真っ黒の金魚(上)

イリナ・グリゴレ

彼女に会いに行った日は、史上最高の積雪で、しかも吹雪だった。街から離れたセメント工場の裏の木造パートまで、りんご畑と田んぼの真っ白で真直ぐな道を1時間かけてゆっくり走る。白とは目を射すような美しさで全ての汚いものを祓うと感じる。でこぼこ道にハンドルが取られないように、何も考えず真剣に真っ直ぐいく。宇宙の旅のように。真っ黒ではなく真っ白の背景の中に飛ぶ。潜る。泳ぐ。彼女の腕の半分を覆っている金魚の入れ墨を見た瞬間、私が走ってきた真っ白な背景を思い出し、全ては繋がった。雪景色の中では私ではなく、まだ出会ってない彼女の腕の真っ黒の金魚になって泳いでいる気分。彼女は綺麗な人だ。人は身体のどこかに魂をぶら下げる。ほとんどの人が気づかないように。小さな傷、ホクロ、指輪、ネックレス、真っ白な犬のぬいぐるみのキーホルダー。彼女の場合、腕に真っ黒の墨、黒いあざのような金魚。自由に吹雪いているこの田んぼとりんご畑の中で泳いでいるとしか思えない。アザに見えたのもいつか私の腕にあった鮮やかなアザとよく似ていたから。肌が白いとアザは黒から紫になる。でも顔にない限りほとんどの人が気づかない。誰も知らない、彼女の抵抗。

彼女に何があったのか分からないが、あの金魚の入れ墨は彼女の人生を語っている。だからどんなに吹雪いていようとも彼女に会いに行く。アパートの駐車場はすでに湖になっていた。白い雪をずっと見続けると雪が水だったことを忘れるので一瞬驚く。私の雪靴は北国に向いてない。水の中を歩くと足首から水が入る。それでも迷わず小さな湖の中に歩いていくが、不思議に嫌ではない。水で足を清める感覚だ。地球の70%以上は水でできている。水は違う状態で、水蒸気、雪、氷など同時にあるのもたぶん地球だけだ。自分の身体の中の水を想像して、金魚など泳がせたくなる。透明で、大きな容器。身体で 水生生物を育てたい。水草を特に。それとも、沈水性の水草、単子葉植物のイバラモ科、ヒルムシロ科など、マツモ科やアリノトウグサ科など、それほど多くないので身体で育てたい。ハスの花が咲く時だけ身体が鮮やかになって、服も化粧もいらない。それ以外、咲かない時期は沼のような身体でいい。ハス、スイレン、ボタンウキクサ、ヨザキスイレン、ニシノオオアカウキクサ、オシツリモ、セイロンマツモ。ミレーのオフィーリアをよくみると、あの花は彼女の身体から生えている。モネが女性の身体を描く代わり直接に睡蓮を描いたのもよく分かる。

ブカレストの地下鉄の入口でハスの花を売っていたジプシーのおばあちゃんたちがどれだけ羨ましかったか。欲しかった、あの薄いピンクのハスの花が。今になってやっとわかった。あれは自分の身体で育てていた花だ。ジプシーの女性にしかできない。私も今からやってみる。自分の身体も水だから、沼だから。中に蛙も育てみる。ウシガエルは日本の田んぼからいなくなったので自分の身体の中でもいい。あげる、蛙に。自分の身体を。でも一番育てたいのはアマガエルだ。南米のアカメアマガエルがいい。目と手が赤いから。飴のように。蛙の生態に詳しくなりたい。蛙の卵は綺麗だ。私も女の身体で妊娠でなく卵をうめればいいと思った。子供の時、何時間もヒキガエルの卵を家の近くの水溜りで観察していた。家の裏に沼があって、小さな魚と蛙をよく見た。ハスの花が咲いていなかったのが今にして思えば不思議だ。環境は揃っていたのに。何かに抵抗していたとしか思えない。

どんな環境であっても女性の身体はよく抵抗している。この前に学生に見せたハマー族の女性の結婚式の映像を思い出した。「ハマー族シリーズ」と呼ばれる、BBCが1990年に作ったドキュメンタリー映画の中の一つ。女性監督はエチオピアのハマー族の女性を撮影し、インタビューして彼女らの生活に密着した稀な映像。学生に「微笑む女」と「狩りにでる二つの女」しか見せてないけど、この二つを見たら一生分の考え事ができる素材である。

ハマー族には女の狩りと男の狩りがある。男は象とライオンなど大きな動物を狩りしないと一人前になれない。獲物を仕留めればみんな喜ぶ。しかし、女性の狩りとは結婚のことであって、それは悲しいことであり、ほとんどは親族が決めた見合い結婚で、自分達で相手を決めるわけではない。女は微笑み、従うだけ。男性がどれだけ暴力を振っても。ハマー族ではDVが普通なので、結婚したら必ず。若い女の子たちはインタビュアーに向かって微笑みながら、絶対嫌だ、結婚したくないという。このシーンでいつも注目しているのは彼女らの顔つきだ。ハマー族の女性たちの抵抗は表情に出る。女優でもない一般的なハマー族の女性たちがここまで表現できる。映像の力があらたためてこの世界には必要だと感じる瞬間。彼女たちはものすごく嫌な顔をする。特に年配の男性にアドバイスされるときの顔。

二人の女の子の結婚式は、細かく映されることによって、通過儀礼の意味を超えるような儀式となる。まず花婿はいない。最初は姑しか登場しない。花嫁の身体を黄色の泥で塗って清める。そして村の外を案内し、花婿の家へ行く道の淋しさは映像の中から溢れて、青森の吹雪となるような感覚。向こうの家でも姑に泥水とバターが塗られ続けて、髪の毛が剃られる。決められた時期のあいだ花婿と喋ることも目を合わせることもできないままだが、彼女は取材のインタビュアーにちゃんと答えて、泥もバターも思ったより痒くないとコメントする。家畜を放牧する村から離れた若い男性の集団の中に花婿がいて、牛の方がまだあったことのない人間の女性より恋しいという。

戦前の日本と同じように、ハマー族の間でも結婚前の妊娠や、障害がある子供が生まれると、その子は水子になっていた。日本では川に流されることが多かったそうだ。先日見た夢ではそうやって生まれたばかりの赤ちゃんが、へその緒がついたまま浅い川にゆっくり流れている夢を見た。あまりにもリアルで起きた瞬間にベッドに川が流れていると勘違いして、足が濡れていると感じた。水子のテーマでずいぶん前から論文を書きたいのだが、なかなかできなかった。水と子宮、へその緒と女性の身体、血と水。夢の中では川の流水に鮮やかな血が薄められる瞬間を見た。この経験は女性にしかない。流産もそう、中絶も。

私の母を思う。私の、生まれてない水に流された二人の弟の顔を、ずっと想像する。AIに昔の自分を描いてと頼んだら、私と弟にそっくりな、まだ会ってない私たちの弟たちの顔を見せてくれた。このテーマで私はずっと苦しんでいる。黒い金魚が雪景色の中で泳いで、恐山まで辿り着く。この前、たまたま女性が参加するポッドキャストを聞いていたら、流産の経験を語る女性がいた。自分の子供をトレイの水で流したという。ルーマニアでは妊娠中の女性は聖母マリアに次いで聖女エカテリナにも祈りを捧げている。彼女の人生も雪の中で泳ぐ炭より黒い金魚のようだが、男性への抵抗の象徴的な人生でもある。

一回性という「眩暈」

越川道夫

この冬が例年に比べて寒いのか暖かいのか、自分ではさっぱりわからない。携帯電話の写真のリールにはずっと撮り溜めている植物の写真があって、例えば昨年の今頃、私の住む辺りではもう水仙が白いのも黄色いのも随分と咲いているようなのだが、今年はまださっぱりである。蝋梅もちらほら咲いていたようだが、この冬の蕾はまだ固く閉じたままだ。一昨年の写真を見れば、霜柱が立ち、池の氷も張っているのに、日当たりの良い場所ではオオイヌノフグリが咲き始めている。起きるのが遅いだけなのかもしれないが、今年は霜柱もろくに踏んでいなければ、池に氷が張ったという話も聞かない。にもかかわらず、どんなに路肩を覗き込んでも、オオイヌノフグリが咲く気配は全く見えない。毎年のこの違いが楽しい。うちの方ではさっぱりですが、このあたりはずいぶんと咲いていますね、などという会話ができるのもいい。考えてみれば当たり前なのだけれど、花が咲くとか咲かないとか、今年は早いとか遅いとかは、ただ単に気温が高いとか低いとかそういうことだけではないのだろう。気温や日当たり、湿度、土の状態、個体差もあれば、人為的な何か影響もあれば、前年の種のつき方などさまざまなものの働きかけによって、今、このような状態になっているのだから。
 
「このようにして、様々な気候、季節、音群、色彩の群れ、闇、光、元素群、養分、ざわめき、沈黙、運動、休止、それら全てがわれわれの身体という機械そして魂に働きかけている」と書いたのはルソーだったか。この総体を私たちは「一回性」と呼ぶのだろう。若い頃、映画館で35mmフィルムの映写技師をしている時、何度「同じ映画を映写」しても、一度も「同じ映写はない」と感じていた。「もの」であるフィルムは、「その日」の気温や湿度や、様々な条件に影響され、それはやはり「もの」である映写機やスクリーンも同じことで、しかも映写機から出た光が通過する映画館の中の空気もまた、というわけで、スクリーン上の「像」はその度ごとに艶や見え方が違うし、音も聞こえ方も違う。このような諸条件の「総体」が、と言ってしまえば一言で済んでしまいそうだが、この諸条件の組み合わせは無限にあり、完全に一致する、ということはない。例えば、1、2と数えた時に、その1と2の間には無限の階調があり、数値で何かを考えることは、必ずその数値と数値の間にある階調や揺らぎを無視することであり、どんなに数値を細かくしたところで、その数値と数値の間には隙間があって、そこにはやはり無限の階調があり、決して数値的に捉え切ることはできない。だから「総体」などと言って澄ましているわけにはいかず、「一回性」を考えるということは、まるでブラックホールに吸い込まれてしまうような「物事の奥行き」に、その深淵に眩暈を起こしながら対峙する、ということではなかろうか。
 
携帯電話の写真リールは、日記を言葉で書くことができない私にとって、ある種の日記の役割を果たしてくれている。去年はもう咲いていたのに今年はまだなのだな、とか、去年はあまりカラウスリが実をつけなかったが今年は、とか、その気が遠くなるような「一回性」に思いを運んでくれるのである。そして、今日もまた近隣の林を歩きに行き、その道道の路肩にしゃがみ込んでは植物を撮り、野良猫たちを撮り、空や樹樹を見上げては写真を撮る。なぜ撮るかに関してはいろいろあるのだけれど、また。ただ、数年前、自分を含めて人間の愚かしさに愛想が尽き、もう人間は撮らない、と決めたのだ。今また、それを強く思わざるを得ない。映画の仕事をしていれば人間を撮らないというわけにはいかないので、もちろん個人的にということになるのだが、あまりにも植物を撮る時と人間を撮る時の密度が違う、と笑われたことがある。私にとっては植物を愛するように、人間を愛することができるかという課題を得たわけである。

発見の道

高橋悠治

未来はわからない。そこがよいところかもしれない。音楽は作られ、演奏され、あるいは即興される。どれもその時の刻印が押されている。楽譜に書かれた音楽は、記号の集まりとして残される。それらを読んで音に変えるには、その時代のやり方がある。それを時代のスタイルと呼ぶなら、それがあるから同時代の人びとと共有できる音楽も、時が経つと、スタイルが共感を妨げることになる。

同じ記号から別の何かを読み取ることは、どんな音楽でもできることではないだろう。その時が来ないうちに、違う読み方を思いつくわけにもいかない。記号の意味とは別に、それが読まれるニュアンスの、ほとんど気づかない小さな違いに、全体を変えてしまう発見が隠れていることもある。それは論理ではなく、身体の「揺れ」、「揺らぎ」、呼吸の波に乗って漂うような動きになって顕れる。

音楽をする前の準備、楽譜や楽器、手や身体の動き、音やリズムでさえも、目に見えない動きの影をなぞる跡に過ぎない。そうした影を手がかりにして近づく見えない動きは、聴く人の心に映り、そのリズムが聴く身体を揺することと信じて、演奏している瞬間は、前も後もないその時だけのもの。そんな瞬間が、日常のほんの短い時間に混ざり込んでいるのが、音楽家の日々なのかもしれない。

時代のスタイルが変わる時が来る。音楽を始めた1950年代から70年も経ってしまうと、同じことを続けてはいられない。知らない響きや、リズムを見つけては試してみる。知っている音楽も、違うスタイルで演奏してみる。目標もなく、完成もない、いつでも道の途中。

2024年12月1日(日)

水牛だより

東京は12月だということが信じられないような暖かく静かな日曜日です。太平洋側の冬は晴れて乾燥した日が多く、昼間は陽を浴びてうららかに過ごすことができるのは、日本海側に雨や雪が降って、大気を乾燥させてくれるから。どんよりとした冬、豪雪の冬を経験しないまま生きてきました。

「水牛のように」を2024年12月1日号に更新しました。
2024年最後の更新です。平和や自由や平等はすべての人間が望んでいるはずだと思っても、次から次に起こる世界の出来事はそれらに反することばかり。人類の歴史は戦争や不自由や不平等の歴史でもあるので、それこそが人類というものの初期設定なのかもしれません。動物のオスたちが縄張りをめぐって小競り合いを繰り返す映像をよく見ますが、あれの拡大版あるいは発展系みたいな気もします。「どこへ行こうとしてるのかしらね、神さまほとけさまの国、われら。」
トップページのイラストがめずらしくモノクロです。雪だるまの表情がそれぞれかわいい。柳生さんの暮らす黒姫ではもう雪が降って、白い世界になってるのかなと想像しました。

まだ実感はありませんが、次回は来年です!(八巻美恵)

240 終映のあとで

藤井貞和

だれもいなくなる画面をのこして、
廃墟になりました。
文字は消され、朽ちて、
石窟の出口から
一千年のかなたへ、
音声の航跡を引いて出てゆくと、
しばらくのあと
われらは舟形の遺跡になりました。
あれ、帆影をうたに変換する空の乗り物です。
視聴ありがとう。 銅鐸を鳴らします。
舳さきに提げて、サインを送る春のゆうべです。
音声は終わる海の庭、石になります。
ことしはつらい始まりだった、
夏には入院もありました。  大河ドラマの、
『光る君へ』の藤原伊周(これちか)さんが、
呪詛の失語症です。 秋になると、
保育園を落ちた姉御も、
じゃねーのかよ (よかのーねやじ)
ならねーだろ (ろだーねらな)
あるかよ ボケ (ケボ よかるあ)
ふりんしてもいいし (しいいもてしんりふ)
わいろうけとるのもどーでもいいから
  (らかいいもでーどものるとけうろいわ)
まじ いいかげんにしろ (ろしにんげかいい じま)
保育園落ちた 日本死ね!!!(たちおんえくいほ
ねしんほに!!!)
ねしんほに、冬の廃墟です。

(どこへ行こうとしてるのかしらね、神さまほとけさまの国、われら。闇バイトのどろてきが、屋根のしたまでやってくる。引用は「保育園落ちた日本死ね!!!」〈2016〉より。)

機械の滑らかさで

新井卓

※前回、11月号からの続きです

 2024年4月13日土曜日、パレスチナ会議(承前)当日。直前に公開された会場を調べると、家から十分ほどの近所だった。
 市民農園の角を曲がり、封鎖された大通りにずらりと並ぶ警察車両を横目に自転車を走らせる。ジャケットからはみ出たクーフィーヤがひらひらと空中を泳ぎ、自分の、自分の身体のか細さ頼りなさをなかば笑いながら、小銃と防弾チョッキで身を固めた警官たちの視線を通り抜けていく。
 会場ではすでに大勢の来場者が通りにひしめき、改札を待っていた。プレス向けの青色の紙の輪っかを手首に巻いてもらい、予定から二時間も遅れてビルの非常口から通された。

 思いのほか大きな会場は蒸し暑く、プレス関係者は後方に着席するよう案内された。まわりの人々に挨拶しながら腰を下ろすと、パレスチナの国旗を広げた女性たちが背後に陣取り、ここで大丈夫?と囁いた。聞けば、すぐ後ろに親イスラエルメディアが固まっているらしく、妨害が入るかもしれないので旗やスカーフで防戦するつもりなのだという。両隣の席の人たちと少し話しはじめたところだったので、いまさら移動するのも心細いので、べつに気にしませんよ、人の盾が一人増えたと思って、と答えた。

 やがて大きな拍手とともにジャーナリストで文筆家、活動家のヘブ・ジャマル(Hebh Jamal)氏が登壇し、開会の演説がはじまった。続くプログラムはエコノミストで元ギリシャ財務大臣を務めたヤニス・バルファキス(Yanis Varoufakis)氏による基調講演だったが、彼はパレスチナ会議への参加に関連してドイツ当局が空港で入国を拒絶し、オンラインでスピーチを行うことになっていた。バルファキス氏がスクリーン越しに語りはじめた直後、フロアの電源が落ち、一瞬の静寂ののち、会場は騒然とした空気に包まれた。なぜなら、会場の前後の入口から何十人もの制服警官がなだれ込み、通路と舞台を完全に塞いでしまったからだ。司会の女性は困惑した表情で、状況を把握するまで落ち着いて席で待つように、と肉声で呼びかけた。会場のいたるところで、シュプレヒコールが上がっていた。警察よ、恥を知れ!と猛然と立ちはだかる女性たちがいた。

 奇妙に冷静な自分があり、彫像のように不動を決め込んだ警官たちの顔を観察した。どの警官も男女ともに二十代前半だろうか、場違いなほどに若くみえる。この人たちはいま、何を思っているのだろうか。何も感じず、考えないよう、訓練されているのだろうか、と思い、そんなはずはない、と思いなおす。この奇妙な場所で、彼女・彼らはそれぞれにか細い身体を差し出し立っているのだ、通路を塞ぐ障害物、モノとして。そのことに、目のくらむような憤りを感じた(だれ/なにに対して?)。

 どれくらいの時間こう着状態が続いたか──体感では一時間ほどに感じたが、本当はどうだったか。明らかに酸素が薄まりつつある会場で、全員が、何かを待っていた。沈黙を強い待つことを強いる時間は、それ自体がよく使い込まれ滑らかに回転する暴力の装置だったが、その効果が十分に行き届くのを待ってから、警官が二人がかりで、グレーの大きな拡声器を運んできた。拡声器から、姿の見えない誰かの声が流れてくる──この催しはベルリン当局により散会になった。指示に従い速やかに会場から退出するように。これらすべてが、何度もリハーサルを重ねた舞台のように、あまりにも滑らかに執り行われていったので、わたしたちは、少なくともわたしは、悪い夢を漂い目覚めるかのように、劇場の外に投げ出されていた。

 わたしはみんなと同じように腹をたてていたが、へんに納得もしていた。これなんだ、ドイツというのは、この滑らかさなんだ、と。
 自転車を漕ぎ走り抜ける市民農園では、そこかしこでバーベキューの煙が上がり、肉やソーセージの焼ける匂いが漂っていた。サッカーのワールドカップを目前に、きょう、なんとかというチームとなんとかというチームが争う予定で、大音量で流れるテレビの音声は国内リーグのこれまでのハイライトを振り返っていた。滑らかな昼下がり。滑らかなゾーン・オブ・インタレスト(関心領域)。

 翌日、ミドル・イースト・アイ(イギリス拠点でムスリム世界や北アフリカなどを中心に報道を行うメディア)のソーシャル・メディアで、警察が介入した瞬間の様子がシェアされた。占拠された舞台から後方の親イスラエル報道陣へカメラがパンするその映像には、わたしの姿が写り込んでいた。ベージュのジャケットの少し丸まった背中に、驚いたような横顔。その様子を見て、わたしは急にそのアジア人の男が──もちろんそれはわたし自身なのだが──心配になった。あまりにも無防備で、場違いで、彼は一体ここで、なにをしているのか?

(つづく)

その小ささのままに

越川道夫

11月の初めに演劇の公演が終わると、急に寒くなった。いや。その前から寒かったのかもしれないが、こちらが慌ただしくしているので気が付かなかっただけなのかもしれない。樹樹の葉が瞬く間に黄色くなって散っていくような気がする。体を冷やしたくないので、セーターにコートを羽織り、マフラーに手袋と完全に冬の出立で、それでも林の中を歩きにいく。冬枯れが、枯れていく植物を見るのが好きなのである。惚れ惚れとするような枯れ方をしている植物を見つけると写真を撮る。道端に蹲りシャッターを押す瞬間、私は息を止めている。だから撮り終わると必然的に「道端に蹲り荒く息をついている人」ということになる。「どうかしましたか?」とか「体調悪いですか?」と声をかけられるのはまだいい方で、ありがたいことに「救急車呼びましょうか!」と抱き起こされたりするので、しどろもどろで「いえ、写真を」と言い訳をすることになる。なんとも傍迷惑なことだと、申し訳ないやらバツが悪いやらである。
植物の写真を撮っていて、もう一つよく声をかけられるのが「何かあるのですか」である。これもいつも答えに窮してしまう。花を撮っているときはまだいい。枯れた植物を撮っている時は何と答えるのがいいのだろう。「ええ、枯れ方が素敵で」と言ったりもするのだが、言われた方は私が指差す方を見て何とも困ったような顔になる。要するに「何もない」のである。何もないことはない。そこには「枯れた」植物があるのだが、そこに撮るべき「価値」を見出せなければ、それは「何もない」ということになるのである。
 
映画や演劇に関わってきて、いつもこの問いに突き当たるような気がしている。それは「小さなもの」を「とるに足らないようなもの」その「小ささのまま」に。その「とるに足らないもののまま」に描くことができるか、という問いである。私たちは「その小さな存在」に対して「描く価値があるもの」という何かを付与しなければ描くことができないのではないか。例えばシナリオ学校で、自分の隣にいるような市井の人々の生活を描きたいと言ったとする。すると生徒からはこういう質問がくる。「そんなものを描いて、誰が見るのですか?」と。例えば「小さな存在」を「神々しく」描いたら、「美しく」見えるように撮影したら、「小さな存在」を「描く意味があるもの」として描いたら、それはもう「小ささのまま」に描いたことにならないのではないだろうか。ここでいう「意味」とは「価値」である。結局私たちは「価値がある」ものしか描くことができないのではないか。これではそんなものを描いて、誰が見るのですか?」と言った人と何も違わない。そもそも存在することは「価値」では量ることができないものであるはずだ。「価値」とは「流通」が生み出すのである。「価値」ということが無効となるところに、「存在」はある。
 
林の中で、エドワード・アビーの『砂の楽園』(越智道雄・訳/東京書籍)を読んでいた。エドワード・アビーは「自然」というものを内面化せずに「他者」のまま描くことを目指したネイチャーライティングの作家の一人である。彼の言う「砂漠の人間に対する無関心」は、ひどく私を清々しい気持ちにさせる。
 
「この石、これらの植物や動物たち、この砂漠の景観のもっともすぐれた美徳は、それがわれわれ人間の存在もしくは不在、われわれがやってきてここにとどまりあるいはまた立ち去ることに対して明らかに何の関心もしめさないことにある。人が生きようが死のうが、それは砂漠にとっては完全に、いかなる関わりもないことにすぎない。」
 
言うまでもなく「この石」は、私たちのために存在しているのではない。「その小ささのままに」と言う私の堂々巡りのような考えは、返す刀で枯れた植物を美しく写真に収めようとする私自身を斬るのである。
 

大阪、CHABO BAND

若松恵子

RCサクセションのギタリスト、仲井戸麗市率いるCHABO BAND(チャボバンド)のライブを見に大阪に行った。仲井戸麗市の活動としては、ソロ、ストリート・スライダースの土屋公平との麗蘭(れいらん)、チャボバンドとあるのだけれど、彼の74歳の誕生日を記念するライブは1年ぶりのチャボバンドで企画された。彼が音楽を奏でる限りどこへでも聴きに行こうと思っているので、大阪まで出かけて行ったのだった。会場は、住之江競艇場の隣にあるライブハウス、ゴリラホール。1982年の夏に、住之江競艇場で来日したチャック・ベリーとRCサクセションが共演した、その思い出のある場所だった。

チャボバンドのメンバーと作った10年ぶりのアルバムが、クリスマスに発売される。そのアルバムのタイトル「Experience」を冠したライブは、ギタリスト、ソングライター、ボーカリストとしてのチャボの、様々な経験をくぐりぬけてきた「今」を感じさせるものだった。連れの夫とともに「すごい」「すごい」と言いながらその日泊まるホテルまで四ツ橋線に乗って帰ってきた。

帰りの新幹線までの自由時間にどこか大阪を見物しようと、その参考に、買ったままだった『大阪』(岸政彦・柴崎友香/2021年河出書房新社)を読んだ。著者の取り合わせに興味を覚えて手にした本だった。大阪で育って今は東京に暮らす柴崎友香と、大学進学のために大阪に来て、そのまま今も大阪に暮らす岸政彦が、交互に大阪について話す(文章を書く)構成になっている。相手の文章に影響を受けて、2人の書くものが響き合って、深まっていく感じが良かった。

「はじめに」で岸政彦が書いている。「私たちはそれぞれ、自分が生まれた街、育った街、やってきた街、働いて酒を飲んでいる街、出ていった街について書いた。私たちは要するに、私たち自身の人生を書いたのだ」と。観光案内にはならなかったけれど、2人が大阪で「たくさんの人びとと出会い、さまざまな体験をして、数多くの映画や音楽や文学を知り、そうすることで、自分の人生を築いてきた」、その物語を読むことで、歩く大阪の街に親しみを感じることができたのだった。

学校にも家にも居場所が無くて、大阪環状線に乗って何周もしていた日々のことを柴崎友香が書いている。学校に行くのが苦しくなって、時々早退して、親にばれないように夕方家に帰るまでの時間、環状線に乗って時間をやりすごすのだ。「学校を早退していったん家に帰って着替えて、行った先が環状線だった。誰かに会わず、お金がなくても過ごせる場所を、そこしか思いつかなかった」からだ。「大阪環状線は名前の通りに環状でいつまでも乗っていられるから助けてくれた」と彼女は書く。

そして、乗っているうちに、ほとんどの人が思ったよりすぐに、3駅くらいで降りていくことに気づいて「みんな行くとこがあるんやな」と思う。時には、自分のように、ずーっと乗っている人を発見したりもする。そんな時間の中から、彼女は「自分は一人でいることがつらいのではなくて一人でいると思われることがいやなだけで、だとしたらたいしたことではない」と思うようになる。「日が暮れるのが早くなり、風が冷たくなり始めたころ、わたしは環状線の駅から外に出ることにした」。一人で街を歩くようになったのだ。

彼女がそんなふうに過ごした90年代初頭は、バブルは終わっていたとはいえ「ミニシアターが次々できて、小劇団が注目され、百貨店でも美術館並みの展覧会をよくやっていて、地上波のテレビで深夜に外国やミニシアター系の映画をやっていて、三角公園でただただしゃべっているだけでお金がなくても楽しく過ごせた」時代だった。ひとりきりで歩く大阪は「新しいこと、好きなものを、毎日のように見つけられ」「世の中にはわたしが知らないことがたくさんあって、わたしが知らないことを知っている人がたくさんいて、自分もここにいていい」と思える街だったのだ。ほぼ同年代の私も、当時の渋谷や吉祥寺や下北沢の街を同じように思い出す。

「あほでとるにたりない1人の高校生だったわたしに、大阪の街はやさしかった」「街が助けてくれたから、わたしは街を書いている。」と柴崎友香が書いていて心に残る。当時見た映画やライブを記録していた、小さな手帳の話が出てくる。1989年1月「トーキョー・ポップ」2月「ドグラ・マグラ」、1990年7月「ボーイ・ミーツ・ガール」12月「エレファントカシマシ」と並んでいるなかに1992年2月「麗蘭」という記述があって、嬉しくなった。

仲井戸麗市もまた、家や学校からはぐれて、ひとり街を歩く少年だった。その頃の風景、出会った人がうたになっていることもある。大阪のライブで演奏された「逃亡者」という新しい曲は、そんな少年の時代に出会った活動家(当時世の中は過激派などとも呼んでいた)のカップルの思い出がうたになったものだ。彼らが好きでよくかけていたロックの曲と2人の面影がうたになっている。彼らの何にシンパシーを感じたのか、理屈ではない、言葉では言い表せない思いが、ギターの音に、バンドサウンドになって私に届いた。

親父が死んだ

篠原恒木

先日、親父が死んだ。百歳だった。

午前零時を過ぎた頃、「そろそろ寝ようかな」と、寝室の灯りを消したら自宅の電話が鳴った。その瞬間に、
「あ、これは死んだな」
と確信した。電話に出ると、介護施設からで「呼吸が止まった」とのことだった。
「あっという間だったなぁ」
そんな間の抜けたひとりごとを言いながらモソモソと着替えて、ツマと一緒にクルマに乗り、自宅からすぐの場所にある施設へ向かった。

死ぬ三日前に面会したときは、かろうじて会話ができていた。「かろうじて」と書いたのは、親父は耳がとても遠くなっていたので、話すときは耳のそばで大声を出さなければならなかったからだ。五分も喋ると、おれの声が嗄れた。だが、その日はこちらの話すこともどこまで理解できているのか曖昧だったような気がする。

死ぬ二日前、施設を訪ねると車椅子に座ったまま口を開けて寝ていた。いや、寝ていたというよりは意識が混濁しているようだった。昨日の夜から食事も一切摂らないという。呼吸をするたびにゴロゴロと痰がからむ音がしていた。この日は声をかけると一瞬目を開けて、
「コーラが飲みたい」
と弱々しい声で言った。
コーラが大好きな百歳。
施設内の自販機で買って、口に含ませると、ゆっくりと飲み込んだ。
「おいしい?」
と訊くと、目を閉じたままで反応がなかった。再び耳元でもっと大きな声で訊くと、
「うまい」
と応える。そばにいてくれた看護士さんが「意識のある今のうちに薬を飲ませたい」と言って、錠剤を砕いてとろみをつけてスプーンで飲ませた。すると親父は、
「これはコーラじゃねえ。ゲロを飲ませる奴がどこにいるんだ」
と、呂律の回らない声で怒った。こんな状態になっても口の悪さは相変わらずなんだと思ったら、少し笑ってしまった。
「ゲロじゃないよ、今のは薬だよ。じゃあ口直しにもう少しコーラを飲もう」
と言って、コーラを少しだけ飲ませると、満足したのか、また眠りに落ちてしまった。

次の日、つまり死ぬ前日はベッドに寝たままだった。医者が往診して、水分補給のため点滴を受けた。酸素供給量が足りないので、酸素マスクをつけていた。医者は延命治療をするかどうか訊いたが、おれは結構ですと答えた。
「それよりも今の本人は苦しいのでしょうか?」
「意識がはっきりしていないので、苦しさはあまり感じていないかと」
「苦しいのはできるだけ取り除いてください。僕らの望みはそれだけです」
隣にいたツマも大きく頷いていた。

帰宅するとツマが言う。
「お父さんはまた復活すると思うよ」
親父はこれまで何度も医者から
「今日、明日がヤマですから覚悟しておいてください」
と言われていたが、そのたびに奇跡の回復をしていた。それはもう、呆れるほどしぶとかったのだ。ツマはおれよりもそれらのいきさつをよく知っている。
「痰が切れなくなっているのが辛そうだよなぁ。あれが呼吸を邪魔している。苦しくないのかな」
「苦しいのは可哀想だよ。お父さんはアタシによく訊いていたもん。『死ぬときは苦しいのかな』って」
「なんて答えた?」
「お父さんは長生きしているから死ぬときは楽に死ねるよ。それにまだまだ死なないから大丈夫。そう言った」
満点回答ではないか。
「でもなぁ、親父の顔、おふくろの臨終のときと同じ顔をしていた」
「そうかなぁ」

ここ数日で親父のバッテリーは急に残量が減ってきていた、とおれは感じていた。百歳だもんなぁ。その前からこちらの問いかけにも段々と反応が鈍くなっていた。頑張っていたけれど、もう限界だよ。百歳だぜ。つい先日まで自力で痰を切っていたけれど、それも難しくなったようだ。あの痰がゴロゴロしている状態はいつまで続くのか。医者は「苦しさは感じていないだろう」と言ったけど、もし苦しいのなら、いますぐにでもスーッと息を引き取ったほうがいい。

もし近日中に親父が死んだらおれのさしあたっての予定はどうなるのかと手帳を開いた。キャンセルの嵐はややこしいことになるな、と思った。親父が死にそうなのに自分のスケジュールを気にしている息子って結構サイテーだよなと気が付いたが、基本的にそういう奴なのです、おれは。

翌日は仕事で面会には行けなかった。帰宅して晩めしを食べ、午前零時を過ぎたので寝ようとしたところへ電話が鳴ったのだ。施設に着き、親父の部屋に入ると親父は眠っていた、いや、死んでいた。まだ暖かい額を触りながら、
「楽になったね。まあそれにしてもよく生きた。よく頑張った」
と声をかけた。施設のスタッフが泣き出して、それにつられてツマも泣いていたが、おれの涙は一滴も出なかった。おふくろのときもまったく泣かなかったのを思い出していた。

おれにとって年老いた両親はどこか煩わしい存在だった。
育ててくれた恩義はある。だからおふくろにも親父にもできるだけのことをしたと思う。
「いや、もっと献身的にできたはずだ。もっと優しく接してあげられたはずだ」
と言われれば、返す言葉もないのですがね。
おふくろも弱ってからが長かったので、死んだときは正直言って肩の荷が半分下りた。だが、親父が残った。こちらのほうはもっと長持ちした。そのあいだ、我がツマにもいろいろと負担をかけた。考えてみればこの十年間、二泊以上の旅行をしたことがない。東京を離れると、もしものときに困るからだ。親父が死んだら、おれたち夫婦は精神的にも時間的にもかなり自由になれるのだろうな、と頭の片隅でいつも思っていた。

やがて親父の部屋に医者が往診で駆け付け、死亡を確認した。とっくに死んでいたのだが、死亡時刻とは亡くなった事実を医者が確認した時刻らしい。午前1時5分だった。受け取った死亡診断書には「死因・老衰」と書かれていた。老衰とはあっぱれだ、たいしたもんだ。親父は自分が死んだことも自覚せずに逝ったような気がする。知らない間に事切れたのではないだろうか。これは理想的な死のかたちのひとつですよ。百年間も頑張って生きたご褒美だよ。

施設のスタッフに訊くと、遺体はこの部屋からすぐ移動するのが決まりだという。ならばと葬儀社に電話すると三十分で到着した彼らは手際よく親父の遺体を車に乗せた。とりあえず親父はこのままセレモニー・ホールへと移動するようだ。葬儀社のヒトたちはきわめて情感たっぷりの儀式的な演技をしているように見えた。施設から出ていく車を見送るとき、スタッフの方々は手を合わせて泣いてくれていた。財布を落としたとき以外は泣かないツマも泣いていた。おれは車に向かって大きく手を振った。行ったこともないセレモニー・ホールへ一人で向かう親父はきっと心細かったことだろうなぁ。いや、自分が死んだことを自覚していないのだからモンダイはなかったのかもしれない。

火葬場の都合で、葬儀は三日後と決まった。おれはそれまで毎日セレモニー・ホールへ行き、親父と面会して焼香をした。いや、ものの五分間程度なんですけどね。面会は予約制だった。考えてみれば、遺体が安置されているのは親父だけではないはずだから、予約時刻になると親父の遺体を運び出し、用意を整えてくれるというわけなのだろう。死んだ翌朝に行って、親父の額を撫でたらキンキンに冷えていた。社会はすべてシステムによって動いている。

葬儀は家族葬で済ませた。百歳にもなると親戚一同、一族郎党はすべて亡くなっている。知らせるべき友人たちもこの世にはいない。
寺の住職と一緒に火葬場へ向かい、棺を焼却炉の中に入れると骨になるまで五十分ほどかかると言われた。おれは今まで出席した葬儀を思い出していた。あっという間に骨上げをしたような記憶しかなかったので、五十分とはずいぶんと長いな、と思った。
待合室でツマ、住職と食事をしながら、一般的な世間話ができないおれは、
「五十分とは長いですね。低温調理ですかね」
と住職に言った。ツマはおれを睨みつけていた。

とにかく頑固なジジイだった。自説を曲げることを一切しなかった。常に自分が正しいと思い込んでいた。オノレが正しいことを証明するためには平気で嘘もついていた。

いつも怒っていた。「怒り」とは「他者との価値観の相違」から生じる感情らしいが、親父の価値観を共有できるニンゲンなど、ただの一人もいなかった。めったやたらと怒っていたのはそのせいかもしれない。

戦争に兵隊として駆り出された体験を、一度として語ろうとしなかった。記憶からむりやり消そうとしていたのだろうか。今となってはわからない。

「もうすぐ死ぬからもったいない」
と、補聴器の購入を受け入れず、その割には「体にいいから」と青汁を飲んでいた。
「来年は迎えられそうもない」
と言いながら、大晦日には我がツマが作った蕎麦を食べたいから届けてくれ、一緒に食べようとホザいていた。本音はまだまだ生きたかったのだろう。

さんざん貧乏暮らしをしてきたせいか、うんざりするほどカネに細かかった。飛び込みでセールスに来る銀行マンにいい顔をしたいがために、あちこちの銀行、信用金庫に小金を預けていた。小銭で株や投資信託もしていたようだ。そのせいで戸籍謄本と戸籍抄本の違いも判らないおれがいま苦労をしている。戸籍全部事項証明書って何だよ。口座用株式移管依頼書なんて聞いたこともないぞ。にっちもさっちもいかない。そうだ、家じまいもしなければならないではないか。

親父よ、アンタは大往生だったが、おかげでおれは立ち往生しているよ。

挑戦

笠井瑞丈

今年最後の挑戦
自分よりも一回りも違う振付家
カンパニーへの出演
あまり僕はヒトの作品に出る事を
してこなかったと思う
してこなかったと言うよりも
あえて避けてきたのだ

なぜならあまり上手に
踊れる気がしないからだ

いままで出てきた数少ない出演も
僕はいつも若い方の立ち位置であった

しかし気づけば今回は僕が一番の年長者

一番下だと二回り下の子もいるし
ほとんどの子が十歳以上離れている
振付家そして周りのダンサーは
僕に気を遣ってくれる
だからなるべく僕も
気を遣われないように
振付家と周りに気を遣う

そうなると不思議と
作品に参加する仕方も
今までとまた
少し違ってくる

俺は一番年上なんだと言って
偉そうにする訳にはいかない

自分も一つの見本になれるように
ならなければいけないと努める

今思えばそのように
先人の先輩方がそうしてくれてた事を思い出す
いつもいい空気を現場に運んで来てくれてた

世代の違う人達との交流
本当に色々学ぶ事が多い

自分には持ち合わせてない感覚を
そして動きもとてもダイナミック

僕は不器用だけどまた
こうしてヒトの振付を踊る
喜びを噛み締めて
舞台に立っている

ここがきっとまた
新しいダンスの
スタートライン

来年は50歳だ
もう若くはない

でも挑戦は続けていこう

アパート日記 11月

吉良幸子

11/1 金
早めに出稼ぎから帰るとアパートの入り口に丹さんの自転車。あ、来てはるな、と玄関見ると靴がもう一足。久しぶりに次女のさくらさんが来てはってびっくり!そして女3人に囲まれてソラちゃんがいつもより猫被ってええ猫してはる。久しぶりに賑やかなアパートにソラちゃんも嬉しいらしい。みんなに囲まれてうきうきしてる感じ。さくらさん来たら飛んで帰ってきたんやって、女好きめ!いつもよりおしゃべりなさくらさんから嬉しい報告。来年からコンビニで買える雑誌に漫画が各月で載るらしい!!そりゃぁ絶対読まなくっちゃ、宣伝しなくっちゃ!!

11/4 月・祝
朝、お日さんがのぼると勝手口に日が当たる。ソラちゃんはそれが嬉しいらしく、お日さん来はったで!とばかりに呼びにくる。はいはい、と私も日に当たろうと軽い気持ちで膝にソラちゃんを乗せたが最後、ごろごろと言うて本格的に寝出した。ここ数日、1日のうちで3、4時間くらいは膝貸し屋してんで。近くに置いてあった新聞読みながら小一時間ひなたぼっこ、なんちゅう平和な祝日の朝なんやろか。
午後になって高橋茅香子さんからメールが。朝日新聞のジョージアに関する記事を贈ってくれはった。日本の青年がジョージアで自分のワイナリーを作るべく奮闘する記事で、なんと私も1年程続けてた、朝日カルチャーの語学クラスで契機を得たらしい。クラスは違えど、自分も受けてたようなところからこないに広がってる方もおるんやなぁと、驚くやら、さぼりっぱなしの自分を恥じるやら。

11/5 火
織田作之助が急に読みたくなって中央公論社の選集5巻セットを買う。昭和22年発行。佇まいがものすごいかっこええ本たち。枕元に積んで読もうと思う。楽しみや。

11/6 水
今日は米朝さんのお誕生日。ご存命なら99歳、おめでとうございます。いっぺんでもええから生で聴きたかったなぁ…とCDの声に耳を傾けながらいっつも思う。こんだけ聴いてても生の一回には敵わんのやろう。今日は朝から古いもんばっかし観ておった。朝イチでマキノ雅弘監督の『男の花道』。長谷川一夫とロッパの掛け合いがむっちゃええ。松麻呂さんの講談で何べんか聴いたんやけど、名優演じる映像になると鮮明に自分に焼き付く感じ。そん次にマリーナ・ディートリヒ主演の『Angel』。動くディートリヒは夢みたいに美しい。ほんで阿部豊監督の『細雪』。轟さんが自分とおんなじ名前の配役。みんな船場の言葉で柔らかくて聴き心地抜群。そんなこんなで夕方になって、『銭形平次』へ辿り着いたんやけど、時代劇って大人になって観たらこんなおもろいねんな。2話に登場した酒屋に剣菱の樽が積んであってびっくりした。そらそや、1505年からあんねんもん。剣菱のお猪口で乾杯しながら晩ご飯してたらソラちゃんが帰宅。銭形のテーマソングを大声で歌いながら愉快にお尻ポンポン叩いた。

11/9 土
落語友だち、くみまるさんと深川江戸資料館へ。ほんまは真打披露興行、国立演芸場主催の伝輔さんトリをお目当てで。ここで書いてもしゃーないし控えるけども、寄席は非常に残念やった。その代わり資料館はむちゃくちゃおもろかった。江戸時代の町並みが実物大で再現されてて、家の中には靴を脱いで実際に上がれる。帳場や火鉢の前に座ったり、つき米屋で精米してみたり。法被を着たおっちゃんとおばちゃんが町をうろうろしてはって説明してくれたりもする。しかし長屋の暮らしは潔くてええなぁ。

11/14 木
三遊亭兼好・三遊亭萬橘 二人会へ。この前深川資料館でたまたまチラシを見つけて、行きたい!と言ったら、その場でくみまるさんが切符取ってくれはった。ギリギリに予約したにも関わらず、驚くほど高座に近いええ席で所作もよく見えてありがたかった。おふたりともさすがにうまい。観て聴いて楽しくなるええ会やった。

11/16 土
この頃ソラちゃんがうちの中でずっとついてくる。トイレへ入ったら公子さんへ報告してドア前で出待ち、椅子に座ったら膝の上。せっまいアパートやのにいちいちついて回って、しまいに私が出掛けると公子さんを起こして大騒ぎ。見かねた公子さんがひとこと、ソラちゃんの老いらくの恋だね。

11/19 火
しらかめ寄席第2回目、出演は三遊亭兼太郎さん。前回に続き、こじんまりと賑やかに愉快な会になってよかった。兼太郎さんも経堂が気に入ったらしい。みんな楽しそうで嬉しい会やった。それにしてもしらかめのお蕎麦はうまい。

11/21 木
電車に乗ってたらどう聞いても関西出身のおっちゃんがふたり。ひとりは東京拠点でもうひとりは上京したてらしい。東京住んでる方のおっちゃんが、次の駅が最寄駅なんすよ、と言うと、もうひとりが、それって大阪で言うたら何駅?天王寺?っと大真面目に聞いておった。おっちゃんかわいいやん。分かるでその気持ち、でも例えようないと思うわ、と心の中で返した。

11/23 土・祝
お隣の庭師の棟梁が遂にうちの庭をきれいに草刈りしてくれはった!帰ったらおんなじ場所やと思えんくらいこざっぱりしとる。バトミントンでもできそうやわ。

11/24 日
今日から束の間の秋休み。久しぶりに国へ帰る。目的は3つあって、①浪曲になったチエちゃんへ行く、②ばあちゃんの着物をもらう、③奈良へにぎり墨しに行く、という、聞いただけでは訳分からん旅。朝一で東京を出発、まず大阪へ。ひとつめの目的は浪曲師、真山隼人さんが漫画『じゃりン子チエ』を浪曲にしはって、その初公演が新世界であるらしく、わざわざ大阪まで行こう!という算段。東京公演もあるんやけど、やっぱしチエちゃんは新世界で観なあかん!と帰省の計画はここから始まった。
大阪に着いたら思いの外時間が早うて、思いつきで織田作ゆかりの場所、法善寺へ行った。お参りして夫婦善哉ひとりで食うて、それでも時間がまだあったから散歩して新世界でお好み焼き食べながらちょっと一杯ひっかける。久々の新世界はやっぱりパワーの塊で、そこにおる人たちの気迫に圧倒された感じ。昼一で浪曲が開演。めっっちゃめちゃおもろかった!!ほんまに漫画そのまま、各登場人物が目の前にありありと浮かぶ。大いに笑ってちょっとぐっとくる、人情味に溢れたええ浪曲やった。
浪曲終わったらおかあはんと落ち合う予定やったんやけど、事故渋滞に引っかかったらしくまた時間がでけた。ハルカスでやってる「いいふろまつり」という、銭湯の展示へ。せっまい会場でみんな銭湯クイズに答えるべく紙と鉛筆持ってうろうろしとる。全部正解すると牛乳石鹸ひとつくれはんねん。ありがたい。展示で銭湯なんて見たら風呂入りたなってまうわ。
夕方になってじいちゃんちへ。おかあはんの妹夫婦が今は住んでんねやけど、ばあちゃんの着物箪笥に入れっぱなしの着物をもろて帰ろうというのが、旅のふたつめの目的。家に着いたら着物を出してくれてて、しょうのうの匂いと埃がすごい。おかあはんが来るまでふたりでどれ持って帰るか見る。小物と長襦袢と羽織がやたらに多い。あまりの数に飽き性のふたりで飽き出した頃におかあはんが到着。ばあちゃん、こんなんも持ってたん?!と、娘ふたりも知らんことばっかし。やっぱり生きてる間に聞いてたらよかったなぁ。
晩ご飯食うて、着れそうなんをたたんで持って実家へ帰る。篠山はやっぱし寒い。実家のまっくろ猫、ロロに会うて、一緒の布団で寝る。東から西へ、長い1日やった。

11/25 月
今日も朝から活発的な日。おかあはんと車で奈良へ向かう。帰省の目的みっつめは、古梅園という大老舗の墨屋さんで墨が誕生するまでの工程を見せてもらい、職人さんが練った墨を握って、自分の指の形をした墨を作らしてもらおうというもの。握った墨は乾燥させて3ヶ月程でうちまで送ってくれはる。商店街からちょっと一本入ったところにお店があるんやけど、まず建物に驚く。創業1577年、建物自体は明治中期くらいのものなのでまだ新しいんですよと仰るが、200年の歴史をちゃんと肌で感じるすごい建物。間口の広さで店賃が決まる頃に作られてるから奥に長い長い空間が広がる。墨は生き物やから、できるだけ昔と同じ自然の状態にするために、建物も当時のままのを修理しながら使ってんねんて。そもそも私の世代には習字で使うのは墨汁が主流。固形の墨ってちゃんとすったことあったっけ?と思うくらいやし、どうやって何でできてんのか見当もつかん。そこを順を追ってひと部屋ひと部屋丁寧に説明してくらはった。煤を集め、膠を溶かし、練って型に入れて灰で乾燥させる全ての工程で使う道具も手作り、ひとつずつの作業にそれぞれの職人さんが顔までまっくろにして作ってはる。時間も手間もものすごいかかるんやけど、説明してくれはったおねえさんはキラキラした目で、ここまでやるからうちの墨ってすごくいいんです!とほんまに誇りを持ってやってはるのがものすご伝わった。説明してくれはったおねえさんに仕事で使う用の墨を選んでもらう。おかあはんはうちで写経してるしそれ用のを。古梅園の墨が入った顔彩も思わず買うてしもた。こういう時だけ急に大蔵省になる私…でもええねん、これのために関西へ帰ってきたんやもん。こんだけ職人の仕事を見せてもろたら使うのも緊張するけど、東京戻って墨すってみるのが楽しみや。

11/26 火
束の間の関西旅行も今日でしまい。なぜなら夜にお江戸広小路亭である、三遊亭遊雀・三遊亭兼太郎 二人会へ行く約束をしてるから。今回は落語会へ行くのが初めての友人も誘ったし、間に合うように昼一で新幹線に乗る。ばたばたと忙しかったけど、間に合わせて東京戻ってよかった~と思えるええ会やった。遊雀師匠、さすが、すんごいおもろい。兼太郎さんも最近行った会で観たのと違う噺を二席やってくれはって、どっちもよかった。連れてった友人も楽しかったと喜んでくれて、楽しい夜になった。
ちょっと飲んで、夜中に帰宅。あれ、公子さんも飲んでるやん!実家からの荷物で持ってた風呂敷の中にある日本酒をすぐさま見つける。んじゃ、ちょっと味見で一杯!ともうお猪口出してるやんか!!ということで、持って帰ったその夜に、ちぃちゃいカップ酒はからっぽになったのでありました!

11/29 金
朝からばあちゃんの着物たちがいっぱい届く。長年、箪笥の中で眠ってたから日に干して起こしてやる。来週から出稼ぎで着れたらええなぁ~。
昨日久しぶりに銀座の出稼ぎの手助けに行って、冷えて風邪をもろたらしい。喉と鼻が怪しくて葛根湯を飲み、お日さんに当たるべくあちこち散歩がてら買い物へ。墨使う時の筆掛けを作るべく木材を買ってきていそいそと作る。公子さんに見つかって、甲賀さんと同じだ!と言われた。まず道具から入りたくなるのは一緒なんやね。
ちょっと風邪気味やし夜に公子さんが生姜たっぷりのたまご豆腐を作ってくらはった。塩鯖と大根おろし付き。むっちゃくちゃおいしくて体があったまる。そのまま湯たんぽであったかくしといたお布団へ潜り込む。ああ、幸せ。

11/30 土
くみまるさんと川越美術館でやってる江戸のお洒落装身具という展示へ。煙草入れや紙入れなど、江戸時代に使ってた実物がたくさん展示されている。こんなんどうやってこんなええ状態で残ったんやろ、不思議や。着物の生地を使ってたりして、柄が使う時にものすごお洒落に見えるように作ってある。留め具やボタン細工も職人技。昔の人ってほんまに洒落てて敵わん。展示見た後は川越の町をぶらぶら。ちょうどええサイズの観光地で、蔵造りの建物たちは遠くから見て感激する。
盛りだくさんな11月やったけど、明日からもう師走やて!今年も走って逃げはんねやろか。こわ~。

冬じゃんか_

芦川和樹

銀ギ
 ィ
 ィ
 ィ
 ン
河ガ

背の高い

は、木の幽体
ゼロ、ぜったい金魚がいわない
内容、雲の、_〇
額ひ、た、い
問をください
製氷機に生まれたかったわブラックホール
など、なお、よく
川を
見ていた
アレイ
緊張した
せかい鯖の群れ
そのやぶれ目、金属雲の、_〇、〇
貸与
さらさら
すすむ、けつえきの
サイクルを
笑って
もう、笑わなくても
今週と、来週と、すこしずつすべっていく
送迎の豆鉄砲が
心臓にあたった
なあ
桃食った猿がリュウに乗って、赤信号で
止まっていた
なあ
呼ぶ
なあ、ねえ
その心臓を差しだすのに
あと5秒待つ

あと5秒と、7秒かかりそう。猿が手を伸ばせば必ずそこに雲がありちぎって食う桃ではないけど。桃は木になるものだから星のようだと先生はいいました。それから川を流れる。よろこびだけをいまあつめます、冬の用事が始まるまで。待って、まだこれからだと眠いけど思う、_これから、これから

珈琲でも、どうですか

植松眞人

 伯父が施設に入ったと知らされたのはまだ暑い夏の盛りだった。亡くなった私の父の兄にあたる人だが、父と血のつながりはない。私の父は早くに母親を亡くし、三人いた姉も亡くなってしまっていた。
 父親が再婚し、継母の連れ子として兄弟になったのが伯父だった。その後、父には弟や妹もでき、父方の親戚が集まるだけでも賑やかな雰囲気になった。
 私は子どもの頃から、この伯父が好きだった。なんとなく品があって、やんちゃな父がちょっかいを出したり、憎まれ口をきいても、ただニコニコと笑っていた。
 伯父は映写技師の資格を持っていて、映画の配給会社に長く勤務した。そして、この伯父が毎月のように送ってくれる映画の試写会の招待状がいま思えば私を映画の世界へと導いてくれたのだった。
 そんな伯父も九十歳を越えて、次第に弱くなった。最初は耳が遠くなり、最近では足が悪くなった。一人息子の従兄弟は結婚もせず、伯父と一緒に暮らしていたのだが、車椅子になった伯父を一人で置いておくことができず、施設に入れることになったのだという。
 私は妻と連れだって、伯父を訪れた。施設を訪ねるためには予約が必要だというので、従兄弟に頼んで予約を取ってもらい、一緒に訪ねた。エントランスを入ると、担当者らしい若い男性が甲高い声で、「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。その声の高さが、近所の居酒屋のアルバイトと同じように聞こえて、なんとなく私の気持ちは曇った。
 個室のドアを開けると、伯父はぼんやりとした視線を天井に向けていた。すると、さっきの担当者がベッドの脇に立ち、伯父がどんなふうにここで過ごしているのかを話はじめた。ただ、その内容は、伯父がどう感じているかとは別に、施設がどんなことをしてあげているのか、ということが主で、相手が懸命に話せば話すほど、私は伯父が不憫でならないような気持ちになってしまうのだった。
 途中、おやつの時間になり、若い外国人女性がプラスチックの器に饅頭やウエハースを放り込んだものをもってきた。伯父はベッドを起こしてもらい、一緒に置かれたミルクコーヒーのようなものを手に取り一口飲んだ。そのとき、伯父は眉間に皺を寄せて、表情を歪めた。
「甘くないね」
 伯父が言うと、担当の男は
「いつも、甘いのがいいっておっしゃるんです」
 と先回りするように言う。
 伯父はもう一口すすると、
「甘くないね」
 とまた言って、同じように表情を歪めるのだった。
「構わないので、砂糖を入れてやってください」
 そう言うと、男はうなずきながらカップを手に部屋を出て行った。飲み物はミルクコーヒーのような色をしていたが、それが何なのかは聞かなかった。飲み物を待っている間、伯父は小さな饅頭に手をのばして、口に運ぶ。これもそれほどうまくはないのか、一口、二口食べると、器に戻して食べるのをやめてしまった。そばで見ていると、饅頭の粉がポロポロとこぼれ、なんだかパサついた食べ物であることはわかる。
 男が飲み物を持って入って来た。テーブルに置かれた飲み物はさっきよりもだいぶ量が増えていた。砂糖を入れるだけなのに、どうして量が増えているのか不思議に思ったけれど聞かなかった。伯父は再び置かれた飲み物に手を伸ばして、口に運んだ。伯父はまた顔を歪めたが、今度はなにも言わなかった。
 食べることにも退屈したのか、伯父は寝かして欲しいと身振りで伝えてきた。耳の悪い伯父はおそらく施設のスタッフの言うこともあまり理解出来ないのだろう。そして、施設のスタッフの側も伯父との会話を諦め、通り一遍のやりとりだけをしているように見えた。
 外国人の若い女性スタッフが、「では、ベッドを楽にしますねえ」と声をかけ、伯父の背中に手を回す。伯父は雰囲気で察しているだけで、女性の声は聞こえていない。もう、この作業に慣れているのだろう。手を回されると、自分も女性も首に手を回して、落ちないように態勢をつくる。その時、伯父は少し大きい声を出した。
「冷たい手えやなあ、あんた」
 女性は「ごめんなさい、あっちで洗い物していたから」と慌てて謝った。
 ああ、この人は我慢しているのだなあと私は思った。ボケてもいないし、鈍くもなっていない。ただ足が悪く耳が聞こえないだけで、頭の中はちゃんと以前のように動いている。目を見れば、感情だってくるくると動いていることがわかる。私たちが来て、たった三十分で、伯父の顔色は良くなった。目にも輝きが出てきた。伯父は伯父のまま、この施設にいることを受け入れているのだと思うと、涙が出てきた。
 伯父が眠そうな顔になったので、私たちも「また、来るから」と伯父に声をかけた。すると、伯父はまた起き上がろうとして、言うのだった。
「喫茶コーナーで珈琲でも飲みましょう」
 この施設に喫茶コーナーはない。けれど、珈琲好きだった伯父は、あんな不味い珈琲ではなく、美味しい珈琲にたっぷりと砂糖を入れて飲みたいのだ。
「ここには喫茶コーナーはないのよ」
 私の妻が言うと、伯父は繰り返した。
「珈琲でも、どうですか」
 妻が、背中をさすりながら頷くと、伯父は嬉しそうに笑い、ほんの少し涙を流した。(了)

『幻視 in 堺 ―日月に響き星辰に舞う―』公演の演出

冨岡三智

『水牛』9月号でお知らせしていた公演が無事終わった。というわけで、恒例の主催当事者が主観を語る振り返り(弁解)である。9月号の記事「8月の渡航と11月の『幻視 in 堺』公演のお知らせ」も併せて読んでいただけると幸いである。

幻視 in 堺―日月に響き星辰に舞う―
日時:11月23日(土祝)15:00開演
会場:サンスクエア堺・サンスクエアホール

『幻視 in 堺』と銘打った公演は2021年、2023年に引き続き3回目である。いずれも2部制で、第2部でだいたい50分のスリンピ舞踊の完全版を1曲上演するというスタイルは共通する。今回、前半はイスラム歌唱サンティスワランを中心に歌を中心としたプログラムとし、背景の幕にプラネタリウムを投影した。演奏者は皆、黒の上着を着用。これは大自然の中、星空(つまり夜)に神秘的、瞑想的な歌が響く世界を作りたかったから。一方、第2部ではパステル調の明るく柔らかい色のクバヤに着替えてもらった。これは舞踊曲の音楽のイメージに合わせて、朝の柔らかな光に包まれた世界を作りたかったから。舞踊の衣装も白。

開場から開演までの30分間、ロビーにウジュンクロン(ジャワ島西端にある国立公園、ユネスコ世界遺産―自然遺産―に登録)で午前中にフィールド録音された自然音が流れる。ガムラン楽器は舞台の奥に並べられ、前半分は第2部の舞踊のために空けられている。ただ、サンティスワラン用のルバナ太鼓は置かれている。

第1部が始まると、背景は夕方の山の端となり、そして暗くなる。曲は最初が通常のガムラン曲「ロジョスウォロ」。通常のガムラン曲では楽器演奏だけの部分と、そこに歌が入ってくる部分が交互にくる。月や星や宇宙を歌った歌詞が展開していく中、山の端から視点は上空へ移って地球や月を見、さらに見ている人も宇宙空間に飛んで、太陽系の運行を俯瞰する。

次にサンティスワランと呼ばれる宮廷で発展したイスラム歌唱3曲のため、演奏者は小さなろうそく(LEDだけど)を手に、前の空いた空間に移動し、一重の円弧を描いて座る。サンティスワランの編成はアラブ由来のルバナ太鼓(大小4種類)、クマナ1対(バナナ型の青銅製打楽器、2人で分担してティン・トン・ティン…という単純なリズムを打つ)、チブロン太鼓、そして歌。ガムランセットにある楽器で使うのはチブロン太鼓と、3曲目だけで使うスレンテムとグンデルのみ。これらの人が一番円弧の奥になるようにして、歌う人、クマナを叩く人、ルバナを叩く人の顔がはっきり見えるように、左右対称になるように座る。夜、人々が寄り集まって宗教歌を歌う雰囲気になるように。実際にイスラム系の歌が歌われる時はルバナを叩く人は歌い手の後ろに座して前からあまり見えないのだが、日本では珍しい楽器なのでしっかり見せたいと考えた。この配置はパラボラアンテナみたいに見える。宇宙に放出した歌声をここで再びキャッチしてまた放出している風にも見えるかもしれない。

この配置に移動する途中はムラピ峡谷の竹笹のざわざわした音が流れ、見ている人の魂は再び大地に降りてくる。サンティスワランの歌3曲はあまり間を空けず続けて上演したが、星空は曲ごとに変えてもらった。1曲目では北極星を中心に満天の星空がゆっくりと回転するように、イスラムを伝えた人たちが星を頼りに航海してきた雰囲気が出るように。2曲目では、そのルートで見えてくる星座を強調し、回転していく星座をずっと追いかけて見ていくように。3曲目では月が昇り、一晩かけて運行していく様を見せるように。一瞬であまりわからなかったと思うが、実は合唱に先立つ独唱の部分では流星も沢山流れている。プラネタリウムは月が沈んで反対側から太陽が昇り(地上は朝になっていても空はずっと暗い)、天の川が太陽を追いかけてゆく様をずっと映し出してくれた。プラネタリウムとはリハーサルの時に初めて合わせたので、このプランで本当にうまくいくのかよく分からなかったが、星つむぎの村様が音楽にうまくのせてくれて、雄大な星の旅、その星を見上げる人の旅が描けたかなと感じている。

サンティスワランが終わって再び意識が地上に戻され、ウジュンクロンの虫の声が聞こえてくる。演奏者たちはここでろうそくを消して舞台の上手の方に寄って半弧を描くように座り直す。次は宮廷舞踊「アングリルムンドゥン」の前半(クマナ編成)。編成は大太鼓、クマナ1対、ゴングとクノンとクトゥという曲の節目に鳴らす鳴り物、そして歌で、クマナ以外はガムランセットの楽器である。この編成で演奏する宮廷舞踊は古くて重いとされる曲だけで、数は少ない。スラカルタ王家で王の即位式と即位記念日にのみ上演される舞踊曲「ブドヨ・クタワン」は1時間半の全編、この編成の音楽/歌が演奏される。それ以外にクマナを使う舞踊曲は、曲の前半か後半かの一方のみでクマナを使い、もう一方は普通のガムラン編成で演奏する。「アングリル・ムンドゥン」は「ブドヨ・クタワン」に次いで重いとされる曲である。元々マンクヌガラン(スラカルタ王家分家)の初代当主によって作られスラカルタ王家に献上された曲で、マンクヌガランではブドヨとして、スラカルタ王家ではスリンピとして上演される。

演奏者の配置を円弧から半弧に変えたのは、実はサプライズで踊り手が2人登場するからである。第2部で完全なスリンピを上演するので、この部分での舞踊はきちんとした舞踊を見せることが趣意ではない。この舞踊にある振付を使って踊っているけれど半ば即興的で、クマナの音に惹かれていつの間にか幽霊が出て来て、浮遊して、曲が終わる前にいつの間にかいなくなる…という風に見えるようにしたかったのである。ネタバレしたくなかったのでプログラムに名前を書いていないが、踊ったのは私と岡戸香里さんである。

この幽霊が退場し、曲もまだ終わらないうちに雨が降り始め雷が鳴り響く。これもウジュンクロンで録音された音。「アングリルムンドゥン」は雨をもたらすと言われているので、その雨雲にのって龍が現れ、舞台を巡ったのち昇天していくようにしようと考えた。これもネタバレしたくなかったのでプログラムに名前を書かなかったが、この龍のワヤン人形を操作したのはナナン・アナント・ウィチャクソノさんである。実は、今年(龍年)の正月に、SNSでナナンさんがこの龍のワヤンを操る写真がアップされていたのを見て思いついた演出。その写真ではスポットライトを浴びて昇天していく龍のきらきらした姿が映っていた。ホールの照明の制約もあって同じ用には演出できなかったので、影絵として映し出してくれた。今年が龍年でなかったら、この演出は思いついていなかった。

ここで第1部終わり。休憩中、ウジュンクロンの夜明けのさわやかな空気の中を、虫や鳥の鳴き声が響き渡る。演奏の女性陣はパステルカラーの色合いのクバヤ(上着)に着替え、明るい光をまとう。

第2部は舞踊「スリンピ・ガンビルサウィット」。踊り手の衣装は白色のドドット・アグン(昨年の衣装に同じ)、髪型はカダル・メネック(逆立ちトカゲの意味。後頭部で束ねた髪を下から持ち上げ、頭頂右側でくるんと丸め立ち上げる)。サンプールと髪飾りの羽の色は水色。ちなみに第1部の幽霊シーンでは、このドドットの上に白いクバヤを重ねて着て、また頭の水色の羽飾りも取り、この第2部と全く同じ衣装にならないようにしている。

昨年のフェニーチェホールではスリンピ用の照明プランをかなり厳密に作ったが、このホールの照明では似た感じにできなかったのと、「ガンビルサウィット」の振付構成が昨年の曲「スカルセ」ほどドラマチックになっていないこともあって、わりとあっさり目にする(とはいえ、だいぶ合図を出す舞台監督の手を煩わせたが)。基本的にプラネタリウムは使わないが、戦いの後に続いて負けた2人が座るシーン(シルップと言う、2回ある)では、プラネタリウムでオーロラを出してもらった。これは、私の師匠と同世代で、芸大教員として宮廷舞踊の継承や短縮に取り組んだ故タスマン氏が、このシルップはあの世の世界を描いているという話も聞いたことがあるよと話していたことを覚えていたから。舞踊の解釈は古来いろんな人がいろんなことを言ってきたことと思うが、テンポが落ち、音量も静かになるシルップの場面で、異世界/霊界が立ちあがるのは良いなと思ったのだった。異世界というと緑の世界というイメージが私にはあって(夜間に撮影すると緑がかって写る)、それがオーロラと結びついた次第。

ジャワの宮廷舞踊も、通常のガムラン曲と違って初めから終わりまで斉唱で歌いづめである。その意味で宗教歌と宮廷舞踊の歌はよく似ている。歌が主役なのだ。こういう演目だったので、ジャワから招いた音楽家は芸大教員で宮廷舞踊曲の演奏を指導してきたスラジ氏(楽器はルバーブ、メロディを主導する楽器)と、歌とくにサンティスワランを専門とするワルヨ氏、そして卒業生で在野の芸術家として活動するクリスティアン・ハリヤント氏。クリスティアン氏にはガムラン演奏ではガンバン(木琴)を演奏してもらった。これはなかなか大変なパートである。

最後に内輪褒めになるのだけれど、スリンピの完全版演奏に日本で真剣に取り組み、今のレベルでできたことをスラジ氏には評価してもらえた。今の出演メンバーとは岸城神社で10年間続けた公演(2009年~)以来、不完全な長さであっても宮廷舞踊曲に取り組んできたので、この間に積み重ねたことは小さくなかったのだなあと思う。また、サンティスワランに関しては、ワルヨ氏が「ジャワでも指導しているけれど、日本で一番成功した!」と言ってくれたのが嬉しい。私たちはワルヨ氏が送ってくれた録音を基に練習を重ねていたけれど、リハーサルの前日に(しかも日本に到着した日)にいきなり新たな演出が加わったのである。たぶん、私達の出来を見て、これならイケる!と踏んでくれたのだが、いきなりの展開に面食らってしまった…。というわけで、これにて3部作『幻視 in 堺』も無事終了である。

『アフリカ』を続けて(42)

下窪俊哉

 仲俣暁生さんの『もなかと羊羹』を読んだところだ。サブタイトルに「あるいはいかにして私は出版の未来を心配するのをやめて軽出版者になったか。」とある。文庫サイズで44ページの薄い本で、仲俣さんの個人出版プロジェクト「破船房」から出ている。この連載の(38)で触れた「軽出版者宣言」を冒頭に置いて、そこに至るまでの経緯と、「自分で企画し、自分でつくったものを自分で売る」ことがいまの時代、どうなっているかを解説してある。
 それを読みながら、ウェブ上の各種サービスが洗練されてきた、という要因を外しては考えられないのだ、とあらためて考えた。
 簡単に言うと、いまはパソコンでデータをつくれば、ウェブで入稿して印刷・製本することが出来て、ウェブで売れる。
 それに加え最近は、文学フリマをはじめとする即売会も盛んになってきたし、シェア型書店で自分の棚を持ち売ることも出来る。独立系書店も増えてきた(らしい)ので、営業に出て直卸で売ってもらうことも出来る。しかし地方によっては、状況は多少違うかもしれない。
 私は即売会には滅多に行かず(出ず)、書店にかんする昨今の傾向にも疎いので、ピンとこないところもあるが、噂に聞いて知ってはいる。いまは横浜に住んでいて東京で仕事をしているので、そのような環境には恵まれているのかもしれないが、『アフリカ』を始めた頃(18年前)に文学やら出版やらの業界からは距離を取ろうと決めて以来、いまはまだ、相変わらず離れたままである。
 しかし、ウェブ上のコミュニケーションについては、そんなふうに他人事のように考えることが出来ない。
 とくにSNSは、必要不可欠なものになった。何よりTwitterの存在が大きい(いまは名前が変わったそうだが、中身はTwitterである)。「水牛」の八巻さんからも、そこで声をかけられたのだから。なぜかわからないが、そして良くも悪くもということになるだろうが、不思議な力が働いているのを感じる。
 いま私のやっていることは、主にSNSによって知られている、と言えるだろう。SNSが入り口になって、いろんな場所への案内人の役割を果たしてくれてもいる。
 数年前のコロナ騒動の頃には、こうも考えた。これからはウェブ上に拠点を持ち、どこからでもアクセス出来る、というふうにしてゆけばよいのだ、と。
 しかしそういった営みの先につくっているものは印刷して、製本された、いわゆる「本」なのだ。それはウェブ上には存在しない。各々の手元に届けられるモノだ。
 ところで、「知られる」ということが、すぐに「売れる」にはつながらない。『もなかと羊羹』にもそう書かれてあり、仲俣さんによる試行錯誤の様子も少し紹介されている。
 工夫すれば、それなりに稼ぐことも出来そうだ(本業にはならない)が、それはひとりでやる場合であって、アフリカキカクのように人が集まってやるというのでは、制作費+αくらいにしかならないというのが正直なところだ。
 それでも、自分(たち)の本は自分(たち)でつくりたい。なぜなら、そこでは自分(たち)のやりたいように出来るから。
 この連載の(6)に、ビル・ヘンダースンという人のエピソードが出てきていた。彼が図書館で調べてわかったように、いまではとても有名な作家たちの中にも、自分の本を自分でつくって出してきた人がたくさんいるのである。何も遠慮することはない。
 そんなふうに言うと、大げさかもしれない。自分にとっては、ひとり遊びに近いことだというふうにも感じているから。ひとり遊びなのに、他人を巻き込んでやっているのだから、よくわからない気もする。

 戸田昌子さんは先日、『アフリカ』に書くことを「サークル活動」と言っていた。なるほど、そんな感じかもしれないな、と思う。その戸田さんは昨年、初めて『アフリカ』に書いた後に、こんな感想を寄せてくれた。

たぶんわたしは、道草さんの文章を読んだ時も、そしてなつめさんの文章を読んだときも、お金をもらってものを書くことにちょっと飽いていて、そして仕事というものの幅の狭さにきっと、イライラしていたのだと思う。だから「書く必然性がある」のに、「求められて」書いているわけではないような、ちょっと途方に暮れるような自由さのなかで、一定のテンポを刻みながら書いている人たちの存在を強く意識した。そのころから『アフリカ』に書きたい、という思いが、わたしのなかにふわっと生まれてきていた気がするのです。

 道草さんというのは私のことで、ここで言われているのはブログの文章のこと。なつめさんの文章というのは、『アフリカ』vol.34の巻頭に載っている「ペンネームが決まる」のことだ。「ちょっと途方に暮れるような自由さのなかで」というくだりを読みながら、何度読んでも、心が震えるのを感じる。この文章は、もう少し続けて引用させてもらおう。

わたしは、文章を書くことをなりわいにしていて、文章を書くテクニックもタクティックもそれなりに持っていて、それゆえに人に感嘆されようが、けなされようが、屁とも思わないような鋼の精神も持っている。なのに、というか、だから、というか、しかも、そのことにすら飽いていました。それでいて、書きたいことを書きたいように書いてください、と言われたとしても、ほんとうにそんなふうに「自由に」書ける場があったためしはなかったのです。

『アフリカ』が自由だということは、以前からよく言われている。私の書く文章が自由だと言われたこともあったが、それとこれが、関係しているのかどうかは知らない。書くことも、雑誌や本をつくるのも、自分のやりたいようにやりたいとは思っているようだ。自分のことを「ようだ」なんて言うのはおかしいかもしれないが、そんなふうで、それを実現させるには、おそらく編集者になる必要があった。
 自分の中に編集室をつくったのである。そこに入ると編集者になれる、そんな小部屋を。これはいわゆる職業としての編集者とは、ちょっと違うかもしれない。
 そこは、何というか、いつでも空っぽの部屋なのだ。空間だけがあり、何もない。そこに入ると、いつだって、あとはあなた次第でどうにでもなるんだよ、と言われているような気がする。

むもーままめ(44)「ココナッツサブレ 発酵バター」の巻

工藤あかね

 少し前まで、甘いものにはほとんど興味がなかった。お酒が好きだったこともあるけれど、それ以上にとにかく、甘くない食べ物が好きだったのだ。食べ放題で夫がデザートを頼んでいる頃、まだ私はお肉を頼んでいることが多かった。学生時代には、友人に誘われてあんみつ屋さん(当時は大学最寄りの駅の近くにあった)に行っても、かたくなに、ところてんを頼んでいた。幼少期に食べたあんみつのみつ豆がボソボソして口に合わず、それ以来あんみつは食べたい気持ちにならなかったのだ。ただケーキは好きで、家族の誰かの誕生日とクリスマスに登場する、いちごの乗った丸いデコレーションケーキは楽しみだった。だから一時期ちまたで流行った二段ケーキが我が家にやってきた時は、家族中で最高潮に盛り上がった。…あれは小さな弟の誕生日、彼がロウソクの火を吹くことになっていた。「ブーッ!!」弟は勢いよく、よだれ混じりの息を吹いたのだ。二段ケーキの南半球が被害に遭い、大きい弟は泣きながら怒って北半球を私と二人で分けて食べた。南半球を全部食べると息巻いていた小さな弟(誕生日だがブーッの犯人)は、大きな弟に恨みがましい目つきで見られていた。楽しかったはずのお誕生会が一気にしらけた。小さな弟にあてがわれた南半球を本人一人で完食なぞできるはずがなく、残りは両親が食べたのだろう。甘いものにはさほど執着がない私でも、二段ケーキの思い出は忘れられない。

 とはいえ、甘いものは特に執着がないポーズを通してきた私でも、変わる時は変わるものである。最近、急にお菓子が好きになって、家に何かないと「大変、買いに行かなくちゃ」となる。以前は食べたいものがあれば材料を揃えて手作りしていたが、その気力も時間も別のことに使えるなら使いたくなった。最近のコンビニスイーツはよくできているし、生菓子以外でも各社ともにすごく工夫して美味しそうなものを売り出しているので、買い物がてらにお菓子コーナーも少しのぞくようになった。

 今日食べて驚いてしまったのが「ココナッツサブレ 発酵バター」である。スタンダードな「ココナッツサブレ」を食べた記憶が薄いので、もしかして自分で初めて買った「ココナッツサブレ」シリーズになるだろうか。「発酵バター」という言葉に釣られてついつい買ってしまった。サブレの大きさは名刺を二回りくらい小さくしたくらい。16枚入りが4枚ずつの個包装になっているのもポイント高し。一袋が100キロカロリー程度。カロリー管理の必要な人が、ちょこっと食べるのにちょうどいい。4枚が重なるように積まれているが、一枚一枚に結構しっかりとした固さがあるので、お菓子が割れていて袋を開けた途端にがっかり、ということは少なさそうに見える。きっと輸送用トラックに揺られても心配なし、お店で走り回るいたずらっ子がガバッと取ってちょっと振ったくらいでは割れたりしないのだろう。なんといってもお菓子は見た目が重要なのでね…。

 そしてついに食べてみる。個袋から引き出すと手の指にサブレ側面の緩やかな波線が当たる。この形をしていると、そうっとしか持てない。表面がつやつやとしてお砂糖がまぶしてある。形が可愛いだけでなく、作り手の「大事に食べてね!」のメッセージがこもっているように感じられる。口に運ぶ瞬間、バターの香り、あとからココナッツの香りがやってくる。歯ごたえはサクサクとザクザクの間くらい。硬すぎず、柔らかすぎず、厚さも薄すぎず厚すぎずで、軽やかだけれどしっかり食べたような充実感もある。うまい、うますぎる。もう一袋に手が伸びかかったが、迷った末にまた明日食べようと心に決めた。個包装の勝利である。菓子コーナーは「たべっこどうぶつ」と「歌舞伎揚」を買う以外に用事がなかった私だが、今度から「ココナッツサブレ」シリーズには注目していきたいと思う。

吾輩は苦手である 5

増井淳

 ずいぶん前のことだが、仕事で歴史学者の今井清一さんのご自宅へうかがったことがある。
 今井さんから尾崎秀樹に関する原稿をいただき、シェリー酒などもごちそうになり、いい気分で辞去した。
 その帰り道、満員電車に乗っていて、見ず知らずのニンゲンから突然ガラス瓶で後頭部を殴られた。
 瓶の中には液体が入っていて、上半身はびしょぬれになってしまった。
 ちょうど駅に停車したところで、殴った男は、走って下車してしまい、吾輩は濡れたまま会社までもどった。
 そういうことがあったからだろうか、満員電車というのがつくづくいやになった。
 いやになっただけでなく、その後、満員電車に乗ると急に不安や息苦しさに襲われるようになった。
 そして、ついには満員電車に乗れなくなってしまった。
 電車通勤だったが、以来、できるだけ空いている電車を利用。おかげで、40分ほどだった通勤時間が1時間以上かかるようになってしまった。

 そういえば寺田寅彦も満員電車が苦手だった。

 「満員電車のつり皮にすがって、押され突かれ、もまれ、踏まれるのは、多少でも亀裂の入った肉体と、そのために薄弱になっている神経との所有者にとっては、ほとんど堪え難い苛責である。その影響は単にその場限りでなくて、下車した後の数時間後までも継続する。それで近年難儀な慢性の病気にかかって以来、私は満員電車には乗らない事に、すいた電車にばかり乗る事に決めて、それを実行している」(「電車の混雑について」『寺田寅彦随筆集 第二巻』岩波文庫。青空文庫でも読める)

 「堪え難い苛責」というのが吾輩には痛いほどよくわかる。
 寅彦は科学者らしく満員電車を「観測」して、その「律動」に法則性のあることまで指摘している。
 寅彦の指摘は大正時代のこと。今では「満員電車のあとには空いた電車が必ず来る」というわけでないと思うが、それでも急行とか快速には乗らず各駅停車を選べば比較的空いている電車に乗ることができる。もちろん、時間がかかり、その待ち時間が時には堪え難く感じることもあるのだが。
 
 満員電車は苦手であるが、実は、吾輩はほとんどの乗り物が苦手である。
 前に勤めていた会社はビルの3階にあり、社員はエレベーターで3階へ行くのだが、吾輩はずっと階段を利用していた。
 学生のころ、下宿から学校まで吾輩以外の下宿人は電車を利用していたが、吾輩は30分ほどかけて歩いて通っていた。
 小学生のころは、友だちが自転車で遊びに行くのに、吾輩は走ってそれについていった。
 つまり吾輩は、自転車、三輪車、船、飛行機、エレベーター、エスカレーターとおよそ「乗り物」と言われるものすべてが苦手である。乗り物に乗るくらいなら歩くほうがいいし、歩けない距離なら出かけないほうがいい。
 通学・通勤で電車をずいぶん利用したが、目的地の少し前の駅で降りて、そのあとは歩くということもよくやった。
 数年前に通勤から開放されて以来、電車に乗るのは年に数回ほどである。
 先日、同級会があり帰省した。その際、十数年ぶりに新幹線に乗ったのだが、ICカードの使い方がわからず、駅で右往左往してしまい、あやうく目的の電車に乗り遅れるところだった。しかも、新幹線の乗り心地が悪く、気持ち悪くなってしまう始末。
 まったく乗り物というのはイヤなものである。
 
 「水の上を歩くのが奇跡ではない。この地上を歩くことが奇跡なのだ」と臨済禅師は言われたが、このことばをかみしめながら、トボトボと歩く日々である。

旭丘団地の午後

さとうまき

今年の夏は暑かったので、11月も終わりに近づき、ようやく最近銀杏並木が色づき始めた。しかし今日は朝からどんより曇ってさえない色合いだ。僕の父が亡くなってから10か月以内に相続税をおさめに行かねばならぬ。11月末が納期だった。どうせなら、是枝監督の映画「海よりもまだ深く」の舞台になった旭丘団地まで行って、そこの郵便局から振り込むことにした。昭和42年に建てられた2070戸のマンモス団地だが、商店街は、高齢化のためか見事なまでにシャッターが下りている。それでもまだ人は住んでいるようである。映画は、夫に先立たれた一人暮らしのおばあさん(樹木希林)の年金を当てにして、妻に逃げられたダメ男の長男(阿部寛)が頻繁に団地を訪ねるたわいもない話だが、他人事とは思えない高齢化社会の問題を描いている。監督は、9歳から28歳までこの団地で暮らしていたというし、僕とあまり年が違わず、高校も大学同じだから人一倍親近感を感じるのである。

税金を納めて一区切りがついた気分である。郵便局の前がちょっとした休憩所になっており、そこにいらなくなった本がおいてある。自由に持ち帰ってもいいし、いらなくなった本を持ってきてもいい。どんな本があるのかなあと、目についたのが、「名医ぽぽたむのおはなし」という絵本だった。池袋にカバのロゴマークのぽぽたむというブックギャラリーがあったので、カバの話かなあと思ってパラパラ読んでいると、これが結構おもしろい。糊とポンプで死んだ動物をよみがえらせるというカバの医者の話だ。

しばらく読んでいるとおばあさん3人連れがやってきて世間話を始めた。
「昨日は天気が良くてね、布団をほしたのよ。ところが、布団があつくなっちゃって眠れなかったのよね。」
僕はそのことばにちょっと興味をひかれたので、本を読むふりをして盗み聞きをすることにした。
「これから、雨になるって。でも明日は晴れてあったかくなるって」
明日は友人に庭の剪定を手伝ってもらうことになっており、僕は天気のことを気にしていたからおばあさんたちの情報は有益だった。

「もの(値段)があがっててね、鳥が埼玉で病気になって卵が高くなったわね。かわいそうに元気な鳥も全部殺されちゃうのよね。かわいそうに」
「人間もやられているみたいだけど」
「ねぇ、ロシアとかあっちのほうに連れていかれてね。かわいそうなのは北朝鮮のひとよね」
北朝鮮は、ロシアに協力し、兵士を送りウクライナに送り込んだ。相当数の北朝鮮の兵士が戦死しているらしい。ゼレンスキーは、「不安定化する世界の新たな一ページを開いた」と言っている。
「北朝鮮が日本製の武器をどこかで仕入れてウクライナで使っているのよ」
へえ、そんなことになっていたのか。
「早く終わらしてくれればいいのにね」
「でもねぇ、戦争していいことなんてなんにもないわよね」
「そうよ、そうよ、何にもない」
「ものは壊される、食べるものもない」
「地球は一つなんだから、地球守らないと」
「地球なくなったらみんなどうすんだろう」
「お金一杯持っている人は火星とか行っちゃうんだろうけど」
「中国なんかも、富裕層は外にみんな出っていっちゃう。貧しい人は仕事がないっていうわよ。共産党国なのに平等なんてないのよ」

いつしか話はグローバルな方向へと向かっていたが、僕は、カバの医者、ぽぽたむの荒唐無稽な絵本を読んでいた。ワニに食われて肉団子になったキリンをポポタム先生はよみがえらせるのに成功した!

子どものころ、こたつに入ってうとうと居眠りをしていたことを思い出す。女たち(祖母や、母や、親戚のおばさん)はいつも世間話をしていた。彼女たちは、子どもがいようがいまいがお構いなしに大人の会話をするのである。自分は会話に加わる必要がなかったし、そのことはとても心地よかった。僕はばあさんたちの会話を楽しみながらポポタムの絵本を持ち帰り続きを読んでいる。

本小屋から(12)

福島亮

 先日、どういうわけかエラリー・クイーンの『Yの悲劇』を読みたくなった。駅前書店に駆け込むと、やっぱりあった。急いで購入し、あっという間に読んでしまった。『Yの悲劇』については、有名な作品だから、詳しい説明は不要だろう。物語は、船乗りたちが水死体を見つけるところから始まる。遺体の損傷は酷かったものの、持ち物からニューヨークの資産家の老人ヨーク・ハッターであることがわかる。自殺らしい。資産家といっても、一家のすべてを牛耳っているのは強烈な癖をもったエミリー夫人であり、あの夫人がいればヨーク・ハッターが自殺したのも頷けると誰もが思った。つまり、事件性はない、と。だが、主人亡きあとのハッター家を舞台に、不可解な事件が立て続けに起こる。とりわけ謎めいているのは、犯人が凶器としてマンドリンを使用した点だ。なぜ、あの軽くて小さな楽器、マンドリンなのか……。この謎に、引退したシェイクスピア役者ドルリー・レーンが挑む。

 小学生の頃、私は横溝正史のファンだった。角川文庫版の「金田一耕助ファイル」を小遣いでせっせと購入し、何度も読んだ。実家の周辺には書店がなく、親に頼んで自動車を出してもらい、タイムクリップという雑貨屋兼書店、あるいは戸田書店というやはり雑貨屋と本屋がセットになったような店で、角川文庫をせっせと購入した。それは子ども時代の私にとって、お気に入りの国語教材でもあり、『八つ墓村』を読むことで「発端」という単語を覚え、『獄門島』を読むことでいくつかの俳句を覚えた。当時は「音読」の宿題というのがあって(いまもあると思う)、基本的には教科書に掲載されている「名作」を音読するのだが、好きな文章を読むこともできた。読んだものは「音読カード」に記録し、どれだけ多く読んだかを教師がチェックするのである。不正できないよう、本当に聞きました、という旨の印鑑を親が押す。私の「音読カード」には『犬神家の一族』や『悪魔の手毬唄』といったタイトルが記録された。それらは夕食を準備する母に読んで聞かせたものだが、じつは、横溝正史の魅力を私に教え込んだのは母だったから、息子が血生臭い話ばかり音読することをあまり不満には思っていなかったと思う。中学、高校と進むにつれて、少しずつ私は横溝作品から遠ざかり、そればかりかミステリーからも遠ざかっていった。気がつくと私が買い集めた角川文庫は、いつの間にか母の枕元に移動していた。

 いま思うに、子どもの頃の私が母から教わったのは、おどろおどろしい設定や、奇怪な犯行に対する「怖いけれども読みたい」という好奇心だった。言うまでもなく、ふたりの「推し」は、あの佐清である。角川映画の『犬神家の一族』がヒットしたのは1970年代半ばだから、それは母の少女時代にあたる。母が映画を見たのかどうかよくわからないのだが(石坂浩二よりも、古谷一行の方に母は馴染んでいたような気がするし、あまり映画の話はしなかった)、私たち横溝ファンの親子が生まれた背景にも時代的脈絡がきっとあるのだろう。

 あの頃買った文庫本は、いまでも実家の本棚に入っている。何度も音読し、表紙がボロボロになった『八つ墓村』もそこに置いてある。それらをまた開く日が来るかどうかわからないけれども、ある時期以降ミステリーから遠ざかっていた私には、それらの本は懐かしくも、どこか後ろめたい存在である。お世話になっておきながら、裏切ってしまった誰かのような存在、子どもの頃あんなにも仲良くしていながら、学年があがるにつれて疎遠になってしまった友人のような、そんな存在なのだ。

 『Yの悲劇』を驚くほどのスピードで読みながら(ミステリーを読むとは、この止まることを知らない手の速度に、呆れながらも感心することではないか、と思う)、私の目はどこかで小学生の頃の私の目になり、指は小さな子どものそれになっていた。レーンが実験室の戸棚に隠れて犯人の様子をうかがう場面では私も息をひそめ、この老役者がその名前を告げる場面では、思わず声をあげ、そしてマンドリンの謎が解明される時には、なんとも言えない快感を感じた。ヴァニラの香りのような甘ったるい小学生時代の思い出と、そこから離れてしまった後悔の苦味。それは、私がミステリーから離れつつあった頃に知った俵万智の表現を借りるならば、ダメだと思いながらもつい手がのびてしまう、チョコレートのような読書体験である。

しもた屋之噺(274)

杉山洋一

ミラノに戻った翌朝、庭の樹は見事に黄金色に染まっていて、枝の下は、既に落ちた葉が地面の雑草とあいまって、ちょうど19世紀おわり、イタリア分割主義(ディヴィジオニズモ)の絵画の筆致をおもわせます。久しぶりにこちらの姿を確認したリスは、また餌が途切れては堪らないとでも思っているのか、樹の根元あたりに穴を掘っては、餌箱にやったばかりのクルミをせっせと運んでは溜め込んでいます。小鳥たちはそれを周りからじっと眺めていて、ときどき、こちらのすぐ近くに飛んできてこちらの様子をしばらく伺っては、またリスのそばにもどって作業を見守っています。鳥の翼の赤が、紅葉の風景にやさしく溶け込んでいて、おもわず心がなごんでくるのです。

11月某日 三軒茶屋自宅
勤務先の学校を運営する財団より一斉メール。たとえ、学校とは直接的には関連はないが、我が校に関する新聞記事に大変憂慮をおぼえる。我々は性虐待問題について、非常に強い態度で臨んでゆく。万が一、身の周りでそのような問題を見聞きした場合、すぐに連絡されたし、とある。何があったのか全く見当がつかず、学校名で新聞記事を検索すると、目ぼしい大手新聞社が軒並み、我が校の教師とその卒業生が、性加害者として訴追され1月に出頭命令。ずいぶん詳しく書いてあって、教師と彼の元生徒が、一人の女子学生と夕食後に暴行に及び、被害者は警察に通報した。教師のイニシャルまで書いてある記事もあり、揃って、学校は無関係だと主張している、と締めくくられていた。

ひがな一日譜読みに明け暮れているが、ひどい時差呆けで気が付くと、机につっぷして寝ている。急がば回れともいうけれど、急ぎ続ける生活は厳しい。何かを根本的に間違えているような気もする。あとひと月頑張って指揮に専心したら、譜読みや指揮とも距離をとって静かに作曲する生活にもどる。本来、自分は田舎の学校でつつましく教鞭をとっているのが向いている人間だとおもう。

11月某日 三軒茶屋自宅
対イラン政策のため、米重爆撃機B52来伊。100年前、ヒットラーはチェコ国内で迫害を受けているドイツ系住民を解放する名目でチェコに侵攻した。他の地域も似たようなものだろう。あれから1世紀過ぎて、さまざまな惨い戦争で諍いの無意味さを理解したはずでも、原爆で人が瞬時に消滅する姿に慄いたとしても、まったく同じ方便を使って、人は人を殺めつづけているのは、おどろくべきことだ。大部分のナチス時代のドイツ国民が、ユダヤ人迫害をしらなかったように、もしくはしりたくなかったかのように、加害にたとえ無意識にでも加担している人々も、一人一人はおそらくとても優しく、人間味あふれる人々に違いない。

小学1年生の終わりに、教室に置かれていた「はだしのゲン」を読んだときの衝撃は今でも忘れられないし、その思いは未だにトラウマになって体内のどこかに残っている。小学校の終わりごろ、学校の代表だったから、原爆で黒焦げになった遺体の写真何枚かについて、感想文を書かなければならなかった。何を書いたのか全く記憶にはないけれど、ただ、「はだしのゲン」を初めて読んだときの恐怖などを、まざまざと追体験しながら書いたのは覚えている。
そのころ、子供心に本当に不思議だったのは、こんな酷い目にあいながら、いまなぜ日本はアメリカと仲が良く、大人たちはどうしてアメリカ人を嫌ったりしないのだろうという、文字通り素朴な疑問だった。その頃は相模原に住んでいたから、米軍座間キャンプが近く、近所にはそこで通訳として勤めている人もいて、どうしてアメリカ人が怖くないのか、憎らしくないのか、実は本当は憎らしいのか、などと考えていたのを思い出す。そうして、実際に座間キャンプなどに勤めていた米軍関係者のこどもと知り合う機会もあって、自分と同じごく普通の子供だった。
息子がミラノの現地小学校に通っていたころ、同級生のフィリピン人に、「戦争中日本人はフィリピン人をたくさん殺した。だから、フィリピンのひとは日本人がきらいなんだよ」といわれ、とてもショックを受けた。この同級生が、誰からどのように教わったか知らないし、それを事実に反するというひともいるかもしれないが、とにかく息子の同級生は、そのように思っていた。朝鮮半島や中国に残る、日本に対してのわだかまりも、それに準じる皮膚感覚なのかもしれないが、自分が小学生のころ抱いていた漠然とした恐怖を思い返せば、少しわかる気もする。もちろん、場合によっては政治家はその皮膚感覚を利用してきたかもしれないが、それは今に始まったことではないだろう。それとは別の次元で、刻み付けられた傷を後世に伝えたい意志は、ほとんど意識そのものと重なっているかもしれない。
先日までイタリア中部で洪水が続いていたが、今度はスペインのヴァレンシア地方で甚大な被害。被害者は現在のところ212人と報道されている。

11月某日 三軒茶屋自宅
NHKホールにて作曲コンクールの録音。録音といっても、ごく普通と同じようにドレスリハーサルがあって、審査員5人のための演奏会がある。ドレスリハーサルも石川さんの曲になり、甲斐さんが舞台に現れるのを待ってさあ始めようとしたところ、客席から、パキッと大きな物音がする。念のため、ドレスリハーサルも録音していたので、大きな雑音が入るのは望ましくないとおもい、特に後ろを振りかえらず「始めますから、すみません!」と声をかけ、また振り始めようとすると、パキッと大きな物音がした。後ろを振り返ると、音のするあたりに、関係者が駈け寄っていて、なんだろう、と眺めていると、またパキッと音がした。「すみません、何もありません。長年、ここで収録してきましたが、こんなこと初めてです」とNHKの方が言うので、一瞬だけ鳥肌が立ち東フィルのみなさんもみな緊張した面持ちになったのだが、「ああ、なんだ西村先生そこにいらしたんですねえ!」と声をあげると、オーケストラからどっと笑いが起きた。西村先生は、本当にみなさんに愛されていたのだろう。
もしかしたら、湯浅先生とか一柳さん、三善先生かも!などとオーケストラのメンバーからもはずんだ声がきこえる。なんだ、そこで皆さん聴いていらっしゃるなら、今日の演奏はもうお任せして大丈夫ですね、とすっかり気分も大きくなったが、その通り、本番は実に素晴らしい演奏ばかりであった。情熱ほとばしる甲斐さんの独奏には、オーケストラ一同すっかり惹きこまれたし、まだ大学に通っていらしたころからよく知っている中澤さんが、急な代役を見事にこなされたのにも、大変感銘をうけた。
生まれて初めて、どうやらラップ現象と呼ばれるものと遭遇した塩梅であるが、あんなに愉快で幸せな気分になるものとはしらなかった。リハーサルが終わり控室に戻ると、なんだかすっかり感激してしまって、涙が溢れて仕方なかった。
審査員のみなさんの拍手と相俟って、コンクールらしからぬ、心地良い演奏会となったのは、どなたかがムードメーカーで眺めていらしたからかしら。トランプ前大統領再選。

11月某日 三軒茶屋自宅
朝「1通の手紙と六つの唄」を初めてリハーサルしていると、ピアノを弾いていた家人が「マエストロが来てるよ」という。振り向くと、敢えて呼んでいなかったシャリーノが微笑みながら座っている。演奏がとてもむつかしい作品だったから、最初からリハーサルを聴かれても困ると思っていたが仕方がない。思いの外元気そうなので安心する。
午後は作曲のワークショップ。まずシャリーノは、皆が周りにあつまるように促した。彼と二人、舞台の端に腰かけて、客席前列と、舞台にも椅子を並べて、みんなで6人の若者が書いた書きかけの楽譜をながめながら、レッスンとレクチャーのあいまった濃密な時間が展開した。
シャリーノは自分の書きかけのスケッチを見せてくれる。五線紙ではなくグラフ用紙に時間軸にそって、細かく丹念に書き込まれた音のうごき。自分はこんな風に音を視覚化して、俯瞰していると説明した。
若い頃には、自分の作品など殆ど演奏の機会にめぐまれなかったし、周りが前衛音楽一辺倒の時代において、自分の音楽は後ろ向きだと批判ばかりされた、と笑う。
シュトックハウゼンやブーレーズなどを真似て、ずいぶん色々と自分なりに実験してみたが、書法の洗練に特化したブーレーズより、自分はシュトックハウゼンの姿勢に共感をおぼえたものだった。
理論で作曲するのではなく、自分の書きたい音に耳を傾けるよう、繰り返した。確かに、彼は自分の書いた音がすべて聴こえているようであった。それは作曲家にとって、決して容易なことではない。
日が暮れた皇居の外苑濠を二人で散歩していると、シャリーノから街路樹の名前をたびたび質問される。横断歩道できこえる視覚障碍者のための電子音が特にお気に入りで、ぴよぴよ、ぴよぴよっているあれは、何の鳥かねと尋ねられ、スズメじゃないかしらと適当に答えてしまったが、案外違っているかもしれない。中国を訪れた際、漢字を二つ覚えたという。一つは人が手を広げた形をあらわす「タイ」。あれは「大きい」という意味だそうだね。もう一つはチュンコウ(中国)のチュン。真ん中ってことなんでしょう。九段の坂あたりの食堂や商店にかけられた「営業中」などの漢字を見ては大喜びしている。
あそこにある駐車場つきの小さな公園は何かと言われて、連れて行ってもらったところ、夜だったので既にしまっていたけれど人生初の靖国神社訪問となった。

11月某日 三軒茶屋自宅
音楽大学生の弾くシャリーノ作品に作曲者が助言をする。ピアノの中西さんには音をやわらかく弾くように、とアドヴァイスを始めた。一音一音を際立たせるのではなく、フィギュア全体を聴かせるように。思いの外クラシック作品を弾くときのような美しい響きを求めていて、アグレッシヴな響きは好みではないようであった。「前奏曲」のような楽譜であっても、フレーズを大切にしていることがわかる。低音域からのグリッサンドを高音域まで撫で上げると、そのまま次のフィギュアまで一つのフレーズでつないでほしい、と、何度かていねいにやりなおしていた。彼がリコルディ社で写譜の仕事をしていたころの手書きの作品で、これはデュラン社のドビュッシー「前奏曲」の楽譜をパロディにしているんだ。題名の書体もそっくりでしょう。下段に書いてあるscherandare という造語も、当初のデュラン版に書かれていた誤植をそのまま真似して書いたものだそうだ。現行のデュラン版ではscherzandoと訂正されているという。
「2台ピアノのためのソナタ」と「前奏曲」のみに使われている、この独特な不定記譜法は彼の創作ではなく、当時彼が読んだ「前衛音楽の記譜法」に書かれていたものをそのまま用いたのだが、演奏にあたり、結局演奏者が一つ一つ音を自分で決めなければならず、ある演奏家が、すべて通常の五線譜に書き直しているのを見て、再び五線譜に書くようになったという。「夜の」や「演奏会用練習曲」は、全ての音符を五線譜に書き込むようになったばかりの頃の作品。
ヴァイオリンの田中さんには、カプリッチョ1番で冒頭2段目のpiù lentoを楽譜通りにテンポを倍に落とし急激に速度を上げるように助言していた。32分音符と64連音符の比率も楽譜通りに。
シャリーノ曰く、確かにこんな風に弾く演奏家は殆どいないという。6番冒頭のタッピングは、全ての音が聴こえるように、早すぎない演奏を望んだ。コーダに入る直前、フェルマータをはさみsi volti subito(すばやく譜めくりして)と書かれたシンメトリーの音型を、できるだけ聴きとれるように演奏して欲しいと注文をつけた。
クラリネットの木津さんには「目覚める前に死なせて」は、愚直なほど楽譜に書かれた通りの演奏を望んだ。32分音符のトレモロは64分音符の倍の遅さで、決して急がずに。最初に指定してあるとおり、「Tranquillo e uniforme おちついて、まだらにならないで」曲を弾き通してほしいという。低音と高音のハーモニクスを出すところと出さないところ、高音のハーモニクスが小さく書かれているところか、大きく書かれているところか、あくまで楽譜に指示されている通りに演奏してほしいという。
重音は記述されている通りの指使いで、指定された音が全て聴こえるようにし、楽器に合わせて出しやすい重音を選ぶのは認めなかった。舌打ちと重音の続く音型も、あくまで一つのフレーズに収まるように。
Stretto はアメリカのマーチングバンド風に。
どれも極端にむつかしい注文ばかりだったにも関わらず、中西さん、田中さん、木津さんはそれぞれおどろくほどの力量で彼の言葉を実現していた。市村さん曰く、シャリーノはあんなにも若い人たちが自分の昔の作品をこれほどていねいに素晴らしい演奏をしてくれて本当に感激だ、と話していたそうだ。
作品があまり有名になってしまうと、作曲者の意図を反映しない演奏も多く聴かれるようになり、それを手本にした演奏も増えてゆく。作曲者は、案外もっと素朴に書いてあることを書いてある通りにやってほしいのだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
シャリーノ講演会後、とある年配の女性が「今日の講演会、聴きに来て本当によかった。シャリーノさんの言葉、なんだかすごく心に刺さりました。人生が変わるような体験でした」と言い残してゆかれたそうだ。
今日はリハーサルの後、橋本さんと二宮さんが、シャリーノ滞在中の部屋を訪ねてくださった。12階の部屋のベランダからは、摩天楼とでも呼べばよいのか、美しい東京の夜景が目の前一杯に広がっていて、思わず歓声をあげた。机の上にはシャリーノの書きかけの五線譜がひろげてあったが、出前の寿司が届いたので片隅に片付けた。
シャリーノと橋本さんは揃ってローエングリン公演のヴィデオを鑑賞していて、言葉にできない感動をおぼえる。シャリーノは、橋本さんが自らを見事に客体化し、立ちつくし、極限まで表現を追求しきった勇気を、何度となく讃え、感嘆していた。谷川俊太郎死去の報道。

11月某日 三軒茶屋自宅
シャリーノ室内楽演奏会。「1通の手紙と6つの唄」。薬師寺さんが言葉をとても大切にして演じてくれている、とシャリーノはとても感銘を受けていた。和泉式部のテキストからは恋煩いから神経衰弱に陥る女の姿が浮かび上がる。ウンガレッティのテキストが愛惜の奥底に溜まる澱だとすれば、シチリア、マルサラ方言によるデ・ヴィータの「本」は燃え上がる憂愁。ウンガレッティはイタリアに俳句をひろめた詩人でもあり、文体も俳句のよう。

1通の手紙 una lettera

風のおと。吹き付ける風は、まるで最後まで残っていた葉までふるい落とすのだと心に決めていたよう。怪しげな雲が沸き立つかとおもえば、ささやくような雨がふる。希望はない。「終わらない秋。涙でくたくたになった袖。はらはらとほんの少しの雨がふる」。悲しい、なのに誰も気がつかない。風に翻弄される葉は何か哀れ。枝から滴るしずくは、まるでわたしのよう。縁側に横たわったまま、わたし、もうすぐいなくなるのかも知れない、と思う。眠り込んでいて、わたしの話につきあってくれない使用人たちに、苛立っている。遠く、野性の雁の鳴き声に耳をすます。他の人なら感激するにちがいあるまい。でもわたし、この音が我慢できない。「ねむれない夜。野性の雁のさびしげな声」。違う。わたしは障子をあけて、地平へ落ちゆく月をみたい。霧の中、梵鐘のおとと、鶏の鳴き声がひとつになる。今までも、これからも、こんな瞬間はなかった。あたらしい着物の袖の色まであたらしく感じる。「ねむれぬ夜」。だれかが戸を叩く。誰だろう。「ねむれぬ夜」。あなたもこんな思いに駆られながら、この夜をやり過ごしているの。

和泉式部/サルヴァトーレ・シャリーノ

N.1 貝殻

愛しいおまえ/闇の貝殻/預言の耳をちかづけたら/こだまのまにまに消えてゆきながら/どこからあの喧騒がきこえるの/ どうしたってそう問いかける

恐怖にまみれ喧騒に耳を澄ます/あのこだまから生まれた喧騒を/お前がよく調べたなら/お前の心臓はおののき/口をつぐむにちがいない/

問いかける者に答えをつたえる/「あの耐えられない喧騒は/愚か者の恋物語がひきおこす」/もはや、唯一感じられるのは/亡霊の刻む時のなか

ジュゼッペ・ウンガレッティ

N.2  貝殻

愛しいおまえ/闇の貝殻/預言の耳をおしあてたら/魅惑的な声のあいだで/突然おののき心臓を凍らせるあの喧騒が/導いてくれるというの/きっとそう問いかける

もしおまえがあの恐怖を/もしおまえがよく調べたなら/わたしの臆病な恋人よ/もはや、ただ思い起こすしかできない/愚かな愛について/苦しみながら話してくれるだろう/亡霊の刻む時のなか

神のお告げ/遠い未来で既に亡霊となったわたしを/呼び覚ますよう告げる/貝殻の一吹き/それがもしお前の前に現れれば/おまえはもっと苦しむにちがいない

ジュゼッペ・ウンガレッティ

N.3 道教のうた

道教に形も音もありません。細くて、知覚するのもむつかしい。

(血液の循環についての考察) 菩提達磨/サルヴァトーレ・シャリーノ

N.4 運動と精神のわらべうた

どんな運動も、精神の運動です。運動の向こうには何もありません。運動には精神が欠けていて、精神は本質的に不動です。精神のない運動はありませんし、運動のない精神もありません。精神の本質が無であれば精神は動きませんし、その無も動きません。運動は精神に等しいのですが、精神は不動です。

(血液の循環についての考察) 菩提達磨/サルヴァトーレ・シャリーノ

N.5 本

本たちは孤独。皆から嫌われて権力に翻弄され、本棚にぎゅうぎゅうに詰めこまれても、沈黙を守る人たちのよう。湿気にシミをつけられ、低くて暗い場所でカビにのみ込まれながら。

本たちは、僕らには分からぬ胸のはりさけそうな悲しみにさいなまれている。 掛け替えのない宝物であったり、深い思索であったり、インクで紙を汚したものたちとのふれあいを、大切に胸へしまい込んでいる。そんな本たち。

(Sulità) ニーノ・デ・ヴィータ

N.6 ミューズのこども

だれでも陽気で清らかなミューズの神殿にいらっしゃい。どんなに竪琴がうまくても、無垢じゃなきゃだめですよ。

ウルビーノ宮殿の碑文 サルヴァトーレ・シャリーノによる

11月某日 三軒茶屋自宅
馬込に出かけアルド一家を見送って、掃除の手伝い。町田で夕食をいただく。アジのタタキ、アジの煮つけ。味噌田楽。カレイの唐揚げにカキフライ。ぎんなんを炒ってくれていて、マツタケご飯まで用意してある。一体どれだけ時間をかけて用意してくれたのかわからないが、クリスマスとお正月分のご馳走をすべて味わった心地。満腹感を表現するとき、伊語では「食べ過ぎでお腹がさけそう mangiare a crepapelle」という。同じく「笑いすぎてお腹がさけそう ridere a crepapelle」というのもあって、国民性をあらわしている。

11月某日 三軒茶屋自宅
代々木上原で久しぶりにすみれさんやアキさんにお会いした。福士先生も現音のみなさんもお変わりなくうれしい。さまざまな作品を聴きながら、自分がしらなかった世界を学んだ。三善先生の音楽が、現在どのように若い演奏家に受け入れられているか、垣間見ることもできたし、家人が初演したみさとちゃんの曲もあった。中学生だったころ、ヤマハで買った楽譜をぽろぽろかいつまんで音を鳴らしたりして、それなりに知っているつもりだった「光州1980年5月」も、実演を聴くのはもしかして初めてだったかもしれない。国際刑事裁判所、ネタニヤフ首相、ガラント元国防相、ハマス・カッサム旅団・デイフ司令官に、戦争犯罪に関わったとして逮捕状発行。今も昔も、諍いは止まない。

11月某日 三軒茶屋自宅
作曲の篠田さんは、98年にドナトーニが日本で講習会に参加していて知り合った。その頃からピアノが上手だったのをよく覚えている。同じく作曲の久保君は、最初は秋吉台の講習会で知り合い、その後ミラノにやってきて、Covidまで数年間イタリアで研鑽を積んだ。先日はシャリーノのワークショップを仕切っていただいた。その二人が並ぶ姿に感慨をおぼえる。久保くんは、イタリアの作曲家たちについて、潮流をつくらず一つの形態を徹頭徹尾つづけると指摘した。「天の火」をピアノのみで聴く。ひたすら続く遠く離れてしまった女への、もの寂しい男の問いかけ。
演奏会後、家人と台信さんと一緒に中華料理。台信さんは、境内に捨てられていたチャボを飼っていて、「よく懐いて可愛らしいものですよ」。

11月某日 三軒茶屋自宅
帰りしな、スーパーマーケットに寄り、夜気楽に料理をつくるのが気分転換。先日は、安売りの刺身とししとうをふんだんに使ったトマト味魚介パスタをつくったが、今日はシラスとジャガイモと紫蘇で辛味のあるパスタにした。少し深みをだすためアンチョビー少々。美味。

11月某日 三軒茶屋自宅
「考」演奏会。熱くたぎる響きも幽玄なおもかげもささやくような風音までも、みごとな表現を実現されていた。舞台袖で、和服姿のメンバーがにこやかに談笑している姿をながめながら、邦楽の演奏では、裡にひめた情熱は露わにしない、遥か昔の思い込みを、ふと思い出す。おそらく、元来日本人の感性は、繊細さと大らかさが共存していたのだろうとおもう。ヨーロッパ文化との比較からか、ともすれば、繊細さばかりに焦点が合わせられがちだが、その細やかさを包み込んでいた、素朴で大らかな土壌を豊かに表現することもできるだろう。
演奏会後、田中賢さんと眞木さんの話。賢さんと眞木さんが秋田の国際音楽大会に出席の折、石井漠メモリアルホールをおとずれたときの話をきく。眞木さんが戦時中疎開していた海辺の街に足をのばし、一緒に大海原をながめていて、あれ、眞木さんどうしたのかな、と不思議に思ったそうだ。体調を崩されるほんの少し前のことだった。
まだ小学生だったころ、祖父の海の家を湯河原に眞木さんと賢さん、藤田さんが遊びにきてくれたことがあって、「可愛らしい少年だったねえ」と目を細めていらした。「採れたばかりの魚料理を、盛り沢山だしてくださって。ええ、こんなに食べていいのっておどろいた!」。眞木さんは、さっさと沖に浮かぶ休憩台まで泳いでいって、ここまでお出でよと手を振っていたが、怖くて泳ぎだせなかった。

11月某日 ミラノ自宅
ローマでメールを開くと、昔の走り書きをピアノ用になおして西村先生にささげた小品を大井さんが収録との連絡がとどく。
深夜ミラノに着くと深い霧に包まれていて、独特のつんとしたガスの匂いが漂っている。気温6度。着陸直前まで、機内からみえる外の風景は、乳白色一色であった。
イスラエルとレバノンの停戦発表。イタリア、カナダは、国際刑事裁判所のネタニヤフ首相の逮捕令状執行との姿勢。オランダ、フランス、ドイツ、ハンガリーは免責対象と発表。

(11月30日 ミラノにて)

CWR

北村周一

~秋の日の昼下がりのC・W・Rはたまたプラス・マイナス・ゼロの誘惑

懐かしくも、謎めいた暗号のような3文字のアルファベットは、Clear Water Revivalの略、絵のタイトルでもあります。
字義どおりに訳せば「清水再生」。
水は安心して飲みたいものだけれど、ここでの清水は、あの静岡県の清水市のことです。

やや古い話になりますが、たぶんこの頃から、絵を描くまえにそれぞれにタイトルをつけていたように思います。
それまではたんに無題とか、数字や記号(日付を含む)がメインだったのですが、それだと一体どんな絵だったのか、描いた本人ですら見分けることがむずかしくなっていたからだろうと思われます。
そんなわけでそのうちの1点、F80号の作品を、「CWR」と呼んでいたのでありました。

1994年の春から描きはじめてすでに3年が経過、その間に父の死があったり、つづいて母との同居、さらに実家の処分、加えて新居探しと、めくるめく一連の出来事が一段落したのちのこと、12月(1997年@ときわ画廊)の個展に向けて制作を再開していた時期のことであります。
思い返せば「CWR」には、途中で放棄した作品の継続、あるいは復刻の意味も込められていたように記憶しています。
とはいえ、あくまでも動機づけとしての絵のタイトルであり、ときには遣りすぎてしまい気づくととんでもないところへ行っていたなどということのないようにするための、いわば保険のようなものでもありました。

唐突ですが、この頃の清水には、映画館が一軒もありませんでした。
人口20万人を優に超える市としては、にわかに信じがたい文化状況ではありましたが、むろん美術館といえる施設もなくて、こんな町はすみやかに見切りをつけた方が得策なのではあるまいかという思いもあったのですが、育ったところをそうそう無碍にもできず、いまや郷里清水喪失の身、バブル崩壊後のいわゆる産業一辺倒の、結局アワを喰ったヒンシの町はもうオシマイ、新たなる道を見い出した方がマシなのではないかと案じていたところ、静岡市との合併話が報道されたのでありました。
当時の新聞記事にはこう書いてありました。
「静岡市+清水市=日本一」。
清水、静岡の両地域にまたがって、風光明媚で知られる日本平があればこその、このような頭出しになったのではないかと想像はしましたが、それにしても「日本一市」を名乗るとは、また品のない市名を選んだものだなあと少なからず恥かしい思いを抱きました。
真相は、当時としては日本一の市有面積になるということのようでしたが、やっぱり日本一を標榜するのはハズカシイ。                              

~しずみそうなしみずのまちのかわぞいの月かげさえも淡々(あわあわ)として

閑話休題。
自分のような絵の描き方をしていると、大雑把にいって帰納的な方法とでも呼ぶとして、画面上に生まれた線や、かたち、色彩が、すでにどこかで見たことのある何ものかに近いと感じさせる、もちろん事物のイメージを描いたのではないとしても、深いところで、ある意識のようなものの一端があらわになったのかもしれず、それらは、描く以前から眼前にありながらも、まるでもっと別のところから派生してきたかのように、つまりは絵の具という(底知れぬ)物質をともなって、それ以上でもそれ以下でもなく、たんにたちあらわれてきたもののように、往々にして振る舞っているように見えてくるのでありました。
画面上の線やかたちや色遣いが、とある日の(どちらかといえば幼き日々の)清水の海側から見た山々の稜線を感じさせる、感じさせていることに、後になって自分自身も驚きを抱きながら気づかされたのでありました。(とりわけ初期の作品群)

~開けてある窓のほうのみ暗く見え反射と反省語源はおなじ

ところで「清水再生」の清水は、目に見えている清水ではないことはすでに明らかです。
自然に(から)学ぶ(真似ぶ)ということと、自然そのものを学ぶ(真似ぶ)ということとは、微妙ではありますが異なるものと考えています。
つまり自然という素材をもとにして(さまざまに分析しながら)描くということと、自然そのものを対象にして(ひとつの全体として)描くということとのあいだには、隔たりがあるように思われてなりません。
いい換えれば視像の問題、あるいは絵画の外部性の問題、ひいては反省的判断力にかかわる問題でもあろうかと思うのであります。
敢えて「CWR」と銘打つことによって、より明らかに対象を把握したいという願望、さらに名づけることは同時に対象の可能性をある程度類推することでもありますから、たとえ朧気であったとしても、画面上の問題(様式)として捉えなおしたいというこちら側の主体的な意思(非連続の連続)のあらわれでもあろうかと思うにいたったわけです。
 
マーク・ロスコ(1903)、ウィレム・デ・クーニング(1904)、クリフォード・スティル(1904)、バーネット・ニューマン(1905)、ジャクスン・ポロック(1912)、ロバート・マザウェル(1915)などなど(生年順)、アメリカの戦後の作家群(いわゆるニューヨーク・スクール)のしごとの数々を総称して通常、抽象表現主義と呼んでいます。
アーヴィング・サンドラーのテキストによれば、抽象表現主義絵画にはいくつかの特性があり、①イメージの優位、②強力な地方主義、③恐ろしいという思い(崇高性)の3つに要約されると書かれています。
アメリカの広大な土地、自然と風景、人間の持つ内的な力(拡張性)と同時に(いわば中心のない)絵画として表現したともいわれています。
そして強力な地方主義、この圧倒的に強いローカリズムは、それまでの西欧の伝統(モダニズム)との関連(反発)を想起させます。
わけても巨大なキャンバスと、今までにない手法(たとえばオール・オーヴァ)による自由な創造が、同時に普遍的テーマ〈崇高性〉を喚起し、地方主義絵画は世界を獲得したといわれてきました。
当然のことながら、バックにはアメリカのそれこそ巨大なマーケットが控えており、ハリウッドを中心とした映画文化、ライフなどの出版文化などなども相俟って、経済的にも広報的にもマス・メディアが下支えしてきたことは、歴史が証明していることです。

翻って、自己の内面の追求を旨とするべく日本の現代絵画は、もとより普遍性からは比較的遠い位置にあったこともあり、むしろ逆に物質化にその存在の意義を見出すようになったのではないかと考えられています。
すなわち物質化に形式性を還元することが、目的と化したともいえるかと思います。
その様子はいわば、高度成長期を生き延びてきた現代日本社会の進展と、相関関係にあったようにも見受けられるのです。
しかしながら、そのようなアメリカ型のサクセス・ストーリーをそのまま極東の国に当て嵌めてみても、ぎくしゃくするのは当たり前のことであったでしょう。
この場合、予め与えられた地方性を標榜するために、つまりは向こう側から見たらどう見えるかが一大事であり、要はしっかりと地方(日本)になっているかが喫緊のテーマとなったことは、これもまた歴史が証明していることです。
もちろん本末転倒も甚だしいのですが、一見ストレートに見えるために、有効な手段として今日もなお活用されているように思われます。

〈注1〉 2001年現在、清水市(港橋)にシネマ・コンプレックスが存在する。
〈注2〉 2003年4月より、清水市は合併後、静岡市の一部となった。
〈注3〉 美と崇高については、いずれ書き改めようかと考えています。

   ***

追記Ⅰ 
爆笑問題の左側
たまたま電車の中吊り広告で見た、何のコマーシャルだったか、右(観客から見て向かって左側)は非日常的ポーズを取ってはいるが、あまり目立たない。
立ち位置の左(向かって右側)は、よく目立つ。
なぜか?
日常において際だっているからといって、情報として人目を引くわけではない。
表現されたときに、この場合映像化されたときに、人の目を引きつけることが肝腎だ。
技量のある個性派俳優の日常は得てして俗っぽい。
あくまでも表現上の問題であろう。
ここでは3つのポイントを押さえておきたい。
複雑な構造(つまりはヒネクレタといおうか)と、単純な表現性(シンプルであること、迷いがないともいえる)と、ストレートな攻撃力(ふだんは気づかずにいることを指し示すだけ)の3点。  
これら3点はそれぞれ、拘る、捨てる、指示するだけ、という述語とも連鎖する。
巷には、瞬間芸があふれている。
したがって、わずかでも滞空時間のある芸は技術があるように見える。
むしろ古くさい手法なのだろう。
だとすればそれがわかる人も多くはいないということになる。
お笑い芸人の有り様は、現代の美術とも通底する問題を考えさせる。 
北野武の今風アートへの接近もたぶん偶然ではないのだ。(1998)

追記Ⅱ 
プラス・マイナス・ゼロの誘惑 
±0
+100と-100
+10000と-10000
結果的に±0になったとしても、その過程はまちまちであり、ひとくちにバランスをとるといってもふりこの振れ方は、そのときどきに応じて各々異なる。
大きく振れたときに、また大きな戻りを生ずる(健全な自浄能力があったものと仮定して)。
けれども手の打ちようがいくぶん速かった場合、核心に迫る問題に届かぬままもとの鞘におさまってしまうことだってある。
過ちは過ちとして「かたち」を見せておかないと人は納得しない。
思うに、フラットであればあるほどひとは大きな事件を嘱望することになる。
波風を立てないでいると、大きな波風に巻き込まれる。
むしろふりこが振り切れるくらいの大きな事件を期待していたのだともいえる。
それではだれが期待していたのであろうか。
そこにいた、みんながである。
事後、コトを忘れたかのごとくふたたびみんな、フラットに戻る。(2000)

追記Ⅲ
Alumatiksの夢
Alumatiks(アルマティクス)とは「アルミニウムのような」という意味の造語でありAlumatiks Blue(AB)は最初の個展から今日にいたるまでの基本的ないわゆる私性としての色の総称である または軽佻浮薄
Alum alumina aluminium ; 記号Al 原子番号13
  -atiks atikos(Gk) ; ~の ~の種類の ~の意 
          ギリシャ語 ラテン語起源の形容詞に用いられる
 
昔々のことだけれど、町田市南成瀬に住んでいたことがある。
成瀬はもともと「鳴瀬」、鶴見川の支流である恩田川周辺の土地をそう呼んだものらしい。一帯は雑木林に囲まれた丘陵地だった。
ところで、「なるせ」をアルファベットに置き換えると、「naruse」逆さにすると「esuran」
ちょっと工夫して、「s-run」つまり「師走」、または「s走る」となり、もう一度漢字に戻すと「絵寸覧」、画廊喫茶にぴったりのネーミングだと思うけど、如何だろうか。
ちなみに、JR横浜線成瀬駅の2つ隣りは「十日市場」駅だが、駅のアナウンスはどういうわけか、「東海千葉」と聞こえてしまうのであった。(1998)

~十二月骨よりしろき肌透けて絵とは大いなる省略であろう

話の話 第21話:ライフハック

戸田昌子

「カルボナーラってさ、わたし、喧嘩した後の食べ物なんだよね」、と姉が言う。姉はフランス在住20年以上である。「だってさ、」と姉は言う。パスタはたいていどこかにあるし、冷蔵庫には、玉子が入っているでしょ、チーズもね、ベーコンだって残ってる。それから生クリームもあるじゃない。だから、喧嘩したあとで、買い物に出るのも嫌だけど。お腹空いた、ご飯食べようとなると、カルボナーラになっちゃうんだよね、と語っている姉。

その話を聞きながら、わたしは、日本の家庭の普通の冷蔵庫には、「いつでも生クリームがある」ってことはないような気がする、と考えている。フランスの生クリームは、いろんな種類があって、わりとさっぱりしていてヨーグルトのような味わいのものから濃いめのものまでバリエーションがあり、お菓子に使われるばかりでなく、料理にもよく使われる。日本だと、ショートケーキのような洋菓子を作るとき以外に、買ってこようと考えること自体がないような気がする。

先日パリを訪れたさい、その姉が、「ご飯食べにいらっしゃい」と言うので、バスチーユからほど近い姉の家へ行った。今回、わたしがパリに来たのは仕事のためだが、丁寧な暮らしを心がけている姉の家は、白とベージュを基調とする温かな雰囲気で、仕事の打ち合わせや会食などの人付き合いで疲れたわたしにとっては、いつもほっとする場所である。「ご飯作るねー」と言ってキッチンに入り、なにやらトントンしていた姉がしばらくして「親子丼だよー」と運んできたどんぶりものは、しかし親子丼とは似ても似つかぬ代物。「なに、これ?」と尋ねるわたし。「親子丼だよー」とにこにこする姉。「いや、でも、普通、親子丼って、にんじんとかピーマンとか、入ってないよね? もしかしてこれはじゃがいも?」と尋ねるわたしに、「親子丼ってにんじん入ってるよね? 実家の親子丼には入ってたよね」と姉。「いいえ、入っておりません」と訂正するわたし。「親子丼は普通、鶏肉、玉ねぎ、だし汁、たまご、以上! 実家の親子丼には三つ葉さえ入っていませんでした!」と言明するわたしに「えー」と意外そうな顔をする姉。「美味しいけどさ……ローカライズするにしても、ちょっと行き過ぎじゃない?」とぶつぶつ言いながら、「親子丼」の跡形がほとんどないどんぶりものをつつくわたし。

そういえば、駅前の八百屋が廃業して、跡形もなくなってしまった。駅前の再開発のためである。とはいえ小さな駅なので、いくつかのテナントが入るひらべったい小さな雑居ビルができただけではある。そして、八百屋はなくなり、その跡地はタピオカドリンク屋になった。真冬に開業したタピオカ屋はしかし、そのあとコロナ禍に突入したために、食べ歩きのお客さんを当てこんだ狙いは外れ、客が入っているのを見たことがない。こんな疫病の時代には、すぐに潰れるだろうと眺めているうちに、タピオカ屋の店頭にはいつしか、長ネギやトマト、きゅうりなどが並ぶようになった。「ん? これは元・八百屋の中の人がやっているのか?」という疑問が湧きつつあるうちに、タピオカ屋はみるみるうちに八百屋化していく。そもそもこのタピ屋はあの八百屋の孫娘あたりが始めたもので、それがうまくいかないものだから、やり手のじいちゃんが「ここはひとまずオレに任せろ」としゃしゃり出てきた、というパターンではないのか? などと考えているうちに、そのタピ屋は八百屋としてはそれなりに商売繁盛し始めている。奥の方ではひっそりとタピオカドリンクも売っているかと思われるが、ドリンクを買っている人は見かけない。そしてそのうちにコロナもおさまって、野菜は消え、いつのまにかしれっとタピ屋に戻っている。あれは一体全体どうしたことだったのだろうか、とわたしは今でも首をかしげている。

そもそも、当該八百屋のじいちゃんは、やり手だった。まだ娘が小さかったころ、ベビーカーを押して八百屋へ行くと、バナナを1本プレゼントしてくれる、ということがよくあった。ただ、わたしがメインで使っている八百屋は別にあったし、そこは値段がいちいち高いのであまり行かないながら、間に合わせに使うことはたびたびあった。大きなトマトが1個250円、などというのはびっくりするくらい高いが、実際それは特大でしかもおいしくて、家族3人で満足できる分量なのでたまに1個だけ買っていた。しかしある日、夫がひとりでバナナを1房買って帰ろうとしたときのことである。「これください」と夫が指差したのは5本のバナナがくっついている1房だったのだが、じいちゃんがビニール袋にさっと入れるさいに、どうやら手が動いたらしく、4本になっていた。さっと1本抜いたと見られるが、もちろん値段は同じである。買い物慣れしない夫はそのまま袋を受け取り、なにげなくのぞいたら、バナナが4本。「あれ? おかしいな……」と思ったものの、あとの祭り。帰宅してわたしに文句を言っていた夫であったが、「まあ、普段から娘がバナナもらってるし、その分が抜かれたと思えばいいのでは」というわたしの曖昧な結論でお茶が濁されることになり、しばらく釈然としないようすであった。

ネタバレは釈然としないものである。鳩尾が映画「ショーシャンクの空に」を見たことがない、と言うので、つい熱がこもり「あれは本当に気持ちのいい映画なのよ、始まりは確かに冤罪だし、牢獄に繋がれて理不尽なことがひたすら続くんだけども、それがね……」とつい語り始めるわたし。話が切れたところで鳩尾が一言「いいんですけどね、その映画、わたし見る必要ありますか?」。ハッと気づくと、わたしは肝心なところを盛大にネタバレしていたのだった。すっきりしているわたし、釈然としない鳩尾。

最近。髪色を明るくして、短く切った。長年、若い頃はよくショートにしたものだったが、この年頃になってから「機能的」なだけの髪型をすると、労働者としての自分しか意識できなくなるので、遊びの欲しいわたしとしては、パーマをかけたり髪を染めたり、さまざまな髪型の変遷をしてきている。「ショートの金髪にしたいんだよね」と持ちかけると、「それ賛成!」と即答する娘。そもそも娘の物心がついた頃には、すでにわたしは金髪だったので(この頃はボブ丈だった)、金髪がわたしの地毛だと思い込んでいたそうである。むかし、娘が数え7歳になったとき、世にいう「七五三」というものをやってみようと思い立ったわたしは、能装束研究者のショーダ先生に教わってお着物を揃え、髪色もそれに合わせて黒髪に染めた。久しぶりの黒髪を新鮮に思いながら帰宅すると、わたしを見て呆然とする娘。「その髪、なに!」「ほら、着物着て写真撮るから、黒くしたのよ」と答えるわたし。その後、夜ご飯を食べながら、何度もわたしの顔をチラ見しては、くっと顔を背ける娘。しまいにはパタパタと膝の上に大粒の涙をこぼして「こんなのママじゃない……」と泣き始めてしまった。「ごめん! ごめん!すぐに金色に戻すから! ごめん!」とうろたえるわたし。その場で美容室に電話をかけ、「ごめんなさい、娘がどうしても黒髪が嫌だというので、金髪に戻してもらえませんか……?」と相談すると、驚きながらも「わっかりましたぁ! 明日、来てください!」と明るく即答してくれる美容師さん。翌日、金髪に戻したわたしの髪をみて、すっかり満足する娘。常識がどのあたりに初期設定されているかで、人の受け止めというのは全く違うのだということを学んだ出来事だった。ちなみに髪色戻し(?)のお代金は、定価の半額であった。

国や文化が変わると、常識がスコンと抜けてしまうので、わからなくなることはたくさんある。それは単に言葉の問題ではなかったりする。母が日本語教師をやっていたので、わたしが高校生くらいのころ、しばしば生徒さんが家に遊びに来て、食事会などをしていた時期がある。その中に、われら4姉妹がいたくお気に召していた生徒さんがいた。彼は、我が家のリビングにでんと居座っているグランドピアノを見たとき「ほんものの『砂の器』だ! 僕は日本に来る前、日本人の家にはグランドピアノがあると思っていたのに、見たことがなかったんです!」といたく感動していた人である。彼は、当時、姉が通っていた音大の学園祭に行きたいと言い出し、姉の演奏に合わせてやってきたそうである。コンサートだから花を持って行こうと思いついたまでは良かったが、演奏会に現れた彼が手にしていたのは、仏花。白い紙に包まれて、白や黄色の菊などが入っているお手頃な、あれである。嬉しそうにそれを差し出す彼に、「ああ……」と思いながら黙って受け取る姉。ピアノの上に置いておくと、「それ一体なに?」と何度も聞かれ、とても困ったそうである。その後、母は、「仏花」を含めた冠婚葬祭などの儀礼の常識について解説する授業をやってあげたそうである。

食べることの大好きな11歳の甥っ子は、口内炎ができてしまって悲しんでいる。パパの友達のおじさんに、一生懸命話しかけている。「あのね、僕ね、口内炎がみっつもできちゃったんだよ!(J’ai trois aphtes!)」。おじさんは「そうか、そうか、それでおまえのお気に入りはそのうちのどれだい?(D’accord, alors lequel est ton préféré ?)」と答えている。それはいったい、どんな口内炎なのか。

たしかに、喧嘩をしたあとはお腹が空く、とは思う。先日、某チェーンの喫茶店で、他愛もないような、それでいて真剣なことで、B氏と言い争いをしていた。滑稽な誤解と切実な弁明が終わったあとで、「お腹空きましたね」とナポリタンを頼んで食べることになった。「付き合ってるわけでもないのに、痴話喧嘩みたいになってしまって、すみませんでした」とわたしが言うと、「え、チワ、痴話喧嘩。確かに、そう言えなくもない。でも痴話喧嘩なんて、したことありますか」と目を回すB氏。「わたしは、わりと、ありますかね……」「ええっ、そうなんですか……?」と、ふたたび微妙な空気の流れる食卓。

食べ物がまずいと、気まずくなることがある。あるとき、わたしとしたことが、なにを思いついたか、友達がそれぞれシングルだったので、紹介するよ! と言い出して、くっつけおばさんをやったことがある。それぞれ好きな友達だったので、うまくいくだろうと思って気楽に会わせたのだったが、待ち合わせは銀座のイタリアン。そこで男性側が頼んだメニューが、よりによって、イカ墨のパスタ。口の中が真っ黒になるタイプのパスタを、3人でもぐもぐしたのであったが、味も半端だったうえに、全員の口が真っ黒になってしまって、話も盛り上がらず、当然のことながらその後、なんの発展もなかったのだと聞く。恥ずかしい限りである。

話題になるかと思って買ってみたけれど、まずいというほどまずいわけでもなく、面白くなかったのが「サラダパン」。たくあんをとヨネーズがコッペパンにサンドされている、というだけのパンだというので、つい悪気を起こして買ってみたのだが、まさに文字通り、たくあんとマヨネーズが入っているだけで、すごくまずいわけでもないくせに、逃げ場がない。食べているうちにだんだん腹が立ってきて、途中でやめてしまった。

わたし「ちょっと人生が嫌になる13の魔法とか、どうだろう」
夫「逆ライフハックみたいな?気づくと人生がちょっと嫌になる、みたいなのね…」
わたし「シラスには1匹ずつ目がついてる、とか?」
娘「違うでしょ、バックヤードの汚さとかじゃないの?」
わたし「やーめーてー」

人生がうまく言っていないときというのは、なぜウエストもうまくいかないのだろう、とつぶやくと、娘が「ああ、わかる」と激しく同意する。そこらへん、ライフハック、求む。

水牛的読書日記 2024年11月

アサノタカオ

11月某日 大阪からやってきた臨床哲学者・西川勝さんと東京・六本木の国立新美術館の日展会場で待ち合わせ。西川さんのエッセイ集『臨床哲学への歩み』(ハザ)を読みながら、電車で会場へ向かう。

日展で画家・本宮氷さんの絵画作品「吐息」が入選し、そのモデルを西川さんが務めたのだった。大阪・釜ヶ崎で哲学の会という活動を行う西川さんの精悍な肖像画。絵の前で西川さん、本宮さん、友人の宇野澤昌樹さんと会う。鑑賞後、美術館のカフェでおしゃべり。現在の西川さんは病気を抱えて杖をついているが、まだまだ元気だ。やりたいことも考えたいこともたくさんあるようで、上機嫌でしゃべりつづけていた。宇野澤さんからはZINE『Laughter そとあそびの進化論』(古書自由・ツチノコ珈琲)をプレゼントしてもらう。宇野澤さんのエッセイ「手仕事の文学」を読み、土田昇『職人の近代』(みすず書房)という本のことを知った。このZINEには作家・編集者の友田とんさんも寄稿している。

11月某日 長野の松本PARCOで開催されたALPSCITY BOOK PARADEにサウダージ・ブックスとして出店。はじめましての方や長年の本の読者の方とゆっくり話すことができた。編集出版事務所エクリのブースで、『木林文庫』(勝本みつる・須山実・落合佐喜世)という冊子を買う。

このイベントに誘ってくれたのは、松本の書店・喫茶店、栞日を営む菊地徹さん。翌朝、栞日を訪問。お店は午前7時からオープンしており、早くから大勢のお客さんでにぎわっている。窓際の座席で、おいしいコーヒーとトーストをいただいた。2階の書店スペースで、松村諒さん『ユアランド 短歌・カイエ・音源』(湧水出版)を見つけて購入。装丁は惣田紗希さん。

11月某日 松本では本・中川も訪問。書店に併設されたギャラリーで絵描き・絵本描きの阿部海太さんの個展 「ことばのうぶ毛」 を鑑賞し、今成哲夫さんのうたと電子ピアノの演奏によるオープニングライブに参加。音楽に合わせて、阿部さんが電燈で絵画を照らす。揺れる光、色、音、声、静かな時間。

11月某日 自宅事務所でオンライン・ミーティング。今月、サウダージ・ブックス内のレーベル、トランジスター・プレスからミシマショウジさんの詩集『茸の耳、鯨の耳』を刊行し、自分たちの出版社からリリースした詩の本が10冊になった。これを機に、来年から仲間とともに「詩の教室」(仮)をはじめようと計画している。

11月某日 三重・津のコミュニティハウスひびうたで2日間開催された「ひびフェス2024」のマルシェに出店し、詩の本を中心に販売。「本作ってるの? すごーい!」と地元の子どもたちから声をかけてもらい、元気が出た。

マルシェでは、世界ふるまい珈琲協会の写真集『WITH COFFEE, THE WORLD IS ONE』を入手。A4判リソグラフ印刷のクラフト感のある本。世界で珈琲をふるまう旅を続ける著者、岩田三八さんも会場にいていろいろな話を聞いた。もちろん、おいしいコーヒーもふるまっていただいた。

ひびうたは「目の前の一人から、居場所をつくる」ことを目的に福祉事業を展開し、地域の古民家を改装して生きにくさを抱えた人のためのスペース運営に取り組んでいる。今回のフェスのテーマは、「さみしさのむこうに」というもの。

初日の夜は、会場にキャンドルの火が灯され、「居場所」に集う方々の合作詩「さみしさのむこうに」の朗読会が開かれた。退屈して出ていく子ども、戻ってくる子ども、じっと聞き入る子どもの姿が場にやわらかなリズムを生み出している。

11月某日 ひびフェス2024の2日目の午後は、トークイベント「さみしさのむこうの詩人たち」に出演。拙著のエッセイ集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)で取り上げた詩人、永井宏、原民喜、塔和子、山尾三省との出遭いについて話す。イベントには、海の文芸誌『SLOW WAVE』(なみうちぎわパブリッシング)を発行する今枝孝之さんも来ていた。夕方は読書会も開催。2021年から、ひびうたの仲間と続けているこの読書会も第4シーズンに入り、これから約1年間、石牟礼道子『苦海浄土』(講談社文庫)を課題図書として読む。

11月某日 東京の二松学舎大学で「人文学とコミュニケーション」の授業の後、写真部の同人誌『模像誌』創刊号を編集部の学生たちから受け取った。この同人誌には、ぼくのインタビューが掲載されていて、大学生から編集者になるまでの歩み、写真家・中平卓馬氏をめぐる余談などを読むことができる。特別インタビューのコーナーには、俳人の堀本裕樹さんも登場。特集「「箱男」安部公房生誕100年記念」など。

11月某日 世界文学の読書会にオンラインで参加。課題図書はハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)。2024年のノーベル文学賞受賞を記念して、これから日本語に翻訳されたハン・ガンの小説を月に一冊ずつ読んでいく予定。

11月某日 『高麗博物館会報』第69号が届く。この会報にエッセイを寄稿したのだった。タイトルは、「姉のことばと妹のことばが静かに呼びかわす本 『ことばの杖 李良枝エッセイ集』を編集して」。作家・李良枝の妹である李栄さんもすばらしい文筆家であることを伝えたかった。『ことばの杖 』(新泉社)には、その李栄さんが姉の最後の日々を綴った回想記も収録している。

11月某日 ブックデザイナーの納谷衣美さんと電話。

11月某日 東京・神保町のK-BOOKフェスティバルへ。出店者も来場者も年々増えている印象。会場では、顔なじみの翻訳者や出版社のみなさんとおしゃべりした。韓日翻訳者の小山内園子さんの新著『〈弱さ〉から読み解く韓国文学』(NHK出版)を購入。フェス帰りの電車で読み始め、帰宅後も夜更かしして読了した。葉々社のブースではチョン・ジヘ『私的な書店』(原田里美訳)、キム・ウォニョンほか『日常の言葉たち』(牧野美加訳)を、またクオンのブースでは『大河小説『土地』をもっと楽しむ読本』(『土地』日本語版完訳プロジェクトチーム編)を買った。

11月某日 秋田・大曲で本とアロマのお店BAILEY BOOKを営む渋谷明子さんの本『OMAGARI 喫む店めぐり』(BAILEY BOOK)が届く。そのほかにも南陀楼綾繁さん『「本」とともに地域で生きる』(大正大学出版会)、矢萩多聞さん(文)と吉田亮人さん(写真)の写真絵本『はたらく製本所』『はたらく図書館』(創元社)、南椌椌さん『ソノヒトカヘラズ』(七月堂)などよい本がどっさり。

11月某日 二松学舎大学の授業で、香川・高松在住の写真家、宮脇慎太郎くんをゲストスピーカーとして招いて、講演をしてもらう。テーマは「〈辺境〉で写真を撮ること」。写真家としての歩みについて、四国という土地について。多くの学生が熱心な質問やコメントをしてくれた。

宮脇くんは、展示の設営のために東京へ来ていたのだった。東京藝術大学美術館の「芸術未来研究場展」に参加し、「東京藝術大学-香川大学 瀬戸内分校」のプロジェクト内で彼の作品が展示されている。日比野克彦さんほか複数のアーティストが参加するグループ展だ。

11月某日 明星大学で編集論の授業を行った後、渋谷の本屋SPBSへ。デザイナーで翻訳者の原田里美さん、ライターの石井千湖さんのトークイベント「隣の国の「詩」のはなしをしよう」に参加。韓国の詩人アン・ドヒョンさんから詩「練炭一つ」の朗読など音声データが届き、紹介してくれた。翻訳者のハン・ソンレさん、五十嵐真希さんのメッセージを掲載した資料も。いろいろな韓日の詩人の本が話題になり、SPBSでは原田さんが推薦する詩の雑誌『ニジュウサンジュウ』VOL.6を購入。この雑誌には、韓国の詩人オ・ウンの詩2編とインタビューが収録されている。

アン・ドヒョンさんの詩集『独り気高く寂しく』(ハン・ソンレ訳、オークラ出版)、評伝『詩人 白石』(五十嵐真希訳、新泉社)を読んでいる。

11月某日 『現代詩手帖』12月号が届く。「アンケート・今年の収穫」で紹介した詩の本は以下の5冊。

大江満雄編『詩集 いのちの芽』(木村哲也解説、岩波文庫)
コウコウテッほか『ミャンマー証言詩集1988¬¬-2021 いくら新芽を摘んでも春は止まらない』(四元康祐編訳、港の人)
阪本佳郎『シュテファン・バチウ』(コトニ社)
パク・ジュン『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』(趙倫子訳、クオン)
石田諒『家の顚末』(思潮社)

11月某日 来年から連載をはじめようと、神奈川・大船の最寄りの書店ポルベニールブックストアで本を3冊購入。これで必要な資料が揃う。

サウダージ・ブックスから、旅と読書の随筆集として『読むことの風』と『小さな声の島』を刊行した。どちらも100ページほどの小さな本で、雑誌、リトルプレス、ウェブマガジンに依頼されて書いたエッセイを寄せ集め、書き下ろしを加えたもの。旅と読書の随筆集には3冊目の計画があり、今回は最初から書籍化を目指して書き継いでいく予定だ。『読むことの風』ではブラジルへの旅について、『小さな声の島』では台湾への旅について書いたが、次の本では韓国・済州島への旅をテーマに執筆しようと思う。関連する本の読書についても。済州島のことはいままで書けなかったが、機が熟した。連載をはじめよう、と言ってもどこに掲載するかは未定で、そもそも興味をもってくれる人がいるかも不明だが、ともかく書き始める。

仙台ネイティブのつぶやき(101)キミにお別れ

西大立目祥子

ついに愛車のマツダ・デミオにお別れするときがきた。16年乗り、11万キロ走った。まわりには中古で買って20万キロ走ったなどという剛の者が多いので、走行距離で驚かれることはそうないのだが、さすがに“16年”には、がんばりましたねぇ、と反応が返ってくる。頑張ったのは私じゃなくてデミオだ。

いい車だった。軽やかでレスポンスがよく、小さいから小回りがきく。高速にのるときもすぅーっと加速できて、追い越し車線に入っても何の不安もない。イタリアの男の子のような名前も気に入っていた。見た目は確かにずいぶん疲れた感じになってはいたものの、エンジンのトラブルはないし、あと2、3年は乗れるかなと考えていたのだ。しかし、この春の点検のとき、ちょっと工場までいいですか、といわれリフトに上げられた車体のお腹を下から見上げると、後輪近くのフレームが腐食して小さな穴が2つも空いているではないか。半年前にはなかったものだ。気づかぬうちにつぶれていた腰椎のレントゲン写真を、いきなり見せつけられたような気分である。老体はいつのまにか取り返しがつかないほど傷んでいたんだなぁ。担当の人は、来年秋の車検は無理でしょうという。お別れが近いことを否が応にも知らされて、そろそろといたわるように運転して帰ってきた。

30代半ばに運転免許を取った私にとってデミオは初めて自分で買った車だった。1代目は父のお下がりのトヨタ車で、これも壊れるまで乗った。バブル経済のころは、とろんと丸味を帯びたデザインの車が全盛だったけれどその前のデザインで、白い四角い箱のようないかにも古ぼけたセダンに、もしかしてクラシックカーに乗っているの?といわれたことがある。2代目は車好き弟のお下がりのスバル車で、ターボエンジンにデカいマフラーが付いていたのでエンジンをかけると、遠くまで響くドッドッドッという低い地鳴りのような音を出した。私の顔と車を見比べ、驚くような表情で、もしかして改造車?と聞かれたことがある。イメージを裏切るのは、まぁけっこう楽しくはあったけれど、3代目にしてようやく分相応の車に出会えたのはうれしかった。

何といってもこの車がなかったら、県境を越えてひんぱんに打ち合わせに行ったり、山間地に入り込んで古老の話を聞いたり、テントを積み込んでいって主催する市の事務局を設営したりは、とてもできなかったと思う。地方の細腕フリーランス稼業は、きびきび働き支えてくれる車があってこそだ。遠く雪山の写真を撮るために、オレンジがかった赤茶色のデミオを路肩に停めるとき、この色ならあやまって谷底に落ちても発見は早いよね、と何度思ったことだろう。もちろんそれは他人から視認されやすいということでもあって、出先の町で、さっき国道ですれ違ったとき大きなあくびしてたから、相当疲れてんだなぁと思ったよ、などといわれたりもしたのだけれど。

この16年は、人生後半真っ只中の私の、そして大災害に見舞われた仙台の、何とも先の見えない順調とはとてもいえない日々ともぴったり重なっている。車は移動するためだけにあるのではない。母の介護を担うことになった私は、毎晩母といっしょに食事をし、洗面をさせ、着替えさせてベッドに送り込み、すやすやとした寝息を確かめると、帰り支度をし玄関の鍵をかけてデミオに乗り込み、人心地をついた。家までは車で15分にも満たないのだけれど、ゆっくりと上ってくる細い月を眺め、人通りのない暗い道を好きな音楽を聴きながら走ると、ようやくじぶんを取り戻せるように感じるのだった。

大津波に沿岸部がのまれたときは、慣れ親しんだ集落がどうなっているのかを確かめたくて車を走らせた。途中で通行止めとなっていてそれ以上は進めなかったが、フロントガラスの向こうには瓦礫が累々と連なる変わり果てた風景が広がっていて、打ちのめされた気分でUターンすると、遠くには青々とした空の下に白い蔵王連峰が神々しい姿を見せていて、あまりの残酷な対比にしばらく言葉を失ったことがあった。

不調の飼い猫を病院へ運ぶときは、助手席にキャリーケースを乗せシートベルトでしっかりと固定してアクセルを踏んだ。初めは嫌がってギャーギャー叫んでいた猫も日を重ねて病状が進むと、何かに耐えているかのように黙りこくる。闘病生活が長かったサスケのときは、2年以上も通院しただろうか。帰る途中、可哀想になって駐車場に車を停め、やせ細った体を膝に抱き上げて、もう病院はやめようと話しかけたこともあった。

もちろんよそ見はできないけれど、車を走らせながら窓の外に見ているのは街に暮らす人々の姿であり、移り変わる社会の風景だ。
近くの整形外科の駐車場では、交通整理のおじさんが立って来院者はもちろん通行人にもあいさつをしている。いつもとっても機嫌がいい。となりの保育園は夕方になるとお母さんやお父さんが迎えにきて、うれしそうな子どもたちと手をつなぎ夕闇の通りに消えていく。最近はお父さんのお迎えが多いよね。角の魚屋のおじさんは店を閉じると、併設する居酒屋のカウンターで飲み始め、ときどきテレビを付けたままつぶれている。信号待ちのときにみえるのだ。今日も疲れてるなぁ。それにしてもお客さんはいないのかしら。洋品店は閉店したとたん、あっという間に解体されて駐車場になってしまった。つぎつぎ街は変わる、とどまることなく。そんな変化を、ガラス越しに目の端がとらえる。

車を運転することは、まるでじぶんのロードムービーを制作しているかのようだ。あちこち歩くことは小さな発見の積み重ねだけれど、ここからあそこへ曲線を描くようにスピーディーに移動することは、今日から明日へ、今年から来年へ、移りゆくとどまらない時間を俯瞰するように見せてくれる。窓の外の眼から、運転席に座りハンドルを握るじぶんも見える。

デミオとたくさんの風景を眺め見た。1代目、2代目、3代目と乗ってきて、一番別れがたく感じるのは、16年という長い時間のせいか、それともその時間が決して平坦ではなかったからか。

新しいディーラーの担当の人にデミオを預け、このあとはスクラップされるの?と聞いてみた。いや、修理されて販売されますよ、という。国外で? いや、国内で。10万円くらいで? いや、もっと高いと思いますよ。へぇ。そんなやりとりをした。
あと半年くらいしたら、新しいオーナーのもと、どこかの町をあの目立つ色で走っているのだろうか。別れた相棒の第二の人生?を想像するのも悪くはない。

触れる・聞く

高橋悠治

毎月こうして書いているが、書くことがないような気が毎回している。音楽もできないような気がしているが、頼まれた演奏はしているし、作曲も頼まれてすることがある。ピアノを練習することも、最低限はしないといけなくなった。

コンサートにも行かなくなったので、昨日ひさしぶりに「三浦環の冬の旅」に誘われたが、上野公園もほとんど忘れていた。子どもの頃、両親に連れられて、いくつかのコンサートに行ったが、三浦環には行ったことがない。その頃歌曲やオペラは日本語で歌うものだった。藤原オペラの「タンホイザー」に連れて行かれたが、その時の出演者は両親の昔の知り合いで、出てくると、親が笑うので、それがオペラそのものよりも印象に残っている。東京音楽学校の奏楽堂はその頃は学内にあって、今にも壊れそうな建物だった、そこで黛敏郎と矢代秋雄の卒業作品を聴いたことは覚えているが、音楽は忘れている。

黛の作品は、その前に「かぐや姫」をテーマにした日本舞踊のための音楽を、舞踊のお師匠さんの家で初見で弾かされたことがあった。そのかなり後、二期会で練習ピアニストとして働いていた頃だと思うが、東京宝塚劇場で黛のミュージカル「可愛いい女」の練習に雇われたこともあった。

矢代秋雄とはその後横須賀線でよく顔を合わせた。コンサートを楽譜を見ながら聞くと勉強になる、と教えてくれたり、1963年にクセナキスに会うために当時の西ベルリンに行った飛行機でも出会った。

今考えてみると、音楽ができるまでの裏方として働いてきて、完成した作品よりは、それらが作られていく過程を手伝ってきたのは、あまり幸せなことではなかったかもしれない、と思うこともある。しかし、「思う」のは、おもしろいことではない。今は「手で触れること」と「聞くこと」に惹かれている。

ファゴットのために「連」を、シューベルトの詩で「時」を作曲した。1960年代にセリエルからミニマリズムが主流になった以来、統一や中心から多様性を経て多極性の世界へと、それが何であれ、「新しさ」より「知らなかった道」を、点より線を、時間より空間、連続より乖離、「ズレとブレ」(平野甲賀がコンピュータでは不得意だと書いていたと思う)。短い音(八分音符)と長い音(二分音符)だけで表したリズム。読んだ本:石川淳、田中優子、関曠野、の記憶(誤読?)からのヒントを使いながら。

書いた文字が残って、実験というより、「あそび」の邪魔をすることもある。忘れること、矛盾することが、続けるうちには避けられない時もあるだろう。論理は後追いで、その時の感じ、勘に頼ってやっていることが、続いていける保証になるのかもしれない。だが、こうして書いているのも、「考えている」には違いない。

2024年11月1日(金)

水牛だより

ようやく、待ち焦がれた秋が急激にやってきて、もうすぐそこに寒さが待っている気配。あんなにひどかった暑さもすでに記憶のかなたです。

「水牛のように」を2024年11月1日号に更新しました。
秋はやはり内省の季節であるのか、長めの原稿が多くなりました。昨夜あたりから公開に向けて読み始め、公開直前のいまは脳内パンパンに膨れ上がっている感じがします。
仕事であれ暮らしであれ、起こるのははじめてのことばかり。そしてこれから生きていくにあたっては、何歳であろうと、いまの自分がもっとも若いのです。篠原恒木さんの「歳を取って」は私とのメールがきっかけで書かれたものですが、私もそのことについては長谷部千彩さんとの往復書簡に書きました。よろしければどうぞ。
https://www.memorandom.tokyo/yamaki/4279.html
https://www.memorandom.tokyo/yamaki/4379.html

それではまた来月に!(八巻美恵)

239 金で買った言葉よ

藤井貞和

言うなかれ どんな野蛮も
予言のまえに
ひれふしてあれ
こがね色の言葉を与えよ
どうせ
金で買った言葉である
使わなきゃ損 只じゃねえ
 
受講生に
小売りの小売り
詩がよい子向けに
なっちゃお仕舞いよ
軽石みてえな
軽い詩はもうたくさんよ
金の使いどころ
 
坊っちゃんが
こんな奴ラは
沢庵石をつけて
海ン底へ沈めちまう方が
日本のためだア
というものだから
重い石を買おうよ
 
言葉よ
きのうは語る
ない火灯し
げつめいに踊る骨
経蔵をひらき
墨を擦って
字にうずくまれ

 
(文法というのは無意識界を明るみに引き出すようなことだから、どこか不快な、嫌われる要素を避けられない。無意識界は明るみに引き出しても、「ああそうですか」で終わる。また無意識界へ帰ってゆくから、無償であることはまちがいない。それに対して言葉一般は意味を持って売り買いできるというようなこと。忘れて。)
 

水牛的読書日誌 2024年10月(斎藤真理子、李良枝、ハン・ガン)

アサノタカオ

10月某日 斎藤真理子さん『在日コリアン翻訳者の群像』(編集グループSURE)を読了。朝鮮語翻訳者の斎藤さんが、作家の黒川創さんら編集グループSUREに集う人々と語り合い、多彩な資料を示しながら日本の韓国文学の翻訳史を整理して紹介している。韓日の文化の橋渡しに尽力した歴代の在日翻訳者たちに光をあてる、すばらしく充実した内容だった。語り下ろしの本ということもあり、読みやすい。

1990年代、地方の大学生だったぼくは図書館や古書店の棚をさまよいながら、韓国文学の翻訳を読み始めた。新刊書店で韓国文学の本を見かけることはほぼなかったと思う。何がきっかけかは忘れたが、当時から見ればひと昔前の「抵抗文学称揚の時代」(『在日コリアン翻訳者の群像』)に出版された本をこつこつと集め出し、さらにひと昔前の「北朝鮮文学優勢の時代」に出版された本を遠望していた。そして2000年代に入ってなお、「抵抗文学称揚の時代」を象徴する金芝河詩集(姜舜訳)を片手に奇妙な熱弁を振るう自分に対し、韓国からの留学生の友人は「アサノくんさ、いまの韓国の人は金芝河を読まないよ。ほかにもいい詩人や小説家がたくさんいるんだから」と冷ややかな言葉を浴びせるのだった。そうなのか、と目が覚めた。

ならば、現代の韓国文学をもっと読みたい。でも韓国語ができないし……。そんなもどかしい気持ちを抱えていたぼくが頼みの綱としたのが、在日の文学者・翻訳者の安宇植(1932〜2010)だった。当時の安宇植は、申京淑など同時代作家の作品の翻訳に取り組み、評論の執筆から新聞・雑誌への寄稿までをこなし、現在の斎藤さんと同じように、韓国文学の紹介で八面六臂の活躍を見せていた。

『在日コリアン翻訳者の群像』を読んで、文学者としての安宇植の歩みを知ることができてよかった。1950年代後半の在日朝鮮人の詩誌『プルシ(火種)』のメンバーだったことから、安宇植が詩人だった可能性を斎藤さんは示唆している。おもに在日二世の文学青年たちが集い、朝鮮語詩を発表していた。『プルシ』の3号は日本語版で翻訳詩から構成され、朝鮮文学のみならずロシアや欧米の海外文学(レールモントフ、アラゴン、ラングストン・ヒューズ……)を紹介し、近代朝鮮文学を代表する尹東柱や金素月の詩の英訳も掲載するなど意欲的な企画に取り組んでいるものの、この号を発行後に休刊。多言語が呼びかわす誌面に、若き在日青年たちののびやかな〈世界文学〉への思いを見る斎藤さんは、「胸が躍ります」と語っている。その言葉を読んで、ぼくの胸も躍った。

10月某日 早逝した在日コリアン2世の作家・李良枝の文学碑を訪ねるため、彼女が生まれ育った山梨へ。2022年、没後30年に出版された李良枝のエッセイ集『ことばの杖』(新泉社)の編集を担当したことがきっかけで、妹の李栄さんとの交流が続いている。富士吉田の新倉山浅間公園に文学碑が建立されたことを栄さんから聞いていて、一度見に行きたいと思っていたのだ。ちょうど、李良枝に関するエッセイを書き上げたところだった。

富士吉田にはぼくの母方の親戚がいて、マレーシア在住の従姉妹が一時帰国しているという。コロナ禍もあり、親戚とはしばらく会っていなかった。ならば久しぶりにみなで集まって墓参りもしようと、妻と娘と一緒に出かけることにした。

初日は、富士山麓の湖のほとりの森のなか、従姉妹の営む一棟貸しの宿に滞在。翌日、墓参りを済ませたあと、従姉妹の父親である叔父のIさんに新倉山を案内してもらった。山の中腹には、富士山を一望できる撮影スポットがあり、外国人観光客の長蛇の列ができている。文学碑はその脇にひっそりと立っていた。
 
御影石の碑には、『ことばの杖』にも収録された随筆「富士山」から引用された文章が刻まれていた。「すべてが美しかった。それだけでなく、山脈を見て、美しいと感じ、呟いている自分も、やはり素直で平静だった」

在日1世の両親の不和ゆえの幼少期の暗い記憶とともにあり、「日本的なものの具現者」として憎んできた富士山。その風景を李良枝が受け入れるには、長く複雑な心の道を歩かなければならなかった。「韓国を愛している。日本を愛している。二つの国を愛している」と作家は続ける。たどりついた個としての「素直で平静」なまなざしの深さにあらためて打たれた。

ぼくの祖父は富士吉田で学校の教師をしながら民俗学や郷土史の研究をしていて李良枝の父と交流があり、親戚には少女時代の彼女に日本舞踊を教えた師匠もいる。叔父のIさんは、やはり早逝した李良枝のふたりの兄と親しく、お互いの家を行き来するほどの仲だったので、亡き友をめぐる思い出話を懐かしそうに語ってくれた。

10月某日 韓国の作家ハン・ガンさんがノーベル文学賞を受賞した。韓国の作家で初、アジアの女性で初のノーベル文学賞受賞ということで、飛び上がるほどうれしい。ここ数年、ハン・ガンさんの作品を愛読してきたので、日本語の世界に届けてくれた翻訳者と出版関係者への深い感謝の気持ちが込みあげてきた。

ノーベル文学賞の発表前、非常勤講師を務める大学の編集論の授業で「今年は誰が受賞するか」をテーマに話したのだった。過去十年の受賞者の傾向を分析しつつ、アジアから受賞者が出る可能性があることを指摘し、有力候補と報道されていた中国の作家・残雪氏の名前を挙げておいた。

授業を終えて校内の控室に残り、日本時間の午後8時から始まるスウェーデン・アカデミー選考委員会の発表式を、オンライン配信で視聴。どきどきしながら耳をすませていると、「韓国の作家、ハン・ガン」という英語のアナウンスを聞いて驚いた。いつか受賞するとは思っていたが、まだ早いと考えていたのだ。歴代の受賞者のうち、50代前半の作家はそれほど多くない。選考委員は「ハン・ガン氏の力強い詩的な散文は歴史的なトラウマに向き合い、人間の生のはかなさをあらわにしている」と評価していた。

ハン・ガンさんは詩人としてデビューしているのだが、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)の日本語版の編集をぼくは担当している。世界的に見て、声にならないものに声を与える仕事にもっとも真摯に取り組む作家のひとりであることは疑いない。そんな彼女の文学を紹介する仕事に間接的でも関われたことは、光栄で誇らしい。

ところでハン・ガンさんの文学を日本で普及する道を開いたひとりが、出版社クオンの代表・金承福さんだ。今から13年前、「新しい韓国の文学」シリーズの第1弾として小説『菜食主義者』(きむ ふな訳)を刊行。その後も作家の代表作となる小説やエッセイの翻訳を出版し、「セレクション韓・詩」の創刊時には、満を持して『引き出しに夕方をしまっておいた』をリリースした。

金承福さんは、「『韓・詩』のシリーズはハン・ガンさんの詩集からはじめたい」と打ち合わせ時に明言していた。そして「欲を言えば、日本の読者にとって韓国の詩への入り口になるような本にしたい」とも。この本には訳者のきむ ふなさんと斎藤真理子さんの対談「回復の過程に導く詩の言葉」を収録しているのだが、これは金承福さんの熱意を受けて企画したのだった。訳者ふたりのお話のおかげで、作家の詩や小説のみならず、韓国文学の歴史を理解するための絶好のガイドと言える内容になったと思う。

10月某日 昨年、奈良県立図書情報館で「韓国文学との出会い」と題してトークを行った。企画してくださったIさんが亡くなったことを知る。ご冥福をお祈りします。

トークでは、安宇植の韓国文学の翻訳に大きな影響を受け、読者として恩義を感じていることを中心に話したのだった。安宇植はハン・ガンさんの父で作家の韓勝源氏の小説『塔』を共訳している。これは角川書店が韓国の作家に未発表の書き下ろしを依頼して1989年に出版した本で、今から考えるとすごい話だ。

奈良県立図書情報館でのぼくの出番の前に登壇したのが、斉藤典貴さんだった。晶文社の「韓国文学のオクリモノ」という名シリーズを世に送り出した編集者で、2017年に創刊されたこのシリーズから受けた衝撃については、『「知らない」からはじまる——10代の娘に聞く韓国文学のこと』(サウダージ・ブックス)という本のなかで書いた。付け加えるならこのシリーズは、実力ある女性の韓国文学翻訳者たちの存在を、ひとつの「チーム」として世に知らしめたことにも大きな意義があったのではないか。翻訳者として関わったのは斎藤真理子さん、古川綾子さん、すんみさんの3人。

現在も勢いを増し続ける韓国文学の翻訳出版に欠かせないこうした女性翻訳者たちの多くは、大学研究者ではない非アカデミックという点において歴代の在日翻訳者たちとも共通する立場にあり、ぼくはそこに何か大切な精神史の流れがあると感じている(安宇植は桜美林大学の教授を務めていたが、それでも在野的な精神をもつ存在だったと思う)。

10月某日 斎藤真理子さん『在日コリアン翻訳者の群像』には「アサノタカオさんという編集者の方が、神奈川近代文学館に行った時に、「プルシ」を見つけて、黄寅秀さんの部分だけコピーして送ってくれた」とある。

編集者であるぼくには、秋のリスがほほ袋に食べきれないほどドングリを詰め込むように、図書館で少しでも気になる資料を見つけたら片っ端からコピーをとって持ち帰る習性がある。その習性が役立ったわけだが、補足すると、在日の英文学者・翻訳者の黄寅秀が『プルシ』に寄稿していたという情報は、文学研究者の宋恵媛さんの大著『「在日朝鮮人文学史」のために——声なき声のポリフォニー』(岩波書店)を読んで知り、そもそも宋恵媛さんの本の重要性は斎藤さんに教えてもらったような気がする。なのでこの資料の存在は、自分が「見つけた」というより、届くべき人の元におのずと届いたということだろう。

宋恵媛さんは今年2024年、望月優大さんとの共著『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)で講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。宋恵媛さんの仕事に関しては、2005年刊行の『金石範作品集Ⅱ』(平凡社)の解題で在日作家・金石範氏の文学における「女性への眼差し」について忖度抜きの鋭い問題提起をしているのを読んで以来、注目してきたのだった。

10月某日 自宅で編集の仕事をしながら、SNSの音声配信で作家の深沢潮さんのお話を聴く(以前、小説『緑と赤』(小学館)を読んでとてもよかった)。深沢さんはノーベル文学賞の話題から、ハン・ガンさんと李良枝には「身体性を大事にしている表現者」という点で通じるところがあると語っていて、大きくうなずいた。言葉と身体の関係性をめぐるハン・ガンさんの小説『ギリシャ語の時間』の文章と李良枝の芥川賞受賞作「由熙」の文章を並べると、個々の作品の文脈を超えて強く響き合うものがある。

 「血が流れていない血管の内部のように、またはもう作動していないエレベーターの通路のように、彼女の唇の内部はがらんとあいている。依然として乾ききったままの頬を、彼女は手の甲でこする。
 涙が流れたところに地図を書いておけたなら。
 言葉が流れ出てきた道を針で突き、血で印をつけておけたなら。」
  ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)

 「由熙の二種類の文字が、細かな針となって目を刺し、眼球の奥までその鋭い針先がくいこんでくるようだった。
 次が続かなかった。
 아の余韻だけが喉に絡みつき、아に続く音が出てこなかった。
 音を探し、音を声にしようとしている自分の喉が、うごめく針の束につかれて燃え上がっていた。」
  李良枝「由熙」『李良枝セレクション』(温又柔編・解説、白水社)

10月某日 東京の文化センターアリランで開催される「アリラン・ブックトークVol.12」で、李良枝『ことばの杖』が紹介されるという。ゲストは李栄さんなので参加したかったが、仕事の出張と重なり会場には行けなかった。後日アーカイブ動画で視聴しよう。

月1回のペースで参加している海外文学のオンライン読書会。来月の課題図書がハン・ガンさん『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)に決まった。1948年の済州島4・3虐殺事件をひとつの背景にした長編小説だ。2008年に家族とともに旅した済州島の風景を思い返しつつ、再読している。

話の話 第20話:只者ではない

戸田昌子

只者ではないが、どこかツッコミどころのある人、というのがいる。大学の事務補佐をやっていたニーモト君という人がそういう人で、あまりに賢くて有能なので、仕事を個人的に手伝ってもらったことが何度かある。このニーモト君の有能さはたとえばこんな感じだ。出校時、わたしは授業の配布資料を人数分コピーしてもらうため、朝、家を出るまでに事務室へ送るようにしていた。事務補佐の仕事は、そのデータをプリントアウトして200~300部の配布用コピーを作ることなのだが、このニーモト君は頼んでもいないのに、資料の内容の校正をしてくれるのである。個人名の正誤や図版のナンバリングに至るまで、丁寧にチェックしてくれる。そして「この箇所、間違っているので直しておきますね」と通勤中のわたしにメールをよこす。わたしがOKを出すと、大学に到着したときには、修正原稿とコピーが定位置のテーブルの上にきれいに並んでいる。

しかし、ニーモト君の凄さはそれだけではない。頼んでいないのも関わらず、授業で使えそうな書籍や雑誌などの資料まで用意してくれるのである。ニーモト君がわたしの配布資料のデータを目にするのはたいてい当日の朝、授業開始前3時間ごろだから、資料を探し出す時間などほとんどないはずなのに、研究室の本棚や大学図書館などのアクセス可能な場所から資料をぽいぽいと抜き出して揃えてくれるのである(念の為だが、頼んではいない)。そしてときに、ニーモト君の所蔵資料が含まれていることもある。どうやら通勤前にわたしのメールをチェックできた時には、関連資料を自宅から持参してくれているようなのだ。

もちろんこんな仕事は事務補佐の仕事には含まれない。言ってみれば個人秘書の仕事である。ニーモト君は写真をやっている人だから、どうやら個人的な興味があってわたしの資料を揃えてくれていたようだった。そんなこともあって、ニーモト君にはときどき日給を払って我が家までアシスタントに来てもらっていた。わたしの監修本の作品リストのチェックとか、フィルムや資料のスキャニングとか、だいたいわたしが苦手な算数が含まれる仕事のときにはニーモト君に仕事をお願いする。図版の数を読み合わせながら確認していく作業のとき、「1個どうしても足りないねぇ、数が合わないわ」とわたしが言ったら「さっき戸田さん16のあと18って言ってましたよ」「……あら」なんてことは、よくある。

わが娘が「おそ松さん」にハマっていた頃。ある日、我が家にやってきたニーモト君は缶バッチの入った大きなビニールの包みを抱えていた。「これ、娘さんにどうぞ」。袋を開けると、軽く100個以上の「おそ松さん」の缶バッチが入っている。「え、これ」「差し上げます」「ええ!」と驚いたのだが、聞くと、大学でたまに行われる不要物の交換会で、無料で手に入れたものだという。「娘さんが好きだって言われていたから、もらってきたんです」「うわあ、ありがとう!」と受け取ったけれど、わたしは娘が「おそ松さん」が好きだ、という話しをニーモト君にしたのかどうかすら、覚えていない。きっとしたのだろう。この、只者ではない気の回りようには、時々、怖くなる。

このニーモト君は出身が広島なので、当然のように「広島カープ」の熱烈な支持者である。週に一度の出校時、いつもさまざまなデザインのカープTシャツを着てくるのだが、どれもとてもいいデザインで素敵である。カープファンでなくとも着てみたいと思うようなものばかりだ。そのうえニーモト君はわたしの前で、一度たりとて同じシャツを着ない。わたしの出校日は水曜日なので、どうやら同じ曜日に同じシャツを着ることがないように配慮しているようだった。すごい神経の回しようである。そんなニーモト君がある日、我が家に来たとき、カープではないうさぎのキャラクターのシャツを着ていた。意外さにちょっと興奮したわたしが、「わ!今日はかわいいね!ミッフィー?」と自信満々に言ったらば「マイメロです!」と、なんとなく怒った感じの低い声で返されてしまった。あ、すみません。

先日、イサキを買って帰ったら、娘が「誰よその女」とボケてくれました。わたしの方はと言えば、「あー、スズキ君の彼女?」と答えておきました。毎回逃さずいいボケをしてくれる娘。決して只者ではない。

むかし、大学新聞の友人や後輩たちと、「益子へ行こうぜ!」となって、5、6人で車に分乗して益子まで行ったことがある。益子と言えばもちろん陶芸の益子焼である。陶芸センターで手びねりの陶芸体験ができるというので、皆で手びねりをしながら、わいわいおしゃべりをしていた。いつも何かとネタにされやすいタイプのわたしは、「戸田さんならこうするでしょう」「なにを言っているんですか、戸田さんともあろう人が」などと、会話のなかでしょっちゅう槍玉に上がる。すると、それをしばらく黙って聞いていた、陶芸体験コーナーの担当の女性が、重々しく一言「……その戸田さんというのは、曲者なんですか?」とわれわれに尋ねた。いやそれはわたしです。いや、違う、それはわたしではない。などとうろたえたわたしの前で、友人たちは「曲者っていうか、まあ只者ではないよなー!」などとウケて、笑い転げていた。

あるとき、鳩尾と京都の蚤の市をうろうろしていたら、根来椀を売っているおばさんがいた。朱色のこれにしようか、それともこの黒っぽいのにしようか、などとわたしが悩んでいたら、わたしの後ろにいたそのおばさんが外国人のお客さん相手に「ウェアアーユーカムフロム(あんたどっからきてはるの)」と尋ねているのが耳に入った。女性のお客さんは「アイムフロムイタリー(イタリアから来ました)!」などと答えている。おばさんは「ああ、そうなの、イタリアからカムフロム。サンキュウ!」と威勢よく返答している。この「サンキュウ」は明らかに「おおきに」のイントネーションである。それを聞いていたわたしと鳩尾は笑いを噛み殺すのに必死である。言語学的な誤謬など、ものともしない商人のこのコミュニケーション能力。決して、只者ではない。

「どんなお金も大きく見えちゃう、ハズキルーペ。それで、つい借金しちゃう」と、背中の後ろで娘がひとりごとを言っている。いや、つい借金なんて、してませんよ?

そういえば、ラブレターなどというものはついぞもらったことがないのだが、これがラブレターだったら素敵だなぁ、と思うようなEメールをもらったことがある。決して告白ではないのだけれど、もしそうだったとしたら、只者ではないセンスである。それは下記のようであった。

Tonight, I took a walk on the street. Suddenly it started raining.

In the beginning,
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Next,
/ / / / / / / / / / / /

And then,
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In the end,
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どうやら彼は、最後はひたすら、スラッシュのざあざあ降りの雨に打たれて帰ったようであった。

このメールをくれた少年は当時19歳だったのだけれど、ニューヨークで何度か会って、ダイアン・アーバスの写真展をホイットニー美術館に見に行った記憶がある。わたしはそのときひたすら、生まれたばかりの可愛い姪っ子に夢中で、写真を見せてはその話をしていたらしい。その子はそもそも、ユースホステルの中庭で話しかけてきた子で、今思えばナンパみたいなものだったような気もする。カリフォルニアに住んでいた韓国人の子で、親元を離れてニューヨークの大学を見学しに来ていたのだった。その後、わたしがニューヨークに落ち着き、彼もニューヨークに住むようになり、たまに会っていたのだけれど、ある日、髪を短く切ったわたしの顔をみて、ひどく残念がったことがあった。なんだか落胆させたんだな、と思い、その後は一度も会わなかった。

その10年後、彼がいきなりメールを寄越したのである。ぼくブライアン、覚えてる?と言うので、覚えてるよ、あなたこんなメールくれたよね。そう言って上記のメールを添付すると、「うわ、こんなメール書いたんだね。なんだかぼくってナイスガイみたいだ!」とびっくりして喜んでいた。わたし子どもが生まれたよ、とわたしが話すと、「きみの子どもはきっとすごく美しいんだろうな。あのね、知ってる?ぼくは君の髪型が、とにかくとっても好きだったんだよ。切ってしまってほんとうに残念だった」。うん、知ってます。でも結局、そこは「髪型が」なんだなぁ、あくまでも、と思いつつ、突っ込まずじまいで終わった。その後、彼のメールアドレスもこのメール自体も、パソコンの切り替えですっかりなくなってしまった。

娘がわたしにつけつけと文句を言っている。

娘「わたしのほうがパパよりもママのことを愛している!」
わたし「でも、パパはママと結婚してくれたよ!」
娘「それって、新手のものすごい長いタイプの結婚詐欺なんじゃないの?」

ああ、なるほど、そういう考え方もある。わたしは騙されているのだろうか。確かにそう考えると、家父長制度における結婚などというのは、女にとっては詐欺みたいなものだ。「婚姻」をして家に縛り付けることで、家政婦、乳母、そして介護要員として無償労働させられるわけだから、などと、考え始めてしまう。すると隣の部屋でパソコンに向かって黙って仕事をしていたはずの夫が口を挟む。

「やつはとんでもないものを盗んでいきました、あなたの人生です!」

ああ、それはあなたの大好きな「ルパン三世 カリオストロの城」ですね。この引き出しの多さ、見事な自虐。実に、只者ではない。

『アフリカ』を続けて(41)

下窪俊哉

 先月、SNSで増井淳さんから鶴見俊輔に「『ヴァイキング』の源流」という文章があると教えてもらったので、図書館で探して読んだ。講演の文字起こしが元になっていて、副題に「『三人』のこと」とある。この「『アフリカ』を続けて」は初回に『VIKING』の話を置いてあり、増井さんはそれを読んでくださったようだった。
『三人』というのは『VIKING』よりもっと前、富士正晴、桑原静雄、野間宏の三人によって1932年に創刊された同人雑誌で、命名は彼らの師匠である詩人・竹内勝太郎だったらしい。それから井口浩が入って四人になっても、その後何人に増えても『三人』は『三人』のままだった。終刊は1942年(大東亜戦争開戦の翌年)の28号で、富士正晴記念館の冊子で読める日沖直也「富士正晴 人と文学」によると「同人誌統合の内務省指示が出されたのに対し、統合は意味がないからと富士がほとんど独断でふみ切った」。
 竹内勝太郎は『三人』創刊の3年後、黒部渓谷で足を滑らせて遭難し、40歳で亡くなった。彼の作品が残っているのは、富士さんが師匠の原稿、日記、手紙などを遺族から譲り受け、遺す仕事を殆ど人生をかけて行ったからだ。そのへんのことをじっくり書いていたら長くなるので今回はやめておくけれど、私は編集者としての富士正晴にずっと興味を抱き続けている。
 鶴見さんは「『ヴァイキング』の源流」の中で、こう言っている。

師匠そのものは、全然有名ではない。無欲な人で、それはもうはっきりしている。無欲な努力家。この世の中に、無欲な努力家がいるっていうことが光源になって、青年をひきよせている。無欲な努力をまのあたりに見ることは、そりゃあ大変なことですよ。人間みんな欲ばりで、欲の皮つっぱらかして生きてんのさ、ハハハッて、そこでもうすわってしまう。これもひとつの悟りをひらいたことになるんだろうけどね、なーに、かくしてるだけさおんなじだ、なんていう、それも楽でいいけどね。そうではない人間がいるっていうかんじね。そこが光源になっている。

 ここで「無欲な人」と言っているのは、何の欲も持たない人がいると言っているのではない。彼はさまざまなことを経て、考え抜いた末に、ある意味ではやむを得ず、そういう生き方を取ったのだと私は思う。富士さんは竹内の死後、『三人』で企画した追悼号で「竹内勝太郎譜」を編むために日記を読み、「彼の苦渋に満ちた一生を知って驚嘆し、ますます、竹内を出版することを自分の責任と感ずるようになった」と書いている(「同人雑誌四十年」より)。鶴見さんは「文化に対する権勢欲から自由なところをつくろうということを、初めから動機としてもっていたから、逆にこれは、それを体現した一人の人間が死んだあとも七年、その生前からかぞえて合計十年続いた」と言う。
 権勢欲、つまり文芸やら何やらの業界(文壇、論壇などと言えばよいか)を強く意識して、そのような雑誌をやる人たちもいるのである。というより、何をやるにしても、その権勢欲から自由である人の方が珍しいのかもしれない。

 私にもそういう欲があるのだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。しかし(いまの、あるいは今後の私にではなく)『アフリカ』と、それを出しているアフリカキカクにはないと断言できそうだ。これまでもくり返し書いてきた通り、『アフリカ』は権勢どころか身近にあった文芸の取り巻きにすら「背を向けて」始めた雑誌だったのだから。
 2008年4月、小川国夫さんが亡くなって告別式の前夜祭に参列した際に、山田兼士さんと話していたときに誰かが『アフリカ』の名を出して、「えっ、それは何? 下窪くんがつくってるの?」と驚いたような顔で言われたのを覚えている。私の学生時代にはボードレールや福永武彦を楽しそうに教えてくれたその山田先生が『びーぐる』という詩誌を始めたのはいつだったか、と思って調べたら、その年の秋だったようだ。私はそんな身近にいた人にすら、届けていなかった。
 ある歌の文句によると、自由とは、何も失うものがない、ということだそうだ。当時の私は、そんな状況にあり、というよりそんな状況に自分を一度追いやって、『アフリカ』はそれを体現したということになるんだろう。もちろんそこまで考えた末のことではなく、やむを得ず、そうなったということなのだが。

 さて、私がどうしてこんなことを毎月くどくどと書いているのかというと、『アフリカ』という雑誌がどうしてこんなに続いているのだろう、という、その謎を探ってみたいからだ。他人事のように言うと、興味があるのである。
 いつまでも続けて、自由であることなんて、可能だろうか。鶴見さんの言う「光源」がどんなものであるか、ということが重要なのではないか。

 いま『アフリカ』は”大きな再出発”の号からその先へ進もうとしているが、しかし、というか、やはり、というか、思ったようにはゆきそうにない。年3冊のペースでやってゆこうなどと言っていたのも、数ヶ月たてば、様子が変わっている。私はそのことをダメだとは思っていない。予定は、いつでも未定なのだ。いつでも止めていいと思っているし、続けてもいい。未来は、わからない。というより、ここまで予想のつかなかった未来へ来てみて、いまさら予定変更も何もない。

 〆切があると書ける(つくれる)という話は、今も昔もよく聞く。〆切があるから書けるのはなぜかというと、現実的な計画が立つからだろうか。見方によっては〆切に遅れたことすら、書き手の背中を押す。”大きな再出発”となったらしい『アフリカ』最新号も、故・向谷陽子さんの家族が展覧会を企画して、それに合わせるかたちで出来た。しかし、私はよくわかっているつもりだが、その後には何ということもない「その後」が続くのである。私は本を、雑誌をつくることをお祭りにしたくない。イベントにしたくない。と、ずっと考えている。ワークショップ(工房)ということばのイメージを好きなのも、そこに流れている時間が日常のもので、続いていると感じられるからだ。そうあってほしいと夢みているのだ。今の時代は日常を夢みることがとても困難になっていると感じる。夢は、じつはとても近いところに転がっていて、私たちを待っているのかもしれない。