掠れ書き31 ここ

高橋悠治

いまいる場所が「ここ」になる。「ここ」があるのは、「ここ」でない場所と区別するときだから、「ここ」を指す行為、あるいは「ここ」の意識は、分けた結果、あるいは分けた半分に光をあてるようなものだろう。「ここでない場所」があるから「ここ」があるとも言えるなら、行為や意識の裏側に「ここでない場所」が張り付いているはずだ。

ここはなぜ「ここ」なのか。「ここ」はここでなくてもよかったのではないか。ここが「ここ」である理由や根拠をあげることもできたかもしれないが、それらが後知恵でないと、どうして言えるだろう。あらかじめ全体の構図や目標があって「ここ」が選ばれたと納得できるのも、全体の地図が見えてからのことではないだろうか。それに、「あそこ」に行く道が一本しかないとしても、ではなぜ「あそこ」なのかということについて、おなじ疑問をもつこともできるだろう。

逆に、ここが「ここ」なのは偶然にすぎないとすれば、全体は閉じられたシステムになる。庭のように、そのどこにいて、どのように歩きまわってもいい。庭は平面ではなく、起伏があり、見る方向によって、風景は変る。世界が一つの庭だったとしても、おなじことが言えるだろう。その外側が内側からは考えられないとしても、庭や世界があるというだけで、それらには境界があり、境界があればその外側があるはずだ。外側に何もないとしても、「定義できない無」という外からの風が侵入して、内側に変化と崩壊や再生をもたらすのだと想像もできる。と言うのも、どんな世界にも、そこにない「もの」が考えられないとしても、「ないこと」、「ありえないこと」が考えられるとすれば、完全ではなく、不完全であれば、不安定であり、外から何かをもちこまなくても、内部の運動や構成要素の組み換えだけで、変化するにはじゅうぶんだと言える。

構成要素を将棋の駒のようにそろえ、それらをうごかす規則を作り、それからゲームがはじまるという順序ではなく、ゲームがあり、動きのルールが抽出されて何種類かの齣のかたちに圧縮され、それが動きにフィードバックされてゲームの「手」が洗練されるというように、手続きから見ていくと、有限数の要素のほとんど無限の組み合わせではなく、定跡をくつがえす別なゲームの可能性が生まれるのかもしれない。

閉じたシステムは循環する。循環は、かならずしも円のようにいつもおなじ軌道をめぐるだけではなく、おなじ場所に帰ってはちがう道に出るような、「ここ」が動かない一点ではなく、「この辺り」というようなひろがりのある不安定な場所で、その揺れ動く場所が別な軌道をひらくかもしれない「自己言及」と考えられるのではないだろうか。「自己言及」はただの反復ではなく、そのたびに変わり、編集され、その場で探りながら進む即興だが、揺らいでいれば思いがけない場所に逸れていくことがある。

「ここ」と「ここでない場所」を分けるなら、ここが「ここ」とするために「ここでない場所」に眼を走らせる動きがあり、それはうなずくような往復運動で、「ここ」が変化し、移動していくのにつれて方向や振れの大きさを変えていく。同時に「ここ」の範囲をたしかめる動きもあれば、それは小刻みな首振り運動になり、ずれていく中心を追って回転するだろう。往復と回転をともないながら、循環が以前通った地点を通過するとき、それは回旋運動になる。軸の傾き、方向、振動を含む揺らぎは、ダーウィンが観察した植物の葉や根の成長、また昼夜の変化、自転しながら公転する地球、庭をめぐる人の視点の変化にも起こるだろう。

おなじパターンが現れるたびにかたちを変えるが、それと認められるのは、音楽でも言えることだ。輪郭のゆがみとも言えるし、連続性と近さから見れば位相空間とも言える。

「ここ」は対象をさぐっている身体であるかもしれない。指が楽器に触れるとき、「ここ」は指の触れている表面にある。「ここ」に留まっていれば感触は消える。「ここ」を感じ続けるためには、指を動かしていなければならないだろう。「ここ」を感じ取る指の運動には、往復とズレがあり、感触範囲はひろがって、触覚空間のようなものが現れる。「ここ」は一点ではなく、さまざまな運動のパターンを作りながら維持しているようだが、運動の中心も一時的な支点にすぎず、どうしようもなく、おたがいに共振する部分はあっても、自然にいくつかの点で枝分かれして崩れていく。

「ここ」は楽器に触れている指先なのか、それとも楽器の響きにまで延長されて、音の変化する触手で空間をさぐっているのか。その響きが返って来て楽器を操る身体を浸し、身体の周りを繭のように包む、その空間が「ここ」なのか。

音楽が続いているあいだ、「ここ」は先端でもあり、境界の向こうの空間の感触でもあり、響きが還ってきてひろがる音の霧かもしれないが、それらすべてが身体の動きを確かめるスクリーンにすぎないとも言える。身体の固有感覚をことさらに意識しないでも、運動感覚を失わないでいなければ、瞬間ごとの発見に対応して方向を変え、動きの質や大きさを調整できないかもしれない。

104 翠素ふたたび──土雲へ還る

藤井貞和

梅雨と、雷雨とが、
相談をする。
ぼくらはたまり水に、
船と、星かげと、
どちらを置いて逃げる。
いいえ、永遠の、
さよならを告げて逃げる。
蓮華をいちまい、
持って逃げる。
まだ寒いときがあるから、
布団にする。
水素くん、さよなら、
空中では、生きられないから、
土雲に還ります。

(MOX燃料が高浜原発に届いたそうです。九月下旬には一時、五〇基すべての原発が稼働を停止する可能性があり(二度めですね)、高い評価を惜しみません。しかし、メンツを通したい側としてはとんでもないことなんでしょう。注文しておいたMOX燃料が届いたら、火をつけたくなるでしょう。ヒヒヒ、『水素よ、――炉心露出の詩』を出します〈大月書店〉。本屋さんが困る、社会評論ではなし、詩論ではなし、哲学・思想、ちょっとちがう。『現代詩手帖』の特集号では、悠治さんの記録をはじめとして、もの凄い論考がならび、「東歌篇――独吟千句」も掲載してあります。四月からは社会復帰しています。お天道さまには負けられないもんね。)

アジアのごはん(55)ベジタリアンへの道

森下ヒバリ

二月の話であるが、インドのバラナシへ行ってきた。バラナシに行ったのは初めてである。聖なるガンジス河で巡礼者たちが沐浴をする姿は有名だが、とてつもない喧騒と死のイメージがあったため、なんとなく敬遠していたのだった。

バラナシに着くと、拍子抜けするほどのどかだった。空港の外には菜の花畑が黄色に揺れていたし、土埃の道も牛やヤギが歩いていた。もちろん、空港が郊外にあったためだが、街中に入ってもやはりけっこうのんびりしている。

一番静かといううわさのアッシガートに宿を取り、夕ご飯にでかける。乾燥しているせいか喉がカラカラだ。川沿いの適当な店に入り、「とりあえず、ビール!」とメニューを広げながら頼むも、「アルコールはないよ」とあっさり断られた。そして「ここは聖地だからね、どこもノーアルコールでベジタリアンだよ」

一緒に行った友人たちの落胆した顔、顔。「ビ、ビール‥ないの(泣)」。「タンドリーチキンないの(泣)」そういえば、前回行ったデリーの西のプシュカルも、着いてから「ここは聖地だから‥」という目にあったな。インド文化圏の二大宗教であるヒンディーもイスラムも基本的に酒は飲まない。普通の町では外国人や他の宗教の人間が飲むことには寛容だが、聖地はどこも厳しいようだ。あとは、抜け道を探すのみ。

「ふ〜ん、どこかこのへんで飲める店ないの?」「旧市街は飲めないんだよ。聖なる河から2キロ圏はだめ。新市街に行けば売ってるとは思うけど」旧市街とはガンジス河に面した迷路のような町である。この町の歴史はかなり古く、ガンジスがこの部分で南から北へ逆行するように蛇行して流れるために、古代から聖地として賑わって来たという。いまはヒンディーの聖地だが、すぐそばにはブッダが初めて説法を行った仏教の聖地サルナートもある。

もう夜だし、ここはぐっとがまんしてベジタリアン料理と水を頼む。じゃがいもとカリフラワーのカレー、グリンピースのカレー、野菜のシシカバブ‥「む、タンドール・チキンはないけど、タンドール・パニールってのあるけど頼んでみる?」「パニールって何?」「パニールはカテージチーズだよ」「それ食べたい」ヒバリは乳製品はアレルギーがあるので、あまり食べてはいけないが、味見ぐらいならいいだろう。出てきたタンドール・パニールは、暗くてよく見えなかったが、どうやらピーマンや玉ねぎ、にんじんなどの上にカテージチーズのお団子が載って、その上にさらに野菜を載せてはさみ、オーブンかタンドール(インド北部の土の窯)で香ばしく焼いたものであった。もちろんスパイスまみれ。

「あ。これうまい。パニールもいいけど野菜がおいしい〜!」スパイスの加減もくどくなくいい感じだ。カテージチーズというのは熟成してないので、すごくおいしい、と思うことはあまりないのだが、なんというかこの料理はカテージチーズと野菜とスパイスのバランスが絶妙である。ほかのカレー料理もなかなかおいしい。「もしかして、バラナシってごはんおいしい所かも!」ビールがなかったことも忘れて、一同すっかり満足した。

ベジタリアンなのになぜチーズ? と思われた方もいるかもしれない。インドのベジタリアン(菜食)の多くは、ラクト・ベジと呼ばれる、乳製品はオッケーのベジタリアンである。彼らにとっては乳は動物のいのちを奪わない、神さまからの贈り物である。もちろん乳製品も食べない厳密な菜食主義もいるし、魚を食べる人もいる。とにかく、肉は食べないのが、ベジタリアンである。

インドにいると、たまにカテージチーズを食べることもあるが、気が付けば何日も肉を食べていないという消極的なベジタリアン食生活になっている。わたしは肉食べません、と積極的に選択しているわけではないのだが、肉を提供する店が少ないので、いつのまにかそうなっている。そうして、ひさしぶりに肉を食べたりすると「なんかケモノ臭い」「胃にもたれる」などと感じてしまうことも多い。

インドでは、ベジタリアン料理といっても、乳製品が使われていることが多いので、乳製品アレルギーのわたくしとしては、逆に神経を使う。日常的な飲み物のチャイ(ミルク煮出し紅茶)やラッシー(ドリンクヨーグルト)も乳だし。乳製品をもともと食べない文化圏のタイとかアジアを旅する分には使わない神経である。しかも、カレー味に疲れて、西洋風の店に(バラナシはわりと多い)行くと、肉を使わない分、仇のようにこってり系のチーズをまぶしてある。西洋人は本当にチーズが好きだなあ。

泊まっているファイファホテルのレストランも、なかなかおいしい。カレーのほかにインド中華のメニューも充実している。インド中華というのは、インドで独自に発達した中華料理で、日本のラーメンや餃子のようないわゆる日本風アレンジの中華料理と成り立ちは似ている。インド中華の特徴はいくつかあり、なぜか野菜炒めなどはすべてあんかけ風になる。ベジタブル・グレービーと書いてあればそれだ。ドライな野菜炒めは、よほどのことがない限り食べられない。焼きそば、ビーフン炒め、グレービーヌードル、ワンタンスープなどが野菜もたくさん入っていて食べやすい。

ファイファのメニューで「きのこのグレービー」というのがあった。頼んでみると、お団子のようなものがあんかけ風で出てきた。そのお団子はどうやらきのこと何かの粉とで作られ、油で揚げてあって、大変コクがある。インドの天ぷらパコラに近いのか。きのこ団子の揚げたののあんかけ、とでも言おうか。すっかり気に入ってしまった。

早朝のガンジス河には次々と人々がやって来ては沐浴し、祈りをささげて行く。ぼんやりと河べりに座って、その様子を眺めていると飽きることがない。子供も若い娘も中年のおばさんも青年もおじさんもお爺さんもおばあさんも河に入り祈る。その向こうでゆっくりと日が昇る。わたしも素焼きの小さな器に入ったろうそくとマリーゴールドの花を載せたお祈りグッズを買って、ろうそくに火をともし河に流してみる。わたしも祈る。世界の平安を祈る。原発がなくなることを祈る。バラナシが大好きだった、亡くなった友人のことを想い祈る。

バラナシは来てみると、喧騒と混沌の街ではなく、まさにホーリー・プレイス(聖なる場所)だった。そして大きな河の恵みか、野菜が大変おいしい。旧市街の人々も、これまで旅してきたインドのいくつかの街に比べると、おだやかで、親切な人が多かった。神々の近くに住んで、毎日あのガンジスを眺めて祈りをささげていれば、心も平穏になるのだろうか。

そういえば三日目にしてやっと見つけたワインショップ(酒屋のこと)で買ったビールが、やけに高かったな‥。ビールを入手した嬉しさに、コルカタやデリーの三倍の値を言われてもまったく気ずかずにお金を払い、宿に帰ってみんなと飲み気持ちよく酔っ払った。酔いが醒めてから考えると、高すぎだろう。聖地なのに、ぼってもいいのかっ。聖なる地で人をだましちゃ輪廻転生できないんじゃないのか。河から2キロ以上離れてるから聖地の効力はないから‥いいのかな。やはり、ホーリー・プレイスといえどもインド‥なのでした。

月を追いながら歩く(3)

植松眞人

 邦子は香のことを『かおる』と平仮名で呼ぶことに決めた。平仮名で呼ぶ、というのも妙なのだが、どうにも目の前にいる女の子には、『香』という字も『薫』という字も当てはまらない、そんな気がしたからだ。
「かおるちゃんは…」と邦子は平仮名で声をかけてみた。「はい」と元気よく香は返事をする。その返事を聞きながら、邦子は自分の名前が嫌いだった子ども時代のことを思い出していた。
 邦子が子どもの頃にはすでに、子で終わる名前の女の子がとても少なくなっていた。小学一年の時に同級生だった友だちの名前は美樹ちゃんと言って、その名前を聞いた途端に、なんて素敵な名前なんだろうと邦子は思った。そして、自分の邦子という名前を眺めながら、なんて古くさい名前なんだろうと思い、なんて堅苦しそうな見た目なんだろうと思ったのだった。それでも、母が邦子の名前の由来を話してくれる瞬間だけはなぜかとてつもなく幸せな気持ちになれたことを覚えている。
 母はまだ幼かった邦子を膝の上に載せながら、よく話してくれた。
「邦子の邦っていう字は、日本のことなのよ。邦子が生まれたとき……その時はまだ邦子って名前は付いてなかったけど、お父さんとお母さんは、この日本の素敵な風景をみんな邦子にあげたいと思ったの。日本中ぜんぶ邦子のものにしたいと思ったの」
 そう言いながら、母は邦子の頭を撫でてくれた。日本中の素敵な風景を全部自分がもらいたいとも思わなかったし、なんとなく母が言っていることが滑稽に思えたのだけれど、それでも、うっとりと話す母の声と、頭を撫でてくれる手の温もりが心地よく、邦子はその光景を今でも絵本の中の一場面のように思い出すことができるのだった。
 いま、香の目の前で、そんな子ども時代の風景を思い浮かべている時に、同じ母の膝の上から見た別の風景を思い出した。
 お正月や法事などの親戚縁者が集まる席で、よく邦子は母の膝の上に載せてもらっていた。普通なら父親の膝の上のような気がするのだが、せっかちで落ち着きのない父は、いつも誰かに酒をついでいたり、聞きたくもない話に耳を傾けたりしていて、そんな場所で邦子にかまってはくれなかった。
 いつも、邦子は母の膝の上で、集まってくるいろんな人たちの顔を眺めていた。そんな中に、ジュンさんと呼ばれている女の人がいた。ジュンさんはいつも親戚縁者の輪の中心から外れたところにいて、背筋をすっと伸ばして綺麗な正座で座っていた。
 母はジュンさんを見つけると、小さく「あ、ジュンさんみっけ」と声に出した。そして、邦子に「ジュンさんは凜としていていいよねえ」と言うのだった。邦子も母の言う通り、綺麗な正座で座っているジュンさんの後ろ姿が好きだった。
「ジュンさんって、誰のどんな血縁だったんだろう」
 邦子が声に出して言うと、香は不思議そうな顔をして「ジュンさん?」と返した。
「ごめんなさい」と邦子が笑うと、香は「なんだかとてもほんわかした顔をしてましたよ」となんの躊躇もなく、まっすぐに言う。
「父の写真を見ていたら、子ども時代のことを思い出していたのよ」
「邦子さんの子ども時代って、なんだかとても可愛かったはずって気がします」
「ありがとう」と言いながら、自分の顔が赤らんでいるのではないかと邦子は気になった。
「可愛いかどうかはわからないけど、引っ込み思案のくせに好奇心旺盛だったわ。うちの親戚はお正月やお盆に、みんなおばあちゃんの家に集まるのが大好きだった。そんな時に、母の膝の上にだっこされながら、いろんな人の顔を見るのが私は好きだったの」
「なんかいいですね。守られて安心しながら、世の中を眺めている感じが可愛い」
「その可愛いって言うの、勘弁して」と邦子が笑いながら言うと、香は小さく舌を出した。
「ごめんなさい。でも、正直な感想なんです」
「正直な感想なら許す」
 二人はしばらく互いを見ながら笑う。
「それでね、その親戚が集まってくる中でも、一番好きな人がいたことを思い出したの」
「好きな人?」
「たぶん、遠縁のおばさんなんだけどね」
「男性かと思いました」
「ううん。女の人。いま思うと、いまの私よりも一回りほど年上だったのかもしれないわ」
「その人が好きだったんですね」
「そう。その人が背筋を凜と伸ばして正座している姿が大好きだったの」
「ワンピースで」
「そう、ワンピースで。どうしてわかったの」
「わかりませんよ。勘です、勘」
「するどいわね」
「こう見えても」
 邦子はテーブルの上に置いてあった空しか写っていないモノクロの写真をもう一度手に取った。
「あ、」邦子が小さく声を上げると、香はそれこそ好奇心いっぱいの視線で、邦子を見つめた。
「ジュンさんは……」
「ジュンさんっていうんですか? その人」
「そう、ジュンさんっていうの。で、いま思い出した」
「………」
「母が言ってたことがあるのよ。『ジュンさんは長野に住んでるのよ』って」
「長野ですか」
 そう言って、今度は香が、邦子の持っていた写真をじっと見つめた。
「そうか。長野に住んでいたんだよね、ジュンさんは」
 そして、邦子は小さく「ジュンさん、みっけ」とつぶやいた。

しもた屋之噺(138)

杉山洋一

半年ぶりに日本に戻ると、やはり前とは随分違う街並みだと感じます。子供の頃から通った渋谷や下北沢の駅でまごついてしまうと、流石に自分の環境適応能力が低いのかと悲しくもなります。家人絡みで「ブエノスアイレスのマリア」を観た帰り道、息子に話の筋は分かったのかと尋ねると、「マリアの話でしょ。その程度は分かった。ところで、あれはペルー語だったの」と答えが返ってきました。彼のミラノのクラスメート、フェルナンドやアレッサンドラ、ヴァレンティーナなんかがいつも話している言葉だと思ったようです。ところで、彼は自らの故郷はイタリアだと思っているそうで、「だって生まれたのはミラノでしょう」、と至極当然という顔で言われたときは、少し驚きました。
思えば、自分が小学校3年生だったころに、自分の故郷について考えたこともなかった筈だから、息子が少し羨ましい気もするし、成るほどこうした積み重ねが、アイデンティティの形成の根底を成すのかもしれません。三軒茶屋の駅から家までの道すがら、一時的に通っている世田谷の小学校で習った言葉の意味を尋ねられました。「あたたかい気持ちを伝える」ってどういう意味。感謝を伝えるということなの。有難うという気持ちなの。
「さあ、どうだろう。それだけではない気もするし、すべて収斂させれば、確かにそんな意味になりそうな気もするが」というと、息子は不思議そうにこちらへ顔を向けました。「お父さんは、日本語上手なの?」。

6月某日 サンマリノ・旅籠「リーノ」にて
サンマリノの常宿に久しぶりに足を踏み入れると、皆がよく帰ってきたね、と集まってきた。オーケストラの練習場に着くと、どうして久しく来なかったのよと皆に声をかけられ、2年ぶりに会う練習場横の可愛らしい喫茶店の妙齢jは、可愛らしい赤ん坊を抱えてこぼれそうな笑顔で挨拶してくれた。笑顔に囲まれるのは、幸せ。
久しぶりにグラズノフのサックス協奏曲をやったが、弾きにくいのはいつでも同じ。変へ長調に臨時記号と経過音を載せて真っ黒になった楽譜を見ながら、いにしえの封建的ロシア社会ヒエラルキーの一端を見る思い。どんなに難しいパッセージを書こうとも、演奏家はとにかく音を並べなければならない。後年の「平易でなければならない」というソビエト文化のスローガンは、してみると逆説的どころか諧謔的にすらひびく。どんな楽譜を書こうとも、平易そうに聞こえなければならない、さもなくば、平易に聴こえさえすればよい。和声は実は平易だが、何重にも重ねられた装飾でほとんど見えないほどのこともあるし、聞こえさせまいと懸命に飾り付けているようでもある。
過度にきらびやかな装飾と、神経質なまで簡潔で欺くことのないかくされた骨組みは、チャイコフスキーでもスクリャービンでもショスタコーヴィチでも同じ。ショスタコーヴィチは、この「平易な姿」をほとんど逆手に取った作風を展開した。プロコフィエフやラフマニノフが西洋風に聞こえるのは、骨組みに西洋風な手を加えているからだが、本質的な傾向は一緒。少し見る角度は違うかもしれないけれど、ストラヴィンスキーだって本質的には同じだろう。ロシア正教会をロシアでみたとき、少し彼らのバックボーンが見えた気がした。天井はあまり高くなく、単純な作りだけれど、ひしめく装飾と、ほのぐらい空間に浮き上がる、数々の神秘的なイコンが、焚かれた香の向こうでゆらめいている。全く反対に、一見何の変哲もない風景に見えながら、まるでだまし絵のように構造が入組んでいるのが、たとえばハイドンかもしれない。
常宿の親父の家に招かれ、オーケストラ練習の始まる5分前まで、彼の息子のピアノを聞いてやってほしいと引き留められた。そうして練習時間ちょうどにリハ会場に入ると、オーケストラ団員がヨーイチが消えたと揃って心配している。二日目の練習は、リハーサルがサッカーのチェコ・イタリア戦と重なり男性陣は気もそぞろ。「みんなイタリア人じゃないでしょう」と悪戯っぽく言うと、誰もが決まって恥ずかしそうに頭をかく。よって休憩を減らし練習も早めに切り上げる。こちらも勢い宿でステーキを頬張り、ウイスキーを呷って、サッカー観劇。

6月某日 自宅にて
市立音楽院の卒業証書が国立音楽院と同じ資格をとれるようになったので、全体職員会議が開かれた。新しく書かれた学校規約を皆で読みながら、各自意見を言い合う。
「レッスン室内での飲食は一切禁止する」。この項はどうですか、と学長が講堂一杯に並んだ教師陣に問うと、歌クラスの教師が手を挙げた。「歌の生徒たちはみな飲物を持参しなければなりませんがどうしますか」と発言して、周りの教師たちの失笑を買う。それに応えて、「それなら、韓国人の歌手にニンニク禁止令を出してくれんとな。教室が臭くてたまらねえもんな」と聞えよがしに話す輩が近くにいて、気分がわるくなる。「ああ、日本人のことじゃないから悪くとらないでよ」とこちらに目配せしてくれて、逆効果。
日本政府は、原発の再稼働と輸出に力をいれているけれども、それに対して自分が何を思っているのか、見失いそうになる。9月の本番のために、サロウィワにまつわるヴィデオを片っ端から見直す。オゴニランド、ベインの女性たちが、毎木曜日の朝6時に、サロウィワの遺体が何時しか埋葬されたと信じている墓の周りに集い、キリスト教の聖歌を歌い、断食して祈りを捧げる姿が、しずかに心を穿つ。
95年にサロウィワが処刑される前から、彼女たちは毎週サロウィワと集い、祈りをささげ、断食を続ける。処刑後、そこに集う女性の数は増え続け、サロウィワの墓は、みなが集まる教会のような姿になった。教会のもっとも自然な姿であると同時に、クリスチャンがクリスチャンに何の罪悪感なく手を下せるとしたら、宗教とは一体なんだろうとも疑問を覚える。尤も、それは不遜で邪まな思考なのだろうけれども。
教会入口に掲げられた旗にはモットーが書かれている。「断食と祈祷」。その下に描かれた二人の天使の足元には、「イエスの名のもとに、神はわれわれと共にあらせられる。アーメン」。
近代化された生活を享受する自分に、誰をも糾弾する資格がないのは、よくわかっている。

6月某日 ミラノ行最終列車内にて
朝、R社に楽譜を取りに行き、そのまま練習会場へ向かう。毎日微分音のリハーサルをしていると、耳が変化してくる。それが良いことかどうかはわからないが、ていねいに音程を合せる大切さを改めて感じる。互いに音を聴きあうことで、音をぶつけ合うことがなくなり、アンサンブルの音そのものが円やかになる。
パリのジェルヴァゾーニのクラスに、妙なピアノが2台鎮座していたのを思い出す。一つは四分音低く調律されたピアノでもう一つは16分音ピアノ。微分音が文字通り鮮明過ぎるほど聴こえてくる。このピアノで毎日微分音の作品を聴いていれば、まるで、平均律ピアノで訓練された耳で歌うソルフェージュのように、微分音が操れるようになるのだろうが、個人的にはそう訓練したいとは全く思わない。思えば子供のころは、今よりずっと絶対音感があった気がするけれど、特にイタリアに住むようになって、どんどん曖昧にしたいと願ってきた。一見不明瞭にすることから、自分の耳で音をさぐる面白味が見えてくるから。
今日はピアノの調律をグリゼイのために変えてもらう。「音の渦」では、このピアノの四分音が、さまざまな部分の音程合せの核となる。四分音は、言ってしまえば西洋音楽の訓練を積んだ管楽器奏者や弦楽器奏者にとっては、無意識に唇や指の当て方で微調整する範囲なので、どの部分でどの音からどう音をつくるか、あらかじめしっかりと理解しておかなければならない。たまたま近くを通りかかったヨガ教室の生徒さんたちが、揃って通し稽古をきいていた。何でも扉の向こう側で、45分間立ち尽くして耳を澄ませていたそうだ。ヨガをやっているだけはあると感心するが、みな一様に言葉もでないほど感激していて、却ってこちらが驚く。
ところで、昼休みソファーで寝ていると、若い男が呼び鈴を鳴らして入ってきた。
「すみません、イントナルモーリを受け取りにきました」、と出し抜けにいとも簡単に言うので、耳を疑ってしまった。「確かにトイレの前に、怪しげなレバーが付いた箱がある。まさかとは思ったが、あれは本物のイントナルモーリだったのかい」。「ああ、これです。有難うございます。ずいぶん大きいですね。一人で持てるかな。ああ、大丈夫です。それでは失礼いたしました」。「イントナルモーリにしては、ラッパがないけど。これでいいのかい」。「たぶん、これでいいと思うんです。ありがとうございます」。
その暫く後に、今度は家主がやってきて、後で誰かがイントナルモーリを取りにくるので宜しく頼む、と言う。
それなら、さっき若い男がきて引取っていったというと、箱の下のブリキの筒も持って行ったか尋ねるので、それは持っていかなかったと答えた。果たして、くだんの若い男が戻ってきたので、
「ラッパを忘れたんだね」。
彼はわらいながら肩をすくませ、ずいぶん大ぶりのブリキのラッパを抱えて出て行った。

さて、さきほどパルマでアルフォンソの演奏会を聴き終わり、がらんどうの最終特急でミラノに戻っている。
往きにパルマのクレープ屋で道をたずねたところ、蜂蜜クレープから蜂蜜が滴り、上着とズボンが偉い目に遭った。ここ数日、北イタリア体感温度は摂氏42℃。酷暑どころではない上に、教えてもらった道順はどれも悉く間違っていたが、今にして思えば互いに暑気にやられていたのかもしれない。何れにせよイタリア人に道を尋ねることなかれ。それから、演奏会前に蜂蜜クレープは頼まぬこと。会場で知り合いに握手を求められ、「すみません、手が蜂蜜だらけでべとついているものですから」というと、怪訝な顔をされる。
アルフォンソは今晩、1曲目にプリペアドピアノを演奏し2曲目に「子供の情景」を弾いた。その折、シューマンを弾く前に取り去るはずだった1曲目の全てのプリペアドを、一つ二つ残してしまっていたらしく、左手で突然妙な音がした。どうするのかと思いきや、繰り返しは器用にオクターブずらしてプリペアドを避けていたのに感心する。エキセントリックな「子供の情景」とショパンの前奏曲だったが、個性のある演奏は別の意味で説得感もあるし、作品の気が付かなかった側面が見えて面白いこともある。あそこまでペダルを外し、独特のアクセントをつけたショパンの前奏曲は、黒死病で踊る死神の姿を彷彿とさせた。自作よりも骸骨の踊る不思議なショパンの前奏曲が、よほど印象に残ったのだから、やはり彼の作戦勝ちだと思う。

6月某日自宅にて
Sで練習が終わり、夜はミラノ工科大学で、ディヴェルティメント・アンサンブルの演奏会におもむく。屋外に舞台が組まれ演奏会が催されたのだが、近所では大音量のロックコンサートが同時進行中で、絶叫する観客の歓声とあいまって、目の前の音響はさしずめノーノの「森は若々しく生命に満ちていて」のようにも、「真昼のように煌々と輝く工場」のようにも聞こえる。かいつまんで言えばアンサンブルが何を弾いているのか、まるで聴こえない状態で、演奏は一時中断。
夕べは練習が終わっても立上る元気がなく、練習も座ったままやり過ごした。何とか家にたどり着き、熱を測ると39度。起きているのか寝ているのか意識も定かでないまま、布団に入り、まだ夜明け前の朝の4時半にひどい寝汗で体が凍えて目が覚めた。すると、上でなにかコトリと音がしたので、耳をそばだてる。暫くするとまたコトリ、と音がする。初めは、耳の錯覚か、隣の家で犬がうろついているのかと思ったが、三度目にコトリとした瞬間、文字通りパンツ一丁で階段を駆け上ると、果たして庭に面したガラス戸を、黒装束の男2人が何やらこじ開けようとしていた。そのまま彼らに駆け寄り面と向かって大声で泥棒だ!と怒鳴ると、男どもは線路伝いに逃げて行った。尤もあと1分も遅ければ、彼らは家に侵入していたに違いない。二人に組伏せられてどうなっていたかも知れないことに気が付き、初めて鳥肌が立つ。

6月某日 マントヴァからの帰宅途中車中
夕べはミラノで「時間の渦」を演奏し、個人的に何通かメールまでもらった。ミラノのスペクトル音楽を書く作曲家などから、ずいぶん興奮したメールをもらったので、自分の楽譜の読み方も悪い所ばかりではなかったのかと少々安心。昼に、友人の結婚披露パーティーのために、アッビアーテグラッソ近郊の農場へでかけ、午後4時過ぎの電車でマントヴァにでかけた。
車中一人でぐっすりと眠りこんだ。ヴェネトとロンバルディアと、エミリア・ロマーニャの交差するマントヴァの街並みは、何時きても美しいとおもうし、人も明るい。今日は一切お目にかかれなかったが、料理も飛びぬけて美味。今日の「時間の渦」は、夜のとばりに立ち上る深紺の怪しげな積乱雲と不釣り合いな月に照らされながら、16世紀に作られた屋外の舞台で演奏したが、遠くに聴こえる鳥の声や、木々をわたる風の音が、グリゼイと絶妙に雑ざるのが新鮮だった。後で送ってもらった写真をみると、立ち上る雲は、人が手を広げたような姿でもあり、息子曰く、吠える龍のようにも見える。幻想的な夜の風景。響きすぎず、かといって乾きすぎず、舞台の音響も思いのほかよく作られていて、先人の文化人たちの趣味の良さに舌を巻いた。確かにそのころ、マントヴァは文化都市として花形の地位を築いていた。
夕べ、ここ暫く練習に通ったスタジオSで、主人のフランコが自慢げに、漆塗りに蒔絵がほどこされた、ずいぶん古そうなお盆を見せてくれて、何でもロンドンの骨董品屋で見つけたという。1800年代のものだとかで、朱はところどころ剥げて、金箔もすっかり黒く変色しているけれど、賑々しく品もある絵柄が魅力的だ。何しろ芽出度い雰囲気なのがいい。ふと押されている印に目を凝らすと、確かに「杉山家」と書いてある。余りに妙な因縁に、思わず愉快な気分になった。

(6月30日 三軒茶屋にて)

ジャワ舞踊とピストル

冨岡三智

大河ドラマ「八重の桜」を見ていて、女性と銃…ということで、今月はジャワ舞踊とピストルについて書こうと唐突に思いつく。実は、ジャワ宮廷の女性舞踊スリンピ(4人で踊る)とブドヨ(9人で踊る)では、武器にピストルを使うのだ。実際に手に持って踊られる機会はほとんどないとはいえ、振付にはその所作がきちんとある。だいたい、古典舞踊にピストルというのも不思議な取り合わせだ。飛び道具を持つなんて卑怯な〜なんて言われたこともある。というわけで、どんな風にジャワ舞踊でピストルを使っているのか、紹介したい。

まずは銃だけれど、ジャワ舞踊で使うのは片手で持てる短筒で、火縄銃や八重が持っている銃のような長筒ではない、念のため。ネットで検索してみたら、オランダ古式銃という名前で写真が見つかった。ジャワでピストルを持っている人に見せてもらったのと同じデザインだ。その人は、オランダに行った時に買ったとかで、アンティークのレプリカだという。このピストルを、衣装のベルト中央に引っ掛けるのだが、現物を持つと、ピストルがずしりと重い。舞踊の中でピストルを手にするシーンは合計10分もないと思うけれど、持つ時の指にもポーズがあるから、細腕には堪えそうだ。現物のピストルを使わない場合は、腰に結んだサンプールという布を代わりに手にするが、基本的に所作は同じである。

では、どんな風に振付に入っているのか。曲によって多少細部は変わるが、振付のおおまかな流れは同じだ。まずは右手でピストルを抜く。それからピストルを左掌で受ける。私の師匠が教えてくれた振りには、金具を外して弾を込める所作まであった。それを合図に曲のテンポが速くなり、ピストルで撃ち合うのだが、このシーンには、離れた所から1対1で撃ち合う(スリンピ、2組が撃ち合う)パターンと、4人または9人全員が円を描き、互いに近づいてその円の中心に向かって撃つ場合(ブドヨ、スリンピ)パターンの2つがある。1対1の場合は、互いに右肩を敵の方に向け、ピストルを持った右手を肩の高さまで上げて、腕を伸ばして打つ。要はピストル射撃の恰好だ。一方で、全員が真ん中を向いて撃つ場合、みんな左肩を円の中心に向けるような恰好で立ち、ピストルはおへその位置で構えて、銃口を円の中心の地面に向けて引き金を引く。いつも思うのだが、こんな隊形で発砲することは実際にあるんだろうか…。

撃ち合ったあと、音楽はゆっくりと静かになり、シルップ(鎮静)と呼ばれる演出になる。負けた設定の人が座った後、ピストルをしまう振りがあって、勝った人が負けた人の周囲を巡る(曲により、さまざまな軌跡を描くように巡る)。そして、次にまた撃ち合いがあって、今度は別の人が座り…と、同じことを繰り返す。ジャワ舞踊では、戦いが善悪の相克のメタファになっているから、戦いは2回あって、どちらか一方が一方的に勝つことはないことを表現しているとされる。とはいえ、このように2回撃ち合いがあるのはスリンピだけで、ブドヨには1回しかない。さらに「ブドヨ・パンクル」だと、全員で発砲してピストルをしまった後にはシルップのシーンがなく、ピストルをしまった踊り手はそのまま移動して最後の終りの定型シーンに入る。なんだかピストル・シーンがクライマックスみたいな位置づけだ…。「スリンピ・アングリルムンドゥン」も、これと同じ進行でピストル・シーンがある。ただし、こちらは弓合戦のシーンとシルップが2回あってその後にピストル・シーン。この作品では、踊り手は実際には弓を持っていないけれど、弓を弾く所作は抽象的に描かれている。

「スリンピ・ロボン」と「スリンピ・グロンドンプリン」という曲では踊り手は実際に弓を持って入場し、2回弓合戦した後にピストル・シーンがあるのは「アングリルムンドゥン」と同じだが、円の中心に発砲するのではなくて、踊り手が最初の位置に戻る(最後の場面)ために移動しながら撃つところが違う。ピストル・シーンは不可欠だからというので、振付に入れ込んだという感がしないでもない。正直なところ、行きがけの駄賃で発砲しているように見えてしまうんだなあ…。

「スリンピ・サンゴパティ」になると、ピストル・シーンはこの2作と同じような感じだが、その前の弓合戦がワイングラスで乾杯するシーンに代わってしまう。シルップは戦いとセットになっているはずだが、ここに至っては、善悪の相克なんてテーマはどこかにいっているよなあ…。

私見だが、宮廷舞踊はピストルの戦いを2回描いて精神的テーマを表現するよりも、美的追求やマニエリスムの方向に流れていったのだろうと思う。ジャワ宮廷舞踊は、一番古い「ブドヨ・クタワン」が1643年作で、当初はブドヨしか作られなかったが、1820年代前半(パクブウォノV世)からスリンピが作られ始める。宮廷舞踊の新作が作られたのはパクブウォノIX世(19世紀後半)までで、「スリンピ・サンゴパティ」はIX世作なのだ。つまり、「サンゴパティ」は現存する宮廷舞踊では最も新しい曲ということになる。

ただし、スリンピで最も古いものとされる「ルディラマドゥ」には、ピストルだけでなく戦いのシーンが何もない。それに、古いブドヨ(「クタワン」や元がブドヨだった「スリンピ・アングリルムンドゥン」など)のメインの戦いは基本的には弓である(手に弓を持たなくても)し、ブドヨでは戦いとシルップのシーンは1回しかない。また、上でも書いたけれど、全員が円を描いてピストルを発砲するシーンはあまり写実的でないので、もしかしたら、元の振付は剣や他の武器を持っての戦いだった可能性もある(そう主張する踊り手もジャワにはいる)。という風に考えていくと、ピストルを宮廷舞踊に取り入れるというアイデアは、スリンピという女性4人で踊るフォーム、ならびに2度の戦いの描写を通じて善悪の相克を表現するという振付構成のコンセプトと不可分に発展してきたのかもしれない。そして、そのコンセプトがブドヨにも取り入れられたのだろう。

ここで、宮廷の男性舞踊に目を転じてみると、実はピストルを使う作品がない。それは、男性舞踊にはだいたいキャラクター設定があるからだ。つまり、マハーバーラタなどといったベースになる物語があるので、その枠で持つ武器が決まってしまうのである。スリンピやブドヨは、下敷きとなる話があっても抽象的な表現になっている(これはスラカルタ宮廷のみだが)ので、新しい武器であるピストルが入ってくる余地がある。逆に、ピストルを使うからこそ、新しいテーマ表現が可能になったのではないか…という気もする。

ジャワ舞踊でピストルといえば有名なのが、インドネシアの振付家、サルドノ・クスモの作品「ゴングの響きの彼方より」である。これは日本でも1996年に国際交流基金で上演された。ちなみに、私の舞踊師匠の旦那がサルドノの舞踊・音楽の師で、この作品に演奏家として出演していた。この作品でははじめ「スリンピ・サンゴパティ」が上演され、乾杯を経て発砲するところで場面が転換して物語の後半へと突入していく。同曲のタイトルがかつて「サンゴパティ」から「サグパティ(死の支度)」に改名されたことがあるという伝承をもとに、サルドノはワインと拳銃に象徴されるオランダ支配と、それに抵抗するジャワの命がけの闘争という主題が表現してみせる。私の周囲では、このサルドノ作品を日本で見たインドネシア事情通は、なぜか「スリンピ・サンゴパティ」だけがピストルのシーンがある特殊な曲で、このサルドノの解釈が宮廷舞踊の解釈なのだと思い込む傾向がある。けれど、私には、改題されたにせよこのスリンピにそんなクラシックな精神的な意味があったとは到底思えないのだ。私にしたら、現存するスリンピ、ブドヨの曲の中で、音楽的にも振付的にも一番技巧的でマニエリスム的な曲がこれ、古典舞踊的定型パターンが一番崩れているのがこの曲だ。私がインタビューした元宮廷の踊り手(1930年代生まれ)は、かつての宮廷では賓客を迎えたときにこの曲が好んで上演されたと言い、舞踊の乾杯のシーンでは賓客も一緒に乾杯したものだと言っていた。サルドノの作品中でも、踊り手に合わせて兵士が乾杯する。だからこそ、サルドノのように新しいテーマ――善対悪ではなくて、オランダ対ジャワというアイデンティティの相克――を表現するのにこの作品を使うことができたのだと思っている。他のクラシックなスリンピでは、ちょっと無理だっただろう。

佐渡 after Dazai

管啓次郎

ほそい雨が降っている。
船は走っている。
するする滑り、泳いでいる。
もはや、河口である。
ゆらりと一揺れ大きく船がよろめいた。
海に出たのである。
寒い。
ゆらゆら動く。
眼をつぶって、じっとしていた。
私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。
いまはまだ、地獄の方角ばかりが、気にかかる。
死ぬほど淋しいところ。
自分を、ばかだと思った。
いくつになっても、同じ事を繰り返してばかりいるのである。
意味がないじゃないか。
船は、かなり動揺しているのである。
全島紅葉して、岸の赤土の崖は、ざぶりざぶりと波に洗われている。
興奮しているのは私だけである。
空は低く鼠色。
雨は、もうやんでいる。
陰鬱な、寒い海だ。
船は平気で進む。
私は、狂人と思われるかも知れない。
銀座を歩きながら、ここは大阪ですかという質問と同じくらいに奇妙であろう。
ぞっとしたのである。
私は、いやなものを見たような気がした。
見ない振りをした。
大きすぎる。
つまらぬ島だ。
空も、海も、もうすっかり暗くなって、雨が少し降っている。
土の踏み心地が、まるっきり違うのである。
雨が降っている。
私は傘もマントも持っていない。
私は、ごはんを四杯食べた。
私は、さむらいのようである。
ひどく眠い。
雨は、ほとんどやんでいる。
道が悪かった。
波の音が聞こえる。
けれども、そんなに淋しくない。
夜半、ふと眼がさめた。
波の音が、どぶんどぶんと聞こえる。
眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。
やりきれないものであった。
山が低い。
樹木は小さく、ひねくれている。
なんの興もない。
道が白っぽく乾いている。
佐渡には何も無い。
けれども来て見ないうちは、気がかりなのだ。
明朝、出帆の船で帰ろうと思った。
がらんとしている。
ここは見物に来るところでない。
やはり、がらんとしていた。
少し水が濁っていた。
ひどく、よそよそしい。
何の感慨も無い。
山へ登った。
ずんずん登った。
寒くなって来た。
いそいで下山した。
また、まちを歩いた。
私は味噌汁と、おしんこだけで、ごはんを食べた。
外は、まだ薄暗かった。
すべて無言で、せっせと私の眼前を歩いて行く。
女中さんは黙って首肯いた。

  (全行、太宰治「佐渡」作中の文のみで構成しました。)

「裸の島」を見て反省する

若松恵子

子どもが熱を出して、仕事を休んだ月曜日。曇り空も憂鬱な午前中に、ケーブルテレビで何気なく見た「裸の島」に感銘を受けた。これまでも、日本映画専門チャンネルの「日本の映画100選」というシリーズによって、題名だけ知っていた古い日本映画を見て、どの作品にも心を動かされて来たのだけれど、「裸の島」については、見ることができた偶然に感謝したいという思いを持った。

「裸の島」は、新藤兼人監督による1960年の作品。上映前に入る、品田雄吉さんの作品解説によって(映画を愛している人による適切、簡潔な、この解説部分のファンだ)、いっさいのセリフを排し、映像だけで描かれた作品であることを知ってから見たので、慌てずにゆっくり味わうことができた。

瀬戸内海に浮かぶ小島に暮らす、乙羽信子、殿山泰司が演じる夫婦と2人の子どもたちが主人公。島には段々畑があって、夫婦は夜明けから日没まで黙々と畑仕事に励む。島には水がなく、大きな島から桶に水を汲んでは小舟で運び、畑に水をかけねばならない。日射しが強く土は水を一瞬にしてすい込んでしまう。1日何度も小舟で水を運ぶ夫婦の姿が映画の中心となる。水の入った天秤棒をかついで段々畑をあがる夫婦の姿が、繰り返し、繰り返し登場する。

見始めてまず心を捉えられたのは、小舟を漕ぐ乙羽信子の動作の美しさだった。映画を紹介する文章に「映像詩」という表現が使われているが、1960年の、のんびりとした瀬戸内の風景と、働く人間の肉体はともに美しく、確かに色々な思いを呼び起こす「詩情」溢れる映像になっていると私も感じた。セリフが無くても、肉体そのものが映画をどんどんひっぱっていく力を持っている。俳優2人は、1週間練習して天秤棒を担げるようになったという事だが、現在の女優にできるだろうか。当時の女優がまだ持っていた生活力(生命力)というようなものについて考える。

子どもたちも、親が必死に水を汲んでいる間に風呂を沸かしたり、夕食をつくったり、労働をする。両親の小舟が帰ってきたのを丘の上から見ていて、はずむように迎えに駆け降りてくる、ランニングと半ズボンの子どもの姿も美しい。子どもが釣った魚を大きな島の料理屋に売りに行って、ささやかな現金収入を得て食堂で食事をする幸福なエピソードが挿入される。そんな時には両親も洗濯したてのよそ行きを着ていて、彼らの明るいうれしさがこちらにも伝わってくる。

生きるために働き、たすけあい、いたわりあう。「裸の島」には、シンプルだけれど、確かな幸福が描かれている。お金をあまり持っていないから(お金で買えるものがほとんどないから)暮らしの全部を、自分たちの手で直接賄わなければならない。医者が間に合わず、急病になった子どもを亡くすというできごとが、映画のクライマックスとして描かれるのだが、子どもの棺を担ぎ、火葬にしてあの世に送り出してやるのも自分たちでやらなければならない姿を見ていると、何と私たちは直接やらない事ばかりになってしまったのだろうという事に改めて思い至る。

生きていくために必要な仕事のほとんどを直接自分で行う、そのことによって鍛えられた肉体、磨かれた人間の美しさが、この映画に描かれ、多くの人に感動を与えたのだと思う。ほとんどの日本人がそのように暮らし、女優もまたそのように育ちながら逞しい肉体を持っていた時代だから、成立した映画だったのだろう。

映画の最後、子どもを亡くした悲しみがまだ癒えない母親は、水桶をぶちまけ、野菜の苗を引き抜き、土に突っ伏して泣く。水を取りに行って留守にしなければ子どもの急変に気づいてやることができたのに、死の危険が迫った子どものそばに居てやれたのにと思う母親の気持ちはよくわかる。ありがとうとも言わず、すぐ水を吸い込んでしまう草々にむなしさを感じる気持ちもあるだろう。

並んで水やりをしていた夫は、そんな妻の姿をみつめ、大事な水をぶちまけてしまった事を責めるでもなく、おおげさに励ますでもなく、静かに見つめたあと、また水やりに戻る。前と同じように、直接水が苗に当たらないように、やさしく、ひとつひとつ、水をやっていくのだ。悲しい気持ちもわかる。でも、悲しさは、野菜にぶつけることではない。夫の姿から、そんな気持ちを想像する。夫のこの反応は私には意外なもので、考えさせられた。

2人のセリフは無いから、2人がどう思っているのかは、私の想像なのだけれど、2人の気持ちにぴったりな言葉などきっと無いのだから、むしろセリフが無いことの方がふさわしいのではないかと思う。ここまできて初めて、この映画にセリフが無いことの正しさがわかったように思う。

それにしても、答えのないことに対して、どんなに言葉を重ねて相手を責めたりしていたのかと、私のあり様について、反省させられたのだった。

製本かい摘みましては (90)

四釜裕子

日本で唯一の演芸専門の月刊誌「東京かわら版」をとっている。日にち別、会場別、噺家さん別、いろいろ探せる。今年の7月で通巻476号、420円とちょっと高いが、複数の寄席の入場料が月に一回は200円割引きになるので結局お得。落語でも映画でもコンサートでも目当ての情報はネットで便利に得られるけれど、自分の頭の外にある面白いものに巡り合うにはこうしてページをめくるのが一番いい。「ぴあ」首都圏版が廃刊になったのは2年前の7月。物ごころついたときにはいわゆる情報誌というものがなくなっている世代の人たちは、このあたりをどう感じるのだろう。誰かに聞いた。どうせ食べるなら町で一番おいしいものを、診てもらうならより上手な歯医者さんを、的な発想は、いまどきかっこ悪いそうである。面白いかどうかわからないものにわざわざ出会いたいと考えるのも、ガツガツしていてかっこ悪いと言われるのかな。

「東京かわら版」を持って鈴本演芸場へ。窓口に出すと桜の中に「か」の文字が入った判子が押されて返ってくるのがなんだかうれしい。全席自由、好みの席あたりに職場の仲間とやってきたようなおじさんグループがこんもりと座っている。端から1席空けて座ろうとすると、「すみません、そこは……」。遅れてくるひとのためにとってあるって。女子みたい。2列前に席を見つけて、冷えたビールをいただきます。中盤、何かがツボに入って、なんでもかんでも笑ってしまう。もはや何も可笑しくはなくて、腹筋か頬筋かの痙攣と涙が止まらなくなるあの状態だ。寄席にいて可笑しくもないのに笑うのはバカだ。腹や顔や涙腺に中抜きされた頭にまともな笑い回路を復活させるためおいなり2個を食う。「ちりとてちん」が始まって、お世辞上手の金さんが酒を呑むあたりまでうたたね。

笑うとなぜだが涙が出る。大笑いすると鼻水も出る。あの日の鈴本も涙と鼻水バージョンだった。冬は風にあたると涙が出る。夏は眩しくて涙が出る。涙にねばりというものがあるのかどうかなのだけれども、ねばりというか根性というか、涙粒になってからの表面張力が弱くなってきた気がしている。近頃涙腺がゆるんじゃって、というようなことではなくて即物的な話だ。きのうはラジオで三遊亭圓歌師匠の「中沢家の人々」と桂米助師匠の「沢村栄治物語」を聞いた。どちらも昭和の日本を生きた実在のひとを描いた新作落語だ。圓歌師匠でなければ米助師匠でなければそれぞれできない演目に違いないが、どんな古典も最初は新作だったことを強く感じさせられる。昭和の気配が懐かしさのようなものになって体に吹き込む。人ひとりずつは一人でも人同士はどの他の動物よりもよく似てるんだよねーと窓の外の雀に言う。笑うところや聞き入るところ、語りの波に頭と体が離れることなくついていく。しまいに一つ、薄い涙がつつーっとたれる。どちらも泣かせどころは特にない。

ギターが消えた(その1)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

しばしば起きるというはなしではない。ギターはわたしたちミュージシャンにとっては生活の糧となる商売道具であるから、無くなるということは痛恨の極みである。自分の命というくらいギターを愛していて、弦に錆はないし、いつもぴかぴかに磨いて完璧なきれいさにしているような弾き手ならなおのことだ。

わたしたちのボックスカーはどの窓もドアもしっかり閉まっていた。さらに先へ移動するところだったから、予定の時間に起きた。パッタルンからプーケットへ行くのだが、相当な距離があり5時間以上はかかる。それで10時に出て、午後3時に着くつもりだった。少々の遅れはかまわない。タラン市のテープガサットリー区でサッカーをやるのに、始球式に出ることになっている。区の職員と街の商店主たちの試合である。

「ギターがないっ」
楽器の管理責任者をやっている運転手ヤーが深刻な表情でわたしに言った。
「ふたつともない。忘れてないか部屋と旅人食堂を見に行ってる」
昨夜演奏した店のことである。

「ほんとうにないんだ」
という声にギターの持ち主が青ざめていくが、やむをえなかった。彼はわたしに次ぐギターのソリストである。しかもそのギターは彼が血のにじむような努力をして手に入れたもので、アメリカ製で3万バーツ以上はする。

つらいはなしで小一時間を費やし、茫然自失はするし疑問も解けなかったが、結局納得できるような答えはでなかった。それで損失はそのままに、とりあえず出発しなければならないので、解決策として彼にはわたしのギターを使ってもらうことにした。予備のギターが一台あったから。パッタルンの友人には消えた2台のギターをさがしてくれるようにと淡い期待を託しておいたのだった。

ウイスキーの楽しみ

大野晋

ついでだったのだが、仙台に行く機会があり、前の月に立ち寄ったニッカウヰスキーの余市蒸留所に引き続き、ニッカの宮城工場、俗にいう宮城峡蒸溜所に行くことができた。

宮城峡は余市と同じように都会の仙台からずっと山寄りに入った山間地にある。しかし、湿地帯の余市と比べると森の中にある。本州の住民にとってはこちらの方が自然の中といった印象を受ける。工場の設備は一見して、手作業の残る余市と比べると自動化されており、こちらの方が大量生産に向いている印象を受けた。実は、原酒の印象も、いかにも癖のある余市に比べると宮城峡はどちらかというと癖の少ない印象を受ける。それがなにに由来するものか? 工程すべてのあり方にあるのかもしれない。どちらかというと、規模としては小さいのだけれど、サントリーの白州蒸溜所とよく似た印象を受ける。実際には、宮城峡の主流の原酒はピート燻蒸を行わないノンピートの大麦なので、その辺が香りの印象を左右しているのだろうが。

さて、いくつかの蒸留所を回り、いくらかの原酒に触れと思うのは、ウイスキーというのは非常に面白い飲み物だということである。まあ、シチュエーションに応じて、自分の好きなウイスキーをあけるので、全く構わないのだが、いくつかの予備知識があるとウイスキーが途端に近くに感じられて面白い。

例えば、ウイスキー独特の苦みともつかない燻蒸香はピートによる乾燥時の燻蒸に由来している。ピートはいろいろと呼び名があるようだが、泥炭という名前で呼ばれることもある。もともとは、過去のミズゴケや葦などの枯れたものが堆積して炭化したもので、日本などでは高層湿原などでよく見られる。ウイスキーの故郷のスコットランドは緯度の高い地域で、日本の北海道以北によく似た気候であるために、高い木が生えないため、この泥炭を燃料に使用したのがもともとの由来だと考えている。もともと多く生産できるものではなく、過去の蓄積を消費していたので、近年では自然破壊などの問題で生産量も限られると昔テレビか何かで見た覚えがある。

この貴重なピートを使用したもの、ピートを使用しないでピートの香りのしないもの、そして強くピートの香りを付けたものの三種類が原酒の仕込みに使われる。ピートの香りのしないものは軽く飲みやすく、ピートの強いものはウイスキー独特の香りがして癖が強いものになる。

次にウイスキーの風味を決定づける条件に樽がある。実はピート以外の香りのほとんどは樽由来の香りと言っても言い過ぎではない。樽には大きさ、素材、新しい樽なのか、それとも昔何かの熟成に使用した樽なのか、で違いがある。現在、最適といわれるのは北米産のホワイトオークの樽らしいが、そのほかにヨーロッパカシや日本のミズナラなども使われる。いちばん、樽の香りの強いのは新樽だが、他の酒の熟成に使用した樽も使われる。シェリー酒がその主なもので、他にバーボンの樽も利用される。ウイスキー以外の酒の樽を使用する場合は、主に香りづけが目的で、シェリー酒の樽を使用した原酒は甘い香りをまとうことになる。中には1種類の樽だけではなく、複数の樽を使用して、複雑な香りづけを目的に熟成される原酒もある。こういった前知識があると、例えば、原酒を飲んだ時に、その酒の樽や由来に思いをはせることができ、とても面白いと思う。

例えば、余市原酒の特徴的なカスク(樽)はピート香のする新樽のもので、新しい樽由来の木の香りを強く感じる。そのうえで、年数を経るに従い、アルコールのうちの揮発性の強いつんとくるものが減り、まろやかなアルコール感だけが残るが、頂点を過ぎるとおいしさは薄れ、酒の感じのしない木の香りの化け物になっていく。まあ、そんな化け物は蒸溜所は売ってくれないのだが。

こんな感じに香りを楽しみながら、自分にあった飲み方にあうウイスキーを選べばいいだろう。なんでもかんでも、年数が古いものが良いわけでもない。ちなみに、私は強いシェリーの香りが苦手である。強いお酒は、それほどの分量を飲まなくても楽しむことができる。夜の余韻を感じながら、強い原酒を水を片手に、ちびりちびりとやるのも楽しい。

新しい楽しみができたなあととくに感じる今日この頃である。

眠る10分前

璃葉

鴉の声がひとつ、ふたつ
カーテンを少し開けて、外を覗いた
宝石のような灯りが点滅している
赤・青・白・黄

眠る10分前
四角く、じめっとした暗い部屋の中で寝転がり
じっと動かず、天井のある一点だけを見つめた
まるで水槽の中の魚のようだ
車が通過するたびに天井を走る細い光は
近づいてきたり、遠ざかったりする
人がつくった光は速く、忙しい

魚は花の夢を見る
想像は、光のなかに消えてゆく

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サッカー事情

さとうまき

僕は、ワールドカップには嫌な思い出があってしばらくはサッカーファンをやめていた。それは、日韓大会のとき。2002年と言えば、パレスチナはイスラエル軍の侵攻が始まり、ジェニンの難民キャンプでは、テロの巣窟だと言って、激しく破壊されていた。私の部下がその時、テルアビブの飛行場でイスラエルに入国を拒否され、拘置所の様な所に入れられたという情報が入ってきた。なのに東京の同僚たちは仕事中なのに、ラジオを持ち込んで大騒ぎしている。「なんなんだ?」という怒りが込み上げてきた。

それでも、イラクの仕事を始めてから、サッカーのすごさを感じた。2007年、アジアカップだ。イラクでは、宗派対立が激化し、内戦状態になっていた。そんな状態でも、スンナ派、シーア派、キリスト教徒、クルド人からなるナショナルチームは優勝した。もう言葉にならない感動だ。一体なん人の血が流れたか。スポーツ選手も誘拐されたり、殺された。優勝は、本当に、イラク人みんなが心の底から喜んだのだ。

その時からだろう。イラク人たちは、自ら戦いをやめ和解の道を模索し始めた。治安はその後、急速によくなっていった。もちろん、それだけではないとは思うが、もしかしたらサッカーはそれだけの力があるのかもしれない。

2014年、ブラジル大会、アジア最終予選まで残ったイラクだった。僕は、ぜひイラクに出てほしいと思い応援してきた。しかし、イラクサッカー協会は、マネージメント能力がない。前回の南アフリカ大会の予選では、サッカー協会が内紛でごたごたしてしまい、FIFAは、イラクの国際大会への出場停止を決めてしまう。今回もジーコがせっかく監督になっていたのに、サッカー協会が給料を支払わないとかで、ジーコはやめてしまった。それよりも何よりも、イラクには、ホームがない。治安を理由に国際試合が国内でできない。それで、今回も、代わりにカタールのドーハがホームの代わりになった。

せっかくなので、バグダッドで仕事していた井下医師と僕は、日本に帰る途中で6月11日の、イラクVS日本戦を応援しに行くことにした。ローカルスタッフのイブラヒムは、サッカーが大好きなので、一緒に連れて行ってあげることにした。彼は張り切って、イラクのユニホームを買ってきてくれた。しかし、問題は、カタールはイラク人にビザを出さないという。これはかわいそうだ。ほとんどのイラク人は応援に行けないというのだ。

イブラヒムの分まで、応援するぞと意気込んで、カタールに到着する。バグダッドからドーハに飛ぶ飛行機は砂嵐のために遅れたが何とかゲームには間に合った。サッカースタジアムに到着すると、日本からの応援団がサムライブルーのユニホームを着て楽しそうだ。イブラヒムがくれたイラクのユニホームを着た僕らは、居心地が悪い。

スタジアムはガラガラでなんと日本のサポーターの方が多いのである。入場の時に子どもたちと選手が手をつないで登場する。子どもたちも全員が日本人。イラクのユニホームは、Awayの緑のものを着用しているのだ。これじゃあ、日本が圧倒的に有利である。結果は、イラクは0-1で敗れた。キャプテンのユーニス・マフムードはこの試合で引退を決めた。ちょっとここの所、イラクは負け続けてしまったので、応援している僕はどうも不機嫌になりがちだったが間近で選手たちを見てまた応援しようという気になる。

日本の選手たちは、すぐにブラジルへ飛んで行った。今度は、あれだけ強かった日本だが、ブラジルでは一勝もできなかった。世界の壁はあつい。スタジアムの外では、連日ワールドカップに反対する人たちのデモ。スタジアムを作る金があるなら福祉対策、貧困対策に仕えというのだ! あのサッカー大国のブラジルがワールドカップに反対するなんて。

そして6月末からトルコで始まった20歳以下のワールドカップ。こちらはイラクの若者たちが快進撃で、予選をトップで通過した。この若者たちは、一体内戦の時代をどう生きて成長したのだろう。僕たちが、戦争中であった子どもたちが、同じ年頃。たとえば19になるムスタファ君は米軍のヘリから発射された弾丸で足を撃たれた。彼の夢は、「サッカー選手になること」。彼に会うといつも、「サッカーができないのが悔しい」と言っていた。戦争がなかったら選手になっていたかもしれない。

そのトルコでは、オリンピックに反対する人たちのデモ。日本はどうだろう。東京オリンピックでみんな幸せになれるのかな? 弱いものにやさしいスポーツたれ。

スーパー・ムーン

仲宗根浩

ついに見ることができました。ポール・マッカートニー&ウィングスの「ロックショウ」。七六年アメリカツアーのライヴをおさめた映画です。五月末に完全版として初DVD。ついでにブルーレイ版も購入してしまいました。中学生の頃に出たライヴ盤「ウイングスUSAライヴ!」の映画です。これを待っていたんです。当時の中学生はLP三枚組を購入した津田くんの家でこのアルバムを聴きました。バンドマンに徹するポール・マッカートニーがすばらしい。ビートルズのメンバーで唯一バンドでロードに出たのはポール・マッカートニーのみです。「レット・イット・ビー」の屋上ライヴからずっとライヴに執着したポール・マッカートニーの姿、シンセやハモンドオルガンでちゃんとバンドメンバーとしてしっかりと演奏するリンダ・マッカートニーもすばらしく、四回も見てしまう。あと何回か見てみないと、使用している楽器やアンプ、機材などの特定は難しい。

しっかし暑い。といっても内地のような猛暑日はないが、夜の十一時前で気温が二十八度とかだったりするとこれはこれでいやになる。最低気温が二十七、八度というのが九月くらいまで続く。夕方から夜の風は暖風もしくはぬるい湿った風。仕事中は例年通りだらだら汗をかく。

去年の梅雨がどうだったかは詳しく思い出せないが、今年の梅雨は一時的に大雨、六月になると太陽がしっかりと熱したアスファルトに少しの雨が降り蒸し焼きになる。蒸し焼きにされたままネクタイ締めて動かなくてはいけない梅雨も十四日に明けた。

夏至が過ぎた日曜日の六月二十三日、慰霊の日は仕事に追われ黙祷もできない。この日は月が一番近づいて大きく見える日というので、外に出たときにちらっとみるスーパームーンは大きいというより鮮やかにみえた。

オトメンと指を差されて(60)

大久保ゆう

かのアルフレッド・ヒッチコックは映画原作に最適なのは短編であると言ったとか言わなかったとか。最近は原作ものというと話題の原作・大作からの映画化といったものが多いのかもしれませんが、古くは白黒の名画の時代にも原作ものというのは割合にあったものでありまして、しかしながらその原作はあまり知名度のない短編であったりしてあまり読まれるものではないようです。

西部劇の名作『真昼の決闘』は、ジョン・H・カニンガムの短編「ブリキの星章」が原作とされているのですが、気になって大元を確かめてみたところ、掲載されたコリアーズ1947年12月6日号は消費時代の雑誌らしく誌面の半分以上が広告で、しかもページが飛び飛びで大変読みにくく、さらに内容は映画とは大きく違うものでした。

 ドーンの顎がほんの少し前へ突き出される。「まだこっちの質問に答えてない。列車は時間通りに着くのか?」
「ああ、4時10分だ。時間通り。」ステイリーは立ちつくしたままドーンを見据え、それからぼそぼそと呟いた。

確かに、縛り首にならずお礼参りに来る悪党に立ち向かう保安官、という構図は共通しているものの、来る時間は真昼ではないし、保安官助手や町長が非協力だけれど、街全体が尻込みする描写があるわけでもありません。名前も残っているのは悪党の連れだけだし、何より主人公の保安官の妻は死んでいて、何やら復讐のニュアンスさえ感じられます。

同じくブリキの星章の薄っぺらさを描いていても、映画においては主人公の孤立と苦悩が最後のシーンに深みを与えている一方で、原作はどうもその方向性も違うようで。ただのパルプフィクション然とした原作より、映画の方がはるかに面白いのです。翻案の妙、でしょうか。

同じような大改作によって名作に化けた例としては、やはりフランク・キャプラが撮った『素晴らしき哉、人生!』が挙げられます。こちらはフィリップ・ヴァン・ドーレン・スターン「いちばんのおくりもの」というSF短編が原作なのですが、これは本当にアイデアだけ借りた、という印象を受けます。

「もううんざりなんだよ!」ジョージは叫ぶ。「一生こんな田舎町から出られず、来る日も来る日も退屈な仕事を続ける。みんなは波瀾万丈の人生で、俺だけ――ああ、俺だけこんな小さな町の銀行員ふぜいで、兵士にもなれない。俺なんか、何の役にも立たなくて、何の意味もなくて、やりたいことも何もできない。いっそ死んだ方がいい。死んだ方がマシだ。時々そう思う。でもそもそも、生まれてこなけりゃ良かったんだ!」
 小男は、真っ暗闇の中で、ジョージを見つめたまま動かない。「今、何て言いました?」と、優しい声で聞く。
「生まれてこなけりゃ良かった、と言ったんだ!」とジョージは強く繰り返す。「嘘じゃない。」
 男は興奮して、赤い頬をふくらませる。「そりゃ名案だ! 一件落着ですよ。面倒なことになるんじゃないかと思ってたんですが、もうそれで答えが出てるじゃないですか。生まれてこなけりゃ良かった。そうですよ! それです! そうしましょう!」

クリスマスの夜、死にたいと思った主人公は小太りの男に出会い、〈生まれなかった〉ことにされる。そしてそのために街に変化が起こり、主人公は後悔し、自分のささやかな幸せを噛みしめることになります。それはすでにこの原作にも現れていますが、そのひとつひとつの設定や、主人公の〈死にたい〉という気持ちには何の説得力もありません。映像作品の力と言いましょうか、映画ではジェームズ・スチュワート演じるジョージの半生が延々と前半部分で描かれ、いかに彼が不遇なお人好しかが観る人に提示されます。善人でありながらけして完璧ではない人物。原作にあるように筋だけを聞いても読んでも何にも感動しないのですが、2時間の映画として観ると心揺さぶられる、こんなにも違うのかと思い知らされます。

キャプラは翻案が上手いのか、他にも原作から見事な映画になった例が、『一日だけの淑女』。原作はデイモン・ラニヤン「マダム・ラ・ギンプ」なのですが、この原作は良くも悪くも凡庸な作品。こちらも筋は同じで、大金持ちの子息と結婚するので会わせようと外国にいる娘が相手と向こうの両親を連れてやってくるのに、当の母親は娘に自分は立派な人物だと伝えていたので大弱り、それを街のごろつきが助けて一芝居を打つ、というものなのですが、原作は横暴な顔役が気まぐれと悪ふざけでやったという風情で。

まあ、確かにごろつきデイヴはバカなことをたくさんやってきたけど、今回ほどバカバカしいのは初めてだ。でもいったんあいつが思いついたら、ほら、何を言ったって無駄なんだよ。だって口を挟んだところで、だいたいその腕から必殺パンチを繰り出されて鼻をしたたかやられるのが落ちなんだから、わざわざ言い合いをしてパンチを食らうまではない、特に相手がごろつきデイヴの場合は。

それだけの話が、ひとりひとり登場人物を掘り下げたり、そのなかで個々の人物が感じる気持ちを丁寧に描くだけで、別物に変わってしまうのです。この映画はキャプラ自身がセルフリメイクをし、さらにそのあと、稀代のアクションスターであるジャッキー・チェンが彼一流のコメディ映画に仕立てます。その『奇蹟/ミラクル』という作品は、ジャッキー本人のお気に入りだということですが、個人的にも彼一番の傑作だと思います。元あった要素から、主人公がどうしてごろつきをやることになったのか、そしてなぜ老婆に恩を返そうとするのか、あいだに挟まれるコミカルなシーンやアクション、こういったものが翻案されるたびに積み重ねられていって、この映画では清々しいまでのラストに決着します。

〈ネタバレ〉が忌避され、娯楽作品では筋こそが大事とされる昨今ではありますが、わかった上で何度観てもその細部や描写、お芝居や音楽、そこから導き出される総合的なものの迫力には、本当に圧倒されてしまいます。わたくし、今回挙げた映画3つとも大好きで、好きを通り越して、それらを作る楽しみを少しでも味わえないかとそれぞれの原作を探して訳してみたりもするわけですが、どうにも映画そのものにはたどり着けず、はるかな彼岸にため息をつくばかりでございます。

掠れ書き30 ぐるぐる、うろうろ

高橋悠治

本を読み、いくつかのコトバを書きとめ、時が経って見なおすと、なぜそこにあるのかがわからなくなっていることがあり、それらを書き抜いたおなじ本をひらいても、どこにあったのか見つからないことがあるのは、本を読むというより、コトバをひろうためにページをめくっていただけだったのか。そこにあったコトバが飛び石になって書かれていないコトバを呼び出した後になると姿を消してしまうなら、それらの意味ではなく、音楽のため、輪郭のまわりに漂っていた糸の束をたぐり、闇のなかから現れる舳先に乗り移ったら、泡のように薄れる感触の記憶のために、立ち止まり、手を動かして印を付けてから離れた仮の足場というだけだったのか。

こうして毎月「水牛」のサイトに書いていると、またおなじことを書くと言われ、自分でもこれはもう書いたと思うこともあるので、以前のファイル、この「掠れ書き」と題したものよりずっと前の1990年代のファイルに眼を走らせてみても、たしかにおなじコトバ、おなじ主題が浮かんでは消えているのがわかるが、この循環がひとつの言語ゲームのシステムになり、それらのコトバを要素とする構造をつくっているかもしれないと思える時もある。ただしその思いは外側からの観察にすぎないし、そんなことを思っていたら何も考えられず、書くこともないだろう。ひとがブログを書くように、私的な事件や感想を、だれが読むのかわからない場所に書き続けるほど不安だともいう自覚はないが、意識して自己検閲する必要も感じていないとも言える。

物語には言語では言えない行間が残ることがあるだろうが、物語を書いた小説を読んでも行間を感じることはほとんどないので、解釈や分析のようなよけいな手間をかけるより、読まないでいるほうがいいと思ってしまう。詩を読むのは歌のテクストをさがす必要からで、とは言っても、こどもの頃からシュールレアリスムの詩人やマヤコフスキー、西脇順三郎や北園克衛を読んでいて、詩を書こうと試みたことが何度もあったが、詩人のようにコトバを対象として、実在のように見ることもできないし、というのも詩人ではないから、これはいいかげんな想像か粗雑な一般化かもしれないが、コトバは泡のようなものという感じがあるのに詩が書けるわけがないと気づいてからは、音楽だけでも手にあまることもわかってきた。まだ残っている詩への関心は、その構造や「哲学的内容」に対してではなく、語り口、トーンのほうだろうか。歌のために詩を読む場合は、コトバのリズムとイメージから音楽が現れてくるのを待っていることがおおいが、意味をもたされたコトバ、表現や表象の意志が見えると、コトバは重く粗くなる気がする。

考えつづけ書きつづけていると、たしかにおなじところに何度ももどってくることがある。それが「いま・ここ」だとすれば、循環システムはおなじ地点を通過してもその都度ちがう道がひらけてくるという気になるし、いつも小さな変化があり、文脈が変わり、構造もいずれ変化するのは、固まったように見える部分も何回も接触を重ねるとすこしずつ崩れ、ちがう構造が見えてくるからだろうから、そう考えれば、構造は残された足跡にすぎず、見えない通過のプロセスは、足音が聞こえるだけだと言いたくもなる。

詩には結晶のような構造が可能だと思っていた時もあった。ロマーン・ヤーコブソーンのボードレールやブレヒトの詩の分析は、それ自体が詩の輝きだったことを思いだすが、それも20世紀という、構造にとりつかれた時代の、二度とありえない闇の光かもしれない。

音楽も結晶のように見えた時もあった、と言うのも、詩への興味は、音楽の作曲の試みと並行していたし、いまもコトバを書くことは、音楽を書くことと切り離せない。そうでない音楽家もいるが、ここではコトバは音を考える時の、触媒や比喩として使っていると言えるだろうか。音楽が場であり、コトバは音が枝分かれする痕跡を見えるようにする霧箱として使っているとも思える時がある。

20世紀はまだ、崩壊する啓蒙主義の時代だったから、合理主義は19世紀的個人の陰画である非日常や夢の領域を合理化し制御しようとして限界まで拡張していったようにも見える。確率論や不確定性も、計量化ができないなら、せめて概念化して管理しようとする後退戦だったかもしれない。システム論は、全体構成、または中枢による制御から、しだいにミクロからの自己組織にすり替えられていったが、構造や構成要素の実体化からはなかなか逃れられないようだ。関係のネットワークという考えかたも、要素への分解と再統合という合理主義の痕跡が感じられる。フラクタルも全体と細部との相似形だし、複雑系もファジーも部分的管理を足がかりにした支配願望があるようだ。

全体があるという無意識の前提なしに、偶発に備え対応する日常を、定義も分析もせずに通りすぎていくのが、生活している時間で、はっと気づくと、いままで何をしていたのかを思いだせず、気づいたはずの意識が気づいたそのことをそのままに置き去りにして循環しつづけているだけでなく、その意識さえさらに意識化して、別な循環の環を生みながら、重なった輪をすこしずつずらしていくうちに、忘れられた時間だけでなく、考えの行く手を追うのに必要な時間をもとうともせず、その瞬間に落ちてきた次の偶発を追って似たようなプロセスがまたはじまるのは、外側から見ると、雨の後で水面に落ちる名残のしずくが、波紋をひろげ、それが消えかかると別なしずくの波紋が、前の波紋を吹き消していく、そんな風景を思い出させる、と言ってもいいだろうか。

1960年頃、クセナキスが日本に来るすこし前、秋山邦晴が Achorripsis を聞かせてくれた、と思うが、そうでなかったかもしれない。このタイトルは迸る音を意味するらしいが、楽器があり、ヒトがいてそれを鳴らすという前提だけで、それ以上何の意図も「音楽的」形式もなしに何が起こるかを追求した結果と言っても、この音楽には意志があるように聞こえていた。偶然降りかかる災いのなかで生き延びていくばかりか、偶然の事件が多くなればなるほど、それらをまとめてある性格を持たせ、確率として理解し、できれば制御し、乗り切ろうとする、亡命者の意志のようなものを聞き取っていたのかもしれない。半世紀以上が経ってから、それを聞き直してみると、バラバラで予測のつかない音の雨も、記憶のなかにあったものよりはかなり穏やかに響いたのはどうしたことか、現実世界の暴力のほうが、予想を越えてエスカレートするばかりなのに、音楽はあの頃の孤立の厳しさよりは、同時代の不連続な点と抽象という共通の徴のなかに、ともすれば収まりそうになっている。

ランダムな音の発生とそれらの制御は、デジタル的に粗い近似によるエレクトロニクスやコンピュータ音楽の画一的な響きをともなって、もはや新鮮でないが、代案がない状態のまま、大量生産され、忘れられていくよりしかたがない。電子音はどんなに複雑な操作で作っても、スピーカの膜の振動という物理的な限界を越えることができないように見える。だれもいないところで鳴っている機械音は、あれ以上なんとかならないのだろうか。と言っても、中央管理方式の大オーケストラの音にもどることもかんたんではない。そこは19世紀ヨーロッパのレパートリーがあふれていて、死者たちとの競争には勝てないばかりか、オーケストラという旧式機械工場はどこも経営難で、国家に買い取られるか、破産しているようだ。

構造からプロセスへ、全体の透明性から、すでに動いている見えない手の指すままに旋回していく、世界や時代とのかかわりかたがあるはずで、でもそれは、離れた場所で人知れず、小さな実験を重ねていくことがせいぜいで、それもいまはできるかもしれないが、いつまで続けられるのか、外部からの介入がなくても、続けていることそれ自体によって空転し、解体してしまうのではないか、という状況ではないだろうか。しかも、外側からの撹乱がなくて、どうして続けられるだろう。全体からでもなく細部からでもなく、分析でも綜合でもなく、ネットワークや安定したシステムや方法でもなく、見ることが見られることで、聞くことが聞かれることであるような、そういう場が、壁の向こう、窓の向こうにあると想像してみよう。もう忘れていた昔あったこと、読んだコトバから、すこしずつ、手がかりを拾い集める、そこから……

製本かい摘みましては(89)

四釜裕子

テーブルにトイレットペーパーを常備している。ちょっとした汚れをふくのにもティッシュペーパーに手が伸びてしまうのを避けたくて、パックマンみたいなトイレットペーパー・フォルダーを買って置いているのだ。パルプ製の真っ白で柔らかなティシュペーパーがスーパーの目玉商品としてタダみたいな値段で山積みされているのを見るにつけ、青少年たちよ、ティッシュペーパーはタダみたいな安い物だと勘違いしないでねとひとりごちる。我が家のティッシュペーパーの消費量はそうとう減り、トイレットペーパーのそれはずいぶん増えた。長年の消費ペースの習慣が抜けなくて、夜、コンビニにトイレットペーパーを買いにいくためにじゃんけんすることが今もある。コンビニで品切れがあったら困る。POS管理というものはこういう事象にどう関わってくるのだろう。

今冬、旅先で時間が空いたので美術館を訪ねると、平櫛田中展の最終日だった。巨大な天心像などが並ぶ天井の高い部屋がすばらしくて見とれていると、閉館時刻のアナウンスが流れてきた。売店に走るが図録は品切れ。聞けばこの日の夕方、つい先ほど最後の1冊が売れたのですと言う。残念です、しかし見事な仕入れですね。次の巡回先にお尋ねくだされば手に入りますと、連絡先を教えてくれた。というようなことを旅日記を書いたら、読んだ方が図録を送ってくださった。お便りには、あの日私が歩いた町を、同じような目的で訪ねておられたとある。あの日でなくてはならない理由は何もなかったのに、偶然が過ぎる。時間もあまりに近かったから会わなかったのが不思議なくらい。会ってはいなくても、すれ違ってはいたかもしれない。小さい「がっかりさん」みたいな奴が、羽根をパタパタさせている。がっかりさん、びっくりさんを連れてくる。

「品切れ」ということを考えていたのだった。横田茂ギャラリーの関連出版会社である東京パブリッシングハウス(TPH)が昨年末創刊した《crystal cage 叢書》は、品切れすることはあっても数カ月後には重版し、絶版としないことを実現するしくみだ。はなから「限定」を名乗る「本」とはまったく違う。年に4回、3タイトル(各170部)を刊行、それ以前に刊行していて品切れになったものは、その時期に合わせて重版するという。叢書第一弾の1冊、港千尋さんの『バスク七色』は間もなく品切れになったそうだが、予定通り、4月の第二弾刊行時に品切れ解消。本の品切れは困るときもあるけれど、約束がされているなら待ち遠しさを募らせることもできるというものだ。ウンチを我慢するのとは違う。

叢書は、詩人で多摩美術大学教授の平出隆さんがプロデュースしている。大学の研究室を出版社として登録し、8台の家庭用のインクジェットプリンターで本文を印刷しているそうだ。顔料インク8色刷り、1冊あたりのべ1000時間。プリンターは通常、時間を短縮するために双方向印刷の設定がなされているが、単方向にすることで鮮やかな印刷を可能としたそうである。ゆっくりと、インクをしみこませるのだろうか。書籍の内容のみならずこうした制作の工夫についても、ウェブサイトやリーフレットで詳しく公開されている。確かに文字も写真も美しい。厚すぎてめくりにくいと感じる本文紙だが、インクののりの良さで選ばれたのだろうか。自宅のプリンターに電源を入れてみる。くひ〜くひ〜。さーさーさー。くひ〜。毎度の悲鳴。必死なのだ。コイツも単方向設定というのはできるのだろうか。静かにゆっくりなんて、動けるのだろうか。

《crystal cage 叢書》の制作は製本の段階で初めて外に出る。仕様は、角背上製・布クロス装・箔押し各冊3色・糸縢り綴じ。これに、グラシン紙の帯と4色オフセット印刷の透明ケースが付く。外注するにあたってコストに見合う最小ロットが500部であることから、1冊170部という数字がはじき出されたのだろう。表紙ボールは1ミリ厚。本文紙に対してちょっと頼りない印象を持つ。この叢書は「場所」を全体のテーマとしている。第二弾の1冊、酒井忠康さんの『積丹半島記』を買う。半島の付け根、余市のお生まれだそうである。刊行記念のトークで、ある人の「因縁を持った土地というのは思いのほか手ごわい野獣だ」という言葉をひかれた。買った帰りの電車の中で片手で開いてすぐに読みたかったので、もったいないけど思い切って頁を開いた。め〜っと開く。ノドの奥まで空気が入って、きゅっという紙のきしみが産声のようだった。もしかして、気持ちいいのかな。

オトメンと指を差されて(59)

大久保ゆう

わたくし自分へのおみやげというものが大変苦手なのです。人様へのものとあれば、美味しいお菓子(みやげもの)も、まずい食べ物(いやげもの)も、たいてい外れなく見極められるのですが、旅の記念品として自分に何を買うか、非常に難しくて悩んでしまいます。所有欲が少ないと言ってしまえばそれまでですが、何も見つからなかった場合は、途上であがなった本でおしまいとなります。

とはいえ、本を所望するにしても特に旅の内容とは関係ないものよりは、何かしら思い出と絡めやすいものの方が後々よいですよね。なので実際はそううまくは行かないのですが、旅のあいだに類するものがないか探すよう努めてはおります。

たとえば何でしょうか、とりあえず近場の海外、ということで出かけたグァムでも、何か現地色あふれる本がないかと気にかけていたのですが、やはりというか、どうにも見あたらなくて。立ち寄れる範囲の書店には寄ったのですが、現地のガイドさんには、グァムの人はそもそも本読む人少ないからね、本屋も少ないよ、とまことしやかに言われた通り土産本探しは難航し、ガイドブック以上のものはなく、あれよあれよという間に旅の日程は終わりに向かい、何も見つからないまま出国手続きを終わらせ、税関を越え、あとは飛行機を待つばかり……というところで、待合エリアにふと現れたる機内読書用の小さなブックストア。ここにはないだろう、と思いつつも入ってみましたら!

   Håfa adai こんにちは!
   わたしの なまえは Isa、
   チャモロごで にじって いうの。
   チャモロは グァムの ことばだよ。

ありました。ご紹介するとその出会えた一冊目の絵本は『MÅNGE’ MANHOBENに会おう』というボードブックで、おそらく英語のしゃべれる子どもに対して、グァムの現地語であるチャモロや、島の伝統や文化を簡単に教えようとするもの。Isa、Mariana、Kinの3人の少女少年を〈MÅNGE’ MANHOBEN(かわいい子どもたち)〉と呼んで、一緒に楽しく学んでいけるよう作られており、わたくしが見たときはこれ1冊きりでしたが、今は続編も出ているとか(あとから知ったのですが作者によれば、チャモロと英語の並んだ絵本はこれが史上初めてのものなのだそうです)。

そしてさらにもう1冊絵本があり、なんとこちらは自費出版の絵本『TasiとMatina』。グァム出身の親娘によるもので、天涯孤独な一匹の魚とその友だちになった少女という現地の民話・伝説に基づいた、ぬり絵タッチのものです。

  「どうかしたの、Tasi?」
  「ぼくにも、せわを やいてくれる
   きょうだいが いたらなあって」
   Matinaは Tasiにさみしいおもいをして
   ほしくなかったので、にっこりわらって、
  「わたしが あなたのおねえさんに
   なってあげる!」

正直なところ、こちらの本文はお世辞にも上手な英語とは言えないのですが、〈旅の記念品〉としては、商業的にもこなれたさきほどの本よりも、こっちの方が愛着みたいなものがございます。慣れない観光などをしていても、海に関する言い伝えや人魚の話などが何度も出てきた、ということもありますし。

しかしながら、こうして出会えてしまえば、帰国後ほかにも自費出版されていないものかと気になるわけで。グァムの出版文化については寡聞にしてよくわからないのですが、同じ出版社の本を探ってみると、『Sirena』という形の整った絵本もありまして。

   グァムのお日さまが水平線から顔をのぞかせると
   Sirenaの小さな部屋にはあたたかい光があふれる
   また今日も泳げるとわくわくして目がさめるけど
   ママに山ほど用事を言いつけられるかなとも思う

グァムの人魚伝説に基づくお話。取り寄せてみると、たいへんデッサンのしっかりした長い黒髪の人魚がイラストタッチで描かれていて、出来のよいものでした。

しかしあらためて考えてみるに、お土産屋さんに日本人観光客向けの謎のおみやげをわざわざ揃えるくらいなら、ちょこっとこういったものの翻訳本を置いてみたりとかすればですね、お子さま連れの親御さんが買ったり、ちょうどお土産に持って帰ったりするんではないのかな、とも考えたりはするんですけど。難しいんでしょうか。そういう異文化体験も悪くないような気もいたします。

しもた屋之噺(137)

杉山洋一

今日は雲一つない爽やかな日で、随分前にお送りする筈だった楽譜を、漸く七重さんに送信したところです。

「…前にお約束した曲名の種明かしですが、邦楽には全くの初心者ですから、多少は古典の勉強をしようと、まず『六段』の勉強から入ったわけです。結果として、今回の作品は『六段』の主題部分、そして『六段』の原形とも言われるグレゴリア聖歌の『credo I, II, III, IV, V, VI』の『visiblium omnium, invisibilium』の歌詞部分のみを素材として用いることになりました。『六段』が当初違う調子であったことや、琉球箏による『六段』などを聴くにつけ、伝統音楽において作品の本質は、調子を変化させても残るゆくことに強く感銘を受けたのです。ですから今回は、音階や調子そのものが楽器を渉ってゆく作り方をしてみました。悠治さんからギリシャ古代音階のテトラコルドについて沢山教えていただき、本当にありがたかったです」。

それから、特にお世話になった悠治さんと仲宗根さんにお礼を認め、この水牛の原稿を書き始めると、上の階から家人の留守を手伝ってくれている母親の高笑いが聞こえてきます。怪訝に思ってそっと覗きにあがると、座布団に寝転び「飼い喰い」を読み耽っているところでした。そんなに大笑いする本ではなかった気がするのですが、なるほど世代によって笑いのツボにも差があるのかもしれません。

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5月某日ミラノ行車中

日がな一日学校で教えてから、目の前の操車場を隔てた反対側にあるKさん宅へ息子を迎えに行き、中央駅へ走る。駅前にある場末の食堂で簡単な夕食をとり、ホームに向かった。ボローニャで特急から急行に乗り換えたところで、息子にアイマスクをさせて膝の上で寝かせると、ペスカーラに着いた23時過ぎまで、彼は昏々と眠った。彼の頭の上でずっと「時間の渦」の楽譜を開いていたとはしらない。

先日、ジェノヴァへ向かう列車が、トルトーナを過ぎたあたりの草原の真ん中で止まってしまった。ちょうど車掌が検札に回ってきたので次第を尋ねると、牽引していた機関車のパンタグラフが焼切れたという。
「パンタグラフの不具合により列車に遅れを来しております。復旧には最低でも60分はかかる見込みです。ご迷惑をおかけいたします」。暫くして車内放送が入ると、乗客からは一斉に失笑がもれた。2個あるうち片方の無事だったパンタグラフを使って、近くの廃駅までノロノロと走り、乗客はそこで降ろされた。一同ちょうど走ってきた対向列車に拾ってもらいトルトーナまで戻って、別路線でジェノヴァへ向かう。新緑の草原に打ち捨てられた廃駅で、乗客たちは思い思いに記念写真を撮る。天気もよくちょっとしたハイキング気分。

車中モーツァルトの488を読む。こんなに耳に親しい作品が、これほど入組んだ構造になっていたことに新鮮な驚きを覚える。モーツァルトの調性感は、そのまま五感に通じる。イ長調なら488の10年も前に書かれた29番の交響曲も、同じような暖かい手触りがする。クラリネット五重奏や協奏曲と同じ柔和な響き。

5月某日自宅

セレーナから、彼女が指揮を習いたいときいて驚く。聞けばスイス国境のドモドッソラでユース・オーケストラをやっていて、パート練習などで、彼女が指揮をしなければならなかったりするらしい。わたしは内気だから指揮などできないので、手で拍子をとっていると、コンチェルトのソロを弾きに来た彼女の父親がその姿をみて、情けないからお前も少しは指揮を勉強したらどうだ、と言われたそうだ。事情は皆それぞれだが、こちらが教えるのに緊張しそうである。何より、彼女が内気な印象など殆どない。

指揮を勉強してみたいと思う人は、先ず某か自分に表現したいものがあるのが普通ではないか。そして始めてみるとすぐに壁にぶつかる。音楽が自分の言うことを全くきいてくれない。頑張るほど空回りするので、余計もどかしい。もう止めようかと諦めかけたころに、漸く目の前の音楽を初めて自分が受容れられるようになる。音楽は自分でも自分の所有物でもないと理解したところから、演奏者と音楽を通じてコミュニケーションが取れるようになるようだ。その為には、自分の裡から音楽を剥ぎ取り、身体のなかを空にしたうえで、目の前で他者が演奏している音楽と自分がどう対峙するか、客観的に捉えることがもとめられる。音楽家が、自分のなかで湧き上がりほとばしる音楽をそのまま他者に伝えることなど、夢物語だとおもう。自分が考える音楽をまず他者と共有する言語に分解した上で、目の前の音楽にはめこむ。同時に音楽が起こす化学反応に対して再度新しい情報を与える。そのくりかえし。

レッスンで使う頻度の特に高い言葉に「重力」と「惰性」がある。「重力」と「惰性」によって指揮するからだが、「重力」を自身の腕で実感させるのは実はとてもむつかしく、最近はメトロノームに合わせて鉛筆を床に落とす仕掛けで説明を試みている。鉛筆を床に向かって投げつけるのでなく、上から落下させてメトロノームと同期させる。この時、指揮者の意識とは鉛筆ではなく、鉛筆を抓む指先だと理解することが大切になる。

……

コンクールを受けるため、数日拙宅に寓居しているY君は、その昔は共産党系として知られた、とある高名なピアニストが今もラフマニノフを弾かないのは、ラフマニノフが国粋主義者だったからだとイタリアのピアノ教師から習ったそうだ。共産党のお墨付きがなければ活動すらままならなかった、戦後イタリアの文化活動の一端を見る思いだ。現在イタリアもそれなりに豊かになり、彼らの興味の対象は外国へ向けられるようになった。

随分前にY君のピアノを初めて聴いた時のこと。一回聴いた後で何を言おうか少し迷って、とにかく10回、遅いテンポでメトロノームをつけて弾いてもらった。彼は当初納得できない顔をしていたが、5回ほど繰り返したころから、目の前の音を受容する表情に変化して、最後に好きなように弾いてもらった時には、嘘のように音楽的になっていた。一番驚いたのはY君自身で、何しろ自分ひとりで全てが変わったのだから。目の前の音を受け容れる、という一見簡単そうでむつかしい作業は、何も指揮に限った話ではないようだ。

5月某日自宅

「時間の渦」の練習は、管、ピアノと弦楽器をわけた分奏から始めた。グリゼイは、楽譜上でフルート、ヴァイオリンなど高音楽器を奥に、チェロとクラリネットなど中低音楽器が手前に来るよう、通常と反対の配置を指定しているが、やはり通常の配置に戻そうかと思う。クラリネットがどうしてもフルートの音を遮断するので、和音の響きが落ち着かない。
練習中、時間をかけて音程合わせをすると、別の音楽かと見紛うほど和音が豊かに響き、演奏が大層楽になった。
いくら各奏者が各々正しい音程を試みたところで、全体の響きが頭に鳴っていなければ、徒労に終わるところだった。元来和音を根底に据えて作られた音楽なのだから、傾向がより顕著なの当然だが、目の前の必要に迫られ本質を忘れがちになる。
微分音が混じると、基準音そのものが次第に曖昧になるため全体が飽和状態に陥るので、一度明確にしておかないと、各々無為に自分の音を主張して和音が雑じり合わない結果に終わるのだろう。砂鉄で砂絵を書こうとしてうまくいかないときに、紙の下に磁石を置くことで自動的に絵が浮き上がるような鮮やかな感覚。各々が耳をそばだてればそばだてるほど、音そのものも円やかに角がとれてゆく。

……

練習が終わって、トリエステ出身のスロベニア系イタリア人のズィナイダと食事をとった時のこと。
「君は自分はイタリア人だと思っているの。それともスロベニア人だと思っているの」。
「もちろん、スロベニア人よ」。
「家のなかでは何語を話すの」。
「家族とは、もちろんスロベニア語よ」。
「じゃあ、スロベニアに生まれたかったの」。
「それは違うわね。イタリアでよかったわ。でもその前はトリエステはずっとオーストリア領だったでしょう。あのまま、オーストリア領だったら、もっと良かったわ」。
「へえ、どうして」。
「イタリアは、各地方それぞれすごく特徴があるけれど、トリエステは特にイタリア文化とは歴史的に全く関係ないの。ずっとオーストリア領だったし。今でも文化はオーストリア文化のままよ」。
「ふうん。じゃあトリエステを分捕ってしまったイタリアが厭じゃないの」。
「お爺ちゃんの世代までは、イタリア人と交際でもしたら大変だったそうだけれど」。
「例えばさ、日本は今でも領土問題をずっと引きずっているんだけれど、トリエステのように微妙な地域を抱えながら、どうしてイタリアでは領土問題に発展しないの」。
「既に文書で条約が取交わされているわ」。
「スロベニアに復帰したいとか、思わないわけ」。
「思わないわね。今のスロベニア人は、過去のスロベニア共産主義時代を恥だとおもっているの。そこに触れられたくないから、スロベニアにも戻りたいなどとは考えないわ」。
「じゃあ、君は自分がイタリアの少数民族だという意識はあるの」。
「もちろんよ」。
「分かるようで分からない不思議な感じだ。生まれ育った日本にはない環境だから、実感できないのだろう。イタリア人との対立意識はないわけだね」。
「それはもちろんないわ。ほら、これを見て」。
そう言って、彼女はイタリア語とスロベニア語が併記された身分証明書を差し出した。

5月某日 市立音楽院教室休憩中

日本でお世話になっていた老婦人が亡くなり、可愛がっていただいた息子がメッセージを書いた。
「おばあさんがなくなって、ぼくもかなしいです。ミラノから、おいのりしています。たとえば、空で元気でいますかとか、くもの上で元気にねていますか、とかです」。

……

息子と路面電車で家に戻る途中、毎朝パンを買うジャンベッリーノ通りのパン屋の斜向かいに、乳児用品老舗「チェルーティ」という屋号があることに気がついた。69年に大ヒットしたガベールのナンバーに、「チェルッティ・ジーノのバラード」があって、当時ガベール自身が住んでいたジャンベッリーノ通り50番地の実在の喫茶店「ジーノ」が舞台になっている。
そこに屯する仲間の一人、場末のジャンベッリーノで働きもせずのらりくらり暮らすジーノが、あの夜スクーターを盗んで運悪く捕まっちまってサ、と歌うのだが、この「チェルッティ」のネーミングが、ジャンベッリーノ39番地にその頃から店を構える、ベビーカーやベビーベッドを売る、愛想もなく苦虫を噛み潰した顔のこの店主から何らかの霊感を受けたのは間違いない。苦虫店主とは毎朝パン屋で会うので、明日にでも経緯について尋ねてみようと思っている。

(5月28日ミラノにて)

雑感 今後の楽しみ

大野晋

実は6月1日は仙台にいる予定だ。別に東北の支援というわけではなく、単純にシンポジウムへの参加とせっかくなので、ニッカウヰスキーの宮城峡へ行ってみたいと思っていて、その旅行が実現したという次第。面白いネタが仕入れられれば、次回あたりに披露したい。

さて、楽しみな話題をひとつ仕入れた。しもた屋の杉山洋一さんがマエストロとして凱旋される。ときは9月2日月曜日。場所はサントリーホールの大きい方。なんと、オーケストラにエレキギター、ジャズバンドまで加えた大所帯の指揮をされるらしい。現在、発表されている演奏曲名は次の通り。

ロルフ・リーバーマン:ジャズバンドと管弦楽のための協奏曲(1954)
野平一郎:エレクトリックギターと管弦楽のための協奏曲<<炎の弦>>(1990/2002)
池辺晋一郎・小出稚子・権代敦彦・猿谷紀郎・新実徳英・西村朗・野平一郎:新作管弦楽(題未定)(2013)<世界初演>

最後の曲名未定の曲(?)、しかも作曲者がずらずらと並ぶ曲がどんなものか? 思いのほかの大作なのか? はたまた、あっさりと期待を裏切る小品なのか? いまから、楽しみにしている。おそらく、現代曲のコンサートなので、客席は空いているだろうから、残暑の東京を夕涼みの楽しみに立ち寄ってみるのもよいだろうと思う。ちなみに、この夏はサントリーホールが8月中は定期点検で閉館なので、9月のこのシリーズがサントリー芸術財団のサマーフェスティバルという位置づけになっている。ダンスだの、リゲティだの、演劇とオーケストラのコラボだのといった興味深い出し物が用意されているらしいので、時間に余裕があれば、シリーズ券がお得だ。

コンサートの宣伝のようになってしまったが、5月のうちから9月のコンサートをとても楽しみにしている。もちろん、すでにチケットは入手済みで、発券だけが遅れている。ふと、発券をさぼるとキャンセルされたのではないか? と心配になる。そうでなくても、エリシュカが都響を振ったコンサートはチケットを発券せずにずっと履歴だけが残ってしまっていた痛い経験がある。以前のぴあの発券システムは期日が過ぎると決済済みでも発券待ちの履歴から消せなかったので、この間のシステム更改までずっと残っていて、私の後悔を念を見るたびに思い出させた。

という話の続きを考えていたら、東京都交響楽団の次期シェフが決定したという情報が舞い込んだ。情報源がジャーナリストなので間違いないと思うが、正式の発表がまだなので気が気ではない。さすがに、噂では感想も書けないが、なかなか、意味深な人事なので正式に決まったら考えるところを残すかもしれない。しかし、情報があっという間に広がる現代。マスコミという存在が必要なのかどうか、考えさせられたのは確かである。もう、きちんとした論考ができないジャーナリストはインターネットに淘汰される運命なのかもしれない。

月を追いながら歩く(2)

植松眞人

 空と大地の境界線を写し込まない写真は、なんだか気持ちを落ち着かせない。モノクロの画像は、写った空や雲が曖昧なせいか、水平が取れているのかどうかもわからない。
 裏書きされている『長野にて 一九八〇』という文字がなければ、それがどこで撮影されたものなのかわからない。いや、書いてあったとしても、それが本当かどうかなんてわからない。
 邦子は何度もその写真を眺めたり裏返したりしながら、小さくため息をついて、カフェの小さなテーブルの上に置いた。テーブルの上に置かれてしまうと、写真の中の空と雲はさっきよりも曖昧になって、写真の印画紙からテーブルの上にずるずると広がっていってしまいそうな気がした。
 ぬるくなったコーヒーを飲みながら、邦子はぼんやりとテーブルの上の写真を見ている。さっきひとしきり話したカフェの女の子は、なぜかそのまま邦子の目の前の席に座っている。
「仕事は?」と何気なく水を向けてみると、
「ちょうど終わったところなんです」と屈託なく笑い、立ち去る気配がない。
 この目の前に座っている女の子を味方にしてしまおうと邦子は決めた。この子は顔立ちがとても綺麗だし、なにより屈託のない笑顔と、写真をじっと見つめる眼差しが気に入っていた。今どきの女の子は、初対面でも友だちのように話すというが、あれは嘘だと邦子は思う。確かに、なれなれしい人も多いが、それは年齢に関係ない。会社を定年退職する間際の上司のなかにも、周りからセクハラだと言われてしまうほどになれなれしく話しかけてひんしゅくを買ってしまう人がいる。彼らは本当に人との距離感が分からない。でも、若い人たちは友だちのように話すふりがうまいだけだ、と邦子は思う。逆に心開いているつもりで付き合うと、こちらが痛い目に会ってしまうのだ。邦子自身も若い世代とのやりとりで、何度かそんな目に会っていた。そして、そんな経験を通して、邦子なりの若い世代とのやり取りのコツのようなものも知らず知らず身につけていた。
 邦子はあえてあまり興味がなさそうに、名前を聞いてみる。すると、女の子も、構えることもなく「かおるです」と答える。
「本当は薫という字で、もう一つ子をつけて『薫子』という名前がよかったんですけどね」
 そう言いながら、香は『香』という字と『薫子』という字を店の紙ナプキンの端にボールペンで書いた。よほど『薫子』という名前に憧れているのか、画数の多いこの字をすらすらと書いた。
「私は薫子でもいいんだけどね」
 邦子が笑いながらそういうと、香ははじけるように笑う。
「そんなこと言われたの初めてです」
「そうなの?」
「同い年の女の子には、ふざけて私のこと『かおるこちゃん』なんて呼ぶ子はいるけど、ほとんどの人たちには叱られますから」
「叱られるって、どういうこと」
「せっかく親が付けてくれた名前なんだから大事にしないといけないとか、薫子より香のほうがお似合いだよとか」
 そう言われて、今度は邦子が笑ってしまう。
「そうか。なかなか大変なんだ」
 みんなに自分が憧れている名前の話をしている香という女の子も大変だし、その話を聞かされている周りの人たちも大変だという気がして笑ってしまったのだった。その意味が伝わったのかどうかわからないが、目の前の香も笑っている。
「でも、香でいいです。なんだか薫子に憧れている香が、ちょうど私っぽい気がするし」
 そんなことを言う香という女の子が、とても愛おしい気がして、邦子はこの写真のことをもう少し二人で話してみたいという気持ちになっていた。

犬狼詩集

管啓次郎

 118

私の村の小学校では山羊を飼っていた
白いあごひげと二本の角のある立派な山羊でした
杭で草地につなぎ一日をすごしてもらう
山羊は動ける範囲で草を食べ続けるので
草には円形に刈り込まれたような痕ができる
五年生になると教室は二階に移り
そのいくつもの円がはっきりと見えるようになった
「同心円」という言葉を初めて教わったのはそのころ
山羊が歩くたび同心円が描かれる、食べ続ける限り同心円はひろがり
こころ、こころ、と鳴り続けます
毎日適当に紐の長さを変えるので
山羊の仕事には濃淡が生じてきれい
ぐるぐる回るうちに円は螺旋になる
山羊は少しずつ地面から浮いている
夏休みを迎えるころには
山羊は、ほら、私たちの目の高さにいる

  119

見ることは事物を小刻みにふるわせて
卵が煮えるようにそれを固めてしまう
そのとき事物は自由を失い
世界は貨幣の裏側のように生気がなくなる
目をそらしてごらん、そらせ、そらせ
きみが見つめるだけそれだけ思い込みが刻印される
きみが知るだけの活字が総動員されて
すべてをアルファベットに置き換えてしまう
それでもう精霊が見えない
陽炎が見えない
星雲が見えない
つばめの飛跡が見えない
目をそらすという動きの中に
逃れ去る光のかすかな美が生じる
見つめてはいけない、目をそらしてごらん
それがphenomenophiliaの合言葉

  120

詩という名で体験されるものを言語の外に求めるとき
さまざまな動く気配が見えることがある
それは動物とも植物ともいいがたいがたしかに生きていて
自力の発光現象と反射光の散乱をうまく組み合わせている
そして物陰から不意打ちする
思いがけないところに隠れているんだ
高らかな音楽、口ごもるためいき
塗られた画布、こねあげたパン種
美しい自転車の暴走、凍った飛行機雲
烏賊の体表の斑点、タテガミオオカミのなだらかな首
強い風にゆれる大樹、強い風に踊る草
古い木造の長い橋、壊れた二眼レフのカメラ
SF映画の予告編、地下鉄駅の公共広告
だが一瞬見出されたそれらは音を立てて
洪水のように言語にむかって流入を始める
光が声になりざわめきが世界を限定してしまう

アジアのごはん(54)豆乳生活その2

森下ヒバリ

なんか…太った。
いや、ぽっちゃりしたというべきか。その理由は分かっている。毎日、豆乳ヨーグルトをあれこれ試作しては、食べまくっていたせいだ。おまけにガスがたくさん出る。これって、一応女子としてどうよ…というぐらい出る。腸内が乳酸菌で活性化して、大掃除でも始まっているのか。

そうだ、フラクトオリゴ糖が減ってきたから、今度はネットで注文しよう、といろいろ探していると、フラクトオリゴ糖をたくさん食べると、ガスが激しく出て始末に困る…というクチコミを見つけた。あ〜、このガス大発生は、オリゴ糖の食べすぎだったのか。

豆乳ヨーグルトを作るとき、オリゴ糖を豆乳に仕込むと、乳酸菌の発酵がうまくいく。さらにオリゴ糖は腸内でビフィズス菌のエサになってビフィズス菌が大繁殖してくれるのだから、入れないわけにはいかない。オリゴ糖は多糖類の一種で、人間の腸では吸収されないが腸内善玉菌のエサになって腸内環境がよくなるのである。食物繊維のような働きをして、お通じもよくなる。

甘みが薄いのでついたっぷり加えてしまっていたのがよくなかった。豆乳500mlに7グラムくらいが適量らしい。2か月は持つはずの液体オリゴ糖が日に日に減っていき、ひと月も持ちそうになかったので、適量の2〜3倍投入していたことになる。

そういえば、オリゴ糖を入れようとして、うっかりいつもの何倍も器に入ってしまったことがあった。そのままヨーグルトにして食べたのだが、お腹がユルユルになった。ほんわかした甘さが好きだったのだが、適量入れるようにしたら、ガスは出なくなった。さらに、フラクトオリゴ糖よりも、ビートオリゴ糖のほうが体にはいいようだ。ビートオリゴは北海道産の砂糖大根(てんさい)から作られる。人間が甘みを楽しむのはあきらめて、ビフィズス菌のためにちょっぴり加えるぐらいにしておこう。

豆乳ヨーグルトは、いろいろなやり方で試作した結果、米乳酸菌液で作るのがいちばんおいしく、身体に合うことがわかったので、食べる量も一日200mlぐらいになっている。なので、だんだん体型も元に戻りつつある(はず)。朝ごはんを豆乳ヨーグルトや、豆乳と野菜ジュースにするダイエット法もあるというのに、何で太ったのか。これまで朝ごはんは紅茶のみだったのに、豆乳ヨーグルトを朝にも食べ、おやつにも食べ、晩にも食べていたら、まあ太るわね。ふつうに朝ごはんを食べている人が、朝を豆乳ヨーグルトだけにしたら、そりゃダイエットになるでしょう。

豆乳ヨーグルトは、豆乳300mlをちょっと温めてから、米乳酸液を30ml、オリゴ糖を少し加えて混ぜ、一晩おいておく。翌朝には固まっているが、とろ〜んとやさしい味である。もっと酸味がほしいと思い、前の日の昼ごろから早めに作って、常温で長めに置いておいたり、もう一日冷蔵庫で熟成させてから食べるようにしてみた。すると、コクも酸味も出てさらにおいしくいただけるようになった。ちなみに、乳酸菌液を入れすぎると、モロモロになって固まらないので適量を。

豆乳ヨーグルトには、豆腐作りに向いている濃いタイプの豆乳よりも、あっさりした飲料用のタイプが適している。添加物のない、産地のはっきりした大豆を使った無調整豆乳を使おう。いま使っているのは、九州のふくれんの無調整豆乳だ。九州産の大豆で、無添加。濃い豆乳のほうがおいしいかと思って、生活クラブの豆乳で作ってみると、ほとんど豆腐になってしまった。しかも豆臭い。豆腐がないときには、けっこう使えるかもしれないが…。

ふ〜む、この固い豆乳ヨーグルト(豆腐もどき)、乳清を切って水気をなくしたら、カテージチーズみたいなものが作れるんじゃないか。冷蔵庫に放置しておくと、だんだん透明な水分(乳清)が出てくるので、一週間ほど置いておいた。塩を少し入れておくと水もよく出る。水を切ってブレンダーでかき回すと、クリームチーズの出来上がり…あれ、マヨネーズ状になってしまったぞ。

水切りがぜんぜん足りなかったな〜、ぺろりと舐めてみると、んん、これは! 冷蔵庫を開けてマスタードを取り出し、塩麹も少し足して…胡椒は食べるときでいいな、もう一度ブレンダーでひと混ぜ。豆乳マヨネーズの出来上がり〜。ハンドブレンダーを買ってからはマヨネーズを手作りしているのだが、乳化させるために加える油の量がハンパじゃない。マヨネーズとは、ほとんど油なのである。しかし、これなら油分ゼロ。豆乳ヨーグルトを一週間も置いておかなくても、よく水を切ってレモン汁など加えればおいしくできるだろう。

さっそく瑞々しいレタスでサラダを作り、とろりとかけてみる。何にも言わずに同居人に出してみると、「おいしいね、このマヨネーズ。さっぱりしてる」「ふふふ。これ、豆乳ヨーグルトから作って、油も酢もいれてないねんで」「へええ。こっちの方が好きやわ」豆乳クリームチーズを作るはずが、なぜか豆乳マヨネーズになってしまったが、とりあえず大成功。

前回も書いたが、豆乳ヨーグルトの種となる、米乳酸菌液の作り方はいたって簡単だ。お米三合あたり500〜600mlぐらいの水で研ぎ、その濃いとぎ汁に白砂糖15グラム(大匙1)を加えてペットボトルに口ギリギリまで入れ、室温で置いておく。一日一回か二回ふって混ぜるだけで1週間もすればお米に付いていた乳酸菌が増殖して出来上がり。培養中に酵母が入ると炭酸発酵してブクブクになるので、ふたはゆるめておく。

リトマス試験紙でチェックすると、さっと赤くなる酸度になればいい。飲んでみて少し酸味がある程度。ヨーグルトの乳清の味である。出来上がったら、底に沈んだ白いものは酪酸が多いカスなので、上澄みをそーっと瓶などに移し替える。冷蔵庫に入れれば、酵母などが増えて炭酸発酵することもない。

この出来上がった米乳酸菌液は、豆乳ヨーグルトに使うほか、そのまま少しずつ飲むのもおすすめ。冷やして少し甘みを加えるとおいしい。さらに、薄めて化粧水にする人もいるし、部屋やトイレにスプレーして消臭、空気浄化にも使える。うがいや歯磨きにも。乳酸菌は豆乳が大好きなようで、豆乳ヨーグルトにすると乳酸菌培養液よりも十倍以上に増える。これで、ヒバリの腸内はピカピカ、免疫力増大! …になってくれるかな〜。

米乳酸菌液を作るのは自信ない、という人は、好きな市販のヨーグルト(殺菌してないもの)を豆乳500ml あたり大匙2杯ぐらい加えてよく混ぜ、あればビートオリゴ糖を少し加えて、豆乳ヨーグルトを作ってみてください。乳酸菌は、一種類よりもいろいろあったほうが体にはいいけど、食べないよりずっといいからね。じゃあ、別に市販の牛乳ヨーグルトでいいじゃん、と思うなかれ。牛乳は日本人に合いません。乳脂肪はいろんな成人病の原因となる。豆乳(大豆)は逆に成人病を防いでくれるし、乳がんや子宮がんなどの女性のがんを予防してくれます。さらに免疫力を強めてくれるとなれば、日本中に放射能がまき散らされ続けている今こそ、豆乳ヨーグルトを食べなくっちゃ。

それに、乳酸菌を培養していると、乳酸菌が何だかカワイク思えてくる。最近のうちのペット、米由来の乳酸菌ちゃんです。食べるけど。

103翠蓮──文明へ一声かける

藤井貞和

蛆たかれ とろろく女体
  かき抱きかき抱きつつ
  汝が命愛(=を)し    (岡野弘彦)
眠る蓮(=はちす)、古墳の甲冑、「蛆たかれ」、夜の明けのほどろ
能狂言の身ぶりに戻り、
近隣の助け合いと、
物々交換とから
再出発に向かいたい。
文明の難民として、
……
文明そのものに、
一声かける方向に転じたい。    (鶴見俊輔)
眠る蓮のひと、愛する女の、「蛆たかれ」、雷雨が一つ火に浮く闇
梅雨あけや
雷雨のあとの
たまり水 星のうつりて
夏近づきぬ     (成瀬有)
一睡の夢から、ちびきの岩かげに狂言師一人覚めて

(ハゲタカ号が四月十七日に、シェルブール港を出て、喜望峰から、オーストラリアの南端を通って、今月中旬に到着するのですって〈六月の悪夢〉。写真に見ると、輸送容器が三つ、見えるのだって。燃料は20体だから、一つで十分なのに、襲われたときの用心にダミーを乗せてあるらしい、と。機関銃を装備し、武装兵に守られて、相互に護衛しながら二隻でやってくる、げな。900キログラムのプルトニウムを含む、MOX燃料の向かうさきは高浜原発。あまりにものものしく武装してやってくるとなると、ロケット弾を一発、撃ちこんでやりたくなる。「関西電力は福島原発事故を他人事のように考えている」らしいと、伴英幸さん〈ビッグイシュー215号から〉。茂山千作さん〈千五郎さん〉、五月二十三日死去。)

放浪も破綻もせずに

若松恵子

第85回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した「Searching For Sugar Man」(邦題シュガーマン 奇跡に愛された男)を新宿で見た。高橋茅香子さんの「映画パンフレット評」を読んで、ぜひ見たいと思ったからだ。パンフレットに関しての評価は厳しかったけれど、高橋さんが「私はきっと、もう一度映画を観にいく。」と書いているのを読んで、その日のうちに出かけたのだった。見て良かった。現実の物語というのは、良いものだ。

1960年代の終わり、デトロイトの場末のバーでひとり歌っていたシクスト・ティアス・ロドリゲスは、大物プロデューサーに見いだされる。大きな期待を持ってリリースされたデビューアルバム『Cold Fact』は、商業的には大失敗に終わる。2枚のアルバムを残し、ロドリゲスは音楽業界から姿を消すが、アメリカ人のガールフレンドが持ち込んだことをきっかけに、彼のアルバムは南アフリカで大ヒットする。鎖国状態のようだった南アフリカで、自由を求める若い世代に支持され、本人も知らないうちに、ローリング・ストーンズに並ぶほど有名なアーティストになっていたのだった。反体制的なロドリゲスの歌は放送禁止になったりするが、アパルトヘイトへの抵抗運動に取り組む人々の心の支えとして聴かれ、運動の盛り上がりとともに広がっていった。しかし、アメリカで無名のまま消えてしまったロドリゲスについての情報はほとんどなく、南アフリカでは「失意のうちにステージで自殺した」との都市伝説だけが残されていたのだった。90年代になって、ロドリゲスの歌を聴きながら成長した2人の熱心なファンが彼をついに探し出し、南アフリカに招いて凱旋公演を行う、というのがこのドキュメンタリーのあらすじだ。

見る前にこのあらすじを知っていても、面白味が半減するという事はないと思ったので、書いてしまったのだが、それはなぜだろうか。やはり、この映画がドキュメンタリーで、現実の人々の現実の物語だという事が大きいと思う。

この映画のハイライトは、ついに、ロドリゲスその人が画面に登場する瞬間だ。ロドリゲスの佇まいが、彼の人生のあり方をまるごと伝えているように思えて、胸を打つ。どんな名優の演技にも代えられない、実在の人物が醸し出す魅力がフイルムに焼き付けられている。ロドリゲスだけでなく、彼と初めて電話で話した時の喜びを語るファンの子どものような手放しの笑顔や、凱旋コンサートに詰めかけた大勢の人たちの全身に満ちている喜び、父親としてのロドリゲスがどんなだったかを語る娘たちの表情それぞれも、ひとつひとつ魅力的だ。それを眺めているだけで楽しい。あらすじがわかっていても魅力が半減しないのは、この理由からだと思う。

伝説の人物を見つけ出す物語なのだけれど、見つかったところでおしまいという感じにはならない。映画パンフレットに「はじまりの物語」と書かれているが、同じような印象を私も持った。「あの人は今!」というテレビ番組では、輝きを失い、変わり果てたスターの姿を見ることも多いが、ロドリゲスはそんな事にはならない。

映画では、音楽業界を去ったあとの彼の人生が紹介されるが、ステージの上に居なくても(誰も見ていなくても)、彼は独立独歩に、彼のやり方で彼の人生を豊かにしてきたのだということが分かってとてもうれしかった。人知れず、彼が彼の場所で輝き続けていたということが、彼が見つかったこと以上に「奇跡」と思えた。独自の歌を歌う人は、社会にあわなくて、ドロップアウトしてやがて人生を破綻させてしまうというイメージを勝手に描いていた。ロドリゲスの歌のイメージからは、「失意のうちにステージで頭をピストルで撃ち抜いて自殺した」という方が合っているのかもしれないけれど、実際の彼は地に足をつけて生きてきたのだった。放浪もせず、破綻もせず、でも自由に生きてきたのだった。彼のその姿にファンは希望を見いだし、改めて彼のファンになり、新たな物語がまたはじまっていくということなのだろう。

この映画の影響もあり、ロドリゲスはまた人々の前で歌うようになり、この夏には大きなフェスヘの出演も決まっているという。高橋茅香子さんが紹介してくれているコンサート・レビュウによると「ギターを抱えてステージに現れた70歳のロドリゲスは、いつものように革のパンツにブーツ、黒いシャツと上着、黒い帽子にサングラスで、温かいユーモアをちりばめたトークでも満場を魅了した。」ということだ。歌う事を楽しんでほしいと、切に願う。

唐ぬ世から

仲宗根浩

四月終わりから五月初めの連休はシフトで見事に仕事が入る。まじめに働く。

そんな中、六年ぶりに会う昔の職場の同僚と八時間耐久飲酒。
途中、私の大好きだったベーシスト、国仲勝男の知り合いの方がやっているスナックに寄る。昔、ある音楽雑誌でライターもどきをやっていた頃、近所の店にライヴで来た時に色々話を聴こうと思っていたら、演奏終了後、そんなのいいからいっしょに飲もうと強制的に誘われ、取材などさせてもらえず、ライヴに来ていた昔馴染みのスナックのおねぇさんがたといっしょに飲み、帰りしな、お店の名刺をもらって別れた。そのあと、名刺はどこかにいってしまったが、図書館に行く途中、中の町の飲み屋街を歩いていると、かすかな記憶にある名刺と同じ名前の店の看板があったのでずーっと気になっていた。あれから十数年経ったであろう、ある日、夜の中の町の飲み屋街を歩いていると急にあのおねぇさんたちの店を確認してみようと酒の勢いもあり、階段をあがり店の入口でその時の話をすると覚えていてくれた。その時はカラオケで盛り上がっているお客さんもいたのでまた来ることをお約束し、やっとお店にお邪魔し、ゆっくりと当時のことを聴くことができた。国仲勝男のLPを買った高校生は熊本で沖縄の音楽の状況とか全然知らない。おねぇさんたちも音楽よりもその頃溜まっていたディスコでいっしょに飲んでいたことを話してくれた。国仲勝男の映像は「山下洋輔トリオ復活祭」のDVDで見ることができる。でもベースは弾いていない。

長時間飲酒の翌日、起きてもつかいものにならず惰眠。連休が終わると沖縄は梅雨に入るが、今年はゆっくりだなぁと思っていいると、五月十四日に梅雨入り。

最近、楽器を触っていないので近所の楽器屋さんにギターの弦を買いに行くと、CDやDVDの取り扱いをやめるとかの告知が出ている。その数日後、以前働いていたCD屋の沖縄の店舗が閉店する記事を新聞で見る。今はしょうがないか、とおもう。音楽ソフト、DVDは全部ネットで購入している。近所の楽器屋さんのCDコーナーを見るとレアなジャケットのものが売れずに残っているのを発見したが中身は同じなのにジャケ違いで購入するとまたあれがあれこれいうのがわかるので購入を諦めた。時代は変わる。

近所を歩いていると「屈辱の日」の集会のちらしが電柱にまだ貼られている。どの政党もどの団体も貼りっぱなし、あとはほったらかし。
「唐ぬ世から大和の世 大和の世からアメリカ世 アメリカ世からまた大和の世 ひるまさ変わたるくぬ沖縄」と嘉手苅林昌、佐渡山豊も歌ったこの一節が「沖縄を返せ」よりしたたかだとおもう。

梅雨の中休みは見事な入道雲
本格的に夏が始まり、東京にいた頃の若造は沖縄で五十になった

青暗い夕暮れ

璃葉

夕暮れの野原は青く、空は灰を被り、風は遠いところでじっと立ち止まっている
木の幹も揺れる葉も口を噤んだ
灯りは草花を染めることが出来ずに、木机の上で内緒話をしている
耳はわたしの心臓の音だけ掬いとった

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「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(2)

冨岡三智

先月は、この小説の翻訳について書いたが、今回は小説の世界について感想を書いてみたい。

書評については、次のものが参考になる。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2013/02/post_284.html

あらすじ:
この小説は、オランダ植民地時代末期から日本占領期、独立戦争を経て1965年9月30日事件(スカルノ体制崩壊につながる共産党虐殺事件)に至るまでのインドネシアのジャワ社会において、プリヤイ階級に属するサストロダルソノ家三代の物語を、家族それぞれの視点からつづった物語である。初版は1992年刊行で、原題は『Para Priyai -sebuah novel(プリヤイたち、一つの小説)』。ガジャマダ大学文学部教授のウマル・カヤム(1932〜2002)が、ギアツなど欧米諸国のインドネシア研究者によって語り継がれてきたプリヤイ解釈に失望して執筆したという。プリヤイ階級というのは、植民地時代にオランダ式教育を受けてホワイトカラ―職(役人、教員、軍人階級など)に就いた社会階層のことで、庶民とは異なる独自のライフスタイル、立居振舞、宗教的スタンスなどを持っていた。ほぼ世襲だったが、中には稀に庶民からプリヤイの世界に這い上がることに成功した者もある。ここに描かれる一族の始祖サストロダルソノも、教育を受ける機会に恵まれて農民の子から小学校教員となり、プリヤイ階級の末端に連なった。つまり、この小説はプリヤイになり、プリヤイであろうとする家族の物語なのだ。

  ●プリヤイと王

この小説を読んで最初に感じたのが、地方在住のプリヤイにとって王宮は遠い存在なのだなということ。私は、中部ジャワのスラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮で舞踊やガムラン音楽を勉強していたから、称号や装束や振る舞いなどによって王宮における階級差や序列がいかに表現されているか(また、いたか)、かなりイメージできる。その環境にいると、自然と王が絶対であるかのように思えてしまう。

だが、東ジャワの町、ワナガラ(架空の町)を舞台とする登場人物にとって、たとえばハルドヨ(サストロダルソノの二男)が言うように、マンクヌガランの「王様閣下」は、「昔のマタラム王国のほんの一部に過ぎないソロ地方の半分を治めるだけの小さな王国の王(p.235)」である。「たとえその権力がどんなに小さくても、私にとってはジャワの王様であることに変わりはなかった(p.235)」と尊敬しているとはいえ、王宮関係者や王侯領内の農民のように王との距離が近い者なら、あるいはB.アンダーソンのジャワ王権論の読者なら、ジャワの王の存在をそういう風には言わないだろう。正直なところ、私はハルドヨの率直な現実認識に驚いた。彼のこの相対的な視点は、給料をオランダ植民地政府からもらっているプリヤイだからこそ得られたのだと思う。

ハルドヨはマンクヌガラン王侯領府で働く教師として推薦されたときに、オランダ領東インド政庁の教員として働くよりも給料が下がるが、それで良いかと念押しされている(p.233-239)。上の彼のセリフは、まさにそのときに出てきたものだ。プリヤイにとって、ジャワ王家が小さな存在であることは、支給される給料を見れば明白だ。しかし、ハルドヨやその父・サストロダルソノが、給料が下がってもマンクヌガランの王のために働くことは名誉であると考えるように、ジャワ王家はプリヤイの精神的な支柱になっている。

けれど、プリヤイ一家の初代・サストロダルソノとその息子ハルドヨでは、王に対するイメージは少し違っている。サストロダルソノは、子供たちにワヤン(影絵芝居)や古典文学(ジャワの王が記した『ウェドトモ』や『ウランレー』の詩集など)に幼少から親しませ、結婚式にはワヤンを上演し、人をワヤンの登場人物になぞらえて評価し、何らかのメッセージを伝えたいときは子供に詩の朗誦をさせる。彼は、遠縁の伯父クスモ・ラクブロト(p.255)のように、ジャワ神秘主義を自ら実践――川に身を沈めて瞑想するなど――するところまではいかないが、「王様は超能力をお持ちなのだから」、一生懸命仕えるようにと息子に助言をする。一般的に、ジャワの王=神秘主義の実践を通じて得たパワーを持つ存在、と考えられているからだが、ハルドヨがマンクヌガランの王を尊敬するのは、そういったパワーがあるからではなくて、王が、近代へと移り変わっていく時代に立ち向かおうとするから――つまり、砂糖などの産業を振興し、下水溝などのインフラを整備し、教育や芸術にも力を入れるから、なのである(p.236)。このあたり、プリヤイ二代目としての発想だなあと感じる。

  ●家族儀礼

この小説では歴史的事件を背景に家族3代の物語を描くのが主なので、家族儀礼の様子はそれほど詳しく描かれていないが、それでも、花嫁の家で盛大に式を挙げたあと、1週間後に花婿の家でも祝宴を設ける(p.65)という結婚式のあり方、妊娠7か月目にミトニと呼ばれる安産祈願の儀礼をすること(p.143)、人が亡くなると遺体が水で清められ、夕方に埋葬され、夜に(少なくとも死後3日目までは)法要がある様子(p.44-45)などが描かれている。当時のジャワ人プリヤイが生きていたライフサイクルを知る上で、これらの描写は貴重だ。もう少し詳しく描写してくれると、ジャワの風俗を知る上でさらに興味深くなるのだが…。もっとも、著者のウマル・カヤムは作家以上に研究者なので、ちゃんと時代考証、儀礼考証するほど暇ではなかったのだろう。

余談だが、結婚式のシーンの「いろいろな料理があたかも川を流れる水のように、とどまることなく次から次へと運ばれた(p.65)」という描写について、料理が次から次へと出てくる様子を、ジャワ人は川の流れに喩える。私自身、ジャワで人を招いたときに、料理をせっせと作って出していたら、バニュミリだねえと褒めてもらったことがある。バニュミリというのがジャワ語で水が流れるという意味。ジャワ舞踊やガムラン音楽では、水が流れるように滑らかに優雅に動きや音が移っていくのがアルス(上品)とされるので、私には最も親しみのある語だったのだが、料理を出すときにもバニュミリと形容するのか…と、当時、意外に思ったことを思い出す。ここの描写を読んでいたら、その時の情景が蘇ってきた。

さらに余談。お葬式で夕方に埋葬するとあるのだが、ここ、原文ではsiang(昼)なのかsore(夕方、午後3時前後〜)なのか、気になる。昔のことは分からないが、現在のジャワでは墓地に埋葬するのは1時頃からである。ジャワでも日本(少なくとも私の地域)でも、墓地には朝から行くのが望ましく、夕方にはお参りしないものだが、一体何時頃に埋葬されていたのだろう…。

  ●名づけ、改名

この本は註釈がなくて読みやすいのだが、逆にもっと註釈を入れて説明してくれてもよいのに、と思う部分もある。上項の家族儀礼や、ここで述べる名づけの習慣がそうだ。複数の翻訳者の中に、伝統文化の註釈者を1人加えてくれたら良いのになあと、正直思う。

ジャワ人はよく改名する。この本でも、サストロダルソノは幼名がダルソノだが、それは農民である彼の父親に目をかけてくれるプリヤイが名づけてくれた名前で、本来はプリヤイの子の名前だという。母親は当初、そのような名前は村の赤ん坊には重過ぎて短命になることを不安がっていたが、結局受け入れる(p.49)。そして、そのダルソノが教員になってプリヤイの仲間入りをするとき、父親は、今度は立場にふさわしい大人の名前としてサストロダルソノと名づけてやる(p.56)。また、サストロダルソノは預かった田舎の子、ワゲを学校に行かせると決めたときに、学校に行く子にふさわしいように、ランティップという名を与える(p.34)。また、サストロダルソノの長女、スミニの結婚相手のラデン・ハルジョノが結婚の申し込みの手紙をよこした時、彼はすでに副郡長となっており、ラデン・ハルジョノ・チョクロクスモと長くなっていた(p.114)。こんな風に、ジャワ人は社会的な立場が変化するにしたがって、それぞれの立場にふさわしい名前に改名する。

余談だが、他に、病気が治ることを祈って改名することもある。私の舞踊の師匠は、1950年代に、生まれて1歳に満たない長女を舅と姑に託して海外公演に出たことがあるのだが、帰国したら長女の名前が変わっていた。それは、子供が大病にかかったときに舅と姑で改名してしまったためらしい。

  ●洋風の呼び方

サストロダルソノの孫世代、つまりジャカルタに住む長男の息子、娘の名はトニー(独立戦争で死亡)、トミー、マリーと外国風だ。特に後者の2人。確かに、こういう名前が都会の裕福な家の若い世代には多いなあと納得する。そして、トミーとマリーは両親のことをパパ、ママと呼ぶのも、他の家族と違うところだ。実は今から10年くらい前のこと、1970年代にソロからジャカルタに移った人から、「ソロでは、まだ両親のことをバパッ、イブと呼んでいるのか」と尋ねられたことがある。その人はパリパリのジャワ伝統主義者で、自分の家では子供にはバパッ、イブと呼ばせているが、ジャカルタでそういう家はもう希少で、昨今はパパ、ママと呼ぶのが普通になった、と聞かされたのだ。そういえば、ソロでもパパ、ママという言い方はかなり普通になってきていると思うが、それでもバパッ、イブという呼び方はまだ健在だし、いかにもジャワ風の名前(本書のダルソノとか)も、まだまだ多い。こんなところにも、サストロダルソノ家3代の変化が表れているなあと思う。

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というわけで、今回もなんだか、重箱の隅をつつくような感想ばかりになってしまった。けれど、書き始めると、取り上げたいことがいろいろと出てくる。というのも、この本を読んでいると、自分の知っているジャワ人の顔、ジャワの状況が次々と思い浮かんでくるのだ。フィクションだけれど、この時代を生きた人たちのリアリティが感じられる。来月ももしかしたら感想の続きを書くかもしれない(他のトピックを思い出さなければ…)。

掠れ書き29(時を刻む論理)

高橋悠治

手をうごかし、耳をはたらかせ、あるいは目で見わたして、不規則なリズムを作っていると、いつか規則性のパターンが現れている、これはいけない、と意識してパターンを崩し続けて、やっと不規則の側にとどまるそのとき、不規則と感じられるそのことに、どんな規則性の感覚がはたらいて、そこから意図して外れ続けることができるのか、と考えると、人間のからだが時を刻んでいることを思いだす。

平均して1分間に60からせいぜい80といわれる心拍と、16から20といわれる呼吸が続くかぎりで、心もはたらいているのだろうか、そう問われても、いつもは脈を感じたり、呼吸を意識しないで、それらがささえているはずの、複雑なからだの動きや、心というレベルにばかり囚われているのだろう、ということを反対側から考えれば、心拍や呼吸を意識しないでいられるあいだだけ、複雑で不規則な行為や、偶然落ちかかってくる感覚や認識に対応できるので、意識が心拍や呼吸に集中することを選べば、これはいわゆる瞑想状態で、瞑想の場合には意識がさまよいだすのをたえず引き戻す作業に気をとられて、瞑想が死の擬態であることは忘れがちになっていないだろうか。

ところで、死に近づいていく人の場合は、耳もとで呼びかけても、意識がないのか、あっても、応えるための筋肉が麻痺しているのか、死んでいくこと、生きているからだが持っているエネルギーや可能性をすべて使い尽くす作業にかかりきりでいるので応えたくないのか、ついにわからないままに終わる。瞑想がついにおよばない生と死の、それにもかかわらずと言うか、それゆえの、だれのからだにも起こっている現実が、外からの視線を拒否する、と言えないだろうか。意識はなくても、生きようとするからだの意志、と言うと意識のレベルで捉えられるかもしれないが、からだの動きは、意志で動かす随意筋の範囲を越えて、動きつづけていなければ死んでしまう、心拍や呼吸だけでなく、意識を通さない、意識に上らないが動き続けている、不随意筋といわれるものの運動があって、ここにいまある世界のなかに、ほんのしばらくのあいだでも存在していることはできるのだろうから、と言ってみたくもなる。

生命を維持している「しるし」とされている、心拍や呼吸の時間は、「刻む」とか「数える」とか言ってしまうけれど、じつは波打っているのだから、たとえば心臓の筋肉が血液を押し出す瞬間だけを感知して、波の頂点の間隔を計ったときの「刻む」という言い方から、時計のような機械の時間とつい比較することになるが、人工の時間ではない特徴の一つには「ゆらぎ」があることを思いだすと、時間のありかたがまったくちがう、しかし、その質のちがいを語るのも、「ゆらぎ」という現象があることでさえ、機械の時間のことばでしか言うことができない、それが人間のことばの限界のように見えるが、ことばはそういうものだったのか、いつからかそれが変わったのか、そんなことを思ってしまう。

心拍にくらべて呼吸は約4倍もおそいが、この二つの動きが相互作用していることはだれでもわかっているつもりでいるかもしれないが、息を吸うときに心拍は速くなり、息を吐くにつれて、ゆるやかになっていくようだ。それだけではなく、肺や腎臓のように血液を必要とし、また血液に必要とされる臓器が心拍のゆらぎにかかわっているらしい。肺のガス交換は約4秒、腎臓の血液濾過は約20秒、その中間に、脳に血液を送る頸動脈の関門が約10秒の波で心拍を撹乱する、撹乱の反作用も幾重にも折り重なって、撹乱の波は繊細になり、天秤のバランスがゆれている、と言ってみるけれど、これは計器上に見えている「ゆらぎ」の解釈で、乱れを意識したり、まして制御することはできないレベルの不規則性こそ、意識の前提となっていると考えられるのではないのか、ゆらいでいるから意識があるが、ゆらいでいると意識したら、意識されないことを前提にしている時間感覚が崩れてしまうかもしれない。そうなったら、いわゆる日常世界のみかけの確実性は根拠を喪って、夢のようにふわふわした感触しか残らず、哲学だ瞑想だ、などと冷静に言ってはいられない、ということになりかねない。

音楽は、いや、音楽も、人間の時間を機械の時間に置き換えようとして、17世紀からがんばっていた。フランス王の音楽家リュリは、重い杖で床を叩きながらオーケストラを一つのリズムにまとめようとしているとき、自分の足を突いて、足が腐って死んでしまった。国民国家の時代に、人間の集団を一つのリズムでまとめる必要は、足並み揃えて行進するナポレオン軍の兵士とともに、感染をひろげていった。ベートーヴェンは、メトロノームを使って、機械の拍でオーケストラの大音響を制御しようとしたのではないだろうか。工場の時間が社会の時間の基準になろうとしていた時代が、もうそこに来ていた、と言えるかもしれない。

一つのからだが、いくつかの波を統合せずに相互撹乱させて生きつづけ、生きつづけることを意識さえしているのとは反対に、たくさんのからだを束ねて、外側から一つのリズムで操る力にも、音楽は奉仕してきた。行進と突き出す腕、脚は自由に歩き回らない、手は曲線を描いて舞うことはない。打ち寄せる波の重なりを持続として感じるのではなく、頂点だけを均等な距離にはめ込んで、直線上に点在する時間を刻んでいると、この離散的な時間は、加速していけば圧縮されて痙攣し、減速すれば分離して、動きを停めるだろう。密度が乱高下し、突然発生する大きなエネルギーは自己破壊に向かうよりないように思われる。

撹乱しあう波の重なりの上に危ういバランスをとりながら、そのことを知らない、ほとんど静止しているかのような針が、じつは微かに不規則に震えているのが、安定したと言われる状態だとすれば、見かけの単純さこそが複雑の究極の姿であり、その見かけの下で、たえず崩れては新しいバランスに落ち着く内側の寄木細工の万華鏡的変換が、一段ずつ衰弱の梯子を降りていく、とそう見えることもありうる。さまざまなリズムの層のずれが同時進行しているあいだに、それぞれがわけもなく変化し、変化によって干渉しあって、それらの組織や構造が、突然のようにちがうものになっていたのに気づくまで、ここで制御していたようなつもりになっていた、というように、まかせていた流れに裏切られ、どこか遠くに運ばれていれば、それを受け入れる、とこのようにして、音楽を創るはずだった作業のなかで、作者も創られていくほかはない、というのもありうることだ。

四月になれば貯えは

仲宗根浩

四月、税金をはじめいろいろな請求が届く。毎年のことながら貯えていたものどんどんなくなり、また最初から貯え始める年度初め。

こちらはノーネクタイが十一月いっぱいまで続くが、今年は最低気温十二、三度という沖縄真冬の冷え込みの日があったりとへんな天気が続く。一瞬、雨が続いて蒸し暑くなったとおもったら涼しい日が続き、うれしい、とおもったらいきなり最高気温28度。一日は沢井先生の命日。亡くなってからその翌月には沖縄へと引っ越した。あれから十六年、あの時一歳の赤ん坊が高校三年生になった。確実に歳を重ね来月で五十だ。

去年の十二月のある日、ついついドアをノックするので出てしまった。総務省統計局にお願いされ、電卓と計量器が配布され家計調査の協力。始まったのは一月。購入したもののレシートはすべて保管、預貯金、月々支払っている保険、ほか諸々の収入、支出をすべて記録し家計簿つけなくてはいけなくなった。生鮮食品を購入した場合は計量して何グラムとか、記録しなくてはいけない。その記録を月二回、担当の人が回収にくる。大変なのはうちの奥さんで、今月そのお礼でお米券を結構な枚数いただく。が、手間を考えたらこれでも足りないだろう、と家の中でごねる。

今月、前半はしもた屋の杉山さんとたいへん楽しいメールのやりとりをやっているときに中井猛先生の訃報が入った。何かの講習会だったか忘れたが、雅楽の「越天楽」の旋律に色々な歌詞を付けるのが流行った時期がありそのときにできた曲のひとつが「黒田節」だ、ということをいつもの大阪弁での話を聞き、沢井先生の「黒田節による幻想曲」という曲の解説には新日本音楽の華やいだ雰囲気が念頭にあったとような記述があり、それで宮城道雄の「越天楽変奏曲」からのつながりというか流れがわかったような気がした。一度何名かで先生のお宅へ伺ったことがあり、豆腐好きの先生自ら料理をし、豆腐尽くしのご馳走をいただいた。その時にそろそろおいとまする時間になり、帰ろうとするといっしょにお邪魔したひとりが、「みんないっぺんにいなくなると、先生が寂しがるから」と言われ、わたしともうひとりがそのまま取り残され、先生のお宅で一晩お世話になることになった。みんなが帰ったあとも先生は色々な話をしてくれ、地唄の手ほどきの曲の楽譜をいただいた。知らせを受け仕事から戻った夜に酒を呑みながら、久しぶりにその楽譜を引っ張り出した。解説を読むとちょっとしゃれがきいた先生の文章だったので湿っぽくならず呑むことができた。