この3月22日に詩人である江代充さんが前立腺癌で亡くなり、ほんとうに何もできなくなってしまった。読まなければならない本があり、書かなければならない文があり、そのどれもができず、ひたすら江代さんが遺した文だけを、繰り返し、繰り返し読み、それでも食べるための仕事はなんとかこなしてはいたが、自分でもどうしたいのか分からぬまま怒りと悲しみの中で瞬く間に二ヶ月は過ぎていった。
思えばこの数年のコロナ禍下で、私はどれだけの人を失っただろうか。直接的にコロナの影響で失われた人はわずかだが、パンデミックと呼ばれる状況がはじまった当初から、ひとりまたひとりと失われていく。それは年長の人たちばかりではなく、年の近い人ともいれば、私よりもはるかに若い人もいた。指を折って数えていても、多い時にはひと月に数人ということになると折る指の方が追いつかず、大学の同期であった青山真治が亡くなった時に、ついに数えるのを放棄してしまった。もう半世紀も越えて生きているので、そのような年齢になったと言われれば、そうなのだろうけれど、いくらなんでもこれは理不尽ではないか。しかも、この感染症は人と人とを遠ざけたため、最後の別れさえも満足にすることができず、残された者たちで集まり悲しみを分かち合うこともできず、悲嘆はいつも行き場所を失い、宙吊りとなった。人によってさまざまだろうが、私の場合に限って言えば。この数年の経験で学んだことは、「死別とはその人との間に一度きりしかない」というあまりにも当たり前のことを痛感することであった。この間、私たちは死別に向き合うこともできず、その意味を嫌というほど学ぶことになったのではないか。もし、今なおその当たり前すぎる意味を蔑ろにするのであれば、あのコロナ禍下で何も学ばなかったのだとしか私には思えない。死とは、あまりにも具体的な事柄であって、またいつか、はない。私は自分が悲しみ過ぎたのではないかと思っている。人が失われることを悲しみ過ぎたのではないか。もっと他者に対して無関心であっても良いのかもしれない。悲しむべき時にちゃんと悲しまなければならないと思い、逆らうことなく悲しむことをしたのだが、その悲しみは失われた人の不在から汲み尽くせないほど溢れ続け、今もなお止まる気配はみえない。
今年は花の移り変わりが早いように思える。木香薔薇も、栴檀も、桐の花も咲き始めたと思うとすぐに盛りを迎え、あっという間に散ってしまった。思い過ごしだろうか。その日も、そろそろ捩花が咲いている頃ではないかと草むらを歩き回り、結局昼寝をしていた猫を驚かせただけで見つからなかった。道まで戻ってちょうど来たバスに乗り込むと、草むらから連れてきてしまったのか、手の甲にテントウムシの幼虫が這っている。せめて植物のある場所にその幼虫を放したいと思うが、かといってそのためにバスを降りるわけにもいかず、それを潰してしまわないように右手から左手へ、左の人差し指から右の親指へうつしながら、私の降りる終点まで連れていくことにする。幼虫は、時折立ち止まって、私の皮膚を吸うような仕草を見せるが、またふたつの手の上を歩き回っている。バスから降りて、随分遠くまで連れてきてしまったが、せめてもと駅のすぐ前にある車回しの低い植え込みの葉の上に、その幼いものを放した。そういえば幼虫が手の甲に現れたとき、私は心の中で怒りを反芻し、決して願ってはならないことを願っていたのだ。救われたのは幼いものではなく、私であったのかもしれない。
投稿者: yamaki
しもた屋之噺(281)
杉山洋一目の前には乳白色の厚い曇り雲が立ち籠めていて、刈ったばかりの庭の芝は、朝に撒いたばかりの水のおかげで、すっかり青々としてみえます。
引っ越してきたばかりのクリスマスに、息子の誕生の記念にと近所のマウラからもらって植えた松の苗も、今や8メートルくらいの高さまで伸びていて、このところ無数の小さな松ボックリが枝の先を飾っています。毎朝庭に出るたび、松の天辺を仰ぎつつ、時の流れに思いを馳せているのです。
——
5月某日 ミラノ自宅
スカラ座でフィリデイ作「薔薇の名前」を見る。オペラも演出も演奏も素晴らしかった。フランチェスコの全ての要素が収斂された最高傑作ではないか。偶然ながら新教皇選挙とも重なったのは、聴衆がこのオペラに親近感を感じるよい切っ掛けとなった。そして作品としても、演出としても、広い客層を納得させることが出来る多くの条件を兼ね備えていた。特に第二部は、物語の展開も早く、誰もが思わず引きこまれてゆく。
ヴァチカンでの教皇選挙で、早々にfumataと呼ばれる白煙があがった。世界中にインターネットの張りめぐらされた現在におけるもっとも確実な緘口結舌の手段こそ、狼煙であった。
Annuntio vobis gaudium magnum;
habemus Papam: Eminentissimum ac Reverendissimum Dominum,
Dominum Robertum Franciscum
Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinalem Prevost
qui sibi nomen imposuit LEONEM XIV
あなたがたに、大いなる喜びをもって、とても嬉しい知らせをお伝えいたします。わたしたちは新しい教皇をお迎えします。 ロベルト・フランチェスコ・プレヴォスト枢機卿は、レオ14世と呼ばれることになります。
新しい教皇が話し始める前に、穏やかな表情で、じっと民衆を見つめていたのが印象的に残っている。
5月某日 ミラノ自宅
クラシックを学んだことのない映像音楽作曲科の学生に、和音が汚い、他の和音との整合性がとれないことを理解させようとするが、なかなか手強い。この和音は音が濁っていると思わないかと尋ねても、首を傾げるばかりで納得しない。
そのクラスにはLeonという女学生がいて、「14」というタイトルで曲を書いてきたものだから、伴奏にやってきたピアニスト、信心深いマリア・シルヴァーナは、14!なんて素敵な番号、嬉しくなるわとはしゃいでいる。女学生の彼女の苗字までレオンなので、まるでレオ14世そのものじゃない、あなたは本当に導かれているわ、と大喜びしている。
契約書のサインをするため、自転車を漕いでコルヴェットへ向かう。南米出身と思しき喫茶店のレジのおばさんが、汗だくになっている姿を見て、さっとティッシュを差し出してくれる。ラヴェンナ通りには、バラが咲き誇っていた。夜はティートの演奏会。ドビュッシー「夜想曲」はとても繊細で、特に「雲」はまるでヴィロードのような手触り。会場で見かけた、ティートの母親、マリアに、「山への別れ」をSZに預けるつもりと話すととても喜んでくれる。
5月某日 ミラノ自宅
国立音楽院に出かけ、ピアノのレバウデンゴと作曲のボニファッチョが企画したべリオの演奏会で、まず最初に、息子が他の3人と「リネア」を弾いた。その昔、初めて「リネア」のレコードを聴いたときの驚きを思い出す。ラベック姉妹がべリオを弾く、というのも意外だったが、一見単純にみえる曲の始まりは、特殊奏法や実験的な作品のべリオの印象を覆した。実際はべリオの軌跡は全て同時に進行していたのだけれど、情報の乏しかった当時、べリオですらそんな偏った理解しかできなかった、ともいえる。最初、ピエモンティが息子に「リネア」を譜読みするよう話したとき、「ヨーイチは何ていうかわからないけれど」と言っていたらしいが、あれはどういう意味だったのだろう。もっと、バルトークとかやらせると思っていたのか、何かにつけドナトーニと比較されるべリオを息子にやらせるなんて、とこちらが思うとでも考えたのか。
「リネア」の実演は何十年ぶりであったが、リアルタイムで、目の前に次第に顕れるさまざまなホログラムの姿を愉しむ感覚で、作品として実に見事に描かれていると思う。一つの素材が包み込んでいる様々な可能性を洗い出し、一切の無駄もなく顕在化させたもの。メッセージは実に明確で、作品は的確であった。
尤も、家で息子が「リネア」を練習しているところなど、後半のカデンツァのところ以外、殆ど耳にしたこともないのだが、一体いつ練習していたのか、まるで狐につままれた思いである。
5月某日 ミラノ自宅
朝から学校で教えた後、午後3時過ぎガリバルディに自転車を置いて、ノヴァラに向かう。家人がアルドやフランチェスコとスメタナのトリオを弾いた。昨日はビエッラに近い、サルッソーラ村の教会で同じ三重奏を聴いたが、サルッソーラの深い教会の響きと、ノヴァラの乾いた会場の響きが違って面白い。スメタナはヴァイオリンを能く弾いただけでなく、早熟なピアニストでもあったそうだが、ピアノを中心に音楽を骨太に作ってゆく姿は、同時期、等しくハプスブルグ家支配に喘ぐ地域で国民を鼓舞する音楽を書いたヴェルディを少しだけ彷彿とさせた。尤も、ヴェルディは、オーケストラを中心にオペラというプロット上で音楽を紡いでゆく。「モルダウ」をはじめ、スメタナの音楽にしばしば見られる深い祖国愛は、ヴェルディとの近しさを感じる。尤も、構造的には寧ろヤナーチェクを彷彿とさせる部分もあって、家人が練習しているのを何んとなしに耳にしながら、大いに興味を掻き立てられた。
明確な箱というのか、モビール状のツリーで階層状に当て嵌められる動機群とその発展は、ロシア的なパネル構造とも少し違う気がする。絢爛豪華なロシアの響きとも一線を画していて、素朴な触感と、より直截な表現と、貫かれた民族的躍動感が優先されている。家人曰く、スメタナの三重奏の演奏には、以前のタンゴ演奏の経験が役立っているのだそうだ。
ノヴァラの演奏会の帰り、ミラの車で送ってもらいながら話していて、彼女の亡くなったご主人、フランコの母上は、高名なモッツァーティから薫陶を受け、将来を嘱望された、特に優れたピアニストだったと知る。ところが、フランコが生まれた際、視力が急激に低下し、それが原因でピアニストの夢を諦めたのだという。
ミラの実家はノヴァラの隣町ヴェルチェルリにあって、ペトラッシが音楽を書いた、デ・サンチェス監督の「にがい米」の舞台でもある。現在でも有数の水田地帯で、面白いほど蛙がよく採れるのだそうだ。だから、蛙料理は、伝統的なヴェルチェルリの郷土料理とされていて、しばしばヴェルチェルリ出身者を罵る言葉に「蛙喰い」というらしい。
家人曰く、演奏会の後3人でフライド蛙を食してきたそうだが、美味だったそうである。
5月某日 ミラノ自宅
息子曰く、「リネア」の練習がとても楽しかったらしい。もう一人のピアノは一回り上の中国人。イタリア人の打楽器二人のうち、一人は彼と同い年でもう一人は一回り年輩。一番年長のヴィブラフォン担当のマッテオ曰く、最近の若者は「自分はアルコールは駄目で」とか気弱なのかすかしているのか分からない、酒は吞めないと、とか言ったらしく、先日の演奏会前日も、リハーサル後、連立ってバーに繰り出したらしい。息子は殆ど下戸ながら勧められるままビールを呷り、帰宅後、気分が悪いとこぼしていた。その彼らと次に何をやろうか話していて、ドナトーニの「Cloches」が恰好良いのではないか、と話題に上ったらしい。ドナトーニってお父さんの先生でしょう、「Cloches」は難しいのかと尋ねられる。「そりゃむつかしいが、リネアが弾けたんだから出来ると思う」と答えながら、内心、深い感慨を覚えていた。時間は流転する。確かに、時は一見、一方向にしか進めないようだが、その無限に拓かれ解き放たれてゆく巻物状の時間に綴られる、われわれ自身こそが流転しているのだ。
ドナトーニは生前、自分が死んで5年後、どれだけの人が自分を覚えていてくれるのか。10年後どれだけの人が自分の作品を弾いてくれるのか。20年後はどうか、と話していたものだが、25年後、ヨーイチの息子がドナトーニの曲を弾こうかしらと友達と話す姿までは、ちょっと予想できなかったのではないか。
大木を切り倒して、目の前に深い年輪の刻まれた切り株が剥き出しになっている。ああ、こんな大切な樹の命を奪うなんて、なんて惨いことをするものか、と思って毎日見ていると、ふとその切り株の陰から、眩しい緑が芽吹いているのを見る。
5月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たシャンシャンに、自らのテリトリーの内側で音を聴かないように注意する。自らの領域の環の外で音楽をすること、小さく音楽を描かず、太い筆先でぐっと描いて広げてゆくことを伝えると、出てくる音も突然生命感溢れたものに変わる。
マッシモのレッスン。ずっと、どこかふわふわしているのが気になっていて、実体のないものを振っているのがわかる。目の前に箱があると思って、その箱を見つめながら振るように云う。その箱は透明かも知れないが、適度の硬度もある、とする。するとどうだろう。少しずつ、音が充実してくる。強音のみならず、弱音にも芯が通るようになって、音が豊かになってくる。その箱こそが、実は音楽だと明かす。音楽の箱と自分との距離は常に変わらず、かかる関係はほぼ静的なものと言ってよい。表面的に音楽かどれだけ燃え盛っていても、裡にある音楽は、ぽかんと空いた真空の空間のようなものであり、その中身は、目の前の箱にしまってあるのである。そして、その不動の箱から、信じられないほど、豊かな色彩が溢れ出すのを見出すのだ。そんな話をしながら、暫くその箱を眺めていると、実は、その箱は音楽そのものには違いないが、同時に彼自身の姿でもあることに気づく。
5月某日 ミラノ自宅
イタリア国内交通網はゼネストだと言うので無理だと思っていたが、どうやらミラノ地下鉄は動いていると知り、ゴッバの向こうのP宅を訪ねる。最後に伺ったのは2年前だったか。奧さん、二人の息子とともに、彼がつくったリゾットに沢山パルメザンチーズをかけて舌鼓を打ち、深い味わいの赤ワインを嘗めた。素朴だったけれど、とても美味であった。30年来、何度となく彼の手料理をご馳走になりながら、料理で人をもてなす、その意味がよく実感できるようになった。
駅から一本道を歩き、一本曲がった先にある彼の家を玄関を開けると、台所から薄く魚の臭いがする。料理が得意なPらしい、そういえば前回も同じだったと、思い出す。
どことなく玄関が広く感じられ、家も静まりかえっているように感じる。開け放たれたベランダから這入ってくる朝のそよ風の所為なのか、ちょっとした開放感すら感じて、ベランダの向こうに広がる、野原に目を向ける。
「お前に言っていなかったかもしれない。Aとは9月に正式に離婚してね。下の子供は彼女が国に連れて帰って、上の子はここに残って一緒に暮らしているんだ」。
少しだけ決然としていながら、さっぱりとした表情で、Pは一気にそう話してくれた。なぜ彼がこのところ話したいと繰返していたのか、漸く合点がゆく。
「お互いよい関係で別れることができてね。この夏も、前半は上の子は母親や弟と一緒に過ごして、後半はこちらが兄弟をつれてサルデーニャで過ごそうと思っているんだ」。
そんな言葉をどこか上の空で聞きながら、思わず、リゾットを囲んだ2年前の食卓を思い出していた。何がとは明確に言えないものの、どことなく気まずく、どうにも居た堪れない思いに駆られ、言葉を濁して食後すぐに家を後にしたことを。
5月某日 ミラノ自宅
朝から音楽院で映像作曲のクラスのレッスンを一通りやり、家人と二人、ガリバルディから近郊電車に乗ってロゴレード駅にでかける。老若男女、プロフェッショナルもアマチュアも、皆、街中でピアノを弾こう、ピアノを聴こうという趣旨の2011年に始まった「ピアノ・シティ」という音楽祭があって、5年後、国立音楽院が新校舎の竣工を予定しているロゴレード駅前、ジュリア地区の広場にピアノを運び、国立音楽院の学生たちも演奏を披露した。
雲一つない青空のもと、だだっ広い広場の中央に、日陰を作るだけの簡単な仮設テントを設え中型ピアノが置いてあって、パイプ椅子が50席ほどか。すぐ隣には、常設のピンポン台もあって、子供たちがピンポンに夢中になっている。
目の前には、いかにも芸術家らしい風格を漂わせていた背の高く恰幅のよい老紳士が立っていて、和やかに談笑している。その姿をよく見れば、サルヴァトーレ・アッカルドだった。なるほど、彼の娘も同じ演奏会に参加していたので、アッカルドもやってきたわけである。
演奏会の初めに、このあたりの地区の文化担当者が、こうした企画の素晴らしさを讃え、ピンポンを愉しむ若者の傍らで、こうして素晴らしい音楽に触れられる文化の豊かさについて話す。
まず最初に、息子がウェーバーのソナタを弾きだすと、どこからともなく、小学生中学年と思しき幼気な少女二人が現れ、息子のピアノに合せて優雅に踊り出した。なるほど、ウェーバーの音楽はまさに思わず踊りだしたくなる。音楽が華やかさを増してくると、彼女たちは優雅な佇まいでうつくしい側転を始めた。よく分からないのだが、ピアノ演奏の右奥では少年たちがピンポンに興じ、時々外したサーブの球を取りに息子のすぐそばに寄ってきて、その傍らでは少女二人が、伸びやかに舞っていて、時々並んで、じっとピアノ演奏に見入ったりもしている。その上側転をする度に、彼女たちのTシャツが捲りあがるので、色々コレクトネスの厳しい昨今、こちらは余計な不安に駆られたりもする。
息子曰く、ピンポンがちらちらと目に入って、到底集中できなかったらしい。少女たちの方はあまり気にならなかったらしく、とにかくピンポンの音が煩くて、とこぼしていた。ピンポン遊びとピアノ演奏の共存する、深く培われた文化空間の実現とは、当事者にとって決して安楽なものではないらしい。
そのまま、カドルナ地区にあるトリエンナーレに駆けつけ、カニーノの弾く「高雅で感傷的なワルツ」を聴く。弾きだした途端、その音の輝きに、思わず鳥肌が立つ。
派手な光度ではなく、寧ろ滋味溢れる、深い味わいの数えきれないほどの倍音の集積が、一つ一つの和音に光の錯乱を起させているようにみえる。彼が鍵盤を一音叩くたびに、液状の光の粒子が、鍵盤から噴きこぼれるが如く。
カニーノが弾くフランス音楽からは、普段嘗めるようにふんだんにかけられている、料理のソースを一切かけず、使われている食材の質を極限まで引き上げた感じに近い。
ケルビーニが啓いた、近代フランス音楽の原点が目の前で詳らかにされているような、そこはかとなく最高級の諧謔すら感じられるような、どこまでも品の良い矜持が、音の骨組みの底から浮き彫りになる。
「次は”亡き王女のためのパヴァーヌ”、ユン・ダンファン・デファンという、思わず舌がつっかえそうになる、謂い難い題名の曲」、と紹介すると、聴衆が一斉にどっと笑った。彼が昔弾いていた「ベルガマスク組曲」を思い出す。互いの音符を繋ぎとめる土台を露わにしつつ、本質を問いかけるような美しさ。
訥々と始まり、次第に饒舌になってゆく「道化師の朝の歌」を聴きながら思う。我々は普段「オーバード」を謳う道化師の姿しか目にしていなかった。実際は「道化自身の口をついて出てきた暁の感傷歌」だったに違いない。禍福あざなえる縄の如し。一人の舞台上の老演奏家は「道化師」の本質を、恰も自らが書き下したかのように、全てを白日の下にさらけだした。それは涙がこぼれそうになるような、美しさと厳しさが共存していた。
一通り予定されていたプログラムが終わっても、熱狂的な拍手は鳴り止まない。
「それではお耳汚しながら、もう一曲お付き合い願います」と噺家のような飄々とした口上を述べ、暗がりのなか、スポットを差す舞台上方の照明を指さしながら、
「では月の光なぞ」と言って、やおらドビュッシーを弾きだした。
音には質感も硬度も光度も、それだけでなく、温度や匂いまであって、紡ぎ出された音たちが、空中の一点に向かって収斂されてゆくのを具にみる。
小学校3年生か4年生ごろだったと記憶するが、母に連れられて永田町の都市センターホールでアッカルドとカニーノのデュオ・リサイタルを聴いた。特に印象に残っているのは、不思議な仕草で弾くピアニストで、子供心ながら、どことなく道化師の気配すら感じ取っていたのを思い出す。
5月某日 ミラノ自宅
電話の向こうで、卒寿を迎えた母が話す。「この歳まで生きて、またお米で苦労させられる時代が来るなんて」。太平洋戦争の後、漸くお米が食べられない不安から解放されたと思ったのに。この歳になって、今更あちこちのスーパーを廻ってお米を探さなければいけないなんて。今まで何のために頑張ってきたのかわからない。屈辱だ。
トランプ政権が、ハーバード大学の留学生を15%にすべきと圧力を掛けているという。それに輪をかけて驚いたのは、どこからか息子が仕入れてきた、日本の大学生の間でも同じように留学生を制限すべきとの声強し、との怪しげな情報である。その情報が正しいのか定かではないが、少なくとも、息子の耳に届く程度、若者の間ではあまねく共有されているらしい。トランプ大統領が弾圧の根拠は反ユダヤ主義の助長だそうだが、労働者階級からの高等教育への不信が基盤だともいう。
香港の複数の大学、日本でも東大や京大が、ハーバード大学在籍の学生の無条件での受け入れを表明したとの報道。優秀な学生の流出がもたらす影響は、確かにトランプ政権下に於いては、まだ実感されないかも知れない。
文化弾圧という単語そのものも、まるで時代錯誤の封建主義国家でしか存在し得ないと信じきっていた。ヒトラーが糾弾した「退廃芸術」や毛沢東もポルポトも、当時の低級な知識層が引き起こしたもの。ストラヴィンスキーもラフマニノフもシェーンベルクも、プロコフィエフやショスタコーヴィチの悲劇も、全て無知な過去の一ページで、繰返されただけ。文化遺産を冷遇したファシズム政権下、ミラノ国立音楽院の図書館から、可能な限りの楽譜資料を戦禍から逃すべく奔走したFederico Mompellioは、何というだろう。遥か昔の焚書坑儒と現在を繋ぐ糸など、どこを手繰っても見つからないと信じていた。第二次世界大戦下の日独伊に関わらず、文化の発展を閉ざす世界中で無数のプロパガンダが生産され、大戦後、厭世観は新しい世界観をもたらした、と信じていた。一定期間を経て、その新しい思想は、清廉潔白、完全なもの、と喧伝されながら、我々は社会の一端を担い、文化を培ってきた、のだと思う。
我々にとって悪の権化は、ヒトラーでありムッソリーニでありスターリンでありポルポトであり秦の宰相であり、それらは過去、低能な支配階級によって生み出された怪物だと信じられていた。我が国の政治を批判しながら、批判対象のその政治を生み出したのは我々自身だと忘れがちになる。アメリカでもロシアでもイスラエルでも、一定以上の権力をもつ人間を生み出したのは、我々と寸分たがわぬ市民自身に他ならない。本当の恐ろしさはそれにふと気づく時、巨大な津波に飲み込まれるように我々を襲う。
5月某日 ミラノ自宅
3年間教えてきて、どうしても身体の中から音楽を外に放出させられなかったサムエルの最後のレッスン。最後の最後で、大声で叫ばせたことを思いつく。
こちらに向かって、大声で叫べ、と話す。ところが、いくら頼んでもなかなか大声が出せない。教室の中だからせいぜい3メートルくらいしか距離はないが、1メートル半程度で立ち消えてしまう感じだ。とにかくこれで最後のレッスンになるので、こちらも引下がらず執拗に大声をあげさせてみて、5分以上ああでもない、こうでもないと押し問答を続けた挙句、漸く少し声がこちらまで届くようになってくる。最後の最後、渾身の叫び声を上げたところで、持ってきていたベートーヴェンを振らせてみると、初めて驚くほど音が充実していた。その音の違いに一番驚いたのは、サムエル自身であった。一見すれば振っている姿は何も変わっていないのだが、叫ぶ前は腕の先から何も気が発せられていないように見えたのが、その後で振ってみると、ほんの些細な動きですら、腕の先からじんわり何かが発散されているのがわかる。
380人に及ぶイギリス、アイルランドの作家が、イスラエルの虐殺を糾弾する声明発表との報道。就任したばかりのドイツ・メルツ首相は、「イスラエルの目的は最早理解し難い」との異例の発表。各国に並び、日本でもアメリカ留学のための面接が中止されたとの発表。
我々がこの地球上で生きる意味は、それぞれが小さな歯車の一つになって、社会を動かす原動力を生み出し、時を推し進めてゆくことだ。
サムエルの叫びではないが、各人の思いは、言語化し顕在化させなければ、誰にも伝えられない。以心伝心が理想であるけれども、言語とは、思考と思考を繋ぐ蜘蛛の糸であって、最後の手段に違いない。恐らく音楽も同じであって、各言語ほど具体性はないけれども、古来、意志の伝達は音によって実現されてきた。
今日、改めて思うのは、誰に忖度するのでもなく、言いたいことがあれば、言っておかなければいけない、という事だ。それは間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない。間違っていると怖がって言葉を発することができなくなるより、間違っていることに気づいたなら、素直にその間違いを認めればよいとおもう。
全て細かく精査される現代にあって、かかる意識は、ともすれば生命に関わることなのかもしれないが、そのために、何も考えず思考を放棄する人生が、果たして本当に社会の歯車を回していることになるのか。死ぬ瞬間に何も後悔しないのだろうか。それは、自分の身体の裡で燻っている手触りのようなもの。
現在に於ける人工知能の可能性が、膨大なデータの集積なのであれば、我々はそのデータの扉をあけて、その向こう側の空間へ足を踏みいれる可能性が残されているのではないか。
人工知能の限界は、データはあくまでも数的処理されるべき対象物であり、それはガザの幼児の亡骸に、生年月日を書き入れる認識番号のようなもの。実際は各々の身体には名前があって、それぞれの人生が刻み込まれていることを忘れてはいけない。
スイス、ヴァレー州ブラッテンにて、氷河の溶解による大規模な土石流の発生。スイスの当局者は、研究者たちの助言により、様々な壊滅的なシナリオを想定して用意をしてきたつもりだが、実際の崩落はそれらすべての想定を遥かに超えていた、と話している。ここ数年続いている氷河の溶解は、急激な地球温暖化の結果と言われるが、現実を直視すれば、恐らくもはや臨界点を超えてしまっていることに気づく。イタリアのバイオント・ダムの悲劇を思い出しながら、インタビューを見る。
5月某日 ミラノ自宅
朝から学校で授業をやり、一度、帰宅しシャワーを浴びて国立音楽院で息子の466を聴く。何かに見守られながら、ただひたむきに自らを表現している。ピアノ演奏の真骨頂は、聴き手の集中が強い牽引力で演奏者に収斂してゆくところだ。音楽は確かに聴衆に向かって発散していながら、ピアニストは常に楽器との真摯な対話を強いられる。ピアノは楽器として完成された存在だから、声楽であったり、常に楽器と肉体が触れているような、管楽器やヴァイオリン族とは全く違う関係が生まれた。しばしば、ピアノは小さなオーケストラ、と喩えられるが、それは単に広い音域で多くの音を同時に発音できるだけではなく、演奏者の表現手段が、自らの身体から離れた別の存在だという意味でも、確かにオーケストラに匹敵するのかもしれない。
言葉を発しようとするとき、喉元に閊える何かがある。表現しようとするとき、無意識にそれを諫める言葉が脳裏をかすめる。批判を懼れて、極端にふり幅を制限する思考。
それらから解放され、それぞれが自らの言葉を発し、認め合うことが対話が生まれる。ピアノとの対話も全く同じであって、対峙する相手は批判対象でも、敵でもなく、もちろん忖度の対象でもない。真実というものがあるとすれば、互いに騙りあうような上っ面の関係でそれは生まれ得ない。対話は、信頼の礎の上にこそ展開され得るもの。
音楽が本当に信じられたとき、音が紡がれる。楽器を信じることができたとき、初めて楽器が鳴りだす。オーケストラを信じることできたとき、初めてオーケストラの音がする。音符が纏う空間の広さ、深さを信じられたとき、初めて音を置くことが出来る。
(5月31日 ミラノにて)
『アフリカ』を続けて(48)
下窪俊哉 昨年7月に『アフリカ』前号(vol.36)を出してから、もうすぐ1年がたとうとしている。正確に言えば前号というより、現時点での最新号である。この連載を続けて読まれている方は、あれ? これからは年に3回くらいのペースで出してゆきたいという話ではなかったっけ? と思われるかもしれない。何を隠そう、私も、そう思っているひとりなのだ。
言っていること(考えていること)と実際の行動は一致しない。いつもどこかズレている。だから面白い。しかもこの場合、大きくズレていると言わざるを得ない。『アフリカ』は自分だけの場ではないので、発表できると思う原稿が続々と集まってくれば、どんどん出してゆけるのだが、そういう状況では全くないということだ。1年前の私は、流れを見誤っていたかもしれない。あるいは流れそのものが変わったのだろう。
その間、『アフリカ』が何の動きもなく静止していたのかというと、そうではなく、むしろその逆だと言える。
編集人(私)は送られてきた原稿を読み、返信のメールや手紙を書くのに忙しかった。ただ、そのままで載せられる原稿が少なく、しばらく待っていた。待っているうちに1年たってしまったというわけである。
中には、大幅に手を入れてもらって、あるいは度重なる書き直しの末、次号に間に合いそうな原稿もあるし、そのままお蔵入りしてしまいそうな原稿もある。
ある人からは「これだけ見てもらって申し訳ないのだが、『アフリカ』がダメなら別の場所で発表してよいか?」という連絡あり、「それはご自由に、と思いますけど、自分で納得できない原稿を発表しちゃダメですよ」と返事しておいた。このやりとりから、自分は”発表する”ことをあまり重視していないのだな、ということに気づいたりもする。
それにしても、『アフリカ』を19年やってきて、編集人がこれほど厳しくなっているのも珍しい。初めてと言ってよいかもしれない。いつの間にか、自分の読みが厳しめになってきているのだろうか。これまでにも書き慣れていない人の原稿を『アフリカ』はたくさん発表してきたはずなのに、ここまで原稿を落とすことはなかった。
書き手に上手さを求めてはいないはずである。それは変わっていない。だから、もっと上手く書け、と思っているわけではない。ただしある程度は原稿を完成させてもらわなければ、『アフリカ』には載せられない。では、その”完成させる”とは、どういうことになろうか。自分でもちょっとわからなくなってきたので、ここで少し整理してみたい。
しかし未完(成)の原稿でも、良いと思えば載せるはずだ。だから”完成”ということばで考えている限り、前に進めないかもしれない。別の言い方を探ってみよう。
読んでいて、「これはどういうこと?」とか、「こう書いているのはなぜ?」とか、質問して聞いてみないとわからないことが多いのである。しかし、よくわからない内容のものでも、私なら載せそうだ。だからこう言ってみればどうだろう、もっともっと書いてほしいと感じる、と。冗長になりすぎているから、もっと削って(研ぎ澄ませて)みてはどうか、と伝えることもある。たぶん同じことで、書き込みが足りないからそうなるのである。手加減しないで書けるだけ書いて、じっくり推敲して削れるだけ削り、何が現れてくるかを探ってほしい、ということだ。でも、それが、なかなか出来ない。読んでいる私に見えてこない、聴こえてこない、感じられないのである。書こうとしていることを、書き手はわかっているのかもしれないが、読者には伝わらないだろう、と明確に言えるのだ。そして可能なら、書くつもりのなかった何かと出合うところまで、私は付き合いたいのである。
じつは前号で小説を発表していた4人のうち、私を除く3人は今回、今のところ書いていない。つまりまだ読ませてもらっていないのだが、書かないというよりも書けないのかもしれないと思う人もいる。「なかなか覚悟がつかなくて」という連絡をもらったのだが、なるほど、書くのには覚悟が要るかもしれない。でもそういう人には、まあそう言わず短い雑記でもいいから気楽に書いてみてよ、と言いたくなる。
SNSを見ていると、続々といろんな本を読破して、その報告をしているアカウントも目に入る。不思議なものだ。よくそんなに勢いよく本が読めるものだな、と。それが仕事であればわかるけれど、そういうわけでもないようで、私にはそんなふうに本を読むことが出来ない。ふと思ったのだが、書いている時と同じとは言わないまでも、それに近い力を使って読んでいるとしたら、遅くなるのは当然のことだ。
速く読んで、どのように書かれているか、その細部が見えないのは、確かに仕方のないことだろう。しかし私は、そういうところをこそ読まないと、本を読んだ気がしない。
ここまで書いてきてわかったのだが、細部に力が感じられて、じっくり読める、そんな文章が連なってギュッと詰まっていればいるほど、私にとっては良い原稿だということになりそうである。特に短篇、中篇くらいまでのエッセイや小説には、そういうことを自分は感じているようだ。そうやって思う存分書かれていさえすれば、多少破綻した部分があろうが、未完成であろうが、『アフリカ』には載せるだろう。
先日、大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読んでいたら、こんなことを言っていた。
「私はこう思って書いたから、それで分かるだろう」というけれどそうではなくて、「私はこう思って書いた。その書いた文章はこうだ。それを読んで読者がもう一回、私が感じたことをこの文章を読んで感じてくれるかどうか」というところまでいって、はじめて評価になる。ところが大抵の場合が、「私はこう思って、こう見て書いたのだから、それで分かるではないか」というふうに言う人が多いですね。批評というものはそれでは成り立たない。そこが大きな問題です。
ここで言われていることは、私には当然のことなのだが、そうではない人が多いということだろうか。先日、私はある人に「文章というのはことばで成り立っているのであって、書き手の思いとか、気持ちとかで出来ているのではないんです」という話をしていた。しなければならなかった、と言いたいところだ。
世界中を旅して本当にいろんな、多様な場所で演奏するサックス & メタルクラリネット奏者・仲野麻紀さんは俳句を嗜み、文章を書く人でもあって『旅する音楽』という本があり、この10年ほど愛読している。その中に、こんな記述がある。
ひとりの人間の考えは行動することで真の思考となる。行動がなければ、それはいつまで経っても机上の論理。わたしはそういう論理だけの世界の中で、居心地が悪い。目の前にあることから、自分自身で実行(=翻訳)していこうと思った。やがてからだを張った言葉の翻訳(=実行)は小さな出来事となるだろう。
文章の中にも”行動”がなければ、と私は思う。そのためには、感じなければならない。何を? 世界を、ということになろうか。書いて、読む中には空間が生まれる、ということを以前、私は書いたことがある。その空間を感じる。そうすると、その中で何か、動きを起こすことが出来るだろう。そこに私は、感覚表現の可能性を見てゆきたいと思っている。
アパート日記 2025年5月
吉良幸子5/12 月
新居の契約に行った帰りに十条の商店街をぷらぷら。驚くほど商店街がいきいきしてて感動した。少し歩けば八百屋にあたり、魚屋、酒屋に味噌屋まで発見した。スーパーなんて行かずとも商店街で揃う感じ。おまけに銭湯まである。生きてる商店街の近くに越してこれるのは嬉しいなぁ。
5/15 木
市ヶ谷での打合せの後、そういえばここは靖国神社の目と鼻の先やと気付いて帰りに立ち寄る。初めて参拝した靖国神社は想像よりも巨大で、空気がしんっとしておった。資料館へも行ったけど、展示説明文が想像の100倍くらいの量でどの部屋でも活字の嵐が吹き荒れており、閉館時間まで全くもって時間が足らず途中で断念した。残念、また今度余裕を持って来よう。神社を後に九段下に着くと…もうここまで来たら愛しの古本街へ行くしかない!と神保町までひた歩く。神保町では気を確かに、お財布の紐をしっかり締めとかんとスカンピンにされる。引越し間近、本を増やしたらいかんで…と自分に言い聞かせながら行ったはずが、矢口書店にふらふらっと入ってしまい、結局4冊も抱きかかえてレジ前に立っておった。その中でも大好きな浪花千栄子さんの本が嬉しく、すぐ読むべく喫茶店へ。なんと贅沢な時間でしょう。そこそこに読んだ後、帰りに回り道して銭湯へ寄り、お湯であったまって家路につく。朝から晩までぎょうさん歩いた日やった。
5/17 土
絵描きの友、キューちゃんがあるイベントのインタビューコーナーに登壇するというので、それを見に行きがてらキューちゃんちへ遊びに行く。折しも今日は三社祭の中日で、吉原神社でも何やら祭があるらしい。祭目当てで行った訳やないねんけど、思いがけずお神輿をたくさん見れた。霧雨が降る中、カッパを着ながらお神輿を担ぐみなさんは勢いがあって楽しそうやった。
5/20 火
前いたアパートにまだ住んでる知人、ゆうさんが数日間旅行に行くとのことで猫たちのお世話をしつつ、一緒にお留守番。もう半年くらい会ってないメロとチャロは覚えてくれてるかしら?と部屋に入ると、玄関で寝てたメロがチラッと顔を上げ、あぁ、あんたかいな、久しぶりやねってな顔で迎え入れてくれた。チャロはいつも通り大歓迎してくれて、とにかく撫でてほしいんやわ!とゴロンゴロンと腹を見せてねっころがる。ふたりとも女の子で、足がすんごく小さくてかわいい。いつも家で見る、島育ちの強靭な脚力を持つソラちゃんとは大違い。ごはんもあげて、ひとしきり遊んでアパートを後にする。今日から何日間かメロ・チャロに会えると思うと嬉しい。
5/21 水
ふじみ野でマトリョーシカの絵付けをしてはるマミンカさんの教室へ今月もゆく。先月は赤鬼、今月は何を絵付けしようかしら?と散々考えて、一心太助にしよう!と下絵を描いた起き上がりこぼしを携え、埼玉に向かう。太助は江戸時代の魚屋で、頭につける髷も紙粘土で作って一緒に持っていった。マミンカさんが使ってはるアクリル絵具は発色が良くて乾きも早い。失敗しても上からしっかり色を乗せれば修正も簡単。今まで色んな絵具で試したらしく、ええ絵具に出会ってはるなぁと毎回感心する。私も粘土細工するとき、もうちょっとやり方を確立していきたい。
5/22 木
昼一でものすごい興奮気味のおかぁはんから電話が。何事や⁉︎と電話に出ると、なんと丹波篠山のスーパーのレジ横、雑誌コーナーに、公子さんの記事が載った暮しの手帖が並んでおったらしい。えぇ?発売日は明日やと聞いてんのに、なんでそんな田舎の、しかもスーパーに??とこっちまでびっくりした。実はその時には掲載紙がうちにまだ届いてなくて、つまり記事に載った私よりも先にうちのおかぁはんが読んだらしい。
ということで、アパートのふたりは今月号の暮しの手帖に載っとります。太呂さんに撮ってもらった公子さんとのツーショットは好評で、荷物だらけのアパートもとても素敵なおうち風に撮ってくれはりました。さすがです。アヒルの表紙が目印、ぜひ読んでね。
5/24 土
朝からどう転がっても頭が痛い。猛烈な頭痛で一日中おやすみの日になった。自分の荷物の多さを諦めて今回は早めに引越しの梱包をはじめ、色んな手続きや仕事のアレコレで気ぃ使てんやろか。天気も悪いし久しぶりにしんどかった。そんな時は決まってソラちゃんが添い寝してくれる。ありがたいこって、背中をくっつけて寝たらなんとなしにはよ治る気がする。
5/30 金
かれこれ1年以上仕事で携わってきた短編映画『とうちゃん』の公開初日。撮影は2021年の秋ということで上映まで3年も費やしたという、なんとも贅沢で監督のこだわりが詰まりに詰り切った作品。宣伝美術をするにあたって何度か映像を観せてもろてたけど、自分のパソコンでしか観たことないし大画面で観るのは初めて。劇場は小さいシアター、各々渡されたヘッドフォンで鑑賞するというところ。大きい画面とヘッドフォンでの臨場感ある音で没入感が高く、観に来てよかったなぁ~と途中にしみじみ思わせてくれる作品やった。上映後は舞台挨拶ということで、裏方の私まで登壇してひとこと感想など述べた。とりあえず1週間の上映やねんけど、たくさんの人に観てもらえたらいいなぁと心から願っておる。
5/31 土
まずい、気ぃついたら明日には6月が来ようとしておる。この前の水騒動でお世話になった、賑やかな引越し屋さんが来はるのが3日後、電気や水道など諸々の手続きに気を取られてたら、台所の荷物はまだたくさん棚の中に収まったまま。でも今月中には…ということをとにかく優先させて、明日の自分がきっと大いにがんばってくれるはずや、と今日の私はひとごと気分。冷たい水から逃げるように引越してきて4ヶ月、ようやくソラちゃんも慣れたとこやというのに。今年2回目の移動が目前に迫る。
夜の山へ登る(3)
植松眞人 僕は放課後、小林先生のところへ行って、あんたのことを聞いてみたけど、小林先生も詳しいことは知らんと言うてた。ホンマに知らんのか、知らんふりをしているのか、それはわからんかったけど、なんとなくホンマに知らん気がした。小林先生がなんや困ったような怒ったような、それでいて寂しそうな顔をしてたからや。
あんたとは、いつも一緒というわけではなかったし、毎日話すという感じでもなかったけど、僕はあんたのことを友だちやと思ってたから、急におらんようになったあんたのことを、小林先生と同じように、困ったような、怒ったような、寂しいような気持ちで思ってたんや。
それが高校三年の秋。そのまま僕らは疎遠になった。そんなあんたから連絡をもらったのは、高校を卒業して十年後、いまから三年前のことやった。僕らは二十八歳になってて、もうすぐ三十になる手前やった。僕はまだ一人もんやったけど、あんたはもうあの時、美幸さんと結婚してて、もう純平君も生まれてた。
会社で仕事をしてたら、代表番号から電話が回ってきた。名前を聞いても思い出せなくて、「どちら様ですか」と問いかけると、あんたは電話の向こうで「以前、お会いしたことがあるんです」なんて言うから、僕はほんまに気持ち悪くなって「ホンマに、どっかでお会いしたんですか」と聞くと、あんたは大笑いしながら、「お会いしました、三年A組の教室で」と答えたなあ。その一瞬で、あんたの顔を思い出したんや。
僕らはその晩、仕事帰りに高校三年以来、十年ぶりに再会したんや。
再会してみて最初に感じたのは、懐かしさよりも「どこか別人みたいやなあ」ということやった。高校時代、あんたはひょろっとしてて、目が鋭くて、まっすぐな声を出す人間やったけど、あの時のあんたは、声に丸みがあって、よう喋って、よう笑って、なんや穏やかやった。そらまあ、十年もたてば人は変わることもある。そんなことはわかってるんやけどなんや気色悪うてなあ。そやけど、あんたが注文したホットコーヒーをひと口飲んで、「なんや、薄いなあ。味せえへん」と呟いたときは、なんや、ちょっとだけ昔の顔がのぞいた気がした。
あの時、文化祭の話も出たなあ。
「あんな脚本、よう通ったなあ」
あんたはそう言うて笑ってた。そやけど、笑ったあと、急に真顔になって、
「ほんまはあの時は、死ぬほどしんどかった」
あんた、そう言うたな。僕が「どういうこと?」と聞くと、あんたは「ぜんぶや」とだけ言うて、それ以上は何も話さんかった。そのとき僕は、ああ、この人はやっぱり、変わったようで変わってへんのかもしれんと思てたんや。(つづく)
豆腐が寝返りを打つまで
芦川和樹風通しのいい目が、開
閉、開、閉(忙しい午後でも)
ぶつ切りだった
感情的なソフトクリームさんは
→バ、ラを一輪 胸の、それか襟の
ポケットだったり、ボタンホールだったり
に、かくし持つ
らいと
ライオンが
る、灯
米を嚙む、ときに光 る
波
並、木を バ
じぐざぐ ウ
歩くのは ム
お得な情 状 クーヘン
、報を、 態を、 は
追うクー 保つため 舳
ピーの習 先
性だわ。 を
平 揃
日 え
の質問に答える、オオロ
ラを捕らえる。犬科だとして。
ブルーベリーを目撃しながらそ
の嗅覚を胡蝶蘭にも向けて、昨
日のニュースを整理していく。
(はずだった)
どうでもいいような問題が、大きな顔して
胸の、だったか襟のだったか
薔薇をうばう
そしてカ、ーネーションが起立する
し
トランポリンをもく星に運ばなくては、い
けませんくもを予定に加えて、豆腐が寝が
(コピー用紙を食べて、)寝返りを、マッチが肘を擦(す)って燃えなければ〜燃やさなければ、小売りさんは頭巾をかぶり火を防ぐ。耳を製造するぶもんに吹き込む(窓から)ラベンダー、のカーテン。お揃いの布、そのカーテン。そのオオロラは、(そのオオロラは、)昨日の薔ラだわそしてカ、ー⋯‥・かくしたらいとの咆哮として、腰のあたりや、お腹のあたりが誕生する。「忘れ物ってないよ。」バケツをかぶって、不在のまま前進する鍬を持つ、くわ、を持つ、セメントを。街を角までいくふりして、豆腐が寝返ったのは、べつにいいんだという もく星に着いたらまた話しましょう(打つ)メルヘンな欠席として、メルヘンな出席として
日記
笠井瑞丈土曜日朝9時半出発
久しぶりに金沢に行く
もちろんナギとモギとハギも連れて
最近モギの調子があまり良くない
高い寝所から落ちたせいなのか
足の調子が悪いから落ちたのか
どちらにせよほとんど歩かなくなった
いつも枕の上で寝てばかり
病院には連れて行ったが
骨折とかではなく
神経系を痛めてるだろうとの診断
そんな3羽を連れて
とりあえず高速で松本まで
松本から白馬を抜け糸魚川
そして途中最近知り合いになった
ユッキさんのヤマザショップに寄る
そこでユッキさんが採った山菜蕎麦を頂く
糸井川からはまた高速にのり金沢まで一直線
久しぶりの金沢は雨だ
到着してなおかさんの実家でまずは一杯
長時間の運転のせいか
気づけばバタンと眠りにつく
日曜日朝10時病院
やはりもう一度モギをつれて
金沢の動物病院で診てもらう
レントゲンを撮った
先生が言うには背骨の下あたりに
異常があるとの見解
人間でいう坐骨神経失調症との診断
そのせいで足があまり動かせないのだ
完治するかは分からないとの宣告を受ける
とりあえずやれる事はやるしかない
もらったビタミン剤とお薬を飲ませて
しばらく様子を見るしかない
絶対にまた良くなる
それだけを信じて
月曜日昼13時小松へ
今日はなおかさんが最近知り合った
陶芸家の工房とギャラリーを見せてもらう
ギャラリーでは知り合いの写真家の写真展が
工房の方ではとても素敵な
お皿の陶器を沢山見せてもらう
職人さんが手作業している所を見せてもらう
こんな細かな作業を一つ一つやってるんだ
とてもビックリするばかりの贅沢な時間
夜は金沢芸術村の舞台技術者講習を受ける
舞台作りの基本的な知識の勉強
この講習を受けない限り
金沢芸術村での公演が出来ないという
ここ独自のシステム
火曜朝9時半東京
今週金曜日に公演があるため
なおかさんを置いて一足先に帰京
ただ公演の翌日土曜日にはまた金沢に戻るけど
久しぶりに1人で運転して金沢から東京に
いつもはなおかさんと交代交代で帰るので
1人で完走するのはちょっとしんどい
道中山道を走りお猿さんに二度遭遇
山の中には山の住人がいるんだな
以前人生初の熊に遭遇したのもこの辺だった
車の運転をしながら色々な事を考える
勝沼ぶどう郷の天空の湯に入り休憩
露天風呂から見る甲府の景色が美しい
外の景色はこんなに美しいのに
内なる世界は廃墟のような景色
この廃墟の世界に光が灯る日を
疲れを取り後少しで東京だ
小松の写真展で写真家の蓮井さんの言葉
『人生は生まれた瞬間から欠落してゆく旅にでる』
本当にその通りだ
後二週間で新しい歳になる
きっと欠落してゆく旅はまだまた続く
むもーままめ(48)八畳一間の片思い、の巻
工藤あかね 10代の頃、ヲタサーの姫的なポジションにいたことがある。簡単にいうとクラシックギターが少し人より弾けたせいで、ギター学習者によく声をかけられ、ちょっとちやほやされていたのだ。コンクールに出たある時には、観客だったさる旧官立大学の学生さんたちにゴクミちゃん(当時人気女優だった後藤久美子さんの愛称。F1レーサーのアレジに恋して渡仏し彼と事実婚。あの胆力はまことにあっぱれだ。)とあだ名をつけられ、可愛がってもらった。いろいろなものをもらったり、手紙のやりとりをしたこともあったっけ。またある時期には、数名の若いギター男子たちと親しくなり、お茶をしたり、出かけたりするようになった。彼らは音楽が大好きな紳士的な人たちで、飲食店ではいつも真っ先に私に席をすすめ、食べたいものや飲みたいものを尋ねてくれた。ちなみに私はあらゆる意味で世間知らずだったので、彼らを一度も怖いとは思わなかったし、実際彼らのせいで危険な目にあったこともない。
そんなある時、ギター男子の一人が、今度自分の先生のところにみんなで行かないか、と声をかけてきた。先生に会うと言っても特にレッスンをしてもらうとかではなく、遊びに来ない?と。「人が自然に集まるような場所で、面白いから」と言われてもイメージできず最初は気が乗らなかったのだが、みんなが「行こうよ」というので最後には私も行く約束をした。そして当日、仲間の一人が車を出してくれて、ちょっと辺鄙な街にある例の音楽教室に向けて出発した。
その音楽教室はなんの変哲もない一軒家で、防音も何もしていないようす。近所の人からはなぜか一目置かれているようだった。ギター男子の一人が、ベルも鳴らさず勝手知ったる様子で扉を開けた。後に続く私たちはそこの生徒でもないのについて行っていいのかな?と思いつつ部屋に入った。記憶ではおそらく八畳くらいの広さ。そこにアップライトピアノ、電子ピアノ、エレクトーン、隙間を縫うようにソファ、そしてギター用の椅子と足台と譜面台がびっちり入っていた。隙間の平面には譜面の山。ソファをすすめられて座る。目の前に生徒さんが入れ替わり立ち替わりやってきて、ピアノを弾いたりエレクトーンを弾いたりして、気が済むと帰っていく。こんな音楽教室を見たことがなかったので、呆気に取られた。
ギター男子の師匠(音楽教室の経営者)がやってきたので挨拶をすると、お師匠さんはガバッと足を広げてギター用の椅子に座った、そしていきなりその辺の楽譜を譜面台に置くと、パッとどこかを適当にひらいてギターを弾き始める。だが楽器のメンテナンスはあまりきちんとしていないようで、低弦はさびていて、ぽそぽそとした響きしか出せていない。だが、弾いている表情はどことなく満足げで雰囲気もわるくなかった。少しして、今度はいかにも知的な女性が部屋に入ってきて、電子ピアノの前に座りヘッドフォンをはめると激しく何かを弾き始めた。そう、この音楽教室では、ギターもピアノ(アップライトと電子ピアノ)もエレクトーンも全て同時進行で練習するのがならいのようなのだ。ヘッドフォンを外した女性は、私たち来訪者がどんなジャンルでなんの楽器を弾くのか尋ねてきた。彼女は東京大学に合格したばかりで、その喜びも自信溢れる表情と口調の活気につながっていたのだろう。「東大は受かったんだけど、私立では立教だけ落ちたの。問題にちょっとクセがあったかな。」受験教科に直接関係ない科目も、趣味と気分転換で勉強したという。そんなあたりも東大生らしい考え方だな、と感心した。
ちょうどアップライトピアノが空いた。そこへ階段を降りて部屋に入ってきたのは、ちょっと長髪でさえない顔色をした細身の青年だった。彼は来訪者たちの顔を挨拶もせずに虚無の目で見回し、少しだけうなづくようにしてうすい挨拶をした。変わった人だなと思った。この教室に連れてきてくれた男子が言う。「先生の息子さんのHさん。東大の理学部に通っているんだよ。ピアノはめちゃくちゃうまくて、とくにジャズがすごいよ」。虚無の目をした青年Hはアップライトの前にすわり、なんの準備運動もなく突然ショパン「ピアノソナタ第3番」の終楽章を弾き始めた。「ジャズがうまい」という言葉が聞こえていて、裏をかこうとしたなら結構気が強い人なのかもしれないと思った。タッチは正直ボコボコしていたのだが、猛スピードで、ちょっと恐ろしいような演奏だった。弾き終わると、私たち来訪者に2つ3つあたりさわりのない質問をし、最初よりは深めのうなづき方で挨拶をして、階段をあがり部屋に戻って行った。彼の気配がなくなってから私はぽつりと「ジャズじゃなかったですね。ジャズも聞いてみたかったな」とつぶやいたが、ギター男子たちは何も言わなかった。きっと私が、恋に落ちた目をしていたからだと思う。
その後、ギター男子たちはそれぞれの地元に戻ったり、大学が忙しくなったりして、いつのまにか誰とも疎遠になってしまった。音楽教室に案内してくれた人も海外留学に旅立った。したがって私の心に強い印象を残した青年Hさんには、その後2度と会うことがなかった。よほど優秀な人だったと思うから海外で仕事をしているかもしれないし、専門性を活かした職業についているかもしれないし、ジャズピアニストをしているかもしれない。またあるいは才能のある人にありがちな気まぐれで、急に絵を描いて生活していたり、起業したりしているかもしれない。インターネットが普及してから名前で検索してみたこともあるが消息は不明で、今となっては正直、顔も思い出せない。ただし、父親である師匠の音楽教室はまだ存在しているようなので、そこを経営しているという線もありうるか。だが詮索はやめよう。たった一度、10分くらいしか会ったことがなくても、その後何十年も印象を残すことができる人がいるという、忘れられない記憶。
おいしそうな草
若松恵子吉祥寺に移転したクレヨンハウスの地下には女性の本のコーナーがあって、青山の頃のようにはまだフロアの方針が固まっていないようなのだけれど時々覗いてみる。
5月のはじめに、蜂飼耳(はちかい みみ)のエッセイ集『おいしそうな草』(岩波書店)を見つけて、2014年に出た本なのにちっとも知らなかったとさっそく買ってきたのだった。『おいしそうな草』は、岩波書店の雑誌「図書」に連載した24編に、書き下ろし3編を加えて編んだものだ。連載時のタイトルは「ことばに映る日々」。「生きる日々のなかで、読む言葉、出会う言葉、思いがけず受け取ることになる言葉。詩や小説や随筆、さまざまな作品が落とす影に、はっとする瞬間。あっというまに過ぎていくあれこれを、書きとめ、見つめ、また書きとめる。そんなふうにして生まれてきた本だ。」と、蜂飼は、あとがきに書いている。ふと揺れ動いた心、その目には見えないものを言葉に定着して(映して)、形あるものとして差し出してくれるところに彼女の文章の魅力がある。しかもそれは、川原でみつけたすべすべした美しい石のように確かな手触りをもって、読む者の心の手のひらに乗せられる。
玉手箱を開けた浦島太郎は、その後どうなったのか。「満ち欠けのあいだに」では、様々なバリエーションを持つ浦島伝説について語ることと並行して、月食を眺める夜の時間が綴られる。
「芝」では、八木重吉の「草をむしる」という詩が紹介され、蜂飼が好きだというこの詩について、「座りこんで草をむしった記憶のすべてが束になり、この詩に吸い込まれていく。」と彼女は書く。八木重吉の詩に続いて語られるのは、子どもの頃によく遊んだ海岸の近くの公園の思い出だ。その公園には冬でも青々としていた芝があって、その上にもう走らない電車の車両があった。ある日子どもたちによってむしり取られた芝が車両の床いっぱいにぶちまけられるのを見る。「あたりいっぱいにふくらんでいく、あおあおとした香り。このまま走りだせばいいのに。けれど、もちろん電車は動かない。困ったように、じっとしている。」と彼女は書く。子どもの頃に見た忘れられない光景は、束になって彼女の文章に(言葉に)吸い込まれていく。
唐突に別の物語が語られ、でも彼女独特の脈絡でひとつの物語に編まれていくところ、そのイメージの重なりも彼女の文章の魅力のひとつだ。詩人である蜂飼耳の独壇場ともいえる。それを読む私の認識も深く耕される思いがする。
本の題名となった「おいしそうな草」は、言葉を持つ人間とはどういう存在なのかについて語っている。西脇順三郎の詩を引用しながら蜂飼はこう書く。「言葉が、人間とその他のものを区分して、限られた生を言葉の灯りで生きるようにと、うながす。沈黙の日、更地に似た日にも、やがて、草のように言葉は生えてくる。古代の人たちは人間を青人草とも表わした。草と人は近い。牛や馬、羊ならば思うだろう。おいしそうな草、と。生きものは、草を掻き分けて進む。生い茂るものたちのなかを歩いていく。」
いつまでもそばに置いておきたいと思う一章だ。
サザンカの家(五)
北村周一バード・ストライク 前夜
白堊の闇にあかいあさひの差すところ メジロはうたいサザンカは舞い
赤からしろへはなばな咲かせとりを呼ぶ庭のかきねのあさ待つじかん
老いもわかきもコトリとなりてしばらくはこのそらひくく漂えるらし
うめの香匂うそらをあおげばメジロ来てともに見ているこうはく梅図
梅のかおりのたゆたうところわれよりもつねにさきゆく目白のふたつ
梅のめぐりに鳴きつつ飛ぶはメジロにて飛ぶを止めればたちまち梅花
口ぶえ鳴らしメジロは行くや 眼下にはみぎりひだりにサクラぜんせん
めじろ同士声を合わせて落ちてゆく いちにのさんで やまさくらばな
うすくれないの花もそぞろにあきあきて萌黄いろめく空の子メジロ
雄蕊雌蕊のはなふところを揺らしながら遊ぶメジロの隣りにもメジロ
しり取りあそびのつづきのように花々のミツを吸い吸い春告げにゆく
みなみのそらへ蜜をもとめてわたり来るメジロもいると春いちばんは
紅ツバキの木みごとなれどもおもおもし 目白はきらうものものしきは
にわの木の見映えよろしき医者の家 メジロらしげく寄り来たるらし
アカイアカイつばきの花もそこそこに目白は去くもそのかげにわれ
とりどりのはなからはなへ路地を来てメジロはすでにわが視野のそと
ジグザグにとぶを見ており路地の端 メジロは知るやその行くさきは
さきをいそぐと見せかけてメジロたちお茶をしており梅の木かげに
はなかげに花すいふたつふうわりと羽をやすめりどちらか身おも
どちらともなく目くばせ交わしふとも消ゆメジロのふたつ 春が来ている
花吸いとも呼ばるるとりの鳴き交わすこえはまぢかしわがかざかみに
チチよチチよとうち羽振り鳴くこえは(ははよ)聞こえますか めざめよとうたうその声
つばさ震わせチチと鳴くときそよぐかな きみどり美しきそのうらおもて
めじろの目より近いところに我があるを すがた消したりふり向きざまに
多角的なる目をもつとりの視野のさき すでに来ている絵を画くオトコ
メジロらのねぐらはいずこと垣根ごしに杳くみており西方のひと
とおのく刹那せつなにうたう恍惚はメジロのみ知る その世界観
花びらにみみかたむけてなにごとか告げんごとくもメジロ揺れおり
囀りは長兵衛忠兵衛長忠兵衛 メジロは啼くも オスのみに啼くも
ここは宙宇のきりぎしにして境川の土手に息衝く春告げどりは
「タントリポロ」再び、大阪能楽大連吟、十津川村の大踊り
冨岡三智5月はあわただしく過ぎてしまい、疲れが抜けきれずダウンしてしまった。というわけで、今月は5月に参加した公演の手短な記録。
●5月10日(土)『初夏 ガムランの風』
スペース天(大阪府豊能郡)にて
ガムラン音楽団体、マルガサリの本拠地でのコンサート。無料。3月29日のマルガサリ公演「ふるえ ゆらぎ ただよう」(『水牛』2025年4月号でその様子について書いている)で演奏されたスボウォ氏の歌「タントリポロ」、「バニュミリ」が再演され、今回は1人で舞踊をつける。ジャワ宮廷舞踊で用いられる動きを用い、ブドヨ曲の時のように振付を展開させる流れを作ってみた。
スボウォ氏の曲は宗教的、瞑想的で、私が思い描くブドヨのような雰囲気に合う。この曲ならではの動きを見つけるのが今後の課題で、今回はまだ模索の途上。
●5月18日(日)大阪能楽大連吟
四天王寺・五智光院にて
大連吟というのはこのプロジェクトの造語。連吟は謡曲の特定部分を複数の人が声をそろえて謡うことだが、それを1万人の第九よろしく大人数でやろう(演目は『高砂』)というのが大連吟で、2008年に京都で始まった。大阪能楽大連吟は観世流の齊藤信輔氏と今村哲朗氏が2018年に開始した。対面のお稽古と音源をいただいての自主練習を重ね、プロの能楽師が創る本格的な舞台に参加できるというもの。私は初回、前回(ただし本番には体調を崩して出演できなかったが)に続いての参加。斎藤氏は2007年に私が企画した事業『能の表現と能を取り巻く文化』でインドネシア公演に行ってくださった方である。ちなみに公演に出演された小鼓の清水晧祐氏、大鼓の守家由訓氏もそう。そして太鼓の中田一葉氏はインドネシアに行ってくださった中田弘美氏の御子息。
今回になって初めて実感できたのが、謡は声というより息をコントロールするものなのだなあということ。カーレーサーの能楽師が、自分の体(車)に息を載せ、スピードを段階的に変えたり、直線を進んだかと思えばジグザグに切り替えたりしながら疾走していくような感じだ。
●5月28日(水)十津川村・大踊り
大阪・関西万博、Expoアリーナにて
5月27日~29日に万博で催された奈良県のPRイベントの一環として、2022年にユネスコ無形文化遺産に登録された十津川村の3地区の大踊りの公演(各地区15分)のうち、武蔵地区に参加。私もメンバーになっている中川眞氏が主宰する村外での十津川村の盆踊り練習会にも声がかかって、数人が参加したのだった。中川氏は十津川村で40年以上、盆踊りを始めとする民俗調査を続けており、現在は過疎化による後継者不足の対策として、村と都市からの共創に取り組んでいる。私は日本の伝統芸能を専攻していた大学生時代に中川氏の盆踊り調査に参加していて、その後も断続的に関わってきたのだった。実は、私がガムランを始めたきっかけもこの盆踊り調査がきっかけで、夏の調査が終わって中川氏が当時代表をしていたダルマブダヤに参加した。
私が初めて調査に参加した時には、大踊りは奈良県の無形文化財には指定されていたものの、国の指定はまだという状況だった。当時、調査で行っていた学生は、大踊りだけは一緒に踊ることはせず見ていた。それを万博の舞台で一緒に踊らせていただける日がこようとは、当時は思いもよらなかった。
仙台ネイティブのつぶやき(106)病気の記憶
西大立目祥子それは明け方に突然きた。
寝入って1時間ほどたったろうか、目が覚めてしまい眠れない。目をじっと閉じたままでもいっこうに眠れない。体勢を変えても眠れない。あぁ、なんで。遅くに飲んだお煎茶がいけなかったか、ずいぶんと人に会って人当たりしたか…考えるほどに頭がさえざえとしてくる。右に寝返り、左に寝返り、うつぶせ、仰向け…そうこうするうちに、うわぁ何これ!?ぐるぐると体が回転しだした。灯りをつけると、天井がぐわんぐわんまわる。からだがどこかに持っていかれそうな感覚に何度か耐えるうち、猛烈な吐き気に襲われた。床を這っていきトイレで吐く。なんとか寝床に戻り横になると、前後左右がぐしゃぐしゃになり、つぶされるような怖さにじんわりと冷や汗が出る。突発的な吐き気がまたきて、ゴミ箱に吐いた。
翌日は丸一日静かに横になっていたが、よくなる気配がないので、かかりつけの内科に行った。「吐き気もめまいもひどい」と訴えると、なじみの医師に「どっちが先?ちゃんと時系列に沿って話して」と問いただされる。結局、脳神経外科にまわされ、MRIまで撮って、良性の発作性めまい症という診断がついた。手渡された解説には「安静にしてはいけません。吐き気がきても頭を動かしましょう」とある。耳石が三半規管に入り込んでめまいが引き起こされるらしく、耳石を早く外に出すのが症状改善のカギらしい。
友人知人に「めまいが…」と話すと、この発作性めまい症の経験者のなんと多いこと。「私もだよ」「ああ、耳石でしょ」「頭振って治すんだよ」と返される。中高年なら誰でもかかる風邪みたいなものなのかもしれない。
めまいは薬で治まったが、10日くらい、ふわふわするような、たよりないような、そして静まったもののからだの奥に吐き気が巣食っているような感じが抜けなかった。拠って立つところがふにゃふにゃしていているというのか、自分の輪郭がぼやけた感覚があって、目の前の風景も少し引いたところから眺めているよう。
あぁこの感じには覚えがあるとたぐりよせた記憶は、私の幼年期の持病「自家中毒症」。正式には「ケトン血性嘔吐症」といって、ストレスや疲れが極限までくると嘔吐を繰り返す病気だ。血中のブドウ糖が不足すると脂肪がエネルギー源になるが、そのときケトン体という嘔吐を引き起こす物質が生成されるらしい。やせ型で過敏で興奮しやすい子どもに多いといわれることもある。発作がおきると顔色が悪くなりぐったりしてきて、気づいた親が過剰に反応すると、それが子ども心にさらにつらい緊張になった。だから、調子が悪くてもなかなか言い出せず、ぎりぎりまで我慢して、しまいに吐く。小さかったころは、道端で、バスの中で、寝床で、突発的に吐いていた。親に背中をさすられながらかかえる洗面器の色模様まで鮮明に覚えているのだから、嘔吐はなじみの行為だった。
だから、発作に気づいた親に連れられて病院に行くときは、これで楽になるんだ、とどこか安堵感さえあった。小児科の診察室には白衣を恐がる泣き声、注射から逃れようとする叫び声がつきものだけれど、いつもだまって固いベッドに仰向けになり、看護婦さんに右腕を差し出した。肘を太いゴム管でしばられ手を握ると血管が浮き出て、そこに腕と同じくらい太いブドウ糖の注射を受ける。淡い緑色のガラスの注射器には黄色い液が充填されていて、注射針が刺さると自分の血液がいったん塵のように注射器に吸い込まれ、そこからまた液といっしょに体内に戻ってくる。少しずつ少しずつ液が少なくなっていくのを見ているうちに、吐き気はおさまり気分がよくなってまわりを眺める余裕が生まれる。南向きの部屋には陽射しがさんさんとあふれ、窓辺には流しがあり器具が並んでいて、水道の蛇口や注射器を消毒する四角い鍋のような器具が光を受けてきらきら輝いている。不思議な形の帽子を頭に乗せ、糊の効いた真っ白な服と白い靴で光の中を動きまわる看護婦さんたちの姿をいつもうっとりと夢でも見ているような気持ちで眺めた。
最初の発作は2歳か3歳のときだった。嘔吐が止まず近所の医院では手に負えないといわれ、駆け込んだのは宮城県庁裏の新津小児科。一目見て医師は「自家中毒症」といい、ブドウ糖の注射をしてくれた。まったく泣かない女児に、先生は「女傑だな」といったらしい。母から何度も聞かされた話なのだが、このときなのか、その後何度かお世話になったときなのか、親に抱かれ見上げたこの小児科のおぼろげな記憶が残っている。背の高い緑の樹木の向こうに見えた鉛色の空。ゴッホの描いた糸杉の上に広がっていたような不穏な印象の空が、いまも目の裏に貼りついている。
この新津小児科は医院はやめたものの、建物はビル街の中に昭和30年代のタイムカプセルのようにいまも残っている。敷地はヒマラヤシーダーにぐるりと囲まれ、窓枠が淡いエンジ色の出窓のある木造の診察室も見える。幼い私が見上げたのはこの建物と木だったのかと、通るたび記憶と風景をつなごうとする自分がいる。
「自家中毒症」は10歳になるころには、嘘のように治まった。からだができて筋肉量が増え自律神経が整って内臓が充実してくると、自然と消える症状のようだ。まだことばをしっかり習得しておらず、ことばで自分を表現できないから一身にストレスの直撃を受けてしまうのかもしれない。吐き気に襲われていたのは、ひとりで本を読み進められるようになる前のことだ。
治まったとはいえ、いまになっても頼りないからだで生きていた感覚が呼び戻されることを思えば、経験としては決して小さくない。どこか暗いところから遠く世界を眺め見ているようだった感覚が、内気な少女をつくったのかもしれないと思ったりもする。
ところで、最初のめまい症の発作は3月末だったのだが、5月中旬に再びそれはやってきた。2回とも長い緊張がゆるんだ2日後の明け方。もしや明け方というのは血中のブトウ糖が少なくなる時間帯だからだろうか。極度の緊張のあと、というのも「自家中毒症」に重なる。いったんは充実した身体機能が下降線をたどるようになり、幼いころの素地があらわれてきたのかもしれない。幼年期と老年期は重なるといわれるけれど、私のそれは吐き気でつながるのかも…。
立山が見える窓(2)
福島亮連休明け、ベランダのプランターに、ミニトマト、シシトウ、ピーマン、エゴマ、そしてミントを植えた。庭があるわけではないから、園芸用の土を購入した。多摩川の近くに住んでいたころも、やはり同じように土を購入し、植物を育てていた。そのとき最も困ったのは、不要になった土をどうするかということだった。植物を古い土から新しい土へ植え替える。その際、古い土はどうしたらよいのか。庭があれば、大地に返してやることもできるのだろうが、その庭がない以上、どうにか「処理」しなければならない。東京都のホームページを見てみたが、園芸用土の回収はおこなっておらず、回収業者に連絡をせよ、とある。そこで回収業者に連絡をしてみるのだが、プランターひとつ分で回収費用8000円というではないか。いくらなんでも無茶苦茶だ。そもそも8000円の内訳は何なのか。そして回収された土はどのように処理されるのか。まさか、まとめて山奥に持っていき、夜陰に紛れて……なんてことはないだろうね。山で生まれ育った私は、人目につきにくい土手などに、家電が捨ててある光景を何度も見てきたから、疑り深くなってしまう。結局、不要になった土は実家に持っていき、庭の片隅にまいた。今度もまた、同じ羽目になるのだろうか。土を買う、土を捨てる。そういう発想が、本当はどこかおかしいのかもしれない。本来、土はどこにでもあって、買ったり売ったりゴミとして捨てたりするものではないのだろう。
そんなふうに、なんとも言えないモヤモヤした気持ちはあるものの、さすが栄養満点の市販の土である。プランターに植えた苗はすくすく成長し、花をつけはじめた。ミントにいたっては、ランナーをのばしてプランターの外に出ていこうとする元気の良さである。そこで、どんどん葉をむしって、ミントティーにする。耐熱ガラスのポットに10枚ほどの葉を入れて、熱湯を注ぐと、あっという間に湯が淡い緑色に染まる。
清涼感のある熱い液体を口に含むと、パリで暮らしていた頃よく行ったクスクス屋の暗い店内の光景が甦ってくる。ふんわりと皿に乗せられたクスクスに、野菜と肉をクタクタになるまで煮込んだスープをかけ、最後に唐辛子とニンニクと塩で手作りしたアリッサをたっぷり添えたものを腹一杯になるまで楽しむ。こちらがもう食べられないという頃合いを見計らって、ミント入りのお茶(テ・ア・ラ・マント)が出てくる。赤褐色の、甘く、爽やかなそれを飲むと、口の中は爽やかになるし、不快感と紙一重だった満腹感がすっと快感へ変わるから不思議だ。ミントを口にする喜びを知った私は、週2回行われる市場で毎度ミントを買うようになり、飲んだり、葉をちぎってサラダに入れたりした。市場のミントはタダ同然に安かった。
あの夜も、そんなふうにミントを楽しんだのだろうか、とふと思う。2019年10月某日、北駅近くのイベントスペースで、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴにサインをねだった日の夜だ。おそらく、その頃はまだメニルモンタンの部屋ではなく、ジュールダン大通りの学生寮に住んでいたから、毎日のようにミントを楽しむようになる前のはず。それでも、口の中の清涼感によって導き出された過去は、いくつかの層があいまいに縺れあっていて、複数の時間が同一平面に描かれた絵巻物のように、6年前のことと5年前のことが隣り合っている。
グギのことが想起されたのは、きっと、5月最後の月曜日に、大学の講義で彼の人生と仕事について話すことになっていたからだと思う。それでも、彼が書いたものではなくて、その人の声や佇まいが思い出されたのは、職業的な目的意識とはまた別のもの、どこか小説じみた想起の糸の絡みあいのせいでもあるだろう。プレザンス・アフリケーヌ社主催のイベントに招かれたこのケニアの作家は、やはりその場に呼ばれていたナイジェリアの作家ウォレ・ショインカが、イベント終了後、ほとんど神技のような身軽さで、すっと姿をくらましてしまったのとは対照的に、ゆっくりとサイン用のテーブルに移動し、彼と言葉を交わしたいと願う人々と、やはりゆっくりと話しながら、自著のフランス語訳にシルバー軸のボールペンでサインをしてくれた。
グギの人生について、そして彼が成し遂げた困難な仕事について、私のできる範囲で、拙く、たどたどしく学生たちに話した。旧宗主国の言語とそれ以外の言語との間のヒエラルキー、出版と言語、執筆と言語との関係……そんな複雑なことを、手際よく話すことは私にはとてもできないけれども、学生たちはよく耳を傾けてくれた。グギの訃報をニュースで知ったのは、その2日後のことだった。87歳だったという。ほんの一瞬、その佇まいに接しただけではあるけれども、何年か経っても、ふと思い出すことのある人だった。
全編盗作
篠原恒木親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。つまりは恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。「である調」と「ですます調」が混在しているが、完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
ところで木曽路はすべて山の中である。その山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。アタシの家も住みにくいよぉ。
そして国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。その汽車に目を取られていると、反対側の線路からやって来た山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。だが、こういう山のサナトリウム生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。
養生していた城崎温泉の宿にジュリエットと名乗る一人の女が訪ねて来て、こう言った。
「ああ、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」
私は言った。
「君の形而上学セッションには付き合えない。それに、この部屋の酸素を無駄にしたくない。帰れよ」
「背が高いのね」
「僕のせいじゃない」
「お父様と縁を切り、家名をお捨てになって! もしもそれがお嫌なら、せめてわたくしを愛すると、お誓いになって下さいまし」
その女は30フィート離れたところからはなかなかの女に見えた。10フィート離れたところでは、30フィート離れて見るべき女だった。だから私はこう言ってやった。
「黙れ。不妊症。てめえみてえな低脳と、カンバセーションしてやるぼくじゃねえぞ。何が、お誓いだ。昨日今日覚えた言葉を得意気に振り廻すな! 今日からぼく、おまえのことを畜膿女と呼んでやるからな」
「余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」
「吁、ジュリエットさんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。一月の十七日、ジュリエットさん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、僕は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!」
俺はジュリエットを足蹴にして、煙草に火を点けた。配管修理工のハンカチみたいな味がした。さよならをいうのは、少し死ぬことだ。それから、–––それから先のことは覚えていません。僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失っていました。
そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。のみならず太い嘴の上に鼻目金をかけた河童が一匹、僕のそばへひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」という手真似をし、
「私はデーヴィッド・カパーフィールドではあらない。デーヴィッド・河童フィールドであるよ」
と言いました。それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架を持って歩いてきました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を静かに何町か進んでゆきました。僕の両側に並んでいる町は少しも銀座通りと違いありません。
僕は担架から飛び降り、一目散に逃げた。その時僕はかなり腹が減っていた。脂で黄がかった鮪の鮨が想像の眼に映ると、僕は「一つでもいいから食いたいものだ」と考えた。ちょうど屋台の鮨屋が見えたので、暖簾を潜り、言った。
「海苔巻はありませんか」
「ああ今日は出来ないよ」
肥った鮨屋の主は鮨を握りながら、なおジロジロと僕を小僧のように見ていた。
僕改メ小僧は少し思い切った調子で、こんな事は初めてじゃないというように、勢よく手を延ばし、三つほど並んでいる鮪の鮨の一つを摘んだ。
「一つ六銭だよ」と主がいった。
小僧改メ僕は落すように黙ってその鮨をまた台の上に置いた。
「一度持ったのを置いちゃあ、仕様がねえな」そういって主は握った鮨を置くと引きかえに、それを自分の手元へかえした。
しかし僕改メ小僧は開き直った。さあ、鮪を食わねば。無銭飲食上等である。手持ちは四銭しかないが、構うものか。
屋台には一人前の鮨桶に入った鮨「中」もあった。どうせなら鮪だけじゃなく、これを全部食べちゃえ。
「中」の内容は、カッパ巻き2、鉄火巻き2、エビ1、タマゴ1、イカ1、タコ1、ハマチ1、鮪の赤身1、中トロ1、イクラ1であった。
これらが一人前の鮨桶の中に、エビを中心に、きれいに並べられてある。
さあ、何からいくか。
誰しも少し迷うところである。
「いや、鮨なんてものはね。目についたのから手あたり次第、ガガーッて食べればいいの。ガガーッて」
という人もむろんいる。
そういう人は、この際あっちへ行ってなさいね。あっちへ行ってイカとイクラをいっぺんに口の中へ放り込んでガガーッて食べなさい。食べてゲホゲホとむせんでその辺に吐き出して大将におこられなさい。
しかし懐に四銭しかなかった小僧は鮨桶に手を伸ばすことなく、捨て台詞を吐いた。
「ぼく、こう見えて根がデオドラント志向に出来ているんだ。てめえみたいな小男の糞臭い手で握った鮨なんぞ食えるもんか」
小僧改メ僕は鮨屋の主にそう言い残して、暖簾の外へ出た。雨が降り始めていた。
雨はひどく静かに降っていた。新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音しかしなかった。クロード・ルルーシュの映画でよく降っている雨だ。ひさかたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干る時なきか。雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ。六月一日。雨ふりて寒し。京橋の屋台鮨屋で鮪を食すのを我慢。腹痛あり。終日困臥す。
そして私はスカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ………どっどど どっどど どっどど どどうとばかりに北海道へ働きに出掛けました。
浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたナオミは家に置いていきました。彼女の歳はやっと数え歳の十五でしたから
。
蟹工船はどれもボロ船だった。
労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。
「おい、地獄さ行えぐんだで!」
デッキの手すりに寄りかかった自分には、もはや幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。人生は野菜スープなのです。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
我々はみんな年をとる。それは雨ふりと同じようにはっきりとしたことなのだ。
ナオミは今年二十三で私は六十五になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、七十以上に見られます。
そして下人の行方は誰も知らない。勇者は、ひどく赤面した。だから清の墓は小日向の養源寺にある。でも、お前ら、夢を諦めんな。
製本かい摘みましては(193)
四釜裕子関東鉄道常総線・稲戸井駅(取手市)の近くで、ちょっとおなか空いたねーということで中村ストアーに入った。菓子を選んでいたら奥から大根を煮るいい匂いがする。午後にはお惣菜が並ぶのだろうか。店の入り口にサンルーム的な場所があって、その壁に奇妙なものを発見。「ばんぱくちゅうおう 万博中央」という駅名標が無造作に掛けてある。本物なのかな。お店の方に尋ねると、つくば万博(1985)のときに常磐線に作られた仮設臨時駅のもので、牛久駅と荒川沖駅の間にあったという。どうにも気になり後日その場所を訪ねてみたら、ひたち野うしく駅(牛久市)だった。万博中央駅は万博終了とともに予定通り廃止されたが駅前の宅地開発はみるみる進み、13年後に新たな名前で駅舎もリニューアルして開業した。駆けっこできそうなホーム(実際子どもが走っていた)や高い天井はその名残だろう。広々としたコンコースには二所ノ関部屋の大きな案内板があった。
稲戸井駅から、その日は小貝川の岡堰(取手市)に向かったのだった。小貝川が「く」の字に曲がるあたりで、ごく簡単にいうと、江戸時代に伊奈忠次(1550-1610)らにより新田開発・洪水防御・舟運のために鬼怒川と小貝川が分離され、鬼怒川が利根川につなげられ、小貝川も下流で利根川につなげられ、小貝川に設けられた複数の堰のうちの一つが岡堰ということになる。くの字の角の広いところに小さな島があり橋がかけてあるのだが、渇水期だったので川底を歩いていったらオオオナモミにひっつかれて大変なことになった。広場には歴代の岡堰の一部や関連の碑と間宮林蔵(1780-1844)の像がある。近くの農家に生まれた郷土の偉人は小貝川にゆかりが深い。『利根川荒川事典』(平成16 国書刊行会)から抜粋すると、〈先祖・間宮隼人は17世紀初め、徳川幕府の鬼怒・小貝両川流域開発に際し、関東郡代・伊奈忠治に請われ、小貝川ぞいの常陸国筑波郡上平柳村に入植した土木技術者〉とある。林蔵はその七代目、一人息子だった。
吉村昭は『新装版 間宮林蔵』(2011 講談社)にこう書いている。子どもの頃から堰の普請に興味があった林蔵は、〈毎年春の彼岸になると堰をとめて小貝川の水を貯え、土用あけの十日目に堰をひらいて、水を水田に放つのである。その例年くり返される堰とめと堰切りを村の者たちが手つだったが、林蔵は、その作業が面白く、終日堰の傍に立って熱心に見守っていた〉。岡堰の広場の説明板には「間宮林蔵、幕府の役人に築造方法を教える」と書いてあったが、林蔵少年が13~15歳くらいの頃と考えるとちょっとそれは言い過ぎかなぁ。とにかくなにかと手伝い機転もきいた林蔵は、ある役人に目をかけられて江戸に出て地理調査を手伝うようになり、腕を上げ、下級役人の職を得て、やがて伊能忠敬(1745-1818)にも教えを乞うようになる。年齢がだいぶ違うけど忠敬をしのぐほどの健脚でもあったようだ。
さてこちらはぼちぼち歩く。ひっついたオオオナモミをちまちま取って、岡堰を渡り小貝川の左岸に出る。なかなかの強風の中、チュッパチャップスみたいに整えられた庭木をところどころに見ながら間宮林蔵記念館(つくばみらい市 旧伊奈町)を目指す。林蔵は1808年、松田伝十郎(1769-1842)とともに幕府の命を受けて樺太探検の旅に出た。このとき2人は樺太が陸続きでないことをほぼ確認したのだが、いまひとつ納得しかねた林蔵は改めての単独調査にまもなく旅立ち、そこではっきり確認できたと幕府に報告書を出している。記念館はその報告書に基づく資料を展示していて、探検時の道具や防寒具などもあったが、林蔵がのちに隠密となったために親族のもとに残された遺品は多くないそうだ。
報告書である『東韃地方紀行』(1810)や『北夷分界余話』(1810)に添えられた絵がとてもよかった。これらは林蔵の口述とスケッチを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録、模写したもので、風景や建物、人物、動物など対象は多岐にわたっている。細々した道具から街場の群像まで、また母乳をあげるお母さんとか鳥と遊ぶ子どもとか犬ぞりを操る男とかどれもみんな生き生きしていて、衣服も質感や柄や装飾がいちいち鮮やかで建物や舟の構造はどれも緻密でいかにも正確、とにかくどれも色合いがよくて美しい。林蔵は、のちに間宮海峡と呼ばれることになる海峡を渡ってアムール河を進み大陸に上陸しているが、そのときにデレンという町で清朝の役人から接待を受ける自身の姿も残している。
こうした丹念な記録への関心と技量は、林蔵が江戸に出るきっかけをくれた役人、村上島之允(1760ー1808 前出の村上貞助の養父)の影響によるところが大きいのだろう。『新装版 間宮林蔵』によると、あるとき林蔵がアイヌの生活に興味が出てきたと島之允に話すと、〈「よい物を見せよう。他人に見せるのは初めてのものだ」と言って立つと、部屋の隅におかれた箱の中から紙を綴じたものを持ってきて開いた〉。そこにはアイヌの人たちのさまざまな暮らしぶりが描かれており、細かな解説文も添えてあった。〈「測地のかたわら、こんなことをしている。私もようやく蝦夷人のことがわかりかけてきたので、一つ一つ書きとめている。これから、舟づくり、着物、弔い、宝器などを絵にえがき、それらの解説も書いてゆきたいと思っている」〉。林蔵は島之允のそうした作業にも共感し、手伝っていた。島之允による蝦夷地の記録は亡くなるまで続けられ、いくつかまとめられている。
『新装版 間宮林蔵』には、樺太探検の基点の1つとして「トンナイ(真岡)」という地名がたびたび出てくる。〈日本人の漁場の番屋や倉庫〉もあり、ここで〈舟を操るのに巧みなアイヌたちを雇う〉。林蔵が2度目の探検でトンナイを出たのは8月3日。夏、とは言わないかもしれないけれども、舟で北上して間もなく寒さで断念せざるをえなくなっているから、その厳しさはいかばかりかと思う。9月の中旬には雪も降り、かといって海面は凍結せずでトンナイまで陸路を戻るしかなく、10月24日、リョナイに荷物を置いて〈氷と雪のつらなる五十四里〉を歩き出す。到着は11月26日、トンナイの番屋で体を休めて正月29日に再出発、リョナイまではもちろん徒歩、そこからは舟で北上し、最北端のナニオーに着き、樺太が陸続きでないことを確実にしたのが5月の中旬だった。さらに大陸に向かい舟を出したのが6月26日。林蔵は死も覚悟して、これまでのメモをここで一旦整理していたようだ。
ところで「トンナイ(真岡)」は、真岡(現ホルムンスク)と考えていいのだろうか。北原白秋(1885-1942)が書いた真岡にある製紙工場見学記について、最後に触れておきたい。白秋が樺太を旅したのは1925(大正14)年で、ことさら陽気に書かれた『フレップ・トリップ』(2017 岩波文庫)の中にある「パルプ」がそれだ。〈樺太とはいっても八月の炎暑である〉、正真正銘の夏である。王子製紙は1933年に樺太工業を吸収合併しているから、白秋が訪ねたのは樺太工業(真岡工場は1919年操業)の活気ある時代。移動中、旺盛な原生林に圧倒される表現も随所で見られる。対して、樺太を旅した林芙美子(1903-1951)が、豊原までの列車の中から切り株だらけの野山を見て痛烈に批判したのは1935年だった。〈名刺一枚で広大な土地を貰って、切りたいだけの樹木を切りたおして売ってしまった不在地主が、何拾年となく、樺太の山野を墓場にしておくのではないでしょうか〉(「樺太への旅」 『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』2022 中公文庫)。この間、わずか10年。ちなみに戦後、王子製紙真岡工場はソ連の製紙工場になったが、1990年代には操業停止。今はいくつかの建物だけが残るらしい。
話が逸れたが白秋の「パルプ」、おかしくてせつなくて生々しくて好きなのだ。パルプ文学、製紙文学なるジャンルがあるなら史上最高作品とたたえたい。抄紙工程のごく一部を引用します。パルプと水と熱の声が聞こえます。
〈あの固形体のパルプが、ねとねとの綿になり、乳になり、水に濾され、篩われてゆく次から次への現象のまた、如何に瞬時の変形と生成とを以て、私たちを驚かしたか。この化学の魔法は。
あの鈍色の液状のパルプが、次の機械へ薄い薄い平坦面を以て流れて落ちると、次の機械では、それが何時のまにか薄紫の、それは明るい上品な桐の花色の液となって辷り、長い網の、また丸網の針金に濾されて水と繊維とに分たれ、残された繊維はまた編まれて、吸水函に入り、ここでいよいよ水分が除かれると、たちまちの間に、その次では既に既に幅広の紙らしく光沢めき固まって来て、次のまた強く熱したローラーの幾つかに巻きつき巻きつき、そのローラーを蔽うた毛布の上を通されるその幾廻転をもって、遂に最後の乾燥をおわると、はさはさ、さわさわと白い白い音と平面光とを立てながら、ここにすうすうすうと閃めき出して来る。すっとまた切られて同型同吋の長さとなって、一枚一枚と、大きな卓上に、寸分の謬りも無く、はらりはらりと辷り止まって、積り、積ってまたその層を高めてゆくのだ。
何とまた、あの幅の広い広い、そうして薄手の薄手の白紙が、ローラーからローラーへ、一間の余の空間を辷って巻き附くその全く目にも留らぬ廻転と移動とを以てして、些の裂けも破けも、傷つきも飜りもしないことだ。何という叡智と沈着と敏捷と大胆と細心とを、秘めて、また、示していることだ。その神のごとき巧妙、霊性の作用は何から来る〉。
編み狂う(13)
斎藤真理子 輪編みという編み方がある。
輪編みとそうでない編み方(平編み)は違う。えら呼吸と肺呼吸ぐらい違うと思う。 どっちがえらでどっちが肺か、知らないけれども。
平編みは、一段編んだらひっくり返して裏から編む。それをくり返す。そして「表・裏・表・裏」のリズムが人を極限まで乗せて、「あと一段、」「あと一段」と思わせ、いつまでも編みつづけたくなる魔法をかける。
だが、編みはじめと編み終わりを結んで輪っかにしてしまえば、ずーっと表だけを見て編むことができる。これが輪編みで、輪針というものを使うか、棒針を四本ぐらい組み合わせればできる。
編み物学校に通っていたとき、「首から編み出すセーター」というのを習った。まず首が通る太さの輪っかを作って、そこから編みはじめる。途中で編み目を増やして輪っかをだんだん広げ、脇のところまで進んだら全体を三つの筒に分ける。身ごろ(胴体)と、二つの袖だ。それぞれをそれぞれにぐるぐるぐるぐる編んでいき、三つをちょうどいいところまで編んで目を止める。
面倒な製図がいらないし、綴じたりはいだりしなくていいので合理的だ。けれども、綴じたりはいだりしなくていい分、全部が一体になってるので編んでるとき重い。私は外に持ち出して編みたいので、これには困った。最後の袖を編んでいるときなど、アザラシ(それなりに、のたくる)をあやしながら編んでいるみたいで、肩がこるし、アザラシが嫌いになりそうになった。
それよりも、「あと一段」の魔法が解けて、ひとりぼっちの荒野に取り残されるのが怖い。
「表・裏・表・裏」というリズムを奪われ、ひたすら表だけを見て編み進む。表裏のない世界は怖い。裏がないのは何て恐ろしいのか。
表だけを編んでいると表情が消える。本を読みながら編むと本が味気なくなる。よそ見をする余力を奪われるみたいだった。
輪編みには「編み始め」「編み終わり」がなく、区切りがない。平編みには二段ごとに初期化のチャンスがあり、小さくクールダウンできる。でも輪編みはそれがないので、気がつくと煙が出ていて何かが焼き切れている。
区切りがないのでどこまでもぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。
目的に巻きとられ、あてどない気持ちでぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。
「ぐるぐるぐるぐるぐる」という円滑な気分ではなくて、最後に「ぐ」が残る。
平編みなら二段1セットで完結する何かが、輪編みだとずっと持ち越しになる。その不安が端数の「ぐ」になって残りつづけるみたいで、だから私は輪編みで編むといつも以上に追い立てられている気分になる。
たぶん、輪編みで編まれたものはすべて筒であり、管であり、自分も筒であり管だというところがいけないんだろう。人体は筒や管の集合体だ。そして、追い立てられて筒や管をずーーーっと編みつづけてくことは、奈落に通ずる。
終わりのないトンネルを編み下げていく。
編み掘る。
編み埋もれる……。
一度、輪編みでワンピースを作ってしまったことがある。アザラシでも怖かったのに何をやっているのか。あれはセイウチだったかもしれない。重い糸で獰猛性があり、編み進んでくると、手元で編み地を回すのも辛いほどになった。
そしてどこで止めていいのかわからなかった。予定では膝丈ぐらいで止めるつもりだったがもっと長くなり、加速度がついた(表だけ見て編むのは確かに効率がいい)。自分の体、どこまでいくんだろう。怖くなってきて無理やりくるぶしぐらいの丈で止めたが、実際に着てみると糸の重みで伸びるので、足首まで来てしまう。大げさすぎる服になってしまい、一度も着ていない。糸代が相当にかかったのに。
いつ止めていいかわからないというのは「今が楽しい」ということでもあるが、輪編みのストップできない感じは恐怖に近かった。糸があるかぎり編みつづけてしまいそうだった。糸は大量にあって私を圧迫した。ほぼ無限の時間にストップをかける決定権が自分にあるのは恐ろしい。
願わくば時間はいつか終わってほしい、一人に与えられた時間はやがて終わってほしい、どこで時間を止めるか、そんな采配を私に任せないでほしい。私に力を与えないでください。そう思いながらぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。奈落だった。奈落は色とりどりでやわらかく、あたたかい、けれども針のかけらが混じっている。
たぶん私が輪編みを苦手とするのは、編み込みをほとんどやらないからだろう。編み込みの好きな人なら、表だけを見て編むのは楽しくてとてもいいだろう。編み込みの靴下なんか特にいい。そして靴下なら、最後にキュッと引き絞って筒を筒でなくすることができる。
それにしても、首から編み出すセーターを二、三枚編んであれはやばいと知っていたのに、どうしてワンピースまで輪で編みはじめたのか。知っている地獄を「これ知ってるから」という理由だけで選択してしまうことが人間にはある。
そして輪編みと平編みのどっちがえら呼吸で肺呼吸なのかはまだわからない。わかっているのは、それが呼吸だということだ。編んでいるときは呼吸している。楽な呼吸か苦しい呼吸かは別として。
手を動かすための歩き
高橋悠治こうして毎月書くためには、歩き回る時間が必要だ。足が進めば、頭もはたらく。
手が動くことも助けになるかもしれないが、歩くほどの頭の働きは作れないような気がする。今までは天気が悪かったから、歩いていなかった。今まで書いた文章を見ても、違った思いつきが浮かぶということもない。とすれば、しばらく前に考えた作曲のやり方、以前に書いたページを見返して思いつくことを書いてみることも、注釈以上のことではないかもしれない。
以前は、眼が覚める時、音楽の一節が浮かんでいることがあった。今考えると、それさえも、後から作られた記憶かもしれない。それが音の記憶なのか、楽譜の一節なのかもはっきりしない。記憶がある、と思ったから作られて浮かぶ作り物かもしれない。
そうではなくて、手の指を動かしてみると、それが音符のような感じがしてきた時、指の動きに楽譜の一節が張り付いているような気がするかもしれない。それらの音符を書き留めることには意味がないとしても、楽器の指の感覚が戻ってきた、と感じることはできる。
こうして音楽をする身体を作って待っていれば、響の思いつきが降りてくることもあるだろう。と書いてみて、書いたことを自分で信じる意味もないかもしれないが、楽譜から音とそれを作る身体という順序を逆にして、音を作る姿勢の準備から入るのは自然に見えるし、余裕かもしれない。
論理を追っても、他人の心はわからないかもしれないが、身振りを身体に写すのが伝承と言われ、その意味はさまざまに言われても、意味ではなく、伝承する身体の系列があることで、変化しながら続く、多くの身体の空間と動きが見える。
ここに書いていると、つい論じてしまい、やってないことを書いてしまう。毎月書くことがないと思いつつ、書いていると、後から読み返す気になれないものを書いているのではないかと思いながら、何かを書く、それがノートというものなのか。書いている文字の意味よりは、書いているという行為、その時間のなかに浮かぶ言葉や音の中に隠れているものを、どうやって引き出すか、これが課題と言えるだろうか。
2025年5月1日(木)
水牛だより東京は五月のはじまりにふさわしい快適な日です。暑くも寒くもなく湿度が低くさっぱりとしていて、気持ちがよい。このような日が何日か続くとよろこばしいのですが、早くも明日は本降りの雨で気温も下がるとの予報です。
「水牛のように」を2025年5月1日号に更新しました。
新年度がはじまって間もない連休のせいなのか、定まらない気候のせいなのか、あるいは別の理由があるのかもしれません。今月は思いのほかお休みの人が多くなりました。こういう月があってもよいと思います。来月はみなさん元気で戻ってきてくれるでしょう。楽しみに待っていてください。
それではまた来月に!(八巻美恵)
004 菅(すげ)詩篇――「水(み)ぐま」
藤井貞和京王稲田堤(いなだづつみ)駅と、
南武線の稲田堤駅とのあいだを、
ふと道にまよって、菅(すげ)の原、
沼地の奥です。
こすげの白いさきを濡らして、
あなたは京都の沼に去り、
わたしは奈良の「水(み)ぐま」を引き上げると。
み吉野の水ぐまの菅を、
〔み吉野の水隈(ぐま)の菅を〕
編まなくに苅りのみ苅りて、
〔編みもしないのに刈るだけ刈って〕
乱りてむとや
〔乱れるままにしておいてよいの?〕
折口が傑作とする巻十一、
二八三七歌です。
水ぐまって何だろうね、
自嘲の歌だと折口は言う。
いとしい人を手によう入れないで、
いま多摩地の水場に嵌るわたし。
(何回目かのまんようしゅうの通読は、まだ本文にかかずらわって、いつ終わるのかな。
み吉野〔之〕ノ水(=み)ぐまが菅(=すゲ)を〔不〕編まなくに、苅り〔耳〕ノミ苅りて〔而〕〔将〕乱り(て)むトや〔也〕
万葉びとの用字をそのまま生かして現代に持ってくる最初の試みだ。だれもやってないね。〔之〕とか〔不〕とかの漢文の助字はかなに変え、上代音(カタカナ表記)を現代語に合わせるまでが許容範囲だろうよ。
み吉野の水(=み)ぐまが菅(=すげ)を編まなくに、苅りのみ苅りて乱りてむとや
かれらの苦心の表記が伝わるでしょう。全部で四五一六首、一通り終わって自分だけが利用している。「三吉野之 水具麻我菅乎 不編尓 苅耳苅而 将乱跡也」(原文)だと、さすがに読める人は現代にめったにいないだろうから、家持(やかもち)さん許して。)
立山が見える窓(1)
福島亮窓の向こうの立山は、まだ白い。それでも春は初夏へと着実に移ろいつつあって、我が家の近くでは、チューリップの花弁が散り、ふっくらとした子房が露出している。神通川の土手に植えられたソメイヨシノもすっかり葉桜だ。富山市の駅近くは、おそらく空襲のせいだと思うのだが、古い建物がほとんどなく、街のつくりが幾何学的にできている。とりわけ、神通川に対して垂直にのびる大通りには、欅や花水木といった植物の名前が付けられており、じっさい街路樹として当該の植物が植えられている。だからいちいち地図で通りの名前を確認する必要はないし、おおよその位置関係さえ掴めていれば、目的地まで比較的簡単に行くことができる。それら道標となってくれる植物たちも、柔らかそうな若葉を纏い、日光をほのかに反射して、淡い光に包まれているように見える。それまで室内で保護し、冬の間は水をやらず、干からびていたバオバブも、よく見ると小さな芽を出している。芽を出すための水をどこに隠し持っていたのだろう。
こんなふうに新天地にも春が訪れているのだが、じつは4月の後半は、せっかく馴染んできた街から離れて、週末は都内にいた。ボリビアの映画制作グループ「ウカマウ集団」の連続上映企画「ウカマウ集団60年の全軌跡」に立ち会うためである。監督ホルヘ・サンヒネス(Jorge Sanjinés, 1936−)の最初期の作品「革命 Revolución」(1962年)から、今回日本初上映となる最新の作品「30年後——ふたりのボリビア兵 Los Viejos Soldados」(2022年)まで、全14作品が新宿のK’sシネマで上映される。この上映を始点として、以降、神奈川、北海道、長野、愛知、大阪……と巡回上映されるというから目が離せない。
初日は4月26日土曜日の10時30分からで、「革命」と「ウカマウ Así es」(1966年)が上映された。「革命」は白黒の映像と音楽、そして音だけで構成された10分ほどの短編である。小さな劇場にはまだ幸いなことにしっかりとした暗闇があって、その暗闇のなかでスクリーンに浮かび上がる白黒のイメージたち、とりわけ最後に映し出される子どもたちの表情、その目の力、その頬の赤み——きっと、燃えるように赤いはずだ——、その唇の乾燥などが生々しく見えた。続いて上映された「ウカマウ」も、やはり白黒なのだが、今度は台詞がある。ティティカカ湖の島——太陽の島——で暮らすインディオの夫婦と彼らを支配するメスティーソとの言語的差異が印象的だ。その違いはまた、作品中で奏でられる音楽にも表れていて、というかそれこそがこの作品の重要な仕掛けであって、ケーナの音や弦楽器を弓でこする音、そして打楽器の乾燥した音が、本作の最後に用意されたドラマをじわじわと準備しているのである。
初日の午後に上映された「女性ゲリラ、フアナの闘い——ボリビア独立秘史——Guerrillera de la Patria Grande, Juana Azurduy」(2016年)と「30年後——ふたりのボリビア兵」は、午前中に上映された最初期の作品とコントラストをなすように配置された最新の2作品である。暗闇のなかから浮かび上がる白黒の豊かな世界に浸った目には、これら2作品の鮮やかな色彩はむしろ物足りなさを感じさせもするのだが、「女性ゲリラ、フアナの闘い」は台詞によって、「30年後」は音楽によって、別様の豊かな世界へとその場にいる者を引きずり込む。1932年から1935年にかけてボリビアと隣国パラグアイのあいだで起こった戦争に従軍していた白人兵士ギレェルモと、新婚のお祝いのさなかに拉致され、強制徴用されたインディオのセバスティアンとの間に生まれた友情を描く映画の最後、ふたりがすれ違いそうになる瞬間に鳴るチェロのゆらめくような音は、午前中に観た「ウカマウ」における死者を悼んで老人が奏でるヴァイオリンとの、時を隔てた連続性を感じさせる。
このような映画を観られるということ、そしてなによりも、「ウカマウ集団」と太田昌国らシネマテーク・インディアスとのあいだに築かれた関係性を目撃できることを嬉しく思う。
今週末もまた、「ウカマウ集団」にとっぷりと浸ろうと思う。
水牛的読書日記 2024年4月
アサノタカオ4月某日 キム・ジニョン『朝のピアノ 或る美学者の『愛と生の日記』』(小笠原藤子訳、CEメディアハウス)を読む。著者は、韓国でドイツ・フランクフルト学派の批判理論(アドルノ、ベンヤミン)を研究する哲学者・美学者で、フランスの思想家ロラン・バルト『喪の日記』の韓国語訳者。本書は、そんな人が病の宣告を受け、命を終える3日前までメモ帳に遺した随筆的な断章集だ。闘病の渦中で、「新たな生」を願う痛切な自己省察のことばが深く身に沁みる。
小さな、美しい本。昨夜、SNSでふと刊行情報を見かけて、いてもたってもいられない気持ちになり、書店に駆け込んで本を買ったのだった。よい本に出会った。明日からの旅の道中でもう一度読み直そう。
4月某日 花曇りの京都へ。東九条の京都市地域・多文化交流ネットワークサロンで、久保田テツさん監督『ここのこえ~藤やんと西やん』の初上映会が開催され、上映後のトークにBooks×Coffee Sol.店主で東九条マダン実行委員のやんそるさんとともに出演し、コメントをした。
『ここのこえ』は、大阪・西成で野宿生活をしていた「藤やん」と、「西やん」こと看護師で臨床哲学者の西川勝さんとの対話を記録した映像作品。藤やんは生活保護を受給し、衣食住に困ることはなくなったが、その矢先に余命3か月を宣告される。「なんで、もう死にそうな自分が幸せなのか、わからん。なんでや」と問う藤やんのベッドサイドで、西川さんが哲学者として応答する。静かな、真剣勝負の時間。時に「そうやなあ……」と「西やん」の言葉を呑み込むように納得し、時に「そうかなあ……」と身をかわすように視線をそらす藤やんの一瞬一瞬の表情。そこに、「ひとり」を生き抜き、「ひとり」を考え抜いた人間の顔が迫り出してくる——久保田さんの映像に目を瞠り、深い感銘を受けた。そしてやんそるさんが西成と東九条の地域社会、在日コリアンと韓国・光州事件の歴史をつなげて語るこの作品についてのコメントは、胸を打つものだった。
上映後に関係者の案内で、桜を眺めながら高瀬川沿いを散策し、京都市立芸術大学の地域交流施設「崇仁テラス」を見学した。その後、鴨葱書店を訪問し、『ことばの足跡』(あかしゆか・大森皓太・韓千帆・椋本湧也、ユトリト)を購入。4人の著者による、「あいうえお」以下50音順の単語を題にしたエッセイを集めた本。「台所」という作品がよかった。
翌日、三重・津のひびうた文化協会で「ともにいるための作文講座」の講師をつとめるため、近鉄の特急電車で夜の京都駅を出発。
4月某日 日本のカウンターカルチャーをテーマにするドキュメンタリー映画『inochi』を監督として製作中の写真家・映像作家、宮脇慎太郎。彼の誘いで、新宿の路上で行われるラストシーンの撮影に立ち会うことになった。
伝説的なヒッピーコミューン「部族」の元メンバーで、諏訪之瀬島に暮らした詩人・長沢哲夫さん(ナーガ)の立ち姿に、ムービーカメラを向ける。と、高層ビルの隙間から夕陽がさしこみ、詩集のページを開く詩人の顔をやわらかな黄金色に染め上げたのだった。
4月某日 今春から大学での編集論のほかに、専門学校で留学生にアカデミック・ライティングを教えることになった。ミャンマー、ネパール、ベトナム、韓国、中国、モンゴルなどアジアを中心に世界各地からやってきた意欲的な学生とのたのしい会話に刺激を受けている。
4月某日 東京は雨。大学で編集論の授業を終えた後、閉店前の機械書房へ。「随筆復興」を掲げる文芸誌『随風』(書肆imasu)を購入。同誌の寄稿者でもある店主・岸波龍さんから、かとうひろみさんの小説「陰膳とスパゲッティ」を推薦してもらった。掲載誌『るるるるん』vol.5も入手。
4月某日 夜、世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書は韓国の作家ハン・ガンの小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社)。
4月某日 三重・津のブックハウスひびうたで自分が主宰する自主読書ゼミにオンラインで参加。課題図書は石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)の第6章。今回は差別の歴史と構造について、人々の生きる年月について。じっくり読み続けることでようやく見えてくる人間の真実がある。
4月某日 昨年に引き続き、東京・神保町の韓国書籍専門店チェッコリで「書評クラブ」を主宰することになり、第1回を開催。これからメンバーは各自、韓国文学の小説から「推し本」を選び、レビュー執筆に取り組む。そして作品を集めたZINEを制作し、11月に開催されるK-BOOKフェスティバルや全国の書店で販売することを目指す。楽しみだ。
4月某日 韓国の作家ファン・ボルムの読書エッセイ集、『毎日読みます』(牧野美加訳、集英社)を読む。ベストセラーから硬派な人文書まで、紹介される書物をめぐる話はどれも興味深いものだった。何よりも、「こんなふうに本について語れたら……」と憧れを感じさせる軽やかな文体に、魅了されたのだった。犬吠徒歩さんの絵で飾られた装丁もよい。
愛する本について語り、愛する人びとについて語る作家の親密な声の余韻に浸りながら、もっと本を読みたいと思ったし、読んだ本について誰かと語り合いたい、と思った。
4月某日 夜明けに目覚めたので、早朝の海辺を散歩し、曇り空の下で貝殻や小石を拾ったりした。
散歩の後、今日は1日集中して読書をしようと決心し、文化人類学者イリナ・グリゴレさんの『みえないもの』(柏書房)を読む。これまで、人類学と文学が交差する領域の本をあれこれ探して読み継いできたが、この作品は出色の一冊だと思う。ことばによって、ことばの外側にふれるような文章を読みたいとつねに願ってきたのだが、まさにこれがそれだと直感した。
「知らないだけで終わらない、光を追うのだと知らされる」。表題作「みえないもの」の最後に置かれた目の覚めるような一文に導かれて、前半の色鮮やかな生命の世界から後半の「彼女」の物語に入り、息をのんだ。読む目が凍りついた。
どこで「私」が終わり、どこで「彼女」がはじまるのか。どこで事実が終わり、どこで夢がはじまるのか。どこで人間が終わり、どこで虫がはじまるのか。自他が相互に溶け合うほの暗い文の世界で、悲しみ、痛み、感情や感覚のヴェールを歯ぎしりしながら一枚一枚めくり、〈彼女たち〉の記憶の奥へと恐る恐る進む。そして最後にページを閉じた瞬間、きわめて重要な沈黙の教訓が自分の元に来訪したように感じて、いまもからだの芯が震えている。それが何だったのか、この本を何度も読み返しつつ人生の中で考えてみたい。
4月某日 東京は雨。大学で授業を終えた後、機械書房へ。江藤健太郎さんの新刊小説集『すべてのことばが起こりますように』(プレコ書房)の即売会が開催されていたので本を購入し、店主の岸波さんの紹介で作家の江藤さんのお話を聞くこともできてよかった。帰路の電車内で読み始めたのだが、冒頭の一編「隕石日和」から独特の小説世界に引き込まれる。
4月某日 関西を旅するハーポ部長から編著『本のコミューン』(文借社)が届いた。東京・下北沢にあったブックカフェ気流舎の活動記録集。以前、お店で開催された今福龍太&上野俊哉両先生の対談、「メキシコの真木悠介」も掲載されていて、これにはぼくも参加したのだった。本とともに、詩人のミシマショウジさんらのZINE『詩の民主花』(黒パン文庫)も添えられていた。
午後は、東京・吉祥寺へ。快晴、初夏の暑さを感じて上着を脱いだ。移動中の電車で、宮内勝典さんのエッセイ集『海亀通信』(岩波書店)を読む。
話の話 第26話:備えすぎて憂いなし
戸田昌子わたしはまた、京都に来ている。昨年は、たぶん、6回から7回、京都に来た。回数が正確でないのは手帳に行動記録を書き留める習慣がないからだし、万が一そうしていたとしても、手帳が見つかるとは限らないし、たとえ見つかったとしても、このわたしが手帳を開くとも思えないので、わたしの記憶は決して正確な記録と折り合うことがない。そしてなにはともあれ、わたしは京都に来ている。しかも今回は、帰りの新幹線までちゃんと予約してあるのだ。けれどいま、新幹線予約アプリを開いて確認すると、わたしはどうやら、「また」、こだまを予約してしまっているらしい。ゴールデンウィークだからと言って、今回は用意周到にも、1ヶ月前に行きも帰りも予約したというのに、わたしはなぜ、また、間違えてしまったのだろうか。それは一体、のぞみでしょうか? いいえこだまで……。
ちょうど東京が暖かくなり始めたところだったから、用意周到にも、服はノースリーブまで用意してあった。しかし出発の朝の東京の冷え込みは激しく、こんなふうなら京都はもっと寒いだろうと考え、出発直前にタイツを2枚ほどスーツケースに押し込んだら、案の定の寒さで、すでに防寒着は足りない。しかもわたしが滞在している「下鴨ロンド」は古民家で、まだ改築が終わっていないので、窓ガラスが割れているところもあれば、壁がひび割れているところもあり、さらには天井が抜けているところさえあるため、ほぼほぼ「トポロジー的には外」なのだ。下鴨ロンドはわたしが2年余り前からシェアメイトをしているシェアハウス的な施設で、運用が始まって3年目に突入している。その間、シェアメイトたちは自身でキッチンの床板を張り替えたり、庭の大きな切り株を呑気に引っこ抜いたりしている。そんな調子なので、改築にはあと数年はかかるだろう。そう鷹揚に構えながらわたしは湯たんぽをベッドに仕込み、寒い寒いと言いながら最初の晩は眠りについた。そして翌朝、凍えながら目覚め、ふとカーテンを開けると、窓がしっかりと開いている。なるほど、寒いわけである。
備えあれば憂いなし、という言葉がある。娘が幼稚園に通い始めたばかりの頃だから、3歳くらいだっただろうか。用意周到で失敗をしたくない性格の娘は、トイレトレーニングで失敗すれば、幼稚園に通いたがらなくなってしまう恐れがあった。幼稚園からの指示で、毎朝、予備のパンツを1、2枚持たせて送り出すのだけれど、その数が間に合わずに幼稚園の共有のパンツを借りて帰ってくることが何度かあった。失敗を好まない娘はどうやら、そのことに忸怩たる思いを持っていたと見え、あるとき、「幼稚園のパンツをはきたくない」とわたしに訴えたことがある。それは気づかなかった、悪いことをしたなぁと思い、その翌日、パンツを8枚、小さなリュックに押し込んだわたしは、「どんなに失敗しても大丈夫、間に合うよ」と娘に伝えて送り出した。あとで先生が話してくれたことには、その朝、娘は先生に会うなり「きょうはパンツ、はちまい、ありますから、だいじょうぶ!」と誇らしげに伝え、結局、その日は一度もトイレの失敗はしなかったのだという。それ以来、幼稚園でのトイレの失敗は劇的に減ったのであった。用意周到であることの大切さを学んだ出来事である。
失敗をしないように準備をすることも大切だが、失敗をした場合に、いかにそれを回収するかも大事である。わたしは小学生のころ、鍵っ子だった。6人兄弟だから、全員が鍵っ子でもおかしくないところなのだけど、実はわたしだけが鍵っ子であった。どういうことかと言うと、両親が共働きの家庭だったので、本来ならわたしも学童クラブに入るべきところを、なぜか母は断固として「まあちゃんは学童クラブなんて好きじゃないから申し込まない」と決めつけたのである。「まあちゃんは、家でひとりで本を読んでいたいんでしょう」というのが母の主張で、わたしのほうはと言えばそれほど強い意志もないまま、なるほど母がそう言うのならそうなのだろう、と素直に納得し、ひとり鍵っ子になった(他の子は全員学童へ通っていた)。だから誰よりも早くに帰宅すると、ランドセルの小さなポッケに入っている鍵をひっぱり出して、自分で鍵を開けて家に入るのだけれど、使ったその鍵を、なぜかわたしはしばしば元に戻さなかった。その理由は明らかでないが、帰宅するとランドセルを玄関に放り出し、そのまま玄関で本を読んでいたという、うっすらとした記憶はあるので、そんな調子で鍵をそこらへんに放り出してしまっていたようである。だから鍵がランドセルへ戻らなかったその翌日は、帰宅しても鍵がない、ということが起きる。そんな日は仕方なく、誰か他の子が帰ってくるのを玄関にしゃがみこんで待つことになるのだが、そんなときはもちろん、読みかけの本が役に立つ。そういったことがしばしばあったので、用意周到なわたしは、ランドセルに読み差しの本を入れておく癖がついた。鍵を元に戻す癖はつかなかった。
しかし、帰ってくる他のきょうだいを待てばいいとは言っても、彼らの学童が終わるのは5時ごろで、わたしが帰宅するのはせいぜい3時過ぎなのだから、寒い冬などはかなり辛いものがある。自宅は4車線ある国道に面した三階建ての鉄筋コンクリートのビルだから、裏口もないし、1階は階段に続く玄関スペース以外は店舗貸ししていて、家に入り込むことはできない。そんな隙間は、あるはずもない。いや、ないわけではない。玄関の脇、地上160センチくらいの高さに、明かり取り程度の小窓がある。その窓は隣接するビルに面する壁側についていて、ビルとビルとの隙間は、およそ60センチである。しかしそんな窓から入れるわけがない。いや、入れるわけが……と考えた挙句、ものは試しだと、その隙間に体を差し入れてみた。小学生の子どもの体なので、意外にスイッと入れる。しかし問題は、自分の背丈よりも高い場所にある窓によじ登って侵入できるかどうかである。手を伸ばせば、窓に手は届く。鍵は……開いている。そこで体をよじらせ、ビルの壁と壁との間にうまく突っ張らせながら登ってみる。小さな子どもの体なので、意外にも登れてしまう。慎重に上半身を窓から差し込み、どうにかうまく下半身もすべり込ませる。無事に侵入成功。玄関の鍵を開け、扉の外に置いておいたランドセルを回収して、何事もなかったかのように自宅に帰還したわたしは、やはり本を読み耽り、鍵を探そうとはしないのであった。この玄関窓の鍵についてはわたしはその後「用意周到にも」閉めずに放置する習慣がついた。そんなわけでわたしはその後、たびたび家宅侵入を繰り返すことになる。
関係のない話だが、フランス人はレタスを振る、という話がある。この話がどこにあるのかというと、わたしの妄想のなかにある。どう考えても、フランスに長年在住している姉か妹のどちらかに聞いた話なのだけれど、いまふたりに尋ねても、そんな話をしたという記憶がないと言うので、この話はもう完全にわたしの妄想の中だけに存在する話である。説明すると、まず、サラダスピナーと呼ばれる、まるで洗濯機のように洗った野菜の水を切るための道具がこの世には存在している、というところから話は始まる。もしあなたが水っぽいべちゃべちゃしたサラダを食べたくないなら、洗ってちぎったレタスをこの道具の中に入れ、紐を引いたりつまみをぐるぐる回したりして、水を切るべきである。基本的にプラスチック製のこの道具は比較的近代のものなので、それ以前の人たちはどうしていたか。また、こんな道具がなかった時代の人はどうしていたか、というのがこの話のキモである。ちなみにフランスの集合住宅はキッチンが窓際にあることが多いので、昔の人はレタスを洗うと、ちぎったりせずに丸ごとそのまま窓のところへ持って行き、逆さにして、ぶんぶん振っていたのだと言う。たとえばのんびりした日曜の朝などに、そうやってレタスを窓で振っていると、お向かいのキッチンの窓でも、お隣のキッチンの窓でも、同じようにレタスを振っている人の姿がちらほらと見られる。するとフランス人のことだから、レタスを振りながらおしゃべりを始めてしまうので、延々とレタスは振られ続けることになり、いつまでたっても朝ごはんが始まらない、という極めてフランス的な朝の風景についての話なのだが、このような風景は、用意周到に準備されたサラダスピナーの出現によって消えていったのだ、と言う。しかしこの話をしてくれたのが誰なのか、事実なのかどうかは今ではすでに明らかではない。ちなみにレタスはフランス語では「れちゅ(laitue)」である。フランス人はもうレタスを振らない。もう森へなんか行かない。
昔、「ゲルパーティ」という遊びがあった。あるとき、大学の部室でやることがないままダラダラとしていたときに、先輩の一人が「ゲルパーティをやろう」と言い出した。なんのことかときょとんとしていると、「おまえはゲルパーティをやったことがないのか」と言われ、なんだかよくわからないままに「買い出しをするぞ」と言う先輩についてコンビニへ行くことになった。とにかくゲル状のものをひとり3、4個買うように指示され、ゼリーやプリン、ヨーグルト、しまいには豆腐までもが買われていく。皆で部室へ戻ってくると、じゃんけんで順番を決めてルーレットを回す(用意周到にも、部室にはルーレットが用意されていたのだった)。そしてルーレットの出た目の数だけ、ゲル状の食べ物を選んで食す。ここでいきなり「6」などの数字を引いてしまえば地獄である。1周目でもう脱落者が出ることになる。最初は回避したとしても、2周目、3周目と回ってくれば腹は膨れるし、酒などの回し飲みなどと違って酔うこともないから、盛り下がることこの上ないゲームである。参加者はだんだん白目を向いてくる。最後まで残った人間の勝ち、というルールだったが、勝ったとしても、全然嬉しくないゲームであった。あのパーティがあの部室で、現在でも今でも行われているのかどうかは、寡聞にしてわたしは知らない。
しかしやはり、備えすぎてしまうものの代表は、旅先で読む本の分量ではないだろうか。旅先では、昼は仕事や観光のために忙殺され、夜になれば当然のように酒を飲んでしまうため、本を読む時間などほとんどない。そう考えれば、お供の本は1、2冊で十分なはずなのに、なぜわれわれは最低でも4、5冊、しかも分厚い単行書さえカバンに入れてしまうのか。旅先でカバンの重たさに耐えかねて郵便局で荷物を自宅に送る手配をするたびに、用意周到さもたいがいにしたほうがいいのでは、と自省する日々である。
そういえば、映画「新幹線大爆破」のリメイク版がNetflixで配信されていて、なかなか評判がいいらしい。ちなみにオリジナルの1975年版で爆発物が仕掛けられた新幹線は、「ひかり109号」であったが、今回は東北新幹線「はやぶさ」が舞台なのだそうだ。のぞみでしょうか、いいえひかりで……いやいや、今回は、こだまで帰ります。
夜の山へ登る(2)
植松眞人 ほら、うちの学校は昔から演劇が強かったやろ。県の演劇祭にも出て、賞をもらったりしてたらしい。中学の演劇部って、わりと適当なとこが多いから、演劇祭に出ても目立つらしいわ。だいたい秋になると、演劇部が決勝に進んだいうて、野球部とかサッカー部みたいに、クラスから何人か代表で応援に行かされてたやろ。大きなバスに乗せられて。なんでも、演劇部ができたときの顧問がゴリゴリの左の人やったらしいな。その先生がよう言うてたらしい。
「芝居っちゅうのは、みんなが手を取り合った新しい目標に向かうための運動なんや」
なんでも、その初代の演劇部の顧問の先生はもともと役者をやってた人で、東京の演劇界にも知り合いがおったらしい。そやから、たまに関西で公演があったら、知り合いの有名な役者を学校に呼ぶんやて。いまとちごて、中学生いうたらまだまだ子どもや。東京から役者が来るいうたら、知らん役者でもみんな大騒ぎやったらしいわ。そんなんやから、毎年、新入生がぎょうさん入るし、賞も獲るしな。僕らのころは、まだその頃の名残があったんちゃうかなあ。
おまけに、僕らの頃の演劇部の顧問が黒部先生や。そうそう、あのええカッコしいの黒部や。その黒部が文化祭で劇をやるいうたら、演劇部の芝居でもないのに全部チェックしてたらしいんや。そやからあの時も、ほんまは予行演習で黒部と教頭が劇の脚本とか中身とか、合唱のクラスの選曲とかをチェックしてたらしい。うちの担任やった小林先生はチェックされたら、「なんやこれは、ちゃんとした劇をせえ」と怒られると判断したんやろな。「うちのクラスは、まだ見せられる段階やないんです。けど、中身はこぶとり爺さんです」言うて誤魔化したらしいわ。絶対、あとで学年主任と教頭に怒られたと思うけど、小林先生、どっちも大嫌いやったからな。
僕、一回聞いたことあるねん、小林先生に。「先生、黒部のこと嫌いでしょ」
そしたら、小林先生はニヤッと笑いよった。
「おかしいやろ」
「なにがですか」
「日本の西洋の演劇はだいたい左翼が始めたんやで。チェーホフとかな。ああいう、ロシアの演劇が共産運動と一緒に流行ったわけや。ということは、黒部先生も左翼の端くれなわけよ。そやのに、劇をチェックするって、検閲やんけ。僕はそういうのがめちゃくちゃ嫌いやねん。演劇祭で賞を獲ったかどうかしらんけど、ちょっと目立ったら、教頭と一緒に検閲する側におるって、戦時中のアホな軍人と一緒やないか。あかん。絶対ゆるさん」
言うてるうちに、小林先生、本気で腹が立ってきたみたいでな。だんだん顔が赤なって。まあ、そんな小林先生の心づかいで、僕らの芝居は無事に文化祭で上演されたというわけや。
けど、うちのクラスの劇はえらいウケてたなあ。生徒にも保護者にも。まあ、ウケるわな。あんなアホみたいな芝居、僕もいまだかつて見たことないもん。クラスのほとんど全員が舞台に立って、好き勝手に昆布みたいに揺れてるだけやで。
みんな、あんたのおかげで、面白い体験ができたいうて喜んでたけど、ホンマはあんたは賑やかなことが嫌いなだけやった。文化祭の帰り道で一緒になったとき、あんた言うてたなあ。
「妙に盛り上がって、しんどかったな」
そう言うて、なんや知らんけど、えらい寂しそうな顔したなあ。僕はあんたのあの顔が忘れられへんのや。自分で盛り上げといて、盛り上がったクラスに溶け込むわけでもなく、仲間はずれにされたみたいな顔してた。そうか、あんたはあの頃から、まわりとうまいこと折り合いを付けられへんかったんやなあ。
「六甲山がええか、夙川の海がええか、お前ならどっちを選ぶ」
あんたがそう言うたのは、そろそろ僕の家に着くかなと思ったところやった。六甲山か夙川の海と言われてもなんのことかわからへん。僕はしばらくあんたを見てた。あんたも、しばらく黙って僕を見てた。僕がなんと答えたらええのかわからんといると、あんたはまた寂しそうな顔して笑った。
「ほな、また明日な」
あんたはそう言うと僕の家の前を通り過ぎた。文化祭のその日は日曜日やったから、次の日は代休で休みやった。そして、その翌日の火曜日、僕が学校へ行くと、あんたはおらんかった。小林先生から、吉村君は転校しました、いうて短い報告があっただけで、あんたの話は終わった。クラスの男子が何人か集まってあんたの話をしたけど、どこに転校したのか誰も知らんかった。(続く)
アロエ座
芦川和樹灯、灯ここまで
来ましたね」がま口がいいました
ま王になって、待っていました
あけがた(明け方)は
とっくによみおわってしまって
ほらそこに、たたんであるでしょう
きんようびにはその状態でしたよ」
かさ、がひつようだったので
――小料理屋にて
あの日はスープをいただきました
ですから、帰りはさじ(匙)をさしました
天候
は、さまざまです」アロエが風向きを‥
し
へ
問がうまれて
襟から、エスケープしていく
ユーカリがそれを手伝う
肩が凝る
はしごがあれば
らくだし
探偵たちを、あざむけるのに
――ちょっと先を見すえる
いすと(椅子と)
いすをほどいた糸
家具だったものがもういちど
うまれなおすときの
学問
フェルトの国
灯、灯とうとう!
ここまで来ましたね」ま王、菜種油を飲む
うがいして、手を洗うアロエ
(手を洗って、うがいするアロエ)
ハンカチをください
――タオル、タオルケット
がま口の喉をなつだという
夏季だという、花器だという
ながいときがながれました
」向かいあって、無機質だといいました。どちらかがいいました、ここにはふたつの生体があり、難しいことを考えたり、できるだけ考えなかったりすることで、たまにほほほと笑います‥
プチプチ
篠原恒木おれはプチプチが欲しかった。
プチプチ。
これで通じますかね。どう考えても俗称だよね。
おれは段ボール箱に品物を入れて宅配便で発送しようとしていた。あいにく大きな段ボール箱が自宅になかったので、宅配便の営業所まで出掛け、無事に購入できた。だが、送りたかった品物はいわゆる「ワレモノ」だったので、箱の隙間に入れる「アレ」が必要だった。
そうです、「アレ」とはプチプチのことです。あのプチプチも必ず宅配便の営業所で買えると思っていたのだが、プチプチは正式には何という名前なのだろう、とおれは営業所の受付で逡巡してしまった。気が付くと口をついて出てきた単語はやはり、
「プチプチ」
だった。オノマトペと言えば聞こえはいいが、六十四歳のジジイが言う言葉としては間抜け以外の何物でもない。
「プチプチ、ありますか? あの、隙間に詰めるプチプチ」
受付の女性は言った。
「緩衝材、置いていないんですよ」
そうか、緩衝材か。言われてみれば確かにそうだ。目から鱗だ。立派な一般名詞ではないか。断じてプチプチではない。不明を恥じた。我が語彙力の欠如を嘆いた。でも通じた。通じりゃいいんだよ。よかったよ。
「そうですか。どこへ行けば売っていますかね」
「ホーム・センターなら確実ですね」
しかし最寄りのホーム・センターは歩いて行くのには遠すぎる。おれは質問を変えた。
「ドン・キホーテで売っていますかね?」
「ああ、売っていると思いますよ」
よかった。ドン・キホーテなら宅配便の営業所からすぐのところにある。おれは早速ドン・キホーテへと足を運んだが、緩衝材の売り場が見あたらない。店員の女性に訊いた。
「緩衝材はどこにありますか?」
「カンショーザイ?」
通じない。おれは質問を変えた。
「プチプチはどこにありますか」
「ああ、プチプチですね。こちらになります」
親切な店員はそう言って、おれをプチプチ売り場まで案内してくれた。何のことはない、一般名詞の「緩衝材」より、俗称の「プチプチ」のほうが人口に膾炙しているではないか。
のちに調べたところ、「プチプチ」の名前は正式には「ポリエチレン気泡緩衝材」と言うらしい。しかしですね、売り場で
「ポリエチレン気泡緩衝材はどこに置いてありますか」
と訊く客がどのくらい存在するのだろうか。やっぱりプチプチだよなぁ。
昔はあのポリエチレンに包まれた気泡をひとつひとつ、丹念につぶしていましたよね。つぶすたびにプチプチとしか形容できない音がしましたよね。つぶしていくのに飽きると、雑巾を絞るようにねじりましたよね。するとプチプチではなく「ブチブチブチブチブチッ」と派手な音がしましたよね。あの一連の行為の何が楽しかったのだろうといまでは思うが、それはともかく、あれは「ポリエチレン気泡緩衝材」ではなく、断乎として、恥じることなく「プチプチ」と呼びたいとおれは思う。
そうだ、こうなったら、プチプチに見倣って、あらゆるものをオノマトペにしてしまおう。
「すみません、ネバネバ売り場はどこですか」
と、店員に訊くと、納豆のコーナーに案内してくれるかもしれない。そこでおれは言う。
「違う違う。ネバネバはこれじゃない」
おれが欲しかったのは、めかぶだ。
「プルプルをください」
ゼリーを持ってきてくれたが、残念、おれが食べたかったのはわらび餅だ。
「ホクホクはどこに置いてありますか」
店員はジャガイモ売り場へと案内してくれる。惜しい。おれはサツマイモが欲しかった。
「カリカリが欲しいんですけど」
かりんとうを出してくれたが、おれの目当ては芋けんぴだった。
「スパスパをください」
「どれになさいます?」
ずらりと並んだ煙草の棚を指さして、店員は言った。そうなるよな。
「ぞろぞろをください」
とお願いすると、草鞋を出してくれた。店員は落語好きのようだ。
「じゃあ、つるつるはありますか」
そう訊くと、着ているものを脱いで縄を拵えてくれたが、落語はもういい。おれが欲しいのは蕎麦だよ。ついでにもうひとつ。
「だくだくはありますか」
「だくだくと血が出たつもり」
しつこいな。落語はもういいと言っているのに。欲しいのは牛丼のつゆだくだよ。
ううむ、こうやって考えていくと、やはりプチプチという俗称は最強なのだということがよくわかる。ほかのものは通じるようで通じないもんね。ワンワン、ニャンニャンと肩を並べるレベルだよ。すごいな、プチプチ。
だが、さらに調べると「プチプチ」という名称は、川上産業株式会社の登録商標だというから驚くではないか。俗称などではなかったのだ。ああ、知らなんだ。ちなみにプチプチは川上産業が日本独自で初めて製造・販売を始め、いまでは同業界の六十%のシェアを維持しているという。すごいな、川上産業。会社の名前も知らなかったけど。
ということは、そう、「プチプチ」は「セロテープ」「バンドエイド」「サランラップ」「エレクトーン」と同じ仲間なのだ。これからは口の利き方に気を付けよう。だって、川上産業以外のポリエチレン気泡緩衝材に対しては「プチプチ」と呼称してはいけないのだからね。まあ、「いけない」とはいえ、罰せられたり、第三者委員会が立ち上げられたり、コンプライアンス懲罰委員会に呼び出されたり、家宅捜査を受けたり、謝罪会見に追い込まれたりするわけではないのだが、社会人としてそこんとこはちゃんとしなければならないと、おれは思うわけですよ。
したがって、ワレモノなどを梱包するとき、気軽に、
「あ、そこのプチプチ取って」
などと言ってはいけない。ちゃんとメーカーを調べて、川上産業以外のものだったら、
「あ、そこのポリエチレン気泡緩衝材を取って」
と、言いましょうね。めんどくさいけど。
最後にクイズだ。次のなかから商標登録されていないものを選べ。
・ウォシュレット
・シーチキン
・美少女
・テトラポッド
・体育会系
・ボランティア
・万歩計
・リストラ
正解者の中から厳正な抽選によって、重量1トンのテトラポッドを1個、プチプチにくるんで発送させていただきます。当選者は商品の発送をもって代えさせていただきます。商品の発送料は当選者負担となります。
家に帰る気分
若松恵子4月29日に横浜のサムズアップというライブハウスで仲井戸麗市のソロライブを見た。横浜駅西口にある、ムービルという映画館が入っているビルの3階。案内板には「アメリカンバー」と書かれているライブハウスで、店内にはニール・ヤングの肖像が飾られていたりする。ハンバーガーもフレンチフライもおいしいサムズアップ、120人も入れば満員のアットホームな場所だけれど、来日した渋いミュージシャンがライブをする場所としても有名だ。今回は、サムズアップの27周年をお祝いするライブとして企画された。
仲井戸は、演奏の合間に「サムズアップにちなんだ選曲をしてきた」と言っていたけれど、演奏された20曲はカラフルで、何となく選んだみたいに語っていたけれど、あとから思い出してみると、サムズアップに心寄せて考え抜かれたものだったなあと思った。ギター1本と歌と時々入れるリズムボックスだけで、バンドサウンドに引けを取らない世界をつくっていく。仲井戸麗市のなかに流れ込んでいる様々な経験が織り込まれて、昔の歌も決して懐メロにならない、そんなところに魅力を感じる。
忌野清志郎の危篤の知らせを聞き、病院に駆けつけたのはサムズアップのライブのすぐ後だった、そんなことを今朝想い出した、と、ぽつんと語ってジョン・レノンの「オー・マイ・ラブ」がインストルメンタルで演奏された。そのあとの「夏に続く午後」と、ボブ・ディランのカバー「アイ・ウォント・ユー」は、私にとってのその夜のハイライトだった。
若い頃のディランみたいにギターの前にマイクを置いて、かき鳴らしながら歌った「アイ・ウォント・ユー」は、仲井戸の日本語訳詞で歌われた。うんざりするような日常のあれこれを数え上げ、そこに「きみがほしい」というひと言を突然挟み込んでくるディランの歌。仲井戸麗市は「きみがほしい」を「会いたいぜ」と歌った。
君がいつも そばに 居た時には
決して 気が付かなかった事
そんな悔やむ事が 今 君をこんなに恋しくさせる
Ⅰ Want You Ⅰ Want You Ⅰ Want You 会いたいぜ
Honey I Want You
替え歌というわけではなくて、ディランの曲から受け取ったものが仲井戸の歌に変換される。偉大なロックの名曲を受け継いで、そのうたの器にのせて、ある日の揺れた心が歌われている。仲井戸麗市のカバーの魅力はそんなところにあるのだ。会いたいのは、もちろん清志郎のことだろうが、清志郎の事だけでもないはずだ。
アンコール前に歌われた「フィール・ライク・ゴーイング・ホーム」もまたカバー曲だ。仲井戸麗市のライブに通い始めた頃によく演奏されていた曲で、思い出深い。「家に帰る気分さ」と歌う時の「家」は、単に我が家の事だけではなくて、「初心」というか「原点」というか、ロックに出会ったあの頃という意味合いもあるのではないかと、聴いていてふと思った。74歳にして今もみずみずしい仲井戸麗市の音楽を聴く幸せ。生身の人間にしかできないパフォーマンスを聴くことのできる喜びを感じる夜だった。
『アフリカ』を続けて(47)
下窪俊哉3月末、11歳になった息子とふたりで桐生へ遊びに行った。群馬県桐生市、どんなところか、じつはまだ詳しく知っているわけではないのだが、行けば、親しく思っている人たちが待っていてくれる。
事の発端は、毎週火曜の夜にやっているFM桐生の番組「The Village Voice」で、数年前から聴いている、いわゆるコミュニティFMである。私がテキストを投稿したらすぐに読まれるので、近くで聴いていた息子が「自分も投稿したい!」と言い出し、なぜか「なぞなぞを出したい」となった。それ以来、毎週聴いてなぞなぞを投稿しなければならなくなり、私は火曜の夜に出かけられなくなり、外で仕事が出来なくなってしまった(それなら、と火曜を個人的な定休日と定めた)。
「ビレッジ・ボイス」は、桐生駅から徒歩数分の場所にあるJazz & Blues Bar Villageのオーナーでジャズ・シンガーの宮原美絵さんが中心となって、画家でピアニストの唐澤龍彦さん、ベーシストのキムラコウヘイさんが3人でやっている。以前、『るるるるん』という小説を書く3人組がつくっている本の座談会に私が出た際に、挿絵を描いていた唐澤さんとまず知り合った。それからどうやって親しくなったのかは、よく覚えていないのだが、私はその手の音楽を長年愛聴しているので、話が合ったのだろう。それ以上になぞなぞがウケたのかもしれない。ジャズの番組で、どうしてなぞなぞ? と考えてはいけない。意味はとくにない。もちろん小学生のこどもが出すというのでなければならない。
桐生行きの一番の目的は、Villageで晩ご飯を食べる、ということだったが、「The Village Voice」の常連リスナーの人たちに連絡していたら、ふやふや堂のサイトウナオミさんから「その夜は「ロジウラジオ」をやっているので、よかったら出ませんか?」と誘われた。
ふやふや堂は桐生市本町の旧早政織物工場の中にある本屋で、『アフリカ』をはじめアフリカキカクの本を少し置いてくださっている。そのお店にも行ってみたかったのだが、「ちょっと時間あるので、桐生をご案内しますよ」とのこと。予想できなかったほどの手厚いおもてなしである。
そのサイトウさんが毎週金曜の夜、FM桐生でやっている番組が「ロジウラジオ」で、下窪さんが出るなら、と番組と縁の深い『GO ON』編集人の牧田幸恵さんが聞き役として一緒に出てくれることになった。
『GO ON』は牧田さんのやっている個人的な雑誌で、2020年12月に月刊のウェブ・マガジンとして始まり、並行してフリーペーパーを出していたが、2022年にフリーペーパーを止めて有料の『轟音紙版』になった。2024年12月にウエブ・マガジンの方を止めてからは”紙”のみの活動になり、『轟音紙版』をリニューアルした雑誌『GO ON』とフリーペーパー『GO ON 号外』を出している。
私は2022年の晩夏に初めて群馬に行くことがあり、『轟音紙版』第1号を手にした際、20年前の自分が考えた企画を思い出した。
『アフリカ』の前に『寄港』という同人雑誌をやっていた話は、これまでにも何度か書いたが、じつは『寄港』の前に構想していた小冊子もあって、それは雑記を中心としたものだった。20代の私は、詩や小説を書こうとする人の多い環境にいたので、そういう作品とまでは言えないような日々の記録や、その時々の考え事などを複数人で書き留めておくような媒体がつくりたかった。『アフリカ』を始める頃にもその想いは継続させていて、その証拠に、実現しなかったその雑誌の名前をつけようとしていた。この連載の(2)に出てくる「ある漢字二文字の名前」である(『夢の中で目を覚まして – 『アフリカ』を続けて①』ではさらに具体的に言及している)。
『轟音紙版』を初めて手にした時、ああ、20年前の自分はこれをやりたかった! と思った。でもその当時、雑記を熱心に書こうと乗ってくる人はいなかった。若かったせいだろうか。確かに、人生経験を積んだ方が書けることは多いような気もする。でも私は若い頃の自分が書いて、未発表になっている雑記原稿をたくさん抱えていて、そこから教わることも多いのだ。
そんな話をたぶん『るるるるん』の人たちにしたのだろう。「下窪さんが『GO ON』を褒めていた」と牧田さんは聞いたらしい。
『轟音紙版』第1号の最初に載っているのは、牧田さん自身による「雑煮的雑記」である。2本の映画、『イージー・ライダー』と『ビーチ・バム』を観て「自由」について考えたり、ぶつぶつ言っているような内容で、現代美術家・三島喜美代さんの「ただおもしろいから」つくっているということばに感動した話で終わる。めくっていくと、レコード屋通いの話、日常的に写真を撮ることについての話、風景の話、UFO談義などをいろんな人が書いていて、すごく読み応えがあるかと言われると、そうでもないが、サラッとした手軽な読み物かと言われると、もっと未完成のゴツゴツしたものを感じる。
牧田さんはたぶん、書いてほしい人に声をかけて、好きなように書いてもらっているのだろう。読むと、通りすがりの人たちの会話に聞き耳をたてているような感じもある。その声を集めて、本という器に落として、デザインしている。
昨年は『GO ON』とは別に『あれ』vol.2という”不定期刊行雑誌”もつくっている。雑誌といっても、A3の少し厚めの紙の両面にプリントして八つ折りしたもので、特集は「『あれ』創刊号(昭和47年正月25日発行)」。どういうことかというと、約50年前に沙原歩さんという方がつくったガリ版刷りの『あれ』の復刻版である。牧田さんは、こんなふうに説明している。
発行した本人から『あれ』の話を聞き、手渡しされた私は「おもしろいですね」と適当な感想だけを残して放っておくわけにはいかないのである。それは、発見してしまった者の使命とでもいえるだろう。
復刻された創刊号の巻頭言(だろうか)「『あれ』について」によると、沙原さんは芥川龍之介の会話を研究する話(?)を読んで、自分も「会話なるものを持って」みようと思ったという。そしていま(当時)最も使われていることばは何か「研究」してみたところ、それは「あれ」であったそうだ。創刊号には会話を書いた沙原さんの創作も載っている。次号に向けて一緒につくる「人材」を募ってもいて、張り切ってつくっている様子が伝わってくる。雑誌をつくるのは愉しい! しかし(事情は知らないが)『あれ』は1号だけの雑誌になってしまったようだ。50年ほど後に2代目の編集人(牧田さん)が現れるまでは。
読んでいると、じわじわと来る何かがある。それを放っておけなくなる牧田さんを想像して、私は他人事のようには思えないのである。
さて、桐生では「ロジウラジオ」で本をつくる話などして、放送後はVillageに場所を移して集まってくれた人たちとご飯を食べながらいろんな話をした。牧田さんは「自分ひとりで本がつくれなくても、雑誌なら出来ると思った」と言っていた。また、書き手には「読者を意識しないでください」というふうなことを言っているとも話してくれた。私は、書く時は読者に媚びないで、教え諭したりもしないで、と考えているのだが、そのことに通じる、と思った。「自由に書く」とはどういうことだろうか。私は人から言われるほどには自分を自由な人だと思っていないし、『アフリカ』も自由な媒体だとは思っていないのである。でも「自由」には、興味がある。牧田さんとはいつか、そんな話をじっくりしてみたい。と、この文章を書きながら考えているところだ。
スラカルタ宮廷舞踊『スリンピ・ロボン』
冨岡三智4月29日は世界ダンスの日である。インドネシアでは、私が留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校を中心に、いろんなダンスイベントが展開される。ちなみに、この芸大でのイベントは2007年に始まり、私もその初回に出演した。当時の状況について2015年5月号『水牛』で書いているので、関心のある方はそちらも併せて読んでもらえると幸いである。
さて、今年の4月29日、スラカルタ王家は「王宮芸術フェスティバル(Karaton Art Festival 2025)」と銘打って独自に公演をライブ配信した。男女の舞踊が1曲ずつで、女性舞踊は「スリンピ・ロボン」完全版が上演された。スリンピは女性4人によって舞われる曲の形式である。私もこの作品の完全版を2021年に日本で上演しているので、今回はこの作品について語ってみたい。なお、今回のスラカルタ王家の配信公演も私の2021年公演の映像も、以下のリンクから見ることができる。
・スラカルタ王家公演 https://www.youtube.com/live/voU4992v3C8
・私の公演 https://www.youtube.com/watch?v=eGp-HCEy7_M&t=2177s
「スリンピ・ロボン」の楽曲編成は(1)グンディン形式の「ロボン」~(2)「パレアノム」~(3)ラドラン形式の「コンドマニュロ」で、3曲つなげて演奏される。完全版で上演すると入退場を別にして約40分で、スラカルタ王家に伝わるスリンピ曲の中では短く易しい曲に分類される。この作品はパク・ブウォノ8世(在位1858-1861年)がまだ皇太子であった1845年に創らせたものである。当初、楽曲はペロッグ音階ヌム調だったが、即位時に現在のようにスレンドロ音階マニュロ調に改められた。なお、スラカルタ王家の配信でこの舞踊曲の制作年は1774年だと解説されていたが、これは半ば間違いである。この曲はジャワ暦1774年、すなわち西暦1845年に創られた。
上にスラカルタ王家の完全版と私の公演での完全版(私の師匠の名を取ってジョコ女史版とする)の両方のリンクを挙げたが、実は同じ完全版でありながら少し違う部分もある。スラカルタ王家で指導するムルティア王女も私の師匠(故人)も主として教わった人は同じダルソ女史だが、他にもそれぞれ習っている人があり、また宮廷舞踊は細かな改訂や解釈を積み重ねて練り上げられてきたので、これらの改訂の過程で違う段階の振付が残っているのだと思っている。この「スリンピ・ロボン」は私が留学して1年目に王家の定期練習でよくやっていた曲で、私もとても好きでジョコ女史の個人レッスンではリクエストして2曲目に習った曲だ。どちらの振付にも思い入れがあり、貴重な振付だから、どちらの振付も残ってほしいなと思う。
で、一番大きな差異が1曲目のグンディン形式の部分である。スリンピ舞踊では必ずララスという手を曲げたり伸ばしたりする振付になるのだが、その回数が違う。王家版では右~右~左~右と4回繰り返す一方、ジョコ女史版では右~右~左~右~右~左~右の7回で、また左のララスをする時のフォーメーションも両者で異なる。右、左と書いたが、これは伸ばしたり曲げたりする手がどちらかを示している。
他のスリンピ曲でもララスの振付に関しては王家版のような進行の曲がほとんどだが、ジョコ女史版の「スリンピ・ロボン」のやり方は「スリンピ・ラグドゥンプル」と同じである。実は後者もまたパク・ブウォノ8世(在位1858-1861年)がまだ皇太子であった時――しかも同じジャワ暦1774年――に創られ、王の即位に際して舞踊形式や音楽の調が改められた曲である。というわけで、ジョコ女史版の振付にも納得する。
次の違いは2曲目の「パレアノム」部分の振付。王家版ではゴレッ・イワッと呼ばれる振付だが、ジョコ女史版ではウンバッ・ウンバッと呼ばれる振付である。前者は1曲目から2曲目への移行部(テンポがどんどん速くなる)で使われる定番の振りで、スリンピ4曲で使われているが、実は後者も定番と言って良く、3曲――「スリンピ・ロボン」と「スリンピ・グロンドンプリン」という弓を持って踊る2曲の他、「スリンピ・ルディラマドゥ」――で使われている。ただ「スリンピ・グロンドンプリン」は、少なくとも私が現地で学んでいた期間はスラカルタ王家では行われていなかった。
その後2曲目で様々動きが展開し、1度目の戦い(弓合戦)が行われた後、音楽は3曲目に突入する。弓合戦で負けた方が座り、勝った方が負けた人の方を向いて行う最初の振りが異なっていて、ジョコ女史版ではウクル・カルノ、王家版では何と呼んでいるかは知らないが(名前がないことも多い)、「スリンピ・スカルセ」にも出てくるものに似ている。
2回弓合戦があった後(勝ち負けが交代する)、今度はピストルによる戦いがある。多くのスリンピでは戦いの場面の中心はピストル戦だが、この曲や上でも述べた「スリンピ・グロンドンプリン」(手に弓を持つ)、「スリンピ・アングリルムンドゥン」(手に弓を持たない)では弓合戦がメインで、2回の弓合戦を経て手短にピストル戦を1回だけ行う。ちなみに、スラカルタ王家ではピストルは持たずに踊るので(昔は持つこともあったらしいが)、一般の人は言われない限りピストル戦を描いているとは分からないだろう。ジョコ女史版では座った人が立つ時にすぐにピストルを抜くが、王家版ではピストルを抜く所作は省略されていて、別の動き――しかし踊り手が立つときの定番の動き――を行う。スリンピの振付としては、両方の動きがあるのが望ましいが、歌がちょうど良いところで終わるために動きを減らす必要があり、それで両方のバージョンが生まれたと思う。論理的にあくまでもピストルを抜くべきだと考えるか、立つ所作が優美な方を優先するかは、指導者や踊り手の解釈や美意識によるだろう。
というわけで、4月29日の配信を私は楽しく嬉しく見た。何より、スラカルタ王家の宮廷舞踊の完全版振付の美しさを愛する私は、こんなふうに短縮せずに上演される機会が増えてほしいと願っている。
しもた屋之噺(280)
杉山洋一フランチェスコ法王の最後のインタビューは、「結婚とは何か」だったそうです。ベルゴーリオ曰く、「結婚とはタンゴのようなもの。それも何時までも続く、なかなか手ごわい(un tango che non si scherza!)タンゴ」とのこと。
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4月某日 ミラノ自宅
ロベルト・カッペルロのマスタークラス見学。息子はモーツァルト466を弾き、カッペルロは暗譜で伴奏しながら注文をつける。ベートーヴェンが書いたカデンツァなのだから、音色もルバートもフレージングもベートーヴェンらしく変えて、協奏曲冒頭のモティーフが出てくるところは、冒頭の様式を踏襲しつつ、時間をたっぷり使って弾くこと。1楽章で初めてピアノが登場するところは、ピアノはオーケストラと一体化していること。
トランプ大統領、全世界に対し一律10%の追加関税を発動。
4月某日 ミラノ自宅
朝、家人と連立って市立音楽院に出かけたところ、シモネッタ荘玄関の石造りの柱廊のところで、一人の学生が可愛らしいポルタティフ・オルガンを調律している。素朴でどこか不器用な5度の響きが、柱廊をわたる春の微風にのって運ばれてゆくのを眺めながら、子供のころ、手で鞴を操作しながら音をだすポルタティフ・オルガンと手回しハーディ・ガーディに憧れていた。三つ子の魂なんとかと言うが、この二つの楽器を目の前にすると、サンティアゴ・デ・コンポステラのレリーフ写真にときめいた小学生の頃と何も変わっていないのを実感する。
市立音楽院の映画音楽作曲クラス、自作指揮1年目の試験。「子供の情景」より10曲と「ミクロコスモス4・5巻」より7曲、20分以上も振らなければならないから大変である。ところが試験を始めてみると学生たちが驚くほど音楽的に振るので、むしろクラシックの指揮専攻の学生への自分の教え方が余程悪いのではないかしら、と訝しくすらおもうほどだ。
夜は家人と連立ってヴェルディ・ホールに出かけて、カッペルロ・マスターコース試演会を愉しんだ。地下鉄サンバビラ駅を降り、国立音楽院に向かおうとすると、少なくとも100人ほどはいるであろう親パレスチナ・デモ行進が道を占拠していて、警察機動隊を先頭に、横断幕を広げながら、ゆっくりと歩みを進めていた。ついさきほども学校から帰宅途中、ロレンテッジョ地区が結成したらしいアラブ系市民15人ほどのデモ隊、そのうち4、5人は小、中学生と思しき子供であったが、ささやかなパレスチナ保護を求めるデモ行進を見たばかりだった。
試演会では息子はカッペルロの伴奏でモーツァルト466を弾いた。カッペルロが、自分なら1楽章再現部1小節前のフォルテを敢えて弱音のスタッカートに変更して、弦楽器の再現部へ繋げてみたいと言ったのを踏襲していたが、なかなか面白い解釈である。カデンツァも今までよりずっと時間をかけてたっぷり弾いていて、音像が立体的で奥行きが増した分、情感も豊かに聴こえる。
この2年ほどの間に、息子と音楽の関係は大きく変化した。成人した息子に口出しする積りはさらさらないが、各々自らに与えられた人生をどう生きるのか、こればかりは誰にも分からない、恐らく当人すら想像もつかない、つくづく不思議なものだと実感する。
4月某日 ミラノ自宅
「ルカ」にパンを買いにゆき朝食にしてから、冬の間ずっと庭の垣根を塞いでいた、嵐のときに折れた立派な幹とそれに絡みつく無数の蔓草を片付ける。太い部分は軽く3、40キロはあるはずで、動かすだけでも一苦労であった。数メートルの丸太は拙宅のへろへろの鋸では到底切り分けることも叶わないので、土壁の脇に寄せるのが精々だ。
夜は Magazzino Musica で市立音楽院の教師30人程が集まり、今後の学校運営に関する会合が開かれる。2030年でミラノ市は学校運営への参画から外れるが、このまま運営全てをミラノ市に任せておくと、文化を軽視する政府の傾向と相俟って学校を閉鎖しかねない、その前に学校内部から対外的に働きかけをすべき、と署名に参加。グロバリゼーションへの反動なのだろうけれど、日本、イタリアのみならず、こうした社会傾向は著しい。
4月某日 ミラノ自宅
ギターのための「間奏曲」浄書、出来たところまで藤元さんに確認してもらう。沢井さん揮毫の「待春賦」の書を仲宗根さんから見せていただく。深く染入る響きのようでもあり、茶目っ気を帯びた沢井さんの明るい声色のようでもあり、春を待ちわびる芹のようでもあり、餌台のクルミににじり寄る大小色とりどりの飄々とした鳥たちのようでもあり、慈しみと温かみ、そして遊び心にも溢れていて、深く感動する。
ほんのささやかな息子の二十歳祝いのため、家人と二人 Griffa に出かけた。このところ家人と街を歩いていると、ミラノの街並みはやっぱり美しい、いい街ねえ、と繰返している。
4月某日 ミラノ自宅
朝、サン・ルイージ教会にピアノ搬入。息子は、責任をもつような仕事は絶対嫌だ、弾き振りなんて自分には到底できないと文句をいいつつ、466を練習している。
午後、リッタ宮で開催中のミラノ・サローネ博覧会に家人の友人をたずねると、林太郎君が通訳として働いていた。今年でもう26歳になるそうだ。世界各国からサローネを訪れる見学者と、出品した日本人関係者との通訳が主な仕事で、見学者の大多数はイタリア国外から訪れるので、結局使う言葉というと、英語と日本語がほとんどだという。彼の専門は都市計画が専門だが、お父さんはインテリア・デザイナーでもあり、ここでの通訳も楽しいそうだ。これからどうするのか尋ねると、昔よりイタリアの治安は悪くなったし、どこか別の場所で働きたい気もするが、まだわかりません、と微笑んだ。彼がまだ幼い頃、拙宅でお父さんの仕事が終わるのを待っていることがしばしばあったのを思い出し、「あの庭が好きでした」とはにかんでいた。
4月某日 ミラノ自宅
ジュゼッペが主宰しているアマチュアオーケストラの慈善演奏会で、息子がモーツァルト466を弾き振りするので、コルソ・ローディ脇のサン・ルイージ教会へでかける。前半は、ジュゼッペの振るヴェルディ「ジョヴァンナ・ダルコ」前奏曲と、息子のモーツァルト、後半はジュゼッペがベートーヴェン交響曲第5番にアンコールはモリコーネの「ニューシネマパラダイス」。100年前ほどに建てられた、明るく広々としたサン・ルイージ教会はミラノ南部のコルヴェット地区の手前にある。ここから先の地域は最近までミラノのブロンクスと呼ばれるほど治安が悪く、文化活動も揮わなかったため、ジュゼッペは通っているサン・ルイージ教会のドン・グイード神父と一緒に、この地域の市民、特に若者に向けて、地元に根付いた音楽啓蒙活動を始めたらしい。聴衆は老若男女あわせて200人は下らないだろう。ほとんどがこの地域に住んでいるのか、雰囲気としてはミサに来るような普段着の気軽さと温かさがあって、とてもよい。ベビーカーを押している若いカップルもいれば、幼稚園児くらいの子供もベンチから身を乗り出してオーケストラを眺めていたし、年配の夫婦もかなり見かけた。
尤も、教会全体がとても広いので200人程度では、クーポラ下の祭壇から聖堂半ばまで固まって座っている感じにみえる。ドン・グイードは普段のミサよりずっと人が集まった、と喜んでいたそうだ。
朝から学校で試験だったので、息子には恐らく演奏会には間に合わないだろうと伝えてあったから、リハーサル途中でオーケストラの配置をどうするか、とジュゼッペと息子から何度も電話がかかってきた。こちらは試験中だったので困惑したが、今となっては愉快な思い出である。
息子もジュゼッペもオーケストラも、堂々と見事な演奏を披露して、深い感銘を受けた。息子があんな真剣な顔をして音楽をするのを初めて見て愕いたし、不思議でもあった。家人は、息子が466を振り出したとき思わず感動して涙が込み上げてきたそうだ。親ともなれば、世界中どこでも似たようなものだろう。我々が聴きに来るとは思っていなかった息子は、こちらが演奏後に顔を出すとびっくりしていた。
アジア系の聴衆が殆どいなかったからか、聴いていた年配者何人かから、あんたはあの子の父親かい、すごいねえ、ますます頑張るように伝えて等と声を掛けられ、小学校の運動会を眺める父親の気分である。
4月某日 南馬込
朝10時に羽田着。家人のアドヴァイスで蒲田まで京急を使い、そこからタクシーで馬込に向かう。シャワーを浴びてから西大井に向かい、14時からの、鎌倉・源氏山公園の古民家、ディロン演奏会に顔を出す。鎌倉を訪れるのは、高校の頃に作曲の先輩方と山へ登って遭難しかけた時以来だが、当時とはまるで様相が違って、まるでフィレンツェやヴェネツィアを思わせる観光客の人いきれであった。
何しろ道が狭く車の往来すら儘ならないところに、観光客が行列を成しているのだから大変である。イタリアの観光地であれば路地はせめてずっと広い。鎌倉ですらこうなのだから、京都の騒ぎなど想像に難くない。銭洗弁天に向かう住宅地あたりで、車はいよいよ全く動かなくなり、14時には間に合わない。
峠の館と名付けられた古民家の外観は、所謂雰囲気のある洋館という出で立ちながら、中に足を踏みいれると、堂々とした梁がわたされている、立派な旧家の佇まいが広がる。畳敷きの広間には、巨大な猪一頭を描いた見事な屏風がたてかけられ、ディロンはその猪を目の前にしてソロを弾いた。
ここで胡坐をかきながら聴くバッハの組曲は、コンサートホールと違う、不思議なありがたみがあった。外ではウグイスが盛んに啼いていて、目を向ければ、未だ春の花が樹々を賑わせている。コンサートホールの演奏なら、演奏そのものに集中するのかもしれないし、教会で聴けば、思わず聖堂の威風に惧れを成して、人間としての自分の領分をわきまえつつ、神と我々を繋ぐバイパスとして音楽を聴くのかもしれない。ここで聴くとそのどちらとも違って、ごく普通に人としてバッハを眺めている気分とでも言おうか、ウグイスと対話するチェロを眺めているのが心地よかった。
後半は地下の会場に場を移して、家人とディロンでシューマンなどを弾き、ここではチェロとピアノの丁々発止を愉しむ。20数年前、彼らが初めて一緒に演奏した頃のことを思い出す。皆若かったし、互いにエネルギーをぶつけて生み出す面白みを愉しんでいたのだろう。今日のような丁々発止とはいえ会話の滋味を味わう感じは、音楽の裡へと聴き手をいざなう。
夜は東銀座でカレーを食べながら悠治さん、美恵さん、小野さん、吉田さんと座談会。悠治さんたちも小野さんも鎌倉と所縁が深い。
悠治さんの本を読み、楽譜を勉強して想像していたものと、実際にそれを音にして見えて来るもの、というはなし。
これだけ情報が溢れている社会において録音をCDとして残す意味は、今日生きている作曲者本人のためというより寧ろ、何十年後かに彼の作品を知ろうとする誰かのため。
音源と資料がセットになっているCDという形態は、何十年か経って情報を遡るときに、恐らく役立つに違いない。音声ファイルだけが残っていても、これだけ情報が氾濫している中で、信用し得る関連資料を見つけるのも容易ではないだろう。問題はCDも劣化が激しいということと、何十年、何百年か経って、CD を再生させるハードが存在しているかどうか。
第二次世界大戦後、日生劇場、草月ホール、西武グループ、サントリーと文化を支えてきた掛け替えのない人々がいて、これから半世紀後、果たして我々のことを知りたいとおもう人々がいるのだろうか。
0歳の頃から「味とめ」で美恵さんや悠治さん、浜野さんなどに抱いてもらっていた息子も20歳になった。悠治さんのことは、いつも蛸を食べていた「蛸のオジサン」として理解している。味とめの女将さんが亡くなったと美恵さんから聞く。
4月某日 南馬込
打合せの後、昼過ぎ九段下でディロンと落ち合い「葉椀」にて昼食を摂る。彼が一人でふらりと入ってすっかり気に入り毎日通った店だという。カウンター席にて、カツオたたき定食、彼はマグロ丼に舌鼓。美味。玄米なのも凄くいいでしょう、とディロンが喜んでいる。そこからほど近い青海珈琲でコーヒーを立ち飲みして、二人で写真を撮りシャリーノに送った。持ち帰り用のコーヒーのカップやストローがプラスティックなのを見て、ヨーロッパがエコロジー・アレルギーが過ぎるのかな、ロンドンでもどこでも、プラスティックのストローなんてすっかり見なくなったから、何だか新鮮だ、とのこと。日本て、なんだか不思議な国だよね、と言われる。
夕刻、佐々木さんと美紀さんと、代官山のイタリア料理店に集い、岡部さんのワインを持ち込んで献杯。
最近、思考がパンクしてしまって、何だかまっさらに物を見たくなってアリストテレスの「形而上学」を読んでいるという話から、佐々木さんと暫くギリシャばなし。イタリアに住んでいて、やっぱり「腐っても鯛」的なところがイタリアにはある気がする、結局「すべての道はローマに通ず」の共通認識をイタリア人を含むヨーロッパ人は甘受している、という話。
アリストテレスを読みながら、どこか頭が喜ぶのを実感するのは、真理を求める素朴な姿勢に共感できるから。知らないから知りたい、そんな単純な思考を、我々は軽視し過ぎているのかもしれない。既に我々は知っている、その過信が我々の思考を、深く刻み込む真理に向けた渇望の意識から、浅く広く茫洋としたジャンキーへ変えてしまった。実は何も知らないのに、知っている積りになっている自分に気づくことは、精神衛生上とても良い。それはつまるところ、知識でも常識でもなく、ただ真実を知りたいという、無意識に天を仰ぐような畏怖にも近い態度なのだろう。
岡部さんの膨大なるワインセーラーから美紀さんが持っていらしたのは、間違えていなければNicolelloの40年もので、しっかりと深い味がした。豚に何某とか猫になんたら、殆ど酒が呑めない人間には全て美味しい。
以前、美紀さんと岡部さんがミラノにいらした時、すらっとした美紀さんの姿がちょうど観音菩薩そっくりに見えた。岡部さんは本当に幸せそうだったのを、テーブルに並ぶ4つのワイングラスを眺めながら思い出す。
4月某日 南馬込
安江佐和子さんの企画演奏会1日目。伊左治君の「diorama」の演奏に参加しながら、大学時代「冬の劇場」を一緒にやっていた頃を思い出す。中川俊郎さんの作品で、水を垂らすパフォーマンスをしていたのが強い印象を残したので、今回のパートが作られたらしい。伊左治作品は、黄金色というのか、黄昏ているわけではないが、美しい映像が映し出されるような作品であった。
diorama
それでも私は、この震える海を渡ろう
新美 桂子
太陽を背に
父なる川を隔て
寄りあう母音の群れ
向こう岸の親密
姿かたちを変え
海原に流れ込む
耳なじみのない言葉
無口な花嫁
寄せては返す
白波にさらわれ
打ち上げられた星々
潮だまりの鼓動
雨足遠のき
別れの予感を胸に
俄かに飛び去る冬鳥
籠のなかの寒空
最果ての夢に
置き去りの雪景色
指針を狂わす出会い
降り積もる歳月
旅路を先まわり
光を回収する奇術師
虹の麓に散った影
葉っぱのふくよかな匂い
朝霧が手招く
混沌のはざまに
雲がくれする眼差し
出迎える大木
Diorama / Nonostante tutto, attraverso questo mare tremante
Keiko Niimi
Le spalle rivolte al sole,
qua e là le due rive del fiume paterno,
un branco di vocali ammassate
nell’intimità della battigia sull’altra sponda.
Parole ignote
mutano figura
e sfociano nel mare
come spose mute,
viavai di onde bianche
catturano le stelle
e le trascinano a riva
sopra i solchi delle pozze di marea.
Mentre la pioggia si allontana,
nel presentimento di una separazione,
un uccello invernale si congeda
e il cielo rabbrividisce in un cesto.
Abbandonato nel sogno dell’estremità della terra,
in un paesaggio truccato dalla neve,
un incontro paralizza la bussola
e il tempo si coagula.
Anticipando il cammino
un mago recupera le luci,
ombre di un arcobaleno sparse ai piedi delle montagne,
odore carnoso delle foglie.
Tra la confusione
la nebbia mattutina fa un richiamo di invito,
uno sguardo celato.
E un grande albero lo abbraccia.
(traduzione : Maria Silvana Pavan, Yoichi Sugiyama)
久しぶりに内藤明美さんに再会する。全くお変わりなくお元気そうでとても嬉しい。すみれさんが演奏する八村義夫「dolcissima mia vita」。色々な思考が脳裏を錯綜し、駆け巡る。八村さんの選択する音の美しさであったり、金属打楽器だけが並ぶ不思議さについても思う。
カルロ・ジュズアルドのマドリガルの手触りは、どちらかと言えば、より肉感的で皮質打楽器に近いとも思う。それを敢えて金属打楽器に限定して見えてくるものは、八村さんのジュズアルドへの憧憬やロマンチシズムかも知れないが、不貞を働いた妻と情夫、赤子までの殺人を冒したジュズアルドと従者が携えていた剣の刃の輝きのようでもある。純粋に音だけを辿れば「星辰譜」の頃から「dolcissima」まで八村さんが望む音は一貫していた。すみれさん曰く、八村さんは「dolcissima」を「濡れズロ」のように演奏するように望んでいたそうだ。ジュズアルドのマドリガルと濡れたズロースは、なるほど八村さんの裡で正格に繋がっていた。
4月某日 馬込
漸く二日目の演奏で、伊左治作品のパフォーマンスが少しだけうまく出来た。敢えて立ち上がらずに、椅子に座ったまま、水をいれたペットボトルを掲げる按配で水を垂らすと、うつくしい音がした。安江さんの演奏会は、会場初めての大入りだったとか。湯浅先生「相即相入」は名演。二人の演奏家の息が合い、音と音の間に新しい空間が生まれてくると、まるで見たことのない有機的な風景が目の前に顕れる。これを玲奈さんに聴いていただけたのは、個人的にとても嬉しかった。眞木さんの「14パーカッションズ」は、眞木さん自身をご存じで、声明であったり和太鼓であったり、眞木さんが展開された活動をつぶさに知るすみれさんだからこそ出せる音があった。甲乙どういうことではなく、ただ自分が知っている石井眞木さんの人間に、直に通じる何かをそこから掬いあげることが出来たのは、倖せなことだった。
演奏会後、綱島に垣ケ原さんを訪ね、一緒に美枝さんの墓参をする。大倉山の法華寺の参道脇一面に蕗が生えていて、垣ケ原さんが採りに来ないといけないな、と呟いていた。住職さんと予め話がしてあるらしい。お墓を覆うよう大きな桜の樹が並んでいて、散った桜の花をたわしなどで落とす。墓石には、既に垣ケ原さんの戒名も彫られていた。桜が咲き乱れるころは、それは見事な光景に違いない。
ご自宅では、庭で採れた蕗の煮つけに下鼓を打ってから、お寿司の出前まで頂いてしまった。蕗を煮ると毎回違う味付けになってしまってねえ、と照れていらしたが、とても美味しかった。同じようにお寿司もずいぶんよい味なので覚えていたのだが、大倉山の美景寿司という知る人ぞ知る名店の寿司であった。垣ケ原さんご自身も、湯河原の祖父に似た面影があるのだが、垣ケ原さんと弟さんが話している抑揚が、まるで湯河原の実家のそれと一緒なのはどういうことか。
夜半、池上の湯浅邸にて、「軌跡」のスケッチを見る。鉛筆書きの雲のような挿絵があって、その隣にdreamと綴られている。日本を発つ前にここを訪ねられて本当に良かった。今まで自分が不思議に思っていた湯浅作品に思うギャップが見事に払拭された。グラフで描かれる音楽は結果に過ぎず、湯浅先生が追及していたのは、より人間愛的な信念、信条のようなものであったし、最後まで人間を愛し、信じようとしていらしたのを実感する。雲に添えられたdreamは、湯浅先生が信じようとした音楽の姿だったのかもしれない。
玲奈さんは、最後に湯浅先生が舞台にあがったとき、笑っていたのが嬉しかったという。彼女は後ろから車椅子を押していたから見えなかったけれど、後で写真を見ると「父が満面の笑顔で笑っていたんですよ」。
4月某日 ミラノ自宅
ローマ空港に着いたとき、機内でフランチェスコ法王の逝去を知る。
沢井さんの録音のマスターが届いた。久しぶりに「鵠」を聴き、沢井さんから生まれる音が、まるでシャーマンの響きのようで、激しく魂が揺すぶられるのを感じる。「鵠」を書いて10年以上が経ち、なぜ自分が「手弱女」や「真澄鏡」などを書きたくなったのか、改めて実感できた気がする。当時は、ただ自分の気の向くまま書いたつもりになっていた。
90歳になったばかりの町田の母曰く、最近パルメザンチーズをよく食べるようになってから、足腰年齢が80歳から75歳になり、内臓年齢は74歳から70歳になったらしい。理由は定かではないが、心当たりは、せいぜいパルメザンチーズか、欠かさず飲むようになった養命酒くらいしかないという。不思議なこともあるものだ。
4月某日 ミラノ自宅
朝10時からのフランチェスコ法王の葬儀ミサ中継を見る。雲一つない澄み切った青空。サンピエトロからテーヴェレ川まで埋め尽くされた人いきれ。サンピエトロの広場は、その人いきれに関わらず、沈黙が支配している。
イタリア国営放送は、葬儀ミサが始まる前、ヴァチカンの礼拝堂でベルゴーリオの柩と対面するトランプの姿を伝えながら、
「どことなく、トランプの表情は緊張しているというか、当惑しているようにみえます」。
ヴァチカンで膝を突き合わせるトランプとゼレンスキーの写真を示しながら、イタリア国営放送のコメンテーターが話す。
「この写真をみると、どこかトランプの方がむしろ前のめりというか、積極的にすら見えますね。前回の会談から何か心変わりでもあったのでしょうか。遥か昔から現在に伝わる歴史的な転換点、特に大事な節目、ここぞという出来事は、いつもヴァチカンのこの宮殿から発せられてきました」。イタリア人が普段は隠しているプライドは、こういうところで顔を覗かせる。Covid直前の日本を訪れ、東日本大震災の被災者と会い、広島、長崎で被爆者と交流しながら核廃絶を訴えた教皇のお別れに、できることなら日本の首相も参列してほしかった。
毎月の給金も受取らず清貧を良しとした法王の甥は、葬儀に出席するためのブエノスアイレスからローマまでのフライトチケットを払うお金すらなかったが、それを知ったアルゼンチンの旅行代理店が、彼にチケットを贈ったという。
レ枢機卿の説教で、法王が「壁ではなく橋をかけようとしたこと」、「アメリカとメキシコ国境でミサをしたこと」、「難民に対して常に心を痛めていたこと」、近年の戦争などについて触れる度、群衆から大きな拍手が起こった。その度にレ枢機卿の声は少しずつ熱を帯びてゆく。
「フランチェスコ法王が就任後まず最初に訪れた地が、何千人という移民が海の藻屑と消えた、シチリアとアフリカの間のランペドゥーザ島であったのは、象徴的だったと言えますまいか」。群衆より大きな拍手。
「恐ろしく非人道的で、数えきれない死者をもたらした、ここ数年の猛り狂う沢山の戦禍を前に、フランチェスコ法王は絶えず平和を掲げ、人々に道理を取戻すよう呼びかけていました。落ち着いて対話にのぞみ、解決を導くよう声をあげました。なぜなら、戦争は、ただ人の死をもたらし、家を、病院を、学校を破壊するものだからです。戦争は、常により悲惨で劣悪な世界をもたらすからです」。群衆から割れんばかりの拍手。トランプ大統領の姿がクローズアップ。
ミサ終盤、Pace(安らぎを)と参列者が握手を交わす際、トランプとマクロンの姿がクローズアップされた。100年前、どのようにして大戦へ向かっていったのか。後年になれば、政治家ばかりがクローズアップされるけれど、その政治家を選んでいる、さもなければ、その政治家に甘んじているのは、他ならず我々一般市民であることを知る。我々が最上と信じて疑わなかった民主主義は、結局100年前と同じ道を辿っていること。どちらかに揺られれば、揺り戻しが来るということ。
—
隣の部屋で、久しぶりに息子がウェーバーのソナタを練習している。こうも変わるのかと思うほど、まるで各旋律の音色が違って聞こえるのは、自分で実際にオーケストラを振ったからかもしれない。ホルンらしい旋律にはホルンのブレス、クラリネットらしい旋律にはクラリネットのブレスを感じる。伴奏する弦楽器群の手触りや厚みが、掌の裡に息づいて聴こえるのは親の買い被りには違いなかろうが、以前の息子のウェーバーには感じられなかった彩りと瑞々しさに思わず耳を欹(そばだ)てている。
(4月30日 ミラノにて)
アパート日記 2025年4月
吉良幸子4/1 火
4月になったというのに肌寒い。雨で空が灰色やしずっと暗い。ソラちゃんは一日中べったりとひっつきっぱなし。寝る時は、入れてくださいまし、と手でちょいちょいと合図が来る。布団の中に入ったとて、むっちゃあつなってすぐ出てきはるんやけど、いっぺんは入りたいらしい。
4/4 金
遠出する時はよっぽど気をつけへんとソラちゃんがそわそわし出す。お前、どっか行くんやろってな顔で準備する私の足元をうろうろ…。出かける前にソラちゃんを入れてベランダの戸も閉めてね、とあれだけ公子さんに言われたにも関わらず、私が出る前にはおでかけしとるツートン猫。しゃぁないしそのまま家出たら、近くの小道でぷらぷら歩くアイツの後ろ姿が!家へ回収してから行こかと構えたところ、人んちに入って見えへんようになってしもた。どうせすぐ帰るやろ!と駅へ急ぐ。
今日は元・出稼ぎ先のお馴染みさんが東京見物と題して千住を案内してくれる日。一緒に働いてた埼玉の母、キョーコさんと3人で遠足へゆく。昨日までの雨が打って変わって晴天で気持ちええ。北千住は千代田線の直通運転のおかげでこちらから行っても意外と近い。地下鉄に揺られながら、そういえばソラちゃんは家へ帰ったか…と確認すると、元の家の方へ遊びに行っとる。もー!車も多いし心配やん!!公子さんの分析によると、私の遠出=元の家の方へ行くってな事で、迎えに…或いは先回りして行くらしい。かわいいねんけど、もう行きなんし!
さて一方遠足はというと、割烹料理屋でおつかれ会して、千住をぐるぐると歩く。引っ越し予定地に近いし色々見れて良かった。その後、チンチン電車に乗って王子まで。駅の近くにあんな綺麗な桜見物の場があるとは。ちょうど満開で、月並みやけどきれいやなぁしか感想が出えへん。みんなお花見してはって、わになって手拍子で合唱してるおっちゃんらまでおった。見てるだけでも楽しい。私は皆さんには黙ってお昼にいただいた酒がちょっとだけぐるぐるしとる。直射日光の元、1万歩以上歩いたから回ったらしい。家に着いたら先に帰宅してたソラちゃんに熱烈に歓迎され、そのまま一緒に朝までばったりと寝た。
4/6 日
家で仕事しつつ、息抜きがてらお昼過ぎに砧図書館へ向かう。行きしなの商店街に呉服屋さんがあって、最近ワゴンに下駄が置いてある。ちょっとだけ…と見てたらすかさず店員さんが店の中まで案内してくれはって、気ぃついたら下駄一足買うてるやないか!そんなつもり全くないから自分でもむっちゃびっくりしつつも、旦那さんが鼻緒をすげてくれるとの事で嬉しい。鼻緒を調節してもらう間、お茶までいただいて何じゃかんじゃ話してたら、鼻緒のすげ替えだけでも来てええらしい。ラッキー!いつも東品川まで行ってたからこんな近くでやってもらえるのんほんまにありがたい。古着物ばっかし着とるからほんまの呉服屋さんって緊張すんねんけど、もっとはよ入ってみたらよかったなぁ。
4/10 木
公子さんと電車に揺られて松戸へ、新居を探すべく内見へ行く。それと別におもろそうなイベントスペースがあって、そこも一緒に見せてもらう予定。この前北千住まで行ったとこやし、まぁ近いやろうと高を括っていたら、北千住からもうひと区間どっこいしょと遠いイメージ。おや、ちょっと想像と違うぞ…と思いながら先にイベントスペースを見せてもらう。大正時代に建てられた平屋で、落語会するのんはむっちゃ良さそう。その後に本日お目当ての新居の物件を見せてもらう。住宅地にある一軒家で、改装しても何してもええよ!という太っ腹な物件。すごくええ物件なんやけど…何かが悪いのでは決してなく、でも何となくここに住むイメージがあんましでけへん。ご縁がないってことなんかなぁ。
4/13 日
元・出稼ぎ先に私が働き始めたその当時、店長してはった方が門前仲町で呑めるパン屋さんしてはって、退職のご報告がてらごはん食べに行く。繁盛店で行きづらいと思ってたけども、やっぱり今日も超満員。でも外でならどうぞ~ということで外のテーブルで色んなパンが乗ったプレートをいただく。久しぶりに元・店長の味を食べられた感じでどれもこれもおいしかった。一緒に行ったのはみんな出稼ぎ先で知り合った絵描きに造形作家で、色々と楽しい話が聞けた。引っ越したらまた来ますというてお店を後にする。ええ物件見つかるとええなぁ、最近そればっかし念じとる。
4/16 水
埼玉で知り合ったマトリョーシカ作家の方が絵付け教室するということで、わざわざふじみ野まで。2年前に建ったばっかしの建物は、公共の施設とは思われへんくらい洒落てて綺麗で、そこにいっちゃん驚いた。マトリョーシカとは言いつつ、好きなの描いてええよとのことで虎のパンツを履いた赤鬼に絵付けした。絵付けって無心になれるから楽しい。
4/19 土
絵描きの友、キューちゃんのマーケット出店の日。お手伝いの約束してるし準備で朝っぱらから上野へ向かう。ほとんどの出店者は屋内やけど、キューちゃんは屋外出店で直射日光がものっそ暑い。久しぶりにこんな日に当たった気がする。夕方にイラストレーターの系さんと岩口さんも合流、思いがけず色々話せておもろかった。明日も出店、かんかん照りになりませんように。
4/20 日
今日は曇ってて外におってもちょうどええお天気。昨日のお日さん光線が効いたのか結構疲れておる。でも今日の方がお客さんええ感じに来はってほんまによかった。夕方に終わり、どうせならちょっと散歩してから電車に乗るか、と上野から湯島へ、途中であんみつを買って地下鉄へ乗り込む。ちょっと遅い公子さんの誕生日祝いやね。いよいよ80になりはったんやって!全然そうも見えへんわ。
4/24 木
キューちゃんと長谷川町子美術館へ。企画展は町子さんの弥次喜多。現存する原画が全て展示されてて圧倒される情報量。キューちゃんは私が思ってた以上に町子さんが好きやったみたいで隅から隅まで楽しんでおった。私は何回か来てるのに、毎度、やっぱしうまいなァ~と感動する。他のお客さんは作品量に負けてサァーと観ていきはるけど、私らはそういう訳にもいかず、目を皿にして作品群をひとつひとつたどり、帰る頃にはへとへとになった。ええ刺激をもらった感じ。
4/25 金
一昨日くらいに急に決まった内見へ、場所は北区。ネットで色々と松戸方面で家を探してたんやけどなんやピンと来る物件がない。公子さんが発見した東十条の物件は、外観はごっつい古いねんけど一軒家で立地もええ。これは…とすぐに連絡して内見が決まったのであった。実際に見ると確かに外壁はすんごい色しとる。でもそれを忘れて中へ入ると、リノベーションしてあって素敵な和室がたくさん。前住んでた水漏れ物件を思うと天と地の違い。即決して申し込みする。今住んでる物件と打って変わり、むちゃくちゃ親切な不動産屋さんでほんまのほんまにありがたかった。審査諸々通りますように。
申し込みを済ませてそのまま三軒茶屋へ。真打昇進以来会うてなかった伝輔さんに今秋の公演でお世話になる。その打合せというか、お久しぶりですの飲み会やった。途中から美恵さんと悠治さんも参加して楽しい会になった。美恵さんからは履かんようになった下駄をもろたんやけど、なんと4足も!お返しは私が作ったスズメのブローチ1羽て!えらい違いですんまへん!
4/28 月
埼玉の職場に行ってた時、道でナンパされてお友だちになった御婦人、おタカさんのおうちへ遊びにいく。なんだかんだ年末くらいから会うてなかったから元気なお顔が見れてよかった。おタカさんはいっぱい食べさしてくれるというのを見越して朝飯を抜いて向かう。案の定、山盛りのお昼からおやつ、そして早めの晩ごはんまでいただいた。今日はお腹がはちきれんかったので作戦成功。おタカさんとお話しするのは毎回色んな話を聞けて楽しい。
4/30 水
今日はお世話になってるよしえさんと祥二さんのところへ、秋の落語と講談の公演のお知らせをしにゆく。初めてお会いした時に車椅子乗ってはったよしえさんが、今はおうちであちらこちらと歩いてはるところを見ると、元気になりはったんやなぁと嬉しくなる。北区の物件の審査が通った話をすると、お二人ともすんごい喜んでくれはった。ちゅーことで、来月はまた引越し準備が始まるで!