レーベルをたちあげる、たちあげてしまった 1

仲宗根浩

五月、十一時半に一恵先生宅に入り、まず掃除。楽器を前回と同じようにセットしたりしていると午後からみなさん集まってくる。今回は映像も撮影するのでカメラのセット。他いろいろとこまごました準備をし先生も揃い、リハをかねて録音一回目が始まった。柱が倒れたりしたので先生の希望に沿って十七絃の柱の並びを少し糸を緩めながら変える。録音二回目は問題なく終わる。少し休憩をした後、三回目の録音。この時わたしが録画用のカメラの録画ボタンをちゃんと押してないことがあとからわかるヘマをしたので全体の三分の二しか録画されていない。

全部のセッションが無事終わり、撤収後解散。翌日には沖縄に戻り三日間実家の引っ越し作業。録画した画像を送ったりしたあと、今回録音した音源と2017年杉並公会堂での沢井一恵による杉山洋一作品展の音源もありこれらを形に残せないか、杉山さんからメールをいただく。何回かやり取りし古い伝手を頼りにいろいろ話を聞いてみたが難しい現状が見えてくるばかり。ある日、そういえばと思いオーストラリア在住の内弟子だった小田村さつきがCDをオーストラリアで制作していてプレス枚数とプレス代を聞いたところ500枚プレスで2,000豪ドルだと返事が来た。その時のレートでだいたい二十万円。えっ、今時そんなに安いの、と思い国内のCDプレス業者を調べてみるとまああるある、格安業者なるものが。プラスチックケース、ジャケット印刷込みで二十万円、他に紙ジャケ、デジパック仕様色々と。で、CDの制作など未経験なのでどこかにお願いしようとCD制作も行っている市内の某レコーディングスタジオにお伺いしたら体よく断られたがプレス会社を教えてもらう。その会社のホームページを見ると、オンラインショップのみだが流通も行っている。だいたいの必要額を計算。このお金をどこから捻出するか、自由に使えるお金はあるのか。あった。年金、個人年金が。どうせ仕事してるし、今は余っているお金、良からぬものを買うよりこれを元にCD制作しようと思い立つ。

で、年が明けてレーベル起ち上げを杉山さんにメールする。それから2015年の「沢井一恵 箏 リサイタル」のCDと重複している曲が二曲あるので権利関係の確認から始めてこれは問題なし。マスタリングしてプレス会社に納品しなくてはいけないのでこれは櫻井さんにお願いして、デザインは昔CD屋時代の同僚でWEBデザイン、ジャケットデザインもやっているものに依頼する。CDのケースは輸送中割れるのが嫌なのでデジパック仕様、他使用する写真、ブックレット等のおおまかな事を考え、ここまでの二月の作業。

ジャワの駒踊り

冨岡三智

今年は60年に一度の丙午の年である。というわけで、今回は馬にちなむジャワの芸能を紹介してみよう。ジャワ島各地に平たい馬の作り物にまたがって踊る踊りがある。インドネシアのパフォーミングアーツ事典には、この芸能は駒踊りと呼んでも良いだろう。それらは、クダ・ルンピンkuda lumping、クダ・ケパンkuda kepang、ジャラン・ケパンjaran kepang、ジャティランjathilanなどと呼ばれる。クダやジャランは馬の意味。ケパンは編むという意味で、クダ・ケパンやジャラン・ケパンは竹ひごを編んで作った馬を指す。また、ジャティランはジャワ語の”jaranne jan tjil-thilan tenan”(不規則に踊る馬)を短縮してできた語らしい。不規則にということは、即興的な要素が強いということである。クダ・ルンピンやクダ・ケパンは西ジャワの呼び方で、ジャラン・ケパンはジャワ島中部、ジョグジャ、東ジャワの呼び方らしい。

この芸能は地方で盛んで、私が留学していたスラカルタではよそからくる大道芸のものしか見たことがない。彼らは他にガラスを食べたり、火を噴いたりするようなトランス系の芸能も同時にやっていた。それ以外には東ジャワ、ジョグジャカルタ、西ジャワで見たことがある。東ジャワではポノロゴで見た。レオッグ(巨大な獅子頭をかぶる芸能)と共に上演されていたが、レオッグにはつきもののようだ。私が見たジャティランは大勢の女性だけのグループだった。また、ジョグジャカルタのものは地方芸能フェスティバルのような場でいくつかのグループの公演を見たが、全部男性ばかりのグループだった。西ジャワで見たときは大勢の踊り手がトランス状態になるものだったが、西ジャワはなべてそうなのか、グループによるのかは私にはまだ分からない。

馬の作り物の装飾は地方や団体によっていろいろで、彩色が派手だったり、馬のたてがみとして本物の毛をつけているものも多い。騎馬武者を描いているので、女性の場合だと男装の麗人という感じのファッションになる。激しい音楽で騎馬武者同士の戦いを描いている。中には踊り手がトランス状態に入るものもある。

イチゴ白書

北村周一

女人のみの下宿屋に集いかき鳴らす
 ギターはさむしコタツ越しにて
手をふればわすれないでというように
 世田谷代田駅に昏れたり
ショーガ焼きはA定のみに通いしを
 経堂駅近“おのちゃん”恋し
小銭手に暮らしはじめし細山は
 読売ランド前駅遠し
百合ヶ丘に教会ひとつありまして
 そこの神父はころされたるらし

草カンムリに母と書き足すイチゴかな
 れんにゅうなめなめ母子よみがえり
(さじもて母が苺をつぶすそのたびに
 ひらく彼岸のはなのくれない)
勤めよりもどり来たれば旧道に
 父のかげあり夕べのみちは
旧道のまだまだ明るいゆうべには
 母が来ていつわれ待つらんや
ひさかたのヒカリにぬれるじてん車の
 あと追うように走り出すかげ
**
裏口は肉屋なるらし赤ちょうちんの
 名は『みいと』meet(meat)unmet
そういえば火の見櫓が目印の
 『雨多湖』で飲んだね父子三人きりで
そういえばむかし『雨多湖』の『みいと』でも
 飲んだね横におとうとも居て
***
そういえば夏のさかりの奥能登は
 キリコ大祭 われも担ぎき
星すずし火も灰皿もひとに借り 
 撓うキリコの若々しけれ
奥のとより吹きくる寒き音きこゆ 
 よあけの晩にすべらぬように
****
灯の中に火の子の眠るしずけさを
 告げんごとくにゆきふりはじむ
陽のあたる坂みちまでは遠けれど 
 そぞろに冬至の明けにけるかも
穴という穴に気を吐くうがいの日 
 白衣の女医ののど仏かな
ひったりとくっつきすぎると腐るらし
 笊のミカンはほのぼの甘し
笊の中の十三番目の早生ミカン
 ひとつ戴く罪びとのごと
*****
酒失なる記憶はなべて無にせんに
 のみ干す酒のコップ酒かな
一見穏やかにみえても核心は
 ベンチの上のウメボシの種

古屋日記 2025年12月

吉良幸子

12/1 月
今日の公子さんの夢。昨晩は未来永劫に金ピカになるペンキをライオンのたてがみに塗ってしまい、取れへんのにどうしよ!と焦ってたらしい。金ピカのライオンんの隣であたふたする公子さんかわいいやないのん。

12/5 金
今日は12日公演の稽古の日。黒テントの稽古場に集まって、当日「一眼國」を一席する兼太郎さんと役者陣を合わせて見てみる。夏の稽古からあんまし変わってない感じやけども、大丈夫やろか。本番まであと1週間。

12/6 土
最近公子さんが小豆からおしるこを作ってくれはった。ミッドナイト・キッチンで煮込んで、朝起きたらできておる。これがむっちゃおいしい!甘さが絶妙で、これ食べてたらチョコレートもケーキもいらんなぁ~なんて言いながら、お餅を入れてぺろっと食べた。

12/9 火
演芸場は今月後半にある、外部での特別公演の準備で休館日が多い。ということは出勤日が少ないっちゅうことやけども、そんなんお構いなしで来月のデザインが私のところに流れ込んでくるやないか!今日中に目処をつけとかんとどうにも間に合わん仕事で、夜遅くまで事務所に籠る…途中まで経理の人と話したりして楽しかったのやけど、その人もあがってしまいひとりぼっち。さすがにこれ以上続けても集中力が持たんと日付が変わる頃に引き上げる。家が近くてよかったんやけど、逆に残ってしまえるのも考えもんやなぁ。

12/10 水
友人の展示を見に吉祥寺へ。久しぶりに中央線の方に行くとやっぱり遠く感じる。電車に乗らん生活になってるし、久しぶりの着物で腰紐をきつくしすぎてちょっと乗り物酔いまでしてしもた。師走の吉祥寺は平日でも人がいっぱいで、賑やかなんにつられて商店街で小豆とお餅を買うた。また公子さんにおしるこお願いしようっと。

12/12 金
今日は10月から毎月やってる落語会の最後の本番!着いたら役者陣に太呂さんまで早々と到着してて、みんなで設営して準備した。差し入れに熊本から段ボールが届いてて、開けてみるとローズマリーと南天の実が敷き詰められた中に野性味あふれる大小のみかんがいっぱい!食べてみると市販のみかんよりうんと甘くておいしい。お客さんにも食べてもらうべく、木戸に置いてみなさんに配った。今日は私の知り合いもたくさんいらっしゃる日で、なんと演芸場の若女将まで来てくれはった!ありがたい!!本番終わって一安心、みなさん楽しかったと帰りがけにお声がけしてもらって嬉しかった。

12/13 土
昨日の今日で疲れてはいるんやけど、予定の関係で知人の展示へ。しかも今日は三鷹!!遠いっ!と思いきや、大きい駅もすっ飛ばす急行が運よく来て、意外にもすんなり着いた。今回は3人のグループ展で、絵柄がみんな優しく、出展者たちの調和がある展示やった。

12/19 金
今日は演芸場、外部特別公演の初日。一昨日に準備に行ってきたんやけど、慣れた場所やないしあっちへ走り、こっちへ走りとてんてこまい。そしてなんせ大きい施設は乾燥が酷くてかなわん。水分をたくさん手に、行きしなに神社で無事をお願いして現場に入る。お客さんを見ると、いつも演芸場で見知った顔を発見してちょっと安心した。こちらまでご来場ありがとございますと世話話できる人がおるのはなんか嬉しい。今日から3日間、バタバタとするやろけどとにかく前向きにがんばろ。

12/22 月
特別公演が終わってさすがにダウン。なんせ風邪引きがいっぱいやったし私ももろたんやろなぁ、喉がものっすご痛いし鼻かみすぎでおもろいくらい鼻の下真っ赤っか。今日は休みと決め込んでよくよく寝る。夕方、今日は冬至やんかいさ!と気づき、ゆず湯を求めて近所の銭湯へ行った。家の近くに2つ銭湯があんねんけど、まだいっぺんも行ったことなかった方へ行ってみる。受付に人懐っこいおっちゃんがいはって、今日はゆずいっぱいだよ!と言われた。入って見てみると、確かに想像の2倍くらいの大量のゆずがネットに入って泳いでおった。なんの変哲もない町の銭湯なんやけど、お湯が熱めで嬉しい!水風呂も水が柔らかいのか、足つけても刺さるような冷たさがなくて心地いい。湯冷めがなくて最高なとこ見つけたわ!と思いながら上がり、ドライヤーを使おうかと思ったら、20円10分の表記が…。10円2分の間違いやないのん、と思い、そばにいたおばあちゃんに聞くとほんまに10分らしい。こんな長いのん聞いたことないがなと笑った。帰りしな、コーヒー牛乳を1本買ったら、ヤクルト1本とゆずひとつをお土産につけてくれた。なんちゅうサービス精神旺盛な銭湯なんや…!

12/23 火
今日は久しぶりの通常公演。知ってる小屋に帰ってくるとなんとなく安心する。特別公演おつかれさま会しようと、一緒に働くお嬢と仕事終わりに飲みに行った。このお嬢、いや代表一家は結構酒が強い。やし、二軒目まで行って久しぶりにしこたま飲んで酔っ払って夜中に帰った。帰ってソラちゃんに絡むも迷惑そうな顔。公子さんに寝なさい!と言われ、死んだようにぐっすりと眠った。

12/25 木
今日はクリスマスではなくて千穐楽。西洋のおやすみ気分なんて全くないまま、年内最後の公演を見送った。お客さんたちには、良いお年を!と声をかけたけど、旅芸人たちにはもう来月の現場が見えてるからか、年内最後という感じもなく荷造りが進められた。そらそうか、あんだけの大・大荷物をまた別の場所に運ぶのは大抵のもんやないしな。

12/27 土
今日は我が誕生日!ということでお出かけするべくちょっくら上野東照宮へ、御狸さんがいはるということで狸顔が参拝してきた。参拝目的やったんやけど、建物の彫刻があんなにすごいと思わなんで、ゆっくりじっくり見さしてもろた。特に透塀の上下にいる、動植物の彫刻が生き生きとして見事で、屈んだり背伸びしたりしながら長時間鑑賞した。ええもん見してもろたわぁ…という余韻に浸りながら鳥居を出ると、茶屋がある。寒くて小腹もすいたしうどんでも食うか~と気軽な気持ちで入ると昔にタイムスリップしたような空間。日活の脇に出てそうな陽気なおじいがラーメンすすりながら喋りまくってて、その隣には蕎麦を待つ無口なおっちゃん。あいてる机の隣の人に、ここいいですか?と声をかけると、スキンヘッドに薄く色の入ったサングラス、右頬にでっかいサソリの彫もんがあるという人で、いいですよ~どうぞ~と話してみると意外に柔らかい。店員の下町育ちらしいさっぱりとしたおばちゃんは、おねえさんこんなとこ来て大丈夫?ごめんね~と終始謝ってはって、大丈夫です!と、私は私で、変な映画の世界に入ったみたいやなぁとワクワクしておった。たぬきうどん一杯500円、代金は品物と引き換えに。しめた、ここはまだ令和に追いつかれてない!喋り続けるおじいの話を聞きながら、隣ではサソリのおっちゃんがシナチクをつまみに酒飲んでて、私も相槌うちながらおうどんぺろりとたいらげた。
遊園地のアトラクションでも入ったような気持ちで、おもろかった~銭湯でも行って帰るか~と不忍池のほとりを歩いていると、したまちミュージアムを発見。ふらふらっと入ってまたもや昭和を満喫した。その足で燕湯へ。今日も日が高いし貸切状態!松屋あたりにはあんなにいっぱいの人が歩いてて、ここに来うへんの不思議やなぁと思いながらお湯につかった。家に帰ると公子さんも風呂帰りらしく、ポカポカのまま近所の蕎麦屋へ。最近、佐原の酒蔵、東薫の生酒がおいしくてふたりしてハマっておる。蕎麦と生酒とちょっとしたつまみで最高の誕生日やった。いつもやったらそこまで酔っ払わんのやけど、風呂上りなのもあり酒が回る。公子さんはぐっすりおやすみやけど、私は二階のさっぶい部屋に上がって今日したまちミュージアムで見た長屋の部屋を思い出す。…ここ数年、欲しいけど扱い切れるのかと迷ってた、私の部屋に足らんもの、それが火鉢。酔ったまま古道具屋のサイトを開き、思わず注文してしもた!あはは~やっちまった~!とか思いながら、年内に届いたら嬉しいなぁと呑気に眠りにつく。

12/28 日
公子さんが小学校の頃から知っている、アキさんがおうちでやってはるお料理教室に行く。ちょい遠いけど、幸いなことに乗り換えはそこまで多くない。行きしなにお手製のリリアンで編み物しながら、公子さんと大田区を目指して電車に揺られた。今日はタロットをしたり餃子を作る会。素敵なおうちに案内されて、まずはタロットで色々見てもろた。この方が滋賀出身らしく、久しぶりに聞く人の関西弁。やっぱり方言は人の距離をグッと近くするなぁと感じた。カードは概ね思ってた感じの内容で当たってるんやけど、気になるのがサソリのカードが2枚も出たこと。思わず昨日の茶店で会ったサソリおっちゃんのことを思い出した。なんかの啓示なのかしら…?
そんなことを話してる間に、他の人たちは餃子のタネをせっせと作ってくれてはって、私も包みのところから参加した。これがうまいこといかん~!でも不格好なのもアキさんがものすごい上手にきれいに焼いてくれはった。これがおいしいのなんのって!タネの味付けがうまくて、たれなしでも十分においしかった。

12/29 月
朝から火鉢が届いた!30センチくらいの手あぶり箱火鉢で、まだ何も入れてないとこに五徳を置いて灰たちの到着を待つ。ちゃぶだいの隣に置いてるだけで嬉しい。

12/30 火
今日は演芸場の大掃除。いつもの楽日ですら埃が結構出るし、心してマスク姿で向かう。煤払いに表の掃除と、普段できないところを念入りに。外で掃除してると、行き交う年末モードの人たちが、演芸場の方を見ながら綺麗ね~とか話してるのも聞こえて、俄然力が入る。椅子もひとつひとつ拭きながら、今年いったい何百人が座ったんやろなぁなんて考えたりした。みんなで手分けしてお昼過ぎに掃除はおしまい。最後に商店街へ来月のポスターを配りに回る。いかにも地元密着な仕事で楽しい。配った中にお好み屋さんがあるんやけど、久しぶりに行ったらもんじゃが食べたくなってお嬢と仕事終わりにちょっと寄った。相変わらずじゃりン子チエから出てきたみたいなお父さんとお母さんが焼いてくれるお好み焼きはうまい。
夜、家に帰ったら火鉢用の灰と炭団が届いておった。年末の忙しい時期、連日の配送に頭が下がる。公子さんに見てもらいながら、記念すべき第一号の炭団に火をつけて灰に入れると、じんわりとあったかい。部屋全体がぬくくなる訳じゃないけど、見てるだけで嬉しくなるかわいさ。寝るときどうするとか色々と公子さんに聞いて、びびって換気もしっかりしすぎ、冷たい風を家に入れまくりながら火鉢生活が始まった!

12/31 水
朝起きてすぐに灰の中に埋めてた炭団を起こすと、まだ火種が残っておった。長くついてるねんな~と感心する。昨日はお湯を沸かしてみたし、今日はお餅を焼いてみようと網の上にお餅を置いてじっと待つ。ちょっと目を離した隙にこげっとしたとこもあんねんけど、なんとなくトースターで焼くお餅よりおいしい!公子さんが作ってくれたおしるこにちゃぽんと入れて食べるのは至福の時間やった。
大晦日は王子、狐の行列の日。ひとりで行くのもなぁ…と考えていると、十条に住む友人から連絡が入った。旦那と行こうと思ってるけど、一緒にどう?とのことでふたつ返事で待ち合わせの約束をした。それまでに銭湯行くか!と、先に行ってきた公子さんと話してると、そんままの格好で行ってもいいよ、と…その格好っちゅうのが、おばあちゃんからもろた黄色に赤のチェックが入った派手なちゃんちゃんこで、こんな銭湯行きまっせって格好で家から出てもいいんですか!?と思わず聞いてしもた。でもまぁ、下町やしええや!と意を決して小脇に風呂桶抱えて下駄で銭湯へ。案の定、道端でおばちゃんに話しかけられた。銭湯の方はというと、みんな宵の口に来てしまったようで貸切状態!お湯の中で、3べんおでん屋の口上を言い終わるまでは湯から上がれん!と決め込んで、これから夜中出ていくのに備えていつもより長めにあったまった。
待ち合わせの時間に合わせて家を出ようとすると、先に着いたという友人から連絡があり、すんごい人、それも外国人ばっかし!とのこと。半信半疑で王子きつね村なるちょっとした露店が出てる場所に向かうと、王子稲荷の前からすんごい人だかり、それも90%くらい外国人!ええぇー…と、人混みが嫌いな私はクノイチの如く人の合間をすり抜けて待ち合わせ場所に行くと、大通りに更にすごい人だかり。北区のどこにこんな人がおったのか、いや、他からわざわざ来てるのか!?と不思議にさえ思った。友人と無事落ち合ってとりあえず串団子を買う。歩道の行列が見えるところで少し待ってたら年が明けた。と同時に行列が始まり、獅子舞を筆頭に後ろには狐の面や化粧をした行列が続く。大きい狐の顔の面を持ってたり、中には籠に乗った女の子まで、ゆっくりと厳かに鈴を鳴らしながら歩いてる姿を遠くからぼんやりと見ると、ほんまに人間に化けた狐がちょっとは混じってるかもなぁと思わせる感じがあった。大通りを行列が過ぎ、その間に近道して王子稲荷の方へ。行列してても初詣に行けるらしいとのことで境内に入る列に並ぶ。と、ちょうど獅子舞がやってきて、行列のみなさんと同じタイミングで境内に入り、旧年の感謝と新年のご挨拶をした。いつも演芸場の出勤の前に来てる時は掃除してるおっちゃんしかおらんのに、打って変わって見たことないくらいの人だかり。同じ場所とは思われへんなぁとその活気にびっくりした。火鉢をはじめたのもあって火伏せ凧をいただき、甘酒飲んで帰宅する。公子さんは村民だけでする小さい踊りやと思ってはったらしく、今晩の観光イベントみたいになってる話をすると驚いてはった。ソラちゃんは何のこっちゃの顔でメシの要求。年が明けてもうちはいつも通りや。

点線の災いで、開く門

芦川和樹

急速に冷えたから
ア、アルバータの型を抱えて
部屋をふたつ、蛇口をみっつ
階段を降りる
その先を右に、部屋をふたつ
浴槽
バスタブ。ぽたぽた水が落ちる蛇口を探す
ない
ないはずはない
もう一度浴槽、バスタブ。石鹸をふんで
ひっくり返る。あった、裏側の
浴槽
バスタブ。水が落ちている
落ちているところを
拾う。指先から、窓、から光がこぼれた
のを、見ていました。ゆびをふって、纏う
ここからここまで
線を引いて、ア、アルバータのかたち
かたちが溜まっていく

気管支を
建てた(その資格がある)
解決する問題を数えて(よっつ)報告する
画鋲を。コマにして回す(楽しいから)
そのあとで食べて、厄を(厄を)
凹みに
落とす(胃に)
とはいえ困った
困りました。プリンは固まっていくのに
靴が、乾かないのよ、困った
足が幽霊であればべつにいい
それならそれで
いいけど
生きているので
足があるのです
浴槽
バスタブ。を橇にしようか
そのまま壁とか突き破って怪我なく
人参など買いに、必要な光と栄養を。水を

」門を開けます。塩辛い歩み、凹みに落ちていく(ついでに落ちていく)いくつかの約束をここに置いて、いやでもこれはやっぱり持ってい(か)なくちゃからだ(型)が、まずい。ものもあって(そりゃああるよ夢見る資格があるのであるから)泥を払う、洗ってもいい。ベンチなど、凹みを快適とまではいかなくても、立て直すあいだここにいて(も)いいぜ休めるように、お湯もでるように、あたまをふって(チャイムが聞こえるー!)、火には注意してストーブを。必要な人参を、トマトを、石鹸を胸に。困難 困惑を滑らかに、棘の、針の、さいごのところでまるみを。を、門(門)

『アフリカ』を続けて(55)

下窪俊哉

 この年末年始は故郷で家族と過ごしている。私が鹿児島で年越しをするのは、じつに27年ぶりだ。夏にこの連載の(49)で家族のことを書いたが、その時は父に悪性の脳腫瘍(膠芽腫)が見つかって、10時間にわたる手術をした。手術の日は母と妹と、11歳の息子も一緒に病院で待っていたのだが、私は待合所のテーブルを借りて、戸田昌子さんの「耳の祝祭」(その後、『アフリカ』vol.37/2025年8月号に掲載することになる)の初稿を鉛筆片手に読み込んだ。その日のことはいつまでも忘れないだろう。
 その小説「耳の祝祭」の中で、ある人がこんなことを言っている。

「覚えておいて。人は、欠如を埋めるためにこそ、すごく大きな力を発揮する。だから傷は、その入り口かもしれないのよ。だから」

 摘出した腫瘍は父の左脳に見つかったもので、言語障害が出たことによって判明した。本人によると、いろんなものを思い浮かべることは出来るのだが、それをことばで言い表すことが出来ない。やがて文字を書くことも、読むことも難しくなった。ただし、今のところ、全く出来なくなったわけではないようだ。
 手術前には、盛んに「しごと」と言うので、何の仕事のことを言ってるのだろうと思っていたのだが、しばらくしてから「あ、手術のことを言っているんだ」と気づいた。「大手術」と言うと悲壮感が漂う(かもしれない)が、「大仕事」と言うとそうでもなかったりして? そう思って観察していると、看護師さんたちと接する父の顔は家族へ向けているそれとは違い、外向けの顔というか、仕事時にはきっとあんな雰囲気だったのだろうと思った。父は、私たち家族は昨年、大きな、大きな「しごと」をした。
 ところで、脳というのは不思議なものらしく、病気をしたのは脳で身体の他の部分は元気なのだから、と当初考えていた私は甘かった。父は術後、しばらくして足が弱り、歩くのが困難になってきていて、いまは脳腫瘍の治療よりその方に気がとられているかもしれない。生き延びているのが凄いことで、ことばが不自由になったのは仕方がないことだと思っているのだが、父はたまに、わからなくなった文字を教えてほしいと言ってくる。わからないものを教えてほしいと言われても、それが何かを察知出来なければ教えようがないのだが、あのー、あれよ、あれ、と言われて聞いていると何となく思いつくことばがあるので、幾つか挙げていると、それ! となる。私が書いて見せると、その文字を見ながら、書き写す。ことばというもの、文字というものも、やはり不思議なものだなあと感じる。よく考えると、よくわからなくなる。たぶん元々よくわからないものだからだろう。

 夏前には、大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読み始めていた。神奈川近代文学館で開催された「大岡信展」に刺激を受けて、読んでみたいと思った。
 たとえば『アフリカ』最新号、vol.37では日沖直也さん、守安涼くん(と私)とのそれぞれの対話の中で、富士正晴、山田稔、乗代雄介といった作家たちの仕事や証言にも触れつつ「記録」という役割の大きさについて語られているが、「記」とはどんなことばだろう? 大岡さんが簡潔に説明してくれている。

 平安朝において、漢詩漢文時代が数十年あり、その時代に勅撰漢詩集がいくつか作られます。ただ、詩として面白いものではなかった。面白いものはというと、貴族が自分の個人生活を漢詩で書いた、つまり日記です。「記」というのはくだけた文章という意味です。

 この話の流れで大岡さんは、日本文学というのはパブリックなものよりも、プライベートな、小さな分野の方にユニークなものが育っていった、というふうなことを語っている。
 この話はうろ覚えなのだが、晩年の渡辺京二さんがインタビューの中で、中国の人の幸福論について語っているのを聞いた(読んだ)ことがあり、国の政治など大文字の歴史よりも、朝、起きて食べる粥の美味しさの方に人生の真の幸せがあるという。
 確かに、今、私自身も散文をたいへん個人的なもの・ことを表現するジャンルと捉えているし、詩も(つまり歌も)もある程度はそうだと思える。しかし、個人的であるのと同時に大文字の歴史を体現するような作品も世界には存在しているわけで、我が身を振り返って見た時に感じられる政治的な(側面の)弱さについても、いちおう確認しておきたい。
 つまり私はそこに大きな空白を見ている。いや、空白は見えないので、感じている、想像していると言った方がよいかもしれない。何の空白なのか。意味の空白だろうか。実際、書くことの意味を、私はどこまで感じられているだろうか。それを問うこと自体に、困難があると言ってみたい気持ちもある。

 夏前に出合って、読み始めた本がもう1冊あり、それは3月に亡くなった江代充さんの’97年の作品『黒球』だった。この「水牛のように」でも越川道夫さんが江代さんの死と、その後のことを書いていて、私は越川さんの導きによってその本を手にしたと言ってよいだろう。江代さんは詩人だが、この本を詩集と呼ぶことには少し抵抗がある。江代さんは「生活記録」をノートに長年つけていたそうで、越川さんの「テッポウユリのことなど」(「水牛のように」2025年9月号)によると、

江代さんは日日、「日記」と呼ばれるノート稿を書き、そのノート稿を、時を置いて何度も繰り返し「読み改める」ことによって、そこに何らかの「顕現」を見出そうとしていた。それを「詩」として書いた、と言えるかもしれない。

 とのこと。『黒球』という本は、過去の日々の記録を「読み改め」ながら時間を自在に行ったり来たり、進んだり遡ったりして、ひとりの人の中に蓄積された時間と空間が再び立ち現れるのを書き写している。そこに私は(再)編集を見るようでもあり、書き直し(生き直し)を見るようでもある。その書かれた中にある記録はどこか、もう書き手自らのものではなくなっているのかもしれない。

 2025年の私が出合った本として、もう1冊、紹介しておきたい。

 伊藤芳博さんのつくった’95年の詩集をいつか読んでみたい、という気持ちは長年、抱き続けてきた。『アフリカ』でお馴染みの詩人・犬飼愛生さんから最近、その人の名前を聞いたのをきっかけに連絡してみようと思い立ったのだが、今月、1月23日に犬飼さんと伊藤さんはNAgoya BOOK CENTERという書店でトーク・イベントを開くそうだ。
 実は伊藤さんは私の高校1年の時の国語の先生だった人で、なぜかずっと覚えていた。伊藤さんの住む岐阜と鹿児島は、薩摩藩による木曽の宝暦治水工事を記念した交流事業があるのだが、伊藤先生はその年に(だったと思う)鹿児島に来られ、私の進学した高校で数年間教えておられたのだった。
 伊藤先生が詩人であることは、おそらく皆が知っていたと思う。30代半ばの若い先生で、新婚で、お子さんはまだ生まれていなかったかもしれない。そういうプライベートなことも授業中に話す先生だったのだが、ある日、教室に自らの新詩集を携えて入ってきた。その新刊を紹介する話ぶりがあまりにも楽しそうだったので、印象深く覚えていたのだ。その本には2冊の詩集が同居していて、本を裏返し、ひっくり返したらもう1冊を読める。赤い糸だとかムカデがどうとかという長いタイトルだったことも覚えていた。
 思い切って連絡してみたところ、その詩集と、’21年に出された自撰の『伊藤芳博詩集』(砂子屋書房版現代詩人文庫18)を送ってくださった。その2冊を受け取った時の感激は、ちょっとこれまでに味わったことのないものだった。
 30年前の詩集『赤い糸で結ばれていたかもしれないムカデ(について考える二人)/どうしてもやってくる』は、高知市の「ふたば工房」というところから出ていて、奥付によると’95年1月15日発行。ということは、あれは年の初めの、冬の日だったのだろう。その装丁も、構成も、記憶していた通りで本当に懐かしい。その本が今、自分の手元にあるということを奇跡のように感じるのだが、そこに収録されている詩については、さすがに覚えていないだろうと思っていた。
 しかし、詩集を手に取り、本を開いて読んでみると、何ということだろう! 蘇ってきたのだった。
 当時、私はその詩集を借りて読んだわけではなくて、もちろん買ってもいなくて、プリントで配られた記憶もないし、どんな学校だったかを考え合わせてみても、その可能性はほぼない。ということは、教室で伊藤さん自身の声で朗読されるのを聞いたのだろう。私は30年前に、それを耳で受け取った。だから、ありありと思い出す詩がある一方で、全く思い出せない詩もある。朗読された詩だけを受け取ったのだとしたら、当然だ。
 蘇ってきた詩のひとつ「触りがいがないわよ」を今回、帰省して高校時代からの友人と会って飲んでいる時に見せたら、こんな色っぽいところのある詩を、あの高校の教室で朗読したというのがどんな様子だったのか、と不思議そうに言っていた。

 わたしの胸って触りがいがないわよ
 初めて触れたとき
 彼女は言った
 生きがいならあるさって
 僕はつぶやきながら
 やわらかい薄さを手に含んでいた
 けれど 生きがいってのも
 その時々で変わるもので
 ぺちゃんこになってしまった自分の胸に
 今は手を当てている
 触りがいがないよな
 自分の胸なんて

 16歳の私もきっと、内心ドキドキしながらその詩を聴いたに違いないが、今、30年後に読むと、心惹かれるフレーズは別のところにある。

 この道一筋という人間にあまり興味はない
 生きがいも信念も
 男も女も
 その訳(わけ)ってやつも
 その時々で変わる弱い人間だからだ

 私は自分の書いてきたものの原点を、故郷を離れて大阪へ行った’98年だと思っていたのだが、ここに来て、その3年前、高校の教室で出合い影響を受けた(かもしれない)詩人がいたということに気づいたところだ。

 さて、昨年の私がそれ以上に感動したのが、『伊藤芳博詩集』だった。もう1冊というのは、その本だ。目次を見ると、よくある自撰ベストのように、それまでの各詩集から何篇かを選び時系列に並べる、という編み方をしていない。既成の詩集というまとまりから詩を解き放ち、(「まえがき」によると)「改めて「新詩集」を編み直す、という奇策に出た」そうだ。
 ’85年の『努(ゆめ)屈することなかれ』から’20年の『いのち/こばと』まで、35年分の詩が詰まっているのだが、『いのち/こばと』までの約10年間、詩から離れていた時期もあったとのこと。しかし特別支援学校に勤務する日々から生まれた(らしい)詩を集めた『いのち/こばと』の詩篇を読むと、詩そのものから離れていたわけではないだろうという気もする。
 電車の中で見かけた(他人の恋人であっただろう)少女への語りかけに始まり、夫婦という男女の間に生まれた詩、家族を描いた詩、勤務先の学校で生まれた詩、先輩詩人でもあった亡き父との共作、さまざまなモノや生き物への関心、映画を見ることによって出てきた詩、パレスチナでの支援活動から生まれた詩、etc. こうやって35年をふり返って(再)編集された詩集を前に、何という振れ幅の広さ、懐の深さだろうと思って、すぐに通して読むことはしないでおいた。この中には、たくさんの誰かの存在があるようだ。時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり読もうと思う。そうしないと感じられないことがあるのは、確かだ。
 その詩集の最後に収録されている「あかり」は、こんなふうに始まる。

        あかり から
       か がとびたつ
      あり がさまよう
     か がもどってきて
          じぶんの
       ありかをさがす

立山が見える窓(6)

福島亮

 それまで必死に漕いでいた自転車のペダルが富山大橋のなかほどでふと軽くなり、アスファルトに注いでいた視線を、深く息を吐きながらあげると、眼前に、立山連峰の白い壁が見える。つい数日前、ある人から、刊行されたばかりの関健作さんの『マインド・エベレスト』(Type Slowly、2025年)という本を見せてもらったのだが、その時ふと、富山大橋から眺めた立山の厳しさを想起した。立山を見ていると、あれを歩いて越すことはとてもできないだろう、という諦めにも似た気持ちが湧いてくる。それは東京や群馬にいた頃には感じたことのない気持ちだった。

 関東平野に位置する生家の脇には吾妻川という川が流れている。草津の方から流れてくるその水は、かつては酸性が強く、魚の住めない死の川と呼ばれていたが、1965年、中之条町に品木ダムが完成し、川水に石灰を投入して中和する試みが開始すると、徐々に魚が住むようになった。私が生まれたのは、この中和事業開始からだいぶ経ってからのことなので、川で遊んでいると小魚をよく見かけたものだ。でも、十歳くらいの頃の私は、川の来歴やそこで捕まえることのできる小魚よりも、むしろそれが利根川の支流であるということの方が重要で、というのも川の流れに乗っていけば、そのまま東京まで行くことができると何かの本で読んだからだ。関東平野に暮らす人間にとって、山はあまり閉鎖的な印象を与えず、むしろ太い血管のように走る河川の開放感の方が強い。富山にも、神通川が流れていて、それは海に注いでいるのだが、しかしどうしたことか、そこに開放感はない。連峰が真っ白になってから、この閉塞感はより強まった気がするのだが、しかし、閉塞感というにはあまりに山並みが壮大で、それは閉塞感というよりも、圧倒されている感覚という方が正確だと思う。

 去年の4月からここでの生活が始まったので、まだ本格的な富山の冬は経験していない。11月のはじめ、うっかりベランダに出しっぱなしにしていたバオバブの葉が黄色くなっているのを見つけて、あわてて部屋に入れた。最初の頃は、枝についていたキマダラカメムシが部屋の中を歩いていることがあって、冬の間はできるだけ彼らを刺激せずに生活することになるだろう、と観念していたのだが、12月に入る頃にはバオバブの葉もすべて落ち、それと同時にカメムシもいなくなった。多摩川沿いに住んでいた頃から、バオバブにこの外来種の大型カメムシが寄ってくることが気になっていた。もともと東南アジアに生息する昆虫らしいが、温暖化の影響でここ最近では、本州でもよく見られるという。灰色がかった体に、薄黄色の小さな点が星座早見盤のように並ぶこの美しい昆虫をはじめて見たのは2年前のことだ。その時は、12月初旬に鉢を室内に入れると、春先まで、ときどき窓辺でこのやや大ぶりな昆虫を見かけることがあったのだが、富山ではどうもそうではないようだ。死んでしまったのか、それともどこか暖かいところで越冬しているのかわからないけれども、いずれにせよ、あの熱帯昆虫と再会するのはしばらく先になるだろう。バオバブの耐寒限度は5度だというから、春になって、彼らがまた芽を吹いてくれればの話ではあるのだが。

天道たち

新井卓

 例年になく日差しに恵まれた冬のベルリンで、暦はいつの間にか冬至を折り返し、これから日に日に太陽が戻ってくるのだ、と考えるだけで、根拠もなく万事良い方向に転じていくのだ、という気がしてくる。

 夏の終わりごろ「ふるさと」をテーマにした論集に散文を寄せる機会があったが、あのテキストを書いてから数ヶ月しか経っていないのに見ている景色がずいぶん変わった、と思う。水牛にもいつかポルトガル語の「サウダーデ」のことを書いた記憶があるが、結局のところ自由な移動がゆるされ、その経済的時間的余裕が与えられているうちは、きっと「ふるさと」のまぼろしの扉は開かないのだろう。

 ないと聴こえる音、ないと見える光があるように、ないと感じる振動がある。十二月八日に東北が揺れ、スマートフォンにインストールしたままになっている災害警報アプリに通知が届いたとき、めまいのような揺れを確かに感じた。不動のユーラシアプレートの中央に鎮座するこの国で、揺れない、ということがわたしの身体をいかに弛緩させてきたか。地震はおそろしいが、わたしたちが生きた地殻の上で生かされていることについて考える数少ない機会なのかもしれない。

 ベルリンでは日本から職を求めてやってきた人にときどき出会う。大企業の海外駐在員として来ている人が多いデュッセルドルフやフランクフルトなどと違って、ベルリンの彼/彼女らは地場の工場や飲食店で働き、ぜいたくではないが気兼ねのない生活を謳歌しているように見える。日本の人たちが移民や出稼ぎ労働者として海外に大量流出する時代が、もうすぐそこまできている。そのとき母国の不寛容さは海を越えて漂い出し、母国を旅立った人たちに対する不寛容として巡り戻ってくるのだろう。

 大晦日のきょう、ベルリンは朝から牡丹雪になった。眠くて仕方がないこどもを抱えて公園に連れ出し、橇遊びで半日を過ごす。家に帰り、ヤドリギと松の枝で(土地の痩せたベルリンは松の国、といっても過言ではないと思う)即席の門松を作っていると、こどもがトイレットペーパーをちぎってきて飾りつけている。カミサマがくるから、と言う彼に、そんなことを教えた覚えはないのだが、と首をひねりながら、やはりなにかが巡っているのだ、とへんに得心してしまうのだった。人の世の暗い景色に魅入ってはいけない──暖をもとめてアパートのそこら中に忍び込んだ天道虫を見つけるたび、助けようとしゃがみこんで手のひらを差し出すこどもの背中を見ながら、不意に思いついてしまったその言葉の意味について、考えている。

[お知らせ]
水牛で途中になってしまった「精霊馬たち」の最終章は「精霊馬としてのアート 盆とバスと原爆忌──アートバス〈爆心へ〉号、三四〇〇キロの旅」として『原爆文学研究』第23号に引き継いで書きました。刊行は2026年2月予定です。

ろうそくの炎、砧の音

笠間直穂子

 目が覚めて、目が覚めたことに気づき、横になった姿勢のまま、意識が次第にはっきりしてきて、数秒後には自分がいまどこにいるのかを把握する、それとほぼ同じ瞬間に、涙が顔をつたい、のどが引きつって、嗚咽がはじまる。体を起こすと、低い唸り声が絞り出され、吠えるような泣き方になっていく。出かけているあいだはなんとか押しとどめるのだが、そうでない場合は文字どおり一日中、号泣と嗚咽を繰り返しながら泣きつづけ、涙を流し息を詰まらせた状態で床に就く。翌朝には、また目覚めとともに涙がこぼれる。そういう時期があった。

 それがどのくらいつづいたのか、当時の手帳を見返せば手がかりが得られるかもしれないけれど、そのころにまつわる情報を目にすると具合が悪くなるので、確認できない。たしか、一週間を過ぎても泣きやまないので、二週目に入ったあたりで診察を受け、適応障害による抑鬱症状との診断をくだされて、薬を飲むようになり、とはいえ最初に出された薬はあまりに眠くなるため、連続して使うことはなく、まだしばらくのあいだは、つねに多少とも泣いていた。声帯が震えると、その刺激で涙が湧くので、ささやくような小声で話した。

 幼いころから涙もろいほうではあったけれど、この止まらない涙は、泣いてもまったく気持ちに変化が生じない点において、それまでに流してきた涙とは決定的に違っていた。

 それまで、わたしにとっての涙は、つらいこと、悔しいことが胸に溜まっていき、限界に達したときに、堰を切るように体外へあふれる、そういった性質のものだった。泣いているあいだは、苦しいけれど、同時に大量のエネルギーを勢いよく放出することによる一種の快もあり、泣き終わって疲れはてると、内にこもっていた苦悩が外へ押し出された結果、いくらか「すっきり」して、気持ちに区切りがつき、場合によっては、実はたいしたことではなかったと思えてきたり、次へ進もうという気になったりする。痛手が大きいときは、しばらく引きずるけれど、それでも何度か泣くうちに、苦痛は遠ざかっていく。そういうふうになることがわかっているから、なにか苦しいことが胸につかえているとき、それが充分に高まって涙に変わるのを待つ態勢になることもあった。

 ところが、今回は、どれほど長時間、激烈に泣いても、内面の状態がまるで変わらない。泣いた分、体が疲労するばかりで、苦痛は途切れも弱まりもせず、ただ単調に、べったりと、轟々とつづいていく。精神の正常な機能がほんとうに壊れたのだと実感した。

 いくら泣いても、意味はない。なんの安堵も解放感もやってはこない。この認識は、ひととおりの日常生活を送ることができる程度に回復したいまも、くさびのように胸に打ちこまれていて、繰り返し思い出されるし、実際に涙が出ても、それによって心がほぐれる感覚を得ることはない。涙がカタルシスをもたらしうる世界から、自分はこぼれ落ちたのだと、絶えず心のどこかで感じながら、寝起きしている。

     *

 泣くことが意味をなさなくなる地点を、この作家は知っている。ハン・ガンの小説を読んだとき、そう思った。詩人で翻訳家のMさんとメールを交わしていて、ちょうど出たばかりだった『別れを告げない』(斎藤真理子訳)を勧められたのが、なぜか強く印象に残り、読まなくては、という気になったのだ。こちらの不調について、Mさんには詳しく話していなかったけれど、あたかも処方してくれたかのようで、この時期にハン・ガンを読んだことが、わたしにはとても助けになった。

 彼女が描く人物たちの多くは、わたしとは比較にもならないほど、深々と傷を負っている。生活の基盤を根こそぎ奪われたり、近しいひとに暴力をふるわれたり、あるいは組織的な拷問や虐殺の標的となったりすることで、人間がもはや人間でいられなくなる極限状態に晒される。それは、息をしていても、生きているとは言えないような、生と死の境が溶け出してしまうような領域だ。

 『別れを告げない』の冒頭、語り手である作家、キョンハは、ここ四年のうちに家族も職場も住まいも失い、心身とも衰弱しきって、一人で暮らしている。四年間の自分の姿を、彼女は「殻から体を引き剝がして刃の上を前進するカタツムリ」になぞらえる。その体からは「血なのか粘液なのか涙なのかわからないものがとめどなく漏れ出す」。

 似たような液体は、小説の中盤で再度、現れる。大怪我をして入院している映像作家で木工職人の友人、インソンの頼みで、彼女の飼うインコの世話をしてやるため、雪に埋もれた済州島の中山間地にある彼女の実家にたどりつき、間に合わず死んでしまった小鳥を布につつんでいる最中、手の甲で目をこすったキョンハは「目から粘っこい汁のようなものが出ている」ことに気づく。来る途中にやぶで切った目の下の傷から出る血に混じった「酸っぱいようなねばつく涙」だ。「こんな苦痛を感じるほど愛したこともない」はずの鳥の死に、「なぜ涙が出るのか理解できない」。

 理由も終わりもなく、ただとめどなく血の涙を流す体が一方にあり、もう一方には、泣くよりも、じっとしたまま大量の汗をかいたり、耐えるために意識を飛ばしたり、魂が抜けたように呆然と過ごす体がある。作品の後半で、雪に閉ざされたインソンの家は、一本のろうそくの明かりに照らされた、生と死のちょうど中間に揺らめく幻の場所となって、そこに済州四・三事件で追われ殺された人びとの影が映し出されることになるのだが、これらの、泣くことの彼方を知ったひとたちの体感に、肌を寄せるようにして、わたしは読んだ。

 本作の緻密に編まれた言葉は、累々と積みあがる死者たちを召喚する一方で、それらの死者とともにいようとする者を、降りしきる雪と、闇のなかの小さな炎と、ふんわりした小鳥の羽でそっとつつむ。小山内園子が『回復する人間』をめぐって述べるとおり、「ハン・ガンの手つきは、読む側を悲嘆の側に置き去りにしない」。

 彼女の作品を読むことで、わたしは自分の精神の置かれた状態を作中人物たちと分かち合い、別のひとの体で体験し直すことができた。そうしながら、気づかないうちに、柔らかなものにそっとつつまれていた。

     *

 謡曲「砧(きぬた)」に、涙の描写があったのを思い出して、小学館の新編日本古典文学全集『謡曲集』を取り出す。ついでに、もう足腰が弱って仕舞の稽古へ行くこともない父に去年もらった、宝生重英『宝生流地拍子附正本』も出してみる。昭和九年発行の版だ。和装の表紙は、浮き出し模様の入った白い地に、金の箔押しで松の枝が描かれている。

 世阿弥の作である「砧」は、筑前・蘆屋のある男の述懐からはじまる。訴訟のため単身上京して三年になる彼は、家に残した妻を案じ、今年の暮れにはかならず戻るとの伝言を託して、侍女の夕霧を妻の元へ帰す。

 妻は夫の不在に耐えられず泣き暮らしていて、夕霧に苦痛を訴える。そこへ村人の打つ砧の音が聞こえてくる(砧は、木の台に置いた布地を木槌で叩いて柔らかくしたり光沢を出したりする道具)。妻は、かつて唐土の蘇武が異邦に留め置かれたとき、その妻が遠く離れた夫を思って高楼にのぼり砧を打ったところ、蘇武が夢でその音を聞いたという故事を思い出し、自分も同じことをして心を慰めようと、泣きながら砧を打つ。けれども、その後、約束した年末にも夫が帰らないと知ったとき、妻は狂乱して病み、亡くなる。

 悔いた夫が帰郷し、弔いのために人びとを集めて、妻の霊魂を招き寄せると、現れた妻の亡霊は、「邪淫の業深き」罪により、自分が砧を打ったときのように、いまは獄卒の笞に打たれていると語り、夫に恨みを述べるが、夫が法華経を読誦すると、その功力によって成仏する。

 全曲を通して、涙への言及がある。妻は登場するや、「袖にあまれる涙の雨の、晴れ間稀なる心かな」と言い、砧の段になると、夕霧との掛け合いで「涙片敷くさ筵に」、つまり、涙に濡れた片袖を床に敷き、と述べてから、夕霧と二人して砧に向かう。そして秋の夜、風の吹くなかで砧を打つ女の姿を、地謡はこのようにうたう。

「月の色風の景色、影に置く霜までも、心凄き折節に、悲しみの声虫の音、交りて落つる露涙、ほろほろはらはらはらと、いづれ砧の音やらん」

 現実には、渡辺保も指摘するとおり、風、声、虫、涙、砧の音は、区別がつかなくなるほど似てはいない。けれども、濃密な文彩によって次々と重ねられる「移りゆくもの」(月、風、音、水)の奔流が、涙とともに、砧を打つ音に合流するとき、その全体は「ほろほろはらはらはら」という、もはや風景とも感情ともつかず、具体的になにを示しているとも言いがたい、現実を超えたオノマトペとして夜空に響く。

 他方、亡霊となって地獄で責められる妻の様子を地謡が描くとき、涙は別の様相を見せる。

「因果の妄執の、思ひの涙、砧にかかれば、涙はかへつて、火炎となつて、胸の煙の、炎にむせべば、叫べど声が、出でばこそ。砧も音なく、松風も聞えず、呵責の声のみ、恐ろしや」

 かつて砧を打ったときに流した涙は、風や露と重ねられたが、ここではそうではない。涙は砧の上に落ちると火炎となって煙をあげ、その煙にむせんで声が出ない。砧の音も松風もなく、聞こえるのは獄卒が罪人を責める声だけ。季節も風景もない地獄で、涙は火と化して彼女を苛む。

 この曲は、筋らしい筋もなく、ただひたすら一人の人間のかかえる悲嘆に、詩的言語を尽くして迫るもので、人物の内面をつぶさに追う近代以降の小説に近い読み方を誘う。女の苦悩は、理屈の上では、夫に打ち捨てられて心情的にも性的にも満たされないために生じた、ということになるのだが、見聞きするもののすべてが涙に塗りこめられるかのような詞章を追っていると、彼女は、夫が戻りさえすれば元気になるというのではない、もっと根の深い憂鬱にとらわれているのではないか、という気がしてくる。どうしようもなくやりきれなくて、涙を止めることができず、とどめの一撃を受けたが最後、命まで手放してしまう彼女は、泣くことが慰めにならない地点を知った者の一人ではないのかと、思わずにいられない。

 けれども、法華経の力によって成仏した彼女について、地謡による結びの一文は、やや不思議とも思われる考察を加える。

「これも思へばかりそめに、打ちし砧の声のうち、開くる法(のり)の花心、菩提の種となりにけり、菩提の種となりにけり」

 思えば、彼女が砧を打ったとき、その音のうちに仏法の花、つまり法華の心が開いた、それが機縁となって成仏にいたったのだ、という。

 彼女が砧を打ったのは、妄執に駆られてのことで、信心のためではまったくない。だからこそ、地獄に送られ、自分が砧を打ったように獄卒の笞に打たれ、涙は火炎となって身を灼くのだ。夫への執心のあまり、真似事で打った砧の音が、どうして「菩提の種」になりうるのだろうか。

 わたしは能楽研究にも仏教思想にも疎い身だけれど、小説を読んできた視点から、この謡曲を読み返してみて、ふと、砧とは、妻にとって、表現手段だったのではないか、と思った。

 蘇武の故事を思い出したとき、彼女は泣くばかりでいることをやめて、先達に倣い、道具を手にし、技を用いて、布を叩き、音を出した。台に置いた布地に面と向かって、木槌を打つ女の姿は、楽器を奏でる者に近い。

 もちろん、苦しみを音として表現したからといって、その苦しみが弱まるわけではない。むしろ行為に移した分、痛みを強く感じる場合もあるだろう。だから彼女は恨みと悲しみを述べつづける。しかし同時に、芸の位相に託すことで、苦しみは、別のなにかへと開かれはじめる。

 秋景色と涙とが砧の音に交ざり合う「ほろほろはらはらはら」の響きこそは、表現というものが開くそのような契機、すなわち、涙が、涙の音楽へと変容する兆しを、名指したものではないだろうか。であれば、その響きは、たしかに、苦しむ者にとっての救いの機縁、「菩提の種」となるはずだ。

 あの泣きつづけた日々を言葉のかたちにしたくてこの文章を書きはじめた自分に、引きつけすぎた読解かもしれない、と一方では思いつつ、そのような読み方を受けとめる五百年以上前の作品が、ここにあることが懐かしい。淡い光に照らされる思いで、謡本を眺めていた。

一歩ずつ迷いながら

高橋悠治

即興と演奏と作曲、音楽する3種類の作業のうち、即興はその場でやってはいるが、何をしているのかわからないまま、記憶にも残らないで過ぎていく。相手を聞きながら、時を見計らって、自分の音をあしらっている。

ピアノ演奏は、頼まれた曲を弾くだけで、他人から見ると、やり方が毎回違うらしいが、自分ではわからないし、計画も方法もなく、その時指が感じた音を出している。作曲家だからといって、構成を考えたり、スタイルを決めたりしたくない。指遣いが決まれば、間合いと強弱はその時々で微妙に変化するし、初めて見る楽譜のように、新しい発見があるかのように、一歩ずつ進んでいくつもりになれる。

でも、一番興味があるのが、作曲で、これが一番やりたいが、だんだんできなくなっていくことでもある、と感じている。新しい響きや方法を求める時代は、1960年代で終わった。記譜法も精密になれば、演奏者の自由を縛るだけだから、新しい記号を使わないで、使う記号の数を少なく、曖昧な広がりを持たせようとしているが、なかなかうまくできない。

コラージュではなく、短い断片をそれぞれ変化させながら組み合わせて、いわゆる自律分散的に、不規則に変化した断片と断片の間のスレ合いが、ささやかで終わりのないズレを生み出すように。

先日初めて相手のいない即興をやってみた。と言っても、相手の代わりに使ったのは、20年前に書いた即興の素材をよく見えないままに、そのように見える形を相手に弾いてみることだった。

ここまでで使ったのは、あしらい、見計らい、ズレとスレ、断片化、揺らぎといった誤読寸前の試行だと言えるだろうか。何かがまだ足りないような気がする。

2025年12月1日

水牛だより

暖かい光のなかを歩くしあわせがからだいっぱいに満ちてくる、東京の12月のはじまりはそんな日に恵まれました。たとえ水牛の更新のための作業を中断しようとも、こういう日は少しでも外に出て歩かなければいけません!

「水牛のように」を2025年12月1日号に更新しました。
ことし最後の水牛は賑やかに、そして軽やかに深く。
これまで藤井貞和さんの詩を巻頭にしてきましたが、藤井さんからそろそろ下に移動してほしいとの希望があったため、そのようにしました。
一週間前にいただいた一本の百合(属)の赤い花、三つのつぼみがついていて、今にも開花しそうな感じでしたが、ひとつずつゆっくりと開花して、ちょうど今朝きれいに満開となりました。切り花はすぐに開いてしんなり枯れていくものが多いので、この百合(属)の遅さは新鮮でした。ゆっくりと長生きしようねと、若いひとにも若くないひとにも言いたくなりました。
アサノタカオさんの「水牛的読書日記」は少し遅れると連絡がありました。数日後にまたアクセスしてみてください、ゆっくりとでいいのです。

●新井卓さんのグループ展のお知らせです。
新井さんは1月には日本にいるらしいので、会場で会うことができるかもしれません。
「Prix Pictet: Storm」
東京都写真美術館
2025年12月12日〜 2026年1月25日

それではまた! 次の更新は新しい年ですね。(八巻美恵)

追いつけなさを、見送らずに見届けること

新井卓

十一月で三歳になったこどもが、よく走る。保育園に迎えにいくと庭の向こうから満面の笑顔で駆けてくるのはかわいいが、通りを車道に向かって疾走するのは少しだけはらはらする。彼が歩道の手前で立ち止まり待っていてくれるのを知っているから、あまり慌てずに、追いつける距離から眼だけで追いかける。その伸び縮みしながら切れることはない距離の快さについて考えている。

ベルリンに移住してちょうど二年が過ぎ、良くも悪くも、いろいろなことを手放したり、見送ることが多くなった。もうまる一年も仕事場が見つけられず、作品も売れずいよいよアルバイトでも、という状況で受け入れが決まったイヴァスキュラ(Jyväskylä)での滞在制作プログラムは、数週間の短い時間ではあったがここ三年の暮らしを振り返る静けさを与えてくれた。

十月下旬、朝夕の冷え込みが厳しくなり、しんと静まり返ったサイマーの湖水を渡り、9,000年もそこにあるという、アストゥヴァンサルミ(Astuvansalmi)の人の顔をした自然岩祭壇をたった一人で見つめていると、何かに見られているようなぼんやりとした感覚があった。高さ10mほどになる岩の、手の届く高さには、ベンガラに動物の脂肪と野鳥の卵を混ぜた顔料で、ヘラジカやカヌー、角の生えた不思議な人物像などが描かれている。それらの岩絵は花崗岩からゆっくりと染み出すケイ素にコーティングされ数千年の風雪を耐えてそこにあった。中でも手形はまるでつい先ほど岩肌に押し付けられたような生々しい気配があり、わずかな体温さえ残っていそうだった。

一万年前、氷河期の終わり、フィノスカンディア地方を覆う厚さ1kmの氷床が溶け出し、溶けながら氷河となって地表の全てを削り取り、やがて海中から、氷の重みから解放された二十億年の岩盤が浮かび上がった。その新しい無機質な地表にはじめて繁茂したのは地衣類だったが、はじめてこの地に辿り着いた地衣たちの一部は、北部フィンランドで、8,000歳を数えてなおまだ生きつづけている。

アストヴァンサルミの対岸にカヤックを引きあげ、踏み締める表土のやわらかさにはっとする。岩肌に数センチほどだけ堆積した土壌は地衣類と苔類がモザイク状に絡みあってできたもので、一群のクロサカズキシメジが、その小さな王国のあるじ然とした顔で咲き誇っていた。フィンランドには人や木々、虫や魚たちに、汀に佇む者の敬虔さがある、と思った。

花崗岩と長く暗い冬の新天地で、わたしたちはみな、たったいま辿りついたばかりだ。生きのびるための技法(アート)が決して強さだけでなく、折り合いをつけながらブリコラージュし、それなくては生きていけない元素を外界から、肌の限りない無防備さによって手にいれるわざであることを、地衣たちは知っている。

Life is easy here(ここで生きるのは簡単)──ラタモ版画写真センターのアンナレーナが、スモークサウナの暗がりで眼を細めながら、屈託ない笑顔を浮かべて言う。

世界への追いつけなさを見送らず、ときに凍てつく冬の眠りに守られながら生きのびること。一年でもっとも暗く、窓辺に飾るヤドリギの鶸(ひわ)色に隠された春の兆しを求める日が近づく。

パレスチナから愛を込めて

さとうまき

実は来月に手術をすることになった。その昔、バリウムを飲んで胃の検査をしたら突起物が胃にできていた。あ、これはがんかもしれない。死ぬ前にやりたいことをやった方がいいと大袈裟に考えた僕は会社を辞めてパレスチナで暮らすことにした。それが1996年のこと。

と言うのも当時の胃カメラは、ふっとくって、これを自力でごっくんと飲み込まねばならぬ。もう死ぬ。と言う思いをして、細胞検査は、悪性ではなかったのだが、経過観察のために毎年カメラ飲みましょうと言われ、もう死ぬ。と思ったのだ。それで2019年まで放置しておいて流石にそろそろやらねばと思い切って鼻から入れるやつをやって見たら意外と楽だった。「20年以上、放置してあなたは生きてるわけですから、結果的に悪性ではなかったということです。経過観察しましょう」ただ、鼻から入れるのも嫌なものである。気づくと6年経っていた。

この歳になると高血圧の薬を飲んで、最近では睡眠時無呼吸症候群の為の治療もしているのだが、最近吐き気がする。と相談したら 「それは、大変。すぐにカメラを飲みましょう。」と言うことになった。しかし「うちでは鼻はやってません。口からです。口がいやならよそでやってください。さあ、うちでやるか、やらないか」と言う。医者の圧には逆らえない。渋々検査を受けた。それが、嘘の様に楽だった。すっと入って、あれ?という間に終わってしまった。自分の弱みを克服し、何か突破した様な喜びに湧き立つ。僕は勝ったのだ、人生の勝ち組に仲間入りだ。しかし、腫瘍は思いの外、成長していた。医者は、切りましょうと、やるきまんまんだ。この圧には逆らえず、成り行きで切ることになった。

さらにレベルアップした突破感に僕は酔いしれる事ができる。自己啓発セミナーってこんな感じか? とはいえ大袈裟に考える僕は死ぬ前にやりたいことをやっておこうと旅に出ることにした。一箇所行きたいところを思い浮かべた。

そして選んだ地はパレスチナだった。ん?なんだかこれは原点に戻って来た感じがする。しかし、パレスチナとイスラエルは、ご存知の様にややこしい状況になっている。パレスチナに行くためにはイスラエルに入国しなければならない。占領地パレスチナにはまだ外交権がないのだ。ともかく僕のちっぽけなスーツケースには、睡眠時無呼吸症候群の治療の器具そして血圧計、常備薬が占めることになった。こんなもの持ち歩く旅も初めてだ。医者は手術前のデータを欲しがるのでこんなへんてこりんな荷物を持ち歩いての旅になってしまった。

とりあえず、無事にイスラエルに入国。さあこれからどうする? 成り行き任せの旅が始まった。

4日目。門に花が生けてない

イリナ・グリゴレ

東京で生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて青森に戻ってから、もうすぐ10年が経つ。この10年間の苦悩を、同じタイムラインで共に暮らした女性たち、植物、りんご、魚、山菜、キノコ、虫に救われたことは間違いない。でも、実はもうひとつ、とても大切なものがあった。外から「あの人、なんて豊かな環境で暮らしているんだろう」と思われても、本人は誰にも言えず、誰にも知られず、潰れそうな苦しみを抱えていることが多い。人間だから。どこに住んでいようと、みんなギリギリのところで潰されずに生きているに違いない。そして、潰されてもおかしくないその瞬間こそ、たいていごく小さな出来事からまた生きる力を拾う。道に落ちたぬいぐるみ、誰かがなくしたのか忘れたのか、可愛いものを踏みそうになった瞬間に、呪術のように力が湧いてくる。

昔から私は、道に落ちた忘れ物や誰かの大切そうだったものを見ると、なぜか幸せな気持ちになる。どんなに落ち込んでいても、それは聖霊たちが私にくれた贈り物だと信じて、ときには拾ってしまう。この前も、白いウサギの欠片と、透明な妖精のプラスチックの羽を見つけて大喜びした。大金でも当たったかのようにはしゃいで、大事にしまっておいたけれど、小さなものを失くすのが得意な私は、たいていどこにしまったか忘れてしまう。それでも「宝物はたくさん持っている」と胸を張って言える。

そんな小さな喜びが、この10年間、もうひとつあった。今住んでいるところが弘前城の近くということもあり、江戸時代からの日本家屋が少し残っている。毎日必ず通り過ぎる古い家の門に、生花が生けてある家がある。花が大好きな私は、また道で小さなオブジェを拾うときと同じように、あの花は自分のために生けてくれているのではないかと錯覚してしまう。特に辛いときは、そう思いたくなる。それはとても幸せなことだと思う。季節の花、庭の花、黒い門に光る。きっとあの花を見て喜んでいるのは私だけじゃない。10年間、毎日のように私はあの花に支えられてきた。車で通り過ぎる一瞬、目を向けるだけで、時間と世界が再構築されるような気がした。

ところが、ここ4日間、同じ道を通っても、花がない。道を間違えたのかと思うほどだ。これまでの反復が途切れた瞬間、『羅生門』の大きな黒い門から鮮やかな花が消えて、ブラックホールだけがぽっかり口を開けているような感覚になる。ピンク、赤、白、黄色の花があったからこそ、今まであの門の黒がどれほど深い黒だったか気づかなかった。花がないとき、あの黒は真っ黒で、目が痛くなるほどで、穴に見える。そこから星ひとつない宇宙に落ちていくのではないかと、思わず車の速度を落とし、口を開けたまま見つめてしまう。1日目に見たとき、思い出した。以前も、たまにそんなことがあった。花を入れ替えるタイミングに通りかかっただけで、朝はなかったのに昼過ぎには新しい花が飾られていた。でも、2日以上続いたことはなかった。

ところが今は4日目。毎日あったものがなくなって、感じていた喜びが消えたわけではないのに、どう反応していいかわからない。こういうときの私が危ない。あの花と一緒に、私も消えたくなる。あの花は祈りのような、繊細な贈り物だったのに、誰かに奪われたのだろうか。返してほしい。誰か、あの花を盗んだのだろうか。そうだ、わかる。盗んだ人が。嘘をつく人。暴力を振るう人。私の苦しみをわかっていても助けてくれない人。今の世の中、そんな人がたくさんいる気がする。花を見て、自分より美しいと嫉妬し、恨み、汚い手を伸ばしてぐちゃぐちゃに握り潰し、足で踏みつけて、川に捨てる。誰にもあの美しい花を見てほしくないから。突然、友人が高校生のときにビルから飛び降りた人の遺体を見た瞬間を思い出した。私が見たように。頭の中で、そのとき近くの川にたくさんの花が流れていく。誰が捨てたのだろう。花を見るのも嫌な世の中になってきたのか。

先日、10年以上ぶりに文楽を見た。人より生きているように見える小さな人形が、足がついているのにいつも浮いているのが私とあまり変わらないきがした。最初は『義経千本桜』の鮮やかな桜の場面に、酒でも飲んだかのように酔った。文楽の繊細な世界に再び呑み込まれて、狐が出たとき、私は完全に狐憑きになった。あの狐は、誰よりも生きているように見えた。

次の『新版歌祭文』――1710年に大阪の野村で起きた事件を元にした恋の話で、巻き込まれた二人が自殺する――は昼の部だったせいか、この日は自殺せずに済んだ。船のおじさんの笑いでおわった。私の心を、一本の本物の大根と、ちょうど咲き始めた梅が奪ってくれた。文楽のいいところは、一人の人間に負担が集中しないこと。人形を動かすには三人、声を出す人も別にいる。できれば、疲れている私の身体も、声を出す人を別に用意してほしい。人形と同じで、私を生かすのにあと三人いても大丈夫な気がする。せめて、私を生かしてくれた門の花を、もう一度だれか生けてほしい。このデリケートな世界がどこかに消えた?

野の装い

笠間直穂子

 暖かい季節に、庭に出て、草木や野菜の様子を見てまわるとき、たとえ暑くても、虫さされや直射日光を避けるため、素肌を晒さないようにする。これは田畑や野山に出入りするひとにとって、ごく当たり前のことだが、わたしのように、主に室内で仕事をしていて、少しの時間だけ外に出る生活だと、そのたびに長袖に着替えるのは億劫に感じてしまう。それで、Tシャツの上に長袖シャツなどを羽織るわけだけれど、そうすると腕まわりや裾がもたつく上、動いているうちに背中や首元の肌が露出し、かといって土をさわっている最中は直すこともできず、たちまち蚊に刺される。

 去年、ジャンプスーツを買おう、と決めた。一着で全身をおおう、綿帆布でできた、いわゆるツナギだ。決めたのはそのときだが、突然思いついたことではない。庭のある家に引っ越してくるよりもずっと前から、着てみたいと思っていた。

 数年前まで、十九世紀フランスの諷刺新聞を読む小さな研究会に出席するため、いまは亡くなったM先生の、東京西郊の私鉄沿線にある自宅へ、二か月に一度ほど通っていた。あるとき、早めに駅に着いたので、近くにある美術大学のキャンパスを覗いてみることにした。構内に売店を見つけて入ると、ツナギが並んでいる。黒や青に加えて、ピンクや紫といった目立つ色のものもあって、楽しい。そういえば、友人知人に連れられて、いくつかの美術大学を訪れたことがあるけれど、学内で思い思いの色のツナギを着て制作する学生たちを見かけた気がする。いいな、と思った。

 だから、夏の庭仕事に、ツナギを着ようと思ったとき、わたしは作業服の専門店ではなく、画材屋に行った。鮮やかな色のものは、ちょうど廃番になったらしく、あまり残っていなかったけれど、素材とデザインはあのときに見たのと変わらない。青と、灰色を買った。嬉しかった。

 着てみると、思った以上に快適だ。家のなかでは綿パンツのように穿いて両袖を腰のところで結んでおく。家事や事務作業がひと段落して、バラの花柄を摘まなくては、とか、ミニトマトを収穫しよう、などと思いたったら、袖を通す。上着を取りに行く手間もなく、すぐに出られる。上半身と下半身が一体になっているから、すっきりと動きやすく、いくら動いても、よれたりめくれたりしないし、生地に厚みがあるので、汗で肌に貼りつくこともない。それに、胴まわりが締めつけられず、腹部に空気が通るため、ベルトの位置で留める服よりも、涼しく感じる。作業服として優秀であることがよくわかった。

 美術作品制作の作業着としてのジャンプスーツが頭に残っていたのは、芸術専攻の学生たちが一翼を担ったニュー・ウェイヴ周辺の音楽文化を連想したせいでもあっただろう。ジャンプスーツが似合う、または、似合いそうな、ミュージシャンたち。そういえば、わたしが高校時代にはじめてトーキング・ヘッズを聴いたのは、美術部の先輩が貸してくれたデビューアルバムのカセットテープだった。

 つまり、わたしは、実用面での利点以前に、単純に、かっこいい、と思って、ジャンプスーツを着ることにした。これは、肝心なことだと思う。便利だからやむをえず、ではなく、装いの一種として、着たいから着ている。そう思えるものを身につければ、自然と体は動く。

     *

 働くことと装うことの関係、といえば、小野塚秋良の仕事が思い出される。一貫して労働着を活動の基本に置いてきた、稀有な服飾デザイナーだ。三宅一生に附いてパリコレクションに来ていたころから、現地の有名ブティックのショーウィンドウに飾られた服よりも、そのウィンドウを拭く清掃員の作業着に目が行く。こちらのほうがかっこいい、と感じる気持ちを軸に、自分のスタイルを練りあげていった。

 一九八八年に自身のブランド、ズッカをはじめた六年後には、当の作業着をつくるボルドーの工場に掛け合い、その工場で生産する日常着のシリーズ、ズッカ・トラバイユを立ちあげる。労賃の安い国外へ生産拠点が移されていった時代のフランス国内の縫製工場、それも恰好悪いと見なされて着られなくなりつつあった労働着のメーカーの経営状況を考えるなら、彼の提案は、そこで働く労働者の雇用維持にもつながったものと想像できる。

 他方、彼はズッカと平行して、飲食店などの従業員が着用するユニフォームのブランド、ハクイのデザインに携わり、前者を退いたいまも、後者の仕事はつづけている。毎年、十型ほどの新作を発表するが、ユニフォームは同じものをいつでも補充できることが肝要だから、過去の製品も在庫を残し、早く売り切ることはしない。毎シーズンのコレクションに追われ、その場かぎりの服を大量につくりつづける一般的なアパレル業界とは対照的なシステムだ。

 こうして彼は、単に労働着のデザインを形だけ採り入れる、というのではなく、労働の現場に直結する服づくりを実践してきた。その実践は、そのまま、ファッション業界に対する批判ともなる。

 二十年以上前になるだろうか、どこで読んだのか思い出せないのだけれど、ズッカを率いていた当時の彼が、中央アジアへの旅行について語っていた。きらびやかな世界になじまない自分がファッションの仕事をしていることに悩み、気分を変えようと広大な草原を訪れたとき、遊牧民の女性がたっぷりした衣装と重たげな装飾品を身にまとって、目いっぱい力仕事をするのを見て、そうだ、これでいいんだと思った、それで視界が開けた、というような話だった。

 これを読んだわたしは、身なりに気を遣うことと、汗水垂らして働くことは、どちらかというと相容れない、といった思いなしが、自分にもある、と気づいた。どうせ汚すなら、きれいにしても仕方がない、というような。でも考えてみれば、彼の言うとおり、世界各地の衣装には、色鮮やかだったり、たくさんの布地や飾りを重ねたりするものがいくらもあって、そういう装いで体を動かす人々の映像を、わたし自身、あちこちで見た記憶がある。そのような衣装が、習慣やしきたりにしたがっただけものであって、流行や個性は関係ない、と決めつけるのは、偏見にすぎないだろう。美しさの基準や、華美の程度に違いはあれど、ひとはおしゃれをして、力をふるう。

 なにも遠い地域のことにかぎらない。乗馬ズボン姿がびしりと決まった鳶職に出会うことがあるけれども、そのズボンは無論、機能性のみによってそういうデザインになっているわけではない。ニッカーボッカーが日本で土木工事の作業着となるにいたった服飾史と、装うことをめぐる着用者の個人史が、その「着こなし」に現れる。

 極限の力仕事である炭鉱での採炭労働に従事する女性たちもまた、着飾った。森崎和江が『まっくら』で話を聞く元女抗夫の一人は、戦前、若い娘は休日に髪結いに行って日本髪を結い、髪が汚れるのもかまわず鬢も前髪も出して「上だけちょこんとタオルをかむります。しゃれとったのです」と言う。別の一人も、若い女は後ろをちょっと長くした短い腰巻きを穿き、「坑内へ入るのにおしゃれして、紅化粧して手拭いかぶって」、赤や青の玉のついたかんざしに、絣の上からきりりと巻いた白い晒、近所の農婦たちに見世物みたいだと揶揄されるほど「いきな恰好して行きよった」と語る。とはいえ、坑内では暑いので脱ぎ、「まっくろになってかえりは着物かたげてすたすたかえる。腰巻きも暑いいうてタオルをくるっとまいたなりの女もいたりしてね」。

 読み返していて気づくのだが、本書では、語り手の一人ならずが、働かない今日の女性を批判するのに、着飾ってばかりいて、という言い方をする。先に引いた女性などは、「いまの女性」について「虚栄はることにばかり負けん気出して紅化粧しての」と評しておいて、その少しあとに、自分たちが「紅化粧して」坑内へおりたことを誇りをもって話す。化粧ばかりして仕事をしないこと、の反対は、化粧せずに仕事をすること、ではないのだ。

 装うことは、働かないことの象徴にもなり、働くための勢いづけにもなる。社会秩序への隷従にもなれば、ぎりぎりの自由の表現にもなる。階級間の断絶も示せば、連続性も示す……。労働との関係を通じて、装いというものの、容易には解き明かせない複雑な意味合いが、ぼんやりと浮かびあがってくるようだ。

     *

 秩父鉄道を皆野駅で降りて歩いていると、小さな書店があった。入ってみると、雑誌が中心で、店主はわたしとそう変わらない年ごろのようだが、棚を眺めるうちに、先代が八〇年代に仕入れたとおぼしい単行本の並ぶ一画に目が留まった。四十年前の秩父の本屋が、忽然と目の前に現れたかのようだ。埼玉の民話集、一揆に関する歴史の研究書、などに交ざって差してあった、井上光三郎『機織唄の女たち 聞き書き秩父銘仙史』を手に取る。すでにもっている『写真集 秩父機織唄』の著者だが、この本ははじめて見た。東書選書、一九八〇年刊。とうに絶版の本を、新刊として定価で買い、帰りの電車でひらく。じきに引きこまれて、家へ帰ってからも読みふけった。

 明治の終わりごろから戦前にかけて絹織物の一大産地であった秩父に一九二五年に生まれ、自らも機屋で働いたことのある著者が、かつて機織りにいそしんだ老女たちを訪ね歩き、彼女たちの語りに、作業中歌われた機織唄の数々、機屋の証文や出納帳のような史料、業界の盛衰を示すデータ、著者の撮影した写真などを織り交ぜて、当時の機織女たちの生活を陰影豊かに描き出す。

 秩父では江戸時代から、農家で機織りがおこなわれ、自家用の布を織ったり、機屋の委託を受けて売り物を織ったりしていた。高機(たかはた)の発明を機に近代的な織物生産がはじまると、機屋は農家への委託生産と平行して、工場に住みこむ年季奉公の機織女として農家の子女を雇うようになる。このころの秩父の銘仙は、主に縞模様の丈夫な普段着、「秩父鬼太織(おにぶとり)」で、今日知られる華やかな柄のほぐし銘仙が大流行するのは、昭和に入ってからだ。

 家で働いた女性と、工場に住みこんで働いた女性がいるわけだが、両者を截然と分けられるわけではない。元々実家で機織りをしていて、その後工場へ行った者もいるし、機を織る家に嫁いでからはじめて姑に習って覚えた者もいる。機織りよりも糸引きが盛んな村では、農家から近くの共同製糸場へ住みこむ。女性たちの多様な境涯を通して、秩父地方の織物産業の輪郭が見えてくると同時に、ひとくくりにはできない機織りの女たち一人ひとりの肖像が、読む者の胸に残る。

 秩父地域内はもちろん、群馬や、ときには新潟からも、娘たちはやってきた。貧しい農家が口減らしとして子供を年季奉公へ出すのは予想されるとおりだが、農家に残った娘たちが、町の暮らしに憧れ、親の反対も聞かずに家を飛び出して女工になる例も多かったという。「年季に出た娘が、たまにけえってくるときゃ銘仙の着物や羽織だしさぁ。頭はワッカに結って丈長(たけなが)なんどつけたり、銀出油(ぎんだし)の匂いはプンプンするし、うらやましくって見ねぇようにしたもんだったいねぇ」(浅見アイノ)。その恰好は、物日(祝い事や祭りなどのある日)ならではの盛装なのだが、いつでも木綿の着物に藁草履の百姓の子の目には眩しい。親に急きたてられて家事と農作業に日々を送るなか、「息がつまるような毎日なんで、手に職つけてひとりだちがしたくって、はあ我慢ができなくって親の止めるんをふりきって飛び出してきちまったつぅわけです」(柿境ミヤ)。

 無論、来てみれば労働は過酷をきわめる。場合によっては十歳に満たないうちから、寝る間もなく働かねばならない。要領が悪ければ旦那に叱られ、逆に引き立てられれば仲間に妬まれる。夜中に逃げ出し、工場側の追っ手につかまって、その後病欠を繰り返すさまが逐一記録された、ある年季女工の「職工契約金・貸附金其他台帳」が生々しい。他方、脱落を免れて、必死に仕事を身につければ、だんだんと一人前の織り手になっていく。

 農村でも町でも、娘たちはいずれ、周囲に世話されて嫁ぐ。夫が酒飲みで働かない、あるいは働いても家に金を入れない、という話が、実に多い。女たちは相変わらず仕事に忙殺されながら、義父母に仕え、子を産み育てる。十一人産んで「四人はだめだったが七人だけはにん(成人)にしましたねぇ」(島田クマ)というひともいれば、若くして死んだわが子のことを切々と語るひともいる。柿境ミヤの娘チエコは、十六歳のとき、機織りの失敗を旦那に咎められ、線路に飛びこんで死んだ。井上イセの娘タケ乃は、高等小学校まで出たいと望んだが叶えられず、代わりに通った裁縫教室で抜群の才能を示し、ぜひにと請われて町の商家へ嫁いだものの、「野育ちなんで町の水に合なかったんだんべぇ。間もなく子を残して死んでしまったんさぁ」。

 「尋常もろくろく出ず、糸ひきと機織りに明け暮れた明治生まれの秩父の女たちは、どこへいっても、いつも寒く心細かったに違いない」——自らの母の面影をも重ねつつ、多くの老女を訪ね歩いた著者は哀惜をこめてそう述べる。地元の人間で、かつ機屋の仕事を熟知しているからこそ書けた、この敬慕に満ちた一冊によって、著者は「名もなき」女性たちの幾人かに、個別の顔と、名前と、声を回復させた。

 彼女たちの語りのあちこちに、装いの話が顔を出す。工場で糸を引くときの衣装は、黒沢志げ乃によれば「頭はハイカラ(庇髪)、袂の着物、広い帯、赤い襷、前かけ」。物日には「桃割れにするんが楽しみでタケナガつけてしっくらばねした(おどりあがってよろこんだ)もんでした」。

 ただ、自分が糸を引き、織りあげる絹織物は、他人の手へ渡っていく。高級なものは、自分は一生、身につけない。そのことを、何人かの女性が口にする。

「まぁ、長いことハタを織ったけれど、これがそうだと、銭を見せられたこともなくって終っちゃったねぇ……。手前(てめえ)の自由になったんなぁ、織りじめぇの銘仙ぎれぐれぇのもんだったねぇ」(井上イセ)

 美しい布、質のよい衣を、だれよりもよく知る、職人の手。その手にわずかに残る、しっとりと艶やかな銘仙の端切れをたぐる彼女を思う。はぎ合わせて小物でもつくったのだろうか。大事にしまっておいたのだろうか。

むもーままめ(53)図書館のバラのひと、の巻

工藤あかね

 園芸や農業の心得がある作曲家の知人は数名いるが、その中にばらを育てる名人がいる。かつてわが家でもばらを育ててみようと思い立ったことがあったが、水をあげすぎたか、日当たりが悪かったか、とにかくうまくいかなかった。ばらの名人にそんな話をしたかどうか記憶が定かではないのだが、ある本番のあとその方が自宅で育てているばらを持ってきてくださった。それはザンクトフローリアン修道院の、それも作曲家アントン・ブルックナーのばらの苗だとおっしゃる。これはこれは大切にせねばと、力を入れて育てたつもりだったが、だんだん苗から力がなくなり、とうとう枯れてしまった。
 
 そんな苦い経験があったので、貴重なばらをくださった作曲家に申し訳なくて仕方がなかった。ある時ふと、「あのばらどうしましたか?」と尋ねられたので、正直に話した。するとそれから数ヶ月後、立派に育ったブルックナーのばらをお贈りくださった。「これなら大丈夫だと思います」とおっしゃるので、「今度こそ花を咲かせて~~~!!」と祈る気持ちでいたのだが、家のベランダの方向が悪いのか、水のあげかたがへただったのか、どんどん元気がなくなっていってしまった。大切なばらが日に日に弱ってゆくのを、オロオロと見守るばかりだった。

 ばらを助けるにはどうしたら良いのか。マンション共用スペースに鉢ごと置かせてもらうか。近所の公園の植え込みに勝手に挿すか。中央分離帯の土に挿すか。最後に閃いたのは、図書館の植え込みである。よく利用する図書館の植え込みには、さまざまな種類の花が咲いていて、なかでもばらが色とりどりに花をつけているのも思い出したのだ。「あそこなら、ブルックナーのばらが助かるかもしれない」そう思ったわたしは、図書館の職員さんに無理を承知で話をつけにいった。

 「突然すみません。本とは関係ない不躾なご相談なのですが…」と切りだした。「わが家に弱ったばらがあるのですが、こちらの花壇でしたら助かるのではと思いまして。もちろん私が自分で水をあげに参りますが、こちらにばらを植えるのをお許しいただけないでしょうか?」

 わたしが話しかけた方は、まさしく図書館のばらに水をあげている人だった。「いいですよ、こちらで水もあげますので。いつも適当に水をあげているだけなので、お持ちいただいたばらが元気になるかどうかお約束できませんがよろしいですか」とおっしゃる。親切なお言葉に感激して差し入れのお菓子を買い、いったん帰宅するとすぐさまばらを抱えて再度図書館へいった。お菓子は固辞されてお渡しできなかったが、ばらは預かってもらえた。その後図書館へは頻繁に様子を見にいったが、わたしの期待に反してばらは立ち直る気力がすでに失われた後だったようにみえた。しばらくすると枝切りをしてもらっていたが、その起死回生のチャンスでも蘇ることはできなかった。

 ばらをくださった作曲家に「その後ばらはどうですか?」と聞かれた時の恥ずかしさと情けなさといったらなかった。図書館の職員さんにもお手数をかけてしまったし。だがその後、図書館に行くたびに、ばらの職員さんがいらっしゃるか探す癖がついた。先日お会いした際には、私の知りたい情報をリファレンスサービスで調査しておいてくださることになった。図書館のばらのひとは、おだやかで人当たりもやわらかだが、じつはおそろしく有能な方なのではないだろうか…。あと数日経ったら結果を伺いにまた図書館に行かなくては。

頑張れ、私。

植松眞人

 もう、何年この仕事をしているのだろう。頭のいい仕事だと思われているので、いろいろ聞かれることはあっても、こちらから質問することはあまりない。覚えることばかりうまくて、物事をつなげて筋道をつけることは得意ではない。それなのに、行政書士という仕事に辿り着き、書類と相談ごとに追われる毎日になってしまった。
 最初は少し大きめの行政書士事務所にいて、下働きのような仕事ばかりしていた。まだまだ男と女の働き方は明確に違っていて、下手に資格を持っていると、自律した女性だと持ち上げられて、うまく使われる時代だった。男女雇用機会均等法が施行されたのは、私が大学に入り、法律の勉強をし始めた頃。自分が世の中に出る頃には、仕事上の男女差別などすっかり解消されていると思っていたのが大きな間違いだった。
 最初の行政書士事務所は、地域でも古株の名物所長がいるところで、効率ばかり追い求め、扱いやすく筋道の決まった相談事にだけ特化していた。手間のかからない許認可申請や、決まった書式の相続書類を大量処理し、手数料のように依頼料を受け取る。こうしておけば、処理期間も読めるし、手に入る報酬もしっかりと読むことができる。
 そんな事務所にいたおかげで、突発的でややこしい案件は受けずに済んだが、学生時代に思い描いていた、世の中の役に立つ仕事をしているという感覚は早々に消え失せた。
 独立して自分の事務所を持ったのも、損益分岐点を把握して、ライフワークバランスをしっかりと考えられるようになったからだ。泥沼になりそうな相続トラブルからも、金銭に絡んだ揉め事からもうまく逃げおおせて、今は多いといえば、内容証明の作成や、軽度のハラスメント相談だ。ハラスメントに関しては、命に関わるようなややこしいものは避ける。できれば、「肩を触られた」「抱きつかれそうになった」という程度の軽いものを受ける。相談者のほうだって、多少自分にも落ち度があると思っている。それを「落ち度なんてない」と必死で言い聞かせ、「いいわね、あなたは被害者なの。内容証明に証拠なんていらない。あなたが嫌だった、と言えばそれが根拠になるのよ」と説得する。ひとまず状況をすべて話させて、相手に内容証明を送る。男はみんな弱い。妻子に知られたくない。会社に知られたくない。その一心で、書類が届けばすぐにでも謝ってくる。こうなれば後は、裁判にする必要もなく、やり取りの中で適当な落としどころを見つければいい。行政書士費用が手付金で二十万円、後は依頼者の女性に十万円でも二十万円でも支払われれば満足してくれる。
 今回もそんな軽い気持ちで内容証明を送り、いざとなったら追加の書類作成でもして、すぐにでも相手から連絡が来るだろうと踏んでいた。それなのになんだ、こいつは。書類を見ていなかったと電話連絡を入れてくるのはいいのだけれど、なぜ本人ではなく妻が電話してくるのだ。妻に知られたくない状況だからこそ折り合いがつきやすいのに。そして妻に知られた場合、相手は混乱しているから、解決金も引き上げやすくなる。
 それなのに、電話をしてきた妻と名乗る女は冷静で、しかも「何があっても平気ですから」と言い放った。平気ってどういうことですか、と聞くと、「そんなこと、夫がするはずない」と少し笑った声で言い、「こちらも専門家を立てて対応させていただきます」と電話を切った。
 腹が立って仕方がない。相手の言っていることに、なにか驚くような事実があったわけではない。ただ、思った通りにいかないことに腹が立って仕方がない。私は鼻が低い。しかも童顔だ。この仕事を始めて三十年近く。五十代の半ばを過ぎているのに、いまだに子どものように見えることがある。若い頃は、それで男たちに可愛がられたりもしたが、仕事柄、眉間に皺が入り、いまでは童顔に人生を感じさせる老化が色濃く反映して、滑稽なだけの女になりさがってしまっている。それなのに、細身のパンツが好きで、つい安物のスキニーパンツばかり履いてしまう。半年くらい前、合同庁舎の廊下を歩いていると、待ち合わせをしていた依頼者風の男たちがベンチに座り、こちらを見ながら「色気婆じゃねえか」と呟いたのを聞き逃さなかった。抗議してやろうかと思ったが邪魔くさくて、聞こえないふりをした。
 嫌な予感がする。軽度のハラスメント相談で、本人ではなく妻から電話が来たことなどいままでにない。さらに、相談者の女性は、話す度に内容が微妙に違い、そこを詳しく聞こうとするとすぐに泣き出す。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。頑張れ、私。内容証明だけで片が付くような、こんな簡単な案件で失敗するわけにはいかないのよ。頑張れ、私。がたがた言うような男なら、どんどん後出しジャンケンで、話を大きくしてやればいいのよ。ああ、それにしても、あの妻の声のふてぶてしさはなんだろう。もしかしたら、本当になにもなかったんじゃないのか。あのすぐに泣く女は、私が言う通りにうなずいているだけなんじゃないのか。頑張れ、私。頑張れ、私。私以外の誰も頑張るな。言うことを聞け。黙って内容証明を受け取って、黙って折れれば良い。頑張れ、私。(了)
 もう、何年この仕事をしているのだろう。頭のいい仕事だと思われているので、いろいろ聞かれることはあっても、こちらから質問することはあまりない。覚えることばかりうまくて、物事をつなげて筋道をつけることは得意ではない。それなのに、行政書士という仕事に辿り着き、書類と相談ごとに追われる毎日になってしまった。
 最初は少し大きめの行政書士事務所にいて、下働きのような仕事ばかりしていた。まだまだ男と女の働き方は明確に違っていて、下手に資格を持っていると、自律した女性だと持ち上げられて、うまく使われる時代だった。男女雇用機会均等法が施行されたのは、私が大学に入り、法律の勉強をし始めた頃。自分が世の中に出る頃には、仕事上の男女差別などすっかり解消されていると思っていたのが大きな間違いだった。
 最初の行政書士事務所は、地域でも古株の名物所長がいるところで、効率ばかり追い求め、扱いやすく筋道の決まった相談事にだけ特化していた。手間のかからない許認可申請や、決まった書式の相続書類を大量処理し、手数料のように依頼料を受け取る。こうしておけば、処理期間も読めるし、手に入る報酬もしっかりと読むことができる。
 そんな事務所にいたおかげで、突発的でややこしい案件は受けずに済んだが、学生時代に思い描いていた、世の中の役に立つ仕事をしているという感覚は早々に消え失せた。
 独立して自分の事務所を持ったのも、損益分岐点を把握して、ライフワークバランスをしっかりと考えられるようになったからだ。泥沼になりそうな相続トラブルからも、金銭に絡んだ揉め事からもうまく逃げおおせて、今は多いといえば、内容証明の作成や、軽度のハラスメント相談だ。ハラスメントに関しては、命に関わるようなややこしいものは避ける。できれば、「肩を触られた」「抱きつかれそうになった」という程度の軽いものを受ける。相談者のほうだって、多少自分にも落ち度があると思っている。それを「落ち度なんてない」と必死で言い聞かせ、「いいわね、あなたは被害者なの。内容証明に証拠なんていらない。あなたが嫌だった、と言えばそれが根拠になるのよ」と説得する。ひとまず状況をすべて話させて、相手に内容証明を送る。男はみんな弱い。妻子に知られたくない。会社に知られたくない。その一心で、書類が届けばすぐにでも謝ってくる。こうなれば後は、裁判にする必要もなく、やり取りの中で適当な落としどころを見つければいい。行政書士費用が手付金で二十万円、後は依頼者の女性に十万円でも二十万円でも支払われれば満足してくれる。
 今回もそんな軽い気持ちで内容証明を送り、いざとなったら追加の書類作成でもして、すぐにでも相手から連絡が来るだろうと踏んでいた。それなのになんだ、こいつは。書類を見ていなかったと電話連絡を入れてくるのはいいのだけれど、なぜ本人ではなく妻が電話してくるのだ。妻に知られたくない状況だからこそ折り合いがつきやすいのに。そして妻に知られた場合、相手は混乱しているから、解決金も引き上げやすくなる。
 それなのに、電話をしてきた妻と名乗る女は冷静で、しかも「何があっても平気ですから」と言い放った。平気ってどういうことですか、と聞くと、「そんなこと、夫がするはずない」と少し笑った声で言い、「こちらも専門家を立てて対応させていただきます」と電話を切った。
 腹が立って仕方がない。相手の言っていることに、なにか驚くような事実があったわけではない。ただ、思った通りにいかないことに腹が立って仕方がない。私は鼻が低い。しかも童顔だ。この仕事を始めて三十年近く。五十代の半ばを過ぎているのに、いまだに子どものように見えることがある。若い頃は、それで男たちに可愛がられたりもしたが、仕事柄、眉間に皺が入り、いまでは童顔に人生を感じさせる老化が色濃く反映して、滑稽なだけの女になりさがってしまっている。それなのに、細身のパンツが好きで、つい安物のスキニーパンツばかり履いてしまう。半年くらい前、合同庁舎の廊下を歩いていると、待ち合わせをしていた依頼者風の男たちがベンチに座り、こちらを見ながら「色気婆じゃねえか」と呟いたのを聞き逃さなかった。抗議してやろうかと思ったが邪魔くさくて、聞こえないふりをした。
 嫌な予感がする。軽度のハラスメント相談で、本人ではなく妻から電話が来たことなどいままでにない。さらに、相談者の女性は、話す度に内容が微妙に違い、そこを詳しく聞こうとするとすぐに泣き出す。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。頑張れ、私。内容証明だけで片が付くような、こんな簡単な案件で失敗するわけにはいかないのよ。頑張れ、私。がたがた言うような男なら、どんどん後出しジャンケンで、話を大きくしてやればいいのよ。ああ、それにしても、あの妻の声のふてぶてしさはなんだろう。もしかしたら、本当になにもなかったんじゃないのか。あのすぐに泣く女は、私が言う通りにうなずいているだけなんじゃないのか。頑張れ、私。頑張れ、私。私以外の誰も頑張るな。言うことを聞け。黙って内容証明を受け取って、黙って折れれば良い。頑張れ、私。(了)

煙について

芦川和樹

※煙突
を、掃除するひと(暗いひとでいつづける
穴を覗く、穴に種類があって、ストーブ

ストーブ

ストーヴ
は、芽をだした七面鳥に水をやるために
午前の日の、日のでるまえのダーク・
日のでるまえのダーク・タイムに相談し
                 て
  じ  汚  顔  汚  テ  い
  ゃ  れ  が  す  レ  る
  あ  で  顔  、  ビ
  回     で  よ  を
  覧     は  ご
  は     な  す
  、     く
  叶     て
  い
  ま     て、さすルイボスティー
  せ  冷めた紅茶を目薬といっ  目
  ん か。叶うばあいは、冷めた  に
            
インターヴァルを季節で数える  を薬目
煙突を烟突とかいて、もう少し燃  すさ
えているつもりでいれば玄関にス
リッパが、ふさふさ犬がいる。はごろもを
そだてる
あかるいと 目がつらい
すすす、すすす、すす、す
ドロップを買ってくるんだった
それは目とは関係のないことです


袋、ふくろ。屋根にのぼっていく
たましいみたいね
十二こで一生の
踏んだガムと嚙んだガムの結晶

※※煙突、烟突
(暗さがよくなってきて、さ
陽気でいつづけるひとでいつづける
毛糸の学校

いらち

篠原恒木

どうやらおれは「せっかち」、関西弁で言うと「いらち」らしい。「ふらち」と言われたことはないので、まだマシかとは思うが、ヒトから見ると、おれはとにかくせかせかして落ち着きがないとのことだ。そうかもしれない。その自覚もじゅうぶんにある。

仕事には締め切りがある。だが、おれはその締め切りの数日前には入稿を終えていた。締め切りギリギリ、あるいは締め切り日を過ぎて印刷所に原稿を送っている奴の気が知れなかった。
「印刷所もサバを読んでいるから大丈夫ですよ」
とみんなはホザくが、おれは嫌だ。早め早めに進行して、必ず入稿締め切りは守りたい。
ところが印刷所がグズグズしていて、ゲラがなかなか出てこない。あんなに早めに入稿したのに、この仕打ちは理不尽ではないか。おれは一人でイライラしていた。

ヒトと待ち合わせをするときも、大抵は十五分ほど早めに着いてしまう。相手はなかなか来ない。当たり前だが結局は十五分待つことになる。おれは一人でイライラしている。
しかしそんなおれでも、さまざまな事情で定刻を二、三分過ぎて到着することがある。つまりは遅刻だ。このようなときは待ち合わせ場所に向かっているときも気が気ではない。
「電車よ、もっとスピードを上げなさい」
と、車内で足踏みをしている。駅に着いたら猛ダッシュだ。そんな努力の甲斐もなく二、三分遅刻すると、犯罪者のような気分になる。おれは額に汗を浮かべながら、待ち合わせた相手に土下座級の謝罪を繰り返す。

「後日、結論を出します」
と言われると、イラッとしていた。なぜこんな簡単なことをいま決められないのだろう。どうせひと晩寝かせたところで、おまえは一歩カイシャを出れば結論を出すための検討などすっかり忘れて、家に帰っておじや食って、すかしっ屁して寝るだけだろう。いま決めろよ、いますぐこの場で決めろ、おとなしく言っているうちに決めろ、と思ってしまう。
外部のヒトと打ち合わせをしていて、相手が、
「いったんお預かりして、社に戻って検討させていただいてからお返事させていただきます」
などと言うと、おれはすかさず応える。
「あー、すみません。ウチはテイク・アウトやってないんで」
おれは一人でイライラしていた。

「たまにはのんびりと温泉に行きたい」
かつてはそう考えたこともあるのだが、温泉地へ行って風呂に浸かっても、入るや否や早口で一から百まで数えて、そそくさと湯船から出てしまうオノレに気付いた。つまらん。実につまらん。のんびりなんてとてもできない。おれは一人でイライラしている。

展覧会へ行っても、ひとつひとつの作品をじっくり鑑賞することはない。「お、これは」とピンときたものをところどころで数十秒観て、あとはヒョイヒョイとチラ見しながらすぐ出てきてしまう。「大回顧展」などと言われても、実際はそんなものではないだろうか。小一時間もあればじゅうぶんだ。
それで思い出した。かつて「春画展」というものに行ったときには参った。気になった絵の前で立ち止まり、しばし鑑賞していると、おれのすぐ後ろにおじいさんがピッタリとつき、
「おお、おお」
と言いながら、荒い鼻息をおれの首筋にかけてくるではないか。おじいさんよ、そのトシで安易にコーフンしてはいけない。心筋梗塞で倒れるぞ。おれは一目散に退散して、おじいさんの様子を遠くから窺ったが、ずっとその絵の前で立ち尽くしていた。おそらく閉館時刻まであのままの状態でいたのではないだろうか。

映画館も許せない。定刻通りに席についても、延々と「マナーのご注意」やら数本の「近日公開の予告」やら「映画泥棒」やらに付き合わされて、お目当ての本編がなかなか始まらないではないか。おれは一人でイライラしている。

好きな落語家の独演会に行ってもそうだ。開口一番を務めるかたには申し訳ないが、
「おれが代わりに演ってやろうか」
と思ってしまうような腕前の前座が延々と噺を続けると、おれは一人でイライラしている。『饅頭怖い』なんてその気になれば一分もあれば演れるはずだ。

朝のテレビのニュース・ワイド・ショーもよくない。番組が始まったらすぐにその日のトップ・ニュースを報じればいいのに、
「まずは動物園で先週産まれた虎の赤ちゃんをご紹介します」
などと言って、どうでもいい映像を見せられた挙句、メインの司会者がゲスト・コメンテーターに話を振る。
「可愛いですねぇ。どうですか」
「可愛いですねぇ」
アホか。もう出かけなければいけない時刻だ。おれは一人でイライラしている。

懐石料理も苦手だ。ゆっくりゆっくりと一品ずつ小出しにするのがどうにも馴染めない。「いっぺんに持ってこい」と叫びたくなる。「鱧の湯引き・梅肉ソースを添えて」などと言って、お猪口のような小さな器に二切れ、三切れで出されると、おれはパクリとひと口で食べてしまう。ふと正面を見ると、連れの酒呑みはただでさえ小さい鱧を箸で二つに分けて、もったいなさそうに口に入れ、酒をチビリチビリと飲んでいる。おれは一人でイライラしている。

ゴルフも嫌だねぇ。あんなものは地面にあるタマを打てばいいだけの話だと思うのだが、同伴競技者のプレーが遅いと最悪だ。おれは素振りもせずにすぐショットする。あっという間だ。ところが同伴者はボールのそばで何回も素振りをして、ボールの後ろに回って打つ方向を確認し、アドレスに入ってからもワッグルを繰り返す。ようやく打つかと思えば、風が吹いてきたらしく、いったんアドレスをほどいて、ちょっとむしった草を宙に飛ばしたりなんかして風向きを再確認し、また素振りをしている。おれは毒づく。
「おまえはプロか」
ところがそんなに時間をかけて打ったボールは「チョロ」だったりするのだ。ボールはゴロで数ヤード先にしか移動していない。むなしい。どうせミス・ショットするのなら、さっさと打てばいいのに。大抵の努力は報われないのだ。
やっとグリーンに辿り着けば、今度はパットをキメようとしゃがんで芝目を丹念に読んでいる。カップの向こう側にまで行って、グリーンの傾斜を観察する。念のために断わっておくが、一打一万円の賭けゴルフをしているわけではない。
「そんなことしたって入るわけないだろ」
またもやおれは毒づくが、案の定、奴がさんざん時間をかけて打ったパットはアサッテの方向に転がっている。おれは一人でイライラしている。

麻雀も然り。長考してなかなか牌を切らない奴が上家に座っているとイライラする。おれはたまらず口に出して言う。
「早く切れよ」
「ごめん、ちょっと待って」
「将棋じゃねぇんだぞ」
「悩みどころなんだ」
そう言って、テキはなかなか切らない。切らないことにはおれがツモれない。おれが次にツモる牌は伏せられているわけだが、奴が時間をかけている間におれのツモる牌が変わってしまうような気分になってくる。
「オマエさぁ、次に何を切るかくらい一巡している間に考えておけよ」
おれはたまらずそう言う。
「難しいところなんだ」
「アタマが悪いだけだろうが」
そして喧嘩になる。おれは至極真っ当なコトを言っているだけなのになぁ。

一時間も二時間も行列してラーメンを食う奴の了見を疑う。ラーメンは大好物だが、並ぶのはまっぴらごめんである。

それで思い出した。先日、西銀座を歩いていたら「宝くじチャンスセンター」に長蛇の列が出来ていた。年末ジャンボで当選金は最大十億円らしい。1番売場は二百メートル以上の行列だ。「億の細道」と呼ばれているらしい。うまいね、どうも。窓口に到達するまで三時間ほどはかかるのではないか。当たるかどうか分からないのに、いや、ほとんどのヒトはあえなくハズレるのに、よく三時間も並べるなぁと思う。おれには無理だ。
いや、「三時間並べば確実に十億円当たります」であれば話は別だ。丸三日でも並ぶぞ。ブレてるなぁ。情けないなぁ。

死ぬときもすぐ死にたい。さっさと死にたい。あっという間に死にたい。長患いはイヤだ。死んだあとも通夜だの葬式だのは勘弁してほしい。さっさと焼いてほしい。おれはツマに言った。
「延命治療は拒否してくれ。通夜も葬式もしなくていい」
「当たり前でしょ。アンタごときに延命治療は必要ないし、通夜、葬儀をしたって誰も来ないもん」

おれはイライラというよりはイラッとしたので、さっさとこの原稿を終わりにする。

レーベルをたちあげる、たちあげてしまった 序

仲宗根浩

レーベルをたちあげ、七月にCDをリリースした。ことの始まりは、2024年3月に一恵先生宅でレコーディングを行うという。曲は二十五絃と十七絃のデュオ。その前に何度かセッションが行われていることは作曲者の杉山さんからメールで知っていたがレコーディングまではなしが進んでいることにちょっとおどろく。前の年に先生とお話したとき「押手ができないの、弾けない」と仰っていたのに、おいおいと。で、レコーディングに関して一恵先生にメールし、当日誰か楽器をセットしたりする方はいらっしゃいますか、とお伺いするといないということなので、日程がちょうどわたしの休みだったので私がやります交通費など一切心配なさらなぬよう、わたしも今はそれなにりの蓄えはあります、当日杉山さん、録音の櫻井さんにもお会いしたいのでと返信し裏方道具を持ち伺うとその日は先生の体調がすぐれずお流れとなり、二十五絃奏者の佐藤さんと杉山さん、櫻井さん、録音助手のボンちゃんさんといろいろ食べながらおしゃべりし解散、で次回は5月にということになり、その時わたしは休みが取れてお手伝いできるかどうかまだ分からずそのまま島へと帰る。帰るとこちらはこちらで前々から決まっていた実家の引っ越しの準備をやりつつ、5月に向けて休みや日程の調整をしていると、引っ越しと録音の日程が微妙に重なっている状態をなんとかし、録音当日に向け連絡係をいつの間にかしつつ、東京便の確保、寝る場所を決めて当日にそなえるだけとなる。

教育の名言(2)

増井淳

教育は、生まれた子を、天分がそこなわれないように育て上げるのが限度であって、それ以上によくすることはできない。これに反して、悪くするほうならいくらでもできる。だから教育は恐ろしいのである。 岡潔
(岡潔『岡潔 数学を志す人に』平凡社)

岡潔は数学者。「馬を水辺につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざを思い出した。これはもとイギリスのことわざで、”You can lead a horse to water but you can’t make him drink.” つまり、「自分でやる気のない人はどんなに指導しようとしてもだめだ」というような意味。もうひとつ同じようなことわざもある。”Well’ said she, ‘one man can take a horse to water but a thousand can’t make him drink.” 「そう」彼女は言った。「人が馬を水のところに連れていくことはできる。しかし千回試みても馬に水を飲ませることはできない」(ウイリアム・E. ダイン 工藤恵子『なるほど英語のことわざ事典』PHP)。

  *

人を殺さない想像力が、教育の中心におかれるようにしたい。そこから、つねにあたらしく考えはじめたい。 鶴見俊輔 
(鶴見俊輔・高橋幸子『教育で想像力を殺すな』明治図書)

鶴見俊輔は哲学者。上の文章をより短くいえば「教育で人を殺すな」ということだろう。社会のすみずみまで学校や塾がゆきわたった現在でも、いまだに学校で子どもが傷つけられたり、殺されたりという事件が頻発している。ほとんどの動物は同種のあいだでは殺し合うことは稀である。人間だけが殺し合う、それも無差別に多くの人を殺すこともある。人間はもっとただの生き物としての人生について考えなおす必要があるのではないか?

  *

心理学の本を読んでいたら、生後三〜四ヵ月のころには、どんな人を見ても、どんな人に抱かれてもニコニコする、そういう時期があるのだそうだ。その時期のことを「無差別微笑期」と呼ぶとあった。思わず線を引いた。「無差別微笑期」かあ、いい言葉だなあ。 徳永進
(徳永進『野の花診療所前』講談社)

徳永進は医師。大きな病院で勤務後、がんにかぎらず、死と向き合う人のためにちいさな診療所(野の花診療所)を開く。そこには「できる限りの、生の希望の可能性を追うことと、人生を振り返り懐かしむことの、両方を成り立たせたい」という願いがあった。患者が「ドギ(魚)が食べたい」と言えば、自らその魚を探し歩くような人。また、若いころからハンセン病の人たちから聞き書きを採るなど、たくさんの著作がある。

  *

孤独は、深い喜びに満ちあふれたものでありえますし、いのちと暖みにふれて躍動しうるものだからです。希望を失い、孤立しているときよりは、むしろ、求めてひとりでいるときにこそ、人間は生きとし生けるものとより深い一体感をもつことができるのです。 エリーズ・ボールディング 松岡享子訳 エリーズ・ボールディング
(エリーズ・ボールディング著 松岡享子訳『子どもが孤独でいる時間』こぐま社)

『子どもが孤独でいる時間』の原題は”Children and Solitude”。エリーズ・ボールディングは社会学者であり、5人の子の母であり、クェーカー教徒。クェーカーはキリスト教の一宗派。クェーカー(「震える人」の意)は、この宗派の人々が神の霊を感じて打ち震えたところからつけられた呼び名。正式の名はフレンズ(Friends)といい、日本でも活動している。
 松岡享子は元東京子ども図書館理事長。学生の頃にクェーカーが主催するワークキャンプに参加、その後、アメリカ留学時に一度だけエリーズ・ボールディングに会い、その後、”Children and Solitude”を手にした。この本は「子どもにとっても、生活のどこかに「孤独でいる時間」をもつことが必要だ」と繰り返し説いている。

三島由紀夫

笠井瑞丈

今年は三島由紀夫生誕100周年
今生きていれば100歳なんだと
偶然だが市谷で自決したのが11月25日
笠井叡の誕生日も奇しくも11月25日同日
僕が初めて三島由紀夫の本に出会ったのは18歳の時だ
初めてのドイツの一人旅に出る荷物に『春の雪』を持って行った
あまり僕は本を読む人間ではなかったのだが
旅に行くし飛行機の中や電車の中時間はいくらでもある
たまには本を読もうと決意しこの一冊を持って行ったのだ
この旅の最中はいつもポケットに入れてどこにでも持って歩いた
僕は本を読むのがとても遅い方なので
暇があったらページを開き続きを読み進めた
市電に差し込む日差しの中
雨の匂いが残るカフェーの中
酒臭いおじさん達が騒ぐBarの中
草の匂いが心地よい公園の中
主人公の松枝清顕と自分を重ねてみたりした
主人公の松枝清顕も僕と同じ年の18歳ではじまる
あの時吸った空気は文章と共にカラダの景色に変わった
その体験は今考えてもとても大きな意味を持っている
それから数年後ダンスというものに出会う
自分の初めてのソロリサイタルに決めたタイトルが『春の雪』
次の日に降った大雪の景色が熱をもったカラダ冷やしてくれた
僕のダンスは三島の小説で始まった
今もきっと僕は小説の中に入ったままなのだ
きっとここから抜け出すことはないのだと思う
もう僕も三島由紀夫が自決した45歳を越えてしまった
どのような思いでそのような行動をしたのか
きっと本当の事は本人にしか分からない
今生きていればどのようにこの世界を見ていたのだろう
自決から55年の2025年11月25日
僕は父笠井叡と妻の上村なおかの三人で
生前三島由紀夫とも交流のあった澁澤龍彦邸で
新しい作品を踊った『三島由紀夫を踊る』
そこには数名の関係者が立ち会ってくれました
その中に僕の古い友人でもある土方巽の娘のガラちゃんも
久しぶりに駆けつけてくれた
三島由紀夫と澁澤龍彦と土方巽
三人の昔話が色々交差する中
今日ここで踊った事で
僕の中の三島由紀夫の新しいページをめくる事ができた

そして3年後が澁澤龍彦と土方巽の生誕100周年

未来はきっと明るいと信じたい
新しい世界はどんどん広がっていく

三島由紀夫生誕100周年
きっと三島由紀夫が作ろうとした
新しい神話がここから生まれるだろう

製本かい摘みましては(196)

四釜裕子

武蔵野美術大学図書館で「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展を見た。向井周太郎さん(1932-2024)は、2003年に同学を定年退職する際に自作の中から28点を選んでシルクスクリーンで再制作して(制作:STUDIO UDONGE 渡部広明、用紙:別漉 楮 平漉襖判和紙、漉元:株式会社五十嵐製紙)同学美術館・図書館に寄贈していたそうで、「向井周太郎コンクリートポエトリーアーカイヴ研究」(2021年度-2025年度)の研究成果発表の機会として企画された展示とのことだった。図書館1階左奥の巨大な扉の奥の展示室が会場で、その手前で、まずは椅子の作品《開=閉[または正=負]の空間椅子》が迎えてくれた。会場に入ると、大きな作品が壁面に端正に並んでいる。刷られた和紙のサイズはほとんどが90cm×90cm。例外的に長いものでも180cm×90cmで、例えば《大気ーはひふへほ》(1970-74)の説明には、〈当初180×90cm大の写真に引き伸ばし、パネル化してASA展に出品したので、その大きさを再現した〉とあった。

1点ずつ間近に見ていく。向井周太郎著『かたちの詩学』(美術出版社 2003)などでも見ていた作品ではあるが、印象がだいぶ違ったのは大きさのせいではなく刷られた紙によるものだろう。四辺が断ち切りでない耳付き和紙、しかも厚くて質感にニュアンスがあるので、具体詩作品が、ただそれだけで目に入ってこない。美しい和紙がかけがえのない台紙として在り、極めて勝手な感想だけれども、”作品然”として、向井さんの作品に似合わないように感じてしまった。会場には他に、「向井周太郎 具体詩の文脈」と題した緻密な具体詩作家相関図と、作品制作の資料や直筆原稿、写植を切り貼りした版下なども並び見応えがあった。

ひととおり展示を見るも名残惜しく、壁面から離れてもう一度会場全体を見渡したとき、突然違う感慨に襲われた。これ、「ふすま」? 「ふすま」で囲まれてる? 

向井さんの父・向井一太郎さんは経師・表具師で、おふたりには『ふすま』(中公文庫 2007)という共著がある。前半で向井さんが一太郎さんの作業に見入っていた幼い頃の思い出にも触れながら「ふすまという現象」を深く広く論じ、後半ではおふたりが「ふすまの技と意匠」と題して対談している。向井さんの生まれ育った家の様子とからかみの文様について書かれたところを、ほんの一部引用してみる。

〈ぼくが生まれ育った生活空間は、外側のあかり障子のほかはすべて襖の間仕切りでしたし、壁面も多くが押入れか収納棚で、その表戸の多くは引き違いの小襖でした。つまり、そのほとんどが襖で構成された生活空間でした。間仕切りや押入れ襖の表は、鳥の子の白無地か、あるいはその白地に白きら(雲母)押しの唐草紋か縞ものでした。(略)小襖はたいてい縁なしの「たいこ張り」でした。こうした生活空間としての襖の経験によって、ぼくの「ふすま」のイメージとしては、「清浄さ」、「神聖さ」、「優しさ」、「細やかさ」、「温かさ」、「柔らかさ」、「静けさ」、「軽み」、「渋さ」、「いき」というような感覚がはぐくまれてきました〉(91p)

〈日本人にとっては、自然や世界を写す言語的表現も、図像的表現としての文様も、そこにはなんの区別もなく、二つはまったく一つのものであるということです。(略)こうして、「からかみ」の「文様」は日本人の自然や世界ないしは宇宙の心を表わし、それを伝えることばとして展開されてきたのです〉(144p)

向井さんが90cm×90cmの襖判和紙に作品を刷って遺したのは、作品を”版”として、”周太郎からかみ”を刷り上げたようなものではなかったかと思えてくる。とすれば、「生のコンステレーション 向井周太郎の具体詩」展とは、”周太郎からかみ”、つまり向井さんの具体詩作品柄で仕上げたふすまで間仕切りをした空間に迎え入れられる体験だったと言える。先に「”作品然”として向井さんの具体詩に似合わないように感じた」と書いたけれども、なるほどだから1点ずつを単体で鑑賞するために用意されたものではないのかもしれない。というか、そういう鑑賞を拒否する作戦だったのかもしれない。なにしろ向井さんの作品は、これまでどれだけ多くの展覧会やら雑誌やらネットやら論文やらに展示・掲載・引用されてきたことだろう。今後も続くに違いないけれども、それとは別に、作品たちの揺るぎない居場所というか休息所みたいなものを、向井さんは感謝を込めて用意したかったのではないかと想像している。いい展示だった。

再会・55年目の古井戸コンサート

若松恵子

11月最後の土曜日、札幌共済ホールに古井戸のコンサートを聴きに行った。まだ雪の北海道にはなっていなかったけれど、風は澄んで冷たかった。

古井戸は仲井戸麗市がプロとして音楽活動をスタートさせた最初のバンドだ。チャボ(仲井戸麗市)が加奈崎芳太郎と出会って1970年に結成し、忌野清志郎に誘われてRCサクセションのメンバーになることで1979年に解散した。古井戸の現役時代は子どもだったから全く知らない。RCサクセションからも離れ、ひとりで唄うようになってからの仲井戸麗市に魅かれ、古井戸の楽曲についても彼のセルフカバーで初めて知った。何といっても、私にとって古井戸の魅力は、20歳の頃に書いた仲井戸の楽曲の瑞々しさだった。最初は、チャボのセルフカバーを聴くことで充分だった。けれど、だんだん、加奈崎芳太郎という人の音楽に向き合う姿を知り、彼のボーカルの魅力というのもわかるようになった。

古井戸は、チャボのギターと加奈崎のボーカル。アコースティック・ギター2本の世界だけれどフォークではなくて、ブルースブルースしているわけでもなくて、日本的でもあり洋楽的でもあるという独特の魅力があると感じるようになった。古井戸というバンド名には、英語のfluid(流体)という意味も込められていると知って、かっこいいと思った。

今回の再会コンサートの主催は、「ありがとう古井戸実行委員会」だ。2019年に加奈崎芳太郎のデビュー50周年記念コンサートを出身地の札幌で企画した際にゲストに仲井戸麗市を招き、古井戸の楽曲を演奏するコーナーが実現した。その幸せな時間への感謝と、もう一度札幌で古井戸のコンサートを企画したいとの思いでメンバーが集まり、実行委員会が結成されたという。加奈崎さんの故郷で1回しか行われない再会コンサートなら札幌まで聴きにいかなければ、と出かけた。

舞台上で、加奈崎さんは「2人とも後期高齢者で~す!」と笑っていたけれど、サポートメンバーも入れず、休憩も入れずに2人で演奏した20曲、約2時間半は素晴らしかった。最初の「750円のブルース」から気合バッチリだった。「らびん・すぷーんふる」、「まちぼうけ」、「四季の詩」・・・楽曲が持っている若々しさが(それはその歌を作った20代の仲井戸麗市の瑞々しさともいえるのだけれど)そのまま、変わらずに演奏されたという印象だった。そのことに本当に心打たれた。古井戸が持っていた魅力が、歳月によって壊されたり色褪せたりすることなく再び2人によって演奏されていることが嬉しかった。チャボの、より繊細に唱の世界を引立たせるようになったギターと年を取っても変わらない加奈崎のボーカルの率直さによって、そんな風に感じたのかもしれない。

古井戸には「さなえちゃん」というヒットした1曲があって、そのあと出したシングルがちっとも売れなかった(そっちの曲の方がずっと良い自信作だったのにという思いが言外に滲んでいた)というエピソードを語りながら、加奈崎は「僕たち1発屋です。だけどずっと今でも、やってます」と言っていて、解散後もそれぞれの道でずっと音楽をやり続けている事の自負を感じた。

メイビス・ストライプスやボブ・ディラン、ニール・ヤングのことを考えればまだまだ隠居なんて言っていられないのだろうけれど、売れるとか売れないとかという所からとうに離れて、しかも仕事としてやり続けるという事がどんなに凄い事なのかと思うと、2人の姿に励まされる。満席の会場のアンコールを求める拍手は、嵐のようだった。再現なんかじゃない、今の2人の奏でる音楽の素晴らしさにみんな胸打たれたのだと思う。

万博インドネシア館とアジア競技大会(2018)開幕式が与えるイメージ

冨岡三智

前月に引き続き、万博(2025)インドネシア館の話。実はインドネシア館を訪れて最初に受けた印象が、2018年にジャカルタで行われたアジア競技大会開幕式のメイン・パフォーマンスのイメージに似ている…ということだった。私は2018年9月号『水牛』に「アジア大会開幕式」を書いているが、幕開けの1500人によるアチェ舞踊(8:13~)のことだけ書いていて、メイン・パフォーマンス(1:25:19~)には触れていない。実は、大学の秋学期の授業でこの部分を分析をしてもらうことにしていたので、学生に先入観を与えないように敢えて触れなかったのだった。というわけで、今回の万博を機に書きとめておきたい。なお、アジア競技大会開幕式は以下のリンクから見ることができる。

Opening Ceremony of 18th Asian Games Jakarta – Palembang 2018 (Complete Version)

メイン・パフォーマンス 1:25:19~

メイン・パフォーマンスの舞台は島に見立てられ、スタジアムの中央に森林に覆われた山と滝、右手の方に海を配置している。その中で18地域の民族舞踊がアレンジされて大規模人数で繰り広げられる中、要所要所の場面で舞踊を背景に人気歌手が歌ったり、ピアニストがピアノを弾いたりする。このパフォーマンス絵巻は陸にいる兵士が示威活動を見せる中、船に乗った戦士たちが登場するシーンから始まる。緊張感が高まるが、しかし、船は島に戻って来たのであり、女子供も出てきて女子供が戦士たちを出迎えに来たのだとわかる。船が島に着き、青い海(布をはためかせている)の波間にはカラフルな魚(歌舞伎で使う差金の巨大版か?)が泳ぐのが見える。

ピニシ船をイメージしたパビリオンの前に立った時、真っ先にこのアジア大会のパフォーマンスの始まりが思い出された。(もっとも、アジア大会の船は帆の形がピニシのものとは違って無国籍風だったが。)パビリオンでは船に入ることで、アジア大会では船が到着することで物語が始まる。パビリオンの中に入ると本物の植物を使った熱帯雨林がある。アジア大会の舞台でも背景は森で、本物の植物も多く配置されているようだった。パビリオンの熱帯雨林の中央に滝がこしらえてあったのも、このアジア大会の舞台に同じ。そして、次のコーナーの円形空間に投影される映像の中ではその滝や滝の中(海の中?)の映像が大迫力で映し出された。ちょうど、アジア大会ではここで海の波間をカメラが映し出す。この後、アジア大会のパフォーマンスはすべて陸上で展開し、中には山の上で展開する舞踊もある。パビリオンではその後緩やかなスロープを通って2階に上がるので、ちょうど船の中に島があり、山に登るような構造になっている。

アジア大会のマスコットは、生物の多様性を表現して、インドネシアに棲む希少動物の極楽鳥、バウェアン鹿、ジャワサイをモデルにしている。これもパビリオンで希少動物をモチーフにした造形物が熱帯雨林に置かれたことに対応している。さらにマスコット3体はインドネシアの3地域の特徴的なテキスタイルモチーフの衣装を身に着けているが、パビリオンでもインドネシアのテキスタイルコーナーがあった。

インドネシアが国として海外に打ち出したいイメージは2018年当時も今もあまり変わらないはずで、だからパビリオンに既視感を感じたのも当然だろう。1970年万博のパビリオンのことはまだ調べられていないのだが、海と山からなる自然の多様性―特に海や船の重視―や生物の多様性のイメージは、1970年にはIndonesiaはまだ打ち出していなかっただろうと思う。

火まつり

北村周一

あさなあさな蛇口ひねるとよき水の
流れながれて朝が始まる
とうとうと上下の水のながれゆく
ながれ見ておりわれをわすれて
ここもまた世界の一部とおもうまで
蛇口のみずにわれを潤す
魔法ビンの湯ほどよく冷めて眠剤は
のみどのおくに蕩けゆくべし

死火山にはあらざる富士のすそ野べに
盛れる夏の火まつりはみゆ
火のあらぬところにも煙り立つらんと
奇祭見ており富士の吉田に
念願の『サファリ』のバスは走り出し
肉の塊もたされている
エサの肉貢がんために乗り合わす
バスの中にはわが家族のみ
百獣の王のなで肩それよりも
ヒグマ怖ろしバス喰わんとするも
冨嶽三十六景中の江尻にて
かぜに煽られあゆみを止める

乗りものにその名をとどめしNOAHにして
齢九百五十まで生きて死にたり
オリーブの鳩はみたびは戻らざれば
すなわち方舟(ふね)を降りにたりけり
灰いろのマスクのかげに顔ひとつ
あるをわすれて虹見ておりぬ
大洪水は二度はあらずといいながら
風神雷神また来て四角

まるでみてきたように語らるる美術史の、
カントは言うも美の学はなけれ
前衛はある日一気にふるくさく
なるやもしれず昏れゆく秋は
ふるさとはそぞろに遠くあるべしと
思う間もなく鉄橋わたる

放課後のように静けき午後なれば長い廊下の奥に佇つひと

「疑いのなさ」について

越川道夫

10月の初め頃はまだかなり暑く、Tシャツを着ても汗ばむほどだったのに、それからみるみるうちに気温は下がり、下旬には身体を冷やさぬようにコートを着込んでいた。寒暖差の激しい日日を耐えながら11月になると、まだ早いのではと思わないではないのだが首が冷えるのを警戒してマフラーを巻いている。秋はあっという間に去ってしまい、辺りは冬の装いである。木木の葉はすっかり黄色になった。公孫樹の葉が一夜にして舞い落ちてしまうまでもうすぐというところである。夏の終わりに林の中で咲いていたテッポユリの種鞘が弾けて開き、やがて立ち枯れていくのを楽しみにしていたのだが、久しぶりに林を歩くと下草はすっかり刈り取られている。種鞘が開く前に刈ってしまったとみえて、今年はその姿を見ることは叶わないことになった。
 
寒くなって、また一つ二つと訃報が届くようになった。お別れの会が開かれることもあれば、その死のみが伝えられることもある。たとえ健康であっても急激な気候の変化は身体にこたえるのだから、病む人にとっては尚更だろう。思えば祖父が亡くなったのも、温暖な海辺の街には珍しく雪が舞う急に冷え込んだ日だった。祖父は、決して積もることはない雪片とともに逝ってしまった。
 
11月は18年ぐらい一緒に暮らした猫が死んだ月でもある。死んだのは2019年だから、もう6年も経つ。「18年ぐらい」と書いたのは、それが17年なのか、19年なのかはっきりと分からないからで、30代の終わり頃は仕事がひどく忙しく、「いつ、どこで、何を」の「いつ」の記憶がはっきりとしないのだ。彼と暮らし始めたのは確かだが振り返ると、それが何年何月何日なのか分からない。自動販売機で缶コーヒーを買おうとして、そのまま気を失ったりしていた頃だから精神的にも身体的にもひどくキツかったのだろう。脳がその頃のことを思い出すのを拒否しているのかもしれない。
 
それでも、彼を拾った時の様子はよく覚えている。駒場の路地奥のアパートに住んでいた頃のことである。その日仕事に出かけようとすると、路地の道の隅に何やら小さな白いネズミのような生き物が落ちている。見ると、それはまだ目も開いていない、生まれて間もない子猫なのだと分かる。路地には野良猫が多く棲んでいたので、おそらく母猫が落としていったものではないかと思われた。そのままにしておくやわけにはいかず、拾い上げるとちょうど手のひらぐらいの大きさで、近所の獣医に、どうしましょう、と相談すると、とりあえずあなたが育ててくれ、と言う。その頃は一人暮らしで、仕事で飛び回っていた時期だったので、どうしたものか、と思案したが、生まれて1週間ぐらいの子猫を部屋に放っておくこともできず、とにかくトートバックを買い、その中に彼を入れて打ち合わせに行き、打ち合わせが終わると公園を探し、そこで母猫がするように刺激を与えて排尿と排便をさせ、哺乳瓶でミルクを飲ませて、次の打ち合わせへ行き、それが終わるとまた公園で、と言うことを繰り返すこととなった。会社勤めでは、そんなわけにはいかないだろう。ひとりで仕事をしているからできたことなのだ。
 
しかし、生後すぐの子猫を育てるのは初めての経験である。手のひらにいるのは少し強く握っただけでも潰れてしまうであろう、ひどく小さくて柔らかな生命である。何度子猫が死んでいる姿を想像しただろう。私は怯え、どうしたら無事にこの世に送り出すことができるのかと必死であった。だから、おそらく生まれて2週間ぐらいが経ち、彼の目が開いた時は、ようやくここまでたどり着いたとひどく感慨深いものがあった。目が開かなかったら(そういうことがあるのかどうか分からないが)、どうしよう、とそんな訳のわからない不安も抱えていたのだから。
 
その夜、彼の右目が開きかけているのに気づいた。徐々に右目が完全に開き(その時点でまだ右目だけ開いて、左目が開かなかったらどうしようと不安だった)、それから程なくして左目が開き始める。完全に左目が開くまでにどのくらい時間がかかっただろう。見守る時間は、途轍もなく長く感じられたが、ほんの数分の出来事であったかもしれない。開いた子猫の目は、青い目をしているという。彼の目もそうだったのだろうが覚えていない。その時点で視覚は未発達であり、薄ぼんやりとしか見えていないだろうが、その彼が初めて見たものは、母猫でも、木漏れ日の眩い光でもなく、目が開いたことに安堵する中年男の貧相な顔であった。本当に申し訳ない。彼の視覚が初めて世界に開かれた瞬間である。それが美しさであったらよかったのに、と今でも思う。
 
彼はまだよくは見えない目で、真っ直ぐに私の目を見つめて離さなかった。私も目を逸らすことができず、二人はしばし見つめ合ったものだ。そして、その眼差しのあり方は18年余りの彼の生涯を通して変わることがなかった。私はそれから毎日、あの時と同じ眼差しに出会うことになったのだから。台所に立つ私を見上げる時も、撫でられようと膝の上によじ登ってくる時も、仕事をしていて振り返ると彼が少し離れたところから私を見つめている時も。
 
その眼差しに込められているものを何と呼べばいいだろう。「信頼」であるとか「愛」であるとか、そのような言葉で語ることもできるだろうが、今はそれを「疑いのなさ」と呼んでみたい。その「疑いのなさ」は終生変わることがなかったのだ、と。そして、その「疑いのなさ」が込められた眼差しが変わることがなかったことに、私は少し安堵を覚えている。正直に言えば、私自身が彼の「疑いのなさ」に応えることができたかどうかは自信がない。後悔することも多い。しかし、変わることがなかったのであれば、そのことが少しだけ私を安堵させる。
 
私を含め「人」という生き物は、彼らのような「疑いのなさを込めた眼差し」を持つことができるだろうか。そう聞かれれば、私の答えは否である。私には「人」がそのような眼差しを持てるとも、持ち続けるができるとも思えない。その意味で、「人」という生き物は、彼らよりも劣った生き物なのだろう。
「ただ生きていればいいんですよ」。
ある小説を読んで、そのような言葉に出会った時、「ただ生きること」の難しさについて考える。猫たちは「ただ生きている」がゆえに「疑いのなさ」もまた手にしているのではないか。「ただ生きること」が難しい「人」という生き物は、「疑いのなさ」の中で生きることはできない。きっと意味や目的という病に冒された生き物の宿痾なのだ。アシジの聖フランチェスコは、どんな眼差しを持っていただろうか? 小説家の小沼丹が死の直前に病室で「黙りこくって大学ノートに毎日描きつけたのは、かつて小屋の中で誕生した幼な子を見守った筈の短い足の馬たち」(阪田寛夫)であり、「その優しく和らいだ瞳の絵」だったのである。それは、どのような瞳なのか?
 
もしかすると、私たちはお互いの心臓と骨を交換するような、そのような愛し合い方でしか彼らのような眼差しを持ち得ないのかもしれない。「優しい」とかそんなことでは、まったくない。どちらが、どちらであっても構わないような。もはや与えられた名前すらどうでもよくなるような。
 

水牛的読書日記 2025年11月

アサノタカオ

11月某日 福嶋伸洋さんの『ニコの海』(松籟社)が届いた。凪の風景を思わせる青く美しい装丁に息をのむ。ブラジル文学の研究者であり、クラリッセ・リスペクトル『星の時』(河出書房新社)の訳業で日本翻訳大賞を受賞した福嶋さんのはじめての小説集。青春の日々を追想しながら、潮の満ち引きのように記憶の情景が押し寄せ、やがて遠ざかる心の機微を描写する3つの短編を収めている。

本のタイトルにある「ニコ」は、表題作に登場する詩人・堀口大學の異名だ。福嶋さんと同郷の新潟・長岡の出身で、戦前にメキシコ、ベルギー、ブラジル、スペインなど南米とヨーロッパを遍歴した詩人は、海外で「ニコ」と名乗り、各地のモダニズム文学者らと交流したのだった。堀口大學による翻訳詩集の名著『月下の一群』が、小説の世界に淡い影を落としている。

11月某日 写真絵本シリーズ、矢萩多聞さん文/吉田亮人さん写真の『はたらく校長先生』『はたらく鉄道員』(創元社)が届いた。人間の仕事のまごころを教えてくれるすばらしい絵本で、全国の小学校の図書室に常備してほしい。後に来る賢い人たちとの、よい出会いがありますように。

11月某日 発売日に近所の書店に駆け込み、伊東順子さんの待望の新著『わたしもナグネだから 韓国と世界のあいだで生きる人びと』(筑摩書房)を購入した。雑誌『中くらいの友だち』などの連載に書き下ろしを加えてまとめたノンフィクション。連載を熱心に追いかけていたので、一冊の本になってうれしい。装丁の写真は、ぼくも敬愛するアーティスト・山内光枝さんの作品。

冒頭の一編「放浪の医師 元NATO軍の軍医ドクター・チェ」を再読し、現代史の苦境をまるごと背負うように生き抜いた、ひとりの驚くべき「ナグネ(旅人)」の物語にあらためてことばを失う。

「ナグネとは自嘲的に使われる言葉だ。たどり着けないことの情けなさと、残してきた者たちへの申し訳なさ、でもまだ歩き続けている自分への愛しさ……」伊東さんが本書にさりげなく記す文が、ぐさりと胸に突き刺さる。

11月某日 詩人の本が2冊同時に到着。宮内喜美子さんの新詩集『追悼の光を抱く女』(思潮社)と、韓国の詩人イ・ジェニの散文集『夜明けと音楽』(橋本智保訳、書肆侃侃房)。どちらも、冒頭の数編を読んだだけで胸がいっぱいになった。年末年始のしずかな時間に読みたい。

11月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)の「治癒としてのレッスン」。

11月某日 東京国際展示場で開催された文学フリマ東京41に、サウダージ・ブックスとして出店した。エッセイを寄稿したご縁で文芸誌『随風02』(書肆imasu)もブースの机に並べると、「見たことあります!」と足を止める方が多く、影響力の大きさを実感。ついでにサウダージ・ブックス関連の本を紹介という感じに。自分が佐々木静代さんとともに企画・編集を担当した新刊の韓国文学ZINE、チェッコリ書評クラブ『”あなたのため”のK-BOOK!』をあいだにはさんで、お客さんとの会話を楽しんだ。もっとも多く話題になったのが、ミュージシャン&作家のイ・ランさんのことだった。

会場では、ZINE『越境読書研究センター 報告書vol.1』とアンソロジー『たゆたい 01』を入手した。『越境読書研究センター 報告書vol.1』は書評エッセイ集で、藤本和子さん『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』(岩波現代文庫)や、韓国の作家ファン・ジョンウンの小説集『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)などぼくも愛読する本が紹介されている。『たゆたい 01』のテーマは「機能不全家庭」。帰りの電車で横田祐美子さんの詩を読み、「とめ・はね・はらい」という作品がとてもよかった。

11月某日 『たゆたい 01』を読了。本書企画人の大田栄作さんの巻頭随筆をはじめ、随筆、批評、小説、詩、どれも読み応えのある作品だったが、なかでも文筆家の山本莉会さんの「小さないかだで海を渡る」に深く胸打たれた。「いかだに乗って海を渡るような、ぎりぎりのバランスで家庭が成立しているよう感覚があった」という著者とその母親をめぐるエッセイ。山本さんはいつも、文章の最後に忘れがたい一文をびしっと置く。

11月某日 『別冊 中くらいの友だち』が届く。韓国を語らい・味わい・楽しむ雑誌の今回のテーマは「ソウル 変わらぬ想いと、肯定するノスタルジー」で、19人のエッセイが掲載されている。赤い本のページをぱらぱらとめくると一部カラー写真もあり、いつもより少し豪華な感じ。読むのが楽しみ。

11月某日 これも待望の一冊。斎藤真理子さんの新著『「なむ」の来歴』(イースト・プレス)が届いた。翻訳者である斎藤さんの韓国、日本、沖縄をめぐる旅、あるいは「他郷暮らし」から生まれたエッセイを集めた本。道を外れて道をゆくそぞろ歩きのような文のスタイル、つまりエッセイ(essay)ということばの本来の意味である「試み/試論」の魅力が詰まっている。

「なむ」というのは韓国語の「木」のことで、本書には1990年代、那覇・首里城近くの「パパイヤとグァバの木がある」家に住んでいた頃、斎藤さんが雑誌『思想の科学』に寄稿した貴重な文章も収録されている。来月、ジュンク堂書店池袋本店で開催される刊行記念トークにおしゃべりの相手として登壇することになったので、試論としてのエッセイの醍醐味を堪能しつつイベントに向けてじっくり読み込みたい。

以前、神奈川・大船のポルベニールブックストアで、ウェブマガジン「水牛」のお仲間である斎藤さんや、イリナ・グリゴレさんと対談をした。おふたりと語り合った夕ぐれの時は、よい時だった。「水牛」を追いかけて歩いていると、犬も歩けば棒に当たる式で、いろいろと楽しい出来事にめぐりあう。

仙台ネイティブのつぶやき(112)みんないなくなったあとに

西大立目祥子

 あれやこれやが一気にくる、という年がある。いいことも悪いことも。いや、どちらかというと悪いことが固まりになって。でも、ここまで生きてくるとわかるけれど、悪いことの中にはいいことが混じっていて、その逆もあって、つまりは判別などつかないものがこれでもかと押し寄せる。今年がまさにそうだった。

 まず、めまい。3月にきて、5月にきて、6月にきた。3回の発作をくぐり抜け、3つ医院で検査と診察を受けるうちにわかってきた。ははん、これは自律神経がいかれたんだな、と。慣れないことに手を出して緊張が続くと、交感神経が優位になって副交換神経との切り替えがうまくいかず、ダウン。いまのところ発作はおさまっているけれど、めまいと書いてる先から、あのときのぐるんぐるんと体が振り回される感覚と吐き気が戻ってくるようだ。

 めまいの理由は明らかだった。母の家がいよいよダメになってきて、これはもうリフォームだと決心し荷物の整理を始めたのは昨年のいまごろ。家を直して転居しようと決め、大きな家具を処分し、設計士さんと何度か打ち合わせを重ねた。そうこうしているうちに私にとっては最高の相棒だった茶トラの大猫チビが急にやせてきて、はらはらしながら病院へと車を走らせる。親しかった叔母の作品展を企画し始めたのもこのころ。右手でハンドルを握りつつ、空いている左手では展覧会の内容を詰め作業を重ねるみたいな感じで、まわりの助けを借りつつ搬入にこぎつけ何とかオープンしたところで、一回目の発作。ぐわん。

 何とかおさまった4月初旬、家の工事が始まった。築66年の家の畳が上げられ、床板がはずされ、土壁が落とされてシロアリ被害の全貌が見え始めた。ずぶずぶになった敷居や床下の柱を見た大工さんと設計士さんが、「ここまでひどいのはミルフィーユ状っていうんだよ」なんていう。2人はどうってことはないという表情で着々と工事を進めてくれたのだが、一方で猫の調子は落ちていくばかり。どうしようと不安が募る中、さらに母の発熱、食事の減退という事態がやってきた。そこに気の進まない仕事を引き受けざるを得ず、終わったところで2回目発作。ぐわんぐわん。

 工事は5月末に完了。新しく貼った床や青畳の上をよろよろと、でもどこか楽しそうに歩いていた我が相棒は6月1日に旅立った。ペット斎場に連れて行き、骨になって戻ってきたところで、うわぁ、3回目発作。これには、すっかり落ち込んだ。バアサンじゃないか。ていねいに扱ってあげないと、ガタがきている自律神経はもはや持ちこたえられないと思い知る。

 こうして振り返っているだけで、なんかもう疲労感が再びひたひたやってくるようだ。でもまだまだ続きがあるのだ。もう一匹の猫、グーが先に逝った猫を探しに出たのかドアから脱走し、4ヶ月たったいまも戻ってこない。母の容態も低空飛行で、今日は食べました、今日はお水も飲めませんと聞かされ一喜一憂する日が続いたのだけれど、猛暑の中予定通り引っ越しを決行。片付けにくたびれ果てて眠る4日目の深夜、母が逝った。段ボールをどかして母が帰る場所をつくり、出棺、葬儀までこぎつける。大波におぼれそうになりながら。

 たった2ヶ月の間に、母も猫たちもみんないなくなった。最後の2年半は施設のお世話になったけれど、母の介護は約20年、ひょんなことから数匹の猫たちと暮らすようになって25年がたった。母が家にいたころは、締切に追われていても隣の部屋で何をしているか体をセンサーのようにして気配を感じ取り、外での打ち合わせから飛び帰ってごはんのしたくをし、ちゃんと食事をとれているか転ばないか母の調子に神経を研ぎ澄ませる毎日だった。施設に入ってからも、電話が入れば何かあったのかとぎゅっと心臓をつかまれるようで、届けものの必要があればその日のうちに持参し、庭に椿の花が咲けば見てほしくなってきれいな紙でブーケをつくった。

 猫たちだってほおってはおけない。どんなに疲れていても自分のごはんより猫のごはんが先。トイレが汚れていたら猫にとっては最大のストレスだから、すぐにきれいにしなければならない。いや、違う。「ならない」ではなくて、母のために猫のために反射的に「そうしてあげよう」と体が動いてしまうのだ。ケアする対象が身近にいるというのは、もう一つの別の場所に向かって体も気持ちもそちらに自然と傾いてしまう状態がつくられているということなのだと思う。

 それが急になくなって、いまはぽかんとしている。頑張ったんだから、ゆっくりしなよ。のんびり過ごしたらいいんだよ。まわりは気づかってくれるけれど、自分がどんどん薄くなっていくよう。色彩を持って存在していた自分がだんだんモノトーンになっていくよう。どんなに疲れていても、母のディサービスのしたくをする私。どんなに眠くても猫の水を交換する私。これまではもうひとりの私が私の中に棲んでいるというのか、2人の私がいっしょにいるようだった。2人の間には会話があり、疲れた方を励ましたりなぐさめたり、一方が鼓舞して頑張らせたりがあった。感情の行き来だってあったのだ。それがなくなって、私はしんと静まっている。波立たない水面がただあるだけ。この状態に慣れていくのか、物足りなくてもう一人を、もう一つの場所をつくろうとするのか、まだわからない。何とも宙ぶらりんの師走。

『アフリカ』を続けて(54)

下窪俊哉

 先日、スズキヒロミさんの案内で、さいたま市にある「藤橋」を訪ねた。『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)にスズキさんの書いた短い文章「「藤橋」覚え書き」が載っているが、それはこう始まる。

 昔々、あるところに、一本の橋がありました。その橋は藤の蔓を編んだ吊り橋で、村人から「藤橋」と呼ばれていました。
 藤橋は、村を流れる鴨川を渡り、そしてその先の道は中山道の宿場に通じておりました。そのため行き交う人は多く、荷を積んだ牛や馬も通りましたが、なにしろ藤蔓の吊り橋なので、渡るのに難渋する者が多かったといいます。

 ある時、そこに石橋を建設した人がいたそうで、小平次という六部行者だった。六部行者というのは「全国六十六カ所ある霊場の一つ一つにお教を納める旅」をしている巡礼者だそうだが、私は詳しくない。調べてみたところ、仏像を入れた厨子を背負って歩く人の絵を見ることが出来た。その周辺地域には旅をする行者が建てたとされる供養塔が散在しているそうで、小平次の話と何か関係があるのかもしれない。

 さて、その日はいい天気で、昼頃に大宮駅で待ち合わせた。とりあえず中華料理店に入りラーメンを食べ腹拵えをして、バスに乗った。バスの行き先には「藤橋」を経由すると書いてある。じつは私は「藤橋」という橋は現存しないと思っていたのだが、間違いだったようである。しばらく大通りを走り、二車線の、昔ながらの道に入る。スズキさんの書いているように「全くの平地」で、どこにいても空は広々としているようだ。「藤橋」バス停で降りる。バスはその先にある橋を渡り、走って行った。我々は歩いて渡る。橋の欄干には「ふじはし」と平仮名で書いてあるのが読めた。スズキさんによると「ふじばし」ではないかとのことだが、「鴨川」も「かもかわ」と書かれているので、濁るかどうかは、どちらでもよいことのような気がする。
 スズキさんは数十年前、車の運転を始めた頃によく藤橋を渡っていたと話していた。ただしその頃の藤橋は昭和初期にかけかえられた2代目の橋で、現在の橋は3代目ということになるようだ。何というか今風の橋で、伝承を知らなければどうということもない。川の両岸は土手で、桜並木が見られたり、お花畑があったりしてのどかだ。
 藤橋を渡った先に「藤橋の六部堂」という史跡がある。チェーンがかけてあって敷地内には入るなということのようだが、外から見ることが出来る。お堂の中には小平次の像があると聞いているが、それも見られない。見ることが出来るのはお堂の外側と、新旧様々な石碑と、裏に積まれた石材である。小平次が調達してきて橋に使われた石材を、そこに保存してあるということのようだ。石碑に書かれた文字に目を凝らす。古いものになればなるほど何が書いてあるかは読み取れないが、スズキさんが持参している資料と見比べながら少し解読を試みた。
 さいたま市指定史跡「藤橋の六部堂」の解説板は(それも少々色褪せてはいるが)読み取れる。そこには明治時代に近所の人が描いたらしい藤橋の絵も載っている。素朴な小さな橋のようで、橋の上にひとり、人が歩いている。

 川の水は透き通っていて、さらさらと流れていた。ふと思ったのだが、水量が少ないので、歩いて渡ろうとしても、それほど大変ではなさそうだ。雨が続くと、どのくらい増水するのだろうか(それを知るためには雨の日にも来てみなければならない)。住宅の建ち並んでいる方から見て対岸には、見渡す限りの畑が広がっている。その風景から想像出来ることはたくさんあった。川ではカルガモが遊んでいた(遊んでいるように見えるのはこちらの勝手だが)。歩くと、見えてくるものがたくさんある。再び川に目をやると、小鷺や川鵜(だろうか)が降りていた。
 舟が行き来出来るような川ではないのである。だから小平次は下流の、荒川と合流する地点まで石を運び、そこからは陸路で運ぶため(スズキさんが物語に書いたように)村に連絡したのだろう。ただし「「藤橋」覚え書き」では小平次は謎の人物として現れており、迎え入れる村の人びとの視点で書かれている。小平次が一体何者で、何処からどうやって石を運んだかなど詳細は、よくわからないままなのだ。
 わからないから、そこは書けなかったのだろうが、わからないことをわからないままにして、何を、どこまで書けるかということに私は興味がある。

 なぜ書くのか、ということを考えると、スズキさんは子供の頃から身近にあった橋の伝承にずっと興味があって、もっと調べたいという思いを抱いたまま長年、放置してきてしまったのだという。
 そのことがなぜ「なぜ書くのか」につながるのかというと、書こうとすることによって、調べることが出来るからだ。何もなくて、ただ調べる、そんなことが出来るだろうか。
 それはあるいは写真を撮るというのでも、絵を描くというのでも、映画を撮るというのでも、論文を書くというのでもよいのだが、スズキさんにとっては雑記のような文章を書くことから始まっている。その雑記は、いわゆるエッセイのようになるのかもしれないし、小説になるのかもしれないし、あるいはもっと違うものになるのかもしれない。それが何であれ、スズキさんが知りたい、調べたいと思っていることを実現させるためにあると私は考えるのである。
 ただ、「「藤橋」覚え書き」を読むだけでは、それが今後、どう展開していくのかということは、まだよくわからない。その土地を一緒に歩いてみればどうだろうと考えたのだが、予想していた以上に、感じられることがあったようである。スズキさんはそこに川鵜がいるということも想像していなかったと話していた。川をもっと書かなければならないし、江戸時代にそこがどのような土地で、どのような暮らしが営まれていたのかをもっと知る必要がありそうだ。
 そのようにして感じられることがあったとして、それでも、私は(私なら)まだまだ満足しない。例えば郷土史を研究している人、詳しい人はいるだろうから、その中に、きっと話を聞ける人がいるはずである。詳しい人でなくても、昔話の語り手でも何でもよい。小平次を書くのではなくその人を書くことになるかもしれないが、それならそれでもよいのである。
 何かを書くということの中には、誰かとの出合いがあるはずだと私は考える。出合いがあるということは、書き手が動いているということだからだ。動くために書くことを口実にしてもよくて、最終的に何か書いて発表することは止めてもよい。調べること、知ることが目的なのだから。
 あらゆる本はそうやって書き手が動いた痕跡を、記録したものだと私は捉えている、ということだろうと思う。だとしたら、その痕跡を受け取り、受け継いでゆく人がいることを奇跡のように感じる。