216 姿見ず橋、2

藤井貞和

豊多摩の、
姿見ず橋。 橋占(はしうら)は、
あなたを探す。
のこした思いよ、
姿になって、
もう一度、ことばをかわそうよ、
われら。

十月の追悼は、
十一月にさしかかる。
橋よ、
かなわぬのか、
姿にめぐりあうことは。

ひびわれてゆく時間のこちらがわへ、
もう一度、わたりたい。
あなたに遇うかもしれないから。

上人をひとり、
橋柱に立たせる追悼の式。
いいえ、
腐敗しきったわたしのあたまでも、
もういちど、もう一回、
俗物の擬宝珠(ぎぼし)を建て直したい。

袖モギさんがやってくる、
橋のうえ。
とおしてやれ、転ばぬように。
袖をモイで、見えない鬼神のために、
そっと置く、橋のうえ。

姿ほのかに、
遇おうと思うのかい。
あなたはやってくる、橋の、
あっちから。 仮面よ、
霧のおもては過去へ消える。
それが願いでしたね、われら。

(架空の橋です。「姿見ず橋、1」は『人間のシンポジウム』思潮社、2006。)

水牛的読書日記2022年10月

アサノタカオ

10月某日 詩人のぱくきょんみさんとアーティストの野原かおりさんによる詩画集『あの夏の砂つぶが』(shibira)が届く。表紙を含めて16ページの冊子だが、ちいさな本のなかに深淵がぽっかり口を開けている。ぱくきょんみさんからの、新しい活動に向けたうれしいお知らせも添えられていた。

10月某日 大学の授業で知的書評合戦「ビブリオバトル」を開催してみた。学生たちが選んだ「一番読みたくなった本=チャンプ本」は同点で以下の2作。

小川糸『ライオンのおやつ 』(ポプラ文庫)
辰濃和男『文章のみがき方』 (岩波新書)

小説と実用書。若い人たちの読書傾向に、なるほどと思う。ビブリオバトルの後に僕から紹介したのは、9月に刊行された温又柔編・解説『李良枝セレクション』(白水社)。自分が『李良枝全集』(講談社)に出会ったのが、30年近く前の大学生の頃だった。李良枝の小説を読むことで、世界をみる目が一変した。読む前の自分には戻れないほどの衝撃を受けた。今すぐにでなくとも、いつか読んでもらえるといいな。

10月某日 雨の神奈川・大船。ポルベニールブックストアで韓国の作家キム・エランの小説集『ひこうき雲』(古川綾子訳、亜紀書房)を購入。棚の前で本を手にとってみると、雨の日に買って読むのがふさわしいような気がした。亜紀書房からは「キム・エランの本」というシリーズが刊行されるようでファンとしてはうれしい。

10月某日 東京駅から特急ひたちに乗車。はじめて訪れる茨城・ひたちなかのJR勝田駅で降り、見渡す限り広がるさつま芋畑へ。ひたちなかは干し芋の一大生産地として知られ、あたりには太平洋から流れ込む湿気がうっすらと漂っている。この畑では「玉豊」という品種を栽培。生産者にお話をうかがい、良質な干し芋の加工製造は、想像以上に手仕事によるものということをはじめて知った。

直売所では「冷やし焼き芋」なるものを販売している。スタッフの方から焼き芋は冷やした方が甘く感じますよ〜とすすめられて、「あつあつ」と「ひやひや」を食べ比べてみると、うん、たしかに。家族へのお土産で買った干し芋はあっというまになくなった。

10月某日 まだほの暗い早朝、自宅を出発。東京駅からこんどは新幹線あさまに乗車し、長野の白馬へ。何年ぶりだろうか。ひさしぶりのJR長野駅で降りると、ひんやりとした空気が気持ちいい。そこからレンタカーでドライブ。山間の限られた土地で、それゆえに創意工夫を凝らして農と食の仕事に取り組む人びとに出会った。農家カフェで、おいしい秋のおこわとけんちん汁定食をいただいた。お腹も心もあたたまる。

食後は、枝豆ミルクのジェラートも。ほんとうは1日3食豆だけを食べたい豆好きの自分には、粗めに砕いた枝豆の食感と風味がたまらない。駐車場からうっすらと雲のかかる白馬岳をながめながる。

10月某日 取材行の道中で、「積ん読」のままだった韓国文学の翻訳3冊を一気に読了。歴史をテーマにした小説やSFなど、描かれる世界は一見「現実」離れしているようにも思えるが、物語の芯には自分たちが生きる「いま」と強く響きあうものがあった。韓国文学の底力、文学の底力にあらためて感じ入った。

キム・スム『さすらう地』(岡裕美訳、姜信子解説、新泉社)
チョン・セラン『地球でハナだけ』(すんみ訳、亜紀書房)
ぺ・ミョンフン『タワー』(斎藤真理子訳、河出書房新社)

ぺ・ミョンフンのSF『タワー』所収の「広場の阿弥陀仏」が忘れがたい印象を心に残す。物語の説明は省略するが、舞台となる「タワー」の321階の窓を突き破った象のアミタブに心のなかで合掌しつつ、チョン・ミョングァン『鯨』(斎藤真理子訳、晶文社)の最後のシーンをぼんやりと思い出した。ある種の韓国文学において、「オツベルと象」を彷彿させる象たちが空を飛ぶのはなぜだろう。

10月某日 サウダージ・ブックスは、代表(妻)と自分の2名で有限責任事業組合を設立してから10年目。その前の個人活動としての出発点は、ある写真展でのパンフレットの編集制作だったことを思い出した。いろいろなことがあった。そしていま、10年目にふさわしい転機が訪れている。

出版点数も少ないし、活動規模も小さいが、振り返ればほんとうに多くの方々に支えられてきた。《小さな声を伝えること》を大切にして、これからも仲間とともに愉快な本作りをしていこう。

10月某日 朝、慌ただしく自宅を飛び出して小田原駅から新幹線に乗車し、大阪へ。道中では哲学者・三木那由他さんのエッセイ集『言葉の展望台』(講談社)の読書。うちの高校生が三木さんの『会話を哲学する』(光文社新書)を読んでいるらしく、その影響で。コミュニケーションをめぐる哲学的考察を綴るエッセイはどれも興味深く、「私」を抜きにしない語りの切実さに打たれる。よい本だった。

秋晴れの週末、KITAKAGAYA FLEA 2022 AUTUMN & ASIA BOOK MARKET にサウダージ・ブックスとして出店。今回は京都発の新しい出版社ハザ(Haza)のスタッフに販売を手伝ってもらい、ハザのチラシも配った。新型コロナウイルス禍以降、ようやく全国的に集会や移動の行動制限がなくなり、大勢の来場者でにぎわう会場ではうれしい出会い、なつかしい再会がいろいろ。

フードエリアで自家製の天然酵母パンのパイレーツ・ユートピアの野菜フォカッチャ、台湾料理・故郷(クーシャン)の麺線をいただき、高橋和也さん『沖縄の小さな島で本屋をやる』(本と商い ある日、)や、こどもの詩の雑誌『くじら』0号を入手。沖縄の浜比嘉島に移住し、本と商い「ある日、」を開業した高橋さんと挨拶することができてよかった。「自分がやりたかったことが、ひとつひとつできているような気がします」と話す高橋さんの表情がまぶしい。

サウダージ・ブックスのブースでは、先輩の出版社トランジスター・プレスの本も販売したのだが、清岡智比古さん、ミシマショウジさん、佐藤由美子さん、管啓次郎さんの共著の詩集『敷石のパリ』がなかなか好評で、「装丁がいいですね!」と複数のお客さんに言われた。

10月某日 KITAKAGAYA FLEAの初日は午後いったん会場から抜け出し、大阪難波駅から近鉄で三重・津の久居駅へ。ブックハウスひびうたでの自主読書ゼミ「やわらかくひろげる 山尾三省『アニミズムという希望』」全16回の最終回に向かう。

自分が20代の頃から愛読し、偶然の巡り合わせで新装版の編集にかかわった山尾三省の講義録『アニミズムという希望』(野草社)。1年4か月、ブックハウスひびうたに集う仲間とともに、ゆっくり時間をかけて読みつづけ、毎回熱心にことばを交わしてきた。1990年代終わりの沖縄から飛び立った1冊の本の種が、別の時代、別の場所に流れ着き、読者ひとりひとりの心の内で新たな物語が芽生える過程に立ち会った。こういうことは編集者としてはじめての経験で、感無量だ。

三省さんの詩やエッセイにしばしば登場する「三光鳥」、やっぱり気になりますよね〜、と。尾の長いちょっと不思議な姿の鳥。「月(ツキ)日(ヒー)星(ホシ)、ポイポイポイ」と鳴く(ように聞こえるとか聞こえないとか)。三重県の山中で観察したという参加者、「三光鳥」がデザインされた傘を持っているという参加者まで現れて、大いに盛り上がった。これからもさまざまな場所で、「いま」の視点から詩人のことばを読み直す試みが広がっていくことを期待したい。異論・反論も含め、人間と人間、人間と自然の関係について考えるヒントが『アニミズムという希望』という本にはあると思う。

夜ごはんは、みんな大好き久居の《和風れすとれらん》伊勢屋さんのお弁当をいただき、ごちそうさまでした。駅前の旅館に泊まり、翌朝ふたたび大阪へ。道中で、孤伏澤つたゐさんの『浜辺の村でだれかと暮らせば』(ヨモツヘグイニナ)を読む。地方の漁村を舞台に、ある漁師の男と都会からやってきた移住者の交流を描いた小説、おもしろかった。

10月某日 大阪からもどり、休む間もなくふたたび小田原駅経由で新幹線に乗車、静岡・浜松のNPO法人クリエイティブサポートレッツへ。浜松駅前の更地になった松菱百貨店跡地、青空の下の小屋で開催された西川勝さん進行の哲学カフェ「かたりノヴァ」に参加した。テーマは「語り」。「しゃべる」や「話す」に比べると「語る」はどこかかしこまっているのは、なぜだろう。その後、レッツが営む《たけし文化センター連尺町》や《ちまた公民館》を見学。はじめての訪問だったが知人との再会もあり、いろいろな話を聞くことができた。

《NPO法人クリエイティブサポートレッツは、障害や国籍、性差、年齢などあらゆる「ちがい」を乗り越えて人間が本来もっている「生きる力」「自分を表現する力」を見つめていく場を提供し、様々な表現活動を実現するための事業を行い、全ての人々が互いに理解し、分かち合い、共生することのできる社会づくりを行う。特に、知的に障がいのある人が「自分を表現する力」を身につけ、文化的で豊かな人生を送ることの出来る、社会的自立と、その一員として参加できる社会の実現を目指す。そして、知的に障がいのある人も、いきいきと生きていけるまちづくりを行っていく》

——クリエイティブサポートレッツのウェブサイトより
http://cslets.net/

レッツが発行する雑誌や報告書など、カラフルな資料もどっさりもらった。帰路、代表の久保田翠さんの静岡新聞コラム「窓辺」の連載をまとめた冊子『あなたの、ありのままがいい』を読む。すばらしい。

10月某日 金石範先生の最新作「夢の沈んだ『火山島』」『世界』2022年11月号を読む。小説でもありエッセイでもあるような不思議な掌編。が、歴史のなかで語られなかった声を聞き遂げ、書き尽くそうとする金石範文学の意志の力にがつんと打ちのめされる。

10月某日 茨城のり子訳編『新版 韓国現代詩選』(亜紀書房)、ポーラ・ミーハン選詩集『まるで魔法のように』(大野光子ほか訳、思潮社)が届く。どちらも、この冬に大切によみたい青い詩の本。

10月某日 東京都現代美術館で開催されたTOKYO ART BOOK FAIR 2022へ。印刷会社イニュニックのブースで、サウダージ・ブックスの写真集などの本を販売した。3年前に刊行した宮脇慎太郎写真集『霧の子供たち』が好評であっという間に完売、開催3日目に追加納品。ブースでおしゃべりしたイニュニックのスタッフ2人が拙随筆集『読むことの風』を読んでくれて、心のこもった感想を伝えてくれた。そういえば、印刷会社の方から編集や執筆をした本の感想を聞いた経験はあまりなく、なおさらうれしい。

TOKYO ART BOOK FAIR 2022 では、美術館地下のZINE’S MATE のコーナーへ。loneliness books のブースで『百鬼走行 女性怪物行進』日本語訳zine(韓国語原著の絵本がすごい!)、とれたてクラブ『なかよしビッチ生活』(おもしろかった!)を購入。loneliness books 店主の潟見陽さんによると、toさんの『A is OK. vol.1-2』が人気みたい。「トムボーイ」をテーマにした読み応えのある批評系のエッセイzineで僕からもおすすめ。

そのほかに、Sakumag のブースでは、Sakumag Collective『We Act! # 3男性特権について話そう』を購入。市川瑛子さん『これは言葉、そしてあまりにも個人的なヨガのこと』も。イラストなしで言葉だけで綴るヨガのzine、アイデアがおもしろい。

そして写真家の東野翠れんさんが主宰するshushulina publishingのブースでは、町田泰彦さんの『土と土が出会うところ』を。はじめてお名前を聞いた作家、栃木・益子に居を移し「文筆、映像、建築土木作業などを通して、生活のための表現を実践している」という。東野さんから渡されたチラシのテキストを読み、美しい装丁とタイトルに直感的にひかれてページを開くと、そこには風景と記憶とからだが相互浸透するところから生まれるまさに自分好みのことばがあった。「これは!」と思える一冊との出会いはうれしい。そして町田さんのこの本にも「三光鳥」が登場してびっくりした。

10月某日 東京・馬喰町の Kanzan gallery で、前川朋子・宮脇慎太郎写真展「双眸 —四国より—」を鑑賞。以前、大阪の gallery 176 でおこなわれた写真家・木村孝さんによる企画の巡回展。gallery 176 での展示も観たのだが、空間が変わると作品の印象もずいぶん変わる。2日連続で観に行き、在廊していた前川さんからじっくりお話を聞いた。

10月某日 東京・八重洲のK2+Gallery で、渋谷敦志さんのウクライナ写真展「Mind of Winter 2022」を鑑賞。ロシアによるウクライナ侵攻後、8月にキーウを拠点に取材した渋谷さん。正面から横から、近くから少し遠くから撮影した現地の人々の肖像。戦火の風景に象られた一人ひとりの顔に心が釘付けにされる。そこに映し出されているのは「いまここ」という速報的な現実だけではない。かれらの顔を裏打ちする厚みのある人生の時間、人間の時間が写真を通して静かに重く迫ってくる。作品に添えられたキャプションに記された人々の語りを読み、何か応答したいと思うのだが、なかなかことばにならない。いまは心のざわめきにじっと耳をすませる時——。

弾道ミサイル、警報システム、核。これらの軍事用語は、対岸のことばと言えるだろうか。今月は「汚い爆弾」という知りたくもないことばまで覚えさせられた。ここ東アジアでも、戦争の足音は日に日に大きくなっているような気がする。

どうよう(2022.11)

小沼純一

やみやみなやみ
やみあがり

やみやみくやみ
ふだめくり

やみやみこやみ
あめあがり

やみやみはやみ
てりむくり

やみやみむやみ
まちめぐり

やみやみいやみ
さかあがり

うやむやごのみ
いちぬけた

てるてるぼうず くびっつり
はれてほしくはないからに
かおはかかずに
ずきんはきって
つったあとにはひももきる
てるてるぼうず さかさづり

あめあめ てんきあめ
ふってほしくはないからに
あめあめふらし
つっといで
つってそこらにさかさづり

くちぶえふけずにおとなになった
うたとむえんにとしとった
はなうたたまにくちずさむ
しらないふしをはなにとおして

めったにくちぶえきかなくなった
はなうたたちはどこにいる
くちあけてこえあげる
ひとのみみにはみみせんが

うたはでんぱにさそわれて

せきでてる はなでてる ねつでてる
かぜひいた アレルギィ もっとべつ 
ほったらかし

くちだして しただして てだして
なかたがい きがあわない けんかっぱやい 
ほったらかし

あしだして はらだして むねだして
しんりょうじょ それとも いかがわしいところ
ほったらかし

つのだして やりだして あたまだして
かたつむり かぶとむし じだいさくご
ほったらかし

ふくろおとした
ちゃいろいかみから
オレンジ リンゴ
ごろごろさかみちころがって
ふるい映画とおもってた
おいかける おいつかない
バナナひろうとおくれちゃう
つまさきにブレーキかるくかけながら

ふくろおとした
ちゃいろいかみから
ジャガイモ トマト
ごろごろさかみちころがって
よその映画のはずだった
おいかける おいつかない
キュウリ ニンジンほったらかし

ゆびすべらせた
あみぶくろごところがった
まんまるスイカ 
ちょろっときずつき
ごろごろさかみちころがって
こんな光景あこがれていた
あこがれてから半世紀
あこがれだからはしりつづける
うすあかいすじおって
さかみちを
おわりなく

減るのが怖い

篠原恒木

クルマを運転していてガソリンが減ると不安になる。ガソリン・メーターの針が半分の目盛りを指すようになると、もういけない。そわそわしてしまう。
「ガソリン・スタンドを探さないと」
と、おれは激しく狼狽してしまう。半分残っていればまだじゅうぶんな距離を走れるということは、おれの明晰な頭脳では理解している。そんなに慌てなくても大丈夫なのだが、常に「ほぼ満タン」という状態を維持していないと、どうにも気持ちが悪いのだ。
ごくたまにほかのことに気を取られていてふとメーターの針を見ると、あとわずかでガス欠になるようなときがある。「ポーン」とアラーム音が鳴り、「走行可能距離・あと30キロメートル」などという表示が出る。こうなるとおれの心臓は早鐘を打つ。冷静に考えれば30キロメートルのあいだにガソリン・スタンドは星の数ほどあるのに、おれはパニック状態になってしまう。これは性分だから仕方がない。

PASMOの残額も異常に気になる。5千円を切るともうダメだ。ドキドキしてしまう。5千円もあったら御の字だとアタマでは思うのだが、おれはとても心配になる。
電車の改札口でPASMOをかざすと、見たくなくてもすぐ前のヒトの残額が見えてしまうでしょう。あれもおれの不安を助長する原因のひとつだと感じている。たとえばおれの前に改札でPASMOをかざしたヒトが見目麗しい女性だったとしよう。その美女のPASMOの残高が「163円」などと表示されるのを見てしまったら、おれは心底ガッカリしてしまうのだ。
「こんなに美貌に恵まれているのに163円とは」
と、残念でたまらなくなる。したがって根が見栄坊に出来ているおれは、自分のPASMOの残高が仮に124円であることを後ろの美女に目撃されたら、
「あら、このおじさん、可哀想に、貧乏なのね。この人ならお付き合いしてあげてもいいと思っていたのに、サイテー」
と思われてしまうに違いないと考えているのだろう。見ず知らずの美女がおれのことを「お付き合いしてもいい」と思うはずがないのは、このさい置いておこう。いまはそれが論点ではない。だが、我がPASMOに1万5千円ほど常に備蓄されていれば、おれの後ろを通った美女も、
「まあ、さすがは余裕のある大人の男は違うわね。よく見たらパス・ケースもボッテガ・ヴェネタだわ。後ろ姿もうっとりしちゃうわ、うふ」
となるに違いない。見ず知らずの美女が、たかがPASMOの残高でうっとりするわけがないという事実はこのさい脇にどけておこう。繰り返すがいまはそれが論点ではないのだ。とにかくおれはPASMOの残高が気なって仕方がない。したがってとにかくこまめにチャージするのだが、そのたびに大いなる安心感を手に入れることができる。これも性分なので仕方がない。

携帯電話のバッテリー残量が気になる。ディスプレイの右上に電池のようなマークがあって、100%充電されていると電池マークは真っ黒になっているが、次第に黒い部分が減っていく。これがたまらなく嫌だ。ごくたまにメールなどをたくさん送ったり、複数のヒトビトと長電話をしたりすると、いきなり画面に「バッテリー残量が少なくなっています」「バッテリー残量はあと20%です」などとアラート表示が浮かび上がる。こうなるとおれの心臓は止まりそうになる。よく考えれば時刻はもう午前零時、これからメールや電話をするような緊急性のある案件はおれにはないのだから、あとはラーメンをズルズルと食って家にトボトボと帰ればいいだけだ。好きなあのコから、
「私と奥さんのどっちを選ぶの」
などといった、長丁場になりそうな電話も残念ながらかかってこない。つまりはバッテリー残量がわずかでも、何の問題もないのだ。しかしおれは何とかしていますぐこの電池マークを真っ黒にしたいという欲求から逃れられない。
おれにとって携帯電話のバッテリーは常に100%から90%が望ましい。バッテリー残量が半分ほどになると、切迫感で押しつぶされそうになってくる。まことにもって厄介なのだが、これも性分なので仕方がないと思うほかない。

おれの手帳は、肉眼では判読不可能なほどの細かい文字でびっしりと埋め尽くされている。その日にすること、したことを克明に書き込んでいくと自然にそうなってしまう。だから初めておれの手帳を目にしたヒトは例外なくヒルむ。
「何をそんなに書くことがあるわけ?」
と、必ず質問されるが、おれは曖昧に薄ら笑いを浮かべるだけだ。自分でもなぜこんなに書き込むのだろうと思うのだが、おそらくは手帳に余白があると我が人生に欠落感が生じてしまうような気がしてならないのだろう。だからおれは今日も細かい字で手帳の余白を埋めていく。この隙間のないスペースが「今日も一日頑張ったおれ」を表現してくれる唯一の物的証拠なのだ。カタルシスなのだ。そのかわり、狭くなっている土・日曜日の欄には何も書かない。ジムに行こうがライヴに行こうが妻と罵り合いになろうが、そのことは書き込まない。こうすることによって俺の手帳は「文字の密集地帯」と「真っ白な空白地帯」とで鮮やかなコントラストが出来上がる。この対比がたまらない。月曜日から金曜日までは蟻のような、いや蚤のような小さな文字でびっしりと埋まっていないと気が済まない。これも性分だ。仕方がない。

十年ほど前に軽い不眠症になった。そのときにおれがいちばん人生で怖いのは「眠れないこと」だということが明らかになった。以来、心療内科で睡眠薬と精神安定剤を処方してもらい、いまも毎晩クスリの力を借りて眠っている。クスリを飲めば、十五分後にはハンマーで殴られたような深い眠りに落ちることができる。心療内科には一か月に一回通っているのだが、次の診療日まであと数日、という時期になると、当たり前だが残りのクスリが少なくなる。「診療日まであと三日」という段階になると、睡眠薬も精神安定剤もそれぞれ「残り二錠」という状況になるわけだが、これがおれにとってはオソロシイ。
「どうしよう。あと二錠しかない」
と不安になってしまうのだが、よく考えれば次の診療日まではクスリはきちんと残っているのだ。用法、用量を正しく守って服用しているに過ぎない。大丈夫だ。しかしおれの気持ちは収まらない。困ったものだ。
おれは睡眠薬と精神安定剤がないと絶対に眠れないカラダになってしまったかというと、そうでもなくて、ときどきクスリを飲むのを忘れて寝床に入り、ウトウトしていると、突然おれのアタマに閃光が走る。
「いけない! クスリを飲むのを忘れた!」
もう少しで眠りにつくところを、おれはガバッと起き出し、慌ててクスリを飲み、再び布団をかぶる。自分でもこの行動は謎だが、これも性分で仕方がない。

煙草が切れるのも恐怖だ。そんなに一度に何本も吸うわけがないのだが、常にワン・カートンの買い置きがないと心が落ち着かない。オイル・ライターのオイル切れも許せない。スケルトンのボディをしたペンのインクがあと残りわずかになると、いてもたってもいられなくなる。とにかくあらゆるものが減るのが怖いのだ。

こんなおれなのだが、ただひとつ、減っても諦めがつくものがある。普通預金の残高だ。ATMで現金を引き落とすたびに我がなけなしのかねはどんどん減っていくが、こればかりは増やそうと思ってもどうにもならない。なぜかおれはかねには無頓着で、気がつくとオノレの財布に残った中身は小学生のお小遣いより少なくなっていることがよくある。おれは力なくATMに向かい、かねを引き落とすが、ディスプレイに映る残り少ない残高を見ても、逆上はしない。「もののあはれ」を感じるだけだ。いわゆる無常観に裏打ちされた哀愁である。だが、かね以外のものが減るのは怖い。恐ろしい。胸が張り裂けそうになる。こんなおれだが、最後にひとつだけ言っておきたいことがある。
「おまえが減って怖いものは、みんなかねで買えるものだろうが」
という指摘だけは絶対に受け付けない。

製本かい摘みましては(177)

四釜裕子

古書ほうろうの入り口近くで見るからにぬくぬくしていた八巻美恵さんの『水牛のように』を買った。「水牛」で折々に読んできたけれども、まとまった姿を手のひらにのせられるのはやっぱりうれしい。〈電車ではない愉快なことがバスでは起こる〉のに似て、検索してヒットするのではない愉快な言葉が本のページをめくったほうが見えてきたり見つかることはあるもので、あるいは見つかるのを待っていたかと思わせるようなものも現れたりして、『水牛のように』も、本で読むとそういうことがもれなく起こる。

検索してヒットするよりページをめくって見つけたほうが愉快になるのは、地名も同じ。なんといっても、地図帳で線路とか川とか等高線を指でなぞりながら地名をつらつら眺めるのは飽きない遊びだ。目的地があって調べるのはおもしろみに欠ける。出かけた後に地図でなぞるのを「復習」と呼んでいるが、それで後悔したりするのがまたいいのだ。「無人島に一冊だけ持って行くならどんな本?」という謎のアンケートに「地図帳」と答えたことがあったけど、あのとき質問者は地図帳を本と認めてくれたのだったかどうか。まあ、今聞かれたらまた同じ答えを言うけれど。

印刷博物館で「地図と印刷」展を見た。まず、ちょっとわかりにくいので図録からそのまま引用すると、〈日本図で最初の印刷地図と目されるのは、中世に編まれた『拾芥抄』に付されていた日本図が印刷本となったときに図版として挿入されたもの〉だそうである。すなわちそれは中世的で「行基図」と呼ばれるタイプらしく、地域の名をぶどうの房のようにくくった線が、山城を中心にしてもくもくと広がっている。この「ぶどうの房感」はよくわかる。子どもの頃、隣の地区、さらに隣の地区……と広がっていく遊び場を描くとこんな感じになったもの。

17~18世紀になると、菱川師宣の弟子の石川流宣が〈江戸を拠点とする人びと〉に向けて作った地図が人気になったそうだ。浮世絵師である作者の名前が付されて、地図というより絵図として90年ものあいだ売れ続けたようだ。デフォルメの技が冴え、単色刷りに重ねた塗り色も美しい。地図としての正確さを追うことはなく、距離や駄賃が書き込まれ、一宮や城などの観光スポットも細かな文字で記されている。江戸の人たちはこれをどんなつもりで見ていたのだろう。折りたたまれた紙を床に広げてみんなで囲んで、やっぱり指でなぞりながら、暮らす町から隣町、さらに隣へと、その先を頭に描いていたんだろうか。

18世紀も後半になるといわゆる名所図会が各地で作られるようになる。『都名所図会』(1780)の凡例には〈幼童の輩、坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす〉とあり、子どもたちにもわかるようにより正確な挿絵が求められたようだ。同じ頃、常陸国の長久保赤水(1717-1801)が、およそ20年間集めてきた日本各地の地理的情報を駆使して「改正日本輿地路程全図」を完成(1779)させ、大坂で刊行(1780)している。日本人が出版した地図としては初めて経緯線が引かれたのだそうだ。とはいえ、〈経度については、18世紀の当時にあって、算定法が未確定であって未記入であるのは当然〉と図録にある。

伊能忠敬(1745-1818)が測量の旅に出るのは1800年、そのおよそ20年前のことなのだ。印刷博物館の展示室までの通路には、忠敬の歩幅に合わせた足跡があった。その幅、69cm。踏んでみたらこれが結構広かった。身長は160cmくらいというから私とほぼ同じなんだけど、はてと思い、アイフォンのアプリで歩幅記録を見てみたら、36-101cm、平均58cmと出ていた。短いな。それにしても101cmって? 詳しく見ると、去年の6月、101cmの大きな一歩が記録されていた。何があった、自分。

長久保赤水は、実測ではなく、とにかく多くの書物や記録を調べ、旅人の見聞なども細かに取材し、それらを総合して齟齬を埋めて一枚にまとめあげたということらしい。「行基図」も「流宣日本図」も、見ると移動者の視線や動線が体感されるのに対して、「赤水図」は視点が高く一つでいわゆる今の地図に近い。これが実測によって描かれたのではなくて、曖昧なところは、複数の人間がそれぞれ記憶していた土地の印象を聞き集め、その辻褄を合わせて求めたぎりぎりの境界線を描いて埋めたということ、しかもそれが結果的にホンモノに近く仕上がっていることになんだか驚いた。どれだけたくさんの声を偏らずに聞きとろうと努めたことかと思うし、質問のしかたによっぽど何かコツがあったのではないかと想像してしまう。

長久保赤水とはどんな人だったのか。赤水の生誕地、高萩市の歴史民俗資料館の動画サイトにその伝記ドラマがあった。同館所蔵の、改正日本輿地路程全図の原画も出ていて、朱字、胡粉や和紙、付箋などで修正されているようすがわかった。中に、書き足した「白岩」の文字を見つけた。私の実家のある地域の川の対岸の現存する地名だ。最上川に寒河江川が合流するあたりから西への一帯を、まとめて書き直しているようだ。赤水は1760年に東北を旅しているから、この辺りもそのときに歩いたのだろうか。集めた情報では辻褄が合わなくて納得がいかず、足を運んで確認したのかもしれない。寒河江川にかかる臥龍橋を、たぶん渡っているはずだ。どこに宿を得たのだろう。

赤水が東北の旅を記録した「東奥紀行」(1792)というのがあるらしい。検索したら複数のデジタルアーカイブにヒットした。出羽三山と鳥海山に行っていることは絵があったのですぐにわかった。ありがたい。あとでじっくり見てみよう。

古本屋の棚

植松眞人

 大阪天満の商店街を歩いていると何軒かの古本屋がある。その中でも古本屋らしい古本屋と言えばたった一軒で、いつ覗いても親父が一人煙草を吸いながらぼんやりとしていて商売っ気を感じたことがない。ごくたまに古書収集家から送られてきたらしい包みを開けるときにだけ、きらりと眼光するどく値踏みをする様は、さすが古書店店主と思わされるが、数冊見るとまたいつもの古本屋の親父に戻っている。
 今日はたまたま親父が店の奥に見えず、ちょっと油断してふらふらと店のなかに入ってしまったのだが、どうやら親父は昼飯でも食いに行っているらしい。いつも親父が座っているレジ台がわりの机の上に、「すぐに戻ります」と書かれた紙が置いてある。派手な広告の裏紙に書かれていて、裏移りがして読みづらい。それを机に戻した後で、めぼしい本を何冊か手にとってみた。
 すると、昭和の真ん中あたりの吉行淳之介だの庄野潤三だのの初版本などがそこそこ充実していて嬉しくなる。なかには本人のサイン本などもあって、さすがにこんなものを置きっ放しにしている親父のことが心配になり、おれが窃盗犯からこいつらを守ってやらねばという妙な気分が芽生えてくる。
 ちょうど、さあ来やがれ、と思い始めたタイミングで自分が眺めていた書棚の向こう側で物音がする。さては窃盗犯か、と本と本の隙間から書棚の向こうを警戒する。なにかはわからないのだが、どうやら子どもがいるらしい。若い鬱陶しさと息吹を感じさせる感覚の狭い鼻息が聞こえて、小さなサイズのパタパタという足音が聞こえる。ふいに吉行淳之介の背表紙の向こうに黄色い帽子が見え、相手が小学校真ん中あたりの男の子だということがわかる。
 じっと見ていると、男の子が同じように書棚の間から、こちらを見ていて、『薔薇販売人』と書かれた背表紙越しにこちらをのぞき込んでいるという風情だ。
 男の子とおれとで目が合って、なぜかおれが目をそらす。男の子はじっとこっちを見ている。相手が泥棒だったらどうしようという思いでのぞき込んだのだから、おれのほうが分が悪い。向こうは無邪気にこっちを見ているだけだ。しょうがないから、おれのほうも男の子のような気持ちになって、男の子のほうを見る。すると、男の子がにやりと笑ったので、おれもにやりと笑ってやった。
 その瞬間に、男の子の手前で男の子の顔を半分隠している『薔薇販売人』の初版本の背表紙がとてもいい本に思えてきて、思わず手にとってしまう。すると、男の子の顔が全部見える。さっきまで、なんだかふてぶてしくこっちを見ていた男の子だが、いま手前の本がなくなり、顔全体が見えると、急になんだか恥ずかしそうな顔になり、駆けだして店を出て行ってしまった。
 入れ替わりに帰ってきた親父が「いらっしゃい」と声をかけ、おれは親父に『薔薇販売人』の初版本を「これください」と値札も見ないで手渡した。親父はちょっと嬉しそうににやりと笑うと「毎度、おおきに」と受け取るのだった。(了)

むもーままめ(23)「曽根崎心中」お初さんのお墓参りの巻

工藤あかね

 今月、入野義朗作曲のオペラ「曽根崎心中」でお初役を歌うことになっている。どうやってこの役柄を勉強しようかと考えあぐねていた時に、浄瑠璃作家の知人のこと、さらにその方のご主人が文楽の太夫さんでいらっしゃることを思い出した。右も左もわからないままにご相談したところ、貴重な資料をお貸しくださることになった。季節がめぐり、秋になり、オペラのお稽古も始まった。いまこそ大阪にお礼に伺い、そのおりにはお初のお墓、「曽根崎心中」の舞台である生玉神社や、曽根崎の森のあった場所、そしてお初天神をお参りしたいと考えていたところ、なんと贅沢なことに、浄瑠璃作家の知人が街案内をしてくださることになったのだ。

 谷町9丁目という駅で降りた。谷町という地名は、大相撲のタニマチの語源らしい。そのあたりは大店が多く、豪快にお金を使える方々が多かったために、遊郭だけではなく大相撲や文楽などに金銭的な貢献をした方が多かったと聞いた。はじめに久成寺にあるお初のお墓に参った。このお寺は、大相撲大阪場所の際に高砂部屋が宿舎にしていたり、朝乃山が大関の伝達を受けた場所でもあるということは、大相撲に詳しい友人から聞いていた。静かで、とても綺麗に手入れされたお庭のあるお寺だった。墓所は奥にある、妙力信女、お初さんのお墓。「お初の墓は膝くらいの高さなので見逃さないように」と親切な注意書きまであった。比較的新しい墓石だった。心を込めて手を合わせた。
 
 大きな道を挟んで反対側にある生國魂神社は「曽根崎心中」の舞台ともなった生玉神社のことである。境内にはいくつもの神社があるが、なかでも浄瑠璃神社は芸事の神さまたちが集っているそうで、ぜひ訪ねたいと思っていたところだ。近松門左衛門や武本義太夫、豊沢団平ほか、人形浄瑠璃(文楽)の成立に尽力した「浄瑠璃七功神」をはじめとする文楽関係者、および女義太夫の物故者を祀っている。案内してくれた知人のご主人の亡きお師匠さまもそちらにいらっしゃるそうで、ご主人もお隠れになった際にはこちらに入りたいとおっしゃっておられると聞いた。生國魂神社の裏側は断崖絶壁になっていて、ゆるやかな道沿いには寺社仏閣の甍が連なっている。知人はフランスのお友達をこの街に連れてきたところ大変気に入ったようなので、何回かリピート訪問しているとのことだった。

 知人は広い車道を指差しながら、今は暗渠となっている場所がかつては水運で、周辺が大変栄えていたと教えてくれた。このあたりが、徳兵衛さんがお得意さん回りしていたあたりかな、お初さんの置かれていた遊郭・天満屋はこのあたりかな、などと想像するのも感慨深い。その後、梅田に移動した。お初天神は繁華街のただ中に別世界のように佇んでいる。もっとも、お初さんと徳兵衛さんの萌えキャラがいたり、顔抜きボードがあったりして観光地化されていることは否めないが、「恋の手本となりにけり」の言葉通り、恋人の聖地となっているらしい。絵馬には、お初さんの顔型が描かれていたり、ピンクのハート型だったりファンシーなものもあるが、絵馬をかけた人たちの願いはみな切実なものなのだろう。みんなの願いが叶うといいね。
 お初天神の手水舎の上に、厄年一覧が貼ってあった。最初の厄年は数え年で女19歳、男25歳。お初と徳兵衛は、人生最初の厄年に二人揃って命を散らしたことになる。

 二人が心中した曽根崎の森は、今は繁華街になっていて、かつては心中できるような寂しい場所だったことが、とても信じられない。梅田の地名はもともと、うめた。沼地を埋め立てたことからきていると聞いた。梅林や田畑があったわけではないという。とすると、二人の道行の足取りは考えていた以上に重かったかもしれない。時にぬかるみに足をとられながら、死に場所を求めてようよう歩いていったのだろうか。

 知人からは、芸事の神様が知人の口を借りているのではないかと思うほどに、素晴らしい話や、言葉をたくさん聞いた。無事に本番を迎えられるように心身を磨こうとの決意を新たにした。

 こんな折も折、入野義朗先生の令夫人、入野禮子先生が逝去されたとの報せを受けた。今月下旬に上演されるオペラ「曽根崎心中」の公演をご覧いただけたらどんなに良かったことだろう。先日は私の恩人、作曲家の一柳慧先生も旅立たれた。なんという秋なのだろう。

仙台ネイティブのつぶやき(76)虫の音とどんぐり

西大立目祥子

 先週、庭の虫の音がぴったりと止んだ。10月は初旬に気温が急に下がる日が続き、そのときも庭はしんと静まったのだけれど、日が照るとまたコオロギやらスイッチョンやらが鳴き出して騒がしくなった。秋晴れの日は元気を盛り返す虫たちも、日に日に朝晩の気温が下がっていくにつれて鳴き方は弱々しくたどたどしくなっていき、天気とのせめぎあいが半月ほど続いたあと、ついに潰えてしまった。草むらには、彼らの死骸がころがっているんだろうか。カナヘビやクモやアリたちの餌食になっているのかもしれない。

 気がついてみれば、油断して半袖で出ようものならすぐに2、3か所は刺された蚊はどこにもいない。2週間ほど前の朝には、夏の間、通り道にしていたのかよく飛んできたオレンジ色のツマグロヒョウモン蝶が、破れた左側の羽根も痛々しくプランターにしがみついていた。息も絶え絶えに見えた。日が高くなるとどこかに飛び立ったのかいなくなっていたから、気温の下がる朝は動けずにじっとしていたのかもしれない。昆虫が動き回るのは20度くらいというから。10月は日に日に少しずつ命がけずりとられていく感じ。それがじぶんにも迫ってくるような感覚がある。

 この夏はコロナ感染という事態になり、体も気持ちも凹んだ。大した症状ではなかったのに、少し動くとすぐに息が切れ、地下鉄の階段を上がっても足が重い。だるい体で久しぶりに家の裏に回ると、勢力を増すドクダミに抗うようにミョウガが腰の高さくらいに生い茂っていた。いつの間にこんなに増えたんだろ。もしや、とミョウガの根元をさぐったら、あるある、大きな実というか花芽がころんころんとあっちにもこっちにも。だるさを忘れて汗をかきかき夢中で採ったら、すぐにザルいっぱいになった。採るのに邪魔なドクダミを抜くと、あの独特の強烈な匂いが鼻孔を直撃してくる。この臭い匂い、嫌いではない。この匂いと汗のせいか、そして思いもかけない50個もの収穫が効いたのか、流しで洗うときには、いつのまにかコロナを脱したような気分になっていた。

 降っては高温、2日もするとまた雨で高温というミョウガに最適の天気が9月いっぱい続き、大豊作は止まなかった。冷奴にのせ、味噌汁の具にし、ぬか漬けにし、お煮しめにまで入れて食べつくし、それでも食べきれない分は友だちや知り合いに分けた。300個ぐらいは採っただろうか。何にもせずにどんどん育ってくるものを採る、これなら私にもできる小さな農業だし、収穫には何といっても楽しさがついてまわる。これまでもミョウガは採っていたのだけれど、ひと夏にせいぜい1、2回程度。定期的に摘むと、花芽がまたすぐ育ってくるのがわかった。最後のミョウガを収穫したのは10月11日。秋ミョウガとよぶらしい。ちょうど虫の音が静まっていく時期に、ミョウガも勢いを失っていく。いまはもう黄色にしおれ、倒れかかっている。季節の区切り。

 ちょうどミョウガの収穫時に咲き出すのが秋明菊。やっぱりここは漢字で書きたい。お盆が過ぎ、涼やかな風が吹き始める頃になると、いつのまにかするすると伸びた背の高い茎に白い花をつける。ゆらゆら揺れる白い花は秋の風情だ。そこからずっとふた月も花をつけ、つい先週、最後の一輪が散った。その間に金木犀が一瞬といえるような速さで、開き、満開になり、1週間ほどで細かいオレンジ色の花びらを落としてしまう。どうしてこんなに花期の長さが違うのだろうか。日本の金木犀はほとんど雄株というから、そもそも受粉の必要がないからなのか。

 雑草の緑色もみるみる色が薄くなり、透明感が増していく。その中で申し訳なさそうに咲くイヌタデの花は、しゃがんで声をかけたくなるようなかわいらしさ。紅色が映える。いまはそのイヌタデも枯れつつある。

 植物は力を失っていく季節だけれど、樹木にはずっしりとした実りがある。木の実。
何といっても私にとっての王様はトチの実だ。クリよりも大きいようなつやつやした実が山道や公園や駐車場のわきに落ちているのを見ると、拾わずにはいられない。落下してなお硬い果皮に包まれたままのもある。上着のポケットに3つ4つを入れて持ち帰り、テーブルに並べる。また出かけて見つけたときはポケットにねじ込み持ち帰る。気がつくとザルにけっこうな数がたまっている。つるんとまるいのがあれば、ボコボコいびつなのがあり、ピンポン玉くらいのでかいのもあれば、いじけたように小さいのもある。まち歩きのガイドをする機会がよくあって、歩いている途中にトチの並木があるときはすぐに地面を探し、ほらトチの実だよと参加者に教えてあげるのだけれど、興味を示すのは10人のうち2人くらいだ。

 どんぐりの中で、マテバシイはそのまま食べられる。先日、近くの寺で拾ったカヤの実をフライパンで煎って食べてみたら、アーモンドのようでけっこうおいしかった。でも、マテバシイを食べ過ぎた友人はどんぐりアレルギーで病院に行く事態になったから、要注意ではあるのだろうけど。

 寺田寅彦の作品に「どんぐり」という随筆がある。若くして亡くなった最初の妻の闘病と思い出を記しているのだけれど、おしまいのところで、いっしょに出かけた先でいつまでもどんぐり拾いをやめない妻のことが描かれる。「いったいそんなに拾って、どうしようというんだ」と問うと、笑いながら「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と答える妻。その記憶は数年後、6歳になる忘れ形見の坊やのどんぐり拾いに再現される。植物園で、幼い息子はいつまでもどんぐり拾いをやめようとせず、ハンカチの中に増えていくどんぐりを見ては無邪気にうれしそうに笑うのだ。こんなことまで遺伝するのかと思いつつ、母の早世までは似て欲しくないという父としての本音で文章は締めくくられている。
 
 ミョウガにしてもトチの実にしても、拾う行為に心踊る私の感覚は誰から私にきたんだろう。今日もカゴの中のトチの実をながめ、どことなく安心感を得ていることを考えると、縄文人としての何かが私の中に生きているのかもしれないと思ったりする。

 ところで、この稿を書いている10月30日。夕方近くに庭を眺めていたら、コロコロとコオロギが鳴いていた。弱々しくはない、くっきりとしたよく通る音で。どこの世界にもひときわしぶといのはいるんだ。

『アフリカ』を続けて(17)

下窪俊哉

 昨年の夏、八巻美恵さんから「気が向いたら、水牛にも書いてくださいな。」と声をかけてもらって、何を書こうかな? と考えてみた時、その前年の大晦日に八巻さんがブログに書かれていた「「水牛」を続けて」が思い出された。読み返してみて、面白い、大きな共鳴を感じた。それで私はそのアンサー・ソングを書くことにして、タイトルは「『アフリカ』を続けて」にしよう、と決めた。
 先月、horo booksから発売された八巻さんの本『水牛のように』に、その文章も収録されている(「「水牛」をつづけて」になっている)。あらためて読んでみると、『水牛』は雑誌だと思っているという話の流れで、

 いろんな人が水牛という場にいて、いろんなことが書いてある。それが大事なのだ。

 と書かれているのに目が留まった。この『水牛』という雑誌に並んでいる文章は、ゆるやかなつながりを持っていると感じる。「つながり」と言っていいのかどうかもわからないようなゆるいつながりだとしても。

 前回の話の続きで、小野二郎さんのある本をようやく押し入れから探し出して、ひらいてみたのだが、「プライベート・プレス」ということばを見つけることはできなかった。もしかしたら図書館で借りて読んだ別の本に、出てきていたのかもしれない。なのでその文章を確認はできていないが、ウィリアム・モリスにかんする話を読んで知ったというのに間違いはないだろう。
 プライベート・プレス、注文を受けてつくるのではなく、自ら出版したい本を、自前の小さな印刷工房で、紙や印刷、製本にこだわりぬいてつくられた少部数の本というふうだろうか。
 アフリカキカク(雑誌『アフリカ』を出している個人レーベルのようなもの)でつくっている本は、旧知の印刷・製本屋さんに任せっきりで、そこに大したこだわりはない。モリスの考えたこととは真逆のような気もする。ただ、なるだけお金をかけないでつくろうというこだわりはある。注文を受けてつくるのではないし、自分たちがつくりたい本を自分たちで少なくつくる。
 2013年1月に初めてトーク・イベントをやった時にはそんなふうなことを考えて、そのイベントを「“いま、プライベート・プレスをつくる”ということ」と名づけた。そうしたら、プライベート・プレス! 『アフリカ』にぴったりですね? なんて言う人もあらわれる。
 リトルプレスでもミニコミでもZINEでも個人誌でも何でもよいといえばよいのだが、プライベート・プレスということばには、何かふわっとした広がりが感じられるような気がした。それに、私は少部数であることにも、コミュニティの小ささにも、手づくりであることにもたいしたこだわりがあるわけではないが、個人的な場(メディア)をつくることにはこだわりを持っているようだ。

 その頃、『アフリカ』の装幀(表紙のデザイン)をやっている守安涼くんがこんなことを書いている。

 この雑誌は今年になってからひと皮むけたというか、確かなレベルアップを感じさせる手触りがある。それは雑誌全体の一体感であったり、各コンテンツの洗練であったりする。雑誌のいわゆる「雑」の部分が澄んできた、ともいえる。小説然とした作品をめざすのではなく、書き手の書きたいものがストレートに出た散文が多く並ぶようになったせいもあるだろう。編集人はつねに新たな企みを抱いている。

 いまから10年前、2012年7月号(vol.15)の宣伝文である。
 つねに新たな企みを抱いている! 片岡義男さんの書いていた「さまざまな興味深い試みのショーケース」(前回を参照)のようにしたいという理想があるから。
 続けたいというより、また新しいことをしたいといつも考えている。
 そのわりにはたいして代わり映えしないように見えるというのも『アフリカ』の狙いである。久しぶりに雑誌を手に取った人が、ああ、変わってないな、と感じるだろうニュアンスは変えたくない。くり返しのパターンを好んでもいる。しかし企みはいつも新しい。

 そういった私の企みはその後、雑誌という枠に収まるものではなくなったようだった。毎月、いろんな本を読んで集まって語り合う「よむ会」を何年かやり、その後、読んだり書いたりするのが苦手だという若い人たちとの「ことばのワークショップ」、美術アトリエに集う人たちとの「インタビュー・ゲーム」「自作解説のワークショップ」「夢をめぐるワークショップ」などを経て、「オトナのための文章教室」(後の「道草の家の文章教室」)につながっていった。文章教室といっても何か書く技術を教わる場ではなくて、お互いが書き、書き続けるための試みとしてのワークショップだった。
 私には、『アフリカ』もワークショップであると言い切ってしまいたい気持ちがある。

 プライベート・プレスというと個人の発信というようなことを思い浮かべる、という話を受けて語り合ったこともある。メディアの役割は発信の他にもあり、たとえば作品を集めること、アーカイブすることもそうだろうし、何かをつくるための場という側面もある。
『アフリカ』は、書くための場である。いろんな人が出たり、入ったりして書いて、人によっては絵を描いたりもして、そこに残しておく。その作品を後々どうするかは、その人次第だが、とりあえず『アフリカ』という場に置いておける。今年の春、『モグとユウヒの冒険』という本をつくった時には、故人となった著者を紹介するのに、『アフリカ』に残されていた生前の文章が大きな助けになった。家族や友人・知人の回想だけではなく、本人の書き残したことばが手元にあるということをその時、頼もしく思った。
『アフリカ』という場をひらくと、いろんな人がいて、いろんなことが書いてある。そのひとつひとつには、ゆるやかなつながりが感じられるだろう。

僕の樹には誰もいない

若松恵子

今年の3月に亡くなった松村雄策の10冊目の本が、河出書房新社より10月に刊行された。松村ファンには、うれしい新刊である。

出版を実現させた編集者の米田郷之氏(ニール・ヤングの自伝を翻訳出版するために会社を辞めて1人でストランド・ブックスを作った人)が、出版までの経緯をあとがきに記してくれている。2020年1月5日、獣神サンダー・ライガーの引退試合の後にいっしょに酒を飲んだ折に「米田、俺、本をまだ九冊しか出していないんだよ」「十冊目を出したいんだよ」と言われたことをきっかけに今回の本づくりは始まっている。「十冊目を」の前に念を押すように「生きているうちに」とおっしゃっていた。と、米田氏は重ねて書く。残念ながら生きているうちには叶わなかったけれど、「十冊目の約束」を粘り強く実現させた彼のおかげで、松村の新刊を手にすることができた。本という形の彼を手元に置いて、折々に繰り返し読む(尋ねる)ことができる。

『僕の樹には誰もいない』の収録作品を松村と一緒に選ぶという事はできなかった。単行本未収録の原稿の切り抜きを(ほとんどがロッキング・オンに掲載されたものだ)託された米田氏が悩みに悩んだ末、2010年以降から直近までの原稿で編んだのが今回の1冊になった。
「ロッキング・オン」掲載当時に読んでいると思うのだけれど、今読んでも新鮮でおもしろい。松村雄策という独特の感受性に、彼のエッセイを通じて出会うことができる。

『僕の樹には誰もいない』というのは、生前彼が決めていた題名だという事だ。さみしい題名なのかと思っていたら、この題名に関して、ロッキング・オン時代の盟友、橘川幸夫さんがコラムで教えてくれた。これは、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」からの引用だという事だ。

 私という木には他にだれもいないと思う
 つまり私と同じ人間はいないのだ
 だから無理して合わせる必要はない
 だいじょうぶだよ
 そんなにまずいこととは思わないね
 (『ビートルズ詩集』岩谷宏訳/シンコーミュージック1985年)

みんな去って行ってしまって誰も居ないということではなかったのだ。人と無理に合わせようとしなくても大丈夫だよ。という題名だったのだ。そう、ジョン・レノンが歌っているよというタイトルだったのだ。大勢ではなかったかもしれないけれど、彼を「わかっていてくれる」読者に支えられてブレずに松村らしくあり続けた彼の文章を読むのは、幸福な時間だ。

花粉革命

笠井瑞丈

久しぶりに韓国
HOTPOTと言う
ソウルで行われる
フェスティバルに参加
韓国は何度も行ってるが
コロナ後初めての海外

出発10月1日

10月1日より
韓国の入国検査が緩和され
PCRも一日ホテル隔離も
全く必要なくなった
入国がとてもスムーズになり
これは本当に助かった



しかし日本に帰国するのに
僕はワクチンを打ってない為
帰国の72時間前までに一度
PCR検査をしなければならなかった

結果出るまで不安の時間を過ごす
もし陽性が出れば公演は
中止になってしまう

無事陰性

上演する作品は

『花粉革命』

二年ぶりに踊る

日本
ニューヨーク
メルボルン
韓国

これで四カ国目の上演

作品と共に旅ができ
とても嬉しいことだ

色々な国に渡り
異国の空気を吸い
作品もまた変化する

作品がカラダの中に
少しずつ根を生やし
カラダの一部に変わっていく

公演にもう15年の付き合いのある
韓国のダンサーのウンミさんが見にきてくれた

踊りをしててよかったと思う瞬間だ

踊りが人を繋ぎ
続けていくことで
世界は広がっていく

この作品と共にこれからもまた
旅をしていけたらいいなと思う

しかし韓国で起きた悲劇
もうこんな事は起きないで欲しい

舞踊の基本姿勢

冨岡三智

『水牛』2016年8月号に「ジャワの立ち居振る舞い」と題して、座り方(胡坐や立膝)、座った姿勢からの立ち方、歩き方(座り歩きやナンバ)などについて書いたことがあるのだが、今回は、ジャワ(スラカルタ様式)の宮廷舞踊を中心とするジャワ舞踊の基本姿勢について少し書いてみる。

●立つ

体を正面に向けてまっすぐに立ち、腰を落とす(mendhak)。ただし、スラカルタ王家の女性の踊り手はやや前傾する(mayuk)。一般的にこれは良くないこととされる。私もその傾向があるのでよく注意された。彼女たちが前傾するのは視線をより下に落とすためだと思われる。

●視線

視線はまっすぐ前方に向けるのではなく、前方の床に落とす。これは、宮廷では王と視線を合わせないようにするためである。私の師匠(1933年生)の場合、自分の身長分だけ前方の床を見るようにと言ったが、芸大では3メートル前方、大劇場なら5メートル前方を見るようにと教わった。私の身長は158センチメートルだから、3メートル前方の床を見るというのは2倍ほど遠い所を見ることになる。私はジョコ女史には芸大留学以前の1991年から師事していたから、芸大に入ってかなり感覚が違うと驚いたものだ。一方、ジョコ女史と同世代で、幼少から宮廷に上がって踊り手(ブドヨと呼ばれる)となったS女史は、1メートル前方を見る、視線が横を向くときは肩山を見る、と言う。これだと、踊り手はかなりうつむくことになる。さすがに現在では、王家の踊り手でもここまで下を向くことはない。

S女史とジョコ女史は同世代だが、その立ち姿の印象はかなり異なる。そして、そこに、王家の踊り手としてその封建的な環境の中で生きてきたS女史と、芸術高校で定年まで伝統舞踊の指導に当たっていたジョコ女史との生き方の違いが見て取れる。また、同じ王家の中でも、王女たちが踊る時の視線は家臣(abdi dalem)であるブドヨよりも高い。このことは私が留学中に芸大で行われたセミナーでも話題に出たことがあるが、舞踊には踊り手の立場が反映されることもある。ジョコ女史の次世代である芸大の教員・学生たちになると、視線をより高く上げてより広い舞台空間の中で踊るようになる。これは芸大が伝統舞踊の改革に積極的で、舞台芸術としての教育を進めてきたからだと言える。そんな風に、踊り手の姿勢には舞踊を取り巻く社会や立場、空間の認識の仕方が表れる。

●手の構え

体は正面を向き、手は横に伸びる。踊り手の身体は凧のように(ワヤン人形のように、と言うべきか…)、左右に平たく広がる。肘が体の線より後ろに出る(mbedhah geber)のは良くない。一番基本のポーズは、右手を伸ばし、左手は肘を曲げて手首が腰骨の前にくるようにするものだろう。この時、ジョコ女史は脇に卵1個を挟むくらい開けるようにと説明したのだが、芸大では脇がもっと開き、手の位置が高くなる。そのため身体がより大きく、型がより明確に見える。大きい空間では映えるのだが、宮廷舞踊の演目には踊り手の身体が頑丈過ぎるように見えてしまう…と私自身は思っている。

●空間

ジャワ舞踊が前提とするのはプンドポという方形の儀礼空間である。プンドポは王宮や貴族の邸宅に必ず備わっている建物で、壁がなく、多くの柱で高い屋根を支えている。その中央の4本の柱で囲まれた空間で、儀礼たる舞踊は上演される。芸大大学院の主催する公演で教員たちとプンドポで宮廷舞踊を上演した時、当時大学院を指導していたサルドノ・クスモ氏から、ジャワ舞踊ではプンドポの4本の柱を意識することが重要だよとアドバイスされたことが心に残っている。

ジョコ女史の自宅にはプンドポがあり、舞踊の稽古もそこで行われていた。家族の冠婚葬祭の儀礼もプンドポで行われ、私もしばしばそれらの儀礼に立ち合った。スラカルタ出身でジャカルタ在住の舞踊家にプンドポの感覚があると褒めてもらったことがある。その人は、ジャカルタの自分の弟子たちは舞踊は上手いものの、プンドポの感覚が伝えられないと言うのだ。私に巧拙は別としてプンドポの感覚ができているのだとすれば、それはやはりこのレッスン環境の賜物である。そして、ジョコ女史の基本姿勢がそのプンドポ空間に見合っており、それが私自身の空間把握の核となったのではないかと感じている。

アリババはネコババの始まり

さとうまき

デジタル紙芝居の初演を終えて、いろいろ反省点も出し合いながら、次回公演に向けて稽古が続く。僕は20年前のバグダッドを思い出していた。

ちょうど20年前の10月。サダム・フセイン大統領の信任投票が行われ町中が沸き立っていた。サダム・フセインは100%の得票で信任されたのである。車の中ではラジオから、「サダムが2500ドル相当のお祝い金を全国民に配るという噂が街に流れている」というニュースが聞こえてきた。同乗していた文化省のネダさんの大きな目がさらにぎょろりと輝き、嬉しそうに通訳してくれた。しかし、ネダさんが行く先々で真意をただすと、単なる噂に過ぎず、サダムからのプレゼントは「恩赦」だそうで囚人が釈放されるだけらしい。ネダさんは結構本気で大金が転がり込んでくることを期待していたようだったので、かなりがっかりしたようだ。

独裁者は、脅して言うことを聞かせるだけでなく、実際に人気があった。特に当時のアメリカのブッシュ大統領はとんでもなかったから、イラク国民はサダムを支持していた。世界中で多くの人がサダムを支持したわけではないが、ブッシュを批判していたから、サダムがかなり輝いて見えた。

バグダッドの印象は古い都というよりは、1991年の湾岸戦争から続く経済制裁で、疲弊しており、10年も20年もタイムスリップした感じだったが、それにもまして、サダム・フセインは自らをネブカドネザル2世の再来と位置づけるものだから、紀元前の世界にやってきたような感じがしたのだ。

町のあちこちには、サダム・フセインの銅像が立っていたが、優れた彫刻もいくつかあった。千夜一夜物語をモチーフにしたもので「アリババと40人の盗賊」の女奴隷、モルジアーナがカメに入った盗賊たちを煮えたぎった油で殺していくシーンだ。ところが、イラク人達はその女性像のことをカハラマーナと呼んでいた。この像は、モハメッド・ガニー・ヒクマット(1929-2011)が作った。

「古いバグダッドで小さな宿を経営している父親を手伝っていたカハラマーナと呼ばれる若くて賢い女の子がいました。父親は台車に空の瓶をいっぱいに積んで持ってきて、翌朝、それぞれの瓶に油を入れて市場で売りました。
寒い冬の夜、カハラマーナは物音を聞いて、瓶に泥棒が隠れていることを発見しました。彼らの頭が少し瓶から見えていたのです。カハラマーナは父親の部屋に行き、彼を起こし、彼そのことをはなしました。彼らは、騒音をたてて、泥棒が瓶の中から出られないようにしておき、彼女は泥棒が隠れているすべての瓶に沸騰した油を注ぎ始めました。泥棒は叫び始め、次々と瓶から飛び出し、警察が来て彼らを逮捕しました」
という話がもともとバグダッドに伝承されていたらしい。この話がベースにアリババと40人の盗賊が作られたらしいが、千夜一夜物語の原本にはなくて、どうもシリアのアレッポあたりで作られたという説もある。だからバグダッドでは、モルジアーナではなくてカハラマーナなのだ。

イラク戦争がはじまり、サダム・フセインがいなくなると、町中の人々がみんな盗賊になってしまった。慌てて病院に薬を持っていくことになった。なぜなら、病院に在った薬がすべて略奪されてしまっていたからだ。蛍光灯やらコンセント、スイッチから何から何までごっそり持っていかれている。電線を盗もうとして感電して病院に運ばれる患者もいた。勿論米軍の攻撃で怪我をした人たちもいたが。そしてなんと米兵たちもいろんなものを盗んでいった。骨董品や美術品の類は特に彼らが好んでネコババしていった。腎臓とか、角膜を盗んでいったという噂もあったのだ。

ガニーさんは、戦後盗まれた美術品を回収するのに尽力したという。芸術を愛する庶民が闇市場で買い戻し、ガニーさんのところに届けに来たという話もあるそうだ。彼の最後の作品は、「イラクを救え」だった。楔形文字の書かれたシュメール時代の円筒印章がおられているのを5本の腕を持つ超人が支えている。なんだか勇気を貰える作品である。デジタル紙芝居の最後の決め台詞。「アリババはネコババの始まり」
 
11月13日 神保町ブックハウスカフェにて
https://www.facebook.com/events/690240895573822/

ベルヴィル日記(13)

福島亮

 B線に乗ったのは久しぶりだった。この線はシャルル・ド・ゴール空港とパリ市内を結ぶ郊外線なのだが、学生寮がある国際大学都市と中心街に位置するシャトレ駅が線上にあるため、今の家に引っ越す前はよく利用していた。ただ、私がかつて暮らしていた寮は、国際大学都市の外れにあり、メトロ14番線のポルト・ドルレアン駅の方が近かったから、どちらかというと地下鉄を利用することの方が多かった。引っ越してからは、中心街には徒歩で行くようにしている。オーベルカンフ通りを下り、ピカピカした洋服店が並ぶヴィエイユ・デュ・タンプル通りをピカソ美術館を横目に通り抜ければ、もう中心街のマレ地区だ。そこからセーヌ川を渡って大学がある左岸まで行くのはちょっとした遠足だけれども、できないことはないし、別に骨の折れることでもない。先日友人と話していて、パリの街を歩いていてもそれほど疲れないのはなぜか、という話になった。私たちの出した結論はこうである。この街では通りの名前や広場の名前が、歴史や事件といったものを想起させる装置になっていて、歩くだけで幾重にも重なった時間を横切ることになり、その結果、気持ちが常に新鮮だからあまり疲労を感じないのだろう。都市を歩くということは、時間旅行なのだ。そして、フランスは、さまざまな装置を用いて時間旅行を発動させることに極めて意識的な国だと思う。

 話が逸れたが、B線に乗ったのは、先月亡くなった日本人画家H氏の葬儀に参列するためだった。パリから電車で一時間ほど行ったところにあるオルセー・ヴィルという駅で降り、そこからH氏の妻の親族に自動車を出していただき、公営葬儀場にたどりついた。じつは、フランスで葬儀に参列するのはこれが初めてだった。参列する旨を事前に遺族に伝えたとき、心のなかで真っ先に心配したのは服装である。どんな服で行ったら良いのか。喪服は持ってきていないし、作法もよくわからない。時々家に遊びにくるフランス人の友達に尋ねると、黒ければなんでも良いのだという。街中の花屋で白菊と白薔薇の小さな花束を作ってもらい、白いワイシャツに黒めのジャケット、そして前に一度だけ履いたことのある黒靴を履いて会場に行くと、なるほどたしかに暗めの服装が多いとはいえ、各々自由な服装をしている。これはH氏の葬儀が無宗教だったことともある程度関係しているのかもしれない。

 祭壇(といっても、小さなステージのようなものなのだが)の壁には竹林の映像が投影されており、中央にH氏の棺が置かれ、手前にはタブローが一枚置かれていた。祭壇の奥、壁際には古い日の丸の旗が掲げられている。これはH氏が日本を去る際に持ってきたものだというから、半世紀以上前の国旗だ。異国で生きていこうと決意した20代の青年は、どんな思いでこの国旗を旅の荷物に忍ばせたのだろうか。氏の妻が読み上げた追悼の辞によると、H氏は夏のヴァカンスでノルマンディーに行くと、食前酒を飲む前に「日本の漁民の歌」をよくうたっていたという。司会者が何やら操作をすると、会場に「漁民の歌」が流れる。「斎太郎節」だった。もう10年ほど前になるが、私は男声合唱を少しだけやっていたことがあり、その時はじめて知ったのがこの宮城民謡だった。だから、懐かしくもあり、また、それをフランスの斎場で聴いているというのが奇妙でもあった。

 斎場からパリまでは、知り合いの画廊の人が自動車で送ってくれた。普段、もっぱら電車を使っているので、自動車でパリに入るのは新鮮だ。ヨーロッパの古い街の多くがそうであるように、パリもまた城壁に囲まれていた名残で、街をぐるりと環状道路が囲んでいる。自動車はパリに入るとセーヌ川沿いを走り、アルマ橋の付近で止まった。橋の斜め向こう側に、シャイヨー宮の立派な建物が見えた。トロカデロから大通りを通ってメキシコ広場に行くことができるな、と思ったが、日も落ちていたので散歩は諦め、メトロに乗って帰宅した。

 数日してから、思い立ち、葬儀用の花束を作ってもらった花屋で薄い紅色の薔薇の花を数本買い求め、埃をかぶっていたガラスの花瓶にさして机の隅においた。H氏への追悼のためでもあったが、同時に、H氏と知り合いだった保苅瑞穂氏の遺著『ポール・ヴァレリーの遺言』のなかに、水仙の切花を飾るエピソードがあったからでもある。じつは、この本の最初の章にメキシコ広場へと続く大通りが登場する。自動車から降りた時、そのことを思い出したのだ。心細げな薔薇だったが、花瓶を置いてみると、保苅氏も述べているように、花の周りの空気がそこだけ一変するように思われた。その気配を感じながら、改めて、氏の本の件の箇所を読み返してみた。時々H氏の口から保苅氏の名前が出ることはあったが、私は氏に直接会ったことはなく、もっぱらプルーストのエッセイの翻訳家として、また、モンテーニュについての味わい深い書物の書き手として名前を知っているにすぎない。肩肘張った衒いがなく、しっとりとした優しさと芯のある明晰さを持ち、しかものびやかなその文章を繰り返し読む時間は、私にとって心の落ち着く瞬間だ。

『ポール・ヴァレリーの遺言』は、文字通り、ヴァレリーをめぐる思索なのだが、その心は「わたしたちはどんな時代を生きているのか?」という副題にはっきりとあらわれている。読んでいると、「海辺の墓地」の詩人が、熱く語りかけてくるように思われる。例えば、引用されているヴァレリーの文章のなかに、次のような一節がある。「後世の人びとにおのれを思い起こさせる作品は、人を挑発したにすぎない作品よりも力強いものである。このことはすべてについて真実である。私の場合、本が与えてくれた願望、もう一度読んでみたいという願望の強弱によって本を分類している。」なんて素敵な本の分類法だろうか。ともあれ、私の家の場合、本棚に置かれた本は、砂浜の砂のように気づかないうちにあっちへ行ったりこっちへ行ったりするから、繰り返し読みたい本は、無意識のうちに目につきやすいところや、ベッドの付近などに積み上がる。

 もう数ヶ月したら、これらの本たちも箱に詰めて、日本へ送らなくてはならない。好き勝手に移動する本たちを眺めながら、いずれやってくる日のことをぼんやりと考えている。

図書館詩集 1(自分の運命に出会ったのは)

管啓次郎

自分の運命に出会ったのは一六〇九年
ハドソン川沿いのコーンウォールでのことだった
それからしばらく逡巡がつづいた
やっと生まれたのは一九五八年で
肱川沿いの野村町でのことだった
このように私たちの人生は川に左右される
川に運ばれる
考えてみれば不思議なことだ
たしかに私を構成する遺伝子は
地球上に生命が誕生してから一度として
途切れたことなくつづいているのだ
流れだ
今回の生涯がどれほど遅れたことのようでも
人生としてはいつでも再開できる
ひとりの生としては
別に嘆くほどのことはない
流れなのだから
精神をとりあえず捨てるといい
精神の代わりに
魂に語らせるのがいいよ
今回はすっかり出遅れて
ギリシャ語の勉強をするには遅いが
ふたつの単語がずっと心を泡立たせている
Ἀράχνη(アラクネ)完璧な織り手
Ἀνάγκη (アナンケ)必然の力
実際、運命といえる糸があるとして
それはすべて蜘蛛が握っているのだから
自分の心とか意志とか
意地とか試行とか
決められることはあまりないだろう
けさ蜘蛛の足音で目が覚めた
もう仕事に出かけなくてはと思った
その仕事は開墾
人が住まない原野の開拓
乳牛が美しい尻を見せている
彼女は美しい乳房を見せている
その乳の流れる野原に
どれだけの生命を預けられるだろうか
彼女の血をおびただしく溶かしても
なおも青く流れる谷川の
磨かれた川床にむかって
山をめざすか
求めていたわけでもないのに
渓谷の音響が押し寄せてくる
非常に運命的で
清涼な流れだ
岩魚よりも寡黙な何かが
どんな物語をかたるのか
季節が季節なら
この流れはやがて紅葉に溶岩のように染まる
おびただしい赤だ
用心しなさい
きみの血を奪われないように
ただ獣たちに頼って生きていくことだ
(いたちを背負ってお湯に行け)
(たぬきを背負ってお湯に行け)
高原の先は山また山
そこにいくつものお湯が湧いているのは
おもしろい現象だ
(むじなを背負ってお湯に行け)
(きつねを背負ってお湯に行け)
それが元来の在り方なのだ
動物たちはさんざん傷ついた
山の湯に癒しにおいで
りすよ、しかよ、くまよ
猪よ、大きな森へと逃げてゆけ
(たたちを背負ってお湯に行け)
(いぬきを背負ってお湯に行け)
秋の空を文字にすると
季節も消え色も消える
残るものは何か
文字に託されたふるえだけ
(きじなを背負ってお湯に行け)
(むつねを背負ってお湯に行け)
そうではなく土地のひろがりを
そのままに体験したい
記憶し
地形図よりも楽譜よりも精密に
記録したい
そのために歩きたい
天然の測量士のように
百体の観音が山道を歩いてゆく
石の体をして山を登ってゆく
その先の山頂までついていって
鐘を鳴らしてごらん
その音は鳥が運ぶ
その振動が子供をねむらす
これ自体非常に不思議な現象だ
夜の山には流星が雨のようにふり
美しい糸のような軌跡を心に残す
(Compostella とは星野くん/星埜さん)
光を留めておけないなら
記憶し語るしかないだろう
知ることについての学がepistemologyだったら
知らないこと(知らずにいること)についての学は
Counter-epistemology
山寺の先のこの見晴しで
ひとり一晩をすごすことの
恐ろしさとすがすがしさ
冬がやってきたら
さぞ冷たかろう
雪というあの粛然とした絹の
すべてを平等にする白さ、美しさ
雪の中で体を地面にこすりつけている
あの犬はいったい何をしようとしているのかな
たぬきやむじなの体臭に
自分も同化しようというのか
友好的な犬だ
カメラをわざと斜めにして
風景を拒絶するかのように
体を斜めにしたまま歩いてゆくのが
彼女のやり方だった
光が明るい青や緑をいっそう明るくするその
美しい光が水のように私たちをひたす
そうやっていつも心が軽くなる
かなり速い流れに落ちたRoxyは
泳いでも泳いでも岸辺にたどりつかない
考え方を変えよう
流れていけばいいよ
犬はどうしようという目でこちらを見るが
心配することはないよ
下流にむかおう
川が果すのは恐ろしいほどの浄化
山がつきるあたりから
広大な原野を作ったのも川
一本松や千本松
松果が降り積もる水平の土地に
居住がひろがった
人の居住の陰で
破壊された生命に詫びなくては
そのために百体の観音が荒野を歩いてゆく
どこをめざすのか
「東にむかうのは強制されなければ行かないが
西には自由にむかう」といったソローの言葉は
そのままには使えない
だがいまのわれわれは開墾とは反対のベクトルをもって
すなわち悔恨もなく
良い希望をもって
しっかりと
海にむかって歩んでいる
濃い牛乳を飲みながら
このあたりはきっと溶岩性の海岸で
ごつごつした磯は真黒い色をしている
浸食が進めばハワイ島カラパナ海岸のような
黒砂海岸になるのかもしれない
そう思っていたがここは海からは遠い
何かの誤解が生んだ地名だ
鉄道があり町があり
石造りの小さな銀行は
いまではGrand Bois(大きな森)と呼ばれ
実際にそうなっている
Hier ist kein Warum! (ここでは「なぜ」は禁止)
この言葉に込められた残酷な権力が
次々に葬列を作り出してきた
このあたりの葬式では
女性は白装束で白い角隠しをかぶります
鬼も人になろう
秋の晴れた青空の一日にも
人は死に世界は死ぬ
青空が白装束を着て白い角隠しをかぶると
その色彩というか光の美しさに陶然とする
鬼も牛になろう
実際、鬼に非の打ちどころはないのだ
鬼はただおびやかされた
動物たちの魂なのだ
それを牛が代表するのだ
牛は言い訳をしない
詩も冗舌をきらうので
詩には詩を否定するところがある
詩は光を少し曲げるのでbending machineともいえる
さあ街路を抜けて
人が海に潜りにゆくように私は図書館に行こう
Perspective Kidを主人公にしてできるかぎりのことをする
野の小動物たちが集結する
かれらが知ることの総体がこの土地の百科全書
まだ書かれてはいない
だがそっくり土地に埋もれている
松露のように
探し出せ
掘り出せ
見つけ出せ

那須塩原市図書館みるる、二〇二二年一〇月二日、快晴

死んでも生きる

イリナ・グリゴレ

眠れない夜にお腹が空いている時がある。血糖値を上げて眠くなるようにしている。ハチミツが一番効くけど、ここ最近ではイチジクをいろんなところから頂いたので、イチジクを食べて眠くなる。熱い、娘が喜ぶピンクか、赤、オレンジ、紫の色が付いたバスソルトのお風呂にたっぷり浸かった後、イチジクを食べて寝ると不思議な贅沢感がある。少し腐ったイチジクがいつも一個は入っているので、汁が出て、コバエが寄ってくる。子供が拾った栗からも虫が出ている。夜中にそれらに気づくけれどなんとも思わない。フライドチキンのポテトが入った袋に娘はたっぷりドングリを詰める。横に倒れている袋からドングリが転がるイメージが脳に残る。

それでも眠れない時、携帯の電池が切れるまでレオ・ウェルチのライブを聴く。彼のピンク色のギターと靴の夢を見るといいと思いながら。何年も前に彼のギターと同じピンクのレトロなキャデラックを運転している夢を見たと思い出した。ピンク色のキャデラックを運転すると幸せな気分になる、夢であっても。

娘たちも私の寝つきの悪さを受け継いだようで、3人でどうやって寝ればいいと毎日の悩みになっているが、そんな時間は面白い会話が生まれるきっかけでもある。長女が「いつ寝る?」と聞いたら、次女は「ずっと起きたら寝る」と答えて、笑いたくなる自分がますます眠れなくなる。また、ある夜に長女は「人は死んでも生きるよね」、「自分は何年まで死んでも生きる?」と聞き、どうしても返事が欲しくて泣き始めた。この質問にどうやって答えたらいいのかわからなくて、その夜に娘は先に寝たが、私は完全に眠れなくなってしまった。

眠れない理由は疲れていないからではない。秋は休みの日でも忙しい。獅子舞の練習、門付け、演舞、畑遊び、川遊び、パーティー、観劇、さまざまなイベントでスケジュールが一杯だ。ただ、寝るのは勿体無いという違和感との戦いなのだ。食べることも、寝ることも身体に必要だが、生きることがあまりにも嬉しい時、眠れなくなる、食べられなくなるという逆転現象になると最近気づいた。生きる時間が短すぎるという意識が強いかもしれないが、焦っているのではない。

温泉が大好きな私たちは水曜の午後に気に入った温泉へ向かう。山と川、紅葉していて、春のアカシアの花が咲いていたときに同じ道を通ったイメージが一瞬前だった気がした。こんな早く、青と白から赤と茶色に変わると。娘は秋の空に広がる雲を見て「猪だ、馬だ、犬だ、亀だ」と小さな脳でもうすでに世界を作っている。「ママ、山がついてくる、〇〇ちゃんのところに」と次女が叫ぶ。そう、車が動いているのではなく、山が動いているとパースペクティブを変えないと、この世界の理解は難しい、と運転しながら考えるだけで目眩がする。瞼を一回閉じたら、世界が消える。温泉のサウナに入りながら、2分の約束だったから娘がサウナの窓ガラスに小さな手と身体を置いているのを、幻のように感じる。もう、2分がたったのか、もうここにいる。そしてまた夜になって寝ないとだめ。眠れない。

ある日、友達の畑で白いTシャツを藍染めした。秋の日差しの中で、なぜか何百匹もの天道虫が飛んでいて、服、顔、腕、髪に止まった。天道虫だらけの人間になって、私が好きな青臭い、生の藍の葉っぱをミクサーで潰した。真白い服をその液体に入れると鮮やかな緑色になるとわかった。天道虫の赤と葉っぱの緑で世界が赤と緑となった。畑で干している緑色の服を見ると、周りの森と同じ色だ。その夜に見た夢でもその服が出てきた。夢ではもっと濃い、キラキラしているエメラルド色だった。娘が雲を動物に見えるのと同じ、私の脳の中では色がもっと素敵になっていた。娘の質問の答えを見つけた気がした。人間は死んでも生きることはできないが。人間がこの世界から刺激されて、魂をエメラルドグリーンに染めて、作る本、作品、映画、音楽などがその人が死んでから何年も生きるのだ。毎日、創作をする娘たちを見て、私ももっといろんなことを作りたくなる。人間とはクリエティブな生き物だった、最初から。

しもた屋之噺(249)

杉山洋一

冬時間に変わり、俄かに深秋の趣きが増した気がします。庭を彩る深紅の落葉が美しく、それをリスがさかさかと掻きあげては、隠しておいた木の実を食む姿も可愛らしいものです。喫緊の節電のせいか、目の前に広がる夜の帳は、例年よりずっと深みを帯びていて、何もかもを呑み込んでしまいそうで、少し畏怖すら覚えるほどです。

………

10月某日 ミラノ自宅
息子はフィエーゾレのアカデミー室内楽セミナー合格。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの人権団体にノーベル平和賞授賞。一柳慧さん逝去。北朝鮮のミサイルが日本を超えてゆき、弾道ミサイル警報、東京にも発令。クリミア大橋爆破。

10月某日 ミラノ自宅
久しぶりの雨降り。一柳先生の訃報が、時間と共に増々辛く感じられる。「自画像」初演の際、笑顔で「もうこれでお仕舞なの?」と肩をぽんぽん叩いて下さったのを、一生忘れない。色々とお世話になったけれど、本当にあの一言のおかげで、作曲を続けていられる。いつか、自分もあんな風に若い人と接することができたらよいと思う。
普段から日本に住んでいないと、大切な人の訃報に現実感が伴わなくていけない。そうして、人よりずっと遅く、本当に少しずつひたひたと現実が身体に沁み通ってくる。
浸透してくる実感だけはあるから、脳のどこかが当惑している。余りに時間差がありすぎて、手を拱いているのだろうか。一柳先生のいない喪失感は、未だあまりに現実感に乏しい。

10月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大君の三味線協奏曲の譜割りをしていた。譜割りをすると、楽譜に目を通す時に、音符ではなく休符を読むようになるので、そこに空間が生まれる。目が音符ばかりを拾ってゆくと、音を包含している周りの空間を実感できない。
ミラノに自作の録音にきたサーニに会う。シエナで会うと、どうしてもキジアーナのディレクターと指揮者の関係になってしまうが、気の置けないミラノの音楽スタジオでは、昔と変わらず、気軽な作曲家仲間に戻れて互いに心地よい。クリミア大橋爆撃への報復で、ウクライナ全土に大規模爆撃。

10月某日 アルバニア・ティラナホテル
マルペンサ空港ティラナ行窓口に並ぶ人々は、皆揃って同じ雰囲気に見える。皆誰もがアルバニア人だと思うのは酷い思い込みに違いないが、観光客らしい搭乗客が皆無なのは平日だからか。息子をミラノに置いてきたので、機中、家人は結婚以来初めての海外旅行だ、新婚旅行だ、とはしゃいでいる。
日本・アルバニア友好100周年にあたり、アルバニア日本大使館の開催する日本文化週間のための渡ア。ティラナで水谷川優子さんと落ち合う。
アドリア海を超えティラナに着くと、どんより黒い雲が低く垂れていて小雨模様。寂しい雰囲気に戸惑っていると、若い男二人組にレンタカーはいらないかと声を掛けられる。
迎えてくれた初老の運転手曰く、本来、アルバニアは年間300日は快晴に恵まれるので、こんな天気は珍しいそうだ。彼とはその後もずっとイタリア語でやりとりをした。
ここから北に140キロ、二時間ほど走らせればモンテネグロとの国境、北東に160キロ走ればコソボに入る。モンテネグロの向こうはクロアチアで、そこを通り越せばイタリアのトリエステになる。
ここから900キロほどと言われ、案外近いと早合点したが、ミラノから南下すればイタリア半島の端にあるターラントまで950キロ。北上すれば920キロでハノーファーまで行ける。パリまでは800キロしかない。900キロはそれなりの距離である。
彼の副業はインターネット経由の中古車売買で、つい30分ほど前にも、一台ドイツで中古のベンツが売れたので、早晩バーデンバーデンまで自ら運転して車を届けにゆくという。時々休んで寝たりして、1日で着くさ、と誇らしげに話す。イタリアのアルバニア人は、皆働き者で逞しいが、実際アルバニアに降り立ってみても、その印象は全く変わらない。
ティラナ市外に入り中心街に近づくと街並みはぐっと垢抜けて、マックス・マラのようなファッション・ブランド店が立ち並ぶ。ティラナならユーロで買い物は出来るそうだ。
大層立派なホテルでは、大使館の森川さんや山田さん、ヨニダさんが出迎えて下さる。何でも、先日までアルバニア在留日本人は30名弱だったが、少し人数が増えたそうだ。アルバニア日本大使館の開館もつい2017年元旦で、ほんの最近である。以前はローマ日本大使館がアルバニアも管轄していた。日本に住むアルバニア人は200人ほどだという。アルバニアの治安はすこぶる良いと聞き、実際に訪れてみなければ分からないことは多いと実感する。

10月某日 ティラナ・ホテル
朝10時より国立音大でワークショップ。国立音大は、ホテルから工科大学を挟んだすぐ先にある。イタリア統治時代の建物で、外観は一見こじんまりとしているが、中は広々としていて、イタリアのファシズム建築らしさも随所にみられた。アルバニア唯一の音楽大学である。
音大の指揮科学生4人と、メトロノームを使った基礎練習から始める。年の頃22、3歳くらいの素朴な若者たちで、当初少しはにかんでいるようにも見えた。男子学生3人に女学生1人。どことなく南イタリアの若者の風情に通じるところもあって、ミラノで教えている時とあまり変わらない。イタリア語と英語どちらが良いか尋ねると、彼らはイタリア語はあまり解さないと言う。
その後にピアニスト2人を迎え、「兵士の物語」と「未完成」を少しずつ聴かせてもらう。振ることに夢中の生徒にはピアニストの目を見て振るように伝え、強音を出すのをためらう女学生には、自信をもって強い音を出させてみた。各人見違えるように姿勢が能動的になってゆく。外人によるワークショップは初めての試みだそうで、学生もピアニストも最初は少し緊張していたようだ。
ワークショップ後、学生たちから助言を求められる。今度ショスタコーヴィチを演奏会で振るのだが、クラシックのように音楽的に振って構わないか、など。確かに音楽大学は一校しかないが、特に音楽教育が遅れている印象は受けなかった。

10月某日 ティラナ・ホテル
国立オペラ・バレエ劇場にてリハーサル。立派で重厚な石造りの劇場は、内装をリフォームしたばかりで美しい。舞台監督の若者曰く、この劇場を、一日も早く他のヨーロッパの劇場と肩を並べられる存在にしたいと頑張っているのだそうだ。何でも言って下さい、それを実現するのが我々の務めです、と慇懃で実に親切である。
練習室はしっかりした防音室で、数本の白鍵が剥がれ、木が剥き出しになっている、部屋に設えたヤマハのピアノとは少し不釣り合いに見えた。部屋に置いてあったヴェルディのレクイエムの楽譜は、戦前のリコルディ版のコピーであった。
このように、新旧の混在する、少しアンバランスな印象は、欧州最貧国であるアルバニアの社会全体にも通じるものがあるかもしれない。61年のソ連との国交断絶から、90年代の開放政策までの鎖国時代、音楽文化も音楽教育も、国外からはすっかり隔離されていたようだ。
61年以前、アルバニアにはソ連の音楽家が多数滞在し、音楽教育もとても盛んであったが、国交断絶とともに彼らは引揚げてしまった。しかしその後鎖国期間中もアルバニアはソ連式音楽教育をそのまま続けたため、音楽家の基礎能力は押しなべて高く、特に弦楽器は優秀な演奏家を現在も多数輩出している。新しいスカラ座のコンサートミストレスも若いアルバニア人だし、ロンバルディア州立オーケストラのコンサートミストレスは、もう大分昔からアルバニア人のリンダだ。
夜は、内陸部エルバサンにあるアルバニア最大の水産加工会社ロザファ社の本社のある「フィッシュ・シティー」に向かう。アルバニアはアドリア海に面していながら、最近まで魚を食べる習慣がなかった。ここ数十年足らずの間に、イタリア人の料理人からアルバニアに魚料理が伝えられ、盛んに食べられるようになったという。御多分に漏れず、寿司はアルバニアでも人気があった。以前は、立派な伊勢海老が、家畜の豚の飼料に使われていた。
「フィッシュ・シティー」は巨大総合レジャー施設で観光スポットでもある。その中に水産加工場があって、ここで処理された水産加工品がヨーロッパ各国に輸出されている。ロザファ社が昨年より開始した畜養マグロは、全量日本に輸出されたそうだ。今日はここで、大使館主催の大規模イヴェントがあって、マグロと鰻のかば焼きが振舞われる。鰻はこのあたりではよく獲れるそうだが、獲った鰻が夜のうちに逃げ出してしまうとかで、数が足りなくなって、慌ててまた獲りにゆくと聞き大変愉快になった。
なるほど、このバルカン半島を北上した先、イタリア・ヴェネト地方などでは、鰻が伝統的に食べられていたのを思い出す。しかし、元来魚を食べないアルバニアの人々が鰻を食していたとは思えないので、食べたとしてもここ最近の話なのだろう。
道中へティエナから色々話を聞く。ティラナにいると分からないが、地方の貧困問題は深刻で、特に北部は状況が厳しく、海外への不正な渡航が後を絶たないそうだ。
併し、寧ろ高学歴のアルバニア人の人材流失が最も深刻で、大卒もしくはそれ以上の高いスキルを持ったアルバニア人は、海外に出たきりアルバニアに戻らないのだという。海外に拠点を作り、そこにアルバニアから家族を呼び寄せるのが一般的です、わたしはアルバニアに帰ってきましたが、と流暢な日本語でヨニダが説明してくれた。
医者や芸術家など、優秀なアルバニア人はみなアルバニアからいなくなった、とへティエナは嘆いていたが、イタリアで出会うアルバニア人演奏家が揃って優秀なのはそういう理由だった。優秀でそれなりに金銭的余裕もなければ、海外に留学すら出来ないに違いない。以前は、渡航先としてイタリアが一番人気だったが、近年はイギリス、ロンドンが特に高い人気を誇っている。
へティエナもヨニダも伊語が上手で、文法も発音も見事だから、当然どこかで習ったと思いきや、彼女ら曰く幼少からイタリアのテレビで育っただけだという。それにどの家族も一人くらいはイタリア在住の近しい親戚がいるから、習わなくても話せるようになるらしい。アルバニア人の言語習得能力が特に優れているのか知らないが、伊語は文法的には容易な言葉ではない。イタリア人ですら子供の頃から苦労して伊語を学ぶものを、テレビを見るだけで、簡単に話せるようになるのだろうか。
伊語の話せるアルバニア人が、揃って凡そ30歳以上なのは、より若い世代がインターネットで育っていて、イタリアのテレビに親しんでいないからだという。彼らは伊語の替わりに英語を話す。
占領地の国民に占領国の言語を強制する話はよく聞くけれど、その言葉と文化に興味さえ覚えられれば、本来それを強いる必要などないのである。一時的にせよ、アルバニアはイタリアに占領されていた側のはずだ。エチオピアやエリトリアなどアフリカ諸国にしてもそうだが、イタリアと当時の占領国との関係は、どうもよく分からない。
鰻は確かに美味であったが、マグロ寿司はそれを遥かに上回る美味しさで、忘れられない。

10月某日 ティラナ・ホテル
初めての快晴。全てが瑞々しく、南国らしい様相を呈していて、昨日までとは別世界である。
今日は朝10時から劇場のオーケストラと伊福部作品のリハーサル。生まれて初めてアルバニアのオーケストラの音を聴く。アルバニアのオーケストラは、録音すら聴く機会がなかったので、深い感慨を覚える。アルバニアに幾つオーケストラがあるのか知らないし、他のオーケストラのレヴェルは分からないが、劇場オーケストラの弦楽器セクションはとても良い音がして、何しろ心地よかった。特に上手な弾き手を集めて下さったのかもしれないが、それぞれがしっかり自分の音を表現しつつ、同時にオーケストラの音にも馴染んていて、大変魅力的であった。
現在も堅固なソ連式メソッドが残っているのか、技術的安定度もあり、歌謡性、つまり歌い回しは、スラブ的というより寧ろずっとイタリア的に感じられた。最初に一度通してから、丁寧に各曲を返したが、思いの外効率よく進んだのは、彼らに任せられる部分が多分にあったからだ。
興味深いのは、ギリシャ・ラテン系の歌謡性や楽観性と、独自の言語体系と文化体系を持ち、他の東欧社会主義国家と一線を画しつつ独自の近代史を歩んだ、彼らの真面目さ、気高さ、誇り高さ、几帳面さなどが同居しているところではないか。なるほどヨーロッパの秘境であった。良い意味で、文化的に鄙びたところも残っていて、伊福部作品の旋律も、あたかも彼らの伝統音楽に等しく絡め取ってくれたのではないか。
続いて家人のバッハのリハーサルにも立ち会う。劇場の指揮者ドコ氏は、確かにロシアメソッドであった。品が良く思いの外繊細で、ドコ氏の人柄に似て、優しい音楽である。昔から憧れている指揮者にフリッチャイとマタチッチがいて、それぞれ全く個性が違うのだが、アルバニアのオーケストラや指揮者を知らなかったので、どことなくクロアチアのマタチッチのような指揮者を想像していた。しかしドコ氏は意外なくらい繊細で、技術面ではずっとロシア的に感じられたし、歌い回しにイタリア的なものも感じられたのは、普段からオペラを振り慣れているからかもしれない。
アルバニアの劇場を出ると、脇にあるモスクのスピーカーから大音量のコーランが聴こえてくる。歌うような美しい抑揚なので耳に心地よく、街を満たすアラビア系の香木の匂いと相俟って、イスラムの国に来た錯覚を覚えるが、実際は他宗教と等しく共存している。
昨日は水谷川さんと家人が「天の火」を演奏してくれた。終盤、水谷川さんが舞台後方にしつらえられたガラス張りの螺旋階段を昇り、中ほどの踊り場で演奏したが、下から見上げるとチェロと足だけが見えて、譜面台のスタンドライトだけが輝き、なかなかに神々しい。演奏終了後、聴衆はみな立ったまま盛んに拍手を贈っていた。
夜、高田大使公邸に伺い、劇場の支配人をしているアビゲイラと話し込む。彼女はよく知られる優秀なヴァイオリニストでもあり、ミラノに長く住み、スカラのオーケストラでも働いていた。スカラやピッコロ・テアトロと一緒に日本を訪れた際の日本の印象を尋ねると、「日本は男女格差が酷い」とのことであった。
アルバニアの女性の印象は、割と竹を割ったようなさばさばした性格が多く、なよなよした印象がないのは、共産主義社会の名残りか。「わたしはフェミストだから、どうしても気になっちゃうの、そういうところ」と笑った。
彼女は他のアルバニア音楽家と同じく、6歳になるとき、自分で音楽がやりたいと両親に話して、音楽科つき小学校に入学を希望し、自分の意志でヴァイオリンを始めた。家族に音楽家はいなかったそうだ。そのまま学校でヴァイオリンを学び続け、最終的に先日教えに行ったアルバニア唯一の音楽大学で研鑽を積んだ後、ミラノの国立音楽院に留学したのだが、彼女曰く、ミラノの音楽院の方がレヴェルは低くて落胆したという。尤も、音楽院以外の環境においては、ミラノはとても魅力的で、音楽会も誘われる仕事もいつもとても刺激的だった、と目を輝かせた。
国立オペラ・バレエ劇場の歌手、バレエダンサー、演奏家、合唱団員は全て終身雇用契約となっており、現在劇場は14人のオペラ歌手、48人のオーケストラ団員を抱え、足りない配役やオーケストラ団員はエキストラで賄う。イタリアからも若い演奏家たちが多数エキストラに呼ばれているのは以前から知っていた。終身雇用と聞いて驚いたが、彼女曰く、音楽家の生活の保障としては最良だが、特に歌手など、とうが立ってきても等しく役を見つけ出演の機会を作らなければならないのは結構難しいという。
現在、アルバニア政府はティラナに二つ目のオペラ劇場を作る計画を立てるなど、音楽活動への投資に積極的だそうだ。今年の七月から劇場のすべてのアーチストの給与を一律5割引き上げ、月給1000ユーロとなったと言う。国民の平均賃金が月給300ユーロから600ユーロのアルバニアに於いて、1000ユーロの月給は破格の待遇だという。
彼女曰く、得てしてアルバニア人の語学習得能力が高いのは、この世界で生き抜くための逞しい生存本能とのこと。

10月某日 ティラナ・ホテル
等しく快晴。気分良し。軽く汗ばむほどだの陽気だが、ティラナから見たアドリア海の対岸は南イタリアのバーリだから、文字通り南国なのだ。劇場前の巨大なスカンデルベグ広場に立つと、目の前のそこかしこに、建設中の立派な高層ビルが目に入ってくる。目の前に広がる風景は近代的どころか、現代的ですらある街並みで、この国がヨーロッパ最貧国であることを忘れてしまいそうになる。
尤も、一本路地を入れば、昔ながらの鄙びた感じも残る。束ねられた2,30本の電線がだらしなく垂れる通りもあって、個人的にはその寂れた風情も大好きなのだが、ティラナ中心にあるスカンデルベグ広場から見える景色は、世界各国からの投資を得て急激に成長しつつある、頼もしい国家の姿そのものであった。
現在のアルバニアは、ヨーロッパ、特にドイツから北のヨーロッパ人が、燦燦と輝く太陽光を求めて訪れる観光立国で、しばしば、ドイツ人の団体観光客などが楽しそうに固まって歩く姿に出会った。タクシーの運転手曰く、コロナ禍でもアルバニアには殆ど感染が広がらなったため、ロックダウンも入国制限も行われないまま、ヨーロッパ各地からの観光客をずっと受け入れていたという。日本政府はつい先日までアルバニアを感染地域としてレッドゾーンに指定していたはずだが、一体どちらが正しいのだろう。
アメリカとの繋がりも強く、アメリカから観光客ももちろん訪れるが、2009年にNATOに加盟し、アルバニアに米軍基地が建設されて、関係はより深まったようだ。ちなみに、日本などアジア方面からアルバニアを訪れる観光客は未だ非常に少ない。但し、中国とアルバニアは以前から政治的に繋がりが強く、小規模ながら中国人コミュニティは存在していた。
昨日の昼食は、劇場から少し歩いて、瀟洒なイタリア料理屋に連れていってもらった。殆どのメニューにトリュフがかかっているトリュフ専門店で、トリュフがけのパッケリというパスタを頼んだが、大変美味であった。トリュフは好きでも嫌いでもないが、パッケリの茹で加減も味付けもイタリアで食べるものと違わないのに驚く。フランスやドイツで食べるイタリア料理とは別格で、イタリア人がどれだけ頻繁に訪れているのか分かる。隣の席の若い男女もイタリア人だった。
ミラノでこのトリュフがけパッケリを頼めば、15ユーロから20ユーロはするだろうが、ティラナでは7ユーロである。全体の物価の印象はミラノの3分の1から4分の1ほどだろうか。イタリアですらそうなのだから、ドイツや北欧から訪れる観光客にとっては、どれだけ安価に感じられるだろうか。
これは未だ通貨がリラだった95年、日本からイタリアに移住した当時の感覚に近い。あの頃は酷い田舎に引っ越してきたと思ったし、全て安価なのに驚いた。これほど安ければ何とか生き延びられるかもしれない、と一縷の望みを抱いた記憶もある。
その頃イタリアには日本人観光客が大挙して押し寄せていた。年始のスカラ座前広場には、幾つもの日本人の団体客がそれぞれ大型観光バスで乗り付け、芋を洗う騒ぎになっていて、ガレリアのプラダでは、日本の観光客は商品を棚ごと買い占めていた。あれから30年ほどの間に世界は随分変わったと思う。
午前中、劇場でドレスリハーサルをしてから、昼食前に一人でホテルの裏山を超え、湖を訪れた。ホテル脇の登坂を少し行くと、道端に座り込んでいる老人がいたので、湖はどこかと尋ねるが通じない。それでも身振り手振りでああだこうだ言っていると、ああそれならここを昇りなさい、と泥濘んだ小道を指示されて、いささか当惑しつつも鬱蒼とした丘を越えると、そこには確かに美しい湖があった。東洋人があまりいないからか、珍しそうに見られるが、湖畔は思い思いに散策する人々で大層な賑わいであった。誰も慌てていない。安穏としていて、不幸な風情は微塵もなかった。湖畔のどこかで、イタリアのパルチザン歌「Bella Ciao!」を歌っているのが聴こえた。
夜の演奏会では、家人のバッハは独奏、オーケストラともに互いにとても聴き合っていて、なかなかの名演であった。「日本組曲」も等しくオーケストラはとても良く弾いてくれて、演奏会終了後、日本大使のご夫妻から、聴いているうち、ふと100年前の日本の農村の風景が目の前に浮かんできて、強烈な郷愁を覚えた。こんなことは初めてです、有難うございます、と言われる。伊福部さんが作曲したのが1933年だから、100年前の農村の姿、というのは、ほぼそのまま当てはまる。作曲の経緯や作曲年代も一切伝えていなかったから、彼らは、純粋に作品と演奏からそう想起したのである。この感想を聞いて、改めて伊福部昭の音楽には畏れ入るばかりであった。音楽とはやはり何かを伝えるツールなのだろうか。その感想をわざわざ伝えに来てくださった時には、鳥肌が立った。演奏前、「日本組曲」を筝で演奏しておられた、野坂恵子さんを思う。
森川さんは、息子さんがゴジラファンなので、違った伊福部音楽を知って喜んでいらしたし、山田さんは、リハーサルで初めて「日本組曲」が鳴り出したときは、思わず胸が一杯になりましたと言ってらした。人それぞれの心に何かを呼び覚ますことができるのは、やはり音楽の醍醐味以外の何物でもない。

10月某日 ミラノ自宅
朝3時50分にホテルラウンジに降りると、ちゃんとタクシー運転手が待っていてくれて安心する。4時20分にはティラナの空港に着いたが、既に驚く程の人いきれでごった返している。どの喫茶店も開店しているどころか、既に満席に近い。皆週末を気候の良いティラナで過ごし、こうして週明け早朝に自宅に戻ってそのまま仕事を始めるのだろう。観光立国らしく、荷物検査もパスポートコントロールも、係員が物凄い勢いで捌いていて、人の流れは案外スムーズであった。午後から学校に出かけて、今年度の仕事始め。へろへろで帰宅。

10月某日 ミラノ自宅
大分三半規管の不調も収まってきて、安心する。朝、運河沿いを散歩していると、タナゴと思しき魚の群れが、一斉に川底に尾びれを翻して産卵していた。朝日に銀色の鱗がきらきら輝いて圧巻の光景。
ティラナでお世話になった高田大使は、まるで偉ぶらず、隅々に気配りを忘れないスマートな方で、同時にエネルギッシュな情熱に溢れていた。フィッシュセンターでの盛大な鰻の蒲焼大会も、アルバニアのマグロを日本に届けるのも、国立オペラ劇場での日本音楽の紹介も、柔道や空手大会の大使杯の開催も、本当にどれも自分事として情熱を傾けていらして、その思いはこちらにもひしひしと伝わってくるのだった。
大使のような立場であれば、持ちこまれた企画を採択して、実現をサポートする役回りかと思いこんでいたが、高田さんはその先入観を見事に覆して下さって、大変感銘を受けた。
庶民的と言うと失礼かも知れないが、遠くから眺めて満足されるような他人行儀な印象は皆無であった。実際に足を運び、食べて、見て、聴いて、話すことが大好きでたまらない、とお見受けした。国立音大でのワークショップのレッスン風景も、嬉々として眺めていらしたので、最初は少々驚いた程だった。
アルバニアのように、現在様々なインセンティブを貪欲に欲している国にとって、高田さんのような情熱溢れる存在の意味は、途轍もなく大きいはずだ。概して、大使館の誰もが、アルバニアと日本の関係発展に対し、純粋に心を砕いている非常に温かい公館という印象を受けた。
ところで、息子曰く、伊福部「日本組曲」は「春の祭典」を想起させるそうだ。なかなか良いセンスをしていると感心する。曲名も言わずに「日本組曲」を聞かせたミーノは、「これがアルバニアの音楽なのかい、なかなかいいねえ」と感想を寄せた。伊福部作品が日本人の心を代弁しているというのは、案外我々の先入観そのものかもしれない。なるほどディアギレフとニジンスキーの「春の祭典」など、そのまま「日本組曲」の振り付けに使えそうである。

10月某日 ミラノ自宅
新年度初めての指揮レッスン日。3年来教えて来たマルティーナもダヴィデもマスクなしで話すのは初めてで、感慨を覚える。こんな顔をしていたのかと意外に思ったり、マスクがなければ、これほど表情が豊かな若者だったのかと感心したり、笑顔がこれほど顔いっぱいに広がっていたのかと驚いた。
ガブリエレに、音楽を生き物のように、動物のように扱ってみたらどうかな、と言うと、先生うちは代々猟師ですから動物との関わりはちょっと特殊なんです。試しに先生の言う通り、今も「運命」を動物のように考えて振ってみたのですが、目の前に浮かんでくるのは、今年夏に刎ねた最後の鶏の顔ばかりで、これではどうにもうまく行きません、と言われる。

10月某日 ミラノ自宅
家の手伝いをしてくれているアナがコロナ陽性になり休みを取った。家からほど近い薬局にて、ワクチン4回目接種。オミクロン株仕様に強化されたファイザー。特にワクチン推進派でもないが、家族のため、ともかくどんなものか試しておきたいと思ったのと、今秋から授業は全て対面になったので、念のため。壮大な治験に参加している感覚で、それ以上でもそれ以下でもない。外国為替対ドル150円突破。

10月某日 ミラノ自宅
昨日打ったワクチンのことを考え、朝8時まで布団に入って休む。尤も、腕の注射跡に朝方多少の違和感が残っていただけで、発熱もなし。全く普通と変わらない。
塚原さんのファゴットのための新作、仮でも構わないので題名を決めてほしいということで、今朝の新聞記事をそのまま使い、「ドニエプル河をわたって」とする。現在、ロシアがダム破壊を準備している、と盛んに報道されているが、実際はどうかわからない。この曲が演奏されるころ、世界はどうなっているのだろう。世界が今と同じように続いているのかすら、正直心許ない限りである。対ドル151円となり日銀介入。146円まで上がる。

10月某日 ミラノ自宅
メローニ政権発足。息子は明け方酷く咳をしていたので、昼前まで寝かせておく。彼は以前、こうして喘息症状のあとで身体が麻痺した経験があるので、気が気ではない。薬は極力飲みたくないようだから、本人も気にしているのかもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
入野禮子先生がお亡くなりになった、と家人からのメール。
その昔、日本にいた頃は、禮子先生のところで何度となくレクチャーやレッスンなどを開かせて頂いた。誰にも分け隔てなく門戸を開いてくださり、我々皆のパトロンであった。イタリアから作曲家が来るたびにお世話になり、彼らを先生のお宅に泊めて頂いたこともある。そうした経緯から、マンカやピサーティも、入野先生とはずいぶん親しくお付き合いしていた。世界で最初にカザーレを見出したのも、入野先生のところのコンクールが切っ掛けではなかったか。ウラジオストクとの交流の印象が強い禮子先生でいらしたが、こうしてイタリアはじめ、世界各地の音楽家たちと交流が深かったに違いない。今にして思えば、家人と最初に出会ったのも、禮子先生宅の交流会であった。若い頃は、そうした掛替えのない時間の一つ一つを、殆ど気にも留めずに過ごしてゆく。若さとは本来そうであるべきなのかもしれない。入野禮子先生はいつも明るく闊達で、どことなくマーガレットの花に似ている。
夕刻息子が受けた国立音楽院のコンクール表彰式にでかけると、卒業生代表としてシャイーが特別ゲストとして招かれていて、彼が舞台にあがると万雷の拍手。
町田の母と電話をする。従兄の操さんから電話があったとこのこと。操さんは3月19日生まれと出生届が出ているが、実際は1月生まれで、家族が忙しくて役所に届けを出さなかった。昔は大らかだったし、子供が生まれても大騒ぎもしなかったと笑った。母の父親は謹吾さんと言ったが、本当はケン吾さんになるはずだった。
町田で育てている月下美人が三輪同時に開花している。父曰く、生きているかのようにブルブルと震わせながら頭を擡げてきて、花が開いた途端、本当に良い香りに包まれるという。

(10月31日ミラノにて)

線と文字と音

高橋悠治

11月で休暇を取って、ピアノを弾いているとできなかったことをしたい。知らなかった音楽を見つけて演奏するのにも限界がある。20世紀後半の「現代音楽」と言われていたものも、今は「現代」とは言えない。世界は変わりつつある。ヨーロッパは分裂し、アメリカに従って戦争で壊れていくばかり。

音楽しかできることがなくても、社会の変化に影響されて、できないことが増えていく。コロナが2020年に流行し始めて、コンサートには人が来なくなった。CDも本も売れなくなっている。日本から出ないと他の土地の様子はわからない。でも、「行かれない」だけでなく、行きたくないのは、年齢のせいか、You Tube や Vimeo で見聞きする、わずかな情報のせいか。

今年2020年にバガテルを集めたコンサートをした時、出会ったフィリピンのジョナス・バエスの曲、その元になったミャンマーのサンダヤというピアノ・スタイルは、ガムランはじめ東南アジアの合奏スタイルを、西洋楽器に取り入れたものだった。西洋楽器で西洋音楽を弾く、そしてそれをモデルとして自分たちの音楽を作る、という日本とはちがう考え方がある。

そういえば日本でも、中国や朝鮮から取り入れた漢字や学問は、好みのままに見方・使い方を変え、実験を重ねて、平安朝の女文字や日記を作った時もあった。明治時代の西洋崇拝や、第2次大戦後のアメリカ風とはちがっていた気がする。

今は西洋モデルでできることはあまり見えない。和声や対位法、旋法も、20世紀に分解されて点の音楽になり、コンピュータ化された。その道具の方からディジタルの限界が感じられる。対位法 (contra-punct) は点対点、旋法の終止法や調性の機能のない響きだけの和音は点の堆積。音色は、標準化されたオーケストラ楽器の限られた組み合わせ。

声だけが、ディジタル化されていない。声の分析と再合成は複雑で、再生機器を通すと、短いサンプルだけが不自然に聞こえなかった。20年前にコンピュータ音楽をやめたのは、その音に飽きたから。

声や楽器で音の線を作る。線の時間・空間の配置・配分を試してみる。線の即興的変化で、中心のない、不安定な動きに、演奏の即興性が加われば、そこに平安朝の女手の散らし書きのような、揺れる水鏡やそよ風の木魂が起こるかもしれない。