010 過去を割る 

藤井貞和

過去を割る土器
だれかが
過去において割る土器
おおさんしょううお
まるい蛇
土器に蛙をいれて割る過去
だれかの火焰式土器
過去を割っていれる土器
だれかの土偶の
欠けらを置く岩倉遺跡
わらの柱に描く
這いのぼる火焔の樹
を置くうてな(台)、くら(坐)
過去に割った土器
過去によって割る土器
過去を土器で割る
だれかが火焰式土器で焚く
だれかが火焰式土器で煮る
地上から火焰が這いのぼる土器
野ねずみが這いのぼる土器
根をささえ衣類にのぼる土器
の影ひとつ
台、燭台に坐がひとつ
過去においてこれから割る土器
過去と土器とのあいだを割るハンマー
過去に土器をいれて割るちから
だれかが火焰式土器を書く
空の象形、台に書く
土器が割るかもしれない象形
過去から土器を取り出す
土器から過去を取り出す
だれかのために葉になり
だれかの枝になり
宇宙樹になり
だれかが火焰式土器に名づけ
だれかが火焰式土器を買い
だれかの火焰式土器を割り
だれかの火焰式土器に彩色する
だれかは火焰式土器を調べて
だれかのために這う虫になり
支える宇宙樹になって
幹を火焰が這いのぼって葉になり
枝を火焰でおおいつくし
過去からの土器を割る
土器が過去を割る
過去が割る土器、明(ひかり)
夢十夜(からあさひ)へ起きて
朝の装身具を置く台、坐

(土器が火焰を象ることはないだろうから、考古学者のロマンである。火焰のように見えたのは葉や枝で、巣をつくる鳥もいたし、蛇が這いのぼり髪になる。宇宙樹だろう。でも詩としては火焰式土器でよいのだ。)

仙台ネイティブのつぶやき(111)すぐそこに熊

西大立目祥子

 猫が家出してしまったとき、依賴すると、家のまわりを歩き回り居場所を探し当てる猫探偵のようなプロがいるらしい。たいてい猫はそう遠くへ移動するものではなく、意外に近くにじっとひそんでいるのだとか。まず当たりをつけるのは家より低い方向で、下りながらじっくりと探していくと、茂みの中とか床下のようなところで見つけることが多いという。たしかに上るよりは下る方が自然というか、楽なのだろうな。人だって階段を上がるのは億劫なわけで。急坂もゆるやかな坂も、やわらかな肉球で踏みつけて、ととととと…と猫が行く。すらりとした尻尾を伸ばしてとととと…。

 そんな映像を思い浮かべるうち、ほっそりとした足は、黒い毛におおわれ鋭い爪を備えた野太い足に変わる。草を踏みつけどしどしと行くのは、熊だ。熊も、下へ下へ歩く。奥山から里へ、上流から下流へ、山の斜面をすべり降りるようにして畑へ、下る。下り切ったところで何か獲物の匂いを嗅ぎつければ、川から市街地へと斜面を這い上がり、柿の木に赤い実がなっているのを見れば、そこが人家であることなど気にすることなく一気によじのぼる。もう冬はすぐそこまできているのだ。子熊の腹を満たし、自分の胃袋に何か詰め込み、冬眠に備えなければ、急がなければ…と、熊になって想像してみる。

 想像してみるのだけれど、それにしてもこの秋の事態は異常だ。森からまるで追われるようにして市街地にまで現れ、キノコ採りに入った人を襲い、人家の庭先の犬を森に引きずり入れて食う。私の頭の中では熊というのは草食性の動物という認識だったので、心底驚いた。いや驚くというよりギクリとした。何かとんでもないことが起き始めているのではないか、と。今年はどんぐりが不作と聞いていたけれど、餌となる木の実が皆無となり、空腹に耐えかね、荒立ってさまよい歩いているように思える。捕獲した熊は一様にやせていて、駆除した熊を解剖すると胃袋は空っぽだという。山にイノシシが激増し、熊の餌がなくなったのだと指摘する人もいる。20年ほど前まで、宮城県におけるイノシシの北限は県南の丸森町あたりといわれていた。でも現在は北東北でも目撃されるようになった。県北の稲作農家の知人は、田んぼ一枚が一晩でイノシシにやられたと嘆く。

 もともと仙台は日本の大都市の中では例外的に川の中流域に開かれた街で、北西から南へかけて北山、青葉山、大年寺山という標高60~80メートルほどの丘陵が旧市街地を取り囲む。中でも青葉山は山全体が天然記念物に指定され、さらにその奥の山々につながり、深い峡谷も切り込んでいる。当然のことながら野生動物はすぐそばに生息していて、熊も例外ではない。これまでも何度か熊が峡谷や川をつたって街に下りくることはあって、観光名所でもある伊達政宗の墓所「瑞鳳殿」のすぐそばに出たとか、丘陵の上に鎮座する愛宕神社の参道を朝におばあさんが散歩していたら、階段の上に熊がおすわりしていたとか、いろんな話を聞いた。でもどこかおかしみを持って語る余裕があった。

 でも、今年は違う。これまでとは異なるとんでもないところに現れているのだ。この春、大年寺山にある仙台市野草園で叔母の作品展を開いたことはこの稿でも書いたけれど、その駐車場前の道路に出た。秋めいてきたので、植物園散策に出かけようかなと思っていた矢先だった。目撃情報を受け、野草園は施設入口の自動ドアのスイッチを切ったらしい。その数日前にはそこから5キロほど西にある仙台市八木山動物園の駐車場にも出た。2つの施設の中間地点にある鈎取1丁目では、初めて緊急銃猟に基づく発砲で1頭が駆除された。仙台城址をめざして観光客が歩き車も通る大橋わきでも二度目撃情報が寄せられている。地元紙の河北新報には宮城県内の熊出没を知らせる「クマ目撃情報」という欄があって、たとえば10月28日を見ると宮城県内では32件もの目撃情報が掲載されている。熊は早朝と夕方に注意といわれているが、午前9時とか、午後2時、3時の出没も少なくはない。餌を求め、ところかまわず歩き回っている印象だ。

 大年山の頂上には伊達家の4代目以降の藩主の墓所があり、テレビ局が管理するテレビ塔が3塔立つ。近年は公園として整備されたので、昨年は20名ほどでまち歩きをし、案内役となった私は準備のために一人で頂上を歩き回ってコース案を練っていた。3日前、そこでも熊が目撃された。大年寺山のふもとに暮らして養蜂をやり、仙台市内の猟友会のメンバーでもある知人は、「ついにうちの蜂箱が倒された。1つやられて、1日おいてまたきてもう一つ倒した。蜂蜜の味覚えたね。見に行ったら、やつは茂みの中からこっちをじっと見てるんだ。ここまでくると、もうかわいそうとは言ってられない」と話す。

 大年寺山は私が子どものころから親しんできた山だ。お月見のときにススキを採りにいったり、放課後子どもだけで遊びに行ったり、姥杉を名づけられた老木をスケッチしたりした思い出がある。一度家族で出かけたとき、目の前をリスが走り去っていったこともあった。でも「熊が出るから気をつけなさい」といわれたことは一度もない。あのころ、熊たちはもっと奥山に別の世界を、別の時間を持って暮らしていたのだろうか。山にはナラやコナラ、クヌギやクリの木が生い茂り、秋になれば山のようにどんぐりの実を落とし、母熊は森の中を歩いて子熊にたっぷりと食べさせ、長い冬の眠りに入ったのだろうか。

 私は正直「駆除」ということばにも、テレビに流れるハンターの銃声にも胸が痛み、親子で歩き回る熊の映像に、街に来るな、人にズドンとやれるぞと胸の内でつぶやいている。熊は森の動物の頂点にいる。その熊が人に襲いかかってくる恐怖が、熊を追い詰めていく。青森県では、害虫が運ぶ菌によるナラ枯れの被害が、今年7月から来年6月までの1年間で10万本に及ぶという。もう山からどんぐりは消えつつあるのかもしれない。人は熊の上にいる。ただ標的にするのではなく、薄くなる森、餌の取り合い…山の異変に想像をめぐらせればいいのに。

ガザへのオマージュ

さとうまき

数年前、コロナが蔓延していた時は、街には人がいなかった。それが、今でははじけたように、都心は人であふれ、特に最近は外国人観光客であふれている。

僕は、数年間に、イスラエルとパレスチナの若者交流を行っているクリスチャンのおばあさんにであった。「仲良くなれるんです」という。僕はというと、30年以上前のオスロ合意で、ユダヤ民族とアラブ民族の和解という一大イベントをTVで見てとても感動した。その勢いで、パレスチナに出かけていき、5年間現地で暮らしたのだった。「仲良くなれる」と信じていたが、それほど甘くはなかった。

イスラエルは、いつもしたたかで、奪った土地は一ミリとも返さない。そう考える人たちが、和平をつぶしにかかった。2000年。和平の最終的な話し合いは、イスラエルが、96%の土地を返還するという提案をしたにもかかわらず、アラファト議長は合意せず、和平は台無しになってしまった。といわれている。このまま、交渉を続けていくと本当に、パレスチナという国が出来て、イスラエルは奪った土地を返さなくてはならなくなる! そんな危機感を感じていたイスラエルの人たちが和平をつぶす口実を探っていた。リクード党の党首だったシャロンが、神殿の丘に1000人の警備員を連れて立ち入り、「エルサレムはイスラエルのものだ」とイスラム教徒を挑発した。もちろん、現実はもっと複雑だったのだろう。でも実際、怒ったパレスチナ人が石を投げはじめ、「パレスチナはテロリスト」と再定義して、「仲良くなる」話は頓挫した。

僕も、2002年には、現場を去らなければいけなくなった。それ以来、僕の中で、パレスチナを封印して一切かかわることがなかった。

おばあさんは、「仲良くなれるんです」という。へーと思いながらも、僕は老婆の活動に興味をもって手伝うことにした。2023年夏、イスラエルとパレスチナの若者が日本にやってきたが、彼らは仲良くなることはなく、日本を去っていった。おばあさんは、ひどく落ち込んでいた。

その後、UNRWAがガザから3人の中学生を招聘して、講演会をおこなった。中学生たちは、自由が制限されたガザの様子を語りながらも、将来の夢をしっかり語っていた。

そして10月7日がやってきた。ハマスの越境攻撃のニュースが飛び込んでくる。1200人が惨殺されたという。「ああ、パレスチナはひどい代償をはらわされるなあ」と思いながらも、ここまでひどい状況になるとは思わなかった。2年間で餓死者6万7000人以上が虐殺。6割から8割が民間人、子どもは18000人。栄養失調による死者は455人で、子どもが150人以上(CNN)だという。

私たちに何ができるのか、2年間ずーっと投げかけられた。何もできなかった。僕は、今まで「人道支援」を生業にしてきた。今は前線を退いてはいるものの、何とかしなければという思いで憔悴していた。

イスラエルは、今回ガザを封鎖して、支援物資の搬入すら阻止してしまった。パレスチナ難民の支援機関であるUNRWAが、ハマスに加担しているとして活動停止にしてしまった。保険局長を務める清田さんは、「我々は失敗した。」と悔しがる。僕は、支援活動の前線からは引退していたが、かつての仲間たちが苦しんでいるのに少しでも協力しようとコーヒーを売って現地にお金を送っている。わずかなお金しか送れないのだがないよりましだ。

僕がパレスチナにいた時、ガザで知り合った藤永さんは、ガザの男性と結婚。前妻との子ども7人を面倒見ていたが、第二次インティファーダの後、本人はガザに入れなくなり、夫は精神的に壊れてしまい、子どもたちも2人しか残っていなかった。これが戦争前のガザの現状だ。戦争がはじまると2人の子どもたちが頑張って支援活動を始めた。ハーンユニスで、寺子屋とサンドイッチを配ったりしていたが、そこも空爆され、マワシという避難先では、食料もなかなか手に入らず、高いお金を出してお菓子を配ることくらいしかできなかった。

そして10月に成立した停戦。子どもたちが、楽しそうに踊っている動画を送ってくれた。さあ、これからどうなるのだろう。日本にやってきた中学生たちは、ガザに戻ることはできなく家族に会えなくなってしまった。「あなたたちが、パレスチナのことを忘れずに行動してくれることが希望です」と語っていた。

おばあちゃんの、「仲良くなれるんです」という言葉が耳に残る。さあ、人類は一体どこへ向かうのだろうか?

  *

写真とさとうまきのガザへのオマージュ作品を展示します。

・ガザの展示
第60回目黒区文化祭 ユネスコ美術展
11/19(水)〜 11/24(月)10:00-18:00(最終日は16時まで)
目黒区美術館区民ギャラリー 東京都目黒区目黒2丁目4−36

・アッサンブラージュ展
2025年11月21日(金)~11月26日(水)12:00〜18:30(最終日は16:00まで)
ギャラリー日比谷 東京都千代田区有楽町1丁目6−5

アオバズク

笠間直穂子

 休日に、腕時計をつけずに町の中心部へ出かける。喫茶店に入って、本を読んでいて、ふと、いま何時かなと思い、店に掛け時計があればそれを見るけれど、ないことも多い。あることはあるが、正確かどうかわからない場合もある。

 そもそも、腕時計を置いてきたのは、時刻を知りたければ携帯電話で見ればいいと思ってのことでもあるから、ここで手持ちの旧式の携帯電話を鞄から出す。あるいは、席に着いたときから、テーブルに出してある。でも、出しておくだけでは時間はわからなくて、電話のどこかに触れなくてはいけない。すると黒い画面に、ぱっと時刻が点る。

 あえて画面に指で触れなくても、手に取って少し傾ける程度で画面が点く機種もあるけれど、それでも、真っ暗だった画面に、こちらが操作を加えることで、突如として時刻が表示されることに変わりはない。

 そのことに、軽い引っかかりを覚える。いつも使っている、あの長針と短針と秒針がついた文字盤の腕時計なら、わたしが見ていないあいだも、刻々と針を動かしていて、本に両手を添えたまま、ふと目をやれば、その一瞥で済む。本から手を離す手間もないし、なにより、見る前から確実にそこで現在時刻を示してくれているという、安心感がある。

 いま、この瞬間、自分のいる喫茶店から一キロ彼方の、家の下駄箱の上に置かれた腕時計の様子を思い浮かべた。だれに見られることもなく、針は一秒一秒、微かな音を立てながら、ほんの少しずつ位置をずらして、時を刻んでいく。

 大学院に進学したころだったか、はじめてノートパソコンを手に入れて、まだ使ったことのない妹に見せたとき、ワープロソフトの文書を「閉じる」と、それまで画面に表示されていた文書が一瞬で消えてしまうことに、妹は、あ、と小さく驚き、不安な目をした。

 そういえば自分も最初はそうだったと、その表情を見て思い出すとともに、自分がその驚きを通りすぎて、消えたように見えても消えたわけではない、しまわれただけだ、と説明できることを得意に感じた。妹も、すぐに驚かなくなったことは言うまでもない。

 けれども本当のところ、表示されていた文章や画像は、目に映る現象としては、間違いなく、瞬時に、あとかたもなく消えている。「開く」「閉じる」は、実際には、開けたノートを閉じたり、本を本棚から出したりしまったりすることではなく、いま見ている画面が一瞬にして現れたり消えたりするのを、現実の物質世界に仮託して、そう呼んでいるだけだ。

 若いころから、再生中の映像や音楽を途中で断ち切られると、軽い痛みが走るようで苦手だったが、名前のとおり「個人」ごとの記録の、作業場にして倉庫であるパーソナル・コンピュータの場合、不意の消滅は、完成されただれかの作品を再生するときとは別種の不安を誘う。

 今日の作業を終える段になって、自分がつづっていた文章、描いていた絵、などを「保存」して「閉じる」とき、かけた労力に見合わないほどあっさりと、それらは画面から消える。毎日のことで、ほとんど意識にはのぼらないものの、実をいえば、やはり毎回、わたしは微かな心細さを感じている気がする。

 一瞬で消える、という現象のレベルだけで、すでに不安に値するが、加えて実際、それらが消えたきりになる可能性も、いくらかは、つねにある。書類棚一本分でも、百本分でも、機械が故障すれば突然消え失せるし、そうしようと思えば、わたしがいまこの指で、すべてを完全に消滅させることも、簡単にできる。そう考えるとき、棚だか机だかに「書類入れ=フォルダ」が並んでいる、かのごとき見立ては剥がれ落ちて、情報はものではない、という、裸の事実が顔を出す。

 長い時間をパソコンの前で過ごす仕事に就きながら、こうした不意の消滅や出現、実体のなさ、消失の不安に、たぶん、わたしはずっと、小さな打撃を受けつづけている。慣れによって乗り越えたわけではなく、ただ意識しないよう自分を抑えているだけであって、実は、画面を点けたり切ったり切り替えたりするたびに、自分はあのときの妹と同じ、不安げな目をしているのではないか、と思うのだ。

 それでも、わたしは通信機能つきの超小型パソコンと化した今日の「賢い」携帯電話をもっていないので、画面の切り替えを目にする頻度は、いまや、多くのひとに比べてずっと少ない。あの表示面積の小さい画面の普及によって、ひとが日常的に目にする影像の出現と消滅のペースは、画面の大きなパソコンとは比較にならないほど、加速しているのだから。

 そうした電子機器のすべてが有害であるとか、昔はよかったとか、そういったことを言いたいのではない。ただ、ごく具体的な、身体に即したレベルで、現在のわたしに起きていること、周りのひとに起きているかもしれないことを、気にかけないでいるのが、わたしには難しい。

 すべてが瞬時に現れては消えつづける、情報がものに取って代わる、その心許なさを、いま、多くのひとが、意識の底で共有しているのではないだろうか。

     *

 ものは、情報ではないから、いまここに見えていなくても、どこかに、実体としてある。間違いなくある、と思うことができる。家に置いてきた腕時計のように。

 情報が明滅する画面から目をあげれば、実物のひしめく世界が見える。辞書。机。カップ。窓。窓の外にも、無数のもの。それが生きものなら、たとえ見えなくても、ときには向こうから、存在を知らせてくれる。

 ある年、春が過ぎて、夜も冷えなくなってきたころ、日が落ちたあとに、仕事部屋の前の藪から、ホ、ホー、という、低めの、優しい、くぐもった声が聞こえてきた。かならず、二度つづけて鳴く。フェルトのような耳触りの声色に、思わず耳を澄まして、次を待つ。

 アオバズクだ。フクロウの仲間で、体は茶色と白、顔は黒く、目は黄色い。わたしはパソコンの画面を見て、日本野鳥の会の「野鳥図鑑」や、サントリーの「日本の鳥百科」といったウェブサイトで、そう確認する。でも、本物の姿を見たことはない。

 見てみたい、とも、特に思わない。鳴くのはいつも夜で、見えなくて当然だ。だから、そのままでいい。本物のアオバズクは、わたしにとって、木々のにおいのする暗闇のどこかから聞こえてくる、あの優しい、くぐもった鳴き声のことだ。

 カジカガエルも、鳴き声しか知らない。家から車で二十分ほどのところにあるブックカフェは、近くを谷川が流れていて、やはり初夏のころ、透明ながら憂いをふくんだ、遠く呼びかけるような声が響く。最初に気づいたときは、カエルとは思わず、かといって虫とも鳥とも違うので、不思議に感じながら、聴き入った。

 夏は、羊山公園がある河岸段丘の崖で、毎年、多くのヒグラシが鳴く。この八月、ひさびさの雨雲に暑さが和らいだある日、崖の脇の坂道を歩いてのぼる途中で、ちょうど気温があがってきて、しんとしていたヒグラシがいっせいに鳴き出し、波状に重なる鋭く柔らかな音に全身をつつまれた。

 秋になると、夜の家を取り巻くのは虫の音で、これはもう、なんの虫とも特定しようのないほどさまざまな種類の大量の鈴の音が、風流というよりはびりびりと鼓膜を震わせる厚みで闇を満たす。暗くなってから徒歩で帰途に就くとき、舗装された中心街や大きな道路沿いではほとんど耳につかないのが、草を刈らない空き地や、うちの庭が近づくと、音量のつまみを回したかのように急に大きくなって、居場所になっているのだな、とわかる。

 わたしの手の届かないところ、目の届かないところ、草むらのなかにも、はるか彼方にも、たくさんのなにかが、たしかに存在していて、それらのいる場所は、わたしのいる場所とつながっている。気配に満ちたひとつながりの空間のなかにいるとき、あの奇妙に眩しい電子的な画面の、唐突な場面転換の繰り返しによる切断の感覚からは、離れていられる。

 空間の広がりは、自分は一人である、という意味での寂しさを感じさせるけれど、それは追い立てられる焦燥による不安とは対照的に、いまいる地面に足裏を落ち着かせる。わたしは、たたずむ。

     *

 吉野せいは、いわきの小作開拓農民にして詩人である夫とともに農業に従事し、夫が戦後、農地解放の活動と詩作に没頭して家を顧みなくなると、田畑の世話と家事、子育て、生活のやりくりのほぼすべてを担った。その夫、三野混沌の死後、夫妻を長く見守ってきた草野心平の「あんたは書かねばならない」の言葉に応えて、七十歳を超えた彼女は筆を執り、『洟をたらした神』を一九七五年に刊行、二年後に世を去る。

 夫は近くの水石山へ好んで登ったが、自分を連れて行ってくれたことはついぞなかった。夫の新盆の折、子や孫たちに誘われて、はじめてその山へ車で訪れたときの、山頂からの眺めを、彼女はこんなふうに記す。

「白い円形の展望台にのぼって、私ははじめて阿武隈山脈の空一線を南から北へゆっくりと眺めた。遠目には濃藍一色にしか見えなかったそれが、実に複雑な起伏、色、線、幾重もの厚み、直、曲、斜線のからみあいもたれあい、光りと影の荘厳な交錯、沈黙の姿に見えていて地底からの深い咆吼、いつもしずかで変わりばえもしない山容の一点一郭に瞳をこらせば、みなぎる活気が一面に溢れているようだ。ここで見れば、山は凄まじく生きているのだ。ここからは見えない山蔭の、その山奥の、その山峡の、その山底の町から村へ、村から字へ、道は幾条にも分かれ分かれて次第に細くなり、やがてくねくねの小径となって、最後の藪蔭の百姓家の軒下に消えて終わるだろう。」(「水石山」)

 その見知らぬ百姓家に、農地改革に奔走する生前の夫が訪ねていく幻の場面へと、記述はつづくのだが、見えるものも見えないものもすべて見通すようにして、俯瞰から細部の拡大へ、途切れることのない目の働きで、「凄まじく生きている」山々をこうして描ききれるのは、彼女がその山地の片隅で、長いあいだ、這いつくばるように農作業に取り組んできたからだろう。自分が苗を植えつけた土も、遠くに見える山の土も、歩きまわる夫の靴底についた土も、ひとつづきのものなのだ。

 それは極度の貧困と労苦をともなう生活だったが、土にまみれていなければ決して味わえない、爽快な風に似た幸福の瞬間もあった。世界のなかにいる、という実感。その孤独と背中合わせの充実を、憧れとしてでも、胸に抱いていたい。

教育の名言(1)

増井淳

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 福沢諭吉
(福沢諭吉『学問のすすめ』)

『学問のすすめ』は1872(明治5)年から1876(明治9)年にかけて全17編の小冊子として出版されたもの。各編10枚内外のパンフレット形式のもので、1880(明治13)年に合本として出版された。合本の序によると初編発行以来、およそ70万冊も売れたという。明治を代表するベストセラーだといえよう。しかし、「本当にこの本を通読した人が現在どれだけあることか、ことに若い人にどれだけあるかというと、存外少ないのではないかと思われる」(伊藤正雄・校注『学問のすゝめ』旺文社文庫)。伊藤正雄がそう書いたのは1967年のことだが、今もその状況は変わっていないのではないだろうか。

  *

福沢は本書〔『文明論之概略』〕の「日本文明の由来」の章では、右の命題を「自由は不自由の間に生ず」とも表現しています。自由の専制ーーつまり、ザ・リバティーーは自由ではないという逆説ですね。自由はつねに諸自由(リバティーズ)という複数形であるべきで、一つの自由、たとえば報道の自由が、他の自由、たとえばプライヴァシーの自由によって制約されているーーまさにそのいろいろな自由のせめぎ合いの中に自由があるのだ、というわけです。 丸山真男
(丸山真男『「文明論之概略」を読む』(上)岩波新書)

『「文明論之概略」を読む』は、福沢諭吉『文明論之概略』をテキストにした読書会の記録が元になっている。丸山の指摘は、以下の福沢の文章を受けてのもの。
「故に単一の説を守れば、其の説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之れに由て決して自由の気を生ず可からず。自由の気風は唯多事争論の間に在りて存するものと知る可し」(『文明論之概略』)

しもた屋之噺(286)

杉山洋一

日本初の女性首相が誕生して、今まで政治にも興味を示さなかった息子ですら、食事の度に率先して日本のニュースをつけるようになり、高市さんの影響力に感嘆しています。
おそらく彼の友人たちの間でも、こぞって日本の新内閣が話題にのぼっているのでしょう。新首相と関係あるのか、1ユーロ155円だった今年2月から円安はますます進み、今月末178円24銭にまでなりました。ミラノの日本人の間でもかなり生活に負担がかかる、深刻な状況だと聞きました。
そんな毎日ですが、「えんびフライ」、それとも「えびフライ」と言うの、と昨夜、食卓で息子が不思議なことを尋ねるのでよく聞けば、彼が日本の友達から教わった三浦哲郎の「盆土産」の一節の話で、明日11月1日はイタリアの盆休み、家族揃って墓参する日だったのを思い出しました。

ーーー

10月某日 ミラノ自宅
学校の職員全体のオンライン会議。ガザからのパレスチナ難民の学生を、我が校でも引き受けるとの報告。特例での待遇とのこと。聴覚訓練クラスには来学期から誰か編入されるかもしれない。一面灰色の瓦礫の街からイタリアに逃れ、それでも音楽をやりたいと思う人がいることに内心愕いた。現在、ガザはイスラエル軍に包囲されている。

10月某日 ミラノ自宅
朝7時43分カドルナ発の北部鉄道でコモ湖駅へむかう。駅の喫茶店でピーターと落ち合って、揃って公証人のところへ向かった。公証人は二人。一線を退いたと思しき老人と、その息子は丁度同じくらいの世代か。ピーターがロンドン生まれだと知ると、ロンドンを訪れたときの話をしきりにしたがり、こちらが日本人だとわかると、老人の父親が大戦後まもなく日本を周遊した昔話を夢中になって語っていた。最初はてっきり商用で日本を訪れたとばかり思っていたが、観光旅行だというから、相当潤沢な暮らしを営んでいるのだろう。
バスターミナル前のレバノン定食屋でピラフを食べ、エルノでピーターから一通り説明を受けて、夜は国立音楽院にむかう。今晩から、パレスチナ支援を掲げ、イタリアの労働組合は2度目の24時間ゼネストに突入。ガザへの支援物資を積んだグローバル・スムード船団をイスラエル軍が拿捕したことに抗議すると表明。船団には、イタリアの国会議員4人が乗船。帰国したアルトゥーロ・スコット(イタリア民主党)、マルコ・クロアッティ(五つ星運動)、欧州議会のベネデッタ・スクデーリ(緑の党と左翼同盟)、アンナリサ・コッラード(イタリア民主党)らが、イスラエル当局から虐待を受けたと糾弾。イスラエル軍や強制送還の機内での扱いについて、インタビューで詳細に状況を説明している。ボローニャ、フィレンツェは中央駅が占拠され、国鉄の運行が中止。ブレッシャ中央駅も線路にデモ隊が雪崩れ込んだ。トリノでは工場が占拠され、ボローニャ大学、ミラノ大学も占拠された。各都市で数万人規模の街頭での抗議活動激化。
同船団には、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリも乗船。イスラエル人と分かると、レストランなどで入店を拒否される場合もある、と息子が話していたから、既に彼らの世代でも状況は切迫してきているのがわかる。夏前、ドゥオーモ周辺で若者たちがミラノ大学へ向かってパレスチナ支援の行進をしているのを見たが、息子はそのデモ行進に抗議するイスラエル人観光客とデモ参加者との小競り合いを見たらしい。今日でもイスラエル人観光客は抗える状況にあるのだろうか。ミラノ大学の社会経済学部はヴェルディ音楽院のほんの2、30メートルほど手前の斜向かいにあって、「パレスチナを解放せよ」と書かれた巨大な垂幕が下がっている。

10月某日 ミラノ自宅
瀬尾さんと加藤君が4手曲を再演してくれるそうなので、気になる部分に手をいれる。15年前に書いた自分の楽譜を引っ張り出してみると、今とは全く違って、使っている音が明るいことにおどろく。基本がメジャーコードだから、重ねてあっても響きは基本的に開放的に響くのだろう。
イタリアでイスラエルのガザ侵攻がこれだけ批難されるのは、国連でガザ地区の特別報告官を務めるイタリア人法学者フランチェスカ・アルバネーゼの発言の影響も少なくないのではないか。10月7日のハマス・ネタニヤフよりずっと以前から、新聞やテレビのニュースで彼女の発言がたびたび大きく取り上げられている。日本における緒方貞子のような存在なのだろう。夫と子供が二人いるところまで同じだ。
イスラエルのみならず、イタリア政府への厳しい批判を含めアルバネーゼの発言は一貫して直截だが、イスラエルや米国が彼女を批判する勢力が彼女を押しとどめようとすればするほど、彼女への信用は高まり、彼女の動向が注目されてきた。ハマスとイスラエルが、トランプ大統領の和平計画に則り、停戦、人質、捕虜などについて仲介国エジプトで協議開始との報道。

10月某日 ミラノ自宅
息子は昨夜からフィエゾレのオーディションに出かけている。フィエゾレの宿は高いので、フィレンツェ、場末の小さな宿を予約して、駅からも宿からもほど近いサンタントニーノ通りの中華「隊長麺館」の場所を教えた。ガザから解放されたイスラエル人の人質が乗る赤十字のバスの映像。バスを囲む群衆たちは何を叫んでいたのだろう。たとえ脆い停戦であれ、実現し人質を解放したトランプの手腕には脱帽する。他の誰もできなかった。

10月某日 ミラノ自宅
イスラエルからやってきたアリス、初めてのレッスン。とても恥ずかしそうに上目遣いの、それも少し泣きそうな顔で微笑みながら振るのが印象的だ。振り始めると、とても音楽的で、優しい音がする。あまりにはにかんでいるから、「歌う」ことまでは到底できないが、彼女の身体の中にある音が、とても豊かなことは確かだ。イスラエルで兵役をやってきた、と以前話していたが、目の前の消え入りそうな妙齢が、機関銃を下げて軍服を着て歩いている姿は、どうしても想像できないのであった。
彼女が帰った後、クラスでは軍需企業のレオナルドで戦闘機を作っているシモーネの話になり、それを知ったら、アリスが大喜びする、と大笑いしたので、それは冗談にもならない、と軽く諫めた。彼女がクラスに入って、テルアビブから来ました、と自己紹介をしたとき、誰ともなく、ああ、と薄い嘆息が洩れたのは忘れられない。とは言え、今後誰もアリスを批難することはないだろうし、彼女に非がないのも分かっていて、殆ど無意識に口をついて出た溜息は、おそらく、アリス自身が、イタリアで暮らす中で毎日何度なく聞いているに違いない。
たとえば中国からの留学生に、あからさまに横柄な態度を取る同僚もいて、言葉も分からない癖に、どうせ修了証書だけ欲しいだけだ、みたいに言われると、つい学生が気の毒になるのだが、そういう見下した態度とは全く違うのである。イスラエル人、と言われたとき、否が応でも歴史的に問題に関与し、片足を突っ込んでいるイタリア人としての無力感、後ろめたさ、ともすれば誰に対してというのでもない怒りのようなもの、それらが殆ど無意識に混濁した反応は、たとえ停戦が実現しても、当分消えることはないのだろう。
エジプトのシャルムエルシェイクにてエジプト・シシ大統領、トランプ大統領共催の中東和平サミット開催。人質解放、パレスチナ人捕虜の釈放、ガザの戦闘終結に調印。トランプ大統領、マクロン大統領、スターマー首相、エルドアン大統領、その他アラブ諸国の首領らとともに、メローニ首相参加。イスラエル、ハマスは出席していないが、先月の米国入国を拒否されたパレスチナ自治政府のアッバス議長がトランプ大統領と握手。メローニ首相は「今日は歴史的な日であり、イタリアが今回のオペレーションに強く関与していることを誇りに思い、今後の復興にも積極的に関与し、治療を必要とする子供たちが、イタリアでの治療が受けられるようにもしていく」と発言。彼女を含むヨーロッパ各国の首脳らは、アメリカの大胆な采配で訪れた停戦を、内心どんな心境で受け止めているのだろうか。

10月某日 ミラノ自宅
週末の授業で一回目だったからか、出席する学生も少なかったので早めに切り上げて、国立音楽院で息子たちのべリオ「リネア」とライヒの「四重奏」を聴く。べリオではかなり大っぴらに間違ったらしいが、全く気が付かなかった。ピネローロでルーポに聴いてもらってから息子自身の音楽も能動的で大胆になったように思う。夜は、エマヌエラの退官記念コンサート。一柳さんの「二重協奏曲」CDが、無事清子さんに届きました、と市村さんからメールが届く。「ちょうど命日だったので、先生とお話ししました」、と丁寧に手書きのお便りをいただいたそうだ。

10月某日 ミラノ自宅
留守宅を預かるピーター宅の鍵を受け取りに、家人と連立ってエルノへ向かう。天気予報では小雨だったが、コモに近づくと、すっかり本降りになってしまった。念のため登山用防寒靴を履いてきて正解であった。コモからネッソまで、普通なら観光客の人いきれで大騒ぎの路線バスも、雨のお陰なのか快適で、ネッソでバスを乗り換えてエルノ「自由広場」に着いた。細く縫ったような石畳を登り始めたところで、迎えに来たピーターと出会う。
彼の家は数分登ったところにあって、きれいに整えられていた。地階は彼の仕事場として、CDや本が棚に並んでいる。日本の現代音楽のCDが沢山並んでいて、べリオやクルタ―クのような現代音楽から、古楽に至る英語の研究所も並んでいる。ピーターがアメリカの学会に出席したときの話になり、アメリカの研究者が湯浅譲二の音楽について発表した音楽学者がいて、湯浅譲二の音楽は、彼曰くフィボナッチ数列に基づいて書かれているという。当時アメリカに滞在していた湯浅先生が、たまたまその学会に参加していて、フィボナッチなど使ったこともない、と発言したので、何とも気まずい雰囲気になった、と笑った。エルノ村には、肉屋や食堂の看板の跡が残る建物はあるが、現在開いている店は一軒もない。立派な教会と墓地、それに目新しい公園があって、特に墓地にはツェルボーニという墓石が並ぶ。小さな山一つ向こうにツェルビオという村があるから、ツェルボーニという苗字はそこが発祥の地に違いない。30年ミラノに住んでいて、ツェルボーニというイタリア人には会ったことがなかったので、これだけ墓石が並ぶと、驚いてしまう。

10月某日 ミラノ自宅
辻さんとJeux IIIを再演した般若さんからメールを頂く。「私たちは楽譜にある音に従って演奏していくだけ…でも、ffff前後から、再び自分たち以外の力が加わってくる様な体験をしました」。
自分の力で書いているのではなく、どことなく、誰かに自分が書かされているような感覚があるから、自分たち以外の力、というのは、もしかすると本当にどこかにあるのかも知れない。
翌日、同じ曲を辻さんはサックスの大石君と再演してくださって、それを聴いた垣ケ原さんからもメールを頂く。
「6年ぶりにJeux IIIを聴いて、前近代を否定的媒体として近代を乗り越える、という言葉を思い返していました。長崎に伝わる歌、グレゴリア聖歌を素材にしながら、それをなぞるのではなく全く新しい音楽になっている、ということです。昔、復興期の精神、という言葉が流行った頃によく言われたそうです。能「安宅」が「勧進帳」になり、映画「虎の尾を踏む男」になったのと同じことが起きていると思った次第です。それと太鼓はボレロを思いました」。

10月某日 ミラノ自宅
今朝はイヴァン・フェデーレと日本の学生の皆さんとズームを使ったオンライン・ミーティング。イヴァンは頭の回転がとても速く、話したいことが沢山あって、且つ説明の途中で訳されるのが好きではないと実感する。話の腰を折られるような心地なのはよくわかる。途中、恐らくソシュールが言語学で使っている単語なのだろうが、だしぬけにtesiとdesinenzeと言われて、どう訳せばよいか戸惑ってしまった。語幹、語尾変化とか、主部、変調語尾あたりだろうが、突然言われると全く言葉が出てこなかった。冒頭の強拍に相応する部分、それに続く弱拍に相当する変化部分、のようなことを云って誤魔化したとおもう。曖昧であることを好まず、聡明で明晰で論理的でもあり透明性もある教え方。単刀直入に本質に迫り、見事な観察力、分析力だと感嘆するばかりであった。お陰で2時間訳しただけで、何だか普段の何十倍も頭を使った気分である。いかに毎日何も考えていないかわかる。
ネッソの不動産業者ファビオに会うため、コモへ向かう。駅前コモ湖畔の停留所から130番のバスに乗ろうとすると、犇めく観光客で満員だからと乗せてもらえない。なるほどニュースで聞く京都のオーバーツーリズム等こんな感じか、と思う。世界各地からわざわざコモ湖を目指して訪れているのだから、彼らを優先させてあげたいとも思うが、次のバスはちょうど1時間後であった。ピーター曰く、国鉄コモ駅まで歩けば始発なので、そこからバスに乗るように言われる。以前はとても多かった日本人観光客の姿は、まるで見かけなかった。
ファビオ曰く、先週もちょうどエルノの物件をドイツ人女性に売ったばかりだと言う。音楽に関する会議だか学会だかを企画している、ハンブルクの70歳の女性は、既にエルノに一軒自分の家を持っていて、すっかり気に入ったからもう一軒購入した、ということらしい。店もなく、交通の便も甚だ悪いのに何故かと尋ねると、「どうやらその、何もない、というのが魅力らしいんだ。土地の人間にはわからないがね。もう20年もここでこの会社をやっているが、何時からか、何故だろうか、とか考えるのを止したんだよ。人生不思議なことが沢山あるからねえ」と笑った。
先ほどまでは深秋らしい燃えるような美しい夕日が、湖面を真赤に染め上げて、それは見事だったが、今目の前には漆黒の夜の帳が下りていて、湖面に沿って、点々と家々の灯りが明滅している。最終便と思しき一艘の汽船のオレンジ色の照明が、ゆっくり湖を移動しているのも見える。目を凝らしてみれば、一面の夜空に見えていた闇のなかに、山の稜線が連綿と続いているのが浮き上がってくる。
刺すような山間部らしいつんとした冷気の匂いを嗅ぎながら、10年もの時間をここで暮らしたピーターが何を考え、感じていたのか思いを馳せた。
ミラノの家に着いたのは21時を回っていて、階下で息子がバラード4番を譜読みしているのが聞える。「ショパンの聴こえる暮らしはいいわね」、と家人が機嫌よく夕食の支度をしていた。このところ彼女はフリットが気に入っていて、庭のサルビアや他の野菜やら、小鰯やらを、重曹と一緒に溶いた小麦粉をつけて揚げている。

10月某日 ミラノ自宅
紅葉した庭の木が朝からうっすら霧雨に濡れそぼる姿は、美しい。隣の部屋で、息子が、シャリーノの「歪像anamorfosi」をさらっている。「水の戯れ」がふっと背景に吸い込まれたかと思うと、「雨に歌えば」と「洋上の小舟」が目の前にあらわれる。その響きは黄金色に燃えたつような、秋の光線を想起させるのだが、恐らくシャリーノの本質は、強烈な郷愁を誘うこの触感だとおもう。
イスラエル兵士の引き渡しに関して、ハマスが騙したとの報復に、イスラエル軍は再びガザ地区に激しい爆撃を加え、100人以上死亡との報道。

(10月31日 ミラノにて)

アウシュヴィッツ

笠井瑞丈

ポーランド
その場所
その空気に触れ
空気は冷たく
風が強い一日
木々たちが落とす長い影が
まるで生きてるように揺れ
80年前の記憶を映し出す
大勢の死者達の行進を
自然はいつも歴史の目撃者だ
変わりゆく景色
変わりゆく時間
変わりゆく世界
全ての事実をずっとずっと見てきた
小さな箱の中に落とされた緑の缶
あんな小さな部屋に大勢が押し込まれ
その時どのような思いでいたのだろう
きっとそこは想像を超えた世界だ
どうしてこんな美しい世界が
全ての悪が集約した世界に
変わり果てたのだろう
人間の持つ全ての悪
初めての体験
アウシュヴィッツ

万博インドネシア館

冨岡三智

先月に万博が終了した。私もインドネシアのナショナルデー(5/27)とスカル・タンジュン・ダンス・カンパニーの公演(11/3~5)の際にスタッフパスをもらって入り、インドネシア館を見ることができた。というわけで、今回はその話。パビリオンにはインドネシアが見てもらいたい国のイメージが詰まっている。

パビリオンは船の形をしている。これはピニシと呼ばれるスラウェシ島ブギス族の伝統的な木造帆船を連想させる形だ。ちなみにピニシは2017年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。正面のアウトドアステージには「喜びの動き」と名付けられ、毎週のようにインドネシアから舞踊グループがやってきて、時には日本国内で活躍するインドネシア芸能の団体がやってきて公演する。パビリオン入口のIndonesiaの文字が打ち出された壁には、インドネシア各地の様々な仮面が、彩色前のまだ白木の状態で多数展示されている。

パビリオンの中に入ってすぐの吹き抜け空間には熱帯雨林の森が再現されている。ここは「自然:野生の豊かさに身を委ねて」と名付けられている。植物はすべてインドネシアから運ばれた本物で、湿度も現地の条件を再現しているそうだ。森の中にはジャワ豹やらバリ・ミナ(ムクドリの一種らしい)やら極楽鳥やらオランウータンやらの希少動物をかたどった造形美術品が配されている。インドネシアは「多様性の中の統一」をスローガンにしているけれど、その多様性を希少なものを多く含む多様な自然・生物の多様性として表現するというのは最近(2000年代頃以降?)のことのように思う。実は、インドネシアからは以下の4件がユネスコの世界自然遺産に登録されている(カッコ内は登録年):ウジュン・クロン国立公園、コモド国立公園(1991年)、パプアにあるロレンツ国立公園(1999年)、スマトラの熱帯雨林遺産(2004年)。というわけで、熱帯雨林の森というのはまさにインドネシアの顔なのである。

その次は「没入体験:ヌサンタラの冒険」とある円形の空間で、暗い中、360度のスクリーンにマングローブ林や滝や海底などのインドネシアのダイナミックな自然空間の映像が投影される。いま列記したのは自分が写真を撮って確認できるものだけだが、もしかするとこれらの自然の映像は上述した国立公園の映像なのではないだろうか…と(自信はないが)感じる。ここではまさに足元が浮いて宇宙空間に放り出されたような没入体験を味わえる。

そこからゆるやかならせんスロープを通って2階へ上がる。この回廊は「文化・遺産を守る」と呼ばれるギャラリースペースで、黒い壁に多様な種族、年齢の無名の人々の白黒ポートレートが両側に並ぶ。何の説明もなく静かな空間だが印象に残る。回廊は続くが、今度はクリスなどインドネシア各地のさまざまな種類の剣が展示されている。美術館規模の展示と言って良いくらいだ。ちなみに、クリスも2005年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。

いつの間にか回廊を抜けて2階に到達すると、眼下に先ほどの熱帯雨林が広がる。私がカリマンタン島で見た森の中の家は高床式で、こんな風に森が見えたなあ…と思い出す。その森を取り囲むように壁沿いに空中デッキがあり、剣の展示も続く。壁の半分はガラス窓で、ここから光が入るため森は1階で見たときよりも明るい。このガラス窓がパビリオン正面に見える部分で、ここから目の前に大屋根リングが見えると同時に、眼下にアウトドアステージが見られる。

森の上空を1周して、再びクローズドの青暗い円形空間に入る。「未来:知恵のレガシ」と銘打たれた空間の中央にインドネシアの新首都:ヌサンタラのジオラマがドーンと広がり、やはり周囲の360度スクリーンにインドネシアのさまざまな言語やそれに対応する日本語で「ビンネカ・トゥガル・イカ(多様性の中の統一)」などのスローガンが映し出される。

そこを出ると「伝統織物:色彩の海を航行する」空間に出る。インドネシア各地の織物が、手に取れるような形で展示されている。あえてジャワ以外の、まだあまり知られていない地域の織物を出しているように見えた。色も淡く繊細な文様が多く、日本人の嗜好にあったものをあえて選んで出品しているように思えた。

最後はシアター。ここではガリン・ヌグロホの映像が上演される。5月に入った時はバリのワヤンをテーマにした映像だったが、10月に見たときはジャワのジョグジャカルタの王宮などの映像だった。何種類か用意されていたのだろうか。シアターを出て出口に向かう狭い回廊にはワヤン人形やワヤン絵画が展示されている。ワヤンも2003年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。実は現在のインドネシアの文化大臣はワヤンやクリス(剣)、仮面のコレクターなので、これらが展示されたのには大臣の意向も反映されているのかもしれない。

ふじかげ

北村周一

毎日まいにちそれも朝昼晩に眺めつつ暮らしていると、愛着がわくと同時になんとなく飽きてもきます。
ひがしの空に目をやれば名も知らぬ山の向こうにいつものぞいている富士山。
標高は3776メートル。
静岡の清水側から日々見ていたからかもしれませんが、そんなに高い山には見えない。
四季折々表情を変えるといってもやっぱり毎日のことだから気にも留めない。
山というものはおもしろいもので、近くで見るとずっしりとした量感を感じますが、遠くから眺めているだけでは平面的にのみ視野にひろがってくるように思われます。
つらなる山並みもその稜線もきわめて薄っぺらな感じにこちらに迫ってきます。
富士山といえどもある距離を置いて眺めれば、平面的なまさにぺらぺらの一枚の絵(それこそ絵ハガキ)のように目には映ります。
近隣の山々に遮られている場合はとくにそのように視野にひろがってきます。

~それにしても魔訶不可思議の山ならん いまわがまえのふじかげひとつ

富士山は見事なまでの独立峰といわれています。
けっしてほかの山々とは交わらないというつよい意思のようなものを感じさせるほどです。
あの長い長い裾野あればこその円錐形は、どの時代にあっても人を魅了する。
とはいっても、富士山は歴史的にも1000年以上の昔から噴火を繰り返してきた日本最大の火山でもあります。
3000年ほど前(縄文の終わりごろ)の富士山は今の新しい富士山とはちがった姿をしていたといわれています。
つまり古い古い富士山がいくつか今の富士山のお腹のなかに隠されているようなのです。
その後何度か大きな噴火を繰り返してきた結果、現在のかたちになったわけです。
ということは、いつまたその姿かたちを変貌させるかわからないまだ真新しい活火山のひとつということになります。

滑り
やすき
プレートの
上にあわれあわれ
富士のすそ野はどこまでがすそ野

地震学者つじよしのぶ(都司嘉宣)の著書『富士山の噴火~万葉集から現代まで』に詳しく書かれていますが、富士山はたまに休んだりはしますが、噴煙は頂上その他から排出しつづけていたといわれています。
竹取物語の最後のくだりは以下のように締めくくられています。
帝は、天に一番近い山は駿河の國にあると聞し召して、使ひの役人をその山に登らせて、不死の藥を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになつて、その藥の煙りは今でも雲の中へ立ち昇るといふことであります。
竹取物語:和田万吉(青空文庫より)
富士 冨士 不二 不尽 不死・・・。
数多くの古文書にも顔を出すように、煙りたなびく富士の高嶺はその当時のひとびとにとって日常茶飯の出来ごとであったのかもしれません。

~けむり吐く不尽のたかねに身を焦がしうたいたりけれいにしえびとは

そんな富士山に一度だけ登ったことがあります。
高校一年の夏のこと。
学校主催の遠足みたいな行事だったと記憶していますが、一年生だけの自由参加でした。
男女合わせて150人くらいは参加していたかと思います。
七つ年長の従兄弟から登山用具を借りての富士登山は、思っていた以上にきつかった。
八合目あたりで山小屋に一泊して翌日早朝頂上を目指すことになっていました。
同級生たちの多くはその夜こっそりと山小屋を抜けだして星降る夜空を仰ぎに行ったけれど、自分は同調しなかった。(担任教師が小うるさかったからでもあるが。)

~夜の月にもっとも近きお山なれば赫映姫にも愛されたるらし

早朝のご来光は、夏の富士ではすっきりと拝むことはとても無理な話で、それでも一応東方向いて手を合わせました。
それから頂上を目指して登り始めたのでした。
かくて山道と悪戦苦闘しているとき、後方からすごい勢いで登ってくる一団があった。
同じ高校の山岳部の連中だった。
訓練の一環だったらしい。
そのまま追い越されてあっというまに見えなくなった。
頂上に着いたら土産物屋があった。
その一角でカルピスのような乳酸飲料をコップに分けて売っていた。
とにもかくにも冷たいものが欲しかったので、みんなわっと群がった。
百円でのどを潤したのち、希望者のみお鉢巡りをした。
富士山の火口をぐるりと一周するのである。
火口の周囲には煙りもなければ地熱も感じなかった。
ただ火口の底に大きくゴシックで四文字、高校の名称が書かれてあった。
山岳部の連中が火口の石を目立つように並べて置いていったのだ。
こっちはもうくたくたなのに、よくやるなあ。
その後全員無事に須走を文字通り全速力で駆け下りた。
自分は一組だったので、めずらしくトップ集団のまま下山した。
下界は空気がおいしかった。

夜の山へ登る(8)

植松眞人

 風がやんだ。木々の間から、神戸の街が見えた。陽は高く昇っていたけれど、足元が冷えてきた。目の前のカーブを曲がると、高山植物園が見えてくるはずだ。
 正直、疲れてはいたけれど、まだ歩けそうやった。僕は一歩ずつ歩いた。なにしに六甲山に来たのかなあ。ずっと歩き通しで歩いていると、歩くことが目的のような気がしてきてた。
 カーブを曲がると、バス停があった。バス停のベンチに、あんたが座ってた。なんでやろ。僕はそんなに驚かんかった。そこに、あんたがおるなんて思ってなかった。僕はもうあんたが死んでるもんやと思ってたんや。
 そやのに、あんたはベンチに座ってた。僕はあんたの隣に座った。
「六甲やったんやな」
「そやな」
「夙川は?」
「あそこは、夜風が強い」
「なるほどな」
 僕は笑ろた。なんか、静かに笑い始めてしもた。僕が笑い続けてると、あんたも一緒になって笑ろてたな。
「笑うなや」
 笑うな、と言いながら、あんたはだんだん声を出して笑い始めて、最後には僕より大声で笑ってたな。
 あんたの笑顔は高校生の頃のまんまやった。僕はなんとなく、背後にある六甲山の山頂の方を見た。神戸の背骨のような山並みが見えた。
「帰ろか」
 僕が言うと、あんたは笑うのをやめて、僕の目を見つめた。
「帰れるかな」
 あんたが言う。僕は笑いかけた。
「大丈夫や。誰も文句言う人はおらへん。美幸さんもあんたの帰りを待ってる。大丈夫や。一緒に帰ろ」
 僕がそう言うと、あんたはホンマに心細そうな顔をして、もう一回、帰れるかな、と言うた。
 僕はあんたを励まそうと、あんたの肩に手を置いた。あんたの肩はびっくりするほど冷たかった。
「なんでこんなに冷たいんや」
 僕は驚いてちょっと大きな声を出してしもた。そしたら、あんたはふらふらっと立ち上がった。そして、両手を上に上げて、ゆらゆらと揺れ始めた。ああ、これはあの時の文化祭の踊りやな、と僕は思った。
 冷たい身体で、あんたは六甲山の中腹で、ゆらゆらと昆布みたいに踊り続けた。
 僕も立ち上がって、同じように身体を揺らした。風が止んだ。僕はあんたの方を見ないようにして、「帰ろか」と声をかけ、山道を下りはじめた。(了)

エビと七匹の小雨

芦川和樹

それから谷底で割れた胡桃の奥に、奥の襖の、ふすまの、破れたぶぶんに耳をあてると、アイスクリームが冷えた手で耳朶を引く。いいですね、この先にうつくしいシュリンプが降ります。午前 発泡、帯になっていく。手綱を、たづなを、左の耳朶に結びます。エビをつかまえて、離さないように。怒っているときはたてがみを梳かすこと。交通

金目鯛をいただきます金
          目
          鯛
    視無を掟  をもらう。目
   す   や  玉をよく光ら
  る    則  せて、ひどい
    視無 法  話に抗うとき
   す   の  の盆。防御の盆
  る    事        を
  こ    物    雨小  か
  と    はで国両の  すざ
  が
  容易で、目を半分閉じれば
  なんだかよくわからない妖
  精やトナカイが見えた。そのなかに虎
  (カーネーションかな)     を
                 希
                望
    エ の匹七。ビエ るす
  ビ
   。
    蟹。うたた寝している食
    事をしている仕事玉手箱
    に煙を補充するエビ。猿
    、キジ。が足された。床

床にはあたらしい傾向、蛍光経口の傘が
開かれてエビを跳ね返す。傘を持つ小雨
は知らないうちに知らない歌を口ずさむ
耳朶はその歌を知っている。し、つい。
歌ってしまう。小雨には聞こえなかった
エビ
は聞いた、たてがみをくねくね
うごかしてあれ怒ってるんじゃないやばい
櫛(妖精たち、カーネーションどもが)
 (くしを貸してくれる)
節、ふし。節じゃないけど脚が引き攣って
引き続き。困るね ジャックがいいました
次の角で勝負しよ、今後

阪本順治監督の新作

若松恵子

10月31日より、阪本順治監督の新作映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」が公開された。今回は運よく完成披露試写会に当たって、ひと足先に見ることができた。東京国際フォーラムで行われた試写会には、主演の吉永小百合さん含めメインキャストが勢ぞろいして挨拶した。阪本監督があいさつで「この映画は2回目がおもしろいんです」と言っていたから、ちゃんとお金を払って劇場に2回目を見に行かなければと思う。

今回は、世界初の女性エベレスト登頂者であり、七大陸最高峰にも立った登山家、田部井淳子の物語だ。彼女のエッセイ集『人生、山あり”時々“谷あり』を原案としている。映画は、エベレスト頂上に立つことをクライマックスには描かない。晩年、彼女ががんの闘病をしながら福島の高校生を招待して富士登山の活動をしていたことも大げさに描かない。有名人の子どもである事で生きづらくなる息子との衝突も、しめっぽくは描かない。彼女の人生の軌跡をコツコツと辿っていく。そこが良い。見終わった後、しみじみと色々な事を思い返した。そして田部井淳子という人にとても興味を持った。

新作公開をきっかけに、家にある阪本作品のDVDを色々出してきて見返している。久しぶりに見た「傷だらけの天使 愚か者」(1998年)は、今もなおかっこいい映画であった。「座頭市 THE LAST」(2010年)は、香取慎吾が若き座頭市を体現していて、みごとだった。「市!そいつらをみんな叩き切ってくれ」悪い奴らに立ち向かう座頭市をいつのまにか応援していた。埋もれてしまわないでほしい名作である。

阪本監督はインタビューで「自己模倣はしたくない」と語っている。「らしい」と言われることから逃れるように、様々な題材に取り組んできたように思う。でも、たくさんの作品のなかに一環として流れているものがあって、そこに私は魅かれるのだと思う。

おれのパソコン

篠原恒木

カイシャをお払い箱になったら、我が家には古いノートPCしかないことに気付いてしまった。11インチのMacBook Airというやつだ。小さくて薄くて軽くていいなと思い、十年以上も前に買ったのだが、二、三度触ってそのまま放ったらかしにしていた。家にいるときはPCなんて使わなかったからね。

勤め人の頃は、Windows一辺倒だった。なぜそんなおれが11-inch, Early 2014のMacBook Airなど買ってしまったのか。きっと周りのカメラマンやデザイナーがみんなMacを使っていたからだろう。クリエイターならMacなのだ。カッコイイじゃんね。当時のおれはそう思った。
だがすぐに放置してしまった。理由は「Windowsとは全く違う操作に手間取る」という、至極真っ当なものだったような記憶がある。

ところが家でもPCが必要な状況になり、十年ぶりに開けてみて、いままで使わなかった理由が違っていたことを思い知らされましたね。
画面が小さすぎるのだ。なんたって11インチですよ。この十年で遠近両用の眼鏡レンズを何回取り替えたことか。おれの老眼は飛躍的に進んでいるのだ。
見えない。目を凝らしても文字が見えない。遠近両用の眼鏡なので、極限まで顎を前に出して画面にかじりついても見えない。3分間ディスプレイを見つめていたら、アタマの奥が痛くなってきた。

カイシャの机では、ノートPCに大きなモニターが設置されていたので、キーボードはノートのものを叩き、ディスプレイはもっぱらモニターを眺めていた。あのモニター、24インチはあったはずだ。それがいきなり11インチだ。

十年前、なぜカネをケチったのだろう。せめて13インチ、いや、15インチのタイプを買えばよかったはずだ。我が老眼の進み方を計算に入れていなかったおれがバカだった。

「Windowsの新しいやつに買い替えればいいじゃないですか」
もっともだと思うが「二、三度しか触っていない」という事実がおれを躊躇させた。モッタイナイではないか。十年間みっちりと使い倒したのならばすんなりと買い替えるのだが、まだまだ使わないとバチが当たるよ。

「モニターを別に買えばいいじゃないですか。そんなに高くないし」
もっともだと思うが、おれの汚部屋は足の踏み場もなく、机の上は本やCD、DVDが積み重なっていて、モニターを置くスペースなどない。ついでに言っておくと、机の椅子にも座れない。椅子の上にも本が積み上がっているからね。なめんなよ。 

おれは十年ぶりに11-inch, Early 2014のMacBook Airの蓋を開けた。最初で躓いた。パスワードを覚えていない。アレかなコレかな、それともソレかなと打ち込んでみたが、すべてハネられる。ようやくPCの起動に成功したときにはすでに日が暮れていた。
「今日はこれくらいで許してやるか」
おれは2014年型のMacBook Airにそう言い放ち、蓋を閉めた。どうやらテキは文字通り「古豪」のようだが、こちとら無職の身、時間だけはたっぷりあるのだ。明日またじっくりと取り組めばいい。

翌日、よせばいいのにおれはまた古豪と対峙した。十年間の放置によって、macOSがまったくアップグレードされていない。それを最新の状態にしなければならないのだ。
いまおれはmacOSと書いたが、じつはその言葉の意味をまったく分かっていない。どうか許してほしい。なんとなく分かるのは「十年間穿きっぱなしの古いパンツはいますぐ捨てて、新しいパンツに穿き替えないと、アンタとは付き合ってあげないからね」というようなもんなのだろう。気持ちは分かる。
この文章を書くために調べてみたら、OSとはオペレーティング・システムの略で、PCやスマートフォンの基本ソフトウェアのことらしい。キーボードの入力やアプリの起動を管理して、ユーザーがデバイスをスムーズに使えるようにするんだってさ。片仮名が多くてよくわからん。おれにとって「オーエス」は綱引きのときの掛け声でしかない。

ところがこのOSのアップグレードが手間取った。テキはこの十年間、おれの老眼よりも高度な進化を遂げていたらしい。おれが十年間で老眼レンズをアップグレードしたのは三回ほどだが、macOSは一、二年に一回のペースでヴァージョンアップしていたようだ。ということは単純計算しても、十年前に比べて少なくとも五段階は進化していることになる。しかもおれに黙って、おれの許可もなく、しれっと。これでは裏ガネ議員と同じではないか。
しかし、この裏ガネ議員を登用しないと、我が11-inch, Early 2014のMacBook Airは機能不全に陥るのだろう。泥舟のPCは落ち目の党と連立してまでも、機能を維持しなければならないのだ。
おれは「エイヤッ」とばかりに、一足飛びに最新のmacOSをインストールしようとしたが、これができなかった。
「このPCは古いけんね。そないば新しいOSは対応できんとよ」
というのが、十年前のPCの言い分らしい。つまりは、
「もう買い替えなさいね。諦めなさいね」
ということなのだろう。それに対してのおれの答えは、
「嫌だ。この環境でなんとかする」
だった。

森のクマだって、食べるものがなければ仕方なく住宅地まで降りてくるのだ。おれもPCを買い替えるカネが惜しければ仕方なくこのPCでジタバタするしかない。

おれは一段階ずつ新しいヴァージョンのOSをインストールしていった。膨大な時間がかかった。だがついに、
「ここから先は、この古いPCではあきまへん」
という通告が表示された。連立はおろか、閣外協力もできないという。完全な関係解消だ。数か月後の日本の政局のようだ、とおれは思った。
「裏切り者め」
おれはがっくりと肩を落とした。

いまおれは「がっくりと肩を落とした」と書いたが、実際には肩を落としていない。自慢しても「胸を張った」こともないし、希望に「目を輝かせた」こともない。おれはこういう慣用句が嫌いだ、と眉をしかめている。

話を戻すぞ。
最新のヴァージョンにアップデートできないPCを前にして、おれは思った。
職場で女性を「○○ちゃん」と呼んでセクハラ認定されたヒト、「小学生でも分かるでしょう」と発言して辞任した地方放送局の社長さん、どれも同じだ。最新のコンプライアンスにアップデートできていなかったのがイケナイ。
でもね、おれなどはもっとヒドかったのですよ。
年下の同僚には男女関係なく呼び捨てだった。敬称略だ。ちゃん付けすらしなかった。
「小学生でも分かるでしょう」などというジェントルな言い方はしなかった。「ウチの犬でも一回言えば理解するぞ」と言っていた。アブナイアブナイ。訴えられなかっただけで、おれがいちばんアップデートしていないではないか。そう、この十年前のPCはおれ自身なのだ。

ところが朗報が舞い込んできた。PCに詳しい奴に訊いたら、最新のOSがインストールできなくても、十年前のPCは作動できるというのだ。Wordも打てるし、メールも送信できるらしい。アプリによっては何らかしらの不都合は生じるかもしれないが、とりあえずは使えるとのことだった。

寿ぎではないか。こんなおれでも「なんとか使える」のだ。
いいよ、Wordとメールが使えれば。じゅうぶんですよ。
こうしておれはなんとか十年前のPCでこの文章を打ち、どうにか保存して、おそるおそるメールで送信する。ディスプレイに浮かんだ文字は小さすぎて見えない。誤字脱字はないだろうか。WindowsとMacではメールのやり方も違う。ちゃんとこの文章は添付されているだろうか。無事にメールは送れているのか。いや、もうどうでもいい。アタマの奥が痛くなってきたので、推敲ナシでおしまいにしよう。

さあ、今日最後の曲になってしまいました。聴いてください。

お酒はぬるめの燗がいい
肴は炙ったイカでいい
流行りのOSなくていい
ときどきメールが打てりゃいい

むもーままめ(52)オットが西村賢太にはまった話、の巻

工藤あかね

唐突に一枚の画像がスマホに送られてきた。それは鶯谷の線路沿いにある居酒屋「信濃路」を斜めから捉えた写真だった。最近、急に西村賢太にはまった夫が、かの作家がその店に通い詰めたと知って聖地巡礼をしてきたというわけだ。小豆色の看板に「信濃路」と大きな横書きがあり、そのかたわらにはお食事処、そば・うどん、カレー、うまい酒、呑み処、おかずといった言葉が踊っている。もとは立ち食い蕎麦屋だったが、どんどん品数を増やして、朝でも飲める居酒屋として地元で重宝されているときく。もっとも写真を撮った夫は昼間から店の中に入る勇気はなくて、遠くからそっと写真だけ撮って、すごすごと帰ってきたのだが。

先月末の段階で、夫は西村の芥川賞受賞作「苦役列車」一冊しか持っていなかった。ところが1ヶ月後の今では西村作品が20冊以上積んである。さらに買えそうな作品は片っ端から手に入れようとしているらしく、郵便ポストにはしょっちゅう古書店から取り寄せた西村作品が届く。入手できないものは図書館で借りることにしたらしく、今の家に転居してから長年、ただの一度も作ると言わなかった図書館利用カードを作った。それだけならまだよいのだが、隙あらばまるで親戚か、片思いしている中学生のような顔つきで作品の中のエピソードを嬉しそうに語り始めるからまいってしまう。西村賢太の作品内に頻発する文章をアレンジして、「根が〇〇にできてる〇〇(人名)は…」といった口調で話しかけてくるのにも、そろそろつきあいきれなくなってきた。関連図書も蒐集しはじめた。西村を特集したムック本や、彼が敬愛した田中英光と藤澤清造の作品集、そして玉袋筋太郎の著作まで読み漁っているのだ。好きな人の好きなものを知りたいというわけだろうか。こうなると推し活というより、ほとんど恋だ。

西村賢太の生きた道のりは決して平坦ではなかった。子供の頃は経営者の父のもと家族とともに平穏に暮らしていたそうだが、父親の起こした連続婦女暴行事件により人生が暗転する。一家は離散、彼は中学を出ると、知恵も学歴もないままに自活を始めなければならなくなった。風呂もトイレもない部屋に住み、日雇いの肉体労働などで糊口を凌ぐ。だがまだ15~6の子供である。たったひとりで社会に放り出されても生活のしくみも頑張りかたもわからなかったのだろう。人とのコミュニケーション能力不全に加え、怠惰で根性もないので、手元の金が尽きても気分が乗らなければ仕事にも行かない。劣情を持て余してはわずかな給金をはたいて買淫に走り、宵越しの金は持たぬとばかりに日当を使い果たすまで鯨飲馬食する日々。借金も家賃も踏み倒し、同棲した女性にはその家族にまで金を無心し、暴力をふるったあとは甘えるDV男の典型のような振る舞いをくりかえす。

今やどんな娯楽にも金を出さねばならない世の中になっている。では金のない人間はどうすればよいのか。金のない若き西村賢太にとって最高の娯楽は本だったのだ。彼はつらい労働の終わりに古本屋に立ち寄り、3冊100円などで投げ売りされている本を買って貪るように読んだという。戦中戦後はいざ知らず、飽食の現代日本で、世の不条理を肌身に感じながら生き抜くために、本をこれほどまで頼みにせざるを得なかった人があるだろうか。アルファベットもろくに読み書きできない西村が、あの驚異的な筆力の素地を固めることができたのは、こうした壮絶な読書体験があったからにほかならない。西村は自分自身を小説のモデルとして世の中に差し出した。そして恥と屈辱にまみれたまま社会の暗部に追いやられ、忘れ去られた人の生活、貧すれば鈍すを地でゆくような負の沼に足を取られた人の思考、聞くもおぞましい最低の日々を、中学生のままで止まってしまったような純情な心根と、世にも格調高い文体で綴ったのだった。小説を書き始めて20年弱、作家として生活も軌道に乗ったのち、54歳で急逝した。だが、彼が残した数々の作品は、人生に倦み諦めかけた人たちを、これまでもこれからも救い続けるのだろう。

わが夫はすっかり西村賢太作品の中毒になってしまった。少々哀れに思った私は「こんど信濃路、行ってみる?」と声をかけている。気楽に「うん」と言えばよいものを、「西村賢太が座っていた席はお手洗いの近くなんだって」「秋恵(小説内に登場する西村賢太の分身「北町貫多」の同棲相手)と一緒に信濃路へ行った時に、女の人を怒鳴りつけている醜悪なお客さんを見かけて、あれは自分そのものだと思ってハッとしたんだって」などと、西村作品エピソードで迂回してくる。彼の愛した太陽たる「信濃路」に、おいそれと近づいたら火傷するとでも思っているのだろうか。

『アフリカ』を続けて(53)

下窪俊哉

 先月の続きで、『言葉の花束』という小冊子を手元に置いて書いている。この1ヶ月は心に余裕がないというのか、時間の余裕もあまりなくて殆ど何も書けなかった。2016年4月から休みなく続けてきた「朝のページ」も、じつはこの10月、1日だけお休みした。「朝のページ」というのは、1日の始めにそのノートを開いて、思い浮かぶことを1ページ分書き出すという日課だ。その朝は時間に余裕のない旅行のさ中だったので、あえてノートを持参しなかったのだが、その朝の1ページは近日中に取り戻そうと思っている(つまりその朝は2ページ書くことになる)。休んでしまったら、仕方ないからまた翌日からいつも通りにやろうというのではダメで、どこかで無理して取り戻したい気持ちが私にはある。
 心に余裕がない時には、いろんなものを浴びるようには読めない。読むものを選ぶことになるのだが、そんな状態でも『言葉の花束』はいつも手元にあった。作者は「をまつ」さんという人で、近年『アフリカ』を愛読してくださっている方のひとりである。連絡して訊いてみたところ、収録されている詩は10年以上かけて書き溜めたもので、その間の読者は、友人とその家族に限られていたということのようだ。ごくごく個人的なものである。
 そこでは詩は、たとえば「安否確認」になる。

 南風に尋ねます
 きみが今日を
 無事に過ごして
 いるだろうかと

 お元気ですか
 きみの家族は
 きみの住む街の
 皆さんは元気ですか

 全文は引用しないが、ここでは部分に注目する方が、際立つものがあるかもしれない。そんなふうに思いながら書き写している。これは「お元気ですか」と「尋ね」ている手紙のようなものかもしれない。しかし手紙と違い「きみ」に直接尋ねることはなく、「安否確認」は「風」に乗って漂っている。宛先は、じつはないのかもしれない。「きみ」のいる街は「南」にあるそうだが、「きみ」は長く会っていなくて連絡先もわからなくなった友人かもしれないし、昔に別れた恋人かもしれないし、もしかしたらもういない人かもしれないという気がする。
 詩は、街の細部を照らし出しもする。たとえば書き手の住む「名古屋」は、こんなふうに現れてくる。

 目を覚ますと
 そこには街があった
 土手の上で犬の散歩

 町工場の
 シャッターが開いて
 小さいビルの
 窓が開いて
 喫茶店の
 ドアが開いて

 ささやかなスケッチというふうだが、よく見ると、そこには書き手の暮らしが出ているようだ。「その人」という詩があるのだが、「その人」とは、きっと彼自身のことだろう。

 食品工場のある街で
 故郷を思いながら
 きつい仕事をこなす
 その人の毎日を

 その人が休みに
 行きつけの小さな店で
 故郷の料理に
 郷愁を感じたことを

 夜明け前の食品工場の
 ボイラーの煙は
 淡い夜風に運ばれて
 あなたの街にたどり着く

 その人が丁寧に
 作ったその食べ物が
 今のわたしのからだの
 一部を作った物語を

 これは結局、全文を引用することになった。「その人」は書き手自身であると同時に、見ず知らずの誰かでもあるようだ。詩はまた、問いかけにもなる。「なかったことにするな」という詩がある。

 なかったことにするな
 日々を積み重ね成長した
 歴史の地層の厚みと深さを
 繰り返され営まれてきた
 遠い国の家族の暮らしを

 なかったことにするな
 路地に響き渡る
 子どもたちの笑い声を
 世代から世代に受け継がれる
 言葉と文化をつなぐバトンを

 この詩は『言葉の花束』の最後に置かれていて、一番長い。このように「なかったことにするな」で始まる連が11、並んでいる。読み進めるにつれ、戦争や紛争といった強者の歴史(?)を意識して書かれていることが感じられるが、反戦というより、諦観という方がふさわしい。私はその姿勢に共鳴を覚えるようだ。「なかったことにするな」ということは、「覚えておけ」「覚えておきたい」ということになる。書くことは、何かを覚えておきたいという願いと共にあるのではないか。

 しかし覚えておくというのは、そう簡単なことではないようだ。最近の私は、こうやって書きながらも、同じことを前に書いたかもしれないという疑問を手放せない。酷い場合だと、先月書いたことすらもう忘れている(という話も前に書いたかもしれない)。印象深い出来事を覚えていて書くのなら、ある程度までは覚えているのかもしれないが、書き続けるということは(生き続けるというのと同じで)平々凡々とした日々の中にこそある。そこでは昨日何を食べたのか覚えていないのと同じことが起こる。しかし書くことで、残るのである。残ること自体を良いことだと言えるのか、そうとも言えないのか、微妙な感じがするのだが、とにかく書いたら残る。そういう感触が得られないとしたら、私はたぶん何も書けないだろう。
『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)掲載の対話「岡山にて」では、守安涼くんが乗代雄介さんから聞いた「言葉の役割は残すこと」という話を紹介している。先日、その乗代さんの『皆のあらばしり』を読んでいたら、それが具体的にどのようなことなのか、書き「残す」ということの深みに魅せられている。江戸時代後期に小津久足という商人・紀行家が残した書物と栃木市皆川の郷土史を着想とした、「皆のあらばしり」というフィクションの偽書をめぐる小説なのだが、関西弁ふうの喋り方をする謎の男が、語り手である歴史研究部の高校生にこんなことを言う。

「書いたもんはすぐに読んでもらわなもったいないと思うんが大勢の世の中や。ひょろひょろ育った似たり寄ったりの軟弱な花が自分を切り花にして見せ回って、誰にも貰われんと嘆きながらいとも簡単に枯れて種も残さんのや。アホやのー。そんな態度で書かれとる時点であかんこともわからず、そんな態度を隠そうっちゅう頭もないわけや。そんな杜撰(ずさん)な自意識とは対極にある『皆のあらばしり』みたいなほんまもんを引っ張り出すんがわしの仕事やねん」男はおもむろにぼくの肩に手を置いた。「素敵やん?」

 それを素敵と思うかどうか私は知らん。ただ、発見した者から見て何のために書かれたのかよくわからない「本」が現実に(あるいはフィクションの中に)存在していて、そういうものに自分がものすごく惹かれることは確かなようだ。書かれていることが本当のことなのか、あるいは嘘なのか、読者には完全に判別することが出来ない。「書く」ということはそういうことなのだ。そんなものを、何のために書くのだろう。自分自身のため、だろうか。それもアヤシイ。そもそも書き手は、何のために書いているか、わかっているものだろうか。仮にわかっているとしても、それは持続するものだろうか。書けば書くほど、わからなくなってくる。そのわからなさに私は魅せられているということではないか。

豆のスープの水溜まりとスズメバチ

イリナ・グリゴレ

夢のなか、祖父母の村のメインストリートを歩いた。駅へ向かっている。一人じゃなかった。背の高い人が一緒に歩いている。最近、よくある話。夢でしか会ってないけど、一緒に歩いている。あのときルーマニアに残した彼ではないかと、たまに思う。彼とも夢で最初に出会ったから。でも違う。背の高さだけ同じで、あとは雰囲気が全然違う。一緒にいて安心できる。先日見た夢では一緒に歩いて、そして雨の後に昔よくあったように、道路に水溜まりができていて、前に進むためには真ん中を通るしかない。それで一緒に水溜まりのなかに入ったけれど、水溜まりではなく、祖母が断食のころによく作っていた私の大好物の豆のスープだった。豆のスープの中を歩いていいのかと思いつつも、足を漬けた。食べてないのに足から栄養を吸うような感覚。そんな水溜まりのような豆のスープの中を、二人で歩いていたときに起きた。

最近、言いたいことがあり過ぎて、直接人に言えなくなっている。SNSを通して伝えている。いいか悪いか、どうでもよくなっている。一番伝えたいのは「怖くない」ことだけど、みんなが臆病な世界だから、これも無駄。胸を張って誰に向かって「怖くない」と言っても、聞く耳を持ってないし、詩のような遠回りする伝え方のほうが一番いいけど、詩なんて誰も読まない世界になってしまった。プロパガンダについての本を頭で書いている途中だから、こうなっても仕方ないけど、矛盾を発見する度に言葉をもっと嫌いになる。ジプシーの友達のようになにかあるとき唾を吐くほうが下品だけど効果がありそう。つまり、口から出すものは言葉ではないほうがいいと、昔から知っている。ゲロ、唾、食べ物を吐き戻す赤ちゃんのように。あとは口でキスすればいいし、噛めばいい。

朝に起きたとき、口の中が痛かった。寝ながら自分で自分のほっぺを噛んで、食事もできないほど痛い。口を開けると大きな傷が見えた。自分で自分を食べ始めたのかもしれないと思った。自分の尻尾を食べる蛇のイメージを思い出して、あれはなにかミスティックなシンボルだったけど、思い出せない。それより、口が痛過ぎて喋れないし、顔の半分が麻痺している気がしたから、脳梗塞のサインではないかと心配になった。調べたら、スマイルできない、片手を上げさえできないのが危ないので違っていた。でも身体が麻痺している感覚が続くのに、子供のために動かないといけないので、私も冬眠できない熊のようだ。

先月、東京に2回行って、その疲れが出たに違いない。ワンオペで子供たちと向き合って、なおさら麻痺してきた。SNSで政治に暴れている半面、自分の日常はヴィム・ヴェンダースとリンチのような映画に近い。ある種の静けさを見つけた気がする。怖くない静けさ。そしてこの感覚に世界が反応する。車で過ごすことが多いけど、あるとき道路に私以外車が走ってないし、人が誰もいない。もう世界が静かに終わったのかと思えるような場面が増えてきた。吉祥寺までのタクシーもこのようだった。今回は韓国映画の中にいるみたい。人間関係の難しい映画、ホン・サンスの『草の葉』みたいな。神田川の話を思い出した。緑色の川、テラスでコーヒーを飲んでいるカップルはいつか結婚するのか。

次の日に井の頭公園に面したデンマーク風カフェに行った。いつもコンクリートの壁と熊のぬいぐるみの絵が明るく出迎えていたのに、今回は入った瞬間から不思議な電波を感じた。カウンターの子が二人とも私の後を見て、フリーズしていた。あの静けさか、ここも世界が終わっていたのかと思いながらテーブルに座ったが、あとでわかった。入り口のドアの窓に大きなスズメバチがいた。青森で見るのと同じ大きさ。カフェの後にある子豚ふれあいの店も静かだった。怖くなかった。スズメバチは自分の世界に入ってじっとしていたけど、カフェの雰囲気が前と全然違って、もうここに来ないと思った。スズメバチが私に何か大切なメッセージを伝えたと思った。この世界では生きているのはスズメバチしかいない。

外に出ると井の頭公園のトイレの前を通り、雨が降り始めた。シルクの白いブラウスに雨跡が残った。この井の頭公園のトイレは『パーフェクトデイズ』のロケだったに違いないとなぜかトイレに魅力を感じる自分がいた。音楽と本と映画があれば、この静かな世界で生きられる、わたしも、と急に居場所を見つけたようだった。豆のスープの水溜まりの中で歩いた人が誰だと、私はいつも誰かを探す感覚とともに生きていると、空港へ向かうバスではっきりした。誰だったのか知っている。きっと弟の一人。また夢で会おう。ゲームセンターに入って一人でUFOキャッチャーしようとしたが、全然できなかったから悔しくて泣いた。東京まで来たけど、どこにいるの?

印象と表現

高橋悠治

何も思いつかなくても手を動かし、書き続ける。こうして今書いているように、毎月何か書いていると、同じことを繰り返し書いているのかもしれないが、書いたことから別な何かが生まれるわけでもなかった。

字を書くよりは、音符を書きたい、ところが、ずっと使っていた Finale という記譜ソフトが開発をやめたという知らせを受けてから、使っていた機械に入っているソフトも何故かうまく動かなくなった。手書きに戻っても、今度は手が動かなくなっている。音符は記号として打つのに慣れてしまったから、一個ずつ形を手で描くことにまた慣れるまでに時間がかかり、その間に思っていた形は逃げていく。

そうなると、思い描いた音の動きそのものも、ありふれたフレーズではないか、と疑いがきざす。

一方、20年ほど前に書いた曲を弾くことになって、楽譜を読み返すと、演奏法がわからなくなっている。その時の方法は、説明なしでわかっていたから、書き残す必要を感じなかった。その時の録音でもあれば、見当のつくことがあるかもしれないが、何も見つからない。

そうなると、記号の読み方、あるいは残っている楽譜の断片だけを使って、それ以上書かないで演奏することができるか考えることになるだろう。それができたら、その結果をもっと簡単に書く方法も、見つかるかもしれない。

1950年代から使われていた図形楽譜と記号の説明のように、複雑な分類ではなく、説明のいらない、できるだけ少ない種類の記号で済ませられるように。

音の動きを、眼に見えるような形の変化から、耳に聞こえるような響きを経て、楽器の上の手触りの感触へと、身体化して近づきながら、全身の身振りとして感じられるとき、印象(impression)が表現(expression)に近づくのだろうか。