生まれて物心ついた頃から、父はいつも家にいる事が多かった。そして私が4歳の時、父は踊る事を辞めていた。5歳のとき家族でドイツに渡った。父は毎日オイリュトミー学校に通っていた。なので父が正直何をやっているのかよく分かっていなかった。そして私は10歳の時に帰国した。父に『職業欄を書かなきゃいけないときなんて書けばいい?』と聞いた事がある、そうしたら『ブトウカと書いとけ』と言われた。父は合気道をやってたこともあり、私はいつも武道家と書いていた。私が初めて父の踊りをはっきりと認識したのは、19歳の時、父が踊りの活動を再会してからである、始めはまったく踊りに興味もなかったし絶対に踊りはしないだろうと決めていた。しかし私が22歳の時、父がサンフランシスコのフェスティバルに呼ばれ、ひょんな事から私はそれに出る事になった。最初は背景のように後ろでただ立ってれば、という軽い気持ちだった。そして私はその舞台で何もできず、向こうのディレクターにこっ酷く怒られる始末だった。父はそんな結果を分かっていたのに私を舞台に出した。私はそこで初めてダンスと出会った。そしてその舞台で私は初めて舞踊家の父と出会う。
投稿者: yamaki
さまよう線と見えない流れ
高橋悠治低音DUOの松平敬と橋本晋哉のために 川田絢音の詩を『明日は残骸』『しいんと』『ぼうふらに掴まって』の三連画にした
詩に作曲するのは 詩のひとつの読みかたと言える 詩はことばの響きの組み合わせから生まれ 本来は 黙って活字を目を追うのではなく 響きとして読み上げるものとすれば 語るより歌うのが より古いやりかたかもしれない ことばの意味ではなく響きと 喚び起こされるイメージが かたちのない線になり それに セルパンによるもう一つの線が絡みつく ことばをもつ声の線は 多彩な音色の変化する線で セルパンに寄り添って 和音や対位法でない 西洋音楽では不協和音とされてきた2度の擦れ合うポリフォニーをつくり出す 2度という隣り合う音程のまといつく線は 糸を撚り合わせる織物や ちがう味を取り合わせる料理のように 音楽をプロセスのアートにする 石碑や建築のような音楽ではなく もっと軽く 風にゆれる唄の細い線が漂っていく
1960年代までの20世紀音楽の流れとはちがう方向をさぐる試みは あれこれあって やがてそこから一つの新しい方向が見えてくる と思うことさえも まだその流れに囚われているのだろう 和音・低音・主題・構成というシステムで考えてしまっていることに気づかずに 作曲し演奏し即興しても 見えない檻から出られないし 檻をひきずって歩いているだけのことかもしれない
20世紀の演奏技術は 強い多い速い という力の支配 統合と管理の方法だった 雑多で異質な響きを継ぎ合わせて 複雑な音楽にすることはできるが そういう技術は 反復と確認をかさねて 息苦しい空間をつくり出す 記号や図形を発明しても 聞こえてくるのは おなじ昔の歌だった ということになりかねない
それよりは おなじみの数すくない記号に あいまいな拡がりをもたせて 別な文法で使ってみる 演奏や即興が先にあり 経験を要約する方法は 不完全な道具で 精密な規定と矛盾する実例からは ちがう現場で使うときに そのたびの微調整が必要になる
微分音や複雑なリズムを書くのをやめて 長い音と短い音を 2分音符と8分音符で区別する 符尾のない白丸と黒丸で書いたこともあったが 演奏が均等な長さになりやすく 規則的な拍ができていしまう 棒のない全音符は 同時か順番か わからない時がある 全音符2分音符4分音符と順を追っていくと やはり時間を数えるようになる そこで いまのところ2分音符と8分音符を中心にしているが それが定式ではない 書くたびにすこしずつ書きかたも変わり ただし 説明は避けるようにしている 楽譜に説明してあっても ふつう演奏家は読まないし 説明を求められることになると 無意識のうちに作曲家・演奏家の上下関係を作るかもしれない
休止符は数える傾向を誘いやすい 音符はピッチに気を取られて ありきたりの感情表現をしたくなるが 休止は文脈を無視した数になりがちだろう 休止符は書かず カンマやカエスーラによる中断かフェルマータによる停止 5線をガイドラインとして いくつかの音符がそこに引っかかっている 小節線のような区切りもなく 別な段の音符とは数が合わない という白い楽譜の風景が いまのところは 少人数の音楽なら成り立っている 全員がスコアを見ていられないようなオーケストラの場合は ちがうくふうが必要になるだろう 拍子図形のない指揮法は 例がないわけではないが 指揮者は統制したがる職業だから そこに問題がある 司会進行役なら 適当な時間に合図を出すだけでいいかもしれないが コンサート会場で 演奏者全員の前にただ立っているのは間がぬけているし 不満もあるだろう アール・ブラウンのように 左手5本の指で断片を選んで 右手でそれをうごかしたり止めたりする技は 作曲家の即興で それが作品のスタイルだった こういうことは まずやってみなければ 人間の習性や 身体の緊張度を無視した方法や 理論先行ではできないだろう
2018年4月1日(日)
水牛だより冬から一気に初夏のような陽気がやってきて、早めに満開となった桜に昨夜は3月二度目の満月でした。変わる季節がもたらしてくれる自然は気がすむまで愛でればいいのですが、困るのは着るものです。このところ毎日衣替えが必要な気候なので、友人は「ユニクロに住みたい!」などと叫んでいます。(笑)
「水牛のように」を2018年4月1日号に更新しました。
先月書いたとおりに、小泉英政さんの「若かりし日に書いたものから」をFBへの投稿から転載しました。心づもりとしてでも予定を書いておくのはいいことかもしれません。記憶力が怪しくなっても、こうして予定のとおりに出来ることもあるのですから。日記には今日の出来事ではなく、明日やることを書くようにすれば長続きするな、と考えたこともありました。
最寄りの駅前で毎年おこなわれる「桜まつり」は今年は4月15日らしい。駅前は八重桜の木が植えられているので、花の時期は少し遅いけれど、今年はすでにほころびはじめています。15日まで持つかどうか。タクシーの運ちゃんが熱心に語ってくれた話によれば、桜まつりの日程はいつもアトラクションでお目見えする歌手の予定で決まるのだとか。ほんとかどうかは知りませんが、ほんとうであっても、人間のそんな事情に無関係に花は咲きます。すがすがしいですね。
それではまた!(八巻美恵)
自分を見つめる詩(若かりしころに書いたものから)
小泉英政土ふまず
草むらで
蝸牛は
眠っていたのか
這いうごいていたのか
まさに死にかけていたのか
それは さほど
私の足どりは
酔っていたのか
浮かれていたのか
つまずいたのか
それも さほど
とにかくあの感触
どす黒い体液が滲みついて知った
土ふまず
(これも18歳ころの詩だ。そのころのを読み返すと、もがいているというか、何にあんなに悩んでいたのだろうと思う。古い本をめくっていると、今は亡き思想家の埴谷雄高さんのこんな言葉に出会った。20歳のころになると「自分が自分を自分のなかから生みだす一種の純粋生誕に達してしまおうと努力することになる」、「栄光の生誕であるとともに、また、苦悩の生誕でもある」(埴谷雄高、『薄明のなかの思想』筑摩書房)。なるほどと思った。)
参加の断章
誰も私を無罪にはしない
このとばりの裏で誤謬をつついている
(曇り硝子を装う未来人)
既に石化
常に葬儀
受難の悲劇
翔天も
潜行も
蜃気楼と
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
しかし俺に影を落とさせるこの太陽の位置のもと
(限界内での挑戦)に汗ばんだ挑戦をはじめたぞ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
すれちがいの享楽の巷で
自由をとりちがえた蟹らと会いました
「甲羅に宣伝ポスターも貼りました
ここに私がいますと貼りました
さて、照明ある場所へ参りましょう」
ー不条理からの横あるき
動く銅像
ペシミズムの波打ちぎわ
蟹らの眼鏡には
空は空、海は海、蟹は蟹
ひなた水は
蛙たちが愛しあうところ
あとは夜
夜は泣く
泣くこともやめた夜
ひなた水はさえ枯れてしまった
ただ奈落への安楽死
川底には密閉した蝙蝠らの巣窟
いまや歪曲した黄昏なのに
口や耳を塞いだまま
ひょんな手つきで
バイブルの扉を磨くだけ
それが証
似非聖者の頽廃した感情の
充分だ
涙もろい感覚の夜空に痛くとけこんで
私を泣かすには これだけで充分
ーただ一枚のフォトグラフ
あなたの崩れた焼身にへばりつく仏の死
そしてあなたの周りで祈る少女の
とかし忘れた長い髪 四方の蝋燭
これだけで充分だ!
涙もろい私を泣かすには
ーただ一枚のフォトグラフ
私には負傷した友を運ぶことも
自殺をとめることも出来ない
けれども!
あなた達の血みどろの衣服!
血の涙!
それらの全てが私のものだ!
腐敗しつづける幾千万の屍体の上で
鳴っているシグナルの音が
誰にも聞こえないなんて
なべて背後には氷河が白んでおり
産婆様のの魂がもはや届かぬところで凍っており
その脊髄を冷たい寂寥が縫っている
そこからほとばしる選択の汗水!
その流れが現代なのだ!
参加だ!
現代への参加だ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
(これも高校2年生のころの作品で、高文連の大会に提出したもの。ベトナム戦争反対を抽象的に訴えた。)
フユノハエ
ナニ ニゲダシタイヨウナ カッコウヲシテイルダケサ
イテツク オモテデワ
タエテユケソウモナイコトヲ
チャント シッテイルカラ
アタタカイコノヘヤカラハ ニゲヤシナイヨ
アンシンヲ シロ
アノハバタキモ アシノユスリモ
ダマッテイテハ ツマラナイカラダケサ
ナニ ニゲダシタイヨウナ
シグサヲ シテイルダケサ
フユノヒザシガ
シバレヲトカシタ トキニダケ
ミセカケヲ シテイルダケサ
エンジテイルダケナノサ
アンシンヲ シロ
(冬のある日、高校の窓ガラスの所でハエが飛んだり、止まったりしていたのを見て、思いついた詩だ。自嘲的に書いたのか、人のことを書いたのか、忘れてしまった。)
すわりこむと
すわりこむと
ごみがよくみえる
すわりこむことは
ごみの低さに
ちかづくことだ
手
この手はもぎ取られたのに
もぎ取られた手はもぎ取りに上陸する
17度線に駐屯中
貧弱な胸に引き金をひいたり
捕虜の耳を剃りアルコール漬
この手が私の手だ
空襲の中のちぎれた手も
その爆撃のボタンを押したのもこの手であるとしたら
人差し指ほど罪ある指はない
けれど人差し指がなかったら
〈簡単だ、4本指の父は中指で的を狙っている〉
この指先には父母たちのような跡がない
土を掻いた記憶も、銃を握った記憶も
だが誰にも言わせないぞ
あなたは幸福だねとは
離陸してゆく兵器をとめられない
この無力に耐え闘わなければならないからだ
再び言わせないぞ 幸福だねとは
茶の間に残虐なフィルムがながれても
ある聴視者には回想にすぎず
ある者には単なる戦争映画にすぎず
報道までも快感となる事実
けれどもあなたよ
既にその手は潔白ではないのだ
そして時には我々の手は
今日も泥沼に幾人かの同国人が埋もれたのに
顔には勝利の笑いがある
指揮官らの肉づきのよいやさしい手でもあるのだ
見たことあるその手を
脳のなかの尺取虫にかどわかされて
ダイヤの指輪をはめている
見たことあるその手を あなたのその手を
けれど再びあなたよ
既にその手は潔白ではないのだ それどころか!
みみずを刺している釣り針だ!
(この詩には、日付けはないが、20歳前のものだろう。若かりしころの自分を責め、人を責める詩はこの他にも沢山あるが、発表するのはこれまでとしたい。あと二篇ほど、出してもいいのがあるが、長すぎる。次は三里塚の詩に移りたい。詩をここに載せるのは、詩集のための準備だが、陽の目を見るかな?)
こんさーと
北村周一しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
かすかにうみの においがする
ぎんざどおりの いっかくに
ばーをみつけた
よもふけて
おとこさんにん あてもなく
ぶらりぶらりと かわべりの
とおりをゆけば ひとはまばら
くるまもまばら
しずみそうな
あーけーどがいの なかほどの
よつじのかどの ふるぼけた
はなやのびるの そのにかい
ながいかいだん のぼりきると
ばーはいがいに おくゆきが
あってひろびろ かんじがいい
あたりみまわせば それなりに
みせはしられて いるようで
きゃくもちらほら ひんがいい
せきにおちつき のみものを
ちゅうもんしたら おどろいた
ことにこれから えんそうが
はじまるという
えっここで
こんなじかんに こんさーと
おとこさんにん ねむそうに
かおをみあわせ とりあえず
だんじょふたりの えんそうに
みみかたむけた
しずみそうな
あーけーどがいの かたすみに
ひびくうたごえ ばんそうは
おとこがつまびく ぎたーだけ
きいたことのない うたがつづく
きょくがおわれば はくしゅして
あいまあいまに さけがすすむ
しずかなこえで ばーぼんの
おんざろっくの おかわりを
つげればともは みずわりを
のんあるこーるの とももいて
ときはしみじみ すぎてゆく
かすかにうみの においがする
ばーのかたすみ
わかくはない
おとこさんにん はしゃぐには
としとりすぎて いたのかも
おもいかえせば あのころは
いくらでもそう いくらでも
はなしたいこと あったはず
なのにいつしか かいわらしき
かいわもとぎれ わけもなく
ざっしひろげて みたりして
やがてさいごの すこしだけ
おおきなはくしゅが まきおこり
しんやのらいぶは ほどなくに
おわりをつげた
しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
ぎんざどおりの ふるぼけた
びるのならびの そのにかい
したがはなやの かすかにも
うみのにおいが みちてくる
ばーもそろそろ おひらきである
春霞
璃葉やけに冷える朝だと思っていたら、細かな雨からみぞれに変わり、やがて雪に。咲きかけの桜としっとりした大粒の雪の組み合わせは何やら奇妙で、机に片肘をついて窓の外を眺める。春分の日に雪だなんて、と思いながら、咲いてしまった花やつぼみの元気がなくなってしまわないか少し心配になりながらも、その光景から目が離せない。
そんな心配は無用だったかのように、次の日から気温はぐんぐん上がり、1週間後には桜は満開になった。桜の花はいつも突然華やかに開いて、わりとすぐに散ってしまうから、みなさん急いで花見に来ているような気がする。窓の向こうでは散歩をする人、レジャーシートをひいて花見をする人たちでいっぱいに。楽しそうな話し声、笑い声が聞こえて、ようやく春を実感する。
数日部屋に引きこもっていた私もさすがに外へ出たくなり、作業を中断することにした。寒い時期からずっとやりたかった観葉植物の鉢の植え替えをしようと思い立ち、散歩がてら種苗店に向かう。青空の下にドドンと咲き誇る桜の白色が眩しい。花の香気と、様々な粒子によって霞んだ空気に包まれながら桜のトンネルを歩いていると、とにかくこの空間で酒を飲むべきだと思ってしまう。
種苗店には春の花や植物の植木がずらずら並んでいた。その脇を通って鉢のコーナーへ。いたってシンプルな常滑焼の駄温鉢を選ぶ。小さいころからこの鉢が一番好きだ。シンプルで安くて、暖かい茶色の鉢。帰りに麦酒の小瓶を買って自宅へもどる。窓辺に腰をおろし、プラスティックの鉢から駄温鉢へ樹をうつし、土をまんべんなく入れていく。株元にたっぷり水をやると、入れたての土はどんどん水を吸い込んでくれた。植物とともに日差しを受けて、麦酒を飲む。
夜11時ごろに銭湯に出かけ、少しのぼせ気味に。帰りしなにまたもや麦酒を買ってしまう。花見客はすっかり消え、あたりは静まり返っている。風が吹き、桜の雪がざあざあ飛んでくる。缶の麦酒を飲みながら桜吹雪をくぐり空を見上げると、膨らみかけた月がぼんやり霞にとろけていた。
エルネスト
若松恵子阪本順治監督の「エルネスト」が第32回高崎映画祭の最優秀作品賞に選ばれたというニュースを見てうれしく思った。テレビCMも流れず、先日見かけた「日本アカデミー賞」でも全く取り上げられていなかったので、何か黙殺されているようで、佳作なのに残念だと思っていたのだ。
2017年10月公開。銀座スバル座の上映を見に行って、上映後に阪本監督と主演のオダギリ・ジョーの舞台挨拶を聞いた。オダギリ・ジョーが「自分の集大成」と語っていたけれど、新人時代に出演していた阪本監督の「この世の外へクラブ進駐軍」の頃と比べて、成熟して男らしくなって、静かな魅力を湛えている姿に好感をもった。
「エルネスト」は、祖国ボリビアの軍事クーデターに抵抗するためにゲバラが組織した民兵として戦い、25歳で死んだ日系の医学生フレディ前川の短い生涯を描いている。
自分は何をすべきか考え、抵抗の戦いをすることを静かに決心していく姿を、1人きりでその厳しい選択をしていく姿を、オダギリジョーは彼の身体を通して魅力的に表現していた。心情を吐露するようなセルフはほとんどなく、そのような生き方をしていく人間の美しさというものを、彼の佇まいの美しさをもって演じることに成功していたと思う。その意味で、この作品は彼の集大成になったと私も思う。声高な主張や、わかりやすい説明が無いことがこの作品の品なのだけれど、その分ヒットはしないのかな。
ゲバラが広島を訪問したエピソードが取り上げられている。取材した日本の新聞記者がたった1名だったということも。しがらみや情勢判断からではなく、自分が心から大切だと思うものを大切にするのだというゲバラの揺るぎない姿が印象的だ。
「エルネスト」はキューバとの合作だ。社会主義国キューバとの交渉を粘り強く行って実現した作品だという。美しい佳作だ。今、日本でこのような映画が作られることに意味があると私は思う。
しもた屋之噺(195)
杉山洋一朝7時30分、始まったばかりのサマータイムで、眠そうな息子を中学校まで自転車で送り、そのままこちらも学校へ向かいます。気が付くと高校生と思しき男の子が自転車を漕いでいて、鄙びた緑の古い自転車なのですが、味わい深い色とデザインで思わず声をかけそうになりました。フレームには「ビアンキ」と書いてあり、3、40年は経っているものと思いますが、それを高校生が颯爽と乗りこなしているのを見るのは実に気持ちの良いものです。フレーム以外のパーツはもちろん入れ替えてありますから、走る姿もとても滑らかです。
中華街に入る少し手前、モンティ通りを越えたところにある憲兵隊モンテベルロ兵舎から、起床ラッパなのか、ファンファーレが高らかにスピーカーから流れています。この辺りを走っていると、いつしか周りはこうした古い自転車に乗った高校生や会社員に取り囲まれていました。
深い色塗りのこうした自転車からは、彼らのちょっとした誇りさえ感じさせます。学校から辻一本入ったところの自転車屋の軒先には、こんな中古自転車が並んでいて、80ユーロ前後から値段がついています。朝は決まってその自転車屋の隣にある八百屋で、蜜柑とバナナを買って学校に入るので、いつも自転車に目が留まるのです。手でデザインを引いた感じにほのかな温かみを感じるところは、音楽にも通じるところがあるかもしれません。
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3月某日 ミラノ自宅
季節外れの大雪。庭が10センチ近くの雪に一面覆われているけれど、自転車に跨ってドナトーニのリハーサルに出かける。天候が崩れているときこそ、寧ろ自転車で移動する方が確実に着ける。モルガーニ通りの最上階のアパートで久しぶりに再会したアンサンブルのメンバーとは、互いに子供の話とか。窓の向こうは一面降りしきる雪。一時間半ほどリハーサルをして階下に戻ると、自転車にすっかり雪が積もっている。
3月某日 ミラノ自宅
家人とスキアッパーティの2台ピアノ版「惑星」を聴きに行く。この2台ピアノ版を基にオーケストラ版が完成したとか。特に何の先入観もなく聴きにゆくと、思いの外愉しめる。そんな話を家人にすると、彼女は息子から、「あんな風に頑張って弾いてはいけない」と訓示を受けたらしい。前に「喜びの島」を彼女が練習していると、「強い音の前でそんな風に音を詰めてはいけない」と小言を言われた挙句、「それは常識でしょう」と駄目押しされたと言う。
3月某日 ミラノ自宅
音符を書けば書くほど、音楽がつまらなくなってゆく。パレットに色を混ぜれば混ぜるほど、似たような混沌がうまれる。書き込めば書き込むほど、規定すればするほど、音が不信に埋もれてゆく。演奏者の音が聴きたいのであれば、出来るだけ書き込まない方法を探したい。
田中美登里さんからお便りをいただき、沢井さんとのお仕事に感激されたと言う。小学校中学校の頃、田中さんの「民族音楽を訪ねて」をエアチェックし繰り返し聴いた民族音楽は、未だに身体の芯に深く息づいていて、その記憶は同じころ何度も演奏会で聴いた沢井さんの音に還元されているのかもしれない。沢井さんの演奏は音の裡に音楽が溶けきっていて、音の形象を観るというより、寧ろ音だけがそこにある。
ところで、沢井さんはクアラルンプール空港で売っている、暫く前に手長猿の縫いぐるみを集めていて、息子に一つ贈って下さったのだが、それはちょうどお手玉のような手触りの錘が手足の先についていて、どこにでも引掛けられる。息子がそれを喜んで何時も肩に掛けて連れ歩いていると、何かの拍子に縫付けてあった目玉が片方外れてしまい、暫定的にセロテープで留めてあり、無残なことになっている。
3月某日 ミラノ自宅
規定するということ。作曲に於いて、規定は演奏者を導くものであると同時に、一つの尺度に縛り付けることにもなる。社会に置き換えれば、規定は市民の社会生活を合理化し円滑にすると同時に、対人関係よりむしろ合理的な市民生活が全ての基準となることから、当然対人関係は蔑ろにされてゆく。規定の少ない社会は、信頼関係だけで成立せざるを得ないだろうが、先進国家において、それはアナーキズムと同意義になりつつある。
3月某日 ストラスブール ホテル
初めて訪れるストラスブールは落着いた美しい佇まいをみせる。ボルツァーノよりずっとドイツ、オーストリア臭さが薄く、垢抜けた雰囲気に愕く。ボルツァーノでは街角では普通にドイツ語が聞こえるけれど、ストラスブールでもボルツァーノのようなバイリンガル運動はあっても、聞こえてくるのはフランス語ばかり。ホテルの目の前にパン屋があり、昼にサラダやオムレツを作っていて、昼食にここで肉抜きのオムレツを日替わりで作ってもらうのが楽しみになった。近くの上海料理屋も思いの外美味で、ここで野菜炒めや魚の餡かけなどをご飯と一緒に食べていれば、肉が食べられなくとも食生活には不自由しない。美しいケーキ屋の店頭に並ぶお菓子はどれもフランス菓子で、ここはやはりフランスだと思う。ボルツァーノであれば、専ら独特のアルプス菓子ばかりが並ぶ。
3月某日 ストラスブール ホテル
辻さん、菊地さん、アルド、エレオノーラと二人の子供、ロッコとカルロと連れ立って、アルザス料理を食べに来た。カルロは生まれて半年足らず。ロッコは小学校が始まったばかり。エレオノーラが家で米ばかり食べていると言うので何故かと尋ねると、彼女はイラン移民の家族出身で、今でも家ではペルシャ料理を作るのだと言う。郷土料理の魚のシュークルートは美味。
3月某日 ストラスブール ホテル
何時でも大体同じ結果になるのだが、「瀧の白糸」はスクリーンの映写と我々演奏家のタイムコードを合わせるのが何時も至難の業で、映画をデジタル化した現在でも、結局勘が頼りになるところが面白い。その上、今回は映画館に静電気が溜まっていて、我々のタイムコードのモニターが瞬間的に何度も落ちて肝を冷やした。「瀧の白糸」の音楽は本当に傑作だとおもう。京ちゃんの曲の中でも、特に彼女がまるで巻物に音符をさらさらと書き綴ってゆくように、文字通り映像に寄り添うようにしなやかな音楽が紡がれてゆく。実はよく考えられているのだけれど作為的な感じが皆無で、本人曰くこれは溝口監督が彼女に書かせたものだという。
3月某日 ストラスブール ホテル
フランスで会うアルドも何となく不思議で、今までヨーロッパで会ったことがなかったフルートの村上さんにストラスブールで会うのも、何だか不思議な気がする。村上さんが話すときの可愛らしい抑揚は、フランス語でも同じアクセントを伴って聞こえる。菊地さんと辻さんと河向こうのベトナム料理の小料理屋で昼食を摂りながら、子供の学校の話。ドイツもフランスも、週末の日本語補習校の授業は、国語のみならず数学やそのほかの教科も日本のカリキュラムに沿って教えてくれるのだとか。ミラノ補習校は国語集中型で昨年から息子も初めて参加したが、体調を崩して殆ど通わないまま終わってしまった。
もし最初にフランスに留学していたら、今頃どうしていたかと思う。理由は特にないのだが、日本に戻っていた気がするのは何故だろう。フランス人は親切だし優しくて、京ちゃん曰く日本人に似ていると言う。同級生の弾く弦楽合奏に併せて、息子がカルメンを吹いている動画が送られてくる。
3月某日 三軒茶屋自宅
朝一番、開店したばかりのトップで店長と話し込む。Mさんのことは小学生の頃から父に連れられて通っていたのでよく知っている。トップ独特のトーストメニューはどのように生れたのかと尋ねると、輸入食品のシブヤ食品の初代社長が、店に並ぶ食品で何かお客さんに出せるものを作ろうと発案したのが始まりだという。子供のころから外国から誰かが持帰ったものとばかり思い込んでいたが、輸入製品は使っていても生粋の和風トーストだった。そのトーストに併せて珈琲も用意するようになって、現在の喫茶店に至るのだという。当時はストレート珈琲の看板がなかったので、同じビルでデザイン会社を営んでいた父が看板をデザインしてくれたのですよ、とMさんは嬉しそうに話した。
3月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんとお話ししていて、五絃琴の話になった。この楽器を練習中の佐藤康子さんが、五絃琴は身体の中で音が響くと驚いていると言う。共鳴箱がない上に、がっしりとした楽器だから当然よね、と沢井さんは笑った。佐藤さんが白河での沢井さんの演奏会にいらした時のこと。全国の古墳にとても詳しくて、白河に珍しい古墳があることを教えて下さったので、それならばと皆で連れ立って谷地久保古墳へ出かけたのが懐かしい。古墳好きの佐藤さんと、曾候乙墓から発見された五絃琴には、きっと通じるものがあるに違いない。
3月某日 三軒茶屋自宅
ヴァンクーヴァーのための新作は、カナダ日系三世のジョイ・コガワの詩の断片が素材として使われている。カナダの高校の読本にもなっている彼女「Obasan」の邦訳、「失われた祖国」を読んで、とても美しい言葉の綴りに感動し、最後には涙が溢れた。読後、この絶望的な喪失感は何かと長い時間考えていて、ちょうどドミナントのペダルが本当に薄く、最初から鳴り続けていて、最後のクライマックスでそのペダルがふと消失する感覚。壮絶、という言葉が頭を過る。
ヴァンクーヴァー演奏会のためのリハーサル。
すみれさんは、自分とは全く回路や道筋は違うのに、実際に出てくる音は考えていたままの音がする。普通なら、こうして欲しい、だからこうして貰いたい、と考えるものだろうが、すみれさんに関しては、こうなのかしら、と尋ねられて、例えそれが自分と違っていても、そのまま下駄を預けてしまう。そうして出てくる音は、自分が想像している以上に深さをもっている。眞木さんの「漂う島」も一緒に演奏するので、彼が生きていたらどんなにか喜んだでしょうね。ぽつりと呟いたすみれさんの言葉が心にしみる。
時田さんの音は、とてものびやかで、そよ風が気持ちよく抜けてゆくような印象。沢井さんが、彼女の演奏は本当に大きいでしょう、と嬉しそうに繰り返していたのを思い出す。彼女のために、ずいぶん前に指揮を教えていたパオロが今、曲を書いている話は、彼から聞いていた。何でも17絃を殆ど同じオクターブの中に微分音で割振る調弦で、張力も使う絃も違うので、糸張りが大変と笑っていた。彼女も前にヴァンクーヴァーを訪れた際、ジョイ・コガワ記念館に足を運んだという。
3月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルの後、夜山口宅にて恭範さんの自慢料理「煮味噌」に舌鼓を打つ。一見とても味が濃そうに見えるのに、食べてみるとあっさりしていて愕くほど。八丁味噌のベースのたれは、何十年も同じものを少しずつ足しつつ培ってきた、文字通りの山口家特製秘伝たれ。それと一緒に八戸から届いた生ワカメと、シラスのような形の、でもそれよりずっと味の濃い蛸卵をいただく。食育とも言うが、やはり食は本当に大切であって、たとえば山口家の食卓は、すみれさんや恭範さんの音楽を体現している気がする。
サックスの大石くんから送られてきた録音を聴いて、思わず鳥肌が立つ。こう演奏して欲しい、と注文をつけることはあまりなくて、これはしなくても良いという事だけを出来るだけ伝えるようにしているつもりだが、音楽は演奏家によって別次元へと羽ばたいてゆく。書いているときは想像も出来なかったような、複雑な心の襞のうちのうちまでが、広げた羽の奥に見え隠れする。空を仰ぎながら、音楽のもつ強さと大きさに、畏れに近いものすら覚える時がある。
3月某日 オルレアンB&B
ドナトーニを読返すと、今まで自分がおざなりにしてきた部分が、嫌というほど目に付く。空港に着いたのが夜半だったので、早朝オステルリッツ駅にゆくために、空港に付したホテルに宿をとった。
ただ到着したターミナルがホテルの近くのターミナルと違ったために、シャトルバスに乗ろうとしたが間に合わず、ドリスという中年の恰幅の良いアフリカ系中年女性のタクシーを拾った。近くで申し訳ないと断ってから乗ったのだが、当然パリまで乗るものと期待していた彼女の不平はつきることがない。
カメルーンで生まれ育ったが、兄が先にパリに来て病気になり、看病のためにパリにやってきた。程なくして彼は死んでしまったが、故郷は独裁政権で、パリに居残ってもう12年になる。3年学校に通ってタクシーの免許を取った。大変だったのよ。
つい先日までストラスブールでやっていた「瀧の白糸」の身の上話を聞いている気分だったが、申し訳ない気がしてきて、実は明朝7時オステルリッツ駅発の列車に乗りたいので、朝5時半過ぎにホテルに来てもらえるかと言うと、途端に機嫌が良くなった。
ホテルまでの言い値とホテルで要求する値段も違うし、彼女を特に信用する積りもなく、どうせ来なくても、ホテルでタクシーを呼べばよいと気軽に電話番号を交換してホテルの部屋に着いたのは夜半1時を過ぎていた。
朝の4時に電話が鳴り目が覚めた。何かあったのかと電話を取ると、驚くほど元気の良いドリスの声が、「あと20分で着くから下に降りてきてくださいよ」、と言っている。自分の腕時計では4時だが、もしかして東京から戻るときに時計の時差を間違えたのかと思い、とにかく身支度を整え降りると、笑顔のドリスが「ほらお客さん降りてきたでしょ」とホテルの受付に話している。
ホテルの時計を見ても、4時20分を差しているので、車に乗り込んでから、約束では5時半過ぎだったはずだと話すと、もうあと一時間もした街中混雑で大変だから早く来たという。6時45分くらいに着けば十分だと思っていたオステルリッツには、朝5時前には着いてしまい、その上酷い雨が降りしきっていた。
せめて街に着くまで寝かせて貰いたかったが、話し相手が欲しかったのか、ずっとカメルーンの民族音楽やら宗教音楽、ポップミュージックやら、これも聴けあれも聴けと話しかけられ、挙句の果てに案の定約束した言い値から、早朝料金も加算させて頂戴と10ユーロも多く取られた。
彼女が来ない算段まではしていたが、1時間半以上も早く元気よく現れる想像はしていなかったし、濡れそぼる夜明け前のパリで大音量のカメルーン音楽をたくさん聴いて、何かを学んだ気がする。
3月某日 オルレアンB&B
先日、フランス在住イタリア人が集う夕食会に招かれた。フランス人と結婚している女医や、フランス人と同居しているイヴェント企画者や、似たような境遇の演奏家たちなど。何の話かと思いきや、目に涙をためた妙齢の「わたしはイタリアに帰りたい」という悲痛な呟きから始まり、「イタリアのご飯が無性に恋しい」、「脂っこいフランス料理はもう沢山」、「フランス人はどうしてこんなに壁を作るの」、「何かにつけてなぜ人前でわたしのことを馬鹿にするのよ」、「田舎者扱いして」、「そうよそうよ」、「なぜわたしたちはこんなに頑張らなければいけないの」、「この街を見てよ、何もないわ、とても我慢できないわよ」、「イタリア人の家族の絆なんて、ここには!」。
酔いが回ってエスカレートしているのか、こんな話を聞かされるとは夢にも思わず驚くやら、時々様子を見にやってくる痩せぎすの妙齢のフランス人のウェイトレスが、この異様な雰囲気に怖気づいているのが申し訳ないやらで、居場所がなかった。嫌ならなぜフランス料理屋に集うのかと口に出かけたが、止しておいた。世界のどこにいても、時には存分にストレスを吐出す必要があることだけは理解した。
3月某日 ミラノ自宅
雪の降りしきるオステルリッツ駅で久しぶりに千々岩くんに再会する。彼と上田さんのフランクとフォーレのソナタの録音を耳にして以来、彼の音の高みにはどう頑張っても自分は辿り着けないと思う。演奏は、人の人生観を変えてしまうほどの強い影響力と破壊力を持つ。
と或る作曲コンクールが演奏審査を今年から廃止した話を知っているか、と千々岩くんから尋ねられた時、無意識に千々岩くんのフランクの演奏が頭に過り、同時にフリッチャイの「モルダウ」の演奏が目の前を駆け抜けていった。その時頭のもっと奥底では、リパッティの弾くグリーグの2楽章が静かに流れていた気がする。
3月某日 ミラノ自宅
日本からきたY君と、音の拍感について話す。一拍ごとに風船状の袋に空気を入れて膨らましつつ、その袋の中に音を4つ放り込んでやる感じと説明すると、「それは所謂イチトウ、ニイトウというあれでしょうか」。「イチトウ、と言うと全てが等分の拍感で、きちんと箱に収まっている感じがするでしょう。箱みたいにきちんと形があるものではなくて、少し膨らんでいて、円みを帯びてふわふわしている袋だけを作ってやって、中の音が勝手に好きなところに落ち着く感じ」。
一緒に勉強しているU君とは、脱力の話。「振っているとどの拍も同価値になって拍感がなくなっているのがわかるのですが、どうしたら良いのでしょう」。「音を発する瞬間以外、完全に身体の力が抜ければ、図形の大きさは問題にならなくなります。惰性を生み出す瞬間と、続く惰性の部分を分けて感じられるようにすることでしょうか」。「ところでU君は、整体とか気功とかやったことありますか? オカルトではなく、要は身体を力を完全に抜く訓練みたいなこと」。「ないです。今までの力を抜く訓練はしたことがありません」。「実は中学くらいから整体をやらされていたので、力を抜くと身体が勝手に気でぶらぶら動くとか、昔から何となしに知っていたのが、今になって役に立っているのかどうか」。
3月某日 ニース アパート
家人が仕事で日本に戻る時期と息子の復活祭の休暇が重なったので、久しぶりに東京から母を招いて息子と3人でニースにやって来る。ここ暫く息子の面倒を見ていなかったので、シューベルトの楽譜を広げつつ、べったり相手することにした。
この時期ミラノは花粉が飛交い始めるので、息子の仏語実践を兼ね、空気のよい海辺を目指して来たのだが、去年の夏まで背丈が同じだった母を息子はもうすっかり追い抜いていて、少々耳が遠くなりかけているがキックボードを器用に乗り廻す、リスのような風情の83歳の母と、思春期真っ盛りで事あるたびにお腹が痛くなっては「パパ、パパ」とすり寄ってくる、13歳成り立てのひょろりとした息子との珍道中も、悪いものではない。
風に吹かれて道に落ちた帽子を拾い上げ、「メルシー・マダム!」と感謝されたことに、母は偉く喜んでいる。「シニョーラじゃないのね! 素敵ね!」。
(3月31日 ニースにて)
ドイツ時代
笠井瑞丈小さい時に過ごした
ドイツ時代をよく思い出す
たった五年という時間だったが
私のカラダの半分の時間は
この五年間が占めている
それは時間が進んでも変わず
むしろ大きく膨らんでいく
空気の匂い
マチの匂い
空の色
街の色
西も
東も
毎日一時間かけて
市電を乗り継ぎ
学校まで通った
山を下り
山を登る
いつも市電の窓に貼ってある
優先席専用のシールを
眺めるのが好きだった
不思議な感覚だ
優先席の絵の中にまた
優先席の絵が書いてある
優先席の中に
優先席が有り
またその中に
優先席があり
またその中に
優先席がある
小さい私はいつも不思議に
そのシールを眺めていた
どこまで続き
どこで終わる
三面鏡の中に頭を突っ込む
きっとこの中に宇宙がある
小さい私はそう考えていた
学校通いは
行きは
三兄弟三人
帰りは
ひとり一人
ポカポカ陽気の市電の中
ウタウタ睡魔が襲ってくる
気づくと深い眠りに落ちてしまう
ある日起きたらまったく知らない街に
それは全く違う国に着いてしまった
小学校低学年の私は
もう二度と戻れない
不安と恐怖に襲われた
バス停程度の駅
閑散とした通りにベンチひとつ
そのベンチに座り一人佇んでいると
まったく知らないお婆さんが声をかけてくれた
どこに住んでいるかを伝えたら
お婆さんが僕を家まで送ってくれた
あのお婆さんがいなかったら
あのお婆さんがいなかったら
今も一人知らない世界を
彷徨っているのかもしれない
シュタイナー学校
ちょっと変なところ
そんな気分の学校生活
大勢いる
ドイツ人
の中一人
アジア人
校内サッカー禁止
サッカー王国なのに
いつも不思議に思った
校内でボールを蹴ってると
すぐにボールは没収される
これがシュタイナー教育か
小さい私はそう思っていた
よく三兄弟公園でサッカーをした
木と木の間をゴールにして
ベンツというゲーム
ドイツ時代
いつも見守る空があった
父母三兄弟五人
五年間ドイツ生活
またいつか五人で
そして次はプラスα
また行こうと思う
じかんの中にじかんが
カラダの中にカラダが
ある
アジアのごはん(91)南シャン州で豆、豆、豆。
森下ヒバリ「あ~、納豆発見!」かごの中にバナナの葉を敷いて、その上に山盛りの納豆。豆が小さい。ささげ豆の一種でホースグラムという豆で作った納豆だ。さっそく買って試食。豆がちょっと固くて、ねばりが少な目だが、立派な納豆である。ああ、醤油ほしい‥。
ここはビルマの南シャン州アウンバン。南シャン州のインレー湖周辺では五日市という、五日おきに立つスペシャルマーケットが各地である。その日には、シャン、ダヌー、インレー、パオ族など近隣のさまざまな少数民族の人たちが農作物や、加工品を持って集まり、大変なにぎわいを見せる。
シャン州に着いて3日目、カローの町から10キロほどのアウンバンという町で五日市があるというので、やってきたところ。カローの町の常設市場もかなり充実していたのだが、これはすごい。アウンバンの常設市場の中だけでなく、周辺の通りにどんどん店が出て巨大市場が出現しているのだ。もちろん道端にシートや布を敷いての店開きがほとんど。
この市場では、生の納豆もちらほら売っているが、納豆を潰した加工品を売っている店の方が断然多い。加工品は大きく分けて二つあり、薄いせんべい状にしてカラカラに乾燥させたものと、半生ぐらいのクッキー状のもの。クッキー状のものも生納豆もペー・ポウッ。これはタイ北部やラオス北部でもよく調味料として見かけるものだが、この二種を含めた納豆は、タイやラオスよりずっと生活に溶け込んでいるよう。そして、調味料として使うだけでなく、料理の素材としてもよく使うのだ。
パオ族の濃い藍染めの民族衣装を着たおばちゃんから、クッキー状納豆を買う。木の葉の模様に線が引いてあって、可愛い。スープに味噌のように入れたり、焼いたり揚げたりして食べるものだが、そのままでもけっこうウマい。この豆は大豆かホースグラムか? う~ん、食べてみた感じ、時々残っている粒が固いのでホースグラムかな。
後日、インレー湖のほとりのニャウンシュエでビルマ伝統料理食堂リン・タットに入り、豚肉やトーフ(ひよこ豆とうふ)のカレーを注文した。カレーというが、ビルマ料理の油煮込みヒンである。ヒンにはもれなく、白飯、茹で野菜のンガピ・ソース添え、何種類かの小皿料理が付く。その日の小皿料理は、小魚のカリカリ揚げ、炒りピーナツ、魚のでんぶみたいなふりかけ、そしてうすい藤色のペースト、納豆の味のするカリカリのふりかけ、の5種。
「あ~、納豆味! サクサクだよ、これ」「ごはんに合う~」他の小皿もどれもすばらしいが、旅の友たちは納豆ふりかけに夢中である。納豆ふりかけは、豆の形があるものではないので、どうやら納豆を潰して作るクッキー状納豆を切って細かくしたものを油で揚げたもののようだ。それにニンニクやトウガラシ、シャロット(小さい赤玉ねぎみたいなもの)を刻んでカリカリに揚げたものが入っている。塩味調整はビルマの魚醤ンガピイエーで。
日本に帰って、クッキー状納豆を油で揚げてみたら、あの味に近づいた。タイ北部で売っているクッキー状納豆はこれまで何度か食べてみたが、どれも味の素がてんこ盛りに入っていて、塩味もきつく、こんなおかず的な食べ方は無理だった。う~ん、これはいい。
日本の納豆は、いわゆるかき混ぜてそのまま食べるほかは、‥あれ、考えてみたら、うちでは納豆はご飯にかけて食べる以外の方法では食べないぞ。でもクッキー状納豆は、揚げたり炒めたりすれば色々使えそうである。日持ちもするので次回たくさん買ってこようっと。
友人たちと納豆ふりかけですっかり盛り上がったところで、小皿料理の薄紫色のペーストをちょっとなめてみた。ペーストには根ニラとピリッとした緑色のハーブが刻んで入っている。おお、これは!
「これは‥なんだか分かんないけど、うまいっ」「どれ、ああ、んまい。日本酒に合うな」「いや、泡盛か」「豆腐ようみたいな味もする」「レバーペーストみたいな味もする」何なんだ、このおいしいペーストは! 発酵しているのは間違いないが、食べたことのない味である。
ビールのお代りの時に、さっそく店のお兄さんにこれは何か聞いてみた。すると、「ペー・パチン。英語で言うと‥ビーンズ・ピクルス」とのお答え。豆のピクルス‥? ピクルスというのはもともと水キムチのように乳酸発酵させて野菜を酸っぱくするものなので、たぶん、発酵させているという意味かな。お茶の葉の漬物のことも英語表記では「ティーリーフ・ピクルス」だし。
「え、豆なの?」「豆ペーストを発酵させたものらしい」「いや、発酵させた豆をペーストにかも?」
この後、もう一度リン・タット食堂に行ったがペー・パチンはなかった。かわりの漬物もこれまたうまかったが、ペー・パチンの正体は謎のまま日が過ぎた。
ニャウンシュエからヤンゴン経由でバンコクへ帰る日、最後にもう一度市場に行くと、大変な人出だった。出ている店も多い。やった、ニャウンシュエ市場の五日市の日だったのだ。これまで、常設市場では見かけなかった糸引き納豆やさまざまなもち菓子、黄色いひよこ豆とうふの生、その揚げたての和え物、芋がら、乾燥おかき、などなど、バラエティ豊かなこの地方の産物とスナックが所狭しと並んでいる。
一緒に市場にでかけた友人のタナカと、切り分ける前の大きな塊のひよこ豆とうふを眺めていたら、店のお姉さんが味見しろとかけらをくれた。生でも食べられるのか、と口に入れてみると、卵豆腐のような味で、もっちりとお菓子のウイロウのようでもある。「わさび醤油で食べたいっ」と、今夜そのまま日本まで帰るタナカはさっそくご購入。インレー湖のほとりで買ったこの地方のお買いもの竹籠を入手しているタナカは、それに入れて帰る~と満足そうである。
ニャウンシュエの市場では、生の豆も売っているが、炒り豆も大量に売っている。味見してみたら、小粒大豆の炒り豆もピーナツも本当においしい。素朴で滋味深い味だ。野菜も美味しいし、このあたりはまだまだ農薬や化学肥料を使う量が少ないのだろう。
アウンバンで見かけた小さな白い乾燥豆がほしくて探していたら、一軒だけやっと売っていた。エバミルクなどの空缶でカップ一杯いくら、で計って売ってくれる。ふとみると、横にうす紫色のペーストが籠に入って置いてあった。
「ンガピ(小エビや小魚の発酵ペースト)? でも、豆屋で魚‥?」「これ何?」と聞いてみると「ペー・パチンよ」とおばちゃん。うお、これが、豆の発酵ペースト、ペー・パチンか!さっそく端っこの方からちょっと取って舐めてみた。
「‥生っぽい」「ありゃ、ほんとだ。生だね」まだあまり発酵していないのか? 発酵臭はある。しかし、これは、生の豆ペーストだ。とりあえず、バナナの葉できれいに梱包されたものふたつで50チャットを買ってみる。何の豆から作るのか、どうやって料理するのかなど謎のままだが、日本へお持ち帰り。
はたして日本でリン・タット食堂のペー・パチン料理の再現ができるのでしょうか。帰国して冷蔵庫に入れておいたペー・パチン、花粉症の大爆発で倒れている間に、ちょっと匂うようになってきた。そろそろ、料理してみる‥かな。
決断の時
さとうまき2月の半ば、新幹線で名古屋に向かう途中で読もうと、品川駅構内の本屋で手にしたのが、「決断のとき」(小泉純一郎 集英社)である。彼がどうして脱原発を訴えるようになったのか、そこが知りたくて買ったのだと思う。結局名古屋までつく前に爆睡してしまって、イラクに持っていって途中の飛行機で読んだ。
トモダチ作戦に参加した米兵が放射の被曝して、健康障害を訴えている。小泉元総理がアメリカまで被害者に会いに行き、話を聞いて涙する小泉氏。そして、基金を作った。なぜ、原発を推進していた首相が、総理をやめたら、脱原発になったのか
「推進論者・必要論者が言ったのは全部ウソだとわかったんです。原発の導入の経緯、実情、歴史、それを調べてみて、よくもこんなウソを信じていたと自分を恥じました。」
と記者会見で語る小泉氏。とても、立派じゃないか!
え? と気になるのがイラク戦争。3月20日で、15年が経った。開戦前に、ブッシュ大統領が、「独裁と圧政に苦しむイラクの人たちのために、アメリカと同盟国はイラクの人々に食糧と薬品と物資と自由をもたらそう。」といったが、サダム政権はあっという間に倒れたが、開戦理由だった大量破壊兵器は、見つからず、国際テロとの関係はなく、サダム政権崩壊後に反米テロリスト達がイラクに結集し、やがて、それは「イスラム国」と発展していった。
ブッシュ元大統領も、イギリスのブレア元首相も過ちを認めた。しかし、アメリカを強く支持した小泉氏は、
「アメリカがテロ掃討のためにイラク戦争に踏み切った。私は、日本の総理としていち早くそれを指示した。日米同盟があることから考えて、その判断は全く妥当だと思っています。(中略)フセイン大統領は、(国連で決議された)国際機関による査察を受け入れませんでした。イラクが査察を受け入れていれば、あのような戦争は起こりませんでした。」
いやいや、2002年の11月に、サダム・フセインは国連決議1414を受け入れ、査察が5年ぶりに再開された。当時、国連の査察団の団長をしていたハンス・ブリックスは、「02年から03年で700回、500か所を査察したが、大量破壊兵器は見つからなかった。それでも米英が、大量破壊兵器があるというので、場所を教えろという話になり、100か所を指定。30か所を調べたが、通常兵器や書類は出てきたが、大量破壊兵器は出てこず、そこで戦争が始まってしまった。」
アメリカがいう、ニィジェールからウランを輸入したという証拠書類もIAEAが、「それが捏造であることを見破るのに一日もかからなかった」と証言している。
なぜ、小泉氏は、イラクが査察を受け入れなかったと言い張るのか?
「後の民主党政権が外務省にイラク戦争の検証を指示したことがありました。私は、その調査に呼ばれたら、いつでもいく用意があった。疑問があるなら何でも答えようとした。だけど声がかかりませんでした」
え?
「今でも支持は正しかったと思っています」
えー?
昨年のモスルの解放作戦では、激しい空爆と銃撃戦で、4万人の一般市民が命を失ったといわれている。旧市街は、そっくりとがれきの山になってしまい、涙があふれるほどだ。ISは、いなくなったが、これが解放というのならあまりにもむごい。それでも20%は、旧市街のがれきに埋もれた家を掘り出し、住もうとしている。
小泉氏がこの地を訪れたら、「非難されるべきは、サダム・フセイン」だと言って涙を流すのだろうか?
もっとはやく、バグダッドや、ファルージャに小泉氏が訪れて、米軍に殺された子どもたちの遺体や、手足をもぎとられた子どもたちに会ったらどうだったのか。日米同盟をいうのなら、アメリカに行って、不覚にもイラクの子どもたちを殺してしまいPTSDに苦しむ米兵の話をきいたなら。。。それでも、全部サダムが悪いと言い切るのか?
情にもろい小泉氏だから原発と同じように「よくもこんなウソを信じていたと自分を恥じました。」ってなるはず。
え?
ということは、小泉氏は、いまだにウソを信じているのか?小泉は、日米同盟を重んじるが、アメリカの言いなりというわけでもないキャラとしてこの本では、描かれている。ならば、イラクが、1414を受け入れ、国連の査察がはじまっていたことを、小泉氏は、知らされていなかった?という可能性。
え?
そんなばかなことがあるのか?
いやいや、あそこまでかたくなに、サダムが、国連の安保理で決議された査察を受け入れなかったと言い切れるのか?
え?
民主党政権は、検証する際に、小泉氏をなぜ、呼ばなかったのか? 外務省の意向なのか? イラク戦争に反対していた民主党にしてみれば、本人が来る意向だったからまたとないチャンスだったのに。
ブッシュ大統領自ら「安保理の常任理事国のいくつかは、イラクの武装解除を強制するいかなる決議案にも拒否権を発動すると公式に表明してきた。国連安保理はその責務を果たしていない」言っており、有志連合で攻撃をする決断をしたのである。
しかし、日本の外務省が2003年に作ったパンフレットには、イラク攻撃そのものが安保理に合致したものだと断定している。日本だけ歴史が改ざんされているのだ。
もう、イラク戦争のことなど誰もが忘れかけている。しかし、自信を持って言える事実は、「イラクの人々に食糧や医薬品などの救援物資、そして自由をもたらす。」とブッシュ大統領がのべてから15年経ったいまだに、私たちは、薬を届け続けなければならないという事実がある。
(春休みの読書感想文に変えて)
製本かい摘みましては(136)
四釜裕子大西巨人は『広辞苑』第六版を発売日の2008年1月11日に大宮そごうの三省堂で買っていた。妻の美智子さんには、「わからないことがあったら辞書を引きなさい、自分で引くくせをつけなさい」と言っていたそうである。美智子さんの『大西巨人と六十五年』(光文社)の最後にこうある。〈この記録を書き進めた二年間、巨人の遺品の『広辞苑』第六版(裏扉に巨人の字で、「2008・1・11 大宮そごう 三省堂」とある)に助けられて終了した。辞書はいたんでしまった〉。装幀は川上成夫さん。表紙には紫色の花を好んだ巨人に向けた桔梗がある。丸背で軽く柔らかく、読みやすい。着ている服が服としてのスタイルではなくいちばん外側の肌のようになじんで見える人(杉村春子や沢村貞子の着物姿のような)がいるが、それに似ている。
2018年1月12日、10年ぶりに改訂された『広辞苑』第七版は前版から項目数がおよそ一万、ページ数も140増えたけれども厚みはそのままと聞いた。この10年で製本機械はより厚い本を作るために改造されることなくマックス8センチ厚をキープして、それにセットできるようにより薄い紙の開発がなされたようだ。言葉の意味や用例が間違いも含めてこれほどネットで見られるようになると、調べるより読む本としての紙の辞書の面白さが際立ってくる。実はここ数年、うちに紙の広辞苑はない。久し振りに広辞苑という本を買おうかなと本屋で下見した。新品辞書ってこんなにツルッツルしていたのか――。初めて自分専用の英和辞書を持ったとき、上級生からの申し送りで、まず揉んでしわくちゃにするのがいいんだってと最初のページに五本の指先をヒタッとつけた感じがよみがえる。
『大西巨人と六十五年』は、美智子さんが家計簿の余白などに書いていた文章を整理したものだそうである。1944年に女学校を卒業、46年、通りに貼ってある雑誌「文化展望」創刊号のポスターに遭遇、兄に言われて買いに行き、そこで12歳上の巨人と会い、編集部に務めるようになり、やがて結婚する。2010年、第二腰椎を圧迫骨折したのをきっかけに巨人の暮らしは大きく変わる。遠出は2012年10月24日が最後となり、以降、記述は日付を追い、2014年2月26日の退院から亡くなる3月12日までは、自宅で介護した美智子さんとの会話が中心になる。痛みや朦朧ではばまれる巨人の言葉を、美智子さんがこれまでのお二人のいつもの会話で反射的に引き出すシーンがいくつもある。「ことばを忘れたきょじんさん、うしろのやぶにすてましょか♪」「いえいえそれはかわいそう」。言葉にならない声も美智子さんは記す。〈アブラ、アブラ、ブラ、アイブラー、アイザー、アラー、ア、アユーザ、アユラ、アー、ハー、ブラーアイブラー、ブラー、ブラー、アイー、ユラー、書とめられない早さと種類を発する。言葉を発する度に握っている手に力を入れる〉。
巨人は、執筆が進まなくなるとボロボロの蔵書を装幀し直したそうである。美智子さんは、〈装幀に熱中している時さまざまな話を聞いた〉。ちょっと長くなるのだけれど、そのまま引用させていただく。
〈ご飯を丹念に粘り合わせて糊をつくる事から始める。裁縫用の篦を自分用として所用していた。見ていると、面倒なことを苦にすることはない。文庫本、単行本、大型本、『広辞苑』、どんな本でも手掛けた。
最初に本をばらばらにする。改めて、たこ糸より細くて強い糸で綴じる。扉も表紙も作り変える。表紙は私が保存している余り布から選ぶ。
将来赤人のためにと雑誌に掲載された翻訳小説の中から選んで、二冊の本にしている。表紙は私の夏物のワンピース、水玉模様の布を利用している。半世紀以上の年月を経て、手垢で薄汚れているが、「赤人文庫」と墨書きされて頑丈に出来た手製の本は蔵書の中に存在している(『日本人論争』の口絵写真の中に、「葉山海岸にて」がある。武井さん達と遊びに行った時、私が着ていた服の余り布とわかる)。古くて痛んだ本はニスを塗って補強してある。〉
背文字が薄くなった全集は、和紙に墨でタイトルを書いて上から貼り、印刷と見紛うようだったそうである。森鴎外と芥川龍之介の全集はそれぞれ、布表紙の上からオレンジとミドリ色のマジックペンで塗りつぶしていた、ともある。布の柄が気に入らなかったのだろうか。それぞれの色に意味があったのだろうけれどもマジックペンでは時間もかかるし臭いもきつかっただろう。〈作業する日は、部屋中シンナーの匂いが満ちていた〉。欧米戯曲全集は装幀をし直すと早くから言っていたそうだ。しかし、〈革表紙はボロボロはがれる。冊数は多い。適切な余り布がない。材料を揃えて完成させるつもりだっただろうが、果たせぬまま玄関の板の間に積み上げたままになった〉。
春の予感
大野晋今年の冬はとても寒さが厳しく、野菜の生育などにも影響が出て、市場価格が高騰した。
畑の様子を見てみると、生育が悪かったり、霜にやられたりした様子がわかって仕方がない気分になった。一方で、このところめっきり起きることがなかった諏訪湖の全面結氷は久方ぶりに起きて、御神渡りという湖面にひび割れが生じる現象が見られたりして、暖冬傾向に忘れていた寒さが戻っただけであることを思い出させてくれた。
3月に入ると関東でもいきなりの降雪に驚いたが、ちらほらとほころび始めていた桜に加勢するように、すぐに解けてなくなると、温度がどんどん上昇して春爛漫に気温になってしまった。
そんな中、何回か信州を訪れたが、さすがに4月を待たずに桜が満開になることはなかったが山梨くらいまではそろそろ咲き出しそうなペースで様々なものが開花を始めている。こうした年は先を読むのが難しく、あっさりと早めに夏になることがある一方で、冷夏になってしまうことも珍しくない。そして、その難しい気候判断から山の事故が増えることも考えられるあたりが悩ましいところだ。
まあしかし、とりあえずは来たるべき春を喜ぼうと思っている。
水曜日の創作クラス(1)
植松眞人そのクラスに参加することになったのは、地元の有志たちが集まるボランティア活動で、来てみないかと誘われたからだった。
引っ越して間もない私にとって、この町は不自由な町だった。牧歌的とも言えるような南部とは違い、大きな山脈を越えて数百キロという距離は、まるで違う土地柄を育てるには充分で、越してきた翌日には町全体に手強さを感じてしまったのだった。
引っかかるのはほんの些細なことだった。並んでいる家々の屋根の仕様が見慣れたものよりも少し大きい。高速道路の料金所で、係員から手渡されるお釣りと領収証の順番が違う。子どもの小学校編入手続きの際の副校長が妙に腰が低い。
そんな小さなことが引っ越して以来、妙に気になってしまい自分たち家族はこの町とは合わないのではないか、という不安が徐々に大きくなっていたのだ。
だからこそ、私はあえてそんな些細なことなど平気だと宣言するつもりで、隣人に教えられた町内の週一回の清掃ボランティアに参加したのだ。
驚いたのは妻だった。これまで住んでいた町では、家の中の掃除もしたことがなかったし、家の外の掃除など想像したこともなかった男が、自ら志願して、地域の清掃ボランティアをやろうと言うのだ。それは驚かないほうがどうかしている。
「最初から無理してると続かないわよ」
そう妻に言われた時、私は言い返した。
「最初に無理しておかないと、途中でなんとかするなんて無理だよ」
かくして、私は毎週土曜日の朝十時からの清掃ボランティアに参加することになった。集まってくるのは毎回同じ顔ぶれが五人ほど。そこに、不定期で参加する数名が出たり入ったりして、だいたい八人から十人程度が、私の家の前にあるベンチが一つあるだけの小さな公園に集まり、ビニール袋を手に目に付いたゴミを小一時間ほど集めるのであった。
作業自体は簡単だった。一切のゴミを残さないのだ、というほど必死にもならず、ただただ目に付いたゴミを集めるだけ。みんなでこの一週間の出来事を話しながら、町内を一周するわけだ。
毎回揃う五人の顔ぶれは五十代の男性が一人、四十代が私、その他は五十代の女性と三十代の女性が二名だった。
三十代の女性二名と五十代の女性一名は、女三人寄ればという慣用句通りのかしましさでボランティア全体を明るくしてくれる。その明るく賑やかな船に乗りつつ、黙々とゴミ拾いを続けるのが私と五十代の男性なのだった。
妻の予想に反して、そして、私の予想にも反して、勢い込んで始めた清掃ボランティアは意外にも楽しかった。女性陣たちの賑やかさはこちらに、同じような賑やかさを強要するものではなかったし、五十代の男性も黙々と作業はするが暗い性格ということでもなかった。時には冗談も飛ばし、ひとしきり話したらまた黙々と作業をしての繰り返しで、その緩急の付け方が私と似ていたのかもしれない。私と五十代の男性は三回目のボランティア清掃の後、近所のスターバックスで一緒にコーヒーを飲むようになった。
その頃の我が家は二人目の子どもが生まれたばかりだった。家の中が三歳の長女と生まれたばかりの長男をなんとかいなそうとする妻とでずっと微熱を発しているかのようだった。そして、会社に行けば行ったで、拠点間を大きく移動してきたばかりで、不慣れな人間関係と、不慣れな商習慣に戸惑ってばかりだった。
五十代の男性は橋本という名前で、私が住んでいるエリアに越してきて七年だと自己紹介した。私たち家族と同じように、北部から引っ越してきたのだという。
ボランティア清掃のあと、コーヒーショップに初めて行った日に私が自己紹介すると、ああ、似たような仕事をしているんですね、と橋本は人なつっこい笑顔を浮かべた。
聞いてみると、確かに会社が事業を展開している業界は似ているのだが、事業規模はまるで違っていて、橋本の会社が交渉の席でテーブルを叩けば、私の会社はその振動だけで吹き飛びそうなくらいに大きかった。
それでも、橋本は自分の会社と似たような事業をしている私の会社を対等に論じて、私たちの仕事も、同じような苦労と喜びに彩られていると疑うことなく話すのだった。
私はそんな橋本との会話にやられたのだった。なんのてらいもなく、声をかければ答えてくれる。こちらが黙っていれば、なにげない会話のきっかけをくれる。私は、橋本とのスターバックスで会話することを楽しみにボランティア清掃に出かけるようになった。「もう、だいぶこっちでの生活には慣れましたか」
ある日の清掃の後、いつものようにスターバックスでコーヒーを飲んでいると、橋本が私に話しかけた。
「そうですね。なんとかやれている気がします」
「お子さんがまだ小さいと大変でしょう」
「ただ、この町は保育園が多いので、越してきてすぐに子どもたちを預けることが出来たんです。だから、妻は向こうにいたころよりも余裕が出来て、明るくなりました」
「そうですか。それはよかった」
橋本はそう言うと、少し私との間合いを詰めて、その分、声を落としてこう言った。
「私と一緒に、公民館のクラスに参加しませんか」
公民館、という言葉だけが宙に浮いたように聞こえて、私は「え?」と聞き返した。橋本はもう一度、同じことを言い、それでも私は橋本の言葉にいままで感じたことがなかったような不安な思いを持ってしまったのだった。
「公民館ですか?」
「そうです、公民館です」
「クラスというのは?」
「公民館ではいろんなクラスがあるんですよ」
「クラスというのは文化講座のようなものが開かれているということですか?」
「そうです。私が参加しているのは創作のクラスなんです」
創作という言葉に、私は自分の出身大学にあった文学部の創作専攻を思い出した。彼らは小説を書くために日夜原稿用紙に向かい続けていた。
「小説とか、そういうものを書くためのクラスなんですか?」
私が聞くと、橋本は一瞬私の顔を見つめた後、声を出して笑った。
「いやいや、小説ではありません。私を見てくださいよ、小説なんて書くように見えますか。違うんです」
橋本はそう言うと、しばらく笑い続けた。私は橋本が笑っている間、どうしたらいいのか困惑していた。橋本は私が困惑しているのを知りつつ、笑いが止められないといったふうで、しばらく私に両手を合わせて謝りながらも笑い続けた。よほど、自分が小説を書いているのと思われたことが意外だったようだ。しかし、橋本自身は物静かで知的な思考が表情にも表れるような風体なので、趣味で小説を書いているのだ、とか、実は詩人なのだ、と言われても、安易に信じてしまいそうな人物ではあったのだ。
「小説ではありませんが、とりあえず創作する、ということでは同じかもしれませんね。でも、もっとハードルが低くて、もっと気軽に始められる創作なんです」
私は橋本の言葉を待った。
「クラスにいつも集まるのは、だいたい三名から五名くらい。先生はいないんです。毎週水曜日の夕方、集まれる人が集まって、みんなで自分が作ったものを持ち寄って感想を述べ合う。そんな気軽なクラスです」
そのクラスはなんのために開かれているのだろう、と私は思った。そして、そう思っていることが伝わったのだろう。橋本は話を続けた。
「絵を持ってくる人もいます。俳句を持ってくる人もいます。なかには、家族を役者に見立ててホームビデオで短編映画を撮ってくる人もいました」
そこまで話すと、橋本はその短編映画の内容を思い出したのか、少し微笑んだ。
「最初にこのクラスが開かれたのは六年前だそうです。たまたま水曜日の夜、公民館にやってきた初老の男性が『絵の教室ってありますか』と聞いたそうなんです。受付をやっていた女性があるにはあるが今日はやっていませんと答えると、男性は『そうですか』ととても残念そうな顔をしたそうです。なんだか少し可哀想なくらいに。そうしたら、奇跡的というかなんというか、いつも公民館で絵を習っている男性と同い年くらいの女性が通りかかったそうなんです。事情を聞いた女性が絵を拝見したいと言い出して、空いていた教室を開放してあげたらしいのです。このクラスはそれから毎週開催されているのです」
「六年間、毎週ですか」
「はい、毎週です」
その週から、私は橋本と一緒にそのクラスに顔を出すことになった。(つづく)
別腸日記(14)野点:第一座
新井卓いま、岩手県の早池峰山中でこれを書いている。現在制作中の短編映画『オシラ鏡』のため、追加で冬景色を撮る必要に迫られて、季節を巻き戻すため標高1500メートルまで上がってきた。冬季は道路が閉鎖されているから、白馬の叔父から借りたバックカントリー・スキーを履いて、大量の機材を担ぎ無人の避難小屋「うすゆき山荘」まで二時間。そこで一泊して、翌朝早池峰山のできれば八合目くらいまではいってみたいと思っている。
今夜は雪山でもずいぶん暖かい。小屋から出て、雪を掘って即席のかまどをこしらえ、生木を敷き詰めた上に乾いた薪で焚き火を熾した。夕方から流れ始めた薄雲に満月が透けて見え、あるかないか、くらいの月影が背後のナラ林に縞目を作っている。
ここにはわたしひとり、他にだれもいない。それなのに山の頂や、水音だけで見えない谷間の沢や木々のなかに、たくさんの気配を感じる。
遠野に通い始めたのは震災前、2009年か翌年だったが、そのころから山の中で作品を作ることが増え、自然に、少しずつ登山の楽しみを知るようになった。
ただでさえカメラや三脚で重い荷物に加えて、毎回食料をどうするか、頭を悩ませる。はっきり言って生存に必要な熱量さえ確保できればいいので、フリーズドライの登山食やカップラーメンなど軽い食料が妥当だ。ところが、山に入る前日地元のスーパーでうまそうな食材や地酒を目にすると、どうしても手が伸びてしまい、肩に食い込むバックパックの重量が、破壊的に増える結果をみる。
山に行く目でスーパーを眺めると、ふだん買わない食材を発見して楽しい。
たとえば今回は、遠野名物味付けジンギスカン、そして気仙郡住田町算の「鶏のハラミ にんにく味」いずれも冷凍パックを買った。さらに産直で行者にんにく、ふきのとう(このあたりではバッケと呼ぶ)、菜花にりんご、南蛮味噌、きゅうりの辛子漬け、おにぎり5個。一泊二日の行程にはありあまる食材だが、山男/女たるもの非常時への備えを怠ってはならない。今回は肉を焼くので、お酒は地元のエーデルワインの赤にした。
登攀開始からわずか数歩、後ろ腿の異常な負荷をもろに受け、ああ、あんなに食材を買わなければよかった──なんでパックじゃなくて瓶の酒にしたのか・・・(しかも700ミリリットル)と激しい後悔に苛まれる。しかしわたしの場合、後悔よりも飲食への執着の方が強いので、そのまま息を上げながら昇りつづけることになる。
仙台ネイティブのつぶやき(32)暮らしの真ん中に分校
西大立目祥子宮城県最北西端にある鬼首は、地域全体がカルデラにのっかっているような地形で、環状に川が流れ、川に沿うように集落が点在している。その最も奥にある岩入(がにゅう)地区の高橋幸悦さんを訪ねたのは、昨年の12月半ばのことだった。すでに積雪は1メートル近くもあり、友人がその車では危ないと四輪駆動車に乗せてくれたのだけれど、それでも奥深く入り込むとだんだん家はまばらになっていき、私自身が何とも心細くなってくる。もうここが集落の最後ではと思った家が高橋さんのお宅だった。
由緒を感じさせる大きな総二階の農家屋で、見事な枝ぶりの松の木がそびえ立っていた。「いつ頃、建てられたんですか」とたずねると、「新しいよ、100年くらいだよ」と笑っておられる。100年は、すぐそこにある時間なのか。80歳をこえたご夫婦が深い雪の中、この家を守りどこかほがらかに暮らしていることに心打たれた。
ぱちぱちと音をたてて燃える薪ストーブと掘ごたつで温まりながら、幸悦さんと向かいあう。幸悦さんの後ろは大きな窓で、雪が降り積もる背後の小高くなった木立の中に五輪塔が見えた。祖先の墓だという。
聞けば、17代目。先祖は戦国武将で延岡藩主だった高橋元種だという。関ヶ原の合戦で東軍につき、流れ流れて陸奥の国へ。いまもたまに、関西などから墓を訪ねてくる人がいるのだそうだ。確かに庭の松は物語を秘めているように思えるし、建て替える前の建物はこの地域の御番所よりも立派だったらしい。
といっても私の目的は、ご先祖のことではなく、ここにあった岩入分校の話を聞くことだった。この地区の子どもたちはいまみんな大崎市立鬼首小学校に通っているが、昭和63年3月まで、ここには明治15年の開校以来106年にわたって維持されてきた小さな学び舎があった。鬼首地区全体で5校もの分校があったという。鉄道の駅から遠く離れた山里に林業や農業、鉱業を生業に生活を立てる人たちが大勢おり、子どもたちもたくさん暮らしていたのだ。
私を含め都市の住人が「僻地教育」を具体的に思い浮かべることは難しいかもしれない。私は初めて僻地に等級があることを幸悦さんに教えられた。「本校の鬼首小学校は1級で、岩入分校は4級なんです。それで先生たちの給料の上乗せ分が決まったんだね」駅からの距離とか、郵便局など最寄りの公共施設などの学校周辺の環境で僻地度を測るらしい。本校の鬼首小学校までは、子どもの足で4時間ほど。車のなかった時代、分校がなければ就学は困難だったろう。
幸悦さんが岩入分校に入学したのは、昭和17年ごろ。記憶では40名近い子どもがいて、1年生から6年生まで全員が一つの教室で学んだ。先生は一人だったから、十分に手が回るとはいえない授業だったろう。そのうえ職員会議などで先生が放課後本校に出かけるとその日のうちに戻ることは難しく、子どもたちは自習時間。のびのびと過ごしながらも、案外と年上の子たちが下の子の面倒をみたのかもしれない。
学校を支えたのは親たちだった。やがて幸悦さんは、妻のきよさんとともに、2人の子どもの親として分校にかかわるようになった。
ストーブ用の薪集めは国有林の木を払い下げてもらい、1日がかりで切り出して山のように積み上げる。冬の間の雪下ろしも2、3度当番を決めて実施する。備品購入の資金稼ぎのために春はフキ採りやワラビ採りを地域あげて行う。集まった山菜は誰かがトラックに乗せて運びお金に変えてくる。暇を見つけて縫いあげた雑巾がたまると学校に届けにいく。家の仕事の延長のようにして分校のために力を出し合い、盛り立てていこうという暮らしがあった。
「学校は家の分身みたいなもの」と話すきよさんはこう続ける。「入学式も卒業式も夫婦で行くの。世話になってる子どもがいなくてもみんなで行くの」地域の中心は小学校とよくいわれるけれど、こういう話を聞くと深く納得がいく。
そして、雪かきのあとも、学芸会のあとも、もちろん卒業会のあとも、一品持ち寄って、こっそりつくったどぶろくを持ち出して、それはにぎやかに飲んだらしい。「わいわい騒いで、それが楽しみなんだ」と幸悦さんが笑う。先生が家庭訪問にきても、飲ませてお泊まり。もしかすると、地域住民の方が先生の品定めをして、地域になじむよう教育していたのではないのだろうか。
幸悦さんが手元に大切に残してきた冊子がある。「さわらび」と題されたガリ版刷りを閉じたものだ。赴任してきた先生が毎日発行していた学級新聞だという。イラストのたくさん入った新聞は、授業参観、児童会役員選挙、学級費や児童会費の集金といった学校の行事やお知らせとあわせ、子どもひとり一人を取り上げている。両親が用事で3日間出かけた間一人で留守番をした茂明君のこと、毎日の積雪を記録する浩君のこと、角膜に傷がついたために休んでいた俊広君の出校、宮城県の書初め展で特選をとった悦子さんのこと…。小さな頑張りをていねいに見つめる教師の視線が伝わってくる。ここで僻地教育を学びたい、と赴任する先生も少なくなかったようだ。
分校が閉じて30年あまり。最後の卒業生はいま40代前半になった。この地区を離れた子たちも多いだろうが、その親はいまだこの地に暮らし続けている。木造平屋の小さな校舎はいまもそのまま、看板もポストも当時のままだ。きっと地元の人たちは集落のあたたかな記憶が宿る建物を壊したくないのだと思う。
別天地
冨岡三智2月から3月の1か月間、インドネシア語を教える仕事で別府にいた。私としては初めての九州上陸。大阪から車ごとフェリーに乗り込み、早朝に別府湾に入ると目に飛び込んできたのが烏帽子のような形の山。あとになって、あれが猿で有名な高崎山だと知る。湾岸沿いには他に高い山はなく、この地と海を見晴らすには格好の場所だ…と思っていたら、四方を見極めることができるため、かつては「四極山(しはすやま)」と呼ばれていたそうだ。豊後守護・大友氏が山城を築き、南北朝時代には九州北朝方の拠点だったらしい。
湾沿いに平地と地獄温泉がへばりつくように広がり、その背後に500m級の山がある。仕事はその山の上であり、山頂からは弧を描いて一面に広がる別府湾と高崎山が一望できる。仕事場には毎日、麓のアパートから車で通っていたのだが、その帰り道、対向車とすれ違うのも難しいような山道のカーブを曲がった所で、ふいに眺望が開けて海が見える。そこからもう少し下るとビバリーヒルズみたいなお洒落な住宅街の一画に入り、下り坂の向こうに真っ青な海面が続く。山道から見るよりも海の色が青いのは、それだけ海に近いのかもしれない。ここからさらに下って麓の高台にある神社からは、眼下の湯煙が上がる地獄温泉の向こうに海が見える…。海なし県育ちの私には、海が見える風景はいくら見ても見飽きず、山と海がある光景こそ日本の原風景のように思えてくるのだった。
そのうちふと、小学生の頃に学校で見た社会科のテレビ番組のことが思い出された。清水市を舞台に農業や漁業の様子が描かれていた。調べてみるとどうやらそれは『ぼくらの社会科ノート』(NHK教育)という番組の「清水篇」だったようである。この番組が心に残っているのも、子供心に、海(海幸彦)の仕事と山(山幸彦)の仕事が産業の基本だと思っていたからだろう…と今にして思う。
別府から戻ってきてこの2週間は翻訳の仕事に忙殺され、自宅に籠っていた。時々2階の窓から遠くの山々を見ても、ここからは山の向こうには山しか見えない。けれど、あの山々に南朝方が籠っていた頃、九州でも戦いがあったのだなあ…と別天地に思いを馳せている。
161立詩(9)メール
藤井貞和あなたはテレビを見ないひとだからねー
あまりに息も切らせない感じで、報告のために、
携帯取りにもいけなくてごめん。 昨夜の岩手大学の先生は、
殺傷処分拒否して飼われている牛を調査して、
夏は外の草を食べるから線量が高く冬に下がること。
名誉教授は仮設に住む鯉釣り趣味の人と山中へはいってゆくって、調査ね。
また鳥の研究者は木を登って、若い女子大学院生がマスクつけながら、
牛解体作業やっていたりするのを見ると、強烈なものがありました。
いまはあなたの詩の国で、書いても書いても許されるのだから、
きっと書いてね、殺傷処分拒否して牧場が仮置場にさせられたために、
安楽死させられた解体するわたしたちのことを、何ちゃって
(友人のメール。やや滅裂。)
風景がそれを見ている眼であるような
高橋悠治先週左眼の白内障を手術してもらった 点眼麻酔だから 手術のあいだも 紅い炎のかたちが やがて黒い班点に置き換わるのを見ているうち 器械が電子音で歌っているのが聞こえる 10分ほどで終わったと思う そのあと病院で一晩すごしたら 顔の皮膚が仮面のように乾燥して剥がれ落ちてくる 4種類の目薬を5分おきに一日4回さすのを つい忘れそう 次のしごとのことを考えようとしているが まだその気になれない 月末だから「水牛のように」のコラムを書こうとしているが 「しもた屋之噺」を読みはじめてしまい 2年分ほどを読んだところで いまの音楽や音楽家の生活とも遠いところにいることがわかって ついていけなくなり
しかたがない またかと思われるだろうが どことも知れない空間で点滅する音のうごきはちいさく よわく おそく むらで とぎれがち 流れのかたちは渦になり まわり うねり 乱れ 流れのかたちから すこしだけすくいあげ スケッチを残す
園芸や料理のように 限られた素材から 毎回すこしちがう音楽が生まれる ことばのない 日々のあそび 中心も軸も作らない 浮かび漂って とりとももなく消えていく システムや方法で流れをつなぎとめるのをやめて 音楽を作るプロセスそのものの音楽 まわりの風景がそれを見ている眼であるような
音の偶然の出会いもやがてメロディ―に聞こえ 音の重なりや順序がハーモニーのように響いてしまうなら 逆に メロディーやハーモニーのみかけが 仮のすがたにしか聞こえないような 不安ななりゆきを ありふれた音符で仕組むことができるだろうか 音楽に限りなく近いが ゆるく束ねたそれらの音の位置を微調整しながら 予測できない 定まらず揺れ動く波を扱いかねている ゆったりした時間と しばられない空間
2018年3月1日(木)
水牛だより前夜の予報では春の嵐で朝は荒れると言われていましたが、きょうの東京の朝は予報ほどではなく、昼間は予報どおりに気温があがっています。東北から北海道は大荒れのようですし、ヨーロッパも大寒波、やっぱり春は激しく荒々しい季節です。
「水牛のように」を2018年3月1日号に更新しました。
激しい春にはまた震災の記憶もあります。あの日の東京は春というには遠く、小雪の舞う寒い日でした。
小泉英政さんから、FBを始めたとメールが来たのは1月だったと思います。1月8日の投稿にはこうあります。
「今年、70歳にならんとする老農夫の僕の発する言葉が世の中にどう受け止められるのか、皆目、見当もつかなけれど、なにか、花を一輪ざしにさすように、フェイスブック上に置いてみたくなった。」
詩も載せるというので、いくつか水牛に転載することにしました。最初はよく知っている「ごえもん風呂」から。次回は「若かりしころのものより」とカテゴライズされているものをいくつか、と考えているところです。
明日は満月。7年めの11日は日曜日ですね。『えみしのくにがたり』は出たばかり、読んでみようと思います。
それではまた!(八巻美恵)
160立詩(8)遊んで行きなさい
藤井貞和オギデイガバ、イモハマガナシ(置いて行くならば、
あなたは悲しむことだろう)。最愛の人の手をしっかり離さないならば、
波に委ねて、あなたをうしなうことはなかったかもしれない。
ナンジョニガシテヤリタクテモ(どんなに逃がしてやりたくても)……。
言葉の基層は民俗社会に届くのでなければ、根無しのように、
枯れる草木でしかなくなってしまう。〈えみしのくにがたり〉がふれ添う、
民俗社会の言葉には秘密が隠される。オクナイサマは、
いくつもいくつも襖をあけたてて、仏間にたどりつく。オクナイサマが、
語りかける。アスンデケテ、アスンデケサイ。遊んで行きなさい。
ナンジョニセバアスブノ。アスブベッタノニアスバネンダモノ。イイハ、
オラモハヒトリデアスブモノ。いくつもいくつも襖を閉めて忍び足で仏間を出る。
(『えみしのくにがたり』、及川俊哉さんの詩集に、栞、あるいは解説を書くことは、かならずしも私の適任でないにせよ、深い共感だけは表明したく思って。)
仙台ネイティブのつぶやき(31)7年が過ぎて
西大立目祥子旧暦のお正月を過ぎるころから日差しはずいぶんと明るくなって春が近づくうれしさを感じているのに、3月11日に向かって日ごとに息苦しさが増していく。冬は行っていない、でも春はまだ少し遠い。東北では3月初旬はまだどっちつかずの季節で、その宙ぶらりんな季節感があの日の記憶を呼び起こす。
この原稿を書いている2月27日夜、夕方から降り始めたみぞれまじりの雪はまだやんでいない。あの日もこうだった。信じがたいほど長く激しく何度も揺らされたあと、電気のつかない部屋でラジオをつけて津波の襲来を知り、夜になってカーテンを開けると庭はいつのまにか雪で真っ白に染まっているのだった。その光景がありありと浮かんでくる。人をとりまく自然がどこまでも不意をついてくるようだった。
7年がたち、被災地でさえ記憶の風化がいわれるようになる中で、じぶんの中にまだこういう感覚が生々しく残っていることに正直驚いてしまう。私は家を流されることも、身内を失うこともなかったのに。
あまり報道されることはなかったけれど、仙台の沿岸部も大津波でかなりの被害を受け900人以上が命を落とした。記憶がよみがえってくるのは、震災後、沿岸部に通って、子どものころから親しんできた浜の風景が根こそぎさらわれているのを見続けたからなのだろうか。被災した人たちに会って、津波から逃げる話や立ちゆかない自宅の再建の話を聞いてきたからだろうか。震災後、私は沿岸部の集落を訪ねて60人をこえる方たちから話を聞いてきた。いつのまにか、その物語は私の中に入り込み私の物語になっているのかもしれないと思ったりする。
1月末、久しぶりに沿岸部に出かけた。出かけるといっても、東に向かって車でわずか15分ほど。ぽーんと開けた水田を抜けると、その先は砂浜と青い海…というのがこのエリアだったのに、ほこりっぽい県道を盛んに大型トラックが行き来し、その先には海ではなくて、真新しいコンクリートの防潮堤が横たわる。
仙台市南端の藤塚という地域には避難の丘ができていた。高さは10メートルほど。階段を登りつめて見下ろし、思わずため息が出る。原野のような広大な土地のあちこちに土が盛られ、パワーシャベルが絶え間なく動いている。沿岸部を南北に貫く県道のかさ上げ工事が行われているのだ。川の対岸、大きな被害を受けた閖上(ゆりあげ)にも何基ものクレーンが立ち並んでいるのが見え、工事の音が響いてくる。ここは、巨大土木プロジェクトの現場なのだ。私にはもう、いつ終わるのか、見当もつかない。
集落があり、田んぼや畑が広がり、野菜をつくる暮らしがあったことは、もはやかき消され忘れ去られていくのかもしれない、と不安になる。
被災した人たちの暮らしはさまざまだ。
藤塚で暮らしてきたWさんは、最初の避難所から6回移転を繰り返し、2年前に自宅を建てて落ち着いた。その間、大病もされた。いまは、庭に小さな畑をつくり季節季節の野菜を夫婦で育てるのを楽しみにし、毎日かつて暮らした場所を見に行くという。一方で妻のM子さんは、近所とのつきあいの薄さを心配している。
仙台市の沿岸北部に住まいのあったWさんは、当初、家を修理して住み続けてよいという市の通達でご主人みずから家を直したのに、あとになって市の判断が一転、地区は災害危険区域となり、泣く泣く移転を余儀なくされた。家を建ててようやく平穏な暮らしが戻ってくると、今度は妻のM子さんが2度も病に倒れた。何年にもわたるストレスと疲れのせいだろう。
いつか話が避難に及んだとき、突然M子さんの目に涙があふれ指先が震え出したことがあった。避難の際、車が津波に追いつかれて浮き上がり、運よく近くの家の屋根に乗りかかるかたちでとまり、生まれたばかりの孫を抱いて2階に逃げ延び命を拾った。その恐怖がよみがえってくるのだ。いつもは、手料理を用意してくださっておだやかに話しをされる方だけに、PTSDのつらさを目の当たりにした思いだった。
仙台の沿岸部で最も大きな集落、荒浜で代々漁業を営んできた80代のSさんと娘のY子さんは、家を流されたあと、無事だった船を頼りに半年後には漁を再開した。会うたび、「津波のあとは豊漁続きだ」と話し、「俺は幸せな男だよ、海はよくしてくれる」とまでいう。そのことばに、海に生きてきた人の自然とのつきあいを教えられてきた。
大津波のあと、漁師たちの再開は早かった。船を失った人も中古船を買って、秋の鮭漁に沖に出ていった。それから6年半。Y子さんがいう。「でも、みんな疲れが出てるの。病気したり、入院したり」
仙台市は震災から5年後に復興事業局を廃止した。多くの人が仮設住宅から再建した自宅や復興住宅に移り住み、復興は一段落したという判断もあるだろう。でも、それぞれの事情はさまざまで、家を建て直したからといって生活がもとに戻ったとはいえないのは、話をうかがっていればよくわかる。事情は被災直後よりばらけ、誰もが7つ歳をとり、簡単には口に出せない思いと疲れを胸の奥に深く沈めている。そうして、またあの日がめぐってくる。
脱原発、さあこれからだ
さとうまき間もなく311.あの日から7年だ。あれだけ脱原発、再稼働反対って言っていたのに、原発がなくなる気配はない。再び安全神話がつくられていくのか?
2月の終わりにミランダさんが来日した。昨年7月のこと。立教大学を退官されたばかりの池住義憲さんに呼び出されて、「ミランダさんが来るので手伝ってほしい」といわれた。
ミランダさん? ドイツが、福島事故後に脱原発を決めたときの立役者だそうだ。二つ返事で、いいですよと答え、僕なりに福島ツアーや、シンポジュームの構成を提案した。しかし、そのあと交通事故にあい、イラクでは、アラブ人とクルド人が意地を張り、喧嘩を始める。おかげで飛行機は飛ばない。ビザも出ない。神経をすり減らしてしまった。
それでもイラクに何とか入って帰国すると早々に、姉が急死した。ようやく葬儀を終えると、母は認知症に。チョコ募金のチョコも余っているという。ああ! と思ったら、激しい頭痛。なんとインフルエンザだ。ここまで不幸がつづくと後は世の中人任せでかなうはず。もう働かない! とりあえず福島に向かう。
2月25日
パンフレットとかチラシとチョコをとりあえず事務所に取りに行き、新幹線に飛び乗る。しかしだ。チョコを1万個3月中に売り切って福島支援の費用300万円を捻出するというミッションが与えられている。福島の空気は冷たい。
ミランダさんは、大学の教授。とても優しい口調。日本で暮らしたこともあるから日本語で講演する。どうしてドイツに脱原発ができて、日本にはできないのか? 日本も脱原発に舵切するためにはなにが必要なのだろう? ひとことで言えば倫理観。日本は、すべてが経済効果で議論される。だから自然エネルギーは、実は儲かるんだよという説明が一番脱原発に向かえる説明なんだろう。
この日は、福島の高校生とミランダさんをどうしても合わせたかった。アースウォーカーズというNPOが企画するドイツとオーストラリアに連れていくスタデーツアーをプログラムを僕たちも支援している。参加した15歳のすずなさんが来てくれた
「福島にいる私たちが、福島の未来のことを考えないなんておかしい。7年経ってしまって、意識も薄れていって、普通の生活の中で埋もれてしまっている原発事故のことを周りに発信していこうよって集まっています」それまでは、別に意識の高い子ではなかった。「震災があって海外に行けるってラッキー💙とおもって参加しました」
オーストラリアでは、ウラン鉱山があって、福島原発の燃料になっていたこと。被曝したアボリジニの話を聞いたり、日本が第二次世界大戦でオーストラリアを攻撃したことを初めて知った。「日本は攻撃したのに、学校では教えてくれない。自分が主体的に知らないと、情報は自分で集めないと思いました。」
ミランダ:「オーストラリアで知ったその情報はどのように使いましたか?」
S:日本の学生は、「まじめなこと」に関心をもたない。だから、まず、関心のある仲間で集まって情報を共有して、仲のいい人から伝えていきたい。
ミランダ:「将来何になりたい?」
S:震災でライフラインがとまってつらかったけど、世界には、水とか電気が当たり前にない国がある。先進国の当たり前が、そうではないんだって伝えていくような仕事をしたい。
すばらしい!
2月26日
早朝、一行は大熊町に向かう。ここは、原発のある町だ。いまだに帰還困難地域で解除されるめどはなく中間貯蔵施設になるという。立ち入り禁止地域に入る際は、登録をしなければならず、積算線量計とタイベックスの防護服やマスクのセットをもらう。風化という言葉は、ない。原発の数キロ近くまで行くとガイガーカウンターは6μシーベルトを超え、警告音が鳴り響く。津波で壊された建物がいまだに残るのだ。
「信じられない力ですね。想像できない 今でも悲しい。」とミランダさん。
大熊町の木村さんは、
「原発の中は6シーベルトなんです。6μシーベルトっていうのは、原発の中が600万円だとすると6円なんですよ」
如何に原発の中がいまだに放射能汚染しているかだ。津波で、破壊された建物の一部が昨日の地震でさらに崩れ落ちていた。大熊町には東電の職員が700人くらい住んでいる地域がある。地元の人たちには自分たちが戻れないのになんでだという怒りもある。
2月27日
立憲民主党が原発ゼロ法案を提出するという。ミランダさんは、国会議員の前で「どうやってドイツは脱原発に舵切したか」をプレゼンした。そして、夜には、東京で最初で最後の講演会だ。予想に反して300人以上の参加者があった。
「原発をやめて、自然エネルギーをやっていこう! みんなでできる!」
それは経済的にも儲かるんだよ! 未来に向けた明るい取り組みだ。その傍ら起きてしまった事故で、もがき苦しむ人たちがいること。その人たちにいかに寄り添えるか。決して忘れてはいけない311の記録。保養や検診、市民測定所、福島でやる自然エネルギー、、、もっともっと語ろう。
さあ、これからだ!
福島支援はチョコ募金で!
http://blog.livedoor.jp/jim_net/archives/52496720.html
すとんと落ちて、腑に落ちない
くぼたのぞみひとつ仕事が終わると、すとんと落ちるようになった。1500枚の訳稿を送ったあととか、それが本になったときとか、心にかかっていたイベントが終わったあとなど、すとんと落ちるのだ。気力が、体力が、底のような場所へ。そこは茫漠として霞んでいる。
ひと区切りついた翌朝は、ひさびさにぐっすり眠って開けた朝でもあり、終わった仕事の余韻がふんだんに残っていて、さて、次はなにをしようか、とそれまでの勢いであれこれ考える。むかし習った「慣性の法則」だ。機関車は急には止まらない──自動車ではなく「機関車」というところで、「むかし」のお里が知れるけど。
午前中は心も軽くPCを立ちあげて作業をする。昼ご飯のあとは、ちょいと街まで、とショッピングなどもやってのける。ところが陽が少し斜めになって、かわたれどきへ向かうころ、じわじわと気配が忍びよる。
となると、ふうせん気分はすっかりしぼんで、まだ残っていたように見えたものの水位がどんどん下がっていく。なにをするのも億劫なのだ。これが春のスプリーン、憂鬱か、憂愁か? 目の前できらきらしていた「次の仕事」は、魔法が解けたように色あせる、いや、色あせて見えてしまう。これが終わったら読もう、と積んであった本の山も、時間のないときは魔性のオーラを発していたのに、はらりと開いても目は文字をなぞるだけで、心にとどかない。
十代の試験勉強中に、ああ、もうヤダヤダ、「この世のほかならどこへでも」気分で、俄然面白そうに見えてのめり込んだ本が、試験が終わった途端にちらとも読む気が起きなくなったときのよう。本たちが急に知らんぷりをする。腕の力が抜ける。指まで、たらたらとキーを打ち間違える。晩ご飯を食べるころには、「あああ、もうなにを食べても美味しくない」状態になる。
こういうときは、ひたすら窓から遠くをながめ、ぼんやり近くを見る。じっと手を見るイシカワさんのように、湯を飲む。そしてエネルギーが満ちてくるのを待つ。待つことが苦手な人間には、ここいちばんの難行である。難行だけれど、急いで次へ移っても、結果が思わしくないことはわかっているのだ。
だから、じっと手を見て、満ちてくるのを待つ。湯を飲めば、やわらかいはずの湯気は熱く、舌を焼くばかりだが、それもまた遠くのことと気にとめず、ぼんやりする。ぼんやりするのだ。そして突然、何かが通り過ぎて、こんな文章を書いている自分を発見する。
すとんと落ちても、けっして腑には落ちない、あれからもうすぐ7年。じわりと待つ春の空は、今日も霞んでいる。
徒然なるままに30年
大野晋大学を卒業して就職したのでもう30年以上社会人をしている。最初の数年はどうして大学に戻るのかを真剣に悩みながら過ごしていた。大学で植物相手の研究をして、本を出すことが夢で、もう少しで近くに行けると思っていたので、そこに戻りたいと願っていた。若いから給料は少なかったけれど、仕事はたくさんあった。そして、そのうちに仕事が忙しくてそこまで手が回らなくなった。それでも、10年くらいは山も登ったし、大学に集まったりもした。
10年経つか経たないかといった頃、仕事の内容が変わった。やがて、全国を飛び回ることが多くなり、忙しく歩くことが仕事になった。同じ頃、登山ブームが来て高齢者が山にたくさん押しかけて来た。狭い登山道を塞ぐように歩く人たちに遭遇して、危険を感じてブームとは逆に山登りをしなくなった。
20年ちょっと経った頃、仕事が何回か変化して、最後は長年勤めた会社を辞めた。新しい仕事は不思議だった。今までの常識を覆された気がした。はっきり言って、打つ手がないと諦めの気持ちになったこともあった。まあ、それでも手を替え品を替えてなんとかやってきた。
さて、就職して30数年ほど経とうとしている。この数年は長時間通勤でいろいろなことを諦めてきた。60歳近くなって体も動きにくくなってきた。ここで、やっておかないともうチャンスはないという気が強くなって、一旦仕事を辞めることにした。
あと1ヶ月。
まだ、次の仕事は決めていない。
まあ、ケ・セラ・セラ。なんとかなるさ!
記憶の石
璃葉雲間から差す太陽の光が窓ガラスを超えて、部屋の一角を照らす。その光線のやわらかさや、つぼみの膨らんだ桜を見ては何やら春めいたものを感じずにはいられない。しかし、寒さは依然としてどっしりと居座っている。セーターをかぶり、厚めの靴下を履いて作業をする日はまだまだ続きそうだ。
拾った石をモチーフにして色を塗る。その絵も少しずつ溜まってきたように思う。掌にしっくりおさまった石は、海や川のほとり、崖の下など自然の中で拾ったものがほとんどで、すべすべなもの、ざらざらのもの、尖っているもの、種類は数えきれない。
それらの石を一つずつ描いていくと、実在する石と紙の中に吐き出される石は、色と形はそっくりでも、当たり前だが、まったく別のものに変わる。眼や手から身体の中に染み込み、霞のように粒子が広がり、そこから固まった“何か”になる。石なのだけれど、きっとそうではない。記憶の塊のようなものだろうか。
描いた絵を底の浅い桐箱に仕舞う。箱はずいぶん前に福島の木工家具店で手に入れたものだ。桐箱がいかに湿気や乾燥に強いか、店の主人が細かく説明してくれたのを今でも覚えている。とある民家が火事に遭ったとき、桐箪笥に入っていた沢山のこけしは、灰はかぶっていたもののすべて無事だったそうだ。
桐箱に保管された絵の束は桐特有の軽さと滑らかな木肌に守られ、何だか居心地が良さそうである(私の想像かもしれないが)。すっきりと収まっている具合の良さから、そのまま桐の中に吸い込まれて消えてしまうのではないかと心配するほどだ。たまに蓋を開けて確かめると、そこには不揃いな色が入り混じった石の絵が変わらず仕舞われていて、静かにこちらを見据えている。
アジアのごはん(90)ビルマの豆ごはん
森下ヒバリヤンゴンの地元食堂はなかなか手ごわい。やっぱり夕食時にはおいしいビールが飲みたいので、生ビールを置いている店がいい。しかも高級でなくふつうの店で。となると、いわゆるビアステーションと呼ばれる店に行くことになる。ビアステーションといっても町中の店は狭くて、タバコの煙もうもうの店が多いので、選択肢が少ない。外にテーブルのある店でホテルから割と近いのがスーレーパゴタ南の路地にあるアウン食堂である。
アウン食堂にはヤンゴンに来るたびに通ってはいるのだが、なかなかメニューの全容がつかめない。英語の書いてあるメニューは、あるにはある。しかし、ビルマ語のメニューの下に英語が書いてあるのはごく一部。しかも、料理名の横にあるピンボケ写真は、適当。つまり料理名の写真ではないのである。ああ‥。
ビルマ語はまったく読めないので、少しづつ料理名と発音を憶えようとはしているのだが、その参考になるものの少なさと言ったら。ちなみに英語での料理の注文の成功率はあまり高くない。または英語では決まりきったものしか頼めない。
ヒバリはこの店でビーフン炒め以外のビルマ料理を頼みたいんだよ〜! わりかし、同じ物ばかり食べても平気な相方のYさんはこういうときあてにならない。むしろ、ヒバリの冒険心を邪魔することが多い。
「今日は食べたことのないの、頼んでみよ!」「う〜ん‥」「じゃあ、このエビの揚げたのと、豚肉のトマト&チリ炒め」「ええ、ひとつづつ頼んだ方がええのんちゃう‥」
出てきたのは野菜はまったくない豚肉のトマトソース&チリ炒め、まあご飯にかけるとおいしい。そして、えびのから揚げと思っていたものは、なんとエビのてんぷら‥アメリカ風の少し甘い衣の、である。相方は「野菜が食べたかった‥」と恨めしそう。「エビ天おいしいからええやんか!」
まあ、こういうふうにビルマでの毎日の食事は一筋縄ではいかないが、それなりにおいしいので、なんとか充実した食生活である。しかもミャンマービールの生ビールが安くてうまい。生の黒ビールもあり、おいしい銘柄はブラック・シールドという。この発音がむずかしい。連れは全く通じない。ヒバリは「ブラッ・シー」と語尾を全く消すことによって、ほぼ通じる。昔、お米屋さんで売っていたプラッシーというオレンジジュースを思い出すなあ。
きのうの夜、すこし町はずれにある別のビアステーションに行こうとして、道端で茹でた豆を売っているのを見つけた。「あ、もやし!」豆はこぶりのえんどう豆であるが、よく見ると豆から細い芽が出ている。日本の野菜のもやしのように、芽が主体のものではない。ちょっと芽の出た豆を茹でているものだ。そして、日本でえんどう豆というと緑色を想像するかもしれないが、よく乾燥させた茶色い豆を戻して茹でたものである。
インドでも芽の出たひよこ豆を茹でてスパイシーな味をつけてスナックに売っていたが、これは本当に茹でただけの豆、それを大盛りにして計り売りしているのである。もちろん、わざと発芽させているものだ。味見したくて200チャット分だけ売ってもらった。そのままでもシンプルでとてもおいしい。朝ごはんにチャパティと一緒に食べたり、カレーぽい味付けにして食べたり、ごはんに混ぜて豆ごはんにして食べたりもするらしい。
あ、たしか前行ったローカル食堂に豆ごはんがあったはずだ。さっそくお昼に出かけて豆ごはんを食べてみようとしたが、豆ごはんが通じない。壁に写真があったので、コレコレと指さすと、出てきたのは小豆入りのもち米をふかしたものであった。ちがう‥。
少しだけ英語の出来るマネージャーに、ごはんに豆が‥と説明していると、卵焼きのせご飯を以前食べた時の写真で首尾よく注文していた相方が、届いた卵焼きのせご飯にスプーンを差し入れた。「あ〜、これです!」相方の卵焼きの下から出てきたごはんは私が食べたかった豆ごはんであったのだ。
豆ごはんはペー(ビョウ)・タミンというらしい。あ、でもこれに卵焼きを載せたのはおいしかった。これはなんというのかマネージャーにビルマ語で書いてもらったものを、帰ってからホテルの受付のお姉さんにゆっくり発音してもらったら「シーサン・チャウッージョウ」。そして卵焼き(ビルマ風オムレツ)だけなら「ムウ・ジョウ」。あれ、豆ごはんはどこに‥。耳だけで覚えようとする言葉はなかなかむずかしい。
それにしても、日本では豆を発芽させてから食べる習慣がないのはなぜだろう。発芽玄米と同じく、豆も発芽させると消化が良くなり、煮えやすく、栄養価も上がる。あ〜、こんなふうにゆで豆を売っていたら、買って来てあっという間に味噌を仕込めるのになあ。
日本に戻ったら、えんどう豆はちょっとお高いので、ひよこ豆を2〜3日水に浸して発芽させてから、少しだけ味噌に仕込んでみようか。味噌は大豆だけでなく、各種の豆で仕込めるというので、楽しみだ。
ちなみにビルマで売っている黄色いシャン族のトーフはひよこ豆から、白い豆腐(ペービャー)は大豆ではなくホースグラム(ペピザ、学名はDolichos biflorus)という豆から作るらしい。ホースグラムは小粒の大豆みたいな豆だが、ささげの一種で、これもよく茹でたものを売っている。
そういえば、前回ヤンゴンに来た時にレーダン市場で「これは納豆なのかな」と小さな大豆のような茹で豆をじっと見つめていたら、売り子のお姉さんが、プレゼント、と一袋くれたことがあった。これが茹でホースグラムであったのだが、ビルマではいわゆる白く茎の伸びた野菜として食べる方の「もやし」もこの豆から作るという。日本では緑豆が一般的だ。
鉄道駅の中まで広がるレーダン市場は大きくて楽しい。そこでは白い豆腐を売る一角があり、どのブースでも白い豆腐と大量のもやしを一緒に並べて売っていた。煮豆も一緒の店もあった。なぜ豆腐ともやしが一緒なのか疑問に思ったが、なるほど、白い豆腐がホースグラムから作られるのなら、納得だ。豆腐屋さんではなく、ホースグラム屋さんなわけだ。
さらに、この豆の煮汁を発酵させてから煮詰めてポンイエジーという調味料を作るということだが、現物をまだ確認していないので、今度市場で探してみよう。日本では大豆の煮汁を煮詰めて作る調味料豆いろり、と同じようなものらしい。日本の豆いろりというのも知らなかったが、いやはや、とにかく豆の世界は奥が深い。
灰いろの水のはじまり(その2)
北村周一絵は、大なり小なり、一本の絵具のチューブからはじまると考えられています。
むろんその前に、準備しなければならないことはいくつもあります。
たとえば木枠、そのサイズ、材質、組立て方など、さらにキャンバスも同じことがいえます。
筆や刷毛の形状も、悩ましいところです。
でもここでは、キャンバスを中心とした、絵具と絵との関係についてのみ、思考を巡らしてみたいと思います。
哲学用語ですが、三段論法という推論の形式があります。
「植物は生物なり」(大前提)
「松は植物なり」(小前提)
「ゆえに松は生物なり」(結論)
この論法を援用してみることにしましょう。
材料は、絵具と筆とパレットと、そして画布の四つです。
まずは、絵筆(の絵具)は絵(の絵具)なり
ところで、パレット(の絵具)は絵筆(の絵具)なり
ゆえに、パレット(の絵具)は絵(の絵具)なり
ということになります。
絵筆に付着した絵具は、たしかに画布上の痕跡となりうるし、
パレットの上に絞り出された数々の絵具は、絵筆によって画布に運ばれます。
したがってパレット上の絵具は、画布上の絵具に相違ありません。
しかしこの推論はどこかおかしい。
チューブから絞り出された絵具は、解油などとともに、絵筆によってパレット上で調合されることになります。このときの絵具は、すでにチューブの中の絵具とは異なります。
さらに画布上で、さまざまな技法織りなしたのちの絵具の痕跡は、パレットの上の絵具とは、似て非なるものといわねばなりません。
閑話休題
キャンバスそれ自体をパレットにしてしまうアイデアが、この論法では、台無しです。
絵となるべき大きなキャンバスと、手許に置かれたパレット代わりの、比較的小さなキャンバスとを、同一の視点で鑑みることには無理があるのかもしれません。
それでは、えがくべき大きなキャンバスを視野から外して、小さなキャンバスが、パレットでありながら、そのまま絵になるような作法はあるのかないのか、試してみたくなりました。
とはいえ、パレットである以上、絵となるためのなにがしかの起爆剤が必要ではないかと思い当たりました。
パレット代わりのキャンバスが、いつかは絵になるように仕向ける方法、すなわちパレットの上の出来事が、一枚の絵となるまでに飛躍する方途を考えてみたのでした。(つづく)
しもた屋之噺(194)
杉山洋一季節外れの寒波がヨーロッパを覆っています。家の庭が真っ白に雪化粧しています。夕べレッスンが終わって家にたどり着くと、日本から来たU君から家の窓ガラスが壊されて泥棒に入られたと電話がかかってきました。ちょうどガールフレンドが昨日日本から着いたところだったそうで、本当に気の毒でした。
2月某日 ミラノ自宅
日本は西欧の影響は強く受けつつも、戦後何十年も本質的にはあまり気質に変化はないのかも知れない。松村禎三さんや三善先生の世代の音楽は、やはり今も脈々と受継がれていると思う。あの世代と現在の違いは、当時はテンポを早くすることで切迫感を楽譜に定着していたものを、最近はアッチェレランドをクオンタイズして5連音符と6連音符を並べて定着するものらしい。気質に変化がないことは別に構わないのだが、こうして数的に加速させるのはヨーロッパ人の気質には向いているかも知れないが、日本的な粘り強さは生まれない気がする。納豆風リタルダンドや見栄切りアッチェレランドを演奏するためには、我々の師匠の世代の記譜法が一番しっくり来る気がする。
無理にヨーロッパ風に書く必要はないと思う。こうした傾向と反対なのが悠治さんで、ペータースの昔の出版譜と近作のほろほろと音の並ぶ譜面は、一見まるで違う音楽にも見えるが、改めてじっくり眺めてみると、思いの外近しい部分も感じられて興味深い。尤も、同じ人間が書いているのだからそれは当然だろうけれど。
2月某日 ミラノ自宅
人工知能が話題になっている。蓄積されるデータを基に、正しい答え、論理的、倫理的な答えを導くよう知能が学んでゆくと、臨界点に達した瞬間、地球に悪影響を与え続けてきた我々の存在は、恐らく排除すべき対象に選ばれるに違いない。その時に、人間の代りに人工知能が助けるものは、一体何だろう。我々が虐待し続けてきた動物かも知れないし、我々が破壊しつくしてきた自然かも知れない。
沢井さんが演奏する「鵠」を改めて聴いて、震えるような感動を覚える。生命すらかかっているような、途轍もない深みを持った音が紡がれてゆく。音楽で生きるというのは、こういうことを言うのだろうと思う。
衝撃がなかなか醒めないでいると、ちょうど沖縄の仲宗根さんから旧正月の初日の出の写真が送られてきた。
2月某日 ミラノ自宅
日本で指揮を勉強してきたA君がレッスンに来る。最初は「兵士の物語」を聴かせて貰ったが、その時に他の生徒のレッスンを見て興味を覚えたそうで、和声の繋がりで音楽を作る方法を習いたい、と言ってきた。世代はまるで違うけれど、何か響くものがあったのだろう。一緒にモーツァルトの39番をていねいに読み込んでゆく。彼を見ていると、しばしば昔の自分を思い出す。先ず最初に、振っている掌にすっぽり収まっている音楽を、音が鳴っている場所に戻してやることから始めた。そうして自分が演奏者の中に飛び込んでゆく勇気を持つ。フォルテで何もしないのが、本当に不安だというが、昔エミリオのレッスンでマーラーを持って行って、フォルテはもっと力を抜かないと音が出ないと笑われたことを思い出す。あの頃は、まるで何もわからなかったので、文字通り途方に暮れていた。だからA君が気の毒で、わざわざこんな事を一からやらなくてもと何度も言うが、それでもいいから教えて欲しいのだと言う。学校のレッスンで時間が空いたので少し聴かせてもらって、いつも伴奏している二人に意見を求めると、誰に対しても寛大なマリアが、「わたしはよく分からないから、マルコあなたから言って」と突き放すように話したのには衝撃を覚える。長年一緒にやっていて初めて見る姿だが、何か覚えがあった。自分が最初にエミリオのクラスに入った時と、まるで同じ雰囲気だった。
2月某日 ミラノ自宅
林原さんのために書いたチベット民謡によるヴァイオリン小品が、「ケサル大王」をテーマにしたドキュメンタリー映画に使われることになった。チベットの「ケサル大王」叙事詩の語り部の姿を追う映画だと言う。ケサル大王叙事詩は古代ローマのジュリオ・チェーザレがテーマとも言われていて、これでチベットとイタリアも繋がったわね、と林原さんは喜んでいる。
2月某日 ミラノ自宅
最近、指揮のレッスンでも聴覚訓練の授業でも、生徒がうまくゆかなくなると腕時計の12の数字を2分間見つめさせている。正確に言えば12の中の「2」のそれも上半分の丸くなっているところを2分間じっと眺めるだけで、先に特に理由も言わないが不思議なくらい誰でも変わる。いくら振っても音が鳴らない生徒は、鳴るようになるし、和音が聴こえなかった生徒は、不思議なくらい自然に音が聴こえるようになる。聴覚訓練の授業は何しろ集団授業なので、それまで5分近くああだこうだやっても聴こえなかった音が、時計を眺めるだけでぽっと口をついて出てくる姿に、生徒たちは呆気に取られている。
指揮の方はこちらの錯覚かも知れないと思って、先日クラスを訪ねてきたサックスの大石くんに尋ねたら、何をやっていたかわからなかったが、音が違って聴こえて不思議だったそうだから、何かは起きているらしい。
元来自分で目が疲れた時のために長年やっている速読の訓練をその場で適当にアレンジしたもので、要は2分間一点を見つめていると頭の中が真っ新になるだけのこと。
それまで身体の中でひしめいていた様々な思考が消えると、傍から眺めているとまるで第三の目がぱかりと口を開けたかのように見える。
音を聴くときは、頭で音を鳴らしてはいけない。頭の中で鳴っている音が、聴くべき音を遮断してしまう。当たり前のようだが、案外それが簡単ではない。こんな簡単なことでブロックが解けると知っていれば、長年苦労しなかった。
2月某日 ミラノ自宅
音楽の持つ「テンポ」、日本語に言い換えれば「速度感」について、生徒に説明するため知恵を絞る。
しばしば空港の手荷物検査場に、長細いくるくる回る棒が絨毯状に並んでいる。スーパーのレジにも似たようなものがあったりするが、あの回る棒こそテンポではないか。あの上に箱を載せ、その中に荷物を入れて指揮者はそれを押してゆく。箱の荷物にはそれぞれ幾許か重さもあって、その重さに応じて少しずつ力をこめる。
時々、自分でこの鉄棒を作らなければいけないと勘違いすることがあるけれど、どうがんばっても音楽の持つ速度に我々は直接触ることはできない。
2月某日 ミラノ自宅
日がな一日レッスンして流石に困憊し、夕食はインドカレーの出前を頼もうと家人が言うので、最後のレッスンに残っていた日本人生徒二人を家に招く。
シャワーを浴びて居間に戻ると、二人でブラームスの楽譜を開いていて、「この和声はどう理解するの」「ああなるほどね」「こうではないの」「え、でもここは」などと、嬉々として話し込む姿に感慨を覚える。和声の勉強は本来クロスワードパズルと推理小説が重なったような愉快なもの。だから、面白い作品とは、知的好奇心をくすぐり、次の頁を開くのが待ち遠しく感じる。そうして楽しみながら身体に沁み通った音は、実際になる瞬間も同じように生き生きとしたものになるだろう。
日本で音楽大学を終えた生徒と、大学に入ったばかりのイタリアの学生を一緒に教えていると、0から始めたイタリア人生徒の成長の早さに目を見張らざるを得ない。彼らは音楽を先に学んで、自分の音楽に必要な技術だけを何となく覚えてゆく。その間も音楽はどんどん肥えてゆくので、使える技術も増えてくる。
我々日本人は先に技術を学ぼうとするが、自らの音楽に必要な技術は一体何であるか、実はあまりよく分かっていないのかも知れない。
日本がヨーロッパの伝統に追付こうと、本来ヨーロッパ文化にはない緻密さと正確さを駆使したのだろうけれど、実際のヨーロッパの建築物は隙間だらけ穴だらけだったりする。それでもイタリアは歴史的建築物の宝庫でありながら、最先端とまでは言わないまでも、前時代的な社会ではないだろう。
(2月28日ミラノにて)
インターバル感覚とエフェソス呼吸
笠井瑞丈インターバル感覚
空気に溶けるような
ダンスがしたいといつも思う
絵の具を水に溶かし
白いキャンパスに絵を描くように
ピアノの鍵盤を叩き
空気の振動で音が生まれるように
オトとオトの隙間を聴く
声が声になる瞬間を聴く
限り無く
ゼロに近いゼロ
その瞬間にカラダの耳を澄ます
良く分からずも続けている
オイリュトミーも今年で三年
今インターバルに取り組んでいる
このインターバル感覚には
空気にカラダが溶かす感覚がある
新しい発見
二度進行の動きが好きだ
バッハの平均律12番を一音一音の
音の隙間にカラダをのせてみる
新しい音楽の聴き方
音楽の中から時間を抜き取る
エフェソス呼吸
発生力でカラダを動かす
母音力でカラダを動かす
あ 広がる力
え 交差の力
い 軸立の力
お つつむ力
う 平行の力
インターバル感覚とエフェソス呼吸
この二つには共通するものがある
ゼロ感覚のカラダ
生まれる前のカラダにカラダを戻す
押す力
返す力
均衡を保つ力
踊る力はきっとそこからやってくる
インターバル感覚とエフェソス呼吸
まだ知らぬ新しい舞踊技術
いつか
空気に溶ける踊を踊ろう