真冬のミラ

璃葉

その日は夕暮れへ近づくにつれて薄い膜のような雲が空に張られ、淡いピンク色を帯びていた。冷たい風がゆるやかに街道を通り抜けていく。手も顔も耳も、すっかり冷たくなってしまった。
東京にしてはやけに寒い日が続いている。道端には1月下旬に降り積もった雪が残り、道ゆく人々が凍結したところを注意深く避けて歩いている。
地下鉄の駅から地上へ出て空を見上げると、薄ピンクの雲は消え去り、深い藍色の空に変わっていた。建物の隙間から見えるオリオン座が冷たく明るい。

ときどき気にして見るようにしている星座がある。秋から冬にかけて空の低いところに大きく横たわる「くじら座」だ。暗く見通しのいい場所でしか見ることができない。星と星を線で結んだかたちはかなり滑稽なのだが、ギリシア神話の化けくじらをなんとなく想像することができる。

くじら座の心臓のあたりには「ミラ(Mira)」というおよそ332日の周期で明るさを変える変光星がある。
ミラはラテン語で“奇妙な”、“不思議な”という意味で、まったく見えないほど暗くなったかと思えば、ぼんやり妖しく光っていたり、2等級(北極星ぐらい)ほどの輝きになったり、気まぐれに色んな表情を見せてくれる。
そのミラが今年に入ってさっそく明るく輝いているという。自宅付近でなるべく暗い場所を探し回りながら(傍から見てかなり挙動不審だったかもしれない)空を見上げる。

ネオンや街灯が溢れる街の中では、明るい星だけが選ばれたかのように輝く。澄み切った空を人里離れた暗い地で眺めたら、きっとおびただしい数の星が見えるに違いない。
オリオン座やおうし座の1等星から目を凝らして空をたどると、肝心のミラはかなり密やかな、オレンジ色の仄明かり。
ミラは日に日に暗くなっていき、夏にはまた夜闇に紛れてしまう。

灰色の綿のような雲がぽつぽつと現れては流れ、冬の星は西へ傾き、ミラも沈む。夜の冷気に巻き付かれるまえに自宅へ戻ることにした。明け方前の空には春の星座が昇るが、地上の春はまだまだ遠い。

別腸日記(12)冬の日

新井卓

数日前、寒さの一際厳しい晩に母方の祖母が亡くなった。スタジオで終わりの見えない作業をしている最中、知らせがあった。急いで帰路につき実家に入っていくと祖母の寝室で、ベッドを囲んで母と父と弟が動かない祖母を三方から取り囲んで黙って座っていた。


一年ほど母が在宅看護を続けていた祖母の点滴と酸素吸入器はそのままになっており、その口は開いたままだったが、医師がまだ到着しないので手を触れられないという。亡くなってはいても喉が渇くだろうと可哀想に思ったが、なす術もなく見つめるほかなかった。母が介護の手を休めて食事をするあいだ、ほんの二十分かそれくらいの間に、誰にも気づかれず静かに息をひきとったというのだから、それは安らかな最期なのだろう。


やがて訪問介護施設の医師が到着し、死亡時刻を告げてから、看護師がペットボトルのキャップに穴を開けた即製のシャワーで髪を清めてくれ、お騒がせしました、いってらっしゃい、と祖母に頭を下げて帰っていった。私よりも二つ三つ年若そうな彼の様子に心を打たれながら、自分は一年か二年のあいだほとんど会話らしい会話も試みようとしなかったではないか──そのように後ろめたい思いをふるい落とすことができずにいる。いや、そもそもそれ以前にも、きちんと会話できたことは一度でもあったのだろうか、とまで考えながら、子どものころ私の避難所だった祖母の部屋や、説教くさい少年少女文学全集を読み聞かせてくれた彼女の声の調子や、ミシンの音、マドレーヌを焼くにおいなどを少しずつ記憶の奥から拾いあげては、締めつけられるような懐かしさと、身内という存在の永遠に解きえない謎の間を、心が行きつ戻りつするのをただ見てていた。


翌々日、大阪で休めない仕事があり飛行機をとって日帰りで往復することにした。 朝、刻々と地平線から高度を上げる太陽に直射されながら東へ、羽田へ車を走らせるうち、きょうが祖父の命日だったことを思い出した。


日航の工場長だった祖父は、こうしてその貌を朝日に灼かれながら日々、玉堤通りを走ったのだろうか。幼いころ何度か連れていってもらった社員向けのテニス場やプールの思い出は、彼の運転する小さな三菱ギャランの窓から差し込む、黄ばんだ太陽の光と熱の感覚とともに、記憶の襞に強烈に現像されている。


伊丹空港行きの全日空は満席だった。離陸すると多摩川の河口と空港のランウェイと品川、そしてはるか新宿のビル群までがはっきりと展望された。眼下の都市部はすぐにまばらになり、と思えばすでに富士の裾野に差しかかっているのだった。山の峰は直視できないほど白く燦然と屹立し、関東平野から甲府盆地、日本アルプスの峰々のなかにあって比類無く、見渡せる限りの地形を完全に支配しているのが見て取れた。


人は死ぬとどこへいくのか──宗教を信じない私は何度も、想像しようとする。たとえば遠野では、人々は死ぬとみな早池峯の頂へと帰るのだという。魂は山岳の頂点まで登ってそこから虚空へ、宇宙へ細い光の帯となって解き放たれるのだろうか。あるいはそれは拡散しながらこの惑星の一つなるマトリクスに留まり、いつかふたたび、異なるエネルギーの様態となって流転を続けるのだろうか。 


祖母の葬儀は密葬で静かに執り行われた。前夜、叔母と長野の叔父と従兄弟が来て、祖父が残していったウイスキーを皆で少しずつ飲んだ。ロイヤル・サルートの青瓶は20年だから、少なくとも通算45年ものになるであろう液体からは、複雑な味がいつまでも木霊のように滲みだすのだった。

異なる時間は積層しているのではなくそこかしこに顔をのぞかせていて現在の編み目を形づくっているのではないか──そんな考えがふと浮かんだ。


記録的な冷え込みは今晩も収まる気配はない。空気は恐ろしいほど澄んでいて、真円に満ちた月の傍に火星が近づいている。

What’s going on?

仲宗根浩

正月、実家にお年賀、仕事があるので先に帰り、家まで10分ほど人もいない、車も走らない。シャッター商店街の今の風景と子供の頃の通りの正月の風景が重なる。

緊急着陸、不時着、予防着陸と続く中、「What’s going on ?」と県の偉い方が米軍の方に電話で問うた、と。昨年末、マーヴィン・ゲイの「What’s going on ?」映像を見ていたので、こういうふうに使いのかと学ぶ。1971年と2018年でも「What’s going on ?」という問いは時と場所に関わらず変わらない。映像は以前も見たことあるものであったが、モータウン、ファンク・ブラザースのジェームス・ジェマーソンの人差し指一本で弾く姿をあらためて見て、数々セッションのベースラインが人差し指一本で奏でられたことを再確認する。

「おきなわ」というとこに住んでいて、新聞、ラジオやらネットニュースなど目にしたりすると暗澹たる気持ちになる。地元紙と産経新聞がディスりあうし、これが現状かと思ってそこから逃避をする中、役所がテレビが騒音でちゃんと聴こえないだろうとやっていたNHKの受信料半額をやめてこれからは防音工事に注力していく新聞の記事を見て、防音工事が本当に防音か、木造瓦屋根の家に防音工事をしても意味ないし、建物自体が防音構造になっていないと本来の防音とほど遠いのになんなんだろう。防音工事という名目で特定メーカーのエアコン、換気システム設置したって意味ないし、プロペラの哨戒機が飛んだらテレビの画面にノイズが入ったり、真っ黒になったりするのでテレビはだんだん見なくなり、ラジオばかり聴くようになる。こっちに戻って二十年過ぎて、ドルを使い、車が左ハンドルだった記憶を持っている人がまわりからだんだん少なくなっていることに気がつく。日本ではなかったときの記憶。

灰いろの水のはじまり(その1)

北村周一

「目と耳とえのぐとことば」まずは手をなにはともあれ動かしてみる

具象・抽象にかかわらず、絵を描いているときに、キャンバスや紙にえがかれた絵そのものよりも、自分が手にしているパレットの上の絵具のほうが魅力的な状態になっていると、感じたことはありませんか。
はずかしながら、しばしばそういった感興に陥ることがぼくの場合にはあるのです。
それで思い切って、キャンバスをパレット代わりに使ってみることにしました。
いわゆる張りキャン(木枠にキャンバスを張った状態で画材屋などで売られているもの、比較的安価)を、サイズでいえば、F6号、F8号、F10号、それぞれ20枚ずつ計60枚手許に用意しました。
壁に垂直に立てかけた相応に大きなキャンバスを相手に、パレット代わりのハンディなキャンバスに絵具を絞り出しながら仕事を始めてみると、最初は違和感がありましたが、
慣れてくれば、木の板や、アクリル板、また腰の強い紙とおなじように、使いこなせることがわかりました。
結局パレットは、ある程度の大きさがあれば何でもよいのであって、絵具を混ぜ合わせることができれば十分使用に耐えるのでした。
そんなことを始めて、かれこれ20年以上も経つのですが、うまくいったかどうかというと、謎は深まるばかり。
もともとパレットは、絵具が絵になるまでの、中間領域に位置しているわけで(それも下位のほう)、いわば縁の下の力持ち的存在なのだから、おいそれと表舞台に出てくることはないのでしょう。
パレットがそのまま絵になるなんてと、だれもが思うことでしょう。
美術史に名を遺した画家のパレットが、美術館などで展示されることはままありますが、
あれらはおそらく資料的価値として関心を呼ぶのだと思います。
ではパレット代わりのキャンバスは、いつかは絵になるのでしょうか。
一歩ゆずって、絵とはいわないまでも、すくなくとも絵のようなものにまでは昇り詰めることは可能なのかどうか。
興味がそそられるところです。(つづく)

 描いては消し消してはえがく下描きの下描きのような絵のようなもの

しもた屋之噺(193)

杉山洋一

随分寒さも弛んできたと思いきや、ここ数日急にまた冷え込んできました。今月は半ば、家人がテヘランに演奏会に行きバッハやドビュッシーに、悠治さんの「花筐」「アフロアジア風バッハ」などを弾いているころ、こちらは横浜で一柳先生と神奈川フィルのみなさんと演奏会をやっていました。息子を3日ほどメルセデスの家に預けて帰ってくると、何だかすっかり大人びているのに愕きました。半年で6センチくらい背も伸びていますが、そろそろ13歳になろうという年頃、男の子の成長は目覚ましいものがあります。

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1月某日 ミラノ自宅
「水牛で読んだけれど、蕪のパスタの作り方を教えて」とパリのみさとちゃんからメールが届く。茹でた蕪をアンチョビーと大蒜、好みで唐辛子を炒めたものと併せるだけと答えたのだが、どうも話が食い違うので首を傾げていると、傍で見ていた家人が大笑いして、それでは通じるわけがないと言う。確かに蕪に違いないのだが、普通料理に使う部分はcime di rapaと呼ばれる葉と茎の部分だけで、sedani di rapa と呼ばれる我々お馴染みの白い実の部分は市場でもほとんど見かけない。
食べないわけではないようで、探せばレシピも出てくるが、ラディッシュのようにそのままサラダに入れて食べるのでなければ、かなり凝りに凝った料理ばかりで、確かに何時でも誰でも食べる食材ではないようだ。

1月某日 ミラノ自宅
自分が今まで音楽をやっていること、特に好きでもなかった指揮を今まで細々続けて来られたのは、人生の節目でそれぞれの恩師が暖かい言葉で励ましてくれたからだと思う。恐らく恩師はあまり深い意味もなく口からついて出ただけに違いないのだが、褒められた本人には忘れがたいものになる。
大学の研究生が終わって作曲でイタリア政府給費で留学する前に、岡部先生にご挨拶したら、「それだけの技術があればやっていかれますよ、頑張って」とはなむけの言葉をいただいた。別に真面目に指揮を勉強もしなかったし、作曲必修の指揮副科で一番やる気のない、どう贔屓目に見ても箸にも棒にも掛からぬ生徒だったのだから、何故仰ったのか真意を計り知れないけれど、岡部先生には小学校2年の頃から音楽教室でお世話になっていたし、素朴に励ましてやろうと思って下さったに違いない。その何年後か、給費が突然打ち切られて無一文になったとき、ふと思い出したのが岡部先生の言葉だった。
余りに惨めな生活をしていたので、友人たちが小遣い稼ぎに、とにかく演奏者の前でテンポだけ振っていれば良い、と言われて仕方なく始めた指揮だったが、余りに酷いので、少しは真面目に習うべきだとエミリオの所へ通うようになった。
よく覚えているのは、指揮なんてやりたくないし、レッスンなんてとんでもない、とずっと逃げていたのが、友人たちがエミリオに先に連絡して話を付けてしまったので、仕方なく足を引きずりながらレッスンに出かけたのだった。
当然、褒められるどころではなかったし、いつも酷く怒られた挙句、頼んでもやめさせてもらえず仕方なく続けていただけだったのが、ある時「自分も、お前くらいの時に同じくらいの技術があったら良かったのになあ」と、珍しい言葉を頂いて仰天した。覚えの悪い人間が、未だにこれだけ鮮やかに覚えているのだから、褒め言葉のもつ影響力は計り知れない。今まで続けてきても、未だに指揮が自分に向いているとは思えない。それでも、支えてくれる友人がいるから、今まで続けて来られた気がする。家人からも「そんなに辛いならやめて良い」と何度となく慰められてやってきていて、告白すれば、実に情けないものがある。

自分よりずっと年上だけれど、演奏会のたびに顔を出しては励まして下さるYさんもそんな大切な友人の一人で、ジェルヴァゾーニと一緒に日本に戻った時に知り合った。第一印象は、可愛がって貰った祖父に顔と雰囲気がよく似ているというもので、Yさんと話していると網元で漁師だった祖父と話している気がして、それだけで安心するのだった。中学生の頃、祖父が夜明けに亡くなったとき、ふと目覚めてつられるように一人で病院に歩いてゆき病室を訪ねると、思いがけずそれが祖父の臨終だった。Yさんとは、日本に帰る度に何度かお目にかかっていたけれど、長年ほとんどプライヴェートな話を伺ったことがなく、そういう話はしたくないのだろうとこちらも殊更に触れることもなかったのが、ある時、地方から一緒に東京に戻る折、かみさんにお土産を頼まれたから、と売店に走って行かれたのが切っ掛けで、少しご家族の話を伺うようになった。長い間そうではないかと思いつつ、最近までも確かめた機会もなかったのだが、大学生の頃或るワークショップで作曲レッスンの通訳をして頂いたのが、Yさんの奥さまだった。レッスンを受けた作曲家にも奥さまにもずいぶん励まして頂き、その後改めてお礼の端書をしたためた覚えがある。
丁度、息子が免疫疾患で身体をこわした話をしたころから、Yさんから奥さまの話を伺うようになった。彼女が数年前から進行性の免疫疾患の病気で床についていることや、子供がいないので夏前から介護の関係で近所の施設に預けていて、顔は毎日見に出かけるけれど週末だけ家に連れて帰ってくることなど、微笑みながら優しく話してくださるのだった。本当に仲睦まじいご夫婦なのがわかって、どう返してよいのかまるで言葉も見つからず、奥さまが喜んでくださるというイタリアのサラミを、一本トランクに忍ばせている。

1月某日 三軒茶屋自宅
東京に戻ると、とにかく寒い。今年一番の寒波だと言う。前から塩梅のよくなかったストーブがいよいよ壊れていて、シャワーだけ浴びて渋谷にオイルヒーターを買いに走る。これは自分で持って帰ることもできますか、と店員に尋ねると、少し驚いていたが、重たいですが持って帰れないわけではありません。どうか呉々も気を付けて下さい、と念を押される。
桜木町の神奈川県立音楽堂があって毎日横浜に通った。自分が子供の頃から通った横浜の姿との違いに驚き、母親が生まれ育った横浜の姿に思いを馳せる。神奈川フィルには同級生が何人もいて、再会を喜びつつ指揮台に昇るのが気恥ずかしい。その上彼女たちが高校時代の写真などを持ってきては皆に見せるものだから、穴があったら入りたかったが、その甲斐あってか演奏は素晴らしかった。特に一柳さんの演奏は、常に良い意味で我々の予想を裏切る、スリリングなもので、練習から本番まで本当に愉しませていただいた。本番まで、ご自分で書かれた音符を、わざわざひっくり返して弾いてみたり、音の数を足してみたり、最後の音も、新しく即興で付け加えていらして、終わった途端にこちらにニヤリと微笑んでいらした。いつも紳士な方ではあるけれど、諧謔精神と反骨精神が裡に脈々と息づいていて、面白くて仕方がない。オーケストラの皆も、今日は先生は何をやるだろうと練習の度に待ち構えていた。
会場を埋め尽くす聴き手の集中度がとても高く、演奏会後の対談まで聴衆が溢れていて驚く。山本さんの作品の面白さや、森さん、上野くんの素晴らしさについては改めて書く機会もあるだろう。

1月某日 ミラノ自宅
最近、世界中で性的虐待について女性が声を上げるようになった。それについて何かコメント出来るほど、真っ当な人間ではないと思っている。ただ自分の友人だけでも、小学生時代に小学校教師から繰返し悪戯を受けて、未だに摂食障害に悩む友人や、飼っている犬の病気のために連れて行った獣医に強姦され、それを警察に訴えると、薄ら笑いを浮かべて話を聞いてもらえなかった友人とか、母子家庭で育って母親のボーイフレンドから長年性的虐待を受けていて、母親は助けるどころか反対に娘をその度に叱責するありさまだったが、あろうことかボーイフレンドが楽器を彼女に買い与えたので、そのまま別れることなく虐待が長年続いた友人など知っている。彼女たちは未だに後遺症に悩んでいると話していたし、自分自身も昔シエナで若い男性二人にレイプされかかった時の恐怖もよく覚えているので、ほんの少しだけ分かるような気がする。

1月某日 ミラノ自宅
息子が科学の自由研究の宿題で関節炎について調べている。A4の紙一杯に手書きで文章を書いている。左手でこれだけ書けるようになったのだから、大した進歩で親としてはとても嬉しいが、しかしなぜ関節炎なのだろう。
彼のレポート曰く、関節炎は現代病であり、現代の食生活のバランスが原因の一つで何某と書いてあるが、息子自身は好き嫌いは多くて親として困っている。
18歳になったら最初にやりたいことは、ワインを飲むことだと言うので、飲みたければ別に今でも飲ませてやるというと、楽しみにしているから良いのだそうだ。
突拍子もない話が続く息子から、最初に指がなくなったのを見たときどう思ったかと問われる。息子が初めて自分の左手が突然麻痺した時、彼は家で一人で留守番をしていたそうで、酷く狼狽えてどうしてよいか分からなかったが、手が麻痺していて連絡すらできなかった、と聞き、申し訳なく思う。
どうやら指揮を勉強するのは楽しいらしく、一緒に国立音楽院裏の楽譜屋で「アイネクライネナハトムジーク」の楽譜を贖い、短めの指揮棒一本をプレゼントする。
買いに出かける道すがらずっと鼻歌を歌って煩いので、こちらも頭の中でいろいろ考えているのだから、お前も頭の中で歌えば良いだろうと言うと、余計声を張り上げる。歌っているのは、これが「アルジェのイタリア女」一幕のフィナーレで、今まで色々見たが、彼が一番好きなオペラは最初に見せたこの「アルジェのイタリア女」なのだそうだ。確かに見事なオペラだと思う。
先日息子と「椿姫」の話をしていて、この手のオペラの筋書きが苦手で受付けられない、ジェルモンのアリアなど腹が立って聴いていられないと言うと、息子曰く本当に悪いのは医者だという。もう少し腕の良い医者がいれば、最後はすべて円く収まったはずだと言う。至極尤もな意見である。

1月某日 ミラノ自宅
気が付けば前期の授業が終わってしまった。大学生は全員必修のイヤートレーニングのクラスに、今年初めて二人中国人の学生がやってきた。
そのうちの一人がテノールの王文奕君で、初めて授業に来たときは本当に全くイタリア語が分からなかった。英語とかフランス語とかスペイン語とか何か分からないかと尋ねると、「イタリア語」と小声でたどたどしく答えたので、みんながどっと笑ったほどだった。
言葉少ない素朴な田舎の青年という風情で、到底テノール歌手という雰囲気には見えなかったが、でもこれは言葉が分からないからかと思っていると、そのあとでもう一人、音楽教育科の中国人の学生が入ってきても、二人で殆ど話す様子もなかったので、おそらくそういう性格なのだろう。
最初にもう一人の中国人の学生がやってきたとき、彼も中国人だよ、と言うと「キミモ チュウゴクジンナノ?」と二人で片言の可愛らしいイタリア語で話していたので、周りの学生は大喜びだった。
彼にイタリア語でも何語でも良いが、我々教師が理解できる音程の呼び方や三和音の種類の言い方など、早急に教える必要があって、他のヨーロッパ人生徒に教える傍ら、黒板に「音程」、「三選択」、「完全五度」、「完全四度」、「増四度」、「協和音」、「不協和音」、「唱音程!」とか、通じるのか通じないのか分からないような走書きを書きながらイタリア語を教えてゆくと、何時の間にか覚えていったので通じていたのだろう。
他の学生たちはこちらが珍しく漢字などを書いている姿に「あれが協和音」などと面白がっていたので、授業はいつも至極和やかなものだった。最初に授業に来たとき、「文奕」の「奕」は何かの簡体字なのかと尋ねると、これは中国の固有の文字で、「ますます盛んなさま」だとgoogleの説明を見せてくれた。いつも一列目に座って物静かにしている王君の様子から「ますます盛んなさま」を想像できないので、思わず大声で笑ってしまった。
「中華街でどこか美味しいところでも教えてくれ」と言うと、まだ行ったことがないと言っていたから、熱心に勉強に打ち込んでいたのだと思う。同僚に尋ねると王君はなかなか良い声をしているのだと言う。
まあこれで半期30時間の授業も終わってやれやれと思っていると、「アリガトウゴザイマス、オチャデス、シーフーロンジンデス、ウチノチカクノモノデス」と思いがけなく、「西湖龙井」つまり西湖龍井茶の新茶をプレゼントしてくれた。その心遣いにも感激したが、家に帰って早速淹れるとこれが思いの外美味で、改めて心に染みた。

1月某日 ミラノ自宅
2002年までペータースからレンタル譜として出版されていた悠治さんの楽譜が、その後すっかり行方知れずになっている。worldcat.orgで世界中の図書館検索をすると何件か出てくるのだけれど、尋ねてみるとどれも所在が分からないという。
悠治さん曰く「橋第二番」など、恐らく演奏されたこともないと言う。「橋第一番」には、昔ずいぶん強い影響を受けたので、その続きの第二番はどんなだろうとずっと想像を膨らませていたが、今やマーストリヒトの図書館のカタログに残っているだけで、図書館のどこにあるかも所在が分からなくなっている。
悠治さん曰く、第一番のような旋法の書式を、何重かに重ねたものだと言う。楽譜がなければ、それを想像して新しく作ればいいじゃない、というのが悠治さんの意見で、尤ではあるのだけれど、その時に、その場所で、なんのためにそれが書かれたか、という背景は、やはり一概に無視は出来ないとは思う。可能であればやはり一度でも本物の楽譜を手にして音にしてみたい。
ライプツィヒなどの図書館のカタログにも載っているが、これらは問合せがあれば、出版社から取り寄せるためのもので、実際には入手できない。
そんな中で「歌垣」はニューヨーク公共図書館に一部だけ残っていて、コロンビアの大西くんに間に入ってもらって今月漸くスキャンが手に入った。
初めて目にする「歌垣」は、自分が想像していた譜面とどこか似ている既視感も感じたが、恐らく単なる思い込みに違いない。実際に音に出してみるまでは、何もわからない。

秋に演奏するクセナキスも、実は楽譜の版権とテープの所在が厄介なことになっている。手元のコピー譜は所々完全に薄れて全く音の判別も出来ないので、パリのクセナキス宅で自筆譜を見せて貰うつもりなのだが、Kraanergの4チャンネルテープは出版社が持っているものと、ベルリンの技術者個人的に修正しデジタル化したものと幾つかあるらしい。当然遺族や出版社の権利問題などが絡んでいて、誰がどのルートで何を頼めば良いのか、ボローニャの劇場は少し手をこまねいているようだった。
悠治さんから、Kraanerg初演をカナダに見に行った時のことを思い出した、とメールをいただく。「近未来の過剰人口と資源の限界で起こる世代間戦争」がテーマで、50年後の今、それを改めて自問してみると、確かに悠治さんの言う通り、我々は何ら答えを見出さないままにさまよい続け、世界だけが膨張し続けているようにも見える。

1月も終わろうという時、バッファローの図書館の演奏記録以外、悠治さんが絶対に楽譜は残っていないと断言していた「般若波羅蜜多」の総譜を、小野光子さんがアキさん宅で偶然見つけた、と連絡を下さった。これもちょうどKraanergと同じように、先に録音された演奏に、ライブの演奏を重ねるやり方をしている、とは悠治さんから聞いているが、とにかく楽譜を見てみたい。もしかしたら蘇演も可能かもしれない。
「般若波羅蜜多」はまだ楽譜も見ていないのでわからないが、この当時のクセナキスと悠治さんの作品は、ポジフィルムとネガフィルムのように、同じものを反対側から眺めているような、別の角度から表現しているような、そんな繋がりを改めて感じている。
「人類にとって代わる新しい知性へ残すために」と当時悠治さんは答えていらしたが、AIがこれだけ進歩した今となるとその言葉の重さを痛感する。ただ、楽譜も音も、やはり何らかの形で残しておかなければならない。今現在、悠治さんが同じことを仰るか分からないが、あの時のあの言葉は彼にしか発言できない掛け替えのないものだと思うし、我々はそうやって先人が築いてきた文化の上に、我々も煉瓦を一つずつ積み上げている認識を、より明確に持つ必要があるのかも知れない。

(1月31日ミラノにて)

JUMP!!!

若松恵子

今月は伸ちゃんのことを。
伸ちゃん、三宅伸治は「ブルースやソウルに根ざしたロックンロールを歩み続けるヴォーカリスト/ギタリスト」(公式ホームページの紹介文による)。
MOJOCLUB、覆面バンドタイマーズ、忌野清志郎&NICE MIDDLE with NEW BLUEDAY HORNSのバンマスとして活躍し、清志郎氏との共作の楽曲も多い。

伸ちゃんの音楽活動30周年を祝い、彼の楽曲を友人たちがカバーして讃えたアルバム「Song writer」(徳間ジャパンコミュニケーションズ)が2017年12月にリリースされた。ザ・クロマニヨンズ、鮎川誠、友部正人、斉藤和義、山崎まさよし、桜井和寿、竹原ピストル、金子マリ、仲井戸麗市…多彩なメンバーが集まって時代順に30曲を唄っていく。

免停中の清志郎の運転手として過ごしながらつくった曲、清志郎といっしょにつくった曲、清志郎がいなくなってからつくった曲、それぞれが味わい深い。
ラジオで、このアルバムについて伸ちゃんが話すのを聞いた。アルバムのなかから仲井戸麗市によるカバー「何にもなかった日」をリクエストして、チャボから手紙をもらったような気がしたと語っていた。

「最後までかかりますか?」とラジオのパーソナリティーに尋ねる伸ちゃんの声を聞いて、ああいいな、と思った。長く“芸能界”に生きて、こんなに普通にしゃべれるなんて。ラジオは声だけだから、人柄がふと伝わってしまう。以前忌野清志郎の追悼番組で、いちばん身近に居たのにでしゃばらず、彼を本当に大切に思っているからこそ言葉を選んで語る誠実さに心を打たれたのだったけれど、今もその時の印象と変わらずの伸ちゃんだった。

自分でもこの30曲をライブで唄ったという。
アルバム最後の曲は、清志郎との共作の名曲「JUMP」。伸ちゃん率いるNICE MIDDLE with NEW BLUEDAY HORNSの演奏をバックに、アルバムに参加した21人が「JUMP」を代わる代わる唄っていく。

世界のど真ん中で ティンパニーを鳴らして
その前を殺人者が パレードしている
狂気の顔で空は 歌って踊ってる
でも悲しい嘘ばかり 俺には聞こえる

Oh くたばっちまう前に 旅に出よう
Oh もしかしたら 君にもあえるね
JUMP 夜が落ちてくるその前に
JUMP もう一度 高くJUMPするよ

2005年に清志郎が唄ったこの曲が、今、本当に必要とされていることをわかっている21人がリレーして唄っていくのは感動的だ。街に、このバージョンの「JUMP」がたくさん流れてほしい、そう心から思う。

隣の家の灯りがついている。

植松眞人

 どうも隣家の様子がおかしいのではないか、と思い始めたのは新年が明けて三日目のことだった。
 隣家の佐々木家は私たちが越してきた三年前には、すでに子どもたちが独立してご主人と奥さんの二人だけで暮らしていた。ご主人も奥さんもどちらもとても愛想のいい人たちで、初めての町に越してきた私たち家族はほっと胸をなで下ろしたことを覚えている。
 子どもたちにも、とてもよくしてくれ、ご主人は独立した息子さんの漫画本を、奥さんは手作りのクッキーを、それぞれうちの子どもたちのために持ってきてくれたりした。
 家族ぐるみのおつきあい、というところまでではないが、互いに気遣い合うほどには親しい隣家ということになるだろう。
 この町に越してきた三年前から、私の家族は年末年始は私の実家である関西に帰省していた。だから、佐々木家がどのように年越しをしているのか、よく知らなかった。毎年年末になると「帰省します。よいお年を」と挨拶をして里帰りをして、大阪土産を持って新年の挨拶をする。ところが、この年末年始はどうしても年末ぎりぎりまでこなさなければならない仕事があり、帰省を諦めたのだった。「今年は里帰りしないの?」
 そう奥さんに聞かれて、事情を話したのが昨年末のおそらく三十日くらいだっただろうか。その時にも、こちらの事情を説明するだけで、佐々木家がどう年末年始を過ごすのかということについては全く話さなかった。
 子どもたちは、私の実家に帰らないことで、お年玉がもらえなくなるのではないか、と文句を言っていたが、電話で「お年玉を送るから」という父の言葉を聞いたとたんに安心してゲームばかりする自堕落な毎日を楽しんでいる。妻は妻で、私の両親とは仲はいいほうだが気を遣わないわけではないので、ほっとしたのか「おせちも作らずに買う」と宣言して年末から寝正月の体制を整えていた。
 私が隣家の様子がおかしいのではと思ったのは玄関の灯りを見たときだった。佐々木家はいつも夕方陽が暮れてくると門灯をつける。そして、夜十時過ぎになるとそれを消す。あまりにきちんとしているので、越してきたばかりの頃は、タイマーでも仕込まれているのかと思っていた。しかし、実際にはご主人か奥さんが門灯をこまめにつけ、そして消していたのだ。だから、佐々木夫妻が旅行に出ている時には、門灯はついていない。
 そんな佐々木家の門灯が午後早くからついているのだ。大晦日、まだ陽が高いうちに最後の買い物を済ませておこうと、私たちは出かけたのだが、その帰りに門灯がついていることに私が気づいた。たいしたことではないと思ったのだが、ちょっとした違和感があり、なんとなく気になり始めて、私は改めてリビングの窓から佐々木家の門灯をのぞいてみた。夕方になりかけている強い逆光で、灯りがついているのかどうかはわからない。仕方なく私は、リビングの窓を開け、サンダルを履くと狭い庭を横切って、佐々木家の門灯が見える所にまで近づいたのだった。
 確かに灯りがついていた。まだ陽が暮れる前に、門灯がついているなんていうことはこれまでになかったように思う。だからこそ、ほんの小さなことなのに妙に気になるのだった。微妙に角度を変えながら、灯りがついていることを確認すると、私は妻にそのことを伝えようと自分の家のほうへと首をひねった。その時だった。私の目の端になにか動くものが一瞬見えたのだ。えっ、と私は声を出してしまう。もう一度佐々木家を見るのだが、さっき何かが動いたように思った方向には佐々木家の台所の小さな窓があるだけだった。
 おそらく、佐々木夫妻はどこかに出かけているのだろう。でなければ、門灯をつけっぱなしにするような人たちではない。だとすると、いま台所の窓で動いたものは何だったのか。
 もしかしたら、泥棒かもしれない。私はそう思いたち、庭先にあった息子の子供用の野球バッドを手に自分の家の玄関へと回った。バッドを手にした私を見て、妻は驚いて声をかけた。
「バッドなんか持って、どこへ行くの」
「佐々木さんちだよ」
「バッド持って?」
「どうも、留守のはずなのに、家の中に誰かいるんだ」
「ほんとに」
 心配した妻は私の後についてきた。私たちは玄関を出て、遠巻きに佐々木家を眺めていからゆっくりと近づいていく。やっぱり門灯がついている。私はバッドと後ろ手に隠しながら呼び鈴を押す。家の中から返事はない。何度か呼び鈴を鳴らすのだが、返事はなかった。なんとなく拍子抜けしたのだが、もし泥棒だったら返事をするわけがないと思い直し、私は佐々木家の玄関脇の物置との間を入っていく。妻の「やめときなよ」という声は聞こえたのだが、私は引っ張られるように奥へ奥へと入っていく。ちょうど、我が家の小さな庭から見える場所へと出てくる。おそらく佐々木家の台所があるあたりだ。小さな磨りガラスには鍋やフライパンらしきものがぶら下げられている影が映っている。
 私がじっとその窓を見ていると、とてもやはり影が動いた。手のひらのようなものが、磨りガラスの向こうでゆらゆらと揺れたように思えた。もしかしたら、そうかもしれないし、もしかしたら、せっかくここまで来たのにという気持ちが何かを見せてくれたのかもしれない。でも、それは一瞬のことで、もう磨りガラスの向こうにはなにも見えなくなった。
 私はしばらくじっとその台所の磨りガラスを見つめていたが、その後は何も見えなくなった。磨りガラスの向こうで動くような気配もまったくなかった。しばらく眺めていた私も手にしたバッドを持ちかえて肩に担ぎ、なんだか子どもが一人遊びをしていたような気分に浸っていたのだった。
 家に戻ると一足先に帰っていた妻が、私を見て笑っている。笑いながら、さっき私が見たという磨りガラスの向こう側の動きは何だったのか問いかけたいとう口元をしている。
 正月の三が日は結局佐々木家の門灯はついたままだった。毎日のようにリビングから佐々木家の台所の窓を見ていたが何かが動くようなことはなかった。そして、四日になると佐々木夫妻が長野の漬け物をもって訪ねてきた。娘夫婦がいる長野へ行っていたらしい。孫と一緒に温泉に入って大声でアンパンマンの歌を歌ったことなどを聞かされた。
「留守中、なにかありましたか」
 と、奥さんに聞かれたのだが、私は答えることができずにいた。そして、妻が昔行ったという長野の温泉について佐々木夫妻と温泉情報を交換し合っている。
 そのあいだ私は大晦日に見たあの磨りガラスの向こうの手と、佐々木さんの奥さんの手がなんだか似ているな、と思い、私の妻と話しながらひらひらと動く佐々木さんの奥さんの手を見ていた。

ジャワ舞踊の衣装(3)頭部の装飾

冨岡三智

前回まで上半身と下半身の衣装を説明してきたので、今回は頭部の装飾について。ジャワ舞踊では頭部の装飾には(1)イライラハン(髪型と冠が一体化した被り物)を被る、(2)鉢巻状のものや冠を頭に着ける、(3)結髪だけ、の3種類がある。

(1)イライラハンを被るのは物語のキャラクター設定がある場合、つまりはマハーバーラタなどの物語を演じるワヤン(影絵人形芝居)の人形の意匠を模倣した格好をする場合である。たとえば、女性だとスリカンディ、男性だとアルジュノなどのキャラクターの被り物を想像してほしい。それらは固い張り子で成形され、黒いビロードの布が貼られている。これは髪の毛を表しており、後頭部や頭頂部に向かってクルンと丸くなっているのは、髪をまとめ上げていることを示している。そして、頭部をぐるりと巻いている金色(またはカラフルな色)の部分がジャマン(冠)というわけである。ジャマンの部分はワヤン人形同様、水牛の皮から作られている。イライラハンはキャラクタに―よって、髪型の部分の形もジャマンの形も決まっていて、アルス(優形)であればジャマンの先は丸くなっており、ガガー(荒型)であればジャマンの先はとがっている。

(2)は宮廷舞踊で使われる。槍や剣の鍛錬をする兵士を描いた男性舞踊(ウィレン)や女性舞踊のスリンピでは、踊り手自身の髪の毛をまとめ、布から作られた鉢巻状の物(兵士用)や王女用の冠を頭に着ける。(1)と違って、頭頂部は全部覆われずに空いている。このような舞踊は物語を下敷きにしていない。民間舞踊でも、ゴレッはスリンピのスタイルを模倣しているので、スリンピと似た冠を被る。なお、スリンピやゴレッの冠だが、王宮では金属製のものが使われるが、民間(芸大なども)では水牛の革製で、つまりは(1)のジャマンと同じである。

(3)結髪のみというのは女性舞踊にしかないが、それは男性は正装では必ず頭巾を被るからだろう。宮廷女性舞踊のブドヨではグルン・グデ(大きな髷という意味)という髪型に結う。これは宮廷女性の正式の髪型である。ただし、『ブドヨ・クタワン』だけは花嫁の髪型に結う。また、スリンピ用にはカダル・メネッという結い方をする。余談だが、これは逆立ちトカゲという意味である。ポニーテールにした毛束の先を持ち上げて顔の周りに沿わせ、櫛で留める形状がそのように見えるらしい…。実は、スリンピの衣装は2種類あり、(2)冠を被っても(3)結髪をしてもどちらでもよい。しかし、冠を被る場合は上半身はコタン(肩を覆う上着)、結髪ならコタンかムカッ(肩を露出するコルセットのような上着)と決まっている。ちなみに、民間女性舞踊ガンビョンの髪型はブドヨと同じである。これは、かつて宮廷人の集まる場に呼ばれたガンビョンの踊り子が、その髪型をするように指示されたためだと私は聞いている。

奇跡の星

笠井瑞丈

絵が踊る色彩の世界

宇宙の中を顕微鏡で覗く
身体の中を顕微鏡で覗く

赤い宇宙の空
青い宇宙の空

過去の記憶
未来の記憶

宇宙のキャンパスに音の色彩を垂らす

音の重さ

光の重さ

どちらの方がが重いだろう

光速

音速

どちらの方がが早いだろう

右も左

白も黒

またどこかで出会うだろう

怒りの力

悲みの力

どちらのほうが強いだろう

宇宙の彼方から

このホシを見ている人は
今どのくらいいるだろう

まだ知らない未知の世界から

キセキノホシ

見つかるだろう
きっと
身体の奥の中に

奇跡の星

野営の火

大野晋

明治の登山家、小島烏水の山岳紀行文を青空文庫に入力した時、ハイマツを集めて焚き火にしたり、雷鳥を捕まえて食べた話が出てきて、現代の感覚との違いに驚いた。当時の上高地はまずトンネルなどはなく、狩猟を主にする狩人が住んでいただけだから、今の賑わいとは異なっている。

私が小さな頃の屋外の焚き火と言えば、キャンプファイヤーという大きな焚き火を囲んで、踊ったり歌ったりするイベントが多かったが、実は東京の品川に住んでいた私は、4歳から10歳くらいまで薪で風呂を沸かして入る生活をしていた。考えれば50年ほどになるので何があっても驚かれないかもしれないが、当時でも薪を使って風呂を沸かしている家は少なかったように思う。ということで、実は薪を割ったり、火を付けたりといったことは意外と得意だったりする。

大学に入ると進学した学校が山の中にあったせいか、それとも、山の中を分け入るような学問を志したせいか、あるいは両方か、自然と野営の道具を抱えて歩くようになっていった。当時はちょうど、大学のワンダーフォーゲル部が大きなキスリングを背負って日本アルプスを縦走していた最後の時代で、火を起こす道具としては灯油やガソリンを使用した魔法のランプのような形をした大きな火器を使ったことのある最後の世代になった。一方で、米国のバックパッカーの文化が入ってきた時代で、米国製の火力の強いガソリンストーブを学生時代は愛用していた。

ところが、社会人になると重いストーブを背負うこともなくなり、その代わりに火力は弱くなるが軽量のガスストーブを愛用していた。このガスストーブの流れは今でもあまり変わりなく続いているが、3.11でガス缶の互換がなくて困った経験から急速に仕様の統合が進んだ。

さて、最近、ふと、キャンプ用品にまた興味を持って眺めているが、所帯道具を背負って歩くタイプの野営から、野営自体を楽しむタイプの活動に変わってきているようで、燃料も携帯性や効率を優先するよりも、むしろ情緒を楽しむために、薪や炭を使用することが増えているようだ。

情緒で思い出したが、社会人になって数年経った頃、春の夜桜見物に闇の鎌倉の某公園に、野営用のガスランタン持参で出かけたことがある。今考えると周辺の住宅の方達にはとんでもない迷惑をかけたものだが、日常とは異なるランタンの光に職場のメンバで楽しんだものだ。そう考えると火には人間の感情に訴える何かがあるのかもしれない。

仙台ネイチィブのつぶやき(30)しぐさを伝える

西大立目祥子

 食文化研究家の林のり子さんをお呼びして、リアス式海岸の小さな半島の町、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)で料理講習会をやったのは…いま資料を広げてみたら、1994年のことだった。あれから24年も経つのか。へぇ、とじぶんでも驚きながらちょっと振り返ってみることにする。

「新しい郷土料理をつくろう」と企画し始まった講習会は5回連続して開催され、最後には100人もの町の人を招いて料理を振る舞う発表会が開かれた。私は林さんを仙台から唐桑まで運ぶ運転手兼記録係として、ずっと講習会を見守る立場にあった。おっとりとしながらも頑固な林さんとどこまでも陽気な唐桑の若い女性たちはびっくりするほどウマがあい、受講生たちは講習会終了のあと、このまま解散したくないと「唐桑食の学校」というグループを立ち上げた。その後10年以上にわたって林さんを講師に活動を続け、つきあいはいまも続いている。

 忘れもしない第一回目の講習会。さぁてこれからどんな料理をつくろう、まずは素材探し、と臨んだ林さんの前にあらわれたのは、遠洋船を上がったばかりの鈴木さんという年配の男性だった。テーブルにのせたカツオの刺身を前に、鈴木さんがいった。
「長い航海になるとカツオをショウガ醤油で食べるのも飽きてしまってね、マヨネーズかけるんだね。ニンニクのすりおろし入れたりしてね」そのひと言に、林さんの目が輝いた。「それは地中海のアイオリソースよ! マヨネーズにニンニクのすりおろしとカイエンヌペッパーを入れて、魚料理に使うの」

 唐桑はすぐれた漁船員を輩出する町として知られていて、世界の海にマグロを追う漁船員がそのころ町内に1000人ぐらいいた。彼らと話していると世界中の寄港地の名前が出る。まさに、世界に直結する唐桑。
 講習会のテーマは決まった。「唐桑で世界の家庭料理をつくろう」林さんは、唐桑の夏の風景に地中海を、冬の風景にノルマンディ地方を重ね見たようで、カジキマグロとトマトやパプリカなどのカラフルな野菜で地中海料理を、唐桑の海で育つカキやホタテでノルマンディ料理をつくる提案がされていった。

 ここからがさらにおもしろかった。『カツオは皮がおいしい』という著書がある林さんは、素材をていねいに見て一つも捨てることなく使い切るのが信条。一方の唐桑は、いつも魚介類がふんだんに手に入るから、おいしいところだけ食べてあとは捨ててしまうのがあたりまえ。それだけに繰り広げられる調理のすべてが、唐桑の女性たちには驚きと発見だったといってもいい過ぎではない。

 カツオを下ろし「先生、アラは捨てますねー」といえば「ちょっと待って、スープにしましょう」と指示が飛び、パセリの茎を捨て葉だけを刻んでいると「もったいないわよ、茎も全部みじん切りにね」とひと言。そして、牡蠣のムースを蒸し鍋で仕上げ「わぁ、うまくできたね」と皿に移し鍋を洗おうとすると、「あ、蒸し鍋の底に牡蠣のエキスが落ちているんだから捨てないで」と待ったがかかる。そのたびにとまどい、顔を見合わせていた彼女たちも、回を重ねる中で林さんが何を大切に料理をしているかを感じとるようになっていった。

 極めつけは「ホタテのコライユグリーンソース」。名前のとおりホタテを使う料理なのだが、「みなさんは、いつもホタテをどんなふうに食べているの?」と林さんがたずねると、ホタテ養殖の盛んな町だけに「貝柱は刺し身にして、あとは捨ててる」という。このソース、何とそのヒモだけを使う料理なのである。

 半信半疑で料理に取りかかる。みじん切りにした玉ねぎを炒め、ざく切りのヒモと肝を投入し、生クリームを入れて煮込み、できあがりの直前にたっぷりとみじん切りにしたパセリを加える。白いソースにホタテの黄味がかった具が浮かび、鮮やかな緑のパセリは雪の中から萌え出る草のようにみえた。

 ごはんにかけて食べると、実においしい。「ヒモだけなのに、いい味」「いつも捨ててたなんて何やってたんだろう」「こんな風に使えばいいのね、活かし方次第だね」…素材のすべてを活かしきるということの意味としぐさが、すとんとみんなの胸の深いところに落ちていった瞬間だった。

 リンゴの5つ割も、語り草になるような作業だった。アップルパイをつくるために50個ほどのリンゴを用意して、みんなで皮むきにとりかかろうとしたら林さんがいう。「4つ割じゃなくて5つ割にしてね」
 えぇっ? 5つのガクが大きくなったのがリンゴの果実で、リンゴのお尻を見ると、その成長のあとを示すように五角形の星型がのぞいている。この星型の凹んだところに向かって包丁を入れると、種がとりやすく、廃棄する部分も少ないということなのだ。「大量に用意するときはひとつひとつの捨てる量が全体に響いてくるのよ」と林さん。お尻とにらめっこしながら皮むきをすると、たしかにそのゴミの量は驚くほど少なかった。

 5回の講習会が終わるころには、林さんの考え方、作業の仕方はみんなの中にしっかりと浸透して、「先生ならこうやるはず、こういうはず」という想像がいつのまにか規範として根づいているのだった。
 ともに台所で作業をすること、ことばを実践の中でたしかめていくということは、想像以上の伝える力を持つようだ。座学だけではこうはならなかっただろう。知識として覚えたことは忘れるかもしれないけれど、しぐさとして身についたことはきっと消えない。20年がたったいまも、きみんなは台所でパセリの茎をきざみ、ホタテのヒモは捨てずに使っているはずだ。

 講習会から20年が過ぎたころ「唐桑食の学校」代表の藤原理恵さんに、「ねえ、まだリンゴ5つ割にしてる?」と聞くと、「してるよ」とごくごく自然に答えが返ってきた。文化の伝播とは、きっとこういうことをいうのだろう。

製本かい摘みましては(134)

四釜裕子

田川律さんの『田川律〈台所〉術・なにが男の料理だ!』(晶文社)を古本屋で見かけたら必ずする儀式がある。中を開いて八巻美恵さんと林のり子さんが田川さんちでお料理を囲んでいる写真を指差し確認するのだ。抜けるはずはないのですけれど、確認、確認。今回手にしたのは「平野甲賀と晶文社展」(ギンザ・グラフィック・ギャラリー 2018.1.22〜3.17)でのこと。地階に平野さん装丁の晶文社本がおよそ600冊並んでいて、元に戻しさえすれば手袋なしで読んでかまわない。付箋や赤字が入ったものもある。あちらこちらで立ち読みが繰り広げられている。壁に張られた平野さんのコメントも楽しい。鶴見俊輔さんの座談シリーズの一角には、中川六平さんが鶴見さんとの席を設けてくれたのだけれども、平野さんの本に付箋をたくさん貼って持っていた鶴見さんを見て思わず辞退した、とある。実現していればこのシリーズに「デザインとは何だろうか」が加わっていたかもしれない、と。

上階には、平野さんが手掛けたポスターやチラシや本のカバーを再構築した作品や新たな描き文字が、和紙にプリントされて並んでいた。こちらもまたコメントが面白くて、しかもそれが作品に入りこんでいる。説明調でなく、吹き出しのかたちはないまでも画面の奥から平野さんの声で聞こえてくるよう。小沢信男さんの『捨身なひと』(晶文社)は、もともとは「捨身のひと」だったのに平野さんが間違えて「捨身なひと」にしてしまったんだけれどもこれでもいいかということで『捨身なひと』になった、とか。表紙カバーを再構築した一連の作品はもはや本のポスター、あるいは本の風呂敷とでも呼んでみたい。実際の本をこの風呂敷に包んで持ち歩き、杖代わりの棒に風呂敷をしばりつけて左右に振ればたちまち即売会場なんて、いい眺めではないですか。そうか、平野さんの装丁は、本のポスターを作ってそれを畳みこんだようなものなのではないかしら。

展の初日の平野さんと津野海太郎さんのトークはライブ中継で聞いた。この日、東京は予報通りの雪となり、早々に帰宅したので聞くことができたのだった。繰り返し出てきたのは「産地直送のデザイン」という言葉。これは、京都のdddギャラリーでの展示(2017.9.4〜10.24)中のギャラリートークで作家の黒川創さんが平野さんを評した言葉だそうだ。褒めているのかけなしているか考えたのだけれども、産地にいる人たちと僕もいっしょに働いているというかたちを言ってくれたようにも思うし、あるいは安くて単純なデザインということなのかわからないけれども、悪い気はしなかったと平野さんは言った。僕のデザインは出たとこ勝負、練り上げたものはないからね、ともおっしゃったけれども、現場というかいつも近いところでデザインしているから、デザインの完成が本や舞台そのものの完成と時差がなくて、練り上げる時間も、それをする必要もないのだと思う。「産直のデザイン」とは、平野さんには実に格好良く似合う。

この対談は展の期間中、ユーチューブで公開されている。津野さんは「新日本文学」で杉浦康平さんとの仕事を通して、〈デザイナーがかかわると雑誌というのはこんなにも変わるのかというブリリアントな経験をした〉。それで晶文社に平野さんを誘い、以降多方面で行動を共にして、〈この人がいないと僕の場合はだめ〉だったと言う。そうして平野さんが始めた装丁はありとあらゆる分野の本に広がった。〈本が好きというのではなくて、本が扱っている世界に色気を感じてたというか、おれもこれくらいの教養のある世界にいたいという思いはあった。でもそこで何か勉強してかっこつけようというのはなかったね。あこがれの世界だよ〉。東京の蕎麦屋の味が変わったことに腹をたてていた。もううどんしか食べないとも言った。展示を観たあと、私は平野さんと小豆島を思いながら小豆島大儀銀座店でごぼう天うどんを食べた。三つのごぼう天のうち、一つは汁にたっぷり浸してあるのがいいと思った。

アジアのごはん(89)酒粕三昧

森下ヒバリ

酒粕には小さいころからお世話になってきた。生家は祖父母がお酒と文房具を贖っていたので、酒粕は冬になると取引先の造り酒屋から好きなだけもらえたからだ。祖母は居間の火鉢の横が定位置で、冬になるとその火鉢に網をかけておやつに板状になった酒粕をちぎって焼く。焦げ目がつくくらいに焼くと、アルコールがいい塩梅に抜けて、香ばしい匂いが漂う。祖母が酒粕を焼き始めるとそばについて、じっと待っていたものだ。もっともアルコールは抜けきってはおらず、あまり大量には食べられない。塩も味噌も砂糖も何もつけない、そのまま焼いただけのものだが、どういうわけか好きだった。

そして、もう一つの定番は酒粕から作る甘酒であった。甘酒というのは酒粕から作るものだと、大人になるまで思っていて、麹からつくる甘酒が正統であると知った時はなにか釈然としない気持ちになった。酒粕をちぎって水に浸し、柔らかくなったら煮て、仕上げに砂糖を入れてショウガをちょっと入れて飲む。鍋一杯に作られた酒粕甘酒は、好みの甘さに調整できたし、好きなだけたっぷり飲んで、温まることが出来た。大人になって麹から作る甘酒を作ってみると、強烈な甘みに驚いた。砂糖を入れていないのに、こんなに甘みが出るとは。

麹が米のでんぷんを分解して出来る甘みだが、この甘みの成分は一体なんなんだろう。調べてみるとなんとブドウ糖であった。麹甘酒はたしかにとてもおいしい。しかし、作ると飲み続けてしまう。小さなグラスに1杯飲んで冷蔵庫にしまうと、1時間もしないうちに飲みたくなり、ちょこっと1杯。そしてまた。これが終わらない。どうしてこんなに止まらないのか不思議だったが、ブドウ糖なら納得だ。

いわゆる糖質を摂取すると、血糖値が急上昇し、その後インシュリンが大量放出されて急低下する。血糖値が急低下すると、脳がはげしく糖分を要求するので、またまた糖質がもうぜんと欲しくなる、ということになる。糖質には炭水化物と糖類があり、糖類の中でもとりわけブドウ糖はすぐに吸収されて血液に回ってしまうのでこの血糖値上昇率がナンバーワンなのである。ブドウ糖は脳の栄養なのでいいものだと思ったら大間違いで、体の中で精製するぶんには問題ないが、直接食べるのは極力さけるべきものである。

麹の甘酒にはいろいろな栄養分があり、食物繊維も多いので、美容や健康にいいところも多いが、連続摂取、大量摂取はやめたほうがいい。糖尿病や血管破壊にまっしぐらだ。甘酒の甘みは砂糖じゃないので体にいいと信じて、いくら食べても大丈夫などとは思ってはいけません。飲むとしたら、空腹時ではなく食後に少し。

甘酒への終わりなき欲求と血糖値ジェットコースターに恐れをなしてからは、麹の甘酒をあまり作らなくなったが、ふと思いついた。甘酒に豆乳ヨーグルトを加えて乳酸発酵をさせて、糖分を乳酸菌に食べてもらったら、ブドウ糖の害がなくなり、甘酒のいいところはそのままでさらに乳酸菌のいいところまで摂取できるスーパー甘酒(あまくないけど)ができるんちゃうか!

さっそく、ヨーグルティアで甘酒を500mlほどつくって、そこに豆乳ヨーグルトを大匙2〜3杯混ぜ込む。それをさらにヨーグルティアでヨーグルトを作る要領で5〜6時間保温すると‥。

ふむ、けっこううまい。甘くないから甘酒ではないが、酸味が加わってヒバリ的にはかなり好みの味である。で、常温に2〜3日置いていたら、あれ、なんかこれ、お、お酒のような‥。え〜、どぶろくを作ってしまったのか? 健康のために飲むなら、できたら冷蔵庫にしまって早めに飲みましょう。どぶろくにしたいならイースト菌を加えるとしゅわしゅわともっと発酵します。

酒粕の話からそれてしまった。酒粕焼きと酒粕甘酒がおやつだった幼少のころだが、どういうわけか生まれた家ではそれ以外にあまり酒粕を使わなかった。粕汁や奈良漬はあったが苦手だった。なので、大人になってからは酒粕との縁も切れていたのだが、最近は少しづつ酒粕を使う料理や保存食にトライしてみている。

まずは、酒粕と白味噌を混ぜた漬け床。酒粕メインの漬け床よりもクセがなく食べやすい。使いやすいように板状の酒粕は同量の水に浸し、塩を1%加えてブレンダ―などでクリーム状にしておく。保存がきくのでこれは多めに作って冷蔵庫に保存しておくと、酒粕料理にすぐ使えて便利。これと白みそを同量ぐらい合わせて野菜にまぶすようにして漬ける。一度つけると使いまわしはできないので、少量づつ。

これに一番合うのが、なぜかセロリであった。セロリは茎を皮をむいて食べやすい大きさに切り、酒粕白みそをまぶして冷蔵庫へ。2〜3日でおいしくなる。漬け床も一緒に食べられる。先日アボカドで漬けたら、わたしはおいしいと思ったが同居人には不評であった。なので、少しづつゆっくり食べていたら1週間ぐらいしたらいきなり漬け床が発酵してクリームチーズのようになった。こちらは奪い合いになった。その後作ったものはなかなか漬け床クリームチーズになってくれないので、たまたまいい菌がいたのだろうか。

酒粕をクリーム状にしたものは、この漬け床に使う以外にも、そのまま味噌汁に入れれば粕汁に、鍋に入れれば石狩鍋に、パスタソースやシチューにちょっと加えるとぐっとこくが出る。

米粉メインでケーキをいろいろ作ってみたが、酒粕を加えると味に深みが出るだけでなく、しっとりとおいしく仕上がることに気が付いた。もう、酒粕なしで米粉ケーキは作れません。グルテンフリーを実践するにあたって酒粕は大切な助っ人になるのであった。

ただ、酒粕は加熱するとチーズに近いコクが出るとはいえ、酒粕メインのパスタソースはまだ成功していない。奈良漬けに通じる酒粕の匂いがどうも苦手だ。もっと弱火でゆっくり加熱する必要があるのかも。あまり加熱すると酵素が破壊されてしまうと思うと、なかなか熱を通せないのだが、そうも言ってられないか。

先日、秋田に大好きなお酒「出羽の雫」を注文したら、同じ刈穂酒造の酒粕をいただいた。「刈穂」の大吟醸酒粕である。板粕ではなく水分多目のクリーム状の練り粕であった。ぺろっとなめてみたら、そのままでうまいっ。う〜ん、やはり元の酒で味がちがうなあ。さっそくこれでレーズンを漬けてみた。そのまま練り粕とレーズンを混ぜておくだけ。1週間ぐらい漬けるといい感じ。酒粕とレーズンを一緒に食べる。新しいおやつのラインナップ入り決定。

今これを書いているのはマレーシアのクアラルンプールだ。明日からラオスに飛ぶ。旅に出る前に、今回は久しぶりに味噌を漬けてきた。味噌の仕込みのベストシーズンは大寒の頃と言われる。一番冷え込む時期に仕込み、最初の発酵をじっくりゆっくり進めるためだ。夏を超えて、秋が深まる頃から食べられるが、もうちょっと長く熟成させる方が好み。春あたりから、仕込んだ味噌の表面にカビが出やすくなる。酒粕でびっちり蓋をするとカビが来ない、来ても酒粕ごと捨てれば下の味噌は無事、酒粕にカビが来なければクリームチーズのように酒粕も熟成してウマいなどという話を耳にしたので、さっそくやってみた。

初めて味噌を仕込んだときは晒し手ぬぐいで蓋をしてみたが、きっちりカビが来た上に甕のふたが甘かったので小バエが湧いてしまい、恐れおののいた。怖くて放置していたら虫は羽化して飛んで行ったので、ほっとした。もうダメだろうと思って上の方からすくって捨てていたら、下からきれいな味噌が出て来て安心した。これが初めてにして最大の失敗で、その後はつつがなく味噌が出来ている。

それからは味噌の上にサランラップをぴっちり敷いて、かめのふたの下にも虫が入らないようにラップを巻いたりしていた。やっぱり無添加ラップといえどもラップを味噌の表面にぴっちり敷くのはちょっといやだなあ、と常々思っていたので、酒粕蓋が成功するといいな。さて、味噌も酒粕蓋もおいしくできますように。

高齢化社会のバレンタインデー

さとうまき

年末と年始、一週間づつトルコとイラクにいってきた。

イラクでは、昨年の9月25日にクルド自治政府がクルド人の独立を問う住民投票を行ったことで、腹を立てたイラク中央政府が、厳しい制裁を課し、私たち日本人も退去しなくてはいけない羽目に。小児がんの子どもたちの支援は滞り、イラク政府とやり取りをし、何とかビザを出してもらった。気が付くと、チョコレートキャンペーンの広報がほとんどできていない。急遽、1月11日の深夜便で、イラクに飛び一週間の滞在で、イラクを取材して鎌田實の担当するニュースエブリィというTVでチョコの話を流してもらうことになった。

話はかわるが、正月に家族が集まった。父が90歳になり、腰が曲がってほとんど歩けない状況。姉と相談して、これからどう介護していくかねという話をしていた。

また、ちょうど、実家にいるときに、母が電話で話していたのだが、警察からの電話で、「振込み詐欺が多発しているので気を付けてください」と言ってきたらしい。警察を名乗った詐欺かもしれず、怪しいなと母に言うと、「私は絶対に騙されないわ」と自信たっぷりに答えた。しかし、姉は、「最近、母がぼけている」とこぼす。

ものすごい、ハードな行程だったのだが、もう、僕も結構な年でこういう移動はきついなと帰国した翌日、義理の兄を名乗る人物から電話が入り、「残念なお知らせです」という。「お姉さまが亡くなられました」
え? 詐欺じゃないのかと一瞬疑った。しかし、それは、残念なことに真実だった。58歳の姉が突然、うっ血性心不全で亡くなったのだ。一週間休みをとり、葬儀を済ませた。

久しぶりに、職場に復帰すると、チョコ募金の申し込みが芳しくなく、このままいくとバレンタインを過ぎてもチョコがかなり余ってしまうというのだ。確かに、イラク戦争から15年もたてば、忘れられてしまう。遠い過去の戦争。そして、僕たちも高齢化して、一緒にチョコ募金を広めてきた人たちが、亡くなっているし、介護などで動けなくなってしまっているのも現状なのだ。

暗澹たる気持ちで電車に乗っていると、病院から電話が入る。「お母様が、認知症と思われるので、検査に連れてきてください」というのだ。肝心の僕自身動きがとれなくなってきた。

先日、小室哲也が、「介護の大変さとか社会のこの時代のストレスとか、そういうことにこの10年で触れてきたのかなと思っているので、こういったことを発信することでこの日本も何かいい方向に、少しでも皆さんが幸せになる方向に動いてくれたらいいなと心から思っております」といって引退していった。今の僕の心境からして、彼の言葉は説得力があった。

チョコが大量に余ってしまうことの恐怖。確かにお金が集まらないと今までみたいな支援ができなくなること。しかし、僕の中では、それ以上につらいのは、「今年のチョコは花じゃないのね? マスクかけているし、点滴しているし。」と敬遠されること。以前紹介したように、絵を描いたSUSUが、「髪の毛が抜けて、皆が、憐みの目で自分をみた。死んでしまう子だわと差別された。」そんなつらい思いを知ってほしいからあえてチョコにした。そこが敬遠されるのが一番つらい。

間もなく2月9日から、14日までギャラリー日比谷で展示が始まる。2月8日のTVでも宣伝してくれることになった。

サカベコ(赤べコにサッカーのユニフォームをペイントしたもの)に福島ユナイテッドというサッカーチームの選手たちが顔を書いてくれることになり、チョコ募金を応援してくれることになった。急遽30個のサカベコに色を塗らなくてはならず、ふさぎ込んでいた両親に色塗りを頼むことにした。不思議なことに、悲しみに暮れていた両親が、一生懸命塗ってくれている。
「ほかにも手伝えることはないか?」とやる気満々だ。

もう、僕には大衆受けするようなチョコを作る自信はないけど、規模は小さくても、みんなが幸せになれるような社会をチョコ募金で作っていければと思う。

チョコ募金、展覧会はこちら

159立詩(7)夢劫

藤井貞和

東北福島県 系母五百人
同乗新幹線 訪文科省尋
放射災抗議 文相隠不会
坐込廊亦房 五月颯且快
声明促蹶起 不安孩児躯 
動援埼玉民 反応杉並区 
国会周辺集 林立立看板
蹌踉抗議行 数万初夏乱
切断浜岡地 廃炉五十四
老家勤節電 若年赴奉仕
願令不再演 安夢劫立詩

(「夢劫」という語が出てきたので。韻は「人」「尋」「会」「快」「躯」「区」「板」「乱」「四」「仕」「詩」。冗談です。)

懸解

高橋悠治

「懸」は吊るされている 「解」は縄が解ける しばられていたのが急に自由になることだが 『荘子』の二箇所に昔のことばとして出てくるから かなり古いことらしいが 昔もいまも 自由は一瞬のこと すぐまたしばられ 束縛も自由も その間の変化も意識しないままにすぎていく

「明け方の雲が色を変えていくように 黄昏の空気が冷えていくように 音楽はことばにならない時代の変化を映す」

浜離宮朝日ホールで3月2日ピアノ・リサイタル「余韻と手移り」の準備をしている 知らなかった曲を集めて 弾けないところから練習の手立てを考える フレーズが くりかえされるごとにすこし変る 自分の作曲では芭蕉連句の「付けと転じ」になぞらえてやっていることも 他の作曲家のやりかたはそれぞれちがうので 音になじめないし すぐにはできない 練習のしかたもわからないから いろいろ試してみる 指だけでなく 身体全体のかかわりが記憶され 意識しないで動いていくまでには ただの反復練習ではなく 音を出さないで手の動きや位置の変化を感じることや 手の位置をたしかめながら 変化をおくらせるなど いくつかのやりかたで 変化を意識し 手が記憶するにつれて 意識では忘れることになるか じっさいは そこまではいかないし 確信ありげに音を操る名人芸になってはつまらない ことばにならない感触 共有できても一般化できない経験

練習をかさね 何回も演奏した曲でも 舗装されて足元の安全を意識することもなく走りすぎる大通りにならない音楽もある 溶けない雪が凍りついて 足の拇指でたしかめながらでないと 次の一歩を踏み出せない なめらかな見かけだが 足先の感触で 毎回ちがうところに段差や裂け目が隠れているのがわかる 最近では サティの『ジムノペディ』やシューベルトの『冬の旅』がそうだった。

作曲していても そういうことがよく起こる 経験をかさねて 身についたはずの技術が役に立たない まず全体を設計してから 細部を埋めていくような方法を捨てて 音が来るのを待つようにして以来 次の音が現れないときは 音楽がそこで停まってしまう 「壁にぶつかったらひきかえす 曲り角には別な道がある さらにもどれば またちがう道もみつかる」というやりかたで切り抜けて来たが そうでないやりかたもあるかもしれない 待っていると 行手の壁にも隙間が浮かんでくる それが細い道に見えてきたら 壁の間の狭い隙間を 身をかわしながら ゆっくりすりぬける 通り抜けると 風景もそれを見る角度も変わっている 音楽は続いていても 一貫したものではなくなり ばらばらのかけらになって散っていく

2018年1月1日(月)

水牛だより

きのうの大晦日、東京は雪がちらついた曇天でした、きょうはうってかわって快晴の元旦です。
明けましておめでとうございます。
ことしも水牛をよろしくお願いいたします。

「水牛のように」を2018年1月1日号に更新しました。
新年初の更新ですが、ほとんどの原稿が書かれたのはまだ今年になる前です。何時間しか違わないのに日をまたぐという感覚がいつもより強く意識されてしまいますね。

管啓次郎さんの5冊めの詩集『数と夕方』が届きました。水牛に掲載した詩もいくつか収録されています。文庫版のようなサイズですが四隅がまあるくカットされているので、モレスキンのノートブックを思い出す美しい本です。モレスキンみたいと思って開くとそこに詩がある、というのは楽しい。手にとってみてください。

「人生は非常時の連続である。」
「〈とりあえずお昼〉と〈とりあえず寝る〉ことより以上の大事なことはない。」
「良心は悪。」
「非行は健康の素。」
などなど、ことしも田辺聖子の〈人生のひとりごと〉を支えに持って過ごしていきます。

それではまた!(八巻美恵)

2018年のリアル

さとうまき

間もなく2018年に入る。その前に2017年のおさらい。

何といっても今年は、ISとの戦いの最終章をむかえたことだ。12月9日、イラクのアバディ首相は、「イラクは完全にISから解放された」と宣言。在日イラク大使館でも暮れに記帳が行われた。

そして、Rudawというクルドのニュースをネットで見ていると、ヤジディ教徒の少女が4名シリアのデリゾールで保護されたという。ISに性奴隷として強制結婚させられてたのだろう。6,417人がISに連れ去られ、3,248人が開放されたが、いまだに3000人以上が行方不明だという。

2014年の1月にアンバールがISに支配しされてから、3年間の戦いが終了した。といっても、2003年のイラク戦争以降、外務省は、一部地域をのぞいて退避勧告を出し続けている。たとえISがいなくなろうが、退避勧告は解除にはならないだろう。争いの構造は続いているのだ。

2014年の6月には、ISがモスルを制圧し、隣のアルビル県にも迫る勢いだった。現場で踏ん張っていた、榎本彰子と、田村叔子が、TVのインタビューで一生懸命支援を訴えていたが、ほとんどその部分はカットされ、「日本人女子2名が、危険な状態です!」的な報道になってしまった。イスラム国ってなに? みたいな関心は高まっていたが、逃げてきた人たちを支援しようというムーブメントをマスコミは作ろうとはしなかった。

ISは残忍だ。首切り? レイプ? ああそうだ。人間のやることじゃない。でも最初にやったのは、米軍だ。ただ、米軍は首切りは得意じゃなく、銃社会だけあって、銃を撃つのが得意だった。そして、レイプは、得意分野。首切りが得意なのは、日本軍だったのかもしれない。

何が違うのか? ISは、残虐さを売りにして、すべて見せた。彼らが流す映像も実にきれいに編集してありハイビジョンなのだ。しかし、待てよ。「衝撃と畏怖」作戦。これは、アメリカのイラク攻撃の作戦名。ともかく、相手に恐怖を与えて服従させるやり方は似たようなものだ。

イスラム国がまるで、ふっとわいてきたようなセンセーショナルなムーブメントのように語られるが、暴力の連鎖の結果であり、一方ヨーロッパやアメリカでは、構造的な差別や暴力の結果、新しい価値観を求める若者たちにパラダイスがあるかのように錯覚を起こさせた。そして、彼らが、イラクやシリアに向かっていったのだ。

僕には、いまだに、ISって何だったのかよくわからない。民主主義国家から独裁国家へ世界は逆行しているように思える時代。しかし、ISのリーダーっていったい誰なんだろう。バグダーディーというが、彼のスピーチとか最初だけしか出てこなかったし、本当に指導力がある人なのかもよくわからない。時たま、「イスラム国」ってバーチャルなゲームの世界の話かなと思ってしまう。あるいはTVのフェイクニュースなの?

いや、僕は、レイプされた女の子からもしっかりと話を聞いたし、戦闘に巻き込まれた、人々が血を流して病院に担ぎもまれたのも見ていた。そして、空爆されたがれきの中に散在する薬きょう。

僕は、今日本にいる。年末年始に日本にいるなんて、本当に、2011年の暮れ以来。どんな、年末がいいかなと思い、できるだけべたなのがいいと、90になった親父と80半ばの母と一緒に紅白を見た。最近のステージはバーチャルな映像とリアルな映像が行ったり来たりするらしい。シームレスMR(Mixed Reality:複合現実)という技術だそうだ。紅白歌合戦も、ものすごい進化していて、おそらく東京オリンピックに向けていろいろ動いているんだなと実感した。

さて2018年、こんな時代だからこそ、なおさらリアルな現場に身を置きたいと思う。というか、なんか新しい技術には、ついていけてない。プレステ4をせがんだ息子の世代がいろいろやってくれることに期待して、老体に鞭打ちながら現場に行ってきます。

仙台ネイティブのつぶやき(29)常緑樹でしのぐ

西大立目祥子

 一昨年のお正月のこと、年明けすぐに叔母の家に遊びに行くとテーブルの上に新年の生花の残りのマツが、ひと枝コップに挿して飾られてあった。細い針のような葉をまっすぐにこちらに伸ばすマツと、お茶を待つ間対面するような格好になってしまったのだったが、戻ってきた叔母につい本音が出た。

「私、松ってどこがいいのかわかんないよ」
 すると叔母は、それは意外という表情を見せて、いった。
「あら、そう? いいじゃないの。この青々としてるところも、尖った葉をピンと伸ばしているところも」
 叔母は85歳。歳を重ねればこそ腑に落ちてくる松のよさなんだろうか。そのひと言は、松から私への問いかけのようにずっと頭にちくちくと残っていた。

 それが不思議なことに、昨年のお正月、玄関に新年を迎える花を生けていたら緑濃い松の枝が胸に響いた。直線的な葉はすべてまっすぐ天を向き、一本一本の葉の緑色が輝いている。あふれる生命力が伝わってくるようだ。ああ、松っていいな、と心から思った。初めてのことだった。

 もしかすると、1年中緑を絶やさない常緑樹に心惹かれるというのは、じぶんの生命力の陰りと関係があるのかもしれない。
 松を発見してからほどなくして、私は入院して手術を受けることになった。手術の前に外泊の許可をもらったとき、盛りを迎えていた庭の乙女椿を一輪、病室に持ち帰って飲み干したペットボトルに挿した。ピンク色の薄い花びらが幾重にも重なる乙女椿は、可憐で繊細で美しい。手術直後のまだ動けないときも、少し回復してからも、話をするように椿を飽きずに眺めていた。
 それまでは、椿のつややかな葉もぽったりと重たそうな花も、どこかうっとおしくて苦手だったのに、葉の光沢や花の華やかさが、力を分け与えてくれるように感じるのだった。

 病室の窓の外には広瀬川を見下ろす見事な眺望が広がっていても、見飽きることがないのは目の前の椿。遠くの眺めはときに胸がすくような思いにさせくれるけれど、人には「近景」が欠かせないのだと思った。手を伸ばせば触れたりなでたり対話できる間近な自然が、人には要る。

 この秋は日が短くなっていく中で、じぶんの存在までが細るようだった。こんなにも自然の移り変わりに左右されるなんて。生きものとしてのじぶんが、自覚されてくる。少しずつ歳を重ねて生まれてきた新しい感覚といっていいかもしれない。

 冬至までひと月を切った11月下旬、主催している市の最中にお昼ごはんを買いに出かけると、マンションの樹木の剪定中で、落とした枝が歩道を埋め尽くしている。
見れば、わぁ常緑樹だ。椎(シイ)の木と、もう一方は樅(モミ)の木だろうか。たのんでひと束いただき、市にきているヤギの親子に椎を枝ごと与えたら、おいしそうにムシャムシャと葉を食べてあっという間に丸坊主にしてしまった。
 樅と思われる方は、もこもことした緑の枝が規則正しく三方向に伸び、そのきっちりとした連続性が神秘な力を感じさせる。捨ててはいけないような気持ちになり、家に持ち帰り花瓶に挿してずっと眺めている。もうひと月以上になるのに、葉はまだ青々としたままだ。

 クリスマスには樅の木を飾るけれど、もともとは冬至の祭りだったと聞く。太陽の力が極限まで弱まり復活していくときに、冬にも濃い緑の樹木に生命の再生を願ったのだろう。光も生きものの力も弱まる冬枯れの中で、常緑樹に力を見出していくのは国や民族をこえている。

 12月。毎年お願いしている植木屋さんが少し遅めにやってきた。イロハモミジもドウダンツツジも真っ赤に染まり、落葉し、枯れ木のようになりかけた季節。こんもりと緑の葉を茂らせる月桂樹を剪定してくれる。フリーランスの植木職人といった風貌のこの人は、脚立に上がってハサミを動かしながら「月桂樹って、切っていると甘い香りがしてきて幸せな気分になるんだよ」と話していた。
 毎年ばっさりと落としてもらった枝を拾って、しばらくバケツに入れておき友だちに分ける。月桂樹は、葉を広げず、枝に沿って葉の裏を表に向けるようにしてするすると伸びていく。端正で美しい枝ぶりだからこそ冠にされたんだろう。葉をパチンと
折ると、瞬間にいい香りが立つ。

 大みそか。買い求めた松と水仙に、庭の山茶花(サザンカ)切って飾る。お正月を迎えるための常緑樹だ。
 冬至が過ぎ、日差しの弱まりは底を打った。寒さはこれからが本番だけれど、庭の緑の常緑樹に力をもらいながら冬をしのごう。

158立詩(6)いがいが

藤井貞和

ちいさな子を「みる」(みるちゃん)と呼ぶような、
語があったのでしょうか、「みるこ」という名もあります。
「みる」を海松(うみまつ)と書くので、海中に生える松とは、
明石の浦で産まれたあなたの赤ちゃんです。 あやめの節句に、
五十日めの赤ちゃんは、もう物語(おしゃべり)するのね、
お見知りも、聞き分けも、もののあやめ(分別)も。
「海松(うみまつ)や。時ぞ ともなき陰(かげ)にゐて、
何のあやめも いかに分くらむ」、みるこの歌です。
海に生える松(姫君)よ、変わる時のない、あなたの庇護下にあって、
菖蒲(あやめ)ではないが、五十日(いか)の日に、
いかにものの分別(あやめ)ができるようになっていることでしょう。

(「いか」〈五十日〉の祝福は「いかに」〈どのように〉をかけてある詩の技法ですが、「いがいが」〈あかちゃんの泣き声〉もかかっているという説を以前に見たことがあります。ああそうか、おぎゃーおぎゃーに同じだと気づきました。いがいが、言語の発生ですね。この世のはじめてのことばであなたに何をうったえているのですか、赤ちゃん。『源氏物語』澪標〈みをつくし〉より。)

最後の月に

仲宗根浩

修学旅行に行った子供は十二月に入る数日前から制服は冬服になる。こちらも半袖ではいられなくなり長い袖の服を着たりする。それでも仕事中動くと暑いので羽織っているものを脱いだり着たり。

師匠より朝メールが来る。今年、久留米で行われた筝曲の賢順コンクールで琉球筝が一位になったこと、その演奏が筝曲の原型を響かせて素晴らしかったこと等々。前日に地元新聞で記事を見つけ、知っていたので昼ごろにメールを返信すると暫くして電話が来る。地元紙ではそんなに大きな扱いの記事では無かったことなど話をする。琉球筝の流れの一つは八橋流を習得したものが八橋検校の没後二十年くらいで沖縄に伝わった、と琉球筝の楽譜の序に記されていてその曲も記されている。であれば八橋検校が作ったとされる調弦の平調子はなぜ沖縄に残っていないのか、伝わったが手だけを残し調弦を変えてしまったのか、と疑問が残り、八橋流ではなく筑紫流ではないかと思ったりする。八橋流の名前が残っているのは長野の松代八橋流ぐらいしか今伝承しているものはないし、といろいろわからないことばりであるが。

いろいろ落ちてきてはニュースになり、落ちた現場には中傷の電話があったようで、まあこれもネットでの情報を受けてのことだろう、と思うが偏向していると言われる新聞、メディアが取り上げても電話をしたほうは受け付けないだろうし。偏向しているメディアと言われるが、編集というものが加わることで簡単に偏向するし、世に出ているメディアがなんらか偏向している、と思っていたらすべての新聞は偏っている、と論じる本が出ている事を知るが、そういう本が出たところで知らないひとは知らないし。中傷電話の記事でみた「沖縄人は戦闘機とともに生きる道を選んだのだろう。」というなかに「沖縄人」と言ってくれることに「日本人」と違う人々が生活している沖縄がある、ということで日本とは違うありかたがあってもよいし、自治や制度があってもよいということになるのではないか、と考えてみてもそこまで考えて「沖縄人」と使っているわけではないだろうし。

テレビでは相撲のことばがりで辟易。そういえばCD屋で働いている頃、相撲の雅楽のCDが出ていること、本場所とは違う民放主催でやっていた相撲トーナメントでちらっと演奏されていたのを思い出し。あの頃買わずに舞楽のCDを購入した。調べたら「古式 相撲の節会」というタイトルだった。

新春の切れはし

璃葉

刻々と年の終わりが近づくある日、実家から長方形の青いボール箱が届く。箱の中にはビニール袋に詰められた米と、小さな柚子が二つ入っていた。柚子は実家の庭に生っているものだ。冬になるといつの間にかかわいらしい黄色の実を結ばせているのに気づいては、窓越しに眺めていたのを思い出す。

この年も正月の準備を一切せずに終わろうとしていたときに、子どものころの年の暮れの記憶がよみがえる。家のあらゆる方角を清めるための大掃除、しめ縄の準備、おせち作りの手伝いなど。あのころはひとつの行事として楽しんでいた。

東京にいるこの数年間は慌ただしく過ぎていく日々を暮らすのが精一杯で、あらゆる年中行事を無視して過ごしているような気がする。季節に沿うように生きていくのはこんなにもむずかしいことだったかと、ふと考えこんでしまった。

すこしだけでもやってみようか、と腰を上げる。これはとても気まぐれな思いだ。気まぐれにふらふらと、スクイジーを取り出して窓ガラスを拭く。床は雑巾で水拭き。埃がついているものをひとつひとつ磨く。くしゃみがとまらない。ベッドのシーツやカバー類を替え、要らない書類や物は捨てる。掃除は浄化、とよくいわれているが、年の暮れにやるこの掃除こそ、凄まじい威力を発するのではないか、と思うぐらい気分が良くなっていく。

落ち着いたところで、コート、マフラーを着込んで商店街へ向かった。雲ひとつない真っ青な空が気持ちいい。道は日が差して暖かいが、吹く風は冷たく、冷気が鼻にツンと沁みる。コートのポケットに手を突っ込み、しめ縄を買うか作るか、酒は何を買うか、あれこれ考えながら川沿いを歩く。いつもの買い出しと然程変わらないのに、何やら違う感覚がするのは、やはり年の区切りをつけているからなのだろうか。

鶏肉屋や八百屋で煮物の具材、漬物屋でぬか漬け、総菜屋でかまぼこなどを物色、酒屋ですこしだけいい日本酒を買う。しめ縄の藁は売っておらず、あきらめる。代わりに小さな花屋で松の木の枝と榊を買う。松の枝は玄関扉に飾り、榊は小瓶に生けた。ついでに、小さな柚子も飾る。正月の切れはしのようなものしか準備できなかったが、きっとこれでいいのだ。

松や榊の葉の鮮やかな緑色が、空気に溶けて広がり、部屋に浸透していく。そこに美味しい酒とごはん、本年の出来事やあれやこれやが混ざって結晶のようなものになるのだとしたら、これは案外良い始まりなのかもしれない。

別腸日記(11)冬の客(後編)

新井卓

岩手は気仙のにごり酒「雪っこ」は、気仙沼で長年続く酔仙酒造の製品で、人々に親しまれてきた。2011年3月11日の大震災と津波で工場、倉庫ともども完全に破壊された会社は、驚異的な早さで翌年初夏、隣町の大船渡に再建された。だから「雪っこ」は、岩手の人々にとって特別な酒である。震災後、さらに足繁く通うことになった遠野で酔仙酒造の酒を見かけるたび、奮い起つような心持で、一升瓶を掴まないわけにはいかなかった。

「雪っこ」や東北一帯で飲まれるどぶろくに、なにか普通でない迫力があるとすれば、それはひとつに、東北における米の来歴から来るのかもしれない。

東北の歴史は飢饉の歴史である。のどかな里を歩けばそこかしこに飢饉の碑が見え、記録された死者の数にただ瞠目するばかりである。遠野の民俗学者・佐々木喜善は、度重なる凶作にあえぐ郷里を復興するため民俗学を志したというから、『遠野物語』の鮮烈な民話の背後には飢餓の記憶が深く根を下ろしている(※)。飢えて命を落とす、ということが体感からも社会的風景からも遠ざかったいま、飢饉とはいったい何であるか、ほんとうに理解することは難しい。

東北で稲作が本格化するのは、蝦夷征討ののち、当地に封建制が敷かれて以来のこと、と言われている。太宰治の『津軽』は約五年に一度、「豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回」もつづく凶作の歴史に触れているが、ほんらい亜熱帯の植物である稲を寒冷な土地で作らせること、そのこと自体に、おそらく今日の東北の有り様と決して無関係ではない、強力な支配の構造が透けて見える気がしてならない。

いつも泊めていただく住田町の藤井家や、遠野早池峰でごちそうになる米には、一箸口に運んだ瞬間、山あいの風が抜けるような清冽な甘さがある。たくさんの白飯を頬張って咀嚼するとき襲われる高揚感と、食後におとずれる強烈な気怠さには、どこかしらドラッグに似た強烈な精神作用がある、と思うのは私だけだろうか。
遠野で、住田町で、冬の朝、さよならを言うときかならず持たせてくれる米袋はずっしりと重たい。それを川崎の家に持ち帰って、まずは粥を炊くことにしている。白米一合をざるにあけて冷水で撫でるように研ぎ、五合の煮立った湯に投げ入れる。一度か二度底をさらうように返したら、以降は絶対にかき混ぜない。中火で十分後、一合の差し水をしてさらに二分。火を止めて数分蒸らせば、濁りのない、さらりと透きとおった粥になる。刻んだ青唐辛子を味噌に漬けた南蛮味噌でもいいし、たくあんや梅干しを囓ってもおいしいけれど、じつは粥の味だけで十分である。
遠野の言い伝えでは、人は死ぬとみな早池峰山に帰るという。もし明日死ぬならば、この澄んだ粥を一口すすって、早池峯に昇っていきたいものだ、と、意地汚い酒飲みの柄にもなく、考えてみたりする。

※写真家/民俗学者の内藤正敏さんに、キツネに化かされる話は必ず「蛋白質」と関係している、と教えていただいたことがある。宴席から土産の弁当を提げて帰る道すがら、キツネの怪しい術によってなぜか、蛋白質豊富な食べもの──塩鮭やイワナの煮付けなど──が奪われる。道中忽然と消えたごちそうは、キツネが食べてしまったのだ、そういえば家人も苦笑いするほかない。飢えや抑えがたい欲の鋭い刃先をまるめてくれる存在、それが妖怪なのかもしれない。

うずくまる男

植松眞人

 夜の道を歩き、コンビニへ行く。温かくて甘ったるくはないというだけが取り柄の『挽き立てコーヒー』と銘打たれたコーヒーとパンを買う。部屋に戻れば、冷蔵庫にトマトとコンビーフとレタスがあるから、それでサンドイッチが作れる。仕事納めの日だというのに、なぜか新規の仕事の問い合わせばかりが立て込んで、午前中で終わると思っていた仕事が深夜にまでずれ込んでしまったのだった。 朝昼兼用で、午前中に事務所の近所のそば屋でざるそばを食ったきりなので、腹が減って仕方がない。さあ、店じまいだと思うたびに電話がかかってくるという仕打ちはまるで嫌がらせのようだと思ったのだがどうしようもない。一件一件丁寧に応対して、解らないことをネットで調べたりしているうちにこんな時間になってしまった。行きつけの居酒屋や定食屋に行くにも、年の瀬なので早じまいしていたり、納会で満席だったりするのに決まっている。というわけでコンビニなのだった。
 近所の会社でこんな時期に夜を徹しての会議でもあるのか、スーツ姿の男女がコンビニにあふれていて、コーヒーマシンでコーヒーを一杯買うにも時間がかかってしまった。不思議なもので、コンビニの中に人がたくさんいると、今がすでに深夜になっていることを忘れてしまう。支払いを済ませて自動ドアを一歩出て冬の冷たい風が強く吹いている最中に足を踏み出すと、自分はいまたった一人で夜の町にたたずんでいるのだということを思い知らされる。
 そんな思いに包まれた瞬間だったからか、歩道の真ん中に同じように一人だということを色濃く霧散させている男がうずくまっていることにすぐ気付いた。
 私が手にしているのと同じ店名の入ったレジ袋と使い込んだショルダーバッグが転がっていて、おそらく七十半ばくらいの年齢の男が、まるで老婆のように横座りの体勢になっていて、両腕をついて小さく唸っていた。
 僕は通りすがりの一瞬に人に危害を加えたりはしないだろうと判断してしゃがみ込んで男に声をかけた。「大丈夫ですか?」
 男は声をかけられたことに気付かないのか、しばらくぼんやりとしていた。しかし、唸り声をあげることは止め、どこから声をかけられているのか確かめようとしているかのようだ。
 それでも顔を上げるでもなく目をキョロキョロさせるわけでもないのだった。その動きの緩慢さに、私にはこの男の老いを感じ取ってしまう。私はもう一度声をかけようとした瞬間だった。
「酔ってるんでね」
 それほど酔っ払っているようには見えなかったが、男はそう答えて周囲に散らばったレジ袋やショルダーバッグに手を伸ばし始めた。
「大丈夫ですか?」
 私はもう一度声をかけてみる。男はやっと顔をあげて私を見る。
「このあたりは、割と物騒な奴が多いんです」
 そう言われて、私は脅されているのかと思った。この男は「おれがその物騒な奴かもしれねえぜ」と言っている気がしたのだ。しかし、そうではないということは、男の曖昧な照れたような表情を見ていればすぐにわかった。男は安心していたのだった。自分が妙な男に絡まれたのではない、という事実に安堵していたのだ。
 私も少し安心して、改めて男を観察した。右の頬のあたりに怪我をしているのか、小さく血が滲んでいる。
「怪我してるみたいやけど」
 私が言うと、男は無造作に、私を指さしたあたりを手の甲でぬぐうのだった。すると、頬についていた血が頬全体に広がってしまった。そして、自分の手の甲についた血を見て、男は「たいしたことねえや」と笑う。
 たいしたことがないなら、それでいい。そう思った私はその場を立ち去ろうと立ち上がった。
「大阪の人?」
 男が私に聞く。
「そうです」
 私が答える。すると、男はにやりと笑う。
「なまりでわかる」
 そう言うと、男はさらに下卑た笑みを浮かべる。
「だいたい、大阪の人はおせっかいだしな」
 男は、歩道にどっかりと腰を下ろした格好で私を見上げながら話し出した。
「おおきにやで」
 わざとらしい大阪弁で、男が言う。
「いえ、どういたしまして。じゃ、この辺で」
 そう言うと、私は男のもとを立ち去り歩き始めた。すると、男はさっきよりも大きな声で私の背中に怒鳴り始めた。
「おーい。おおきにやで。助かったっちゅうねん」
 調子づいた男は、どこで覚えたのか妙なイントネーションの大阪弁を次々と私の背中に投げるのだった。
「おおきにやで!」
「しばいたろか!」
「おもろいなあ!」
「むちゃくちゃやんかいさ」
 子どもの頃に見聞きした演芸番組かなにかで覚えたのか。もしかしたら、何年か大阪に住んだことがあるのか。
 男は神経を逆なでするような大阪弁の声に出し続けた。私はその声を振り切るように、歩道をぐいぐいと歩き続けた。男の声はしばらくの間、小さくなっていったのだけれど、やがて後ろから近づいてきた。振り返ると、男は手にレジ袋を持ち、ショルダーバッグを肩から提げて、こちらに向かって歩いてきているのだった。
 目の前の信号が赤になり、私は立ち止まった。男はぶつぶつと大阪弁を呟きながら、私の真後ろに付いた。いい加減鬱陶しくなってきた私は、信号に背を向けて、男の方に向き直った。二人の距離は思いの外近くて、私が振り返ったことに男はとても驚いた表情を見せた。
「東京生まれですか?」
 私は男に聞く。
「そうだよ」
 男は笑っている。
「いいですね、なまりがなくて」
「そうだよ。なまらないんだよ」
 笑いながらそう答えた男に、私は言う。
「人生はかなりなまっているようだけどね」
 私が言うと、男は急に目の置くに凶暴な孤独の影を見せた。
「なんだと」
 男はそう言うと、コンビニのレジ袋を振り回し始めた。私は男のレジ袋を素手でグッと摑む。すると、振り回していた勢いで、男はバランスを崩す。その瞬間に私はレジ袋から手を離す。男がレジ袋を奪われまいと力を入れたのと同時だったからか、レジ袋が男の顔に向かって飛んだ。そして、怪我をしていたのとは、逆の左側の頬に新しい傷ができた。 男は顔にレジ袋が飛んできたことを歩道の上に倒れ込んでしまう。そして、男はさっき私が見つけた時と同じ姿勢になっていた。レジ袋やショルダーバッグの配置も手の付き方もまるで同じだった。ただ、男の両方の頬に血が滲んでいるというところだけが違う。
 さっきも、男は私に絡んだように誰かに絡んで、今、目の前で起きたようにして路上にうずくまる結果になったのだろうか。私は男を見下ろしながらそんなふうに考えていた。そして、そうでなければこんなふうになるわけがない、と確信にも似た気持ちを持つようになっている。
 だとしたら、男に絡まれ、男のレジ袋を摑んで結果的に男を路上にうずくまらせた相手は、私にそっくりな奴なのだろうか、と考える。するとまた、考えれば考えるほど、その男は私に似ているのだという確信にも似た気持ちになる。そして、もしかしたら、それは似ているのではなく私だったのかも知れない、という妙な気持ちになるのだった。(了)

しもた屋之噺(192)

杉山洋一

「水牛」の原稿を書くたび、今回は何回目か数字を確認するのですが、そのたびに、この数字から何か閃かないか、無意識に数字遊びをしています。それは何か有名な作品番号であったり、年号であったりするわけですが、例えばこの192であれば「良い国つくろう鎌倉幕府」の1192年だったりします。
もうすぐ年が明けるので、家の周りでは花火がずっと打ち上っていますが、今年はいつもより少し静かな気がするのは、多分雨が降っているからかもしれません。

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12月某日 ミラノ自宅
Aさんに「オペレーション・オイラー」の楽譜を送る。小学校終わりか中学の頃にくらいに、貯めた小遣いを持って渋谷のヤマハで買ったもの。
1969年に書かれ、Laurence SingerというBartolozziと共同作業をしていたオーボエ奏者に捧げられたこの作品は、子供の頃から楽譜だけ眺めていて、実際の音を想像しながら憧れていたので、何とか一度聴いてみたいと思う。表紙の裏には、タイプ打ちの進行表が書かれていて、可能な演奏順、組み合わせが指定されている。何十年かぶりに実家で見つけると、裏表紙はなくなっていたが、運よく楽譜は揃っていた。程なくAさんから返信があって「とんでもないものを見てしまった気分です。オーボエで聞いたことのない音ばかり。頑張ります」。

この秋は落ち着いて家にいなかったので、初めて庭の落ち葉かきをする。やりたそうにしている息子を誘う。落ち葉かきがこれほど重労働だとは、この家に住むまで知らなかった。息子が落ち葉かきをしたい理由は、集めた落ち葉の山に走って飛び込むこと。少し走り込んで仰向けや俯せで歓声を上げて飛び込む。スヌーピーでも同じような場面があった気がするが、勘違いかもしれない。

アメリカの大西くんから連絡あり。「カガヒ」は確かに公共図書館の書庫から取り出されてファクシミリ係には届けられたらしいが、その先の所在が分からないという。クリスマス前でアメリカの図書館も混乱しているのか。

12月某日 ミラノ自宅
ニューヨークからルカが戻ったので、ボローニャで来年10月の「Kraanerg」打合せ。政治色の強い大学街ボローニャだからだろう、来年2018年は1968年のボローニャ大学占拠事件から50年という節目にあたり、ボローニャやエミリア・ロマーニャ州に住む老若男女の有志を何十人と募って、プロのダンサーを核に据えたグループに分かれてワークショップを重ねて、社会に対する抗議や主張の象徴であるクセナキスと対峙させる、ずいぶん大規模な企画。
これが彼らの社会に何を意味するのか、歴史を掘り下げて理解してゆかなければならないだろうが、単純に日本に置き換え、東大紛争50年を記念して市民参加でクセナキスのバレエをやると考えると、思考が停止しそうになる。
約束の時間に劇場へ入って、皆待っているからと秘書についてゆくと、関係者一同久しぶりに訪れる劇場の喫茶店で、寛いだ様子でコーヒーを啜っていた。

昼過ぎの特急でミラノに戻る前に、劇場からほど近い角の食堂で、蕪のパスタとバカラの煮付けを食べた。特に打ちたての「耳たぶ状パスタ」に絡めたくたくたの蕪のソースが秀逸で、思いの外唐辛子が効いていて、何より自分で作るものよりずっと柔らかく煮込んである。食堂の主人が、冬は蕪のパスタに勝るものはないね、こんな美味い野菜は他にない。うちらもつい今しがたあんたと同じものを喰ったばかりだ、と胸を張るだけのことはある。帰りしな中央駅で、息子が見たがっていた「マカロニ」と「ボッカチオ70」のDVDを購う。

12月某日 ミラノに戻る車中にて
1泊2日で家族揃ってニースを訪れる。ミラノからは乗り換えなしの4時間過ぎで、列車で簡単に着く。海辺を走るジェノヴァからニースまでの車窓は、国境を越えればもっと変化するものかと思っていたが、さほどではなかった。コバルトブルーの海の色が本当に美しい。

すっかり冷え込んでいるミラノと比べると、たとえ風が強くとも、実に明るく美しい南国の太陽。息子にとっては、スイスと日本以外の初めての外国だそうで、スイスはイタリア語も通じるので、言葉の通じない初めての外国、とはしゃぐ。家人が血眼になりながら、インターネットでレストラン探しに躍起になっていて、普段あまり見ない姿なので意外だった。お陰で2日のみの滞在で、3つのレストランに入り、全て実に美味しかった。
イタリアでも、観光地で調べもせず美味しい食堂には巡り合えないので、家人の努力の賜物には違いないが、インターネットで評判の良い所は、どこも洒落ていて、洗練された料理が並ぶということを知った。

息子はすぐに足が疲れて歩けなくなるので、その度に背におぶってやる。ニースは坂がなだらかで良かったが、翌日訪れたアンティーブでは、坂と階段だらけのなか、息子を背負いながら歩き回って、すっかり困憊した。実は、今まであまり息子を背負ったことがない。何度か試してみたが、その度にすぐに吐き気と眩暈を催し倒れてしまうので、意図的に避けてきた。今回何とかやり過ごせたところを見ると、必要に迫られれば体質も変わるのかも知れない。

それまで歩けずにいた息子が、ニースの海岸に降り立った途端に立ち上がって、嬉しそうに跳ね廻る姿には、感動を覚えずにはいられなかった。親としては、まるで狐に摘ままれた心地になる。医者から、最早あと残っているのは自律神経による障害でしょうと言われても、目の前で息子を見ていれば、精神的なストレスによる場合と、身体の使い過ぎで困憊している時の違いくらいは分る気がする。
人影の少ない抜けるような青色の海辺で走り回る息子は、親の常識を覆す姿だった。街に戻ると、またすぐにへたり込んでしまったが、あれだけ動き回った後ではそれは当然と、妙に安心すらするほどだった。
目の前で海を眺めていた男性がいきなり服を脱ぎだしたかと思うと、下着一枚でそのまま海に飛び込んでいった。
何年か前、ターラントまで今は亡き家人の恩師を訪ねた時の海を思い出す。恩師の家の裏にはほんの小さな浜があって、同じ美しいコバルトブルーがどこまでも広がっていた。浜が小さいだけ、目の前の大海原が広大で、少し恐ろしく感じられるほどだった。

翌日アンティーブのピカソ美術館を訪ねる。丘の上まで背負って身体が限界だったので、美術館では車椅子を借りる。1946年にアンティーブにピカソが通い出してからの作品が並ぶ。あまりにウニばかり書くものだから、余程ピカソはウニが気に入ったのよと家人が嬉しそうに繰り返す。彼女はウニが大好物だ。実際は造形的に面白かっただけかも知れないが、確かに郷土料理にウニは色々使われているようだった。

特に愕いたのは、ピカソのキュビズムについて、息子が事も無げにさらさらと説明することだった。目の前に並んだ1946年のスケッチを前に、重力が実際と比べてどう置換され、視覚の方向性がどう置換され、結果としてこの物体はこのように表現されている、などと立て板に水宜しく話していて、尋ねるとピカソのキュビズムの特徴とその分析方法を習ったらしい。学校について殆ど息子は話したがらないので一体何をしているのか、ずっと不思議に思っている。日本人らしき親子がイタリア語で話していて、学芸員に珍しがられる。

12月某日 ミラノ自宅
朝、8時半からのレッスンのため、6時に起きて楽譜を整理し、7時半には自転車に跨ってミラノの反対側を目指す。週末の早朝など街はすっかり閑散としていて、中国人のやっている喫茶店で朝食を摂ってレッスンに出かける。週末の早朝から働くのは、中国人くらいのものだ。
ふと20数年前、ミラノにやってきたばかりの頃の記憶が蘇る。今と同じように、週末、朝6時半にランブラーテにあったドナトーニのアパートの前で待っていると、髪を揃え小ざっぱりと身支度をしたドナトーニが降りてきて、愛用のトヨタの助手席に乗せて貰い、ブレッシャのロマーノ・ロマニーニ財団のレッスンに連れて行って貰った。何時も同じ高速の喫茶店に寄っては、ホットミルクとハムを挟んだトーストを頼むので、よく飽きずに同じものばかり頼む人だと感心した。そうして、ブレッシャに着くと、決まって道が分からなくなり、それでもあちらこちらを回るうちに学校の目の前に偶然着くのだった。どこか達観して凛とした教育者ドナトーニの横顔を思い出しながら、冷え切ったトリノ通りの石畳を自転車で駆ける。

12月某日 ミラノ自宅
日が暮れて、初旬2か月の通信簿を貰うため、息子の通う中学へ自転車を走らせる。小学校の頃から通信簿は親が受領のサインをして貰っていて、中学になってもそれは同じだが、一つ違うところがあるのは、小学校は一人一人個人面談のようにして受け取っていたのが、中学は親が教室に揃ってから、一通り教師が所感を述べた後、他の親の目の前で渡されること。

学校と言えば、先日息子が色めき立って学校から帰ってきて、大切な話があると言う。聴いているから話したらと言うと、家人と二人目の前にきちんと並んで聞かなければならないと譲らない。仕方がないので言われた通りにすると、大変なことがあったのだが、大変過ぎてどう説明したらよいか分からないので、そちらから質問をしてくれれば、然るべく答えようと言うので、思わず声を上げて笑う。
「だから、体育の授業と言えばあれでしょう」と、息子の興奮度が増してくる。体育の授業と言うと何かと質問すると、そんなことも分からないのか、更衣室に決まっているでしょう、と言う。興奮が収まらない息子の話を断片をつなぎ合わせ、漸く内容が見えてくる。

朝、2年生の息子たちが体育の授業の前に更衣室で着替えていると、烈火の如く怒った1年生担任の女性教師が怒鳴りながら入ってきて、彼女のクラスの男子生徒が息子のクラスの男子生徒に苛められたと言う。誰だか名前がわからないので、白状しなければ、男子は全員停学と言われたそうだ。何でもズボンを頭から被されて目隠しをされた挙句、布かばんで頭を殴られたらしく、怯えて登校拒否になってしまったのだと言う。随分酷いことをするものだが、クラス24名のうち8名しかいない男子生徒全員が、身に覚えがないと言う。息子曰く、クラスの男子は、全員苛められてきた弱虫ばかりだからできる筈がない、と突拍子もない理由を尤もらしく話す。

その夜、クラスの母親を中心とした連絡網のSNSのやりとりが何度となく送られてくる。息子のクラスと決めつけ怒鳴りこんできた女性教師の態度が疑問と言うものや、どこの誰がやったかは別にして、こんな事件が学校で起きたこと自体が大変だと言うもの、うちの息子に限ってそんなことができるわけない、という男子生徒の母親や、うちの娘は学校から帰ってきて塞ぎこんで何も話してくれない、というメッセージもあった。印象に残ったのは「娘の話ではクラスの女子生徒が一致団結して男子生徒を女性教師の脅迫から守ったそう。娘たちを誇りに思う」というもので、イタリア女性の強さを思う。

12月某日 ミラノ自宅
早朝コーヒーを沸かしながら、ふと外に目をやると、目の前に何やら巨大な影が見える。見れば、すぐ目の前の鉄道の電信柱に一羽の鳶が悠然と留まっていて、周りを興奮した烏が三羽、騒ぎ立てながら飛び回っていた。近くに烏の巣でもあるのかと思ったが、こんな冬枯れに雛がいるとも思えない。何をやっていたのだろう。

息子の体調が優れず、さほど疲れているはずもないし、学校でストレスを覚えるようなこともない筈なのに、何度も階段で足の力が抜けては、ずるずる下まで落ちてゆく。そんな時はまるで入院前に戻ったようにすら見える。危なくて一人で階段を歩かせることも出来ない。病院での化学治療に目処がついたので、セレナに紹介されたシュタイナーのアントロポロゾフィー医の診察を受ける。病院のリハビリと並行して、アントロポロゾフィーで身体を少しずつ強くしてゆこうとのこと。どういうわけか、息子はラヴェンダー油で全身をマッサージされるのが、とても気に入っている。

そういう状況なので、12月最後の中学登校日、クラスのカラヴァッジョ展訪問に際しては、美術館に先回りして車椅子を借りておいた。カラヴァッジョ展はとても見たかったので、息子の見学にかこつけて一緒に廻りたかったが、車いすを恥ずかしがる息子に許して貰えなかった。カラヴァッジョ展を70分かけて周ったそうだし、学校から地下鉄まで片道20分近く歩いたそうだから、車椅子は必須だったと思う。

12月某日 ミラノ自宅
クリスマスから年末まで家人が日本に戻る間、息子と二人、ニースで過ごした。空気が良くて温かく、息子の大好きな海もあり、学校の仏語にも多少は慣れる切っ掛けにもなる。アパートで自炊しても食材も悪くないし、美術館など訪れるところには事欠かない。
冷え込むミラノに二人で過ごすより、気が紛れるだろうし、身体にも良いかも知れないとは思ったが、毎日階段から滑り落ちて泣く息子と二人きり、一週間ニースで過ごすのは流石に覚悟が必要だった。先日下見に出かけたが、あの後息子の体調は頗る悪く、ニースに出かけると決めてからは、不安で夜も眠れなかった。

ニースは急な坂や階段が比較的少なく、二人で乗れる折り畳み式のキックボードをミラノから携えてゆき、普段は息子を前に乗せ、急な坂では彼を乗せて歩いた。3日目くらいからは右足のふくらはぎが酷い筋肉痛になったが、息子の身体もその頃には随分しっかりして、ミラノに戻る前日には、Entrevauxの小さな山の頂上の古城まで、急な石畳道を自分の脚で登りきってしまった。流石に自分でも信じられなかったらしく、帰りはずっと大声で雄叫びを上げながら坂を下るので、見ていて心配するほどだった。

二日目からは、アパートのある駅裏手の界隈を一人で闊歩してはパン屋に入って朝食のクロワッサンとチョコレートパンを買うようになり、ハムを買えるようになった。一番最初は何にも分からないとパン屋を出た瞬間に泣き出したが、そうして買ったバゲットが思いの外気に入ったらしく、人目も憚らず美味しい美味しいと泣きながら齧って歩いた。アパートの階下にある「職人のつくるパン屋」のクロワッサンとパン・オ・ショコラがお気に入りだった。

ヴァロリスまで、ピカソの「戦争と平和」を見に行った時のこと。こちらは、長い坂を息子を乗せ走ってきたので、漸く見られた震えるような感激に浸り「戦争と平和」を眺めていると、息子は、もう先へ行きたい、何故ならこの絵は良く知っているからだと言う。

「この左側の悪の御者が、暗闇に浮び上る白い手の陰、つまりこれはこうとしか描くことができない死者を表しているのだけれど、死者を踏みにじり、下には血が川のように流れ、それを平和の象徴の鳩を頂く盾と、運命の天秤を従える槍を携える平和の兵士が迎える。悪の御者の馬は、ほら聖書を踏みつけているでしょう。右側の平和で、運命の天秤の上に遊ぶ一人の手には鳥かごに魚が躍り、もう一人の天秤は平和の象徴の鳥たちとバランスをとっている。この右端の樹はアダムとイブのあのリンゴの樹で、左端の笛吹きは、大きな貝に乗っている。正面の人々が捧げ持つ平和の象徴の鳩は、本来キリスト教が信じている三位一体ではなく、敢えて四人の人間で支えているでしょう」。

何処までが本当に習ったことで、何処からが今適当に口をついて出てきている話なのか分からないが、その境界線すら曖昧なところに感心する。これは学校の美術の口頭試問の問題だったので良く覚えているらしい。その試験の問題は、この3面の絵の時間軸は互いにどう関連付けし解釈されるべきかというもので、奥から平行に時間軸が流れているのか、右から左へもしくは左から右へ一方方向へ流れていると解釈すべきか、3面別々の時間軸を並置していると解釈すべきか自分の考えを述べよ、というものだったそうだ。理由は分からないが、彼の美術の教師が相当なピカソ好きであることだけは理解した。

劇場にバレエを見にゆけば、主人公にあてるスポットの位置が、スカラならシャンデリアの上に見えないようについているが、ここはスポットがそのまま見えてしまうとか、幕上の絵は布みたいだがべニアに描いてあるに違いないとか、時計が壊れて針を取ったままにしているとか、オーケストラピットが小さすぎて金管楽器が全く見えない、と言いたい放題で、イタリア語が分かる客が周りに居たらどうしようと冷汗をかいた。桟敷席は、皆とてもリラックスしていて、特に休憩中しどけない恰好で妙齢たちが長椅子に寝そべっているのが面白い。

シャガールに特に強い興味を覚えたこともなかったのが、シャガール美術館を訪れまるで変ってしまった。シャガールもピカソもフランス人ではないし、フランス芸術ではないのは分かっているけれども、少なくともシャガールの作品を眺めている間は、ずっとプーランクの「グローリア」やらメシアンの「キリストの昇天」、デュリュフレの「レクイエム」などが頭の中で反芻していたのは何故だろう。
長年不思議に思ってきたフランセやデュリュフレ、プーランクが、ブーレーズが活躍する同じ時代、文化でどう共存し得たのか、長年ずっと疑問に思っていたことが、勘違いかも知れないが、少し感覚的に理解できる気がした。それは「感覚」が第一義的な存在であって、出来るだけ骨組みを見えないように、重力から解放して、意識的に輪郭を曖昧にしてゆく文化ではなかったか。

オリーブ油とバターであれば、明らかにオリーブ油を使った方が素材の味がそのまま染み出る。バターをそこに併せたり、バターのみで素材を調理すれば、より味も円やかになって、輪郭が揺らぐ。ソースを掛ける調理方法も、素材の輪郭を敢えて溶け込ませる効果があるのではないか。イタリアの和声法がフランスに至って丁寧に角を取られ、3度を積んで色彩を加え、出来る限り素地を見せぬよう配慮された絶妙な方法論を確立させたのを思い出す。あれ程繊細なフランス料理の作れる国で、何故どうにも茹で過ぎてふやけたパスタが出てくるのか、少し納得がゆく。

イヴ・クラインの作品が並ぶ現代美術館で特に印象に残ったのは、Pierre Pinoncelliが1975年に行ったパフォーマンス「Hold-up contre l’Apartheid(アパルトヘイト政策に反対する強奪)」。
ニースが南アフリカのケープタウンと姉妹都市関係を結ぼうとしたことに反対して、ドクロの面を被って銃を携え口にバラを咥えて、大通りのSociété Générale de Nice
銀行に強盗に入ったパフォーマンス。象徴的に1フランを要求し、後に経済のインフレを理由に要求額を10フランに増額し、程なくピノンチェッリは逮捕されたが、一部始終はヴィデオと写真に残されて現代美術館ではそのヴィデオも写真も見ることが出来る。このダダの生き残りのような姿勢も面白いが、実際に彼の恰好の写真を見ると、独特の美的感覚がイヴェントに香りを与えていることが理解されるに違いない。ブソッティの美意識に独特のまとわりつくような香りを感じるのは、やはり彼がフランス文化に強く影響を受けたからなのだろう。

(12月31日ミラノにて)

女友達

若松恵子

年の瀬に、麗蘭(れいらん)のライブを見るために京都に出かけるようになって10年になる。四条にあるライブハウス磔磔(たくたく)は、有名なブルースマンもライブを行ってきた、築100年になる蔵だ。麗蘭のメンバーである仲井戸麗市と土屋公平が、音楽の神様が住んでいるなんて言っていたけれど、その夜限りの特別な演奏が繰り広げられて(ライブというものはたいていそういうものなのだけれど)遠くまで出かけてきた甲斐があったものだといつも思う。クリスマスも終わり、初詣に備えて掃き清められてシンとした京都の街も気持ち良くて、通い続けることになった。

日帰りがほとんど、長くても1泊のささやかな旅だが、毎回どこかを観光している。今年は前から行きたかった恵文社一乗寺店に行くことができた。12月30日も営業していたからだ。叡山鉄道の一乗寺駅で降りて、どこか懐かしい感じのかわいい商店街を歩いてガイドブックで見ていた恵文社のドアを開ける。年の瀬だというのに本屋はたくさんの人で賑わっていた。恵文社の魅力ある棚を時間をかけて眺める。今年のうちに、これもあれも買ってしまいたい衝動にかられるが、東京に帰っても手に入るものはがまんして、女性作家のエッセイを集めた棚を眺めていた時、1冊の本に呼び止められた。雨宮まみ著『東京を生きる』だ。帯に追悼の字がある。著者の急逝を惜しむコラムを、どこかで読んだ、あの人かもしれないと思って棚から抜き出す。2015年4月の刊行だが、これまで他の本屋で出会う事がなかった。

「藤圭子の歌う『マイ・ウェイ』は、普遍的なことを歌っているようで、ただひとりの誰かの、とても個人的な、秘められた思いを歌っているように聴こえる。」と書く「マイ・ウェイ」。
「ほんものの美にひとが打たれる瞬間を、見たことがある。」そんな1文から始まる「美しさ」。

25本のエッセイが編まれたこの本にたちまち魅せられて、帰りの新幹線のなかで一心不乱に読み続けた。実際には聴いたことのない、雨宮まみの声にずっと耳を傾けていた。彼女の本のなかに、彼女の声が確かにあった。雨宮まみの目を通して描かれる、東京の寂しさと美しさに魅かれる。それはそのまま、彼女の美しさと寂しさなのだけれど、彼女自身にはそれは手の届かないものとして認識されている。

新幹線の横の座席に彼女が坐って、ずっと話すのを聴くようにして彼女の著書を読んできて、もうすっかり彼女は私の女友達のような気がしている。年上の女として、元気づけてあげたかったと、そんな事を思っている。

知られざるイヌ(年)の傑作

北村周一

父には友達が少なかった。
少ないというより、ほとんどいなかったように思う。
いるとすれば、戦友の二人、山梨さんと、杉山さんくらいであろうか。
山梨さんは代々醤油屋を営んでいたが、そのころには廃業していて、
土地を切り売りして生きているようだった。
昭和三十年代中ごろのことである。
父はその山梨さんから土地を買い付けた。
けれども、話がうまくまとまらず、一番欲しかった繁華街の土地はあきらめて、
電気も満足に通っていないような、荒れた畑地を半ば強引に手に入れたのだった。
騙されたというか、裏切られたとでもいうべきか、
以来山梨さんとの付き合いは途絶えてしまった。
しかし、世の中変われば変わるもので、
繁華街の旧市街地は、道が狭いためにその後あまり発展せず、
父が購入した、いわば新開地のほうが、急激な発展を遂げたのだった。
昭和四十年代に入り、家のわりと近くに清水インターチェンジが出現し、
土地の良し悪しでいえば、立場が事実上逆転してしまった。

そんなある日のこと、めずらしく戦友のひとり、杉山さんがわが家を訪ねて来てくれた。
一匹の子犬を連れて。
クルマに酔ったその子犬は、家の庭で少しく吐いた。
そんな姿がなんともあどけなく、家の中で飼いたいと父に申し入れてみたが、
聞き入れてもらえなかった。
杉山さんは温厚な人で、自分が飼っていた四国犬が子を産んだので、
父の犬好きを知り、一匹分けてくれたのだった。
それから、外で飼えば十分ですよと教えてもくれた。
古風な血統書が付いていた。
名は雲仙号。生後四か月ほどの男の子。大事に飼おうとこころに決めた。
とはいえ、雲仙号ではちょっと重たかったので、名前を能登に替えた。
母もぼくも輪島生まれだったからである。
能登はすくすくと育ち、大きくなった。
四国犬は、血筋的には紀州犬の親戚筋にあたり、中型犬ではあっても、気性が荒い。
特にオスは、家族には懐いても、見知らぬ人には獰猛な一面がある。
綱を切っては、家の外へ飛び出すこともままあった。
そしてよく咬みついた。
見てくれは可愛いので、撫でようと手を差し出すと、ぱくりと咬むのである。

昭和四十年代半ば過ぎ、能登が五、六歳のころ、家の増改築の工事が始まった。
ぼくが大学に入り、上京して2年ほど経っていたと思う。
帰省すると、能登がいない。犬小屋はそのままなのに。
四国犬の能登は、どちらかというと猟犬タイプで、嗅覚が鋭いので、
ぼくが帰って来ると、それを察知して必ず吠えた。
かなり遠くからでも、能登が吠える声が聞こえた。

父は真面目いっぽうの人だった。
本格的な増改築工事が始まるまえに、能登を保健所に連れて行ったのだ。
清水の街の中央を、巴川という川が流れている。
その土手沿いに、保健所がある。
ふだんは何をいってもわれ先にと進みたがる能登ではあるが、
父の話によれば、土手の道を引きずるように連れて行ったらしい。
さいごは、両腕に抱えて。

それから20数年ののち、ぼくは犬を飼うことにした。
名はラク、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク種の女の子。
いまの家で、13年と2か月生きた。
雪降る二月の末日、わが家にやって来て、13年後の同じ日に荼毘に付された。
やっぱり雪が降っていた。
ラクを飼ってみてわかったのだけれど、
むかし飼っていた、いや、飼い切れなかった犬たちの記憶が、甦って来るのだった。
もう忘れてもいいようなことまで。

 家族には見せぬ笑顔もそれぞれがラクを介してゆるすひととき

ジャワ舞踊の衣装(2)上半身の衣装

冨岡三智

昨年10月号で下半身の衣装を説明したので、今回はその続き。

ジャワ舞踊では下半身にはジャワ更紗(バティック)を巻く。…と10月号に書いたが、実は例外があることを書き忘れていた。それは宮廷舞踊ブドヨの場合である。ブドヨでもバティックを巻くことはあるのだが、儀礼性の高いブドヨではチンデというインド伝来の模様の布を巻く。現在のジャワではチンデといえば染めだが、本来は織りである。実はジャワ王宮では、チンデは貴族がその地位を示すために使われる。男性なら帯やズボン(バティックの下に穿く)身に着ける。女性舞踊でそのチンデを下半身に巻く時の上半身の衣装は、通常のバティックのサイズより縦も横も2倍大きいドドット・アグンというサイズの布に、森羅万象を示すアラス・アラサンという柄(森に棲む各種動物の柄)を金泥で描いたもの。結婚式の花嫁衣裳の姿でもある。宮廷でも「ブドヨ・クタワン」という、今でも門外不出の舞踊にしか使われない。それ以外のブドヨには、上半身にドドット・アグンのサイズのバティックを巻く。

・素材

宮廷舞踊のスリンピや、宮廷舞踊から発展したゴレック、あるいはワヤン・オラン(舞踊劇)の上半身の衣装は、ビロードの布に金糸や金コード、ビーズなどで刺繍したものだ。デザインには袖無しで前開きのコタンと、ビスチェのように肩が露出するムカッの2種類があり、スリンピにはどちらのタイプも用い、ゴレックではコタンを用いる。ビロードはどう見ても西洋風に見えるが、事実、イタリアで発明され、ルネサンス期に発展した素材だ。日本には南蛮貿易で伝来したことを考えると、ジャワ島に伝わったのも日本とそう変わらない時期ではないかと思う。伝統技法のバティックとの組み合わせは変に感じるが、バティックも発展したのは17世紀頃からと、ビロード伝来時期とあまり変わらないようである。当時の宮廷人にとってはどちらも最新の豪勢な素材で、宮廷の権威を示すにふさわしい素材だったのだろう。

一方、民間舞踊のガンビョンでは木綿に絞りを施した布を胴に巻き付ける。この布のことをクムベンと呼ぶ。絞りは世界各地で古代から見られる手法で、庶民が着用できる(安い)素材なのだ。アクセサリも豪華ではなく、その代わり、ジャスミンの花輪を首にかけ、ジャスミンやカンティル(モクレンの仲間、指先くらいの大きさ)を髪に挿す。実はガンビョンの舞踊では、このジャスミンの花を身に着けることが重要なのだと着付の師に教えられた。ガンビョンは本来豊穣祈願の舞踊なのだが、その踊り子たちが身に着けたジャスミンの花には病気を直す力があると信じられ、観客たちは欲しがったそうである。

・色

ジャワ舞踊では、上半身の衣装の色と腰に巻くサンプールという布の色の取り合わせがコーディネートで重要になる。特に舞踊劇ではキャラクターを表現する上で色が重要だ。たとえば、スリカンディはスラカルタ様式では赤色のムカッに青色のサンプールを組み合わせることに決まっている。赤い衣装は荒型用の色だが、スリカンディは女性ながら司令官として戦場に立つ女性なので赤色がふさわしく、赤×青のコントラストでキャラクターの強さを一層強調するのである。一方、優美なキャラクターを表現したり、曲の優美さを強調したりしたいなら、黒、紺、深緑、深紫などの落ち着いた色のビロードの上着に深い色の緑色やマゼンタ色のサンプールを合わせるのが良い。黄色やオレンジ色のサンプールは舞台映えするが、キャラクターがついているので、宮廷舞踊には合わないと私の着付の師匠は言う。また、日本人だと紫色の上着にはピンク色をコーディネートしたくなるが、ピンク色はジャワではほとんど見ないように思う。どうも、ジャワ人にはピンク色は煽情的な色に見えているのではないかと感じている。

ジャワでは特定の色の組み合わせに名前がついていることがある。一番有名なのはパレアノムと呼ばれる若い緑色×黄色の組み合わせだろう。これはマンクヌガラン王家の旗印の配色である。ちなみにパレは苦瓜、アノムは若いという意味。だから、同王家が振り付けて有名になった作品「ガンビョン・パレアノム」では、緑色のクムベンに黄色のサンプールを合わせる。

2017年活動記録

笠井瑞丈

1月『雪の蝿』
2月『Moratorium end』(三浦宏之振付)
3月『沈黙する世界』(ダンス専科 振付)
5月『花粉革命』(笠井叡振付)
6月『youがme』(鈴木ユキオとのデュオ作品 金沢)
9月『Duo』(小暮香帆とのデュオ作品)
10月『Duo』(小暮香帆とのデュオ作品 リトアニア)
11月『youがme』(鈴木ユキオとのデュオ作品 神楽坂セッションハウス)
12月『R.S.B conversation ’17』(米澤一平企画)
12月『Requiem〜序章〜』(高原伸子振付)
12月『ONDOSA#6 〜黙って話して〜』(南弓子企画)

1月 初めてオーディションという形でダンサーを集い、ゲストに鈴木ユキオさんを迎えての公演。『虚舟』の続編。モーツァルトのレクイエムを振付る。

2月 久しぶりに三浦宏之さん振付作品に出演。気のしれた仲間達とのリハ、懐かしい時間が蘇る。

3月 ダンス専科。毎年行うセッションハウス企画ワークショップ公演

5月『花粉革命』自分にとって一番大きな挑戦の公演でした。

6月 初めて鈴木ユキオさんとのデュオ作品。二人で深夜バスに乗って金沢へ。嫁不在の嫁の実家初滞在。

9月 笠井叡が20年前に行っていた天使館公演企画『ダンス現在』それを今年引き継ぎ再始動。第一弾として小暮香帆とのデュオを行う。

10月 初めてのリトアニア 初めて行く土地 初めて出会う人 初めて飲むビール 初めて踊る踊り しかし物価の安さにビックリ 

11月 鈴木ユキオさんとの作品再演 音楽構成はそのまま ダンス構成はやっぱり変わる 作品は再演を繰り返し熟成する

12月 三本
『R.S.B conversation ’17』初めてタップダンサーとのセッション
『Requiem〜序章〜』レクイエムを踊る、2018年2回目レクイエム 始まりと終わり
『ONDOSA#6 〜黙って話して〜』無音で踊る企画

振り返れば2017年もいろいろ公演がありました
すべて一つ一つに意味があった公演です

公演を通して

新しい人と出会い
新しい自分を発見し
新しいテーマを見つける

2018年も一つ一つを丁寧に

公演活動
舞踊活動
人間活動
修行活動

どうぞよろしくお願いします

製本かい摘みましては(133)

四釜裕子

年末で閉店と聞いた古書店に向かうとシャッターが下りていた。今日は早じまいされたのかなと軽い気持ちでネットで探ると、十日前に閉店していた。いつもなら可動式の棚が並ぶ入り口に立ったまま、最終日のようすを書いたどなたかのブログを読む。たくさんのお客さんがいらして思い思いに店主に声をかけておられたそうだ。渋谷区渋谷一丁目、青学前にあった巽堂書店。昭和9年の創業で、現店主は二代目だった。立ち寄るばかりでたいした買い物はしなかったし店主とまともな会話をしたこともないけれど、この道を歩けば必ず寄った。こういう場所が町を人の居場所にしてくれる。

数件先の中村書店に向かう。こちらは昭和24年の開店で、創業者の中村三千夫さんについては、なないろ文庫ふしぎ堂時代の田村七痴庵さんが書いた「渋谷宮益坂上の中村書店に行ってみなさい」(日本の古本屋「古本屋のエッセー」/初出・東京古書組合発行「古書月報」)を今もネットで読むことができる。http://www.kosho.ne.jp/essay/magazine04.html

店に入って左側からずずずーっと、棚の前に積まれた「VOU」の乱れを直しつつ詩集棚を奥まで眺め、Uターンして別の側の棚を入り口の方へ戻る。ドアに手をかけたところで、茄子紺の表紙に『文楽と土門拳』という文字をぎゅうぎゅうに詰めた冊子が目に入る。44年前の正月、昭和49年1月4日から22日まで新宿・小田急百貨店本館11階のグランドギャラリーで開かれた同展(主催:財団法人文楽協会、土門拳写真展事務局)の図録(文:武智鉄二 構成:田中一光 編集・発行:土門拳写真展事務局 制作:駿々堂)だ。昭和47年に大著『文楽』(土門拳「文楽」+武智鉄二「土門拳文楽 その背景」の2冊セット)が、同じく田中一光の構成で駿々堂 から刊行されている。

人形の面、人形師や三味線方、人形遣いの手や腰周りのアップから、組み立て中の大道具部屋、舞台など、全体のおよそ9割がどっしりとした土門拳(1909-1990)の写真だ。いずれも、左右162ミリ×天地257ミリ中、下部47ミリの墨ベタに、ちょっと平たい白い文字でごく短い説明がある。全体に黒っぽいけれど黒々と刷ってやるぞというのではなくて、写真の白黒のグラデーションが紙にしっとりしみ込んでいると感じる。見返しはレザック66、それに表紙カバーをノドまで折り込んだ簡易な造本で、糸綴じなのでよく開く。4枚ごとにノドにあらわれる綴じ糸の白は、人形がかぶる手拭いのほつれや手足を吊るひも、衣装の柄や三味線の弦に同期して邪魔にならない。

「文楽私語」と題された土門の文章もいい。特に、舞台にかぶりつきで仕事をしながら聞こえてくる、浄瑠璃の語りや三味線の掛け声など人形芝居に必要なもの以外の音の蒐集がおもしろい。チョッという舌打ちは後見を呼ぶ音。立廻りで互いの調子をとるための人形遣いのスウスウという長い呼吸音。引込みで太夫に合わせて思わず人形遣いからもれたハアテレツクテレツク、スッテンテン。人形のもみじ手が屈伸するたびにたてるカチカチや立廻りで頭がふれて出るゴツンゴツン、等々。土門には人形そのものも、ほかの仕事人と等しく見えていた。〈浄瑠璃や三味線や下座が、それぞれの専門部門で、深奥な技術的展開をとげているあいだに、人形は人形で、また、独特な絵画的形象美の完成への道を、ひたすら突き進んでいたと言えるのである。そうだからこそ、写真の世界にも、被写体として、完全にはまりこむことができたのであると、私は考える〉。

よほど文楽座を懇意にして土門の撮影は始まったのだろうと思いきや、芝居の世界は初めてで、緊張のあまり神経衰弱になりそうだったそうである。昭和16年から2年余、〈ぼくは心のふるさとへ帰るように、日本の古典、弘仁彫刻と文楽人形浄瑠璃の撮影に没頭した。昭和16年12月8日、対米宣戦布告の号外を見たのも、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋だった。留守宅に赤紙がきてはしないかと、いつもあやぶみながら、空きっ腹をかかえて、旅をつづけていた〉(『古寺巡礼』第1集)。

昭和18年、土門は文楽座の座員に「文楽座員調査表」なるものをガリ版で刷って送る。添えた趣意書には、進行中の撮影は本にまとめること、そこに座員全員の顔写真と芸歴をのせたいことが書いてある。そして――。〈大体自分の生まれた年や師匠など判り切っていると思い勝ちですが、それは生きている自分だけの話であります。五十年とたたない明治時代の有名な名人上手の人達でも今ではどこの生まれやら、いつ生まれたのやら判らなくなっている人が多いです。こういうことは生きている人を生きているうちに本人も他人も祖末にするからだと思います〉。調査表はほぼ回収し、翌年の暮れには6000点余りのガラス乾板を土門の自宅の防空壕に運んで埋めている。さらに翌年、大阪にあった文楽座の本拠地は空襲にあい、多くの資料や人形が、土門の写真の中だけに残された。