230 ものの声

藤井貞和

Ash from former lives. 
   灰の前生から。
Ash raises hands, all material phenomena are such.
   灰の手を上げる、物象すべてこれ。
Ash, be ashed away.
   灰、敗走せよ。
Ash is to be adjudged.
   灰を裁け。
Ash’s now.
   灰の今。
Ash’s birsh and death.
   灰の生滅を。
Ash, I accuse you.
   灰よ、問う。
Ash, of the ashed act.
   灰の背信行為を。
Ash’s body all over it.
   灰の全身に。
Ash, bits of paper.
   灰、紙片。
Ash, tales.
   灰、物語。
Ash, after many a years.
   灰、歳月ののち。
Ash takes form.
   灰はかたちを。
Ash’s own self whereof.
   灰のみずから。
Ash-bound axial translation, it is.
   灰への平行移動である。
Ash is no other than naming for the genuine itself.
   灰はじねん(自然)そのものの云いにほかならず。
Ash’beingness is that. 
   灰のあることは。
Ash just being.
   灰のただあること。
Ash having “being”.
   灰は「ある」こと。
Of ash, it’s not even birth or death.
   灰の、それは生滅ですらなく。
Ash’s birthlessness and ash’s deathlessness.
   灰の不生であり、灰の不滅である。

(原作「灰」〈部分、『ピューリファイ!』所収〉を、複数のバージョンののち、「ある」「灰、敗走せよ」「灰、背信行為を」「不生不滅」などに腐心して、かたちがととのえられていった。じねん(自然)はgenuin(じぇぬいん)をそのまま外来語として使った語ではないかと「気づいて」、名詞化してある。安藤昌益は「自(ひとり)然(する)」と書いている。敗走、背信は、日本語の発音を生かしてbe ashed away、of the ashed actとし、不生不滅をbirthlessness、deathlessnessとすることによって、完成に近づいた。多言語社会、インドでの朗読のために、松代尚子さんの翻訳。『ミて42』(2002・12・1)による。こんな試みが『ミて』に数篇、あることを思い出す。)

仙台ネイティブのつぶやき(91)生きているのか死んでいるのか

西大立目祥子

クジラにはもう力がなかった。懸命に尾びれを動かしても、前に進むことができない。ただふわりふわりと波間にたゆたうだけ。呼吸が苦しくなると、潮の流れに乗るようにして水面まで浮き上がりわずかに空気を吸う。ふぅっ。そんなことを何日繰り返したのだろう。日が登り、日が沈む。もう終わりが近いことをクジラは知っていた。さようなら、海。さようなら、空。さようなら、みんな。日を追うごとに月は欠けていく。やがて、海原の向こうにやせて上ってくる月をクジラの眼はとらえられなくなった。水音だけは、かすかに聞こえる。漆黒の闇に閉ざされた新月の夜、クジラの心臓は静かに止まった。

流されるまま海を漂って数日後、分厚い脂肪におおわれた体の奥、腸から腐敗が始まった。腸内の細菌や微生物がみるみる増殖し、メタンガスが体内に充満してクジラの体はパンパンに膨れ上がる。もう張り裂けるほどに。

昨年11月15日の夕刻。車のラジオをつけると、こんなニュースが耳に入ってきた。
「15日朝、宮城県石巻市の沖合で、クジラが定置網に引っかかっているのが見つかりました。クジラは体長10メートルを超え、すでに死んでいると見られ、宮城県などが対応を協議しています。
 クジラが見つかったのは、石巻市にある狐崎漁港の沖合1キロほどの場所で、15日午前6時ごろ、近くで漁をしていた漁業者が定置網に引っかかり、腹を上にした状態で浮いているのを見つけたということです。…腹が膨らんだ状態などからクジラはすでに死んでいるとみられ、死んだあとに流れ着いて網に引っかかったと推測されるということです。…県などが今後の対応を協議しています」(NHKニュース)

「腹が膨らんだ状態」という説明に、反射的に子を持った雌クジラかと思い、一瞬気持ちが陰った。が、それは死後数日が過ぎてガスで体が膨れ上がっているからなのだった。巨体はいとも簡単にくるりとひっくり返り、無惨に白い腹を上にしたまま日を浴び、夜は月に照らされ、沖に流され陸に戻されを繰り返すうち、定置網に動きをはばまれたのだろう。これが砂浜なら、打ち上げられていたはずだ。

ニュースを聞いてから、この海を漂うクジラの姿が胸にとどまり続けた。なぜ?じぶんでもよくわからない。クジラは老いて死ぬのか、病で死ぬのか。若くしても命を落とすクジラはいるのか。アフリカの草原の映像で累々とゾウの骨が風にさらされるように、海にクジラの墓場もあるのだろうか。いま、人は死ぬとさっさと焼かれて埋葬されてしまうけれど、腐敗が進みメタンガスが満ち満ちたクジラの体はどう変化していくのか。その前に表皮を鳥についばまれ、シャチに食われ、海底に沈んでいくのだろうか。生命の起源は海にあるのだから、その死に方は根源的な哺乳類動物の消滅の過程を教えているのだろうと思う。

ガスで膨れ上がったクジラは、極限までくると爆発してしまうという。脂肪も肉も血管も体液も、ものすごい臭いとともに飛び散り、事故にもなりかねない。1年に数回、国内でも浜に打ち上がったクジラが報道されるけれど、爆発に巻き込まれずに処理を進めるにはかなり注意を要するようだ。報道にあった「宮城県で協議」とは、事故に備えつつ処理をどう進めるか検討をするということだろう。

翌日、続報があった。
「昨日、石巻港から沖合14キロほどのところで発見された体長10メートルを超えるクジラ。…このまま放置すると破裂しクジラの油が養殖業に影響することなどから、県は処理方法を検討していましたが、発見場所から東に20キロほど進んだ金華山沖に沈めることを決めました。漁協や捕鯨会社の協力を得て、今日午後から捕鯨船を使って引っ張っていて、到着次第ガスを抜いて、最大1.6トンの重りをつけて海に沈める予定です」(ミヤテレNews)

テレビで小さな捕鯨船に沖へと曳航されるクジラを見た。クジラの白い腹はわきにくっきりと何本もの黒い縞が入り、卵を半割にしたように膨らんでいた。別局では、ガスをナタで抜く、といっていた。
金華山沖の目的に到着した船はエンジンを切り、腹を裂く作業をして砂利を詰めた重りとともにクジラを沈めたはずだ。水の中に引き込まれた巨体はゆるゆる沈んでいき、海底の砂の上に横たわった。そこはどんなところだろう。13年前のあの大津波で流された物も散らばっているのだろうか。

そして、ここから新たな物語が始まっていく。クジラはその体すべてをまわりの生き物たちに分け与える。10年にもわたって。そこには「ホエイルホール」とよばれる生態系が生まれるというのだ。移動しない生物たちが死んだクジラを拠り所に活動を始め、その数を増やしていき、そこには見事な生命の循環が誕生する。
クジラは死んだといえるのだろうか。深海の生き物たちと生きているのではないか。もはや私にはわからなくなっている。

    ◎

地下鉄に乗り込み座ってバッグから読みかけの本を出して開いたとたん、反対側のドアの前に立つ男と目が合った。コートもズボンもリュックもねずみ色。頭の毛はやや後退し、口ひげをたくわえている。よく似ている。数日前、新聞の訃報欄を見て驚いたスペイン料理のオーナーシェフに。なんだ、あの記事は間違っていたんだ。生きているじゃないか。そう思える。いや、そう思い込む。男は同じ駅で降り、足早に歩いてエスカレーターの3人ほど前に立った。やっぱりそうだ。この駅が店の最寄り駅になる。いまから店に出て夜の仕込みにかかるに違いない。鍵は信頼できるバイトの学生が開けているんだ。いや、そんなわけはない。訃報が間違っているわけが…。しかし、でも。地上に出て夕闇に包まれたとたん、男の姿は消えていた。

その店には2回しか行ったことがない。でも2回とも、おいしく楽しく飲んで食べた。すこぶる居心地がよく、いい時間を過ごせたのはどちらも祝宴だったからか。それだけではないような気がする。暗い裏通りの店は間口が1間半くらいしかなかったけれど、クリーム色の壁に大きなフライパンがぶら下がり、ワインのボトルが並んでいて入りたくなるようなガラスのドアが立っていた。入ってみると意外にも奥に深い店内には木のテーブルと籐の椅子が並び、小さなペンダントと壁の間接照明がリズミカルに黄色い光を放っている。何時間でも飲んで食べておしゃべりができそうだった。

2回目に行ったとき、つまりは最後に食事をしたときは7、8人で飲み放題コースを頼んだのだったが、ほぼ満席でシェフはてんてこ舞いだった。メンバーが一人遅れてきたのでコースには入らず急遽、別オーダーにすると、「いやー、もう今日はバイトが急に休んで、俺一人なんだ」とぼやきつつ「いいです、もうみんないっしょで」と話し、厨房からでき上がった料理をみずから次々と運んでくる。途中から、大皿のサービスが大変なのか「悪いけど、仕切りのスクリーン開けさせてもらいますよ」と間仕切りを開け放った。そのやりとりに、今日に限らずいつも必死のいい人なんだな、と直感した。

友人たちと飲みにいく話が出るたび、あのスペイン料理の店に行こうよと話していたので、新聞に店の名を見つけたときは衝撃だった。「スペイン料理店、オーナーシェフ、57歳で急逝いたしました」とあり、妻と思われる女性の名前が記されている。心筋梗塞なのか大動脈解離か進行がんなのか、わからないけれど、あっけなく亡くなってしまったのだ。もしや店で倒れたのだろうか。深夜まで働き、次の日もランチをサービスする毎日だったら疲労困憊だったろう。でも本当に?間違いはないはずなのに、ウェブサイトを見ると変わらない入口や料理の写真が掲載され、「営業中」と記されている。店は、誰かが開けているのではないか。それこそ、急に休んだバイトの子が継いだのではないか。噂を耳にすることもなく日は過ぎていった。

訃報を見て2カ月がたったころ、夜7時からその店の近くで会議があり、地下鉄を降りて前を通った私は、たしかここだっけ、とビルの前で足を止めて狐につままれたような気持ちになった。え、ここ? 本当にここ? 入口はあまりにも変わり果てていた。薄汚れたガラス戸。何の変哲もないサッシの窓枠。ただの古ぼけた小さなテナントビルの前で、私はしばらく立ち尽くしていた。

暗闇で一本道を間違えたのか。そうも思った。でも、あの場所だった。2回目にいっしょに飲んだ友人と「新聞にのっていたね、亡くなったんだね」と確かめあったから、間違いはない。店は閉まったのだ。でも、ネットで検索すると、今日も営業中で、パエリアから生ハムのサラダからいろんだ料理を取り揃えている。電話番号も書いてある。かけてみようか。もし、つながったらどうしよう。

どこかで店は今夜も開いている。客の話し声を聞きながら、シェフは厨房で料理に腕を振るっているのではないか。

『アフリカ』を続けて(32)

下窪俊哉

 昨年12月号の(30)で、この連載には大きな区切りがついたような気がする。前回(31)からは第2期、ということになろうか。『アフリカ』の顔(表紙の切り絵)を手がけてきた向谷陽子さんを突然失い、その後の1冊をつくることで、思いがけず、大きな山を越えたようだ。その先の風景が、自分には、どんなふうに見えているだろう?

「ここまでの原稿を冊子にまとめませんか。わたしが勝手にZINEをつくって、イベントで『アフリカ』と一緒に並べたいだけですが」と装幀の守安涼くんからメールが来たのも、(30)を書いた後だった。仮のゲラまで添付されていた。彼が言うには、すでに7万字近くあり、四六判でザッと150ページになるらしい。

 ところで私は、ZINEということばを、自分からは、使わない。自分のつくる本や冊子をZINEと呼ぶ必要を、感じたことがないからだ。
 しかし最近はSNSでZINEをつくっているらしい人との付き合いが増えて、ZINEを売る本屋も増えて、ZINEの即売会やイベントが行われていたりして、私の目には賑やかだ。

 ZINEにもどうやら、いろいろあるらしい。なぜこれがZINEなの? と思うようなガッチリとした本や雑誌もある。かと思えば、家庭用プリンタで印刷してホッチキスで綴じたような簡素な本もある。私が十数年前に初めて耳にしたZINEのイメージは、後者である。そのイメージのなかにいる限り、何というか、プロの仕事をしてはならない。遊んでいる方が面白い。下手くそでいい、というより、下手くそが推奨される。上手くつくろうなんて!(ツマラナイヨ)
 いま、たまに本屋で見かけるZINEからは、あまりそういう感じを受けない。どちらかというと、小ぎれいな本が多い。そのなかに小ぎたない本(?)が混ざっていると、ハッとして、ちょっと嬉しくなる。
 もしかしたら、会社組織ではないグループや、個人あるいは少人数でつくった少部数の出版物の総称して、ZINEと呼ばれているのかもしれない。しかしそれなら、リトルプレスでいいじゃないかという気がする。
 ZINEということばの由来と歴史については、今回は省略しよう。要するにいま、ある界隈では猫も杓子もZINE状態なのだろうけど、私から見ると、どれも、ようするに〈本〉である。
 スッキリ考えられるところを、あえてゴタゴタさせたいとは思わない。自分のつくるものは他所と違うと区別したい気持ちもない。自分は素人で下手なんです、と言い訳したい気持ちもない。少なくともいま本をつくるにあたって、私にはプロも素人もない。書かれたもの、描かれたものなどがあり、それを〈本〉という器に落としてゆくだけである。

 話が一気に逸れたが、つまり私にとって、四六判・150ページの「『アフリカ』を続けて」はZINEかな? と思うところがある。守安くんもさすがにそこは、そう思っているかもしれない。なぜなら、中綴じの本にしたいと言っていたから。ちょっと厚すぎるかな?

 それにしても7万字、いつの間にか書いていた。しかしそれをそのまま、順番に並べて本にするというのでは芸がない。読み返してみると、最初の回はともかく、毎月書いていると、いい感じで書けたと思う回もそうじゃない回もあるし、冗長になっているような箇所も書き込みが不足しているような箇所もある。推敲して削ったり、加筆したり、順番を入れ替えたり、項目ごとにタイトルをつけたり、本にするならそういった編集を経てからにしたい、と話して作業を始めてみたのだが、守安くんの言っているイベントは2月らしくて、それには間に合わせられそうにないということがすぐにわかった。

 この連載が第2期に入ったと書いたが、『アフリカ』自体が大きな区切りを迎えて、次へゆこうとしているのである。それくらい向谷さんの存在は大きかった。それも、いつの間にか大きな存在になっていた、ということだろう。この年末年始に手紙を整理していたら、2010年の秋、『アフリカ』vol.10を出した頃に、向谷さんが「節目のこのタイミングでお断りしようと思いました」と言っている手紙を見つけた。どういうことかと思って読んでみたら、着実に前に進んでいる(と彼女には見えている)私の姿を見ていて羨ましくなり、自分の作品を見返してみたときに「怖く」なったのだそうだ。本当にこんなものでよかったんだろうか、『アフリカ』の顔を描くのには、もっとふさわしい人がいるのではないか、云々。えらく自信がないのである(そう言いながらも新作は“切って”いたのだが)。そんな話はすっかり忘れていたが、手紙をくり返し見ていると、少し思い出してきた。それを読んだ私は、おそらく苦笑したはずである。どのような返事を出したのかは、わからない。でも、これからもあなたの切り絵でゆきたいと伝えたことだけは確かだ。

 さて、私はこれからも『アフリカ』を続けたいのだろうか。もう止めたいと思っているところはない? と自分に問いかける。ないとは断言できない。かといって、積極的に止めたいという気持ちもないのである。これを惰性というのかもしれない。私にはたくさんの人に伝えたいという気持ちがない。未知の誰か(その人はいつもひとりで待っているような気がしている)に何かを伝えたいという気持ちはある。未来の読者へ届けたいという気持ちもある。かつての私にとって、未来の読者には現在の自分も入っていた。例えば、そのvol.10をつくった頃の自分が、いまの自分にどんなことを伝えようとしているか、耳を澄ましてページをめくってみる。どんな声が聴こえてくる?
「続ける」ということのなかには、そういうこともある。

(お知らせ)2月のイベントというのは、「おかやま文学フェスティバル2024」の一環で2/25(日)に行われる「おかやまZINEスタジアム」のこと。「Huddle」という屋号で、『アフリカ』も販売するそうです。当日、『アフリカ』を購入いただいた方へは、小冊子「『アフリカ』を続けて」vol.0(仮称)のプレゼントがあるかもしれません。

むもーままめ(36)四季の窒息2023年7月23日

工藤あかね

充血した白い箱の
壁から壁へと
当たっては折り返す

春に苛まれ
真夏の日差しも浴びず
秋風の匂いも知らず
もはや真冬の凍えも忘れた

波打つ鼓動を持て余す我は
動物園に陳列さるる
生き物たちの同胞

願うことはただ一つ
凶暴にして完璧な
野生の血潮を
蘇らせること

声掛けモンダイ

篠原恒木

歩いていると、街角に立っているヒトから声を掛けられることがある。

最近は「客引き行為」に対して取締りが厳しくなっているが、昔は夜の繁華街を歩いていると、数メートルごとに声を掛けられたものだ。オーソドックスなものとしては、
「もう一軒、カラオケいかがですか」
「一時間五千円ポッキリ、飲み放題いかがですか」
などというものがあったが、こちらが驚いてしまうフレーズも耳にした。

「呑みのほう、いかがですか」

初めてそう言われたときは激しく戸惑った。「呑みのほう」という言い回しに、我が左脳が混乱をきたしてしまったのだ。
「呑み」というのは「サケを呑むこと」を意味することはかろうじて理解できたが、その「呑み」に「のほう」を付けることに衝撃を受けたのだ。
「~のほう」という言葉が意味することは何なのか。
「区役所のほうから参りました」
「私のほうからご説明させていただきます」
このへんまでなら、まだ理解の範疇だが、
「コーヒーのほう、お持ちいたしました」
あたりになってくると、おれのアタマは反乱を起こす。
「コーヒーのほう、ということはコーヒーそのものではなく、コーヒーのようなもの、もしくはコーヒー方面の何かをお持ちいたしました、ということなのだろうか。だいたいコーヒー方面って何なのさ。コーヒーに方角があるのか」
と、考え込んでしまう。そして話はモンダイのひと言に戻る。

「呑みのほう、いかがですか」

これはじつに曖昧ではないか。日本語として成立していない。
「お帰り前にもう一杯だけお呑みになりませんか」
と、なぜ言わないのだろう。待てよ、「呑みのほう」ということは、「呑み」だけではなく、その周辺のことを含ませているのだろうか。では「その周辺」とは何か。ドレスを着たおねえさんが隣についてくれたり、そのおねえさんが頼みもしないのにフルーツの盛り合わせを出してくれたり、「シャンパン開けましょうよ」と言ったりする、そのあたりのことを「のほう」で表現しているのであろうか。だとしたら警戒しなければならない。そもそもおれはサケが一滴も呑めないから「呑み」も「呑みのほう」にも引き寄せられることはないのだけれど。

もっと驚いた声掛けがあった。夜も更けてきた六本木交差点を歩いていたら、突然おにいさんが近づいてきて、おれの耳元でこう言った。

「おっぱい」

耳を疑った。見事な体言止めだ。「おっぱい」、そのひと言だった。これ以上ミニマムなフレーズがあるだろうか。インパクト抜群だ。おっぱいがどうしたというのだろうか。おっぱいをどうするというのだろうか。おれは狼狽しながらも考えた。ここは六本木の深夜だ。風俗店も多い。
「おっぱい触り放題ですよ。いかがですか」
というような意味なのだろうな、と推理はしたが、それにしても省略が激しすぎる。もう少し詳細に主語、述語、目的語を述べてほしいところだが、目的語は「おっぱい」だと思われ、残りの主語と述語を述べられても困るだけなので、おれは無視して歩を進めた。

「なぜおれに声を掛けるのだ」
というケースも多い。家の近所を散歩していたときだ。おれの身なりは近所ということもあり、それはひどいものだった。寝巻き代わりにしているスウェットの上下にサンダルをつっかけてフラフラと歩いていると、スーツ姿の若者が、
「ご検討、いかがでしょうか」
の声とともに億ションのパンフレットを手渡そうとする。どう見てもおれの格好は「億ションの購入を検討しているエグゼクティヴな紳士」には見えない。競輪、競馬、パチンコなどで食いつぶしたおじさんだ。営業センスのかけらもないではないか。おれは無言で通り過ぎた。

「よろしくお願いしまーす」
いや、正確に書き起こすと、
「よろしくおねしゃーす」
と言われて、若い女性からポケット・ティッシュを手渡されたこともあった。ティッシュを見てみると、美容院というかヘア・サロンというか、つまりはそのテの店がオープンしたことを告知していた。おれは完全なハゲアタマである。スキン・ヘッドなどと言うとそれらしく聞こえるが、つまりはハゲアタマだ。そんなハゲおやじに美容院のティッシュを配ることほど無駄な行為はない。これも営業センスが著しく欠如しているではないか。

同じポケット・ティッシュ配りでも感心したことがある。大学生と思しきおにいさんがおれにティッシュを渡そうとする直前にこう言ったのだ。
「花粉症はございませんか。どうぞー」
おれは重度の花粉症である。思わず「どうも」と応えて、ティッシュを受け取った。見るとカラオケ・ボックスの告知だった。カラオケ・ボックスに興味はないが、素晴らしいセールス・トークではないか。あのおにいさんはおそらくアルバイトなのだろうが、将来はどの世界でも成功する優秀なビジネスマンになるだろう。ティッシュ配りにもクリエイティビティが必要なのだ。

つい先日には制服姿の警察官から声を掛けられた。おれにしては精一杯のお洒落をして歩いていたときだった。
「ちょっとよろしいでしょうか」
ああ、また職務質問かよと、おれはゲンナリした。以前にも書いたが、おれは職務質問の常連、上顧客、お得意様、年間契約者、終身名誉顧問なのだ。
「なんでしょうか」
おれは思いきり不機嫌な顔をして、警官と向き合った。
「このようなものをお配りしております。宜しくお願い申し上げます」
拍子抜けしたおれに手渡されたのは「高齢者のための交通安全読本・安全毎日いきいき東京」という小冊子、それにピーポくんのポケット・ティッシュだった。小冊子の表紙を見ると、ニコニコ顔のおじいさんが運転しているクルマが横断歩道で一時停止して、おばあさんが同じくニコニコ顔で手を挙げながらその横断歩道を渡っている様子がイラストで描かれていた。年配のヒトビトを見かけたら配っているものに間違いない。そうか、おれはいくらお洒落をしたところで、どこからどう見ても高齢者に見えるのだなと自覚したら、それはそれでゲンナリした。

声は掛けないでもらいたい。どうかそっとしておいてほしい。

アパート日記2024年1月

吉良幸子

1/1 月・元旦
起きたら年が明けておった。正月感が全くないままお昼過ぎにふらっと近くの八幡神社へ。ほしたら、おはやし保存会がいるわ、法被にひょっとこ姿のねぇちゃんが踊っとるわで紛れもなくお正月なところに辿り着いた。地元の神社いう感じ。初詣に行って良かった。
家に帰ってぜんざい食うて、明るいうちに銭湯へ行く。銭湯でしか会わんおばちゃんと裸でご挨拶。何とも滑稽や。
ちょうどお湯から上がって脱衣所のテレビに目をやると地震速報。番台のおばちゃんもきて、揺れてない?と聞きはるけど、みんな湯に浸かってたしわからんと言う。年明け早々えらいことになってしもた。

1/2 火
公子さんはソラちゃんの“真夜中 窓開けて攻撃”により、冷え切ってちょっと体調崩してはる。文字通りの寝正月。太呂さんと妃奈さんがお正月に作ったチャプチェや煮物を持ってきてくれた。
明日から近くの銭湯が三連休になるし今日も風呂へ。いつものおばちゃんたちとやっぱり今日も混んでるわね、あなたはいつも角で体洗うから隠れたってムダよ、なんて言われてたわいもない話をするのが楽しい。帰っておかあはんに年明け初めての電話をする。話している間に飛行機事故の速報がテレビで入ったと聞く。今年どないしたんやろか。

1/3 水
初夢は日暮里にある帝国湯の脱衣所におった。銭湯好きに磨きがかかってきたらしい。

1/4 木
時間の経つのはなんとはやい、今日はばあちゃんの一周忌やった。

1/5 金
出稼ぎの仕事始め。あっちゅう間に時間が過ぎ、仕事終わりに金春湯へ。43℃のお湯はどってことなく浸かれるようになった。お湯から上がって人生2回目のお釜ドライヤー。短髪やとやたらにあついし変なクセもついて気ぃ使う。ありがとうございました~と出て行こうとしたら、後ろ姿を見たお風呂屋のおばちゃんに、あっちょっとハネてる!と言われて笑いながら出た。帰りしな歩くとハネてるとこがぴょんぴょんするのを感じる。

1/6 土
雷門音助らくご会へ。会場が日暮里ということは帝国湯へ行ける口実がでけたということ。今日もきっかり48℃のお湯で、浸かるとビリビリする。あ~骨の髄まであったまる!とひとりで百面相しながら入る。何となしに壁タイルの鯉の絵へ目をやると、これは昨日行った銀座の金春湯と同じ鯉や!と発見して嬉しくなる。タイル絵の作家がおんなじで、風呂屋ができた時期も似てんのかなぁ。今日もぽかぽか、ええお湯でした。

1/10 水
太呂さん一家から新年のご挨拶のハガキがきた。小4のカイくんからのひとことは「人生一回、楽しく生きよう」。うちのおかあと言うてること一緒で笑う。

1/11 木
朝から隣町にある文具屋まで散歩してみる。途中で工事の交通整備のおっちゃんに、若いのに下駄珍しいですね!とむちゃくちゃええ笑顔で話しかけられた。こういうのは外に出な出くわさん会話でおもろい。うちから行くと必ず心臓破りの坂道を通らなあかんのやけど、下駄でぜぇぜぇ言いながら登ると、いかにも村から出てきたみたいで笑える。坂を登ると自分は一生住まんような豪邸が立ち並ぶ。古いおうちは感じええ。文具屋に着いたらお目当はなくて悔しい。帰りは公園も散策。まつぼっくりをひとつお土産にひろった。
夕方に一番のご贔屓、古今亭始さんから公子さんに電話が入った。真打昇進の名前が決まったらしい。おめでとう、ということで年明け一発目の割烹やまぐちへお祝いに行く。今日は大将ひとりで、お客さんもいつも端っこにいてはる常連のおじさんひとり。公子さん、2合目の八海山になると絵に描いた酔っ払いに変身して大将と常連さんに絡む絡む!いわと寄席の宣伝を散々かましてチラシを置かせてもらうことになった。タダでは絡まん、さすがや。家へ無事帰ってソラちゃんにも絡む。そん時のソラちゃんはすんごい冷たい目ぇしてておもろい。

1/14 日
今日は今年最初のいわと寄席の日。演目全部が講談で、神田紅純さんと神田松麻呂さんの会。俥読みは初めてやったけど面白かった。講談は長い話やと大体そのうちのひとつしか聴かれへんから、続けて違う演者でというのは嬉しい。
今回は公子さんち大集合で、娘のさくらさんと太呂さんち一家が来てくらはった。打ち上げはさくらさんと太呂さんと一緒に。さくらさんから烏口の使い方でアドバイスもらって悩んでたことも解決した。ええ日や!

1/19 金
チンドンもやってる浪曲師・小そめさんのつぶやきをたまたま見て、滑り込みで『羽織の大将』を観にいった。笑って泣けるとはこういう映画を言うんやろうなぁ、前半は声出して笑って、最後は涙が流れっぱなしやった。フランキーが落語家やるなんてそもそも最高な映画なんやけど。やっぱし行ってよかった。

1/20 土
ギタリストの前原さんの夢をみた。出稼ぎ先に毎月演奏しにきてた筋金入りの酒飲みで、とうとう酒の飲み過ぎで去年亡くなってしまった。ちょっとしか話したことなかったけど、笑うと優しい、大好きな演奏家。夢の中でもいつものように黙々とギターを弾いてはった。

1/24 水
久しぶりの整骨院。タイミングよく院長にやってもらって相当スッキリした。今日は院長の若かりし頃の黒歴史を永遠と聞けておもろかった。

1/25 木
今日は休みらしい休み。まず昼過ぎから展示をふたつ。大原大次郎さんの文字の展示には刺激を受けた。こんな筆記具で描いてんねんやとかそんなんばっかし見て、すぐ文具屋に行って筆記具を買った。そしておじいちゃん先生として有名な柴崎春道さんの展示にもお邪魔しに行った。動画で描く過程を見ていた絵を間近に見れて嬉しい。スタッフのにいちゃんが気を利かせてくれて、まさかのツーショットを撮った。そしたら柴崎先生、私の携帯の裏に入れてた若い片岡千恵蔵の写真に釘付けで笑った。こんなとこで片岡千恵蔵好きなんです!と叫ぶとは。
そして夜は落語会。江戸も上方も聴けて嬉しい会やった。演目は同じでも言葉が違うとこないに印象変わるんか、と感じる会で、やっぱし上方出身やから関西弁でやる落語は言葉が柔らこうて好きやなぁと思うた。

1/26 金
朝から、正楽師匠亡くなったの!?という公子さんの声に耳を疑った。林家正楽師匠の突然すぎる訃報が信じられなくて、とにかく寂しくて悲しい。寄席に行けばいつものように出てきてくださる気がしてならない。亡くなるほんの数日前まで寄席に出てはったらしい…かっこよすぎるやないですか!Xのタイムラインはお茶目な師匠の写真とこれまでに切られた紙切り一色になった。それを見てまた胸が詰まる。あぁ、やっぱり寄席っちゅうのは行けるときに行っとかなあかんと痛感した。

1/29 月
丹さんが着物をリメイクしてモンペにしたものを誕生日プレゼントに持ってきてくれた。履いてないみたいに軽くて、しゃがんでもどっこも突っ張らんで、柄が粋!むっちゃ嬉しい、おおきに、センキュー!!

1/30 火
出稼ぎの帰りに携帯を見ると、公子さんからものすごいごきげんメッセージがきておる…こりゃ、酔うとるな、と思いながら帰ると、お布団に包まれた上機嫌の公子さんがむくっと起き上がって喋る喋る!仕事の話をしに行って、ええことがあったんやて!太呂さんにも、丹さんにも、落語家の始さんにも電話して、帰りに割烹やまぐちで落語会の話までしてきたよ~と高らかに話してはる。聞くと日本酒は2合、あちゃちゃ、2合目は公子さんをおしゃべりな酔っ払いにするんやし!今日の出来事を2周ぐらい話して、静かになったなと思ったらぐっすり眠っておった。忙しいこっちゃで!

小津安二郎の月

植松眞人

 中国の四川省からやってきた留学生の趙(ちょう)くんとは、彼が学校を卒業し、私が学校を辞めてからも付き合いが続いている。
 彼はいま仕事の都合で静岡県伊東市にいて、時折、東京や大阪で会っては映画の話ばかりしている。もちろん、彼の日本語が達者なおかげだ。
 昨年のまだ寒い春先のこと。私が関西から東京へ移動することがあり、なんとなく新幹線の路線を頭の中に思い浮かべていると、静岡あたりに趙くんがいることを思い出した。それならと、趙くんにスマートホンからメッセージを送る。熱海あたりで新幹線を降りて一泊するからご飯でも食べないか、と誘うと嬉しいことに趙くんは車で熱海駅まで迎えに来てくれるという。
 当日、熱海駅に着くと土砂降りの雨で、私は駅前のターミナルを雨に濡れない屋根付きのところで眺めていた。すると、タクシーの間に一台の小さめの乗用車が止まり、趙くんが窓を開けて手を振っている。私が一歩雨の中に移動しようとすると、その前に趙くんが私を掌で止めて、自分が傘を差して飛び出してきた。ほんのわずかな移動で趙くんはずぶ濡れになったが満面の笑みを浮かべている。
「お久しぶりです!」
 趙くんのクセのあるイントネーションが懐かしく、私もすぐに笑顔になってしまう。
「行きましょう。車で移動して、どこかでご飯食べましょう」
 そう言って、趙くんは自分が濡れるのも気にせず、私に傘を差しだして車へ誘導してくれた。
 それからたまたま見つけた居酒屋で地の魚を楽しみ、あれこれまた映画の話をした。
「熱海と言えば小津安二郎ですね」
 趙くんがポツリと言ったときに、私は不覚にも泣きそうになった。理由はわからない。確かにそうだ、と思った感覚よりは、何を突然言い出すんだ、という感覚に近かった気がする。『東京物語』の話をして、小津に心酔しているアキ・カウリスマキの話をしたように覚えているが定かではない。でも、熱海で小津の話をすれば、話題は無限に広がっていく。中国の四川省からやってきた若者とは小津の話ができるのに、日本の若者と小津の話をしたことがない、というのは嘆かわしい、などと何か日本の現状を憂ういっぱしの大人のふりをしながら話したような気もするが、思い出すと恥ずかしいので思い出さないように努力する。
 居酒屋を出ると、雨は止んでいた。もちろん、趙くんは車の運転をするために、ウーロン茶を飲んでいたので、そのまま車で私を宿まで送ってくれることになった。
「先生、『東京物語』のあのお父さんとお母さんが歩いていたところ、分かりますか」
 趙くんが言うので、私は助手席で熱海の海岸までナビゲートする。
 趙くんは車を停める。私たちは車を降りて、防波堤に沿ってしばらく歩いて見る。すると、満月が煌々と光っていた。私と趙くんはしばらく熱海の海岸から月を見上げて、黙っていた。
 趙くんに送ってもらって宿に着くと、もう時間は日付が変わる頃だった。宿の窓からさっき見た月は見えるだろうかと、カーテンを開けてみたが、方角が違っていたのか山肌ばかりが見えるのだった。でも、ほんの少し窓を開けてみると、波が寄せる音だけは聞こえている。もどかしく、ぼんやりと山肌を見ていると趙くんから写真付きのメッセージが届いた。
「先生、今日はありがとうございました」
 そんなメッセージと一緒に送られてきた写真は、さっきまで一緒に見ていた熱海の海岸から見える月だった。そして、その月の写真にもメッセージが付いていた。
「先生、小津安二郎もこの月を見たのでしょうか」
 そう書かれていた。私は月の見えない自分の部屋の窓をもう一度開けて、波の音だけを聴きながら、趙くんが送ってくれた月の写真を眺めた。すると、自分の部屋からも月が見えているような気持ちになった。
「きっと小津さんも見ていたよ」
 私はそう返信したあと、月の写真をスマホの画面一杯に写してみた。そして、山肌しか見えない窓のあたりに掲げて、月を見ている気分を味わった。

本小屋から(6)

福島亮

 パリから東京に引っ越して数ヶ月のあいだ、奇妙な戸惑いが続いていた。それは単に生活している場所が違うという漠然とした違和感ではなく、市場のざわめきが聞こえないとか、木でできた螺旋階段がきしむ感じがしないとか、そういった具体的な感覚と結びついた戸惑いだった。なかでも、橋を渡るという行為が東京ではなかなかできないことに対する戸惑いは、引っ越してから数ヶ月間、消えなかった。パリはセーヌ川が弧を描いて街を横断しているために、どこへ行くにもたいてい橋を渡る必要があるのだが、いま暮らしている場所には橋がほとんどない。それがなんだか寂しかった。

 感熱紙に印刷された文字が時とともに薄らいで、最初は黒かった文字がセピア色になり、最後は読めなくなってしまうように、引っ越してから半年ほどすると、橋を渡る感覚も薄れていった。そんな感覚を持っていたことすら、ここ最近は忘れていた。先日、ベルヴィル通りの部屋を貸してくれていた大家さんに久しぶりにメールをしたところ、返信に「あのアパルトマンは売ってしまったよ」と書いてあった。そうか、もうあの部屋には気軽に遊びに行けないのか。メトロ2番線のメニルモンタン駅で降り、ベルヴィル通りを数十メートル進んだところにあるチュニジア人がやっているパン屋の横、深緑色の扉をあけ、ところどころ壊れ、少しカビ臭い螺旋階段で7階にあがって左手一番奥の部屋。当時私だけの場所だったあの部屋は、もう誰かのための場所になっている。そう思った途端、橋を渡る感覚や、階段の軋みや、市場のざわめきが、ほんの一瞬、よみがえり、消えていった。

 ある短い文章を書くために、マリー・ダリュセックが書いたパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの伝記『ここにあることの輝き パウラ・M・ベッカーの生涯』を十二月後半から一月前半にかけて読んだ。ドイツ表現主義の先駆けと評されるパウラだが、伝記を読んでいると、パリの仕事部屋に対する彼女の情熱が印象的だった。自分の場所を持つことは、パウラにとって絶対的に重要なことだった。ベルヴィル通りの部屋にいたら、きっと螺旋階段を降りて、彼女が暮らした通りを訪問しただろう。それができないのは、もどかしい。

 私が本小屋に移ったのも、自分だけの場所が欲しかったから。あいかわらず本は増え続けており、最近そこに、雑誌『インパクション』のバックナンバー一式が加わった。春になったら本棚を増設しなければならない。こんなふうに一方的に増え続け——それを読むことが本当は重要なのだが——、読まれることを待っている本たちの視線を感じながら生活すると、なんだか落ち着く。

 だが、甘えてばかりもいられないことを、本小屋は教えてくれる。たとえば寝付きの悪い夜に、ふと辺りを見渡し、ガサガサと本棚を漁って、いくつかの本をパラパラとめくってみる。すると、本当に読みたい本がここにはない、という絶望的な気持ちになることがある。本当に読みたい本とは何か。それはよくわからない。自ら手に入れた本は、私が読みたいと思った本であることは確かなのだが、しかしそれは、「本当に読みたい本」とはどこか違う。というか、そんなふうに寝付きの悪さを口実にして、「本当」であることを求める私の身勝手さを、本が拒絶しているのだと思う。

水牛的読書日記 2024年1月

アサノタカオ

1月某日 新しい年を迎える静かな時間に、宮内勝典さんの長編小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読むという儀式を20年以上続けている。ロシアによるウクライナ侵攻は終わりが見えず、昨年の10月には、イスラエル軍によるパレスチナ・ガザ攻撃がはじまった。国家・民族・宗教への帰属にもとづく「唯一無二のわれらの世界」という旗印の下に、人間が人間を殺し続けている。『ぼくは始祖鳥になりたい』の主人公ジローの南北アメリカを舞台とする越境的な冒険譚に、「アイデンティティ」という呪縛から脱出するためのぎりぎりの希望を見出したいと願いつつ、今年もまた夜を徹して読了した。

充実した読書の時間を潜り抜けた心地よい疲れを感じながら、昼下がりのベッドで横になり、このまま続編の小説『金色の虎』(講談社)も読んでしまおうか、と書物のページをめくっていると、ぐらりぐらりと長い揺れが起こり、飛び起きた。能登半島で大地震が発生したという。

1月某日 昨年中に読もうと思っていたのに、読めなかった本。しかし、読みたい本。「積ん読」をよしとしない主義なので、2024年中に一冊ずつ読でいきます。と、机の前で誓いを立てる。

小川てつオ『このようなやり方で300年の人生を生きていく 新版』(キョートット出版)
陣野俊史『ジダン研究』(カンゼン)
坂上香『根っから悪人っているの?』(創元社)
くぼたのぞみ、斎藤真理子『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)
李箱『翼』(斎藤真理子訳、光文社古典新訳文庫)
キム・ヨンス『七年の最後』(橋本智保訳、新泉社)
佐藤文香『渡す手』(思潮社)
植本一子『こころはひとりぼっち』

1月某日 昨年末、熊本・水俣への旅に同行したことをきっかけにして、上野俊哉先生の『ディアスポラの思考』(筑摩書房)を再読した。この本には、パレスチナ系アメリカ人の批評家エドワード・サイードの「エグザイル論」にも関連する文章「二つの旅する批評」が収められている。民族離散、亡命、人間の移動の経験に関する上野先生の関心が、どのような哲学的・思想的な問題意識に由来しているのかを確かめようと、『音楽都市のパラジット』『思考するヴィークル』(洋泉社)や『人工自然論』(勁草書房)など初期の著作も集中的に読み返した。

1月某日 能登半島地震では、大津波も押し寄せたことが明らかになった。日本赤十字社とともに活動する写真家の畏友、渋谷敦志さんがさっそく現地入りしている。渋谷さんがSNSに投稿した取材メモによると、断水、停電、電波障害のみならず道路の亀裂や土砂崩れで文字通りライフラインを断たれ、救援の手が届かない被災地の状況は報道で伝えられる以上に厳しいものらしい。原子力発電所も立地する北陸の半島では今なお、余震が続いている。

不定期で参加している読書会の課題図書としてトーマス・マン『魔の山』(高橋義孝訳、新潮文庫)を連日、読み続けている。1冊700頁超の上下2巻。ドイツの港湾都市ハンブルクからスイスの高原ダヴォスのサナトリムに「いとこ」の見舞いにやってきた主人公ハンス・カストルプは、冒頭から冷えや火照りを感じたり、やがて疲労や発熱に悩まされたりして体調が芳しくない。両親は比較的若く病死しているという。当然、読者は「かれもまた結核なのだろう」と早い段階から疑うわけだが、そんなカストルプ青年に診断が下されるのは、ようやく上巻の380頁。先の見えない長い山道が続く。

1月某日 明星大学で「編集論」の授業を終えた後、図書館で拙随筆集(サウダージ・ブックスから刊行予定)の校正作業。しかし、なかなか捗らない。ルーマニアから亡命したアメリカの詩人アンドレイ・コドレスクの批評エッセイ集『外部の消失』(利沢行夫訳、法政大学出版会)などを見つけて、ついつい読みふけってしまう。

1月某日 神奈川・大船の最寄りの書店、ポルべニールブックストアに新年の挨拶を。黒川創さん『世界を文学でどう描けるか』(図書出版みぎわ)、宋恵媛さんと望月優大さんの共著『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)の2冊を購入。どちらも読みたかった本で、よい買い物をした。

1月某日 明星大学の「マイノリティ文化論」でゲスト講義をおこなう。大学1年生向けの授業。現代日本のマイノリティ文学を紹介することを求められたので、李良枝の小説「由煕」を取り上げた。「日本」「日本人」「日本語」の一体的な繋がりを前提とする日本文学とは異なる、「日本語文学」という概念があること。国家(日本)や民族(日本人)に安住することのないマイノリティとして、なお日本語で書くことを実践してきたのが、在日コリアンの作家たちであること。導入としてこうしたことを説明した上で、日本(語)と韓国(語)の二つの世界に引き裂かれながら、「言葉」を凝視することで「自分自身がどう在るか」を深く問いかけた李良枝独特の文章の息遣い、「由煕」という作品の凄みについて語った。

かつて僕が書店の一角で『李良枝全集』(講談社)に出会ったのが、ちょうど大学1年生の時だった。それから20年以上経って、李良枝のエッセイ集を編集することになった。「マイノリティ文化論」の受講生のなかで、いつか彼女の小説を読もうという人がひとりでもあらわれるといいなと思う。ちなみに、ゲスト講義をおこなう前に、宋恵媛さん『「在日朝鮮人文学史」のために』(岩波書店)を読んで勉強したのだった。

夜は、自宅からオンライン読書会に参加。トーマス・マン『魔の山』上巻について意見交換する楽しい時間。まだまだ山の5合目、次は下巻だ。

1月某日 明星大学で今期最後の「編集論」。学生たちにはグループワークの課題として、「私の好きなものたち」を特集したZINEの制作に取り組んでもらう。この日はその発表会。ZINEのテーマは、料理や食、スポーツ、推しの文化(声優、アニメ、アイドル)、地元、映画とバラエティに富んでいておもしろい。限られた時間で原稿、写真、イラストを準備し、編集やデザインの共同作業をおこなうのは大変だと思うが——「センセって鬼ですよね!」と学生に言われた——、しかし表現することやものづくりをすることの喜びを感じてもらえたら……。課題としては「本文16頁程度」と分量を設定しているのだが、今年は60頁超の熱量の高いZINEの力作も登場! 印刷製本は「センセ」の担当なので、自宅の仕事場でうれしい悲鳴をあげる。

1月某日 東京のサンシャイン劇場で、久しぶりの観劇。妻子とともに訪れたのは、少年社中の25周年記念興行「テンペスト」。ストーリーとしては同題のシェイクスピア劇とそれを上演する架空の劇団の物語が交錯する内容で、台詞のあちこちに「テンペスト(嵐)」を現代のドラマとして読み替える脚色・演出の仕掛けが散りばめられていて楽しく、見応えがあった。またそれ以上に俳優のみなさんの演技にダンス、音響照明舞台装置が織りなす圧倒的なエンターテインメントの力に打ちのめされた。まさに熱風渦巻く「嵐」を体感。演劇っていいものだな、と素直に感動した。

1月某日 黒川創さんの『世界を文学でどう描けるか』を読み終えた。すばらしい本だった。黒川さんの著作で言えば『国境 完全版』や『鴎外と漱石のあいだで 』(河出書房新社)などの系譜に連なる世界文学をテーマにした評論集なのだろう、と思って読みはじめたのだが、大文字の「世界」からも「文学」からも一見遠く離れた、著者の20年余り前のサハリン旅行について語る紀行エッセイで、予想は見事に外れた。しかしこの本は、その個人的な旅の経験を通じて、「世界を文学でどう描けるか」という問いを探求するひとりの作家の真摯な思索の記録になっていて、かえって胸を打たれたのだった。

北方先住民の地でありながら、19世紀以降、日本やロシア(ソ連)によって支配されてきたサハリン島。著者は、北端の町オハでニーナという英語通訳の初老の女性を紹介される。大陸のハバロフスクからやってきて、父親はソ連海軍将校のロシア人、母親はウクライナ人。戦時中から海軍居留地の家の隣には捕虜収容所があり、そこでパンを乞う日本兵と交流をしたことがあった。戦後、レニングラードの外国語学校に入学し、そこではドイツ兵の捕虜の姿も見た——。短い出会いをめぐる断片的な耳の記憶を回想しながら、著者はこう書いている。

〈ロシアのプーチン大統領は、ウクライナのファシスト、ネオナチを拭い去る、と繰り返す。ロシアとウクライナのあいだには、一つの地政学的身体を共有してきた、長い歴史がある。……だが、その同じ地に、ニーナのような人たちもいる。彼女たちは、自身のからだにいくつもの民族の歴史を共存させながら生きている〉

深く心に刻まれた一節だ。終わらない戦争の現実を突きつけられ、世界を語ることばを失いつつある絶望の渦中にあって、なお世界をふたたび語ることばが、文学があるとしたらここからはじまる、と著者は確認しているのだろう。つまりさまざまな旅の記憶を宿した一人ひとりのからだから発せられる小さな声に耳を澄ませることから。その姿勢を共有したい。得難い読書体験になった。

1月某日 朝、窓を開けると雨が上がっていてほっとした。資料を詰め込んだリュックサックを抱えていつものように小田原から新幹線に乗り、名古屋を経由して三重・津のHIBIUTA AND COMPANYへ。昨年の春からはじめた「物語を書く講座【ショートストーリー部門】」が終了した。自分が講師を務め、「物語」について共に考え、「読む」「書く」「企画書をつくる」について解説する4回の講座をおこなってきた。これから「私と場所」をテーマにした、受講者の作品執筆がはじまる。原稿が届くのが楽しみだ。

夜は HIBIUTA の書肆室で、自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第6回も開催。宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』を参加者とともにゆっくり読み進めている。HIBIUTAで出会った牧師の豆太さんが青森の教会に移るという。引越し前に挨拶することができてよかった。そのまま2階のゲストルームに一泊。

1月某日 沖縄より詩と批評の同人誌『KANA』が届く。記念すべき30号の特集は、昨年亡くなった同人作家・河合民子さんの追悼。

1月某日 ジャマイカの西インド諸島大学英文学科で学んだカリブ海文学・思想の研究者・中村達さんの『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)が届く。「クレオーライゼーション(クレオール化)」などカリブ海発祥の概念を、ヨーロッパの現代思想的な文脈や用語で解釈するのではなく、あくまでもカリブ海独自の文学史・思想史の側に立ち、位置づけ直す野心的な論集だ。西洋中心主義の呪縛からカリブ海の文学や思想を解き放つ読みを、著者は「解呪の詩学」と呼ぶ。日本での翻訳紹介がフランス語圏に偏りがちという問題意識から、英語圏のカリブ海の作家・思想家の作品をていねいに紹介していて読み応えがある。半分ほど読み進めたところだが、カリブ海のアフリカ系住民とインド系住民の複雑な関係を描いた小説や、かねて関心のあったバルバドス人の歴史学者で詩人のカマウ・ブラスウェイトの言論を詳しく知ることができてありがたい。

黒川創さん『世界を文学でどう描けるか』も中村達さん『私が諸島である』も「唯一無二のわれらの世界」という像を捏造する力に抗って、世界の生々しい多様性を語る可能性を文学や思想のなかに探っているのだろう。

カリブ海の本を読んでいるので、無性に海をみたくなってくるのは当然だ。波の音を聴きたくなってくる。ジャマイカにもいつか旅してみたいが、とりあえず「東洋のマイアミ」と称される江ノ島に行って散歩した。むかし、大西洋まで車で一時間強という土地に3年ほど住んでいたことがある。これからの人生で、ふたたび大西洋を見る機会は訪れるのだろうか。相模湾を眺めながら、そんなことを思った。

舞踊の歌詞の意味

冨岡三智

ジャワ舞踊の多くには歌があるけれど、私は踊る時に歌詞の意味をあまり重視しない。それよりも音や響きの方を重視している。舞踊劇であれば、歌は台詞でもあるので心情を歌った歌詞が作られているし、新しい伝統舞踊作品の中には振付に対応した歌詞を新しく作っている場合もあるので、そういうのは別である。

ジャワで宮廷舞踊『ブドヨ・パンクル』完全版を2007年に公演した時、念のためスラカルタ王家の事務の人から王宮の文学担当者?図書館の人?に歌詞の意味を確認してもらったことがあるのだが、果たして歌詞は女性の美しさを表現しているけれど、特別な意味はないという返事だった。確かに、踊り手としてこの歌を聞いていると、歌詞はコロコロと玉を転がすような心地良い音の響きの連続で、そこに確かに女性らしい美しさが感じられる。私は歌詞は聞いていなかったけれど、音楽の美しさと歌詞をのせた声の響きの美しさに推されて舞い切ったという感覚がある。

その後、『スラッ・ウェド・プラドンゴ』という戦前に宮廷音楽家が書いた音楽伝書を読んでいたら、この『ブドヨ・パンクル』の歌詞の冒頭の歌い出しは「王の命令により歌う」という意味で、これを改訂した王(パクブウォノVIII世)が即位する前の歌詞は「王」の部分が「王子」だったという話や、また、歌詞の中にある「王は身体のことで指示を与える」という意味になる部分はサンカラという修辞法(象徴的な言い回しの中に特定の年号や出来事などを忍ばせる)が使われていて、VIII世の即位年であるジャワ暦1787年(西暦1858年)を意味しているという話が出てきた。これらを読んでへーとは思ったものの、舞踊の振付には全然関係がないなとも思う。舞踊を改訂した王の時代にそういう修辞法が流行して、既存の歌詞の中に少し入れこんだだけなのである。

2023年11月号『水牛』に寄稿した記事「ジャワ舞踊のレパートリー(3)自作振付」でも書いたけれど、私が自作『陰陽』(2002年)のためにデデ氏に委嘱した曲が、2003年頃にインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のダルヨ氏が振り付けた舞踊「スリカンディ×ビスモ」の中でも使われている。この作品の音楽もデデ氏が担当したのだが、歌詞は私の作品のためにデデ氏がつけてくれた(私の好みに合わせて、災厄を祓うようなフレーズなどを既存の詩などから取っている)歌詞そのままである。私の舞踊作品のテーマは『マハーバーラタ』から取ったスリカンディ・ビスモの戦いの話とは全然関係がないが、曲の旋律はスリカンディ・ビスモの舞踊の中でもふさわしいシーンで使われている。このように、歌詞は意味が大事というより、音楽の旋律と一体化してある種の感情を催させるもので、旋律を歌う手段として歌詞があると考えた方が良い。

『現代能楽講義』(天野文雄著)の中に、昭和の名手と言われた能楽師が、ある能で中入りして楽屋で衣装を着替えつつ狂言役者が舞台でその能の筋を語るのを聞いて、この能はこういう能だったのかと言ったという逸話が紹介されていて、天野氏も、謡を謡っている時は誰しも不思議にその意味を考えたりしないものだと書いている(p.6)。詩劇である能でもそうなのだから、ジャワ舞踊ではましてそうなのだろうと思う。

小劇場

笠井瑞丈

初めてソロ公演をしたのが神楽坂セッションハウスです。1998年の二月でした。当時自分のソロ公演を行う小劇場を探していました。当時はインターネットも無かった時代でしたので、人の噂や、劇場に詳しい人の話を参考に、色々調べ、直接見に行ったりしました。そして見に行った中から、一番自分がピンときたのがセッションハウスでした。そして下見に行ったその日に、ここを借りると決め、セッションハウスで初めての自分の公演を行いました。思い返せば、当時は今と比べて小劇場というものがあちこちらにあった時代でした。それぞれが皆違う劇場の匂いを持ち、それぞれの特色みたいなものがありました。芝居が多い小屋、ダンスが多い小屋。もちろん両方やってる小屋もありました。劇場が独自の色の企画を立ち上げ、ダンス公演が行われていたり、フェスティバル形式の公演が行われてたりしてました。その中でセッションハウスは、本当に数えきれないほどの多くの企画を産み、途切れることなく現在も続けています。僕も本当に多くの企画に関わらせていただきました。その中で多くのダンサーとも知り合うことができました。小劇場は踊る場所でもあり、交流の場でもあり、そして新しいものが一番最初に生まれる場所でもあります。しかし残念なことにここ数年、新型コロナウィルスの影響もあり、多くの小劇場が閉館してしまいました。そんなこともあり、ここ数年、自分でも何かできることはないかと思い、企画を考え、スタッフも自分で行い、天使館という稽古場で、不定期ですが年に何回か公演を行なう活動を続けてきました。稽古場主の笠井叡のソロ公演や、私が以前セッションハウスで行っていたナイトセッション、ダンサーとダンサーの即興公演など、天使館で行ってきました。今はだいぶ緩和されましたが、ここ数年前まではコロナの影響で、場所に人が集まるということが難しい時が数年続きました。ダンス公演もオンラインなどに変わり、劇場から人が離れ、人と人との交流もシャットアウトされ、観に行くお客さんの力も弱くなってしましました。そしてダンスの在り方そのものが変わってしまいました。時代とともも変化していくことは当たり前のことですが、これから未来に向けて、また小劇場から、この時代にあった新しいムーブメントが生まれてくることを信じています。壊れたものからまた新たなもの作りだす。作るより壊す方が簡単です。作る方が数倍時間がかかります。でもそこにはまた生み出す喜びがあります。そんな喜びを噛み締めて、これからも、小劇場が盛り上がっていけたらいいなと思っています。

話の話 第11話:霞を食う

戸田昌子

その日、わたしたちは確かにリゾットを頼んだはずだった。それなのに運ばれてきたのはシーフードグラタンだった。あれっ、と思ったわたしとホリイさんは顔を見合わせ、そしてホリイさんはいつものリズミカルな抑揚で「あ、ぼくら、リゾットを頼んだはずなんですけど」と快活に言った。すると店員は「いえ、グラタンです」ときっぱり断言して、ごとり、ごとり、と皿をわれわれの前に置いた。その確信にみちた不機嫌な仕草に「もしかしたら自分たちが注文を言い間違えたのかもしれない」と思いこんだわたしは、「わたしグラタンも好きだから、これでいいんじゃない? おいしそうだし」と言った。虚をつかれた顔でホリイさんは、「あ、そうですね、うん、」と、確かに「うん」のあとに「、」をつけて、なにかをのみこんだようだった。店員さんが去ったあと、わたしはいつものように笑顔を作ってからグラタンにかじりついたのだったが、ホリイさんはやはり、うまくのみこめなかったようである。「リゾットを頼んだはずなんだけどなあ、」と、また語尾に「、」をつけながらホリイさんはグラタンを食べ、そして、それを食べ終わったあと、両手をパッと合わせて「やっぱりリゾット、食べませんか? 半分こしましょうよ」とわたしに提案したのだった。

そういうわけでその夜は、シーフードグラタン、半分ずつのリゾット、そしてプリンを一つずつ、食べた。店を出ながらわたしは「意外に大食なんですね、ホリイさんは霞を食ってるんじゃないかと思ってました」と言った。するとホリイさんはこともなげに「ああ、霞も食べるんですけどね、あれは喉に詰まるんですよ」と言った。なるほど、ホリイさんは霞を食ったことがあるのか。しまった、わたしは霞を食おうと考えたことすらなかった、と軽く敗北感を感じるわたし。暑かったのか寒かったのかも思い出せないその夜は、ホリイさんと二度目に遊んだ蛍狩の初夏の夜からは、たった4ヶ月も経っていなかったのに、はるか古代のことのようで、珍妙な明かりをともして夜闇に沈んでいる。

霞を食う、と言えば、わたしはヒッピーを連想する。20代前半のころ、アメリカで一緒に住んでいたルームメイトのクリスティーナはヒッピーだった。ヒッピーといえば1960〜70年代のカウンターカルチャー、いわゆるラブ&ピースを理想とする人たちで、コミューンを作って生活し、ドラッグを吸っては瞑想などをしていた人たちだ。彼女は両親ともにヒッピーで、ヒッピーしか住んでいないカナダのある島の出身だった。「ヒッピーはやっぱりみんな、マリファナを吸うの?」とわたしが尋ねると、クリスティーナは「あたりまえやん。うちの島はマリファナを共同農場で栽培してたよ」とこともなげに答える。「わたしらの島だと、マリファナは大事な共有財産だから、ひとりじめしちゃダメなんだよ。なのにあるとき旅行客がマリファナを盗んで大騒ぎになって」と話し始めた。マリファナは共同で栽培・収穫されて共有の倉庫に保管されているが、鍵もかけられておらず、外部の人間でも吸えるのだと言う。ある時、旅行者の二人組が、盗む必要もないそのマリファナをその倉庫から盗み出した。そこまではまあ、ありそうな話だったのだが、問題は、犯人のうちの一人が銃を所持していたこと。その銃を見たこの平和な島の人々は、「なんてことだ!彼らは銃を持っている!違法だ!」と大騒ぎになり、急遽、捜索隊を結成して二人を追いかけることになった。逃げ出した犯人たちは、島に一つだけある港までたどりつき、そこにいた船の船長に「すぐに船を出せ!」と迫った。まるで映画の一場面のようである。しかし船長もまた、ヒッピーなのである。ニヤニヤして「それはどうかな……」と誤魔化してばかりで、船を出さない。そこへ捜索隊が追いついて、ふたりをあっさり捕まえてしまった。警察に突き出すとき島の人々は「こいつらは違法な銃を持ってるから悪いやつらだ」と説明したが、「共有倉庫からマリファナを盗んだ」という真の罪状は決して述べなかった。もし真実を述べれば、島の人々がほぼ全員、捕まってしまうからである。そして犯人たちものほうも、違法な銃の所持に加えてマリファナ盗難などという、自分たちの罪が重くなるようなことをわざわざ言うわけがない。そして警察のほうも、ふだんからマリファナ栽培を黙認している事実を公にはしたくない。そんなわけで、大人たちが雁首そろえて肝心なことは黙ったまま、犯人たちは警察にしょっぴかれて行ったのであった。

しかし、クリスティーナはマリファナに関してはなかなか批判的である。「この島の高校生は全員、マリファナを1回くらいは試してみるけれども、わたしなんかは親が若いころにマリファナを吸いすぎて、いまでも幻覚があるから、あれみたらもう吸わないね」と言っている。マリファナの幻覚は一生もので、本人たちは霞を食って生きていけるのだとしても、はたから見たら「それはどうかな……」といったところなのだろう。

田野が歩きながら言う。「たとえば1950年くらいのさ、東欧のどこかで、レジスタンスにおれとあんたがいてさ、でもあんたはほんとは無政府主義者だから、ちがうんだ。ふたりでかつかつ石畳を歩きながら、コートの衿立てて、たばこを分け合って話すのさ。そうだった気がする」。田野の話はいつも唐突ではあるが、べつに支離滅裂というわけではない。「ああ、それは、ハンガリーとかポーランドだね」とわたしも応じる。「うん、そう。チェコじゃないの。でもチェコもいくよ。連帯してるから。でもちがうんだ。無政府主義だから。詩と音楽を愛してるんだよ」。そこでわたしは唐突に、スロバキアへ行ってしまった友の顔を思い浮かべる。哲学を学んでいた彼女は、大学を出た後、突然スロバキアに行きたいと考え、スロバキア大使館を訪問して、奨学金の試験を受けてスロバキアへ向かった。「わたしはなぜカントを、スロバキア語で読まなければならないのか」とぼやいていた彼女は、5年ほどたって恋人ができ、妊娠したので結婚することにし、新婚旅行と称してヨーロッパの山々をふたりで巡り、その登山スタイルのまま日本へやってきて、長野の家族に結婚の報告をして、ツーショット写真を送ってきた。その写真には、そこからアルプスの山々の緑が匂い立つ気がするような、さわやかなふたりが写っていた。

「日本では、ひとつの米粒には7人の神様が宿っている、と言うんだよ」と妹が義理の父母に説明している。ふたりはフランス人で、初めての日本訪問である。箸を上手に使えないパパさんのお茶碗の中は、食べ残して茶碗にこびりついてしまった米粒がいっぱいである。それをひょいと覗き込んだママさんは、「あら、それならパパさんのお茶碗はパンテオンね」と言う。神様と言ってもこちらは七福神、あちらは古代ローマ神話に出てくるような神々の庭……イメージが、だいぶ、折り合わない。

エルニーニョって、結局なんだったのだろうか。デニーズで遅めのお昼をひとりで食べていると、隣の席で上司らしきサラリーマンが二人の部下らしき若者たち(男女)の前でワインを飲みながら話している。「フランスでは、昼からワインを飲むんだよ。あ、店員さん、おかわり」と上司が言う。ふたりはうんうんとうなずく。「今年はさ、エルニーニョが日本に来るから、大変なんだよ」と、上司はろれつが回らない。ふたりはまた、うんうんとうなずいている。たしかにフランス人は昼からワインを飲むかもしれないが、デニーズではきっと飲まない。それに、エルニーニョは赤道あたりの海面水温が上昇する自然現象なので、おそらく来日はしない。

そういえば、ひさしぶりにホリイさんに会ったのは、わたしがゼミの準備をしていたときに、下鴨ロンドの道路に面した側の「窓を開けて」、部屋に入ってきたからである。通りに面してテラスのようになっている側面の窓ガラスを、手慣れた様子でガラガラと左から右へスライドさせて、ホリイさんは文字通り、スタスタと入ってきた。下鴨ロンドはシェアメイトが常時15名ほどいるシェアハウスみたいなもので、家賃を少しずつ共同で負担しながらイベントや宿泊や勉強会など、みなが好きなように使っている。その日は写真史のゼミが予定されていて、ゼミのメンバーが夜の打ち上げの準備のために台所に集まっていた。あまりに手慣れた様子で入ってきたホリイさんを、まだ会ったことのないシェアメイトの一人かなと思って顔をあげたらホリイさんだった。「ああ、戸田さん、」とホリイさんは言ったあとで、「今日ここへ来たら戸田さんに会えるとおもったので、」と続けた。しかしその時ホリイさんはスニーカーを履いていたのだ。「あ、靴!」とわたしが言うと、「!!!」と驚いたホリイさんは笑いながら靴を脱いで、玄関へ置きに行った。その「スタスタ」という足音がおかしくて、そのあとわたしはだいぶそれを突っ込んだ。だから、Art Collaboration Kyotoの会場でふたたびホリイさんと待ち合わせたとき、「いま近くです。これから行きます。スタスタと歩いて」と彼はLINEに書いたのだ。そして、再び、ホリイさんはスタスタとやってきた。

酔いどれ詩人の暮尾淳さんは、「すたすたすた だったよなあSよ たんたんたん だったよなあAよ Hはぺったぺったで」と書いている(「雨言葉」)。「Jはどんどんどんだったろうか」と続ける暮尾さんは、吹き曝しの階段の下の、埃臭い三角の隙き間に身をすくめながら、去って行った彼らの足音を聞いている。暮尾さんは、詩人だから確かに霞を食う、といったふうでもあるが、たいていは酔っている。暮尾さんは現代詩文庫の『暮尾淳詩集』のなかに、他の詩人についての自分の書き物や、自身の兄が書いた岡村昭彦についての思い出の文章など、自分の詩以外のものをいくつも収録している。そのなかに石垣りんの「わたしは思想により家族をつくらなかったの」という言葉も、記録している。記憶しておかなければいけないことを記録するという意味で、わたしは彼をほんとうの詩人だ、と思ったりする。暮尾さんは自分の話をしているようでも、実はいつも聞く人だった。いま思い出そうとしてもはっきりと思い出せないが、暮尾さんの足音は、ぺたぺたぺた、という音だった気がする。

犬好きの人が、マンションで犬を飼えないので、架空の犬が後ろからついてくるイメージトレーニングをSNSに投稿して遊んでいた。夜中に自分が台所に立つと、架空の犬が「チャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッ」と、ずーっとついてくるのだ、という話が面白かった、とわたしが言うと、「イヌの爪の音だね」と鳩尾が返す。鳩尾はどちらかと言うと「シャッシャッ」と歩く。タラちゃんは、自分が歩くたびに「トコトコトコ」という効果音が出てしまうことに、きっとイライラしているだろう。

しもた屋之噺(264)

杉山洋一

目の前には雲一つなく澄み渡った青空が広がっていて、毎日ラジオニュースで流れてくる陰惨な光景と、どうしても意識が乖離しがちなのですが、日記にも書いたanno bisesto, anno funesto 閏年は憂い年、つまり忌み年だという言葉は、イタリアではしばしば耳にします。どことなしに世界全体が厭忌すべき方角に引寄せられていて、だからこそ各々生きる意味を考えさせられる機会を与えられているようでもあり、つまるところ、社会そのものについて我々は一度立止まって見つめ直すべき時に来ているのかもしれません。目の前の小学校の校庭から沸き上がる子供たちの歓声こそが、なにものにも代えがたい喜びに感じられます。

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1月某日 ミラノ自宅
元旦より大地震。家人や息子が世話になった入善や、金沢の知人友人の顔が浮かび、不安に駆られる。どうしているのだろうか。一人でミラノで過ごしつつ、このまま日本の地震のニュースを見続けると、仕事に手がつかなくなると思い、リスに胡桃をやって机にむかう。
ストラヴィンスキ「火の鳥」を読み、改めてスクリャービンの和音と酷似していることにおどろく。聴かせ方だけで、印象はこうも変わるのである。なるほど「火の鳥」を書いた時点までは、10歳違いの彼ら二人は確かに近しい場所に居たのだろう。その後、それぞれ全く違う道を選んだ。

1月某日 ミラノ自宅
般若さんからと入善の友人から生存確認メールが届く。羽田空港で航空機衝突事故。闇のなか、飛行機がさかんに燃え盛る衝撃的な映像は、現実とは思えない。
野坂操壽さんの手による「菜蕗」譜と筑紫筝の資料が、突然机の横から現れた。随分探していたのに、「夢の鳥」作曲中、今回見つかった場所をいくら探しても出て来なかったのが、作曲が終わった途端突然現れたので、操壽さんがこの資料に拘泥しないよう慮って下さっていたに違いない。
湯河原と大磯の親戚に電話。おじさんは視界の歪みと肝硬変、おばさんは良性脳腫瘍で瞼が自然と下がってしまってと明るく笑い飛ばしていて、こちらこそすっかり励まされた思いだ。
マリゼルラからのメールに anno bisesto, anno funesto「閏年は憂い年」とある。

1月某日 ミラノ自宅
金沢の友人からのメールに、志賀原発が不安なら、娘さん二人はうちで預かると知り合いから申し出があり、子供たちに相談したら、死ぬときは一緒がいいと即答されたとあり、胸がつまる。「家族とはこういうことなのだと思い知らされました」と書かれていた。
ハーバード大学長クローディン・ゲイが反ユダヤ主義に対する姿勢を批判され辞任に追い込まれる。彼女は黒人初のハーバード大学長だった。
年末に書き終えたファゴット曲を書き続けている夢。切れ切れに、同じ旋律をやるというアイデアだったが、今となってはぼんやりとイメージだけが残っているのみ。なんだ、こうやればよかったのか、と夢の中で喜んでいた記憶があるのだが、何か無意識にやり残したものがあったのか。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母が、昨年から趣味だったピアノを再開したそうだ。親指の腱をいためているので、ピアノは悪かろうと思い勧めなかったが、いざ弾いてみると無理さえしなければ充分楽しめるらしい。くぐり指はやめた方がいいだろうが、別に指使いなど、趣味でのんびり弾く分には、どうにでも無理のないよう替えればよい。バッハのインヴェンションを弾いているという。

1月某日ミラノ自宅
母がそれとなく勧めたところ、父も嬉々として何時間もピアノを練習していた、と聞き驚愕する。80歳代終盤の父が何十年ぶりに弾いた最初の曲は、「トロイメライ(夢)」であった。半世紀ほどの間、父がピアノを弾いている姿を見たこともなく、ピアノを弾けることすら知らなかった。
その昔、管野先生に油絵を教える代わりに、少しピアノの手ほどきを受けていたと言う。自分が生まれる前のことで知る由もないが、ずっと弾きたいと思っていたらしい。一時期、チェロを弾いてみたいと言っているのを聞いたことがあるが、余り気にも留めていなかった。家族だとそんなものかも知れないが、今更ながら申し訳なくおもう。

1月某日ミラノ自宅
朝9時から夜8時半までレッスンと授業。母曰く、父は「エリーゼのために」を3時間近く籠って練習していたそうだ。
ミーノがブランシュヴァイクのオーケストラの首席指揮者になって最初の演奏会のヴィデオを送ってきた。べリオ「レンダリング」とショスタコーヴィチ15番。彼がまだボローニャに住んでいる頃から面倒をみていたのだから、思えば長い付き合いになるが、自分に近しいものを実感したのは今回が初めてで驚いてしまった。自分と似た演奏をさせたいと思って教えてきたのでは全くないが、彼の裡で何かがすっと吹っ切れたような、拘泥ない自然で美しい音楽が流れていて聴き惚れた。能登半島地震の犠牲者が200人を、ガザの犠牲者に至っては23000人を超えたという。Covidの犠牲者への鎮魂の祈りを込め金沢で「揺籃歌」を初演してから、もうすぐ2年になる。

1月某日 名古屋ホテル
羽田の着陸時、心の中で滑走路に向かって手を併せた。息子は同じ日に東京からミラノに戻ったので、知合いのタクシー運転手に家の鍵を預けて、息子に渡してもらう。川口成彦さんが、「山への別れ」を東京で再演してくれて、演奏会を聴いた家人曰く、初演ともまたまるで違った演奏で見事だったそうだ。その言葉を川口さんに伝えると、今回は表現の欲求が前回よりも増して、作品とより一体となれたんです、とお返事をいただく。作曲したものとして冥利に尽きるし、機会を与えて下さった平井洋さんに改めて感謝している。
坂田君の音楽の魅力は、合奏部分で金管とシンバルを絶妙に重ねて、銀の粉を振りかけたような美しいオーケストラの響きを造り出すところ。演奏していて生理的な爽快感と充足感を覚える。その感覚はきっと聴き手にも伝わるはずだ。
演奏会後、安江さんたちと会場近くでおでんに舌鼓を打った。今回の名古屋滞在中、初日は生春巻きにあたり、その2日後今度はカキフライにあたりと、食事では散々な思いをしたので、艶やかなおでんの美味しさが臓腑に沁みる。メニューに糸コンニャクがなかったので、糸コンニャクは関東独自の具かも知れない、という話になる。出汁は品のある関西風だったから、名古屋のおでんは関西風に違いないとの解釈。
山本君、成本さん、内本さんにも久しぶりに再会。名古屋は思いの外イタリアとの繋がりが深い。演奏会冒頭、ステージの照明も抑えて、震災に向けてレスピーギ「シチリアーノ」を追悼演奏したのだが、金沢にお宅のある成本さんは、能登の友人に思いを馳せて思わず涙がこぼれたと言う。震災後直ぐに成本さんのご主人、田中君に連絡したが、彼から、ちょうど金沢を離れていて二人とも震災には遭わなかったと聞いていた。

1月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の本番というのは本当に不思議なもので、必ず何か特別なものが生まれ、耀く。演奏者のはりつめた集中力や鋭い気迫だけではなく、固唾をのんでステージをみつめる聴衆や、ステージを作る関係者一同の心地良い緊張も相俟って、得も言われぬ有機性のある空間が作り出される生きる幸せ、音楽を分かち合う僥倖を実感する瞬間でもある。コンマスの友重さんとはもう長いお付き合いだが、いつも心から感謝している。今回も沢山教えて頂いたし、何より安心して演奏会に臨めるのが嬉しい。彼と一緒にずいぶん沢山の忘れられない公演をやらせていただいた。
眞野さんと一緒に品川に戻る車中、「ローエングリン」舞台装置のテストの写真など拝見。幽玄でどこか儚く、思わず見惚れる美しさであった。家に着いて、ごくシンプルなトマトのパスタを作る。料理は何しろリラックスしてよい。

1月某日 三軒茶屋自宅
三善先生「Over the Rainbow」4手ピアノ編作。彼の生徒で最もピアノが弾けないものとして、一音ずつ弾いては、指のうごきと響きを確かめつつ書き留める。結果として先生のヴォイシングと全く異なるものが浮き上がるが、これが正しく先生の意図だと信じることにした。
昼過ぎ、惠璃さんからお電話をいただき、午後並木橋まで自転車を飛ばす。惠璃さんとは演奏者と楽譜の距離のはなし。
或る時は目の前1メートルくらいに楽譜があるつもりで弾き、また或る時は、自分を楽譜より1メートル先に置いて弾いてみる。楽譜を真下から見上げたり、真下に見下ろしながら爪弾いてもよいし、演奏中に或る位置から別の位置への移動も可能だろう。その意識こそが、演奏者の空間を図らずも意識化、可視化、有機化させる。演奏者の空間が顕現化されると同時に、演奏者自身の音楽が、そこに明確に姿をあらわす。自分が書いた楽譜は触媒でしかないから、楽譜の裡に音楽など存在しないが、その触媒を通し惠璃さんの音楽を紡ぎ出してほしい。

1月某日 三軒茶屋自宅
野坂惠璃さんのリサイタルで「夢の鳥」を聴く。思いがけなく自由な音楽に、思わず心がふるえる。最初の一音がつづく一音の呼び水となり、どこまでも続く。目に見えぬ糸が音を紡いでゆき、まるで織物が編み上げられてゆくようにもみえるし、朝露の雫を溜めるうつくしい蜘蛛の巣のようにも、極彩色をした鳳の典雅なはばたきにも、感じられるのだった。
惠璃さん曰く、その日の朝操壽さんにお線香をあげると、立ち昇る煙が輪を作ったそうだ。あちらの世界は、思いがけなく我々のすぐ傍にあって、そこではきっと誰もが幸せな時間を過ごしているとおもう。

1月某日 三軒茶屋自宅
アウシュヴィッツ強制収容所解放記念日だが、今年はイタリア各地で親パレスチナを掲げるデモが繰り広げられた。治安保持の立場から政府はデモの延期を要請したが、パレスチナの若者がSNSで強行を呼びかけたところ、圧倒的な数の若者が賛同してミラノ、ローマ、ナポリ、カリアリで大規模なデモ行進が繰り広げられ、反イスラエルを叫んだ。ニュースではイスラエル国旗が燃やされる様や、デモが暴徒化する恐れから、ローマなど前日から商店など早々に店を閉める様子、ミラノの政府治安部隊とデモ隊との特に激しいつばぜり合いが繰返し報じられている。
今まで辛うじてそれなりに保たれていた世界のパワーバランスは、明らかに崩れ始めた。ミラノの親しい友人とも、今までのように気軽に政治について話すことができない。生粋の共産党員であるSは、はっきりと話さないがユダヤ人なのだろう。バイデンは頑張っているが、トランプが万が一当選したら万事休すだと言う。確かにその通りかも知れないが、無辜のガザ市民の犠牲者を思うと、暗澹たる思いにも駆られる。年始の能登半島地震の話など、今や話題にも昇らない。日本は耐震構造が進んでいるから、犠牲者も殆どいなくて良かった、程度の認識しか記憶に留められていないように見える。ロシアがウクライナを侵攻するのは悪で、イスラエルがパレスチナをゲットー化するのは善、と言っても誰も納得しないが、イスラエルは国連パレスチナ難民救済機関職員がハマスと内通と糾弾し、イタリアや日本を含め、各国が資金拠出停止を決めた。
日々世界の状況はエントロピーに近づいていて、このエントロピーが、我々から生きるエネルギーを奪ってゆく。最早誰が正しく、誰が間違っているのかもわからない。道義も正義も以前から既に形骸化していて、結局体を成していなかったと気づく。今こそ何のために、誰のために生きるのか、我々が改めて考えるべき時が来たのかも知れない。

1月某日 三軒茶屋自宅
早稲田でひらかれた感謝会の席で、よく響く低い太い声をふるわせ、佐々木さんが諳んじたイーリアスが見事だった。彼が暗誦を始めた途端、空気ががらりと変わるさまは、まるで名演奏家が客のリクエストに応えてさっと即興を披露するが如く。なるほど、彼は身体の芯から音楽家であった。
松本良一さんから草津でカニーノに叱られた話を聞いた。新しいベーゼンドルファーが草津の音楽堂に入ったばかりの頃、遠山慶子さんからピアノに触っていいわよと言われてショパンの舟歌を弾いていると、出し抜けにカニーノが現れて、そこは音が違うだろうとイタリア語で怒りだしてしまった。挙句の果てにお前はどこのクラスの学生かと質されて、自分は取材で訪れている新聞記者だと応えると、たとえ新聞記者でも正しく弾かなければいけない、と改めて厳しく諭されたそうである。

1月31日 三軒茶屋にて

楽譜のスケッチ

高橋悠治

毎月文章を書くのがめんどうになっている。新しいことを思いつき、ことばにするのが遅くなった。それなら音楽を想像して楽譜にするのはどうか、と言われて、その方が楽かもしれない、ピアノで音を試しながら楽譜を書く作曲家はいたし、今もいる。ピアノがなくても、テーブルの上に手を拡げるだけで響きが浮かんでくると、リストのことだったかな、読んだ記憶がある。テーブルがなくても、手の動きを思い浮かべるだけでも良いだろう。
とりあえず、試してみたのがこれ:

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2024年1月1日(月)

水牛だより

明けましておめでとうございます。
さまざまな疑問に彩られた「おめでとう」ですが、ともあれ、年が改まったことは受けとめました。きのうから続く時間のなかに、ほんの少しの変化を感じるきっかけを見出したいと思います。

「水牛のように」を2024年1月1日号に更新しました。
この更新も長いこと月に一度おこなっている日常と化した決まり事です。更新という作業そのものに変わりないけれど、更新する内容がおなじだったことはありません。年のはじめの更新ですから、寄ってたかって水牛という場を賑やかにしてくださるみなさんに心から感謝を! 今月は読みながらつい笑う原稿が多かったと思います。藤井貞和さんによれば、きょうは蘖曜日。蘖という字は「げつ」「ひこばえ」と読み、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。親が殺されたりしたあとに生き残った子や、滅亡したと思われた民族の廃墟に、新しい生命・希望があらわれることにも使われたりするそうです。きょうという日にふさわしいですね。

それでは来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

龍が立ち上る

冨岡三智

今年は辰年。龍というと、私はブドヨ(9人の女性で踊るジャワ宮廷舞踊)を想像する。2004年4月号の『水牛』に寄稿した「私のスリンピ・ブドヨ観」で書いたのだけれど、ブドヨには前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返し、大地を踏み固めるように踊る。踊り手のポジションによっては少々ステップが異なり、それによって隊形が少しずつ変化していく。陰陽師が行う反閇(へんばい、呪文を唱え大地を踏みしめて邪気を払う呪法)のように、歩くという行為はそれ自体が宗教的、呪術的行為になり得る。9人のブドヨの踊り手が大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると徘徊していくうちにエネルギーが生じ、「気」が立ち上り、それが巨大な1頭の龍となって大地を這い、谷を霧のように流れていくような感覚に襲われる。そんな龍が他人の目にも見えてくるようなブドヨ(またはブドヨ的な舞踊)が踊れたら…という目標のイメージはずっと持っていたのだけれど、そう思ってからすでに20年経っている…。いい加減に腰を上げないとということで、自分に発破をかけるべくここに書いてみた。今年の目標である。

どうよう(2024.01)

小沼純一

深夜に電話をかける習慣
いつなくしたんだろ

たあいないなんでもないこと
いくらもあった
ゆたかだった

深夜に電話をかけるともだち
いつなくしたんだろ

おなじものもっていた
もってたんじゃない
ないものをわけあって

深夜に電話をかける恋人
いつなくしたんだろ

たくさんあったあてさきが
すっかりきえて
おとなになるとはそんなこと

深夜電話をおびえてる
いつからこんなになったかな

どなたこなたにあちらさま
かかってくるのは
ふきつなしらせあからさま

深夜電話をさけている
さけをのんでもさけばなくてもさけている

あいてたあいだだんだんつまり
あいてだんだんふえてくる
いつかこちらがかけるばん
いつかこちらがかけられて

かいたはがきがまだここに
とうかんしないといつまでも
eメールだと
すぐおくってしまうから

うえからしたまで
字のおおきさがかわってく
行のあいだもちぢまって
くぎりのあいさつは
おもてにはみだし
差出人のなのわきに

かいた字がひとごとをつげる
みなれてるはずなのに
すこしよそいき
もうかいたきも
きおくもうすく

はがきってなまなまし
かったんだ
うすっぺらいかみなのに
あるとそこに

きのうはおなかがへんだった
これまでになかったへんさ
けさはしんぞうどきどきして
めがぐんるぐんるまわってた

おじいちゃんやらかすんだ
このまえはかきのきのしたでころんで
きょうはげんかんでめまい
あんたがでかけたときばっか

ひとがいないと
たよりない

やどかりて
かいがらぬいで
あめふらし
さかなでしながら
いかめしい
たこあしまぎれ
いそぎんちゃく
おさかなさかだち
すくうてもなく
すくい
なし
すくう
ぬし

あくにん
なりたい
いいひと
いいひとっぽく
ふるまうひと
うんざりさ
あくにんになりきれなくても
せめてせめて
ふりしたい
あくにんの

あくにん
なりたい
いいことなんて
あきあきさ
よこにくちをひらいて
いーっとやりたい
せめて
いいひとってみられぬよに

話の話 第10話:12月と言えば

戸田昌子

年の瀬が押し迫る12月30日である。我が家の動物たちがおしゃべりをしている。

クマ「年末になると、戸締りがいい加減になるじゃんか」
ぼち夫「そんな!空き巣なんていけませんよ!」
クマ「違うよ、意識調査だよ」

クマは我が家に滞在するようになって20年くらいになる。初めてうちに来たのはクリスマスの夜だった。彼は意外に苦労人で、生活苦からパチモンの時計を街で売り歩く仕事をしており、その夜、わたくしどもの家のドアをピンポンした。わたしが扉を開けると1匹のクマが立っていた。「時計買いませんかね」と彼は言いながらすすすいと部屋に上がり込み、わたしの出した茶をすすって残り物のケーキを食べ、その日は我が家で寝た。翌朝、彼はなんてことのない顔をして一緒に朝ごはんを食らい、それ以外、我が家に居候している。かなり危ない渡世であったようだが、最近は羊のローズちゃんと仲良くなって、悪い遊びはすっかり落ち着ちつき、「おれも若い頃はだいぶヤンチャでさ」などと言って得意がっている。

ぼち夫は、娘の片割れになった靴下から生まれた。靴下なので頭のてっぺんは擦り切れていて、顔色は細かいボーダーのマゼンタ。すぐに学校教師みたいなことを言う癖があって、常識人なだけでなく、なにかと平凡でつまらない。口癖は「きのこは体にいいんですよ!」である。

他にも、やよいさんや、兄と生き別れになったゾウなどがいるので、我が家はいつも通り、賑やかな年の瀬である。

毎年、年の瀬のこの時期になると、「そろそろ電話がかかってくるのでは」と思い出す人がある。犬養さんである。こちらは名前に「犬」がついているが、実は人であって、夫の友人であり、わたしにとっては先輩にあたる。この犬養さんは脱ぐのが大好きなので、わたしが彼に初めて会ったときも、ほぼ脱いでいた。風呂桶を手渡すと裸にネクタイで踊ってくれる親切な人で、冬季五輪のスキーのジャンプ競技では、男子アブノーマルヒルの代表になれるのではないかといつも期待されている選手である。いまは結婚していて、3人の人間のお子さんがいる。この時期になると毎年電話をかけてきて、「遊ぼうぜ!」と誘われる。この「遊び」は文字通りの遊びで、公園でバドミントンなどをして遊ぶのである。だいたい晦日などに遊んでいることが多い。

そんな調子で空気が読めない人だから、犬養さんは家族にも適当な扱いをされている。それはコロナが始まったばかりの冬のことだった。いつも通り年末に犬養さんから電話があったのだが、着信するスマートフォンの画面を見た夫が「あ、犬養だ」と言ったきり、さらりと無視した。しかたないのでわたしが電話を取る。LINE電話で顔を見ながら通話をするテクを覚えたばかりの犬養さんは、ビデオ通話である。「おお、戸田か」と犬養さんがスマホの画面に現れる。「あ、犬養さん。お久しぶりです。いまなにしてんですか」とわたし。「おお、おれか。ソロキャン」と犬養さんは言うが、スマホ画面の背景はどう見ても自宅リビングで、キャンプ場ではない。「自宅じゃないですか。ソロキャンって、家族どうしたんですか」「ああ、家族な、実家に帰ってる。義理の両親から、他人からコロナをうつされるの嫌だからお前だけは来るなって言われたんでな、おれは家でソロキャンしてんだよ」と犬養さん。「おれは準家族だからな」と言いながらコンビニパスタをもぐもぐ食べている。冬の風物詩である。

それにしても、今年の12月は実に忙しかった。12月初頭には鳩尾が上京していて、そのお付き合いで、1日に2万5千歩も歩いたりしたのがその始まりだったと言えようか。鳩尾にはいつも京都でお世話になっているので、東京へ来るとなったら、わたしがきちんとお世話をしないといけない責任がある。だから宿泊先や観光スポットなども吟味してオススメをお知らせしたり、旅程を綿密に組んでリストにして渡したり、我が家の近くに滞在させて朝ごはんも用意するなどした。鳩尾はいつも「道に迷ったことなんてありませんよ」というていで、京都の街をスタスタ歩いているので、わたしは道に迷わない人だと思っていたのだが、東京での鳩尾は意外に道を覚えるのが苦手なようである。そんなわけで、我が家へのルートを一生懸命説明したのだが、鳩尾は平然と「もう忘れてしまいましたね」などと言う。「だから!」とわたしも熱が入る。「駅を出たら、とにかく、左!」と言おうとしたところが力が入りすぎて、「駅を出たら、とにかく、しだり!」と言ってしまう。「おっ、”ひ”が”し”になるとは、さすが江戸っ子ですね」と喜ぶ鳩尾。いや、それは江戸っ子だからではなくて、ただの言い間違いだから、と言い訳するが、「落語でしか聞いたことないから新鮮だなあ〜」などと言って、鳩尾はニヤニヤしている。

それから12月には、銀座の教文館に行って、クリスマスの支度をしなければならない、と決まっている。なにしろわたしはクリスマスが大好きなのだ。わたしは子どもの頃、プロテスタントの保育園に通っていたので、自分をキリスト教徒だと思い込んでいたのに、小学校へ入ってから自分がクリスチャンではないことがわかった時のショックは大きかった。入信もしていないのに棄教させられたかのような気持ちであった。それに加えて、世俗的な小学校の同級生たちに心の底から幻滅したことも追い討ちをかけた。世俗的な人たちにはサンタは来ない、サンタは信じる人の元にしか来ないんだ!という強い思いから、後年になって、日本クリスマス教団という新しい宗教団体を立ち上げて、自分がその開祖になることにした。日本ではキリスト教徒は人口の1パーセント程度に満たない。残りはみな非キリスト教徒である。そんな、キリスト教徒ではない人たちが、日本でクリスマスを祝うための新興宗教である。主な活動は教文館に行ってくるみ割り人形を見ることであるが、決して強制ではない。とくにお祈りや経典、決まりごとなどはないが、世界平和と人類平等をめざしている。

そして12月には締め切りがたてこむ。海外の仕事相手はクリスマス前になんとか仕事を滑り込ませようとしてくるし、国内の仕事相手は28日ごろでに仕事を済ませてしまって正月は休もうと言うのだ。こちらは発注する側ではなく、発注される側なので、四の五の言う立場にはない。間断なく続くめまぐるしい催促メールに対して、その場しのぎの言い訳で打ち返すばかりである。どうしようもなってくると、クマが取り扱っている、なんだか怪しい薬でなんとかしよう、などと考え始める。おすすめはメオソラスール1000mg配合の「ゲンジツトウヒ」である。定価670円が今なら480円、という売り文句についつられてしまう。成分としては「キカナーイ」「キニナラナーイ」「ムシムシスール」「ムカンシーン」などが入っているらしい。忙しさのあまりに疲れ果てた時には、「心ガムテープ」や「心修正液」などの商品もおすすめだ。夫婦関係に問題のある人たちには「愛情水増しスポイト」などという商品もあるそうだ。足りない愛情をスポイトで増やしてくれる。

心が問題だ、というのは確かにその通りで、心を全面的に守ってくれる薬としては「心ガードスプレー」というのもある。「元気エキス」「根太さ」「粘り強さ粉」「無神経粉」「ボーっとエキス」などが配合されていて、多角的に心を守ってくれる。ようは、気にしなければいいのである。そんなわけで、「キニシナーイZ」という薬も発売されているらしい。しかし、問題から目を逸らすのが主眼なので、根本的な問題はなにひとつ解決しないところがミソである。

そういうわけで、締め切りをいくつか反射神経で片付けたあと、コーヒーが飲みたくなって淹れている。とはいえわたしはコーヒーを淹れるのが不得意なので、コンビニのドリップパックである。わたしには苦手なことがいくつかあって、まずは卵を割るのが苦手である。つぎに人の名前を覚えるのが苦手である。そしてコーヒーを淹れるのが苦手である。これが苦手ランキング1位から3位を占める。そういうわけで、自分で頑張って淹れたコーヒーを飲みながら話しているところ。

わたし「わたしはXXのお店のコーヒーは苦くて苦手なんだよね」
友人「どんなコーヒーが好きなの?」
わたし「あまり苦くなくて、雑味のないやつ」
友人「ああ、あるよね、そういうの」
わたし「長野にさ、とにかく雑味のないコーヒーを淹れる喫茶店があってさ。もう、水なの?っていうくらい雑味がないのよ」
友人「それ、水なんじゃないの?」

味の違いがよくわからないので、もしかしたら水なのかもしれない。まあ、万が一、もし水だとしても、キニシナーイ。

アパート日記12月

吉良幸子

12/1 金
昨日から2年ぶりに関西へ里帰り。2日間のお目当は全部達成。
着いてすぐ絵本編集・筒井さんの展示へ行って感嘆し、dddギャラリーの久保さんとお昼。その後南船場へ移動して母と松屋町をぶらぶらし、今年亡くなったばぁちゃんのお参りをしに生野へ。底冷えがひどい実家へ帰り、巨大黒猫を撫でながら一緒に寝た。次の日は初の動楽亭! 久しぶりに顔を見せてくらはったざこばさんの体調を心配した後、甲賀さんの文字の暖簾がかかった千鳥温泉でお風呂に浸かり、ほかほかのまま新幹線で東京へ戻るという、何とも愉快な旅やった。次来るときは他の銭湯や寄席にも行きたいなぁ!

12/3 日
東京へ戻ってから休みなく出稼ぎ続きでさすがに疲れた。今年は飲みに出てる人が多いみたいで、駅でよく飲みすぎを見る。飲むのは一向に構わんが、駅員さんのことを考えると家まで持たしてやと毎回思う。

12/4 月
砧図書館へ予約した『桃尻娘』を受け取りに。読んだらものすごい自由でびっくりした。そのまま品川宿の丸屋履物店へ初の草履を作ってもらいに行った。慶応元年からあるお店だけあって、年季が入ってむっちゃくちゃカッコええ。東海道の玄関口は所々に残る古い建物がすごくて圧倒された。相模屋やったところは今はファミマが入ってて、記念に公子さんへどら焼きを買って帰った。『幕末太陽傳』が無性に観たなった。

12/5 火
花緒をすげてもろた草履を早速履くべく、着物を着て友達と美術館へ行った。着物はばぁちゃんが自分が好きな緑色を娘へ買うて、母は緑があんましで一度も着てなかった普段着。昨日公子さんと一緒にしつけ糸を取って、やっと袖を通してもらえた緑の子。友達には着物を着てくと言うてなかったから、会ったとき目が点になってておもろかった。やっぱり下駄屋さんてすごいわ、いくら歩いても足が痛くならんかった。

12/6 水
土曜日の朗読に向けて、滝本さんがうちへやって来る。昼過ぎから大掃除が始まり、ソラちゃんはまた引っ越しか…とヒヤヒヤしておる。15時半に迎えに行って、うちへ来て公子さんと練習。丹さんも滝さんに会いにやって来た。18時になって割烹やまぐちへご飯食べに。なんと!滝さんが奢ってくれた!!!!ありがたや~! 今日は賑やかなアパートやった。

12/8 金
公子さんは相変わらず小天狗たちの夢を見ているらしい。今朝はその中の一人と仲良くなったんやとか。よかったよかった。

12/9 土
朝、勝手口を開けたら小ねずみが横たわってる… 一瞬で察しがついた。公子さんに聞いたら、朝4時半にねずみを連れてソラちゃんが帰宅、走り回ってぐったりしたねずみを出したらしい。かわいそうで庭に埋めて拝んだ。ごめんね。
今日は年内最後のいわと寄席の日。しかも朗読と落語でお客さんは多く、遠方からも来てくらはってありがたかった。賑やかに終わって打ち上げ。公子さん、終始上機嫌やと思たら日本酒飲みすぎ! 帰りはべっろんべろんで、部屋でいっぺんこけてはった。怪我もなかったことやし、今夜は飲みすぎでもええか!

12/12 火
うちのアパートの3階には公子さんの前からの知り合いのゆうさんが住んでいる。東京に引っ越すことになり、ペット可のアパートを決めたら、たまたま同じアパートやったというすんごいご縁。そして泊まりがけで出かけるときは猫の面倒を私がみる。今回は2泊3日で長崎へ行くし、様子をみにちょいちょい行った。ごはんをあげてるとちゃいろいチャロがやって来て、私の周りをくるくる回る。そしてゴロンと寝っ転がって、とにかく嬉しいみたい。うちにおるツートンの雄猫に比べると女の子のチャロはちいさく、肉球もピカピカで柔らかくてかいらしい。

12/14 木
初めて博品館劇場へ。演目は『二階の女』。原作者の獅子文六は一番好きと言ってええ程大好きな作家。二階の女に合わせて桃色の着物で行った。演劇って切符代が落語や映画に比べて高いけど、こりゃ安いわと思えるほどにむちゃくちゃええ芝居やった。小説では掴みきれなかった部分が具体的になってて、原作をまた楽しめそうや。

12/15 金
午後一で三鷹のしろがねGalleryの展示を観にゆく。知り合いの作家が企画してて、DMをデザインさしてもろた。そのデザインを大きくポスターにして貼ってくれてて嬉しかった。そのまま日暮里へ。夜に時々自動の久しぶりの公演があり、それに行く前に帝国湯へ。たまたま入り口に釜じいさんがいて、おいでおいで、とニコニコしながら言うてくれた。お湯が熱いとどこかで見たけど、こんなに熱いとは…温度計を見ると48℃もある!!えいや!と入り、上がって体を冷まし、また入るを繰り返すと身体の芯からあったまってぽっかぽかになった。日暮里へ行くときはこの湯に入りにこな損やわ! 十分にあったまってお目当の時々自動の公演へ行った。感激。途中、泣きそうになる程よかった。ああ、これ生で聴けたら死んでも悔いないわと思えるくらい最高やった。
連日でええもんばっかり観て、ええお湯にも入れて、ほんまにこの上なく幸せかもしらん。ものすごい吸収したし、ぼちぼち仕事もせんならん。

12/25 月
クリスマスも関係なく、公子さんと末廣亭へ。主任の彦一さんさすがよかった~~! 彦一さんは顔見るだけでいっつも嬉しなる。今日は電車ネタが多い寄席で、色物さんも最高やった。

12/27 水・誕生日
朝から出稼ぎ先の納会に行くため、わざわざ埼玉まで行く。副都心線はすいてますなぁ。同僚からむちゃくちゃセンスある誕生日プレゼントをもろた。銭湯好きを常々語っていたら、共通入浴券をくれた!!こういうのがいっちゃんありがたい、これでいろんな銭湯へいけますわ! 夜には公子さんと吉坊さんの独演会へ。年の瀬がいよいよ押し迫ってきたのをなんとなしに感じた。
今日の落語:『化物つかい』『饅頭こわい』『厄払い』

12/29 金
年内最後の落語会。三遊亭萬橘さんの落語は初めて聴いたけども、むちゃくちゃ良かった。ほんまに熱演で、噺に引き込まれた。今年はこれで落語納めやけど、萬橘さんの落語で締められてほんまに良かったという感じ。
今日の落語:『文七元結』

12/31 日
明るいうちにいつもの銭湯へ行ってあったまる。今年もええお湯おおきに。来年もよろしゅう。
うちは年末感が全くない。年越しそばやなくて、昨日の残りの炊きもんにカレーを入れて、和風カレー大盛りで年越しや。
さぁ、来年はどないなるかいな。

2023年

笠井瑞丈

今年は色々あった

悲しい別れ
新しい出会い
新しい事への挑戦

悲しい別れ

家族同然だった
チャボのマギとゴマの死
ずっと同じ時間を過ごし
色々な場所に一緒に旅行した
本当に大好きだった二人
いつも明るく照らしてくれた存在
今は記憶の中に生きている
碁石と白と種は違えど
とても二人は仲良かった
小さい時から二人でウチにきて
二人は何をするにも一緒だった
いまもきっと天国で仲良くしてるだろう

新しい出会い

新しい家族との出会い
チャボのナギとハギとモギ
マギゴマが亡くなって間も無く
里親の大村さんが譲ってくれた
二羽が三羽になって五人での生活
二羽の時は個と個という感じでしたが
三羽になったとたん群れ感になった
この質感の違いは大きな違いだ
皆仲良く性格も違う
いまは人間二人と鳥さん三人
五人での生活です
楽しい日々

モギ ゆっくりの人
ハギ おっとりの人
ナギ せっかちの人

新しい事への挑戦

初めて芝居の舞台
そしてショパンを踊る
言葉と音楽そして踊り
そんな一年でした
年々変化していくカラダ
その変化に耳を傾けて
もう昨日の身体はないのだ

希望だけを持って
踊るしかない

来年もチャボとそして
踊りを続けていきたい

どうぞ来年もよろしくお願いします

仙台ネイティブのつぶやき(90)年取りの準備の時間に

西大立目祥子

この原稿を書きながら、おせち料理の仕込みをしている。まぁ、おせちといっても、このところ広告でよくみかける3段重にぎっちりと豪華に海老やら蟹やらきんとんが詰まっているものには程遠い。

必須は雑煮。それからお煮しめ、ナメタガレイの煮付け、仙台五目引き菜、数の子のひたし豆、なます代わりのマリネ、チキンロール、余力があれば松前とろろに豚の角煮。そして、黒豆、小豆のあんこ。
…んー、とここまで書いてきてけっこうあるじゃない、と気づく。これはやはり段取りが大切だよな。段取りが悪いから、いつもぎりぎり大晦日の夜6時に滑り込みみたいなことになるんだ。元日の朝に味わう雑煮は別にして、仙台では、こういうごちそうを、大晦日の夜に「年取り」と称して食べる。年にいっぺんの弟の家族と開く大宴会と相成って、テーブルには所狭しと皿や重箱が並ぶ。みんなで味わう料理とお酒とおしゃべりはもちろん楽しいが、私にとっては今年の黒豆は固すぎたとか、お煮しめに味のしまりがないとか、3日間の怒涛の中でつくった品々をチェックし反省し、1年の幕引きとなる。

ところで、12月は忙しい月だ。仕事の締め切りに加え、引き伸ばしにしてきた友人との約束があったり、打ち合わせが入ってきたり、親戚にお歳暮を送ったり雑事が重なって疲れがたまり、それに加えて、2週目あたりから日を追うごとに弱まっていく日差しと日没の早まりで、気分はうつに傾いていく。ここ数年は、冬至に向かって命が削られていくような気分にさえなる。今年もあと何日と、終わりの日が押し迫って来るのもなんともつらい。日の短さが底を打って、クリスマスも過ぎると、いくらか気分が上向きになっていくのだが、こういう一年で最もしんどいときに、どうしておせち料理をつくるのをやめないのか。去年は三段重を買って食べきれなかったとか、どこぞのおせち料理はおいしいとか耳にするたびに、買うくらいなら食べなくていいや、とつぶやいているじぶんがいる。

おせち料理の思い出を探ると、まっさきに思い浮かぶのは煮上がったお煮しめを重箱に詰める父の姿だ。煮炊きにもけっこう手出ししていたのかもしれない。いずれにしても、仕事納めのあと買い出しに出向き、そう乗り気でない母をなだめ、台所仕事も手助けして、大晦日の晩の食卓には煮しめとナメタガレイの煮付けと、酒の肴を整えていた。仏壇と神棚に料理を上げ、下ろしてきたら熱燗で乾杯。こういう暮らし方は、さかのぼれば、父から祖父母へ、そしてその前の代へとつながるささやかな家の文化なのだろう。考えてみれば、みんな仙台ネィティブ、宮城ネイティブである。

重箱の中の煮しめは、ゴボウ、こんにゃく、人参と一品ごとに詰められていたから、今思えば、手間暇をかけて一種類ずつ別々に煮炊きしていたのだ。
おせち料理にしか登場しない食材として印象深いのが、クワイだ。ほくほくしていてほろ苦く、一年の悲喜こもごもを口の中で味わうようなクワイ。子どもなのに、私はこの苦味が好きだった。角があるから縁起がよいとしておせちの材料になったのだろうが、父の煮るクワイに角はなく、ゆで卵に包丁を入れてギザギザに切り分けたように2つにされていた。思えば、高価なクワイを家族に2回ずつ行き渡るようにする苦肉の策か。年取りの番から食べ始め、重箱に隙間ができると詰め直すのも父なのであった。

私も一年にいっぺん、クワイを求め、煮る。子どものころのクワイはもちろん国産だったろうが、いま国産は高すぎて手が出ない。角がくずれ落ちないようにやさしく扱いながら出汁と醤油でそぉっと煮る。そして人参も一年にいっぺん、梅と桜のかたちに型で抜いて晴れ姿にする。数年前から抜いた外側もいっしょに煮ることを思いついた。間の抜けた感じが何ともいい。

煮しめは「つきじ田村」の田村隆さんのきょうの料理のレシピを参考に、黒いものと白いものを別々に煮ている。ゴボウとこんにゃくと椎茸をひとまとめに、凍み豆腐と人参と筍をひとまとめに、火の通し方が難しい里芋とクワイをいっしょに鍋に入れる。黒と白と人参の赤のコントラスト、角のあるクワイの造形、その上に緑のスナップエンドウ。味はともあれ、見た目は楽しくきれいだ。
くたびれている12月につくるのをやめないのは、料理の細部を味わいたいからなんだろう。醤油の加減、火の通し方の違いで首尾よくいったり失敗したりを毎年のように繰り返している。年齢を重ねて味の好みが変わってきたじぶんに気づき、鍋をのぞき込むときに家族の記憶がおりてきたりもする。年に一度のこの集中した料理の時間に、生きていることが凝縮されているような気さえする。
と、ここまで書いて、筍を煮るのを忘れていたことに気づく。あと3時間、急がなければ。

冬至から1週間。少し日が長くなり、少しずつ気持ちにも日が差し込んでくる。新しい年もいいことが起こるとは思えないけれど、みなさまどうぞよいお正月をお過ごしください。

むもーままめ(35)飯テロはカレーのにほひ、の巻

工藤あかね

2023年の終わりをひょいと跨いで2024年にたどり着けたようにも思えますが、実は年を越せるというのは、とてもおめでたいことなのだなと思う今日この頃です。みなさまはどんなお正月を迎えられたでしょうか。

年末年始、いつもより膨張した時間の流れを感じながらSNSを彷徨っていたりすると、とにかく人の顔と食べ物の写真がすごく多いなと感じます。食べ物の写真は普段もあるといえばあるのですが、どういうわけか夜、仕事から帰ってきて一息ついた頃に見てしまったりするので、なんだか妙に口寂しくなって、夕食を食べたり散々飲み食いして帰ってきたにも関わらず小腹が空いたような気になってしまいます。これが俗にいう、「飯テロ」っていうものですよね。

最近、この飯テロを経験しました。知人のクラリネット奏者が大のカレーマニアで、しょっちゅうおいしそうなカレーの写真をアップロードしているのですが、彼が掲載している写真は家庭的なカレーライスではなくスパイスが強烈に香ってきそうな、鼻腔を刺激するような本格派カレーなのです。しかもご本人は、インドやパキスタンの方達のように、妙なテンションの高さがある人でもなく、淡々と、粛々と、品よくカレーの写真を、日々の記録がわりに掲載しているのが清々しい。この人の投稿を見るとなんとなく細胞がざわざわと反応しカレー欲がにわかに増してくるのですが、それと同時に、外国人が経営しているお店にわざわざ行かないと味わえないスパイスカレーへの手の届かなさもあって、吸引力の強い飯テロとは言え少し距離を置いて見ていられるなと安心していたのです。

ところが事件はその後起きました。このカレーマニアの方と仕事のメッセージのやりとりをした直後のことでした。メッセンジャーを閉じるやいなや、私のSNSページにどどーんと現れたのは自宅で簡単に作れるスパイスカレーの広告、しかもとてもおいしそうで、すぐに注文できる感じ。なんだこのカレーホイホイは…! 衝撃を受けつつも、おそるおそるそのページを開いてしまう私。するとめくるめくカレーの香りが漂ってくるよう。だめだ、もう抗えない。カレーマニアの方とのメッセージのやり取りには20%くらいはカレーの仄めかしはあったかもしれないけれど、どうしてこの絶妙なタイミングでこんな脳天を直撃するような広告を打ってくるのだ。恐ろしすぎる、インターネット!

しかしながら、ぱっくりと口を開けて私を待ち構えているように見えたスパイスカレーのサイトは怪しくなさそうだったので思考停止したまま口コミを読み、美味しそうだったので勢い余ってポチッと注文してしまいました。果たして数日後に届いたカレースパイスは、これがまたとても調理が楽で美味しい。しかも体に効きそう。食べると汗が体中から吹き出し、細胞が刺激されるような気がする。これにハマった私は、ふと思い出してはこのカレーを作って食べていたのですが、ある時外から帰宅したオットが言いました。

「なんか…すごい匂いだね、この家。」そりゃそうだ。いまならインドのご家庭に負けない勢いでスパイスの匂いが充満している自信がある、と思ったのですが、服にも髪にも体にも、家具にもこうして染み込んでいくのはちょっといけないかもしれないと思い直し、数日間一生懸命換気しました。しかし、2~3日カレーを作らず換気をしても、外から帰宅するとやはりまだカレーの残り香を感じます。そんなこんなしているうちに、また家でカレーを食べたくなってしまうのだから、もうスパイスの匂いが取れる間などないのです。年末の大掃除で、あちこち拭いたり窓を開けたりしていたから、今は少しだけましかもしれないけれど、私ときたら年越しそばも食べず、年が明けたらおせちではなくてカレーを作って食べてしまうのかも。

あああ、某クラリネット奏者のカレー飯テロは、静かに、じわじわと年を跨いで我が家に忍び寄っていたのです。ちなみにそのクラリネット奏者とは、大晦日のランチでカレーを食べたことも追記しておきます。

水牛的読書日記 水俣旅行編

アサノタカオ

12月某日 地図や時刻表を眺めながら、熊本・水俣への旅程をあれこれ検討した結果、空路を使うことにした。自宅から近い横須賀港と新門司港を結ぶフェリーで九州入りし、鉄道でのんびり現地まで向かいたいという思いもあったが、結局、時間的にもお金的にももっとも経済的なルートを選択したのだった。

水俣病の歴史をもつ土地を、はじめて訪れる。旅の前に、書棚に並ぶあれこれの関連書を読んで「予習」などをしようとする小賢しい自分がいた。が、一夜漬けの試験勉強のような読書で仕込んだ知識や情報を持ち歩いたところで、いったいそれが何になるのか。今回はできるかぎり丸腰の、白紙の状態で土地に出会おう。もし水俣への旅から問われるものがあれば、そのあとに本を読み、考えればいい。戒めるようなつもりで、自分に言い聞かせる。

12月某日 リュックサック一つに荷物をまとめて夜明け前に出発し、羽田空港からLCCで鹿児島空港へ。詩集を一冊だけ、リュックに忍ばせた。

空港の売店で地元紙の南日本新聞を購入。先月末から、米軍オスプレイの屋久島沖墜落のニュースを、歯ぎしりするような気持ちで見続けている。このタイミングで鹿児島に来たからには、屋久島に渡りたかった。そしてこの火急の事態について、背後にある世界情勢について、信頼を寄せる島の人たちから意見を聞きたかった。そこには声高に語らずとも大きな力に抗い続け、ひとりで感じ考え、生きることに心を傾ける人がいる。かれらの声に、自分の心の綱を繋ぎ止めておくべき、ぎりぎりの希望を見出したいと思った。が、今回はその気持ちをぐっとこらえ、鹿児島空港からバスで北上する。

出水駅に到着。ローカルの電車が来るまで、誰もいない待合室ですごす。ふと、駅舎に吊り下げられた生々しい鶴の模型が目に入り、ここが韓国の作家キム・ヨンスの小説「君が誰であろうと、どんなに孤独だろうと」の舞台だと思い出した。出水でナベヅルを撮影した、亡き写真家をめぐる物語だ(短編集『世界の果て、彼女』〔呉永雅訳、クオン〕所収)。バスの車窓から何羽も灰色のアオサギを見た、と思っていたのだが、あれは鶴だったのだろうか。

午後、水俣駅で恩師の上野俊哉先生と合流。英語圏で『苦海浄土』の作家・石牟礼道子の論考を発表している上野先生の運転で、まずは「エコパーク」なる海岸の人口緑地へ行ってみた。そこの地中には、水俣病の原因企業であるチッソ排出のメチル水銀によって汚染されたヘドロや魚を詰め込んだドラム缶が何千本も埋め立てられている。

海岸の遊歩道から、はじめての不知火海を眺めた。ほとんど波のない穏やかな内海で、想像以上に閉ざされた湾。半島や島々の影にぐるりと囲まれた、まさにアーキペラゴの風景だった。この日の水俣の気候は晴れ。都市生活をする旅行者からみれば「美しい」としか言いようのない青い空、青い海が目の前に広がっている。

そしてこのあたりを歩くと、道路沿いの標識や看板には「エコパーク」「親水公園」「恋人の聖地」などの名称が、能天気な顔つきで並んでいる。風景に散りばめられたこれらの記号が、水俣病の歴史と記憶を埋め立てているのだ。企業と行政があからさまに推進する「歴史の健忘症」に憤りを覚えつつ、それに抗う想像力について上野先生と語り合う。

その後、水俣病資料館やJNC(チッソの子会社)、チッソが猛毒の工業廃水を垂れ流した百間排水口などを見物し、袋という浦の集落をめぐる。そして夕方、丘の上にある水俣病センター相思社へ向かい、集会所で開催された座談会に参加した。

座談会のテーマは「私たちのつながりあう百年の物語」、関東大震災の起こった1923年以降の在日の百年、東北の百年、水俣の百年について。語り手は、震災時に虐殺された朝鮮人の追悼活動をおこなう在日二世の慎民子さん、宮城・南三陸のコメ農家に生まれ育った歴史社会学者の山内明美さん、相思社職員の葛西伸夫さん。葛西さんは、日本による朝鮮支配とチッソの関わりの歴史について詳細に解説。近代と植民地主義の暴力はいまここでも続いている。いろいろな資料をもらったので、しっかり読み直して反芻したい。

12月某日 水俣のあたりをドライブして体感したのはこの地は、名前の通り、水俣川と湯出川という二本の川の流域(watershed)、「水の分かれ目」だということ。今回、ぼくらは湯出川沿いのひなびた湯の鶴温泉に投宿し、旅の興奮を鎮めるために深夜の湯に浸かり、早朝の湯に浸かった。

宿では韓国の詩人キム・ソヨンの詩集『数学者の朝』(姜信子訳、クオン)を読んだ。詩のことばには日常性に根ざした優雅さがあり、しかし描き出される世界には底なしの不穏を感じる。「定食」という詩などは、一度読めば忘れられない作品だと思う。旅の道中で、詩人のエッセイ集『奥歯を噛みしめる』(姜信子監訳・奥歯翻訳委員会訳、かたばみ書房)も入手した。早速ページを開くと、冒頭に「わたしは母の娘ではなく、母の母として生きてきた」とある。石牟礼道子の文学(たとえば『妣たちの国』)と繋がるものを感じて驚いた。

水俣滞在2日目。作家の姜信子さんのお誘いで、前日の座談会からはじまる「百年芸能祭」に参加するのが、今回の旅の目的だった。水俣病の犠牲者を祀る乙女塚や、エコパークの慰霊碑の前で、姜さんが案内人をつとめる遊芸集団「ピヨピヨ団」による奉納パフォーマンスがおこなわれた。

「これまでの百年の間、周縁に追いやられ、踏みにじられ、つながりを断ち切られ、消されていったすべての命に祈りを捧げ、これからの百年が生きとし生けるすべての命が豊かにつながり合い、命が命であるというそのことだけで尊ばれる世界となることを予祝する、そんな芸能の場を、『百年芸能祭』の名のもとに開いていきます」
 ——「百年芸能祭」ウェブサイトより

さらに相思社の集会所に場を移し、水俣のミュージシャンと「ピヨピヨ団百年デラックスBAND」のライブも。ソーラン節、安里屋ユンタ、アリラン、水俣ハイヤ節など、島々のように歌が連なり、声が渦巻く。夜、会場にアナキスト哲学者・森元斎さんが長崎よりギターを抱えて合流。

「百年芸能祭」のイベントのあいまに、上野俊哉先生とぼくらは古書店のカライモブックスへ。今年の春、京都から水俣の石牟礼道子夫妻の旧宅へ移転した店を、なんとしても訪ねたかったのだ。

途中、場所がわからず、道ゆく人に「すみません、石牟礼さんの……」と尋ねると、「ああ、弘先生の家ね」と教えてもらう。辿り着いたカライモブックスで、久しぶりに会った店主の奥田直美さん、順平さんが元気そうでうれしかった。店内には石牟礼道子が使っていたタンスや机、原稿用紙や文房具、座布団や献立表なども展示されている。順平さんの案内で、旧宅からすこし離れたところにある石牟礼さんのかつての執筆部屋あたりを散策し、そばに立つイチョウを見上げた。黄昏時、斜めから射す冬の光の中で黄色い葉っぱが輝いていた。

不知火海沿いの湯の児温泉にも行った。我が心の師である思想家・戸井田道三(上野先生は戸井田さんの『日本人の神様』〔ちくま文庫〕の解説を執筆)は1975年に水俣病患者の療養施設である明水園を訪れ、ここの温泉宿に滞在。「透明な補助線について」という題で、水俣の人々と出会い、揺れ動く自らの心の模様を道化的・批評的に語るという風変わりな旅行記を残している。この文章にはテレビ・ドキュメンタリー『苦海浄土』への言及がある。これは、一緒に湯の児温泉に浸かった森元斎さんが『国道3号線』(共和国)で書いている木村栄文の作品のことだろう。

ところで、九州の西海岸に来たからには壮麗な日没を見たいと思っていた。相思社のある丘の上で、その願いが叶った。すぐそばの畑で仕事をしているおばあさんが作業の手を休め、「このあたりの夕陽はきれいでしょう」と話しかけてきて一緒に夕日を眺めた。

12月某日 水俣滞在3日目。朝、温泉宿をチェックアウトして相思社にふたたび立ち寄り、水俣病考証館を見学。「百年芸能祭」に集う人たちに別れの挨拶をしたあと、『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』(ころから)の著者で相思社職員の永野三智さんと少しことばを交わした。水俣病について証言する人の声を聞くことはもちろん、これからさまざまな事情で語ることのできない人の沈黙をどう継承していけばいいのか、ということを話していた。透き通ったまなざしが印象的だった。

ここからは上野俊哉先生と森元斎さん、そしてぼくの三人でのドライブ。水俣の南にある長島から天草へフェリーで渡り、各地のカトリック教会を訪ね、さらに長崎へ向かった。森さんの運転で外海地方にも足を伸ばし、19世紀末にド・ロ神父が創設した旧出津救助院も訪問(日本のマカロニ発祥の地、困窮する女性たちのコミューンなど興味深い側面を持つ)。夜の長崎では、木村哲也さん『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』などすばらしい本を出版する水平線編集室の西浩孝さんたちとの、よい出会いがあった。

製本かい摘みましては(185)

四釜裕子

年末、MORGAN SALONで開かれた『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』(TAYLOR MIGNON編 KERPLUNK!刊 2023)のイベントでハサミ詩を読んだ。

「ハサミ詩」というのは切り取り線を組み込んで作った詩で、私が勝手にそう呼んでいる。描かれた切り取り線を読み手が切って初めて作品が完成するもので、いつもは「gui」という同人誌に載せている。自分の手元では、見開き状の紙を舞台に書いて切って折ったりもして、最低一度は完成している。それを毎回、冊子に封印しているようなものだ。なにしろ同人誌だから、自分のわずかな持ち分の中で「ここを切るとこの詩は完成するのでやってみて」と誘うのはかなりの傲慢だろう。実際はほとんどの人が無視してくれている。私も読む側ならやらないと思う。結果、ほとんどのハサミ詩は読まれていない。

生前「gui」の同人でもあったヴィジュアル・ポエット、高橋昭八郎さんに、ハサミ詩を見ていただいたことはない。間に合わなかった。昭八郎さんにはポエムアニメーション5『あ・いの国』(1972)という作品がある。8枚の長い紙を2枚ずつ組み合わせて三角形に折りたたんだものが含まれているのだが、これがまぁ組むのも開くのも相当難しい。そんなわけで、この作品について語る人は結構いるが、体験している人はかなり少ないと思われる。昭八郎さんはこう書いている。組んであるものを開くことからしか、〈いつの間にか大きくひろがっていく触発的な現場に〉〈立ち会う〉という体験はできない。これらは〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉であり、〈次つぎにひらいていくとき、手と眼と目と…読者であるあなたの意識・身体全体をそれらはつつみこむだろう〉(高橋昭八郎「詩集 あ・いの国へのeyEs」『VOU』133号)。

私もハサミ詩で、〈グラフィッカルなイベントを演出する大魔術団〉をやってみようと思ったわけです。

AかBかの二者択一にさらわれないで残っていくものがそれぞれの”自分”で、その可笑しさと頼りなさとかけがえのなさをハサミで切るという作品の特別バージョンを、A5判中綴じに刷って台本とした。1、2、3……とページを順に切り落とし、残った「背」を丸めて「ノド」を開くと、空也が現れ、「小口」から南無阿弥陀仏が続々吹き出す……。『VISUAL POETRY OF JAPAN 1684-2023』の表紙が空也小人像だったのだ。なんとかかんとか最後までたどりつき、足元に落ちた切れ端を拾って客席に戻ると、みなさんに笑って声を掛けてもらえてうれしかった。

背もノドも小口も本の構造の呼び名だが、いかにもうまく人体に見立てたようでいて実際は背とノドが表裏一体なのだからキュビスムだ。日本語以外でノドはなんと呼ぶのだろう。一方、改めて思うと「天」と「地」なんて大げさだけど、斎藤真理子さん訳の『李箱作品集 翼』(光文社古典新訳文庫 2023)のあとがきに、”ページの逆立ち”を思わせるシーンがあったので記したい。斎藤さんが偶然見つけた李箱の詩集が、ひと折だけ天地逆だったことがあるという。あってはならぬが起こりうるミスだ。そこには「嗅覚の味覚と味覚の嗅覚」という作品があったそうだ。〈(立体への絶望に依る誕生)/(運動への絶望に依る誕生)/(地球は空巣である時封建時代は涙ぐむ程懐かしい)〉。天地逆は意図したものではなかったか。あるいはこの折、自分で逆立ちしたのではないか――そう思ったって、いいだろう。

読んでいて「肉体」を感じさせる本といえば、村野四郎の『体操詩集』(北園克衛 構成 アオイ書房 1939)もある。〈中学生のやうなキチンとしたフオームは次第に大学生のやうな仕様のないフオームを示しはじめてゐます。これは勿論年齢のせいもありますが、体操の正課が新たな修身の課目によつておかされてゐることを示すものです〉(自作解説より)。つい先日、旅先の公園で鉄棒を見つけ飛びついたところ、逆上がりができなくてびっくりした。もちろん年齢のせいだが、果たしてそれだけなのか、なにものかにおかされていないか、気をつけておかねばならぬ。

最後にもう1つ。栃折久美子さんは装幀を、「服を着せる」というより「皮膚」に近いというふうに書いていた(『製本工房から』1978)。かつてその生っぽさがやけに重く厳しく感じたことを、澤直哉さんの『架空線』(港の人 2023)で思い出した。この本は、ブックデザイン、特に物としての本についての澤さんの講義をまとめたもので、栃折さんの”皮膚説”にも触れている。〈皮膚としての本を作ること、これは読者を魅了するイメージを拵えるのとはまったく異なる行為であり、まさに作品の「出生」に関わろうとすることでしょう。このように考えられたらどれほどよいか、と思います。しかしこれは大変険しく、厳しい道です〉。

前述の『李箱作品集 翼』における、李箱作品と斎藤真理子さんの翻訳・解説・まえがきとの関係も、これだと思った。

澤さんは続けてこう書く。〈こうした思想を、思いを知っておくことは、どうやったらうまいデザインができるかどうかより、よほど大切なことだと思います。私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない〉。

あかーん

篠原恒木

おれは急いでいたのでタクシーに乗った。日が暮れた頃だった。
目黒の権之助坂に差し掛かったとき、その事件は起きた。
おれが座っている後部座席の尻のそばで、携帯電話が鳴ったのだ。聞き慣れない着信音だったので、おれの携帯電話ではない。誰かが、おそらくはおれのすぐ前に乗った客が、座席に置き忘れたものだろう。
「運転手さん、携帯電話が鳴っているのですが、おれのものじゃないんですよ。忘れ物だと思うのですが」
「ああ、さっきまで乗っていた男性のお客さんの携帯かなあ」
携帯電話は鳴り止まない。もう十回以上はコールしている。鳴り止んだら運転手さんに渡そうと、おれはその携帯を手に持った。ところが電話は切れない。ピロピロ、ピロピロとしつこく鳴り続けている。そうだ、これはきっと落とし主が忘れ物に気付き、自分の携帯に電話をかけているのだろう、いや、そうに違いないとおれは判断した。

おれも携帯電話をいろいろな場所に置き忘れるが、そんなときはとりあえず別の電話からオノレの携帯にかけて、
「頼むから誰か電話に出てくれ。そしておれの電話はいまどこにあるのか教えてほしい」
と、すがるような思いで親切な誰かがおれのコールに出てくれるのを願った経験が何度かある。

この執拗なピロピロ、ピロピロ着信音は、この携帯の持ち主が必死になってかけているに違いない。自分の経験上、そうおれは確信した。ここは出てあげるべきなのだろう。
だが、そのとき、着信音は鳴り止んだ。ほっとしたおれは運転手さんにその携帯電話を渡そうと身を乗り出した。ところがその瞬間、またピロピロ、ピロピロと鳴り出すではないか。
「ははあ、これは携帯を置き忘れて相当焦っているな」
おれは仕方なく電話に出ることにした。声が聞こえた。
「もしもし」
電話の声は女性だった。運転手さんによれば「さっき乗っていた客」は男性だったはずではないか。
「あ……はい?」
女性はおれの戸惑う声にも構わず、勝手に喋り出した。
「あっ、あなた? まだ大阪でしょ?」
おれはすっかり虚を突かれてしまった。大阪? ここは東京の目黒だ。そして大変申し訳ないが、おれはあなたにとっての「あなた」ではない。
「ええと、そのぉ……」
おれはそう口ごもりながら、灰色の脳細胞を活性化させて、次の仮説を導き出した。

1.携帯電話を置き忘れたのは、おれの前に乗った男性客であろう。
2.その男性の携帯に女性が電話をかけてきた。
3.女性は携帯の持ち主である男性と親しい。妻もしくはそれ以外の深い仲だ。

残念なことに、この時点ではこれ以上の仮説は思い浮かばなかった。おれの脳細胞の限界である。しかし、電話をここで切るわけにもいかない。おれはおずおずと切り出した。
「あのぉ、いま私が出ているこの電話、私のモノではないんです。タクシーの座席で鳴っていたものですから、つい出てしまったわけで」
相手の女性は、しばし沈黙した。
「そうなのですか。大阪のかたですか?」
大阪。そうだ、確かに大阪と言っていた。おれの脳細胞が再び活性化されてきて、さらなる仮説を組み立て始めた。

4.携帯の持ち主である男性は大阪に滞在していることになっている。
5.その男性は、妻もしくは深い仲の女性に対して4という嘘をついた。
6.だが男性は「大阪へ行く」と言っておきながら、ちゃっかり東京に居残っている。
7.そしていまおれが話している女性は、その男性の妻に違いない。どうやら深い仲の女性ではなさそうだ。
8.なぜなら深い女性とはこの東京でいまヨロシクやっている最中で、その女性に嘘をつく必要はない。男が嘘をつかなければならないのは妻だ。

おれはここまで推理して、完全に狼狽してしまった。なんだか松本清張のミステリ小説のような展開ではないか。今度はおれが沈黙する番だ。電話からは女性の声が畳みかけるように聞こえてきた。
「失礼ですが、そちらさまは大阪のどこにいらっしゃるのでしょうか」
おれの背筋から冷たい汗が噴き出した。どうしよう。
「せやねん。大阪でっせ、正味なハナシ。ワシはいま北新地やで。なんでやねん」
そんな台詞も頭をかすめたが、あとあと面倒なコトに巻き込まれそうな気がした。いや、もうすでに巻き込まれているやん。わて、ホンマによう言わんわ。

インチキ関西弁での思考は放棄して、おれは正直なところを話すことにした。
「あのですね、こちらは大阪ではなく、東京です。東京でタクシーに乗っている者です」
おれの言葉を聞いて、女性はしばらく絶句していたが、やがて口を開いた。
「昨日の朝、二泊で大阪へ行くって……。いまそちらは東京のどこですか?」
「ええと、ここは……目黒、かなぁ」
「目黒?」
「はい、目黒ですね」
「そうなんですか……」
そう振り絞るような声を出して、女性からの電話は突然切れた。おれにとってもこれ以上の会話はスリルとサスペンスに満ち溢れそうだったので、このガチャ切りは有難いことだったが、苦い後味が残った。
おれは運転手さんに携帯電話を渡し、大きなため息をついた。
「大阪って聞こえましたが」
携帯を受け取った運転手さんはニヤリと笑っておれに言った。
「そうなんです。参りました」

なぜおれがこんなにモヤモヤした気分にならなければいけないのだろう。電話に出なければよかったのだ。しかし持ち主からの電話だと思い込んでいたので、つい出てしまっただけである。小さな親切、いや、大きなお世話が仇となってしまった。
おれは反省しながらタクシーを降り、目的地まで歩を進めた。男は無事に携帯を取り戻せるだろうか。いや、そんなのは些細なことだ。携帯を置き忘れた男とその妻は、今後どうなるのだろう。夫は妻の激しい追及をうまくかわせるだろうか。

「ただいまー。大阪出張、疲れたぁ。これ、おみやげ」
男はそう言って、大阪名物のクッキー「道頓堀の恋人」を妻に渡す。もちろん大阪で買ってきたものではない。帰宅途中に東京駅の「諸国ご当地プラザ」へ寄って、ササッと買ったアリバイ工作のクッキーだ。レシートはその場で捨てた。おれもよくそうしている。いや、してないしてない。それにしても「道頓堀の恋人」はよくない。男が逢っていたのは「目黒の恋人」なのだから。
妻はおみやげには目もくれず、唐突に切り出す。
「あなた、昨日の晩はどこにいたの?」
「大阪だよ、もちろん」
「嘘つき! 目黒でしょ」
それを聞いた夫の眼が虚空をさまよう。
ああ、想像するだけで胃がせり上がって来る。

平和だった家庭に亀裂が入るのだ。すべてはおれが悪いのか。
「あかーん。あかーん。知らんがな、もう」
と、おれは独り言を呟きながら、自分の携帯電話がバッグの中にちゃんと入っているかどうかを確かめた。

麗蘭の磔磔再び

若松恵子

麗蘭(れいらん)は、RCサクセションの仲井戸”チャボ”麗市とザ・ストリートスライダーズの土屋“蘭丸”公平が結成したロック・バンドだ。麗市(れいち)と蘭丸で「れいらん」。日本が誇る2人のロックギタリストは雑誌の対談で出逢い、ちょっとしたセッションをする予定が新曲を作り、ツアーを回り、新しいバンドとなって、30年の年月が流れた。ベースに早川岳晴、ドラムにジャラを迎え、時々集まっては麗蘭としての音楽を奏でる。それまでの時間にメンバーそれぞれが聞いた音楽、奏でてきた音楽が麗蘭に注ぎ込まれて成熟したサウンドを形作っている。曲をいっしょに作るという事は、当たり障りのない付き合いを超えてお互いの中に入り込まなければならない。仲井戸麗市が最初のセッションの時から持っていたその意志を土屋公平も受けて、麗蘭がこんなにも続いたことは幸福なことだと思う。麗蘭は2人の成長(成熟)の物語でもあるのだ。スタジオアルバムもミニアルバムを含めて4枚発表されている。

京都の古い蔵を改装した老舗のライブハウス、磔磔(たくたく)での年末ライブは恒例で、ファンにとってはこれが無ければ年が越せないという特別なライブだった。2020年のコロナ以来できなかったが、今年やっと4年振りに開催されることになった。こんなに嬉しいことはない。年の瀬に新幹線に乗って出かけてきた。

まだ、コロナが完全に終結したわけではないから、以前のようにギューギュー詰めというわけにはいかない。椅子を入れて少し間隔を取って、入場数は減らしての開催だったけれど、磔磔での麗蘭のライブはやはり特別な感慨があった。磔磔では海外の有名アーティストもたくさんライブをしている。100年たつ蔵にはロックやリズム&ブルースの良い演奏をたくさん聞いてきた音楽の神様が住んでいるから、音が特別に良いのだ。

チャボが「新旧取り交ぜてやるよー」と言っていたけれど、今年の新曲が5曲も演奏されたことは頼もしくも嬉しいことだった。そして2つも戦争が起こっている今の時代が、麗蘭の音楽にも大きく影響している。湾岸戦争の時に作ったというコメントで演奏された「悲惨な戦争」は、2023年版アレンジになっていて鮮烈な印象を残した。素朴に平和を願う心、それはロックに教えてもらったし、ロックを聴くこと(体感すること)でその気持ちは確信に変わる。麗蘭の今年の演奏を聴いていてそんなことを思った。

ビートルズの歌詞がちりばめられた「ゲット・バック」という曲では「さあ長い夜に嘆くのはもう終わりにして、俺といっしょに口ずさもう、いつかのあのメロディー」と歌われる。「帰ろう、今夜、いかしてる音楽へ」と。厚みのある肯定的なギターサウンドが、理屈ではなく、体感として大切なものを確信させてくれる。彼らの音楽にも流れ込んでいるビートルズのスピリットも合わさって、揺るがない強さをもたらせてくれる。平気で人を傷つけたり、不正を働いたりする人間にならないようにつなぎとめておいてくれる。まともな人間でいるためにロックを、麗蘭の音楽を聴いているのだと言ったら笑われてしまうだろうか。1年の終わりに、磔磔で麗蘭を聴く理由、聴きたいと思う理由はこの辺にあるようだ。恒例ではあるけれど、前回をなぞるような事は決してしない彼らの演奏を、これからも可能な限り聴きに行きたいと思う。

ヴェンダースが撮る木漏れ日

植松眞人

 渋谷の公衆トイレをリニューアルするという計画が立てられ、これを広くPRできないかと企画された映画が公開されている。かつてニュージャーマンシネマの騎手と呼ばれたドイツのヴィム・ヴェンダースが監督を務めた『PERFECT DAYS』という作品だ。
 ヴェンダースと言えば、小津安二郎に強く影響を受け、日本で『東京画』という日記映画を制作したこともあった。そんなヴェンダースが小津から最も遠い日本の広告代理店の依頼で、小津のようにきらめくような木漏れ日をすくいとったかのような作品を完成させたのだ。
 金に汚れた日本の製作システムの中でも、ヴェンダースの純粋な映画愛は汚されなかったと言うべきか、もしかしたら、単に白人外国人には強く物申せない国民性がこの作品にとって良い方向へ働いたのか。どちらにしても、『PERFECT DAYS』は見事に世界を映画作品として定着させている。
 渋谷で公衆トイレの掃除を淡々と続ける平山という男が主人公。この役所広司演じる男は、ジム・ジャームッシュの『パターソン』のように、同じように見える毎日を繰り返している。しかし、同じように見えて、実は同じではないというところも『パターソン』に似ている。
 そう言えば、若き日のジャームッシュは、若き日のヴェンダースに余ったフィルムをもらって、あの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を完成させたのだった。小津によって刺激されたアメリカとドイツの才能が結びついて、いま再び、『PERFECT DAYS』という作品になったと思うと、なんとも言えない感慨がある。
 ここで、ふと思い出したのは、もう一人、小津に人生を変えられたフィンランドの映画作家、アキ・カウリスマキである。『PERFECT DAYS』が公開される半月ほど前に、引退宣言を撤回したアキ・カウリスマキが撮り上げた新作『枯れ葉』が公開されたばかりだった。この映画はさらに小津の色濃い影響を画面の隅々に反映して、様々な要因で膿んでしまったかのような世界を(映画を見ている時間だけでも)浄化させてくれたのだった。そして、その映画の中に引用されていたのが、ジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』というコメディタッチのゾンビ映画だった。
 どうしようもない日本のどうしようもない片隅で、小津安二郎の影響を受けたドイツ、アメリカ、フィンランドの三人の男たちの名前が繋がることは、奇跡なのか必然なのか。
 『PERFECT DAYS』の中でふいに影踏み遊びを始める役所広司と三浦友和のように、小津の子どもたちが遊んでいる姿を僕たちはこれからも見続けることができるのだろうか。

長い引っ越し

北村周一

ともどもに
判を押したる
その夜を
寿ぐごとも
聖夜は来たり

ももいろの
気泡のどかに
はじけるを
のみ干しにつつ
燥ぐ一月

恥ずかしくて
とても人には
言えざるを
あの手この手の
母さんが怖い

二十年の
月日をかけて
わが母が
済ませしはずの
長い引っ越し

まなぶたに
あの人までも
あらわれて
賑やかなりぬ
不眠時間は

あのイヤミ
得意のポーズを
決めながら
こころ静かに
寝ねんとするも

うちつけに
叫んでみたり
泣いてみたり
自作自演の
ゆめ醒め遣らず

神経を
病んで夢見に
しのび泣く 
さきゆくひとの
石を踏む音

くらぐらと
まぶたの裏に
見入りたる
目覚めし朝の
ブラックボード

朝起きて
さいしょに開く
一ページ 
測量野帳に
種蒔くごとし

日に五たび
根深き闇に
立ち向かう
ごともハブラシ
動かしており

持ち主なき
しじまに向けて
放たるる
音符はなべて
目的格なし

幾重にも
走る細道
さみしきに
萎えにけるらし
性なるみちは

米国産
豚バラ肉の
脂身の
みごとなるさま
星条旗のごとし

古典から
すこし外れて
泳ぎわたる
マティスみたいな
絵の終わり方

おわらいと
食と旅とに
生きのびる
テレビ画面に
消えゆくわれら

パーティの紙皿寒し名刺飛び 冬の星座は大きく動く

『アフリカ』を続けて(31)

下窪俊哉

 先日、井伏鱒二『荻窪風土記』を読んでいたら、「小山清の孤独」と題された文章にぶつかった。私は今回、その人の名を初めて知った。井伏さんによると戦後、同人雑誌は「影をひそめ」ていたそうだ。そんな頃、小山清という人を中心に『木靴』という同人雑誌ができた。小山さんという人はよく書いた人のようだが、やがて『木靴』の原稿集めにばかり熱心になり、自分の書く方は思うようにゆかなくなったらしい。もちろん同人雑誌では暮らしてゆけないので、周囲は「資金カンパ」をよく集めていたという。
 私には何だか、他人事のような気がしない。執筆で暮らしを立てようとしたら、自分も似たような状況に陥ったと想像できる。かといって、文学をめぐる日々の営みは、世間で「出版」と呼ばれているものとは少し違うのである。執筆でも出版でも暮らしを立てまいとすることが、私の仕事においては重要なことになった。しかし「趣味」というような軽いものでもない。説明に苦労するところだ。
「小山清の孤独」には関口勲さんという人の「小山清と木靴」という文章が引用されていて、「年間平均して二冊出るか出ないの遅いペースである。息も絶えだえに続いていると見るのも自由だが、牛歩にも似た息の長さを自讃し得なくもない。」とある。それって、まるで『アフリカ』のことじゃないか! と私は思う。

 編集に手を染めると、自分の書く方が疎かになる、というのは、かつて『VIKING』の編集人だった日沖直也さんから聞いたことがあって、「下窪くんのように両方を、並行して続けている人というのは、あまり見たことがない」と言われたのを印象深く覚えている。私はちょっとびっくりして、そうなのか、と思った。

『VIKING』といえば、この秋、富士正晴の新しいアンソロジーが中公文庫から出た。『新編 不参加ぐらし』という(以前あった同名の本とは違う)。そこに収録されている内容が、文庫で手軽に入手できて読めるようになったことを喜んだ後、しかしその選には、ちょっと感心しないところもあった。選者による解説を読んで、その感触は深まった。
「竹林の隠者」という生前のパブリック・イメージをそのまま受け継いでおり、何やら、その「身の処し方」を見て面白がったり、もしかしたら慰められたいのかもしれない。富士さん自身はそれを受けて文中で煙たがっていることになるので、そう思って読むと面白いような気もしないではないけれど。
 そしてこれが肝心なことなのだが、選者は『VIKING』にあまり興味がないようだ。同人雑誌を、文壇に出てゆく足がかりというくらいにしか見ていないのかもしれない。それでは富士さんの精神が、あまり伝わらない(『VIKING』の話は、この連載の(1)に出てきて、(20)で少し踏み込んだことを書いた)。だから、とくに初めて富士さんの本を読む人には、この本ではなく、ちくま日本文学全集の『富士正晴』を古本屋か図書館で探すことを勧める。ちなみに、その両方の本に収録されている文章がひとつあり、それは「わたしの戦後」だ。

 そんなことをブツブツこぼしていたら戸田昌子さんが「これをふと思い出しました」と言って、岡村春彦さんの「群れの終末 -青銅文学創刊の前後-」という文章を送ってきてくれた。『青銅文学』という同人雑誌の最終号に載っていたものらしい。読むと、戦後すぐの頃の子供と大人の「混乱」と「不信」が描かれている。記録されている、と言ってもよい。子供は、あっという間に成長する。『青銅文学』をつくったのは札幌の高校生たちだった。

「既に高校では旧体制の教師の復権が行われ、若手教師の新らしい教育は壁にぶつかり悲壮感がただよっていた。その中で彼等の中の数人が同人雑誌を作ることを志ざす。それは学校のサークルの外でアウトサイダーとして、独立した雑誌となる。「群れ」が「徒党」への飛躍を試みる。」

「あるものは、小説を、あるものは詩を。だが作品を書かない者もいた。それは何かを表現しようと望む十代の若者たちの集まりであった。従ってそれだからこそ、「徒党」への試みは、「群れ」の部分を残したまま破局へと向う。」

 その雑誌の中心にいたのは、樫村幹夫という人らしい。彼が東京へ行き、続けられた『青銅文学』は、しかしもう元の性格の雑誌ではなくなっていたという。

「“群れ”の雑誌は“個”の雑誌となる。しかしその“個”は何故か私には“他”を求めるものに思えてならない。」

「おそらく、総ては徒労なのかもしれない。だが、やはり、どんなに悪い時代であってもそれは自分の生れ、死んでゆく時代なのだ。それを個としてとらえ、真の連帯の意味を見い出し、“徒党”が生まれるとき、羊の“群れ”は蘇える。」

 その背景には戦争があり、子供時代に「彼らが疎開児童であった」ことがある。太平洋戦争が終わった1945年、彼らは10歳くらいだろう。ちなみに、私がいま書いているこの文章の他の登場人物たちが当時、何歳くらいだったかというと(各々の生年からザッと計算して)井伏鱒二は47歳、小山清は34歳、富士正晴は32歳である。皆、それぞれのやり方で、戦争の影をずっと引きずって行った。私はそれを受け取って、読んだり、考えたりしているのである。

 それにしても、“群れ”が“個”となり、“他”を求めているようだというのは、何だかいまの時代の、私たちの話をしているようにも感じられないか。

 書くということは、そういった試行錯誤のなかに浮かび上がってくる。またそれを記録しておくということ、アーカイブする場を持っておくことの大切さを私は思う。
 岡村春彦さんが『青銅文学』を手元に置きながらその時代を書いたように、『VIKING』が自らの歴史書をその時代、その時代の人たちで書き継いできたように、私は『アフリカ』を傍らに、これから何を書けるだろう。

「道草」の「道」

越川道夫

「道夫」の「道」は「道草」の「道」とは、幼い頃に父親が言った言葉である。小学生の頃、学校から街中で洋品店を営んでいた家に帰ると、店の中で父が地図と睨めっこをしている。そして、言うには、お前はどこをどうやって帰ってくるのだ、と。聞けば、あそこで見た、ここで見た、と私の目撃談が父に届くのだと言う。それをもとに地図を広げてみると、真っ直ぐはおろか、帰る意志があるのかも分からないぐらいの迷走ぶりだそうである。仕方がないのだ。あそこの犬と会って、とか、そういえば貸本屋に寄らなくちゃ、とか、あのドブでイトミミズを相手に遊んで、とか、果ては石蹴りをして、石の飛んだ方に歩いていくのだ、とか、子供は子供でいろいろと忙しいのである。とてもじゃないが、真っ直ぐなど帰ってはいられない。おまけに本を読むことを覚えてからは、歩きながら読むのである。雨が降っていれば傘を差しながら読む。夢中になれば、道にしゃがみ込んだり、公園やら木の上で読む。おまけに電信柱にぶつかって血を流し、近所の人に介抱されたりする。生まれてこの方、真っ直ぐなど歩いたことはないのである。
 
今だって事態はさして変わらない。たとえば映画館に映画を見にいこうとする。映画の上映時間は当然のことながら決まっている。もちろん間に合うように外出するのだが、時間通りについた試しはないのである。映画どころか、ライブも、芝居も、その時間に着くことはない。決まって遅れるか、間に合うために最後は走る羽目になる。したがって、時間が決まっているものは億劫だと言うことになり、出不精にますます拍車がかかるのだ。そもそも、歩きながら河を覗き込み、草叢に分け入ったりしているのがいけない。今日は、真っ直ぐに、と言いながら、畦道に咲く花に蝶が来ているのではないか、そろそろ蛇に合うのではないかとか気もそぞろで足がそっちを優先するのがいけない、それに引き換え本屋はいい。もちろん開店時間も閉店時間もあるのだが、何時何分に行かなければならない、というのがないのがいい。要は50歳を過ぎようがなんだろうが、あの頃とちっとも変わっちゃいないのである。だから目的地にわき目もふらず真っ直ぐ行こうという人、道中キョロキョロしない人と一緒に行動するのは、ひどく苦しい。おそらく、そういう人にとって「道中」は、おそらく「無駄」なのである。こっちはそうではない。目的地に着かなければならないのは分かっている。分かっちゃいるが、目的地に着くよりも、その「無駄」な「道中」の方がむしろ大切なのである。
 
「人」は中枢的身体を持っている。中枢的身体は、その身体が行う行為を、より効率良く行うために、行為のために「有効」な「知覚」を残し、それ以外の「知覚」を排除、選別する。そりゃそうでなくてはならないのだろうが、「人」という生き物の中に、自分にとって「有効」なものを「選別」し、「無効」なのものを「排除」する機能が搭載されていることに絶望的な思いを抱えている。このあらかじめ搭載された機能に抗おうとするのが、「知」と言うことになるのだろうか。一冊の本を読み始める。読み始めれば、あちらこちらを刺激され、連想のようにその本を読み終わらないうちに別の本に手を出すことになる。別の本を開けば、そこからまた別の本へ…。こうして一冊の本は読み終わることがない。そんな読書が面白い。読み終わったらからといって、それがどうだと言うのだろう。そんな読書が面白い。