ほら、うちの学校は昔から演劇が強かったやろ。県の演劇祭にも出て、賞をもらったりしてたらしい。中学の演劇部って、わりと適当なとこが多いから、演劇祭に出ても目立つらしいわ。だいたい秋になると、演劇部が決勝に進んだいうて、野球部とかサッカー部みたいに、クラスから何人か代表で応援に行かされてたやろ。大きなバスに乗せられて。なんでも、演劇部ができたときの顧問がゴリゴリの左の人やったらしいな。その先生がよう言うてたらしい。
「芝居っちゅうのは、みんなが手を取り合った新しい目標に向かうための運動なんや」
なんでも、その初代の演劇部の顧問の先生はもともと役者をやってた人で、東京の演劇界にも知り合いがおったらしい。そやから、たまに関西で公演があったら、知り合いの有名な役者を学校に呼ぶんやて。いまとちごて、中学生いうたらまだまだ子どもや。東京から役者が来るいうたら、知らん役者でもみんな大騒ぎやったらしいわ。そんなんやから、毎年、新入生がぎょうさん入るし、賞も獲るしな。僕らのころは、まだその頃の名残があったんちゃうかなあ。
おまけに、僕らの頃の演劇部の顧問が黒部先生や。そうそう、あのええカッコしいの黒部や。その黒部が文化祭で劇をやるいうたら、演劇部の芝居でもないのに全部チェックしてたらしいんや。そやからあの時も、ほんまは予行演習で黒部と教頭が劇の脚本とか中身とか、合唱のクラスの選曲とかをチェックしてたらしい。うちの担任やった小林先生はチェックされたら、「なんやこれは、ちゃんとした劇をせえ」と怒られると判断したんやろな。「うちのクラスは、まだ見せられる段階やないんです。けど、中身はこぶとり爺さんです」言うて誤魔化したらしいわ。絶対、あとで学年主任と教頭に怒られたと思うけど、小林先生、どっちも大嫌いやったからな。
僕、一回聞いたことあるねん、小林先生に。「先生、黒部のこと嫌いでしょ」
そしたら、小林先生はニヤッと笑いよった。
「おかしいやろ」
「なにがですか」
「日本の西洋の演劇はだいたい左翼が始めたんやで。チェーホフとかな。ああいう、ロシアの演劇が共産運動と一緒に流行ったわけや。ということは、黒部先生も左翼の端くれなわけよ。そやのに、劇をチェックするって、検閲やんけ。僕はそういうのがめちゃくちゃ嫌いやねん。演劇祭で賞を獲ったかどうかしらんけど、ちょっと目立ったら、教頭と一緒に検閲する側におるって、戦時中のアホな軍人と一緒やないか。あかん。絶対ゆるさん」
言うてるうちに、小林先生、本気で腹が立ってきたみたいでな。だんだん顔が赤なって。まあ、そんな小林先生の心づかいで、僕らの芝居は無事に文化祭で上演されたというわけや。
けど、うちのクラスの劇はえらいウケてたなあ。生徒にも保護者にも。まあ、ウケるわな。あんなアホみたいな芝居、僕もいまだかつて見たことないもん。クラスのほとんど全員が舞台に立って、好き勝手に昆布みたいに揺れてるだけやで。
みんな、あんたのおかげで、面白い体験ができたいうて喜んでたけど、ホンマはあんたは賑やかなことが嫌いなだけやった。文化祭の帰り道で一緒になったとき、あんた言うてたなあ。
「妙に盛り上がって、しんどかったな」
そう言うて、なんや知らんけど、えらい寂しそうな顔したなあ。僕はあんたのあの顔が忘れられへんのや。自分で盛り上げといて、盛り上がったクラスに溶け込むわけでもなく、仲間はずれにされたみたいな顔してた。そうか、あんたはあの頃から、まわりとうまいこと折り合いを付けられへんかったんやなあ。
「六甲山がええか、夙川の海がええか、お前ならどっちを選ぶ」
あんたがそう言うたのは、そろそろ僕の家に着くかなと思ったところやった。六甲山か夙川の海と言われてもなんのことかわからへん。僕はしばらくあんたを見てた。あんたも、しばらく黙って僕を見てた。僕がなんと答えたらええのかわからんといると、あんたはまた寂しそうな顔して笑った。
「ほな、また明日な」
あんたはそう言うと僕の家の前を通り過ぎた。文化祭のその日は日曜日やったから、次の日は代休で休みやった。そして、その翌日の火曜日、僕が学校へ行くと、あんたはおらんかった。小林先生から、吉村君は転校しました、いうて短い報告があっただけで、あんたの話は終わった。クラスの男子が何人か集まってあんたの話をしたけど、どこに転校したのか誰も知らんかった。(続く)
投稿者: yamaki
アロエ座
芦川和樹灯、灯ここまで
来ましたね」がま口がいいました
ま王になって、待っていました
あけがた(明け方)は
とっくによみおわってしまって
ほらそこに、たたんであるでしょう
きんようびにはその状態でしたよ」
かさ、がひつようだったので
――小料理屋にて
あの日はスープをいただきました
ですから、帰りはさじ(匙)をさしました
天候
は、さまざまです」アロエが風向きを‥
し
へ
問がうまれて
襟から、エスケープしていく
ユーカリがそれを手伝う
肩が凝る
はしごがあれば
らくだし
探偵たちを、あざむけるのに
――ちょっと先を見すえる
いすと(椅子と)
いすをほどいた糸
家具だったものがもういちど
うまれなおすときの
学問
フェルトの国
灯、灯とうとう!
ここまで来ましたね」ま王、菜種油を飲む
うがいして、手を洗うアロエ
(手を洗って、うがいするアロエ)
ハンカチをください
――タオル、タオルケット
がま口の喉をなつだという
夏季だという、花器だという
ながいときがながれました
」向かいあって、無機質だといいました。どちらかがいいました、ここにはふたつの生体があり、難しいことを考えたり、できるだけ考えなかったりすることで、たまにほほほと笑います‥
プチプチ
篠原恒木おれはプチプチが欲しかった。
プチプチ。
これで通じますかね。どう考えても俗称だよね。
おれは段ボール箱に品物を入れて宅配便で発送しようとしていた。あいにく大きな段ボール箱が自宅になかったので、宅配便の営業所まで出掛け、無事に購入できた。だが、送りたかった品物はいわゆる「ワレモノ」だったので、箱の隙間に入れる「アレ」が必要だった。
そうです、「アレ」とはプチプチのことです。あのプチプチも必ず宅配便の営業所で買えると思っていたのだが、プチプチは正式には何という名前なのだろう、とおれは営業所の受付で逡巡してしまった。気が付くと口をついて出てきた単語はやはり、
「プチプチ」
だった。オノマトペと言えば聞こえはいいが、六十四歳のジジイが言う言葉としては間抜け以外の何物でもない。
「プチプチ、ありますか? あの、隙間に詰めるプチプチ」
受付の女性は言った。
「緩衝材、置いていないんですよ」
そうか、緩衝材か。言われてみれば確かにそうだ。目から鱗だ。立派な一般名詞ではないか。断じてプチプチではない。不明を恥じた。我が語彙力の欠如を嘆いた。でも通じた。通じりゃいいんだよ。よかったよ。
「そうですか。どこへ行けば売っていますかね」
「ホーム・センターなら確実ですね」
しかし最寄りのホーム・センターは歩いて行くのには遠すぎる。おれは質問を変えた。
「ドン・キホーテで売っていますかね?」
「ああ、売っていると思いますよ」
よかった。ドン・キホーテなら宅配便の営業所からすぐのところにある。おれは早速ドン・キホーテへと足を運んだが、緩衝材の売り場が見あたらない。店員の女性に訊いた。
「緩衝材はどこにありますか?」
「カンショーザイ?」
通じない。おれは質問を変えた。
「プチプチはどこにありますか」
「ああ、プチプチですね。こちらになります」
親切な店員はそう言って、おれをプチプチ売り場まで案内してくれた。何のことはない、一般名詞の「緩衝材」より、俗称の「プチプチ」のほうが人口に膾炙しているではないか。
のちに調べたところ、「プチプチ」の名前は正式には「ポリエチレン気泡緩衝材」と言うらしい。しかしですね、売り場で
「ポリエチレン気泡緩衝材はどこに置いてありますか」
と訊く客がどのくらい存在するのだろうか。やっぱりプチプチだよなぁ。
昔はあのポリエチレンに包まれた気泡をひとつひとつ、丹念につぶしていましたよね。つぶすたびにプチプチとしか形容できない音がしましたよね。つぶしていくのに飽きると、雑巾を絞るようにねじりましたよね。するとプチプチではなく「ブチブチブチブチブチッ」と派手な音がしましたよね。あの一連の行為の何が楽しかったのだろうといまでは思うが、それはともかく、あれは「ポリエチレン気泡緩衝材」ではなく、断乎として、恥じることなく「プチプチ」と呼びたいとおれは思う。
そうだ、こうなったら、プチプチに見倣って、あらゆるものをオノマトペにしてしまおう。
「すみません、ネバネバ売り場はどこですか」
と、店員に訊くと、納豆のコーナーに案内してくれるかもしれない。そこでおれは言う。
「違う違う。ネバネバはこれじゃない」
おれが欲しかったのは、めかぶだ。
「プルプルをください」
ゼリーを持ってきてくれたが、残念、おれが食べたかったのはわらび餅だ。
「ホクホクはどこに置いてありますか」
店員はジャガイモ売り場へと案内してくれる。惜しい。おれはサツマイモが欲しかった。
「カリカリが欲しいんですけど」
かりんとうを出してくれたが、おれの目当ては芋けんぴだった。
「スパスパをください」
「どれになさいます?」
ずらりと並んだ煙草の棚を指さして、店員は言った。そうなるよな。
「ぞろぞろをください」
とお願いすると、草鞋を出してくれた。店員は落語好きのようだ。
「じゃあ、つるつるはありますか」
そう訊くと、着ているものを脱いで縄を拵えてくれたが、落語はもういい。おれが欲しいのは蕎麦だよ。ついでにもうひとつ。
「だくだくはありますか」
「だくだくと血が出たつもり」
しつこいな。落語はもういいと言っているのに。欲しいのは牛丼のつゆだくだよ。
ううむ、こうやって考えていくと、やはりプチプチという俗称は最強なのだということがよくわかる。ほかのものは通じるようで通じないもんね。ワンワン、ニャンニャンと肩を並べるレベルだよ。すごいな、プチプチ。
だが、さらに調べると「プチプチ」という名称は、川上産業株式会社の登録商標だというから驚くではないか。俗称などではなかったのだ。ああ、知らなんだ。ちなみにプチプチは川上産業が日本独自で初めて製造・販売を始め、いまでは同業界の六十%のシェアを維持しているという。すごいな、川上産業。会社の名前も知らなかったけど。
ということは、そう、「プチプチ」は「セロテープ」「バンドエイド」「サランラップ」「エレクトーン」と同じ仲間なのだ。これからは口の利き方に気を付けよう。だって、川上産業以外のポリエチレン気泡緩衝材に対しては「プチプチ」と呼称してはいけないのだからね。まあ、「いけない」とはいえ、罰せられたり、第三者委員会が立ち上げられたり、コンプライアンス懲罰委員会に呼び出されたり、家宅捜査を受けたり、謝罪会見に追い込まれたりするわけではないのだが、社会人としてそこんとこはちゃんとしなければならないと、おれは思うわけですよ。
したがって、ワレモノなどを梱包するとき、気軽に、
「あ、そこのプチプチ取って」
などと言ってはいけない。ちゃんとメーカーを調べて、川上産業以外のものだったら、
「あ、そこのポリエチレン気泡緩衝材を取って」
と、言いましょうね。めんどくさいけど。
最後にクイズだ。次のなかから商標登録されていないものを選べ。
・ウォシュレット
・シーチキン
・美少女
・テトラポッド
・体育会系
・ボランティア
・万歩計
・リストラ
正解者の中から厳正な抽選によって、重量1トンのテトラポッドを1個、プチプチにくるんで発送させていただきます。当選者は商品の発送をもって代えさせていただきます。商品の発送料は当選者負担となります。
家に帰る気分
若松恵子4月29日に横浜のサムズアップというライブハウスで仲井戸麗市のソロライブを見た。横浜駅西口にある、ムービルという映画館が入っているビルの3階。案内板には「アメリカンバー」と書かれているライブハウスで、店内にはニール・ヤングの肖像が飾られていたりする。ハンバーガーもフレンチフライもおいしいサムズアップ、120人も入れば満員のアットホームな場所だけれど、来日した渋いミュージシャンがライブをする場所としても有名だ。今回は、サムズアップの27周年をお祝いするライブとして企画された。
仲井戸は、演奏の合間に「サムズアップにちなんだ選曲をしてきた」と言っていたけれど、演奏された20曲はカラフルで、何となく選んだみたいに語っていたけれど、あとから思い出してみると、サムズアップに心寄せて考え抜かれたものだったなあと思った。ギター1本と歌と時々入れるリズムボックスだけで、バンドサウンドに引けを取らない世界をつくっていく。仲井戸麗市のなかに流れ込んでいる様々な経験が織り込まれて、昔の歌も決して懐メロにならない、そんなところに魅力を感じる。
忌野清志郎の危篤の知らせを聞き、病院に駆けつけたのはサムズアップのライブのすぐ後だった、そんなことを今朝想い出した、と、ぽつんと語ってジョン・レノンの「オー・マイ・ラブ」がインストルメンタルで演奏された。そのあとの「夏に続く午後」と、ボブ・ディランのカバー「アイ・ウォント・ユー」は、私にとってのその夜のハイライトだった。
若い頃のディランみたいにギターの前にマイクを置いて、かき鳴らしながら歌った「アイ・ウォント・ユー」は、仲井戸の日本語訳詞で歌われた。うんざりするような日常のあれこれを数え上げ、そこに「きみがほしい」というひと言を突然挟み込んでくるディランの歌。仲井戸麗市は「きみがほしい」を「会いたいぜ」と歌った。
君がいつも そばに 居た時には
決して 気が付かなかった事
そんな悔やむ事が 今 君をこんなに恋しくさせる
Ⅰ Want You Ⅰ Want You Ⅰ Want You 会いたいぜ
Honey I Want You
替え歌というわけではなくて、ディランの曲から受け取ったものが仲井戸の歌に変換される。偉大なロックの名曲を受け継いで、そのうたの器にのせて、ある日の揺れた心が歌われている。仲井戸麗市のカバーの魅力はそんなところにあるのだ。会いたいのは、もちろん清志郎のことだろうが、清志郎の事だけでもないはずだ。
アンコール前に歌われた「フィール・ライク・ゴーイング・ホーム」もまたカバー曲だ。仲井戸麗市のライブに通い始めた頃によく演奏されていた曲で、思い出深い。「家に帰る気分さ」と歌う時の「家」は、単に我が家の事だけではなくて、「初心」というか「原点」というか、ロックに出会ったあの頃という意味合いもあるのではないかと、聴いていてふと思った。74歳にして今もみずみずしい仲井戸麗市の音楽を聴く幸せ。生身の人間にしかできないパフォーマンスを聴くことのできる喜びを感じる夜だった。
『アフリカ』を続けて(47)
下窪俊哉3月末、11歳になった息子とふたりで桐生へ遊びに行った。群馬県桐生市、どんなところか、じつはまだ詳しく知っているわけではないのだが、行けば、親しく思っている人たちが待っていてくれる。
事の発端は、毎週火曜の夜にやっているFM桐生の番組「The Village Voice」で、数年前から聴いている、いわゆるコミュニティFMである。私がテキストを投稿したらすぐに読まれるので、近くで聴いていた息子が「自分も投稿したい!」と言い出し、なぜか「なぞなぞを出したい」となった。それ以来、毎週聴いてなぞなぞを投稿しなければならなくなり、私は火曜の夜に出かけられなくなり、外で仕事が出来なくなってしまった(それなら、と火曜を個人的な定休日と定めた)。
「ビレッジ・ボイス」は、桐生駅から徒歩数分の場所にあるJazz & Blues Bar Villageのオーナーでジャズ・シンガーの宮原美絵さんが中心となって、画家でピアニストの唐澤龍彦さん、ベーシストのキムラコウヘイさんが3人でやっている。以前、『るるるるん』という小説を書く3人組がつくっている本の座談会に私が出た際に、挿絵を描いていた唐澤さんとまず知り合った。それからどうやって親しくなったのかは、よく覚えていないのだが、私はその手の音楽を長年愛聴しているので、話が合ったのだろう。それ以上になぞなぞがウケたのかもしれない。ジャズの番組で、どうしてなぞなぞ? と考えてはいけない。意味はとくにない。もちろん小学生のこどもが出すというのでなければならない。
桐生行きの一番の目的は、Villageで晩ご飯を食べる、ということだったが、「The Village Voice」の常連リスナーの人たちに連絡していたら、ふやふや堂のサイトウナオミさんから「その夜は「ロジウラジオ」をやっているので、よかったら出ませんか?」と誘われた。
ふやふや堂は桐生市本町の旧早政織物工場の中にある本屋で、『アフリカ』をはじめアフリカキカクの本を少し置いてくださっている。そのお店にも行ってみたかったのだが、「ちょっと時間あるので、桐生をご案内しますよ」とのこと。予想できなかったほどの手厚いおもてなしである。
そのサイトウさんが毎週金曜の夜、FM桐生でやっている番組が「ロジウラジオ」で、下窪さんが出るなら、と番組と縁の深い『GO ON』編集人の牧田幸恵さんが聞き役として一緒に出てくれることになった。
『GO ON』は牧田さんのやっている個人的な雑誌で、2020年12月に月刊のウェブ・マガジンとして始まり、並行してフリーペーパーを出していたが、2022年にフリーペーパーを止めて有料の『轟音紙版』になった。2024年12月にウエブ・マガジンの方を止めてからは”紙”のみの活動になり、『轟音紙版』をリニューアルした雑誌『GO ON』とフリーペーパー『GO ON 号外』を出している。
私は2022年の晩夏に初めて群馬に行くことがあり、『轟音紙版』第1号を手にした際、20年前の自分が考えた企画を思い出した。
『アフリカ』の前に『寄港』という同人雑誌をやっていた話は、これまでにも何度か書いたが、じつは『寄港』の前に構想していた小冊子もあって、それは雑記を中心としたものだった。20代の私は、詩や小説を書こうとする人の多い環境にいたので、そういう作品とまでは言えないような日々の記録や、その時々の考え事などを複数人で書き留めておくような媒体がつくりたかった。『アフリカ』を始める頃にもその想いは継続させていて、その証拠に、実現しなかったその雑誌の名前をつけようとしていた。この連載の(2)に出てくる「ある漢字二文字の名前」である(『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』ではさらに具体的に言及している)。
『轟音紙版』を初めて手にした時、ああ、20年前の自分はこれをやりたかった! と思った。でもその当時、雑記を熱心に書こうと乗ってくる人はいなかった。若かったせいだろうか。確かに、人生経験を積んだ方が書けることは多いような気もする。でも私は若い頃の自分が書いて、未発表になっている雑記原稿をたくさん抱えていて、そこから教わることも多いのだ。
そんな話をたぶん『るるるるん』の人たちにしたのだろう。「下窪さんが『GO ON』を褒めていた」と牧田さんは聞いたらしい。
『轟音紙版』第1号の最初に載っているのは、牧田さん自身による「雑煮的雑記」である。2本の映画、『イージー・ライダー』と『ビーチ・バム』を観て「自由」について考えたり、ぶつぶつ言っているような内容で、現代美術家・三島喜美代さんの「ただおもしろいから」つくっているということばに感動した話で終わる。めくっていくと、レコード屋通いの話、日常的に写真を撮ることについての話、風景の話、UFO談義などをいろんな人が書いていて、すごく読み応えがあるかと言われると、そうでもないが、サラッとした手軽な読み物かと言われると、もっと未完成のゴツゴツしたものを感じる。
牧田さんはたぶん、書いてほしい人に声をかけて、好きなように書いてもらっているのだろう。読むと、通りすがりの人たちの会話に聞き耳をたてているような感じもある。その声を集めて、本という器に落として、デザインしている。
昨年は『GO ON』とは別に『あれ』vol.2という”不定期刊行雑誌”もつくっている。雑誌といっても、A3の少し厚めの紙の両面にプリントして八つ折りしたもので、特集は「『あれ』創刊号(昭和47年正月25日発行)」。どういうことかというと、約50年前に沙原歩さんという方がつくったガリ版刷りの『あれ』の復刻版である。牧田さんは、こんなふうに説明している。
発行した本人から『あれ』の話を聞き、手渡しされた私は「おもしろいですね」と適当な感想だけを残して放っておくわけにはいかないのである。それは、発見してしまった者の使命とでもいえるだろう。
復刻された創刊号の巻頭言(だろうか)「『あれ』について」によると、沙原さんは芥川龍之介の会話を研究する話(?)を読んで、自分も「会話なるものを持って」みようと思ったという。そしていま(当時)最も使われていることばは何か「研究」してみたところ、それは「あれ」であったそうだ。創刊号には会話を書いた沙原さんの創作も載っている。次号に向けて一緒につくる「人材」を募ってもいて、張り切ってつくっている様子が伝わってくる。雑誌をつくるのは愉しい! しかし(事情は知らないが)『あれ』は1号だけの雑誌になってしまったようだ。50年ほど後に2代目の編集人(牧田さん)が現れるまでは。
読んでいると、じわじわと来る何かがある。それを放っておけなくなる牧田さんを想像して、私は他人事のようには思えないのである。
さて、桐生では「ロジウラジオ」で本をつくる話などして、放送後はVillageに場所を移して集まってくれた人たちとご飯を食べながらいろんな話をした。牧田さんは「自分ひとりで本がつくれなくても、雑誌なら出来ると思った」と言っていた。また、書き手には「読者を意識しないでください」というふうなことを言っているとも話してくれた。私は、書く時は読者に媚びないで、教え諭したりもしないで、と考えているのだが、そのことに通じる、と思った。「自由に書く」とはどういうことだろうか。私は人から言われるほどには自分を自由な人だと思っていないし、『アフリカ』も自由な媒体だとは思っていないのである。でも「自由」には、興味がある。牧田さんとはいつか、そんな話をじっくりしてみたい。と、この文章を書きながら考えているところだ。
スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・ロボン』
冨岡三智4月29日は世界ダンスの日である。インドネシアでは、私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校を中心に、いろんなダンスイベントが展開される。ちなみに、この芸大でのイベントは2007年に始まり、私もその初回に出演した。当時の状況について2015年5月号『水牛』で書いているので、関心のある方はそちらも併せて読んでもらえると幸いである。
さて、今年の4月29日、スラカルタ王家は「王宮芸術フェスティバル(Karaton Art Festival 2025)」と銘打って独自に公演をライブ配信した。男女の舞踊が1曲ずつで、女性舞踊は「スリンピ・ロボン」完全版が上演された。スリンピは女性4人によって舞われる曲の形式である。私もこの作品の完全版を2021年に日本で上演しているので、今回はこの作品について語ってみたい。なお、今回のスラカルタ王家の配信公演も私の2021年公演の映像も、以下のリンクから見ることができる。
・スラカルタ王家公演 https://www.youtube.com/live/voU4992v3C8
・私の公演 https://www.youtube.com/watch?v=eGp-HCEy7_M&t=2177s
「スリンピ・ロボン」の楽曲編成は(1)グンディン形式の「ロボン」~(2)「パレアノム」~(3)ラドラン形式の「コンドマニュロ」で、3曲つなげて演奏される。完全版で上演すると入退場を別にして約40分で、スラカルタ王家に伝わるスリンピ曲の中では短く易しい曲に分類される。この作品はパク・ブウォノ8世(在位1858-1861年)がまだ皇太子であった1845年に創らせたものである。当初、楽曲はペロッグ音階ヌム調だったが、即位時に現在のようにスレンドロ音階マニュロ調に改められた。なお、スラカルタ王家の配信でこの舞踊曲の制作年は1774年だと解説されていたが、これは半ば間違いである。この曲はジャワ暦1774年、すなわち西暦1845年に創られた。
上にスラカルタ王家の完全版と私の公演での完全版(私の師匠の名を取ってジョコ女史版とする)の両方のリンクを挙げたが、実は同じ完全版でありながら少し違う部分もある。スラカルタ王家で指導するムルティア王女も私の師匠(故人)も主として教わった人は同じダルソ女史だが、他にもそれぞれ習っている人があり、また宮廷舞踊は細かな改訂や解釈を積み重ねて練り上げられてきたので、これらの改訂の過程で違う段階の振付が残っているのだと思っている。この「スリンピ・ロボン」は私が留学して1年目に王家の定期練習でよくやっていた曲で、私もとても好きでジョコ女史の個人レッスンではリクエストして2曲目に習った曲だ。どちらの振付にも思い入れがあり、貴重な振付だから、どちらの振付も残ってほしいなと思う。
で、一番大きな差異が1曲目のグンディン形式の部分である。スリンピ舞踊では必ずララスという手を曲げたり伸ばしたりする振付になるのだが、その回数が違う。王家版では右~右~左~右と4回繰り返す一方、ジョコ女史版では右~右~左~右~右~左~右の7回で、また左のララスをする時のフォーメーションも両者で異なる。右、左と書いたが、これは伸ばしたり曲げたりする手がどちらかを示している。
他のスリンピ曲でもララスの振付に関しては王家版のような進行の曲がほとんどだが、ジョコ女史版の「スリンピ・ロボン」のやり方は「スリンピ・ラグドゥンプル」と同じである。実は後者もまたパク・ブウォノ8世(在位1858-1861年)がまだ皇太子であった時――しかも同じジャワ暦1774年――に創られ、王の即位に際して舞踊形式や音楽の調が改められた曲である。というわけで、ジョコ女史版の振付にも納得する。
次の違いは2曲目の「パレアノム」部分の振付。王家版ではゴレッ・イワッと呼ばれる振付だが、ジョコ女史版ではウンバッ・ウンバッと呼ばれる振付である。前者は1曲目から2曲目への移行部(テンポがどんどん速くなる)で使われる定番の振りで、スリンピ4曲で使われているが、実は後者も定番と言って良く、3曲――「スリンピ・ロボン」と「スリンピ・グロンドンプリン」という弓を持って踊る2曲の他、「スリンピ・ルディラマドゥ」――で使われている。ただ「スリンピ・グロンドンプリン」は、少なくとも私が現地で学んでいた期間はスラカルタ王家では行われていなかった。
その後2曲目で様々動きが展開し、1度目の戦い(弓合戦)が行われた後、音楽は3曲目に突入する。弓合戦で負けた方が座り、勝った方が負けた人の方を向いて行う最初の振りが異なっていて、ジョコ女史版ではウクル・カルノ、王家版では何と呼んでいるかは知らないが(名前がないことも多い)、「スリンピ・スカルセ」にも出てくるものに似ている。
2回弓合戦があった後(勝ち負けが交代する)、今度はピストルによる戦いがある。多くのスリンピでは戦いの場面の中心はピストル戦だが、この曲や上でも述べた「スリンピ・グロンドンプリン」(手に弓を持つ)、「スリンピ・アングリルムンドゥン」(手に弓を持たない)では弓合戦がメインで、2回の弓合戦を経て手短にピストル戦を1回だけ行う。ちなみに、スラカルタ王家ではピストルは持たずに踊るので(昔は持つこともあったらしいが)、一般の人は言われない限りピストル戦を描いているとは分からないだろう。ジョコ女史版では座った人が立つ時にすぐにピストルを抜くが、王家版ではピストルを抜く所作は省略されていて、別の動き――しかし踊り手が立つときの定番の動き――を行う。スリンピの振付としては、両方の動きがあるのが望ましいが、歌がちょうど良いところで終わるために動きを減らす必要があり、それで両方のバージョンが生まれたと思う。論理的にあくまでもピストルを抜くべきだと考えるか、立つ所作が優美な方を優先するかは、指導者や踊り手の解釈や美意識によるだろう。
というわけで、4月29日の配信を私は楽しく嬉しく見た。何より、スラカルタ王家の宮廷舞踊の完全版振付の美しさを愛する私は、こんなふうに短縮せずに上演される機会が増えてほしいと願っている。
しもた屋之噺(280)
杉山洋一フランチェスコ法王の最後のインタビューは、「結婚とは何か」だったそうです。ベルゴーリオ曰く、「結婚とはタンゴのようなもの。それも何時までも続く、なかなか手ごわい(un tango che non si scherza!)タンゴ」とのこと。
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4月某日 ミラノ自宅
ロベルト・カッペルロのマスタークラス見学。息子はモーツァルト466を弾き、カッペルロは暗譜で伴奏しながら注文をつける。ベートーヴェンが書いたカデンツァなのだから、音色もルバートもフレージングもベートーヴェンらしく変えて、協奏曲冒頭のモティーフが出てくるところは、冒頭の様式を踏襲しつつ、時間をたっぷり使って弾くこと。1楽章で初めてピアノが登場するところは、ピアノはオーケストラと一体化していること。
トランプ大統領、全世界に対し一律10%の追加関税を発動。
4月某日 ミラノ自宅
朝、家人と連立って市立音楽院に出かけたところ、シモネッタ荘玄関の石造りの柱廊のところで、一人の学生が可愛らしいポルタティフ・オルガンを調律している。素朴でどこか不器用な5度の響きが、柱廊をわたる春の微風にのって運ばれてゆくのを眺めながら、子供のころ、手で鞴を操作しながら音をだすポルタティフ・オルガンと手回しハーディ・ガーディに憧れていた。三つ子の魂なんとかと言うが、この二つの楽器を目の前にすると、サンティアゴ・デ・コンポステラのレリーフ写真にときめいた小学生の頃と何も変わっていないのを実感する。
市立音楽院の映画音楽作曲クラス、自作指揮1年目の試験。「子供の情景」より10曲と「ミクロコスモス4・5巻」より7曲、20分以上も振らなければならないから大変である。ところが試験を始めてみると学生たちが驚くほど音楽的に振るので、むしろクラシックの指揮専攻の学生への自分の教え方が余程悪いのではないかしら、と訝しくすらおもうほどだ。
夜は家人と連立ってヴェルディ・ホールに出かけて、カッペルロ・マスターコース試演会を愉しんだ。地下鉄サンバビラ駅を降り、国立音楽院に向かおうとすると、少なくとも100人ほどはいるであろう親パレスチナ・デモ行進が道を占拠していて、警察機動隊を先頭に、横断幕を広げながら、ゆっくりと歩みを進めていた。ついさきほども学校から帰宅途中、ロレンテッジョ地区が結成したらしいアラブ系市民15人ほどのデモ隊、そのうち4、5人は小、中学生と思しき子供であったが、ささやかなパレスチナ保護を求めるデモ行進を見たばかりだった。
試演会では息子はカッペルロの伴奏でモーツァルト466を弾いた。カッペルロが、自分なら1楽章再現部1小節前のフォルテを敢えて弱音のスタッカートに変更して、弦楽器の再現部へ繋げてみたいと言ったのを踏襲していたが、なかなか面白い解釈である。カデンツァも今までよりずっと時間をかけてたっぷり弾いていて、音像が立体的で奥行きが増した分、情感も豊かに聴こえる。
この2年ほどの間に、息子と音楽の関係は大きく変化した。成人した息子に口出しする積りはさらさらないが、各々自らに与えられた人生をどう生きるのか、こればかりは誰にも分からない、恐らく当人すら想像もつかない、つくづく不思議なものだと実感する。
4月某日 ミラノ自宅
「ルカ」にパンを買いにゆき朝食にしてから、冬の間ずっと庭の垣根を塞いでいた、嵐のときに折れた立派な幹とそれに絡みつく無数の蔓草を片付ける。太い部分は軽く3、40キロはあるはずで、動かすだけでも一苦労であった。数メートルの丸太は拙宅のへろへろの鋸では到底切り分けることも叶わないので、土壁の脇に寄せるのが精々だ。
夜は Magazzino Musica で市立音楽院の教師30人程が集まり、今後の学校運営に関する会合が開かれる。2030年でミラノ市は学校運営への参画から外れるが、このまま運営全てをミラノ市に任せておくと、文化を軽視する政府の傾向と相俟って学校を閉鎖しかねない、その前に学校内部から対外的に働きかけをすべき、と署名に参加。グロバリゼーションへの反動なのだろうけれど、日本、イタリアのみならず、こうした社会傾向は著しい。
4月某日 ミラノ自宅
ギターのための「間奏曲」浄書、出来たところまで藤元さんに確認してもらう。沢井さん揮毫の「待春賦」の書を仲宗根さんから見せていただく。深く染入る響きのようでもあり、茶目っ気を帯びた沢井さんの明るい声色のようでもあり、春を待ちわびる芹のようでもあり、餌台のクルミににじり寄る大小色とりどりの飄々とした鳥たちのようでもあり、慈しみと温かみ、そして遊び心にも溢れていて、深く感動する。
ほんのささやかな息子の二十歳祝いのため、家人と二人 Griffa に出かけた。このところ家人と街を歩いていると、ミラノの街並みはやっぱり美しい、いい街ねえ、と繰返している。
4月某日 ミラノ自宅
朝、サン・ルイージ教会にピアノ搬入。息子は、責任をもつような仕事は絶対嫌だ、弾き振りなんて自分には到底できないと文句をいいつつ、466を練習している。
午後、リッタ宮で開催中のミラノ・サローネ博覧会に家人の友人をたずねると、林太郎君が通訳として働いていた。今年でもう26歳になるそうだ。世界各国からサローネを訪れる見学者と、出品した日本人関係者との通訳が主な仕事で、見学者の大多数はイタリア国外から訪れるので、結局使う言葉というと、英語と日本語がほとんどだという。彼の専門は都市計画が専門だが、お父さんはインテリア・デザイナーでもあり、ここでの通訳も楽しいそうだ。これからどうするのか尋ねると、昔よりイタリアの治安は悪くなったし、どこか別の場所で働きたい気もするが、まだわかりません、と微笑んだ。彼がまだ幼い頃、拙宅でお父さんの仕事が終わるのを待っていることがしばしばあったのを思い出し、「あの庭が好きでした」とはにかんでいた。
4月某日 ミラノ自宅
ジュゼッペが主宰しているアマチュアオーケストラの慈善演奏会で、息子がモーツァルト466を弾き振りするので、コルソ・ローディ脇のサン・ルイージ教会へでかける。前半は、ジュゼッペの振るヴェルディ「ジョヴァンナ・ダルコ」前奏曲と、息子のモーツァルト、後半はジュゼッペがベートーヴェン交響曲第5番にアンコールはモリコーネの「ニューシネマパラダイス」。100年前ほどに建てられた、明るく広々としたサン・ルイージ教会はミラノ南部のコルヴェット地区の手前にある。ここから先の地域は最近までミラノのブロンクスと呼ばれるほど治安が悪く、文化活動も揮わなかったため、ジュゼッペは通っているサン・ルイージ教会のドン・グイード神父と一緒に、この地域の市民、特に若者に向けて、地元に根付いた音楽啓蒙活動を始めたらしい。聴衆は老若男女あわせて200人は下らないだろう。ほとんどがこの地域に住んでいるのか、雰囲気としてはミサに来るような普段着の気軽さと温かさがあって、とてもよい。ベビーカーを押している若いカップルもいれば、幼稚園児くらいの子供もベンチから身を乗り出してオーケストラを眺めていたし、年配の夫婦もかなり見かけた。
尤も、教会全体がとても広いので200人程度では、クーポラ下の祭壇から聖堂半ばまで固まって座っている感じにみえる。ドン・グイードは普段のミサよりずっと人が集まった、と喜んでいたそうだ。
朝から学校で試験だったので、息子には恐らく演奏会には間に合わないだろうと伝えてあったから、リハーサル途中でオーケストラの配置をどうするか、とジュゼッペと息子から何度も電話がかかってきた。こちらは試験中だったので困惑したが、今となっては愉快な思い出である。
息子もジュゼッペもオーケストラも、堂々と見事な演奏を披露して、深い感銘を受けた。息子があんな真剣な顔をして音楽をするのを初めて見て愕いたし、不思議でもあった。家人は、息子が466を振り出したとき思わず感動して涙が込み上げてきたそうだ。親ともなれば、世界中どこでも似たようなものだろう。我々が聴きに来るとは思っていなかった息子は、こちらが演奏後に顔を出すとびっくりしていた。
アジア系の聴衆が殆どいなかったからか、聴いていた年配者何人かから、あんたはあの子の父親かい、すごいねえ、ますます頑張るように伝えて等と声を掛けられ、小学校の運動会を眺める父親の気分である。
4月某日 南馬込
朝10時に羽田着。家人のアドヴァイスで蒲田まで京急を使い、そこからタクシーで馬込に向かう。シャワーを浴びてから西大井に向かい、14時からの、鎌倉・源氏山公園の古民家、ディロン演奏会に顔を出す。鎌倉を訪れるのは、高校の頃に作曲の先輩方と山へ登って遭難しかけた時以来だが、当時とはまるで様相が違って、まるでフィレンツェやヴェネツィアを思わせる観光客の人いきれであった。
何しろ道が狭く車の往来すら儘ならないところに、観光客が行列を成しているのだから大変である。イタリアの観光地であれば路地はせめてずっと広い。鎌倉ですらこうなのだから、京都の騒ぎなど想像に難くない。銭洗弁天に向かう住宅地あたりで、車はいよいよ全く動かなくなり、14時には間に合わない。
峠の館と名付けられた古民家の外観は、所謂雰囲気のある洋館という出で立ちながら、中に足を踏みいれると、堂々とした梁がわたされている、立派な旧家の佇まいが広がる。畳敷きの広間には、巨大な猪一頭を描いた見事な屏風がたてかけられ、ディロンはその猪を目の前にしてソロを弾いた。
ここで胡坐をかきながら聴くバッハの組曲は、コンサートホールと違う、不思議なありがたみがあった。外ではウグイスが盛んに啼いていて、目を向ければ、未だ春の花が樹々を賑わせている。コンサートホールの演奏なら、演奏そのものに集中するのかもしれないし、教会で聴けば、思わず聖堂の威風に惧れを成して、人間としての自分の領分をわきまえつつ、神と我々を繋ぐバイパスとして音楽を聴くのかもしれない。ここで聴くとそのどちらとも違って、ごく普通に人としてバッハを眺めている気分とでも言おうか、ウグイスと対話するチェロを眺めているのが心地よかった。
後半は地下の会場に場を移して、家人とディロンでシューマンなどを弾き、ここではチェロとピアノの丁々発止を愉しむ。20数年前、彼らが初めて一緒に演奏した頃のことを思い出す。皆若かったし、互いにエネルギーをぶつけて生み出す面白みを愉しんでいたのだろう。今日のような丁々発止とはいえ会話の滋味を味わう感じは、音楽の裡へと聴き手をいざなう。
夜は東銀座でカレーを食べながら悠治さん、美恵さん、小野さん、吉田さんと座談会。悠治さんたちも小野さんも鎌倉と所縁が深い。
悠治さんの本を読み、楽譜を勉強して想像していたものと、実際にそれを音にして見えて来るもの、というはなし。
これだけ情報が溢れている社会において録音をCDとして残す意味は、今日生きている作曲者本人のためというより寧ろ、何十年後かに彼の作品を知ろうとする誰かのため。
音源と資料がセットになっているCDという形態は、何十年か経って情報を遡るときに、恐らく役立つに違いない。音声ファイルだけが残っていても、これだけ情報が氾濫している中で、信用し得る関連資料を見つけるのも容易ではないだろう。問題はCDも劣化が激しいということと、何十年、何百年か経って、CD を再生させるハードが存在しているかどうか。
第二次世界大戦後、日生劇場、草月ホール、西武グループ、サントリーと文化を支えてきた掛け替えのない人々がいて、これから半世紀後、果たして我々のことを知りたいとおもう人々がいるのだろうか。
0歳の頃から「味とめ」で美恵さんや悠治さん、浜野さんなどに抱いてもらっていた息子も20歳になった。悠治さんのことは、いつも蛸を食べていた「蛸のオジサン」として理解している。味とめの女将さんが亡くなったと美恵さんから聞く。
4月某日 南馬込
打合せの後、昼過ぎ九段下でディロンと落ち合い「葉椀」にて昼食を摂る。彼が一人でふらりと入ってすっかり気に入り毎日通った店だという。カウンター席にて、カツオたたき定食、彼はマグロ丼に舌鼓。美味。玄米なのも凄くいいでしょう、とディロンが喜んでいる。そこからほど近い青海珈琲でコーヒーを立ち飲みして、二人で写真を撮りシャリーノに送った。持ち帰り用のコーヒーのカップやストローがプラスティックなのを見て、ヨーロッパがエコロジー・アレルギーが過ぎるのかな、ロンドンでもどこでも、プラスティックのストローなんてすっかり見なくなったから、何だか新鮮だ、とのこと。日本て、なんだか不思議な国だよね、と言われる。
夕刻、佐々木さんと美紀さんと、代官山のイタリア料理店に集い、岡部さんのワインを持ち込んで献杯。
最近、思考がパンクしてしまって、何だかまっさらに物を見たくなってアリストテレスの「形而上学」を読んでいるという話から、佐々木さんと暫くギリシャばなし。イタリアに住んでいて、やっぱり「腐っても鯛」的なところがイタリアにはある気がする、結局「すべての道はローマに通ず」の共通認識をイタリア人を含むヨーロッパ人は甘受している、という話。
アリストテレスを読みながら、どこか頭が喜ぶのを実感するのは、真理を求める素朴な姿勢に共感できるから。知らないから知りたい、そんな単純な思考を、我々は軽視し過ぎているのかもしれない。既に我々は知っている、その過信が我々の思考を、深く刻み込む真理に向けた渇望の意識から、浅く広く茫洋としたジャンキーへ変えてしまった。実は何も知らないのに、知っている積りになっている自分に気づくことは、精神衛生上とても良い。それはつまるところ、知識でも常識でもなく、ただ真実を知りたいという、無意識に天を仰ぐような畏怖にも近い態度なのだろう。
岡部さんの膨大なるワインセーラーから美紀さんが持っていらしたのは、間違えていなければNicolelloの40年もので、しっかりと深い味がした。豚に何某とか猫になんたら、殆ど酒が呑めない人間には全て美味しい。
以前、美紀さんと岡部さんがミラノにいらした時、すらっとした美紀さんの姿がちょうど観音菩薩そっくりに見えた。岡部さんは本当に幸せそうだったのを、テーブルに並ぶ4つのワイングラスを眺めながら思い出す。
4月某日 南馬込
安江佐和子さんの企画演奏会1日目。伊左治君の「diorama」の演奏に参加しながら、大学時代「冬の劇場」を一緒にやっていた頃を思い出す。中川俊郎さんの作品で、水を垂らすパフォーマンスをしていたのが強い印象を残したので、今回のパートが作られたらしい。伊左治作品は、黄金色というのか、黄昏ているわけではないが、美しい映像が映し出されるような作品であった。
diorama
それでも私は、この震える海を渡ろう
新美 桂子
太陽を背に
父なる川を隔て
寄りあう母音の群れ
向こう岸の親密
姿かたちを変え
海原に流れ込む
耳なじみのない言葉
無口な花嫁
寄せては返す
白波にさらわれ
打ち上げられた星々
潮だまりの鼓動
雨足遠のき
別れの予感を胸に
俄かに飛び去る冬鳥
籠のなかの寒空
最果ての夢に
置き去りの雪景色
指針を狂わす出会い
降り積もる歳月
旅路を先まわり
光を回収する奇術師
虹の麓に散った影
葉っぱのふくよかな匂い
朝霧が手招く
混沌のはざまに
雲がくれする眼差し
出迎える大木
Diorama / Nonostante tutto, attraverso questo mare tremante
Keiko Niimi
Le spalle rivolte al sole,
qua e là le due rive del fiume paterno,
un branco di vocali ammassate
nell’intimità della battigia sull’altra sponda.
Parole ignote
mutano figura
e sfociano nel mare
come spose mute,
viavai di onde bianche
catturano le stelle
e le trascinano a riva
sopra i solchi delle pozze di marea.
Mentre la pioggia si allontana,
nel presentimento di una separazione,
un uccello invernale si congeda
e il cielo rabbrividisce in un cesto.
Abbandonato nel sogno dell’estremità della terra,
in un paesaggio truccato dalla neve,
un incontro paralizza la bussola
e il tempo si coagula.
Anticipando il cammino
un mago recupera le luci,
ombre di un arcobaleno sparse ai piedi delle montagne,
odore carnoso delle foglie.
Tra la confusione
la nebbia mattutina fa un richiamo di invito,
uno sguardo celato.
E un grande albero lo abbraccia.
(traduzione : Maria Silvana Pavan, Yoichi Sugiyama)
久しぶりに内藤明美さんに再会する。全くお変わりなくお元気そうでとても嬉しい。すみれさんが演奏する八村義夫「dolcissima mia vita」。色々な思考が脳裏を錯綜し、駆け巡る。八村さんの選択する音の美しさであったり、金属打楽器だけが並ぶ不思議さについても思う。
カルロ・ジュズアルドのマドリガルの手触りは、どちらかと言えば、より肉感的で皮質打楽器に近いとも思う。それを敢えて金属打楽器に限定して見えてくるものは、八村さんのジュズアルドへの憧憬やロマンチシズムかも知れないが、不貞を働いた妻と情夫、赤子までの殺人を冒したジュズアルドと従者が携えていた剣の刃の輝きのようでもある。純粋に音だけを辿れば「星辰譜」の頃から「dolcissima」まで八村さんが望む音は一貫していた。すみれさん曰く、八村さんは「dolcissima」を「濡れズロ」のように演奏するように望んでいたそうだ。ジュズアルドのマドリガルと濡れたズロースは、なるほど八村さんの裡で正格に繋がっていた。
4月某日 馬込
漸く二日目の演奏で、伊左治作品のパフォーマンスが少しだけうまく出来た。敢えて立ち上がらずに、椅子に座ったまま、水をいれたペットボトルを掲げる按配で水を垂らすと、うつくしい音がした。安江さんの演奏会は、会場初めての大入りだったとか。湯浅先生「相即相入」は名演。二人の演奏家の息が合い、音と音の間に新しい空間が生まれてくると、まるで見たことのない有機的な風景が目の前に顕れる。これを玲奈さんに聴いていただけたのは、個人的にとても嬉しかった。眞木さんの「14パーカッションズ」は、眞木さん自身をご存じで、声明であったり和太鼓であったり、眞木さんが展開された活動をつぶさに知るすみれさんだからこそ出せる音があった。甲乙どういうことではなく、ただ自分が知っている石井眞木さんの人間に、直に通じる何かをそこから掬いあげることが出来たのは、倖せなことだった。
演奏会後、綱島に垣ケ原さんを訪ね、一緒に美枝さんの墓参をする。大倉山の法華寺の参道脇一面に蕗が生えていて、垣ケ原さんが採りに来ないといけないな、と呟いていた。住職さんと予め話がしてあるらしい。お墓を覆うよう大きな桜の樹が並んでいて、散った桜の花をたわしなどで落とす。墓石には、既に垣ケ原さんの戒名も彫られていた。桜が咲き乱れるころは、それは見事な光景に違いない。
ご自宅では、庭で採れた蕗の煮つけに下鼓を打ってから、お寿司の出前まで頂いてしまった。蕗を煮ると毎回違う味付けになってしまってねえ、と照れていらしたが、とても美味しかった。同じようにお寿司もずいぶんよい味なので覚えていたのだが、大倉山の美景寿司という知る人ぞ知る名店の寿司であった。垣ケ原さんご自身も、湯河原の祖父に似た面影があるのだが、垣ケ原さんと弟さんが話している抑揚が、まるで湯河原の実家のそれと一緒なのはどういうことか。
夜半、池上の湯浅邸にて、「軌跡」のスケッチを見る。鉛筆書きの雲のような挿絵があって、その隣にdreamと綴られている。日本を発つ前にここを訪ねられて本当に良かった。今まで自分が不思議に思っていた湯浅作品に思うギャップが見事に払拭された。グラフで描かれる音楽は結果に過ぎず、湯浅先生が追及していたのは、より人間愛的な信念、信条のようなものであったし、最後まで人間を愛し、信じようとしていらしたのを実感する。雲に添えられたdreamは、湯浅先生が信じようとした音楽の姿だったのかもしれない。
玲奈さんは、最後に湯浅先生が舞台にあがったとき、笑っていたのが嬉しかったという。彼女は後ろから車椅子を押していたから見えなかったけれど、後で写真を見ると「父が満面の笑顔で笑っていたんですよ」。
4月某日 ミラノ自宅
ローマ空港に着いたとき、機内でフランチェスコ法王の逝去を知る。
沢井さんの録音のマスターが届いた。久しぶりに「鵠」を聴き、沢井さんから生まれる音が、まるでシャーマンの響きのようで、激しく魂が揺すぶられるのを感じる。「鵠」を書いて10年以上が経ち、なぜ自分が「手弱女」や「真澄鏡」などを書きたくなったのか、改めて実感できた気がする。当時は、ただ自分の気の向くまま書いたつもりになっていた。
90歳になったばかりの町田の母曰く、最近パルメザンチーズをよく食べるようになってから、足腰年齢が80歳から75歳になり、内臓年齢は74歳から70歳になったらしい。理由は定かではないが、心当たりは、せいぜいパルメザンチーズか、欠かさず飲むようになった養命酒くらいしかないという。不思議なこともあるものだ。
4月某日 ミラノ自宅
朝10時からのフランチェスコ法王の葬儀ミサ中継を見る。雲一つない澄み切った青空。サンピエトロからテーヴェレ川まで埋め尽くされた人いきれ。サンピエトロの広場は、その人いきれに関わらず、沈黙が支配している。
イタリア国営放送は、葬儀ミサが始まる前、ヴァチカンの礼拝堂でベルゴーリオの柩と対面するトランプの姿を伝えながら、
「どことなく、トランプの表情は緊張しているというか、当惑しているようにみえます」。
ヴァチカンで膝を突き合わせるトランプとゼレンスキーの写真を示しながら、イタリア国営放送のコメンテーターが話す。
「この写真をみると、どこかトランプの方がむしろ前のめりというか、積極的にすら見えますね。前回の会談から何か心変わりでもあったのでしょうか。遥か昔から現在に伝わる歴史的な転換点、特に大事な節目、ここぞという出来事は、いつもヴァチカンのこの宮殿から発せられてきました」。イタリア人が普段は隠しているプライドは、こういうところで顔を覗かせる。Covid直前の日本を訪れ、東日本大震災の被災者と会い、広島、長崎で被爆者と交流しながら核廃絶を訴えた教皇のお別れに、できることなら日本の首相も参列してほしかった。
毎月の給金も受取らず清貧を良しとした法王の甥は、葬儀に出席するためのブエノスアイレスからローマまでのフライトチケットを払うお金すらなかったが、それを知ったアルゼンチンの旅行代理店が、彼にチケットを贈ったという。
レ枢機卿の説教で、法王が「壁ではなく橋をかけようとしたこと」、「アメリカとメキシコ国境でミサをしたこと」、「難民に対して常に心を痛めていたこと」、近年の戦争などについて触れる度、群衆から大きな拍手が起こった。その度にレ枢機卿の声は少しずつ熱を帯びてゆく。
「フランチェスコ法王が就任後まず最初に訪れた地が、何千人という移民が海の藻屑と消えた、シチリアとアフリカの間のランペドゥーザ島であったのは、象徴的だったと言えますまいか」。群衆より大きな拍手。
「恐ろしく非人道的で、数えきれない死者をもたらした、ここ数年の猛り狂う沢山の戦禍を前に、フランチェスコ法王は絶えず平和を掲げ、人々に道理を取戻すよう呼びかけていました。落ち着いて対話にのぞみ、解決を導くよう声をあげました。なぜなら、戦争は、ただ人の死をもたらし、家を、病院を、学校を破壊するものだからです。戦争は、常により悲惨で劣悪な世界をもたらすからです」。群衆から割れんばかりの拍手。トランプ大統領の姿がクローズアップ。
ミサ終盤、Pace(安らぎを)と参列者が握手を交わす際、トランプとマクロンの姿がクローズアップされた。100年前、どのようにして大戦へ向かっていったのか。後年になれば、政治家ばかりがクローズアップされるけれど、その政治家を選んでいる、さもなければ、その政治家に甘んじているのは、他ならず我々一般市民であることを知る。我々が最上と信じて疑わなかった民主主義は、結局100年前と同じ道を辿っていること。どちらかに揺られれば、揺り戻しが来るということ。
—
隣の部屋で、久しぶりに息子がウェーバーのソナタを練習している。こうも変わるのかと思うほど、まるで各旋律の音色が違って聞こえるのは、自分で実際にオーケストラを振ったからかもしれない。ホルンらしい旋律にはホルンのブレス、クラリネットらしい旋律にはクラリネットのブレスを感じる。伴奏する弦楽器群の手触りや厚みが、掌の裡に息づいて聴こえるのは親の買い被りには違いなかろうが、以前の息子のウェーバーには感じられなかった彩りと瑞々しさに思わず耳を欹(そばだ)てている。
(4月30日 ミラノにて)
アパート日記 2025年4月
吉良幸子4/1 火
4月になったというのに肌寒い。雨で空が灰色やしずっと暗い。ソラちゃんは一日中べったりとひっつきっぱなし。寝る時は、入れてくださいまし、と手でちょいちょいと合図が来る。布団の中に入ったとて、むっちゃあつなってすぐ出てきはるんやけど、いっぺんは入りたいらしい。
4/4 金
遠出する時はよっぽど気をつけへんとソラちゃんがそわそわし出す。お前、どっか行くんやろってな顔で準備する私の足元をうろうろ…。出かける前にソラちゃんを入れてベランダの戸も閉めてね、とあれだけ公子さんに言われたにも関わらず、私が出る前にはおでかけしとるツートン猫。しゃぁないしそのまま家出たら、近くの小道でぷらぷら歩くアイツの後ろ姿が!家へ回収してから行こかと構えたところ、人んちに入って見えへんようになってしもた。どうせすぐ帰るやろ!と駅へ急ぐ。
今日は元・出稼ぎ先のお馴染みさんが東京見物と題して千住を案内してくれる日。一緒に働いてた埼玉の母、キョーコさんと3人で遠足へゆく。昨日までの雨が打って変わって晴天で気持ちええ。北千住は千代田線の直通運転のおかげでこちらから行っても意外と近い。地下鉄に揺られながら、そういえばソラちゃんは家へ帰ったか…と確認すると、元の家の方へ遊びに行っとる。もー!車も多いし心配やん!!公子さんの分析によると、私の遠出=元の家の方へ行くってな事で、迎えに…或いは先回りして行くらしい。かわいいねんけど、もう行きなんし!
さて一方遠足はというと、割烹料理屋でおつかれ会して、千住をぐるぐると歩く。引っ越し予定地に近いし色々見れて良かった。その後、チンチン電車に乗って王子まで。駅の近くにあんな綺麗な桜見物の場があるとは。ちょうど満開で、月並みやけどきれいやなぁしか感想が出えへん。みんなお花見してはって、わになって手拍子で合唱してるおっちゃんらまでおった。見てるだけでも楽しい。私は皆さんには黙ってお昼にいただいた酒がちょっとだけぐるぐるしとる。直射日光の元、1万歩以上歩いたから回ったらしい。家に着いたら先に帰宅してたソラちゃんに熱烈に歓迎され、そのまま一緒に朝までばったりと寝た。
4/6 日
家で仕事しつつ、息抜きがてらお昼過ぎに砧図書館へ向かう。行きしなの商店街に呉服屋さんがあって、最近ワゴンに下駄が置いてある。ちょっとだけ…と見てたらすかさず店員さんが店の中まで案内してくれはって、気ぃついたら下駄一足買うてるやないか!そんなつもり全くないから自分でもむっちゃびっくりしつつも、旦那さんが鼻緒をすげてくれるとの事で嬉しい。鼻緒を調節してもらう間、お茶までいただいて何じゃかんじゃ話してたら、鼻緒のすげ替えだけでも来てええらしい。ラッキー!いつも東品川まで行ってたからこんな近くでやってもらえるのんほんまにありがたい。古着物ばっかし着とるからほんまの呉服屋さんって緊張すんねんけど、もっとはよ入ってみたらよかったなぁ。
4/10 木
公子さんと電車に揺られて松戸へ、新居を探すべく内見へ行く。それと別におもろそうなイベントスペースがあって、そこも一緒に見せてもらう予定。この前北千住まで行ったとこやし、まぁ近いやろうと高を括っていたら、北千住からもうひと区間どっこいしょと遠いイメージ。おや、ちょっと想像と違うぞ…と思いながら先にイベントスペースを見せてもらう。大正時代に建てられた平屋で、落語会するのんはむっちゃ良さそう。その後に本日お目当ての新居の物件を見せてもらう。住宅地にある一軒家で、改装しても何してもええよ!という太っ腹な物件。すごくええ物件なんやけど…何かが悪いのでは決してなく、でも何となくここに住むイメージがあんましでけへん。ご縁がないってことなんかなぁ。
4/13 日
元・出稼ぎ先に私が働き始めたその当時、店長してはった方が門前仲町で呑めるパン屋さんしてはって、退職のご報告がてらごはん食べに行く。繁盛店で行きづらいと思ってたけども、やっぱり今日も超満員。でも外でならどうぞ~ということで外のテーブルで色んなパンが乗ったプレートをいただく。久しぶりに元・店長の味を食べられた感じでどれもこれもおいしかった。一緒に行ったのはみんな出稼ぎ先で知り合った絵描きに造形作家で、色々と楽しい話が聞けた。引っ越したらまた来ますというてお店を後にする。ええ物件見つかるとええなぁ、最近そればっかし念じとる。
4/16 水
埼玉で知り合ったマトリョーシカ作家の方が絵付け教室するということで、わざわざふじみ野まで。2年前に建ったばっかしの建物は、公共の施設とは思われへんくらい洒落てて綺麗で、そこにいっちゃん驚いた。マトリョーシカとは言いつつ、好きなの描いてええよとのことで虎のパンツを履いた赤鬼に絵付けした。絵付けって無心になれるから楽しい。
4/19 土
絵描きの友、キューちゃんのマーケット出店の日。お手伝いの約束してるし準備で朝っぱらから上野へ向かう。ほとんどの出店者は屋内やけど、キューちゃんは屋外出店で直射日光がものっそ暑い。久しぶりにこんな日に当たった気がする。夕方にイラストレーターの系さんと岩口さんも合流、思いがけず色々話せておもろかった。明日も出店、かんかん照りになりませんように。
4/20 日
今日は曇ってて外におってもちょうどええお天気。昨日のお日さん光線が効いたのか結構疲れておる。でも今日の方がお客さんええ感じに来はってほんまによかった。夕方に終わり、どうせならちょっと散歩してから電車に乗るか、と上野から湯島へ、途中であんみつを買って地下鉄へ乗り込む。ちょっと遅い公子さんの誕生日祝いやね。いよいよ80になりはったんやって!全然そうも見えへんわ。
4/24 木
キューちゃんと長谷川町子美術館へ。企画展は町子さんの弥次喜多。現存する原画が全て展示されてて圧倒される情報量。キューちゃんは私が思ってた以上に町子さんが好きやったみたいで隅から隅まで楽しんでおった。私は何回か来てるのに、毎度、やっぱしうまいなァ~と感動する。他のお客さんは作品量に負けてサァーと観ていきはるけど、私らはそういう訳にもいかず、目を皿にして作品群をひとつひとつたどり、帰る頃にはへとへとになった。ええ刺激をもらった感じ。
4/25 金
一昨日くらいに急に決まった内見へ、場所は北区。ネットで色々と松戸方面で家を探してたんやけどなんやピンと来る物件がない。公子さんが発見した東十条の物件は、外観はごっつい古いねんけど一軒家で立地もええ。これは…とすぐに連絡して内見が決まったのであった。実際に見ると確かに外壁はすんごい色しとる。でもそれを忘れて中へ入ると、リノベーションしてあって素敵な和室がたくさん。前住んでた水漏れ物件を思うと天と地の違い。即決して申し込みする。今住んでる物件と打って変わり、むちゃくちゃ親切な不動産屋さんでほんまのほんまにありがたかった。審査諸々通りますように。
申し込みを済ませてそのまま三軒茶屋へ。真打昇進以来会うてなかった伝輔さんに今秋の公演でお世話になる。その打合せというか、お久しぶりですの飲み会やった。途中から美恵さんと悠治さんも参加して楽しい会になった。美恵さんからは履かんようになった下駄をもろたんやけど、なんと4足も!お返しは私が作ったスズメのブローチ1羽て!えらい違いですんまへん!
4/28 月
埼玉の職場に行ってた時、道でナンパされてお友だちになった御婦人、おタカさんのおうちへ遊びにいく。なんだかんだ年末くらいから会うてなかったから元気なお顔が見れてよかった。おタカさんはいっぱい食べさしてくれるというのを見越して朝飯を抜いて向かう。案の定、山盛りのお昼からおやつ、そして早めの晩ごはんまでいただいた。今日はお腹がはちきれんかったので作戦成功。おタカさんとお話しするのは毎回色んな話を聞けて楽しい。
4/30 水
今日はお世話になってるよしえさんと祥二さんのところへ、秋の落語と講談の公演のお知らせをしにゆく。初めてお会いした時に車椅子乗ってはったよしえさんが、今はおうちであちらこちらと歩いてはるところを見ると、元気になりはったんやなぁと嬉しくなる。北区の物件の審査が通った話をすると、お二人ともすんごい喜んでくれはった。ちゅーことで、来月はまた引越し準備が始まるで!
サザンカの家(四)
北村周一そらひくく飛ぶとりあれはメジロにて眼に追いたればこうはく梅図
昇りつつメジロは知るやはろばろとみぎりひだりにサクラぜんせん
くれないの花もそぞろにあきらめてメジロははやもわが視野のそと
とりどりのはなからはなへ路地を来て去りゆくみれば目白なりけり
めじろふたつさきを急ぐと見せかけてつばさやすめりツバキの枝に
紅ツバキの木みごとなれども苦しそう 目白はきらうおもおもしきは
花すいとも呼ばるる鳥のこえは優し めぜめよと聞こえくるらしその声
うち羽振りこえなき声に鳴くとりのこえは近しもわがかざかみに
はなかげに花すいふたつふうわりと揺れいたるなりどちらか身おも
どちらともなく交わす目くばせ番いかな メジロすばやし春が来ている
めじろの目よりちかいところに我があるを すがた消したりふり向きざまに
多角的視野もつとりの眼下にはすでに来ている絵を描くおとこ
メジロらのねぐらはいずこと垣根ごしにとおくみており西方のひと
遁げる刹那
せつなにうたう
恍惚は
メジロのみ知る
その世界観
うらにわの見映えよろしき医者の家 メジロはしげく寄り来たるらし
みるともなく庭のさざんか眺めおればめじろ来ておりそのはなかげに
さえずりは長兵衛忠兵衛長忠兵衛繍眼児いじらしオスのみに啼く
宙宇へのきりぎしにして天竜の土手に囀る春つげ鳥は
やがてはのそりのそりとも水牛はくる リュウキュウメジロはその背なに舞う
老いもわかきもメジロとなりて降りつつ頭上はるけしそのかげにわれ
5月
笠井瑞丈こんなこと
初めてです
今気づきました
そして起きました
5月3日深夜二時
寝ていたところ
ふっと作文用紙が
夢に出てきた
慌てて起きる
何かを忘れている
あああ
やっちまった
締切が
締切が
もう
とっくに
過ぎている
パスはしたくない
パスはしたくない
ずっと4月の後半からそろそろ
書かないとと思っていたのに
この水牛通信だけは
自分に課している修行なのに
まだ覚めぬ頭から
絞り出すように
夜中にタイプするも
全く何も出てこない
何も生まれてこない
何も生まれてこない
何も生まれてこない
何も生まれてこない
あああ
連続安打が途絶えてしまう
これは野球で言えばバント
次の打席に繋ぎます
遅い5月
高橋悠治やっと日差しが暖かく、外へ出る気分になってきたが、行きたいところも思いつかないでいる。コンピュータの前に座っているだけで、気がつくと日が暮れていく。足が遅くなったのか、眼が悪くなったのか、歩きながら何かを見ようとすると、立ち止まってしまう。
昔グレン・グールドがしていたように、シャツの袖ボタンを外して風を通すことができる季節になった。やはり眼のせいで、ピアノも最低限の練習が要るようになったが、まだその習慣は身につかない。
考えるのではなく、感じることを途切れないように続けられるものだろうか。
コロナ以来、人と会わないでいるのが普通になった、となると、それこそ政治の企みということになるだろうか、と言ってもはじまらない。毎日のように出歩いて、人と顔を合わせ、わずかなことばを交わすので充分としなければ。
ことばが浮かんでくる、とすれば、イメージも音も浮かんでくるかもしれない。フレーズや響きを書き留める。そのページを見ながら、眼にとまる音から思いつく変化形を書き継ぐ。
この数年間、すこしずつ 作曲を続けてきた。ヴィオラのための「スミレ」と、クラリネットとピアノを加えた「移動」(2021)から、世阿弥が息子の死を悲しむ「夢跡一紙」(2023)。シューベルトが母の一周忌に書いた詩による「時」、万葉集の女性歌人による「白鳥の」、ファゴットのための「連」(2024)、バリトンサックスのための「ゆら」(2025)。
音のコラージュを作ろうとしたことがあったが、できなかった。だが、そこにあるものを、そのままではなく、それに似たものに変えれば、少しやりやすくなるような気がする。
2025年4月1日(火)
水牛だより四月だというのにきょうの東京の最高気温は7°Cです。ふと天気予報を見てみると、体感温度はなんと−1°Cと記されていたので、あまりのことにコートを着て外に出てみました。確かに寒いと感じましたが、−1°Cほどではなかった。やれやれ。もともと春は荒々しい季節ですが、今年は体力のない人たちにとっては特に厳しい春だと感じます。
「水牛のように」を2025年4月1日号に更新しました。
藤井貞和さんのタイトル「うんと古書 独孤遺書」には笑ってしまいました。ことばもここまで自由に飛翔?できたら本望だろうと思います。
今月お休みの二人の情報です。
四釜裕子さんは「現代詩手帖」5月号に「ホイッスル」という詩を寄せています。「ページをめくる人がハサミで実践してくれることで完成する、そういうわけでほぼ完成することのない「切るシリーズ」の1つです。」とのこと。そそられますね。
イリナ・グリゴレさんの2冊目の著書『みえないもの』がもうすぐ発売になります。水牛のようにの連載が主な内容です。書籍としてまとめられてみると、とても読み応えがあり、改めて感じることも。柏書房の紹介文に「今までに書かれたどんな日本語よりも、鮮烈なことばをあなたに。」という文言がありますが、ほんとうです。ぜひイリナさんの日本語に引っ張られてみてください。
もう一つ、杉山洋一さんの「しもた屋之噺」にあるコンサートのお知らせです。
パーカッショニスト安江佐和子プロデュース
『 il Sole (イル・ソーレ)』#05
~杉山洋一 影響を受けた作曲家とともに~
2025年4月19日(土) 15:00開演(14:30開場)
4月20日(日) 14:00開演(13:30開場)
会場:トーキョーコンサーツ・ラボ
一般:4.500円(当日券は+500円) 学生:3000円
【チケットご予約】
web予約:https://202504ilsole.peatix.com
メール予約:prana.sawako@gmail.com
電話予約・お問い合わせ:東京コンサーツ
03-3200-9755 (平日:10:00~18:00)
【プログラム】
湯浅譲二「相即相入Ⅱ」(Duo)
伊左治直「diorama」~それでも私は、この震える海を渡ろう(安江佐和子ソロ)
石井眞木「フォーティーンパーカッションズ」(Duo)
八村義夫「ドルチシマ・ミア・ヴィタ」(吉原すみれソロ)
杉山洋一「委嘱新作」パーカッションDuoのための
(安江佐和子 杉山洋一 吉原すみれ)
それでは日々の養生を怠らず、また来月に!(八巻美恵)
003 うんと古書 独孤遺書
藤井貞和小学一年生の『こくご』に、
うんとこしょ
どっこいしょ
民話の「おおきなかぶ」です。
みんなで力をあわせ、
ねずみさんもいっしょに、
大きなかぶをひっこ抜きました。
藤井さんは大きくなりまして、
民話の向こうを張り、
物語学者になりました。
うんとこしょ
じゃないですね、「うんと古書」
書庫は古文の、
変体がなであふれています。
最晩年にさしかかり。藤井さんは、
つまを亡くし、
物語研究会のなかまもつぎつぎに亡くなり、
国語学会からは相手にされず、
孤立を深めます。
遺書を書くことになり、
くちに浮かぶ戯れ唄です。
あら「独孤遺書」
うんと古書
うんとこしょ
どっこいしょ
(季刊『未来』誌の中塚鞠子「言葉でことばにコトバを言葉は――大岡信『思考することば』考」が新鮮だ。『思考することば』は、知らない人もいるかもしれないが、野沢啓が大岡の著述から14編の論考を、「Ⅰ ことばの力」と「Ⅱ 「てにをは」の詩学」との二章に分けて、これもじつに手にとりたくなる一冊だ。『未来』には野沢の「大岡信とことばの詩学5(完)」も掲載されており、まもなく単行本になるのだろう。日本語の詩や詩論をめぐる劃期がやって来るのだという予感がする。同誌にはモダニズム詩を探求する季村敏夫の一文や、上村忠男の連載も光り、季村は『現代詩手帖』のモダニズム詩の特集で巻頭に高木彬との対談に臨むなど、現代詩の何かがいま復活しつつあるかのようだ。〈ことばの力〉とあり〈「てにをは」の詩学〉とあるように、日本語学の新展開だと気づくのに時間はかからない。「てにをは」は『万葉集』に始まり、藤原定家につながる古文の詩学。国語学会はいまの日本語学会。詩が学界を引っ張るような歴史がまた動き出したってもかまわないだろう、とは藤井さんの我田引水。ははは)
夜の山へ登る(1)
植松眞人 あんたが死んでしもたことを責める気にはならへんのや。あんたがいつも言うてたことが間違いやとも思わへんし、どっちかいうたら、あんたのほうが正しいと思うことが多かった。世の中生きていくためには、みんなそれぞれに我慢してるんやで、と僕はあんたに言うてたけど、ほんまは僕かて我慢のきかへんイラチや。自分ではよう我慢でけへんことも、あんたの話になると他人事やから、わかったような口をきいて、大人のふりをしてた。
あんたが美幸さんや純平くん、知美ちゃんの待ってる家に帰ってけえへんようになったと聞いた時、僕は六甲山に登ったんやとピンと来た。死にに行ったというよりも、どうでもようなったんやろなあと思たんや。もちろん、美幸さんたちの前では、そんなことは素振りも見せんように、一緒に心配そうな顔をしてみせた。なんとなく、あんたがふらふらっと、おらへんなるような気がしてたんやろな。年が明けて、松の内が明けたばっかりやいうのに、あんたが海に向かうはずがない。あんたは寒がりやからな。あんたの自慢の大きなスクーターに乗って六甲山に行って、山の中で火でも焚きながら時間を過ごして、帰りたなったら帰る。帰る気がなくなったら、そのままおらへんようになる。なんとのうやけど、僕にはあんたのそんな姿が見えるような気がした。
賑やかなことが嫌いやったな、あんたは。覚えてるか、中学生の文化祭。クラスで劇をやるいうて、みんなダラダラと準備を進めてた。そしたら、あんたが急に教壇のとこに立って言うたんや。
「やるんやったらやる。嫌やったらやめようや」
急に大きな声で言うから、教室の中がしんと静まり返った。で、しばらくしたら、守山が言い返したんや。
「なにええかっこしてんねん」
守山は小狡いやつやった。家が金持ちでなあ。遊びに行ったら、みんなに飯おごったりするから、腰巾着みたいなやつがいっぱい引っ付いてた。そいつらが、守山の味方して、そうやそうや、と騒ぎよった。そしたら、あんた、教壇から降りて、まっすぐ守山のとこへ走って行った。
「オレはな、こんな子どもじみた劇が吐くほど嫌いなんじゃ。こんな子どもだましのことせなアカンのなら、ちゃっちゃとやって終わらせよう、言うとんねん」
「なんのことやねん」
守山はあんたの勢いに怖じけずいている感じやったな。
「みんなでわいわい、しょうもないことしてるのが嫌や言うとんねん」
あんたが重ねて言うと、守山は顔を赤くして机を大きな音させて叩きよった。
「どのクラスもなんかせなアカン言われてるんやから、しゃあないやないか」
守山がそうどなると、あんたは、守山の肩をぽんぽんと軽く叩いたなあ。
「可哀想やなあ。そらそうや、みんなやってるし、やらな先生に怒られるし、やらなしゃあないなあ」
そう言うと、あんたはもう一回、教壇に戻ったんや。
「こんな子どもだましのしょうもない劇、本気で楽しいと思ってるやつはおらん。おるんやったら、手上げてみ」
誰も手なんかあげへん。
「おらんのやったら、さっさと終わらせよ。終わらせて早う帰ったほうがええ」
そしたら、いままで黙ってた女子がざわざわし始めた。
「けど、背景とか作らんとアカンのちゃうの」
可愛い声で言うたのは、委員長やってた亀井さんやった。
「背景なんかいらん。いま、演劇の世界で流行ってるのは、素のままの舞台で、役者も私服で役柄を演じる芝居や」
「ほんまか」
「ほんまや。いまどき、吉本新喜劇みたいなもん流行らん。コンテンポラリー演劇や。スマホで検索してみ」
あんたが言うと、クラス中がざわざわし始めて、先生に見つからんようにスマホを持って来てたやつらが一斉に検索し始めた。
「コンテンポラリー演劇…。ほんまや。新喜劇みたいな背景のない写真もいっぱいあるわ」
「こっちは、出演者が全員、黒いレオタード着てるわ」
「オレは、昨日、NHKの教育番組で、コンテンポラリー演劇いうのを見たんや。あれなら、すぐできる。準備はいらん」
そこからは、クラスのみんながあんたの言う通りになって、背景なし、セリフなし、ただただ、制服を着た男女が舞台でフラフラしてるいうだけの劇を十五分ほど続けたんやったなあ。けど、あれは担任が小林先生やからなんとかなったんやで。小林先生はええ加減に見えるけど、以外に反体制でな。学校の言うことなんか聞くな、いうのが口癖やった。そういうたら、あんたは小林先生と仲良かったなあ。廊下ですれ違うたびに、なんやしらんけど、こそこそなんか言うては笑てたなあ。僕はそんなあんたが羨ましかった。先生と笑い合うなんて、僕にはなかったからな。
あんた知ってるか。あの時、予行演習に僕らのクラスだけ出えへんかったやろ。あれは小林先生の機転やったんやで。(続く)
アパート日記 2025年3月
吉良幸子3/1 土
せっかく昨日楽しかったのに、また家のことでムカムカすることが。言うてもしゃーない、笑い飛ばして解決しよう!また部屋探しやで~。それにしても、今夜だけはまだプリプリと怒る…消化するにも時間がいるねん。
3/2 日
昨夜何を怒ってたかというと、こんだけ水漏れで被害を被ったにもかかわらず、つまりは大家が金も出したくないしとっとと出てってほしいとごねやがった。立ち退き予定物件に1年住んでええという話が打って変わり、秋までに出ないと立退料を3分の1にしまっせと。そういう事ならこっちもさっさと出てくわ!と家探し。千葉に住むさくらさんがおもろい不動産屋を見つけてきてくれはった。なにやら新しい流れが始まる予感。
3/6 木
銀座の職場で体調不良が続き久々に出勤。実は私もあんまし体調良くないねんけどなぁ。今年の風邪はタチが悪い。酷い咳が残る。出勤するとソラちゃんは私を探しに駅の方へ向かうらしい。公子さんから、またおらんねんけど…と連絡がくる。でもしばらくすると帰ってきて私の部屋の前でギャン鳴きしとったらしい。公子さんの部屋の方は開けて待っとるのに、ヤァねぇ。
3/15 土
明日は初のマルシェ出店。紙粘土で作った人形を出すべく日々制作してきたんやけど、途中で熊手作りが始まり、気づけばそっちがメインになった。ちぃちゃい色んな縁起物のついた熊手は自分で言うのもなんやけどかわいい。和物のブローチも少し作った。明日は売れますように。
3/16 日
川越でマルシェの日やのにあいにくの冷たい雨。私は本来むっちゃ晴れ女やねんけどなぁ、出店者の中に猛烈な雨女でもおるんやろか。川越を観光するのにむっちゃええとこでの開催やのに、寒いわ水捌けも悪いわで人も全然通らへんかった。それでも、事前に声を掛けてた知り合いがたくさん来てくれはって結構繁盛したから嬉しい。
3/21 金
うちのおかぁはんと同い年の同僚のお母さんが入院されたという事で、大急ぎで赤ミミズクと赤べこを作った。この95歳の母上にはこの前のマルシェに出した熊手につけるフサをいっぱい作ってもらったりしていつもお世話になっておる。「入院」なんて単語聞くとびっくりするがな。お見舞いにも行かれへんし、健康を守る赤い縁起物を側に置いてもらうべく仕事もそっちのけで作った。思いの外ええ出来で、娘である同僚に渡したら喜んでくれはって嬉しい。はよ元気になりますように。
今日は1ヶ月半ぶりくらいに落語会。ご贔屓の扇辰師匠のとこの前座さん、辰ぢろが二ツ目昇進で「扇兆」さんにならはってそのお祝いの会。前座は基本的にまくらを振らんから落語しか聴いた事ない。二ツ目になった扇兆さんが噺に入る前にアレコレ楽しそうに話してるの見ると、実はよう喋るねんな~!とびっくり。静岡出身らしくのんびりしてて、朗々とした感じ。サービス精神旺盛で千社札やポストカードくれたり、こんな色々くれる方見た事ないで!お客さんも静岡からわざわざ来てはる方が全体の3分の1くらい。ええお客さんが既についてる。これから真打まで長い道のりやけど、応援したくなる人柄で、私もこれからちょくちょく彼の出る落語会へ行こうと思う。
3/24 月
隔月に一回出る漫画雑誌『ねこぱんち』の発売日!さくらさんの漫画の第二話が載っておるのでコンビニへ走った。今回もさくらさんの漫画に出てくる猫はソラちゃんそっくり、というか美形のソラちゃんにしか見えへん。感想と応援メッセージを書いて葉書を送ろうと思う。
そういえばソラちゃんは最近になって完全に「引っ越した」ということを理解したらしく、もう前の家に向かうことはなくなった。家ん中か庭で寝てることが多い。うんちは外でしてきて必ずハイになって帰ってくる。そん時は5才みたいな顔で家ん中を走り回るけど、とにかく遠くへは行かん事にしたらしい。ほんまに賢い猫やわ。
3/29 土
実は出稼ぎ先を今月で退職する。引越しもするし、環境を一新しようというワケ。デザインの仕事もありがたい事に今月は結構きてて、本業をもうちょいちゃんと営業していかねばという事でもある。年明けに退職の願い出をして、今日が出勤最終日。全く実感がない。でも最終日という事で、たくさんのお馴染みさんがみなさんわざわざ来てくれはった。ほんまにありがたいこって。私がカウンターの中にいて、お客さんがカウンターに座って、ああだこうだ話しながら仕事するのは楽しかった。今日も、着物もらって!と、足元悪い中持ってきてくださった方もいらっしゃった。銀座で2年、埼玉へ移動して1年やけど、こんなたくさんの方々とお知り合いになったんやなぁと、嬉しいやら、あんまし会えへんようになるし淋しいやら。
明日も埼玉のお客さん主催のマルシェに出る。正直に言うと忙しすぎて全く準備が整ってへん。今日はとっとと帰って準備せねばなんやけど、みんなとなんじゃかんじゃ話して、出勤最後の後始末までしてたら店を出たのが20時。家に着いたのが22時でそっから朝までマルシェ出店の準備をする。あかん、完全にいっぱいいっぱいや…。
3/30 日
昨日の今日で埼玉は鶴瀬へ。着物で来てね!と言われてたから、お客さんからいただいた着物に帯で向かう。朝から眠い。まぶたが重い。徹夜して臨むもんじゃないし、ほんま申し訳ない。今日は物販そこそこにワークショップしてほしいとの要望で、来月から使えるカレンダー作りの準備をしてきた。寒さが戻るという予報やったけど、汗ばむほどお天気に恵まれて桜が綺麗やった。マルシェにはいっぱいの人で、私のブースにも知り合いがたくさん来てくらはった。
3/31 月
なんとかイベント尽くしの3月を乗り切った。1ヶ月の疲れを溜め込んで、いくら寝ても泥のように体が重い。でも今月最終日やし出稼ぎ先へご挨拶に行く。どうせ家を出るなら画家の友、キューちゃんとも会って4月のイベント出店の打ち合わせをしよかとお昼に新橋は喫茶フジへ。ニュー新橋ビルは数年前から建て壊しとかなんとかいうてまだ不思議とあるから嬉しい。フジがなくなると困る。
席について開口一番、こんな疲れたキラちゃんはじめて!とびっくりしてるキューちゃんの顔見て苦笑い。でも、そらそや、花粉症で目も赤いしボロボロ。甘いもん食べて友と話すとちょっと回復。その足で職場へ行って退職の挨拶をする。正確には自分のいた飲食部は休みやし、画材店の方々へご挨拶をしに行った。上京してすぐに公子さんと一緒に来て、今となっては同僚となった店長さんに接客してもらったのを思い出す。まさかここで働くなんて思ってもなかったなぁ~と感慨深い。色々あったけど、今後の付き合いにも繋がるええご縁をたくさんもらえた職場やったと思う。
画材店を後にして金春湯へ行くとちゃんと営業中。銭湯へもロクに行けへんかったからあっつい湯で疲れを全部流す。今日はまた急に寒さが帰ってきたからありがたいお湯やった。銭湯を出てぽかぽかで歩いてたら落語家の兼太郎さんから電話があって久しぶりに話す。これからの話などなど、ひとつの時代が終わって新しく始まる感じ。来月からまたぼつぼつがんばろやないか。
ネクタイを忌む
篠原恒木ネクタイほど無意味なものはない。
真綿色したシクラメンほど清しいものはないが、間抜け色したネクタイほど貧しいものはない。あ、色はどうでもいい。黒だろうが、赤だろうが、レジメンタルだろうが、どうでもいい。なんなのだ、あの端切れは。あれを首からぶら下げているとフォーマルなのか。ぶら下げていないと失礼なのか。馬鹿を言ってはいけない。ネクタイをぶら下げた無礼な奴などゴマンといるではないか。
真夏にワイシャツとネクタイ、スーツというヒトを見かけることがあるが、心から同情してしまう。あの忍耐力はどこで培ったものだろう。尊敬の念すら覚えてしまう。アンタはエライ。
ネクタイを締めるということは、ワイシャツを着なければならない。おれはもうワイシャツですら苦痛だ。ボタンが多い。面倒ではないか。袖までボタンがついている。なかには片袖だけで三個、ないしは四個もついている。あれはデザイナーの嫌がらせではないか。やっとすべてのボタンを装着すると、さてネクタイだ。
ところが、これがなかなか上手い具合に締まらない。結び目が不格好になる。何度もやり直す。最近のワイシャツはワイド・スプレッドの衿が多いので、細いネクタイだと上手に結び目を作ってもVゾーンの左右に「紐」の部分が見えてしまう。太めのネクタイを選んで、ある程度結び目も大きく拵えなくてはならない。厄介ではないか。面倒くせえです。
垂れたネクタイが短かったり長かったりする。あの長さの調整もオトコの技量が問われるのだ。短いと裏の細いほうの先端が突き出て見えてしまう。これは論外だ。ダサい。イカンと思ってやり直す。今度は股のあたりまで長くなってしまった。これではドナルド・トランプ氏のようではないか。またやり直す。
トランプ氏の赤いネクタイはいつも長く垂れさがっている。あのヒト、背も高いでしょ。どう結んだらあんなに長くなるのだ。ものすごく長いネクタイを特注しているとおれはニラんでいるのだが、お付きのスタイリストだっているだろうに、あの長さを是とする了見が知れない。ついでに言うと、高価なスーツにネクタイを締めてベースボール・キャップを被るのは、いくら選挙キャンペーン中でもやめていただきたい。スーツに野球帽というコーディネートは破壊力がありすぎる。あの組み合わせが似合うニンゲンはこの世にいない。
話が逸れた。年に一、二回しかネクタイを締めないし、普段はシャツも着ないおれだが、先日、母の七回忌があって、仕方なくブラック・スーツに白いワイシャツ、黒いネクタイという格好をしなければならなかった。
疲れた。着るのも疲れたし、谷中の寺までクルマを運転するのも疲れた。首元が苦しい。ジャケットも窮屈、おまけに滅多に履かない革靴だ。靴を脱いで読経を聞いているときも疲れを強く感じた。再び革靴を履き、塔婆を持って墓まで移動するのも大儀であった。法要が終わると、どこへも寄らずにすぐ帰宅したが、疲れ果てていた。わずか二時間半ほどの着用時間だったが、ネクタイをほどいたときの解放感といったらなかった。
ネクタイを締める目的は、ほどいたときの快感を得るためである。
そう思いましたね。おれが身近なヒトビトに死んでほしくないのは、葬式にネクタイを締めて出掛けなければならないからである。みんな長生きしてね。
ネクタイが汚れているヒトがいる。食事中に何かが飛び散って、それを放置しているものと推察されるが、あれはいただけない。その日のランチで汚してしまったのならお気の毒とも思うが、「ある一定の時間を経て現在に至る」という汚れ具合のネクタイを目にすることがある。カレーうどんの一滴、ボロネーゼの一滴、せいろ蕎麦のつゆの一滴、サラダにかけたオリーブ・オイルの一滴、それらのシミが混在しているネクタイを平気な顔で締めているヒトもいる。それでいいのか。いや、いくない。みすぼらしい。あれではノータイのほうがマシなのではないのか。
だが「スーツにワイシャツでノータイ」がサマになっているヒトをおれは知らない。普通のワイシャツにビジネス・スーツであれをやると、見るも無残だ。だからおれはワイシャツを着ない。スーツも着ない。どうしても着なければならないときはネクタイを締めて、絶対に緩めない。スーツのジャケットも脱がないよ。そういう日は年に一、二回しかないが、帰宅すると寝込んでしまう。疲労の度合いが違うのだ。
おれがネクタイを締めなければならないケースは葬式、そうでなければ「エラいヒトビトが集まる会合」だ。エラいヒトビトは大抵ネクタイをしている。肝心のおれはエラくもなんともないのに、なぜネクタイを締めなければならないのだ。ドレス・コードというやつなのだろうが、きわめて理不尽だと思う。
だからそういう会合は欠席のハガキを出すことにしている。おれなどがいなくたって何の問題もないしね。なので、印刷された「欠席」のところにマルをして、その右の余白に「ネクタイを締めなければならないので」と書き添え、下には「させていただきます」と書き添えることにしている。面倒なのは、おれのハガキを受け取った担当のヒトから、電話がかかってくることがあることだ。
「どうか平服でお越しください」
声が慌てている。すまない。おれのことなど忘れて、幸せに暮らしてください。
思い出した。十年ほど前にネクタイを五十本以上捨てたことがあった。同時にワイシャツもスーツも大量に処分したっけ。
ということは、おれもスーツとワイシャツを着て、ネクタイを締めていた日々があったのだ。バブル期のことかもしれない。もう忘れた。これほどネクタイを忌み嫌っているおれにもそういう時代があったのだ。なんだよ、つまりは思想、信条がブレブレではないか。どこでいつ転向したのだろう。原因は精神的なものだったのか、ネクタイ的なものだったのか。今ではネクタイは三、四本しかない。いいんだ。
「数年ぶりに新しいネクタイを買おうか。滅多に締めないけど」
と思い、店頭で気に入ったネクタイの値札を見たら五万七千二百円だったので、「オガーヂャーン」と叫びながら最寄りの交番へ駆け込んだ。端切れだよ。高いよ。買えないよ。買ったらオガーヂャーンに折檻されるよ。あ、オガーヂャーンは六年前に亡くなったんだ。
ジジイの一人旅
さとうまき暑い時に中東に行くのはよした方がいい。ともかく暑いとしんどいし、ポケットのついた上着を着るのも暑苦しくて、結果財布を落としてしまう。去年はイスタンブールで酷い目にあった。
ジジイになると目も見えなくなってるので本当に最近はものをおき忘れる。それだけではない。地名とかも忘れてしまって、行きたい場所もスラスラ言えなくなってしまう。もうそろそろ一人旅も最後になるかもしれぬ。今のうちに行っておかなければならない国は?と言われたら、新しい国を冒険するか、懐かしい思い出に浸る旅に出るかだが、僕はもう新しいことは面倒であるから後者を選ぶことにした。そこで、23年前に追放されたイスラエルに行くことにしたのだ。
ヨルダンまでのチケットを買い陸路でイスラエルに入国。万が一入国拒否されても、シリアかイラクへ行けばいい。気持ちの整理が必要だったので、ヨルダンのホテルで一泊することにした。ダウンタウンの薄汚い安ホテルを最近はよく使うようになった。かつて僕が局長をしていた支援団体の理事会で「あなたが安い薄汚いホテルに泊まるので、職員が迷惑しているそうだ。かわいそうに、局長以上のホテルには泊まれないから友達の家に泊めてもらっているというではないか」と理事会で糾弾されたことがあった。
僕としたら、節約すればその分支援に回せるというポリシーなのに、わかってもらえなかった。その時よりもさらに汚いホテルに最近は泊まっているが、このバックパッカーのような旅が結構楽しいい。特にアンマンのダウンタウンはアラビアのローレンスが活躍した当時の歴史が刻まれている。お土産屋や市場が混雑していてぶらぶら歩くと楽しい。しかし薄汚い。
今回ラマダン中に到着したのでレストランが閉まっている。うとうとしているうちに日は沈み、気がつくと歩道に机が並べられて満席。うろうろしているとあちこちから声がかかり結局つまみ食いだけで満たされてしまった。これがまたうまいのです。みんな幸せそうです。ガザで虐殺がおこなわれているなんて信じ難い夜であった。
むもーままめ(47)桜の樹の下には…の巻
工藤あかね 春といえばポカポカ陽気に桜…桜の季節といえば入学式に入社式…というのは古い感覚かもしれない。こどもの頃、4月上旬はたしかに満開の桜の季節だったように記憶しているのだが、最近では桜祭りを4月ではなく3月中から始める自治体もある。時々夏日が混じるとはいえ、まだ3月。桜は咲きはじめていても、日によっては冬の装備でも寒い。個人的には冷え切った地面に敷いたビニールシートの上で、キンキンに冷えたビールなんて飲む人の気が知れない。それにしてもなぜ桜の時期は、ずれてしまったのだろう。毎年開花はまだかまだか、とみんなに待望されるあまり、急いで花を咲かせようとがんばりすぎているのだろうか。そうなると人気者の桜も気の毒なものである。
さて令和7年3月末日の今日も、冷たい風ふきすさぶ真冬の寒さだ。花は見たいけれど人混みがいやなので、穴場だと目当てにしていた枝垂れ桜を見に行ったら、花びらの8割が落ちてまるだしになって垂れ下がる木の枝が、寒さに震えていた。枝垂れ桜はソメイヨシノより少し季節が前倒しとわかってはいても、自分は満開の時期を見なかったという事実が、何か取り返しのつかない損をしてしまったかのように感じた。だが、生まれたてのうす緑色の葉がぴょんぴょん突き出て、赤いがくだけになった桜のどこがわるいのだろうか。落ちた桜の花びらは雨に濡れ、土にじっとりと張り付いている。だがよく見ると屏風絵にしてもおかしくないような図だった。枝から離れて地上に下り、土に還ろうとする花びらだって美しいものなのだ。
桜の樹の下には屍体が埋まっている、と梶井基次郎は書いた。桜の、あのただごとではない美しさは、命と背中合わせの何かが養分になっているという感覚、これはなんとなくわかる。桜の連想は同期の桜、戦没者にもつながるわけだが、そうすると千鳥ヶ淵も、上野の山も、桜を口実に仲間と集まって、酔っ払って騒ぐ場所にするのは不謹慎ではないかと思ってしまう。だが、来年もまた集うことができるかわからない人と、また会おうと力強くも不確かな約束を交わす、という一里塚にするのなら大いにあり得るかな。あのような場所で集うなら、そのくらいの覚悟を一ミリくらいは持っていたい。
「同期の桜」…なぜか出だしだけは歌える。「海ゆかば」も一節だけなら耳に覚えがある。「軍艦マーチ」…は長らくパチンコ屋さんの音楽だと思っていた。(昭和の時分には、パチンコ店から大音量の「軍艦マーチ」が聞こえてくるのが常だった)。だがあのマーチに合わせて歩くのは子供心にいやでいやでいやでいやで仕方がなかった。道を歩いているうちにどこからともなく聞こえてくるドゥーッダ ダッダ ダダダダ ダーッドゥダドゥダーのリズムに足を出すタイミングがそろってしまうと泣きわめいた。かんしゃくを起こしながら、わざとテンポをずらそうとして歩くのだが、親に「気短かをおこさないの!ちゃんと歩きなさい」と叱られるのでどこに怒りをぶつけて良いのか分からず、余計に腹がたった。子供だったので、なぜ「軍艦マーチ」のテンポに足がそろうと嫌な気持ちがするのかを親に説明できなかったのだ。まあ、じゅうぶん大人になった今でも、なぜ嫌なのかは説明はできないし、今だってマーチのようなものが聞こえてきたら足が地を踏むテンポを合わせないように心がけている。
最近では「軍艦マーチ」を街中で聞くことはなくなった。けれどもマーチ状の音楽は巷にあふれているので、油断は禁物なのである。「ミッキーマウスマーチ」、「史上最大の作戦 Longest Day」、「星条旗よ永遠なれ」etc…ちなみに水前寺清子が歌う「365歩のマーチ」は遭遇頻度が減ったが、「となりのトトロ」の「さんぽ」にはまだまだ不意打ちをくらうことがある。
サザンカの家(三)
北村周一路地うらゆみえつかくれつとぶとりはメジロと見ればはや視野のそと
ゆくりなく来ては去りゆくメジロらの自在なるこころおもうつかの間
花花のかすかなる声ききいたるごときしぐさにメジロ来ており
なにごとか告げんごとくもちか寄りてメジロ可憐(いじら)し花もよろこぶ
闇ふかき落ち葉のもとにかそかなるもののかげありわが眼をさそう
落ち葉かげくらく澱めるひとところねむりたりおりつばさもつ目は
ふき溜まり木の葉の蔭に黄みどりのまろみがひとつめざめを知らず
かぜ降りて枯葉もみじのしたかげにみどりあやしく羽顫えおり
枯れおちば纏えるごともつつまれて吹きたまりおり鳥のかたちに
吹きたまるかぜの澱みにとりのかげしずけくあればわが見たりけり
かそかなるとりのかたちにもののかげ澱みつつありかぜの溜まりに
打ちつけに小暗きまどのそのもとにいのち落とせしつばさ黄みどり
ねむる野鳥(とり)の半眼の目になみだ溢れしずくもて知るそのたまゆらは
そののちにホワイト・アイと知りしことも 骸ひとつを土に埋めつつ
あとりえの出口入り口ガラスなればなにおもいしか鳥飛んでくる
ガラス扉にうすらのこれるキジバトの絵すがたあわれその翳を拭く
ガラス扉に静止画となる恥(や)さしさは つばさ乱れてわれをうしなう
むくろひとつ葬りたれば鳴くとりの ちかくて杳いキジバトのこえ
≪Peace≫の鳩のごときうつし絵ガラス扉にみるは切なし灰いろにして
眼差しはときに光(かげ)さえ見うしなう 物質と夢とのあわいに揺られ
ひとのこころかるくあしらう野の鳥のうごきに似せてあゆみだす翳
よき声のために捕らえし野のとりの かごの中より友呼ぶこえは
白咲けばぴんく綻びまたも赤 寒色系は見ずやさざんくわ
庭のサザンカ咲いたとてメジロ来ずミツバチもスズメも消えてさびしい秋だ
地のうえに落とせしツバサ拾わんに記憶をもとにもどすこころみ
どこへでも飛べるおもいに指のさき伸ばし置くなり羽根の生ゆるまで
新まりし
秋もほろほろ
冬は来て
春を待てずに
夏の烈しさ
行き止まり数多置かれし路地のうら大洪水の予感満たしめ
えんえんとつづくおうたのさざんかのかきねのかきねの曲がり角何処
ばっさりと大ハナミズキ取り払われてここより先はよそさまのお宅
さざんかのかきね見事に刈り揃えられわっさわっさと進む歩兵ら
根元から伐ればほのかに香り立ち花色おもいだせずにごめんさざんか
自分ではどこへも行かないサザンカのかきねはのこりハナミズキゆきぬ
白雪姫
芦川和樹梅うめ、ここはうめのえだ、先
さあその視線を歩いていくとあ
れは、桃の、そう桃の
さっき買ったレモンのマーマレードを
クロワッサン焼いてうすく焦げ、た
となりに塗った、いまは腹のなかである
揺籃よう、らーん、なにか始まるんだと
して、もし、かして、日々だわ
胃腸がぎゅゅゅんと返答しますが
凧を、たこを、揚げようといった
途端に
(狭い) 狭い
(それゆえおうごんの) 退屈な
(いし、こいし) じじつ
(白い犬) シュルツ
(耳栓はふくまれる?) 文房具らを
(素早く、よく) 身につけて
マー、
(シュワッチ) マー、
もう返答しない
キャラメリーゼのために、でも返答しない
袖が水を飲む
暗やみを、てらす、いし、白い犬
をつれて来ればよかった
口笛を、いざとなったら、ひ
ひゅう、ひゅゅ
ゅ
う!
おいでマーマレードを/クロワッサン丈夫
なからだ、生放送で追いかける
この先に、桜の巣ができあがる
ピーター・ラビットとすれちがう瞬間に
メモを手渡す(それゆえ手渡される)
そこに書かれた可能性を見つめるじっと
逆さにすると、逆さ虹だわ
とかいう日々だった
らーん
溶けた雪が目を洗う、ったあとの快晴
あれはギッフェリだった、耳を塞ぎます?
「人参に目がないんです、うれしいです」
瀬田貞二の児童百科事典
若松恵子津野海太郎著『小さなメディアの必要』(1981年/晶文社)のなかの「こども百科のつくりかた」という1章が昔からずっと心に残っている。津野自身が「子どもをおもな読者とする百科事典をつくりたい」と夢想し、夜ひとりでこのまぼろしの子ども百科の字数計算などをしていると、花田清輝の幽霊がやってきて、傍らに座るのを感じるというエピソードが印象的だ。花田清輝の幽霊が傍らに座るとは「自分のしごとの本質的な部分を死んだ人間と共有する」ことであり、「(死んだ者の)はたされなかった計画のつづきとして自分のしごとを考える」ということだ。そういう仕事のありようについて、このエッセイで初めて知り、花田清輝もきっと身を乗り出して関心をしめしただろうという「子ども百科」という書物の存在が心に残った。
石井桃子の評伝を読んでいて、戦後まもない頃に「児童百科事典」を作った人として瀬田貞二の事を知った。『ホビットの冒険』や『ナルニア国ものがたり』の翻訳者として名前を知ってはいたが、瀬田が最初に打ち込んだ仕事が、平凡社の『児童百科事典』の編集であった。
瀬田貞二についてもっと知りたいと思い、『子どもの本のよあけー瀬田貞二伝』荒木田隆子著(2017年/福音館書店)に出会った。荒木田隆子は、瀬田晩年の担当編集者であり、本にまとめる途上で急逝した瀬田の仕事を引きついで『落穂ひろいー日本の子どもの文化をめぐる人びと』(上・下)を本にした編集者だ。瀬田が残した原稿を編集し、『絵本論ー瀬田貞二子どもの本評論集』と『児童文学論―瀬田貞二子どもの本評論集』(上・下)をつくっている。
『子どもの本のよあけー瀬田貞二伝』は、東京子ども図書館主催の講座「瀬田貞二氏の仕事」で荒木田氏が話した内容を本にしたものだ。「その語り口は、丁寧で慎重、正確で潤いがあり、聞き手に語り掛けるというよりは、むしろ自分に問いかける、といった性質のものでした。それは、荒木田さんの編集の姿勢にとてもよく似ていました。」と、巻末の解説で斎藤惇夫氏(荒木田氏と同じ福音館書店の編集者であり児童文学者でもある)が書いているが、瀬田の著作からの引用、瀬田貞二の仕事を理解していた人たちの言葉を丁寧に引用しながら彼の仕事とその魅力を描き出している。このような評伝のありかたもあるのだなと思った。
第1章は『児童百科事典』の時代として、平凡社「児童百科事典」を編集し頃の話だ。1949年、33歳の瀬田貞二。その仕事に至る、俳句に打ち込んでいた頃の事、夜間中学の教師をしていた頃のことも紹介されている。夜間中学の生徒たちと一緒に映る、復員服を着て無精ひげの瀬田の優しい笑顔の写真が紹介されている。今は古書店で探さなければ現物を読むことができない平凡社の『児童百科事典』の「まえがき」が引用されていて、今読むことができる。
「児童百科事典は、やさしい話から知識へ、身じかな事がらから深い道理へ、応用から原理へ、読むことから考えることへのかけ橋でなければならない。しかし、若い年齢を考えて、わざわざ、“児童のために”書くことは、いずれにせよ明白なあやまりである。児童は、可能性である。事がらの正しさと、高さとは、あつかいかたによって、児童に全的にうけとれるであろう。要は、それを興味あるすじだてによって、明瞭単純なことばで書かれることであり、それは、どんなおとなにとっても通じる真実である。そこで、この事典は、学問の正確さと、視野の広さを保つこと、問題をいきいきと、まざまざと表すこと、しかも、中心を直接ついて簡明であること、を、あくまでもめざした。」
この宣言は、知性というものの理想の形を語っているように思う。また、「若い人たちが偶然めくったページに読みふけってしまうほどの、おもしろい百科事典があったら、また、いやいや勉強のために引いた項目から、すぐさまはげしい好奇心をそそられ、志をよびさまされるほどの、たのしい百科事典であったら」と、そんな望みを持って『児童百科事典』はつくられたとも語られている。説明の文章も掲載する図版も妥協することなく練りに練られた仕事だった。
瀬田貞二はなぜ、『児童百科事典』の仕事にそんなにも打ち込んだのか。「新しい制度の新しい教科書が、てひどくアメリカの干渉になった、制約の多い程度の低い内容になりそうな形勢を、私は見た。(中略)学力の低下は必至だが、民間から子どもの百科事典のすばらしいものを出して、そいつをくいとめることができないだろうか、そう私は思ってプランを立てた。」と後のインタビューで瀬田貞二は語っている。そんな志をもって作られた百科事典だったのだ。
津野海太郎の「子ども百科のつくりかた」を読み返してみると、平凡社の『児童百科事典』が登場していた。刊行開始の1951年に津野氏は中学校に入学し、親を口説いて百科事典を購読してもらう事に成功したという。この平凡社版『児童百科事典』に今でも愛着を持っていると津野氏は書いている。彼が夢想する「こども百科」は、戦後瀬田たちがやりとげた仕事を、現代に置きかえてやろうとする仕事なのではないかと思った。
「みかけの情報量の増大にも関わらず、子どもたちは知るべきことを知る機会をあたえられていない。学校教育があたえる知識は、いまある高度産業社会を維持する必要のうちに封じ込められてしまった。その他の知識は、それらを緊密に組織する基盤を欠いたままバラバラに放置される。現行の子ども百科はこうした状態を固定化する役にしかたっていない。したがって、それはもはや百科事典ですらないのだと私は思う。社会のしくみが揺れ動いて、知識を組みかえる必要が生じる。その必要をみたすのが百科事典である。ディドロやヴォルテールをもちだすまでもなく、戦後まもないころの子ども百科がそのことを私におしえてくれた。バラバラの知識を再編集し、そこに一定の中心と輪郭をあたえる。百科事典の世界はユートピアの性格をおびている。だからこそ私はそこであそぶことができた。あそんでいるだけで、この世界の組織原理を感じ取ることができた。」と書いている。全くその通り。今ある社会を維持する必要のために閉じ込められている知識に対抗する知識を、大人の役割として子どもたちに手渡していけるだろうか、という事なのだ。
年度末に
仲宗根浩三月になると地元の新聞では沖縄戦の記事が多くなる。そんな中「沖縄県の離島から住民避難・受け入れに関わる取組」というのが発表されてた。「訓練上の想定であり、特定の有事を想定したものではない。」との但し書きがあるがまあ特定のあそこの有事であろう。一日二万人の輸送力で六日で十二万人避難が可能とあり、その間本島は屋内避難。マジっすか!六日間屋内すか。屋内で耐え忍ぶのですか。どこかの村長さんが言った「差し違える覚悟を」は持たなくて屋内でいいんですよね。で、六日間屋内でじーっとしているんですね。その間は電気や水道は有事なのでもちろんないっすね。食料含めあらかじめ自分らで備えてじーっとしてればいいんですね。避難先にはWi-Fi提供の検討とありますが本島はどうなるんでしょう。有事なのでそこまでは無理ですよね、本島は。屋内にいなくちゃいけないので。「一戦交える覚悟」も必要ないですよね。
年度末の職場で、「仲宗根さん、水が出ないです」と。二階の水まわり、トイレを確認すると出ない。トイレに使用禁止の張り紙を出すよう指示して、上長に報告すると加圧ポンプじゃないか、と言われる。あの地下深いとこにあるやつか。深いとこに降りる。四、五メートルあろうか、階段などない。コンクリートむき出しの垂直の壁に鉄筋がコの字に下のほうまで打ち込まれ、怖い。年齢を重ねると微妙に高いのが怖い。ゆっくり降りてポンプが動いていないのを確認する。電源が落ちている。地下から地上に上がりブレーカーを探す。見つけたブレーカーは漏電で落ちている。ブレーカーを上げるとポンプが動きだし、水は出始めたが時間がたつとブレーカーが落ちる。ブレーカーを上げる、落ちるをしばらく繰り返す。ポンプは切り替えスイッチがありどちらにしても落ちては上げを繰り返す。上長が到着、別の切り替えスイッチがありそれで片方だけ動くようにしたらブレーカーは落ちなくなった。営業終了時間までもちこたえ、あとは明日にとなった。二週間前の点検で異常があるのを知らされたらしいけれど放置されたまま。年度末に職場で有事と戦う。もうあの地下は降りたくない。あの高さ、むき出しのコンクリートの壁と床は怖い。
習慣
笠井瑞丈今年も気づけばもう4月
毎年年初に目標とかを
掲げるタイプではないのですが
今年は密かに習慣化という事を
自分の中のテーマに置きました
物事を習慣化できることが目標
人生を一番豊かにしてくれること
習慣の連なりが人生の集合体なのだ
でもこの習慣化というものは厄介なもので
簡単にできるものとそうでないものに分かれる
なかなかこれを実践することが難しい
生活の中で習慣化されているものは
沢山あると思いますが
例えば歯を磨くとか
朝コーヒー飲むとか
朝起きたら顔を洗う
などなど沢山あると思いますが
これはやはり生活と直結してることであり
習慣というより無意識レベルでやっている
だから意識しないとできない事を
無意識レベルでやれるようになる
それが出来て初めて習慣化になるのだと思う
今年初めに僕の中で習慣化しようと思った事
毎日少しでもいいので読書をする事
毎日少しでもいいのでピアノを弾くこと
毎日少しでもいいので映像を撮ること
毎日少しでもいいのでパソコンのスキルアップ
掲げることは簡単なのになかなか継続できない
今まで人生の中で何かやり切った事が一つでもあるかと考えてみる
実はあまりやり切った事がない気がして仕方ない
どうしても自分の中の怠け心の悪魔が密かに囁くのです
そんな努力は全く実らないから辞めてしまえ
そしていつもその囁きに負けてしまうのです
やはり人間は元来怠け者であるように作らられているのだと思う
寒い冬はなかなか暖かい布団から出ていけないように
子供の頃は母が学校に行きなさいと布団を剥ぎ取ってくれたものだ
だからイヤイヤでも起きることができた
常に何かしら自分を監視してくれる者が必要なのだ
会社に属していたら上司がいるように
その上司がいるからイヤイヤでも仕事をする
でも日常の生活においては監視してくれるものがいない
監視してるのは自分が自分を見ているだけ
だからいかに自分をストイックの環境に置けるかが勝負なのだ
この水牛通信もかれこれ十年以上書いてる
時に書き忘れて月末にめちゃくちゃ苦しんで書く時もある
でもこれも水牛の編集長の八巻さんと言う存在がいるから
僕はこれを書き続けていけるのだと思っている
ちゃんと締め切りがあり
ちゃんとルールがあるのだ
昨日母と近所の公園に夜桜を見に行った
ライトアップされた桜を喜んで眺めてた
ふともうあとは死を待つだけと母は笑って言った
まだまだ車椅子を押していけば何処にでも行ける
もう4月だ人生なんてきっと短い
とにかく出来ることを悔いなくやろう
仙台ネイティブのつぶやき(105)大回顧展とお葬式
西大立目祥子先月書いたとおり、叔母の展覧会「私が愛した野草園─高橋都作品展」が3月20日に始まった。企画運営は、私と従兄弟のカズとその妻、ヒロコさんの3人。3人そろってわからないことだらけだったが、50点ほどの作品をどう並べるか、旧知の早坂貞彦先生に相談しながら何とか設営までこぎつけた。先生にいわれたとおり10分の1縮尺で壁面構成を考えてはいたが、やはり最後は現場判断になった。「黒い作品が2つ並ぶのよくないな」とか「最後のテーマのところの作品群の数が足りないから、あの壁から2点こっちに持ってきて」とか。先生のつぶやきと指示を聞きながら、そうか、つまりこれは壁面の編集なんだと思い至った。
脚立に乗って絵を吊るしたり掛けたりしている設営の最中に年配の女性が一人、あのぉと遠慮がちに入ってきた。「これ都先生の作品展ですよね、拝見していいですか」。叔母は宮城県古川女子高の家庭科教員を35年勤めており、学校では生徒からも同僚からも「都先生」と呼ばれていた。女性は絵を眺めるなり「都先生…」とつぶやき目頭を押さえた。手を休めて応対したこちらも一瞬しゅんとなる。亡くなったのを知らずにいて作品展のことを知り、はやる気持ちで会期を間違えやってきたらしい。「友人誘ってまたきます」と女性は帰っていった。
夕方まで奮闘して、あらかたの絵と手織りのタペストリーを掛け終えたところで、今度は展示室と隣り合うカフェのスタッフが3人、見させてもらえますかとやってきた。「高橋のおばあちゃんは、なんだか疲れてきたなぁと思っていると、現れて元気をくれるんです」「私は、高橋のおばあちゃんからいただいた草木染めのハンカチ大事にしてますよ」。この植物園の中で叔母は「高橋のおばあちゃん」で通っていたことを知った。誰もが親しみを持ってつきあってくれていたことも。
私にとってはどこまでも「都おばちゃん」であり続けたわけだが、現役時代の呼び名に加え、晩年はもう一つの名前で生きていたなんて、いかにもあれやこれや動き回っていた叔母らしい。正真正銘のおばあちゃんとして親しまれ、温かく迎えてもらいながらみんなに話しかけ、家族にも友人にも見せない顔で過ごしていたのだろうか。
展示したのは額装した絵が50点くらい、スケッチブックが20冊近く、手織りのタペストリーが20点ほど、手織りの布で仕立てたジャケットやベストが7、8着、そのほか90歳近くから始めた俳句コーナーまでつくった。絵は水彩画がほとんどだが、写実的なスケッチから抽象画、心象画風、フォークアート風…あまりに作風が異なるので、同じ人が制作したと思わないのだろう。「なぜ製作者の名前を出さないんですか」と聞いてくる人がいた。
来場者には芳名帳に名前を書いてもらい「高橋都とのご関係は?」とたずねてみる。「古女の教え子です」というグループがいたかと思うと、友人に誘われてやってきて「わ、びっくり!都先生が担任でした!」と話す人もいる。ゆかりの人たちはもちろん熱心に時間をかけて見てくださるのだが、中には野草園の散策が目的で訪れ偶然目にして入ってくる人もいる。そういう人たちがさ—っと流し見かと思うと決してそうではない。ゆっくりと見て、文章もていねいに読んで「画材は何ですか?」と聞いてきたり、プロフィール紹介のところに「15歳で仙台空襲を体験」と書いたあるのに反応してか、「私は8歳で仙台空襲だったの、東一番丁に家があってね」と話しかけてくる人もいた。年配の人は、高齢で絵を始め晩年を通し描き続けたことに自分を重ね見ているようだ。最後には「いいものを見れました。本当にありがとう」「元気をもらいました」「力をもらいました」と、ひと言残して帰られる。中には涙ぐんでいる人もいた。
早坂先生に伝えると、「泣ける絵なんて、そうあるもんじゃないぞ」という。確かにそうだ。アートの力といったらいいのか、不思議さというのか、私は絵の持つエネルギーに打たれた思いがしていた。まったくの素人、おばあさんになってから楽しみで描いた絵が、こんなにも人の気持ちを動かすなんて。エネルギーを与えるなんて。
叔母が額装を依頼していた画材屋さんのご夫婦がやってきて、「都さんの絵はね…」と話し始める。「自分が感じるまま、描きたいものを集中力を持ってまっすぐ表現するんですよね。そこがすばらしい。中にはね賞を取りたいから、先生にいわれるままに描くなんていう人もいるわけで…」。確かに、うまく描こうとか、評価されたいとか、そういうものが叔母の絵には一切ない。ピュア、思いのまま…それが人の気持ちに訴えかけるのだろう。
加えて、人をそそのかすところもあるようだ。「自分も絵描いてみようかと思います」とひと言受付に残して帰った人がいた。何を隠そう、私自身、小さいスケッチブックを持ってスケッチに行こうか、と思い始めている。さすが、都先生、生徒を誘導するのがうまい。
古川女子高の卒業生はもちろん、お世話になったデイサービスの人や、入所していた施設のスタッフの人までが絵を見にやってきた。こうなると、最初で最後の大回顧展であり、同時にお葬式なのかなとも思えてくる。叔母の全貌がつまびらかにされ、つきあいのあった人たちがつぎつぎ集まってきては思い出話を披露してくださるのだもの。
展示は作品内容に合わせ「木」「山」花」「日の出」「地球さん」「布と糸」というテーマを立て、叔母が発するようなことばをたぐりよせ短い文章を書いてみた。来場者が絵をながめながらぱっと読める平明なもの。
「木/いつからそこに立っているの?/いつからそこにいるの?/動かず突っ立っているのに/枝先はいつも空へ空へ近づいていこうとしてる/夏は緑の葉をいっぱいにつけて木陰をつくり/秋ははらはら葉を落として、やわらかな陽射しをくれる/幹のこぶは、つらかったとの我慢のあと?/根は見えないところで/砂利も石も太古の土も握りしめて深く大きく太る/頑として動かないぞ、という意思を秘めて/おねがい/私が消えたあとも、そこにいて」
「日の出/もうずいぶん生きてきたの/からだも気持ちもくたびれているの/でもね、朝の光が部屋の中に満ちるとき/気持ちの隅っこまで照らすように、陽射しは入り込む/ああ、今日一日生きられそう/ほら、山も暗い夜をくぐり抜けて/青い空に染め抜かれ、緑色になってきた/食べて、話して、描いて/私の一日/私の自由」
こんな作業をしているうち、私の中には叔母が小さくなって棲みついたような気さえする。「私が愛した野草園─高橋都作品展」は仙台市野草園野草館で4月4日まで(9:00〜16:45・最終日は15:00まで)。仙台のみなさま、あと4日ですよ、ぜひご覧ください。
立山が見える窓(0)
福島亮うっすらと結露のできた硝子窓の向こうに、真白の立山連峰の朧げな姿が見える。あの雪がすべて溶けるまでどれくらいの時間が必要なのだろうか、あの山肌に本当に新緑が萌えるのだろうか、この景色をこれからどれだけ眺めるのか。
思えば、上毛三山に囲まれた土地を18歳の時に出てから、ひとつの住所に4年以上留まったことがない。本小屋と名付けた部屋を引き払う時、管理人からどうしてこんなに早く出て行くのか?と訝しがられた。たった2年の使用期間では、フローリングマットにつけてしまったデスクの跡以外これといって生活の痕跡のようなものがなく、いやよく見れば本棚の跡もうっすらと残っているのだが、結局根付く前にふらふらと流れ出てしまう奇妙な浮草のように見えたのかもしれない。ただ水面を漂うあの小さな植物は、からだの大きさの割に太い根を水中に下ろして養分を吸い、冬のあいだは肉厚の休眠芽となって水底でじっとしているというから、ふらふらしていても、というか、ふらふらしているその只中に安定していると言えそうだが、私の場合はそうではなく、その時その時の運に任せて移動している。
富山に移って最初の日の朝、霙が降った。前夜からびしゃびしゃと降り続いていた雨が冷えたのだ。まだ引っ越し荷物が届いておらず、生活のぬくもりが欠けた部屋はどこまでも寒々としていた。昼頃、霙は雪になり、その雪のなかを引っ越し業者の若い作業員たちがやってきて、約80箱の段ボールに詰めた書物と、わずかな生活の品、それから小型の暖房器具を部屋に運び込んでくれた。通電したばかりのコンセントに赤外線ヒーターのプラグを差し込むと、徐々に部屋から寒さが引いてゆき、窓硝子が曇りはじめる。微かな結露の向こうに、立山連峰の影が見えた。
新居の家財道具を揃えるために、家のすぐ近くを流れる川沿いを歩いてホームセンターに行く。この川は、神通川。中学生の頃習った公害の知識がふと蘇る。水流は早く、水面にはいくつものうねるような筋ができている。山と川。生家からは赤城山と子持山が見え、その麓を吾妻川と利根川が流れていた。本小屋から少し歩けば、多摩川の汀へ辿り着き、遠くにゆったりと丘陵が広がっていた。そして新たな住まいもまた、そこからの視界は遠く聳える峰にぶつかり、家から少し行けば川のせせらぎが聞こえてくる。この川を渡って、これから私は生活をする。
これからしばらく、窓から立山を眺めながら、文章を綴ろうと思う。
マルガサリ公演「ふるえ ゆらぎ ただよう」
冨岡三智先月末に大阪を拠点とするガムラン団体:マルガサリの公演に出演した…というわけでその備忘録。
マルガサリ ガムラン公演
「ふるえ ゆらぎ ただよう」
日時:2025年3月29日、14:00~
会場:クリエイティブセンター大阪
マルガサリはこの公演のためにインドネシア国立芸術大学ジョグジャカルタ校で教鞭を取るヨハネス・スボウォ氏を招聘した。プログラムには書いていないが、氏は芸術一家の生まれで、兄弟たちも皆著名なダランや音楽家としてスラカルタで活躍していた。私もスラカルタに留学していた時代から氏の活動には接していたので、今回もマルガサリからのオファーがある前からこの公演のことについて聞いていた。というわけで、今回この公演に参画できたのはとても嬉しい。
会場は名村造船所大阪工場の跡地である。公演第1部のサウンド&パフォーマンスは氏とマルガサリの共作で、旧総合事務所棟4階にある旧製図室で行われた。天井は低いが、20m×60mのだだっ広い空間である。その60mの中央を貫くように空間が空けられる。これは川なのだとスボウォ氏は言う。この川の突き当り奥1/3のスペースがメインの上演空間でガムラン楽器が広げられ、ジョグジャカルタの美術家ティアン・プトラ・マハルディカ氏が描いたタペストリーで囲まれる。それは龍がガムラン楽器を弾いている絵だ。真ん中1/3の空間には観客用の椅子が「川」の両岸に置かれ、また、クノン(壺形ドラ)などがここに1つ、あそこに1つとまばらに置かれている。そして、反対側の奥1/3には何も置かれていない。彼方の空間という感じ。この観客空間と彼方の空間の間にもタペストリーが垂らされ、結界を作っている。
第2部ではベトナムのゴングを1つずつ手にした行列が、葬礼曲や水牛供犠曲を奏でながら製図室から外階段を通って第3部の場所へと下りていく。ベトナム・ゴングをめぐる音の文化を研究する柳沢英輔氏とマルガサリが構成した。ゴングの音がずっと下へ降りていくと、いったんそこで休憩のアナウンスがあり、観客も地上へ移動する。
第3部は船渠(ドック)の水上及びその両岸が舞台。黒川岳氏が造形したいくつかの水上ステージ(筏のような形のもの、たらい舟のような形のものなど…)に楽器を載せ、両岸にもガムラン楽器がいくつか置かれる。それぞれ鳴らしていた音が水上を流れ、次第に伝統曲のメロディになったり即興音楽になったりする。そして、一番大きなフロートに載ったスボウォ氏がそれに呼応して踊り、さらに両岸に分かれて立つ私とタイ舞踊の踊り手も入って互いに反応し合うように踊る。こんな風に、造船所の跡地を巡るサイトスペシフィックな公演としてデザインされていた。
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第1部は、彼方の空間から奥の上演空間に向かって、川を一直線に下ってくるように出演者が進んでくるところから始まる。行列の先頭に供物を持った人が、次に舞扇を手にした踊り手たちが、さらに演奏者が続く。舞台奥中央には大ゴング(ガムランセットのゴングとは別にある)が吊られ、そのゴングに吸い寄せられるようにして歩みを進めた。それは龍が川を下ってくるように見えたかもしれない。
舞台空間に至ると演奏者たちは供物を中心に円になって座り、踊り手はその後ろに一列に並んで座った。ここで口上として、マルガサリが活動拠点の1つとする木津川~蛇吉川にある龍神の伝説、このドックとをつなぐ水の道のイメージが語られ、続いて祈りの歌が唱和された。グレゴリオ聖歌のようにも聞こえるこの歌はスボウォ氏も実践するジャワ神秘主義の信仰の歌で、古い時代にこの世にもたらされたものという。当然エンターテインメント用の歌ではないが、今回の公演のために許されたとのことだ。この歌は人がいかに生き、いかに死ぬかについての教えであり、この歌の調べにのって踊り手は座りながら扇を手にゆっくりと舞う。日本の舞扇/扇子には自他の結界、彼此の結界を作る儀礼的な役割があり、何かしら日本的なスピリットをここに込めたいというスボウォ氏の意向に叶っていたと思う。
歌の唱和が終わると、踊り手たちは意味のない言葉を発しながら三々五々、舞台奥に吊るされたゴングのさらに奥に引っ込む。ここは、いわば丸見えの楽屋である。その後、舞台空間ではガムランと声と音の激しい即興が始まり、エネルギーが渦巻き、タケオが四股を踏む。先の歌で何かがタケオに降りてきたのかもしれない。このエネルギーの渦が静まり、演奏者がバラバラに窓際に立ったり、体操したり、声を発したりして日常の時間が流れ始める。外の通りを走る車の音が耳に入るようになる。
ドアがバンとなって静かになると、スボウォ氏は吊ってあるゴングの方に行き、さざ波のような音を響かせる。それに惹かれるように踊り手は舞台の方へ、彼方の方に向かって空間いっぱいに拡散してゆく。しかし、潮が引くようにまたガムランの舞台へと押し戻され、再び背後から押されるような音とともに「川」の中を彼方の空間へと流れていって、ベトナムのゴングへとつながっていく。
音/音楽の説明があやふやで申し訳ないが、どの場面でも様々な音や声が周囲の音と入り混じって身体にすーっと浸透してくるような気がしていた。人間が出す音・声なのに、なんだか森の中で動物が沢山いるような光景を想像していた。
踊り手の動きは全体を通じてすべて即興で(もちろんスボウォ氏による指示構成はある)、皆の背景・素養はバラバラなのだが、少なくとも動いている私には不協和音のようなものが感じられなかった。皆で踊っているのにまるで1人でもあるかのような静けさと、全体への没入感があった。事前のワークショップでやったのは、ゆっくり動くこと、内から何かが沸き起こってきたらそれに従って動くこと、他者や周囲の音に反応することくらいなのだが、そこにスボウォ氏が介在することが決定的に重要だったように思う。
第3部、ドックでは本当の水が目の前にあった。第1部でイメージの中を流れていた川がここに行きついた感があった。リハーサルの時は風が強すぎて、また水上のガムランと岸のガムランの距離が離れすぎてしまって音がかき消されてしまったが、本番では対岸や水上から聞こえてくる音の響きがきれいで、音がキラキラしていた。スボウォ氏のエネルギーが筏の上で炸裂していて、氏が水に落ちやしないかと少しハラハラした。他の踊り手もそう感じていたようで、終了後にそのことを尋ねた人がいたのだが、中からあふれてくるものがあったから怖くはなかったと言っていた。けれど、本当は泳げないから、怖いはずだよねとも笑っていたが…。
自分の視点から見た公演の概要なので、このエッセイを読んでも全体像はつかみにくいだろうと思うけれど、得難い音体験、空間体験をしたなと思っている。
水牛的読書日記 2025年3月
アサノタカオ3月某日 快晴の午後、神奈川・横浜の本屋 象の旅で文芸評論家・エッセイストの宮崎智之さんのトークイベント「『随筆復興宣言』をめぐって」が開催され、ぼくが聞き手を務めた。満員御礼。日本文学の随筆の歴史から、近年の文学フリマやnoteなどでのインディ・エッセイシーンの盛り上がりまで、宮崎さんの「エッセイ論」にたっぷり学ぶ充実の時間になった。
「随筆復興宣言」の話題からは少し外れるが、「趣味は人間観察」と言う宮崎智之さんがかねて注目する「駅のホームで抱き合い、海藻のように揺れているカップル」のことなどおもしろい話もいろいろ聞けて大満足。トークの最後、宮崎さんのエッセイ集『増補 平熱のまま、この世界に熱狂したい』(ちくま文庫)を読んで感じた「ポエジー」について伝えることもできてよかった。同書の表題作「平熱のまま、この世界に熱狂したい」は、昨年読んだもののなかで最も感銘を受けた美しい文章のひとつだ(特に「なぎ」の話)。
「ここから新しいシーンが立ち上がります」。イベント中、宮崎智之さんが3月末創刊予定、随筆・エッセイをテーマにした文芸誌『随風』(書肆imasu)を熱っぽく紹介。巻頭随筆を寄稿しているとのことで、大いに期待したい。
象の旅では、選書フェア「随筆復興宣言」も開催中だった。監修者の宮崎智之さんの他、早乙女ぐりこさん、オルタナ旧市街さん、友田とんさん、小林えみさんの各氏、そして不肖アサノがエッセイ作家としておすすめ本を紹介。フェアコーナーから、宮崎さんが推薦する今井楓『九階のオバケとラジオと文学』(よはく舎)を購入した。会場に著者の今井さんがいらっしゃったので、きらきらの金色のマーカーでサインをもらう。トーク終了後、数名の参加者と、エッセイや書くことについて語り合うことができてうれしかった。
3月某日 埼玉・川越方面に所用があり、鎌倉からの往復の電車内で今井楓『九階のオバケとラジオと文学』を読む。タイトルも水色の装丁もかっこいい。そして文章が想像以上にすばらしかった。
放送局の仕事と東京での暮らし、親しい人との対話、そして日本語や英語の本の読書(ウルフ、谷崎、ソロー……)。著者は記憶の風景をさすらい、息せき切るように意識の流れを綴る。「言葉」への独特の関心がそれらをつらぬく一本の糸になっている。とりわけ、「消えない夜に、遮断機は降りない」という一編には心を奪われた。
夕方、帰路の途中でジュンク堂書店池袋本店に立ち寄り、海外文学のコーナーを駆け足でチェックした。
3月某日 ファン・ジョンウン『誰でもない』(河出文庫)、パク・ミンギュ『ピンポン』(白水Uブックス)、パク・ソルメ『影犬は時間の約束を破らない』(河出書房新社)が一気に届く。いずれも韓国文学、斎藤真理子さんの翻訳だ。
3月某日 昼過ぎ、東京の梅屋敷ブックフェスタへ。小規模の出版社と書店が一堂に会し本を販売するイベントで、本屋の葉々社と仙六カフェが共催している。朝から冷たい雨が降る中にもかかわらず、お客さんの足が途絶えない。葉々社の小谷輝之さんが会場に集う人たちに声をかけて回り、なごやかな空気が流れていた。編集者・文筆家の仲俣暁生さんの姿もあった(ちょうど、仲俣さんの出版論エッセイ集『本の町は、アマゾンより強い』(破船房)を読んでいたところ)。
会場では、徳島で本屋まるとしかくを営むうちだみくさんと会えてよかった。サウダージ・ブックスの本を販売してもらっていることもあり、近い将来訪ねたいと考えている。まるとしかくの他、つまずく本屋ホォル、瀾書店などのブースで本たちをじっくり眺め、買い物をした。山元伸子『ある日 3』(ヒロイヨミ社)、井上奈那『母親になりたくなった私の育児日記』、木耳『トレーニング』(シリーズ人間1、新世界)、『あわい』Vol.2、そして笹井譚さんの詩のカード。
出版社の春秋社のブースでは、以前から気になっていたアジア文芸ライブラリーの1冊、チベットの作家ツェリン・ヤンキーの小説『花と夢』(星泉訳)を購入し、編集を担当した荒木駿さんからこのシリーズに関していろいろ興味深い話を聞かせてもらった。そして本の雑誌社のブースでは、先行発売の『本の雑誌』2025年4月号を。目当ては特集「令和のエッセイビッグバン!」だったのだが、目次に津野海太郎さんの連載「久保覚という人 その1」を見つけて、アッ!と声が出る。
帰りの電車で『ある日 3』から読み始め(ブックデザイナー山元伸子さんのすばらしい日記エッセイ!)、ページからふと目をあげると車窓の外はすっかり雪景色だった。
3月某日 朝、部屋の窓を開けて外を見ると、昨晩の雪が嘘のようなおだやかな陽気。ならば出かけようかと、本屋 象の旅へ。今月2回目の訪問だ。店主の加茂和弘さんに、宮崎智之さん監修の選書フェア「随筆復興宣言」の様子をうかがい、売れ行き好調のタイトルを教えてもらった。最近の読者はこういう本を求めるのか、と独立系書店でのエッセイの人気ぶりを確認する。
象の旅の近くにある喫茶店で、浅井音楽『しゅうまつのやわらかな』(KADOKAWA)を読む。臨床心理士である浅井さんのエッセイ集。詩の引用が随所に入り、風通しの良い文章が流れていく。「静けさをおそれないこと」は胸に染み入るよい話だった。続くフェルナンド・ペソアの話はクスッと笑える。まさかペソアの詩が「煮物」に化けるとは!
3月某日 文月悠光詩集『大人をお休みする日』(角川春樹事務所)、鈴木召平作品集『昭和史幻燈』(古小烏舎)が届く。鈴木氏は1928年朝鮮半島釜山生まれで戦後は福岡で活動した詩人、2023年にお亡くなりになった。
3月某日 今日は本を読む日と決めて、近所のくまざわ書店大船店に行って本を買い、喫茶店にこもって読む。選んだ一冊は、福尾匠『ひとごと クリティカル・エッセイズ』(河出書房新社)。最近、エッセイについてあれこれ考えているので手にとってみたのだが、大変刺戟的な内容だった。「まえがき」に記された「エッセイ/クリティック、あるいは内面なきプライバシー」をめぐるいくつかの問いに目を見開かされ、現代美術などを論じる個々の批評的エッセイの作品も読み応えがあった。
「クリティカル・エッセイ(ズ)」という用語は、むかし読んだロラン・バルトの本(『エッセ・クリティック(批評をめぐる試み)』)で知った。帰宅して、石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書)も読んだ。
3月某日 東京駅発中央線の列車が奥多摩に入り、車窓からの眺めが街の風景から山のそれに変わるといつも気持ちが落ち着く。山梨県立大学のワークショップ「関係学へのお誘い」に取材をかねて参加するため甲府へ。子どもの頃、富士吉田に住む祖父の甲府行きについていったことが何度もあり、なつかしさを感じる土地だ。
朝から大学ではじまるワークショップの主旨は、「他者理解をテーマに取り上げ、私たちが普段縛られがちな一定の理解や物の見方について幅を広げる」というものだった。講師はダンサー・振付家の砂連尾理さん、臨床哲学者の西川勝さん、一般社団法人torindo代表の豊平豪さん、認知科学者の藤波努さん、映像作家の久保田テツさん。主催は同大学特任准教授の山﨑スコウ竜二さん。
まずは、砂連尾さんによるワークショップでからだを動かすところから。5メートルを5分かけてゆっくり歩く。赤いちり紙を、手を使わないで隣の人に受け渡す。その後、砂連尾さんたちが各地の高齢者施設でお年寄りやスタッフ、地域住民と続けるダンスワークショップ「とつとつダンス」をひとつの事例にして、それぞれの講師がケアとダンス、言語と身体、見えるものと見えないもの、人間とロボットなどのテーマをめぐって発表を行なった。
看護学部や人間福祉学部の学生が比較的多く参加していたようで、特に西川勝さんが精神科病棟や高齢者施設での看護・ケア経験について語ることばに何度もうなずき、熱心にノートを取る姿が印象に残った。ワークショップ終了後、夕方から雨がザザーッと降ってきた。傘をさして繁華街を少し歩き、古めかしいコーヒーショップなどをのぞく。
翌朝、甲府駅前の商業ビルに入るくまざわ書店に立ち寄ると、文庫本コーナーの前で杖をつく西川勝さんの姿があった。静岡経由で大阪に向かうとのことで、ぼくも東京経由の旅程を変更して静岡まで同行することに。西川さんは疲れた様子も見せず、車内でエネルギッシュに語り続けた。恩師である鷲田清一さん、植島啓司さんと出会った若い日々のこと、自身の哲学エッセイの新しい文体を模索するために沢木耕太郎『人の砂漠』を読み返し、ニュージャーナリズムの方法に学んでいること。
3月某日 届いたばかりの『韓国・朝鮮の心を読む』(クオン)の見本とともに江ノ島の海辺を散歩した。風がやや強い。この本は日韓の執筆者122名によるブックガイドで、ずっしりとした重みを感じる。野間秀樹先生・白永瑞先生が編者を務める「知・美・心」3部作の完結編だ。ぼくは「李良枝と「ことばの杖」」と題したエッセイを寄稿した。相模湾の前でぱらぱらとページをめくって、本に潮風を通す。
3月某日 夜、世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『少年が来る』(井手俊作訳、クオン)。
3月某日 3月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第5章。水俣の自然について、公害の苦しみについて、沈黙について、怒りについて。読む人それぞれが暮らしの中で抱える思いが、おのずと声になってあらわれる時間に立ち会い、静かな感動を味わった。先人の書物を読むことで、自分のことばが開かれる場所がここにある。そう、これを実現したかったのだ。
3月某日 ひびうたではおよそ1年かけて作文講座も行なっており、第2期受講生の原稿添削をすべて終えた(いずれも小説だった)。あとは各自が原稿を吟味し、作品を完成させるのを待ちたい。もうひとつ、チェッコリ翻訳スクールの作文講座での課題文(こちらは架空の訳者あとがき)の添削もほぼ終えた。人生の中でいまここでしか書けない文章の誕生を目撃すること。その緊張と幸福を噛み締めている。
ここ数日、沢木耕太郎『人の砂漠』(新潮文庫)と管啓次郎『コロンブスの犬』(河出文庫)を読み続けている。ぼく自身、若い頃に大いに影響を受けた80年代のはじめとおわりに出た旅の本(ルポルタージュ/トラヴェローグ)で、何度読み返したかわからない。これらの本のどこに憧れを感じたのか、あらためて考えている。
『アフリカ』を続けて(46)
下窪俊哉 先月(3月)は大阪〜岡山への旅に始まり、月末にはこの数年不思議なご縁のある桐生へも旅した。『アフリカ』を始めて、続けていなければ、おそらく出会えなかった人たちとの時間の数々が、どれも印象深いものだった。そのうち、とくに心に残った対話にかんしては、後から思い出してノートに書き出しておいた。ほんとうに聞きたい、話したい、と感じる時、私の耳は録音機能つきになるらしい。その後しばらくはいつでも再生可能になるので、時間を見つけて聞き直して、書き写すことが出来るのである。その一部は『アフリカ』次号に載せられるかもしれない。
その間、じつはずっと体調を崩してもいた。熱は1日で下がったが、その後に咳と痰が出始めて延々と続き、左耳は聞こえづらくなるし、口内炎が出来て歯茎が腫れたりして、何だか体もだるいので暇があれば横になっていた。それで、「水牛」に書く原稿のために近隣の文学館へ足を運ぶ予定が、叶わなかった。見せてもらおうと思っていたのは、『青銅時代』という同人雑誌の最初の10冊で、1957年6月創刊、発行所は当時、東京の大森にあった小川国夫の自宅だ。
私は1998年の春に故郷・鹿児島を出て、南河内の大学に入った。大阪芸術大学文芸学科というところで、小川国夫は1990年にそこの教授になっているが、少し前から特別講義などをしに通っていたようである。守安涼くんは小川国夫に会いたくてそこを受験したそうだが、私は知らなかった。興味をもったのは、講談社文芸文庫で復刊された『アポロンの島』が大学の書店にたくさん積まれていたからだ。最初に読んだ時にどう感じたのか、細かいことはもう思い出せないが、よくわからないけれど、いいな、と思った。「よくわからないけれど」というのが大事で、くり返しくり返し読むことが出来たのは、そのせいもあるだろう。
巻末に「自分の作品について」という自作解説が付いている。『アポロンの島』は小川国夫の最初の本で、『青銅時代』創刊の年の秋に、「青銅時代社」から出版されている。つまり自主制作、私家版である(全く売れなかったとか)。「自分の作品について」は私家版『アポロンの島』のいわばあとがきとして書かれたものだ。その文中に「青銅時代」の名が一度も出てきていないのは意外な気もするけれど、金子博、丹羽正という『青銅時代』創刊同人のことばが出てくるし、創刊号にゲストで詩を寄せた飯島耕一のコメントも記されている。仲間と共にやっている、という感じは濃厚で、それも自分は、いいな、と思っていたのではないか。
文芸学科では『河南文學』という分厚い雑誌を年1冊発行していた。売ってはいない。欲しい人は合同研究室に連絡するか直接行けば無料で貰える雑誌で、いろんなところに寄贈していた。紀要というのは研究論文集だから、その創作版と呼んだ方がしっくりくる。私が入学した頃には8号まで出ていたのだろうか。創刊号(1991年)の目次を見ると、鈴木六林男、眉村卓、山田幸平、山田兼士、葉山郁生、武谷なおみといった”教員”の原稿と、学生たちの作品がごちゃまぜになって載っている。近藤史恵の名前があるが、学生時代の歌集である(卒業制作だろうか)。小川国夫はシュペルヴィエルの詩の翻訳を寄せているが、これは若い頃に訳して大事にしていたもので、書き下ろしではない。最後に載っている「文学的青春 – 編集後記に代えて」が、その頃に書かれたものということになる。その見開き2ページのエッセイが20歳前後の私はとても気になって、くり返し読んでいた。この文章は随筆集『昼行灯ノート』に収録されたが、ここではあえて『河南文學』のファースト・バージョンから引いてみよう。まずは冒頭。
今から五年ほど前、私は、ある出版社の勧めもあって、連合赤軍事件をモデルにした小説を書こうと思い立ったことがある。私の住む静岡県の大井川流域と、この事件に関わる人物と舞台がかなり深い結びつきがあったことが、その出版社が私にペンを執ることを勧めた理由だったし、私も取材については見通しがあった。
しかし私の主な拠り所は別のところに、つまり、同人雑誌活動の思い出にあった。それはまだなまなましく、すぐ近くにわだかまっていた。
連合赤軍事件と『青銅時代』がどのようにつながるのかというと、同人雑誌内で「議論に次ぐ議論」の末に「憎み合い呪い合う閉塞状況に陥ってしまっていた」からで、その実体験から発想してゆけば事件の「悪魔に魅入られたような心理的葛藤に迫ることができるのではないか」と考えたという。
実際に書かれはしなかった。今回あらためて読み返してみて、まあ本当に書く気はなかったかな、という気もする。どうしても離れられないのは同人雑誌活動の思い出であって、連合赤軍事件ではない。ただし、小川が小説を『青銅時代』ではなく『南北』『審美』『中央公論』『群像』『文學界』などに発表するようになってゆく頃と同時代なのだろう。そう思って調べてみたら、島尾敏雄が朝日新聞の「一冊の本」で『アポロンの島』を紹介して「彼のものを読むといつも、小説を書く仕事の方に、たのしみをもっておしやられている自分に気がつく」と書いて、世間に知られるようになったのが1965年である。連合赤軍事件は1971年頃だから、5年ほど後だ。ニュースを見ながら、『青銅時代』を思い出さずにいられなかったというようなことはあったかもしれない。
互いに力になり合おうと思って始めたことなのに、憎み合うことになったのはなぜだろう。「悪霊のように働いたのは、各人の無意識の層に深く喰いこんでいた不安、コンプレックスだったに違いない」という。なのに彼らは「もうやめよう」とか「出直そう」と思うこともなく、続けるのである。その状況を小川は「煉獄」と呼んで、「「地獄」と言いたいほどだが、地獄には希望がない、というのが定義だそうだから」と説明している。その頃を回想して「文学観の名に値する観念を抱くことができたのであろう」とも書いている。また少し引用してみよう。
夢中で文学を考えた人は誰でも、各人さまざまに実践したにもかかわらず(中には情熱の廃墟へ行きつくような場合があるにもかかわらず)、その誰もが、自分の実践したものが文学だと信じるし、そう信じることは正当なのだ。要は、概念的な文学観はあり得ない、体験によってそれぞれの文学観が創られる、というまっとうな趣旨となる。
何やら壮絶そうで、近寄りたくないような気がしないでもない。『青銅時代』を構想した創刊者は、じつは小川自身ではなく盟友の丹羽正だったと聞いている。その丹羽は「失明のうき目に遭った」し、小川は(同人雑誌とは関係ない理由もあって)ウイスキーを呷って血を吐いて入院したりした。後には「自殺者が一人、それから自殺かもしれない曖昧な死に方をした者が一人」出た。若い頃の私はそんな話に憧れたのだろうか。
大事なのは、その不幸な状況から脱したいと願うこと、そんな話に希望を抱いたのかもしれない。脱したいと願わざるを得ない状況があるとも言えるのだが。その「脱出の願い」を「癒えたい気持」と小川は呼んでいる。癒やしということばは、今こそ頻繁に耳にするが、当時はそうではなかったのではないか。「癒えたい気持ほど根源的な希望はない」と書いている。
不幸から脱出すること、癒えることを理想とした文学者は、自分に固有なこの軌道にひっそりと乗っている(あるいは乗ろうとしている)星のようなものだ。しかしこの星のかたわらには、軌道に乗ることをうけがわず、破滅を急ぐ星もある。その時その星は一きわ光を増すので、私は逃げて行く蛍を掌に収めようとするかのように、空しく手を伸ばしたものだ。そして闇を掴んで悲嘆にくれた悪夢に似た思い出は、もう二十二年も前のことなのに、まだ身近にある。
1991年の22年前というのは、『青銅時代』に何があった年なのだろう。調べてみたが、わからなかった。ともあれ、久しぶりに再読して、ああ、20数年しかたっていなかったのか、と思った。私は最晩年の小川国夫と付き合って、いつまでも青年のような人だと感じていた。生意気を言うと、自分と感覚の近い人がいるとも感じていた(亡くなった後に聞いたところによると、小川先生も私について似たようなことを言っていたようだ)。だからそのままでゆくと『アフリカ』も『青銅時代』のようになったかも? いや、『アフリカ』の前に数年やった同人雑誌『寄港』を続けたら、そうなっていたかもしれない。『寄港』創刊号が私の編集した最初の雑誌だったが、小川先生からは「いい仕事をしたね」と言われたのを覚えている。突然、「仕事」と言われたのが印象的だった。確かに『寄港』は「煉獄」のようになる可能性を秘めていたと思える。ところが私は、何はさておき生活のために働かなければならなかった。暮らしの必然が私を「煉獄」から逃れさせて、『アフリカ』を生んだというふうにも思えてくる。
小川国夫が亡くなったのは2008年4月8日、最後に話したのは電話で、その2ヶ月ほど前だった。『アフリカ』を送ると、「相変わらずやってるね」と嬉しそうに言われるのだった。私はザッと50歳下である。お別れに行った際、焼津の海岸まで足を延ばして歩いている時に、「いよいよこれからだな」と思った。その直後の『アフリカ』2008年7月号には、「沈黙のざわめき – 小川国夫という旅」という長い追悼文を書いた。”小川国夫と私”といった内容ではない。そんなのは書いてもいいが発表するものではないと思っていた。小川国夫という人と文学を私はどう受け取ったか。思い切りぶつかって書いておきたかった。
カバを見、向こうから見られたりしないこと
新井卓──そのとき私は、他の人々との関係だけに注意を払う価値体系は不完全であり、それゆえ善をなす力に欠けることに気づいた。私たちは生命への畏敬の念によってのみ、私たちの手の届く範囲にいる人々だけでなく全ての生命に対し、精神的かつ慈悲深い関係を築くことができる。そうすることによってのみ、私たちは他の存在を傷つけることを避け、他の存在が私たちを必要とするとき、自分たちの能力の範囲内でいつでも救いの手を差しのべることができるのだ。〈生命への畏敬〉の哲学は、世界をありのままに受け止めることから生まれる。そして世界とは、栄光のうちにあるおぞましいもの、意味の充溢のうちにある無意味、歓喜のうちにある悲痛を意味する。いかに見ようとも、世界は多くの人にとって謎のままである。
SCHWEITZER, A (1971). Albert Schweitzer: Reverence for Life – The Inspiring Words of a Great Humanitarian With a Forword by Norman Cousins. Hallmark Cards, Inc., Kansas City. pp.25-26.
ベルリンの春は、まず耳と眼に届く。ある薄明、仄暗い樹間からクロウタドリのはっとするようなさえずりが響きわたり、冬枯れた下生えにクロッカスの鮮やかすぎる紫が混じってくる(彼岸花はもちろん、アマリリスやギンリョウソウや、地中から直接咲き出す花はどこか死者たちの世界につながっている、そう思うのはわたしだけだろうか?)。アンズやサクラはまだ底冷えのする三月半ば、冬からの目覚めを急かすように花盛りを迎える。それから本当に風と水が温み、きつく張りつめた身体の節々が緩むのは、もう少し先のことだ。
それから……いま、いったい何を書こうというのか。このひと月の間に、いったいどれほどの憎悪がヒトの世に振り撒かれたか──先月来、わが家の二重窓で越冬したテントウムシたちのこととか、ベルリンに越して真っ先に手に入れた(お金もないのに)中古のピアノのことを書こう、と思っていたのにすっかり意欲を失くしてしまった。マーシャル諸島の人々が放射能汚染を「ポイズン」と呼ぶように、わたしたちがいま傷つきやすい心と身体で呼吸しているのは、明確な意図をもって地球に注がれた毒そのものだ。一時停戦を喜び郷里に帰っていった友人たちから、絶叫とも嗚咽ともつかないメッセージが、血なまぐさい電子のざわめきに混じり届いてくる。燃え上がる街々と山野のイメージ、直視するのも耐え難い程のうつろな顔と顔。それら脈絡のない暴力と、暴力のイメージの群れが喧伝するメッセージはあまりにも明白だが、その声に聞き入り立ち止まってしまわないよう、二歳半のこどもの耳と眼にすがって必死に歩きつづけようとする。そのような抵抗の仕方が許されるのかどうか、きっと許されないに違いないが、きょうは試みに、こどもと一緒に見、向こうから見られることはなかった、カバの話をしてみようと思う。
誕生日に一人の時間がほしい、と連れが南ドイツの山あいに旅した週末、とびきりの晴天に誘われ、こどもを連れて動物園に出かけた。ベルリン動物園は世界最多の動物を飼育する、ドイツで一番古い動物園だ。囲われた動物たちを見るときどうしても感じてしまう後ろめたさが消えることはないが、ベルリン動物園は広々とした空間で動物たちがのんびりと過ごしていて、建築や植栽にもそれぞれの種の生態にあわせたさまざまな工夫が見てとれる。わたしのお気に入りは「霊長類の家」にいるボノボだが(ボノボほぼヒト、というかある意味でわたしたちより洗練されているので、視線を注ぎ、向こうからも注がれることに格別の気まずさがある)、その日はいつもと逆の順路を歩くことにした。
ゾウからヤギ山、サイを見てまわり、大きなガラス・ドームが目に入った。なぜか今まで見落としていた「カバの入江」というコーナーで、カバたちが屋外とドーム内を水中のトンネルを潜って行き来できるよう設計された大きな施設だった。そこで、わたしたちはカバを見た──あたりまえ、といえばもちろんそうなのだが、その出会いは少なくともわたしにとって、相当に衝撃的だった。
ドイツの初春はまだ寒いのか、カバたちはドーム内のどこか見えないところで休んでいるらしかった。ガラス越しに燦々と陽が注ぐ、人(カバ)気のない屋内に腰を下ろし、こどもを膝に抱えてぼんやりしていると、ややあって水辺に一頭のコビトカバが泳ぎ着いた。カバは飛沫ひとつ立てず上品に上陸すると、泳ぎ着いたそのままの滑らかさでゆっくりと数歩歩き、陽だまりに身体を横たえて眼を瞑って「すう」と息を吐いた。一分の遅延も跳躍も余剰もない絶対的な滑らかさ──こどもとわたしはただ一部始終を見つめていたが、カバはわたしたちと全く無関係に、全宇宙的に完結していた。
それからスマトラ虎やパンダやアンテロープを見、大興奮の末に眠りに落ちたこどもを抱えてバスに揺られる道すがら、あのコビトカバと、医師、神学者、哲学者、音楽家のアルベルト・シュヴァイツァーのことを考えていた。
シュヴァイツァーのことをはじめて知ったのは高校の「倫理」の授業で、「生命への畏敬」というフレーズやノーベル平和賞受賞後のスピーチが紹介されたはずだ。そのとき、シュヴァイツァーがアフリカで突然カバの群れに襲われ、その生命を脅かされる衝撃的な体験から「生命への畏敬」という哲学を導いたのだ、と教わったことを、いまでもはっきりと覚えている。ところが、大学で生物学を経由して生命倫理を勉強したいと思い原典にあたったとき、そのエピソードが出鱈目で、実際はまったく衝撃的ではない(ように聞こえる)カバとの出会いだったことがわかり、当時すっかり落胆したものだった。
──三日目の日没時、イゲンジャ村の近くで、私たちは広い川の真ん中に浮かぶ島に沿って移動していた。左手の砂洲では、四頭のカバの親子が私たちと同じ方向に向かってとぼとぼと歩いていた。その時、重くのしかかる疲労と落胆の中で、「生命への畏敬」という言葉が閃光のように私を撃った。(前掲書、p25)
いま、カバの親子とシュヴァイツァーとの出会いを、十数秒の映像(フッテージ)として思い描く。シュヴァイツァーを乗せたボートが、川面を滑るように移動してゆく。左手の砂洲を歩くカバの親子の後ろ姿をカメラが捉え、やがて追いつき、追い越すボートの動きにしたがって、カメラはカバたちを軸にパンしつづける。カメラのアングルはカバたちを見つめる、シュヴァイツァーの視線と一致している。カバたちは滑らかに歩きつづけ、やがて小さくなり見えなくなる。決して交わることのないふたつの世界。
倫理の先生が興奮気味に話してくれた、生存をかけたカバたちとの対峙が本当だったとしたら、カバとシュヴァイツァーはきっと視線を交換し両者の世界は激しく衝突したことだろう。しかし、他者の苦しみを生き闘いに疲労困憊した医師の世界と、滑らかに完結したカバたちの世界をわかつ無限の距離にこそ、言い換えればヒトなき完結した世界の窃視にこそ、「生命への畏敬」への気づきが隠されていたのではないか。わたしたちなどいなくても世界はありつづけるのだ、と手放すことは、自棄とか冷笑ではなく解放である。あの日わたしたちが見、決して向こうから見返されることのなかったコビトカバとの滑らかな出会いのあとで、どうしても、そう思えてならない。
話の話 第25話:嘘のような
戸田昌子ふと、メモ帳を開いたら、「ハーシェルのシャボン玉」と書いてある。一体なんのことだろう、自分が書いたメモなのに忘れている。ハーシェルといえば、われわれ写真関係者にとっては写真術黎明期の立役者であって、青写真を発明したり、定着液「ハイポ」を発明したジョン・ハーシェル卿のことだと決まっているのだが、あらためて調べてみると、これはジョンの父ウィリアム(ヴィルヘルム)のことのようだ。ふたりは親子ともに科学者で、父ウィリアムは天王星を発見した天文学者として知られるが、もともとは音楽家であったらしい。ドイツ生まれでイギリスへ渡り、その功績によってサーの称号まで得た人物。
シャボン玉というのは、ウィリアムが発見したカシオペヤ座のNGC7635のことで、その名をシャボン玉星雲と呼ぶ。わたしのメモは息子のジョンとウィリアムを混同しないよう調べていたときの残りだったようだ。けれど、カシオペヤ座には空気がないから、もちろんシャボン玉はつくれない。
ほんの小さな出来事に愛は傷ついて
君は部屋をとびだした
真冬の空の下に
編みかけていた手袋と洗いかけの洗濯物
シャボンの泡がゆれていた
君の香りがゆれてた
シャボンと言えばやはりこの、チューリップ「サボテンの花」ではないだろうか。この歌詞のなかで洗濯をしていたのはおそらく「君」で、彼女をあわてて追いかけて路上に飛び出し、あてどなくさすらってから(きっとひとりで)戻ってきた「僕」が、いつの間にか動きを止めていた洗濯槽にふわふわと浮いていたシャボンの泡を見つけた、という情景のようだ。あるいは1975年という発表年を考えれば、シャボンの泡が浮いていたのは、たらいと洗濯板の上だという可能性だってある。なにしろ時は「同棲時代」なのである。上村一夫の漫画「同棲時代」が『漫画アクション』に掲載されはじめたのは1972年のことだというから、「サボテンの花」のふたりはきっと恋人同士だけど婚姻関係の手前だと見られるので、同居を匂わせる情景として「洗濯」というワードが登場したのだと見られる。加えて「シャボンの泡」は、ふたりの関係がはかなく終わることを予感させる記号でもあるだろう。同棲関係の醸し出す爛れた色気(同じシャボンの匂い……)と、仄めかされる関係の儚さ(シャボンの泡のように壊れやすい……)、というふたつの意味が込められているのがこの「シャボンの泡」なのである。
高校生のときに、この歌にあわせて踊ったことがある。鴻上尚史の戯曲「天使は瞳を閉じて」(第三舞台)を演劇部で上演したときのこと。この舞台には挿入歌として「サボテンの花」が登場するのだけれど、ストーリーとはなんら関係なしに、この曲がかかったとたん、全員がいきなり踊り出す、という演出があった。
わたしはこのとき、「天使」という役をやっていた。この役はナレーター的な立ち位置で、天使の姿は人間には見えないから、天使が人間に話しかけても、一生懸命、励ましても、誰にも気づかれない。だからストーリーとは関係なく、みんなと一緒に踊れる「サボテンの花」の場面だけは特別で、好きだった。
ちなみに、「天使は瞳を閉じて」という作品には、ひとつ、嘘が出てくる。マスターがケイに向かって、「あれは嘘だった」と告白する場面。いつかケイが失恋に泣いていたとき、マスターがケイに向かって「傷つけば傷つくほど人は優しくなれる」と言った言葉が「嘘だった」とマスターは言い出す。なぜなら、傷つくほど底意地が悪くなる奴だっているのだから。そうやって謝るマスターのこの嘘は、いわゆる「優しい嘘」だったと言えようか。確かに、傷ついて優しくなる人間と、底意地が悪くなる人間とでは、どちらかといえば僅かに後者の割合が大きいようだ。
そういえば、本日4月1日はエイプリルフールである。東京は濡れそぼる雨がいつ雪に変わってもおかしくないといった、まるで嘘のような天候。「だいたい今日は嘘をつかないといけないっていうのに、人に会う予定がないんですよ」と鳩尾がこぼす。「鳥がいるじゃないですか。鳥に嘘をつけばいい」とわたしが言うと、「なに言っているんですか、動物を騙しちゃぁいけません」と鳩尾はまなじりを吊り上げる。それなら人間なら騙してもいいんかい。そうでなくても鳩尾は「うちは宮家なんで」などと、人間にはさらりと嘘をつくのである。それを非難しても「そんなの信じるなんて誰も思わないじゃないですか」とうそぶく鳩尾は、動物にはとても優しいのに、人間にはわりと冷たい。「だいたい鳩尾は動物に優しすぎるよ! もしあなたがヤモリに向ける優しい眼差しの半分でもわたしに向けてくれたら……!」とわたしもついつい愚痴が出てしまう。「向けてるじゃないですか!」「いや、視線の尖り方が全然違う!」と、不毛な言い争いが始まる。
ちなみにうちの動物たちは四六時中、口からでまかせを言っている。「オレは東大を出た!」といつも威張り腐っているクマは、ボチ夫に「それって東大の校門を出ただけじゃないんですか」と突っ込まれたりしても動じない。そもそも東京大学は近隣住民には寛容なので、門を出たり入ったりするだけなら、入試期間を除けば基本的には自由である。それに東大には門がたくさんあるので、門の種類も選び放題である。赤門から入って正門を出るなんて普通だし(東大の正門は赤門じゃないことにはご注意)、バスユーザーなら車両に乗ったまま竜岡門から入ることだって可能だし、弥生門から出れば千代田線にはアクセスがいいし、達人ともなれば鉄門を使ったりする者もあるわけである。わたしがよく「東大なんて誰でも入れる」と言い放つ所以がそこにはある。それは、決して、嘘ではない。
そもそもクマはホラばかり吹いている。「オレさぁ、Googleの内定けっちゃってさぁ」などと、思いつきを適当に吹いているクマ。他にも「オレはウィンブルドンのセンターコートに立った男だよ?」などと言っているのだが、ボール拾いの少年たちだって、掃除夫のお兄ちゃんだって、ウィンブルドンのセンターコートには立っていると思う。一方でヒツジのミントは、自分は有能な執事(シツジ)であると主張して譲らない。しかし家の主人に取り入っては私腹を肥そうとするその態度は、執事というよりは側羊人と言うべきで、そろそろ「ヒツジ沢吉保」と改名してはどうだろうか。
世界には嘘みたいな言葉というのがいろいろあるのだが、最近知ったのは「女房にめっぽう甘い」を意味する「uxorious」という言葉。これは「ユークソーリアス」というように発音するそうで、ユグゾリアス、というようには濁らないのが珍しい。「妻にあまりにも多くの愛を示す」とか、「奥さんにベタ惚れで頭が上がらない」といった意味のようだが、語源をたどれば「妻」を意味するラテン語の「uxor」が元にあって、16世紀から17世紀にかけて、英語にuxoriousという言葉が登場したのだという。どちらかと言えばこれは「尻に敷かれる」というニュアンスのある言葉だそうだが、これらのことはすべてChatGPTが教えてくれたことなので、嘘かほんとかわからない。
クマの彼女のローズちゃんが叫んでいる。「好きなものですか?長いものです!だって巻かれたいから!」
嘘と言えば、だいたい、夢では嘘みたいなことばかりが起こる。小学生のころわたしはシャーロック・ホームズにどハマりしていたのだが、そのころ、ホームズが人喰い人種にさらわれて、ワトソンが助けに行く、という夢をみたことがある。普段は活躍しないワトソンが馬車を走らせている場面は切迫感があってなかなかかっこよかった、と今でも鮮明に覚えている。もうひとつ、この頃の夢で印象的だったのは、黒い覆面にマントを着た男が、悪夢からの目覚め方を教えてくれる、というものであった。
その夢の舞台はわたしの実家の印刷屋であった。印刷屋の1階は土間になっていて、そこには壁一面の文選棚と大小の印刷機が林立し、文選箱が山積みになっていた。2階へと続く階段は木製で、滑り落ちても子どもなら怪我もしないくらいの可愛らしいものだったので、だから喧嘩のときにはついつい妹を突き落とした、というわけではないのだが、よく子どもたちが滑り落ちて、つるつるになっていた。そのとき夢の中で、土間の玄関に来客があった。それは3人の男性で、階段をそっと降りて覗きに行ったのだが、話しかけられるのを恐れて戻ろうとしたとき、階段の上のところに覆面の男が立っていた。どうしよう、と立ち止まったそのとき、男が「怖いか」と言うのである。わたしは今も昔も問いには正直に答える人間なので、「怖い」と素直に答えると、男はうなづいて「これは夢だ」と言う。「これからもし怖い夢を見たら、」と男は続ける。「まばたきを3回しなさい。そうすれば目覚める」。
わたしはそこで、半信半疑で、3回まばたきをして、夢から目覚めた。嘘のような、本当の夢の話。
目、と言えば、人間の目というのは、いい加減で繊細な構造をしている。ハーシェルのシャボン玉のことを調べていたとき、「そらし目」という目の使い方について書かれたものを見つけた。視点が合っているところの周辺を使って観測する、という目の使い方の技術が「そらし目」で、うっすらした星雲などを観測するのに向いているのだとか。なぜなら人間の目は暗いところでは周辺視視力がいいために、むしろ直視すると見えないのだ、というのが根拠のようだが、これも本当か嘘か、いまいちわからないような話でもあり、その確実性については諸説あるようだ。
わたし「実はこのそらし目、わたしもふだん肉料理や魚料理をするときによく使ってるよ!」
B氏「それはむしろ見えないようにするために直視してないから、普通の「直視しない」ですね」
わたし「……」
みなさん、4月1日だからといって、「原稿は今日中にあがります」などという罪深い嘘をつくのはやめましょう。