製本、かい摘みましては(44)

四釜裕子

ベルリンのデザイナーが、本の背がむき出しになっている装丁を「日本綴じ」と呼んでいるという書き込みをネットで読んだ。写真によると、表紙となる厚紙を本文の前後に順番に糸綴じして、そのうえからいわゆる「表紙」をくるまないタイプで、うちの本棚から似たつくりの本を探すとすれば蜂飼耳さんの『食うものは食われる夜』(装丁は菊地信義さん)。ベルリンのデザイナー氏は「日本綴じ」と呼んでいるのはあくまで「僕らの間で」としているが、「和綴じといえばページをめくる部分が輪になっていて中身と表紙を一緒に糸で綴じたもの」だとし、「この装丁は糸をそのまま見せるという意味で、日本流と呼んでいる」と説明している。面白い。

「和綴じ」と聞いて私がまず思い浮べるのはベルリンの彼といっしょだ。小口が袋になっていて表紙と本文をまとめてブスッと穴を4つ明けて糸でかがったもの。そして次の段階として、線装本袋綴じで穴の数を増やした亀甲綴じや麻の葉綴じ、康煕綴じのこと、ぐるぐる巻きの巻子本や坊さんたちがよむお経のような折本もあるなあ、となる。研究者や愛好者でなかったら、日本人でもそれ以外でもワトジ本のイメージとはこんなものだろう。でも『食うものは食われる夜』を前にして、日本人ならたとえ仲間うちだけでもこれを「日本綴じ」とは言わないだろう、というところが、面白い。

今月、東京国立博物館の「大琳派展」でみた光悦謡本は美しかった。いずれも綴葉装(てつようそう)冊子本で、金銀泥の下絵に雲母摺りのあるもの、表裏両面に胡粉がひいてあったり色替わりの料紙が束ねられたもの、表紙にのみ雲母模様をほどこしたものなどさまざまで、特製本、色替り本、上製本と呼び変えるらしい。桃山文化とともに一度途絶えて慶長期に復活した雲母摺りで表紙に大きく鹿を配し、本文料紙は雲母も色替えもなしという「殺生石」にはことに見惚れた。琳派的には地味なこのタイプは光悦謡本の早い時期に出されたようで、他の豪華絢爛に比べ比較的多く残っているそうだ。琳派の工芸、たとえば硯箱なら蓋裏が好き、という嗜好に近い。

綴葉装の特徴のかがり糸の始末は、ガラスケースの中に展示されてあるから見ることはできない。かがり終わりの4つの穴から出た糸は「リーグ戦」の図のように2つずつ結んで最後は本の天地幅に揃えて切るのだ。かがり始めも蝶結びのようにする場合があるから、どう結ばれているのか見てみたかった。この糸の始末をはじめて見たときは驚いた。どうしてここにかがり糸を出す? しかもわざわざ結んで。いらぬものなのだからできるだけ目に触れないようにすればいいのになんとかならないのか。この邪魔さ加減が、綴葉装が和綴じとして後世にうまく伝わってこなかった理由のひとつではないかとも思うが、結びの文化の延長であろうし、装飾の大きなポイントになっていたことは間違いない。

上田徳三郎さんは『製本』(図解:武井武雄さん)で、この綴じ方は見習い時代にちょいちょい手がけたとして紹介している。紅白の綴じ糸を使って始まりに蝶々結びをしていたことから、宴会のメニューなどに応用したらいいんじゃない?とも記す。吉野敏武さんの『古典籍の装幀と造本』で「この装幀の場合には、綴じの時に細糸数本を使って綴じていることが多」いと読んでいたから、光悦謡本ではどうなのか見たかった。あとで中野三敏さんの『江戸の板本』を開くと、綴葉装は「江戸期に入っても専ら写本に用いられることが多く、板本に用いられた例は極めて少な」く、「田中敬氏の『粘葉考』下巻に収められた同氏経眼の著目を見ても「大和綴刊本」として掲げられるのは僅か四種、その一は光悦謡本百種……」とある。光悦謡本がなぜ綴葉装なのか、開きのよさのためなのか趣味か過去の再現か――。

藤井敬子さんはやさしい製本入門としてまとめた『お気に入りをとじる』に、アレンジを加えた綴葉装をとりあげている。糸は1本どりで始末は最後だけ。この本をテキストとしてテレビでも放映されたわけだが、この和綴じがどのように受け止められたのか、興味がある。藤井さんが綴葉装の見本として作ったのは画帳で、表紙には小紋柄の友禅和紙を用いた。説明を読まずに写真だけ見たら、和紙を使った洋綴じと思うかもしれない。これが洋紙だったら、もう和綴じには見えないだろう。そうなのだ。綴葉装を洋紙でやったら和綴じに見えなくなるが、線装袋綴じを洋紙でやっても、和綴じに見えるのだ。

オトメンと指を差されて(5)

大久保ゆう

というわけで今回は、いわゆる男性のなかに混じったときのオトメンの苦悩について書くつもりでした。ぶっちゃけてしまうと、「私は今までこんなことにセクハラを感じて生きてきたのだ!」という心の叫びだったのですが、書いてみたら書いてみたで「これって読む人にとってもセクハラになるんじゃないか」というような内容になってしまったので、一晩考えた挙句、自粛することに致しました。(私にはあんな言葉とても表に出せないっ!)

今でもそうなのかどうかはよくわかりませんが、男子小学生とか男子中学生とか男子高校生とか、とんでもなく「セクハラ魔人」ですよね。「魔」がつきますよ「魔」が。いろんな意味で。子どもだから許されているところもあるんでしょうが。結局「色恋」などと言いますが、基本的に「色」の話しかしませんから。そして女子に「いやらしい」とかいう感じで冷たい目で見られるというのが普通だと思うのですけれど、まあ、そこはそれぞれ異性として距離があるから、他人事として感じられるんでしょうが、真っ只中にいた身としてはどうにも耐えられない環境であったわけです。

私は「色」よりも「恋」の話題の方が好きなんですよ! 没にした原稿のことを考えながら書き直してますけれど、「怨念じみた色」なんて話、聞きたくもないわけですよ! 「嫉妬深い」と言おうか「見苦しい」と言おうか、もうため息しか出ません。

何と言いますか、あの男子と女子の温度差は、何やら二次性徴が女の子の方が早いからという噂も耳にしたりするわけですが、そのことを考えると、私個人はかなり早熟であった記憶があります。身体的に成長が周りの男子諸君よりもかなり早かったんですよね。そういう意味でも、メンタリティ的にそういう温度差があったのだと思うのです。

そんな冷静な考えを持った上で、没原稿を眺めてみると、相当嫌だったんだなということが伺われます。もちろん自分が男の子であることが嫌であったわけではなくて、おそらく男の子として周りの子たちが「紳士的」ではないところに不満があったのではなかろうかと思われます。いや「紳士」ではないか。うーん、「王子的」? マンガとかアニメとか小説に出てくる格好いい男の子はそんなんじゃないぞ、みたいな規範があったのでしょうか。

ほら、自分の原稿見てみると、ため息の成分とか分析しちゃってたりしてますよ。

「その成分は、「あきれ」が50%に、「あきらめ」が30%、そして「絶望」が15%。」

もはや95%くらい負の要素じゃないですか。どうした私。これを書いたときに何か嫌なことでもあったのか私。当時のさわやかさの裏にはこんなものが隠されていたのか私。

そして男の子に突っ込みを入れている文章もテンションがおかしかったりします。

「誰にだ!? その本人に? 世の中に? それはたぶん自分にですよ! 自分の妄想に騙されていたんですよ! 自分のなかにあったそれこそ「偶像」に対して裏切られたとか思っているだけですよ! って本人関係ないじゃないですか!」

これはおそらくあれですよね、彼(てゆうか私なのですが)のなかにあるフェミニズム的な何かの逆鱗に触れたのでしょうね。男の子の持ってしまいがちな「理想像」であったり、「きれいな妄想」であったり、そういうのはすごく嫌悪してますからね。どっちかというと少女マンガ的な「そのままの君が好きだ」的な教条主義を貫いているわけですが、じゃあ現実にそれはどうなのかというと往々にして「そのままの自分」が嫌いだという人もいるので、逆効果だったりするんですけどね。

あ、ここはまともっぽいからそのまま引用してみましょう。

「もうひとつその続きでため息が出るのが、「××がタイプ」などという好み論議。どういう人が好きかとかいうわけですが、私にはどうにも苦手で。別にタイプとかありませんよ。好きな人は好きだから好きなのであって、タイプに合ってるからとか容姿がどうとかスタイルがどうだとか年齢がどうだとかどうでもいいじゃありませんか。そのときそのとき好きな人が好きなのです!

その人が目の前にいて不思議な縁があって好きになったからその人が大事なのであって、別に目の前にいない架空の人とか、未来に会うかもしれないとかいうよくわからない人のこととかどうでもいいんですよ。そういう架空の理想像とか嗜好がないとおかしいなんていう目で見るのは本当にやめてください!」

しかし、タイプ論議は別に男性に限ったことではないから、これは個人的な感想だったんじゃないかなと思わないでもない現在。でも、どちらかというと女性って全体的な雰囲気とかを重視する反面、男性は小さな部分(いわゆるパーツ)を大事にしたりするから、そこに違和感があるといえばあるかもしれません。てゆうかあるんだ。すごくあるんだ。あるんだああああああ。待て。抑えろ私。いいか落ち着くんだ。ここで抑えなければ没原稿の二の舞だ。

にこにこ。

さて、改めて没原稿を見てみると、「ため息」という単語が無数にあります。具体的に言うと32個も出てきます。どれだけついているんだ私。私の少年期青年期において同じ男性たちにいかに不満があったのかが如実に現れる数字ですね。

えっ、今ですか? 今は私も大人になりましたよ。それに不満があったのは主に学校なり何なりで生活をともにしていた同年代の人に対してでしたから、別段、大人の男の人たちにどうとかということはありませんでしたし、周りの人も大人になっているから、特にこれといって。

にこにこ。

(ああ……どうしようもない男の女性に対するろくでもない行動のせいで、日々揉め事に巻き込まれている昔の自分が思い出される……)

にこにこ。(頑張れ! 笑顔だ!)

次回はそのような話をするのかしないのか、そして冷静に書けるのか書けないのか、そのへんも含めて生暖かい目でお楽しみください。

ジルベルト・ジルの来日公演

三橋圭介

60年代終わりから、カエターノ・ヴェローゾやトン・ゼーなどとともに、「トロピカリア」という実験的な芸術運動によってブラジル・ポップス界をリードしてきた66歳のジルベルト・ジルが10年ぶりに来日し、大阪、東京などでライブを行った。10年ぶりというのは、2003年から約6年にわたり、文化大臣の職にあったこともあるだろう。だが、7月30日にルーラ大統領との会合によって辞職が決定し、8月には11年ぶりのオリジナル・アルバム「バンダ・ラルガ・コルデル(ブロードバンドのパンフレット)」とベスト盤「グレイテスト・ヒッツ」を発表、そのワールド・ツアー「ブロードバンド・バンド・ツアー」によって音楽活動に全面的に復帰を果たしたなかでの来日となった。しかも今年は日本ブラジル移民100周年の記念の年でもあり、日本ブラジル交流年特別記念イヴェントに音楽家としてジルが参加したことは意義深い。満員の会場は、ジルが舞台に登場したときの熱狂ぶりからもその来日がいかにファンにとっていかに待ち望まれていたかがわかる。ニューアルバムとベスト盤を中心にしたプログラムから次々と繰りだされるジルの強烈なリズムの音楽は、われわれの参加を呼びかけ、巻き込んでいく。ノリノリの「ナゥン・グルーヂ・ナゥン」ではダンス会場に変え、途中、日本ブラジル移民100年としてブラジル公演を行ったガンガ・ズンバの宮沢和文が「島歌」をジルと歌い会場を盛り上げた。また9.11だったこともあり、ジョン・レノンの「イマジン」やボブ・マレーの愛をテーマにした曲なども披露した。しかし圧巻はシンセサイザーの効果音や照明を巧みに使ったラップ風の「世界の穴」で、日本語も使って貫禄の舞台を見せつけた。今回、ブロードバンドという名の通り、ライブに参加した人のビデオ録画、録音、写真などがフリーにされ、それらをYouTube(http://www.bandalargacordel.com.br)にアップすることも呼びかけられている。実際、携帯の写真やビデオを録画している人がたくさんいたが、YouTubeには日本公演を含め、この世界ツアーのさまざまな映像がアップされ、情報を共有することができる。「芸術と科学」「伝統と革新」をテーマに取り組んだアルバム「クアンタ」から11年、インターネットなど新しいメディアやコミュニケーション・ツールだけでなく、今回のライブはジルの音楽世界の新たな広がり(ブロード)を実感することができた。ジルは宮沢にいった。「トロピアリアはイズムではく、態度(アティチュード)なんだ」と。このことばは今もジルベルト・ジルのなかに息づいている。

(9月11日、東京国際フォーラム・ホールC)

しもた屋之噺(83)

杉山洋一

ヴェニスから1時間ほど電車で下ったところに、アードリアという小さな街があり、ファシズム時代に建てられた、一目でそれととわかるいかめしく大きな、この街は不釣合いなほど立派な劇場があって、今晩そこで、メルキオーレが書いた新作オペラの初演をするため、昼寝をしに部屋へもどってきました。

アドリア海と同じ地名ながら、実際の沿岸までは20キロほど離れた内陸にあって、今でこそ農業なども盛んなようですが、戦前は泥ばかりで土壌もわるく、それを開墾して農業用に作り変えた、ファシズム期の開墾政策の成功記念に、立派な劇場が建築されたようです。当時はセラフィンがこの劇場でタクトを取っていたそうで、とても古い木製のオーケストラピット用の譜面台など、おそらく当時のものに違いありません。そう思うとちょっと緊張するのですが。

現在では、あまり劇場として多くの演目は抱えていませんが、ヴェネチアやヴェローナを初めとするヴェネト州の数多くの劇場の、仕込みをするための劇場として機能させようという試みが始まったところで、今回はヴェローナのアレーナのプロダクションと一緒にアードリアに来ていて、明々後日から2公演、ヴェローナのフィラルモーニコ劇場で再演することになっています。

アードリアの劇場は、内装を作り直したばかりですが、客席など、古い椅子がそのまま使われていて、とても趣があります。舞台もとても広いので良いのですが、困るのは、劇場としては珍しく、天井が大きなクーポラになっていて、教会のようにひどく残響が残るのです。

オーケストラ・ピットの方が舞台よりも客席に近いわけで、当然、オーケストラの音はまるでマイクで拾ってかつ加工されたかのように大きく響き、舞台上の声はあまり飛ばないのです。ピットも決して広くはなく、ここでセラフィンが蝶々夫人などやっていたというのは、ちょっと信じられない気がします。

リブレットは川端康成の「名人」をもとに、作り上げられていて、歌手は4人。イギリス人のソプラノとメゾ、それにイタリア人のテノールとバリトン、それに25人の合唱にここの狭いピットになんとか入るだけの小編成のオーケストラ。せりふのある俳優が二人に、彼らと一緒に動く俳優たちが4、5人で80分ほど。全体的に叙情的なオペラで、日本人からすると、あの静かな「名人」がどうオペラになるのか不思議な気がしますが、なるほど西洋人の目であの囲碁の対局を描くと、実に劇的な、文字通りのオペラらしい展開になっていました。

舞台は、奥に和風の櫓が組んであり、そこに洋風の棺桶がおいてあります。名人が亡くなった、というところから物語が展開するので、まず棺桶ありきなのです。そして、幾つかある対局の場面にそって、碁盤のセットが3箇所あつらえてあり、歌手たちの着物は、アレーナなのでもちろん、という言うべきか、蝶々夫人のものを転用しているらしい。

劇場に着いて大道具を初めてみたとき、客席でさんざん指示を出していた演出家に、「どうこの棺桶のセット素敵? これで日本風に見えるかしら」と尋ねられ、彼女にさんざん振り回されていた大道具係が横で「ああ頼む、OKだって言ってくれ!」と声を押し殺しながら真剣に頼まれたのも可笑しかったです。

囲碁を指す姿が禅僧のように映るのか、化粧を施すたびに、主人公の二人がますます坊さんみたいになってくるのも愉快でしたが、目に隈取をしたあたりから、お坊さんもいよいよ歌舞伎かトゥーランドットかという按配で、今晩どんな姿で現れるのか楽しみです。

それはともかく、各歌手や合唱のパートなど決して易しくはないものの、皆さんとてもよく勉強してきてあり、音楽稽古はとても楽でしたし、歌手どうしも、他の裏方の皆さんとも、とても気持ちよく練習ができたのは嬉しかったです。オペラを準備する楽しさは、普通の音楽会を準備するのと違うものですから、もう初日かと思うと、ああでもないこうでもないと楽しみながらやってきた練習が名残惜しい気もします。

ここまで書いて睡魔には勝てず、布団にもぐりこんで昼寝をし、昨夜無事に初日を終え、今朝、朝一番の電車で久々に一週間ぶりにミラノの自宅に帰ってきました。すぐにヴェローナには戻るのですが、洗濯やら何やら雑用がたまっているのと、基本的にホテル暮らしが好きではないものですから。

さて、昨日の公演は、まさかアードリアに現代オペラの観客なんていないだろう、と演奏者は全く期待していませんでしたが、蓋を開けてみて意外な位劇場が埋まっていて驚きました。ですから、きっと蝶々夫人のつもりでやってきたお客さんもいたに違いありませんが、公演後、なかなか拍手が終らないのにはびっくりしました。

本番直前に劇場に入ったとき、主役のマウリツィオから、お礼のメッセージと、可愛らしいマグカップを貰ったのには感激しました。そのカップでアールグレーを啜りながら、この原稿を書いています。思えば、昨年サーニのオペラをやった時も、初日に、主役のイッシャーウッドからシチリア土産のハチミツとメッセージが譜面台に載っていて嬉しかったのですが、オペラには詳しくないので知りませんが、これは習慣なのか、それとも偶然なのでしょうか。いずれにしても嬉しいことには変わらないのですが。

今から一週間ほど前には、パリオペラ座の小ホールで、「パリの秋」音楽祭のため、ニーウ・アンサンブルとアルディッティさん初め素晴らしいソリストの方々と演奏会がありました。オランダ人はみんな真面目で陽気なのか、練習はいつも楽しく、練習後も、アムステルダムではインドネシア料理やら、パリでは当然ビストロやブラッセリーで舌鼓をうっていて中々ゴージャスなひと時だったのですが、パリでは晩御飯のアントレーは何年も食べていなかった牡蠣を、思わず毎日食べてしまいました。フランス料理は、全体的にイタリアよりずっと重厚だけれども、本当に美味しい!

演奏会後、楽屋に早々に千々岩くんが顔を出してくれたのも感激でした。みさとちゃんや細川さん、筝の後藤さんやペソンのようになかなか会えない人たちの顔も見られて、夏に東京でお会いしたばかりの、湯浅先生や岡部先生も駆けつけてくださったのも心強かったし、今回初めてご一緒した筝の川村さんや作曲のポゼ、今井さんも、みなとても気持ちが良い方ばかりでした。彼らと一緒にやる上手で飾らないニーウ・アンサンブルとの練習はいつも無駄もなく、方向性と互いの信頼がぴったりと合い、かつ愉快でした。

1年ぶりくらいに会ったペソンが、まずそのニーウ・アンサンブルの皆にリクエストしたことは、床を靴でこする動作の精確さについて。素早く、そして正確で、揃っていること。物凄く正確すぎて、それが思わずコミカルに感じられる程に!ということなのですが、これが本当に難しくて、でも楽しいので、みなケラケラ笑いながら何度もリハーサルをしました。

ポゼはものすごく丹念に書き込まれた楽譜と、細かいドイツ語書きの注釈、敬称でやりとりしているフランス語のメールの印象でどんな人かと想像していましたら、実際現れてみると、大凡ドイツ人にしか見えない風貌で、でも物凄く感じのよい、実直な作曲家で、すぐにフライブルグに戻って、オール・シューベルトのプログラムでフォルテピアノの演奏会があるから準備しないと! と話してくれました。遺作のソナタと、幾つかの小さな舞曲集をやるんだが、ソナタよりこの舞曲がね、すごく難しいんだよ、と声を弾ませました。あの複雑な楽譜を書く作曲家の姿と、シューベルトや古典を演奏する鍵盤楽器奏者の姿が、一見到底つながらないようにも思うのですが、その実、本当に古典的な意味でとても音楽的に書かれている彼の作品の素晴らしさを鑑みれば、それは実に自然で調和が取れているようにも感じます。

アルディッティさんは、特に本番での音楽の豊かさ、懐の大きさ、深さに胸を打たれました。波長もばっちりと合って、いや良かったねえと本番後に二人で大喜びしたのですが、演奏会最後の曲目だった、ポゼの前に袖に引っ込んだとき、どうせソリストの譜面台も立てたりするので時間もあるかとトイレで用を足していると、隣に独奏者が右手に楽器を携えたまま入ってききて、こちらが仰天していると、「自然の摂理には勝てんだろう!」と、楽器を持ったまま器用に左手で用を足し、「その後どうするの」と心配になり尋ねると、さすがに手を洗うときには楽器をベンチに置いたので、ほっとしました。そして、「さ、行こうぜ」と言って、二人で大笑いしながら舞台に出て行ったのです。

(10月26日ミラノにて)

カラヤン後

大野晋

今季はいきなり川崎ミューザの坩堝の底の最前列で、インバルの禿頭を見ながら千人を聴くというとんでもない経験から始まった。あまりの強烈な経験だったせいか、ところどころ記憶が怪しくなっているが、一番記憶に残ったのが若手指揮者の台頭である。

ちなみに今年は、かのヘルベルト・フォン・カラヤンという偉そうな名前の人気指揮者の生誕100年だったそうだが、若手の演奏を聴くと、我々もそろそろ、カラヤンの呪縛から醒めてもいい頃だろうと思った。クラシックに限らず、ジャズやロックといった幅広い音楽の影響を感じる彼ら若手のつむぐ音楽は、ある意味、即興的で、ビートが利いていて、オーケストラに限らず観客とも双方向のコミュニケーションが成り立っているように感じた。そうした実演を聴いていると、計算された美しさを再現するカラヤンの美学のようなものから、聴く側も少しずつ変化していく必要があるようにも思えるのだ。

さて、つい最近聴いたわが国の若手は、少々、そういった意味では不満を感じざるを得なかった。萎縮した感じを覚えたからだ。音楽性も、芸術性も、音符の再現も、解釈も、そんなものを観客はのぞんでいるわけではない。むしろ、若いながらの暴走も許されるのだから、オーケストラや観客との人と人とのコミュニケーションから何かを作り出すある種の化学反応を期待したいと思う。だから、できれば、音楽の勉強以外にも、人の動かし方、人の感動のさせ方を掴むことに力を入れて欲しい。

オーケストラは、100人以上の人間の集まりなんだから、その一人ひとりを人として、気持ちよく動かすことで、表現できる音楽の幅が違ってくることに気付いてほしいと思った。同じくらいの歳の、外国の指揮者にはできるんだ。日本の君たちにだってできないわけはない。

トルコのビール泥棒

さとうまき

ヨルダンから会議のためにイスタンブールに飛ぶことになった。イラク人のビザが、他の国では難しいというのだ。埃っぽいアラブの国とは違い、かつてのオスマン帝国、国の規模はでかく、上品な町並みだ。イラク人たちもおおはしゃぎで、観光に繰り出す。

この国は、イスラム教徒が大半だが、世俗主義を掲げているので、街中でも平気でお酒などを売っている。レストランやバーでお酒を飲んでも大丈夫そうな雰囲気がたまらなくいいのだ。ヨルダンでも酒を売っているのだが、部屋で飲んでも、空き缶を捨てるのに一苦労。人目が気になり、最近は、高級ホテルのバーくらいじゃないとなかなか飲もうという気になれない。というわけで、トルコに来るとなんとなくうきうきしてしまうのだ。

しかし、今回、私は、体調を壊していて、寝込む羽目になってしまった。会議以外はホテルで動かず、じっとしてひたすら体力を保つという戦法を取らざるをえなかった。ところがホテルがオーバーブッキングになっていたらしく、「申し訳ないのですが、相部屋にしていただけないでしょうか?そのかわり、今晩のディナーをサービスさせていただきます」というのだ。合計14名だから、5万円くらいのサービス。

というわけで、私の部屋には、イラクのローカルスタッフのイブラヒムが転がり込んできた。私は、ずっと寝ていた。ディナーの時間になったが体は動かず断念。夜中に目をさましたが、イブラヒムはいなかった。「はて、夜遊び?」と思いもしたが、私は再び深い眠りについた。翌朝、イブラヒムに、夜遊びに行ったのかと追求すると、私がせきこんでいるので、風邪が染らないように、別の部屋に避難したそうだ。さすが、イブラヒムである。体力を温存し、毎日会議が終わると、観光とおいしいものを食いに外に出かけていったようだ。

会議もどうにか無事に終わり、チェックアウトしようとすると、「ビールを飲みましたね」とお金を請求される。なんだって! 体調を壊して今回の滞在では、大好きなビールも飲んでいないというのに。
「いや、冷蔵庫から、もって行ったでしょう」
「何を言う。飲んでないぞ」
「いや、飲んだ」
「何だと、このぼったくり野郎!」

フロントでもめていると、イブラヒムがとおりかかり
「ワタシ・デス」というのだ。
「何で、お前がビールを飲むんだ!」
「イブラヒム、ジュースだと思ってアケマシタ」
ビールだと気がつくと、あわててトイレに流し、身を清めるためにシャワーを浴びたのだという。
「何だって!」
「ワタシワ、イスラム教徒デス。お酒は、禁止デス。ケガラワシイネ」
それは、いいんだけど何でトイレに流すんだ! 俺が飲んだのに。もったいない!

メキシコ便り(14)

金野広美

日本でひところ前、消費者金融のCMで有名になったチワワ犬の原産地チワワに行ってきました。この犬はメキシコ古来のテチチ犬から交配されたもので、その小さな体で鉱山労働者を暖める目的もあったといわれています。街にはチワワ犬に似た犬や、全然似ていない大きな犬などがいたるところにねそべったり、悠然と歩いていたりで、犬の多い街だなというのがチワワの第一印象でした。チワワはメキシコシティーから北に飛行機で2時間、バスだと21時間かかるメキシコ最大の州チワワ州の州都です。今回の旅の目的はこのチワワと太平洋側のロスモチスを結ぶ全長653キロのチワワ太平洋鉄道に乗ることと、この沿線にあるグランドキャニオンの4倍の大きさを誇るといわれている海抜2400メートルの銅渓谷を見て、このあたり一帯に住む山岳民族のタラウマラに会うことでした。

朝7時、太平洋鉄道に乗り、銅渓谷の近くのクリールに着いたのが昼の12時半、とにかく遅いのです。横の道路を走る車にどんどん追い抜かれていきます。おまけに料金が高い。クリールはチワワから4つ目の駅ですが、料金は2等で389ペソ(約3890円)これで終点のロスモチスまで行くと約1万円近くかかります。もし1等だと17000円余りかかります。緑豊かな渓谷をぬうようにゆっくりと走る電車はとても風情があり、時間とお金に余裕があればこんなに贅沢な旅はないのですが、どちらかでも欠けるとちょっとつらい旅になります。だってバスだとクリールまでかかる時間は1時間短く、値段は約半分なのですから・・・・。それでも車中は観光客で満員、ゆったりとした大きな座席で車窓から見える緑をみんなぼんやりと眺めながら旅を楽しんでいました。

クリールはこのあたりの観光の基点となるところで、多くの乗客が下車しました。私もここで降り、宿をとり街にでかけました。鉄道駅を中心にした小さな街ですが、ホテルやレストラン、みやげ物店がたちならび、結構にぎわいをみせています。線路沿いには柵がなく、人々は線路の上を自由に行き来しています。そんななか、なんでも屋のショーウインドーのカセットデッキを熱心に覗き込んでいる親娘がいました。タラウマラの民族衣装のひだの多い色鮮やかなスカートをはいた娘の名はチャべラ20歳で、お母さんはレホヒア43歳でした。やはりほかのインディヘナの女性と同じくレホヒアはとても43歳とは思えず、60歳くらいに見えました。子供は8人、ここからバスで3時間のところのバランカ(断崖)に住み、毎日、民芸品を売りにくるといっていました。このあたりは、その高さ1879メートルのバランカ・デ・ウリケから1000メートルのバランカ・デ・タラレクアまでバランカが11箇所あり、朝日と夕日に照らされ銅色に輝くということで、もっとも有名なコブレ(スペイン語で銅の意味)渓谷で1300メートルです。

タラウマラはララムリ、;ララ(タラウマラ語で足の意味)ムリ(走るの意味);とも言い、70パーセントがララムリ語(タラウマラ語)を話し、人口は121,835人、主に銅渓谷を中心に住み、その語源から走る民族といわれています、ララヒッパレという15センチの木のボールを足でけりながらまる1日走り続ける競技を今も催している、世界有数の長距離走者の民族なのです。断崖の頂上あたりと、渓谷の谷間あたりを移動しながら、だいたい150人くらいの村落を形成して暮らしています。頂上あたりはりんごや桃の保存には適していますが、冬にはマイナス10度にもなります。一方、渓谷はパパイヤ、マンゴーなどが採れますが、夏には45度から50度の猛暑です。このようにあまりに厳しい自然環境のためタラウマラは半定住生活を余儀なくされてきたのです。そして、中には断崖の横穴を住居にしている人たちもいます。銅渓谷では遠くからですが、そのクエバ(スペイン語で穴の意味)といわれる横穴と前にはためく洗濯ものを見ました。しかし、今では山頂でも渓谷でもない台地(メセタ)や街中のクリールに住むタラウマラもいます。

チャべラに「カセットデッキが欲しいの?」と聞くとかすかにうなずきました。値段は358ペソ(約3580円)です。もちろん彼女の家には電気はありません。でも音楽が大好きだそうで、これなら音楽が聴けます。私が「一生懸命働けば、いつか必ず買えるよ」というと、うれしそうに小さくほほえみました。母親のレホヒアに「夫はどんな仕事をしているの?」と聞くと、「お酒ばかり飲んで少しも働かない」と困った表情をしました。私が「どうして文句をいわないの?」というと、あきらめたような表情で首を横に振りました。全員が全員ではないでしょうが、タラウマラの男は酒豪が多く、その酒代を稼ぐために働くのは女性だといわれています。これはタラウマラのクルトゥーラ(文化)だから仕方がないという人もいますが、8人もの子供を産み、育てて、毎日3時間もおんぼろバスに揺られて、作った民芸品を売りにクリールまで来るレホヒアが本当に気の毒になり、その夫を力一杯蹴っ飛ばしてやりたくなりました。

「トロイメライ」のあとさき

高橋悠治

トロイメライは夢
夢のあとさきでは 漫画だな
如月小春はトロイメライは子守唄という意味だと思っていた
シューマンの「子供の情景」というタイトルをつけた曲集のなかに
「トロイメライ」がある
三宅榛名が弾いた「トロイメライ」をきいて 演奏は自由なものだと知った
それまでは 設計図である楽譜にしたがう精密な実現でしかなかった
いま考えると あれもまだメロディーの流れる時間だった
このごろは音楽を空間として観ている
音色と音色の間の距離 渦 泡 幻として
終わりのない質問 みたされない思い たちまち消える瞬間の光
作家としては失敗だったと自覚したアンデルセンが「雪の女王」を書いたとき
一人暮らしのサミュエル・ベケットが転んで
意識をとりもどした病院のベッドで書いた最後の詩
comment dire / what is the word
ことばにならないことば 声にならない声が あらわれ きえる
またあらわれ またきえる
この もどかしさ
わずかなことばのあいだに しのびこむ書かれない沈黙
声を待つ身体の
浮かび漂う
力がぬけ 力ないかたむき
おもわずよろけこむ曲がり角
逸脱からの創造 クリナメン
あそび プレイ 付け加えるのではなく 取り去る即興
手根管症候群の進行するデレク・ベイリー だが
決まり文句をつづりあわせて物語を紡ぐホメーロスではなく
穴だらけ ぼろぼろの「トロイメライ」
如月小春との出会い 「黄金虫」 孤独な身体のもがき
少女たちの空虚なことばあそび
水牛楽団と旅した「高い塔のうた」 ありふれたあいさつの 明るい闇
如月小春は広場だった
もう思い出せない「マタイ1985」
京都大学で 白い地球をかぶった浅田彰と如月小春が連弾した「トロイメライ」
その頃からの「トロイメライ」計画
配役なし 演技なし 装置なし 振付なし 白い地球以外の道具なし
舞台は薄暗く 客席は薄明るい
演劇を解体して 最小限の単語とフレーズをパフォーマーに配分する
深夜放送で知った如月小春の死
弔辞のなかによみこんだ「都市」「杉並区の自動販売機」
わ わわ わわわた わた わたし たしがこ ここに いる しらせ せせ
切れかかるくもの糸
夢で会ったものは
めざめたときにみつからない
演劇に 物語になっていった あの広場を
すべての鏡のかけらが
ほかのすべての鏡のかけらを映す夜の光に
とりもどして りもどし りも も
鳥のように地上をすぎ
as pessoas não morrem
ficam encantadas
麗という字は 並んだ鹿の角
遠くはなれた場所にいても
世界のどこかにいることを知っていた
ともだちを ひとり ふたりと みなうしない
という尹東柱の「たやすく書かれた詩」を
つぶやきうたうカヤグム奏者と小合奏のために書いた
「夜の雨がささやいて」がソウルで演奏されたのは
つい先日のこと そこには行かず
「トロイメライ」のあとは
休日もなく 他人のためにピアノを弾いてすごした
音楽はどこかよそにある
見える 一瞬だけ
見えると思いたい
なにか
なんというか
あの 遠い

アジアのごはん(26)ごはんかけごはん

森下ヒバリ

タイ北部チェンマイの友人トクが、チェンマイから車で1時間半ぐらいの山の中にあるカレン族の村に遊びに連れていってくれた。カレン族は主にサルウィン川中流から下流域に古くから居住する民族で、ビルマ東部平原とタイの北西部山間部、南部タイの西側の山間部などに住んでいる。

トクはかつて土地問題のサポートをするNGOで働いていて、その仕事でふかく関わっていた村だという。そこに大好きなムーソーという人がいてぜひ会わせたいのだと言う。カレン族の文化を大切にしている村だと聞いて、やっと腰を上げる気になった。

ムーソーの高床式の家に泊めてもらう。ムーソーは村長であるが、大変気さくな人であった。11人も子どもがいるのだが、奥さんは1人だけで、しかも子どもは全員健在である。病院や医者のいない山の中の村では沢山子どもがいても、死んでしまう子も多いから、これは大変なことである。一番下の息子は11歳。

高床式の家の中には囲炉裏があり、そこで夕食をごちそうになった。持っていった川魚などをお母さんと娘が料理してくれたのだが、その煮込み料理はなんだか魚とは思えない味に仕上がっていた。もったりとして味の特徴のない野菜と魚の原形をとどめない煮込み。タイ料理とはかなり味わいが異なる。う〜ん? 白いごはんが山盛り。この煮込みを食べながら、カレン族の料理には期待しないほうがいいなあ、と白いごはんをたっぷりおなかに詰め込む。

翌朝起きてみると、庭では朝ごはんのための炊飯中であった。まっ黒に燻された鍋が七輪の上に乗って、白い湯気を立てている。七輪には長い薪が無造作に突っ込まれている。朝のすがすがしい空気の中、ニワトリや黒豚の子ブタたちが走り回っている。ムーソーの家には動物たちがとても多い。大きな黒豚のつがいが一組、その子ブタたちが6〜7匹、犬が大小4匹、ニワトリが10羽ぐらい、ネコなど次から次へと現れてくるので、いったい何匹いるのかよく分からない。家族構成も、すでに結婚している娘や息子などの家族が入れ替わり立ち代り現れるので、これまたよく分からない。

カレン族のふだんの主食はもち米ではなくふつうに炊いたうるち米である。山の畑で陸稲を育てている。カレンライスと呼ばれる陸稲は粒が大きく、一粒一粒の存在感が大きい。朝ごはん、と家のテラスの床に置かれた花柄のほうろうの大きなお盆には、ごはんがドンと盛られ、真ん中に卵焼きが数枚、ちりれんげが何個か置かれているだけ。ムーソーがほうじ茶をやかんに入れて出てきて、配ってくれる。みんなでその盆からごはんをとって食べて、朝ごはんはおしまい。食べている最中にネコたちが人間と同じように盆のまわりに集まって来て、ちんまり座って残り物を待っている。

今日はこれから、村人が何十人も出て、山の尾根沿いに落ち葉かきをするというので、手伝いに行くことになった。落ち葉かきは、毎年乾季に発生する山火事の火が村のほうまで広がらないようにするためらしい。尾根は山火事対策のために樹木が切られていて、広い道のようになっている。ここに積もった落ち葉を両脇に掃いて、燃えやすいもののない帯状の場所を確保するのである。

尾根にたどり着いたときには、すでに男女別の2〜3グループが道を掃いていた。ムーソーの長男で、NGOで働いているヨンがその辺の木の枝を払って、先が二股にわかれた即席ほうきを作って渡してくれる。適当に葉っぱを払いながら前に歩いていく。これをいくつかのグループが少し間をおいてやっていくので、ひとりの掃く葉っぱはわずかだが、最終的にはけっこう燃えるものの少ない帯状の道が尾根に沿って出来上がっていた。

昼ごろになって、やっと作業は終わり、昼ごはんとなった。涼しい谷のところで、炊事班がおかずを作って待っていた。大きな鍋がふたつ、ドンと置かれている。さすがに身体を動かしたので、おなかが空いた。村人は米飯だけは持参してくることになっているようで、それぞれバナナの葉に包んだ弁当を持っている。
「しまった、お弁当、忘れてきた・・」

ムーソーの家のお母さんが、バナナの葉でピラミッド型にきっちり包んだ大きな米飯のお弁当を作ってくれていたのだが、出掛けに持ってくるのを忘れてしまった。ヨンがだいじょうぶ、だいじょうぶ、と言ってすぐに友人に声をかけて、同じようなバナナ・ピラミッド弁当をいくつも持って戻ってきた。

包みを解くと、中身はすべて飯である。すごい量。どんぶりめし2杯分はあるな。包んであるバナナの葉っぱがそのまま皿になり、ごはんを崩しておかずをかけて食べるのである。お椀に鍋のおかずが小分けされて、食べろ食べろと前に置かれた。ちりれんげもどこからか貸してくれた。手で食べている人も多い。おかずは青菜と豚肉の煮込み、もうひとつは青菜と豚肉の入ったどろりとしたお粥である。

なんだ、2種類とも同じ材料かあ・・。昨夜と今朝のムーソーの家での食事を思い出し、あまり期待を込めずに青菜と豚肉の煮込みをご飯にかける。口に入れたとたん、「おいしいっ」と声が出た。う〜ん、このコク、豚肉はきっと村の黒豚をつぶしたものであろう。ムーソーの村には黒豚しかいなかったもんな。菜っ葉もうまい。絶妙。ごはんに青菜と豚肉の煮込みをさらにかけてばくばく食べる。はあ、しあわせ。

青菜と豚肉のお粥もれんげですくい口の中へ。あ、これまたうまいじゃないの。でもすこし味が濃いかな・・と隣りのヨンを見ると、なんとお粥をごはんの上にかけて、おかずかけごはん、ならぬ、ごはんかけごはんにして手でまぜて食べているではないか。よく見ると、お粥をそのまま食べている人は誰もおらず、皆ごはんにかけて食べている。お粥といっても、かなり濃厚なお粥である。これをごはんにかけると、あんかけごはんのように見えないことも、ない。

このお粥は「タット・ホーポー」という名前の料理らしい。ごはんをごはんの上にかける、という料理を見たのは初めてである。かなり抵抗はあったが、カレン族の料理なので、とりあえず味わってみることにした。ごはんにお粥をかけて・・と。

なんだこりゃ。う、うまい! おかずとして濃い目の味つけなので、ご飯にかけて、まぜて食べると完璧。これまたばくばく。いつのまにかあの山盛りごはんがなくなっていた。お代わりは? と回りからピラミッド弁当がさらに差し出されるが、さすがにそれはお断りした。じゃあ俺が、と隣の男が受け取って包みを開いて第二ラウンドを開始する。そちらは赤米入りのごはんであった。

弁当はピラミッド型包みでなく、まん丸ボール包みもある。各家でそれぞれ米飯の内容や包み方も違うようだ。ビニール袋にご飯を入れてきている男もいたが、彼はややわびしい風情をかもし出していた。残り物ももらっていたし、一人暮らしなのかもしれない。妻に逃げられたとか。

皆が食べ終わった頃、食べるお茶のミアンが回ってきた。北タイで食べられているお茶の漬物である。少しとって、岩塩の粒と一緒に口に入れる。はじめは渋いが、塩が溶けて、ガムみたいに噛んでいるうちに口の中がさっぱりしてくる。噛み終わったら口に残った葉っぱの筋は捨ててもいいし、飲み込んでもいい。液体のお茶を飲んだ後と同じように、口の中が涼やかで、なかなかのものである。もっとも、北部でも町では若い子はだれも嗜まなくなっている。年寄り臭い嗜好品、ということらしい。

たった三度の食事をご馳走になっただけで、カレン族の食事が米飯を中心に回っていることがようく分かった。ごはんかけごはんが意外に美味であることも。ちょっと違うけど、うどんやお好み焼きをおかずに白飯をおいしそうに食べるウチの同居人(関西人)を笑えなくなってしまった・・。

暑い九月、沖縄観光をした。

仲宗根浩

暑い!
確かに秋は来た。でも一週間足らずで入道雲が出た。颱風が夏を持ってきたのか。夏は少し休んだだけでまだ続いていた。

そんな中、法事のため九州から来た姉の一家を観光へと連れていく。沖縄案内の本、雑誌などで紹介されているとこばかりなので以前は知る人ぞ知るお店も駐車場は「わ」ナンバーのレンタカーばかり。お昼どきは八人連れとなるとけっこう店を探すのも苦労する。

以前、奥武島の近くにそば屋があったのを思い出し行ってみた。そば屋はあったがいったん島に渡る。島といっても橋ですぐ渡れる小さい島。昔は漁港と魚屋、てんぷらが売っている売店だけだったが食堂ができていた。試しに入ってみる。メニューは魚のバター焼き、いかの墨汁、煮付け、刺身などなど。沖縄によくある海鮮定食メニューで一つのお膳
に五品くらい。値段は千円から二千円のあいだ。いかの墨汁なんてずいぶん食べてなかったけど(まえの日、いか墨汁を食べたことを忘れた朝、トイレで真っ黒な便が出たときはびっくりするぞ〜)、小さい子がいたのでいっしょに食べられるものをとおもい、無難な魚のフライを注文する。相変わらずご飯の量が多い。他のバター焼きもちょこっと摘まみつつ、お腹を満たし、今度は那覇新都心のブランドものばかり揃ったDFS、免税売店へ。ここは購入したものはすぐ受け取れるわけでは無く、沖縄を離れるとき空港内で受け取る仕組みになっている。沖縄発の飛行機チケットを持っている人しか買い物はできない。興味のないわたしはフロア一角のゆったりしたソファーでごろごろするだけ。帰宅途中、ブルーシールのアイスクリーム屋さんに寄り、久しぶりの観光が終わる。

九州から来た一家は帰るので空港まで送る。駐車場は全部満車の表示。そんな中一台出ていく車が見えたのですかさず入り、停める場所を確保し空港の中に入ると大混雑している。航空会社のコンピュータ・システムがダウンとのことで一家は荷物をあずけることもできず、飛行機がどれくらい遅れるかもわからぬままただ待つしかない。こっちは空港にいても仕方ないので見捨てて帰る。飛行機は四時間遅れだったらしい。

次の週はブラジルから神奈川に移ってきた従兄の子が初めて沖縄に来た。また観光。平和の礎に行きたい、というので連れていった。暑い。公園には陰がない。礎に刻まれた彼のおばあさんの兄さんはサイパンで亡くなっている。名前を見つけ教えてあげる。車で移動中、彼の携帯電話が鳴る。話す言葉はポルトガル語だったり日本語だったりする。沖縄の言葉は全然わからない、日本に来て十年になるのでポルトガル語の読み書きもできない、と言っていた。沖縄そばを食べ、北谷に寄りみやげ物の下見をする。泡盛の値段の高いこと高いこと。近所の酒屋の一升瓶の値段で売っているものある。

翌日、「美ら海水族館」へ五十八号線を北上する。子供の頃に行ったタイガービーチ、瀬良垣ビーチ、伊武部ビーチは閉鎖されていた。瀬良垣ビーチは重機が入り砂を入れているのか、昔の面影はない。自然のビーチはどんどん無くなり、砂浜ではないところに砂が敷き詰められ人工のビーチがどんどん造られていく。それでも彼は海のきれいさに感激している。水族館に着くとまたレンタカーでいっぱいになっている。水族館の中も人が多い。巨大水槽より圧倒された。

観光地めぐりは終わり、まだ涼しくなる気配がない暑い九月のなか、運動会のシーズンが始まった。

コアラの国へ

さとうまき

夏の終わりに急遽オーストラリアに行くことになった。何でオーストラリアにいくかというと、実は、心臓病のイラクの女の子、ヌーランが、難民としてオーストラリアに移住したという。そしてまもなく手術をするので、様子を見に行くことになったのだ。オーストラリアは移民や難民に優しい国といわれているようで、年間1万人を越える難民を受け入れている。イラクからも、今年になってから、豪軍に協力したイラク人600人をすでに受け入れているという。アメリカも米軍に協力したイラク人は優先的にアメリカへ移住できるようだから、軍に協力するのは、悪くはないということになるのだろうか?

ヌーランの一家は、軍とは関係がなく、オーストラリアへ移住するのは簡単ではなかった。最終的には豪政府との間で、場合によってはわれわれが治療費を払うという念書を交わすことで、受け入れられたのだ。したがって手術代を払わなければいけないかもしれないのだ。

オーストラリア滞在はわずか3日しかない。朝、シドニーにつく。夏の終わりということは、南半球では、春。街角には、ユーカリの街路樹が植えられ、真っ赤な花をつけている。コアラがぶらさがっているのかと探してみるがいない。ユーカリは中東でもたくさん生えているのになぜコアラは、オーストラリアにしかいないのだろう。

私たちは、小児科医と面談し治療計画を相談することになった。医者が、手術の内容を説明してくれる。
「それで、先生、お金のほうはどれくらい払うのでしょう?」
「お金は政府が負担します」
ときっぱりといわれた。

ほっとした私たちは、早速町に繰り出し、アラブ人街を探索することになった。タクシーにのると、アラブ人かアフガン人、インド人もいる。なんだか、クウェートにも似ている。連なるアラブレストラン、金融、食料品店。ヨルダン製のジュースも売っている。

ヌーランは、小学校に通いはじめていた。クラスには、アラブの子どものたくさんいる。片言の英語を得意げに繰り返す。お父さんは、あまり英語が得意ではなく、ヨルダンにいた半年前とほとんど上達していない。それに比べるとお母さんはよくしゃべるようになった。
「何でもやらなければいけないから。医者との交渉や、このコを学校に連れて行って、先生に病気のこととか説明しなくてはいけないから」
母は強しだ。

最終日、私たちは、シドニーから、メルボルンに飛んだ。2年前に、難民として、ヨルダンから移り住んだイラク難民の家族を訪問することになった。オーストラリアに行くんだけどとメールしたらぜひ会いに来いという。しかし残念ながら、メルボルンにいるという。シドニーからメルボルンは、飛行機で一時間30分はかかるのだ。しかも母親は妊娠中だ。赤ちゃんが見られるといいねといっていたのだが、飛行場から電話すると、お母さんが死にそうな声で出てきた。どうも、生まれたらしい。
「病院にいったほうがいい? え? 家に来い?」
要領を得ず、とりあえず家まで行くことにした。タクシーに住所をいうと迷わず家まで連れて行ってくれた。

家には、子どもがいた。アリとハッスーン。ヨチヨチ歩きを始めたばかりのハッスーンが大きくなっている。俺を覚えているのかよくわからないが、一緒に遊ぼうと英語で話しかけてくる。しばらくするとランダが帰ってきた。英語でぎっしりと書き埋められたノート。コアラの絵がかかれていたり、蛇の絵が点描で描かれている。「アボリジニの描き方を教わったの」という。コアラがいるの?
「ここにはいないわ。動物園にしかいない」

しばらくしたら、お父さんが病院から帰ってきた。
「昨日から入院して、今朝、生まれたんだ。結構難産だった。ようやく出血が止まった」
お父さんは、オーストラリアにきて2年目になる。職業訓練学校に行き、自動車のメカニックをしている。そのおかげで安い車を買って修理して乗っている。
「英語は、あんまりうまくないけど、妻はもう英語べらべらしゃべっているよ」
私たちは、日が傾き始めたころ、病院へ赤ちゃんを見に行くことにした。

お父さんはサダム政権のときは、スポーツ選手だった。オリンピック委員会を率いていたウダイ・フセインの横暴さに嫌気が指して、ヨルダンに逃げてきていた。しかし、イラクから警察が追っかけてくるという恐怖心から家を変え、携帯電話を変え、キリスト教の教会へいったり、モスクにいき、施しを受け、何とか生きつないだ。坂の中腹の壊れかけた家で暮らし、貧困にあえぎほとんど鬱状態が続いていた父親だが、オーストラリアの生活には本当に満足しているようだった。
「もう、僕たちのことは大丈夫だよ」と胸を張って見せた。

ランダも、アリもハッスーンも、初めて弟を見に行くので少し興奮気味。ベッドに横たわるお母さんも、だいぶ元気になったようで、再会を喜んでくれた。そして、横には生まれたばかりのアハマッド君がスースーと寝ていた。
「この子は、イラクで生まれて、この子は、ヨルダンで生まれた。そしてこの子はオーストラリア」
お母さんが紹介してくれる。

僕たちは飛行機の時間を気にし、別れを告げなければならなかった。待たせておいたタクシーに乗り込んで飛行場へと向かった。今回のオーストラリア滞在は、コアラもカンガルーも見ることができなかったが、イラク難民が元気に暮らしている姿。そして新しい命に出会えたことは、まさに筆舌に尽くし難しというかんじだ。

石見神楽とジャワ舞踊による「オロチ・ナーガ」

冨岡三智

9月3日から7日まで、「島根・インドネシア 現代に生きる伝統芸能の交流」という企画を実施していた。主催は三保三隅百姓会・パサール満月海岸で、私自身はコーディネート、通訳、それに舞踊家という役どころ。9月7日(日)湊八幡宮(浜田市三隅町)の神楽殿で石見神楽の岡崎社中とジャワ舞踊との共同制作「オロチ・ナーガ」を奉納するのがハイライトで、それ以外にジャワ舞踊とワヤン・べベル(影絵ワヤンのもとになった芸能、絵巻物を解き語りする)のワークショップと公演をし、また一行が関西空港に到着した9月2日には、大阪の高津宮でも奉納舞踊とワークショップを実施した。

私自身が6月にパサール満月海岸でワークショップをして、岡崎神楽社中の人々と手合せしたことは水牛7月号で書いたので、今月は、その「オロチ・ナーガ」が結局どんな作品になったのかを紹介したい。

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「オロチ・ナーガ」は主催者の命名で、要は「ヤマタノオロチ」のお話である。ナーガはインドネシア語で龍の意味。スサノオノミコトをジャワ人舞踊家2名が、オロチにとられる姫と稲田姫の二役が私で、神楽囃子、オロチ、じいさん・ばあさんの役は岡崎社中の人たちによる。神楽の演出通りに舞台は進行するが、私たち3人のベースは全くのジャワ舞踊で、神楽の動きそのものを真似したわけではない。だが、今回幸運だったのは、石見神楽で一番古いと言われる岡崎社中の団長の三賀森さんが柔軟な考えの持ち主で、神楽の古い演出を踏まえながらも、ジャワ舞踊をうまく神楽に取り込んでくださったことだった。

だいたい、スサノオが2人いるという設定だけでも、尋常ではない。ヤマタノオロチの舞台は、現在では数頭のオロチ(最大8頭)が舞台に登場する。だから頭数の多い場合は、オロチ退治の場面だけ2人目を登場させて、退治の時間を短縮する演出をとることもあるという。しかし、物語の場面では当然スサノオは1人しかいない。今回スサノオが2人になったのは、同格のジャワ舞踊家が2人いたからで、片方だけをスサノオに抜擢するということはしなかった。

スサノオが2人いるのは変に思われるかもしれないと考えて、上演前のナレーションの中で説明をつけてみた。英雄というのは、その超人性を強調するため、複数が合体して1人になったり、あるいは分身が複数いて神出鬼没したりする。ジャワの影絵では、森に棲む魔物チャキルは倒されたあと3体の怪物となって現れるし、私が小さい頃のTVヒーローである超人バロム・ワンは「2人で1人、バロ〜ム〜♪」の主題歌通り、2人が合体して1人のバロム・ワンになる。このように、2人で1人、1人が2人というのは、神話の世界では現実なのだ。

この2人で1人のスサノオが、島根ではオロチが若い人を取って食ってしまい、町には年寄りしか残っていない*1という噂を聞きつけて、ジャワからはるばる退治にやってくる、それならばとインドネシア政府はスサノオの出国税*2を免除してくれたので、スサノオは帰国するとインドネシア政府に結果報告しないといけないから、皆さんスサノオを応援してくださいね、という風に話を組み立ててみた。そうしたら、出国税免除〜のくだりで意外にも拍手が沸き起こる。こういうノリの良さはまるでジャワみたいだと嬉しくなってくる。

最初の場面は姫取りといって、野に花摘みに出た姫がオロチにさらわれるシーンだが、私の場合は芝居をせず、ジャワ舞踊をしばらく見せることにした。衣装もジャワ舞踊のものである。ただし、神楽では仮面を被るが、私は被っていない。バンバンとファジャールが、舞台裏でクマナという楽器を演奏しながら詩を朗誦し、私はそれに合わせて舞う。ひとしきり舞い終わって座り、サンプール(腰に巻いている布)を手にかざしたのを合図に、太鼓の音、つまり雷鳴が轟く。天候が急変するので、姫が驚いて辺りを見回したところに、オロチが登場するというタイミングである。

このシーン、オロチは私の背後から滑るように出てくるのだが、オロチの顔が自分の視線の先にくる上に、低い位置から見ているせいか、オロチの動きがとても速く感じられた。舞台の両端からオロチが2頭出現し、私が逃げ惑いながら次第にオロチに巻き込まれていくシーンで、なんと拍手が起こる。どうやら迫真の演技だと思われたみたいだが、正直なところ「拍手してないで、助けてくれ〜」という心境であった。

私がオロチに食われたのち、しばらくオロチだけの舞いがあり、そのあとでスサノオが登場する。私の登場シーンと同じイメージにならないよう、今度は2人の歌に笛の音をかぶせる。ジャワの歌と神楽の笛と、それぞれにやっているだけなのにうまく調和して、神々しい雰囲気がかもし出される。

スサノオの衣装は、ジャワの宮廷舞踊あるいは結婚衣裳で使うドドットという種類の布(約2m×4.5m)を2枚使って、体に巻きつけ、ジャワの白い仮面をつけている。これはバンバンが考案したのだが、スサノオは神だから白い衣装が似つかわしく、むしろ神代の時代の衣装のイメージに近くてよいのではないかと三賀森氏に言ってもらえて、ほっとする。

またスサノオは神ということで手に御幣を持つのだが、このジャワの衣装に合わせて、通常より小さいサイズの御幣を三賀森氏が作ってくださった。この御幣の扱いが上手いねと言われたのだが、バンバンとファジャールは、ジャワ舞踊で使うダダップのようにこの御幣を扱ったのだという。ダダップは武器なのだが、その原型は葉のついた木の幹で、呪術師が祈祷するために使っていたものらしい。とすると、ダダップと御幣はもともと似たような道具であったことになる。

このあとにじいさん・ばあさんが登場して、スサノオにオロチ退治を懇願し、稲田姫*3を託す。前のスサノオの登場のシーンからこの場面にかけては、スサノオの名乗りやじいさんによる物語の背景の説明など、セリフが重要なのだが、異国からやってきたスサノオとじいさん・ばあさんとでは言葉が通じないので、セリフは全編カットということになる。

三賀森氏によると、昔はこの姫とじいさん・ばあさんとの別れの芝居が大きな見せどころで、年寄りなどセリフを聞いただけで泣けてくるぐらいのものだったらしい。けれど昨今では、数頭のオロチが絡み合う場面が見せどころになって、このシーンはほとんど上演されないか、あっても登場人物がちらっと舞台に登場しただけで終わってしまうという。この場面では、私たちは別れがたく何度も振り返っては追いかけて…としたので、またまた拍手が起こる。このシーンが泣けたと言う人もいて、面映い。

このじいさんを三賀森氏が、ばあさんを神楽の若い人が演じてくれた。二人は翁面、媼面をつけ、白着物に袴の格好なのだが、その上からジャワで染めた布をインドのサリーのように巻きつけてみた。公演前日に、三賀森氏から、スサノオと姫の衣装がジャワ風なので、自分たちの衣装もそれに調子を合わせたいと相談があったのだ。この格好についても、全然違和感がなかった、ジャワの布の染めの色が良かったなどと言ってもらえて嬉しい。

私の方は、先ほどの衣装から花嫁衣裳のドドット(青地に金泥模様)に着替える。神楽では、オロチに食われる姫はシンプルな衣装だが、稲田姫は金冠に赤いゴージャスな着物を着て、手に舞扇を持つ。稲田姫は、オロチが飲みに来る毒酒に姿を映すように高い所に立つという設定だ。扇子を手に持つのは、オロチが怖くて震えている動きを表現するためだという。

さて、この別れの場面のあとにスサノオと姫との(結婚の)舞いのシーンがある。これは現在50、60代くらいの人でも知らない昔の演出だという。ジャワの舞踊家に神楽を知ってもらうだけでなく、神楽社中の若い人たちにも古い演出を知ってもらいたいと、三賀森氏が教えてくれた部分だ。もっともスサノオは本来1人なので、ここは男女のカップルの舞になるのが本当だが、今回は男女2対1の舞いとなる。

そしてオロチが再登場。今度は4頭のオロチが登場する。私は舞台の後ろ中央に置かれた台の上に立っている。オロチがひとしきり舞ったあと酒(毒酒)を見つけて争って飲み、寝入ってしまったところにスサノオが登場する。退治の順序と殺し方については神楽側からの指南を受けながら、段取りを決めてゆく。スサノオがオロチの角に手をかけて首に切りつけている間に、オロチ役の人がオロチの頭を外したり、また最後にスサノオがオロチの口に剣をつっこむときに、オロチの中の人がうまくその剣先をつかんだりという段取りをお互いに踏まえないと、オロチもうまく死ねないし、何より双方ともに危険である。こんな風に、ある程度の定型に沿いながら、戦いの当事者同士で流れを組み立てるのはジャワ舞踊でも同じで、その自由さ加減が神楽とジャワ舞踊では似ていたような気がする。

この退治の場面、神楽のスサノオの動きとは型が違うとはいえ、やはりジャワ舞踊ではプロ、型が決まっていて見事だったという評判で、オロチを討ち取るたびに拍手喝采が沸き起こる。

そしてめでたくオロチを4頭退治してから、スサノオと稲田姫は喜びの舞を舞う。神様がめでたく悪を退治したというような話の最後には、この喜びの舞いがつきものなのだそうだ。舞いながら舞台前方に進み出て物語は終わりとなり、お辞儀をする。神楽の人と練習を始めたときには、まだこの喜びの舞いがあるとは聞いていなかった。というより、聞いたのは公演直前である。おそらく私たちの出来具合なども見計らっておられたのだろう。やはりこのシーンがないと神楽として物足りないということだった。

公演終了後、神楽の出演者も全員舞台に出て座り、お礼の口上と共同制作するに至ったいきさつなどを話する。実はこの公演は神楽の上演としては時間が短い。通常は夜中まで、時には朝までかけて8〜10演目を上演するというのだが、今回は(1)「塩祓い」(神楽の一番最初に上演され、場を清める)約15分、(2)「頼政」約1時間ときたあと(3)オロチ・ナーガが1時間あまりだけ、なのである。ジャワのワヤンも一晩かけて上演するから、本当は一晩いろいろと上演している雰囲気をジャワの人たちにも味わってもらえたらよかったなと思う。これは今後の課題だ。

ところで、上演前のナレーションというのは(3)の前だけでなく、(2)が始まる前にも入れた。最近の「ヤマタノオロチ」はオロチの場面がショー化してつまらないと感じるお年寄りも少なくなく、オロチと聞いただけで帰ってしまう人もいるので、今回は普通のオロチ公演ではないことをあらかじめ知らせておきたいとのことだった。オロチは頭が8つあるとはいえ胴体は1つだから、昔の神楽ではオロチは1頭しか登場しない。だから必然的にオロチとスサノオの戦いのシーンはシンプルだったのだが、そのぶん芝居表現に比重があったのだという。

このナレーションは地元の国際交流部門で働いているキムさんがチマチョゴリを着てやってくれる。彼女は6月の私のワークショップにも、また今回のワークショップにも参加してくれている。前に書いたようなナレーションを、島根弁をまじえてやってほしいとお願いしたら、なかなかうまく盛り上げてくれた。

今回は場面ごとに拍手喝采が起きたけれど、いつもそうだとは限らないらしい。神楽を見慣れている地元の人は、つまらない出来であれば拍手もせず、さっさと帰ってしまうのだそうだ。それならば、よけいにジャワのワヤン(影絵や舞踊劇)を見る観客の反応に似ている。そういうシビアさが逆に芸能のあり方を面白くしているのだろう。ワークショップなどに来てくれた人と話をしていると、若い人でも神楽の展開をよく知っていて、それも、ワヤンの展開を分かりきって見て楽しんでいるジャワの観客の姿にダブる。

こんな風にして終わった今回の共同公演、ジャワの舞踊家たちにとっては今までの来日経験の中でも一番充実して面白かった、特に神楽の人たちが柔軟にジャワ舞踊を受け止めてくれたことが一番嬉しかったと言ってくれた。こういう共同制作は、結局は当事者どうしの組み合わせがうまくいくかどうかにかかっている。今回は主催者の側に私やジャワ人舞踊家とも10年来のつきあいの友人がいて、岡崎社中とつなげてくれた。私の企画力不足で巡回公演するまでに至らなかったけれど、それも今後の課題として、今回の縁を発展させていけたらと思っている。

なお余談だが、今回インドネシアから来日したメンバーは「マタヤ アート&ヘリテージ」(NPO団体)所属なのだが、その代表―彼も今回来日している―が帰国後に、地元紙「ソロポス」が主催する「ソロポス・アワード2008」を受賞した。地方からの芸術発信の功績が認められたのである。その受賞掲載記事の末尾にも、今回島根県に来たことが言及されていて、そのことも受賞理由の1つなのだろう。インドネシア側にも今回の活動が認められて嬉しい。

*1 島根は全国で最も高齢化・過疎化が進む地域の1つ
*2 インドネシア人は出国するのに高額の出国税がかかる。今回は芸術交流の意義や過去の実績などから出国税免除が認められた。
*3 古事記ではこの姫の名はクシナダ姫だが、石見神楽では稲田姫と呼んでいる。

そっと――翠の石室48

藤井貞和

うたよ悲しい歌をきょうだけは

うたわないで

落雷よ落雷くらいで暗くならないで(停電)

さぼてんくん

さぼてんくん何してんの

さぼってんの僕

この世からトロイメライ

「そっと、僕はもう行ってしまうんだ

そっとやってきたときのように

軽やかに手を振り

西空の雲へのお別れの挨拶にする

……」

「今だけは

悲しい歌……

(徐志摩を女性詩人だとして『言葉と戦争』〈大月書店〉に引いたのは、男性詩人だよって、デンニッツァから教えられた。ごめん。ああ早く再刊にこぎつけて直したいのに。「そっと……」の詩は『時の滲む朝』〈楊逸、このたびの芥川龍之介賞〉に出てくる、徐志摩の詩から。「今だけは悲しい歌(聞きたくないよ)」と、尾崎豊に痛みを覚える主人公。9月尽、西郷信綱さん逝く。追悼文を書いて僕も寝みに就こう。)

手紙

ぱくきょんみ

親愛なるみなさまへ

早いもので10月の声をききましたが、いかがお過ごしでしょうか。東京は長雨であまり月を仰ぐことも出来ませんでした。さる9月14日は満月の十五夜で,韓国では秋夕(チュソク)、秋の収穫をご先祖さまにお供えし、一族の健康と繁栄を祈る行事でした。韓国・朝鮮の嫁たち、母たち、娘たちはたいへんお疲れさまでした。

さて、11月カヤグム公演のお知らせをさせていただきます。
わたしが20年以上も学び、その世界に魅了されているカヤグム(カヤグム:1500年前に朝鮮半島南東部にあったカヤというクニで創作演奏された絃楽器)という韓国の古楽器があります。

伽?琴奏者の第一人者、池成子先生が日本に住んでいらしたころに出会って(国際交流基金主催のアジア伝統芸能の交流のしごとを通して)、それから韓国の伝統文化に目を開かれ、ぐいぐい惹かれてしまった、わたしです。池先生も還暦を迎えてから、本やCD製作にも力を入れるようになり、昨秋からカヤグム楽譜集の編集のお手伝いをしました。戸田郁子さんという在韓20年以上の作家が立ち上げた出版社、土香(トヒャン)の力を得て出版にこぎつけました。五線譜は専門の方に任せてもっぱら、民謡の解説、歌詞を日本語や英語に翻訳することの編集をしました。最後の2ヶ月は戸田さんと毎夜メールで通信する仲となり、海峡を越えたパッションを分かち合いました。そしてカヤグム楽譜集『池成子 カヤグム独奏のための南道民謡・雑歌 ソリの道をさがして』が上梓できたのは春の声を聞いたころでした。

その記念公演がケナリの花が咲き出すころにソウルであり、弟子として舞台にあがりました。が、民謡(といっても、叙事詩的な長い歌なのです)を歌いながら、カヤグムを弾くという15分ほどのプログラムを練習しても練習しても追いつかず、もうパニックの日々でした。(当日も「笑顔で歌いなさい」と助言されても、心身ともに硬直したままでした。)

その民謡のひとつが「ケゴリタリョン」。そのなかに、こんな歌詞があります。

  月よ 月よ 李太白も遊んだ月よ 
  今宵の月はことに明るい 
  男の思いを狂わせる

  月よ 月よ 明るい月よ 
  おまえはなぜそんなにも明るい
  おまえの姿は美しい
  輝いている星くずもおまえに似て美しいから 天の川もさみしがる
  七夕の日を待っていた牽牛織女に会えたかい
                          (白宣基訳)
 
編集者としては、タイトルの翻訳で、悩みました。「ケゴリ」とは「蛙」なのですが、池先生が「これはカエルの歌じゃないから」とおっしゃるのです。そう、この「ケゴリタリョン」の歌の中にカエルはまったく登場しないのです。全編これ、女と男の相聞歌の内容であり、とくに女の血潮がめぐりゆくような自然崇拝、生命力を讃える歌なのです。それなのに、何故この歌に「蛙」が掲げられているのか・・・

そうしましたら、詩人高良留美子さんの著作を通じて「蛙」は月の象徴であることを知り、どこかひとつ「つながった」ような気がしたものです。縄文土器の装飾に「蛙」が施されているのは、古代の月信仰と深くかかわることを知り、朝鮮半島のいわばディープサウスで歌い継がれてきた「ケゴリタリョン」に重なるイメージを感じました。うーむ、空の月を眺める気持ちも確かに変わってきました。

秋を迎え、明るい月を仰ぐ今日この頃に、この歌が口ずさめるようになりました。夏の練習もしっかりできて、カヤグムも愉しく弾けるようになりました。

長くなりましたが、わたしどものカヤグム公演のお知らせを添付いたします。
大井町きゅりあん小ホールは席数300足らず、小振りだからこそ絃楽器の演奏会にはうってつけの空間です。韓流ブームにとどまらず、朝鮮半島、アジア、広く世界の民族音楽に関心のある方がたにご紹介いただけることを願っております。

編集部注・カヤグム公演「ソリの道をさがして」の詳細は水牛だよりにあります。

オトメンと指を差されて(4)

大久保ゆう

最初は3回のつもりだったのがびっくり続くことになりましたので再度みなさまにご挨拶申し上げます大久保ゆうですこんにちはいえいえどうもありがとうございますといいますかこんな恥ずかしい文章をみなさまにさらしてもいいのでしょうかうんいいことにしておきましょうええそうですねみなさまもあまり気にしないでいただけるとありがたいです。

さて、今後のことも考えてあえて仕切り直しまして、再度オトメンのことについてしゃべってみたいと思います。第一回でも述べたように、たとえばオトメンは始終なよなよとしているような人のことを言うのではなく、むしろ普段はきりっとずばっとさくっと仕事(もしくはスポーツでも)をしてしまうような男の人で、でもなぜか普段の生活はとてもとても女の子の趣味に近いことをやっているという感じです。そこのところを間違えると大変なのであらためて強く強く主張しておきたいと思います。つまり表と裏があるわけですね。

自分を例に出して恐縮なのですがたとえば私の文章で言うと、仕事で出しているような翻訳や私のホームページに置いてあるような評論文、あるいは様々なところでする講演とか寄稿文だとかが表になります。何というか非常に真面目で落ち着いていて、私個人のことを知らない人はたいてい私のことを「女性」だと、あるいは「ある程度お年を召してどこか風格のある女性」を想像されるそうです。一方で面識のある人からはクールでクレバーな熱血漢と言われたこともあります。物腰柔らかで笑顔だけど心の奥底では何考えてるかわからないという評価もあります。「ふもっふ」と呼ばれたこともあります。少女マンガのお兄さんキャラがそのまま出てきたみたいな、というのもあったような。一定してませんが、いわゆるそういうものが表面になります。

そして裏面はこれです。

はい。ものすごく。違います。テンションが。全然。人によっては幻滅する人もいるんじゃないかと思うくらいです。わかりますわかりますそういう経験は幾度となくあります。書けば書くほどマイナスなんじゃなかろうかと悩むこともありますが基本的に悩みはくしゃみをするように一瞬で終わるようなタイプなので問題ありませんよ。

で、前回の終わりと繋げると、その表裏がひとつオトメンが恋愛対象になりにくい原因にもなってきます。オトメンの表面は、いろんな人を見る限り、「凛として」いたり、「颯爽として」いたり、「昼行灯だけどやるときゃやる感じ」だったり、そういうのが多いと思うのですが、確かに誰かに好かれることが多いかもしれません。しかしそれはやはりひとつの「憧れ」であって、あるいは「高嶺の花」であるのです。何というか遠くから恋慕されるというのでしょうか。そういう話が多い気がします。

……

そうすると積極的にアプローチはされないのでなかなか恋愛関係には至りません。たまたまこちらからアプローチしたとしても、基本的には表面に憧れて格好いいと思われ惚れられているので、裏面を知ったときの落差にがっかりするそうです。遠くから見ていた方がずっと格好いい姿をながめていられたのに、というわけですね。そんなこと言われても知りませんよまったく。……あるいは窮地に陥ったので憧れのあの人に助けてもらおうすごい格好いいありがとうでもいい想い出としてだけ胸の中に仕舞っておきますさようなら、みたいな。……ええ。ちなみに私の実体験とは何の関係もないので邪推しないでくださいね。

…………

じゃあ裏面はどうなのかというと、裏面で仲良くしている人は前回述べたように気安い友だちになるわけなので、そこから恋愛関係になって発展のしようがありません。結局どっちにしても難しい。誰にでも二面性はあるといっても、その差が激しすぎるということなんでしょうかね。好いたり好かれたりの関係よりも、オトメンには同じようなタイプのよき相棒の方がうまくやっていけるのかもしれません。

………………やれやれ。

あ、そうか。ため息も多いかもしれませんね、オトメンは。だからといって村上春樹的なものをオトメンだとか言い始めるととてつもなくややこしいというかそれはほぼ間違っているのが確実なので何ともいいませんが、逆にレイモンド・チャンドラー的なものはオトメンに近いかもしれないというか表面は果てしなくハードボイルドに接近している人も数多いのではないかと思うオトメン。文学的な話をするとフィッツジェラルドの小説はオトメンじゃないけど、チャンドラーの小説はオトメンで、チャンドラーの小説を格好いいとか思う人はオトメンじゃなくて、何だかわからないけどチャンドラーの小説みたいなことになってるんじゃないかと思えるような現実をくぐり抜けて表面的には何も見せないんだけど裏で苦笑したりため息をついたりするあたりがオトメンです。みなさんは何言ってるかわかりますかわかりませんね実を言うと私も何を言ってるかわかりません。

……なので、オトメン=新しいハードボイルド、とかそういう定義でいいんじゃないかな! じゃないかな! じゃないかな!

しかしそのため息は、どちらかというといわゆる男性のなかで囲まれているときにかなりあるような感覚があるのですが、それはまた次回ということで。

しもた屋之噺(82)

杉山洋一

今月初め、まず東京でジェルヴァゾーニが桐朋でワークショップやら作曲レッスンのお手伝いをしました。パリのコンセルヴァトワールで教えているだけあって、二日間にわたる文字通り的を得たレッスン内容に驚かされましたし、演奏の難しいジェルヴァゾーニの作品に熱心に取組んだ学生さんたちにも感激しました。最後の打ち上げで感動したジェルヴァゾーニは思わず涙までこぼし、帰りのタクシーでも、こんなに温かくもてなされたのは初めてだ、日本人が感情を表出しないなんて大嘘だね、なんと温かいのだろう、と繰り返していました。

慌ててミラノに戻った翌朝から、ローディの音楽祭のためドナトーニやバルトークのリハーサルが始まり、挙句の果てにブソッティの「マルブレ」では、相当怪しげなスピネッタまで弾いてシラを切るつもりでいると、あろうことか荘厳なインコロナータ神殿での演奏会の写真が新聞に載ってしまい後悔あとに立たず。

でも、今まで殆ど演奏されなかったドナトーニの「ソロ」と「アザール」は、誰もが息を呑む美しさで、ブソッティの「ソロ」を素材に作曲されたという「ソロ」など、楽譜も普通に書かれているし、もっと演奏に恵まれて然るべきだと思います。エスプレッシーヴォに盛り上げてゆく中盤、モダールにかそけく終わる終盤も秀逸で、もしかすると名作と目される「Etwas Ruhiger Im Ausdruck」より美しいかもしれません。

ピラミッド型に配置された演奏者が、各人それぞれ独立して、聴衆を丹念に観察しつつ演奏を進める「アザール」は、楽譜よりも会場にばかり目を凝らす演奏者の姿が滑稽だし、そこから生まれる乾きながらも、活き活きとした音響はドナトーニならではの明るさを放ちます。

それから間もなく、東京から戻った3歳になる息子はミラノの幼稚園に通い始め、現在朝9時から午後2時までは、ささやかながら拙宅には穏やかな時間が流れます。その合間、そして家族が寝静まった夜半から朝までを使い、明日から出かけるジュネーブ室内管との演奏会のために、武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」の他、モーツァルトの協奏交響曲やらサラサーテのツィゴイネルワイゼンを勉強し、本番の翌日からヴェローナでリハーサルが始まるメルキオーレの新作オペラを譜読みし、来月半ばパリの秋でのニーウ・アンサンブルとの本番ため、ペソンや今井さんや細川さんなどの譜読みに明け暮れていました。でも、前から譜読みしていたポゼのヴァイオリン協奏曲も、未だ頭に入っていないし、それを思うと頭と目がくらみそうになります。

折角なので、今月末ジュネーブの本番の後で原稿を書きたかったのですが、入稿が間に合いそうもないので、幼稚園で息子がポレンタ版砂遊びに精を出すあいだ、階下で家人がさらうブソッティの新作を遠くに聴きつつ、隠れるように書いています。

それら演奏会の顛末は来月にでも書ければいいと思いますが、今回「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を勉強していて、武満さんについて学んだことが沢山ありました。モダールな和音の連なりが織り成す音楽の方向性を丹念に紐解いてゆくと、そこに生まれる緊張と弛緩の関係には、明らかに機能和声上のドミナントやトニックを意識させるものもあり、逆に敢えてモダールの特徴を生かし、ニュートラルに響かせる空の部分もあって、その上に多層的に一見非調性的にひびく旋律を被せていることがわかります。

同時に、何度となく丹念に角を削りつつ、明快な繰り返しを避けつづけるモティーフ操作と、それに対峙する明快な再現部を鑑みつつ全体の尾根を俯瞰してゆくと、大学の頃、ただ無機質に分析するばかりだった武満作品の印象からほど遠い、思いがけなく幅広い豊かな世界、クラシックな意味でとても音楽的な呼吸が目の前に開けたのでした。

つまるところ、武満作品の魅力とは、根底の部分で誰もが享受できる作曲者のメッセージによるものだ、という至極当たり前の結論を痛感しながら、今回ソリストの今井信子先生に沢山教えて頂けるのをとても愉しみにしています。この経験は、来年ミラノで「ノスタルジア」と「地平線上のドーリア」を演奏するにあたり、良い肥やしになることを確信しています。

最近、こうして学生時分の自らの資質の低さに驚かされることが多く、自分が漸く理解できるようになったばかりのことを、未だ自分の半分くらいしか生きていない学生さんたちが、忽ちのうちに自らのものにしてゆく姿には、羨ましさを超えて、頼もしさにただ目を見張るばかりだったりするのです。

9月25日ミラノにて

「考える」旅の始まり

井上到

「テレビが言うことは、ぜんぶ嘘だよ」
ある日、そんなことを父が僕に言ったことがあった。なぜ父がそんなことを言ったのかはよくわからない。三〇年近くも前の話だから記憶は定かではないが、確か父は寝転がってテレビを観ていて、うしろにいた僕に聞こえるようにそう言ったのだったと思う。

もしかしたら、ただの気紛れや二日酔いかなにかの不機嫌さのせいで、父はそう言ったのかもしれない。あるいは、いつもテレビで得た知識を鵜呑みにして話す僕や、テレビから無闇に垂れ流されるさまざまなくだらないことにうんざりしたあげくにそう呟いたのか。いずれにせよ、既に父は他界してしまったし、生きていたときもそんな些細なことを訊いたりはしなかったから、今となってはその真意を知ることはもう出来なくなってしまった。

多少は不機嫌だったかもしれないが、父がそのとき放送されていたテレビの番組に、直接腹を立てて言ったのではなかったのは覚えている。だから、テレビに対してそう言ったのか、僕に対してなのかすらもよくわからないままに、僕はうしろ姿の父からその言葉を受け取ったのだった。あまりにも何気なく受け取ってしまったから、言い返すこともその意味を訊くこともしなかった。簡単に聞き流せるような言葉だと、迂闊にもそのときは判断したのかもしれない。

額面どおりに受け取れば、間違っているのは明らかだと、そのときの僕は思ったのだった。どう考えてみても、「テレビが言うことは、ぜんぶ嘘」なわけはないし、誰だってそんなふうに言われれば、「そんなわけはないよ」と苦笑するだろう。しかし、表面的には間違っていたからこそ、その言葉は僕に「考える」ということを強いたのだった。僕の内部で反論を呼び、その反論がまた別の考えを生んで、頭の中での議論が始まったのだっだ。まるで堂々巡りのように、ひとつの答えが出てくれば、すぐさまその答えに対しての別の考えが浮かんで来る。そうやってその言葉は、僕の内側で出口を失い、吐き出せないままに永遠にとどまってしまっている。いや、そうやって永遠に閉じ込めてしまうことで、いまではなにかしら真理に近づけるように感じているのだから、むしろ自分で意識的にそうしたのかもしれない。

ただ、その言葉でなければいけなかった理由には、父の言葉を永遠にとどめたかったということもあるのかもしれないと、いまの僕はそんなふうにも思う。叱られたのでも注意されたのでもない、真実を語ったのでも、忠告されたのでも、文句を聞かされたのでも、愚痴を言われたのでもない、そして警句でもないそんな何でもないようなその言葉が、いつの間にか僕が父から受け取ったいちばんありがたい言葉になっていったからだ。

この言葉を僕は実によく思い出す。いや、思い出すというほどにも忘れられないでいる、と言ったほうが正確かもしれない。噛んでも噛んでもなくならないスルメみたいに、それはずっとどこか僕の中にある。そして、考えれば考えるほど、この言葉の中にいろんなことが含まれているように思えてくる。テレビのことだけではなく、父のことも、母のことも、それから世の中のさまざまなことさえも、その中にあるように思えてくる。まだまだ考えることがたくさんあるのだが、考えたひとつの結果として、ある日、僕はこの言葉の中に「見えるものだけを信じてはいけない」という意味を見つけたのだった。だがそれは、単なる始まりにしか過ぎなかった。どこかに到達したというのではなく、ただ「考える」という旅がこれからも終わりなく続いていくことが、決定的となっただけだった。

この先それがどこへ到達しようとも、父から受け取ったこの言葉が出発点であることには変わりがない。僕以外の人にとってはほとんど何の意味もなさないだろうし、父もそんなことを言ったなんて、とっくの昔に忘れてしまっていたはずだけれども、うしろ姿の父から受け取ったこの言葉が、僕にとっては何にも換え難い父からの贈り物となったのだ。そしてそれは、僕の頭の中にある薄暗い空間のなかの何やら湖のような黒い水たまりの底に、まるで澱のようにこれからもずっと静かに横たわり続けるのだろう。穏やかで平和な風景をときどき波立たせるために、それはいつまでもそこに存在し続けるはずだ。

メキシコ便り(13)

金野広美

音楽で満たされ、楽しかったなかにも苦難のアルゼンチンの歴史を思い起こさずにはいられなかったサルタからいったんブエノスアイレスに戻り、チリのサンチャゴに行きました。サンチャゴまでは飛行機で2時間足らず、夕方には着きました。飛行機から降りると、雪をいただいたアンデスの山々が美しくそびえていました。それにしても寒い。まるで冷蔵庫の中にいるようで、急いでホテルに向かいました。

サンチャゴの街は旧市街と新市街に分かれ、名所旧跡は旧市街に多いのですが、街の中心は新市街に移り、旧市街のほうは夜10時を過ぎるとひっそりしてしまいます。その日はたいした観光もできず、眠ってしまいました。次の日、キラパジュンの歌で知ったイキーケに行きました。イキーケはサンチャゴから飛行機で3時間足らず、バスだと24時間かかる、チリ北部の街です。19世紀に内陸部から産出する硝酸塩の積み出し港として繁栄した港町で、今では漁業が主要産業となっています。

空港に着いた時は、サンチャゴとのあまりの違いにちょっとびっくりしました。というのはここの空港の周りは一面砂漠で何もありません。でも乗り合いタクシーで30分も走ると美しい海岸線の続く街が見えてきました。街の中心はメルカード(市場)で郊外へのバスが頻繁に出ていきます。

その日は到着が遅かったので次の日、イキーケから45キロ東にあるハンバーストーンとサンタ・ラウラに行きました。ここは硝酸塩の産出が盛んだった頃に300あまりあった硝石工場で、今ではゴーストタウンになり、世界遺産に指定されている所です。ハンバーストーンには3700人、サンタ・ラウラには870人の住民がいたそうです。広い範囲に工場や学校、劇場の跡が残り、当時の繁栄がしのばれました。しかし砂漠の中に残る赤さびた廃墟は、やはりうらさびしいもので、色とりどりの民芸品を並べたみやげ物屋だけが妙に突出していました。

次の日はバスで3時間のマミーニャというところに評判の温泉があるというので行ってみました。メキシコではお風呂といっても風呂桶がなく、シャワーだけの生活が何ヶ月も続いていたので、温泉ときくと気持がグラリと動いてしまうのです。ここは真っ黒の泥を体中にぬり、太陽にさらしながら歩き回り、最後に温泉で流すというものなのですが、周りからまる見えで、試してみる勇気がわきませんでした。仕方がないので湯だけの風呂に行きましたが、何と日本の温泉とは似ても似つかないものでした。小さな個室にお湯の入っている穴と堅い木のベッドがあるだけ。これで1時間300円。うーん、安いのか高いのかわからないまま、湯につかりました。しかし中は湯かげんも丁度でとても心地よく、すっかりリラックスしてしまいました。

次の日の朝、ホテルの近くの港に行ってみました。たくさんの露天が出て、とれたての魚をさばきながら売っていました。ティブロンという白身魚の全長2メートルはあるものは1キロ400円、コングリオというのはアナゴなのですが、身が厚く白身魚のようなもので、1匹100円、アルバコーラという白身魚も束にして売っています。この他にもたくさんの貝類など、実に種類が豊富で、近所の人たちが買いにくるのか、よく売れていました。港の中にあるレストランでアルバコーラが食べられるというので、注文したところ巨大な唐揚げが出てきました。朝からこれはちょっと食べられないと思い、店の人には悪いのですが、衣を全部はがして食べました。柔らかい白い身がホクホクしてとてもおいしかったです。

このようにイキーケの街をいろいろ楽しんだのですが、最後にキラパジュンが歌っていた事件のあった場所に行ってみたいとガイドのエステバンに聞くと、多くの人が殺されたサンタ=マリア小学校は、メルカードの前にあったそうです。今では別の建物が建ってしました。メルカードは朝8時前から夜12時すぎまでひらいていて、とてもにぎやかに人が行き来し、昔の悲惨なできごとを思い起こさせるものは何も残っていませんでした。次の日、暖かいイキーケから再び寒いサンチャゴに戻りました。

サンチャゴは東西約40キロ、南北約50キロにわたって市街地がひろがり、歴史が集約された旧市街には、1973年ピノチェットによる軍事クーデターでアジェンデ大統領が死んだモネダ宮殿をはじめとして、チリの歴史を知るうえで欠かせない博物館などが集中しています。モネダ宮殿は、ちょうど何か政府の催しがあるとかで見学できませんでしたが、国立歴史博物館をはじめ、プレコロンビア芸術博物館、サンチャゴ博物館、国立美術館と4か所回りました。私にとっては国立歴史博物館で見たイキーケのデモの様子を写した一連の写真と、軍事クーデターの勃発を伝える当時の新聞の生々しさが、強く心に残りました。

また一方、今回サンチャゴに来たらどうしても見ておきたい場所がありました。それはビクトル・ハラが殺されたスタジアムでした。地下鉄のエスタシオン・セントラルから歩いて5分のところにそのスタジアムは「エスタディオ・ビクトル・ハラ」と名前をかえて建っていました。そしてここの館長のルイス・カルデナス・キンターナさんに中を案内してもらいました。椅子席が4000という広さのこのスタジアムに、クーデター当時5000人が拘束されたそうです。柔和なお顔できれいなスペイン語を話されるルイスさんは52歳、彼も当時ここにビクトル・ハラとともに押し込められたひとりだそうで、ビクトル・ハラが坐っていた椅子、暴行を受けた場所、息をひきとったところなどを指し示しながら、ハラが9月11日に閉じ込められてから虐殺される16日までの6日間の様子を詳しく話してくださいました。ここでは800人から1000人が殺されたそうで、ハラの最期についても今までいろいろな本を読んではいましたが、実際にその現場を前にして、あまりにも悲惨すぎる生々しい映像が頭の中をめぐり、思わず顔をおおってしまいました。

そのあともルイスさんとチリの新しい歌の運動のことなどをいろいろ話しながら、私がハラの代表曲「耕す者への祈り」が大好きで、日本語で歌っていたというと、ぜひ聞かせてほしいといわれ、事務所のみんなの前で歌いました。ルイスさんは「日本語はわからないが、とても美しい言葉だと思う。あなたの歌もすばらしい」とほめてくださいました。そして「もう一度サンチャゴに来て、今度はスペイン語でも聞かせてください」といわれ、帰ったばかりにもかかわらず、また行きたくなり、次は南の方も回ってみようかな、などと考えている私です。

ペルーでの話(2)

笹久保伸

ペルーの場合基本的に白人系は裕福でそれ以外の多くは貧しい。インディヘナ、黒人には差別、偏見もある。家を助けるために幼くして働き始め、学校へ通えない子供、教育を受ける環境に育たない人々はとても多い。そんな人々のために募金、寄付金が他国から贈られることもあり、学校が建ったり、物のプレゼントが届いたり、古着が届いたり、様々なことが起こる。それらはNGO団体や企業が行うことも多い。

自分がペルーで見たこと、体験したこと
ある企業のペルー支店の社長と偶然話したときの事
「いや〜、今から楽器を小学校に寄付しに行くんだが、君ギター弾くならちょっと一緒に行ってプレゼントして、少し弾かない? しかしここの人はあんな安い楽器で、すっごく喜ぶんだからね、はっはっは、君、一緒に行ったら神様みたいに思われるよ。」

ある団体が田舎の村やジャングル奥地に学校を建てる、しかしそこで教える先生がいない。そこまで教えに行く先生がいない。学校を建てた人はそこまで考えたのだろうか?

貧しい人々に古着が届くと、確かに着る人もいるが、それを売る人のほうが多い。

ある団体から、ペルーでチャリティーコンサートを企画して、君が演奏し、その収益をペルーの貧しい地域に寄付しようと持ちかけられたことがある。そもそも、ペルーで寄付金を集めようという事自体が疑問だった。普通に考えれば、日本でそれらのイベントを企画して、その収益を送ったりする。のちに、そこで集まった収益を旅費にし、ギャラにしよう、と話がだんだんおかしくなり、もちろん参加をやめた。

どの出来事にも言葉がつまった。

製本、かい摘みましては(43)

四釜裕子

東京・高輪のギャラリー・オキュルスで、渡辺啓助さんの七回忌に寄せて開かれた『W.W.W. 長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男』展(2008.5.17-31)のために作られた冊子に、渡辺兄弟の四男・渡辺濟(わたる)さんの2つの句集が写真で出ている。ひとつは、ホッチキス留めした和紙の束に句を書いた紙と写真をひと見開きずつに貼り、青の厚手の和紙を表紙としてかぶせ、「限定一部 其一番 昭和五十三年 盛夏」と記された『うめぼし』。「蟻誘ひ 空を翔ばんと 梅の種子(たね)」、その左に、路に転がるまっ赤な梅干しの種を照らす強い日差しの写真、といった具合で全10篇が並んでいる。もうひとつは、長兄である啓助さんが濟さんの句のなかから好きなものを選んで自筆で和紙にしたため、やはりホッチキスで留めた『螻蛄の会』。いずれもあまりに簡単で小さな句集だが、なんて妬ましいほどあこがれる「本」であることだろう。

渡辺濟(1912-2002)とは「日立の赤ヒゲ先生」の異名を持つ内科小児科の開業医で、通所施設「太陽の家」の運営にも尽力し、句や絵画、写真に親しんだ。植字工や観光バスガイド、古本屋など8つの職業を持つ8人になりすまして自筆で句集をまとめたり、病院の休診日には路上で靴磨きをしたり、逸話多き人物であるらしい。長兄の啓助さんは推理作家、次兄の温さんも推理作家で編集者だったが1930年に27歳で事故で亡くなっている。この3兄弟を偲ぶ展は、啓助さんの四女で画家でありギャラリー・オキュルスのあるじである東(あずま)さんが、夏の海に飛ぶ3羽のカモメにW.W.W.の文字を見て、「あの3人の精神の冒険家達」の展覧会をと思いついたものだという。冊子のあとがきには、とりあげる作品の選択においては濟さんのものが一番思い悩んだとあり、「父が好きで口ぐせのように言っていた『知られずして、すでに忘れられた詩人』を地でいったような人物であった濟は、書くことへの懐疑をもち、心の奥深いところで文学を否定しているところがあり、芸術への疑問の迷宮の中で右往左往しているようにも見えた」とある。

ホッチキスで留めたあまりに好ましいかたちに、初めて自分で原稿用紙に詩(みたいなもの)を書いた日を思い出した。ちょうどいま時分の季節だったのだと思う。見上げた空に動く雲をみつけた。空は車庫の屋根と母屋の屋根と林檎の木の枝に枠取りされていて、右から左へ動いたので体の向きを変えればそうは見えないと思ったのかぐるぐる回転したがやっぱり雲は動いており、ほんとうに驚いた。葡萄棚をくぐって両親の部屋に入り姉のために用意されていたのであろう原稿用紙を棚からこっそり抜き取ってまた戻って空を見上げ、動く雲をいま一度確かめて「雲が 動いた」と書いたのだった。そのあとになんと書いたのだったか使った原稿用紙は2枚で、恥ずかしくて後ろめたくて2階に上がって机のひきだしに隠した。しばらくして、原稿用紙の枠外にタイトルと名前を書き足して二つ折りして重ねてホッチキスで留めた。またしばらくして、今度は画用紙を表紙代わりに巻いてのりで貼り、表に「詩集」と書いて隠した。隠したモノはいつしか忘れて、探すこともなく失せた。あれは私の初製本だったのかなと思った。

9月は追悼月

高橋悠治

9月11日マリアのための追悼コンサートで『なびかひ』を弾く
691年に人麻呂が書いた詩によるピアノ曲
中嶋香の委嘱で書いたが 自分で弾くのは初めて
1972年にもおなじ詩でチェロと男声合唱のための『玉藻』を書いた
その時は青木昌彦の妻・石田早苗を悼むために
夫を喪った妻のうたを妻を喪った夫のために引用するのは
男は女でもあり 女も男でもありうるからだろうか

最近は休止符を書かない楽譜をためしている
音と音の間が 不連続でもあり連続でもあるように

9月19日から21日までシアターイワトで『トロイメライ』の初演
シューマンのピアノ曲でもあり如月小春の戯曲でもあった
少年と少女 それに地球をかかえた『人類』という設定は如月小春のもの
物語はアンデルセンが初めて書いた童話『雪の女王』から
いくつかの詩は如月小春の別な戯曲から
詩の引用を含むテクストは彼女の戯曲にもとづくが
如月小春のためによんだ弔辞の引用でもある
音楽はシューマンからはじまり それが即興のなかに崩壊し
最後に原曲が再生する
飛び降りて死んだ少年を死の国から日常によびもどす少女のように

即興ははじまりと終わりのフレーズの間にあり
ちがいがきわだつように 無自覚な連続や反復を抑制する以外の
規則も共通のスタイルもなく

26日と28日は東京と大阪で柴田南雄の十三回忌コンサートがあり
そこで山田百子と『歌仙一巻 狂句こがらしの』を演奏する
ヴァイオリンとピアノは前半と後半の終止以外には同時に演奏しない
引用を交えたソロが交替する連句構成

連句形式の厳格な規則はともかく
付けと転じによる予定調和のないプロセスは
ちがうものがちがいをのこして協力する関係をつくりだす
芭蝉の作法は 最少限の音の配置から遠い空間を想像させる
極小の政治学

オトメンと指を差されて(3)

大久保ゆう

甘いもの = 必須要素

――QED、宇宙の真理、もののことわり。

以上、今回のお話終わり。

……

……というわけにもいきませんね。

かくして今回はスイーツの話なのですが、その前に私にとってなぜ甘いものが大切なのか前もって説明せねばなりません。

甘いものが必要なのです。甘いものがなければ生きてはゆけないのです。これは私にとって重要であるとともに頭脳を酷使する翻訳家にとっては不可欠な要素なのです。ずっと(8〜10時間くらい)頭を使って作業をしていると、頭が痛くなります。重くなります。しんどくなります。しかしそれでも仕事やら何やらをしなければならないときがあります。そんなときには甘いものを食べたくなるのです。食べると頭の痛みも取れるのです。少し元気になるのです。昔はその回復剤が餃子でした。食べると頭が楽になるのです。しかし仕事をするようになった今、餃子をそうやすやすとは作れません。換気扇を回してコンロをつけてフライパンに油を引いて冷蔵庫から餃子を出してフライパンに載せて表面に焼き色をつけて水を少量入れて蒸し焼きにして水気を飛ばして皿に盛らなければならないのです。そうすると時間がかかって頭まで切り替わってしまって仕事どころではありません。だから私は翻訳をしながら甘いものを食べますチョコを口に入れますバームクーヘンにかぶりつきますケーキをほおばりますゼリーをすくいますお饅頭をかじりますシュークリームを味わいますクッキーをかみ砕きますパイをもぐもぐしますそうするとなぜか出てこなかった訳語がぱっと出てきてすごいふしぎまあなんてすばらしいんでしょうあははいひひうふふえへへおほほ。そうしているうちに以前より好きだったお菓子がもっと好きになり部屋の中で食すだけには飽きたらず、仕事なんてそっちのけでスケジュールを計画的に調整して仕事を早めに切り上げて外のお菓子屋さんに買いに出かけたり食べに行ったりすることになります。なるんです。正直甘いものでも食べないとやってられませんよ。

というわけで言い訳完了(読み飛ばし推奨)さて本題です。

以上の通り私が甘いものを必要とするのは証明されているので、仕事がせっぱ詰まってて外出たくないよとぐずっててもスイーツ食べられるところに行こうなどと言われたら二つ返事でOKします(安い)。

つまるところ、世の女性がスイーツを三大栄養素の上に置くように、オトメンにとってもスイーツはそのような位置づけになるのです。よって、そのために日々働き、日々行動します。

しかしながら、女性とは違って、オトメンが洋菓子店なりカフェなりのスイーツを置いているお店に行くときには、さまざまな困難がいまだつきまとっているのです。

たとえば、私の例を紹介すると、ひとりで行くときはだいたいテイクアウト、複数で行くときはイートイン。そんな感じです。ですからお店のなかで食べるときは、誰かと一緒に行かなければならないわけですね。

同行する人には男性も女性もいるのですが、たとえ異性とケーキを食べに行くときでもそれはデートではありませんっていうかイートインは神聖なものなのでそんな不純なものではないのですとオトメンは声を大にして言いたい! 世の中の女性でオトメンな彼氏が自分以外の女の子とケーキを食べに行ってそれを浮気だとか何とか言って怒っている人がいたらその人は即刻考えを改めるべきです!

オトメンにとっては「ケーキを食べに行く」ことが大事なのであって「女の子と一緒に行く」ことは別に大きなことではないのですよ! その女性はお友だちのひとりです、もしかすると男性のお友だちよりも(趣味や嗜好の点で近く)気安いお友だちかもしれません。なのに、浮気? あ な た は ス イ ー ツ の 大 切 さ を わ か っ て い な い。なのでそこを規制するとオトメンはその不寛容を嫌がって逃げてしまうので注意してくださいねオトメンを彼氏にしているorしたいと思っている方々。

ってゆうかそもそも一緒に食べに行く人は、すでに彼氏持ちの女の子が多いんですけどね。だからその逆も多い。世の中の男性は、彼女がオトメンと一緒にケーキ食べに行ったからといって怒ってはいけないわけですよ。ケーキ目当てでしかないんですから。そこのところをよく理解すべきであります。

だってなかなか男の友だちで一緒にケーキ食べに行ってくれる人なんていないわけじゃないですかだからオトメンにとってケーキ行脚につきあってくれる女の子の友だちはありがたいわけなのですが、そこにもまだまだ無理解と不寛容による障害が多くて、オトメンとスイーツとの関係はまだまだ良好とはいいがたいところがあるのです。(悲しいな。)

それにイートインにひとりで行けという意見には与しがたいです。だって、イートインはそこでスイーツやら恋の話やらのおしゃべりができて、なおかつお互いに食べてるスイーツを交換とかできるのですよ! ちょっと食べてみる? うんみるみる、みたいなやりとりをするためにあるわけじゃないですか。それなのにひとりで座ってても楽しくないです。

そもそもその女の子が彼氏の方が好きなのは、食べに行った先での話でよおく知ってますから。それくらい惚気を聞いてますから。ね。心配ご無用ですよほんと。あと、オトメンが「モテてる」と誤解していらっしゃる男子の皆様、もう本当に全然そんなことないですよ。確かに女の子の友だちは多いですけどね、でもみんな友だちですよ。友だちが多いってことを「モテる」とは言いませんよね。あくまでもオトメンは、女の子にとって「物わかりのいい男友だち」であることが多いのです。

それはそれで少し悩ましいところもありますが、それとこれとは別の話。

というわけで、三回とも「オトメンはつらいよ」というようなお話で終わってしまったのでした。(でもこれで、オトメンの生態を少しでもわかっていただけたら、筆者としてもとっても幸いです。終わり。)

八月、ニーブターとR&Rの日々

仲宗根浩

八月になってへそのあたりが赤く腫れてきて、できものになった。ニーブター(できもの)は八月七日(旧暦七月七日)の墓掃除に行く前つぶれ、テンプス(へそ)に絆創膏を張る。絆創膏を張ったあとは、最近ごぶさたしていたCD鑑賞ばかりの状態が続いた。きっかけは久しぶりに買ったブツ、チャック・ベリーのチェス・レコード時代のコンプリート集で五千枚限定の四枚組。もうリアルタイムの音楽にはほとんど興味がなくなっている。

音源もダウンロードで購入する世の中、欲しいものはカタログに無いしデジタルのファイルよりちゃんとケースや紙ジャケットに入ったブツがいい。この盤の情報を得て国内で販売されているか調べると二万七千円! おいおい、アメリカのレーベル直販のオンライン・ショップでも送料込みで八十三ドル弱だぞ。すぐさまレーベルのショップでカゴの中へクリック。二週間くらいしてブツが来ました、ブツが。ケースは四つのトレイを折り畳むようになっている。畳んだあとは開かないよう、ファイル入れのように紐を巻きつけて、と凝っている。英語のブックレットに使われている写真は当時のもの。チャック・ベリーが持っているギターはギブソンのESー350かなあ、でもピックアップはシングルコイルのPー90のもあるから1955年以前のモデルか? 映画の「Hail Hail Rock’n Roll」で音合わせの時、エリック・クラプトンが使ったもの? などとギターの本を調べ、DVDの写真で確認したりしながら聴く。ライヴ音源でテンポがおそい、いないたいシャッフルで演奏される「Roll Over Beethoven」、クレジットを見るとカウント・ベイシーがバックをやっている。映画「真夏の夜のジャズ」でも同じ組み合わせがあるそうだが、記憶がない。R&B歌手のバックも数々行っていたベイシーだけど、チャック・ベリーの8ビートについていけてない演奏。他にはバックヴォーカルにマーヴィン・ゲイの名前を見つけたりと楽しい。しかしこの五十年代の音源、チャック・ベリーのギター、相棒でピアノのジニー・ジョンソンの演奏、音ともいい。当時のチェスがいかに洗練された音をつくっていたかがわかるし、スタイルも多様。ただ、ただ、かっこいい。チャック・ベリー、1926年生まれだから大正十五年、六月に亡くなったボ・ディドリーは1928年生まれ昭和三年。ほとんど親と同世代だ。

幸福な音にひたった八月も二十四日にエイサー大会が終わると、やがて涼しくなった。窓から入る風も違うし、雲の形も変わった。昼もクーラー全開でなくても過ごせる。そうすると高校野球、お盆、オリンピックが遠くにいってしまった。

翡翠/非行――翠の石室47

藤井貞和

  翡翠庫1

翡翠庫に瑠璃さえや濡れ、まぼろしも
笛竹はかなき 音(ね)をぞ置く
無知のゆめよ、あとみせて
打つわらべ ゑゐ!

  翡翠庫2

翡翠庫にきみは追われ、せめても
ねむりのなかへと歩け。
つゆさえやぬらし、うそぶく巷
世を吠えろ ゑゐ!

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそえ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

  非行詩

なにかを拾得するふたり、
阿部「おや、これで飲むぞ!」
裕己「万札よ、ええわ、もらい!」
ぼけはね、血抜き責め ゑゐ!

(いろは歌は古く「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ〈えe〉 つねならむ うゐのおくやま けふこえ=yeて あさきゆめみし ゑひもせす」と、〈えe〉がはいっていたのが、eとyeとが同音になった結果、落ちてしまって四十七文字という、はんぱな数になったという学説がある。そこで念願の四十八文字からなるいろは歌(ならぬ自由詩)に仕立ててみる。さいごの「非行詩」は実話で〈時効だろう〉、むかし友人の阿部好臣と兵藤裕己と三人で酔っぱらっていたら、雨で濡れた一万円札を拾ったので、それで深夜映画を観てあさまで飲んだことがあり、痛切にいま反省する作品である。)

製本、かい摘みましては(42)

四釜裕子

南青山の「Rainy Day Bookstore & Cafe」で八巻さんといっしょにやっている製本ワークショップの2回目は、ポストカードを綴じて革表紙で仕立てる、というものでした。このカフェは片岡義男さんのポストカード・ストーリー(はがきサイズ1枚の表に片岡さんの写真、裏に短いエッセイが綴られたものが20話)なるものを刊行していて、その中から好きなものを選んで綴じ、またこのカフェで開店当初から続いている革のワークショップで教えている原田さんにご協力いただいて、切りっぱなしの革を表紙にしたのです。”ポストカードをコレクションする愉しみと読むという素敵な体験をあなたに”と銘打たれたポストカード・ストーリーに、”綴じる愉しみ”を加えました。

かがりかたは、藤井敬子さんがNHKの「趣味悠々」でも紹介していた「ライトステッチ」。このかがりかたはしばらく前から藤井さんの作品に見てきたけれど、本文がグズグズしなくて、天地に糸がきれいに並んで花布のように見えることなど、機能的で美しいのです。コツは革表紙と本文の間に1枚の紙(支持体)をはさむことで、なるほどなあと思いました。肝心の革とかがり糸は、原田さんがご用意くださいます。テーブルに水牛や山羊のしっかりした革と原田さん手染めによるカラフルな麻糸がたくさんたくさん並んだときには、ああ私も参加者になって選ぶのを楽しみたい、そう思いましたねえ。

参加のみなさまには、先に革を選んでもらいます。革をまっすぐ切るのはむずかしいので、今回は原田さんにお願いすることにしました。その間、中身を仕上げます。片岡さんのカードから好きなものを選び、順番を考え、つなぎ合わせて、本文を揃えます。厚さを測り、それに合わせて支持体となる紙を切り出し、本文にかがり穴、支持体と表紙の革に切れ目を入れたら、蝋びきした麻糸で革と支持体と本文をいっきにかがっていきます。次の折りにうつるときの最初のひと針の位置を気をつければ、糸の運びは簡単。糸を左右によくひいて、きりっと結びます。

ここから先は、自由に仕上げます。表紙裏に紙を貼るもよし、その紙を装飾するもよし。革ボタンをつけるもよし、紐でくくるもよし。これまた原田さんがご用意くださった「Rainy Day」の焼き鏝をあてるもよし。紙や革を切り抜いたり、支持体のかたちをそもそも変えたり見返しを貼ったり……。こうしてばらばらに仕上がっていくのを見るのが、一番うれしい。そうして全員が完成したのは5時間後、だったでしょうか。その間、おいしいコーヒーで休憩したり、片岡義男さんがこっそりいらして、八巻さんが製本した片岡さんの詩集を参加の皆様に手渡してくださったり、それで急きょサイン会+握手会になったり。私としては、漉くのが苦手で遠ざかっていた革に別の角度から触れられたことも、大きな悦びだったのです。

13のレクイエム ダイナ・ワシントン(3)

浜野サトル

  
人の心の奥深くには、闇の部分がある。そこに何ものが隠されているか、他人には知る由もない。それどころか、覗き見することさえできない。いや、当の本人だって、闇の存在に気づかないということだってあるだろう。

15歳でデビューしてからのダイナ・ワシントンの物語は、一見すると単純きわまるサクセス・ストーリーである。まずは、天賦の才を認められ、ゴスペル界のトップ・クラスのグループの一員となった。ゴスペルでは物足りなくなってジャズに転身すると、またもその才に注目する人物が現れ、ジャズ界きっての人気バンドにスカウトされた。バンドでの活動はレコード会社が目をつけるところとなり、レコード・デビュー。すると、レコードは好調なセールスを記録し、ダイナはスターの座へとのぼりつめた。

ここで注目しなくてはならないのは、そうしたサクセス・ストーリーの背後にあるダイナ自身の強烈な意欲だろう。どんな意欲か? ベッシー・スミスとビリー・ホリデイをアイドルとし、エセル・ウォーターズからも強い影響を受けた彼女のパフォーマンスは「黒人音楽」という河で育まれたものだ。しかし、彼女自身は、「黒人音楽」という枠の中にとどまることを望まず、人種や階層を超えて支持されるビッグ・ネームであろうとした。
そのことは、まさしく「黄金時代」と呼ぶしかない1950年代中葉から60年代初頭にかけてのダイナのレコーディングに見事に反映している。

ダイナのマーキュリー/エマーシーとの契約は1946年から61年まで続いたが、その初期からカントリーやポップスのナンバーを多く手がけている。万人が認める代表作の1つ『縁は異なもの』にしても、取り上げられた曲のほとんどはポップ・チューンだし、伴奏も堅物のジャズ・ファンなら顔をしかめるだろうストリングス入りのオーケストラだった。

1962年にルーレットへ移籍してのちもこの傾向は変わらず、ビング・クロスビーの「夕陽に赤い帆」や「ザッツ・マイ・ディザイアー」のようなありふれたレパートリーが目立つ。彼女自身の生き方をタイトルにしたような『ドリンキング・アゲイン』(62)では、トーチ・ソングが多く歌われている。
ありふれた曲に新しい生命を吹き込むのはジャズマンの多くが得意としてきたことだが、彼女の場合はそれとは少し方向が違っていて、白人が好む曲を歌えば白人の聴衆からの支持を得られるはずだという野心の存在が大きかったと感じられる。

野心だけではない。その野心を実現させていくためのエネルギーも猛烈だった。ルーレットでのレコーディングは翌63年までの2年足らずの期間だが、残されたアルバムは7枚もある。ダイナはまさしく「猛烈に働く人」でもあったのだ。

  
猛烈な勢いで働き続けるダイナのエネルギーは、当然ではあるが、生活の別な面にも向けられていた。まずは、ファッション。ゴスペルからジャズへと転身していって人気を博した10代後半、彼女はすでにかなりの高給とりだったが、給料の前借りの常習犯でもあった。ほしいと思ったら、がまんできない。そんな性格のために、ドレスや靴(ダイナは靴マニアで、200足持っていたといわれる)の請求書が山のように押し寄せていたのだ。
事実がどうなのかはわからないが、ドレスの値段が700ドルだったか7000ドルだったかで諍いとなり、ダイナが相手に銃をつきつけたというエピソードもある。

ファッションへの過剰な投資がきらびやかな表舞台での出来事であるとしたら、その裏側ではアルコールとダイエット薬品への耽溺が確実に進行していた。1958年、ダイナは酒代の不払いで逮捕されたことがある。出演していたクラブでステージがはねたあとに飲んでいた酒の量が並みではなく、出演料をはるかに超えていたのだ。
それだけのアルコールを摂取すれば、当然の結果として身体は太りがちになる。しかし、それではせっかくのドレスがだいなしになる。それで手をつけるようになったのが、ダイエット薬品だった。どんなダイエット薬をどの程度摂取していたのか、具体的なデータは何も残されていないが、酒量が増えるのに比例してダイエット薬の摂取が多くなっていけば、命を削る結果になるのは目に見えている。

しかし、ダイナは自分を制御しようとはしなかった。彼女は、自分の思うがままに生きようとし、事実そうした。その生き方は典型的な「破滅型」とも見えるが、必ずしもそうとばかりはいえないだろう。むしろ、彼女は自分に嘘をつくことができない気質だったのではないか。自分が望むことは常に正しいことだと認め、それを押し通した。
そのことは、ダイナの結婚生活にもあてはまる。

わずか39年で終わった生涯の中、ダイナは8度の結婚をした(9度という説もある)。最初の相手はジャズマンで、これは若くしてショー・ビジネスの世界に入った女性にはありがちなことだ。しかしながら、その後の結婚相手の職業は牧師の息子、俳優、プロ・フットボール選手など多彩である。子どもがいろいろなおもちゃに気をとられるように、顔つきやスタイル、人格だけでなく、属する世界も異なるさまざまな男たちへの好奇心が、彼女を駆り立てていたのだったろう。
結婚生活上の倫理観にも頓着しなかったダイナは、8人の亭主以外にも常に数え切れないほどの男たちを恋人として連れ歩いていたらしい。

  
1963年12月14日、ダイナは突然に倒れ、そんな奔放な生活に幕をおろした。直接の死因は心臓麻痺だったが、引き金になったのは酒とダイエット薬を一度に多量に飲んだせいだった。
皮肉な事実がある。不意の死におそわれたとき、ダイナはダイエット薬を必要とする身体ではなかった。棺におさめられた彼女の体重は、わずか27kgだった。

(了)

※参照=『The Complete Dinah Washington on Mercury

しもた屋之噺(81)

杉山洋一

8月の東京は本当に久しぶりのことで、どんなに暑いかと覚悟をしていましたら、思いのほか過ごしやすい毎日です。昨日でジェルヴァゾーニの音楽会もおわり、桐朋で彼の作曲のレッスンの通訳をしてミラノにもどります。東京シンフォニエッタも都響も、毎日すごく楽しく練習することができました。こんなに情熱をもってみなさん取組んでくださるのだな、と、どの練習でも内心とても感激しておりました。本番中は客席には聞こえていなかったとはおもうのですが、いつも曲の最後、拍手の前に、思わず、ブラボーと声を出していました。練習でもそうでしたが、毎回確実によりよい演奏になってゆき、前に通したときより、ずっと音楽的に深くなっているからです。当り前じゃあないか、と笑われそうですが、何しろ演奏とは水ものですから、何がおきても不思議ではないのです。だから、こうして演奏会が最高の演奏になるのは、一緒に演奏していると何より嬉しいし、さすがにプロだな、見事だなと感嘆しました。

サントリーのように、大きな音楽祭でも、演奏者や指揮者をはじめとして、舞台の裏方のみなさんや、事務局やマネージメントのみなさんが、同じベクトルにむかって仕事をしている実感も貴重な体験でした。また、東京シンフォニエッタでは、高校から同級だったチェロの宇田川さんがいたし、都響にもチェロの富永さんやヴァイオリンで同級の嘉門さんが乗ってらしたし、まだ大学生のころ、始めたばかりのCMの仕事でご一緒したチェロの松岡さんから、一緒にヴァイオリンを習っていたスギゾーさんが連絡とりたがっていたよと伺ったりとか(ご両親が都響でした)、ヴァイオリンの遠藤さんから、大学時代、学生ホールでよくお会いしましたね、と声を掛けて頂いて、ようやく誰だか思い出したり(すっかり立派になられて!)、こういう懐かしい出来事は、気持ちがとてもほぐしてくれます。

テーマ作曲家、ジェルヴァゾーニも大きな成功をおさめたようで、演奏者として少しほっとしているのですが、それにしても今回、カスティリオーニは最初から最後まで悪戯好きだったようです。手書きの巨大な印刷譜は、都響の一番大きな「スーパー・ノビルくん」なる譜面台からもはみ出す大きさで、ミラノから荷物を預ければ積み忘れで成田に届かず、泣く泣く空港からそのまま東京コンサーツで、縮小コピー譜を用意していただき、その日一日製本につぶれてしまったり、あの重たい楽譜を衣装カバンに無理やり詰めこみ毎日練習に出かけていたら、本番前日から腰の辺りがすっかり痛くなり、本番中それは酷い思いをさせられたり(結局今は桐朋の保健室からコルセットを借りているありさまです)、いざ練習を始めてみれば、パート譜とスコアが全く違い、どうやら作曲者は初版のあと、あまりに演奏が難しかったためか、弦楽器パートを大幅に変更してあり、舟歌と題された二つの楽章にいたっては、副題もNenia(挽歌)とすげ替えられ、管楽器、弦楽器がほとんど削られていて、切り詰めた練習時間のなかの貴重な初日は、殆ど練習になりませんでした。

実は妙な予感がして、カスティリオーニははじめから、まずパート譜を見たいとずっとおもっていて、夏前、リコルディに打ち合わせに行った際、カスティリオーニのパート譜を見せてくれないか、ちょっと気になるから、と販促部のアンナマリアに話したところ、もうとっくに送っちゃったわよ、何度も演奏されている曲だから心配ないって、と笑ってとりなされてしまった挙句の出来事でした。

ああ、東京くんだりまで来ても、このイタリア流いい加減さに翻弄されるものか、とさすがに恨めしくもおもいましたが、GPのあと、東コンの垣ヶ原さんが、「あのカスティリオーニは素晴らしいね!」、と上気して話してくださったのを聴いて、ああ本番も頑張らなければと、痛む腰をおさえつつ、気持ちを少しリセットすることができました。

何といっても、都響の演奏のお陰なのでしょうが、演奏会後、湯浅先生をはじめ、皆さんが口を揃えて「カスティオーニは凄い作曲家だね、良かったねえ」、と話しているのを聞いて、うれしいようなびっくりするような、妙な心地でした。何しろ、生まれてこれまで腰痛なんて全く無縁だったはずが、本当に腰が痛いわけですから。

ミラノを発つ数日前、互いに忙しい譜読みの合間に、無理やり時間をつくってエミリオのところを訪ねました。そのとき、彼が5月だかにドイツで演奏した作品の録音をかけて、「これが誰の作品だかわかるかい」と悪戯っぽく笑いました。
メロディアスで、質感は打楽器が多用されていてキラキラ輝いています。でも、それはフランス風なポリッシュな手触りではない。即座にイタリア人だということはわかりました。マデルナかしらん、でも聴いたことがない。「音の質感、色感はカスティオーニなんだけどね、知らないな」、というと、満足げに大きく頷き、「その通り、これはカスティリオーニなんだ。最初期でね。完璧なセリエールで書かれているのに、この美しさを聴いておくれよ!何とすばらしい作曲家なんだろう。間違いなく、これから彼はどんどん再認識されてゆくに違いない。これ程の作曲家にはなかなか出会えるものではないからな。お前もInverno In-Verしっかりやらなきゃだめだぞ」、と。

8年前のちょうど同じころ、8月初めだったと思います、あの年は思いがけなく暑い夏でしたが、同じように家族をヴァカンスに送り出したエミリオと2人きりで会い、ベランダの大きな食卓でプロメテオの楽譜を二つならべてケンケンガクガク打ち合わせをしていたことを思い出します。今回ミラノを発った17日は、ちょうど8年前、ドナトーニが息をひきとった日にあたります。あれから8年。長いような、短いような、まるで時間軸が崩れて4次元の世界をみているような、妙な感覚に陥ります。ただ、17日に日本を発つと聞いた瞬間から、きっと今回の日本滞在はドナトーニがみていてくれるだろう、と一種の安心を覚えたことも確かです。彼の曲は全く演奏しないのに、都合のいいことですが。

もっとも、9月4日にミラノにもどり、翌日朝から7日にあるローディの現代音楽祭のため、殆ど演奏されることのないドナトーニの2作品、弦楽器群のための「Asar」と「Solo」のリハーサルが始まりますが、とにかく今回安心して演奏できた精一杯の感謝の気持ちをこめて演奏するつもりです。今頃あちらでカスティリオーニとドナトーニは何の噂話をしていることか。

都響の演奏会前、控室でいつもにこやかな垣ヶ原さんの声が弾みました。
「今回、2人の作曲者はこのあたり、12番の席に座っていますから、それぞれ演奏が終わったら呼んでくださいね。エエト3曲目のときは……、呼ばなくても、上から自分で勝手に降りてくるでしょうからご心配なく! ということで、じゃ一つよろしく!」

(8月31日三軒茶屋にて)

メキシコ便り(12)

金野広美

ブエノスアイレスから夜行バスで18時間、イグアスの滝に着きました。ここはアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの3国にまたがるイグアス川が大小あわせて約300もの滝となって流れ落ちています。まずアルゼンチン側から「悪魔ののどぶえ」と名づけられている所に行きました。ここは大轟音とともに流れ落ちる滝を間近で見ることができます。やはり噂通りの迫力に圧倒されました。まるで凶暴なトラが咆哮しながら人間を奈落の底に落とし込んでいくように大量の水が流れ落ちていきます。滝壺は水煙が立ち上り、全く見えません。しかしその恐ろしげな白い奈落から一筋の美しい虹がのびていました。それはまるでその虹をつたって早くよじ登っておいでといっているようなやさしさに満ちていました。

次の日、ブラジル側からも見てみようと国境越えをしました。こちらは「悪魔ののどぶえ」をはじめとして多くの滝を遠景から見ることができます。歩道橋がイグアス川に張り出すようにつくってあるので、細かい水しぶきで全身濡れながらも、たくさんの滝に抱擁されたようなとてもいい気分になりました。人はよく両方の景観を比べ「アルゼンチン側の方が迫力があっていいよ。こっちを見ればじゅうぶんだよ」と言いますが、私はやはり部分と全体の関係のように両方見ないとイグアスの滝を見たことにはならないのではという気がしました。

ブラジルからアルゼンチンに戻り、今度はパラグアイへ行きました。国境の街シウダー・デル・エステはブラジルやアルゼンチンにも頻繁にバスが行き来し、闇マーケットがあるため安い品物を求める人でごった返していました。私のパラグアイでの目的はここから41キロの所にあるイグアス市の移民資料館を訪ねることでした。パラグアイの日本人移民については知らないことはないという園田さんに案内してもらい体験談も含め、いろいろ話を聞かせてもらいました。パラグアイで日本からの移民が始まったのは1936年、1200人が入植しました。日本政府の「少しがんばれば豊かな作物が実る土地が自分のものになる」という宣伝文句を聞き、希望に胸ふくらませてやって来た人たちが連れていかれた所は、うっそうとしたジャングルの中でした。みんなテント生活をしながら、木々を倒し、それらを焼き、畑をつくり、作物を植えました。しかしイナゴの大群にやられ、そのイナゴを食べて飢えをしのいだこともあるということでした。そういえばコスタリカで知りあいになった宮城テツコさんもパラグアイに10歳のときに家族に連れられて入植し、10年間イナゴの被害にもめげずがんばったそうですが、結局パラグアイでは食べられず、アルゼンチンに移ったそうです。今では洗濯屋を営みながら、息子のアキラさんと暮らしています。彼女たちとはブエノスアイレスで会い、カルネアサードをごちそうになりましたが、パラグアイでの筆舌に尽くしがたい苦労話をいろいろ聞かせてもらいました。

このように大変な移住生活がパラグアイではあったようですが、しかし今では野菜の栽培に成功し、特に大豆はもともとパラグアイにはなかったものでしたが、今や強力な国際商品になっているということでした。現在パラグアイには6000人の日本人がいるということですが、ここでの悩みも高齢化で、若者たちはサラリーのいい、豊かで楽しそうな日本に行きたがり、そしてそのまま戻ってこないというケースが増えているそうです。結局、村に残るのは老人と子供。まるで日本の農村と同じ状況がここパラグアイでもありました。イグアス市の日本人居留地は赤土の畑が広がっている何もない、静けさだけがある所でした。食料も日本食材が何でもあるので、もう少しゆくりしていきたかったのですが、このあとアルゼンチンフォルクローレのメッカといわれているサルタに行きたかったので先を急ぎました。

ここではアルゼンチンのバスの便についてはわからないので、とにかく国境だけは越そうとパラグアイの首都アスンシオンのバス停まで行きました。サルタ行きはフォルモサという町から出ているとのこと、3時のバスに乗り4時間、フォルモサに着いた時はサルタ行きはとっくに出てしまい、やむなくここで一泊しました。イグアスを出たのが朝の7時、フォルモサに着いたのが夜7時。すっかり疲れてしまい、その夜は爆睡してしまいました。次の日の夕方5時にサルタ行きに乗り、着いたのが朝の7時、予想はしていましたが長かった――。

サルタはブエノスアイレスから1600キロ。ブエノスアイレスがタンゴのメッカなら、ここはアルゼンチンフォルクローレが盛んなところです。町中どこからともなくフォルクローレの音楽が聞こえてきます。着いた日の夜ペーニャ(フォルクローレが聞けるライブハウス)が集まるパセオ・バルカルセと呼ばれる一画に行きました。完全に歩行者天国になっていて、一晩中各ペーニャやレストランではいろいろなグループが歌っています。その中のひとつに入り、チャンゴ・デ・サルタという男性3人組の骨太の歌を聞きました。次の日はアルゼンチンが生んだ「フォルクローレの巨人」といわれているアタワルタ・ユパンキの生誕100年祭のコンサートが街の中心にある7月9日広場の前のテアトロ・プロビンシアルでありました。2500人は入る会場は無料ということもあるのでしょうが、満杯でした。ゆかりの人たちがユパンキの思い出を語り、マリーナ・カリーソやトーマス・リパンが歌うユパンキの作品を堪能しました。彼の代表作に「トゥクマンの月」というのがあります。これはアルゼンチンに軍政がしかれていた時期、ユパンキが故郷に帰れず、フランスで望郷の思いを込めて作った曲だといわれていますが、私はこの曲が大好きで、長年トゥクマンに行ってこれを歌いたいと思っていました。トゥクマンはサルタから5時間のところにあるコロニアル建築が残る美しい街だそうです。

しかし、バスの便が悪くて時間に余裕がなく、行くことができませんでした。でも、このコンサートの最後に会場も含めた全員で「トゥクマンの月」と歌いましょうという司会者のよびかけに、心をこめて一生懸命歌いました。歌い終わった時、隣に坐っていたヘクトル・モラレスという初老の男性が話しかけてきました。彼もユパンキが大好きだそうで、ユパンキやアルゼンチンフォルクローレ、果てはチリのフォルクローレの話になり、キラパジュンやビクトル・ハラも好きだ、と言ったとき、何だかとてもうれしくなりました。私がメキシコでの生活について話すと、彼もメキシコに5年間いたそうで、おまけに私の家の近くだったためローカルな話で盛り上がってしまいました。そしてなぜメキシコにいたのか聞いた時「亡命していたんだよ」とさらりと言われ、一瞬時間が止まってしまいました。アルゼンチンでは1976年ホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領が指揮する軍事政権が発足、国内のペロン(元大統領のフアン・ドミンゴ・ペロン)支持派や左翼勢力を弾圧したため、3万人が姿を消したといわれています。彼もこの時アルゼンチンを出たそうで、メキシコ、ボリビアで暮らしたといいます。今では柔和な年金生活者といった風情の彼は私をホテルまで送ってくれ「いい旅をしてくださいね」と言ってくれました。そんな彼の背中を見送りながら、これからの人生がどうぞいつまでも平安でありますようにと祈らずにはいられませんでした。

ペルーでの話(2)

笹久保伸

ペルーに住んでいた頃、多くの日系ペルー人と知り合った。ペルーには戦前から日本人が移民しており、首都のリマはもちろん、アンデスやジャングル奥地にまで日系人が住んでいる。リマには日秘文化会館という建物もあり、日本語教室、日本風食堂、コンサート、様々な活動をしている。たまに文化会館で出会う日本人移民一世の人と話すのはとても楽しく、自分の励みになった。中には戦前に移民した人もいて、戦前移民は話し方や価値観なども当時のまま、彼らの口から聞く日本は自分が育った日本とだいぶ違い、自分にとってはタイムスリップした感じすらした。

移民した人は本当に苦労した、アマゾンの密林で木を切り、土地を開拓し農業を始めた人、アンデスで農業をした人、その仕事は様々だが、当時の苦労は日本ではほとんど紹介されていない。なぜだろうか。

日系人の中には元大統領のアルベルト・フジモリが有名だが、音楽界で活躍した日系人もいる。クリオージョ音楽のアベラルド・タカハシ・ヌニェス、アンデス音楽ではルイス・ナカヤマ・アクーニャ、アンへリカ・ハラダ、現地の音楽に大きな影響を与えた。その他にも詩人、画家でも数人いる。

移民して70年間ペルーで過ごした石井治子さんは私がリマで企画したほとんどの演奏会に聴きにきてくれた。リマ郊外のスラム街でのイベントの時もきてくれて、いつも一番最後まで拍手をしてくださる。石井さんは宮城県出身で、20歳の頃ペルーへ渡った。実家は旅館をされていたそうだ。ペルーというなれない土地で暮らすのはとても大変だったそうで、お会いするたびに色々な話をして下さる。日本での思い出、ペルーへ来た頃の話。当時は飛行機ではなく、船でペルーまで来たので何ヶ月もかかった。船内で亡くなった人の亡骸は海へ葬られたり、その過酷さは計り知れない。「住めば都」という言葉はあるが、実際はどうだったのだろう。まったく知らぬ土地、親戚もなく、言葉もわからず、いじめられたり。

私が何かで悩んでいたときは、絶対にあきらめない精神を教えてくださり、人間関係で問題があったときは「負けて勝つ」(一歩引き、一見負けたように振る舞い、本当は負けない)と言う事を教えてくださった。自分より70年間長く生きている石井さんの言葉は重く、無条件に心の奥底まで届いた。石井さんの持つ強い精神にはいつも驚かされ、話しをするたびに、自分の苦労などは全然苦労ではない、と思わされる。あの精神を見習わなくては、といつも思いながら、そう簡単にできる事ではない。

アンマンのチャリティ

さとうまき

意外かもしれないが、ヨルダンは、夏でも冷房を使うことはない。太陽はぎらぎらと照りつけるのだが、風は乾き、日陰には、ひんやりとした空気がとじこめられている。

ヨルダンの首都アンマンに、僕たちは、事務所を借りているのだが、バルコニーがやたらと広く、夏の間は、パーティーをするのにもってこい。そこで、レストランをオープンすることになった。シェフは近所に住んでいるイラク人のおばさん。子どもがガンで治療のためにイラクを逃げ出してきたのだが、お金がなくてこまっている。そこで、日本人の友人などに声をかけて、チャリティ・ディナーを行なっているのだ。「おいしいイラク料理が食えてビールものめる」そんな店はアンマンにはないのだ。イラク料理のお店は町にはあるが、ヨルダンはイスラム国なので、酒がでない。そのためか今までにも4、5回やって、好評。客は4、5人でも、毎回、2万円ほどカンパしてくれるので、イラク人にとっては、生活費の足しになる。

しかし、いつも同じメンバーが集まってくれて、NGO関係者なんかの安月給から、お金を集めるのも気の毒。日本大使や、商社などのもっと余裕のある人が、チャリティに参加しやすい催しものをと考えて、アラブの楽器ウードをBGMにと思いついた。そこで、ヨルダンの画廊に行けば、イラク人の芸術家が集まっているので、誰か紹介してもらおうとふらりと訪ねる。

しかし、残念なことに、なかなかボランティアでやってくれるミュージシャンがいなく、ヨルダン人の画廊のオーナーと話しているうちに話が盛り上がり、子どもたちが絵を描いてそれをチャリティオークションにかけようという話になった。その会場で、イラクのおばさんたちが、ちょっとしたたべものをケータリングすれば、日本大使なども来てくれるだろう。あるいは、イラク人のビジネスマン。これもとっぷりと稼いでいる人たちがたくさんアンマンに住んでいる。
早速、僕は、イラク人がやっている会社を回ってみた。しかし、なかなか、そういうチャリティには関心がないみたいで話がからみあわないのだ。

事務所のバルコニーが幼稚園のようになり、ガンの子どもたちが集まってくれた。イラク人の画家も指導に来てくれる。こどもたちは大騒ぎ。しかし、出来上がった作品をみるとにどれだけお金を払ってくれるかは疑問。売れるような感じにしようと私もいろいろ入れ知恵しているうちにどんどんひどくなって自己嫌悪。。

ガンの患者たちは、期待に胸を膨らませ「僕の絵がいくらで売れるのかなあ」と聞いてくる。

実は、同じようなイベントを1年前イラク人の画廊のオーナーが企画しイラクビジネス協会も協力したが、未だに絵が売れたのか売れていないのかも知らされていないという。画廊がネコババしたというより、売れないのだ。ともかくオークションに人が来てくれないと話にならないので事務所のカトーくんも、アンマンの新聞社とかを回って広報に勤める。幸い紹介の記事ものり、当日会場には、日本人の友人も含め40人くらい来てくれた。イラクのTVも三社取材にきて、一枚の絵に1000ドルをつけたビジネスマンもいて、10枚の絵は完売。なんと一夜にして5500ドルを集めることができたのである。
そして、イラクでTVを見たという医師から連絡が入る。
「今晩、アル・フラTVで絵画展のニュースを見ました。カトー君がアラビア語で一生懸命このプロジェクトの目的を説明し、如何に患者を助けようとしているかを語っていました。イラクの子どもたちに対する支援を本当にありがとうございます。本当に本当に、私たちは、イラクのためにイラク人以上に親切で、献身的にイラクを助けてくれているあなたたちに出会えました。」

正直、ここまでお金が集まるとは思わなかったので、驚きだ。図にのった私たちは、次はコンサートだ! イラク人のウードに合わせて、カトー君がアラビア語で詩を読む夕べを開催しよう! と大張きり。患者の家族たちもバスの中で和気あいあい。次に作るお菓子のことなどを話し合っているのだ。

世の中には2種類の金持ちがいることを痛感。まずは、本当にお金にしか感心のない人、そして、お金に執着はないものの金儲けの才能がある人だ。前者は、本当に!ビジネスの話にしか関心がなく取り付く島もない。後者は画廊のオーナーのように、ビジネスで稼いだ分で芸術家を育てたり、人道支援に寄付をしたりしている。後者の友達がたくさん増えるとうれしい。国際貢献のための軍隊の派遣とかが言われる昨今だが、お金をかけるよりも、日本大使とか外交官の現場でのチャリティ参加も実は大切。お歴々には他の国と比べ恥ずかしくないような立ち居振る舞いを期待したい。