147 ひとりして

藤井貞和

「美化されて
長き喪の列に訣別の
歌ひとりしてきかねばならぬ」(岸上大作)

すべての美化は
はじき返されるしかないと
佐藤泰志はうたう
二十一歳

少女の愛にも斃れることのできる
優しい魂だけが
ほんとうに「革命」を行い得るのだと

樺美智子を
生きのこったにんげんの
身勝手な美化に置いてはならないと
いうけれど

祈る姿を人に見せない
心遣いをたいせつに秘めて
歌人は逝ったと

「巧妙に
仕組まれる場面おもわせて
一つの死のため首たれている」(同)

 

 
(思い立って「この世界の片隅に」〈アニメ映画〉を観に行き、帰って『帝国の慰安婦』無罪判決のニュースに接しました。二十一歳の佐藤が「私の読書ノート」を書いたのは一九七一年五月のことで、岸上全集に向けての感想です。詩で少女像にふれることはむずかしいですが、いつかふれたいと思います。)

アジアのごはん(83)マレーシア華人のカレーパン

森下ヒバリ

クアラルンプールから友人の車でイポーという町に向かうことになった。「途中のカムパーという町に巨大なカレーパンを食べさせる店があるんだけど」と友人が言う。「何それ、行く!」カレーパンは大好きである。「華人の店?」「うん、そう」中国系のレストランで、どんな巨大カレーパンが出て来るのか、とても楽しみだ。そこで昼食をとることにする。

KL(クアラルンプール)から2時間余り。ちょうど華人の正月、春節の只中なのでKL市内は空いていたが、高速道路は帰省する車で少し混み合っている。とはいっても日本のお盆やゴールデンウィークとは比べ物にならないが、まあ日本の方が異常だろう。

カムパーの游記酒楼という店に入ると、客はみんなその名物だという巨大カレーパンを食べているようす。さっそく注文すると、あっという間に出てきた。つややかに茶色く光るそのカレーパンは、ふつうのカレーパンの・・10倍以上の大きさである。でかいよ・・。揚げてあるのではなく、大きなオーブンで焼いてあるものだ。

持って来てくれたおばちゃんが、パンにサクサクとナイフを入れ、切り開いていく。ああ、かぶりつくわけじゃないのね。まず真ん中を一文字に切り、今度は横に5センチ間隔ぐらいで切り込みを入れて上部を切り広げると、ワックスペーパーに包まれた鶏肉のカレーが出てきた。

日本のカレーパンのように、水気を無くしたカレーでなく、汁けたっぷりのチキンカレーがどーんと豪快に仕込まれていた。チキンもぶつ切りにしてあるとはいえ、おそらく半身分はあるだろう。じゃがいもが数切れ。まわりのパンをちぎって、さっそくカレーをつけていただく。「うん、おいしい・・けどパンがすごく甘い・・」カレーはなかなかおいしいのだが、このパンの甘さが苦痛である。パンだけで食べれば、焼きたてのふわふわで甘い菓子パン。それなりにおいしい。で、これをチキンカレーにつけて一緒に食べるのは、ちょっと違和感がある。マレーシア華人はこの甘さがいいのか・・な。

中身のチキンカレーは、日本のとろみのあるカレーとも、インドカレーとも微妙に違う。インドカレーに近いとはいえ、何か中華ふうな気配がする。スパイス使いに、どこか中華好みが混じっているのだろう。中華の山椒の花椒や、豆板醤? はたまた中華のスパイスミックスの五香粉か?

「え〜っと、ご飯もらおうっか」「いいね」ということで、最後はカレーパンの中身の中華チキンカレーを白飯にかけてライスカレーにして食べる我ら日本人。パンは半分ぐらい残してしまった。カレーパンを3人で食べている間にも厨房からはどんどん焼き上がったカレーパンが運ばれていく。持ち帰りの客もどんどん来るし、店は大流行りだ。

マレーシアの華人の料理にはカレーを使ったものが何種類かあり、日常的によく食べられている。カリーミーというカレースープの汁麺。魚の頭のカレー煮込。いわゆるチキンやマトンのカレー。それらはマレーシアのインド系、マレー系の料理とよく似ている。似ているのだが、やはりどちらも微妙にスパイスが中華系、ダシが中華系なのである。

日本の家庭で愛されているカレーライスは、インド人からすれば「インド風スパイススープのあんかけご飯」とでもいうものだろう。ご存知の方も多いと思うが、小麦粉でとろみをつけたカレーはインドから伝わったのでなくイギリスから伝わったものだ。インドではカレーという料理はなく、スパイスを素材に合わせて調合を変えて味付けする。とろみも基本的につけない。イギリス人がインド料理の一部分を抜き出して万能スパイスミックスとして作ったものがいわゆるカレー粉だ。鶏肉などをそれで炒めて最後に水溶き小麦粉を加えて、とろみのついたソースに仕立てるのがイギリス風のカレーである。

そして、そのカレー粉が日本でまた独自に進化を遂げて、脂分ととろみの小麦粉を加えて固められ、ジャワカレーだの、ハウスのリンゴとはちみつ入りカレーだの、星の王子様だののカレールーになった。この固形カレールーを使って作る日本カレーは、野菜や肉を入れたスープにとろみをつけた状態のもので、かなりの水分量だ。

マレーシアには華人と呼ばれる中国人たちが人口の3割ぐらい住んでいる。華人には、ふたつの大きな系統があって、15世紀の明の時代に移住してきた福建出身者を中心とする貿易商人たちの末裔と19世紀初めのスズ鉱山の開発にイギリス人に集められた広東や客家出身者を中心とする肉体労働者たちの末裔である。

数でいえば圧倒的多数の鉱山労働者たちは、鉱山や貿易港の周辺などで華人の町を作り、集まって住んで自分たちの中華文化を守り続けて今に至っている。これから行こうとしているイポーもカレーパンを食べたカムパーもそういう華人の町である。かれらはタイなどの周辺国の華人に比べると、中国人としての文化を相当維持していて、本土の現代中国ではもう失われた古き良き中華文化を残している。マレーシアに生まれ育ったのに中国語しかしゃべれない華人も多い。毎日食べているのは出身地の中華料理である。インド料理やマレー料理は基本的に食べない。文化は辺境に行くほど古い形が残される、という説があるが、まさに共産革命以前の漢民族の中華文化は元の中国から遠く離れたこの地でひっそりと保守されている。

それでも、いつのまにかインドやマレーの料理が姿を変えてマレーシア華人の食卓に上がっている。それがカレー系の料理である。そしてそのカレーには五香粉などの中華スパイスがこっそり加わっている。日本人が、刺激的なカレーの料理をマイルドにしてあんかけご飯スタイルに工夫して受け入れたように、華人もカレーに中華料理のスパイスを加えて、インドやマレーの料理をわずかに受け入れて楽しんでいるのだった。保守的だけど、ちょっぴり革新。そうして辺境で文化は生き残っていくのかもしれない。

イポーの町に着いて、永成茶室というひなびた店でまったりとギネスを飲みながらそんなことをぼんやり思う。百年と五年経つというこの店には沢山の種類のビールと量り売りのウイスキーが置いてあり、地元の華人とインド系の酒飲みたちがひっきりなしにやってくる。華人の喫茶店である茶室にインド系のおっさんが来るというのも珍しい。真っ黒な肌のこわもてのおっさんが店の猫を膝に置いてウイスキーをゆっくり飲んでいる。目が合うとおっさんはニタリ、と笑った。

別腸日記(1)口切り

新井卓

よい酒は水のように流れて記憶の砂地に消え、いつまでも宿酔いのごとく思い出に居座るのは、悪い酒ばかりである。

自分が思いのほか飲めることに気づいたのは十八のときで、浪人生として鬱々と過ごした冬の日だった。当時アルチュール・ランボーや中原中也などの悪い詩人たちに傾倒していたわたしは、映画館から帰る途中の酒屋で一番安いパック酒を一升、どうにかして買ってきてベッドに忍ばせた。

本当は、火鉢にあたりつつ股座に一升瓶を挟み「人肌燗」という中也の真似をしてみたかったのだが、火鉢はなかったのでベッドの中で抱いて、本でも読みながら温めることにした。抱卵するペンギンの気分で待つこと数時間、深夜を待ってパック酒の口を切った。

コップに注ぐと、人肌にぬるんだ液体から人造アルコールのむっとする刺激が匂いたち、口に含むといつまでも纏いつくような甘さが舌に残った。ところが、一杯、二杯とアテもなくただ飲みすすめても、いつまでも一向に酔う気配がない。そうしているうちに一升、ついに飲みきってしまってから、そら恐ろしい心持ちになった。

その後も頻繁に料理用ワインや「ホワイトホース」などの低級な酒を買い込んでは試し飲み、ベッドの下にはさまざまな形の空瓶が蓄えられていった。ブコウスキーの『詩人と女たち』を読むときはカティ・サークを舐め(これは少々奮発しなければならなかった)、金子光晴の『ねむれ巴里』では赤ワインを空けて、光晴がいうように本当にウンコが黒くなるのかどうか、確かめた。

やがて酩酊とはどんな気分か理解するようにもなったが、その「境地」に至るまでに、かなりの分量のアルコールが必要ということも分かった。それは、わたしに四分の一流れる奄美の血のせいなのか、よくわからなかったが、とにかくそのように一人で通過儀礼を終えて以来、失敗の方が多い酒とのつきあいが始まった。

仙台ネイティブのつぶやき(21)餅はごちそう

西大立目祥子

年が明けて、早ひと月が過ぎた。
ところで、みなさん、お正月はお餅を食べましたか? いま、必ず食べるという人はどのくらいいるものだろう。都会に暮らす若い人たちは、お餅のことなど忘れて年越しをしているかもしれない。

餅といえば正月だけれど、ここ宮城は餅の王国といえるところで、お祝い事には餅、農作業の区切りがついたら餅…と年中、何かにつけて餅を搗いて食べてきた。いま、手元に「大崎栗原 餅の本」という薄い冊子があって、─「大崎・栗原」というのは宮城県北の米どころといわれる地域なのだけれど─そこに昭和30年10月の「各市町村別各月餅食回数」というNHKが行った調査が載っている。驚くなかれ、最も回数が多い町は年間70回。5日に1回は餅を食べているのだ。ざっと見ると、平均は年30回ぐらいだろうか。

餅を食べるといっても、前日に餅米を水に浸し、臼と杵を用意し、台所のかまどに火を起こし蒸籠を重ね、餅米を蒸して…とその手間は、いまとは格段に違っていたはずだ。あれこれの準備や段取りの面倒よりも、餅への情熱の方がはるかに勝っていたのだろう。

餅は最高のごっつぉう(ごちそう)! そして、朝から晩まで田畑の仕事に明け暮れる農家の人々にとっては、暮らしの大きな楽しみだった。神社の祭りに、年中行事を行う日に、冠婚葬祭に、農作業の節目に、そして客のもてなしや休み日には、決まって餅を搗いた。いや、餅があったからこそ、きびしい労働に耐えられたに違いない。

機械化前の時代、農作業は田植えも草取りも稲刈りも、頼りは馬と牛、そして人。大家族で家には若い働き手がたくさんいたし、大きな農家となると近隣から住み込みや通いで働き手を雇い入れないと仕事は立ち行かなかった。これといった娯楽もなく、そもそも休み日がそうないのだから、この作業が済んだら餅、この行事のときには餅、とつぎつぎやってくる餅の日は、たらふく食べて一息つける安息の時間だったと思われる。

仙台も変わらない。「昔はね、何でかんで餅!」 大津波で被害を受けながらも多くの家が戻った市内若林区三本塚でたずねたら、間髪入れずにそんな答えが返ってきた。毎月1日と15日の休み日には決まって搗いたという。今日は休みだ…と寝床でもぞもぞしていると、隣の家や向かいの家からぺったんぺったんと餅搗きの音が響いてきて、「ほら、隣り始まったぞ。早く起きて搗け、と起こされたよ」とここで生まれ育った小野吉信さんが苦笑いしながら教えてくれた。

搗きたての白餅は、女の人たちがつぎつぎとちぎってあんをまぶし、重箱に詰めて親戚のところに届けるものだったという。自転車で遠くまで行った、という話に、子どものころ、兼業農家だった母の実家で年末に家族が総出で、ときには親戚の手も借りて餅搗きをしていたのを思い出した。畳を上げ、土間に杵と臼を出して餅つきして、搗き上がると丸めて鏡餅をつくったり、薄い木の箱に餅をのして板餅つくる。庭先で湯気の上がる蒸籠から、蒸しあがったばかりの真っ白でふわふわのおこわを手のひらにのせてもらい、あちちといいながら口にふくませると何ともおいしかった。そして、何日か過ぎると、従兄弟が自転車で固くなりかけた板餅を届けにくるのだった。

福島県中通りにある山間の町では、端午の節句の柏餅は母方の祖父母の家に届けるものだったと、と聞いたことがある。畑に育てておく柏の木の葉っぱでくるむ小豆あんを詰めた餅はもちろん手づくりで、「母親に、ばあちゃんのとこに届けてこう(来い)といわれ重箱を渡されると、田んぼの中の道を歩いて行ったね」となつかしそうに話していたのは60代後半の男性。柏餅は、娘から実家の親への元気の便りだったのかもしれない。

分家した兄弟へ、娘の嫁ぎ先へ、餅は届けられた。餅のまわりには決まって人がいた。餅は一人で食べるものではないのだ。みんなで準備しあい、でき上がれば遠くの人にも振る舞い、シェアしていっしょに食べるもの。どこか特別な食べ物としての位置づけは、あの白い粘りに力が宿ることを教えているようだ。

三本塚では、親が亡くなって葬儀が終わると、兄弟が囲炉裏をはさんで向かいあい、搗いた餅を引っ張り合う儀式があったという。ちぎれないように兄弟仲良くという意味を込めたものだろうか。
福島では昭和の祝言の再現に立ち会った際、披露宴の席で何人かが竪杵で餅を搗き、搗き上がった餅を杵で高く掲げると、参列者が祝言袋をつぎつぎと餅に貼り付けていく儀式があって驚いた。こちらは餅の粘りがご利益を引き寄せてくれるという願いを表しているのだろうか。

いまは、もちろん仙台でも農山村でもひんぱんに餅を食べることは少なくなってきた。それは大勢で過ごす暮らし方が変わってきたからなのかもしれない。でも、何か地域で催しをやることになって地元のお母さんたちにお振る舞いの料理を、とお願いすると、彼女たちは決まってこういうのだ。「やっぱり、餅だっちゃ!」

葡萄の棚

大野晋

小さな頃、観光バスに乗って林間学校に向かうと決まって甲府盆地での休憩は高い位置に棚がつくられた葡萄園だった。大きな観光バスよりも高い位置にある葡萄をどのように取るのか不思議だったが、年中売っている葡萄やワインや甘い葡萄ジュースをみやげにするのが決まり事になっていた。

一昨年から葡萄酒に関する表示義務が変わって、より厳格にぶどうの産地を表示しなければいけなくなった。ただし、即時に対応するという話ではなく今年いっぱいはまだ移行期間となり、来年、2018年から施行となっている。なぜ準備期間が長いのかという問題については歴史を追うことでみてみたいと思う。

日本で葡萄酒が最初に作られた正確な時期は定かではない。古い時期に、山梨県などで今でも作られている甲州という品種が入ってきていることから葡萄自体の伝来は早いようだが、ふつうに水が飲める日本では低アルコールの発酵飲料が一般に飲食に用いられることはなかったようだ。というよりも、稲作文化の日本では米から作られる日本酒やどぶろくが一般的な飲み物となったのは想像に難くない。葡萄酒の製造が大きくとりあげられるようになったのは明治期で、外国人や外国船に対する販売を目的に、殖産産業として葡萄栽培と葡萄酒の製造が奨励された。このまま、順調に成長すれば、東洋唯一の生産地となり、莫大な利益が上げられたのだが、ことは順調に運ばない。世界的な葡萄の病害の蔓延で日本も例がいなく壊滅的な被害を受けた。このとき、欧州産の葡萄とは異なる品種であったために甲州種は被害を免れ、これが山梨県が今にまで至る葡萄産地となる遠因になる。

ちなみに、殖産政策で中国からも葡萄の苗木が持ち込まれており、これが長野県に残って善光寺葡萄と呼ばれて細々と栽培されていた。近年の研究では中国の竜眼という品種とDNAの同一性が指摘されており、信州の特産種として葡萄酒が作られて長野県内で売られている。

さて、一端は病害の蔓延で中断された葡萄酒の製造だったが、国産の洋酒として日本人の好みに合うように改良されて、甘味を増した酒が大阪の寿屋から発売されて大ヒットする。現在のサントリーの始まりは模倣洋酒の販売から始まった。ワインは甘いものという刷り込みもこのときから始まるのである。この甘みの強い模倣葡萄酒は爆発的に売れ、全国にこれを製造するための葡萄畑が作られた。このとき作られた葡萄畑の特徴は、病気の影響を受けない米国産の品種で、粒も房の大きさも大きいナイアガラやコンコードといった品種が多く植えられている。長野県などでこうした品種の栽培が多いのは甘味果実酒の原料として作られていた歴史的な背景がある。

この後、第二次世界大戦になると、葡萄酒の副産物が兵器製造に使われたため、全国で葡萄酒が増産されている。ところが、こうした副産物目当ての葡萄酒は味に無頓着であったことから戦後に急速に衰退する。葡萄の栽培適地である山形県で葡萄酒の製造が少なくなっていた原因はここにあると言われている。

戦後もしばらく続いた甘味果実酒であったが、東京オリンピックの頃から変化する。食生活の欧米化と海外からのワイン輸入の自由化で、甘味果実酒がワインの王座から陥落したのだ。この傾向をいち早く察知したのは、大都市から遠く、甘味果実酒向けの葡萄を多く栽培していた長野県の塩尻付近の農家で、大取引先であったメルシャン社との協議の中で、当時、地元のワイナリーが栽培に成功していたメルロー種の栽培だったと伝えられている。その後、20年ほどかかり、桔梗が原と呼ばれるこの地域のメルロー種を使用したワインが欧州のコンクールで受賞することで、一躍信州が欧州系葡萄の産地として脚光を浴びることになる。今では、メルシャンの桔梗が原メルローは1万円以上の売価で販売される高級ワインとして知られている。現在の長野県は加工用ブドウの栽培では全国二位。高級ワインの原料の供給元としてはぶっちぎりの供給量を誇るまでになっている。

さて、戦後に起きた変化として忘れられないのが、農地法である。これによって、大きな農地が分割され、法人が農地を所有できなくなったのだが、ワイナリーはこの制限によって、加工用の葡萄を農家や農協から購入しなくてはならなくなった。この栽培と醸造の分離が他の国にはない日本の事情であり、コスト高を招く原因であり、そしてもっとややこしい事態を招く原因になっている。

変更された葡萄酒=ワインの表示義務として、国産のぶどうを100%使用したワインを「日本ワイン」と呼べることになっている。これは、輸入ワインや輸入果汁を原料にして国内で製造されたワイン全てを国産ワインと呼ばれていることに対する日本農産物を使用した農産加工品の証である。また、地域名称を呼称として使用する場合には、その地域の葡萄を85%以上使うこと。複数の品種や産地の原料を使用する場合には、原料として多い順に並べるなどが求められている。

ところが、最近まで多くのワイナリーでは、自産地以外の葡萄の使用や海外ワインの混入などが多く行われてきた。これは、ワイナリーが原料の葡萄の栽培まで行わない日本ならではの傾向であるが、販売場所を栽培場所と勘違いを起こしがちな消費者からすると、産地偽装とも思える事態でもある。ただし、これが日本の普通の中小のワイナリーの実情であった。そして、葡萄は購入するものであるので、産地を気にせずに手っ取り早く入手できる品質のよい、高級品種の葡萄が製造者では問題であったのは当然で、解らないことでもない。

そこで、ぶどうの産地表示やワインの呼称に関するルールが発表されたために、時間がかかる騒動が生じたというのが現状なのだ。現在、呼称問題にかかるワイナリーでは、駆け込みで苗木を購入して葡萄の増産にかかっているという。このせいで、苗木が不足する事態になっているともいう。ただし、葡萄の木が植えてから実をきちんとつけるまでに数年。きちんと成熟したよい実を付けるのなら10年以上必要なことを考えるとあまりにも付け焼き刃な感じがしてならない。

本来、第六次産業化を目指す葡萄の加工産業に関する政策が矢継ぎ早に出された背景には、従事者の高齢化で年々荒廃していく日本の農地対策という側面があったはずで、醸造事業者の手を借りて、農地を葡萄畑に再生したいという思惑があったはずだ。なんとなく、今の騒動が的外れな印象を受けてならない。

そう言えば、小さな頃に立ち寄った葡萄屋さんは、よく考えるとあそこで生産しているわけはなかった。葡萄もワインもジュースも買い込んだものを、葡萄園よろしい店舗に呼び込んだ観光客に販売するための売店だったのだろう。そう考えると消費者とは実態を見ずにイメージだけで判断する生き物だ。葡萄畑の中で葡萄酒を売っていれば、それはそこで作った葡萄の製品なのだと思い込んでしまう。昔から行われていることとは言え、消費者の誤解を前提にした商売は今後、厳しく律せられていくのだろう。

地方の小都市の街中にメガソーラーが置かれている昨今、できれば、農地の中には光り輝くソーラーパネルよりも青々とした葡萄畑が広がっていて欲しいものだと思う。
2018年がそういう年の起点になるといいと思いながら、騒動を眺めたい。

そうそう。正月は休んでしまったので、本年初めとなります。
読まれた皆様には2017年がよい年になられますように!

しもた屋之噺(181)

杉山洋一

突然肉が食べられなくなって、10日は経っています。食べられなくはないのですが、食べても美味しくなく、食べたい欲求も生まれません。生まれて初めての体験で、不思議やら驚くやら。但し、魚はこちらでは高価なので、肉が食べられないと厄介です。

1月某日
細川さん「大鴉」譜割り。アランポーのテキストを読むとき、譜面をみながら英語のテキストを見るとよく解る不思議。無駄がなく、効果的に書かれている。フレーズの構造は微妙に不規則で、各楽器がそれぞれのフレーズ構造をもつ。

1月某日
三軒茶屋自宅にて両親と再会。すまし汁に大根のみ、大げさな程たくさん入れた、父方の田舎独特の雑煮を食べる。子供の頃はこれに湯河原の叔父さんが採ってきたハバノリを沢山ふりかけて食べた。
コーヒー豆が切れていて、渋谷のトップでブラジルとマンデリンを挽いてもらい、歩いて帰る。良く晴れた正月休みは国道を通る車もまばらで、246沿いにある池尻の稲荷神社と、中目黒の氷川神社に寄る。元旦でないので並ぶ人も少なく、巫女さんたちものんびり談笑。ふと40年ほど前、自分が子供だったころの風景を思い出す。

1月某日
朝起きてコーヒーを淹れ、卵を焼きヨーグルトをかき込み自転車で荻窪へ出かける。三善先生の仕事部屋のピアノの上には、自筆の桐朋用ピアノ初見課題が置いてある。その傍らに、ラヴェルノートの自筆原稿が重ねてあり、ベルクのピアノソナタを分析した書込みを見せていただく。ピアノの足元には、マルティーノのオーケストラ用五線紙の束。

先生の遺影の傍らには、掌にすっぽり入る可愛らしい地蔵さんが二つ並んでいて、由紀子さんが蒐集したという。先生が軽井沢で作った、小さな模型飛行機が置いてある。居間で宗左近さん作の碧い杯でお屠蘇を頂く。味醂からつくったお屠蘇は、旧めかしく不思議な香り。普段から呑みなれていないからかもしれない。塩茹での長野の海苔豆にとても合う。青梅街道も車が少なく、自転車を漕ぐには心地良い。

1月某日
セーターを買おうと渋谷のデパートへ出かけたが、値も張ればイタリアで買えそうなものばかりで早々に諦め、久しぶりに本屋に足を向ける。本屋をうろつけば、時間を忘れることすら忘れていた。中学高校の頃は、レコード屋で何時間も買えないジャケットばかり眺めて過ごした。好きな本も読まず、会いたい家族や友達に会わない生活とは、何だろう。
思い立ってデパ地下で父親が好きなショートケーキを土産に買い、町田へ出かける。丁度、母親が珍しく買ったアワビが煮付けてあって、納豆と豆腐、蜆の味噌汁を前に、この上ない倖せ。

1月某日
功子先生に久しぶりにお目にかかる。会議で「それが学生のためになるのなら」が三善先生の口癖だったという。現代音楽をやって良かったのは、自筆譜から作曲家の意図を汲み取る訓練になったこと。さまざまなアーティキュレーションの持つ意味を、作曲家とともに読み解くことが、古典における読譜の姿勢に大きく影響したという。
現代音楽をやることで、普通ヴァイオリンニストでは出会う機会のない、声明のお坊さんらと親しく交流するようになってことは、人生に大きな変化をもたらした。小学校6年生くらいの頃、功子先生と一柳慧さんが池袋のコミュ二ティカレッジで演奏して、弟子に作曲を志している男の子、と紹介して下さったそうだが、そのまま話が弾むことはなかったそうだ。

悠治さん、波多野さん、栃尾さんと味とめに集い、鰮鍋を囲みつつ初めてホッピーを嗜む。息子が「蝶々夫人」をやっている話から、悠治さんが若いころ、二期会でピアニストをやった最初の演目が「蝶々夫人」だった話し。マンボウの刺身と書いてあって、久しぶりに食べたくて注文したが、湯通しで締めてあって当然かと独りごちる。ホッピーの前は、氷を浮かべた黒糖焼酎。

1月某日
一柳慧さんがレセプションで現代性、社会性について話された。もうすぐ誕生する新しいアメリカの大統領の名前も挙がる。
一柳さんは常に時代の最先端の技術を作品に採用して来られたでしょう、と川島くんが話していて、成程と思う。一柳さんご自身がハイテクではなくローテク好きだと仰ってらした印象が強く、川島くんのように捉えたことがなかった。時代の最先端、というフレーズから、前に悠治さんから聞いた真木さんの言葉を思い出した。「前衛というバスは既に発車してしまっていて」というあの件だ。
真木さんが1936年、悠治さんは1938年生まれ。それより少し前、1929年生まれの湯浅先生、1930年生まれの武満さん、1931年生まれの松平さん、1933年生まれの一柳さんくらいまでを、真木さんは前衛バスの世代と感じていらしたのだろうか。

1月某日
家人が日本に戻っていて、息子と二人韓国料理屋へ出かける。頼むものはいつも決まって、息子の好物のチュユポックンと、豚肉のグリル。焼きニンニクやトウガラシ、キムチと一緒にレタスで巻いて食べる。ミラノに韓国料理屋は何軒かあるが、この行きつけの店だけ雰囲気が違うのは、調理する小母さんもウェイトレスの妙齢も中国の朝鮮族で、中国人が経営しているからだろう。他の韓国料理屋よりずっと気の置けない雰囲気で、常連客に中国人も多い。朝鮮族は北方だから、これは北朝鮮料理かと尋ねると、延吉料理よと笑われてしまった。

サンチュを頬張っていた息子が突然「戦時中の日本人は良かった」と言うので、思わず聞き返す。すると、「戦争中の日本人は、今より頑張っていた感じがする」、「戦争中、日本、ドイツとイタリアは仲間だったのでしょう」と当然のことのように話すので愕く。理由は「火垂るの墓を見て、戦争中の日本人は頑張っていると思った」とのこと。
韓国料理屋で、出抜けにこんな話をする息子も不思議だが、ともかくそこでは戦後日本人は前轍を踏まないよう努力してきたのだよ、と声を潜めて説明することしか出来なかった。自分も戦争を知らないが、傷痍軍人の姿は目に焼き付いていて戦争の恐怖へ繋がっている。息子に対して、何をどう伝えるのが正しいのか。

1月某日
昨日は朝学校でレッスンをしていると、隣で室内楽のレッスンをしていたマリアが真っ青な顔をして飛び込んできた。「中部で地震よ!今朝もあって、今しがたもう一つ大きな揺れが来て大変。どうしよう。わたしはローマに娘を一人で置いてきたの」。
あれからずっと、マリアは廊下の教員用コンピュータに齧りついて、細かい地震情報に見入っていた。
仕事をしながら、合衆国新大統領就任式の中継を見る。家人は「時代の変わり目だから」と階下で宿題をする息子を呼んだ。非現実的で不思議な心地だが、大統領を選んだのはアメリカ国民なのだと納得させる自分がいる。

1月某日
夕食の肉に当たったのか、酷い胸やけの後、夜半洗面所ですっかり吐く。その音に愕いた隣の犬が吠え立てるのに困ったが、あれから肉を見ると、同じ胸やけを感じるようになってしまった。人体はかくも繊細かしらと呆れつつ、毎日魚を食べる。
ニューヨークの小野さんが、「禁じられた煙」のリンクを貼って下さる。新大統領の人種差別発言と関りがあるかは知らない。この曲を書いたとき、人種差別は時代錯誤だとばかり思い込んでいたが、数年たって間違いだったことに気づいた。

1月某日
27日のホロコースト解放記念日を前にして、息子は中学校で「ライフ・イズ・ビューティフル」を見ている。今まで歴史で習ってきた様々な出来事は、彼の中でまだ順番すら整理されず混沌としていて、白紙に一つの横棒を書いて説明する。

真ん中あたりに0年と書く。キリストの生まれ年。キリスト教徒により、時間が一方方向に流れると規定された年。それまで時間は円を描く存在だったが、個人的にはこちらの方がずっと良い。0年にキリストがユダヤ人に磔刑に処されたと言うと、息子は異を唱える。「でもその後生き返るのだから、殺されたわけではない」。そうかも知れないとも思う。
「何故大戦中、ユダヤ人が沢山殺されたのか」という息子の質問に、「キリストをユダヤ人が殺したから」と応えるのは、さすがに単純化し過ぎで、我ながら情けなくなった。尤も、20年以上住んでも彼らの心の奥底は解らない。彼ら自身も理解しているとは思えない。
イタリアの高校生は、この時期しばしば学校ぐるみでアウシュビッツを訪問する。それに向けて、中学一年の頃からホロコーストについて学んでゆく。しばらく息子はアウシュビッツ収容所の写真を見ていたが、恐くなって手を止めた。日本とイタリアとドイツが同盟を組んでいたのはこの頃だと言うと、息子の顔は少しくぐもった。

1月某日
今井さんの「子供の情景」のため、どうしてもカルロ・ゼッキの校訂版を読みたくて、「音楽倉庫」にクルチ版を買いに走る。指使いやペダル、テンポ指示より寧ろ、各曲にゼッキが印象的なコメントを載せていて、それがどうしても読みたかった。
1961年にプリントされた古本。最初のページの右肩に赤ペンでサインが記されているが、崩れていて名前はわからない。Bruno Panella、のように見える。紙は大分日焼けしているけれど、手触りはとてもよい。昔らしい丁寧な造り。

「昔々、とてもどこか遠い国でのこと…。詩人は彼の幻想的な物語を語りはじめる。ほら、この言葉が幼い子供たちを幻想にいざなう。ほら、すっかりつぶらな瞳を見開いて」(知らない国々)。

「夜。すべてが口を噤んでいる。沈黙と漆黒の深みから、天上の声が立ち昇る。天使の声かしら。いや違う。それは詩人(この情景の目に見えぬ証言者)が、ほんの一時、思索と幻想と夢のまにまに佇み、思い出の、希望の、若かりし日の情熱の世界に迷い込んだのだ。
金の竪琴の上で、感動に突き動かされて、詩人は私たちにささやく。
どんな障壁や苦悩をも打ち砕きながら、私たちは高みを、天上の和音が鳴り響き、至高の精霊が君臨し、すべての懊悩が忘却の彼方へ消えゆく、高峻な絶頂を目指す歩みを、止めたことはなかったと」(トロイメライ)。

「まぶたは、疲れた瞳の上におりてくる。辺りのすべてが口を噤み、ざわめきは小さな部屋の入り口に消えてゆく。終夜灯は、青ざめた光を眠り込んだ小さな顔に投げかける。そこでは、単調な揺り籠の上げるきしみ以外、何も耳にはいらない」。(こどもは眠る)

「考え抜かれ尊い体験に満ちた言葉。
…子供たちよ、君たちの世界は全てが愛と詩だ!君たちは喜びの中にいるんだ。
君たちの年齢が与えてくれる喜びだけを、知っているのだからね…
これらの音符に、男の諦観が満ちているのを聴くようだ。レオパルディの「村の土曜日」の言葉のように。

お前は、愉しむがよかろう。
これは心地よい季節。これは甘美な時間なのだ。
他に何もいうことはない。
お前の集いが遅れたとしても、悪く思わないことだ」(詩人のお話)

誰でも知っている「村の土曜日」最後の4行だけが、とても小さく印刷されている。
土曜日は労苦から解放され、希望と喜びに満ちた最高の時間。それをお前は愉しめばよい。
待望の日曜日になれば、新しい辛苦の憂いに悩まされるのだから。レオパルディは青春を土曜日に喩えた。

インターネットでゼッキのインタビューを聴く。
「1941年の冬のことだった。アルベルト・クルチがこの部屋にやって来たんだ。
当時はエレベーターはなかったがね。それで僕にこう言った。
“失礼だがカルロ、お宅にオリーブ油は足りてるかね”。
“いいや全然だ。うちは油がなくて一週間何も料理していない”。
“そうか。じゃあ子供の情景をやってくれないか。ほら、これがオリーブ油だ”。
“そりゃ凄い!もちろん喜んで引受けるよ!”。
こうやって子供の情景が始まったんだ。

それから2週間後にアルベルトがまたやってきた。
“ああ、どんなにかクライスレリアーナについて知ることが出来たら最高なのになあ!300グラムの小麦粉でどうだい”。
“何と言ってよいか。感謝の至りだよ。僕もうちの女房も君に何とお礼を言ってよいのか解らない!”。
かくしてクライスレリアーナの仕事は無事に終わった。

それから2ヶ月経って、またアルベルトがやってきた。
“カルロ、多分お宅はハムなどなかなか手に入らないのではないかね”。
“ああそうなんだよ、大変なんだ”。僕がそう言うと、
“これはどうだ”と言って、アルベルトは持ってきたトランクを開けたんだ。そこには大きなハムが入っていて、こう言った。
“ダヴィッド同盟はどうかな?”。
“ああアルベルト、何て有難いことだ!”

そんなこんなで、ダヴィッド同盟、クライスレリアーナ、子供の情景、ソナタ、ピアノ協奏曲など、僕のシューマンの校訂版は、貧しかった戦争中の滋養の糧だったというわけさ」。

まるでレッスンのように、一つ一つフレーズごとに書き込まれたゼッキの注意書きを読みながら、「戦争中の日本人は頑張っていた」という息子の言葉を、思いかえす。

(1月30日ミラノにて)

グロッソラリー―ない ので ある―(28)

明智尚希

「1月1日:『まあ今すぐ買い変えなきゃならないってわけじゃないんだけどさ、こういうのって結構長く使うものだから、ついつい慎重になっちゃうんだよな。みんなが変えたからって俺もまねしたら、前のほうがよかったなんてことにもなりかねないしな。後悔先に立たずっていうだろ。でもまあここまで悩む必要があるのかどうかだな』」。

(´-ω-`) ナヤムナア

 天中殺で蒙を啓かれたヒゲの世の中、胡蝶の夢のごとくのごとく、創造とは逆境の中でこそ見出されるものじゃ。ドミノシステムが横行している今、友人で敵の痰と鼻汁が割を食い、運任せの暮らしを強いられている。江戸病に悩んでいる暇はない。我々はパワー指数を捨て、理論を背負ってものを見るのじゃ。世界性を獲得し、東を制服せよ。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

 Xは働いていない。一日中ベッドで横になっているか、旅を繰り返しているという風の噂。だがXに働かれてしまったら、存在価値が落ちるというものだ。なぜなら、どこかで必ず生きているということが貴重なのだから。働くことなど簡単だ。そんなことより、いかにして時間から逃れられるかが、Xにとっては最重要な課題なのである。

:::( ^^)T ::: 雨だ

 協調性がないと言われ続けておる。幼い頃から今の今まで。辞書的な意味じゃなく、協調性ってなんじゃ? 他人に媚びたり、おべっかを使ったり、ずるずるべったりの付き合いをしたりすることか? 非の打ちどころのない下衆の適格者なんぞ、ご免こうむる。協調性がないならないで良いが、逐一そんなことを言いに来られるのもご免じゃ。

なかよし♪( ´ー`)⊃⊂(´ー` )こよし♪

 「1月1日:『やっぱり買い換えたほうがいいかもな。みんなが持ってるってことはそれだけいいものなんだろうし。迷ったら買うなとか言う人もいるけど、今回ばかりは反対させてもらおうかな。迷ったから買う。なんか変だな。迷っても買う。まあどんな言い方でもいいんだけど、今は買うほうが八割、買わないほうが二割ってとこだな』」。

( ̄ヘ ̄)┌ ハヤクキメナサレ

 ほどほどの発熱は、日々に丸みをもたらしてくれる。不安の元とは、そもそも全方位に伸びた先鋭にして鋭敏な神経にある。熱によって麻痺すれば、常人並みに楽に呼吸できる上、物体からの言いがかりや数字・色に度肝を抜かれることも減少する。時間も常になく時宜を得る。ご多分に漏れず、発熱もまた病気であることに変わりはないが。

( ~ д ~ )ハ・・・ハ・・ ( ~ д ~ )・・・出ネェヤ

 「動く」とは、形を持つ無機物もしくは有機物が、現在接している地面からずれること、ないしは現在の底部が接している地面との角度がずれることである。また、特に二足歩行をする有機物に関する外的な状況が、継続してきたものと異なってくることや、最上部にある器官が司っているものが、継続してきたものと異なってくることでもある。

ε=ε=ε=(ノ^∇^)ノスタコラ

 「お前が先に言ってきたんだろう!」「言ってねえよ!」「言ったね」「言ってねえって」「言った言った」「だから言ってねえって言ってんだろ」「言っただろうが」「言ってねえよ」「言ったくせに何言ってんだよ」「だからおまえが言いだしたんだろうが」「俺じゃねえよ」「お前だよ」「言ってねえって」「言ったね言った」「だから言ってねえって」。

_(*_ _)ノ彡☆ギャハハハ!!バンバン!!

 悪夢の登場人物とは、実は我々のほうである。脳幹出血で亡くなった知人。永遠に目を開けることのない清澄な尊顔を前にして、そう思った。彼女はようやく悪夢から目覚めたのだ。彼女を失望させたものや幻滅させたものが、決して出入りの許されない扉の中へ入っていった。誰でもいい何でもいい、早くこの悪夢から目覚めさせてくれ。

(^オ^)(^ハ^)(^ヨ^)(^ウ^)(^ー^)

 「最後に校長先生から一言。神、そして人生の目的、これらについて私は何を知ろう。私の知るのは、世界があること。眼が視野の中にあるごとく、私は世界の中にある。世界の意味は世界の中にはない。生とは世界である。生の問題の解決は、その問題の解消にある。しかし生が問題をはらまなくなっても、なお生き続けることは可能だろうか」。

( ̄ー ̄?)…..??ありゃ??

 ギッフェン財を本懐成就のあてがい扶持として、計上の及ばないきぬぎぬの囲われ者に六月無礼をするんじゃ。雁行するTFTとシュレーディンガーの猫、それからボードレールの黒猫をゆめゆめうそぶくべからず。物見高いもろみの泡ではあるが、あやかしの首実検を太平楽にしゃれこんだら、今昔の感に堪えず、光の裏には影があったのじゃ。

\(^_^)/ばんざーい..(/_^)/なしよっ

 「1月1日:『そうだ。松子に聞いてみればいいんだ。なんで気づかなかったんだろう。なんか抜けてるんだよなあ俺は。こうやってずっと一人で考えても埒が明かないし、確かあいつはスマホを持っているはず。松子おばさん、知ってるだろ? 俺の妹だよ。会ったことあったっけ。ない。あそう。え。忘れた? まあそのうち会うだろう』」。

モイチド (0’∀^0) マツコデス

 まああれじゃな。なんちゅうか、人間は小さい。小さいから壮大なものを前にすると、自分でも仰天するような宗教感がじわじわ湧いてくる。歴史ある宗教の原始の信者たちは、何か壮大なものと近しくしていたのじゃろう。物体であったり考え方であったり、その辺はわからんが、当時にしては革命的な一件と生活が結びついていたんじゃろうな。

アーメン( -ω-)m †

 同じ案件にもかかわらず、一日のうちで刻々と考えが変わるのは自然なことである。ただし一過性であれ思考の結論として、絶対や真実などという突拍子もない表現は避けなければならない。どれだけ結論が最上のものと確信したとしても。絶対や真実は裏街道に隠れつつも安請け合いはしない。したがって大抵の結論は思い込みということなる。

(・ ・ * )。。oO(想像中)

 某国に対する意識調査。有効回答数八十余名(某全国紙夕刊)。

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

 表現者たるもの、自らの弱点を吐露しなければならない。駄目と弱点は異なる。前者は共感を呼ぼうとする下心のある喧伝にとどまるのに対し、後者は枝葉状に広がる思考回路を培養する内的な呟きである。良い目と耳は、そこかしこに点在する、自信という裏書きのない小声の表現を逃さない。この際どさ峻別できる人は本当にいるのだろうか。

m9っ( ̄ー ̄) ニヤリッ

 そうじゃなあ。わしは一人しかおらんが、いろんなわしがおる。今現在のわし、畏まったわし、脳髄が千々に乱れたわし、エッチなわし、これ大好き。もうお祭り状態。カーニバル&フェスティバル。万歳六唱。三日三晩徹夜。まさに天国。いやそうではなくてじゃな、わしがここで強調しておきたいのは、ここには書けないということじゃ。

イクー(;´Д`)♂

 「1月1日:『じゃあ、ちょっと電話するわ。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい』」。

… (((-‘д-)y-~ イライラ

 芸術家は、忘れ去られた不具者と同様に、社会において役割を持っていない。社会の規則や凡俗の慣習によって判断されることは不可能である上に、それらを受け入れたり拒絶したりすることで、褒めることもけなされることもない。芸術家は人生の幸運児ではない。しばしば命取りとなるような苦しい仕事を完遂しなければならないのである。

(w_-; ウゥ・・

製本かい摘みましては(126)

四釜裕子

「ハラペコ カーニバル!!」を合い言葉に幕が開く「せいほんげきじょう」という話をまとめた小さな冊子があります。葉書サイズで、柄入りでろう引きしたようなオレンジ色の紙がカバーです。観音に開くようになっていて、さしずめこれが最初の幕でしょう。開くと、ワニ君とニンジン君とカブ君が白い緞帳の前でお出迎えです。幕の下部はエプロンのフリル、あるいは菓子の下にひくレース模様の白い紙のよう。よく見ると、本という字や本を開いたシルエットが切り抜かれています。

ハラペコ カーニバル!! 掛け声とともに緞帳があがります(白い紙を上にめくる)。すると中綴じ冊子の真ん中のページがあらわれて、ワニ君は左側のページに立ち、左に向かって闊歩し始めます。追いかけていくと……、本の神様のもとに生まれた本の妖精が、製本職人のところへ魂を背負って旅立つというお話のはじまりです。

製本ワークショップの始まりにおこなう、「製本とは?」というような簡単な質問に答えながら、それを本文として、小さな冊子に仕上げるという課題に対する作品のひとつです。職人が、長い旅をしてきた妖精のつかれをいやすために「おやつもわすれません」というセリフも良かった。自分の中にあるものが、手の中からこんなふうに本のかたちとなって現われてくる経験は、きっと楽しいものだと思っています。

シンジャールを忘れない

さとうまき

1月13日、ナブラスの家族を訪ねた。ちょっと寄り道をしていて、ナブラスの家についたときは、日が暮れていた。
「昨年、同じ日にナブラスは亡くなったんですよ」母親が出迎えてくれた。
一年前、父親が電話をくれたのを覚えている。なくなる数日前に訪れたナブルスは、薄暗いコンクリートブロックを積んだ建てかけの家で、痛みに悶えていた。

シンジャールの村を追われたのは2014年の8月3日だ。突然、治安を担当していたペシュメルガといわれるクルド政府軍が撤退してしまった。ナブラスの家族たちはドホークにのがれ、建設途中の建物にとりあえず落ち着いたが、キャンプもまだなく、逃げてきた人たちは、ドホーク市内の学校や、同じように建てかけのビルなど、住めそうなところに寝泊まりしていた。逃げ遅れた人たちは連れ去られ、殺され、レイプされたという。

亡くなる前、ナブラスは、「シンジャールにもどって学校に行きたい」といっていたのを思い出す。
「ナブラスは、その日、割と調子よさそうでしたが、急に容態が悪化しました。とても冷静で、モニターを見ながら、『私は死んでいくのね』といっていました。」

お母さんは、ナブラスが元気だったころの写真をたくさん見せてくれた。ほとんどの写真は、逃げてきてから写したものだ。ともかく、逃げることを考えていたから、写真などもほとんど持ち出せなかったのだろう。

モスル解放作戦が進み、「イスラム国」の支配地域は、狭まっている。
「シンジャールにそろそろ戻るつもりなのですか」と聞くと、「シンジャールに戻る気はありません。私たちはここで暮らしていきます」という。

翌朝、クルド政府の職員らとシンジャールに行くことになった。夜明け前にホテルで待ち合わせる。検問所からは、ペシュメルガの兵士がエスコートしてくれるという。なんと兵士は2人とも女性であった。

まず、最初に我々が向かったのは、シャファディーンというシンジャール山のふもとの村だった。カースミシャーシというヤジディ教徒のリーダーに挨拶しに行くという。「イスラム国」が襲ってきた時、彼の部隊は、ひるむことなく、村を守った。ヤジディ教徒の中では伝説ヒーローである。

いかにも、親分といういでたちで、兵士たちは、敵が攻めて来たらいつでも応戦できる体制で配備されていた。検問で働くイラク警察官が3人ほど呼ばれ、何か口論していた。カースミシャーシの部隊は、ペシュメルガに参加している。クルドとアラブで内戦が始めってもおかしくないような緊張した雰囲気だった。なんでも、イラク警察に失礼な態度があったとのことで、叱られていたそうだ。今、シンジャールは、「イスラム国」はいなくなったものの、クルドのKDP、PUK、シリア系のYPG、トルコからPKKなどが入り、勢力争いの渦中にある。イラク中央政府は今一つプレゼンスを示せていないようだ。

その日は、カースミ・シャーシュの息のかかった地域を案内してもらうことになった。
検問を超えてシンジャールに入る。村の入り口のあたりには、人が戻り始めている。サッカー場もあり、そこは激しく壊されていた。町中の治安部隊本部の周辺にはちょっとした雑貨屋さんが開いていたが、町中を回ると、激しく破壊され、がれきだらけだった。シンジャールは、モスルやファルージャと違う。もっと小さな町。歴史の名から完全に忘れ去られるのだろうか。と思わせるくらいの破壊のされかたである。

2014年8月から、シンジャールから避難してきたヤジッド教徒の人たちと出会い、時にはレイプされた女の人の話を聞いた。時には、ナブラスのようにがんの子どもたちに寄り添った。シンジャールが忘れ去られないように、子ども達が描いてくれた絵を展示する。

2月10日―15日 ギャラリー日比谷にて 「イラク、シリアの子ども達へ、バレンタイン展」を開催します。
詳しくはhttp://jim-net.org/blog/event/2017/01/210215.php

春に

若松恵子

急に暖かな空気が日本上空にやってきて、春を感じさせる夕暮れ。5時近くになっても明るさが残るようになった空に、薄い三日月と一番星が美しく輝いている。信号待ちの自転車を止めて「ああ、きれいだな」と見上げる。春を想い出させる1日の終わりに、吹き始める風がまだまだ冷たくて、センチメンタルな気持ちになる。

風邪ひきの布団の中で沢木耕太郎の『春に散る』上・下巻(2017年1月 朝日新聞出版)をずっと読んでいた。2015年4月1日から2016年8月31日まで朝日新聞に連載されたものが、単行本になったのだ。連載中に読むことができなかったので、単行本の刊行を楽しみにしていた。

かつてボクシングの世界チャンピオンを目指し、挫折した後もアメリカでひとり懸命に生きて、人生の終盤をむかえた主人公が病を得て、40年振りに日本に帰ってくる。「死ぬ前にぜひやっておきたいこと」が明確にあるわけでもなく、「生まれ故郷の日本で死にたい」という思いがあるわけでもない。「帰ろう」と思えばすぐに引き払う事ができる、アメリカとのつながりもそんなさっぱりとしたものだった主人公が、ふと日本に帰ってきて過ごす、春から次の春までの1年間の物語だ。

人を求めていない主人公だが、普通に生活するなかで出会う人たち、かつて知り合いだった人たちに丁寧に向き合っていくうちに、次第につながりができてくる。そして「ただその場に止まりたくないという思いだけで、ここまで歩きつづけてきた」主人公が、「いま、自分は、遠ざかろうとしているこの場所に心を残している。」と感じる自分の居場所を得ていく。

ボクシングを教えることを通じてかつてのジムの仲間、若い世代との絆が結ばれていくストーリーは、沢木ファンにはうれしい展開だ。高倉健を主人公に考えていた映画の脚本のアイデアがこの小説のきっかけになっているというような話を沢木氏はラジオ番組でしていたけれど、孤高の主人公、広岡仁一は高倉健のイメージにも旅が多い沢木氏自身のイメージにも重ねて読むことができて、なかなか魅力的だ。沢木ファンとしては、広岡の姿を追っているだけでもいいという楽しみ方もあった。

沢木耕太郎のノンフィクションとフィクション、どちらが好きかと聞かれれば、断然ノンフィクションの方だ。彼のフィクションには、直球すぎると感じる部分が多い。例えば主人公の名前、「仁一」は、八犬伝のなかから出てくる8つの言葉から父親が「仁」が一番大事だと思ってつけた名前なのだというくだりがある。「仁が一番だから仁一」・・・・うーん。そのまんまだ。少しもスタイリッシュじゃない・・・。しかし、「仁」という言葉をあらためて調べてみると、「他人に対する親愛の情、優しさ」とある。さっきまで過ごしていた物語の時間の中で、広岡のあり方は、この「仁」の説明文のようだった。そして、「優しくしよう」と心がけるからではなく、他者に対する自然な振る舞い方としての優しさによって、思いがけずに人との関係が広がっていくという物語だったな、と思い返されるのだ。

読み終わったばかりの『春に散る』は、まだ丸ごとの物語の時間として、春の夕暮れの淋しさと共に思い返されてくる。広岡が帰ってきた春、行ってしまった春。両方を含んで今年の春がこれからやってくる。

『花粉革命』

笠井瑞丈

今年の5月に父 笠井叡が16年前に初演で踊った『花粉革命』という作品を踊る
この作品は父がもっとも再演をし 世界各国で踊った作品です

初演はシアタートラム
今回もシアタートラム

今回この作品をやるなら絶対シアタートラムという強い想いがありました

カラダはいつかは無くなる
生まれることは
死に向かうこと
そんなこと
あんなこと
ぼやっとですが
いままで考えなかったこと
そんなことを考えてみた

そうしたら




嗚呼 
これを踊らなければいけない
そう直感しました
これは3年前でも5年前でもダメで
そして3年後でも5年後でもダメで
今とりかからなきゃいけない事だと感じました

この作品を踊るというのはとても大きな挑戦であり
これは自分がやらきゃいけないことだと思いました

ダンサーは作品と出会う
作品はダンサーと出会う

いま日々稽古をしています
この作品を父が踊ってたときは即興を中心で踊っていました
父のカラダには再演を繰り返し踊りがカラダに侵色しています
この侵色した色を取り出し新しいカラダのキャンパスにのせる

振付
カラダを作る
カラダは踊る

再演
様式から形式

きっとまったく新しい『花粉革命』が生まれと思います。
5月です。どうぞ頭の片隅に入れて頂けたら幸いです。

ヒストリーとストーリー

冨岡三智

昨年の大河ドラマ「真田丸」では、時代考証を担当する研究者のドラマに関する発信がいつになく多かった。その中で最も驚いたのが、史料に基づく実証的な研究が進んだのが1990年代以降、特に豊臣政権樹立後から江戸時代に入るまでの期間に関する史料に即した研究が進んだのはここ5年ほどだということ。そんな最近のことだったとは思いもよらなかった。大河ドラマが始まったのは1963年だし、その原作になるような、史実を踏まえた司馬遼太郎らの歴史小説が書かれ始めたのもその前頃(だいたい1950年代後半)からだ。とすれば、今まで私たちが小説やテレビドラマ、映画で見てきた関ヶ原の戦いや大坂の陣などのエピソードなどは何だったのかといえば、実は江戸時代の講談や明治以降に作られたフィクションが多いのだという。

真田十勇士がフィクションだということは分かるけれど、合戦研究なども明治になって陸軍参謀本部が兵士の教科書として作り上げた部分が多く、実証的ではなかったのだそうだ。このことは研究者には当然の事実なのかもしれないが、私には驚きだった。このドラマでは、史実通りではないとクレームがきた描写が、実は最新の研究成果から分かった史実に基づく描写だった、という状況が時々起こっていた。ところが、時代考証者や脚本家自身の反論があればあったで、史実通りに描けば良いというものではないとか、皆が良く知っていることは史実でなくても入れるべきだと矛盾したことを言う人もいて、結局、人はヒストリーよりも自分の信じたいストーリーを好むのだなあと感じたことだった。

そんなところが気になってしまうのは、インドネシアでの出来事とつい比較してしまうからだ。インドネシアで以前、ある大学教授―ということは知識人―と話をしていた時に、その人がインド伝来の叙事詩である『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』を歴史(sejarah)として認識していて、そのことに私は大変面食らったことがある。私自身は、それらは歴史的な記憶が反映されているとしても物語(cerita)であり、実証的な歴史とは違うと当然のように思っていたからだ。その後、同様の経験をした日本人と会って、インドネシアではこれらは歴史として認識されているようだという話で盛り上がったことがある。

田中千鶴香氏によると、historyとstoryは元々は一つの語で分化したものらしく、現代英語でもhistoryに「時間にとらわれない自然現象の体系的記述」という意味があるのだそうだ。ということは、史実かどうかを問わず出来事のつながりを物語ることがヒストリーであるらしい。そうなると、インドの叙事詩もヒストリーだし、実証的でなかった今までの関ケ原合戦の語りなどもヒストリーだということになるのだろうか。上で、「人はヒストリーよりも自分の信じたいストーリーを好む」と書いたけれど、むしろ「人は自分の信じるヒストリーが否定されると怒る」ということだったのだろうか。

雪の下の隈笹

璃葉

日光の山へつづく道には雪が降りつもり、林の木々 -松や白かば、ハルニレなどの幹や枝には、飾りつけをされているかのように、雪がはりついている。林のむこうに連なる山の頭もすっかり白くなっていた。
今日も星を見にきた。
午後3時すぎの陽射しはあたたかく、風もほとんどない。
太陽の光が雪道に反射して、あたりがいつもより明るい気がする。
車をゆっくり走らせていると、林道のわきにサルがいた。こちらをじっと見つめたあと、すばやく木によじ登っていった。
赤色のおしりが、枝のすき間からちらりとみえた。

星を見るためのいつもの場所に到着すると、日は暮れはじめていて、東の空に光る金星がさらに際立っていた。
まわりの風景すべてが青白くなっていく。そよぐ風は静かで、頰に染み込んでいくように、つめたい。
とっぷりと日が落ちて、明るい惑星や恒星が輝くなか、林の奥へとのびる道の、両わきの雪肌から、ところどころ笹の葉が顔をだしていることに気づく。
そういえばこのあたり一帯は、隈笹の原っぱなのだ。春の夜に歩いたときは、月の光に照らされた笹の葉がさわさわと夜風にそよいでいた。
ぶ厚い雪をすこしだけかき分けると、若葉の青々とした色ではなく、黄味がかった葉が顔をだした。寒さで色素が抜け、白い縁取りが目立つ。隈笹、という名のとおり。
5月に飲んだ笹の葉茶のことも思いだした。あのときは白い隈取りがない若葉をいくつか摘んで、小型バーナーを使ってその場で煮出した。
山のなかで飲む「即席 笹の葉茶」はおいしかったが、焙じ茶をつくるときのような手順を踏んで煮たら、もっとおいしいのではないか。
雪から出してしまった葉を、手ぬぐいにくるんで持ち帰ることにした。

葉を洗って乾燥させたあと、ハサミで細かく切り、自称ほうろく鍋に入れて火にかけると、部屋中に芳ばしい香りがひろがる。
寒い部屋が、これだけであたたまったような気がした。茶葉店からただよう匂いそのままだ。
とろ火でしばらく煮ると、湯が透き通った淡い黄色になったので、一口飲む。おいしい。
まろやかな甘みがひろがり、そのあとはすこしの苦味と深みが残る。何となく春を思い出すのは、笹の葉で包んだ桜餅と味が似ているからかもしれない。
煎った残りの葉は、保存するための容器がみつからなかったので、ひとまずタジン鍋に保管した。
数日たって、ふと、ふたを開けてみた。心地よい香りがちゃんとのこっている。
つぎは、青い若葉を摘みにいってみよう。
そう思うと、雪どけの春を待つのもたのしい。

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緑色の壁

植松眞人

 仕事が辛かった。デスクワークなのに、まるで一日中走り回ったかのようにぐったりと疲れ切っていた。最寄り駅からバスのなくなった路線をバス停四つ分歩いて古びたマンションに着いた。中古で買ったマンションは最近になって若い人たちがたくさん入居してきて、住居用のマンションだったのにアクセサリー店を開いたり、革製品の工房を開いたりして、妙な具合になっていた。
 五階建てのマンションにはエレベーターがなかった。階段で四階まで上がり、自分の部屋の鍵を開ける。妻はもう寝ているだろう。妊娠がわかってから妻はやたらと眠るようになった。以前は宵っ張りだったのだが、いまでは夜の七時、八時にはベッドに入ってしまう。
 静かにドアを開け、物音を立てないように荷物を置くと玄関口に座り込んで靴の紐を解いた。そして、立ち上がり部屋の奥の方へと向き直ると、玄関からリビングへと続く短い廊下が緑色だった。
 今日家を出るときには、白い壁紙で覆われていた壁が少しくすんだ濃い緑色になっていた。朝顔の葉っぱのような緑だな、と私は思った。そして、じっと壁紙を見つめた。緑色の壁紙は無地ではなくよく見ると、やっぱり朝顔の葉っぱにある葉脈のような模様があった。プリントではなくちゃんと凹凸があり、指先で触ると本物の葉っぱのようで葉脈の部分は不規則に盛り上がっていて、まるで巨大な朝顔の葉っぱをそのまま壁紙として貼り付けたように思えるのだった。
 私はしばらく廊下に立ち尽くしたまま緑色になった壁を眺めたり、指先で触れたりしていた。なぜ、妻は私になんの相談もしないまま壁を緑色にしたのだろう。白い壁になにか不都合でもあったのだろうか。
 私はいろんな理由を数えてみたのだが、しっくりと腑に落ちる理由には出会えなかった。答えなど最初からないとわかっているのに、くるくると鉛筆を右手で回しながら答案に向かっているような気分だった。
 リビングと玄関を区切るドアは閉ざされていて、磨りガラスには薄らと橙色の常夜灯が映っていた。妻はもう寝ているのだろう。私はドアを開けた。常夜灯のオレンジ色の光に照らされたリビングの真ん中のタグの上で、妻は薄いタオルケットだけを足元にかけて眠っていた。
 リビングの壁は今朝見たままの白い壁紙に覆われていた。私はなんだかホッとして妻に「ベッドで寝ないと風邪を引くよ」と声をかけた。だいぶお腹が目立つようになってきた妻は、そのお腹を愛おしむように撫でながら目を開いた。横になっている妻の身体に私は背後から身体を寄り添わせて、妻の背中に頬をつけて妻のお腹に手を這わせた。「最近、よく動くのよ」と妻は言う。私は妻の着ていたタオル地の部屋着をたくし上げて、生身の腹に直接手を置いてみた。掌から妻の身体のぬくもりと鼓動のような振動が伝わってきたが、お腹の中の赤ん坊が動いているかどうかはわからなかった。「いまも動いてる?」と私が聞くと、妻は「ずっと動いてるわ」と答えた。私は用心深く手の腹をさっきよりもほんの少しだけ強く妻のお腹に押し当ててみる。すると、さっき玄関先の緑色の壁紙にあった葉脈のような凹凸が感じられた。妻のお腹を走っている血管なのだろうか。私はその凹凸に沿って、そっと指を這わせた。「くすぐったい」と妻は言って笑った。私はそこで妻が笑ったことがなんとなく妙な感じがして黙っていた。「どうしたの」と妻が聞いた。「どうして緑なの?」と私は質問で答えた。「だって、私、緑色が好きだもの」と妻は答えた。「君は緑色が好きだったのか」と私が言うと、妻は「馬鹿ね」と言った。
 妻は寝室へ行き、僕は緑色の廊下を通ってバスルームに行き、シャワーを浴びた。そういえば、バスルームにある洗面器やタオルや石けん入れも淡い緑色をしていた。そうか、妻は緑色が好きだったのか、と私はシャワーを浴びながら思ったのだが、本当にこのバスルームにある緑色のいろんな物が、昨日も緑色だったかどうか思い出せないのだった
 シャワーを終えて、寝間着に着替えると、私は再び緑の廊下を通り、リビングを通って、妻が寝ているベッドルームへと向かった。そして、その途中、私は立ち止まった。緑色の廊下とリビングを区切っているドアのあたりだった。
 よく見ると、廊下の緑色の壁紙はリビングのドアを少しはみ出して、リビングルームの側にも入り込んでいた。リビングの側から見ると、ちょうど白いドアを緑色のぎざぎざとした壁紙が縁取りしているようにも見えたし、少し見方を変えると、巨大な朝顔の葉っぱの真ん中に白いドアがはめ込まれているようにも見えた。
 「時間の問題だな」と私は思った。そして、しばらくその様子を眺めていたが、芯から身体を揺するような疲れに押されるようにベッドルームへ入った。妻の隣に半分開いていたスペースに身体を滑り込ませた。そしてまた背後から妻を抱くようにして、妻のお腹に掌を這わせてみた。さっきよりも葉脈のような凹凸がはっきりと感じられるような気がした。妻は小さくいびきをかいて寝ていた。(了)

狂狗集 2の巻

管啓次郎

あ 朝焼けに炎を借りて焚く命
い 椅子から転げて子犬がそのまま眠つてる
う 有為転変地球の果ての蒙古斑
え 永劫の愛を誓ひし映像家族
お 恐ろしい速さで雲が飛んでゆく

か 環状線が頭をきつく締めつける
き 近海漁業そぼ降る雨にも放射能
く クリスマスという名のさびしいマスゲーム
け 賢なるかなお笑い一筋ジャン=ポール
こ 交渉なんて食事のあとのだまし討ち

さ 坂の上塗られた空の同心円
し 詩歌悲歌挽歌さざんか道の声
す 酔狂もteetotalの副作用
せ 性格こそ忠犬そのもの鴨そのもの
そ そっくりこのままこの海をごくんと飲めるなら

た 大気圧形状記憶のステンシル
ち 誓いも新たにこれから畑を耕さう
つ 「つい出来心で」そうさすべてはhappenstance
て 定型詩にあこがれ「東」の窓を仰ぎ見る
と 遠くまで行かう陶酔もなく問ひもなく

な 泣き寝入りの子犬夢で吠えるよわんわんわん
に 新潟平野の湿原忍耐力のあいうえお
ぬ 縫い針で心を縫つて袋詰め
ね 猫にまでお礼をいひたい陽気です
の 濃霧を抜けると不意打ちだつた northern lights

は 歯が痛いので今日は帰らう春の海
ひ 「光あれ!」と叫んで懐中電灯ともす小学生
ふ 福引きと福笑いによる歴史観
へ 変形文法で視界の歪みを矯正する
ほ 本格的な狩猟に精霊の助けと持久力

ま マイスター・エックハルトにちなんだハムエッグ
み 眉間に皺寄せ口を歪めてそれでも「いいよ」といふ
む 無闇にガムを嚙むなよ歯がバキバキ折れるぞ
め メンソレータム目蓋に塗つて深夜の中央道
も もういちど白砂に潜れ白日夢

や 焼け野原世界の終末跳び越えろ
ゆ 夕方から生じる心の響きを録画せよ
よ 洋上の鳥緯度に抗う筋、骨、眼

ら 騾馬の反逆帝国解体奴隷の怒(ど)
り 倫理なく理解なく理由なく由来なし
る 留守番とバナナ一房不可分契約
れ 恋愛的連弾ダダとダダとのダダダダダ
ろ 楼閣が崩れてゆく老人は死んでゆくと朗唱せよ

わ 鰐の涙の真実うそとまことの弁証法

贋金つくりは何をする?

高橋悠治

まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進める(ジッド)

聞こえた音はその場で儚く褪せてゆく 一つの音から次の音へ瞬間ごとに移動する重心 バランスを取りながら全体が変化する 三つの音の作る三角形の間に引き合う力の線 前の音に押されて次の音が現れ 流れができる 漂う瞬間の行き交う波打つ時空

ケネス・スネルソン (1927-2016) が彫刻で試み バクミンスター・フラー (1895-1983) がテンセグリティーと名づけた空間の枠組にも似た 音楽のひとつの考えかた 離れた音が重みを感じさせず空間に漂いながら 中心がなく支え合っている 聞こえる音は結び目のその瞬間の位置 リズムや音程もその地点の間隔や距離をしめすだけ 音と音の間をつなぐ見えない糸が全体をうごかしていく 厚みも裏もなく翻る表面が かたちを変えていく

ここでは音もリズムもメロディーも 音楽として聞こえる部分は 煙や水 雲や炎のように 揺らぎ流れ過ぎていく影の 聞こえない枠組の痕跡 余韻にすぎない ザミャーチンの短編小説『洞窟』(1922) の最後 舞う粉雪の彼方 足音もたてず移動する巨大なマンモスのように 音はかたちのない運動の影だと言えば 以前は神秘主義と思われ 嘲笑されるだけだったが いまなら 音は身体化した運動の痕跡だと言うこともできる 

創るプロセスそのものが作品であり 書かれた音はいつもおなじだが二度と同じ演奏がなく くりかえすたびごとの即興でもあるような そんな音楽 あるいはどんな音楽からでも そういう音の空間を創りだすことができるか 1968年に終わった構成主義の時代 中心と目標をもった構造の魅力がなくなって以来 音楽や詩だけでなく 社会運動のなかにも多様性とプロセスをだいじにする動きがみえる 不安定な社会 ゆれうごく時代の表現なのか  

クセナキス『シナファイ[相互関係]』(1969)の演奏について 作曲者と話した時に 隣り合う音をメロディーではなく ちがう層への移動とみなすと メロディーのような線ではなく  エネルギーの瞬間的断層ができる 二本の指の間で具体的にどうすればよいかを実験してみた この断層は ほんのわずか隙間を空け 音の強さに微かで予測できない変化をつけると 量子跳躍の瞬間に生まれてたちまち消滅する光子のように 一瞬のきらめきが走る 連続した音の運動のみかけと ばらまかれた粒が飛び散るような不連続な時空が 同時に現れる それから数十年後の最近になって バロック音楽やシューベルトに一部このやりかたを使ってみる これはまったく非伝統的な演奏技法とは言い切れない チェンバロの技法には似たものがある でもそこには断層と跳躍の印象はない

2017年1月1日(日)

水牛だより

明けましておめでとうございます。
日曜日ではじまる新しい年。区切りがいいのは、なんとなくいい気持ちです。朝、短い時間だけ陽ざしの入る窓をあけて、2017年の乾燥した冷たい空気を部屋のなかまで呼び込みました。

「水牛のように」を2017年1月1日号に更新しました。
さすがに1月1日だけは更新作業から解放されたいなと思ったりもするのですが、自分で決めたことなので、誰にも文句は言えません。それに原稿がこんなに届くのですから。年が明けてから届いたものもあります。

青空文庫も無事に新しい年を迎えて、今年からパブリック・ドメインとなった19人の作家の作品が公開されました。ことし青空文庫は20周年を迎えます。成人になるのですね。

さあ、今年もおもしろいことをやらなくちゃ!

それではまた!(八巻美恵)

狂狗集 1の巻

管啓次郎

あ 朝が歩く明るい雨にぬれてゆく
い 犬の仔や虚空の徘徊永遠軌道
う ウランバートル街路の孤児の賭け莨
え エルザスとアルザスの間に吹雪く音韻
お 尾がしめす導き無くして救ひに至る

か 快哉也周回道路のメビウス環
き キラウエア喫水線のkill away
く 苦難の道だ茨の冠だ長い道だ
け 鶏飯に騒ぐ獣の稲荷信仰
こ 荒涼平原歩む勇気の合言葉

さ 砂金掘りに記憶預けて船出せよ
し 島々の意図縞の思想の布の糸
す 水木金ねむって過ごす自己セラピー
せ 清少納言?夢なき旅路の未知の美女
そ 想像域に猿を泳がせ川下り

た 楽しさは前世忘れる試練なり
ち チミチャンガ赤と緑の中間地帯
つ 追憶は草葉の陰の冗長性
て 提携します世界の眠りを乱すため
と 遠い海岸私の波には誰が乗る

な 泣く子らがザリガニむさぼる夏休み
に 人情も忍耐もなき庭作り
ぬ ヌメアで出会え不適な面の偽ゴーギャン
ね 熱帯で歌うハレルヤ念仏行
の 濃厚なショコラ一杯100マイル

は 俳諧と徘徊と諧謔と嗜虐
ひ 非人称先取りされたニルヴァーナ
ふ 不快指数を快に転じる心意気
へ ヘルシンキ地獄の口は犬に訊け
ほ 包囲光に魂さらす万聖節

ま 迷う勿れすべての迷路でおれが待つ
み 未開というも「開」に開なしこれで良し
む 無情と人情いずれの道も深情け
め 明解な満月狂気の鏡をひとつ割り
も 猛獣の心をきみが手なずけた

や やなこったパンナコッタが欲しいんだ
ゆ 夕方を崇めて千年夜を待ち
よ 妖術と魚の頭のせめぎ合い

ら 雷鳴に目覚し間際の紅楼夢
り リスボンや栄華の果てに鴎あり
る 流転せよ苔むす石ころ夜明けは近い
れ 連綿と写経のごとく文字を打つ
ろ ロックに死す墓場の宵の岩石譚

わ 忘れ草嚙んで舌を黒く染める

モスル解放作戦

さとうまき

モスルの解放作戦がはじまってから2か月以上がたつ。

ナナカリー病院は、モスルの中心部からは80㎞くらいは離れているアルビル市内にあるがん病院だ。モスルにもイブンアシール病院というガンを扱う病院があるが、いまだにIS(イスラム国)の支配下に置かれている。驚いたことに、ISに支配されていても、逃げずに残った医者は、子ども達に化学療法を行っていた。

モスル近郊の村は、イラク政府軍と、ペシュメルガと呼ばれるクルド自治政府軍、そしてアメリカを中心とした多国籍軍の攻撃で、ISが次々と撤退している。ISから解放されたのはいいが、今までイブンアシール病院に通っていた患者はもはや、ISには行けないから、イラク軍に連れられてナナカリー病院まで連れてこられる。ナナカリーの医者は、「モスルからの患者は、プロトコールを持ってきます。驚くべきことに、ちゃんと抗癌剤を使って治療をしていたようです。」

救急車で難民キャンプから連れてこられる患者さんもいて、病院は大混雑だ。モスルからの患者は全体の3割近くを占めている。当然薬が足らなくなる。外の薬局で薬を買わなければならない。数千円する薬ばかりだ。着の身着のままで逃げてきた人が、薬を買ってしまったらそれこそもう何も手には残らない。買った薬のレシートを持って患者の親たちに囲まれてしまう。

今日は大みそかだからちょっと奮発してある程度そういうお金を払って上げようと病院に出かけた。最後の日だからというので、患者であふれている。薬を処方してもらいに来るが残念ながら病院にない薬がおおい。

いかにもモスルから来たというお母さんが、直腸がんで、抗がん剤が効かず、手術をしなければならないので支援してほしいという。その費用が3000$。いきなりめげた。僕たちは子どもの支援しかしていないのでごめんなさいというしかない。

そして廊下を歩いていると、いかにもモスルから来たというおっさんが座っている。いかにも本当にモスル出身だとわかってしまうからつい声をかけてしまった。「3日前に、逃げてきたんですよ。息子が3人とも血友病なんです。薬を注射しないといけないんです。」
彼の村はまだ銃撃が続いている。イラク軍のいるところに逃げて保護され難民キャンプに収容されているそうだ。FECTOR 8という特殊な薬が必要なのだが、病院にはない。いや、正確にはあるのだが、すでにそれは今まで病院に通っている子の薬だから、回すわけにはいかないのだ。

親父と一緒に町中の薬局を探し回ったが結局手に入らなかった。
「モスル(IS支配下)では、薬は手に入ったのに! どうしたらいいんだ」
親父は涙を浮かべていた。
「心配しないでください。夕方になったらあく薬局があるから」といって夕方また薬局を探してみたが見当たらなかった。

結局大みそかなのに、一人の患者も支援できずに年を越してしまった。
米軍が、モスルの病院を誤爆したというニュースが入る。とうとう、イブン・アシール病院が壊されてしまった。まだモスルに残っているがんの子どもたちは一体どうすればいいのだろう。

そして、2017年が始まった。病院は1月2日から開く。さらにごったがえすだろう。

ジャワ神秘主義と卵

冨岡三智

明けましておめでとうございます。今年の酉年にちなんでニワトリ関係の話を1つ…ということで、卵の話。

タイトルにあるジャワ神秘主義というのは、ジャワ島に見られる土着信仰で、瞑想修行や霊力のある物(剣や石など)の収集などを通して超常力を身につけようとするものだ。私は実はジャワで霊的な力を持つ人に見てもらったことがあり、その際に卵を使うのである。

私が出会ったジャワ神秘主義指導者(以下、老師)は、ある舞踊家(以下、A氏)がその方面で師事する人だった。10年ほど前、A氏は自分の舞踊公演に老師を呼び、公演後に私にも紹介してくれた。当時、私には深刻な悩みはなかったが、この種の人たちがどうやって「見る」のかにずっと興味があったので、今度ある助成金に応募するのでアドバイスしてほしいという相談を持ちかけた。

その夜、老師はこれから水浴しようと言い出し、ソロかジョグジャ辺りの郊外のどこか分からない聖水の水源地へと私は連れていかれた。王宮関係の場所のようだ。かなり広い敷地で、門の中には満々と水をたたえたプールのようなものがあり、月明かりに照らされている。他に人はいない。老師と共に私はそこで水浴びをした。

それから私の家に向かう。老師に言われて、私は途中で開いている市場で生卵を1個買った。余談だが、これは2005年夏の出来事だった。卵の値段が高すぎると私が店の人に文句を言うと、「実はねえ、最近この村で鶏がバタバタ死んでしまって、いま卵はなかなか手に入らないのよ〜」という会話を交わしたのだ。2005年12月になってインドネシアで鳥インフルエンザの死者が出たと発表があったので、それより何か月も前から地方の鳥の間では流行していたことになる。

閑話休題。私の家に着くと、薄暗い電気の明かりの下、私と老師は差し向かいで床に座った。老師は祈りの言葉を口にしたあと慎重にその卵の先を爪で欠いていく。中から石が出てきた。ジャワの男性がはめている指輪に載っている石くらいの大きさだ。ジャワ人でも懐疑的な人は、薄暗い中でやるのがミソで、指の間に隠していた石をさも卵から出てきたように見せるのだと言うのだが、それでも目の前の光景に仕掛けがあるようには見えなかった。老師は、それをお守りにして絶えず身につけていなさいと言う。もし老師の力を呼ぶ必要があれば、石を右手(確か)に載せて祈りなさい、私に通じるから、とも言う。そして、私の相談ごとだが、私の書類にはまだ不備が多いのでもう一度初めから書き直しなさいと言う。もう少し詳しいアドバイスがあったがそれは秘密。ともかく、そのお陰だったかどうか知らないが、私は無事に助成金を獲得した。

私が老師にもらった石は緑色だった。私たちにずっと同行してくれたA氏の甥が後日語ったところによると、緑色の石はランクが高い、これが出てくるのは珍しいと羨ましがられた。彼も老師に何度か見てもらっているが、茶色い石ばかり出てくるそうだ。もらう人(私)のランクによるのか(笑)、相談内容によるのか、老師の手持ちが偶然緑色の石しかなかったのかは分からないが、この石を指輪にして身につけるのが良いらしい。私は指輪には加工せず、紙に包んで財布の中に入れていた。ところが、この石は私が助成金を得てインドネシアに再び戻った(2006年8月)早々に忽然と消えてしまった。このことをジャワ神秘主義に通じた人に話すと、石には「意志」があり、その使命を果たすと消えるのだと慰められた。

冬のほしぞら

璃葉

ことしは星座の観察をするために、しばしば街のそとへ出かけたが、ほんとうにうつくしい星空をみつけるのは、とてもむずかしいことなのだとあらためて実感する。

星空の観察に見合う場所。
それは、電灯や街の光がとどかず、空気が澄みきっていて、建物や木々が密集していない、空ぜんたいが見わたせるひらけた地。
意外とあるのでは、とおもうかもしれない。ところが、東京から気軽に足をのばしてそんな場所をみつけるのは、とてもたいへんなことなのだ。東京の街の光は、栃木県の山奥の夜空にまでとどく。山にかくされていると気づかないけれど、原っぱに出ると、低空あたりがオレンジ色にぼんやりと、不気味に光っている。
さらに、さいきん山の道や集落には、LED電球の外灯が立っているところが多い。
星をみて、さらに撮影するひとからすると、この刺すような光がいちばん厄介らしいのだった。撮影するときだけ電灯にダンボールなどをかぶせたりすればいいのだけれど、それもいろいろと難儀だから、やっぱりよい場所をさがすしかない。

夜空のなかでみつけるたびに気になってスケッチしているくじら座には、約332日の周期で明るさを変える脈動変光星ミラがある。いまはまだ真っ暗だけれど、そろそろ光りはじめるころなので、それもふくめてながめるのがたのしい。
くじら座は、ギリシャ神話のなかではアンドロメダ姫をさらう化け物として登場する。メドゥーサの首を突きつけられ石にされてしまい、そのまま空に迎えられ、星座になったという。低空に位置するうえに、ミラが暗いと目立たない星座なので、さえぎるものが多い街のなかや、明るい場所ではあまりみることができない。
いっそのこと、沖縄の離島に行ってしまおうか、と妄想するなか、ことしさいごの観察にでかけた。12月の新月の日。福島の、とある村に着く。山から雪が飛んできていて、霧が立ち込めている。
空は晴れていて、宝石のような星が散らばっている。天の川も、オリオン大星雲も、そして、くじら座もくっきりみえる。膝下まで積もるふかふかの雪のなかを、紙とペンを持って歩きまわる。自分の足音以外は、とても静かだ。星は、音が鳴りそうなくらい瞬いていた。たまに凍りつくような風が吹いてくるたびに、寒さで涙がでる。

星々はゆっくりと移動し、つよくかがやく金星が山の向こうに沈んでいく。
あしたもまたあらわれる金星を、わたしはどこでむかえるだろうか。
くじら座とそのまわりの星座を描き出しながら、想像する。

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146 黄鉄鉱――改稿

藤井貞和

紫式部さーん、
いくつになりましたか。
おれはあんたに仕える約束を、
ときにほったらかして、
ちがう哲学、
ちがう物語で、
すきまをかさねる毎日だ。
結果は、
見てのとおりさ。
黄鉄鉱という作品を書いたことがある。
紫式部さーん、
あんたはわたしをゆるす、
何を書いてもよい、
緑の石油は神々の排尿、
肥料の井戸に垂らす黄鉄鉱の粉末、
哲学は濡れる全身、
と書いても書いても、
おれはすべてをゆるされて、
立ち尽くすばかり。

(まったく反応をもらえない。でも、すこし炎を吹く肛門から磁鉄鉱までが転がり出てきた、なんて。内科にゆき、外科にもかよって、あんたの介護と、あんたからの介護とで、一〇〇〇年の歳げつがついに経ちました。かのじょはおれがなにを繰り返しても、なかばで忘れてきみの哲学に、物語に、と専心している。おいらは捨てられてつづく、誤解のままで、二〇一六年が暮れようとするみたい。)

仙台ネイティブのつぶやき(20)土に生きる人

西大立目祥子

 昨年秋遅く、大津波の被害を受けた仙台の沿岸部でお米と野菜の収穫祭が開かれ、会場に設けた農業相談コーナーで通訳をやることになった。でも外国人に仙台の米づくりを説明する、というのじゃない。回答者である地元農家、佐藤善男さんの仙台弁を相談にくる人にわかりやすく伝えるというのが仕事。「ヨシオさんの通訳だよ」というと、みんなフハハと笑った。
 
 善男さんにお会いしてみると別に通訳が必要でもなく、お餅を提供した会場の片隅に長テーブルを出しておしゃべりをしながら相談者を待った。これが案外と盛況なのである。中高年、少なくとも地方の人々はかなりの比率で、農によろこびを見出しているのは確かなようだ。

 一人目は70代と見受ける女性。「妹から畑預かってやり始めたんだけど、今年はジャガイモと大根植えたのね。来年も同じもの植えて連作障害みたいなのは出ないんですかね?」とおずおずと話す。ああ、大丈夫だねと答え、作付けのコツを話す善男さん。2人目のアスパラガスを植えたあとの植え付けについても、即座に回答。静かな口ぶりで話す横顔を感心しながらながめた。

 3人目は、掘り起こした赤ガラ芋(里芋)を持ってやってきた。根にはいくつもの里芋がくっついている。「来年に向けてどういう作業をしたらいいのか」という質問だ。「この芋をとって種芋にすればいい。藁を一つひとつにからめて土をかぶせるんだね。来年7月ころになると芽が3、4本が出てくるから、そうしたら肥料を一回かける。それまで肥料は入れないことだよ」と、これまた的確。

 いっしょにきた男性が、脇から「玉ネギ植え付けたいんだけど、急に寒くなってきて、いまからでも大丈夫ですかね」と聞いてきた。「11月中なら大丈夫。薄いビニールを張って20センチくらいの間隔で植え付ける。石灰窒素を入れてはだめだよ。玉ネギの苗はねえ、細いくらいのがいいんだ。太い茎のはすぐに花が咲いてしまうんだよ」とこれまた具体的なアドバイスに、質問の男性は熱心にメモをとっていた。

 話はつぎつぎといろんな野菜に広がる。「ナスは根もとにビニールかけてはだめ。ナスの根は浅いところに張るからね、ビニール張ると暑さにやられてしまうんだな」
「ジャガイモは畝の高いところに植える。そうして水は控えめにして、葉が少し黄色に見えるくらいでちょうどいい」
 話をききながら、ジャガイモは南米アンデス山脈が原産で、いつかテレビで標高の高い乾いた山々で農家の人が腰を折って種芋を植え付ける作業を見たのを思い出した。野菜が生まれたふるさとに思いをはせれば、育て方をイメージしやすいのかもしれない。来年もこの農業相談をやるなら私も少し勉強してきて、野菜の原産地の話をしたらもっと楽しくなるかな、と思いつく。
 
 何より、細部を詰めていくような具体的な話は、そばにいて何時間聞いていても飽きることがない。その経験にもとづく確かな自信に満ちた話に「篤農家」ということばが浮かんだ。昔は、研究熱心ですぐれた技術を持ち、まわりに先駆けて新たな品種を導入するような篤農家とよばれる農家が地域には一人二人必ずいたものだ。

 善男さんは、深沼という浜に生まれ育ち、先祖から受け継いだ田と畑を守ってきた。農業の先生は父親。父親の先生はそのまた父親。そうやってこの土地での農業技術をからだに刻み込み、蓄積し発展させてきた人なのだ。そして、自分なりの技術を磨く支えとなったのが「ノート」の存在だ。

 ここ何十年にもわたって、日誌のようなかたちで大学ノートに毎日の天候や作業の記録をつけてきたという。「たとえば1月1日なら、毎年毎年その日の記録を同じページに書く。何十年もたつと、暖かい年、寒い年、いろいろあっても、そのページを開けば今日は何をすべきかがわかるんだ」

 記録と実践と反省と。そのたゆまぬ繰り返しの中で得た深い納得を、まわりからは頑固者といわれようが善男さんは決して曲げることなく実践したきたのだと思う。だから、昭和61年の8月5日の大水害で宮城県内の多くの田畑が水没したときも、前日にじっくりと空を眺めてすべてのジャガイモを掘って災害をまぬがれたし、平成5年の大冷害で東北の太平洋側の米が大凶作となったときもさほどの被害は受けなかったという。

 その農業人生を支えてきたノートを、善男さんは大津波で失ってしまった。でも、こういうのだ。「全部、俺の頭に入ってっから大丈夫なんだよ」と。

 深沼は災害危険区域となり、家を再建してすむことはできなくなった。少し離れた地区に家を立て、善男さんは塩抜きした田んぼでの米づくりを再開し、毎日毎日育ち具合を見に通う。津波被害を受けたエリアでは、農業の法人化が活発になっている。
それを否定はしないけれど、新たな就農者も含めみんながやりやすいやり方で、技術を平準化する農業の中からは、善男さんのような一人黙々と土に向かい飛び抜けた技術を持つ農業者はきっとあらわれないだろう。

 そのこだわりの米づくりについては、また別の機会に。

グロッソラリー―ない ので ある―(27)

明智尚希

「1月1日:『いや恥ずかしいとこ見られちゃったな。俺のケータイ。古いまま。いや買い換えようとは思ってるんだけど、俺はアプリとかたぶん使わないからさあ。通話とメールができればそれで十分。でもやっぱり人に見られるとなんか恥ずかしい。お父さんとお母さんはスマホに変えたの? ああそう。周りもみんなそうなんだよな』」。

^_^)ロ———ロ(^_^ )℡♪

 たまに自虐的なことを言う。ブレーンが一人もいない。年々太っていく。専門用語だけは知っているが、内容は別。現場のことを熟知したつもりでいる。いかにも無神経そうな顔をしている。PCに向かってはいるが、必ずしも仕事をしているとは限らない。口だけは結構達者である。突然話しかけてくる。考えがすぐ変わる。そんな上司。

( ̄ー ̄*)qq(゚ー゚;)オツカレサマデース

「冥土の土産に」「先は長くない」。元気でありながらも、老人はきっかえさえあれば、そのような言辞を弄する。彼らと死は、実は似合っていない。生との付き合いがあまりにも長くなったため、死が霞んでしまっている。国に何かあれば、真っ先に死ぬのは若者のほうだ。死への婉曲的な言及は、老人自身に死を再認識させるための手段である。

(-(-д(-д(`д´)д-)д-)-) 突撃ぃ〜〜!

 同調圧力をかけてくる内観的で、ちょちょいのちょいな薔薇の乙女といえども、形は形なきものになり得るんじゃから、暴力装置を分解しなきゃ許さん。人生は匿名の人々から遠ざかっていったんじゃ。しかし人間はなんて美しいのじゃろう、人間である間は。綺麗ごとならそれでいいから、綺麗にやりたいだけなんじゃわさ。政府は安全じゃな。

( 。-x-)-x-)-x-) シーン・・・

「1月1日:『ケータイなあ。ああどうしようかなあ。結構悩むねこれ。俺が優柔不断なだけか。ははは。そこまで笑うことはないだろ。まあ確かに優柔不断ではある。これは認めるとして、さあどうするか。変えるべきか変えざるべきか。あ。なんかこんなのあったよな。何だっけ? 小学生にわかるはずないか。まあいいや。ははは』」。

(+Д+)エットアット・・・エット・・・ドウシヨー

 冷眼下瞰なわしではあるが、いかんせん薄志弱行であるがゆえに、酔生夢死の状態でありながら春風駘蕩とした人生を願ったが、秋霜烈日なのに波乱万丈な、そして不定愁訴のうちに終えそうじゃ。高邁雄渾な行動や累世決壊の一つもなく、天下御免の向こう傷もなく、高等批評もせず、ただいたずらに乱離骨灰。純粋観照の生涯。な〜んてな。

(^_^) な〜んちゃって

 博覧強記な人や『百科全書』はあれども、『人間辞典』や『世界言語辞典』を編んだ人はいない。唯一挑んだのはジョイスだろう。『ダブリナーズ』で人間の陋劣さや卑小さを細かく描きだし、『フィネガンズウェイク』では人間模様に加え数十カ国の言葉を取り入れ、片目を潰しながら完成させた。アイルランドと人間への嫌悪愛に満ちていた。

キラ━凸(≡д≡)━イ!!?

「もう充分だ」
「何がだ」
「充分であることが」
「……」

\(-___________-;)/ワーイ??

 病気や苦悩の種一つを持っていない人は、人生において損をしている。健康・健全であることは、人間のあるべきかつ望ましい姿だが、このイデアの純乎たる模倣品は、おのれを牽引する思想や哲学を欠いた、穏やかな機械である。人間の悲惨や人生の妙味を知らず別体である自覚もなく、摩擦もないまま既にして上首尾に末路を辿っている。

C= C= C= ┌(;・_・)┘トコトコ

「1月1日:『あやっぱりどうしようかなあ。今のままでもいいっちゃいいんだけど、みんな持ってるしなあ。俺も持ってたほうがいいのかなあ。どうしたもんかなあ。スマホに変えたとしても、すぐに新しいのが出るしなあ。買ったはいいけど、使うの結局メールと電話だけだったりしそうだもんなあ。いやー難問難問。まいったねこれは』」。

(-_-)ゞドウシヨウ

【ないないランキング】
第1位:電線で二度寝
第2位:病院祭り
第3位:美女と野獣と大五郎
第4位:通夜でちゃんこ鍋
第5位:完璧な野良猫ピラミッド

バタ ヾ(≧∇≦)〃ヾ(≧∇≦)〃バタ

 夜の満員電車、コントラバスのケースを抱えた小さな老人が乗ってきた。その際、ケースの一端がこちらのつま先に乗ったので、反射的に足を引っ込めた。乗り換え駅で下車した時、老人は腕と胸倉をつかんできた。曰く「なんで蹴った」。小さく惨めに痩せこけ、泣いたような表情。そんな風に落ちてもなお生きたいのだ。殴るのをやめにした。

パーンチ!(o゚Д゚)=======O三★)゚◇゚)

 まあしかしなんじゃな、人間の非力さをまざまざと感じる今日この頃じゃよ。愛、平和、時間、宇宙、人間じゃ解明や実現できないものの代表格じゃな。この四つを扱った幾千万の作品や言葉は、無情にも葬り去られたわけじゃ。きっとこれからも同じじゃろう。できないまま、わからないままにしとけ。わかりきった生活にはもう飽き飽きじゃ。

ワカラン(*-乂-*)ウーン。。。

 水商売の女性やゲイの男性には、慧眼の所有者が多い。おそらく、由々しき屈折、思い出したくもない曲折、何とでも呼べる類いの苦悩を通して、人間の暗部や裏の顔を知らずには済まされなかったのだろう。平素、彼らは明るく振る舞う。だがその神経的な眼は、視線は、見始めた瞬間から鑑識をしている。そしてその鑑識結果に外れは少ない。

・・・(-_-)ジィー

『この世界の片隅に』の想像力

若松恵子

じわじわと観客数を伸ばしているアニメ映画『この世界の片隅に』(監督・脚本片渕須直)を2016年のうちに見ておきたかったので、年の瀬の映画館にでかけた。

映画の冒頭、主人公すずの小学生の頃の想い出から始まる画面、幼かった主人公、のどかで平和な頃の広島の風景を眺めただけで何だか涙が出てきてしまった。夕暮れの海の色合いなのか、映画の底に流れている思いに触れたせいだったからなのだろうか。

映画は、2009年に「漫画アクション」に連載されたこうの史代の作品を原作にしている。昭和18年から21年の日本、18歳で広島から呉に嫁いだ主人公の生活を淡々と描く。戦前、戦中(広島の原爆投下も含む)戦後という時代のなかで、少女から大人になっていく主人公をゆっくりと描く。

単行本化された漫画のあとがきの言葉を私は重く受け止めたい。
「わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかもしれません。そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします。そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。(中略)この作品は解釈の一つにすぎません。ただ出会えたかれらの朗らかで穏やかな「生」の「記憶」を拠り所に、描き続けました。」(こうの史代著『この世界の片隅に 下巻』(2009年4月 双葉社刊)

原作者も監督も、戦争を直接経験した世代ではない。しかし、「自分だったかもしれない」他者の生への尊敬と共感をもって想像力で描かれたこの作品にはうそが無い。

絵が上手で、でもそれが職業に結び付くなんて思いもしない時代に生きた主人公のすずは、こうの自身だったかもしれない「生」だったし、遊郭に売られたりんとすずの心が通い合う場面を見ると、すずがりんを自分だったもしれない「生」として心を寄せているようにも感じる(無意識であったかもしれないが)。

世代を受け継いで生まれてくる人間は、前の時代を生きた人間と無関係ではないし、同じ時代を生きている人間とも無関係ではない。時代や空間を越えて存在する「自分だったかもしれない無数の生」に共感しながらも、人はたまたま生まれた時代や境遇を懸命に生きるしかない。『この世界の片隅に』に描かれるのは、ヒーローではなく、戦争の時代にも関わらず「朗らか」で「穏やか」な「生」だ。時代や状況に踏みにじられるばかりではない人間の尊さというか、戦争でも踏みにじることができない人間のきらめきというものを感じて胸を打たれた。

そして、時代にも関わらず「穏やかに」生きられるためには、出会うものとか境遇だとかに必要以上の運命や物語を感じない事も大事なのではないかとも思った。すずは見初められて嫁ぐのだが、強い意志があったわけではない。見初められるきっかけとなるエピソードはあるが、夫になった人も、無理なことをしてしまったのではないかとずっと迷っている。ふとしたきっかけ、たまたまの出逢いであっても人はそこから絆を結んでいく。「あなたと出逢ったね」という関係になっていく。ヒーローや劇的出逢いの物語を見すぎて、ずっと誰かを待っているより、このすずの物語がいい。

都合よく時代や立場が入れ替わってしまう「君の名は。」とは違う想像力を、『この世界の片隅に』に感じた。戦争を直接体験した世代が居なくなってしまったとしても、こういう想像力があれば希望が持てるのではないかと思った。

製本かい摘みましては(125)

四釜裕子

年末は年に一度のデットストックダンボールの開封。2016年も捨てられなかったものに革漉き用エプロンがある。製本を習っていたころに作ったものだ。仕事帰りに通っていたので最初はふつうのエプロンを持参していたのだと思う。ある時期から革漉き作業が続くようになり、これがもう、いつまでたっても終わらなくて、苦手だったせいもあり袖口が屑で汚れるものだから、渋谷駅前の生地屋の地下で厚手の木綿地を買い、肩の部分のない袖を付けたエプロンを作ったのだった。そういえばと思い当時作っていたホームページを検索したら、あった、あった。「96秋冬エプロン」、〈割烹着のような形が理想的、でも割烹着ってのもなぁ。(略)全て直線裁ち、脇の下のところに袖をくっつけただけ。(略)今後のバージョンアップに期待〉だって……。バージョンアップは一度もせずになんと20年。

「東京製本倶楽部会報」74号(2016.12.7 編集・制作 渡辺和雄)には、会員の方が作った道具が紹介されていておもしろかった。まずは中野裕子さんのボルトとナットで作った六形柱形のおもり。きっかけはご主人が拾ってきたボルトとナットを手にしたときに〈その重さとかたちにビビッときた〉ことという。柔らかい生地でくるみ、ご自身の腕力に合うおもりを作って愛用しておられる。もうひとつは、中尾エイコさんの「ガリガリちゃん」。輪にした革に指を入れてパッセカルトンの支持体となる麻紐をほぐす道具で、ほぐす部分は〈ホームセンターで見つけた用途不明の商品を解体〉したものというから愉快だ。たくさんの生徒さんがいらっしゃるようで、〈なるべく体力を使わず、楽しく、失敗が少なく作業ができるように〉、道具や方法をさまざま改良されておられるそうだ。

山崎曜さんのアトリエにもお手製の奇妙な道具があっちこっちにあった。さまざまな用途を持った定規替わりの木片や商品化したかがり台はもちろんのこと、試作中のものや作ってみたけれど失敗だったというものもころがっていて、その話をうかがうだけでも抜群に面白かった。アイロンに金属ボールを合体させたようなもの、あれは未完成だったと思うけれど何に使おうとされていたのだったかな……。ずっと手伝っている和光大学附属梅根記念図書・情報館主催の製本講座でも、担当の方々の道具やだんどりのバージョンアップを楽しませてもらっている。ちょっとだけボンドを使う回のときにいつものボンド皿の底にきれいにカットした段ボールがひいてあったときは「何?」と思ったが、終わってみたらなるほど! 洗う手間いらずだ。こういうときの得意気な顔って、いいものです。

しもた屋之噺(180)

杉山洋一

今月半ば、日本から戻ってきたばかりの頃は、最低気温零下2度、最高気温2度という日々が続いていて、日中も水分をたっぷり吸った霧の帳が一面を覆いつくしていたのですが、ここに来てすっかり寒が緩んで、澄み切った青空とともに、10度12度という暖かさに驚くばかりです。
家人が息子を連れてリグリアへ出かけたので、日没後自転車を飛ばして一番近い魚屋へ惣菜を買いに出かけました。一番近くとは言え、拙宅から片道15分近くかかる、運河の船着き場広場の常設プレハブ魚屋。
クリスマスが終わったとは言え、人通りは普段に比べてずっと少なく、でも運河の周りはまばゆいばかりのクリスマスの電飾が果てしなく続き、クリスマス休暇で車の通行量がずっと減ったせいか、空気も澄んで夜空の星もよく見えます。
建ち並ぶアパート群の窓の灯りもまばらで濃い闇が一面に広がり、ミラノに居残っても、思わず夜のしじまに吸い込まれそうになります。

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 12月某日 仙台ホテル
「第九」練習終了。この作品で自分が何をしたいのか自問自答を繰返す。強弱やアーティキュレーションなど、使用する楽譜に則り細かく解釈を施すのに比べ、原典版であってもベートーヴェンの速度指定を厳守は、最初からあまり期待されていない。余りに無茶な速度指定だから仕方ないが、それでも運弓の指示など何らかの関連も見受けられなくはない。
速度を楽譜指定と変えれば、運弓は当然大幅に変更せざるを得ない。それらに関して目をつぶり、強弱やクレッシェンドを厳密に規定し、ここはスタッカート、レガートと固執するのも矛盾を感じる。何の疑念も持たず原典版を使用するのもどうかと、原典版を眺めつつ改めて思う。
楽譜のアーティキュレーションを解釈の中心に据えれば、楽譜の表面を中心とする演奏しか出来ない恐れもある。自然に湧き出た音楽が楽譜のアーティキュレーションをなぞって成立すれば理想的なのだろうが、音楽が未だ身体に消化されていない。

作曲者が望んだ演奏が理想だと誰が決めたのか。環境が全く違っても作曲者の時代の音の再生が理想なのか。作曲者が望んだ演奏は何故一種類に限定できるのか。オーケストラもそれぞれ伝統を培かっていて、例えば各オーケストラにそれぞれの「第九」の歴史もあり、まっさらの原典版で演奏すれば消去される表面上の問題でもない。堂々巡りを反芻しつつ、練習をすすめる。オーケストラはとても協力的で、先輩後輩の真摯な叱咤激励に深謝するのみ。
夜、駅近くの中華料理屋で注文を待っていると、スポーツ新聞を広げていた隣の男性が突然「俺は苦手だから」と沢庵を差し出してくれる。
インターネットでボリビアの新聞を読みつつニラレバ定食に舌鼓を打つ。コロンビアで燃料不足により墜落した日系パイロットの遺体が郷里に返還され、政府航空会社関係者一同が「パイロットは死せず。ただ高く飛んでゆくのみ」と書かれたシャツを着て迎えたとある。
軍神と呼ばれ往路分の燃料のみ積んで飛びたったどこかの戦闘機のようだと、少し涙ぐんだのは自分が困憊していたからか。ウルグアイの友人がボリビアはとても美しいが、経済は破綻し疲弊しきっていると話した。このフライトもボリビアを挙げて喧伝していて、国威発揚も兼ねていた辺りも似ている。

 12月某日 三軒茶屋自宅
「第九」演奏会終了。オーケストラとは室内楽のように対話できたし、独唱も合唱も音楽に伸びがあって素晴らしかった。11時半からのドレスリハーサル直前まで譜面を広げていたので、タクシーを拾う際指揮棒を紛失した。ホテルに電話し探して頂くが結局見つからず。自分の指揮棒は構わないが、ケースには都響で頂いたジャン・フルネさんが最後の演奏会で使った指揮棒が願かつぎで入れてあって、後悔先に立たず。
結局チェロの吉岡さんの短い鉛筆を借りてドレスリハーサルをやり、本番は横山さんが急遽買って下さった指揮棒でこなす。
東京で落着いて会えない人が楽屋に集い四方山話。帰りの新幹線のホームではニューヨークの三浦尚之さんにまでお会いする不思議が続いた。

 12月某日 三軒茶屋自宅
早朝から家を出る直前まで、モーツァルト「アダージオとフーガ」を読む。充実した下属調域を辿る音楽は、平行調領域へ限りなく展開を続けるシューベルトに比べ、調性感は総体的に安定する。指向は違うけれども、ベートーヴェンもやはり下属調領域を極端に拡大し、調性感の重力を切崩そうとする印象があって、ナポリ調域でエネルギーを溜め込み、原調に和音が滑り込む瞬間に喜びを放出させる。「運命」4楽章前のティンパニのように、平行調から原調へ滑り込むこともあるが、ベートーヴェンの気質を鑑みれば、やはり下属調域のGerman Sixthで緊張を漲らせる箇所だと理解されるべきだろう。

シューベルトのように平行調領域で展開すると、全体構造全てを移行させるので、重力や緊張に影響をもたらさない。再現部を原調以外で始めるとき、ベートーヴェンとシューベルトでは、見せる顔色がまるで違う。尤もベートーヴェンの場合多くは疑似再現部となる。
何れにせよ、再現部を何事もなかったかのように移調したまま始めてしまうシューベルトの自然な流れとは一線を画し、原調に戻らない意義を強調するベートーヴェンの性向は、ブラームスへ受け繋がれてゆく。シューベルトの交響観を引継いだブルックナーが平行調で再現するとき、そこにシューベルトへの畏敬をはっきりと感じ、感動せずにはいられない。

モーツァルトをこれらの枠に嵌め込むのは、少し視点がずれている。特に後期のモーツァルトの転調にはそれぞれ違う顔があり色があり、風景が見える。下属調域の発展形ではあるが、ベートーヴェンのような堅牢な転調ではなく、巻物に書かれた風景を広げてゆくようシューベルトの手触りに近い。ただ下属調域と平行調域で同じことをしても、音楽の志向は根本的に違う。
平行調域の機能はトニックで指向性がないので、転調しても特に方向性も指向性も生じないが、どれだけ下属調域で徘徊しても、それらは常にドミナントかトニックへ収斂されるべき、無意識の方向性が生じる。よってモーツァルト晩年のどのゼクエンツも、美しさに目を奪われ時が止まった錯覚を覚えるけれど、指向性を失うことはない。
シューベルトのように、永遠を目の前にした安寧感はなく、蛍光を思わせる果敢なさに常にくるまれていて、あの悲しみはシューベルトにはない。二人とも苦しい晩年を過ごしたに違いないが、作曲者の環境など音楽の神髄に作用しない良い例かもしれない。

ところで、フーガのような対位法的書法を敢えて総体的に捉えると、稜線の向こうから見えてくる風景がある。和声が何拍ごとに変化するか考えるだけでも、音の指向性が明確になる。
リゲティのリハーサルのため渋谷から山手線に乗ると、目の前に西村先生が座っていらした。勢い、先日の「作曲家の個展」の話などに花が咲く。細部の定着にあたり、実際ピアノで音を鳴らし規則的な音の並列は極力避けるという話に納得する。従って、規則的機械的に音を並べた際生じる、構造の縁の尖り具合がなく、音楽は有機的に呼吸を続ける。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝、十七絃とエレクトロニクスの新作準備のため、有馬さんと沢井さん宅を訪ねた。蛇崩五差路裏の沢井さん宅まで、三軒茶屋からなら徒歩20分ほど。「クグヒ」の一部を録音するのは、沢井さんと有馬さんのための新曲のエレクトロニクスパートを試すため。
「クグヒ」を書いた頃、国風歌舞や久米歌のような古い日本音楽の、特に引延ばされた一見のっぺりした音の素朴な美しさに魅かれていた。折角の機会なので復元五絃琴や七絃琴の作品も断片的に録音してもらい、どんな風に音が拾えるか試してみる。どれも似たような曲で違いがなくて面白くないと思っていたが、有馬さん曰く、どれも全く違った音がするとのこと。

今十七絃の曲を聴き返すと、大分経って書いた復元七絃琴の作品と、見えない糸で繋がっているような不思議な発見が何度もあって興味深い。七絃琴の方は、中国の様々な伝統音楽を表面だけでも学んだ後で書いたので、寧ろ十七絃のフレーズが少し中国の伝統音楽に結びついて聴こえる。
録音終了後、中目黒のガード下で早めの昼食を摂り、有馬さんと連立って田端でリゲティのリハーサルへ出かける。有馬さんは、パーカッションの殆ど聴こえない楽器音を、どこまで聴こえさせるべきか精査する。ティッシュペーパーを勢いよく宙に投げたり、床を靴で擦ったり、スーツケースを撫ぜたり。
中目黒のとんかつ屋では、酔った客が金も払わず、ふてぶてしく管を巻いていて、店主が気の毒。

リゲティ・リハーサルで會田くんの音を聴き、すみれさんの音を思い出す。撥を振りかぶり音が鳴るまでの空気が似ている。従って結果として生み出される音の質感も似てくる。楽器奏者と歌手を合わせてみて、見えてくるもの。途切れていた会話や場面が、一気につながり、それまで平面的ですらあった場面場面が、立体的になってくる。

そういう空気に敏感な道元君が先頭を切り、演奏家も率先して劇に参加してくれるようになる。全体が有機的になり、同時に楽器音は歌手の言葉と同等の意味を帯びてきた。整理されたイヴェントの羅列から、次第にリゲティらしい混迷度も一気に増して、すっかり土臭くなってきた。楽器で音を演じる意味を奏者が認識すると、途端に奏者もそれぞれの音に実感が湧いてくる。大岡さんと二人で、未だ行き場のなかった声なき言葉を、互いに繋げてゆく。すると自然に、歌手と楽器奏者の諍いの構図が出来上がった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝自転車を飛ばして渋谷のトップでトーストを喰らい、そのまま千駄ヶ谷まで走り二期会で「魔笛」打合せ。思いがけず新海くんに再会。相変わらず元気そうだ。

夜は溝の口でリゲティ・リハーサル。三軒茶屋から246をそのまま下り40分ほどで会場に着く。電車に乗るよりむしろ早い。新垣君に会うのは二年ぶり。一昨年の暮「冬の劇場」の4人で渋谷のトップに集って以来。
曲中バリトンの青山君がカデンツァの中で混乱を来し、大声上げて新垣君を脅迫する指示がある。チェンバロの前の新垣君はそれを物ともせず、ポカンと口を開け飄々と和音で答え、一同爆笑が沸き起こる。愉快なリハーサル。
演奏家がこれだけ自然に初めから歌手と絡めるのは、橋本君が8月以来丁寧に準備を重ねて下さったお陰。彼がいなければ、今回の演奏は実現しなかった。少なくとも、今回自分の采配で一番の自慢は、橋本君に副指揮をお願いしたことだ。
佐藤くんはゴーレム登場を盛んにスマホで撮影してくれて聴衆を喜ばせてくれたし、演奏家と歌手の決闘の火蓋は山澤君が見事に切って落としてくれた。
猪俣君の遠くから聴こえるホルンは、歌手たちの拠り所であり、不安に駆らせる切欠にもなっている。歌手と猪俣君のやり取りは、リゲティのリブレットでも特に重要なポイントになっている。
最初の練習から最後の練習まで、ピアノの弦を嬉々として革手袋で叩きつける中川さん、そのピアノに顔を突っ込み弦を撫ぜる新垣君の姿に、大学時代に戻った錯覚を覚えた。
目の前で新聞紙を破くと女性歌手2人に突飛ばされ足蹴にされ、ほうほうの体で逃げ惑う羽目に陥いる會田君の膝は、青く痣だらけになっていた。

 12月某日 三軒茶屋自宅
上野昭和通りの焼肉屋で、昼弁当を購う。店先に七輪を置いて肉を焼き、タレをくぐらせたものをご飯に載せ、スープ付で800円。大変美味。

初めて本番と同じ舞台の寸法で立稽古。大岡さんの演出の充実度が一気に深まる。
ただ演奏するのではなく、有機的に作用させるメカニズムを場面毎に規定することから意味が生まれる。事象の平面的羅列から、時間軸の方向性を内包するダダ歌劇として成立を始める。ダダ歌劇として展開し始めると、どこがダダ的風景の転換点かが明瞭となる。詳らかになることでダダ的方向性とダダ的性格が生まれる。

小学生の終わり頃、ダダとシュールレアリスムが大好きで、貰ってきた茶トラの猫に「ダダ」と名付けた。ダダが来る前から家には「ダンディ」と「レディ」というヨークシャテリアの番いがいたが、仔犬は産まれなかった。ところが、ダダがやってきた途端レディは乳を出すようになり、ダダを自らの乳で育てた。当然ダダは犬風猫として成長した。かかるダダ的ペットを飼いつつ、当時は澁澤やら種村やら「たたかう音楽」やら「水牛通信」を読耽っていた。中学生の頃、父の写植台を使って印画紙に即興的に打ったダダ詩は、今思い出しても悪くない出来だった筈だが、いつの間にか紛失してしまった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝トップでサーディン・トーストを頼み、マンデリンとブラジルの豆を詰めて貰う。今日のリゲティの本番の際、受付で父に渡して貰おうと思っている。
8月から今まで掛かったリゲティの練習は思い出深い時間の連続だった。無人劇場の皆さんは、まず歌手3人の分身の姿を見事に描いて下さった。それを客観的に眺めることで、歌手3人はそれぞれの役により磨きをかけて下さった。
松井さんはより上品で澄んだ声になったし、新アヴァンチュールでの妄言にも幅が生まれた。
澤村さんは練習の度に圧倒的な存在感で、作品を咀嚼する本当の意味を教えて頂いた気がする。
青山君は、実は従弟に顔と雰囲気が良く似ていて、とても親近感があった。今回の演奏は、当初から聴衆が腹を抱えて笑えるような内容にしたいと思っていて、喜劇らしいエッセンスを舞台上に振り撒いてくれたのは、彼だった。
大井町の練習場で初めて見た時、まだ顔のないゴンタ君のようだった小原さんのゴーレムが、少しずつ成長して一人前になるまでを、皆が家族のように見守り続けたのも印象に残る。
リゲティのリブレットに現れる、奇怪な分身役の部分が最後までぽっかり開いていたけれど、市川さんたちのダンスが入った瞬間、将棋で最後に一気に積んでゆくように、全てが充足してゆくのを感じた。

富永さんの衣装も加治さんの照明も、リゲティの原案に忠実であろうとする大岡さんの姿勢と寸分の狂いもなかった。
何より、これだけ演出家と互いに無神経なほど互いの領域に足を踏み込みながら、実に気持ちよく最後まで仕事ができたのは、大岡淳さんと自分が明らかに同じものを見ていたからに違いない。この演奏会に誘って下さった福井さん、渡辺君、徳永君に感謝するのみ。そして、竹田さんたち事務局の皆さんに深謝。
会場で温かく見守って下さった末吉先生は、大学時代に何度となく問題を起こしては、新垣君と雁首揃えて学長室に叱られに参上した時の事を思い出されていたかも知れない。今にして思えば、すっかりのんびりした時代だった。

 12月某日 ミラノ自宅
朝、作曲のフェデリコ・ガルデッラとマジェンタ通りの「マルケージ」で、立飲みのカップチーノに菓子パンを頬張り話しこむ。フェデリコは和声を教えるのが好きだと言う。音と音の間に生まれる緊張と弛緩を教えるのが楽しいそうだ。

彼曰く、ルネッサンス以前の宗教曲には、緊張がなく感情の表象もない。従って音楽には方向性もない。当時宗教曲は神のために作曲していて、ミサに参列する市民の代弁者ではなかった。時間感覚を失ったような作品が書かれたのは、天上の時間に捧げられていたからだと言う。
確かにゴシック教会は、神に近づこうとして屋根を細く天高く聳え立たせるようになり、ルネッサンス期に一気に調和のとれた形態に変化した。それに等しく「再生」を意味するルネッサンスで人間性回帰が叫ばれ、教会でも演奏家や聴き手の心を穿ち、我々の心情を代弁する人間性に即した音楽が求められるようになった。

悠治さんに勧められて一気に読んだ「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」の激動の変革期を思い出すが、興味深いのは、本来キリスト教と拮抗する筈のルクレティウスの思考は、ルネッサンス以降現在に至るまで、イタリア人の宗教観に巧く溶けこんでいることだ。熱心な信者と話していても、無から有は生まれない、とまことしやかに話しているのを聞いて、初めは驚いたものだった。
イタリア人の現実志向は、民族的性向だとばかり思っていたが、案外ルネッサンス期に融合した、別の世界観だったのかも知れない。マキャベルリがルクレティウスを写本していたと読んで、妙に納得する。

 12月某日 ミラノ自宅
Sがレッスンにシューベルトのイタリア風序曲を持ってきた。1月にオーケストラとリハーサルがあるらしい。シューベルトがイタリア音楽にどれだけ憧憬を抱いていたとしても、イタリア音楽ではない。偽終止一つ一つにシューベルトを感じ、慈愛を感じつつ伴奏をなぞる。

別の教師はイタリア風に演奏すべきだと言ったらしく、Sを混乱させてしまって申し訳なかったが、メンデルスゾーンの「イタリア」やリストの「ヴェネチアとナポリ」、果てはチャイコフキの「フィレンツェの思い出」をイタリア風に演奏するのは無理だろう。況や「トゥーランドット」を北京風に、「蝶々夫人」を長崎風アメリカ海兵隊風に演奏したらどうなるか。プッチーニは「西部の娘」の最後の場面で、メトロポリタンの初演舞台に本物の馬を使ったそうだから、「蝶々夫人」にお三味線やらお琴やら入っていたら案外喜んだかも知れない。

「蝶々夫人」初演版に登場する従妹の息子という珍しい役どころで愚息が出演しているので、劇場に出かける。美しい音楽で、素晴らしいオペラであることは承知しているが、この物語が日伊国交樹立150周年に相応しいかと言われると内心正直穏やかではない。
どうも戦後のパンパンだとか、米軍基地周辺の花街やら連想してしまった挙句、主人公が自死に追込まれるのは理不尽だと憤りまで覚える傍らで、息子の一言「これはオペラなんだから。それもプッチーニだよ、プッチーニ!」。愚息よ、嗚呼天晴れ。

 12月某日 ミラノ自宅
階下で息子がミクロコスモス5巻の「バグパイプ」を練習している。バルトークが演奏する録音は、微妙にルバートして揺らいだ演奏。トランシルヴァニアのバグパイプ音楽には、よく似た旋律や音形が散見される。バルトークが5連符で記譜した箇所は、本来リズムも不安定なヴィブラートだった。その部分をバルトーク自身声を震わせるように弾く。本来の伝統音楽に則った演奏を意図していたことがわかる。かかる微妙な音楽の揺らぎを、精確に記譜し演奏して、原曲の瑞々しさは生まれない。細かく書く程に生気を失う。詳細に規定される程に、演奏家の出す音はブロイラーの卵のようになってゆく。

指揮でも同じで、複雑な音を振るとき、分割すればする程、演奏家の刻みは合うかもしれないが、機械的でフレーズのない音になる。逆に演奏家に自由を与えすぎると、アナーキズムの社会と同じで、それぞれは自由かも知れないが、巨視的に見れば単なる混乱、エントロピー状態に陥る。
「中庸の徳たるや、それ至れるかな」。

朝四時居間で仕事をしていると、どしんと大きな音がして、屋根から庭に誰かが飛降りた。見ればルーマニアかアルバニアか東欧風の若者が悠々と庭を歩いている。「泥棒」と声を上げても動じず、相変らず冷静沈着なまま向いの路地へ出て行くものだから、妙に感心しながら後姿を見送る。
家には相変わらず小さなトカゲが住み着いていて、カサカサと紙袋の音を立ててみたり、時々地階をペタペタ歩いている。

クリスマスの風物詩はザンポーニャというバグパイプ吹き。この時期、山からザンポーニャ吹きが降りてくる。夜、フラッティーニ広場のスーパーマーケットの入口で、小さな皿を前に老人が佇む。身なりは余り整っていない。2メートルくらい前には旧い乳母車を改造した手押し車が無造作に置いてあって、スピーカーが載っている。無数のサンタクロース人形が貼付けてあり、賑々しさよりおどろおどろしさが際立つ。クリスマスも過ぎ人影もすっかり疎らで、スピーカーから流れるザンポーニャばかり虚しく広場に響く。

(12月30日ミラノにて)

走る犬、うずくまる人。(2)

植松眞人

 岐阜羽島に降り立ったときに僕が心に決めていたことは、時間がかかってもちゃんと大阪に行こうということだった。仕事を途中で投げ出して岐阜羽島に降り立ったわけでも、何かに絶望していたわけでもない。ただ、のどが渇いてお茶を買いにホームに降りたら成り行きでこういうことになっただけで、達観を経てこうなったわけではない、ということはいま岐阜羽島の駅前のロータリーで青白い水銀灯に照らされて、寂しそうにも、気楽そうにも見えるだろう僕をきっとどこかで見守っている八百万の神様たちに伝えておきたいと思う。
 神様を思うという気持ちはそれほど長続きはしなかったのだが、神様を思うのよ、とことあるごとに教えてくれた祖父母の存在をふいに思い出して、それはそれで十一月の寒空の下で少しは温かな気持ちにはなる出来事であり、岐阜羽島という新幹線の通過駅としてしか認識していなかった土地を、改めていま僕がいる場所なのだと突きつけられているようでもあった。
 それで僕は立ち上がり、さっきよれっとした犬が歩いて行った方へと歩き出した。よれっと犬は、別によたよたと歩いて行ったわけではなく、ときどき身体の中心を見失ったようにふいに左右に揺れるのであり、その具合がどこかで中心の狂った自転車の車輪のようでもあって、それなら随時よれよれしてくれていれば、よたよたでいいのだけれど、まっすぐに歩いているように見える時間がそれなりにあって、しゃくるように一定のリズムではなくよれるムードが、やはりどう見てもよたよた歩きではなく、よれっとした犬なのだった。
 僕はよれっとした犬について歩き始めたのだが、すぐに車道は等間隔に設置された街灯だけになり、その街灯も車のためのものだからか間隔がとても広くてしばらく暗い中を歩くと、すっと明るくなるというふうで、言い換えれば、暗い車道をまっすぐに見つめると、点々と光のステーションが連なっているようにも見える。見えるのだけれど、寒い夜風の下ではどうしようもないほどに光のステーションも貧弱で、古いSF映画を見ているように粒子が粗く浮き出している。
 よれっとした犬が、そんな光の中に浮かび、すっと消えていき、またふっと浮かぶ。僕はおそらく同じようにすっと消えて、ふっと浮かびながらよれっとした犬を追っていく。僕とよれっとした犬は、同じような速度で歩く。というよりも、僕がよれっとした犬においていかれないように少し早足で歩いている。よれっとした犬はよれっとした外観によらずそれなりに精悍に歩いていく。僕は犬の精悍を思う。おそらくいろんな犬の雑種なのだろう。中型くらいのサイズで、毛足が少しだけ長く、かといって全体のイメージは洋犬ではなく昔ながらの日本の犬の雰囲気と言えばいいのか。いかにも日本人と言った体型なのに、髪の毛だけがくるくるとカールして、しかもちょっと茶色がかった、ハーフなのに日本人のお父さんのほうに似ちゃったのね、と言われる感じと言えばいいのか。なんだかアンバランスな感じがよれっとした犬の魅力だ。よれっとはしていても、それなりに精悍に見えるのは、彼がまだ若いからだろう。年老いてよれっとしているのではなく、かつて事故に遭ったのか、もしかしたら生まれつきの不虞なのか、どちらにしてもその動きの奥底、体幹のような部分にまだ彼の身体を上回る力があり、黙っていても身体を前に進めている。僕はと言えば、長年の不摂生と仕事への意欲のなさ、そして、馬鹿は馬鹿なりに寄り添って仕事をしてきた仲間との別れなどが重なってしまったことが気力のようなものを静かに奪っていったのだろうか、いまよれっとした犬よりも精気を欠き、まだ小一時間ほど歩いただけで息が上がり始めているのだった。
 そんな僕を見透かしたかのように、光のステーションと光のステーションの間に現れた別の光の塊、よく見るとそれは自動販売機が五台ほど置かれた場所で、その自動販売機の発する光のなかで、よれっとした犬は立ち止まり、捨て置かれていた段ボールの上に一度腹ばいになってこちらを見ているのだった。
 僕は少し遅れてその光の中に入り、小銭を出してあたたかい缶コーヒーを買い、飲む前に両手で包み込んで暖を取る。それから犬に水を買ってやり、鼻先のコンクリートの上に少し垂れ流してやる。すると犬は水がコンクリートにしみこんでしまう前にと、ぺろぺろと忙しく舌を動かしてのどを潤している。もう一度、水をやろうとペットボトルを傾けると、今度は水が垂れる前に、ペットボトルの口に直接口を持ってきて、ぺろぺろとなめ始める。僕はいっぺんに水が出てしまわないように、ゆっくりと水を流し込んでやる。
 何度かそんなことを繰り返していると、もういいです、というふうにさっきまでよれっとしていた犬が、なんだかきっぱりと言った気がしたので手を止める。そして、この犬に名前をつけようと思い立ったのである。どこまで歩くのかわからないのだけれど、このまま一緒に行くのなら名前があったほうがいいのではないかと思ったのだが、同時に名前なんてないほうが十一月の寒空の岐阜羽島には似合うような気もして、僕はしばらく迷ったあとに『ポチはどうだろう』と思ったのだった。幼稚園の頃、近所にポチという犬がいて、仲良く一緒に遊んでいたのだが、ある日、ポチに追いかけられてしまい、それから犬が大の苦手になったのだった。それなのに気がつけば、いま僕はこの犬の後をずっと歩いていて、こうして水までやって名前までつけようとしている。それなら、ポチでいいじゃないかと僕は思ったのだった。そして、さっき知り合ったばかりの犬にポチと名付けた瞬間に、幼稚園の頃に僕を追いかけたポチは、きっと僕と遊んでいるつもりだったのだなと気付くのだった。
 ポチ、と小さな声で呼ぶと、よれっとした犬は迷惑そうにこちらを向き、腹ばいになっていた段ボールの上で、はいそれでかまいませんよ、というふうにすくっと立ち上がり、よれっとした犬からポチになったのだった。(続く)

十二月

仲宗根浩

県の中学校総合文化祭というのにうちのお嬢さんが三線の大合奏に出演する、というので朝、六時に起床、七時に出発し八時に集合場所まで車で送ると三十分くらい早く着く。適当に時間をつぶし開演しょっぱなの出番前までに会場の席につくとすぐ睡魔に襲われるがなんとか我慢し三曲を聴きながら写真を何枚か撮るが、画像はウォーリーを探せ状態で制服の微妙な違いでやっとわかる程度。演奏が終わり解散のとき、弁当代として現金支給があとあとあるという。中一でギャラ、すげぇ。
帰りの車の中でホームルームでやった今のテストの成績と内申でどの高校に合格できるか進路に関することをやった話をいろいろ聞く。今は内申もポイント制になっているらしい。例えば生徒会長なら何点、外部のなんらかのコンクールで賞を取れば何点などなど。帰りに昼ごはんはお嬢さんが行きたい、というお店の沖縄そばをふたりで食べる。

仕事終わり帰宅、シャワーを浴びたあとだらだらテレビを見ているとオスプレイ着水のニュース。最初は津堅島沖、そのあと伊計島、浜比嘉島沖と情報が変わり、結果名護の東海岸沖だった。翌日のテレビは墜落、不時着、着水とさまざま。まあ派手に壊れたことには変わりない。十一月に佐賀で配備したいオスプレイを実際に一機飛ばしてみてどれくらいの騒音か等々試験飛行をやったニュースを見たが通常訓練で一機だけなはずはなく二機飛ばせよ、と思った。佐賀は北に原発、南にオスプレイ。使う部隊が佐世保にあるのであれば長崎空港でも距離的にはそんなに変わらないが、なんで佐賀なんだろう。
横田基地には空軍のオスプレイCV-22が配備される。それを使う部隊は沖縄の嘉手納基地。どこで訓練するのだろう。特殊部隊なので事故率は輸送機のMV-22に比べて断然高い。

和解したあと、訴えられ裁判で負けると、ずっと前に使っていた「シュクシュクと」というより強力なアイテムを「サイバンショ」からもらうと「ホウチコッカ」という武器を手に入れる。これを連発するだろう。「ホウチコッカ」といっても「ホウリツ」がポンコツだったらどうしようもない。「和解の力」は同等では無くどちらかが優位に立つことだと。

生まれるとき

西荻なな

雑踏のなかに立ちすくむ
悲しみのなかにある人に
かける言葉を探すうち
断たれたひとつのつながりを思う

ハイヤー、ハイヤー、ハヤハヤ

移ろいゆく時のなかに
確かなものを見るならば
別れの形がなんであれ
それは信じていいのだろうか

埋まらない空隙を
幾多の声と音とが埋めてゆく
と思ったのはつかの間、
無音の真空をそのなかに見る

ハイヤー、ハイヤー、ハヤハヤ

賑やかさに無が立ち上がるなら
いっそ目指して進めばいい
わかることに至らずとも
溶けあうことがないのでも
光れるものが
生まれるか