夏の労働

高橋悠治

毎年 夏はどこにも行かず はたらいている ひとが夏休みでも こちらは秋のシーズンの準備でいそがしい 7月に韓国楽器と西洋楽器のアンサンブルのために『夜の雨がささやいて』を書き 次に打楽器のための『コヨーテ・メロディー』 打楽器とピアノのための『花の世界』と『打バッハ』を書きおえて8月なかば それからいままでに書いたさまざまな うた21曲を集めたソングブックのために楽譜を清書し 一部は作りなおしているうちに8月がおわった 9月に上演する『トロイメライ』の台本は書いたが音楽はこれから 演奏者のことを考えると かなりの部分が即興になるだろう

という状態で ふりかえってみると こんなにたくさん作曲していても 作品として完結したものはすくなかったことに気づく じぶんで演奏するためか あるひとのうたいかたや 楽器のひきかたを想像しながらつくっているし うたわないときも 詩のことばが杖になっていることもおおかった 既成の音楽を引用することもある それもそのままではなく フレーズの途中からだったり メロディーの輪郭だけだったり 

作曲をはじめた頃は 考えている音楽と西洋楽器の音色がちがいすぎて どんな楽器を選んでいいか わからなかった メロディーが上にあり 低音が支え あいだに和音がつまっている という西洋の安定した空間もいやだった オーケストラや室内楽の標準的な編成のための音楽を いまさら書いてもしかたがない と思う 
むしろ 支えをはずす低音 思いがけないアクセントでつまづかせるリズム 高みに あるいは深みに漂う翳り に誘われ 軌道からはずれて さまよいだすメロディーを

ブレヒトの詩に作曲したことがあったが 伴奏する楽器を思いつかなかった その1曲だけは『7つのバラがやぶに咲く』というヴァイオリン曲のテーマになったが 他の曲はなくしてしまった こんどの『ソングブック』にいれたもののなかにも メロディーだけの曲がいくつかある 楽器を指定していないものもある あるメロディーをめぐって それぞれの楽器がついていったり 距離をとってみたり アラベスクを即興で編みながら ひとつの場をつくる そんなことを想像してみる

なにか新しいもの いままでなかった音の発見は 書きとめておく だが 書けないもの その時その場でしか起こらないこともある 作曲でも即興でもない音楽 興味をそそるのは 未完成のまま放置されたもの 反対に 廃墟のように摩滅し穴だらけになったもの 三味線のように制約のおおい楽器 連続し高揚する運動ではなく 一音一音のあいだに静寂が煙っている薄明りの時間

オトメンと指を差されて(2)

大久保ゆう

「ブランド物」――ああ何という甘美な言葉。そして世の女性はこの言葉にいつも惑わされる――と思ったら大間違いでオトメンも同じように魅惑されその虜になります。何言ってるんですか当たり前じゃないですか。

女の子がブランド物にきゃあきゃあ言うのが、とっても楽しそうで嬉しそうで、うらやましくてしょうがないんだけど、男の子とブランド物は縁遠い世界。なかなかそういうお店はそこかしこにないし、あったとしても若者が気軽に行けるような場所じゃなかったり。

しかし近ごろ、その現状を打ち破ろうとする動きがあるというではありませんか! それこそ我らオトメンが待ち望んでいたもの――「メンズ館」なのです!

つまり、地下から一番上の階まで全部メンズもので占められるという何という楽園、何というユートピア、何というテーマパークでしょう!(違います) もうそんなものが存在すると聞いただけで鼻血が出てしまいますね!

このブランド志向のメンズ館、2003年の新宿伊勢丹のリモデルに始まって、2006年には名古屋の名鉄、そして2008年、ついに大阪に阪急メンズ館が登場! 各地にオトメンの聖地が生まれつつあるのです!

ですが、女の子のブランド物というと、結構すぐ思いつきますよね。服のほかには、化粧品だとかバッグだとか、ジュエリーもそうですし、靴とかもそうです。でも、もちろん男の子が化粧品とかバッグだとか、ジュエリーを持つわけではありません。(てゆうかたぶん欲しがりません)

じゃあ、いったいどんなものをブランド物というのでしょう? いちばんわかりやすいのは、きっと「スーツ」でしょう。アルマーニやダンヒルと言えば、かなりの人が知っているのではないかと思います。エルメネジルド・ゼニアあたりになると、ちょっと難しいかもしれません。

いつかブランドスーツを格好良く着こなす中年になるんだ! という気持ちが私にもあるのですが、そんなふうに男性向けブランドは「大人」の雰囲気が強いので、女性のブランド物とは違って、若い頃にたくさん持つ、というイメージはまだありません。他にブランド物を挙げてみると大人っぽいものが多いのですが、スーツは終着点としても、小物系のブランド物から始めて徐々にゴールへ近づいていくものでもあります。

たとえば、懐中時計なんかは若いうちでもアクセントとして、あるいは背伸びして持てますよね。例のメンズ館には、英国のブランドであるところのダルビーの懐中時計を取り扱っていたりして、もはや垂涎の何とか、だらしなく言うとヨダレが出ちゃいます。

あるいは名刺入れでも灰皿でも、日常で必要な小物をブランド物にしてみる、っていうのはポイント高いです!(オトメン的に) また、小物のうちでもかなりレベルが高いのは「カフス」ですッ! カッターシャツの袖を止めるためにつけるカフリンクス、一種のボタンのことですね。

今ではカッターシャツはそのまま袖にボタンがつきっぱなしですが、昔はカラーもカフスも本来取り外せるもので、今でもそこが紳士のお洒落のポイントでもあるのです。特に銀のカフスなんかあれですよ、見た瞬間に目が奪われて、欲しいぃぃぃぃぃッぅうわふへぉそ!! なんて勝手に興奮してしまいます。(頑張って声には出しません。妄想にとどめておきましょう。でもたぶん外から見たらニヤニヤしてるので間違いなく気持ち悪いと思います。)

ええと、つまり、普通の百貨店では一階に女性向けとしてジュエリーや時計があったりするわけですが、その代わり、メンズ館にはカフスや懐中時計があったりするわけですね。もうたまらんですよこれは。なかなか二階とか上がれないですよ。よくできてるなあ百貨店の構造は。

他にも嗜好品として葉巻なんかもあるのですが、そういうブランド物への欲望をよくわかってるオトメンを恋人にしたら、じゃあよくわかってるからワタシ(女の子)にブランド物をしっかり買ってくれるのでは! なんて期待しちゃう人がいるかもしれないのですがいやいやそんなわけないじゃないですか自分だって欲しいんだから他人に買うお金があったらそれで自分のためのブランド物買いますよっていうかたとえばブランド好きの友だちの女の子がその子のお金で自分にブランド物買ってくれるかどうか考えたらそんなことないってすぐわかりますよね。うん。残念でした。

なので同じ価値を共有しているからといって男女として仲良くやっていけるかどうかはまた別なのです。友だちにはなれるかもしれないんですが。ってゆうかだいたい友だちになれます。むしろ女の子の友だちの方が多いくらいです。

というわけで、次回は女の子とオトメンが友だちとしていちばん盛り上がれるもの、「スイーツ」(お菓子)のお話です。

藁――翠の石室46

藤井貞和

真っ白な、

石室に、

ひすいがさしこむ。

出られない藁が、

沈んでいる、まったく。

(すみません、コンピュータの不調で、身動きできないなんて。きのう、きょうを出られない藁です。)

夏バテ冷蔵庫

仲宗根浩

用事があった那覇から車での帰り、嘉手納基地のフェンスにある横断幕の広告に目がとまる。「アメリカフェスト」の文字。嘉手納基地は、独立記念日に合わせて基地を解放していた。二本ある四千メートル滑走路のうちの一本が駐車場となり、展示している配備された戦闘機、たくさんの出店、バンドが演奏するステージ。九月十一日を経験して以降、行われなくなっていたとおもう。しばらくするとテレビでCMもするようになった。入場口が国道沿いの臨時ゲートからとなっている。帰りの渋滞、日陰の無い会場、コンクリートの照り返しの暑さを想像したら行く気が失せる。以前は「カデナカーニバル」と言っていた。カーニバルに行ってはいけない、と学校の先生は言っていた。沖縄返還、基地撤去、先生方はデモのため授業がしばしば半ドンになった頃の話。

相変わらず携帯電話を持たないでいると、息子は学校の携帯電話所有調査で本人もしくは家族が携帯電話を所有していない唯一の人、という栄誉に輝いた。パソコンでのメールのやりとりも減り、月に数回あるかないか。自らホームページ、ブログなど立ち上げることなど全然興味無く、もっぱら眺め、知り合いのブログにコメントでたまに茶々を入れる程度だったが、友人の余命数ヶ月、他連絡お願いします、とのことで突然にメールのやり取りが頻繁になる。入院先はこちらから千五百キロも離れた首都圏。沖縄から九州、入院先近辺に住む連中へ病状を一斉送信し、その後見舞いに行ったものからの報告やそれに対する返信などやり取りしていた。最初の連絡を受けて二週間後、三十年来の友人はあっけなく逝った。

学校は夏休みに入り颱風は近くまで来るもそんなに雨は降らすことはない。陽に照らされた建物、空、入道雲の変わらない風景。暑い中、十年目の冷蔵庫は壊れ、実家からクーラーボックスを借り、氷を買い中に入れ、冷蔵庫の中のものを移し、新しい冷蔵庫を買いに行く。購入の条件はサイズ、その日うちに配達可能かどうか。新しい冷蔵庫は問題なく家には来た。そういえば以前も冷蔵庫は確か夏に壊れた。もう、今年の夏は壊れるものはうないだろうか。

13のレクイエム ダイナ・ワシントン(2)

浜野サトル

  
ダイナ・ワシントンの一生は、ヘレン・モーガンとほぼ相似形である。

大きな違いは、もちろんある。まずもって、ヘレンが白人であるのに対し、ダイナは黒人だった。生年も、1900年のヘレンに対し、ダイナは1924年と、24年の差がある。何より、北のカナダ生まれのヘレンとは違い、ダイナはアメリカの深南部で生まれた。音楽的環境という意味では、人種と生地の違いは決定的といってもいい。

しかし、それでもこの二人は似ている。酷似している。育った家庭環境もそうだが、伴侶としての男を常に求め、しかし満たされることなく、失望と失敗を繰り返した。その点が何よりも似ている。

ダイナ(本名=ルース・リー・ジョーンズ)は、アメリカのアラバマ州タスカルーサの出身だ。深南部のこの町で暮らしたのは実質的にはわずか3年で、一家は北部のシカゴに移住した。理由は単純である。ダイナの父親はどうしようもない酔いどれで、ほとんど家に寄りつくこともなかった。そのままでは、暮らしは成り立っていかなかった。時、第一次世界大戦のまっただなか。一家は、仕事を求めての黒人たちの大移動にまぎれこんで、北部に移り住んだのだった。

ヘレンとその母が同じようにシカゴへ移り住んでから、ほぼ四半世紀。しかし、シカゴはやはりアメリカ随一の急速に発展する工業都市だった。移住した黒人たちの多くは、ここで工場労働者としての新しい生活を身につけた。

しかし、ダイナの母、ミセス・ジョーンズは、北部の新興都市にあっても、故郷でのライフ・スタイルを守り抜いた。それは、「教会中心の生活」である。

ミセス・ジョーンズは、敬虔なクリスチャンであると同時に、教会のピアニスト兼聖歌隊の指揮者でもあった。母は娘にピアノを教え、母子は教会で一緒に弾き語りをした。

ダイナはまだ少女だったが、歌の才能はすでに万人の認めるところだった。その才能に最初に気づいた母は、すぐにダイナを歌の教師につけた。その教師が語っている。「ダイナの歌はまぎれもない本物でした」

ただし、教師はつけ加えた。「ダイナは、男の子の誘いにすぐに乗ってしまう女の子でした。教会で牧師の説教を聞いていても、男の子からの誘いがかかると、そのまま教会を出ていってしまうのがいつものことでした」
ダイナ・ワシントンの後半生の悲劇は、すでに少女時代に始まっている。

  
1940年、15歳になったダイナは、シカゴのロイヤル劇場で開かれた歌のコンテストに出場。第一位を射止めた。
同じ年、ダイナはゴスペル・シンガー、サリー・マーティンのグループに引き抜かれ、プロとしてデビューした。サリー・マーティン・シンガーズは全米でも初の女性だけのゴスペル・グループで、のちにゴスペル界最高のシンガーと呼ばれることになるクララ・ウォードもここにいた。

翌41年、ダイナはゴスペルには飽きたらず、母が「悪魔の音楽」として忌み嫌ったジャズに惹かれるようになっていた。彼女はジャズ・シンガーに転身する決意を固め、シカゴのナイト・クラブで歌うようになった。

ビリー・ホリデイのマネジメントをしていたジョー・グレイザーがそんな彼女に目をとめ、42年、ドラマー、ライオネル・ハンプトンのバンドのオーディションを受けさせた。ライオネルは彼女の声に一目惚れ、いや一聴惚れし、バンドのシンガーに採用した。「ダイナ・ワシントン」という芸名を得たのは、このときである。

ベッシー・スミスとビリー・ホリデイを終生のアイドルとしたダイナの歌は、ブルースそのものではなかったが、ブルース・フィーリングにすぐれ、たちまち広く注目を集めた。1946年にはマーキュリーとの契約ができ、レコーディング活動が始まった。

初期の彼女の歌唱は、いまも『The Complete Dinah Washington on Mercury』などで聴くことができる。洗練にはほど遠いが、心に響くものがあるというのが、この時期の彼女の歌に対する一般的評価といっていい。もともと積極的な性格だった本人も歌い手としての力には自信満々だったようで、電話がかかってくると、開口一番、こう言ったというエピソードが残されている。「ブルースの女王、ダイナ・ワシントンです」

マーキュリーでのセールスは順調で、ダイナは次々に録音を重ねていった。それはまた、ダイナが次第にブルースそのものから遠ざかる過程でもあった。40年代の終わりにはガーシュインの作品を録音しているし、50年代に入るとハンク・ウィリアムズのカントリー&ウェスタン・ソングやポップスも歌うようになった。レコード会社の方針あってのことだったろうが、ダイナ自身、この頃から「黒人社会を超えて評価されるシンガー」を目指していたのだと思われる。

そのことは、ダイナのステージ・パフォーマンスにも反映していた。ダイナの派手好きはよく知られるところで、「女王」の名にふさわしい豪華な衣裳が彼女のトレードマークだった。金髪のかつらをつけてステージに出るのも、いつものことだった。

1950年代半ばになると、ダイナはすでにジャズ界最高のシンガーと呼ばれるまでになっていた。彼女の代表作『アフター・アワーズ・ウィズ・ミスD』や『縁は異なもの』の録音は54年だが、これらのアルバムでは絶頂期に達した彼女の充実した歌が堪能できる。

しかし、歌い手としてスターダムにのぼっていく過程はまた、彼女自身が酒とダイエット薬品に溺れていく過程でもあった。ついでにいえば、「男」とのトラブルも絶えなかった。

絶頂期を迎えてから約10年、ダイナ・ワシントンの一生は暗転へと向かう。

(続く)

※参照=『The Complete Dinah Washington on Mercury

メキシコ便り(11)

金野広美

7月3日、メキシコ・シティーのメトロポリタン劇場でチリのフォルクローレグループ、キラパジュンのコンサートがあり、前から2番目の席がゲットでき、聴きにいきました。彼らは1970年、チリにおいて、世界で初めて選挙による社会主義政権が誕生するための人々の意識をつくったヌエバ・カンシオン(新しい歌の運動)の担い手たちで、1973年、ピノチェットによる軍事クーデターの時に、たまたま外国公演をしていたため、アジェンデ大統領やビクトル・ハラのように殺されずにすんだ人たちでした。30数年前、彼らが京都に来たとき初めて彼らの歌を聴き、「エル・プエブロ・ウニード・ハマ・セラ・ベンシード」(団結した人民は決して負かされることはない)というスペイン語の掛け声とともに歌うその力強い「不屈の民」に感動し、私はラテンアメリカ大好き人間になってしまったのでした。そしてそれが嵩じて今ではメキシコでスペイン語を勉強しているわけです。

3200人は入るというその劇場はほぼ満員で、冒頭からスタンディング・オーベションではじまったのにはちょっとびっくりしてしまいました。やはりメキシコの観客は熱い! いつもながらの黒のマントをまとったキラパジュンは頭が真っ白になっていましたが、その歌声はあの時のままでした。まさかメキシコで彼らに再び会えて、一緒に「不屈の民」を歌うことになるなどとはおもってもいなかったので、とても不思議な縁(えにし)を感じてしまいました。そんな彼らが第一部で歌ったのが「イキーケのサンタマリア」という45分に及ぶカンタータで、これはチリの北部にあるイキーケという街で1907年、12月21日、待遇改善を訴えてデモをしていた硝石工場の労働者やその家族にロベルト・シルバ・レナルド将軍率いる軍隊が発砲し、2000人余りが死んだという史実に基づいて、イキーケ出身の作曲家ルイス・アドビスがキラパジュンのために作曲したものです。古いデモなどの写真スライドと女性の朗読、そしてキラパジュンの歌声が創り出す世界は1902年から1908年までひんぱんにチリで起こった硝石工場労働者と軍隊との衝突の歴史の悲惨をあますところなく伝えていました。私はこの作品を聴いたとき、イキーケに行ってみたくなり、長い夏休みを利用して、アルゼンチン、パラグアイ、チリとまわることにしました。

7月7日、夜11時05分、飛行機は真夏のメキシコ・シティーを飛び立ち、アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスに8日昼の1時過ぎに着きました、こちら南半球は真冬、相当の寒さを覚悟していましたが、日差しは明るく、とても気持ちのいい秋のような風がブエノスの街を吹き抜けていました。ここブエノスはカジェと呼ばれる通りやアベニダと呼ばれる大きな通りが碁盤の目のように張り巡らされ、どのような小さな通りにも名前があり、とても歩きやすいところです。にぎやかな大通りをポルテーニョ(ポルトは港のことでブエノスアイレスの港っこの意味)と呼ばれる人たちがさっそうと歩いています。眠らない街、ブエノスアイレスは一晩中タンゲリアと呼ばれるタンゴのライブが聴けるレストラン、バーが立ち並び、カルネ・アサードという骨付き肉のステーキや、エンパナーダスという肉入りパイが安く食べられるレストランがたくさんあります。土曜日の夜などは、映画館通りの別名があるラバージュ通りでは10数軒の映画館が一晩中映画を上映し、家族連れでにぎわいます。このように楽しく遊ぶのには事欠かないブエノスですが、私の最大の目的はタンゴを見ることと、習うこと。ここではタンゴショーを見せて、かつ、踊りのレッスン、食事、送迎付き、などという店もあると聞き、いろいろ歩いて探してみることにしました。ところがこんなに込みこみは結構高いのです。特に食事つきだと値段がはねあがります。

豪華な食事はいらないし、見ると習うはやはり別々の方がいいかも、と思いつつ歩いていると、倉庫のような場所の入り口にレッスンの張り紙を見つけました。グループレッスンが1時間10ペソ(約330円)とあります。これは安い。日本だと最低でも2500円はします。さっそく中に入るとひとりの小柄なおじいちゃんが、奥の方ににちょこんと座っていました。実はこの方アルマンディートさん、81歳が先生でした。私がタンゴを習いたいと言うと、個人レッスンから始めましょうということで、1時間50ペソ(約1650円)だと言われました。これもまた安い。途中疲れたでしょうと何度もお茶をすすめてくれ、結局1時間半レッスンを受けました。その日はわけがわからないまま、基礎の足裁きを習いました。次の日はさらなる足裁きと、女性は常に男性の動きをまたなければならない、ということを何度もいわれました。そして腕を組んだ瞬間、男性の腕から女性の腕、そして体、足へとエモシオン(情熱)が流れていくのだと教えられました。うーん、なるほど、これがあの疼きをともなった、とろけるようなタンゴの真髄なのかと、ひとり感心してしまいした。アルマンディートさんはお年を召したおじいちゃん先生にもかかわらず、腕には筋肉がしっかりとつき、背筋をピシっと伸ばし、私の重たいからだを支えて踊られるのにはびっくりしました。そして、そのあとのグループレッスンも受けたのですが、そこでのモニカ先生との踊りはセクシャルで、とても81歳には見えない若々しさでした。本当はここで沈没して、ずっとタンゴを習っていたかったのですが、イグアスの滝もどうしても見たかったので、後ろ髪を引かれる思いで、次の日、3度目のレッスンを受けてから夜行バスで18時間のプエルトイグアスに向かうことにしました。先生は、こんどはいつブエノスに帰ってくるのかと、抱擁とキスで別れを惜しんでくださいました、写真を撮らせて欲しいというと、白いマフラーと黒の帽子をとりだし、ポーズを決められました。その姿は本当にかっこよく、まさに伊達男でした。

製本、かい摘みましては(41)

四釜裕子

あるところの手帳を作るのも3年目、前回ダメもとでお願いした表紙の塩ビカバーのオリジナル色が実現したので、このたびもいくつか色合いを指定して頼んでみることにしました。オリジナルの色が実現したと言っても、実はこちらが意図したものではありません。誰も想像だにしなかったふうに仕上がって、先方は失敗作としてお持ち下さったのですがそれがかえって功を奏したのでした。1年が過ぎまたその制作チームで集まったとき、表紙カバーは前回の路線で行きたいねということになるも、誰も「意図」したものではなかったために、さてどうお願いしようかと困ってしまいます。

私たちがこういったことを直接相談するのは印刷会社です。手帳表紙にみあったサンプルとして見せてもらう塩ビシートのサンプルというのは紙の見本帳をぐっとコンパクトにしたようなもので、様々銘打たれたタイプごとに色のバリエーションが10数種類ずつほどあります。その中でこの手帳のために選んだのはより柔らかい革の風合いに寄せたもので、微妙な色むらがあって表面をちょっとぬるっとした感じに加工したもの。風合いはいいのですが、色むらの具合をもうちょっとなんとかしたいというのが、前回オリジナルで願おうと思った発端でした。

「このムラムラの色幅をもうちょっと狭くできないかな」。印刷会社の人と雑談しますが、それをどう「指定」したらいいのか検討がつきません。先方としても、なにしろ見本から選んでもらうのが大前提ですから、困るわけです。どうやってこのムラムラは作っているのだろう。やっぱり型があるんだろうか。色は1種類で薬剤でムラムラ? いや、2色でしょう……推測だけで誰もその工程を知らないのです。工場を見たい、でも時間がない――仕方なく、「色むらの濃いほうはこれ、薄いほうはこれにしてください」とチップをつけてお願いしたのでした。結果は先に述べたとおり。

そこで今回は最初から工場見学です。7月の暑い日でした。工場にはたくさんの人が待っていてくれました。実際に作る会社、材料を提供する会社、私たちが選んだ柄のパテントを有する会社、カバーのかたちに成形する会社、そして手帳全体を作る印刷会社。ありがたいことです。まず塩ビ(ポリ塩化ビニル PVC)全体のお話。その組成の約6割が食塩であること、世の中にたくさんある塩ビ(電線、パイプ、農業用など)をリサイクルする率が非常に高いこと、カバーに使うようなものは「発泡塩ビ」と呼ばれていること、「塩ビ=ダイオキシン」という図式で手帳や文具での使用も一時落ちたがまた戻っていること。そういえば代替えとして名を馳せた生分解性プラスチックも、なにもかもではなくゴルフのピンなど特長を活かして使われているそうです。

そして先にお願いしていた3種類の試作品を見せていただきます。やっぱりまだムラムラが目立ちすぎており、もっとぼんやりしたムラムラにしたいんです、と言うと、工場の責任者の方はこの一言で納得した風でした。同じことをずっと言ってきたつもりですが、やっぱり顔を見てひとつのものを前に言葉を交わしたことでとたんに通じることってあるのでしょう。工場団地の食堂でみんなでお昼を食べたあと、工場棟に向かいます。独特の臭いと蒸し風呂のような暑さ、ファインペーパーや特殊紙などを作る工場と似た機械が並ぶ中で、働くどなたも顔をあげてあいさつしてくださいます。こんにちは、お邪魔します。

顔料や発泡剤も含めて全ての材料をよく混ぜ合わせたものが上のフロアから落ちてきて、大きなローラーをくぐって一瞬で薄く伸ばされます。ムラムラの柄をつくるエンボスローラーを通り裏に下紙が貼られ、途中、熱で乾かしたり発泡炉を通って発泡をうながしたり、順番は正確に覚えていませんがやはり紙の製造工程と似ているようです。最後の表面加工(ちょっとぬるっとした手触りにするための)をすると、色合いがぐっと変わります。白っぽくなる、という感じ。色に限って言えば、まず様々な色の顔料(石けんのようなバー状でした)を調合して材料によく練り込みますが、全ての工程を経てどう色合いが変わるかを予想するのはどれだけ経験を重ねても難しく、試作するしかないのだと聞きました。試作する、と言っても本番さながら機械を動かさねばなりませんから、たいへんなことです。

見学中に、納得のいくムラムラはできませんでした。でも私たちとしては、あとはお任せしますという気持ちでした。1週間後、カバーのかたちに成形されて、タイトルが金箔押しされたサンプルが3種類届きました。金箔が映える色合いに、というのも、お願いのひとつでした。いずれもみちがえるように美しく、しかし中でも特別映えるものがあります。デザイナーさんが妙なお願いをした、あの緑色のヤツでした。「こんな風にしてください→」。矢印の先には、深くて品のいい緑色に金で文字が印刷されたチョコレートの包み紙。「緑って難しいのよね。チップなんかで選べないからこれ貼っちゃおう」。この色だけは、やり直しをしていません。成形されて金箔がのって、それでこんなに映えるとは想像がつきませんでした。デザイナーから工場へ。思いがまっすぐに、伝わったわけです。

布石の8月

冨岡三智

今またインドネシアに来ている。9月3〜8日に島根(+9月2日に大阪)で行う「島根・インドネシア 現代に生きる伝統芸能の交流」の準備をソロ(スラカルタ)市で行うためと、8月7日〜9日にスマトラ島のプカンバル市で行われる現代舞踊見本市PASTAKOMに出演するためというのが主目的だ。

  ***

島根で行うイベントにはソロから計5名を招聘するのだが、内訳は舞踊家2人、ワヤン・ベベル画家1人、マタヤという芸術イベントのプロデュースをしている団体の代表とスタッフ兼ライターの2名である。普通は舞踊家だけ招聘して日本で公演ということになるのだが、今回については、実は島根のパサール満月海岸(島根の受入団体)とマタヤの交流をさせたいというのが先にあった。先月、パサール満月海岸で私がワークショップや神楽囃子との手合わせをしたのも(水牛7月号に書いています)、その下見と打ち合わせを兼ねていた。

マタヤはソロ(スラカルタ)でいろんなイベントを主催している。私は設立時から知っていて、当初は「ソロ・ダンス・フェスティバル」と「女性コレオグラファーの出会い」というフェスティバルを隔年で交互に実施していただけだったが、現在はそれに加えてソロ市内の歴史的な建物や人々が集まる市場や大通りなど、劇場以外の場に出て行って、一般の人々に芸術が根づくようにと活動している。私自身がマタヤの活動を長く見てきたり、実際に自分の公演時にいろいろとアドバイスしてもらったりした経験から、マタヤに日本で、劇場以外の場で行われている芸術活動の状況を見てもらいたいなあと思っていた。彼らなら、島根行きの経験を今後の自分たちの活動に生かしてくれるだろう、と期待している。

島根には私が12年前にジャワで知り合った染色家の友人がいて、いろんな職人友達と一緒にパサール満月海岸という場と団体を作って、島根とアジアの伝統芸能・伝統工芸をリンクさせようとしている。友人は島根に根を下ろして以来、神楽とアジアの芸能のコラボレーションをやりたいという思いを持って、少しずつ地盤を固めてきていたのだ。島根でやるのは、この人が島根にいるから、なのである。こういう個人的な結びつきがないとコラボレーションは絶対うまくいかない、と私は確信している。今年、島根県の他の会場で、現代舞踊の催しの一環として神楽とのワークショップもあったらしいのだが、「やったというだけ」だと聞いた。アレンジした劇場も、やってきた現代舞踊家も神楽の方も、互いに思い入れもなければ地盤固めもなかったのだろう。

ソロに着いてすぐ皆と打ち合わせをして、やっとエンジン始動という感じだ。それまでは、いろいろと私の方から話を伝えていても、島根という場所のイメージも神楽のイメージも皆には今ひとつピンときていなかった。私の方から郵送していた神楽のDVDが届いていなかったということもある。私が島根の風景写真を見せて、6月にやった私のワークショップ(神楽の人たちが参加している)のビデオを見せて、ヤマタノオロチのDVDを見せながらいろんな話をしたことで、一気にやる気に弾みがついた。いくら良く知っている人たちだといっても、メールや電話だけではなかなかイメージが通じない。やっぱり直接プレゼンすることは大事だ。

そして思った通り、場所がものすごく田舎であること(島根の人には悪いけれど)、上演の場が神社であること、神楽自体の面白さ、そしてインドネシアとつながる人が島根にいることに魅力を感じてくれた。実際、踊り手の1人はその島根の友人と古い知り合いだったらしい。いまやインドネシアでも各州に劇場がある時代(劇場のつくりの雑さは置いておくとして)、ハコモノがあるというだけでは心が動かされないのだ。それに私の乏しい経験では、日本の田舎に惹かれるジャワ人が意外に多い。日本人が東南アジアに旅行して、日本のルーツがここにあると感じるように、ジャワの人たちも案外、自分たちの文化ルーツがここ日本にもあると感じるのかも知れない。

ついでに言うと、島根に行く前、というか日本に到着したその日に、大阪の高津宮(高津神社)でもお祓いをしてもらって奉納上演し、ワークショップをすることになっている。ここには古い大阪ののんびりした風情が残っている。島根とはまた雰囲気の異なる神社を体験してもらえたらと思っている。

  ***

この島根行きの準備と並行して、今はプカンバル行きの準備でも忙しい。私は3年前にも招待されていて(水牛の2005年10、11月号に書いています)、その時は1人で踊ったので、今回は大阪で活動している藤原理恵子さんとデュエットすることにしている。5年前に関西の現代舞踊の催しで出会って、初めて見たときからなんとなく惹かれていた。自分とは全く異なるエネルギーが流れている人だなあと思っていた。いつか一緒にできたらと一方的に思っていて、今回やっと実現することになる。

思えば島根の件にしろ藤原さんの件にしろ、どちらも出会ってから長い時間が経っている。私のペースも大概トロいのであるが、機が熟すにはそれなりに時間もかかる。そしてこの8月、9月の活動が今後の自分の活動の布石になっていきますように。5年後、10年後に芽が出ますように。

さだこと千羽鶴

さとうまき

8月6日がやってくる。毎年この時期は、広島に行くことになっていた。でも、今年はやめた。ともかく、この日は、全国から人が集まってくるから、ホテルを取るのも大変。暑さと人ごみ。。。たまには、家で、ゆっくりとしたくなった。

昨年、イラクからイブラヒムがやってきた。東京の講演には、ガンで闘病中の大倉記代さんが訪ねてくれた。大倉さんは、原爆投下から10年後、白血病と診断され、広島赤十字病院に入院していた佐々木禎子さんと同室で、千羽鶴をおっていた人。

私が、戦争前にイラクの子どもに禎子と千羽鶴の話をしたら、子どもたちは、禎子が千羽鶴を折っている絵を描いてくれた。東京で、イラクの子どもの絵画展をやったときに、イラクの子どもの描いた「さだこ」の絵があると聞いて、大倉さんは駆けつけてくれた。
「私は、自ら進んで禎子ちゃんとの関係を語りたくはなかったのです。自分も思春期だったし、それで、精一杯だったのだとおもう。何もしてあげられなかったという思いを抱いてずっと生きていたんです。だから、ただ一緒にいただけで、引っ張り出されるのはいやだったんです」
しかし、アフガン戦争、イラク戦争と彼女は、「世界平和」のために少しでも役に立てばと地道に活動を始めた。『思い出のサダコ』も出版した。サダコ虹基金を立ち上げ、劣化ウランで苦しむイラクの子どもたちを救うおうと、募金を集め、毎月25日(さだこの命日10月25日にちなんで)にJIM-NETに送ってれた。

でも、そんな大倉さんもガンになった。イラクでガンの子どもたちの面倒を見ているイブラヒムに一目会いたいと、やってきた。そして、イブラヒムに差し出した瓶の中には、さだこが折った小さな千羽鶴2羽が入っていた。サダコさんのお父さんからおすそ分けしてもらった千羽鶴。広島原爆資料館に飾ってあるのと同じ、本物だ。恨めしそうに見ている私に
「真紀さんにも、私が本当にだめになったらあげるわ」
と約束してくれた。

2008年2月、大倉さんから電話があった。私がイラクに行くと聞いて、もうこれが最後かもしれないというのだ。顔色は意外によかった。澄み切っている。彼女は、小瓶に入った鶴をわたしてくれた。早く欲しかったけど、彼女もこれで最後と決めている。なんだかとってもつらかった。

「死は怖い」という。「がんばるのはつらい」って言ってた。がんばらないっていうのはこういうときに使う言葉なんだ。それでも大倉さんはゲバラの話をしてくれた。
「コロンビアに居るときにだって、ゲバラは、メーデーの日に、世界の労働者が連帯していることに思いをはせてた」
そしてブレヒトの話もしてくれた。でも、僕には、もう、一杯で彼女の言葉が入ってこなかった。もっといろいろ教えてもらっておけばよかった。

「ヨルダンにも連れて行って欲しかったわ」
「イラクにいきましょう」と私が言うと、笑っていた。

大倉さんはもう墓も準備している。大島にあるお墓には、木を植えることが出来るって。植樹葬というのがあるらしい。友人に墓参りに来てくださいって言ってあるそうだ。わたしは、自分も行きますよ! とは言えずにただ話を聞いていた。不思議な時間が流れた。何だか、黄泉の国から話しかけられているような感じがする。

大倉さんは、イラクに持って行って、と家にあったタオルやらおもちゃやらをわたしてくれた。
別れ際、「そうそう、東京に待雪草が咲いたんですよ」私の友人が、北海道から球根を持ってきてくれ、ひそかに植えていったのだ。待雪草の花言葉は、「希望、慰め、楽しい予感」。イラクにぴったりの花である。彼女は、マルシャークの『森は生きている』という本を思い出してくれた。わがままな女王が冬に待雪草が見たいというロシア民話。
「東京にも咲くのね」でもイラクには咲かない。
「これから、イラクで待雪草を摘んできますよ」
まもなくイラク戦争が始まってから5年、この5年間のイラクの人たちのストーリーをちゃんと伝えたい。待雪草=イラク人のストーリー、つまりは、取材をして、土産話を持って帰ろうという意味だ。希望につながる話は、冬に待雪草を摘んでくるほど難しい。
「ちゃんと土産話を聞いてくださいよ」

私が帰国した3月、大倉さんは、化学療法もやめて、モルヒネだけで痛みを抑えていた。私は、仲間たちとまとめた『ウラン兵器なき世界をめざして』という本を手渡そうとした。
「重いわ」彼女はすっかり弱っていた。
そして、6月23日、大倉さんは亡くなった。イブラヒムに、大倉さんが亡くなったことを伝えた。もらった折鶴は家に保管してあったが、大倉さんが亡くなったと聞いたその夜に鶴を出し、家族で鶴を囲んで大倉さんとの思い出を話した。東京で一緒に撮った写真を見せ、大倉さんの生い立ちを聞いた家族は涙したそうだ。

彼女からもらった千羽鶴。私たちはあまりにも「重い」プレゼントをもらったのだ。今年の8月6日は、この折鶴を埼玉にある丸木俊美術館で展示してもらおうと話を進めている。さだこの平和の思い、そして、それを引き継ごうとがんばった大倉さんの思いが込められた千羽鶴だ。

しもた屋之噺(80)

杉山洋一

茹だるような暑さは峠を越え、夜はときには肌寒く感じるほどです。気がつけば、夜はリンリンと鈴虫のような虫声が聞こえます。夏の休暇でミラノは大分閑散としていて、少しだけ空気もきれいになったかも知れません。

あと二週間足らずで日本に戻るのですが、昨日ジェルヴァゾーニの新曲の楽譜を昨日漸くリコルディまで受取りにゆき、自分で製本しなおしました。長年住み慣れたミラノ・ガレリア脇のベルシェ通りのビルから、5月に地下鉄のマチャキーニ駅近くの巨大な近未来都市群よろしきビルに移転したのには、時代の流れを痛感させられました。素敵なビルだし、事務所にでかける度に、時間を持て余しフリーセルを興じている受付嬢にパスポートを渡さなければいけない厄介以外は、居心地もわるくありません。リコルディ社そのものも正確な意味ではもう大分前から存在していません。現在はデュラン社などと同じユニバーサル出版社の傘下に入り、リコルディの社員たちの電子メールアドレスが以前のBMGからユニバーサル出版に変わったのは、今から1年ほど前のことです。
「みんな戦々兢々としている。いつ肩を叩かれるか分からないから」。
周りではこんな風に声を潜めて話していました。

7月初旬に開催された学生たちの終了演奏会を最後に、恩師のポマリコはうちの学校から解雇されました。ミラノ市の助成金が大幅に削減されたからというのが表向きの理由で、かくいう自分も来年度は指揮科から離れ、週一回のイヤートレーニングのみ授業を続けることになります。外人でせいぜい10年足らずの付き合いの新参者の自分ならまだしも、30年、下手すれば40年ちかく学校と関わってきたポマリコを、就任して2年目という外部から宛がわれた新しい学長が、文字通りさらりと解雇してしまう現実が、今のイタリアにはあります。さらりと解雇されたとは言え、学生たちは学長どころか市長にまで抗議をし、メディアにも働き掛けました。暫く前までこの問題に関わる電子メールが相当数送られてきていて、実際はまるでさらりとはしていませんでしたし、イタリア人の血の気の濃さを実感させられる良い機会でした。

昨日リコルディに出かける前、9月末からヴェローナで練習が始まる新作オペラの楽譜を受取るため、サンバービラ駅の喫茶店で作曲者のメルキオーレと話していました。彼はうちの学校の現代音楽セクションの責任者を、ポマリコと同じくらい長きに亘って務めてきましたが、先日もう耐えられないと辞表を提出したと言うではありませんか。イタリアの現代音楽のメッカとして、ファーニホウやデ・パブロ、ドナトーニ、グリゼイやデュフールなど、錚々たる作曲家が何度も作曲のコースを開いていたのは、もう10年も20年も前のことですが、全てメルキオーレの功績です。彼が昨日まず言った言葉は、以前どこかで聴いた台詞にそっくりでした。
「同僚はみな、戦々兢々としている。ただそれだけさ。自分も何時辞めされられるか分からないからな」。

ポマリコの何十年来の親しい友人でもある同僚に学校の廊下で会い、彼の話を知っているかと話しかけると、「ああ知っているよ。何でも予算が削られたからだって? ずいぶん沢山首を切られたらしいな。お前は来年どうなるのかね。まあまた学校で会えるといいねえ」、思いがけなく明るい声で返事がかえってきました。

13年もミラノに住みつつ、変わらずこの社会から遊離して暮らしているせいか、彼らと自分の視点のピントがかみ合うことはごく稀で、例えば学校で同僚たちが新学長を揶揄しているのを度々耳にしても、学長は学校経営者によって、初めから経営に都合のよい人材として選ばれているのだから、彼の行動は充分理に適っているようにしか見えません。誰かが不当に解雇されることがあれば、本来同僚たちがリアクションを起こすべきかと思いますが、それは皆無でした。

今から10年近く前、当時住んでいた安アパートが実は競売物件で、当時の大家が借金を抱えて逃げている間、隠れて家を貸していたことが発覚したことがありました。その上、部屋は仲の良かった隣の住人に競売で競り落とされてしまい、何も知らずに住んでいたところ、突然降って湧いたように、隣の奥さんから毎日のように、何時出て行くのか、間取りを見せろ、警察を呼ぶぞと言われるようになりました。結局アパート中の住人とも顔が合わせ辛くなり、半年ほど酷い思いをしたわけですが、あの時、ずっと親友だと思っていた友人に相談し、「俺は知らないよ。俺のせいじゃない」、と言われたときの驚きは一生忘れないでしょう。あの瞬間に、自分がどんな立場でどんな社会に暮らしているかを悟り、生きてゆくための強さと強かさを学んだのだと思います。

でもイタリアはそれだけではありません。たとえばポマリコは自分が全く無一文の頃、何年も無償でレッスンをつけてくれました。何度、授業料が払えないので辞めると言っても、いいから来いと言って、一切お金は受取りませんでした。こういうイタリアも確かに存在するのを忘れてはいけません。だから、イタリア社会を一概に悪く捉えているのでは決してないのです。自分のなかで閊えていた甘えが、吹っ切れただけかも知れません。

イタリアに来た13年前と現在とでは様々なパラメーターが大きく変化していて、端的に言えば、昔より随分殺伐としているのは、否定できません。余りにお金がないと、暮しが殺伐としてきますが、学校も国もお金がなくなれば、殺伐としてくるのかも知れません。特に、音楽のような霞を食べて暮らす人間には、この変化は相当大きな変化をもたらします。お金はなくとも、自分一人気ままに暮らす分には良いかも知れませんが、学校も国も家庭と同じで、誰かを食べさせなければいけません。そうすると、どうしても底の方で涸れてくるものがあると思うのです。

音楽学校が殺伐としてきて、教師の教え方が殺伐となればなるほど、学生の音楽に夢がなくなります。国が殺伐としても同じでしょう。音楽家が殺伐としてくると、弾く音にも書く音に夢がなくなり、明日食べるためのお金ばかりが透けて見えるようになり、そうした音ばかり聴くようになると聴衆も影響を受けるに違いありません。でも、音楽から夢がなくなったら、同じように絵や文学や、それだけじゃない、野菜や魚や肉にも夢が枯渇したら、一体我々の人生に何の意味があるというのでしょう。

大学生の頃、桐朋の旧館4階の図書館から、と或る巨大なスコアを借りては、階段を昇り降りしていました。当時音源はなく、楽譜を見ただけで音が鳴るほどの頭ではありませんでしたから、訳も分からず、ただわくわくと子供のように眺めていたのでしょう。それが来月東京で演奏するカスティリオーニの楽譜です。文字通りで夢が詰まった宝箱で、きらきら輝いてみえました。そうして、大学の終り頃、出たばかりのCDで初めて録音を聴き、自分がまさに書きたい、鳴らしたいと思っていた音がそのまま聴こえてきた時には、ショックで聴き続けられず、作曲はやめようと思ったのを覚えています。

何の因果か、その作品を自分が演奏することになるとは、想像もできませんでした。夢のようです、と書ければ幸せなのだけれど、演奏、それも指揮となると、文字通り夢と正反対のシビアな仕事なので、巨大なスコアを食卓に広げ、自分も食卓に乗って書込みしながら譜読みをしていて、でもお陰で、数え切れない発見と、感激に巡り合えることはこの上ない幸せです。

まっさらな楽譜に自分が書込むとき、最初はどんな作品でも緊張するのですが、この楽譜に関しては、殆どおののきに近い感情がありました。自分には到底演奏できないのでは、という畏れと、自分がショックを受けたあの音を自分で紡ぎだす畏れなのでしょう。演奏家は、誰でもそういう畏れは持っているものでしょうけれども。

そして「夢」という言葉を、改めて考えました。こんなに殺伐とした毎日をやり過ごしつつ、「夢」なんて本当に必要だろうか。でも考えてみれば、ほんの60年近く前まで、日本ですら信じられない戦争の中心に居たのです。ベトナム戦争なり、アフリカの内戦なり、バルカンやイラクの戦争なり、無数の殺戮がその60年の間にも続いていて、心が本当に渇ききってしまった人々は、今この瞬間にも沢山いると思うし、また、そこから本来の人間らしく、心に潤いを取戻して生き抜く、強く逞しい人々も数え切れない程いる筈です。

本来「夢」は、どくどくと血が通い生き生きと輝く、力強いものに違いありません。夢こそが、夢のみが人間らしさを取戻す原動力になり得るのですから。そうして楽譜を開くと、今自分がしなければならないこと、感じなければいけないことを、カスティリオーニが優しく、厳しく諭してくれている気がして、思わず頭が垂れます。

夢の持つ力強さ、インテリジェンス、強かさ、しなやかさ。作曲や音楽がこうして文化として地面に深く浸透することを痛感させられ、自分が生きる時間の重さ、責の重さに、時にはぞっとさせられたりもするのです。

(7月30日 ミラノにて)

微速 後退 記憶

高橋悠治

7月6日 田中泯の場踊りにつきあって谷中の公園 そのあと昔銭湯だった画廊で踊りといっしょにピアノを弾く そのあとですこし話す時間があった 微速と後退という二つのテーマが心に残る

田中泯のいう微速は 音にはなりにくい 音は物質の抵抗を破る瞬間に起こる振動だから 最少限ではあっても暴力を必要とする そこに意志があるかどうかは また別な問題だ そのままでいようとする物質の意志に反して その意志から解放されて揺れうごくように誘いかける それが音であり 音は一方的でなく 他の物質と響きあう 揺れが内側に隠れていた流れと外の世界をむすぶ空間を立ち上げる 

微速はすこしちがう 意志や意図なしにかってにうごきだしてしまう身体は 思いがけない方向にわずかずつ 崩れ落ちてゆく この崩れの感覚は 外と内の境界をとりはらい ひろがり 沁みだし 沁みとおるもの
「操体」とよばれる手技で味わった感じと似ている 三浦寛先生が言われるには 身体の自動的なうごきを誘い出し それにはたらきかけるには 圧迫したり刺激したりしないで 皮膚の表面にただ触れているだけ といっても ただ触れているだけで 時間も止まったようにじっとしているのは やさしい技ではないだろう 

やがて 触れている場所とは離れたところで 身体が位置を変えてゆくのがわかる それを止めることもできないし 方向や速度を変えることもできない 身体はかってにうごいて やがて止まる 崩れるとも言えるし ほどけるとも ゆるむとも言える というのは 身体は 意識していないが 習慣になってしまった日常のうごき自体や それにまつわる意図や意志に拘束され またそれらの意識を拘束しかえす枠になっているから そのような義務や仕事や拘束から離れてみると いつもの 見えない狭い通路にやっと這い込むような 鎧のなかでやっと安心していられるような 支えられた安定ではなくて 自律して しなやかさをとりもどし 身体全体が分岐して それぞれが最少限のうごきを分担するような協調と動的均衡が 一時的にすぎないにしても 姿を見せる

後退 田中泯が弟子たちにやらせるように 後ろ向きに山道を歩く 前進ではなく後退すれば 胸が張り出し 背がひろがり 肋骨の籠のなかの脊柱が垂直に立ってくる バクミンスター・フラーがtensegrity(張力統合体)と名づけた身体の構造があらわれ 風をはらんだ帆のように呼吸が自由になる

前進するときは焦点がしぼられてくる視界も 後退しながらひらかれ 焦点があいまいな いわゆるsoft focusの状態で 細部を特定する中心視よりは 動きと変化に気づく周辺視 さらに見えないものを聴く周辺聴取のモードに入る いわば耳がピンと立ったネコが後ろに気を配っている姿

クセナキスと雪の日にナイアガラの滝を見に行ったことがあった 前がよく見えない吹雪のなかで 片目しか見えないかれが小型車を運転しながら言ったこと ひたすら前進して壁にぶつかるよりは Uターンして最初の角にもどれば もう一つの道がある もう一つもどればさらに別な道がある 

そこから敷衍すれば ものごとのはじめ 根源には可能性の海があるということになるだろう いまあることをつきつめれば 梢にのぼっていくように 自由はなくなり 危険が増していく ギリシャや日本のように 古い記憶をもつ土地から来たものたちは 過去にさかのぼりながら 未来をめざす

音が音であるとき もう音は過ぎ去ってしまった記憶にすぎない 音は音の記憶 それならば世界を記憶することもできるだろう 世界の記憶となった音楽が しばらくのあいだ記憶される 喪われたものを忘れないための歌 ブレヒトの詩にあるように 暗い時代にもひとは歌うか そう 歌うだろう 暗い時代について

オトメンと指を差されて(1)

大久保ゆう

ある日のお昼時、自分で作ったお弁当を食べていると、女の子にこんなことを言われました。
「大久保さんって、オトメンですよね。」
私が何ですかそれと訊くと、「乙女系男子」との答え。さらになぜと訊くと、「すごく怖い顔でものすごい量の仕事するのに、普段は穏やかっていうかむしろ天然だし、意外と女の子みたいにファッションに気をつけてるし、いつも自炊だし、可愛いモノとか甘いモノ好きだし、時々お菓子作ってくるし。」という解説。

近ごろ世間では、見た目や仕事はずいぶん男っぽいのに、趣味嗜好が女の子っぽい男の子を「オトメン」と言うらしい――ということがわかって、私はとても納得したのです。

確かに私のストレス解消はバーゲンに行くことだし日々甘いものを食べないと生きてゆけません! 女性の先輩に「あなたとだったら『かわいいもの』談義で何時間でもしゃべれると思う」と言われたほどの男の子です! そうか、私はオトメンだったんですね!

言葉を与えられて、心のもやもやが晴れたような気分です。何というか、そういえば、ずっと女の子のことをうらやましく思っていました(そういう男の子もいるのです)。特に何がいちばんうらやましいかと言うと、「ファッション」です。

だって女の子の服ってヴァリエーションが豊富じゃないですか。どんな自分でもなれるってくらいにいっぱい種類があります。街を歩いていても色んな服の子がいますよね。それにお店もたくさんあるし、大きな建物があったら、中の8割くらいは女の子のお店。

それに引き替え男の服と言ったら……じーっと観察してても、シャツ+ジーンズ、ネルシャツ+ツータック、シャツ+ジーンズ……みんな同じのばっかり! たいていワンフロアか半フロアしかない売り場に行っても(あるいはファッションを扱う街に出かけても)、カジュアル系、ストリート系、フォーマル系、終わり。

………………。

待てぇぇぇぇぇい! おいおいおい選択肢少なすぎやしませんか。私にどんな服着ろっていうんですか! それじゃあ何ですか、おしゃれに気を遣う若い男の子はみんなストリートかアメカジにしろってことですか! そんな、私はそういうやんちゃな服よりも、もっとかわ……いえ、イメージに合ったスマートで個性的な服が着たいんですぅぅぅぅ!

――そんな経緯で、うら若き少年の私はパンクファッションへの道を走ることになりました。我ながら極端ですね。今ではとても着られません。当時の女の子っぽい感性の男の子が進む常道です(たぶん違う)。

そしてその後、紆余曲折を経て、ただいま二十代後半の私は、パンクっぽい要素を持ちつつ大人っぽい落ち着きを兼ね備えたファッションを目指すに至ります。カジュアルパンクという言葉が相応しいでしょうか。そして「その服はお前しか着こなせない」とか言われるまでになりました。ありがとうございます。

しかし十年も経った今では、男の子向けのファッションも昔の非常に雑漠とした区分をやめて、独自の言葉で系統立てられているみたいです。きれいめ系、お兄系、サロン系、ヒップホップ系などなど、ちょうど今ファッションに興味を持ち始めていたら、そっちの方に流れていたかも。今の子がちょっとうらやましいです。

とはいえ、こうしてファッションに気を遣う男の子が増えたようにも思えますが、まだまだ男の子向けのお店は少ないですし、ヴァリエーションも少なく、自分に合う服を扱ってるお店を探すのは一苦労です。オトメンにはまだまだつらい世の中です。

(でもそんななか、めぼしいものを見つけたときには! もう「買う買う買う買わないと俺帰れない」と意味不明な言葉が頭の中に繰り返し流れ、次の瞬間には何か紙袋っぽいものを持っています。あれ? おかしいな?)

とまあ、そんな私でありますが、服からさらに進んでもうひとつうらやましい「ファッション」があります。それは「ブランド物」。男の子のブランド物なんて、夢のまた夢だなんて思っていたのですが、最近、その夢を叶える救世主が各地に続々と現れつつあるのです! ……というのは、次のお話で。

製本、かい摘みましては(40)

四釜裕子

製本というものを私もやってみたいと最初に思ったのは、栃折久美子さんの『モロッコ革の本』を本屋で立ち読んだ時だった。棚からちょっと突き出てい(るように感じ)て、文庫だったから早くて1980年、実際は90年ころだろうか。正直に言うと、読んで私は自分も製本家になれる気になった。ところが栃折さんの製本教室の空きを待って意気揚々通ってみると生徒さんはみなえらく器用で、ちょっとはひとより器用なつもりでいた自分の思い過ごしを早々知り、がっくりした。がっくりはしたが、なにもかもに届きそうな予感にひたすらどっぷりつかり妄想する時間は、トロリとしたなんて幸せな時間だったことだろう。

山崎曜さんの新刊、『もっと自由に! 手で作る本と箱』出版記念展を東京・御茶ノ水の美篶堂に見て、2年前の曜さんの『手で作る本』に続いてこれも手製本を楽しむひとのバイブルになるに違いないと思いながら、あのトロリとした時を思い出していた。曜さんの周りのこの風通しのよさ心地よさはなんなのだろう。さてこの本は、「手で作る本のアイディア集です」とはじまる。接着芯を貼った布、革、テープ、段ボールを使った製本、箱や豆本、メモ帳、バインダーや辞書の改装、箔押しなど、手製本の基本を知って周囲を眺めた時にやってくる興味をひきうける内容だ。示されただんどりに没頭するのではなく「素材や道具の手触りを確かめながら少しずつ仕上げ」、「頭と身体を使」うと製本はもっと楽しいよ、そんな姿勢が、風通しのよさを感じさせるのだろう。

なかで特にやってみたいのが、専用の道具がなくても丸背が作れるとして示したプララポルテ(仏語。プラ:表紙、ラポルテ:つけ加える)という方法をアレンジしたもの、そして、パソコンやプリントゴッコ使用のコツから、紙のモザイク(革の装飾法の応用)、フィルム箔と革工芸用の刻印を使った箔押しなどの表紙タイトルの入れ方だ。そして、道具。紙をそろえたり切ったりするときに使う「寄せ盤」の作り方が示されていて、便利そうだけれど使い勝手がいまひとつわからないなあと思っていたら美篶堂で実物が展示されていた。しかもこれに「かがり台」の機能と「幅定規」を加えたものが商品化されていて、これはかなり使えそう。「本の場 HON NUOVA」というブランド名もつき、ウェブサイトで近々公開(7月1日オープン予定)とのことだからうれしい。

今回は、曜さんの思い出の本を素材として改装した例もいくつか掲載されている。お父さまの蔵書であった湯川秀樹の『本の中の世界』もそのひとつで、湯川博士がヨーロッパの教会の中庭に立ったときに子どものころに遊んだ箱庭を思い出し、共通する「何ともいえない幸福感」を感じたと書いてあることを曜さんがひいている。私が曜さんの本を見て、そして栃折さんの本を思い出してひたった「トロリとした幸せな時間」は、同じようなものだったのだと思う。

ヤマタノオロチと立ち合う

冨岡三智

6月21日(土)〜22日(日)に島根県浜田市にあるパサール満月海岸という所で、ジャワ舞踊のワークショップなどをしてきた。ここには、私がジャワで知り合って10年以上になるという染色家の友人らが、仲間たちと一緒に廃屋を改装してギャラリーや食堂や劇場なんかを作っており、5月から9月までの土日や満月の夜にだけ、いろんなイベントを行っている。会場名にあるとおり、裏はすぐ海岸になっていて、冬の間は日本海から厳しい寒波がくるために、夏の間だけしか営業しない。

金曜夜、大阪から津和野エクスプレス(サラダエクスプレス)号という夜行バスに乗って島根に向かい、翌朝6時半に、霧雨にけぶる三隅に着く。この辺はすぐ目の前が海、背後には山がへばりついていて、細長く続く海と山の境目に川と道が並んでいるという按配で、奈良の風景とはずいぶん違う。蛇行する川面からは霧が湧いていて、なんだか大蛇が腹ばっているみたいに見え、ヤマタノオロチの存在が実感される。だから、やっぱりその場に足を運ぶというのは大事なことなのだ。

今回島根に来たのは、実は今度9月にジャワから舞踊家を呼んで石見神楽と競演してもらうための布石なのだ。岡崎社中さんという、その辺りでは一番古い伝統を持つ神楽グループが協力してくれることになっている。それで神楽の人にもジャワ舞踊のワークショップに参加していただいて、まだ全然見たこともないジャワ舞踊に触れてもらい、接点を探ることにしていた。もちろん私の方も、石見神楽というのはテレビのニュースやビデオでちょっと見たことがあるという程度、ヤマタノオロチを一晩中上演するという程度のことは知っているだけのド素人である。というわけで、土曜には、ジャワ舞踊ワークショップを2回、さらに土曜の夜にトークショーみたいなことをした後の午後11時頃から神楽音楽で即興で私が舞うというのをやり、日曜の夕方、ワークショップを2回やった後で、オロチと対決することになった。

私が知っている神楽の音楽は、私が小さい頃に廻ってきていた伊勢神楽の音楽だけで、それと石見神楽の音楽は違っていたけれど、なんというか、無心を揺さぶられるような音楽だった。ここで育ったわけでもないのに、この神楽音楽も日本人である自分の原風景にあるものだという気がする。いろんな場面の音楽をメドレーのようにぶっつづけで演奏してくれて、この即興は40分くらい続いたらしい。夕方5時くらいからワークショップやらをぶっ続けでやっていたから、体と頭はボーッとしていたけれど、時間の経過を全然感じないくらい、没我していた。まあ15分くらいやってみましょう、と神楽の方から言われていたけれど、神楽の人たちも没我してノッてくれたみたいで嬉しい。

それで翌日、とてもノッてくれた岡崎社中さんから、やっぱりジャワ舞踊と競演するならヤマタノオロチだろうということで、オロチを3頭持ってきてくれる。ヤマタというだけあって、今では豪勢にする場合は8頭登場するそうだ。それで私は、ジャワから来たスサノオノミコトになって適当にオロチを退治してくださいね、と言われて、共演が始まる。この共演はパサール満月海岸のドラゴン座(という名前はすごいが、広さは6m×7.5mくらいで、今回は畳敷き)で行ったのだけれど、こんな密室空間にヤマタノオロチが3頭もひしめいて出てくると、これは本当に怖い。私の逃げる場所がないではないか!

オロチを演じる人は排水ホースみたいな長い胴(材質は和紙と竹ヒゴの輪)を穿き、頭を被っている。しかもいまどきのオロチの目はピカピカ光り、しかも本番では煙を吐くとかで、舌の下にその火薬口が仕込んでいるのが見える…。その3頭がとぐろを巻いたり、鎌首を持ち上げたりする。ここはオロチの見せ場なのだろう。本当はこの場面ではスサノオは悠然としていれば良かったのだと、終わってから言われたのだが、真近でオロチを見たら、そんなに悠然としていられない。

しかも横から、はい、これが太刀よと渡される(ただし練習用ということでデザインは日本刀)。この武器がまたジャワ舞踊の剣と勝手が違う。ジャワ舞踊の剣はこんなに大きくなくて、第一構え方も違う。しかも練習用とは言え、この日本刀は重い…。ここで早くも剣を抜いてしまったので、オロチにこわごわちょっかいを出してみたりする。そのうちにオロチが酒と書いた樽に頭をつっこみ始める。そこでやっと、そういえば物語ではスサノオはオロチにまず毒酒を飲ませるんだった、と気づく。とはいえ、一体どうやったらオロチは死ぬんだろう。そのことを前もって聞いていなかったことに気づく。仕方がないので、へっぴり腰ながらオロチに剣を向けてみるが、全然死なない。鎌首を上げられるともう戦っていられなくて、私はあちこち跳びまわって戦っていると見せながら、逃げ廻っていた。この間はずいぶん長かった気がするが、演奏の方も私が怖がって逃げていることに気づき、退治の策を授けてくれた。オロチの角をつかんで首を引っこ抜けというのだ。スサノオが角を取ると、オロチ役は自分の頭に固定していたオロチの頭を外し、スサノオは頃を見計らってその頭をすっと抜くらしい。そういう作法を知らなかったもので、ものすごくどんくさいことになったが、なんとかオロチは3頭とも死んで退場してくれた。

終わってから神楽の人たちに爆笑されたけれど、このオロチ退治は本当にいい経験になった。型がない異種格闘というのは、本気で怖いものだと思い知った。ジャワ舞踊であれ何であれ、戦いの舞踊・劇というのは、「相手がこう攻めてくるから、こう受ける」ということが型として決まっている。だからこそ、安心して戦っていられる。そういう共通理解なしにいきなり相手と立ち合ったとしたら、たとえフィクション(舞踊、劇)であっても恐怖を感じる。私はオロチから逃げながらも、スサノオは巨大なオロチを見ておののかなかったのだろうかとか、ウルトラマンがバルタン星人と立ち合ったとき、どう思ったんだろうかという疑問が脳裏をよぎっていた。こういった神話のヒーローは(ウルトラマンは神話ではないけど)、相手の素性も出方も全然分からないままに、敵と立ち合っていたのだと、今になって気づく。そしてこういう怖さのリアリティを失うということが、型にはまるということなんだと、今さらながら感得する。一流の舞踊家ならば、戦いの型を演じながらも、そこにこういうリアリティを感じさせなければいけないのだ。

  ***

というわけで、9月6日に島根県浜田市三隅で神楽とジャワ舞踊の共演を行います。ジャワから来るオロチ退治の一行は、さて、うまく倒せますやら…。今後イベントの詳細はパサール満月海岸のホームページ私のブログでお知らせしていきますので、どうぞチェックしてみてください。

イラクの花嫁

さとうまき

ラーラが、結婚するという。
4年前14歳だった少女は、バグダッドからアンマンまでガンの治療に来ていた。しかし、今年の3月にガンが再発し、またアンマンの病院に入院しているという。早速病院に会いに行ったが、集中治療室に入っているので、面会はできなかった。婚約者のアリ(21歳)が、献身的に彼女を支えている。本来ならば今年の3月に式を挙げるはずだったのだが、ラーラの病気が再発したために式は延期されてしまった。
アリに話を聞いてみた。
「私たちが出会ったのは昨年の9月だった。私は、まだ若いから、もっと遊びたかったんだけど、親父から、心配してふらふらしてないで結婚しろと言われたんだ」
それで、親戚の娘を紹介されたという。しかし、アリの心をひきつけたのは、紹介されたタマラではなく、双子の妹、ラーラだった。しかし、ラーラの母親は、「この子は病気なんです」という。アリは、病気だと聞いてますます関心が湧いてきた。その日のうちに電話番号を聞いて交際が始まったのだ。しかし、それから数ヶ月後ラーラのガンは再発したのだ。母親と、アリが連れ添ってアンマンにやってきたが、お金のやりくりが大変だ。母親は、ホテルで皿洗いをしながら、家賃を安くしてもらった。アリの給料もそこをついたので、彼は一足先にバグダッドへ戻っていくという。

「今日はラーラと何を話したの?」
「しばらく会えないから。夫婦の会話をしたよ」
誇らしげにいう。結婚式は挙げていなくてもすっかり夫婦だという自覚。
「ロマンチックだった。『I Love you !』」
ラーラにはこれからしばらく寂しい思いをしなければならない。「空港に降り立ったら真っ先にラーラに電話するよ。彼女の声を聞かずにはいられない」

ラーラが退院する日に、ようやく私は彼女に会うことができた。4年ぶり。初めてあったころは、まだ幼かったし、遠足に連れて行ってやったりしたこともある。ベッドに横たわる彼女は髪の毛もすっかり抜けてしまっていた。「退院したら写真を撮りに行こう」
しかし、彼女は、治療費を払わないと、退院もできないという。私たちは、がんセンターの口座にお金を振り込んで、すぐに退院させるように取り計らった。お母さんは、もういっぱいいっぱいだという。息子2人は、アメリカ軍に連れ去られ未だに刑務所にいるという。

ガンの再発は非常に厳しい。ヨルダンで最新の医療設備が整っていても、助かる確率はすくない。のこされたのは骨髄移植のみ。あと何百万円準備しなければいけないのか。それでも、助かる確率は20%である。

その夜、街に出て、ラーラの支援を呼びかける記事の写真を撮ることにした。ラーラーは、かつらをつけて、気合を入れて化粧をしてきた。ダウンタウンの花嫁衣裳屋さんに行く。ラーラは、白い衣装よりは、色のついたものを好んだ。店の売り子の女性は、病気のことなどはまったく知らず、若い花嫁を祝福する。翌朝、母子は、バグダッドに向けて帰っていった。骨髄移植をするかどうか、まもなく決断しなければならない。

5列21番

大野晋

「やだ。また、誰も来ないじゃないの?」
 女がすっとんきょうな声を出した。

その港の見える丘の上の古い木造のコンサートホールの席は3列目から始まる。もちろん、ホール内の見取り図には1列目と2列目も書かれているのだがオーケストラが演奏するなどの公演では前の2列が外されて、その分舞台が広くなるのだ。新しい大きなホールが近くにできてから、最近では演奏会も稀になり広くしたままになっていることも珍しくなくなった。
 その席は、そんなホールの前から3番目。5列目のちょうど40席ある座席のちょうど真ん中、21番目にある。

「この間も、その前も、この席の人は来た事ないじゃない。もう、来ないなら予約なんてとらないで欲しいものだわ」
どうやら、演奏者の追っかけらしい女が一緒に来たらしい他の仲間に悪態をつく。最近では若い演奏家も多くなり、アイドルのような追っかけも出現している。

コンサートも半ば、休憩時間になり場内が明るくなった時、さっき悪態をついていた女たちに初老の紳士が微笑みかけた。
「その空席のことで随分とご立腹のようでしたね」
「あら、煩かったかしら。だって、ちょうど、その席のところが舞台の出演者と同じ目線になって具合がいい席ですから。いい席を無駄にしないで、他の人に譲ってくれればいいと思うんですよ」
女はまだ、未練がありそうな様子だった。
「そうですか。じゃ、この席の由来をご存じないのですね。あまり口外するような話じゃないんですが、ずっとこの付近を予約されるようだから知っておいた方がいいでしょうね。まあ、信じられないかもしれないが、だまって聞いてくれますか?

先の戦争といってももう随分と昔になりました。しかし、その昔、この国も焼け野原になりましてね。何もなくなった。ものがなくなったのならまだ良かったが、人もいなくなった。大抵のいい人は皆、帰ってこなかった。そして、活力もなくなっていたんです。そんなときでした。戦争の前から音楽をやっていた一人の男が演奏会をしようと言い出したのは。焼けてなにもなかったんですが、手当たりしだいに残っていた楽器を持ちよって下手な楽団の下手な音楽会を、そう、港の見える小高い丘のちょうどこのあたりで開いたんですよ。下手な連中ばかりで、今の立派な音楽家と比べるとたいしたことはできなかったが、聞いた皆の心には希望の灯がともったのでしょう。定期的に演奏会を開いては未来の夢を描いたんですね。徐々に、活力を取り戻し、街にも生気が蘇ったのを感じたものです。

やがて、演奏会は大きくなり、言い出した男は皆の面倒をみる世話役のような形で、中心になって働いていた。このホールができたのも、そんな復興の中でした。市民が誰となく言い出して、実現したのが当時としてはめずらしかった大型の演奏会専用のホールでした。開館当時は多くの有名オーケストラを集めて盛大なセレモニーが開かれたものです。もちろん、初代の館長は戦後、ずっと復興に尽力したその男でした。しかし、いいことがあれば、悪いこともある。このホールができて数年を経た年末。その男は逝ってしまった。最後は耳が遠くなってしまって、大好きだった音楽が聞こえなくなると嘆いていましたよ。

それから何年かした頃ですかね。変な噂が広がったのは。

夜中や休館の日にホールを覗くと、ホールの中に人影が見えるというんです。最初は泥棒かなにかだと思いまして、この中にはピアノやハープシコードなど、ホール専属の楽器がいくつか置いてありましたから。しかし、よくよく話を聞いていくとそういうことではないらしい。初代館長の姿をしたうっすらとした人影が心配そうに楽屋をみたり、ホールや客席の間を行ったりきたりしているらしいんです。それを聞いて彼を知っている連中はピンときましてね。昔からそうなんですが、公演が始まるまで心配で心配で仕方がないらしくて、あれは忘れていないか、これは準備したのか、お客は満足して帰ったか、演奏者には失礼はなかったか、そんなことを始終気にしている男だったから。。。

で、一計を案じて考えたのが、演奏会に専用の席を設けてやろうという話だったんです。それも、ちょうど、この位置。この観客席の真ん中で舞台の演奏者と同じ視線の位置に座って、お客が入る前にゲネプロを聴くのが癖だったから、この位置を彼の功績に免じて提供しようってことになって、だから5列21番はいつも、彼のための指定席として空いているんですよ。いや、空いているって言うのも間違いかな? この年齢になるとね。ときどき、ふっとね。そこに、彼のいる雰囲気がする。そう、名演だとうんうんと頷いているようなそんな気配を感じるんですねえ。おかしいですね。

だから、どうか、彼に免じて許してやってくださいな。また、今日の演奏も絶好調だ。最近の若い演奏家は技術があるから、きょうもそこで喜んで聴いていると思うんですね。いや、ごめんなさいね。変な話をして。年をとってくると昔話が多くなって。困るね。ははは」
そして、ちょうど、その女越しにその席の方を見て、にこりと頷いた。

5列目21番。港の見える小高い丘の上にある木造のホールのその席は今日も空いている。

メキシコ便り(10)

金野広美

メキシコは西は太平洋、東はカリブ海という大きな海に挟まれているためプラジャ(海岸の意味)と呼ばれる海を楽しめるスポットがたくさんあります。その両方の海に行ってみようと、カリブ海側のカンクン、プラヤ・デル・カルメン、太平洋側のプエルト・バジャルタ、マンサニージョに行ってきました。

カンクンは日本から新婚旅行でやって来るカップルも多く、毎年300万人もの人が訪れる世界有数の大リゾート地です。平均気温は27度。近くにはチチェンイツァーやトゥルムというマヤ文明の重要な遺跡があり、これらとセットで訪れる観光客も多くいます。メキシコ・シティーから飛行機で2時間半、ユカタン半島に位置するカンクンはホテルゾーンとセントロ(ダウンタウン)という2つの中心街があり、カリブ海に面したホテルゾーンには100余りの豪華ホテルが林立しています。私が宿泊したホテル、オアシス・カンクンはとなりのグランド・オアシス・カンクンとあわせて部屋数が1316という巨大なホテルでループ状の長いプールやテニスコート、フィットネスクラブやディスコ、日替わりで民族舞踊やカリビアンダンスなどが見られる大きなホールなど、とにかく大規模で退屈している暇がないという施設でした。ホテルに到着するとすぐ水着に着替えて海に直行。そのあまりの美しさに一瞬、息をのみました。どこまでも続くパウダー状の白砂のビーチにエメラルドグリーンの海が広がっています。その日はとても波が高く泳ぐというより波乗りをしたほうがよさそうだったので、大きな波がやってくると飛び上がるというボードを使わない(というより使えないのですが)、波乗りをして海に遊んでもらいました。

次の日はカンクンから船で1時間のイスラ・ムヘーレスという全長8キロの小さな島に行きました。ここにあるプラヤ・ノルテというビーチは遠浅で波もなく、ゆったりと泳ぐことができました。

カンクンで4泊したあと、バスで約1時間半のプラヤ・デル・カルメンに行きました。ここはカンクンとは違ってこじんまりとした静かなところで、カンクンの喧騒を離れてのんびりとするには適している場所です。ここでは3泊したのですが、2日目に船で45分の島コスメルに行きました。

コスメルは長さ53キロ、幅14キロのメキシコでは一番大きな島で、透明度の高い海が世界のダイバーを魅了しています。私はダイビングの免許を持っていないので、シュノーケリングしかできませんでしたが、それでもたくさんのきれいな魚たちと出会うことができました。赤、青、黄色と黒、白に緑と、色とりどりの宝石をちりばめたような海の中は本当に美しく、はるか昔、幼稚園の学芸会で竜宮城の乙姫様になってお遊戯をしたことを思い出してしまいました。ここコスメルの海はカンクンとはまた違って群青、青、エメラルドグリーン、緑、薄緑と微妙なグラデーションを描いていました。白い砂浜に座ってこの海をぼんやりと眺めていると、時のたつのを忘れてしまい、決しておおげさではなく生きててよかったなあと思えてくるのでした。というのはいくら努力をしてもなかなか上達できないスペイン語にあせりと苛立ちを覚え始めていた私を、カリブの海は、「生きてる限りなんとかなるよ。もうちょっと頑張ってみたら」と、言ってくれているような気がして、ちょっぴり元気がでてきたからでした。

カリブ海からいったんメキシコシティーに帰り、こんどはシティーからバスで13時間の太平洋岸にあるプエルト・バジャルタに行きました。カンクンではホテルの従業員以外メキシコ人はほとんどいなくて、多くの米国人とヨーロッパ人ばかりでいたが、ここにはたくさんのメキシコ人がいました。海の色は深緑一色で砂浜も黒ずんでいたため、カンクンとのあまりの違いに一瞬たじろぎ、海に入るのをためらってしまいました。しかし、とても楽しそうに波とたわむれているメキシコ人を見ているうちに、私もつられるように海に入り泳ぎました。たくさんの子どもたちも歓声をあげながらはしゃいでいます。波打ち際をおいかけっこをしたり、砂山をつくったり、ボードをうまく使って波乗りをしたりと、本当に楽しそうでした。そんな子どもたちを眺めていると、海岸でホセという名の男性に声をかけられました。ホセの仕事は塗装工でメキシコシティー近郊のトルーカから同僚3人と単身赴任で働きに来ているということでした。ここプエルト・バジャルタは近年急速にリゾート開発が進み、ホテル建設が増えています。ホセもそのために3ヶ月間ここにいる予定だそうです。一緒に来ていたアルベルトがビールを勧めてくれ、みんなで飲みながらいろいろ楽しくおしゃべりし、メキシコシティーでの再会を約束して別れました。

このあと太平洋岸を少し南下してマンサニージョという大きな港のある街の海でも泳ぎましたが、やはりここも海水はプエルト・バジャルタよりは澄んでいましたが、カンクンとはまったく異なる海でした。海で泳いでいるのはメキシコ人ばかりで外国からの観光客はあまりいませんでした。このようになぜカンクンにはメキシコ人がいなくて太平洋岸ばかりにいるのかというと、カンクンは遠くて高すぎるため一般のメキシコ人はなかなか行けないのです。カンクンに行けるのは、ほんの一部の金持ちだけです。また、私も含めた外国人観光客が多いのは外国人にとってはカンクンは安いのです。特に米国からだと近いため、大勢の米国人が押しかけます。カンクンはメキシコの国土でありながらそのすばらしさをメキシコ人が享受できない場所なのです。でも「カンクンに行ってきたよ」と、メキシコ人の友人に、てばなしで報告できないほろ苦さを抱えながらも、また行きたいとおもっている私なのです。どうもすみません。

雉鳩――みどりの沙漠45

藤井貞和

孔版の上に火を鑽るごとくする思想的いわれ鋼鉱を熔かす

なんて季節がありました、

活きる字の活版印字ゆめのさき孔版原紙切り裂きながら

などとも、いきがって、

一語一語意味の原野に字を植うる写植の時代燃ゆる校正

などとは、いきがって、

鉄筆の火を鑽る原初より続く稗(はい)史臆説式亭三馬

版本時代の終わりを告げて、

プリンターよりひらひらと雉鳩の飛び立ちてすべなきわが帰還

(6月尽。パンドラの箱を開けるように、開けたらプリンターからひらひらと飛んでいっちゃったんです。一枚また一枚、消えてなくなります。)

梅雨明け、ウマチー

仲宗根浩

選挙があった。こちらで選挙となると地縁、血縁の世界。選挙に尋常なく燃えるひともいる。投票はするがなるべく、関わりたくない。各選挙事務所には知っているひともいるので近寄らないよう、前を通るときも足早に、足早に歩いていたら、梅雨は雨を降らせることもなく十七日に明ける。気温も三十一度を超えるようになる。三十度と三十一度、差は一度だが窓から入る風が全然違う。陽差しは痛い。Tシャツの繊維の隙間から陽は肌を刺す。家では空調のない部屋にいることが多く、暑がりなので自然と裸族と化す。といっても最低限着るべきものは着ている。

晴れていても雨雲が急に近づいて来て、数分雨を降らして通り過ぎる。

翌日の十八日は旧暦五月十五日、五月ウマチー(グングァチウマチー)のため首里の宗家の仏壇を拝みに行く。二十年くらい前、拝みに行く仏壇が家の近所にあったころ以来だ。この日は門中(モンチュウ)と呼ばれる親族が集まる。昔見たのと同じように仏壇が配置されていた。こちらでは行き来する親戚の幅が広い。親戚と言われても長らく沖縄を離れていたため、関係がわからない場合が多く、後から教えてもらう。父方、母方の祖母の従妹、その実家、養子に来たひい爺さんの実家、そこから分かれたそれぞれの家々。

以前、原稿を書いていた音楽雑誌が送られて来る。CDを紹介したものやコンサートのレポート、フリーペーパーや地元の雑誌に書いたものは一カ所に積み上げておいたが、年末大掃除で全部処分した。原稿を書くにあたって取材に時間が取れなくなったこと、色々、音楽に関係するひとと話をしていると、あちこちに派閥、触れては行けない人間関係などが見えて来たので面倒くさくなって全部やめた。やめてからずいぶん経つのに、一誌だけが毎月送ってくれる。その中で紹介される音楽の内容は今ほとんどが興味なくなっているがブラジル移民百年の記事があった。母方の家はわたしが生まれる前に、ブラジルに移民として渡った。たまにブラジルから神奈川に働きに来ている従兄弟が沖縄まで遊びに来る。以前は方言とポルトガル語しか話せなかった。こちらもカタコトの方言を使って会話する。何度も行き来するうちに、会話もスムーズになっていく。日本語は難しい、と言っていた。

久しぶりに、よく行ったいた飲み屋に行く。顔を出していない間のよく顔を合わせていたひとの近況を教えてくれた。その中の米兵夫妻、旦那がテキサスに移動になるらしい。彼はarmyなのでテキサスへの移動はほとんどイラク行きとのこと。奥さんのほうは悲嘆にくれ、泣いてばかりいるといっていた。任務が終わるまで家族はテキサスで待ち続ける。慰霊の日の二十三日、子供は学校が休み。テレビでは特集番組、慰霊祭の中継、ニュースではその様子を流し続ける。沖縄では南に逃げるか北に逃げるかで生死の確率が全然違う。父親、母親とも北、山原(ヤンバル)に逃れた。それでも機銃掃射で歩く列、ひとりおきに弾丸に当たり倒れていったはなし、夜の艦砲射撃の光の様子などは子供の頃聞いた。今の戦争も昔の戦争が遠くないところにある。

色々な旅

笹久保伸

先日ギリシャ、ブルガリアで演奏する事になり、初めてのヨーロッパへ行った。私は乗り物酔いをするので、以前から旅はあまり好きではなかった(旅は好きだが、乗り物が嫌い)が、それもペルーでたくさん旅をしなくてはいけなかったため、だいぶ鍛えられた。過去の旅の経験があったので、今回はわりと余裕があった。

ペルーの場合、首都のリマから山岳地域に行くにはアンデス山脈を越えていかないとたどり着けない。飛行機で行けば1時間で行けるところも、車で20時間かかる。とくに田舎では道が整備されてなく、車もボロボロ。旅をしていると探検家、冒険家のような気分になる。アンデス越えは標高の高い地点を通るが、標高4500メートルを超えると、かなり体がきつくなり、手がしびれ、頭がくらくらする。バスにはトイレが無いため、乗客の誰かがトイレに行きたくなるとバスが止まる。(たまに運転手の悪ふざけで止まってくれない)

標高5000メートル地点などでバスが停車したら、歩いて外に出る事すらつらい。私が旅した時、首都は夏だったので、半袖Tシャツ一枚でバスに乗ったが、標高5000メートルに着くと雪が降っていて(ワンカベリカ県)、バスを降りる前から高山病で手足がしびれていた私は、ふらふらで外に出て、本当に死ぬかと思った。この旅は私の人生最悪の旅だが、とても重要な経験だった事が後でわかった。

一方首都のリマから北、南へは海岸線で標高は低い。ペルー最北部はトゥンベス、ピウラと言う県で、1200キロくらいある、最南端タクナまでも同じ距離。これは楽だと思いバスに乗り挑戦したが、あまり楽ではなかった。20時間の旅だが、景色はずっと砂漠でまったく変化がない。しかもかなり暑い。途中では麻薬の検問があり、犬と警官がバスを止めて色々調べる。バスの中では眠れない、眠ると100パーセントの確率で荷物を盗まれる。

自分はまだ置き引きにはあったことがないが、強盗に襲われたことは何回もある。リマのスラム街に泥棒市があり、ここにいる90パーセントの人間が泥棒といわれ、車の部品から鉛筆、骨董品、楽器、レコードからピストルまで何でも手に入る。そこに売ってないものは、注文すると、彼らがどこかから入手して(盗んで)くる。物を盗まれた人は、盗まれるたびにそこへ行く、そしてたまに自分が盗まれたものが数日後そこで販売されていて、自分で買う。うそみたいな話だが、本当である。

その頃私は78回転のSP版レコードのペルー音楽を収集していて、そこへ買物に行った。昼間道を歩いていると、4人組が現れ、一人に首を絞められ(ヘッドロック)あとの3人に所持品を奪われた(ガムだけ返してくれた)。後日再び買物に行ったときは、スラムに住む子供の集団(強盗)に襲われた。現地ではそれをピラニアとよび、20人くらいで一斉にかかってきて、抵抗は不可能である。私は走って逃げきったが、誰も助けてくれなかった。

その後自宅の前でも強盗にあったときは、隣の床屋のおじさんが助けてくれた。

日本に帰国する日も、自宅を出発する時2人の強盗が現れ、ピストルを突きつけられた。たぶん近所に住む泥棒が、私が旅に出る事に気がつき、その知り合いの泥棒を呼んだと思われる。もしくは、家の前にいる見張り人が強盗に旅に出るという情報を流した(そういう事は日常茶飯事である)。

楽器を取られないよう心配をしながら、でも死んだらもともこもないな、と考えた。強盗もかなり緊張していて、それが逆に恐かったが、結局彼らはタクシー運転手の財布と荷物、携帯、免許証を盗み退散した。その後警察に行ったが「強盗? まあよくあるから、次は気をつけてね」と言われ、犯人を追わないのかと聞くと「追うわけないだろ、だって捕まらないし、カヤオに逃げられたら警察は入れないし」と聞き流された(カヤオ地域のスラムは警察すら入らない)。

話を旅に戻しますが、一方ギリシャ、ブルガリアの旅は、移動中の景色はきれい、電車、バス、道路、食、すべて順調であった。ブルガリアで突然雹が降り、ホテルのガラスが割れたり、洪水になったり、ギリシャからブルガリアへ移動したとき(電車と車で移動)到着時間を勘違いし、ギリシャのドラマ県に夜中の3時についてしまい、駅のベンチで寝るはめになったり(11時amまで)はしたが、冬、アンデスの村のバス停で寝た事もあるし、食事が乾燥トウモロコシだけだった事もよくあるので、それにくらべたらたいした問題ではなかった。

先進国、発展途上国では色々な面で雲泥の差がある、しかしどちらが雲でどちらが泥か、そのとらえ方は人それぞれ。

アジアのごはん(25)コルカタのチャイ屋さん

森下ヒバリ

インドの西ベンガル州の州都コルカタ(旧カルカッタ)の空気の悪さは半端じゃない。夜半にコルカタ空港に着いたとき、まず着陸のときに窓から外を見て「おや、深い霧だこと」と思った。空港からタクシーに乗って道路に進み出て「コルカタは霧の町だったのか・・」とロマンティックな気分に浸ることわずか、すぐに町中に流れる霧のようなものが外灯や車のライトに照らされたスモッグだと気が付いた。

加えて、ものすごい騒音と渋滞。鳴らされっぱなしのクラクション、人の叫び声、車のエンジン音、音楽。忘れていたインドの感覚が身体の底から浮かび上がってきた。この混沌の世界に戻ってきた・・と思わずタクシーの中で嬉しくなって笑ってしまう。

しばらくコルカタにいたのだが、用事があるときのほかは、宿のあるサダルストリート周辺からほとんど出なかった。せいぜい、オールドマーケットの向こうまで。とにかく、車の多い大通りは空気が悪くて渋滞しているので、大通りには極力出たくない。あまり車の走らない裏通りや路地をぶらぶら散歩して過ごした。サダルストリートは、安宿街なのだが、この周辺は古きよきインドの下町でもあるので、路上観察していて飽きることがない。

散歩の友は道端のチャイ屋で飲む一杯の煮出しミルク紅茶である。紅茶を牛乳と水とで煮出したもので、たっぷりの砂糖が入っていてかなり甘い。店によっては生姜やシナモンなどのスパイスを加えることもある。道端の店ではある程度まとめて鍋で作り、仕上げに砂糖を加えてしまうので、砂糖抜きを頼むのはむずかしい。道端の店ではとても小さい素焼きのカップで出されるのだが、たぶん40ミリリットルぐらいしかチャイは入っていないので、甘くてもまあ何とか飲める。

いろいろな道端のチャイ屋で飲んでみて、けっきょくホテルの横の路地にあるチャイ屋がいちばんおいしいことが分かった。チャイを作っているのはまだ中年にさしかかったばかりのおじさんである。青いチェックのルンギ(腰巻布)を着て立てひざをして座り、もくもくとチャイを作る。店に客が途切れることはほとんどない。少年が出来たチャイを受け取って客に渡したり、配達したりしている。木のベンチが2つあるのだが、いっぱいで座れないことも多い。

素焼きの小さいカップ入りが2ルピー。約6円。大きいカップもあり、こちらは5ルピー。小の3倍ぐらい入っている。素焼きのカップは使い捨てで、飲み終わったら足元に投げ捨てて割る。低温焼成なので耐久性はなく、しばらくすると土に返るのである。焼き上げて洗っているわけでもないので、赤茶色のカップに口をつけるとちょっと赤土の匂いがする。

ベンチに座ってちびちびと飲みながらチャイ屋さんのようすを眺めていると、持ち帰り客もけっこう多い。マイカップや小型の保温ポット、ステンレスの茶筒のような入れ物を持って買いに来るのである。

「わたしも持ち帰りがしたいっ」と今回のインド旅行に同行したK嬢が目を輝かせて言う。ステンレスの茶筒にはもち手も付いていて、あれをぶら下げてチャイを買いに行きたくなったらしい。市場の近くでステンレスのいろいろな容器を売っていたので探し出して買い、K嬢はチャイのお持ち帰り生活を始めた。「いや〜、お持ち帰りだと量が多いんですよ〜」マイカップやマイポットを持参すると、5ルピーで店で飲む大きいカップの2倍近い量がもらえるのだという。

ところで、日本人や中国人、タイ人などのアジア人は大人になるとほとんどの人が「乳糖不耐症」になる。ミルクに含まれる乳糖が消化できず、腸内で拒否反応を起こして腹痛、下痢、ガスの異常発生などの症状を起すものだが、どれほどミルクを飲めばどのように症状が出るかには個人差もあるし、戦後育ちは子供の頃から牛乳は完全栄養食品という信仰で育てられてきているので、自覚のない人や、気付かない人も多い。しかし、ミルクを飲むとおなかが張る、お通じが良くなると思っている人は多いはずである。

これは次の世代に母親の乳を譲るための、哺乳類としてはごく自然な性質である。ミルクが完全栄養食品になるのは、長い牧畜の歴史によって得られた、乳糖を消化できる特質を遺伝的に持っているヨーロッパ人などの人々にとってだけなのだ。
インド人は地域にもよるが、アジア人よりは乳糖分解酵素の保持率が高いようである。乳糖は発酵作用で分解されるため、乳糖分解酵素を持っていないアジア人成人は、牛乳や生クリームはなるべくさけて、乳製品が食べたければよく発酵したチーズやヨーグルトを食べるといいようだ。

わたしは牛乳アレルギーも持っているので、乳製品を摂取すると乳糖不耐症の症状が出るより先に気分が悪くなってしまう。まったく受付けないわけではないが、許容量は少ない。なので、チャイは水とミルクが半量ぐらいであるとはいえ、5ルピーのカップを一度に飲むと容量オーバー。一日に間を空けて2ルピーのチャイを3杯が限度だろうか。幸いなことにそういうペースであればチャイも楽しめる。

なので、乳糖不耐症の激しい症状に至るほどのミルク摂取はしたことがない。沢山飲めば飲むほど症状は激しくなるというから、その症状を経験することはまず無理。その前にアレルギーで吐いて倒れるから。

しかし、激しい乳糖不耐症の症例を目の当たりにする日がやってきた。コルカタから北へ寝台列車で移動し、ブータン国境の町に着いた日、わたしは寒さとカレーの油に胃が弱って体調を崩し、宿でげろげろと吐いていた。食べ物も受け付けない。なにか同じように具合が悪そうでトイレに通うK嬢。あぶらこいカレー料理でも何でも「おいし〜い!」と毎日わたしの二倍は食べていたから、さすがに胃をやられたのかと思いきや「ゲリなんすけど、それと一緒にあの・・も、ものすごい爆発ガスが止まらないんです」と青い顔。

「それ、乳糖不耐症の症状みたいやけど、毎日どれぐらいチャイ飲んでたん?」聞くと、ここ数日、彼女は散歩のときにも一緒にチャイ屋でチャイを飲んでいたが、その上に何度もお持ち帰りをして宿の部屋でチャイ三昧をしていたらしい。あの小さなカップの量ならまだしも、お得なマイポット持ち帰りであるので、けっこうな量を飲んでいたことになる。さらにインドのベジタリアン料理はミルクをよく使うので、知らず知らずのうちに限度を越えて大量摂取に至っていたのだろう。
「日本にいるときも牛乳は好きでよく飲んでたんですが、たしかにおなかは張ってよっくガスが出てました。でもこんな激しいのは初めてですう」K嬢はおなかが張ってよくガスが出るのは自分の体質だと思っていたらしい。一緒に行ったほかのメンバーからも「はしゃいでお持ち帰りするからだ」と叱られ、「お前はもうチャイを飲むな」とストップをかけられたK嬢であった。しかし、チャイ断ちした後も数日間は彼女の症状は治まらなかった。

しもた屋之噺(79)

杉山洋一

先月末、まるで昨日のことのように大阪の高層ホテルから夜が明けてくるのを眺めながら原稿を送り、一月経った夜半、庭の夏虫の声を聞きながら続きを書いていると、ものすごく大きな白いキャンバスに、気の遠くなるような日記を書きつらねるような、何となしに朦朧とした気分になってきます。

四月はじめ、ミラノの自宅に空巣が入り、日記帳がわりの数年前のクリスマスプレゼントにエミリオがどこかオーストリア国境の小さな街で偶然見つけてきた、巻末にピタゴラスの数表がはりつけてある色あせた数十年前の小学生用ノートが、プロコフィエフの1番交響曲のスコアと一緒に盗まれてから、日記をつけていなくて、この原稿が肌理の荒い備忘録替りになっています。でも思い出せることは限られていて、取りこぼしも少なくないかと思います。

当初、毎月終わりまでにあげるこの原稿は、自ら課した日本語の宿題のつもりで、日本語を書くことを忘れないでいなければ、程度に思っていましたが、もうすぐ息子が近所の幼稚園に通いだす段になり、親の懇談会などに参加しつつ、息子は何語でどう育ててゆくべきか、思いを巡らせるようになりました。

幼稚園に通いだすまで、イタリア語の導入のつもりで息子とはイタリア語で出来るだけ話し、家人と息子は日本語で接するようにしていますが、さてこれからどういう風にコミュニケーションが発展してゆくか。楽しみにしていますが、多少の不安もなきにしもあらず。日本語が出来たら親としては嬉しいけれど、どれだけ難しい言葉かもよく理解しているし、その苦労の割に、もし海外に住んでいたとしたら、どれだけ利用価値のあるものか、特に昨今の世知辛い日本の現状を鑑みれば、確かに多少首を傾げたくなるのも否めません。

今月はじめ、桐朋で作曲の公開レッスンをさせていただいた折、最初に申し上げたのも、一度海外に出れば厭でも学ばされる、言語感覚というか、契約社会における言語(音楽言語ももちろん含まれるわけですが)に対する責任意識についてで、自分はとにかく音符を書けばよいのではなく、多かれ少なかれ、自らの各音符の一つ一つ、楽譜一つ一つが、われわれの文化を否応なく育んでいるという事実と、同時に残されてゆくことに対する強い認識を訴えたかったのです。もちろん、それは作曲家に限らないと思うし、演奏家であれ聴衆であれ、近しい責任意識は持てるはずだし、持つべきだとも思います。

ちょうど今日、1月に桐朋でご一緒した学生さんからメールが届き、彼女が夏から秋にかけて参加するダンスやミュージカルの近況がとても清清しく綴られていて、とても嬉しくなりました。誰しもそれぞれの過去から培われた個性を持ち、リアルタイムで文化という歯車の一端を自ら担っている実感さえあれば、人生が途端に鮮やかなものに変化するに違いありません。ですから、あたかも文化への直接参加の機会を拒否するような、仮想社会に氾濫する現在の匿名性の横行は、勿体無い気がします。

誰しも完全な人などいないでしょうし、互いに違う人間であることを認めることから、自我を明確にすることもできる筈です。互いに違う人間がコミュニケーションを取るべく手段として言語があり、音楽があるのですから、結果として責任意識が発生するのも、むしろ自然だと思います。

尤も、ついこの間までインターネットすら存在せず、コミュニケーションの手段も全く違っていました。携帯電話もスカイプもついこの間まで普及していませんでした。ですから、今後コミュニケーションがどのように変化してゆくのか、想像を遥かに凌ぐかも知れませんし、現在までのかかる変化が、たとえば匿名性の誘因だったにせよ、これだけドラスティックにコミュニケーションそのものが変化しているのですから、一定の認識は必要かも知れません。

少し話は飛びますが、7月に東京オペラシティで安江佐和子さんが演奏してくださる打楽器曲に、Tree-Nationというニジェールの植樹運動の名前をつけたのは、無責任とも言えます。実際ニジェールに行ったこともなく、この植樹運動が砂漠化を止めるにあたりどれだけの意味が役割を果たすか、おそらくバルセロナの本部ですら未知数かも知れないのですから。ただ、安江さんの演奏に接し、たとえば彼女のCDを通じて、アフリカやニジェールに興味を持つ人もいるかも知れないし、もしかして一人でも植樹運動に参加してくれる人が増えるかも知れません。樹を買わないまでも地球温暖化や森林破壊、世界の砂漠化に対して、自ら出来る心がけはないか考える切掛けになれば、素晴らしいことだと思います。

もう数年前になりますが、最後に茅ヶ崎の祖父の墓参りに行ったときのこと。幾ら探しても墓石が見つからず、結局改めて調べてもらうと、「三橋家之墓」とだけ書かれた墓石に作り直したばかりで、将来新たな名前を書き付けるスペースも必要なのでしょう、墓誌には探していたご先祖の名前は刻まれていませんでした。ですからお墓が見つからなかったのです。

宮大工だった母方の祖父が亡くなったのは1935年前後かと思いますが、死後73年もすれば、彼が存在した跡すら消去されてゆくことを知り、人生の儚さだけでなく、文化の推進力の強さ、強かさを頼もしくさえ感じました。父方の曽祖父の名前も、戸籍謄本は杉山龜太郎、墓石には龜次郎と書いてあり、どちらが正しいか覚えているひともいません。

せいぜい死後70年も経てば、存在など多かれ少なかれ薄らいでゆくものでしょうし、自分のことを死後、長く記憶に留めて欲しいとも思いませんから、やはり如何に現在を生きるか、巨大な世界において、ちっぽけな自分がすべきこと、出来ることは何かと考えるのも強ち無意味ではないと思うし、せめてせいぜい生きている間は、誰でも気持ちよく、正々堂々と生きられる社会であってほしいとも思うのです。

実は今日、家人が一泊二日でペスカーラに出かけていて、久々に息子と二人で過ごしています。外は既に白んで鳥たちのさえずりも一層冴えてきましたが、原稿を書いていると、暑気で寝苦しいらしく、何度か階下から息子に呼ばれ、寝かしつけてきました。そうして、未だ3歳の芋虫だか子犬のような背中を眺めつつ、親父もせいぜいお前に恥ずかしくない程度には譜読みしなきゃと諌めつつ、ジェルヴァゾーニの楽譜を引っ張り出してきたところです。

(6月29日 ミラノにて)

グレン・グールドふたたび

高橋悠治

NHKテレビ番組『グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー』に出てグレン・グールドのヒンデミット/シェーンベルク風ピアノ小品を弾き あらためてグールドのDVDの映像を見て思ったこと二三

高い枝から実をもぎ取るサルのような 極端に低い椅子に座って鍵盤から指で音を掻き取るようなあのしぐさは 最少限の力で音の(ピアノの場合)強度と時間的ずれの微妙な調整 それによる音色(ねいろ)の幻覚を生む 合理的な方法であるはずなのに なぜ あんなにぎくしゃくしてしまうのか 最初の一音の前の身構えが 強調する音の持続が 頸椎をふるわせ 肩甲骨をかたくする のばした指はバネのように鍵盤から飛び退き テニスのラケットのように音をはじきだす 肘からさきだけがうごいている 顔を鍵盤に近づけ 他のものが意識に入らないように 指のうごきだけを見て 口はリズムをとりながら 憑かれたようにさきを急ぐ

再録音した『ゴルトベルク変奏曲』のアリアの遅さ ほとんど停止して次の音が予測できないほどの それでもあたりに漂う沈黙を押しのけて気力だけで 次の音に辿り着くように見える 自転車が倒れないようにできるだけ遅く漕ぐことに必要な技術と似たものがはたらいている ここでは あらかじめ決められた構成や 全体の予想からはずれて 一瞬ごとに生まれては消える音と沈黙のバランスが揺れている

それでも第1変奏に入ると それは錯覚にすぎなかった 全曲のテンポ配分が比率で決められていて それに従うなかで あの異常な遅さと感じられるテンポが現れただけ 1956年の最初の録音の「30のばらばらな小曲」を自己批判して 計算されたテンポ変換で全体を統一しようという意志の厳密な実行結果にすぎなかった グールドはそれを算術的対応と呼ぶが それは1950年代にエリオット・カーターの発明したテンポ変換法とおなじもの

グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた それでも音符を書いたり 電子音響を合成することは 時間をかければできる 演奏現場から遠ざかり 録音に特定した作業と言っても 楽器の演奏は身体なしではできないし 身体の制御は機械とおなじではないから このような原則を身体に強いれば そこから複雑な心身問題が起こるだろう

グールドの全身は呪縛されたように 肘からさきの手とそれを見つめる近視の眼に集中し 上半身は音楽の歩みに誘われて おそらく意識することもなく時計回りにゆるやかに回転している 演奏している音楽だけが世界であり その他のものから切り離されて そのなかにどこまでも没入することはできるけれど それはしょせん そうしている間だけそこに浮かんでいる時間の泡にすぎない その幻覚を演奏中全力で維持していくことと それ以外の毎日の輝きのない時間をすごさなければならない現実との落差は 身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃であるだろう
音楽のように特化したものをたよりに 統一原理をもとめることは 現実の分断とそれによる身体の破壊を招きかねない 一つの身体の上で心臓と脳が争っている どちらか弱いほうが破れるまで

6月の砂漠

さとうまき

今年は、パレスチナ人が、土地を追われて60年だ。イスラエル人が建国を祝う日を、パレスチナ人は、「ナクバ」と呼ぶ。大惨事と日本語では訳されている。パレスチナ難民キャンプは、シリアやヨルダン、レバノンなどに散在するが、キャンプといっても60年もたてば、そこには、ブロックで家を作り、それが、世代とともに大きくなって、普通のアパートになっている。難民キャンプであることを認識するには、壁にかかれた政治的な落書きや、アラファト議長、ジョルジュ・ハバシュといった歴史上の人物の写真が張ってあることだろう。正直、イラク戦争以降、パレスチナは、しんどいと思う。アラブが、ますます拝金主義になってしまい、自ら問題を解決しようと立ち上がるリーダーはいない。

シリアとイラクの国境に、2000人以上のパレスチナ人がテント生活を営んでいることを知っている人は少ない。当のパレスチナ人ですら知らないふりを決め込んでいる。彼らは、バグダッドに住んでいたパレスチナ人だ。1948年、パレスチナ戦争に加わったイラク軍のキャンプが、ジェニンにあった。(ジェニンは、ヨルダン川西岸)ハイファから逃げてきたパレスチナ人は、イラク兵に連れられて、ゲストとして、バスラの難民キャンプへ到着。その後、バグダッドへ移動して暮らしていた。その後、サダムフセインは、このパレスチナ人たちを大切に保護していたために、2003年のイラク戦争後、サダムフセインに辛酸をなめさせられてきたイラク人たちに迫害させるようになったのだ。隣国ヨルダンや、シリアへ逃れようとする彼らに国境はとざされた。いまだに、2000人以上のパレスチナ人が、国境でテント生活をしているというわけだ。

このパレスチナ人たちが、SOSを何度か送ってきたので、私たちも重たい腰を上げることにした。問題は、キャンプがイラク国内にあることで、そう簡単にいけない。国連や、イラク政府、シリア政府と交渉してようやく許可をもらえた。

夏、砂漠は焼け付く。私たちは、情報収集のためにアンマンのNGOの事務所を尋ねた。イタリアの団体だが、セルビア人が働いていた。スロボダンという男は名前のとおり、背丈も高く、いかつい男だ。軍隊の特殊部隊出ではないかと勝手に想像するのは容易である。そんな男が、うんざりするようにつぶやいた。「砂漠は、地獄だ。この間は、テントを訪問していて、俺は、意識を失って倒れていたのだ」という。スロボダンたちは、小さなクリニックを難民キャンプ内に運営していた。「一体、一日に、何人病人が来ると思う? 100人だ。医者はたった2人。しかも常時2人いるわけじゃないからな」スロボダンは、裏の世界を知り尽くしたような顔立ちだ。背筋が凍るような目でにらみつける。「クリニックは、薬しかないからな。検査は、200kmも300kmも離れた町まで転送させる。費用は馬鹿にならない。4月だけで一体いくらかかったと思う?」スロボダンは、にやりと笑いながらそろばんをはじいていた。

私たちは、夜明け前にダマスカスのホテルを出発した。運転手は、朝が苦手のようだ。私たちの行く手には真っ赤な太陽が昇り始めた。太陽というやつは、勿体つけて出てくるが、いったん出てしまえば、あっという間に、頭上から、じりじりと俺たちを干からびさす。運転手は、ともかくスピードを上げて、走っていく。途中なんども睡魔に襲われたようで、車を止めては顔を洗っていた。ともかく、あっという間に国境に着いた。シリア国境は開いたばかりなのか、破られたイラク人のパスポートのコピーが床に散らかっていた。今日は、私たち以外に、キャンプに行く人間がたくさんいた。国際赤十字、イギリスのNGO、許可を待つ間にも、それぞれが自己紹介をして、名刺を交換しあう。いきなり調整会議のようになった。

イラク警察のパトカーが例によって、私たちを迎えに来てくれる。イラクへの入国は、スムーズだった。しかし、アメリカ軍のチェックがあった。僕たち日本人は問題がなかったが、イラク人には、網膜にヒカリを当てて、情報の記録をとっていた。まだ占領はつづいているのだ。

キャンプにつくと好奇心旺盛な子どもたちと、おばさんがやってきては、いろいろと話をしてくれた。しかし、私たちは、容赦なく照りつける太陽にめまいを訴え、記憶はどんどんと薄らいでいった。

私は、アンマンにいた。私たちは、本当に、イラクに行ったのか、思い出そうと思うと頭の奥のほうから痛みだし、やがてずきんずきんと鼓動のたびに痛みが増幅されていくのである。しかし、キャンプに充満していた汚水のにおいは、はっきりと覚えている。そのにおいを思い出すたびに嘔吐しそうになるのだ。そして、スロボダンのあのいやらしそうな微笑み!
米軍の装甲車が、砂煙を立てて走っていく。

6月の砂漠。。すべては砂煙の中にまかれていく。

雨期――みどりの沙漠44

藤井貞和

◎陸軟風(石原吉郎『いちまいの上衣のうた』のうち)  原題は
   「望郷」だった? 海を見たい
    海 (→) 石への変質
1949年カラガンダの刑務所で 号泣にちかい 思慕 日本海
海であることにおいて それは一つの(ほとんど)倫理となったのである
1949年2月 ロシア共和国58条6項で 4月29日(判決)
 すがりつくような 望郷の思い
 錯誤としての望郷
 故国からも恋われているという サクゴ
 海は過渡的な 空間
 望郷とはついに植物的な 感情であろう
判決とは 肉体的な感覚 断ち切られた故国
 観念や思想が 肉体をカクトクするのは ただそれが 喪失するとき
第二収容所へ
 風 五月を明日にまちかねた 風
  そのときまでは 風はただ比喩
  このとき風はかんぺきに私を比喩とした
   恐怖――故国から忘れられること
    怨郷
   錯誤?
 忘郷

(1953夏ナホトカ。12月1日帰国。)(「あの部屋をなぜノックしないで、わざわざ自分の後ろ、昨日の部屋に行きたいのか。これが人間なのかな」李静和『求めの政治学』2004)(「……ところで、いったい人間は何をもっとも恐れてるだろう。新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ……」『罪と罰』〈石原吉郎1957年のノート〉)

五月の記憶

仲宗根浩

九州から来た甥っ子が三線を見たい、というので母親の従兄弟が営む三線屋に行く。最近は海外製の一万円代の安価で棹もすぐ捩じれるものが出回っていて困る、自分が作ったものしかもう修理はしない、と言うおじさんはそろそろ八十歳。主に棹は県産の黒檀、黒漆塗りが最高とされていて値段も高い。県産の黒檀なんてもうほとんど無いだろう。色々見せてもらった中に紅木(邦楽のお三絃で使われる高級な棹)のものを見つける。それは糸が複弦3コースで六本張られているものに使うとのこと。三線も高級化している。高価なものを購入する県外のお客さんもいるという。

何年ぶりかで、西海岸五十八号線を車で北上する。富着(ふちゃく)のイチャンダ・ビーチ(イチャンダ=無料、ただ、お金を取られない無料のビーチ)、道を挟んで建設中の新しいリゾートホテル。更に北上すると小洒落た飲食店や新築のマンション。ちょっとしたバブルで家賃高騰と新聞に書かれてたのを思い出す。二年間、通勤のため通っていた道。どんどん変わっていく。もめている東側の基地建設予定地、基地が出来なくても道が造られ、よそからの資本が流れ、元の風景が消えたら同じ。

センター通りにある老舗レストランの閉店。耳に入るのはネガティヴなお金の話ばかり。空き店舗一つ増えると、新しい店舗一つオープン。大きな書店ができたかと思えば、家電量販店は七月に撤退。電柱には告示前の選挙のための立候補表明した方々や政党のポスター。毎回、選挙が終わってもそのまま放置。このようなことを普通になさる方々、政党を支持しない、という信念を持ったとすると投票箱へはなにも書かない紙を入れなくてはならなくなる。

三十六年前の五月十五日の記憶。
信用金庫に長蛇の列のなか、ひとりで自分の通帳の書き替えを待つ。店内に入っても人がいっぱい。周りは大人ばかりでカウンターの様子も見えない。自分の番になる。通帳を差し出す。渡された通帳のドルの預金産高が円に変わっていた。

二十二日、今年も遅い梅雨入り。平年より十四日遅れ、去年より六日遅れ。雨は降らない。二十六日、下の子を連れて海へ行く。平日なのにアメリカンの家族連れが多い。メモリアル・デイでアメリカは祝日だったことを夜に知る。頭にタオルを巻いていたので顔だけ赤く日焼け。笑われる。

二十八日夜、暑さに我慢できず今年初めてのクーラー稼働。二台あるうちの一台のリモコンが利かない。もう一台は基地周辺住宅の防音工事で新しく交換されたばかりなので初稼働。翌日から雨が本格的に降り出し、少し涼しくなる。

いただいた、豚の耳の塩ゆで。すぐ料理できるように五ミリ幅くらいに切り小分けにして冷凍。こういうそのままの形のものを解体するのはだいたいわたしの役目。

しもた屋之噺(78)

杉山洋一

5月、相変わらず瞬く間に一ヶ月が過ぎていきました。
中学の頃から繰り返し読んでいる本の一節に、「人生は信じられないほどのスピードで過ぎ去って行く。私たちは秒速30キロで空間を走っている」とあるのを思い出します。さして出歩いているのでもなく、家でぼうっとする時間もあった筈なのに、振り向けば、軽い眩暈のように揺らめいて見えるのは何故でしょう

日付は既に31日になりました。大阪・京橋のホテル、21階から眺める夜景はとても美しいです。数日前、初めて京橋に着いた日に一人で出かけた、国道1号線沿いの鰻屋「紫煙」に、今日最後の練習が終わったところで、望月みさとちゃんと連立って出かけ、気のいい親父さんが焼く絶品の蒲焼に舌鼓を打ってきました。それからホテルのロビーで、照明の岩村さんや音響の有馬さんと明日、最早今日の本番の最後の調整をし、今部屋に戻ってきました。この21階の部屋に遠くから聞こえてくる、懐かしい踏切の警報機の音や、馴染み深い学校のチャイム、穏やかな救急車のサイレンが、自分が生まれてから25年間送った時間の深さを思い起させてくれます。

今回の演奏会では、大阪いずみシンフォニエッタの皆さんと、みさとちゃんのエテリック・ブリープリント3部作を演奏します。今回、特に限られた時間内での練習でしたが、内容の濃い、充実した時間を過ごすことができました。15個のワイングラス、ワインボトルの他、旨い加減で水滴を落とすものなど、特殊な楽器装置が数多く使われているので、練習の前にまず楽器の調達、準備だけでも大変なのに、とても前向きで気持ちのよい練習をさせて頂けてとても嬉しかったです。

5月末だというのに、数日前に飛立ったヴェニスの空港は深い霧に包まれていて、パリ便が1時間遅れで漸く飛立ったときには、おもわず溜飲をさげました。機中今回のみさとちゃんの楽譜を眺めつつ思い出していたのは、「自分にわかるのは、自分が何も知らないという事実のみ」。何度見返しても、気付かなかったことばかりが目につき、文字通り自分の目は節穴かと納得したものの、着いてすぐ練習が始まることを考えて、思わず溜息がこぼれました。

みさとちゃんの楽譜は「生物」のように見えます。それはつまり、狭義における対位法的声部の成立、発展よりむしろ、作品がひとつの社会を形成しているように感じられたからです。「生物」が社会の構成員としてばらまかれていて、それらは対位法のように多層構造として、重ねあわされるのではなく、まるで航空写真で衛星地図か航空写真で、社会の俯瞰図を眺める気がします。

曲という社会、枠を与えて「生物」を放すと、解放たれた「生物」は、社会の中で、各自社会の規律を学んでゆきます。アメーバーのような自在な形をしていて、生きているから当然各自別々に呼吸をしてゆくことで、社会構造が活気を帯びてくる。彼女の楽譜はそんなイメージをさらさらと書いたようなところがあって、決して頭でっかちな音楽にならないところに感嘆します。

今回、水滴や、盥に溜めた水をかき回したり、そこに息を吹き込んだり、沢山のホース、なわとび等、多くの非楽音・日常音が取込まれています。この手の非楽音を取り入れた作品は、得てしてコンセプチュアルに妙に頑ななものが多いのです。楽音でない素材の「楽音化」にあたり、強烈な格式化、形式化のような手続きが踏まれることが多いなか、みさとちゃんの場合、「まあいいのよ、使っても使わなくても」という、投げやりなくらいの距離感があり、それが曲としてとてもよい影響を与えていて、彼女はこれらと楽音がまるでじゃれ合うかのごとく、ほとんどユーモアのセンスすら交えて、上手に「社会構成員」としての役を果たせることに成功しているとおもいます。難しい定義づけとか、格式化のような重苦しさがないため、社会は常に活気と驚きに満ちていて、それが彼女の音楽の魅力になっているとおもいます。

同じものを見ていても、ちょっと視点を変えるだけでまるで別のものに見えたりしますが、この同い年で、実際仲よしの作曲家の楽譜を勉強していると、彼女がものを観察するときの視点の柔軟さに、思わず彼女がこの社会をどんな風に見ているのか、ひょっとしたら、同じものを見て、同じことを感じていても、全く違う風に見えているのではないのかしら、と訝しく思ったほどです。音楽の構造や、「社会」の並び、「社会」のアメーバー具合を見ていると、一番近い感覚は「雅楽」ではないかと感じました。その昔「雅楽」に啓発された話も聞きましたし、あながち的は外れていないかもしれません。

ではこの1ヵ月、自分にとって秒速30キロの社会生活は何を残しているか、考えてみました。

毎日、何通と送られてくる指揮科の生徒間のメールのコピー。ベルルスコーニに政権が移り、ミラノ市は学校の援助資金、大幅カットを決め、学生たちは集会を重ね、署名運動をし、市長や文化担当官に書簡を送り、新聞に抗議文を掲載し、見直しを叫んでいるけれども、そんな姿をどこか冷めて見つめる自分。

時を前後して、或る朝9時、早朝のスカラ座脇の喫茶店で、学院長を必死に説得する自分の姿。「フルヴィオ、よく考えてみてほしい。本当に後で後悔しないのかい」。困憊した顔を、より一層険しくさせ、彼は目を落とし、すくめた首は長い影を引いた。エスプレッソは、不釣合いな大きなカップに無機的に入っていた。

まだ楽譜は送ってこないの、演奏者からメールが届くと、続いて彼女のエージェントから、様子はいかがでしょうと慇懃な電話が掛かり、しどろもどろになりながら応答しつつ、庭の向こうの中学校の校庭でサッカーに興じる子供たちを眺めている。

次々と送られてくる楽譜。自分の譜読みが遅いのを恨めしく思いつつ、秋までに読まなければいけない楽譜を試しに重ねてみて、厚さに仰天し、すぐに戸棚にしまい込み、怖気づいて近所の喫茶店に出掛けた。

学校の授業で学生に歌わせたメシアンの旋律課題の美しさ。シンプルな和声進行と、艶かしい旋律。学生は嬉々として繰返し合唱していて、2階のどこからともなく聞こえるメシアン即席合唱団に、中庭で遊ぶ子供が思わず手を止め聴き入っていた。

一足先に日本へ発つ家人と息子が、空港のパスポートコントロールの向こうで、手を振る。庭の芝生のまにまに生え盛る雑草の逞しさを思う。無心で毟った雑草の山。芝生を刈ったあとの草の匂い。

朝4時に起き早朝の便でローマに飛び、ボルゲーゼ公園「映画の家」で記者会見。オペラ座の関係者と一緒に叩きつけるスコールをコーヒー片手にぼんやり眺め、文字通りとんぼ返りでミラノに戻って24時、自宅のキッチンで、庭で摘んだパセリを沢山刻み、一人、唐辛子入りのジャガイモのパスタを作る。

21年の誕生日を目前に死んだ実家の老猫。端正な三毛猫。腹に氷を敷いた亡骸の前に神妙に煎餅を供えしていた3歳の息子。楽譜を眺めていて、全ての音符が有機的に浮き上がる瞬間、別の自分が小さく呟いた。「Take off!」

放っておくと、もうすぐ夜も明けてしまいます。みさとちゃんの「エテリック三部作」どんな素敵な演奏会になるか、期待に胸を膨らませながら、布団に潜りこむことにいたします。この数日間、ハードなリハーサルに文句一つ言わずついて来て下さった演奏家の皆さんに心から感謝しつつ。

(5月31日朝5時 大阪のホテルにて)

ペルーの現代音楽

笹久保伸

ペルーには国際現代音楽フェスティバルがある。
日本ではペルーと言うと、日系人のフジモリ元大統領とか、インカの黄金とかマチュピチュ遺跡やナスカ、シカン文明、そういったものばかり宣伝されている影響で、国際現代音楽フェスティバルなんて人に言ってもあまりピンとこないようである。ペルーに行くとポンチョを着たインディヘナがそこらへんにいるのか、とたまに聞かれる事があるが、それは外国人が日本人は着物で生活していると勘違いすることや、映画の影響で日本人は侍とか、皆空手ができるとか勝手に信じているのと同じ感覚である。山岳地域に行けばポンチョを着たインディヘナが生活しているが、リマは大都会で、高速道路もあるし高層ビルもあるし、寿司屋も5つ星ホテルも、何でもある。

国際現代音楽フェスティバルに話を戻そう。「国際」と名が一応あり海外からも演奏家が来る。フェスティバルがあるという事はそういう作曲家たちがペルーにいるという事である。昨年のフェスティバルは「Edgar Valcarcelを讃えて」というコンセプトでEdgar氏の作品がたくさん演奏された。Edgar Valcarcelはペルーのアンデス地方プーノ出身の作曲家である。アルベルト・ヒナステラの弟子で60年代にはアメリカへ渡り、電子音楽の研究もしていた。彼の叔父にあたるTheodor Valcarcelはインディヘニスモの作曲家で有名である。

EdgarValcarcelはとても面白い人で、今70代だと思うが、とても魅力的な作曲家である。過去に彼はペルーの国立音楽院の院長でもあったが、とにかく貧乏らしく、「貧乏だ、情けない、この国はだめだ、文化庁は何をしている……」が彼の口癖である。彼の給料は月200ドルらしく、相当厳しいそうである。ペルーで最も重要な作曲家の一人であるが、どこからの支援もなく、彼は本当に大変そうだった。Edgarは「自分が死んだら、書いた楽譜は絶対に家族には渡さない、家族に渡したらゴミ箱行きだ、息子が大切に保管したとしても、孫が捨てるかも」と言っていた。作曲家が一生かかって書いた楽譜を後に家族が捨ててしまった、という例がペルーにはよくある。彼は電子音楽をやっていたが、パソコンはまったく使えない。メールすら打てない。楽譜も手書き、彼の家にある虫に食われた2台のピアノは調律されてなく、狂ったピアノで仕事をしている。理由は調律費が払えないから。彼の精神には本当に頭が下がる。

ところで彼の作風だが、何しろ楽譜は出版されていない、録音もほとんどされていないのだが、アンデスの民謡をモチーフに、分解したり、断片的にしたり、何かをはさんだり、抜いたり、そういう手法が多く見える。独特で、西洋的もしくはアメリカ的な音楽とは異なり面白い。

Edgarの友人でArmandoGuevara Ochoaというユニークな作曲家がいる。彼はアンデス地方「クスコ」出身でペルーの音楽史に残る名作を残しているが、彼はほとんど行方不明に近い。かなり探して、数回Armandoと会う事ができたが、彼は今80代で、今もなお放浪生活を送っている。ちょうどダラスからクスコに戻ったばかりの彼に会ったのだが、奥さんに捨てられ、家がなく、お金もなく、ピアノの生徒が経営する小さいホテル(ペンション)にいそうろうしていた。用事でリマに出るときは警察の宿舎にお世話になったりしている。Armandoは楽譜を大切にしない人で、しかも放浪しているので、どこに楽譜があるのかわからないらしい。手元には旅行かばん2つだけだった。

クスコの作曲家でPablo Ojedaと言う人がいたが(いるが)、彼はある時まで音楽界で活動し、ある時からインカから伝わる宗教(密教らしいが、実態は不明)に入り、音楽界から姿を消した。今はクスコ付近のジャングル付近の道端にて暮らしているそうだ。

若い世代の作曲家は何をしているかと言うと、あまり新しい事は出てきていない。優秀な人たちは海外に出てしまい、ペルーには仕事がないため帰ってこない。このフェスティバルで演奏される若い作曲家の作品はほとんどない。最近新しい音楽院がリマ市に設立され、期待は大きい。

このフェスティバルの特徴に、出演者が(海外の)ペルーの現代作品を必ず演奏するというのがあり、面白い。ペルーではペルー人がペルーの現代作品を演奏するようなイベントは他に無く、ようするに、聴くことすらできない。その点このフェスティバルはペルー音楽界において非常に大きな意味を持つ。

興味のある方、フェスティバルは毎年11月頃にリマ市で開かれるので、ちょっと遠いですが是非。(泥棒に要注意。)

メキシコ便り(9)

金野広美

メキシコ・シティーの3月、4月は街中に薄紫色のハカランダがあふれます。ちょうど日本の桜のようです。ただ桜は1週間ほどではかなく、美しく散ってしまいますが、ハカランダはその名に反して?2ヶ月くらいは咲いています。落ち方も桜のように舞うのではなく、大粒の涙が落ちるように、ポトリポトリと散っていきます。花の形はちょうど小さな釣鐘のようです。しかし、散ったあとの木の下は、さながら紫のじゅうたんを敷き詰めたように、とてもきれいです。この木を見ながら私は日本の春を懐かしく思い出していました。でも誰もこのじゅうたんの上でお弁当をひろげることはしないので、やはりここは日本ではありませんでした。

メキシコの気候は乾季と雨季の2期で、はっきりとした春夏秋冬はないのですが、メキシコ・シティーの朝晩は、1月、2月はオーバーがいるくらい冷えます。でもそれも3月、4月になるとずいぶんとやわらぎ、コンサートやダンスなどのイベントが増えてきます。

先日とてもおもしろい演出のバレエを見ました。演目はチャイコフスキーの「白鳥の湖」で場所はチャプルテペック公園の中にある湖でした。この公園はとても広く、お城や、美術館や、博物館、動物園、植物園などがあり、週末は家族連れでにぎわうところですが、湖が3つあり、その中のひとつを使っていました。湖に張り出すように2か所の舞台をつくり、一方は宮殿、一方は湖岸の大きな木をそのまま利用して、森の中を表現していました。冒頭の音楽が流れ出すと、2羽の白鳥にスポットライトが当たりました。なんとその白鳥たちは優雅に湖を泳いでいるではありませんか。そう、それは本物の白鳥だったのです。そして宮殿の舞台がぱっと明るくなり、たくさんの貴族の扮装をしたバレリーナたちが、舞踏会で踊っています。湖岸では本物の馬にまたがった騎士が行きかいます。ちょっと度肝をぬかれたオープニングで始まった白鳥の湖でしたが、踊りは国立バレエ団のプリマ、イルマ・モラーレスをはじめとしたメンバーで、すばらしいものでした。特にイルマはその長く細い手足と、しなやかな体で、白鳥のオデット姫はどこまでも可憐に、黒鳥のオディール姫は妖しげな魅力を放ちながら優雅に踊りました。白鳥たちの群舞も時にユーモラスに、時に愛らしく、とても美しいものでした。夜空に星がまたたく中、ライトが効果的に使われ、悪魔の登場には花火が打ち上げられるというど派手な演出で、さながら、大スペクタクルを見ているようでした。日本では古典バレエは大抵、ホールのなかで催されますし、こんな大掛かりな舞台で見たのは始めてでしたので、ちょっとびっくりしながらも、楽しい舞台でした。

メキシコ・シティーでは毎日どこかで、イベントやコンサートが催されていますが、日本ではおおよそ人がはいりそうにない前衛的なパフォーマンスや美術展でも人は来ます。無料ともなるとめまいがしそうなほど、人であふれます。ここでは古典から前衛までさまざまな作品に触れる機会が安価で、すぐ手の届くところにあります。そして、どのように前衛的で実験的であってもそれを受け入れる土壌がここにはあります。無料の催しも多く、仮に有料でも値段がとても安いのです。たとえば先のバレエも前の席で150ペソ(日本円で約1500円)、先日行ったジャズコンサートなど、壁画で飾られたすばらしいホールであったのですが、学割で半額になるので、20ペソ(200円)です。そのあと行ったコンテンポラリーダンスは30ペソ(300円)、アフリカ映画祭の映画は15ペソ(150円)でした。普段でも映画は45ペソ(450円)、水曜日は日本のように女性だけでなく男性も半額で23ペソ(230円)です。メキシコに点在する多くの遺跡も一部を除いて学生と教師は無料です。博物館や美術館も70ペソ(700円)くらいから15ペソ(150円)くらいまでいろいろですが、これも学生と教師は無料や半額で、日曜日は一般の人でも無料です。そのためでしょうか、日曜日は多くの親子連れを美術館や博物館でみかけます。

先日もチャプルテペック城のなかにある国立歴史博物館に行ったのですが、父親が展示物の前で、熱心に子どもにメキシコの歴史を語っていました。メキシコの古代文明の歴史は紀元前13世紀、オルメカ文明から始まりますが、1519年、エルナン・コルテスひきいるスペイン軍の侵略、1810年、イダルゴ神父による独立運動、1910年から始まったメキシコ革命など、メキシコは激動の歴史をたどってきましたが、独立運動や革命のヒーローたちのレプリカの前で、子どもに熱心に話している父親の姿はほほえましくも頼もしく、子どもはうなずきながら父親の話しを一生懸命に聞いていました。きっとお父さんは物知りでえらいのだと尊敬していることでしょうね。日本では父親が日曜に博物館に子どもを連れて行き、日本の歴史を教えるなどという姿をあまり見たことがないので、このような光景を見るにつけ、メキシコと日本の家族のあり方の違いを感じると同時に、ひょっとするとメキシコは文化に関しては、日本より豊かな国なのではないかと思いました。というのは子どものころから親につれられ、色々な音楽や絵画、伝統にふれている子どもたちの中にはきっと広く、豊かな感性が育っているでしょうし、そんな子どもたちが将来、表現者になったり、批評眼をもった観客になっていくのではないかと思われるからです。地方には何千年も脈々と続く伝統文化があり、都会では数々のすばらしいホールや屋外施設のなかで、常に新しい試みがなされているメキシコ。新しいものと古いものが混ざり合いながら、ふところの深い豊かな文化がここメキシコでは根付いているのではないかと思いました。

アジアのごはん(24)ひよこ豆もやしスナック

森下ヒバリ

そう来たか。コルカタのオールドマーケットの近くの路地の角でみつけたスナック売りが売っていたのは、なんともふしぎな豆のおやつであった。おいしそう……と立ち止まると売り子の兄さんが、食べてみろと手のひらにひとつまみ落としてくれる。

豆は茹でたブラック・チャナ、黒ひよこ豆である。そして、なんとその豆からは白い芽が5ミリ〜10ミリくらい伸びているではないか。よく見るとえんどう豆も少し入っている。もやしかあ、と口に入れ噛みしめる。「いける……」と思わず口走って豆売りの兄さんの顔を見ると、にやりと笑顔。「5ルピー分ね」とすぐに頼む。

豆をすくって容器に入れ、刻んだ赤たまねぎの親戚のシャロット、青唐辛子の刻んだのを少量混ぜ、何か分からないがおいしいスパイスと塩、そしてライムの汁とをしぼってシャッフル。紙をくるりと円錐形に巻いたものにざーっと移して、はい、と渡してくれる。
もやし、と言うとつい日本ではのびた白い芽を考えてしまうが、茎を食べるあれはもやしの食べ方のほんのひとつにすぎない。もやしとは、種子(豆)が発芽した状態であって、その発芽のために種子の成分が大きく変化して、人間に食べやすくなり、栄養分も飛躍的に増える状態になったもののことだ。発芽準備に入って成分が変化していれば芽が出ていようが出ていまいが、もうそれはもやしである。

最近注目されている発芽玄米も、もやしなのである。豆はどれもけっこう消化が悪いが、発芽させれば、ぐっと消化がよくなるうえに蒸したり茹でたりする時間も短くてすむ。食べにくい豆をおいしく食べやすくする食の知恵なのだが、日本の豆の食べ方には発芽させてから食べるものが少ない。ちょっと不思議なぐらいだ。むかしはあったがすたれたのだろうか。

ひよこ豆スナックは、実にうまかった。豆になんともいえないうまみがあるのである。もやし効果。味付けの塩もかすかな硫黄臭があり、どうやら岩塩のようだ。ビールのおつまみに最適。でも町にリカーショップはあまりない上にしょっちゅう閉まっている。コルカタでは酒飲みは苦労する。もっともお隣のバングラデシュのように町にアルコールの影も形もなく、犯罪者のようにこそこそホテルのボーイに耳打ちされて、やっと手に入れられるほど厳しいわけではない。

しかし、次の日もまたその次の日も同じ路地の角に行ってみたが、その豆売りはいなかった。後日コルカタにやってきた友人たちに「ひよこ豆のもやしスナックがおいしいねん!」と力説したのに、影も形もない。見つけられないまま、北に移動してダージリンの町でまたひよこ豆スナックを見つけた。

そう来たか。またもや豆売りのおにいさんの前でわたしはうっとりと立ち止まった。今度は、ひよこ豆もやしでなく、うち豆である。うち豆というのは、茹でたり蒸したりした豆を叩きつぶして平たくして干したものである。日本では大豆や青大豆でやる。丸くつぶされたひよこ豆がうつくしく積み上げられている。やはり、同じように刻んだシャロット、トウガラシ、スパイス岩塩、ライムで味つけ。これはうち豆を油で揚げてあるようで、かりかりとしていて香ばしく、先のもやしスナックとはまたちがうおいしさ。

ダージリンはインドの一部とはいえ、もともとチベット・ビルマ系やタイ系の先住民族が住んでいる地域であった。チベット人の移住も多い。インドをイギリスが植民地にして以来、ネパールからゴルカ族が労働者として移住してきて、現在の住民のマジョリティはゴルカである。町にはさまざまな民族の姿があり、ベンガル人ばかりのコルカタなどと違って、町を歩いていても回りから激しく浮いたり、じろじろと見つめられたりすることが少ない。おいしいチベット餃子のモモもあるし、ものすごく気楽だ。

市場に行くと、はずれの道端でおばちゃんが納豆を売っていた。見た目は日本のひき割り納豆そっくりである。「これは買ってみなくちゃ」「ええ?どうすんの?」旅の相棒は、こういう旅先の発酵ものに不信感を抱いているので、顔を背けている。日本では毎日食べるほどの納豆好きなのに。宿で食べてみると、ねばりはないが日本の納豆そのままの味。けっこうおいしい。醤油がほしいぞ。「おいしいよ。食べてみない?」「い、いやけっこうで〜す」発酵してるだけで、腐ってないってば……。

タイの北部やラオスにも納豆があるが、つぶして平たくしてせんべい状にして乾燥しているものがほとんどで、たまに大徳寺納豆のようなやわらかいものがある程度。家庭料理にダシとして使うことが多いので、いままで買って食べたことはなかったが、もしかしてそれはとってももったいないことだったかもしれない。

旅先に醤油を持って行くというのは、ほとんどしたことがない。こう、何か旅人としては軟弱なような気がしていたからである。もっともタイにはナムプラーというすばらしい魚醤油があるので、不自由を感じたことはないからでもある。でも納豆にはやっぱり大豆醤油でしょ。

日本に帰って発酵学者の小泉武夫さんの本「納豆の快楽」(講談社)を見つけ、読んでいると、小泉先生は世界を飛び回っておられるが、旅には必ず納豆を持参するという。一ヶ月ぐらいの旅には生で、それ以上のときは乾燥納豆をもっていくそうだ。ちょっと腹具合がおかしいときや、あ、これまずいかも、と食べてから思った場合でもその納豆を食べるとほとんどけろりと治ってしまうという。食中毒の予防に大変よいばかりか、日々の体調を整えてくれる健康食品なのである。旅先で納豆を見つけたら、どんどん食べなくっちゃ。

カルコタに戻って、町を歩いていると道端に豆のスナック売りを見つけた。以前のお兄さんとはちがう店だが、同じだろうと買ってみると、何か違う。
「あれ、おいしくない、固い……生みたい」「あ、もういいわ」豆好きの友人も一口食べてうっという顔。その店のひよこ豆は、もやしにしてあるが、茹でてなくて生なのであった。ガリガリとして青臭くぜんぜんおいしくないし、消化できそうにもない。なぜ、茹でていないの! すぐ近くにもう一人同じ豆売りがいたが、その豆も生のようであった。ひよこ豆は細い白い茎をくるくると伸ばし、畑にまいたらぐんぐん成長しそうである。

北に行く前に食べた、茹でてあるひよこ豆もやしのスナックはとてもとてもおいしかったのに、どういうことなのだろう。インド人は茹でてないガリガリ生タイプもお好きなのであろうか? いやいくらなんでもおなか壊すと思うんだけど……。
豆好きで、豆に関してはエキスパートのはずのインド人である。何か理由があるのだろうか。ひよこ豆スナックの三つ目の食べ方に、謎はふかまるばかりである。