唐突に一枚の画像がスマホに送られてきた。それは鶯谷の線路沿いにある居酒屋「信濃路」を斜めから捉えた写真だった。最近、急に西村賢太にはまった夫が、かの作家がその店に通い詰めたと知って聖地巡礼をしてきたというわけだ。小豆色の看板に「信濃路」と大きな横書きがあり、そのかたわらにはお食事処、そば・うどん、カレー、うまい酒、呑み処、おかずといった言葉が踊っている。もとは立ち食い蕎麦屋だったが、どんどん品数を増やして、朝でも飲める居酒屋として地元で重宝されているときく。もっとも写真を撮った夫は昼間から店の中に入る勇気はなくて、遠くからそっと写真だけ撮って、すごすごと帰ってきたのだが。
先月末の段階で、夫は西村の芥川賞受賞作「苦役列車」一冊しか持っていなかった。ところが1ヶ月後の今では西村作品が20冊以上積んである。さらに買えそうな作品は片っ端から手に入れようとしているらしく、郵便ポストにはしょっちゅう古書店から取り寄せた西村作品が届く。入手できないものは図書館で借りることにしたらしく、今の家に転居してから長年、ただの一度も作ると言わなかった図書館利用カードを作った。それだけならまだよいのだが、隙あらばまるで親戚か、片思いしている中学生のような顔つきで作品の中のエピソードを嬉しそうに語り始めるからまいってしまう。西村賢太の作品内に頻発する文章をアレンジして、「根が〇〇にできてる〇〇(人名)は…」といった口調で話しかけてくるのにも、そろそろつきあいきれなくなってきた。関連図書も蒐集しはじめた。西村を特集したムック本や、彼が敬愛した田中英光と藤澤清造の作品集、そして玉袋筋太郎の著作まで読み漁っているのだ。好きな人の好きなものを知りたいというわけだろうか。こうなると推し活というより、ほとんど恋だ。
西村賢太の生きた道のりは決して平坦ではなかった。子供の頃は経営者の父のもと家族とともに平穏に暮らしていたそうだが、父親の起こした連続婦女暴行事件により人生が暗転する。一家は離散、彼は中学を出ると、知恵も学歴もないままに自活を始めなければならなくなった。風呂もトイレもない部屋に住み、日雇いの肉体労働などで糊口を凌ぐ。だがまだ15~6の子供である。たったひとりで社会に放り出されても生活のしくみも頑張りかたもわからなかったのだろう。人とのコミュニケーション能力不全に加え、怠惰で根性もないので、手元の金が尽きても気分が乗らなければ仕事にも行かない。劣情を持て余してはわずかな給金をはたいて買淫に走り、宵越しの金は持たぬとばかりに日当を使い果たすまで鯨飲馬食する日々。借金も家賃も踏み倒し、同棲した女性にはその家族にまで金を無心し、暴力をふるったあとは甘えるDV男の典型のような振る舞いをくりかえす。
今やどんな娯楽にも金を出さねばならない世の中になっている。では金のない人間はどうすればよいのか。金のない若き西村賢太にとって最高の娯楽は本だったのだ。彼はつらい労働の終わりに古本屋に立ち寄り、3冊100円などで投げ売りされている本を買って貪るように読んだという。戦中戦後はいざ知らず、飽食の現代日本で、世の不条理を肌身に感じながら生き抜くために、本をこれほどまで頼みにせざるを得なかった人があるだろうか。アルファベットもろくに読み書きできない西村が、あの驚異的な筆力の素地を固めることができたのは、こうした壮絶な読書体験があったからにほかならない。西村は自分自身を小説のモデルとして世の中に差し出した。そして恥と屈辱にまみれたまま社会の暗部に追いやられ、忘れ去られた人の生活、貧すれば鈍すを地でゆくような負の沼に足を取られた人の思考、聞くもおぞましい最低の日々を、中学生のままで止まってしまったような純情な心根と、世にも格調高い文体で綴ったのだった。小説を書き始めて20年弱、作家として生活も軌道に乗ったのち、54歳で急逝した。だが、彼が残した数々の作品は、人生に倦み諦めかけた人たちを、これまでもこれからも救い続けるのだろう。
わが夫はすっかり西村賢太作品の中毒になってしまった。少々哀れに思った私は「こんど信濃路、行ってみる?」と声をかけている。気楽に「うん」と言えばよいものを、「西村賢太が座っていた席はお手洗いの近くなんだって」「秋恵(小説内に登場する西村賢太の分身「北町貫多」の同棲相手)と一緒に信濃路へ行った時に、女の人を怒鳴りつけている醜悪なお客さんを見かけて、あれは自分そのものだと思ってハッとしたんだって」などと、西村作品エピソードで迂回してくる。彼の愛した太陽たる「信濃路」に、おいそれと近づいたら火傷するとでも思っているのだろうか。
投稿者: yamaki
水牛的読書日記 2025年10月
アサノタカオ10月某日 『「知らない」からはじまる 10代の娘に聞く韓国文学のこと』(サウダージ・ブックス)の共著者である(ま)——(ま)というのはぼくの娘のペンネームなのだが——が、韓日交流作文コンテスト2025の日本語エッセイ部門で優秀賞を受賞した。
東京での仕事のついでに四谷にある駐日韓国文化院へ行き、ロビーで展示中の入賞者全員の作文作品をじっくり鑑賞。審査員である作家の深沢潮さんによる講評がすばらしかった。作家としての厳しくも温かみのあるメッセージ。講評の最後に「みなさんの中からプロの書き手も出てくれるのでは」と記しているが、そんな未来が実現するといいなと思った。
(ま)が、韓国の作家ハン・ガンの小説『少年が来る』(井出俊作訳、クオン)を読みたというので本を貸した。20代の大学生になった彼女がいま読んでいるのは松本卓也さん『斜め論』(筑摩書房)とのこと。
10月某日 最寄りの書店で深沢潮さん『はざまのわたし』(集英社)を購入した。在日コリアンの家庭で成長した作家による、食の記憶をたどる自伝的エッセイ。年始に刊行され、読みたいと思っていたのでこの機会に。
今年の8月、新潮社の週刊誌に掲載されたコラムで、深沢さんが人種差別と事実誤認に基づく名指しの攻撃を受けたのだった。コラムの著者による悪意ある言論の暴力と版元の無責任な対応は卑劣きわまるもので容認できない。深沢さんの小説やエッセイをじっくり読み、考え続けることにする。『はざまのわたし』と並行して、小説『緑と赤』(小学館文庫)も。どちらも好著で、簡単に割り切れない生きる世界の複雑さを描き出す文学の底力を味わう。読んでよかった。
10月某日 うっかりしていて、9月の水牛的読書日記を書くのを忘れていた。先月読んだ本は、今福龍太さん『仮面考』(亜紀書房)、松岡正剛さん『世界の方がおもしろすぎた』(晶文社)、渡邊英里さん『到来する女たち』(書肆侃侃房)など。松岡さんの本は、大学の編集論の授業で紹介した。
先月届いた本は、蒲池美鶴さん『わたしは小学生 改訂新版』(創元社)、小川てつオさん『ホームレス文化』(キョートット出版)、瀬戸夏子さん『をとめよ素晴らしき人生を得よ』(柏書房)。
10月某日 随筆復興を推進する文芸誌『随風02』(書肆imasu)が届いた。拙エッセイ「この日常のまっただなかに」も掲載され、特集「好奇心」のトップバッターを務めている。ご笑覧いただければ幸いです。
さっそく、『随風02』を通読。「試み」としてのエッセイの可能性ってまさにこういうものだ……と衝撃を受けたのは、『九階のオバケとラジオと文学』(よはく舎)の著者である今井楓さんの「そのバケツの水を私にかけてください。」だった。行方の見えない文の道を手探りしながら進み、最後の1行まで辿り着いた瞬間、目の前にぱっと開かれる意識の風景に圧倒される。すごい才能だ。
10月某日 東京での仕事前に、高円寺の蟹ブックスをはじめて訪問した。『随風02』にエッセイを寄稿している店主の花田菜々子さん、そしてphaさん、古賀及子さん(いずれもすばらしい随筆作家)、書肆imasu代表の平林緑萌さんのサイン会が開催されると聞きつけたので、みなさんにご挨拶を、と。お店では、花田さん旅日記のZINE『44歳、目的のないイスタンブール一人旅の日記』と古賀及子さん『巣鴨のお寿司屋で、帰れと言われたことがある』(幻冬舎)を購入。読みたい本も漫画もたくさんあり、また行きたい。
10月某日 東京・赤坂の双子のライオン堂で、小説家の江藤健太郎さんとのトーク〈小説はどこから来たのか、小説は何者か、小説はどこへ行くのか〉に出演。江藤さんがみずから執筆し出版した『すべてのことばが起こりますように』(プレコ書房)と、ぼくが編集した髙田友季子小説集『ゼリーのようなくらげ』(サウダージ・ブックス)の刊行記念のイベントだ。
文芸出版のオルタナティブとは何か。いわゆる「五大文芸誌」の新人賞からデビューし、雑誌の発行元である大手出版社から単行本を刊行する従来の流れとは違う、新しい文芸出版のシーンが生まれつつあるのではないか。こんな問題意識から、江藤さんと楽しく文学談義をした。
小説集『すべてのことばが起こりますように』は、南米のマジックリアリズム文学や、デイヴィッド・リンチ映画のファンは好きだと思う。江藤さんはコーマック・マッカーシーの小説を愛読していると言っていた。
10月某日 今年のノーベル文学賞受賞者はハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースローに決まった。京都を舞台にした幻想小説『北は山、南は湖、西は道、東は川』の日本語版(早稲田みか訳)が松籟社から刊行されている。すでに版元品切れで入手が難しそうだが、読んでみたい。
インターネットでラースローの情報を検索していたら、芥川賞作家の松永K三蔵さんが松井太郎文学に注目し、「めちゃくちゃおもしろいし、ほんと凄まじい」と評しているSNSの投稿を見つけた。ぼくも敬愛するブラジル日本人作家の松井太郎さん(1917~2017)の小説集がラースローの本と同じ松籟社から出版されているのだ(『うつろ舟』『遠い声』)。松永さんは、次作のために日経移民の歴史を調べているという。『バリ山行』(講談社)など、松永さんの小説も読んでみたい。
10月某日 三重・津のひびうた文化協会で「ともにいるための作文講座」を開催。試みとして、チン・ウニョン&キム・ギョンヒ『文学カウンセリング入門』(吉川凪訳、黒鳥社)の中で紹介されている「全力疾走で書く」というワークショップを講座用にアレンジして実践してみた。参加者それぞれに思いがけない発見があったようで、手応えあり。
10月某日 台湾文学と韓国文学の本が届いた。白先勇『台北人』(山口守訳、岩波文庫)、イ・ラン『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』(斎藤真理子・浜辺ふう訳、河出書房新社)、ハン・ガン『かみなりせんにょといなづませんにょ』(斎藤真理子訳、小峰書店)。大学で東アジアの翻訳文学を読む授業をしているのでいずれ紹介するつもり。いまは、天野健太郎さんが翻訳した台湾の作家・呉明益の小説を学生とともに読んでいる。
10月某日 壺井栄の短編集『絣の着物』、在日朝鮮人作家・金泰生の名著の改訂新装版『私の日本地図』『旅人伝説』が届いた。いずれも琥珀書房のすばらしい復刊企画。なかでも1945年に北京で発行され、長く所在が不明だった壺井栄の作品の発見はメディアでも報道され、大きな話題になった。
10月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)の「からだとの出会い」。同じひびうたで開催中、「ともにいるための作文講座」の受講生である小川咲さんの作品が、「コトノハなごや」という短編文芸賞で入選20作にノミネートされたという。入賞作の選考はこれからとのことだが、うれしいお知らせだった。小川さん、おめでとうございます!
10月某日 資料調査のために横浜市立図書館へ出かけたついでに足を伸ばし、東京へ。神保町の「読書人隣り」という会場で開催中の産直ブックフェアをのぞきに行った。たくさん出版関係者とおしゃべりしつつ、文芸評論家の宮崎智之さんらのユニット・平熱書店のブースを訪問。『随風02』に話題のエッセイ「豊橋転覆」を寄稿している杉森仁香さんの小説『死期か、これが』を購入し、帰路の電車で読む。「死」をテーマにしたさまざまな人物への聞き書きを短い物語として描く実話小説風の連作。うまい!と思ったのは「軌道上に響く音」。好きだな!と思ったのは「海の祈り」。落ち着いたトーンの語りが味わい深く、また読み返したい。
10月某日 雨のハロウィン。学校での会議の合間に機械書房へ。店主の岸波龍さんといろいろと文学談義。機械書房が発行する小さな本、みーらさん&若松沙織さん&岸波龍さんの共著『中原昌也トリビュート』がおもしろかった。この日は、やはり『随風02』の寄稿者である作家・吉田棒一さんの短編集(小説とエッセイ)『イ・ジンターネット』を購入。これから読むところ。
古屋日記 2025年10月
吉良幸子10/1 水
朝からしとしとと雨が降る中、友人と井上有一の展示へ。9月に行こうと約束してたらまさかの閉館日やって、念願の展示!て感じ。日中も雨で薄暗いからか、人もまばらでゆっくり観られた。とにかく井上有一の作品が拝めれば、という気持ちで行ったんやけど、予想以上にむちゃくちゃ面白い展示で色々と吸収できた。
10/2 木
演芸場、初日。予約の抽選会にびっくりするほどお客さんが来はって、こんな世界があるんやなぁと感心する間もなく、あちらこちらと対応に追われててんてこ舞いやった。いっぱいの人に会うって疲れるんやね、クタクタになって帰った。
10/4 土
近くの商店街にある、昔からあるらしいお寿司屋さんに公子さんとお昼しにいった。カウンターだけのちぃさいお店で、握りたてのお寿司はやっぱりうまい!お馴染みさんが数人、大将とあれこれ話しておった。平日の昼からぎょうさん呑んでるなぁ…と思いきや、今日は土曜日か。劇場で働き始めて全く曜日感覚がなくなった。私の感覚では今日は絶対月曜日やのに。
10/8 水
朝からソラちゃんが二階へやって来て、ベランダからちょいと覗いて下におる工事の兄ちゃんに向かってにゃぁとご挨拶。最近二階で寝るのがすきらしくよう来てくれる。ベランダに丸い籠を置いたら意外にも気に入ったみたいでぐっすりとそこで眠る。いつまでこのブームがもつかは知らんけども。
さて明後日はhoro books演芸部主催の3つの公演の初回の日。もう日が迫ってるというのにギリギリまで準備をしておる進歩がない私…。ソラちゃんが寝静まったのを見計らって公子さんの部屋でロール紙をめくり用のサイズに黙々と切る。黙々と、というのは、お喋りしながらやってると、紙好き猫のソラちゃんが起きてきて派手に参加するから。無事に切り終わって二階へ戻り、畳に新聞紙敷いて準備する…が、近くにソラちゃんがおっては、起きてきて墨汁まみれになるやもと一旦別の準備をする。なんでこんな気使ってんやろ。しかもこんな時に限ってずうっとうちにおる。結局、夜になってやっとお出かけになられた。ということで、深夜にめくりを書きはじめる。一文字が顔くらいあるでっかい字を書くのは、普段ちまちまと描き文字をする身にとっては新鮮。井上有一を見た後に買った濃墨は、「濃」という漢字がつくだけあってむっちゃくちゃに濃い。おもしろいくらい真っ黒になるので書いてて楽しかった。大体を書いた頃、外が白っ茶けてきた。もう朝か、と布団に入る。
10/9 木
さぁ、もう本番前日!昨夜の続きを仕上げなければ、とめくりに挑む。ソラちゃんはベランダで寝てるけど、昨日はぐっすり夕方まで起きてこんかったし…なんて気を抜いてこっそり書きはじめていると、室外機の上からぴょんっ!とわざわざ書いてる紙の上へやってくるではないか!うわ、ばれた!!とすぐさまめくりを避難させる。墨はどこにもついてないしほっとしてると、めくり制作再開を待ち望むようにどこへも行かず、家の中であっちへ行ったり、こっちへ来たり…こっちの思惑がバレてんやろか。残りを仕上げたのはまたしても深夜になってからで、明日の体力をちょっと心配する。
10/10 金
今日は本番!夕方からの公演やのに朝からそわそわと落ち着かん。朝のうちに準備万端にして、お稲荷さんに大入りのお礼と今日の無事をお願いに行く。お昼過ぎに出発。大道具、本日不在の哲さんからこれだけ持って行けばいいから~と貸してもらった音響機材に、風呂敷に包んだ座布団と色々入ったリュックをくくりつけてガラガラと引っ張っていく。が、いかんせん重くて電車を乗り継ぐのが想像したより大変。来月はちょっと改善せにゃならんなぁなんて思いながらなんとか下北沢アレイホールに辿り着いた。今夜のお客さんは60名以上、いっぱいのお客さんで公子さんのご挨拶から「和田誠落語会」は愉快にはじまった。まずライネキブチウの音楽に、こどもたちが大ウケ大はしゃぎ!落語もみんな楽しそうで後ろから眺めてて嬉しくなった。特に紙切りは初めてというお客さんが多く、私の隣に座ってた七海ちゃんがキラキラした目で「すごいねぇ~!」と感動してたのがかわいかった。おとなもこどももわいわい賑やかに、ほんまに楽しい夜やった!
10/11 土
あー昨夜は楽しかったなぁ…という余韻もそこそこに、本日は劇場へ。落語会の前あたりに休館日がちょうど重なり、劇場出勤は連休になっておった。落語会の準備ができてありがたかったんやけども、昨日の今日で、今日からこちらは連勤となれば正直体がしんどい。でも気だけは張って次の休みまでなんとか…とがんばるが、さすがに夕方には充電切れでヘロヘロやった。だらだらと働いてもしゃーないし、夕方で切り上げて銭湯へ。お湯であったまった後、剣菱飲んで、気絶するようにどっかりと寝て回復を図る。
10/13 月
やっと連勤が明ける。身体を休ませる時間もないところに個人の仕事が入ったりして、ほんまにバタバタで余裕がなく、ちょっと体調も落ち気味。それでも帰ったら公子さんが晩ごはんを作ってくれてんのがほんまのほんまにありがたい。今日は山盛りパスタでとにかく食べて元気をつける。夜、うとうとした公子さんが見た夢がおもろくて、その夜作ったパスタを私が道端で300円で売ってたらしい。売るならさすがにもうちょい高くして!と訴えてるとこで目が覚めて、あれ、さっきパスタ売りに出てなかった?と言われたのには笑った。
10/21 火
体調がのらりくらりで余裕がなく、なんとなぁく元気が足りてない感じ。ハキがないまま劇場で朝掃除してると、後ろからうい~っと肘でコツかれた感じがした。振り返ると誰もおらん…おや、これはもしや…?とひとりで笑ってると、同僚も、ずっとあっちから見られてる感じがする、と。そりゃ何十年も経つ建物でましてや人が演じる場所、色々おるか!と妙に納得した。いつもはあほみたいに能天気な私。そんなヤツにわざわざちょっかいかけたところでおもろないし、普段はほっといてくれるけど、元気がないと気にかけてくれるらしい。と、なんか分からんもんに元気付けられて、ほんまにちょっと気が晴れた。
10/25 土
前職の同僚とお店に来てくれてたお馴染みさんが新しい職場へ芝居を観に来てくらはった。私も休みをとって3人並んで観劇する。働いてるとじっくり芝居や舞踊を見る時間がなく、日々の仕事に追われて単なる作業になりがちになっておった。そんな中、久しぶりにお客さんとして芝居を観るとやっぱり面白くて、初めて大衆演劇を観た時の楽しさや感動を思い出す感じがした。これからは月一くらいには観に行けたらええなぁ。
10/31 金
今日は久しぶりにさくらさんがうちへやってきた!来る途中に東京駅で買ってきてくれたお弁当を食べながら談笑する。コンビニに売ってる「ねこぱんち」という雑誌で猫漫画を連載するさくらさんは、ソラちゃんに会いたいに違いない。漫画にもソラちゃんを100倍美しくした猫が出てくるし。だがヤツは朝から外に出たっきり全然帰ってくる気配がない。仕方なく首輪につけた黄色いGPSの場所を携帯で見ると、2軒先におるらしい。見に行ってみるとほんまにおって、屋根の上から見下ろされた。降りてきてよ!と言うても外ゆきの顔、目は合ってても知らん顔。雨も降ってきそうやし、ちょっと待ってみるか~と一旦引き下がる。さくらさんがもう帰ろうか、と言うた夕方、雨もぽつぽつ降ってきてソラちゃんがにゃぁ~と窓から帰ってきた!まだうちにいてはる間に会えてヨカッタァ!!
さくらさんを駅まで送っていき、そのままコロッケを買いに十条の商店街へ。今日は誰にも会わんかな?と思いながら演芸場の前を通りすぎ、踏切の近くまでくるとおかみさんに遭遇した。休館日でもやっぱり誰かひとりには会うんやね。大好きなお肉屋さんでコロッケを買って喜んだのも束の間、年内いっぱいは休業するという張り紙が。悲しいなぁととぼとぼ帰り道を歩きながらふと見ると、前から見知った顔が…一緒に働く演芸場のお嬢、みほちゃんであった。むこうもあれ… ?ってな顔してる。何してんのと聞くと、暇やしひとりで飲みに行こかと…というので元来た道をまた戻って一杯ひっかけた。演芸場生まれの演芸場育ち、腹の底から明るい彼女に大衆演芸のあれこれを聞けて楽しい夜やった。
『アフリカ』を続けて(53)
下窪俊哉 先月の続きで、『言葉の花束』という小冊子を手元に置いて書いている。この1ヶ月は心に余裕がないというのか、時間の余裕もあまりなくて殆ど何も書けなかった。2016年4月から休みなく続けてきた「朝のページ」も、じつはこの10月、1日だけお休みした。「朝のページ」というのは、1日の始めにそのノートを開いて、思い浮かぶことを1ページ分書き出すという日課だ。その朝は時間に余裕のない旅行のさ中だったので、あえてノートを持参しなかったのだが、その朝の1ページは近日中に取り戻そうと思っている(つまりその朝は2ページ書くことになる)。休んでしまったら、仕方ないからまた翌日からいつも通りにやろうというのではダメで、どこかで無理して取り戻したい気持ちが私にはある。
心に余裕がない時には、いろんなものを浴びるようには読めない。読むものを選ぶことになるのだが、そんな状態でも『言葉の花束』はいつも手元にあった。作者は「をまつ」さんという人で、近年『アフリカ』を愛読してくださっている方のひとりである。連絡して訊いてみたところ、収録されている詩は10年以上かけて書き溜めたもので、その間の読者は、友人とその家族に限られていたということのようだ。ごくごく個人的なものである。
そこでは詩は、たとえば「安否確認」になる。
南風に尋ねます
きみが今日を
無事に過ごして
いるだろうかと
お元気ですか
きみの家族は
きみの住む街の
皆さんは元気ですか
全文は引用しないが、ここでは部分に注目する方が、際立つものがあるかもしれない。そんなふうに思いながら書き写している。これは「お元気ですか」と「尋ね」ている手紙のようなものかもしれない。しかし手紙と違い「きみ」に直接尋ねることはなく、「安否確認」は「風」に乗って漂っている。宛先は、じつはないのかもしれない。「きみ」のいる街は「南」にあるそうだが、「きみ」は長く会っていなくて連絡先もわからなくなった友人かもしれないし、昔に別れた恋人かもしれないし、もしかしたらもういない人かもしれないという気がする。
詩は、街の細部を照らし出しもする。たとえば書き手の住む「名古屋」は、こんなふうに現れてくる。
目を覚ますと
そこには街があった
土手の上で犬の散歩
町工場の
シャッターが開いて
小さいビルの
窓が開いて
喫茶店の
ドアが開いて
ささやかなスケッチというふうだが、よく見ると、そこには書き手の暮らしが出ているようだ。「その人」という詩があるのだが、「その人」とは、きっと彼自身のことだろう。
食品工場のある街で
故郷を思いながら
きつい仕事をこなす
その人の毎日を
その人が休みに
行きつけの小さな店で
故郷の料理に
郷愁を感じたことを
夜明け前の食品工場の
ボイラーの煙は
淡い夜風に運ばれて
あなたの街にたどり着く
その人が丁寧に
作ったその食べ物が
今のわたしのからだの
一部を作った物語を
これは結局、全文を引用することになった。「その人」は書き手自身であると同時に、見ず知らずの誰かでもあるようだ。詩はまた、問いかけにもなる。「なかったことにするな」という詩がある。
なかったことにするな
日々を積み重ね成長した
歴史の地層の厚みと深さを
繰り返され営まれてきた
遠い国の家族の暮らしを
なかったことにするな
路地に響き渡る
子どもたちの笑い声を
世代から世代に受け継がれる
言葉と文化をつなぐバトンを
この詩は『言葉の花束』の最後に置かれていて、一番長い。このように「なかったことにするな」で始まる連が11、並んでいる。読み進めるにつれ、戦争や紛争といった強者の歴史(?)を意識して書かれていることが感じられるが、反戦というより、諦観という方がふさわしい。私はその姿勢に共鳴を覚えるようだ。「なかったことにするな」ということは、「覚えておけ」「覚えておきたい」ということになる。書くことは、何かを覚えておきたいという願いと共にあるのではないか。
しかし覚えておくというのは、そう簡単なことではないようだ。最近の私は、こうやって書きながらも、同じことを前に書いたかもしれないという疑問を手放せない。酷い場合だと、先月書いたことすらもう忘れている(という話も前に書いたかもしれない)。印象深い出来事を覚えていて書くのなら、ある程度までは覚えているのかもしれないが、書き続けるということは(生き続けるというのと同じで)平々凡々とした日々の中にこそある。そこでは昨日何を食べたのか覚えていないのと同じことが起こる。しかし書くことで、残るのである。残ること自体を良いことだと言えるのか、そうとも言えないのか、微妙な感じがするのだが、とにかく書いたら残る。そういう感触が得られないとしたら、私はたぶん何も書けないだろう。
『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)掲載の対話「岡山にて」では、守安涼くんが乗代雄介さんから聞いた「言葉の役割は残すこと」という話を紹介している。先日、その乗代さんの『皆のあらばしり』を読んでいたら、それが具体的にどのようなことなのか、書き「残す」ということの深みに魅せられている。江戸時代後期に小津久足という商人・紀行家が残した書物と栃木市皆川の郷土史を着想とした、「皆のあらばしり」というフィクションの偽書をめぐる小説なのだが、関西弁ふうの喋り方をする謎の男が、語り手である歴史研究部の高校生にこんなことを言う。
「書いたもんはすぐに読んでもらわなもったいないと思うんが大勢の世の中や。ひょろひょろ育った似たり寄ったりの軟弱な花が自分を切り花にして見せ回って、誰にも貰われんと嘆きながらいとも簡単に枯れて種も残さんのや。アホやのー。そんな態度で書かれとる時点であかんこともわからず、そんな態度を隠そうっちゅう頭もないわけや。そんな杜撰(ずさん)な自意識とは対極にある『皆のあらばしり』みたいなほんまもんを引っ張り出すんがわしの仕事やねん」男はおもむろにぼくの肩に手を置いた。「素敵やん?」
それを素敵と思うかどうか私は知らん。ただ、発見した者から見て何のために書かれたのかよくわからない「本」が現実に(あるいはフィクションの中に)存在していて、そういうものに自分がものすごく惹かれることは確かなようだ。書かれていることが本当のことなのか、あるいは嘘なのか、読者には完全に判別することが出来ない。「書く」ということはそういうことなのだ。そんなものを、何のために書くのだろう。自分自身のため、だろうか。それもアヤシイ。そもそも書き手は、何のために書いているか、わかっているものだろうか。仮にわかっているとしても、それは持続するものだろうか。書けば書くほど、わからなくなってくる。そのわからなさに私は魅せられているということではないか。
豆のスープの水溜まりとスズメバチ
イリナ・グリゴレ夢のなか、祖父母の村のメインストリートを歩いた。駅へ向かっている。一人じゃなかった。背の高い人が一緒に歩いている。最近、よくある話。夢でしか会ってないけど、一緒に歩いている。あのときルーマニアに残した彼ではないかと、たまに思う。彼とも夢で最初に出会ったから。でも違う。背の高さだけ同じで、あとは雰囲気が全然違う。一緒にいて安心できる。先日見た夢では一緒に歩いて、そして雨の後に昔よくあったように、道路に水溜まりができていて、前に進むためには真ん中を通るしかない。それで一緒に水溜まりのなかに入ったけれど、水溜まりではなく、祖母が断食のころによく作っていた私の大好物の豆のスープだった。豆のスープの中を歩いていいのかと思いつつも、足を漬けた。食べてないのに足から栄養を吸うような感覚。そんな水溜まりのような豆のスープの中を、二人で歩いていたときに起きた。
最近、言いたいことがあり過ぎて、直接人に言えなくなっている。SNSを通して伝えている。いいか悪いか、どうでもよくなっている。一番伝えたいのは「怖くない」ことだけど、みんなが臆病な世界だから、これも無駄。胸を張って誰に向かって「怖くない」と言っても、聞く耳を持ってないし、詩のような遠回りする伝え方のほうが一番いいけど、詩なんて誰も読まない世界になってしまった。プロパガンダについての本を頭で書いている途中だから、こうなっても仕方ないけど、矛盾を発見する度に言葉をもっと嫌いになる。ジプシーの友達のようになにかあるとき唾を吐くほうが下品だけど効果がありそう。つまり、口から出すものは言葉ではないほうがいいと、昔から知っている。ゲロ、唾、食べ物を吐き戻す赤ちゃんのように。あとは口でキスすればいいし、噛めばいい。
朝に起きたとき、口の中が痛かった。寝ながら自分で自分のほっぺを噛んで、食事もできないほど痛い。口を開けると大きな傷が見えた。自分で自分を食べ始めたのかもしれないと思った。自分の尻尾を食べる蛇のイメージを思い出して、あれはなにかミスティックなシンボルだったけど、思い出せない。それより、口が痛過ぎて喋れないし、顔の半分が麻痺している気がしたから、脳梗塞のサインではないかと心配になった。調べたら、スマイルできない、片手を上げさえできないのが危ないので違っていた。でも身体が麻痺している感覚が続くのに、子供のために動かないといけないので、私も冬眠できない熊のようだ。
先月、東京に2回行って、その疲れが出たに違いない。ワンオペで子供たちと向き合って、なおさら麻痺してきた。SNSで政治に暴れている半面、自分の日常はヴィム・ヴェンダースとリンチのような映画に近い。ある種の静けさを見つけた気がする。怖くない静けさ。そしてこの感覚に世界が反応する。車で過ごすことが多いけど、あるとき道路に私以外車が走ってないし、人が誰もいない。もう世界が静かに終わったのかと思えるような場面が増えてきた。吉祥寺までのタクシーもこのようだった。今回は韓国映画の中にいるみたい。人間関係の難しい映画、ホン・サンスの『草の葉』みたいな。神田川の話を思い出した。緑色の川、テラスでコーヒーを飲んでいるカップルはいつか結婚するのか。
次の日に井の頭公園に面したデンマーク風カフェに行った。いつもコンクリートの壁と熊のぬいぐるみの絵が明るく出迎えていたのに、今回は入った瞬間から不思議な電波を感じた。カウンターの子が二人とも私の後を見て、フリーズしていた。あの静けさか、ここも世界が終わっていたのかと思いながらテーブルに座ったが、あとでわかった。入り口のドアの窓に大きなスズメバチがいた。青森で見るのと同じ大きさ。カフェの後にある子豚ふれあいの店も静かだった。怖くなかった。スズメバチは自分の世界に入ってじっとしていたけど、カフェの雰囲気が前と全然違って、もうここに来ないと思った。スズメバチが私に何か大切なメッセージを伝えたと思った。この世界では生きているのはスズメバチしかいない。
外に出ると井の頭公園のトイレの前を通り、雨が降り始めた。シルクの白いブラウスに雨跡が残った。この井の頭公園のトイレは『パーフェクトデイズ』のロケだったに違いないとなぜかトイレに魅力を感じる自分がいた。音楽と本と映画があれば、この静かな世界で生きられる、わたしも、と急に居場所を見つけたようだった。豆のスープの水溜まりの中で歩いた人が誰だと、私はいつも誰かを探す感覚とともに生きていると、空港へ向かうバスではっきりした。誰だったのか知っている。きっと弟の一人。また夢で会おう。ゲームセンターに入って一人でUFOキャッチャーしようとしたが、全然できなかったから悔しくて泣いた。東京まで来たけど、どこにいるの?
印象と表現
高橋悠治何も思いつかなくても手を動かし、書き続ける。こうして今書いているように、毎月何か書いていると、同じことを繰り返し書いているのかもしれないが、書いたことから別な何かが生まれるわけでもなかった。
字を書くよりは、音符を書きたい、ところが、ずっと使っていた Finale という記譜ソフトが開発をやめたという知らせを受けてから、使っていた機械に入っているソフトも何故かうまく動かなくなった。手書きに戻っても、今度は手が動かなくなっている。音符は記号として打つのに慣れてしまったから、一個ずつ形を手で描くことにまた慣れるまでに時間がかかり、その間に思っていた形は逃げていく。
そうなると、思い描いた音の動きそのものも、ありふれたフレーズではないか、と疑いがきざす。
一方、20年ほど前に書いた曲を弾くことになって、楽譜を読み返すと、演奏法がわからなくなっている。その時の方法は、説明なしでわかっていたから、書き残す必要を感じなかった。その時の録音でもあれば、見当のつくことがあるかもしれないが、何も見つからない。
そうなると、記号の読み方、あるいは残っている楽譜の断片だけを使って、それ以上書かないで演奏することができるか考えることになるだろう。それができたら、その結果をもっと簡単に書く方法も、見つかるかもしれない。
1950年代から使われていた図形楽譜と記号の説明のように、複雑な分類ではなく、説明のいらない、できるだけ少ない種類の記号で済ませられるように。
音の動きを、眼に見えるような形の変化から、耳に聞こえるような響きを経て、楽器の上の手触りの感触へと、身体化して近づきながら、全身の身振りとして感じられるとき、印象(impression)が表現(expression)に近づくのだろうか。
2025年10月1日(水)
水牛だより雨が降り、気温も20度を下回っている東京ですが、体感はまだ夏のまま、そろそろ秋かなという感覚です。お彼岸もすぎて、日の入りの時間は刻々とはやくなっているというのに。
「水牛のように」を2025年10月1日号に更新しました。
それでも秋はあやまたず近づいています。そのせいなのかどうか、今月は長い原稿が多いですね。もうすぐ秋の夜長にお楽しみください。
ルーマニアのマリン・ソレスク原作による佐々木蔵之介ひとり芝居『ヨナ-Jonah』が明日から上演されます。パンフレットの解説をイリナ・グリゴレさんが書いています。「見る前とか見たあとのタイミングで読んで、どちらにも魅力伝えたいと思った」とのこと。
ギョウジャニンニクをはじめて食べたのは、もう40年は前のことです。札幌から東京に来た詩人の江原光太さんから醤油漬けの瓶詰めをいただいたのでした。密封されているはずの瓶からそこはかとなくただようニラのような香り。いまニラを小さく切って醤油につけたりしますが、似ているけれど格段に強い香りで、食べると元気になるのでした。江原さんは詩の朗読を精力的におこなっていて、「朝鮮よ、泣くな」ではじまる小熊秀雄の「長長秋夜」は忘れられないものです。何度もくりかえされる「トクタラ、トクタラ」を青空文庫でぜひ。
それではまた来月に!(八巻美恵)
009 プラス、かける、代り
藤井貞和(AプラスB)Cは(A)Cプラス(B)C。
AかけるCは「関係させること」だから、
4に3を関係させるとは、3倍することで、
5も3倍することになり、4プラス5は9で、
3をかけると27になる、うそではないか。
プラスを夕暮れ時が連れ去ると、そっと「かけ」て、
Aに残土のBをくわえ、夕陽があかあかと、
3倍にする。――計算ちがいではないか。
さきほどから、ひぐらしの夏が引き算を誘う。
数学の入門書はしずかな汚染によって、
惨たる割り算を繰り返す。 あわれな建築家よ、
ひかりの堂宇を四則が這いのぼる、その時、
文字のない世界から亡友が還ってきました。
数字は数(すう)の「代り」なのだよ、
それを代数と言う。 おまえさんは記号だと言う。
三つと四つとがどうして「記号」なんだと、
また喧嘩がはじまった。
(新しい詩集を編もうとすると、詩篇が釣り上げたお魚のようにぴちぴちと抑えられなくなる。体力をうしなって、文字が逃げてゆく(小説家はさらに体力を必要としたでことしょう)。亡友は「詞(ことばだたかい)戦」〈『現代詩手帖』二〇二五・一〉に出てくる旧友で、数学をおしえてくれた。「ことばだたかい」は合戦が始まるまえに悪口を投げ合って相手を挑発すること。不愉快な言葉なので、このたびは「闘(とうし)詩」と改題する。)
製本かい摘みましては(195)
四釜裕子文字と絵や写真による手順解説は、これからすっかり動画にとってかわられるのだろうか。私が担当する製本ワークショプでは、作り方を書いた紙を配らずに簡単に板書して「まずはここまで」「次はここまで」とわりと細かく分けて実演してきた。今年試しに少し長めに通して実演してみたところ、なんとほとんどの人が一度で理解してしまった。ちょっとマジで驚いて「なんでわかったの?」と聞いたら「見たからわかります」と言われ、もっと驚いてしまった。たまたまなのかどうなのか、人類の動画認識能力とかその再現能力みたいなもののめまぐるしい進化を見せつけられた気がして、それで冒頭のようなことを思った次第。
手製本の手順解説といえば栃折久美子さんだ。栃折さんのルリユール工房でもらった自筆図解入りのコピー、あのイラストの柔らかいタッチは見るだけでわくわくした。ご自身のエッセイ集の表紙にも使っておられるから、あぁ、あの感じねと思い浮かぶ方がいるかもしれない。栃折さんにはハードカバーの製本手引き書もある。『手製本を楽しむ』(1984 大月書店)は的確な写真と文章で細かく手順が示されているし、『ワープロで私家版づくり』(1996 創和出版)になるとワープロを使った本文の編集・面付け・プリントまで解説してある。実はその丁寧さと完璧さで私などはおじけづいたクチで、このとおりやればきっとあなたも綺麗にできますよという優しさによるプレッシャーと、じゃあこのとおりやればいいのネみたいな、できもしないくせに強がる相反する気持ちからだったろう。久しぶりに読むと栃折さんの口調がたちまち蘇ってきて、そうかこれも栃折さんの製本エッセイだったんだなと思う、写真多めの。
実はこの2冊、ワークショップで作り方指南書として紹介すると「難しそう」と言われることがある。ケータイ動画デフォルト世代にしてみたら「動画はないの?」だろうし、モノクロ写真に長めの解説だから、ぱっと見て、手順の多さや手順書を読み解く面倒くささを先に感じるのかもしれない。作り方を知りたいのならやはり動画がいいだろう。これだけ手軽に動画を撮ったり公開したり再生できるようになったのは最近のことで、それができなかったから、文字と絵による手順解説リテラシーを作るほうも見るほうも互いに積み上げてきたのですもの。この先、手順解説の動画化が進んで心配なのは停電だ。そんなときによりによって何かの手順を知らねばならなくなった場合に、まず印字された紙ペラの手順書をうまく入手できるかどうか。できたとして、それを見てくじけず理解する気力がわれわれに残されているのかどうか――。
8月に聞いたTIGER MOUNTAINでのレクチャー「ブックデザインのオルタナティブ(1)」(ホスト:室賀清徳さん、聞き手:若林恵さん)で、ゲストの郡淳一郎さんが栃折さんの仕事に触れていた。「編集装丁・社内装丁」をテーマに戦後から現在にかけて担った人を3章に分けてのお話で、第1章「4人の復員兵」が田村義也(岩波書店)・小尾俊人(みすず書房)・伊達得夫(書肆ユリイカ)・吉岡実(筑摩書房)、第2章「フィメール・インハウスデザイナーズ」が栃折久美子(筑摩書房)・中島かほる(筑摩書房)・大泉史世(書肆山田)・望月玲子(新潮社)、第3章「作家主義批判者たち」が花森安治(暮しの手帖社)・多川精一(平凡社と)・前川直(新潮社と)・平野甲賀(晶文社と)の各氏であった。郡さんは自身のXでこのテーマについて書いている(2025.8.2)。〈「編集装丁・社内装丁」とはつまり、アーティストとデザイナーによる自己表現でなく、編集者と製作者による自己否定のブックデザイン。グラフィックデザインの共時性、作家性、多様性でなく、出版の通時性、無名性、共同性に根ざす。映像と言語による汚染から物質と精神を救出することは可能だろうか?〉。
レクチャーではこんなこともおっしゃった――きょう見てきた本たちは高いところに憧れたり深いところを見て足がすくむとかそういう感覚がある、書き言葉というのは「水平」の喋り言葉に対して「垂直」で人を内省させ孤独にする、時代の表層を見て平台を気にして消費者にどう見えるかを水平軸で見て装丁する人がいるけれども、本が担うのは垂直性、高さと深さの感覚なんだ、そして、本の美しさは矛盾の強さだと言いたい――。正確な引用ではないのでトークの文字化を心待ちするわけだけれども、当日オンラインで聞きながら、栃折さんが筑摩書房からブックデザイナーとして独立した1967年頃に書いたエッセイを思い出していた。日本で「ブックデザイナー」を名乗ったのは栃折さんが最初という説があるが、栃折さんがその言葉に込めた思いは、徐々に世間がイメージするものとかけ離れていったようだ。その原因の一つになったと思われる、装丁を表層的・平面的、単独でとらえるものへの嫌悪を書いた部分をいくつか見てみよう。
当時のグラフィックデザイナーの中には、表紙のデザインをするのに、やたら刷り色を増やしたりやたらたくさん造本見本を作らせたりやたら何度も校正刷りを出させたり、挙げ句の果てには校正を見てから版下を入れ替えたりする人がいたそうだ。それを目にして、こんなのはすべてデザイナーとしての〈無能〉だと言い切っている。そしてそこに作家性みたいなものをまとわせようとする”デザイン界”は、居心地最悪、と。〈誰がどこで何のために使うお金であっても、よく使われてほしいと思うことと、当たり前のことを当たり前のこととして感ずることとは、別のことではないし、ここに書いた居心地の悪さは、病死した豚を売る食肉業者や郵便物を川へ投げ捨てる配達夫に対して感ずる気持と、つながりのあることに思えておそろしくてたまらない〉(『製本工房から』p30)。筑摩書房で編集も装丁も経験してきた栃折さんだ。〈意識ばかり先走ったデザイナーと、安全性と常識を重んずる依頼主〉(同p27)、そのどちらの立場も理解していた。
デザイナーの仕事については、なんといっても〈私は装幀という仕事の全体を一人でしているとは思っていない〉(同p49)。なぜなら〈誰にも全体はわからない。受け持たされている仕事をほんとうに正直につきつめてゆけば、それは隣合った仕事と自然につながって、つぎ目の目立たない全体になるのである。デザイナーの役割は、装幀という仕事の中で、他の人たちが分担していることのすべてと隣合っている最も直接の部分を受け持〉ち、〈つくろうとしている本の内容と条件という、いわば一種の異物を、のみ込〉まねばならず、しかし〈誰かがそれを身体に引き受けなければ、ものの形は生まれない〉(同p53)。〈おそらく仕事というものはすべて、異なった方向に働き合う力のつり合いが、かたちづくって行く境界線を、外観とするものだろう〉(同p28)。全自動無線とじ製本機については、〈1時間に何万冊もの本を「生産」する製本機は、「大食い」ですから、たくさんのエサ、つまり製本の注文が必要です〉(『装丁ノート』p79)。その「エサ」を、用意する側にあるデザインの仕事の恐ろしさをこんなふうにも書いている。〈出来そこないでも何でも、それがいったん私の手を離れたらさいご機械がうなり出して、同じ出来そこないが何千何万という数にふえてしまう〉(『製本工房から』p52)。
その後、栃折さんは1972年にベルギーでルリユールを学び、帰国してアトリエを構える。1980年から2002年までは西武百貨店池袋コミュニティ・カレッジ内でルリユール工房を主宰した。
ところで、『ワープロで私家版づくり』には栃折さんの詩が載っている。こんなものもワープロで作れますよという例として、「雨」ひと文字と「完」ひと文字でそれぞれ作った作品2つだ。栃折さんの『装丁ノート』(1987 創和出版)のほうには、活字の「の」ひと文字で組んだ作品がある。エッセイ「幻の雑誌『あん』」によると――1968年頃、英国製の小型活版印刷機アダナを買ってこれで詩集を作ろうと仲間を募ると、筑摩時代の先輩や同僚7人がのってきた。原稿が出来た順に版を組んで試し刷りをしたが4人分で頓挫。このとき栃折さんが用意したのが、6ポから36ポまでの「の」を組み合わせた作品「の」で、他の3作品は数字だけで作った作品1つと〈まっとうな詩〉が2つであった――。『装丁ノート』は『製本工房から』(1978 冬樹社)と合わせて集英社文庫(1991)に入り、『美しい書物』(2011 みすず書房)にはエッセイ「幻の雑誌『あん』」が入ったが、両書ともに「詩作品」自体は掲載していない。
虎か
芦川和樹虎か
綿菓子の雛
知らないテーマパークのマスコット
指に嵌める人形つまり指人形
毛蟹
ゴスペルを歌う雲。雨雲、なにも
なにも習慣にならないままで
根こそぎぜんぶを
かかえてさ
加速だとか、加熱。する
脚を、くだらないと思いますが
ロールケーキに付け替えます
ほらくだらない、あほ毛
になってシュルシュルいう
弱らないいきものは
完璧な記憶と
完璧な布 の端にすわった火を、}食う
机
かさぶた
打撲、膝ぶつけた
小指がいたいのは
脱走したマスカットの肌皮膚を
つかんで
うばったからさ
虎か、ずっと先の、虎だね
盗んだ金を見ろよ
盗んだ金だろ
壊したもの
1000まで数えて
目を閉じなさい、つねる
呪いさ
呪いじゃなくて
ただマグカップは
落ちたんだった
ふちが、欠けた
胡桃
く、、、うしなうわけではないでしょ
胡桃を、割って
香辛料が手に入る。なにも、うしなうわけ
ないでしょ。厚手のスウェットを、}何度もくぐって、これは移動なのだから。カラフルなシナリオだったのね。わずらわしい、雲の複雑が、あたまに載っかっている。冷蔵庫に梨があるとか、鉛筆が煤けた頬を得意げに、閉じた目に、そのペットボトルの内容を。
むもーままめ(51)超移動!駅ワープの巻
工藤あかね最近ようやくわかったことなんだけどね、ちょっとまって。みんな信じるかわからないから言うのやめようかな。えっ聞きたい? じゃあばかにしないで聞いてくれる?
ここ最近のことだけれど、なぜか超能力が使えるようになったみたい。
驚かないの? それとも、みんな使ってたりする? 本人が超能力遣いだって自覚するまで黙っている掟だったりして、ふふ。超能力って、子供の時はできそうな気になってたじゃない? 少し残したカルピスがもう一度グラスいっぱいまで増えますようにと願ったり、開いた扉をみつめて閉まれ!と念を送ったりしなかった? まあ昔のことはいいんだけど、大人になって国内移動距離が伸びてきたからかな? とにかくこんなことができるようになるなんて、全然知らなかった。
この間、東武東上線に乗っていたら、次が霞ヶ関っていう駅だったの。「ああ、東京メトロだけじゃなくって、埼玉県にも同じ駅名があるのね」と思った次の瞬間、なぜかわたしは丸の内線に乗っていて次が霞ヶ関だったの。びっくりした。何とち狂ってんのかっておもったわ。ちなみにお酒は飲んでなかったから。仕事がおわって、一刻も早く家に帰りたいとは思っていた。東京の霞ヶ関はそんなに近所でもないし、あまりありがたみはなかったけれど。
ところで、この移動能力ってみんな知っていた? 誰でもできるわけじゃないの? ちょっとうれしい。特技欄に移動/駅ワープ、とか書いちゃおうかな~。
ちなみに、翌日も同じようなことが起きたから聞いて。銀座線に乗っていて、「次が京橋だなあ」とぼんやり思っていたのね。それで瞬きしたら今度はJR西日本の車内にいて京橋駅に着いちゃったの。それで、せっかく大阪まで来たから少し遊んで帰ろうと思って動物園に行った。帰りは堺筋線に乗って「次は日本橋」と小さく呟いたら、東京の日本橋に飛んでいたからすぐ帰れちゃった。これができるようになってから、今度はどこの駅からどこへ行こうか、考えるのが楽しくて楽しくて。
都市が違っても駅名が同じならワープできるってことよね。これはほんとうに便利で助かる。たとえば東京の平和台から千葉の平和台にもぽんと行けるじゃない。東武東上線で「次は森林公園」と唱えたら北海道の森林公園に行けたり、東京メトロ千代田線で「次は赤坂」と念じると、群馬にも山梨にも福岡にも岐阜にも広島にも愛知にも福井にも行けちゃうってことでしょ。
ちょっと調べてみたら、大久保という駅名は東京のほか京都、兵庫、秋田にもあるし、本郷駅は東京のほか長野、愛知、広島、福岡、そして以前は北海道にも本郷駅があったみたい。白石駅、橋本駅、黒川駅、小野駅、高田駅、住吉駅など、複数のワープポイントを持つ駅が他にもあるんだって。ふふっ、全国各地ワープし放題!!そういえば、ドラえもんのひみつ道具に「どこでもドア」っていうのがあったけれど、だいぶそれに近づいてきたかな。まあ、まだまだ条件はあるけれど。
今度試してみたいのは、地名でもワープができるのかどうかってことなのだけれど。名古屋の桜通線の丸の内駅から、東京の丸の内付近に飛んだり、大阪の千日前線の桜川駅から東京や茨城の桜川あたりにもワープできるのかな。これができるとさらに便利だよね。
そうそう、あちこちにナントカ銀座って名前のついた商店街があるでしょう? 東京メトロ銀座線の銀座駅から全国各地のナントカ銀座商店街にも飛べるのかな。たとえば銀座のあたりで贈答品なんかを買ったりした帰り。本当は夕食の買い物もしなくっちゃいけないのに遠くて面倒だなあ、と思ってしまう時ってあるでしょう? そんなときに、この超移動が使えたら最高じゃない?
「文明の思考」のダムと蟋蟀
イリナ・グリゴレ祖母の夢を見た。彼女の家は、亡くなった当時と変わらぬ佇まいだった。だが、外に出ると、そこは高層ビルに囲まれたコンクリートの世界。庭も木もなく、ただ灰色の塊が広がる。暗い。まるで祖母の家がそのまま東京の中心にぽつんと置かれ、私が祖父母とひっそり暮らしているかのようだった。いつかブカレストも開発に飲み込まれ、わずか30キロしか離れていないあの家も消えるのだろうか。東京やイスタンブールのように。目が覚めたとき、その息苦しさが嫌だった。ビルの隙間から空さえ見えない。それなのに、次の瞬間、「また東京に住みたい」と強く思った。近いうちに東京へ引っ越す。死と苦しみと踊り、失った者を胸にしまい、人生をやり直す。出口を探すのではなく、あの家の入り口を自分の中で大きく開く。私はきっと、留まることのない人間なのだろう。
『この村にとどまる』を読んでから、ずっと心に引っかかっていたものを手放せた。10年間私を苦しめた人との縁を切った。豚の内臓をハサミで切り裂き、糞尿が流れ出すようなイメージを、頭の中で何度も繰り返した。血は出ない。ただ、溜まった廃棄物だけ。あの人は私にとって、死んだ豚と同じだ。だが、その肉は食べない。病んだ豚の肉は誰も食べず、捨てるだけ。野良犬が食い、虫が食う。食べられない肉を憎むことすら、もうできない。ただ、歴史の暴力の一部として記憶に残る。『この村にとどまる』が描くように、人間は無駄なダムを築き、人を殺し、「進歩のため」と言いながらエネルギーのために暮らしを壊し、独裁者を生む。この仕組みをもっと深く考えたい。人間社会が独裁者を生む仕組みを。それは例外ではなく、身近なことだ。家父長制の極端な形にすぎない。
縁を切って、すっきりした。10年間、我慢し続けた。まるで憑き物が落ちたように、体が軽くなり、肌がつるつるになった。娘たちと、ルーマニアから一時来日していた母と過ごした3ヶ月は、幸せであっという間だった。よく笑い、よく食べ、映画を見た。青森市のペットショップの近くの映画館で。あのペットショップから同じ日に3メートルあまりの蛇が逃げた。母は祖母と最も長い時間を過ごした人だから、知らなかった祖母のエピソードを聞き、ますます愛が深まった。ある朝、母とコーヒーを飲みながら夢を語っていると、祖母もそこにいる気がした。母がお土産を買うたび、「おばあちゃんにこれどう?」と言いそうになることが何度もあった。研究で死について考え続けた私が、ようやく大事な答えを見つけた。
娘たちはピジンルーマニア語を話し、飼い犬のキャラメルはルーマニア語の指示に普通に反応する。母とコミュニケーションが取れない者など、この家にはいない。この世界は私が思うほど複雑ではない。分かち合い、理解し合うことは普通にできる。ただ、怖いだけ。臆病なだけだ。母は娘たちにルーマニア語の祈りを教え、毎晩、可愛い声が家中に響くたび、これからまだ楽しいことがたくさんあると信じられる。母は祖母と同じように、食べた果物や野菜の種を植える。知らぬ間に小さなスイカやパプリカの花、朝顔、ハーブが育ち、家は前より鮮やかになった。ラズベリーは、ある日突然、赤い実が爆発するように実り、終わりがない。今の私の脳と細胞は、ラズベリーでできている。
ある日、家に大きなメスの蟋蟀が現れた。窓を開け、ラズベリーの茂みへ放した。家の周りでは、蟋蟀の求愛の鳴き声が響く。あの大きなメスは、この蟋蟀たちの母だったのだろうか?
青森市の蛇がペットショップに戻ったころに、母が帰国し、しばらく気だるかった。この10年間、よく我慢した。一人で全てを背負えないし、これからもそうしようとは思わない。祖母も、母も、私も、蟋蟀の母も、同じ場所にいなくても、土の中の卵のように、この地球に分子として存在する。日本にいる間、母の幼馴染が亡くなり、叔母の初恋の人が自殺したと知った。母からあの村の知らなかった話を聞いたが、私にとってあの村はダムの下に沈んだと。母も父もあの村を離れるべきではなかった。私も日本の大学院に進まず、祖母の家に帰るべきだった。あのジプシーの男と結婚すればよかった。野生の思考の反対とは、なんだろう?「文明のしっこ」?
夜の山に登る(7)
植松眞人 朝の光が、海と街をまとめて背負ったような稜線に薄く差してた。ビジネスホテルを出て坂をのぼって、僕は六甲山を目指す。標高九百三十一メートル。数字だけを見ると、決して高い山やない。けど、神戸の街から見る六甲山は神戸の背骨のようやった。
そんな街と一緒に呼吸する山へはいくつかのアプローチがある。車で上る者、ケーブルカーに乗り込む者、そして、僕のように歩いて行く人も少なくない。けど、この山は地元のもんにとっては、遊びで行くことの多い山や。みんなが遊ぶつもりで六甲山にのぼっていく。でも、いまの僕はあんたと向き合うために向かってる。妙な気持ちや。登山道の入口にはイラストの描かれた地図があって、六甲山牧場や高山植物園の場所が示されてた。あんたが電話で言うてた高山植物園までの道は迷いようがないと思う。真っ直ぐな一本道や。
僕は弾むような気持ちでもなく、沈むような気持ちでもなく、ただただ、歩き続けた。ほんの少し前を見ながら、できるだけ何も考えんようにしながら足を交互の一歩ずつ進めた。ぼんやりしてると、ついついあんたのことを考えてしまうからな。そうならんように、僕は舗装道路に落ちている折れた枝を見つめ、飛ぶ鳥を見上げ、肌を刺す虫を叩きながら歩いた。そうやって歩くと、子どもの頃何度も訪れた六甲山が、ただ遊ぶための山ではなく、僕らの暮らしを支えたり脅かしたりしてきたんやろな、という気持ちになった。
急なカーブをスポーツタイプの赤い車がけっこうなスピードで走り去る。ほんの少し危険を感じて、僕は立ち止まり道路の隅に寄る。そして、振り返ると神戸の街が広がり、その向こうに青い海が広がっていた。
耳を澄ますと、街のざわめきが聞こえてくるような気がしたんやど、それはきっと勘違いや。風が街のほうから吹き上げてくる。砂埃が目に入る。一瞬、視界が遮られ、僕はその場にうずくまる。車が走ってくる音が聞こえて、うずくまったままじっと車が通り過ぎるのを待つ。薄く目を開けると、そこに見えたのは車ではなくオートバイやった。運転する男の後ろにはヘルメットから長い髪を揺らしている女が乗ってた。しばらく、目をしばたたかせて涙で埃を流すと、僕はゆっくりと立ち上がった。そして、持っていたペットボトルの水でハンカチを濡らして、目の周りを拭く。視界に飛び込んできたのはバス停の標識やった。
高山植物園はバス停の近くや、という声が聞こえ、新幹線の窓に映った自分の顔を思い出した。この近くに、あんたの「どうでもええ」が置かれているんやと僕は思った。
また風が吹いた。草の匂いと、バイクが残したオイルの匂いがした。その合間からあんたの匂いがしている気がした。(つづく)
3776
北村周一なにものかに弓引くように撓みたる島かげは見よ全身真っ赤
あわれあわれ
プレートの上に
のっかって富士の
すそ野はどこまでがすそ野
燃え滾る海溝あまたしたがえて
美と崇高の極みねむらず
百十一の
火山犇めく
列島の
まなかちいさき
フジツボがひとつ
夜の月にもっとも近きお山なればかぐや姫にも愛されたるらし
背の高い火山は崩壊しやすいと
『岩屑なだれ』学者は言うも
音速をはるかに超えてなだれ来る
ブラスト(爆風)凄まじわが身を焦がす
くろぐろと白きゆきふるその日までのどけからまし霊峰不二は
活火山は
おそろしけれども
自然なり
自然なるゆえ
予想を超える
美しき
円錐形の
奥の奥の
マグマそれこそ
不二をつくりぬ
地震
カミナリ
雨アラレ
なんでもありの
富士山麓にオウム啼くとき
めぐみゆたけき火山への返礼として
冨士の高嶺に川ウナギ昇れ
墓参り母をさそいし彼岸入り
冨士霊園はほどよく遠い
近過ぎても冨士は拝めず霊園のもみじ色づく墓地のしずけさ
口を吐くけむり輪となるのどけさよ
冨士のすそのに墓まもるひと
ながながとつづくフェンスにみえかくれヘクソカズラと武器と赤富士
右岸より
ゆうべの不尽を
言祝ぎつつ
二子玉川駅に入りたり
それにしても
日本平というところ
富士見るためのなだらかな丘
三保の沖ゆふり返り見れば屏風絵のごとく富士あり清見寺あり
不二がまず
ありてそれから
羽衣の
三保の松原
生れにけらしな
はごろもの
松はいつしか
銭湯の
空間絵図と
なりて気恥ずかし
まどを開け久能街道を疾駆せり うしおにぬれて佇つ夏の冨士
やがて火に焚べられるもの
越川道夫過酷な夏だったと思う。度が過ぎて暑いのにも閉口したが、まるで拷問のように鳴り響く工事の音と揺れに悩まされ、自分をめぐる状況も決して良いとは言えないものがあった。9月になっても工事は続いているし、幾分和らいだものの暑い日は暑い。それでも日照時間の関係だろうか。燃え上がるような林の緑にも、少し黄色が目立ち始め、落ち葉や木の実が足元に落ちている。ユリの季節が足速に去ると、今まで何の気配もなかったところに曼珠沙華が急に茎を伸ばし、林の中や道端に真紅や乳白色の花を咲かせている。群れて咲いているのも壮観だが、やはり林の中の思いがけない樹の影などに、少しだけ身を寄せるように咲いているのを見るのが私には好ましい。
暑さはともかく工事の音や振動で家ではどうも何も考えることができず、仕方なく図書館や喫茶店を利用することになるのだが、こちらは冷房が寒く、体が冷え切ってしまい快適とは言い難い。暑くても林の中にベンチと机があれば、その方が気持ち良いくらいなのだが、これも蚊との攻防があり、なかなか上手くいかないものだと思う。
とにかく読みかけの本とノート、それから筆記用具を鞄に詰めて出かけ、書かなければならない原稿があるときは、それを書き、そうでなければノートに万年筆で抜き書きをしながら本を読んでいる。全部の本をそのように読むわけではないが、これはと思った箇所をノートに書き写すのが若い頃からの癖である。ただ黙読したり、気になった箇所にマーキングするだけでは、どうも心もない。読んだものが身になっている気がしないのだ。手を動かして、自分の体の動きとともに、頭だけではなく体全部を使って読む方が良いようである。書き続けていると手や腕が疲れるのはもちろん、筆圧が高い上に万年筆などの筆記用具が上手く持てない、指先で押さえるのではなく中指の第一関節あたりと人差し指の間でまるで握りしめるように書く、ので、手の甲の中指と薬指の間が痛んでくる。なんのことはない。この疲れや痛みとともに読むことによって、自分に刻みつけるように読んだ気がしているだけなのである。どこまで身になっているのか分かったものではない。
そのような読み方をしているにも関わらず、困ったことに自分の字を見るのが嫌いなのである。新しいノートに初めて文字を書き入れるのは苦痛でしかない。私の書き文字は、右肩が上がり、自分の歪んだ身体そのものを見せつけられているようだ。書き文字の歪みに対する嫌悪もそうだが、その文字と書かれる内容とノートの罫線と、行の頭の揃いのバラつき方や、万年筆の字の太さや、そのさまざまな細部がバラバラで、チグハグで、身体だけでなく自分の何もかもの歪みを見せられているようでたまらない。ワープロもパソコンも持っておらず原稿用紙の升目を一字一字埋めていた若い頃はもっと酷かったと思い出す。もう一字書くと嫌悪感が吹き上げてきて耐えられない。一字書いては破り、また一字書いては破り、挙句の果ては気分が悪くなってトイレで吐き続け、やがて身体と精神の方がくたくたになって諦めると、やっと書き続けることができるという有様だった。今は、そこまでではないにしても、やはりあの頃と同じ嫌悪感を我慢して書かなければノートは一ページ目から先に進んでくれはしない。歪みに目を瞑って書き続ける、するとやがて諦めがやってくる…。自分の作品を書いているのならばまだしも、自分ではない誰かが書いた文章をただ書き写しているだけなのだから厄介である。書いている内容が云々ということではなく、ただただ自分の書き文字を見たくないのだ。自分の心身のあり方を嫌悪しているとでもいうのだろうか。だからワープロで書き始めた時には、どこかで「助かった」と思ったものだ。とにかく書き文字を見ないですむ。見ないですむと同時に、キーボードを打つことによってモニターに現れる文字が、言葉が、自分とは関係の切れたものとして画面上に次々と実体化していくように思えたのだ。
喫茶店でノートに万年筆で抜き書きをしていると、すぐ横の席で女性がパソコンで文章を書いている。何を書いているのかは知らない。しかし、彼女はずいぶん強くキーボードを叩いている。その音がうるさいとか、そういうことではない。その強くキーボードを「打つ」その姿が、何かを「殴りつけている」ように見えたのである。キーボードを打つことが、文字通り「打つ」であり、「叩く」であり「殴る」ことであるのだとすれば、万年筆でノートに文字を書く私の行為は、ノートの表面を「引っ掻いて」、「傷をつける」ことであるのかもしれない。何かを「書く」ということは、このように「暴力的」なの行為なのだろう。
カフカは、タイプライターに反感を持ち、ノートに「尖ったペン」で作品を書いた。そして、自らの創作を称して「ペンで紙を引っ掻いたもの」と折に触れて言っていたという。もしカフカがタイプライターで作品を書いたなら、今わたしたちが読んでいるカフカの作品とは全く違ったものが書き上がったに違いない。同じく「暴力的な」もの出会っても、「殴る」ことと「引っ掻く」こととは違う。「引っ掻いて」できるのが、血が滲む、または切り裂かれた傷であるのに対して、「殴る」ことによってできるのは「痣」だろうか。何かで読んだことがあるが、恐ろしいことに痣などの外傷の証拠をほとんど残さずに、その内部を破壊し紙に至らしめるような殴り方があると言う。そのように書かれる「文」とは一体どのような「文」なのであろうか。これは比喩で言っているのではない。
私の目の前に、私が万年筆で「引っ掻いた」文字で埋め尽くされたノートが広がっている。
とにかく本を読んで琴線に触れた箇所を、次々に書き写していったものだ。何か自分の書くものに役立てようとして引っ掻いたというよりは、それがどんな役に立つのか全く検討もつかないまま、ただ日々引っ掻き続けたものだ。パラパラとめくっていると、書かれたものはその意味を離れ、ただ無数の傷が列を成して並んでいるようにしか見えない。
これは、私自身がそうであるようにやがて火に焚べられるものである。
RCサクセションがきこえる
若松恵子9月最後の土曜日に、猪苗代湖の天神浜で開催された「オハラ☆ブレイク」に出かけた。民謡「会津磐梯山」に登場する「オハラ庄助さん」のブレイク=休憩のように、スローでピースフルな空間創りをめざして、「オハラ☆ブレイク」と名付けられたフェスだ。10年目を迎える今年は、「忌野清志郎さんとRCサクセションのデビュー55周年を記念して清志郎さんの世界一色での開催とすることにした」とホームページにある。磐梯山が青くきれいに見える秋の入り口のような日、湖から涼しい風が吹いて、湖畔の砂浜に座って1日のんびり音楽を楽しむことができた。
夕日が湖の向こうに沈んで、月が光りだした頃に、最後のステージが始まった。清志郎の盟友、RCサクセションのギタリストである仲井戸麗市が率いるハウスバンドが吉川晃司、奥田民生、甲本ヒロトをボーカルに迎えてRCサクセションの楽曲を演奏した。「トランジスタ・ラジオ」と清志郎の日本語訳によるジョン・レノンの「イマジン」を吉川晃司が、「つきあいたい」と「スローバラード」を奥田民生が、「キもちE」と「いい事ばかりはありゃしない」を甲本ヒロトが歌った。タイプの違う3人。清志郎の、RCサクセションの影響力の幅広さを改めて感じた。捧げられるように演奏された歌を聴いていて、どの歌にも清志郎が書いた言葉の重みというものを改めて感じた。
線状降水帯による大雨のニュースを見るたびに、清志郎の最後のアルバム「夢助」に収録されている「激しい雨」を思い出す。
季節はずれの激しい雨が降ってる
たたきつける風が泣き叫んでる
お前を忘れられず
世界はこのありさま
海は街を飲み込んでますます荒れ狂ってる
築きあげた文明が音を立てて崩れてる
お前を忘れられず
世界はこのありさま
Oh 何度でも夢を見せてやる
Oh この世界が平和だったころの夢
RCサクセションがきこえる
RCサクセションが流れてる
この歌ができた2006年には、激しい雨に飲み込まれる街は、まだ未来のSFの世界だった。こんなにも早く、こんなに激しい雨に見舞われることになろうとは。清志郎、何度でも夢をみせてください。まだギリギリ、RCサクセションの歌を、生身の演奏で聴くことができる。絶望しないように、RCサクセションの歌が必要だ。
『アフリカ』を続けて(52)
下窪俊哉 9月最後の土曜日、名古屋市のTOUTEN BOOKSTOREで始まった唐澤龍彦さんの個展を観るため、新幹線に乗って出かけた。
唐澤さんはこの連載の(47)で、少し登場していた。群馬県桐生市在住の画家・音楽家だが、表紙画・挿画を手がけている『るるるるん』で小説を書いているメンバーのひとりである3月クララさんが名古屋在住で、今回の個展はクララさんが企画したものだ。横浜から行くとなるとお金もかかるし、そのためだけに、と考えると貧乏人の私には迷うところだが、8月にFM桐生の「The Village Voice」にゲスト出演した際、唐澤さんから密かに話を聞いて、ピーンとくるものを感じた。
名古屋には、当初詩を載せないと言っていた『アフリカ』に長年詩を書いている犬飼愛生さんがいる。最新号に「僕のガールフレンド」を書いている奥野洋子さんも名古屋在住だが、会ったことがなく声を聞いたこともない、メールだけの付き合いだ。犬飼さんとも、考えてみれば、コロナ禍を契機に画面ごしにはたくさん話したが、実際には2010年以降会っていない。広島、岡山、大阪(関西)、と縁の深い人たちを訪ねる旅の次の行き先は名古屋だろうとボンヤリ考えていたのだった。
ピーンときた背景にはそんなことがあり、どうせ行くなら唐澤さんが在廊している初日に行きたい、と連絡してみたら犬飼さんも奥野さんも予定が空いているという。唐澤さんの個展会場に集まる、というのは素晴らしいアイデアだった。駅で待ち合わせして食事に行くというのではなく、そうやって小さく開かれた場で会うことによって、『アフリカ』を読んでいる人、興味を持っている人とも会えるかもしれないという期待が持てるから。可能性は広げておく方がよい。その点、SNSが今回も良い仕事をしてくれた。
TOUTEN BOOKSTOREは、金山駅から南へ徒歩10分ほどの場所にある。かつて栄えていたかもしれない、こぢんまりとした商店街の一角で営まれている書店で、珈琲やお茶やビールやお菓子なども出し、2階にはギャラリーとして、イベント・スペースとして使える空間を有している。どことなく東京・荻窪のTitleを思わせるが、荻窪のあの場所のような人通りはなく、しかし店をめがけてくる人はチラホラあり、秘密基地のような雰囲気がある。一緒に来た息子も本屋をうろうろして楽しんでいた。ギャラリーへは急な階段を上って行く。
今回は新作展ではなく、唐澤さんの画業の中心にあるアクリル画、ペン画、ペン画に着彩したもの、『るるるるん』に提供した作品の原画や別バージョンとエスキース、イラストと音を組み合わせた画面上のインスタレーション、etc. をズラッと並べたもので、ベスト・オブ・唐澤龍彦とでも言えばよいだろうか。ペン画は展示されている以外にも、ファイルに入れて置かれてあり、自由に観ることが出来る。今回の個展に合わせて制作された作品集『ソファはわたしのために』も展示、販売されている。
ジャン=ミシェル・フォロンら欧米のイラストレーター、デザイナーに影響を受けたという絵は、可愛げがあり、どこか滑稽でもあり、でも大真面目である(ちなみに、フォロンの絵本の話がこの連載の(33)に少し出てくる)。その作品の多くに、長めのタイトルがついている。「たった一輪だけ咲いた花を摘んでしまうのか」「長靴をはいたねこは水をまく」「きのうまでのわたしときょうのわたしはだいたいおなじ」というふうに。
文章を書くことには苦手意識があるそうだが、苦手そうなそぶりを見せずにスパッと書く文章が小気味よい。子供が読んでもフッと笑ってしまうようなもので、作品集から少し引用してみよう。もちろん絵に添えられているものだ。
そろそろ起き出そうかというところ
まず前足をおろし
後ろ足はソファに残したままで
しばらくその姿勢で伸びをして
今日の予定をかんがえる
そして何も予定がないことを思い出し
またソファにもどって寝ようかと迷う
このままうしろに下がるのはむずかしいな
いちど降りてソファにのりなおそうか
いちど降りたらもう起きてしまおうかと思うだろうな
と、こんな調子だ。ギャラリーで話を聞く。唐澤さんが日々、SNSに投稿しているペン画は、2011年から殆ど毎日、2、3枚のペースで描き続けているものだそう。1日平均2枚として1年で730枚、14年間で10,220枚。積もり積もった膨大な作品数と言える。
1枚を描くのに15分くらいかかるそうだから、3枚描くとして1時間弱はかかると考えたらよさそうだ。多くが猫のようで、そうでもないような動物のイラストレーションである。どの絵にも何か物語があるようだ。そんなに描いていたら、何を描こうか思い浮かばなくなることがありそうですけど、と訊いたら、とにかく手を動かすのだという話だった。そこで私は自分が2016年から毎日書き続けている「朝のページ」を思い出した。「朝のページ」も考える前に手を動かすのである。
作品集の前書きでは、画家自身がこう書いている。
それ以前から気が向いた時に透明水彩やアクリル絵の具などで絵を描いたりしていましたが特に発表、展示をおこなうこともなかったので作家である(アマチュアとは言え)という意識はこういう継続的な制作から生まれたと言えます。
継続が自分を作家にしたと語っている。唐澤さんはアマチュアじゃないですよ、と私は思うが、自分はプロフェッショナルだが作家ではないと考える人もいるだろうし、ここでは問題にしない。とにかく毎日のペン画を継続していることが自身を作家と意識づけているというのは私にはたいへん興味深いことだ。
この連載は『アフリカ』という主題と、「続けて」というもうひとつの主題があり、その間をつなぐ「を」がある。何を言っているのヤラ? という気もするが、先へ進めよう。
お喋りをしていたら『アフリカ』を読んでくださっている方が早速来てくれて、もちろん初対面でご挨拶させてもらう。そうこうしていると犬飼さんも、奥野さんも到着して、わいわいと話が弾んだ。
犬飼さんは、編集人(私だ)との例の”セッション”が『アフリカ』の質を担保していると話していた。この話はもう何度も書いているはずだが、奥野さんは最新号で初めてそこに参加した感想として、「楽しかった」とくり返し言っていたのが印象的だった。それをきつく感じる人もいるだろう。唐澤さんはその話を聞いて、「まさかそこまでしているとは」と信じられない様子だった。つまり書いて送られてきたものを、そのまま載せていると思っていた? 犬飼さんによると多くの詩誌ではそうらしい。詩以外の雑誌でもたぶんそうなのだろう。しかし私は、「質」を考えてやっているのだろうか。少し違うような気もする。編集人としての自分がどう読んだかを伝え、ひとりで書くだけでは行き着くことの出来ないところまで行くために『アフリカ』をやっているとは言えそうだ。発表するのは、ついでにしていることであって、一番の目的ではない。とも言ってみたいところだが、『アフリカ』で発表することがなければ、その、遠くまで行くことも出来ないのだろうから頑張って雑誌を仕上げ、読みたい人には販売している。販売するのは、読者と出合うためである。読者も、これもまた前に書いたと思うけれど、ただの客ではなく、遠い『アフリカ』の仲間であるような気がする。
今回はそんな読者のひとりから、思いがけず「花束」をいただいた。ただの花束でなく「言葉の花束」なのだが、質素な(と言いたくなるような)デザインの、薄いA5サイズの冊子だ。帰路の新幹線の中で、その冊子を手にとり、開いてみた。中は2段組みになっていて、詩がたくさん収められている。つまりそれは詩集だった。冒頭の詩から順番に読んでいった。そのまま、読むのが止まらなくなった。この人は自分のことを詩人だとは思っていないような気がするし、この冊子も、試しにちょっとつくってみたというふうだ。しかし、書かれている詩そのものは、明らかに、ちょっと書いてみたという感じではない。
富士正晴の言う「ふしぎな純度をもっている作品」は、こんなふうにして転がっている。この”本”について、私は何か書いてみたい、書けないなら語ってみたい、その前にくり返し読み、何でもいいからことばにしてみたい、という気持ちが一気に押し寄せてきた。
仙台ネイティブのつぶやき(110)思い出の通り
西大立目祥子9月11日、東京が豪雨に見舞われた。小さな川の水位がみるみる上がり、雪崩打つようにしぶきを上げて道路にあふれ出るようすをテレビで見ていて都市型の災害の恐ろしさを思ったけれど、同時に見入ったのは背景に映る街のようすだった。住宅街にもちゃんと商店があるし、小さな商店や飲食店が肩を寄せ合うように立ち並び商店街を形成している。床上に上がった水をみんなでかき出す姿もあって、街には人の息づかいもコミュニティもあると感じた。人口1400万人。やはり首都というのは違うのだろうか。規模が大きければそれだけ多様な街が存在し得るのだろうか。
こんなことを書くのは、身の回りで商店が消え、空き家が増え、低層の商店街に高層マンションが壁のように立ち、街がばらけて薄くなっていくような感覚を覚えるからだ。もちろん、そこには人の暮らしも人の行き来もあるのだけれども。
長くお世話になった近くの書店が9月30日をもって店を閉じた。外商は残すということなので廃業ではなく本を注文して受け取ることはこれからもできるけれど、この通りから本屋は消える。この通りというのは仙台市太白区長町、かつては長町北町、長町南町といった通りで、私はこの近くで育った。藩政時代は仙台城下を出て江戸に向かうときの最初の宿場町であり、明治時代には停車場が設けられ、周辺の農家が野菜を運び込む青物市場も生まれた。駅はやがて貨車操車場を備えた巨大な貨物ヤードになり、働く人たちが増え、仙台市電も走った。1キロほどの通りには、間口が狭く奥に深い町家がみっちりと立ち並び、さまざまな商品を並べていた。
いま手元にある昭和40年の住宅地図を見ると、通りの西側だけでも蕎麦屋、釣具屋、薬局、豆腐屋、茶舗、魚屋、不動産屋、食堂、床屋、美容院と、ない商売はないくらい多彩で、数えると100店を超えている。両側を合わせたら200店に及ぶだろう。それだけの店がみんなお得意さんを持ってやれていたのだ。小さな店がぎっしり詰め込まれた通りを、子どもの私は歩いていた。友だちといっしょに初めて母の日のプレゼントを買ったのもこの通り。そして最初に自分で本を買ったのもこの通り。それが上述の書店で、もとは丸吉書店といった。いまは協裕堂と名前を変えている。
数年前から私はネットで本を買うのはやめて、この書店で注文して来るのを待った。2、3日もすれば電話が鳴るし、遅くたって1週間から10日も待てば手元に届く。だんだんオーナーとおぼしき年配の女性とも顔見知りになって話をするようになっていたので、知人から閉店するらしいと連絡を受けたときは驚き、訪ねて、それまで聞けなかった店の話をうかがった。オーナーは今野るみ子さんとおっしゃる。
開店したのは昭和12年。創業者は義父にあたる人で、仙台市内では書店の草分けだった金港堂で修業をして現在の店舗よりは南の、長い長町の通りの真ん中あたりで文具店と書店を始めたという。その話を聞くうち、おぼろげな記憶がよみがえってきた。そういえばコンクリートを打った床に木製の本棚を並べた本屋さんだったっけ。毎年初売りのときは漫画の付録を詰め込んだ福袋が表の木製のワゴンに山積みになるので楽しみに買っていた。いちばん分厚い袋を選び、喜び勇んで開けたら中身は全部少年向きの漫画で、大外れのお正月になったことがあった。たしか中学生になったばかりのころ、背伸びした気持ちで筑摩書房のジェーン・エアをこの店で買ったらクラスにまったく同じ本を持っている子がいて、急速に親しくなった、そんな思い出もある。この店で修業をし、近くの町に本屋を出す人もいたのだそうだ。昔は書店もノウハウを身に付けて暖簾分けし、助け合っていたのかもしれない。
協裕堂はその後、長町駅前、近くの国道沿い、仙台の南の名取市や岩沼市まで店舗を出し、レンタルのビデオやCDも扱うようになった。「GEOとかがなかったころだったから、よく売れたのよ」と今野さん。東日本大震災のあと、本を買いに来る人が増えたという話が興味深かった。「雑誌なんて1、2ヶ月入らなかったのにお客さんが多くて、みんな店にある本を買っていくの。ずいぶん売れたの」。なぜだったのだろう。食べるものがなくて食料品店やスーパーにはみんな辛抱強く長い行列をつくった。コンビニは長く閉じたままだった。毎日のことがままならなかったのに、自分と向き合うため、自分を落ち着かされるために読むことが必要だったのだろうか。みるみるお客さんが減っていくのはそのあとらしい。「みんな注文して何日も待つなんてできなくなったのよね。もう若い人なんてこないもの」
協裕堂の隣にあった小さなスーパーも、たしか昨年閉店した。そのあとは空いたままだ。その先の花屋も今年、商売をやめた。道路にも並べていた切り花や鉢物はすっぽり消えて殺風景。小さな店が生まれては消えていくことも多い。その先の豆腐屋はずっと頑張っている。通りの真ん中あたりに、まだ郵便局と銀行が2行あるから持ちこたえているのかもしれない。
通りを行き来しながら、ああもう八百屋も魚屋もわずか1、2軒になったんだなと思う。かつてのこの通りには、小さな商店の並びに割り込むようにスーパーマーケットが3軒もあった。人があふれ、どこもにぎわっていた。多くの人が歩き、荷物をかかえてバスを待ち、商品の積み下ろしをしていた。スーパーで買い、個人商店でも買った。そして多くの人がしゃべっていた。店の人と、客同士でも。
いましか知らなければ、けっこうにぎわっていてお店も多い、と人は思うのだろうか。こんなんじゃなかったと思いながら歩く私は、あのころの記憶の中のまちの風景をいまもどこかにあるはずだと思って探しているだけなのだろうか。
SNSで知る宮廷舞踊愛好者
冨岡三智今やyoutubeに多くの舞踊映像がアップされる時代になった。その当時行けなかったりまだ知らなかったりした公演の映像を見られるのは非常に有難い。もちろん今でもyoutubeにアップされないところで多くの公演が行われているけれど、情報量は格段に多くなった。そう言う私自身も、自分が主催した宮廷舞踊完全版公演の映像をyoutubeに公開している。そして、それについての問い合わせをまだ会ったことがない人からSNS経由でもらったり、それが議論に発展したりすることもある。その人たちは実際に映像を見ながら舞踊練習をしていて、抽象的で哲学的な質問などではなく、振付に関して具体的な質問をしてくる。また、そういうやり取りもなく全然知らない人だが、私のスリンピ公演の映像を見て練習したと思しき公演映像がyoutubeにアップされていたこともある。
宮廷舞踊に関心を持って踊りたいと思っている人は意外にもいるものだと知れたことが、映像公開して一番嬉しかったことである。こういう人たちの存在には今まで気づくことができなかった。留学していた時は、長くて退屈で変化がない舞踊をなぜ習うの?とよく言われたものだ。それも芸大教員や芸術関係者に。だから、一般には受けないだろうけれど、研究の参考にしてもらえたらいいと思って映像公開していた。その映像を見て踊ってみる人(それも芸大関係者ではない)が出てくるとは、実は想像していなかった。
一方芸大でも、私が学んでいた2000年前後に比べて、古い舞踊に関心を寄せたり、また宮廷舞踊の形式で新しい作品を創ることは活発になってきているように感じる。時代の志向が変わったのか、中産階級が増え伝統文化に憧れが生まれてきたのか…。その時代変化が嬉しい一方、逆風の中で習ってきた身としては、少し憮然ともしている。
働かざる者
篠原恒木無職になって一か月が経った。
気が抜けた。
気が抜けても腹は減る。
「働かざる者食うべからず」と言うが、働いていなくても腹は減るのだ。
それで思い出した。
「物言わぬは腹ふくるるわざなり」と言うが、あれはおれの座右の銘だった。
おれは不幸なことに脳味噌と口が直結しているので、カイシャにいるときは気に入らないことがあると誰彼構わず吠えて、場合によってはガブリと噛みついていた。コンプライアンスなんて関係ねぇ。コンプラふねふね、追手に帆かけてシュラシュシュシュってなもんだった。
カイシャから追い出されて、いまや物を言う相手はツマしかいない。だが、ツマに言いたいことを言ったら殺害されるので言わない。いや、言えない。ひたすら我慢している。しかし腹はちっとも膨れない。むしろ減る。なのでハラヘッターとめしを食えば、働いていないのでカネも減る。イヤな渡世だ。
思えばおれは「勤労」という意識に欠けていた。勤労が「心身を労して勤めに励むこと」だとしたら、おれは「ウッソー」と言うしかない。そんな感覚はゼロだった。
「シノハラさんにとって、働くとは何ですか」
と、かつて女子高校生記者から訊かれたことがあった。なんでも夏休みの課題で、いろいろな職業のヒトたちにインタヴューしてそれをまとめる、ということだった。
わざわざ編集部まで来てくれたし、オツな答えをキメようかと思ったのだが、脳味噌と口が直結しているおれは言った。
「働くとは、カネが貰えるひまつぶし」
女子高生は固まっていた。難解だったか、と思ったおれは補足した。
「ひまをつぶすにはおカネのかかることが多いでしょ? 映画を観たり、買い物したり、お茶を飲んでもおカネがかかるわけで。一日七時間寝るとしても、残りの十七時間はひまなんだよ。ニンゲンはそのひまをつぶさなければならない。そこでひまをつぶすために楽しいことをシゴトにして働くのさ。でもって働けばおカネも貰える。こんな素晴らしいひまつぶしはないと思うよ」
固まっていた女子高生の表情は、もはや困惑の色を帯びていた。どうやら期待していた答えとは違っていたようだ。
だって本当にそう思っているんだもん、しょうがないじゃん。
少なくともおれは「働く」ことによって社会貢献を果たそうと思ったこともないし、自己成長、自己実現を達成しようとしたこともないし、世界征服を企んだこともない。義務感に駆られて働いたこともないし、党内融和などという身内の論理だけを掲げて総裁選に立候補したこともない。
「働く」とはおれにとってどこまで行っても「カネが貰えるひまつぶし」でしたよ。
で、だいたいだね、「あなたにとって〇〇とは何ですか」という質問がよくない。高校生記者だから説教などしなかったが、この質問はインタヴュアー失格ですよ。音楽家に向かって、
「あなたにとって音楽とは何ですか」
と訊くのは愚問でしょう。同じく小説家に対して、
「あなたにとって小説とは何でしょう」
と訊いたところで返答に困っちゃうと思うな。紋切型は野暮でげす。野暮で下衆。
このような紋切型の質問をどう思うかと、片岡義男さんに訊いたことがある。
「それは簡単だよ」
と、片岡さんは涼しい顔をして言った。
「なんて答えるんですか」
「訊いてごらん」
「あなたにとって小説とは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって音楽とは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって働くとは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって海老フライとは何ですか」
「人生そのものです」
話を戻そう。いや、戻さなければいけない。そう、おれにとって働くことはカネが貰えるひまつぶしだったのだ。
「無責任だ。責任者出てこい!」
と言われても、そうです、無責任なのだから責任者がいるはずもない。これを道理という。違いますか。
だが、いまや状況は変わった。
ひまつぶしをしてカネを貰えていたのに、無職になった途端、ひまつぶしをするとカネが出ていくようになったのである。こういうのをパラダイムシフトと言う。違うか。まあとにかく、ニンゲン、動くとカネがかかるのだ。
「定年後は何か趣味を持ちましょう」
なぁんて御託をよく聞くが、趣味ってカネがかかるのよ。オアシスやレディー・ガガのライヴに当選したらしたで、べらぼうなチケット料金をふんだくられる。
大好きな落語会だって外タレのライヴに比べたら料金は安いが、調子に乗って頻繁に足を運べば、たちまち我が家の竈の蓋が開かなくなってしまう。
時間ができたら聴こう、観ようと思って買いためていた大量のCD BOXセットやDVD BOXだが、もはや封を切るのも面倒くさい。いざ時間ができるようになると、気力のほうが足りなくなってくるのだ。
「ご夫妻で旅行にでも」なぁんて気軽に言ってほしくないね。国内の観光地へ行けば外国人に囲まれるし、海外なんか行ったら円安で昼めし1人1万円ですよ。やだやだ。
「地域のボランティア活動に参加して友人の輪を広げましょう」
なぁんて寝言もよく聞くが、カイシャにいたときだって友だちがいなかったおれがどうして近所のヒトビトと仲良くなれるというのだ。おれは近所でも「感じの悪いヒト」で通っているのだ。そのパブリック・イメージをいまさら覆すわけにはいかない。ボランティア活動って何だ。近所の草むしりかな。おれは膝を痛めてしゃがめないからダメだ。ところで一緒に草むしりをすると友人になれるのか。
カイシャにいたときから「集団で何かをする」ことがとにかく苦手だった。会議も打ち合わせも大嫌い。意見を擦り合わせるとロクなことがないでしょ。だから「プロジェクト・チーム」なんて言葉を聞くと鳥肌が立ったもんね。
アイデアなんて、たった一人のアタマの中で生まれるもの。そのアイデアをかたちにするのはそのヒト一人で最初から最後までやったほうがいい。「プロジェクト・チーム」は、あらかじめ決まっている作業をして、いつまでに納品するかなどには向いているけれど、新しいことをかたちにするのにはまったく向いていないと思いますよ。
おれに言わせれば「会議」や「プロジェクト・チーム」の目的ってぇのは「責任の分散」です。で、結論はいつだって「これでいいか」でしょ。決して「これがいい」ではない。妥協に次ぐ妥協の産物か、優れたアイデアをよってたかってこねくり回して平凡な出来にしてしまうかのどちらか。挙句の果ては「みんなで作ったものだから、うまくいかなかったときはしょうがない」。これって、どーなのさ。
そう、だからおれにとって「地域のボランティア活動に参加して友人の輪を広げる」ことなど不可能に近い。めんどくせぇです。野暮でゲス。
されど、これからは有り余ったひまをつぶさなければならない。
「一日中家にいるのだけはやめてよね」
と、早くもツマはスルドイ牽制球を投げてくる。ひまつぶしもラクじゃない。働かざる者だって腹も減る。あれ、ひまつぶしがひつまぶしに見えてきた。よし、ひまつぶしにひつまぶしを食べに行こうか。あれ、ちょいとググったら六千円だって。よしとこう。イヤな渡世だ。
古屋日記 2025年9月
吉良幸子9/2 火
昨日発売のブルータス、特集は太呂さん監修の釣り。公子さんは昨日から東十条中のコンビニを歩いて回るが一向に見つからん。ブルータスはこの地に用がないらしい。今日も暑いが私は本を返しに図書館へ行かにゃならん。借りた本を山程持って行き、帰りにコンビニに寄ると、なんとも涼しそうな緑のカバーのブルータスがあるではないか!王子にまでは来てたらしい。ともかく次の号が出るまでに手に入って一安心。
9/3 水
今日は劇場の初日。1ヶ月ずつ1つの劇団の公演やし、今日から1ヶ月の間お世話になる。劇団さんによってこんな雰囲気違うのね…!と、まだ数日しか働いてない自分でもなんとなく違いを感じる。お客さんもガラッと変わった。同じハコやのに、来る劇団によって色々と変わるから面白い。今月の劇団さんは一切のSNS写真投稿が禁止らしく注意書き満載で厳しそう。無事に千穐楽を迎えられますように、とお稲荷さんにお願いした。
9/13 土
昼一の黒門亭寄席、伝輔さんが10月公演でやる演目、和田誠作『鬼ヶ島』をやってみるらしい。前回やってもらったのは、かれこれ1年以上前。果たしてどんな演出がされているのか、期待と不安の心持ちで御徒町へ向かう。せっかく出かけるのならとまずは気になっていた日本画材屋、喜屋さんへ。狭いビルに所狭しと画材が詰め込まれた夢のような場所やった。顔彩を少しと筆を一本買うて、ちょっとみつばちへ寄り道。甘味とミニうどんがセットになったおうどんセットをいただいた。このおうどんが最高においしく、お出汁のうどんを東京で食べれると思わへんかった!とこっそり感動した。お腹もええ感じに起きて黒門亭へ。数年ぶりの鬼ヶ島はものすご分かりやすく、そして面白くなっておって嬉しなった。お客さんらもガハハと笑ってはって私まで最高の心持ち。終わってすぐに公子さんへ興奮気味に連絡を入れた。10月10日にhoro books演芸部主催の落語会でやってもらうので、ご興味ある方は是非に。
あ~よかった~という気持ちで帰り道、燕湯へ。朝湯を毎日やってはるからお昼過ぎでも開いてるのがありがたい。おやつの時間に風呂行く人おるんかしら…と思いながら行くと、案の定風呂場におばちゃんがひとりいるだけ。男湯からはちょっと賑やかな声が聞こえてきた。番台のおっちゃんは眠たそう。先にいたおばちゃんも早々に上がって完全に貸切風呂!最高!!いつもはとっとと出る脱衣所で、ひとりうちわを仰ぎながらほてった体を冷やし、コーヒー牛乳までゆっくり飲みほした後、居眠りしてはる番台のおっちゃんを起こさんようにそうっと出た。湯島から御徒町まで満喫した楽しい1日やった。
9/15 月・祝
明日と明後日は劇場が連日休演ということで、みんなでメシに行こう!と若女将から連絡が入った。こういうところはほんまにケチケチしてなくて最高。みんなが仕事終わりで来る中、シフトに入ってなかった私は家から中華屋に向かう。深い時間になると酒も入り、普段話したことない人ともちょっとは話せてよかった。
9/16 火
ようやく風が少し涼しくなってきて、公子さんの体調も回復してきた。最近は近くの図書館へよう行ったはるし、十条の方まで歩けるかも …?と今日は十条駅近くのちぃこい回転寿司屋で夕方待ち合わせ。公子さんはお昼過ぎに東十条の商店街の方も散歩しながらぶらぶら十条の方へ。私は昼寝して後から家を出る。演芸場の前を通って十条の方へ向かうと、昨日隣で飲んでた裏方さんにばったり出会う。寝起きでちょっとぼんやりしながら話して商店街の方へ。うわ~近場でばったり会うような知り合いがこの町にできたんか~とか思いながら寿司屋で公子さんと並んで食べてたら、なんとぷらっとひとりで入ってきたのは社長!もうお互いにびっくりして笑うしかなかった。
9/20 土
前職の同僚たちが十条へ遊びにきてくれるというので昼前に駅までお迎えに行く。元気そうな顔を見れて何より。喫茶店へ入って数時間あれこれ話した。新しい職場も案内して、描き文字で作った劇場前の垂幕を見せる。実はずっと使う劇場案内の垂幕のデザインをさしてもろて、ちょっと描き文字入りで入稿した。自分の字がこうやって飾られるのはむっちゃ嬉しい。それを喜んでくれる人がおるのもまたありがたい限り。今度来るときは芝居を一緒に観て、その後飲みに行こう!と約束して夕方別れた。
9/21 日
今日も演芸場で小屋番の日。デザインの仕事がちらほら入ってきて忙しい。とにかく色んな方面への連絡が多い職場で、来月以降の諸々が水面下で常に動いておる。デザインする細々したものが無限に出てくるので、作業してると流れてくるように次の仕事がどんどこ入ってくる。事務所でパソコンを睨んでいると若女将からみんなに連絡が…「今日のお昼はサンマです。あたたかいうちに食べた方がおいしいですよ」。仕事もそこそこに、すぐ向かうと、まかないメシにひとり1匹ずつ、初物サンマの塩焼きとあったかい大盛りごはん!それだけで、なんて最高の職場!
9/25 木
来月から始まるhoro books演芸部主催の落語・講談会で使う布を買いに日暮里へ。布の問屋街は初めて行ったけど、目移りしかせぇへんくらい色とりどりの布がいっぱい!服飾学生と思わしき若者が、ロールの布を抱えて楽しそうに喋りながら裁断を待っておった。公子さんと一緒に良さそうな色の布を選んだはいいが、こうも暑いとちょっと歩くのでもくたくた。東十条まで帰って、ふたり並んでソフトクリームを食べて回復。いよいよ公演日が近づき、予約されるお客さんも増えてきた。着々と準備が進んでおる。
9/26 金
早朝にソラちゃんがにゃあにゃあと自己主張しながら帰ってきて、その声に起こされて1階へ降りていくと、公子さんがホットケーキを焼いてはった。今日も小屋番、昼飯はたらふく食べさしてくれはるんやけど、公演時間の関係で食べるんはちょっとお昼をすぎた時間。その分朝飯はしっかり食べて昼過ぎまで動けるようにしていく。熱々のホットケーキが焼き上がって2枚も食べる。公子さんは小さいの1枚、ソラちゃんもおんなじ机で朝ごはんを食べておる。みんなが食べてると自分も一緒に食べたなるらしく、今日初めて食べます、という顔で本日2食目を食べておった。
9/28 日
今日は千穐楽。昨日あたりから満席状態ですんごい人。今日は昼の部だけで終わりやし、御贔屓さんは必死のパッチで来たはった。連日通っていた方々も1ヶ月の大仕事が終わったという感じで、寂しいけどもやり切ったという達成感を口々に話してはった。劇場にくるお客さんは劇団さんによってむっちゃ変わる。今月の劇団贔屓の方は次の旅先へ一緒に行くのやろう。この千穐楽、私にとっては初めて初日から見てきた劇団の長い公演の最終日で、劇団さんともお客さんともお別れのようなちょっと切ない気持ちやった。最後の公演が終わって恒例の大掃除にかかるとそんな感傷的な気分もどっかへ飛んでゆき、ホコリにまみれながら隅々まで掃除!今月も無事に乗り切らせてくれた劇場を労わり、次もよろしゅうにとお願いする。来月はどんな劇団が来て、どんなお客さんが来はんねやろか。既に予約の電話でいっぱいの日も結構ある。次の出勤には中も外も、飾られるものがだいぶ変わるし楽しみや。
9/29 月
お稲荷さんの参道にある石鍋商店が、秋になって酒まんじゅうを始めたというお知らせを見た。これは行かねば!と朝っぱらから散歩がてら買いに行く。昨日の今日で疲れてても、わざわざまんじゅうのためだけに動く食い意地は残っとるみたい。ほのかにまだあったかいきつねの焼印が入ったまんじゅうは、皮が甘くて素朴なやさしい味でむちゃくちゃおいしかった。
夕方に伸びきった髪を整えるべく美容室へ。その前に喫茶店で本でも読むか…と入ったら、隣の席のおばちゃんたちの会話の方がおもろくて聞き入ってしまった。ずばりAおばちゃんがBおばちゃんを熱心に改宗中。Aおばちゃんに全く悪意がないようなのがまた厄介で、Bおばちゃんも無碍にすることもできずむにゃむにゃとお茶を濁す。行ったり来たりの会話ばかりを繰り返し、結局終わりまで聞くことなく美容室の時間になり店を後にした。あのBおばちゃんはどうなったんやろか…?
9/30 火
やることが多すぎて、なんで9月って31日ないんやろ?と真剣に思う。あと1日多かったら全然違うのに…とは言っても残念ながら今日が月末。早朝、頭が元気なうちに落語会でもらう助成金の書類を片付け、チラシの進捗も確認して仕事の波に溺れそうな自分を落ち着かせる。公子さんは昼前に打ち合わせへ。私は落語会で使う音響を教えてもらうべく、哲さんがうちに機材を持ってきてくれるのを待つ。お昼に来はってまずはふたりで弁当を食べ、そっから色々と教えてもらった。来月の公演にはいつもお世話になっとる哲さんが来られへんし、私は宣伝美術だけでなく設営から音響まで何でもやる裏方。あっちゃこっちゃやけど、ごっちゃにならんようにやることちゃんと整理しとかんとね。
九月
笠井瑞丈毎日暑い日が続く九月前半
第九を踊ろう企画をやって5回目
残すは11月の1回のみ
いよいよ山頂が見えてきた
毎回指揮者を変えて
色々な第九で踊った
当たり前だけど指揮者によって
同じ曲なのにテンポも違えば
聞こえてくる音も違う
踊りの方も毎回違うダンサー
第九といえば日本では四楽章
だれも知ってるあのメロディ
でも通しで聞くとどの楽章もいい
ドラマティックでスリリング
何回踊っても飽きないのがいい
ベートーヴェンの交響曲は全部好きだけど
第九は元気になるから一番好きだ
まだまだ暑い日が続く九月中盤
伊藤キムさんとの合宿ワークショップ
気づけば今年で3回となりました
場所は清里のキムさんの別荘
今年はキムさんの初期の作品の再演
メインパートはもちろんキムさんが踊り
群舞のパートをワークショップ生が踊る
もともとは男性のみの作品でしたが
今回合宿では初女性版もやりました
僕は今回照明オペを担当をしました
この作品の照明デザインは足立さん
足立さんは日本の大きなバレエの照明を
数多くやっているとても有名な照明家
足立さんは仕込みはいけるけど
オペは出来ないとの事で僕がやる事になる
もともと照明には興味があったので
天使館で行う全ての公演は僕が照明をやってる
いちから明かり作りとやり方を教わり
一つ一つQ組んでやるのは初めて
それも足立さん直々教わられる滅多にない機会
とても楽しくより一層照明に興味が湧く
公演の方もとても素晴らしいものになった
少し暑さも治る九月終盤
僕にとっての今年ナンバーワンイベント
叡さんと久子さんと3人ポーランドへ
のはずだったけどやっぱり三人じゃ無理
と言う事で急遽なおかさんにも付いてもらう
であらためて4人ポーランドの行きが始まる
これを書いてる今日は9月29日が出発
そしてなんとかワルシャワのホテル着
日本と比べてもう真冬の寒さです
時差ボケでハッと起きる夜中の3時
明日から10月
今日はここまで
精霊馬たち(2)皮膚たちの現在、いくつもの爆心へ
新井卓わたしたちの記憶と知の実体は、つまるところ皮膚感覚にあるのだと思う。そして、皮膚感覚のずれは言葉の差としてあらわれる。
被ばく者という言葉、「被」という漢字には、爆風や熱線、放射線にある生命の皮膚が晒されたこと(exposed)を示しており、出来事のまさにその瞬間、すなわち出来事からみた現在の時制に属することも、言外に触知されるだろう。たとえば英語の場合、被ばく者が生きているならatomic surviverとなり、その言葉は出来事とのコンタクトではなく出来事を生き延びたという事実を示しており、また、出来事からみた未来の時制に属している。一方死者であればatomic victimsすなわち過去の時制に属する言葉になるのかもしれないが、そのどちらも、被ばく者たちの生において連綿とつづく「いま」のことを、傷つき、治癒し、ケロイドとなり、腫瘍や滲みだす体液、痛さ、痒さとして現在に現前しつづけ、変容しつづける皮膚の感覚のことを語らない。
北アメリカで核の歴史に関する仕事をはじめたとき最初に感じたのは、やはりこの皮膚感覚の違いだった。広島で、長崎で、ビキニで、エニウェトクで、被ばく者たちの皮膚は乾いていたか、それとも湿っていたか。そのような想像力を持ち得た人々は一人もいなかったのだろう、思わずそう断じたくなるほどの渇きが、皮膚と大地と生命からの断絶が、トリニティサイトを、ロスアラモスを、そして数万人ともそれ以上とも数えられる米国内のダウンウィンダース(核実験やウラン採掘などで被曝し健康被害を被った人々)を生み出したフォーコーナーズ全域をもうひとつの荒野に──記憶の荒野に変えていた。
ショッキングなほどに少数ではあっても比類ない強度をもつ原爆表象(はだしのゲン、丸木位里・俊、土門拳、東松照明……)に触れてきたわたしたちにとって、地上に出現した太陽に灼かれ、放射線によってDNAレベルで破壊されたいきものの皮膚がどうなるか、想像することはさほど難しくない、少なくともそう思いたいが実際はどうか。
ごく最近になってマーシャル諸島を二度、訪れる機会に恵まれた。その少し前、詩人・アーティストのキャシー・ジェトニル・キジナーの詩に触れ、その皮膚感覚の生々しさに衝撃を受けた。ジェリーフィッシュ・ベイビー(くらげの赤ちゃん)、という言葉がある。放射線被曝の影響によりまるでくらげのような姿で生まれてくる新生児のこと、だからマーシャルでは一歳の誕生日が世界中のどこよりも特別なのだ、と教えられたときの皮膚感覚と、灼けつくような感情。ビキニ島で、一人の新しい友だちからマロエラップに日本軍が設けた「斬首穴」のことを聞かされた真昼の、抉られるような罪の感覚を忘れることは決してない。それら皮膚感覚は、その友人に頼んで生まれて初めて彫ってもらった二の腕の小さな刺青を通して、わたしの皮膚に刻まれ、変容しつづける「いま」となった。
キジナー文学の衝撃は一過性の嵐などではなく、「いま」の時制で吹き荒ぶ、いくつもの爆心──マーシャル諸島におけるドイツの植民地化とつづく日本の植民地化と戦争犯罪、戦後米国による核の暴力と実質上の植民地化、そして植民者たちが南半球地域に押し付けた気候変動という爆心──から、一時も止むことなく吹きつける烈風だったのだ。その風は決してわたしたちを、わたしを赦すことはない。そことここで傷はいまもひらき、皮膚が乾くことはない。
爆心地へ向かうということは、「爆心」という語彙を見失うことだ。いくつもの爆心──残虐行為の中心としての──がある、というとき、それはもはや一つの中心たりえず、過去と現在と未来におけるいくつもの暴力の波紋が干渉しあって互いを増幅し、ときに打ち消しあいながら拡散していく広大な海原というほかない。
ではなぜ、ある爆心はよく知られており、他方の爆心にはだれも注意を払わないのか。認知の差が犠牲者の数や残虐さの程度(そんなものを測る尺度はない)、システマティックさや稀さとは実質上の関係がないことは、それぞれの出来事について注意深く見ていけばほぼ自明といっていい。ソンタグやセゼールを引きあいにだすまでもなく、ほとんどの場合その差は、参照回数や視覚表象の頻度の差にほかならない。たとえばハリウッドの大手スタジオがホロコーストを描くことはあってもナクバを描くことは決してない(もちろんイスラエル建国の物語を描くことはあるにせよ)という事実は、この差と直接の関係がある。
アートコレクティヴ「爆心へ/To Hypocenter」はいま書いたことの少なくとも一部と、ほか四人、川久保ジョイ、小林エリカ、竹田信平、三上真理子との交差する関心やずれを最大限に活かしつつ、いくつもの「爆心」を、移動と偶然の出会い、公共空間におけるヴァンダリズム(野蛮行為)によって接続する試みとして始まった。
初期の問題意識としては日本における原爆や核表象の少なさ、あるいは見えなさがあった。いまだ一部の政治家たちが標榜する「唯一の被爆国」という語りや、アジア太平洋地域における日本の侵略と優生思想を埋め立てながら作り上げられた被害史観をいかにして相対化し、同時に自身の活動と表出が避けがたく帯びる侵襲性を自己批判しつづけるか。だれの手にもあまるそれらの課題について、最近わたしたちは、指針となるマニフェストらしきものを書き上げた。そして運動のひとつのあり方として、いくつかの「爆心」を一筆書きでむすぶバスの旅を構想することになった。
奇しくも日本列島は盆の季節を、死者と祖霊たちの季節を迎えようとしていた。
(つづく)
しもた屋之噺(285)
杉山洋一息子とイーハンが隣の部屋でライヒの「四重奏曲」のピアノパートを合わせているのを何となしに聞きながら、なにか思い出すものがありました。なるほど、時としてライヒには、ケージの「四季」とか「6つのメロディー」の揺らぐ和音の手触りを、彷彿とさせる瞬間があるのでした。単に五度集積和音特有の響き、と言ってしまえばそれまでですが、ケージを耳にする時に心地良い、ヨーロッパの伝統を脱ぎ捨てた軽さであったり、脱ぎ捨てた衣の重さに驚いてみたり、黴臭い伝統から解放された、朝の空気のようにひんやりとした純粋な音の重なり合いが紡ぐ風の匂い、そんなことに思いを巡らせていると、ふと現在アメリカという国が、脱ぎ捨てようとしている衣は一体何なのか、それを脱ぎ捨てたアメリカは一体どんな姿をしているのか、思いがけず慄く自分に、ふと気が付いたりもするのです。
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9月某日 南馬込
西大井駅から新宿に抜け、京王線で仙川へ向かう。マンカの桐朋レッスン1日目。久保さんにはZappingの人為的偶発性を如何にして故意に発生させるかについて、和泉澤さんには身体性と楽音との繋ぎ方、具体的な記譜法について、出納さんにはスネア・ドラムの発音方法の様々な発音方法について、具体的な助言。マンカ「溶ける魚」リハーサル後、帰宅。ヴァイオリンの田中さんとは昨年のシャリーノのワークショップで、フルートの和泉澤さんは昨年の「競楽」で聴かせていただいて以来。とても丹念に楽譜が読み込んであって、感嘆する。
9月某日 南馬込
学生が用意してきたマンカ独奏曲をマンカ自身にレッスンしてもらう。譜面を主観的、観念的に解釈すると、リズムが甘いかも、と作曲者が注文を出す。優しい口調ながら、メトロノーム指示にも厳格であった。こう書くと、まるでソルフェージュ課題のように楽譜を読んでいるように聞こえるが、それは本来反対であって、ソルフェージュ課題は音楽的に咀嚼して演奏すべきものであり、彼らにとって「咀嚼する」という言葉は、演奏者の気まぐれとは全く相容れない観念なのだ。このように本来我々の文化体系にない視点を知ることは、楽譜を読む学生にとって有意義に違いない。
午後は作曲科の学生らに、楽器を使う意味、特性について質問を投げかけた。サックスであれば、グロウルやファズと使うことで、クラリネットとの差異が見えてくるかもしれない、という話。鳥井さんに連れていってもらい、何十年かぶりに「なみはな」で昼食を摂る。マンカはイワシ丼、こちらは煮魚定食。彼女がピッツェッティとダンヌンツィオの研究をしていると聞いて、おどろく。ピッツェッティなど、イタリアではほとんど顧みられる機会もなく、おそらく、寧ろ海外の研究者の研究対象となっているのかもしれない。
一度馬込に戻ってシャワーを浴び、大森まで自転車で走って桜木町へむかう。SさんとMさんと桜木町「うまや」にて会食。Sさんはすっかり大学の教員生活を謳歌しているように見える。以前から、本来Sさんはインプットの人ではなく、アウトプットの人だと思っていたので嬉しい。
9月某日 南馬込
雲一つない絶好の日和。朝8時過ぎに家を出て、増上寺まで湯浅先生をたずねる。西馬込から大門まで地下鉄一本で行けるのは有難い。東京タワーの足元で、端正な墓地が心地よさそうに朝日を受けている。フェルマータが彫られた湯浅先生の墓石は地面にそっと寝かされていて、謙虚な佇まいが湯浅先生らしく、どことなくヨーロッパ風の雰囲気も漂う。てっきり手軽に仏花が手に入ると思い込んで、線香しか携えていかなかったが、結局花屋が見つからずお線香だけで失礼した。増上寺は広く知られているけれども、墓参に訪れる人は決して多くはないのだろう。
午前中はマンカのピアノ作品リハーサル2つ。マンカの楽譜を読む姿勢が、次第に学生らに伝わってきたのが解る。マンカも、皆揃ってとても反応が早いと大喜びしている。リハーサル後、慌てて仙川駅前で蕎麦をかけこみ、二人で渋谷へ向かった。彼が恵比寿に出かけると言うので、井の頭線出口から山手線入口まで連れて行く。山手線がJRだとわかっていれば問題はないが、連絡通路の表示には「山手線」とは書いてないので、一人ではなかなか山手線ホームにたどり着けない、と慌てている。
それからこちらは池尻までバスにのり、「考」リハーサルに出かける。佐藤敏直作品で、2楽章も3楽章も、予定調和的な音楽の流れに甘んじずに、少し挑戦的な姿勢に変えてみたのは、今までの経験で皆さんの技量を信頼しているからだ。
リハーサル後タクシーで三軒茶屋に廻り、マンションに置きっぱなしだった自転車を店に引っ張っていき鍵を壊してもらう。ついでにタイヤに空気を入れ、機械油を差して貰って、自転車で馬込に戻る。
9月某日 南馬込
今日は台風接近で交通も乱れて一日中大変だったが、桐朋でマンカ・ワークショップの演奏会があった。作品解説がマンカから朝6時に送られてきたので、リハーサルの合間に控室にコンピュータを持ち込み、まるで居残り勉強よろしく翻訳しなければならなかったのはさておき、ほんの一週間足らずのワークショップだったけれど、学生の目はどれもとても輝いていて、とても美しいと思った。作曲の皆さんが、レッスンの後そろって学生ホールで作曲に勤しんでいる姿は微笑ましく、翌日披露してくれた内容の驚くべき充実ぶりには、若さのもつエネルギーの素晴らしさと相俟って、文字通り舌を巻く思いであった。今回作曲の学生が演奏に多く参加していたのも、作曲に対する姿勢を実感できる、すばらしく有益な機会だったに違いない。こう言い切ってしまうのもどうかとは思うが、ヨーロッパ人にとって音符は記号であって符号であり、それらを組み合わせることによって、作曲者は具体的なメッセージ、意図を聴き手に伝えてきた。それが正しいかどうかではなく、彼らにとっての音符、譜面の意味について、日本に生まれた若い彼らが沢山思考を巡らせて、それを書きつける音符であったり、楽器を通して音として、勇気をもって言表化した意味は途轍もなく大きい。そして、彼らに対して、かかる肯定的刺激を与え続けたマンカの言葉の一つ一つに、深く心を動かされた一週間であった。
9月某日 南馬込
午前中は、亀戸天神の脇の旧家、ライティングハウスで、Rikkiと神田さんと家人のライブを聴く。沖縄と奄美の島唄はまるで違う、と話には聞いていたが、開放感よりむしろ、絹糸のような繊細な響きであたりが温かく包み込まれる心地がするのは、おそらく彼女の声質だけではないのかもしれない。日本と琉球に翻弄されつつも、しなやかに、したたかに連綿と受け継がれてきた声に、思わず鳥肌が立つ。
そのまま新宿へ向かい、発車寸前のロマンスカーに飛び乗ることができた。10号車に乗ったと電話で伝え、町田で無事に母が合流する。母は決まって、少女時代に住んでいた松田の酒匂川の鉄橋あたりを電車が通るとき、富士山の姿を仰げないかとしきりに気にするのだが、昨日までの台風の影響なのだろう、今回は富士山だけ厚い雲がちょうど帽子のように被っていて、残念であった。
駅の立喰いそばで昼食を摂り久野霊園へ墓参してから、いつものように湯河原、茅ケ崎、堀ノ内と回った。茅ケ崎の西運寺では、待たせているタクシーに慌てて戻ろうとすると、いつもお墓を守っている本堂にも手を合わせてあげてください、と諭されて、おもわず頭を掻く。
19時に堀ノ内に着くころには陽もとっぷり暮れ、真っ暗になってしまい、秋の訪れを実感する。暗がりに墓参などするものではないのは百も承知だが、普段日本にいないのでは仕方がない。墓地への入口が閉められていた信誠寺に併設している「ぎんなん幼稚園」の関係者がちょうど戻ってきたので、墓参したいと伝えると、快く駐車場を開けてくれた。あまりのタイミングの良さに、やっぱり祖母は母が訪れるのを心待ちにしていたに違いないと思う。東神奈川で母が横浜線に乗ったのを見届けてから、大森へ帰宅。慣れてくると、馬込はずいぶん便利な場所だとわかる。
9月某日 ミラノ自宅
ちょうど朝方、家人がミラノに着いたので、昼前には揃って息子の演奏を聴きにでかける。一年前と比べて別人のように成長した、と驚くのは単なる親の贔屓目だろうが、20歳前後は、誰でも海綿のように吸収力に富んでいる時期なのかもしれない。今のうちに出来るだけ豊かな人生経験を積んでほしいと思うのは、表現する楽しさ、愉悦が感じられて、息子なりに何か掴んだように見えたからだ。イスラエルがカタール空爆。イスラエル首相は「パレスチナ国家は存在させない」との見解を繰り返している。今回の空爆はハマス幹部を標的にしたが失敗したという。イスラエル空軍がカタール領域外からミサイル発射との報道。
9月某日 ミラノ自宅
もうすぐ室内楽の試験があるからと息子がライヒの「四重奏曲」を練習している。ストイックに数ばかり数えているので、時々リストの「結婚」を派手に弾いては、ストレスを発散しているようだ。ピアニストにとって、やはりリストはスポーティーな作曲家なのだろう。
イスラエルの指揮者ラハフ・シャニとミュンヘンフィルとの公演をベルギーのフランダース音楽祭が中止発表。シャニのイスラエル政府に対する見解が明瞭ではない、とのこと。何が正しいのか自分にはわからないが、毎日少しずつ我々自身の表情が硬化してゆくのを感じる。それぞれの放つ言葉から優しさや心遣いが失われてゆき、初めはほんの僅かの血を出す程度の刺し傷を穿った棘が、気が付けば傷口から赤い肉が覗き、理性と言葉が少しずつ乖離して、攻撃的で目を引く単語ばかり跋扈するようになる。あたかも何気ない言葉が何時しか恐ろしい巨人へと変貌を遂げるように。
9月某日 ミラノ自宅
アフガニスタンの地震では2000人もの命が失われたとの報道もあり、宗教的理由から男性救助要員は女性に触れることができないともいう。少なくともイラン製9機のロシア軍無人機が19回に亙りポーランド領空を侵犯。ポーランド軍機とともにオランダ軍機、イタリア軍機も参加し3機を撃墜。ポーランドはNATO第4条発動、緊急会合を要請。同国東部航空制限発表。ネタニヤフ首相、ヨルダン川西岸入植計画に署名。
9月某日 ミラノ自宅
イスラエル出身の妙齢が受験に訪れた。同僚が「戦争の間、イタリアでヴァカンスを過ごしたいの」と揶揄うと、困惑しながら「兵役はこなして来ました」とおずおず説明した。「わたしの父は10月7日あの近くにおりまして、巻き込まれてしまいました。幸い命は無事でした。ですが、家族はイスラエルに残っていて、わたしだけが国を出てきました。イタリアでボーイフレンドが出来たので、ここに残ることを決めました」、とこわばった表情のまま話した。「では、国に帰らないための口実作りで指揮を受けにきたの」と同僚が口を開くと、ますます困った顔になったので、さすがに居たたまれなくなって「ところで君は何の課題曲をもってきたの」と口を挟んだ。
バーリからやってきた別の受験生は、母がアルバニア人、父がイタリア人で、彼の母親は、経済が破綻したアルバニアから1991年8月7日貨物船Vloraでイタリアに亡命した、2万人ものアルバニア難民の一人であった。鈴なりの難民が乗り込んだ貨物船のなかで、アルバニア人船長は、殺気立った同じアルバニア人の難民らによって力づくでイタリアに出航させられた、いわゆるヴロラ号事件だ。ヴロラ号はブリンディシへの入港を拒否された後、7時間もの航行を続けた後にバーリに接岸した。一時的に競技場に収容された膨大な数の難民は、その後アルバニアに強制送還されたり、見逃されてイタリアに残ったりと、さまざまな人生が待ち受けていたと読んだことがある。彼の母親も気が付いた時には海に投げ出されていて、なぜ生き延びられたかわからないと言っていたそうだ。
9月某日 ロッポロ民宿
一昨年、昨年に続き、ロッポロ城でマスターコースに出かけ、夕食時、サンレモのオーケストラでコントラバス首席をやっているトンマーゾと話す。彼の周りの音楽家仲間の間ではロシアに対する姿勢は一枚岩ではないという。ロシアの侵攻を批難する者もいれば、北大西洋条約機構が先に一線を越えた、と考える向きもあるという。同じオーケストラで弾いているウクライナ出身のZは、官庁の手違いで、引っ越した際ウクライナ国内の住民票が消失してしまい、幸運にも召集令状が届かずに済んでいるらしい。
イスラエルに対しては、ほぼ誰もが否定的な意見を口にしていると言う。イスラエルは一線を越えてしまった、というわけだ。確かに、ドイツとイタリアは第二次世界大戦の過去があるから口に出せないが、ヨーロッパ全体としてのイスラエルへの態度は、現在ほぼ決定的になりつつある。少なくともトンマーゾはそう信じているようであった。
9月某日 ロッポロ民宿
オーケストラ練習が終わってから、生徒たちに「地下鉄でスリに遭って犯人を大声で蹂躙するつもりで」、こちらに向かって大声で怒鳴らせてみる。身体の裡で捏ねた感情の鉄球を手に取って、躊躇せず犯人の顔めがけて投げつける感じだ。単に大声を上げるだけでは、相手にはこちらの感情は何も届かない。
目の前の相手に向かって感情をぶつけることに対して、単にぶつける振りをするだけであっても、初めは誰しもが当惑する。躊躇ったり、思わず顔から少し逸らしてしまったり、力がなくて相手まで届かなかったり、球の形が歪だったり、柔らかすぎたりして、うまく投げつけられない。客観的にみれば、単に大声を上げているだけだが、実際は大声に載せた感情の塊を、球体にして投げているのである。感情を身体の外に放射させて、それが相手に当たってぐしゃりと音がするのを実感できる意識。それが、演奏者に自分のイメージを投げかける姿勢と重なるわけだ。ジュゼッペやシモーネのように、「こうすればよいのですね」と客観的に状況を分析する生徒に対しては、根本的に姿勢が逆だと指摘する。「こうすれば、こうなる」という態度ではなく、「君自身がその状況を作り出す原動力にならなければいけない」と促すのである。
ところで今日、アリーチェ・カステッロの城址食堂で、皆と昼食を摂っているとき、そこにいた一人がノヴァーラの「レオナルド」工場で戦闘機を作っている、と話が盛り上がった。
「レオナルド」と言えば、イタリアを代表する軍需企業だから、名前くらいは知っている。戦闘機の重力加速度は9Gにもなるから、歯の詰め物など簡単に飛びだして危険だ、程度の話をしているうちは良かったが、「うちの会社は、最近日本とイギリスと共同開発に乗り出していて」、日本はNATOのパートナーだからね、と話題は広がっていく。それどころか、「日本の仮想敵国はどこだっけ」と目の前に二人中国人の留学生が並んでいる前でしつこく尋ねるのに閉口した。
単なる無神経なのか、敢えて尋ねているのか判然としなかったが、恐らく彼らには会話の内容は理解できなかったのが救いであった。各地の戦争が激しくなり、「レオナルド」も忙しくなったか尋ねると、彼の働く工場で作っている戦闘機は、幸運にも世界のどの諍いにも関わっていないので、特に忙しくなるわけでもなく、粛々と以前同様仕事を続けているのだそうだ。
一種類の戦闘機を作るだけで、驚くほど広い空間が必要なので、別の種類の戦闘機を彼が担当する予定は今のところはないという。
9月某日 ロッポロ民宿
メンデルスゾーンのソリストを務めるレティーツィア・グッリーニは、息子が7月シオンで知り合ったイタリア人学生の一人で、一緒に寿司を食べに行ったというから、世界は狭いものだ。彼女はカプリッチョーソ(気まぐれ)でジプシー調な感じを見事に活かした、素晴らしい演奏を披露した。この春にはトリノ国立音楽院から派遣されて、東京イタリア文化会館でリサイタルをしたと聞いた。その際、ディロンとも知り合って、芸大でレッスンも受けた、と大層日本が気に入ったようである。
ロシア・ミグ戦闘機エストニア侵犯し、北大西洋条約機構が対応。伊戦闘機も参加。朝、ベルティニャーニ湖まで歩き、人気のない小さな湖を一周した。森から落ちて来る栗が道に沢山転がっていたので、「いが」を蹴りながら歩く。
日本では熊出没がしばしば報じられているけれど、この辺りはどうかしら、とふと怖くなる。
9月某日 ミラノ自宅
ロッポロのマスターコースの修了演奏会は、参加それぞれとても良かったが、練習時に殻に閉じこもって何も出来なかったシャンシャンが、本番では見違えるように大胆で雄弁に振っている姿には、思わず感動した。
イギリス、カナダ、オーストラリア、ポルトガルが、パレスチナの国家承認を表明。日本政府は今回パレスチナ国家承認を見送ると発表、イスラエル政府より謝意を受ける。
イスラエルの指揮者イラン・ヴォルコフが、ガザ支援のデモに参加し、拘束されたとの報道。現在のイスラエルにおいては、バレンボイムが表明してきたような勇気ある行動は、悉く芽を摘まれてしまうのか。
昨日の夜から今日の夜半まで、イタリアはゼネラル・ストライキが続いている。パレスチナの国家承認を見送ったメローニ政権への抗議のため、国鉄、私鉄、各都市のバス、地下鉄、学校、大学、出版社などが24時間のストライキに突入し、各都市では大規模なパレスチナ支援のデモ行進が行われた。ミラノでは、名門高校マンゾーニを学生が占拠しパレスチナ承認を強く求め、スカラ座で催されていたロベルト・ボッレのバレエ・プログラムは、公演後ボッレらがパレスチナ旗を舞台上で掲げて、パレスチナへの支持を強く表明し、伊政府が、ドイツや日本と同じく手を拱いて傍観を決め込んでいることに抗議した。第二次世界大戦中のユダヤ人に対しての蛮行が尾を曳いているのと、メローニの保守的な姿勢が相俟っているのだろう。大戦敗戦の際、イタリアはイタリア軍を放棄し平和主義をつまびらかにし、再軍備に関しても当時は強く制限されたのは日本と同じだが、地政学的にもNATO軍参加が必須であったため、戦後イタリア軍は日本と違ってすみやかに再編成された。イタリアのテレビでは、同じ敗戦国として平和主義を掲げた日本は、未だに正式な軍隊を持っていない、活動も制限されている、と紹介されていた。イスラエルはヒズボラを口実にレバノンを大規模空爆した。
9月某日 ミラノ自宅
リナーテ空港近くの分校まで学校の再試験に出かけると、以前楽典などを教えたエリエールが、シルバのレッスンに訪れていた。イスラエル人のエリエールは、スカラのバレエ学校を卒業し、同時に音楽の研鑽も続けている。彼女の笑顔を見ながら、昨日のゼネストで、ミラノ中央駅で起きた暴動を思い出して複雑な思いに駆られる。ミラノ、ローマ、トリノを始め、イタリア各地でそれぞれ5万人、数万人規模のパレスチナ支援のデモ行進が平和裏に行われた一方、それを口実に暴力をひけらかす若者もいて、世界にはその部分だけがセンセーショナルに切り抜かれて報道された。パレスチナ支援を求めるため、なぜ中央駅の店舗を壊したいのか全く理解できないが、恐らく深い意味などないのかもしれない。
エリエールや、先日入試にやってきたイスラエルの妙齢は、ミラノの大通りを埋め尽くす無数の人々が、まるで河のように揺らめきながら、パレスチナ解放と反ネタニヤフ、場合によっては反シオニズムを叫びながら練り歩く姿をどんな思いで見つめていたのだろう。自分がその立場だったらと思うと、想像できないほどの恐怖かとも思うが、或いは間違っているかもしれない。イスラエル人とパレスチナ人が平和に共存できる世界は、もう実現できないのだろうか。アメリカがイスラエルを支援すればするほど、膨らむ大義名分を手にしたロシアは、攻撃を広げてゆく。
フランス・マクロン大統領は国連総会で「Le temps de la paix est venu.平和のための時が来た」、とパレスチナの国家承認を表明。同時に、ベルギー、ルクセンブルク、マルタ、サンマリノ、アンドラのパレスチナ国家承認を発表。
コペンハーゲン、オスロ―の空港に不明のドローン飛来のため、空港が一時閉鎖。
9月某日 ミラノ自宅
夕刻、パレストロの市立プラネタリウムで息子がピアノを弾くと言うので聴きに出かける。酷い雷雨で、長靴に雨具上下という重装備。
古めかしさと厳めしさが、いかにもファシズム建築期らしい、美しい市立プラネタリウムは、1930年にミラノの出版者ウルリコ・オェプリがパトロンとなり、名建築家ピエロ・ポルタルッピが設計した傑作の一つだ。動物の星座が43、物の形をした星座が29、男の姿をした星座が12、女の姿をした星座は4。併せて88の星座はピアノの鍵盤の数と同じ、解説員の話は始まり、1時間ほどかけて、太陽の話から土星、北斗七星、北極星、アンドロメダ星雲など、秋の星座の話を、夕方、深夜、明け方と時系列で説明する。そんな逸話の合間に、息子がベートーヴェンの「狩」やウェーバーを弾いたのだが、特に何も考えずに出かけたものの、星座の話の合間にこれらの作品が演奏されるのは、思いの外似合っていて、意外なほど心地よかった。
9月某日 ミラノ自宅
岡部美紀さんに教えてもらって、ファッション・デザイナー、マリア・カルデラーラと廣瀬智央の共同作品展「天の川」を訪ねる。30メートル強の藍の布に、廣瀬さんは無数の小さな点を書き連ね、空間を織るようにして見事に天の川を表現していた。
「お互い長くイタリアにいるせいかもしれませんが、日本文化に対する姿勢や、西洋、イタリア文化に対しての姿勢など、多く共感できる部分もあり楽しかった」と美紀さんに報告すると、「分野は異なれど、あなたと廣瀬さんは色々共通点があると思っていた」とお返事を頂く。作品における地政学的アプローチであったり、環境への関心など、表現を自分の裡に溜め込まないところに近しさを感じる。驚いたのは、廣瀬さんは、イントナルモーリのあるヴィニョーリ通り、歩いて5、6分程度しかかからない、すぐ近所に長年住んでいらしたことだ。毎日出歩いているのに、お目にかかったことがなかった。
9月某日 ミラノ自宅
先日のゼネラル・ストライキの影響なのか、メローニ首相はハマスが排除されればパレスチナ国家承認、と一歩踏み込んだ発言をした。イタリアの大手新聞は、ヴェネチアのフェニーチェ劇場がストライキ、と報じている。発表された新音楽監督が政権に近い若い女性指揮者で、彼女は一度も劇場を振ったことがなく、事前の相談もなく、到底受け容れられない、とオーケストラなど劇場関係者が反旗を翻したという。尤も関係者の間では、前劇場支配人だったオルトンビーナ氏がスカラに送られた辺りから、彼女の名前はほぼ確実だと言われていたので、ここに来て大問題のように報じられるのに、違和感すら感じている。
息子は4年間通ったミラノ日本人学校の創立50周年記念式典に招かれて、ピアノを弾いてきたらしい。手作りの素敵なアルバムを受取って嬉しそうに帰宅。
9月某日 ミラノ自宅
イスラエル首相は国連総会参加にあたり、パレスチナを国家承認していないギリシャとイタリアの領土上空を通過してアメリカへ向かった。国際刑事裁判所の逮捕状を危惧との報道もあるが、ともかくフランス、スペイン上空を飛ぶのを完全に避けたという。パレスチナ暫定政府のアッバス議長の米国入国は許可されなかった。
ゼレンスキー大統領は、92機のドローンがロシアからポーランドへ向かい、そのうち19機がポーランド領空侵犯に成功したと発表した。今後は、ロシアからイタリア方面へドローンが向かう可能性を示唆。デンマークの最大軍事基地上空にて不明のドローン発見。
9月某日 ミラノ自宅
パレスチナ支援グループが、ネルヴィアーノの軍需会社「レオナルド」入口を封鎖。「レオナルド」がイスラエルに武器を輸出するのに抗議している。
息子曰く、先の大戦で過ちを冒したイタリアやドイツこそ、率先して自分たちと間違いを繰り返すな、とイスラエルに言うべきだし、言える立場にあるはずなのに、どうしてメローニもメルツも弱腰なのか、腑に落ちないらしい。
正論ではあるけれど、それを軽はずみに口に出来ぬほどの蛮行を冒してしまった、とも言える。
家人は、空港から直接藤井一興先生のお別れの会場へ直行した。「花の敷付き詰められた立派な祭壇の上に悠治さんと藤井先生が並んで微笑んでいる写真も紹介された。それから、三原さんが芸大の大学院に入学した」、と嬉しそうに電話がかかってきた。三原さんは藤井先生にも習っていたはずだ。「息子にもすぐ伝えて」と電話の向こうの声が弾んでいる。三原さんと言えば、以前彼女と息子が同じノヴァラの音楽院に通っていた頃、まだ小さかった息子をいつも電車で連れて行ってくれて、よい話し相手になって貰った。だから、彼女のことを想い浮かべると、幼かった息子と並んで、中央駅の喫茶店でこちらが迎えにいくのを待っている姿が自然と蘇ってくる。常にひたむきで、純粋に音楽と向き合う姿が印象的だった。
インターネットの署名サイトから、ヴェネツィアの劇場新音楽監督に反対する、署名要望メールが届く。恐らく自動的にメーリングリストに載っているに違いないが、今回の署名には参加する気はない。実際に見たこともないので、周りがどう吹聴していようが、知りもしない人に対して、自分が何もいう権利はないだろう。
尤も、彼女を否定しているのは音楽関係者や劇場のファンに限られているのだろうから、大多数は、嫉妬深く因襲的なわれわれの石頭を嘲笑の対象にしているのかも知れない。
以前国際コンクールの審査をした際、同じく審査を担当していた女流作曲家が、「男女の参加者が同点の場合、女性の作曲家にチャンスを与えてくれ」とはっきり言っていたのを思い出す。「何故なら、女性というだけで、わたしたちはずっと可能性を剥奪され続けてきたから」、と畳みかけられ、思わず言葉に窮してしまった。
当初自分は、音楽をする環境は他の職種より男女差が少ない、と信じて疑わなかったが、彼女にとってはそうではなかった。この目で見ている世界など、現実のほんの欠片に過ぎないのを実感したのだ。
「ジェンダー格差」、「人種差別」、「社会の階級」、「戦争」など、ぽっかり浮かぶ小さな島それぞれに高らかにプラカードが掲げられているのならば、音楽はその島の周囲を満たす海であるべきか。辛抱強く波を穿ち続けて岩を砕き、浜を消失させ、出来るものなら憎悪そのものを水中に沈めてしまうために。
(9月30日 ミラノにて)
立山が見える窓(5)
福島亮 ラジオに出演した。
富山シティエフエムという、富山市をエリアとする小さなラジオなのだが、今週末から始まる「ウカマウ集団」の富山上映について、アフリカ文学研究者の村田はるせさんとともに、30分ほどお話しした。
10月3日から5日まで、ボリビアの映画制作集団ウカマウの全14作品をオーバード・ホール(富山市)で上映する。主催はカルトブロンシュという富山の映画上映グループで、私は企画スタッフとして今回の上映活動に参加している。2025年は、ウカマウがその活動を開始してから60年、彼らが日本の太田昌国さんらと協働関係をもってから50年、そしてボリビア独立200年、という節目の年なのである。「ウカマウ集団60年の全軌跡」と題した回顧上映が4月末に新宿K’sシネマで行われ、それを皮切りに大阪、松本、沖縄など約十の地域で全作、あるいはセレクト上映が続いている。富山上映には、太田さんや唐澤秀子さんも来てくださり、トークをする予定だ。
パレスチナに対するイスラエルの軍事攻撃がそうであるように、現在の世界の至る所に植民地主義的な秩序が見え隠れしている。いや、見え隠れどころか、丸見えのそれを人は知らんぷりしている、と言うのが正確だろう。ウカマウが描き続けてきた中南米の先住民をめぐる状況は、この植民地主義的秩序と地続きだ。歴史は一回一回清算されて繰り返すのではなく、1492年のコロンブスによる「新大陸発見」以降の世界の秩序が、現代の支配・被支配と構造的に連続している。ウカマウはこの出口のない連続性の中から、それでも火花を散らすように映像作品を世に送り出してきた。闇の中のきらめきを、富山の小さなホールで見てみたい。
気がつけば、それまでの茹だるような暑さは消えていて、日没とともにコオロギが鳴くようになっていた。企画を開始した時はまだ先のことと思っていたが、もう明後日に迫っている。ふと立ち止まると、時間だけが過ぎ去り、駅のホームに取り残されたような気持ちになることがある。大丈夫、しばらくすればまた電車は来ると思うのだが、やってきた電車の扉は乗り込む前に閉じてしまい、また駅のホームに取り残される。車両の中には、何人か乗客がいるらしい。うつむきながら、あるいは過去の方角を遠く眺めながら過ぎ去っていく彼ら・彼女らは、もうここにはいない人たちだ。車輪とレールのあいだで、小さな火花が飛び散る。その火花は、私が散らすのではなく、彼ら・彼女らを乗せて行ってしまう電車からほとばしるのだ。
ラジオでは、そんなふうには言えなかった。ただ、楽しんでほしいと伝えるだけで精一杯だった。時の列車が軋むたびにきらめく、あの微かな光をどう言葉にしたらよいのか、いまでもよくわからない。
*
10月はいくつかのイベントがある。ウカマウ上映はそのひとつだが、他にも10月24日(金)には文化人類学者で批評家の今福龍太さんに富山で講演をしてもらう。翌日25日(土)には射水市にあるLetterというイベントスペースで、今福さんの『仮面考』という書物をめぐるトークが予定されている。以下、お知らせ。
・今福龍太氏 公開講演会
「遊動、放擲、声――旅(テンベア)の途上で出会ったものたち」
日時:2025年10月24日(金)
16:45-(16:30開場)
会場:富山大学人文学部第四講義室 人文学部棟2階
予約不要、無料、一般参加歓迎
問合:ryofkshm[アットマーク]hmt.u-toyama.ac.jp
富山大学人文学部福島亮研究室
*[アットマーク]を@に変えてください。
・今福龍太『仮面考』(亜紀書房)出版トークイベント
「うらはおもて 心は面」
日時:2025年10月25日(土)
14:00-(13:30開場)
会場:LETTER(旧小杉郵便局)
富山県射水市戸破6360
参加費:1000円
問合:tembea.toyama[アットマーク]gmail.com
*[アットマーク]を@に変えてください。
要予約。お席に限りがあるためご予約をお願いします。
ギョウジャニンニク
笠間直穂子東秩父の山のなかに斜面の土地を買って、通いながら自分たちで木を伐り、家と工房を設計して建て、住みはじめて数十年、子供も独立したいまは、猫と暮らす。食堂店主のOさんと、連れ合いである木工作家のTさんの家に最初に招ばれたのは、わたしが秩父に住んで二年半経った春先のことだった。Oさんに敷地を案内してもらった際、この辺りにギョウジャニンニクが生える、と教えられた。
ギョウジャニンニクを知ったのは、たぶん、このときだと思う。けれども、そのスズランの葉を薄く柔らかくしたような紡錘形の葉を、わたしはよく知っていた。
四十年以上前、父の仕事の都合でチューリッヒに住んでいた小学生のころ、春になると日本企業駐在員の数家族による年中行事があった。車を連ねて、山へ向かい、特になにがあるわけでもない、道路のすぐ脇が森になっているところに駐め、草を分けて木立へ入っていく。下生えのところどころに、スズランに似た葉の群生を見つけては、摘んでいくのだが、毒のあるスズランと間違えないよう、切り口にニラのにおいがするか、たしかめなくてはいけない。子供も大人も、袋いっぱい収穫して、もち帰る。
年に一度、普段は食べられないニラを存分に食べられる日なので、だれもが上機嫌だった。ほかにひとのいない森のなかで、みんなで摘むのは楽しく、小さな子供にとってもやりがいがある。それに、なんとなく、よその土地で示し合わせてこっそりと悪さを働いているような、はしゃいだ気分もあったと思う。実際、私有地ではないとしても、森に自生する植物をそんなふうに集団でむしっていくのが、明らかに現地の良識にもとる行為だったことは否めない。
大人たちは、ニラ、としか呼んでいなかった。日本のニラとは形が全然違うけれど、ニラなのだ、と。ずっとあとになって、ヨーロッパでは「クマニラ」ないし「クマニンニク」を意味する名をもつネギの仲間と知った(Allium ursinum)。日本では英語名から「ラムソン」とも呼ばれる。ギョウジャニンニク(Allium ochotense)に近い種だ。
たとえばいまの日本でも、ある国や地域の出身者が、故郷で馴染んだ味の代用となる食材を発見して、伝えあい、それがひとつのローカル文化になっていく場合があるだろう。あのころ、各企業の人事に応じて次々とメンバーが入れ替わる、チューリッヒの小さな日本人コミュニティのなかで、だれが「ニラ」の採集地を見つけ、どう受け継いでいったのだろうか。
自分の親もふくむ当時の海外駐在員の大人たちの言動には、その歪んだ特権意識や閉鎖性に、居たたまれない思いをさせられることも多かった。けれども、このニラ摘みにかぎっては、現地のマジョリティの目には見えないところで培われるマイナー集団の習性に似つかわしい、なにか活き活きしたものを漂わせている気がした。
秩父地域の農産物直売所で、ギョウジャニンニクの株が売られているのを見つけ、購入して、庭に植えた。一年のほとんどの期間は、どこにあるかもはっきりわからないのだが、三月のはじめになると、まだ枯れ草の目立つ地面から、すらりとした葉が顔を出す。幅の広い葉が何枚か出そろうのを見計らって、摘む。
あの昔のクマニラほどたくさんはないから、そのままおかずにするのではなく、刻んで醤油に浸しておき、数日寝かせて、とろみがついたところを、小鹿野の若いMさん夫妻がつくる身のしまった豆腐にかけて、口に運ぶ。ニラの風味を蒸留したような濃く澄んだ味に、驚くほどの甘みが溶け出し、その甘みのせいもあってか、シナモンを思わせる香りがする。
味わいながら、こういうものは、一年のうちの、ほんのかぎられた季節のあいだだけ食べられるのがちょうどいい、と思う。すると、自分にはあと何回、これを食べる季節がめぐってくるのだろう、という考えが自然と浮かぶ。旬の短い食べものは、そういう連想を導くものなのかもしれない。花がそうであるように。
*
ギョウジャニンニクのような山菜だけではなく、いま、わたしは多くの食材を、それぞれ決まった季節のあいだだけ、食べている。秩父に来てから、主に地元で採れた野菜を口にしているからだ。
地域には農協の直売所がいくつかあり、農家の収穫した野菜が並ぶ。大型スーパーや、百貨店の食品売り場には、地場産野菜のコーナーがある。街なかには個人の無人販売所が点在し、時には友人知人から、畑で多く採れたものをいただく。自宅の庭でもほんの少し、野菜や香草を育てているほか、フキ、ミョウガ、ミツバなどは、勝手に生える。
それらは、見るからに瑞々しくて、保ちがよい。夏場に出回る露地物のキュウリやトマトは格段に味が強く、根菜類は、水分が抜けていないためか、火の通りが早い。最盛期のものなら値段も安く、さらに広範囲に流通しない在来種や珍しい品種を見つける楽しみもある。比べると、スーパーに置かれている遠い産地の野菜は、なにか生気がないような、乾いているような感じがして、あまり買わなくなった。
都内に住んでいたときは、たとえば菜の花や栗のような、特定の季節を表すことになっているものが一方にあり、他方、ナスやニンジンやジャガイモはいつもある、という感覚だったけれど、いまは、すべてが特定の季節を待って手に入れるものになった。保存の利くもの、ハウス栽培が盛んなものなら、ある程度は長めに出回るが、それでも、いつもかならずある、というものはない。植物なのだから、当たり前だ。サラダひとつをつくるにも、季節によって、キュウリとルッコラになったり、カブと春菊になったりする。この生活に慣れると、レストランのメニューが年中固定しているのが、奇妙に思えてくる。
直売所の野菜は、値札シールに生産者の氏名が記されている。知人の畑から来るものも、もちろん、だれがつくったか、わかっている。同じホウレンソウ、同じ男爵イモでも、つくるひとによって、形も大きさも、味も違う。土壌も、肥料の工夫も、つくり手の性格や好みも違うのだから、これも、当たり前のことだ。
作物には、すべて季節があり、生産者ごとの個性がある。書くのもためらわれるほど、当然のことなのに、それが大部分のひとには見えない社会に、わたしたちは暮らしている。
真田純子『風景をつくるごはん』は、景観工学を研究する著者が、徳島に赴任したことを契機に、農村の風景はいかにして維持されうるかを、社会、経済、環境といった幅広い分野を横断しながら考えていく。農業そのものが専門でないからこそ、実体験を積み重ねつつ問題のありかを発見していく手つきが、同時に読みものとしての間口の広さにもなっている好著だ。この主題に取り組もうとしたときに、著者が最初にしたことは、やはり、なるべくその土地で生産された食材だけを食べて生活してみる、ということだった。
風景とごはんは、どう結びつくか。たとえば、代々受け継がれてきた棚田や段畑の風景を、美しい、と感じるとして、それはただの画像ではなく、作物が生産される場なのだから、その風景が変質したり消えたりしないためには、まず、そのような田畑で農業を営むことで、安定した生活が送れるようになっていなくてはならない。
ところが、日本の農業政策は、半世紀以上前から、都市住民への食材の「安定供給」を至上命令として、単一栽培と規格化により農産物を工業製品に近づけ、農地を集約化・効率化することを農家に求めつづけていて、農村風景の保全そのものに舵を切ったヨーロッパと異なり、いまもその基本方針を変えていない。
つまり、現状の政策にしたがえば、小規模で非効率な急斜面の田畑は、生きのびられない。それは都市住民の都合を優先した結果なのだから、形のそろった各種の野菜がスーパーにいつも並んでいるのを当然と受けとめ、意識すらしないでいる者は、「昔ながら」の田園風景を消そうとする力の側に立っていることになる。
季節外れの野菜が売られているなら、それはビニールハウスを大量の燃料で温めて人工の季節をつくっているということ。遠くの生産地から来た野菜がたくさんあるなら、それは梱包と輸送に適した同じ形・同じ大きさの品物を選り分けているということだ。つねにピカピカの商品があふれ、新しい品種が宣伝されていて目を惹く、そんな売場づくりの背後に、耕作放棄地や、環境に負担をかける農法や、度を超えた品種開発競争がある。
今日の日本における都市と農村は、「選ぶ—選ばれる」の関係にある、と著者は言う。安い、きれい、おいしい、自慢できる、といった個人の利益を追求する消費者に受け入れられるべく、生産者ばかりが努力しなければならない。システムとして駆動しているがゆえに大多数には気づかれることもないまま、その構造はずっとつづいている。
このような不均衡なシステムを変えるヒントのひとつとして、著者は環境保全の考え方に基づいた、食と農と観光をつなぐイタリアのアグリツーリズムを参照する。それは発想の大本が「稼ぐこと」にあるような観光政策とは違う。食品が「人と自然の共同作業の結果」であるという認識を、生産者と消費者が分かち合うことで、農村の景観が生きつづけるための、都市住民も交えたサイクルを構築しようとするものだ。
ここにいる人々、ここにある景色を大事にするための仕組みを、時間をかけてつくりあげてこそ、本当の意味で「経済はまわる」。地面に目を向けて、その土地、その季節に育つものを眺め、口にすることは、そうした社会へと踏み出すための力を蓄えることでもあるように思う。
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広い風景のなかを歩きたくて、根室に行ってみようと思った。この地域は、フットパスと呼ばれる、草地や森林や海辺を徒歩でめぐるコースが整備されている。根室湾に通じる汽水湖である風蓮湖の周囲や、原生花園にも、散歩道があり、野鳥観察に訪れるひとも多い。風に吹かれて歩けるところが、たくさんありそうだ。
高田勝『ニムオロ原野の片隅から』のことも、頭にあった。一九七二年、野鳥好きの青年だった著者は、前年に結婚した妻とともに、川崎からこの地に移り住んだ。本書には、二人が根室に住みついた最初の日々がつづられている。はじめの一年は海辺の牧場で働き、次いで市街地へ。移住から三年後に、町から離れた森のなか、風蓮湖の近くに山小屋式の家を建て、九人ほどが宿泊できる小さな民宿をはじめた。著者は十数年前に亡くなったけれど、宿は妻のHさんが、いまもつづけている。
Hさんは、庭や、家の付近に育つ植物から、十数種類のジャムをつくり、朝食に出す。ヤマブドウ、ハマナス、コクワ(サルナシ)、ハスカップ、ミヤマナナカマド。本のなかに、牧場の仕事仲間と喜び勇んで摘みに行く様子が描かれていて印象深いフレップ(クサイチゴ)のジャムもある。自家製のパンにつけて食べていると、掃き出し窓の外のデッキに、シマリスやエゾリス、ゴジュウカラやミソサザイが現れる。
食堂にあるテーブルはひとつきりで、この大きな食卓に宿泊客が全員、あるいは代わる代わる集う。本棚には、野鳥に関する資料。長年にわたり、地元根室、道内、さらに全国から、野生の動植物に惹かれる人々がここで飲みながら賑やかに話し、情報を交換してきた。
わたしは、昼は自然観察ツアーや散策に出かけ、夜は、先に挙げた第一作のあと、高田勝がここでの生活を書いた『ある日、原野で』と『ニムオロ原野 風露荘の春秋』を、本棚から借りて読んだ。
読んでいて感じるのは、著者の人懐こさだ。自然にも人間にも、好奇心たっぷりに近づいていく。野鳥好きの仲間たちは、一人が稀少な鳥に出会えば、駆けていってほかの者に教える。独占しない、分け合ったほうが楽しい、そういう心持ちが底に流れていて、温かい。
自然観察ツアーのガイドを担当してくれた根室ネイチャーセンターのSさんは、自然にまつわる活動をはじめたころ、勝さんに本当にお世話になった、と感慨深げに語った。また、Hさんによれば、現在の根室の自然観光に用いられる設備のなかには、野鳥関連の仕事で国外へ行くこともあった夫の土産話から、形になっていったものもあるらしい。
となると、彼の文章から滲み出る、土地の風景と動植物に対するまっすぐな興味、そしてその興味を周囲の人々と分かち合う姿勢は、いまわたしが享受しているこの地域の自然観光の設えと、遠く近く、つながっている、ということか。グループを結成して自らフットパスを整えた酪農家たちにも、そんな気風が共有されているに違いない。収益最優先の人工的な観光地づくりとは対極にある、自然と人間に寄り添った地道な活動の体温を感じながら、わたしはこの地の草むらや、湿地や、川岸や、浜辺を歩いた。
上に引いた高田勝の三冊の本のすべてに、ギョウジャニンニクが登場する。それは、彼にとって、春を告げる食べものだ。まだ原野が雪と氷に閉ざされた三月、春の訪れが近いことをたしかめたいばかりに、ナイフで地面の厚い氷を削って「茶色い鞘に包まれたこうばしいギョウジャニンニクの新芽を見つける」。いよいよ春が来る五月ともなれば、宿の裏の森にたくさん出てくるのを摘み、客の食事に出す。
来年の春、わたしはきっと、秩父の庭のギョウジャニンニクを摘みながら、あの根室の宿の周りに生えるのはいつだろうと思い、Hさんのきびきびした優しさを思うだろう。風蓮湖の夕暮れや、どこかにいるヒグマが立ち去れるよう大きな声で呼びかけるSさんや、木立の向こうからじっとこちらを見つめるエゾシカを思うだろう。
生きた食べものは、こうして土地と土地を結びつけ、それらの場所を星座のようにつないだひとつの地図が、わたしのなかに描かれていく。
スリランカ・カリーとペーネロペーの織物
高橋悠治音楽を習い始めてから、1950年代 と1960年代までは、一つの「普遍」を目指した「方法」を見つけようとしていた。一つの中心があれば、その他の「周辺」は、中心との距離で測られ、分類されて、位置が決まる。
中心がなく、断片の集まりとしか言えない場合は、それらをすこしずつ組み合わせて、そこでおもしろく聞こえない組み合わせを取り除いていき、残った組み合わせをある順番に並べてみる。
組み合わせのそれぞれが違う色で聞き分けられ、一つの厚い表面ではなく、それぞれの色の短い線の動きの集まりが動き、変化するリズムが感じとれ、半透明に波立つままにあるように。
と書いている今も、過去から持ち続けている何かに思い当たらないでいる。
いつか東京のどこかにあったスリランカ・カリーの店で見た、スプーンで数種類のカリーを混ぜて食べるやり方、それと「オデュッセイア」で、留守を守るペーネロペーの織物、毎日解いてはまた編み続ける作業、その二つを思いながら、音の演奏と仮留めの実験を続けてきた、と自分では思う時もある。
こうして思っていることも、言い訳に過ぎないかもしれない、とすれば、自分でも思い出せないような作曲を、他人が覚えているわけがあろうか。と言って、他にできることもなし、習いおぼえたわずかな技術も、すり減っていくばかり、と言っても、他人の作品を演奏すること、即興でピアノを弾くこと、そこで起こるちょっとした偏りが影を落とす時間を、さまざまに感じるひととき。
作曲・演奏・即興という記憶の長さは、価値とは違うが、いつの間にか、この順番に慣れている。この順序、だけでなく、こんな分類でもなく、瞬間の動きをそのままに聞かせ、解釈したり、意味づけを許す時間を持たないままに過ぎる、動きと変化の織物を続けるだけの場所を開いて、その流れに揺られている日々が、すぐそばにあるかもしれない。それは見えなくても、聞こえなくても、手触りだけで感じられるだろうか。
2025年9月1日(月)
水牛だより立秋はおろか9月になっても、会う人との最初のひとこと、メールなどの最初の書き出しは「暑いですね」のまま。でも日の入りの時間は確実に早くなってきて、ふと気づくと18時をすぎるとくらくなっています。アンバランスな秋のはじまり、というよりはきっと夏から冬になってしまうのでしょうね。
「水牛のように」を2025年9月1日号に更新しました。
暑さにめげずにたくさんの原稿が届きました。みなさん、ありがとうございます。ここでまとめてお礼を!
今月から笠間直穂子さんの連載がスタートします。笠間さんのエッセイ『山影の町から』を読んで、いつか水牛にも書いてもらえたら、と願ってきました。そう願いつつ待っていたら、機が熟したとでもいうのか、こうして願いが叶うことになりました。ハグロトンボと出会う庭のある笠間さんの家は秩父にあります。
篠原恒木さん、長いあいだのお勤めごくろうさまでした。最後のお仕事の画像は小さなサイズで載せましたが、クリックすると細部まで見えるように拡大します。篠原さんの手仕事をじっくりと見てください。そして片岡義男さんの珈琲三部作、どれもおもしろいですよ。
それではまた来月に! 涼しくなっているといいですね。(八巻美恵)
008 鳥のために
藤井貞和山崎さんの言う、「本とは、生まれる魂の食物。
詩の祈り。 闇のなかの微かな光。 渇きを癒す水。」
はいいろの空の年、内戦が、山崎佳代子の詩集をあらわす。
大泉さんは言葉の紡ぎ手たちの一人になって、
善き手と手とに結ばれる。 旅の始まりでした。
一九九五年、ベオグラードで、詩集『鳥のために』が、
旅の終わりよ どこへ。 鳥の魂は なかまたちの、
書物になって、守り続けることでしょう。
(守り続けてください、鳥の魂よ。二〇二二年、菊地信義に続いて、大泉史世の訃報に接します。内戦は一九九一年。)
ハグロトンボ
笠間直穂子去年の、いつごろだったか。庭の草がどんどん伸びてきて、ある朝、そうしようと決めたのだから、五月くらいだろうか。のちに習慣になったことの、最初の日を思い出すのは難しい。ともかく、ある朝、わたしは家のまわりを歩くことをはじめた。
庭の草を、わたしはあまり頻繁に刈らない。自生する草が季節を追って絶えず入れ替わる様子が面白く、きれいなので、見ていたい。また、単に無精でもある。だから、特に草の生長が著しい時期には、膝まで埋まる高さになり、分け入るのも億劫なほどになってくる。
とりわけ、隣家の車庫と対面している側は、うちの外壁と、境界柵および車庫のポリカ波板に挟まれた、廊下くらいの幅の土地に、丈の高い草が繁茂しているのが、気になっていた。風通しが悪く、湿気や虫が隣の敷地にも影響をおよぼしていそうだ。本当はここだけでも、こまめに刈ったほうがいい。
雑草や虫を排除しない庭づくりを実践する植木屋、ひきちガーデンサービス(曳地トシ、曳地義治)の『雑草と楽しむ庭づくり』は、勝手に生える草を目の仇にせず、かといって放置するのでもなく、庭としての心地良さを保ちながらうまく付き合うための方法を示す。そのなかで、雑草を生やさない方法として筆頭に挙がっているのが、「踏む」こと。狭い範囲なら、毎日歩けば、その部分は道になり、草は生えない。
そこで、去年のある朝、思いたって、歩くことにした。長靴を穿いて、外へ出る。それまでも、朝は大抵、一度外へ出て、鳥の水場の水を替えていたけれど、そのあとすぐ家へ戻らずに、家のまわりを一周した。
庭の広い部分のあちこちに植えた木の苗が、よく育ったり、あまり育たなかったりしているのを、順々に訪ねていく。手入れをするわけではないが、とりあえず、近づいて、名前を呼ぶ。ミツマタ。シナノキ。ボケ。サンショウ。ハギ。クロモジ。トキワエゴ。ネムノキ。アンズ。イチジク。アーモンド。コブシ。サラサドウダン。
家の裏手に入る。ここは物干し竿の下に、知り合いの工務店の倉庫で安く譲ってもらった半端物の敷石を自分で敷いたから、草に埋もれてはいない。
チャノキの植わった角を曲がると、いよいよ隣家との境の回廊だ。膝を越すくらいの草が生え、左手にある自宅の外壁も、右手にある境界柵と波板も、ツタやその他の蔓草に覆われているので、下からも左右からも緑に囲まれて、小さな虫が飛び交い、薄暗い。一瞬ひるむけれど、枯れ枝を手に、蔓や蚊やクモの巣を振りはらいながら思いきりよく踏みこんでみれば、自分の進む分だけ、ひらけてくる感じがある。毎日暮らす家の壁沿いなのに、一歩ごとに新しい景色が見えた。
狭い通路の終わる角には、屋根まで届く高さのカイヅカイブキがあり、その枝と、枝に絡まったキヅタが、頭上にアーチをつくっている。くぐり抜けると、急に視界が明るくなって、家の正面側の、見慣れた場所に出た。当たり前のことなのだが、不思議な気がして、しばらくたたずんだ。
次の日も、同じコースを歩いてみた。何日かそうしてから、逆方向に回ってみようと思いついた。逆から回ると、また見えるものが違う。
一日一回とか、右回りと左回りを交互に、などとルールめいたものを定めると重荷になる。だから、特になにも決めず、水を替えに戸を開けて外へ出たときの気分で、右へ行ったり、左へ行ったり、まわらずに家に戻ったりした。水替え自体、忙しかったり雨が降ったりしていれば、やらない。
その程度であっても、なんとなくつづけているうちに、気がつけば、わたしの足が踏む範囲は草が消え、名前を呼ぶ木々を結んでから裏手をめぐって隣家との境を通る、踏み固められた土の小径がついていた。
*
そうやって、小径を歩きつづけ、夏の終わりに差しかかったころ、隣家との境の薄暗い通路に入るあたりで、トンボともチョウともつかない、一羽の昆虫が目に入った。
全体の形はトンボに近いけれど、やや幅の広い翅は少し青みがかって見える艶消しの深い黒で、細い胴体は金属光沢のある青緑色。そして、飛び方はチョウに似て、はたはたと翅を上下させながら、ゆっくりと飛ぶ。留まるときも、チョウのように左右の翅を閉じる。
トンボの緊張感と、チョウのたおやかさとを併せもつ、黒ビロードとエメラルドの色合いをしたものが、壁沿いの暗いところをひっそりと飛んでいく。見あげていると、なにか夢を見ている気分になった。
室内に戻ってから調べると、ハグロトンボというトンボの一種だった。翅が黒く胴体が青いのは、オス。メスは胴体もふくめて黒い。特徴のひとつに、翅をはためかせて飛ぶときにパタタタ……と小さな音を立てる、との記述があり、飛ぶ姿に静けさを感じたのはそのせいもあったのだと、納得した。
次の日も、ほぼ同じ場所に、ハグロトンボはいた。その次の日も。しばらくのあいだ、小径の薄暗い一角を通るたびに出会った。オスは縄張り意識が強いらしいので、同じ個体なのだろう。普段の朝より二時間も遅い時間に歩いて、さすがに今日は無理かと諦めていたところへ、ふと現れたこともあった。
あるときは、メスが、ミョウガタケの葉の上に留まっていた。黒一色なので、体色がエメラルド色のオスより地味だが、翅がオスは真っ黒なのに対し、メスは少し色が薄く、薄墨の感じがあって、これはこれで、美しい。
こうして、家のまわりを一周することと、ハグロトンボに出会うことが、わたしのなかで、重なっていった。
一週間か、二週間か、日数は覚えていないけれど、いずれにせよ長い期間ではなかったはずだ。トンボの季節が終わり、秋が深まってからも、小径を歩く習慣はつづいた。けれども、草の絶える冬になって、寒さと、道をつける必要もなくなったことから、歩くのをやめ、今年の春に、再開しようと思ったとき、ツタに囲まれた薄暗い通路の出口付近をハグロトンボが飛ぶ光景が、鮮明に目の前に浮かんだ。まるで、いつもハグロトンボと一緒に歩いていたかのように、自分が記憶していることに気づいた。
幻のように感じるものに思いがけず毎日出会い、驚いては見入ることを繰り返した印象が記憶に刻まれている一方、その反復がどこかの時点で、終わった、途切れた、という記憶はない。落胆や寂しさといった感情も残っていない。
出会わなければ、今日はいないな、と思い、そのうちに季節が過ぎるだけで、明確な断絶がないから、終わりの印象が刻まれなかったのだろうか。家の周囲をひとめぐりする、その動きのように、ハグロトンボを日に日に見た経験は、終わりのない循環として、わたしのなかに組みこまれたようなのだ。
*
その年は、苦しい年だった。一昨年の終盤に急激な圧迫が重なって精神に亀裂が入り、翌春、少し塞がってきたところに無茶をして、再度、壊れた。診断は適応障害で、明確なストレス因子により抑鬱症状などが現れるものをいう。病気というよりは、怪我の感覚が強く、トラウマ(=外傷)の語を精神疾患に使う適切さがよくわかった。同時に、より重度の疾患である急性ストレス障害、さらに心的外傷後ストレス障害(PTSD)の、傷の深さを思った。
これまでに経験のなかった苦痛のひとつは、焦燥が高まったとき、思考が行き止まりになることだった。
通常、ひとが苦悩するとき、ひとつのことが頭から離れない、とはいっても、実際には、思考はそのひとつの主題のなかで、さまざまな悔いや恨みや仮定をぐるぐるとめぐっては、元のところに戻ってくる。もちろん、それはひどくつらいことだが、しかし、自分のなかで言葉を連ね、行きつ戻りすること自体を禁じられてみると、この懊悩すらも、ある程度の余裕、あるいは精神的健康があってこそできることなのだと気づく。
発作的な焦燥状態に襲われると、思考は展開しない。ただ完全に同じ言葉で突進して、その先はないから、虚空に激突する。それを延々と繰り返す。薬を飲んで、効いてくるまで耐えるしかないのだが、その間、自分を大事にする構えがあると自覚するわたしでさえ、意思ではなく衝動として、壁に力いっぱい頭を打ちつけそうになるときがある。もしも、自尊感情を剥ぎとられる環境に置かれていたなら、この状態で自傷を思いとどまるのは難しいのではないか、と思った。
その後読んだ齋藤塔子『傷の声』は、まさに精神的暴力に絶えずさらされる環境で育ち、その結果としての激しい自傷を生きて、ついに力尽きたひとの姿を記録している。そこにつづられた言語を絶する長い苦しみを、わたしは知ることができないが、行き止まりのスイッチが入ってしまったときの感じは、ほのかにわかる。こうして書いていても、手に汗がにじむ。
行き止まり、とはなにかを知り、そこから抜け出すことを願いながら日々を過ごす途上で、わたしは、ある朝、家のまわりを歩くことを思いついた。壁に頭をぶつける代わりに、その外側をめぐる。ひとつの軌跡を描いて、途中でなにかに出会い、最初の地点に戻ってこられることの、途方もない贅沢さ。ハグロトンボは、その豪奢の象徴として、わたしの瞼の裏に留まっているのだろうか。