2017年6月1日(木)

5月末からきょうの6月のはじまりにかけて、東京はすでに夏です。暑さとスコールのような雨とが重なれば、夏という以外にありません。

「水牛のように」を2017年6月1日号に更新しました。
そんな不安定な天候ですから、この時期に亡くなった人は多いように思います。高田和子さんも数住岸子さんも。
森下ひばりさんの「グルテンフリーな食卓」を読んで思い出したのはベトナム製の米粉のショート・パスタのことです。一時期よく売っていたのに、いまはどこにも見ません。米粉なので、セモリナのものより茹でる時間が短いし、食感も軽く、愛用していたのに。作られた地域性が関係していたのか、安いのも魅力でした。
冨岡三智さんの「万歩計と歩き方」で思い出すのはやはり何人かのダンザーと武術家のことです。特に武術の達人は、どんなに激しい動きをしてもまったく足音がしないのです。歩数など計れるはずはないと思います。

それではまた!(八巻美恵)

2017年5月1日(月)

2017年の三分の一が過ぎ去っていきました。だれにも止められない時間の経過によって変化し続ける、私を含むすべてのものにふと思いがいたるのは、きょうのように切りのいい日だからかもしれません。生まれたての緑輝く木々やいろんな色で咲いている花々を見れば、それらはそっくりそのまま時間の経過だなあと思います。

「水牛のように」を2017年5月1日号に更新しました。
ゴールデン・ウィーク中の更新ですから、いつも書いてもらっている人たちにはいっさいリマインドはしませんでした。今月はお休みします、と連絡してくれる人もいれば、そのまま静かにしている人もいて、一様でないのは水牛のよいところだと思います。
笠井瑞丈さんが、お父さんの笠井叡さんによる振付を踊る「花粉革命」は今週末です。詳細はこちらから。

それではまた!(八巻美恵)

2017年4月1日(土)

4月の訪れは寒さとともに。花冷えと言うのでしょうが、開花の知らせはあったものの東京の桜はまだ硬い蕾のままで、咲いているのはほんの少し、花というには少なすぎます。週が明けて気温があがれば一気に咲いて、そして私はコートを脱ぎ捨てるのです。

「水牛のように」を2017年4月1日号に更新しました。
きょうは土曜日ですが、一部の企業では入社式がおこなわれたようです。これが明るいニュースなのかどうか、ちょっとギモンです。
3月もおわりに近い日に近くの小学校の前を通りかかると、その日はちょうど卒業式でした。校庭では式を終えた生徒たちと親たちが別れを惜しんでいます。男の子たちはブレザー姿が多いのは見なれているとして、女の子のなかに袴姿が何人もいるのに少しビックリ。いつの間にかそんな流行(?)になっていたとは。制服がない公立の小学校だからできるわけですね。女の子たちは体のサイズも大人に近づいているし、小学生とは思えない大人びた感じでした。彼らを待っているのはどんな4月なのでしょうか。そしてまたその先は?

それではまた!(八巻美恵)

2017年3月1日(水)

春は名のみと思っているうちに、少しずつ春を感じられるようになってきました。温度計では少し前とおなじ気温を示していても、陽ざしはやわらかくて、なんとなくその温度より暖かい気がします。数字だけではあらわせない世界があるということか、あるいは自分の感覚が不確かということなのかもしれません。友人が自宅の庭で収穫したというふきのとうを貰って、苦いのこそ春だとも思うのでした。

「水牛のように」を2017年3月1日号に更新しました。
年度末のせいか、今月はお休みしますというメールが何通か届きました。
お酒の魅力、というとキチンとしすぎていますが、飲む人のおかしな話が好きなので、そんなコレクションができたらと密かに思っています。先月から新井卓さんを迎え、今月から吉田純子さんを迎えました。
少し前に沖縄で飲酒運転で事故をおこした小学生のことがニュースになりましたが、飲酒運転はともかく、こどものころから飲む習慣のあった人は周囲に案外たくさんいます。最年少はひな祭りの甘酒を飲みすぎて酩酊し、裏山(!)で眠ってしまった4歳だったころの彼。私自身は30歳を過ぎてから嗜むようになったので、残念ながらまったくの未熟者です。
先月お知らせした「憲法いいね!を耕す集い」での小泉英政さんのスピーチの原稿が届きました。直前に用件が出来て参加できなくなったという自分の理由もあり、掲載の許可をいただきました。

それではまた!(八巻美恵)

2017年2月1日(水)

午前中に時間の決まっている予定のない晴れた朝に、その日はじめてのコーヒーを寝床で飲むのは、小さな幸せの一つです。

「水牛のように」を2017年2月1日号に更新しました。
コーヒーを飲んでからPCを立ち上げてチェックしてみると、来るはずの原稿がいくつかまだ来ていません。お昼まで待つことにして、そのあいだに少し先の仕事のことを考えたりします。自分がいまやっているのは本当に自分にあっていることなのかどうか、常にギモンがあります。年齢を重ねてからは、職人になるのがよかったのではないかと思ったりするのですが、当然遅すぎます。そうした無駄なことを考えているうちに午前中は過ぎていき、順次原稿も届いたのでした。
最後に届いたのは連載開始の新井卓さんのもの。じつは一昨日、明るいうちから彼といっしょに飲み、ついでに原稿をお願いしました。今月が無理なら来月からでもいい、とは言いましたが、密かに今月から来るだろうと思っていたのです。新井さんはダゲレオタイプの写真家です。ちょうど2月26日まで横浜市民ギャラリーあざみ野で「ある明るい朝に」という写真展が開催中です。水牛ではお酒の話を書いてくれることになっています。一回目から快調なので、これからどんな酒が出てくるのか楽しみです。

「憲法いいね!を耕す集い」のお知らせです。
「水牛のように」でもおなじみの小泉英政さんを発起人とする「自分の言葉で憲法を肯定する」こころみです。
日時:2017年2月12日(日)13:00(開場12:30)〜16:00
会場:明治大学紫紺館3F 参加費:1000円
プログラム
○鍬を入れる 小泉英政(農民)
 憲法いいねの会とこの集いが目指すもの、鶴見俊輔さんから学ぶこと、など。
○歌の種を蒔く 高鳥佑太(シンガーソングライター)
 ミニ・ライブ。
○時には父と母を偲んで 長谷川修児(詩人)
 詩の朗読
○憲法を耕す講演 黒川創(作家)
 「鶴見俊輔と憲法」を主な題材として

それではまた!(八巻美恵)

2017年1月1日(日)

明けましておめでとうございます。
日曜日ではじまる新しい年。区切りがいいのは、なんとなくいい気持ちです。朝、短い時間だけ陽ざしの入る窓をあけて、2017年の乾燥した冷たい空気を部屋のなかまで呼び込みました。

「水牛のように」を2017年1月1日号に更新しました。
さすがに1月1日だけは更新作業から解放されたいなと思ったりもするのですが、自分で決めたことなので、誰にも文句は言えません。それに原稿がこんなに届くのですから。年が明けてから届いたものもあります。

青空文庫も無事に新しい年を迎えて、今年からパブリック・ドメインとなった19人の作家の作品が公開されました。ことし青空文庫は20周年を迎えます。成人になるのですね。

さあ、今年もおもしろいことをやらなくちゃ!

それではまた!(八巻美恵)

2016年12月1日(木)

朝起きたときにはぼんやりした曇り空。午前中に少し陽ざしがあったので、洗濯物もかわきました。午後はまた曇り、しかし気温は低くない、そんなとりとめのない一日が過ぎていきます。天気予報は好きだけど、ただ見ているだけで期待は何もありません。不思議です。

「水牛のように」を2016年12月号に更新しました。
笠井瑞丈さん、初登場です。かつて、インドネシアのサルドノ・クスモさんの振り付けで、彼をはじめて見ました。それから彼の踊りは何度も見ています。踊りに言葉は必ずしも必要ではありませんが、あえて、何か言葉にしてくれたらな、と思い、めでたくデビューとなりました! なんとなく脱力系の人に見えるのですが、果たしてどうなのか、そこも知りたいところです。
今年最初の忘年会で、10月が誕生日だった私は特別にプレゼントをもらいました。カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』。璃葉さんの「あやとり」を読んで、猫のゆりかご、とはあやとりのことだと思い出しました。
マンガは好きですが、アニメは苦手。と、思っていたけれど、西荻ななさんの「画材に気持ちがのってゆく」を読んで、ダメ元で見てみようかな〜と思ったり。。。

マンガは好き、と書きました。ジャンルは少女マンガです。かつて、月刊雑誌を買って読むのを楽しみにしていました。しかし、その習慣をいつの間にか失うと、なにがなにやら、どれがどれやら、わからなくなるのですね。ついこの間、『傘寿まり子』がおもしろいと、年下の友人に聞いて読んでみました。確かにおもしろい。少女マンガであり、主人公は80歳です、傘寿ですから。これを30代や40代の人が読んで少しでも解放されるといいなと思います。

それではまた!(八巻美恵)

1016年11月1日(火)

朝起きたときにはすでに降っていた雨がお昼すぎにやんで、一瞬のあいだに陽ざしが出てきて明るく暖かくなりました。長い夜がやっと明けたような11月の午後です。

「水牛のように」を2016年11月号に更新しました。
藤井貞和さんの詩はわかりやすいとは限りませんが、わからなくてもおもしろいと思うのは、「希望の終電」というタイトルに見られるような、藤井さんの現実のとらえかたのせいであり、またそこから出てくることばの力でもあります。うたうのは土人と言われた側であり、しかもいつだってチョー過激です。

いまちょうど読書週間らしいので、分厚い翻訳の本を2冊紹介します。翻訳者はふたりとも水牛でおなじみ。
出版順で、まずは『翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動』(スコット・L・モンゴメリ)翻訳は大久保友博(大久保ゆう)さん。ありそうでなかった翻訳の世界史です。500ページ。
そして『アメリカーナ』(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)翻訳はくぼたのぞみさん。アフリカ、アメリカ、ヨーロッパの「三大陸大河ロマン」とオビにあるだけあって、544ページ、しかも2段組みです。
ところどころ拾い読みしながらも、机の上に積読状態で、精読する時間を探している読者としては、どうしてこういう仕事がきちんと出来るのか、いつか聞いてみたいものだと思います。

片岡義男さんの書き下ろしエッセイ『万年筆インク紙』を担当しました。晶文社から11月11日に発売の予定です。これは288ページで、ふつうより少し厚めかな、というところですね。「青は思考の色だ。思考の跡は青いインクによる文字として残る。」というわけで、いろんな万年筆やインクや紙を試した片岡さんから送られてきたインクなどがたくさんたまっているのです。使いきれるのでしょうか。

それではまた!(八巻美恵)

2016年10月1日(土)

きのうはからりと晴れて、新鮮な木星の香りが部屋まで入りこんで、むせかえるようでした。月が変わって、きょうは10月の始まりにはあまりふさわしくないどんよりとした空模様、気温も低めの東京です。

「水牛のように」を2016年10月号に更新しました。
更新のまえには届いた原稿をすべて開いて読みながら、掲載の順番を考えたりします。そのときはいつも、世界は言葉でつくられていくことを感じます。綴られた言葉を読むことで世界を見る。決まりきった毎日の生活のなかで起きる、ふだんと違うことに意識が向くことが多く、それらを書いたり、話したりしたくなります。自分がおどろいたことを人にも伝えたいわけですね。しかし、決まりきったことがらのほうが圧倒的に多いし、それでも毎日が同じわけではないことを思うと、自分ではそういうささいなことをきちんと書けるといいなあと思ったりします。何のためにそんなことを書くの? と問うてみても答えはないのですけれど。。。

きょうは新月で、そしてコーヒーの日でもあるのだそうです。それならばと、毎朝欠かさずに飲むコーヒーを午後にもひとりでもう一杯、楽しみました。八百万の神さまがたが不在のひと月でもありますね。

それではまた!(八巻美恵)

2016年9月1日(木)

異例のコースをたどった台風11号が過ぎてゆき、夏のしっぽが意外に長そうな気配の9月が始まりました。ラム酒をくぐらせた西瓜をたっぷりと食べおえて、次は葡萄だな、と思うちょうどそのような季節です。

「水牛のように」を2016年9月号に更新しました。
杉山洋一さんは毎年8月はたいてい日本にいるので、一度は会って呑んだり食べたりしながら話す機会をつくり、ついでに来られそうな水牛の執筆陣にも声をかけるのを楽しい恒例にしていました。が、今年はその時間がありませんでした。忙しすぎるのは今年かぎりにしてほしいものです。
「恥ずかしい」長谷部さんは新しく出る本のタイトルすら書いていませんが、1冊は『メモランダム』(河出書房新社 9/21)です。

夏の盛りに、はじめて夕食をともにした女性はいまや絶滅危惧種のヘビースモーカーでした。食事中にも席を立って、煙草を吸いに外に出ていくほど。雨上がりの帰り道で聞いたら、一日4箱くらい吸うとのことで、世の中の趨勢とは逆に、少しうらやましくなってしまいました。お酒も強くて、食後のマールはいっしょに飲みました。昔の映画を観ると、煙草とお酒はストーリーにもスクリーンにも魅力を添えるものだと感じることが多く、あの夜のひとときもそうした映画のなかのワン・シーンのようでもあったのでした。

それではまた。(八巻美恵)

2016年8月1日(月)

梅雨が明けて東京にも夏がきました。ことしは、風がとおればエアコンなしで耐えられる程度の、久しぶりに夏らしい暑さの夏です。夕立というには早い午後でしたから、スコールと呼ぶほうがふさわしい雷をともなう激しい雨がさきほど降って、空気が洗われたような午後です。

「水牛のように」を2016年8月号に更新しました。
ベストセラーそのものに罪はないにしても、世の中のたくさんの人が読んだり聞いたりするものなら、別に私は読まなくて聞かなくてももいいように思えます。時間は限られているのですから、それならば少数の人に読まれ聞かれてているものを選びたい。
この水牛もそうですが、自分が編集をしたり公開しているものもは、あまり多数の人に届かなくてもいいとどこかで考えています。必要な人がいれば、きっと探しだして読んでくれるはず。浴びるように降ってくる情報は受けとる側にとってはあまり関係のないものばかりで、自分がほんとうに求めているものはほとんどないと実感します。編集の仕事の場合には、情報を出す側ですから、具体的な数字を早急に出すことをまず求められるのですが、努力はするにしてもそう単純にはいきません。これも多くの編集者の実感だと思います。小さなものが自由にたくさん存在している世界がいいなと思っているうちに、多数決という民主主義の決めごとにもおおきな疑問を感じるようになってしまったこのごろです。さて、どうするか。

それではまた!(八巻美恵)