シリアのロシア人、すべては忘却のかなたへ

さとうまき

朝、今日もロシア軍のウクライナを攻撃のニュースを伝えている。プーチンはアサド大統領にとって代わり一気に世界の悪者No.1になっていた。

2018年9月にシリアに行った時のことを思い出す。ロシア軍の援護を受けたシリア政府軍は、ちょうど2か月前に、反政府軍の拠点となっていた南部のダラアとダマスカス郊外の東グータ地区を完全に制圧したのだ。ダマスカスでは、国際見本市も開催され、みな戻ってきた日常を楽しんでいた。ホテルにはロシア国旗が掲げてあり、お土産屋さんではアサド大統領とロシアのプーチン大統領の顔を印刷したグッズが売られていた。ロシア兵が町中を移動するのも何度か見かけた。

ロシアは、歓迎されていた。そして、反体制派のダラアでも、住民たちはロシアを頼りにしているという。
「弟が、シリア政府に捕まっているんだ。ロシア軍に、釈放してもらうようにアサド政権に圧力をかけるようにお願いしに行くんだ」という若者の話を聞いた。ロシアが憎しみ合っているシリア人達の間に入って調整しているのだという。
「ロシアの方が、アサド政権よりも、反体制派武将勢力よりも信頼できるよ」という話は何人かから聞いた。

 シリアに課された経済制裁とは?

シリアは、治安が落ち着いてきたものの、ヨーロッパやアメリカが課す経済制裁で国民の生活は疲弊している。もともとは、アサド大統領やその家族、側近の資産を凍結して、政権交代させようという狙いだったが、今度は国民も苦しめて、集団懲罰するという厳しい制裁に代わっていき、2020年にはトランプ政権下でアメリカがシーザー法という経済制裁をシリアに課した。

シーザー法の目的はアサド政権にシリア国民に対する虐待を止めさせ、シリアが法の支配、人権と隣国との平和共存を尊重するよう図ることで、そのために包括的な制裁を課す、となっている。しかし、経済制裁は貧しい人々を直撃した。

シリアの通貨は急落し(戦争前は、1円=0.5シリアポンドが今では22シリアポンド)、医薬品などの生活必需品の輸入がさらに困難になるとともに、物価が急騰し、国民生活の困窮は一層強まった。また石油・ガスが制裁の対象とされたことも日常生活に一層支障をもたらすことになった。さらに建設業が制裁の対象とされたことで、戦闘が行われた地域の瓦礫の撤去が進まず、国民の生活の基礎である住の確保が進まない状態にあるという。

Amazon Pay は、シリア、キューバ、北朝鮮、クリミア地域の原産物の取引には、利用できない規制を実施している。例えば、証券会社の友人は、「シリアと取引のある人はうちの顧客リストから外さなきゃいけないのですよ。もし株で儲けたいんなら、絶対シリアへの送金とかはやらないほうがいいよ」と忠告してくれる有様である。まあ、そもそもシリアでビジネスをやろうなんてリスクを冒したがるもの好きはほとんどいないから、こんなん話は知らなかった、ですんでしまう。

 貧しい人達が一番くるしい

僕はアレッポにすむ10歳の2人のがん患者の男の子の治療にかかる薬品購入や病院までの通院費、栄養を取るための食費などを2020年より支援している。ウエスタン・ユニオンは、シリア人個人への生活費の仕送りは認めているからだ。

幸い(?)なことに600万人以上がシリア難民として国外に出ており、彼らの仕送りが国内にとどまった家族たちの財源になっているのだ。なので、親戚が海外にいないと大変なことになる。特に原油価格が世界的に高騰しておりエネルギー事情は危機的だ。

サラーハ君のお母さんは、内戦で夫が行方不明になり、ダマスカスの病院までサラーハ君を月に2、3回は連れていく必要がある。タクシーで往復10時間ほどかかってしまう。小さい子ども達がいるので、日帰りで治療に通っているのだ。

「私たちの家は、壊されてしまいました。住むところがないのですが、幸いなことに廃墟になった地域のアパートを家主さんがタダで使っていいと言ってくれました」電気が止まっているという。暖房はどうしているのかと聞くと、
「政府が、補助金を出してくれて1リットル25円で売ってくれますが、50リットルまでしか買えないので、もう使い切ってしまいました。町で買うと1リットル300円もします。とてもじゃないので買えないから、洋服など燃えるものは全部燃やしています。」

シリアのストーブはいまだに昔のだるまストーブで、確かになんでも燃やせるのだ。もう燃やす服もないという。近所の人が古着をくれたり、サラーハが外で燃えそうな木やプラスチックを拾ってくるそうだ。

今年に入り悲しいニュースが入ってきた。トルコ軍が展開している前線近くに住んでいるもう一人の患者イブラヒム君の様態が急変した。イブラヒム君の家はこれまでも何度か爆撃されている。一時は国内避難民キャンプで避難生活を送っていた。クルド人が多く住むので、トルコが度々攻撃のターゲットにしているようだ。朝起きると、イブラヒム君は鼻血をだし、全身の毛細血管が切れて内出血が始まった。病院に搬送して血小板の輸血をするが、様態は悪化して夜には亡くなったというのだ。

僕は、呆然としてしまった。今はシリアに行けないが、毎月送られてくる子どもたちの元気な写真を見るのが楽しみで、いつかシリアに会いに行こうと思っていたからだ。お父さんは、公務員として働いているが、墓を作るお金もないので、何とかならないかと言ってきた。1月分の送金を終わらせたばかりだったので、そこから墓を作ってもらい、残りは、サラーハ君の家族にも分けて、灯油を買ってもらうことにしたのである。

そして、ロシアがウクライナに侵攻し、今度はロシアに対する厳しい経済制裁が課されることになった。シリアの経済にどのような影響を及ぼすのかわからない。プーチンも気が狂ったのか? シリアではアメリカよりうまくやってきたのに、ロシアが失うものは大きい。

アメリカもロシアもシリアにはしばらくかかわってられないのを見越してか、今度はイスラエルが頻繁にシリアを空爆しだした。イランが配備している軍事拠点への攻撃である。もうシリアではとっくに民主主義を求めた革命を支援するなんていう文脈は忘れ去られ、それぞれが好き勝手に攻撃をしているのである。そして、忘れ去られたのは、貧しいシリアの人達である。

しもた屋之噺(241)

杉山洋一

春の訪れなのか、この処強い風に煽られる毎日が続いています。見渡すアパート群から電灯もすっかり消えた夜半の漆黒の中、低く息吐く風の音だけ、どこか虚ろに響き渡ってゆきます。

2月某日 羽田ホテル
ラヴェル「左手」和声備忘録。
一切無駄なく理知的且つ合理的に並べられるさまに驚嘆。3度集積された和音も基本的低音進行も先日のプーランクを思い出すが、実際浮かび上がる和声がまるで違うのは何故か。
プーランクは、シューベルトの影響か、伝統的カデンツを平行調性域を押し広げつつ並べてゆく。ラヴェルは集積和音それ自体を旋法として扱うので、巨視的には従来のカデンツであっても、一つの和音に対し一つのパネルを宛がう。
プーランクは3度集積和音を属和音の緊張や方向性を高めるために用い、ラヴェルは寧ろ和音を集積させることから、緊張を飽和させ解放する。
だから、従来カデンツが規定してきた音楽の尺に左右されず、同和音を帯状に拡げるのも容易で、その延長線上にスペクトル作法が誕生したのも自然な成り行きだったと理解される。「左手」の時代ラヴェルはジャズに影響を受けていたから、テンションコードを、3度集積と非和声音の同時発音の収斂点として分析的に扱うことで、自らの語法として咀嚼している。グリゼイ「時の渦」の出現は、必然だったのだろう。
ラヴェルより若い「六人組」の作家たちが、ジャズや複調、集積和音を使用しても、後のフランス現代音楽と袂を分かち、あくまでも近代フランス音楽の延長線上で作曲していたのは、彼らが従来の下部構造の尺、カデンツがアプリオリに規定する基本フレーズの長さを踏襲していたからかもしれない。その意味に於いて、ドビュッシーやサティは、寧ろ現代フランス音楽にずっと近しいのではないか。
ラヴェルと同世代で親交の深かったカセルラがイタリアで近しい立場なのは偶然だろうか。カセルラが存在によって、現代イタリア音楽は存在している。彼がいなければ、恐らく全く違った方向に進んでいたに違いない。
ラヴェルの無駄のないオーケストレーションに見惚れる。
Covidホテルの居心地は悪くない。肉が食べられないと伝えると、ヴィ―ガン弁当が用意されていて、美味。弁当は温かくないので、携帯した即席スープを添えて食べる。

2月某日 羽田ホテル
あの世がどんなものか知らないが、地球上から人間だけがいなくなったなら、地球上には、生きる動物たちのまにまに、透き通った我々の精神だけが犇めくのだろうか。それとも、宇宙まで空間は無限に広がっているから、それほど窮屈な思いもしないで、皆それぞれに居場所が見つかるのだろうか。いつでもどこでも会いたい人に会えて、安寧な世界なのだろうか。
ある人から、あちらの世界では、リストが音楽家たちの世話役になって、さまざまに面倒を見ているらしいと聞いたが、一度足を踏み込んだら永遠にそこに留まっているのだろうか。著作権のように、500年も経てば存在は次第に消えてゆくのだろうか。どうもリストがペロティヌスやマショーの面倒を見る姿は想像できないのだが。
恩師曰く、自分が死んだら杉山に玄関で見張りをさせ、自分の亡骸が家に入るのは絶対人目に触れさせないように、と夫人に伝えていらしたと聞いた。真面目に仰ったのかもしれないし、少年のような遊び心も多少交じっていたのかもしれない。今度あちらで改めて伺ってみたい。

2月某日 羽田ホテル
時差ボケを曳きずり朝4時前まで仕事していて寝ようすると、アルフォンソから電話がかかる。「山への別れ」演奏に関しての質問など。元気そうだがCovid陽性で自宅待機中だという。その後で漸く眠り始めると、朝5時過ぎ、今度は一人ミラノに残る息子から電話がかかってきて、ベッドが壊れたという。支板が外れたがどうしたらよいか、とのこと。
町田の両親、3回目接種完了。
一週間のCovidホテル暮らしは、少なくとも自分にとっては悪いものではない。一人で過ごす時間も、静かに頭を休ませる時間も必要だったと気づく。不自由なのは、身体が動かせず、温かいものが口に出来ない程度。
オミクロン株による東京感染拡大はほぼ頂点に達したとの報道。

2月某日 三軒茶屋自宅
自宅待機解除。カジキ鮪と菜の花、それに大根と茸とトマトでパスタを作り、刺身を軽く炙りレモンとオリーブ油を垂らして主菜とした。
昨日はシラスと菜の花、トマトでパスタを作った。日本でイタリア料理を作るのなら、作りたいもののイメージさえしっかりしていれば、日本の美味しい野菜を存分に使って作る方がよほど美味である。
ピーマンも茄子もズッキーニもイタリアと日本では味が違うし、触感こそ違えども、日本の大根はイタリアのズッキーニよろしく甘みがあり気軽に使えてよい。ズッキーニのとろみはないので、パスタの茹で汁を多めに使ってとろみをつける。

川口さんから「山への別れ」の録音が届く。自分が思い描いていた音楽の流れそのままだったので、愕いてしまった。自分の想像通りの演奏でなくて構わないのだが、ある程度緩い指定で書いて、自由に弾いてもらう程度で丁度よいのかも知れない。平井さんに深謝。
一週間のヴィ―ガン弁当生活で3,4キロ痩せた。体調頗る良し。

2月某日 三軒茶屋自宅
自宅待機が解けて、父に誕生日祝いを届ける。平井さんに2回お電話したが、呼び出し音だけでどなたも出られなかった。2回目にかけた時は、呼出し音が鳴り始めたかと思うと、すぐに無音になった。平井さんが受話器の向こうで「そりゃあ通じるわけがないでしょう」と何時もの口調で話しているようで、電話を切る。仕方がないので、メールを書いた。
「平井様 大変ぶしつけながら、ご家族のどなたかにご覧いただければと思い、お便りさしあげます」。こう書いていると、なんだか不思議な心地になった。
夜、奥様からお電話をいただき、暫くお話しする。
ヴィオラの般若さん曰く、河の向こうとこちら側は、思いの外近いはずだというが、案外そんなものかもしれない。
大学生のころ、とてもお世話になったヴァイオリンの高橋比佐子ちゃんが肺癌で永眠していたと聞き衝撃を受ける。彼女には弦楽合奏曲のトップを何度もお願いしたし、ピアノトリオも何度か弾いていただいた。何十年も会っていないが、彼女の音は忘れられない。
はにかみながら、「杉山氏はねえ」と少し首を傾げて話すさまが思い出される。上品でまるで現代作品など弾きそうにない風貌なのに、いつも見事な演奏を披露してくれた。素晴らしい演奏家だった。同い年だと言うのに、俄かには信じられない。

2月某日 三軒茶屋自宅
エミリオの義弟にあたるフェデリコ・アゴスティーニさんが名古屋に住んでいて、久しぶりに再会できると互いに楽しみにしていた。ヴァレンティ―ナのイタリア語に似て、親しみ深いが海外生活の長いイタリア人らしい丁寧な文章のやりとりが印象的だ。首都圏に少し遅れてこの処中京圏は感染が一気に拡大している。

2月某日 三軒茶屋自宅
昨日は悠治さんと美恵さんと三軒茶屋で再会。しもたや240回記念で、健啖家の悠治さんはロコモコ完食。素晴らしい!
「どうということもない時間をともに過ごせるのを、こんなにぜいたくだと感じるなんて。世界はやはりおかしいですね」と美恵さんよりメッセージ。
日本国内全体の死亡者数も一昨日は236人、昨日は230人、今日は270人と上昇していて、思わず先月のイタリアを思い出す。

2月某日 ミラノ自宅
殆どを自主隔離に費やした日本滞在よりミラノに戻ると、思いがけぬ開放感に感動する。タクシーの運転手曰く、目下の心配事はウクライナ情勢だそうだ。もしものことがあれば、今年急激に値上がりしたイタリア国内の経済がどうなってしまうのか、ガソリンなど到底払えなくなるのではないかと話す。
庭の樹に棲んでいた3匹のリスは留守中に引っ越ししたようで、別のリス2匹が代わる代わるクルミを食べに来る。クルミをもって庭に出るだけで小鳥たちが近くの梢に飛んでくるさまは以前と変わらない。春が近づき動物たちの食欲も増しているように見える。

阪田さんがV.ヴィターレ(Vincenzo Vitale)の孫弟子とは知らなかった。彼は小学生の頃から大学生途中まで西川先生に習っていらしたそうだから、筋金入りの孫弟子。ヴィターレはカニーノさんの師という印象が強いが、彼こそ、マルトゥッチと同じくB.チェージ(Beniamino Cesi 1845-1907)直伝のナポリ式ピアノ奏法をF.ロッサマンディ(Florestano Rossamandi1857-1933)から受け継ぎ、こうして後世我々にまでピアノ奏法を伝えてくれた。
日本国内の死亡者数発表が322人と聞き、おどろく。

2月某日 ミラノ自宅
久しぶりに学校にてレッスン。反ワクチン派のMがピアノを弾きにきてくれたが、顔からすっかり生気が抜け、表情がなく、心ここに在らずに見える。気まずい思いをしながら一日何とかレッスンをする。
夜、MAMUにて、チェッケリーニ親子の追悼演奏会。フランチェスコが「河のほとりで」を、アルフォンソが「山への別れ」を弾いた。アルフォンソは秋にバーリでリストと一緒に「山への」を再演するつもりらしい。
クローズドの演奏会だから、集う聴衆はみなチェッケリーニ家に近しい人ばかりだった。演奏前、ティートは我々が若かった20数年前の昔話をする。まるで兄弟のように毎日喧々諤々やりながら過ごしていたっけ、と笑った。
ダヴィデがリスト「アンジェルス」を弾くのを見ていると、イタリアに来たばかりのあの頃の友達が、昔のように一堂に会しみなが楽しそうに弾いたり話したりしている。
唯一違うのは、ティートのお父さんと妹がそこにいないことだけで、それがひどく不思議に感じられるのだった。
こんな風に友人やティートの家族と抱擁して旧交を温めたのも久しぶりだった。以前はこうして誰とでも気軽に触れ合えたのが、この数年ですっかり変わってしまった。

2月某日 ミラノ自宅
2年前から教えてきた学生たちに、試験で初めて会う。2年前からずっと遠隔授業が続いていて、去年は試験もズームだったから、彼らに会う機会は皆無だったのだが、実際に面と向かうと、全く違う印象を受けたりもする。
2年間ずっと南部の片田舎にある実家で遠隔授業を受けていた学生が、いきなり目の前に現れるのも現実感がなくて不思議だったし、いつも授業は自室でリラックスして受けている学生が、試験だからか、思いの外真面目で緊張した形相で部屋に入ってくるのも愉快であった。
対面で試験をすると、遠隔よりずっと手際よく進むのも意外だったが、何より衝撃を受けたのは、2年前から遠隔授業を始めてみて、明らかに対面授業よりも学生の進歩がずっと速いことであった。こんな虚しい事実は認めたくないので、今年だけは特別だと思いながら続けてきたが、接続状況が不安定だったり、音も聴き難いはずなのに、遠隔授業は明らかに学生に集中させる効果があるようだ。ただ、結果だけ良ければそれでよいのかと問われれば、答えに窮する。教室で学友と触れ合い発見する喜びも絶たれてしまうのだから。

2月某日 ミラノ自宅
ロシア軍ウクライナ侵攻。
2年前に書いた「自画像」を見返すと、ホルンセクションは、2008年南オセチア紛争のグルジア国歌から次第に変化し、2018年ウクライナ国歌で終わっている。
2014年のウクライナ騒乱から2018年のクリミア危機を併せて、少しずつウクライナ国歌へと変化してゆく。同じ部分、チェロセクションは現在は禁止されている香港「願榮光歸香港」を弾いている。
前回はここまでで筆を置いたが、やはりこの続きは書かなければいけない、と思う。社会に何ら役に立てないのなら、せめて後に何かを辿れる痕跡くらいは残す必要はあるだろう。
福田さんのギター新作も、構想から改めて考え直そうと思う。ただ音符を置くだけでは、自分を欺いている気がする。どうしても書かなければいけない何かに突き動かされたものでなければ、自分の裡の何かが、自らを許さない気がしている。

2月某日 ミラノ自宅
家の片付けを手伝ってくれるアナが手術して休養しているので、ウクライナ人のマルタが代わりに手伝ってくれている。
彼女の義兄は外科医で、現在、場所が知らされない前線の野戦病院にて傷痍軍人の手当てにあたっている。以前の紛争時も同じく前線で軍医を務めていて、毎日、手足を失った兵士などの看病にあたっていたそうだ。
何年かして家に帰ってくると別人のように精神を病んでいて、その後何年もかけて漸く元気になったと思ったのに、また今回の戦争で招集されてしまった、と落涙。
彼女はルビウ出身だが、ルビウの山岳地帯に住む有名な占師が何度占っても、この戦争はウクライナが勝利すると出るから、絶対に負けるはずがないと言う。
指揮を教えているキエフ生まれのアルテンにも連絡したが、アルテンも彼の奥さんも現在はイタリアにいるから安全だし、アルテンの両親はキエフから早々に安全な場所に疎開したので大丈夫です。ご心配有難うございます、と返事がくる。文末には「Forza Ucraina!ウクライナ頑張れ!」と書いてある。

2月某日 ミラノ自宅
昨日は一日サンドロ宅でレッスン。マッシモとY君には、指揮棒の中に音を入れる、棒で音を集めるスタンスで指揮してもらった。
表現する気持ちが先走ると、感情が空回りして棒で音を拾いきれなくなるので、順序を整理して、先ず音を拾い、拍と拍の隙間から、シャボン玉に息を吹き込む要領で、すっと感情を滑り込ませ、音の向こう側で膨らませて演奏家を包み込んでみよう、と試す。

秋からバチカンで司祭になるための神学校に入るアレッサンドロがモーツァルト40番を持ってきた。彼は、先日スカラでゲルギエフが振った「スペードの女王」を見に行ってきたそうだ。新聞で書かれているように、開演時、ゲルギエフが指揮台に立つと、劇場中からブーイングが沸き起こったという。言うまでもなく、ゲルギエフがプーチンに近しい関係だからで、この数日間で、カーネギーホールでもウィーンでも同じ理由からゲルギエフは演奏を降板している。
ミラノ市長ベッペ・サーラは、ゲルギエフがロシア軍のウクライナ侵攻を咎める発言をしなければ、残りの「スペード」公演の指揮を許可しないと宣言した。
兎も角、アレッサンドロ曰く、それは素晴らしい公演だったそうだ。言尽くせないほど信じられないような素晴らしい3時間を過ごした、と感無量の表情で語る。
「いくら政治的な理由があるにせよ、音楽家と政治家を同次元で扱うのは違うと思う」
と言ったのが、この通世を捨て聖職に就きたいと願っているアレッサンドロだったので、何とも不思議な心地がした。それだけ演奏が素晴らしかったのだろう。
自分には何が正しいのか判断できないが、これが音楽の力なのかもしれない。
そこに居合わせた他の学生たちは、「気持ちは分かるが、今回のような特別な状況において、音楽と政治を切り離すべきかは、慎重に考えなければいけない」と口を揃えた。
スカラの次の演目「アドリア―ナ・ルクヴルール」の、アンナ・ネトレプコ、ユシフ・エイヴァゾフ夫妻の処遇も不明だ。
ナポリの広場で、ウクライナとロシアの女性二人が口論しているヴィデオを見た。ウクライナの女性は、「ロシアがわたしたちの子供を殺戮している、人殺し」と叫び、ロシアの女性は、「それはわたしたちも同じよ、わたしたちの子供も殺されているのよ。悪いのはプーチンよ。ロシアじゃないわ」。二人とも涙を流しながら、言葉にならない叫びを続けていた。

2月某日 ミラノ自宅
今日からロンバルディア州はホワイトゾーンとなる。一寸信じられない。
レプーブリカ紙一面の写真。ウクライナ西部スロヴァキア国境の街ウジホロドの広場では、市民が集って、空き瓶に発泡スチロールをつめ火炎瓶を作っている。
アムステルダムから日本に向かっていたKLM機がロシア上空の飛行禁止に伴い出発地に引き返したそうだ。EUとカナダはロシア機領空飛行禁止。ロシアはEU航空機の領空飛行禁止。SWIFTよりロシア排除。中立国スイスはロシア資産凍結、同じく中立国スウェーデン、フィンランドもウクライナに武器供与。アメリカ、オーストラリアなどロシア滞在中の自国民退去を勧告。ウクライナEU加盟申請提出。

(2月28日ミラノにて)

むもーままめ(16)隣人を愛しなさいの巻

工藤あかね

              り 
                    ん
                          じ
                                 ん
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      い
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       の
           は
                    む
               つ
          か
                し
                       い                                                             か
                                    ぞ
                                く
                        で
                       さ
                      え

       お も い が

          つ 
           た
            わ
             ら   な い
                        と き  が あ る の だ も の

                 で
                 も

              ど     う      か
                   

                  あ い し て

                せんそうなんか しないで

『アフリカ』を続けて(9)

下窪俊哉

 先月(2月)、『アフリカ』vol.33を出した。表紙には黄色の紙を使い、その中には切り絵のカマキリがいて、例によって「2/2022」という発行年月のみが書かれている。初めて読む人には何の本なのか、表紙だけでは何ひとつ伝わらない。
 開いてみると、最初のページには写真がどーんと置かれていて、その中に文字が見える。装幀の守安くんが撮った写真を使わせてもらった(他にも数点あったので、雑誌の中ほどのページに置かせてもらっている)。この時代を表すような写真で、じっと見てしまう。
 続いて出てくるのは、犬飼愛生さんの新連載「相当なアソートassort」の第1回で、「応募癖」というタイトルの短いエッセイ。詩人の犬飼さんは昨年、アフリカキカクで『それでもやっぱりドロンゲーム』というエッセイ集をつくったが、その中に詩の話は殆ど出てこない。「応募」も詩の文学賞に限らず、「癖」のように出してしまう。
 その後に目次がくる。目次の隣にはいつも、かかわっている人たちのクレジット・ページがあるのだが、今回も途中から怪しい団体名が出てきたりして大いにふざけている。
 最初のページから紹介し始めてしまったが、どこから読んでもいい。編集後記(最後のページ)を最初に読むという人は多いようだし、最近は「校正後記?」というページもあるので、そこから読むという人も出始めたようである。

 例によって『アフリカ』は何も決めずに、つくり始める。まずは声をかける。声をかける人のラインナップは前号の続きという風だけれど、最近は書いていなかった人や、まだ書いたことのない人でも何かの連絡をするついでに声をかける場合がある。ようするに気まぐれで、適当だ。「お元気ですか?」に始まる、何ということもない連絡なのだが、「また『アフリカ』をやりますよ」と付け加えることは忘れない。

 今回、最初に原稿を送ってきてくれたのは宮村茉希さんで、未完成の短文をふたつ、読ませてもらった。「文章教室に持ってゆくようなつもりで」とのこと。私のやっている文章教室では、多くの人が書きかけの文章を持ち寄る。でもそれでは『アフリカ』には載せられないので、いま、書き上げられそうな方に取り組んでみて、ということになる。その結果、「マタアシタ!」が生まれた。タイトルを見た瞬間に、あ、今回の『アフリカ』のラストはこの文章になるのかな、と感じた。伊勢佐木町で三代続く実家の印刷会社を、幼い頃の自分の記憶を元に書いたエッセイで、彼女はきっとこれからこの続きを書くだろうという気がする。
 次に届いたのは、UNIさんの短編小説「さらわれていた朝」で、これは完成形に近い状態で届いた。こどもの頃に短時間「さらわれた」思い出があるらしくて、その恐怖を思い出して書かれたそうだ。奇妙な夫婦関係、本当に存在するのか不安になってくるような隣人との関係、インターネット空間で行われるふわふわとした交流が、「さらわれていた朝」の背景にひろがっている。
 同じ頃、犬飼さんから詩とエッセイが届いた。エッセイは冒頭で触れた「応募癖」。詩は、今回は掲載を見送ったコロナ禍を書いたもので、感想を返したら「見抜かれてるね」と返事がきて、「じつはもうひとつ書いている詩があるんだ」と送られてきたのが「美しいフォーク」。犬飼さんの最新詩集に入っている(もともとは『アフリカ』に載せた)「おいしいボロネーゼ」のアンサー・ソング的な作品で、マ・マーを茹でて、食べるという日常風景に家族の歴史を重ねている。最後の連が鮮やか、と思ったのは、おそらく母の声が聞こえてくるからではないか。

 ところで、最近の私は『アフリカ』の中でよく喋っている。その間に、必ずといっていいくらい別の本をつくっているので、その宣伝というか、記念というか、後日談というか、オマケというか、そういうページをつくりたいと考える。その本をめぐって誰かと話す、というのはアイデアとしては平凡だが、やってみると楽しいので、やってみましょうかということになる。今回は『それでもやっぱりドロンゲーム』の楽屋話と、『珈琲焙煎舎の本』に収録できなかったアウトテイクを載せた。本当はもうひとつ、ある人へのインタビューがあったのだが、お蔵入りさせてしまった。対話が満載の「対話号」にしようというアイデアもあったのだが、考え直して、止めたのだった。
 いまは、書くひとが自らの内にそっと降りてゆくような文章を、もっと読みたいし、自分も書いてみようと思った。「なぜ書くか/なにを書くか」という問いかけを置いて、まずは年末にオンラインの文章教室をひらいて、手応えがあったので、その過程で生まれたエッセイを今回の『アフリカ』の前半に並べた。
 年末の文章教室に出された文章は9つあったが、その文章だけ単体で(説明なしに)読むことが出来て、完成度の高いものを選んだら、UNIさんの「ほぐすこと、なだめること」、堀内ルミさんの「書くことについて」、私の「船は進む〜なにを、なぜ書くか」、田島凪さんの「むしろ言葉はあり過ぎる」の4篇になった。
 同じ問いかけを元に書かれた文章だけれど、それぞれの人生の「書く」現場が立ち上がってきていて、そこで起こっていることは、ぞれぞれ違う。
「どうしてわたしはこんな辛いことの多いものに希望をもってしまうのか」と書くUNIさん。「困難を多く与えるけれど世界が美しく見える目をあげようと、神様はきっとそうおっしゃったのだ」と書く堀内さん。「自分が書き残さなければ脆くも失われてしまう」と書いた自分。「病気になってよかったと思ったことは一度もない」と書き、「言葉が怖い」とこぼす田島さん。
 こうやってふり返ってみると、しかし共通する何事かも感じられてくるようだ。

 そうこうしていたら、いつもイラストの仕事をお願いしている髙城青さんからメールが届いた。今回の『アフリカ』にはまとまった原稿を書けず、漫画も描けなかったけれど、ちょっと書いたので読んでほしい、と。「ねこはいる」は、昨年亡くなった父親の不在と、数年前から飼っている猫との暮らしを書いた短文で、句点がなく改行が多いのはメールの文章だからだ(私は日本語の文章に、句読点が絶対に必要だとは思っていない)。その文章に寄り添うような、猫のイラストも描いてもらった。
 それから自分は、『珈琲焙煎舎の本』のアウトテイクを載せるついでに、10年前、お店がオープンした頃のことを書いておきたいと思った。やっているうちに、日記風にするのはどう? というアイデアが自分の中に浮かんできた。2011年11月12日、珈琲焙煎舎のオープン2日目に顔を出した時から始めて、12月後半のある日までを、当時に戻って日記をつけるようにして書いた。10年後に、どうしてそんなものが書けたのかというと当時、毎日書いていたブログがあったからだ。それを見ていたら、忘れていたいろんなことが蘇ってきた。
 あとひとつ、最後に潜り込ませたエッセイの小品は芦原陽子さんの「なくした手袋が教えてくれたこと」で、小さな違和感と向き合った、この冬のある時期の話。

 雑誌が完成すると、まずは書いてくれた人たちに送って、読んでもらうのが楽しみだ。ウイルス騒動が続き切羽詰まったような状況の中、「生きる」ことを感じさせる作品が並んでいる、と話してくれる人あり、そうか、そうかもしれないな、と思う。家族のことを書いた原稿が多いね、と指摘してくれる人もあり、そういえばそうだ、と思う。いつも楽しみに待ってくれている読者の皆さんからはご注文をいただいて、お送りする。初めての方からのご注文も、ぽつりぽつりといただく。
 SNSやメールで感想が送られてくることもある。ハガキや手紙もたまにいただく。
 読んで話し合いたくなるのだけれど、うまく言えない、という方あり、焦らずゆっくり読んで、書いてくださいね、と返事を出す。今回の『アフリカ』はひと味違う、という話をしてくださる方も数名あり、そうかな、と思う。でもそうなのかもしれない。自分としては毎回、少し違うつもりなのだ。一度読んで、えっ? となり、くり返し読んで気づくことがいろいろある、などと読書の経過を報告してくれる方もあり、面白い。

208 Ku・ro・ku・mo

藤井貞和

208というのは、休まずに続けて、
携帯で入稿したことも何度かあって、
この、何だか「黒雲」と書きたくて、
パソコンがまったく機能しなかった、
一週間は歌を携帯で耳に移していた。
ウクライナ語の歌を友人のサイトが、
教えてくれる、「あなたが必要なの」、
と。ええ、あなたとは歌のことです。
私の枯渇を、黒い森の木が包むよう。
幹にうつほがひらく、黒雲を吐いて、
私を包む、吟遊の証し、うれしいな。
あしたになれば忘れられる、こんな、
きょうを忘れましょうと言うやつら。
57絃という、あなたの竪琴が祈る、
黒雲は私の祈りを包む。私の祈りの、
作詞や苦しみの睡りをさらに包んで、
57絃のしたから私を促すよ、さあ、
行け、きょうを忘れるな、あしたの、
平和は、黒雲のなかから生まれ出る。
きっとだよ、私のKu・ro・ku・mo。

(散会のあとに、わたしの黒雲が、ぼんやりとけぶって消えないね。消灯のまえを、講堂は発言だけがまだ響いてる。夜空をまっ暗に二分する第一の箱には廃案がいっぱい捨てられてる。今月は作品になりませんでした。)

仙台ネイティブのつぶやき(70)金魚のとむらい

西大立目祥子

仕事場の机に置いてある水槽を見て、はっとした。もう8年以上も飼ってきた金魚が、白い腹を横にして沈んでいる。あぁ…。1週間ほど動きが鈍く餌も食べなくなっていたのに、冬場に食欲が落ちるのは毎年のことだ、とあまり気にもとめずにいたのだった。

死因として思い当たることが、はっきりとあった。この冬の寒さがことのほかきびしくて、この部屋をほとんど使わずにいて金魚のようすをよく見ていなかったこと、そして2週間ほど、水槽の前のカーテンを日中も開けずにいたことだ。ただでさえ、寒い部屋で陽の光もさえぎられ、水温が下がり、食欲もなくなって、ついに命が尽きたのだろう。いつも昼間は、カーテンを大きく開け放ち、さんさんと水槽に陽が当たるようにしてやっていたのだけれど…。

実は、2月初めのこと、この机の上でひやりとすることが起きた。日中留守にして戻り机を見ると、紙が燃えたあとのような白く細かい灰があたりに飛び散っているではないか。え、何事!? 見れば、紙類を重ね入れていたダンボールの箱に黒い焼け焦げができている。間違いなく火が付いて燃えた跡だった。どういうことだろう。金魚の水槽に空気を送り込むろ過器はいつものように静かに動き、電気の配線に異常はない。もちろん、誰かが部屋に入り込み火をつけた気配もない。写真を撮りメールで送って家人に見せたところ、「収斂火災ではないか」という結論になった。ダンボールの焼け焦げが、直線的に2筋くっきりとついていたのがヒントだった。

収斂火災とは、レンズや鏡などに太陽光が当たり、屈折して1点に光が集中し起きる火災をいう。小学生のとき、凸レンズで光を集め紙を燃やしたあの実験と同じ原理で起きる火災だ。
ネットには、水を入れたペットボトルであっても、光が当たると数秒で火がつき、近くの可燃物に燃え移る実験のようすまで上げられている。たぶん、水槽の上に、小さなプラケースに水を入れ野菜の切れ端を差していたのに光が当たって、ダンボールに火が付いたのだと推理した。
じわじわ燃え始めたところで、雲が流れてきて日が翳ったのが幸いしたのに違いない。たしかにこの日は、春めいた光が差したかと思うと、数分後には大きな雲に太陽が隠れてしまう、そんな天気の変わりやすい日だった。

夏場よりむしろ日差しが低い冬の方が、太陽光が部屋の奥まで入り、思わぬ火災になるという。留守の間に住まいが全焼したかもしれない、と思うと何とも恐ろしい。しかも、その要因になるものが、レンズはもちろんのこと、ガラス玉、金魚鉢、ステンレスボウル、ステンレスのフタ、メイク用ミラーなどあれこれあって、用心するのもなかなか大変だ。最近は、どの家にも備えられるようになったアルコールの消毒液のボトルに陽が当たり、あわやということがあるらしい。窓辺近くの疑わしいものを片付け、ともかく出かけるときはレースのカーテンを引いて置こうと決めた。みなさまも、お気をつけください。

さて、机にはもう一つ、少し大きめの水槽があって、2匹のさらにドでかい金魚が泳いでいる。カーテンの隙間からいくらか陽が入るようにしていたせいか、こちらは無事に冬越しできた。同じようにホームセンターで買ってきたというのに、死んでしまった金魚が、冬場はてきめんに動きが鈍くなり食欲がガクンと落ち込むのに比べると、この2匹は冬でも食欲が落ちず、水槽のそばを通っただけで口をぱくぱくと開けて餌を要求してくる。いったいこの違いはどこからくるのか、とずっと謎だった。

思い当たるのは、死んだ金魚は最初の数ヶ月、庭の池で飼っていたことだ。春から夏の間だったけれど、朝、明るくなると目覚め、夕方、日が沈むと眠る。片や2匹は買われてきてからずっと水槽暮らしで、人の出入りに加え夜でも人工の明かりにさらされ、いわば体内時計はたぶんかなりめちゃくちゃ。池で育った金魚が野性味を残しているとしたら、こちらはかなり家畜化している。昼夜を問わず食べ、冬は餌を控えめにするのが金魚飼育の基本なのに、冬も旺盛な食欲を見せ、2匹とも20センチを超えるようなグラマラスな魚体になってしまった。

この一件があってからというもの、机の上から光るものははずし、水槽をのぞき込み2匹に話しかけながら餌をやっている。生きものはその動きをつぶさに観察し、個体個体の違いを理解し、昨日と今日の違いにすぐ気づくような眼をじぶんの中につくらなければ飼えないんだなと反省したから。金魚のような人と意思の疎通ができない小さな生きものであっても、死ねば、無理やり固いものを飲み込むような気分にさせられる。うっすらと雪のかぶる庭をスコップで掘り、土に埋めた金色の魚体はどこも傷んでいなくて、きらきらと光ってきれいだった。

言葉と本が行ったり来たり(7)『昨日』

長谷部千彩

八巻美恵さま
三月に入り、このまま春へ向かうと思いきや、ここ数日、冬に逆戻りの寒さでしたね。
ショートムービーは無事完成・公開へと漕ぎ着けました。先に視聴サイトのURLをお知らせしましたが、ご覧いただけたでしょうか。感想をお聞かせいただけたら幸いです。( https://www.watashigasukina.com/ )
今回の作品は、撮影機材の条件だけで、内容的には制約がなく、本当に自由に、作りたいものを作ることができました。監督は林響太朗さん。私は脚本を書きました。本読み、撮影にも立ち会い、演出にもかかわっています。
もともと監督は、私の掌編小説集『私が好きなあなたの匂い』の映像化を希望していたのですが、制作期間が限られていたこともあり、今回はショートムービー用のシナリオを私が書き下ろし、あのような形にまとまりました。監督とは、シリーズ化して、この先も一緒に映像作品を作っていけたらと話してはいるのですが、文章と違い、ムービーは資金が必要ですし、どうなることか・・・。でも、夢がなければ夢は実現しないという歌もありますから、ここは、この先も作るつもりです!と宣言しておきましょう。

 この作品を作るにあたって考えていたことを少し書きますと、ずっと頭にあったのは、”豊かさ”についての疑問でした。いまの時代を支配しているひとつの観念――有るということ、持つということ、それが数量的に多ければ多いほど良いという観念を、私はどうしても肯定できずにいるのです。あらゆる空間や時間をパラノイア的に埋め尽くしていく行為にも。会話にしても、丁々発止のやりとり、ああいうものを、私は心のどこかで疑っている。だから、台詞の少ない脚本を書くのは、私にとってとても自然なことです。そしてそんな脚本を書きながら、削いでいくことがふくよかな表現を生む――そういったものに私の興味が向かう傾向にあると気づきました。例えば日本画。例えば生け花。詩、香り、口ごもったひとの作る沈黙。この作品の制作中は、(高橋)悠治さんのアルバム『フェデリコ・モンポウ / 沈黙の音楽』をよく聴いていました。小津安二郎の映画も観直していましたし、大好きなアゴタ・クリストフの小説、『昨日』を読み返したのも、きっと無関係ではありません。彼女の場合、後天的に習得したフランス語で書くため、という理由はありますが、文章を飾ることを拒絶しているかのような極端に短いセンテンスーー私には、その一文、一文の間に、深い哀しみが、まるで水を湛えた川のように流れていると感じられます。解説で川本三郎は、≪アゴタ・クリストフの文学の特異性は、この手応えのなさにある≫と書いていますが、彼女の小説を読むと、重さのない球を投げつけられたような、重さがないのにその球が自分の胸に深くめり込んでいくような錯覚に陥ります。
澱みなく喋るのに何も語っていないひとがいる一方で、言葉少なでありながら多くを語るひとがいる。その裏腹なところに台詞を書く面白さがあるのかもしれない。そんなことを考え続けた二ヶ月でした。
ともあれ、ひとつ仕事が一段落したので、当分は文章を書くことに専念しようと思っています。日に日に軽くなっていく陽射しの中、ゆっくり本を読みながら。

2022.03.09
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(6)『「知らない」からはじまる』(八巻美恵)

コスモス

植松眞人

 最寄り駅から自宅までゆっくりと歩く。十五分ほどの距離なので自転車に乗ることもあまりない。コロナ禍になって仕事の後に飲みに行くことも減り、場合によっては週の半分ほどは自宅でオンラインでの仕事になることもある。どうしたって運動不足になりがちなので、駅まで十五分程度は歩いたがいい。そう思い駅からの帰り道は時々普段と違う道を歩いて遠回りをする。出勤時にも違う道を歩こうとして、道に迷い遅刻しかけたことがあるので、この密かな遊びは帰宅時だけと決めている。
 最寄り駅から自宅まで、最短のルートは駅前から延びている国道を歩き、そのままY字路を県道へと折れるルートだ。しかし、県道へと折れずに、そのまま国道を歩くと市が管理している自然公園にたどり着く。この公園の中を通って帰るルートが最近のお気に入りだ。
 少し遠回りになるので二十分から二十五分ほどかかるのだけれど、自然公園の遊歩道は左右にきれいな花が咲いているので気持ちがほんの少し晴れるようで気に入っている。
 その日も、自然公園を通って帰宅していたのだが、少し気温が低く初秋だというのに冬の気配が濃かった。ショルダーバッグをかけ直して、ズボンのポケットに手を突っ込むと少し歩く速度をあげた。足元にはポプラやイチョウの黄色い落ち葉が風に踊っていて、それを踏むと心地よい渇いた音がした。
 背の高い木々がアーチのようになった遊歩道を抜けたところに、小さな池があるのだが、その脇にコスモスばかりが植えられている花壇の一画があった。薄紅のコスモスが一斉に風にゆらされている風景は、日々の仕事への愚痴を噛みしめている下っ腹のあたりの嫌な力こぶのようなものを霧散させてくれる。
 しかし、今日は妙な違和感があった。昨日とは明らかに風景が違うのだ。まるっきり違うのではなくなんとなく違う。目を凝らしていると、昨日との違いに気がついた。コスモスの花の数が少ないのだ。半分ほどの花が根元に落ちている。畳二枚ほどの花壇なので、半分とするとどのくらいの花がなくなったのだろう。自然に落ちたのかと思い、近寄ってみたのだが、落ちている花はどれも茎がついていて、明らかに誰かが花を落としたように見える。おそらく、傘かなにか棒状のものを振り故意に落としたのだろう。落ちている花はどれもまだ生き残っている花と同じようにきれいで、落とされてまだ時間が経っていないことを教えてくれる。
 ときどき、コスモスの花壇を振り返りながら、先に進むとベンチがあった。いつもは誰も座っていないのだが、初老の男性が座っている。まだ季節的には少し早い気がする冬物のコートの衿を立て、いかにも寒そうに座っている。まるで、その男性の周囲だけ一足先に真冬になったような印象だ。
 その前を過ぎようとした時、男性の脇にビニール傘が立てかけてあるのが見えた。なんとなく反射的に、男性の隣に腰を下ろす。男性はいぶかしげにこちらを見る。他にもベンチがたくさんあって、そこには誰も座っていないのだから、当然の反応だろう。しかし、ビニール傘を見た瞬間に自然に腰を下ろしてしまったのだ。
「寒いですね」
 男性のコートの衿を見ながら話しかけてしまう。
「寒いですね。歳を取ると余計に寒い」
 男性はそういうと手に持っていた物をいったん膝の上に置いて、右手の平で、左手の甲をさすった。その動きで、男性の膝に置かれていた物が落ちる。それは、はらはらと舞うコスモスの花びらだった。男性の膝の上と、足元にいくつかのコスモスの花びらが落ち、男性は拾うでもなくそれを見ている。
 風が吹く。足元の花びらがこちらに吹き寄せられる。男性がコートの衿を引き寄せ肩をすくめる。こちらにやってきた花びらを拾い上げる。薄紅色が少し褪せている。通り過ぎてきたコスモスの花壇を見て、それから視線を男性との間にあるビニール傘に移す。その表面にコスモスの花びらが何枚か貼りついているが、さっきの風でそこに移ったのかどうかはわからない。じっと、その花びらをみていると、男性の手が伸びてきて花びらを払う。払った花びらが宙を舞い、そのうちの一枚が男性の手の甲に乗る。男性はその花びらを指先でつまみ、目の前に持ってきて、誰にともなく少ししゃがれた声で呟く。
「誰がやったのか」
 そう言うと男性はつまんでいた花びらを地面に落とし、膝の上の花びらも払い落として立ち上がった。その弾みにビニール傘が倒れ、私の足に当たる。(了)

リンゴ・スターの2月

若松恵子

居間の壁にかけている今年のカレンダーはザ・ビートルズ。「水牛」の原稿を送って、月が変わって、カレンダーをめくるのが楽しみなのだけれど、1月のジョン・レノン、2月のリンゴ・スターだ。

レコード屋で手に入れたこのカレンダーには4人そろった写真はなくて、ひとりずつの肖像が毎月を飾る。内省的なジョン・レノンにじっと見つめられて「あけましておめでとう」だった。2月にリンゴ・スターというのはぴったりな気がする。(2月はジョージ・ハリスンのお誕生日がある月だけれど)スーツにタイをきちんとしめて、櫛でとかしたばかりのような前髪で、リンゴが晴れやかに笑っている。まだ翳りも、憂いも無い頃のポートレイトだ。

ビートルズについて、熱心に聴きこんだファンではないけれど、昨年11月にディズニープラスで放送された「ザ・ビートルズ:Get Back」は引き込まれて見てしまった。1969年の1月の1か月間のビートルズを記録したドキュメンタリー映画だ。アルバム『レット・イット・ビー』として発表される楽曲のレコーディングの模様と、久しぶりに観客の前で演奏しようとライブの計画をするが、それが暗礁に乗り上げ、アップルの屋上でのライブ演奏に至る、そこまでの紆余曲折の1か月間の物語だ。自分たちのオフィスの屋上で久しぶりのライブを突然行うなんて、何てカッコいいアイデアと思っていたけれど、そこに至るまでの日々を知ると、よくぞここにたどり着いたと別の感慨を抱く。

けれど、そんな舞台裏があろうと、4人そろってジャーンとギターを鳴らせば、誰にもまねのできないビートルズの世界が展開する。ジョンもジョージも舞台裏と違った顔になる。その魔法に目をみはってしまった。

今年の2月には、その屋上でのライブの部分のみを切り取って1時間にまとめた映画が期間限定で劇場公開された。「THE BEATLES GET BACK THE ROOFTOP CONCERT」だ。IMAXの大きなスクリーンで、できあがったばかりの「ゲット・バック」、「ディグ・ア・ポニー」、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」、「ドント・レット・ミー・ダウン」を聴くのは胸躍る体験だった。ステージ衣装ではなくて、レコーディングに通ってきていた日々と同じ、4人それぞれが好きな服を着て、そうでしかありえないくらい似合っているのがカッコよかった。

街に向けて音を放っているうちに、苦情が寄せられて警官がオフィスを訪ねてくる。スタッフが何とか時間を稼いで演奏を続ける様子がスリリングだ。ついに現場を確認しに屋上に上がってきた警官の姿を見た途端の4人の反応もおもしろい。ポールの反抗心が燃え上がるのを一瞬見たような気がした。警官の手前、スタッフが切ったアンプのスイッチをためらわずに入れなおすジョージの強気に拍手喝采だった。

近くのビルの屋上には、ビートルズの演奏を聴くために上がってきた人々の姿が増えていく。ビートルズの演奏を聴けるうれしさがその姿から伝わってくる。どこかから「ロックンロール!」という声が飛ぶ。すぐにジョンが「ユー・トゥー」と叫び返す。心に残る場面だ。50年以上たっても色あせない4人の音楽の魅力を、この場面が端的に語っている。

荷物検査

篠原恒木

おれは空港の手荷物検査場でトランクの中身を調べられることがやたらと多い。
特にハワイのホノルル空港と、ニューヨークのJFK空港ではかなりの確率で、
「トランクの中身を見せろ、プリーズ」
と言われる。ああ、またかよと、おれは不愉快になる。
入国審査ではまったく問題ない。カウンターの向こうから、
“Passport please”
とかなんとか言われるので、おれはきわめて流暢な発音で、
「イエス、ヒア・ユー・アー」
と、おとなしくパスポートを提出し、
“What’s the purpose?”
と問われれば、さらに流暢な発音で、
「フォー・サイトシーング」
と、最後の「グ」をしっかり強調して答える。完璧ではないか。テキはさらに、
“How long will you stay?”
“Where are you staying?”
などと訊いてくるので、これも見事なまでに流暢な発音で、
「えと、んと、ファイヴ・デイズで、あー、ヒルトン・ホテル」
などと答えると、ペタンと判子を押してくれる。この入国審査でトラブルになったことはない。奴らは基本的には不愛想だが、なかにはファンキーな係官もいて、おれがUNIVERSITY OF KENTUCKYとプリントされたスウェットを着ていたときなどは、
「おまえ、ジャパンではなくてケンタッキーから来たんじゃねぇの?」
などと冗談をかまされたときもあった。
やがておれはぞんざいに放り出された荷物を受け取り、モンダイの税関へと向かう。ここでおよそ三回に二回の割合でおれは、
「トランクを開けろ、プリーズ」
とお願い、いや、命令されてしまうのだ。東京ではたびたび職務質問を受けるが、アメリカに来てもこの仕打ちか、とおれは深い溜め息をもらす。いちばん最悪だったときは大型犬まで動員されたこともある。ここは言われたとおりに開けないとしょうがないよなと思い、おれは不満顔でトランクのキーを探す。確かパンツのポケットに入れていたはずだ。
「ジャスタ・ちょっと待って・モーメン・プリーズ」
と、きわめて正確な英語で言いながら左右のポケットに手を突っ込むが、キーがない。あれおかしいな、とやや焦りながら、ポケットに入っていなければこの中だと思って、今度は手荷物の小さなバッグのジッパーを開けて、中をゴソゴソと探す。だが、キーはない。係官の顔が次第に険しくなってくるのがわかる。大型犬の表情も心なしか眉間に皴が寄っているように見える。汗だくになりながら捜索すること約三分、なんのことはない、キーはパンツの尻ポケットに入っていたことが判明し、トランクは無事に開けられる。
ここで係官はおれのトランクの中をしらみつぶしに調べる。着替えの服と服のあいだはもちろんのこと、中に入れてあるポーチの中身まで点検するのだ。
「先に行ってるね」
と、同行者の妻は冷たく言って、さっさと税関を通過するが、おれはここで考える。
「先に行ってるね、と簡単に言うが、おまえはいったいどこへ行くというのだ。まさか先にホテルでチェック・インするとでもいうのか」
ふと係官を見ると、奴はトランクの蓋の内側まで撫でまわしているではないか。だがもちろん怪しいブツなど入っているはずもなく、
“OK, Thank you”
などとおざなりに言い、めでたく通ってよしとなる。ここでおれはついテキに言う。もちろん何度も書くが、完璧な発音で、
「アイはソー・メニィ・タイムズ・ビフォーに、ディス・カインド・オブ・シングズな目に遭うのですが、ホワイ・ミー?」
すると必ず係官はひと言で答える。
“Random”
ぬゎにぃがランダムだ、おまえらには「ジャパニーズの坊主頭で太いセル・フレームの眼鏡をかけている奴は必ず荷物を調べるように」というようなマニュアルが配られているのではないか、といまでもおれは疑っている。驚くべきことに、ジャルパック、つまりは団体旅行の一員としてハワイに行ったときも、団体さん御一行のなかでおれだけが足止めを喰らったことがあるのだ。ちなみにおれは海外など頻繁に訪れるわけではない。パスポートの入国ページが判子で隙間もないくらいベタベタになってもいない。どう見ても何かを捌きに来たような売人には見えないはずだ。なのに、こんなにも理不尽なことがあっていいのだろうか。
そう思ったおれは対策を講じた。大きいトランクを持っていかなければいいのだ。着替えや下着はすべて現地で調達すればいい。あるときおれはホノルル空港へ手荷物だけ、それもビニール製のLPレコード用ショッパーズに必要最低限のものだけ入れて、それを片手でブラブラさせながら税関へと向かった。これならあの煩わしさは回避される。間違いない。これなら楽勝だ。すると、その姿を見た税関の係官は、
「ちょっと事務所へ来い」
と言って、おれを拉致した。事務所まで連行されたおれは、
「なぜおまえはこんなに荷物が少ないのか」
と、数十分もの尋問を受けた。事務所から解放されたおれに、妻はしばらく口をきいてくれなかった。

新年

笠井瑞丈

朝起きると辺りは白銀の世界
粉雪が舞う上から朝陽が刺し
空がキラキラと光っている


冷たい空気がガラダに入れ
暖かい空気をカラダが出す


新しい年が始まった

2022年


猪苗代湖に向かう


雪の道路の上
青空の空の下
車を走らせる


今は便利なものでナビが
目的地までの到着時間を
教えてくれる


一時間くらいで到着できる


くねくねとした山道を走る
大きな湖が見えては消えて


湖の横の道を走る
湖というよりは海
風と共に大きな波


猪苗代湖の道の駅
道の駅に入ってる
喜多方ラーメンを食べ


次の目的地の会津へ
雪が次第に強くなる


砂のような雪が風と
共に上空に舞い上がる
完全ホワイトアウトだ
全く前が見えない


大きな冷凍庫に閉じ込められ
白い冷気に包まれてている感じだ


下道で会津まで行くのを断念し
高速に乗ることにする


会津は廃墟温泉街にいく
廃墟になった旅館が立ち並ぶ
営業してた頃はどのような景色だったんだろう
そんな事を想像してみる
調べてみたら数年前に殺人があり
それが原因で廃墟化してしまった


次の目的地の金沢へ

七曜のうた(日曜はじまり)

北村周一

日曜の
  G.Gデーは
       混むのよね
            ひとりだいどこで
               はげむ数独

月曜日 
  月イチひらく 
       読書会の 
          ありてZOOMで 
           かたらうカント

  あすは
火曜
  特売にして
  気兼ねなく
       食すつまみの
       カニふうみ味

水曜日 
   接種にむかう
         小市民
            われらいちにの
             つごう三度目

        ぷらすちつく
  ゴミの日たのし
木曜日 
  スキツプふみふみ
        収集車もくる

       循環する
       たましい 
        ユメに
      あらわれて
        目眩い
       はじまる
金曜日の
    あさ

土曜日は
    LINEにのって
            会いにゆく 
                 二年以上の
          無沙汰わびつつ

安息日 
    すこしの酒に
          酔いしことも
     恩寵にして
          フロは止めとく

月曜日
   見てしまいたり 
         分別は
   ゴミ出すときに
         ふともあらわる

   火の曜日
火曜日ともよび
   気前よく
      独裁者たちが
      火種を播く日

水曜日 
  『一月万冊』
   動画にて
      みつつ微睡む
      春ちかきかも

木の曜日
    焚きつけながら
           機嫌よく
    火器もてあそぶ
           改憲論者

            平熱に
         もどりしくちに
      ふふましむ
   熱き燗酒
聖金曜日

    空の青 
      金の麦畑 
    青黄旗
      てにてに集う
土曜日の街

よき道具
   もてばやっぱり
         つかいたく
             なるのが道理 
                  火器の類も

   波のまに
     ゆれる月かげ
   妖しきに
     あいてもとめて
 さやぐ太刀魚

青いままに
    消えゆく
春のつめたさよ 
       野原よ野原(ポーリュシカ・ポーレ)
いくさは死なず

長調の
   おうただったよ 
正調の
     露西亜民謡
      一週間は

製本かい摘みましては(171)

四釜裕子

新しく始まる多和田葉子さんの新聞連載が楽しみだと、正月に知人が教えてくれた。「白鶴亮翅(はっかくりょうし)」というタイトルが太極拳由来だそうで、その動きをさっとして見せてくれた。多和田さんも太極拳を習っておられて、「敵が攻めてきたときに自分の最大限の力を引き出す護身術でもあるし、健康法でもあると同時に踊りでもある」太極拳を、いつか小説の題材にしようと温めていたと同紙に語っている。連載は2月にスタート。ベルリンで一人暮らす「わたし」が隣人の誘いで太極拳を習うことになるようだが、今のところまだ迎え撃つ敵の気配などはない。

連載の(24)(25)に、翻訳ソフトが苦手とするものの例として「Bohnenkaffee」という言葉が出てきた。「コーヒー豆を使ったコーヒー」の意味だそうだが、翻訳ソフトは「コーヒー豆」と訳してしまう。しかし「コーヒー豆」は「Kaffeebohnen」で、例えば旧東ドイツに暮らしていた人の生活資料の中に「西ドイツに住む親戚がBohnenkaffeeを土産に持ってきた」とあれば、それは「コーヒー豆」ではなくて「コーヒー豆を使ったコーヒー」である。つまり言葉が使われた時代背景を考慮しないと正確には訳せない、という話であった。〈その点、紙でできた辞書はすばらしい。人間だけでなく、辞書にも若者、中年、年寄りなどいろいろな世代があり、それぞれの良さがある〉。そして例えば「Bohnenkaffee」は19世紀の辞書の復刻版にはなく、かといって今使っている辞書にはすでになく、1960年代に作られた辞書にはあるという。〈八十歳の教養人も二十歳の若者も知らない言葉を五十前後の世代だけが知っているということもあるようだ〉。

SHIBUYA TSUTAYAで藤原印刷による「本のつくりかた(展)」を見て、「スクラム製本」や「和こよ綴じ」なる言葉を知ったばかりだった。そう呼ばれている製本実物を見てもなんら珍しくはないのだけれど、そういえば呼び名を知らなかったし考えたこともなかった。家に帰ってネットで検索したら、どちらもたくさんヒットした。

この展示は、ちょっと変わった紙や印刷・製本、加工法で作られた本やジンを、どのように作られたかの説明を添えて展示・販売したもので、動画や紙見本なども添えて実物に触って見られるようにしていたのがよかった。図録的な冊子もフリーで用意されていた。紙や花ぎれ、スピン、箔など材料の銘柄や、印刷や製本・加工のポイントも記されていて、そこに「スクラム製本」や「和こよ綴じ」という呼び名が記されていた。「スクラム製本」は「新聞紙のように紙を折って重ねて断裁するのみの製本方法で180度綺麗に開きます」、「和こよ綴じ」は、中綴じ製本で「和紙素材で綴じる製本方法」と説明がある。

「コデックス装」もいくつかあった。本文紙を糸でかがったあと背をむき出しにしたままで完成させたものだが、こちらは特に説明はなかった。林望さんが『謹訳源氏物語』を出したときにつけた呼び名で、確かにこの製本も名称も年々よく見かけるようになった。ちょうど東京製本倶楽部から「製本用語集」が届いたので「コデックス装」をひいてみると、「機械製本で本文紙を糸かがりした後、背貼りをせず、折丁の背と綴じ糸が露出したままにしてある製本。(中略)林望氏による命名(『謹訳源氏物語』2010年)だが、構造的には無背装(むはいそう)で、本来のコデックスとは意味が異なる」とある。

続いて「コデックス」の項を読むと、「古い時代の本をさす言葉。古代ローマ時代には蝋板をつなげたものをさし、のちには二つ折りしたパピルスや皮紙の折丁を糸で綴じた冊子をさすようになる。綴じられた初期の本をいい、巻子本と対比される」とある。コデックス装という呼び名に私はいまだ違和感があるけれど、今の日本においてはいかにこの製本とコデックス装という呼び名が親しく馴染んだ12年だったかということだろう。「コデックス」という言葉の変遷をここにごく簡単に見るだけでも、人にとってこの響きがどれだけ魅力的なのかが想像できるし、逆に翻訳ソフトはいかにも苦手そうな言葉だし、こうやって生き延びる「コデックス」の人たらしぶりに「うまくやったな、コデックス!」と声をかけてやりたい。

東京製本倶楽部は1999年の発足当初から用語の検討を続けてきたようだ。会のホームページでその成果を公開している。「製本の種類」「綴じの種類」「判型・数え方」「工程」「本の部位」「装飾」「蔵書」「道具」「容器」「書誌」「印刷」「出版」「修復」のカテゴリーに分けて用語の採集・編纂をしていて、この2月、まずは「製本の種類」の項目だけをまとめて発刊している。いろいろためになるのだが、もやもやが晴れた用語の一つに「シークレットベルギーバインディング」があった。何がシークレットでなぜベルギーなのか名称の由来を知りませんと言いつつ、私もその綴じ方を講座でやったことがある。「製本用語集」によるとまずそれは「シークレット・ベルジャン製本」と項目がたっていて、「クリス・クロス製本」参照とあり、構造の説明のあと、「1986年、ベルギーの製本家アン・ゴワ(Ann Goy)が考案した。(後略)」とある。アン・ゴワさん、きょうまで知らずに楽しませてもらってきました。ありがとうございます。

東京製本倶楽部版「製本用語集 製本の種類」(2022.2.2発行 限定400部)は、A5判モノクロ24ページの中綴じ(ホッチキス2か所留め)だ。ごく小さな冊子だけれども、迷ったらここに戻ればいいという安心感がやっぱりもれなくついてきた。こちらも言葉も刻々変わる。何でもかんでも刻々変わる。例えば白鶴亮翅がどういうものかよくわかっていないのだけれど、改めて正月に知人が見せてくれた動きを思い返すと、手足の先が描く流麗なる曲線たちが時にすっとマッチ棒を思わせる体のラインに収束して、そういう感じが「製本用語集」の薄い背に重なったりした。

今朝の多和田葉子さんの「白鶴亮翅」(27)はどうかというと、「わたし」がMさんに、ドイツ人の東方植民が始まったのはいつかとか東プロイセンにアジアから人が渡ってきたのはいつかなどを聞き、嘘などもつき、ジャケットを脱いでいた。ひと晩寝て、明日は「わたし」に何面で会えるかな。

PCR検査 教訓


仲宗根浩

旧正月と二月の暦がいっしょになった今年、十六日は旧の一月十六日であの世正月もわかりやすい、と思っていたら朝から子供が37度微熱、喉が痛いと。大げさかもしれないが念のため学校に電話をして休ませる。しばらくして体温をはからせると38.5度。病院の発熱外来の確認をする。医師会のオンライン問診を受けろとのことでアクセス方法を子供に伝え問診結果で番号が発行されそれを再度病院に伝え午後から発熱外来でPCR検査になる。職場のルールで同居家族がPCR検査となった場合は出勤できないので電話をしてその旨伝える。車で病院に行くと指定された駐車場に車をとめて降りることなく指定の番号へ電話をし発行された番号を伝え車の中で待つ。待っていると受付担当の人が来て車の窓を開けることなくガラス窓に保険証を内側から押しつけ保険証の携帯電話で撮影される。それから医師と看護師さんが来て鼻から長い綿棒のようなものをかなり奥まで入れられる子供。解熱剤を処方してもらい検査結果は翌日夕方にわかるとの事で家に戻り職場に報告。PCR検査の事は奥さんにも伝えていたので仕事途中で帰宅し家にいる。取り敢えず子供は部屋に隔離、といっても無理だがなるべく接しないようにする。やり取りはすべてLine。処方された薬を服用しても熱は下がらない。熱が出て喉の痛みは無くなっている様子。検査結果は翌日の5時頃陰性。熱も下がって来たと思った次の日に喉の痛み、足先の皮膚、指も痛いと言う。様子を見た翌日も症状変わらず、発熱は無いためオンライン問診では検査の必要ないとの結果。現状を夫婦共々職場へ報告し出勤は出来ず五日目、症状変わらないが指に湿疹が出てきたので病院に電話にて相談すると発熱はないが外来受付をしてくれ抗原検査、結果はこれも陰性。職場へ報告すると明日から出勤となる。発熱に翻弄される状況はしばらく続くのか。



何かが起こると戦闘機が飛び回る。多分海軍の偵察機かなんかが、これでもかというほどの低空で旋回する。地政学というのを持ち出して、沖縄は地政学的に云々で備えが必要だと。18歳から60歳まで出国禁止になってお国のためにと言われれば、青くなってしりごんでにげてかくれよう。

二月の最後の日曜日、平井さんの四十九日。沖縄に戻ってきてから不幸があると七日七日を確認する癖がいつの間にかついた。

『カルノ・タンディン(カルノの戦い)』

冨岡三智

先日、カルノの戦いの演目のワヤン(影絵)公演を大阪で見た。というわけで、今回はカルノの演目に関する公演の思い出をいくつか取り上げたい。

カルノはインド伝来の叙事詩『マハーバーラタ』に登場する武将の名前である。『マハーバーラタ』では、王位継承に絡んでコラワの100人兄弟が従兄弟のパンダワ5人兄弟を陥れようと姦計を繰り返し、最終的に両者が大戦争に至る過程が描かれる。パンダワ5人兄弟の3番目が美丈夫として有名なアルジュノで、彼はパンダワ王と母クンティの間に生まれた。ところが、クンティには王との結婚前に太陽神との間にできた子がいた。それがカルノである。カルノは生まれてすぐに川に流されたが、拾われて無事成長し、コラワで取り立てられていた。大戦争が進むとコラワ軍のカルノとパンダワ軍のアルジュノも直接対決することになる。血を分けた我が子の対決をクンティは悲しむも、カルノは恩義のあるコラワへの忠誠を誓い、アルジュノと戦ってその矢に倒れる。

このカルノとアルジュノの戦いを描いた演目が『カルノ・タンディン』なのだが、血を分けた兄弟が敵味方に分かれて戦うことになるという重い宿命を描いた場面なので、ジャワではその上演の前には供物を用意して無事に済むように祈る儀式が行われる。私自身も、スリウェダリ劇場で舞踊劇が行われる前にその儀式に参列したことがある。その時は芸大の先生の調査の助っ人として駆り出されたのだが、この儀礼は観客に見せるために行うわけではないので、貴重な体験だった。


劇仕立てではない『カルノ・タンディン』という舞踊作品もある。アルジュノとカルノの2人の戦いの場面をウィレン(戦いの舞踊)形式で描いている。PKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)が始まって間もなくの1970年か1971年に宮廷舞踊家ウィグニョ・ハンブクソ氏を迎えて復曲されたとのことで、ハンブクソ氏にも師事していたスリスティヨ・ティルトクスモ氏もその様子を見に行ったとのことだった。芸大の授業カリキュラムにも入っていて、私も履修した。

登場の曲で2人が舞台に現れ、着座すると始まるのが「ゴンドクスモ」の曲。これは宮廷女性舞踊の「スリンピ・ゴンドクスモ」で使われる曲である。とても優美な曲で男性の戦いの舞踊に使われるとは思ってもみなかったので、初めて曲を聴いた時には仰天した。けれど、ワヤンの中で最も優美なアルジュノのキャラクターに似つかわしく、また曲が抑制的であるだけに、一層2人の宿命の悲しみがじんわりと伝わってくる気がする。この曲の場面では、2人は向かい合い、シンメトリなフォーメーションを描きながら踊る。曲が「スレペッグ」に変わると戦いの場面になり、2人は剣を抜く。2人は入場する時から手にダダップと呼ばれる武器を持っているのだが、剣で突きダダップでかわす攻防を続けた後に、ダダップを置いて弓の戦いとなる。カルノが負けると曲は「アヤアヤアン」に変わり、勝者が敗者の周囲を巡り、そして入場してきた時のように戻っていく。シンメトリに動く舞踊の場面、戦いの場面、勝者が敗者の周囲を巡る、というのはウィレン形式の舞踊に共通する型/構成である。


ジャカルタの舞踊家エリー・ルタン氏の作品『クンティ・ピニリー』(1997)も忘れ難い。伝統舞踊の型をベースとするコンテンポラリ舞踊。私がアルス(男性優形)舞踊で師事していたパマルディ氏がカルノ役で出演するので、ジャカルタまで見に行った。ちなみにアルジュノ役をやっていたのが、後に宮廷舞踊で師事することになるスリスティヨ・ティルトクスモ氏。私にとってはアルス舞踊の双璧の2人が出演していて、その抑えた優美の動きの中にある緊張感に震えた。一騎打ちの場面になると、2人はカイン(腰布)の中に隠していた仮面(抽象的な表情)を取り出してつける。心ならずも宿命により戦うということが見事に可視化されていた。この作品では血を分けた我が子同士が戦うことになるクンティの苦悩に焦点を当てている。エリー氏の作品はいつも影にいる女性の人生の悲しみが浮き彫りにされていて、こんな風に女性を描きたいと思えた作品。


国際交流基金と横浜ボートシアターが主催し、日イネ合作で制作された『マハーバーラタ 耳の王子』(1996年)も、カルノの物語を下敷きにしている。横浜ボートシアターは仮面を使うのが特徴で、この作品でも色々な仮面が使われている。ジョグジャカルタにあるノトプラジャンという大きなプンドポ(ジャワの伝統建築)で上演されて留学生の友人たちと見に行った。インドネシア人出演者はインドネシア語で、日本人出演者は日本語で台詞を言うので、両方分かる留学生が一番面白さが分かるかもね…と話しながら見た記憶がある。当時は留学して間もなくのことで、こんな風に日イネでコラボレーションできたらなあと思う原点になった作品。


最後に、先日の公演というのは2月23日に大阪の箕面市立文化芸能劇場小ホールで上演されたワヤン・クリ(影絵芝居)『マハーバーラタ~カルノの一生』のこと。主催はマギカマメジカ、ナナン・アナント・ウィチャクソノ氏が企画・構成・脚本で、ダラン(人形操作+語り)も務める。ガムラン音楽は演奏するダルマ・ブダヤのオリジナル曲が中心で、一部に箏も使われる。舞台中央奥に影絵の幕がセットされ、その手前にガムランが並べられ、ダランやガムラン演奏者は舞台奥の方を向いて座る。つまり、ジャワでよくやるように、観客は演奏者側/影が見えない側から見る設定になっている。そして幕の上には巨大なスクリーンがあって、そちらにも時々映像が投影される。そして、舞台下手にはもう1人の語り手(イルボン氏)が演台の前に立ち、たとえばクンティが太陽神と出会ういきさつやコラワが姦計をめぐらすなどの込み入った事情を語る。

ダラン以外に語り手がいたり、影絵用のスクリーンの上にさらに映像用スクリーンがあったり、ガムランの新曲以外にも箏を使ったりと、客観的に見れば新しい要素が満載の作品なのに、全体として何の違和感もなく腑に落ちてくる作品という感じだった。伝統的なジャワの影絵を見ているような自然さがあって、途中でふと、そういえば使われている曲は新作だな…と気づいた次第。箏はカルノの深い心情に寄り添う2場面だけで使われる。箏の音階はガムランの音階に近いとのことだったが、ガムランの音になじみながらも異なる音色で立場的に微妙なカルノの複雑な心情を伝えていて効果的だった。

最後にカルノが倒れるシーンで、ナナン氏は影絵のスクリーンの前で花びらを撒く。戦いに散ったことの暗示であり、カルノに対する散華でもある。ジャワではお墓参りをすると、花を立てるのではなくバラの花をほぐして花びらだけを撒くのだが、この瞬間にナナン氏は語りの担い手から祭司/鎮魂者に変わった…と私には見えた。暗くなった舞台でナナン氏にスポットライトが当てられる。霊となった人形を持ったナナン氏が立ち上がり、観客の方に向き直り、歌いながら舞台前方にゆっくり進んできて舞台は終わる。この時、カルノの魂が昇天していくのが見えた気がした。(舞台奥の幕に向かって座っていた演奏者や私達観客の構図は、なんだか涅槃図のようでもあった。)影絵の幕に映し出されるカルノの実人生、その上のスクリーンに映しだされる、カルノの知らないところで起きる出来事(出生の経緯やコラワとパンダワの因縁)…。しかし、第三者=観客として見ていたはずのカルノの人生の最期にいきなり当事者として直面した感があって、単に劇場でワヤン上演を見たというのではなく、ワヤンを見るとはどういう体験なのかということを体験できた気がする。

パジャマでしかピカソは描けない

イリナ・グリゴレ

節分もとうに過ぎた日、大館の教会で私たちは今年初めての聖体礼儀に参加した。正教会ではこの儀礼は機密の一つであって、赤ちゃんの時から、私が初めておっぱい以外のものを口にした領聖(コミュニオン)で、キリストの尊体と尊血である聖パンと葡萄酒を領食した。このような儀礼に子供の時から参加してきたことによって文化人類学との出会いに導かれ、「人間とは何か」を問う一つのきっかけとなった。2月の太陽に光る北国の氷柱を見ながらそう思う。

娘たちにもこの同じ経験をさせたかった。礼拝の賛美歌を聴きながら、床に転がりながら、イコンの真似をし、絵を描いている娘たちの姿を見て2年半以上ルーマニアに戻れなかった苛立ちから解放された。娘にとってルーマニアという場所がどう見えているのか、娘がこれから自分の身体で体験するルーマニアと、私が体験したルーマニアは領域が違うと気付いた。そして、私も彼女らの目を借りて、教会の礼拝のように領聖(日本語で訳す漢字の味わいもある)の空間に入ることによって、自分の中でルーマニアの苦しい思い出の全ては再領域される。

聖体拝領として赤ちゃんの時から口にする聖パンと葡萄酒は、口にする前に懺悔と断食という心と体の準備の必要がある。子供にとっては、聖体拝領はご馳走だと感じる。大人しか飲んでは行けない酒を口にするなんて、別世界の入り口が開いたようなわくわく感がある。ルーマニアの俗信では聖体拝領の日は他の人からキスされないようにするので、日曜日に家を訪問する親戚から逃げられる。ルーマニアの人間関係は濃いので、親戚同士と友達同士のスキンシップが激しく、会うたびに握手し、ほっぺたにキスする。唾をねばねばとほっぺたに残す遠い親戚の叔母さんを避けたいわけだ。それが日曜日とお祭りの日の領聖のあとは解放されるので、私にとってはいろんな面で楽しい1日だった。この迷信の理由は、日本語訳のイメージの通り、領聖とは身体が更新され、綺麗になり、領聖を受けてない人からキスされたらその神秘が盗まれると思われているからだ。

葡萄酒の味に戻ると、これも昔は村の人たちか修道院で作られた手作りのワインであり、色はロゼに近い。私の実家も葡萄を栽培してワインを作っていたので、祖母はいつも教会に持っていった。彼女が作る、塩と水と小麦しか入ってないパンも一緒に。彼女のパンの味と祖父が作っていたロゼの味は、私にとっては尊体、尊血そのものだ。今でもたまに同じパンを作るし、ロゼは私の大好物である。思い出すと、不思議な食べ方があった。祖母の熱々の焼きたてパンをちぎって、甘くしたロゼに入れて食べていた。甘くて、美味しくて、ほっぺたが赤くなるデザートだった。

昨年の12月の終わりに父が電話してきて、美味しいワインできたから贈りたいと言った。昔から父の作るワインと祖父の作るワインの違いに、私は敏感だ。父のワインは濃い、重い、辛口のフルボディーだ。色もルビー色で血の色に近い。父の家の葡萄畑に白い葡萄があまりなくて、スチューベンのような品種がメインだった。これは村の外の畑にあって、家の前には白い「牛の乳」と呼ばれる葡萄もあったが、それはワインに入れず子供が食べる。父の実家と母の実家の葡萄畑の位置と葡萄の種類は全て思い出せる。地図を書けるほどはっきり思い出す。毎年歩いて、一つ一つ葡萄の粒を味わっていたからかもしれない。母の実家の祖父の葡萄畑の半分以上は白いみずみずしい葡萄で、その白い葡萄と黒い葡萄を混ぜるとちょうどいいロゼになった。毎年、裸足で葡萄を潰すのが嬉しかったし、足の裏で潰す、白と黒の葡萄の感覚がいまだに残っている。ワインが発酵するまでの葡萄ジュースも子供にとって大きな喜び。その時期、秋の暑い日に肌着とパンティだけで暮らしていた村の子供たちの白い肌着に、紫の葡萄ジュースのシミがよく付いていた。腸内で発酵するので、お腹もパンパンでいつも下痢気味だったが、美味しくてたまらない。発酵が進むと舌がピリピリして、ワインに変わる瞬間にガッカリしていたことを覚えている。ロゼになるまでしばらく待つ。秋に絞ったものはクリスマスごろにちょうどいい感じになる。「涙のように透明感がある」という祖父の言葉を借りればわかりやすい。

さて、昨年父がルーマニアから送ってくれたワインを開けてびっくりした。いつもの濃い血の色ではなくて、ロゼだった。味見すると祖父が生きかえったと思わせるぐらい祖父の味にそっくりのワインだった。あまりにもびっくりしたから電話した。テレビ電話で見た父の顔は髭が入っている優しいお爺ちゃんの顔だった。私が知っていた、働いていた工場の同僚と一緒にジプシーの音楽家がいるバーで朝まで飲んで夜遊びする父とは大違い。テレビ電話では「家の畑で取れた葡萄」というが、母は追加で白い葡萄を買ったと説明してくれる。私たちが美味しいと評価すると、嬉しそうに「また送るからね」と言って、「孫を見せて」と素敵な微笑みで娘たちと目を合わせる。優しそうなお爺ちゃんにしか見えない父の姿に感動した。ワインの味まで優しくなって、娘にとっての祖父のイメージは私が見た父と違うと分かった。ルーマニアの教会で賛美歌を歌って、間違えると司祭に叱られる父の姿を母から聞いて驚いた。プライドの高いルーマニア人の男、背が高くて、頭もよく、女性にもてていた父。社会主義時代に生まれ、地方の街の工場でエンジニアになってポスト社会主義の曖昧な時代を生きてきた。アルコール中毒になった。若い時、心筋梗塞を乗り越えて、年をとってからも重い病気と戦い、私は娘の祖父になってありがとうと言いたくなった。今作っているワインの味で自分の父の心が初めて分かった気がした。遠く離れていても、私の娘の優しい祖父になってくれて、改めて彼の全てを許した気がした。ヤギのお世話をしている金髪の少年のイメージが浮かんで、父を自分の子供のように愛し始めた。

父の実家に対していつも複雑な気持ちを持っていたが、美男美女の駆け落ちカップルであった父の両親の写真を見るのは好きだった。私が小さかった時に父方の祖母に似ていると言われるのは好きではなかったが、最近になって彼女がよく夢に出てくる。ある夜、一緒に庭に咲いているライラックの花を望みながらパンとソーセジを食べている、という夢を見た。ルーマニアでは死んだ人の夢を見ると、その日には誰かに食べ物を差し上げなければならないという習慣がある。この行動によって亡くなった方にあの世に届くと思われるから。ソーセージを買って、娘たちに食べさせて、2月の日本ではライラックの花は売ってないので、和花の「青文字」の枝を買って、飾った。

私は確かに父の母親に似ている。酒好き、強気、喧嘩をよくし、プライドが高く、美学的だ。彼女は布の工場で定年退職まで働き続けた。専業主婦になりたくなかったのだ。30年代の古いラジオでジャズの番組を聴いていたし、私と同じく癖毛で、花が好き。ただ、私は私を育ててくれた母方の祖母にも似ているから、個性豊かな人間になっている。自分の中に二人の祖母のイメージがあって、女性としての自分は二人いると感じる。

母に厳しかった父の母は、花に対しては優しい人だった。庭のジャスミンの木が彼女の魂を表していた。満開になると、立派な花の爆発のように見えた。香りも家の遠くから感じられて、母と父の実家の間を毎日のように移動していた私にとっては、匂いの矢印のようだった。庭の葡萄の間に、素敵な屋根まで届いていた薔薇の木には花が咲いていた。その食用の薔薇の花は小さい時から私の楽しみだった。庭で美味しいものと綺麗な花が咲く場所をまず覚えているのは子供のメンタルマップだ。このジャスミンの木も、ライラックももちろんだが、あの薔薇が咲くのを毎年のお祭りのように感じた。それは食べられるからだ。真っ赤な花びらをつまんで口に入れて、香りとともに噛んで飲み込む。薔薇を食べる少女だった。あの時期、薔薇の花でお腹いっぱいになって、歌って、踊って、近くにあった金魚草の花(ルーマニアでは花の横を押すと口が開くように見えるからライオンの口と呼ぶ)で遊んでいた。この食べられる薔薇で母はシロップとジャムを作った。秋がすぎるまで毎日のように口の中で薔薇の香りを味わった。

父の母は家畜も好きだった。豚、牛、兎、鶏、鴨、ガチョウ、七面鳥などで賑やかだった。彼女の家で初めて鶏と豚以外の肉(牛、鴨、兎、ガチョウなど)を食べた。私は食べ物のテイストが母方の祖母に似ていたからあまり口に合わなかったけど、ウサギのお世話をするのが大好きだった。子ウサギといつも遊んで、ふわふわな毛を触ると幸せな気持ちになった。そし祖母の得意技はガチョウを増やすことだった。春になると彼女の庭にはたくさんの可愛いふわふわのヒナが歩いていたから、踏まないように要注意だった。10分離れていた湖から賑やかなガチョウの群れが夕方になると勝手に帰ってくる。そして家を間違えないで入ってくる。そのイメージが今でも目の前だ。小さい頃に最初に覚えているイメージの一つが、朝早く父の実家の窓から湖へ出かける大騒ぎの白いガチョウの群れだ。

全ての家畜はもちろん食用だ。父の母がガチョウの首を男前のように切る姿も見た。身体と頭が離れた白いガチョウの羽は所々赤い血で染まる。体がしばらく庭の中を遠くまで動いて、暴れて、死を受け止めたくない。その瞬間にシーンと空気が変わって、離れた体と頭が踊りのように違う動きをする。目を見ると死が訪れた瞬間に世界が消えていくと感じる。ウサギも、豚も、鶏も、子牛の目も同じ。そして、犠牲となった生き物が食べ物となる。茹でたガチョウの羽を抜くのが私の仕事だった。日本でいえば、その時、ガチョウの羽の布団の匂いがする。ご褒美に茹でたレバーとガチョウの体の中にあった生まれてない卵、金柑をもらえる。鶏と鴨のも。鶏以外、肉あまり食べなかった。特にウサギと子牛を食べることなかなかできなかった。仲間だったから。

ある秋、可愛がっていた子牛と遊びに小屋に向かって行ったら、庭の端っこの薪の上にその子の首が置いてあった。ショックのあまり、大人になって、日本にくるまで、牛肉を食べることが一切できなかった。こうして子供の時から食べ物は命であること気付かされた。しかし逆の事も言える。「私」という肉の塊を生かせるためにどれだけの命が失われているのか分かった。確か、人類の始まりから食べ物のために他の生き物、動物と植物が犠牲になるが、儀礼の一部であったことを忘れてはいけない。私が子供の時みた動物の捌き方はまだ半分ぐらい儀礼的な空間の中で行われた。ドキュメンタリー映画で見る現在のニワトリの大量生産があまりにも恐ろしいので身の毛がよだつ。

「犠牲」というものに対して複雑な気持ちをもち続けた。母が子どもを育てるために家庭を守る犠牲的な行動もそうだった。矛盾だらけの世界だと思った。例えば、つい先まで育てていた兎とやぎの皮をカーペットにする習慣も、土地のための裁判を起こして村の人々たちが喧嘩していることも、森が減っていることもよく分からなかった。大きくなってからそれは「欲」だと分かった。なので、山の森の奥に暮らしていた聖人のような「神様と直接にコミュニケーションできる」すごい人たちのことを憧れていた。鳥や動物と話せて、木の根っこと森の実を食べ、雨水を飲んで生きている人々が一日中お祈りする。私は少しの間の断食もできないのに。すぐ大好物の硬い白いチーズを食べたくなる。

父方の祖母は、村の外にあった葡萄畑の世話に一所懸命だった。私も様々な作業に関わって手伝っていた。葡萄のお世話は意外と大変だ。若い未亡人だった彼女はよく頑張っていたと思う。葡萄以外にも、あの畑にはいろんな木があった。クルミの木の実が赤ちゃんの頭の大きさだった気がする。大きなクルミをまだ緑の皮が残っているうちに食べるのが良い。桃の実もなかなか美味しかった。渋い皮を噛んでから甘い果実を味わうのだ。

ここ数ヶ月、ある薬の副作用で吐き気が激しくて、食欲が減り、ほとんどのものを食べられない状態が続いた。それは自分の身体に必要な食べ物について考え直すきっかけとなった。ある日、家族の晩御飯に味噌汁と卵焼きを作った時、突然泣き始めた。自分が長い間調査地にいて、ここで暮らすようになったことも自分の身体に大きなストレスだったことに気付かされた。マリノフスキの日記を読めばそんなもんだとわかるのに。そういえば、初めて日本に来たときは卵しか食べられなかった。あまりにも食べ物の味が違っていたから。何年かがたって、作るのも食べるのも得意となった和食だが、2年半以上のコロナのせいでルーマニアに帰れなかったからなのか、薬の副作用なのか、全く食べられなくなった。自分はなんのため食べるのか分からなくなった。食べ物に支配されると感じるようになって、作るのも食べるのも嫌になった。時々、女性インフォマントから頂いている食べ物は食べるけど。菊芋の漬物もレバーの料理も食べられたのに、その日はそれ以外何も食べたくなかった。

こんな食べ物の悩みを抱えていた時期に、友達が7歳の息子を連れてお泊まりに来た。私のりんごパイが食べたいというので仕方なく作ったけど、自分が味見しても美味しく感じない。母方の祖母が作っていたカボチャパイとりんごパイ、チーズパイの方がずっと美味しかった。懐かしくなって、自分が作ったパイを飲み込めない。その翌朝に寝坊していた私のところに突然に来たその男の子に「お腹空いた」と言われた。私は夢かと思った。友達がお泊まりしていることさえ忘れてしまい、なぜ私のベッドの近くに男の子がいるのかも理解せず、目が覚めた。その瞬間に食べ物の恐怖から解放された。そうだった、人間は「お腹が空いているから」食べるのだと思い出した。一緒に下に降りて朝ご飯の準備を始めた。寝ぼけたまま最初に用意したのは私の祖父が大好きだったトーストだった。男の子はゆっくりトーストにバターを塗って、溶けるまで少し待って美味しそうに食べた。カリカリという音が聞こえた、噛むたびに。おかわりした。またゆっくり、儀礼のような動きでバターを塗ってまたカリカリ食べた。美味しいと評価した。まだお腹が空いていたから今度は和食を用意し始めた。彼は漬物と梅干しが好きだと知っていたから、それを出して、キャベツと油揚げの味噌汁を作った。熱々のご飯を二杯おかわりして、娘たちと大人が集まったテーブルで賑やかな朝ごはんとなった。ここ最近は朝ご飯の気分ではなかった私まで食べた。男の子はやっとお腹がいっぱいになって、自分で持ってきたお気に入りの、もの久保の最新の画集を手に取って何もなかったように見つめ始めた。本屋で私も買ったが、大好きなイメージだった。私の子供のころの感覚に近いと思った。

友達の息子が教えてくれたことについて何日も考えた。彼の食べっぷりは儀礼そのものだった。娘たちも同じ食べ方をする。なるほど、子供は分かっている。元々食べることは儀礼の行動だったのだ。狩された獣の見える肉だけではなく、見えない魂までもらうので、それはしっかりした踊りと動きで、感謝しないといけないと昔の人々は知っていたのだ。だが現在、このような行動は失われている。衣装も面もない。音楽も歌もないので、現代人にとって食べ物の味は昔の人が感じた味と違うだろう。でも、子供はまだ分かっているはずだ。お腹が空いている時しか食べないから。そしてたまに踊りながら食べるのだ。

2月14日、バレンタインデー。雪がまだたくさん積もっている。体感気温もマイナスになっている。今日は川を渡ったところのスーパーへ行ってお花、牛乳などを買う。ピクルスを買おうとしたが置いてなかった。カウンターのところで後ろを向くと、バレンタインデーの色鮮やかなチョコたちが並んでいて、その隣はひな祭りのいろんな種類のアラレたちだ。気が早いと思いながら、果物コーナーのところを見てなぜかパパイヤを食べたくなる。日本で買うと高い果物を見ながら葡萄畑にあった桃のことを思い出して唾が出そう。車に戻ると娘たちがスキー教室の帰りに散らかしたアメリカンドッグの串、おにぎりのふくろ、桜味の甘いドリンクがゴミ屋敷のような車内の雰囲気を作っている。ラジオから「薔薇が咲いた」という歌が流れる。父の実家の食用の薔薇がいつから枯れてきたのか考え始める。ラジオを止めて携帯でレッドツェッペリンの「Immigrant Song(移民の歌)」を掛ける。弟が送ってくれたルーマニアのストリートの映像を見ながらその曲を聴いた。彼の車のラジオからは「薔薇が咲いた」ではなくウクライナについての暗いニュースばっかりが流れていた。私も調査地に長くいすぎて移民となっていたことに気付かされた。

ある朝、娘はいつものようにパジャマで得意な絵を描き始める。そしたら描いていた少女の顔に髭のような黒い毛が見えた。なんで女の子に髭があるの、と聞くと、「違う、これは後ろから見えた髪の毛だ」と答えた。彼女が同時に前と後ろから描こうとしたのだ。違う側面から物事を見ること思い出させられた。人間とは大人になるにしたがって馬のようにブリンカーをつけてしまうのがいけないのだ。

2月26日。歴史は私たち個人のレーベルまで影響を及ぼす。

水牛的読書日記 2022年2月

アサノタカオ

2月某日 いまからもう20年以上前のこと。奄美、沖縄で人びとの話を聞きながら旅していると、行く先々でお茶うけとして「黒糖」を出された。ゆっくり味わうことを知らなかった若く野蛮な自分は、ただすすめられるままにガリガリかじって、甘みで疲れを癒したのだった(お世話になったみなさま、ごちそうさまでした)。

先日、Sさんから届いたいただきものの箱を開けると、なんとそこにはなつかしい黒糖が!  沖縄県黒砂糖協同組合の商品「八島黒糖セット」。うれしい。仕事をしながら日替わりで8つの島産の黒糖を食しているのだが、島ごとに味がこれほど異なるとは知らなかった。波照間島から島巡りするように、繊細な風味のちがいを楽しんでいる。与那国島産と多良間島産の黒糖は、食べ比べるとほとんど別物。そしてどちらもおいしい。西表島産の黒糖はいちばんバランスがよくて、さわやかなお菓子感があった。

2月某日 ふと、本を読みたいと思った。きのうもきょうもさんざん読んでいるのに。仕事で作ってもいるのに。ご飯を食べながらご飯を食べたいなんて思わない。でも、本を読みたいと思った。これは、神の啓示的なものだろうか。自分でもよくわからない、まったく得体の知れない欲望だ。

2月某日 本も読むけど、波も読むし雲も読む。世界は読むもので満ちていて、湧き出るページに終わりはない。近所の海辺を散歩し、立ち寄ったカフェで、ふとおもいついたそんなことばをノートに書きつける。本がない世界もいい、本がある世界もいい。2つの世界を行き来しながら、読むことに取り憑かれているのはなぜだろう。

MOMENT JOON『日本移民日記』(岩波書店)を読了。本の最後に置かれたエッセイ「僕らの孤独の住所は日本」に感銘を受けた。かつて「見えない町」とされた在日の土地で夢をもちあぐねた老詩人・金時鐘。その詩のことばを裏打ちする深いさびしさが、韓国で生まれ日本語を生きる若きラッパーである著者の孤独に時を隔てて合流し、声がよみがえる。本のページを閉じて、MOMENT JOONの曲「TENO HIRA」を聴きながら、思考や感情がぐらぐらとゆさぶられているのをじっくりと確かめている。いつかきちんとした感想を書きたい。

2月某日 《僕は自分の体に残っている傷跡の起源を知らない》。自分としてはめずらしく、本に巻かれた帯文に惹かれて読んでみたいと思った。韓国の作家ソン・ホンギュの長編小説『イスラーム精肉店』(橋本智保訳、新泉社)。韓国文学の中ではこれまであまり読んだことのない多文化的・多民族的な世界を背景とした物語で興味深い。この小説の主な登場人物のひとりが、「ハサンおじさん」。朝鮮戦争後の韓国ソウルの路地で精肉店を営むトルコ人の退役軍人という設定だ。そういえば昔読んだ小林勝の小説「フォード・一九二七年」にも、舞台は植民地時代の朝鮮であるが、トルコ人の父娘が登場することを思い出した。

2月某日 砂浜に立ち尽くし、まだ冬の寒さを感じる吹く風に全身をさらしていると、「自分」がかたどられるのを感じる。かたどられた自分は空っぽで、ただ波の音で満たされてゆく。それがたまらなく気持ちいい。

2月某日 韓国の作家ハン・ガンのエッセイ集『そっと 静かに』(古川綾子訳、クオン)はいつもデスクに置いてある愛読書。音楽について、音について、沈黙について書かれている。この本に出てくる車椅子の歌手、カン・ウォンレ。所属するダンスデュオCLONの動画をいろいろ視聴した。韓国芸能界のいわばレジェンドなのだろう。CLONの曲「First Love」をK-POPグループのNCT127がカバーしているのをYoutubeで視聴した。

最近、読書中や仕事中にBGMとし流しているK-POPとしては、MONSTA X→EXO→NCTがお気に入りのルーティン。今日はひさしぶりに終日、BTSを。安定の美しさ。

2月某日 インタビューという方法について考えている。学生時代に人類学や民俗学の先達による聞き書きやオーラルヒストリーの仕事に学び、調査の経験も積んだ。でもいまは「いいだけのものじゃないよ」と疑いの目を向けている。インタビューという方法には、根本的に暴力性が伴う。相手の声を自分の文字に奪い取るのだから。

ブラジルの日系コミュニティ、また沖縄系・奄美系の移民社会で何百人もの人びとを相手にインタビューをした。フィールドワークなどと言えば聞こえはよいが、やっていることは警察の尋問と変わらない。だから、ずいぶん「痛い」思いをした。自分が痛い目にあった以上に、取り返しのつかない形で相手を深く傷つけたこともあった。その体験について書いたエッセイを軸に次の随筆集をまとめる。

2月某日 第8回日本翻訳対象の選考対象作品が発表された。毎年楽しみにしている賞。大賞を選ぶことにももちろん意義はあるだろうけど、自分としてはこれだけたくさんの魅力的な海外文学があると知ることができるのがうれしい。読んだ本、読みたい本、知らなかった本。発見がある。「ブラジル最大の刑務所における囚人たちの生態」を描いたドウラジオ・ヴァレーラ『カランヂル駅』。こんな本が日本語に訳されていたとは(伊藤秋仁訳、春風社)。季節の巡りの中で、心が海外文学に向かう時間。

2月某日 早田リツ子さんのノンフィクション『第一藝文社をさがして』(夏葉社)。本書の主人公で、明治生まれの出版人・中塚道祐周辺の人物群像のなかで興味をひかれたのが、厚木たかという女性記録映像作家。『或る保姆の記録』などで脚本を担当。厚木たかの回想録があるようなので、読んでみたい。

『第一藝文社をさがして』はほんとうに素晴らしい本で、すでになんども読み返している。装丁には落ち着いた美しさがあり、本文のデザインについても同じことが言える。章と章のあいだにはゆったりとした余白のページがさりげなくはさまれ、はやくはやくと読み進めたい気持ちをやさしく鎮めてくれるのだ。書物にも社会にも、こうした余裕、余白がもっと必要なのではないだろうか。

2月某日 神奈川・大船のポルベニールブックストアへ。扉を開くと、入り口近くに青い本、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』が平積みされているのを見つけて、うれしくなった。

2月某日 雑誌『世界』3月号の特集2「維新の政治 「改革」の幻惑」。松本創さんの寄稿「維新を勝たせる心理と論理」を読む。大阪維新の会の府政報告会、大阪府と読売新聞「包括連携」、MBS「維新広報番組」を取材しつつ、政治とメディアの問題を検証。会幹事長で大阪府議会議員の横山英幸氏の冷静な発言を引き出しているのが意義深い。「行政サービスは職場や団体ではなく、個人に手渡す」という横山氏の発言を読んでなるほどと思った。「維新」と言うと代表の吉村大阪府知事のテレビ出演やSNSでの関係者の発言の炎上などメディア戦略が目立ち、また批判もされるが、件の「維新広報番組」の視聴率は局関係者によると「まあまあ」とのこと。

松本創さんが2015年に発表したノンフィクション『誰が「橋下徹」をつくったか』(140B)は、まさに「維新」をめぐる政治とメディアの問題を取材し、批判的に論じた本だった。今回の記事「維新を勝たせる心理と論理」では、その視点を保持しつつ、単にマスコミの問題を指摘するだけでは説明のつかない「維新」周辺の複雑な現実に迫る。横山発言にみられるように、「多種多様な無党派の人びと」を対象にした「『個人化』時代の政党」であること、しかも大阪府市での10年間の政策実績の着実な積み重ねが「維新」の強さを裏打ちしているという松本さんの論評に深く納得した。

「維新」の強さを裏打ちしているものが「吉村人気」のようなメディア戦略を活用した一過性の流行現象のようなものだけではないとしたら、このポピュリズムはしぶといということだ。批判的な立場の自分としては心底うんざりしつつ、言論という仕事において何ができるのか考えさせられた。

2月某日 文芸誌『すばる』3月号、くぼたのぞみさん+斎藤真理子さんの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら」を読む(タイトルがすごくいい)。第2信は斎藤さんの回。藤本和子『塩を食う女たち』(岩波現代文庫より再刊)をめぐるエピソード、1冊の本がこれほどまでひとりの人間の「生きる」を支えることがあるのか、と深く感じ入った。

第1信のくぼたさんの回を逃してしまったので、バックナンバーを探して読もう。『すばる』3月号に、斎藤さんは永井みみ『ミシンと金魚』の書評も寄稿している。「コロナ時代に花開く死への想像力」。書評では「介護」や「認知症」ということばもみられる。この小説も読んでみたいと思った。

2月某日 ロシアによるウクライナ侵攻という信じ難いことが起こり、戦争をめぐるオンタイムの報道に接してことばを失っている。こんなときに文学の本を読み、文学について語り、文学の本を編集する、そんなことをしている場合だろうか、と迷う気持ちが生じた。でもタガの外れた世の中で正気を保ち、世界や他者の痛みを想像するためにも、文学の読書は、とくに海外文学の読書は大切だと思い直した。

深夜、重い気持ちの中でふと手を伸ばしたのは、やはり、ここのところ何度もページを開いている一冊の韓国文学の本だった。ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』。「戦争」が隠されたテーマだが、現実の戦闘場面が描かれるわけではない。戦後の日々、社会の日の当たらない場所でなお戦争の苦しみを生き、心身に受けた裂傷によってつながりあう流れ者たちの姿、かれらのさびしさの奥で震えるやさしさを描いたすばらしい小説だ。この本のあとがきに、日本の読者に向けた著者のメッセージが収録されていて、橋本智保さんが訳してくださっている。

《嫌悪と差別にあふれたこんな時代だからこそ、私たちは他人の痛みに目を背けてはいけないと思います。……人と人をつなぐのは血ではなく、他人の痛みを想像する共感能力です。いまこそ人間とはなにかを考えてみるときではないでしょうか》

今日という日にこそ、誰かと共有したいことばだとつよく思った。

聴き、垣間見る

高橋悠治

クセナキスを思い出す。音楽についても、その他についても、「よい・わるい」という判断はしなかった。「おもしろい」かどうか、それは「新しい」という1950年代の「前衛」の判断ではなく、分析や、要素還元と再構成の技術ともちがっていた。確率で音を選ぶ方法も、特にポアソン分布は、見慣れた環境、無意識に身に付いた動きから離れて、響きに触れるための一つの手がかりだったのかもしれない。どんな確率関数にも顔がある、という意味は、使った方法が残ると、それはもうそれ以上の発見を誘う力は無くなって、スタイルになってしまう、と言えばよいのか。科学ではくりかえし応用されて確実になってゆく仮説も、芸術ではくり返すたびに色褪せてゆく。

1963年から数年の間、当時の西ベルリンやパリで、クセナキスのピアニストであり、傍にいて、かれが確率の次に古代ギリシャのテトラコルド理論から「篩の理論」という音程組織論を考えていた頃、アリストクセノスの同じ本を読み、それが音程を音色のように感じるきっかけになったのかもしれない、というのは、後からの思いつきなのだろう。

クセナキスはその頃は亡命者で、ギリシャには帰れなかった。日本に帰ることと古代日本文化を学ぶことを勧められていたが、実際に日本に帰ったのは1972年で、日本の伝統音楽に興味を持ったのは1990年頃だった。今はそこからも、いつの間にか遠ざかっているようだ。

1970年代の半ば辺に、流行にはかなり遅れて、ミニマリズムを試してみたが、ズレと反復を積み重ねていくよりは、ズレから変化して不安定になっていく方がおもしろいと思っていた、というのも後付けの記憶だろうか。

作曲では生活できないからピアノを弾き、新しい音楽を弾くだけでは仕事もあまりないから、ひとがあまり弾かないクラシック、バッハなども演奏し、ソロでなければ即興演奏もして、なんとか暮らしてきたが、習った技術ではないからピアノを弾くのには限界がある。「多く、速く、強く」ではない技術、「弱く、ためらい、よろめく」技術、変化と不安定な足取り、揃わず、合わず、数え・測らない「技術」、これはいったい技術と言えるのか。楽譜が進化してきた方向と逆に、普通に使われる記号を、説明なしにあいまいな拡がりを持たせる使い方、ディジタルでなくアナログ、ゆらぎとムラ、よりどころの無さ、あてのない、はてしない、さまよい、途切れる線が重なり… 発音に意図を込めるより、意図や意味から解放された自由な空間を、余韻と間に垣間見られるように。

世界は暗く、衰えた圧力が抵抗を呼び起こす。まだことばやイメージにならない微かな振動が、あちこちから伝わってくる。あせらず待つ時、聴き、感じる時。