この世へのちいさな「恋」よ、
……、
文末に終助辞を置かないで。
届けられようにして、
最初に置く係(かか)り結びは、文中で、
あなたの詩を輝線にする。 ……、
文の革命でしたね。 物語歌(うた)は、
ない話法や、
なかった承接(しょうせつ)を、
約束する、無文字(むもじ)の視界に。
終りがよければ
(「立詩」は立志、律詩。腰斬という刑死がありました。詩人の死です。終止符を打たないで下さい、なぜと問うて。)
この世へのちいさな「恋」よ、
……、
文末に終助辞を置かないで。
届けられようにして、
最初に置く係(かか)り結びは、文中で、
あなたの詩を輝線にする。 ……、
文の革命でしたね。 物語歌(うた)は、
ない話法や、
なかった承接(しょうせつ)を、
約束する、無文字(むもじ)の視界に。
終りがよければ
(「立詩」は立志、律詩。腰斬という刑死がありました。詩人の死です。終止符を打たないで下さい、なぜと問うて。)
2015年8月以来、久々にジャワ舞踊作品を紹介しよう。紹介するのは「スコルノ」で、ロカナンタ社から伴奏曲のカセットが出ている(品番ACD-143)。女性舞踊曲で、特に物語はなく、大人になりかけた女性が美しく身を装う風情を描いている。
「スコルノ」は1960年頃にクスモケソウォにより振り付けられた。彼はスラカルタ宮廷舞踊家にして基礎練習法・ラントヨを考案した人である。私が師事したジョコ女史はクスモケソウォの後を継いでコンセルバトリ(国立芸術高校)でジャワ舞踊を指導した人で、この曲を初演したうちの1人であり、また1979年にロカナンタ社で録音された時にも関わっている。今回の内容は、ジョコ女史から聞いていたことである。「スコルノ」はラントヨの後に最初に学ぶ舞踊曲として振り付けられた。実はジャワ伝統舞踊のレパートリーが増え始めるのは1970年代からで、これは宮廷舞踊の解禁(1969年〜)と関係がある。まだ宮廷舞踊が知られていない頃に、ラントヨと併せて宮廷舞踊の基礎的な動きを練習するために作られた曲なのである。他にゴレッという舞踊の要素も採り入れている(後述)ものの、スラカルタ宮廷舞踊のようにバティックの裾を長く引き摺るように着付をする。
次に音楽について。カセット版では伴奏曲は「パンクル」(スレンドロ音階マニュロ調)なのだが、実は元々は「スカル・ガドゥン」(スレンドロ音階マニュロ調)を使っていた。変更はカセット化よりもずっと以前、振付後間もなくのことだという。「パンクル」はガムランをやっている人なら誰もが知っている曲だから、初心者にもなじみがあって踊りやすいという理由で、クスモケソウォ本人が変更したという。さらに、市販カセット版は実は短縮版である。それでも16分21秒もあるが、オリジナル版は22分もある。「スコルノ」の録音監修者はマリディ氏だが、短縮はジョコ女史が手掛けている。なぜ短縮したのかと私が尋ねたところ、カセット会社が要請したとのことだった。ジャワ舞踊曲はだいたい15分以内の長さだが、それはカセット会社がテープの片面(30分)に2曲が収録できるよう、短縮を要請するかららしい。
カセット版の進行に沿って振付の流れを説明する。前奏があって本体の曲に入る…が、踊り手はまだ舞台の端にいて、曲が1周してから舞台に出る。現在ではそんな悠長なことをせず、前奏の最後の音から舞台に出ることが常態化しているが、いきなり踊り出すのは宮廷の美学に反するのである。その後はスリシックという小走りで出ていき、舞台を1周すると、舞台奥から前方に向かって真っすぐ歩いてくる。これは戦いの舞踊(ウィレン)の展開と同じだ。そして床に座ってスンバハン・ララス(一連の合掌に至る振付)をする。そのスンバハン・ララスの前につけられたスメディという型が、カセット版では削られた。これはクスモケソウォ独自の祈りの型で、同じカセットに収録されている別のクスモケソウォ作品「ルトノ・パムディヨ」のオリジナル版にもあるのだが、こちらもカセット版で削られている。クスモケソウォの作品を考える上では重要な振付なのだが、そもそも宮廷舞踊にない振付なので仕方ないかという気もする。床に座るところからテンポは倍の遅さになり、歌が入ってゆったりした流れになる。その後は立ってララスという動きを右、左(右の動きを左右反転したもの)、右と3回やる。ここの動きはラントヨと同じだが、カセット版では1回に減らされている。スンバハン・ララスを経てララスを左右に繰り返すという流れは、宮廷舞踊の定型だ。
ララスの後、太鼓がチブロンに代わり、さらに遅くなってイロモIIIというテンポになる。チブロンは音が高く、いろんな音やリズムパターンが表現できる太鼓である。チブロン太鼓でイロモIIIのテンポで踊る女性舞踊とくれば、スラカルタにはガンビョンがある。しかし、この舞踊は民間起源で性的なニュアンスがあるため、1960年代半ばまでは一般子女は踊らない類の舞踊だった。特にクスモケソウォはガンビョンを認めなかった人だ。大人の女性が踊ることのできる健全で上品な舞踊…ということでゴレッの要素を取り入れたのだと思う。どの辺がゴレッ風なのか。まず、ゴレッの代表的なスカラン(リズムパターン)を使う。ガンビョンのスカランにこそ性的な意味合いが込められているから、これは当然だ。そして、スカラン同士をつなげるつなぎのパターンもガンビョンとは変える。具体的には、マガッと呼ばれるつなぎを使わない。これは私自身が太鼓の先生から指摘されて初めて気づいたことなのだが、マガッにはガンビョンぽさがあると、クスモケソウォは考えていたようである。さらに、イロモIIIからIIへという、ガンビョンにはないテンポの変化がある(ガンビョンではIIIからIに変化する)。なお、イロモIIIの演奏部分は、オリジナルでは4ゴンガン(4周)あるが、カセットでは1周削られて3ゴンガンになっている。こんな風に構成された「スコルノ」はジョグジャカルタのゴレッとはまた別物になっている。
「スコルノ」は元々ラントヨの後で挑戦できるように作られた曲だから、使われるスカランもとても易しく、振りのつなぎも非常にシンプルだ。むしろ、せっかちにはゆっくり過ぎて間がもたないような舞踊である。クスモケソウォの舞踊は、次世代のガリマンやマリディに比べても素朴で、作品としての複雑な魅力や華やかさには欠ける。しかし、ラントヨや「スコルノ」の振付は、ジャワ舞踊の基礎を抽出し教えると言う点で優れた指導者だったと感じさせてくれる。
この町の公民館は、とても古い建物で五階建てなのにエレベータがない。階段も一段一段が高く、注意していないと足を踏み外してしまいそうだ。
一階と二階は吹き抜けになっていて、広めのスペースがある。そこが集会などに使われていて「ホール」と呼ばれている。そんなに立派なものではないのだが、小さな講演会や踊りの発表会などをやろうと思えばやれる程度の広さだ。
ホールが吹き抜けになっているので、実質二階がなく、小部屋を使うためにはいきなり三階分の高さを上がらなければならない。年配者の利用が多いので、簡易のモノでも良いからエレベータやエスカレータを後付けできないか、という話は毎年のように持ち上がる。ただ、建物が古すぎて頑強なので融通が利かずなかなか簡単ではないのだった。
それに加えて、集まってくる年配者自身が「健康のためにはこのくらい」と愚痴も言わずに利用しているのでいつの間にか立ち消えてしまうのである。それでも、休憩のために踊り場ごとに椅子が置いてあったり、お茶のポットが置いてあったりするのはほほえましい。
私が高橋に誘われて、初めて水曜日のクラスに参加した日は雨が降っていた。二階と三階の間にある踊り場で、腰を下ろして休憩していたお婆さんに会釈をして四階まで上る。それほど長くはない廊下は薄暗く、その突き当たりに灯りが漏れていて、使用されている部屋がそこにあることがわかった。
これは後々知ることになったのだが、この公民館を夜の六時以降に利用する人はほとんどいないのだった。入り口にある管理室に人は詰めてはいるが、夕食の時間にはどの利用者も出て行くばかりで、新たにやってくる者はほとんどいない。水曜日のクラスが終わり八時過ぎに管理室の前を通ると、担当者が椅子に座ったままウトウトと舟を漕いでいることもあった。
初めての水曜日のクラス。引き戸を開けると、中は煌々とした今時のLEDの光で満たされていた。集まっていたのは全部で五人。小さなテーブルを一つ真ん中に置いて、その周囲に椅子を円形に並べて五人は座っていた。テーブルの上に置かれていたのは、夏みかんほどの大きなオレンジだった。
私は入室したとき、五人はじっとオレンジを見つめていた。しかし、私が入室すると同時に、全員が私の方に笑顔と会釈をよこしたのだった。そして、私が会釈を返すと、再び五人は視線をオレンジに戻した。それが瞬時のことだったので、私はしばらく入り口のところにたちずさんでいたのだった。
「さあ、もうそろそろいいでしょう」
高橋の声にみんなが柔和な顔に戻り、それぞれに目の前のオレンジについて話し出した。私がオレンジだと思っていたのは、どうやら紙粘土で作った大きな温州みかんらしい。作者であるおそらく七十代らしき男性が自分でそう話した。
「私は柑橘類が好きで。久しぶりに紙粘土で何か作ろうと思ったときに、目の前にあった温州みかんを作ってみたんですよ」
男性は言う。
「すばらしい」と高橋が答える。
「なぜ、大きくこしらえたんですか」と別の参加者が聞く。
「そのままのサイズはつまらないとおもいましてね。しかもほら、私が柑橘類が好きなもんだから、いかにもつくりものって感じでつくらないと、食べたくなっちゃうと困るでしょう」
男性はそう答えると大きく笑った。男性が笑うとそれをきっかけに五人全員が笑い、笑いが引けると同時に一瞬の静寂が訪れた。その絶妙のタイミングで高橋が私を呼ぶ。
「この方が、今日から参加してくださることになった三宅さんです」
高橋の紹介に私が自己紹介すると、参加者が口々に「よろしく」と声をかけてくれた。
「あなたはどう思いますか?」
高橋の隣に座っていた品の良い五十代くらいに見える小柄で柔和な表情をした女性が私に聞く。
「どう、というと」
「このおみかんですよ」
「ああ、このみかんですね」
私が質問の意味に気づくとみんなが微笑みながら、私の答えを待っていた。
「とてもいいと思います。こういう創作にはあまり詳しくないのですが、なんだかみずみずしくて食べたくなるような出来映えだと思いました」
私は少し緊張しながら言う。昔から自分の意見を言うのは苦手だったし、ましてやこういう芸術というのだろうかアート系というのだろうか。そういうものに対して何を言えばいいのかわからないのだ。
「良いご意見ですね」
私に聞いた女性が答えた。
「良い、意見ですか?」
私が聞き返すと女性がとても嬉しそうに言う。
「良い意見ですよ。素直でわかりやすくて。さすが高橋さんのお知り合いだわ」
「本当に。あなたなら、きっとこのクラスが気に入ると思いますよ」
「いや、本当にそうですね」
と、みんなが口々に言い出して、まだ状況がよくつかめていない私はとても居心地が悪くなってしまう。そんな私に、今度は高橋が助け船を出す。
「さあ、みなさん、そのくらいで。三宅さんは今日が初めてなんですから、あんまりいっぺんの話すと逃げ出してしまいますよ」
高橋のそのひと言で、みんなはまた優しく笑う。ふと思い出したように高橋は自分の隣に椅子をもう一つ持ってきて、そこに座るように私に促した。私は改めてその場にいた五人に軽く会釈をして椅子に座る。
「では、もう一度、立花さんの作品『みかん』を見てみましょうか」
高橋の提案にみんなが一斉にうなずく。私は五人の真似をして、目の前のテーブルに置かれた大きな温州みかんを眺めるのだった。
私は大きなみかんを目の前に、それをじっと見つめる五人の男女の真剣な眼差しに滑稽なものを感じてしまう。
素人が紙粘土で作った大きなみかんは、そこそこ巧くは出来ていても、やはりじっと見ればあちこちに粗雑なところがあり、それをじっと「鑑賞」するほどのものなのかと思えてしまったからだ。
その気配を察したのだろうか。さっき、私の感想を褒めてくれたご婦人がそっと私のほうに口元を近づける。先ほどまでの柔和な表情はなりを潜めて、強い視線で私を見つめながら、「人様の作品を馬鹿にすることだけは許されません。それがこのクラスの一番大切なルールです」と低い声でささやいた。その低いけれど明確な口調に私はたじろぎ、周囲のことも忘れてそのご婦人をまじまじと見つめてしまったのだった。(続く)
いままでの話を、少しまとめてみたいと思います。
対象をもたないキャンバスを、パレットとして扱ってみるという発想(思いつき)は、まあいいとして、そのキャンバスが、同時に、絵(または、絵のようなもの)になるような、そんな可能性はあるのかないのか。
あるとしたら、どのような条件下でそれは可能となるのか。
その条件をまずは設定することからはじめてみようということでした。
パレット代わりのキャンバスに、ほかに何の意図も用意せずに、さまざまな絵具をこねくり回す面白さは、それなりに理解できることですが、ここでは一歩進めて絵になるための方策、いいかえればジャンプできる可能性を見出すための、条件(制約)を与えるということでした。
前置きが長くなってしまいました。
その可能性を満たす条件―――ここでは、灰いろに設定してみたいと思います。
パレットの上に限らず、いくつかの色を混ぜ合わせると、灰いろになるということは、図画工作の時間でも教えられることですが、ちょっとしたはずみに、隣り合う色と色とが混ざり合い、灰いろっぽく濁ってしまったという経験は、だれにでもあるかと思います。
ふだんはやってはいけない濁りの技法ですが、ここでは積極的に応用することにします。
さて、いよいよ実技篇です。
まずは身近にいる、小さな子どもたちを相手に、パレット灰いろ作戦を試みることにしました。
年齢は、4歳児から7歳児まで、男の子ばかりの4名。
キャンバスのサイズは、張りキャンの、P3号(19×27㎝)を選びました。
少し小さめにしたのは、キャンバスに絵を描くことが子どもたちにとってはじめての経験だったこと、そして何より飽きてしまう恐れがあったからでした。
使用する絵具は、すべて水溶性のもの、アクリル塗料や、不透明水彩(いわゆるグワッシュ)などなどです。
子どもたちは、パレットという言葉も、その使い方もすでに知っていたので、キャンバスの上にじかに絵具を絞り出し、それらを筆の先で混ぜ合わせながら、灰いろにしていくという作業は、スムーズにとはいかないまでも、それほどむずかしい感じはありませんでした。
しかしながら、最初にやって置かなければならないことがありました。
数ある絵具の中から、どの絵具を選ぶかということです。
各人、思い思いに好みの色を選び、キャンバスの縁にそってチューブの絵具を絞り出していくわけですが、どのくらいの量が必要なのか、えがく対象がはっきりしていないので、しばしまごつきます。
キャンバスの白いところが、全部なくなるまで絵具を塗ろうと、子どもたちには伝えました。
四つの側面も、すべて塗りつぶすようにとも伝えてありました。
絵を描いている時間は、正味1時間弱、準備や後片付けの時間を入れても2時間ほどで、作業は終わりました。
意外と集中力は途切れずに、ほぼ最後まで塗り終えました。
でも、これで終わりではありません。
絵のタイトルを、自分たちで決めなければなりません。
題名を付けて、はじめて自分の絵になると教えたからです。
それぞれが、描いたばかりの絵を見ながら、楽しそうにタイトルを付けていました。
ところで、肝心かなめの、灰いろはどうなったのでしょう。
結論からいえば、どの絵もなかなか灰いろにはならず、ちょうどいい具合に色が混ざり合ったところで、つまりは、すてきな形や色があらわれたところで、それ以上先には進まずに、次の場面へ展開するといったふうで、画面全部を塗り終えたのでした。
とはいえもし、もっと遠くから見たら、それぞれの絵は、灰いろっぽく見えたかもしれません。
たとえば、
黄緑のような灰いろ、
灰いろっぽい真黄色、
紫のような灰いろ、
そして、灰いろっぽい真っ黒。
(つづく)
*参考資料:3歳児による油彩 F4号(24×33㎝)
4月から毎日が日曜日を決め込んだ。
年金だの、健康保険だのを考えるともう少し働かないといけないのだが、定年退職の気分がどういうものなのかを体験してみている。最初の数日はやることに困った。毎日が出かける先がないと手持ち無沙汰でしょうがなかった。しかし、一週間もすると、休みのペースにだんだんと慣れてきた。
このところ、ご無沙汰していた写真撮影に出かけるようになった。まあ、その前に機材を新調した。今は新調した機材の具合を確かめるためにいろいろと撮影をしてみて
いる。GWが終わったら撮影旅行に出てみようと思っている。この数年で諦めた趣味を復活してみよう。そして、次の仕事に出かけるときにバランスをとってみるのだ。もう1ヶ月休みを延長した。
昨秋のことだったろうか、玄関のチャイムが鳴って、戸を開けると見知らぬ男性が立っていた。不動産屋らしき会社名を名乗るなり、「お隣の家の持ち主をご存知ではありませんか」という。ついにきたか、と思った。近くに新しい地下鉄の駅ができてからというもの、周辺の地価はどんどん上がり古家がつぎつぎとマンションや新しい戸建てに建て変わっているのだ。
お隣は空き家で、昭和30年代に建てたと思われる瓦屋根の平屋を覆い隠すように、樹木が生い茂っている。100坪を越えるくらいの広さだろうか。もう誰も手をかけない荒れた庭なのだけれど、大きく育った木々が季節季節に花をつける。3月からぽっぽっと明かりを点すように白花をつけるモクレン、春の盛りを教えてくれる深紅のボケ、つややかな葉の赤い椿、秋にはあたり一面を甘い香りで満たすキンモクセイ…。
特にいまの季節、枯れたような庭が息を吹き返すようにして、淡い緑から濃い緑へぐんぐんと勢いを増していくときは生命力にあふれて、その息吹を分けてもらっているような気持ちになる。鳥のさえずりもひときわ高くなり、はしゃぎ回るように梢をあっちこっちと飛び回るのを見ているのは楽しい。一方で、秋が深まる季節に、夜の暗闇の中で2階の窓を開けキンモクセイの香りに浸るのは、じぶんの境界があいまいになるような不思議なひとときだ。
林のような庭を楽しんできたのに、ついに消えるときがきたのか。
このところ、新聞やチラシに「お庭解体」とうたう広告を見かけるようになった。大木伐採とか庭石撤去とか、そんな言葉を胸が痛む思いで読みながら、私の実家の庭を毎年秋に剪定してくれる植木屋さんの一言がぐるぐると頭をめぐる。「こういう庭、もう誰もつくんないよ。維持に金かかるしね」確かにそうなのかもしれない。生い茂っていく庭にもう手をかけられず手離すことを決め、解体業者を呼ぶのだろう。大きく育った木が倒され殺風景な駐車場になるのを、どれだけ見てきたことだろうか。
でも、私が子どもの頃は、あたりまえにあちこちにあった庭だ。枝が伸びたなと思えば休日に植木ばさみを入れ、秋に葉が落ちればぼやきながらも何度も掃き集め、何年かにいっぺんはなじみの植木屋を入れる。ときには、気にいった樹木を買い求めて植え込み、少しずつ好みの庭を作り上げていくのは特別なことではなかった。
長い時間をかけて庭は育っていく。そして、そこには家族の物語が宿る。
60年前、祖父の植えたしだれ桜は、この春も淡いピンク色の花をつけた。いつだったか母が、「おじいちゃんが死んだら花を付けるようになったんだから、不思議なものだねえ」といっていたっけ。祖父はしだれ桜が好きだった。生きて見られなかった花を、毎年祖父の目になって見上げる。
椿の種類が多いのは、祖母が椿を好んだから。淡い色の乙女椿、紅に白の混じった紅しぼり、深紅の八重…。若い頃はあまり好きではなかった椿の花が、このごろは胸に響いてくるようになって、もしかすると祖母も同じ思いだったのかもしれないなと想像しながら一枝切って花瓶にさす。そして、そう話すこともなかった祖母の生涯を考えてみたりする。生きていたら、114歳だ。
茂り始めた雑草を引き抜くと、あちこちに芝がするすると伸びている。ここに越してきたとき、父は当時はやっていた緑の芝生を敷き詰めて熱心に手入れをしていたのだけれど、育ち盛りの私と弟がその上で自転車を乗り回したりするものだから、結局のところはうまく育たずあきらめた。でも、その生き残りが50年たっても生き延びて、この季節になると存在を主張し始めるのだ。
一方で、これまた50年以上、毎年毎年色とりどりの花を咲かせてきたプリムラは、ここ数年めっきり元気がなくなって、もう絶滅するかもしれないと思わせるほどの衰弱ぶり。
土、水、光、人の踏みつけ…いろんな要素が複雑にからみあって、庭は動き続けている。長い時間の幅で見つめていくと、そこには植物たちの栄枯盛衰も見える。
草むしりをしながら考える。私がいなくなったら、この庭も解体されるのだろうかと。桜とともに祖父の記憶も、椿とともに祖母の記憶も、ばっさりと伐り倒されて消えてしまうのだろうかと。
いまはやっかいな木は植えずに、おしゃれなプランターに一年草の花を咲かせて玄関やベランダを飾るのが主流だ。1年ごとに花は初期化されて、記憶をつなぐことも時間をかけて大きく育てることもなくなった。そんな庭先を横目で見ながら、あたりまえにあった庭のつきあいができなくなったのはなぜなんだろう、と考える。落ち葉を掃くことも伸びた枝を剪定することも、いつのまにか、えらくやっかいなことに感じるようになってしまったのだ。
今年に入って、さわやかな笑顔の引っ越し屋さんが「お隣の荷物運び出しますのでちょっとうるさくなります」とあいさつにきた。そう日を置かず、作業着を着た人が「測量に入ります」とやってきた。もう解体が始まるんだなとこちらも覚悟を決めたが、その後は静かで動きはない。
ひときわ早く咲いたモクレンを、最後の花と思いながら眺めた。いま、緑の庭は風に揺れ、陽に輝いている。
東京にきて間もないころ、生活費を稼ぐために半年ほど街角にある老舗のバーで働いていた。夜7時から数時間、大きなスピーカーからジャズの流れる、照明を極力落とした店内のバーカウンターでお酒を作る仕事だ。キャンドルのようなライトに照らされてぼんやり浮かび上がる空間を、今思えば私は、かなり気に入っていた。真っ黒の重い扉、格子窓、タバコのヤニで黄色くなった壁、ゆったりと過ごせるいくつかのテーブル、舞台やライブのチラシが並べられた棚の上に置いてある、薄ピンク色のダイヤル式電話。小さなタイルが床に敷き詰められた化粧室。目につくものどれも、新しかったものがゆっくりと古くなってここまでやってきたものばかりだ。その格好の良さが好きだった。マスターは料理担当で殆ど厨房の中にいたから、店番は私一人だけだった。客が来ないときは、バーカウンターの中でぼんやりと時を過ごした。ビールケースに座って本を読んだり(暗いのであまり捗らなかったが)、ウイスキーの銘柄をひとつひとつ調べたり、ラベルをスケッチしていた。その退屈さに欠伸が止まらない日もあったけれど、暗い海のなかをすすむ潜水艇の中にいるような感覚に、なにか貴重なものを感じていた。スピーカーからアニタ・オデイの声が聞こえなくなり、いつのまにかCDが曲を終えたことに気づく。引き出しから新たなCDを取り出し、オーディオにセットする。その日にかけるCDの順番はマスターが決めていて、棚の一番前から順にかけていくのがルールのひとつだった。そんなゆるりとした作業をいくつかこなしていると顔見知りの客がやってきて、映画や舞台の話なんかをしてくれる。やがて学生や常連客がぽつぽつ来ていつの間にか満席になり、大忙しになると、あの一人の退屈な時間が恋しくなるのだった。飲食店であくせく働いていると、退屈への恋しさは常だった。
店の料理はどれも美味しく、働いたあとも休みの日にもよく居座った。ブロッコリーとアンチョビのペペロンチーノと、アーリータイムスのソーダ割りを頼むのが私の日課になっていた。
店を辞めたあともしばらく通っていたが、引っ越しをしたり新しい職などに就いてから何となく遠のいてしまい、そのまま2年ほど時が経った。
久々にあのペペロンチーノを食べたくなって、駅から歩いて細い曲がり道に入る。黒い外観と看板、それを引き立たせるような、店名が書かれた筆記体のピンクのネオンが出迎えてくれるかと思いきや、そこに構えていたのはチェーン店の居酒屋だった。明るいライトがぴかぴか輝いて、きつい光が道にまで漏れている。黒い潜水艇は海の静けさのなかに消えてしまったのだった。
辺り一面、目に眩しい新緑に包まれるこの時期、飛交う夥しい花粉のおかげでアレルギーに悩まされるのは、我々日本人だけではありません。昨年など、一度喉に何か張り付いたようになって、息がびったり詰まってしまいました。流石に突然のことで肝を冷しましたが、このまま気を失うかと慌てていると、息が通るようになりました。13年前、息子が生まれた年の秋に庭に植えた松の丈は、3メートルを超えているでしょうか。この季節、松の天辺にずらりと7、80センチの棒状の新芽が天を向いています。食卓から眺めると季節外れのススキの穂が風に靡くように見えます。傍らの大木は、13年間一度も剪定していないので、どの枝もずっしり葉を蓄え、重みで少し撓ってしまっています。
—
4月某日 ニース アパート
年末息子と二人で訪れた時は、彼が歩くのも儘ならず、息子をキックボードに載せて連れまわした。今や彼もすっかり元気になったので、83歳の母のためにキックボードを抱えてきた。アパートに着くなり、息子はすぐに母を連れて、階下の「名人パン屋」にクロワッサンとチョコレートパンを買いに出かける。
観光にエズに出かけたとき、話好きのタクシー運転手が何故息子とイタリア語で話すのかと不思議そうに尋ねた。息子はミラノで生れ育っていると話すと、ここは1860年カヴールとナポレオン三世のプロンビエール密約までサルデーニャ王国だったし、ニースはガリバルディ将軍の生地だ、と嬉しそうに話し始めた。だから、イタリア語だって話せると言うので、何か話してと頼むと、恥ずかしそうに「こんにちは」と呟いた。
毎日天候がとても不安定で、どこに出かけるにも合羽を携えて出かけた。真っ赤でだぶな雨合羽を小柄な母が被ると、まるで奴さんが歩いているよう。晴れ間がのぞけば夏日のようだが、午後には決まって天気が大幅に崩れ、土砂降りの上に気温も肌寒くなる。この運転手も、今年の復活祭休暇は、寒いお陰でまるで観光客の足が伸びないよと愚痴った。
アンティーブの浜を抜けてコバルト色の波が打ちよせる防波堤に腰かけ、老人と彼の息子が浜から投釣りするのを眺めている時は、抜けるような青空が広がっていた。海と空は丁度同じ色をしていて、水平線に沿って白い雲の帯がどこまでも延びていた。釣人に「よく釣れますね」と話しかけると、「でも、こんな小さいし」と照れ臭そうに笑った。今はなくなってしまったが、子供の頃は湯河原の小さな船着き場の傍らには、ちょうど似た感じの岩場が続いていて、魚屋で捨てるアラを分けてもらい、それに紐をくくりつけて岩ガニをバケツ一杯釣り上げた。少なく見ても百匹以上は居ただろう。アンティーブ海岸の岩には、一見もずくのような海藻が貼りついていて、母がそれを確かめると、全くもって無関係だった。息子は足を海水に浸しつつ、主人が投げてよこす木の枝と海中で戯れて止まない大型犬を目を細めて眺めていた。
翌日、息子のたっての願いでオントルヴォーの山に昇る。シタデルラと呼ばれる山上の古城の登山口入口で、入場コインの自動販売機が壊れている。村人から紹介された女性店主にその旨伝えると、まずこちらが履いていたバスケットシューズを眺め、これなら大丈夫と呟いてから、この裏道から川伝いに進んで山道を登れば、急だけれどシタデルラに辿り着けるわと教えてくれる。
登山の用意もない、齢80を超えた母を連れてゆくのは到底無理と思ったが、言われた山道を3分の1ほど昇って、不可能なのを確かめてから先程の壊れた自動販売機に引き返すと、どういうわけか直ったと言う。息子曰く「お父さんどこ行っていたの、探し回ったのに」。
シタデルラまで、山道の足場は石で固めてあるので昇りやすいが、不整脈が酷い母の身体を労わりながら少しずつ休憩しつつ昇る。息子は病気のことなど忘れてしまったのか、一気に頂上まで登り切って、「おおいおおい」などと彼方から大声で呼んでいる。年末も、息子はここに来た途端、別人のように精気を快復したから、息子にとっては最近流行りの「パワースポット」なのだろうと冗談を言うと、母は大真面目に、「これだけ切り立った山なのだし、きっと本当にそうよ」と応じた。
ちょうどニースから乗った電車の隣に座っていたトラッキングの杖をついた老夫婦とその娘が、我々と同じ塩梅でのんびり頂上のシタデルラを目指していて、追越したり、追越されたりを繰返しつつ、顔を合わせるたびに一言二言言葉を交わしたのも、母には励みになったに違いない。「杖を突いたあのお爺さんですら登っているのだから」、と坂の途中、ベンチ状の石に腰かけて母は呟いた。
シタデルラの山の鼻先には、古代の槍先のような、よく研がれた薄い刃よろしい岩山が聳えており、母は「その昔中国人がここに来ていたら、即刻石仏を彫ったに違いない。中国人と言えば、すぐに石仏を彫る人たちだから」とその姿に感動した様子だった。息子が買ってきたコーラで喉を潤しながら、小学生の頃、両親に連れられて何度となく伊勢原の大山阿夫利神社に登った話など、取り留めなく母と話す。大山の風景より寧ろ、山道の料理屋のタラの芽や甘酒ばかりが心に残っているのは何故だろう。
4月某日 ミラノ自宅
国外某所のマスターコースを受講してきたアレッサンドロが、コースの演奏会でも振ってきたブラームス3番を改めて聴いてほしいと言う。オーケストラと本番をやって来たならさぞこなれているかと思いきや、身体が硬直しきって到底音が合わない。聞くと、アレッサンドロが出来る限りオーケストラの音を聴いて、そこから霊感を掬い上げたいと言ったとき、指揮はそんな軟弱なことでは駄目だ、オーケストラに対し自分の音楽を明確に、強気で実現させるつもりで臨まなければいけない、と講師から助言されただけだと言う。教えるというのはかくも難しく、重責。
4月某日 ミラノ自宅
指揮の学生たちがお金を出し合ってオーケストラを3日間借り、全曲モーツァルトの演奏会を開いた。マリオ・ジョヴェントゥーの合唱団に手伝ってもらってK.65小ミサ曲、K.222Misericordias dominiなど合唱つきの作品を入れ、Ergo interest…Quere superna、Sub tuum preasidium、Conservati fedeleなどのアリアを、学校の声楽科の学生をよんで歌ってもらう。
モーツァルト少年最初のアリア”Conservati fedele(貞操を守って頂戴)”は、メタスタージオの同じ台本の名作”Per pietà, dell’idol mio(ああ愛する人お願いだから)”や”Oh, temerario Arbace, per quel paterno amplesso(ああ勇敢なアルバーチェ、父の抱擁によって)”に引継がれる魅力の数々がちりばめられていて、単なる子供の習作と捨置くのは忍びない。ともあれ幼い子供に「貞操を守って頂戴」と曲を書かせる父親もどうだろう。
レッスン合間に指揮の学生を集めてラテン語読み合わせ。小ミサ曲を担当するカブラスが学校でラテン語を勉強して来なかったので、発音やアクセントについて、他の学生も交えてセンテンスを聴かせ方について喧々諤々。
ロックバンドでベースをやって暮しているブラーヴィは、長髪をなびかせ顎髭を蓄え、風貌はロッカーそのままだが、生徒の中では一番厳しくラテン語を学んできていて、実に細かく注文を出すので驚いた。
たとえば、ラテン語tertiaは現代イタリア語terza(3番目の)にあたり、現在イタリアのラテン語教育で広く用いられる発音に従えば、ほぼterziaと同じになる。そのつもりで今までterziaと発音していたが、彼曰く本来はtiとziの間の発音で、先生の発音では子音がきつ過ぎると言う。
ともかく、ラテン語を読める読めないが、かくもイタリア人の誇りや恥の意識、格差意識に繋がっているとは知らなかった。うちの息子も来年から中学でラテン語が始まると話すと、とにかく声に出して読ませてあげてください、と皆から助言を貰う。
第五格変まで丁寧に覚えるより、音にしてしまえば、伊語のネイティブならずっと簡単に頭に入るし、瑞々しく感じられるという。話すための言葉ではないのだし、分からなければ辞書を引けばよい。音に慣れてしまえば、直感的に読み進められるというが、日本の古文でも同じなのだろうか。
ex-. idem, in primis, in extremis, et cetera, alter ego, tabula rasa, ultimo など、意識しないまま、日常会話で口をついて出てくるラテン語は結構ある。ドナトーニの”in cauda”も、”in cauda(尾っぽには)”と言うだけで、下の句”venenum”が口をついて出てくる年配のイタリア人はたくさんいる。我々が「塞翁が」と問いかければ、「馬」と応える塩梅だろう。“in cauda venenum”は蠍の尾に毒がある喩えで、「最後は毒にやられるぞ」というラテン語の故事成句。ドナトーニの曲の邦題は「行きはよいよい、帰りはこわい」と訳した。
この反語表現で後代作られた似非ラテン語成句もあって、“dulcis in fundo” 「デザートは最後、甘いものは最後」という意味になる。今朝ジャンベッリーノ通りのスーパーに出かけると、店内放送が、男性の声で「dulcis in fundo! はい、みなさま ”お楽しみは最後”でございます。毎度パムでお買い上げのお客様有難うございます!月末特価!XX大特売です!」と繰返していた。
4月某日 ミラノ自宅
キプロスからの土産にと、家人が息子のために笛を3本購ってきた。一つは木製の横笛で、二人同時に吹けるように、歌口が二つ向合って穿けてある。それから民族楽器風木製リコーダーともう一つ、竹製超高音域スライドホイッスルで、これは鳥笛の一種。フルートを習っている息子が、このリコーダーや横笛でラベルのボレロの旋律を吹くと、調律のせいで、えも言えぬ民族臭さが出てとても良い。ギリシャ風ともトルコ風ともつかぬ、よたる音。民族楽器風と書いたのは、民族楽器風の装飾が施されているが、実際はミュージックセラピーに携わる女性がつくる創作楽器だから。
本條さんから、長年住んでいるイタリアを主題にして、来月ローマで初演する三味線のための小品を頼まれる。自転車で息子を合唱に送りにゆきながら、頭のなかで何となく流れを決める。これとは別に、夏までに本條さんのために書く三味線と弦楽合奏のための作品は、日本から初演されるシベリアまでの道程を示すつもりで、全く違う音楽を考えている。三味線のことは分からないので、妙な小細工などせず、書きたい音を書き、やりたいことを説明して、本條さんからのアドヴァイスを素直に仰ぐことにする。
この前に書いた17絃と打楽器の作品では、作品の基のテキストの作者、ジョイ・コガワの名前を数字に置換え17絃の調絃を決めたところから、曲が求める音が自然に溢れてきた。この三味線の小品の場合、どの調絃が一番弾きやすいか本條さんに相談する。本條さんはローマの日本文化会館で演奏して下さるのだが、先日ローマの平山美智子さんの訃報を太田さんからいただく。文化会館で平山先生とご一緒したときを思い出して、胸が熱くなる。
4月某日 ミラノ自宅
息子が階下でプーランク「3つの小品」を練習している。中学の終り頃、生まれて初めて練習したピアノ曲が悠治さんの「毛沢東三首」で、その次がプーランクの「夜想曲1番」だった。渋谷のヤマハで自分でも弾けそうな楽譜を探していて、買って帰ったのを良く覚えている。今でこそインターネットでプーランク自演の録音すらすぐに聴けるが、当時この曲の録音は誰のものも聴いたことがなかった。
作曲家が弾いている自作の演奏の方が、実に自然で心に響くことのは、たぶん音符を弾いていないからだろう。自ら書いた音楽が明確に目の前に可視化されているからに違いない。ラフマニノフなどピアニストとして元来有名だが、プーランクやプロコフィエフ、ショスタコーヴィチなども、自作自演の録音を聴くと、他のピアニストでは、しばしば借りてきた衣を纏った感じに聴こえる部分が、まるで違った血の通った音楽として成立しているのに驚かされる。寧ろ音に感情など着せぬまま、音が投げ込まれ浮び上がる空間を眺めながら、無心で鍵盤に指を滑らせているように感じられる。
音楽家は音を身体に残してはならない。身体の裡は骸骨よろしく極力風通しを良くし、一切残滓ない方がよいのだ。すると、まるで思考の粒にまで昇華された細かな感情が、そのまま音に載って溢れだす。音と感情を身体に溜め込む程に、感情が先走った、鈍重で曖昧模糊とした発音になる。理由は分からないが、口を開け下顎辺りを緩めるだけでも、音の抜けは急に変わったりするので興味深い。
演奏家が書かれた音符に囚われた演奏をすれば、音楽も音符のカプセルに閉じ籠められたまま、こちらに流れ出しては来てくれない。一見単純に見える悠治さんのピアノ曲の楽譜など、音符に頼りすぎる演奏家の心理を鋭く突いていると思う。
4月某日 ミラノ自宅
M君のレッスンで、並んだ音は均等に並べないよう頼む。空から降ってきた音符が地に着いたら、形を揃えずにそのまま触らずにいて欲しい。削ったチーズをたっぷり加えたフランス風オムレツと、押して空気を抜いてつくる和風卵焼きの違いのよう。これがイタリア風になると、空気を押し出すこともなく、ただフライパンの型通りに卵をひき、しっかりとした食感のフリッタータに仕上げる。
日本文化は伝統的に侘び寂の印象が強く、空間性を特に大事にすると西欧から見なされてきたが、浮世絵から現在の漫画に繋がる空間造形の伝統を思い返せば、西欧風な遠近感によらず、空間全体に亘って見えるべきものを全てしっかり見せる志向を感じられはしないか。それも我々の文化の一端であって、否定すべきものではない。音楽に於いても、無意識にそういう特質が残っている気がする。かかる特質を予め伝統的に受継いでいると知るのは、決して悪くはないだろう。
どう演奏すべきかレッスンで話すのは出来るだけ避けたい。正しい演奏など存在しないし、同じ演奏者は同じ演奏を二度と繰り返せない。借りてきた着物で出歩くようなもので、人の演奏を真似ても、そこには真実は芽生えない。テンポが脈絡なく崩れて弾きにくかったり、「てにをは」さえ違っていなければ、基本的に尊重することにしている。
M君のレッスンでは、聴こえるべき音をゆっくり確認してから、原曲のシューベルトをベートーヴェンのように、ハイドンのように、ウェーバーの積りで演奏してもらう。困惑した表情のM君が、最後にじゃあシューベルトのつもりで演奏してと言うと、途端に晴れやかな表情に戻った。もちろん、実際は正しい演奏法などあるはずもなく、半分当てずっぽうだが、少なくとも楽譜の音符から視点を逸らし、音の質感や色や風景にのみ集中して音楽を作ることに役立つ。思いを巡らせることができる。音符ばかりが見える演奏では、機械の利用説明書のようになってしまう。
三つ子の魂に喩えると少し的外れなのだが、最初に身体に染みこんだ手本は、なかなか消すことができない。自分の音楽の礎は、篠崎先生のヴァイオリンを通して培われたと思うし、あの頃聴いていた音の原体験は、何物にも代えがたい。幼少からAIによって自動生成された音楽のみを聴いて育てば、どうなるのだろう。既にそれに限りなく近い状況が生まれつつあるとは思う。
ミラノで新しい現代音楽アンサンブルを作るから手伝ってほしいと頼まれて、アンサンブル作りからアンサンブルが軌道に乗るところまでに関わった。リハーサルの仕方から、楽譜の読み方から、一つ一つ時間をかけて積み重ねていった。あれから10年以上経ちメンバーも入れ替わったけれど、当時培った音楽の方向性は今も全く変わっていない。彼らは今やイタリアを代表するアンサンブルになったけれど、一緒に悩みながら作り上げた音楽が認められたことは、とても誇りに思う。楽譜をどれだけ正確に実現するかより、楽譜が何を望んでいるのかを探し求め、表現する試みだった。
何の為に自分は音楽をやっているのか。イタリアに来たばかりの頃は、本当にそればかり考えていた。イタリアに来る直前に阪神淡路の震災があって、住宅地から吹きあがる火柱を眺めながら、途轍もない喪失感に襲われた。自分は何故何の役にも立たぬことをやっているのか。そんなことを考えつつイタリアに留学生活を始めて、全く作曲が出来なくなった。無気力から脱せぬまま、ストレス性難聴で耳も聞こえなくなった。
経済不況からイタリア政府給費も打ちきられ、路頭に迷って手当たり次第に観光ガイドや通訳のアルバイトで日銭を稼いだ。夜明け前に観光バスのガレージに出かけ、ツアー客を連れてゆく怪しげなレストランで、ガイド用に用意される食事を昼も夜も食べた。
内容はツアー客と同じもので、常に同じリストからメニューを選び、それもお世辞にも旨くなかったから、美味しいですよと連れてゆくツアー客にも申し訳なかった。一日働いて家に戻れるのも夜半だから自然と音楽から遠ざかり、ちょうど作曲も出来なかったので初めは何も感じなかったが、そんな毎日が続いて漸く、自分にとって音楽が掛替えのないものだと痛感した。
食べるために人を騙して仕事する位なら、食べないで音楽をやっていた方が良かった。あの頃は不思議なくらい、食べなくても楽譜を読んだり作曲できるだけで幸せだった。
あの頃に、自分にとって音楽の意味するものは理解できるようになった。子供の頃から競う目的で演奏するものは、自分の音楽とは似て非なるものだ。それでもコンクールに関わらなければならないなら、審査するよりもむしろ、可能な限り審査される側に関わっていたい。
審査される作品を並べて演奏するとき、本当はどの曲が一番好きですか、どれが一番になると思っていましたか、と声を潜めて尋ねられる。優等生の模範解答のようで甚だ厭だが、本当にどの曲も等しく受賞されるよう願いつつ演奏しているし、それぞれ作品の魅力は全く違って、比較できないし、各作品の魅力を最大限引出すべく我々は必死に演奏している。だから、演奏会後に受賞を逃し落込んでいる作曲者に、無意識に「素晴らしかった、おめでとう」と勘違いな発言を繰返し、その度に自己嫌悪に陥る。
家人が結婚前に教えていたS君という生徒がいて、とても不思議なピアノを弾いた。器用ではないが、心に響く純粋な音楽だった。教養に富む頭で感じる音楽というより、もっと素直に語り掛けてくるものがあって感動させられた。プロコフィエフのトッカータなど、無理して弾いているのだけれど、ものすごく切実な音楽で、うつくしかった。
聞けば、S君はニッカポッカを履いてトビ職人をやっていたと言う。そのころ家人は、S君と街を歩いていて、このビルはうちが建てたんですと自慢するのを面白がっていたが、或る日、S君がトビになった切っ掛けは、暴力団から抜けたからと知った時は流石に仰天していた。それから程なくして、S君は忽然と姿を消してしまった。組から抜けるのは大変だと話していたので、連れ戻されて酷い目にあっているのではないか、警察に探してもらえないかと気を揉む日々を送った。彼がどこで何をしているのか、知るすべもないけれど、S君が彼の音楽とともに生きていることを願う。
4月某日 ミラノ自宅
音楽を教えるにあたり、方法論に言及するのは適当ではない。音楽とは一体何か、少なくとも自分にとって何か、それを一緒に考えることしかできないと思う。
こうやって弾けばよい、と自らのピアノの指使いを全てコピーさせるのが、優れた音楽の指導法とは呼べないだろう。どういう訳か、エミリオに習っていたころ、クラシックのレパートリーの彼の書き込み入りの楽譜は、殆ど生徒に見せてくれたことがない。それに反して、勉強した後の現代曲の楽譜はとても気軽に貸してくれたので、それを見ながら、自分なりに楽譜の勉強の仕方を考えた。
ちなみに、自分の勉強した楽譜は、現代曲でもクラシックのレパートリーでも、生徒にはいつも気軽に見せていて、何か役に立てられるのならと言っている。矛盾するようだが、自分の書き込み入り楽譜を学生に見せるのは、そこに音楽はないことを明快に伝えたいからだ。音楽は楽譜の中にはない。楽譜は音楽ではない。答えを導く情報は確かに書いてあるのかもしれない。しかし、楽譜をいくらのぞき込んでも、答えはそこにはない。
4月某日 ミラノ自宅
13歳、文字通りの思春期を持て余している息子にとって、生れて以来母親とのコミュニケーション手段として使ってきた日本語は、春先留守がちだった家人へ甘えを表現する手段でもある。伊語を話すと息子は無意識に年齢相応のしっかりした自我を纏い、日本語を話すと無意識に甘えの精神構造に変化する姿を観察するのは興味深い。父親に伊語で話しかければ精神的に安定している証拠で、日本語で話しかけてくれば、甘え相手を探していると理解する。
4月某日 ミラノ自宅
小学校のときに自転車に乗っていて軽トラックにはねられた。はねられた後は暫く記憶がなくて、遠くにまばゆい扉のようなものを見た気がするが、それも後付けの記憶かもしれない。はねた軽トラックはそのまま暫く走って止まったのか、止められたのか。周りが「轢逃げ未遂」と話していたからか、朧げに走り去ってゆくトラックの後姿を覚えている気がするのだが、これも後から付け加えられた記憶かもしれない。
どういう廻りあわせか、中学に入ると、加害者の娘が同じ学年にいることが判った。どうして判ったのか覚えていないが、何度か彼女のクラスの前を通った時、その女の子を眺めていたとおもう。どうして女の子が誰だか分かったのかすら判然としないが、体育着に名札でもついていたのだろう。ともかく彼女は級友に囲まれクラスの真ん中で楽しそうに笑っていて、指なしと呼ばれている自分が情けなかった。
彼女に何の恨みもなかったし、子供心に彼女に対して何かを思うのは間違っているのはよく判っていたが、彼女の楽しそうな姿を見てから、坂道を転げ落ちるように酷い自律神経失調に陥り、中学終りまで塞ぎこんでしまった。
息子を見ていると、あの時の自分を思い出す。女の子の姿をみて羨ましいと思った感情が、無意識に自分を傷つけていたのかもしれない。加害者に対して憎しみも何も感情が沸かないが、それは単に自分が幼かったからだろう。あの時両親がどんな思いをしていたのか少し理解できる気がする。
久しぶりに両親と電話で話す。今週だけでも病院は3回くらい行ったのだけれど、子育てはなかなか大変だね、と母親に言うと、それも終わってみると、親は良かったことしか覚えていない、とさも愉快そうに笑った。
4月30日 ミラノにて
遠藤ミチロウと関根真理、2人のライブを4月は2回も見ることができた。
関根真理は、パーカッショ二スト。ドアーズをカバーするミチロウのバンド「THE END」のドラマーとして彼女のことを初めて知った。金髪が似合う、ほれぼれする女ドラマーだ。同じくミチロウ率いる民謡パンクバンド「羊歯明神」にも参加していて、彼女が入る時にはバンド名が「羊歯大明神」となる。彼女のドラムが加わることで、スターリン時代の楽曲が「音頭」に変換してもかっこよさを失わない感じがする。
その彼女が、ギターを抱えてひとり歌う遠藤ミチロウに、パーカッションで花を添えているのが「ハッピーアイランド」だ。企画ものではなくて、今後もこのユニットで演奏していくという意志によって、ユニット名がつけられたのではないかと思う。「ハッピーアイランド」というのは「福島」のことだという。
4月に見たライブは、2回とも街なかの、普段はライブをやらないような会場だった。どこでも演奏できる2人組が、身軽にふっとやってきて、魔法をかけてしまう・・・。そんな印象のライブで心に残った。
ひとつめは、越谷アサイラム。埼玉県越谷市の駅前商店街の様々な店を会場に、有名無名のミュージシャンがライブを行う。アート展やクラフトのワークショップ、食べ物の屋台なども出ている街フェスだ。リストバンドを見せればどの店のライブも聴くことができる。ハッピーアイランドが演奏したのは、普段はダーツバーとして営業している店だ。観客は不揃いの椅子にそれぞれ腰かけ、椅子がいっぱいになったので絨毯に直接坐ってミュージシャンを囲んだ。楽器の設営も、リハーサルもみんな見えてしまう。そんな面でも演奏する者の度量がためされる、そんな会場だった。ミチロウはひるむことなく、いつものように「オデッセイ・1985・SEX」から始める。「やりたいか そんなにやりたいか」と、福島弁バージョンだ。小学生の子どもも聴いているが、パンクは危ないものなのだからしょうがない。この歌が相変わらず歌われる世の中なのだ。私はこの歌をまじめに受け止める。コミックソングのように笑って聞くわけにはいかない。「まるで少年のように街にでよう」と歌う「JUST LIKE A BOY」では、関根真理がコーラスをつける。通りかかってたまたま聞いた人の心にも届くと良いなと思う。
音楽には、「ほんとうに見たかった世界」をつくる力がある。止まったもののつづきを描く力がある。けれどその力は、たった一人では発揮できない。大通りをちょっと曲がった先で、生涯を音楽に捧げる人たち。草の根ミュージシャンたちはその力を合わせ、街に息をふきかける。音楽でしかいえないことが、街の未来に必要だから。
越谷アサイラムのパンフレットに主催者からのこんなメッセージが載っていた。
ふたつめは、埼玉県浦和市の中古レコード&古書のお店「浦和アスカタスナレコード」でのライブ。30名ほどの観客で満員になってしまう店内で、レコードや本の棚に囲まれて丸椅子に座って演奏を聴いた。もとは町工場だったのだろうかと思われる建物。めずらしく歌の合間にぽつぽつ話しながらゆっくり流れるライブで、会場を出た夜空に見上げた丸い月とともに、あの日の特別な時間の余韻が、今でも心に残っている。早川義夫の「シャンソン」や高田渡の「生活の柄」が歌われて印象に残った。
「キミの魂行方不明」と歌う「浪江」、ボブ・ディランのカバー「天国の扉」の日本語詞に歌われる、生きていることの悲惨。やさしいメロディにのって歌われる言葉にじっと耳を傾ける。今、ミチロウが歌いたいと思っている歌の、その理由に共感を覚える。ミチロウの歌をパーカッションで支えている関根真理もまた、共感しているに違いないと思う。
生まれて物心ついた頃から、父はいつも家にいる事が多かった。そして私が4歳の時、父は踊る事を辞めていた。5歳のとき家族でドイツに渡った。父は毎日オイリュトミー学校に通っていた。なので父が正直何をやっているのかよく分かっていなかった。そして私は10歳の時に帰国した。父に『職業欄を書かなきゃいけないときなんて書けばいい?』と聞いた事がある、そうしたら『ブトウカと書いとけ』と言われた。父は合気道をやってたこともあり、私はいつも武道家と書いていた。私が初めて父の踊りをはっきりと認識したのは、19歳の時、父が踊りの活動を再会してからである、始めはまったく踊りに興味もなかったし絶対に踊りはしないだろうと決めていた。しかし私が22歳の時、父がサンフランシスコのフェスティバルに呼ばれ、ひょんな事から私はそれに出る事になった。最初は背景のように後ろでただ立ってれば、という軽い気持ちだった。そして私はその舞台で何もできず、向こうのディレクターにこっ酷く怒られる始末だった。父はそんな結果を分かっていたのに私を舞台に出した。私はそこで初めてダンスと出会った。そしてその舞台で私は初めて舞踊家の父と出会う。
低音DUOの松平敬と橋本晋哉のために 川田絢音の詩を『明日は残骸』『しいんと』『ぼうふらに掴まって』の三連画にした
詩に作曲するのは 詩のひとつの読みかたと言える 詩はことばの響きの組み合わせから生まれ 本来は 黙って活字を目を追うのではなく 響きとして読み上げるものとすれば 語るより歌うのが より古いやりかたかもしれない ことばの意味ではなく響きと 喚び起こされるイメージが かたちのない線になり それに セルパンによるもう一つの線が絡みつく ことばをもつ声の線は 多彩な音色の変化する線で セルパンに寄り添って 和音や対位法でない 西洋音楽では不協和音とされてきた2度の擦れ合うポリフォニーをつくり出す 2度という隣り合う音程のまといつく線は 糸を撚り合わせる織物や ちがう味を取り合わせる料理のように 音楽をプロセスのアートにする 石碑や建築のような音楽ではなく もっと軽く 風にゆれる唄の細い線が漂っていく
1960年代までの20世紀音楽の流れとはちがう方向をさぐる試みは あれこれあって やがてそこから一つの新しい方向が見えてくる と思うことさえも まだその流れに囚われているのだろう 和音・低音・主題・構成というシステムで考えてしまっていることに気づかずに 作曲し演奏し即興しても 見えない檻から出られないし 檻をひきずって歩いているだけのことかもしれない
20世紀の演奏技術は 強い多い速い という力の支配 統合と管理の方法だった 雑多で異質な響きを継ぎ合わせて 複雑な音楽にすることはできるが そういう技術は 反復と確認をかさねて 息苦しい空間をつくり出す 記号や図形を発明しても 聞こえてくるのは おなじ昔の歌だった ということになりかねない
それよりは おなじみの数すくない記号に あいまいな拡がりをもたせて 別な文法で使ってみる 演奏や即興が先にあり 経験を要約する方法は 不完全な道具で 精密な規定と矛盾する実例からは ちがう現場で使うときに そのたびの微調整が必要になる
微分音や複雑なリズムを書くのをやめて 長い音と短い音を 2分音符と8分音符で区別する 符尾のない白丸と黒丸で書いたこともあったが 演奏が均等な長さになりやすく 規則的な拍ができていしまう 棒のない全音符は 同時か順番か わからない時がある 全音符2分音符4分音符と順を追っていくと やはり時間を数えるようになる そこで いまのところ2分音符と8分音符を中心にしているが それが定式ではない 書くたびにすこしずつ書きかたも変わり ただし 説明は避けるようにしている 楽譜に説明してあっても ふつう演奏家は読まないし 説明を求められることになると 無意識のうちに作曲家・演奏家の上下関係を作るかもしれない
休止符は数える傾向を誘いやすい 音符はピッチに気を取られて ありきたりの感情表現をしたくなるが 休止は文脈を無視した数になりがちだろう 休止符は書かず カンマやカエスーラによる中断かフェルマータによる停止 5線をガイドラインとして いくつかの音符がそこに引っかかっている 小節線のような区切りもなく 別な段の音符とは数が合わない という白い楽譜の風景が いまのところは 少人数の音楽なら成り立っている 全員がスコアを見ていられないようなオーケストラの場合は ちがうくふうが必要になるだろう 拍子図形のない指揮法は 例がないわけではないが 指揮者は統制したがる職業だから そこに問題がある 司会進行役なら 適当な時間に合図を出すだけでいいかもしれないが コンサート会場で 演奏者全員の前にただ立っているのは間がぬけているし 不満もあるだろう アール・ブラウンのように 左手5本の指で断片を選んで 右手でそれをうごかしたり止めたりする技は 作曲家の即興で それが作品のスタイルだった こういうことは まずやってみなければ 人間の習性や 身体の緊張度を無視した方法や 理論先行ではできないだろう
冬から一気に初夏のような陽気がやってきて、早めに満開となった桜に昨夜は3月二度目の満月でした。変わる季節がもたらしてくれる自然は気がすむまで愛でればいいのですが、困るのは着るものです。このところ毎日衣替えが必要な気候なので、友人は「ユニクロに住みたい!」などと叫んでいます。(笑)
「水牛のように」を2018年4月1日号に更新しました。
先月書いたとおりに、小泉英政さんの「若かりし日に書いたものから」をFBへの投稿から転載しました。心づもりとしてでも予定を書いておくのはいいことかもしれません。記憶力が怪しくなっても、こうして予定のとおりに出来ることもあるのですから。日記には今日の出来事ではなく、明日やることを書くようにすれば長続きするな、と考えたこともありました。
最寄りの駅前で毎年おこなわれる「桜まつり」は今年は4月15日らしい。駅前は八重桜の木が植えられているので、花の時期は少し遅いけれど、今年はすでにほころびはじめています。15日まで持つかどうか。タクシーの運ちゃんが熱心に語ってくれた話によれば、桜まつりの日程はいつもアトラクションでお目見えする歌手の予定で決まるのだとか。ほんとかどうかは知りませんが、ほんとうであっても、人間のそんな事情に無関係に花は咲きます。すがすがしいですね。
それではまた!(八巻美恵)
土ふまず
草むらで
蝸牛は
眠っていたのか
這いうごいていたのか
まさに死にかけていたのか
それは さほど
私の足どりは
酔っていたのか
浮かれていたのか
つまずいたのか
それも さほど
とにかくあの感触
どす黒い体液が滲みついて知った
土ふまず
(これも18歳ころの詩だ。そのころのを読み返すと、もがいているというか、何にあんなに悩んでいたのだろうと思う。古い本をめくっていると、今は亡き思想家の埴谷雄高さんのこんな言葉に出会った。20歳のころになると「自分が自分を自分のなかから生みだす一種の純粋生誕に達してしまおうと努力することになる」、「栄光の生誕であるとともに、また、苦悩の生誕でもある」(埴谷雄高、『薄明のなかの思想』筑摩書房)。なるほどと思った。)
参加の断章
誰も私を無罪にはしない
このとばりの裏で誤謬をつついている
(曇り硝子を装う未来人)
既に石化
常に葬儀
受難の悲劇
翔天も
潜行も
蜃気楼と
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
しかし俺に影を落とさせるこの太陽の位置のもと
(限界内での挑戦)に汗ばんだ挑戦をはじめたぞ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
すれちがいの享楽の巷で
自由をとりちがえた蟹らと会いました
「甲羅に宣伝ポスターも貼りました
ここに私がいますと貼りました
さて、照明ある場所へ参りましょう」
ー不条理からの横あるき
動く銅像
ペシミズムの波打ちぎわ
蟹らの眼鏡には
空は空、海は海、蟹は蟹
ひなた水は
蛙たちが愛しあうところ
あとは夜
夜は泣く
泣くこともやめた夜
ひなた水はさえ枯れてしまった
ただ奈落への安楽死
川底には密閉した蝙蝠らの巣窟
いまや歪曲した黄昏なのに
口や耳を塞いだまま
ひょんな手つきで
バイブルの扉を磨くだけ
それが証
似非聖者の頽廃した感情の
充分だ
涙もろい感覚の夜空に痛くとけこんで
私を泣かすには これだけで充分
ーただ一枚のフォトグラフ
あなたの崩れた焼身にへばりつく仏の死
そしてあなたの周りで祈る少女の
とかし忘れた長い髪 四方の蝋燭
これだけで充分だ!
涙もろい私を泣かすには
ーただ一枚のフォトグラフ
私には負傷した友を運ぶことも
自殺をとめることも出来ない
けれども!
あなた達の血みどろの衣服!
血の涙!
それらの全てが私のものだ!
腐敗しつづける幾千万の屍体の上で
鳴っているシグナルの音が
誰にも聞こえないなんて
なべて背後には氷河が白んでおり
産婆様のの魂がもはや届かぬところで凍っており
その脊髄を冷たい寂寥が縫っている
そこからほとばしる選択の汗水!
その流れが現代なのだ!
参加だ!
現代への参加だ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
ぼあひ ひぼあひ ひぼあひ ひぼあ!
(これも高校2年生のころの作品で、高文連の大会に提出したもの。ベトナム戦争反対を抽象的に訴えた。)
フユノハエ
ナニ ニゲダシタイヨウナ カッコウヲシテイルダケサ
イテツク オモテデワ
タエテユケソウモナイコトヲ
チャント シッテイルカラ
アタタカイコノヘヤカラハ ニゲヤシナイヨ
アンシンヲ シロ
アノハバタキモ アシノユスリモ
ダマッテイテハ ツマラナイカラダケサ
ナニ ニゲダシタイヨウナ
シグサヲ シテイルダケサ
フユノヒザシガ
シバレヲトカシタ トキニダケ
ミセカケヲ シテイルダケサ
エンジテイルダケナノサ
アンシンヲ シロ
(冬のある日、高校の窓ガラスの所でハエが飛んだり、止まったりしていたのを見て、思いついた詩だ。自嘲的に書いたのか、人のことを書いたのか、忘れてしまった。)
すわりこむと
すわりこむと
ごみがよくみえる
すわりこむことは
ごみの低さに
ちかづくことだ
手
この手はもぎ取られたのに
もぎ取られた手はもぎ取りに上陸する
17度線に駐屯中
貧弱な胸に引き金をひいたり
捕虜の耳を剃りアルコール漬
この手が私の手だ
空襲の中のちぎれた手も
その爆撃のボタンを押したのもこの手であるとしたら
人差し指ほど罪ある指はない
けれど人差し指がなかったら
〈簡単だ、4本指の父は中指で的を狙っている〉
この指先には父母たちのような跡がない
土を掻いた記憶も、銃を握った記憶も
だが誰にも言わせないぞ
あなたは幸福だねとは
離陸してゆく兵器をとめられない
この無力に耐え闘わなければならないからだ
再び言わせないぞ 幸福だねとは
茶の間に残虐なフィルムがながれても
ある聴視者には回想にすぎず
ある者には単なる戦争映画にすぎず
報道までも快感となる事実
けれどもあなたよ
既にその手は潔白ではないのだ
そして時には我々の手は
今日も泥沼に幾人かの同国人が埋もれたのに
顔には勝利の笑いがある
指揮官らの肉づきのよいやさしい手でもあるのだ
見たことあるその手を
脳のなかの尺取虫にかどわかされて
ダイヤの指輪をはめている
見たことあるその手を あなたのその手を
けれど再びあなたよ
既にその手は潔白ではないのだ それどころか!
みみずを刺している釣り針だ!
(この詩には、日付けはないが、20歳前のものだろう。若かりしころの自分を責め、人を責める詩はこの他にも沢山あるが、発表するのはこれまでとしたい。あと二篇ほど、出してもいいのがあるが、長すぎる。次は三里塚の詩に移りたい。詩をここに載せるのは、詩集のための準備だが、陽の目を見るかな?)
しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
かすかにうみの においがする
ぎんざどおりの いっかくに
ばーをみつけた
よもふけて
おとこさんにん あてもなく
ぶらりぶらりと かわべりの
とおりをゆけば ひとはまばら
くるまもまばら
しずみそうな
あーけーどがいの なかほどの
よつじのかどの ふるぼけた
はなやのびるの そのにかい
ながいかいだん のぼりきると
ばーはいがいに おくゆきが
あってひろびろ かんじがいい
あたりみまわせば それなりに
みせはしられて いるようで
きゃくもちらほら ひんがいい
せきにおちつき のみものを
ちゅうもんしたら おどろいた
ことにこれから えんそうが
はじまるという
えっここで
こんなじかんに こんさーと
おとこさんにん ねむそうに
かおをみあわせ とりあえず
だんじょふたりの えんそうに
みみかたむけた
しずみそうな
あーけーどがいの かたすみに
ひびくうたごえ ばんそうは
おとこがつまびく ぎたーだけ
きいたことのない うたがつづく
きょくがおわれば はくしゅして
あいまあいまに さけがすすむ
しずかなこえで ばーぼんの
おんざろっくの おかわりを
つげればともは みずわりを
のんあるこーるの とももいて
ときはしみじみ すぎてゆく
かすかにうみの においがする
ばーのかたすみ
わかくはない
おとこさんにん はしゃぐには
としとりすぎて いたのかも
おもいかえせば あのころは
いくらでもそう いくらでも
はなしたいこと あったはず
なのにいつしか かいわらしき
かいわもとぎれ わけもなく
ざっしひろげて みたりして
やがてさいごの すこしだけ
おおきなはくしゅが まきおこり
しんやのらいぶは ほどなくに
おわりをつげた
しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
ぎんざどおりの ふるぼけた
びるのならびの そのにかい
したがはなやの かすかにも
うみのにおいが みちてくる
ばーもそろそろ おひらきである
やけに冷える朝だと思っていたら、細かな雨からみぞれに変わり、やがて雪に。咲きかけの桜としっとりした大粒の雪の組み合わせは何やら奇妙で、机に片肘をついて窓の外を眺める。春分の日に雪だなんて、と思いながら、咲いてしまった花やつぼみの元気がなくなってしまわないか少し心配になりながらも、その光景から目が離せない。
そんな心配は無用だったかのように、次の日から気温はぐんぐん上がり、1週間後には桜は満開になった。桜の花はいつも突然華やかに開いて、わりとすぐに散ってしまうから、みなさん急いで花見に来ているような気がする。窓の向こうでは散歩をする人、レジャーシートをひいて花見をする人たちでいっぱいに。楽しそうな話し声、笑い声が聞こえて、ようやく春を実感する。
数日部屋に引きこもっていた私もさすがに外へ出たくなり、作業を中断することにした。寒い時期からずっとやりたかった観葉植物の鉢の植え替えをしようと思い立ち、散歩がてら種苗店に向かう。青空の下にドドンと咲き誇る桜の白色が眩しい。花の香気と、様々な粒子によって霞んだ空気に包まれながら桜のトンネルを歩いていると、とにかくこの空間で酒を飲むべきだと思ってしまう。
種苗店には春の花や植物の植木がずらずら並んでいた。その脇を通って鉢のコーナーへ。いたってシンプルな常滑焼の駄温鉢を選ぶ。小さいころからこの鉢が一番好きだ。シンプルで安くて、暖かい茶色の鉢。帰りに麦酒の小瓶を買って自宅へもどる。窓辺に腰をおろし、プラスティックの鉢から駄温鉢へ樹をうつし、土をまんべんなく入れていく。株元にたっぷり水をやると、入れたての土はどんどん水を吸い込んでくれた。植物とともに日差しを受けて、麦酒を飲む。
夜11時ごろに銭湯に出かけ、少しのぼせ気味に。帰りしなにまたもや麦酒を買ってしまう。花見客はすっかり消え、あたりは静まり返っている。風が吹き、桜の雪がざあざあ飛んでくる。缶の麦酒を飲みながら桜吹雪をくぐり空を見上げると、膨らみかけた月がぼんやり霞にとろけていた。
阪本順治監督の「エルネスト」が第32回高崎映画祭の最優秀作品賞に選ばれたというニュースを見てうれしく思った。テレビCMも流れず、先日見かけた「日本アカデミー賞」でも全く取り上げられていなかったので、何か黙殺されているようで、佳作なのに残念だと思っていたのだ。
2017年10月公開。銀座スバル座の上映を見に行って、上映後に阪本監督と主演のオダギリ・ジョーの舞台挨拶を聞いた。オダギリ・ジョーが「自分の集大成」と語っていたけれど、新人時代に出演していた阪本監督の「この世の外へクラブ進駐軍」の頃と比べて、成熟して男らしくなって、静かな魅力を湛えている姿に好感をもった。
「エルネスト」は、祖国ボリビアの軍事クーデターに抵抗するためにゲバラが組織した民兵として戦い、25歳で死んだ日系の医学生フレディ前川の短い生涯を描いている。
自分は何をすべきか考え、抵抗の戦いをすることを静かに決心していく姿を、1人きりでその厳しい選択をしていく姿を、オダギリジョーは彼の身体を通して魅力的に表現していた。心情を吐露するようなセルフはほとんどなく、そのような生き方をしていく人間の美しさというものを、彼の佇まいの美しさをもって演じることに成功していたと思う。その意味で、この作品は彼の集大成になったと私も思う。声高な主張や、わかりやすい説明が無いことがこの作品の品なのだけれど、その分ヒットはしないのかな。
ゲバラが広島を訪問したエピソードが取り上げられている。取材した日本の新聞記者がたった1名だったということも。しがらみや情勢判断からではなく、自分が心から大切だと思うものを大切にするのだというゲバラの揺るぎない姿が印象的だ。
「エルネスト」はキューバとの合作だ。社会主義国キューバとの交渉を粘り強く行って実現した作品だという。美しい佳作だ。今、日本でこのような映画が作られることに意味があると私は思う。
朝7時30分、始まったばかりのサマータイムで、眠そうな息子を中学校まで自転車で送り、そのままこちらも学校へ向かいます。気が付くと高校生と思しき男の子が自転車を漕いでいて、鄙びた緑の古い自転車なのですが、味わい深い色とデザインで思わず声をかけそうになりました。フレームには「ビアンキ」と書いてあり、3、40年は経っているものと思いますが、それを高校生が颯爽と乗りこなしているのを見るのは実に気持ちの良いものです。フレーム以外のパーツはもちろん入れ替えてありますから、走る姿もとても滑らかです。
中華街に入る少し手前、モンティ通りを越えたところにある憲兵隊モンテベルロ兵舎から、起床ラッパなのか、ファンファーレが高らかにスピーカーから流れています。この辺りを走っていると、いつしか周りはこうした古い自転車に乗った高校生や会社員に取り囲まれていました。
深い色塗りのこうした自転車からは、彼らのちょっとした誇りさえ感じさせます。学校から辻一本入ったところの自転車屋の軒先には、こんな中古自転車が並んでいて、80ユーロ前後から値段がついています。朝は決まってその自転車屋の隣にある八百屋で、蜜柑とバナナを買って学校に入るので、いつも自転車に目が留まるのです。手でデザインを引いた感じにほのかな温かみを感じるところは、音楽にも通じるところがあるかもしれません。
—
3月某日 ミラノ自宅
季節外れの大雪。庭が10センチ近くの雪に一面覆われているけれど、自転車に跨ってドナトーニのリハーサルに出かける。天候が崩れているときこそ、寧ろ自転車で移動する方が確実に着ける。モルガーニ通りの最上階のアパートで久しぶりに再会したアンサンブルのメンバーとは、互いに子供の話とか。窓の向こうは一面降りしきる雪。一時間半ほどリハーサルをして階下に戻ると、自転車にすっかり雪が積もっている。
3月某日 ミラノ自宅
家人とスキアッパーティの2台ピアノ版「惑星」を聴きに行く。この2台ピアノ版を基にオーケストラ版が完成したとか。特に何の先入観もなく聴きにゆくと、思いの外愉しめる。そんな話を家人にすると、彼女は息子から、「あんな風に頑張って弾いてはいけない」と訓示を受けたらしい。前に「喜びの島」を彼女が練習していると、「強い音の前でそんな風に音を詰めてはいけない」と小言を言われた挙句、「それは常識でしょう」と駄目押しされたと言う。
3月某日 ミラノ自宅
音符を書けば書くほど、音楽がつまらなくなってゆく。パレットに色を混ぜれば混ぜるほど、似たような混沌がうまれる。書き込めば書き込むほど、規定すればするほど、音が不信に埋もれてゆく。演奏者の音が聴きたいのであれば、出来るだけ書き込まない方法を探したい。
田中美登里さんからお便りをいただき、沢井さんとのお仕事に感激されたと言う。小学校中学校の頃、田中さんの「民族音楽を訪ねて」をエアチェックし繰り返し聴いた民族音楽は、未だに身体の芯に深く息づいていて、その記憶は同じころ何度も演奏会で聴いた沢井さんの音に還元されているのかもしれない。沢井さんの演奏は音の裡に音楽が溶けきっていて、音の形象を観るというより、寧ろ音だけがそこにある。
ところで、沢井さんはクアラルンプール空港で売っている、暫く前に手長猿の縫いぐるみを集めていて、息子に一つ贈って下さったのだが、それはちょうどお手玉のような手触りの錘が手足の先についていて、どこにでも引掛けられる。息子がそれを喜んで何時も肩に掛けて連れ歩いていると、何かの拍子に縫付けてあった目玉が片方外れてしまい、暫定的にセロテープで留めてあり、無残なことになっている。
3月某日 ミラノ自宅
規定するということ。作曲に於いて、規定は演奏者を導くものであると同時に、一つの尺度に縛り付けることにもなる。社会に置き換えれば、規定は市民の社会生活を合理化し円滑にすると同時に、対人関係よりむしろ合理的な市民生活が全ての基準となることから、当然対人関係は蔑ろにされてゆく。規定の少ない社会は、信頼関係だけで成立せざるを得ないだろうが、先進国家において、それはアナーキズムと同意義になりつつある。
3月某日 ストラスブール ホテル
初めて訪れるストラスブールは落着いた美しい佇まいをみせる。ボルツァーノよりずっとドイツ、オーストリア臭さが薄く、垢抜けた雰囲気に愕く。ボルツァーノでは街角では普通にドイツ語が聞こえるけれど、ストラスブールでもボルツァーノのようなバイリンガル運動はあっても、聞こえてくるのはフランス語ばかり。ホテルの目の前にパン屋があり、昼にサラダやオムレツを作っていて、昼食にここで肉抜きのオムレツを日替わりで作ってもらうのが楽しみになった。近くの上海料理屋も思いの外美味で、ここで野菜炒めや魚の餡かけなどをご飯と一緒に食べていれば、肉が食べられなくとも食生活には不自由しない。美しいケーキ屋の店頭に並ぶお菓子はどれもフランス菓子で、ここはやはりフランスだと思う。ボルツァーノであれば、専ら独特のアルプス菓子ばかりが並ぶ。
3月某日 ストラスブール ホテル
辻さん、菊地さん、アルド、エレオノーラと二人の子供、ロッコとカルロと連れ立って、アルザス料理を食べに来た。カルロは生まれて半年足らず。ロッコは小学校が始まったばかり。エレオノーラが家で米ばかり食べていると言うので何故かと尋ねると、彼女はイラン移民の家族出身で、今でも家ではペルシャ料理を作るのだと言う。郷土料理の魚のシュークルートは美味。
3月某日 ストラスブール ホテル
何時でも大体同じ結果になるのだが、「瀧の白糸」はスクリーンの映写と我々演奏家のタイムコードを合わせるのが何時も至難の業で、映画をデジタル化した現在でも、結局勘が頼りになるところが面白い。その上、今回は映画館に静電気が溜まっていて、我々のタイムコードのモニターが瞬間的に何度も落ちて肝を冷やした。「瀧の白糸」の音楽は本当に傑作だとおもう。京ちゃんの曲の中でも、特に彼女がまるで巻物に音符をさらさらと書き綴ってゆくように、文字通り映像に寄り添うようにしなやかな音楽が紡がれてゆく。実はよく考えられているのだけれど作為的な感じが皆無で、本人曰くこれは溝口監督が彼女に書かせたものだという。
3月某日 ストラスブール ホテル
フランスで会うアルドも何となく不思議で、今までヨーロッパで会ったことがなかったフルートの村上さんにストラスブールで会うのも、何だか不思議な気がする。村上さんが話すときの可愛らしい抑揚は、フランス語でも同じアクセントを伴って聞こえる。菊地さんと辻さんと河向こうのベトナム料理の小料理屋で昼食を摂りながら、子供の学校の話。ドイツもフランスも、週末の日本語補習校の授業は、国語のみならず数学やそのほかの教科も日本のカリキュラムに沿って教えてくれるのだとか。ミラノ補習校は国語集中型で昨年から息子も初めて参加したが、体調を崩して殆ど通わないまま終わってしまった。
もし最初にフランスに留学していたら、今頃どうしていたかと思う。理由は特にないのだが、日本に戻っていた気がするのは何故だろう。フランス人は親切だし優しくて、京ちゃん曰く日本人に似ていると言う。同級生の弾く弦楽合奏に併せて、息子がカルメンを吹いている動画が送られてくる。
3月某日 三軒茶屋自宅
朝一番、開店したばかりのトップで店長と話し込む。Mさんのことは小学生の頃から父に連れられて通っていたのでよく知っている。トップ独特のトーストメニューはどのように生れたのかと尋ねると、輸入食品のシブヤ食品の初代社長が、店に並ぶ食品で何かお客さんに出せるものを作ろうと発案したのが始まりだという。子供のころから外国から誰かが持帰ったものとばかり思い込んでいたが、輸入製品は使っていても生粋の和風トーストだった。そのトーストに併せて珈琲も用意するようになって、現在の喫茶店に至るのだという。当時はストレート珈琲の看板がなかったので、同じビルでデザイン会社を営んでいた父が看板をデザインしてくれたのですよ、とMさんは嬉しそうに話した。
3月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんとお話ししていて、五絃琴の話になった。この楽器を練習中の佐藤康子さんが、五絃琴は身体の中で音が響くと驚いていると言う。共鳴箱がない上に、がっしりとした楽器だから当然よね、と沢井さんは笑った。佐藤さんが白河での沢井さんの演奏会にいらした時のこと。全国の古墳にとても詳しくて、白河に珍しい古墳があることを教えて下さったので、それならばと皆で連れ立って谷地久保古墳へ出かけたのが懐かしい。古墳好きの佐藤さんと、曾候乙墓から発見された五絃琴には、きっと通じるものがあるに違いない。
3月某日 三軒茶屋自宅
ヴァンクーヴァーのための新作は、カナダ日系三世のジョイ・コガワの詩の断片が素材として使われている。カナダの高校の読本にもなっている彼女「Obasan」の邦訳、「失われた祖国」を読んで、とても美しい言葉の綴りに感動し、最後には涙が溢れた。読後、この絶望的な喪失感は何かと長い時間考えていて、ちょうどドミナントのペダルが本当に薄く、最初から鳴り続けていて、最後のクライマックスでそのペダルがふと消失する感覚。壮絶、という言葉が頭を過る。
ヴァンクーヴァー演奏会のためのリハーサル。
すみれさんは、自分とは全く回路や道筋は違うのに、実際に出てくる音は考えていたままの音がする。普通なら、こうして欲しい、だからこうして貰いたい、と考えるものだろうが、すみれさんに関しては、こうなのかしら、と尋ねられて、例えそれが自分と違っていても、そのまま下駄を預けてしまう。そうして出てくる音は、自分が想像している以上に深さをもっている。眞木さんの「漂う島」も一緒に演奏するので、彼が生きていたらどんなにか喜んだでしょうね。ぽつりと呟いたすみれさんの言葉が心にしみる。
時田さんの音は、とてものびやかで、そよ風が気持ちよく抜けてゆくような印象。沢井さんが、彼女の演奏は本当に大きいでしょう、と嬉しそうに繰り返していたのを思い出す。彼女のために、ずいぶん前に指揮を教えていたパオロが今、曲を書いている話は、彼から聞いていた。何でも17絃を殆ど同じオクターブの中に微分音で割振る調弦で、張力も使う絃も違うので、糸張りが大変と笑っていた。彼女も前にヴァンクーヴァーを訪れた際、ジョイ・コガワ記念館に足を運んだという。
3月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルの後、夜山口宅にて恭範さんの自慢料理「煮味噌」に舌鼓を打つ。一見とても味が濃そうに見えるのに、食べてみるとあっさりしていて愕くほど。八丁味噌のベースのたれは、何十年も同じものを少しずつ足しつつ培ってきた、文字通りの山口家特製秘伝たれ。それと一緒に八戸から届いた生ワカメと、シラスのような形の、でもそれよりずっと味の濃い蛸卵をいただく。食育とも言うが、やはり食は本当に大切であって、たとえば山口家の食卓は、すみれさんや恭範さんの音楽を体現している気がする。
サックスの大石くんから送られてきた録音を聴いて、思わず鳥肌が立つ。こう演奏して欲しい、と注文をつけることはあまりなくて、これはしなくても良いという事だけを出来るだけ伝えるようにしているつもりだが、音楽は演奏家によって別次元へと羽ばたいてゆく。書いているときは想像も出来なかったような、複雑な心の襞のうちのうちまでが、広げた羽の奥に見え隠れする。空を仰ぎながら、音楽のもつ強さと大きさに、畏れに近いものすら覚える時がある。
3月某日 オルレアンB&B
ドナトーニを読返すと、今まで自分がおざなりにしてきた部分が、嫌というほど目に付く。空港に着いたのが夜半だったので、早朝オステルリッツ駅にゆくために、空港に付したホテルに宿をとった。
ただ到着したターミナルがホテルの近くのターミナルと違ったために、シャトルバスに乗ろうとしたが間に合わず、ドリスという中年の恰幅の良いアフリカ系中年女性のタクシーを拾った。近くで申し訳ないと断ってから乗ったのだが、当然パリまで乗るものと期待していた彼女の不平はつきることがない。
カメルーンで生まれ育ったが、兄が先にパリに来て病気になり、看病のためにパリにやってきた。程なくして彼は死んでしまったが、故郷は独裁政権で、パリに居残ってもう12年になる。3年学校に通ってタクシーの免許を取った。大変だったのよ。
つい先日までストラスブールでやっていた「瀧の白糸」の身の上話を聞いている気分だったが、申し訳ない気がしてきて、実は明朝7時オステルリッツ駅発の列車に乗りたいので、朝5時半過ぎにホテルに来てもらえるかと言うと、途端に機嫌が良くなった。
ホテルまでの言い値とホテルで要求する値段も違うし、彼女を特に信用する積りもなく、どうせ来なくても、ホテルでタクシーを呼べばよいと気軽に電話番号を交換してホテルの部屋に着いたのは夜半1時を過ぎていた。
朝の4時に電話が鳴り目が覚めた。何かあったのかと電話を取ると、驚くほど元気の良いドリスの声が、「あと20分で着くから下に降りてきてくださいよ」、と言っている。自分の腕時計では4時だが、もしかして東京から戻るときに時計の時差を間違えたのかと思い、とにかく身支度を整え降りると、笑顔のドリスが「ほらお客さん降りてきたでしょ」とホテルの受付に話している。
ホテルの時計を見ても、4時20分を差しているので、車に乗り込んでから、約束では5時半過ぎだったはずだと話すと、もうあと一時間もした街中混雑で大変だから早く来たという。6時45分くらいに着けば十分だと思っていたオステルリッツには、朝5時前には着いてしまい、その上酷い雨が降りしきっていた。
せめて街に着くまで寝かせて貰いたかったが、話し相手が欲しかったのか、ずっとカメルーンの民族音楽やら宗教音楽、ポップミュージックやら、これも聴けあれも聴けと話しかけられ、挙句の果てに案の定約束した言い値から、早朝料金も加算させて頂戴と10ユーロも多く取られた。
彼女が来ない算段まではしていたが、1時間半以上も早く元気よく現れる想像はしていなかったし、濡れそぼる夜明け前のパリで大音量のカメルーン音楽をたくさん聴いて、何かを学んだ気がする。
3月某日 オルレアンB&B
先日、フランス在住イタリア人が集う夕食会に招かれた。フランス人と結婚している女医や、フランス人と同居しているイヴェント企画者や、似たような境遇の演奏家たちなど。何の話かと思いきや、目に涙をためた妙齢の「わたしはイタリアに帰りたい」という悲痛な呟きから始まり、「イタリアのご飯が無性に恋しい」、「脂っこいフランス料理はもう沢山」、「フランス人はどうしてこんなに壁を作るの」、「何かにつけてなぜ人前でわたしのことを馬鹿にするのよ」、「田舎者扱いして」、「そうよそうよ」、「なぜわたしたちはこんなに頑張らなければいけないの」、「この街を見てよ、何もないわ、とても我慢できないわよ」、「イタリア人の家族の絆なんて、ここには!」。
酔いが回ってエスカレートしているのか、こんな話を聞かされるとは夢にも思わず驚くやら、時々様子を見にやってくる痩せぎすの妙齢のフランス人のウェイトレスが、この異様な雰囲気に怖気づいているのが申し訳ないやらで、居場所がなかった。嫌ならなぜフランス料理屋に集うのかと口に出かけたが、止しておいた。世界のどこにいても、時には存分にストレスを吐出す必要があることだけは理解した。
3月某日 ミラノ自宅
雪の降りしきるオステルリッツ駅で久しぶりに千々岩くんに再会する。彼と上田さんのフランクとフォーレのソナタの録音を耳にして以来、彼の音の高みにはどう頑張っても自分は辿り着けないと思う。演奏は、人の人生観を変えてしまうほどの強い影響力と破壊力を持つ。
と或る作曲コンクールが演奏審査を今年から廃止した話を知っているか、と千々岩くんから尋ねられた時、無意識に千々岩くんのフランクの演奏が頭に過り、同時にフリッチャイの「モルダウ」の演奏が目の前を駆け抜けていった。その時頭のもっと奥底では、リパッティの弾くグリーグの2楽章が静かに流れていた気がする。
3月某日 ミラノ自宅
日本からきたY君と、音の拍感について話す。一拍ごとに風船状の袋に空気を入れて膨らましつつ、その袋の中に音を4つ放り込んでやる感じと説明すると、「それは所謂イチトウ、ニイトウというあれでしょうか」。「イチトウ、と言うと全てが等分の拍感で、きちんと箱に収まっている感じがするでしょう。箱みたいにきちんと形があるものではなくて、少し膨らんでいて、円みを帯びてふわふわしている袋だけを作ってやって、中の音が勝手に好きなところに落ち着く感じ」。
一緒に勉強しているU君とは、脱力の話。「振っているとどの拍も同価値になって拍感がなくなっているのがわかるのですが、どうしたら良いのでしょう」。「音を発する瞬間以外、完全に身体の力が抜ければ、図形の大きさは問題にならなくなります。惰性を生み出す瞬間と、続く惰性の部分を分けて感じられるようにすることでしょうか」。「ところでU君は、整体とか気功とかやったことありますか? オカルトではなく、要は身体を力を完全に抜く訓練みたいなこと」。「ないです。今までの力を抜く訓練はしたことがありません」。「実は中学くらいから整体をやらされていたので、力を抜くと身体が勝手に気でぶらぶら動くとか、昔から何となしに知っていたのが、今になって役に立っているのかどうか」。
3月某日 ニース アパート
家人が仕事で日本に戻る時期と息子の復活祭の休暇が重なったので、久しぶりに東京から母を招いて息子と3人でニースにやって来る。ここ暫く息子の面倒を見ていなかったので、シューベルトの楽譜を広げつつ、べったり相手することにした。
この時期ミラノは花粉が飛交い始めるので、息子の仏語実践を兼ね、空気のよい海辺を目指して来たのだが、去年の夏まで背丈が同じだった母を息子はもうすっかり追い抜いていて、少々耳が遠くなりかけているがキックボードを器用に乗り廻す、リスのような風情の83歳の母と、思春期真っ盛りで事あるたびにお腹が痛くなっては「パパ、パパ」とすり寄ってくる、13歳成り立てのひょろりとした息子との珍道中も、悪いものではない。
風に吹かれて道に落ちた帽子を拾い上げ、「メルシー・マダム!」と感謝されたことに、母は偉く喜んでいる。「シニョーラじゃないのね! 素敵ね!」。
(3月31日 ニースにて)
小さい時に過ごした
ドイツ時代をよく思い出す
たった五年という時間だったが
私のカラダの半分の時間は
この五年間が占めている
それは時間が進んでも変わず
むしろ大きく膨らんでいく
空気の匂い
マチの匂い
空の色
街の色
西も
東も
毎日一時間かけて
市電を乗り継ぎ
学校まで通った
山を下り
山を登る
いつも市電の窓に貼ってある
優先席専用のシールを
眺めるのが好きだった
不思議な感覚だ
優先席の絵の中にまた
優先席の絵が書いてある
優先席の中に
優先席が有り
またその中に
優先席があり
またその中に
優先席がある
小さい私はいつも不思議に
そのシールを眺めていた
どこまで続き
どこで終わる
三面鏡の中に頭を突っ込む
きっとこの中に宇宙がある
小さい私はそう考えていた
学校通いは
行きは
三兄弟三人
帰りは
ひとり一人
ポカポカ陽気の市電の中
ウタウタ睡魔が襲ってくる
気づくと深い眠りに落ちてしまう
ある日起きたらまったく知らない街に
それは全く違う国に着いてしまった
小学校低学年の私は
もう二度と戻れない
不安と恐怖に襲われた
バス停程度の駅
閑散とした通りにベンチひとつ
そのベンチに座り一人佇んでいると
まったく知らないお婆さんが声をかけてくれた
どこに住んでいるかを伝えたら
お婆さんが僕を家まで送ってくれた
あのお婆さんがいなかったら
あのお婆さんがいなかったら
今も一人知らない世界を
彷徨っているのかもしれない
シュタイナー学校
ちょっと変なところ
そんな気分の学校生活
大勢いる
ドイツ人
の中一人
アジア人
校内サッカー禁止
サッカー王国なのに
いつも不思議に思った
校内でボールを蹴ってると
すぐにボールは没収される
これがシュタイナー教育か
小さい私はそう思っていた
よく三兄弟公園でサッカーをした
木と木の間をゴールにして
ベンツというゲーム
ドイツ時代
いつも見守る空があった
父母三兄弟五人
五年間ドイツ生活
またいつか五人で
そして次はプラスα
また行こうと思う
じかんの中にじかんが
カラダの中にカラダが
ある
「あ~、納豆発見!」かごの中にバナナの葉を敷いて、その上に山盛りの納豆。豆が小さい。ささげ豆の一種でホースグラムという豆で作った納豆だ。さっそく買って試食。豆がちょっと固くて、ねばりが少な目だが、立派な納豆である。ああ、醤油ほしい‥。
ここはビルマの南シャン州アウンバン。南シャン州のインレー湖周辺では五日市という、五日おきに立つスペシャルマーケットが各地である。その日には、シャン、ダヌー、インレー、パオ族など近隣のさまざまな少数民族の人たちが農作物や、加工品を持って集まり、大変なにぎわいを見せる。
シャン州に着いて3日目、カローの町から10キロほどのアウンバンという町で五日市があるというので、やってきたところ。カローの町の常設市場もかなり充実していたのだが、これはすごい。アウンバンの常設市場の中だけでなく、周辺の通りにどんどん店が出て巨大市場が出現しているのだ。もちろん道端にシートや布を敷いての店開きがほとんど。
この市場では、生の納豆もちらほら売っているが、納豆を潰した加工品を売っている店の方が断然多い。加工品は大きく分けて二つあり、薄いせんべい状にしてカラカラに乾燥させたものと、半生ぐらいのクッキー状のもの。クッキー状のものも生納豆もペー・ポウッ。これはタイ北部やラオス北部でもよく調味料として見かけるものだが、この二種を含めた納豆は、タイやラオスよりずっと生活に溶け込んでいるよう。そして、調味料として使うだけでなく、料理の素材としてもよく使うのだ。
パオ族の濃い藍染めの民族衣装を着たおばちゃんから、クッキー状納豆を買う。木の葉の模様に線が引いてあって、可愛い。スープに味噌のように入れたり、焼いたり揚げたりして食べるものだが、そのままでもけっこうウマい。この豆は大豆かホースグラムか? う~ん、食べてみた感じ、時々残っている粒が固いのでホースグラムかな。
後日、インレー湖のほとりのニャウンシュエでビルマ伝統料理食堂リン・タットに入り、豚肉やトーフ(ひよこ豆とうふ)のカレーを注文した。カレーというが、ビルマ料理の油煮込みヒンである。ヒンにはもれなく、白飯、茹で野菜のンガピ・ソース添え、何種類かの小皿料理が付く。その日の小皿料理は、小魚のカリカリ揚げ、炒りピーナツ、魚のでんぶみたいなふりかけ、そしてうすい藤色のペースト、納豆の味のするカリカリのふりかけ、の5種。
「あ~、納豆味! サクサクだよ、これ」「ごはんに合う~」他の小皿もどれもすばらしいが、旅の友たちは納豆ふりかけに夢中である。納豆ふりかけは、豆の形があるものではないので、どうやら納豆を潰して作るクッキー状納豆を切って細かくしたものを油で揚げたもののようだ。それにニンニクやトウガラシ、シャロット(小さい赤玉ねぎみたいなもの)を刻んでカリカリに揚げたものが入っている。塩味調整はビルマの魚醤ンガピイエーで。
日本に帰って、クッキー状納豆を油で揚げてみたら、あの味に近づいた。タイ北部で売っているクッキー状納豆はこれまで何度か食べてみたが、どれも味の素がてんこ盛りに入っていて、塩味もきつく、こんなおかず的な食べ方は無理だった。う~ん、これはいい。
日本の納豆は、いわゆるかき混ぜてそのまま食べるほかは、‥あれ、考えてみたら、うちでは納豆はご飯にかけて食べる以外の方法では食べないぞ。でもクッキー状納豆は、揚げたり炒めたりすれば色々使えそうである。日持ちもするので次回たくさん買ってこようっと。
友人たちと納豆ふりかけですっかり盛り上がったところで、小皿料理の薄紫色のペーストをちょっとなめてみた。ペーストには根ニラとピリッとした緑色のハーブが刻んで入っている。おお、これは!
「これは‥なんだか分かんないけど、うまいっ」「どれ、ああ、んまい。日本酒に合うな」「いや、泡盛か」「豆腐ようみたいな味もする」「レバーペーストみたいな味もする」何なんだ、このおいしいペーストは! 発酵しているのは間違いないが、食べたことのない味である。
ビールのお代りの時に、さっそく店のお兄さんにこれは何か聞いてみた。すると、「ペー・パチン。英語で言うと‥ビーンズ・ピクルス」とのお答え。豆のピクルス‥? ピクルスというのはもともと水キムチのように乳酸発酵させて野菜を酸っぱくするものなので、たぶん、発酵させているという意味かな。お茶の葉の漬物のことも英語表記では「ティーリーフ・ピクルス」だし。
「え、豆なの?」「豆ペーストを発酵させたものらしい」「いや、発酵させた豆をペーストにかも?」
この後、もう一度リン・タット食堂に行ったがペー・パチンはなかった。かわりの漬物もこれまたうまかったが、ペー・パチンの正体は謎のまま日が過ぎた。
ニャウンシュエからヤンゴン経由でバンコクへ帰る日、最後にもう一度市場に行くと、大変な人出だった。出ている店も多い。やった、ニャウンシュエ市場の五日市の日だったのだ。これまで、常設市場では見かけなかった糸引き納豆やさまざまなもち菓子、黄色いひよこ豆とうふの生、その揚げたての和え物、芋がら、乾燥おかき、などなど、バラエティ豊かなこの地方の産物とスナックが所狭しと並んでいる。
一緒に市場にでかけた友人のタナカと、切り分ける前の大きな塊のひよこ豆とうふを眺めていたら、店のお姉さんが味見しろとかけらをくれた。生でも食べられるのか、と口に入れてみると、卵豆腐のような味で、もっちりとお菓子のウイロウのようでもある。「わさび醤油で食べたいっ」と、今夜そのまま日本まで帰るタナカはさっそくご購入。インレー湖のほとりで買ったこの地方のお買いもの竹籠を入手しているタナカは、それに入れて帰る~と満足そうである。
ニャウンシュエの市場では、生の豆も売っているが、炒り豆も大量に売っている。味見してみたら、小粒大豆の炒り豆もピーナツも本当においしい。素朴で滋味深い味だ。野菜も美味しいし、このあたりはまだまだ農薬や化学肥料を使う量が少ないのだろう。
アウンバンで見かけた小さな白い乾燥豆がほしくて探していたら、一軒だけやっと売っていた。エバミルクなどの空缶でカップ一杯いくら、で計って売ってくれる。ふとみると、横にうす紫色のペーストが籠に入って置いてあった。
「ンガピ(小エビや小魚の発酵ペースト)? でも、豆屋で魚‥?」「これ何?」と聞いてみると「ペー・パチンよ」とおばちゃん。うお、これが、豆の発酵ペースト、ペー・パチンか!さっそく端っこの方からちょっと取って舐めてみた。
「‥生っぽい」「ありゃ、ほんとだ。生だね」まだあまり発酵していないのか? 発酵臭はある。しかし、これは、生の豆ペーストだ。とりあえず、バナナの葉できれいに梱包されたものふたつで50チャットを買ってみる。何の豆から作るのか、どうやって料理するのかなど謎のままだが、日本へお持ち帰り。
はたして日本でリン・タット食堂のペー・パチン料理の再現ができるのでしょうか。帰国して冷蔵庫に入れておいたペー・パチン、花粉症の大爆発で倒れている間に、ちょっと匂うようになってきた。そろそろ、料理してみる‥かな。
2月の半ば、新幹線で名古屋に向かう途中で読もうと、品川駅構内の本屋で手にしたのが、「決断のとき」(小泉純一郎 集英社)である。彼がどうして脱原発を訴えるようになったのか、そこが知りたくて買ったのだと思う。結局名古屋までつく前に爆睡してしまって、イラクに持っていって途中の飛行機で読んだ。
トモダチ作戦に参加した米兵が放射の被曝して、健康障害を訴えている。小泉元総理がアメリカまで被害者に会いに行き、話を聞いて涙する小泉氏。そして、基金を作った。なぜ、原発を推進していた首相が、総理をやめたら、脱原発になったのか
「推進論者・必要論者が言ったのは全部ウソだとわかったんです。原発の導入の経緯、実情、歴史、それを調べてみて、よくもこんなウソを信じていたと自分を恥じました。」
と記者会見で語る小泉氏。とても、立派じゃないか!
え? と気になるのがイラク戦争。3月20日で、15年が経った。開戦前に、ブッシュ大統領が、「独裁と圧政に苦しむイラクの人たちのために、アメリカと同盟国はイラクの人々に食糧と薬品と物資と自由をもたらそう。」といったが、サダム政権はあっという間に倒れたが、開戦理由だった大量破壊兵器は、見つからず、国際テロとの関係はなく、サダム政権崩壊後に反米テロリスト達がイラクに結集し、やがて、それは「イスラム国」と発展していった。
ブッシュ元大統領も、イギリスのブレア元首相も過ちを認めた。しかし、アメリカを強く支持した小泉氏は、
「アメリカがテロ掃討のためにイラク戦争に踏み切った。私は、日本の総理としていち早くそれを指示した。日米同盟があることから考えて、その判断は全く妥当だと思っています。(中略)フセイン大統領は、(国連で決議された)国際機関による査察を受け入れませんでした。イラクが査察を受け入れていれば、あのような戦争は起こりませんでした。」
いやいや、2002年の11月に、サダム・フセインは国連決議1414を受け入れ、査察が5年ぶりに再開された。当時、国連の査察団の団長をしていたハンス・ブリックスは、「02年から03年で700回、500か所を査察したが、大量破壊兵器は見つからなかった。それでも米英が、大量破壊兵器があるというので、場所を教えろという話になり、100か所を指定。30か所を調べたが、通常兵器や書類は出てきたが、大量破壊兵器は出てこず、そこで戦争が始まってしまった。」
アメリカがいう、ニィジェールからウランを輸入したという証拠書類もIAEAが、「それが捏造であることを見破るのに一日もかからなかった」と証言している。
なぜ、小泉氏は、イラクが査察を受け入れなかったと言い張るのか?
「後の民主党政権が外務省にイラク戦争の検証を指示したことがありました。私は、その調査に呼ばれたら、いつでもいく用意があった。疑問があるなら何でも答えようとした。だけど声がかかりませんでした」
え?
「今でも支持は正しかったと思っています」
えー?
昨年のモスルの解放作戦では、激しい空爆と銃撃戦で、4万人の一般市民が命を失ったといわれている。旧市街は、そっくりとがれきの山になってしまい、涙があふれるほどだ。ISは、いなくなったが、これが解放というのならあまりにもむごい。それでも20%は、旧市街のがれきに埋もれた家を掘り出し、住もうとしている。
小泉氏がこの地を訪れたら、「非難されるべきは、サダム・フセイン」だと言って涙を流すのだろうか?
もっとはやく、バグダッドや、ファルージャに小泉氏が訪れて、米軍に殺された子どもたちの遺体や、手足をもぎとられた子どもたちに会ったらどうだったのか。日米同盟をいうのなら、アメリカに行って、不覚にもイラクの子どもたちを殺してしまいPTSDに苦しむ米兵の話をきいたなら。。。それでも、全部サダムが悪いと言い切るのか?
情にもろい小泉氏だから原発と同じように「よくもこんなウソを信じていたと自分を恥じました。」ってなるはず。
え?
ということは、小泉氏は、いまだにウソを信じているのか?小泉は、日米同盟を重んじるが、アメリカの言いなりというわけでもないキャラとしてこの本では、描かれている。ならば、イラクが、1414を受け入れ、国連の査察がはじまっていたことを、小泉氏は、知らされていなかった?という可能性。
え?
そんなばかなことがあるのか?
いやいや、あそこまでかたくなに、サダムが、国連の安保理で決議された査察を受け入れなかったと言い切れるのか?
え?
民主党政権は、検証する際に、小泉氏をなぜ、呼ばなかったのか? 外務省の意向なのか? イラク戦争に反対していた民主党にしてみれば、本人が来る意向だったからまたとないチャンスだったのに。
ブッシュ大統領自ら「安保理の常任理事国のいくつかは、イラクの武装解除を強制するいかなる決議案にも拒否権を発動すると公式に表明してきた。国連安保理はその責務を果たしていない」言っており、有志連合で攻撃をする決断をしたのである。
しかし、日本の外務省が2003年に作ったパンフレットには、イラク攻撃そのものが安保理に合致したものだと断定している。日本だけ歴史が改ざんされているのだ。
もう、イラク戦争のことなど誰もが忘れかけている。しかし、自信を持って言える事実は、「イラクの人々に食糧や医薬品などの救援物資、そして自由をもたらす。」とブッシュ大統領がのべてから15年経ったいまだに、私たちは、薬を届け続けなければならないという事実がある。
(春休みの読書感想文に変えて)
大西巨人は『広辞苑』第六版を発売日の2008年1月11日に大宮そごうの三省堂で買っていた。妻の美智子さんには、「わからないことがあったら辞書を引きなさい、自分で引くくせをつけなさい」と言っていたそうである。美智子さんの『大西巨人と六十五年』(光文社)の最後にこうある。〈この記録を書き進めた二年間、巨人の遺品の『広辞苑』第六版(裏扉に巨人の字で、「2008・1・11 大宮そごう 三省堂」とある)に助けられて終了した。辞書はいたんでしまった〉。装幀は川上成夫さん。表紙には紫色の花を好んだ巨人に向けた桔梗がある。丸背で軽く柔らかく、読みやすい。着ている服が服としてのスタイルではなくいちばん外側の肌のようになじんで見える人(杉村春子や沢村貞子の着物姿のような)がいるが、それに似ている。
2018年1月12日、10年ぶりに改訂された『広辞苑』第七版は前版から項目数がおよそ一万、ページ数も140増えたけれども厚みはそのままと聞いた。この10年で製本機械はより厚い本を作るために改造されることなくマックス8センチ厚をキープして、それにセットできるようにより薄い紙の開発がなされたようだ。言葉の意味や用例が間違いも含めてこれほどネットで見られるようになると、調べるより読む本としての紙の辞書の面白さが際立ってくる。実はここ数年、うちに紙の広辞苑はない。久し振りに広辞苑という本を買おうかなと本屋で下見した。新品辞書ってこんなにツルッツルしていたのか――。初めて自分専用の英和辞書を持ったとき、上級生からの申し送りで、まず揉んでしわくちゃにするのがいいんだってと最初のページに五本の指先をヒタッとつけた感じがよみがえる。
『大西巨人と六十五年』は、美智子さんが家計簿の余白などに書いていた文章を整理したものだそうである。1944年に女学校を卒業、46年、通りに貼ってある雑誌「文化展望」創刊号のポスターに遭遇、兄に言われて買いに行き、そこで12歳上の巨人と会い、編集部に務めるようになり、やがて結婚する。2010年、第二腰椎を圧迫骨折したのをきっかけに巨人の暮らしは大きく変わる。遠出は2012年10月24日が最後となり、以降、記述は日付を追い、2014年2月26日の退院から亡くなる3月12日までは、自宅で介護した美智子さんとの会話が中心になる。痛みや朦朧ではばまれる巨人の言葉を、美智子さんがこれまでのお二人のいつもの会話で反射的に引き出すシーンがいくつもある。「ことばを忘れたきょじんさん、うしろのやぶにすてましょか♪」「いえいえそれはかわいそう」。言葉にならない声も美智子さんは記す。〈アブラ、アブラ、ブラ、アイブラー、アイザー、アラー、ア、アユーザ、アユラ、アー、ハー、ブラーアイブラー、ブラー、ブラー、アイー、ユラー、書とめられない早さと種類を発する。言葉を発する度に握っている手に力を入れる〉。
巨人は、執筆が進まなくなるとボロボロの蔵書を装幀し直したそうである。美智子さんは、〈装幀に熱中している時さまざまな話を聞いた〉。ちょっと長くなるのだけれど、そのまま引用させていただく。
〈ご飯を丹念に粘り合わせて糊をつくる事から始める。裁縫用の篦を自分用として所用していた。見ていると、面倒なことを苦にすることはない。文庫本、単行本、大型本、『広辞苑』、どんな本でも手掛けた。
最初に本をばらばらにする。改めて、たこ糸より細くて強い糸で綴じる。扉も表紙も作り変える。表紙は私が保存している余り布から選ぶ。
将来赤人のためにと雑誌に掲載された翻訳小説の中から選んで、二冊の本にしている。表紙は私の夏物のワンピース、水玉模様の布を利用している。半世紀以上の年月を経て、手垢で薄汚れているが、「赤人文庫」と墨書きされて頑丈に出来た手製の本は蔵書の中に存在している(『日本人論争』の口絵写真の中に、「葉山海岸にて」がある。武井さん達と遊びに行った時、私が着ていた服の余り布とわかる)。古くて痛んだ本はニスを塗って補強してある。〉
背文字が薄くなった全集は、和紙に墨でタイトルを書いて上から貼り、印刷と見紛うようだったそうである。森鴎外と芥川龍之介の全集はそれぞれ、布表紙の上からオレンジとミドリ色のマジックペンで塗りつぶしていた、ともある。布の柄が気に入らなかったのだろうか。それぞれの色に意味があったのだろうけれどもマジックペンでは時間もかかるし臭いもきつかっただろう。〈作業する日は、部屋中シンナーの匂いが満ちていた〉。欧米戯曲全集は装幀をし直すと早くから言っていたそうだ。しかし、〈革表紙はボロボロはがれる。冊数は多い。適切な余り布がない。材料を揃えて完成させるつもりだっただろうが、果たせぬまま玄関の板の間に積み上げたままになった〉。
今年の冬はとても寒さが厳しく、野菜の生育などにも影響が出て、市場価格が高騰した。
畑の様子を見てみると、生育が悪かったり、霜にやられたりした様子がわかって仕方がない気分になった。一方で、このところめっきり起きることがなかった諏訪湖の全面結氷は久方ぶりに起きて、御神渡りという湖面にひび割れが生じる現象が見られたりして、暖冬傾向に忘れていた寒さが戻っただけであることを思い出させてくれた。
3月に入ると関東でもいきなりの降雪に驚いたが、ちらほらとほころび始めていた桜に加勢するように、すぐに解けてなくなると、温度がどんどん上昇して春爛漫に気温になってしまった。
そんな中、何回か信州を訪れたが、さすがに4月を待たずに桜が満開になることはなかったが山梨くらいまではそろそろ咲き出しそうなペースで様々なものが開花を始めている。こうした年は先を読むのが難しく、あっさりと早めに夏になることがある一方で、冷夏になってしまうことも珍しくない。そして、その難しい気候判断から山の事故が増えることも考えられるあたりが悩ましいところだ。
まあしかし、とりあえずは来たるべき春を喜ぼうと思っている。
そのクラスに参加することになったのは、地元の有志たちが集まるボランティア活動で、来てみないかと誘われたからだった。
引っ越して間もない私にとって、この町は不自由な町だった。牧歌的とも言えるような南部とは違い、大きな山脈を越えて数百キロという距離は、まるで違う土地柄を育てるには充分で、越してきた翌日には町全体に手強さを感じてしまったのだった。
引っかかるのはほんの些細なことだった。並んでいる家々の屋根の仕様が見慣れたものよりも少し大きい。高速道路の料金所で、係員から手渡されるお釣りと領収証の順番が違う。子どもの小学校編入手続きの際の副校長が妙に腰が低い。
そんな小さなことが引っ越して以来、妙に気になってしまい自分たち家族はこの町とは合わないのではないか、という不安が徐々に大きくなっていたのだ。
だからこそ、私はあえてそんな些細なことなど平気だと宣言するつもりで、隣人に教えられた町内の週一回の清掃ボランティアに参加したのだ。
驚いたのは妻だった。これまで住んでいた町では、家の中の掃除もしたことがなかったし、家の外の掃除など想像したこともなかった男が、自ら志願して、地域の清掃ボランティアをやろうと言うのだ。それは驚かないほうがどうかしている。
「最初から無理してると続かないわよ」
そう妻に言われた時、私は言い返した。
「最初に無理しておかないと、途中でなんとかするなんて無理だよ」
かくして、私は毎週土曜日の朝十時からの清掃ボランティアに参加することになった。集まってくるのは毎回同じ顔ぶれが五人ほど。そこに、不定期で参加する数名が出たり入ったりして、だいたい八人から十人程度が、私の家の前にあるベンチが一つあるだけの小さな公園に集まり、ビニール袋を手に目に付いたゴミを小一時間ほど集めるのであった。
作業自体は簡単だった。一切のゴミを残さないのだ、というほど必死にもならず、ただただ目に付いたゴミを集めるだけ。みんなでこの一週間の出来事を話しながら、町内を一周するわけだ。
毎回揃う五人の顔ぶれは五十代の男性が一人、四十代が私、その他は五十代の女性と三十代の女性が二名だった。
三十代の女性二名と五十代の女性一名は、女三人寄ればという慣用句通りのかしましさでボランティア全体を明るくしてくれる。その明るく賑やかな船に乗りつつ、黙々とゴミ拾いを続けるのが私と五十代の男性なのだった。
妻の予想に反して、そして、私の予想にも反して、勢い込んで始めた清掃ボランティアは意外にも楽しかった。女性陣たちの賑やかさはこちらに、同じような賑やかさを強要するものではなかったし、五十代の男性も黙々と作業はするが暗い性格ということでもなかった。時には冗談も飛ばし、ひとしきり話したらまた黙々と作業をしての繰り返しで、その緩急の付け方が私と似ていたのかもしれない。私と五十代の男性は三回目のボランティア清掃の後、近所のスターバックスで一緒にコーヒーを飲むようになった。
その頃の我が家は二人目の子どもが生まれたばかりだった。家の中が三歳の長女と生まれたばかりの長男をなんとかいなそうとする妻とでずっと微熱を発しているかのようだった。そして、会社に行けば行ったで、拠点間を大きく移動してきたばかりで、不慣れな人間関係と、不慣れな商習慣に戸惑ってばかりだった。
五十代の男性は橋本という名前で、私が住んでいるエリアに越してきて七年だと自己紹介した。私たち家族と同じように、北部から引っ越してきたのだという。
ボランティア清掃のあと、コーヒーショップに初めて行った日に私が自己紹介すると、ああ、似たような仕事をしているんですね、と橋本は人なつっこい笑顔を浮かべた。
聞いてみると、確かに会社が事業を展開している業界は似ているのだが、事業規模はまるで違っていて、橋本の会社が交渉の席でテーブルを叩けば、私の会社はその振動だけで吹き飛びそうなくらいに大きかった。
それでも、橋本は自分の会社と似たような事業をしている私の会社を対等に論じて、私たちの仕事も、同じような苦労と喜びに彩られていると疑うことなく話すのだった。
私はそんな橋本との会話にやられたのだった。なんのてらいもなく、声をかければ答えてくれる。こちらが黙っていれば、なにげない会話のきっかけをくれる。私は、橋本とのスターバックスで会話することを楽しみにボランティア清掃に出かけるようになった。「もう、だいぶこっちでの生活には慣れましたか」
ある日の清掃の後、いつものようにスターバックスでコーヒーを飲んでいると、橋本が私に話しかけた。
「そうですね。なんとかやれている気がします」
「お子さんがまだ小さいと大変でしょう」
「ただ、この町は保育園が多いので、越してきてすぐに子どもたちを預けることが出来たんです。だから、妻は向こうにいたころよりも余裕が出来て、明るくなりました」
「そうですか。それはよかった」
橋本はそう言うと、少し私との間合いを詰めて、その分、声を落としてこう言った。
「私と一緒に、公民館のクラスに参加しませんか」
公民館、という言葉だけが宙に浮いたように聞こえて、私は「え?」と聞き返した。橋本はもう一度、同じことを言い、それでも私は橋本の言葉にいままで感じたことがなかったような不安な思いを持ってしまったのだった。
「公民館ですか?」
「そうです、公民館です」
「クラスというのは?」
「公民館ではいろんなクラスがあるんですよ」
「クラスというのは文化講座のようなものが開かれているということですか?」
「そうです。私が参加しているのは創作のクラスなんです」
創作という言葉に、私は自分の出身大学にあった文学部の創作専攻を思い出した。彼らは小説を書くために日夜原稿用紙に向かい続けていた。
「小説とか、そういうものを書くためのクラスなんですか?」
私が聞くと、橋本は一瞬私の顔を見つめた後、声を出して笑った。
「いやいや、小説ではありません。私を見てくださいよ、小説なんて書くように見えますか。違うんです」
橋本はそう言うと、しばらく笑い続けた。私は橋本が笑っている間、どうしたらいいのか困惑していた。橋本は私が困惑しているのを知りつつ、笑いが止められないといったふうで、しばらく私に両手を合わせて謝りながらも笑い続けた。よほど、自分が小説を書いているのと思われたことが意外だったようだ。しかし、橋本自身は物静かで知的な思考が表情にも表れるような風体なので、趣味で小説を書いているのだ、とか、実は詩人なのだ、と言われても、安易に信じてしまいそうな人物ではあったのだ。
「小説ではありませんが、とりあえず創作する、ということでは同じかもしれませんね。でも、もっとハードルが低くて、もっと気軽に始められる創作なんです」
私は橋本の言葉を待った。
「クラスにいつも集まるのは、だいたい三名から五名くらい。先生はいないんです。毎週水曜日の夕方、集まれる人が集まって、みんなで自分が作ったものを持ち寄って感想を述べ合う。そんな気軽なクラスです」
そのクラスはなんのために開かれているのだろう、と私は思った。そして、そう思っていることが伝わったのだろう。橋本は話を続けた。
「絵を持ってくる人もいます。俳句を持ってくる人もいます。なかには、家族を役者に見立ててホームビデオで短編映画を撮ってくる人もいました」
そこまで話すと、橋本はその短編映画の内容を思い出したのか、少し微笑んだ。
「最初にこのクラスが開かれたのは六年前だそうです。たまたま水曜日の夜、公民館にやってきた初老の男性が『絵の教室ってありますか』と聞いたそうなんです。受付をやっていた女性があるにはあるが今日はやっていませんと答えると、男性は『そうですか』ととても残念そうな顔をしたそうです。なんだか少し可哀想なくらいに。そうしたら、奇跡的というかなんというか、いつも公民館で絵を習っている男性と同い年くらいの女性が通りかかったそうなんです。事情を聞いた女性が絵を拝見したいと言い出して、空いていた教室を開放してあげたらしいのです。このクラスはそれから毎週開催されているのです」
「六年間、毎週ですか」
「はい、毎週です」
その週から、私は橋本と一緒にそのクラスに顔を出すことになった。(つづく)
いま、岩手県の早池峰山中でこれを書いている。現在制作中の短編映画『オシラ鏡』のため、追加で冬景色を撮る必要に迫られて、季節を巻き戻すため標高1500メートルまで上がってきた。冬季は道路が閉鎖されているから、白馬の叔父から借りたバックカントリー・スキーを履いて、大量の機材を担ぎ無人の避難小屋「うすゆき山荘」まで二時間。そこで一泊して、翌朝早池峰山のできれば八合目くらいまではいってみたいと思っている。
今夜は雪山でもずいぶん暖かい。小屋から出て、雪を掘って即席のかまどをこしらえ、生木を敷き詰めた上に乾いた薪で焚き火を熾した。夕方から流れ始めた薄雲に満月が透けて見え、あるかないか、くらいの月影が背後のナラ林に縞目を作っている。
ここにはわたしひとり、他にだれもいない。それなのに山の頂や、水音だけで見えない谷間の沢や木々のなかに、たくさんの気配を感じる。
遠野に通い始めたのは震災前、2009年か翌年だったが、そのころから山の中で作品を作ることが増え、自然に、少しずつ登山の楽しみを知るようになった。
ただでさえカメラや三脚で重い荷物に加えて、毎回食料をどうするか、頭を悩ませる。はっきり言って生存に必要な熱量さえ確保できればいいので、フリーズドライの登山食やカップラーメンなど軽い食料が妥当だ。ところが、山に入る前日地元のスーパーでうまそうな食材や地酒を目にすると、どうしても手が伸びてしまい、肩に食い込むバックパックの重量が、破壊的に増える結果をみる。
山に行く目でスーパーを眺めると、ふだん買わない食材を発見して楽しい。
たとえば今回は、遠野名物味付けジンギスカン、そして気仙郡住田町算の「鶏のハラミ にんにく味」いずれも冷凍パックを買った。さらに産直で行者にんにく、ふきのとう(このあたりではバッケと呼ぶ)、菜花にりんご、南蛮味噌、きゅうりの辛子漬け、おにぎり5個。一泊二日の行程にはありあまる食材だが、山男/女たるもの非常時への備えを怠ってはならない。今回は肉を焼くので、お酒は地元のエーデルワインの赤にした。
登攀開始からわずか数歩、後ろ腿の異常な負荷をもろに受け、ああ、あんなに食材を買わなければよかった──なんでパックじゃなくて瓶の酒にしたのか・・・(しかも700ミリリットル)と激しい後悔に苛まれる。しかしわたしの場合、後悔よりも飲食への執着の方が強いので、そのまま息を上げながら昇りつづけることになる。
宮城県最北西端にある鬼首は、地域全体がカルデラにのっかっているような地形で、環状に川が流れ、川に沿うように集落が点在している。その最も奥にある岩入(がにゅう)地区の高橋幸悦さんを訪ねたのは、昨年の12月半ばのことだった。すでに積雪は1メートル近くもあり、友人がその車では危ないと四輪駆動車に乗せてくれたのだけれど、それでも奥深く入り込むとだんだん家はまばらになっていき、私自身が何とも心細くなってくる。もうここが集落の最後ではと思った家が高橋さんのお宅だった。
由緒を感じさせる大きな総二階の農家屋で、見事な枝ぶりの松の木がそびえ立っていた。「いつ頃、建てられたんですか」とたずねると、「新しいよ、100年くらいだよ」と笑っておられる。100年は、すぐそこにある時間なのか。80歳をこえたご夫婦が深い雪の中、この家を守りどこかほがらかに暮らしていることに心打たれた。
ぱちぱちと音をたてて燃える薪ストーブと掘ごたつで温まりながら、幸悦さんと向かいあう。幸悦さんの後ろは大きな窓で、雪が降り積もる背後の小高くなった木立の中に五輪塔が見えた。祖先の墓だという。
聞けば、17代目。先祖は戦国武将で延岡藩主だった高橋元種だという。関ヶ原の合戦で東軍につき、流れ流れて陸奥の国へ。いまもたまに、関西などから墓を訪ねてくる人がいるのだそうだ。確かに庭の松は物語を秘めているように思えるし、建て替える前の建物はこの地域の御番所よりも立派だったらしい。
といっても私の目的は、ご先祖のことではなく、ここにあった岩入分校の話を聞くことだった。この地区の子どもたちはいまみんな大崎市立鬼首小学校に通っているが、昭和63年3月まで、ここには明治15年の開校以来106年にわたって維持されてきた小さな学び舎があった。鬼首地区全体で5校もの分校があったという。鉄道の駅から遠く離れた山里に林業や農業、鉱業を生業に生活を立てる人たちが大勢おり、子どもたちもたくさん暮らしていたのだ。
私を含め都市の住人が「僻地教育」を具体的に思い浮かべることは難しいかもしれない。私は初めて僻地に等級があることを幸悦さんに教えられた。「本校の鬼首小学校は1級で、岩入分校は4級なんです。それで先生たちの給料の上乗せ分が決まったんだね」駅からの距離とか、郵便局など最寄りの公共施設などの学校周辺の環境で僻地度を測るらしい。本校の鬼首小学校までは、子どもの足で4時間ほど。車のなかった時代、分校がなければ就学は困難だったろう。
幸悦さんが岩入分校に入学したのは、昭和17年ごろ。記憶では40名近い子どもがいて、1年生から6年生まで全員が一つの教室で学んだ。先生は一人だったから、十分に手が回るとはいえない授業だったろう。そのうえ職員会議などで先生が放課後本校に出かけるとその日のうちに戻ることは難しく、子どもたちは自習時間。のびのびと過ごしながらも、案外と年上の子たちが下の子の面倒をみたのかもしれない。
学校を支えたのは親たちだった。やがて幸悦さんは、妻のきよさんとともに、2人の子どもの親として分校にかかわるようになった。
ストーブ用の薪集めは国有林の木を払い下げてもらい、1日がかりで切り出して山のように積み上げる。冬の間の雪下ろしも2、3度当番を決めて実施する。備品購入の資金稼ぎのために春はフキ採りやワラビ採りを地域あげて行う。集まった山菜は誰かがトラックに乗せて運びお金に変えてくる。暇を見つけて縫いあげた雑巾がたまると学校に届けにいく。家の仕事の延長のようにして分校のために力を出し合い、盛り立てていこうという暮らしがあった。
「学校は家の分身みたいなもの」と話すきよさんはこう続ける。「入学式も卒業式も夫婦で行くの。世話になってる子どもがいなくてもみんなで行くの」地域の中心は小学校とよくいわれるけれど、こういう話を聞くと深く納得がいく。
そして、雪かきのあとも、学芸会のあとも、もちろん卒業会のあとも、一品持ち寄って、こっそりつくったどぶろくを持ち出して、それはにぎやかに飲んだらしい。「わいわい騒いで、それが楽しみなんだ」と幸悦さんが笑う。先生が家庭訪問にきても、飲ませてお泊まり。もしかすると、地域住民の方が先生の品定めをして、地域になじむよう教育していたのではないのだろうか。
幸悦さんが手元に大切に残してきた冊子がある。「さわらび」と題されたガリ版刷りを閉じたものだ。赴任してきた先生が毎日発行していた学級新聞だという。イラストのたくさん入った新聞は、授業参観、児童会役員選挙、学級費や児童会費の集金といった学校の行事やお知らせとあわせ、子どもひとり一人を取り上げている。両親が用事で3日間出かけた間一人で留守番をした茂明君のこと、毎日の積雪を記録する浩君のこと、角膜に傷がついたために休んでいた俊広君の出校、宮城県の書初め展で特選をとった悦子さんのこと…。小さな頑張りをていねいに見つめる教師の視線が伝わってくる。ここで僻地教育を学びたい、と赴任する先生も少なくなかったようだ。
分校が閉じて30年あまり。最後の卒業生はいま40代前半になった。この地区を離れた子たちも多いだろうが、その親はいまだこの地に暮らし続けている。木造平屋の小さな校舎はいまもそのまま、看板もポストも当時のままだ。きっと地元の人たちは集落のあたたかな記憶が宿る建物を壊したくないのだと思う。
2月から3月の1か月間、インドネシア語を教える仕事で別府にいた。私としては初めての九州上陸。大阪から車ごとフェリーに乗り込み、早朝に別府湾に入ると目に飛び込んできたのが烏帽子のような形の山。あとになって、あれが猿で有名な高崎山だと知る。湾岸沿いには他に高い山はなく、この地と海を見晴らすには格好の場所だ…と思っていたら、四方を見極めることができるため、かつては「四極山(しはすやま)」と呼ばれていたそうだ。豊後守護・大友氏が山城を築き、南北朝時代には九州北朝方の拠点だったらしい。
湾沿いに平地と地獄温泉がへばりつくように広がり、その背後に500m級の山がある。仕事はその山の上であり、山頂からは弧を描いて一面に広がる別府湾と高崎山が一望できる。仕事場には毎日、麓のアパートから車で通っていたのだが、その帰り道、対向車とすれ違うのも難しいような山道のカーブを曲がった所で、ふいに眺望が開けて海が見える。そこからもう少し下るとビバリーヒルズみたいなお洒落な住宅街の一画に入り、下り坂の向こうに真っ青な海面が続く。山道から見るよりも海の色が青いのは、それだけ海に近いのかもしれない。ここからさらに下って麓の高台にある神社からは、眼下の湯煙が上がる地獄温泉の向こうに海が見える…。海なし県育ちの私には、海が見える風景はいくら見ても見飽きず、山と海がある光景こそ日本の原風景のように思えてくるのだった。
そのうちふと、小学生の頃に学校で見た社会科のテレビ番組のことが思い出された。清水市を舞台に農業や漁業の様子が描かれていた。調べてみるとどうやらそれは『ぼくらの社会科ノート』(NHK教育)という番組の「清水篇」だったようである。この番組が心に残っているのも、子供心に、海(海幸彦)の仕事と山(山幸彦)の仕事が産業の基本だと思っていたからだろう…と今にして思う。
別府から戻ってきてこの2週間は翻訳の仕事に忙殺され、自宅に籠っていた。時々2階の窓から遠くの山々を見ても、ここからは山の向こうには山しか見えない。けれど、あの山々に南朝方が籠っていた頃、九州でも戦いがあったのだなあ…と別天地に思いを馳せている。
あなたはテレビを見ないひとだからねー
あまりに息も切らせない感じで、報告のために、
携帯取りにもいけなくてごめん。 昨夜の岩手大学の先生は、
殺傷処分拒否して飼われている牛を調査して、
夏は外の草を食べるから線量が高く冬に下がること。
名誉教授は仮設に住む鯉釣り趣味の人と山中へはいってゆくって、調査ね。
また鳥の研究者は木を登って、若い女子大学院生がマスクつけながら、
牛解体作業やっていたりするのを見ると、強烈なものがありました。
いまはあなたの詩の国で、書いても書いても許されるのだから、
きっと書いてね、殺傷処分拒否して牧場が仮置場にさせられたために、
安楽死させられた解体するわたしたちのことを、何ちゃって
(友人のメール。やや滅裂。)
先週左眼の白内障を手術してもらった 点眼麻酔だから 手術のあいだも 紅い炎のかたちが やがて黒い班点に置き換わるのを見ているうち 器械が電子音で歌っているのが聞こえる 10分ほどで終わったと思う そのあと病院で一晩すごしたら 顔の皮膚が仮面のように乾燥して剥がれ落ちてくる 4種類の目薬を5分おきに一日4回さすのを つい忘れそう 次のしごとのことを考えようとしているが まだその気になれない 月末だから「水牛のように」のコラムを書こうとしているが 「しもた屋之噺」を読みはじめてしまい 2年分ほどを読んだところで いまの音楽や音楽家の生活とも遠いところにいることがわかって ついていけなくなり
しかたがない またかと思われるだろうが どことも知れない空間で点滅する音のうごきはちいさく よわく おそく むらで とぎれがち 流れのかたちは渦になり まわり うねり 乱れ 流れのかたちから すこしだけすくいあげ スケッチを残す
園芸や料理のように 限られた素材から 毎回すこしちがう音楽が生まれる ことばのない 日々のあそび 中心も軸も作らない 浮かび漂って とりとももなく消えていく システムや方法で流れをつなぎとめるのをやめて 音楽を作るプロセスそのものの音楽 まわりの風景がそれを見ている眼であるような
音の偶然の出会いもやがてメロディ―に聞こえ 音の重なりや順序がハーモニーのように響いてしまうなら 逆に メロディーやハーモニーのみかけが 仮のすがたにしか聞こえないような 不安ななりゆきを ありふれた音符で仕組むことができるだろうか 音楽に限りなく近いが ゆるく束ねたそれらの音の位置を微調整しながら 予測できない 定まらず揺れ動く波を扱いかねている ゆったりした時間と しばられない空間
前夜の予報では春の嵐で朝は荒れると言われていましたが、きょうの東京の朝は予報ほどではなく、昼間は予報どおりに気温があがっています。東北から北海道は大荒れのようですし、ヨーロッパも大寒波、やっぱり春は激しく荒々しい季節です。
「水牛のように」を2018年3月1日号に更新しました。
激しい春にはまた震災の記憶もあります。あの日の東京は春というには遠く、小雪の舞う寒い日でした。
小泉英政さんから、FBを始めたとメールが来たのは1月だったと思います。1月8日の投稿にはこうあります。
「今年、70歳にならんとする老農夫の僕の発する言葉が世の中にどう受け止められるのか、皆目、見当もつかなけれど、なにか、花を一輪ざしにさすように、フェイスブック上に置いてみたくなった。」
詩も載せるというので、いくつか水牛に転載することにしました。最初はよく知っている「ごえもん風呂」から。次回は「若かりしころのものより」とカテゴライズされているものをいくつか、と考えているところです。
明日は満月。7年めの11日は日曜日ですね。『えみしのくにがたり』は出たばかり、読んでみようと思います。
それではまた!(八巻美恵)
オギデイガバ、イモハマガナシ(置いて行くならば、
あなたは悲しむことだろう)。最愛の人の手をしっかり離さないならば、
波に委ねて、あなたをうしなうことはなかったかもしれない。
ナンジョニガシテヤリタクテモ(どんなに逃がしてやりたくても)……。
言葉の基層は民俗社会に届くのでなければ、根無しのように、
枯れる草木でしかなくなってしまう。〈えみしのくにがたり〉がふれ添う、
民俗社会の言葉には秘密が隠される。オクナイサマは、
いくつもいくつも襖をあけたてて、仏間にたどりつく。オクナイサマが、
語りかける。アスンデケテ、アスンデケサイ。遊んで行きなさい。
ナンジョニセバアスブノ。アスブベッタノニアスバネンダモノ。イイハ、
オラモハヒトリデアスブモノ。いくつもいくつも襖を閉めて忍び足で仏間を出る。
(『えみしのくにがたり』、及川俊哉さんの詩集に、栞、あるいは解説を書くことは、かならずしも私の適任でないにせよ、深い共感だけは表明したく思って。)