車のベルを鳴らして少年が現れたりして。「XXさんは今日は来ませんと伝えてくださいって言われました」なんて、恋のなんたるかも知らないいがぐり頭の少年の無神経な伝言を聞いて、女はさらにその切なさをつのらせ……いやいや、なんの話だっけ。

友達は嫉妬と憧れでできている、そんなことを考える。そのうちの、嫉妬と憧れを強くして所有関係になってしまうと恋人になる。その所有が始まる一線というやつが、セックスで、それは共通項としての所有の合図である(人はそれを愛と呼ぶ)。それが高じると家族になる(人はそれを愛と呼ぶ)。つまり家族は、所有の先鋭化された形態ということ。だから、家父長制に反対するなら、友達は所有してはいけないのだ、とわたしは思っている。なのに人々は「オレ、あいつと友達なんだぜ」というマウンティングをきりなく続けている。そんなふうだから、わたしは、友達とはあまり親しくしないようにしたいと思っている。高校生のときの仲の良い友達とは当時、学校以外で会ったことはほとんどなかった。それをするとなにか「特別」な関係になってしまうような気がして。そんなふうになったら、お互いがいつも所有の程度を測り合って、気が合うかどうかを確認しあう、つまりは恋人同士みたいな関係になってしまうではないか。そんな考えだから、わたしは、待ち合わせに友達が遅れることや来ないことについては、気にすることがない。だって、そもそも、約束でお互いを縛り合うことはしないほうがいいのだから。だから大学生のとき、四ツ谷駅のホームで友達と朝9時に待ち合わせて、6時間待たされたときも、わたしは怒らなかった。そもそも彼女は遅刻魔だったし、1時間くらいは遅刻するだろうとふんで、本を4、5冊、持って出かけていた。しかし1時間経っても来ないので、公衆電話から電話をかけたら「いま起きたところ!ごめん!」と言って、なかなか来ない。3時間後に電話をかけると、「今準備していて出るところ、ちょっと用事片付けてから行くから!」そう言って結局、彼女が来たのは午後の3時。「ごめーん!」と現れた彼女に「大丈夫だよ、本読んでたから」とにっこりしたら、「その余裕の笑顔がむかつくー!」と怒られた。いやいや、なぜよ。

携帯電話のない時代には、待ち合わせが成功しないこともよくあった。わりと素朴な人間なので、ナンパだったことに気づかないまま、朝の通勤電車で知り合った男性に家の電話番号を渡してしまい、ディズニーランドに行こうと誘われた。なぜか西千葉の駅で待ち合わせることになり、約束通りにそこに行ったつもりが、到着時間を読み間違えて30分遅れた。しかも待ち合わせ場所がよくわからない(昔は「駅で待ち合わせね」ということがよくあった)。うろうろしてはみたが、結局は会えずじまい。しかし出かけた以上、家に帰っていろいろ聞かれるのも面倒なので、そこから友達に公衆電話で電話をかけた。これからどっか行こうぜ。いままだ寝てるから起きたら行くわ、新宿の西口で待ってて。そう言われてそのまま新宿駅へ。しかしなかなか来ないので、駅のキオスクで文庫本でも買おうと、回転式の本棚をぐるぐる回しながら選んでいたら、目についたのは『マキャベリ語録』。君主論じゃないのか、と思いつつ、それを買う。立ち読みしながら待つ。結局、友達は、来なかった。きっと彼女はわたしの「特別」になりたくなかったんじゃないかな。友達でいるには、特別にならないほうがいい、ということもある。

梅雨入りしたというのに、傘をなくしてしまった。いや、わかっているのだ。バスの車両に置き忘れてしまったのだ。なぜ手放してしまったんだろうね。気に入っていた傘なのである。MARVELのマークがついている、赤と黒の折り畳み傘。細くて赤い取手が「し」の字に湾曲していて(あるいは「つ」の字かもしれない)、しっかりとした作りのもの。電車では「棚に載せましたおにもつ、手すりにかけました傘など、お忘れ物のないようにお気をつけください」と車掌が連呼しているシーズンだというのに、うっかり置き忘れてバスを降りてしまった。わかっているのだ。前に同じバスに定期入れを置き忘れたときにも、かなり遠方の遺失物保管所まで取りに行ったから。そんな遠くまで行っている時間はない、諦めよう……。でもあの傘にはちょっと思い出がある。ホリイさんと京都のギャラリー「PURPLE」で初めて会って、パーっと話が盛り上がって「担々麺食いに行こうぜ!」となったときのこと。帰り、店を出たら、雨が降り始めていた。「じゃあまたね」と、傘をさして帰るわたしの後ろ姿を見ていたホリイさんは、そのとき、まるで戸田さんはメリーポピンズだ、と思ったのだ、と後になってわたしに言った。わたしがそのときさしていたのはMARVELの傘だったというのに。

でも、メリーポピンズって、おばあちゃんだよね。そういう意味なの?とわたしが尋ねるとホリイさんはあわてて、「いや、映画のほうのメリーポピンズ!」とフォローする。でも、そのメリーポピンズは、ホリイさんたちと別れたあと、彼らの姿が見えなくなったあたりでコンビニへと吸い込まれ、そこで500ミリリットル缶の黒ラベルを2本買って帰ったんだよ。とわたしがそう言ったら、ホリイさんは笑って誤魔化した。

伝書鳩が地図を覚えたら、きっと飛べなくなってしまうだろう。そう言ったのは、ロベール・ドアノーだそうである。出典がわからないままなので、いまでも探している。「あなたがじっとしていれば、人はあなたに会いにくるだろう」というのも、やはりドアノーであるらしい。この言葉は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のなかで、笑い男ことアオイが口にするセリフであるが、その出典はポール・ヴィリリオ『情報エネルギー社会』である。このとき翻訳者が「ドワノ」と訳してしまったため、草薙素子も「ドワノね」と返答するのだが、これがロベール・ドアノーであることは間違いなさそうだ。フレッドに「ドアノーがこんなこと言ってるらしいけど、オリジナルの発言がどこにあるのか調べたいんだよね」と言ったら、「ドアノーはいつだってそんなことばっかり言ってるんだよ」という味気ない返答だった。いつか見つけたい、とずっと考えている。伝書鳩が地図を覚えたら飛べなくなってしまうには違いないが。ところで、と兄が言う。「知ってる? 鳩ってこうやっていつも首振って歩いてるじゃん。だから、鳩の首にギプスすると歩けなくなるんだよ」。鳩にギプス! ああ、なるほど、そりゃそうだな、と納得したところで、「嘘に決まってんじゃん」とちゃぶ台を返された。ああ、わたしはこうやっていつも騙される。

梅雨は鬱々として、気分が晴れないから、どこか近場に旅行でも行こうかね、と夫が言うので、「熱海とか?」と返すと、「そうだね、熱海に行ってパンイチおみやの像でも見るか。ほら、きんいろよるまたって小説のさ」などと言う。それは尾崎紅葉の『金色夜叉』(こんじきやしゃ)の貫一お宮の像のことですね。とわたしがそう言うと、「めぐるめぐるよ時代はめぐる デモと内ゲバ繰り返し 今日は別れたセクトたちも 生まれ変わってアジり出すよ」と歌いながら去っていった。
それは一体、なんの話。

『アフリカ』を続けて(37)

下窪俊哉

 赤い表紙の中に、18年前の、あの「蝶」が蘇っている。『アフリカ』vol.36(2024年7月号)が完成した。今回はいつものように、7/2024 アフリカ の文字が表紙に置かれている。前号は、切り絵の作者・向谷陽子さんが存命のうちに企画されたものだった。向谷さんの急逝によって、追悼号とは呼ばなかったが、そう感じられるものになっていたと思う。これからも『アフリカ』が続くとすれば、次は、おおきな、おおきな再出発の号になる。その表紙には、『アフリカ』創刊の号(2006年8月号)の表紙に使わせてもらった切り絵の「蝶」を呼び戻したい、と考えた。今年の3月、亡くなって半年になる向谷さんを訪ねるため、広島へ向かっている新幹線の中で突然、思いついたアイデアだった。
 表紙の色を決めたのは、装幀の守安涼くん。これまで、『アフリカ』の表紙に同じ色の紙を使ったのは2回あり、私・下窪俊哉の作品集『音を聴くひと』の表紙も同じ色だ。何か大切なタイミングでこの色が出てくるような気もするし、ただ彼の直感によるものとも言える。目立つ色と言う人もいるけれど、私にとっては赤は、夜の色というか、ひとりひとりの中で静かに燃えている小さな火の色というか、実際に、赤い表紙に浮かぶ切り絵は、どこか沈んだ様子でもあり、重要なものがそこにあるように感じられる。

 表紙を開くと、田島凪さんのエッセイ「Where the streets have no name」が、いきなり始まる。今号の巻頭言と呼んでみたくなる短文で、2ページを駆け抜ける。とはいえ、歩く速さについて書かれている。この時代、世界情勢の中で、いまにも駆け出しそうになる衝動を抑えて、書かれている生きてゆくための歌。歩く速さで書き、生きてゆきたいと私は願いながら読む。

 いま、『アフリカ』の最初の号を再びつくるとしたら、どうなるだろうか。もし本当にそうなるとしたら、短篇小説が4つ、集まるのではないか、と思ったあたりで前回は終わっていた。自分は書けるとして、あと3人。誰だろうとつぶやきながら待っていた。正直なところ、集まっても2篇か、多くて3篇ではないかと予想していた。しかし、4篇、集まったのである。

 守安涼くんは現在、故郷の岡山で吉備人(きびと)出版に勤め、「おかやま文学フェスティバル」の運営にもかかわっていて、最近は乗代雄介さんのワークショップに参加してもいるらしい(「引率者」でもあるのかもしれない)。
 ペンとノートを持って歩き、各々がここ、という場所を見つけて、そこから見える風景を文章で書くワークショップなのだそうだ。その「風景を書く」というのは、私には、小説を書くうえで最も重要なことのように感じられるが、絵を描く人がするように、その場所で実際に見ながら書くということは、殆どしたことがなかった。なので興味津々になって話を聞いていたら、その風景描写を『アフリカ』にも書いてみたい、と言い出した。
 今年の2月に出た乗代雄介ワークショップの作品集『小説の練習』という本が、いま手元にある。そこには乗代さんと守安くんを含め10人がペンとノートを持って歩き、書き記した風景が収められている。乗代さんはその文章の中で、こう書いている。

 この文章の中で私自身がなんとか信を置けるのは、風景描写の部分だけである。

 その一文に、私は少し反論したい気持ちもあるのだが、「小説」とは、まず「風景」である、と言ってみたいような気もするのである。そこで守安くんが書いているような「風景」を『アフリカ』にも載せられるのなら、ぜひ載せたいと思った。しかし実際に送られてきた原稿は、ただの「風景」ではなかった。「風景を書くひと」の小説になっていたのだ。彼が『アフリカ』に小説を書くのは初めてではないが、調べてみたら2007年10月号の「なつの蝶」以来だそうなので、じつに17年ぶりということになる。その間、彼が創作への情熱を失っていなかった様子に、私は嬉しくもなった。
 風景を見て書く場合、当然かもしれないが、見ている場所から見える範囲でしか書けない。また、そのときにはまだ見えていなかったことは書けない。当たり前じゃないかと言われるかもしれないが、その当たり前のことを出来ていない文章が書かれているのをたくさん見ているので、これは強調して言いたいような気がする。
 守安涼「センダンの向こうに」は、「風景」の提示にとどまらず、「風景を書くひと」が登場して動き回るところまで来ている。

 UNIさんは近年の『アフリカ』で、短篇小説をコンスタントに書き続けてきた数少ない人であると言えそうだ。しかし最近は、激動の人生を歩んでおり、あまり書けないと聞いていた。半ば諦めていたのだが、『アフリカ』vol.36には以前書いてあった未発表の原稿を出したい、と連絡が来た。なるほど、ストックがあるわけか! と思って喜びつつ、「まだ時間があるので、推敲はしてみてください」と伝えておいた。
 そのあと推したり引いたりして届けられた「毛玉」は、女性の生理を中心に置いて、感覚的に(生々しく)迫りながら、子供のいない夫婦を掘り下げて書いてある。前号の『アフリカ』でUNIさんにインタビューした際には、「男性脱毛とかタトゥーとかに思いを寄せている人の話」を書きたいと語っていたが、「毛玉」に出てくる「わたし」の夫は慣れない化粧をして登場して、語り手はショックを受ける。その問題はきっとUNIさんの小説にとっての仕掛けであり、核心はきっとその向こうにある。その後が、小説になるのである。

 戸田昌子さんは前号に「いくつかの死」をめぐるエッセイを書いていたが、その後に話していたら、自分も小説を書きたいと言い出していた。私は半信半疑だったが、「水牛のように」で書かれている「話の話」も一歩間違えたら(?)小説になりそうだと言ったような気がする。そのとき、小説を書くことについての話の流れで、私は「踏み込む」という言い方をしたらしい。戸田さんが即座に反応した、そのときのことばはよく覚えている。「小説っていうのは、踏み込むものなんですね?」と言われたのだった。
 戸田さんから今回、届けられた「明け方、鳥の鳴き出すとき」は、初めて書いた小説ということだ。
 自らの中によくわからない「欠落」を得たことによって、エコール(学校)とは別の場所へゆき、新しい先生と出会った少年(ウジン)が、何を、どのようにして発見して、成長していったのかという物語なのだが、これって「音楽小説」ですね? と私は返信のメールで書いていた。ウジンは音楽を通して、何かを発見するのである。それをどう見出すか、という小説であり、戸田さんにとって「音楽」とはどのようなものであるのか、これを読めば、ありありと感じられる、というふうになっているはずだ、と思った。
 Kahjooeさんの『展開する鏡の夜』という音楽作品を元に書かれた小説だそうで、各セクションのタイトルも『展開する鏡の夜』によっている。いま私も、そのCDを回して聴きながら書いている。

 そうなれば、あとは自分の小説だけだ。
 乗代雄介さんの「なんとか信を置けるのは、風景描写の部分だけである」に対して、「少し反論したい気持ちもある」と書いたが、私には、小説とは「風景」の中に「声」が聴こえているものなのである。彼の、その文章には書き手(風景を見るひと)以外の人が出てこないので仕方のないことかもしれないが、幻でも何でも、願えば、声は聴くことができるのではないか。
 今回の「別れのコラージュ」では、20年前のことは意外なほどに覚えていないものだ、という自分自身の最近の発見から、それくらい前に別れてから会っていなかったかつての恋人同士が久しぶりに再会するという話を書いた。彼らが恋人だった過去についてわかることは全て、ふたりの会話の声の中にのみ存在する。『アフリカ』vol.36の中で、最も会話の息が長い小説になっていると言える。
 再開発で街が全く別のものに変貌してしまうということも、小説という「風景」の中に置いて、書いてみたかった。その街を日常風景として行き来する人ではなく、旅人の視点で書けば、現在も過去も、未来も含んだ柔らかな詩のようにならないかと思い、願いながら書いた。そうしたら、あの時代の、どうしても思い出せないあの街の駅の、具体的な細部が見えてきそうな気がした。

 犬飼愛生さんは前号に続いて「こどものための詩シリーズ」と、短いエッセイの「相当なアソート assort」シリーズの新作を寄せている。
「こどものための詩」である「先生あんな」は、「帰りの会」のあとで先生に話しかけるこどもの声で始まる。努めて関西弁で読まなければならないのだが。

 先生あんな
 わたしのお父さん、ほんとうのお父さんじゃないねん

 大人が読むと、ちょっと切ないようなことを言っているのだが、この詩の語り手が「こども」であることを思うと、切ないということばで簡単には片づけられない。この子(女の子であろうと思われる)は、困惑しているようである。
 犬飼さん曰く「お漬物」的な(メインディッシュにならない)エッセイである「相当なアソート assort」では、今回は「アイロン」のことを書いている。「アイロン掛けが嫌い」だという話に始まり、あっという間に終わる。掛けたくないならサボればいいし、掛けたいならさっさと掛けたらよい、と思うが犬飼さんは大真面目に考えていて、ふっと笑ってしまう。しかし今回は編集人からの度重なるダメ出しに耐え、よく仕上げたと思った。こんなに短いのに、と思うかもしれないが、短いからこそ書くのは難しいものである。

 前号の「夏草の勢い」に続き、矢口文さんの絵もある。小説やエッセイと同じ扱いにして、目次にも載せている。今回は「The Blackboard」である。「夏草の勢い」からすると、一気に抽象化された感じだが、私には地続きのものとして感じられている。矢口さんという画家も、どんどん”踏み込んで”くるので、やっぱりね! という気がして嬉しい。

 小林敦子さんの「再びの言葉」、小林さんというのは私が『アフリカ』を始めるきっかけとなった人で、この連載にも何度か登場している、当時の筆名は神原敦子だった。現在は就実大学人文科学部の“教員”であり、最近は学生たちの創作を集めた『琴線』という雑誌をつくってもいる。3月に岡山へ行った際に再会し、「書きませんか」と話したら、「書きたい」とのこと。送られてきた「再びの言葉」には、シングル・マザーとなり、子育てをしながら文学への不信が生まれ、長い時間をかけて再び「文学」を見出してゆく過程が書かれている。その「文学」とは、かつて感じられていたものとは、かなり違うものであるようだ。それはおそらく、殆ど文学と呼ばれることのないような、ちょっとした声である。

 今月、7月2日(火)から7日(日)にかけては、向谷陽子さんが『アフリカ』のために制作した切り絵の一部が、作者の故郷・広島で展示されます。陽子さんの母(向谷貞子さん)が「三人展〜娘と母と私〜」と題して企画した家族展で、切り絵のほかに人形、鎌倉彫、折り紙が展示されるとのこと。会場はギャラリー718(広島市中区袋町7-18)、会期中は休みなく11時から17時まで。
 それに合わせて、アフリカキカクでは「『アフリカ』の表紙と切り絵 2006-2023」という印刷物を作成しました。会場では無料配布される予定で、『アフリカ』最新号をご注文いただく方へはオマケとして同封しています。

 こんなふうにして『アフリカ』は、まだ続いている。自分が死んだらどうなるだろうなんてことは、考えなくてもよいということにした。行けるところまで行こう。旅を、続けましょう。

無学

篠原恒木

以前にも書いたが、おれは名うての無学である。

「先生」は平仮名で書くと「せんせい」ですよね。
でもおれは声に出すときには「センセー」だ。「センセイ」と「イ」をきちんと発音しない。
「人生」は「じんせい」で、「衛星」は「えいせい」、「堤防」は「ていぼう」だ。それは分かっています、はい。でも、会話のときは「ジンセー」「エーセー」「テーボー」だよ。ついでに「資生堂」は「シセード―」です。「KOSÉ」は「コーセー」です。あ、コーセーはそれでいいのか。
「用紙費用の高騰傾向に税制改正が重なり価格改定」は「ヨーシヒヨーのコートーケーコーにゼーセーカイセーが重なり価格カイテー」だ。これが昂じると、パソコンに向かったときも、つい「センセー」「ジンセー」などと打ってしまい、変換候補が現れないという事態になる。これをヒトは阿呆と言う。

「脱出」は「だしゅつ」だとばかり思っていた。「だっしゅつ」とは発音したことがないもんなぁ。「手術」は「シジツ」です。「しゅじゅつ」って言いにくいでしょ。つげ義春は「シリツ」だったけど、さすがに「シリツ」まではいかない。

「小品」を「こしな」と読んでいた。それはよしな。
歌詞のカン違いも多い。「濡れて来ぬかと 気にかかる」を「濡れて小糠と 木にかかる」と思っていた。雨だけにね。
「地面」はひらがなにすると「ぢめん」じゃないのか。なぜ「じめん」なの。「地」は「ち」だから、そのまま濁点をつけて「ぢ」じゃないのか。「鼻血」は「はなぢ」でしょ。関係ないけど「痔」は「じ」より「ぢ」のほうが相応しいような気がする。おれはシジツを受けたからよくわかる。あれは断じて「じ」ではない。「ぢ」ですよ。まあともかくそのあたりの法則性が分からない。

「ひ」と「し」の区別がつかなくなることがある。さすがに文章にするときは分かるのだが、喋っていると混乱してくる。「薬師丸ひろ子」「田原俊彦」を「やくひまるしろこ」「たはらとひしこ」と言ってしまい、笑われる。やかましい、こちとら江戸っ子でぃ、そこをシダリに曲がったらマッツグ行ってドンツキでぃ。

「根本的」と「抜本的」の違いがワカンナイ。まあ、滅多に使わない言葉だからいいんだけどさ。「修正」と「修整」も紛らわしいよなあ。「修整して修正を終えた」みたいな? よく考えるとヨクワカンナイ。
「既成」と「既製」の違いも分からない。「制作」と「製作」ってどう違うのさ。「進路」と「針路」は同じようなもんじゃないのか。違うんでしょうな。
「十分」なのか「充分」なのか。どっちを使っていいのかワカンナイ。だからなるべくその言葉を書かないようにと、じゅうぶんの注意を払っている。
「柔らかい」と「軟らかい」はどう違うの? 無学なおれにも分かるように柔軟性をもって説明してほしい。
「訪問」はどこかへ行くわけだから「門」をくぐることになるよね。だったらなぜ「訪門」ではないのか。ずっと「訪門」だと思っていた。

野菜の名前が分からない。聞いたことはあるし、食べたこともあるのだが、分からないものは分からないのだよ。チコリ、エンダイブ、ラディッキオ、アーティチョークなどと突然言われると「何だっけ」となる。姿かたちが咄嗟にイメージできない。
洋野菜だけではない。和野菜に関してもきわめて不案内だ。「かつを菜」「二十日大根」を絵に描けと言われたら困る。
そうだ、それで思い出した。おれはスタインベックの『二十日鼠と人間』を『にじゅうにち鼠と人間』と読んで、ストーリーは鼠の大群と人間の二十日間にわたる攻防戦だと勝手に思い込んでいた。この場を借りてスタインベックさんにはオノレの無学についてお詫びを申し述べたい。

料理名や調理用語にも戸惑うことが多い。
「ぬた」「ずんだ」「煮びたし」をそれぞれ五十字以内で説明せよ、と言われるとお手上げだ。「カチャトーラ」「フリカッセ」「アーリオオーリオ」なぁんて言われると、アタマの中が痒くなってくる。出されたメニュー表に「ペリゴール産フォアグラのテリーヌ トリュフとブッフサレ リ・ド・ヴォとレンズ豆のガトー仕立て」などと書いてあると、ええい、しゃらくさい、いちいち訊くのも面倒だ、イチかバチかでとにかくオーダーしちまうか、と思ってしまう。いや、値段を見ると高いのでやめておくけどさ。

パソコン用語も苦手だ。
「JPEG」とヒトは気軽に言うけれど、JPEGとは何ぞや。デジタル画像のファイル形式なんだろうなとはおぼろげには理解できているが、なぜ「ジェイペグ」と呼称されるのか分からない。そこでおれはパソコンのエキスパートに訊く。
「ジェイペグってどういう意味?」
すると奴はこう答える。
「JPEGはJPEGですよ」
答えになっていないではないか。仕方ない、おれはこの文章を書くために調べました。JPEGとはJoint Photographic Experts Groupの略なんだぜ。どうだ、ザマミロと言いたいところだが、おれも「なるほど、それで分かった」とはならないところが悲しい。
「TIFF」とヒトは訳知り顔で言うけれど、何だよTIFFって。なーんとなく「JPEGは軽くてTIFFは重い」と勝手に解釈しているが、それでいいのか。そこでおれは頼まれもしないのにまた調べましたよ。ティフ、つまりTIFFとはTagged Image File Formatなのだ。どうでぃ、知らなかっただろう、ビックリしてひっくり返って腰抜かしやがれとは思うものの、おれも意味はさっぱりワカンナイ。ああ、無学なり。悔しい。

国民年金と厚生年金の違いがヨクワカンナイ。
「基本だよ、ワトソン君」
と、ホームズさんに咎められそうだが、知らないのだから仕方がない。だいたいワトソンなのかワトスンなのか。ジョージ・ハリソンなのかジョージ・ハリスンなのか。
話を戻そう。年金支給の申請をしなければと思い、役所に電話したら「雇用保険にはご加入していますか」と問われ、返事に詰まった。国民年金と厚生年金との区別もつかないのに、今度は雇用保険ときたもんだ。コヨーホケン?
「雇用保険って何ですか」
「失礼ですが、会社などにお勤めですか?」
「はい。恥ずかしながら二十二歳から六十四歳になろうとしている今までずっと同じ会社に勤めています」
「それならば雇用保険にはご加入されていますね」
「あ、そうなんですか。そういうもんですか」
「その雇用保険の被保険者証明書をご用意ください」
「あのお、それはどこにあるんですか」
電話していて、だんだん自分が惨めになってきた。社会の仕組みを知らなすぎる。

国債、為替介入、異次元の金融緩和、新NISA、iDeCo、日経ダウ平均、全部分からん。経済用語、投資用語の知識が皆無だ。株も投資もやったことがない。「働かなければゼニは稼げない」と思っているからだ。うまくやっているヒトもいるんだろうなぁ。

地理に疎い。オランダとベルギーの位置がごっちゃになる。カリブ海の島々でかろうじて分かるのはキューバとジャマイカだけだ。オーストラリアの首都が思い出せない。これだけニュースになっているのに、中東の国々の位置が正確に指差せない。

足し算、引き算も曖昧だ。10+10=20などは平気だが、37+19のようになると即答できない。引き算も73-17などは「応用問題」のような気分になる。あ、いま気付いたけど、おれは素数に弱いのかもしれないな。掛け算と割り算については割愛だ。

歴史もつらいね。「マラトンの戦い」「カノッサの屈辱」「ボストン茶会事件」「リットン調査団」などというフレーズは、その響きがユニークなので覚えているのだが、それぞれいつ何が起こったのかに関しては、まるで分からない。あ、「大塩平八郎の乱」だけはなぜか何となく覚えている。ある会議の席上、腹に据えかねた件があったので、思うトコロをまくしたてたら会議終了後に、
「よく言ってくれた。アレはみんな理不尽だと思っていたんだ」
と声を掛けた奴がいたので、
「だったらおまえが言えよ。おれは大塩平八郎じゃねぇや」
と言ったらキョトンとしていた。ぐふふ、おれより無学の奴がいると内心ほくそえんでいたが、のちになってそいつは出世して、おれは塩漬けにされた。死ななかっただけマシだが、歴史は繰り返す。

「ダイバーシティ」と聞くと、お台場のショッピング・モールを思い出してしまう。いいじゃないか、そんな阿呆な奴がいても。それこそが多様性だよ。

しかしですな。勉強に勉強を重ね、思考を繰り返し、世の中のことを隅から隅まで知り尽くしてしまったら、現実のあまりの酷さに絶望して生きる気力もなくなってしまうに違いない。神経の細いおれはそう思うのですよ。無学だからどうにか生きていける。そうやって生きていくのがいいことなのか悪いことなのかは別だけどさ。違いますか、お偉いセージカの皆様。あなたがたは国内、国外の裏も表もすべて知っているんでしょ? 特に精通されているのは裏ですよね。よくもまあ元気に生きていられますな。

むもーままめ(40)剣山の上に寝る夢、の巻

工藤あかね

 たわいもない会話の中でAさんが言う。「新聞の広告はどのくらい効果があるのだろうね。旅行だの、健康食品だの、カニだの。広告見て買う人なんているのかねぇ」
Bさんはちょっと照れ気味で答える。「あっ…うち、新聞広告を見てカニ買いましたよ」

 何年も前のそんな場面をぼうっと思い出しながら、昨夜私はSNSに流れてきたある商品をじっと眺めていた。その名もシャクティマット。上半身をカバーするくらいの短いヨガマットに、剣山みたいな鋭い突起がびっしりついた形状のもので、背中の下に敷いて20分くらい寝そべると指圧と鍼治療の良いとこどりを家庭で味わえるというのだ。しかもインドのヨガの行者は、剣山マットの上で寝転ぶのみならず、ポーズまでとってしまうらしい。口コミを見てみると、「痛いけど肩がすっきりしました!」「安眠できます!」「最初は無理と思いましたが、血行が良くなるのがわかって病みつきです」みたいな感想が山ほど出てくる。しかし、正規品は結構良いお値段なので、廉価版の商品はどうかな?と調べては、こういうものは中途半端なものを買うよりも、一発で正規品を手に入れた方が結果的にはよいのではないか、などと頭の中がぐ~るぐる。この時点で、自分の中で買わないという選択肢が失われて、正規品を買うか、廉価版をとりあえず買うかという二択になってきた。心が物欲に支配されている。これはいけないな、と思い、とりあえず寝ることにした。

 しかし、眠りにつく前に、どうも剣山でびっしり埋め尽くされたオレンジ色のマットが目の奥にちらついて仕方がない。「そうだ、ああいう凸凹の足裏マットがうちにあるから、それを敷いてみよう!」と思い立ち、押し入れの奥からゴソゴソと足裏刺激用の激しい突起がついた、しかもオレンジ色のマットを取り出して背中の下に敷いてゴロゴロしてみた。

 …「!?」…えええ、これ、意外といいな…。ということは剣山だったらもっと効果がバリバリなのでは…。いやまてよ、100円均一に行って、生花用の剣山を大量に買って両面テープで布に貼って代用とかできないかな?そうしたら正規品買うより安くない?いや、それで怪我でもしたら馬鹿馬鹿しいなぁ。病院に行って「どうしました?」「剣山を大量に買って、その上に寝て怪我しました」とか言いながら、血だらけの背中を医師に見せて、あきれ顔の看護師さんに消毒とかされるの嫌だし。それで、医師がカルテに、「100円均一で購入した複数の剣山上に仰臥、背面に裂傷」とか書き込んだりするのも間抜けだなぁ。やっぱり、商品になっているのを買うのがいいよね。結論が出たね。これで朝起きてもまだ欲しかったら、買おう。

 うきうきしながら寝た。

 そして今朝、私は起きると同時に、剣山でびっしり埋まったマットが欲しい気持ちに変わりがないことを再確認し、さっそく正規品を注文したのである。いざサイトに行くと、いくつかの選択肢があった。剣山の高さによって刺激の強さレベルが変わるらしく、ちょっと気後れしつつもオリジナルレベルに挑戦することにした。カラーも何色かも展開があったが、ここはやっぱり一番インドのヨガっぽさのある(と勝手に私が思った)オレンジ色でしょう。オレンジ色を注文。

 商品の到着は7月なので、この原稿を書いているときには使ってみた効果をお伝えすることができず残念だが、こうして商品の降臨を楽しみに待つ時間というのもなかなか良いものである。

庄野潤三展を見に行く

若松恵子

神奈川近代文学館で2024年6月8日から8月4日まで開催されている「庄野潤三展~生きていることは、やっぱり懐かしいことだな!」を見に行った。庄野潤三は1921年(大正10年)生まれ。1955年に「プールサイド小景」で芥川賞を受賞し、吉行淳之介、安岡章太郎、小島信夫らとともに、第3の新人と呼ばれた作家だ、家族や友人との日常を細やかに記した小説や随筆を多く残した。

江國香織と編集者の刈谷政則による記念トークショーが開催され、そちらも聞くことができた。江國が、庄野潤三について「わかる人にはわかるけれど、論じるのが難しい作家だ」と話していたけれど、同じように私も感じる。晩年の作品から出会い、遡って初期の短編などを読んでいった私としては、作り込んだ初期の短編よりも日常をそのまま記録したような晩年の作品群に魅かれる。毎日のルーティーンを淡々と繰り返し、特に事件が起きるわけでも無い老夫婦の穏やかな日常を読んで、こんなに心地よいのはなぜなのだろう。失われた理想卿とまでは思わないけれど、確かに存在していた人間らしい暮らしをそこに見て安心するからなのだろう。江國は「(庄野は)目のつけどころがちがう」のだとも言っていた。みんなが同じように家族の暮らしを営んでいるけれど、庄野の眼差しによって切り取られたひとこまによって、それは心に残る風景、かけがえのないひと時になるのだろうと思う。時間とともに消えて行ってしまう人間の暮らしにあるものを庄野が見つめて文章に止めおいてくれたのだとも言える。

『夕べの雲』をイタリア語に翻訳した須賀敦子が、「この中には、日本の、ほんとうの一断面がある。それは、写真にも、映画にも表せない、日本のかおりのようなものであり、ほんとうであるがゆえに、日本だけでなく、世界中、どこでも理解される普遍性をもっていると思った。」と記している。須賀敦子も庄野潤三を「わかる人」だったのだと思うと嬉しくなる。

『庄野潤三の本 山の上の家』(2018年7月/夏葉社)は、庄野潤三の良き案内書だ。庄野が芥川賞受賞後に夕刊書いた「わが文学の課題」を、この本に紹介されていたから読むことができた。夏が頂点を迎える「巴里祭」あとの季節がいちばん好きだと書いた後で、「僕が死んでしまったあと、やはり夏がめぐって来るけれどもその時強烈な太陽の光の照らす世界には僕というものはもはや存在しない。誰かが南京はぜの木の下に立って葉を透かして見ている。誰かが入道雲に見とれて立ちつくしている。そして誰かがひゃあーといって水を浴びているだろう。しかし、僕はもう地球上のどこにもいない。
僕が夏の頂点であるこの時期を一番愛していたということは、僕をよく知る幾人かの人が覚えていてくれるだろう。だが彼等も亦死んでしまった時には、もう誰も知らないだろう。それを思うと、僕は少しせつなくなる。
そして、そのような切なさを、僕は自分の文学によって表現したいと考える。そういう切なさが作品の底を音立てて流れているので読み終わったあとの読者の胸に(生きていることは、やっぱり懐かしいことだな!)という感動を与える=そのような小説を書きたい。」と書いている。庄野の書く日常が静かで穏やかな光に満ちている、その謎がとけるような文章だ。みんな死んでしまって、誰も覚えている人がいなくなった後にも、本はそれを手渡していくことができる。庄野が感じていた切なさもそのままに、庄野の書いた文章は残り続けていくのだ。

『山の上の家』には、もうひとつ心に残る文章があった。「実のあるものーわたしの文章作法」という「国語教育」の昭和44年1月号に掲載された随筆だ。良い文章を書くには?という内容で、「なるべく大げさな云い方をしないこと。」と言ったあとで、庄野は続ける。「日本語の本来持っている筈のゆたかな働きを、もう一度振り返ってみよう。そうして、託せるだけのものを言葉に託してみよう。このひとことでは、あっさりしていて、何だか頼りないという気がするかも知れないが、うまく用いられた言葉は、そんな心配をはね飛ばす力を持っている。持ってまわった云い方をしないこと。」と。この文章もまた、庄野作品の魅力の謎を解く手がかりとなりそうだ。

『山の上の家』には、小さくなった、たくさんのステッドラー3Bの鉛筆の写真が掲載されている。この写真を初めて見た時、片岡義男にも小さくなったステッドラーの写真があったはずだと思い出し、2人が結びついた事に嬉しい驚きを感じた。今回の庄野潤三展では、籠にざくざくと入った小さな青いステッドラーの3Bが机とともに展示されていた。片岡義男が撮った、小さくなったステッドラーの写真を探してみたが、『なにを買ったの?文房具』(2009年/東京書籍)のなかの、マグカップに差してあるステッドラーは小さくなった物ばかりではなかった。「早くも二十年以上も前のことになるが、四センチあるいはそれ以下になった短い鉛筆を、リーボックのスニーカーの箱にざくざくと持っていた。」という文章から勝手にイメージしてしまっていたようだ。そして片岡は「短くなった鉛筆はすべてタリスマン(魔除けのような不思議な能力を持った、愛すべき小さな物体のこと)だ」と書いている。片岡義男も「わかる人にはわかるけれど、論じるのが難しい作家だ」というところは庄野潤三と共通している。

しもた屋之噺(269)

杉山洋一

すっかり今までの気候の感覚がずれてしまうような、肌寒い6月が過ぎました。本当に今までなかったほど雨が良く降ったので、庭の樹もよく葉を繁らせているし、芝も奇麗に生えそろっています。毎日のように、ひどい夕立が降り、その度にミラノの街並みは冠水していました。夕立といっても、嵐と呼べばよいのか、竜巻一歩手前というのか、雨と雷と風が吹き荒れる、見たこともない一カ月が過ぎていったのです。冬に羽織った薄手のジャンパーをいつも携えているのも初めての経験で、何か今まで回っていた歯車がずれてきているのを感じます。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロの家を借りて、久しぶりの指揮のプライヴェート・レッスン。7月初めにティラナの音大で卒業試験を受けるFが朝早くからレッスン。
アルバニアの音大でレッスンをしたから雰囲気はわかるが、指揮者と演奏者は常に距離を保って交わらないのは何故だろう。販売されているCD録音を使って指揮のレッスンをすることも多いと聞いたが、その影響か。その昔、アルバニアとソヴィエトの国交があったころ、音楽教育も大きく影響を受けたそうだが、指揮はどういう位置にあったのだろうか。F曰く、アルバニア最初の交響曲はザデーヤが1956年に書いた交響曲第1番だ、と力説していたが、あれほど古い歴史のある国で1956年まで交響曲が一切生まれなかったのが、どうにも解せなかった覚えがある。
1939年から43年まではイタリアが統治していて、ティラナにはファシズム建築も残されているのに、56年以前まで大規模な管弦楽作品そのものがなかったのは信じられない。F曰くアルバニアは民族音楽が盛んなので、クラシック音楽の定着が非常に遅かったのだそうだ。

6月某日 ミラノ自宅
家人と二人、自転車を漕いでサン・パオリーノ通りの市役所出張所にでかけた。家の前にあるミラノ・アレッサンドリア線の線路とナヴィリオ運河をまたぐドン・ミラーニ陸橋は、足が本調子ではない家人にあわせ、自転車を押してゆく。
ファマゴスタ駅手前で横道に入りしばらくゆくと、少し古めかしい、どこか打ち捨てられた佇まいの団地群があって、出張所は団地のアーケード一角にあった。予めインターネットで予約をとって家人の住民票登録がされていない、と相談にでかけたわけだが、お世辞にも親切ではない窓口の女性曰く、必要な書類をもってくれば今からでも作ってあげます、というので、家人を残して一旦家にもどった。怪しげな場末の出張所だからか、意外に融通が利くのである。
結局3,4時間かかってしまったが、家人の住民票登録は無事完了して、近くの喫茶店でフレッシュジュースを飲んで家に戻った。面白いのは、住民登録はできるが、夫婦としてではなく、同居人として取敢えず今日は登録しておくわね、と言われたことだ。20年前、家人をイタリアに呼び寄せる時に作った、公印、アポスティーユ付きの結婚証明書を持って行ったが、それでは古すぎて現在の婚姻関係を証明できないと言われた。婚姻証明書は3カ月しか有効ではないらしく当然だろう。書類ですら3カ月以上の婚姻関係は保証できないということだ。まあ、とにかく奧さんをミラノに入れてあげることが先だから、と妙に頑張ってくれる。同居人か夫婦かの肩書の違いで、税金の支払いや権利には一切の違いは生じないという。
よくわからないのは、その昔、モンツァから引っ越した際、何かの手違いで彼女の分の住民登録がこぼれてしまったにせよ、しっかり国民健康保険証はミラノ市から発行されていて、無償のがん健診など、定期的に市からお知らせが届き、市から家人のためのかかりつけ医も決められていて、無償でレントゲン撮影のための保険局のチケットなどは、そのかかりつけ医がいつも書いてくれている。管轄が違うと言われればそれまでだが、ここまで書類が電子化されそれぞれ簡便に共有されているのに、まだ紙で書類していたころの名残がそこはかと感じられて、少し懐かしいような切ないような不思議な心地だ。
家人より、垣ケ原さんが手首を骨折したと聞き気を揉んでいた。電話をかけても出るのが大変ではないか、メッセージを書くのも大変ではないかと逡巡しながら、結局お見舞いのメッセージを送ると、すぐに返事が届いたから、少し安心した。中央スーダンでRSF(即応支援部隊)により100人余り死亡との報道。

6月某日 ミラノ自宅
今日は日がな一日、学校で聴覚訓練クラスの試験であった。一人20分程度かかるから、朝9時から始めて、夜の7時半までかかった。こちらはずっとピアノの前に座って質問をだしていて、一人終わる毎に、学生は一度外にでて、マルレーナとクラウディアと3人で点数を決めるまで待ってもらう。よく出来る生徒であれば、ものの5秒か10秒ですっと点数が決まるが、そうでなければ、どことどこを間違えたから何点相当だが、前の何某には何点を出したからこのくらいが相当だ、などとていねいに話し合うことになり、紛糾すれば5分とか10分とかかかることもある。それから、学生を呼び込んで、われわれはこの点数を提示するが、受け入れるかどうか尋ねる。提示された点数に納得できなければ拒否ができて、次の試験シーズンに再試験となる。
教え始めたころは、このやり方がどうにも不思議だったが、大学の卒業時の成績に少なからず影響を与えるから、仕方がないと思う。入学時から積み重ねてきた一つ一つの試験の成績の平均点から卒業試験の最低点が決められ、そこに最終的に審査員が何点足すかで、卒業時の点数が決まる。卒業試験で審査員が足せる最高点は7点で、学院長だけが特別に何点か足す権限を持つ。110点が満点だが、それまでの試験の平均が27点なら卒業試験の出発点は101点となり、卒業試験で最高点をとっても108点となる。論文や口頭試問もあるから明らかに外国人には不利だろう。尤も、点数を気にする学生もいれば、実力に自信があって、卒業時の点数など意にも介さぬ学生もいる。
日本の大学は4年生だが、現在イタリアの音楽院では、大学課程と同じく、3年でまず学士号のディプロマがあって、その後2年間の研鑽を経て修士のディプロマをとる。今日の試験はほとんどが「トリエンニオ」とよばれる学士課程の学生だったが、数人修士課程の学生も交じっていた。
とあるイタリア歌劇場のオーケストラで弾いているフランス人がいて、イタリアのオーケストラに就職するためイタリアのディプロマが必要だとかで、今年から修士課程に登録している。去年の秋に学校から電話がかかって来て、彼は演奏に忙しくて通えないが、優秀な演奏家なので、能力には問題ないだろう。どうか試験だけ受けさせて通学したことにさせてやってくれ、という。よく出来る学生がわざわざ授業で時間をつぶす必要はないと考えているので快諾したのだが、その学生が今日の試験にやってきてみると、驚くほど全く何もできなくて、我々は頭を抱えてしまった。
授業には通えないが、コロナ禍の遠隔授業のためにつくったヴィデオで自習する約束ではあったが、哀れなくらいに出来ていない。それどころか、こんな難しい課題はできない、フランスではこんなことはやらない、などと不平までこぼすものだから、同僚もすっかり怒り心頭である。
彼の性格なのだろうが、なるほどフランス人がイタリアの教育機関をどう見ているのかも垣間見られて、「あらあら、おフランスはよほど文化水準が高すぎて、何もできないのかしら」と、フランス人の口真似をしながらフランスを貶す同僚たちの姿にも、普段は隠している複雑なイタリア人の本心を覗き見たようで興味深かった。外国語に堪能な彼女たちがあんな風に話すのを見たのは初めてである。
もちろん、フランス人学生は今まで何人も教えてきたし、イタリア語もみな上手で、言われなければ気が付かないことすらしばしばである。同僚たちがこうした学生を批難するのは見たことがない。
イスラエル軍ガザで4人の人質救出成功。奪還作戦に巻き込まれて死亡したパレスチナ市民は、210人死亡とも274人とも報道されている。何が正しいのか、間違っているのか、誰が正しいのか、自分の頭で考えることすらむつかしくなってきている。
欧州議会選挙では極右政党Fratelli d’Italiaのメローニ首相のイタリアはじめ、ドイツ、オーストリアなど右派の台頭が顕著であった。フランスでは極右政党「国民連合」が与党連合に圧勝、マクロン大統領は下院解散総選挙発表。

6月某日 ミラノ自宅
試験の翌日、エルノに住むピーターを訪ねる。コモからベッラッジョ行のバスに乗り、湖畔沿いをしばらく走ってネッソの瀑布を超えたところで右に折れ、ティヴァーノの方へと山道を登る。ピーターは途中のネッソ停留所から乗り込んできた。バスと言っても乗客は6人ほど、そのうちの3人はアメリカ人の観光客で、ピーターと知合いだった。ピーター曰く、昨日彼らがネッソで路頭に迷っているところを助けてあげたらしい。
ネッソからそのまま湖畔を走れば、次の町がレッツェノになる。6、7年くらい前まで、息子を連れてよくここの湖魚料理屋に通っていた。レストランの経営者が漁師で、週に何回か湖でとってきた魚を食べさせてくれるのが、実に美味であった。そうして食後、腹ごなしに、近くの浜を散歩して、息子と湖面に石飛ばしなどして遊ぶのが楽しみだった。
エルノは、ネッソからバスで20分ほど山道を登った先にあって、ネッソの滝の源流にかかる古いアーチ橋の手前が集落の入口になる。ここを登った先が自由広場で、ここから眺めるとエルノはこじんまりとした集合住宅が固まる、そこそこ立派な村に見える。このすぐ先にあるヴェーレゾ村に属するエルノ集落という扱いになっていて、村に住民登録されている人数はわずか50人足らずだというのが信じられない。ちなみに店は一軒もなく、8割以上がセカンドハウスか、空家なのだろう。
食料を買うためには、ネッソかヴェーレゾに出かけるしかないそうだが、ピーターの近所に住む恰幅のよいシニョーラ・アンジェラなどは、ネッソからときどき食料を宅配してもらっているらしい。ピーターはパン焼き機を購入して、自分でパンを焼いていた。
このあたり独特の細い石造りの路地が集落中を縫うように張り巡らされていて、咲き乱れる薄紫のラヴェンダーが美しい。その前の建物には、消えかかった屋号が「某食堂」と辛うじて読める。その隣の建物には、「某精肉店」とも読める。その昔この集落にも活気があったころを偲ばせるものだ。
隣のヴェーレゾ村へ徒歩で向かうには、トレッキング靴で、さきほどのネッソの瀑布源流を踏み石伝いに渡ってから、そこそこ急峻でぬかるんだ山道を登るしかない。街灯などどこにもないから、暗くなったときには、頭に懐中電灯を巻いて歩く。一度、ピーターがこの山道から滑落したときは、山岳救助隊がヘリコプターで救助にきて、病院に搬送されたそうだが当然であろう。
ピーターの家の窓からは遥か眼下にコモ湖が、そして目の前には雄大な山々がひろがっている。空気が美味しいねというと、まあ不便だけどとピーターは笑った。食事と打ち合わせを終えて、少し散歩をすると、シニョーラ・アンジェラ含め3人のご婦人が、幅2メートルもない細い路地の上り坂の中ほどで楽しそうにけたけたと談笑していた。50人足らずの住人のうち、ピーターを含めすでに4人に会ったことになるから大した確率だと思ったが、結局その後はバス停で1人見かけただけで、集落はずっと閑散としていた。ちなみに、50人のうち、ピーターがイギリス人、年金暮らしのドイツ人が一人、あとタッキの工場で働くアジア人家族が住んでいて、おそらく5、6人は外国人が交っているということだ。
ピーターが「こちら日本人の指揮者の方です」と紹介すると、「あらそれならアレーナ野外歌劇場で振れるといいわねえ」と言われる。どうしてここから近いミラノのスカラ座ではなくて、わざわざヴェローナの野外歌劇場が口をついてでてきたのだろう、と不思議に思っていると、目の前に7、8頭のヤギが放牧されていて、こちらの姿を見つけるなり、ビャアアアア、ビャアアアアと声を上げて寄って来る。その隣の路地には、1メートル強の小型の猪が5頭ほど群れていて、悠然と歩いていた。猪は野性だそうだ。
19時6分の最終バスでコモに戻ろうと「自由広場」で待っていると、15分過ぎてもバスが来ない。ただ遅れているだけかと思っていたが、どうやらバスはなくなってしまったらしい。ピーターは、「ヒッチハイクで、ネッソまで乗せてもらおう」と橋のところで、親指を立てて暫く立ってくれていたが、一台も止まる気配はなかった。車の運転手からしても、事情がわからず不気味な二人に見えたに違いない。
仕方がないので、橋のたもとから少し下った先までピーターに送ってもらい、徒歩でネッソまで下ることにする。
「ここからひたすらまっすぐ歩いていってね、どこまでもまっすぐ行って、突き当ったらOnzanigoを探して」と不安そうに言われ、これを持って行って、とトレッキング用の杖を貸してもらう。
ネッソからエルノまでの車道は多少勾配はきつかったが、きれいな道だったし、湖畔まで出ればあとは何とかなる、と気軽に考えていたのが間違いであった。
歩き出して暫くゆくと、先ほどの8頭のヤギの放牧地の端にでて、相変わらずビャアアアアとけたたましく鳴き声をあげていたが、とにかくそこを過ぎたあたりから、俄かに雲行きが怪しくなった。想像をはるかに超える下り坂で、杖がなければ簡単に転びそうである。このところずっと酷い雨が続いていたから、ぬかるんでいるところは滑りやすい。足場の左側は急峻な山腹で、そのはるか奥には、先ほどの沢だか川だかの激しい水の音が聞える。携帯電話の電波はほぼ入らない状態でバッテリーも切れかけている。一番の問題として、日が暮れたら万事休すであった。
こんなところに来るとは想像していなかったから、普通の靴しか履いていない。これではさすがに危ないし心許ないこと極まりない。ここで足を滑らせても、救助を呼ぶことすらできないが、日暮れは近づいているから、出来るだけ早足でひたすら下ってゆくが、どこまで行けども湖の陰すら見えない。歩いていると、さきほどの猪の群れを思い出して、嫌な気分になる。普段なら猪はかわいいと思っているが、こんなところで5頭の猪に出会って、突き落とされたらどうしようもない。最近日本では、山でクマに襲われたニュースが頻繁にきかれる。ネッソの山で最終バスに乗れず山道を歩いて熊に襲われ行方不明、ではさすがにやりきれない。
南無妙法蓮華経とおもいながら歩き続けると、途中ふと高い梢が絶えて見晴らしのよい場所に出た。眼下を眺めると、足下まだ遥か彼方にほんのちらりと夕日が湖面が光ったときには絶望しかけたが、今更エルノにもどっても日が暮れることには変わりがない。ここで猪や熊の餌にはなりたくない一心で必死に下り続けると少しずつ足場がしっかりしてきて、間もなく家が見えて、ああ助かったとおもう。
ちょうど道がつきあたりになった辺りに、一人坂を上ってくる年配の男性がいて、彼にOnzanigoの通りを教えてもらった。バス通りまではまだここから暫くある、ということだったが、取り敢えず生きて帰れるとわかり、安堵しきったのか一気に疲れが噴出してきた。
幸い、バス通りまで出たところでちょうどコモ行のバスに乗れたので、さほど遅くならずにミラノに戻れたが、流石に動悸が止まらなかった。どのくらいの時間歩いていたのか、後から計算してみると、たかだか40分程度に過ぎなかった。バスで20分もかかるのを徒歩40分で降り切ったのは悪くない。
コモ行きバスの運転手に、エルノの広場で待っていたのだが最終バスが来なかった。あそこは通らないの、今日は何かで運休だったの、と尋ねると、隣に座っていた乗客が、その最終バスなら、その下のバス停を走っていくのを見たよ、という。運転手曰く、今日は特に運休の話は聞いていないが、運転手が広場まで上がるのを忘れたか、乗客なんていないだろうと寄らなかったのだろうよ。へえそれで、ネッソまで歩いてきたのかい。いやあ、そりゃあいい運動になってよかった、あっはっは、と明るく笑い飛ばされてしまった。家に帰って調べると、ネッソは海抜300メートル、エルノは集落のあたり海抜750メートル、エルノ山の頂上は海抜1050メートルにもなると書いてある。40分で450メートルも一気に下るのなら、それなりに見合った靴は必須であった。

6月某日 ミラノ自宅
ピーターの家を訪ねた帰り、コモ行のバスに乗った時のこと。最前列の乗客が運転手に盛んに大声で話しかけていて、どうやらこのあたりに住んでいるらしい。彼がコモ湖を訪ねる世界中の観光客を口汚く罵っていて、聞くに堪えない。運転手もうんざりしながら相手をしている。狭いバスに大きなトランクを平然と積み込み、年配者が立っているのに席の間にトランクを置く。とんでもないやつらだ。言っていることは尤もだが、あまりに汚い言葉が続くので、堪らない。
日本でも以前からオーバーツーリズムは問題になっているが、コロナ以前は各国ともに今ほど深刻な問題に捉えていなかったように感じる。何がきっかけで潮目が変わったのか。コロナ禍の不況解消か、精神的ストレスか、さもなければ地球の気候変動か。
日本のインターネットサイトでは、訪日欧米人の日本文化発見や紀行文、日本食のレポートが人気を博しているが、イタリアのサイトでイタリア人向けに、イタリア訪問中の外国人観光客のレポートは見たことがないし、あっても殆ど興味もひかないに違いない。
何しろ、ゲーテの「イタリア紀行」やアンデルセンの「即興詩人」を始め、文豪たちの文章には事欠かない。和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」は、今もミラノの自宅にしっかり本棚に並んでいるし、改めて読んでも実に深い文章だと思う。
「イタリア」と名前がつく音楽作品を羅列すれば、枚挙に暇がない。バッハ「イタリア協奏曲」、シューベルト「イタリア風序曲」、ベルリオーズ「イタリアのハロルド」、メンデルスゾーン「イタリア交響曲」、リスト「ヴェネチアとナポリ」、チャイコフスキー「イタリア綺想曲」「フィレンツェの思い出」、リヒャルト・シュトラウス「イタリアより」と、特に外国人作曲家が作った作品であれば際限なく続けられそうだ。それに比べると、イタリア人が「イタリア」と銘打ったり、「イタリア」をテーマに作った作品は、当然ながら限定的である。
元来イタリア人作曲家はロッシーニの「アルジェのイタリア女」のように、イタリアを一見茶化す性格のオペラのリブレットに、うまい具合にイタリア人やイタリア文化を忍び込ませていた例は散見できそうだ。第一、ローマ時代の神話などを題材にオペラを書けば、舞台は名指しされなくともイタリアを想像してしまう。19世紀になってヴェルディが、「アッティラ」や「シチリアの晩鐘」のようなイタリア各地の故事を使ってオペラを書き、国家統一運動の精神的な支えとなったのはよく知られている。そしてそれらは、過去の音楽文化の遺産の再評価へとつながってゆく。レスピーギの「リュートのためのアリアと舞曲集」などはこの潮流の先にある。その頃になると、文化と政治がかつてないほど近しい関係を築くようになり、結果として「ローマ三部作」やカセッラの「イタリア」のような作品に収斂されてゆく。
クラシック音楽における日本文化でよく知られているのは、「ジャポニズム」と呼ばれた異国趣味が高じたもので、遊郭に売られる少女を描くマスカーニの「イリス」や、芸者が主人公のプッチーニの「蝶々夫人」だから、日本の文化や風土との関わりは二次的なものになる。カウエルの「富士山の雪」も、蛾の姿をした少女の魂が富士山を登ってゆく姿に霊感を受けているそうだ。
プーリア州でのG7サミットに於いて、フランシスコ法王が人工知能に言及。今後更なる不公平を生む可能性があると懸念をしめした。
パリ郊外のクルヴェヴォワの公園で、12歳のユダヤ人少女が、12歳の少年1人、13歳の少年2人より「汚いユダヤ人」という理由で性暴力被害をうけた。加害者の年齢があまりに低いため、どのように扱われるのか、さまざまな意見が噴出している。
息子が小中学校時代、仲の良かった友人二人の家に、或る早朝、突然警察が訪ねてきたという。警察がまず彼らに通告したのは、ここで自主的に隠し持っているものを警察に渡せば減刑されるが、隠しているものを警察が見つけたら罪が重くなるということだった。果たして、二人は所持していた大麻を警察に差し出し、そのうち一人の少年は秤も提出したという。秤の所持は、使用しただけではなく、密売に関わっていたことを意味するのだそうだ。二人とも特に恵まれた家庭に生まれたし、何不自由なく育てられたのも知っている。本当に可愛らしい子供たちだった。仲間がデザインした服を着て、街角でグラフィティをスプレー書きする姿をSNSに投稿して、人気もあったという。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノ大学の前の美容院に散髪に出かけた。自転車でスフォルツェスコ城辺りを通ると、親パレスチナのデモ行進が終わるところだったようだ。すごい人いきれで、辺りは厳重に警官が並んでいる。散髪中に、何とも不気味な、低いどよめきとも叫び声とも判然としない、奇妙な音があたり一面に響き渡った。
デモは終わりかけていたように見えたから不思議に思っていたのだが、帰りしな、ミラノ大学の入口からふと中に目をやると、大きな旗を掲げる親パレスチナを訴える学生たちが中庭一杯埋め尽くしていて、無意識に恐怖を感じて逃げ出してしまった。彼らが何か一言発すると、その界隈一体に重苦しいような、波打つようなエネルギーを持った音響が広がってゆくのだった。
考えてみれば、息子と同世代の学生たちだ。毎日のように学校で教えている学生たちだし、実際教えている学生のなかでも、ミラノ大学とダブルスクールをしている学生は何人もいる。パレスチナを支援したいのは充分理解できるが、この無意識に感じた恐ろしさは、社会がどうにも分断され、引き剥がされてゆくその途轍もない力を感じたからだ。
対ドル為替160円。38年ぶりの円安水準。もはや対ユーロでは為替は170円を超えるのが普通になりつつある。

6月某日 ミラノ自宅
家に帰っていると、出し抜けに息子から、好きな協奏曲はなにか、と問われ、はたと言葉に窮す。
特にこれが好きな協奏曲、という曲名は思いつかないが、好きな演奏家とよく聴いた録音は、三つ子の魂なんとやらで未だにどうしても切り離すことができない。一番最初の記憶では、ハイフェッツが弾くグラズノフの協奏曲で、いつも鳥肌を立てながら聴いた。今と違って当時はさまざまな演奏家を気軽に比較して聴けるような情報量もなかったから、どうしてもその演奏を繰り返し聞くことになる。コ―ガンの弾くショスタコーヴィチの1番や、オイストラフの弾くショスタコーヴィチの2番。当時あんなにレコードが磨り減るほど聴いた演奏を、それもヴィデオで演奏風景まで見ることができるようになるなんて、全く想像もできなかった。初めて見るコ―ガンの演奏風景は凡そ想像していたとおりの姿勢だったが、オイストラフが2番を弾いている姿は、レコードで想像している姿からはまるで違って、もっとずっと激しく、文字通り全身全霊で弾いていた。どちらもヴィデオが見られたのはちょっと言葉にできない感動を覚えた。エルマンの弾くハチャトリアンは個性的で大好きだったから、各箇所の独特の節回しのルバートまでよく覚えている。プロコフィエフの3番のピアノ協奏曲は、曲としては昔から好きだったけれど、本人が弾いている演奏を聴いて初めて全体の構成がよく見えた。こうしてつらつら思いつくままに書き出すと、案外ごく普通のクラシック愛好家の愛聴盤と変わらない気もするが、それを知って息子は果たしてどう思うのか。
対ドル為替は一時161円。米大統領選テレビ討論会で、バイデン大統領悉く不評。

6月某日 ミラノ自宅
フランス下院総選挙でマリーヌ・ルペン率いる極右政党「国民連合」躍進。最大政党となり、マクロンの与党は3位。
このところ、事あるたびに思う。我々はいま、1930年の少し前、今から100年前ごろの世界を追体験しているのではないか。作曲家たちが何を考えていたのか、何も考えていなかったのか。政治的に現在言われているのは正しかったのか、間違っていたのか、或いはそうせざるを得なかったのか。とどのつまり、自分は何を考えるべきなのか。若い頃、戦前戦後の逸話を読みながら、当時はどんな世界だったのかと想像を逞しくしていた。そして現在、半世紀以上生きて襲ってくる既視感は、本で読んだことのある一世紀前の世界の姿を、まるで追体験しているように感じるからだ。そう感じているだけならよいが、現実に追体験しているとしたらどうだろう。
市民のなかから、ナチスはどのように芽生えたのか、芽生えなかったのか。実際のところ、本心では、当時の社会をどう受け止めていたのか。本当に望んだのか、そうでなかったのか。どこかに恐ろしさを感じていたのか、無邪気に表面だけを見ていたのか。音楽家は政治とどう関わったのか、関わらなかったのか。綺麗ごとではなく、我々自身が今この状況をどう感じているのか。
ナチス傀儡政権下でフランス人は自身の文化の誇りをどう保ったのか、保たなかったのか。優れたインテリだったはずのムッソリーニは、結局イタリアの伝統文化の価値を正しく理解していたのか。カセッラやマスカーニやレスピーギは、それぞれファシズムをどう捉えていたのか。資料としてではなく、追体験を通して、我々自身が自分事として不可侵であった、当時の芸術文化活動を身をもって理解しようとしている。ローマ三部作の本来の意味も、今であればより現実的に感じられるかも知れない。
本で読みながら彼らは何を感じていたのかと自問していた部分を、我々は今、恐らく各人それぞれの思考をもって対処しつつあって、進むべき道を選択しつつある気がする。何が正しいとか正しくないではなく、イデオロギーだけでもなく、究極としてこれは純粋に各々の人生の選択なのかもしれない。
仕方なく世情を受け容れ、迎合した芸術家、市民も多かったに違いない。それを今、我々は追体験している。我々が歩んでいる方向は、全世界の人間が、ほぼ無意識に少しずつ舵とりに加担してきた結果なのだ。だから、それを覆すのは簡単ではないし、覆らないと思う。
自分は移民として外国にいるのだから、極端なナショナリズムには異議を唱えざるを得ないが、ナショナリズムが台頭する理由も、それに賛同する市民の気持ちも理解できないわけではない。実際自分の周りにいる人々は、こうしたポピュリズムを望んでいて、その結果が現在の世界を生み出している。尤も、民主主義といっても、文化や伝統に沿って、国ごとにそれぞれの形態をあらわすから、日本とヨーロッパの民主主義を凡そ比較するだけでも、内情は大分違う実感がある。正義を求めているのではなく、今まで自問してきた疑問を、自分自身で考え、答えを与えたいだけだ。そうやって、体内に溜め込んできた塵や澱を吐き出して身軽になりたい。まるで年代物のずっしりと重い外套を脱ぎ捨てるように。

(6月30日ミラノにて)

スラマット・リヤディ通りのパレード

冨岡三智

6月には天皇皇后両陛下のイギリス訪問があり、ザ・マルで馬車パレードがあった。今回初めて知ったのだが、ザ・マルは19世紀後半から20世紀前半にかけて建設された約930mの儀式用道路で、バッキンガム宮殿が終点である。王室の祝賀行事や国賓訪問でこのように馬車行列が行われるという。というわけで、今回はザ・マルに似ていないこともない、ジャワ島はスラカルタ市にある大通り:スラマット・リヤディ通りJl.Slamat Riyadiで行われるパレードの話。

スラマット・リヤディ通りはスラカルタ市を東西に貫く大通りで、オランダ時代からある。幅30m、全長12㎞、西から東への一方通行で、東の端がスラカルタ王宮正門前(グラダッグGladagと呼ばれる)である。ただし、バッキンガム宮殿のように道路の真正面に王宮が見えてくるわけではなく、道路の右手(つまり南側)に外壁の門があって、そこから広場を通過し内壁の門をくぐってやっと王宮の正門に至る。…と、ここまで書いて気づいたが、このスラマット・リヤディ通りを直進した先にあるのはオランダが18世紀に建設した砦(Fort Vastenburg)だ。正確に言えば砦の南西の角に行き当たる。この砦はスラカルタ王宮に隣接して、王宮を監視するように建っている。

まずはジャワ暦大晦日の夜に行われる、スラカルタ王家の宝物とそれに従う人々が巡回する行事。2020年9月号に寄稿した記事「ジャワ暦大晦日の宝物巡回」にも書いたように、そのルートはグラダッグから北上、続いて東に曲がって電話局を通りパサール・クリウォンの交差点から南下し、ガディンからフェテラン通りを西に進んだ後北上して、スラマット・リヤディ通りに出(確かパサール・ポンに出る)、そこから東へ進み、再びグラダッグに戻ってくる。

これを書いた時には意識していなかったが、この電話局前の道というのは上に書いた砦のすぐ北側を通る道である。そして、ガディンというのは王宮南広場前にある一帯(ここにガディン市場がある)のこと。というわけで、ここまでは王宮+砦の敷地の外側を北~東~南へぐるりと巡ったことになる。その後は王宮南広場の前の道をずっと西に向かったのち北上してスラマット・リヤディ通りに出るが、北上する通りは上の記事にある「確かパサール・ポンに出る」通りではなく、ヨス・スダルソ通りだとスラカルタ市のサイトにあった。私の記憶間違いだったようだ。そして、スラマット・リヤディ通りを東へ進んで王宮に戻ってくる。というわけで、このルートではスラマット・リヤディ通りを通るのは600~700mくらいで短いのだが、巡回のクライマックスと言える。

次にスラカルタ市民に親しまれているのは、断食月21日目になる夜に行われるマラム・スリクランと呼ばれるパレードである。断食も残すところあと10日となり、この日から夜店が出るようになって断食明けまでのカウントダウンが始まる。その日に王宮モスクからスラマット・リヤディ通りを西に進んでスリウェダリ公園まで約3㎞、王宮の人々や儀礼ガムラン、供物の行列があり、それに民間のイスラム歌唱団体などの行列も続く。スリウェダリに着くと供物が集まった人々に配られ、王宮のイスラム指導者によるお祈りがある。スリウェダリは元々はオランダ時代にスラカルタ王家により建設され、クボン・ロジョ(王の庭園の意味)と呼ばれていたので、王家ゆかりの施設である。今ではスタジアムにワヤン・オラン劇場、遊園地がある娯楽施設となっている。

ちなみに、このスリウェダリ公園の西側のブロックがスラカルタ市長公邸であるロジ・ガンドロンで、スラカルタ王宮からロジ・ガンドルンまでの間は高層建築を建ててはいけないとことになっていたと聞く。スラカルタのザ・マルに当たるのはこの区間だなあという気がする。

6月

笠井瑞丈

ハギとモギ
うちにきて六か月
初めての巣籠です
二人とももう一ヶ月近く
自分達の寝床から降りて来ません
二人は姉妹なので本当に仲良しです
いつもハギがモギのお腹に顔を入れ
ただ時間が過ぎるのを過ごしている
ハギが窒息してしまうんじゃないかと
いつもちょっと心配しているのですが
本人きっとそこが一番安心なんだろう
暖かいお腹の中に頭を入れていい夢を

二人は何をするにもいつも一緒です
たまに降りてきては一緒に砂浴び
そして二人とも一緒に寝床に戻る
二人はどんな感情を持っているのだろうか
二人の思考に入れるものから入りたいものだ
二人を譲ってもらった時も
二人一緒にという条件付きだった
二人を引き離すのは可哀想だということで
本当にその通りだった
今も二人一緒に暮らせて良かった

今週は金沢でワークショップとパフォーマンス
もちろんハギとモギそしてナギも連れていく
強制的に自分達の寝床から離れるので
東京に戻った時には巣籠も終わるだろう

巣籠は実は相当エネルギーを使うらしい
本当はなるべく早く辞めさて方がいいと言われている
辞めさせる方法を色々ネットで調べたのですが
色々試したけれどもどれも効果がなかったので
自主的に諦めるまで待つスタイルをとっている

自分の命を削って熱を与え
新しい命のため光を与える

なぜか巣篭もり中の顔つきは
不思議と力強い顔つきに変わる
生命的な力を身体から発するのだ
この年に数回しかないこの行為は
本当に神秘的な事だと思う
きっと人間には真似が
出来ない事だ
それもあんな
小さな身体で
と思うと
本当に
頭が




今日久しぶりに寝る前
本を読んでいたら
ナギが枕元に飛んで来た
これは嬉しいことだ
電気を消し一緒に寝る

朝起きたらハギ モギも枕元に
何かしら通い合うものがあるのだろう
それが生命というものだ
今日はいい一日になるだろう

仙台ネイティブのつぶやき(96)ハサミとのりで読む

西大立目祥子

1日の終わりに、新聞を広げて残しておいた方がいいなと思う記事を切り取る。そして、大きなクリアファイルにざっくりと決めたテーマごと、はさみこんでおく。これは主に仕事用。そのほかに、小さくてどこかに飛んでしまいそうな記事を、A5判くらいのノートに貼り付ける。このノートはマルマンの正方形のクロッキーブックで、紙はクリーム色、のりはトンボの消え色スティックのり。

小さな方は、シベリアの永久凍土から1万年前のライオンの子どもが見つかったとか、動物園でサイの赤ちゃんが生まれたとか、回転寿司は人生そのものだという投書だとか…私以外の人が見ても何の意味もないようなたわいもない雑多で細々したもの。でも、わざわざ切り取ったのは気持ちが動かされたからで、兄弟なのか凍土層から折り重なるように見つかったライオンは推定で生後一ヶ月だったという記事に、突然命を落としたのはなぜだったのか、はるか昔の寒々しい森でじゃれあう2匹を想像せずにはいられないからだし、小ちゃなサイがお母さんを見上げながらそっくりの格好で走る姿は生きるよろこぶにあふれているからだ。逃した寿司皿を一巡してめぐってきたときにゲットする達成感や、先に誰かに取られてしまった絶望感を記す投書は何度読んでもクククと笑えて、煮詰まった頭に風をとおしてくれるようだ。

イラストやカットも貼る。投稿の写真も貼る。選び取ったのは小さなひらひらした新聞紙の破片に過ぎないのだが、貼り付けると細切れの紙が固定化されてつながって、記事がたまった先には、親しみに満ちたじぶんの世界ができ上がっていくような気がする。

そもそもハサミやカッターで新聞紙を切り抜き、のりを付けて紙に貼るという行為が好きなのだと思う。振り返ってみると、スクラップ初体験は9歳のころ。新聞に連載されたサザエさんの4コマ漫画をノートに貼り付けたのが最初だ。じぶんで思いついたのか周りの大人がアドバイスしてくれたのかわからないけれど、無地の白いノート1ページに2日分を貼り、子どもながらにそれだけではつまらないと感じたのかマンガのまわりをクレヨンのカラフルで素朴な罫線で囲んだ。チューブ入りのヤマト糊を使い、ノートはたしか近所の店でもらった景品。デカデカと商品名が書かれた表紙がいやで、カバーでおおいクレヨンで「サザエさんマンガ①」とタイトルを書いた。これで1冊でき上がり。大人の読む新聞からマンガ本ができあがっていくおもしろさを感じたからか、本棚には5冊か6冊たまり、ときどき取り出しては読んでいた。

それからずっとスクラップ道を歩んできたというわけではないが、つくりたいと思った料理のレシピはけっこう長いこと貼り付けている。まぁ、つくったのは1割に満たないけど。でも好みの料理の輪郭は見えてくる。これが料理か?と思えるくらいのシンプルなやつ。豆腐をくずして炒めるだけとか、カボチャの煮物とか、でもそこにスパイスを効かせると別物になる。豆腐はごま油で炒めカボチャは八角と煮るという具合に。どちらもウー・ウェンさんのレシピだ。

スクラップが再燃したのは、一昨年、多和田葉子さんの新聞連載小説が始まったときである。予告でタイトルが『白鶴亮翅(はっかくりょうし)』と知って胸が高鳴った。太極拳をやっている人ならすぐにわかる、右足に体重を乗せ、左の手のひらを地に向け、右手を鶴の翼のように高々と上げるあの型。ちょうど私は太極拳5年目で、だれもがマスターする24式という太極拳がひと通り身についたころだった。

始まってみると、小説はベルリンを舞台にした太極拳サークルの人々の話であり、溝上畿久子さんという人の挿画も版画のようなタッチで反古にするのは惜しい気がして、スクラップを思い立った。でも、横長の記事を貼るような大きなスクラップブックにはしたくない。
作者には悪いけれど、印象に残った文章を数か所切り取り、挿画と合わせていつもの正方形の小さなノートに貼ることにした。

40回目を数えるあたりから、ノートにただ新聞を貼るだけでは物足りない気がしてきて、新聞紙のカラー刷りの部分を手でちぎったり、ハサミで切り取ったりしてコラージュ風に張り込んでみた。考えてみればサザエさんのマンガを色とりどりのクレヨンの線で囲んだのと同じ発想だけれど、色紙を貼るとただのスクラップの紙面が作品にも見えてくる。

60回を数えるあたりからはだんだんノッてきて、朝新聞を広げると、まず小説を読み挿画をチェックし、さてどの紙面のどのカラー印刷部分をどんなふうに活かそうかと考える頭になってしまった。太極拳サークルのチェン先生は長春生まれのかわいい人で、玉ねぎのようなてっぺんがとがったヘアスタイルで登場する。その挿画のわきにはローズピンク色の紙面を玉ねぎ型に切り抜いて貼った。なかなかによい。ヒロインが隣人と第二次世界大戦の死者の話をした日は、薄緑色の中から光が漏れているような模様の紙面を割くように切って貼った。緑色は救いの色のよう。サークル仲間の女性が赤いセーターで描かれた日には、新聞をめくって赤い部分を探し出し丸く大きく切り抜き貼った。これは友情の証のつもり。

毎日やり続けていると、つぎつぎいろんなアイデアが湧いてきて、シニア向け広告のブラウスの柄を幽霊の話に使うとか、きれいな青空を細い羽のように切って「一羽の鶴のように人間の愚かな争いを空から見て」という文と挿画の上に重ね張りするとか、ますますおもしろくなっていく。通販のお菓子や牛肉、魚介の広告のアップの写真なんかも、ヨーロッパの複雑な民族の話や深いグリム童話を思わせる森の奥のお菓子屋の話に陰影を与えてくれて、かなり役に立つのだった。

ところで、チェン先生の太極拳の教えは、私の先生とまるで同じだった。太極拳は踊りではありません、武術なのです。おへそを上に向けるように立って。腕だけを使うのではありません、足の力を全身に引き上げるように使って…。そして、休んでも大丈夫です。繰り返し何年も練習しますから、というところまで。もちろん、チェン先生の太極拳の説明も切り抜いて貼っておいた。スクラップは太極拳指南書にもなったわけである。

だが、170回目をこえたところで、スクラップは止まってしまった。2年前の7月末、母がコロナに感染し介護していた私もやられ、母の住まいで半月の隔離生活を余儀なくされたためである。疲れ切って自宅に戻ると、家人が「楽しみにしていた連載小説は終わったよ。新聞はとっておいたから」というではないか。見るとテーブルの上には新聞紙がうず高く積み上げられている。なんだかまるでシューっと音をたてるみたいに、小説、挿画とのコラボスクラップ熱はしぼんでしまったのだった。

とりあえず切り抜きして終わりまで読んではいたのだか、クリップの束のまま2年。本棚の隅にしおれたようになっていた切り抜きが不憫に思え、この6月にわかに再開した。177回目より、一日一話ずつ188話まで。2年のブランクは大きく、アイデアは何にも沸かずいまいち冴えない紙面の仕上がりである。

それでも187話には力を入れて、新聞紙とにらめっこしきれいなブルーを探した。『罪と罰』に登場する金貸し老婆と同じアリョーナという名の太極拳仲間が、資産目当ての若い恋人に後ろから火かき棒を振り下ろされそうになる場面。アリョーナの身体は無意識のうちにすばやく動いて白鶴亮翅の技を繰り出し、大きな羽のように広げた腕で若い男を振り飛ばすのだ。鳥の翼の形に切った青い紙を挿画を取り囲むように2枚貼った。

白鶴亮翅で後ろからの攻撃をかわすとは。練習を重ねていけば、いつかそんなふうになれるんだろうか。スクラップはようやく完成し、丸々2冊ができあがった。こんなふうに手を動かしながら小説を読んだのは初めてだ。しかもチェン先生の教えも生きている。うれしいことがもう一つあった。スクラップが完成したあとの太極拳の練習で、初めて先生によくなってきたよ、とほめられた。

時の間とことのあいだの

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ見るよりはやく落ちてくる雨

点描はことのはじまりあわくして絵ふでのさきにともす眼差し

ぽつりまたぽつりとひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃くたわむ空間
 
 
ひとりごとうつし出すごと人かげは窓べにありて雨待つごとし

日のゆうべ絵を描くまでのときのまを映しだすごと裏窓はあり

愁いつつ外の面みやれば日の昏れを駆け寄りきたる雨という声

ふかぶかと窓のめぐりに夕かげはくだり来たれり雨呼ぶごとも
 
 
なにごとか思い出すごと日は落ちて雨の匂いにしずむまなざし

黒い雨を降らせることもあるらしき雲にまぎれて浮かぶ灰いろ

さまざまのいろの雨降る唐突をそらに見上げて逃げまどう日よ

空間にほつりほつりとふる雨のかげしろくしてたちまちに消ゆ
 
 
線描はときのはじまりまたひとつ追いつ追われつ絵筆に乗せて

終わりへの兆しもとめて過ぎゆきは線となりつつこの世を繋ぐ

絵ふで手に問いつ問われつかさねゆく線の数かず筆触ともいう

限りある過ぎゆきにしていっぽんの線の終わりを絵筆にむすぶ
 
 
時の間に隠れみえする線描の 線のかずだけ時雨ふる雨

雨淡き圧もてひとつまたひとつ水のおもてにひらく点描

みずの面に雨の滴のかげりたち 線から点へ点から円に

空間はそらの広さを省みて恥じ入るごとも雨をうらやむ
 
 
みたされしものから順にこぼれ出す雨という名の後さきおもう

塗りのこしにわかに失せて雨音の変わりゆくみゆ しろき雨脚

絵は音に音は絵となるひとときをうたい出したり雨垂れのごと

ひとすじの雨の奥行きてのひらに包まんごともデッサンをとる
 
 
描線を雨に見立てて仕上げゆく 彫り師の腕のみせどころ見ん

不意の雨にさやぎ立ちたる充実は摺り師の腕のみせどころなり

夜の灯の明りもとめてしぐれ降る雨のめぐりに浮かぶみち行き

離れ見ることの大事を説くように窓辺はありぬゆう暮れいろの
 
 
ちちいろの雨降るなかに差し出せる中指はけさ突きゆびしたて

時の間とことのあいだのつなぎ目を労るごともハミガキするも

重力のおもし解かれてすみやかにそらに閉じゆくひとすじの雨

くだり来てかなた遠のくひとすじの雨とは蓋しヒカリのうつゝ

愛とお金は奪い取るもの

さとうまき

今回の旅の目的は、わずかな遺産が私にも巡ってきたので、そんなものは役に立つように使ってやれと思いアレッポの小児がんの子どもの治療費と、最近しつこくお金をせがんでくるダラアのマフムードの手術代に当てるつもりでいた。

マフムードは、24歳になっている。13歳の時にシリア内戦で左腕を無くし、内臓も破裂すると言う重症を負った。彼は流暢な英語で 度々手術が必要だと言ってお金をせがんでくることがあった。多分翻訳ソフトを使ってるのだが返信が早い。いつの間にか彼は大人になり生き延びる術を身につけていたのだ。ともかくしつこくお金を要求してくる。根負けして送金しても金を受け取っても連絡してこない。だからそういう態度には少しイラつく。

シリア人からも彼に対する悪い噂が聞こえてきた。麻薬に手を出していると言う。私も相手にしないようにしていた。いいところもあって、近所のガンの女の子のために人肌脱ごうとしてお金を要求してきた。ところがマフムードは、女の子をバスに乗せてダマスカスの病院に連れて行き、タクシーに乗ったことにして差額をポケットに入れてしまったのだ。僕はもうウンザリしてしまった。

今度は、お腹に腫瘍ができた。検査したので150ドル送れと言う。放って置いたら検査結果に関しては何も連絡はなく、いつの間にか足が腐ってきた手術代が必要だと言う。僕はもう彼とのやりとりにはウンザリしていたが、腐ってきた足の写真を見てさすがに可愛そうになり,.シリアに行って彼をとっ捕まえてその場で病院に連れて行って足の手術をさせて医者に直接お金を渡そうと考えたのだった。

ところが、こともあろうに僕はイスタンブールでスリにあってしまい全財産を無くしてしまった。シリアに行く金もなくなり帰国するしかなかったのだ。マフムードはしつこく連絡してくる。
「ごめんね。スリにあって全財産取られちゃったんだ。君に払う金はないんだ」
「それは、大変だったね。でも僕は150ドル欲しいんだ。いつ送ってくれる?」

無視するとしばらくたって、「元気かい」とメッセージが入る。
「今度は母が脳梗塞で入院して大変なんだよ」
「それは大変だ! 君のお母さんが早く良くなるように。ところで僕は手術しなければいけないので150ドルはいつ送ってくれるんだい」
こいつなんてやつなんだろう。メッセージのたびに必ず添付してくる足の写真は日増しに腐ってきている。ここまで酷いんなら近所のシリア人が少しづつカンパすれば大した金額じゃないのになんで誰も彼を助けないんだろう。謎は深まるばかりだ。

ともかく私は一文なしになってしまったので、俺の金を盗んだ奴がどこかでマフムードのことを聞きつけて手術代を出してあげて欲しいものだ。

アパート日記6月

吉良幸子

6/6 木
まず出稼ぎ、半休取ってこの前道端で知り合ったおばあちゃんちへ着物もらいに行った。部屋へ案内されてびっくり、でっかいピロスマニ展のポスターが貼られているではないか!!むっちゃ好きなんですよ!と興奮気味に言うたら、私も好きで岩波ホールに何度も足を運んだわとのこと!道でたまたま声かけてくれはったおタカさんとはびっくりする程共通点が多い。おもろい縁やなぁと思う。おてんば話を小一時間聞いて、友達と私と2枚の着物と帯1本をそれぞれいただいた。
おタカさんとこを出てそのままさばのゆの吉坊一人会へ。店主が急に亡くなったのもあり、半年ぶりの開催でお馴染みさんでいっぱい。この前、本の市した時に来てはった方がたくさん来てて私もひとりぽっちじゃない感じやった。会の後、急にあっちへ行ってしまった須田さんへみんなで献盃。さばのゆでの一人会は続けるらしく、また来ようと思う。

6/12 水
下駄が欠けた。通勤で自転車乗り回してたのが悪かったんやと思う。直せるのか分からんけど品川の下駄屋へ朝から持っていく。ほしたら、ここだけ直すのはできんから台替えるしかないと言われて新しい台を選んだ。たった数ヶ月でぼろぼろにして可哀想なことしてしもた、堪忍してや。落語に出てくる桐の畳表があって、うわぁ贅沢やなぁと見てたらさすが商売人、若女将がこんなんありまっせと夢にまで見た台を手にニッコリしておる。素足で履いたら気持ちええですよと言われて、じゃあそれにします!と言うてしもた。お金もないのにこんな時だけ決断力がある。落語に出てくるケチは、この桐の畳表を丁寧に履いて、平らになったらノコギリ入れて八ツ割で履く。それもすり減ったら畳表は外して鍋つかみ、鼻緒は羽織の紐にして、台は釣りの浮きを彫って釣具屋に売りに行くらしい。浮きまではいけへんやろうけど、今度はもっと長~く履けるように大事にしようと思う。
品川から御茶ノ水へ。炎天下の中歩いて古書会館でやってる佐野繁次郎の展示を見に行った。甲賀さんが装丁集を持ってはって、見た時力強さにびっくりした。今回の展示では初めて原画を見れて更に感動した。どれもこれもかっこええ。
明るいうちに帰るとざこばさんの訃報が入ってきた。もう言葉にならん。去年、動楽亭に行った時に運よく久しぶりに高座に上がってきはったんやけど、生きてるうちに顔見れてほんまによかったと思う。そん時も呼吸がしんどそうで、出てきてすぐ、今日は落語しまへん!と代わりに肋骨が折れた話しはって大いに笑った。落ち込んでもしゃーないし、風呂いこかと思ったら、献盃しなくちゃ!と公子さんが言う。ほんまや、酒は冷えてるか、冷えてないやないか!と、酒だけ冷やして風呂へ行く。一升瓶から一合ずつ冷やして、今夜はこれで我慢ネ、というのがアパートのスタイル。帰ってきてすぐ台所で一杯、公子さんと献盃。それも立ったまま。今夜はもっとゆっくり呑んでーやと大酒飲みのざこばさんに言われそう。

6/15 土
今日はおかぁはんが上京してくる日。明日のいわと寄席を目当てに遊びにくる。出稼ぎをさっさと終えて帰ろうと思ってたんやけども、こんな時に限って携帯に電話が入る。出てみたら「ニシンです!」と。この前着物くれはったご婦人、おタカさんや!ニシンっちゅうのは、鳥取で美味しい魚を食べて育ったおタカさんが、上京して初めてニシンを食べた時に「これは死魚や!」と言うて周りから袋叩きにあったという逸話からついたあだ名。仕事終わりにちょっとだけ寄って、とのことで断り切れずに約束した。
仕事中にはお馴染みさんが着物の山を持ってきてくれはって、みんなで山分けしてねとのこと。ありがたい。ご自身も着物で来てくださってかわいかった。そして夕方から店に取材が来て仕事も長引く。その後にはニシンさんとこへ行って、ピロスマニの話で盛り上がる。こんなとこでジョージア話ができるなんて夢にも思わんかった。
そんなこんなで結局おかぁが待つ旅館に着いたのは夜の22時過ぎ。長い長い1日やった。

6/16 日
いわと寄席、金原亭馬久さんと林家きよ彦さんの日。
毎月やってたいわと寄席は一旦今回でおやすみ。ほんま、さみしいなぁ。

6/19 水
末廣亭夜席へ。今日は私にとってはお得な顔付けやった。桂二葉さんはなんだかんだ初めて。甲高い声と関西弁で捲し立てたら分からんと東の人はよう言うてはるけど、想像した程には早ないし私にはよう分かった。やっぱし上方の落語は言葉がええなぁ~聞いてて楽しい。ねづっちも初めて高座で見た。新橋の喫茶店でたまたま隣に座ったことはあるけど。小痴楽さんも代打で出てはって2倍増しなお得感。やっぱりうまい。ほんでほんでお目当ては松鯉先生!出てくるだけで嬉しい!!今日もにこにこええ一席やった。でもいつも5時起きやし肝心のトリの時間は猛烈におねむで、桟敷で軽~く船漕ぎながら、ごめんやで~。

6/22 土
この前の土曜に、先週待ってたのとニシンさんから言われたので一応電話してみる。ちょっとおいでということになった。ほんまにちょっとだけ寄って帰るつもりやったんやけど、話してるうちにニシンさんも川島雄三を好きなことが発覚!もう完全に趣味一緒やんかいさ!!!あの映画良かったよね~とかあの俳優誰だっけな、とか思いがけずめちゃめちゃ盛り上がった。ほんで、幕末太陽傳の石原裕次郎は下手だったよねぇ~と散々裕次郎の悪口でもうひと笑い。古い映画好きで良かった、こういう時ほんまに楽しい。夕方には帰るはずが気付いたら夜まで喋っておった。帰る前に私が唯一持ってなかった川島雄三の本をもらう。今まで何度も読み返して大事に取ってた本らしくありがたい。

6/25 火
夜、家へ帰るのに駅から歩いてると、うちの一本手前の道で見慣れたツートンの猫に遭遇。あら、ソラちゃんですか?と声かけたら、え!?もしかしておねぇちゃん?って顔して寄ってきた。外でも分かるんやね。着物ででっかい猫抱えて家まで帰った、変なの~。

6/28 金
しまい込んでた草履ほど壊れやすいっちゅうことを実感した日…。
出稼ぎ先のお客さんにもろた草履を履いて出勤。いかにも長年使ってませんでしたという感じの、茶色のぴかっとした草履で、雨の日に適当に履くのにちょうど良さそうと思ったんやけど…もう電車の中で立ってるそばから接着剤の取れるねちゃって音出してる。乗り換えの駅に着いて階段降りてたらまず右足の台がぼろっと取れた。朝早うて眠たいし耳は落語聞いてるし、ぼんやりして何があったか分からんとそのまま階段を降り切ったら、なんか左右の足の長さが変わったらしい。もう階段まで戻るには人の波がすごくてそのまま乗り換えのエスカレーターへ。そして次のホームへ着いたところで左足の台もめでたく取れた。さすがにそん時には目が覚めてるし、左の台だけは回収して、足を見てみると鼻緒つきの天生地だけ。よく見ると鼻緒が台を通さず天生地だけに付いてて、鼻緒付きの生地を台に接着剤でつけとっただけ。なんやこれ、そりゃ取れるやろ!!!文字通り、地面に鼻緒をすげたみたいなうっすい草履の残骸で目的地の駅までがんばった。裸足で歩いてるみたいに足裏で地面を感じる。駅からは自転車で、カゴに入れてた自転車用にしてる下駄に履き替えて事なきを得た。取れた右の台は回収できず、変なもんを駅に落としてきてしもた。すんまへん…。

本小屋から(9)

福島亮

 久しぶりに朝早く目覚めたので、白む空を見ながら軽く散歩をすることにした。外に出ると、湿気をまとった空気に包まれる。風は吹いているのに、大気はもったりしている。亜熱帯の空気を感じながら、7年前、初めてマルティニックを訪れた時の朝の景色が記憶の底からじわじわと甦る——就寝前につけたレモンの香りの蚊避け蝋燭がまだ灯っていて、部屋の隅で仄かな光が揺れている。目を覚ました私は、その光を蚊帳の内側からぼんやり眺める。やがてスコールが屋根を打ち、建物に穴があくのではないかと思うほどの轟音が響く。だがそれも5分もすれば静かになって、寝る前からずっと聞こえていたはずの蛙の鳴き声が再び聞こえてくる。蛙といっても、親指の爪よりも小さい極小の蛙。笛のような高音を奏でるから、私の耳にはヒグラシの蝉時雨のように聞こえる。身を起こし、冷たいタイルの床にそっと足をつき、綿のシャツを着て家を出ると、微かに空は白んでいて、隣家の犬や野良の鶏が濡れた草の上ですでに活動を開始している……。

 多摩川の岸辺に出る。早朝ランナーが2、3人。それから、魚の観察でもしているのか、浅瀬に入って何やら話し合っている人が3人。シロツメクサやムラサキツメクサが広がっている。石ころと花のあいだを歩きながら、東中野ポレポレで観た奥間勝也監督「骨を掘る男」(2024年)のことをぼんやりと考えていた。沖縄戦遺骨収集ボランティアとしてガマを掘る「ガマフヤー」具志堅隆松さんを追ったドキュメンタリーだ。冒頭、真っ暗なスクリーンにガマの闇と小さなライトの光が映る。井戸の底を覗き込むような怖さと苦しさが込み上げてくる。その闇のなかに、80年近くにわたって弔われることなく置き去りにされた人々がまだいるのだ。具志堅さんは小さな道具を用いて慎重に土を掘る。もうずいぶん深く掘っただろうに、と思った途端、瑠璃色の茶碗のかけらが出てくる。たしかにそこに人がいた痕跡。傷つけないよう細心の注意を払って掘り出される遺骨や遺品の数々は、彼らがどのようにして死なねばならなかったのかを言葉すくなに語り始める。片方だけ脱げた靴、かんざし、ひしゃげたキセル、乳歯。

 私が「骨を掘る男」を観ようと思ったのは、南部土砂問題に関心を持っているからだ。来年で戦後80年になる。だが、土を掘ればいまだに遺骨が出てくる。遺骨の収集がまだできていない土を削り、石灰岩を掘り起こし、それを辺野古の埋め立てに使う計画が進行している。「骨を掘る男」のなかでも取り上げられているように、DNA鑑定による遺骨の身元特定を厚生労働省が行なっているが、埋め立て用土砂に遺骨が混ざってしまった場合、その身元は永遠にわからなくなるだろう。そもそも、地上戦が行われ、おびただしい砲弾が撃ち込まれ、幾人もの人々が殺された土地を掘り返し、米軍基地移設の土台に使うことがどうして許容されようか。そのような死者の尊厳の蹂躙に加担する仕組みのなかにいることの後ろめたさを感じる。

 じつはカリブ海でも奴隷制時代に埋葬あるいは遺棄された奴隷の遺骨の発掘が少しずつなされている。もうしばらく前になるが、人々が海水浴を楽しむ浜辺の下、数十センチのところから奴隷の遺骨が発掘されたこともある。もっとも、古いものとなれば300年以上前の遺骨だから、どれほど精密な科学的分析が可能か私にはよくわからないのだが、やはりDNAの分析は行われている。会ったことのない人、しかし、たしかにそこにいた人に辿りつく、ほとんど最後の手がかりが遺骨だ。南部土砂問題の向こうに、私は微かにカリブ海の砂浜を透かし見ている。

 「骨を掘る男」は東中野ポレポレで7月中旬頃まで上映される予定だという(https://pole2.co.jp/coming/65f2f7eca236de71aef20d99)。北海道シアターキノ、宮城県フォーーラム仙台など、全国の映画館で上映されるそうだ。

言葉と本が行ったり来たり(24)太陽がいっぱい

長谷部千彩

こんにちは。六月最後の週末、海辺の部屋でこの手紙を書いています。昨夜の大雨のせいで今日は雲が多く、あいにく太陽は見えないけれど、十分すぎるほど明るいのは、眼前に広がる海に光が反射しているから。むしろ眩しすぎず、読書にはうってつけの日よりです。
この場所へ通い始めて半年が経ちますが、滞在の目的はバルコニーに椅子を出して、のんびりと海を眺めること。そして波の音を聞きながら本を読むこと。小さなボリュームで音楽を聴くことも楽しみのひとつです(時にはうたた寝も)。辺りを散策すれば、史跡名所や洒落たショップなどいろいろとあるようですが、ひとの多い東京で暮らす私には、海しか見えないこのバルコニーで過ごす時間が何よりの贅沢。日が昇り、日が沈むまで、できる限りここに座っていたいのです。
ひとつ発見したのは、私にとってリラックスできると思っていた曲が、ここで聴くと意外とテンポが早く、緊張感のあるものだったということ。波のゆらぎの前では、それらが都会の音楽であることを認めざるを得ず、同時にそれらを安らぐと感じるほど速度のある街で私は生活しているんだなと改めて気づかされました。
でも、だからといって、こちらのほうが、とはならないのですが。やっぱり私は都会の暮らしを愛している。海辺の部屋に滞在しながら、頭の片隅で東京に戻ったらあの美味しいお蕎麦屋さんに行こうとか、あの美術展にはまだ間に合うかしらと考えてもいる。先ほどバルコニーで過ごす時間が何よりの贅沢と書いたけれど、正しくは、文化をたっぷり享受できる場所と自然をたっぷり享受できる場所、その行ったり来たりが私には何よりの贅沢ということなのでしょうね。随分と平凡な結論になりました。
ちなみにいま聴いているのはパブロ・カザルスのバッハ 。無伴奏チェロ組曲です。ここ数年、クラシックはコンサートホールでしか聴かなくなっていたけれど、この部屋ではまたアルバムをあれこれ聴くようになりました。
東京へは今夜戻ります。それまでパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』を読むつもり。トム・リプリーの最後が映画とは違うと知り、原作を買ってみたのです。まだ前半で、彼らは船出さえしていないけれど、既に映画と違う描写が多々あり、これをああいう風に脚色したのかと興味津々でページをめくっています。東京では人文書ばかり読んでいる私ですが、この部屋では小説をよく読んでいます。作家の方々には申し訳ないけれど、小説って心に余裕がないと楽しめないものかもしれません。

2024年6月29日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(23)『歳月がくれるもの』ふたたび 八巻美恵

果実の身代わり

イリナ・グリゴレ

暴力の泉があるとしたら、山の森の奥にまだ誰も歩いたところに、黄色い岩から流れる黄色い水のようなものだ。傷がついたとき最初に出てくる鮮やかな血ではなく、血が止まった後の黄色いリンパ液のようなものだ、と彼女は想像していた。樹皮を包丁で削り、木にハートの形を刻み込む村の恋人たちを嫌っていた。自分達のイニシアルを刻み付け、それをハートで囲むあの人たちは、永遠の愛を得ていると勘違いをしているだけで、永遠の愛とは人間同士だと難しい、彼女はそう思った。木から出る黄色い液体を彼女は指ですくって食べて見たことがあるけれど、愛の味など感じたこともない。焼きたてパンと果物の方がよほど愛の味がする。樹液は数何千万年もの時間を経て宝石として採掘されると村の図書館で読んだ。最高級の石はハエ、 ハチ、アリなどの昆虫が中に閉じ込められたものだとあって驚いた。

樹液を毎日舐めていた9歳の自分はカブトムシとアリの身代わりになって、それはとても腹心地のいい満足のできる食べ物だと思っていたが、まさか食べている樹液に逆に食べられるなど一度も考えていなかったので恐れを覚えた。けれども同時に何千万年もアリの姿のままであの液体に閉じ込められ、宝石に磨かれて人間の首を飾るイメージはあまりにもおかしかった。本の中でしか見たことないが、あの虫入り琥珀の中のアリがまた動きだしたりしないか何度も確認した。目を逸らした瞬間にまた動くのでは、と。アリを殺すと悪いことが起きると思っていたから、樹液に殺され地中に埋もれていくあのイメージが頭から離れなかった。そう、彼女の生まれ育った村には暴力が溢れていたといつ気づいたのか。目の前で犬が撲殺された時か。いいや。飼っていた白いウサギは野苺のように赤い目玉をしていて可愛かった。ウサギは何匹も飼っていた。毎朝新鮮な草と木の枝をとってきて食べさせていた。たまにもふもふのウサギが毛皮になって洗濯物のように物干しにぶら下がっていた。野苺の眼がもう空っぽになっていると気づいて、命が入ってなかったとわかった。

彼女の村、彼女の世界は命で溢れていた。しかしあの樹液がアリを包み込み殺していくように、地球が同時に暴力で溢れていることに小さい頃から気づいていた。6人兄弟だったので貧しい家族の中で産まれたとも気づいていた。それでも牛を飼って、ヤギを飼って、鶏を飼って、うさぎを飼って、村は果実で溢れていたので食べ物に困ることはなかった。姉は16歳で結婚してすぐ妊娠したので、姉のために毎日下の弟と釣りに出かけていた。そんな人生、貧しい暮らしだったがそれを苦しいと思ったことはなかった。夏になると果実を食べることが一番の楽しみで、川に弟と向かう途中他人の庭に二人で入りこみ、少しだけ食べた。その家の人に気づかれたことは一度もなかった。これも小さい時から観察している虫から学んだことだった。自分と弟の気配を消す技だ。さくらんぼの季節にお腹いっぱいさくらんぼを食べた後で気づく。さくらんぼの中にたくさんの幼虫が入っていたこと。ラズベリーの中にカメムシがいたこと。

人間であっても彼女には虫から習うことがたくさんあった。大好きな果実の食べ方もその一つだった。虫は小さいから少ししか食べないと思われがちだが、実はわざとそうしているのだ。杏の実が庭に落ちている。拾ってみるとまだアリがついている。ハエもたかっている。他にも色々な虫たちがその実のところにやってくる。そして、どの虫も少ししか食べない。わざとたくさんの果肉を残し、他の生き物にもその庭、その土の美味しい実の甘さが届くよう、みんなとその味と喜びを分けている。果実は人間だけのものではない。それに、人間と違って虫の間には暴力という考え方がない。最後に人間は果実を収穫してジャムを煮たり果実酒に漬けたりするが、その前にたくさんの虫がその味を確認していたのだった。

虫と同じ気分で果物を食べ始めたら彼女は一度も大人に見つかることがなかった。虫の時間と動きで行動していたら、虫がカムフラージュするように、村のどこの家の庭に入って果実を食べても誰にも何も言われなかった。弟は彼女を太陽のように見ていた。いつも美味しい木苺、プラム、さくらんぼ、ナッツをくれる姉。彼女だって弟を小さな可愛い虫のように見ていた。彼はとても目が青くて、金髪で、まるで女の子のようだった。気が弱くて泣き虫で、守るべき存在だった。彼女も金髪だったが肌は日に焼けて黒かったし、草むらに入り、木の上に登り、膝や肘がいつも傷だらけで、まるで男の子のような格好だった。釣りも村の誰よりも得意で、自分は女の子だと思っていなかったかもしれない。いつも穴が開いっていたタンクトップと短パンで、髪の毛も短い。目の色は弟の青空の色ではなく、灰色に近い色だった。同年代の男の子よりネズミ狩り、釣り、木の実の知識、土地勘が優れていた。ただし、欲するままに取りつくすことは許せないのだ、と観察していた虫たちから教えられて覚えたので、自分と弟の食べる分しか取らない。

けれども、この幸せな暮らしは長くは続かなかった。ある日、彼女は泣く弟に腹を立てた。お腹が空いていた彼はもっとラズベリーが食べたいといつも入っていた空き家の庭で喚いた。彼女は代わりにモモをあげた。でも弟は泣きやまず、アリが食べていたそのモモを地面に投げつけ、足で潰した。モモのなかで食べているアリも潰された。彼女はこれをあまり良い兆しではないと一瞬で覚ったけれど、何もすることができなかった。それでも川に行ったさきでフナがたくさん釣れたことに気を取り直し、二人で牛と一緒に川に入り体を洗った。そうしたら、川から上がった後で彼女の腕に人生で初めて見たと思うほどの大きなヒルがついていた。それを見た弟はいきなり大声で泣き始めた。その声に彼女はびっくりして自分の身体を見ると、腕だけではなく身体全体にびっしりとヒルがたかっていて、自分の血が全部吸い込まれるのではではないかと感じたほどだった。落ち着いてくっついたヒルを一匹ずつ引き剥がして川に捨てた。何日間も皮膚に跡が残った。首と耳の下には一生消えないアザになった。小さな虫のようなものたちは暴力的ではないと思っていたけれど、あのヒルのせいでこの地球の全ての生き物が暴力的なのではないかと疑うようになった。そうだ、果実を食べていた自分はヒルの果実の身代わりとして食べられたのだ。

彼女にとっての本当の暴力がその後の人生から始まった。しばらく近寄りもしなかったラズベリーの庭に弟と再び入ってみた。すると家の中から音が聞こえ、窓を見ると家に一人の老婆が椅子に腰かけたままじっと座っていた。よく見ると足に怪我でもしたのか、象のように腫れ上がっていて皮膚も半分ほど腐っている様子だった。老婆は大柄な体つきで、椅子から何百年も動いてないという印象だったけれど、急に頭を動かして窓のほうを振り向いたのでびっくりして逃げようとした。そしたら背後にも誰かがいてぶつかって転んだ。弟が泣き始めた。高校生くらいの男の子が、家の中にいる老婆と同じようなメガネをかけ、その目で彼女と弟を見つめていた。

後でわかったことだが、その人物はあの女性の孫で、夏休みにいつも村に遊びに来ていた若者だった。何より驚いたのは、彼は彼女と弟が庭で果実を食べに来るのを知っていて、いつも見張っていたのだった。その家はそもそも空き家などではなく、足が腐ったおばあちゃんの住処なのだった。彼女が患った足が腐る病気は砂糖の取りすぎで、なにか難しい名前の病気だったので、「あなたたちも果実を食べすぎると病気になるよ」と言われた。でもたまに遊びに来て、と彼は寂しそうに誘った。彼女は初めて街の人と会って、砂糖をほとんど口にしたことのない二人に彼はチョコレートをくれた。彼女が止める前に弟はチョコレートを口に運び、口の周りを真っ黒にして、笑いながら美味しい、美味しいとあたりを飛び回って喜んだ。

彼女は怒って、喜ぶ弟を連れてすぐその庭から逃げた。もうすぐ秋で、夏の果実の季節も終わりに近づいて、入れ替わりにクルミ、トウモロコシ、ブドウの季節がやってくる。そしたらもうあの庭にいく必要はない。あの若い男性もとても恐かった。彼の周りはガとスズメバチが飛んでいるような暗い雰囲気があった。たまに村の唯一の店まで父親のタバコを買いに行った時に見かけたが、彼女を変な目付きで見て、チョコレート、角砂糖、飴など甘い物をくれようとする。すぐ逃げた。

ある朝、ヤギと牛のミルクを絞ってバケツに集め、煮沸消毒する手伝いのために弟を探すがいくら探しても周りにいない。牛の乳から直にミルクを飲むのが好きな弟は、普段なら近くにいるはずだが、その日は姿が見当たらなかった。半日経ってもいつも遊ぶ周りにさえいないので探し始めたけれどどこにも姿がない。最後に思いついたのはあの家だった。近づけば近づくほどたくさんのハチに刺されたように皮膚にブツブツが出ている気がした。庭から弟の声が聞こえたような気がして急いでフェンスをよじ登って乗り越え、家のすぐそばに降りた。そして窓から家の中を覗くと、ベッドの上で太った女性が死んだように寝ていた。足の傷から滲む血のせいで白いシーツが汚れていた。

彼女は気分が悪くなり吐きそうになったが、その後で目に入った光景が人生で一番恐ろしいイメージとなった。物置から声が聞こえ、すぐにそこへ向かった。中に入ると裸にされていた弟が泣いていた。彼の後ろにはメガネを外した汗だらけのあの街からきた高校生が興奮したような鬼のような形相で立っていた。床には溶けた飴が落ちていて、埃まみれのそれを食べようとアリがたかって黒く固まっていた。彼女は声を出そうとした。あのときもし声を出すことができていたら、その後はもっと違う人生となっていたはずだと何度も思った。でもその時は口を開けても声が出なかった。半分開け放ったドアに虫のようにぶつかって逃げた。弟を家に連れ帰り、祖父にあの家に行くように伝え、その後爆発のような光を脳裏に感じた。

彼女はしばらくの間言葉を喋れなくなった。大好物の果実を食べることもできなかった。ただただ、石に潰されるアリのように自分のその後の人生に潰された。姉と同じ16歳で結婚し、村の店で働き、夫の暴力を毎日受けながら子供を3人産んだ。彼女の願いはあの男が死ぬこと、それだけだった。あの日の出来事が何をしても忘れることができず、自分も砂糖の取りすぎからか糖尿病を患い、ずんぐりと太った身体を村の医師から何度注意されても賞味期限が切れたチョコレートと飴を店で買いあさって食べ続けた。そしてこの生活から解放される日がきた。あの男が自分で首を絞めて死んだという知らせが入ったのだ。彼女はあの庭に何年ぶりに戻り、草むらにラズベリーを見つけて食べた。口の中にカメムシの味が広がった。死んだら、アリになりたい、虫になりたい、と思った。

235 駅に鳴る

藤井貞和

駅に鳴る高田馬場の発車音。省線電車の通過 まぼろし 
電化こそ 戦後のあかし。夢灯る 稲沢駅の電気機関車
東海道本線、「つばめ」走り来る丹那トンネル、架線(がせん)のこすれ
停電を繰り返すなり、感電も。日に一度、二度、理科部員、われら
 ○
全児童をまえに研究発表する少年の結論――水は電気を通しません
アトム、ナウシカ、AKIRA、ゴジラ。四大アニメすべて原子力(川村湊)
誇るべき少年文化、幼きがいつか推進の徒になる原子力
ゆけ、われら、人力発電所を発明し、つみほろぼしの子々孫々に
黒雲の国に葦葺く二十一世紀。省線電車よ、われらを乗せて
  ○
回し読みする一冊の『少年』誌。われら御用学者の汚名をいまに
夢の原子力、平和産業の思い、黒雲となる御用学問
信じられる! 安全管理、その努力! だましたりうそついたりするはずがない!
御用学者われらよ、ラララ 科学の子。戦後を誇る平和のあかし

(御用学者とは「非難」じゃなくて、文学だっても御用じゃない? 『少年』は掲載誌、一九五一年四月かな、連載がはじまった。
 原発「増設」認める方針、経産省
  廃炉分、自社の他原発に建て替える
   二〇二四年六月一六日附け〈朝刊より〉。)

失敗の判断、判断という失敗

高橋悠治

先月の実験「白鳥の」は演奏してみて、そう悪くはなかった、と思ったのは、ピアノを弾いていて、「風ぐるま」の仲間たちと違和感なくできたからかもしれないが、楽譜として客観性があるのか、知らない演奏家たちが、指示なくわかる楽譜なのか、そこはわからない。

最少限の 記号を使う、という考え方自体、20世紀後半の考え方から脱け出せていないのかもしれない。「考える」ということ自体、あらかじめ構成した何かを試してみる時には、良いと思えることが多いかもしれないし、何かが起こってから判断するのでは、自分の手が加わっている以上、客観的な判断になっていないのかもしれない。だが、客観的な判断などというものがあり得るだろうか。

少ない記号だけを使って、それぞれの記号の範囲を広げてみると、記号自体が曖昧な(粥のような)になっているのか、せいぜい重なる範囲を持つ、と言ったらいいのか、たとえば、「短い音」は「長い音」との比較でしか決まらないから、それ自体ではなく、その環境のなかで初めて範囲が決まるものとなり、ドリーン・マッシーの「場所」のように、動かない点や、内外が決められた輪郭ではなく、時間とともに呼吸する空間の過程であるような、そうなると、時間も空間も、固定した軸ではなく、そのなかの物と一緒に揺れ動く膜であるようなもの、となると、定義された記号の束ではなく、前例に似た見かけ、その変化とも感じられる、厳密に定義されていない、自由な走り書き、空白の多いスケッチ(ルネ・ディドロの素描 rapidissimi)から思い描くなかで、多様で矛盾を含む線や斑点の遊びのあいだから、意図されない線が見えてくるならば、その先もあるだろうか。

考える習慣をやめて、感じるのはむずかしい。以前は、目覚めた時に、幻覚ではないが、音の動きを指に感じることがあったが、この頃は、空白のままだ。構成を通さずに、感覚の雫が降り積もる塔を、眼で計るより指で触れながら残していく忍耐を持てるだろうか。図書館で偶然眼にしたボリス・ピリニャークの『機械と狼』をめくりながら…