もの書き(5)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

彼はふ〜とため息をついたが、顔色も変わっていないし、生真面目という風でもなければ茶化している風でもなかった。
「きみらの書いたものはのんべんだらりで冗長。雰囲気だけじゃ読んだ気がしないよ。あれもこれも説明が多すぎる。社長は気に入らなかった。社長が言うには、きみらはこういうものは書かない方がいい、短編か小説かなんか書いて売った方が役に立つ。白表紙本なんてぇのはその筋の連中でなきゃあだめだ。きみらのやることじゃない、ということだ」
と言うと、彼はグラスを持ち上げてごくりと飲んだ。そして押し黙ってしまったぼくたちのその場の空気をなごめようとするかのように、また口を開いた。
「さあ、飲めよ。酒だ、これはつまみ。あまり考え込むな」

ぼくたちにとっては悪い知らせだった。がっかりはするし、すっかり場がしらけてしまった。とはいえぼくたちの人生全体から見ればいい知らせだったのかもしれない。これが人生の重要な転換点になったともいえるのだから。その日は飲んでも味気なかったのだが、気持ちよく酔うことにした。酒を飲んで酔うことについては決めていることがあった。お酒があまりない日はしっかり酔うことにしていて、お酒がたくさんある日にはあまり酔わないようにする、というものだった。

気晴らし本というか白表紙本というかその手の本については、わたしはそれ以上考えることをやめた。自分が得意とする方面の仕事をするほうがいい。とはいえ、プラスートの部屋にはこの手の本が3、4冊ころがっていて、こっそり読まずにはいられないのだった。ドンジュアンとかチャーンデーンとかいうペンネームのどれも、プラスートの書いたものではないかと疑っているのだが。

ただし、俺は書いてない、俺は書いたこともない、と強い口調で彼は主張するのだ。信じられますかね。この野郎めが!  (完)

(初出「週刊マティチョン」2007.5.4)

空に浮かぶ小石

璃葉

空に浮かぶ白い小石
獣の目玉のように輝いて
静かに夜をのぼる

曇りの日に吹く風に混ざる言葉は
悲しい冬を温めた
土は燈色に
葉は深緑に笑う
時は歩く、鮮やかに

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犬オトメンと指を差されて(58)

大久保ゆう

ドビュッシーの『子どもの領分』という組曲のなかに、「ゴリウォーグのケークウォーク」という小品があります。わたくしが幼い頃から聞いていて、曲と題名が頭のなかでこれだと一致する数少ないもののひとつなのですが、正直幼児のわたくしには〈ゴリウォーグ〉が何で〈ケークウォーク〉がどういうことなのかさっぱりわからず、当時はただ語呂がいいとだけ思い、少し成長してからは前者が何やら昔流行したキャラクタらしいという漠とした情報が手に入るだけでした。

ところが時は流れ、わたくしが文芸のデジタルアーカイヴで泳ぎながら、海外の絵本を気ままに楽しんでいるとき、偶然出くわしたのがアプトン親娘の『オランダ人形2体とゴリウォーグの冒険』というコミカルな絵本。そこで初めて、ゴリウォーグの何たるかを知ったのです。

   やさしくにっこりちかづいて
   こわがらないでというそいつ
     「あなた、どなた?」と
     きくセーラ・ジェーンに
   「ゴリウォーグでございます」

 描かれていたのは、もじゃもじゃ髪に黒い肌、分厚い唇の、いわゆる黒人を戯画化した、どこか愛らしい絵。どうしても〈ちびくろさんぼ〉や〈ダッコちゃん〉といった(どちらも私の幼少時にはまだあった)キャラクタを思い出しますが、同じく人種差別的批判から今や姿を消しつつあるものでもあるようで。

では〈ケークウォーク〉とは何ぞや、という話にもなりますが、このジャポニズムも垣間見える1895年の本には、それらしいシーンも描かれてあります。

   とまらずそのままこおりへと
   きづけばすてきなよこすべり
     ペッグはもうへっちゃら
     だけどメグとウェッグは
   つるつるしながらおおさわぎ

妙な歩き方・進み方を競ってやる遊びのことらしいのですが、この詩行につけられた絵はなにやら愉快そうなポーズも添えられて、氷や雪の上で遊んでいる様子。ただこれを〈嗤う〉ととると、差別ということにもなり、絵本としてわたくし幼少の当時に出会えなかったのも、わからないでもありません。今ではウィキペディアを調べればすぐに情報は現れますが、子どもの頃はただただ気になっていたことでもありまして。現在となっては、歴史の彼方に消えゆくキャラクタと、ドビュッシーが娘にプレゼントしたその軽快なテーマソングに思いを馳せるのみです。

名前だけは聞いたことあるけど実物がお目にかかれなかった絵本というと、ピーター・ニューエルのものもそういったもののひとつでした。日本だとアリスの挿絵でその絵を見たことある人がいるでしょうが、ゴリウォーグ登場と同時代に人気作家であったとされる彼の絵本は、〈さかさ絵〉の作者として触れられる以外、さほど紹介もされなかったようです。

たとえ子ども心に「この人の絵もっと見たい」と思ったところで詮無い話ではあるのですが(とはいえすでに幼児というより少年だったかも)、これも後年デジタルアーカイヴで『うちあげの本』『ななめった本』という2作品を無事見るに至ります。

前者はあるアパートの地下から始まり、少年のあげた打ち上げロケットが一階ずつ上階へ突き抜けていき、そこに住む人たちのコミカルな反応が描かれるという、趣深いものなのですが、幼い頃に出会いたかったとじゅうぶん思えるもので、何やらむなしく悲しい気分になったりもします。

そして後者の『ななめった本』も捨てがたく、平行四辺形の本のなかで、ベビーシッターの手を放れた、赤ちゃんの乗った乳母車が坂をごろごろと落ちていき、街に大騒動を巻き起こしていきます。風刺画的な側面も、それから当時の風俗文物を伝えるところもあるのですが、100年前にしてすでに形と絵と発想で楽しませる実験が行われていたことからして、やっぱりみんなすごいなあ、と月並みな感想を抱いてしまいます。

   しゅっとひとふりマッチをすって
   それからかたいどまにひざついて
   ロケットにひをつける――うわっ!
   ばしゅっとてんじょうつきぬけた

しっかりちゃんと突き抜けたものは、ぼんやりとしたイメージでも、何かしら心に残ってしまうのでしょうか。良かれ悪しかれ、中途半端に突き抜ける、なんてことだけはしたくないものです。

アジアのごはん(53)豆乳生活

森下ヒバリ

わたしは長らく、豆乳はアレルギーで飲めないと思い込んでいたが、どうもそうではない、というのが判明した。わたしの大豆アレルギーは、大豆の皮の部分に集中するらしく、質の良い豆乳をOリングテストしてみると、身体によい反応が出た。え、豆乳は飲んでよかったんだ。

さらに、牛乳もヨーグルトなら大丈夫だったりして? とテストしてみたが、どんなに質が良い製品でも、牛乳、ヨーグルト、チーズすべてNG。いや、分かってたんですけどね。わたしは乳製品アレルギーです。でも、たまにチーズをちょこっと食べたり、ケーキを一切れ食べたりしても、まあ死ぬほどの症状は出ない。一定量を超えると気分が悪くなってくるけど‥。

たしかに、豆腐や揚げは毎日のように食べてきた。豆腐はだいたい4分の1丁ぐらいなら食べられる。それ以上は、身体が拒む。口に入らないのであって、乳製品の時のように気分が悪くなるわけではない。しかし、煮豆やおからは、ある一定以上食べると口が拒む前に気分が悪くなる。一定といっても、割と少量だ。以前うっかり黒豆コーヒー(皮を焙煎したものか?)を飲んで、ふらふらになって寝込んだこともあった。枝豆も、中の豆についている薄皮をいちいちはがして食べている。黒豆の枝豆などは、それをしないとやはり倒れそうになる。

豆乳はどうかというと、飲むとお腹が張る。それが気持ち悪くてしんどい。そのままごくごく飲んでもあまりおいしいとは思えないし。なので、たまに豆乳を試してはやめる、のくりかえし。これは、アレルギー反応ではなく、消化力が弱いせいだったのか。

大豆製品が、牧畜民族以外のアジア人のほとんどにとって何千年にもわたって健康を支えてきたすばらしい食品だということは、疑いようがない。まずは良質な植物性タンパク質をたくさん含む。そして、大豆に含まれる成分はコレステロール値を下げ、血糖値を安定させ、動脈の状態を改善し、腸の状態を整え、結石まで溶かす作用があるという。

しかも、大豆のイソフラボンは女の強い味方である。更年期にさしかかり女性ホルモンが減っても、イソフラボンが人間の女性ホルモンのエストロゲンと同じ働きをしてバランスを整えてくれる。それだけでなく、乳がん細胞のエサとなるエストロゲンのかわりにレセプターにひっついて、がん細胞を餓死させてしまう、ということまでやってくれるのだ。すばらしきかな、大豆。

どうも最近、まわりに乳がんの知人友人がちらほらと増えてきた。更年期障害も改善されるし、乳がん予防にもなるし、ここはもっと大豆製品の摂取量をふやしたいところである。放射性物質はどうやっても体に入っているだろうし、中国からの汚染物質満載のpm2.5に黄砂も飛んでくる。ドクダシも大切だが、腸の機能を高め、身体の免疫機能を高めることも重要だろう。

しかし、豆腐や揚げはもうこれ以上食べられません。そこで、ふと小耳にはさんだのが豆乳ヨーグルトである。なるほど、乳酸発酵していれば、消化もスムーズ。豆乳はアレルギー源ではないと分かったし、これは試してみなくっちゃ。

調べてみると、豆乳を発酵させるのにいわゆるブルガリア菌や市販の牛乳ヨーグルトを種にして豆乳で培養するタイプと、米についている乳酸菌を利用して種を作り豆乳で培養するタイプがあることが分かった。米の乳酸菌を利用するものは、いろいろな作り方があり、米のとぎ汁から乳酸菌を培養する「米乳酸菌液」を作ってから、それを種として豆乳で作るもの、玄米や白米を直接豆乳に投入して作るもの、米粉や玄米粉を豆乳に混ぜるものなどがあった。

もともと米には、複数の乳酸菌や酵母がたくさん住みついていて、精白してもある程度残っている。その米つき乳酸菌たちが人間の腸には大変いいらしい。最近は米乳酸菌を使ったサプリメントも出ているほどだ。この乳酸菌は免疫細胞を活性化させる作用があるのが注目されている。考えてみれば、長年米を食べてきた人々にとっては、なじみのよい乳酸菌であるわけだ。さらに、それをなじみのよい豆乳で発酵させればさらに素晴らしい‥はず。
さっそく豆乳ヨーグルトを作ってみた。

まずは、米乳酸菌液をつくる。お米3合を精白して(8〜9分搗きが望ましい。白米そのままでも可)、500mlぐらいの水で研ぐ。すると、濃いとぎ汁ができるので、それをペットボトルに取り置く。お米はそのまま研いで、ふつうに炊いてごはんとしていただく。とぎ汁は、なるべく空気に触れないように口の根元ぐらいまで入れる。そこに塩小さじ1、白砂糖大匙1を入れ、ふたを閉めてよくふって混ぜる。口をゆるめて、あたたかそうな場所に置いておく。一日一回ふって混ぜる。7日から10日でほのかに酸っぱくなったら出来上がり。

え、一週間も待つのか〜。早く食べてみたいぞ。それまで待つ間に、簡単な作り方という玄米直接投入方法をやってみることにした。豆乳500mlに、さっとすすいだ玄米大匙5杯を入れ(茶葉入れの袋などに入れると後がラク)、軽くふたをしてそのまま放置する。

いちおう発泡スチロールの箱に湯たんぽと入れて、きちんと保温してみた。数時間後、ふたをパコンと開けてみると、まったく固まっていない。やっぱりダメなのかな、と思いつつもそのままふたをして寝た。翌朝‥ふたを開けてみると、つるりと固まっているではないか。しかもかき混ぜると、もろもろと炭酸発酵までしている。少し冷やして食べてみると、あっさりした味。なんとなくヨーグルトっぽい。器の底には、玄米がそのままヨーグルトにまみれて沈殿している。

それにしても、ただ玄米を入れただけでヨーグルトができるとは。う〜ん、ミラクル! めちゃくちゃ簡単! るんるんと半分取り分けて、残りをうつわに入れ替えて、乳がんになった近所の友だちの所に持って行く。「ほら〜、免疫機能が高まるらしいよ。乳がん予防に豆乳ヨーグルト!」それを受け取って、さっそく一口食べた彼女は顔をしかめて「ぬか臭〜い!」さらに「何でも食べるわたしが初めて残した」などとすばらしいお言葉をくださった。すっかりテンションが下がってとぼとぼ家に帰り、試しに残りを口に入れると、やはりぬか臭かった‥。はじめに味見した上の方はそうでもなかったが、下の玄米に近い方はちょっと食べられない味。しかも、玄米をそのまま入れたので、固い玄米が時々まじって口に入るのも気分がよくない。う〜む大失敗。

なんとかぬか臭くならずにつくれないものか。残りのヨーグルトを種に使って培養すると、ぬか臭さが薄まるかもしれない。で、作ってみるとかなり薄まった、ような気もするがやはりかなりぬか臭い。次は、玄米粉を直接豆乳に混ぜる、という方法で培養してみた。これは、いまひとつの風味なうえに、ザリザリと粉が舌に残る。

米乳酸菌液はまだできていないので、次は市販の牛乳ヨーグルトを買ってきて、混ぜて作ってみた。LG21というヨーグルトを大匙1杯、少し温めた豆乳を250ml入れて混ぜ、そのまま食卓に置いておくと、4時間ぐらいで固まった。早いなあ。で、食べてみるといわゆる普通のヨーグルトのさわやかなお味。友だちの所に持って行くと「おいしい〜!」とパクパク食べ始めた。ふ〜む。おいしいし、豆乳を消化しやすくして食べるという目的には合っているけどね。なにか、味がくどいような気がする。もちろん、牛乳のヨーグルトよりは、さっぱりしているのだが。

そうこうするうちに、米のとぎ汁発酵液もほんわか酸っぱくなってきた。米乳酸菌液30mlにちょっと温めた豆乳(ぬるめ)250mlを加え、混ぜてラップでふたをして、保温にティーコゼーをかぶせてみる。もう気温も上がってきたので、室温でだいじょうぶ。

一晩おいて、ティーコゼーを外してみると、おお固まってる! ちょっと冷やしてからいただくと、あっさりした中にもうまみが。身体にすっとなじむような味である。ジャムなどを入れてもおいしい。いいね、これ。いろいろ味見をさせられて「え、また食べるの‥」と不満げだった連れ合いも「これなら毎日食べてもいい」という。
というわけで、豆乳ヨーグルトは米乳酸菌液で作ることにして、日々すこやかに豆乳ヨーグルトの毎日である。米乳酸菌液を作るのが面倒ならば、市販の好きなヨーグルトを買ってきて混ぜれば簡単にできるので、ぜひ豆乳ヨーグルトをお試しあれ。

もちろん、菌のことなので、たまには失敗もあるだろうし、腐敗菌が繁殖してしまう場合もあるかもしれない。そういうのは、一口舐めれば苦いとか、吐き気を催すとか、異常が分かるので避ければいい。自家製漬物や麹、糠床つくりと同じようなものである。

余談だが、豆乳ヨーグルトで検索していると、米乳酸菌液や自家製ヨーグルトを不潔だとか攻撃するサイトやツイートがある。どうやら米乳酸菌液・豆乳ヨーグルトを勧める人たちには、自分で免疫機能を高めよう、放射能から身を守ろうという意識が強く、つまり反原発派が多い。これを攻撃する人たちは、科学的ではないとか、雑菌だらけで毒だとか、放射能対策にはならないとか、さらには放射能関連では御用学者のような発言が多く、どうみても原発推進派プラス権威主義。いやはや。

女の直観力が男たちをたすけている

若松恵子

4月に触れた2つの作品に、共通したある印象を抱いたので、書きとめておこうと思う。

ひとつめは、村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。36歳の主人公「つくる」は、心に封印してきた過去のできごとを乗り越えるために、当事者たちをめぐる”巡礼”に出る。5本指のように分かちがたく結ばれていた友人グループから、突然理由も告げられずに追放された「つくる」は、20年後に、そのできごとの意味を確かめるために友に再会していく。そこにどんな理由(秘密)があったのか、私も謎解きの興味を持って、どんどん読み進んだ。

物語のなかでいちばん印象に残ったのは、「つくる」の年上のガールフレンド「沙羅」の存在だ。「つくる」に”そのままにしておかないで、解決しなさい”とはっきり忠告する年上のガールフレンド。沙羅を失いたくないという気持ちが、初めて彼を行動へと後押しする。何かに捉われていて、自分にきちんと向き合っていない「つくる」の様子を見ぬく沙羅は”ただものではない”。世界を俯瞰していて、ちょっと神様みたいな位置に描かれている。「つくる」より、色々な力と明確な意志を持っているだろう沙羅が、なぜ「つくる」に魅かれるのか、どこに魅かれているのか、その理由はほとんど語られない。しかし、「つくる」は沙羅に愛されることになるのだろうと予感させて物語は終わる。「つくる」のなかにある佳きものを沙羅は直観で確信したのではないだろうか。直観がまずあり、理由はあとから来る、そんな気がしてならない。そして「つくる」をたすける人物として、そういう存在を、村上春樹は必要としたのではないかと思った。

もうひとつの作品は、園子温監督の『ヒミズ』(2012年)だ。不幸な生い立ちの中学生、主人公の「住田」を愛し、たすけようとする同級生の少女「茶沢」。「茶沢」もまた、クラスの外れ者である「住田」のなかにある佳きものを、直観的に確信している。その揺るぎなさが、その思いの強さが、主人公を取りまく世界の絶望感に、小さな希望をもたらしている。原作の漫画と変えてあるラストで、「住田」もまた、「茶沢」に励まされながら、絶望的な現実から抜け出すために走り出すのだ。

沙羅と茶沢に共通のものを感じたのは、こじつけではないと思いたい。理由ですべて説明できない、割り切れない現実に対して、にもかかわらず前へ進もうとするときに、理由なく自分をみつけてくれる存在、直観的に揺るぎない肯定をしてくれる存在が必要だ。女が、男がというのもどうかと思うが、物語のなかでは、理由など問わない女の直観の強さが、男を励ましている。

「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(1)

冨岡三智

ここでは、この小説の内容自体ではなく、その翻訳をめぐって気づいたことを書いておきたい。書評については、次のものが参考になるだろう。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2013/02/post_284.html

この小説は、オランダ植民地時代末期から日本占領期、独立戦争を経て1965年9月30日事件(スカルノ体制崩壊につながる共産党虐殺事件)に至るまでのインドネシアのジャワ社会において、プリヤイ階級に属するサストロダルソノ家三代の物語を、家族それぞれの視点からつづった物語である。初版は1992年刊行で、原題は『Para Priyai -sebuah novel(プリヤイたち、一つの小説)』。ガジャマダ大学文学部教授のウマル・カヤム(1932〜2002)が、ギアツなど欧米諸国のインドネシア研究者によって語り継がれてきたプリヤイ解釈に失望して執筆したという。プリヤイ階級というのは、植民地時代にオランダ式教育を受けてホワイトカラ―職(役人、教員、軍人階級など)に就いた社会階層のことで、庶民とは異なる独自のライフスタイル、立居振舞、宗教的スタンスなどを持っていた。ほぼ世襲だったが、中には稀に庶民からプリヤイの世界に這い上がることに成功した者もある。ここに描かれる一族の始祖サストロダルソノも、教育を受ける機会に恵まれて農民の子から小学校教員となり、プリヤイ階級の末端に連なった。つまり、この小説はプリヤイになり、プリヤイであろうとする家族の物語なのだ。

翻訳題については、私は大正解という気がする。プリヤイという語は研究者以外には知られていないから、原題で読者にアピールできるとは思えないし、言い替え可能な適当な用語もない。サストロダルソノという名前はこの人物が小学校教員になった時、つまり晴れてプリヤイに上昇した時に命名されたもので、サストロは文学とか書くとかいう意味(ただし本書には文学という意味は挙げられていない)。ジャワ人なら一発でこの人はプリヤイだと分かる名前だし、ジャワ人でなくても、この大層な名前を見れば、なんだか上流の人らしいことは分かる。また、三代と言う語も、徳川三代とか足利三代というフレーズに慣れ、歴史もの好きの日本人にはなじみやすい。

この小説の共訳者の1人や解説者は世界を代表するインドネシア研究者なので、小説の歴史背景と状況が分かりやすく解説されている。文の日本語も自然で、訳注がないのも読みやすい。しかし、文化的な事柄に関する翻訳箇所については、ぎごちなさがあったり、物足りなく感じられるところもある。たとえば、一家がよく飲むウェダンチャムゥ(p12など)はどんな材料の飲み物なのだろう? 訳注で少し説明をつけてくれたら、ジャワ人の暮らしがもう少し具体的に見えてくるのに…と思っていたら、p.274にもなって、本文中に「ウェダンチャムゥ(ココナッツ入りのしょうが黒砂糖の温かい飲み物)」という記述が出てきた。初出のところできちんと訳注をつけてくれていたら、もっと読みやすくなるのに。また、「お母さんの(死後)三日目の共食儀礼(ここにスラマタンとルビが振ってある)」と訳された部分(p45)は、共食儀礼ではなくて「法要」とか「供養」と訳すべきだ。スラマタンselamatanというのは、無事selamatであるように祈るための儀礼一般を指し、この文章では明らかに死後の法要のことを指している。スラマタンは研究書では共食儀礼と訳され、確かに社会機能的には間違いだとは言えないにしても、共に食べることが第一目的ではないから、文学作品の訳語としては適当でない。

文体の統一をしたと解説にあるわりには発音の表記がばらばらで間違いもある。特に、影絵人形芝居ワヤンの登場人物の名前がひどい。ある者はジャワ語読みされ(スンボドゥロ、p130など)、ある者はインドネシア語読み(ユディスティラ、p126など)されているが、どちらかに統一した方が良い。ここはジャワ人家族の物語だからジャワ語読みするのが良いと思うが、インドネシアでは、ジャワ人読者以外は皆インドネシア語風に読むだろうから、この点は訳者にとって悩ましいと思うけれど。さらに、同一人物、一族を指しているのに、アルジュナサスラバフ(p68、インドネシア語読み)とアルジュノ・ソスロバウ(p277、ジャワ語読み)、プンドウォ(p126)とパンドウォ(p280)、クラワ(p126)とコーラウォ(p280)のように表記が全然違うのは非常に気になる。ついでに発音間違いも挙げておこう。「おばさんmbakyu」は「ンバキュ」(p.71)ではない。kは発音しないから、ンバッ・ユになる。ちなみにンバッ・ユはジャワ語で、普通はンバッ mbakになることが多い。天界のガムラン音楽の発音はロカナント(p318)ではなく、ロカナンタ(インドネシア語読み)あるいは、ロコノント(ジャワ語読み)となる。

重箱の隅をつついていると思われるかもしれないが、この小説ではプリヤイ階級、つまり上流階級に属する文化を持つジャワ人が描かれているので、訳出された語や発音に違和感があると、なんだか別の階級、別の民族(非ジャワ人)の話を読んでいる気になってしまう。

ところで、私は原作の小説をまだ持っていないが、インドネシア人のブログでこの本の感想やらあらすじを書いているものがいくつもあったので、読んでいて気づいたことがある。それはサストロダルソノ氏の呼び方で翻訳では先生となっている部分が、原文では「ドロ・グルNdoro Guru」であるらしいこと(全部の箇所ではないかもしれないが)。ドロはプリヤイを指す言葉でグルが先生と言う意味だが、ジャワでドロと言う言葉には独特の重みと格差意識が付随する。「あの方はドロだから…」と言うと、もう文句も言えないという感じだ。「ドロ・グル」は単に先生というより「先生さま」というぐらいの感じだ。ちなみに、インドネシアの人たちは先生を呼ぶのに、男性の先生には「バパッ・グル」、女性の先生には「イブ・グル」と言う。バパッは男性への尊称、イブは女性への尊称だ。おそらく明治頃の日本であれば、「先生」という呼称にはドロ・グルに匹敵するような特別意識があったのかもしれないが、現在の日本人が「先生」という訳にドロ・グルというニュアンスを感じ取るのは難しい。訳者も困っただろうなと思う。

それから、おじいさまという訳が原文では「イェヤン・カクンEyang Kakung」らしい。ジャワ語でイェヤンは祖父あるいは祖母を指し、カクンは男性を言うので、併せておじい様という意味になるが、確かにプリヤイ階級の人たちは祖父のことを「イェヤン・カクン」と言う。ジャワでは、そのことを当たり前のように耳にしていたのに、この小説を読んでいるときには思い出さなかった。訳文で爺さんとあるのは原文ではmbahのようで、ジャワ語。上でも書いたが、ンバ・ユもジャワ語。庶民の女性/おばさんはmbokのようで、これもジャワ語。こうしてみると、というか自分のジャワでの体験も思い起こせば言うまでもないことなのだが、他人に呼び掛けるときの語は、ジャワ人ならやっぱりジャワ語を使う。私はジャワではンバッと呼ばれるが、ジャカルタなどの非ジャワ人には当然そう呼ばれない。逆に、私はジャワでは他人に呼び掛けるときにはンバッとかマスmas(男性に対して)を使っていて、名前を知らなくても呼び掛けられるので便利だったのだが、ジャカルタではそういう言い方はしないから、名前を直接呼ぶとよいと言われて困ってしまったことがある(人の名前を覚えていなかったもので…)。ジャワ人はそれほど人を名前で呼ばないし、呼称で身分や年齢差、つまり自分との距離感を表現する。

と、ここまで書いて、この翻訳された小説に漠然と抱いていた違和感みたいなものが何か分かった気がする。その違和感とは、翻訳者がわりとリベラルに人間関係を眺めているところから生じる空気感なのだ。登場人物のセリフに関しては、庶民とプリヤイ、あるいは世代間の言葉遣いの差はうまく訳し出されていると思うし、呼称でも、「爺さん」の原語はmbahだろうと分かるものはあるけれど、「先生」が「ドロ・グル」で「おじいさま」は「イェヤン」だとは、訳文からは推測できなかった。(もっとも、原文でもこれらがどの程度の割合で使われているのか不明だが。)でも、こういう呼称が作り出す人間関係こそがジャワの階級社会を維持しているのだと、訳文にならなかった部分から感じとれる。もっとも、呼称を忠実に訳したら、こんどはそれが誰を指すのか、登場人物の相関関係が分かりづらくなってしまうだろう。

同様のことは名前の表記にも見られる。サストロダルソノの娘スミニの夫は、訳文ではほとんどハルジョノさんと呼ばれているが、いくつかのブログのあらすじではラデン・ハルジョノとされている。確かめてみたら、訳文で少なくとも1か所はそうなっていた。ラデンは貴族階級の生まれの人につけるから、彼の家はサストロダルソノ家より格上だろう。そして、スミニに結婚を申し込むときには、彼はラデン・ハルジョノ・チョクロクスモと名が加えたとあった。ジャワ人は大人になったり、結婚したり、地位が上がったりすると、その立場に応じた重さの名前へと改名することがよくある。そういうことも訳注で説明してくれたらよいのに…。それはともかくとしても、原文では、どの程度まで「ハルジョノさん」という気安い呼び方をされているのだろう。

私は、この本の最初につけられた「サストロダルソノ家の家系図」に、人物の本名ではなく、くだけた呼び名しか載っていないのが不満である。ラデン・ハルジョノもハルジョノとしか書かれていないし、ススとこの家系図に載っている人はスサンティが本当の名前だ。訳文中にスサンティと書いてある部分もあったが、全体をとしてこの人はススおばさんという風に呼ばれ続けている。けれど、インドネシア人ブロガーの書いたあらすじでは、彼女の名前はスサンティになっている。つまり、インドネシア人(とくにプリヤイ)は、普段はいくら名前を略して呼び合っていても(本名と全然違う呼び名もある)、「実は何某」という正体があることを意識している。だから、こういう相関図を書くときには正式名と呼び名と両方を書いた方が親切ではないだろうか。というのは、この相関図を見ても、人物の社会的地位などが名前から判断できないからなのだ。上で、私は「翻訳者がわりとリベラルに人間関係を眺めているところから生じる空気感」に違和感を感じると書いたが、その空気感がこの表に色濃く漂っている。この家系図からは、この小説がプリヤイの話だという事情がよく伝わってこない。

なんだか、翻訳に文句ばかり言っているような文になってしまったが、私自身はこの小説が好きで何度も読み直している。そして、周囲にプリヤイの多い環境で留学生活を送ってきて、上で私が書いたようなことを翻訳者に求めるのは非常に難しいだろうということも実感しつつ、あえて書いてみた。今回は翻訳の入口で立ち止まってしまって、小説の世界にまで入っていけなかったので、来月はこのプリヤイ一家の生活ぶりなど小説の内容について感想を書いてみたい。

北の国から

大野晋

久しぶりに北海道へ旅行した。春先の北海道はお世辞にも旅行に最適な季節とは言えない。それでも行くのは、札幌交響楽団のチケットをうっかり取ってしまったという事情による。チェコの’遅れてきた’巨匠リュドミル・エリシュカによるドヴォルザークツィクルスの今回は8番の演奏会。少し古いクラシックファンには「イギリス」という愛称で知られている。チェコのドヴォルザーク協会の会長でもあるエリシュカは1番から4番までは習作だと言っているらしいから、おそらく今回の演奏会でツィクルスも打ち止めになるはずだ。
そんな事情から、今回は無理してまだ寒い北海道にはせ参じた。相変わらず札幌のキタラはよいホールで、座席は広く実にゆったりとしている。演奏も実によく、それでも日本式に統制の取れたアンサンブルが繰り広げられた。マエストロもすでに82歳になり、舞台の入退場は非常に億劫そうだが、少し低い指揮台の上ではしゃきっとした身振る舞いで演奏を指揮している。
惜しむらくは、この素晴らしい機会の立ち会った観衆が少なかったことだろうか。2回公演の初日ということもあるかもしれないが、定員の半分程度しか入らなかった客席は実にもったいない感じがした。

満ち足りた時間をすごした次の日。早朝から動き始めて、JRに乗って余市まで足を伸ばした。小樽までは快速が走る快適な電車だが、小樽から余市までは単線(小樽までも単線か?)を1両編成のディーゼル列車が走っている。絵に描いたような北海道のローカル線で、ストーブがないのが不思議な感じがした。
余市に来た目的はニッカウヰスキーの余市蒸留所に行くこと。ニッカの創業者がどうしてこの地の果てに蒸留所を作ることになったのか、が少しでもわかればよいとも思っていた。
小樽から山の中を縫うように線路が続くと、やがて進行方向右手に海が見える。そして、市街地に入ってしばらく走るとそこが余市の駅だった。小樽から他の駅が無人駅なのに対して、有人の駅舎にみやげ物屋を併設している大きな駅である。事前に確かめておいたのと同じように、ニッカの蒸留所はその駅の真正面にあった。駅から出ようとすると空の様子がおかしくなり、やがて、大きな雹がぱらぱらと降り始めた。こりゃ大変と小走りに、商店の軒先にときどき入りながら数分小走りに進むと立派なレンガ建てのゲートがあった。ゲートにたどり着いて、見学の手続きを終えた頃には、にわか雹もあがり、うっすらと日差しがさし始めた。ふらふらと歩きたいと、ガイドツアーでなく個人見学を選んで歩き出す。ニッカといえば大企業の印象だが、ここは思いのほか、全ての建物がこじんまりとして背が低い。
まだ、山のように積まれた雪の後ろに隠れるように建っている建物の中には、ウイスキーを蒸留する蒸留器が備え付けられている。導かれるように、建物に入るとうっすらと甘い香りがした。すぐに、それが蒸留している原酒の匂いであることに気づく。カタンカタンと金属が軽く当たる音立てながら、いくつかあるうちの2基の蒸留器の足元にある炉の口からはちょろちょろと火が見え、その脇にあまり多くない量の石炭が積まれている。冬景色の中ならこれだけで何時間もいられるような気持ちのよい火を眺めながら、少しの間、時間が止まったような感覚を覚えた。余市は蒸留器も、貯蔵庫も全て古い時代のやり方のままになっていて、それが今も生きている。
日本に本物のウイスキー作りを伝えたいとサントリーとニッカの二大メーカーの立ち上げに関わったニッカ創業者の竹鶴政孝は、ウイスキーはアナログを大切にしなければならないと教えたそうだ。ウイスキーと竹鶴の妻の双方の故郷であるスコットランドの気候に近いと言われる余市という街だからこそ、都会では不可能な古が残れたような気もしなくはなかった。

さて、さんざん、昼間から有料・無料のウイスキーの試飲を楽しんでほろ酔い気分になった。
そして、余市という名のモルトは新樽のカスクのイメージなんだなとふと感じた。

踏んだり蹴ったりのイラク航空

さとうまき

なかなかバグダッドに入れない。

本当は、2月に行くはずだったが、4月20日に地方議会選挙があるので、治安の悪化が心配された。選挙当日は、厳重な警戒態勢が敷かれ平和裏に投票が行われたようだが、それでも10名ほどの死者が出ている。日本の選挙で10人も死んだらそれこそ大騒ぎだから、いかにこの国がめちゃくちゃかということ。

とりあえず、選挙が終わった翌日に、イラク航空のチケットがとれて、アルビルからバグダッドまで移動した。
この10年ですっかり様変わりしたアルビルとは異なり、バグダッドはひどい飛行場だ。ただ、デザイン的には昭和レトロ。飛行機についているツバメのロゴは、気に入っている。化石のような、80年代の昭和チックなスチュワーデスも味がある。しかし、いろいろ欠陥もある。まず、バグダッドに着くと、スーツケースのタイヤが一個折れてしまっている。よっぽど乱暴に扱ったのだろう。文句を言ったところで、「ならぬことは、ならぬものです」の一点張りだろうからさっさとあきらめた。夜も遅くなるといやなので。

数日後、今度は、バグダッドからバスラに飛んだ。選挙の影響か、宗派対立が激化してしまい、一週間で200人近くが殺されたという。バグダッドに飛火しないように、南のバスラにとりあえず避難することにした。そして今度は、バスラからアルビルに戻る飛行機の予約確認にいったら、大変なことになっている。

バグダッドで、行きと帰りのカーボンつづりのバウチャーを間違って切ってしまったらしい。帰りのバウチャーがないから、飛行機に乗れないというのだ。新しいチケットを買えと。
「なんでやねん。アンタらのミスなんだから、ちゃんと責任をとってください」とマネージャーのこれも化石のようなおばさんに食って掛かると「私の責任ではない! バグダッドの責任だ! わたしの責任だなってとんでもないわ!」といって逆切れされてしまった。

「あんたね、そりゃ、あなたの責任じゃないかもしれないが、私は、アンタらの責任だといっているのです。イラク航空の会社の責任でしょうが」
「イラク航空ったって、大きいのよ。バグダッドにもバスラにもドバイにもアルビルにも支店があって大きいのよ。だからバスラは関係ないわ!」
「何が大きいんだ! もっと大きなエミレーツだって、こんなミスがあったら、会社が責任もって対処するでしょう。だってあんたら損しないんだもの。自分がミスして、それで、俺が2倍の金額払わされてなんなんだこれは? 情けないと思わないのか!」
しかし、イラクでは常識は通じない。「ならぬものはならぬのです」の一点張りだ。
「警察に訴えるぞ!」と思わず言ってしまった。
すると、マネージャーは、バグダッドの支店に電話して、「日本人が、イラクの警察呼ぶって言っているわ。イラク警察よ!」と笑いながら話している。確かに、イラクの警察はあてにならないよなと僕も苦笑い。

結局、明日来いということになった。翌朝バグダッドのスタッフに、イラク航空のバグダッド支店に行ってもらった。「バグダッド支店は、それは飛行場にいてバウチャーを切った男の責任だから、飛行場に行って話をしてください。バグダッド事務所の責任ではありません」といわれたという。今のバグダッドは、テロの警戒もありそう簡単に飛行場には行けないのだ。こんな詐欺みたいなことやっていて恥ずかしくないのか?と思いながら、昨日の化石のようなマネージャーのところに行くと、すんなりと、明日の飛行機に乗れるように手配したという。実は、昨日、バスラのスタッフが手を回し、警察から化石のようなマネージャのところに電話を入れてもらったそうだ。
「あなたは、イラク警察があてにならないように言ってないですよね? 警察を笑いものにしてないですよね」
それはともかく、やがてエミレーツを追い越すような飛行機会社になってほしいものだ。

月を追いながら歩く(1)

植松眞人

 邦子はカフェの小さなテーブルの上に古い写真を並べていた。カラーの写真が五枚、モノクロの写真が二枚あった。
 七枚全部が見えるように広げると、テーブルの上は写真でいっぱいになった。そこへ店の女の子が頼んでいた飲みものを運んできたので、邦子は慌てて写真をひとつにまとめようとする。しかし、写真はそれぞれにテーブルにぴたりと張り付いたり、隣の写真と妙な具合に重なり合ったりしていて、うまく手に取ることができない。そんな様子を見ていた女の子は空いていた隣のテーブルにトレイを置くと、邦子と一緒に写真を集め始めた。客とは言え、他人の写真を無言で手に取る姿に違和感を持ったのだが、自分も慌てていたせいか、邦子は「ありがとう」と声をかけた。
「素敵ですね」
 女の子は遠慮することなく手にした写真をじっと見つめながら言う。
「素敵かなあ……」
 邦子はテーブルの上に置かれたままになっている他の写真を見ながら、自分の素直な気持ちを口にした。
「素敵ですよ」
 そう答える女の子の声はしっかりと力強く、それが意外で邦子は初めて、その顔をまじまじと見つめた。まだ十代に見える女の子は色白で短い髪が活発そうに見えた。この子に「素敵」だと言われたら、本当にこの写真が素敵なのかも知れない、と邦子は素直に思えた。
「でも、へんでしょ?」
「空と雲だけの写真って、なんだかすごくイメージがふくらんじゃって」
 女の子はそういうと、別の一枚に手を伸ばした。
 いまの十代の女の子にはこの雲ばかりが写っている写真が本当に素敵に見えているようだ。そう思い始めると、こんな写真を急に送ってきた母の行動になにか意味があるような気がしてくる。父が亡くなって三年。父が生前撮った写真はもっと他にもあるだろうに、よりによって空ばかり写っている写真をなぜ今頃送ってくるのか。邦子はぼんやりと写真に見入った。
「この白黒の写真は長野の空なんですね」
 と女の子に言われて邦子は怪訝な顔をする。
「長野?」
「ええ、写真の裏側に『長野にて』って書いてあります」
 邦子は女の子から写真を受け取ると、裏側に書いてある文字を確かめる。『長野にて』という文字はボールペンで書かれているのか、少しインクが滲んで、ぼんやりと太い文字になっていた。表には焼き付けられている日付は一九八〇年の八月だ。
 和歌山に生まれ育ち、大阪に働きに出て母と出会いってから二人はずっと関西を出たことがないはずだ。ということはこの写真は旅行をしたときの写真だろうか。
 邦子はそんなことを考えながら、長野の空らしき写真を見た。モノクロの写真なのに、撮影したとき空が真っ青だったことがわかる。そして、そこに真っ白な雲が入り込んでいる。夏の雲だ。真夏の長野の晴れ上がった空と真っ白な雲。それなのに、邦子はこれを撮影していた時の父が、とても悲しそうな顔をしていたように思えるのだった。
「どうかしましたか?」
「なんだか、とても晴れ渡った写真なのに、これを撮っていた父は寂しかったんだろうなって、そんな気がしたの」
 邦子は自分でも意外なほど、思ったことをそのまま口にしていた。きっと、この女の子の真っ直ぐな瞳が私をためらわさないのかもしれない。邦子はそう思った。
「お父さんが撮った写真なんですか」
「そうなの。一九八〇年っていったら、私がちょうど生まれた年。その時、なぜ父が長野にいたのかは知らないけど」
 邦子はそう言いながら、本当はなぜ父が長野にいたのか、知らないほうがいいんだろうな、という気がしていた。それなのに、きっと私はその理由を知ってしまうのだ、そう思うと、少し邦子は笑ってしまうのだった。

(続く)

しもた屋之噺(136)

杉山洋一

ここ暫くミラノずっと長雨が続いていて、早い梅雨に見舞われた感があります。さて、長らく無政府状態だったイタリアにも政府が戻りました。尤も、個人主義が徹底しているイタリアでは、対外的な信用不安を別とすれば、国家元首がいなくとも特に大きな変化は起きず、文句を言う相手もいないので各人粛々と仕事を継続することになります。つまり、全体としては無秩序に向うはずですが、拡大して個々を眺めると、存外に効率よく物事が進むことに国民性の違いを実感します。外の公園は塵芥にまみれながらも、自宅は隅々まで磨き上げなければ気がすまないイタリア人が大多数ですから。

4月某日 09:01 ミラノのバス車内

思いがけず、水牛の仲宗根さんから、賢順について書かれた坪井三恵さんの文章が届いて、心を躍らせながらよむ。先に「六段」について書いたのがきっかけだった。大分でキリシタン音楽に影響された筑紫筝の創始者「賢順」が書いた「六段」は、キリスト教禁止とともに秘曲となり、伝授された玄恕をとおして、八橋検校に伝わった。彼が、秘曲を調子を変えてまで演奏させた動機とは、何だったのだろう。音階を歪め表面上の体裁を変えてなお残る、音で表現できる何か。

このように周りの人に懇切丁寧に教えて頂きながら、自分の興味が広がり、見えてきたものもあるし、気づくこともある。筑紫筝や琉球筝に興味を覚えるのは、思えば子供の頃「阿知女」の和琴や、管弦の楽筝の鄙びた音と和音が好きで、ピアノやヴァイオリンで真似して遊んでいたことと無関係ではあるまい。何十年もすっかり忘れていたけれど。

4月某日 08:00 自宅にて

セレーナより、カニーノ家直伝のナポリ料理を振舞うからと招かれたので、アルドと出掛けた。互いに同世代で、気を置かずに存分に話せるのはうれしい。彼らは同じヴァイオリンの生徒を違う場所で教えあっているので、互いに生徒に教える指使いや弓使いをカラカイ合う。料理はパスタと主菜、ケーキまでナポリ流が徹底されていて、しつこさもなく美味。
カニーノがナポリ出身なのは知っていたが、家事は一切出来ないと聞いていたので、何故君は料理がこんなに上手なのかと尋ねると、ミラノ出身の母親がナポリの姑から仕込まれたからだという。「さもなければ、結婚生活に破綻を来していたかもしれないわ」。
尤も、セレーナは料理が趣味なので、小料理屋を開きたいくらいだそうだ。15人や30人分の夕食会を3日かけて準備し、自宅で開くのが楽しみだというから、あながち冗談ではないのだろう。反面、掃除やアイロンかけは嫌いだと聞き、安堵する。

彼女は3匹の雌猫と古いミラノ風共同住宅の地階に住んでいて、窓に網を張られているのは、猫に逃げられないため。1匹は脚が一本なく、1匹は片目が潰れていて、唯一五体満足の猫は、彼女曰く「おつむが弱い」。「こんな猫たちだから、家を出たらすぐに野垂れ死んでしまいそうでしょう」、と心配そうにいう。実家ではずっと犬を飼っていたが、彼女の父は犬が怖いのだそうだ。それでも奥さんへの愛情から、10匹の犬と同居をしたこともある、と娘は誇らしげ。パリに3年住んだセレーナ曰く、「フランスの音楽家は誰もが中の上か上の下ばかりで詰まらなくなって、イタリアに戻ったのよ」と笑った。

4月某日 02:30 マチェラータのホテルにて

ドレスリハーサルと本番の合間に、マチェラータのラウロ・ロッシ劇場脇の美大のスペースで、スコダニッビオを偲ぶロドリーゴ・ガルシアのインスタレーションをみる。ロドリーゴはアルゼンチン出身の舞台演出家で、マドリッドに住む。
昨晩ホテルに程近い「井戸」亭で、「明日から『亀』と『サラダ』を使ったヴィデオのインスタレーションをするから」、と右手にワイン、左手で葉巻をいじりながら、スペイン語とイタリア語のチャンポンで話しているのを聞いたときは、全く内容を想像できなかった。10畳ほどの縦長のスペースに、スコダニッビオ自身が残した音響素材が流され、ロドリ-ゴのヴィデオが映写される。画面は色味が殆どなく、殆ど白黒に近い。スクリーンに大写しになったフン転がしのような虫を、執拗に追いかけるアングルが印象に残る。フン転がしは、仰向けに寝かされた上、ばたつく脚にマッチ棒を絡ませられてながら、何とかマッチ棒に掴まり起き上がろうともがき続ける様子を、長廻しでただ追う。

スクリーンの前に、蓋が開かれたコントラバスのハードケースが一つ置かれていて、中に土が詰まっている。仄暗く狭い部屋に鎮座するさまは、棺桶のよう。ケースの中の土には本物のサラダが10株ほど植え込んであり、瑞々しい葉をひろげる。コントラバスの巨大なケースの手前に、15センチほどの海亀が薄く水を張った透明な水槽に入れられていて、外に出ようと何度となく立ち上がる姿は、時には影絵のように画面の昆虫と同期し、亀の打つ軽い水音がスコダニッビオの音響の手前に浮き上がる。

昨晩は、「朝に大通りをサラダを目一杯抱えて歩く男を見かけたらオイラだぜ」と笑っていたロドリーゴに向かって、「君のインスタレーションには打ちのめされたよ」と言うと、「そうだろう」、と彼は口の端だけを少し動かして悪戯っぽく微笑んだ。ネルーダやマルケスのような、ラテン・アメリカの強烈な個性が羨ましいと言いかけ、我ながら余りに安っぽいと思わず口を噤んだ。

4月某日 13:59 オーズィモ ヌォーヴァ・フェニーチェ劇場にて

マレーサ・スコダニッビオの車で、レオパルディの故郷、レカナーティの丘を走る。彼女は昨年より元気そうで安心したが、気丈さが却って際立って、周りで見ていて少し辛い。だから、昨晩食堂で食後のデザートに齧り付いている様子に、一同少し胸を撫で下ろした。マチェラータのプディングは独特で、横にジャムが付いてくる。キャラメルをかけてとろとろになったプリンの上に、更にスグリのジャムなど付けて食す。「わたしも、ここに嫁いで初めてプリンにジャムをつけてくるのを見たわ」「でも、わたしデザートには目がないの」。

車中、先日、8歳の息子の小学校の担任二人との父兄面談に出掛けた話をする。
「お宅の息子さんはよく頑張っているんですが、日本語やら合唱やらピアノやら、ちょっと勉強し過ぎで一同心配しております」。
「すみません、親としては余り音楽などやらせたくないのですが」。
「最近など、わたしに向かって、バッハとモーツァルトとベートーヴェンのどれが一番偉いかなんて聞くんです。こちらも答えに窮する有様で」。
「そんなことを聞くんですか」。
「その上、先日は、ふうと大きなため息をつきましてね」
「先生、もう昨夜はピアノの練習のし過ぎで疲れてしまって、どうにも宿題ができませんでした。許してください、と言うんです」。
「すみません。言葉もありません」。実際のところ、ピアノはせいぜい10分しか弾いていないし、宿題を忘れたどさくさ紛れの言い訳なのだろう。彼の演技力の賜物だ。
「その上なんです? 今度は映画にまで興味の範疇を広げてしまったのですか」。
「は、なんのことです」。
「何ですって、今朝、彼ときたら、あたくしに『ソフィア・ローレン』をどう思うかと尋ねてきたのですよ」。

そこまで言うと、車内は爆笑に包まれた。
あの後帰宅してから真っ先に息子に口止めしたことは、息子が見たのは彼女が売春婦役で出演する「ボッカチオ70」の「くじ引き」であることと、それを見せたのは父親だということ。
8歳の息子がそれ程まで「くじ引き」を好きになるとは、誰が想像できるというのか。

4月某日 10:30 アドリア海沿いに走る列車内にて

つい先ほどまで、チヴィタ・ヌォーヴァで乗り合わせたサックスのジャンパオロと話し込んでいた。イタリア人が、これほど熱心に、ピエルネやフローラン・シュミットについて熱弁を振うのを、初めてみた。
イタリアの風景はどれもそれぞれ美しいけれど、低い丘が棚引くようにどこまでも連なるマルケの美しさは飛びぬけている。何重にも重なった丘のシルエットの彼方に、まだ雪を頂くアペニンの山々が聳えたつ。眼前一面に濃い新緑の絨毯が敷きつめられ、ところどころ、固まった黄や白の花が沸き立ちアクセントをつける。何の変哲もない牧歌的な春の風景で鳥肌が立ったのは初めてだ。

ホテル前の坂を降りたところの中庭にある「中庭屋」で、奨められるままにボンゴレのスパゲッティを頼むと、見たこともない旨い逸品が運ばれてきた。手で打ったばかりの太めのスパゲッティに、小さめのアサリが存分に放り込まれて、出汁も申し分ない。こんなとびきり美味いものを口食べながら、この端麗な風景の中で暮らしていたら、人生はずいぶん違ったものになるだろう。などと考えるのは、厭世観に包まれたレオパルディの理解には程遠い、自分がごく普通の小市民である証か。

4月某日 12:12 自宅にて

グリゼイの「時間の渦」を読む。どうも昔から自分は良いスペクトル音楽の理解者ではないと思いこんでいる節があり、理由を考える。そもそも和音で音楽を作ることに対して、無意識に薄い拒否反応を起こす自分に気がつくのは愉快な経験だ。何しろ、意識したわけでもなくともグリゼイと自分の作曲のプロセスの共通項はとても多いのだから。大体、演奏に際してはいつも和音を考え音を聴けよと生徒にがなり立てるくらいだから、和音で音楽を作ることに何ら矛盾はない筈だ。ただ、自分が作曲するとき、縦の響きは確かに横の響きの後に見えている。それどころか、敢えて明確な和音を避けようとする傾向も自覚している。今のところ、長三和音のように分りやすい和音でなければ、和音として聴こえない和音がいいらしい。和音をぼかすというと、既にスペクトル的発想だから、ぼかすのではなく、和音として一義的に存在しない縦の響きとでもいうべきもの。この楽譜を勉強した後は、決まって軽い眩暈に襲われるのは文字通り題名の通りで、感嘆せざるを得ない。
先日は野平さんの楽譜を読みながら、「時間の渦」の部屋の奥のドアを開くと、またその奥に広い別の部屋が広がって錯覚を覚えた。すべての調度品が丁寧に磨き上げられ、金縁ロココ調の少しくぐもった鏡が、覗き込んでいる自分の顔をうつしだしている。

4月某日 0:11 自宅にて

イタリアは解放記念日。近所の公園で、ニコライのお母さんフランチェスカと、子どもたちが遊ぶ間に少し話す。ニコライがもうすぐ中学進学なので進路について話していると、思いがけず拙宅の前のある「リナッシタ(再生)」中学が、元来筋金入りの共産党系中学校だったことを知る。家から近いし、他の中学が午後2時で帰宅させるのに比べて、「リナッシタ」は4時まで預かってくれるから、是非入れたい気持ちもあるが、左寄りの教育が心配なのだそうだ。彼女が中学生の頃は、「リナッシタ」は先進的実験校として教科書さえ使わない教育を施していたそうで、到底怖くて通えなかったという。彼女に言わせれば今通っている公立小学校でさえ、ブルーカラーの家庭が優先されていて、「わたしなんて母子家庭で彼らより生活が苦しいのに、インテリのスノッブだと決めつけられてしまって、クラス会費の徴収料だってブルーカラーの子どもより多いのよ」。

ニコライが先日小学校で受けた歴史の授業で、古代バビロニアで街を城壁が囲んでいたのはアリストクラシーの保身のためで、敵が攻め込んでくるとき、彼らは農民ら城壁の外の人間を見捨てたのだと教わったとと憤慨している。彼女曰く、それは間違いなのだそうで、城壁の外に住んでいた農民も、敵が襲ってきた場合、城壁のなかに逃げ込めるよう二重構造になっていて、そもそも古代バビロニアに、現在のような複雑なヒエラルキーはまだ成立していなかった、とまで言われても、無学の人間は何も分らないので、取り敢えず、と相槌を打ってみる。

彼女が大学で学んだ歴史の教授は共産党に属していて優秀な学者だったが、あるときテレビ・インタヴューで、場末のケバブよりもトラットリア(イタリア小料理屋)の料理が好き、と発言したところ、思想に問題ありとして左遷されたという。医者や貴族の子供の扱いは、公立学校に於いては現在でも不当、というのが彼女の持論だった。

今朝、どこからか大勢で「不屈の民」をスペイン語で合唱しているので不思議に思っていると、続いてスピーカーから大音量で「インターナショナル」が流れてきた。続いて「ベッラ・チャオ」という戦時中のパルチザンの歌をギター伴奏で合唱しているから、どこかで共産党の集会でもやっているのか、珍しいなと思って外を見ると、目の前の中学の校庭で楽しそうに学生と父兄がバーベキューパーティーを開いていた。それはそれで、どことなく時代錯誤的な懐かしい感じがしたのと、子どもたちが「不屈の民」をスペイン語で歌えることに妙に感心。

4月某日19:00 「ピカソ」喫茶にて

レッスンに来たパラグアイ人の生徒が、12月にアスンシオンで演奏会を開くというので、パラグアイのオーケストラのメンバーは親切かと尋ねると、パラグアイ人は普通だが、中にいるアルゼンチン人は意地悪だという。暗譜で振る指揮者を試そうとわざわざ違う音を弾く輩にしばしば出会うそうだから、気をつけなければと顔を顰めた。「それなら楽譜を見れば良い」、と茶々を入れそうになったが、彼は元来弱視だから、暗譜は必須なのだ。もちろん、こちらが内心アルゼンチンから、敢えて経済状態の悪いパラグアイに仕事に出掛ける音楽家に感心したとは言えない。

アルゼンチンの友達に愉快なパラグアイ人の生徒の話をしたところ、「あら、パラグアイ人はだめよ。アルゼンチンには沢山パラグアイ人移民がいるけれど、彼らの犯罪率がとても高くて、怠け者で、本当にどうしようもない人たちなんだから」と憤りを隠さない。やはりどちらもどちらという感じだ。因みに、このタガが緩んだ感じのとぼけたパラグアイ人は、実直で勤勉なメキシコ人生徒と仲良しで、彼から細々とした手続きのアドヴァイスを受けて何とかやりくりしているようだ。

同じ言葉を話す印象なのか、ラテン・アメリカの人々が一見どうも似通って見えてしまうけれども、実際は国ごとの国民性のヴァラエティに驚く。きっと理解すればアラビア語圏も似ているのかも知れないが、少なくともスペイン語は、元来侵略者によって強制された言葉だから、そこには何か違いが存在するかも知れない。尤も、スペイン語で塗りつぶされて、母国語の個性が国民性を保証していない印象は、ケチュアなど中南米の在来言語を全く解さないからかも知れないし、アフリカ諸国よりもずっとスペイン語一色に塗り固められているからかも知れない。
グロバリゼーションが進んで、世界全体が英語を主要言語として纏まってゆけば、100年200年後には、世界の国々が一見没個性のラテンアメリカのようになるのかもしれないが、案外その頃には互いに言葉など解さずに、直接理解するコミュニケーション手段が発明されているのかもしれない。

(4月30日ミラノにて)

102 翆滅――風車、水車に捧ぐ

藤井貞和

風車をたばんで祈ろう、あなたがいなくなっても、
風は消えない。 くうそくぜしき、声を届けます。



虹を吹き上げて、蟠龍のしっぽがあなたに絡まる。

だから「万有引力」と云うのです。 まんりきで、

あなたの睡りをこじおこすと、石棺よ、

水車の色が散る。 寐覚めの花びらが散る。



もう遅い、まにあわなかったよ。 滅ぶ地上を、

しきそくぜくう、しかと見て去る釈迦牟尼仏弟子。



(61年前の4月28日か、紅白のお菓子が子供たちの机のうえに配られました。7年間という、一国が占領下に置かれるという「体験」は「貴重」であったにしても、沖縄の人々にとっての「屈辱」の始まりであることを知るのは、無論、ずっとあとになって学習によってです。おとといは、琉球新報のサイトの動画による、宜野湾市公園での反対集会をずっと見続けました。東京での記念式典では、どんなに政治家たちが狂奔しても、それは勝手ですが、自然発生的に「天皇陛下万歳」の三唱が起きたそうで、笑えない。朝鮮戦争が続いていました。翌年になり、その休戦とともに「分断」が始まる。日米安保条約が、東アジアでの「分断」の永続化を見越して、サンフランシスコ講和条約発効の同日に締結されました。で、北朝鮮が60年間、戦争もせず、内戦も知らない国になってしまったということは、案外、気づかれません。日本国も、すれすれで68年間、やってませんが、同じように軍事力を有し、国粋主義者もおり、金日成以下の体制は戦前の日本天皇制のまねごとです。東アジアの双生児のような二国、いまに「平和と民主主義」を更新中の、日本と北朝鮮とで、不戦の最長不倒距離をぜひ競争してほしいと思います。中国はしょっちゅう戦争をやってるし、韓国もベトナム戦争で多くの兵士を死なせています。北朝鮮はアメリカとの糞詰まりの敵対関係を、日本に代わって押しつけられました。日本の植民地だったというような認識のない北朝鮮にとって、「内鮮一体」の延長上に(「内鮮一体」が終わる約一週間〜十日まえですから)、広島の、長崎の原爆は朝鮮半島のうえで炸裂した核爆発でもあります〈事実、マッカーサーは朝鮮戦争時、何度も原爆を使用しようとしました〉。アメリカを攻撃するために核弾頭を持とうとする北朝鮮の理屈を、安倍は見誤り、民主党政権も見誤りましたが、政治家たちの頭はちょうどその程度でよいのです。掲げた作品は以上と無関係。61年後の4月28日を私なりに記念、祈念。)

掠れ書き28

高橋悠治

ある本で読んだはずだが、読み返しても見つからない。以前目にとまらなかった細部が拡大されて、記憶とはちがうバランスの本になっている感じがする。

水は降りていく。川の水は去り川は残ると考えるより、水が降りる道をさがし、 川がその道とすれば、曲がりつづけて形が定まらない、行先は見えないと言ってもいいだろうか。

練習は反復とは言えない。ちがうやりかたを試すプロセスではないだろうか。練習と実践は日本語では別なことばだが、練習は反復されるものという前提があり、実践は決められたことが前提になっているように見える。反復ではない練習と、何をするか決めていないで動き出す実践は、考えながら進むこと、問いかけながら、さがしながらすること、対象や領域によらない、行為とその主体との区別もない、プロセスとそのなりゆきを追っているだけのようだ。

反復かどうか立ち止まって判断しないでも、プロセスが進行するうちに、似たうごきが記憶の痕跡とかさなると思えるときがある。反復の回路に落ち込む前にそこを離れて、ちがう道に入っていくなら、記憶に間欠的に触れながら循環すると見えて去っていく、そのなりゆきは、無限に伸びる線ではなく、折りたたまれる襞となって、有限なのに内側で無限に変化するように感じられる。

二つの点を結ぶ有限な線分が無限個の点を通過するなら、無限個の点から無限個の点への移動が考えられる。限られた音やことばを使っているのに、別な音楽や詩がまた書かれるのは、そういうことかもしれない。書き尽くすということはないし、尽くすという考えそのものがどこかおかしい。

一人で考えるのではなく、対話のかたちで第二の声があるとすれば、それは注釈か批判か、いずれにしても、色ちがいの糸が織り交じって一つの織地になる。離れたところで対話を聞く第三の声があって、織地には加わらないでいられるとすれば、それは何を語っているのだろう。

引用されたことばについて第三者が注釈を書くのではなく、引用以外のことばの文脈を換えると、解釈史ではなく、連句が生まれると言えるだろうか。聖典もなく、権威もなく、位相を換えながら続く回廊ができる。職人や旅芸人の座は、城門や関所で区切られた表街道とはちがう、夜のトンネルのようだったと言いたくもなるが、いまはなくなってしまったのだろうか。

あいまいな感じをあたえるという言い方と、毛羽立つ表面を描くこと、綿菓子のような音を作ることには、どこか共通したものがあるだろうか。

いつだって月は欠けている。

植松眞人

二十八歳の彼女は自分の影を見ていた。小さな影だなと思った。いままでに男と別れても悲しいと思ったことはないし、どうせ次の恋に落ちるのだと思うと新しい服を買いに行くときのようなワクワクとした気持ちになった。さっきまでの恋もいままでと同じように、すぐに思い出に変わるし、別れた後も友だちとして一緒に遊びに行けるようになる。実際、来月みんなでキャンプに行くことになっていて、最後はその予定を確認し合って店を出た。その時に、自分たちが別れたという報告をすればいい、という話もした。ようは気持ちを恋愛から友だちへシフトすればいいだけだ。フェイスブックの「交際ステータス」の項目にある「交際」を解除して、そのまま友だちとしてやりとりする。そんなものだと思ってきたし、そうしてきた。

それなのに、別れ話をして、手を振って男と別れて山手線に乗り、たったいま池袋駅のホームにたくさんの人と一緒にはき出された途端に、自分がとても弱い人間だと言われている気がした。それはとても嫌な感覚だった。その嫌な感覚をあぶり出すように強い陽ざしに照らされて、ホームの上にできた自分の小さな影を見ていると、いままでに経験したことのないほど激しい悲しさに包まれた。

しばらくの間、彼女はホームの真ん中で立ちすくんだ。行き交う人たちの肩にぶつかり、影が揺れた。影は揺れるばかりで、それ以上小さくもならず大きくもならなかった。

ひときわ強く、サラリーマン風の男が彼女の肩にぶつかった。その瞬間にあげた彼女の顔は大粒の涙をぽろぽろと流れ、化粧が剥がれとても醜かった。

でも、そんな醜い顔を見る人さえいなかった。彼女はポケットからスマートフォンを取り出し、気を取り直してフェイスブックページにアクセスした。半年付き合った男との交際ステータスを変更しようとしたのだが、すでに男からアクセスをブロックされていた。彼女は思わず吹き出しながら、「早すぎっ」と声に出すと、友だち申請の項目を開いた。そして、友だち申請を保留にしていた何人かの男のうち、仕事先の一つ年下の男の子に申請許可を出した。

もの書き(4)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

そう、それだ。そこから初めの一行、初めの一語が無垢の白い紙の上にタイプライターから打ち込まれたのだった。それまでにこの手の小説を読んだことはあっても書いたことなどないぼくたちにとって、最初のシーンをなんとか絞り出すのも至難の業というものだった。

「おだやかな陽の光が彼女の寝室に差し込んでいる。淡い緑色のカーテンが微風に当たってわずかに動く。まるで今現在の想いにも似て……」

「ロマンチックだなあ」とジュンは長ったらしい文を読んで言った。
実際のはなし、わたしは自分の部屋を表現することから始めたのだった。その部屋の自分を彼女に置き換えてみただけだった。。。
その紙の一番下までずっとタイプを打ちつづけたが、まだ何も起きていなかったばかりか、起こりそうな気配すらなかった。ぼくたちは自分たちの考え方による良質な白表紙本というものを達成すべく相当時間をかけて話し合いながら書いたのだった。

誰でもが想像がつくようなありきたりの筋については、これ以上説明する必要もないだろう。が、はなしはそこでは終わらないで、けっこうな1本になった。 それで誰かに読んでもらって、人前に出せるものかどうか批評してもらいたいと思った。

買ってくれる人や出版社がどう思うかそれが知りたかった。というのもぼくたちはそれがどういう人たちか、どこへ行けばいいか、いくらくらいになるのか、それすらわからなかったのだ。

プラスートがいたのでいい仲介者になってくれた。ぼくたちの書いたものを黙って受け取ると、開いて読んでみもしなかった。そう、読んでみる必要など実際ないわけだ。彼はぼくたちの希望を抱え込んで出かけて行ってそれっきりその日もその次の日も戻らなかった。プラスートは以前も書いたように友だちが多くて、いったん出かけると何日も帰宅しないのだ。いずれにせよぼくたちの希望はプラスートひとりに託されたのだった。

それから終に3日目、プラスートは酒の匂いをふんぷんとさせて帰ってきた。酩酊状態とまではいっていなかった。酒の肴を2-3包み手に提げてきてくれたので、下宿は大賑わいになった。ところが、悪い知らせを受けてぼくたちは押し黙ってしまった。
「きみらの小説は通らなかった」と、言うや顔を叩いて口をつぐんだ。
「通らなかったって、どうしてだい」

(つづく)

蒸留酒のはなし

大野晋

今年はなかなか暖かくならなくてやきもきしたが、初春にうれしいニュースが飛び込んだ。イギリスのウイスキー専門誌主催の今年のベストウイスキー(WWA2013)がロンドンで発表され、多くの国とウイスキーの本国を抑えて、全6部門中2部門を日本のウイスキーが受賞したのだ。今年の受賞ウイスキーはこれ。

・ワールド・ベスト・ブレンデッドウイスキー
 響 21年(日本 サントリー)
・ワールド・ベスト・ブレンデッドモルト
 マルス モルテージ 3プラス25  28年(日本 本坊酒造)

とは言え、例年、サントリーとニッカの大手二社のウイスキーが常連になっていたのだが、今年は本坊酒造のご当地ウイスキーマルスウイスキーが受賞したのが驚きだった。折しも昨年、19年ぶりにウイスキーの蒸留を再開したばかりだったから朗報だった。実は、本坊酒造のウイスキーのルーツは日本のウイスキーのパイオニアである竹鶴氏(サントリーのウイスキー醸造を立ち上げ、ニッカの創始者)を英国にウイスキーの勉強をしに送り出した当時の上司である岩井氏が直々に蒸溜器を設計、立ち上げている。面白いことにこのウイスキーは複数醸造所のウイスキーをブレンドしたことになっているが、実際にはマルスウイスキーの蒸溜器とともに、最初の醸造地であった鹿児島で作られたり、次の移転先の山梨のマルスワインのワイナリーで作られた3年以上のウイスキーを現在の信州駒ケ根の蒸溜所で25年(以上)寝かせたものという樽が複数の土地をブレンドした形になっている。すでに、鹿児島時代の樽はもう残っていないと聞くので、そうした意味でも貴重なウイスキーである。ただし、世の中のウイスキー好きは早く、すでに市場在庫が尽きてしまっている。噂によると4月中旬に新しく出荷されると聞くので、どうしても飲みたければ、取扱いのある酒店に予約を入れてみるといい。ちなみに、昨年まではニッカの竹鶴シリーズがこのカテゴリーの常連だった。

もうひとつ、面白い話を聞いた。ワイン醸造の研究所を持つ某大学の話だ。その大学では研究のためにワインを醸造するのだが、国税局の醸造所の免許を持っていない。このため、できあがったワインは販売できずにため込むことになる。ところで、ある程度ため込むと置き場所に困るらしい。古いワインにプレミアがつくのは一部の高級ワインだけだから、一般的なワインは古くなれば処分に困る。そこで、ワインを蒸留してブランデーを作ることで場所の問題に解答を出そうとしたらしい。ある程度のワインができた段階で、今ではブランデーを蒸留しているとのこと。さて、ブランデーは蒸溜してもすぐに飲めるものではない。やはり、ウイスキーと同じように樽に詰めて熟成することになる。蒸留酒は樽で熟成している最中、樽が呼吸しているため、やがて、雑味の原因となるようなアルコール分が抜けることで内容量が減っていく。これをむかしの人は「天使の取り分」と呼んだのだそうな。ところで、某大学で熟成されているブランデーはときどき接客などで使われるそうなのだが、それ以外にも減ることがあるらしい。
「羽のない天使が飲んじゃうからね」
そう言って、その客人は帰っていきましたとさ。

犬狼詩集

管啓次郎

  115

海と空の対話は成立しない
共通の言葉をかれらはもたない
海は沈黙を知らないし
空は沈黙以外の語をぜんぜん知らない
つぶやき、泣き、吠えるのが海
何ひとつ答えず周期的な点滅をくりかえすのが空
だがまるでそれを補うかのように
海にはものしずかな魚たちがいて
空にはいつもやかましい鳥たちがいる
魚と鳥はとてもよく似ていて
翼か鰭をはためかせ
飛ぶように泳いだり
泳ぐように飛んだりする
そして知ってるかい、魚と鳥の世界をむすぶのが誰かを
水の中を飛ぶ鳥だ、空にむかって立ち上がる魚だ
二つの圏を自由にゆききする使者、それはペンギン

  116

ありえない共和国だ、その岬は
灯台をめざして歩いてゆくと
黒い牛たちにすっかり囲まれてしまった
風が強く風は希望を吹き飛ばす
カモメにはとても耐えられない強さ、やむことのない風だ
その轟音を楽しむように牛たちは黙っている
維摩経のような知識をけっして口にしない
鋭い歯をもつ植物が土地を支配する
そこに島の小型の馬たちが群れをなしてかけてくるのだ
灰色が一気に明るむのは
かれらの運動が(摩擦が)空気を発光させるため
それから忘れがたい光景を見た
小さな馬たちと黒い牛たちが
ひとつの群れをなして岬の草原を駆け出したのだ
運動量が高まる、発光が激しくなる
いつのまにか岬の全体が光の土地になる

  117

ぼくの村の小学校では山羊を飼っていた
昼間は校庭のすみの芝生につなぎ
夜は塩を煮る釜のある小屋で寝かせた
山羊はいつも横に切れた瞳で世界を別のかたちで見ていた
ぼくらにとっての垂直があいつにとっての水平なら
舞うように身をひるがえす燕をあいつはどう見るんだろう
山羊はまるで賢明な老人のように見えたけれど
実は何も知らないのだということをぼくは知っていた
ある日、すっかり人生に疲れた郵便局員が
鞄を芝生におろし制服を脱いで
寝転がり空を見上げているうちに眠りこんだことがあった
ぼくらはハラハラし(正直にいって)ドキドキした
文字を知らない山羊は音もなく鞄に近づき
こぼれ落ちる手紙をむしゃむしゃと食べはじめたのだ
すべての通信は山羊のおいしいおやつでした
用事も感情も歯ごたえあるセルロースの塊

101 緑珠のかげで――ブローチに捧ぐ

藤井貞和

だれもいない会場で、
ぼくは試験を受けました。

好きな引用を、
いっぱい引用して。

解答用紙に、
泥の空を投げ捨てて。

試験場から出ると、
だれもいません。

灰の柱に映るのは、
ぼくのかげばかり。

白玉が藻掻きながら。
ぼくの解答です、

(前回「真珠貝の湾」と附けたらパール・ハーバーかと抗議を受けました。草稿は「真珠貝」だったので戻して。和歌の浦です。)

しもた屋之噺(135)

杉山洋一

復活祭休暇で人通りがまばらになった週末、数日来間断なくいささか強い地雨がおさまり、水平線の奥に夕焼けの赤みがさしこんでいます。もう夏時間に戻ろうというのに、片付けたストーブを食卓の傍らにひっぱりだしてきたところで、日本語が達者になって帰って来た息子は、盛んに「スーホの白い馬」の筋書きを説明してくれます。偶然胡弓の録音を聴いていると、走ってきて「これは馬頭琴なの」と尋ねてきたり、担任の先生が馬頭琴とホーミーの録音を教室で聴かせて下さっていたのにも驚きましたが、何より、彼の級友が既にホーミーの実演に接していたのには仰天しました。こちらなど音楽を生業にしていても、実際馬頭琴とホーミーの演奏に接することができたのは、漸く昨年のシベリアの音楽祭が最初の機会でしたから。

  —

3月某日
ブルーノ・カニーノより初めてメールがとどく。電話番号が書きつけてあり、電子メールが得意ではないのだろう。娘のセレーナからもメールが届く。父は、いつでも楽譜を読んでいるんだけれど、そうしていないと「人生に飽きてしまうのよ」。早朝パンを買いに出かける。道路の犬の糞も仕方がないと諦め、遠くの信号を見つめながら歩いてみると、思いがけない風景の違いにおどろく。
法王の選出など全く興味がなかったが、BBCのラジオをつけて夕食の準備をしていると、「白煙が焚かれました」と興奮したアナウンスが入り、思わずイタリア国営放送のテレビをつけた。ヨハネ・パウロ2世が逝去したとき、街中の教会から、低く長い弔鐘が鳴り続いたのも、ほぼ同じ時期だった。Fがスイスから持ち帰ったチョコレートの兎を解体しながら、身体に染みこむ鐘の音に耳をかたむけた。鐘ひとつで、これだけ表情を顕せることに、新鮮なおどろきをおぼえた。白煙がたちのぼる煙突の奥で賑々しく打ち鳴らされるバチカンの鐘は、確かによろこびに溢れているように聴こえた。「みなさん、こんばんは」に始まる新法王の言葉に、生まれて初めて鳥肌がたつような感激をおぼえたのは、なぜだろう。週末、レッスンに件のパラグアイ人がやってきたので、「芽出たいじゃないか。おまけに君と同じイエズス会だし出身だし」と謂うと、「これで益々アルゼンチンの株が上がる一方で」と肩をすくませた。午後のレッスンまで待ちくたびれたのか、気がつくと彼は家に帰ってしまっていた。

3月某日
いつも買いに行く近所のアラブ人肉屋で、帰りしな、アラビア語について尋ねた。「ここには各国のアラブ人が来るようだけれど、国によってどのアラビア語は殆ど同じなの」。素人の素朴な質問だが、いつもは寡黙なチュニジア人店主は途端に饒舌になった。
「植民地化が始まる前は、みんな一つのアラビア語を話していたんだ。今は滅茶苦茶になって互いにいがみ合うようになってしまった。西サハラなんて、同じアラブ人通しが殺めあっている。植民地支配するというのなら、インフラを整備し、近代化してそのまま続けていれば良かったのさ。人道主義がどうたらとかいい加減な大義名分をつけて、今度は勝手に独立させる。その結果、どこもかしこも大混乱を来しているだろう。コンゴはその象徴さ。独立させたからといって、裏からオイシイところを全て吸い上げるのは、旧宗主国なんだ。表面上は人道的にふるまっているけどね。例えばイタリアにやってきた俺が、チュニジアの悪口をここで言ったらどうなるか知っているかい。イタリア国内では、人権やら人道が何たらと法律が厳しいから、何も手出しできないのでそのまま強制送還さ。そうして、かの地に足を踏み入れた途端、人権もへったくれもなく手足を切落とされてしまうんだぜ」。
傍らでは、黙々と巨大な包丁で枝肉を骨から叩き割っていた。俎板にあたる骨の響きに思わず背筋がさむくなる。ちなみに、ここの肉は実に美味である。

3月某日
リコルディから連絡があり、グリゼイの子どものオーケストラのための3作品の楽譜が届く。これを果たしてラクイラの学生たちと演奏できるだろうか。演奏を予め準備したものを演奏会場に届ける演奏スタイルと違うかたちで彼らと触れ合いたい。3.11を前にして、改めてそう思う。ラクイラ地震の頂点は、2009年4月6日未明のこと。毎年4月6日午前3時32分、ラクイラ中心部の広場で慰霊式が営まれる。亡くなった全員の名前が若者らによって読み上げられ、提灯を手にした葬送行列が倒壊した夜半の街をめぐる。
「難民を助ける会」から311を前にして、秋に演奏した被災者を助けるチャリティー演奏会の録音が届いた。音楽をやるとき、いつも自分の存在は抜け殻のようであって欲しいと願っている。自分の存在が、演奏者が放射するエネルギーの抵抗になりたくない。少しでもひずみのない伝導率の高い音楽がつくりあげられるのなら、それ以上のことはない。

3月某日
ガリバルディ駅始発の朝1番の特急に乗り込んだのは、漸く出発時刻の1分前。そのままトリノへ出掛ける。エンツォは、書き上げたばかり自著の前書きを全部読み上げてくれる。シェーンベルクとストラヴィンスキーとの出会いが主題。上流階級出身の早熟で数多くの名声に恵まれたストラヴィンスキーと、靴屋の息子に生まれ生活に追われてずっと教職につき、晦渋な作品は大衆的な名声から程遠かったシェーンベルクは、互いにハリウッドの徒歩で往来可能な距離に住んでいたが、結局共通の友人の死に際して、霊安室で顔を合わせたことしかなかった。1910年代にベルリンで彼らが言葉を交わしてから長い月日が流れていた。エンツォは、近くて遠い作曲家二人の作曲家の果たし得なかった交流を、アドルノの色眼鏡なしで伝えたいという。

その午後、連れられるがまま出かけた先は、現ロエロ候のモンティチェルロ・ディ・アルバ城で、ロエロ候アイモーネが、泥だらけの仕事着のまま出迎えてくれる。さほど年齢も違わない若くハツラツとした領主だ。城には戦時中使われた秘密の通路などもあり、大広間にはロエロ一族の肖像画がひしめく。図書室に飾られていた旧いフランスの子供向け絵本が印象に残る。大判でハードカヴァー。挿絵は全て丁寧に書き込まれた水彩画で、実にうつくしい。ジャンヌ・ダルク物語などに雑じって、「フランスの歴史」があった。ケルト人やフランク王国などの古代から始まって、一番新しい史実はナポレオンの絶頂期で終わっている。
こうした貴族に雇われて、作曲家たちが生活していた時代を思う。朝から晩まで城に住み込みで毎日暮らし、消費するため朝から晩まで音楽を用意していたなら、ルーティンに陥るほうが当然にも見える。外界と遮断された幽閉生活というのも、いかがなものか。

3月某日
七重さんに頼まれた箏二重奏の準備。悠治さんからテトラコルドの説明を受け、学校の休み時間にはシャイエなども読んでみる。大体、最初から最終的に欲しい音は決まっていて、そのまま書けば良いところを、そうすることに、殆ど罪悪感に近いものが沸いてきて、わざわざそうなるよう思索を巡らせる。そして、最終的に現われる音は、最初の意図にほぼ沿ったものとなる。他の誰もそうなのか知らないが、せめてもプロセスが反対であればよほど生産的でスリリングだろう。どういうものが出来るか分からないが、一定の決まりごとを見出すと思いもかけない見事な結果が浮き上がる、というもの。何という手間。これが「よりどころ」なのか。

既存の伝統を違った視点で捉え透かしてみる。悠治さんからのアドヴァイスは含蓄が深い。伝統音楽の文字通りの初心者として、「六段」をテキストの一つの軸として選んだ。
真偽のほどは専門家に任せるとして、「六段」と「クレド」や「ディファレンシアス」との関連性も、別の指標か軸になりそうだと気づき、そこでしばらく考えが澱んでいた。
大好きな琉球箏の「六段菅攪」の響きを思い出していて、悠治さんから教わった「テトラコルド」の移旋、モジュールをその都度入れ替えてゆく「メタボール」が、別の指標となりそうだとわかった。楽器が音を限定するのなら、音が楽器を亘ってゆけばよい。「クレド」のネウマ譜にも大雑把な情報しか載っていないわけで、それらを組合わせ、別の風景が眺められるに違いない。
こう書くと、そこに至る随分操作は過分に「浪漫」を滴らせているものの、出来上がる音像は最初から見えているので、最後に拍子抜けするのは当の本人なわけである。それを「浪漫」と書けばそれらしい気もするが。

3月某日
生徒のラファエッレから畏まったメールがとどいた。彼はナポリの南、サレルノ出身の作曲家で、トロンボーン吹き。強い南訛りの上に敬称をLeiではなくVoiで話す。南イタリアでは旧い敬称Voiを今でも使うとはきいていたが、若者までそうだとは思わなかった。基本的に生徒には親称で話させているが、南部出身者やラテンアメリカの留学生は一概に恭しい。「杉山さんお元気ですか」を「杉山様ご機嫌いかがでございますか」と呼ばれるようでむず痒いが、南では場合によっては実親にすらこの敬称で話すそうだから、仕方ないかもしれない。
彼が小説を書いていることを初めて聞いた時は耳を疑った。普通の恋愛小説などを書いているらしく、文筆業の繁忙期には音楽活動を一時中断するという。

「Voi」というと、エットレ・スコラの「特別な一日」で、ソフィア・ローレンがマストロヤンニに「貴方と来たら、今朝からLei、Lei。Leiが禁止されているのはご存知のはず。本来ならVoiで話さなければならないのに」と激昂する場面がある。有名なラブシーンだからよく覚えているが、高校の頃初めてこの映画を見たとき、このニュアンスは全く分からなかった。この映画でマストロヤンニが作る目玉焼きが美味しそうだった。
マストロヤンニとソフィア・ローレンと言うと、「昨日・今日・明日」で子供を作り続けて公営住宅に居座るナポリの肝っ玉母さんの話を思い出す。現在ミラノでは家賃を踏み倒したアラブ人の家庭が、同じように子供を作り続けて市営住宅に居座るという。ソーシャルワーカーが家族を訪ねて退去を迫ると、子供をベランダから吊り下げて脅迫するそうだが、眉唾ものだろう。

一ヶ月東京の小学校で過ごした息子が日本から戻ってきた。敬称といえば、日本は今では学校でも教師が生徒を「さん」付けで呼ぶ。「ちゃん」と「君」の使用も、男女差別助長につながるため「さん」で統一されたとか。彼がクラスで級友の作文を読んだとき、名前に「さん」付けをしなかったのを、友達に咎められたそうだが、折に触れ現代日本語の実地アップデートしておかなければ親でも教えられない。生きた言葉を実感する瞬間でもある。

(3月31日ミラノにて)

オトメンと指を差されて(57)

大久保ゆう

   キスをちょうだい 1どでいいから
   それから20 さらにもっと100
   その100に1000をかさねて
   ついには100まんかいのくちづけを

というのは、17世紀英国のロバート・へリックという人の書いた詩を部分的に自由訳してみたものです。わたくしが学生のときに、オックスフォード大学出版局でこの人の全詩集テクストの校訂新版が準備されていると聞いてから、出るのはいつだいつだと待ち望んでから早幾年、わたくしはもう大学生ではなくなり、先日ようやく今年秋予定との告知が出たのですが、それは大学出版局・学術出版の常としてアナウンス通りに刊行されるとは思わないながらも、目処がついたらしいだけでもほっと致します。

わたくしの場合、詩についてはもはや下手の横好きに過ぎず、おのれの魂のなかにどうやら詩想も霊感もないらしく詩神にも好かれていないと気づいてからは、ただ憧れから何とか詩情を捉えて訳すだけなのですが、どうにもわたくしがやると、リズムと語呂と長さばかり重視してしまって、色々と台無しにしてしまっている感が否めません。

ケイト・グリーナウェイの『マリゴールド・ガーデン』は、スタイルとしてうまくはまったからいいものの、同じ作者の前作『まどのました』でもちゃんとできるかは自信ないですし。

   まどのましたは わたしのおにわ
   いいにおいの おはなが そだつ
   なしのきには コマドリのおうち
   わたしのいちばんすきなとりさん

うーん、たぶん既訳の方がいいですね。いかんせんどれも似たようなものになりがちですので、そろそろ違う訳し方を習得したいものです。

他にも苦手と言えば、言葉遊びの詩もいまいちうまく行かなくて。たとえばキャロリン・ウェルズという人が詩を書いて、オリヴァ・ヘレフォードという方が絵を描いた『みちものずかん』という本があるのですが――

    サケブトリ

   サケブトリは とりのおじさま
   よあけに こえを ひびかせながら
   さっそうと いえぢを たどるのさ
   らりららっと くりかえし さえずって
   はかせのじいさまの はなしでは
   ひるもよるも さけんで サケブトリ

こういうダジャレみたいな詩(正しくは動物の出てくる慣用句をあえて誤解した詩)が、架空の生き物(未知物)を題材にいくつもありまして、さらに絵が添えてあるものですから、ダジャレと絵と日本語訳を同時に成立させるのがどうにもこうにも難しいのです。たいへん苦しい。

そしてこういうことをしているとすぐに甘い物が欲しくなるので、わたくしの場合、詩はダイエットとの対義語なのかもしれません。詩神がいない代わりにドーピングでもしなければならないということなのでしょうか。スウィーツを食べなければスイートな詩に訳せない、お菓子の甘さを言葉の甘美さに身体のなかで変換せねばならぬとわけなんですかね。いかがしたものか、いやはや。

製本かい摘みましては(88)

四釜裕子

打ち合わせ先が決まると彼女はパソコンで路線検索画面を開く。より早く、より乗り換え回数が少なく、乗り換えの際の歩く時間もより短い路線を選んで、それが示された画面と乗り換え駅及び下車駅の構内図、そして目的地の地図をプリントする。乗車時間ぎりぎりまでデスクワークをしてせんべいなどかじり、足早に駅に向かう。降りる駅の改札に近い車両を選んで乗って、プリントした内容を車中で確かめる。電車を降りたらプリントに示されたとおりに早足で移動する。常にきちんと調べて動いているから、電車が遅れて遅刻する場合は「電車が遅れておりまして」と丁寧に先方に告げる。方向音痴なのに地図が嫌い、早足が嫌いなのに寄り道が好き、電車が遅れておりましてなんてことを電話したくない私は、一緒の打ち合わせでも彼女とはいつも現地集合にしている。

昨日も現地集合だった。早々に出た私は喫茶店で珈琲を飲み、商店街を歩いて抜けたら空き地があった。一面、紫。近づくと、ホトケノザだった。その先の黄色い花は何だろう。垣根にからみついて咲いている。草花は、名前を知るよりもまずうつくしいとかおもしろいとかを感じていたい。これはほんとうだけれど、それを言い訳にして名前をおぼえることをちっともせずにきてしまった。道ばたで見つけた花のうつくしさに声が出てしまうとき、その名前を呼べたらもっと楽しい。実際はわからないことが多いからこの日もまた「おっ、黄色い花!」となでて集合場所に戻った。数分後、彼女が「すいませーん」とやってきた。時間に遅れたわけではない。打ち合わせを済ませ、帰りの電車の中で黄色い花の話をし始めると、彼女がスマホで花の名前を調べ始め(やめて。名前を知りたいわけじゃない)たが、見つからなかった。

帰ってネットで探して花の名前の見当をつけ、小学館の『園芸植物大事典』を開いた。1990年に完結した全6巻を本巻2冊と別巻1冊にしたコンパクト版で、装丁は勝井三雄さんと麻生隆一さん、本文レイアウトは坂野豊さんだ。たったひとつの花の名前を探すために棚から出したことはすぐに忘れて、細かな文字を追うでもなく、色もかたちもどうしてこんなにさまざまに分かれたものかと、分厚いページを前に後ろにめくっては広い広い植物界に入り込む。夏にはどの木陰で休もう。寒くなったらどの国に飛ぼう。どの葉を揺らそう。どの花に目を奪われよう。鳥や昆虫気取りの時間は過ぎて、探しものは見つからない。黄色い花をつけた植物の、特徴をつかんでいなかったからだ。いつか似た季節にあの黄色い花を見かけたら、昨日のことが思い出されるだろう。今度は花びらのつきかたを、注意して見ることだ。名前で呼びかけられるようになるかな。

アジアのごはん(53)ナムプリックを作る

森下ヒバリ

タイで、わたしは悩んでいた。日本でのおいしい食生活のために買って帰る愛用食材の一つ、トウガラシの荒潰しペーストのナムプリックが、なかなか近所で売っていないのである。今回も宿はバンコク東郊外のウドムスックにあるコンドミニアムの一室。ウドムスックの市場のカレーペースト屋さんでやっと一か所売っているのを見つけたが、味の素てんこ盛りでげろげろなお味。

「はあ〜、プラトゥーナムの市場までナムプリック買いに行かなあかんかなあ」ため息をついていると「え、ちょっと遠いんちゃう?」と連れ。「あそこの店のは味の素が入ってなくて、おいしいからね。でも、遅くても朝の8時前に行かないと店が閉まるし」「そこまでせんでええのんちゃう?」日本に帰っておいしくないナムプリックを使うのも嫌だし、それを使った料理を食べて「なんかおいしくないね」などと平気で言うのもこの連れであるので、思い切って早起きして行くか‥。あの店が昼までやってくれさえしたら、こんなに悩まないのにな。

プラトゥーナムの市場は高架鉄道BTSもより駅からかなり歩くので、ウドムスックから一時間は見ておかねばならない。すると、7時前に出発か。すると、BTSに乗ったりするから起きてそのまま出かけるわけにはいかず、シャワーを浴びて身支度を整えて行かねばならないから、6時半起床、いやそれじゃ遅すぎる。え〜、すると6時過ぎに起きなきゃならないの〜! 例えば京都から朝早く阪急電車に乗って梅田のオシャレな繁華街を通って、そこからさらに通天閣に行くようなルートなので、顔を洗わないで行くわけにはいかず、しかも寝起きのぼ〜っとした頭で移動しなくてはならないのが、気が重い。

毎朝、早朝通勤している皆さんには申し訳ないが、とにかく、早起きは子供のころから大変苦手なのである。(小・中学校は仕方なく遅刻ギリギリに登校したが、高校は遅刻多数、大学では一講目の授業を出席日数不足で落としまくり危うく留年しそうになり、東京で就職した時は会社に歩いて通えるところにアパートを借りた。そこを辞めた後は出社時間が11時の新聞社を選び、その後はフリーランス、と起床時間はわたしの人生において、たいへん重要なファクターなのである)プラトゥーナムに住んでいるときは、徒歩5分だったから、顔も洗わず出かけてもマイペンライだったので、8時前に何とか起きてぼ〜っとしたまま買いに行けばよかった。

「一緒に行ってくれる?」「ええ!?」連れはわたしよりもさらに起きる時間が遅いたちなので、まったくあてにならない。もんもんとして、実行を先延ばしにするうちに、日本に帰る日が目前である。

帰国する前に、友達のポチャナとジュの家に遊びに行った。彼らの家の近くには、サンティアソークという仏教の厳しい戒律で有名な宗派の本拠地があり、その周辺の路地は自然食品やサプリ、タイ薬草などを売る店が幾つも集まっている。本当においしいフルーツシャーベットを売る店もある。そこでも探してみたが、おかずとしてのいろいろなナムプリックはあっても、トウガラシ荒潰しのナムプリックは見つからなかった。

ポチャナの家では、料理の上手なジュがニガウリの豆腐卵炒めや豆腐ときのこ焼きなど作ってくれる。あ〜、おいしい。こちらもそうめんを茹でて食べてもらう。台所には、ボール(直径20センチ)が置いてあってオレンジ色のトウガラシの荒みじんとニンニクのみじん切りが半分づつ入っていた。半端な量ではない。「あれ、ジュはナムプリックも手作りしてるの?」「これはあとで、ポチャナが起きてきたらエビと炒めて料理するの」この大量のトウガラシとニンニクでええ!?「へええ‥」ちなみにポチャナは完全な夜型人間で、起床時間はなんと夕方である。いくら早起きが苦手といっても、朝の9時半とか10時まで寝させてもらえれば問題ないヒバリなど可愛いものでしょう。

しばらくすると、台所から猛烈な匂いが漂ってきた。ジュがエビを炒めているのであるが、なんせボール一杯のトウガラシとニンニクと一緒である。居間にいた全員と猫までが咳き込む。中国醤油で味付け、水を切ったゆで麺に茹で青菜を添えたものにどっさり載せて召し上がれ、と出てきた。

「お、おいしい。でも‥辛いよ‥」今回のタイ滞在で文句なく一番辛い料理である。ジュによれば、中国料理をアレンジしたオリジナルだそうだ。油を少なめに、ニンニクは多めにトウガラシはオレンジ色の甘みもある種類のみを使うのがポイント。あまり辛くはなくシシトウに近いトウガラシのはずだが、さすがに大量に入っているので十二分に辛い。ポチャナのお目覚め用の料理だったりして。

荒潰しナムプリックはいろいろなところで探したがけっきょく見つかっていない。そろそろ、日本で使うための食材も買いにいかねばならない。とびきり辛いプリック・キーヌーというトウガラシを買って帰り、刻んでナムプラーに漬けるのである。そのとき、ジュのあのエビチリ料理が目に浮かんだ。あのボール一杯のトウガラシとニンニク。そうだ、自分で作れば、変な添加物の入っていないナムプリックができるではないか。しかも、このナムプリックは、生トウガラシ、塩、ニンニクを荒潰ししただけ(のはず)。日本の家にはバーミックスもどき(ハンディブレンダー)を最近導入したので、何とかできる! 悩みはするすると晴れた。

というわけで、ナムプリック用にプリック・チーファーと呼ばれる、長さ5〜6センチの赤い生トウガラシと小粒のタイのニンニクを買い込んで、早起きすることなく無事日本に帰ってきたヒバリであった。ではさっそく、作ってみましょう。

材料:生のプリック・チーファー200グラム、小粒ニンニク一掴み、塩小さじ1〜2または塩麹大さじ1
トウガラシはさっと洗って、ヘタを取りざっと刻む。トウガラシとニンニク、塩または塩麹を一緒に合わせてブレンダーで潰す。

目安はトウガラシの皮が5〜4ミリ四方ぐらいになればいい。もう少し細かくても。タイの小粒ニンニクは皮を剥かなくてもよく、ニンニクの量は好みで加減する。10片ぐらいで十分かも。塩はおいしい海の塩、または塩麹もコクが出ていい。ガラスの壜などに入れ、冷蔵庫で保存する。熟れてきてだんだん味に深みが出てくるが、もちろん作ってすぐに使っていい。パサパサした感じならもう少し潰し、塩と水少々を加える。

出来上がったナムプリックは、炒めものに入れる、パスタソースに加える、ラーメンの薬味、冷奴にのせる、などいろいろ使ってみてね。一皿の料理に小さじ一杯ぐらいが目安かな。ニンニクが入っているので、炒めものの場合は、油をゆっくり熱してナムプリックを最初に入れ、焦げないようにさっと火を通してからほかの素材を入れるといい。焦がしてはいけません。冷蔵庫で何か月も持つ。

これで、日本にいても、フレッシュな生トウガラシが毎日ある(のに近い)食生活ができます。

ジャワの二方位、四方位(2)ソロの四方位に見る南海

冨岡三智

先月、ジャワの二方位、四方位について書いたけれど、ジョグジャ(=ジョグジャカルタ)市では、北のムラピ山はごく近くに眺めることができ、その火山灰の被害にも遭‎うくらい近い。また南の海まで市の中心部から15kmくらいしかなく、ムラピ山噴火で噴出した岩が、川を流れて南海岸まで到達するというから、ジョグジャカルタの南北二方位観は生活の中で実感される。けれど、ソロ市(=スラカルタ)では、西のムラピ山も線路(東西に走っている)沿から、はるか遠くに望める程度だし、東のラウ山も見えない(と思う)し、南の海に行くには60km離れたジョグジャの町にまず入らないといけない。北のクレンドワホノの森もスマラン市(ジャワ島北海岸沿いの都市)の手前の方にあるらしいのだが、ワヤン影絵劇に出てくるけど実在しない森だという説明を聞いたことがあるくらいだから、ソロの人々にとって身近な存在ではない。つまり、ソロの四方位観というのはかなり観念的だ。その証拠に、私はソロの王宮以外の人々が四方位観について語るのを聞いたことがないし、観光パンフレットのようなものにも載っていない。

この四方位観について知ったときに私が感じたのが、なんだか閉塞的な世界観だなあということ。南にインド洋が開けていると言う人がいるかもしれないが、ジャワ島の南海岸沿いは波が高く、大きな貿易港(ジャカルタ、スマラン、スラバヤ)はすべてジャワ島北海岸にある。道路が発達しているのも、北海岸側なのだ。南海岸沿いには漁港もあるけれど、悪く言えば北海岸に比べ不毛な土地だと言える。そして、クレンドワホノの森が四方位の北に置かれているということは、その向こうに広がる北海岸には王国の手が届いていないことになる。つまり、オランダ植民地政策によって王家が港市貿易の富から遠ざけられ、内陸部に封じ込まれたという世界観が、この四方位観から読み取れてしまう。

ジャワ島の南海にはジャワの王家(の祖のマタラム王家)を守護する女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいるとされるが、彼女の伝説は、ジョグジャの南にあるパラントゥリティス海岸だけにとどまらない。ソロ王家のハディウィジョヨが著した『ブドヨ・クタワン』には、ジャワ島南海岸各地の女神伝説を紹介して、これらはすべてラトゥ・キドゥルのことだと言っているし、それだけでなく、彼女は淡水にも出没する。ソロ郊外にあるタワンマングという滝ではラトゥ・キドゥルが水浴びしたとされるし、ウォノギリ県にあるカヤンガン(巨石が川岸にごろごろしている所)でも、瞑想していたジャワ王家の始祖セノパティとラトゥ・キドゥルがで出会ったという伝説がある。これらの地域に共通するのは険しい岩場であること。こういう場所では、おそらく多くの人が水難事故に遭い、水の女神に引き寄せられたという言説が生まれたに違いない。

ラトゥ・キドゥルという女神像は、ジャワ各地に見られるそういう水の女神像をいろいろと取り込んで、マタラム王家によって造形されたのだろうと、私は思っている。そう思うのは、彼女が古代のジャワ・ヒンズーに由来する女神ではなく、マタラム王国が興った16世紀以降になって初めて登場するからなのだ。当時の東南アジアは港市国家による交易の時代で、マタラム王国も最盛期には北海岸沿いの港市を勢力下において、内陸部の肥沃な農業地帯の生産物を輸出していた。このような時代、内陸平野と北海岸をつなぐ水運は非常に重要だったはずだから、各地の水神信仰を王国の支配下に組み入れ、王国の祭神にしようとしたとしても不思議ではない。とはいえ、もしマタラム王国が北海岸沿いを手中にし続けていたら、マタラムの守護神は北海岸に棲むことになっていただろうという気がする(ラトゥ・キドゥルは南の神という意味なので、女神の名前も変わっていただろう)。女神が南海に棲むという設定になったのは、オランダが文句を言わない海はそこしかなかったから、ではないだろうか…。

硝子

璃葉

いまも膜を張る空が、透明なものとなって静かに響き、薄い硝子につたわっていく
雨のなかに溶け込んだ見えない色は何度も、止めどなくその目を照らした

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悪魔の囁き

仲宗根浩

我が家にある愛でるだけのボックスセットのCDの数々。やっと聴くことができたアトランティックのリズム&ブルース十枚組セットを堪能できる時間ができ、よく行く飲み屋、うちより全然まとものはオーディオがあるところでマイルスのボックスを聴く会などをやっていたら、音楽雑誌の記事にコロンビアのボックスセット、タジ・マハールの十五枚組、デューク・エリントン十枚組、ベッシー・スミス十枚組、P-VINEから出たエルモア・ジェィムスの3枚組が2セット発売の文字が目に入る。物欲の塊むくむくと起き出しネットでつい注文してしまう。到着した輸入盤は盤は中身に違いがないかチェックするためパソコンにCDをセットし確認。今回のセットは大丈夫。輸入盤のボックスセットはジャケと中身が違うのがたまにあるのでそこらへんはまず確認しないといけない。CD屋にいたころ、二十五枚のロット全部プリントされたCDと全然違う音源だった、ということもあったので。しかし、これもちゃんと聴くことができるのかはいつの日か。しばらくは英語で書かれた解説を理解できないまま暇なときに眺めるしかない。

春分の日の前に、知り合いの携帯電話ショップの店長をやっている者からメールが来る。うちの子供名義の携帯を学割で三年間基本料金無料にできると。これだと携帯電話にかかる金がしばらくは減らせる。そのあとに、「旦那さん、今ならタブレットの端末料金無料で毎月七百八十円、無線LAN接続のみプランがありますぜぃ」的な文章。去年の十月、データ通信のみの携帯端末を入手してテザリングで無線LAN環境がある。ワイヤード派だったが実は隠れワイヤレスになっていた自分。休みの日都合をつけてショップに行き説明を聴くと三年間はタブレット端末、ガラケー、データ通信端末、子供名義の携帯の計四台を所有していても今より安くなることが判明。即契約。これでひとりで端末三台所有することになった。

まあタブレットの操作方法もスマホと違うし、これで少しは少ない脳味噌も活性化するだろう。しっかし新しいインターフェイスを一から覚えるのは時間がかかる。ついつい囁きにのってしまったことを呪う。

現在、ネット環境に接続できる端末はガキのゲーム機三台、PC三台、携帯端末四台となった。これはこれでバックアップなど考えると面倒くさい。

イラク戦争から10年

さとうまき

3月20日で、イラク戦争開戦から10年がたった。
そこで、「イラク戦争なんだったの語録」をまとめてみよう。

パウエル国務長官
「イラクはウサマ・ビンラディンとアルカイダの幹部の仲間で協力者であるアブ・ムサブ・アルザルカウィのネットワークをかくまっている」
(2003年2月5日、国連での報告)
しかし、ザルカウィは、サダム政権とは何ら関係なく、政権崩壊後にイラク国内に潜伏し反米テロ活動を開始した。2006年に米軍の攻撃で死亡
した。のちにパウエルは、「私の生涯の汚点であり、報告内容はひどいものだった」と反省。

ブッシュ大統領
「米国、友好国、同盟国の国民は、大量破壊兵器で脅かす無法者の政権のおもうままにはならない。その脅威には全軍で立ち向かう」(2003年
3月20日。開戦直後の演説)
「多くが誤りだったのは事実だ。大統領として開戦の決断に責任がある」(2005年12月14日、ワシントンDCで、大量破壊兵器が見つから
なかったことに対し)
「吐き気がするほどの嫌悪感を覚えた」(大量破壊兵器が見つからなかったという報告を聞いたとき-2010年刊行の自伝『決断の時』)

結局、アメリカは、4422人の兵士を失い、31926人の兵士が負傷した。かけた戦費は、600億ドル。

一方イギリス。
ブレア首相
「イラクが大量破壊兵器を45分で実戦配備できる」(2002年9月にイギリス政府が出した大量破壊兵器の脅威に関する文書に寄せた序文で)
イギリスは、チルコット検証委員会が立ち上がり、ブレア氏を喚問。
「フセイン元大統領=悪いやつ、放っておいたらとんでもないことをしでかす奴。だから処理するべきだと思った」
179名のイギリス兵が戦士したことに関しては、
「後悔はしていない。責任は感じるが、謝罪のつもりはない」
2011年1月29日、チルコット委員会に再び喚問されると
「もちろん後悔している。深く心の底から」と反省。
2013年イラク戦争から10年でBBCのインタビューでは、
テロや宗派間抗争の続発を挙げ、「望んだ状態からはほど遠い」、「もしサダム(フセイン大統領)を排除せず、イラクが『アラブの春』を迎えた
なら、アサド(政権下の)シリアより、20倍はひどかっただろう」とイラク攻撃を正当化したそうだ。

さて、最後に日本。
小泉総理
「米国がどういう理由で行動するのか見ないとわからない。それを見て考える。その場の雰囲気だ」(3月13日の段階で、のんきなことを言って
いた)
「武力攻撃なしで、大量破壊兵器を廃棄することが不可能な状況では、米国の行動を支持することは国益にかなう」(2003年3月20日、国会
にて)
「フセイン大統領が見つかっていないから、大統領は存在しなかったといえますか? 言えないでしょう。大量破壊兵器も私はいずれ見つかると思
う」(2003年6月11日の国会答弁)
しかし、よく考えると何を言っているのかよくわからない答弁だ。

そして10年後。小泉元総理は、表には出てこない。

今年の3月20日の朝日新聞には、福田元総理、(当時の小泉政権では官房長官)のインタビューがのっていた。「日本は結構うまくやった」。結
局イラク戦争の支持は、世界の平和や、イラクの民主化には、まったく関心のない日本が、米国に追随することで国益を守ろうというだけの話。イ
ラク戦争では、12万人以上のイラク人が命を失い、500万人近い人が家を失った。そんなことはどちらでもよくて、日米関係がよくなったかど
うかだけが、日本人の関心。「うまくやった」か。なんとも悲しい。

掠れ書き27

高橋悠治

ピアノや作曲について書いているうちに説明になってしまう。ちがう書きかたがあると思ってはじめても、説明の誘惑はいつもある。

飛白あるいは飛帛は刷毛で書かれ、糸髪のように細い線のあいだに空白があり、速く飛び散る勢いのある書のスタイルだった。織物の場合はまず糸を束ねて括ってから染めると、織った後でも染まらない白が残る。それだけでなく、色は白い部分にもいくらかはみ出している。

ディドロがrapidissimiと呼んだデッサンは、抑制されていない自然の勢いがあり、手をかけて細部をみがいていくタブローは鈍く静まっている。

記述はおもな特徴を描き留め、説明には意味や解釈が入りこむ。記述は知らないものに対して、説明は知っているものについて。

説明し尽くすことはできないから、説明されなかった部分については問いにひらかれているが、知っている側から知らない側への方向が逆転することはないだろう。

記述は白い紙との対話とも言える。言いさしも、書きなおしも当然のこと。

まず座って考えるのではなく、身体を動かしている時に掠めてすぎることばがある。書き留めれば動かなくなるが、それを読むとき、また動き出す。論理をたどって書き続けて、最初のことばから組み立てられた全体や、そこまでの連続したプロセスはおもしろくない。

まず風が立つ。柿の葉が庭に散り、風に吹かれてあちこちと鳥の跳びあるくようにころがっていく。ある状態が続いている時の地図ではなく、変化の瞬間に立ち入って書き留める。外から見えない内部の小さな動きが対称性を破ろうとしている瞬間の。

散らし書き。バランスに収まらない。一つの中心をもたない。始まりも終わりもないトルソ。

書きなおして決定版を作るよりは、何回か断続して現れる同じものがさりげなく変わっていくというかたち。ちがう順序や選択肢を他人にまかせるような不確定性ではなく。

もの書き(3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

チェートが書くものはだいたい週刊誌用のアクションもの小説の類である。ときには一行に一語しか書いてないこともある。ボキッでなければ、ピシャッとかバシバシとかいった類のことばだ。ヒットした初めての作品は『パヤックパンラーイ(千の縞の虎)』といった。

チェートは北部の出で、ラミー(トランプゲーム)がうまい。自分が書く小説みたいにヤクザっぽくて喧嘩好きである。ただしぼくらと一緒にいるようになって以来、誰かと喧嘩しているのは見たことがない。たまに一緒に飲みに行ったり遊びに出かけたりすると足をひっかけてころばそうとする。こういう下町のごろつきからはひたすら走って逃げるしかない。

こんなこともあった。ロイカトン(灯篭流し)の日に映画館脇の市場へみんなで飲みに行った帰り、チェートは映画館の前で大声を上げたのだ。
「おーい、この辺りに足は売ってねぇかよ〜」
もちろん10本以上の足がそろっていたわけだが、逃げおおせた。

来る日も来る日も書き物をしているわけだから、生活物資たとえば、靴、着るもの、食料などに事欠くことになるのも当然で、そうなるとぼくらへの要求が激しくなった。ぼくらのほうもほとんどの者が理想やイデオロギーに入れ込んでいたのだから、すきっ腹をかかえて背に腹がくっつくというような塩梅だったのだ。家賃はとくに大問題で、たびたび借金をかかえることになり、夜逃げしたこともある。とはいえそうなる前になんとかしようとがんばったものだ。それぞれが仕送りのない独り者で、なんとか自活しなければならなかった。

プラスートにはなにがしかコネがあった。年上の連中とのつきあいがあったからで、それは彼が酒飲みだったせいもある。先輩のもの書き連中もだいたいが酒飲みだった。それで生活の糧を得る方法が広がったのだ。ある晩プラスートが言った、
「白表紙本書くなら簡単に書けて儲かるぞ」
白表紙本とは当時、闇で刷って闇で売った猥褻小説のことだ。簡単だというのはとりたててすばらしい内容である必要がないからで、刷り手もどこで印刷しているのか明らかにしないし、優れた書き手を求めているわけでもない。そう、誰にも想像がつく単純な内容でいいわけである。

その後わたしはもうひとりの友人と出会った。わたしが売るためにものを書くのか、社会的価値創造のために書くのかという分岐点に立っていたころのことだ。その友は芸大という囲いを出て、もの書きになろうとしているアーティストだった。漫画や挿絵を描くほか、ジュンは質のいい短編小説の書き手でもあったのだ。そのころのぼくたちはそれで、本のはなしか飲み屋を回って歩いている日々を送ったものだった。飯を食う金すらないこともしょっちゅうで、どこでもつけにしてもらったあげく、つけにできる店もなくなるありさまだった。

「ちょっと試してみたらどうかな、まずいことにはならないだろう」
と彼は言う。
「芸術的美しさというのをさ、猥褻文学をX指定の緩い数字かR指定の厳しい数字とかの段階で創造性を高めて、グレードの高いエロスへしていこうぜ」と、彼は付け加えたので、わたしは出口が見えたように思い彼の言うことに気持ちが傾いたのだった。(つづく)

翆槽にて100 真珠貝の湾

藤井貞和

若くしてわれ、東西を知らず、
芸能を見る目、またくなかりき。
「詩とドキュメンタリィ」、思潮社の一冊、
不意に手にして乾武俊を知る。

「黒い翁」、歳月をへだてて、
ふたたびわれのまえに、天の雫か、
地湧(じゆう)の声か、深層の人、
思いを伝えて、今日に到る。

何びとぞ、山本ひろ子、「くどきの系譜」を、
コピーに作りて、われに呉れたり。
山本ひろ子、真珠貝の湾に、
3月2日より乾武俊のフォーラムをひらくと。

木村屋の座に集う若きら、若からぬらに、
伝えん意志の仮面よ舞え、新作。
「カイナゾ申しに参りたり」、黒い媼の
花開きうらうら、和歌の浦々。

(乾武俊、91歳。「詩とドキュメンタリィ」に出会ったのは1960年代。90年代に「黒い翁」を見る。2013年春3月、和歌の浦にフォーラムをひらくと。)

記憶のゆきを踏んで

くぼたのぞみ

忘れない
春まだ浅いこの月に
記憶のゆきを踏む
むかし訳した自伝作品に
一行一行 愚直なまでに
手を入れる

古い戸棚にやすりをかけ
塗り直す家具職人のように
注意深く文字を削り
この時代からの
救命具となることを願って
ことばを置き替える

いま生きている
作家自身が望むなら
その改稿とひきくらべ
いま生きている
翻訳者が共感をもって 
木肌美しいことばの戸棚
しあげるために
ばかばかしいほどの愛をそそいで
記憶とことばに鑿をうつ

手のひらに積もる木屑はらうと
ちいさな抽き出しが
ぽんと開いて
暴虐におしだまる群島の
濁った空がすこし切れて
ひとつぶで2度おいしい
飴色の光が射し込む

そんなときは 
これから生まれる
やわらかな命に向かって
記憶のゆきの雪原に 
凛々と 魂のつぶやきがこぼれ
落ちるのが見えるのだ

しもた屋之噺(134)

杉山洋一

イタリア総選挙の最中、国内がどんな様子だったかご存知でしょうか。さぞかし選挙色一色だったかと思いきや、投票所周辺に人が集まっている以外は、むしろ本当に選挙中かと訝しくなるくらい、表面上選挙色が消えました。これは、選挙中一切選挙に関連する報道が禁止されるからでしょうか。
乗ったタクシーのラジオから聴こえてきたのは、ウミウシが交尾のあとに性器を切断する話と、日本の公園のミケランジェロのダヴィデ像に下着を履かせるかどうかという話です。謂うまでもなく、ダヴィデ像の話ですぐに頭に思い浮かんだのは、アニタ・エグバーグの牛乳の看板に抗議する、ペッピーノ・ディ・フィリッポ扮するアントニオ博士、ボッカチオ’70でフェリーニが監督した、「聖アントニオの誘惑」を焼直し版、「アントニオ博士の誘惑」でした。

2月某日12:20 市立音楽院教室
日曜朝の演奏会は実に心地よい。悠治さんの「花がたみ」と「アフロアジア風バッハ」を家人が弾く。「花がたみ」は、聴くと、すっきりした譜面との違いに戸惑うほど、表現が直裁で激しい。けれども音は決して激さない。それから、バッハのパルティータを抜き弾きしてから、「アフロアジア風」の断片と照し合せた。拍感をずらして、その揺らぎのほんの隙間から別の空間を広げる。悠治さんが送って下さった「世界音楽の本」のリズムの項を、フィレンツェから戻る車中で読みながら、何か見えた気がした。
「音の認識は1音でもできる だがリズムは音の属性ではない 音の出現から次の音の出現までの「間の領域」に向けられた注意からリズム認識が立ち上がる」。

実際音を出さないので、リズムと「間の領域」を認識するには、指揮を例にとると分かりやすい。一見、指揮者が強く打点を出すところで演奏者が強く演奏し、指揮者がレガートに振るところで演奏者がレガートになるようだが、実際は、音色や強弱など全て一拍前の打点と直後の「間の領域」で指示するので、実際鳴っている音と振っている音は必ずしも一致しない。やってみると「間の領域」がかくも深いことにおどろく。リズムはリズム構成に留まらず、時には音楽の香りまでもつかさどる。音楽が呼吸するためには、「間の領域」に空気が通るようにしておかなければならない。えら呼吸とか、皮膚呼吸みたいなものか。

2月某日20:20 自宅にて
最近若い世代が忘れられていた現代作品を再評価するようになった、と中央駅の行先案内掲示板を見上げながらアラッラがいう。我々より前の世代は、目の前で演奏を聴いて育ってきたが、我々の世代は音源も簡単には入手できず、自分で企画でもしない限り演奏に触れることもむつかしかった。本や楽譜でしか知り得ない名作も沢山あった。そんな、演奏も音源もなかった時代を過ぎて、インターネットで簡単に情報が手に入るようになり、若い世代は何ら先入観なく耳にして、興味も持つようになったという。

尤も、それは現代音楽に限った現象ではないだろう。クラシックの演奏家でもそうだろうし、他のジャンルでもきっと同じに違いない。ただ、ツールとして情報を求めてゆくと、情報は等列で並べられるようになるだろうし、質より量が必要になるかもしれない。個々の情報の時代性や柵から解放され、手軽で身近に、悪く言えば薄っぺらく、情報と対峙しなければならない。

東京のK先生と電話。「最近巷では、愉しみながら勉強という言葉が流行っているけれど、本来勉強とはそういうものでしょうか。わたくし、勉強はやはり辛いものだと思うんです。昔に比べ、イタリア語の教科書も溢れておりますけれど、日本語でそのまま言っても通じる程度の内容など、勉強しても仕方がないと思われませんか」。先生の言葉に恥入りつつ、時代の変遷を思う。

無料電話やスカイプ、格安航空運賃はもとより、衣料品、食料品など自ら享受している便利で安価な生活は、技術革新と安い労働力に負っている。300円出していたものを、100円で買える時代なら、そこにどれだけ安い労働力が使われ、どれほどプロセスが簡略化され、どれだけ余剰人員が切捨てられるのか。100円の商品を買うのは、その社会構造に加担する悪か、それとも生産に関わる全ての人へ還元するための社会構造への参加なのか。搾取は悪だと言い切れるほど、清廉潔白な生活を自らが営むわけもなく、では感謝の心を持てばよいかと言われれば、まるで畜産動物に感謝しながら嬉々として肉食に甘んじるようで、よほど自分の胸糞がわるい。豊かな生活、豊かな人生とは、何を意味するのか。一見無関係に見えるけれど、我々の関わる音楽もこうした社会構造と密接につながっている。

2月某日18:00自宅にて
朝レッスンに出かけると、部屋の電気も暖房も入らない。一帯が工事で停電だという。仕方なく学生と近くの喫茶店に出かけると、シャッターが下りたままになっていて「警察の管理下にあり休業」とぺらが貼ってある。
「お金が足りなくて」、と毎朝7時から夜の11時半まで、中国人の家族で日々まめまめしく営業していた。子供たちは息子と同じ市立小学校に通っていたので、心配になり別の中国人の喫茶店で様子を尋ねたが、何も知らない、話したこともないと、すげない返事が返ってきた。後で聞いたところでは、薬物中毒者が夜半、店にたむろしていたらしい。収入を考えると無下に追い出せなかったのだろう。

昭和12年頃の湯河原海岸のヴィデオをインターネットで見つけたので、父の誕生日にリンクを送った。街の風景はまるで違うけれど、海は今も変わらない。その頃、母は横浜の間門に住んでいたというので、当時の間門の写真も探した。こちらは現在からは想像もつかないもので、埋め立て前の間門の海水浴場は、人いきれが溢れかえる賑々しい写真が並んでいた。

海水浴といえば、息子の通うミラノの市立小学校で水泳の授業が始まった。日本の感覚では零下2度、3度の吹雪の日にわざわざ水泳の授業をさせたいとは思わないので不思議である。その上、学校中でインフルエンザが猛威を振るっていて、24人学級中9人や10人ほどしか登校できない日が1週間以上続いている。酷いときには3人しか出席者がいないクラスもあったそうだが、学校閉鎖にはならない。ちなみに月末の国政選挙の際は、学校は休校になり、投票所として使われる。

大雪の中、朝8時に家の壁を直すため、砥の粉ぬりの寡黙なエジプト人職人が来た。対照的にへらへらと笑うイタリア人の親方が連れてきたが、一通り指図を出して親方は帰ってしまった。壁を乾かすために、窓を開け放し黙々と仕事をしていて、午前中には仕事は終わり、帰るという。大雪なので心配になって聞くと、後で親方が迎えにくる、それまでメシを食べて親方が来るのを待つから大丈夫だというので送り出したが、暫くしてから気になって外を見ると、家の前のベンチで目をつぶって寝ているので慌てて家に呼び込んだ。「さむいです」、とたどたどしいイタリア語で話した。

2月某日20:20 ペスカーラより車中
早朝ローマのアウレリア通りからサンピエトロ駅まで歩くと、朝焼けがとても美しい。
朝7時の駅の喫茶店は、芋を洗うような混みようで、どこで食べてよいかもわからない程だが、みなそれなりに順番が回ってくるようになっている。ローマらしくて良いが、ミラノではこうは行かない。

ティブルティーナ駅から列車に乗ると、目の前を身なりのよい美しいジプシーの少女が、小さなコピーの紙切れを置いていく。物乞いだ。後でそれを引き取りに来て、続いて目つきのよくない彼女の母親と姉と思しき女性が彼女の後ろをついてゆく。車窓には朝焼けに映える緑の野原が広がっているが、このあたりの緑は北よりもずいぶん焼けた色にみえる。

ラクイラ駅から山を見上げると、雪をいただき、とても美しく、空気も澄み切っている。タクシーで中心街までのぼってゆくとき、道沿いのどの家にも大きな亀裂が走り、これが地震の爪痕なのは明らかだった。目にする建物の惨状にショックを受ける。再建されたばかりの真新しい建物で、バルビエーリに会う。
「よく見ていってくれ。4年も経って、一体何が行われてきたかということを。ラクイラの市民が、自分たちが忘れ去られてきたのかと訴えたくなる気持ちがわかるだろう」。
歴史的中心街には、立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、兵士が見張りに立ち、建造物は軒並み崩落している。

バルビエーリは悲しそうに言う。
「ラクイラに来た人は誰でもショックを受ける。もはや地震の話は街の人間も話したがらないが、いまでも無意識に彼らの口をついて出てくる言葉は、地震前は、と、地震後は、ばかりさ」。
気持ちが塞いで、明るさのない彼らを元気づけたいのは、大災害に見舞われたばかりの地震国に生まれたためか、その災害に対して自分が何もしていないことへの、罪滅ぼしの姿の単なる自己欺瞞か。

雪を頂くアペニンの山々は、アルプスとは全く違った魅力をもつ。グランサッソの麓を車で走り抜けると、まるで「砂の女」の掘立て小屋に取り残されたかの錯覚を覚え、ときに荒涼とした風景は、地獄の火山の火口の底を進むかのごとく迫力をもつ。見上げる山の縁は磨きあがられた刃のように薄く、尾根が厚く連なるアルプスと違い、すれすれのスリルすら覚える。

イングリット・バーグマンがイタリア語で演じたオネゲルとクローデルの「火刑台ジャンヌ・ダルク」は、ロッセッリーニがナポリのサンカルロ劇場のために演出したものだが、映画にも焼直されているのを、最近漸く知った。最後に鎖を壊して昇天する場面で、天から後光を差した聖人たちが揃って歌いながら彼女を迎えにくる。円状に彼女を取り囲み、ジャンヌはそのまま昇りつづけ、星になる。このステレオタイプのカトリックの宗教観には隔絶の感があるが、アペニンの谷底を走っていて、少しだけ彼らの気持ちが見える気がした。

(2月28日ミラノにて)