151 糸游に

藤井貞和

闌声(らんじょう)とは、わざにたけて、
かたちをやぶるという、ある種の境地を言うそうです。
乱声(らんじょう)にも通じます。
ねんれいでなく、
好奇心があり、
悠治さんのしごとをかこむ、
そしてジャンルにこだわらず、
第一の糸は語る、
第二の糸は歌う、
第三の糸は弾く、
笙の遊びや、
箏の遊びや、
太棹の遊びや、
打ち物の遊び、
一絃琴の遊び。
糸の遊びにふりゅうのにわがひらかれ、
乱声、乱声、その戸をたたく精霊のうごきが、
きょうのおとをつたえます。
詩人のみなさん、いま詩の声(=おと)が聴かれますかと、
高田さんがそう問いかけています。

(新井さんが詩誌で十一回忌というか、十年の歳月を特集するというので、寄稿しました。)

仙台ネイティブのつぶやき(22)見えない場所

西大立目祥子

 25年ほど前、父のガンの手術と治療のために足しげく病院に通っていた時期がある。

 病棟に足を踏み入れるとツンと消毒液の匂いが鼻をつき、決して快適とはいえない病室にはぎっしりベッドが詰め込まれて、術後のからだをいやす人たちが横になっていた。でも、ガン闘病というようなとおりいっぺんのイメージと雰囲気は違っていて、新聞を読み、テレビを眺め、談笑するようなおだやかな時間もそこにはあった。

 階下に行くと、髪の毛の薄くなった子どもたちがカラフルなパジャマで走りまわり、ベッドに小さなテーブルを乗せて書き取りをする子がいる。屋上では洗濯物が風に揺れ、おしゃべりしながら洗濯機をまわすお母さんたちの表情が思いのほか明るいのに驚いた。病院は生活の場でもある、と気づかされた。

 そのころ私は疲れを知らない30代で、術後なかなか熱の下がらない父の額のタオルを冷やすために、病院から借りた小さな簡易ベッドの上で一晩うつらうつらしながら過ごし、朝8時半になると顔を洗いジャージをシャツとスカートに着替えて、自転車で会社に向かった。
 
 ラッシュの人の波をぬって走りながら、思ったものだ。毎日元気に働き、会議だ売上だ、と追いまくられていたら、病院で治療を続ける人たちがいるなんて想像できないだろうな、と。病院は「見えない場所」だな、と。

 晴天の霹靂。この春、私はその見えない場所の住人になった。健診で異常が見つかり、手術のために10日ほどの入院が必要になったからだ。大腸内視鏡だ、胃カメラだ、CTだ、と初めてづくしのドギマギする日々が続き、入院の手引き、手術や麻酔の説明書をよく読むようにと手渡された。

 手引きには、入院時には「マニキュア、ペデキュア、ジェルネイル、つけまつげ、ピアス」をとることとあり、手術の説明書には「入れ歯、補聴器、メガネ、コンタクトレンズ、時計、指輪、ヘアピン」などの身につけているものすべてをはずす、とある。そうか…社会で生活するために必要としていたもの、というか自意識をすべてはぎ落として、ただのヒトとして病んだカラダを手術室のライトの下にさらさなければならない。だんだん気持ちの準備ができてきた。

 主治医です、と現れた医師は、まだ少年の雰囲気を残すような色白で小柄な人だった。まだ30歳ぐらいだろうか。その若さに、父との会話がよみがえる。「執刀する先生っていくつぐらい?」そう聞くと、父は「おまえぐらいかなあ、いや3つ4つ上か」といい、私は自分の頼りなさを思い、30そこそこで大手術がやれるんだろうかと不安を覚えたものだ。でも、いまならよくわかる。入ってくる仕事のすべてがおもしろかったあのころ。怖いもの知らずで勢いのある30代は、難しい事も楽々超えていけるパワーに満ちているときだ。

 そして、担当です、とベッドわきに立った看護士さんが付き従えていたのは、この春採用という看護士になりたてほやほやの若い人で、パフスリーブの白衣から伸びている腕はほっそりとして、これまた少女のよう。まだ固い表情の横顔を見ながら、若い人に支えられて自分が治療に入ることを思い知らされる。私はいつの間にこんなに歳をとったんだろう。

 入院したその日、すたすた歩いていた隣のベッドの人に「私、おととい手術して明日退院なの」と話しかけられ驚いた。「この部屋はすごく回転が早くて、みんな4、5日で出ていくのよ」と静かに話すその人は、40代後半ぐらいだろうか。「早期の乳がんなんだけど、いま思うとこの何年か、子ども3人の面倒みて、パートに出て、睡眠時間3、4時間だった。無理しすぎたのね」と淡々と続ける。私もそうだった。断れきれない仕事に汲々として、介護に右往左往して、自分のことを後回しにして、眠る時間を削っていた。「退院したらどこかで会うことあるかもね」「そうね」二言三言なのに、傷ついた者同士、もっと自分のこと大事にしようね、元気になろうね、という共感に包まれたやりとりに気持ちが和む。

 ことばをかわしたディルームとよばれる部屋は南に面していて、大きな窓から春の日差しがさんさんと射し込む。花盛りが最後にくる八重の桜が散り、樹々が緑に染まっていく季節だ。遠くに雪をかぶった蔵王連峰が輝き、その右には仙台のシンボル、三角のおむすびのような太白山(たいはくさん)がちょこんと姿を見せている。視線をその下に移せば、そこは私の生まれ育った街だ。
 ほわほわとやわらかな緑に染まるのは、通った小学校。ときどき買い物に行くスーパーの看板の陰には、猫を連れて毎日通った動物病院があるはず。図書館に通う道のわきには、幼なじみの家の屋根も見える。ついこの間まで、あの通りをのんきに歩いていたのに。まさか、入院、手術なんてことになるなんて。

 手術日は朝早く体内の電解質を整えるというペットボトルを飲むよう渡され、血栓予防の加圧ストッキングをはき、歩いて手術室に向かった。入ると、サティのピアノ曲が低くかかっていた。上半身の衣服を脱がされながら「よかった、これ好きな曲」というと、一人の看護士さんが「まあ、私が選んだの、大正解ね」といい、あとは麻酔を入れられ意識がなくなった。
 その日は一日、手術した下腹部の激しい痛みに悩まされた。説明されていたとおり、全身管だらけ。それでも寝返りを打つようにいわれ、ベッドの柵にしがみつきながら半身を起こすと、突然嘔吐に襲われる。でも痛くて苦しいのに、いくらでも眠れる。そういうと「一睡もできない人もいるのよ、エライ」とほめられた。辛抱強いというより、痛みに鈍いんだろうか。

 2日目の午後には、早くも歩行練習が始まった。術後、何よりこわいのは血栓らしい。最大の予防は歩いて足裏を刺激し、全身の血流をよくすること。点滴と背中の麻酔の針とおしっこの管とドレーンという排液の管をつけたまま、何とか起き上がり歩く。上半身を起こしたとたん、血流が変わるのを感じる。痛いしやっとやっとの歩行だけれど、ヒトって歩かないとだめなんだというのが、よくわかる。

 3日目の朝のことは忘れない。目が覚めた瞬間、自然と笑顔になれて、みんなに「おはよう」といいたい気分だったから。ひどい痛みが遠のいている。回診の先生たちに「今日は、元気です」といったら、「いいねー」の声とともに管をはずされ、お昼からはおかゆになった。なぜかわからないけれど、本が読めるようになったのもこの日からだ。細胞にとって48時間というのは、回復に必要な時間なんだろうか。この日の夜は、術後初めて歯を磨き、石けんで手と顔を洗った。歯磨きしながら、いつだったか、激戦地で助かった日本兵はみな身なりに気を使う人だった、と誰かがいっていたのを思い出した。その謎が解ける。顔を洗い、髪をすく…身支度を整えるというのは、余力なのだ。カラダがひどいダメージを受けているときは、そんな余裕はない。

 私が回復する間にも、病室の人は入れ替わる。甲状腺の手術を受けた人が退院し、夜遅く盲腸の手術を終えた人が入ってきた。深夜、腸閉塞のおばあちゃんが担ぎ込まれ、カーテン越しに「痛い、痛い」としぼるような声で訴えるベッドまわりが、にわかにあわただしくなったこともあった。次の朝、私の主治医の先生が「◯◯さん、手術して直そうね」と話しかけ、看護士さんが「大丈夫よ、私たちがうまくやるから、心配しなくていいわよ」と説得していると、「先生、手術室空いたそうです」と、もう一人が駆け込んでくる。「えぇっ、いまか。わかった。やろう!」と飛び出して行く医師。
 本当に医療の現場の若い人たちは、だれもが真摯で懸命だった。このまちが再び大地震に見舞われることがあったとしても、戦争が始まる日がきたとしても、彼ら彼女らは目の前の弱った人のために手術を続け、検温に歩くだろう。

 手術から6日目に退院した私は、その2日後には街を歩いていた。見上げると、病院がすぐ間近に白くそびえている。この仙台市立の総合病院が2014年の暮れ近くに、ここに新築移転したことはもちろん知っていたし、手術のための検査にも通院していた。でも、見慣れた街のすぐ向こうにこんなふうに見えることに、どうしていままで気づかなかったんだろう。

 9階の大きく切られた開口部─何度も風景を眺めたディルームが見える。つい10日前、私は手術を控え不安をかかえてあの窓越しに町を見下ろしていたのだった。いま、私は回復してその窓を見上げている。見下ろす私と見上げる私の視線は呼応し交錯し、まるで合わせ鏡のように互いの姿を映し出す。
 私にとって、病院はもう見えない場所ではなくなった。そこは、日常にふりまわされそうになる私に、もうひとつの暮らし方、別の時間があることを教える。そして、いつかまた、見下ろす私と見上げる私が入れ替わる日がくるのかもしれない。
 午後5時。今日の晩ごはんは何にしようか、と気にし始めるころ、病院は夜勤の看護士さんたちの交代の時間だ。「夜担当の◯◯です」という声が、きっと今日も病室に響いているだろう。

オパール石

璃葉

天文台のおじさんがポケットから取り出したのは、オパールの原石だった。
わたしはふだん、彼のことを苗字にさん付けをして呼んでいる。
明るくお茶目だが、すっと背筋がのびた姿勢が素敵なのだ。おじさまと呼びたい気持ちもある。
おじさんは天文台の台長として仕事をしながら、よく石掘りにでかけている。
久しぶりに会う機会があって、鉱石のことや今年の日食のこと、身の回りのことを一頻り話した後、別れ際にとつぜん「あげる」と、嬉しそうにオパール石を渡されたのだった。

その石はわたしの手のひらの窪みにちょうどおさまった。石特有の冷たさを感じる。
ゴツゴツしたその原石は、赤に近いえんじ色の部分が目立っているが、よく観察するとそこから橙色、灰色、薄黄色、クリーム色、薄水色、灰色にひろがって、そこにまたえんじ色が挟まっている。
目を細めて見ると、色は繰り返しの層になっていることがわかる。一切の細工のない自然のかたちだ。
岩石ハンマーをつかって自分で採掘する石もよいけれど、ポケットから不意に渡される石もうれしい。
考えられないほどの巨大な地層の一部分から選ばれた、宇宙のかけらである。

しもた屋之噺(185)

杉山洋一

この日記を書いた後、白河の小峰城二の丸で沢井さんと有馬さんの拙作初演に立ち会いました。天守閣を目の前にいただく演奏会場は広々としてとても心地よく、一面の緑がとても目に鮮やかに映ります。沢井さんは、明代の七絃琴「洞庭秋思」をもとに、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を、緩く絃を張った十七絃で詠み下してゆきます。悠治さんの「橋をわたって」のように、ツメもつけずにつま弾くので、どろん、どろろん、という音が響きます。沢井さんの筝が対峙しているのは、その場の沢井さんご自身の音を変調させ、素材としてコンピュータに一時的にストックさせたもの。それを素材として、有馬さんも李白の「洞庭湖に遊ぶ」を詠んでゆきます。楽譜には句の詠み方が何通りか書いてあり、それを各々が選択し、思い思いに詩を詠みあうなか、各々が耳を澄ました瞬間に生まれる有機的な反応が、とても魅力的でした。鳥のさえずりや、時たま通る東北本線の汽車の音と、夕間暮れの城、すっかり溶け込んでいるのでした。

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5月某日
朝、ピアチェンツァの城に遠足に出かける息子を、キックボードの二人乗りで学校まで連れてゆく。行き付けのパン屋で彼の昼食用のピザと、午前と午後の二回のお八つに、小さなフォカッチャをいくつか。それに水を購う。こちらはこの折にこのパン屋で朝食を済ます。学校から戻り、泥棒が庭の土塀に置き忘れて行った梯子を粗大ごみに出そうとするが、出来ず、そのまま学校へ出かける。今日は大学生必修のイヤートレーニングのクラスで、シチリア出身の学生も何人か居る。今日の最終便でパレルモに飛ぶというと、皆決まって最初は羨ましがり、次には、そこには懐かしさと憎しみが交ざっているのです、と付け加える。
夜半日付が変わってパレルモの空港に着き、泥のように眠る。

5月某日
パレルモの光景は、アンデルセンの「即興詩人」冒頭の瑞々しい描写を思い起こさせた。
マッシモ劇場の大階段に、若者たちが腰を掛けて大声でじゃれあう姿は微笑ましい。その前には馬車が数台留まっていて、観光用。馬のヒズメが石畳に響き、アラブ風の小さなキヨスクが2軒、左右に可愛らしく建っている。その辺りには常に黒い大きな犬がだらりと寝そべっていて、ずっと店主の飼犬と思い込んでいたが、どうやら野良犬のようだった。パレルモは、そこかしこに野良猫が佇んでいて、子供などが、アパート2階のヴェランダからパンや菓子を放っているのにも何度か出くわした。息子の歴史の宿題を手伝っていて、ノルマン人、アラブ人などのシチリア侵攻などを復習したばかりだったから、パレルモの乾き、少し剥げかけた茶色の街並みは、まるで多層文化が放つまばゆい輝きに包まれているようで、鳥肌が立った。
街並みにこれほど感激したのは、ローマとパレルモだけ。それぞれの街に美しさはあるが、この二つは圧巻だと思う。

マッシモ劇場の目の前に初めて立つと、その荘厳さに言葉を失う。劇場というより寧ろ教会のような巨大なクーポラが目を奪う。劇場の周りに無数の老若男女が座り込んで憩う姿など、ミラノでは想像もできぬ。感激しながら、関係者入口に足を踏み入れ、練習場所を尋ねると、受付の妙齢は、この場所は名前は知っているが、行ったことがないので道順は教えられないと困った顔で言う。

わざわざ両性用、と指定されたお手洗いに出かけると、便座が半分だけ外れている。外して使うわけにも行かず、付けたまま使おうとすると回転して使えない。
理由はわからないが、石造りの外階段の下に、チェンバロが無造作に放置されていて、通路の暗がりに自転車が立て掛けてある。すっかりこの土地が愉快に感じられてくる。

ここの劇場もオーケストラも初めてだが、特に人懐こい印象はなかった。喋り声が大きく落着かない。練習の最中に弦楽器の編成を減らしたい、と事務直側が言うと、オーケストラは凄い剣幕で反発。殴り合いになるそうで、冷や汗をかいているのに、周りは慣れているのだろう、平然としている。カヴァレリア・ルスティカーナを思い出す。偉いところへ来てしまった。

練習が始まって1時間ほどして、作曲のベッタがやってくる。
「盗まれた言葉」という題名が書いてあったが、変えたのだと言う。ボールペンで大きく「空」と書き直した。
「これはレクイエムなんだ。パレルモ、シチリアだけでなく、すべての失われた命へ捧げている」。
「木管楽器が浮かび上がっては消えてゆくだろう。これは一人一人の魂なんだ。死んだ者の魂はどこにでもいられるんだ。見えないけれど、あのカーテンの陰で、祖父がこちらに微笑みかけているかもしれない」。
初対面でいきなり幽霊の話などされたものだから、吃驚して、オスカルにシチリア人は随分信心深いねと半ばふざけて言うと、真面目な顔で、その通りだと応えるものだから、愈々考え込んでしまった。

5月某日 パレルモホテル
朝食を摂っていると、宿の主人が本を携えてやってきた。あんたは日本人だろう、と尋ねるので、そうだと答えると、これを読むと良い、とずいぶん詳しいパレルモのガイドブックを手渡いてくれる。「これは日本語で書いてある。あんたは仕事で忙しそうで、到底パレルモの名所など訪れる時間もなさそうだ。せめてこれを読んでこの街の素晴らしさに触れておくれよ」。

お世辞にも豪華とは呼べない、10部屋もないと思しき小さな宿屋の主人は、恐らく時間を見つけて古本屋でこの日本語のガイドブックを探しにいってくれたに違いない。胸が熱くなった。
朝食は、皿から溢れんばかりに盛ってくれるフルーツポンチとヨーグルトと自家製ケーキ。淹れたてのコーヒーは、ミラノよりずっと味が固く、力強い。角のある風味。目の前の通りから、笛と太鼓で奏でるサルタレルロが聴こえてくる。

5月某日 パレルモホテル
シチリア人は信心深い、という言葉がずっと頭を反芻していて、今朝はオーケストラの練習はなくしたので、歩いてカプチン会の地下墓地へ出かける。
昼食代わりに、道端にある果物屋の露店でさくらん坊を買う。2キロ2ユーロでいいよ、と言うが、歩きながら食べるので、到底無理だと断り、1キロ。固いザラ紙を器用に漏斗状にするすると丸めて、そこにさくらん坊を入れて、手渡してくれる。

朝早くから、窓の外で誰かが意味不明の言葉を怒鳴っていたのだが、カプチン会通りに右に折れたあたりで、塗装も剥げすっかり草臥れた三輪トラックに老人が凭れて、同じが鳴り声を上げている。
よく耳を傾けると、トマト1キロ何ユーロと嗄れた朗詠調で歌っていて、周りのアパートの窓が開いて、ちょいとあんた、今日はトマトを何某、オレンジ何某おくれよ、と老女が大声を上げる姿を眺めるのは、幸せな気分になる。その小さな三輪トラックに、ほんの数種類の青果しか載っていないのが不思議だった。

入口で僧侶に3ユーロを払って地下墓地へ降りると、色もすっかり消えかけ埃だらけの古い服を着た何千というされこうべが、整然と壁に並ぶ。高い天井あたりから、こちらを見下ろすようにつられた骸骨の下には、3、4層の壁に掘られた穴に、風化した服を着る骸骨が横たわる。
ミイラとなって皮膚が残っているものもあれば、されこうべの中身がすっかり空洞になっているのがみえるものもある。腕や胸のあたり、服の中には藁をつめ、丸みをだしている。

並ぶ遺体は、男性有力者の区画、その妻たちの区画、子供たちの区画、有力者の一族が全て集められた区画、僧侶たちの区画、手工業者の場所と丁寧に分けられていて、博物館のよう。聞けば、18世紀から19世紀にかけてここに死者を葬るのが盛んだったという。
初めは流石に少し居心地が悪いのだが、慣れてくると、自分が別の世界に迎え入れられているような気がしてくるから不思議なものだ。決して気持ちの悪い光景ではなく、荘厳な空気さえ漂うのは、おそらくされこうべの表情が穏やかだからではないか。
されこうべはそれぞれ別の顔をしていて、表情も随分違って、中には笑っているように見えるものすらある。そして、それぞれが生前の自らの服を纏い、名前なども掲げられている。
悪いものではない。死んだ祖父母、会ったことのない祖祖父母のされこうべが、自らの服を着て、この天井から吊り下がっていたら、会いに来たいと思うだろう。
されこうべが、当時の本人の服を着ていると、厭が応にも実感が増す。

13時近く、閉館まぎわに幼児を連れたアラブ人の若い夫婦やってきたが、この只ならない気配を察したのか、幼児はずっと嫌だと泣き叫んでいて、子供も夫婦も気の毒だった。
劇場の近くには、考古学博物館があって、その昔死者の街と呼ばれた、ネクロポリスから出土したさまざまな装飾品、家具、副葬品などが無数に並ぶ。
学生時代、地中海文明、エーゲ海文明の装飾された壺や瓶の写真を眺めるのが好きだった。死の世界というより、寧ろサティロスが悪戯をする様など、大らかな性の描写など面白がって読んでいたのかも知れない。目の前で眺めると、丁寧に書き込まれた描写は、独特の二次元感を醸し出していて、古代エジプトの絵画を思わせる。
シチリアの広大なネクロポリスとカプチン会の地下墓地が、自分の裡で時代を超えて繋がる。そこにベッタやオスカルのような、現代シチリア人の死生観の礎を見る。その後でリハーサルに臨むと、オーケストラの音が変わってくるのは、何故だろう。

5月某日 シチリアホテル
パレルモの劇場前には、食堂が犇めき合う細い辻が2本あるが、結論から言えば、そこには一軒だけ本当に美味で、その上安価な食堂があった。最初に地元の馴染み客が並んでいるからと入ったときに、パレルモはどこでもこんなに美味しいのかと勘違いして、2,3軒は他にも入ったが、どこも高いだけで酷く失望させられた。

20年以上イタリアに住んだなかで、こんなに瑞々しく生き生きとした料理を食べたのは初めてで、ショックを覚えるほどだった。パスタは日に3種ほど、主菜は肉か魚の2種ほどしかなくて、その周りの付け合わせの盛合わせは、3品と6品の二種類を選ぶ。あとはその場で揚げるコロッケを挟んだサンドウィッチや、巨大な丸鍋でその場で料理する内臓料理のサンドウィッチ、ぶつ切りのスイカ。

品書きには「本日のパスタ・エスプレッサ」と書いてあって、「その場仕上げのパスタ」というところか。意味が分からなかったが、日本の立食い蕎麦屋に近いを想像すれば良い。
カウンターに行くと番号札がおいてあり、それを各自取って番号が呼ばれるのを待つ。中では大きな鍋で5人分くらいのパスタを茹でていて、茹で上がったところで、それを皿にもって「はい、56番」などと呼ばれる。それで、カウンターで「茄子とトマトソース」などと言うと、その山盛りのパスタにトマトソースをかけ、その上に揚げ茄子を数枚載せて出してくれる。
だから、ソースをかける類のパスタしか当然用意されないし、パスタの量も多すぎるが、何しろ美味しいのは何が違うのだろう。見ていると、ソースすらかけないで、自分でオリーブ油だけをかけたり、チーズだけをかけて食べる馴染み客も結構いる。
困るのは、そのカウンターのところに、番号を待つむさ苦しい中年男性が給食を待つ小学生のようにわいわい屯して、通行を妨げることくらいか。そこには無論自分も加わっているわけだけれど。

本番の日、流石に昼食にこのパスタでは胃がもたれて演奏会に差し支えると思い、魚の主菜を頼むと、30センチはゆうに超えるカジキマグロのステーキが出てきて、仰天した。こんな料理は他では見たことがない。

歳の頃、7,8歳と思しき少年がおずおずと入口に立ち、中を暫く眺めている。身なりはジプシーのようでもあるが、それにしては狡猾そうなふてぶてしさがない。第一、少し恥ずかしそうな、不安そうな顔をしている。暫くして中に入り、テーブルを回って、恥ずかしそうに手を差し出す。自分のところにもやってきたが、少しだけ迷ってから、断った。断りながら、この子はなぜこの時間にここにいるのだろうと不思議に思う。孤児かしら。どうして独りでいるのだろう。
ふと気が付くと、少年はカウンターに立っていた。カウンターでもお金をねだるのかと訝しく思って眺めていると、女主人がスイカを皿に切り分け、ナプキンも渡して、水が入ったコップを渡している。それを持って少年は皆が食べているテーブルの一つに座って、ナイフとフォークを丁寧に使って、静かにスイカを食べだした。後から店に入ってきたオートバイのヘルメットを小脇に抱えた妙齢も、特に気を留めることなく、その少年のテーブルと相席で、スマートフォンを眺めながらスイカを食べている。ここでは昼食に大きなスイカをのんびり食べる人は、男女関わらず結構いる。
こんな光景は、ミラノでは見られない。せいぜいスイカを受け取った少年は、追い出されるか、逃げるように店を出てゆくに違いない。自分の裡の厭なものを見た気がして、そそくさと店を後にした。

5月某日 パレルモホテル
長らくマフィア抗争による目立った殺人は起きていなかったが、ファルコーネの命日に際して、出所したばかりで、最早老け込み権力もないボスが一人、意味もなく殺された。
マフィアが自分たちの存在を誇示したのだろうと口々に言う。
マンチェスターでは、ライブ会場で爆発が起きた。ボルセッリーノの爆殺現場のような光景が、今日も世界のあちこちで繰返されている。

オスカルとフルヴィアの家に夕食に招か、作曲のベッタと演出のジョルジョとパートナーのオリンピアと連立って出かける。
作曲のベッタも検事の親友を一人、マフィアに殺された。
「アントニオが殺される1か月前、二人で食事に出かけた。当時は毎日どこかで殺人があって、殺人が日常になっていた。マフィア間の抗争だから、基本的には我々に危害は及ばないと信じていたが、余りに多くの人間が関わりあっているので、誰でも友人の一人や二人は何らかの形で失ったのではないだろうか。アントニオに最後に会ったとき、疑い深く常に周りに目を光らせていたのをよく覚えている。彼とは一緒にセミナーをやったこともある。彼と二人で車に乗ると、左右前後にはぴったりと護衛車がついた。いつもと違う道を通るので、運転手にどうしたのかと尋ねると、あなたは知る必要のないことだ、と淡々と言われた。もしマフィアが経営していたら、と思うと、レストランに入るのも恐ろしかった。そして、アントニオは殺された。
当時、マッシモ劇場の舞台監督の一人も、シチリア交響楽団の経営首脳陣の一人も、マフィアとの関係を告白した。それだけ我々の身近はマフィアに染まっていたんだ」。

5月某日 パレルモホテル
演出のジョルジョは少しエミリオに似ている。二枚目で、話し方も洗練されている。人見知りのところもそっくりだ。こちらが名前で呼んでも、ジョルジョは頑として指揮者先生と呼び続けていたが、オーケストラのリハーサルに立合った頃から、自然とヨーイチになった。

エンニオが到着するという日、彼はローマ発の飛行機に乗遅れ、リハーサルの開始は3時間ほどずらされた。
彼が台本を読みだし、空気が一瞬にして変わるさまは、圧巻だった。台本を通して、何かが憑依するように見える。楽譜を通じて、音楽家に何かが降りてくる、というのに近い。余りに言葉が真実味を帯びていて、これも演技なのかと訝っていると、読み終わった途端、彼は「済まない」とだけ言残し、目頭を押さえて部屋を出て行ってしまった。
そこにいた全員、暫し言葉を失う程に感動していて、エンニオのいない部屋に、自然と拍手が沸き起こった。

エンニオは子供の頃から作曲家になりたかったと言う。「家が貧しかったからピアノを習わせてもらえなかった。それで、15歳くらいの時、姉貴がシェイクスピアの本を貸してくれて、バン!こう衝撃を受けたわけさ。そんなわけで、こんな人生になっちまった」。
「音楽は最高の芸術だよ。言葉は国や文化が違えば通じない。音楽はそうじゃない。誰とでも通じ合い、愛し合うこともできる。俺にとって最高の芸術はオーケストラさ。様々な人が集まって一つのエネルギーを作り出す凄さはない」。
「キース・ジャレットのローマ・ライブは一生忘れられない。あの時は、音に神が降りてきていたよ」。
「この台本を、落着いてなど、到底読み続けられない。我々にとって、ファルコーネ・ボルセッリーノ爆殺事件は、現在の政府への憎しみそのものだ」。
彼は毎回涙を流しながら、台本を読んだ。眼光はこちらが慄くほどに輝いていて、そこに泪が溜ると、ちょうど夜のシチリアの海の向こうに明滅する、橙色の街灯を思い起こさせた。
エンニオは一度台本を読み始めるとすぐに没頭して、読み続けてしまうので、毎回彼の台詞の切欠は、こちらから左手の親指と人差し指でオーケーを作って出していた。こちらをじっと見つめているので、瞳が潤んでいるのがよく分かるのだった。

ボルセッリーノの爆殺現場写真を投影しながら、エンニオは現場から抜き取られたボルセッリーノの赤手帳について話す。凄惨な写真が続くが、実際はもっと酷い状況で、それらの写真は投影されなかった。
爆殺現場に最初に駆け付けたカメラマンが、練習の合間に話しかけて来た。
「近くに白い人形が転がっているので、訝しく思って近づくと、手足の捥げた遺体だった。ちょうど現場から700メートルくらいのところで車に乗っていて、家内と息子を車中に残し、必死に駆け付けた。家族と再会したのは、それから72時間後のことだった」。
近くにいた別の新聞記者も口を開いた。
「あの爆殺現場のビルの五階まで、血飛沫と皮膚の残骸が飛び散ってこびりついたんだ」。
コンサートマスターのサルヴォも口を挟む。
「あの時は、街の反対側でレッスンをしていたんだけどね。窓がビリビリと震えてね」。
演出助手のウーゴは、まだ子供だった。
「あのドーンという爆音と、その後に高く立ち昇った黒煙は誰も忘れない」。
その言葉を嚙締めながら、その現実の中に生きる演奏家たちと音を出す。
エンニオはその情熱に応えるように、一言一言に力を込めた。

本番当日、ドレスリハーサルの後で、ジョルジョと最後の打ち合わせをしたあと、エンニオの楽屋を出て、隣にある指揮者楽屋で着替えていると、隣から、不思議なラグタイムが聞こえてきた。エンニオが小さな竪型ピアノを叩いているのだ。左手のオスティナートは、毎回微妙にリズムがずれていて、その上割り切れない拍子になっている。単に不器用でそうなっているのかもしれないが、それにしては右手はきれいに拍節があっていて、ちょっとナンカロウのように聴こえる。

もしかすると彼はとんでもなくピアノが上手なのではないかしら、と少し訝しくなったが、部屋で休みたいので、そのまま楽屋を後にした。天井の高い廊下には、劇場の厳めしい制服を着た美しい妙齢二人が、エンニオの出てくるのを待っていた。彼が出てくれば仕事から解放されるらしく、「もうすぐ出てくるよ」と声をかけると、「そう願いたいものだわ」と二人で顔を見合わせて溜息をつくさまが、現代っ子らしく可笑しい。

5月某日 ミラノ自宅
舞台の最後で、劇場のバルコニー席全てから、白いシーツが垂らされる。25年前、パレルモで巻き起こったマフィア撲滅の旗印のこの白いシーツは、死体をくるむ布を象徴している。
エンニオが舞台の終わりで、さあ、皆さんもシーツを垂らしてください。どんどん垂らしてください。声を上げてください。と観客に語り掛けると、バルコニー席一つ一つから、流れるようにさらさらと音を立てて白い布が垂れてゆき、まもなく劇場の壁面を全てをシーツで覆った。
そこに、マフィアによって殺された無実の市民の恋人、遺族の写真が大きく投影されて、盗まれた言葉の欠片が浮び上る。
公演の始まる前から、オーケストラからも、聴衆からも、関係者一同からも、異様な熱気を感じていた。
現在のマッシモ劇場の裏方として、ファルコーネ検事、ボルセッリーノ検事の家族や親戚も働いていて、毎日顔を合わせていたと、一番最後に知った。最後まで彼がファルコーネの家族だよ、などとは誰も教えてくれなかった。
観客の中では、最初から最後まで号泣している人たちもいて、フラヴィアが座ったバルコニー席には若くして殺された警官の恋人が泣き崩れていたと聞いた。オーケストラの音に、何度も鳥肌が立った。彼ら一人一人が何か大切なことを思い出しながら弾いているのが分かった。
真実の音だったけれど、もっとずっと声に近いものだった。
朝焼けの朝5時、ガイドブックをプレゼントしてくれた宿の主人が、空港まで車で送ってくれた。

「シチリアは無知がまだはびこっているんです」。
高速道路に車を走らせながら、訥々と話してくれる。右手には真っ赤に染まった海が広がる。
「このあたり、かの有名なゼンという地域ですが、この辺りの貧困率は本当に酷いものです。その日に食べるものがない家族が沢山います。その上、昔のように、子だくさんが良しとされる風潮は残ります。当然、親は子供の面倒を見られません。誰か近所の家族が助け合って、食べられない家族のご飯を用意しているんです。子供たちは学校には行かせてもらえません。プラスチックや鉄くずの回収をして、日に10ユーロのお駄賃を稼がされるのです。そして、それは親に取り上げられます。勿論義務教育だから、親は警察に捕まるかもしれない。それでも、毎日の日銭の方が彼らにとっては大事なのです」。

「観光客にはとても見せられないシチリアの一面です。でも、これもシチリアの現実です」。
「そこにアフリカからの難民が押寄せています。難民問題を作ったのは、我々自身です。地域紛争にかこつけて、兵器などを売りつけたりして、どんどん戦いを大きくさせてしまった。その結果がこれです。悪いのは彼らではない。
難民たちは、ちょうどゼンのように、外から見えない貧困地域に固まっています。彼らは言葉もできないから、理想郷と思い描いてきたイタリアで仕事になど殆どありつけません。仕方がないからどうするか。観光客からアクセサリーを盗んだり、バッグをひったくったりして、中身を売りさばいていくばくかのお金を得る」。
「EUのお偉いさんたちは、難民問題を我々が解決できると思っています。そうして、お金を関係地域にどんどん送れば送るほど、それらは市民のためにではなく、別の場所に吸い込まれてゆく」。
先日、劇場前でスイカを恵んで貰って食べていた少年の顔が頭を過る。大きく「Capaci」と書かれた標識が掲げられている。
「ほら、あそこです。道路の左右に細長い塔のモニュメントが建っていますね。そう、これです。ここで25年前にダイナマイトを爆発させてファルコーネが殺されました」。
朝焼けのなか、高速道路を行きかう車もまばらだったので、そう言って彼は車のスピードをぐっと落とした。

(5月31日 ミラノにて)

アジアのごはん(85)グルテンフリーな食卓

森下ヒバリ

グルテンフリーの米粉ケーキがコンスタントにうまく作れるようになった。色々試作して、辿り着いたのが酒粕を入れて作る米粉マフィンや米粉パウンドケーキで、酒粕を入れると失敗知らず。酒粕はまだあまり使い方を極めていないけど、なかなか不思議で面白い素材だ。元はお米なのだけど、カビつけされ醸され絞られて、長い旅路の果てに酒粕に。

米粉ケーキはほうろうパッドや、ステンレスのパッドにクッキングシートを敷いて薄めのシートケーキにすると焼きやすい。

<酒粕入り米粉のケーキ>
A:
米粉180g(このうち20gをひよこ豆粉かココナツ粉、おからや黄な粉にするとなおよい)
片栗粉30g
ベーキングパウダー小さじ1と半分
重曹小さじ3分の2(モンゴル天然重曹を強力おすすめ)
以上をよくかき混ぜておく

B:別のボウルで
酒粕90g(ペースト状。固い場合は少し水を加えてやわらかくしておく)
バージンココナツオイル90g (固まっている場合は溶かす。オリーブオイルでも可)
卵2個と豆乳で300ml
てんさい糖100g
レモン汁(柑橘酢)大さじ1
ハンドブレンダーまたは泡だて器で、油が乳化してとろっとするまでよく混ぜる。

オーブンを180℃で予熱しておき、パッドやマフィン型の準備をしておく。
Aの粉ミックスにBの乳化した酒粕ミックスを混ぜ込む。すばやくパッドや型に入れ、オーブンで180℃10分~12分、その後160℃で10分焼く。生地が厚いと全体にもう少し時間がかかる。AとBを合わせたら、素早く焼くこと。発泡した泡が消えないうちに。

焼きあがったらオーブンから出してクッキングシートごと網の上で冷まし、ラム酒とメープルシロップかはちみつを混ぜたシロップを表面に塗る。
卵アレルギーなら、卵を抜いてかまわない。かわりにバナナの輪切りか潰したものを混ぜ込むとコクが出る。酒粕の匂いが気になることもあるが、半日もおけば消える。

米粉ケーキはわりとあっさりなので、薄く切って間にクリームなんかはさむとさらに楽しそう、と考えて前々から作って見たかったサワークリームを作ってみることにした。しかし、ヒバリは乳製品のアレルギッ子なのだ。ま、実験と思ってよつ葉の生クリームを入手して作ってみた。

サワークリームというのは、生クリームを発酵させたもので、濃厚でものすごくコクがある。味付けせずに、ボルシチにのせたり、タコスにのせたりもする。よく発酵したサワークリームにはちみつを混ぜ込んで甘くすると、もうメロメロになるほど美味しい。

生クリームに豆乳ヨーグルトを加えて発酵させ、干しブドウとはちみつを加えてクリームチーズのように固まったサワークリームを味見してみたら、はああ、う、うまい(泣)。もう一口とスプーンで2さじ食べた。コッテコテだが、これはあの北海道のマルセイのバターサンドのクリームそのものだわさ。などとうっとりしていたら、じわ~っと気分が悪くなってきた。濃厚なので、アレルギーが出るのも量が少なくても早かった。苦しい‥もう食べません。植物性生クリームというのも市販されているが、添加物てんこ盛りだし、まずいので、食べたくない。

くやしいので、豆乳ヨーグルトで何とかサワークリームが作れないかといろいろ試作してみたところ、こんなのができた。ココナツオイルに少し豆乳を足して乳化させるとバタークリームのようになるのは知っていたので、それをアレンジ。

<豆乳サワークリーム>
1 豆乳ヨーグルト300ml を3~6時間ほど水切りする。コーヒードリッパーと紙フィルターを使うと簡単。だいたい100gぐらいになればOK
2 溶かしたバージンココナツオイル30g~40gに、てんさい糖または、はちみつ大さじ1、白みそ小さじ1を加えてブレンダーでよく混ぜ乳化させる。水切りした豆乳ヨーグルト100gを加えてクリーム状になるまで混ぜる。好みでラム酒を少し加えても。
3 干しブドウを加え、冷蔵庫で冷やす。(干しイチジクなどを刻んでも)

まあ、こんなもんか、やっぱり生クリームに比べてコクが足りんなあと思いつつ冷蔵庫で一晩寝かせておいた。翌日、米粉ケーキを焼いて、薄く切って間に豆乳サワークリームをはさんでみた。

いただきま~す。こ、これは‥むぐむぐ。牛乳サワークリームとは別物でイケる! 酸味もいい感じ。寝かせたらコクがぐっと増していた。おいし~い! 濃厚なコクと酸味がありながら、生クリームから作るサワークリームより軽い。いくらでも食べてしまいそう。ケーキにクリームを挟んでラップに包んでから少し冷蔵庫で冷やすとケーキとクリームがなじんでおいしさが増す。

水切りした豆乳ヨーグルトに甘みを加えず、白みそ小さじ1、または塩ひとつまみとココナツオイルを加えてブレンダーで乳化させれば料理用の甘くない豆乳サワークリームが出来る。出来立てはとろんとしているのでそのままソースとして使っても。ココナツオイルの量はお好みで加減してください。

この塩味サワークリームを冷蔵庫に入れて熟成させておいたらやっぱりコクが増して、まさにクリームチーズやんか。キュウリやクラッカーに載せておつまみにもなる。クルミやコショウなどを混ぜて仕込んでも。豆乳サワークリームは、冷蔵庫に入れておいても少しずつ発酵がすすむので、1週間で食べきれない場合や、保存する場合は冷凍がおすすめ。

グルテンフリーでちょっとさみしいのは、うどんや中華そばを使った料理が食べられないことだと思っていた。でも、探せばあるんですねー。グルテンフリーの麺類をいろいろ試食して、スパゲティには南米の穀物キノア(キヌア)を使った麺(アメリカ製NOWFOOD 米・キヌア・アマランサス)が一番おいしく思えた。玄米粉をメインに使ったパスタはちょっと重たすぎ。

日本製(雑穀めん工房・新潟)で乾麺のきびの麺やあわの麺、三穀めんというのがあり、それぞれ食べてみた。三穀めんはスパゲティに、きびの麺やあわの麺は中華そば系の料理、焼きそばや冷やし中華に使える。小麦とそっくり同じテイストではないが、(その必要もないと思うけど)料理法に合った食感と味である。グルテンフリーを始めたときに「さよなら冷やし中華‥」と呟いたけど、外食できないだけで、食べられるうぅ。

お好み焼きも天ぷらも米粉メインで問題ないし、あとはうどんだけ。タイとラオスの米粉とタピオカ粉を使ったカオピヤック(クイジャップ・ユアン)という半生麺が、茹でて水洗いしたらうどんに食感がものすごく近いのだけれど、日本では手に入りません。スーパーに行ってみると、日本の米粉の麺も最近はいろいろ発売されていて、味も進化してきたみたいなので、今後に期待したい。

お米の国、日本で育って住んでいるのだから、小麦が主食な国の人たちに比べたら、グルテンフリーはいとも容易いはずなのに、毎日お米のごはんではやっぱりさみしく感じる。小さいころから給食ではパンと牛乳を毎日、麺はスパゲティや中華そばをしょっちゅう食べていたことを考えると、小麦と乳製品を日本に大量に売りつけようともくろんだ占領国アメリカの戦後の学校給食戦略はおそろしいほど成功しているのだった。

グロッソラリー―ない ので ある―(32)

明智尚希

「1月1日:

(略)

なぜ (?_?) なぜ

 歴史上、幾千万以上の人間が死んできた。死後、彼らは何のメッセージも寄こしてこない。死後の世界があまりに素晴らしく、この世は無視に値するほど取るに足りないのか、業火に包まれ苦しくてメッセージどころではないのか、あるいは完全なる無となってこの世との縁が断絶したのか。人間は死そのものより死後に興味があるというのに。

【( ̄_ ̄)v】遺影

 薬味の効いた寸鉄で人を刺す。ふたつながらの勧進元は角をはやした。画がないのではない。師がいないのだ。岩佐又兵衛に菱川師宣。若き人類が見た夢。堕ちよ、生きよ。正弦波の遺伝的アルゴリズムの自己組織化現象は実はやおいという顛末。鉛の羽根、輝く煙、冷たい火、病める健康。今後は仮想的になんなんとす。心理的紐帯をちぎって。

( `ハ´) ワガハイガ師ダ

 とはいえ、鼻が詰まっていない人も楽観できない。常に鼻の通りはいいかもしれないが、ふと気づけばさらさらの鼻水が上唇を濡らしていることもある。いや、さらさらとはいかないまでも、ねっとりとした鼻水が鼻の下で何時間も落ち着いていることだってある。さらさらもねっとりも鼻水には変わりない。ちり紙でそっと拭き取ればよい。

σ( ̄ii ̄;) ダラー

 文化は精神、文明は物質だという。しかし文化のいかなる明察があれども、それとは無関係に文明はオートマチックに進む。文化の衰退はあっても文明の後退はない。二極分解しえるものが常に一対として語られる。現代は文明が優勢の時代である。そういう時代精神なのである。文化が副次的分際に甘んじている時、歴史的転換が起こりやすい。

ブンメイカイカノ <(个_个。) オトガスル

 1月1日:次郎おじさんは、僕の大好きなおじさんである。ただ無駄話で長広舌を奮う点に難がある。話が面白ければいいのだが、単なるだべりに堕している。それはともかく、次郎おじさんは永遠にこの本を読み続けることになるとかならないとか。僕のほうはといえば、慎重に慎重を重ねて考慮した結果、産まれてくるのをやめることにした。

(; ̄Д ̄)なんじゃと?

 いい歳をしておきながら、自分の発言内容の誤りを認めない人間がいる。誤りを認めないどころか、さも正論であるかのように主張し、相手のほうに非があると責める始末。この種の輩でも人間と呼ぶのだろうか。低劣で性格がひねており頑固、おまけに学がなく脳髄もいささか弱い。この手合いを愛せるか否か、博愛主義者の度量の見せどころだ。

(#゚,_ゝ゚) バカジャナイノ?

 「Cool Head but Warm Heart」。ケインズが師事したマーシャルの有名な言葉だ。聖者とされる人以外には当てはまらないのではあるまいか。先哲の言葉とは概ねそうである。この格言も事後に思い出す類いのものだろう。ケインズの信念のほうがぴんとくる。「It is much important how to be rather than how to do」。弟子がやや優勢か。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

「ん? 右か。いや、左だ。まっすぐ? いや、やっぱり左で大丈夫だ。いや、駄目だ。右だ。え、左? それなら右だな。またまっすぐかよ。どこにするかちゃんとしてくれよ。もう右だ右。ああまた左だ。そこで右に来るかなあ。なんでそうなっちゃうかなあったく。ああもうすぐだ。左。右。まっすぐ。左。左。まっすぐ。うわっ」ガシャン。

自転車o孕o〜キコキコ

 全知全能の神は、何すべくしてこの世に生物を作ったのだろうか。太陽系における実験か。地球における推移の点検か。あるいは単なる観賞用か。そもそも全知全能なのだから、前二者は必要ないと考えると最後の一つということになる。だが、ペットたる人間・動植物の動向や一生も知り抜いているはずである。気まぐれにしては趣味が悪い。

~~\(゚-゚*)バサッ(*゚-゚)/~~ バサッ(-人-)

 しどくうどくの 婆さりめっけ
うんどく丸だら しゃほろいよ
めれべかんでれ なあ気をさるを
待ちらちてべて しんがるさよろ
なぶてぶっちゃり 刈りしゃぶよ

〈( ^.^)ノ ホイサッサ

 わしは犬になりたい。いつも上機嫌そうで、散歩している時なんかは尻尾をふりふりして実に愛らしくて健やかじゃ。見た目もそうなら、中身も充実しているのじゃろう。難しいことは考えずに食事を楽しみに待っとる。もし飼い主が夜逃げでもして、ただ一匹残されようもんなら死活問題じゃ。誰じゃ! 犬になりたいなどとほざいてるのは!

オテ(*゚▽゚)o”ヘU。・ェ・。U

 この国には四季があるという。そうだろうか? あるのは夏と冬だけのように思う。
春と秋はほんのおまけ。特に春はものの二週間もあれば長いほうで、冬日の翌日がいきなり夏日だったりする。秋も似たようなものだ。残暑が終わったかどうかのうちに寒くなる。秋はどこだ。この国の人は、意地でも四季に分けないと気が済まないらしい。

扇風機→”(((卍)))”o( ̄△ ̄o)ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛〜〜

 長生きは良いこととされている。誰もが長生きしたいと願っているとされている。いずれも死があるからこその表現である。人間は消耗品だから不老は免れまい。だがもし不死が実現したら恐ろしい。衰弱困憊の姿を超越しながら永遠に生き続ける。もはや生き物の埒外の姿形で横たわっている。我々は死があることに感謝しなければならない。

゚ヽ(*´∀)ノ゚.:。+゚ァリガトゥ

 やる気のある人間ほど使えない人材はない。

(´・∀・`) ヘェー

 困った時の神頼み。日常、神も仏もない生活を送っていながら、困窮状態に陥って弱りきっている時にだけ、手と手を握り合わせてひざまずき、にわかごしらえの教徒となる。硬直して祈る姿はまがまがしい人形でしかない。信仰心の薄いというより全くない上に弱り果てた人間の祈りなど、ひいき目に見てもとても宛先にまで届くとは思えない。

(;人;) オネガイシマス

さつき 二〇一七年六月 第二回

植松眞人

私の生まれ月を大切にしているようなないがしろにしているような不思議な両親だが、間違いなく私のことが大好きだ。家族愛とか言い出すと大仰すぎて気恥ずかしくなるが、まさに気恥ずかしくなるくらいに確実に両親は私を好きでいてくれることはわかる。
その割には毎年私の誕生日には誰もなにも言ってくれなくて、二日後三日後くらいに、ふいに「さっちゃん、お誕生日おめでとう」と父か母のどちらかが思い出して叫ぶように言う。小学生の低学年の頃は、これはわざとなのではないかと思っていた。忘れたふりをして私を驚かしておいて、私ががっかりした頃に声をかけて再び驚かせる。二重のドッキリなんだと私は思っていた。しかし、小学校も終わりの頃になると、ただただ両親が粗忽者であるということが私にもはっきりとわかるようになったのだった。なにしろ、二人の遺伝子をしっかりと引き継いでいるのだから。のんきな、というのか、ぼんやりしている、というのか。そんな気質を自覚するようになって、一人っ子の私は真面目に「几帳面にならなければ」と自分を律するようになったのだった。
高校の神谷先生が言うには、それが間違いの始まりだったな、だそうだ。
「それが間違いの始まりだったな。畑中の良さはのんきなとこなんだよ。それなのに、受け答えはやたらとハキハキしていて、何を頼んでも初動がものすごくいいんだよ」
「しょどうがいい」
私は「しょどう」という言葉がわからなくても問い返した。
「最初の動きで、初動。たとえばさ、今度、中庭の花壇をきれいにしなきゃいけないから、チームを組んで誰か担当してくれないか、という話をすると、いの一番に『はいっ!』って手を挙げるだろ」
「はいっ」
「うん、返事がよろしい。そんなふうに良い返事をしてくれるわけだ。そして、『じゃあ、私が何人かの声をかけて、チームを作っておきます』と言ってくれる。で、ここまでが初動だよ。初動はとてもいい」
「はい」
「でも、その後、実はのんびりしてるから、一人か二人に声をかけて断られたりすると、そこで全部ストップしちゃうんだよね。で、しかも、ストップしちゃってることも忘れて、『おい、畑中、あれどうなった?』って聞くと、お前、飛び上がって驚くだろ」
「はい…」
と、私の声をだんだんと小さくなっていくわけだけれども、神谷先生が言うには、最初からぼんやりした顔をしてくれれば、無駄な負荷をかけなくてもよくなるし、お前ももう少し気楽に高校生活を楽しめるのに、ということらしい。
でも、いまさらそんなことを言われても、私にはどうしようもない。一人っ子だけど、なんとなくのんきな両親のおかげで長女のような感覚で育ってしまったし、そこそこのコピーライターだった父は、そこそこだったおかげで飛び抜けた仕事にありつくこともなく、かといって、どうしようもない仕事に手を付ける気持ちにもなれずに、勤めていた広告代理店を辞めてしまっていた。最初のころはフリーランスで細かな仕事を拾っていたのだけれど、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」とあきらめ顔だ。まあ、諦められてもまだまだ物入りな娘としては黙っていられないので、お父さんはそこそこじゃないよ、たいしたもんだよ、なんて父を励ましたりしているのだけれど、当然のごとくあまり効果はない。
というわけで、いまの畑中家を支えているのは母のデザイン仕事だ。もともと母は私が生まれてからは自宅でやれるデザイン仕事を請け負っていて、人見知りの分だけ誠実に丁寧に仕事をこなすと言うことで意外に仕事が途切れない。ただ、母が言うには、仕事は途切れないんだけど文句も言わずにやってくれると思われているみたいで単価が低いのよね、ということになる。郊外の特急は止まらないけれど通勤快速は止まる程度の街で生まれ育った母は単価の安い仕事が続いても、それはそれなりにありがたいという気持ちで仕事に取り組むことができる人だった。
去年の年末に私と父と母による家族会議が開かれて、父は厳粛な面持ちで私の目をまっすぐに見てこう言った。
「さつき、君は六月生まれだけれど、さつきという名前を持った、とても奥深く勉強のできる子だ。だから、是非とも勉強をさらに頑張って公立の高校に受かってください」
もともと、家から一番近い県立高校を受験しようと思っていた私にとっては今更な話なのだが、父と母はどうあっても私に高校くらいは卒業してほしいということらしい。しかし、私立だと学費の負担が重すぎてそれが実現できないということなのだった。
私は話し終わって厳粛などどこに行ったのかと思うほどにホッとした顔をしている父に、奨学金の話をした。私は私で家庭の事情を察していたので、中学の担任の先生と相談をして奨学金制度があるということを知っている。先生にも、申し込むことになると思いますと伝えて、用紙もすでにもらっている。だから、できる限り公立高校を目指すし、どちらに行った場合も奨学金をもらって父さんと母さんには負担をかけないようにするから、と伝えた。それを聞いて、ホッとした顔をしていた父は、今度は涙をこらえる顔になったので、そういうことで頑張るわ、と自分の部屋に引き上げたのだった。
早い話が、わが畑中家は昨日NHKのテレビで特集が組まれていた『増え続ける新たな貧困層』に当たるらしい。毎日、ご飯が食べられないほどでもない。かといって、何もかも安心して暮らせるほどではない。もし、今日、母が病気で倒れたら、いや倒れないまでも、母の使っているiMacの調子が悪くなって二三日仕事ができなくなったら、もしかしたらそれだけで家賃の支払いが滞るかもしれないほどには貧困なのかもしれない。そして、そう思うと、なんだかみぞおちのあたりがキュッと締め付けられるような気持ちになるのだけれど、負けるわけにはいかない、と私は自分の部屋のテレビのリモコンを知らず知らず力一杯握りしめながら思うのだった。
そんな気持ちはいま目の前の神谷先生に対しても抱いていて、決して先生に同情されるような人間にはならないぞと、面談中に握っていた鉛筆が小さくギリギリと折れる寸前の音を立てたような気がしたので、先生が気付かないうちにそっと鉛筆を握りしめていた力を抜いた。(つづく)

『花粉革命』を踊って

笠井瑞丈

振付を踊る
形の連続性
皮膚と空気
生命的チカラ

振付を踊る
点と点の線
内面と外面
新しい生命

振付を踊る
線と面の間
肉と骨の間
消える肉体

踊りが生まれる瞬間
振付が生まれる瞬間
その瞬間に立ち会う

同じ空気を吸って
同じ時間を共有し
同じ空間を共有す

踊ることと感じること
二度と踊ることのない踊り

時間を空間で輪切りにする
カラダで縫っていく作業

振付と血液
同じカラダを共有すること

私の中にあなたが
あなたの中に私が

そんな新しい感覚が生まれる瞬間

万歩計と歩き方

冨岡三智

先月、携帯電話をやっとスマホに替え、使ってみたかった万歩計をインストールする。先月は奈良から岡山まで電車を6回乗り継いで仕事に行く機会がちょくちょくあっていたので、カウントをのぞくのを楽しみにしていた。その何日目かの仕事日、自宅を出て最寄り駅から電車に乗ったところで、ふと自宅から駅まで(徒歩2分)の距離ではどれくらいの歩数だったのか知りたくなって万歩計をのぞくと、カウントが続いていたので仰天する。どうやら電車の振動でカウントされているらしい。その後乗り換えるたびに他の路線でもチェックしたのだが、他ではカウントしない。

調べてみると、万歩計は足が着地した時の衝撃加速によって歩数を計測するらしく、歩く時に上下や横の揺れが大きい人は実際よりも多くカウントされるようだ。それにしても、じっと電車に乗っているだけで歩行状態だとは、最寄駅からの数駅間はかなり電車の振動が激しいのか…とあらためて思う。

衝撃加速で歩数を測るということは、衝撃が少なければカウントされないということでもある。ジャワ舞踊の歩き方なら感知されないかもしれないと思い、自宅で試してみる。ジャワ舞踊では腰を落として歩き、頭が上下する、つまり体が上下する歩き方はダメである。果たして、何十歩歩いてもカウントは進まなかった。平面だけでなく階段の昇り降りも何度も試してみたが、こちらもカウントしない。ちなみにケンセルという、歩くのではなく床を横滑りするような動きもやってみたが、これも歩数はカウントしない。電車に乗っていてもカウントされるのに、自分で移動していてもカウントされないのは、なんだか不思議である。ジャワ舞踊の静かな動きが数値化された…と言いたいところだが、爪先立ちして小走りするスリシックという動きでは、さすがにカウントされた。しかし、上手の踊り手は本当に空を滑るようにスリシックする。もしかしたら、歩数カウントされないような奥義があるかもしれない、と思えてきた。

製本かい摘みましては(128)

四釜裕子

楮の皮をむきに茨城の利根町に行った。日本画家の中村寿生さんが中心となって始めた「文間(もんま)楮――利根町で育てる紙ノ木プロジェクト」の作業にまぜてもらったのだ。中村さんは廃校を活用したアートネ・アートスタジオに草茅舎という工房を構えていて、その庭に2011年から180株ほどの楮を育てて収穫し、新潟の門出和紙の工房で「文間和紙」として漉いてもらっているという。

取手駅で合流した車でしばらく行くと、明日は田植えかな、という田んぼががときどき見えてきた。同乗した青年が「うちも今日から田植えです」という。「いいのか?(by 先生)」「いいんです」「ほんとか?」「じいちゃんには悪いけど明日倍働きますから」「おおー」。「何反歩とか何ヘクタールとか言われてもわからないから今見えている田んぼと比べてあなたんちの田んぼはどれくらいあるの?」と聞いて驚いた。大農家じゃない。

着くとすでにたくさんの人がいた。陽射しも強く、晴れやかな佳境感がまぶしい。建物の外にすえられた窯から湯気があがっている。お昼は用意ありと聞いていたのでとっさに「うまそう」と思ったのだけれどもそうではなくて、1メートルくらいに切り揃えられた楮の枝を縦にして続々投入されている。ぎっしり詰めると上から木樽がかぶせられ、これから2時間蒸すという。やはり作業のタイミングを逸したのだろうか。建物の中に入ると、これまたたくさんの人がブルーシートを敷いた床に座って楮の皮をむいている。窯で蒸しては皮をむいて乾かすという作業を、この日、何度も繰り返すらしい。

軍手をはめて手順を習う。蒸したての楮は熱く、さつまいもやとうもろこしのようないい匂いがする。蒸すことで楮の中身が膨脹するようだ。枝の先っぽを両手で雑巾を絞るようにねじると中身から皮が離れ、それを手がかりにしてむいてゆく。手がかりさえつかめれば、シャー、シャーと、むける。蕗の皮むきと要領は同じではないか。ぐるり手がかりをつかめばまとめていっきにめくれそうだがそううまくはいかない。山積みにされていたであろう楮は間もなくなくなった。隣の少年が「もうないの〜?」といった。私も次の蒸し上がりが待ち遠しい。

むいた皮は6、7枚づつ上下をそろえて藁で束ねる。ぎゅうぎゅう縛らない。藁の先をひけばスルッと解ける方法を教わるが、皮がけっこう固いので難儀する。上下をそろえるのは後日の作業のためらしい。刃物で表面の皮をそぐのに向きがそろっているほうが効率がいいということか。これを風通しのいい通路に渡した丸太にかけて乾かす。かびがはえぬよう、注意が必要とのこと。干したようすはさながら昆布である。

身ぐるみ皮をはがれた枝は表面に綿のような繊維がわずかに残っていて、直径は2センチ程度、固くて真ん中に穴が通っていた。黄色みを帯びた白い肌が美しい。束ねられて次の薪になるのだが、子どもたちは外に出てコンコンといい音をさせてチャンバラをし、学生たちは両手に持ってストレッチをし、疲れた人は杖にして歩き、私たちも何かにできそうと2本ばかり選んだのだった。

外では窯の周りにひとだかりができている。隣に広がる楮畑は数センチの幹を残して刈り取られているわけだけれども、数本残された幹にホワホワした赤い花が咲いていた。刈り取ったままの幹も転がっていて、丈は3メートルもあろうか。1年でこんなに伸びるとは! 幹を太く長く育てるために、またのちに皮をむくときのやりやすさや最終的な和紙の美しさのためにも、夏のあいだの芽欠きが大事と聞く。話を聞きながら一連の流れがまざまざと浮かんだ。

結局つごう3度、皮をむいた。家に帰って改めて、寛政10(1798)年刊『紙漉重宝記』を見る。「楮蒸しの図。……二尺五寸三尺ほどに切て蒸す しバらくして小口のかハ少しむけかかるを見て熟せしを知る……」「楮皮を剥ぐ図。……手にもち皮をむきとるなり 中の真木たきぎの外用立なし」「楮皮干しの図。……くくりめをあバきよく干すべし……」。ほぼこの日見たままの図。非効率とか伝統の技とかいうのではなくて、いかにこれが人が楮から繊維をとりだすのに身の丈に合った方法かということだろう。

足をとめる

若松恵子

伊勢真一監督の『いのちのかたち』を下高井戸シネマで見た。絵本作家いせひでこを描いた、2016年のドキュメンタリー映画だ。

宮城県亘理町の吉田浜。いせひでこは、津波で倒れた1本のクロマツに出会う。東日本大震災で被災した友人を伊勢監督が訪ねた私的ロードムービー『傍(かたわら)』の撮影に同行していた彼女は「そこにいなかったこと」の意味の大きさ、深さを感じてスケッチ帳は持っていたけれど、歩く以外何もできなかったという。そんな時、無人の荒野に倒れて横たわる1本のクロマツに呼び止められる。「描きなさい、わたしを」というクロマツのピアニッシモの声を受けとめて、「えんぴつでそのいのちの姿を記憶すること」に取り組む。横たわるクロマツに雪が降り積もる映像と、いせひでこが想像の中で描いた雪のなかのクロマツの絵が同じ存在感を持って登場する。クロマツとの出会いから4年にわたる画家の旅を描いた映画は、絵本のような余韻を残した。

多くの人が通り過ぎ、見過ごしてしまうものたちに、静かなまなざしが向けられる。いせひでこが足をとめて見つめるものを伊勢監督もまた傍らで見つめている。倒れて横たわるクロマツは、いせにとっては「いのちのかたち」そのものに見えてくる。そのかたちをスケッチすることで、クロマツを自分のなかに刻み込む、記憶しようとする。記憶するという事は、そのものの存在を大切にするということ、愛するという事だからだ。

銘木でも何でもない、倒れてしまった木に足をとめる。通り過ぎることができないという思いを抱く、その姿に心を打たれた。そんな感想を持ったのは、『永山則夫―封印された鑑定記録』(堀川恵子 2013年岩波書店)を読んだばかりだったせいかもしれない。

堀川恵子もまた、忘れ去られようとする永山則夫に足をとめた人だった。この本は、永山則夫の遺品の日記を丁寧に読むなかから、精神鑑定に際して録音されたテープの存在に気づき、278日間にわたる対話を聞くことで、その封印された鑑定記録に光をあてた作品だ。カウンセリングの手法により永山に寄り添い、彼といっしょに幼い日々に戻り、事件に至るつらい日々をたどることで、連続射殺事件に至る真の理由をみつめようとした石川医師もまた、永山の声なき声(ピアニッシモの声)に足をとめた人であった。

石川医師に対して永山が語ったことは犯行直後の供述と矛盾し、石川鑑定自体の信憑性が疑問視される。そして裁判で取り上げられず、封印された鑑定記録となったのだった。しかし、子どもの虐待や貧困が問題となっている今、石川医師と永山則夫の対話から考えさせられることはとても多い。

映画の中で、いせひでこが語っていたことが印象に残った。「根っこもいいけど、津波で倒れた木の根っこがガラスを突き破って入ってきてたくさんのものを流していったんだよ」と言われたことがあって、その時に、彼女は、被災した人たちがどういう思いで自分の絵を見ていたんだろうと考える。でも「言葉もなく、絵もなく記憶もなく、見もせず、通り過ぎて、通り過ぎた事さえ自分が気づかず・・・ていうくり返しだったら、一人の人にも伝えることはできないってことなんですよね」「だから、そんな何百人、何千人に伝えようなんては思ってない。一人でも・・って思ったら、やっぱりどこかで足を止めるんだなって、それをやってきたんだな、とは思ってますけど」(『いのちのかたち』パンフレット映画採録より)絵の傍らで彼女はこう語るのだ。

いせひでこのこの言葉には、堀川恵子の仕事、石川義博の仕事にも共通するものを感じた。足を止める人が居ること。そのかけがえのなさを想う。たとえそれぞれは、ひそやかな行為であったとしても。

別腸日記(5)水を飲むこと

新井卓

夜更けにひとり、キッチンで水をのむ。カルキのほのかな生臭さを帯びたぬるい水──それでも、上等の氷砂糖を一片、溶かし込んだような甘やかな味がするのは、宿酔いのなせるわざだろうか。そんなときいつも、山頭火の「へうへうとして水を味ふ」の句が頭にうかび、へうへう、という声かたちのまま、背を丸めコップに口をつけて水をむさぼる自分の姿は、まるで大きな蛙かなにかのようだ。

2005年の梅雨どき、中越地震から半年と少し過ぎたころ、雑誌の仕事で新潟へ旅したことがあった。取材先の酒造会社をたずねると、担当の男性はひとしきり震災の話をし、それから不意に、わたしたちに問いかけた──なぜ、米どころ、酒どころに地震が多いか知ってますか? 日本という火山帯では、地殻活動が激しい土地ほどミネラルを含んだいい水が湧きだすんです……。
それから、新潟から山道を抜けて被害の大きかった小千谷に向かった。たしかに、彼の言うとおりなのかもしれなかった。
山肌を縫いトンネルを越えるたび、山野の緑は密度と強靱さを増していく。中越や東海、山陰あるいは東北の山あいなど、どこでも大きな広葉樹につる性の植物が覆い被さり、隙間もなく下生えが密生する日本列島の極相林は、ほかのどの国にもない凄みを帯びている。都市や里を離れ一歩藪に踏みいれば、自然はわたしたちを浸食し脅かす存在でもあったことを、忘れていたあの身体の緊張とともに、思い出すことになるだろう。
養鯉農家では、得意先のために早々と錦鯉の売り買いを再開していた。生け簀を循環する、昨晩飲んだ吟醸酒のようにとろりとして重たい水。模様や大きさによってより分けられた鯉たちが、プラスチックの青い盥に浮かんで身動きもせず、ゆっくりと鰓を動かしている。その姿を凝視していると、渇いてもいない喉が無性に渇いてくるのだった。

他所の国から東京へ帰ってきた途端、ああ帰ってきたのだ、と思う、その感覚の大部分はおそらく大気の湿度から来ている。空港を出て一息、戸外の空気を吸い込めば、したたり落ちるようにもとのくらしへ溶け込んでいくのは、風呂水に身を沈めるように、わけもないことに思える(しっとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地ここちおぼゆる/石川啄木)。大岡信が言ったように感情も思想も、身体の七割を占める水が感じ、水が考えているのだとすれば(『故郷への水のメッセージ』1989年)、この土地では思考と言葉は湿度を帯びて形なく漂い、人々は水の不分明に生き個々の境界なくうつろっていくのだろうか。

夜更けのキッチンで、ひとり、水を飲んでいる。地上のあらゆる生きものたちのように、取り残され、干上がりつつある一つの潮溜まりとして。

自由の地はどこにあるのか

西荻なな

次はどこへ行くべきか、ということが、しばしば周囲で話題になる。

それはちょっと旅に行ってこようと思うんだけど、いま旅するならばどこだろうか? という会話で始まることが多い。ひとり旅に慣れた女性たちは不思議と友人にいるもので、主要都市は一通りめぐってしまったから、次はメキシコだ、いやギリシャだ、はたまたインドのジャイプールだ…などと、未だ見ぬ地を探しての“辺境語り”になることが多いのだが、その先にはそれぞれに、日本を脱してさてどこに住むべきか、という未来への思考が続いている気がしてならない。

とりわけ東京近郊、特に東京の何の変哲もない土地に生まれ、上京という大きな引越し体験もが不足している者たちにとって、叶えるかどうかは別として、移住の地をあれこれ妄想してみることは、わりと現実的で切実な問題なのだ。もちろん、世界のどこへ行っても驚きの程度は昔ほどではないのかもしれない。まだ見ぬフロンティアを探すならば、何かをとことん突き詰めて、発見なり創作なりをするほうが、よっぽど意義深いことに思える。同じような風景、同じようなインフラが整備されている環境で育ち、着る服も、暮らしや仕事への価値観もどこか似通っていると、同世代ならば国境を超えて感じられることも多い。

でもそれでも、とりわけ同性の友人たちは“いまここ”ではないどこかを夢想し、緩やかな死に向かいつつある日本から抜け出そうと思っているような気がする。

旅、というよりも、次に住む地を探している旅の途上。それが期間限定で終わるのか、それとも現実のこととなるのかはわからない。でもその間、少なくとも思考は自由でいられる。

少し長期の休みをとって、オランダへ行ってきたのだが、それは今思う“自由”のイメージが、なんとはなしにオランダだったからだ。といってもLGBTに寛容、ドラッグも合法、といったわかりやすい自由の話ではなくて、グラフィックデザインを学びに再度留学した友人や、建築を勉強しに1年間滞在していた友人など、自由を謳歌する知り合いの顔が思い浮かんだからかもしれない。

そういえば、ベーシックインカムを実験的に導入しているような話も聞いたし、古い老舗の新聞社を退職して画期的なメディアを立ち上げた若きジャーナリストたちも、オランダの人たちだった。記憶の断片に、ディストピア的な未来をみすえて、なんだか新しい機運が生まれているような話が思い浮かんだ。

後付的に言えば、オランダ、イギリス、アメリカ、と世界の覇権国が移り変わってきて、もはや覇権国などなくなってしまった時代に突入した今、かつて栄華をきわめた国に行って、取り残された地で何が起きているのか、時間的な“辺境”を探ってみたかったのかもしれない。ここが世界の中心、という軸がゆらいでボーダレスになったかのように見えて、かえってカオス度が増したいまの世の中、降り立つとしたならば、それは時代的にも空間的にも取り残されたように見える、エアポケット的な場所なんじゃないか。そこにこそ自由の気風はあるんじゃないか。なんとなくの予感とともにアムステルダムの地を踏んで、帰ってきたいま、じわじわとその思いを強めている。

無機質で冷たいように見えて機能的で実はカラフル。駅舎や建物、家具のデザインを見て抱いた感想はそれに尽きるのだけれども、一見なんの変哲もなく見えて合理的、でもそれは暮らしの豊かさをむしろ捨てていない合理性なのでは、と感じ入ったのは、運河に集う人たちのあり方と、自転車に乗る風景そのものに現れているように思ったからだ。アムステルダムにしても、アムステルダムをもう一回り小さく牧歌的にしたユトレヒトにしても、街を貫く運河が街のリズムをつむいでいる。

運河の両脇には狭い国土を縦方向に利用したアパートが立ち並び、窓越しにのぞけば、人々の暮らしが見えるようだ。3フロアを機能的に使い分けているような風情、でも花や自転車が彩りを添えている。行く右手にアパートの変化を見ながら運河の脇をずんずん進んでいくと、街のゆるやかな表情の変化も感じられて、夕方にはミントティーやハイネケンを飲んで楽しそうにおしゃべりをする人たちが数多く外の時間を堪能している。誰もがスマホを手にすることなく、熱心におしゃべりに興じていて、日本では、とりわけ東京では忘れられた風景だと思った。お土産を探そうと思っても、オシャレな洋服を置いたお店があるわけでもなく、むしろ“coffee shop”が数多くみられて、通りすがりに煙草ではない香りが立ち込める。暮らしに重きがあるのか、雑貨や日用品を扱ったお店が数多くあるのは印象的で、外よりも内実を充実させるような趣さえある。

15世紀にはエラスムス、17世紀にはスピノザが生まれ、『方法序説』を書いたデカルトやジョン・ロック、ヴォルテールもが移住したり、あるいは亡命の地として一時を過ごしたオランダ。経済的な繁栄と軌を一にして、国の形の定まらないオランダはヨーロッパのエアポケットとして自由の気風を育んだ歴史があるのだと思う。それは今も形を変えて、逆にちょうど時代が一回転して、そこにあるのではないかと思えた。日がな一日、運河を前にぼーっとおしゃべりをしたり、本を読んだりする。これといって何もないけれども、シンプルでどこにいっても美味しいスープの味に歓喜しながら、ユトレヒトでしっかりアパートの値段をチェックして帰路に着いた。

がんとサッカーとシリア難民

さとうまき

ヨルダンのザータリ難民キャンプ。成長しないシリア難民の女の子がいるからみんなで手術を受けさせようと募金集めをすることになった。

しかし、その女の子は、ヨーロッパに移住が決まったらしく、手術はヨーロッパで受けることになった。そこで、急遽ほかにも手術が必要な子どもを探してほしいといわれ、ヨルダンにあるキングフセインがんセンターに相談したところハリッド君という16歳の青年が骨髄移植が必要だというのだ。

2013年、ハリッド君はシリアのダラーからヨルダンに避難してきた。お父さんと一番上の兄は、ダラーに残ったが、その後ヨルダン政府は、国境を閉鎖してしまい、家族は離れ離れのままだ。10人の兄弟姉妹とお母さんでザータリキャンプに入ったが、ハリッド君が喘息を持っていたので、1か月でキャンプをでた。国連の支援で230JD=36000円ほどもらっていて家賃15600円ほどを払っていたが、昨年の10月からはもらっていないそうだ。

ハリッド君は学校に通いながら、一日400-500円ほど稼げるパン屋のバイトをしていた。ある日、同僚から顔が腫れているといわれ検査をしたらリンパ腫だとわかったのだ。化学療法をやってもあまり効果はなく、骨髄移植しかないといわれた。

「一体骨髄移植したらいくらかると思う?」
1000万円近くはかかってしまうのだ。そんなお金は、難民でなくても払えないだろう。私たちの集めたお金で治療を再開し、ヨルダンのNGOが引き続き募金を集めてくれる。私たちは、支援金を振り込んで、ハリッド君の骨髄移植を支援することにした。

3月、病院にお見舞いにいくと、4日間は入院し、その後一日ごとに投薬を繰り返すような化学療法がはじまっていた。その日はお母さんとおばばちゃんが、ハリッド君の面倒を見ていたが、夜になると女性は出ていなかんければならないので、お兄さんがやってくる。しかし、一家を支えているお兄さんは、仕事も思うようにできないと嘆いているそうだ。。

ハリッド君は、薬の副作用で髪の毛が抜けていた。ハリッド君はあまり元気がなかったが、サッカーが大好きで、先日ワールドカップの予選でシリア代表がウズベキスタンに勝利したことを喜んでいた。「体制派、反体制派とか関係なく、サッカーではシリアを応援する。フィラース・ハティーブという選手は反体制派で、チームを去ったけど戻ってきたんだ。僕はシリアの選手すべてが好きなんだ!」

好きな選手を強いてあげれば、「バッセト選手が好きだったけど」という。
バセット選手は、シリアを代表する若手ゴールキーパーで、シリア代表U17、U20にも選ばれ、将来を有望視されていた。非暴力のデモに参加。若者たちを引っ張っていくが、やがて銃をとるように。ドキュメンタリー映画「それでも僕は帰る」に主役として登場する。

血気盛んで、演説もうまくリーダーシップを発揮していくバセットだが、戦いは長引き、おそらく多くのシリア人は、自由とか、民主主義とかそんなものはもうこれっぽっちの美しさも感じなくなってしまっている。ボールの代わりに銃を持ったバッセットにもシリアの若者たちもそろそろ愛想をつかしてしまったと見える。バセットは魂の抜けた抜け殻のようにしか私には見えなかった。

日本とシリアは似ているところもある。民主主義が大事だと若者が声をあげたが、大人たちの世界はそんな生易しい世界ではなかった。バセットは、リーダーであろうと狡猾に立ち回ろうと策をねりながら葛藤し成長していく。対照的に、ベッドの上のハリッド君は、純粋にがんと闘っていた。病魔に追い詰められる子どもたちがどんどんピュアになっていく姿を私は今までも見ていた。

シリア代表チームが来日し、日本代表と親善試合を行うというニュースが飛び込んでくる。隣にいたお母さんも、「絶対シリアがかつわ」と意気込んでいる。

6月3日 14:00からシリアのドキュメンタリー映画:「それでも僕は帰る」を上映します。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://jim-net.org/blog/event/2017/05/63.php

沈丁花 喪われた風景 滝の人魚

高橋悠治

吉祥寺美術館で北村周一個展『フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前」のために『移りゆく日々の敷居』を作曲し演奏する  旗のはためきは 単純な形が風になびいて変る フェンスは斜めの関係の網 

いくつかの線が交叉する直前の空間が旗に見える 空間のなかに旗があるのではなく ひるがえる空間を旗とよぶ

交差する点を沈丁花と見れば 班点がひらいて 細い茎を隠す 見えない網がひろがり 花々や小石は宙に浮かぶ 隙間の多い空間には中心がない 刹那に変る時間は流れない

絵のタイトルを読み その絵の映像を見ながら 音の短いうごきを手さぐりし  短歌のことばを とぎれとぎれに詠む 

できたばかりの浦安音楽ホールで 武満徹が1960年に書いた弦楽四重奏曲『ランスケープ』を聞く 静かな呼吸の風景 響きと余韻と間 それ以前の『室内協奏曲』の静かに残酷な響き 無名で貧しい時代の 喪われた音楽

イルマ・オスノの新しいCD『Taki Ayacucho』(TDA-001)を聞く アヤクーチョの歌 祭の響きが野をわたってくる 秩父の山かげに水子の群れが立っている ペルーから遠く 旅をして 別な世界でも 滝の人魚の遊ぶ声 雨や花 川の向こう 谷を越えて 帰ってこない悲しみが 声のなかに住んでいて また新しい歌を誘う

2017年5月1日(月)

水牛だより

2017年の三分の一が過ぎ去っていきました。だれにも止められない時間の経過によって変化し続ける、私を含むすべてのものにふと思いがいたるのは、きょうのように切りのいい日だからかもしれません。生まれたての緑輝く木々やいろんな色で咲いている花々を見れば、それらはそっくりそのまま時間の経過だなあと思います。

「水牛のように」を2017年5月1日号に更新しました。
ゴールデン・ウィーク中の更新ですから、いつも書いてもらっている人たちにはいっさいリマインドはしませんでした。今月はお休みします、と連絡してくれる人もいれば、そのまま静かにしている人もいて、一様でないのは水牛のよいところだと思います。
笠井瑞丈さんが、お父さんの笠井叡さんによる振付を踊る「花粉革命」は今週末です。詳細はこちらから。

それではまた!(八巻美恵)

別腸日記(4)悪魔の舌

新井卓

その男はガンダルヴァの家系で、サーランギー奏者なのだと名乗った。わたしが日本から忍ばせてきた安物のラムは、空になりつつあった。戸外は群青色に染まり、雨期に珍しい透きとおった空が薄暮時を告げていた。

目の前で愛おしそうに少しずつ酒をなめるその男は、わたしよりも一つか二つ上の二十歳くらいだったのだが、もう名前は忘れてしまった。何か難しい妊婦の病気で手術が必要、と男が言っていたその妻は、大きなお腹で乳飲み子を片手に抱え、暗がりで平然と鶏を調理していた。その身体の一体どこに異変があるのか、決して口をきかず食卓に同席しない女の横顔からは、伺い知ることはできない。

カトマンドゥのタメル地区で突然声をかけられ、およそ屈託のない笑顔にすっかり警戒心を砕かれて、男とはすでに2週間ほども行動を共にしていた。その間、時折「妻は母乳が出ない虚弱体質なので」と訴えられては、缶詰の粉ミルクやこまごまとした日用品を男に贈っていた。状況はうすうすと察知してはいたが、結局わたしは、男にすっかり魅了されていたのだ、と今は思う。

ネパールのサーランギーは、通常四弦からなる竹製の擦弦楽器である。あり合わせの針金やナイロンで作られた弦はおよそ粗末な代物だったが、男が弾き歌い始めると、とたんに耳の後ろが切なくなるような、瑞々しい音楽が四方の空間を支配してしまうのだった。

男はあれこれと無心はするが悪びれたところはなく、交わした約束は必ず守った。わたしたちはすぐに、手をつないで歩くようになり──この国では男同士でも親しい仲ならそうする──観光客が決して足を踏み入れない場所へ連れ立っていく仲になった。

ある日、彼の郷里という山奥に出かけていって、仲間にマダラ(両面太鼓)の手ほどきを受けた。「口で真似できないうちは太鼓は叩けない」と笑われながらも、演奏に加えてもらったのを覚えている。ろうそくの火を囲んで永遠に続くかと思われるセッションは、わたしの知らない、あるいは、これから決して知ることもない人間たちの世界の入り口の様に思え、わたしはいつまでもそこに留まっていたかった。

その夜、ガンダルヴァたちに言葉巧みに進められて、なけなしの金で、調弦方法も知らないサーランギーを買って街へ帰った。

食卓の鶏は、養鶏場に行きその場で捌いてもらった新鮮なものだった。スパイスで煮込んだ肉塊は、わたしの皿だけによそわれた。少しでも残しては、となるべくきれいに骨までしゃぶって皿の脇に置いた。すると男はそれを端からつまみ上げ、バリバリと噛み砕いて丹念に髄を啜るので、内心ぎょっとさせられ、また自分に染みついた無意識の贅沢さを教えられたようで居心地が悪かった。女は何も口にせず、時々こちらを無表情に見やりながら、赤ん坊に乳をやっている。

やがて甘ったるいラムを一瓶飲み干してしまった男は、よろよろと立ち上がり、宿まで送ろう、と言った。女はもう寝台に行ってしまったとかで、食事の礼もできずに、わたしたちはスラムを後にした。

あたりは闇に沈み、人通りのない郊外を野犬の群が駆け巡る時刻にさしかかっていた。

帰りの道すがら、男はまた金の無心を始めた。妻の手術には30万円ほど必要であり、それがなければ彼女は死んでしまうかもしれない、と数日前を同じことを繰りかえす。「こちらは学生バックパッカーでそんな金はどこにもない」といくら説明しても、男はなかなか引き下がらない。やがて、酔いが手伝ってか、現金がないならクレジットがあるだろう、それがだめなら本国から送金してもらえばよい、としつこく食い下がってきた。男の眼は充血して、いやな顔つきになっていた。ようやく大きな通りに出たので、人力車(リクシャー)を捕まえて無理矢理に男を押し込め、家に送り返した。不意に、それまで押し込めていた疑念が暗い感情となって沸き起こって来、宿に帰ってからも遅くまでベッドを転々とした。

カトマンドゥは、もう引き上げ時なのかもしれなかった。翌朝、わたしは逃げるようにバスに乗り湖の街ポカラへ出立した。それから一、二週間も経っただろうか、ふたたびカトマンドゥの安宿に戻ってくると、男は表でわたしを待ち構えていた。

男はあの無邪気な笑顔で「急にいなくなってどうしたんだ、誘拐でもされたかと心配したよ」と言い、親しげにわたしの肩を叩いた。わたしは男を無視して、宿の戸に手をかけた。「いったいどうしたんだ! 何で無視する」そう追いすがる彼に向かって、「お前は誰だ、お前なんか知るか!」咄嗟にそう叫んでから、自分の内にそれほどの憎悪が潜んでいたことに目のくらむような動揺を覚えながら、わたしは部屋へ逃げ帰った。

その夜、〈悪魔の舌〉という旅行客がたむろするパブに足を運んだ。その店は国産のククリ・ラムを使った、「ロングランド」アイスティーとかいう名前のカクテルを出していた。バックパッカーたちの間でガソリンが混ぜられている、と噂される得体の知れない飲み物で、それを吐くまで何杯も飲み干した。

わたしは怒っていたのだろうか?──とすればそれは、関係を台無しにしてしまった男の不実さについて、ではなく、結局のところ、与え/与えられる対等な供与関係をしてしか友情を信ずることのできない、わたし自身の冷たさに対して、だったのだろう。わたしが男を拒絶したその瞬間、彼の眼にありありと浮かんだ驚愕の色は、彼らからすれば豊かすぎる暮らしを享受する日本人に幾ばくかの金品を無心すること(カースト最下層のガンダルヴァたちは、何世代にもわたってそのように生きてきたのだろう)、そして、歳近いわたしたちの間に芽生えた友情らしきものとの間には、実のところ何の関わりもなかった、ということを端的に表していたのかも知れなかった。

その後、彼にはもう会うこともなかった。生まれて初めての異国への旅は、もう終わりに近づいていた。

ラムは、大航海時代ヨーロッパ列強によるカリブ海の植民地化とともに生み出されたという。今でも、ラムを口に含むたび、男の驚いて見開かれた眼と(もう顔を思い出すこともできない)、貧しく、それでいて輝かしく奔放なガンダルヴァたちの世界が記憶の奥でひらめき、かすかな痛みとなって、舌をひりつかせるのだ。

しもた屋之(184)

杉山洋一

国の決まりで、4月15日に決まってアパートのセントラルヒーティングが止まるのですが、今年は何故かその後2日ほど暖房が通っていて床も温かったのですが、それも切れた途端、急に冷え込んで、最高気温12度くらいで底冷えさえするようになりました。
その上ここ数日大雨続きで、ミラノ中の道路に泥水に覆われています。それでも雨が止む度、啄木鳥が戻ってきては、庭の樹を穿つ鈍いトレモロが断続的に響き、耳を癒してくれるのです。

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4月某日 三軒茶屋自宅
お手玉を落とす行為一つにしても、そこにあまり意味を考えず、淡々とただ落とすというのも、やってみると難しい。床に落ちたお手玉が音を発する前に、加速し落下する視覚的な運動も加わる。
発音に続いて余韻が残るのと反対の効果。テープやオープンリールを反転させて再生するあの感じ。単に拍手して貰おうと思っても、音楽家がやると音楽的になるけれど、寧ろそれは何故かと自問してみると、それまで「音」を包む不可視だった幕が、急に色を帯びて見えてくる。
今朝は、最近書いたヴァイオリンのチベットの主題による小品を林原さんが聴かせてくれる。林原さんはチベット語を勉強していて、チベット人の友達が演奏会に沢山来るとは聴いていたが、亡命チベット人だとは知らなかった。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さん演奏会、会場リハーサル。猿のように会場を徘徊しつつ、新作の動線を決めるのに2時間かかる。長いリハーサルの一日が終わり、ふと新聞を見ると、トランプ大統領シリア攻撃、とある。

4月某日 三軒茶屋自宅
安江さんの演奏会に出かける前に、会場近くのオムライス店で昼食を摂る。入口で、肉の入っていないオムライスはあるか妙齢に尋ねると、一度厨房に相談に行き、オムライスのご飯には初めから肉が混ぜてあるので、それを普通の白いご飯にしても構わなければ、と言うので、喜んで好意に甘える。席に着くと、先ほどの妙齢が戻ってきて、申し訳なさそうに肉の食べられない理由を教えて欲しいと言う。ベジタリアンなのかビガンか、さもなければアレルギーや宗教上の理由で問題があってはいけない、と言うので、いたく感心する。それらと関りはないので問題なく美味しいオムライスを頂いた。特に美味しく感じたのは、妙齢とコックの機転のお陰に違いない。

安江さん演奏会。悠治さんの曲は、会場で聴くと、原曲がより明確に聴こえてきた。一度安江さんのスタジオで聴かせて頂いた時の印象とも随分違った。安江さんから意見を求められたので、悠治さん風に演奏しなくても良いけれど、普通はルバートをフレーズ単位で崩すのを、悠治さんだったら8分音符の中を64分音符単位でグルーブをかけて、音を紡いでゆく感じか、と口から出まかせを言った。

増本先生の曲は、楽譜を初めて読んだ時に、こんな風に音が置ければいいと思ったが、その通りの響きがした。増本先生の曲は、音の背景に、晴れた空の、一昔前の日本の風景が見えるような気がする。騒音にまみれ、アスファルトで固められた今の日本が失った、もう少し鄙びた、空気の澄んだ街並みが見える。

「ツリーネーション」は、当時はこれ程楽観的な曲を書いていたのかと驚く。「放射能汚染が」「甲状腺がんが」「ミサイルが飛んできたら」「空母何某が」という記事が、毎朝の新聞に載るとも思ってもみなかった頃のことだ。ヨーロッパにはヨーロッパの大きな問題があるが、日本もすっかりきな臭い世相になってしまった。

「壁」は、前日にアメリカがシリアを爆撃したので、否が応でも黒いお手玉を落としては繰返し拍手する姿は、自分が想像していた以上に厭なものだった。本来は壁の向こうで手を叩くはずの音が、具体的な爆撃音のように聴こえてしまう。その度に、メタルシートが大きく撓み反射する。

ピアノ曲は、聴いていて当時の自分が羨ましくなる。自分の息子を見ていて、お前はいいね、羨ましいと嫉ましく思うのに少し似ている。それより加藤くんの音がとても温かく、心に沁みとおる。星谷君を知っていて弾いているに違いないと思い込んでいたが、直接は殆ど会ったことがなかったそうだ。

夜に両親に電話をすると、二人とも「壁」にとても圧倒されたらしく、とても興奮して感想を聴かせてくれる。それだけでも、書いて良かったと思う。演奏会として喜ばれたのなら、曲よりも寧ろ、聴き手は安江さんと加藤君の熱演に引きこまれたのだろう。自作を続いて聴くのは、どうも居心地が悪くて困った。

4月某日 三軒茶屋自宅
行きつけのトップ駅前店に行くためには、渋谷のスクランブル交差点か、井の頭線ホームに繋がる空中通路を通る。スクランブル交差点では、外国人の観光客が交差点を背景に記念撮影をしていて、空中通路からは、交差点を行き交う人いきれを眺める外国人観光客が窓際に並んで、口々にcool! amazing!と黄色い声をあげている。

交差点の前に立つと、巨大なスクリーンが3枚ほど目の前のビルに掲げられていて、それぞれに大音量で番組を流している。誰もが聴いているようで、聴いていない。見ているが理解していない。理解するために流す情報であれば、一つのスクリーンで、それぞれの情報を順番に流せば良いのだから、当初から伝えることが一義的な目的ではないのだろう。コンピュータの検索機能に頼るようになったので、たとえ生活全てを氾濫する情報で覆いつくされても構わないのかも知れない。

ルクレツィオを読んで痛感したのは、「何を知る」のは、それまで存在していた何かを失うということ。文明が進化する程に、事象を即物的、表面的、分析的に観察するようになり、常に懐疑的な視点を伴っていることに気づく。あの時代に於いて、ルクレツィオ自身が、限りなく、即物的、分析的、懐疑的だった。

4月某日 ミラノ某日
暫く家人が日本に戻っているので、息子と二人で朝食を摂る。最近の彼のお気に入りは、シナモンを交ぜたフレンチトーストもどきで、フレンチトーストと生焼きオムレツの中間のような代物。これにシチリア産の蜂蜜をたっぷり掛けて喰べる。
毎朝つけている、ABCのラジオニュースで、北朝鮮やらドナルド・トランプやらの名前が出ていたからか、フレンチトーストもどきを頬張る息子が、隣で呟いた。
「アメリカも北朝鮮に自由の女神像を贈ればいいのに。フランスがアメリカの独立と自由の象徴に、自由の女神像を贈ったように」。

4月某日 ミラノ自宅
先日演奏会の後悠治さんと話していて、「教わる」のは、教わった瞬間に既に誰かの真似ではないか、という話になる。そうかも知れない。それでも教えているのは、多分自分がまだ教えることで教わることが無数にあるからではないか。

大学卒業試験を控えるSがレッスンに来て、最近オーケストラの前に立っても、何の情熱も感じないと嘆く。どんな内容で音楽を作ってゆくだろうと黙って眺めていると、書いてある強弱やアーティキュレーションのことしか注文を付けない。楽譜にこう書いてあるのでこうやれと繰返すのは、レパートリーを振るのであれば奢りかも知れない、少なくとも自分はなるべく避けるよう努力している、と話す。予め書いてある記号の意味を咀嚼して、記号の向こうにある音楽の流れを理解した上で、自分が欲しい音像を出来るだけ明確に演奏者に示してゆくのは、容易ではない。フォルテと一言で言っても、大音量のイメージは無尽蔵にある。

Mはベートヴェンの第一交響曲の一楽章を、40歳代の男がよく晴れた昼下がり美しい山間の野原を歩いている姿に譬えた。提示部第2主題でナボコフ宜しく少女に出会い翻弄された挙句、最終的に男は振られて、傷心で展開部に入ると言う。

A曰く、同じ交響曲の最終楽章冒頭は、ナポレオン時代、戦闘から戻ってきた初老の「やる気のある」兵士たちが、足を引きずり困憊しながら街へ戻ってきた場面から始まる。アレグロに入るところで、彼らの後ろから走ってきた若い兵士たちが、老兵らをなぎ倒し、街めざして駈抜けてゆくシーンで、もちろん目指すは街で待っている娘達。展開部は、山あいに陽が暮れ始めて、遠くに見える街の明かりが点り始める場面。

娘たちは、玄関の扉を開けて待っているけれど、夜が訪れれば閉められてしまう。若い兵士たちは必死で街をめざして駈け抜ける。「やる気のある」老兵たちもそれなりに必死に追いかける。最後のファンファーレで、捨て置かれた老兵たちに反し、娘と抱擁を交わす若者たちの勝鬨の声。「やる気のある」老兵に差し掛かりつつある自分としては納得ゆかないが、こうして映像を頭に描いて指揮するだけで、音符を振っている詰まらなさが途端に消え去って、音が活き活きとしてくる不思議。常にフリッチャイがリハーサルを付けるモルダウのヴィデオが念頭にある。

M曰く、自信がなくてオーケストラに何を求めてよいか分からないと言う。とにかく、楽譜を振るのは止めるべきだと話す。譜面の紙は1ミリにも満たない薄ぺらいもので、その向こうに広がる無限の世界に足を踏み入れるための扉でしかない。彼がナボコフ風ベートーヴェン第一交響曲を演奏すると、確かに第2主題はコケティッシュな少女に聴こえたではないか。

作りたい料理を考えながら、指揮台に上がる。作りたい料理は予め考えておくけれど、作る素材は目の前のオーケストラの音の中から見つけ出して、その場で料理しなければならない。バジルがなければパセリで応用し、ニンニクがなければ、玉葱で下味を付け、アクセントが足りなければ別の香辛料をどこかから探してくればよいではないか。出来た料理をオーケストラに見せても、美味しい料理などは作れない。

水泳の例をあげる。泳ぐためにどの角度で手で水を切ればよいか計算式を覚えても、泳げるようにはならない。そればかりか、身体が固くなれば、沈んで溺れるだけだろう。泳ぐ喜びを何よりもまず味わいながら、毎回喜びを覚えつつ、この喜びはどこからやってくるのか分析するのは悪くない。

オーケストラと一緒にいられる時間への喜びはないのか、あれ程オーケストラを指揮してみたいと言っていたじゃないか。時間は戻らない。オーケストラと触れ合える時間がどれだけ貴重なことか。同じ曲を何度やっても永遠に同じ演奏には巡り合えない。

子供が出来て、時間が経つのがどれだけ早いか、そしてその一瞬一瞬がどれだけ掛け替えないものか実感するようになった。それに気が付くときは、深いノスタルジーで過去を振り返る時だけだ。それは君も子供が出来て実感できるのではないかと尋ねると、大きく頷いた。

君は自然が好きだと言うが、自然だってもう二度と同じ自然に巡り合うことはない。四季は確かに巡るけれど二度と同じ日が戻って来ない。だったら今日、この時間を精一杯生きなかったら、音楽を精一杯慈しまなければ、後で後悔するに違いない。
そう話してふと彼を見ると、Mは眼鏡を外して目を拭っていた。

4月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、頭の中から音を一切なくしたい、と思っている。音がなければ、音が見えてくるに違いない。去年は、すみれさんのため「白鷺鷥」を理想の音で書いて、今年は反対に「壁」を生理的に厭な音楽として書いた。実際「壁」は、触感として凄く厭なものだった。

元来、作品は作曲家の精神状態など表さないと言張って来たが、この歳になって、その信念が揺るぎつつあるのを自覚している。

昨秋パルマのフェステイヴァルで、アルフォンソとセレーネが演奏した「天の火」のヴィデオが送られて来た。素晴らしい演奏なのだが、余りに胸が締め付けられるようで、聴き続けるのが辛かった。正直にそうアルフォンソに伝えると、「あの時は二人で演奏しながら、何かが降りて来た気がしたんだ」、と少し困惑した声で答えた。
「きっとフランコが訪ねて来たのだろう」。
「天の火」は、癌で逝った我々の友人、フランコのために書いたものだった。今、こうして書いている目の前に、フランコの形見分けで頂いた古い日本のお盆が飾ってある。

古代、音は神と繋がるための手段で、我々の把握をはるかに超越した存在だった。多分それは、音そのものへの畏怖ではなく、音が響くわたる空間に、まるで別の次元へ広がる裂け目が開くのを鋭敏に感じていたのかも知れない。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めた20数年前は、ミラノの喫茶店で音楽はかかっていなかった。今では音のない喫茶店を探す方が余程むつかしくなった。譜読みをのんびりしようと思っても、あまり煩い音の洪水のなかで出来るものとそうでないものがある。
ガレリアの出版社に楽譜を取りに出かける前、少し時間があったので、ドゥオーモ地下の喫茶店でハイドン「悲しみ」の楽譜を開く。場末ではあるが、この界隈で音楽を流さない数少ない喫茶店の一つで、昼食なども美味で気に入っている。1楽章から楽譜を眺めてゆき、2楽章で言葉を失い、まるで自分の意識が混濁する。楽譜の上で、余りにも美しい音が、淡々と紡がれてゆく。朦朧としながら、強く石畳を叩く雨の音のなかで、コルソ通りのツェルボーニ社まで歩く。約束の楽譜を受け取ったのだが、夢見心地で出口をそのまま通り過ぎ、声をかけられて我に返った。

音が美しいから心を打たれているのではない。音符の向こう側に流れ続ける、空気のようなもの。その小さな割れ目からじんわりと滲みだす、感情の透明な液体。それは涙なのか、汗なのかわからないが、温かいのはわかる。

昔、政府の奨学金が突然打切られてから数年は、本当に貧乏だった。しばしば銀行から通知を受取るたび、開けるのが怖かった。それは決まって、口座の残高がマイナスになったので、何某か預けないと口座を閉める、という脅迫じみた催促状だった。色々音楽とは無関係の仕事をしながら、ここで何をやっているのかと情けなくて仕方がなかった。スコアなど買うお金は到底なかったから、なけなしの日銭で買ったポケットスコアはそれこそ宝物で、いつも持ち歩いては眺めた。
観光客がタックスフリーで買い物をしている傍らで、シューマンの楽譜を開いて目を皿のようにして読んでいる通訳兼ガイドなど、とても感じが悪かったに違いない。半年で解雇され、益々生活は苦しくなった。苦しいというより、もう暮らしてゆくのは不可能ではないかと思った。

ただ一つ。そうしながら、子供のころ事故に遭ってから身体の中を巡っていた、言葉にできない厭な液体が、少しずつ蒸発してゆく気がして妙に気持ち良かった。邪気を払うというのか、流行り言葉でデトックスというのか。自分のうちで自らが最も嫌っている何かが、どんどん蒸発し、流れ出してゆく気がした。すると身体の芯で、子供のころからずっと雁字搦めに封印されていた何かが少しずつ見えて来た。それは伽藍洞の、透明な筒のようなもので、それを感じるだけで、不思議なことに自分が生きていられることに言葉もなく感動した。

落ちるところまで落ちて、溶けるものは溶けきって、何か身体の中で、子供のころからずっと見たいと思っていて、すっかり見えなくなっていたものに、再会した喜びだった。

(4月30日 ミラノにて)

三日月と野草

璃葉

自宅の窓から見える桜並木が満開の花を咲かせているときの花見客のどんちゃん騒ぎから一変、花が散ったあとは見物人もいなくなり、まるで安心したかのように一斉に新緑の葉たちが生い茂った。辺りは緑だらけだ。

風でさわさわ揺れる葉、暖かい日差しを受けている植物をのんびり眺める。満開の桜をみることよりも好きかもしれない。

散歩をしていると、子供のころから見慣れている野草をどんどん見つける。一度覚えた草の名前はいつまでも忘れないから、不思議なものだ。

すこし遠出をして、野草を探しにいくことにした。山の近くの公園の川べりはまだ肌寒く、雨上がりの夕暮れの空はいつも以上に澄んでいた。三日月が浮かんでいる。

雨で湿った柔らかい土の上には青々とした草花が川向こうまで広がっていて、空の青を草が吸い取ったように濃厚な色をしている。都心にも生えているごくふつうの草花だが、生きている場所がちがうだけで、表情はまったくちがう。

雨露に濡れた葉をさわっているだけで手がシモヤケのようになってしまった。
目に留まった草と花をすこしだけ採集し、持ち帰って植物図鑑と照らしあわせてみた。

スミレ カラスノエンドウ ヤエムグラ ハルジオン アブラナ ホトケノザ ミコシギク

キク科やスミレ科の野草だけでも、似ていても名前がちがうものがいくつもある。

花弁のならび、実のつくりや葉のかたちから、これでもないあれでもないと絞っていき、やっとその名前たどり着いたときは、とてもうれしい。きっとわたしは、野草の名前と由来に惹かれている。和名でも英名でも知らない土地のことばでも、名前を知れば距離はとつぜん近くなる。

5月もはじまったので、山の麓へ鉱石を探しに行くついでに、野草探しもしてみようかと考える。標高の高いところの植物はまた表情がちがっていて、おもしろい気がする。

さつき 二〇一七年五月 第一回

植松眞人

「五月に生まれたから、さつきという名前なのね」とずっと言われ続けて育ってきたのに、私は五月生まれではない。そのことで意外な顔をされたり、感心されたり、ちょっと笑われたりする。
コピーライターをしていた父とグラフィックデザイナーをしていた母が六月に生まれた私にさつきという名前を付けたのは、ちょっとした遊び心だった。あなたが生まれることを心待ちにしていたくせに名前のことをすっかり忘れていたの、という母は、私が生まれた日に祖母に「ところで初孫の名前は」と聞かれて驚いたそうだ。
父と母は自分たちの粗忽さを大笑いして、ああでもない、こうでもないと私の名前を考えたのだった。その時、改めて私をまじまじと見つめた父が「ついさっき生まれたばかりなのに、髪の毛がふさふさしてるなあ」とつぶやいたのだった。母はそんな父に「そう、さっき生まれたようなものなのにねえ」ところころと笑って返したそうだ。それからしばらく、私のふさふさした髪を見ながら二人は笑い続けて、またうっかり名前を考えていたということを忘れそうになったというのだから本当に懲りない人たちだと思う。母の「そうそう、名前名前」という声を合図に、また二人は私の名前を考え始めた。
しばらくすると父が「さっきちゃん」と私に呼びかけたそうだ。「さっき生まれたばかりのさっきちゃん」と楽しそうに笑ったのだという。母が言うには、父がそう言った途端に私はキャッキャと笑ったらしい。本当だろうか。わからない。わからないけれど、母はどうでも良いところでしか嘘を吐かない人なので、きっとこの話は嘘ではない気がする。だって、自分の子どもの名付けというなかなか大切な場面での話だから。
父は私が笑ったことで、「さっき」という言葉に引っかかりを覚えたのだろう。コピーライターの職業病である「言葉転がし」を始めたそうだ。言葉転がしとは、気になった言葉を頭のなかでコロコロと転がして、さらにいい言葉を作り出したり、キャッチコピーらしくする病気だ。
さっき、さっき、とつぶやいていた父はふいに「サッキー」とかつての英国女性首相のように音引きで叫んでみたり、「さっきん」と無理矢理ニックネームのようにしてみたりしていた。そして、近くにあったチラシの裏に鉛筆で、さっき、さっき、と何回か書いてみた。しばらく、「さ」と「つ」と「き」という文字を何度も書いてみて、順番を変えてみて、あれやこれやと試している間に父は静かになった。静かになって、じっと文字を眺めていた。そして、指で文字を一文字ずつ押さえながら「さ・つ・き」と声にした。声にしたあと、ごろりと横になり、天井を見ながら、「さつきかあ…」と言ったのだそうだ。さつきさつき、と言いながら父はまた起き上がり、母に笑いかけた。
「ねえ、五月のことをさつきって言うよね」
父がそういうと、母は笑い返した。
「残念でした。今週から六月に入りました。この子の誕生日は六月一日よ」
とあきれ顔で答えたのだった。
「そうか。五月もさっきまでか。いいじゃない。さっきまで五月だったんだから。五月生まれだから、さつきなんじゃなくて、ついさ
っき生まれたから、さつき。ついさっき生まれた気がするのに、すくすく育ってくれるように。そして、ついさっき生まれたかのように、愛らしいままで育ってくれますように、って意味でさ」
と、父は「さつき」という名前についてのプレゼンテーションを始めた。まるで職業病だ。
「それにさ。五月に生まれたから、さつきなんですよねって、絶対に言われるでしょ。そしたらさ、実は父と母がさっき生まれたばかりだからって、さつきって名付けたんです、なんて世間話ができるじゃない」
父のその言葉が、人見知りで苦労した母にはえらく突き刺さり、さつきという名前候補が浮上してからわずか十分ほどで、私の名前はなんの迷いもなく決められたのだった。
二〇〇二年六月に生まれてから十五年が過ぎた。父と母が笑いながら私の名前を決めてくれてから、十五回目の春がやってきた。(つづく)

見えないもの

長縄亮

「見えない」とは
神様をいうための
ことばだった
一番はじめから そしていまでも

ぼくたちは
いつでも神様を
目で追っている
目に見えない神様を
目で追っている

ぼくたち
目の見えないものたちは
手で捜している
目に映らない神様を
手で追っている
手に当たるまで

ぼくたち
からだのないものは
かみさまを
いのちでさがしている
時の中を
さいごの時まで
たぐっていく

めにうつらない
てにはふれないかみさまに
いのちがあたるとき
ぼくたちはうまれる

グロッソラリー―ない ので ある―(31)

明智尚希

「1月1日:『自分で言うのもなんだけど、いつ誰か来てもいいように部屋はきちんと片づいていて、文学全集や文庫本のきっちり加減はすごいぞ。そんなに広くない部屋だけど、二千冊を書棚や自分で作った棚のなかにきっちり入れてる。それから映画のDVDや音楽CDも、本と同じようにきれいに収まっている。ちょっとした自慢だな』」。

( ̄ー+ ̄)どや

 書店に行くのはあまり好きではない。ずらりと陳列された書物群の全てを、一刻も早く読み尽して知識の上乗せを図りたいと思う反面、どの一冊を読んでも内容が悪辣な異物となり脳が拒絶反応を示して、優れたエクリチュールも単なる無駄な一物なのではとも思う。いずれにしろ月並みでない恐怖心を煽りに煽る。アチラコチラ命ガケである。

ぅあ───(((;’Д’ )))───!!!!

 健吾は健吾ではなく正人だった。正人は正人ではなく順子だった。順子は順子ではなく健吾だった。誰ともなしに言う「この関係も一時間おきにずれちゃんだよな」。「そうなんだよねー」。そして一時間が経過した。健吾は正人でなく順子、正人は順子ではなく健吾、順子は健吾ではなく正人となった。三人は手を振ってから、帰路についた。

(゚Д゚≡゚Д゚) エッナニナニ?

 さすがにわしも年齢を感じるな。忘れっぽい、覚えられない、語彙力の減少、心肺機能の低下など。わしから取り除いたら骨抜きになるものばかりじゃ。でもまだ一つある。思い出じゃ。若々しい歯並みをして青春を――ではなく、苦境に次ぐ苦境じゃ。物心ついてから今日まで、わしの栄養分たりえてる。美しくない思い出も力になるんじゃよ。

エートォ ?c(゚.゚*)

 「1月1日:『こうやって見てもわかるだろ。俺の趣味や嗜好が。しかも下世話なものばかりじゃない。教養として見聞きしておくべき最低限度のものプラスアルファの作品を並べてる。もちろん並べてるだけじゃないぞ。どこかにいる誰かさんみたくタイトルしか知らないなんて笑いものだしな。まあ一通りは見たし読んだよ。これも自慢』」。

( +・`ー・´) スゴイダロ

 小料理屋の女将をはじめ少なくない人が、人生において幸運と不運は等分だと言う。目下のところ、不運のほうが圧倒的に優勢だ。前説を信じるなら、今後の人生、幸運だらけとなる。だが正直、どうでもよい。自分の人生にさほど興味がないというのはさておき、幸運と不運の区別がつかないからだ。そんなことより今晩こそは眠らせてくれ。

∩(^∇^)∩ バンザーイ♪

 「生きていれば必ずいいことがある」「それ以上に嫌なことがある」「周りの人に迷惑をかけるだろ」「死んだあとのことは知らねえ」「両親が悲しむだろ」「両親は死んだ」「友達や知人が悲しむだろ」「そんなものはいねえ」「君は必要とされて生まれてきたんだ」「不必要だから死ぬんじゃねえか」「死んじゃ駄目だ」「生きてるのはもっと駄目だ」

wヘ√レv─(:D)╋━━ 死亡中

 早く眠りたいと毎日思う。いっそ目覚めなくてもいいくらいだ。不眠を克服したいというのとはわけが違う。一日をさっさと消化したいのだ。一日を大切に生きろという。現実は逆だから生まれた警句なのだろうが、抽象に過ぎて意味をなしていない。起きている間は、苦痛と不毛で埋め尽くされる。早く眠ったところでさして変わりはないが。

(〃∪_ゝ∪〃)。oO(悪夢) …

 落ち着きの悪いおのれの生は、電信柱に激突し電光閃々たるていたらく。そのままアウラとなってくれれば格好がつくが、こっちが勃てばあっちはかっさかさでまさにアポリア。マトリョーシカとタマネギの関係性をストックホルム症候群とした場合、ゴイザギがことごとにへそを曲げる。それで待つほうと待たせるほうではどちらがつらいかね。

(-__- ))) ソウデスナァ……

 頻繁に送られてくる文面や思わせぶりな写真から、想像に想像を膨らませて、いざ本人とご対面すると、相互にげんなりする。各自の内部にしかない彩られた虚像を外部に持ち込んでしまうと、現実の冷徹さを知ることになる。生活上、虚像や青写真は不可欠である。地下の暗室でネガを見ているほうが、前向きな息吹きを与えてくれるのだから。

///orz/// ガッカリ……

 「1月1日:『おすすめの映画は、一九九一年公開の『みんな元気』だな。高校生の時なんか学校なんか行かずにぶらぶらしてた。新宿か銀座のどっちだったけなあ、確か単館上映だったと思う。リアリスティックなとこがいいね。作り物っぽくないとこ。ちなみにそれ見た翌日、新宿の昭和地下に行ってるからな。これもまた現実。わはは』」。

ヾ(@^(∞)^@)ノわはは

 各人はそれぞれ受け取るものが違う。感覚の話だ。色、形、音、におい。それらの最大公約数が現実と呼ばれる。最大公約数や現実から漏れた要素が個性と呼ばれる。個性は生来の賜り物だ。よって個性は育成される代物でも伸ばされる対象でもない。勝手に育ち勝手に伸びていく。途上で多くの邪魔が入る。困難を突破するのもまた個性である。

/(。Д。)ヽコセイ?

 天来の頭痛持ちである。痛む箇所は額の裏、前頭葉と決まっている。薬を服用しても治まらない場合、寝たきりになる。少しでも腕なり何なりを動かそうものなら、血流の関係で爆発的な痛みが生じる。ものを考えられないこの状態が休息というなら、地獄もかくあらんと思う。思考と休息。いずれも真の休息ではない点も、また頭痛の種である。

ズキンズキン(_` ゞ) 頭痛い

 「1月1日:『本のほうは、そうだなあ、いろいろあるからなあ。映画より歴史が長いぶん、名作が多いんだよな。まあ同じくらい駄作も多いわけだけどな。ははは。古典もいいし現代ものもいいのがある。難しいね。でもまあやっぱり『グロッソラリー ―ない ので ある―』だな。なにしろ俺が出てくるからな。ちょっと読んでみるか』」。

(〃⌒∇⌒)ゞえへへっ♪

 セザンヌはデッサンがろくにできなかった。彼が円筒形、球形、円錐形に頼ったのは正解だった。あと二三年生きていたら、抽象の領域に足を踏み入れていただろう。後期印象派と印象派は自然主義から弁証法的に生まれた。絵画の歴史で最もわかりやすい時期である。デッサンの残存がある。ろくにできないという悲劇は、大発見の温床である。

デキナイ ((>ε<。 )(。 >з<)) デキナイ

 俺は世界四位のドル箱スターだぜぃ

(ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・ォ・・・ォ・・・・

 日常生活において、言葉が次々と口をついて出てくるのは、気分を害している時である。憤怒、中傷、悪口、侮辱、これらを主な構成要素として、相手もしくは第三者に対して吐き出される。自我が混乱し壊れそうな状態にありながらも立っていられるのは、我執や自己愛のおかげである。構成要素の裏の内容は、本人の内実に見事に該当する。 ガーガー ヾ(*`Д´*)ノ”彡☆ グチグチ  意外かもしれないが、わしはいろんな企業を見てきた。実にいろんな経営者がいるもんじゃ。現場介入主義者、放任主義者、理論主義者、精神主義者、体育会系主義者など。是非はなんとも言い難いが、経営者というのは押し並べて経験でしかものを言わんのう。新規案件に手を出さないからこそ、今があるというのももっともで不思議な話じゃ。 , (⌒‐⌒), えっへん  鼻が詰まっている人は大変である。鼻をかんでも必ずしも鼻水が出てくるとは限らないからだ。かんでもかんでも出てこない場合は、口で息をしないといけない。息が臭いとまさに弱り目に祟り目。かむのとは逆に吸ってみると、一瞬だけ動くか全部吸い上げられるかのいずれかである。後者の場合、晴れ晴れとした表情で飲み下す者もいる。 (>O<) ズーズーズー ( -.-) ゴックン

一列横隊、一列縦隊

冨岡三智

お昼に時代劇『大江戸捜査網』の再放送をやっている。放送開始は1970年。隠密同心と呼ばれる数人組が秘密捜査の末に敵を確定すると、「隠密同心 心得の条 …(中略)死して屍、拾う者なし、死して屍、拾う者なし」の名ナレーションにのって横一列になって大門から出発するのだが、この場面にくると、刑事ドラマの『Gメン’75』を思い出してしまう。

学校で友達とGメン歩きをやって叱られた記憶があるが、幼稚園や学校に上がると通学や遠足で2列縦隊で歩くことを教えられる。道いっぱいに広がって歩くのは他人や車の通行の邪魔になるし、危険でもある。それだけに、大人が横一列に歩くという演出にクレームはこなかったのだろうか…と少し気になる。それはともかく、横長のテレビ画面では横一列に俳優が並ぶと迫力のある構図になるとか、前後に並ぶと序列が表現されてしまうけれど、横一列だと同じチーム仲間だということが表現しやすい、などという演出意図があったのだろうと思う。

横一列という歩き方は、街道の道幅が今よりも狭かった昔には実際なかっただろう。『大江戸捜査網』は時代劇だが、制作しているのは『Gメン’75』と同時代の人たちだ。時代物で横一列になるということで思い出すのは、歌舞伎の『白波五人男』である。ただし、あれは細長い花道を縦一列になって歩いて登場したのちに、「回れ右!」という感じでバッと客席の方に全員が向く結果、一列横隊になるのであって、基本的に一列縦隊である。

横一列に人物が並ぶという構図は伝統絵画ではよくあるけれど、体や顔は横を向いている。つまり、一列横隊になっている。エジプトの壁画やジャワなどのワヤン(=影絵)がそうだし、西洋のルネサンス以前の肖像画も真横を向いている。こういう肖像画をプロフィールと呼ぶように、横向きにはその人「らしさ」が表現しやすいと古くから人は思ってきたようだ。遠近法がない時代、身体という立体を表現するには、横向きの方が都合が良かったのだろうと想像する。それだけに、観客に正対するのは、より現在的な感じを持つ表現だという気がする。

ここで話は急にジャワ宮廷舞踊に飛ぶ。本来の宮廷舞踊というのは4人や9人の群舞で踊るが、一列縦隊になって入退場するのが基本である。しかし、私の留学していた芸術大学では、入退場の時間を短縮するなどのため、2人ずつ並んで4人が入場したり、9人が最初からフォーメーションを組んで(3列になる部分もある)入場したりすることが多かった。私はこれが大嫌いで、自分が公演する時には絶対にやらなかった。複数人が横に並んで入場する様は、私の目には軍隊の入場のようにも現在風にも見え、せっかくの伝統舞踊のオーラが消えてしまうように見えるのだ。

ちなみに、ジャワ舞踊では横一列に並ぶフォーメーションを「ジェジェル・ワヤン jejer wayang」と呼ぶ。ジェジェルというのは横列のことである。そして、縦一列になるフォーメーションを「ウルッ・カチャン urut kacang 」と呼ぶ。これは豌豆などの豆(カチャン)がさやの中で一列に並んでいる(ウルッ)という意味。私の師匠はこの2つを区別したが、区別しない人もいる。私は一粒の豆になったつもりで並びたい…。

振付を踊る

笠井瑞丈

踊りを踊る

身体の造形
記憶の造形

血液の中に流れる
何万年前の記憶
カラダの隅々まで
血液は運んでくれる

脳の記憶
から
血の記憶

振付が生まれる瞬間
動きが生まれる瞬間

動く事より
止まるコト

摩擦エネルギー

空間と時間
それを捉える

九ヶ月の時間を
血液に擦り込む

本日は革命前夜
血は水よりも濃い

花粉革命
何万年さきまで
粉々になるまで

振付を踊る事
踊りを踊る事

振付を踊る事

そういう事

狂狗集 5の巻

管啓次郎

あ 朝ぼらけ嘘つき世界のSUNRISE
い 犬と走らういつもの街路のパルクール
う 雲海の下に讃岐うどんの音響
え えんどう豆を遠投すどこにも届かない
お オランダの折り紙大船団のヘゲモニー
か 観測せよ青空にひそむ青い霊
き キはこの土地の原音漢字以前の定冠詞
く くすぶる野火にイグアナのローストを嗅ぎつけた
け 健康を語るなら毎日十万歩歩きなさい
こ 交錯する運命ひとつの掌(て)には刻めない
さ 去りがたし地球されど金星に磁力あり
し 試行錯誤で牧場の柵を壊すろば
す 西瓜色のシャツだねお洒落な夏が来る
せ 正解は弥生三月に埋めてきた
そ 想像力は心の裏面の銀の箔
た 体幹を鍛へよ自転速度についていけ
ち 痴愚神礼賛調理師魂見せてくれ
つ つまりは焦燥つま先立つのは不推奨
て 天牛と書いて何と読むその名を誰がつけた
と 豆板醤(たうばんぢやん)心の低めのストレート
な 涙と山査子(さんざし)味わひ深い知行合一
に 肉を食ふなら地獄に行くのを覚悟せよ
ぬ ヌクアロファ豚と浅瀬を散歩する
ね ネメシスに出会つたの災難だつたね
の 濃厚な牛乳だここでは泳げない
は 春を春と呼べば別の情緒が生まれる
ひ 氷見(ひみ)を見よ氷を見るの?火を見るの?
ふ 船が光る水平線で光つてゐる
へ 変な光だ音だビビビとやつてくる
ほ 崩壊間近な国家もう家の役目を果たさない
ま まつかうくぢらが首相の尻を打ちすえる
み 「未生」と書いて生の神秘にふるへます
む 無芸大食牧羊犬にも出番あり
め めきめきと腕から枝葉が生へてくる
も 盲目のウード弾きが福島を訪ねてくれた
や やかんひとつ今日もただ湯を沸かすのみ
ゆ 夕焼けの朱で虹を大蛇を飼いならす
よ 幼虫の変声期を待つて幾千年
ら 羅生門に暮らして土砂降りをしのがうか
り 倫理なし論理なし理性なし知性なし
る 流亡に生きる民の気概に打たれてゐる
れ 裂帛の気に小数点打ち以下同文
ろ 老獪なる老女朗々たる老狼
わ ワイカトで子羊抱いて月見かな

チャック・ベリーの記憶

仲宗根浩

去年、電源すら入らなくなったカーステレオを換えてから六十年代から七十年代のロック、ポップス、リズム&ブルースで自分が持っている音源ばかり車の中で聴いている。フェイセズのチャック・ベリーの「メンフィス」のカヴァー曲が入っているアルバム「馬の耳に念仏」を聴いた翌日の早朝、ラジオでチャック・ベリーの訃報。その後ラジオでは追悼をいろいろやっていた。映画評論家の町山智弘が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で電話越しに主人公が演奏する「ジョニー・B・グッド」をチャック・ベリーに聞かせる、というくだりを映画として「やっちゃいけないこと」、と話していた。

ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが制作した映画「ヘイル、ヘイル、ロックンロール」でチャック・ベリー、ボ・ディドリー、リトル・リチャードが白人のラジオのディスク・ジョッキー、アラン・フリードの悪口を言う場面があった。曲をラジオでかけてもらうリベートとして作曲者のひとりとしてクレジットされ著作権収入を得る。ロックを聴き始めた頃、家にビートルズの編集盤のジャケットの中にビートルズの盤ではなく何故かチャック・ベリーのベスト盤が入っていた。LP盤のソングライターのクレジットにアラン・フリードの名前が入っていたのを覚えている。チェスのプロデューサーでソングライター、ベーシストのウィリー・ディクソンの曲もレッド・ツェッペリンがカヴァーした際、クレジットは無かった。こういうのが黒人の音楽を白人が盗んだ、と言われた要因のひとつになったのだろう。

キース・リチャードが「ヘイル、ヘイル、ロックンロール」を制作するきっかけは六人目ストーンズ、イアン・スチュアートがチャック・ベリーのバンドのピアニスト、ジョニー・ジョンソンはまだプレイしている、と言われたのがきっかけだったか、キース・リチャーズのインタヴュー記事で読んだ記憶がある。イアン・スチュアートのピアノを初めて聴いたのはレッド・ツェッペリンのアルバムに入っていた「Boogie With Stu」というお遊びのような曲だがピアノは見事。

チャック・ベリーはバンドを持たずツアーに出て地元のバンドをバックに歌う。映画では地元バンドとしてバックをつとめたブルース・スプリングスティーンがうれしそうに話すシーンがとても無邪気だった。バンマスのキース・リチャーズがギターのリフに関して執拗にチャック・ベリーからダメだしをされる。ほとんどいじめに近かった。本番ではチャック・ベリーの気まぐれにはキチンと首を横に振る、キース・リチャードは楽曲をきちんと演奏し記録することに徹していた。

チャック・ベリーの音楽はカヴァー曲で知り、オリジナルにたどり着く。最初に聴いた「ジョニー・B・グッド」はジミ・ヘンドリックスであり一番にガツンときた「ロール・オヴァー・ベートーヴェン」はビートルズよりマウンテンのライヴ盤だった。

夜空に銃声、絶望のイラクでシリア難民と共に

さとうまき

イラクのサッカー熱は尋常ではない。4月23日、バルセロナとレアルマドリードの試合が行われるというので、シリア難民のスタッフのリームが、家に呼んでくれて一緒にTVを見ようという。斉藤くんもアーデル君も一緒に見に行った。

リームは、クルド系シリア難民で、2013年にシリアからイラク北部に一家で避難してきた。まだ、20代前半だが、結婚して、最初は主婦業もぎこちなかったが、最近は貫禄が出てきた。旦那の兄弟や親戚なども集まってご飯を食べてからTV観戦だ。よく知らない近所のシリア難民も集まり15人くらいになった。
リームたちは、ロナウドのいるレアルを応援。旦那の兄弟はメッシのいるバルセロナを応援という風にほぼ2分された。

点が入るごとに大騒ぎで、あまりサッカーを見ない斉藤くんは、彼らの反応に驚き、楽しんでいた。リームの旦那の兄弟は、趣味でサッカーチームを作っているらしく、トロフィーも3つくらい飾ってある。

最後に、メッシがロスタイムで逆転すると、もう大騒ぎ。飛び跳ねて、抱き合い、そしてトロフィーをつかむと、床に思いっきりぶつけて壊してしまった。
「やめなさい!」リームが怒鳴っている。何とも恐ろしい光景だ。壊されたトロフィーのかけらが誰かにあたると、そこから大ゲンカになるんだろうなと考えるとぞっとする。

外に出てみると、あちこちから銃声が聞こえ、まるで戦争がはじまったかのようだった。翌日のニュースでは、流れ弾にあたり9人がけがをしたという。

イラクやシリアは、戦争が長引き夢も希望もなく、元気がないと思われているが、たかがサッカー、されどサッカーで、他国の国内リーグにこれだけのエネルギーを注いでいるのだ。このことは喜ぶべきことかどうかはちょっと複雑だった。

数日後、銃を撃った人たちが数名逮捕されたというニュースが流れてきた。
きちんと逮捕したというのにも少々おどろきだ。新しい秩序ができるのだろうか?

150 無季

藤井貞和

流れついた海岸の句集、
どこで生まれたの?
あかちゃん俳句。
投げ出された海岸で、
ほんだわらを食べ、
はすのはかしぱんに会い、
ふなむしのゲーム。
あかちゃんの句集が、
だんだん メッセージ詩の、
様相を呈し、
子規と虚子とのあいだで、
ふたつのはしら、
かべになる かなしいね。
墓のうえにぼおっと立ちゃす、
「おわぁあ」と鳴きゃす、
もう、いの、
海へ帰りたい。
のちのほとけに、
はな まいらせて、
句集をのこして、
さよなら、
ぼくらを二度殺したのはだれ?

(「瓦礫の石抛る瓦礫に当たるのみ」〈高柳克弘〉。無季の句であるために、それを逸脱だとするある俳句の団体から排除されたそうです。この水牛の詩「無季」とは無関係です。高柳さんの句には「災害の地にて」とあるそうです。)

魚の主(ぬし)

高橋悠治

しごとをはじめたばかりの時は 人に知られなければやっていかれないが 続けているうちに したことが次にすることの助けにはなるが 妨げにもなると思うようになる しごとを続けるために いまや無名で ふつうでいるほうが 望ましくなる

エピクロスの「隠れて生きよ」は 粒子の偶然の運動(クリナメン)から生まれる予測できない変化を知って 友情の庭をまもること 老子の「不敢爲天下先(あえて人の先に出ない)」は 人知れず技能をみがきながら 技術にたよらないこと 数少ないともだちは 近くにいないかもしれない ひととちがう考えをもつなら 耕された土地にかってに生えてくる雑草のようにひっそりとすごして ひたすら考え続けるのが イブン・バッジャーの勧め

ハンナ・アレントの『暗い時代の人びと』のなかのブレヒト論 そこに出てくる詩 Der Herr der Fische を見つけて とりあえず日本語にしてみる 

魚の主(ぬし)


来る時は決まらない
月とはちがう しょせん行くのはおなじだが
もてなしはかんたんな食事
でたりる


いる時は一晩中
みんなにまじって
何ももとめず くれるものは多い
だれも知らないが だれとも近い


行くのに慣れても
来るとはおどろき
それでもまた来る 月のように
いつもきげんよく


座ってしゃべる ひとのこと
出かけた時の 女たちのふるまい 
網の値段や 魚の水揚げ
とりわけ税金逃れのやりかたを


ひとの名前は
覚えきれないのに
しごとのことなら
なんでも知っていた


ひとのことなら話しているが
そっちはどうなんだ と聞けば
あたりを見わたし またたきして
別に何も と言いよどむ

7
こんなやりとりで
つきあいは続く
よばれずに来たが
分をわきまえて食べていた

8
ある日だれかがたずねるだろう
ここに来たのは どんなわけ
するとあわてて席を立つ 
空気が変わったと悟り

9
お役に立たなくて すみません
と外へ出る 暇を出された使用人
かすかな影もかけらも
籐椅子の隙間ほども残さずに

10
それでもそこに別なだれか
もっとゆかいなやつがいてもいい
そいつがしゃべっているあいだ
こちらはだまってすごせるならば

2017年4月1日(土)

水牛だより

4月の訪れは寒さとともに。花冷えと言うのでしょうが、開花の知らせはあったものの東京の桜はまだ硬い蕾のままで、咲いているのはほんの少し、花というには少なすぎます。週が明けて気温があがれば一気に咲いて、そして私はコートを脱ぎ捨てるのです。

「水牛のように」を2017年4月1日号に更新しました。
きょうは土曜日ですが、一部の企業では入社式がおこなわれたようです。これが明るいニュースなのかどうか、ちょっとギモンです。
3月もおわりに近い日に近くの小学校の前を通りかかると、その日はちょうど卒業式でした。校庭では式を終えた生徒たちと親たちが別れを惜しんでいます。男の子たちはブレザー姿が多いのは見なれているとして、女の子のなかに袴姿が何人もいるのに少しビックリ。いつの間にかそんな流行(?)になっていたとは。制服がない公立の小学校だからできるわけですね。女の子たちは体のサイズも大人に近づいているし、小学生とは思えない大人びた感じでした。彼らを待っているのはどんな4月なのでしょうか。そしてまたその先は?

それではまた!(八巻美恵)