217 もう一度

藤井貞和

国の利益よりも大切な何かがあると教えることのできる人間の先生。
不利益になっても表現されなければならない無言の叫びがあると教える人間の教室。

国民感情が高まっている時、理性が示す本当の価値は国民感情にないと、
はっきり言うことができる、人間の芸術家、人間の思想家。

最後に、人間の兵士たちへ。もし思想が、あなたたち兵士の持つ、もっとも人間的な、
何かをなくそうとするならば、あなたたちはその思想にさえも銃を向けるの?

(富山妙子の火種工房に集まった夜、「最後」について、「理性」について、「人間」について、202「海の道の日」をもう一度。)

新年の抱負

さとうまき

あけましておめでとうございます。
昨年は、ロシアのウクライナ侵攻に始まり、明るい話題はなかなかなかった。僕自身11月の終わりにとうとうコロナに感染してしまった。熱もそれほど上がらなかったのだが、のどの痛さと咳が一か月も続く。痰も絡んで息苦しい。コロナ中はちょうどサッカーのワールドカップが始まった時期だったので、夜中まで試合を見ていた。

今までワールドカップの時期はちょうどパレスチナやらイラクやらヨルダンにいたので、カフェで現地の人たちと盛り上がって楽しかったものだ。いつのころからか、子どもたちがメッシ、メッシと騒ぎ出したので、気が付くと僕もメッシを追っかけるようになっていた。僕はイラクの癌の子どもたちの支援に長くかかわっていた。病院にはクルドのこどもやアラブのこども、シリアからも難民の患者がいたが、みな、メッシが活躍すると大喜びだった。だから、今回のワールドカップでメッシが大活躍だったのは、サッカーそのものが美しいだけでなく、がんの子どもたちが喜んでいるのだろうという姿を想像すると嬉しくてたまらないという感じだった。アルゼンチンの優勝は、一番うれしいニュースだった!

カタールというアラブで初めてのワールドカップにはいろいろとケチが着いた。まず、30兆円を超える費用がかかっているらしい。東京オリンピックでは1.9兆円程度らしいが、それでも最初の予算は7300臆円なので2倍は超えてしまった。それに比べてもカタール政府は桁外れのお金を使っている。誘致のためにばらまいたわいろもいろいろ問題になっている。

スタジアムの建設工事のために、外国人労働者が過酷な労働を強いられ6000人以上がなくなったらしい。そして問題なのは、性的マイノリティを認めないという人権侵害である。ドイツの選手たちは、日本との対戦前の写真撮影では、口で手をふさいで意思表示を封じられたとFIFAに抗議をした。これは欧州のイングランド、ウェールズ、ベルギー、オランダ、デンマーク、ドイツ、スイスのサッカー連盟が、カタールの性的マイノリティ差別に抗議する意味を込めて、one love と書いた腕章をつけてプレイする予定だったのを、FIFAがイエローカードの対象になるとして阻止したことへの抗議であった。

カタールという国は人口260万人ほどで、うち13%しかカタール人がおらず残りは外国人らしいから如何にうまく外国人を使いこなしているか。同じアラブでも僕が暮らしてきた国とはずいぶん趣が違うようだ。メッシやネイマール、エムバペや、モロッコのハキームといったワールドカップで活躍した選手たちは、パリ・サンジェルマンというフランスのクラブチームに所属しているのだが、そのクラブのオーナーはカタール政府なのだ。サッカービジネスではまさに頂上を抑えている。今回のワールドカップでいろいろ問題は指摘されたが、やり遂げたことによりカタールには新しい景色が見える。人権問題も少しずつ改善されていくのだろう。

ただ、アラブだから、イスラムだからという問題よりもむしろ、巨大化したスポーツビジネスの構造的な問題も大きいと思う。日本だってオリンピックは問題だらけ。汚職の問題は後を絶たない。マイノリティにやさしいくにかというと決してそうではないし。経済も衰退してますます世界に取り残されていきそうだ。

僕の個人的な課題は大掃除を年末にするはずであったが、気合を入れてみたもののすぐ飽きてしまった。結局、メッシ人形(正確にはメッシの顔をした赤ベコ)で遊んでしまった。

https://youtu.be/E3890zd-poA
メッシのせいで大掃除が小掃除になってしまったがまあいいだろう。 
希望にあふれた年になってほしいものだ。

ゴダールのひこうき雲

植松眞人

 暮れも押し迫った頃になると、家の中が殺気立ってくるので、いろいろと用事を作って外に出ることが多い。殺気立った家の中にいてもろくなことがない。もちろん、家人からすると、この忙しい時に逃げやがったな、ということになるのだけれど。
 いまやらないと間に合わない、という理由をでっち上げて今日も外に出た。実家の最寄り駅近く。都市部まで電車で三十分もあれば着くのに、この空の広さはなんだ、と見上げているとくっきりとしたひこうき雲が見えた。しかも、そのひこうき雲はいままさに空に描かれている最中で、目にはよく見えないのだけれど、先端には飛行機が飛んでいるのだろうと思う。
 ひこうき雲を見ると思い出す映画がある。正確には映画全体を思い出すというよりも、その映画の中にあったひこうき雲を追っているワンカットを思い出すのだ。
 「ゴダール、八十年代映画大陸への帰還」と少し大仰な惹句が付けられたそのポスターは、何度かの引っ越しを繰り返す内になくしてしまったのだけれど、たった一度だけ見た内容は割と細かく覚えている。
 映画を作ることを映画にした『パッション』という作品は、かなりの野心作で緊張感のカットが次から次へと繰り広げられるのだった。しかし、その中に唯一と言えるほど人間味溢れるカットがふいに差し込まれる。それはゴダール自身が撮ったとされるひこうき雲のカットだ。
 撮影中、偶然見かけたひこうき雲に向かってゴダールがカメラを向け、三脚のハンドルを回しながらひこうき雲が伸びる先に向かってレンズを向けたのだろう。そのカットはカクカクと不器用に動き、決してうまいとは言えない出来だ。しかし、ひこうき雲の行く先を見たいという気持ちがダイレクトに伝わってくるという意味では、この映画のなかで最も魅力的なカットと言える。
 監督がカメラの揺れよりも、そのカットが伝える魅力を重視するなら、そんな揺れるカットを使ってもいいのだということを私はゴダールに教えられた。
 関西の地方都市のローカルな駅前で空を見上げてひこうき雲を追いかけながら、私はゴダールを思い、ゴダールが撮ったひこうき雲を思っていた。
 ゴダールが亡くなって三ヵ月。結局、ゴダールはゴダール以降、映画はこう変わったというお手本とならずに、ずっと異端であり続けた。永遠とも言える瑞々しさを保ったまま、しかも誰も真似できない存在になったゴダール。私にとって、『パッション』のなかのひこうき雲はまさにその象徴なのである。
 不穏で、純粋で、目を見張るくらいに美しいひこうき雲をカットはおそらくほんの数秒しかない。

ゴダールが死んだ年に

イリナ・グリゴレ

ゴダールが死んだ年に、私は朝の4時に起き、鏡の前で化粧し、真っ暗闇の中、空港へ車で向かった。シンプルな服にしたがセーターも長いスカートも、どう見ても東ヨーロッパっぽい雰囲気だと自分でも思った。自分の中でこの服装が、昔よく見かけた女教師の服装だと気づく。でも、小さかった時に周りに女性で大学の先生が一人もいなかったので、よくわからない。喋り方も演技もわからない。誰もそう思ってないのに、勝手に東ヨーロッパのコンプレックスが出てしまっている。髪の毛を結ぶかどうか悩んだ。染めてもいないのに薄い色なので、実際の歳よりも若く見える。自分で弱い人間に見えてしまうと思っている。そうだ、私は山で家畜の世話をして、チーズを作る顔だと言われたことがある。それでも、勇気を出して日本に来てから「大学の先生」になる夢を諦めてない。だから今年、ゴダールが死んだこの年に、秋の冷える朝方に、二人の娘が眠る温かいベッドからそっと抜けて、夢へと向かう。私が東京に着くまで起きないだろうが、この二人の寝顔と温もりがずっと自分の身体に残る。ずっと一緒だったから離れるのが淋しい。

空港までの運転はスムーズだった。慣れないヒールの靴でペダルを押すと違和感があったが良い気分だ。夢へ向かうと必ず良い気分になる。長い間、光がない部屋にいて、ドアを開けると新しい空気が入って、光が入って、そしてなぜかカーラジオで流れていた曲は「グリーンスリーブス」だった。飛行機で隣に座った身体が大きいサラリーマンは何処か淋しそうな顔だった。C Aはコップに熱いスープをうまく入れられず、2回ぐらい普通に自分の服と床にこぼしていた。スローモーションで見えた。それを見ていた彼は言葉も出ず、ジェスチャーで止めようとしたがC Aが冷たい笑顔でなんともなかったように演技を続けたから彼はすぐ諦めた。都会へ久しぶりに出る私には周りの人の全ての仕草と表情がハリウッド並みの演技にしか見えなかった。

電車に乗ると仕事へ向かう人々の姿勢、服装、ブランド名の鞄がみな完璧で、ますます私の東ヨーロッパ・コンプレックスが高まった。でも羊を飼いたいと思わないし、私はチーズが好きだが、ミルクは嫌い。アンドレア・アーノルド監督の『Milk』というデビュー作で描かれた女性の悲しみ。出産した赤ちゃんが死んだ。葬儀に行かず道をぶらぶら歩いて、突然に出会う若い男性とドライブへ行く。出産した間もない女性の体がとても痛いにもかかわらず車の中でその男性と身体の関係を持つ。こんな悲しいシーンがあるのかと思うぐらい悲しい。お互いの悲しみに飲み込まれる二人だが、最後に女性の体から母乳が溢れてくる。死んだ赤ちゃんが飲むはずの母乳をその男性が呑むシーンがものすごく悲しい。それは救いのシーンでもある。お互いに救われた。見ている側まで救われた。女性の身体について考えるとこのシーンを思い出す。アンドレア・アーノルド監督について解説書を書きたいと思いながら関東の電車を何回も乗り越えて最初の面接に向かう。

目的の駅に着くと、そこは大学生で溢れていた。アニメと若者雑誌に出てきそうな格好で歩いているその若々しさが好きだと思った。「大学の先生」になりたい理由の一つは若い人たちと話できるからだと思う。私は、教えることが好き。映画について、学問について、本について。私が受けたかった授業を作りたいからだ。でもそれだけではない、私も彼らから学んでいることがたくさんあるから。この前も自分の研究に役立つようなアイデアを学生から聞いた。駅に早く着いた。周りをうろうろしてから昨日の昼から何も食べてないと思い出して駅のすぐそばの料理店に入る。狭い階段を登ることもこのキツイ服で苦労だ。学生みたいな格好でよかったのに。いつもパーカーしか着ない自分が悔しい。でも、この世の中の全ては見た目から始まるとわかっている。店には客は誰も居なかったけど美味しそうなワインのボトルが並んで良い雰囲気のビストロだった。マスターは私が普通の顔で洋食ではなく、鯖味噌煮定食を頼んだから驚く。でもご飯が少なめというから「足りるのか心配なので」サービスでサラダを出してくれた。この店はとてもいいし、いつか夜はここでお酒飲みたいと思う。またここに来られるといい。会計の時に「先生ですか?」と聞かれたから、私の見た目が先生っぽくなっていたことに安心した。

最初の面接は、模擬授業と質問だった。面接のトラウマが映画大学の受験のときにあるので、模擬授業から入るのは助かった。授業を教えるのが大好き。「人類学入門」として、民族誌映画とジャン・ルーシュの「狂った主人公たち」についての講義をした。とあるインタビューでジャン・ルーシュが「人類学者は私を映画監督と見なしている。映画監督と一緒にいる時、彼らは私を人類学者と見なす」と言ったことも紹介した。自分自身のイメージと重なるから。学生に早く教えたい、ジャン・ルーシュの素晴らしさ、学生に早く作らせたい、彼らにしかできない映像を。もっと面白い、もっと凄いと自分の中で興奮しはじめる。面接に集まった先生の目を見ると、それは伝わったみたい。

だが質問では「子どもと一緒に引っ越すのか」と聞かれた。それはそう、青森に置いてくるわけに行かないと、質問の意味が分からなくなる。昨年の面接でも子どものことを聞かれた。聞かれるたびに目眩がする。子どもがいる私には仕事はできないと思われている。どういう脈絡で聞かれるのか全然わからない。採用面接で女性に子どもの事を聞くことを法律で禁止にするべき。女性の身体は急に「お母さん」に切り替えると弱くなるから。帰りの空港までの5回目の電車を乗り換えた時にそう思った。その日は疲れた。青森に着いたのは夜の10時過ぎだった。山の中にある空港から家まで真っ暗で何も見えなかったので、運転したのではなく、ブラックホールに吸い込まれた感覚だった。

その日から2週間後、1次面接の合格通知がきた。嬉しかったけど次の最終面接のことで一日一日身体が鈍く重くなる。最終面接では大学という巨大組織の偉い人の前で喋るのだ。喋るのが大の苦手な自分にはまた試練のように感じる。授業と違う。それが同じしゃべりであっても。お喋りが得意な人と下手な人は生まれつきだと思う。そして人が人を選ぶ。この場合、私は人間より機械の方がいい。機械の方が冷静だから。人が客観的になるのはただの妄想だから。

ここからはカラーではなく、白黒で、早送りで想像してほしい。日帰りで行くのはさすがに疲れすぎるので前の夜に空港へ向かった。何百年に一回の月食だった。運転しながら月が飲み込まれるのを見ると、SF映画のような雰囲気で自分も飲み込まれるとしか思えない。『Melancholia』という映画を思い出す。地球に近づく大きな美しい青い惑星が人類を滅亡させるその映画は、監督であるラース・フォン・トリア自身の鬱病の症状と感覚を描いている。鬱の主人公は取り乱す健常者の姉とは真逆に世界の終わりを冷静に受け止める。「地球は邪悪です。私たちはそれを悲しむ必要はありません」と、あの青い美しい惑星が地球に衝突する前に彼女は言う。でも、この映画で最後に子どもと女性だけ衝突の光を浴びるとことは、ラース・フォン・トリア監督らしいところでもある。姉の夫はお金持ちで、権勢を振るっていた彼は、もういよいよ終わりとわかった瞬間に事実を受け止められず、家族より一足先に隠れて薬を飲み、厩舎の片隅で一人死んで行くのだった。

横浜の駅に夜中の11時半ごろ着いた。駅の外を出ると後ろから若い男性に「月食だよ」と話しかけられる。ナンパされている。こんな時に。もう一度私の顔を見て、「日本語大丈夫?」と聞かれる。顔もよく見ずナンパするのはどういう神経かと思う。寂しそうだったが断った。

次の日の面接では不思議な空気が流れた。キャンパスに着いた瞬間に前回と同じ、掃除をしている女性が私を見届けた。でも前回と違って、SF映画っぽい雰囲気が抜けなかった。控室で待たされ、事務の方は電話で丁寧に誰かと喋っていたし、面接官がいる部屋に案内された時もセリフのような日本語で案内された。

部屋にはいずれも私よりずっと年配の男性3人と女性1人がいた。誰が一番偉いのか、ネームタグを読む時間がなかったけど、こういう時には女性が一番厳しいと知っている。年配の男性は90年代からルーマニア女性が働く夜の店に行ったことがあるという顔で見られたような気がした。気のせいか。そして質問の山が来た。ニヤニヤしながら左手に座る男性が私に問いかける。答えはなかなか出ないというか、演劇的な質問の演劇的な答えが私の中にない。なんとなく「時代に合った教育を提供したい」という言葉が口から出たが誰にも響いていないと感じる。そうか、この答えではなかったのか。私、脚本を持ってない。なぜか女優のオーデションっぽく感じる。私が研究者っぽい顔じゃないからかもしれない。人と人の間のコミュニケーションとして感じない。目眩がする。バッハの『フーガの技法』が流れていると感じる。面接官の声が聞こえない。年配の女性に可愛いらしい声で本について聞かれたのも雲の上から聞こえた。「一人の女性の経験」としか答えられない。私はニヤニヤする人も、可愛い声で子どもに対するように話しかける人も苦手なのだ。ここは、この部屋は間が悪い、バッハのフーガが強く頭の中で再生される。また、ここで強く傷つけられることになるな、と冷静に思う自分がいた。慣れないスカートを履いていたせいか後で気づいたがストッキングが捩れていたし、「女子学生に寄り添って教育したい」という答え、「女性の身体」の研究、「カラダ?」と面接官の驚きと私の説明不足、どっちがダメだったのか分からない。

家に着いたのはその日の夜9時ごろ。娘たちが笑顔で出迎えた。虹色の熊のぬいぐるみを空港のお土産で買ったら大喜びだった。あとは虹色のクレヨンも。気づいたら前の昼から何も食べてなかった。不採用通知は2週間後にきた。

ゴダールが死んだ年に私が大学の不採用通知を受けた。少しだけ自分にとって世界の終わりに見えた。『アルファヴィル』と『Vivre sa vie』を見返した。世界の終わりと女性であること。ゴダールもポール・ヴァレリーの言葉「今は私たちが知っている、すべての文明は致命的であること」に敏感だった。その夜、次女は寝る前にこう言った「ここ(頭を指す)脳が古くなったから変えなきゃいけないと思う」。5歳児、自分の今日の考え方が古くなって新しく更新しなければならないとわかっているという知恵に驚いた。そうだ、人間とは更新を忘れているかもしれない。また、同じ夜に、「地球はどこいく?もしかして地球は人間だったんじゃない?地球が動いている」と言った。

負ける日があっても

若松恵子

2022年の私の映画ベスト3などの記事で見かけて気になっていた「ケイコ 目を澄ませて」(三宅唱監督)を年の瀬に見に行った。

「とても大切な映画ができました。
たくさんのことがスクリーンを通して伝わることを確信しています。
ケイコと多くの観客の皆様とが出会えますように。」
プログラムに三宅監督がそう書いているように、見終わったあと、様々な思いが胸に去来した。コロナの閉塞感のなかで、よくぞ作ってくれたと思った。いい映画だった。

耳を澄ますのではなく、目を澄まさなければならない、ケイコは生まれつき耳が聞こえない聾者のプロボクサーだ。2回目の試合に勝った後、記者がジムに取材に来る。彼女にボクサーとしての才能はあるのかと質問されて、ジムの会長は答える。
小柄だし、リーチは短いし、耳が聞こえないというのは非常に危険だし、むしろ才能は無い。しかし、彼女の人間性が良いのだと。「才能」より「人間性」だというセリフに心が立ち止まった。レフリーやセコンドの声が聞こえない彼女はリスクが高いので、多くのジムに断られる。古い、下町の小さなジムだけが、彼女の本気を理解して受け入れてくれたのだ。灯台のように、あたたかな灯がともる事務所に静かに座っている会長を三浦友和が好演している。「障害を持つ彼女の才能を見出した会長」という新聞記者が期待するような美談ではなく、日常を生きていくうえで本当の励ましとなるような姿を彼は見せてくれる。

コロナの影響もあり、練習生も減り、会長も年を取り、とうとうジムを閉めることになる。プロボクサーではあるけれど、ボクシング1本で生活は成り立たず、試合の翌日でも腫れた顔のままホテルの清掃の仕事に出かけなければならないケイコの心は揺れ動く。

「なぜ、ボクシングを始めたのか」という問いへの答は映画の中には描かれていない。弟が話す「昔、いじめられて荒れていた時期があったから、ケンカが強くなりたかったんじゃないかな」というセリフがあるだけだ。きっかけなんて、そんな程度の事だったのかもしれない。けれど、なんだかボクシングが好きだという気持ちが、会長やジムのトレーナー、会長の奥さんとの出会いをケイコにもたらせてくれる。確信なんてないけれど、ボクシングが好きだという気持ちに誠実に生きていることで、分かりあえる仲間との絆ができていく。そういう描き方がいい。

昔からあるジムの古い鏡を磨いて、会長とケイコが並んでシャドウボクシングをする場面、ケイコがふいに会長の方を向いて一瞬泣き笑いのような表情をあふれさせる場面が心に残った。映画は、言葉にならない言葉を人間の肉体をつかって見せてくれる芸術なのだ。

プログラムに掲載されているインタビューの中で三宅監督は、「映画館の大きなスクリーンで人をじっと見つめることは、それ自体が面白くてスリリングな経験です。日常では見逃してしまうかもしれないごく小さな心の波や、どんな言葉にもできない何かが、映画館では繊細に感じることができると思います。それを信じて作った映画です。ケイコの人生と、観客の皆さんそれぞれの人生が、出会うことを願っています。」と語っている。

16mmフィルムを使うことで、この映画に美しさと深さがもたらされている。かつてのボクシングジムが持っていた失いたくないものと、かつての映画界が持っていた失いたくないものが重なって見える。しかし、この映画はただ終焉を嘆いている物語ではない。ジムは閉じられても、映画館が閉じられても、試合に負ける日があっても、人生は続いていく。その日の翌日もまた日常は続いていくのだ。しかし、もし、まだボクシングが好きならば、映画が好きならば何とかなる。心から好きでさえあるならば、それで元気が出せる。離れ離れになっても、またいつか会える。そんなことをラストシーンに感じて、見終わったあとも心が揺れ続けている。

僕は珈琲

篠原恒木

この二か月は忙しかった。
片岡義男さんの書き下ろしエッセイ集を編集していたのだ。
『僕は珈琲』というタイトルで1月24日に刊行される。寿ぎだ。
とはいえ、おれは編集者ではない。
かつては若い女性向けの雑誌の編集長のようなものを長く務めていたこともあったが、ここ数年は出版社のなかの宣伝部という部署に所属し、一昨年の八月に定年を迎えた。人生を成り行きに任せているおれは雇用延長制度に従い、おめおめと、と言うべきか、ぬけぬけと、と言うべきか、ともあれカイシャに居残っている身になったわけである。

雇用延長者としての姿勢としては、目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことには無理をせず、妬まぬように、焦らぬように、と、まるで河島英五さんの歌のように日々を過ごすのが正解らしい。
だが、とにかく何かをこしらえていないと気が済まないおれは、
「編集部にも所属しておらず、おまけに雇用延長の身でもあるのだが、本を作らせてくれ」
と、しつこく訴えたら、その願いが叶った。おれがいいヒトだからなのか、あるいは、いいカイシャだからなのか、おそらくは後者であろう。

遠い昔、仕事を完全に干されていたとき、ひとりでムックを作っていたこともあったが、あれは重労働だった。仕事場としてあてがわれたのは、鰻の寝床のような部屋だった。広さとしては四畳半もなかったのではないだろうか。コピー機と机を置くと、それだけで部屋は隙間がなくなった。その部屋は、はるか昔に電話交換手さんが詰めていたところらしいということを後になって知らされた。まだカイシャの「大代表」という電話番号にみんなが電話をかけていたときのハナシである。ムキになったおれは、ひとりで企画書を書いて、分厚いムックの誌面見本を作ってカイシャに提出した。不思議なことに、その企画はすんなりと通ったのだが、ファッション・ムックをひとりで作るのはやはり無理があった。徹夜続きの日々が続き、数冊作ったところでカラダが悲鳴を上げてしまったのだ。だが、本当に楽しいシゴトは、ヒトの意見を一切聞かずに最初から最後までひとりで作ったものだよなぁ、とおれは思っている。

片岡義男さんから、
「珈琲のエッセイをもう一度書こうか」
と言われたのは、いまから二年前のことだった。激しく同意したが、連載媒体を持っていないおれは、書き下ろしをお願いし、催促なしの原稿はポツリ、ポツリと届いていた。一週間に一本のペースで届いていたかと思うと、数か月で一枚も来ないときもあったが、届いたエッセイの内容にぴったりの写真を探しては、パソコンのフォルダに入れておくことも怠らなかった。届いた原稿には、片岡さんのシビれるようなフレーズが溢れていた。

「遠く離れたところにぽつんとひとりでいるのが僕だ、と長いあいだ、僕は思ってきた。そのように自分を保ってきた、という自負は充分にあった」

凄い文章だ。おれはと言えば、遠く離れたところにぽつんとひとりでいる自覚はあるのだが、そのような状況に好き好んで自分を置いたわけではない。気がついたら、オノレの性格、言動、立ち振る舞いのせいでそうなってしまっただけの話である。片岡さんとは大違いだ。おれは深く溜息をついた。
そして二年の月日が流れ去り、街でベージュのコートを見かけると、指にルビーのリングを探すのさという、まるで寺尾聰さんの歌のように過ごしているうちに、フト気がつくと、季節は二〇二二年の夏を過ぎていた。そのあいだもコロナは猛威を振るっていたが、おれは片岡さんとソーシャルな打ち合わせをひっそりと重ねていた。打ち合わせと言えば聞こえはいいが、めしを食べてはマスクをして、よしなしごとを話していただけなのですが。

「珈琲のエッセイであれば、寒い時期に出版したいよな」
と思っていたおれは、四六判サイズの紙を作り、いままでに届いていた片岡さんの原稿をプリント・アウトして、それを鋏でジョキジョキと切って、糊で四六判サイズの紙にペタペタと貼っていった。おれはインデザインやイラストレーターなどのソフトをまったく使えない。したがって、いまおれの手元にある原稿を本にした場合、どのくらいのページ数になるのかを知るには、切り貼りでカンプを作るしかないのだ。もはや絶滅危惧種のアナログおじいさんである。

だが、片岡義男さんもおれに負けずとも劣らないアナログ人間だ。原稿は富士通ワード・プロセッサー「オアシス」で書き、それをフロッピー・ディスクに読み込ませ、さらにそれをパソコンの外付けフロッピー・ディスク・ドライヴへ移し、テキスト・メモで電子メールに添付して送られてくる。なんだか非常に面倒な工程ではないか。
「パソコンのワード原稿で書けばいいじゃないですか。親指シフトのパソコンをお持ちですよね?」
「持ってはいるけど、使っていないんだ」
「カタオカさんから原稿のメールが送られてくると不気味なんですよ。件名も本文も何も書いていなくて、テキスト・メモが貼られているだけですから」
「そうかな」
「そうですよ。件名は『原稿を送ります』と書いて、本文には『拝啓 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。さてこの度、新しい原稿が出来上がりましたので添付させていただきます。まだまだ猛暑が続くようですが、どうかお体ご自愛くださいませ。敬具』とでも、たまには書いたらいいじゃないですか」
「いや、そういうことを書くとしたら、どうせなら冒頭分は『ひと言、私からご挨拶を申し述べます。顧みすれば、あの戦後の焼け跡から』から始めたいね」
「それはとてつもなく長くなりそうですね。やっぱりいまのままで結構です」

本の装幀案は全部で二十種類以上作った。例によってすべて鉛筆、サインペン、カラー・マーカー、色鉛筆、鋏、カッター、糊でダミー版を一枚一枚作っていった。敬愛してやまない平野甲賀さんの題字を使わせていただけることになったので、おれはひそかに興奮していたのだ。「これだ!」というデザインが二十三案めくらいで固まった。

その一方で、片岡さんの原稿をワード形式に直してプリント・アウトしたものと、本文内に挟み込む写真をジョキジョキ、ペタペタする作業を延々と続けていたら、あとエッセイおよそ四本ぶんで二百七十二ページの本が完成することが明らかになった。これはいよいよ大詰めではないか。そのことを片岡さんに話し、秋もしくは冬には本にしたいのですと伝えると、
「わかりました。残り四本、書きます」
という心強い返事だった。おれはエッセイの順番をあれこれと考え、本文中のどこに写真を入れるかを何度も何度もやり直した。切り貼り作業は難航を極めた。
「インデザインが使えれば、いちいち切り直しや貼り直しをしなくても済むのだろうなぁ」
そう思うおれの指は糊でベトベトになり、石鹸でいくら洗っても取れなくなっていた。ようやく何度目かの試作を作り直したときに、
「この順番でいいかもしれない。あとは残りの原稿を待つだけだ。原稿が届いたら、写真とワード・データと一緒に、ジョキジョキ、ペタペタした分厚い紙の束を組見本として印刷所に渡せばいい」
と、おれは思った。ところがなかなか片岡さんからの原稿は来なかった。ようやく残り四本のうち三本が届いた。入稿の締め切り日が迫っていた。三本の原稿を素早くワードに直し、文字組を整え、本文部分の組見本を手作りした。もうあまり猶予がない。エッセイあと一本を残して、おれは印刷所にすべてを入稿した。残りの一本は原稿が届いたら電光石火で後送すればいい。だが、その「最後の一本」が来ない。後送部分の入稿締め切り日に、電話が鳴った。
「こんちはー、片岡です」
「もう秋の気配ですよ。締め切りは今日。お電話しようと思っていたところでした。待ったなしです。あと一本、早く書いてください」
「それがマズイことになったんです」
「どうされたのですか」
「書いた原稿がフロッピー・ディスクに入っていないのです。確かに移せたと思ったのですが、フロッピーがカラなのです」
「ワープロに保存していないのですか」
「僕は原稿をフロッピーに移したら、すべてその場で消してしまうんです。だからワープロには残っていません」
「消えた原稿はどのくらいの文字数ですか」
「三千文字くらいかなぁ」
「マジすか」
「マジだよ。どうしよう」
「印刷所には今日中に後送すると言ってあるのですが」
「困ったなぁ」
そこでおれは咄嗟に言ってしまった。
「では、おれがあくまで仮に三千字を埋めておきます。それで印刷所にはいったん入稿して、初校ゲラが出たときに片岡さんがその部分を赤で書き直してください」
「申し訳ありません」

片岡さんの口から「申し訳ありません」という言葉を聞いたのはこれが初めてだった。考えてみれば、申し訳ないようなことをされた覚えがただの一回もないのだから当然のことなのだが、そのひと言がおれをかなり動揺させた。片岡さんに「申し訳ありません」と言わせてしまったことが、とてつもなく申し訳ないことのように感じたのだ。

そしておれは片岡義男になりきって、三千字の原稿を書き、締め切りギリギリに印刷所へ放り込んだ。三千字は一本のエッセイのなかでちょうど中間部分にあたる部分だった。
「おれはいま片岡義男なのだ。片岡さんならこういうことを書くに違いない。『全体』は『ぜんたい』とひらかなくてはいけない。『なんなのか』ではなく『なになのか』でなくてはいけない」
と、自分に言い聞かせながらパソコンのキーを叩いていった。
やがて初校ゲラがめでたく出てきた。さあ、片岡さんはゲラでその三千字の部分をどう処理したのか。跡形もなく差し替えたのか、大幅に赤を入れたのか、それとも……。スリルとサスペンスに満ちた入稿、校了作業であったことは間違いない。

いやいや、おれの駄文がそのまま片岡義男さんの本に反映されるわけがないので、どうかご安心を。大切なことなので、最後に二回言います。

片岡義男の書き下ろしエッセイ『僕は珈琲』は1月24日発売です。
珈琲にまつわる短編小説も特別収録されています。カラー写真も満載です。

あのベストセラー『珈琲が呼ぶ』から五年、
1月24日に、片岡義男の傑作書き下ろしエッセイ『僕は珈琲』が刊行されます。
珈琲にまつわる短編小説も特別収録。カラー写真も満載です。

そして、アンコールに応えて、片岡さんの名言を添えよう。
「一月一日は十二月三十一日の翌日に過ぎない。年が改まることには何の意味もないよ。だから忘年会などという行事もあり得ない。今年一年を忘れる、チャラにすることなんて出来っこないんだ。新年会も同じだよ。今年こそは、という言葉はいまでも通用しているのかな」
それに対するおれの言葉も添えておこう。
「じゃあ、片岡さんはお餅も食べないのですか?」
「餅は好きだよ。うまいよ、あれは」

どうよう(2023.01)

小沼純一

あ はい 
ど どちら どちらさま

あ はい 
ど どなた ど なった

あ はい
だ だれ だまってる

あ 
え 
あ あんた だれ

しらない しってる わすれてる
どちらでおめにかかりました
いつだった かしら 
いつから かしら
どうして

かお おぼえるの にがて
おぼえても わすれちゃう
な よく きこえない 
おとだけでは とおりすぎて
な おぼえるの にがて
じでみればすこしは

はい こえは きいたような
かみ ながさ いろ かたち
おかわりになるので さっぱり

かみでおぼえる
てくび あしくび くびまわり
おくび あくび はちがうかしら
かた かたかた 
おなか おなかまあわり
まいにち すこしかわってる
ひとつき はんとし いちねんすれば
なかもそともべつじんだから
そちらもあたしも

ぬいぐるみみたいに
って はきすてるよう いわれて
ぬいぐるみ
って いけないみたい
みんな じゃないけど
ぬいぐるみ
すきなひと いるとおもうけど
ちがうんだな

ぬいぐるみ
すきだよ
どうしていけないかな
はきすてるよう いったひとのとこは
ひとつもなかった
たしか

ぬいぐるみ
ならいいんだ
みたいに がいけないんだ
たぶん
ぬいぐるみ
ならよかったんだ

まだ
ぬいぐるみじゃないから
いつか
ぬいぐるみ
になるから
いつか
ぬいぐるみ
になれるまで

ただ まだ
ぬいぐるみ
なれそうにありません
おもいだしたくもないでしょうし
ぬいぐるみ
なんていったこともわすれてるでしょう
けど

つるんでたのにいささかそえん
きっかけなんかあったかな
おぼえてる おぼえてない

ねこさんだったらどうなのか
いっしょにいるとおもっていても
いつのまにやらべつべつで
おともだちそれともしんせきそれともおやこ
おぼえてる おぼえてない

つるんでるいつのまにやらつるんでる
つるばらつるばらつるくさつりいと
つったのそっちつられたこちら
ほんとかな
つったのこっちつられたそちら
どうだろね

おもいだすのはひまだから
おもいださずにあのよへと

図書館詩集3(相模野は月見野)

管啓次郎

相模野は月見野
この平坦な土地を歩いていると
「図書館城下町」にやってきた
この城は誰の城
迷いに迷っていつまでも
そこにたどりつかないのはいやだな
だが城とは支配者の居所
何か矛盾してはいないか
だって図書館は反支配の拠点なんだ
並べられた本にはどうも
そんな叛乱的性質がある
一律の支配をとことん嫌う
外れてゆく
おとなしい顔をして
逸脱と暴動を作り出す
図書館に主はいない
書物の城は壁を知らず
領土なく年貢なく
どんどん虹のようにひろがっていく
波紋のように内側からきみを拡げる
ともあれその場所に着くまえに
まずは腹ごしらえといくか
剣滝揚鶏が
世界のどこでもおなじ味の
油くさい鶏を供してくれる
塩味があまりに濃いが
それなりにうまい
ペプシでのどを洗いつつ食べる
するとケンタッキーの青い草原が
馬たちの思い出とともにひろがって
見る見る現在から取り残される
サンダースおじさんの第一号店に
ぼくは行かなかったが
葉子さんは橇作りのダグが連れていった
美しい馬たちがみずからを追求して
野を自由にかけたり
犬のように横になったりもしていた
あんな草原なら馬たちはしあわせだろう
相馬の勇壮な馬のようにも
下北のカンダチメのようにもしあわせだ
神の犬たちよ
さあまた歩いていくか
広い無人の野のむこうに
書物の城がかすんでいる
蜃気楼にむかうbliss
歩行のbreathless
でもなかなか直進ができない
透明な森にぶつかったかのように
森が行く手を阻むかのように
私たち獣たちはまっすぐには歩けない
冬の直前
残り少ない果実を拾うため
目を光の皿にして
やがて小高い丘の上に立てば
観天望気
すでに読書がはじまっている
空は無限で無方向
書物は現実的に無限
言語の雲の流れをよく見て
行方を決めなさい
ところで書物のタイトルには著作権がないのだ
だからぼくがぼくの本を
『城』と呼ぼうが
『城から城』と呼ぼうが
『戦争と平和』と呼ぼうが
『マングローヴ渡り』と呼ぼうが
誰にも断る必要はないわけだ
けれども先日
A Field Guide to Getting Lost
という子供むけの本が出版されて
さすがにレベッカも怒っていたようだ
ぼくは特に気にしない
的確な真実の含まれたタイトルは
誰にとっても使いやすい
「失われた時」や手に負えない「白鯨」
を求める気持ちは誰にとっても真実だし
「シンクロニシティ」という本なんて
いったい何冊あることか
「罪と罰」からは「罪と恩寵」とか
「罪と重力」とか「罪と日記」とか
「罪と逃走」とか「罪と闘争」とか
無限にヴァリエーションが作れる
書名より大切なのはその本自体の肉や血だろう
肉を読み血を飲むべし
みずからその変異型となるべし
思えば「換骨奪胎」ってすごい言葉だな
フランケンシュタイン博士どころではない
自由自在の生命工学か
そして言語ならそれができる
ぼくの体も少しはとりかえばや
いやいっそう必要なのは脳だけど
これは交換不可能
中枢を分散させることもできないので
自分を超えるためには外部記憶に
つながるしかない
関係にみずからを接続するしかない
それを果たすのが本、本、ごほん
(このところ咳が止まらないのは
何か偽の記憶を求めているせいかしら
けれども偽の記憶にも
良い記憶がたくさんあって
良い記憶が生きることを支えてくれるなら
それもいいんじゃない?)
このあまりにも限定された自分が
行方を見失って
広大な草原にひとり立ちつくすとき
道標/からすが落とす/柿の種
それをたどってやっと図書館へ着いたのだ
ぼくは公共の場が好きだ
本が作る世界ほど
公共性が高いところはない
それは言語がつねに
すでに全面的に
公共化されているからだが
言語使用の現場そのものは
それとはちがうかもしれない
だいたいこうして文字を記すことには
どこか不自然で孤独なところがある
リチャード・ブローティガンが書いていた
「見知らぬ人がたくさんいる場所でひとり
ぼくは天上の合唱隊の
まん中にいるみたいに歌う

—ぼくの舌は蜜の雲—

ときどき自分を気味がわるいなと思う」
(『ブローティガン東京日記』福間健二訳、平凡社、124)
No worries, Richard!
歌うことを恐れることはない
歌うことを恐れてはならない
歌を禁じるものたちに反撃せよ
私の歌は沈黙を造形し
無音を素材として蜜の雲を立ち上らせる
自分を気味がわるいと思うのは
他人の視線に同一化しているからにすぎない
水の中を泳ぐwaterbabyのように
きみがすなおに自分でいるかぎり
その見慣れない見知ったものの
Unheimlichな気味わるさは生じない
ほら二羽のからすが飛んできて
いま窓ガラスの外にとまった
かれらはきみの過去と未来だ
かれらはこの冬枯れた町だって
極彩色に翻訳して体験している
いつも光の雨が降っている
からすは高いところから
熟れすぎた柿や潰れた猫を
ついばむ機会をうかがっている
それも生きるための行動
生命の模索
ぼくは言語のはかない塔に上りつつ
ここに隠された鳩の卵につまづきそうだ
この平野が海だったころから
つぶやいている霜の声が聞こえる
ふうふうと立ち上がるささやきは
どんな文字の絶叫を隠すのか
見てごらん
相模野は月見野(大和市つきみ野)
目黒川の両岸に二万年の居住史
そんなことも忘れて生きているのが現代人
思い出せ、石斧を
思い出せ、石刃を
思い出せ、隆線文土器を
人がいたんだ、ここには
つきみのに星の輝く
シリウスが吠えている
かれらがきみと無縁の人々だと
考えてはいけない
歴史的な人口動態から考えて
かれらもまたきみの蓋然的ご先祖
いまここを歩くなら
またここから旅をはじめればいい
記憶を残せばいい
そもそもひとりの人間の深みを
知ることは大変にむずかしいのだ
Blue bayouに沈められたのは
彼の幼児期の記憶だった
水面の鏡に彼は
母に抱かれた自分の姿を見るのではなく
La lloronaとなった母が泣きながら
自分を溺れさせようとするのを
水面下から見上げていた
Waterbaby
覚えてもいない祖国への強制送還の代わりに
彼はするりと水に放たれて
世界のさまよいを生きることになった
魚のように
魚として
「よそものだ。Outsiders.
水の旅人だ。Water-wayfarers.
ただひとつの元素でできている。Things of one element.
まるで水のようなのに、 Aqueous,
それぞれが自立して。Each by itself.」
(D.H. Lawrence, “Fish.”)
水の中のそんな魚たちのように
本もそれぞれが自立しながら
すべて文字の水中にある
水=言語の連続体から
みずからを切り取って生きてゆく
この湖にぼくもみずからを沈め
言語体としての自分をそこからつかみとって
生存を試みることにしよう
言語の嵐を呼びながら
おーい、モンスーン!
おーい、モンスーン!
早くおいでよ
洪水せよ
慈雨!
慈雨!
氾濫は叛乱
文学とは言語的な謀反でなければなんだろう
いまある種子を手作りの
紙に漉きこんで
二百年先の人々に届けよう
かれらの時間が現在の植物でみたされるように
おーい、モンスーン!
おーい、モンスーン!
Soon the Moon appears
Out of nowhere
Over the field
その光に書物の背表紙が
いっせいに輝きだす

大和市文化拠点シリウス、2022年12月17日、薄曇り

製本かい摘みましては(179)

四釜裕子

縦長の本が机上に二つ、本棚の定位置が決まらずにこのまま年を越しそうだ。『百貨店の歴史 年表で見る夢と憧れの建築』(2022  PRINT&BUILD)と、金澤一志さんの詩集『雨の日のあたたかい音楽』(2022  七月堂)。まだしばらく眺めていたいのと、縦に長い判型によるところも大きい。

『百貨店の歴史 年表で見る夢と憧れの建築』は、高島屋資料館TOKYOの「百貨店展」で展示されていた巨大年表を、展示監修者の浅子佳英さんが、ご自身の事務所・PRINT&BUILDから〈大判のポスター型の書籍〉として刊行したものだ。「年表」といっても写真や図版、コメントが多く、会場ではどなたも壁面にはりつくようにして眺めていたし、私もひととおり追ったけれどもなにしろ情報満載なので、「図録はないのでしょうか」と尋ねたがなくてがっかりしたが、12月になって〈展覧会開催後、様々な人から売って欲しいと問い合わせの多かったあの巨大な年表がとうとう部数限定にて発売されます〉とのしらせを見つけ、そうか、「図録はないのですか」なんて甘い。「あれを売って欲しい」と言うのを思いつけなかったことを悔しく思いつつ、早速注文したのだった。

縮小した年表が3枚に分かれ、それぞれを蛇腹にたたんで重ねて、帙というか、たとう紙というか、そういう形状の厚紙にくるまれて届いた。PRINT&BUILDのサイトから仕様を引用するとこうなる。〈全体の横幅は2.7mに。約90センチ✕60センチの大判のポスターを3枚、蛇腹式に折込み、スリーブで閉じた〉。そのスリーブに入れた状態で、大きさはおよそ15センチ×29.5センチ。広げると、コンパクトになったとはいえ十分に大きい。会場では天地が背丈以上あったけれど、もともとこれくらいのサイズで作ったものを拡大して展示したのか。そんな単純なことではないように思うけれども、手元で全体を広げて見ると、年表そのものを13階建ての百貨店に見立ててデザインしてあったことなど初めて気づいた。

年表では大手13の百貨店のほか、全国各地の百貨店や商業施設にも触れている。故郷・山形については何か出てるかなと改めて見ると、2020年に閉店した大沼デパートについては、開業や閉店の時期、建物自体も特別目立つものではないのか記載はなかったが、1967年のところに「山形ハワイドリームランド」があった。県内ほぼ中央に位置する寒河江市の市役所庁舎(1967)や日東食品山形工場(1964)も手がけた、若き日の黒川紀章(1934-2007)が設計した(1966)からだろう。黒川さんの公式サイトによると、これは当時提唱していたメタボリズム建築の中の循環のプランで、〈商業施設にとって経営上重要な回遊性を強調しており、循環の原理を示している。また、日本文化の巡礼の伝統も受け継いでいる〉〈建築の内側に自然を取り込む方法は(当時自然の胎内化と呼んでいた)その後の作品(例えば東京の六本木プリンスホテル等)にしばしば用いている〉とコンセプトが記されている。黒川さんがなぜその時代に寒河江市と縁があったのかは、『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』(1994 同文書院)にこんなふうに書いてある。

〈最初の仕事は、ある日突然、やってきた。その日のことは忘れることはできない。それは山形県の寒河江市に本社工場をもつ日東食品の小さな工場の設計であった。このまったく知らない施主からの依頼は、実は朝日新聞に掲載された私の紹介文がきっかけになったものだった。そのインタビューをしたのは、現在作家で評論家である森本哲郎である〉

〈日東食品の矢住清亮社長は、たいへん粋な方で、まだ大学院の学生であった私は、矢住社長に料亭に連れて行かれたことを覚えている。確か、新橋だったと思う。そこで「黒川さん、建築家になるためには、小唄をやるといいですよ」という言葉を、怪訝な気持ちで聴いた覚えがある〉

〈そうこうするうちに、あるとき寒河江市役所の助役から、深夜だったと思うが、電話がかかってきて、「今度、寒河江市は市役所を建て替えることになったが、その設計を依頼した場合に黒川さんのほうでは引き受けてもらえるか」ということであった。
飛び上がるように驚き、持っていた受話器が震えていたのを覚えている〉

〈後から調べてみると、当時議会は、保守派と革新派に分かれて、きびしい対立が続き、両方にそれぞれ推薦された建築家のどちらを選んでもしこりが残るということで、当時寒河江市の一角に日東食品の工場を設計していた私の名前が突然浮上して、依頼につながったと聞いた〉

〈寒河江市役所は、初めての公共建築の設計であり、(中略)それまで温めていたさまざまな構想を、この寒河江の市役所の設計のために全力を挙げて注ぎ込んだ。(中略)すぐに私は、その真ん中の吹き抜けに岡本太郎の大きな光る彫刻を依頼した。
ほとんど予算のない仕事であったが、喜んで引き受けてくださった岡本太郎に対して、貧乏であった私は感謝の意味を込めて、一日岡本邸のどぶ掃除を手伝った〉

3つの黒川建築のうち、現存するのは寒河江市役所庁舎のみ。私自身がなじみがあるのもここだけだ。子どものころ、市役所の向かいのスーパーヤマザワにあったサンリオショップによく行った。いちご新聞が楽しみだった。その駐車場が市役所の前だった。庁舎のシルエットや吹き抜けは好きだったが、コンクリートの質感や色が怖かった。岡本太郎の光の彫刻《生誕》はあまり目立っていなかった。なんなら一時期、電気を入れていなかったのではないか(未確認)。今見ると、建物自体が小さくて愛らしい。市役所という機能から解放されたら別の輝きが増しそうだ。2017年に登録有形文化財に指定され、岡本太郎のオブジェと併せて遠方から見にくる人が増えたと聞く。なにもかも、黒川青年が岡本邸のどぶ掃除をしたおかげでもある。

さてもう一冊の縦長本、金澤一志さんの『雨の日のあたたかい音楽』は、およそ10センチ×19センチというサイズ。表紙や本文紙がほどほど張りがあるので、表紙に折り線をつけまいとすると読むのにノドをのぞきこむあんばいになる。冬場の乾燥した指で持つと、ときおり手のひらから冊子ごとスルッと抜けて飛んでいく。(逃がさんぞ)とか思って思い切ってページを開く。ノドのあきが結構狭いし、裁ち落としの写真の全部も見たいのだ。おかげで表紙にしっかり折りじわがついてしまったが、意外にも、この冊子を傷つけた感じがして悲しくなったりしなかった。大事すぎる装丁というのが、読むのにすっかり重荷になっているこちらの事情もある。

『雨の日のあたたかい音楽』にはいろんなスタイルの作品が並ぶ。すべてが歌詞のようでもあるし、またその見せ方が、別々の楽器や演奏法に向けた楽譜のようでもある。中に、一ページに一行だけ配すような作品があって、船木仁さんの詩集『風景を撫でている男の後姿がみえる』(昭和50  装幀・構成・出版:高橋昭八郎) を思い出した。俳句なのか一行詩なのか判然としない、というか、どちらとも言われたくなさそうな作品が68編。あとがきには〈題名のない一行詩といったものを意図したつもり〉とあるが、したがって目次というのは成り立たないはずだが一応目次らしきページがあり(実際には「目次」ではなく「■」と印字されているけれど)、確か、すべての作品が一行ずつでつらつら並んで目次然としていたという、奇妙でかっこいい詩集であった。『雨の日のあたたかい音楽』も、詩なのか歌詞なのか判然としない、というか、どちらとも言われたくなさそうな14編が並ぶ。

『風景を撫でている男の後姿がみえる』を思い出したのは特徴的な縦長の判型にもよる。メモを探したら、みつかった。だいたい12センチ×23センチ。となると、『雨の日のあたたかい音楽』と『風景を撫でている男の後姿がみえる』の判型の比率はほぼ同じと言っていい。ちなみに『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』は、12.8センチ×18.8センチの四六判で厚さが4.5センチある。つい「お弁当箱みたいな」と言いそうになったが、合っているだろうか。そもそもこんな比率の弁当箱の実感がないくせによく言うよという感じもする。

水牛的読書日記 2022年12月

アサノタカオ

12月某日 高校生の(ま)の誕生日を祝った翌日、午後の羽田空港から飛行機で飛び立ち、沖縄・那覇空港に到着。冬用の上着をぬいで「ゆいレール」に乗車し、街中へ。窓から差し込む西日がまぶしく、あつい。マラソン大会か何かがあったようで、途中の駅で半袖のスポーツウェア姿の乗客が大量にのりこんできた。

前回、沖縄に来たのは新型コロナウイルス禍以前、何年前のことだったか。リバーサイドの宿に荷物を置いてTシャツに着替え、夕方の国際通りを散策。週末ということを考えると、コロナの影響もあって観光客はまだ少ないのだろうか。少し歩いただけで、汗が噴き出す。

飲み物を買おうと立ち寄ったコンビニで「大東寿司」を販売しているのを見つけて驚いた。南大東島の郷土料理だ。あすのお昼は、大東そばと寿司でも食べようか、とむかし訪ねたお店の場所を思い浮かべる。今回、旅の友とした本は外間守善『沖縄の食文化』(ちくま文庫)。著者の食いしん坊ぶりを見習いたい。

本書の冒頭で、外間守善はフィジーで豚肉やイモ料理をおいしく食べたが「蛇肉らしきもの」は「確かめなかった」と語る。ならば沖縄の伝統料理、イラブー(エラブウミヘビ)の汁なんかはどうなんだろうと読み進めると、「あまり好きになれない」と。研究者的な中立の立場を取らない、食べ物の好き嫌いがはっきりしている視点がおもしろい。

12月某日 お昼、那覇・壺屋の新しい本屋さん「ブンコノブンコ」をはじめて訪問。眺めの良い古いビルの3階にあがり、開店直後のお店に入るやいなや、棚に面出しにされた黒島伝治『瀬戸内海のスケッチ』(サウダージ・ブックス)を見つけてうれしい気持ちに。韓国と日本のはざまで生きるスタッフのKさんからおいしいコーヒーをいただき、沖縄の地へ流れ着くまでの長い旅の話を聞いた。

お店を出ると、雲行きがあやしい。壺屋から国際通り商店街のアーケードに入り、市場の古本屋ウララへ。移りゆく街の時間、移りゆく街の風景の中で、本屋さんが変わらずそこにあることが心強い。店主の宇田智子さんと言葉を交わすのは何年ぶりだろう。店内のスペースは少し広くなった。でも向かいの公設市場の建て替えに伴い、頭上のアーケードが撤去されている。雨や風が強い日はお店を休まなければならないと聞いて、胸が痛い。話したいことも、買いたい本も山ほどあるけど、また訪ねよう。

外間守善・仲程昌徳・波照間永吉氏による琉球の「ウタ(歌)」のアンソロジー『沖縄 ことば咲い渡り』の「みどり」の巻の解説は宇田智子さん。美しい本。ブックガイド『復帰50年 沖縄を読む——沖縄世はどこへ』にも宇田さんはエッセイを寄稿している。ボーダーインク発行の2冊の本を購入した。

12月某日 那覇は朝から小雨。空港からふたたび空の旅、夜の石垣島へ。翌日、島で出会ったのは、風とミンサー織りと牛。

12月某日 沖縄への旅から戻り、今年最後の大学の授業。「私たちの好きなもの」をテーマにしたZineの制作をグループワークの演習課題にしていて、年明けの提出をたのしみに。授業のあとショートショートの小説を書いている学生の話を聞いて、東京・分倍河原のマルジナリア書店で文庫本を買って帰宅。

12月某日 『現代詩手帖』2022年12月号が届く。「アンケート 今年度の収穫」に寄稿し、以下5冊を紹介した。

エリザベト怜美詩・訳、モノ・ホーミー絵『YOU MADE ME A POET, GIRL』(海の襟袖)
藤本徹『青葱を切る』(blackbird books)
宮内喜美子『わたしたちのたいせつなあの島へ』(七月堂)
『W. S. マーウィン選詩集 1983-2014』(連東貴子訳、思潮社)
『まるで魔法のように ポーラ・ミーハン選詩集』(大野光子ほか訳、思潮社)

12月某日 訃報に絶句する。ともに本を読む仲間が突然、旅立った。ページをめくる手が、今日は重い。でもそれは、読む時間が自分一人だけのものではないということの証。きみのいる場所には、そのうち追いつくから。本でも読んで、待っててね。

12月某日 東京・西荻窪の忘日舎で、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」を開催。山尾三省『新装 アニミズムという希望』(野草社)をともに読んで、思いつくままにゆっくり語り合うよい時間。

帰路、荻窪の本屋 Titleに立ち寄り、店主の辻山良雄さんに年末のご挨拶。2階のギャラリーで漫画家のカシワイさんの「風街のふたり」展を鑑賞、絵とことばにすっかり感動し、同題の漫画を購入。旅情とノスタルジーを感じるよい作品だった。

12月某日 3か月間、読書会に参加し、ダンテ『神曲』をついに読破! 三浦逸雄訳、角川ソフィア文庫で(この人の訳文には独特のくせがある)。地獄篇はおもしろいけど、天国篇はいまいちと思っていたのだが、他の参加者のみなさんの意見を聞いて、なるほど〜と思うことしばしば。まだわからないことも多いし、もう一度、読み返してみよう。ところで、『神曲』のボッティチェリの挿絵は、パラパラ漫画にしたらおもしろそう、と馬鹿げたことを思いつく。パラパラとページをめくってみたら、何かが動き出しそうな気がした。

12月 偶然のご縁がつながり、尊敬する沖縄の小説家の崎山多美さんからお便りとともに、批評誌『越境広場』11号が届いた。崎山さんはこの雑誌の編集委員をつとめている。今号の特集は「”if”で拓く『復帰』50年」。佐喜眞美術館学芸員の上間かな恵さん、ボーダーインク編集者の新城和博さん、社会運動史研究の上原こずえさんの座談会から読み始める。

12月某日 岸田文雄首相が防衛費増額のための増税の方針を発表。狂っている、と思ったのは自分一人ではないだろう。しかしこの間にも南西諸島では自衛隊のミサイル配備計画が着々と進められ、沖縄の島々はありもしない「戦争」への脅威を口実にすでに軍事要塞化されている。

日米の基地問題を報じる地元の新聞を読み、ニュース番組を見て、人びととことばを交わすことで、沖縄ではその危機感を肌身で感じることができた。現地に行かないと気づけない、というのも情けない話だが、「東京」発の情報圏にいると、しっかり目を見開かない限り見えてこない現実だ。

12月某日 何を読んでいる、といえないほど、山積みされた本やら原稿やらを見境なく読んで読んで読みまくる師走。いま目の前にあるのは『定本 見田宗介著作集』全10巻と『定本 真木悠介著作集』全4巻(以上、岩波書店)。さて、この山を登るべきかどうなのか。

来ませんか、と土地から呼ばれているような気がしたら旅をするし、読みませんか、と本から呼ばれているような気がしたら読んでみる。去年も今年もそうだったように、来年も再来年もきっと変わらない。歩けなくなって旅をすることができなくなるまで、目が見えなくなって読むことができなくなるまで、自分はそうやって生きていくのだろうと思う。

『アフリカ』を続けて(19)

下窪俊哉

 毎月、『アフリカ』をめぐる回想録をつけているようでいて、これからのことを考えている。回想録といえば私は、どうやら最近のことより昔のことの方が書きやすいようである。前回はこれまでの『アフリカ』を5つの時期にわけて、「黎明期」「展開期」「隔月期」「マッタリ期」と順番にざっとふり返って、「転換期」に入るところで終わっていた。「マッタリ期」のことはこれまであまり話したこともなくて、ようやく自分の中で整理がついてきたような気がした。そのためにワークショップのことを書く必要があった。

『アフリカ』を5つの期間にわけられるということは、そこには5つの雑誌があるということかもしれない。でもそれを『アフリカ』というひとつの名前で呼べるのは、つくっている私には、つながって感じられているからだ。と書いて、いや、待てよ、と考える。それは元々つながっているのではなく、私がそれをつなげてきた、つなげようとしてきたということではないか?

 転換期(2019年〜2022年)、つまりそれまでとは違う、別の方向に『アフリカ』が動き出した。

 思い返してみると、「マッタリ期」の終わり頃には、ふわふわ旅をしているようだった『アフリカ』を地面に下ろして、確固たる活動拠点を持ち、やってゆこうとする試行錯誤があった。ワークショップをイベントにして集客したのには、そういう狙いが(後から考えたら)あったかもしれない。
 しかしそこに私は妙な不自由を感じていたようである。不自由の生み出す自由もあるので、必ずしもそれが悪いことだとは思わなかったが、やがて立ち止まる理由になった。そこでこの連載の初回に置いておいた問いが戻ってくる。

 それにしてもどうしてこんなことをしているんだろう?

 あらためて、それまでのことをつなげて考えてみる必要が出てきた。原点に立ち返って、再び自分(という編集人)のリハビリを始めたという側面もあるかもしれない。ただ以前と違い、これまでやってきた雑誌を止めずに、続けながら再スタートしたので十数年の蓄積がある。そのアーカイブを生かした本を何冊か、つくってみることにした。
「下窪さんの作品はどうでもいいんだ」と言われたときの声は、耳にまだ生々しく残っていた。「マッタリ期」を通じて、自分の作品はどうでもいいんだ、と私自身が感じ始めていた可能性はある。彼は私であり、私は彼だったかもしれない。そこで、まずは自分の作品集をつくることから始めた。それは『音を聴くひと』という本になったのだが、その本は私にとって、はじまりという感じもあり、おわりという感じもある。

『アフリカ』は再び、ふわふわと旅を始めた。確固たる活動拠点はなく、どこにいるのか、奥付によると現在は横浜市道草区道草本町に発行所があるらしいが、もちろんそこに手紙を出すことはできない。いや、それは半分嘘で、メールは届く。ようするに、こういうことかもしれない。2019年、『アフリカ』はいよいよ覚悟を決めて、ウェブの大海原に漕ぎ出して行ったのだ、と。
 とはいえ『アフリカ』は紙の雑誌なので、それ自体がウェブに漂っているわけではない。ウェブで盛大に宣伝をしているのかと言えば、そんな様子もない。
 いつも、さて、どうしようかな? と思っているのだった。すごく困っているわけではないが、ボンヤリ困っている。それができるのは私自身が、誰に頼まれたわけでもない原稿をずっと書き続けているからなんだろう。書くことだけは、休んでいる時にも続けている。水上を走る舟の上で横になって休んでいるというようなことが、私の執筆にはよくあるような気がする。

 さて、2022年は『アフリカ』の発行ペースを再び落として、数年続けてきた文章教室も休み、これからのワークショップをどうしてゆこう? とボンヤリ考えていた。秋には、休んでいる文章教室に声をかけてくれていた人たちと”作戦会議”の時間も持った。
 書く人にとって重要なことは何だろう? いや、私自身が書き続けるのに何を大切にしてきたか、と考えてみた。それは仲間の存在だ、としみじみ感じられた。”教室”はもう止めて、”サークル活動”ができないか? と”作戦会議”で話してみた。
 その人たちがどうやって集ったのかというと、いまはもう大半がウェブを通じて、なのだった。みんな近くに住んでいるわけではないし、実際には会ったことのない人たちもいる。となると、ウェブ上のサークル活動、ということになる。どんなやり方があるだろう? と話し合う中に、ウェブ・マガジンを始めるっていうのは? というアイデアがぽっと浮かんだ。ウェブ・マガジンの姿をしたワークショップ? その時、ある人が言ったのだ。「それって、『水牛』をこっちでもやろうってことですね?」
 なるほど、その発想は自分にはなかった。でも、すぐに始められそうだ。『アフリカ』のやり方とは真逆で、送られてきた原稿は(何も言わず)スパッと載せる、という方針を立てた。書きっぱなしの、粗削りなものをどんどん載せて、みんなで読みたい。ガラクタの山をつくるつもりで! などと言っていたら、そこに書きたいという人のワクワクする様子が伝わってきた。
 新しくつくったウェブ・マガジンを「ウェブ版のアフリカ」と呼ぶ人もいる。そう感じられているならそれでもいいのだが、私は『アフリカ』とそれを区別して、『道草の家のWSマガジン』と名づけた(道草の家というのが何なのかということは「巻末の独り言」で触れられている)。
 ウェブ・マガジンをつくるのは初めてだったのだが、つくってみて、わかった。上から下へ流れるように並べて、読むことができる! この「水牛のように」と同じことなので毎月読んでわかっているつもりだったが、自分で編集してみて初めて、ああ、こういうことか、と感じられることもある。
 当然といえば当然のことだけれど、ページの制約を受けない。つまりページが変わることによる断絶がない。そのかわり(?)見開きというものもない。スペースの制限がないから字数を気にする必要もない。目次をつくったのでお目当ての場所に飛ぶことはできるとしても、その前後には雑誌の流れがしっかりと感じられる。
 何だか、オムニバス映画のようだな、とも思った。映画なら、エンドロールがあるといいかも、となり『アフリカ』ではお馴染みのお遊びも入れることができた。
 いまはその感触がとても新鮮で、楽しい。紙の雑誌だとこんなふうにはゆかないよねえ、と話していて、また思いついたことがある。これって、巻物だよね? いつか巻物になった雑誌をつくってみたい。そんなことを考えている時間は楽しい。

むもーままめ(25)髪を切りたくなった話の巻

工藤あかね

あけましておめでとうございます。年末みなさんは何をして過ごしましたか?年越しそば?紅白?はたまた仕事の積み残しに追われていた方もおいでのことと思います。私は、ばさぁっっっっと髪を切りに行きました。いつのまにか肩甲骨の下あたりまで伸びていたのを、顎の線くらいまで切ることにしました。衝動的に。べつに何かあったわけではないけれど、なんとなく気分を変えたいな、と思って。

美容室はここのところ連続して通っているお店です。担当美容師さんが、まあ職業柄当たり前なのかもしれないのですが、どうも髪マニアのようなのです。「あの、ビフォーアフターの写真撮ってもいいですか?」と言って、切る前の後ろ姿をなめるように動画を撮り、写真も撮ったりしてゆきます。終わった後もぐるっと頭回り動画を撮って、髪の毛をひとすじ手にすくい、はらはらと落とすところを動画に撮っておられました。一通り撮ったかなと思ったら、「立ったところも撮らせてください」と。思わず加藤茶のモノマネで「あんたも好きねえ」って言いたくなりましたが、喉まで出かけたところで言葉をぐっと飲み込みました。

そういえばだいぶ前、別の美容室に通っていた時代にも年末に髪をばっさり切ったことがあり、「寒い時期に頭がもっと寒くなりますが大丈夫ですか?」と念押されたことがあったっけ。よくよく考えると、季節と逆行したことをときどきしたくなる性格なのかも。思い返せば学生の頃は、真夏にロングスカートを愛用し、真冬にミニスカート&ブーツ姿で出かけるのが定番でした。そのほかには真夏に鍋焼きうどんを作ってみたり、真冬に韓国冷麺を急に食べたくなって焼肉屋さんに駆け込んだり。今は冷凍みかんを作っておいて、時々お風呂あがりに食べるのが楽しみ。この感じ、わかるかなぁ。共感してくださる方がいたら小一時間一緒に話し合いたいです。

というわけで、今年もどうぞよろしくお願いいたします。結局コロナ禍も戦争も終わらなかったけれど…今年こそ光が見えてきますように。

しもた屋之噺(251)

杉山洋一

2022年が去ってゆきます。信じられない速さで365日が終わり、このまま続く365日も過ぎるのかと思うと、恐ろしくなります。今年は全く良い一年ではなかったけれど、来年はより良い年にしましょう、と気軽に言えるのかどうか。現在まで、戦前とは第2次世界大戦か太平洋戦争以前を指し、戦中はその戦争中で、戦後と言えば昭和20年8月15日以降でした。その慣用句のニュアンスもこの1年で変容しつつあります。80年前、戦前から戦中へ差し掛かるあたり、世界はやはりかかる不安を抱いていたのでしょうか。あの時と同じ次章が開かれぬよう、心から願うばかりです。



—–

12月某日 三軒茶屋自宅
武満、藤倉作品演奏会終了。二人ともメジャーコードの趣味が似ているのは分かっていたが、思いがけずフレーズ構造にも少し似た癖を感じる。フレーズの終わりの拍を落ち着かせずに宙吊りにするか、緩やかな弱起(アウフタクト)として次のフレーズを引き出してゆく。そうして音楽は流れを生み、時に揺蕩う。和音も聴きやすいし、方向性さえ掴めば音楽の質感を演奏者が理解しやすく出来ていて、リハーサルも寧ろその部分を中心にすすめる。ここでどんな和音を聴きたくて、音楽はどこに行きたがっているか。皆が揃って耳を澄ますだけで音に色彩が広がり、深みが生まれる。こんな時は、縦を揃えようとしない方が却ってうまくゆく。
 
12月某日 三軒茶屋自宅
午後、渋谷東急本店4階のカフェ・シェ・ダイゴで、山本和智くんと三橋貴風先生にお目にかかる。生前、一柳さんがこの喫茶店を愛用していて、彼との打合せは決まって「カフェ・シェ・ダイゴ」だった。和智作品の一柳さんとの打合せは何時もここだったし、悠治さんの「オルフィカ」やってほしいんだよ、と悪戯っぽく少年のようにお話し下さったのもここだった。和智君が用意しておいてくれたテーブルは、偶然にも、昨年暮れに三橋先生が最後に一柳さんと直接会って話した席だったから、我々は一柳さんがすぐ傍でニコニコ佇んでいるのを感じながら、すっかり話しこんだ。三橋先生曰く、古典と現代邦楽を一つの線で繋ぎたいと熱望していらして、その情熱に大いに感じ入る。店長も覚えて下さっていて感激したが、最近一柳さんを偲んでここを訪れる方は多いという。斎場に向かう折、一柳さんはここに寄って最後のお別れをされたそうだ。
 
12月某日 三軒茶屋自宅
羽田からヘルシンキへ向かっている。羽田を発つ直前、音楽院で息子の初見のクラスを持っているヴィットリオより、自分の授業について息子は何か言っていたかメッセージが届く。ミラノに残っている息子に転送したところ、「もっと厳しく接してもらって構わない」と伝えてほしい旨返事を寄越した。
今朝は7時起床。家人が昨夜遅くに仕込んだ鯛のアクアパッツァを携え、高野耀子さん宅を訪ねる。朝食を摂りに誰かのお宅に伺うのも初めてだが、早朝から揃って鯛の煮込みを食べるのも一興であった。冬の澄んだ青空が広がっていて、朝の陽光をたっぷり吸いこんだ食卓も心地良い。温かいバゲットにチーズを併せたり、完熟したオレンジをこちらに勧めながら、高野さんは「楽しいな、何だか楽しいな。こりゃ楽しいぞ」と繰り返し、ぺろりと鯛汁を3杯も平らげた。なかなかの健啖家だと感心する。
高野さんは、WやOを少し口を窄めて口蓋の前方で絹糸を丸めるようにして発音し、Rが単語にかかると微かに喉の奥が震える。彼女の母語が仏語だからだろう。言葉を発する度に顔全体の筋肉が精力的に運動していて、あまり唇も開かずに、のっぺりぼそぼそ話す日本人とは全く違う印象を与える。闊達で、懐かしい「おきゃん」という単語さえ頭に浮かぶ。
子音の発音は丁寧で、常にとても表情豊かである。微笑みを絶やさず陽気で気の置けない方だが、ふと考え込む瞬間にじっと厳しい表情をなさったりする。相手に向けられた厳しさではなく、思考の惰性に陥らぬよう自らを無意識に律していらっしゃるようだ。でもそれはほんの一瞬であって、直ぐ何時もの柔和な表情に戻られる。
細い路地に面して、こざっぱり手入れされた植物の豊かな庭が広がっていて、その奧に広々した古い平屋が建つ。行き届いているが、どこか開放的な印象を受ける庭である。向かって右手奥には緑色の井戸をいただく昔ながらの勝手口があって、ここで高野さんは鯛の残滓を野良猫にやっていた。
向かって左手奥には玄関があり、そこを上がると大きなピアノが二台並ぶ。日本的な佇まいだが天井は高く、一面白い壁高くにわたされたなげしの濃い色目が美しい。壁には父上高野三三男の大判の女性像が並んでいて、壮観である。戦前15年間フランスに暮らした日本人画家の描く世界は、洋画でありつつ、連綿と培われた日本文化も凝縮されているようだ。
何が日本的で西洋的か、当時は明瞭ではなかったかも知れないし、意識も現在とは全く違っただろう。自分の素朴な印象も、可視化される表層には余り影響を与えていない気がする。当時から一世紀を経て、差異がより明確に理解されているのかすら、思えば実に怪しい。
西欧人が描くとき、人体は無意識に西洋音楽の音符に等しく、客体化記号化され、生命や魂の存在は、その人体を取り巻く周辺世界を通して、意識化され浮かび上がる。一音入魂の伝統を持つ日本文化に置換えれば、例え西欧人をモデルに文楽人形を造っても、やはり人形の裡に自然と生命が宿る気がするのだ。        
その大広間の奧に一段高い木造で時代がかった部屋があって、立派な梁が左右に亙してある。不均等な梁が、空間に心地良いアクセントを放つ。聞けばこの邸宅は元来父上が建てられたもので、それを高野さんがご自身で図面を引きつつ、ご自分の住みやすいよう増改築を繰り返してきたという。高野さんが設計図を読めるというので、ミケランジェリも、自宅を改築する際、高野さんに設計図の確認を一任していたそうだ。
その旧めかしい木張りの部屋には小判の画が並んでいて、「これが赤ん坊のときのあたし」と紹介して下さった、赤子の肖像画が印象に残る。これは母上岡上りうの作品で、余りに赤子が現在の高野さんに瓜二つなのに感嘆した。筆力のみならず、娘への観察眼と、それを客体化させ染み出る愛情に、女性らしい現実感すら感じられる。画風は端正であって細やかで、特に高野さんを描いた作品には慈愛があふれる。確かに、りう氏の描いた薩摩千代像も、写真で見る薩摩千代そのままで愕かされる。
若しかすると、三三男氏より寧ろ抽象を多く手掛けられたのかもしれないが、作品の印象はより具体的且つ現実的で、三三男氏の作品からは、芸術の理想像や女性への畏敬を感じられる。
実は、何処かでこの赤子に似た絵を見た気がしていて、ずっと思案していた。息子が小学生だった頃、絵が好きで絵画教室に通っていた。あの頃に、同じような構図で赤ん坊をデッサンして帰ってきたのである。小学坊主と稀代の一流女流画家を並べて論じるなど言語道断だが、慎ましい日記の範疇で、珍しく二人とも同じ名前だから失敬する。無意識にシナプスのどこかで繋がっていたに違いない。りう氏の没年が昭和44年なのも、同年生れとして親近感を覚える。不謹慎極まりない話だ。さんざんお話を伺ってから暇乞いをすると、高野さんは態々路地まで見送りに出てきてくださった。眩しくよく晴れた温かい日で、もうすぐ正午を迎えるところであった。
 
12月某日 ヘルシンキ行機内
ロシア上空迂回につき飛行時間も長くなり、すっかり時間を持て余していて、備忘録は書き出すと止まらない。
高野さん聞き書き。
パリで生まれ育った高野さんは、昭和15年、9歳のときに戦争が勃発して日本に帰国する。それまでピアノを習っていたマグナ・タリアフェロは、50キロの錘を想像しながら両腕を持ち上げて、重力に任せて脱力した腕を落とす訓練をやらせていた。時には、ぐにゃぐにゃと腕や肘を解きほぐしたりもした。そのタリアフェロのお陰か、高野さんが後年ミケランジェリに師事した際、姿勢やタッチは一切直されなかった。ミケランジェリは各生徒に見合った助言を与えるので、タッチを直される生徒もいたけれど、高野さんには、特にフレーズ処理を指導した。
後にドイツのコンクールで再会したタリアフェロからも、昔自分が教えた基礎を守っていると褒められたと嬉しそうに話して下さった。タリアフェロは腕の脱力や自然落下に力点を置き、躰を自由に使えるよう指導していたと読んだこともあるが、実際タリアフェロのヴィデオを見ると、いかに彼女が重力を利用して、無尽に演奏していたかわかる。
戦時中は、靖国神社脇の白百合学園で薙刀の鍛錬などやっていて、九段下まで線路を歩いて登校した。時に何かに躓き転んだりして、ふと足下を見るとそれは死体だった、そんな逸話すら、当時女学生たちは学校で明るく笑い飛ばしていた。どんな状況であれ、学生生活は楽しかった。
戦時中ドイツ音楽は普通に演奏されていたから、高野さんもピアノを続けられたのだろう。終戦後間もなく、15歳で芸大に入学し安川先生に師事すると、同期生には黛さんや千葉馨さんがいらした。高野さんと同じフランス育ちの安川先生の音楽は、高野さんが幼少フランスで親しんだ音楽そのままだったから、まるで自然だった。昭和23年、大学3年でパリに戻るにあたり、高野さんは故郷に帰る思いを抱いていた。
貨物船でジェノアかマルセイユ経由で渡欧したかと思いきや、BA運行の飛行機に乗り、香港経由南回りでロンドンまで8日間の旅だったそうだ。旅の途中で隣の座席の英国紳士と親しくなり、馴れない英語と仏語で会話していたが、その紳士は4年もの間、日本軍の捕虜であった。
まだ日仏間の国交は回復しておらず、幼少の高野さんを教えたヴァイオリン教師が身元引受人となり、高野さんのフランス滞在中の一切の責任を負う旨念書を提出して、ヴィザが下りた。
8月のパリに着いた高野さんは、ヴァイオリン教師宅に寓居して夏を過ごす。当時日仏間の送金は不可能で、保証人に厄介になる以外、方法はなかった。9月の声を聞いて10月の音楽院入学試験課題曲が発表になった。シューマンのトッカータとショパンのバラード1番であった。
3ラウンド選抜試験方式で、課題にはソルフェージュや初見の試験も入っていた。全く不馴れだった初見は酷い出来ながら、ピアノが成績優秀で入学を許可された。
パリ音楽院のピアノ科は10クラスほどで、1クラス15人程度生徒が在籍していた。教師や学校の情報すらままならない中、うら若き少女一人で入試を目指し果敢に渡欧とは、何とも勇気ある話だ。かくして高野さんは戦後初の日本人学生となる。三善先生が仏政府給費留学で同音楽院に留学する7年前のことである。
高野さんは昭和26年にパリ音楽院ピアノ科を最優秀で修了、翌27年には室内楽科を同じく最優秀で修了した。その後ベンヴェヌーティの下を離れ、デトモルト音大でハーザーに学ぶことになるが、当初は言葉が通じずハーザーの愛娘がレッスンを通訳した。フランス滞在後のドイツに違和感を覚えることなく、すべて自然に受け容れられた。高野さん曰く、誰もがフランス風、ドイツ風と勝手に形に嵌めすぎるきらいがあるが、彼女はそこに拘泥したことも、苦労した覚えも皆目ないそうだ。
昭和29年イタリア、ヴィオッティ国際コンクールに優勝して、フェニーチェ劇場やスカラ劇場オーケストラとの共演の運びとなり、イタリア各地で優勝者記念演奏会を開く日々が続く。高野さんはアジア人初の国際コンクール優勝者でもあった
ミケランジェリと知己となるのは昭和40年東京でのこと。同年と翌年ミケランジェリよりシエナのキジアーナ夏期講習会に招待され参加した。それから昭和45年の日本帰国まで、高野さんはミケランジェリの下で研鑽を積み、アシスタントを務めた。
キジアーナ音楽院のミケランジェリの教室は2階一番奥のサロン。7人程の生徒を相手に2週間続く集団レッスン形式で公開されていた。この教室は先日サラのソリスト合わせをした部屋ではないか。そうであれば30畳ほどの教室で、壁に犇めく絵画のためか、少し薄暗くカーテンが引いてあった。
高野さんが参加した最初の年はラヴェルとドビュッシーがテーマで、生徒はそれぞれのレパートリーから二人の作曲家の作品を選び準備した。集団レッスンなので一人がレッスンを受ける間他の生徒もそれを見学する。一人レッスンが終わるとミケランジェリが出し抜けに「はい、次あなた」と指定するので、なかなか気が抜けなかった。
高野さんがラヴェルのソナチネを持ってゆくと、レッスンではしばしば、「待って!」と言われた。一つのフレーズを終わらせるにあたり、次のフレーズまで時間をかけ、慌ててはいけなかった。長い間低音をペダルで残す技術も、ミケランジェリから教わった。低音が残っていても高音は早く音が消えるから音は濁らない。あんなにペダルを踏み続けるのを初めて見た、と高野さんは笑っていらしたが、同じミケランジェリ門下のメッツェーナ先生が、家人に教えたペダルと同じである。
キジアーナ音楽院のもう一人のピアノ科教授はグイード・アゴスティで、エリザベート・コンクールで知られるエリザベート王妃もアゴスティの教室を訪問し、背筋を伸ばしてレッスンに聴き入った。錚々たる教授陣である。ミケランジェリは予定表など一切作らず、その場で気の向くまま生徒をあててレッスンしたが、アゴスティは予め各人の時間割を作り、公平にレッスンしていた。
ミケランジェリは、山向こうのアレッツォから自ら車を運転してシエナまで通っていた。その年12月、トレント近郊のミケランジェリ宅に招かれるまで、高野さんは半年間シエナで過ごした。その間彼女のイタリア語はすっかりシエナ訛りになっていたので、再会したミケランジェリには大いに揶揄われた。当時ミケランジェリの生徒たちは揃って彼の家に寄宿していて、しばしば演奏会にも同行が許された。完璧主義者のミケランジェリは高野さんにイタリア語しか話さなかったが、高野さんは仏語と聞き覚えの伊語を交ぜて会話した。
 
12月某日 ミラノ自宅
ヘルシンキは酷い雪で離陸前の溶雪作業に時間がかかった。尤も、翼に積もった雪を融雪剤が勢いよく吹き飛ばしてゆくのは爽快痛快だ。迫力も抜群で溜飲が下がる。
昼前自宅に着いて、取急ぎあり併せで出がけの息子にパスタを用意する。ふと庭を目をやると、餌場の椅子からリスがじっとこちらを眺めているので、胡桃をやる。「やれやれ漸く帰ってきた」という表情をする辺り、息子より愚直である。息子は二週間の一人暮らしで2キロほど痩せた。
 
12月某日 ミラノ自宅
早朝リスに胡桃をやった途端に、いつもの鴉や小鳥たちが続々集い、庭はすっかり賑やかである。それから暫くして外を見ると、今度はリスと黒ツグミが目の前のベランダの手すりに並んでいて、相変わらずこちらをじっと眺めている。餌の催促にあたり、種を超えた紳士協定を締結したらしい。確かにそれぞれ一匹ずつに見つめられるより、異種二匹並んで良心に訴えるほうが効果は高そうだ。
久しぶりに会う息子が朝から集中して練習していて驚く。尤も、午後にダヴィンチ博物館で数曲弾くらしいから、当然ではある。
「優しい地獄」読了。既に水牛で知っていた文章は文字が二重写しに見え、そうでないところは、文字そのままが映像化され脳裏に投影される。映像を作る人の文章は、ドキュメンタリー映画のように、時に生々しいほどの光景を映像化して立ち昇る。そこには温度も臭いも触感もある三次元空間となって辺り一面に広がってゆく。基本的に音楽を抽象芸術だと定義すれば、映像は本来具象を扱う芸術の扱いになるのだろう。具象で音楽を試したい者にとって羨ましくもある。
ルーマニアは知らないけれど、シベリアの田舎の風景やアルバニアやブルガリアの友人の話が、断片的に頭を過り、読み進めるうち、それらを改めて反芻する手触りを覚える。尤も、詰まるところ音楽はどう足掻いても表現手段としては穏やかで間接的なもので、だからこそ生き延びられる場合もあるかも知れない。
 
12月某日 ミラノ自宅
夜明け前運河沿いを散歩していると、大きな塊が目の前を飛び跳ねている。目を疑ったが、確かに6匹の野兎の群れが道路を渡って移動していて、どうやら家族のようである。来年は干支だからと勢い余って出てきたのか知らないが、毎日この道を歩いていて初めての体験だ。今朝は妙なものばかりに出会う。運河に見たこともない大きな黒鳥が一羽、優雅に浮かんでいた。
文章を書いたり作曲するのは、愉快な作業のはずだ。音を聴いたり文字を読む行為は、本来喜びを宿しているはずだが、時として、作曲も日記も体内に溜まった澱を外に掻きだす作業に感じられる。普段からアウトプットが足りないのかもしれない。記憶の塵芥を放置しておくと、何時しか体内に臭気が立ち籠めてくる。
返事が来るとは思えないし、届くかどうかすら怪しいが、シベリア、クラスノヤルスクのラリッサにクリスマス・メッセージを送る。クラスノヤルスク県からの動員が多かったと聞き、一緒に演奏した仲間たちの身を案じている。彼らは実に心の優しい、素朴で良い人たちだった。美しい土地に素晴らしい音楽家が暮らしていて、料理は愕くほど美味しかった。あの時自分が感じたことを、素直に信じていたい自分がいる。一刻も早く戦争が終わってほしい。
 
12月某日 ミラノ自宅
美恵さんの本を読もうとすると、美恵さんの声が聴こえてくる。美恵さんの話し方とそのスピードで目の前の文章が再生されるので、時間がかかって困る。時々文章の合間にけらけらと著者の笑い声まで入る。美恵さんのお宅から拙宅は近いので、わーはっはと啼く烏も知っていて、烏の声まで読むものを邪魔する。
寄せ書きの「Homo ludens遊ぶ・ひと」という言葉を読みながら、バッハの平均律が頭に浮かぶ。「Pre-ludio 遊びの・前」の小手調べからいざ「Fuga遁走」。当初どのニュアンスで使い始めたのか知らないが、我々ホモ・ルーデンスはその昔からなかなか趣味の良い言葉遊びをしてきた気がする。美恵さんの文章は、柔らかい響きながら表現は曖昧にせず明確に言い切っていて、安心して読める。
 
12月某日 ミラノ自宅
時差呆けにて03時30分起床。
美恵さんもイリナさんも、事象を素直に、しかし現実的に捉えていて、そこから言葉がすらすらと生まれてくる。それは自然な表現なのかもしれないが、現実を冷静に観察しそのまま直截に表現できる能力は、自分にはない。
望月みさとちゃんや山根さんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏して、どこか共通するものを感じた事にも微かに通じる。音楽はそれぞれ全く違うが、自分にはない視点で音楽の地平を捉えているところが似ているのだ。何かを観察するにあたって、その行為がそのまま一つの事象として成立していたり事象へ発展していたり、或いは収斂、帰結をみたりもする。
性別と関係あるかは知らないが、自分に関して言うならば、観察結果を構造という函に一旦投げ込まないと不安になるきらいがある。それは強迫観念のようなもので、場合によって構造は或いは箱の形状もとらず、形而上学的に観念化されているかもしれない。
大戦後のケージショックの偶然性も脱構築性も、そこに純然たる構造が浮き彫りになっているから面白い。構造を壊そうとすればするほど構造がより顕著になるのは、複雑な音を書けば書くほど構造が単純化するのに似ている。構造は否定すれば否定するほど明確になるから、本当に構造を否定したければ、無条件に構造など考えなければよい筈だが、構造を考えずに思考すれば、否定された構造ばかりが炙り出される。
敢えてジェンダーの二極を受容れても、その二極間には無数のグラデーションが存在するだろうし、二極を繋ぐ線も直線ばかりではないだろう。それは個性の一つの指針にはなるかもしれない。馬齢を重ねるほどに、自分が知っているつもりでいたことについて、実は何も知らなかったと気づく。
 
12月某日 ミラノ自宅
朝4時半起床。弁当用に白米を炊き、鮭に塩を振り水分を飛ばして焼いてから、大きな橋を渡って運河の向こうに朝食用パンを買いにゆく。最近息子が気に入っている蜂蜜入り全粒粉パンを購い、朝食用の目玉焼きと弁当用の和風卵焼きを作り、温かい紅茶をポット2本に詰めて、海苔弁当とおかずも詰めて、さあ朝食を食べようと思いきや、ベランダで番のリス二匹がこちらを恨めしそうに眺めているから胡桃をやり、慌てて朝食を食事をかけこみ自転車を走らせ、何とか8時50分レッスン開始に間に合わせる。パスタの方がよほど手軽だが、昼食にパスタを食べると眠くなる。
夜19時半困憊して帰宅すると、息子は昼食を食べ散らかした上、食器未洗により激怒。言葉を交わす間もなく、息子はそそくさと友人たちとハンバーガーを食べに出かける。衝突回避の術を彼なりに会得していて、処世術ともいう。
秋も深まり気温が下がってきた頃から、冷蔵庫に貯めておいたパルメザンチーズの外皮を料理に使うようになった。これをかち割り、ソースに放り込んで煮込むだけだが、特徴ある深いコクが絶品の冬の味わい。
 
12月某日 ミラノ自宅
美恵さんの本に登場する「わっはっは」と啼く烏。美恵さんは近所だからほぼあの烏に間違いないが、或いは烏間違いをしているかもしれない。「ばーか」氏にもどこかで会った気がするが、こちらも烏違いかもしれない。
朝、胡桃をやるとき、同じ小鳥が同じフレーズを囀っているのに気が付いた。仲間に「メシだメシだ」と伝えているのか、どこからともなくすぐに仲間が集まってくる。
うちの庭には以前からリスと黒ツグミが、並んで巣を作っていて、割と仲も良さそうで、時として雛鳥と幼リスが追いかけっこをしているようにも見える。産まれた時から隣に住んでいて、体長も凡そ似ていて親近感を覚えるのだろうか。
胡桃をやると、向かいの中学校庭に巣を作っている番の烏も、すぐに二羽で連立って飛んでくる。ところが、こちらの烏は日本の烏よりずっと穏やかで、リスに何時も嫌がらせをされては、暫く遠巻きに眺めている。その間も、雀よりもずっと躰の小さな鳥たちが、入れ替わり立ち替わりやってきて胡桃を啄むが、何故かリスは烏以外には寛容なのである。
母から誕生日祝いが届き、「洋一は自分が生まれてきて良かったと思っているか、考えることがあります」とある。そんな自問をした記憶はないが、同じ疑問を息子に対して考えていたところだったので、まあ親は誰も同じことを思うのだろう。生まれてくる方は、生まれて以後の現実に振り回されて頭が回らないが、生んだ方はそこに至る過程を遡求する。
生まれて良かったかどうか考えたことはないが、53歳の自分が毎日庭に集う小動物を眺めて暮らす姿を想像したこともなかった。
 
12月某日 ミラノ自宅
「待春賦」脱稿。小品なのでさっさと手書きで浄書し、夜半沢井さんと佐藤さんに送附。
11月日本に戻る機内で沢井さんの名前を使って17絃と25絃の調絃をあれこれ思案していて、突然降って湧いたように興味深い旋法が浮び上がった。「待春賦」の題にはいくつか意味を掛けているが、平和への希求もそこには当然含まれている。
先日のメールに対して、シベリアから返事が届く。
「わたしは目を閉じ、神に祈っています。神がわたしたちに眼を向け、微笑んでくれるように。来る将来、今までのように互いに心を通わせ、愛する人々とまた垣根なしに会えるように祈っています。この苦しみが、過ぎゆく今年とともに消えてなくなるよう、祈っています。誰ひとりとして、わたしたちの心を繋ぐ見えない糸を、断ち切ることはできません」。
 
12月某日 ミラノ自宅
長谷川将山さんのための尺八曲を、1月に亡くなった平井さんを偲びながら書く。名前で作った音列を展開させる途中、何度か、平井さんがその辺で眺めている錯覚を覚える。子供の頃にやったコックリさんに似て、音符と数字が妙に隙間なく合致する瞬間があって、そんな時「ほらこの数字間違っていませんよ」とあの飄々とした口調で話しかけられている気がする。「何しろ、わたしは理系ですから」と、継ぐ言葉すら聞こえるようだ。ところで今回は甲賀さんの本から沢山の尺八曲のヒントを頂いた。空間の広さや深さ、個性を纏う面白さ。2次元の事象を4次元くらいに変換させて空間に遊ばせること。甲賀さん有難うございます。
中国でCovid感染爆発のニュース。3年前の今頃を思い出して暗澹たる思い。厄介な変異種の出現でないことを切に祈る。
 
12月某日 ミラノ自宅
平井洋さんを偲ぶ尺八曲を「望潮(もちしほ)」と名付けた。能の「融」で地謡が「汲めば月をも、袖にもち汐の、汀に帰る波の夜の」と唄う場面。田子を担ぎ汐を汲む老人の袖にも月がうつりこみ、汀に戻る汐汲みの老人、もとい源融の幽霊は、いつしか汐曇りに消えてゆく。
平井さんとお仕事をご一緒した多賀城と堺は、「融」の舞台である塩釜と京都とは近からずとも遠からず。「月」が隠れた主題となっている「融」だが、白河の小峰城で平井さんとご一緒した、沢井さんと有馬さんに書いた「盃」も、李白の詠んだ「月」が主題だった。
「秋の南湖の水面は夜になっても靄なく澄んでいて、この流れに乗って天にすら昇りたいところだが、まあひとまずはこの洞庭湖で月の光を頼りに、船をすすめて酒でも買いにゆこうじゃないか、あの白雲のあたりまで」(李白「洞庭湖に遊ぶ」)。
 
12月某日 ミラノ自宅
「望潮」脱稿。早速長谷川さんに送附。夜メルセデス宅にてカルロッタを交え3人で夕食。二人とも10月に罹ったCovidが尾を引いている。11月中旬に漸く陰性になったそうだが、メルセデスは未だに困憊していて、椅子に座らないと料理すら出来ないとこぼす。体調がすぐれず一度だけ挨拶に顔を見せただけのリッカルドは、同じ時期に罹ったCovidですっかり顔がこけてしまっていた。
カルロッタは11月から年金受給者となり、現在、工科大の教授職は無給で続けている。工科大にはロシアやウクライナからの留学生も何人か在籍しているが、ロシア人学生たちは祭日期間など普通にロシアに帰郷し、その後普通にミラノに戻ってきているそうだ。どういう経路でモスクワ、シベリアまで戻るのか分からないが、陸路なり何某か手段が残っているらしい。
メルセデスの家事手伝いをしているモルドヴァ出身のマルティーナによると、モルドヴァに残る彼女の実母は、トランスニストリア出身でもないのに熱狂的なプーチン崇拝者だという。旧ソ連時代を希求するこうした市民はロシア国内にも国外にも一定数いて、現在のロシアの軍事作戦を支えている。
カルロッタ曰く、BREXITで外国人を排除した結果、イギリスで看護師や医師が酷く不足し医療が破綻を来しているらしいが、実際どうなのだろう。右派政権のイタリアも全く他人事ではない。
マルペンサ空港では、一昨日より中国からの到着便の乗客に任意でPCR検査を実施していたが、陽性率が1便目で35%、2便目で53%に達したため、今日からPCR検査は義務化された。
 
12月某日 ミラノ自宅
般若さんより、悠治さんのヴィオラ新曲のヴィデオが送られてくる。聴いていると、つい無意識に4度、5度、3度、6度と音程を耳で追ってしまう。そんな時、目に見えない輪が目の前でふわふわ浮いているのを感じる。
一方、山根さんを交えた三重奏曲は、さまざまな大きさの二等辺三角形が、ちょうど知恵の輪のパズルの塩梅で、どこともなく絡んでいるように見える。ピアノパートが与える印象だろう。2和音とそれをつなぐ別の1音が描き出す三角錐の空間。
ベネディクト16世逝去。イギリス、フランスも中国から到着する旅客に陰性証明や抗原検査義務化。明日からクロアチア通貨はユーロとなるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを超えた先、コソボ・セルビアでは衝突が尖鋭化しつつある。こうしてウクライナ侵攻の足音は、西ヨーロッパ手前まで波及しつつある。(12月31日ミラノにて)

ベルヴィル日記(14)

福島亮

 もう1月! 11月末から12月はじめにかけて、連日徹夜が続いていたからだろうか。気がついたら12月1日の夜になっており、ああ、しまった、ベルヴィル日記を送り損ねた、と思ったのだが、後の祭りだった。

 ベルヴィルでの生活も残すところあと2ヶ月弱となった。フランスの新年は比較的静かである。というのも、お祝いといえばノエルだからである。少し前に国立視聴覚研究所(INA)の映像アーカイヴを見ていたら、ビュッシュ・ド・ノエルについての短いドキュメンタリーがあった(https://youtu.be/tbhAOpvvqDU)。1980年頃の映像らしいが、ノエルになると暖炉に大きめの丸太を焚べ、その上に人参などを並べて燃やすという風習が当時の田舎にはまだ残っていたらしい。ビュッシュ・ド・ノエルというと、私は単なるロールケーキくらいにしか思っていなかったのだが、古い起源があるようだ。もっとも、もはや暖炉を使う家自体がそんなにも多くないだろうから、この行事がどれだけ残っているかは謎である。

 私は2018年までビュッシュ・ド・ノエルなるものを食べたことがなかった。その年、マルティニックでノエルを過ごしたのだが、滞在していた家の人がパーティーで切り分けてくれたのが最初だった。それは熱帯にふさわしく、パッションフルーツ味のクリームで作ったアイスケーキだった。でもそれ以降、ビュッシュ・ド・ノエルを食べる機会にはめぐまれなかった。というのも、このケーキはみんなで切り分けて食べるものであり、私のような一人暮らしの外国人にとっては少し敷居の高い食べ物なのである。もう去年になってしまったが、12月23日、ある日本人の知り合いの家に呼ばれて夕食をともにした。そうだ、と思い、ビュッシュ・ド・ノエルを購入して持って行った。フランボワーズで色付けしたクリームに覆われた可愛らしい丸太を切り分けて食べてみると、そのピンクのクリームは、バタークリームだった。ビュッシュ・ド・ノエルは数日間店頭に陳列されるため、生クリームというわけにはいかないのだろう。これがバタークリームケーキか——と、感慨に浸った。

 というのも、まだ私が幼かった頃、母がバタークリームケーキの話をしてくれたのを思い出したからである。後に私の母となる群馬の田舎の少女は、地域の行事でもらったバタークリームケーキを喜び勇んで食べたところ、ひどい吐き気に襲われ、以降、バタークリームはその名を見るのも聞くのも嫌になったらしい。どうも母が子どもだった時分はバターの代わりにショートニングを使用した偽造バタークリームも多かったようで、少女時代の母がそれを食べてしまった可能性は高い。ケーキといえば生クリームのものしか見たことがなかった私にとって、バタークリームケーキはずっと謎の食べ物だった。ようやくその謎のケーキに巡り合うことができたのである。

 ちょうどその日だったのだが、隣の区でクルド人を狙った発砲事件があった。犯人は69歳の男性で、刑務所から釈放されたばかりだったという。事件の直後、警察によるクルド人の保護が足りなかったとして、クルド系住民と警察の衝突があった。日本にいる知人から私のもとに心配のメッセージが届いたのはその衝突も終わりかけた頃だった。その日は朝の市場に行ってから部屋にこもっていたので、そもそも事件に気づいていなかった。「黄色いベスト運動」が火を吹いていた頃は、デモ隊に混ざって催涙ガスを浴びたりもしていたのだが、今は滞在許可書の更新中ということもあって(12月が今持っている許可書の期限なので、残りの約3ヶ月間のためだけに更新手続きをしているのだ)、今回の事件の抗議集会には足を運ぶこともなかった。

 でも、たとえば攻撃がアジア系住民に対するものだったら、自分はどうしただろうか。警察の不備を訴えて、街路に飛び出しただろうか。思い出すのは、コロナが蔓延し始めた頃のことである。私自身は経験したことがないのだが、その頃アジア系住民に対するヘイトが多くあり、実際、私の知り合いは道を歩いていて唾を吐きかけられ、ウィルスと罵られたという。このような事件がある場合、とくに中華系の住民は激しい抗議を行う。それだけでなく、あの頃は、食堂でも商店でも、彼らはマスクを二重にし、ことあるごとに手指を消毒していた。私がヘイトに遭遇せずにすんだのは、運が良かったからではなく、彼らの抗議行動と努力によって守られていたからである。そもそも、「中華系の住民」とは一体誰のことか。ベルヴィルで出会うあの人やこの人がどこから来たのかはよくわからないし、市場に行けば、私も「ジャッキー・チェン」と呼ばれることがある。どこから来たのかとか、何系なのかということを本当はそんなにも気にしなくて良いのかもしれない。だからこそ、特定の住民を狙った事件は気分を重くさせる。

 それにしても、静かだ。じつは、ベルヴィルの新年は、春節の方が何倍もにぎやかなのだ。もう数週間からひと月ほどすると、通りを獅子舞が練り歩き、商店に入れば、お祝いとして大きなミカンをくれるだろう。だがそれはまだ先の話である。ひたすら静かな大晦日だ。と思っていたら、何だか外がにぎやかになってきた。出てみると、目の前のベルヴィル通りに辻楽師がやってきていて、中型のドラムと小さなバグパイプを演奏している。太鼓の方はダルブウカ、バグパイプの方はメズウェドといい、どちらもチュニジアの伝統楽器だそうだ。通りには人だかりができていて、なかには踊っている人もいる。ああ、楽しいな、こういう時間がずっと続けばいいな、と思っているうちに、音楽は終わり、楽師たちの姿は消え、人だかりも散ってしまった。

仙台ネイティブのつぶやき(78)ミヨコの出立

西大立目祥子

ついに、母をグループホームに送り出した。どこにいても母のことを気にしなければならないような生活を送るようになって15年くらい経っただろうか。2020年の新年に転倒して救急車を呼んで以来、夜に一人で寝せるのが心配になって週3日泊まる生活が続いていた。このままあと何年かは続けられそうな気もしていたのだけれど、8月の二人そろってのコロナ感染という経験をしたら、何だかどっと疲れが出た。いや、疲れていたことに気がついたというべきか…。もうそんなに頑張らなくていいよ、と弟にも連れ合いにもいわれるたび、いやいやまだ大丈夫と胸の内でつぶやいていたのだったが、秋風が吹くころになったら無理な決心でもなく、もう私がずっと抱えていくのは難しいかなと、思えるようになっていた。

躊躇していたのは、一度出たらたぶんこの家に生きて帰ってくることはないだろう、と考えていたからだ。外出とか外泊とか、もとは気軽にできたことが、コロナ以後はかなわなくなった。会うことすら難しくなるだろう。60年以上も暮らし続けた家を離れる。判断できない本人に代わって、それをこの私が決心するということの重さにたじろいだ。
それに「入所」ということばもいやだった。生活の匂いのない、無味乾燥ながらんとした施設に行くみたい。刑務所じゃあるまいし。

幸い、これまでお世話になったケアマネージャーさんともつながりが保てそうないいグループホームが見つかった。私の家から歩いて10分。何となく近くに母が引っ越してくるような感覚が持てなくもない。
ヘルパーさんを統括していたエミコさんには、「すっかり元気になっての入所なんだから、うまくやっていけると思いますよ。弱って入るわけじゃないんだから、本人のためにはいまがいいときですよ」と励まされた。この人と話しているといつも頭のモヤモヤが整理整頓されていく。そうだ、何といっても転倒からもコロナからも復活をとげた94歳なのだ。「きっとうまくやっていける」というひとことに、私の中のうしろめたいようなたじろぐような気持ちが薄れ、母の前途を祝し送り出そうと思い立った。

10年以上もお世話になったケアマネージャーさん、ヘルパーさん、いつも気づかって訪問してくれた民生委員さん、従姉妹や叔母たちに、これまでのお礼をこめて紅白のお餅を引くことにした。この餅、近所の藩政時代創業のお菓子さんのもので日露戦争に勝利した記念につくったとかで、「全勝餅」というめでたい名前がついている。いわくはどうあれ、出立にはふさわしい。そのほか、母が5、6年前まで熱心につくっていた刺し子のふきん2枚、友だちにたのんで焼いてもらったシュトーレンを用意して、母の入居前日にはケアマネさんやヘルパーさんに集まってもらって壮行会を開くことにした。壮行会といったって、いまはお茶もお菓子もご法度なので、母がお茶をすすりお菓子をおいしそうにたいらげるのをみんなで笑いながら見ていただけなのだが…。

母の入居前日、この日はいろいろなサービスの最終利用日だったのだが、週一回、お昼のお弁当を届けにきてくれていたタマミさんが、「今日で最後ですね」と玄関に入ってきて母の顔を見るなり泣き出した。「私、ミヨコさんの笑顔にすごくなぐさめられてました」とお弁当を手渡してくれる。この人とは毎回わずか30秒くらいの会話なのに気持ちが通じている感じがあって、庭の花をあげて花の話をしたり、母と私がコロナに感染したあとは、遠くで暮らしている息子さんがコロナに感染後に体調を崩していて心配、と打ち明けられたりした。黄色いジャンパーを着込んで、庭に入り込んでくると気持ちがぱっと明るくなるのだった。

わずか1時間のサービス時間内に、昼食を食べさせ、トイレ介助をし、散歩にまで連れ出してくれたマチコさんには感謝しかない。いつも日報を書いているのを邪魔して、庭の木や鳥や本の話をするのが私の楽しみだった。きめ細かい対応をしてくれる人で、たとえば届けられたお弁当をそのまま母の前に出すことをせず、小さな小皿に移し替えて少しずつ食べさせてくれる。食べるのが人一倍早いことを配慮してのことだった。体温はもちろん、歩き方、食べ方の小さな変化から心情や体の変化を読み取ることに長けていて、それは母だけでなく私にまで及んだ。1年ほど前のことだったか、母に決していってはいけないようなひどいことばをぶつけたことがあって、そのことを打ち明けたら、マチコさんはこんな返し方で私の胸の中に残った黒い固い石のような異物を溶かしてくれた。「大丈夫、ショウコさんは絶対に後悔しないから。答えは全部ミヨコさんが出してくれるから」

介護保険制度がスタートしてからずっとヘルパーをやってきたというから20年のベテランなのだが、亡くなったり施設に入る人が多く、母のように10年も長く通った利用者はいないのだそうだ。「いろいろな人がいてね、怒鳴る人も多いし、愚痴ばかりこぼす人もいるの。ミヨコさんみたいに明るくて、いつもありがとうっていってくれる人なんてめったにいない。だからここに来るのは楽しみだったの」。帰るとき、母といっしょに門のところまで出ると、「ミヨコさん、元気でね」と母の手を握ったとたん、ああ泣かないつもりだったのにといいながら、目がみるみる涙であふれた。軽やかに自転車にひらりと乗って右腕を高くふる後ろ姿を、二人で見えなくなるまで見ていた。

ほどなくして、従姉妹がケーキの包みをかかえやってきて、玄関先で母を励ましてくれた。夕方訪問のヘルパーのミチコさんは、大きなカステラを焼いて持ってきてくれた。A4判くらいのビッグサイズ。いつものように散歩やお掃除をそつなくこなすと、「ほんとによく頑張ったよ」と私をねぎらってくれ、最後の最後、玄関で顔を見合わせたとたん、マチコさんと同じように泣かないつもりだったのにといいながらぼろぼろと涙をこぼした。東日本大震災の直後からだから、もう10年以上のつきあいだ。本当にありがとう。元気でね。

毎週火曜日、母は一日家にいたので、私は前の晩から泊まり、つぎつぎとやってくるヘルパーさんやお弁当配達に対応し、顔を合わせしゃべり、デイサービスの電話を受け、ばたばたと落ち着きなく過ごしていた。
それが、いまでは…だれもこない。部屋の空気も物も動かない。母の使っていた湯呑は戸棚の中に納まり、箸は使われず箸立てに立ったまま。窓辺にあった母愛用のテーブルはグループホームに運び込んだので、部屋が少し広くなった感じがする。
ああ、そうかと、いまごろになって私は気づかされている。私があらゆる介護の手続きをし、ヘルパーさんを手配し、母の面倒をみていると思っていた。ちがう。これは母のつくったコミュニティなのだった。そこに私が招かれ、そこに集う人たちと交流し楽しませてもらっていたのだ。主役は母。だから、みんな母の顔をのぞき手を握り、別れを惜しんで涙ぐんでいたのだ。
認知症であっても高齢であっても、人はその存在感でまわりに人を寄せるんだなあ。

グループホームに入居して半月。最初の一週間は眠れなかったり、夜起きてきたりが繰り返されたみたいだ。でも一昨日、電話でスタッフと話したときは、散歩をしたり車に乗せてもらって近くをドライブしたり楽しめるようになってきたようで少しほっとする。「前途を祝し」送り出した私のためにも、そこでも持ち前のパワーで暮らしを広げていってほしい。
ミヨコさん、どうぞよいお年を!

フリカエリ

笠井瑞丈

今年も気づけば
あっという間に過ぎていった
今年何をしただろう
そんな事を振り返る

2022年

1月 リンゴ企画近藤良平
「百年大作戦」
『正直者は笑い死に』
 近藤良平×笠井瑞丈

2月 人生初のコロナになる

3月 天使館ポスト舞踏公演
「牢獄天使城でカリオストロが見た夢」

4月 コロナ副作用に苦しむ日々

5月 笠井瑞丈×上村なおかプロデュース公演
笠井叡×平山素子
J.S.バッハ作曲『フーガの技法』を踊る

6月 初めての一人車旅に出る

7月 埼玉舞踊コンクール審査員

8月 笠井家公演『喜びの詩』
構成・演出・振付:笠井瑞丈

9月 night session vol.06
笠井瑞丈×伊藤キム

鎌鼬芸術祭に参加

10月 HOT POT韓国ソウル
花粉革命

11月 『DUOの會』再演

12月 『ダンスブリッジ』
笠井瑞丈×上村なおか
新作上演

来年もまた踊っていこう

ジャワ王家の世代交代 その後

冨岡三智

●マンクヌゴロ家

2021年9月号「ジャワ王家の世代交代」でも書いたように、2021年8月13日にマンクヌゴロIX世が亡くなった。IX世には現王妃との間の息子以外に離婚した妻との間にも息子がいて、一時不穏な動きも見せていた。結局、2022年3月12日に現王妃の息子が無事にマンクヌゴロX世として即位した。

X世は昨年中にお披露目記念として舞踊団をマレーシア、オーストラリア、タイに派遣、12月にはジョコ大統領の末の息子の結婚披露宴に王宮の使用を許可し、王宮の北西の元テニスコートの敷地にPracima Tuin庭園を整備(1月から正式公開)…と精力的に行動している。各方面と連携しなければこれだけのことは実現できないだろう。若いながら王家の責任を背負った立派な当主だなあと感じている。

●スラカルタ王家

一方、病気のスラカルタ王家の当主・パクブウォノXIII世(74歳)も、2022年2月27日の即位記念日の式典において、現王妃との間に生まれた息子プルボヨを正式に皇太子とした。21歳とまだ若いが、同世代のマンクヌゴロX世と競い合いつつ頑張ってほしいなあと願っている。

XIII世は3月のマンクヌゴロX世の即位式には出席していたが、現在、健康具合はかなり深刻な状態だという。XIII世は3度結婚しており、実は離婚した2番目の妻との間にもう1人息子:マンクブミがいて、皇太子より年上である。だが、2022年12月24日、王家の慣習評議会の長であるムルティア王女の意見により、彼はハンガベイと改名された。ムルティア王女はXIII世とは同母きょうだいだが、もう何年もXIII世に遠ざけられ、王宮内に入れない状態が続いている(た)。このハンガベイという名は庶子の中で最初の男子に付けられる名前である。父親のXIII世も即位前の名前はハンガベイだった(XII世は側室はいたが王妃を立てなかった)ように、王になれる可能性のある名前だ。というわけで、まだまだ内紛は終わりそうにない。

シンハマオカ

北村周一

世界一キケンなこともその訳も知らされずしてハマオカはあり
秋の日のドライヴにしてハマオカへクルマ走らす明日はどっちだ
雨の中あすのゲンパツはまおかに見てのかえりに思うことごと

ことあらば避難場所にもなるらしき展望台よりハマオカを望む
地上約60メートルのたかみへと昇るうつしみゲンパツを見に
ふかぶかと展望台より見入りたる明日のゲンパツ原発のあした

中空にうかぶ方舟さながらに展望台ありハマオカの地に
見下ろせば海と砂丘とゲンパツが視野にひろがるわたしは小舟
海のべに暗くひろがるゲンデンの建屋いずれも箱庭のごとし

ハマオカは中部電力唯一の原電にして砂丘のうえに
はまおかの海と砂丘に囲まれて長閑なりけり明日のゲンパツ
大鳥居と送電塔とに守られてならぶ原子炉ハマオカともいう

活断層砂丘の下に隠れいて原子炉五つそのうえにあり
世界一危険なることいましばしわすれむごともハマオカに遊ぶ
遠洋のマグロ獲っては棄てしことも核とゲンパツ根っこはおなじ

死の灰にまみれし黒き雨ガサを振りまわしつつATOMの子らは
地図ひらきはかる半径モノ差しの起点すなわちハマオカちかし
定規手にハマオカまでの隔たりを探らんとして逃げ場所いずこ

ハマオカの外へ外へとながれゆく雲に切れ目はあらずやカモメ
地図ひろげ距離と風向きいま一度ハマオカまでのドライヴおもう
近いのにとおい存在ハマオカを地図に拾えば塵のごとしも

地図上の同心円の中ほどに消え入るごともハマオカはあり
同心円状にひろがる雲の群 にげ場なき闇しるす地図帳
色のない雲のゆくえを地図上に追いつつ起点ハマオカに至る

いいこともあるのだろうが廃炉へのみちのり淡きハマオカの町
いいこともあったのだろう再稼働の声もちらほらゆれるハマオカ
隠しごともトラブルもまた多くしてどこへ行くのか中電の町

地震にも津波にも耐えていきのこる夢のゲンパツおもいみ難し
遠州はいいところだよとカラっかぜ身に受けながら給油所のひと
遠州のかぜよりつよく吹きわたる声を恃みにゲンパツにノー

北にリニアみなみに原子力ありて不穏なりけり中部電力
再稼働をうながす声はあきらけく西にひがしにハマオカにても
そのたびに嵩上げされたるハマオカのなみ打ち際の防波壁異様

下請けの下請けもありてハマオカのあちらこちらに中電のひと
浜岡は雨に濡れつつみどりなす丘の茶ばたけ育むところ
茶畑の丘に連なるハマオカの緑の木々のゆたかなことも

ふる雨のにおい懐かし茶ばたけの緑のはてに海あることも
やわらかにみどり列なる茶畑の大地の向こうハマオカはあり
エントツが煙吐くときうきうきとこころ踊るを懐かしみつつ

憂いつつ深けゆく秋の一夜ありて明日のゲンパツ見て来たりけり
秋の日はしずみやすくてハマオカに夢のゲンパツ見て来たるなり
海沿いの街のはずれに忽然とすがたあらわすゲンパツのリアル

街はずれの海岸線にみえかくれ ゲンパツまとめて花いちもんめ
原電がここにあること世界一キケンなこともハマオカは雨
ミライへの利用をうたう中電の原子力館あかるかりけり

安全を守る基本は止める冷やす閉じ込めることだと語る〈ユウユウ〉
見てふれて遊んで学べる中電の原子力館たのしくあらな
こわしつつつくりつづける力学の外部にありや原子力とは

捨て去るもつくり直すも能わざれば閉ざすほかなし夢のゲンパツ
いわれなき電力不足に踊らされあすのゲンパツゆめ見るごとし
この冬の電力不足を説くキミの発言にわかに熱を帯びたり

電力の逼迫を煽る英知あるひとの言動テレビが流す
御前崎大地のみなみハマオカに向けて真っ直ぐ走る断層
オマエザキ大地は古来大地震の巣窟にして揺れ止まぬなり

オマエザキとハマオカ砂丘はひとつにて活断層はねむらずにいる
巨大地震のツメ痕のこる御前崎大地にまなぶ履歴そのほか
自然には時間感覚あらずして大地は絶えず揺れつづけおり

さわれそのゴミの数数どうするのもしものときは海へ捨てるの
それぞれの庭の片隅ふきだまり目には見えねば掃くひともなし
燃料は極小にして極大の熱量を得るもその後の処理は

中性子をウランに当てて熱量を得んとするにも水が必要
いずこにも貧しき町はあるらしくさがす候補地札束散らし
いずこにも寂しき町は横たわり誘致にはげむ電力会社

延長を重ねかさねてつつがなく働かされる原電とその他
中電が人工的にこしらえし砂丘の蔭にもゲンデンはあり
エネルギー危機に乗じていきなりに原子力へと舵切るやから

思いのほかコストが嵩む原子力利用 そのかげに潤う人も
つくるにもこわすにもまた莫大な費用がかかる原子力とは
旧小笠郡浜岡町に落としたる協力金約三十億のゆくえ

ゲンデンのかげにときめく人らあれば愁うる人も秋の夕暮
世界一アブナイなんてハマオカはハザード・マップに記載はなきに
シンゴジラやらシンウルトラマンもあらわれてゆく年くる年新年だもの

*ユウユウとは、中部電力が運営する展示館「浜岡原子力館」のイメージキャラクターのこと。

休みの間に

高橋悠治

静かな新年。4月まで休みにしたが、何もまとまったことはしていない。音を書く、作曲というより、音の空間に線とその変化をスケッチして、手が動く変化の跡を追ってみようか、と思っているうちに2ヶ月が経った。音の群れが飛び立つ様子を、即興というよりは、引用と歪み、それらの断片を継ぎ合わせる。だが、これはまだやっていないことだから、しばらくはピアノを練習して、手が動くようにしておこう。

シューマンの「詩人の恋」のピアノを練習する。ヒンデミットの「マリアの生涯」の旧版と新版とを照らし合わせてみる。そんなことをしているうちに、何か思いがけない変化が起こる、という期待はない。

一柳慧が亡くなった。磯崎新が亡くなった。コロナが流行しているうちは、人に会うこともなく、新聞も TVも見ないうちに、時が経っていく。

点ではなく、短い線の集まり。 ストラヴィンスキーが毎日30分ずつ書いていたように、何のため、というより、毎日の仕事としてページを音で埋める。そのほかに、ピアノを1時間ほど弾く、とする。