町内会の夜警

冨岡三智

「火の〜用〜心、(カチッ カチッ)」と町内会の人が拍子木を叩きながら夜廻りする時期になると、ああ、いよいよ今年も押し詰まってきたなあと感じる。

インドネシアにも町内会の夜警(ロンダ・マラム ronda malam)があって、拍子木ならぬクントゥンガン kentungan と呼ばれる木や竹で作ったスリット・ドラムを手に持ち、叩きながら廻る。これは年末に限らない。私の住んでいた地域では、兄ちゃんや爺ちゃんが数名で廻っているのをたまに耳にすることがあった。ただ、私も夜は大体外出していたので、正確な実施状況は知らなかったし、地域によっても差はあると思う。

この夜警だが、夜廻りを一通りやって終わりではなくて、一晩寝ずの番で自分たちの町内を守る。インドネシアの町内会は、日本軍政時の隣組制度を起源として法整備されている。各町内に通じる辻にはポス・カムリン pos kamling という東屋のようなものが設けられ、毎晩、町内から数人の男が出て交代で一晩詰める。ポス・カムリンの軒にはだいたい巨大なクントゥンガンが吊り下げられていて、何事かあるとこれを叩いて知らせることになっている。そこで男たちはだいたいはチェスをやって時を過ごしている。

何人かの知り合いのインドネシア人男性は、この夜警に出るのは大変だと言っていた。次の日には仕事に行かねばならないのだから。夜警に出られない場合はお金を出さないといけない(この辺は日本の町内会と同じ)が、度重なると負担になるし肩身も狭いという。

私は地方都市の町中の一軒家を借りて住んでいた。女子だし外国人だし…ということで、町内づき合いは免除されていたように思う。けれど、それだからこそ、また、私はいろいろ行事や公演を見に行って夜が遅くなることが多かったので、夜遅く帰ってきたら夜警の人にはいつも挨拶を欠かさないようにしていた。出先で食べ物をもらうことがあると、夜警の人たちにいつも差し入れるようにしていた。私が貢献できることはそれくらいしかないのだし、町内の人たちと交流してどんな人なのかを知ってもらうことが、結局は自分の身の安全につながるのだ。ジャワに住み始めて最初の頃は、なんで夜にたむろしてチェスする男性が多いのだろうと不思議に思い、少し怖くも思っていたけれど、今となっては懐かしく感じる。

アジアのごはん(82)ヒマラヤ岩塩の実力

森下ヒバリ

ヒマラヤ周辺で採れるブラックソルト(黒色岩塩)の酸化還元力がすごい、という話を小耳にはさんだ。おっ、それなら何種類か持っているはず、と棚の奥をごそごそすると出てきましたブラックソルト。バングラデシュの市場でもらった濃い紫色の親指の先ぐらいの塊が幾つか、インド東北部のダージリンの市場で買ったせっけんぐらいの黒い塊、インドのコルカタのスーパーマーケットで買った粉末のものもある。

どれも手に入れた場所の風景がすぐに浮かんでくる。旅先でその地の海水塩や岩塩を手に入れるのは楽しい。それを料理に使うのも楽しい。ブラックソルトはめずらしい色合いなので、食べずにとっておいた分だ。むう、岩塩の塊を見ていたら、インドに行きたくなってきた。

岩塩は産地によって味や成分がかなり違う。ヒマラヤンブラックソルトはパキスタン、インド北部、チベットなどヒマラヤ山系の周辺で産出される。日本に輸入されているものの多くはパキスタンのケウラ岩塩鉱山産だ。塩なのに色が赤黒くて温泉卵のような匂いがする。いや、硫黄系の温泉の匂いそのものといっていい。おなじくヒマラヤ岩塩でもピンク色やオレンジ色のピンクソルト、と呼ばれるものもあるが、こちらは硫黄の匂いはしない。

ヒマラヤンブラックソルトは太古の時代の激しい地殻変動で内陸に閉じ込められた海水が塩湖を作り、その塩湖が長い時間をかけて蒸発し、ヒマラヤ造山運動によって地層に閉じ込められてできた。その過程でマグマに触れ高温で焼かれたことで、成分に硫黄や銅、鉄、亜鉛を含むことになったようだ。いわば、何億年も前の海水の化石である。

ラブリーなピンクソルトはブラックソルトに比べて鉄分、カリウム、硫黄が少なく、亜鉛と銅はまったく含まない。逆にカルシウムやマグネシウムがかなり多い。マグマに接触した距離や時間の違いなのだろうか。ピンクもブラックも心配な放射性物質や危険な重金属は含まれていない。

さっそく、ブラックソルトの塊をゴリゴリと削り、水に溶かしてORPメーターで酸化還元電位を計ってみた。ちゃぽんとコップにメーターを入れてスイッチを押したとたん、あっというまにくるくる数字が動き、マイナス272で止まった。ワオ、-270mv!これはすごい還元力。

酸化還元力というのは、数字がマイナスになるほど還元力が強い。還元力が強いというのは、活性酸素(酸化)を還元する力が強いということで、身体においては細胞レベルでの若返りを促進する。水素水がブームになっているのも、水素が自然界でもっとも高い還元力を持っているからだ。

ちなみに日本の水道水はだいたい+200~500mvぐらい。純水の還元電位は+200mvで、それ以下から還元力を持つと言われるが、塩素の多い水道水はめったに+200以下にはならない。+200mv以上の状態は、これを飲んだり、触れたりすれば体が酸化し、傷つき老化するということである。感覚としては+200mv以下なら身体に悪くはない。マイナスに行くほど体にいい。

おもしろいので、手持ちの各種の岩塩や海水塩の酸化還元電位を量ってみた。まずはインドのスーパーで買ったブラックソルトの粉末。袋を見ると100グラム入りで5ルピーと書いてある。安い‥。10円ぐらいかな。偽物かもしれない。とりあえず、計ってみる。これまた、あっという間に-262mvを記録。すみません、本物でした。すばらしい。

以下、基本的に50㏄の浄水に、かる~く塩ひとつまみ。飲んでみてほのかに塩味を感じる程度の塩水の電位である。参考までに水道水と浄水器を通した水も計っておく。
・京都市の水道水‥+255mv
・ウチの浄水器の浄水‥-63mv これは水素発生器付き浄水器なので、本当はもっと還元力が高くあるべきなのだが3年目となると能力が低下してきたようす。ちなみに普通の浄水器の水は基本マイナスにはならない。+150~+200mvぐらい。
・カンホアの塩(ベトナム海水塩)‥+35mv
・真塩(メキシコまたはオーストラリア産海水塩)‥+30mv
・タイ海水塩‥+30mv
おやおや、海水塩はだいたい+30mvである。海はつながっているものね。
次は岩塩シリーズ。
・ヒマラヤロックソルト‥-270mv(インドで入手)
・ヒマラヤピンクソルト‥-24mv(パキスタン・ケラウ鉱山)
・モンゴルの岩塩(ほのかなピンク色)‥-55mv
・タイ岩塩(塩井戸からの塩水くみ上げで作る塩)‥-109mv
・タウデニ湖岩塩(マリ共和国)‥-176mv

岩塩は海水塩よりずっと還元力が高いが、同じ産地のヒマラヤピンクソルトはあまり高くない。ブラックソルトと比べると、還元力はわずかだ。タウデニ湖の岩塩は幻の岩塩で、戦争のため今は入手が難しい。白い塊の塩だが、かすかに不思議な味がする。ケイ素が豊富と聞いたのでその味かな? タイ北部の塩の井戸からくみ上げる水を煮詰めて作る塩は、岩塩層の上に地下水があり、塩分が溶け出して塩水が出来ている。意外にいい数値。味はあまり奥行きのないふつうの塩味なんだけど。ラオスの塩井戸の塩はわりと深みのある味だった。おいしかったので、みんな食べてしまい計れないのが残念。

モンゴルの岩塩つながりで、炭酸水素塩である重曹も計ってみた。
・モンゴル天然重曹‥-104mv
・パックス重曹(化学合成品)‥+160mv

重曹については、ガンに効くとか病気にいいとか諸説あるが、その真偽のほどはまだ追及していない。うがいに重曹水を使うのが歯や歯茎にいいのは実感している。どちらにしても、化学合成品よりも天然重曹が身体にいいのはこの結果から一目瞭然。うがいや歯磨き、料理には天然重曹を使ってください。手持ちの合成品重曹はおそうじに。とくに天然、とか産地が書いてなければすべて合成品とみて間違いない。

以前に紹介した白米の3回目のとぎ汁を一日置いて作る「とぎ汁還元水」は、そのときの米やとぎ汁の濃さ、気温などに左右されて還元値は一定ではないが、この日のわが家のとぎ汁の還元水の電位も計っておこう。あまりうまくいかないときは-100mvぐらいのときもある。夏はうまくいくと-400mvぐらいになることも多い、簡単で驚異の還元水。2日以上置くと臭くなるのだけが難点。今日は、寒いせいかまあまあの数値。
・無農薬米の白米とぎ汁還元水‥-180mv

おまけで届いたばかりの日本酒「出羽の雫」もそのまま計ってみたら、+58mvであった。水道水を飲むよりずっと体にいい? ちなみにいつも飲んでいるプーアル茶や紅茶も計ってみたことがあるが、だいたいマイナスにはならないものの、+50~30程度でかなり優秀。市販のペットボトルのお茶やジュースはまだ計ったことがないが、たぶんかなり悪そう。いつか測ってみよう。

人間の身体は酸素を取り入れて活動するために常に活性酸素の毒にさらされており、それを常に酸化還元している。(人の身体の正常な酸化還元電位は-250mv)それが追いつかなくなると、身体が老化し、ぼろぼろになり、病気になったりする。つまり、自分の身体に酸化した水や油や食べ物、化粧品などを注ぎ込んでいると、その還元に追いつかないどころか、酸化を加速させるわけだ。

身体に入れるもの、触れるものを還元力の高いものにすることで健康を保つ自分自身の還元力をサポートすることができる。毎日飲んでいる水分が2リットルあるとして、これがすべて酸化した水分、つまり還元電位が+200以上のものだったら? 体は外から入ってきた酸化した水分までも還元しなくてはならない。自分の細胞を健康に保つための還元がおろそかになるのだ。

すばらしいヒマラヤの岩塩だが、電位を見て分かるようにピンクソルトよりもブラックソルトが断然体にいい。ブラックソルトは硫黄の匂いがするので、飲んだり食べたりするのに抵抗を覚える人もいると思う。でも加熱すれば硫黄の匂いは消えるので心配はない。独特のコクがあるのでぜひ料理にも使ってみて。海水塩にくらべてミネラル分が大変多いので、隠し味にも大活躍。

まずは朝起きたら、コップ一杯の水にかすかに塩味を感じるくらいのブラックソルトを溶かし、ぐっと飲むのもおすすめ。ほんの少しの塩分なので、塩の摂りすぎにもならず、ミネラルも補給でき、酸化還元力も強力補給。夜寝る前にももう1杯飲めばさらにいい。効果を実感するには毎日続けることが大事で、たまに飲んでいるようでは効きません。

食べるだけでなく、お風呂に大匙2~3杯ぐらい入れるとヒマラヤ温泉の出来あがり。これは、もう本当に気持ちがいい。浴槽に直接、粉を入れると浴槽の素材によっては色が着いたりすることもあるので、桶などでさっと溶かして混ぜること。足湯で使ってもぽかぽか。粉末状のブラックソルトはネットでも簡単に買えて2キロで2000円以下。身体の調子がなんとなく悪い、免疫力がどうも落ちている、風邪が長引いて治らない‥あなたのためにヒマラヤからの贈り物。

海賊になりたい

大野晋

海賊王になりたいというとどこかの人気コミックのようになるが、たまに海賊になってしまいたい欲求が高じるときがある。要は、何かから自由になりたいだとか、何かを自由にしたいなどの気持ちなのだろうと思うが、果たして海賊が自由だったのかどうかはよくわからない。イメージとしては大海原をまたにかけて、国の法律などに関わりなく自由に航海していたのだから自由だったようにも思えるが、その実、敵対する国が庇護していたりするので完全な自由気ままな生き方ではなかったのだろう。ま。実際はどうであれ、海賊になりたいときの私は自由になりたいのだから、何かに必要以上に束縛されていると感じているのだということだ。

さて、最近の自由にしたいと思った対象は何と言っても著作権だろう。著者の死後50年間も拘束された挙句に利用されずに消えていくというのはなんともかわいそうだ。これは70年になったとしてもあまり変わらない現象である。もちろん、20年の延長は長いことは長いが、実際には著作物の大勢は著者の死後50年を待たずに決まってしまう。今や著作物の寿命は短く、よほどの工業著作権でもない限り、死後どころか、発表されて数年、長くて数十年で市場から大方が消えていく。

だから、著作権など、発表後20年でいいではないか? などと間違っても言わないが、著作物の有効利用と再利用の促進のためにもっとなにかできるのではないか? とは思う。そうでなければ、多くの著作物が利用されずに消えていくだけだろう。そういう意味で、海賊としての本分は、著作権の保護期間の延長反対よりも、もっと保護期間中の著作物に自由を! なのである。

米国大統領がわからんちんになりそうなので、TPPも予断を許さない状況だが、その話とは切り離して、著作物再利用のハードルを下げないと、コンテンツクリエイターは幸せにならないのではないかと思う。

走る犬、うずくまる人。(1)

植松眞人

 金曜日の夜に東京から大阪へと移動するのに新幹線を選んだのはいいけれど、僕のあずかり知らぬところで景気が良くなったという噂はどうやら本当で、のぞみはどれもこれも満席で、ひかりでさえ車両によっては席がないと言われてしまう。それなら、となぜか「こだまでいいや」と声に出してしまい、そうですか、とあっさり、東京発新大阪行きこだま六八三号のチケットを発券してもらう。午後七時半に出発して十一時半に新大阪に着ける。とりあえず、眠れるだけ眠っていけばそれでいいと思っていたのだが、出発してすぐにのどが渇いて仕方がなくなったのだが、近頃のこだまは車内販売もなければ自動販売機もない。仕方がないので、岐阜羽島の駅で列車を降りて、小銭を取り出して、自動販売機でお茶を買い、低い取り出し口から取り出そうとした時に、胸ポケットに入れていたスマホを落としてしまい、慌てた拍子に自動販売機とホームの隙間に自ら蹴り入れてしまうという体たらく。少し奥に入ってしまったようで手を突っ込んで、あちらこちらを触っている間に、なんだか汚いゴミのようなものを大量に掻き出しつつ、そのなかに自分のスマホを見つけてほっと一息ついた瞬間にこだま六八三号は動き出す。ホームにスンッスンッスンッという軽快な風切り音を残して出発進行。お茶とゴミだらけのスマホを握りしめたまま自動販売機の前で正座しながら僕はこだま六三八号を見送ることになったのである。
 このまま次のひかりが通りかかるのを待っても良かったのだが、なんだかこだま六八三号を見送った瞬間にいろんなことがどうでも良くなり、幸いお茶を買いにホームに降りるとき、小さなショルダーバッグから財布を出すのが邪魔くさく、そのまま担いだおかげで、こだま六三八号の中に忘れ物はなく、チケットも財布も仕事で使う小さなパソコンも全部持ったまま自動販売機の前に正座していたこともあり、僕は妙にさっぱりした気持ちで、立ち上がり四十数年生きてきて、生まれて初めて岐阜羽島の駅に降り立ったのである。
 岐阜羽島で降りる人は少なく、前を行く若いサラリーマンは両手に東京銘菓と書かれた紙袋を二つずつ下げていて、仕事上のお使いでも頼まれたような出で立ちで、後ろからは少し腰の曲がったお爺さんと、妙に背筋の伸びたお婆さんが互いに手を取りながらゆっくりゆっくり歩いている。
 とりあえず、あてもないので改札を出てタクシー乗り場の方へと歩く。客待ちのタクシーが僕を見て客席の自動ドアを開けたのだが、僕が乗る気配を見せないと、やがてまたドアを閉めた。そこへ、さっきのお爺さんとお婆さんがやってきてそのタクシーに乗ると、タクシー乗り場には一台のタクシーもいなくなり、僕はベンチに座ってさっき買ったペットボトルのお茶を飲み始めた。水銀灯のような青白い光がロータリーを照らしていて、とても静かな空気がたゆたっていて、もしかしたらあと少しぼんやりしていれば朝が来るのではないかと勘違いしそうだったのだが、犬がワンと吠えて、たゆたう空気は一瞬にして霧散する。

しもた屋之噺(179)

杉山洋一

東京に初雪が降ったと聞き、すっかり厚着をして成田に着きました。思いの外気持ちの良い秋晴れで、昨日までの鬱々としたミラノの厚い鉛色の空が信じられない気がします。

 11月某日 三軒茶屋自宅
いつも機会を逃していた、中村和枝さんと山本くんの演奏会を初めて聴きにゆく。前半と同じ内容を、休憩を挟んで後半も演奏する。行き先の見えないまま聴き続ける前半と、行き先が見えていて、自分なりの筋書きを考えて聴く後半。その構造の支えを敢えて外す松平作品。
身体が鈍っているので、三軒茶屋から両国まで自転車で出かける。昨日のリゲティのリハーサルも、江古田まで自転車。

 11月某日 ミラノ自宅
ボストン近郊で昔書いたヴィオラと打楽器の曲を演奏されたのは知っていたが、演奏会の様子は知らなかった。どういう事情かわからないが、曲を感激して泣き出した聴衆がいた、とのメールが届き、愕く。何となく申し訳なく、後ろめたい。あまりまともな作曲をしていなくて、大体作品がよいと言われるのは演奏家の力量に頼っている。

 11月某日 ミラノ自宅
ジークフリート牧歌を読む。その昔、旋法で音楽をやっていたころ、導音の概念は3和音の第3音をずり上げることで、機能和声へ発展した。
それから200年ほど経って、第5音もずり上げることで、機能和声は飽和状態に達し、和声感も曖昧になった。過去の産物を信じているような、信じていないような増3和音。シェーンベルクらは、機能和声に限界を見出して12音へ発展したはずだが、増3和音の簡便さはよく理解していたし、その裏にうっすらと浮き上がる調性感をどこか信じていたのかもしれない。無調と呼ばれても、そこには常に過去から引きずられた機能和声の重力がのしかかっている。

 11月某日 ミラノ自宅
音楽を学ぶにあたって、常識的に理解されるべき内容は、まず徹底的に学ぶ必要はある。旋律の持つ意味。低音が支える意味。内声の意味。音色。全体構造。第一主題の意味、それに続くブリッジの意味、第二主題の意味、コデッタの意味、展開部の意味。無数の表情記号の意味。アーティキュレーションの意味。趣味の良いルバート。速度の微妙な変化の方法。オーケストレーションの意味。書かれているオーケストレーションを効果的に浮彫りにさせる技術。それらすべてを、バランスよく調合する技術を学ぶ。強弱の表情。
それが出来るようになったら、多分音楽家が本来求めるべき姿は、いかにそれまで学んだバランス良い音楽を壊すかではないか。予定調和を如何にして破壊し、シンメトリカルな解釈を徹底的に排除し、毎回違うエッセンスを振りかけることによって、緊張と新鮮さを保つ。色使いも同じ色のグラデーションから如何にして脱し、めくるめく色彩のパレットを創造することができるか。
同じ音楽を再生させようとすることに、興味を失った。毎回違う音楽が生まれればよい。演奏者の期待を悉く裏切りつづけ、そこから別の次元の期待を引き出すこと。
如何に微妙な歪さを、常に保つことができるか。4声のコラールであれば、いかに均等な声部配分から逃れて、それぞれのパートに凹凸をつけて、イレギュラーにゴツゴツとした手触りが表面に感じられるようにするか。この無数の小さな不均衡のモザイクによって、光を当てたときに美しい輝きを放つ。
自分から発する情報ではなく、目の前で発せられている音をいかに観察し、調理し、還元することができるか。目の前で奏でられている音には既に豊かな色がついているのに、如何にして気がつくことができるか。レッスンでは、強拍のみ振らないで、弱拍だけで音楽をつくる試みを続けている。強拍のところに空いている穴から、演奏家の音を聴き、前後を考えながらフレーズを作る訓練。

 11月某日 ペスカーラ
ペスカーラに来るだけでも、家人の恩師を思い出し少し感傷的になる。今年の年始に長男と話したときは、まだ辛うじて彼と奥さんの顔だけは解っているようだ、と言っていたが、今はどうだろう。彼と一緒にリハーサルをした時を思い出し、シェーンベルクの練習を始めると、胸が締め付けられるようだった。練習の後、近くの食堂でステーキを食べながら雑談したのが、昨日のことのようだ。クラシックの基礎が欠如していた自分にとって、彼から学んだことは数え切れない。
15年来の友人から頼まれて、ペスカーラの室内オーケストラの仕事を引き受けたのだが、演奏者の殆どがボルツァーノのオーケストラであったクラリネット奏者だったり、ディンドのやっているソリスティ・ディ・パヴィアの弦楽器奏者だったりして、演奏会のたびにペスカーラに集うのだという。
初めてオリジナル編成で「ジークフリート牧歌」を演奏したが、想像通り、磨けば磨くほど艶が出てとてもうつくしい。弦楽器を5人で演奏すると、限りなく可能性が広がってゆく。この編成ではオーケストラというより、寧ろ室内楽に、最低限必要な部分だけ指揮をつける感じ。こちらに合わせるような演奏では、この編成のよさが際立たない。バスのカデンツに耳をそばだてながら、出来る限りフレーズを長く、クレッシェンドに可能な限り時間をかけてゆく。ワーグナーのゼクエンツは、時として鳥肌が立つような、めくるめく触感に襲われる。

 11月某日 ペスカーラ
所々ペンキの剝げ、色あせたペスカーラの音楽ホールの外壁は、見るからに場末という雰囲気が漂う。隣には屋外ホールがあって、夏にはジャズ・フェスティバルをやっているという。歴史が古く、デューク・エリントンもやってきたという。ミラノのブルーノートよりずっと古いのよ、と誇らしげにジーナが呟いた。音楽ホールは、一歩中に足を踏み入れると、思いの外美しく、木で誂えた内装は響きもとてもよい。なるほど海辺に建っていると、外壁が痛むが頓に早いのだろう。
ステージによじ登ろうとして、左手の薬指を捩じってしまった。この指は子供の頃に関節がつぶれてしまって一つないのだが、もう50歳近くなろうと言うのに、時としてそこに関節が残っている錯覚を覚えることがある。今回も同じで、力を入れてはいけないところに重心を掛けてしまった。妙齢の薬剤師に呆れられながら、宿の隣の薬局でボルタレンを買う。こういう時は、楽器弾きでなくて良かったと心底思う。

 11月某日 三軒茶屋自宅
トップにコーヒー豆を買いに出かけ、袋に詰めてもらう際、紙袋とポリ袋を取り出して、「どちらがよろしゅうございますか」と尋ねられる。何故か解らないのだが、女性の自然な仕草と言葉遣いに甚く感激する。
カストロ死去の報に際し、すぐ頭に過ったのはジョージ・ロペスのことだった。彼は少しのっぺりした感じのアメリカ英語で電話してくるので、初めアメリカ人だとばかり思い込んでいて、随分経ってからキューバ生まれだと知った。どういう経緯でヨーロッパに辿り着いたのか、尋ねたことはない。
彼の作品が余りに素晴らしいので、何度かポートレートCDを作ろうと計画しては頓挫して、そのままになっている。長くオーストリアの山中で孤高の生活を送っていて、その頃には何度も生活が苦しい、助けてほしいと手紙を貰ったが、今はスペインで作曲を教えているはずだ。
当時は一風変わった人間としか思っていなかったが、波乱万丈の人生を歩んできたのかも知れない。カストロがいなくなった故郷を、彼はどう思っているのか。

 11月某日 三軒茶屋自宅
時差呆けが辛い。昨日は朝の8時半まで仕事をして、目が覚めたら14時。
今日は朝10時からリゲティのリハーサルなので、朝の4時には無理やり布団に入って、7時半に起きて自転車で大井町まで出かける。相模湾沿いの街に近づくと、身体が無意識に懐かしさに反応する。祖父母のいる湯河原に通い、茅ケ崎と三浦半島の堀之内に墓があり、義父母は熱川に住んでいる。子供のころから横浜に遊び、大学時代は、まだ寂れ切ったままだった鶴見線に乗って、日がな一日目の前の運河を一人眺めた。
何回眺めても納得できなかった第九の3楽章後半の1フレーズが、ふとした切欠でやっと自分なりの落としどころを見つける。フレーズ構造を頑なに冒頭と関連付けていたのがいけなかった。その昔、エミリオに稽古して貰っていたころ、彼が一小節がどうにもわからなくて、ずっと一日悩んだ、と話していた。当時は全くその意味が解らなかったが、あれから随分経って、もしかしたらあの時の彼より譜読みはどんどん遅くなっている気がする。
昨夜、行き詰って、家にある家人のベートーヴェンのピアノソナタの楽譜を眺める。特に作品110を夢中になって読む。大学時代に雨田先生と一緒にこのソナタを勉強したときのことを思い出す。arioso dolenteという言葉とかpoi a poi di nuovo viventeとか、当時はイタリア語など感覚的には理解できなかったから、このAs durの音が、言葉と一緒に未だに生理的に体にしみこんでいる。
一体、まともにピアノが弾けない人間がこれをどの程度、どうやって弾いたのか、想像すら出来ないが、ともかく半年くらい、このソナタとバッハのトッカータの楽譜を開き、暇さえあればいつもピアノで訥々と音を拾っていた。作曲にも現代曲にも興味を失っていて、ariosoや最後のフーガなど、毎日音を出すだけで身体が震えていたのを、楽譜を開いて突然思い出した。あれはいったい何だったのだろう。今、あんな風に音楽を改めて感じられるだろうか。もし感じられないとしたら、本当にそれでよいのだろうか。
仲宗根さんからお便りをいただく。「こちらは子供の制服の冬服ができあがり涼しくなりました。沖縄は入学の際は夏服です。 “Smoke prohibited” 聴きました。かっこいい!素晴らしいブルースです。バリトンサックスの音がTさんと出会った頃、三十数年前によく耳にした記憶の音にあまりの近くて。Tさんは国立がんセンターで新たな治療方針が決まったとメールが届きました」

(11月29日三軒茶屋にて)

画材に気持ちがのってゆく

西荻なな

2016年は間違いなく邦画の当たり年だったと思う。どこに行っても「『シン・ゴジラ』観た?」「『君の名は。』観た?」の会話が夏から秋にかけて、挨拶代わりに飛び交った。このヒットの体感を過去作に喩えるなら、かなり昔のことになるが『タイタニック』だろうか。あるいは『もののけ姫』? ヒット作が一挙に2作もやってきて、誰もかれもが浮かれているように見えた。

おじさんたちは『シン・ゴジラ』に「この世の春が来た!」とでもいうような興奮ぶり、熱弁ぶりだった(周囲の女性も結構見ているのだが、それに比して感想を語る鼻息が荒い印象)。「群衆の描き方が、まさに日本の真理を捉えている」「うだつの上がらない首相の描き方がうまい」などなどディテール語りを誘う。確かに、ゴジラの存在を脇に置いておいても、震災後の機能不全に陥った日本官邸の内側をのぞいているかのような臨場感もあり、時間を引き戻して「あの日」を思い出させる仕掛けになっていた。危機的状況に際して、イエスマンたちからなる”ザ・日本人集団”が退場せざるをえなくなり、結果的にアウトローで通っている一人ひとりの寄せ集めが日本を救う、という筋書きは、閉塞的日本に生きる多くの日本人の気持ちを代弁してくれたにちがいない。ある経済学者には「君まだ見てないの? 界隈でも大評判だよ」と叱られたくらいだ。

対する『君の名は。』のヒットは、描かれた舞台の一部である四谷や新宿御苑界隈に聖地巡礼に訪れる人が多いらしい、という事情によってもうかがわれて、「ポケモンGo」的な人々を連れ出す外側への広がりで感じていた。時空を超えての体の入れ替わりのストーリーには「それはよくあるよね」と思いながらも、風景描写がとにかく緻密ですごいという。でも実際に耳を傾けてみると、「巻き戻らない青春時代を思い出してキュンとした」という感想を述べる人と「よく分からない」という人とが拮抗。
どちらも正直、観る前にすでに耳年増になっていて、両作品をようやく観ることができたヒット最盛期すぎにはすでに、能年玲奈が2年ぶりの沈黙を破って主役の声を演じるという『この世界の片隅に』の公開に目が向いていた。『君の名は。』を見終えた後、「こういう作品が大ヒットをする時代なのか……」という寂しさと不可解さに肩を落としかけていたこともあって、早く観たいとの気持ちが募っていたのだ。

そして…『この世界の片隅に』は素晴らしかった。
主人公の浦野すずは広島市に生まれ、家は海苔を作っている。いつもぼんやりしていて迷子になってしまうような子どもだが、絵を描くのが好きで、絵を描きながら妹に今日の小さな出来事を語り聞かせたりもする。絵を描きながらのすずの語りは名調子で、活弁士のよう。少し創作が入ったりするから、妹は大喜びだ。すずがどんなにぼんやりしていると言っても、この活き活きとした語りのリズムと、時にツッコミのように入るユーモアが全編の空気を作り上げている。例えば、すずの恋の気持ちの明るさは、すずが描いたカラフルな水彩画の風景が、次の瞬間に立ち去る相手の姿とともに現実の風景となって立ち上がることで、さりげなく語られたりする。里帰りで呉から広島に帰り、実家の温もりに触れたのち、再び汽車に乗り込む寸前に買った画材で描く広島の風景。空襲で空の風景が一変するときには、そこに黄色、水色などの絵の具の色をすずは思い浮かべる。心の中で空に絵の具を塗る。

広島に生きる浦野家一家の日常と小さな恋、戦前の伸びやかな空気と明るさ、そこからすずの嫁入りで呉に舞台が移り、戦争の影が忍び寄ってきたのちの時代の空気もが、彼女が描く絵のタッチとその語りの調子とともに、すっと入ってくる。明るさの隣に影があったり、影をユーモアで打ち消そうとしたり。すずの語られえない複雑な感情もが、絵の思いがけない奥行きによって語られる。次の瞬間、そのすずの感情が、観る私の中に引き出され、すずの描く(時に思い描く)タッチに乗ってゆくようなのだ。それは不思議な体験だった。

作品の中で日めくりカレンダーのように、丁寧に描写される戦時の日常リズムとともに、すずに彩られたこの語りの枠組みの強さを痛感することになるのは、とりわけ世界に暗雲が立ち込めてからのこと。絵を描けなくなってからの、右手を失ったのちのすずの心の内は、彼女が描くことのできなかった情景として押し寄せてくる。でも同時に、すずが描いた何枚もの絵が脳裏に蘇り、リフレインする。戦後を迎えてガラッと一変した空気の中、広島と呉の風景、そして失われてしまった戦前の空気もがカラフルに立ち上がってきて、いくつもの感情を知ってしまったすずにむしろ後押しされるような気持ちになるのは、すずが絵心を取り戻すことが感じられるからなのだと思う。鉛筆、水彩、描かれたもの、描かれなかったもの。時々の細やかな表現が、とても豊かな作品だった。

考えないを考える

高橋悠治

音がうごくとその位置の変化を身体で感じるのと 音のうごきにつれて身体がうごくのと それとも身体が音の先端になってうごいていくと感じるのは おなじことのようでも 意識がちがう 人と音が二つの並行した状態に感じられるところからはじまり だんだん音にうごかされ そのうち人は消えて うごく音だけが残る とも言えるし 音が消えて うごく身体の感じが続く とも言えるかもしれない

音がうごくと感じるのは 消えてすでにない音と まだない音を結ぶ線のなかにいる感じとさらに言えば その線は枝分かれすることもあり 途切れることもある 途切れても 別な線がそこでもうはじまっていれば 音楽は続いていくが ちがう方向に曲がっていく

それでも線が途切れたなら どこかにもどってやりなおしてもいい 今まで見えなかった出口が現れるかもしれない ところで やりなおすために どこかにもどれるとしたら そのどこかは 記憶のなかにある音のかたまりということになるだろう 即興の場合には 記憶は意識のなかに残っている結び目で それが消えないうちに引き継ぐ それは会話のなかで前の話題にもどるときのように おなじやりかたでくりかえされることはない 中断したした時と環境がおなじに思えても ほんのすこしだけ間があれば 引き継いだときには ちがう方向がひらけるかもしれない

書かれた記憶 たとえば走り書きした楽譜なら どこか目につく箇所からまたはじめる 書いている途中でそこから離れて時間が経っていたら 再開したとき前後の脈絡が思い出せないかもしれない そのほうが辿る道筋が複雑になり おもしろくなることもありうるし それがすこしずつ書きすすめるやりかたの理由にもなる

書いたものを辿りなおす時 やりなおした箇所ではないところで 続いていたはずの線が途切れていると感じるかもしれない 感じが途切れると そこまでのまとまりは 断片のように置き去りになる

全体の枠を決めてからそのなかに音のかたまりを置いていくのと 置く音を集めてからそれらを並べて全体を作るのと二つのやり方がある まずうごきはじめ うごいた跡がかたちをなすのは そのどちらともちがう

すこしずつうごいては停まり やりなおしながら継いでいくのは どうなるかわからない遊びで 感じが途絶えるまで続けて おなじところからもう一度やってみると 似たはじまりをなぞりながら やがて逸れていく

音楽を即興し 作曲して ふりかえって考えて見る ふだんはしないことだが こんな時に 書くことがないから 過ぎた音楽について考えることになったりする 書いているうちに 意味をつけたり まだやってないその先まで書いてしまいかねない そうなると 書いた内容にしばられるだろう

まずうごき うごいた後に考える そのときに うごく前の状況が見えれば その前にさかのぼって 別な可能性をみつけることができるかもしれない すでにないものから まだないものへの可能性

意識していた前提は もうない音楽かもしれないし 音楽でない現実のなにかかもしれない その両方かもしれない 意識からも隠れたなにかかもしれない

音楽を即興し作曲することは ことばで言わないという選択かもしれない

何かを言わないのは 言わない何かを指す方法かもしれない

1016年11月1日(火)

水牛だより

朝起きたときにはすでに降っていた雨がお昼すぎにやんで、一瞬のあいだに陽ざしが出てきて明るく暖かくなりました。長い夜がやっと明けたような11月の午後です。

「水牛のように」を2016年11月号に更新しました。
藤井貞和さんの詩はわかりやすいとは限りませんが、わからなくてもおもしろいと思うのは、「希望の終電」というタイトルに見られるような、藤井さんの現実のとらえかたのせいであり、またそこから出てくることばの力でもあります。うたうのは土人と言われた側であり、しかもいつだってチョー過激です。

いまちょうど読書週間らしいので、分厚い翻訳の本を2冊紹介します。翻訳者はふたりとも水牛でおなじみ。
出版順で、まずは『翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動』(スコット・L・モンゴメリ)翻訳は大久保友博(大久保ゆう)さん。ありそうでなかった翻訳の世界史です。500ページ。
そして『アメリカーナ』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)翻訳はくぼたのぞみさん。アフリカ、アメリカ、ヨーロッパの「三大陸大河ロマン」とオビにあるだけあって、544ページ、しかも2段組みです。
ところどころ拾い読みしながらも、机の上に積読状態で、精読する時間を探している読者としては、どうしてこういう仕事がきちんと出来るのか、いつか聞いてみたいものだと思います。

片岡義男さんの書き下ろしエッセイ『万年筆インク紙』を担当しました。晶文社から11月11日に発売の予定です。これは288ページで、ふつうより少し厚めかな、というところですね。「青は思考の色だ。思考の跡は青いインクによる文字として残る。」というわけで、いろんな万年筆やインクや紙を試した片岡さんから送られてきたインクなどがたくさんたまっているのです。使いきれるのでしょうか。

それではまた!(八巻美恵)

144 希望の終電——土人のうたえる

藤井貞和

ふしぎな自由  力とことば  制度は火  燃え、
機動隊はきみを「土人」と言っちゃって  老者の「生」をぬり込む絵、
急ぐ流れる注ぐ  死の側溝に水の絶え絶え、
注ぐ意味  「ハート」はぼくら  自由な入り江。

跡は白波  申し込み用紙に  ものを洗う野の声に  二等車に、
捕虜の迷路に  映さない虐殺に  洩れるうぶごえに、
うた湧く胸に  藻の花に  捧げるぼくらの自由に、
それでも祈る  まだ性懲りもない友情に。

呼ぶ声がこごえに  しずかに  舗装する田に、
倒れるきみのひとばしらに  戦場のなわしろに  垂直に、
きみののこした陸稲が穂を垂らすこと  祈る。

無事で  生きて  兵舎にもどってと、
ぼくら  先生  国家の生殺与奪に負けないと、
平和と暴力  ことばの落下にそれでも祈る!

ものいみの国  ものを恋う心のさびし!
遭難のかなし!  埋めた吐息をなぜ発掘し!
だれかがきみを呼ぶ  泡のなかのあさまし!

ちがうな  ぼくらは平和産業  つまり産廃で  自殺ええ、
罪悪  きみの救いは「あら、えら、やっちゃええ、
どうしても、どうしても、助けねばならん、ええ」――

うたうらをやみのちまたに  投げあたえて、
たましいの踏切に希望の終電がさしかかって、
それでも  汚れた手のなかへ繭をにぎりしめて。

(「どこ摑んどるんじゃ、おんどれゃ、土人」と大阪から派遣された機動隊員が言ったそうです。土人の詩を書いてみました。自サ由ルへトのル道子さーん、終電です。)

夜のすみか

璃葉

つめたい風と 夜空が からだの中に 吹き込んで
しばらく居座る
月といっしょに 静かにかがやいて
星は縮み 膨らんで 暗く 明るく 消えて 現れ
音もなく 夜が留まる
呼吸だけ 耳に返り 循環し続ける
楽しくも つまらなくもない 夜

明けの霧
額 目 喉 心臓 ハラワタ 足の裏へ降り
夜は僕のからだを そっと通り抜けていく

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しもた屋之噺(178)

杉山洋一

道玄坂を自転車で下ると、機動隊の車が連なっています。物々しく何かと思うと、今日はハローウィンだからだと教えてもらいました。10月末に東京にいるのは何年ぶりか思い出せませんが、着実に日本の現実から乖離してきた自分を感じました。クリスマスもヴァレンタインも日本とどう関りがあるのかと不思議に思っていましたが、ハローウィンに至っては流行すら知りませんでした。小学生のころ、米軍座間キャンプでハローウィンに連れて行ってもらい、見ず知らずの家に出かけてはお菓子を貰う行為が子供心に理不尽だったこと、どれも派手なパステル色をしたお菓子はどれも口には合わず困った記憶が蘇ってきました。

 10月某日 ミラノ行車中
朝5時40分に目覚ましをかけると、その時刻直前に目が覚める。寝静まった朝、こちらも静かにシャワーを浴びて荷物を息子が小学生低学年の時に使っていた初代ランドセルにつめ、そっと家を出る。見かけが悪いので彼は使わないが、ここ数年どんなに重たい荷物を入れ仕事場と往来しても未だに壊れない優れもの。
自転車をサンタゴスティーノ地下鉄口に留め、中央駅まで緑線に乗るのが一番早い。9月はこうして3週間レッジョエミリアの劇場と毎日行き来したし、今日はボローニャ国立音楽院で二日目の授業。中央駅では決まって野菜ジュースを頼み、店の妙齢に生姜も入れるよう頼む。車内で仕事をしていると瞬く間にボローニャ中央駅に着く。所要時間1時間2分。
国立音楽院は市立劇場のあるレスピーギ広場を右に折れ、1本目を左に入ったところにあって、徒歩15分くらい。授業が9時から12時までだから、8時40分くらいにはレスピーギ広場の喫茶店で朝食を摂る。

ボローニャは若者の街、大学の街。行き交う人々はみな若く、活気に溢れる。古くから先進的なヨーロッパの文化都市として発展してきた。音楽にしてもしかり。チェロが独奏楽器として成立したのは、ボローニャ楽派のチェリスト兼作曲家の一群がいたから。バッハのチェロ組曲もボローニャで職にあぶれた彼らが各地へ流浪しなければ生まれなかった。若いモーツァルトがイタリアを目指した理由の一つは、ボローニャのマルティーニ神父に作曲を習いたかったから。彼がボローニャに着いた日は、ちょうど息子の誕生日と同じなのでよく覚えている。

そんなことを思いつつ音楽院の薄暗いへろへろの階段を昇ると、目の前にマルティーニ神父の像が立つ。フランシスコ会神父だった彼は授業料を受取らなかったので、イタリアのみならずヨーロッパ各地からの来訪者は、彼に無数の貴重な本を寄贈し、彼の周りには益々ヨーロッパ中の叡智が集まり、図書館の蔵書はヨーロッパ随一と呼ばれた。

大学院課程の作曲科生を対象とした、自作を振り自ら稽古をつけるちょっとした指揮講座。イランからの留学生ぺドラムは不思議な音楽感覚。カラブリア生まれのマリアステッラは優等生。子規の「汽車道に低く雁飛ぶ月夜哉」を歌詞に選んだ。
「この句は楽しく明るい印象なのですが、間違いありませんよね」、と尋ねられ、咄嗟に答えられない。楽しいとかそうでないとか、そういうものかいと答えに窮す。雁はガチョウと伊訳されていて、生物学的には間違いではないのだろうが、我々が、「汽車道に低くガチョウ飛ぶ月夜哉」と詠まれてもどうにも雰囲気がでない。その上、「ここは沢山のガチョウが騒がしく愉しげに啼いているところ。があがあ」と歌う箇所まである。
マッテオの新曲は、少しイタリア未来派の音響詩のよう。マリネッティ風。

 10月某日 ミラノ自宅
日本で育児休暇や産前産後休暇の問題が取り沙汰されて久しい。欧米ではこれら休暇がタブーではないのに、日本ではどうして定着しないのか、という論調が一般的かと思う。うちの大学では、7月秋の試験日程の調整をする大事な時期に、それまでまめまめしく日程調整をこなしてきたマウラが産休に入り、9月それらを片づけなければならない時期に、音楽院長に次ぐ役職の総括部長を長年務めたエウジェニアが、両親の介護のため無期限で休暇に入ってしまった。

当然、学校の機能は麻痺し、学内の試験も入試日程も混乱しただけでなく、当然今年の授業日程の采配すらままならない。学院長のアンドレア始め、事務局の女性陣揃ってこの処不機嫌で、とても声を掛けられたものではない。怖いので、そろそろと事務局の前を通り過ぎようとすると、中から大声で「ヨーイチ!」と声がかかる。
厄介で複雑な契約書が複数、それも幾つもの学部にまたがって必要なのに、日程すら決まらず、よって正確な時間数すら判らず、みな憤りのやり口がない。学院長秘書のシルヴァーナは契約書を作らなければいけないので、傍らにいるクラシック学部長のホセや作曲現代音楽部長秘書のカティアに、ヨーイチの時間数や日程がなぜまだ決まらないのかと声を上げ、対する彼らも、学校がこんなに混乱しているからいけないと応戦する。何しろ授業の開始日まであと3日だというのに、学生たちに授業の日程が伝えられないのだから堪らない。目の前でのやり取りに何とも居たたまれない心地になる。

もしかしたら、「何でこんな時に彼女たちは休暇を取るのかしら」、と喉元まで出かかっているのかも知れない。でも皆それは言わない。彼女たちの休暇は、正しい権利として認められている。自分も生まれてくるとき、母親は仕事を休んだかもしれない。両親が年老いたら介護しなければいけないかも知れない。当然だと誰もが思っている。
日本の論調では、推奨している休暇の結果会社に負担はないような、非現実的な書き方がされているが、少なくともイタリアではそんなことはない。休まれた側はとても苦労するけれど、迷惑とは捉えずに、単に大変だと割り切っている。「solidarietà」互助の精神。日本は迷惑を極端に恐れる、良くも悪くも慮る社会構造。

 10月某日 ミラノ自宅
家人が三宅榛名さんの「北緯43度のタンゴ」を練習している。今度息子と一緒に出演する日伊国交正常化150周年の演奏会で弾くとか。題名の北緯43度は札幌のことだとか。ミラノは北緯45度だからほぼ同緯度という繋がり。息子は中学校でフルートを始めた。下からドレミファソと5つ音が出るようになって、まず一人で吹き始めたのは、「火の鳥」のフィナーレの有名なホルンの旋律。もちろん調性は全然違うのだけれど、よほどあの旋律が吹きたかったのだろう。

机に向かって仕事をしていると、何度となく傍らに来てはぽうぽう吹いてこれは何の音かと尋ねる。それがいつもどうともつかぬ音程で、一々ラの音と比較しなければ良く分からない。最初のチューニングも未だ出来ない上に音程も取れなければ、不思議なくらい判別不明の音が出る。これはこれで興味深い事実の発見ではあるのだが、こちらもそれどころではないので、痺れを切らし、息子を連れて電子チューナーを買いに出かけ、ついでに古書の楽譜で何か面白いものはないか物色し、カセルラ校訂のショパンのバラード1番と夜想曲集の楽譜を購う。併せて10ユーロ。

特にバラード1番は、冒頭4小節目のルバートは自分なら2拍と3拍を16分音符のように演奏して4分の3拍子にするとか、13小節目はパデレフスキが右手の変二音を二音で弾くのを不思議に思って或る時問いただすと、原典版を単にパデレフスキが勘違いしていたとか、愉快な雑学が事細かに書き込んであって、読むだけで得をした気分になる。昔は誰でもこのような説明に想像を逞しくしつつ、紙媒体を通じて伝統を受け継いでくることが殆どだったろう。
興味深いのは、カセルラが校訂した当時、ショパンが解決を遅らせた倚音など、一時的に不協和音になる部分を、印刷ミスと勘違いして音を変えて演奏する習慣があったらしいことだ。7小節目右手親指の変ホ音を、ブルニョーリ版などは「怖ろしいこと」に二音に直してしまっているが、カセルラは、これらの一時的な不協和音程こそが音楽の美しさを際立たせているのだから、絶対に直して弾いてはならない、と強い口調で忠告している。今は先に音源を聴いてそれを真似するから、情報こそ正確かもしれないが想像力も理解力の深さも、当時より劣っているのかも知れない。

リヤ・デ・バルベーリスのインタヴューを見る。彼女は南イタリアはプーリアの端、レッチェの生まれで、スカルラッティの校訂で有名なナポリのロンゴにピアノを習い、37年から47年までローマやシエナでカセルラのもとで研鑽を積んだこと。初めてカセルラにピアノを聴いてもらった際、彼はほとんど何も話さず、物静かで怖かったこと。ローマで学校に入学するまでは、自宅で無償でレッスンをしてもらっていたこと。カセルラは厳格で完璧主義者だったこと。カセルラの没後、パリでマルグリット・ロンに習ったことなどを、人懐こい南訛りでよく話す。指揮者になりたかったが、フランコ・フェッラーラから女には無理な職業と言われ泣く泣く諦めたこと。

彼女曰く、カセルラも決して裕福な家の出身ではなく、チェリストの父とピアニストの母のもとで育ち、11歳くらいまでには音楽を志すようになったという。才能を見込んで13歳で私財を売り払って家族でパリに引っ越し、パリ音楽院に入学し、まずルイ・ディエメのもとでピアノを学び、続きフォーレのもとで作曲を学んだ。ディエメはコルトーやイヴ・ナットの師であり、サラサーテの伴奏者だった。フォーレのクラスの同級生にはラヴェルやケックラン、エネスクらがおり、後にはドビュッシーと親しくなり、ともに4手ピアノをしばしば演奏したという。
インタヴューでカセルラの生涯が辿られたのはそのあたりまで。その後のさまざまな政治的な関わりについては触れなかった。

面白いのは、ディエメの師はアントワーヌ・マルモンテル、マルモンテルの師はピエール・ジメルマン、ジメルマンの師はフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー。ボワエルデューのピアノと作曲の師は、ボローニャのマルティーニ神父になること。
バルベーリスがカセルラの没後教えを乞うたマルグリット・ロンは、カセルラの師であるルイ・ディエメの死後、後任としてパリ音楽院の教授となっている。

 10月某日 ミラノ自宅
週末息子が弾くカセルラの「子供のための小品」を聴きに、仕事を中断し雨天自転車を飛ばす。とても気持ちよさそうに弾いていて、堂々たるもの。幼少期の自分に容貌こそ似ているが性格のまるで違う息子を、何とも不思議な心地で眺める。ここ暫く彼のガールフレンド騒動が続いていて、家では謹慎中の身。

ミラノの授業、新年度が始まる。学校全体が混沌としている。指揮クラス初回。今年の新入生の一人にEがいて、生まれてすぐにルーマニアのジプシーの家庭からイタリア人家庭に里子に出された、と入試で話してくれた。ヴェルディオーケストラの合唱団で歌っているという。なかなか音楽的で面白い。バルトークなどやらせると「さて自分のルーマニア人の血が試される」などと真面目ともつかぬことを言うが、筋は良い。音楽は楽譜より、耳から入る気質と見える。明るくよく喋る。確かに血は争えない感。

唐の時代の面影が残っていると言われる、雲南省納西族の洞経音楽を、繰り返し聴く。この文革後に再編された儒教音楽などの混交音楽を、台湾などの儒教音楽を思い出しながら聴く。一つの旋律に対するさまざまな装飾を耳で追いつつ、いにしえの日本の雅楽の姿に思いを馳せる。

野平さんの楽譜を眺めていて、彼は本当に音符を書く瞬間に喜びを感じていると思う。無邪気とさえ感じられるほど、純粋な音への喜びが伝わってくる。頭をよぎるのは、「牧神の午後への前奏曲」や「海」、「遊戯」などさまざまなドビュッシーの譜面なのは何故だろう。どう書かなければという強迫観は皆無で、書くのが楽しいという肯定感、充足感に満ちている。ラヴェルの譜面があまり浮かばない。ドビュッシーの一見整然としているが、表面は全くそうではなくて、然しながら内面はとても太く重厚な、ともすればワーグナーのように歌が連綿と繋がっているあたりも、似ている。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ市立劇場でカザーレ「チョムスキーとの対話」のリハーサルが始まる。久しぶりにエマヌエレに会って、カバンからスコアを取り出すと、「Vedo che la partitura e’ sufficientemente logorata, che’ mi fa piacere!」、訳せば「おい、好い塩梅に楽譜が擦り切れているじゃないか、こいつぁ嬉しい」、とまるでマフィアの挨拶のようなシチリア訛りの台詞を呟くので、思わず笑ってしまった。logorataなんて勿体ぶった言い方は、ミラノでついぞお目にかかったことがない。

練習の最初、暫くぶりですっかり風格が出た監督補佐のフルヴィオが「漸くだなあ。お帰り」と声を掛けてくれる。見ればオーケストラにも懐かしい顔が並んでいて、胸が一杯になる。ドナトーニの演奏会以来だが、あの時よりオーケストラの音はすっかり瑞々しくなって、新鮮で情熱的な印象。練習が終わって駅に飛んでゆき、最初の特急でミラノに戻り、「作曲家の個展」の譜読みを続ける。車中一時間は昏々と眠りこけ、家について巨大なスコアを広げる。楽譜のサイズが大きすぎて電車の机には到底載らない。

 10月某日 ミラノ自宅
先月、レッジョエミリアの本番の日にダイヤがすっかり乱れて慌てふためいたので、練習の2時間前にはボローニャに着くように家を出る。特急ホームの上に、広い吹き通しの空間があって人も少ない。ここの喫茶店なら1時間半以上机を使っていても文句は言われないし、音楽もかかっていないので、ここでぎりぎりまで来週の譜読みをし、バナナを齧りつつ走って劇場に向かう。道を行き交う人々からは奇異の目。
それでも譜読みが間に合わない。我ながら譜読みが本当に遅くて自己嫌悪に陥りそうになる。有難いのはボローニャでのリハーサルが順調に進んでいることで、午後のリハーサルは彼らの希望を叶えて已めることとし、これ幸いとミラノへとんぼ帰り。夜明け前まで譜読みを続け、朝6時40分には自転車に乗って地下鉄駅まで。特急に乗っている間は熟睡し、云々。
こんな毎日では体が持たない。劇場のオーケストラが練習を減らすべく必死に集中してくれて、心より感謝するばかり。こういうのを利害の一致というのか。ぼやけた頭でそんなことを思う。

 10月某日 ミラノ自宅
1日目本番を終えて帰宅。午後のリハーサルを終えて、早速軽く食事をし、本番まで控室のベンチにクッションを敷いて昏々と寝込む。ディアナが隣の控室で声を出し始めて、ようやく目が覚めた。
エマヌエレの「チョムスキーとの対話」第2版は、5年前にレッジョエミリアで初演した第1版とは全く違うコンセプトで、それでも6割方は近しい素材で作曲されている。随分違って驚いたが、前回よりずっと具体的で強く芯のある内容となっている。
前回3人の俳優が登場した部分は、チョムスキー自身ののヴィデオを使って、言語学、経済学などに於ける、有名な彼の言葉に直接同期するよう音楽がつけられている。ヴィデオには、レーガンやブッシュ、ピノシェ、サッチャーやベルルスコーニなどの国会中継、記者会見などの映像も挟み込まれる。終演後久しぶりに二コラに会う。3年越しで実現した演目に、彼も作曲者もすっかり満足していて、漸く溜飲が下がる。
先日ボローニャの音楽院で教えた生徒たちも終演後控室を訪れてくれる。「最初から最後までもう興奮しっぱなしで、先生もう何だか凄かったです!」上気した顔で言われると、何だかこちらもロックミュージシャンになった気分。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ本番二日目。今日は全国交通機関ゼネスト中。それでも国鉄の特急は走ることになっているが、ダイヤが乱れることを考えて、学校から帰宅した息子と家人と連立ち、随分余裕を持って家を出る。思いの外早くにボローニャに辿り着けたので、日野原さんの新作を音楽博物館で聴く。彼が藤富保男の絵本「やさいたちのうた」につけた1時間弱の作品を、ソプラノの薬師寺典子さんとファエンツァの5人の演奏家が奏でた。日本歌曲で言葉も旋律もこれほど自然で美しく、音の美しさの際立つ作品は久しぶりに聴いた気がする。イタリアオペラに精通した日野原さんらしいユーモアやエッセンスに溢れる。薬師寺さんの歌も素晴らしく、家人と息子と三人揃って、こちらも本番前だと言うのにすっかり魅了されてしまった。
もう随分前になるが、ヴェローナの劇場で、メルキオーレの「碁の名人」に演奏した時の主人公、バリトンのマウリツィオと久しぶりに再会。お互い老けたと笑う。

公演直前、劇場近くの喫茶店で軽食を摂っていると、ルイジ・アッバーテが通りかかって話込む。彼もカザーレを聴きに来る途中だったそうで、その上丁度彼の誕生日だった。
息子は日野原さんの美しい歌曲に聴き入ったからか、大音量が続くプログレッシブロックのよろしい「チョムスキー」の公演中、半分くらい寝込んでいたとかで愕く。
帰りしな、劇場のあちこちで「本当に素晴らしかったですと」はにかんだ声を掛けられると、こちらも少し気恥ずかしい。ミラノ行特急終電の時間まで、いつもの吹き通しの喫茶店の机で譜読みを続ける。
今日の演奏は全く文句の付けどころのないもので、歌手もオーケストラも見事な集中力を見せた。息子は珍しく夜更かしして興奮状態。電車に乗り込んだ途端に眠り込んだ。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、支度をして家を出て、カドルナ駅でマルペンサ空港行き列車に乗り込むところで、家人より電話。「厳しい父親が居なくなって寂しいってあの子ったら泣いているのよ。一寸電話で話してやってくれる」。
大森さんから今度の「作曲家の個展」にメッセージを書いて頂戴と頼まれて、野平・西村作品をカツカレーに譬えたので、成田に着くとカツカレーを食べなければいけない気がしてレストランへ赴く。形状のある野平さんはトンカツ部分。アジアの薫り高い液体部分は西村先生。ええと、協奏曲はどんなだったか、そう思う間もなく、瞬く間に食べ終わる。
家について早速スコアを引っ張り出すと、紙きれが一枚するりと落ちた。何かと思って開いてみると、黄色い蛍光ペンで「がんばれ Su Forza!」と書いてある。

 10月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの都響との練習場に着いても、どこまで自分で譜面を読めているのか皆目見当がつかない。時差ボケと寝不足で頭も働いていないのだけれど、こんな困憊した体でも本能的に見えてくるものがあって、面白い。
野平さんの音楽のロマンティックさ。これは楽譜の向こうに初めから見えていたもの。一見易しそうな西村作品の難しさを、オーケストラと自分が最初のリハーサルで把握できて、漸く向こうの地平が見えてくる。表面が複雑なものは、出来るだけ単純化して表現すべきだし、表面が単純なものは、実は複雑な内実を、的確に理解しておかなければいけない。最初のリハーサルでこれだけ見えてきたのは、演奏者一人一人がどれだけ音を読み込んであったかということ。

ところで、野平さんの曲のリハーサルで、独奏ピアノを弾く野平さんに注文をつけるのは妙というか、申し訳ない思い。
オーケストラを野平さんが書いた部分は、ピアノパートを西村先生が書いたので、自分の書いたものではないから当然弾くのが難しい。一方、野平さんがピアノパートを書いて、オーケストラを西村先生が書いたところも、独奏部分をご自分が書いたとは言え1楽章以上にピアノパートは難しく、その上オーケストラパートは西村先生担当だから、ずれるわけにもいかない。ちゃんと西村先生からもリクエストが飛んでくる。ピアニスト兼作曲家は、自虐的な気質があるのかもしれない。
終わってから渋谷のトップに寄り、子供の頃から飲みつけたマンデリンとブラジルのコーヒー豆を挽いてもらう。

 10月某日 三軒茶屋自宅
都響との練習後、上野入谷口の翁庵で天せいろに舌鼓を打つ。旧い店構えの入口で算盤をはじき注文を食券に書き付けているご主人に向かって、中年女性の黄色い声が店に響く。
「おじさん、本当にここ美味しいです。インターネットで皆が美味しいって書いてるから、どうしても食べたくて。本当に美味しい! 記念写真撮って貰っていいですか? 有難うございます!。戸惑いながらも、渡されたスマートフォンでご主人はポーズを取る女性を写真に撮った。そば湯を堪能して外に出ると、目の前には店構えを写真に収める中年男性がいて、こういうリクエストには、きっとご主人も慣れているに違いないと納得した。

夜、暫く顔を出していなかった割烹に足を向けると、勝手が違っていて驚く。女亭主がこちらの顔も覚えていなかったのは仕方がないが、常連客が静かに徳利を空けていた以前と違って、隣の一団は幹事が大声で場を盛り上げ騒ぎ立て、それが漸く去ったかと思うと今度は、大学生6人組がやってきて、酔った勢いで嫌がる後輩の頬にタバコの火を押し付け、タバコを吸わせようとしたり、酒を呑ませたりと散々で、居たたまれなくなって席を立った。同席の友人がいなければその場で怒鳴っていたに違いないが、勘定を払うときに店員にあれでは危ないと言うに留める。聞けばこの店がテレビで紹介されるようになって、客も増えたが客層も変わったという。

 10月某日 三軒茶屋自宅
「作曲家の個展」のドレスリハーサルのためホールに入ると、録音の高嶋さんがいて再会を喜ぶ。彼とはピサーティの録音やブソッティの録音で本当にお世話になった。ブースには昨年カニーノ宅でご一緒した井坂さんがいらした。まさかカニーノ宅の次にサントリーホールの舞台裏でお目にかかるとは想像もしていなかった。
本番前に野平さんと西村先生が舞台上で、マイクを持って話す。二人の出会いや、共同作業のプロセス。液状管弦楽は委嘱者へのオマージュだとか。果ては気を遣って指揮者まで持ち上げて頂いたりして、申し訳ない思い。
本番最初から最後までとても気持ちよく演奏できたのは、傍らの友重くんがずっとニコニコしてくれていたから。彼が微笑んでいると、みんなも揃って微笑む。でも集中度と熱気だけは火傷しそうなくらい途轍もなく高かった。だから、野平さんの作品は、豊かにのびる開放的な音となったし、特に本番、彼のロマンティックな瞬間を、オーケストラはこちらが何も言わないのに、それはロマンティックに表現してくれた。
西村先生の作品は、スローモーションで飛んでゆく溶岩を眺めているような、燃え滾る流星のような瞬間を、演奏中何度となく感じた。ホールで液状に音を響かせるためには、液状の音を出しては駄目で、ずっと熱く質量の詰まった音でなければならなかった。これもリハーサル一日目からオーケストラと試行錯誤を繰り返して見えてきたことだった。本番の独奏者としての野平さんの集中力と体力には、心から脱帽。

一連の練習の終わりや本番後の空いた時間に、U君にプルソ導入をアドヴァイス。気が付くと、昔エミリオが自分にしてくれたことを、何時しか自分が生徒にやっている。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、沢井さん宅で「マソカガミ」を聴かせていただく。聴き手へ燦々と振りかかる音ではなく、線香花火を見入るように、七絃琴の響きに囚われる。演奏者の意思を聴き手に伝えるのではなく、沢井さんが自分のためにつま弾く音に聴き手が寄り添い、何かを見出すとき、点と点の間にじっと横たわるのみだった沈黙に無数の風景が鮮やかに浮かび上がり、耳というより、五感全てが音に鋭敏に反応するのがわかる。

(10月30日三軒茶屋にて)

アジアのごはん(81)紅玉りんごと秋花粉

森下ヒバリ

九月の後半にタイから日本に戻って来たのだが、あっというまに激しい秋花粉の花粉症を発症して苦しんだ。しばらくして、落ち着いていたのだが、またもや10月も終わりだというのに、激しく鼻水、頭痛、のどの痛み、咳き込みが始まってしまった。おとといから咳が痰に絡み、だんだん激しくなって、昼間はしんどくて寝込んでいる。夕方になると、花粉が飛ばなくなるようで、復活。

それは風邪だろうと思う方もいるだろうが、これが秋花粉の症状である。何人もの人から風邪が治らない、という話を聞いて症状を聞くと、たいがい秋の花粉症である。風邪の症状との大きな違いは、熱がほとんど出ないこと、そして食欲がふつうにあることだ。微熱が出ることもあるし、ぼおっとすることもあるが、けっして高熱は出ない。鼻水も風邪の場合は粘着性があるが、花粉症は水のようにさらさらだ。

秋花粉はブタクサ、ヨモギ、カナムグラ、セイタカアワダチソウ、そしてイネ科の植物などで起こる。だいたいスギやヒノキの春花粉症と同じ症状が出るが、違う点が、咳、喉の痛み、人によっては痰である。ヒバリも秋花粉でもここまで激しく咳と痰がでる症状は今まで記憶にない。なぜこんな症状が出るのか調べてみると、どうやら花粉の種類がかなり違うためらしい。諸説あるが、ヨモギなどの花粉は気道に入りやすいので咳が出る、またイネ科花粉はたくさん種類があるが、食物アレルギーに似た反応を起こすため、ぜんそくのような症状が出ることもあるとか。

たしかに、咳が出て痰が絡むだけでなく、胸が苦しくてぜんそくみたいな症状もある。気道がヒューヒューとまではいかないが、その一歩手前。これがイネ科のしわざなのか・・。関西のイネ科の花粉飛散ピークは5月と8月~10月なのだが、今年はいつまでも暑かったので、たくさん花粉を飛ばしているのだろう。はあ。

気道に入り込んだ花粉を排出するために、咳や痰が出ているのは、まあいいとして、痰は要するに免疫細胞が活躍した後の残骸である。花粉を敵だと思って、ヒバリの免疫力はたくさん使われまくっているということになる。つまり、免疫力が他のところで足りなくなっているかもしれない。こんなときに強力なウイルスが侵入してきたり、がん細胞が大量に発生したりしたら危ないじゃないか。え~、程々にしてくださいよ‥げほげほ。

花粉症がこんなに増えてきた原因の一つとして、花粉が排気ガスやpm2.5、黄砂などと合体すると凶悪化する、ということが考えられる。もちろん微粒子の放射性物質であるホットパーティクルとも結合するからこれは最凶最悪。花粉の時期にpm2.5や黄砂が重なると、ほんとにしんどくて重症化する。いくらスギやヒノキを花粉が飛ばない品種に変えていったところで、環境自体が悪化していれば意味なしかも。秋花粉のほとんどは雑草だし。

春に続いて秋までもがユーウツな季節になるとはほんとうにやりきれない。だが、まあそんな気分をわずかに上げてくれるのが秋の果物、大好きな紅玉りんごである。りんごは好きなのだが、甘酸っぱい紅玉以外はほとんど食べない。他の品種はたいがいべたべたと甘すぎるからだ。蜜が入って~とか、なんでも甘けりゃいいってもんじゃないつーの。

紅玉はお菓子やジャムの需要で、なんとか品種が絶えずに栽培されているが、酸味のあるりんごはほかにはあまりない。ジョナゴールドがやや酸っぱいくらいか。紅玉は出回る期間も短いので、無農薬や減農薬の紅玉を見つけたら必ず買うことにしている。紅玉はそのまま室温においておくと味がすぐぼけてしまうので、すぐにジップロックに入れて冷蔵庫にしまっておかなくてはならない。赤くて可愛いので、ついかごに入れて置いておきたくなるが、がまんがまん。

刻んで、ジャムよりも甘み少な目で、形の残るぐらいに煮たものを作って冷蔵しておけば、豆乳ヨーグルトやパンケーキのトッピングに重宝するし、アップルパイもすぐ作れる。さらに生のりんごを刻んでかんたんにケーキも作れる。焼きりんごもいいです。紅玉がない場合は、レモン汁で酸味を足して作ってください。

★紅玉りんごの米粉ケーキ 15センチの丸型1個分
・紅玉りんご1~2個
・米粉120g (その内、ひよこ豆の粉、ココナツフラワーまたは黄粉などを20~30gにするとコクが出る)
・お好きな砂糖80g
・卵2個
・ココナツオイル50ml(できればバージンオイル)
・ベーキングパウダー小さじ1
・豆乳大さじ2~3、調整用
・くるみ、シナモン、ラム酒、ココナツフレークなどお好みで

りんご1個は皮付きのまま、いちょう切りで刻む。残りのりんごの半分または1個はトッピング用にくし形に切る。ボールに粉と卵、砂糖、ベーキングパウダー、ココナツ油を混ぜ合わせ、豆乳で調整する。固さはホットケーキよりもちょっともったり。イチョウに刻んだりんごを混ぜ、油を塗った型に流しいれる。上にくし切りにしたりんごスライスをきれいに並べて、170℃~180℃で40分オーブンで焼く。ふわっとしたケーキがいい人は卵の卵白を泡立ててまぜるといいかも。粉は小麦粉でも作れるし、パン粉でもおいしくできる。

★ストウブで焼きりんご
STAUB de GOHANという1合炊きの鋳鉄の鍋を入手した。一人の時のごはん炊くのに重宝している。しかも、りんごが1個ちょうど入る大きさなので、焼きりんごにぴったり。これでオーブンなくても作れます。ストウブのない人は、オーブンで。ストウブ鍋もオーブンもない人は、りんごをスライスしてフライパンで焼いても美味しいよ。
・紅玉りんご1個
・ココナツオイルまたはバターを少々
・メープルシロップ、などお好みの砂糖少々
・好みでシナモン、ラム酒、コアントローなど

りんごが半分くらい隠れるぐらいのアルミホイルをストウブ鍋に敷く。敷かなくてもいいけど鍋にりんごと果汁がこびりつくので。まるっと包んでも可。りんごの芯は芯抜き器があれば抜いてもいいが、なければスプーンでちょっと汚れが溜まっていそうな軸のところだけ削るぐらいでもOK。へつったところにココナツオイルと砂糖を少しのせる。
蓋をして弱火で35分ぐらい焼く。何にも足さずに焼いてもおいしいい~。いい匂い! これで、なんとか秋の花粉の季節を乗り切ろう。

グロッソラリー ―ない ので ある―(25)

明智尚希

 「1月1日:『またある時なんか、何がきっかけかわからないけど、7,8人のごろつきと大立ち回りを演じて、それを止めに来た警官が、そいつを取り押さえようとして4人がかりで挑んだんだけど、全然つかまえられなくてもう1台パトカーに応援を求めたんだってさ。総勢八人でやっと取り押さえることができた。そのままトラ箱行きだよ』」。

トリャア≡(:D)┿━<☆(/+O+)/ウワア

 生前、特に目立ったところもなく友人・知人も限られており、世間に相手をしてもらったとはとても言い難い人が亡くなると、途端に主人公の座にのし上がる。親族はもちろん、少しだけ交流があったかどうかという人までが、話題の一番目のネタにしてどれだけ人に好かれていたかを論じだす。生を辞めた人間を褒めそやすのはどうしてだろう。

ナンマイダー Ω\ζ゚) チーンッ…

 ぬのうして/ぬのうめかして/ぬのうして/ぬのうまみれに/きてかんこけう

ヾ(。ё◇ё。)ノ ぐへへへへ♪

 毎度毎度お騒がせしております。まるで百獣の王ターザンが、かくかくしかじかの事由で来日し、二子玉川と錦糸町の区別がつかず、サンフランシスコ平和条約の調印式で、キャミソールを販売して七転八倒、荒川を流れる荒川にぶち込まれたような塩梅ではありますまい。大した役者は白湯など虚仮にする。以上の理由で辞任します。八十年後。

ターザン (;-0-) ア〜アア〜

 街の中は一長一短に満ちている。色とりどりの看板にめまいにもまがう目移りをし、人や車の音声に歩く集中力を減退させられ、すれ違う人々がいちいち顔を見る。その一方で、むき出しだった精神状態を群衆の中にまぎれ込ませることに成功するし、混濁した思考は、体臭の移り香や人間の実在性そのものによって、ある程度取捨選択される。

・・・(・・*)ノ ⌒◇ポイッ

 「1月1日:『トラ箱から出て自分が何をやったのか警官に聞いたら『何も覚えてないのか!』と一喝されたんだってよ。警官八人と大立ち回りを演じながら、本当にな〜んにも覚えていないなんてすごいよな。公務執行妨害でてっきり逮捕かと思ったら『よっぽど逮捕しようかと思ったよ!』とまたどなられたって。酒の力はすごいもんだ』」。

∵. バキッ (゚O゚(C=(`皿´

 「もらう」とは、AとBがいた場合、AがBに我が物としたい意思を伝えたり、BがAに心中の思いや特にめでたさなどの気持ちを込めたりして、兌換貨幣や日常用の物体などをAに渡して、Aの所有とすること。また、実子でない者を養うために親となる時や、男性にとって配偶者となる女性を家族に加える時などにも用いる。

畄ヽ( ̄ー ̄*)アリガトウ♪

 懸賞に頻繁に当たる人。トラブルに巻き込まれがちな人。いつもどこでも人の輪の中心にいる人。人間には役割がある。配役と言い換えてもいい。良くも悪くも彼らが「自分役」から抜け出すのは不可能だ。いかなる努力をしたところで、役割に甘んじなければならない。役割の殻を破る唯一の方法は、他人か自分の命を終わらせることである。

(`Д´)⊃√

 圭介がこのトラックに乗るようになって5年になる。人間、5年もすれば順応するものである。当初は道行く人の驚きと軽蔑の視線や、女子高生たちの露骨な反応に戸惑うことも多々あったが、そうした経験への慣れも加わって、現在ではマイカーを運転しているのと同等だった。圭介が運転しているトラック――透明なバキュームカーである。

Σ┌┘車└┐=3 =3 =3

 まずはじめに終わりのことを考える。しかも突然にして最悪の終わり方を。終わりと連係していると察知した案件や機会を、次々とモグラたたき式に引っ込め、あらゆる可能性を想定して予防線を張っておく。この生活は決して短くない。おそらく諾う人などいないだろう。最悪の終わりが来る前に、消耗して自滅する姿が目に見えるからである。

ツカレタ━・゜((⊂|=´Д`=|⊃゜・━

 「1月1日:『数か月に一度そうやって騒ぎを起こしてた。せっかくの断酒生活もぱーになって、また朝からウオッカ。アル中って治らない人は一生治らないらしいね。依存症もそう。ごくたまに飲む程度といっても、前後不覚になるまで飲むのは、依存症の一種でアルコール多飲症っていったっけな、立派な精神疾患の一つなんだってさ』」。

_ノ乙(、ン、)_ ウウウ……

 しかし時代は変わったね。トカゲの尻尾はどこへ行くという心境じゃよ。聞くとこによると昔は生徒の髪が茶色かったら大目玉食らったのが、今じゃ教師が茶色にしてるっつうじゃないか。一般意志は移り気だねえ。さてはデリヘルを手本にしたな。やい、腰かけのBGども、貴様たちのお豆を図形楽譜にしようと思うな。時代は変わったんじゃ。

(・。- )ノ~・゚★,。・:*:・゚☆ウフッ♪

 自分の経験や知識だけが正しいと信じている人がいる。経験のない分野についても、さも経験豊富であるかのように臆面もなく弁じ立てる。実益のない内容を長時間聞かされるケースが多い。この言うも愚かな人物は、老いて自分から離れることを知るにつれて程度の低さを自覚し、末期へ続く吊り橋を地につかぬはずの足で少しずつ瓦解させる。

(/・_・\) ガッカリ

 呼んどくれそや 張っちょろけ
乱離骨灰の でかおっぱい
もんや狩ろうと 知っちょろけ
あんだれさったれ さほうべな
損さかろうなら 出目とりを

ヾ(-_- )ゞエラヤッチャヽ(~-~ )ノエラヤッチャ /(._.>ヨイヨイ((~-~)ノヨイヨイ

 昼食は摂らない。ダイエット、我慢、健康関連、どれでもない。脳への血流が悪くなると駄目らしい。体調がさほど悪くない時、マゾヒスティックな意味ではなく、有害な神経過敏状態を総身が欲するのである。体内時計が日中も苦悩の時間として、設定されているかのようだ。そうして得たものは、夜へと持ち帰られて不眠の元締めとなる。

(; ̄д ̄)ハァ↓↓

更地の男

植松眞人

 私の実家は兵庫県伊丹市にある。この町は大阪からもJRと私鉄が乗り入れていて、大阪で働く人たちのホームタウンとして認知されている。
 その昔は城があり、城下町として酒造りと稲作で名を馳せた時期もあった。嘘のように景気が膨らんだ時期には大きなマンションがいくつも建ち、市内にはいわゆる箱物が数多く建てられた。しかし、それも過去の話である。景気が低迷し、大きな震災があり、建てられた箱物にも侘しい影が差しているように見える。それでもまだ駅前はいい。大阪まで電車に乗ってしまえば四十分分もあれば到着する。若者が夜遅くに飲み歩いていたりもするし、それなりに繁華な場所もある。しかし、私の実家へはバスに十五分、二十分と乗らなければならないのだ。通勤ラッシュの時間はともかく、それ以外はバスの数も少なく、夜は十一時前にはバスはなくなってしまう。バスの乗客のほとんどは老人だし、最近できたばかりの巨大なショッピングモールもいつまで保つのかわからないほど客が少ない。
 私の実家は三十戸程度の小さな建売住宅が密集している中にある。一時に建てられた集合住宅は、最初は同じような家ばかりだったのだろうが、一戸建て替え、一戸建て替えとだんだん当初の家々とは様子が変化している。特に古い木造住宅は震災で少しがたが来て、それを機会に建て替えられた家が多い。私の実家もそんな一つで、震災のタイミングでその場所にあった土地を買い、家を建てた。いわば、この場所では新参者なのであった。
 私自身は家族を持ち、現在は東京に住んでいる。ただ、仕事の都合で最近は関西に来ることがあり、世知辛い仕事の関係でホテルをとることもできずに、実家で寝泊まりすることが多くなった。自分が家を出たときにも、実家は伊丹にあったのだが、震災を機に同じ市内で場所を移しているので、現在の実家は私自身が子供の頃に住んでいた場所でもなければ家でもない。なんだか、馴染みのない家で寝泊まりしているような居心地の悪さを感じているのだった。
 寝泊まりしている部屋は二階で窓からは向かいの家々が見える。周囲に高い建物がないので見晴らしがいい。そう思いながら、でも違和感を感じ、私はもう一度窓の外を眺めた。違和感の原因はすぐにわかった。斜め向かいの家がきれいさっぱりなくなっているのだった。父が亡くなり、この家で一人暮らしている老いた母に聞けば、斜め向かいの家は売られたのだという。
「木造の古い家やから、家自体は二束三文やったらしいけどな。そやから、業者が更地にして売るらしいわ」
 確か、その家には五十がらみの私と同い年くらいの夫婦がいて、その父親らしき老人が三人で住んでいた。老人が亡くなったのは三年ほど前で、以降、子供のない夫婦は斜め向かいの家で慎ましく暮らしている、という印象を持っていた。他人の家のことなので、慎ましいかどうかは本当のところよくわからない。よくはわからないけれど、家の周囲にその家の奥さんが植えている小さな鉢植えの花の地味さや、時折窓から見えるカーテンの色、そして、乗っている軽乗用車の年季の入っている具合から、慎ましく生きるというのはこういうことなのではないか、と思わせる暮らしの匂いのようなものがあった。
 母からそんな話を聞いてから、二階で仕事をする時にはちらちらと、斜め向かいの家があった場所を眺めてみたりするのだが、時折、業者らしき若いスーツ姿の男が客を引き連れてきたりするのだった。しかし、あまり引き合いがないのか、客もあまり出入りすることはなく業者もほとんどそこにいることはなかった。
 それから二週間が経った。斜め向かいの家があった更地は、そのまま売れてはいなかった。『売地』と書かれた立て看板が立っているだけで、ひっそりとした時間が過ぎていた。私は東京に戻ったり、また関西に来たり、一ヵ月ほど、斜め向かいの家のことなどすっかり忘れて過ごしていた。進んだり後退したりする商談のなかで、相手の卑劣が見え隠れして、それに呼応するように私自身の底の浅さも露呈するような、そんな大阪での一日を過ごした後、私は伊丹の実家へと向かった。とっくに路線バスは終わっていて、駅前からタクシーに乗った。運転手は話し好きだったが、私はタクシーのシートに座ったとたんにひどく疲れていることを自覚してしまい、運転手の問わず語りに適当に相づちを打っている間に、実家に到着した。タクシーを実家の前で降り、母が起き出してこないように気をつけながら、ゆっくりと門扉を開けて、静かにドアにキーを差して回す。そのとき、ふと気になった私は斜め向かいの家を振り返った。両隣の家の窓から光が漏れているからか、その挟まれた更地だけが、妙に暗く、私が見ることを拒んでいるかのようだった。
 玄関脇の母が寝ている部屋の気配から、母が起きていらしいとは思ったが、母も私も互いに相手に気を遣わせないように黙ったままでいる。私はそのまま静かに足音を忍ばせて、二階にあがり、すでに私の部屋のようになっている通りに面した部屋へと入る。
 そのまま私は窓際へ行き、さっき真っ暗な闇に見えた斜め向かいの家があった更地に目をこらす。やっぱり、同じように暗闇に見えるのだが、今度は更地の真ん中に、淡くスポットライトが当たっているかのような場所があることに気づく。隣の家の明かりが届いているわけでもなく、街灯が当たっているわけでもないのに、なんとなく、そこだけに淡く淡く光が差していた。そして、よく見ると、その淡い光の中に、男が立っているのが見えた。男は、更地になる前に、つまり、取り壊された家に住んでいた私と同年代の亭主のように見えた。はっきりと顔は判らないのだが、以前見かけて、挨拶をしたときの立ち姿に似ているような気がした。男は、更地の真ん中に立ちすくんで、頭をうなだれたように自分の足下を見ているようだった。男が何をしているのか、そして、確かにそこに住んでいた男なのか、私は確かめたくて目をこらした。そのとき、男がこっちを見る、という予感がして、私はカーテンの陰に隠れた。
 私はそのまましばらくの間じっとしていたのだが、やがてその日の疲れを思い出し、風呂に入ると寝てしまった。
 翌日、母に起こされて寝覚めた時には、東京に帰る新幹線に間に合うかどうかというギリギリの時間だった。私は慌てて身支度を調えると、母が用意していたトーストとコーヒーを飲み、実家を出た。出かけに、母が言う。
「梶原さんとこ、土地が売れて、来週から工事らしいわ」
 最初、何のことだかわからずに、「梶原さんて誰?」と聞き返したのだが、母の返事を待たずに、そうか斜め向かいにあった家は梶原さんの家だったと思い出した。私は慌てていたのにも関わらず、実家を出るとバス停とは逆方向になる斜め向かいの更地のほうへと向かった。それは、何かを確かめようというのではなく、バスに乗る前に見ておかなくてはという妙な気持ちからだった。朝の光の中で、更地は夜見たときよりも広く明るく見えた。私は迷うことなく、低いロープの柵を越えて、更地の中に入る。その真ん中あたりまで来ると、じっとそこに佇んでいた梶原さんを思った。昨日ははっきりとは見えなかったが、あれは梶原さんだったのだと思う。本当に梶原さんが来ていたのか、その思いだけがここにあったのかはわからない。しかし、母が「梶原」という名前を口にした途端に、昨日の男の影は私の中ではっきりとした質量を持ち、梶原さんという存在になったのである。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(19)お椀の向こう

西大立目祥子

 大根、にんじん、ネギ、ゴボウ…手近な野菜をコトコト煮て、水溶きした小麦粉のだんごを浮かべる「だんご汁」。福島県の中通り、東和町(現在は二本松市)で教わった郷土料理だ。味噌で仕立てた具だくさんの汁に食べごたえのある団子がごろごろと入っていて、からだは温まるし何よりおなかがいっぱいになる。

 小麦のだんごを手でちぎったり、スプーンですくって落としたりする料理は全国にあるようだ。「すいとん」というのが、一般的な呼び名だろう。宮城から岩手にかけての旧仙台領では、「はっと」とよばれる。

 仙台でよく耳にするのは、戦時中から戦後にかけて食べられた「すいとん」。食糧難の時代につくられた汁物は、えらくまずかったらしい。「だんごが喉を通らないのよ」という話を年配の人に何度も聞かされた。小麦ふすまの入ったざらざらした舌ざわりのだんごが、野菜もそう入らず味のないような汁に浮かんでいる代物だったのだろう。

 小麦粉のだんごが浮かんでいるスープとひと口にいっても、味もイメージも実にさまざま。お椀の向こうの風景は異なる。

 おなかも気持ちも満たしてくれる東和町のだんご汁は、もっぱら夕食に食べられた。それは、暗くなるまで田畑で働き、家の中では昼夜を問わず蚕の世話に明け暮れる主婦たちが、手間ひまかけずに仕事の手を動かしながら用意する晩ごはん。火にかけた鍋に台所にある野菜をざくざくと切って入れ、自家製味噌で味付けし、家族が集まったところで、練った小麦粉を落とし火が通るのを待ってふうふういいながら食べる。だんご汁をつくる講座で講師を務めてくださった70代の女性は、「そのときある野菜を全部使って具だくさんにするの。カボチャを入れるととろとろ溶けて、これもまたおいしいしの」と笑顔になった。その表情から、家族みんなで囲む食卓の風景が目に浮かんできた。

 夕食にだんご汁が出されたのは、夜はごはんを炊かないからだ。つまりだんご汁は、主食と副食をかねた一品なのである。いっしょに講座に参加していた地元の年配の男性が、こう話す。「東和は山間地で水田が少ないから売れる米は貴重でね、手元にわずかに残す自家米と麦を組み合わせて食生活を成り立たせていたんですよ」
だんご汁は、貴重な米を食べつなぐためにつくられる料理でもあったのだ。

 たしかに福島県の東部に連なる阿武隈山地は、尾根と谷が複雑に入り組んで、平らな広い水田を開くことは難しい。谷筋に小さな棚を積み重ねるようにしか水田を持てなかったのだから、おのずと米は換金のための大切な作物となった。その代わり、麦は小麦も大麦も栽培してよく食べていたようだ。

 小麦は近くの製粉所で粉にして、お茶箱のような木の箱に蓄えておき、升で必要な分を計って使った。だんご汁のほか、うどんを打ったり、製粉所にたのんで乾麺にしたり、重曹を入れて蒸し器で蒸しパンをつくったり、砂糖や重曹を加えて油を引いたフライパンで粉焼きをつくったりした。一方、大麦はまとめて煮ておき、ごはんを炊くときに混ぜ込んだ。

 東北といえば米と思われがちだけれど、昭和30年代ごろまでは、米を主軸にしながら大麦と小麦、これに大豆を組み合わせる穀物の栽培は、東北に広くみられた生産の仕方だ。春に田植えし秋に刈る米づくりの作業と、秋に種をまき翌年の夏に収穫する麦の作業が重ならないように工夫され、その作業の合間をぬって麦の裏作として大豆づくりが行われていた。大豆もまた、味噌にしたり豆腐にしたり納豆にしたり、自給自足に近い農家の暮らしには欠かせない作物だった。

 とはいっても、いまはもうどこにでも大きなスーパーとコンビニがある時代だから、だんご汁をひんぱんに食卓にのせたり、味噌を仕込むという人は少なくなっている。だが、舌が覚えた味はそう簡単に忘れられるものではないというもの、またたしかなことなのだ。

 講師を務めてくれた女性は、いまも自家製大豆を使ってミキサーで豆腐を手づくりする。「いまもよくつくるの?」とたずねたら「だって、うまいもの」と即答。ことばどおり、あたたかなできたて豆腐は甘くおいしかった。もう一人、味噌づくりを教えてくれた男性は、味噌の仕込みが終わると「どれ、うどんごちそうすっか?」と、どこからか大きな板を持ち出してきてあっという間にうどんを打ち、庭先のかまどで茹でてふるまってくれた。これだけうまいもんは、やめられないよ。その表情からそんな思いが伝わってくる。

 小麦粉を使った料理として、もう一つ名前が上がったのが「ぶすまんじゅう」。えっ、何その聞きづてならない名前は…ということになり、にわかに小麦粉を練ってつくり方を教わる。重曹と砂糖を入れた生地に角切りにしたカボチャを入れて蒸すお菓子は、しっとりとしてほんのり甘くどこかなつかしい味だった。おやつによくつくられたという。

 「箸をぶすぶす刺して蒸し加減をみるから、きっとこの名前なんだよ」「いや、見た目じゃないの」…講座に参加した若い世代が盛り上がって試食する姿を見ていると、この土地に根ざしこの風景を眺めて暮らし続ける人が、決して忘れない味というものがあるような気がしてくる。忘れられているように見えて、思い出す機会があれば、その味はよみがえるのではないのだろうか。お椀の向こうの風景とともに。

ハロウィンな人々

さとうまき

イラクのクルディスタンでは、10月になるとカボチャの収穫がはじまる。北部の山岳地帯に向かう街道のわきには、黄土色したカボチャが売られていて、とてもハロウィンぽいのだ。

ローリンは、シリア難民。白血病を数年前に患ったが、今では奇跡的に元気になっている。昨年は、イラクにいても、ろくな援助を受けられないから、ヨーロッパを目指して旅立つシリア難民が目立った。ローリンの親父は、60歳近く、顔はしわくちゃだが、やせていて、髪の毛を伸ばし、キース・リチャーズのような風格も漂わないわけではないが、抜けた歯を入れる金もない。

「ヨーロッパに行かないのですか?」と聞いたら、
「私はいかない。それよりカボチャだ。」
「え?」
「シリアのカボチャは白いんだ。イラクでは赤茶けたのしか売っていない。わしは、2年3カ月かけてシリアのカボチャをついに見つけたんだ。」
嬉しそうに、カボチャの種を見せてくれる。
「春になったらこれを畑に植える。秋に収穫するんだ。これでずーっとシリアのカボチャをイラクで食べられるんだ」

ローリンの親父の話には夢があった。
種を植えなければ実は実らない。
ローリンの母ちゃんは、カボチャを煮詰めたジャムを持ってきてくれた。黄金色に輝いている。

「カボチャで一儲けしましょう。日本では、ハロウィンが最近ブームになっているので、カボチャのスィーツを作れば大儲けできますよ」
私は、大儲けする話が好きだ。難民のおっさんが大儲けしている姿を想像するだけでも楽しい。

あれから一年経ちそろそろ収穫の時期だ。
「カボチャの収穫に連れていってください」
「まだ、小さいんだ」といってなかなか連れていってくれない。
勝手に収穫しないようにくぎを刺しておいて、僕も日本に帰らなくてはいけないからせかしてとうとう連れていってくれることになった。ローリンの親父が借りている畑は、3時間も離れていた。なんでも長男が住み込みで畑の見張りの仕事をしていることで、土地を貸してもらったらしい。

少し山に入ったところに農園はあった。ザクロがたわわに実をつけている。ローリンの親父はザクロをもぎとって、「くえ」と差し出す。摘み損ねた季節外れのスイカを地面からもぎとると、空手チョップで真二つに割り、「くえ」と差し出す。

しかし、肝心なカボチャは、あまりにも小さかった。しかも3つくらいしかなっていない。どうも、ここの土はカボチャには向いていないようだった。それで、僕たちは、街道で売っているイラクのカボチャを買って、ローリンの母ちゃんにカボチャのスィーツを作ってもらうように頼んだのだ。

数日後、キャンプに行くと母さんができたカボチャのスイーツをタッパに詰めてくれた。
「ごめんなさいね。シリアのカボチャがあったらよかったんだけど」
母ちゃんはでき具合に満足していないようで、何度もいいわけしていた。去年のに比べ、色もどす黒い。
「いやいいですよ、イラクの方がハロウィンぽいし」
ローリン一家のシリアのカボチャに対する思い入れは半端ではなかった。
「また、来年があるし」
といいながらも、いったい彼らはいつになったら故郷に帰れるんだろうか。

製本、かい摘みましては(123)

四釜裕子

辞書がこわれて、それで手紙が出せないという。「さっぱし字ィ、思い出さんねぐなてヨー」(ちっとも字が、思い出せなくなってしまったの……)。腰を痛めてさすがに気弱になったみたい。体調は別としてこれくらいがかわいげがあってよろしく思え、「すぐ送ってよ、直してあげるから」といってしまった。母から届いたのは、大きな文字で早引きなんとかという、厚みがおよそ4センチで並製紙表紙のもの。背が完全に3つに割れて、さらにそれぞれ1、2枚ページが剥がれている。むやみにセロハンテープで貼付けてあり、さすがにこれではみっともないと思ったのだろう。新しいのを買えばいいのに。買って送ってしまおうか。でも、違うのですよね。

セロハンテープをはがし、破れたところを和紙で補う。ページの角の折れたところはちょっと濡らしてアイロンで伸ばす。背には1ミリ厚くらいのボンドがほぼ残っている、削ぎ落とさずにこのままにしてみよう。表紙の折れや破れは直すが、これを見返しにしてしまおう。背を整え寒冷紗を貼り合体する。表紙はもちろん柔らかいほうがいい。穴とか傷とか色ムラとかで安く買っていた豚革の残りがあるから、ケント紙を芯に巻いて表紙にしてそのままかぶせてコの字に美篶堂の製本ボンドで貼ってしまおう。すぐまたどこか剥がれてきてしまうのだろうか。わからないので、むしろそれを教えてもらいたい。「壊れたらまた直すから、今まで通り使ってください」と、送り返した。

ほんとうは、どんな風に修理するのだろう。『修理、魅せます。#013 本]という動画がある。水道橋に製本工房を持つ岡野暢夫さんが辞書を修理する様子を映したもので、もともとはWiiが「Wiiの間」として配信したものの一部のようだ(ナレーション・石坂浩二)。男性が、中学時代から使い込んだ英和和英辞書の修理を持ち込む。全体ぼろぼろ、マジックかなにかで塗ったのだろう、天地小口は薄紫色。地にはイニシャル。「これは残しますか?」と岡野さん。「ぜひ消して下さい。当時つきあっていた人のものですね〜」。背の接着剤をきれいにはがし、ページの角の折れをすべてなおし、破れを和紙で補い、天地小口をぎりぎりで断裁し、スピンを替え、背の丸みを整え、古い表紙のタイトル部分をいかして表紙を張り替え、完成。受け取りには、男性がこの辞書をプレゼントしたいという娘さんもいっしょだった。

プロの修理は背の処理が圧倒的に丁寧だ。もちろんこれが肝心要。仕上がったときにはわからないが使い込むほどにあらわになる。母は予想通りのメールを返してきた。「もったいなくて使えない」。そういうことじゃなくって、お願いだから実験に協力するつもりで使って欲しいんですけれど……。

母の骨を組む

時里二郎

 機銃の静かな重さをこぼすまいとして指は聖水を掬(むす)ぶように母の骨を組んでいく。あるパーツの骨に手が触れると、おのずと片方の手がもうそれと合わさる骨に触れている。誰に教わったのでもないのに、印をむすぶ手のゆるぎない信仰の証しのように、わたしの手は母を組み立ててゆく。

 音がする。無音の音がする。
 母が軋む。その無音の軋みに、わたしの呻きを嵌め込む。

 母の骨といっても、人形だから、おのずと組み立てることができる。粗方の技は、しかし粗雑とは違った。母が生きていたときは、わたしでさえ人形であるとはつゆも思わなかった。魂(たま)の抜けたこの人形を組み立てるときにはいつも、それが母のどこに棲みついていたのかという思いにとらわれた。

 母の股間に手を入れると、母は息を一息入れて、目覚めた。股間に触れると、母の起動装置がはたらいて、魂があかるみ、蜉蝣の翅のような被膜が組み立てた母の骨格を覆って、スケルトン状のアンドロイドになる。
 おじょうずだね。
 母はわたしを息子だとは思っていない。若い情夫とでも思っている。わたしはスケルトン人形の母をあやつり、母の声色(こわいろ)で物語を語る。

 そんな古風な門付けを受け入れてくれる山間の集落や辺境の島が、いまもあるとはふしぎだ。
 母の骨をトランクに入れて、わたしの道はおのずと《あがり》の島へ続いている。
 それが、名井島と聞いたのは、まだわたしが、母が人形であることを知らないころのこと。けれども、だれに聞いたのかは、思い出せない。

さとにきたらええやん

若松恵子

映画「さとにきたらええやん」(2015年100分/製作・配給ノンデライコ)を見た。日雇い労働者のまち、大阪の釜ヶ崎で38年間にわたり活動している「こどもの里」の日々を映したドキュメンタリーだ。田端の商店街にあるかわいらしい映画館「シネマ・チュプキ・タバタ」のロードショーに何とか間に合った。

誰でも利用できます。
子どもたちの遊びの場です。
お母さん、お父さんの休息の場です。
学習の場です。
生活相談何でも受け付けます。
教育相談何でもききます。
いつでも宿泊できます。
・・緊急に子どもが一人ぽっちになったら
・・親の暴力にあったら
・・家がいやになったら
・・親子で泊まるところがなかったら
土・日・祝もあいています
利用料はいりません

「こどもの里」の説明には、こんな風に書かれている。
通いの子が遊びに来る学童保育事業、親や子どもから依頼される緊急一時宿泊、児童相談所が親子分離の長期化を判断して委託するファミリーホームの事業と、その時々のニーズにあわせて作ってきたさまざまな事業に取り組んでいる。

監督の重江良樹は、映像学校の学生時代に釜ヶ崎に撮影に行って「こどもの里」に出会い、通い始めて5年たった時に「こどもの里なら、この子達なら、スクリーンを通して観た人を元気に出来ると同時に、社会全体で考えなければならないことを示してくれるのでは」と思い、映画を撮り始めたという。カメラを回すことで「こどもの里」との関係が崩れてしまうのではないかと心配したが、関係性はさらに強まったとインタビューで答えている。

子どもたちやスタッフに受け入れられている重江だからこそ作れた作品なのではないかと思う。映画の主人公とも言える3人の子ども達の、成長していく姿が魅力的だ。映画の軸となる登場人物のひとり、ジョン君が地元のヒップホップスター「SINGO★西成」のステージを見つめる輝くばかりの顔など、重江だからこととらえることができたものだと思う。つらい状況のなかで、暴言を吐くでもなく、スタッフの言葉にじっと耳を傾けている、むしろおだやかな表情も胸を打つ。こんなにも思いやり深い子どもたちを過酷な状況に置いてしまっている大人の責任というものを感じる。

どんな親であっても、子どもは親を受け入れ、親を想う。責めたりしないのだ。人を責めない子どもの強さを見て、本当に心が打たれた。

パンフレットの解説で、映画監督の刀川和也は『子どもたちが飢えているのは食べ物だけではない。「ひと」だとも思うのだ。「わたしを無条件に受け止め、わたしだけのためにそばにいてくれるひと」、そんな存在をこどもたちは渇望している。(中略)誰からも温かいまなざしを向けられず、思いもかけられていないこどもたちは、その経験を積み重ねることによって、ひとへの信頼も、社会への信頼も、自分自身への信頼さえも失っていく。そうして、自暴自棄な暴力へとつながっていくのだ。』と書いている。社会に増えているこんな負の連鎖を、子どもの里のあり方から逆回転させていくことはできないだろうか。

重江監督は、「こどもの里」の館長荘保共子に「何でこんなところで子どもの施設をやってるんですか?」と質問して「子どもがすきやからです!」と一蹴されたという。揺るぎない荘保のこの思い、それが希望の原点だと思った。
ノンフィクションライターの北村年子は「私の知るでめ(荘保館長のあだな)は、人間でも犬でも猫でも、逃げ込んできた命を守るためには、誰になんといわれようと闘ってきた。そして命を守り抱きしめながら、自らも命に守られ抱きしめられていた。」と書く。荘保館長もまた「子どもの里」のみんなに守られ、抱きしめられながら生きている、そんな姿もさりげなく映画には描かれていて、そこもとても良いなと思った。

情報のことなど

大野晋

このところ、訳あって、Wikipediaの記事を少し書いている。訳の部分を先に書くと、ワインのことについて調べていく中でどうもWikipediaの記載に不信を感じたのがことの起こりである。そこで、技術論文や紙の本をいくつか当たっていく中でやはりおかしいということになった。

Wikipediaの記載は誰でも書くことができるが、いくつか見ていくと専門家というよりも、専門家以外の人が記事を書きたいと思って記載している節がある。しかし、それぞれの元ネタを辿っていくと、決してニュートラルだとか、多くの文献に基づいているとは言えないケースがある。そんな例を見かけて、生来の調査癖がむくむくと頭をもたげてしまったというところである。

いくつもの文献を漁ると記述者によって、ひとつのできごとがネガティブにもポジティブにも書かれることが多い。やはり、ものごとは一面的ではない。もうひとつ気になったのは、信憑が怪しい記述が意外とあちらこちらに転載されてしまっていることだ。そんな様子を見て、混乱を収めるためにもとWikipedeiaの記載の訂正と追加にいそしんでいる。

この作業をしていて気付いたことがある。それは、ネットの記事を直すために、多くの紙の本に当たらないといけないということだ。しかも、図書館の蔵書があてにならないと自前で買い込む羽目になる。世はネット社会などというけれど、結局、正しい情報に当たろうとするとネット以外を使わないといけないという皮肉な結果を受容せざるをえないのだ。

まあ、この傾向は青空文庫の入力といっしょと言えば、いっしょなんだけれども。

デジタル恨み

仲宗根浩

年々、暑さが苦手になっているのに、いつになったら涼しくなってくれる、と呪ってみるも、それはおのれのやる気のない怠惰な生活を暑さのせいにしているだけだ。仕事終わり、涼しくなり車のエアコンをつけず窓全開で気持ちよく帰宅した翌日は、蒸す。往生際の悪い残暑はやっとのこと月の終わりにおとなしくなり、朝の九時ごろから冷房状態にすることもなくなった。

沖縄防衛局に行く。だいたい二百メートル、基地側のほうに引越すと、沖縄防衛局から封書が来たのが七月ごろだったか。中身はNHK受信料補助手続きの案内。補助の理由は騒音でちゃんとテレビの音が聞こえないから受信料を半額にしますので手続きしてくださいという内容。騒音もあるが、プロペラ機が上を飛ぶとテレビの画面にノイズが出て、ひどい場合は音が切れたりする。でもこれは飛行機だけの問題とも言えず飛行が無いときも出たりする。賃貸なのでアンテナの微妙な向きかもしれないし、ケーブルかもしれない。デジタル放送になってすべてクリアに受信できると思っていたらそうでもない。アナログノイズでは途切れることが無い絵と音がデジタルのノイズだとバッサリと切れる。防衛局に入るためには用意された用紙に目的やらどの部署に行くのか、時間はどれくらいかかるかを書き、用が済んだあとはその部署から確かに用は済みました、という印までいただかなくてはいけない。三十分くらいで手続きは済んだがその半分くらいはこちらの状況に対して質問したことを回答をもらうまで待ち時間だった。

那覇の映画館で「レッキング・クルー」という映画が上映されているのを知る。近年よくある、クレジットされないスタジオ・ミュージシャンのドキュメンタリー。休みの日でも行こうと思ったら輸入盤しかなかったブルーレイの日本盤がいつの間にか出ていたのですぐ入手手続き。うちではブルーレイが再生できるのはパソコンだけ。ディスクを入れるとなんとかの更新が必要の表示で再生できない。調べると再生ソフトを新しいヴァージョンのものに入れ換えなくてはいけないような書き込みがある。実家にあるブルーレイプレイヤーではちゃんと再生できる。これだからデジタルは、とデジタル恨み。

庭を出て

高橋悠治

1950年代には 音楽を音の庭とみなし そのなかを歩きまわる演奏のための図形楽譜を作ることもできた 空間のイメージ図式を一曲限りの楽譜として それを音楽作品とみなすのは浪費のような気がする 図形を音にする作業を演奏家にまかせると 時間内の音のまとまりとして演奏を構成していくうちに いつのまにか劇的な対照や効果が忍びこんで来たらどうなるだろう

庭は囲われた空間で そのなかにあるものは はじめからそこに置かれて 訪れる人を待っている 回遊式池泉庭園は 歩きながら変る眺めを考えて設計されているにちがいない

そういうしかけなしに 歩くにつれて風景が変わり 細い道は思いがけなく曲って 先を見通せない 一歩一歩足場をたしかめながら進むよりない そんな音の風景 足を停めるたびに発見があるかもしれないが 通り過ぎると 何を見たのか 記憶がたちまち薄れて 近くに見えてくるものに置き換わり あるいは何も現れない闇に迷う 発見と迷いを織り交ぜながら 半透明な迷宮空間を探り抜け その記録を楽譜に作って もう一度おなじところを辿る いままで見えてなかった景色に出会うことがあるだろうか 

あざやかな印象が一瞬で褪せると聞くと 香のように 獣のまわりに 見えない微粒子となって漂いながら 獣のうごきにつれて渦巻きながら流れていくありさまが思い浮かぶ 音の群れと群れのあいだに 彩りというより 翳りが 響きを包み 響きにまつわり その余韻に あるときは予感になる ざわめきのなかに離れた音をひとつ打つ 短い旋律線の途切れ 長い線の意外な逸れ 一つの線に別な線が延びて絡まる 音は別な音や線の干渉で曲り たわみ そりかえる 物語をつくらない 音の戯れ うごめき

自由な音のあそびを 楽器の上で即興する たとえばピアノで 両手が別なうごき 遠ざかり 近づき 組み合い 交代し いっしょに 別々に 休み うごきまわる音の地図を 弾いている身体の表面 その前後左右上下に映して 鍵盤上の指の感触と同時に 皮膚の上の勘所と 筋肉と神経を伝う響きの流れとして感じる 世界のイメージが音となって身体に入ってくると そのとき音には身体の運動感覚が埋め込まれ それを手がかりに 弾いている身体が その場の響きや そこにいる人びと通じて 世界とつながっていく それが音楽を演奏している人にとって 音楽をすることの意味として個人的に感じられるとすれば その場に立ち会う人びとにとっては 音の動きのなかに 意味やことばとならない世界が現れてくる

即興は経験から生まれてくる能力でもあるし それまで経験したことのなかった偶然にこたえるやりかたでもあるだろう 対抗して積極的に何かしなくても 避けたり まわりこんだり ためらう両手が それぞれちがうことをするにつれて 二つの手のかかわりはいつも変る 対位法や和声のように使い古された技術を持ち出さずに このあそびをどこまでつづけられるだろう

即興はその場で生まれ そこで消滅する 弾き続けていると 波が途切れずに高まり ある軌道に落ち込みそうになる 気づいたらすぐリズムを外し 波をやり過ごし 躓いたリズムが静まったころ 別な空間から入り込む 一回の即興は 失敗とやり直しの乱れ 隣り合う音のわずかなちがいと 遠くからでもわかる切り立った断面とを往復する切り替えの見極めでなりたっているとも言える

作曲は抽象的な構想からはじまるように思われているが 実際の作業は 演奏の場や楽器 コンサート・プログラムの順番などの具体的な条件があり 昔は机の上に紙と鉛筆や消しゴムをそろえ いまはコンピュータの楽譜ソフトでページを設定して まずは書き出してしまう 紙の上で即興するとも言えるほど なめらかに一貫した作業のこともある そういう場合は 何日か経って見直すと それ以上続けられなくなっていることに気づいて はじめからやり直しになったりする 断片をいくつも作ってから それらをコラージュしてもいい その場で即興するのとちがって 楽譜を書くのに慣れていても その音を出すのよりはずっと時間がかかる 作曲は 音楽を遅らせる装置と言ってもいいだろう 顕微鏡で花粉を観察するように 音の細部を見て 強弱や連結や揺れを定着する そんなことが20世紀音楽には多かった 実際には 細かく指定された楽譜は 指定通りに行かないばかりか 想像したようにおもしろくならない

いまやっているのは 使う記号をすくなくして 隣り合う音とのかかわりをあいまいにする あれこれの実験だ さまざまに長い音と短い音と休止があり 空間のなかには決った方向も中心もない かってに動き回り かかわり合い 逸れていく音の運動がある この音楽をどう書いたらいいのか 書きかたにもこれという方式はない いつもすこしずつ記号も使いかたも変えて試す 図形楽譜のように 作曲家が新しい記譜法を発明しても ほとんど定着しなかった 音楽が職業になると 基礎技術を共有していないと いっしょにしごとができない 新しい記譜法の説明ページが楽譜の最初にあると 現代音楽の専門家でもなければ 説明は読んでいないことが多い バッハの原典版の注釈を読んでから演奏する人はすくないのと似ている この状況で 使い古された記号の使いかたをすこし変え それが説明なしに通じるのには どうすればいいだろう

即興があり 作曲があり 演奏はその後で変る クラシックの楽譜も 指の感触と身体に投影された方向や運動イメージで 古典的な和声構造 ロマン主義的な感情のうねりのパターンから自由になって 響きの微細な揺れや 不規則なアクセントで 別な音楽の顔を見せることがあるかもしれない

香りの話

冨岡三智

今回はジャワの儀礼で使われる香りの話。ジャワの宮廷では瞑想する時や儀礼が行われる時にお香を焚く。植木鉢大の素焼きの炭炉にいこった炭を何個も入れ、その上からラトゥスratus(練香)を振りかける。練香は日本の香道に使うような小さな粒ではなく、ピンポン玉くらいの大きさだ。それを指先でほぐして炭の上に振りかけると、煙が上がり、香りも立つ。ラトゥスをそのまま炭に置く人もいた気がする。煙が上がるということは、お香が燃えているということ。お香係の人は炭を団扇であおぎ続け、火力を落とさないようにする。お焼香をもっとワイルドに、盛大にした感じと言えるかもしれない。

それは祈りのためではあるけれど、辺り一面に香りが漂うので、空薫(そらだき)のような機能も持っている。空薫とは空間に香りを漂わせること。日本の香道では、いこした炭を灰にうずめて灰を熱くした後、その灰の上に練香や香木を載せて香りを立たせる。つまり、間接熱で香り成分を抽出する。お香を直接燃やすわけではないから、煙が立つことはない。

ラトゥスはバティック(ジャワ更紗)に香りを焚き染める時にも使う。私が王宮でお世話になった人は、両親も王宮で働いていて、その係だったという。日本では、香炉の周りに伏籠(ふせご)という名の、蒔絵の施されたような雅な道具を置き、その上に着物を置いて香を焚きしめるのだが、ジャワでは、闘鶏を入れておくサイズの竹籠(シントレンという芸能や、子供が大地に足を付ける儀式でも使う、能の道成寺の鐘くらいの大きさだと思う)を使い、その中に香炉というか炭炉を置き、籠にバティックを置いて焚き染める。

瞑想といえばムニャンmenyan(乳香)もよく使われる。私はラトゥスは王宮で分けてもらっていたけれど、ラトゥスやムニャンはパサール・クンバン(花市場)に行けば売っている。ムニャンも買って自分でも焚いてみたことがあるのだが、強い刺激臭があって私には使いこなせなかった。ちなみに、ジャワのガムラン音楽の曲で「ムニャン・コバル」という大曲がある。「乳香がくゆる」というような意味で、お供えとしての意味合いの強い曲だろうか…と思ったりする。

他に香るものと言えば、クンバン・スタマンkembang setaman。「花の園」という意味で、紅白のバラ、ジャスミン、カンティル、クノンゴなどの花を、花の部分だけ(茎は使わない)、バナナの葉っぱに盛ってお供えにする。また、バラの花びらを水に浮かべたお供えもそう呼ぶ。私が王宮の人に聞いたところでは、霊はただの水より香りの良い水を好むのだと言う。

ジャワの儀礼ではさまざまな香りが空間を満たしている。部屋の入口の隅にはクンバン・スタマンが置かれ、儀礼が滞りなく終わるよう、お香を焚いて祈る女性たちがいる。霊力のある柱などにも、特別に祈りが捧げられる。舞踊が奉納されれば(舞踊もまた供物の1つなのだ)、踊り手は髪にジャスミンの花で編んだ飾りをつけたり、裾を引き摺るように着付けたバティックの裾の中に紅白のバラの花びらを巻き込んだりする。踊って裾が蹴られるたびに散華のように花びらがこぼれ、香りが立つ。衣裳にも香りが焚き染められている…。こんな贅沢な香りの使い方は日本では見られない。

デジタルな待ち伏せ

植松眞人

 とある私鉄沿線のとある駅で下車した。
 八月になったばかりの空は高く真っ青で、こちらの思惑を見透かすくらいに爽やかに見えるのに空気だけはまとわりつくようだ。
「エアコン入れて、冷たい飲み物を用意して待っています」
 仕事の打ち合わせの相手から、そんなメールが来ていたからだろう。高い湿度も各駅停車の駅と駅の中間にあるという立地も、冷たい飲み物を楽しむための下準備のようにも感じられるのだった。
 駅で降りてから、さっき走ってきた線路に沿って半駅分戻るように歩く。高架下の商店街を三ブロックほど過ぎて、やっと知人の事務所が入っているマンションが見えてきた。さあ、エアコンの効いた部屋で冷たい飲み物で人心地つける、と思った瞬間だった。
「お久しぶりです」
 楽しげでもなく、こわごわでもなく、妙に思いきった声が聞こえる。長い時間、そこで待っていたことが瞬時にわかるような立ち方をしている。私は相手の顔を見る。知っている顔だ。十年以上も前に袂をわかった相手だった。二十年ほど一緒に働いた顔だった。そして、もうしばらく会うこともないだろう、と思うほどに翻弄された顔だった。その顔を笑顔にするために、様々な策を練り、実行し、裏切られ、また策を練りということを繰り返し、結局、そんなことじゃ私は笑顔になれません、とでも言うように半笑いを浮かべた表情で「辞めます」と言った顔が、十年という時間を一気に超えて「お久しぶりです」と強張った笑みを浮かべている。
「お久しぶりです」
 もう一度、相手は言う。私が最初の一言に返事をしなかったことで、今度はおずおずと言う。私はおずおずとした物言いに接した瞬間に、話すことはない、と心を決める。十年近く前に、同じようにこの顔を前にして思ったことを思い出す。この顔に、この物言いに、話すことは何もない。
「一言だけ、謝りたくてきました」
 謝ることはたくさんあるはずだと、私は十年前よりも皺の濃くなった女の顔を私は見ないようにする。そして、とにもかくにも、目の前から消えてほしいと思う。できる限り早く消えてほしいと思う。早ければ早いほどダメージは少ないはずだと私は思っている。できるだけ平静を装って、声をふるわせることなくフラットな声を出そうと試みたのだが、結局は絞り出すような声になってしまうのだった。自分の声は思いの外大きな声だった。
「もう、いいから」
 私がそう言うと、相手の女は何か言いかける。私はその女から発せられる言葉を何一つ聞きたくはなかった。

 女は十年前まで一緒に仕事をしていた事務員だった。小さな文具商店を経営していた私は、ちょっとしたデザインも兼務するその女と、女が辞めてしまうまでの二十年ほどの期間、仕事をしていた。
 女は、地方の名士の娘だった。才能があるのかないのか、はっきりしていればよかったのだが、女には中途半端な才能があった。地方の絵画展に入賞する程度の画力はあった。両親は彼女を溺愛し、きちんとしたしつけもしないまま、世の中に送り出した。その結果、女は会社に慣れてくるにしたがってわがままになっていった。
 自分の意に添わない仕事は後輩に押しつけ、資格を取りたいからと長期休暇を取り、子供ができるからと会社を辞めていった。しかし、それから一年ほどした頃、直接にではなく、人を介してもう一度働きたいと打診してきた。
 私は私でたまたま前職で手に入れた仕事のルートに沿って仕事をしていただけで、経営者としての自覚も能力もなかった。ちょうど人が足りない時期だったこともあり、また、一度は一緒に仕事をしたのだからと情にほだされてしまい再雇用したのだった。そして、一年も経たないうちにまた女は事務仕事は嫌だと言いだした。デザインの仕事かイラストを描くような仕事だけをしたいと言い出したのだった。
 暴言を吐き、身勝手に動き回り、様々な遺恨を残して結局彼女は会社を辞めた。
 そんな女が十年の時を経て謝りたいこととはなんだろう。謝りだしたら、どれだけ時間があっても足りないはずだ。そして、そもそもどうして女はここにいるのだろう。私は混乱しながらも、女がここに来た理由に行き当たる。
 ここに来る前に、「今日は打ち合わせ」とSNSでつぶやいたことにしか思い至らない。それ以外に、女が私の動向を知る術はない。そう思うと、前回、知人の事務所に来たときには「数年ぶりの再会!高田さんが事務所に来てくれました!」と、知人がSNSに投稿していて、私がそこに「次回は打ち合わせにおじゃまするよ」とコメントを書き込んでいた。
 充分だと思った。女がそれを見ていれば、今日、私がここに現れると推測するには充分すぎる。
 ふいに、女の立っている足下に四角い升目が見えた気がした。そして、その升目は私の足下にもあり、世界がグリッド状の升目で覆われた。建物の中も屋外も、すべてが四角いグリッドでデザインされ、私たちの世界はすべてが見透かされていた。どんなに隠れていたくても、すべてをネットワークすることで生まれる利益を享受したいという欲望には勝てない。メリットを得ながら自分だけ隠れているなどという芸当はできない。
 仮に自分がSNSをやらなくても、誰かがアップした写真に自分が写っていてタグ付けされる。位置情報も写真にしっかり埋め込まれていて、行動範囲と条件はしばらくタイムラインを眺めていれば馬鹿にだってわかる。
 そんなふうに世界はデジタルで丸裸だ。そして、丸裸にされている自分を楽しんだり、人を丸裸にするのを楽しんでいるうちはどんなシステムもメディアも輝いて見える。
 しかし、待ち伏せ女が黒い液体をほんの少しだけネットワークの流れの中に垂らしていく。その瞬間に私のネットワークは輝きを失い、黒い煤けた灰でいっぱいになる。
「一言だけ謝りたかったんです」
 女はまたそう言った。義務感と自己愛だけで生きてきた人特有のせっぱ詰まった物言いだ。私は声を落として言う。
「何について謝りたいのか知らないけれど、いま君が何かについて口を開くと、また何年後かに、その一言について謝らないといけなくなる気がするので黙って帰ってくれないか」
 しかし、女は理解してくれない。「そうじゃなくて」「わたしはただ」という言葉を繰り返している。いくらデジタルネットワークが発達しても、アナログな執拗さには勝てない。やがてアナログな執拗さはデジタルネットワークを駆使して世界を巡り、その自己愛を世界中に振りまきながら巨大化する。
 そんなイメージを浮かべてしまい、私は本気で女のことを恐ろしいと思ってしまう。
 そして、いったん恐ろしいと思った女は私の中でどんどん大きくなり、「一言だけ謝りたい」という女の声さえ聞こえなくなる。
 私は女を振りきるように、知人の事務所に駆け込む。汗だくで駆け込んできた私に知人は驚いて、「どうしたんですか」と声をかける。私は息が切れて声も出ない。荒く息を吐きながら、知人の事務所の窓から外を見る。
 デジタルネットワークを駆使して、私を待ち伏せしていた女がうなだれて立っている。その足下のグリッドはところどころに綻びが見えるようだ。(了)

人形の治療

時里二郎

人形の治療に来る者は
たいてい愛玩する人形は持ってこない
自らの身ひとつを
診てもらいにやってくる

診療室に入ると
眼の色はイリスのいろに変わり
胸をひらくと トブラの匂いのする下着から
フバルの鎖骨やストイスの乳房が教科書どおりの形状で現れる
なるほどと ひととおりの触診で
幾枚かの乾いた葦の葉を削ったのを組み合わせた発声装置が傷んでいますねと
試しに ティアードをまさぐって
栗鼠の好物の木の実のような感触の螺子をクリクリと巻いて
壊れた声を出させてみるが
それはそのままでと
壊れた声で応える

それから
小一時間
野卑な言葉遣いがとまらないという
人形の不具合を
壊れた声で再現してみせるうちに
ばりざんぼう
わいげんおげん
ちくちくねちねち
ねごとざれごと
ちわのろけ
どせいあくたい
果てもなく
(それでも)
果ては
アッシラカンの飼い主の昂揚を擬態してみせると
突然
もう許さぬと
せっかんとせっちんを差しちがえたまま
飛び出していく

私はというと
グルカ製の腸詰めのように
撥条(ぜんまい)はすっかり弛みきって
カシノキでできた首は傾(かし)いでもどらず
診療室のカルテ受けに引っ掛けられたままのスズミのふんを凝視している
(かっこう)

グロッソラリー ―ない ので ある―(24)

明智尚希

「1月1日:『そうやって飲んでいても、量自体は少なくなっていったり三日間は飲まずに過ごせたりと改善していったみたい。で、3日が1週間になり1週間が1カ月になり、とうとう飲まなくても大丈夫になったんだって。飲酒への欲求もその頃にはなくなっていたようだ。ただ酒乱だったから、たまに飲むと大トラになったらしい』」。

ウリャァァァ(ノ #`Д´)ノ⌒┻━┻

 暗いと言われる人間がいる。その人こそ後世に名を残す見込みがある。他人との暗黙の格闘に敗れ、世間の風という煮え湯を飲まされ、人目という炎に焼かれている。しかし、その人の今後はだんだんと明るさを増す。悲惨すぎる生き地獄は、人間性を一度崩壊させる。そうして壊死した瞳にも類のない光が宿り、初めて生き始め、大事をなす。

(っ`・ω・´)っフレーフレー!!!

 純愛ってのは敷居が高いなあ。プライステイカーっていうのか? 学生ならまだしも、いっぺん社会に出たら砂鉄やほこりがい~っぱいくっついてくる。そうやって過去や秘密がオスメス関係なくできちまう。神も仏もない。世界とは出来事なるもののすべてだし、事象でなく事件の総体じゃからな。あえて言うなら自然は飛躍せずってとこじゃ。

( ̄ー ̄(。-_-。*)ゝポッ

 カネのなる木は三億円。

(ノ ̄□ ̄)ノオオオォォォォ! ミ((ノ_ω_)ノバタ

 読みたいと思って書籍や雑誌を買う。ここまではいい。問題は買っても全然読まないということだ。苦しまぎれの理由としては、読むのが面倒臭い、いずれ読むから今でなくていい、自分の所有物となった段階で終わり、といったところだ。ただし、本などの中に、自分の逆境退治に有効な情報などあるはずがない、と小馬鹿にしている節もある。

(^・l⌒l⌒b

 「また食べない。ちゃんと食べなさいって」「やだよ」「食べなさいったら食べなさい」「やだったらやだ」「どうしてこんなわがままな子になっちゃったのかしら」「わがままじゃないよ」「じゃあ食べなさい」「やなもんはやだ」「食べないともうお弁当作ってあげないわよ」「やだ」「あそう」「なんでドッグフードなんか食べなきゃなんないんだよ」。

U。・ェ・。Uノ~コンニチワン♪

 「1月1日:『本人の話すところによると、知人と居酒屋で飲んでからコンビニでウイスキーの小瓶買って、飲みながら歩いていたらしいんだけど、そこから先の記憶が全くないときた。知人と飲んだあと共通しているのは、必ず警察や救急隊のお世話になったとのことだった。パトカーや救急車には何度乗ったかしれないと言っていたな』」。

ヽ(・_・(´ι_`;)ゝ 連行

 齢を重ねた分、経験値は上がる。経験値にはプラスとマイナスがある。プラスには、処世術を筆頭とした対社会・人間関係のコツが含まれ、マイナスには、表沙汰にしていないその人の個人的事項、言い換えれば人格にも関わる秘密が属している。しかしその秘密のほうにこそ、その人絡みの流儀や本音が内包されているのを見逃さない手はない。

d(-`ε´-;) シィー…

 交際相手に抱く姿は単なるイデアの影、芸術は現実のミーメーシスというがほんとかいな。わしは一に女性、二に女性、三四が女性で、五に女性じゃ。酒か女か、それが問題じゃ。エピステーメーがいつか答えてくれるじゃろう。エロトマニアにしてクレプトマニアのわしの言うことをたまには信じろっての。待っているだけじゃ能がないじゃろ。

‘`ァ’`ァq【´'Д'`】p’`ァ’`ァ

尋ねないところに真実がある。ある対象についての思いを表白するようお願いをすれば、その通り言語化された返事が来る。けれども脳の働きから言語化までのほんの短い時間に、相手の心情を慮る作業を経て、答えて支障のない内容に加工される。これでは心の最深部の様子は不明。知りたければ、言動の観察を怠らず無関心を装うことである。

(# ̄^ ̄) プイ

 いや〜いい湯だったいい湯だった。人間五十年、料理のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ニコポンされたけども上機嫌上機嫌。一度皿を享け、食せぬもののあるべきか。今夜はアプレ・ゲールで一杯やって満座の人々の中で唯一不帰の客になるよ。これを柿の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。それにしても巾着プレイ楽しみだわ。

彡彡彡∬(;´▽`A)∬彡彡彡彡い〜い湯〜だ〜な 〜

 故加藤徹太郎氏は、なぜ生まれ変わりを考えたのだろうか。生き物が持つ悪質な部分を一手に引き受けてしまったような最期になったというのに。人間や動物になることは拒否しつつ、「何の心配もない」「何も知らないから」などの理由で貝になりたいと綴った。貝には貝の社会があり「貝関係」がきっとあるだろう。なのにどうして……。

( ´ – ` ).。oO ドウシテダロウ

 「1月1日:『なんでも、ある時には歩道で棒のように倒れて、通行人が救急車を呼んでくれたらしい。駆けつけた時には立ち上がっていて、片手に焼酎のビンもう片手にタバコを持って血の池を眺めていたんだって。救急車に載せようとしたら、歩いて帰るだとか大丈夫ですと言って聞かなかったっていうんだよ。そればかりじゃないよ』」。

◯0o。(ー。ー)y―~~ ダイジョウブデス

 近道がある。ただし戸を開けた瞬間の空気のにおい、風の向き、風景の色、空模様、季節感などが支配権を握り、本来なら左へ曲がるところを右に変更させる。鋭敏に過ぎるのは良しとしても、自意識は不能になる。ボールで無邪気に遊んでいる子供たちに、あきらめに近い羨ましさを感じる。意識を自由に操れるための近道はどこにあるのか。

<(・・ )(・_・)( ・・)ゞキョロキョロ

 驚くほど軽く薄い本体に、信吾が一目惚れした絶大なる風水力。実はこれまでお寺や仏像に縁がなかった。民主国家において選挙の意義は、強いストレスで血栓ができやすくなることである。夜中に揺れを感じて飛び起き、様々な施術法を用いて臭いを軽減する。そうして豆腐屋の孝行息子から、お上に逆らう嫌われ者へと一変した。美白である。

(◛ิc_,◛ิo)プッ

 根本的なあきらめは、時として大きな力になり得る。特に不承不承のあきらめはそれに該当する。衝動や欲望が熱せられたまま断ち切られると、人は敗北感に似た感情を克服しようとする精神によって鍛えられる。あきらめの対象が大事なほど、浮世を自然と見放しがちになると同時に、今度は浮世に対しての取り組みに絶大な影響力を発揮する。

オデアゲ  ̄\(-_-)/ ̄ アキラメタ

 わしのカメレオン性を、甲羅を経たこちたきカリオストロなんて言いふらしている、まかりならん手合いがいるようじゃが、さだめしハラホロヒレハレのこけおどしに過ぎん。そこばくともない不安もない。自己放擲のあてがい扶持こそ不平士族ってもんじゃ。その反面、台湾坊主は永遠のあとで猖獗を極める。御用聞きの酸っぱいブドウじゃ。

(σo ̄) ホォホォ

ぶどうばたけ

大野晋

その日、東御市から旧丸子町の方向に走っていた。特に目的はなかったが、おそらく、その辺りにあるはずの農場を見たくて、上田市の郊外を諏訪方向に地方の生活道を走っていた。

もうすっかり秋の風景になった田園地帯を走っていると、ふと、道端に「ぶどう畑 まりこ農場」の小さな標識を見つけた。大きな看板が出ているとは思わなかったけれど、見落としそうな小さな標識にびっくりしながら、道を曲がって丘の細道を上って行った。

雑木の林を上っていくと、頂上に着く。ぱっと、視界が開けると、見渡す限り、あたり一面の葡萄畑が広がった。棚になっていない、垣根づくりの葡萄畑が見渡す限りの丘に広がる。青空の下、日本ではないような風景だった。そこは、シャトーメルシャンの自社管理農場 椀子(まりこ)ヴィンヤード。メルシャンのワインの中でも、高級なワインを作る葡萄を栽培している農場だった。

勝沼のぶどうの丘のまわりの葡萄畑や穂坂あたりの葡萄畑とも、松本の山辺周辺のぶどう畑とも違うその風景に、新しい「日本ワイン」の時代を感じた。ぶどう畑でその風景に一瞬時間を忘れ、再び車を動かすとやがて、風景は黄色に実った水田の日本の田園に戻っていた。

夜、オレンジ色の入道雲

仲宗根浩

旧暦の八月八日、トーカチという行事がある。今年は九月の八日がその日にあたる。沖縄の米寿を祝う日。母親が今年数え八十八になる。こちらは親戚の範囲がかなり広い。お祝いをするにあたりこじんまりと食事会、ということになったが近しい親戚及び六人兄弟なので孫、ひ孫が揃うと七十名くらい。東京、神奈川、福岡、熊本からみなが揃ってのお祝いは連休に合わせてやることにし、八日は祖母の命日あたる日なのでこちらにいる者だけで実家に集まり、お祝いの打ち合わせがてら、実家で夕食をいっしょにとる。

そのお祝いで、沖縄でめでたい席に演奏する「かぎやで風節(かじゃでぃふう)」をうちの娘の唄と三線、箏は奥さんが弾くことになったため、十数年振りに箏の糸締めをする。琉球箏は緩く糸が張られる。緩く張る、というのが意外にてこずり、なんとか許せるくらいの柱並びができるまでになった。糸締めは済んだが実際、演奏となると箏をやっている人が近場にいない。まず楽譜をネットにあった論文から見つけ、調弦もこれまたネットで見つける。奥さんはYoutubeで県立芸大の演奏を見つけ、どんな奏法かを探る。山田流の奥さんは見たことない楽譜の記号がたくさんある。「かき手」とかいくつかは判明した。琉球筝曲の楽譜を購入すればなんとかなるのだが、これがけっこうな値段でたった一日、一曲のためにそこまでの出費、こっちは琉球古典筝曲の作法も知らない、ばったもんに近いので躊躇する。そんなときに娘の小学校時代のPTA関係で箏を習っていた人から楽譜を貸してもらえることになり、だいたいの奏法が判明したが全部その通りにはできないので適当にはしょって三線に最低合わせてできるようになる。箏だけをさらっているのを聴くと、聴きなれた手があちこちに出てくる。これが唄と三線が入ると箏の手が唄と三線の隙間にうまく入るようになっていて箏が表に出てくることがない。地唄に箏が入るようになり、どんどん器楽的になった流れとは違う流れで、唄が主のまま、洋楽器が入った沖縄民謡のなかでも続いている。

連休前、ふたりの姉が沖縄に先に来て、お祝い会場に打ち合わせに行きたい、というので連れていく。沖縄そばを食べたいというので、そば屋まで行く。そば屋のテレビでのニュース速報、裁判の結果が流れる。予想とおり、コピー&ペーストの判決。

九月、涼しい日は最初の二日間だけだった。日中はある程度暑さはやわらいだが、夕方から夜にかけて湿度が高くなり、気温は下がれど蒸し暑さは八月とは変わらない。夜、家までとぼとぼ歩いていると、見事なオレンジ色の入道雲。基地の照明にきれいに染まっている。

アジアのごはん(80)ルアンパバーンの納豆肉みそ麺カオソーイ

森下ヒバリ

「さっき下の受付でこの宿を見に来た青年がいたから、色々話しとってん」と部屋に戻ってきた連れのYさんが言う。「ふーん、どこの国の人?」「スウェーデンっていうてたわ。そんで、ビーガンのベジタリアンっていうから、味の素入れんといて、のラオス語『ボー・サイ・ペンヌア』とあそこのカオソーイ屋教えてあげてん」「ああ。麺の上にのってるの、納豆入りだけど、豚肉みそ、やで」「あ、あ」「しかもスープは鶏ガラね」「‥‥」

ラオスの古都ルアンパバーンに来ている。人を案内していた間に泊まっていたちょっといいホテル、から移ったレトロ可愛い安ホテルが、電気設備もレトロで、雷の日に部屋の中でも雷音のようなバリバリ音がしたり、電圧の急上昇でノートPCのアダプターが煙を吐いたり、湯沸かし器がボンッと壊れたり~のトラブルがあり、そうそうに引越ししたのが今いるマニホーム。レトロじゃないけど静かで居心地のいい宿だ。

ルアンパバーンは旧市街全体が世界遺産である。つまり、街の雰囲気にマッチしない、けばけばしい建物や高層ビルは建てられない。ビエンチャンと違って、この町がどんどんビルや商業施設で変わっていくという姿は見なくていいのだ。ラオスが乾季に当たる10月から2月までは観光シーズンで人がたくさん訪れるが、いまは雨季で観光客は少ない。雨がちょっとうっとおしいものの、ゆっくり過ごすにはもってこい。

ルアンパバーンに来たのは久しぶりだ。初めて来たのは確か1991年だった。そのころのラオスは社会主義で首都ビエンチャンしか外国人に開放されていなかった。しかし、ビエンチャン以外のいくつかの町には、ラオ国営ツーリズムの高いツアーをアレンジしてガイドを同行すれば行くことが出来た。お金もなかったが、ガイド、つまり監視付きの旅もいやだ。でも、他の町にも行ってみたい。

わたしとYさんは観光局に行って旅行許可証をなんとか取ろうとした。すると、飛行機のチケットを買ってこないと出せないと言う。ラオ航空に行くと許可証がないと売れないと言う。やれやれ。ダメもとで出来たばかりの民間の旅行社に相談すると、ビジネスなら許可証が出るかもという。旅行の理由を「ルアンパバーンの民族音楽の採集」(どこがビジネス?)ということにして申請を依頼してみたら、あっさり許可証を取って来てくれ、チケットも買えた。手数料はわずかだった。

おんぼろのラオ航空機から降り立ったルアンパバーンの町は、静かに沈んでいた。これが1975年までルアンパバーン王国の首都だった町なのか。人影もまばらで外国人が泊まれるホテルは、郊外の高級ホテル1軒と、泊まった中級の旅社ラマホテルのみ。ほかに地元の人が泊まる安宿が2軒あった。ちなみに1週間の滞在中に見かけた外国人は4人のみだった。静かで、暗く、小さな町。外灯も少なくて町自体も暗いのだが、活気もない。朝と夕方には白い霧のようなものが町を覆った。地面から30センチぐらいを覆って漂うそれは、食事の支度のための七輪で炭を熾した煙だった。

街並みは煤け、植民地時代の名残の洋風な建物も壊れかけたり、汚れたりして、美しいとか素晴らしい建築と思った記憶はまったくない。当時はまだヒバリもあまり寂れた建築物に興味がなかったせいかもしれないが‥。息が詰まるような、閉ざされた暗い町、というのがルアンパバーンの印象だった。やがて、ラオスは社会主義ながら開放経済を導入し、94年にタイのノンカイとビエンチャンとの間に橋が架かり、ラオスは全土を外国人観光客に開放した。

その後ルアンパバーンの町は順調に観光地化していったが、ラオス政府と外国のNGO(たぶんフランス)は町並みの保存を進めていたので、94年には世界遺産への申請、95年には認定を受けたことで観光客目当ての乱開発を防ぐことができたようだ。

わたしがルアンパバーンの町を再び訪れたのは2000年の冬だ。町は少しだけしゃれた観光地になっていた。メコン川のほとりには以前と変わらず大木が生い茂り、のんびりとした時間の流れはあまり変わらない。むしろ、住んでいる人たちに余裕と明るさがあって、昔よりずっといいと思った。しかし、その後もYさんは行くのは嫌だと言い張り、やっと一緒に行ったのが今回の旅である。「変わり果ててツーリストタウンになった町なんか見たくない」と言い張るYさん。「いや、昔行った町とはもう別人みたいなもんだから。ツーリストタウンっていってもそれはほんの一部だよ(たぶん)」「う~ん、じゃあ行ってみるか‥」

あんなに文句を言っていたYさんもルアンパバーンの町に着くと「ええとこやん‥もっと早く来ればよかった~」と安心した様子。だから言ったでしょ。でも、2000年に来た時よりも町はさらに変わっていた。古い洋館を利用したカフェやレストランがものすごくたくさん出来て、新しい建物も増えていた。ナイトマーケットも連日開かれていた。裏通りに入ったら、静かで落ち着いた町並みが残っているので、ほっとした。

おいしいという噂のカオソーイ屋に入った。「カオソーイ」はラオス北部では肉みそをのせた米麺のことである。タイ北部のチェンマイでは「カオソーイ」といえば、中国から来たイスラム系商人にルーツがあるココナツカレー麺のことなので、まぎらわしい。もともと「カオソーイ」とは細長い米麺料理のことなので、肉といえば関東では豚肉を、関西では牛を指す、みたいな使い方だと思えばいいかも。

まずは、ミントやバジル、パクチーやクレソン、その他名前の知らないラオスハーブとレタス、生のインゲンが盛られた皿が出てくる。これは麺に混ぜ込んで食べるものだ。この店のハーブ類はどこよりもきれいで瑞々しい。ついで出てきた汁麺もスープが十分に熱く、麺の上にはミートソースみたいなピリ辛の肉みそがのっている。ハーブをちぎってたっぷり混ぜ込み、マナオをきゅっと絞る。まずはスープを一口。「おいしいいい!」麺は白い米麺だが、太さはきしめんを少し薄く細くしたぐらいか。肉みそは豚ミンチだが、ラオス・タイ北部の納豆トゥアナオの匂いがぷんと漂う。

このトゥアナオの匂いがけっこう臭い。いや、納豆好きにはあまり苦にならない匂いであるが、欧米人にはけっこうハードルが高いだろう。チーズは臭くても大丈夫なのにね。この店はトゥアナオをたっぷり使っている。そのぶんコクがあり、肉みそを味わい深くしているのだ。生のハーブと肉みそ、麺を絡ませながらスープと共にいただく。いやいや、このお店はルアンパバーンで1番だよ。

麺を食べながら、年季の入った店内を眺める。納豆の匂いが遠い記憶を呼び戻した。この店には来たことがあるなあ‥。2000年に来たときかも。食べ終わって店のおばちゃんに訊くと、店は22年ぐらいやっているという。気になったことも訊いてみた。「肉みその納豆は乾燥タイプを使うの?それとも柔らかいやつ?」

「柔らかいやつだよ。フエサイから買ってくるんだよ」おお、この店の肉みそに使うトゥアナオはタイとの国境の町フエサイ産なのか。ラオス・タイ北部にはトゥアナオという粘らない納豆がある。タイのチェンマイではそれをつぶして薄いせんべい状にして乾燥させたものしか見たことがないが、ラオスに近づいてくるとチェンライあたりから種類が増える。乾燥していない納豆を半搗きにして塩とトウガラシを加えお団子状にしたものが市場などでもよく売られているのだ。チェンライからさらに東へ進み、メコン川を渡ってラオスのフエサイに入ると、市場で納豆を売っている店がぐっと増える。フエサイはこのあたりの納豆センターなのかも?

乾燥せんべい状納豆は炙ったり揚げたりしてそのまま食べることもできるが、ほとんどがスープのダシに使われる。日本人の納豆の形態のイメージからはかけ離れた姿なので、知っていないと納豆だとはなかなか分からない。柔らかいお団子状の納豆は料理のダシに使うよりは、炒めものなどの調味料や、またはつけ味噌にしてもち米や野菜をつけて食べる。塩がけっこう効かせてあるので、腐らずに熟成して保存も効く。味は、納豆なのだがちょっと味噌のようでもある。粘りのある日本の納豆ではこの熟成納豆は作れないだろうなあ。でもちょっと作ってみたい‥。

アラスカ表面旅行

璃葉

アラスカに行った
およそ一週間の、とてもみじかい旅だ
すべてを点で見る日が続き、点と点を繋げるひまもなく、あっという間に帰る日がきてしまった
皮膚の表面を撫でるような旅だったので、表面旅行と名付けてみた
まったく帰国したくなかったので、最終日はかなり不機嫌だったと記憶している
しかし、逆にその不完全燃焼のおかげで日本に帰ってきてから好奇心が爆発し、来年にはふたたび行きたいと強く思っている
みじかい滞在でも、充分魅了されてしまった

今回訪れたアンカレッジもフェアバンクスも、アラスカのなかでは都会だけれど、
外を歩くと木の匂いとキンと冷えた透明な空気が広がっていて、
郊外へ出れば出るほどその空気は濃くなっていった
曇り空も雨の森も本当に綺麗だった

旅のなかで見た情景は かたちを変えながらもこころのなかに居続ける
焼きついたものを、そのうちまとめられるといい

空気 水 オーロラ 星 曇り空 針葉樹 クロトウヒ
それぞれの部族 アレウト アサバスカン イヌピアト ユピック
仮面 ワタリガラス 神話 氷河 石 失われた言語 その他いろいろ

ワタリガラスは、アラスカの先住民の言い伝えのなかでは月や星を撒いたり、森を創りだしたり、光を盗んだり、英雄だったりと、自由な存在で興味深い 

犬ぞりを生業としている宿での 深夜のらくがき

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