本小屋から(13)

福島亮

 今年は1月1日がだらだらと続いた。1日の夜に羽田を発ち、まずはホノルルでトランジットし、それから目的地であるニューヨークへと、太平洋を横断して、つまり1日をずっと延長しながら過ごしたからである。ちなみに、出発したのは夜の20時だったが、ホノルルに着いたのは1日の朝8時だった。得した気分である。

 ニューヨークに行ったのは、とある学会の年次大会に参加するためだった。冷戦以降の歴史の語り方をアジア、東欧、西欧の視点から検討する、というパネルセッションの報告者のひとりとしての参加だった。ヒルトン・ホテルとシェラトン・ホテルの会議室フロアを借り切り、3日から6日までの4日間、8時から20時まで合衆国はもちろん、世界中の研究者が集って研究発表し続ける、という、豪快にしてストイックな大会だった。

 英語がからきしダメな私は、12月頃から、大学でフランス語を教えるかたわら自宅では英語の自学自習に励んでいた。学期末試験が近いので、学生たちには試験勉強をするよう促し、発音をさせてはそれを修正し、読解をさせてはその解釈に講釈をたれていたのだが、当の教員は帰宅後こっそりと英単語を覚え、冷や汗を流しながら発表原稿の音読をしていたのである。

 この英語学習は現地についてからも続いた。到着したのは2日で、登壇は5日である。ということは、残り時間は3日。この時点で、原稿はすでにできていた。だが、辞書を引き引き書いた文章は、口頭発表では使い物にならない。というのも、読み上げた時にどうしても不自然になってしまうからだ。頭だけで書いた文章で使われている語彙は、からだに馴染んでいないために、読み上げるとぎこちなさに拍車がかかる。そこにきて、私の発音は、まあひどいのだ。聴衆からしたら、おそらく何を言っているのかわからない代物になってしまうだろう。というわけで、私の低い水準でも口から出てくるような単語で言い換え、場合によってはいくつかの単語に馴染んでおく必要があるわけだ。

 告白しておくと、ニューヨーク行きのために、私は近所の啓文堂書店で『地球の歩き方 ニューヨーク、マンハッタン&ブルックリン2024〜2025』を購入し、観光地の下調べもしていた。だが、それらを楽しく観て回る余裕はなく、ホテルの一室でひたすら発表練習をしていたのである。

 ノックの音。扉を開けると、ラテン系の顔立ちをした中年の女性が立っている。ハウスキーピングです。あの、掃除中も、部屋に、のこっていても、いいでしょうか? ええ、もちろん。たどたどしい英語が通じた! 業務的な英語ではあるけれども、きちんと返答してもらえた! そんな低レベルな喜びに浸りながら、同時に惨めだった。期末試験の前日に出題されそうな問題にやまをかけて一夜漬けしたとき、頭の中には、結局は定着することのない朧げな知識がもやもやぐるぐると渦巻いているものだが、その時の私も同じ状態だった。思えば、こんなふうにもやもやぐるぐるとしたままこの歳まできてしまったような気がする。

 携帯電話の着信音が鳴り響く。ベッドのシーツを替えていた小柄な中年の女性がポケットからスマートフォンを取り出す。笑いながら彼女が発したのは、生き生きとしたスペイン語だ。それまでの業務的な英語ではなく、友人とおぼしき相手と話す、楽しそうなスペイン語。優しい音、明確な音節、簡素な構文、そして遠い縁戚のようないくつかの単語を、縮こまっていた耳がとらえる。ロマンス語の響き。そのにぎやかな音色が、惨めな気持ちに浸っていた外国語学習者にはなんとも心地よく、と同時に、いま目の前でスペイン語を発している彼女がどのような経験を経てマンハッタンで英語を話しているのか気になった。

 マンハッタンで出会ったスペイン語は、ほんの一瞬のものだったけれども、忘れられない輝きを放っていた。スペイン語の時間は30秒ほどで終わった。そのわずかな時間が、ずっとずっと続けば良いのに、と思った。

舞踊の表情

冨岡三智

ジャワ舞踊では表情を作らずに踊る。私はニコニコして踊っていると言われることが多く、ジャワ舞踊では笑顔を作らないんじゃないの?と批判気味に言われたこともある。けれど、別に意識してニコニコしているわけではない。初心者が踊るとき、笑顔になって~とアドバイスする人がよくいるが、自分自身はそういう言われることが好きではないし、そうするものでもないと思っている。

ではどうすればよいのか、あなたはどうしているのかと敢えて問われたら、私は無理に表情のことは考えなくて良い、私もそうしていると答える(今まで数人にしか言ったことはないけれど)。ニコニコであれ無愛想であれ、表情というのは外から作るものではなくて、内から出てきたものの結果だと思うのだ。もっとも、人間の心の働きは一筋縄ではいかないので、悲しい時やつらい時に無理にでもニコニコすることで気分が上向くこともあるから、外から形を作ることも悪いとは言い切れない。外に向けた顔を意識することで、内面が影響を受けてくることもあり得るだろう。けれど、舞踊の場合、作った微笑みはなんだか顔に貼りついたシールみたいな感じで、むしろ観客に踊り手への距離感を感じさせてしまうように思う。観客を引かせてしまうと言うか…。

私は表情をどうこうしようとは思わないけれど、これから踊る空間や音楽に身を浸そうとは思っている。リハーサルや事前の練習がそこでできるなら舞台に立って、舞台の前後左右、上中下をぼーっとゆっくり見ていく。すると、なんとなく気になる方向があるものだ。そっちを向くと自然と嬉しくなって頬が緩んでしまう方向だとか、背中を向けていても何となく気になる方向だとかが。私には霊感はないので、霊的なものがそこにいるという考え方はしない。けれど、何かが存在し偏在していて、そちらこちらに手繰り寄せられるような気になってくる。そこにガムラン音楽が響いてくるとドライブがかかって、私という空っぽの器に音がどんどん流れ込んできて、その器が空間の中を漂い始める…。

私が踊っている時にニコニコしているとしたら、そういう空間や音楽が私の中に流れ込んできた結果で、何かしら嬉しい気分に満たされたものが表情として顔に出てきていたのだろう。たぶん、自分の意識が空間や音楽に対して開いていけば、自然に作っていない表情が生まれる。そんな表情がジャワ舞踊で言う無表情なのではないかな?、と思っている。

しもた屋之噺(277)

杉山洋一

家探しに明け暮れた一カ月が過ぎました。イーロン・マスクはトランプ大統領の就任イヴェントで右手を斜め上に掲げ、つまりローマ式敬礼、ひいてはナチス式敬礼と揶揄されながら、トランプ大統領は反ユダヤ主義の学生の国外追放を発表し、ガザの市民をヨルダンや周辺国に移住させる計画まで報道されていて、イーロン・マスクはドイツ極右政党の政治集会で「ドイツは過去の罪悪感にとらわれ過ぎている」と発言したとも言われます。こうしてみると、現在までの世界の常識は、音を立てて変化しているのを感じます。わたしたちが変わるべきか否か、受け入れられるか否かに関わらず、この変革のスピードに自分も何等かの形で追随してゆかなければ、想像を超えるとんでもないことが起きるのかもしれません。そう痛感する一年の始まりでした。

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1月某日 ミラノ自宅
新年早々、家人と連立って久しぶりにミラ宅を訪問する。ミラ宅に厄介になっているさくらちゃんが甲斐甲斐しく手伝っていて、イタリア語も上手になっていておどろく。去年春にミラが日本旅行をした際は、さくらちゃんが随分助けてくれたのよ、とミラも大層嬉しそうで、各地の神社仏閣を巡った際の御朱印帳を自慢げにみせてくれる。こちらは不学で、御朱印帳が何かすら知らなかった。地下鉄4番線が開通したので、我が家からサルディーニ通りのミラ宅まで、フラッティーニ駅からスーザ駅まで地下鉄を使って簡単にゆけるようになった。我ながら現金なものだと呆れるが、4番線が全線開通したのはつい先日だというのに、開通以前のミラノのアクセスのイメージをすっかり忘れてしまっている。日本に戻っている息子が年始に町田の両親を訪ねた。彼が大好きなトンカツとハンバーグはもちろん、おせち料理も雑煮もよく食べた、と両親も喜んでいた。昨年11月に顔面神経痛になった父は、もうすっかり快復したようだ。バイデン大統領、アメリカの安全保障とサプライチェーン保証のため、日本製鉄によるUSスチール買収計画禁止を発表。韓国では、警備隊200人がユン大統領の拘束を阻止との報道。ロシアは1日から旧ソ連構成国モルドヴァへの天然ガス供給停止したため、モルドヴァ内の親ロシア沿ドニエストル地区では暖房、ガス供給停止。

1月某日 ミラノ自宅
日本に戻っていた息子がミラノに帰宅。ここ数日酷い眩暈と吐気で布団からでられなかった。年末から体調はあまりよくない気がする。シャリーノがミラノの国立音楽院で教えていた当時は、和声や対位法などより作曲のレッスンが面白かったと、当時音楽院の学生だったマンカやピサ―ティから聞く。昨年の東京でのワークショップでは、シャリーノは超高音部の音程を「できるだけ高い音で」と不確定に書くのを嫌がり、音域が殆ど確定できないほど飛びぬけて高いものであっても、出来るだけ音高を指定するよう助言していたのを思い出す。メローニ首相、トランプ次期大統領と会談。

1月某日 ミラノ自宅
天地万有、どのような事象であれ、良いことと良くないことは、常に対になって組合わさっている。喜ばしいことの後に喜べないことが起こり、また良いことが戻ってくる。可もなく不可もなく、こうして人生のほぼすべてを我々は生き永らえているわけだが、恐らく人生のある一時期、誰でもその均衡が崩れるときがあって、恐らくそれは、否定的事象の連続を実感するときだ。半世紀も生きてみると「急がばまわれ」は、やはり真理だと思うようになった。イタロ・カルヴィーノの「アメリカの講義」で、メドゥーサを斃すために盾に映りこんだメドゥーサを狙った逸話がでてくるが、状況を覆すためには、常に軽さをもって立ち向かうことも必要になる。個人的な皮膚感覚で言えば、「急がば、軽さをもってまわれ」。

ところで、自分がすばらしい曲だと感服して聴きいるとき、既にそれを書いた人がいるわけだから、すっきりと諦めを持って聴くことができる。それを倣っても、大方自分が納得できるものにはならない、という経験値のようなもの。アルメニア政府、EUヨーロッパ連合への加盟交渉への法案決定。

1月某日 ミラノ自宅
年末、家主のウリッセに会った際、ミラノの地価高騰もあるので、2月末で更新となる賃貸契約を現在の1,7倍に値上げしたいと言われ、すっかり当惑した。家人とも話し合い、結局新しい家を探すことにする。先日も連立ってセストの物件を見に行ったが、条件に比較して安価と思われる物件は、何某か問題を抱えているようにみえる。1940年に建てられたマンションの一部、110平方メートルの敷地に、当初は庭だったであろう200平方メートルの貸ガレージがついている。元来、現在まだそこを貸している状態だから、イタリアの法律上、簡単にガレージを空にするのも難しく、しっかり屋根を設えてあるから、密閉されてしまって窓を開けても一切新鮮な空気は入ってこない。地下の倉庫には、大きな酒樽が何個も並んでいた。

今日は、北へ向かう郊外電車で15分ほど行ったところにあるボッラーテとガルバニャーテを訪れた。とっぷりと日が暮れたガルバニャーテの街の広場は閑散としていて、中央には小さなスケートリンクが設営され、小さな子供が数人、氷上で反り遊びをしていた。かそけく点滅するクリスマスの電飾が寂しさを誘う。

イスラエル、イエメンのフーシ派軍事拠点を攻撃。「イスラエルを脅かす何れの者に対しても、断固たる態度をとる」。

1月某日 ミラノ自宅
息子はヴェニスに滞在している留学生と連立ってブレラ訪問。アイエツの「接吻」が特に気に入ったという。アイエツと言えば、音楽でいえば、時代的にも作風もヴェルディに匹敵するから、なるほど、子供のころからヴェルディは歌ってきたし、息子はやはり国家統一運動のころの情熱と滋味あふれるイタリア芸術が好きなのだろう。

かく言う自分が「接吻」を最初に見たのは、恐らく中学か高校の教科書だったと思うが、どのように説明されたのか、全く記憶にない。或いは、教科書に書いてあっただけで、素通りされたのかも知れないし、この記憶すら正しいか甚だ怪しい。ただ、ボッチョーニの「空間における連続性の唯一の形態」と邦訳されることの多い代表的彫刻作品と、ルーチョ・フォンターナの「空間概念・期待」が掲載されていたのはよく覚えている。

教科書と言うと、未だに不思議なのは、音楽の教科書に小山清茂の「木挽歌」とともに掲載されていた、グロフェの「グランドキャニオン」だが、未だに実演を聴いたこともないし、客観的にみても他にもっと知った方がよいと思われる曲はいくらでもあるように思うが、何故あの曲が選ばれたのだろう。

因みに、息子は昨年末2回もムンク展に出かけて「叫び」を堪能したらしい。イタリアでは40年ぶりの大規模なムンク展で、100点もの作品が集められ、大成功を収めたと聞いた。ムンクが5つ作った「叫び」がそれぞれどう違うのか興奮気味に話してくれたが、考えてみれば「接吻」も1859年から61年にかけて3作あったが、それから30年を経て、「叫び」が描かれたことになる。どちらも人の描写に終始しているものの、絵画の世界は、音楽よりも変化、発展が本当に著しいと感心させられる。

カタールのムハンマド・サーニ首相、イスラエルとハマスの42日間におよぶ停戦の第一段階合意を発表。

日本から戻って来たばかりで時差呆けの家人が、夜明け前、日本に電話している声がきこえる。高野さんと息子のモーツァルトの自慢話。

1月某日 ミラノ自宅
思いもよらぬ藤井一興先生の訃報に言葉を失う。平山美智子さんがイタリア本国ではシャリーノを歌っていらしたけれど、恐らく、ヴァンドリアンの演奏会で功子先生と一緒に最初に日本でシャリーノを弾いた日本人演奏家ではなかったか。武満徹さんのCDはもちろん現代作品のスペシャリストとして、子供のころから数えきれないほどの実演にふれる機会があった。藤井先生の音の輝きは、彼の頭の裡に広がる宇宙の光を体現していた。宇宙というと漆黒の闇を想像してしまうけれど、彼の宇宙は光が湧き溢れる泉のような空間だった。光は本来直線に進むものなのだろうが、彼の身体に満ちている無数の光源は、その一つ一つが生命体であって、曲線も自由に描けるし、太さも早さも色彩までも自在に変容した。

藤井先生と個人的に懇意になったのは、家人が藤井先生を敬愛していたからだ。長年私淑して深く影響を受けていただけでなく、藤井先生の音楽への姿勢に強く共感して、機会のある度に、自分の生徒や、クラスや、勉強会に藤井先生を招いていたし、結婚してすぐにご挨拶にも伺った。最後に藤井先生の実演に触れたのは、家人との共演でヴィシェネグラツキ―の前奏曲集だった。

あの後の打ち上げで、余程演奏会が楽しかったのか、先生がずいぶん紹興酒を深酒していらして、家人と心配していた。彼女はあの後も何度もご一緒する機会はあっただろうが、まさか自分にとって最後の機会となるとは想像もしなかった。いまごろ、藤井先生は慕ってやまなかったメシアンに再会されただろうか。メシアン先生は本当に心の優しい方でした、と繰返していらしたけれど、再会して、まず何を話していらっしゃるのだろうか。

1月某日 ミラノ自宅
ジョゼッペという年長の指揮の生徒がいて、彼は国立音楽院を卒業したフルーティストだが、中学の音楽教員をしながら、同じような境遇の演奏家たちを集めて小さなオーケストラを作った。もちろん指揮者はジョゼッペである。もう1年半近く続いていて、演奏会は15回はくだらないというから愕く。コンサート・ミストレスは、ウクライナの国立響で弾いていた女性。

今日は、同じく中学で音楽教諭をしているマッシモや息子もそこで半時間ほどモーツァルトを振らせてもらった。いつも演奏ばかりしている人たちではないから、アマチュアのようでもあるが、基礎はしっかり勉強している人が多いので、一概にアマチュア・オーケストラともよべないし、暫く弾いていてこなれてくると、素敵な音がでてくる。息子曰く、弦楽オーケストラより管楽器が入って派手なので振っていて楽しいらしい。大変素直で素朴な感想。

反してマッシモは、改めて自分の振っている姿をヴィデオでチェックしたが、どこがどうわるかったか、何が出来ていないか、など長いメールで反省点をまとめてきた。

オーケストラを作って、それが続いていると言うのだから、ジョゼッペは余程の人たらしなのだろう。大した才能だとおもう。聞けば、数年前に右派「フォルツァ・イタリア」党から、ミラノ市会議員に立候補までしたことがあるらしい。

トランプ大統領が就任し、早速パリ協定から離脱し、世界保健機関から脱退。ガザでは42日間の停戦がはじまり、韓国の大統領は拘束された。

1月某日 ミラノ自宅
今日は、午後から家人と連立って3つの物件を訪ねた。まず最初に地下鉄終点のCまで行く。我々が住んでいる地域は、住み始めた当時とても犯罪率が高い地域であったけれど、20年ですっかり様相が変わり、今ではミラノのコレクションなどの服飾関連のメッカが近くに出来て、行き交う人々も、労働者階級より、むしろ洒落たモデルのような人々が目立つようになった。20年前は軒を連ねていた、渋いペンキ塗りの看板を掲げる昔からの個人商店はみるみる廃れてシャッターを下ろし、替わって、派手な電光掲示板などのフランチャイズ店が出店した。フランチャイズだからか、特に地元に根付くこともなく、経営が立ち行かなくなれば店を閉めて別のフランチャイズが入るだけのことであるが、何代にもわたって続いてきた個人商店がなつかしい。

そんなことを思い出しながら、Cで近郊バスに乗り込み出発を待つ。周りをみると、二人で連立った妙齢も、少し年配の女性も、アフリカ系や中南米系の労働者から火を点けてわけてもらって、愉しそうにタバコをくゆらせている。普段、タバコを吸う女性をあまり見かけることは稀であったが、この辺りはどうも勝手が違うようだ。

Cというと、昔からマフィアなどの犯罪組織が取り立てて高く、街の名前を冠したCギャングの存在も、ミラノに長く住んでいれば知るようになる。果たして、見学した物件は、背の高い自動式鉄扉で外界と切り離されていた、塀の中のちょっとした楽園のようである。聞けば、住んでいるのはミラノ中心街で働く実業家で、ミラノの中心の喧騒が嫌で、この家を買って好きなようにコーディネートしたらしい。彼がミラノから別の場所に移るので、この物件を売りに出したという。玄関から入ると、吹抜けのように天井の高い部屋が一つあって、トロフィーがたくさん並んでいる。巨大な薄型テレビをはじめ、台所、家具、調度品どれもとても現代調で凝っている。床には全てじゅうたんが敷き詰めてあるので、家に入る時には、靴にビニールをかけなければいけない。

その家は細い路地に面していて、角には「金買います。換金屋」という怪しげな店がネオンを輝かせている。隣は中国人の風俗マッサージ店。そこから数件、とても古そうな商店が軒をつられているが、どれも少し壊れかけた斜めのシャッターが下ろされていた。その隣には、割と新しい感じの喫茶店があり、軒先にプラスチックの簡素なテーブルとイスもいくつか並べてある。目つきの厳しいアラブ系の若者が2人、腰かけて話し込んでいて、我々が通りかかると、怪訝そうに顔をあげるのだった。
その通りの端には、その昔Lという別の街まで走っていた、路面電車の廃線がへろへろ延びている。廃止されたのは20年近く前で、線路は草が繁茂していて、ゴミが沢山廃棄されている。
その次に訪れたミラノ中央にある物件は、地下鉄のP駅から徒歩5分ほどのところにある。着いた時間が早かったので、近所の洋菓子店で、菓子パンとカプチーノを頼んだ。
この辺りにアラブ系の住民が多いのは知っていたが、件の物件こそ、正面の外壁のギリシャ風のエレガントな装飾などが美しかったが、通りの反対側の集合住宅の剥げかけた外壁はとても簡素である。見ていると、アラビア語や、何語か判然としない親子などが何組か、その集合住宅に吸い込まれてゆく。彼らの表情は概して落ち着いていて、虐げられた暮らしを送っているとは思えなかった。きちんと背広を着こみ、立派な顎髭をたくわえた眼鏡の男が不動産仲介業のカルロスであった。カルロスは、柔和なスペイン語訛りのイタリア語で、この建築物は1900年前後に建てられたもので、正面入り口がこれだけ広いのは、当時は馬に乗ったまま中に入ったから、と微笑みながら語った。
中庭に入ると、売主のクリスティーナが出迎えてくれる。自分は長く柔道をやっていたから、ぜひ日本を訪れてみたい、と愛想がよい。1階の床は、木でなく、敢えて竹のフローリングを敷き詰めてある。「竹がどれだけ耐久性が良いかは、あなたたちアジア人ならよくご存じよね」。
倉庫を改造した地下室には、ドラムセットが置いてある。クリスティーナのボーイフレンドはバンドマンで、ここで練習をしている。

3軒目は、ミラノから20分ほど郊外電車に乗った先にあるPという駅より徒歩6分の物件。
郊外電車はちょうど家路に着く人々が乗る時間帯だったためか、そこそこ混んでいて、自転車を持ち込んでいる人もいる。
Pの駅前はがらんとした印象、この駅同様、最近建てられたと思しき目新しいマンションが目立つ。地階に店を出しているのは、ケバブ屋であったり、ハラル肉屋であったり。アラブ人のコミュニティに来た感じがするが、特に賑わいがある感じでもなく、寧ろ閑散としていて、落ち着いた界隈に見える。件の物件は、想像以上に大きな家であった。家の前には、アラブ人の営む八百屋があって、大根や生姜も売っている。先ほど通った道ではなく、敢えて立並ぶ集合住宅の中を通って駅へ戻ろうとすると、驚くほど目に見える光景が変化する。2人、3人単位で話し込むアラブ系の若い男たちが、総勢50人ほど居て、暗い路上から一斉にこちらに目を向けた。集合住宅の窓など割れていて、落書きと、路上に捨てられたゴミが散乱していて、荒んだ光景からは、どことなく悪臭とドラッグと思しき怪しげな臭いが鼻をついた。秋山和慶先生の逝去を知る。藤井一興先生と言い、何という一月になってしまったのか。自分たちが子供のころから育まれた音楽が、少しずつ形を失ってゆく。確かにそれは別の何かへ置き換わってゆくのだろうし、それが伝統と呼ばれるものの本質なのかもしれないが、あまりに切ない。消えていかないでほしい、どうかとどまっていてほしい、そう心の中で叫ぶ自分がいる。
トランプ大統領、厳しい不法移民強制送還政策の実施。

1月某日 ミラノ自宅
今日は1900年に建てられたという2階建ての家をU集落まで見にでかけた。初めて訪れた川べりの集落は、鄙びているというより、どこか荒んでいて、思わずたじろぐ。寂れているのともちがって、人は沢山住んでいるようだが、どこか日本の古い団地に高齢者だけがのこっていて、空いた部屋に海外からの労働者が住み着いたところを彷彿とさせた。正面の外壁はうつくしい山吹色にうつくしく塗ってあったが、家の裏側へ廻ると、非常に乱雑に打ち捨てられていておどろく。昔ながらの中規模のミラノの集合住宅の一部のみ、一部屋だけ明かりがついていて、煙突から煙があがっていた。辺りの雰囲気が荒廃していたので、住人が住んでいるのか、何者かが違法に住み着いているのか判然としない有様であった。家の裏側は塵芥が不法廃棄されていて、「無断投棄禁止」と住人が横断幕をひろげている。

日が暮れてすっかり暗くなったどこか想像上のミラノ郊外を、一人歩く夢を見た。その地域では、ラジオ放送のような地域の情報が、巨大なスピーカーから地域全般に向け、大音量で流され続けている。目の前に、金色の円いヘルメットのようなものをもつ、不審な男が道端に立っていたが、素知らぬ体をしてその脇を通り過ぎたのだが、果たして予想通り後ろをつけてくるので、勢いよく後ろを振り返ると、出し抜けに大声をあげながら黄金ヘルメット男めがけて驚かせるようにして突進した。家探しに明け暮れていると、このような夢をみるようになる。

隣で家人は「それならわかるでしょう。一番下のクラスで」、と寝言を言っているのだが、果たして彼女は何の夢をみているのだろう。一体われわれは何を夢みて生きているのか。

(1月31日 ミラノにて)

「人はどういふことがしなければゐられないだろう。」

越川道夫

昨年に比べて何週遅れなのだろうか? ようやく蝋梅が満開となり、梅もちらほらと咲き始めた。道の端の日当たりの良いところでは、オオイヌノフグリが一つ二つと花をつけ始め、この花がとにかく好きなので歩きながら蹲って眺めずにはいられない。私たちはあまり寒くなくてよかった、とか、とかく暖かな日が続くことを喜ぶのだかけれど、植物には冷え込むべき時にはちゃんと冷え込むような、そんな天候のメリハリみたいなものが必要なのかもしれない。
 
朝起きて、まず何をしますか? と問われたことがある。朝起きてとは言っても、宵っ張りになっている自分が目を覚まして起き出す頃には、何か用事でもない限りは、もう日は高々と昇っていて昼も近くなっていることが多いのだが、それでも布団から出たらまずコップ一杯の水を飲み干し、それからするのは日向ぼっこである。何を呑気な、と叱られそうだが、起きて太陽の日差しに当たらないことには、体が動かないのだから仕方がない。東京に住んでいれば御多分に洩れず、高いマンションの一室にでも住んでいない限り、日当たりはあまり良いとは言えない。私の家には猫の額ほどの庭がないではないが、やはり日当たりがいいとは言えず隣家の間と間から日が差し込む時間はごく限られているので、その時間に間に合わなければ、それでもまだ長い時間陽があたっている家の前の道に面した玄関先に、ここだって午前でも昼近くならなければ日が当たらないのだが、蹲ることになる。冬場は、布団にくるまって寝ていても、目が覚めると身体が冷え切っていることがあり、特に肩の後ろの肩甲骨の辺りに冷えがこびりついたようになっていることがあり、もちろん風呂に入れば解消はされるのだろうが、それよりもぎりぎり午前の光にじっと身を晒していると、体の奥底、鳩尾のもっとからじんわりと暖かさがたまってくる。これはガラス越しの光ではダメで、猫じゃないんだから、とか、光合成している、と笑われるのだが、こうでもしなければ一日が始まってくれないので、起きるやいないや外に出ていき、玄関先にじっと蹲ることになる。雨の日や、曇りの日には日差しを浴びるということもできず、なんとも心許ないような気持ちになってしまうのだ。
 
蹲りながら、特に何を考えるということもない。ただその身を光に晒しているのである。冬の光は、白い、というよりも、微量の黄色を含んだ色をしている。これは、起きる時間のせいでもあるかもしれない。もう斜光になっているのである。曇りの日の何もかもが白い、くすんだ白さに覆われるような日も悪くはない。その白さと言えば、全ての色がないような白さであって、陽が差していないのに、影がないために眩しいほどだ。よく晴れた日の空の青は、青というよりは、それは多分微量の赤色を含んだ、くっきりとした、どこか重さを感じさせるような青だと思う。この空の青に、どこから赤色が混ざってくるのかは分からない。
 
このところ見た演劇や、読んだ小説で悲しくなることが多く、別に肯定的なものが見たかったり読みたかったりするわけではないし、悲しいことは決してダメなことではないが、なんだかシュンとしてしまうことが多かったように思う。そのどれもが、「美しい」と思って始まった物事を、人が自ら踏み躙るように汚して終わらせしまう、という展開をとっていることが多く、なぜ人は「美しかったもの」を、それを終わらせる時にわざわざ踏み躙るように汚そうとするのだろうか、なぜ終わるとしても「美しい」ものを「美しい」もののままに終わらすことができないのかと堂々巡りのように問うことになった。劇を見終わった後に、小説を読み終わった後に、かつては美しかったものの無残な残骸が残っている。それは失われなくてはなかったのだとしても踏み躙るように汚されている。まるで「美しさ」から引きずり下ろさずにはいられなかったかのように。そうでもしなければ終わらせることができないのだ、ということは言えるかもしれない。しかし、それは結局のところ「美しい」ということを信じ切れなかったということではないか。ほんとうに「美しい」ことを希求していなかったのでないだろうか。では、「美しさ」とはなんだろう。「ほんとうに美しい」とは、どんなことなのか。それは分からないし、そんなことは到底実現できないのだとしても、それを望まず、希求しないのならば、私たちの生とは一体なんなのだろう。もしかすると私たちは今、「美しさ」ということ、「ほんとうに美しいこと」を信じることができなくなっているのかもしれない。
 
「けれども一体どうだらう。小鳥が啼かないでゐられず魚が泳がないでゐられないやうに人はどういふことがしなければゐられないだろう。」と学者アラムハラド氏に問われた時、その宮澤賢治の未完の童話の中の生徒は「人はほんたうのいゝことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるのだったが、私だったら「人はほんたうの美しいことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるだろうか。それは、「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しい」があることを信じている、ということなのかもしれない。それが現実には到達できなくとも「考へないでゐられない」ということは、それが「ある」ということを信じている、ということではないか。この場合の「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」は、自分自身にではなく、自分を含めた、それは人とは限らないが、すべて他者に対しての「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」であり、その他者の「美しさ」に感嘆することにほかならない。
 
「アブラハムドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐の火のやうに青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくて黄金の葉を持った立派な樹がぞろっとならんでさんさんと梢を鳴らしてゐるやうに思ったのです。」
 
このところ晴れの日が続いている。見上げれば、ほんの僅かに赤色を混ぜた、少しだけピンクがかったと言ってもいいけれど、青い空である。その下にいつも歩きに行く松や櫟や欅の林が見える。手元だけを見ても分からない、遠くを見なければ分からないことだってあるのだと、ふと思う。

レモン畑

芦川和樹

ザリガニは、スフィンクスの散歩が済むと
少し仮眠をとるために布を切りました
段ボール星ほし、がヌメ⋯ヌメ読む文字が
四国からトラックを操縦して来る
それを、トロフィーだと思うには、まだ
ずいぶん弱いセミで、ヘビと変わらない
脱皮だ、脱皮なのだわ。ヤマアラシ(黒点
)が雑誌の⋯
このあと燃える⋯雑誌の右肩で吠える
大正

無神経な針金が身体を隅まで、隅々まで奪
っていくそれじゃあ奪われていくのですか
、奪われていきますよ奪っていくのだから
ラジコン(四国)がノックする
来ました
短い息と、長い息があってね、いま問題
⋯なのは、鋭さと、長さが共存することだ
⋯と思ったんだけど、跳び箱が⋯
⋯跳び箱が見えますね
⋯いちどとびます

長い間、あ
(長い間)
来たんだって、いらっしゃい
ドアを開けます。氷をいれますか
(短い間)
なにか飲むでしょう、氷をいれますか

皮膚に正確な時刻、時代を表示したい
鉛筆で書いたみたいに⋯
できますかできなくても
困りません、困りません、困りませんが
ピアニッシモになるまで、波が
生き⋯ドアノブが、しずかにしている
パセリの葉陰で
眠った
それで梯子を
支える、メッキの⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯(石鹸

、ボンド。木工用だわ、くうきを入れ換える木工用のニジマスつまりこのよのすべての汚れを拭う、よご、爽やかなレモン。の思い出。みたいなどの目にも明日あす、がかがやいて歯ブラシなどもシャカシャカ小躍りする。涼しいレモンよ、雑誌を燃やすのはいつ?)

サザンカの家

北村周一

メジロ二羽追いつ追われつ路地を抜け飛び込むさきの花ツバキかな
吹き溜まる落葉のかげに黄緑のまろみがひとつメジロのごとし

飛ぶ鳥の痕ありありとガラス扉に残りたりおり羽をひろげて
キジバトのむくろをひとつ葬ればひとこえ鳴いて飛び立つ一羽

今朝もまたメジロ来たりて餌台に糞を残せりコムラサキいろの
山茶花の蜜吸いにくる小鳥らの動きとらえて枝葉はゆるる

さざんかの花もそろそろ終わりねと垣根を白きマスクは行くも
鵜野森の樹々のあわいに蠢くはアオバズクかも 背の闇に聞く

庭の木の小枝のごとも擬態ありてナナフシあわれフンを落としぬ
スズメ二羽繋がりしままに降りきて窓にあたって撥ねて離れず

三つ四つ鳴くたび五つ六つ返すカラスの声も春立ちにけり
ひらりひらり羽毛舞いおち見上げれば電柱のさきカラスは何を啄ばむ

襲われてウズラ飛び出す塀の内 残るひとつはすでにクビなし
木洩れ日のまだら踏みたる足音にしみいる昨夜のあたたかき雨

はじめての秋を想えりサザンカの花咲きそめし古淵の家の
あさぼらけ夢も絵のうちねむりもや苦しいときの「優しい地獄」

睦月とは皆むつみあうひとつきにして楽しみに待つ夕暮れのひと
ゆびに捲れば二月のひかり逆さ不二 カモメ綜合法律事務所

私はニラレバ定食が食べたかった

篠原恒木

ツマに「これから会社を出て帰ります」と電話したら、
「今日は作りたくないから何か食べてきて」
と言われた。よくあることだ。それはいい。何の不満もない。この時刻からわざわざ私の分だけ夕食を料理するのは面倒に違いない。

私は帰宅途中の電車の中で考えていた。
「何を食べて帰ろう」
ラーメンという気分ではない。そば、もしくはうどんか。いや、今夜は麺類ではないと私の胃袋が訴えていた。白めしだ。そう、今夜の私は白めしを食べたい。そうなると問題はおかずだ。トンカツか。いいかもしれない。だが、私がこれから降りようとしている駅の付近で美味しいトンカツを供する店はない。ならばどうする。

ひらめいたのはニラレバ炒めだった。白めしに合う。考えてみれば私はこの数年間、ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べていないという事実に気付いた。そろそろ食べておかないといけない。これからの人生で私はあと何回ニラレバ炒めをおかずに白めしを食べるのだろう。ひょっとしたら十回以内で終わってしまうかもしれない。そう考えると一抹の寂しさと同時に、ぜひとも、必ず、是が非でも、石にかじりついても、絶対的に今日はニラレバ炒めにごはんしかないという強い決意が芽生えた。だってあと残り十回だとして、今日食べたらあと九回だよ。猛烈にニラレバ炒めが愛おしく思えてきた。よし、いとしのニラレバ炒め定食を食べよう。

自宅の最寄り駅に着いた。私は電車を降りたが、足が止まった。「ニラレバ炒め定食をどこで食べればいいか」という大きな問題に結論を下していなかったのだ。この問題はレバだけに肝心とニラむべきだ。うまい、座布団十枚。さあ、どこで食おう。地元の駅周辺で旨いニラレバ炒め定食を出してくれる店はどこだ。

ここで私は気付いてしまった。私は地元でニラレバ炒め定食をこれまでただの一度も食べていなかったのだ。判断材料が皆無なのだ。しかし我が欲望はニラレバ炒め定食一択に染まり、いますぐ、可及的速やかに胃袋へ収めたい状態と化している。アズ・スーン・アズ・ポッシブル、略してASAP、アサップだ。

話は横道にそれるが、この「アサップ」という言葉、なんとかならないのかね。
「なるはや、アサップで」
などと言われると、こいつはアホかと思ってしまう。最初に耳にしたときは「アサッテ」だと解釈してしまったものだ。だから私は嫌味を込めて、
「アサップは無理です。シアサップでしたらなんとか仕上げます」
と返すことにしているが、アホには私のハイ・ブラウなジョークは通じないことが多い。

いけない、ニラレバ炒め定食の話だった。どうする。十分ほど歩けば個人経営の昭和的な町中華の店があることを私は知っていた。タンメンを食べたことがあるが美味しかった。あそこのニラレバ炒め定食なら間違いはないだろう。だが、あの町中華に行くと、自宅までの道のりが遠くなる。時刻は午後八時を回っていた。あの町中華は八時には閉店してしまうのではなかったっけ。いや、九時までは営業していたか。そのへんが曖昧だった。いざ遠回りして暖簾がしまわれていたら、いまの私に駅周辺まで戻る気力があるだろうか。ニラレバ炒め定食のためだけに。

焦った私は急速に店選びが面倒になり、駅からいちばん近い中華料理チェーン店へと歩を進めた。どこでもお目にかかる大手のチェーン店だ。入店したことはないけれど、おそろしく不味い料理は提供しないだろう。可もなく不可もなく、というやつだ。「カモなくフカもなく」なので、北京ダックもフカヒレもない、という店だろうが、そんな高級中華料理は今の私には要らない。ニラレバ炒め定食さえあればいいのだ。

「お一人様ですかぁ」
「はい、一人です」
「空いてる席にお座りくださーい」
元気よく女性店員に言われた私はテーブル席に座った。さあ、あとは彼女が水の入ったコップを持ってきてくれたら、
「ニラレバ炒め定食をください」
と、きっぱり言えばいいだけだ。どうせこのようなチェーン店のマニュアルでは、
「ニラレバ炒め定食ですね。以上でよろしかったでしょうか」
と言われるのだろうけど、以上でよろしい。六十四歳です。以上でじゅうぶんです。餃子も肉団子も春巻も要りません。ニラレバ炒め定食だけでお腹いっぱいです。

しかし、だ。テーブルにはタッチパネルのタブレットが置いてあった。画面を見ると、
「タッチしてご注文ください」
の文字が映っている。嫌な予感がした。私、こういうの苦手。店員に直接注文するほうがどれだけ楽なことか。人件費削減、働き方改革など大手チェーン店にも言い分があるだろう。でも苦手なものは苦手。操作に手間取るのだ。

おそるおそる画面をタッチすると、最初の画面は「人数」だった。さっき「お一人様ですか」と確認を求められて「はい」と言ったのになぁ。
釈然としないまま「1人」をタッチする。次の画面は「メニュー」だったが、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」などと細分化されていた。私は早くも「コノー」と、タンマ君化してしまった。いや、落ち着け。私が目指すのは「ニラレバ炒め定食」だから、必然的に「定食」をタッチすればいい。

画面は「定食」のラインナップに切り替わった。「やでうでしや」とまだタンマ君から解脱していない私だったが、いくら探してもニラレバ炒め定食は「定食」のカテゴリーには存在していなかった。そんな馬鹿な。

『新橋駅前のサラリーマン百人に訊きました。「ニラレバ炒め」という文字の次に続く漢字二文字は何?』

というアンケートをしたならば八十九人が「定食」と答えるだろう。残りのうち六人は「蕎麦」、三人は「内閣」、二人は「上納」だと思う。「内閣」「上納」と答えたサラリーマンはウケ狙いか、もしくはただの酔っ払いだ。

さあ、困った。ニラレバ炒め定食はどこに隠されているのだ。私は「定食」を諦め、「セット」の箇所をタッチして次画面に進んだが、ここでも「ニラレバ炒め」と「ライス」のセットは発見できなかった。なぜだ、なんでだ、どうしてじゃ。「グヤジー」と、ますますタンマ君になった私は、「前画面に戻る」をタッチして、「セット」「定食」「麺類」「飯類」「逸品」が並んでいる画面に、つまりふりだしに戻った。もしかして「飯類」なのか、と半信半疑でタッチしたが、炒飯やら天津飯やらがむなしく並んでいるだけだった。

ここまで五分経過。入力したのは「人数・1人」だけという、絶望的状況ではないか。私は力なく「逸品」をタッチしてみた。消去法で考えればもうそれしかない。
あった。あったよ。「回鍋肉」「海老のチリソース」「酢豚」などのなかにありましたよ。だけどあったのは「レバニラ炒め」という単品だった。いや、私が食べたいのは「ニラレバ炒め定食」であって、レバニラ炒めの単品ではないのだよ。白めしはどうした。レバニラ炒めだけ食べるなんて考えられない。あくまでごはんと一緒。そんでもって炒飯についてくるあのスープも脇に置きたい。私はあのスープを味わいたいがために炒飯を頼むことがあるくらい大好きなのだ。あのスープと白めしがあってこその定食ですよ。もうこの際、
「私が食べたいのはあくまでニラレバであって、断じてレバニラではない」
という些末なことはどうでもいい。そちらが「ニラレバ」ではなく「レバニラ」と表記するのなら、疑問点の鉛筆は入れません。私は校閲部か。

そうか、と私は思い当たった。この「逸品」のなかで「レバニラ炒め」をキープして、それから「ライス」、そして「スープ」をそれぞれ単品でオーダーすれば「レバニラ炒め定食」の完成ではないか。よし、レバニラ炒め単品のタッチはひとまず置いといて、まずはライスとスープを探そう。それにしても世話の焼けるタブレットだ。

ところが「ライス」も「スープ」もまったく見当たらない。何度「前画面に戻る」をタッチしたことか。ついにはタッチしすぎて画面がGoogleのトップ・ページになってしまった。信じられなかった。これは完全に中華料理店の管轄外の画面ではないか。農林水産省から一気に公正取引委員会へと管轄が移ったようなものだ。大袈裟か。

私はどこで間違えてしまったのか。

この疑問はすなわち我が人生に通じる。当てはまる。人生をやり直すことができるなら、私はいつのどこへ戻れば現在のような状況に陥らずに済んだのか。いくつか心当たりがないわけではないが、ひとつだけでいいから誰か教えてほしい。

いや、喫緊の問題は我が人生の十字路探しではない。どこをタッチすればGoogleの画面から店のメニュー画面に切り替わるのだ。レバニラ炒めはおろか、店の最初の画面すら映っていない。もう完全にお手上げだ。「オガーヂャーン」と、私は叫んだ。タンマ君純度百パーセントだ。いまこそアサップで画面を復旧しなければならない。シアサップではダメだ。

しかしながら、事態は私一人の能力ではもはやどうすることできない状況へと追い込まれてしまった。私は先ほどの女性店員におそるおそる声をかけた。
「あのぉ、すみません」
「ハイ」
「画面がこうなっちゃったんですけど」

よくない。じつによくない言い方だ。「こうなっちゃった」とは「私がしたわけではなく、画面が勝手にこうなっちゃった」というニュアンスではないか。「秘書が勝手にやったこと」「私は関与していない」「秘書の事務的ミス、単なる記載漏れだ」「文春の記事で初めて知った」とホザいているヒトビトと何ら変わりない。正しくは、
「私の操作ミスで画面をこのような状況にしてしまいました。お店の皆様、他のお客様、ひいては国民の皆様に重大な政治不信を招いてしまったことは謹んでお詫びを申し述べる所存でございます」
と言わなければいけなかったのだ。

だが、女性店員は「あー」と言って、すぐお店のトップ・ページに戻してくれた。どこをタッチしたのか目にも止まらぬ速さだった。だが、もう私には「人数・1人」から始める気力は残っていなかった。
「あのぉ、すみません。ニラレバ炒め定食を食べたいのですが、レバニラ炒め単品は見つかったのですが、それにライスとスープをつけたいのですが」
と、全面的に「ですが」だらけの構文を口走ってしまった。
「あー」
女性店員は素早く人数1名をクリアして、「逸品」をタッチし、「レバニラ炒め」の部分をさらにタッチした。

するとどうだろう。単品だったはずの「レバニラ炒め」は次画面に進み、「レバニラ炒め単品」「レバニラ炒め・ライスつき」「レバニラ炒め・ライス・スープつき」と三分割された画面に切り替わったではないか。
「ごはんとスープをおつけしますか?」
「は、はい。お願いします」
女性店員は「レバニラ炒め・ライス・スープつき」をタッチして言った。
「以上でよろしかったでしょうか」

泣く女

植松眞人

 女が泣いている。バス停の道路を挟んで向こう側。二人がけのベンチが置いてあるだけの小さな公園で、女が泣いている。若くはない。老けてもない。自分でまだ若いと言い張れば通りそうだけれど、たぶん若くはない。そんな女が泣いている。人の良さそうな女には見えない。悪い奴でもなさそうだけれど、良い人には見えない。悪いことはやらない気はするが、人の悪口くらいは言うだろうし、嫉妬深い感じはする。どうしてそう思うのかと、バスを待ちながらじっと見ていると、口元が歪んでいるからだと気付いた。
 泣いているけれど、きっと自分に都合の悪いことが起きたのだろう。それでも、初対面の男にばれないくらいには、都合のいい言葉を巧く並べそうな気がする。泣いている顔の涙を軽く握った手の甲ではなく、手のひらのふっくらとした部分で拭う様子がわざとらしい。こういうタイプの女は都合の悪いことを聞かれたら、見事なくらい自然に泣き声を大きくして、質問を諦めさせるくらいのことは朝飯前である。それから、涙が本当に出ているかどうか、ときどき確かめながら、相手が諦めるのを待ち、諦めかけたと悟ったら、よろよろと立ち上がり、誰かが手を貸してくれるのを待つのだろう。もちろん、誰かが手を貸すはずだ。だって、女は誰かが手を貸すまで、ずっとよろよろしたままでそこにいるのだから。
 バスが来た。女の目がバスを追う。私はバスに乗り込む。後部の窓際の座席に座ると、ベンチに座っている女を道路越しに見下ろす形になる。女はまだ泣いている。バスが走り出す。女は立ち上がる。バスが遠ざかる。女はまたベンチに座り、次のバスを待つ。

吾輩は苦手である 7 

増井淳

 十数年前のこと。
 当時の職場は来客が多く、その日も何人かお客さんがいらした。それで、コーヒーを出したのだが、一人の方に「このコーヒーを作るのに、どれだけのヒトがひどい環境の元で苦労して栽培しているのかも知らないで、すすめようとしているのか」と詰問されたことがあった。
 吾輩はほとんどコーヒーを飲まない。栽培事情にも詳しくはない。だから、その場ではことばを飲み込むことしかできなかったが、今でもその時のことをいろいろ考えてしまう。
 たぶん、この方の言っていることは正しいのだろう。
 
 あちこちで戦争が起こると、すぐに「戦争反対」を叫ぶ人がいる。
 もちろん、吾輩も人を殺したくないし、殺されたくもない。
 ニンゲンとして「戦争は悪だ」と思う。が、「戦争反対」を言うことが免罪符になるとは考えない。
 ニンゲンは戦争をしてきたし、今もこれからも戦争をする可能性がある。そのことを忘れることはできない。

 作家の古山高麗雄に「日本好戦詩集」という短編がある。
 『ガダルカナル戦詩集』を書いた吉田嘉七が、古山あてに「日本好戦詩集」と題して十五編の詩を送ってきたという。
 この短編の中で古山は「反戦は好戦と共存し、しばしば反戦は好戦であったりするのではあるまいか」と書いている。
 吾輩はなぜかこの短編が好きで何度も読んでいるのだが、古山や吉田の言わんとしたことを受け止められているかどうかわからない。
 理解力がとぼしいのだろうが、ひとつ言えるのは、吾輩は「正義の人」が苦手であるということだ。

 コーヒー栽培の過酷さを言うにせよ、戦争反対を言うにせよ、それに完全に同意するという気持ちになれない。
 どうしてそうなのだろうと何度も考えている時に、鶴見俊輔さんの次のような文章を思い出した。

 「まじめな人は、自分が純一の状態で生きたいために、自分の中にせめぎあういくつもの欲求をそのままに見ることができない。一つの方向でおしきれなくなると、もう一つの別の方向にまっすぐ進もうとしがちである。それにくわえて、地上の何かの権威を、絶対的なものとして現実化しようとする」(『私の地平線の上に』)

 「旧約の預言者たちから、マルクスとレーニンまでまっすぐつづいている、地上のもっとも抑圧された人の立場から現在の秩序を批判し、これをくつがえそうとする努力に脱帽するし、その力のはたらく方向に自分をおきたいと思い、そのさまたげになりたくないと思うのだが、自分が正しいとしてつかみとった方針に反対するものは完全に抹殺するという思想構造に同調することはできない。自分にたいするうたがいが出てくる場所がそこにないように感じる。自分に対する批判者に、分があるかもしれないといううたがいのはたらく場がない」(『家の中の広場』)

 何か行動を起こすとしても、その背景にはさまざまな欲求や可能性があることを忘れたくない。
 正義や真理を自分がつかんだとしても、それによって自分自身を正当化することはできない。
 なぜ吾輩は「正義の人」が苦手なのか、そのワケが鶴見さんの文章を読むとわかるような気がする。
 

アパート日記 2025年1月

吉良幸子

1/1 元旦
水が滴るお正月。年末からアパート老朽化による水漏れが続いたまま、年末年始なんて無視で天井から水が落ち続ける。夜中に台所の床がべちゃべちゃに濡れてるのを発見。朝方まで公子さんと水受けいっぱい置いたり、段ボールやタオルを敷いたり。とにかくこの寒い中で床が濡れっぱなしやと身体の芯から冷えて困る。
お昼過ぎ、太呂さんちにお正月の集まりに行く。公子さんは水騒動でぐったりのため寝正月、私が代わりに大事なお年玉を届けた。

1/3 金
映画はじめは東映時代劇!今年の一本目は『旗本退屈男』。市川歌右衛門の映画出演300本目の記念作品で、脇の役までゾッとするほどスタアばっかし。こんなおもろい映画あったんか…!とハラハラドキドキ、手に汗握りながら観て、面白すぎてDVDを買って帰ってしまった。こんなええ映画で幕開けできるなんて、2025年の私の映画ラインナップは明るい。

1/4 土
絵描きの友、キューちゃんちへたこ焼きパーティーをしに行く。彼女は吉原近辺に住んでんやけど、大河の影響もあっていつもより人が多い。鷲神社の前にものすご大きい張り子の熊手があって、張り子したい私にとっては大きな刺激になった。…まぁ、張り子しよと思て取ってあった新聞たちは水騒動で全部使うてしもたんやけど…。家の水漏れは止まることなく、むしろ範囲も量もどんどん増えとる。大家も不動産屋も見にも来んし、正月休みか知らんけど連絡すらない。

1/5 日
友を連れて『巳年の兼太郎』へ。同い年の兼太郎さんの落語会で今年の落語はスタート。ゲストに呼んでた萬橘師匠が軽く話して場の空気を全部持っていっておった。会の後にちょっと一杯。一緒に行ったうちひとりは立体も絵もやってて、出稼ぎ先の展示でお世話になってるし、制作の話、出稼ぎ先の話などなど…帰り道、寒空に酒も回ってぐるぐる考えた。

1/13 祝
お昼から『扇遊・扇辰兄弟会』へ。お二人とも大好きな私にとっては最高な会。隅から隅までおもろかった。夕方に梅家でおいなりさんとぜんざいを食べる。むっちゃおいしい…と感動し、公子さんにも巻物とおいなりさんを買って帰った。
そして帰宅して腹立つことをひとつ聞く。アパートの二階に住んではるお姉さん家族を一階の空き部屋に移し、水の元栓を閉めて水漏れを止めようという話。その引越しが明日の予定やった。それがこちらになんの連絡もなしに「1週間延びました」やて。丹さんが不動産屋に行って発覚した。毎日45L入る大きいタライで水受けて、一晩も待たんと溢れるくらい水漏っとるんや。いっぺん見に来い、そして一晩でもこの環境で寝てみぃ!!

1/17 金
家におると寒いし永遠と水が落ちる音がして気が滅入る。お日さんが出てるうちに外へ出な頭おかしなりそうで、急遽民芸品市へ行ってみる。東北の色んな民芸品を出してはって、福島のダルマをひとつ買った。振るとカラカラと音が鳴って、子どもが手にして遊べるようになっとる。色使いと表情が素敵や。
最近アパートではスリッパくらいじゃ靴下が濡れるようになって、家の中でも靴を履くようになった。常に雨が降るような状況になり、ようやく不動産屋が重い腰を上げた。というか、丹さんが怒って動画や写真を持って行ってくれたからこそ、どんな悲惨か通じたのやしほんまに助かった。私らはもう怒る元気もないくらい疲れておる。
こんだけ水が落ちてくるということは、天井裏に相当な水が溜まっているらしい。その重さで天井が落ちるかもというとこまで話が深刻化した。それでやっと台所や洗面所、風呂場が使えへんのを保証してくれることになった。銭湯に行くのも大家持ちになるらしい。いつもの銭湯に行って、番台のおばちゃんに家の惨事を説明する。いつも無愛想なおばちゃんやけど、こんな時には親身になってくれて優しかった。むちゃくちゃありがたい。優しさが染み入った。

1/18 土
朝っぱらからソラちゃんが喧嘩する声が響き渡った。慌てて声のする方へ行くと、痩せた見慣れぬ顔の猫と睨み合ってる。どう見ても負けそうなその子を逃して、うちの大きなツートン猫を抱っこで回収する。逃げる前にチラッと私の方を見て、ここは任してもええ?って顔の猫と目を合わせた時、なんか心が通じた気がした。
さて、アパート水騒動。引越し先が見つかったら移る算段やったんやけど、そんな悠長なこと言うてられへん事態になってきた。台所の真ん中、水場以外のとこからも水が落ちてくるようになり、とにかくこの部屋から一刻も早く出なあかんらしい。ということで急遽、同じ町内にある、同じ大家のアパートに移ることになった。そこも2年以内に取り壊すらしいけど、とにかく水びたしじゃない部屋に引越して、ゆっくり次の部屋を探しましょうということらしい。冷えに冷えて公子さんは体調崩しまくり、私も雨音が夢にまで出てくるようになってきて、早よ移らなほんまにおかしなりそうや。

1/20 月
お昼過ぎ、引越しの見積もりに業者のおっちゃんがやってきた。陽気な方やねんけど部屋に入るなり水にびっくり。長年この仕事やってるけど、こんな酷いの初めて見ました!!と言うてはった。こんなとこで約1ヶ月もおる私らってすごいわ。最短でいつ引っ越せるか聞いたら、最初は悩んではったんやけど、話してる間もポツリポツリの雨音が耳についたのか急に、こんなとこにいたらノイローゼになります!明日梱包に来て今週中に引っ越しましょう!!と言うてくれはった。ありがたや~。

1/21 火
朝から友と太田記念美術館でやってる『江戸メシ』の展示を観にゆく。大河ドラマのおかげで開館前から長蛇の列が。モネの展示に来たんかと錯覚した。しかし浮世絵ってほんまおもろいわ。1枚の絵やのにむっちゃ動画的で、細部まで色んな物語が詰まってておもろい。人と一緒に行ってああだこうだ想像して言いあえる楽しさもある。今回は食べ物の絵ばっかしで観てる最中にお腹がぐーぐーなった。
そんな息抜きをして家へ帰ると、引越し屋さんの梱包が終わって段ボールがうず高く並んでおった。すんごい量。このアパート来てからむっちゃ本買うたし着物ももらったしな…あ~荷物減らしたい!

1/22 水
さくらさんの初・商業誌掲載漫画の発売日!駅前のコンビニですぐ見つけられた。商業誌になっても勿論、完全手描きされておる。むちゃくちゃ優しい画面で物語にぴったしやった。墨ってええなぁ。読んでみたら…むむ、これはうちにおるソラちゃんのことですか?!ってな内容で笑った。

1/23 木
いよいよ引越しの日。ソラちゃんは数日前から異変に気付いている模様。心配そうな顔で一挙一動を追う。公子さんが外に行こうもんなら、置いていかんとって!とばかりに私のとこへ様子を伺いに来る。置いていく訳ないやんかいさ~と何度も言うねんけど、どうしても心配らしい。
予定より早めに引越し屋さんが到着。靴のままで今日はええんです!と土足で入ってもらうと、水場を見てみなさん、うわぁ~と声を上げはった。洗濯機は濡れながら運び出してもらわないかんで申し訳ない。荷物を引越し先に持っていってもらった後、夕方ソラちゃんを迎えに行く。引越し先は1キロくらいしか離れてないからゲージに入れて公子さんと声かけながら歩いて運ぶ。ソラちゃん専用の駕籠かきになったみたい。

1/27 月
荷ほどきでぐったり疲れ、未だ段ボールだらけの家で暮らす。それでも家の中でのポツリポツリの雨音はないし、何よりお風呂がバランス釜じゃないのと、ボタンひとつで追い焚き機能までついておる!なんて画期的!しかし一難去ってまた一難、本日よりソラちゃんの脱走劇のはじまりはじまり…。
昨日の21時くらいに家を出て、今日は昼過ぎまで戻らん。近所を探してるけどおらんし、なんしか猫が入りそうな場所がいっぱいある。丹さんがやってきて、目の色変えて探しに出てくれはった。まさかね…と、一応元の水漏れアパートへ見に行ったら、建て付け悪くて閉まらん公子さんの部屋のとこから入って元の家におったらしい!忠犬ハチ公か!自分の足で来たなんて頭良すぎやんかいさ!またゲージに入れて、歩いて新しい住処まで運ぶ。引越しの時よりにゃぁにゃぁないて、新しいとこに戻されるのが不服らしい。

1/28 火
22時、またソラちゃんが帰ってこない。昨日と同じ、魔の21時に家を出て、呼びに行ってもなんとなく近場にいない気がする…まさか?!でも、小豆島生まれのおてんばソラちゃんなら…という賭けでゲージを持って元のアパートへ向かう。でっかいソラちゃんを抱えて歩くのは重いから、今回は太呂さんに車で一緒に来てもらった。庭の方から入ってライトで照らすと、庭にまだ置いてたちぃちゃい木の椅子の上にぽつんと座って待っておる。完全に帰り道覚えてもうてるやん!とりあえずソラちゃん連れて太呂さんと帰る。どうしたらええんやろか…とりあえず今夜は家から絶対出さんぞと家の中で閉じ込めたら、朝までずっとニャァニャァ言いっぱなしやった。嗚呼眠たい…。

1/29 水
太呂さんがソラちゃんの首輪につけるGPSを買うてくれはった。軽いけどちょっと大きい丸いタグで、取り付けても本人は全然気にせぇへんみたい。そんな事より俺に自由を!とにゃこにゃこ訴え続ける。首輪をなくさん限りは私の携帯で逐一どこにいるか確認できる。これでちょっとは安心材料が増えた。

1/30 木
夜中はソラちゃんの声でここ数日全然眠れん。公子さんは顔踏まれたり、私よりももっと直接訴えがいく過酷な状況で、寝るのはもっぱらお昼間になってしもた。今日は出稼ぎ、通勤電車でぐっすり寝ながら出勤する。お昼過ぎに公子さんから電話が、今ソラちゃんどこにいるか分かる?と。早速GPSが役に立った。でっかい地域猫に追いかけられたのか、アパートに行く道でもない、川の近くにおるみたい。私はまだ職場やったからとりあえず現在地の画像を公子さんに送る。丹さんも加勢してホシを確保したらしい。丹さんから洗濯ネットに入れられたソラちゃんの画像が送られてきて、帰りの電車で一旦ほっとする。

1/31 金
前のアパートへ行くのが癖になっとるソラ氏。夜中は車も少ないけど、元のアパートの方が先に取り壊される予定やし、あんまりそっちへ行ってほしくない。近場で遊ぶのに慣れてほしい。公子さんはソラちゃんと近場を散歩して、新しい家に帰る練習を一緒にしてはる。しかし、脚力も好奇心も旺盛な島の猫は、またしても夜更けに前のアパートへ向かうのであった!GPS付けとるからどこにおるかは分かっとる。自分で新しいアパートに戻ってくるのかちょっと実験。お昼間の動きを見てても、元の家の近くをうろうろ遊んでるだけ。結局私たちがしびれを切らして丹さんと夕方迎えに行った。昨日の脱走劇で丹さんにむっちゃ怒られたのが効いたのか、丹さんの声を聞いて隠れて出てこん。1時間待って確保、最近こんなんばっかしして部屋は一向に片付かん。そしてソラちゃん騒動はまだまだ続く…。

むもーままめ(46)ひと月、の巻

工藤あかね

怒り狂うおじいさん リピート リピートに次ぐリピート あさっての話 リピートにつぐリピート スタバの飲みかけ 意識高い系 電車でこぼす夢 混んでいる 開いたパソコン 誰も隣に座らない 私立小学生 宿題わすれた 通勤列車 つぶれている 自家製おにぎり アルミホイル ほんの一口 水筒 売り切れ 自販機 空き缶の山 焼肉店 空のタクシー 運転手の不在 ストロングゼロ ポテトチップス 油のついた携帯 読みかけの本 しおりをなくす 昔の映画 居酒屋の昼食 ドラえもんの声 聞き覚えがない 曖昧な予定 返答に困る リピートに次ぐリピート 歯列矯正 笑顔が得意 ほんの少し 空腹 期待はずれ 白い蕎麦 ダンボール 中身を忘れる 雨粒 待っている 詩情 バスのボタン もう遅い 手帳 心ばかり 暴れる靴 鮨 黒い米粒 目線 昼酒 雑踏 いやいや起きる ショッキングピンクの服 割り込み 芸なし ホームレス 穴が空いた 片方の靴下 沈黙 くしゃみ 爆発 相談 解決 席を移す 心を病む 恢復期 ピアニスト 発熱 腰を抜かす 安い酒 アメリカ資本 保険 アイヴズ 衝突 冷たい川 陥没 我慢 絶望 浴室 綻び 土木工事 タイムリミット 全面的見直し リピート リピートに次ぐリピート 虚無 崩れる 頭の重さ 沈む 講演会 荒れる ハンドクリーム 正す 居住まい カチャカチャ カチャカチャ カチャカチャ リピートに次ぐリピート 送る 記憶を

『アフリカ』を続けて(44)

下窪俊哉

 年が明けて、『夢の中で目を覚まして -『アフリカ』を続けて①』が印刷・製本されて完成して、ゆっくり、ゆっくり売っている。よく話していることだが、私は何かを残すために本をつくっているので、別にたくさん売れなくてもよいのだが、印刷・製本にかかった費用を回収できるくらいまでは早く売らないと後が大変だ。現時点では、それまであと少し、といったところだ。つくるのは簡単だとしても、売るのは相変わらず難しい。しかし、書店営業をしない、即売会に出ない、イベントに出ないというアフリカキカクの三原則(?)を守りながら、1ヶ月もたたずして「あと少し」まで売っているというのは、じつは、まあまあよくやっている方なのだ。
 加えて、いろんな人の文章が載っている『アフリカ』と違って、私の本は人気がないことで有名なので、心配する度合いは他の本より大きい。以前、そんな話をしていたら、ある人が「下窪さんのファンは奥ゆかしいから、みんな少し離れた柱の陰からそっと応援しているんですよ」なんて言っていた。「ファンはその人に似る」とも言うから、もしかしたら自分がそういう人なのかもしれない。否定はできない。仕方がないので、その人たちが少しでも柱の陰から出てきてくれますように、とアフリカの神様にでもお願いしておこう。
 じつを言うと、本を買わなくても、この「水牛のように」で大半を読めてしまうのだ。でも、本をつくるということの中にはマジックがあり、熱心な読者のひとりであるSさんによると「水牛の連載は全部読んでいたつもりだったけど、本になって読むと、初めてのような印象」とのこと。2024年3月の「印象的な手紙」のあと、2004年・夏の「徳山駅から西へ」が続くのを「驚くほど、ひとつながりに読めてしまう」とも言っていた。「同じ人が書いているのだから当たり前かな、と考えそうになるけど、それは当たり前のことだろうか?」
 本の中に潜んでいる魔法がどんなものかは、本を手に取り、じっくり読んで付き合ってみないことにはわからない。
 とはいえ、本という器に収めてしまえば、いますぐに読まれなくても、遠い未来の読者に届いた日にも、その魔法の威力は薄れていないだろうと思う。

 さて、晩秋に出るはずだった『アフリカ』次号を後回しにしてしまったが、あともう少し後回しにさせてもらって、また次の、小さな本を制作中だ。

 この話は、昨年10月のある朝に始まる。夢の中で、どこかのスーパーに寄ったら、(この連載ではお馴染みの)守安涼くんとバッタリ会った。夢に出てくるなんて珍しい。仕事関係の人たちと一緒のようだったが、少し立ち話をして、何やら自分は「先ほど思いついたんだけど、シングル盤のような本をつくってみたい」と話していた。そうなると例によって、一緒にいた誰かが「だめだそんなの!」みたいなことを言ったのだが、守安的には「いいね」とのこと。それなら、守安涼の本からやってみようか、という話になったところで目が覚めた。
 起き上がって、うん、いいかもしれないな、と思った。「シングル盤のような本」がどんな本なのかは、よくわからないのだが、つまりレコードの譬えで12インチではなく7インチ盤ということを言いたいのだろうから、それを本に置き換えると、薄い文庫本かな。「本にする」というと、ある程度の分量があり、「本にまとめる」というふうに考えてしまいがちだけれど、そうではなくて、レコードで言うとシングル盤とかコンパクト盤というような感じでつくりたい、ということを夢の中の自分は考えたのだろうと思った。
 そんな感じで、守安涼の本をつくろう、ということらしい。夢の中の話だけれど。
 さっそくメールで、やってみない? と相談したら、ちょっと驚きつつも「ぜひお願いいたします。作品のセレクトはお任せします」とのこと。
 彼はじつは私が書き始める前から小説を書いていたはずだが、しかし雑誌づくりの活動にずっと付き合ってくれているわりには、あまり書いていない。発掘作業の結果、

 斜塔
 時計塔
 給水塔
 管制塔
 なつの蝶

 という5編がピック・アップされた。『寄港』に載っている3篇と、初期『アフリカ』に載っている2篇だ。中には書いた本人が「ぜんぜん何も覚えてない」作品もあったようだ。20代の、若き日の作品集ということになる。どの作品も、たいへん短い。とくに「斜塔」「時計塔」は殆ど詩のようなものかもしれない。
 それから、初期『アフリカ』に載っている雑記をふたつ、ラインナップに加えることにした。

 遠い砂漠
 夜の航海

 このうち「遠い砂漠」は、雑記ではなく小説かもしれないが、小説になる以前のもの、というふうに私は受け取っていた。「夜の航海」だけは、作者の(書かれた当時の)素直な身辺雑記と言える。
 これらの文章を久しぶりに読んでみて、何とまあ表現に凝っていること! と思った。彼にとって小説とは例えば、風景をいかに見るか、感じるか、ということなんだろう。若い頃にはそんなふうな議論をしていたかもしれない。懐かしいような気もする。しかし『アフリカ』最新号(vol.36)に久しぶりの小説「センダンの向こうに」が送られてきた日、その精神がいまもしっかり生きて、続いていることに私は驚いたのだった。いまの彼の文章に比べると、当時のものは力が入りすぎている。でも力んで書いているような文章の魅力もある。それは、上手くなればなるほど忘れてしまうことではないか。それをちゃんと残しておこう、いつでも読み返せるように、と思った。
 今回、初めて気づいたのは、一人称の「わたし」の中に潜んでいるだろう「少年」への眼差しだ。彼は『アフリカ』を始めた頃にはもう父親になっており、自分の中にある「少年」性は一気に薄れていたろうと思う。でも心の中には、ちゃんといる。それを作品の中に書き留めてあるのを確認して、私は何だかちょっとホッとした。

 本のタイトルは『夜の航海』。企画段階で私が仮にそう呼んでいたのが、そのまま採用になった。「夜の航海」とは、ユング心理学で言う「人生における困難な時期」のことだそうだ。この本には何か人生に直接役立つことが書いてあるわけではなさそうだが、「困難な時期」にふと手にして、読むと、仄かな慰めくらいにはなるだろう。ふざけているようなことを言ったり書いたりするのが好きな作者なので、思わず笑ってしまうようなフレーズともくり返し出合える。

 その本を2月に完成させて、3月2日に岡山市で行われる「おかやまZINEスタジアム」に守安くんの屋号「Huddle」で出店することになっている。『アフリカ』最新号と近年のバックナンバー、『夢の中で目を覚まして』をはじめアフリカキカクの本をいろいろと持って行く予定だけれど、「アフリカキカク」で出るわけではないので、三原則を破ってはいない。いや、少し破っているかもしれない。そんな原則は、たまに思わず破ってしまうくらいでいい。

苦い草と狼の毛皮

管啓次郎

苦い草が生えている山に行って
この草をとってきたと
ルネが二枚の草の葉をくれた
おみやげだよ
雲南省かどこかの山林に行っていたらしい
葉は法蓮草くらいの大きさで
やや茶色に変色しているところもあって
あまりみずみずしいとはいえないが
そのまま食べられないほどでもない
何だろう、この葉は
オオタニワタリでもないし
これはherbaceousな植物なんだ
名前は・・・・・・と聞き取れない名を告げられた
名前はたいがい一度では聞き取れない
なかなかよい香りがする
ローズマリーとミントを浸した水を
苔くさい池から切り出した氷を砕いたものの上に
注いで飲んだらこんな香りがするかも
葉を噛むとサクッと深い歯応えがあって
悪くない
ただし苦い、苦みが残る
苦味の本質は過去の改訂、未来への期待
とぼくはまるで無関係なことを考える
気をつけて、とルネがいう
いきなり来るよ
ルネは中国系のタヒチ人で学生時代のともだち
ひさしぶりに東京に訪ねてきてくれた
その場で一枚の葉を食べてしまった
するといきなりはじまったのだ
あのころ、あるところで
いや、それは東京なのだが
凧揚げが流行っていた
青山通りに都バスの駐車場に
なっている空き地があり
小学生でもないのに
ぼくらはそこでよく凧揚げをした
ビル風を集めて
風は強く吹き上げる
蝙蝠のかたちをした凧はぐんぐん上がり
青空の中の小さな黒点になる
目を預けるのよと
知らないオバさまが助言をくれた
凧に目を預けて上空から下を見るのだと
何度も凧を揚げているうちにそれができる
心が自分の外に出て
この都会はバカバカしくなる
なるほど凧は心の乗り物
鬱屈した心が青空に放たれる
この葉っぱを食べることにもいわば
目を預けるような効果があるわけか
とぼくがいうと、ルネがいった
脈拍が速くなるけれど気にしなくていい
未来に移し替えられた過去に
ただ入っていくだけ
おやおや、風景が変わりはじめた
このあたりに高い建物はないんだね
人間があまり住んでいないね
都会だと思っていたら荒野だね
開発という言葉が罪悪だとはっきりわかった
わたしが糸をもっていてあげるから
とさっきのオバさま(いったい誰?)がいう
歩いてらっしゃい、飛んでらっしゃい
ルネとぼくは逍遥をはじめる
地上の視点と空の視点が
自由に入れ替わる
ずいぶん変わったね、このあたりは
いいほうに変わったよ、とぼくは答える
空にいるような風を感じながら地上を歩いている
地上にいるかと思うと風のせいで
いつのまにか空にいる
この位相変換のおかげでいろいろなことが
手に取るようにわかってきた
ここが海だった時代もあった、とルネがいった
そうだよ、海岸線も目まぐるしく変わっている
ただわれわれはあまり長く生きないので
それが見通せないだけ
だがいま凧に預けた目で地上を見ると
この土地の地表の水理のみならず
地下の水系までもが蛍光色でわかるのだ
こうしていろいろなことがはっきりする
青山通りはいま原野に戻り
人間もずいぶん少なくて居心地がいい
ああ、いいものが落ちている、とルネがいった
なんだろうこれは、毛皮だな
狼の毛皮だとルネがいった
とりあえず持っていこう
ぼくは尾頭つきの狼の毛皮を
ショールのように肩に巻いてみた
じんわり熱が伝わってくるようだ
そのまま外苑前あたりまで歩くと
小屋や屋台が並ぶエリアがあり
それぞれ勝手な商売をしている
こういうところだったんだなとぼくはいった
江戸よりもだいぶ古い
鎌倉よりも前の状況かもしれない
だが商売は繁盛していて
これが人間社会の宿縁かと思う
物欲とその延長としての金銭欲ばかりだ
それでも役に立つものを手に入れたいとか
役に立たないからこそ手に入れたいとか
市を行き交う中世人たちも
おなじようなことを考えていたのだろう
人間は欲ばかりだ
どこか暗いところのある存在だ
ぼくは市には興味がないので
素通りしようとしていたら
屋台で犬の剥製を売っている人がいるのだ
野蛮だな
どうするんですか、これ
かわいがってもらえれば、と商人(あきんど)がいう
剝製を? 飾って?
生きている犬がかわいいなら
死んでいる犬だってかわいがれないはずないでしょう
商人の論理に納得はしないが反論のしようもない
飾られているのはブルドッグ、ポインター
芝犬、ビーグル
この時代に犬種は成立していないだろうから
犬種以前の犬種か
試してみるといいよ、とルネがいった
何を?
貸してごらん、と彼はいって
狼の毛皮をぼくから取り上げた
狼の毛皮をブルドッグにかぶせる
ややだぶついているがそれはちょうど
大きすぎるフード付きパーカを
着ているラッパー程度の話
ブルドッグin 狼がたちまち生まれた
すると
ああ、なんというふしぎ
剝製のブルドッグが生き返って
尻尾をふりながら歩きはじめたのだ
ぼくのほうにやってきて手を舐める
立ち上がって前脚で
じゃれかかろうとする
ブルドッグ特有の人なつこさで
まとわりついてくる
こういう仕組みになってたのかと
ぼくは突然理解する
茫然自失している
いったでしょう、剝製は死んでいるわけではないと
商人が得意げにいい、ルネも頷いている
狼は死して毛皮を残すとは
こういうことなんですよ
また商人がいうのが説教くさいが
まあ、いい
狼の毛皮を着たブルドッグを抱き抱えると
体重は25キロくらいかな
ずっしり重いが生命力にあふれている
もぞもぞと動き
はあはあと息をしている
このまま行けると思う? とルネに訊く
ルネが大きく頷いてくれた
ぼくはいつしか凧につかまっている
凧につけたハーネスに
犬を抱いたまますわり
離陸を待っているのだ
さあ、飛んでおいで、とルネが肩を叩いてくれた
飛び出した、みるみる上昇する
ブルドッグがよろこんでバウと吠える
原野のむこうに新宿の
高層ビル街が見える
あちらには丹沢の山々
目が自由に空をさまよっている

話の話 第23話:始めてしまう

戸田昌子

まず、朝、起きます(いつもとおんなじように)。すると、太陽がピンク色に光り輝く朝焼けがあるので、急いで「みてみて朝焼けだよ」って、友達に知らせる。

それからベッドをするりと降りて、湯を沸かし、大きめのイギリスのティーポットに、PGティップスのティーバッグをぽんと放り込む。ポットにはあらかじめ、きび糖を少し入れておく。それからぐらぐら沸き立った熱湯を遠慮なく注いでから、ゆっくり待って、スプーンでぐるぐるとかきまぜる。ついでにミルクもそこに注いでしまう。これは、家の誰もがまだ起き出してはこない時間の、わたしの朝の儀式。

朝は、いつも同じように始めないといけない。だからシンクのなかに洗い物が溜まってたらイヤだし、なにか大きく違ってたら困る。ベッドの中で夕べの夢を反芻しながら、今日の予定が何個あるのかを数え上げていく。事務書類や校正の締め切りが2件、いや、3件。問い合わせのメールはまだ3件返事していないな。授業の支度は半分しかできてないから、あとは電車のなかで考えるとして、本はあれとこれを持っていかなくちゃ。今日は誰に会うんだったっけ? そんなことをひとしきり考えてから、えいや、とベッドを出るのである。

時間があるときは、それからかんたんにシャワーを浴びて、今日の洋服も決めてしまう。服の決め方は寒暖というよりも、まず「この色が着たいな」というところで決めるようにしている。今日会う予定のあの人は、よく白っぽい服を着ているから、私は別の色にしよう、とか。若い人たち相手にはモノトーンが多いし、お年寄り相手には明るい色の服を選ぶ。自分の気分というよりも、どこにいて、誰と話をするだろうか、というのをもっぱら気にしている。

だから去年の後半、わたしが主宰して熱心にやっていた「火星人の会」では、なんとなく「宇宙人っぽい」というのをテーマに服を選んでいた。これは伝わる人に伝わっていたようで、「なんだか宇宙っぽいお召し物ですね」などと言われたものだ。もともとわたしはキラキラした服が好きで、シルバーのパンツやタートルネック、タンクトップなどのアイテムを幾つも持っている。それらを揃えて、「ソラリス」みたいな雰囲気が出せたら面白かろうと思っていたのだけれど、最後はネタが尽きて、なんだか山登りの人みたいなぽってりとしたチョッキなどを着てしまったりして、およそ一貫性のないことであった。

この「火星人の会」というのは、「写真と人間について深く考える会」という、壮大でありつつも曖昧なテーマのもとに始められた、きわめていい加減な会である。中野にある「ギャラリー冬青」で開催されている。ギャラリーが平廊した夜7時から、隔週火曜日に場所を借りて、「とにかくなにやりましょうよ」ということで始まった。こんな思いつきにあっさりと乗ってくれるオーナーの野口奈央さんは、わたしよりはるかにお若いというのに、人間の器の大きさが特大である。とはいえ、こちらも宇宙人という設定なので、たぶん負けない。ともあれ、思いつきだけで準備もしないで始めてしまったし、そうね、夜だしお腹も空くでしょう、となどと考えて、とりあえず軽食を作って出すことにした。なにしろ、「行きますよー」と表明していた人たちが軒並み無職だったので、なにか食べさせなくては、と考えた。「とりあえずおにぎりでも出せばいいかしら」と言ったら「それはおにぎりミサですね」と人が言った。なぜ「ミサ」なのか? と考えていたら、毎回来てくれるメンバーの一人が、そのうちにミサワインを持ってきてくれるようになり、なんだか宗教的な雰囲気が加味されてしまったような気がする。しまいには、クリスマス会と称してプレゼント交換会もやってしまったのでますます宗教がかってしまい、テーマはどこへ行ったんだろう、と主宰者としては軽く頭を抱えていたのだが、参加した人たちはそれなりに楽しかったようだ。ちなみにミサワインは、普通のワインと違っていて、とても甘くて、おいしい。

わたしはそんなふうに、いつも思いついたことを思いついたまま、始めてしまう癖がある。「だから戸田さんはファーストペンギンなんですよ」と、鳩尾がいつもの調子で、ゆっくりと言う。崖っぷちにわらわらと集まっているペンギンの群れのなかで、一番最初に海に飛び込んでいくあいつ。勇気があると言えば聞こえはいいが、調子ぶっこいてノリだけで前へすすんでしまう向こう見ずのあいつを、「ファーストペンギン」と言うのだそうだ。そこでわたしはちょっとだけ反論する。「どっちかってえとわたしは、目立とうとして崖の端っこまでやってくるわりには飛び込む勇気がなくてグズグズしてるペンギンを、後ろから蹴り出す係のペンギンだと思うな」とわたし。「ああ、わかる。でもそいつさ、あとになってから、オレのこと蹴ったやろ、とか言うよな」「言う言う」「あれだよほら、押すなよ押すなよ〜」「それはダチョウ倶楽部でしょ!」などと、架空のペンギンの話を延々としている。

ペンギンと言えば、そういえば最近、いろんな鳥が流行っている。ひところはシマエナガ。これは白くて小さくてふくふく可愛い、北に住む鳥。それから、ハシビロコウ。これはふてぶてしい顔をした大きな鳥で、聞けば、ガサア! と大きな羽音で飛ぶのだそうだ。いきなり飛ぶからびっくりするのだ、というのはこれまた鳩尾の話。それからまた最近、別の鳥が流行っているが、名前を覚えることがなかなかできないやつがいる。なんとなく見るとダチョウのようだけれど、名前が思い出せない。「なんていうか、ダチョウみたいな、ダチョウでないような、さ、おしゃれなダチョウよ。わかる?」と人に尋ねても、要領を得るわけもない。仕方がないので「ダチョウ+おしゃれ」でgoogle検索をかけてみる。すると出てきた「エミュー」。みなさん、あれはエミューですよ。

もうじき節分である。ということは、もうじきバレンタインということでもある。そしてなによりもうじき、わくわく確定申告である。最近ではわたしも、携帯で簡単に申告を済ませてしまうのだけれども、最初のころは大変だった。初めての確定申告のときなどは、源泉徴収票ほか、必要だと言われた書類を握りしめて朝から税務署に行き、長蛇の列に並んだものだった。ドキドキしながら待っていると自分の番になったので、若い係員のお姉さんに言われるまま、手取り足取りコンピューターを操作を行い、最後に源泉徴収票をホチキス留めにして提出……しようとしたのだが、最後の段になって、ふと「この書類、コピー取っておいたほうがよかったのかしら」と不安になった。いまさら「コピー取りに行かせてください」と言うわけにもいかないので、携帯電話を取り出して「写真撮ってもいいですか?」と係員のお姉さんに尋ねた。するとお姉さん、ニッコリと微笑んで「ピースでいいですか?」と顔の横にピースサインを出してポーズを取ってくれる。「ああ、いや……あの……お姉さんの写真じゃなくて、書類の、写真を……」としどろもどろになるわたし。よくお姉さんのお顔を拝見すると、なんとなく地下アイドルといった感じの活動をやってそうな、オタクっぽいお姉さんだった。きっと税務署の期間限定バイトさんだったのではないだろうか。渾身のボケにツッコミで返せなかった自分に赤面しながら終えた、初めての確定申告の思い出。

確定申告でも洋服の整理でも、なんでもいいのだけれど、もしなにかを成し遂げるコツがあるとすれば、「始めてしまう」のがコツだと思っているところがある。まずは何も考えずに手をつけてしまうのである。領収書の整理。書けそうもない原稿。キックボクシングは2年ほど前に始めたのだが、思い立ったその日に、当たりをつけたジムに電話をかけていたらしく、先日ジムのオーナーに「そういえば、戸田さんが電話かけてきたのって去年の12月24日だったんですよ」と言われた。12月24日か……わたしよ、もっと他にすることあるやろ。

「Don’t think twice, it’s all rightやで」と、最近よく鼻歌を歌っている。これは永井宏という人が弾き語りのギターを披露しているのをYouTubeで目にしてから、歌うようになった「くよくよするなよ」という歌(https://www.youtube.com/watch?v=37MM8Y8BvLg)。元はと言えば、ボブ・ディランの「Don’t Think Twice, It’s All Right」である。日本語の定訳は無いようだけれど、ナガイさんはオリジナルで日本語の、関西弁ふうの歌詞をつけて歌っていた。「座り込んでそんなに悩むんことなんてないさ(It ain’t no use to sit and wonder why, babe)」とナガイさんはギターをほろほろと指で撫ぜながらよい声で歌う。それを聞いていて、ああ、やっぱりギターやりたいな、とわたしは思いつたのであった。そして友人のギターを借りてさっさとギターを始めてしまい、しまいにはそのギターを購入し、その半年後には、ほろほろといい加減なギターに合わせたオリジナルソングをネットの大海に放流したりしてしまった。

ナガイさんは『SUNSHINE+CLOUD』という葉山の洋服店の、洋服のカタログに文章を書いていた。洋服の値段や仕様の書いてあるところに、なぜか、ちょっとしたいい感じの文章が書いてあるのだ。友達と街で会ったとか、短パンが好きだとか、そんな、他愛のないものである。今で言ったらツイッター(現X)の1投稿ないし2投稿くらいの分量の、ふとした日常の一コマを描写したようなものなのだが、読んだ後ではなんだか、ふっと心の重さが変わるような感じの、独特の良さのある文章である。2020年に、信陽堂という小さな出版社から『愉快なしるし』という本にまとまっている。

実はわたしは長いこと、ナガイさんを探していた。ナガイさんの話は、あちこちで聞く。どんな人なの? と尋ねると、「どこかでなにかやってるらしい」(←中身がなさすぎる)というような曖昧な風の噂が聞こえる。写真の本を書いたり、美術の作品を作っていたりしたとも聞く。実際にはナガイさんは葉山に住んでいて、「葉山カルチャー」というようなものを発信したり、身近な人の表現活動を応援したりしていたらしい。「だれにでも表現は出来る。ひとりひとりの暮らしが表現になるんだ」と言っては、いろんなことを人に始めるように励ましていたのだとか。

だから、信陽堂で編集者のたんじさんに「永井宏の本を出したんですよ」と『愉快のしるし』を見せられたとき、「わたし、同姓同名の永井宏っていう人を知っているんですけど、この人とはきっと別人ですね」と言ったのである。「きっとそれ、同じ人だと思います。永井さんならありえます」と、たんじさん。やはり、風の噂のような人だなあと思ったものである。

やろうかやるまいか、というようなところで悩むのではなくて、まずは始めてみる。ナガイさんにもそんなところがあったんだろうな、と思う。

その開けた感じというのは、たとえば、カーテンのない部屋みたいな感じかもしれない。引っ越したばかりのとき、前の部屋で使っていたカーテンは、新しい部屋ではたいていサイズが合わないし、古いからと捨ててしまっていたりするものだ。その部屋にぴったりとサイズの合うカーテンは、なかなかすぐに用意できない。カーテンのない部屋はスカスカして寒々しく感じるし、自分の姿は窓から丸見えになってしまう。けれども太陽が登れば目がさめるし、日差しが傾いていくのをじっと眺め続ける愉しみもある。夜の訪れとともに外が見えなくなっても、自分は外につながっている感じがする。夜は宇宙に思いをはせてみることもできる。ばばばあちゃんの『いそがしいよる』みたいに、夜空をみながら、眠りに落ちるのだ。

継ぎを当てる

高橋悠治

行き来する思いつきを書き留め、つなぎ合わせる。モザイクが、一つずつの要素を組み合わせて全体を構成するのに対して、すでに雑多な集まりであるものが瞬間に入れ替わるような、目標とする全体像の持たない、変化の過程の記録である音楽を試してみる。これがファゴットのために書いた『連』の試みだった。

それまで使わなかった音を初めて使う瞬間の新鮮な感じがアクセントになり、一本の線のメリハリが生まれ、そこから不規則な区切りができる。

連歌や連句の「連」は、連続する違い、それは前後の時間につながる空間やひらける風景の違いと、それを見る、というより、その中に包まれる空間の違いを感じ取る体感の違いを経験する過程で、始まりも終わりもない、いつも途中、未完成で、半端な感覚であるはずだった。『連』の場合は、初めの小節に似た動きを使って、循環する時を暗示して曲を終えたが、それが良かったか。「終わり」という感じを作らないこともできたかもしれない。

初めて使う音を、できるだけ遠い時間に離して置くのは、12音技法の原則だった。柴田南雄はバルトークの分析で、確か「配分法」と呼んでいた。子供の頃、音楽雑誌で読んだ論文にあった。12音技法では、シェーンベルクよりはヨーゼフ=マティアス・ハウアーの方がそれに近かった。ということは、ゲーテの色彩論やバウハウスの色彩理論の系統かもしれない。

でも、それらはすべて近代ヨーロッパの考え方だろう。そうではなく、西アジアの「感じ方」、江戸の木目、考える論理ではない、感じる論理、鍵盤の上を這い回る指と掌の間の空気を含んだ空間から聞こえる響きの余韻を追って行く小径を見失わないように。

2025年1月1日(水)

水牛だより

明けましておめでとうございます。
東京は快晴の元旦です。あまりに悲惨なことが起きるこのごろ、きょうのような静かな午後が続く一年であるようにと願います。

「水牛のように」を2025年1月1日号に更新しました。
今年も最初からいろんな原稿が集まりました。じわじわと生きにくくなっていることが明らかないま、抵抗はさまざまなところでさまざまなかたちでおこなわれているのだと実感します。なにかを苦手と感じることは抵抗への第一歩かもしれません。
管啓次郎さんと仲宗根浩さんが久々に戻ってきてくれました。管さんのメールには「徳之島には行ったことがありません…」とありましたが。。。
また、水牛の本棚では杉山洋一さんの連載のはじまりのころをまとめて読めるようにしました。編集は浜野サトルさんです。先日杉山さんと会ったときに、こどものころから日記を書いているの?と聞いてみたところ、水牛で書きなさいと言われて書き始めたという返事でした。ことし20歳になる息子さんが生まれる前のことでした。それからいままで、過ぎてみれば順調だったといえるとしても、この先のことは不明です。

ともあれ、今年もどうぞよろしくお願いします。また来月に!(八巻美恵)

一月一日

北村周一

あけそめし空を見上げて去年ことし水牛ひとつ書き終えにけり
一月一日 あの日の空は明るくてなに思うなくときは過ぎたり
静けさに満たされいたる正月のついたちにして午後の日までは

あらたまりし年の始めの空ひくくしのびよるごと日の昏れはあり
夕ぐれのまえのしずけきときの間を思うことあり元日にして
ふかぶかと夕焼けいろに染まりゆく風景おもゆ団欒のとき

杳いとおい闇の奥よりあらわれて傍に来ているふるい友だち
懐かしき声に語らうひとときを夢に描いてねむれぬ夜は
同郷の友と出会いしそののちに見ている夢は安らかならず

ふるさとのとおい記憶に包まれて夢に見ている抽き出しのなか
またひとり夜の巡りに出会いたるふるき友あり 抽き出しが開く
聞きなれし声に身じろぐ夢ながら閉ざすに難きふるい抽き出し

ふる雨にのまれし町のうす明かり 揺らめく月のかげよりも淡く
雨降れば海山川に水溢れすがたを変えて人を貶む
雨降れば海山川は忽ちにすがたを変えて水と戯る

イッパツで退場なのにのうのうと知事をしているレスラーの人
人災なのか天災なのかいつまでも放置しているあなた要らない
震度7かかる数字が揺れのこる半島はいま雪雲の下
タツは暮れてヘビ微睡みの去年ことし 朧おぼろにたすけ呼ぶ声

大伴家持
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事
(あらたしきとしのはじめのはつはるのきょうふるゆきのいやしけよごと)

仙台ネイティブのつぶやき(102)だしの行く末

西大立目祥子

今年は、正月の雑煮のだしに使う焼きハゼが手に入らなかった。こんなことは初めてだ。ここ数年懇意にしている魚屋さんがいて、12月中旬を過ぎたころに電話をすると、「石巻の市場には1匹も出ていない」という。「そもそも生のハゼを見かけないんだよ」という説明に、深刻な不漁を思い知らされた。年末になって再度たずねても同じ返事で、結局あきらめざるを得なかった。実は12月初旬に近所のスーパーで焼きハゼを見つけたのだが、それが煮干しといっていいほど、あまりに小さくて買う気が起こらず見逃したのだった。

雑煮のだしに、焼いて天日干しにしたハゼを用いるというのは、仙台の街場の風習である。それはおそらく、近くの海や川に出かけて釣り糸を垂れれば、簡単に手に入る魚だったからだろう。私も小学3、4年生のころ、父の知り合いの大勢の大人たちと松島湾に釣りに行き、教えられるままに釣り糸をポチャンと海に沈め静かにしていたら、ググッと強い引きがきて、けっこう簡単に大きなハゼを釣り上げたことがあった。

父が盛んに友人と釣りに出かけていたころは、下処理したハゼをガスコンロで焼き、ハエ除けの網をかぶせてベランダで干していた。洗濯物を取り込んだりするときに、うっかり蹴飛ばしてしまうこともあるほど、それほど有り難いものとは思わないものだった。自分がおせち料理をつくるようになってからは、12月に入ると魚屋とかスーパーの店先に吊り下げられ5匹一連の焼きハゼを、大きさを見比べながら買っていた。たぶん、高くても2000円をちょっと超えるくらいだったのではないかと思う。

それが東日本大震災を境に不漁に見舞われ、一気に高値になった。当時、私は定期市にやってくる石巻近くの浜でシジミ漁をする漁師さんから焼きハゼを買っていたのだけれど、震災の混乱のあと、しばらく経って再会した市で、「もうハゼは不漁でダメで、うちのじいちゃんは漁をやめるんだ」と聞かされた。シジミ漁も難しくなったから別の仕事を探すと言い、震災のときは消防団員で北上川の瓦礫の中に小学生の男の子がふるえながら生き延びているのを発見して、その子を背負って十数キロ歩いた体験をきびしい口調で話してくれた。あの人は何という名前だっけ。お元気でいるだろうか。

ともかく、海底が劇的に変化してハゼはそう簡単に入手できない魚となり、さらに手間のかかる焼きハゼは高級なだしとなった。そこに温暖化による海水温上昇が追い打ちをかけているのは、間違いない。魚屋には、もとは東北では見かけなかったマダイとかタチウオが日常的に並ぶようになったし、冬なのに大きなスズキが売場を埋めていたりする。魚だけでなく海藻も海もダメージを受けているようだ。石巻十三浜の養殖漁家を支援している友人は、暑さでワカメも昆布も収穫量がひどく減ったという。毎年、大きな鮮度のいいカキを送ってくれる気仙沼唐桑の友人からは、2週間ほど前に、身が入っていなくてまだ送れないと連絡が入った。

焼きハゼは鍋に水を張ってほおり込み、一晩おいてとろ火にかけていくと金色のだし汁がとれる。あのひかえめな味と香りは、仙台に生まれ長年慣れ親しんだ新年の味わいだ。今年はどうしたらいいだろう。先の魚屋のおじさんは、「穴子焼いてもいいだしとれるし、あとは地鶏でもいいんじゃないの」という。いやいや、穴子なんてさらにハードルが高い。それに上に紅白の板かま、伊達巻、イクラがのる仙台雑煮に地鶏は何だかミスマッチだ。

そして、これから先はどうなるのか。ハゼの不漁は間違いなく続くだろう。仙台の正月の魚はナメタガレイなのだが、そもそもタラだったのが、明治年間にナメタガレイが大豊漁となり切り替わったと聞いたことがある。案外と簡単に風習は変わるものなのかもしれない。雑煮のだしもハゼから何か別なものに置き変わっていくのだろうか。

実はもう1月1日になっているのだが、雑煮のだしを取るどころか、何で取るかも決まっていない。2025年の幸先が思いやられる。肝心なものが手に入らないとか、ぎりぎりになっても決められないとか…。

ガザの新年

さとうまき

12月29日に、友人のダンサー今在家裕子さんが映画上映会を企画したというので見に行くことにした。今在家さんは、イスラエルのカンパニーで11年間踊ってきた人。たまたま僕がかかわっていたベツレヘムの難民キャンプへもしばしば足を運んで、難民たちが作った刺繍製品を日本で販売したりしてパレスチナを応援してきた。

しかし、昨年の10月7日、ハマスの奇襲攻撃がありガザ戦争が始まってからは、イスラエルの友人や、イスラエルに住む日本の友人たちとの距離も微妙になっているという。そんな中で、企画した映画が「私は憎まない」というタイトルで、ガザ出身の医師、イゼルディン・アブラエーシュ博士の物語。2009年のイスラエルのガザ攻撃で娘3人、姪を失った。それでも博士は憎まずにイスラエルとの平和を訴えているという話だ。

ガザでは、43000人を超える死者がでて、たぶんそれからもっと増えていて、そういうくらいニュースには正直うんざりしてしまって、見ざる聞かざる言わざるの猿状態になっていた。こんな立派な医者の話を聞いたところで、何もできない自分に落ち込むだけだ。それだけではなかった。2011年にイゼルディン医師が、「それでも私は憎まない」という本を書いたときに、鎌田實医師は「アハメド君の命のリレー」という絵本を書いていた。それで、日本に呼んできて対談するので手伝ってほしいと言われたのだが、あいにく僕はイラクにいて講演会には参加できなかったことがある。

絵本の内容は以下のような感じ。アハメド君は、ジェニンでイスラエル兵に狙撃され脳死した男の子。父イスマイルは、その悲しみを横に置いて、なんとイスラエルの病気の6人の子供を救うため、臓器移植を承諾した。平和への願いを込めてという美談だ。

しかし、ドキュメンタリー映画「ジェニンの心」では実際に何が起きたかを伝えている。イスマイルさんが、実際に臓器をもらったイスラエルの子どもたちに会いたいといった時に、喜んで応じたのは、北部に住むドゥールーズ教徒の少女、南部のベドウィンの子どもで2人ともアラブ人だ。残りのユダヤ人は、イスマイルさんに会おうともしなかった。しぶしぶ会うことになったユダヤ人の一人は、「感謝は伝えたいが、友達にはなれない」と言い切る。メディア的 “美談” とは無縁の位置で、犠牲と平和の意味を深くとらえたドキュメンタリーと紹介されている。

*ジェニンの心はBS世界のドキュメンタリーで短縮版https://youtu.be/NJIBeQzdtaw がご覧になれます。

でも鎌田先生の手にかかれば、美談として、読んだ人々に希望を与えるのである。美談を読むと人は満足してしまって、それで終わってしまう。何も変わらない。「私は憎まない」という美談めいたタイトルに抵抗があって、これだけ多くのパレスチナ人が殺されているのに「憎まないことが素晴らしい」なんて言われてもなあという気がしていた。そんな、美談をいまさら聞いて、満足して一体どんな意味があるんだと。しかし、今在家さんが、苦しみながらも企画したイベントだから気になっていて、見に行くことにした。実際見てみたらすごい映画。こちらもメディア的 “美談” とは無縁なのかも。

イゼルディン博士は、教育こそが現状を変えると信じ、イスラエルの病院で研修医となり、産婦人科で、ユダヤ人の赤ちゃんを取り上げる医師として働き、ガザから毎日イスラエルの病院へ通っていた。2009年、彼の家がイスラエル軍に包囲された時、友人のユダヤ人のジャーナリストと電話でつないで惨状をレポートした。そして、数日後には、生放送中に電話がつながり、まさに彼の娘たちの頭が吹っ飛び脳みそが飛び散っている様子が報道された。壮絶なTV番組になってしまった。

彼は、それでも、イスラエルとパレスチナの平和の架け橋になりたいと訴える。
I shall not hate.
なんて訳せばいいのだろうか? 憎まない? 憎んではいけない?
ただ、彼は戦い続ける。イスラエル軍の民間人を無視した攻撃に対して法廷で争った。裁判では、うその証言ばかりが並べられた。テロリストが屋上にいたとか、攻撃は、ハマスのものだ、娘の体から取り出された武器の破片はハマスの使用したものだとか。判決は、テロとの戦いの付随的な民間人の犠牲者に対して、イスラエル軍に責任はないという結果だった。それでも、博士は戦い続ける。怒りを憎しみに変えて復讐しようとするのではなく、真実を伝え続ける。彼は決してあきらめないで戦い続けている。そんなバイタリティに心を打たれた。

イゼルディン医師の最近のインタビューはこちら。
https://www.vogue.co.jp/article/my-view-izzeldin-abuelaish
「人間には憎む権利があります。特に最も愛する存在を奪われたとき、憎しみの感情が芽生えることは自然な反応です。しかし、私は自分に問いかけました─この悲しみと怒りを、この強い衝動をどのように扱うべきなのかと。そして選んだのは、残虐な行為とその犯罪性に反対の声を上げ、暴力の連鎖を防ぐために責任を持って行動すること。」

アフタートークで登壇されたNGOの手島さんによると「ガザの人々は、明日の命、食べ物のことで精いっぱいで、もはや憎しみの感情すらもわからなくなっている状況です」と言っていた。

12月8日にシリアではアサド政権が崩壊し、混乱が続く。この機に乗じてイスラエルは、レバノンだけでなくシリアへの攻撃も活性化している。ガザのことを忘れかけていた僕にとっても映画を見に行ってよかったと思った。イゼルディン医師は、個人のできることを過小評価しないでほしいと言っていた。小さなことだけど、僕はコーヒーを数か月前から売ることにした。500円のコーヒーを500個売っても、15万円くらいしかガザにおくれない。それでも何か少しでも役に立っているのかなあと思うと嬉しくなってきた。
コーヒーはこちら!
https://sakabeko.base.shop/
 
2005年は平和な年になってほしい。
あけましておめでとう。

言葉と本が行ったり来たり(28)『チワワの赤ちゃん365日の育て方』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 明けましておめでとうございます。
 往復書簡と謳いながら、間があいてしまって申し訳ありません。
 新年二行目から謝っている私です。

 八巻さんから九月にお返事をいただいて、私からもすぐに手紙をと考えていた矢先、また遠方に住む親族のひとりが緊急入院し、同時期、Kさんのニューアルバムとコンサートの企画制作に携わっていたこともあり、秋は忙しさのピーク、バタバタしている間に2024年が終わってしまいました。
若い頃は、若いときが一番忙しい、年をとったら時間に余裕ができるはず、と思い込んでいたけれど、現実は全く違いますね。生きている限り、身支度やら家事やら日々やることは山ほどあるわけだし、縁側でのんびり日向ぼっこするおばあちゃんなんて実は昔から存在していなかったのでは、と疑ってみたり。そんな優雅な暮らしを夢見てはいるのですが。

 それなのに、憧れの生活からますます遠ざかっていくとわかっているのに、先月から仔犬を飼い始めました。生後三ヶ月。私と誕生日が一日違いで、私のもとに来るまで、ちーちゃんと呼ばれていたそうです。私も幼い頃、ちーちゃんと呼ばれていたので、縁を感じないわけでもない。けれど、犬を飼いたいと思っていたわけでもなく、そもそも犬に興味もなく、毎日散歩に連れていくなんて面倒なこと、私には絶対に無理、犬を飼うなんて考えられない、と放言していたのに――自分でも無謀な決断をしたと思っています(飼ってみようと思ったきっかけもあることはあるのですが)。

 それでも面白いと感じることもいろいろあって、そのひとつが、昭和の犬の育て方と令和の犬の育て方がまるで違うということ。いまは、できるだけ叱らない。正しいことをしたときにほめてしつける。フードは体重に合わせて計量して与える。歯周病防止のために毎日歯磨きをさせる。寒さに弱い犬種と暑さに弱い犬種がいるので、室内の温度を調節する(私が飼っているチワワの仔犬の適温は28度!暑い!)、などなど。友人たちに話すと、えー、俺が子供の頃は家族の残りご飯をあげてたよ!とか、うちでは犬が悪いことしたら丸めた新聞紙でポーンと叩いて叱ってたよ!という話を経て、いまのあなたの育て方、ちょっと過保護じゃないの?と私のほうが笑われてしまいます。その言い分もわかるのです。私自身、仔犬を飼うまで、服を着た小型犬とすれ違うたび、飼い主のエゴ丸出し・・・、と批判的な目を向けていたから。けれど、育て方を学んでいくと、犬の服にしても、その他のことも、それなりに理屈があって(過剰なものも確かにある)、人間も昭和に奨励されたうさぎ跳びをもうやらないしね、それと同じね、と180度捉え方が変わりました。

 そしてもうひとつ。こちらはハッピーなこと。仔犬は三回目のワクチンを受けるまで、屋外の地面を歩かせることができません。その代わり、抱っこ散歩というものをします。文字通り、仔犬を抱っこして飼い主がてくてく歩く。目的は社会化トレーニング。さまざまな音や動くものに慣れさせ、飼い主以外の人間の存在を認知させるのです(人間の赤ちゃんでもやりますよね)。これが意外と楽しくて、仔犬がつぶらな黒い瞳でまぶしそうに空を見上げている様子、救急車のけたたましいサイレンの音に怯える様子、駆け抜けていく子供たちを首を伸ばして目で追う様子、その姿から、蜜柑ほどの小さな頭に世界をインストールしているのが窺えます。それらはささやかなことだけど、ダイナミックなことでもあり、そこに立ち会う喜びがある。そして、イチョウの葉の残る冬の道を、小さく温かなものを腕の中に抱いて歩くというのもなかなかいいものだな、その幸せを私はいま仔犬に与えてもらっているんだな、と実感するのです。
とはいえ、トイレトレーニングもまだ途中。フードも毎回お湯でふやかしてあげないといけないし、歯の生え変わり前で甘噛みも激しく、まだまだパピー、手がかかる。小説を読んでもちっとも没頭できず、未読本は積み上がっていくばかり。唯一、集中して読み込んだ本、それが『チワワの赤ちゃん365日の育て方』です。

2025年1月3日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(27)『無意味の祝祭』 八巻美恵

『アフリカ』を続けて(43)

下窪俊哉

 前々回、鶴見俊輔さんが『三人』について書いている文章に触れたが、そういえば、と思って部屋の隅にある本の山を見たら、『日本の地下水 ちいさなメディアから』が呼んでいた。編集グループSUREが2022年に出した本で、雑誌『思想の科学』で複数の執筆者によって連載されていた「日本の地下水」のうち、鶴見さんの文章だけを集めた1冊。1960年から1981年にかけて、全国各地でつくられていたいわゆるサークル誌、同人雑誌などの小雑誌を時評しているものだ。
 気になったタイトルの文章を拾い読みしつつ目次を眺めると、じつに様々な雑誌があったものだ、と感心する。誌名を並べるだけで内容が想像出来たり、出来なかったりするが、それも面白い。
『函館文化』『精神科年報』『福沢研究』『科学と技術の広場』『修学旅行』『北方の灯』『小さい旗』『江戸っ子百話』『いとこ会誌』『原点』『みちずれ』『耳栓アパート』『平和のために手をつなぐ会ニュース』『発言』『騒友』『瓢鰻亭通信』『映像文化』『本の手帖』『新人文学』『ユリイカ』『独楽』『ピッコロだより』『週刊ポストカード』etc.
 黒川創さんの解説によると、敗戦から5年がたって1950年代に入る頃から、「職場や学校、地域社会などで、サークル活動がさかんになった」。戦後復興の時代に、「文芸や美術、学問、趣味をめぐる同好会、職業上必要な新知識を取り交わす集まり、また、病気や暮らしの上での困難を分ちもつ場としても、自発的に形成された「サークル」が機能した」のだという。文章を書いて、雑誌をつくるのは何も文芸をやる人たちだけの営みではないので、様々なサークルで、「自分たちの活動の記録や成員間の連絡のために、同人誌・会報などの手製の印刷物」がつくられた。『思想の科学』も、この連載でよく出てくる『VIKING』も、『水牛通信』も、大雑把に括ってしまうと、そういった雑誌のひとつだったと言ってよいだろう。もちろん『アフリカ』もその流れにあるわけで、戸田昌子さんが「サークル活動」と言った背景には、そんな歴史があるのだと言ってみたいところだ。
 このような活動は、マス・コミュニケーションの対極にあるものだろう。復権文庫というところでつくられた本について書かれた「盲者につきそう神」の冒頭で、鶴見さんはこう書いている。

 一冊の本を世界中の人に読んでもらいたいという考え方は、わからないこともないが、おしつけがましいと思う。
 聖書は、一冊の本としてみる時に、とてもよい本だと思うのだけれども、この一冊の本が、地上ただ一つの本として人におしつけられてきた歴史を考えると、いやな気がする。
 一冊の本が、それほどひろくみなに読まれなくてはならないものか。

 それに続けて、「自分だけが読む本」として日記帖のようなものが「現代のように、おしつけがましい文化の時代には、かえって大切なものになる」と書いている。1971年11月の文章である。
 昨年、ここで『アフリカ』を始めた頃のことを詳細に書こうとして、2005〜2006年当時の自分がつけていたノートが貴重な資料になった(それがなければ書けなかった)ことを思い出す。私は今、このSNSの時代、各々がゆるく閉じた場をいかに持ち、営み続けるか、問われているような気もするのだ。

 さて、秋に出るはずだった『アフリカ』次号はまだまだ時間がかかりそうなので、春に準備してあった私の本を先に出してしまおうということになった。この連載の(1)から(33)までを順番に収録した「『アフリカ』を続けて①」だ。連載順に並べたのはなぜか、ということは、あとがきに書いた。それから、各回にタイトルをつけた。

『アフリカ』を続けて
 どうしてアフリカなんですか?
 常に揺れている
 プライベート・スタジオ
 珈琲焙煎舎
 行きつ戻りつ
 いたずら書きの向こうに
 自由を感じる
 何ということもない連絡
 井川拓さんの遺稿
 新たに読み解いてゆく
 大きな死者
 身近な読者を感じる
 背を向けて
 日常を旅する雑誌
 プライベート・プレス
 書くための場
 どうでもいいのだろうか
 ワークショップ・マガジン
 小さな石
 読み手が書き手に
 さまざまな時間
 戸田昌子さんとの対話
 売る気
 年譜を眺めて
 待つということ
 ベースキャンプに届いた訃報
 一緒につくろう
 しぶとく想像して
 大事なものだった
 記録されている
 その先の風景
 印象的な手紙
 徳山駅から西へ
 年譜(二〇〇五〜二〇二三)
 あとがき

 最後の「徳山駅から西へ」だけは20年前に書いてあった古い文章で、『寄港』第4号に載っていたもの。『アフリカ』を始める2年前の、ある夏の日を書いたものだが、それをなぜここに入れたかということは、それもあとがきに書いた。
 この本はアフリカキカクではなく、どこか他所に出してもらった方がよいのかもしれないとも思ったのだが、縁のあるいろんなもの・ことを自分たちで雑誌や本にして残しておこうという活動の記録なのだから、この本もまずは自分たちで出してしまうのがふさわしい、と考えることにした。
 いつものように、ごく少部数でいいから、仮に本にしておくというつもりでつくればよいのだ。
 今回はタイトルが、ギリギリまで決まらなかった。「『アフリカ』を続けて」はサブ・タイトルだよね? という話になり、何か本の全体を照らすようなことばがないか、と探りつつゲラを読み返してみていたが、あるページを見た時にふと「夢の中で目を覚まして」というフレーズが目に飛び込んできた。
 パッチリと目を覚まして現実の中でやろうというのではなく、ボンヤリとした夢の中に生きようというのでもない。夢の中で目を覚まして、語り合えるような存在が私たちの人生には必要なんじゃないか。そう考え、書いた日のことを思い出しつつ、

 夢の中で目を覚まして ─『アフリカ』を続けて①

 というタイトルを、この本に寄せた。

 本文中にも出てくるエピソードだが、守安涼くんから言われなければ、私はこの連載を自ら本にしようとは考えなかったかもしれない。そこで、今回は久しぶりに守安くんに装幀だけでなく組版まで制作全般をお願いした。久しぶりというのはいつ以来だろうか、調べてみないとわからないけれど、15年ぶりくらいかな。
 本文を2段組みにしたのも彼のアイデアで、文字を詰め込んで、出来るだけ薄い本にしたいという気持ちの表れと言ってしまえばそれまでだが、「昔の文学全集みたいでいいかも」という話になった。詰め込んで、と言うわりには読みやすくなったと思う。
 自分でやってしまう方が気楽で、自由に出来るのは確かだけれど、こうやって他人に任せる領域が増えると、そのぶん本がふわっと目に見えない拡がり方をする。多少気を遣ったり、不自由な部分もあったりした方が、ものをつくるのにはよいのだ、と思うところもある。もっとも、仲間内に仕事の出来る人がいて、ボランティアで協力してくれるからこそではあるのだけれど。
 いつものように校正の黒砂水路さんにもつき合ってもらって、春と、年末の入稿前の2回、見てもらった。彼はこの「水牛のように」での連載も毎回、校正してくれているので、3回は見ていることになるが、それでもまだ何か見つかるので呆れたようなことを言っていた。ありがたいことだ。
 印刷と製本もいつものニシダ印刷製本、二十数年来の付き合いだ。入稿の連絡をしたら社長さんから返信があり、「下窪さんと『アフリカ』の足跡ですね。『寄港』まで出てきて大変なつかしく思いました。作業しながら更に読み込んでしまいそうです。気をつけなければ」とのこと。
 この本をつくりながら気づいたのは、自分は書き手というより、登場人物のひとりなのだ、ということだった。この人の見てきたものを、共に見たい、と他人事のように思ったりもした。
 いつしか、自分のやってきたことも研究対象になる、ということ。なぜ、こんなことをやってきたのだろう、と。
 この本の中には、同人雑誌やミニコミをやってきた人たちの歴史があるし、縁の深い複数の死者との、ことばにならない対話もある。もちろん『アフリカ』に書いて(描いて)、かかわってきた人たちがたくさん登場する。
 書き手としての私は、過去の自分を含む彼らの声を聴き、書き写すだけでよい。
 自分のやってきたことなのに、こんなにもわからない。ということは、もっともっと、幾らでも書けるような気がする。ものを書く人として、こんな幸せなことがあるだろうか。

カフェでお見合い

植松眞人

 半年ぶりに会う長男の修介はすっかり社会人としての立ち居振る舞いを覚えていて、なんだかこちらが落ち着かない。とりあえず、喫茶店で顔合わせをということにはなったけれど、本人同士が会い、両家の親もそこに顔を揃えるとなると、それは紛れもないお見合いだ。それに高橋が指定してきた場所は喫茶店と言うよりも今どきのカフェで、注文も入口近くのカウンターでするようなセルフサービスの店だった。席を予約することもできなかったので、席をきちんと確保するために、修介を連れて三十分前に指定されたカフェに入った。
 午前中だったので席に余裕はあった。セルフレジのカフェなどほとんど利用したことがなかったので戸惑っていると、修介が手慣れた物腰で私たちの注文を聞き、奥の二人がけの席を三つ引き寄せて両家六人の席を作るようにと指示を出して、カウンターへ向かった。私と妻の治子は修介に言われるがままあたふたと小さな二人がけのテーブルを三つ組み合わせて細長い大きめのテーブルをつくった。
 今回のお見合いは私と同僚の高橋が会社の研修で隣の席になったことがきっかけだった。お互いに定年まであと十年ほどという先の見えた状態でのスキルアップ研修は、なんだかとても白々しく、講師に気付かれないように私と高橋はボソボソと話し始めた。これまで同じ部署になったことはないので、あまり懇意にしたことはなかったけれど、それでも同じ会社に長く勤めていると、顔見知りではあり、何度か挨拶くらいは交わしたことがあった。
「孫を抱きたいんですよ」
 そう言ったのは高橋だった。
「もうね、自分の子どもは手を離れちゃったから、今度は孫を可愛がりたいんですよね」
 高橋はそう言って笑うのだが、実は私も最近、似たような話を治子としたばかりだった。
「いいですよねえ、僕も孫がほしい」
 孫の話でひとしきり盛り上がったあと、互いの家族構成の話をして、こちらには次男が、高橋のところには次女がまだ未婚のままだという話になった。
「次女は梨花というんです」
 そう言って、高橋はスマホに入っていた次女の写真を見せてくれる。大人しそうな色の白い女性で、目鼻立ちがはっきりしていて高橋によく似ていた。
「似てますね」
 そう言うと、高橋は笑う。
「ママに似たかったって言われますよ」
 その言葉に私もつられて笑う。笑いながら、見せてもらったのだからと今度は私が修介の写真を見せた。
「ああ、平山さんのところもよく似てますね」
 確かに、最近とみに似てきた気がする。けれど、修介のほうが背はかなり高い。
 そんなやり取りをしている間に、研修は終わり、私たちは「いい人はいませんかね」という自嘲気味な笑いを浮かべて別れた。
 それからひと月ほど経った頃だろうか。高橋から社内の内線で電話があり、近所の喫茶店に呼び出されて今回のお見合いを提案されたのだった。
「この間、見せてもらった修介さんの写真がどうも気になって。娘の顔を見る度に、もしかしたらお似合いの夫婦になるんじゃないかなあと思ってね」
 唐突な話に面を喰らったけれど、確かに修介と高橋の娘の梨花はお似合いかもしれないと思えた。目鼻立ちのはっきりした梨花と、どちらかと言えば地味な修介。小柄な梨花と大柄な修介。なにか、互いにないものばかりがあって、一緒になるとバランスが良さそうな気がするのは確かだ。
 話はトントン拍子に進んで、今日の日を迎えたのだった。
 私たちが入店してから三十分後の午前十一時、高橋夫妻と娘の梨花がやってきた。修介はすっと席を立って彼らをアテンドすると、飲み物の注文を聞いて、カウンターに向かった。その姿を見て、一瞬まごまごしていた梨花だが、思い切って修介のあとを追った。
 顔見知りの私と高橋がそれぞれの妻を紹介すると、互いにざっくばらんな会話が続き、若い二人が飲み物を運んできた頃には、まるで妻同士が旧知の知り合いのように会話をしているのだった。
 両家の六人が顔を揃えると、ほんの少しまた緊張が戻り、それぞれに話すタイミングを見計らいながら、互いの家のルーツを訪ね合ったり、子どもたちの兄弟のことを聞いたりしながら、肩をほぐし合うような時間を過ごし、なんとなく互いの家が、こんな娘が、こんな息子がいればいいな、という感覚を共有し始めた頃、妻の治子が小さく手をあげた。
「ねえ、もうすぐお昼だから二人でランチをとってきたら?」
 治子が言うと、高橋の妻もうなずく。
「それがいいわ。このあたりはこじんまりとしたお店がたくさんあるから」
 両家の母の提案に、若い二人は迷うことなく立ち上がる。
「私たちはもうすこし話してるから、ゆっくりしていらっしゃい」
 治子が言うと、じゃあ行ってくるよ、と修介が返事し、出入口へと歩き出す。梨花も恥ずかしそうに会釈をすると、修介のあとを追う。
 二人が出て行くと、一瞬の沈黙が私たちを覆う。その場の気温がすっと低くなったような気がした。それぞれに冷めた飲み物に口を付けて、落ち着きを取り戻そうとする。そして、お互いが気に入ったということになれば、自分たちは反対はしないという軽い約束がさっそく取り交わされる。結婚したら、梨花の仕事はどうするのか。どこに住むことになるのか。そんな勝手な話を親同士で勝手にしていることがなんだかとても楽しかった。
 どのくらいの時間、私たちは話していたのだろう。治子が、お腹が減りましたね、と言ったときにふいに二人が戻った。いや、戻ったという感覚の前に甘い香りが私たちの席の周囲に濃く漂った。その香りは二人が結婚を決めたことへの比喩かと思うほどに幸せという言葉とリンクしていて、私はおそらくきょとんとした顔をしていたに違いない。ところが、高橋も高橋の妻も、そして治子も同様に、その甘い香りを嗅ぎ取っていたらしい。
「甘いわねえ、ものすごく甘い匂いがする」
 治子が声に出して言うと、梨花が自分の服の二の腕あたりに鼻を寄せる。そして、小さく「あっ」と声をあげる。
「もしかして?」
 修介が言うと、梨花がうなずく。うなずいた梨花はとても恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「さっき、ワッフルを食べてきたんです」
 なぜか、修介も赤面している。
「ランチを食べずに?」
 治子が聞くと、梨花がうなずく。
「私が、えっと、誘ったんです。ワッフルを食べませんかって」
 梨花が言いよどんでいると、修介が話し始めた。
「僕のほうから誘ったんだよ。僕たちもそれなりに緊張していて、なんか食欲ないですねって話になったんだよ。そしたら、ワッフルを出しているカフェがあって、ものすごく良い香りがしていたんだ。僕が良い香りですねえって言ったら」
「私がワッフルが大好きだって言ったんです。そしたら、修介さんが僕も好きだって」
「そしたら、梨花さんがワッフル食べませんかって誘ってくれて」
 二人があたふたと事情を説明している様子を、私たち両家の親はなんとも幸せな気持ちで眺めている。そして、私はこの甘い香りに包まれた若い男女の結婚を阻むものがあるとしたら、それはいったい何だろうかと考えていた。(了)

話の話 第22話:びっくりする

戸田昌子

ちょっと、びっくりするくらいの量のクローブがうちにあったので、京都の下鴨ロンドへ持ってきた。金曜日の夜、すっかり暗くなってからロンドに到着すると、誰かがご飯を作っている匂いがする。キッチンをのぞくと、先日、ラオスから帰ってきたというIさんである。いい匂いにつられてキッチンの椅子にそのまま座り込み、そういえばIさんの本棚のご本がとっても面白かったですよ、たくさん書き込みがあってね、なんて、他愛のないおしゃべりを始める。あの本によると、フムスってもともとひよこ豆で作るんじゃないんですってね、そら豆だって書いてありました、Iさんの持ってらした本に。へえ、そんなこと書いてありましたか。

そんな話をしていると、ノセさんが帰ってくる。ノセさんは下鴨ロンドの管理人である。あ、Iさん、このお米、少しもらってもいいですか? とノセさんが言う。あー、いいですよ、3合炊いたから。なんて話をしながら、誰ひとり上着は脱がないままである。なぜならこの家は、築92年の和洋折衷住宅で、びっくりするほど寒いから。そもそもぼろぼろの廃屋だったのを、シェアメイトが協力して修繕しながら使っている施設なので、隙間風がよく抜ける。よく見てみると、壁にはちょこちょこと穴があいているし、窓ガラスだって割れたままのところがいくつもある。カーテンはレールからずり落ちそうだし、冬はどうしたって寒い。京都は盆地だから冬はただでさえ寒いのに、下鴨は京都駅あたりからは標高が高いため、さらに冷え込む。いい匂いに惹かれてキッチンから離れられないというのに、寒くてしょうがないのである。

あ、うちのクローブ、たくさんあったから持ってきましたよ、とわたしがカバンから瓶を取り出すと、「クローブって何に使うんですか?」とノセさんが尋ねる。ノセさんは質問と合いの手の名手である。ああ、これはね、クリスマスパーティで作るカスレに使うスパイスなので持ってきたんですけどね。これ、釘みたいな形してるでしょう。玉ねぎに刺したりしてバラバラにならないようにしてから煮込んだりします。とわたしは説明する。へえー、クローブってチャイに使うくらいしかわかりません、ぼくいまチャイ練習しているんですよ、イベントで出そうと思って。ああ、これはね、あれですよ、ホットウィスキーに使えるんです。やってみますか? レモンをスライスするでしょ、そこにクローブ5個くらい刺してね。ウィスキー入れて、はちみつも入れてね、それからお湯を入れるんですね。と、わたしがクローブの瓶を片手に力説していると、Iさんが目を丸くして、「そうやってスパイスの説明をしているトダさんって、まるで媚薬の調合をしている魔女さんみたいですね」と言い始める。「あ、わかります!」と合いの手上手のノセさんがすかさず言う。いや、それは、わたしが着ているコートが真っ黒なせいではないか? と疑問を抱きながら、わたしは媚薬ならぬ、ホットウィスキーを作り始めている。

このクローブは、実家の調味料棚からわたしがサルベージしてきたものである。「実家の調味料棚」というパンドラの箱にわたしが手を突っ込み始めたのは昨年ごろからである。母が怪我をしたのをきっかけに、台所の主が母から父へと移譲され、少々整理が必要になったのである。それで賞味期限切れの調味料を捨て始めたら、賞味期限が20世紀のものまでがみつかって、びっくりした。クローブには賞味期限が書いてなかったのだけれど、実家では誰も使いきれなさそうなすごい量だったので、あちこちでもらってくれる人に押し売りしている。

びっくりするくらいの量、と言えば忘れられないのが、一番上の姉が17歳のときにもらったバラの花束、という話が、我が家では連綿と語り伝えられている。そのとき高校生だった姉の17歳の誕生日の夜、ピンポンと玄関ベルが鳴った。ようこちゃんのお友達よ、と言われて玄関に出て行った姉が抱えて戻ってきたのは、見たこともない大きなバラの花束と白い大きな箱。うわ、すごい、このバラ17本もあるよ、ときょうだいで数えてびっくりしていたら、箱から出てきたのは、三段重ねのショートケーキ。なにこれ、3段もあるじゃん! と弟妹たちがワイワイ騒いでいると、これ、XXが作ったんだって、自分で……と姉が言う。XXはケーキ屋さんの息子なんだよ、だから自分で作ったんだって、と姉は説明する。華やかな浮ついた話題に事欠かない姉ではあったものの、XXは彼氏でもないのに、すごいねぇ、と全員が度肝を抜かれてため息をついた、という話。

ここのところ、原稿が書けないので、パソコンと本を抱えて、近所のチェーンの喫茶店に来ている。窓際に並んだソファのひとつが空いていたので、そこに陣取って、パソコンを開ける。とある写真家の、夫婦関係から生み出された写真について書いているわけだけれど、他人の夫婦関係なんて犬も食わないので、もつれた愛憎関係について何を書けばいいのか、書いてはいけないのか、悩み果ててわたしは顎をつまんでいる。するとひとつあけた隣席の、わたしより一回りほど年上の女性の二人組が延々と誰かの話をしている。

ヤスコは考えなしで感情のままなのよ

へえ、ヤスコは考えなしなのか、と聞き耳を立てながらキーボードを叩いていると、年配の女性が続ける。

ケイスケはなんでもミズエにおっかぶせてさ。ヤスコがいろいろ言ってくれてもそれだから逆効果。あの人がもう独特だったからね、感情の明かし方とかさ。もう、すぐキレるしさ

ケイスケってヤバめのひとなのかな。DVとか、それってまずいじゃん

ヤスコもミズエをかばうしかない。だってヤスコにそれ言ったら、それしたらミズエを諭すようなこと言うと思うよ。ヤスコはなんとなくわかってるけど、口にしないんだなって。それにわたしとケイスケの間はね、変なことで誤解するのよ……(間は聞こえない)……ジジツはあったんだと思うんだけど

ん? ジジツ?

だから、ケイスケが勝手に貸してるみたいね、それはだってね、間の鍵も閉めてるけど、チェーンもしめてる。絶対勝手に入れることはない。それなのにミズエが……(間は聞こえない)……だから、ヤスコは心外だと思ってる。それにあたしだってずっと一緒にいられるわけじゃない。ほら、内容は恥ずかしくて話せないけどね、こんなながーいのがきてる……ヤスコが送ろうとしてやめた形跡があるのよ。びっくりしちゃうわよこれ

そう言いながら年配の女性が携帯を示す。ケイスケはだれのなんなのか、なにがびっくりしちゃうのか、気になりっぱなしで、わたしの原稿はぜんぜん進まない。

びっくりした、と言えば、久しぶりに古い友達から電話がかかってきた。「戸田さん久しぶり。S野です。お元気ですか」と懐かしい声である。「いや、ぼく、死にかけましてね」といきなり、びっくりすることを言い始める。「えええ!」と相槌を打ちながら、話が長くなることを予感する。彼とはじつに四半世紀ほどの付き合いで、いつも長電話になるので、電話を受けるときは覚悟するのだが、電話を受ける前にトイレに行かなかったことにすでに後悔しているわたしである。家人が電話を受ける家電なら、先にトイレに行くのだけれど、携帯電話というのはこういうとき不便である。彼の声が大きいので携帯電話から漏れていて、それを横で聞いている娘がすでに笑いを噛み殺している。娘は彼とほとんど会ったこともないのだが、わたしが彼の退屈なほど生真面目な話し方をよく口真似しているので、娘は彼を知った気になっている。

彼の常識人ぶりは、我が家で時々、話題になるほどのレベルである。彼は家電にコールする癖があるので、夫が最初に電話を受けることが多い。ある夜、電話がかかってきたのだが、その電話の鳴り方がなんだか生真面目な調子なので、どうもS野君ぽいなと思ったのだが、別室の電話を取るのが面倒で放っておいたら、夫が電話に出た。「S野さんだよ」と言いにくるだろうと待ち構えていると、夫がなにやら話をしている様子がうかがえる。あれ、夫の友達なのかな、と思ってそのまま忘れて30分ほど経過。すると夫が子機を持ってきて、「S野さんだよ」と言う。え、夫と面識もないのに一体なにを話していたのか、とびっくりしながら子機を受け取り、「どうしたの? 夫と何話してたの」と言うと、「ああ、世間話」と言う。面識もない友達の夫と30分も話すことがあるのか、とびっくりしながら、とりあえず1時間ほど話して電話を切る。話の内容が気になるので、その後、夫に「S野君と何の話をしてたの?」と尋ねると、「ああ、世間話」と言う。返事までまるで同じとは、彼の常識人ぶりには感染力がある。

このS野君と美術館のミュージアムショップをうろうろ歩いていたときのこと。ガンダム事典といった感じのとても大きな本がちょうど出版されていたので、「おお、ガンダムだぁ」とわたしが言うと、「おや、戸田さんガンダム好きですか」と彼が言い始める。「ええ、好きですよ、兄がガンダム世代だし。もしかしてS野君もガンダム好き?」と尋ねると「ええ、好きですねぇ」と言う。その言い方が、かなり好きそうな雰囲気を醸していたので、つい突っ込むと、やはりかなり好きらしい。「でもこの年になると、あれですよ、ミライの良さが分かるようになりましてね。若い頃はやっぱりセイラさんがいいってみんな思うじゃないですか。でもやはり、いいのはミライですよ」などとぶつぶつ言っている。

帰宅してその話を夫にすると、「えっ」と驚く。「だって、ミライってファーストガンダムのなかでは一番のモテ女じゃん」と言い始める。そう、ミライ・ヤシマは、親の決めた婚約者カムラン・ブルームから遁走して、ガンダムの若き船長であるブライト・ノアといい感じにデキかけているのだけれど、ファイター乗りの伊達男スレッガー・ロウ中尉に心奪われるが、ノアの陰謀(?)によって戦死してしまい、結局はブライトと結ばれる、という、ファーストガンダム随一のモテる女性なのである。ミライはセイラさんほどの美女でもなくお姫様でもないが、母性の強いタイプという感じで、言い寄られるとフラっとしがちな弱さも魅力で、なにしろモテる。そんなミライは、食べ物に例えるなら食堂のカレー、幅広くいろんな人に好かれるタイプなのに比べると、セイラさんは真逆。セイラさんは言わばキャリア志向の強い孤高の女性で、フラフラしてる男性には「この軟弱者!」と一括しながらつい平手打ちのひとつもお見舞いしてしまうような強い女性で、美女なのに浮ついた噂もひとつもない。だいたいさ、ミライはS野君にオトせるような女性ではないよねぇ、とふたりでニヤニヤしながら話している。「だいたい、どっちかってえとセイラさんタイプのわたしの前でそれ言うのって、わりと失礼よね?」と言うと夫「女を見る目がないな」と一刀両断。ちなみにS野君は独身である。

娘は最近、推しが結婚発表したので大騒ぎである。このふたりはきっと結婚する! と予想していたカップルであったので、娘は嬉しくて仕方がない。朝からスマホを眺めてはニヤニヤしている。すると突然叫び出す。「ニヤケ顔でFace IDが5回も通らない!」えっ、そんなことあるんですか。そもそも娘のニヤケ顔なんて見たことなかったから、こっちがびっくりである。

11月、2週間あまりかけてフランスに行ってきたので、ワインをよく飲んだ。トゥールの妹の家に滞在していた間、妹とその夫のフレッドともよく飲んでいた。「わたし、オーガニックの白ワインなら悪酔いしないんだよね」と妹が言うので「そうよね」と相槌を打ちながら「それにしても、昨夜はわたし一杯しか飲んでないのにだいぶ酔ったのよね」と言うと、妹「なに言ってんの、まあちゃん? わたしとフレッドであなたのグラスに注ぎ続けてたじゃん、わたしはたくさん飲まないしフレッドも赤を飲んでたから、あのワイン、ほとんどあなた1人であけたのよ」と言う。それは一体、どういう1杯やねん、とびっくり。

「かあさんの歌」という童謡がある。そもそも、かあさんが夜なべして手袋編んでたあいだ、とうちゃんは一体、何してたんだという問題について、夫と議論になったことがある。旧Twitterで投票を募った結果、298票の投票があり、最終結果は下記のようになった。

酒飲んで寝てた
23.8

出稼ぎで不在
31.5%

出稼ぎ先で酒飲んで寝てた
20.5%

死別
24.2%

「酒飲んで寝てた」「出稼ぎ先で酒飲んで寝てた」を総合すると44.35%という結果になった。結局、酒を飲んでいた、という、これは予想通りのびっくりではない意見が多かった。みなさん、飲み過ぎには注意しましょうね。

内視鏡フン戦記

篠原恒木

一年の始めにふさわしい話をしよう。長いので座って聞くように。

先日カイシャの血液検査で、腫瘍マーカーの値が基準値を超えていると言われてしまった。

血液検査なので、腫瘍マーカーの値が高いのが肺なのか、胃なのか、腸なのか、肝臓なのか、膵臓なのか、体のどの部分なのかが判らない。なので、ただちに内臓全般の精密検査を受けなさい、とのことだった。ウロタエルことはなかったが、やや剣呑な気分になった。何十年にもわたって「会社のガン」と言われ続けてはいるが、それ以外に自覚症状はまったくない。
可能性の高さからいえば、なんといっても肺だろう。喫煙歴四十六年、ショート・ホープを一日二十本吸い続けているという、きわめて意志の強いおれなのだ。意志の強さは時として致命傷になる。

精密検査マニアの友人に相談すると、すぐに内視鏡の名医を紹介してくれて、同時にCTスキャンのクリニックも手配してくれた。有難いことだ。

世の中にはいろんなマニア、オタクがいるのですね。
その頼もしき友人は各方面の病院、医師にやたらと詳しく、名医と呼ばれるヒトビトともツーカーの間柄だ。消化器官ならあそこの病院のナニナニ先生、呼吸器科ならここの病院のダレソレ先生、脳疾患ならそこの病院のナントカ先生、と詳細に教えてくれる。もちろん自分でも精密検査をあちこちで頻繁に受けているらしい。

おれはといえば「かかりつけ医」という存在がいない。通院しているのは前立腺肥大で泌尿器科、不眠症で精神内科、左膝骨壊死で整形外科といった按配で、どれも胃腸、肝臓、肺、膵臓などとは関連がない。泌尿器科で定期的に前立腺の腫瘍マーカーだけは調べてもらっているが、今のところセーフだ。

なので、ここは精密検査マニアの友人に甘えることにした。思えば人間ドックというものをこの二十年くらい受けていないし。

まずはCTスキャン。友人が口を酸っぱくしてアドヴァイスをしてくれたのは、
「肺から骨盤までの範囲で撮影してもらうこと」
だった。おれは素直に従った。このCTスキャンというやつは、ベッドに仰臥してバンザイして息を止めていればあっという間に終わってしまう。どうってことはない。結果は一週間前後で内視鏡の名医に送られるという。

次の日の朝は六時に起きて、電車、バスを乗り継ぎ、精密検査マニアの友人が予約してくれた内視鏡の名医のもとを訪れた。するとその友人が病院の入口でおれを待ち構えているではないか。不意打ちを食らったおれが、
「なんで? なぜここにいるの?」
と訊いたら、
「初診だもん。 一応、おれが先生を紹介しないとダメでしょ」
と言う。まさか六十四歳にもなって保護者付き添いで病院へ行くとは思わなかった。彼の生来の優しさに感動すべきなのか、彼の生来のマメさに感心すべきなのか迷ったが、有難いやら申し訳ないやらで身の縮む思いだった。

待合室で名前を呼ばれ、診察室に向かうと、友人はおれを追い越し、先にドアを開け、
「センセー、どーも」
と、慣れた口調でずんずんと部屋に入り、どっかと椅子に腰かけた。もう一脚、椅子があったのでおれはそちらへ座った。どっちが患者だ。
「センセー。こいつ、おれのダチなんすけど、ちょいと胃と腸の内視鏡検査をしていただけませんか。血液検査で腫瘍マーカーが高く出ちゃったらしくて」
友人はスラスラと医師に説明してくれた。おれがしたことは、カイシャに貰った血液検査の結果の紙切れをおずおずと渡すことだけだった。

内視鏡の名医は万事了解という雰囲気で、すぐ検査の日時を翌週に決めてくれて、検査前日、当日の注意事項を説明してくれた。

1.検査前日の朝食はお粥のような消化のいいものを食べるように
2.前日の昼食、夕食は腸の内視鏡検査用の特別食を渡すから、それを食べるように
3.夕食は午後七時までに摂り、午後九時に下剤を三錠、多めの水で飲むように

4.検査当日は検査の五時間前に水で溶かした下剤を二リットル飲むように
5.その下剤を一リットル飲むごとに〇.五リットルの水を必ず飲むように
6.すると便意を催してくるので、便が完全に透明の液体になるまで排便を続けるように
7.水のような便が排出し終えたら、来院して検査時刻まで待つように

病院を出て友人にお礼を言って別れたあと、おれは考えましたね。
おれの自宅から内視鏡の名医がいる病院までは電車、バスを乗り継いでおよそ一時間半かかる。ううむ、検査当日の朝が不安ではないか。検査開始は午前十一時と決められていた。ということは五時間前の六時に起きて、二リットルの下剤を飲み干し、トイレへ数回行かなければならないわけだ。すっかり便を出し尽くして、家を出発することは可能だろうか。大丈夫だと思って出掛けて、満員電車の中で突然の便意による憤死、いや、糞死する危険性は大いにあるのではないか。
友人は別れ際に言った。
「二リットルの下剤はキツイよぉ。ビールなら飲めるけど、水なんてそんなに飲めるもんじゃないからね。おまけに度重なる便意がスゴイんだ。おれなんて病院へ着く途中、あるいは寸前におもらしをしたことが何回もあるもんね」

その夜、勤めを終えて帰宅したおれはツマに言った。
「というようなわけなので、検査前日は病院からタクシーで十分ほどの場所にある安いビジネス・ホテルに前泊しようと思う」
ツマも全面的に賛成の意向を表明してくれた。そりゃそうだ、同居人が早朝からそんなピーピーと騒がしい振る舞いをするのは勘弁してほしいだろう。

そして検査前日。
朝食は自宅で素うどんを半分だけ食べた。昼食はもともと摂らないので、与えられた特別食はパスして、夕方の特別食はカイシャのデスクで食べた。レンチンするのが面倒だったので、レトルトの袋をちぎってそのまま食べた、いや、飲んだ。チキンの入ったクリーム・シチューだったようだが、常温で食べたので味の感想は避けたい。

ビジネス・ホテルに着いたのは午後八時だった。明朝必要となる二リットルのペットボトル「南アルプスの天然水」はホテルの隣にあったコンビニで購入した。ペットボトルはずしりと重く、こんな量を短時間で飲めるのだろうかと不安が募った。おっといけない、二リットルの水で溶かした下剤とは別に、水を〇.五リットル飲まなければならなかった。追加購入だ。ますますコンビニのレジ袋は重みを増し、プレッシャーは高まった。

ホテルの部屋に入り、ワンピース型のパジャマに着替えてベッドに腰かけると、おれは映画『ロスト・イン・トランスレーション』のビル・マーレイのような気分になった。もっともアチラはパークハイアット東京で、おれはといえば格安のビジネス・ホテルだし、アチラのようにスカーレット・ヨハンソンのような若い美女と知り合うこともない。だが、窓の外を見ると、別世界のような飲み屋街があり、ヒトビトがそぞろ歩いている。飲み食いしているのだろう。じつに楽しそうだ。なのにおれはこれから明朝十時までこの狭い部屋に絶食状態で孤独の籠城だ。待ち受けているのは『ロスト・イン・トランスレーション』のようなホテルのバーで飲むウィスキーではなく、下剤二リットルだ。もっともこのホテルにバーなどないけどね。

おれが映画のビル・マーレイと共通しているのは不眠症ということだけだ。家から持ってきた睡眠薬と精神安定剤を飲んで、午後十時半にはベッドに入ったが、眠れない。
言いつけ通り午後九時に服用した三錠の下剤が効いたのか、午前二時半と午前五時半の二回、トイレへ行き下痢をした。

午前六時、ろくに寝ていないおれだったがムクムクと起き出して、二リットルの水で下剤を溶かし、むりやり飲み始めた。
不味い。よく言えばポカリスウェットを濃縮したような味で、悪く言えば塩水の味だ。これを二リットル飲むなんて拷問ですよ。だが「便が完全に透明の液体になるまで」、つまりは胃と腸の中がきれいさっぱり、空っぽになるまで飲み続けなければ、内視鏡検査に支障が生じるわけだ。

結果を書こう。
おれは下剤一・五リットル、水〇・五リットル、計二リットルでギヴ・アップした。九十分間のタタカイであった。その間、そしてその後、おれがトイレに駆け込んだ回数は計十一回。三回目くらいから水のような便になり、五回目からは便座に座ると同時に噴水のような透明な水が肛門から勢いよく放射されるようになった。
「もう大丈夫かな、出し切ったかな」
と思うと、すぐに便意に襲われ、またまたトイレへ。六回目からはその繰り返しだった。特筆すべきは尿意がまったくなかったことである。おれは前立腺肥大なので頻尿傾向にあるのだが、そのおれが二リットルの水分を短時間で飲んだのに、おしっこはちょっとしか出なかった。とすると、あの下剤はすべて水グソとして放出された、という仮説が成り立つ。

「特筆」「仮説」などという単語を「水グソ」と並列して使わなくてもいいような気がしてきたので、話を先に進めよう。
「自信はないけど、もういいかげん出し切ったのではないか。てか、もうこれで勘便、じゃなかった、勘弁してほしい」
とヘトヘトになりながら思ったのは十一回目、チェックアウト時刻の十時ちょい前だった。慌ててホテルを出ると、ちょうど空車のタクシーが通りかかったので、それに乗り込み、大過なく病院へ着いた。検査開始時刻まで五十分ほどあるが、便意を催したら病院のトイレを借りればいい。幸いにも催さなかった。ホテル前泊は正解だったのだ。

やがて名前を呼ばれ、着替え室へと案内された。看護士さんは使い切りのショートパンツをおれに手渡しながら、こう言った。
「このパンツは切れ込みが入っているので、着替えるときは切れ込みが入っているほうがお尻に来るように穿いてくださいね」
なるほど、合理的ではないか。言われた通りに着替えを終えて検査室へ入り、ベッドに寝かされ、採血の注射、そしてそのまま点滴を受けた。先生が登場して、
「では始めましょうか」
と告げて、胃カメラからスタートした。さすがは内視鏡の名医、すぐに胃の検査を済ませて、続いて腸の内視鏡検査へと移る。

事件はこのときに起こった。使い捨てショートパンツの尻部分の切れ込みを見た医師は驚きの声を上げた。
「なんだ、穿いているの?」
そう、おれは着替えのときに自前のボクサー・ショーツを穿いたまま、その上から使い切りの尻割れパンツを重ね穿きしていたのだ。何のために尻が割れているパンツを与えられたのだ。阿呆である。看護士さんたちは笑いながらパンツ・オン・パンツという斬新なレイヤード・スタイルのおれから二枚のパンツを一気にずりおろした。その結果、おれの下半身は万座の前で完全露出してしまうという恥辱に晒された。穴があったら入りたいとはよく言うが、先生は穴があったのですぐ入れたようだ。

数分後、医師がこう言った。
「入っていかないなぁ。痛いですよね?」
麻酔がやや効いているのか、おれの返事は
「あい、いらいでしゅ」
だった。なんだかパンツの件といい、この呂律の怪しさといい、おれのココロは情けなさでいっぱいになった。
「痛いかぁ。じゃあ、麻酔追加」
医師は看護士にそう指示して、おれの意識はさらに怪しくなっていった。
「腸が人より長いですね。だから内視鏡が入りにくいんですよ」
普段のおれなら、
「チョー長いですか?」
と返すところだが、レロレロ状態になっているので無言を貫いた。

検査が終わり、三十分ほどリクライニングのソファで休むように言われたが、毛布が掛けられているとはいえ、下半身完全露出が気になっているおれは眠ることもできなかった。点滴が終わった頃、看護士さんが針を抜きながら言った。
「ご自分のパンツを穿いて、着替えたら先生の診察があります」
「かひこまりまひら」
まだ呂律が回らなかったが、自分のパンツを穿き忘れて着替えたら、それこそ完全な阿呆ではないか。抗議したかったがやめておいた。

診察室に呼ばれると、モニターを一緒に見ながら医師から次のような所見を述べられた。
「胃はびらんが多いですねぇ。けっこうな十二指腸潰瘍の痕跡もあったけど」
「いや、まったく身に覚えがないのですが」
「そうですか。自覚症状があったはずだけど、知らないうちに治癒したのかな」
ここでもやっぱり阿呆ではないか。
「腸にはたくさんポリープがありました。ほらね」
「ははぁ」
「これ。このポリープ。大きくて顔つきが悪いやつでしたから、これだけは切っておきました。一応病理検査に回しますが、こういうやつは放っておくとがんになるんです」
「ははぁ」
「次にCTの結果ですが、肺はきれいですね。ほら、こんなにきれい」
「はい?」
おれはTVドラマ『相棒』の片山右京さんの口調で聞き直したのだが、思い切りスベってしまった。しかしヘビー・スモーカーのおれの肺がきれいとは驚いた。軽い肺気腫あたりは覚悟していたのだ。
「肝嚢胞がありますが、これはまあ問題ないでしょう」
カンノーホー? 意味がわからないけど問題がないのならスルーだ。
「あとは心臓、膵臓、脾臓、腎臓、すべて問題ありません。前立腺肥大が認められますが、これは治療中ですよね」
「はい」
「切ったポリープに問題があるようでしたらすぐにご連絡しますが、まず大丈夫でしょう。何かご質問はありますか」
「そのポリープの正体はいつわかるのですか」
「二週間後くらいかな。その頃にもう一度お越しください」

おれはきっかり二週間後に病院へ行った。だって怖かったんだもん。
名前を呼ばれて診察室へ入った。
「やはり切除した顔つきの悪いポリープは放っておくとがんになるタイプのものでした」
「え、そうだったんですか」
「中学三年生、といったポリープですね」
おれは意味がわからずキョトンとしていた。
「いや、がんがハタチだとしたら、シノハラさんのポリープは中学三年生くらいの年齢ということです」
「中三だと食べ盛りじゃないですか。どんどん成長する時期ですよ」
「ははは。でも切除したから大丈夫。問題ありません」
「よかったぁ、助かったぁ」
「ひとまず安心してください」
「今度先生と僕がお会いするのはいつごろになるのでしょうか」
「来年の今ごろでよろしいかと思いますよ」

おれはややホッとして病院をあとにした。おれのポリープは中三だったのか、と思いを巡らした。中学三年生といえば年頃だ。多感な思春期だ。パンツを二枚穿きしてしまうかもしれない。急に反抗期になり、グレてしまうかもしれない。不良化だ。闇バイトだ。ニンゲンならともかく、そんなポリープを更生させるのは難しい。チョキンと摘み取ってしまうのがいいのだ。とりあえずはめでたしだ。

以上、おれの新年のご挨拶もチョー長かった。どうか今年もパンツと自由の意味は、はき違えないようにしましょうね。

麗蘭、京都

若松恵子

京都の蔵づくりの老舗ライブハウス、磔磔(たくたく)に麗蘭を聴きに行った。メンバーは、仲井戸麗市(Vo,G)、土屋公平(G,Vo)、早川岳晴(BASS)JAH-RAH(ジャラ、DRUMS)。RCサクセションの仲井戸麗市とザ・ストリート・スライダーズの土屋公平がお互いのバンドの休止期間に始めた麗蘭。1990年の結成依頼、磔磔は特別な場所だ。コロナでのお休みを経て、昨年から有観客での年の瀬ライブが再開された。

仕事の緊張をほどいて、日常を離れて、京都にでかけていく12月30日。大掃除をすませた京都の街並みが清々しくて、静かで、そんなところにも魅かれて通い始めて15年を超えた。今年の京都は観光客が多くてザワザワとしていたけれど、観光バスが止まらないような寺社仏閣はひっそりとして、磨きこまれた古い建物や庭の緑が冬の陽に光っていた。

ライブハウス磔磔も今年の春50周年を迎えた。有名なブルースマン、ソウルマンの来日ライブや日本のロックバンドの伝説的なライブを数々行ってきた場所だ(履歴を見てたらカラワン楽団もライブをしている)。蔵に音楽の神様が住んでいるから磔磔は音が違う、かつてメンバーがそう語っていた。磔磔の1年の最後のプログラムを任せられる矜持と責任、そんな事を感じさせる全力を注ぎこんだライブだった。

今年のタイトルは「ROCK&ROLL Hymn」。ロックの讃美歌だ。祈るのは愛と平和。アンコール前の本編終了後にビートルズの「愛こそすべて」が流された。終演後には、「ホワッツ・ゴーイン・オン」だった。世界の様子は、手放しでただ「イエー」って叫んで済ませられる状況ではなくなってきたのだ。ロックに打たれてしまった者としては、「戦争はしかたがないことなんだ」なんて決して思えないし、思いたくない。ビートルズが最初の衛星放送で歌ったように、「愛こそ」がすべてなのだ。ロックを聴いて得たその確信を、手放さずにいたいと思う。仲井戸麗市のなかにも、土屋公平のなかにも偉大なブルースマン、ロックスターのスピリットが流れ込んでいる。そのスピリットをもって演奏された「ROCK&ROLL Hymn」。愛と平和と言い続けるためにロックが必要だ。日本のために戦争が必要だと言い出しているかっこ悪いやつらと対峙する感性を持ち続けるために、あきらめずに本物のロックを聴く。

しもた屋之噺(276)

杉山洋一

このところ、夜が明ける前の、張り詰めた朝の気温は零下4度くらいでしょうか。真冬で食料も少ないのか、リスも小鳥も、朝になると餌をねだりにやってきます。幼気というのか、むしろ逞しさすら感じられる小動物たちの顔を眺めながら、あのCovidの時でさえ、粛々と新しい年がやってきたことを思い出します。ともかく誰かが、わたしたちの背中を前へと押し出し続けてくれているお陰で、今日に至るのです。

12月某日 ミラノ自宅
ジョージア政府、欧州連合加盟交渉の停止を発表。市民は激しく抗議している。この世の中に真実は確かに一つしか存在しないかもしれないが、真実の解釈はおそらく何通りもあって、各人が自らの解釈を信じている。その上インターネットの怪しげな情報と人工知能も入り雑じってしまって、最早真実の審判の基準すら揺らいでいる。われわれは強権政治は悪だと信じているが、あれだけ民主主義と欧州連合を切望したジョージアにあっても、着実に親ロシア勢力が議席数を増やしてきて、現実として与党の座を維持している。選挙に手が加えられているとも報じられているが、われわれのように外にいる人間は、どう理解してよいか俄かにはわからない。少なくとも、以前あれだけ戦ったロシアに対して、シンパシー、もしくは諦観を持って暮らしている市民が一定数いるということだ。それはウクライナでも同じだったのかもしれない。たとえ北海道の一部をロシアが実効支配していたとしても、ロシアにシンパシーを持ってより強い繋がりを望む日本人も出てくるかもしれない。

12月某日 ミラノ自宅
国立音楽院裏の中華風日本料理店で、Mと昼食。焼きソバもどきを食べる。彼も出版社で日本語版「ローエングリン」を聴いたらしい。
「本当にすばらしいヴァージョンだった。最初こそ、日本語で聞くローエングリンは不思議な気がしたが、いつの間にか我々を縛っていた「シャリーノ音楽」の固定観念から解放された、独自の確固たる音楽観が息づいていて、地に足のついた新しい音楽の在り方をしっかり生み出していたとおもう。しかし、あの歌手はなんて上手なんだ。初めて耳にしたときは、旋律がかった声の調子にショックを受けたのだけれど、いや、実際本当に美しいよ。長年バルトロメイの名演奏に心惹かれてきたけれども、今回の解釈は見事にあたらしい世界を切り拓いてしまった。それに、とんでもなく強靭な表現力だよ。実に素晴らしい…」。

12月某日 ミラノ自宅
本当に久しぶりにセレーナに会った。彼女は今年からベルガモの国立音楽院で室内楽を教えている。何も知らなかったが、彼女は、うちの学校から契約を突然打ち切られていて、一年間教職につけないまま、仕方なく国立音楽院の職を探したらしい。最初は南イタリアのマテーラ、そしてスロヴェニア国境に近いウーディネに移り、そして今回のベルガモに至る。今までは教えている音楽院の変更もある程度簡単だったが、教育省の方針が変わり、今後はずっと煩瑣になるらしい。ミラノからすぐ近くのベルガモに来られたのは本当に運がよかった、と安堵していた。数年ぶりに彼女に会ったが、表情がずいぶん穏やかになっていて、誘われるまま昼食を食べにいくと、Poke丼であった。海鮮丼の海鮮が減らされアヴォガドなどが追加してある、ハワイ版海鮮丼のようなもので、最近とても流行っているらしい。わざわざ食べたいとも思えず、今回初めて試してみたところ、決して嫌な味ではなかったが、わざわざ何度も食べたいものでもなかった。
韓国のユン・ソンニョル大統領が、非常戒厳を宣布。事情もよくわからないうちに戒厳令は撤回された。子供の頃、新聞を開くたびに、「全斗煥大統領」と「戒厳令」という二つの単語が躍っていたのを思い出す。

12月某日 ミラノ自宅
息子が、友人のGに伴奏を頼んで、国立音楽院のオーディションにでかけたところ、学外の伴奏者は演奏できないと言われ、その場で、学内の伴奏研究員があてがわれて、事なきを得たらしい。よく聞けば、学内の学生から伴奏者を探してはいけない、と正反対の噂も飛び交っているらしく、混乱を来している。
今日は、学校でレッスンをしていると、突然国立音楽院の指揮科生徒が訪ねてきた。ウクライナ人だという。ぜひうちのクラスにも通いたい、というのだが、今年の入試は9月に終わっているし、クラスに空きもない。そう説明しているのに、なかなか承服しないのに感心する。ブザンソン・コンクールを受けたいが、今年で年齢制限ぎりぎりなんです。初めて会う学生にそう嘆願され、当惑するばかりであった。
昨日も、オーケストラとのリハーサルがあったが、どうしてもテンポが遅くなってしまって、と言うので、メトロノームで練習してみたらどうかな、とささやかな助言をする。
シリア反政府勢力、首都ダマスカスを解放。アサド大統領、モスクワに到着との報道。家族と共に亡命を表明。

12月某日 三軒茶屋自宅
長谷川将山さんの「望潮」を聴く。曲としては何の仕掛けもない、まっさらな楽譜だから、演奏者の全ての行為が、そのまま音楽の構成要素となる。吹いていない時の無音の所作でさえ、空間に彩と音楽を放ってゆく。このリハーサルを聴いて、道山さんはふと「融」を吹きたいとおもったという。その後でプログラムを読み、この曲が「融」を基にしていると知ったときは、音楽のもつ不思議な力を感じたそうだ。平井洋さんの奥さま、尚英さんにお目にかかる。どこからみても心に曇りがなく澄んでいて、わだかまりのない人のことを八面玲瓏(れいろう)と呼ぶそうだが、尚英さんの印象こそまさに八面玲瓏であった。演奏会は両親と並んで座って聴いていたが、父曰く尺八は、山籠りの寂々たる一軒家から洩れ聞こえる、心洗われる音だという。
数日前、間宮先生が他界された。どういう成り行きだったのか、高校に入ってすぐ、作曲の先輩方が受けていた間宮先生の室内楽レッスンに、譜めくりの名目で繰り返し通っていた。バルトークの「2台のピアノと打楽器」やドビュッシーの「白と黒で」などをレッスンしていただいていて、時々先生がさらっと弾かれるピアノが素晴らしかった。レッスン中、いつもすごく緊張していたからか、その他のことは何も憶えていない。
アイルランドが、パレスチナの国家承認をはじめ、ガザでの戦闘に対し厳しい措置をとっていることへの反発から、イスラエルは、在ダブリンイスラエル大使館閉鎖を発表。

12月某日 三軒茶屋自宅
美恵さんから、長野から送られてきた美味しいりんごを3個いただく。浜野智さんが、水牛の本棚に入れてあった「ミラノ日記」と、最初期の「しもた屋」を、最近ロマンサー用に直してくださったので、また読めるようになった。文書でも写真でも楽譜でも、結局は紙媒体で残しておくのが無難には違いない。「しもた屋」を久しぶりに読み返すと、鬼籍に入った友人、先生方の言葉が並んでいる。たとえ、その時の肉声が録音として残っていたとしても、文字で読む彼らの言葉の方が、何故かよりリアリティが感じられる気がする。書いておかなければ、何も覚えていない。そう思って書きつけただけに過ぎないが、文字が静かな起爆剤になって、当時の空気の匂いから辺りの風景まで、魔法のように空間を再現してみせる。楽譜だって、それに近い効果はある気がするが、ここまで具体的ではないだろう。意味があるかどうかは考えず、とりあえず書きつけて、後は忘れておけばよいのだ。意味があるかどうかは、何年も経たなければわからない。
どこから来たのかは定かではないが、息子が賑々しく我々のもとを訪れてから、生活の端々で残す彼の言葉もなかなか奮っているし、感心することも多い。しかしながら、そのほとんどは、文字のなかに封じ込められているばかりで、こちらはすっかり忘れてしまっていた。それは息子に限らず、家族であれば、誰しも同じ経験をしているに違いない。営みというのは、かくも儚くうつくしい。夜、忘年会で、池辺先生が西村先生の残した五線紙について話していらした。

12月某日 三軒茶屋自宅
玉川上水の音大にでかけて、「自画像」について話す。Covidの際、火葬のために遺体を受け容れた市町村の長が、死者に敬意を表して鳴らした弔礼ラッパであったり、当時、街中で鳴り響いていた、低く悲しい弔鐘のヴィデオも流した。演奏を一通り聴いてから何か質問があるかたずねると、一人の妙齢が手を挙げた。「君が微笑めば」と同じ味わいがするのですが、なぜでしょう。
作品のスタイルも方法もまるで違うから、そこに共通しているのは、同じ人間が書いたことくらいだろう。「自画像」では半世紀に亙る人々の諍いを俯瞰したが、次回は一世紀もの人間の営みを、何某かの方法で書きつけたいとおもう。古代や中世の無数の叙事詩の作者たちは、書きながら何を思っていたのだろうか。世界中の無名のホメロスたちに思いを馳せる。
行きは高田馬場から西武新宿線に乗ったが、帰りは玉川上水からモノレールで立川に出て、南武線、田園都市線と乗り換えて家路に着いた。

12月某日 三軒茶屋自宅
家人の弾く、フィオレンティーノ編曲バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ。聴いていると、小学生のころ初めてこの曲を練習したとき、開放弦で同音を繰返してゆくところで、身体が浮遊する錯覚を覚えたことや、短調のフーガにふと浮き上がる変ロ長調のイタリア風断片が鮮烈だったこと、同音ペダルの連続が劇的で胸が一杯になったことなど、さまざまな触感が鮮やかに甦ってきた。10月に息子が弾くバッハを聴いたときは、音の芯が家人と似通った部分がある気がしたが、改めて家人のバッハを目の前にして、母子の個性の差がよく見えて興味深かった。
家人はバッハを弾くとき、敢えて少し音楽を先取りしながら、左手から音楽をつかんでゆく。息子は、どちらかと言えば、右手から音楽に入って、左手は右手を追随する感じだ。家人の左手が大胆に音楽の間口を広げ、右手はその広がった空間を満たしてゆく。そこには、彼女がタンゴから会得した感覚が溶け込んでいる気もする。
息子のバッハはよりストイックで、ひたひた音を紡ぎ出してゆく。ドラマティックな部分の作り方が、ずいぶん違う。
家人はプログラム後半、ヤナーチェクのソナタを弾いた。左手が個性的なオスティナートを繰り返すまにまに、右手が哀切に旋律を歌う。かき鳴らされる悲劇的な伴奏にのって、野太い歌手の声がひびきわたる。

東神奈川から横浜線に乗って町田へ向かった。誕生日に両親とつつく夕餉など、中学生以来ではないか。
海老などをていねいに詰めた海鮮揚げ春巻きが主菜で、絶品であった。父曰く、この春巻きだと、母も沢山食べられるのだという。美味しいシラスやタラコの煮つけ、山芋、数の子、伊達巻、黒豆、ごまめの佃煮も用意してくれていて、ちょっとした正月気分を味わう。今日くらいは一緒にケーキを食べたいと、自分のためにアップルパイを一個購入したが、到底全部は食べきれず、三つに切り分けてもらう。

12月某日 三軒茶屋自宅
JR渋谷駅から海老名行の列車に乗る現実を、浦島太郎の頭はどうにも受け容れられない。渋谷から海老名に行くのなら、新宿から小田急線に乗るはずでしょう。東京の地下鉄も複雑だが、渋谷から東横線に乗ろうとして、また海老名行とか書いてあると、頭の中の地図が混乱して、理解を拒否してしまう。
渋谷から3駅、ほんの数分で西大井に着くのも、皮膚感覚としてしっくりこない。だから理解せずに、ただ乗車して下車するだけ。観光客と変わらない。西大井駅前の江南料理屋で肉をぬいてもらって、酸辣湯麺のランチを食す。美味。

夕方久しぶりに仙川にでかけた。昔、ここで自分が過ごしたのと同じ年代の学生たちが、当時よりずっと明るい服装をまとって、洗練され現代的な校舎に佇んでいる。6人の作曲受講生の作品を実演してもらい、作品と演奏について意見をいう。そのうち2人は中国からの留学生だったが、日本語が上手なのに驚く。そのせいか、ミラノで教えている中国人留学生とは、まるで違う印象を受けた。
2週間ほど前、ミラノ国立音楽院声楽科教師4名が在宅起訴決定と報道された。「イタリア語でのコミュニケーションに不自由な学生に関し」一人につき9000ユーロ(150万円弱)から12000ユーロ(200万円弱)を要求し、不法に入学を幇助、とあった。「伊語の不自由な学生」が、中国からの留学生を意味するのは、イタリア生活の皮膚感覚があれば、なぜか理解できてしまう。「中国人留学生」と書くと人権侵害などの問題があるのかもしれないが、この書き方にもヨーロッパ人の嫌らしさが垣間見られる気がする。
仙川の中国人留学生は、日本語が出来るからか表情も明るく、楽観的にも見える。間違いを指摘しても「ああそうですね!」「ああ、間違えていました!」と楽しそうにしていて、見ていて気持ちがよい。
ミラノの中国人学生たちは、イタリア人を初め、ヨーロッパ人とあまり積極的に交わらない。国立音楽院でも市立音楽院でも、みな中国人同士集っている。指揮の生徒のシャンシャンは、空いた時間は朝から晩まで中華料理屋でアルバイトしているらしいが、学費、生活費を捻出しなければならないとは言え、さすがに本末転倒で可哀想でもある。何しろ中国人コミュニティがしっかりしているため、イタリア語の上達も遅れがちである。
尤も、イタリア生活の長い日本人の同僚曰く、「まあ日本人留学生も、その昔は同じようなものだったけれど」と自嘲した。イタリア語など話さなくとも、レッスンには日本人の通訳が毎回ついていて、袖の下で入学試験で便宜をはかって貰うこともあったという。日本人の羽振りが良かった頃の話だ。同じアジア人の日本人の中にいるほうが、中国人もより溶け込みやすいかもしれない。

演奏学生の演奏からは、こんな感じかしら、と全体の雰囲気をつかんで演奏している印象を受けたが、30年近くイタリアに暮らしていて、自分の音符の読み方も変化していたことに気づく。イタリアの読譜からは、音符の周りの「こんな感じ」というアソビがすっかり削ぎ落されているから、だからこそ見えてくる風景もある。音符の裡に感情をこめず、空間に放たれた音に気持ちを乗せてゆく感じだ。
作曲学生の作品からは、言いたいことを大胆に表現する上で、え、本当に良いのですか、という薄い当惑も感じることもあった。彼らの不安に対して、ええ勿論、良いのですよ、と明るく受け止めるのが、我々年長者の本来の役目なのだろう。

学校だから、あまり羽目を外したことも言えないが、あまりバランスよく音楽を作りすぎると、可もなく不可もない、個性のない音楽として見過ごされてしまう危険もあるから、注意は必要だ。
楽譜のはじめに、テンポこそ数字で指示してあるものの、表情や情感の指示は殆ど書かずに、演奏者の好みに頼っていたので、もう少し情報を増やすようにお願いする。日本語でていねいに指示を書き込んでいた学生には、下手でも構わないので英語なり、ヨーロッパ語で書くことを勧めた。ヨーロッパ語での説明を自らに課すことで、頭の中がより単純で簡潔になり、表現もより演奏者にわかりやすくなる。

12月某日 三軒茶屋自宅
何人もの若い演奏家たちを、かくも無責任に眺めつつ思う。自分にとって、演奏家の魅力は、正しく弾けることでも、速く指が回ることでも、暗譜で弾くことでも、ひとより大きな音が出せることでもなかった。モーツァルトでもシューベルトでもベートーヴェンでも、普通に演奏を聞いて魅力を覚える部分が、表面上のスタイルは違っても、やはり同じように演奏者の魅力として、体の中に沁みとおってくる。それは身体の周りを包み込む、透明な「気」のようなもの。無色のガスの中から、きめ細かい産毛のような繊毛を一本ずつ抽出して、絢爛な見事なガウンを編み上げるのだが、そのガスは生あたたかく、そこはかとなく人肌すら感じさせる。
これを纏って音を出すとき、舞台で弾いている音楽は、空間を介さずに、直接こちらの体内に染み入ってくる。これを纏って弱い音を弾かれると、こちらの身体も微妙に震えて体の底で共鳴する。纏わずに音を出すと、ただの弱い音にしか感じられない。催眠術のようでもある。田中吉史くんに会った。彼らしい思慮深さに溢れる素敵な音楽。

12月某日 三軒茶屋自宅
今年は本当によく働いた。しかし、物事を考えたり掘り下げたり一人でぼんやりしたり、周りを削ぎ落して尖らせてみたり、どれも全くできなかった。その代わり、ちょうどケバブ肉のように寸胴で回転している「思考」は、どんどん周りに過剰な養分を蓄えてゆき、原型さえ判然としないまでになっている。ところが、この年の瀬ほんの数日床に臥しただけで、5キロ近く体重が減って何となく頭もすっきりした。人間の身体は、強靭でもあり柔軟でもある。明日当方がミラノに発つと、その翌朝には入れ替わりにミラノから息子がやってくるので、年末の大掃除を兼ねて、少しずつ休みながらあちこち磨き上げた。
床に臥せていた時、アッバード、スカラ座とモンセラート・カバリエのヴェルディ・レクイエムのリハーサル風景を目にして、思わず泣いてしまった。急激に体力が落ちていて、涙腺ももろくなっていたのだろう。全身で音楽を紡いでいる彼らに対して、心の底から全幅の感謝をおぼえると同時に身体の底が震えて、何かが次第に身体の表面に沸き上がってくるのを感じた。ふと、気が付くと眼球の端から液体がこぼれていた。
この素晴らしい音楽に触れられるという幸福に、ただ感謝したい衝動。体の奥底で突き上げられるような、滾っているマグマのような、これは何なのか。誰なのか。
この瞬間に自分を生かし、音を響かせ、感情の本質を身体の芯に共振させている何か。音を五線紙に書くとき、信じられるのは、このおどろくほど静かな激情のみ。

12月某日 ミラノ自宅
夜23時半過ぎ、最終のローマ・ミラノ便でリナーテ空港に到着する。着陸態勢に入って高度が下がってくると、ミラノの街並みは、ちらちら、めらめらと橙色に燃え立っていた。猛暑の日中、アスファルトから水蒸気が立ち昇って、街が蜃気楼にゆらめくように見える。それを反転させると、冬の真夜中、澄み切った零下の街並みが、暗めの街灯のまにまに儚い輪郭を伴って浮き上がるのだ。果たして、このかそけく明滅する無数の蛍光の正体は、各家庭が用意したクリスマスの電飾であった。気のせいか、昨年よりも少し賑わいが戻った気もする。
家に着いて、紅茶を飲みながらニュースをつけると、カザフスタンで、アゼルバイジャン機墜落のニュースがかかった。カザフスタンも、アゼルバイジャンも、ついさっき通ってきたばかりだし、今頃息子の搭乗機もカザフスタンを出るか出ないかくらいのはずだから、無意識に身体が強張る。同じようにこのニュースに反応した人は、自分だけではないだろう。
ロシア上空が飛行禁止になって以来、日本からイタリアに戻る便は、とても飛行時間が長くなった。いつまで経っても通過しおわらないカザフスタンは、なんて大きな国なのだろうと感心していて、アゼルバイジャンあたりで、ああ漸くヨーロッパが見えてきたと安堵するのが常だ。周辺国では飛びぬけて先進的なはずのアゼルバイジャンで、一体何が起きたのか。

12月某日 ミラノ自宅
零下4度ほどの朝、いつものように運河沿いを散歩しながら、朝焼けに真赤に染まる街並みに見惚れる。藤城清治の影絵とまったくおなじ色調。もえるような巨大なキャンバスに、精緻に書き込まれた家々の屋根が、漆黒の複雑なシルエットになって浮き上がる。
渡邉理恵さんが指揮した、ケルンのデヒオ・アンサンブルの録音を聴く。ファルツィア・ファラアの「いっしょにim selben augenblick」。一見すると短音とその余韻に耳を傾ける時間が続くだけにも見えるのだが、思いがけず、なめらかに続くフレーズ作りの妙に思わず感嘆した。指揮者に見えている風景や方向性が、そのまま演奏に反映しているのがわかる。俯瞰される構造と、ファルツィアらしく、拡大鏡で収斂点の奥底までみせるような、透徹な視座が同居している。
ファルツィアは、自分がテヘランにもどることは出来ない、イランにとって自分は招かざる人間だからと言っていた。そのテヘランでローマのジャーナリスト、チェチリア・サーラが逮捕され、悪名高いエヴィン刑務所に収監されたとの報道が過熱している。逮捕の理由は詳らかになっていない。チェチリアは、イランで虐げられている女性たちの声を集めて、取材をつづけていた。逮捕の前日は、活動を制限されているイランの女性コメディアンを取材していたとの報道もある。
チェチリアは、23年とあるインタビューでこう語っていた。「恐怖と狂乱(パニック)との間には、根本的な違いがあります。恐怖は、ある意味で有益といえるでしょう。なぜなら、自身を守り、集中を助け、目と耳からはいる情報量を高めることから、あなたへの弊害を少しでも減らすことに役立つからです。狂乱、狼狽は、自分が置かれている状況に対して、あなた自身をより危険に曝すことになる」。
アゼルバイジャン機、ロシア軍の防空システムにより撃墜との報道。10年前の7月17日には、マレーシア航空17便がウクライナドネツク州でロシアの防空システムにより撃墜されている。
韓国チェジュ航空機、胴体着陸で炎上。想像を絶する絶望と戦いながら、最後の一瞬まで操縦桿を握りしめて離さなかった航空操縦士諸氏に対し、心の底から敬意を表する。

(12月29日 ミラノにて)

むもーままめ(44)ファミレスで朝食を、の巻

工藤あかね

今朝はファミレスで朝ごはんを食べようと思って大晦日だからお掃除しなくちゃいけなかったかなと体質に合わず着られなくなった洋服が積んである山を思いながらチーズトーストを食べてパンケーキも食べたかったなああそうだ私は茶色いいふかふかの毛の生き物好きなんだったスズメもかわいい鹿もかわいいうちに昔いた猫娘は茶色だったかわいかった毛は最後の方ボサボサだったけれどそれでも世界一かわいかったキャットフード食べる男の話を本人から昨日聞いてそれが耳に刺さってわたしもうちの猫娘と同じご飯食べたらもっと楽しかったかなとか想像していたらその人は毛艶が良くなったらしいたぶんタウリンのせいだから目もキラキラしていたはずなのだよ世の中のアイドル歌手はみんな猫ちゃんと同じご飯を水曜日に食べるといいよという迷信を考えたけど誰も実行してくれないやってくれるのは誰だろうそうだ掃除をしようと思ってお風呂の洗剤とか買ったけれどあれ別に今日お掃除しなくていいよねそれに31日にお掃除するのはダメって聞いたことあるから今日はやっぱり働いたりしないでダラダラもしないで昨日のご飯なんだったっけ一週間前に何食べたっけ1ヶ月前に何食べたっけ一年前に何食べたっけと考える方がいいかなと思ってだった生きるは食べること食べる力は生きる力と思って大量のチョコレートを出したけどかわいいなで終わった可愛すぎて食べちゃいたいっていうのも大人になりすぎるとかわいいけど食べなくて良くなるんだ大人になりすぎるとわたし大人かなたぶん記号はそうなのだろうけど本当にそうなのかな膝ぶつけると痛くて涙出るよ小さな子がふざけると私も大笑いするよよその赤ちゃんとも気が合うよああさみしくなってきたいつこどもじゃなくなったんだろう境目がわからないもしかして一年が早く感じられるようになったからそれなら今年は早かったどうやって生きてきたかわからないくらい働きまくったそうか働くから大人なのいやちがう働く子供も世の中にいっぱいいるよあと2分で年越しだ八巻さんにはやく送らなくっちゃ

巳年と金運

冨岡三智

年末に風邪をひいて寝込んでしまい、なんとか大晦日に体を起こしてあまり回らない頭で書きました…。本年もよろしくお願いいたします。

2025年は巳年ということで、インドネシア語で「巳年」を検索してみたらちょっと面白い発見をした。インドネシアも2000年以来中国文化が解禁されているから、この時期、雑誌や新聞には干支の話が掲載されるようになっている(その辺の事情は前の巳年である2013年1月号「ジャワと干支、巳年にむけて」に書いた)。ところが、6,7本記事をざっと見たけれど、巳年に金運アップとか、巳年生まれは金運に恵まれるという説明はどこにもない。ということは、中国では巳年と金運は特に結びついていなかったのだろうか。日本で生まれた意味付けなのだろうか…。それからインドネシアでは単に巳年であるというのではなく乙巳(きのとみ)年(きのと=木の陰の巳年)であると必ず説明されていて、その乙巳年の運勢が書かれていることにも驚く。もともと60年で1周する暦だからその方が正しいのだけれど、日本では一般的には十二支の方だけしか注目されないなあとあらためて認識することになった。

荷、

芦川和樹

ブラックバード棒がアイスに
なって?木
愉しい、木
公園横目図書室と図書館の結び目
アイススケートで伺います
その、木
カップケーキに冬、雪が積もってロウソク
など立てて、ああ暇を、暇はあるんだけど
おだやかな惰眠むさぼるウーとかムーとか
騎馬木馬は抜群のクッションで怪我しない
ぜ、とか、快適な暇でありたい。ぜ、洗顔
乾燥する肌に、肌にとって膜であるように
(いいやりかたを考えましょっか。セリ、
ナズナ。クエン酸を。再生するのさ、とき
どき)抱負を。
木の、真似をして
横になっている
横を縦としている
ごろごろしていればしあわせであるたいぷ
の、人で
いいでしょ、いいでしょ
冠を、かんむりを、机に置いたのだったか
椅子に置いたのだったか。鼻をかゆくする
空調空港嘘。掃除が
終わらない、終わる掃除なんてないからな
いいか食器ども、木
ふき
山菜、窓拭きの

固めた煙は、ほどけば粥になる
とき、時間の、とき
それから溶けていく、ゆく
メレンゲを枕に。枕でなくても、耳を包む
装備として、見て、木
その木をツリーと、いっ/昨日
(きのう、おととい)
間に合わなかった、クッキー缶
を、求めていま、列に並んでいま、す、か
予定では、沈む底金色に、錆びた荷、

に、

吾輩は苦手である 6

増井淳

 リンゴが安くなってきたので、Instagramに載っていたレシピを見ながら米粉を使ったケーキを焼いた。
 材料をきちんと計って手順通りに焼いた、と思っていたのだが、米粉を溶いた液とリンゴをからめるのを忘れてしまい、焼き上がりのリンゴがパサパサになってしまった。
 
 こういう失敗をたびたびやってしまう。

 ケーキを焼く際にはあらかじめオーブンをあたためておく。十年ほど使っているオーブンには予熱機能があるのだが、マニュアルを読むのが面倒でその機能を使ったことがない。
 
 吾輩はマニュアルとかレシピ通りにものごとを進めるのが苦手だ。

 先日もグラタンを作ったのだが、鍋にバターを入れて火をつけ、きざんだ玉ねぎを入れるまではうまくいったが、どこで塩・胡椒を振りかけるかわからなくなってしまった。月に一度くらい同じものを同じレシピで作っているのにこの始末である。
 この原稿を打ち込んでいるパソコンは、数ヶ月前に買い替えた物。その時、古いパソコンからデータを移したのだが、画面に出ている指示と違う操作をしてしまい、なかなか作業が進まなかった。
 今年になってスマートフォンを使い始めたが、おもに猫の写真を撮るだけで、電話もロクにかけられないし、かかってきた電話にもどう出るのかわからない。知人にLINEをすすめられたが面倒でやる気にならない。迷惑メールがたくさんくるのだがどうしたらいいのかわからない。「スマホ かんたんガイドブック」なるものが手元にあるのだが、読む気にならない。読んでもその通りにやる自信がないのだ
 今日は運転免許の更新に警察に行ってきた。更新手順が掲示されていたのに、手順をまちがってしまった。さらに、新しい免許の受取の際には「名前でなくお渡しした紙に書いてある番号でお呼びします」と言われていたのに、それを忘れてしまい、自分の番号が呼ばれたのに気づかなかった。
 思えば教科書というのが苦手だった。学校の試験などは教科書を暗記すればいい点数がとれる。しかし、教科書に書かれていないことが気になり、まるごと覚えることができない。
 これではまるで小学生以下である。
 よく今まで生きてきたなあとじっと手をみる。
 我ながら情けない。

 子どもの頃から、指示された通りにものごとを進めることができないのだ。
 つい違うことをしてみたり、脇道にそれたりしてしまう。脇道の方がたのしそうだし、決められた筋道を通ることはきゅうくつに感じてしまうのだ。
 そもそもマニュアルとかレシピ通りに進めるなら、機械でもできるではないか。
 指示通りに行かないのが人生というものだ。
 ケーキがうまく焼けないのは困るのだがね。