申年の失敗

高橋悠治

去った申年もまた いくつかの失敗をかさねて終わった

もともと1960年代に草月アートセンターで 前衛の作曲家として出発したはずが 
求められるのは他の作曲家の曲の初演で それらはほとんど終演を兼ねていた 9年間ヨーロッパに行きアメリカに行ったが おなじことだった 現代音楽専門の演奏家はどこでもすくなく しごとは多く 生活は貧しかった それらのしごとも ベトナム戦争の末期には外国人にはまわってこなくなったので 東京にもどって やりなおし しかたなくバッハを弾いていた

そう思っていたが 最近出版された柴田南雄の『音楽界の手帳』を見ると 1970年代には オーケストラもコーラスも使って作品を書き ピアノもクセナキス ケージだけでなく ジェフスキーもアイスラーも弾いていた

いまはケージやクセナキスを演奏する人も多いし 分析されて研究書もあり アカデミーでも教えられている その頃なじんでいた「現代音楽」をたまに聞きなおすと なぜこんなものに惹かれていたのか と思うことさえある 音楽が変わったのか こちらが変わったのか 両方か ユーモアのかけらもなく 無用に複雑で 極端な対照効果と超絶技巧を見せびらかす音楽 個性を売り物にしてくりかえし 単調になってしまった響き 作曲家にとって技術的安定や熟練だけでなく 社会的地位と経済の安定は いい結果にならない ケージやクセナキスや武満も 理解者がすくなく 生活もたいへんだった初期の作品は いまも新鮮な発見で輝いている

しごとを減らし 収入を低く抑え ひとの先に立たなければ 時間もともだちもできる(老子67章) 現実は思いのままにはいかないが そのたびに決めなおし 折り合いをつける 原則はもたず いやなことはしないで済めば それでいいとしなければなるまい

マーケットでまず成功してから 獲得した地位や権力と機会を使って本来のしごとができると思うのはまちがいだと思う 成功した後では「本来」が何だったのかわからなくなっているかもしれないし 作られた「自分」を演じつづけなければ マーケットから見捨てられる

成功がじつは失敗である もうひとつの理由は あまり働くと むだな収入が増えるばかりか 税金にとられ 健康保険が高くなり 年金が減る こんな国のこんな政府が使うための税金は払わないで といっても 脱税するために時間と労力をかけるのもおろかだから わずかな収入は銀行に預金するより 現金のまま 早く使ってしまうのがいいかもしれない 狭い家をガラクタで塞ぐ買い物ではなく ともだちと飲んでしまうのがいいが 残念なことに 体力が衰えている

ふと気づくと 17世紀のパーセルやルイとフランソワのクープラン フローベルガー 18世紀のバッハ 19世紀のシューベルト 20世紀前半のブゾーニ サティ ストラヴィンスキー アイスラーくらいしか弾きたいものがなくなっていた 現在形の音楽を演奏していたのに いつからこうなったのだろう このままではしかたがない

1960年代の前衛をその頃にいなかった人たちが研究するのはいいとして こちらとしては 自分の過去を振り返っても何も出てこない では 2010年代の音楽はどこにあるのだろう 若い世代の作曲家をざっと見ても 使い古されたノイズと空虚な大音響 顔のない電子音 ポストなんとか ニューかんとか 日本では それに加えて時代遅れのTVのような 批判のない 体制寄りで大声の空虚なお笑い音楽 政治家同様に音楽家も自分から鎖にすりよるポチが多い時代なのか(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷属論』)それとも どうしようもなくなってから やっと変革が起こるのか まだ知られていないこの時代の音楽が どこかに隠れているのだろうか 

こどもの頃 ケージやロスラヴェッツやクセナキスは名前でしかなかった 易のよる音楽も合成和音も確率による音楽も知ったのはずっと後になる だが 知りたくても情報がないのなら 自分で作るよりない 易や合成和音も確率音楽も自分で考えだしたやりかたで書いてみた ユイスマンスの『さかしま』のなかで デゼッサントが収集したアートに囲まれて暮らし 手に入らないアート作品はそれらしいものを自分で作った と読んで それに倣ったわけだが 後になって『さかしま』を読んだら そんなことは書いてなかった 『さかしま』のことは セシル・グレイのブゾーニ論(大田黒元雄訳『現代音楽概観』)で読んだはずだが かなり後でブゾーニを弾くようになると それも記憶ちがいだったのかもしれないと思う 楽譜が手に入るようになってから ケージ ロスラヴェッツ クセナキスの作品を見ると 想像していたのとはまったくちがっていた こうして模倣者ではなく むしろニセモノ造り オリジナルとはまったくにていない サルにもなれないサル ニセモノとも言えないニセモノ造り として出発したのだから 音楽の現在も自分で偽造するよりないのだろうか 

ここで 読んだことのない小説からの引用で 一応しめくくろう
「私は何一つ創造することができなかった。しかし、モデルを相手に、こんなポーズを取ってくれ、こんな表情をしてくれと注文する画家のように、私は現実の前に立っている。だから、社会が私に提供してくれるモデルは、それが何によって動かされるかがわかれば、私の意のままに動かすことができる。少くとも遅疑逡巡しているモデルにある問題を提出することができる。モデルは彼らなりにそれを解決するだろうから、彼らの反応の仕方によって得るところがあるはずだ。自分が小説家なればこそ、彼らの運命に介入したり働きかけたりしたい欲求に悩まされるのだ。もし私にもっと想像力があれば、複雑な筋を仕組むことだろう。どころが、私はそういうやり方に反旗をひるがえし、まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進めるのだ。」(ジイド『贋金つくり』)

2016年12月1日(木)

水牛だより

朝起きたときにはぼんやりした曇り空。午前中に少し陽ざしがあったので、洗濯物もかわきました。午後はまた曇り、しかし気温は低くない、そんなとりとめのない一日が過ぎていきます。天気予報は好きだけど、ただ見ているだけで期待は何もありません。不思議です。

「水牛のように」を2016年12月号に更新しました。
笠井瑞丈さん、初登場です。かつて、インドネシアのサルドノ・クスモさんの振り付けで、彼をはじめて見ました。それから彼の踊りは何度も見ています。踊りに言葉は必ずしも必要ではありませんが、あえて、何か言葉にしてくれたらな、と思い、めでたくデビューとなりました! なんとなく脱力系の人に見えるのですが、果たしてどうなのか、そこも知りたいところです。
今年最初の忘年会で、10月が誕生日だった私は特別にプレゼントをもらいました。カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』。璃葉さんの「あやとり」を読んで、猫のゆりかご、とはあやとりのことだと思い出しました。
マンガは好きですが、アニメは苦手。と、思っていたけれど、西荻ななさんの「画材に気持ちがのってゆく」を読んで、ダメ元で見てみようかな〜と思ったり。。。

マンガは好き、と書きました。ジャンルは少女マンガです。かつて、月刊雑誌を買って読むのを楽しみにしていました。しかし、その習慣をいつの間にか失うと、なにがなにやら、どれがどれやら、わからなくなるのですね。ついこの間、『傘寿まり子』がおもしろいと、年下の友人に聞いて読んでみました。確かにおもしろい。少女マンガであり、主人公は80歳です、傘寿ですから。これを30代や40代の人が読んで少しでも解放されるといいなと思います。

それではまた!(八巻美恵)

三つの事

笠井瑞丈

水牛の連載で書かせていただく事になりました。
私 笠井瑞丈と申します。ダンスをしてます。
今回初です。思った事を思いつきのまま書きたいと思います
正直文章を書くというのは苦手な行為です。
これを通して少しづつ上手になれたらいいなと思ってます。

10月 笠井叡×高橋悠治『無心所振り』がありました。
リハーサルを含め全部で5回、二人のセッションを見せて貰いました。
リハーサルは天使館で行いました。
大好きな悠治さんのピアノを天使館で聴けるとういう特別な時間。
高橋悠治さんの奏でる音。
いつも雨のように聞こえる。
音の雨が空から降ってくる。
その雨に打たれて踊る笠井叡さん。
そのような景色だった。
いつまでも見ていたい景色。

11月 小暮香帆さんとデュオ作品を作った。
タイトルはいろいろ悩んで結局『Duo』というタイトルにしました。

二人で踊ること。
二つのカラダ。
二つのメトロノーム。

そんなことを考え作品を作りました。
二つのメトロノーム。
ずらして鳴らす。
不協和音のリズム。
何回かに一回に同時に打つ瞬間。
これがたまらなく心地いいリズム。
人間のカラダもメトロノームみたいなもの。
鼓動のリズム。
何回かに一回に同時に打つ瞬間。
一緒に踊る人とそこを感じたい。
Duoとはそのような事かた思った。
Duo 人間が組織で活動する際の最小単位

いま1月に行う新作公演のためリハを行ってます。
モーツァルトのレクイエムで振付を行ってます。
若手女性ダンサー4人に振付しています。
踊るカラダはやっぱり素敵です。
踊ることは生命を生み出す事。
そして今回の作品にはゲストで鈴木ユキオさんの出演して貰います。
公演は来年1月です。

ここ一ヶ月あった三つの事について書きました。
もっともっと違う事も書きます。
文才のない僕ですが、すこしづついろいろ書いていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

145 黙示録――となか

藤井貞和

海の炉芯をだきしめよ
幼い神々

海路にきみが波をさらう
潮合いの迎え火

震央の水が凜として向く
潰える三月

たいまつをかざして
国つ罪が沸きあがる四海

炉の芯を匍いずり
水源がなめ尽くすまで

草原に遠き乳牛
かげが斃れて

校舎にありし神々
浜通りを去る

負けないでZARD海底の
卒業式ができなくっても

まがつ神おまえの建て屋に
祈るゆき向かえいま

絃を切れ弁財天女
おしら神かいこをつぶせ

波間からとりだせなくて風だけが
はいっていましたUSBメモリー

壊れたぼくのEメールで
送るよ走り火の海の底から

眠らずに来てね海底虹が住む
住所不明のゆうびん番号

髪洗う笥に光るセシウム137
ゴイアニア被爆と被曝

うたへ講義がさしかかる
まがつ火ノート

こころに波をうち据えるうた
海やまのあいだにうたう

(富山妙子さんのイベント。以前の『東歌篇―異なる声独吟千句』)からアレンジする。原爆の図丸木美術館での富山展のために。)

チョコレートの天使たち

さとうまき

恒例のチョコ募金が今日から始まった。

昨日は、イラクの看護師をトレーニングしてくれる日本人の看護師を口説きに行った。
「行きたいのはやまやまなんですが、家族が反対しているんです。80になる母は、『イラクだけはやめてくれ』って。そして、姉は、『母を悲しませるようなことはやめてくれ』って言うんですよ」

その看護師は、ラオスで活動している。ラオスから帰国したばかりで、現地のよもやま話をしてくれた。訪問看護に行くと、車がぬかるみにはまり、がけから転がり落ちそうになったとか。
「今年は、何回か、もう死ぬんだなと思ったことがありましたよ」という。

言われてみれば、僕は、イラクで死ぬような思いをしたことはない。ISの戦闘地域に行くわけでもなく、難民キャンプは、殺気だっているような雰囲気はあっても、彼らが避難してくる安全な場所だ。
「イラクの方が安全なんですけどね」

新宿駅の地下にあるベルクというカフェレストランで、イラクの子どもたちが描いた絵を展示してくれることになり、搬入が朝早いので歌舞伎町の東横インに泊まることになっていた。どう見ても、歌舞伎町の方がイラクより怖い。客引きのお兄さん、お姉さんに連れていかれるのは、ISに連れ去られるような感じ?

朝5時、小雨ぱらつく中を誰もいない地下道に入り歩いていく。お店の人があわただしくクリスマスのデコレーションを飾り付ける隣で、イラクやシリア難民のがんの子どもたちが描いた絵をかけていく。年末、モスルの奪還作戦やアレッポの攻防戦が激化し、クリスマスプレゼントは、爆弾が空から降ってくるという子どもたちが一体何人いるんだろう。そんな子どもたちこそが天使であり、絵を描いてくれた。

何はともあれ、無事にベルクでの展示が終わり、JIM-NETのおいしいチョコレートもおいてあるので是非皆様立ち寄ってください。
http://jim-net.org/blog/event/2016/11/1211231is1500300facebookhttpswwwfacebookcombergshinjukutokyo.php

製本かい摘みましては(124)

四釜裕子

絶滅危惧種の剝製は劣化を避けるためになるべく人目にさらさない、そこに木彫の出番があると、ラジオで聞いた。バードカービング作家の話だった。コレクターがついた美術品も人の目から遠ざけられる。写真家ロバート・フランクは米国の美術館に収蔵された自分の写真が、劣化を防ぐために展示される機会が減り、莫大な費用を要するために国外貸し出しがまままならいことに呆れていた。若い世代の目に触れる機会を作りたいとドイツの出版社シュタイデルと企画した展示が世界を巡回している。11月、東京藝大美術館陳列館に「Robert Frank : Books and Films 1947-2016 in Tokyo Robert Frank & Steidl」をみた。

フランクのいらだちにゲルハルト・シュタイデルが思いついたのは高性能のインクジェットプリンタを使うこと。用紙は新聞用紙。これを丸めて筒に入れて各地の会場に送り、ピンや糊でじかに貼り、無料で開放し、展示が終わったらすべてを廃棄する、という方法だ。用紙については南ドイツ新聞社が、広告などのために要望される少し高くて質のいい紙の余剰を提供してくれることになったという。原案を聞いてフランク(チラシにはわざわざ ” カナダのマブーの小さな家に住む ” とある)はこう言った。「安くて、素早くて、汚い。そうこなくっちゃ!」

実際の展示は汚いことはまったくない。二人の間で交わされた本づくりのためのアイディアを記した手紙や細かい指示書、サンプル本もケースに展示されており、それらの完成版である「写真集」はどれも手にとって見ることができた。カタログはこれまた再生新聞用紙に、南ドイツ新聞のフォーマットどおりのデザインで作られ500円だったが、早々に売り切れていた。入り口すぐのところにカタログを含めた既刊の写真集が天井からワイヤーで吊るされていて、もちろんこれもすべて見ることができる。厚いハードカバーのものは背が4、5センチも破れていて、こればかりはちょっと痛かった。作品のため、著者のため、読者のために着せられたこの ” 重さ ” はけっきょく誰が自分の重さとするのだろう。

2007年、ロバート・フランクが初版から50年記念の『The Americans』最終版を作ろうとシュタイデル社を訪ねたときに、「俺は単純な人間なので、簡単な本を作りたい」と言ったそうだ。シュタイデル版はきわめてシンプルなものとなった。二人で多くの本を作る中、シュタイデルはフランクに写真を物理的なものとして尊重しすぎてはいけないと戒められ、何万ドルもする写真と今朝の新聞に載っている写真の価値を分つものとは何か、とも言われたそうだ。2016年11月30日の朝刊には、朴槿恵さんや「女性のみなさん、がまんするなんて、もったいない。」と添えたアーモンドチョコレートの写真があった。

壊し屋野郎たち

仲宗根浩

いつも通るパークアヴェニュー、昔で言うとセンター通りもイルミネーション。LEDで消費電力が少ないからといってやたらこんなんで電気を使うのもどうかと思うが。さびれた昔の白人街は人通りはない。四十何年か前まで普通に肌の色の違いで、自分の国ではないところでも、遊ぶ場所が違い、歩くことすらできなかった。なんてことをやっていた国だろう。でも自分が好きな音楽をたくさん生んだ国だ。

子供の制服、冬服が出来上がった。こちらだと入学式は在校生は冬服、新入生は夏服。五月になればすぐ梅雨入りだし。新聞では土人のことが毎日。うちのお嬢さんに「おまえは半土人だ」と言うと「半魚人」みたいだとおもしろがっている。ばかたれの言うことは笑ってしまえ。

再生できなかった、「レッキング・クルー」のブルーレイ見たさに家に届いた電器屋さんのDMで安いブルーレイ・ディスク・プレイヤーを見つけ、万札握りしめ買いにいくが在庫が無い。在庫がある店舗を教えてもらい入手する。やっと本編を見て、長い長いボーナスディスクをゆっくりと何日かかけて見る。そしたらレオン・ラッセルの訃報。レッキング・クルーのひとり、すぐれたスタジオ・ミュージシャン。初めて動く、レオン・ラッセルを見たのは中学生の時。映画館でみた「バングラディシュ・コンサート」でピアノを弾いて「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」を歌っていたか。ボブ・ディランのセットではベースを弾いていた。こっちもそれなりに齢をとったということか、いろいろ他人の病気の話が入ってくる。こっちは歩き方がわるいのか何もないところで足を地面にひっかける。そしたらついに自分の足に自分でひっかけてしまう。どんな歩き方を、足の運び方をしているのか。

月の終わりになると、高江のヘリパッド容認が決まり、翌日には反対運動をしていたところに警察が行く。7月は選挙の結果が出た翌日すぐ辺野古の工事再開。やることがはやい。こうやって事はどんどん進んでいくのだろう。

グラッソラリー―ない ので ある―(26)

明智尚希

「1月1日:『精神疾患も大変だよ。あとで聞いた話だけど、そいつも複数の精神疾患を持っていたんだって。単なる酒好きがアル中になったんじゃなくて、まあ症状の一つが出たって感じなんじゃないかな。病名はなんていったっけな。鬱病は確実にあったな。それと不安神経症か。なにしろ鬱と神経症でかなり苦しんでるって言ってたな』」。

…(o_ _)o 鬱……

公衆の面前、土壇場で尻拭い。あれよあれよと思う間もなく突然がらんどう。出たとこ任せのアムネジア。オキシトシンをばらまいて、非合理ゆえに我信ずにする。こちたき噴射はこちたき噴射をする者の謂いである。我流の時代診断は、虎を虎と名づけた。なぜならそれが虎に見えたからだ。これをしも、ひとしなみに裏街道で、我にもあらぬ。

、(-_”\)(/”_- ) エエト…

人間と全能の神が入れ替わり、大人数な多神教となったらどうなるだろうか。無慈悲であることはできそうだが、沈黙を守り通す点は大いに疑問だ。人となった神をいかに処すべきかについて内輪でがやがやと欲得ずくで不毛なやり取りをし、答えらしい答えも見出せず、結局は神を頼り自分たちはいかに処されるべきか、持ちかけることだろう。

(/–)/(/–)/(/–)/ \(・_\)神ヨー (/_・)/カミヨー

「狭いんだから押すなよ」「押してないって」「さっきからずっとお前の体重がかかってるんだよ」「だから押してないって」「押してなくない」「あなたこそ押してるでしょうが」「俺が押すわけない」「さっきからずっとあなたの体重がかかってるんですよ」「それはお前が押してるからだ」「押してないって言ってるでしょ」「狭いんだから押すなよ」。

ガタン≠≠[。□□□。][。□□□ 。]≠≠ゴトン

時間って一人か? 二人以上か? ミンコフスキー時空やプランク時間があるからには二人以上じゃな。クソとミソみたいなもんか。しかし不思議な医療品じゃな。記憶は忘れさせるは怪我は治させるは感情は薄めさせるは。わしは神の一突きを巧みにかわして時間になりたい。もしくはドラえもん。あのタイムマシンに乗って……さて寝るか。

, ((≡゜♀゜≡)) /T タケコプタ~

「1月1日:『不安神経症のパニック障害って壮絶らしいな。急に心臓の鼓動が速くなって動悸・息切れ、めまい、発汗、そして何よりも狂うんじゃないか死ぬんじゃないかっていう恐怖心。あいつが症状に合った薬が見つかるまで、ろくに歩くことすらできなかったって。しんどい生活で二十代の大半を費やしちゃったもんな。気の毒に』」。

パニック(*_*)

深夜にジョギングをしている時期があった。十二時頃から約一時間走る。コースは決まっていて、公園とグラウンドの外周を回る。ある時も走っていると公園に人影があった。足を止めて見れば、小学一二年生くらいの女の子が小犬と一緒にベンチに座っていた。散歩かと思ったのも束の間、カチン、その子は、いや、彼女はタバコに火をつけた。

(ーoー)y〜〜〜 ⊆^U)┬┬~

何でも意味があると思うなよ。

(*^-^)ゞハイッ

道や座席を譲る。落し物を拾って差し上げる。行き方を丁寧に教える。善行をしたという自意識はとかく過剰になりがちだ。報酬の二文字が頭をよぎる人も少なくないだろう。全能の神は卑劣な性根が嫌いとみえる。善い行いを自覚的に実践した人用に、ストックから罰をばらまく。財布を失くさせたり、知人を仏故させたりと自由自在である。

神様お許しを...( TーT)m 乂 ( ̄x ̄)バツ!

知情意の調和がとれてないだいだらぼっちの旦那が、年年歳歳小塚っ原の病院に詰めきりなのはなぜじゃ。ああかこちたいかこちたい。そんな自己矛盾仮説。角度欠損があるから、のっぺりしておる。世の中みんなご自愛専一に所感を述べるから、有為転変は胡散臭いんじゃ。ぶっちがいに赫々たる夜の太陽が、深慮遠望する頬かむりとなる。

d( ̄  ̄) オワカリ?

「1月1日:『おっと。すまん。ちょっと電話。あもしもし。うん。はいはい。大丈夫だよ。うん。うん。うん。そうなんだ。うん。うん。はい。へえー。うん。あもしもし。なんか聞こえづらいよ。声が遠い。うん。まあいいや。だからいいって。うん。うん。はいはい。了解。じゃあまた連絡ちょうだい。できればメールで。はいはーい』」。

(*・ω・d)~~~~~~~~~~(b・ω・*)モシモーシ

理想は高く持て。苦労は買ってでもしろ。希望を持て。夢を持て。お年寄りを大切にしろ。一生勉強だ。努力は報われる。継続は力なり。光陰矢のごとし。一寸の光陰軽んずべからず。小中学校の教師の常套句である。嫌というほど知っている。だが知っているところで何になる。逆の意味に解釈したほうが、生や現実と縁がありそうである。

∥ヘ(′ェ`)ゝ__」ふぅぅん

むか〜しむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんも川へ洗濯に行きました。すると、川上から何やら大きなものが、どんぶらこどんぶらこと流れてきました。よく見れば大きな桃でした。驚いたおばあさんでしたが桃を持って帰り、包丁で切ってみると「だからわしじゃて。これで何度目だ」。

( 桃 )ヽ(・o・ヽ) キャッチ!!

相変わらず昔は良かったブームが続いてるようじゃが、ほんとに良かったのかっての。大気汚染に水質汚濁、それに伴う公害、物は少なく、みんな貧しかった。将来は二十一世紀は、素晴らしい世の中になるなんて思ってた時代じゃ。過去における未来、つまり現在が期待外れだったということもあるんじゃろうなあ。ああ大正時代が懐かしい。

(´、ゝ`) アソ

重度の不安・恐怖・心痛といった精神状態に落ちた時、頭脳から言葉がたちまち飛び去り消えていく。残るのは期限のない苦痛である。脳の鈍麻や怯儒を強化される。もしそれらを未着手のまま言語化できたら、あるいは他人に譲ることができたら、と思ってやまない。可能だとしたら、医療の現場や犯罪率は今とは異なっているに違いない。

┗( ̄□ ̄||)┛お、おもい。。。

いとをとる

璃葉

EPSON MFP image

幼いころに夢中になって読んだあやとりの絵本を、20数年後のいま、もういちど買いなおした。
アラスカを旅した後、北極圏の部族についていろいろ調べているとき、彼らと共通するあそびが あやとり だということがわかったのだった。
わかったと同時に、急に子供のころをおもいだしてしまい、蚤の市で買った毛糸を使って、さいきんふたたびあやとりに没頭している。
おもしろいことに、絵本をあまり見なくてもそれぞれの取り方の順序を、手はちゃんと覚えていた。

あやとりの文化は世界中にあり、起原はエスキモーからなのではないか、とか、朝鮮なのでは、とかいろいろ言われているが、謎につつまれたままだ。
北極圏の部族たちはワタリガラスやアザラシ、カリブー、漁網、五つの山、などをあらわした。
日本では、亀の甲、紙芝居、ほうき、松の葉、富士山、梯子、さかずき。挙げだしたらキリがない。
そして、日本には「あやとり」のほかにも、さまざまな呼び名があることを知った。
いととり、あみかけ、らんかん、ちどり、トキゲ、コトントリ。まだまだある。
わたしはあやとり、という呼び名で育った。
糸は、母が編み物でつかった毛糸のクズをもらって両端を繋いで輪にし、いつでもあそべるように手首に巻いていた。
「ぶんぶくちゃがま」などのあやとり唄などはうたわず、ひとり無言で、しずかにあそんでいた。

世界のあやとりで共通しているのは、身のまわりにあるものを糸にうつしこむというところだろうか。
天文、植物、動物、生活のための道具、精霊から冥界、占術めいたものまでが、両手のひらのなかであらわされる。
きっと星も月も山も見えないものも、今よりももっと身近なところにいたのだ。

幼いころ、いちばん好きなあやとりは「月に群雲(むらくも)」だった。
何度か糸を取り交わし、親指に二本掛かった糸を一本だけはずすと、するするとまるい月ができあがり、
まわりに糸が何本か張り巡らされ、月を隠す雲になる。

すくって、掛けて、はずして、ねじって、糸を組んでいく。ほどけばかたちは瞬く間に消えてしまう。
このふしぎなあそびは、絶えることなく人から人へ伝わっていくのだろうか。

町内会の夜警

冨岡三智

「火の〜用〜心、(カチッ カチッ)」と町内会の人が拍子木を叩きながら夜廻りする時期になると、ああ、いよいよ今年も押し詰まってきたなあと感じる。

インドネシアにも町内会の夜警(ロンダ・マラム ronda malam)があって、拍子木ならぬクントゥンガン kentungan と呼ばれる木や竹で作ったスリット・ドラムを手に持ち、叩きながら廻る。これは年末に限らない。私の住んでいた地域では、兄ちゃんや爺ちゃんが数名で廻っているのをたまに耳にすることがあった。ただ、私も夜は大体外出していたので、正確な実施状況は知らなかったし、地域によっても差はあると思う。

この夜警だが、夜廻りを一通りやって終わりではなくて、一晩寝ずの番で自分たちの町内を守る。インドネシアの町内会は、日本軍政時の隣組制度を起源として法整備されている。各町内に通じる辻にはポス・カムリン pos kamling という東屋のようなものが設けられ、毎晩、町内から数人の男が出て交代で一晩詰める。ポス・カムリンの軒にはだいたい巨大なクントゥンガンが吊り下げられていて、何事かあるとこれを叩いて知らせることになっている。そこで男たちはだいたいはチェスをやって時を過ごしている。

何人かの知り合いのインドネシア人男性は、この夜警に出るのは大変だと言っていた。次の日には仕事に行かねばならないのだから。夜警に出られない場合はお金を出さないといけない(この辺は日本の町内会と同じ)が、度重なると負担になるし肩身も狭いという。

私は地方都市の町中の一軒家を借りて住んでいた。女子だし外国人だし…ということで、町内づき合いは免除されていたように思う。けれど、それだからこそ、また、私はいろいろ行事や公演を見に行って夜が遅くなることが多かったので、夜遅く帰ってきたら夜警の人にはいつも挨拶を欠かさないようにしていた。出先で食べ物をもらうことがあると、夜警の人たちにいつも差し入れるようにしていた。私が貢献できることはそれくらいしかないのだし、町内の人たちと交流してどんな人なのかを知ってもらうことが、結局は自分の身の安全につながるのだ。ジャワに住み始めて最初の頃は、なんで夜にたむろしてチェスする男性が多いのだろうと不思議に思い、少し怖くも思っていたけれど、今となっては懐かしく感じる。

アジアのごはん(82)ヒマラヤ岩塩の実力

森下ヒバリ

ヒマラヤ周辺で採れるブラックソルト(黒色岩塩)の酸化還元力がすごい、という話を小耳にはさんだ。おっ、それなら何種類か持っているはず、と棚の奥をごそごそすると出てきましたブラックソルト。バングラデシュの市場でもらった濃い紫色の親指の先ぐらいの塊が幾つか、インド東北部のダージリンの市場で買ったせっけんぐらいの黒い塊、インドのコルカタのスーパーマーケットで買った粉末のものもある。

どれも手に入れた場所の風景がすぐに浮かんでくる。旅先でその地の海水塩や岩塩を手に入れるのは楽しい。それを料理に使うのも楽しい。ブラックソルトはめずらしい色合いなので、食べずにとっておいた分だ。むう、岩塩の塊を見ていたら、インドに行きたくなってきた。

岩塩は産地によって味や成分がかなり違う。ヒマラヤンブラックソルトはパキスタン、インド北部、チベットなどヒマラヤ山系の周辺で産出される。日本に輸入されているものの多くはパキスタンのケウラ岩塩鉱山産だ。塩なのに色が赤黒くて温泉卵のような匂いがする。いや、硫黄系の温泉の匂いそのものといっていい。おなじくヒマラヤ岩塩でもピンク色やオレンジ色のピンクソルト、と呼ばれるものもあるが、こちらは硫黄の匂いはしない。

ヒマラヤンブラックソルトは太古の時代の激しい地殻変動で内陸に閉じ込められた海水が塩湖を作り、その塩湖が長い時間をかけて蒸発し、ヒマラヤ造山運動によって地層に閉じ込められてできた。その過程でマグマに触れ高温で焼かれたことで、成分に硫黄や銅、鉄、亜鉛を含むことになったようだ。いわば、何億年も前の海水の化石である。

ラブリーなピンクソルトはブラックソルトに比べて鉄分、カリウム、硫黄が少なく、亜鉛と銅はまったく含まない。逆にカルシウムやマグネシウムがかなり多い。マグマに接触した距離や時間の違いなのだろうか。ピンクもブラックも心配な放射性物質や危険な重金属は含まれていない。

さっそく、ブラックソルトの塊をゴリゴリと削り、水に溶かしてORPメーターで酸化還元電位を計ってみた。ちゃぽんとコップにメーターを入れてスイッチを押したとたん、あっというまにくるくる数字が動き、マイナス272で止まった。ワオ、-270mv!これはすごい還元力。

酸化還元力というのは、数字がマイナスになるほど還元力が強い。還元力が強いというのは、活性酸素(酸化)を還元する力が強いということで、身体においては細胞レベルでの若返りを促進する。水素水がブームになっているのも、水素が自然界でもっとも高い還元力を持っているからだ。

ちなみに日本の水道水はだいたい+200~500mvぐらい。純水の還元電位は+200mvで、それ以下から還元力を持つと言われるが、塩素の多い水道水はめったに+200以下にはならない。+200mv以上の状態は、これを飲んだり、触れたりすれば体が酸化し、傷つき老化するということである。感覚としては+200mv以下なら身体に悪くはない。マイナスに行くほど体にいい。

おもしろいので、手持ちの各種の岩塩や海水塩の酸化還元電位を量ってみた。まずはインドのスーパーで買ったブラックソルトの粉末。袋を見ると100グラム入りで5ルピーと書いてある。安い‥。10円ぐらいかな。偽物かもしれない。とりあえず、計ってみる。これまた、あっという間に-262mvを記録。すみません、本物でした。すばらしい。

以下、基本的に50㏄の浄水に、かる~く塩ひとつまみ。飲んでみてほのかに塩味を感じる程度の塩水の電位である。参考までに水道水と浄水器を通した水も計っておく。
・京都市の水道水‥+255mv
・ウチの浄水器の浄水‥-63mv これは水素発生器付き浄水器なので、本当はもっと還元力が高くあるべきなのだが3年目となると能力が低下してきたようす。ちなみに普通の浄水器の水は基本マイナスにはならない。+150~+200mvぐらい。
・カンホアの塩(ベトナム海水塩)‥+35mv
・真塩(メキシコまたはオーストラリア産海水塩)‥+30mv
・タイ海水塩‥+30mv
おやおや、海水塩はだいたい+30mvである。海はつながっているものね。
次は岩塩シリーズ。
・ヒマラヤロックソルト‥-270mv(インドで入手)
・ヒマラヤピンクソルト‥-24mv(パキスタン・ケラウ鉱山)
・モンゴルの岩塩(ほのかなピンク色)‥-55mv
・タイ岩塩(塩井戸からの塩水くみ上げで作る塩)‥-109mv
・タウデニ湖岩塩(マリ共和国)‥-176mv

岩塩は海水塩よりずっと還元力が高いが、同じ産地のヒマラヤピンクソルトはあまり高くない。ブラックソルトと比べると、還元力はわずかだ。タウデニ湖の岩塩は幻の岩塩で、戦争のため今は入手が難しい。白い塊の塩だが、かすかに不思議な味がする。ケイ素が豊富と聞いたのでその味かな? タイ北部の塩の井戸からくみ上げる水を煮詰めて作る塩は、岩塩層の上に地下水があり、塩分が溶け出して塩水が出来ている。意外にいい数値。味はあまり奥行きのないふつうの塩味なんだけど。ラオスの塩井戸の塩はわりと深みのある味だった。おいしかったので、みんな食べてしまい計れないのが残念。

モンゴルの岩塩つながりで、炭酸水素塩である重曹も計ってみた。
・モンゴル天然重曹‥-104mv
・パックス重曹(化学合成品)‥+160mv

重曹については、ガンに効くとか病気にいいとか諸説あるが、その真偽のほどはまだ追及していない。うがいに重曹水を使うのが歯や歯茎にいいのは実感している。どちらにしても、化学合成品よりも天然重曹が身体にいいのはこの結果から一目瞭然。うがいや歯磨き、料理には天然重曹を使ってください。手持ちの合成品重曹はおそうじに。とくに天然、とか産地が書いてなければすべて合成品とみて間違いない。

以前に紹介した白米の3回目のとぎ汁を一日置いて作る「とぎ汁還元水」は、そのときの米やとぎ汁の濃さ、気温などに左右されて還元値は一定ではないが、この日のわが家のとぎ汁の還元水の電位も計っておこう。あまりうまくいかないときは-100mvぐらいのときもある。夏はうまくいくと-400mvぐらいになることも多い、簡単で驚異の還元水。2日以上置くと臭くなるのだけが難点。今日は、寒いせいかまあまあの数値。
・無農薬米の白米とぎ汁還元水‥-180mv

おまけで届いたばかりの日本酒「出羽の雫」もそのまま計ってみたら、+58mvであった。水道水を飲むよりずっと体にいい? ちなみにいつも飲んでいるプーアル茶や紅茶も計ってみたことがあるが、だいたいマイナスにはならないものの、+50~30程度でかなり優秀。市販のペットボトルのお茶やジュースはまだ計ったことがないが、たぶんかなり悪そう。いつか測ってみよう。

人間の身体は酸素を取り入れて活動するために常に活性酸素の毒にさらされており、それを常に酸化還元している。(人の身体の正常な酸化還元電位は-250mv)それが追いつかなくなると、身体が老化し、ぼろぼろになり、病気になったりする。つまり、自分の身体に酸化した水や油や食べ物、化粧品などを注ぎ込んでいると、その還元に追いつかないどころか、酸化を加速させるわけだ。

身体に入れるもの、触れるものを還元力の高いものにすることで健康を保つ自分自身の還元力をサポートすることができる。毎日飲んでいる水分が2リットルあるとして、これがすべて酸化した水分、つまり還元電位が+200以上のものだったら? 体は外から入ってきた酸化した水分までも還元しなくてはならない。自分の細胞を健康に保つための還元がおろそかになるのだ。

すばらしいヒマラヤの岩塩だが、電位を見て分かるようにピンクソルトよりもブラックソルトが断然体にいい。ブラックソルトは硫黄の匂いがするので、飲んだり食べたりするのに抵抗を覚える人もいると思う。でも加熱すれば硫黄の匂いは消えるので心配はない。独特のコクがあるのでぜひ料理にも使ってみて。海水塩にくらべてミネラル分が大変多いので、隠し味にも大活躍。

まずは朝起きたら、コップ一杯の水にかすかに塩味を感じるくらいのブラックソルトを溶かし、ぐっと飲むのもおすすめ。ほんの少しの塩分なので、塩の摂りすぎにもならず、ミネラルも補給でき、酸化還元力も強力補給。夜寝る前にももう1杯飲めばさらにいい。効果を実感するには毎日続けることが大事で、たまに飲んでいるようでは効きません。

食べるだけでなく、お風呂に大匙2~3杯ぐらい入れるとヒマラヤ温泉の出来あがり。これは、もう本当に気持ちがいい。浴槽に直接、粉を入れると浴槽の素材によっては色が着いたりすることもあるので、桶などでさっと溶かして混ぜること。足湯で使ってもぽかぽか。粉末状のブラックソルトはネットでも簡単に買えて2キロで2000円以下。身体の調子がなんとなく悪い、免疫力がどうも落ちている、風邪が長引いて治らない‥あなたのためにヒマラヤからの贈り物。

海賊になりたい

大野晋

海賊王になりたいというとどこかの人気コミックのようになるが、たまに海賊になってしまいたい欲求が高じるときがある。要は、何かから自由になりたいだとか、何かを自由にしたいなどの気持ちなのだろうと思うが、果たして海賊が自由だったのかどうかはよくわからない。イメージとしては大海原をまたにかけて、国の法律などに関わりなく自由に航海していたのだから自由だったようにも思えるが、その実、敵対する国が庇護していたりするので完全な自由気ままな生き方ではなかったのだろう。ま。実際はどうであれ、海賊になりたいときの私は自由になりたいのだから、何かに必要以上に束縛されていると感じているのだということだ。

さて、最近の自由にしたいと思った対象は何と言っても著作権だろう。著者の死後50年間も拘束された挙句に利用されずに消えていくというのはなんともかわいそうだ。これは70年になったとしてもあまり変わらない現象である。もちろん、20年の延長は長いことは長いが、実際には著作物の大勢は著者の死後50年を待たずに決まってしまう。今や著作物の寿命は短く、よほどの工業著作権でもない限り、死後どころか、発表されて数年、長くて数十年で市場から大方が消えていく。

だから、著作権など、発表後20年でいいではないか? などと間違っても言わないが、著作物の有効利用と再利用の促進のためにもっとなにかできるのではないか? とは思う。そうでなければ、多くの著作物が利用されずに消えていくだけだろう。そういう意味で、海賊としての本分は、著作権の保護期間の延長反対よりも、もっと保護期間中の著作物に自由を! なのである。

米国大統領がわからんちんになりそうなので、TPPも予断を許さない状況だが、その話とは切り離して、著作物再利用のハードルを下げないと、コンテンツクリエイターは幸せにならないのではないかと思う。

走る犬、うずくまる人。(1)

植松眞人

 金曜日の夜に東京から大阪へと移動するのに新幹線を選んだのはいいけれど、僕のあずかり知らぬところで景気が良くなったという噂はどうやら本当で、のぞみはどれもこれも満席で、ひかりでさえ車両によっては席がないと言われてしまう。それなら、となぜか「こだまでいいや」と声に出してしまい、そうですか、とあっさり、東京発新大阪行きこだま六八三号のチケットを発券してもらう。午後七時半に出発して十一時半に新大阪に着ける。とりあえず、眠れるだけ眠っていけばそれでいいと思っていたのだが、出発してすぐにのどが渇いて仕方がなくなったのだが、近頃のこだまは車内販売もなければ自動販売機もない。仕方がないので、岐阜羽島の駅で列車を降りて、小銭を取り出して、自動販売機でお茶を買い、低い取り出し口から取り出そうとした時に、胸ポケットに入れていたスマホを落としてしまい、慌てた拍子に自動販売機とホームの隙間に自ら蹴り入れてしまうという体たらく。少し奥に入ってしまったようで手を突っ込んで、あちらこちらを触っている間に、なんだか汚いゴミのようなものを大量に掻き出しつつ、そのなかに自分のスマホを見つけてほっと一息ついた瞬間にこだま六八三号は動き出す。ホームにスンッスンッスンッという軽快な風切り音を残して出発進行。お茶とゴミだらけのスマホを握りしめたまま自動販売機の前で正座しながら僕はこだま六三八号を見送ることになったのである。
 このまま次のひかりが通りかかるのを待っても良かったのだが、なんだかこだま六八三号を見送った瞬間にいろんなことがどうでも良くなり、幸いお茶を買いにホームに降りるとき、小さなショルダーバッグから財布を出すのが邪魔くさく、そのまま担いだおかげで、こだま六三八号の中に忘れ物はなく、チケットも財布も仕事で使う小さなパソコンも全部持ったまま自動販売機の前に正座していたこともあり、僕は妙にさっぱりした気持ちで、立ち上がり四十数年生きてきて、生まれて初めて岐阜羽島の駅に降り立ったのである。
 岐阜羽島で降りる人は少なく、前を行く若いサラリーマンは両手に東京銘菓と書かれた紙袋を二つずつ下げていて、仕事上のお使いでも頼まれたような出で立ちで、後ろからは少し腰の曲がったお爺さんと、妙に背筋の伸びたお婆さんが互いに手を取りながらゆっくりゆっくり歩いている。
 とりあえず、あてもないので改札を出てタクシー乗り場の方へと歩く。客待ちのタクシーが僕を見て客席の自動ドアを開けたのだが、僕が乗る気配を見せないと、やがてまたドアを閉めた。そこへ、さっきのお爺さんとお婆さんがやってきてそのタクシーに乗ると、タクシー乗り場には一台のタクシーもいなくなり、僕はベンチに座ってさっき買ったペットボトルのお茶を飲み始めた。水銀灯のような青白い光がロータリーを照らしていて、とても静かな空気がたゆたっていて、もしかしたらあと少しぼんやりしていれば朝が来るのではないかと勘違いしそうだったのだが、犬がワンと吠えて、たゆたう空気は一瞬にして霧散する。

しもた屋之噺(179)

杉山洋一

東京に初雪が降ったと聞き、すっかり厚着をして成田に着きました。思いの外気持ちの良い秋晴れで、昨日までの鬱々としたミラノの厚い鉛色の空が信じられない気がします。

 11月某日 三軒茶屋自宅
いつも機会を逃していた、中村和枝さんと山本くんの演奏会を初めて聴きにゆく。前半と同じ内容を、休憩を挟んで後半も演奏する。行き先の見えないまま聴き続ける前半と、行き先が見えていて、自分なりの筋書きを考えて聴く後半。その構造の支えを敢えて外す松平作品。
身体が鈍っているので、三軒茶屋から両国まで自転車で出かける。昨日のリゲティのリハーサルも、江古田まで自転車。

 11月某日 ミラノ自宅
ボストン近郊で昔書いたヴィオラと打楽器の曲を演奏されたのは知っていたが、演奏会の様子は知らなかった。どういう事情かわからないが、曲を感激して泣き出した聴衆がいた、とのメールが届き、愕く。何となく申し訳なく、後ろめたい。あまりまともな作曲をしていなくて、大体作品がよいと言われるのは演奏家の力量に頼っている。

 11月某日 ミラノ自宅
ジークフリート牧歌を読む。その昔、旋法で音楽をやっていたころ、導音の概念は3和音の第3音をずり上げることで、機能和声へ発展した。
それから200年ほど経って、第5音もずり上げることで、機能和声は飽和状態に達し、和声感も曖昧になった。過去の産物を信じているような、信じていないような増3和音。シェーンベルクらは、機能和声に限界を見出して12音へ発展したはずだが、増3和音の簡便さはよく理解していたし、その裏にうっすらと浮き上がる調性感をどこか信じていたのかもしれない。無調と呼ばれても、そこには常に過去から引きずられた機能和声の重力がのしかかっている。

 11月某日 ミラノ自宅
音楽を学ぶにあたって、常識的に理解されるべき内容は、まず徹底的に学ぶ必要はある。旋律の持つ意味。低音が支える意味。内声の意味。音色。全体構造。第一主題の意味、それに続くブリッジの意味、第二主題の意味、コデッタの意味、展開部の意味。無数の表情記号の意味。アーティキュレーションの意味。趣味の良いルバート。速度の微妙な変化の方法。オーケストレーションの意味。書かれているオーケストレーションを効果的に浮彫りにさせる技術。それらすべてを、バランスよく調合する技術を学ぶ。強弱の表情。
それが出来るようになったら、多分音楽家が本来求めるべき姿は、いかにそれまで学んだバランス良い音楽を壊すかではないか。予定調和を如何にして破壊し、シンメトリカルな解釈を徹底的に排除し、毎回違うエッセンスを振りかけることによって、緊張と新鮮さを保つ。色使いも同じ色のグラデーションから如何にして脱し、めくるめく色彩のパレットを創造することができるか。
同じ音楽を再生させようとすることに、興味を失った。毎回違う音楽が生まれればよい。演奏者の期待を悉く裏切りつづけ、そこから別の次元の期待を引き出すこと。
如何に微妙な歪さを、常に保つことができるか。4声のコラールであれば、いかに均等な声部配分から逃れて、それぞれのパートに凹凸をつけて、イレギュラーにゴツゴツとした手触りが表面に感じられるようにするか。この無数の小さな不均衡のモザイクによって、光を当てたときに美しい輝きを放つ。
自分から発する情報ではなく、目の前で発せられている音をいかに観察し、調理し、還元することができるか。目の前で奏でられている音には既に豊かな色がついているのに、如何にして気がつくことができるか。レッスンでは、強拍のみ振らないで、弱拍だけで音楽をつくる試みを続けている。強拍のところに空いている穴から、演奏家の音を聴き、前後を考えながらフレーズを作る訓練。

 11月某日 ペスカーラ
ペスカーラに来るだけでも、家人の恩師を思い出し少し感傷的になる。今年の年始に長男と話したときは、まだ辛うじて彼と奥さんの顔だけは解っているようだ、と言っていたが、今はどうだろう。彼と一緒にリハーサルをした時を思い出し、シェーンベルクの練習を始めると、胸が締め付けられるようだった。練習の後、近くの食堂でステーキを食べながら雑談したのが、昨日のことのようだ。クラシックの基礎が欠如していた自分にとって、彼から学んだことは数え切れない。
15年来の友人から頼まれて、ペスカーラの室内オーケストラの仕事を引き受けたのだが、演奏者の殆どがボルツァーノのオーケストラであったクラリネット奏者だったり、ディンドのやっているソリスティ・ディ・パヴィアの弦楽器奏者だったりして、演奏会のたびにペスカーラに集うのだという。
初めてオリジナル編成で「ジークフリート牧歌」を演奏したが、想像通り、磨けば磨くほど艶が出てとてもうつくしい。弦楽器を5人で演奏すると、限りなく可能性が広がってゆく。この編成ではオーケストラというより、寧ろ室内楽に、最低限必要な部分だけ指揮をつける感じ。こちらに合わせるような演奏では、この編成のよさが際立たない。バスのカデンツに耳をそばだてながら、出来る限りフレーズを長く、クレッシェンドに可能な限り時間をかけてゆく。ワーグナーのゼクエンツは、時として鳥肌が立つような、めくるめく触感に襲われる。

 11月某日 ペスカーラ
所々ペンキの剝げ、色あせたペスカーラの音楽ホールの外壁は、見るからに場末という雰囲気が漂う。隣には屋外ホールがあって、夏にはジャズ・フェスティバルをやっているという。歴史が古く、デューク・エリントンもやってきたという。ミラノのブルーノートよりずっと古いのよ、と誇らしげにジーナが呟いた。音楽ホールは、一歩中に足を踏み入れると、思いの外美しく、木で誂えた内装は響きもとてもよい。なるほど海辺に建っていると、外壁が痛むが頓に早いのだろう。
ステージによじ登ろうとして、左手の薬指を捩じってしまった。この指は子供の頃に関節がつぶれてしまって一つないのだが、もう50歳近くなろうと言うのに、時としてそこに関節が残っている錯覚を覚えることがある。今回も同じで、力を入れてはいけないところに重心を掛けてしまった。妙齢の薬剤師に呆れられながら、宿の隣の薬局でボルタレンを買う。こういう時は、楽器弾きでなくて良かったと心底思う。

 11月某日 三軒茶屋自宅
トップにコーヒー豆を買いに出かけ、袋に詰めてもらう際、紙袋とポリ袋を取り出して、「どちらがよろしゅうございますか」と尋ねられる。何故か解らないのだが、女性の自然な仕草と言葉遣いに甚く感激する。
カストロ死去の報に際し、すぐ頭に過ったのはジョージ・ロペスのことだった。彼は少しのっぺりした感じのアメリカ英語で電話してくるので、初めアメリカ人だとばかり思い込んでいて、随分経ってからキューバ生まれだと知った。どういう経緯でヨーロッパに辿り着いたのか、尋ねたことはない。
彼の作品が余りに素晴らしいので、何度かポートレートCDを作ろうと計画しては頓挫して、そのままになっている。長くオーストリアの山中で孤高の生活を送っていて、その頃には何度も生活が苦しい、助けてほしいと手紙を貰ったが、今はスペインで作曲を教えているはずだ。
当時は一風変わった人間としか思っていなかったが、波乱万丈の人生を歩んできたのかも知れない。カストロがいなくなった故郷を、彼はどう思っているのか。

 11月某日 三軒茶屋自宅
時差呆けが辛い。昨日は朝の8時半まで仕事をして、目が覚めたら14時。
今日は朝10時からリゲティのリハーサルなので、朝の4時には無理やり布団に入って、7時半に起きて自転車で大井町まで出かける。相模湾沿いの街に近づくと、身体が無意識に懐かしさに反応する。祖父母のいる湯河原に通い、茅ケ崎と三浦半島の堀之内に墓があり、義父母は熱川に住んでいる。子供のころから横浜に遊び、大学時代は、まだ寂れ切ったままだった鶴見線に乗って、日がな一日目の前の運河を一人眺めた。
何回眺めても納得できなかった第九の3楽章後半の1フレーズが、ふとした切欠でやっと自分なりの落としどころを見つける。フレーズ構造を頑なに冒頭と関連付けていたのがいけなかった。その昔、エミリオに稽古して貰っていたころ、彼が一小節がどうにもわからなくて、ずっと一日悩んだ、と話していた。当時は全くその意味が解らなかったが、あれから随分経って、もしかしたらあの時の彼より譜読みはどんどん遅くなっている気がする。
昨夜、行き詰って、家にある家人のベートーヴェンのピアノソナタの楽譜を眺める。特に作品110を夢中になって読む。大学時代に雨田先生と一緒にこのソナタを勉強したときのことを思い出す。arioso dolenteという言葉とかpoi a poi di nuovo viventeとか、当時はイタリア語など感覚的には理解できなかったから、このAs durの音が、言葉と一緒に未だに生理的に体にしみこんでいる。
一体、まともにピアノが弾けない人間がこれをどの程度、どうやって弾いたのか、想像すら出来ないが、ともかく半年くらい、このソナタとバッハのトッカータの楽譜を開き、暇さえあればいつもピアノで訥々と音を拾っていた。作曲にも現代曲にも興味を失っていて、ariosoや最後のフーガなど、毎日音を出すだけで身体が震えていたのを、楽譜を開いて突然思い出した。あれはいったい何だったのだろう。今、あんな風に音楽を改めて感じられるだろうか。もし感じられないとしたら、本当にそれでよいのだろうか。
仲宗根さんからお便りをいただく。「こちらは子供の制服の冬服ができあがり涼しくなりました。沖縄は入学の際は夏服です。 “Smoke prohibited” 聴きました。かっこいい!素晴らしいブルースです。バリトンサックスの音がTさんと出会った頃、三十数年前によく耳にした記憶の音にあまりの近くて。Tさんは国立がんセンターで新たな治療方針が決まったとメールが届きました」

(11月29日三軒茶屋にて)

画材に気持ちがのってゆく

西荻なな

2016年は間違いなく邦画の当たり年だったと思う。どこに行っても「『シン・ゴジラ』観た?」「『君の名は。』観た?」の会話が夏から秋にかけて、挨拶代わりに飛び交った。このヒットの体感を過去作に喩えるなら、かなり昔のことになるが『タイタニック』だろうか。あるいは『もののけ姫』? ヒット作が一挙に2作もやってきて、誰もかれもが浮かれているように見えた。

おじさんたちは『シン・ゴジラ』に「この世の春が来た!」とでもいうような興奮ぶり、熱弁ぶりだった(周囲の女性も結構見ているのだが、それに比して感想を語る鼻息が荒い印象)。「群衆の描き方が、まさに日本の真理を捉えている」「うだつの上がらない首相の描き方がうまい」などなどディテール語りを誘う。確かに、ゴジラの存在を脇に置いておいても、震災後の機能不全に陥った日本官邸の内側をのぞいているかのような臨場感もあり、時間を引き戻して「あの日」を思い出させる仕掛けになっていた。危機的状況に際して、イエスマンたちからなる”ザ・日本人集団”が退場せざるをえなくなり、結果的にアウトローで通っている一人ひとりの寄せ集めが日本を救う、という筋書きは、閉塞的日本に生きる多くの日本人の気持ちを代弁してくれたにちがいない。ある経済学者には「君まだ見てないの? 界隈でも大評判だよ」と叱られたくらいだ。

対する『君の名は。』のヒットは、描かれた舞台の一部である四谷や新宿御苑界隈に聖地巡礼に訪れる人が多いらしい、という事情によってもうかがわれて、「ポケモンGo」的な人々を連れ出す外側への広がりで感じていた。時空を超えての体の入れ替わりのストーリーには「それはよくあるよね」と思いながらも、風景描写がとにかく緻密ですごいという。でも実際に耳を傾けてみると、「巻き戻らない青春時代を思い出してキュンとした」という感想を述べる人と「よく分からない」という人とが拮抗。
どちらも正直、観る前にすでに耳年増になっていて、両作品をようやく観ることができたヒット最盛期すぎにはすでに、能年玲奈が2年ぶりの沈黙を破って主役の声を演じるという『この世界の片隅に』の公開に目が向いていた。『君の名は。』を見終えた後、「こういう作品が大ヒットをする時代なのか……」という寂しさと不可解さに肩を落としかけていたこともあって、早く観たいとの気持ちが募っていたのだ。

そして…『この世界の片隅に』は素晴らしかった。
主人公の浦野すずは広島市に生まれ、家は海苔を作っている。いつもぼんやりしていて迷子になってしまうような子どもだが、絵を描くのが好きで、絵を描きながら妹に今日の小さな出来事を語り聞かせたりもする。絵を描きながらのすずの語りは名調子で、活弁士のよう。少し創作が入ったりするから、妹は大喜びだ。すずがどんなにぼんやりしていると言っても、この活き活きとした語りのリズムと、時にツッコミのように入るユーモアが全編の空気を作り上げている。例えば、すずの恋の気持ちの明るさは、すずが描いたカラフルな水彩画の風景が、次の瞬間に立ち去る相手の姿とともに現実の風景となって立ち上がることで、さりげなく語られたりする。里帰りで呉から広島に帰り、実家の温もりに触れたのち、再び汽車に乗り込む寸前に買った画材で描く広島の風景。空襲で空の風景が一変するときには、そこに黄色、水色などの絵の具の色をすずは思い浮かべる。心の中で空に絵の具を塗る。

広島に生きる浦野家一家の日常と小さな恋、戦前の伸びやかな空気と明るさ、そこからすずの嫁入りで呉に舞台が移り、戦争の影が忍び寄ってきたのちの時代の空気もが、彼女が描く絵のタッチとその語りの調子とともに、すっと入ってくる。明るさの隣に影があったり、影をユーモアで打ち消そうとしたり。すずの語られえない複雑な感情もが、絵の思いがけない奥行きによって語られる。次の瞬間、そのすずの感情が、観る私の中に引き出され、すずの描く(時に思い描く)タッチに乗ってゆくようなのだ。それは不思議な体験だった。

作品の中で日めくりカレンダーのように、丁寧に描写される戦時の日常リズムとともに、すずに彩られたこの語りの枠組みの強さを痛感することになるのは、とりわけ世界に暗雲が立ち込めてからのこと。絵を描けなくなってからの、右手を失ったのちのすずの心の内は、彼女が描くことのできなかった情景として押し寄せてくる。でも同時に、すずが描いた何枚もの絵が脳裏に蘇り、リフレインする。戦後を迎えてガラッと一変した空気の中、広島と呉の風景、そして失われてしまった戦前の空気もがカラフルに立ち上がってきて、いくつもの感情を知ってしまったすずにむしろ後押しされるような気持ちになるのは、すずが絵心を取り戻すことが感じられるからなのだと思う。鉛筆、水彩、描かれたもの、描かれなかったもの。時々の細やかな表現が、とても豊かな作品だった。

考えないを考える

高橋悠治

音がうごくとその位置の変化を身体で感じるのと 音のうごきにつれて身体がうごくのと それとも身体が音の先端になってうごいていくと感じるのは おなじことのようでも 意識がちがう 人と音が二つの並行した状態に感じられるところからはじまり だんだん音にうごかされ そのうち人は消えて うごく音だけが残る とも言えるし 音が消えて うごく身体の感じが続く とも言えるかもしれない

音がうごくと感じるのは 消えてすでにない音と まだない音を結ぶ線のなかにいる感じとさらに言えば その線は枝分かれすることもあり 途切れることもある 途切れても 別な線がそこでもうはじまっていれば 音楽は続いていくが ちがう方向に曲がっていく

それでも線が途切れたなら どこかにもどってやりなおしてもいい 今まで見えなかった出口が現れるかもしれない ところで やりなおすために どこかにもどれるとしたら そのどこかは 記憶のなかにある音のかたまりということになるだろう 即興の場合には 記憶は意識のなかに残っている結び目で それが消えないうちに引き継ぐ それは会話のなかで前の話題にもどるときのように おなじやりかたでくりかえされることはない 中断したした時と環境がおなじに思えても ほんのすこしだけ間があれば 引き継いだときには ちがう方向がひらけるかもしれない

書かれた記憶 たとえば走り書きした楽譜なら どこか目につく箇所からまたはじめる 書いている途中でそこから離れて時間が経っていたら 再開したとき前後の脈絡が思い出せないかもしれない そのほうが辿る道筋が複雑になり おもしろくなることもありうるし それがすこしずつ書きすすめるやりかたの理由にもなる

書いたものを辿りなおす時 やりなおした箇所ではないところで 続いていたはずの線が途切れていると感じるかもしれない 感じが途切れると そこまでのまとまりは 断片のように置き去りになる

全体の枠を決めてからそのなかに音のかたまりを置いていくのと 置く音を集めてからそれらを並べて全体を作るのと二つのやり方がある まずうごきはじめ うごいた跡がかたちをなすのは そのどちらともちがう

すこしずつうごいては停まり やりなおしながら継いでいくのは どうなるかわからない遊びで 感じが途絶えるまで続けて おなじところからもう一度やってみると 似たはじまりをなぞりながら やがて逸れていく

音楽を即興し 作曲して ふりかえって考えて見る ふだんはしないことだが こんな時に 書くことがないから 過ぎた音楽について考えることになったりする 書いているうちに 意味をつけたり まだやってないその先まで書いてしまいかねない そうなると 書いた内容にしばられるだろう

まずうごき うごいた後に考える そのときに うごく前の状況が見えれば その前にさかのぼって 別な可能性をみつけることができるかもしれない すでにないものから まだないものへの可能性

意識していた前提は もうない音楽かもしれないし 音楽でない現実のなにかかもしれない その両方かもしれない 意識からも隠れたなにかかもしれない

音楽を即興し作曲することは ことばで言わないという選択かもしれない

何かを言わないのは 言わない何かを指す方法かもしれない

1016年11月1日(火)

水牛だより

朝起きたときにはすでに降っていた雨がお昼すぎにやんで、一瞬のあいだに陽ざしが出てきて明るく暖かくなりました。長い夜がやっと明けたような11月の午後です。

「水牛のように」を2016年11月号に更新しました。
藤井貞和さんの詩はわかりやすいとは限りませんが、わからなくてもおもしろいと思うのは、「希望の終電」というタイトルに見られるような、藤井さんの現実のとらえかたのせいであり、またそこから出てくることばの力でもあります。うたうのは土人と言われた側であり、しかもいつだってチョー過激です。

いまちょうど読書週間らしいので、分厚い翻訳の本を2冊紹介します。翻訳者はふたりとも水牛でおなじみ。
出版順で、まずは『翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動』(スコット・L・モンゴメリ)翻訳は大久保友博(大久保ゆう)さん。ありそうでなかった翻訳の世界史です。500ページ。
そして『アメリカーナ』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)翻訳はくぼたのぞみさん。アフリカ、アメリカ、ヨーロッパの「三大陸大河ロマン」とオビにあるだけあって、544ページ、しかも2段組みです。
ところどころ拾い読みしながらも、机の上に積読状態で、精読する時間を探している読者としては、どうしてこういう仕事がきちんと出来るのか、いつか聞いてみたいものだと思います。

片岡義男さんの書き下ろしエッセイ『万年筆インク紙』を担当しました。晶文社から11月11日に発売の予定です。これは288ページで、ふつうより少し厚めかな、というところですね。「青は思考の色だ。思考の跡は青いインクによる文字として残る。」というわけで、いろんな万年筆やインクや紙を試した片岡さんから送られてきたインクなどがたくさんたまっているのです。使いきれるのでしょうか。

それではまた!(八巻美恵)

144 希望の終電——土人のうたえる

藤井貞和

ふしぎな自由  力とことば  制度は火  燃え、
機動隊はきみを「土人」と言っちゃって  老者の「生」をぬり込む絵、
急ぐ流れる注ぐ  死の側溝に水の絶え絶え、
注ぐ意味  「ハート」はぼくら  自由な入り江。

跡は白波  申し込み用紙に  ものを洗う野の声に  二等車に、
捕虜の迷路に  映さない虐殺に  洩れるうぶごえに、
うた湧く胸に  藻の花に  捧げるぼくらの自由に、
それでも祈る  まだ性懲りもない友情に。

呼ぶ声がこごえに  しずかに  舗装する田に、
倒れるきみのひとばしらに  戦場のなわしろに  垂直に、
きみののこした陸稲が穂を垂らすこと  祈る。

無事で  生きて  兵舎にもどってと、
ぼくら  先生  国家の生殺与奪に負けないと、
平和と暴力  ことばの落下にそれでも祈る!

ものいみの国  ものを恋う心のさびし!
遭難のかなし!  埋めた吐息をなぜ発掘し!
だれかがきみを呼ぶ  泡のなかのあさまし!

ちがうな  ぼくらは平和産業  つまり産廃で  自殺ええ、
罪悪  きみの救いは「あら、えら、やっちゃええ、
どうしても、どうしても、助けねばならん、ええ」――

うたうらをやみのちまたに  投げあたえて、
たましいの踏切に希望の終電がさしかかって、
それでも  汚れた手のなかへ繭をにぎりしめて。

(「どこ摑んどるんじゃ、おんどれゃ、土人」と大阪から派遣された機動隊員が言ったそうです。土人の詩を書いてみました。自サ由ルへトのル道子さーん、終電です。)

夜のすみか

璃葉

つめたい風と 夜空が からだの中に 吹き込んで
しばらく居座る
月といっしょに 静かにかがやいて
星は縮み 膨らんで 暗く 明るく 消えて 現れ
音もなく 夜が留まる
呼吸だけ 耳に返り 循環し続ける
楽しくも つまらなくもない 夜

明けの霧
額 目 喉 心臓 ハラワタ 足の裏へ降り
夜は僕のからだを そっと通り抜けていく

EPSON MFP image

しもた屋之噺(178)

杉山洋一

道玄坂を自転車で下ると、機動隊の車が連なっています。物々しく何かと思うと、今日はハローウィンだからだと教えてもらいました。10月末に東京にいるのは何年ぶりか思い出せませんが、着実に日本の現実から乖離してきた自分を感じました。クリスマスもヴァレンタインも日本とどう関りがあるのかと不思議に思っていましたが、ハローウィンに至っては流行すら知りませんでした。小学生のころ、米軍座間キャンプでハローウィンに連れて行ってもらい、見ず知らずの家に出かけてはお菓子を貰う行為が子供心に理不尽だったこと、どれも派手なパステル色をしたお菓子はどれも口には合わず困った記憶が蘇ってきました。

 10月某日 ミラノ行車中
朝5時40分に目覚ましをかけると、その時刻直前に目が覚める。寝静まった朝、こちらも静かにシャワーを浴びて荷物を息子が小学生低学年の時に使っていた初代ランドセルにつめ、そっと家を出る。見かけが悪いので彼は使わないが、ここ数年どんなに重たい荷物を入れ仕事場と往来しても未だに壊れない優れもの。
自転車をサンタゴスティーノ地下鉄口に留め、中央駅まで緑線に乗るのが一番早い。9月はこうして3週間レッジョエミリアの劇場と毎日行き来したし、今日はボローニャ国立音楽院で二日目の授業。中央駅では決まって野菜ジュースを頼み、店の妙齢に生姜も入れるよう頼む。車内で仕事をしていると瞬く間にボローニャ中央駅に着く。所要時間1時間2分。
国立音楽院は市立劇場のあるレスピーギ広場を右に折れ、1本目を左に入ったところにあって、徒歩15分くらい。授業が9時から12時までだから、8時40分くらいにはレスピーギ広場の喫茶店で朝食を摂る。

ボローニャは若者の街、大学の街。行き交う人々はみな若く、活気に溢れる。古くから先進的なヨーロッパの文化都市として発展してきた。音楽にしてもしかり。チェロが独奏楽器として成立したのは、ボローニャ楽派のチェリスト兼作曲家の一群がいたから。バッハのチェロ組曲もボローニャで職にあぶれた彼らが各地へ流浪しなければ生まれなかった。若いモーツァルトがイタリアを目指した理由の一つは、ボローニャのマルティーニ神父に作曲を習いたかったから。彼がボローニャに着いた日は、ちょうど息子の誕生日と同じなのでよく覚えている。

そんなことを思いつつ音楽院の薄暗いへろへろの階段を昇ると、目の前にマルティーニ神父の像が立つ。フランシスコ会神父だった彼は授業料を受取らなかったので、イタリアのみならずヨーロッパ各地からの来訪者は、彼に無数の貴重な本を寄贈し、彼の周りには益々ヨーロッパ中の叡智が集まり、図書館の蔵書はヨーロッパ随一と呼ばれた。

大学院課程の作曲科生を対象とした、自作を振り自ら稽古をつけるちょっとした指揮講座。イランからの留学生ぺドラムは不思議な音楽感覚。カラブリア生まれのマリアステッラは優等生。子規の「汽車道に低く雁飛ぶ月夜哉」を歌詞に選んだ。
「この句は楽しく明るい印象なのですが、間違いありませんよね」、と尋ねられ、咄嗟に答えられない。楽しいとかそうでないとか、そういうものかいと答えに窮す。雁はガチョウと伊訳されていて、生物学的には間違いではないのだろうが、我々が、「汽車道に低くガチョウ飛ぶ月夜哉」と詠まれてもどうにも雰囲気がでない。その上、「ここは沢山のガチョウが騒がしく愉しげに啼いているところ。があがあ」と歌う箇所まである。
マッテオの新曲は、少しイタリア未来派の音響詩のよう。マリネッティ風。

 10月某日 ミラノ自宅
日本で育児休暇や産前産後休暇の問題が取り沙汰されて久しい。欧米ではこれら休暇がタブーではないのに、日本ではどうして定着しないのか、という論調が一般的かと思う。うちの大学では、7月秋の試験日程の調整をする大事な時期に、それまでまめまめしく日程調整をこなしてきたマウラが産休に入り、9月それらを片づけなければならない時期に、音楽院長に次ぐ役職の総括部長を長年務めたエウジェニアが、両親の介護のため無期限で休暇に入ってしまった。

当然、学校の機能は麻痺し、学内の試験も入試日程も混乱しただけでなく、当然今年の授業日程の采配すらままならない。学院長のアンドレア始め、事務局の女性陣揃ってこの処不機嫌で、とても声を掛けられたものではない。怖いので、そろそろと事務局の前を通り過ぎようとすると、中から大声で「ヨーイチ!」と声がかかる。
厄介で複雑な契約書が複数、それも幾つもの学部にまたがって必要なのに、日程すら決まらず、よって正確な時間数すら判らず、みな憤りのやり口がない。学院長秘書のシルヴァーナは契約書を作らなければいけないので、傍らにいるクラシック学部長のホセや作曲現代音楽部長秘書のカティアに、ヨーイチの時間数や日程がなぜまだ決まらないのかと声を上げ、対する彼らも、学校がこんなに混乱しているからいけないと応戦する。何しろ授業の開始日まであと3日だというのに、学生たちに授業の日程が伝えられないのだから堪らない。目の前でのやり取りに何とも居たたまれない心地になる。

もしかしたら、「何でこんな時に彼女たちは休暇を取るのかしら」、と喉元まで出かかっているのかも知れない。でも皆それは言わない。彼女たちの休暇は、正しい権利として認められている。自分も生まれてくるとき、母親は仕事を休んだかもしれない。両親が年老いたら介護しなければいけないかも知れない。当然だと誰もが思っている。
日本の論調では、推奨している休暇の結果会社に負担はないような、非現実的な書き方がされているが、少なくともイタリアではそんなことはない。休まれた側はとても苦労するけれど、迷惑とは捉えずに、単に大変だと割り切っている。「solidarietà」互助の精神。日本は迷惑を極端に恐れる、良くも悪くも慮る社会構造。

 10月某日 ミラノ自宅
家人が三宅榛名さんの「北緯43度のタンゴ」を練習している。今度息子と一緒に出演する日伊国交正常化150周年の演奏会で弾くとか。題名の北緯43度は札幌のことだとか。ミラノは北緯45度だからほぼ同緯度という繋がり。息子は中学校でフルートを始めた。下からドレミファソと5つ音が出るようになって、まず一人で吹き始めたのは、「火の鳥」のフィナーレの有名なホルンの旋律。もちろん調性は全然違うのだけれど、よほどあの旋律が吹きたかったのだろう。

机に向かって仕事をしていると、何度となく傍らに来てはぽうぽう吹いてこれは何の音かと尋ねる。それがいつもどうともつかぬ音程で、一々ラの音と比較しなければ良く分からない。最初のチューニングも未だ出来ない上に音程も取れなければ、不思議なくらい判別不明の音が出る。これはこれで興味深い事実の発見ではあるのだが、こちらもそれどころではないので、痺れを切らし、息子を連れて電子チューナーを買いに出かけ、ついでに古書の楽譜で何か面白いものはないか物色し、カセルラ校訂のショパンのバラード1番と夜想曲集の楽譜を購う。併せて10ユーロ。

特にバラード1番は、冒頭4小節目のルバートは自分なら2拍と3拍を16分音符のように演奏して4分の3拍子にするとか、13小節目はパデレフスキが右手の変二音を二音で弾くのを不思議に思って或る時問いただすと、原典版を単にパデレフスキが勘違いしていたとか、愉快な雑学が事細かに書き込んであって、読むだけで得をした気分になる。昔は誰でもこのような説明に想像を逞しくしつつ、紙媒体を通じて伝統を受け継いでくることが殆どだったろう。
興味深いのは、カセルラが校訂した当時、ショパンが解決を遅らせた倚音など、一時的に不協和音になる部分を、印刷ミスと勘違いして音を変えて演奏する習慣があったらしいことだ。7小節目右手親指の変ホ音を、ブルニョーリ版などは「怖ろしいこと」に二音に直してしまっているが、カセルラは、これらの一時的な不協和音程こそが音楽の美しさを際立たせているのだから、絶対に直して弾いてはならない、と強い口調で忠告している。今は先に音源を聴いてそれを真似するから、情報こそ正確かもしれないが想像力も理解力の深さも、当時より劣っているのかも知れない。

リヤ・デ・バルベーリスのインタヴューを見る。彼女は南イタリアはプーリアの端、レッチェの生まれで、スカルラッティの校訂で有名なナポリのロンゴにピアノを習い、37年から47年までローマやシエナでカセルラのもとで研鑽を積んだこと。初めてカセルラにピアノを聴いてもらった際、彼はほとんど何も話さず、物静かで怖かったこと。ローマで学校に入学するまでは、自宅で無償でレッスンをしてもらっていたこと。カセルラは厳格で完璧主義者だったこと。カセルラの没後、パリでマルグリット・ロンに習ったことなどを、人懐こい南訛りでよく話す。指揮者になりたかったが、フランコ・フェッラーラから女には無理な職業と言われ泣く泣く諦めたこと。

彼女曰く、カセルラも決して裕福な家の出身ではなく、チェリストの父とピアニストの母のもとで育ち、11歳くらいまでには音楽を志すようになったという。才能を見込んで13歳で私財を売り払って家族でパリに引っ越し、パリ音楽院に入学し、まずルイ・ディエメのもとでピアノを学び、続きフォーレのもとで作曲を学んだ。ディエメはコルトーやイヴ・ナットの師であり、サラサーテの伴奏者だった。フォーレのクラスの同級生にはラヴェルやケックラン、エネスクらがおり、後にはドビュッシーと親しくなり、ともに4手ピアノをしばしば演奏したという。
インタヴューでカセルラの生涯が辿られたのはそのあたりまで。その後のさまざまな政治的な関わりについては触れなかった。

面白いのは、ディエメの師はアントワーヌ・マルモンテル、マルモンテルの師はピエール・ジメルマン、ジメルマンの師はフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー。ボワエルデューのピアノと作曲の師は、ボローニャのマルティーニ神父になること。
バルベーリスがカセルラの没後教えを乞うたマルグリット・ロンは、カセルラの師であるルイ・ディエメの死後、後任としてパリ音楽院の教授となっている。

 10月某日 ミラノ自宅
週末息子が弾くカセルラの「子供のための小品」を聴きに、仕事を中断し雨天自転車を飛ばす。とても気持ちよさそうに弾いていて、堂々たるもの。幼少期の自分に容貌こそ似ているが性格のまるで違う息子を、何とも不思議な心地で眺める。ここ暫く彼のガールフレンド騒動が続いていて、家では謹慎中の身。

ミラノの授業、新年度が始まる。学校全体が混沌としている。指揮クラス初回。今年の新入生の一人にEがいて、生まれてすぐにルーマニアのジプシーの家庭からイタリア人家庭に里子に出された、と入試で話してくれた。ヴェルディオーケストラの合唱団で歌っているという。なかなか音楽的で面白い。バルトークなどやらせると「さて自分のルーマニア人の血が試される」などと真面目ともつかぬことを言うが、筋は良い。音楽は楽譜より、耳から入る気質と見える。明るくよく喋る。確かに血は争えない感。

唐の時代の面影が残っていると言われる、雲南省納西族の洞経音楽を、繰り返し聴く。この文革後に再編された儒教音楽などの混交音楽を、台湾などの儒教音楽を思い出しながら聴く。一つの旋律に対するさまざまな装飾を耳で追いつつ、いにしえの日本の雅楽の姿に思いを馳せる。

野平さんの楽譜を眺めていて、彼は本当に音符を書く瞬間に喜びを感じていると思う。無邪気とさえ感じられるほど、純粋な音への喜びが伝わってくる。頭をよぎるのは、「牧神の午後への前奏曲」や「海」、「遊戯」などさまざまなドビュッシーの譜面なのは何故だろう。どう書かなければという強迫観は皆無で、書くのが楽しいという肯定感、充足感に満ちている。ラヴェルの譜面があまり浮かばない。ドビュッシーの一見整然としているが、表面は全くそうではなくて、然しながら内面はとても太く重厚な、ともすればワーグナーのように歌が連綿と繋がっているあたりも、似ている。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ市立劇場でカザーレ「チョムスキーとの対話」のリハーサルが始まる。久しぶりにエマヌエレに会って、カバンからスコアを取り出すと、「Vedo che la partitura e’ sufficientemente logorata, che’ mi fa piacere!」、訳せば「おい、好い塩梅に楽譜が擦り切れているじゃないか、こいつぁ嬉しい」、とまるでマフィアの挨拶のようなシチリア訛りの台詞を呟くので、思わず笑ってしまった。logorataなんて勿体ぶった言い方は、ミラノでついぞお目にかかったことがない。

練習の最初、暫くぶりですっかり風格が出た監督補佐のフルヴィオが「漸くだなあ。お帰り」と声を掛けてくれる。見ればオーケストラにも懐かしい顔が並んでいて、胸が一杯になる。ドナトーニの演奏会以来だが、あの時よりオーケストラの音はすっかり瑞々しくなって、新鮮で情熱的な印象。練習が終わって駅に飛んでゆき、最初の特急でミラノに戻り、「作曲家の個展」の譜読みを続ける。車中一時間は昏々と眠りこけ、家について巨大なスコアを広げる。楽譜のサイズが大きすぎて電車の机には到底載らない。

 10月某日 ミラノ自宅
先月、レッジョエミリアの本番の日にダイヤがすっかり乱れて慌てふためいたので、練習の2時間前にはボローニャに着くように家を出る。特急ホームの上に、広い吹き通しの空間があって人も少ない。ここの喫茶店なら1時間半以上机を使っていても文句は言われないし、音楽もかかっていないので、ここでぎりぎりまで来週の譜読みをし、バナナを齧りつつ走って劇場に向かう。道を行き交う人々からは奇異の目。
それでも譜読みが間に合わない。我ながら譜読みが本当に遅くて自己嫌悪に陥りそうになる。有難いのはボローニャでのリハーサルが順調に進んでいることで、午後のリハーサルは彼らの希望を叶えて已めることとし、これ幸いとミラノへとんぼ帰り。夜明け前まで譜読みを続け、朝6時40分には自転車に乗って地下鉄駅まで。特急に乗っている間は熟睡し、云々。
こんな毎日では体が持たない。劇場のオーケストラが練習を減らすべく必死に集中してくれて、心より感謝するばかり。こういうのを利害の一致というのか。ぼやけた頭でそんなことを思う。

 10月某日 ミラノ自宅
1日目本番を終えて帰宅。午後のリハーサルを終えて、早速軽く食事をし、本番まで控室のベンチにクッションを敷いて昏々と寝込む。ディアナが隣の控室で声を出し始めて、ようやく目が覚めた。
エマヌエレの「チョムスキーとの対話」第2版は、5年前にレッジョエミリアで初演した第1版とは全く違うコンセプトで、それでも6割方は近しい素材で作曲されている。随分違って驚いたが、前回よりずっと具体的で強く芯のある内容となっている。
前回3人の俳優が登場した部分は、チョムスキー自身ののヴィデオを使って、言語学、経済学などに於ける、有名な彼の言葉に直接同期するよう音楽がつけられている。ヴィデオには、レーガンやブッシュ、ピノシェ、サッチャーやベルルスコーニなどの国会中継、記者会見などの映像も挟み込まれる。終演後久しぶりに二コラに会う。3年越しで実現した演目に、彼も作曲者もすっかり満足していて、漸く溜飲が下がる。
先日ボローニャの音楽院で教えた生徒たちも終演後控室を訪れてくれる。「最初から最後までもう興奮しっぱなしで、先生もう何だか凄かったです!」上気した顔で言われると、何だかこちらもロックミュージシャンになった気分。

 10月某日 ミラノ自宅
ボローニャ本番二日目。今日は全国交通機関ゼネスト中。それでも国鉄の特急は走ることになっているが、ダイヤが乱れることを考えて、学校から帰宅した息子と家人と連立ち、随分余裕を持って家を出る。思いの外早くにボローニャに辿り着けたので、日野原さんの新作を音楽博物館で聴く。彼が藤富保男の絵本「やさいたちのうた」につけた1時間弱の作品を、ソプラノの薬師寺典子さんとファエンツァの5人の演奏家が奏でた。日本歌曲で言葉も旋律もこれほど自然で美しく、音の美しさの際立つ作品は久しぶりに聴いた気がする。イタリアオペラに精通した日野原さんらしいユーモアやエッセンスに溢れる。薬師寺さんの歌も素晴らしく、家人と息子と三人揃って、こちらも本番前だと言うのにすっかり魅了されてしまった。
もう随分前になるが、ヴェローナの劇場で、メルキオーレの「碁の名人」に演奏した時の主人公、バリトンのマウリツィオと久しぶりに再会。お互い老けたと笑う。

公演直前、劇場近くの喫茶店で軽食を摂っていると、ルイジ・アッバーテが通りかかって話込む。彼もカザーレを聴きに来る途中だったそうで、その上丁度彼の誕生日だった。
息子は日野原さんの美しい歌曲に聴き入ったからか、大音量が続くプログレッシブロックのよろしい「チョムスキー」の公演中、半分くらい寝込んでいたとかで愕く。
帰りしな、劇場のあちこちで「本当に素晴らしかったですと」はにかんだ声を掛けられると、こちらも少し気恥ずかしい。ミラノ行特急終電の時間まで、いつもの吹き通しの喫茶店の机で譜読みを続ける。
今日の演奏は全く文句の付けどころのないもので、歌手もオーケストラも見事な集中力を見せた。息子は珍しく夜更かしして興奮状態。電車に乗り込んだ途端に眠り込んだ。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、支度をして家を出て、カドルナ駅でマルペンサ空港行き列車に乗り込むところで、家人より電話。「厳しい父親が居なくなって寂しいってあの子ったら泣いているのよ。一寸電話で話してやってくれる」。
大森さんから今度の「作曲家の個展」にメッセージを書いて頂戴と頼まれて、野平・西村作品をカツカレーに譬えたので、成田に着くとカツカレーを食べなければいけない気がしてレストランへ赴く。形状のある野平さんはトンカツ部分。アジアの薫り高い液体部分は西村先生。ええと、協奏曲はどんなだったか、そう思う間もなく、瞬く間に食べ終わる。
家について早速スコアを引っ張り出すと、紙きれが一枚するりと落ちた。何かと思って開いてみると、黄色い蛍光ペンで「がんばれ Su Forza!」と書いてある。

 10月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりの都響との練習場に着いても、どこまで自分で譜面を読めているのか皆目見当がつかない。時差ボケと寝不足で頭も働いていないのだけれど、こんな困憊した体でも本能的に見えてくるものがあって、面白い。
野平さんの音楽のロマンティックさ。これは楽譜の向こうに初めから見えていたもの。一見易しそうな西村作品の難しさを、オーケストラと自分が最初のリハーサルで把握できて、漸く向こうの地平が見えてくる。表面が複雑なものは、出来るだけ単純化して表現すべきだし、表面が単純なものは、実は複雑な内実を、的確に理解しておかなければいけない。最初のリハーサルでこれだけ見えてきたのは、演奏者一人一人がどれだけ音を読み込んであったかということ。

ところで、野平さんの曲のリハーサルで、独奏ピアノを弾く野平さんに注文をつけるのは妙というか、申し訳ない思い。
オーケストラを野平さんが書いた部分は、ピアノパートを西村先生が書いたので、自分の書いたものではないから当然弾くのが難しい。一方、野平さんがピアノパートを書いて、オーケストラを西村先生が書いたところも、独奏部分をご自分が書いたとは言え1楽章以上にピアノパートは難しく、その上オーケストラパートは西村先生担当だから、ずれるわけにもいかない。ちゃんと西村先生からもリクエストが飛んでくる。ピアニスト兼作曲家は、自虐的な気質があるのかもしれない。
終わってから渋谷のトップに寄り、子供の頃から飲みつけたマンデリンとブラジルのコーヒー豆を挽いてもらう。

 10月某日 三軒茶屋自宅
都響との練習後、上野入谷口の翁庵で天せいろに舌鼓を打つ。旧い店構えの入口で算盤をはじき注文を食券に書き付けているご主人に向かって、中年女性の黄色い声が店に響く。
「おじさん、本当にここ美味しいです。インターネットで皆が美味しいって書いてるから、どうしても食べたくて。本当に美味しい! 記念写真撮って貰っていいですか? 有難うございます!。戸惑いながらも、渡されたスマートフォンでご主人はポーズを取る女性を写真に撮った。そば湯を堪能して外に出ると、目の前には店構えを写真に収める中年男性がいて、こういうリクエストには、きっとご主人も慣れているに違いないと納得した。

夜、暫く顔を出していなかった割烹に足を向けると、勝手が違っていて驚く。女亭主がこちらの顔も覚えていなかったのは仕方がないが、常連客が静かに徳利を空けていた以前と違って、隣の一団は幹事が大声で場を盛り上げ騒ぎ立て、それが漸く去ったかと思うと今度は、大学生6人組がやってきて、酔った勢いで嫌がる後輩の頬にタバコの火を押し付け、タバコを吸わせようとしたり、酒を呑ませたりと散々で、居たたまれなくなって席を立った。同席の友人がいなければその場で怒鳴っていたに違いないが、勘定を払うときに店員にあれでは危ないと言うに留める。聞けばこの店がテレビで紹介されるようになって、客も増えたが客層も変わったという。

 10月某日 三軒茶屋自宅
「作曲家の個展」のドレスリハーサルのためホールに入ると、録音の高嶋さんがいて再会を喜ぶ。彼とはピサーティの録音やブソッティの録音で本当にお世話になった。ブースには昨年カニーノ宅でご一緒した井坂さんがいらした。まさかカニーノ宅の次にサントリーホールの舞台裏でお目にかかるとは想像もしていなかった。
本番前に野平さんと西村先生が舞台上で、マイクを持って話す。二人の出会いや、共同作業のプロセス。液状管弦楽は委嘱者へのオマージュだとか。果ては気を遣って指揮者まで持ち上げて頂いたりして、申し訳ない思い。
本番最初から最後までとても気持ちよく演奏できたのは、傍らの友重くんがずっとニコニコしてくれていたから。彼が微笑んでいると、みんなも揃って微笑む。でも集中度と熱気だけは火傷しそうなくらい途轍もなく高かった。だから、野平さんの作品は、豊かにのびる開放的な音となったし、特に本番、彼のロマンティックな瞬間を、オーケストラはこちらが何も言わないのに、それはロマンティックに表現してくれた。
西村先生の作品は、スローモーションで飛んでゆく溶岩を眺めているような、燃え滾る流星のような瞬間を、演奏中何度となく感じた。ホールで液状に音を響かせるためには、液状の音を出しては駄目で、ずっと熱く質量の詰まった音でなければならなかった。これもリハーサル一日目からオーケストラと試行錯誤を繰り返して見えてきたことだった。本番の独奏者としての野平さんの集中力と体力には、心から脱帽。

一連の練習の終わりや本番後の空いた時間に、U君にプルソ導入をアドヴァイス。気が付くと、昔エミリオが自分にしてくれたことを、何時しか自分が生徒にやっている。

 10月某日 三軒茶屋自宅
朝、沢井さん宅で「マソカガミ」を聴かせていただく。聴き手へ燦々と振りかかる音ではなく、線香花火を見入るように、七絃琴の響きに囚われる。演奏者の意思を聴き手に伝えるのではなく、沢井さんが自分のためにつま弾く音に聴き手が寄り添い、何かを見出すとき、点と点の間にじっと横たわるのみだった沈黙に無数の風景が鮮やかに浮かび上がり、耳というより、五感全てが音に鋭敏に反応するのがわかる。

(10月30日三軒茶屋にて)

アジアのごはん(81)紅玉りんごと秋花粉

森下ヒバリ

九月の後半にタイから日本に戻って来たのだが、あっというまに激しい秋花粉の花粉症を発症して苦しんだ。しばらくして、落ち着いていたのだが、またもや10月も終わりだというのに、激しく鼻水、頭痛、のどの痛み、咳き込みが始まってしまった。おとといから咳が痰に絡み、だんだん激しくなって、昼間はしんどくて寝込んでいる。夕方になると、花粉が飛ばなくなるようで、復活。

それは風邪だろうと思う方もいるだろうが、これが秋花粉の症状である。何人もの人から風邪が治らない、という話を聞いて症状を聞くと、たいがい秋の花粉症である。風邪の症状との大きな違いは、熱がほとんど出ないこと、そして食欲がふつうにあることだ。微熱が出ることもあるし、ぼおっとすることもあるが、けっして高熱は出ない。鼻水も風邪の場合は粘着性があるが、花粉症は水のようにさらさらだ。

秋花粉はブタクサ、ヨモギ、カナムグラ、セイタカアワダチソウ、そしてイネ科の植物などで起こる。だいたいスギやヒノキの春花粉症と同じ症状が出るが、違う点が、咳、喉の痛み、人によっては痰である。ヒバリも秋花粉でもここまで激しく咳と痰がでる症状は今まで記憶にない。なぜこんな症状が出るのか調べてみると、どうやら花粉の種類がかなり違うためらしい。諸説あるが、ヨモギなどの花粉は気道に入りやすいので咳が出る、またイネ科花粉はたくさん種類があるが、食物アレルギーに似た反応を起こすため、ぜんそくのような症状が出ることもあるとか。

たしかに、咳が出て痰が絡むだけでなく、胸が苦しくてぜんそくみたいな症状もある。気道がヒューヒューとまではいかないが、その一歩手前。これがイネ科のしわざなのか・・。関西のイネ科の花粉飛散ピークは5月と8月~10月なのだが、今年はいつまでも暑かったので、たくさん花粉を飛ばしているのだろう。はあ。

気道に入り込んだ花粉を排出するために、咳や痰が出ているのは、まあいいとして、痰は要するに免疫細胞が活躍した後の残骸である。花粉を敵だと思って、ヒバリの免疫力はたくさん使われまくっているということになる。つまり、免疫力が他のところで足りなくなっているかもしれない。こんなときに強力なウイルスが侵入してきたり、がん細胞が大量に発生したりしたら危ないじゃないか。え~、程々にしてくださいよ‥げほげほ。

花粉症がこんなに増えてきた原因の一つとして、花粉が排気ガスやpm2.5、黄砂などと合体すると凶悪化する、ということが考えられる。もちろん微粒子の放射性物質であるホットパーティクルとも結合するからこれは最凶最悪。花粉の時期にpm2.5や黄砂が重なると、ほんとにしんどくて重症化する。いくらスギやヒノキを花粉が飛ばない品種に変えていったところで、環境自体が悪化していれば意味なしかも。秋花粉のほとんどは雑草だし。

春に続いて秋までもがユーウツな季節になるとはほんとうにやりきれない。だが、まあそんな気分をわずかに上げてくれるのが秋の果物、大好きな紅玉りんごである。りんごは好きなのだが、甘酸っぱい紅玉以外はほとんど食べない。他の品種はたいがいべたべたと甘すぎるからだ。蜜が入って~とか、なんでも甘けりゃいいってもんじゃないつーの。

紅玉はお菓子やジャムの需要で、なんとか品種が絶えずに栽培されているが、酸味のあるりんごはほかにはあまりない。ジョナゴールドがやや酸っぱいくらいか。紅玉は出回る期間も短いので、無農薬や減農薬の紅玉を見つけたら必ず買うことにしている。紅玉はそのまま室温においておくと味がすぐぼけてしまうので、すぐにジップロックに入れて冷蔵庫にしまっておかなくてはならない。赤くて可愛いので、ついかごに入れて置いておきたくなるが、がまんがまん。

刻んで、ジャムよりも甘み少な目で、形の残るぐらいに煮たものを作って冷蔵しておけば、豆乳ヨーグルトやパンケーキのトッピングに重宝するし、アップルパイもすぐ作れる。さらに生のりんごを刻んでかんたんにケーキも作れる。焼きりんごもいいです。紅玉がない場合は、レモン汁で酸味を足して作ってください。

★紅玉りんごの米粉ケーキ 15センチの丸型1個分
・紅玉りんご1~2個
・米粉120g (その内、ひよこ豆の粉、ココナツフラワーまたは黄粉などを20~30gにするとコクが出る)
・お好きな砂糖80g
・卵2個
・ココナツオイル50ml(できればバージンオイル)
・ベーキングパウダー小さじ1
・豆乳大さじ2~3、調整用
・くるみ、シナモン、ラム酒、ココナツフレークなどお好みで

りんご1個は皮付きのまま、いちょう切りで刻む。残りのりんごの半分または1個はトッピング用にくし形に切る。ボールに粉と卵、砂糖、ベーキングパウダー、ココナツ油を混ぜ合わせ、豆乳で調整する。固さはホットケーキよりもちょっともったり。イチョウに刻んだりんごを混ぜ、油を塗った型に流しいれる。上にくし切りにしたりんごスライスをきれいに並べて、170℃~180℃で40分オーブンで焼く。ふわっとしたケーキがいい人は卵の卵白を泡立ててまぜるといいかも。粉は小麦粉でも作れるし、パン粉でもおいしくできる。

★ストウブで焼きりんご
STAUB de GOHANという1合炊きの鋳鉄の鍋を入手した。一人の時のごはん炊くのに重宝している。しかも、りんごが1個ちょうど入る大きさなので、焼きりんごにぴったり。これでオーブンなくても作れます。ストウブのない人は、オーブンで。ストウブ鍋もオーブンもない人は、りんごをスライスしてフライパンで焼いても美味しいよ。
・紅玉りんご1個
・ココナツオイルまたはバターを少々
・メープルシロップ、などお好みの砂糖少々
・好みでシナモン、ラム酒、コアントローなど

りんごが半分くらい隠れるぐらいのアルミホイルをストウブ鍋に敷く。敷かなくてもいいけど鍋にりんごと果汁がこびりつくので。まるっと包んでも可。りんごの芯は芯抜き器があれば抜いてもいいが、なければスプーンでちょっと汚れが溜まっていそうな軸のところだけ削るぐらいでもOK。へつったところにココナツオイルと砂糖を少しのせる。
蓋をして弱火で35分ぐらい焼く。何にも足さずに焼いてもおいしいい~。いい匂い! これで、なんとか秋の花粉の季節を乗り切ろう。

グロッソラリー ―ない ので ある―(25)

明智尚希

 「1月1日:『またある時なんか、何がきっかけかわからないけど、7,8人のごろつきと大立ち回りを演じて、それを止めに来た警官が、そいつを取り押さえようとして4人がかりで挑んだんだけど、全然つかまえられなくてもう1台パトカーに応援を求めたんだってさ。総勢八人でやっと取り押さえることができた。そのままトラ箱行きだよ』」。

トリャア≡(:D)┿━<☆(/+O+)/ウワア

 生前、特に目立ったところもなく友人・知人も限られており、世間に相手をしてもらったとはとても言い難い人が亡くなると、途端に主人公の座にのし上がる。親族はもちろん、少しだけ交流があったかどうかという人までが、話題の一番目のネタにしてどれだけ人に好かれていたかを論じだす。生を辞めた人間を褒めそやすのはどうしてだろう。

ナンマイダー Ω\ζ゚) チーンッ…

 ぬのうして/ぬのうめかして/ぬのうして/ぬのうまみれに/きてかんこけう

ヾ(。ё◇ё。)ノ ぐへへへへ♪

 毎度毎度お騒がせしております。まるで百獣の王ターザンが、かくかくしかじかの事由で来日し、二子玉川と錦糸町の区別がつかず、サンフランシスコ平和条約の調印式で、キャミソールを販売して七転八倒、荒川を流れる荒川にぶち込まれたような塩梅ではありますまい。大した役者は白湯など虚仮にする。以上の理由で辞任します。八十年後。

ターザン (;-0-) ア〜アア〜

 街の中は一長一短に満ちている。色とりどりの看板にめまいにもまがう目移りをし、人や車の音声に歩く集中力を減退させられ、すれ違う人々がいちいち顔を見る。その一方で、むき出しだった精神状態を群衆の中にまぎれ込ませることに成功するし、混濁した思考は、体臭の移り香や人間の実在性そのものによって、ある程度取捨選択される。

・・・(・・*)ノ ⌒◇ポイッ

 「1月1日:『トラ箱から出て自分が何をやったのか警官に聞いたら『何も覚えてないのか!』と一喝されたんだってよ。警官八人と大立ち回りを演じながら、本当にな〜んにも覚えていないなんてすごいよな。公務執行妨害でてっきり逮捕かと思ったら『よっぽど逮捕しようかと思ったよ!』とまたどなられたって。酒の力はすごいもんだ』」。

∵. バキッ (゚O゚(C=(`皿´

 「もらう」とは、AとBがいた場合、AがBに我が物としたい意思を伝えたり、BがAに心中の思いや特にめでたさなどの気持ちを込めたりして、兌換貨幣や日常用の物体などをAに渡して、Aの所有とすること。また、実子でない者を養うために親となる時や、男性にとって配偶者となる女性を家族に加える時などにも用いる。

畄ヽ( ̄ー ̄*)アリガトウ♪

 懸賞に頻繁に当たる人。トラブルに巻き込まれがちな人。いつもどこでも人の輪の中心にいる人。人間には役割がある。配役と言い換えてもいい。良くも悪くも彼らが「自分役」から抜け出すのは不可能だ。いかなる努力をしたところで、役割に甘んじなければならない。役割の殻を破る唯一の方法は、他人か自分の命を終わらせることである。

(`Д´)⊃√

 圭介がこのトラックに乗るようになって5年になる。人間、5年もすれば順応するものである。当初は道行く人の驚きと軽蔑の視線や、女子高生たちの露骨な反応に戸惑うことも多々あったが、そうした経験への慣れも加わって、現在ではマイカーを運転しているのと同等だった。圭介が運転しているトラック――透明なバキュームカーである。

Σ┌┘車└┐=3 =3 =3

 まずはじめに終わりのことを考える。しかも突然にして最悪の終わり方を。終わりと連係していると察知した案件や機会を、次々とモグラたたき式に引っ込め、あらゆる可能性を想定して予防線を張っておく。この生活は決して短くない。おそらく諾う人などいないだろう。最悪の終わりが来る前に、消耗して自滅する姿が目に見えるからである。

ツカレタ━・゜((⊂|=´Д`=|⊃゜・━

 「1月1日:『数か月に一度そうやって騒ぎを起こしてた。せっかくの断酒生活もぱーになって、また朝からウオッカ。アル中って治らない人は一生治らないらしいね。依存症もそう。ごくたまに飲む程度といっても、前後不覚になるまで飲むのは、依存症の一種でアルコール多飲症っていったっけな、立派な精神疾患の一つなんだってさ』」。

_ノ乙(、ン、)_ ウウウ……

 しかし時代は変わったね。トカゲの尻尾はどこへ行くという心境じゃよ。聞くとこによると昔は生徒の髪が茶色かったら大目玉食らったのが、今じゃ教師が茶色にしてるっつうじゃないか。一般意志は移り気だねえ。さてはデリヘルを手本にしたな。やい、腰かけのBGども、貴様たちのお豆を図形楽譜にしようと思うな。時代は変わったんじゃ。

(・。- )ノ~・゚★,。・:*:・゚☆ウフッ♪

 自分の経験や知識だけが正しいと信じている人がいる。経験のない分野についても、さも経験豊富であるかのように臆面もなく弁じ立てる。実益のない内容を長時間聞かされるケースが多い。この言うも愚かな人物は、老いて自分から離れることを知るにつれて程度の低さを自覚し、末期へ続く吊り橋を地につかぬはずの足で少しずつ瓦解させる。

(/・_・\) ガッカリ

 呼んどくれそや 張っちょろけ
乱離骨灰の でかおっぱい
もんや狩ろうと 知っちょろけ
あんだれさったれ さほうべな
損さかろうなら 出目とりを

ヾ(-_- )ゞエラヤッチャヽ(~-~ )ノエラヤッチャ /(._.>ヨイヨイ((~-~)ノヨイヨイ

 昼食は摂らない。ダイエット、我慢、健康関連、どれでもない。脳への血流が悪くなると駄目らしい。体調がさほど悪くない時、マゾヒスティックな意味ではなく、有害な神経過敏状態を総身が欲するのである。体内時計が日中も苦悩の時間として、設定されているかのようだ。そうして得たものは、夜へと持ち帰られて不眠の元締めとなる。

(; ̄д ̄)ハァ↓↓

更地の男

植松眞人

 私の実家は兵庫県伊丹市にある。この町は大阪からもJRと私鉄が乗り入れていて、大阪で働く人たちのホームタウンとして認知されている。
 その昔は城があり、城下町として酒造りと稲作で名を馳せた時期もあった。嘘のように景気が膨らんだ時期には大きなマンションがいくつも建ち、市内にはいわゆる箱物が数多く建てられた。しかし、それも過去の話である。景気が低迷し、大きな震災があり、建てられた箱物にも侘しい影が差しているように見える。それでもまだ駅前はいい。大阪まで電車に乗ってしまえば四十分分もあれば到着する。若者が夜遅くに飲み歩いていたりもするし、それなりに繁華な場所もある。しかし、私の実家へはバスに十五分、二十分と乗らなければならないのだ。通勤ラッシュの時間はともかく、それ以外はバスの数も少なく、夜は十一時前にはバスはなくなってしまう。バスの乗客のほとんどは老人だし、最近できたばかりの巨大なショッピングモールもいつまで保つのかわからないほど客が少ない。
 私の実家は三十戸程度の小さな建売住宅が密集している中にある。一時に建てられた集合住宅は、最初は同じような家ばかりだったのだろうが、一戸建て替え、一戸建て替えとだんだん当初の家々とは様子が変化している。特に古い木造住宅は震災で少しがたが来て、それを機会に建て替えられた家が多い。私の実家もそんな一つで、震災のタイミングでその場所にあった土地を買い、家を建てた。いわば、この場所では新参者なのであった。
 私自身は家族を持ち、現在は東京に住んでいる。ただ、仕事の都合で最近は関西に来ることがあり、世知辛い仕事の関係でホテルをとることもできずに、実家で寝泊まりすることが多くなった。自分が家を出たときにも、実家は伊丹にあったのだが、震災を機に同じ市内で場所を移しているので、現在の実家は私自身が子供の頃に住んでいた場所でもなければ家でもない。なんだか、馴染みのない家で寝泊まりしているような居心地の悪さを感じているのだった。
 寝泊まりしている部屋は二階で窓からは向かいの家々が見える。周囲に高い建物がないので見晴らしがいい。そう思いながら、でも違和感を感じ、私はもう一度窓の外を眺めた。違和感の原因はすぐにわかった。斜め向かいの家がきれいさっぱりなくなっているのだった。父が亡くなり、この家で一人暮らしている老いた母に聞けば、斜め向かいの家は売られたのだという。
「木造の古い家やから、家自体は二束三文やったらしいけどな。そやから、業者が更地にして売るらしいわ」
 確か、その家には五十がらみの私と同い年くらいの夫婦がいて、その父親らしき老人が三人で住んでいた。老人が亡くなったのは三年ほど前で、以降、子供のない夫婦は斜め向かいの家で慎ましく暮らしている、という印象を持っていた。他人の家のことなので、慎ましいかどうかは本当のところよくわからない。よくはわからないけれど、家の周囲にその家の奥さんが植えている小さな鉢植えの花の地味さや、時折窓から見えるカーテンの色、そして、乗っている軽乗用車の年季の入っている具合から、慎ましく生きるというのはこういうことなのではないか、と思わせる暮らしの匂いのようなものがあった。
 母からそんな話を聞いてから、二階で仕事をする時にはちらちらと、斜め向かいの家があった場所を眺めてみたりするのだが、時折、業者らしき若いスーツ姿の男が客を引き連れてきたりするのだった。しかし、あまり引き合いがないのか、客もあまり出入りすることはなく業者もほとんどそこにいることはなかった。
 それから二週間が経った。斜め向かいの家があった更地は、そのまま売れてはいなかった。『売地』と書かれた立て看板が立っているだけで、ひっそりとした時間が過ぎていた。私は東京に戻ったり、また関西に来たり、一ヵ月ほど、斜め向かいの家のことなどすっかり忘れて過ごしていた。進んだり後退したりする商談のなかで、相手の卑劣が見え隠れして、それに呼応するように私自身の底の浅さも露呈するような、そんな大阪での一日を過ごした後、私は伊丹の実家へと向かった。とっくに路線バスは終わっていて、駅前からタクシーに乗った。運転手は話し好きだったが、私はタクシーのシートに座ったとたんにひどく疲れていることを自覚してしまい、運転手の問わず語りに適当に相づちを打っている間に、実家に到着した。タクシーを実家の前で降り、母が起き出してこないように気をつけながら、ゆっくりと門扉を開けて、静かにドアにキーを差して回す。そのとき、ふと気になった私は斜め向かいの家を振り返った。両隣の家の窓から光が漏れているからか、その挟まれた更地だけが、妙に暗く、私が見ることを拒んでいるかのようだった。
 玄関脇の母が寝ている部屋の気配から、母が起きていらしいとは思ったが、母も私も互いに相手に気を遣わせないように黙ったままでいる。私はそのまま静かに足音を忍ばせて、二階にあがり、すでに私の部屋のようになっている通りに面した部屋へと入る。
 そのまま私は窓際へ行き、さっき真っ暗な闇に見えた斜め向かいの家があった更地に目をこらす。やっぱり、同じように暗闇に見えるのだが、今度は更地の真ん中に、淡くスポットライトが当たっているかのような場所があることに気づく。隣の家の明かりが届いているわけでもなく、街灯が当たっているわけでもないのに、なんとなく、そこだけに淡く淡く光が差していた。そして、よく見ると、その淡い光の中に、男が立っているのが見えた。男は、更地になる前に、つまり、取り壊された家に住んでいた私と同年代の亭主のように見えた。はっきりと顔は判らないのだが、以前見かけて、挨拶をしたときの立ち姿に似ているような気がした。男は、更地の真ん中に立ちすくんで、頭をうなだれたように自分の足下を見ているようだった。男が何をしているのか、そして、確かにそこに住んでいた男なのか、私は確かめたくて目をこらした。そのとき、男がこっちを見る、という予感がして、私はカーテンの陰に隠れた。
 私はそのまましばらくの間じっとしていたのだが、やがてその日の疲れを思い出し、風呂に入ると寝てしまった。
 翌日、母に起こされて寝覚めた時には、東京に帰る新幹線に間に合うかどうかというギリギリの時間だった。私は慌てて身支度を調えると、母が用意していたトーストとコーヒーを飲み、実家を出た。出かけに、母が言う。
「梶原さんとこ、土地が売れて、来週から工事らしいわ」
 最初、何のことだかわからずに、「梶原さんて誰?」と聞き返したのだが、母の返事を待たずに、そうか斜め向かいにあった家は梶原さんの家だったと思い出した。私は慌てていたのにも関わらず、実家を出るとバス停とは逆方向になる斜め向かいの更地のほうへと向かった。それは、何かを確かめようというのではなく、バスに乗る前に見ておかなくてはという妙な気持ちからだった。朝の光の中で、更地は夜見たときよりも広く明るく見えた。私は迷うことなく、低いロープの柵を越えて、更地の中に入る。その真ん中あたりまで来ると、じっとそこに佇んでいた梶原さんを思った。昨日ははっきりとは見えなかったが、あれは梶原さんだったのだと思う。本当に梶原さんが来ていたのか、その思いだけがここにあったのかはわからない。しかし、母が「梶原」という名前を口にした途端に、昨日の男の影は私の中ではっきりとした質量を持ち、梶原さんという存在になったのである。(了)

仙台ネイティブのつぶやき(19)お椀の向こう

西大立目祥子

 大根、にんじん、ネギ、ゴボウ…手近な野菜をコトコト煮て、水溶きした小麦粉のだんごを浮かべる「だんご汁」。福島県の中通り、東和町(現在は二本松市)で教わった郷土料理だ。味噌で仕立てた具だくさんの汁に食べごたえのある団子がごろごろと入っていて、からだは温まるし何よりおなかがいっぱいになる。

 小麦のだんごを手でちぎったり、スプーンですくって落としたりする料理は全国にあるようだ。「すいとん」というのが、一般的な呼び名だろう。宮城から岩手にかけての旧仙台領では、「はっと」とよばれる。

 仙台でよく耳にするのは、戦時中から戦後にかけて食べられた「すいとん」。食糧難の時代につくられた汁物は、えらくまずかったらしい。「だんごが喉を通らないのよ」という話を年配の人に何度も聞かされた。小麦ふすまの入ったざらざらした舌ざわりのだんごが、野菜もそう入らず味のないような汁に浮かんでいる代物だったのだろう。

 小麦粉のだんごが浮かんでいるスープとひと口にいっても、味もイメージも実にさまざま。お椀の向こうの風景は異なる。

 おなかも気持ちも満たしてくれる東和町のだんご汁は、もっぱら夕食に食べられた。それは、暗くなるまで田畑で働き、家の中では昼夜を問わず蚕の世話に明け暮れる主婦たちが、手間ひまかけずに仕事の手を動かしながら用意する晩ごはん。火にかけた鍋に台所にある野菜をざくざくと切って入れ、自家製味噌で味付けし、家族が集まったところで、練った小麦粉を落とし火が通るのを待ってふうふういいながら食べる。だんご汁をつくる講座で講師を務めてくださった70代の女性は、「そのときある野菜を全部使って具だくさんにするの。カボチャを入れるととろとろ溶けて、これもまたおいしいしの」と笑顔になった。その表情から、家族みんなで囲む食卓の風景が目に浮かんできた。

 夕食にだんご汁が出されたのは、夜はごはんを炊かないからだ。つまりだんご汁は、主食と副食をかねた一品なのである。いっしょに講座に参加していた地元の年配の男性が、こう話す。「東和は山間地で水田が少ないから売れる米は貴重でね、手元にわずかに残す自家米と麦を組み合わせて食生活を成り立たせていたんですよ」
だんご汁は、貴重な米を食べつなぐためにつくられる料理でもあったのだ。

 たしかに福島県の東部に連なる阿武隈山地は、尾根と谷が複雑に入り組んで、平らな広い水田を開くことは難しい。谷筋に小さな棚を積み重ねるようにしか水田を持てなかったのだから、おのずと米は換金のための大切な作物となった。その代わり、麦は小麦も大麦も栽培してよく食べていたようだ。

 小麦は近くの製粉所で粉にして、お茶箱のような木の箱に蓄えておき、升で必要な分を計って使った。だんご汁のほか、うどんを打ったり、製粉所にたのんで乾麺にしたり、重曹を入れて蒸し器で蒸しパンをつくったり、砂糖や重曹を加えて油を引いたフライパンで粉焼きをつくったりした。一方、大麦はまとめて煮ておき、ごはんを炊くときに混ぜ込んだ。

 東北といえば米と思われがちだけれど、昭和30年代ごろまでは、米を主軸にしながら大麦と小麦、これに大豆を組み合わせる穀物の栽培は、東北に広くみられた生産の仕方だ。春に田植えし秋に刈る米づくりの作業と、秋に種をまき翌年の夏に収穫する麦の作業が重ならないように工夫され、その作業の合間をぬって麦の裏作として大豆づくりが行われていた。大豆もまた、味噌にしたり豆腐にしたり納豆にしたり、自給自足に近い農家の暮らしには欠かせない作物だった。

 とはいっても、いまはもうどこにでも大きなスーパーとコンビニがある時代だから、だんご汁をひんぱんに食卓にのせたり、味噌を仕込むという人は少なくなっている。だが、舌が覚えた味はそう簡単に忘れられるものではないというもの、またたしかなことなのだ。

 講師を務めてくれた女性は、いまも自家製大豆を使ってミキサーで豆腐を手づくりする。「いまもよくつくるの?」とたずねたら「だって、うまいもの」と即答。ことばどおり、あたたかなできたて豆腐は甘くおいしかった。もう一人、味噌づくりを教えてくれた男性は、味噌の仕込みが終わると「どれ、うどんごちそうすっか?」と、どこからか大きな板を持ち出してきてあっという間にうどんを打ち、庭先のかまどで茹でてふるまってくれた。これだけうまいもんは、やめられないよ。その表情からそんな思いが伝わってくる。

 小麦粉を使った料理として、もう一つ名前が上がったのが「ぶすまんじゅう」。えっ、何その聞きづてならない名前は…ということになり、にわかに小麦粉を練ってつくり方を教わる。重曹と砂糖を入れた生地に角切りにしたカボチャを入れて蒸すお菓子は、しっとりとしてほんのり甘くどこかなつかしい味だった。おやつによくつくられたという。

 「箸をぶすぶす刺して蒸し加減をみるから、きっとこの名前なんだよ」「いや、見た目じゃないの」…講座に参加した若い世代が盛り上がって試食する姿を見ていると、この土地に根ざしこの風景を眺めて暮らし続ける人が、決して忘れない味というものがあるような気がしてくる。忘れられているように見えて、思い出す機会があれば、その味はよみがえるのではないのだろうか。お椀の向こうの風景とともに。

ハロウィンな人々

さとうまき

イラクのクルディスタンでは、10月になるとカボチャの収穫がはじまる。北部の山岳地帯に向かう街道のわきには、黄土色したカボチャが売られていて、とてもハロウィンぽいのだ。

ローリンは、シリア難民。白血病を数年前に患ったが、今では奇跡的に元気になっている。昨年は、イラクにいても、ろくな援助を受けられないから、ヨーロッパを目指して旅立つシリア難民が目立った。ローリンの親父は、60歳近く、顔はしわくちゃだが、やせていて、髪の毛を伸ばし、キース・リチャーズのような風格も漂わないわけではないが、抜けた歯を入れる金もない。

「ヨーロッパに行かないのですか?」と聞いたら、
「私はいかない。それよりカボチャだ。」
「え?」
「シリアのカボチャは白いんだ。イラクでは赤茶けたのしか売っていない。わしは、2年3カ月かけてシリアのカボチャをついに見つけたんだ。」
嬉しそうに、カボチャの種を見せてくれる。
「春になったらこれを畑に植える。秋に収穫するんだ。これでずーっとシリアのカボチャをイラクで食べられるんだ」

ローリンの親父の話には夢があった。
種を植えなければ実は実らない。
ローリンの母ちゃんは、カボチャを煮詰めたジャムを持ってきてくれた。黄金色に輝いている。

「カボチャで一儲けしましょう。日本では、ハロウィンが最近ブームになっているので、カボチャのスィーツを作れば大儲けできますよ」
私は、大儲けする話が好きだ。難民のおっさんが大儲けしている姿を想像するだけでも楽しい。

あれから一年経ちそろそろ収穫の時期だ。
「カボチャの収穫に連れていってください」
「まだ、小さいんだ」といってなかなか連れていってくれない。
勝手に収穫しないようにくぎを刺しておいて、僕も日本に帰らなくてはいけないからせかしてとうとう連れていってくれることになった。ローリンの親父が借りている畑は、3時間も離れていた。なんでも長男が住み込みで畑の見張りの仕事をしていることで、土地を貸してもらったらしい。

少し山に入ったところに農園はあった。ザクロがたわわに実をつけている。ローリンの親父はザクロをもぎとって、「くえ」と差し出す。摘み損ねた季節外れのスイカを地面からもぎとると、空手チョップで真二つに割り、「くえ」と差し出す。

しかし、肝心なカボチャは、あまりにも小さかった。しかも3つくらいしかなっていない。どうも、ここの土はカボチャには向いていないようだった。それで、僕たちは、街道で売っているイラクのカボチャを買って、ローリンの母ちゃんにカボチャのスィーツを作ってもらうように頼んだのだ。

数日後、キャンプに行くと母さんができたカボチャのスイーツをタッパに詰めてくれた。
「ごめんなさいね。シリアのカボチャがあったらよかったんだけど」
母ちゃんはでき具合に満足していないようで、何度もいいわけしていた。去年のに比べ、色もどす黒い。
「いやいいですよ、イラクの方がハロウィンぽいし」
ローリン一家のシリアのカボチャに対する思い入れは半端ではなかった。
「また、来年があるし」
といいながらも、いったい彼らはいつになったら故郷に帰れるんだろうか。

製本、かい摘みましては(123)

四釜裕子

辞書がこわれて、それで手紙が出せないという。「さっぱし字ィ、思い出さんねぐなてヨー」(ちっとも字が、思い出せなくなってしまったの……)。腰を痛めてさすがに気弱になったみたい。体調は別としてこれくらいがかわいげがあってよろしく思え、「すぐ送ってよ、直してあげるから」といってしまった。母から届いたのは、大きな文字で早引きなんとかという、厚みがおよそ4センチで並製紙表紙のもの。背が完全に3つに割れて、さらにそれぞれ1、2枚ページが剥がれている。むやみにセロハンテープで貼付けてあり、さすがにこれではみっともないと思ったのだろう。新しいのを買えばいいのに。買って送ってしまおうか。でも、違うのですよね。

セロハンテープをはがし、破れたところを和紙で補う。ページの角の折れたところはちょっと濡らしてアイロンで伸ばす。背には1ミリ厚くらいのボンドがほぼ残っている、削ぎ落とさずにこのままにしてみよう。表紙の折れや破れは直すが、これを見返しにしてしまおう。背を整え寒冷紗を貼り合体する。表紙はもちろん柔らかいほうがいい。穴とか傷とか色ムラとかで安く買っていた豚革の残りがあるから、ケント紙を芯に巻いて表紙にしてそのままかぶせてコの字に美篶堂の製本ボンドで貼ってしまおう。すぐまたどこか剥がれてきてしまうのだろうか。わからないので、むしろそれを教えてもらいたい。「壊れたらまた直すから、今まで通り使ってください」と、送り返した。

ほんとうは、どんな風に修理するのだろう。『修理、魅せます。#013 本]という動画がある。水道橋に製本工房を持つ岡野暢夫さんが辞書を修理する様子を映したもので、もともとはWiiが「Wiiの間」として配信したものの一部のようだ(ナレーション・石坂浩二)。男性が、中学時代から使い込んだ英和和英辞書の修理を持ち込む。全体ぼろぼろ、マジックかなにかで塗ったのだろう、天地小口は薄紫色。地にはイニシャル。「これは残しますか?」と岡野さん。「ぜひ消して下さい。当時つきあっていた人のものですね〜」。背の接着剤をきれいにはがし、ページの角の折れをすべてなおし、破れを和紙で補い、天地小口をぎりぎりで断裁し、スピンを替え、背の丸みを整え、古い表紙のタイトル部分をいかして表紙を張り替え、完成。受け取りには、男性がこの辞書をプレゼントしたいという娘さんもいっしょだった。

プロの修理は背の処理が圧倒的に丁寧だ。もちろんこれが肝心要。仕上がったときにはわからないが使い込むほどにあらわになる。母は予想通りのメールを返してきた。「もったいなくて使えない」。そういうことじゃなくって、お願いだから実験に協力するつもりで使って欲しいんですけれど……。

母の骨を組む

時里二郎

 機銃の静かな重さをこぼすまいとして指は聖水を掬(むす)ぶように母の骨を組んでいく。あるパーツの骨に手が触れると、おのずと片方の手がもうそれと合わさる骨に触れている。誰に教わったのでもないのに、印をむすぶ手のゆるぎない信仰の証しのように、わたしの手は母を組み立ててゆく。

 音がする。無音の音がする。
 母が軋む。その無音の軋みに、わたしの呻きを嵌め込む。

 母の骨といっても、人形だから、おのずと組み立てることができる。粗方の技は、しかし粗雑とは違った。母が生きていたときは、わたしでさえ人形であるとはつゆも思わなかった。魂(たま)の抜けたこの人形を組み立てるときにはいつも、それが母のどこに棲みついていたのかという思いにとらわれた。

 母の股間に手を入れると、母は息を一息入れて、目覚めた。股間に触れると、母の起動装置がはたらいて、魂があかるみ、蜉蝣の翅のような被膜が組み立てた母の骨格を覆って、スケルトン状のアンドロイドになる。
 おじょうずだね。
 母はわたしを息子だとは思っていない。若い情夫とでも思っている。わたしはスケルトン人形の母をあやつり、母の声色(こわいろ)で物語を語る。

 そんな古風な門付けを受け入れてくれる山間の集落や辺境の島が、いまもあるとはふしぎだ。
 母の骨をトランクに入れて、わたしの道はおのずと《あがり》の島へ続いている。
 それが、名井島と聞いたのは、まだわたしが、母が人形であることを知らないころのこと。けれども、だれに聞いたのかは、思い出せない。

さとにきたらええやん

若松恵子

映画「さとにきたらええやん」(2015年100分/製作・配給ノンデライコ)を見た。日雇い労働者のまち、大阪の釜ヶ崎で38年間にわたり活動している「こどもの里」の日々を映したドキュメンタリーだ。田端の商店街にあるかわいらしい映画館「シネマ・チュプキ・タバタ」のロードショーに何とか間に合った。

誰でも利用できます。
子どもたちの遊びの場です。
お母さん、お父さんの休息の場です。
学習の場です。
生活相談何でも受け付けます。
教育相談何でもききます。
いつでも宿泊できます。
・・緊急に子どもが一人ぽっちになったら
・・親の暴力にあったら
・・家がいやになったら
・・親子で泊まるところがなかったら
土・日・祝もあいています
利用料はいりません

「こどもの里」の説明には、こんな風に書かれている。
通いの子が遊びに来る学童保育事業、親や子どもから依頼される緊急一時宿泊、児童相談所が親子分離の長期化を判断して委託するファミリーホームの事業と、その時々のニーズにあわせて作ってきたさまざまな事業に取り組んでいる。

監督の重江良樹は、映像学校の学生時代に釜ヶ崎に撮影に行って「こどもの里」に出会い、通い始めて5年たった時に「こどもの里なら、この子達なら、スクリーンを通して観た人を元気に出来ると同時に、社会全体で考えなければならないことを示してくれるのでは」と思い、映画を撮り始めたという。カメラを回すことで「こどもの里」との関係が崩れてしまうのではないかと心配したが、関係性はさらに強まったとインタビューで答えている。

子どもたちやスタッフに受け入れられている重江だからこそ作れた作品なのではないかと思う。映画の主人公とも言える3人の子ども達の、成長していく姿が魅力的だ。映画の軸となる登場人物のひとり、ジョン君が地元のヒップホップスター「SINGO★西成」のステージを見つめる輝くばかりの顔など、重江だからこととらえることができたものだと思う。つらい状況のなかで、暴言を吐くでもなく、スタッフの言葉にじっと耳を傾けている、むしろおだやかな表情も胸を打つ。こんなにも思いやり深い子どもたちを過酷な状況に置いてしまっている大人の責任というものを感じる。

どんな親であっても、子どもは親を受け入れ、親を想う。責めたりしないのだ。人を責めない子どもの強さを見て、本当に心が打たれた。

パンフレットの解説で、映画監督の刀川和也は『子どもたちが飢えているのは食べ物だけではない。「ひと」だとも思うのだ。「わたしを無条件に受け止め、わたしだけのためにそばにいてくれるひと」、そんな存在をこどもたちは渇望している。(中略)誰からも温かいまなざしを向けられず、思いもかけられていないこどもたちは、その経験を積み重ねることによって、ひとへの信頼も、社会への信頼も、自分自身への信頼さえも失っていく。そうして、自暴自棄な暴力へとつながっていくのだ。』と書いている。社会に増えているこんな負の連鎖を、子どもの里のあり方から逆回転させていくことはできないだろうか。

重江監督は、「こどもの里」の館長荘保共子に「何でこんなところで子どもの施設をやってるんですか?」と質問して「子どもがすきやからです!」と一蹴されたという。揺るぎない荘保のこの思い、それが希望の原点だと思った。
ノンフィクションライターの北村年子は「私の知るでめ(荘保館長のあだな)は、人間でも犬でも猫でも、逃げ込んできた命を守るためには、誰になんといわれようと闘ってきた。そして命を守り抱きしめながら、自らも命に守られ抱きしめられていた。」と書く。荘保館長もまた「子どもの里」のみんなに守られ、抱きしめられながら生きている、そんな姿もさりげなく映画には描かれていて、そこもとても良いなと思った。

情報のことなど

大野晋

このところ、訳あって、Wikipediaの記事を少し書いている。訳の部分を先に書くと、ワインのことについて調べていく中でどうもWikipediaの記載に不信を感じたのがことの起こりである。そこで、技術論文や紙の本をいくつか当たっていく中でやはりおかしいということになった。

Wikipediaの記載は誰でも書くことができるが、いくつか見ていくと専門家というよりも、専門家以外の人が記事を書きたいと思って記載している節がある。しかし、それぞれの元ネタを辿っていくと、決してニュートラルだとか、多くの文献に基づいているとは言えないケースがある。そんな例を見かけて、生来の調査癖がむくむくと頭をもたげてしまったというところである。

いくつもの文献を漁ると記述者によって、ひとつのできごとがネガティブにもポジティブにも書かれることが多い。やはり、ものごとは一面的ではない。もうひとつ気になったのは、信憑が怪しい記述が意外とあちらこちらに転載されてしまっていることだ。そんな様子を見て、混乱を収めるためにもとWikipedeiaの記載の訂正と追加にいそしんでいる。

この作業をしていて気付いたことがある。それは、ネットの記事を直すために、多くの紙の本に当たらないといけないということだ。しかも、図書館の蔵書があてにならないと自前で買い込む羽目になる。世はネット社会などというけれど、結局、正しい情報に当たろうとするとネット以外を使わないといけないという皮肉な結果を受容せざるをえないのだ。

まあ、この傾向は青空文庫の入力といっしょと言えば、いっしょなんだけれども。

デジタル恨み

仲宗根浩

年々、暑さが苦手になっているのに、いつになったら涼しくなってくれる、と呪ってみるも、それはおのれのやる気のない怠惰な生活を暑さのせいにしているだけだ。仕事終わり、涼しくなり車のエアコンをつけず窓全開で気持ちよく帰宅した翌日は、蒸す。往生際の悪い残暑はやっとのこと月の終わりにおとなしくなり、朝の九時ごろから冷房状態にすることもなくなった。

沖縄防衛局に行く。だいたい二百メートル、基地側のほうに引越すと、沖縄防衛局から封書が来たのが七月ごろだったか。中身はNHK受信料補助手続きの案内。補助の理由は騒音でちゃんとテレビの音が聞こえないから受信料を半額にしますので手続きしてくださいという内容。騒音もあるが、プロペラ機が上を飛ぶとテレビの画面にノイズが出て、ひどい場合は音が切れたりする。でもこれは飛行機だけの問題とも言えず飛行が無いときも出たりする。賃貸なのでアンテナの微妙な向きかもしれないし、ケーブルかもしれない。デジタル放送になってすべてクリアに受信できると思っていたらそうでもない。アナログノイズでは途切れることが無い絵と音がデジタルのノイズだとバッサリと切れる。防衛局に入るためには用意された用紙に目的やらどの部署に行くのか、時間はどれくらいかかるかを書き、用が済んだあとはその部署から確かに用は済みました、という印までいただかなくてはいけない。三十分くらいで手続きは済んだがその半分くらいはこちらの状況に対して質問したことを回答をもらうまで待ち時間だった。

那覇の映画館で「レッキング・クルー」という映画が上映されているのを知る。近年よくある、クレジットされないスタジオ・ミュージシャンのドキュメンタリー。休みの日でも行こうと思ったら輸入盤しかなかったブルーレイの日本盤がいつの間にか出ていたのですぐ入手手続き。うちではブルーレイが再生できるのはパソコンだけ。ディスクを入れるとなんとかの更新が必要の表示で再生できない。調べると再生ソフトを新しいヴァージョンのものに入れ換えなくてはいけないような書き込みがある。実家にあるブルーレイプレイヤーではちゃんと再生できる。これだからデジタルは、とデジタル恨み。