仙台ネイティブのつぶやき(31)7年が過ぎて

西大立目祥子

 旧暦のお正月を過ぎるころから日差しはずいぶんと明るくなって春が近づくうれしさを感じているのに、3月11日に向かって日ごとに息苦しさが増していく。冬は行っていない、でも春はまだ少し遠い。東北では3月初旬はまだどっちつかずの季節で、その宙ぶらりんな季節感があの日の記憶を呼び起こす。

 この原稿を書いている2月27日夜、夕方から降り始めたみぞれまじりの雪はまだやんでいない。あの日もこうだった。信じがたいほど長く激しく何度も揺らされたあと、電気のつかない部屋でラジオをつけて津波の襲来を知り、夜になってカーテンを開けると庭はいつのまにか雪で真っ白に染まっているのだった。その光景がありありと浮かんでくる。人をとりまく自然がどこまでも不意をついてくるようだった。

 7年がたち、被災地でさえ記憶の風化がいわれるようになる中で、じぶんの中にまだこういう感覚が生々しく残っていることに正直驚いてしまう。私は家を流されることも、身内を失うこともなかったのに。
 あまり報道されることはなかったけれど、仙台の沿岸部も大津波でかなりの被害を受け900人以上が命を落とした。記憶がよみがえってくるのは、震災後、沿岸部に通って、子どものころから親しんできた浜の風景が根こそぎさらわれているのを見続けたからなのだろうか。被災した人たちに会って、津波から逃げる話や立ちゆかない自宅の再建の話を聞いてきたからだろうか。震災後、私は沿岸部の集落を訪ねて60人をこえる方たちから話を聞いてきた。いつのまにか、その物語は私の中に入り込み私の物語になっているのかもしれないと思ったりする。

 1月末、久しぶりに沿岸部に出かけた。出かけるといっても、東に向かって車でわずか15分ほど。ぽーんと開けた水田を抜けると、その先は砂浜と青い海…というのがこのエリアだったのに、ほこりっぽい県道を盛んに大型トラックが行き来し、その先には海ではなくて、真新しいコンクリートの防潮堤が横たわる。

 仙台市南端の藤塚という地域には避難の丘ができていた。高さは10メートルほど。階段を登りつめて見下ろし、思わずため息が出る。原野のような広大な土地のあちこちに土が盛られ、パワーシャベルが絶え間なく動いている。沿岸部を南北に貫く県道のかさ上げ工事が行われているのだ。川の対岸、大きな被害を受けた閖上(ゆりあげ)にも何基ものクレーンが立ち並んでいるのが見え、工事の音が響いてくる。ここは、巨大土木プロジェクトの現場なのだ。私にはもう、いつ終わるのか、見当もつかない。
 集落があり、田んぼや畑が広がり、野菜をつくる暮らしがあったことは、もはやかき消され忘れ去られていくのかもしれない、と不安になる。

 被災した人たちの暮らしはさまざまだ。
 藤塚で暮らしてきたWさんは、最初の避難所から6回移転を繰り返し、2年前に自宅を建てて落ち着いた。その間、大病もされた。いまは、庭に小さな畑をつくり季節季節の野菜を夫婦で育てるのを楽しみにし、毎日かつて暮らした場所を見に行くという。一方で妻のM子さんは、近所とのつきあいの薄さを心配している。

 仙台市の沿岸北部に住まいのあったWさんは、当初、家を修理して住み続けてよいという市の通達でご主人みずから家を直したのに、あとになって市の判断が一転、地区は災害危険区域となり、泣く泣く移転を余儀なくされた。家を建ててようやく平穏な暮らしが戻ってくると、今度は妻のM子さんが2度も病に倒れた。何年にもわたるストレスと疲れのせいだろう。
 いつか話が避難に及んだとき、突然M子さんの目に涙があふれ指先が震え出したことがあった。避難の際、車が津波に追いつかれて浮き上がり、運よく近くの家の屋根に乗りかかるかたちでとまり、生まれたばかりの孫を抱いて2階に逃げ延び命を拾った。その恐怖がよみがえってくるのだ。いつもは、手料理を用意してくださっておだやかに話しをされる方だけに、PTSDのつらさを目の当たりにした思いだった。

 仙台の沿岸部で最も大きな集落、荒浜で代々漁業を営んできた80代のSさんと娘のY子さんは、家を流されたあと、無事だった船を頼りに半年後には漁を再開した。会うたび、「津波のあとは豊漁続きだ」と話し、「俺は幸せな男だよ、海はよくしてくれる」とまでいう。そのことばに、海に生きてきた人の自然とのつきあいを教えられてきた。
 大津波のあと、漁師たちの再開は早かった。船を失った人も中古船を買って、秋の鮭漁に沖に出ていった。それから6年半。Y子さんがいう。「でも、みんな疲れが出てるの。病気したり、入院したり」

 仙台市は震災から5年後に復興事業局を廃止した。多くの人が仮設住宅から再建した自宅や復興住宅に移り住み、復興は一段落したという判断もあるだろう。でも、それぞれの事情はさまざまで、家を建て直したからといって生活がもとに戻ったとはいえないのは、話をうかがっていればよくわかる。事情は被災直後よりばらけ、誰もが7つ歳をとり、簡単には口に出せない思いと疲れを胸の奥に深く沈めている。そうして、またあの日がめぐってくる。

脱原発、さあこれからだ

さとうまき

間もなく311.あの日から7年だ。あれだけ脱原発、再稼働反対って言っていたのに、原発がなくなる気配はない。再び安全神話がつくられていくのか?

2月の終わりにミランダさんが来日した。昨年7月のこと。立教大学を退官されたばかりの池住義憲さんに呼び出されて、「ミランダさんが来るので手伝ってほしい」といわれた。

ミランダさん? ドイツが、福島事故後に脱原発を決めたときの立役者だそうだ。二つ返事で、いいですよと答え、僕なりに福島ツアーや、シンポジュームの構成を提案した。しかし、そのあと交通事故にあい、イラクでは、アラブ人とクルド人が意地を張り、喧嘩を始める。おかげで飛行機は飛ばない。ビザも出ない。神経をすり減らしてしまった。

それでもイラクに何とか入って帰国すると早々に、姉が急死した。ようやく葬儀を終えると、母は認知症に。チョコ募金のチョコも余っているという。ああ! と思ったら、激しい頭痛。なんとインフルエンザだ。ここまで不幸がつづくと後は世の中人任せでかなうはず。もう働かない! とりあえず福島に向かう。

2月25日
パンフレットとかチラシとチョコをとりあえず事務所に取りに行き、新幹線に飛び乗る。しかしだ。チョコを1万個3月中に売り切って福島支援の費用300万円を捻出するというミッションが与えられている。福島の空気は冷たい。

ミランダさんは、大学の教授。とても優しい口調。日本で暮らしたこともあるから日本語で講演する。どうしてドイツに脱原発ができて、日本にはできないのか? 日本も脱原発に舵切するためにはなにが必要なのだろう? ひとことで言えば倫理観。日本は、すべてが経済効果で議論される。だから自然エネルギーは、実は儲かるんだよという説明が一番脱原発に向かえる説明なんだろう。

この日は、福島の高校生とミランダさんをどうしても合わせたかった。アースウォーカーズというNPOが企画するドイツとオーストラリアに連れていくスタデーツアーをプログラムを僕たちも支援している。参加した15歳のすずなさんが来てくれた
「福島にいる私たちが、福島の未来のことを考えないなんておかしい。7年経ってしまって、意識も薄れていって、普通の生活の中で埋もれてしまっている原発事故のことを周りに発信していこうよって集まっています」それまでは、別に意識の高い子ではなかった。「震災があって海外に行けるってラッキー💙とおもって参加しました」

オーストラリアでは、ウラン鉱山があって、福島原発の燃料になっていたこと。被曝したアボリジニの話を聞いたり、日本が第二次世界大戦でオーストラリアを攻撃したことを初めて知った。「日本は攻撃したのに、学校では教えてくれない。自分が主体的に知らないと、情報は自分で集めないと思いました。」

ミランダ:「オーストラリアで知ったその情報はどのように使いましたか?」
S:日本の学生は、「まじめなこと」に関心をもたない。だから、まず、関心のある仲間で集まって情報を共有して、仲のいい人から伝えていきたい。
ミランダ:「将来何になりたい?」
S:震災でライフラインがとまってつらかったけど、世界には、水とか電気が当たり前にない国がある。先進国の当たり前が、そうではないんだって伝えていくような仕事をしたい。

すばらしい!

2月26日
早朝、一行は大熊町に向かう。ここは、原発のある町だ。いまだに帰還困難地域で解除されるめどはなく中間貯蔵施設になるという。立ち入り禁止地域に入る際は、登録をしなければならず、積算線量計とタイベックスの防護服やマスクのセットをもらう。風化という言葉は、ない。原発の数キロ近くまで行くとガイガーカウンターは6μシーベルトを超え、警告音が鳴り響く。津波で壊された建物がいまだに残るのだ。
「信じられない力ですね。想像できない 今でも悲しい。」とミランダさん。

大熊町の木村さんは、
「原発の中は6シーベルトなんです。6μシーベルトっていうのは、原発の中が600万円だとすると6円なんですよ」
如何に原発の中がいまだに放射能汚染しているかだ。津波で、破壊された建物の一部が昨日の地震でさらに崩れ落ちていた。大熊町には東電の職員が700人くらい住んでいる地域がある。地元の人たちには自分たちが戻れないのになんでだという怒りもある。

2月27日
立憲民主党が原発ゼロ法案を提出するという。ミランダさんは、国会議員の前で「どうやってドイツは脱原発に舵切したか」をプレゼンした。そして、夜には、東京で最初で最後の講演会だ。予想に反して300人以上の参加者があった。
「原発をやめて、自然エネルギーをやっていこう! みんなでできる!」

それは経済的にも儲かるんだよ! 未来に向けた明るい取り組みだ。その傍ら起きてしまった事故で、もがき苦しむ人たちがいること。その人たちにいかに寄り添えるか。決して忘れてはいけない311の記録。保養や検診、市民測定所、福島でやる自然エネルギー、、、もっともっと語ろう。

さあ、これからだ!

 福島支援はチョコ募金で!
 http://blog.livedoor.jp/jim_net/archives/52496720.html

すとんと落ちて、腑に落ちない

くぼたのぞみ

ひとつ仕事が終わると、すとんと落ちるようになった。1500枚の訳稿を送ったあととか、それが本になったときとか、心にかかっていたイベントが終わったあとなど、すとんと落ちるのだ。気力が、体力が、底のような場所へ。そこは茫漠として霞んでいる。

 ひと区切りついた翌朝は、ひさびさにぐっすり眠って開けた朝でもあり、終わった仕事の余韻がふんだんに残っていて、さて、次はなにをしようか、とそれまでの勢いであれこれ考える。むかし習った「慣性の法則」だ。機関車は急には止まらない──自動車ではなく「機関車」というところで、「むかし」のお里が知れるけど。
 午前中は心も軽くPCを立ちあげて作業をする。昼ご飯のあとは、ちょいと街まで、とショッピングなどもやってのける。ところが陽が少し斜めになって、かわたれどきへ向かうころ、じわじわと気配が忍びよる。

 となると、ふうせん気分はすっかりしぼんで、まだ残っていたように見えたものの水位がどんどん下がっていく。なにをするのも億劫なのだ。これが春のスプリーン、憂鬱か、憂愁か? 目の前できらきらしていた「次の仕事」は、魔法が解けたように色あせる、いや、色あせて見えてしまう。これが終わったら読もう、と積んであった本の山も、時間のないときは魔性のオーラを発していたのに、はらりと開いても目は文字をなぞるだけで、心にとどかない。
 十代の試験勉強中に、ああ、もうヤダヤダ、「この世のほかならどこへでも」気分で、俄然面白そうに見えてのめり込んだ本が、試験が終わった途端にちらとも読む気が起きなくなったときのよう。本たちが急に知らんぷりをする。腕の力が抜ける。指まで、たらたらとキーを打ち間違える。晩ご飯を食べるころには、「あああ、もうなにを食べても美味しくない」状態になる。

 こういうときは、ひたすら窓から遠くをながめ、ぼんやり近くを見る。じっと手を見るイシカワさんのように、湯を飲む。そしてエネルギーが満ちてくるのを待つ。待つことが苦手な人間には、ここいちばんの難行である。難行だけれど、急いで次へ移っても、結果が思わしくないことはわかっているのだ。 
 だから、じっと手を見て、満ちてくるのを待つ。湯を飲めば、やわらかいはずの湯気は熱く、舌を焼くばかりだが、それもまた遠くのことと気にとめず、ぼんやりする。ぼんやりするのだ。そして突然、何かが通り過ぎて、こんな文章を書いている自分を発見する。

 すとんと落ちても、けっして腑には落ちない、あれからもうすぐ7年。じわりと待つ春の空は、今日も霞んでいる。

徒然なるままに30年

大野晋

大学を卒業して就職したのでもう30年以上社会人をしている。最初の数年はどうして大学に戻るのかを真剣に悩みながら過ごしていた。大学で植物相手の研究をして、本を出すことが夢で、もう少しで近くに行けると思っていたので、そこに戻りたいと願っていた。若いから給料は少なかったけれど、仕事はたくさんあった。そして、そのうちに仕事が忙しくてそこまで手が回らなくなった。それでも、10年くらいは山も登ったし、大学に集まったりもした。

10年経つか経たないかといった頃、仕事の内容が変わった。やがて、全国を飛び回ることが多くなり、忙しく歩くことが仕事になった。同じ頃、登山ブームが来て高齢者が山にたくさん押しかけて来た。狭い登山道を塞ぐように歩く人たちに遭遇して、危険を感じてブームとは逆に山登りをしなくなった。

20年ちょっと経った頃、仕事が何回か変化して、最後は長年勤めた会社を辞めた。新しい仕事は不思議だった。今までの常識を覆された気がした。はっきり言って、打つ手がないと諦めの気持ちになったこともあった。まあ、それでも手を替え品を替えてなんとかやってきた。

さて、就職して30数年ほど経とうとしている。この数年は長時間通勤でいろいろなことを諦めてきた。60歳近くなって体も動きにくくなってきた。ここで、やっておかないともうチャンスはないという気が強くなって、一旦仕事を辞めることにした。

あと1ヶ月。
まだ、次の仕事は決めていない。
まあ、ケ・セラ・セラ。なんとかなるさ!

記憶の石

璃葉

雲間から差す太陽の光が窓ガラスを超えて、部屋の一角を照らす。その光線のやわらかさや、つぼみの膨らんだ桜を見ては何やら春めいたものを感じずにはいられない。しかし、寒さは依然としてどっしりと居座っている。セーターをかぶり、厚めの靴下を履いて作業をする日はまだまだ続きそうだ。

拾った石をモチーフにして色を塗る。その絵も少しずつ溜まってきたように思う。掌にしっくりおさまった石は、海や川のほとり、崖の下など自然の中で拾ったものがほとんどで、すべすべなもの、ざらざらのもの、尖っているもの、種類は数えきれない。
それらの石を一つずつ描いていくと、実在する石と紙の中に吐き出される石は、色と形はそっくりでも、当たり前だが、まったく別のものに変わる。眼や手から身体の中に染み込み、霞のように粒子が広がり、そこから固まった“何か”になる。石なのだけれど、きっとそうではない。記憶の塊のようなものだろうか。

描いた絵を底の浅い桐箱に仕舞う。箱はずいぶん前に福島の木工家具店で手に入れたものだ。桐箱がいかに湿気や乾燥に強いか、店の主人が細かく説明してくれたのを今でも覚えている。とある民家が火事に遭ったとき、桐箪笥に入っていた沢山のこけしは、灰はかぶっていたもののすべて無事だったそうだ。

桐箱に保管された絵の束は桐特有の軽さと滑らかな木肌に守られ、何だか居心地が良さそうである(私の想像かもしれないが)。すっきりと収まっている具合の良さから、そのまま桐の中に吸い込まれて消えてしまうのではないかと心配するほどだ。たまに蓋を開けて確かめると、そこには不揃いな色が入り混じった石の絵が変わらず仕舞われていて、静かにこちらを見据えている。

アジアのごはん(90)ビルマの豆ごはん

森下ヒバリ

ヤンゴンの地元食堂はなかなか手ごわい。やっぱり夕食時にはおいしいビールが飲みたいので、生ビールを置いている店がいい。しかも高級でなくふつうの店で。となると、いわゆるビアステーションと呼ばれる店に行くことになる。ビアステーションといっても町中の店は狭くて、タバコの煙もうもうの店が多いので、選択肢が少ない。外にテーブルのある店でホテルから割と近いのがスーレーパゴタ南の路地にあるアウン食堂である。

アウン食堂にはヤンゴンに来るたびに通ってはいるのだが、なかなかメニューの全容がつかめない。英語の書いてあるメニューは、あるにはある。しかし、ビルマ語のメニューの下に英語が書いてあるのはごく一部。しかも、料理名の横にあるピンボケ写真は、適当。つまり料理名の写真ではないのである。ああ‥。

ビルマ語はまったく読めないので、少しづつ料理名と発音を憶えようとはしているのだが、その参考になるものの少なさと言ったら。ちなみに英語での料理の注文の成功率はあまり高くない。または英語では決まりきったものしか頼めない。

ヒバリはこの店でビーフン炒め以外のビルマ料理を頼みたいんだよ〜! わりかし、同じ物ばかり食べても平気な相方のYさんはこういうときあてにならない。むしろ、ヒバリの冒険心を邪魔することが多い。
「今日は食べたことのないの、頼んでみよ!」「う〜ん‥」「じゃあ、このエビの揚げたのと、豚肉のトマト&チリ炒め」「ええ、ひとつづつ頼んだ方がええのんちゃう‥」

出てきたのは野菜はまったくない豚肉のトマトソース&チリ炒め、まあご飯にかけるとおいしい。そして、えびのから揚げと思っていたものは、なんとエビのてんぷら‥アメリカ風の少し甘い衣の、である。相方は「野菜が食べたかった‥」と恨めしそう。「エビ天おいしいからええやんか!」

まあ、こういうふうにビルマでの毎日の食事は一筋縄ではいかないが、それなりにおいしいので、なんとか充実した食生活である。しかもミャンマービールの生ビールが安くてうまい。生の黒ビールもあり、おいしい銘柄はブラック・シールドという。この発音がむずかしい。連れは全く通じない。ヒバリは「ブラッ・シー」と語尾を全く消すことによって、ほぼ通じる。昔、お米屋さんで売っていたプラッシーというオレンジジュースを思い出すなあ。

きのうの夜、すこし町はずれにある別のビアステーションに行こうとして、道端で茹でた豆を売っているのを見つけた。「あ、もやし!」豆はこぶりのえんどう豆であるが、よく見ると豆から細い芽が出ている。日本の野菜のもやしのように、芽が主体のものではない。ちょっと芽の出た豆を茹でているものだ。そして、日本でえんどう豆というと緑色を想像するかもしれないが、よく乾燥させた茶色い豆を戻して茹でたものである。

インドでも芽の出たひよこ豆を茹でてスパイシーな味をつけてスナックに売っていたが、これは本当に茹でただけの豆、それを大盛りにして計り売りしているのである。もちろん、わざと発芽させているものだ。味見したくて200チャット分だけ売ってもらった。そのままでもシンプルでとてもおいしい。朝ごはんにチャパティと一緒に食べたり、カレーぽい味付けにして食べたり、ごはんに混ぜて豆ごはんにして食べたりもするらしい。

あ、たしか前行ったローカル食堂に豆ごはんがあったはずだ。さっそくお昼に出かけて豆ごはんを食べてみようとしたが、豆ごはんが通じない。壁に写真があったので、コレコレと指さすと、出てきたのは小豆入りのもち米をふかしたものであった。ちがう‥。

少しだけ英語の出来るマネージャーに、ごはんに豆が‥と説明していると、卵焼きのせご飯を以前食べた時の写真で首尾よく注文していた相方が、届いた卵焼きのせご飯にスプーンを差し入れた。「あ〜、これです!」相方の卵焼きの下から出てきたごはんは私が食べたかった豆ごはんであったのだ。

豆ごはんはペー(ビョウ)・タミンというらしい。あ、でもこれに卵焼きを載せたのはおいしかった。これはなんというのかマネージャーにビルマ語で書いてもらったものを、帰ってからホテルの受付のお姉さんにゆっくり発音してもらったら「シーサン・チャウッージョウ」。そして卵焼き(ビルマ風オムレツ)だけなら「ムウ・ジョウ」。あれ、豆ごはんはどこに‥。耳だけで覚えようとする言葉はなかなかむずかしい。

それにしても、日本では豆を発芽させてから食べる習慣がないのはなぜだろう。発芽玄米と同じく、豆も発芽させると消化が良くなり、煮えやすく、栄養価も上がる。あ〜、こんなふうにゆで豆を売っていたら、買って来てあっという間に味噌を仕込めるのになあ。

日本に戻ったら、えんどう豆はちょっとお高いので、ひよこ豆を2〜3日水に浸して発芽させてから、少しだけ味噌に仕込んでみようか。味噌は大豆だけでなく、各種の豆で仕込めるというので、楽しみだ。

ちなみにビルマで売っている黄色いシャン族のトーフはひよこ豆から、白い豆腐(ペービャー)は大豆ではなくホースグラム(ペピザ、学名はDolichos biflorus)という豆から作るらしい。ホースグラムは小粒の大豆みたいな豆だが、ささげの一種で、これもよく茹でたものを売っている。

そういえば、前回ヤンゴンに来た時にレーダン市場で「これは納豆なのかな」と小さな大豆のような茹で豆をじっと見つめていたら、売り子のお姉さんが、プレゼント、と一袋くれたことがあった。これが茹でホースグラムであったのだが、ビルマではいわゆる白く茎の伸びた野菜として食べる方の「もやし」もこの豆から作るという。日本では緑豆が一般的だ。

鉄道駅の中まで広がるレーダン市場は大きくて楽しい。そこでは白い豆腐を売る一角があり、どのブースでも白い豆腐と大量のもやしを一緒に並べて売っていた。煮豆も一緒の店もあった。なぜ豆腐ともやしが一緒なのか疑問に思ったが、なるほど、白い豆腐がホースグラムから作られるのなら、納得だ。豆腐屋さんではなく、ホースグラム屋さんなわけだ。

さらに、この豆の煮汁を発酵させてから煮詰めてポンイエジーという調味料を作るということだが、現物をまだ確認していないので、今度市場で探してみよう。日本では大豆の煮汁を煮詰めて作る調味料豆いろり、と同じようなものらしい。日本の豆いろりというのも知らなかったが、いやはや、とにかく豆の世界は奥が深い。

灰いろの水のはじまり(その2)

北村周一

絵は、大なり小なり、一本の絵具のチューブからはじまると考えられています。
むろんその前に、準備しなければならないことはいくつもあります。
たとえば木枠、そのサイズ、材質、組立て方など、さらにキャンバスも同じことがいえます。
筆や刷毛の形状も、悩ましいところです。
でもここでは、キャンバスを中心とした、絵具と絵との関係についてのみ、思考を巡らしてみたいと思います。

哲学用語ですが、三段論法という推論の形式があります。
 「植物は生物なり」(大前提)
 「松は植物なり」(小前提)
 「ゆえに松は生物なり」(結論)
この論法を援用してみることにしましょう。
材料は、絵具と筆とパレットと、そして画布の四つです。

まずは、絵筆(の絵具)は絵(の絵具)なり
ところで、パレット(の絵具)は絵筆(の絵具)なり
ゆえに、パレット(の絵具)は絵(の絵具)なり
ということになります。
絵筆に付着した絵具は、たしかに画布上の痕跡となりうるし、
パレットの上に絞り出された数々の絵具は、絵筆によって画布に運ばれます。
したがってパレット上の絵具は、画布上の絵具に相違ありません。

しかしこの推論はどこかおかしい。
チューブから絞り出された絵具は、解油などとともに、絵筆によってパレット上で調合されることになります。このときの絵具は、すでにチューブの中の絵具とは異なります。
さらに画布上で、さまざまな技法織りなしたのちの絵具の痕跡は、パレットの上の絵具とは、似て非なるものといわねばなりません。

閑話休題
キャンバスそれ自体をパレットにしてしまうアイデアが、この論法では、台無しです。
絵となるべき大きなキャンバスと、手許に置かれたパレット代わりの、比較的小さなキャンバスとを、同一の視点で鑑みることには無理があるのかもしれません。
それでは、えがくべき大きなキャンバスを視野から外して、小さなキャンバスが、パレットでありながら、そのまま絵になるような作法はあるのかないのか、試してみたくなりました。

とはいえ、パレットである以上、絵となるためのなにがしかの起爆剤が必要ではないかと思い当たりました。
パレット代わりのキャンバスが、いつかは絵になるように仕向ける方法、すなわちパレットの上の出来事が、一枚の絵となるまでに飛躍する方途を考えてみたのでした。(つづく)

しもた屋之噺(194)

杉山洋一

季節外れの寒波がヨーロッパを覆っています。家の庭が真っ白に雪化粧しています。夕べレッスンが終わって家にたどり着くと、日本から来たU君から家の窓ガラスが壊されて泥棒に入られたと電話がかかってきました。ちょうどガールフレンドが昨日日本から着いたところだったそうで、本当に気の毒でした。

2月某日 ミラノ自宅
日本は西欧の影響は強く受けつつも、戦後何十年も本質的にはあまり気質に変化はないのかも知れない。松村禎三さんや三善先生の世代の音楽は、やはり今も脈々と受継がれていると思う。あの世代と現在の違いは、当時はテンポを早くすることで切迫感を楽譜に定着していたものを、最近はアッチェレランドをクオンタイズして5連音符と6連音符を並べて定着するものらしい。気質に変化がないことは別に構わないのだが、こうして数的に加速させるのはヨーロッパ人の気質には向いているかも知れないが、日本的な粘り強さは生まれない気がする。納豆風リタルダンドや見栄切りアッチェレランドを演奏するためには、我々の師匠の世代の記譜法が一番しっくり来る気がする。

無理にヨーロッパ風に書く必要はないと思う。こうした傾向と反対なのが悠治さんで、ペータースの昔の出版譜と近作のほろほろと音の並ぶ譜面は、一見まるで違う音楽にも見えるが、改めてじっくり眺めてみると、思いの外近しい部分も感じられて興味深い。尤も、同じ人間が書いているのだからそれは当然だろうけれど。

2月某日 ミラノ自宅
人工知能が話題になっている。蓄積されるデータを基に、正しい答え、論理的、倫理的な答えを導くよう知能が学んでゆくと、臨界点に達した瞬間、地球に悪影響を与え続けてきた我々の存在は、恐らく排除すべき対象に選ばれるに違いない。その時に、人間の代りに人工知能が助けるものは、一体何だろう。我々が虐待し続けてきた動物かも知れないし、我々が破壊しつくしてきた自然かも知れない。
沢井さんが演奏する「鵠」を改めて聴いて、震えるような感動を覚える。生命すらかかっているような、途轍もない深みを持った音が紡がれてゆく。音楽で生きるというのは、こういうことを言うのだろうと思う。
衝撃がなかなか醒めないでいると、ちょうど沖縄の仲宗根さんから旧正月の初日の出の写真が送られてきた。

2月某日 ミラノ自宅
日本で指揮を勉強してきたA君がレッスンに来る。最初は「兵士の物語」を聴かせて貰ったが、その時に他の生徒のレッスンを見て興味を覚えたそうで、和声の繋がりで音楽を作る方法を習いたい、と言ってきた。世代はまるで違うけれど、何か響くものがあったのだろう。一緒にモーツァルトの39番をていねいに読み込んでゆく。彼を見ていると、しばしば昔の自分を思い出す。先ず最初に、振っている掌にすっぽり収まっている音楽を、音が鳴っている場所に戻してやることから始めた。そうして自分が演奏者の中に飛び込んでゆく勇気を持つ。フォルテで何もしないのが、本当に不安だというが、昔エミリオのレッスンでマーラーを持って行って、フォルテはもっと力を抜かないと音が出ないと笑われたことを思い出す。あの頃は、まるで何もわからなかったので、文字通り途方に暮れていた。だからA君が気の毒で、わざわざこんな事を一からやらなくてもと何度も言うが、それでもいいから教えて欲しいのだと言う。学校のレッスンで時間が空いたので少し聴かせてもらって、いつも伴奏している二人に意見を求めると、誰に対しても寛大なマリアが、「わたしはよく分からないから、マルコあなたから言って」と突き放すように話したのには衝撃を覚える。長年一緒にやっていて初めて見る姿だが、何か覚えがあった。自分が最初にエミリオのクラスに入った時と、まるで同じ雰囲気だった。

2月某日 ミラノ自宅
林原さんのために書いたチベット民謡によるヴァイオリン小品が、「ケサル大王」をテーマにしたドキュメンタリー映画に使われることになった。チベットの「ケサル大王」叙事詩の語り部の姿を追う映画だと言う。ケサル大王叙事詩は古代ローマのジュリオ・チェーザレがテーマとも言われていて、これでチベットとイタリアも繋がったわね、と林原さんは喜んでいる。

2月某日 ミラノ自宅
最近、指揮のレッスンでも聴覚訓練の授業でも、生徒がうまくゆかなくなると腕時計の12の数字を2分間見つめさせている。正確に言えば12の中の「2」のそれも上半分の丸くなっているところを2分間じっと眺めるだけで、先に特に理由も言わないが不思議なくらい誰でも変わる。いくら振っても音が鳴らない生徒は、鳴るようになるし、和音が聴こえなかった生徒は、不思議なくらい自然に音が聴こえるようになる。聴覚訓練の授業は何しろ集団授業なので、それまで5分近くああだこうだやっても聴こえなかった音が、時計を眺めるだけでぽっと口をついて出てくる姿に、生徒たちは呆気に取られている。
指揮の方はこちらの錯覚かも知れないと思って、先日クラスを訪ねてきたサックスの大石くんに尋ねたら、何をやっていたかわからなかったが、音が違って聴こえて不思議だったそうだから、何かは起きているらしい。
元来自分で目が疲れた時のために長年やっている速読の訓練をその場で適当にアレンジしたもので、要は2分間一点を見つめていると頭の中が真っ新になるだけのこと。
それまで身体の中でひしめいていた様々な思考が消えると、傍から眺めているとまるで第三の目がぱかりと口を開けたかのように見える。
音を聴くときは、頭で音を鳴らしてはいけない。頭の中で鳴っている音が、聴くべき音を遮断してしまう。当たり前のようだが、案外それが簡単ではない。こんな簡単なことでブロックが解けると知っていれば、長年苦労しなかった。

2月某日 ミラノ自宅
音楽の持つ「テンポ」、日本語に言い換えれば「速度感」について、生徒に説明するため知恵を絞る。
しばしば空港の手荷物検査場に、長細いくるくる回る棒が絨毯状に並んでいる。スーパーのレジにも似たようなものがあったりするが、あの回る棒こそテンポではないか。あの上に箱を載せ、その中に荷物を入れて指揮者はそれを押してゆく。箱の荷物にはそれぞれ幾許か重さもあって、その重さに応じて少しずつ力をこめる。
時々、自分でこの鉄棒を作らなければいけないと勘違いすることがあるけれど、どうがんばっても音楽の持つ速度に我々は直接触ることはできない。

2月某日 ミラノ自宅
日がな一日レッスンして流石に困憊し、夕食はインドカレーの出前を頼もうと家人が言うので、最後のレッスンに残っていた日本人生徒二人を家に招く。
シャワーを浴びて居間に戻ると、二人でブラームスの楽譜を開いていて、「この和声はどう理解するの」「ああなるほどね」「こうではないの」「え、でもここは」などと、嬉々として話し込む姿に感慨を覚える。和声の勉強は本来クロスワードパズルと推理小説が重なったような愉快なもの。だから、面白い作品とは、知的好奇心をくすぐり、次の頁を開くのが待ち遠しく感じる。そうして楽しみながら身体に沁み通った音は、実際になる瞬間も同じように生き生きとしたものになるだろう。

日本で音楽大学を終えた生徒と、大学に入ったばかりのイタリアの学生を一緒に教えていると、0から始めたイタリア人生徒の成長の早さに目を見張らざるを得ない。彼らは音楽を先に学んで、自分の音楽に必要な技術だけを何となく覚えてゆく。その間も音楽はどんどん肥えてゆくので、使える技術も増えてくる。
我々日本人は先に技術を学ぼうとするが、自らの音楽に必要な技術は一体何であるか、実はあまりよく分かっていないのかも知れない。
日本がヨーロッパの伝統に追付こうと、本来ヨーロッパ文化にはない緻密さと正確さを駆使したのだろうけれど、実際のヨーロッパの建築物は隙間だらけ穴だらけだったりする。それでもイタリアは歴史的建築物の宝庫でありながら、最先端とまでは言わないまでも、前時代的な社会ではないだろう。

(2月28日ミラノにて)

インターバル感覚とエフェソス呼吸

笠井瑞丈

インターバル感覚

空気に溶けるような
ダンスがしたいといつも思う

絵の具を水に溶かし
白いキャンパスに絵を描くように

ピアノの鍵盤を叩き
空気の振動で音が生まれるように

オトとオトの隙間を聴く
声が声になる瞬間を聴く

限り無く
ゼロに近いゼロ

その瞬間にカラダの耳を澄ます

良く分からずも続けている
オイリュトミーも今年で三年
今インターバルに取り組んでいる

このインターバル感覚には
空気にカラダが溶かす感覚がある

新しい発見

二度進行の動きが好きだ

バッハの平均律12番を一音一音の
音の隙間にカラダをのせてみる

新しい音楽の聴き方
音楽の中から時間を抜き取る

エフェソス呼吸

発生力でカラダを動かす
母音力でカラダを動かす

あ 広がる力
え 交差の力
い 軸立の力
お つつむ力
う 平行の力

インターバル感覚とエフェソス呼吸
この二つには共通するものがある

ゼロ感覚のカラダ
生まれる前のカラダにカラダを戻す

押す力
返す力

均衡を保つ力

踊る力はきっとそこからやってくる

インターバル感覚とエフェソス呼吸
まだ知らぬ新しい舞踊技術

いつか
空気に溶ける踊を踊ろう

雑誌と書籍の化学反応

西荻なな

いつだったか誰かが、出版の仕事と一口にいっても、「雑誌型人間」と「書籍型人間」というのはまったく似て非なるものなのだ、とどこかで書いていた。それはまったくその通り、と膝を打つ思いだったのだが、そこでの指摘はおもに、仕事の性質の違いに目を向けたものだったと記憶している。「雑誌」は多様なパーツを集めて、組み合わせの妙で総体としての何かを表現するところに醍醐味があるだろうし、「書籍」はじっくりと培養させてひとつの発酵物を作るような息の長さをともなうが、育てる魅力がある。「書籍」が得てして編集者と作家(書き手)の一対一の関係性にもとづく一方で、「雑誌」はチームであり、一人ひとりのメンバーに連なる書き手の掛け合わせで紡がれる複数性によっている。この分類には、媒体としての性格の違いと、働き方の違いと、双方に目が向けられていたはずだ。さらにプラスすれば、何も出版の仕事の現場にかぎらず、あらゆる仕事に敷衍して考えられる人間的な比喩でもあるのではないだろうか、と今にして思う。

そんなことが思い出されたのは、自分の中で「雑誌型」と「書籍型」の併存、その往還があることこそが落ち着くあり方で、「書籍型」だけではどこか立ちゆかない、という思いが増しているからなのだろう。何か豊かに生態系がたちあがっている現場には、目に見えない複数のレイヤーが折り重なって、ふんわりとしたミルフィーユ状の交歓を感じることが多い。一人ひとりが「書籍型人間」で何かをじっくり醸成していながら、ジャズセッションのように、その時々でバンドメンバーが集い、「雑誌型」で何かを立ち上げてゆく。さらに、その一人ひとりは同時に他の雑誌編集にも立ち会っていて、同時進行する別の現場でつかんだ何かをまた別の現場に持ち帰り、創作のエッセンスの一部となる。断片と断片が結びあって、まだ見ぬ何かが生まれることが創作ならば、二人の閉じた関係の中で創るあり方は確かな方法かもしれないけれど、もっと広く、目に見えずとも共有される「場」のようなものが真に何かを生む土壌となるように思われる。それは、特集が毎号違っても、「私に向けられている」「次はこの球を投げて来たのか」と買ってしまう「雑誌」と私自身の関係にも近いものかもしれない。何かわくわくさせる雑誌的な「場」がゆるやかに立ちあがっていればこそ、そこにはこんな「書籍」も相性がいいし、この「書籍」のエッセンスを入れた化学反応を見てみたいようね、という求心力や発想も生まれてくる。そうして、「雑誌」と「書籍」はひとりでに、引きあうように動き出す。

本を一冊ではなくて複数同時読みすることで、少しの時間差とズレの中から思いがけぬ点と点が次の点を引きよせ、直線や曲線を描き出す瞬間、読書の喜びを感じるように、人と人の交歓のなかに同じような実りをもたらす「場」を、そうした「場」に憧れながら、自分発信で作ってゆけたらと思うのだ。

ごえもん風呂

小泉英政

のら仕事を終え
夜道を「てって てって」と帰ってくる
それから
「つきよのあかりで せんたくをして
まいばん かやをひとたば まるめ
ふろに へってよ
それから
つかれたときは
さけを いっしょう 買ってくるわ
それを こっぷさ にはいずつ のむ
そで
きょうは くたびれたから
もうすこし いいかなってんで
もういっぱい のんじゃうね」

1人くらしの よねが
そのころ つかっていた風呂は
野天の ごえもん風呂だった

1971年2月 3月の
第1次代執行
私も よねの家に やっかいになった
闘いのない日には
私はよく薪をひき 薪をわり
よねの家の ひさしの下に
積みあげた

よねの家の両脇に 小屋がたち
若者たちが たくさん
とまりこんだ
飯たくかまどには いつも火が燃え
ごえもん風呂は
毎夕 煙りをあげていた

1971年9月20日
第2次代執行
前日 よねは 湯につかったかな
ごえもんは ふたをかぶっていたかな
ふたの上に タルキがくずれ
すのこの上に 土壁がくずれ
ついには ごえもんが
くずれたか な

東峰の このプレハブに
よねが移り住んで
青年行動隊は 大工らが中心となって
風呂場と便所を よねに贈った
風呂場には
ガス釜だったか 石油釜だったがが
すえつけられたが
だれかが空焚きをして
まもなく こわれた

「こんな ふべんなものは ねぇ
やっぱり ごえもんが
いちばんだ
ごえもんは じょうぶで いい」
いきさつは うつろだが
私はよねから
風呂づくりを たのまれた

条件派のやしき跡から
リヤカーで
雨ざらしの ごえもんをはこび
2日ほどで 完成した
よねは ニコッとして 喜んだ
その風呂に
こうして
私が
毎日毎日 はいるなんて
おもっても みなかった

あのころから
風呂場は ちっとも変わらない
私たちが
息子になったころに
ほのかに感じとった よねのにおいも
すっかり 消えて
私は上の子2人と
美代はうまれてまもない下の子を抱いて
湯にはいる

思いおこせば
東京で銭湯につかった時期を
のぞけば
私は うまれてから ずっと
こんな風呂で
よごれをおとしていた

赤さびがうかぶ ドラムカンの風呂も
なつかしい おもいでだ
ドラムカンに 背中をくっつけると
やけどしそうで
小さな体を
ちぢこませて
じっと はいっていた
たしか 野天で
雪が ちらついていた

赤々と燃えるおきを
ぼんやりと ながめながら
湯がわくのをまつ時間が 好きだ
おきのなかに
よねがいて
仲間がいて
ひざがあたたかい
闘いが 見える

(1980.1.11)
掲載にあたりすこし書き直しました。

別腸日記(13)祖父への旅/前編

新井卓

先月の『現代詩手帖』に祖父の家を探しにいく話を書いていて、記憶の片隅に埋もれていた韓国への旅の断片が甦ってきた。

平壌に生まれソウルに暮らした祖父は、一高から阪大の航空学科に進み、海軍技術将校として終戦までトラック諸島で従軍した。彼のソウルの生家が竜山地区に残されているという話を祖母から聞き、当時二十歳だったわたしは、あてどないバックパックの旅に小さな目的を見つけその家を探しに行くことにした。

大学の英語教師に「星の王子様」というありがたいニックネームを授かった私は──いつも光沢のあるロングコートに白いマフラー、ハリネズミのように立てた髪、そして何よりもほとんど留守で出席がぎりぎりなのが理由に違いなかった──そのままの格好で、祖父の形見のカメラ・PenFTと持てるだけのフィルムを詰め込み、夜行バスで新宿を出発した。早朝、下関に着き、フェリーの定刻にまだ間があったので街をぶらぶらと歩いた。初めて訪れる街並みには、見慣れないハングルが併記された看板が並びそれだけで、もう旅の感情がかきたてられるのだった。

係員に切符を渡し、タラップを昇ってフェリーに乗り込む。わたしの前にも後ろにも、大きな荷物を背負子に積み上げた女たちが列をなしており、なにやら殺気だった気配を帯びていた。立ち止まり振り返って、カメラを向ける──と、突然何人かうしろのあたりから、女性の烈しい罵声が飛んだ。何をいっているは分からなかったが尋常ではない怒り方で、ただ面食らった。船に乗り込むとたちまち、わたしは背負子軍団にとりかこまれた。何人かが鬼のような形相でカメラを指さし、どうやらフタをあけてフィルムを出せ、と言っているらしかった。

彼女たちはいわゆる「運び屋」で、人気のある日本家電を下関で買い、それに小さなキズをつけて中古品として関税をかいくぐって本国で売る、という商売をしているらしかった。それがそのような利益をもたらすのかわからなかったが、その様子から、それが厳しい生活の糧であることがうかがい知れた。密売すれすれの仕事を写真に撮られては、黙っていられないに違いない。

わたしは蚊の泣くような声ですみません、といって、言われるままにフィルムのフタを開けた。すると途端に女たちの顔がほこんで笑顔になり、肩を叩かれて、わたしは放免されたようだった。

すっかり怖じ気づいたわたしは、彼女たちが陣取る二等客室にも居づらく、寒風の吹く甲板に出てすっかり日が暮れてしまうまで、ぼんやりとして過ごした。フェリーの食堂でなにか韓国料理のようなものを食べたのを覚えている。そして、大量のビールとカップ酒を飲み、先ほどまでの喧噪が嘘のように、みなが寝静まった二等の大部屋で、眠れない夜を過ごした。

翌朝、いつの間にか寝過ごしてしまったのだろう、周囲の音とにおいで目を覚ました。まわりを見渡すと、運び屋の女たちが何人かずつ、グループをつくって円座を組んで、バーナーとコッヘルで朝食を作っているようだった。キムチの刺激的なにおい。空腹を覚えて思わず唾を飲み込むと、それを察したかのように、五十くらいの女性が手招きした。何かと思えば、雑炊とキムチの朝ごはんを、わたしにも分けてくれるという。カムサハムニダ!と、それしかしらない韓国語を叫ぶと、笑い声が起き、まただれかにバシンと肩を叩かれ、それからわらびのナムルとか、ニラキムチ、タラをほぐしたふりかけのようなもの、そんなものがどこからともなく運ばれてきて、ピンクのプラスチックの皿に山盛りになった。

それらがどんな味がしたか、もう思い出すことができない。でも、海を隔てた大陸の迫力とその鷹揚さに初めて触れた気がしたことを、はっきりと覚えている。祖父が育ったのは、そういう場所だったのだ。

製本かい摘みましては(135)

四釜裕子

組継ぎ本で綴じた同人誌の2号目刊行のうわさを聞いて注文した。2号目を待ったのは、組継ぎ本ならば各号がつなげるようになっているだろうと思ったから。まもなく、トキとニホンジカとキタキツネの切手がいっぱい貼ってある透明の袋で愛らしく届いた。季刊で発行するロシア詩の翻訳とエッセイの『ぐらごおる』(鐵線書林)、B 6判、創刊号は全36ページ、2号のノンブルはもくじの裏の40から始まり、全52ページ。とるものもとりあえず、つないでみる。

そのへんにあったB5サイズの紙の中から、本文紙に似ていてややかための紙を選び半分に折る。天地からそれぞれ20ミリに目打ちで軽く穴を2つ。間にカッターを入れてスリットを作る。ここに、創刊号の最終ページと2号の最初のページを差し込んで合体する。2つ目を入れ込むのがむずかしい。つなぎの折丁のスリットの端が破けてしまった。やり直す。紙は変えない。紙の問題ではないだろう。ちょっとしたタイミングでスーッと入るはず。そこのところに遭遇したい。同様にしてあけたスリットに、舌を縦に丸めるように紙を巻いて差し込む。何かのタイミングで奴凧が腕を伸ばすようにスッと広がった。あっという間でコツがわからない。うまくいくとそれで終ってしまって寂しい。

『ぐらごおる』1と『ぐらごおる』2が一冊になったところで『ぐらごうる』1+2合体号(創刊号の表紙の前に、総タイトルを入れた一折がやがて欲しくなるね)を開く。創刊号の巻頭で澤直哉さんが書いている。3人が集まってロシア詩の翻訳をしていたが、まもなく縦に組んでみたくなり、ならば、〈とにかくあこがれに忠実に〉、内田明さんのOranda明朝を用い、前田年昭さん考案の組継ぎ本で冊子に仕立てることにしたと。メンバーは7人に増え、皆で作るという理想を持って翻訳も冊子作りもするけれど、〈はじめるからにははじめから、ひとりでも続けられるように作ってある〉。

私にはどなたも初めてのロシア詩人の作品を、同人の方が一つずつ訳しては覚書を書くスタイルで、創刊号に3篇、2号に5篇が並ぶ。ヴァレーリィ・ヤーコヴレヴィチ・ブリューソフの「南十字星」を訳した西辻亜以子さんの覚書「ブリューソフと南極と冷凍食品のはなし」に、勉強会の匂いがちょっとだけする。まずは読み知った作家と時代のこと。それで自分が感じたイメージ。作品の舞台が南極であることから南極という巨大な冷蔵庫に運ばれた冷凍食品でとにかくウマい飯を作る料理人・西村淳さんのこと。そして、この詩が書かれたのはアムンセンが初めて南極点に到達した年と同じだねという同人の指摘を受けての考察。西辻さんの実感が実感されて、ヴァレーリィ・ヤーコヴレヴィチ・ブリューソフさんの名前を繰り返し言ってみる。

2号の編集後記は、澤さんが「文字間から文字空間へ」と題して書いている。本屋でノドの広い本を見ると、〈あられもなくばっくりと開く〉様子に切なくなるらしい。なんか心当たりあるなぁと思ってキュンとなる。右ページと左ページにあっちとそっちを向かれて居心地というか読み心地の悪い本――、私は拒絶されたように感じたけれども、澤さんはそこに、あられもなく開かされた切なさを感じておられる。『ぐらごおる』は組継ぎ本なのでページが180度開く。限りなく本文の行間のままでノドをまたぐこともできるから、組版設計には苦慮されたようだ。最後は〈ノドにある、折丁と折丁との隙間から漏れた光に目を射られて、残すと決め〉て、6ミリにしたそうだ。そして、〈今号からは、虚の折丁をひとつ付けることにした〉。何だって?!

実は創刊号と2号のあいだにB6サイズのトレーシングペーパーがはさんであったのだけれど、単なる間仕切りと思ってあわや捨てるところであった。見ればぴっちり2つ折りされていて、開くとスリットまで入れてある。つなぐための一折りが用意されていたのだ。さっそく「虚の折丁」でつなぎ直す。ほどよい厚さのトレペで扱いもたやすい。読みもしないで手を動かしたのがいけないのだけれど、ここまで万端用意するのなら「虚の折丁」とでも書いた付箋をはっといてくれればいいのに、とひとりごちつつ後記を読み進むと、〈使いたい者だけが使えばよく、不要な紙切れならば破り捨てればよい。虚というものは、見ようとする者にしか見えてこない〉。ならばむしろ「虚の折丁」という物体を準備しなくていいだろう。あるいはこう書くために、そう名付けて用意する必要があったのだろうか。楽しい読書だった。

彼氏なんてすぐにできる。

植松眞人

 中学を卒業する時に仲のよかった女の子たちと、誰が一番早く彼氏を作るかという話になって、きっとそれはメグちゃんだよ、とみんなに言われ、そう言われたんだからそうしなくちゃと思い込んでしまったので、私は高校に入学したその週の内に彼氏を作った。
 彼氏を作るのはとても簡単だった。同じクラスの隣の席になったサクラちゃんが「やっぱりサッカー部とかバスケ部とかでキャプテンになりそうなかっこいい子がいいよね」と言うので、サッカー部に入ったという話をしていた背の高い鈴木君に「付き合ってください」と頼んでみたら、いいよ、と言ってくれて私たちは付き合うことになった。サクラちゃんに、鈴木君と付き合うことになったと報告したら、早っ!と驚かれた。私はすぐに中学の時の友だちにLINEで報告して、一番乗りはやっぱりメグちゃんだったね、と言われたので嬉しくなった。小学校も中学校もそれほど楽しくはなかったけれど、もしかしたら高校生活は楽しくなるかもしれないと嬉しくなった。
 高校入学から二週目の土曜日に鈴木君とディズニーランドへ行って、帰り道に鈴木君の家に誘われた。家には誰もいないから、と鈴木君は言って、私ももしかしたら二人っきりになるかもしれないと思っていたので、そんなに驚かずに鈴木君の家に行った。
 ディスニーランドで長い列に並んでいるときに、もう手は握っていて、お互いに大好きになっていたので、鈴木君の家に誘われたことには驚かなかったけれど、鈴木君の家が私の家からとても近いことには驚いた。同じ町内で最後の丁目と番地が違っているだけだった。それだけで小学校も中学校も違うので、私たちは高校で初めて出会ったわけだけれど、いつもパンを買っているパン屋さんは鈴木君の家の二軒隣にあった。
 鈴木君に、あそこのパン屋さんおいしいよねと言ったら鈴木君が、買ったことがないというので私があんパンとクリームパンを買ってプレゼントした。はい、プレゼントと渡したら、なんで、と鈴木君が言うので、いつも何かあるとコンビニのチョコとかお菓子を友だちにプレゼントしてしまう私はなんだか変な気持ちになった。そんな気持ちを隠して、どうしてあんなに近くにパン屋さんがあるのに買わないのって聞いたら、鈴木君は母さんがあんまり近くの店で買っておいしくなかったら気まずくなるからって言うんだと笑った。なので、そのパン屋さんに入ったとき、鈴木君は少し緊張しているように見えた。そして、鈴木君の家の鈴木君の部屋で初めてキスをしたとき、鈴木君の唇にはあんパンの小さなパンくずが付いていて、ほんの少しあんこの味がしたような気がしたのだけれど、私は私でクリームパンを食べたので、もしかしたら鈴木君のファーストキスの味はクリーム味だったかもしれない。
 鈴木君がファーストキスだったかどうかはちゃんと聞いてないけれど、ものすごく緊張して、鈴木君の歯と私の歯がカチッと音がするくらい当たったので、きっとファーストキスだったのだと思う。もちろん、私はファーストキスだったけれど、あまり緊張はしなかった。中学の時に、女の子同士でキスをしたことがあったからかもしれない。あのときは、なんとなく女の子同士のキスが流行っていて、なんとなくみんなで軽くキスをし合って、チェキで写真を撮ったりしたのだった。あの頃まだスマホを買ってもらっていなかったのでチェキだったけれど、きっとスマホだったらもっとたくさん撮影してたし、もしあの頃インスタがあったら、間違いなくインスタとかにあげてしまっていたと思うし、その子たちとはあれからすぐにLINEでケンカして口もきいてくれなくなったから、あの頃スマホを持ってなくてよかったと心から思う。
 その日、鈴木君はキスの後で、私の胸を服の上から触ったりしたけれど、私はそれ以上は止めてと言うと、鈴木君は止めてくれた。正直私はその日、鈴木君としてもよかったのだけれど、胸を触りながら鈴木君が、メグと私の名前を呼んだので、私も鈴木君の名前を呼ぼうと思い、その時に、前にお父さんが「鈴木という名前の奴にろくな奴はおらん」と言っていたことを思い出して、ちょっとだけブレーキがかかってしまったのだった。
 実は他にもお父さんが言っていたことがあって、笑ったときに笑顔が歪んで見える奴は悪い奴だとか、どっちがいいかと聞かれてどっちでもという奴は信じられない奴だとか、妙に首の長い奴は黙って消える奴だとか、そんなことを言っていたのだけれど、今日、二人で遊んでいる間、鈴木君はお父さんが言った「駄目な奴」に全部当てはまっていて、私はほんの少しだけ立ち止まろうと思ったのだった。
 お父さんが言ってたことは全部当たっているとは思わないけれど、お父さんはお父さんでどっかで嫌な目にあって、そう言っているんだろうな、と思うと無視できないなと思うし、それにお父さんにはお世話になっているから、お父さんの言うことをなかったことにするとお父さんが可哀想だという気もした。しかも、鈴木君はもろに鈴木なわけで、私は迷信とかは信じないけれど、お父さんの言うことはあながち間違いではないような気もしたのだった。
 というわけで、私は鈴木君の家で、キスをして胸を触られただけでドキドキして、このまましてもいい気がしたけれど、やっぱりやめてもらってそのまま帰ってきた。帰る前に、二軒隣のパン屋さんに行き、お母さんにLINEでパン屋さんにいるんだけどパンいる?とメッセージしたら「クロワッサン、買ってきて」と返ってきたのでクロワッサンを三つ、お父さんとお母さんと自分の分を買って帰った。
 家に帰ってすぐ、同じクラスの女子のLINEグループに私と鈴木君がデートしたことが流れてきて、誰にも言っていないはずなのにどうして知っているのか不思議だったので、言い出しっぺの子に聞いてみたら、鈴木君が友だちに言いふらしているということがわかった。そして、鈴木君は私とキスをして胸にも触ったと何人もの男子に伝えたということだった。
 私はさっきまで鈴木君が少し好きだったのだけれど、LINEのやりとりをたった五分しているだけで、もう鈴木君のことが嫌いになっていて、鈴木君のことをお父さんがこれまでに言っていた、駄目な奴の集合体のようにしか思えなくなっていた。やっぱり鈴木という名前の奴にはろくな奴がいない、と私は声に出して言ってみた。女子のLINEグループで私は、鈴木君とはデートはしたけれど、キスもしたけれど、胸は触られていないし、もう好きじゃないから会わない、と流した。すると、すぐにLINEの女子のグループには入ってないはずの鈴木君から直接LINEが来て、付き合ってるのに別れるのか、というメッセージが来たので、女子のLINEグループの中に鈴木君に言いつけている子がいるんだなとわかった。ああもうこのクラスの男子にも女子にも私は嫌われるんだなあ、と悲しくなったけれど、ちゃんと別れます、と鈴木君にメッセージして、鈴木君のLINEをブロックして、女子のLINEグループからも抜けた。
 私はなんだか、すっかり疲れてしまって、そのままパジャマにも着替えずに寝てしまったのだけれど、晩ご飯の前にお母さんが私を呼びに来た。お母さんは、晩ご飯をシチューにしたから、買ってきたクロワッサン食べようと、と言うので、クロワッサンの入ったビニール袋をお母さんに渡した。お母さんが、あなたこのビニール袋の上に乗ったでしょ、というので見てみると、確かにビニールがしわくちゃになって、なかのクロワッサンが少しつぶれていた。
 それでも、お父さんもお母さんも、あのパン屋さんのクロワッサンはおいしいと食べてくれた。私もおいしいと思いながら食べたのだけれど、どうしても鈴木君のことを思い出してしまって、寂しい気持ちになってしまった。あんな奴に胸を触らせたことを私は後悔していた。でも、付き合ってください、と言ったのは自分のほうからだったので、そのことは素直にごめんなさいと思っていた。でも、私の高校生活は始まったばかりだし、中学の友だちのなかで一番最初に彼氏が出来たのだって確かだったので、強く生きなきゃと思った。中学の卒業式の日に担任だった野中先生が「君たちの未来はとても明るいんです。だから、いつも前を向いて、明日を見ながら強く生きてください」と言っていたからだ。
 野中先生、私は鈴木君にもクラスの女子にもクロワッサンにも負けずに生きていこうと思います。
 私がそんなことを思っていると、お父さんとお母さんがコーヒーを飲みに行こうと私の部屋に誘いに来た。お母さんは、お父さんがいないと私とはあまり話さない。一緒にご飯を食べるときもあまり話さないし、二人で買い物に行くこともない。ただ、お父さんがいるとお母さんは私に話しかけてくる。きっと、お父さんといるとお母さんは楽しくなるのかもしれない。もしかしたら、お父さんがいないと、私と二人きりだと楽しくないのかもしれない。だけど、そんなことを考えるととても悲しくなってしまうので、私はお母さんと二人で家にいるときにはなるべく自分の部屋にいて、ネットで動画を見たりする。動画の中にはこっちに話しかけてくれる人がたくさんいて、見ていて飽きない。だけど、本当は私はテレビでバラエティ番組を見ているときがいちばん落ち着く。できれば、お父さんがいて、お母さんが楽しそうで、その横で私がテレビを見ることができればそれが一番幸せな時間かもしれない。それなのに、なんとなく私の家族はそれができなくなった。
 近所に出来たコーヒーショップはアメリカに本店があるのだと、中学の同級生が教えてくれた。アメリカに旅行のときに本店に行って、タンブラーを買ってきたのだと見せてもらったことがある。誰かが、本店のほうがおいしいの?と聞くと、一緒だったわ、とその子は答えた。
 私はそのコーヒーショップでコーヒーを飲んだことがない。私にはとても苦すぎて飲めないので、いつもクリームがたくさんのった甘い飲み物を飲む。そこには少しコーヒーが入っているみたいだけれど、甘さが勝っているのでちゃんと最後まで飲むことが出来る。飲んでるっていうよりデザートを食べてるみたいだと思う。お父さんとお母さんは、ここに来るといつも苦いコーヒーをトールサイズで一つ頼み、甘いデザートみたいな飲み物を一つ頼んで二人で分け合って飲む。それがなんだかうらやましい気はするけれど、二人が飲んだものを一緒に分け合いたいとは思わない。私は私が頼んだものを最後までちゃんと飲みたいと思う。
 何にする?とお父さんに聞かれたので、私は、コーヒーにする、と答えた。お母さんは、飲めるの?と困ったような顔をして、お父さんは、おっ!コーヒーに挑戦か、と笑った。お母さんと二人で席で待っているのが嫌だったので、私はお父さんと二人でカウンターに並び、オーダーして商品を待った。いつも通り、コーヒーのトールサイズと甘い飲み物、そして、いつも通りじゃない私のコーヒーがショートサイズで現れた。
 私はお母さんの隣の席に腰を下ろし、お父さんは私とお母さんの前に座った。苦いコーヒーがまず私とお母さんの前に置かれた。お母さんは苦いコーヒーをとてもおいしそうに飲む。私はお母さんと同じくらいおいしそうに苦いコーヒーを飲もうとしたのだけれど、コーヒーは自分が想像していた以上に苦かった。そして、熱かった。熱くて苦くて私は思わず顔をしかめた。その顔を見てお父さんは笑い、お母さんはまた困った顔をした。私は、苦い、と声に出して言い、同時に、困った顔のお母さんにも笑っているお父さんにも、そして鈴木君にもクラスの女の子たちにも、中学時代の同級生たちにも、なんか苦いなあと思った。みんな苦くて苦くてたまらないなあと思った。
「ねえ、お父さん。野中って名前はどう?」
 私はお父さんに聞いてみた。父は、不思議そうな顔をした。
「野中って?」
「ほら、鈴木って名前はろくな奴がいないんでしょ」
 私が言うと、母が遮るように言った。
「メグったら、どこに鈴木さんがいるかわからないでしょ。日本全国鈴木さんだらけなんだから」
 母はささやくような、でも強い口調でそう言った。
「ああ、そういうことか。野中、野中。そうだなあ、野中って名前に知り合いはいないかもしれないなあ」
「いないの? じゃあ、いい人かどうかもわからないね」
「うん、わからない」
 お父さんにそう言われて、私はちょっと嬉しくなった。みんな苦くてたまらないけれど、私に希望の言葉をくれた野中先生のことはもうちょっと信じてもいいような気がしたからだ。いつか、野中先生も苦いやつらの仲間入りをするかもだけど、それまでは野中先生の言葉を大切にしよう。私はそんなことを思いながら、苦いコーヒーを最後まで飲み干した。

珈琲が香る

若松恵子

片岡義男さんの新刊エッセイ集『珈琲が呼ぶ』(2018年1月刊/光文社)が好調な売れ行きでうれしい。篠原恒木さんが編集した前作『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』(2016年2月刊 光文社)と兄弟みたいな風貌の本にできあがっている。

あとがきで片岡さん自身の「話はきっと多岐にわたるよ」という言葉が出てくるけれど、映画や歌のなかのコーヒーを含め、様々な場面でのコーヒーが描かれていておもしろい。

今作にも、神保町の喫茶店を梯子しながら原稿を書いていた頃の片岡さんが登場するけれど、やはりこの辺の話には心魅かれる。60年代の終わりから70年代の初め、青年の片岡さんが歩く神保町の街。友人とふたり『まんがQ』の編集長に会いに行った話。インスタントコーヒーの「おいしさ」というものをみごとに描いた松本正彦の漫画について語った一編など、新鮮な印象をもった。ほとんどの作品を読んできたけれど、まだまだ知らない片岡さんが居るんだと思った。

45編のエッセイを行きつ戻りつ、少しずつ時間をかけて楽しんで読んだ。そして、コーヒーもたくさん飲んだ。

片岡さんの小説の中で印象的なコーヒーの場面はどれだったかなと思い出してみた。最初に思い浮かんだのは、女性がテイクアウトのコーヒーを飲みながら、ただ通りを歩いていく様子を描写しただけの短い一編だ。『吹いていく風のバラッド』(1981年2月刊/角川文庫)あたりだったかなと、本棚から抜き出して見てみると、さがしていた1遍は18番目にあった。読み返してみると、コーヒーを飲みながら歩いていく彼女は、最後は地下鉄に乗っている。その部分は忘れてしまっていた。コーヒーを飲みながら歩いていく姿と往復8車線の広々とした道路の気持ち良さが心に残る作品だった。1981年当時、テイクアウトの紙コップのコーヒーをそのまま飲みながら歩くというのは、とても新鮮な振る舞いだったのだ。今ではすっかり見慣れた風景になってしまったけれど。

そしてもうひとつは、カウボーイが淹れてくれたハチミツ入りの熱いコーヒー。「彼はいま羊飼い」(『いい旅を、と誰もが言った』所収)のなかの1杯だ。人に会うのは7か月ぶりくらいかなと語るカウボーイが淹れてくれた「自分をとりまいている自然のなかのあらゆるものが凝縮されている」ような1杯の熱いコーヒーだ。

人里を遠く離れた丘のつらなり。澄みきった冷たい夜の空気。夕もやの、しっとりした香気。夜の匂い。草のうえにいる数百頭の羊たちの合唱。犬の声。そういったおだやかな物音が吸い込まれていく、自然の空間の広さ。もうはじまっている、高原のながい夜の静寂。こういったものすべてが、1杯のコーヒーになって自分の体の内部に流れこんだ。と同時に、スティーブンの感覚は、コーヒーが口のなかに入った一瞬、冷たい夕もやの立ちこめる夜の広さのなかへ、いっきに解き放たれた。

こんな片岡さんの描写のなかで、コーヒーが香っている。

風の糸

高橋悠治

コンサート・タイトルに選んだ「余韻と手移り」ということば 響きは停まらない 現れてから消えるまでにも変化している この響きとあの響きと言っても そこにはもう何もない うつろう記憶にすぎない 手移りは 笙を両手で包むようにして持ち 息を通わせながら 指穴をふさいでいる指をすこしずつちがう指穴に移していく 捧げ持った瓢の表面をまさぐる手が 響きを変えていく

入口がどこかにあり 内は迷路になっている 壁にさわりながら 風が感じられる方にすすむと やがて出口が見えてくる

連歌は それぞれの部分が独立しているが その前の部分とどこかでつながり しかも環境は変わっている 旅は 巻き戻せず ただほどけていくだけの絵巻のように 移り変る風景を辿って 遠くへ去っていく

写真でしか見たことのない植物の草むらに近づき 根から見上げて葉のかたち 花びら まだついていない実の内側までのイメージを音に移し その断片を組み替えて亀裂を入れる

編曲という作業 その楽器ではできないような離れ業をやってみせる芸はいくらもあった その逆の試み 反名人芸は 一つの楽器のための音楽を 別な楽器で演奏してみるとき よく知っているやりかたではなく どちらの楽器にもない いくらかのためらいをもって試してみる響きの たどたどしく 確実な足どりというより おぼつかなく いくらか宙に浮き そこに置いた音を仮の姿に見せ その後ろ側に そよ風が音もなく起こり まだここにない音楽を予告するかのように 翳が射すことがあるかもしれない

石田秀実が言っていた「ここではない・いまでもない響きの縁」
エルンスト・ブロッホの「生きている瞬間の闇」から垣間見る「まだないものの意識」
手にした楽器が聞き慣れない響きをたてるとき それが徴

2018年2月1日(木)

水牛だより

明日の朝は雪の予報が出ている東京です。前回降った雪がまだ残っているというのに。ゆうべは晴れて皆既月食がよく見えました。ほんとうに赤い月。どんなにたくさんの人がこうして空を見上げているのだろうと思いながら、ベランダに立ち、月にむかって首をぐいっとそらすのでした。

「水牛のように」を2018年2月1日号に更新しました。
西大立目祥子さんと四釜裕子さんの原稿に林のり子さんが登場しているのは偶然です。わたしも先日友人たちを伴って、林さんに会いにいったばかりなので、かるい驚きです。
JIM NETのチョコ募金はずっと続けています。首謀者のさとうまきさんは大変そうですが、あのチョコをプレゼントした人はみな気に入ってくれます。まずパッケージのかわいらしさに打たれ、そして成り立ちについて興味を持ってくれます。バレンタインデーには少し早いけれど、よく行くラーメン屋さんの店主にあげたら、この店にも置きたいな、と言ってましたよ。

新聞に五木寛之『百歳人生を生きるヒント』という本の広告が掲載されていました。それによると、百歳人生では、50代は事はじめ、60代は再起動、70代は黄金期、80代は自分ファースト、90代は妄想のとき、なのだそうです。なるほど、と笑えます。わたしは70代なので自分は黄金期にいるらしいのですが、いっしょに暮らしているのが自分ファーストの人と妄想のときの人なので、そう単純に黄金期を謳歌することはできませんね。

それではまた!(八巻美恵)

真冬のミラ

璃葉

その日は夕暮れへ近づくにつれて薄い膜のような雲が空に張られ、淡いピンク色を帯びていた。冷たい風がゆるやかに街道を通り抜けていく。手も顔も耳も、すっかり冷たくなってしまった。
東京にしてはやけに寒い日が続いている。道端には1月下旬に降り積もった雪が残り、道ゆく人々が凍結したところを注意深く避けて歩いている。
地下鉄の駅から地上へ出て空を見上げると、薄ピンクの雲は消え去り、深い藍色の空に変わっていた。建物の隙間から見えるオリオン座が冷たく明るい。

ときどき気にして見るようにしている星座がある。秋から冬にかけて空の低いところに大きく横たわる「くじら座」だ。暗く見通しのいい場所でしか見ることができない。星と星を線で結んだかたちはかなり滑稽なのだが、ギリシア神話の化けくじらをなんとなく想像することができる。

くじら座の心臓のあたりには「ミラ(Mira)」というおよそ332日の周期で明るさを変える変光星がある。
ミラはラテン語で“奇妙な”、“不思議な”という意味で、まったく見えないほど暗くなったかと思えば、ぼんやり妖しく光っていたり、2等級(北極星ぐらい)ほどの輝きになったり、気まぐれに色んな表情を見せてくれる。
そのミラが今年に入ってさっそく明るく輝いているという。自宅付近でなるべく暗い場所を探し回りながら(傍から見てかなり挙動不審だったかもしれない)空を見上げる。

ネオンや街灯が溢れる街の中では、明るい星だけが選ばれたかのように輝く。澄み切った空を人里離れた暗い地で眺めたら、きっとおびただしい数の星が見えるに違いない。
オリオン座やおうし座の1等星から目を凝らして空をたどると、肝心のミラはかなり密やかな、オレンジ色の仄明かり。
ミラは日に日に暗くなっていき、夏にはまた夜闇に紛れてしまう。

灰色の綿のような雲がぽつぽつと現れては流れ、冬の星は西へ傾き、ミラも沈む。夜の冷気に巻き付かれるまえに自宅へ戻ることにした。明け方前の空には春の星座が昇るが、地上の春はまだまだ遠い。

別腸日記(12)冬の日

新井卓

数日前、寒さの一際厳しい晩に母方の祖母が亡くなった。スタジオで終わりの見えない作業をしている最中、知らせがあった。急いで帰路につき実家に入っていくと祖母の寝室で、ベッドを囲んで母と父と弟が動かない祖母を三方から取り囲んで黙って座っていた。


一年ほど母が在宅看護を続けていた祖母の点滴と酸素吸入器はそのままになっており、その口は開いたままだったが、医師がまだ到着しないので手を触れられないという。亡くなってはいても喉が渇くだろうと可哀想に思ったが、なす術もなく見つめるほかなかった。母が介護の手を休めて食事をするあいだ、ほんの二十分かそれくらいの間に、誰にも気づかれず静かに息をひきとったというのだから、それは安らかな最期なのだろう。


やがて訪問介護施設の医師が到着し、死亡時刻を告げてから、看護師がペットボトルのキャップに穴を開けた即製のシャワーで髪を清めてくれ、お騒がせしました、いってらっしゃい、と祖母に頭を下げて帰っていった。私よりも二つ三つ年若そうな彼の様子に心を打たれながら、自分は一年か二年のあいだほとんど会話らしい会話も試みようとしなかったではないか──そのように後ろめたい思いをふるい落とすことができずにいる。いや、そもそもそれ以前にも、きちんと会話できたことは一度でもあったのだろうか、とまで考えながら、子どものころ私の避難所だった祖母の部屋や、説教くさい少年少女文学全集を読み聞かせてくれた彼女の声の調子や、ミシンの音、マドレーヌを焼くにおいなどを少しずつ記憶の奥から拾いあげては、締めつけられるような懐かしさと、身内という存在の永遠に解きえない謎の間を、心が行きつ戻りつするのをただ見てていた。


翌々日、大阪で休めない仕事があり飛行機をとって日帰りで往復することにした。 朝、刻々と地平線から高度を上げる太陽に直射されながら東へ、羽田へ車を走らせるうち、きょうが祖父の命日だったことを思い出した。


日航の工場長だった祖父は、こうしてその貌を朝日に灼かれながら日々、玉堤通りを走ったのだろうか。幼いころ何度か連れていってもらった社員向けのテニス場やプールの思い出は、彼の運転する小さな三菱ギャランの窓から差し込む、黄ばんだ太陽の光と熱の感覚とともに、記憶の襞に強烈に現像されている。


伊丹空港行きの全日空は満席だった。離陸すると多摩川の河口と空港のランウェイと品川、そしてはるか新宿のビル群までがはっきりと展望された。眼下の都市部はすぐにまばらになり、と思えばすでに富士の裾野に差しかかっているのだった。山の峰は直視できないほど白く燦然と屹立し、関東平野から甲府盆地、日本アルプスの峰々のなかにあって比類無く、見渡せる限りの地形を完全に支配しているのが見て取れた。


人は死ぬとどこへいくのか──宗教を信じない私は何度も、想像しようとする。たとえば遠野では、人々は死ぬとみな早池峯の頂へと帰るのだという。魂は山岳の頂点まで登ってそこから虚空へ、宇宙へ細い光の帯となって解き放たれるのだろうか。あるいはそれは拡散しながらこの惑星の一つなるマトリクスに留まり、いつかふたたび、異なるエネルギーの様態となって流転を続けるのだろうか。 


祖母の葬儀は密葬で静かに執り行われた。前夜、叔母と長野の叔父と従兄弟が来て、祖父が残していったウイスキーを皆で少しずつ飲んだ。ロイヤル・サルートの青瓶は20年だから、少なくとも通算45年ものになるであろう液体からは、複雑な味がいつまでも木霊のように滲みだすのだった。

異なる時間は積層しているのではなくそこかしこに顔をのぞかせていて現在の編み目を形づくっているのではないか──そんな考えがふと浮かんだ。


記録的な冷え込みは今晩も収まる気配はない。空気は恐ろしいほど澄んでいて、真円に満ちた月の傍に火星が近づいている。

What’s going on?

仲宗根浩

正月、実家にお年賀、仕事があるので先に帰り、家まで10分ほど人もいない、車も走らない。シャッター商店街の今の風景と子供の頃の通りの正月の風景が重なる。

緊急着陸、不時着、予防着陸と続く中、「What’s going on ?」と県の偉い方が米軍の方に電話で問うた、と。昨年末、マーヴィン・ゲイの「What’s going on ?」映像を見ていたので、こういうふうに使いのかと学ぶ。1971年と2018年でも「What’s going on ?」という問いは時と場所に関わらず変わらない。映像は以前も見たことあるものであったが、モータウン、ファンク・ブラザースのジェームス・ジェマーソンの人差し指一本で弾く姿をあらためて見て、数々セッションのベースラインが人差し指一本で奏でられたことを再確認する。

「おきなわ」というとこに住んでいて、新聞、ラジオやらネットニュースなど目にしたりすると暗澹たる気持ちになる。地元紙と産経新聞がディスりあうし、これが現状かと思ってそこから逃避をする中、役所がテレビが騒音でちゃんと聴こえないだろうとやっていたNHKの受信料半額をやめてこれからは防音工事に注力していく新聞の記事を見て、防音工事が本当に防音か、木造瓦屋根の家に防音工事をしても意味ないし、建物自体が防音構造になっていないと本来の防音とほど遠いのになんなんだろう。防音工事という名目で特定メーカーのエアコン、換気システム設置したって意味ないし、プロペラの哨戒機が飛んだらテレビの画面にノイズが入ったり、真っ黒になったりするのでテレビはだんだん見なくなり、ラジオばかり聴くようになる。こっちに戻って二十年過ぎて、ドルを使い、車が左ハンドルだった記憶を持っている人がまわりからだんだん少なくなっていることに気がつく。日本ではなかったときの記憶。

灰いろの水のはじまり(その1)

北村周一

「目と耳とえのぐとことば」まずは手をなにはともあれ動かしてみる

具象・抽象にかかわらず、絵を描いているときに、キャンバスや紙にえがかれた絵そのものよりも、自分が手にしているパレットの上の絵具のほうが魅力的な状態になっていると、感じたことはありませんか。
はずかしながら、しばしばそういった感興に陥ることがぼくの場合にはあるのです。
それで思い切って、キャンバスをパレット代わりに使ってみることにしました。
いわゆる張りキャン(木枠にキャンバスを張った状態で画材屋などで売られているもの、比較的安価)を、サイズでいえば、F6号、F8号、F10号、それぞれ20枚ずつ計60枚手許に用意しました。
壁に垂直に立てかけた相応に大きなキャンバスを相手に、パレット代わりのハンディなキャンバスに絵具を絞り出しながら仕事を始めてみると、最初は違和感がありましたが、
慣れてくれば、木の板や、アクリル板、また腰の強い紙とおなじように、使いこなせることがわかりました。
結局パレットは、ある程度の大きさがあれば何でもよいのであって、絵具を混ぜ合わせることができれば十分使用に耐えるのでした。
そんなことを始めて、かれこれ20年以上も経つのですが、うまくいったかどうかというと、謎は深まるばかり。
もともとパレットは、絵具が絵になるまでの、中間領域に位置しているわけで(それも下位のほう)、いわば縁の下の力持ち的存在なのだから、おいそれと表舞台に出てくることはないのでしょう。
パレットがそのまま絵になるなんてと、だれもが思うことでしょう。
美術史に名を遺した画家のパレットが、美術館などで展示されることはままありますが、
あれらはおそらく資料的価値として関心を呼ぶのだと思います。
ではパレット代わりのキャンバスは、いつかは絵になるのでしょうか。
一歩ゆずって、絵とはいわないまでも、すくなくとも絵のようなものにまでは昇り詰めることは可能なのかどうか。
興味がそそられるところです。(つづく)

 描いては消し消してはえがく下描きの下描きのような絵のようなもの

しもた屋之噺(193)

杉山洋一

随分寒さも弛んできたと思いきや、ここ数日急にまた冷え込んできました。今月は半ば、家人がテヘランに演奏会に行きバッハやドビュッシーに、悠治さんの「花筐」「アフロアジア風バッハ」などを弾いているころ、こちらは横浜で一柳先生と神奈川フィルのみなさんと演奏会をやっていました。息子を3日ほどメルセデスの家に預けて帰ってくると、何だかすっかり大人びているのに愕きました。半年で6センチくらい背も伸びていますが、そろそろ13歳になろうという年頃、男の子の成長は目覚ましいものがあります。

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1月某日 ミラノ自宅
「水牛で読んだけれど、蕪のパスタの作り方を教えて」とパリのみさとちゃんからメールが届く。茹でた蕪をアンチョビーと大蒜、好みで唐辛子を炒めたものと併せるだけと答えたのだが、どうも話が食い違うので首を傾げていると、傍で見ていた家人が大笑いして、それでは通じるわけがないと言う。確かに蕪に違いないのだが、普通料理に使う部分はcime di rapaと呼ばれる葉と茎の部分だけで、sedani di rapa と呼ばれる我々お馴染みの白い実の部分は市場でもほとんど見かけない。
食べないわけではないようで、探せばレシピも出てくるが、ラディッシュのようにそのままサラダに入れて食べるのでなければ、かなり凝りに凝った料理ばかりで、確かに何時でも誰でも食べる食材ではないようだ。

1月某日 ミラノ自宅
自分が今まで音楽をやっていること、特に好きでもなかった指揮を今まで細々続けて来られたのは、人生の節目でそれぞれの恩師が暖かい言葉で励ましてくれたからだと思う。恐らく恩師はあまり深い意味もなく口からついて出ただけに違いないのだが、褒められた本人には忘れがたいものになる。
大学の研究生が終わって作曲でイタリア政府給費で留学する前に、岡部先生にご挨拶したら、「それだけの技術があればやっていかれますよ、頑張って」とはなむけの言葉をいただいた。別に真面目に指揮を勉強もしなかったし、作曲必修の指揮副科で一番やる気のない、どう贔屓目に見ても箸にも棒にも掛からぬ生徒だったのだから、何故仰ったのか真意を計り知れないけれど、岡部先生には小学校2年の頃から音楽教室でお世話になっていたし、素朴に励ましてやろうと思って下さったに違いない。その何年後か、給費が突然打ち切られて無一文になったとき、ふと思い出したのが岡部先生の言葉だった。
余りに惨めな生活をしていたので、友人たちが小遣い稼ぎに、とにかく演奏者の前でテンポだけ振っていれば良い、と言われて仕方なく始めた指揮だったが、余りに酷いので、少しは真面目に習うべきだとエミリオの所へ通うようになった。
よく覚えているのは、指揮なんてやりたくないし、レッスンなんてとんでもない、とずっと逃げていたのが、友人たちがエミリオに先に連絡して話を付けてしまったので、仕方なく足を引きずりながらレッスンに出かけたのだった。
当然、褒められるどころではなかったし、いつも酷く怒られた挙句、頼んでもやめさせてもらえず仕方なく続けていただけだったのが、ある時「自分も、お前くらいの時に同じくらいの技術があったら良かったのになあ」と、珍しい言葉を頂いて仰天した。覚えの悪い人間が、未だにこれだけ鮮やかに覚えているのだから、褒め言葉のもつ影響力は計り知れない。今まで続けてきても、未だに指揮が自分に向いているとは思えない。それでも、支えてくれる友人がいるから、今まで続けて来られた気がする。家人からも「そんなに辛いならやめて良い」と何度となく慰められてやってきていて、告白すれば、実に情けないものがある。

自分よりずっと年上だけれど、演奏会のたびに顔を出しては励まして下さるYさんもそんな大切な友人の一人で、ジェルヴァゾーニと一緒に日本に戻った時に知り合った。第一印象は、可愛がって貰った祖父に顔と雰囲気がよく似ているというもので、Yさんと話していると網元で漁師だった祖父と話している気がして、それだけで安心するのだった。中学生の頃、祖父が夜明けに亡くなったとき、ふと目覚めてつられるように一人で病院に歩いてゆき病室を訪ねると、思いがけずそれが祖父の臨終だった。Yさんとは、日本に帰る度に何度かお目にかかっていたけれど、長年ほとんどプライヴェートな話を伺ったことがなく、そういう話はしたくないのだろうとこちらも殊更に触れることもなかったのが、ある時、地方から一緒に東京に戻る折、かみさんにお土産を頼まれたから、と売店に走って行かれたのが切っ掛けで、少しご家族の話を伺うようになった。長い間そうではないかと思いつつ、最近までも確かめた機会もなかったのだが、大学生の頃或るワークショップで作曲レッスンの通訳をして頂いたのが、Yさんの奥さまだった。レッスンを受けた作曲家にも奥さまにもずいぶん励まして頂き、その後改めてお礼の端書をしたためた覚えがある。
丁度、息子が免疫疾患で身体をこわした話をしたころから、Yさんから奥さまの話を伺うようになった。彼女が数年前から進行性の免疫疾患の病気で床についていることや、子供がいないので夏前から介護の関係で近所の施設に預けていて、顔は毎日見に出かけるけれど週末だけ家に連れて帰ってくることなど、微笑みながら優しく話してくださるのだった。本当に仲睦まじいご夫婦なのがわかって、どう返してよいのかまるで言葉も見つからず、奥さまが喜んでくださるというイタリアのサラミを、一本トランクに忍ばせている。

1月某日 三軒茶屋自宅
東京に戻ると、とにかく寒い。今年一番の寒波だと言う。前から塩梅のよくなかったストーブがいよいよ壊れていて、シャワーだけ浴びて渋谷にオイルヒーターを買いに走る。これは自分で持って帰ることもできますか、と店員に尋ねると、少し驚いていたが、重たいですが持って帰れないわけではありません。どうか呉々も気を付けて下さい、と念を押される。
桜木町の神奈川県立音楽堂があって毎日横浜に通った。自分が子供の頃から通った横浜の姿との違いに驚き、母親が生まれ育った横浜の姿に思いを馳せる。神奈川フィルには同級生が何人もいて、再会を喜びつつ指揮台に昇るのが気恥ずかしい。その上彼女たちが高校時代の写真などを持ってきては皆に見せるものだから、穴があったら入りたかったが、その甲斐あってか演奏は素晴らしかった。特に一柳さんの演奏は、常に良い意味で我々の予想を裏切る、スリリングなもので、練習から本番まで本当に愉しませていただいた。本番まで、ご自分で書かれた音符を、わざわざひっくり返して弾いてみたり、音の数を足してみたり、最後の音も、新しく即興で付け加えていらして、終わった途端にこちらにニヤリと微笑んでいらした。いつも紳士な方ではあるけれど、諧謔精神と反骨精神が裡に脈々と息づいていて、面白くて仕方がない。オーケストラの皆も、今日は先生は何をやるだろうと練習の度に待ち構えていた。
会場を埋め尽くす聴き手の集中度がとても高く、演奏会後の対談まで聴衆が溢れていて驚く。山本さんの作品の面白さや、森さん、上野くんの素晴らしさについては改めて書く機会もあるだろう。

1月某日 ミラノ自宅
最近、世界中で性的虐待について女性が声を上げるようになった。それについて何かコメント出来るほど、真っ当な人間ではないと思っている。ただ自分の友人だけでも、小学生時代に小学校教師から繰返し悪戯を受けて、未だに摂食障害に悩む友人や、飼っている犬の病気のために連れて行った獣医に強姦され、それを警察に訴えると、薄ら笑いを浮かべて話を聞いてもらえなかった友人とか、母子家庭で育って母親のボーイフレンドから長年性的虐待を受けていて、母親は助けるどころか反対に娘をその度に叱責するありさまだったが、あろうことかボーイフレンドが楽器を彼女に買い与えたので、そのまま別れることなく虐待が長年続いた友人など知っている。彼女たちは未だに後遺症に悩んでいると話していたし、自分自身も昔シエナで若い男性二人にレイプされかかった時の恐怖もよく覚えているので、ほんの少しだけ分かるような気がする。

1月某日 ミラノ自宅
息子が科学の自由研究の宿題で関節炎について調べている。A4の紙一杯に手書きで文章を書いている。左手でこれだけ書けるようになったのだから、大した進歩で親としてはとても嬉しいが、しかしなぜ関節炎なのだろう。
彼のレポート曰く、関節炎は現代病であり、現代の食生活のバランスが原因の一つで何某と書いてあるが、息子自身は好き嫌いは多くて親として困っている。
18歳になったら最初にやりたいことは、ワインを飲むことだと言うので、飲みたければ別に今でも飲ませてやるというと、楽しみにしているから良いのだそうだ。
突拍子もない話が続く息子から、最初に指がなくなったのを見たときどう思ったかと問われる。息子が初めて自分の左手が突然麻痺した時、彼は家で一人で留守番をしていたそうで、酷く狼狽えてどうしてよいか分からなかったが、手が麻痺していて連絡すらできなかった、と聞き、申し訳なく思う。
どうやら指揮を勉強するのは楽しいらしく、一緒に国立音楽院裏の楽譜屋で「アイネクライネナハトムジーク」の楽譜を贖い、短めの指揮棒一本をプレゼントする。
買いに出かける道すがらずっと鼻歌を歌って煩いので、こちらも頭の中でいろいろ考えているのだから、お前も頭の中で歌えば良いだろうと言うと、余計声を張り上げる。歌っているのは、これが「アルジェのイタリア女」一幕のフィナーレで、今まで色々見たが、彼が一番好きなオペラは最初に見せたこの「アルジェのイタリア女」なのだそうだ。確かに見事なオペラだと思う。
先日息子と「椿姫」の話をしていて、この手のオペラの筋書きが苦手で受付けられない、ジェルモンのアリアなど腹が立って聴いていられないと言うと、息子曰く本当に悪いのは医者だという。もう少し腕の良い医者がいれば、最後はすべて円く収まったはずだと言う。至極尤もな意見である。

1月某日 ミラノ自宅
気が付けば前期の授業が終わってしまった。大学生は全員必修のイヤートレーニングのクラスに、今年初めて二人中国人の学生がやってきた。
そのうちの一人がテノールの王文奕君で、初めて授業に来たときは本当に全くイタリア語が分からなかった。英語とかフランス語とかスペイン語とか何か分からないかと尋ねると、「イタリア語」と小声でたどたどしく答えたので、みんながどっと笑ったほどだった。
言葉少ない素朴な田舎の青年という風情で、到底テノール歌手という雰囲気には見えなかったが、でもこれは言葉が分からないからかと思っていると、そのあとでもう一人、音楽教育科の中国人の学生が入ってきても、二人で殆ど話す様子もなかったので、おそらくそういう性格なのだろう。
最初にもう一人の中国人の学生がやってきたとき、彼も中国人だよ、と言うと「キミモ チュウゴクジンナノ?」と二人で片言の可愛らしいイタリア語で話していたので、周りの学生は大喜びだった。
彼にイタリア語でも何語でも良いが、我々教師が理解できる音程の呼び方や三和音の種類の言い方など、早急に教える必要があって、他のヨーロッパ人生徒に教える傍ら、黒板に「音程」、「三選択」、「完全五度」、「完全四度」、「増四度」、「協和音」、「不協和音」、「唱音程!」とか、通じるのか通じないのか分からないような走書きを書きながらイタリア語を教えてゆくと、何時の間にか覚えていったので通じていたのだろう。
他の学生たちはこちらが珍しく漢字などを書いている姿に「あれが協和音」などと面白がっていたので、授業はいつも至極和やかなものだった。最初に授業に来たとき、「文奕」の「奕」は何かの簡体字なのかと尋ねると、これは中国の固有の文字で、「ますます盛んなさま」だとgoogleの説明を見せてくれた。いつも一列目に座って物静かにしている王君の様子から「ますます盛んなさま」を想像できないので、思わず大声で笑ってしまった。
「中華街でどこか美味しいところでも教えてくれ」と言うと、まだ行ったことがないと言っていたから、熱心に勉強に打ち込んでいたのだと思う。同僚に尋ねると王君はなかなか良い声をしているのだと言う。
まあこれで半期30時間の授業も終わってやれやれと思っていると、「アリガトウゴザイマス、オチャデス、シーフーロンジンデス、ウチノチカクノモノデス」と思いがけなく、「西湖龙井」つまり西湖龍井茶の新茶をプレゼントしてくれた。その心遣いにも感激したが、家に帰って早速淹れるとこれが思いの外美味で、改めて心に染みた。

1月某日 ミラノ自宅
2002年までペータースからレンタル譜として出版されていた悠治さんの楽譜が、その後すっかり行方知れずになっている。worldcat.orgで世界中の図書館検索をすると何件か出てくるのだけれど、尋ねてみるとどれも所在が分からないという。
悠治さん曰く「橋第二番」など、恐らく演奏されたこともないと言う。「橋第一番」には、昔ずいぶん強い影響を受けたので、その続きの第二番はどんなだろうとずっと想像を膨らませていたが、今やマーストリヒトの図書館のカタログに残っているだけで、図書館のどこにあるかも所在が分からなくなっている。
悠治さん曰く、第一番のような旋法の書式を、何重かに重ねたものだと言う。楽譜がなければ、それを想像して新しく作ればいいじゃない、というのが悠治さんの意見で、尤ではあるのだけれど、その時に、その場所で、なんのためにそれが書かれたか、という背景は、やはり一概に無視は出来ないとは思う。可能であればやはり一度でも本物の楽譜を手にして音にしてみたい。
ライプツィヒなどの図書館のカタログにも載っているが、これらは問合せがあれば、出版社から取り寄せるためのもので、実際には入手できない。
そんな中で「歌垣」はニューヨーク公共図書館に一部だけ残っていて、コロンビアの大西くんに間に入ってもらって今月漸くスキャンが手に入った。
初めて目にする「歌垣」は、自分が想像していた譜面とどこか似ている既視感も感じたが、恐らく単なる思い込みに違いない。実際に音に出してみるまでは、何もわからない。

秋に演奏するクセナキスも、実は楽譜の版権とテープの所在が厄介なことになっている。手元のコピー譜は所々完全に薄れて全く音の判別も出来ないので、パリのクセナキス宅で自筆譜を見せて貰うつもりなのだが、Kraanergの4チャンネルテープは出版社が持っているものと、ベルリンの技術者個人的に修正しデジタル化したものと幾つかあるらしい。当然遺族や出版社の権利問題などが絡んでいて、誰がどのルートで何を頼めば良いのか、ボローニャの劇場は少し手をこまねいているようだった。
悠治さんから、Kraanerg初演をカナダに見に行った時のことを思い出した、とメールをいただく。「近未来の過剰人口と資源の限界で起こる世代間戦争」がテーマで、50年後の今、それを改めて自問してみると、確かに悠治さんの言う通り、我々は何ら答えを見出さないままにさまよい続け、世界だけが膨張し続けているようにも見える。

1月も終わろうという時、バッファローの図書館の演奏記録以外、悠治さんが絶対に楽譜は残っていないと断言していた「般若波羅蜜多」の総譜を、小野光子さんがアキさん宅で偶然見つけた、と連絡を下さった。これもちょうどKraanergと同じように、先に録音された演奏に、ライブの演奏を重ねるやり方をしている、とは悠治さんから聞いているが、とにかく楽譜を見てみたい。もしかしたら蘇演も可能かもしれない。
「般若波羅蜜多」はまだ楽譜も見ていないのでわからないが、この当時のクセナキスと悠治さんの作品は、ポジフィルムとネガフィルムのように、同じものを反対側から眺めているような、別の角度から表現しているような、そんな繋がりを改めて感じている。
「人類にとって代わる新しい知性へ残すために」と当時悠治さんは答えていらしたが、AIがこれだけ進歩した今となるとその言葉の重さを痛感する。ただ、楽譜も音も、やはり何らかの形で残しておかなければならない。今現在、悠治さんが同じことを仰るか分からないが、あの時のあの言葉は彼にしか発言できない掛け替えのないものだと思うし、我々はそうやって先人が築いてきた文化の上に、我々も煉瓦を一つずつ積み上げている認識を、より明確に持つ必要があるのかも知れない。

(1月31日ミラノにて)

JUMP!!!

若松恵子

今月は伸ちゃんのことを。
伸ちゃん、三宅伸治は「ブルースやソウルに根ざしたロックンロールを歩み続けるヴォーカリスト/ギタリスト」(公式ホームページの紹介文による)。
MOJOCLUB、覆面バンドタイマーズ、忌野清志郎&NICE MIDDLE with NEW BLUEDAY HORNSのバンマスとして活躍し、清志郎氏との共作の楽曲も多い。

伸ちゃんの音楽活動30周年を祝い、彼の楽曲を友人たちがカバーして讃えたアルバム「Song writer」(徳間ジャパンコミュニケーションズ)が2017年12月にリリースされた。ザ・クロマニヨンズ、鮎川誠、友部正人、斉藤和義、山崎まさよし、桜井和寿、竹原ピストル、金子マリ、仲井戸麗市…多彩なメンバーが集まって時代順に30曲を唄っていく。

免停中の清志郎の運転手として過ごしながらつくった曲、清志郎といっしょにつくった曲、清志郎がいなくなってからつくった曲、それぞれが味わい深い。
ラジオで、このアルバムについて伸ちゃんが話すのを聞いた。アルバムのなかから仲井戸麗市によるカバー「何にもなかった日」をリクエストして、チャボから手紙をもらったような気がしたと語っていた。

「最後までかかりますか?」とラジオのパーソナリティーに尋ねる伸ちゃんの声を聞いて、ああいいな、と思った。長く“芸能界”に生きて、こんなに普通にしゃべれるなんて。ラジオは声だけだから、人柄がふと伝わってしまう。以前忌野清志郎の追悼番組で、いちばん身近に居たのにでしゃばらず、彼を本当に大切に思っているからこそ言葉を選んで語る誠実さに心を打たれたのだったけれど、今もその時の印象と変わらずの伸ちゃんだった。

自分でもこの30曲をライブで唄ったという。
アルバム最後の曲は、清志郎との共作の名曲「JUMP」。伸ちゃん率いるNICE MIDDLE with NEW BLUEDAY HORNSの演奏をバックに、アルバムに参加した21人が「JUMP」を代わる代わる唄っていく。

世界のど真ん中で ティンパニーを鳴らして
その前を殺人者が パレードしている
狂気の顔で空は 歌って踊ってる
でも悲しい嘘ばかり 俺には聞こえる

Oh くたばっちまう前に 旅に出よう
Oh もしかしたら 君にもあえるね
JUMP 夜が落ちてくるその前に
JUMP もう一度 高くJUMPするよ

2005年に清志郎が唄ったこの曲が、今、本当に必要とされていることをわかっている21人がリレーして唄っていくのは感動的だ。街に、このバージョンの「JUMP」がたくさん流れてほしい、そう心から思う。

隣の家の灯りがついている。

植松眞人

 どうも隣家の様子がおかしいのではないか、と思い始めたのは新年が明けて三日目のことだった。
 隣家の佐々木家は私たちが越してきた三年前には、すでに子どもたちが独立してご主人と奥さんの二人だけで暮らしていた。ご主人も奥さんもどちらもとても愛想のいい人たちで、初めての町に越してきた私たち家族はほっと胸をなで下ろしたことを覚えている。
 子どもたちにも、とてもよくしてくれ、ご主人は独立した息子さんの漫画本を、奥さんは手作りのクッキーを、それぞれうちの子どもたちのために持ってきてくれたりした。
 家族ぐるみのおつきあい、というところまでではないが、互いに気遣い合うほどには親しい隣家ということになるだろう。
 この町に越してきた三年前から、私の家族は年末年始は私の実家である関西に帰省していた。だから、佐々木家がどのように年越しをしているのか、よく知らなかった。毎年年末になると「帰省します。よいお年を」と挨拶をして里帰りをして、大阪土産を持って新年の挨拶をする。ところが、この年末年始はどうしても年末ぎりぎりまでこなさなければならない仕事があり、帰省を諦めたのだった。「今年は里帰りしないの?」
 そう奥さんに聞かれて、事情を話したのが昨年末のおそらく三十日くらいだっただろうか。その時にも、こちらの事情を説明するだけで、佐々木家がどう年末年始を過ごすのかということについては全く話さなかった。
 子どもたちは、私の実家に帰らないことで、お年玉がもらえなくなるのではないか、と文句を言っていたが、電話で「お年玉を送るから」という父の言葉を聞いたとたんに安心してゲームばかりする自堕落な毎日を楽しんでいる。妻は妻で、私の両親とは仲はいいほうだが気を遣わないわけではないので、ほっとしたのか「おせちも作らずに買う」と宣言して年末から寝正月の体制を整えていた。
 私が隣家の様子がおかしいのではと思ったのは玄関の灯りを見たときだった。佐々木家はいつも夕方陽が暮れてくると門灯をつける。そして、夜十時過ぎになるとそれを消す。あまりにきちんとしているので、越してきたばかりの頃は、タイマーでも仕込まれているのかと思っていた。しかし、実際にはご主人か奥さんが門灯をこまめにつけ、そして消していたのだ。だから、佐々木夫妻が旅行に出ている時には、門灯はついていない。
 そんな佐々木家の門灯が午後早くからついているのだ。大晦日、まだ陽が高いうちに最後の買い物を済ませておこうと、私たちは出かけたのだが、その帰りに門灯がついていることに私が気づいた。たいしたことではないと思ったのだが、ちょっとした違和感があり、なんとなく気になり始めて、私は改めてリビングの窓から佐々木家の門灯をのぞいてみた。夕方になりかけている強い逆光で、灯りがついているのかどうかはわからない。仕方なく私は、リビングの窓を開け、サンダルを履くと狭い庭を横切って、佐々木家の門灯が見える所にまで近づいたのだった。
 確かに灯りがついていた。まだ陽が暮れる前に、門灯がついているなんていうことはこれまでになかったように思う。だからこそ、ほんの小さなことなのに妙に気になるのだった。微妙に角度を変えながら、灯りがついていることを確認すると、私は妻にそのことを伝えようと自分の家のほうへと首をひねった。その時だった。私の目の端になにか動くものが一瞬見えたのだ。えっ、と私は声を出してしまう。もう一度佐々木家を見るのだが、さっき何かが動いたように思った方向には佐々木家の台所の小さな窓があるだけだった。
 おそらく、佐々木夫妻はどこかに出かけているのだろう。でなければ、門灯をつけっぱなしにするような人たちではない。だとすると、いま台所の窓で動いたものは何だったのか。
 もしかしたら、泥棒かもしれない。私はそう思いたち、庭先にあった息子の子供用の野球バッドを手に自分の家の玄関へと回った。バッドを手にした私を見て、妻は驚いて声をかけた。
「バッドなんか持って、どこへ行くの」
「佐々木さんちだよ」
「バッド持って?」
「どうも、留守のはずなのに、家の中に誰かいるんだ」
「ほんとに」
 心配した妻は私の後についてきた。私たちは玄関を出て、遠巻きに佐々木家を眺めていからゆっくりと近づいていく。やっぱり門灯がついている。私はバッドと後ろ手に隠しながら呼び鈴を押す。家の中から返事はない。何度か呼び鈴を鳴らすのだが、返事はなかった。なんとなく拍子抜けしたのだが、もし泥棒だったら返事をするわけがないと思い直し、私は佐々木家の玄関脇の物置との間を入っていく。妻の「やめときなよ」という声は聞こえたのだが、私は引っ張られるように奥へ奥へと入っていく。ちょうど、我が家の小さな庭から見える場所へと出てくる。おそらく佐々木家の台所があるあたりだ。小さな磨りガラスには鍋やフライパンらしきものがぶら下げられている影が映っている。
 私がじっとその窓を見ていると、とてもやはり影が動いた。手のひらのようなものが、磨りガラスの向こうでゆらゆらと揺れたように思えた。もしかしたら、そうかもしれないし、もしかしたら、せっかくここまで来たのにという気持ちが何かを見せてくれたのかもしれない。でも、それは一瞬のことで、もう磨りガラスの向こうにはなにも見えなくなった。
 私はしばらくじっとその台所の磨りガラスを見つめていたが、その後は何も見えなくなった。磨りガラスの向こうで動くような気配もまったくなかった。しばらく眺めていた私も手にしたバッドを持ちかえて肩に担ぎ、なんだか子どもが一人遊びをしていたような気分に浸っていたのだった。
 家に戻ると一足先に帰っていた妻が、私を見て笑っている。笑いながら、さっき私が見たという磨りガラスの向こう側の動きは何だったのか問いかけたいとう口元をしている。
 正月の三が日は結局佐々木家の門灯はついたままだった。毎日のようにリビングから佐々木家の台所の窓を見ていたが何かが動くようなことはなかった。そして、四日になると佐々木夫妻が長野の漬け物をもって訪ねてきた。娘夫婦がいる長野へ行っていたらしい。孫と一緒に温泉に入って大声でアンパンマンの歌を歌ったことなどを聞かされた。
「留守中、なにかありましたか」
 と、奥さんに聞かれたのだが、私は答えることができずにいた。そして、妻が昔行ったという長野の温泉について佐々木夫妻と温泉情報を交換し合っている。
 そのあいだ私は大晦日に見たあの磨りガラスの向こうの手と、佐々木さんの奥さんの手がなんだか似ているな、と思い、私の妻と話しながらひらひらと動く佐々木さんの奥さんの手を見ていた。

ジャワ舞踊の衣装(3)頭部の装飾

冨岡三智

前回まで上半身と下半身の衣装を説明してきたので、今回は頭部の装飾について。ジャワ舞踊では頭部の装飾には(1)イライラハン(髪型と冠が一体化した被り物)を被る、(2)鉢巻状のものや冠を頭に着ける、(3)結髪だけ、の3種類がある。

(1)イライラハンを被るのは物語のキャラクター設定がある場合、つまりはマハーバーラタなどの物語を演じるワヤン(影絵人形芝居)の人形の意匠を模倣した格好をする場合である。たとえば、女性だとスリカンディ、男性だとアルジュノなどのキャラクターの被り物を想像してほしい。それらは固い張り子で成形され、黒いビロードの布が貼られている。これは髪の毛を表しており、後頭部や頭頂部に向かってクルンと丸くなっているのは、髪をまとめ上げていることを示している。そして、頭部をぐるりと巻いている金色(またはカラフルな色)の部分がジャマン(冠)というわけである。ジャマンの部分はワヤン人形同様、水牛の皮から作られている。イライラハンはキャラクタに―よって、髪型の部分の形もジャマンの形も決まっていて、アルス(優形)であればジャマンの先は丸くなっており、ガガー(荒型)であればジャマンの先はとがっている。

(2)は宮廷舞踊で使われる。槍や剣の鍛錬をする兵士を描いた男性舞踊(ウィレン)や女性舞踊のスリンピでは、踊り手自身の髪の毛をまとめ、布から作られた鉢巻状の物(兵士用)や王女用の冠を頭に着ける。(1)と違って、頭頂部は全部覆われずに空いている。このような舞踊は物語を下敷きにしていない。民間舞踊でも、ゴレッはスリンピのスタイルを模倣しているので、スリンピと似た冠を被る。なお、スリンピやゴレッの冠だが、王宮では金属製のものが使われるが、民間(芸大なども)では水牛の革製で、つまりは(1)のジャマンと同じである。

(3)結髪のみというのは女性舞踊にしかないが、それは男性は正装では必ず頭巾を被るからだろう。宮廷女性舞踊のブドヨではグルン・グデ(大きな髷という意味)という髪型に結う。これは宮廷女性の正式の髪型である。ただし、『ブドヨ・クタワン』だけは花嫁の髪型に結う。また、スリンピ用にはカダル・メネッという結い方をする。余談だが、これは逆立ちトカゲという意味である。ポニーテールにした毛束の先を持ち上げて顔の周りに沿わせ、櫛で留める形状がそのように見えるらしい…。実は、スリンピの衣装は2種類あり、(2)冠を被っても(3)結髪をしてもどちらでもよい。しかし、冠を被る場合は上半身はコタン(肩を覆う上着)、結髪ならコタンかムカッ(肩を露出するコルセットのような上着)と決まっている。ちなみに、民間女性舞踊ガンビョンの髪型はブドヨと同じである。これは、かつて宮廷人の集まる場に呼ばれたガンビョンの踊り子が、その髪型をするように指示されたためだと私は聞いている。

奇跡の星

笠井瑞丈

絵が踊る色彩の世界

宇宙の中を顕微鏡で覗く
身体の中を顕微鏡で覗く

赤い宇宙の空
青い宇宙の空

過去の記憶
未来の記憶

宇宙のキャンパスに音の色彩を垂らす

音の重さ

光の重さ

どちらの方がが重いだろう

光速

音速

どちらの方がが早いだろう

右も左

白も黒

またどこかで出会うだろう

怒りの力

悲みの力

どちらのほうが強いだろう

宇宙の彼方から

このホシを見ている人は
今どのくらいいるだろう

まだ知らない未知の世界から

キセキノホシ

見つかるだろう
きっと
身体の奥の中に

奇跡の星

野営の火

大野晋

明治の登山家、小島烏水の山岳紀行文を青空文庫に入力した時、ハイマツを集めて焚き火にしたり、雷鳥を捕まえて食べた話が出てきて、現代の感覚との違いに驚いた。当時の上高地はまずトンネルなどはなく、狩猟を主にする狩人が住んでいただけだから、今の賑わいとは異なっている。

私が小さな頃の屋外の焚き火と言えば、キャンプファイヤーという大きな焚き火を囲んで、踊ったり歌ったりするイベントが多かったが、実は東京の品川に住んでいた私は、4歳から10歳くらいまで薪で風呂を沸かして入る生活をしていた。考えれば50年ほどになるので何があっても驚かれないかもしれないが、当時でも薪を使って風呂を沸かしている家は少なかったように思う。ということで、実は薪を割ったり、火を付けたりといったことは意外と得意だったりする。

大学に入ると進学した学校が山の中にあったせいか、それとも、山の中を分け入るような学問を志したせいか、あるいは両方か、自然と野営の道具を抱えて歩くようになっていった。当時はちょうど、大学のワンダーフォーゲル部が大きなキスリングを背負って日本アルプスを縦走していた最後の時代で、火を起こす道具としては灯油やガソリンを使用した魔法のランプのような形をした大きな火器を使ったことのある最後の世代になった。一方で、米国のバックパッカーの文化が入ってきた時代で、米国製の火力の強いガソリンストーブを学生時代は愛用していた。

ところが、社会人になると重いストーブを背負うこともなくなり、その代わりに火力は弱くなるが軽量のガスストーブを愛用していた。このガスストーブの流れは今でもあまり変わりなく続いているが、3.11でガス缶の互換がなくて困った経験から急速に仕様の統合が進んだ。

さて、最近、ふと、キャンプ用品にまた興味を持って眺めているが、所帯道具を背負って歩くタイプの野営から、野営自体を楽しむタイプの活動に変わってきているようで、燃料も携帯性や効率を優先するよりも、むしろ情緒を楽しむために、薪や炭を使用することが増えているようだ。

情緒で思い出したが、社会人になって数年経った頃、春の夜桜見物に闇の鎌倉の某公園に、野営用のガスランタン持参で出かけたことがある。今考えると周辺の住宅の方達にはとんでもない迷惑をかけたものだが、日常とは異なるランタンの光に職場のメンバで楽しんだものだ。そう考えると火には人間の感情に訴える何かがあるのかもしれない。

仙台ネイチィブのつぶやき(30)しぐさを伝える

西大立目祥子

 食文化研究家の林のり子さんをお呼びして、リアス式海岸の小さな半島の町、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)で料理講習会をやったのは…いま資料を広げてみたら、1994年のことだった。あれから24年も経つのか。へぇ、とじぶんでも驚きながらちょっと振り返ってみることにする。

「新しい郷土料理をつくろう」と企画し始まった講習会は5回連続して開催され、最後には100人もの町の人を招いて料理を振る舞う発表会が開かれた。私は林さんを仙台から唐桑まで運ぶ運転手兼記録係として、ずっと講習会を見守る立場にあった。おっとりとしながらも頑固な林さんとどこまでも陽気な唐桑の若い女性たちはびっくりするほどウマがあい、受講生たちは講習会終了のあと、このまま解散したくないと「唐桑食の学校」というグループを立ち上げた。その後10年以上にわたって林さんを講師に活動を続け、つきあいはいまも続いている。

 忘れもしない第一回目の講習会。さぁてこれからどんな料理をつくろう、まずは素材探し、と臨んだ林さんの前にあらわれたのは、遠洋船を上がったばかりの鈴木さんという年配の男性だった。テーブルにのせたカツオの刺身を前に、鈴木さんがいった。
「長い航海になるとカツオをショウガ醤油で食べるのも飽きてしまってね、マヨネーズかけるんだね。ニンニクのすりおろし入れたりしてね」そのひと言に、林さんの目が輝いた。「それは地中海のアイオリソースよ! マヨネーズにニンニクのすりおろしとカイエンヌペッパーを入れて、魚料理に使うの」

 唐桑はすぐれた漁船員を輩出する町として知られていて、世界の海にマグロを追う漁船員がそのころ町内に1000人ぐらいいた。彼らと話していると世界中の寄港地の名前が出る。まさに、世界に直結する唐桑。
 講習会のテーマは決まった。「唐桑で世界の家庭料理をつくろう」林さんは、唐桑の夏の風景に地中海を、冬の風景にノルマンディ地方を重ね見たようで、カジキマグロとトマトやパプリカなどのカラフルな野菜で地中海料理を、唐桑の海で育つカキやホタテでノルマンディ料理をつくる提案がされていった。

 ここからがさらにおもしろかった。『カツオは皮がおいしい』という著書がある林さんは、素材をていねいに見て一つも捨てることなく使い切るのが信条。一方の唐桑は、いつも魚介類がふんだんに手に入るから、おいしいところだけ食べてあとは捨ててしまうのがあたりまえ。それだけに繰り広げられる調理のすべてが、唐桑の女性たちには驚きと発見だったといってもいい過ぎではない。

 カツオを下ろし「先生、アラは捨てますねー」といえば「ちょっと待って、スープにしましょう」と指示が飛び、パセリの茎を捨て葉だけを刻んでいると「もったいないわよ、茎も全部みじん切りにね」とひと言。そして、牡蠣のムースを蒸し鍋で仕上げ「わぁ、うまくできたね」と皿に移し鍋を洗おうとすると、「あ、蒸し鍋の底に牡蠣のエキスが落ちているんだから捨てないで」と待ったがかかる。そのたびにとまどい、顔を見合わせていた彼女たちも、回を重ねる中で林さんが何を大切に料理をしているかを感じとるようになっていった。

 極めつけは「ホタテのコライユグリーンソース」。名前のとおりホタテを使う料理なのだが、「みなさんは、いつもホタテをどんなふうに食べているの?」と林さんがたずねると、ホタテ養殖の盛んな町だけに「貝柱は刺し身にして、あとは捨ててる」という。このソース、何とそのヒモだけを使う料理なのである。

 半信半疑で料理に取りかかる。みじん切りにした玉ねぎを炒め、ざく切りのヒモと肝を投入し、生クリームを入れて煮込み、できあがりの直前にたっぷりとみじん切りにしたパセリを加える。白いソースにホタテの黄味がかった具が浮かび、鮮やかな緑のパセリは雪の中から萌え出る草のようにみえた。

 ごはんにかけて食べると、実においしい。「ヒモだけなのに、いい味」「いつも捨ててたなんて何やってたんだろう」「こんな風に使えばいいのね、活かし方次第だね」…素材のすべてを活かしきるということの意味としぐさが、すとんとみんなの胸の深いところに落ちていった瞬間だった。

 リンゴの5つ割も、語り草になるような作業だった。アップルパイをつくるために50個ほどのリンゴを用意して、みんなで皮むきにとりかかろうとしたら林さんがいう。「4つ割じゃなくて5つ割にしてね」
 えぇっ? 5つのガクが大きくなったのがリンゴの果実で、リンゴのお尻を見ると、その成長のあとを示すように五角形の星型がのぞいている。この星型の凹んだところに向かって包丁を入れると、種がとりやすく、廃棄する部分も少ないということなのだ。「大量に用意するときはひとつひとつの捨てる量が全体に響いてくるのよ」と林さん。お尻とにらめっこしながら皮むきをすると、たしかにそのゴミの量は驚くほど少なかった。

 5回の講習会が終わるころには、林さんの考え方、作業の仕方はみんなの中にしっかりと浸透して、「先生ならこうやるはず、こういうはず」という想像がいつのまにか規範として根づいているのだった。
 ともに台所で作業をすること、ことばを実践の中でたしかめていくということは、想像以上の伝える力を持つようだ。座学だけではこうはならなかっただろう。知識として覚えたことは忘れるかもしれないけれど、しぐさとして身についたことはきっと消えない。20年がたったいまも、きみんなは台所でパセリの茎をきざみ、ホタテのヒモは捨てずに使っているはずだ。

 講習会から20年が過ぎたころ「唐桑食の学校」代表の藤原理恵さんに、「ねえ、まだリンゴ5つ割にしてる?」と聞くと、「してるよ」とごくごく自然に答えが返ってきた。文化の伝播とは、きっとこういうことをいうのだろう。

製本かい摘みましては(134)

四釜裕子

田川律さんの『田川律〈台所〉術・なにが男の料理だ!』(晶文社)を古本屋で見かけたら必ずする儀式がある。中を開いて八巻美恵さんと林のり子さんが田川さんちでお料理を囲んでいる写真を指差し確認するのだ。抜けるはずはないのですけれど、確認、確認。今回手にしたのは「平野甲賀と晶文社展」(ギンザ・グラフィック・ギャラリー 2018.1.22〜3.17)でのこと。地階に平野さん装丁の晶文社本がおよそ600冊並んでいて、元に戻しさえすれば手袋なしで読んでかまわない。付箋や赤字が入ったものもある。あちらこちらで立ち読みが繰り広げられている。壁に張られた平野さんのコメントも楽しい。鶴見俊輔さんの座談シリーズの一角には、中川六平さんが鶴見さんとの席を設けてくれたのだけれども、平野さんの本に付箋をたくさん貼って持っていた鶴見さんを見て思わず辞退した、とある。実現していればこのシリーズに「デザインとは何だろうか」が加わっていたかもしれない、と。

上階には、平野さんが手掛けたポスターやチラシや本のカバーを再構築した作品や新たな描き文字が、和紙にプリントされて並んでいた。こちらもまたコメントが面白くて、しかもそれが作品に入りこんでいる。説明調でなく、吹き出しのかたちはないまでも画面の奥から平野さんの声で聞こえてくるよう。小沢信男さんの『捨身なひと』(晶文社)は、もともとは「捨身のひと」だったのに平野さんが間違えて「捨身なひと」にしてしまったんだけれどもこれでもいいかということで『捨身なひと』になった、とか。表紙カバーを再構築した一連の作品はもはや本のポスター、あるいは本の風呂敷とでも呼んでみたい。実際の本をこの風呂敷に包んで持ち歩き、杖代わりの棒に風呂敷をしばりつけて左右に振ればたちまち即売会場なんて、いい眺めではないですか。そうか、平野さんの装丁は、本のポスターを作ってそれを畳みこんだようなものなのではないかしら。

展の初日の平野さんと津野海太郎さんのトークはライブ中継で聞いた。この日、東京は予報通りの雪となり、早々に帰宅したので聞くことができたのだった。繰り返し出てきたのは「産地直送のデザイン」という言葉。これは、京都のdddギャラリーでの展示(2017.9.4〜10.24)中のギャラリートークで作家の黒川創さんが平野さんを評した言葉だそうだ。褒めているのかけなしているか考えたのだけれども、産地にいる人たちと僕もいっしょに働いているというかたちを言ってくれたようにも思うし、あるいは安くて単純なデザインということなのかわからないけれども、悪い気はしなかったと平野さんは言った。僕のデザインは出たとこ勝負、練り上げたものはないからね、ともおっしゃったけれども、現場というかいつも近いところでデザインしているから、デザインの完成が本や舞台そのものの完成と時差がなくて、練り上げる時間も、それをする必要もないのだと思う。「産直のデザイン」とは、平野さんには実に格好良く似合う。

この対談は展の期間中、ユーチューブで公開されている。津野さんは「新日本文学」で杉浦康平さんとの仕事を通して、〈デザイナーがかかわると雑誌というのはこんなにも変わるのかというブリリアントな経験をした〉。それで晶文社に平野さんを誘い、以降多方面で行動を共にして、〈この人がいないと僕の場合はだめ〉だったと言う。そうして平野さんが始めた装丁はありとあらゆる分野の本に広がった。〈本が好きというのではなくて、本が扱っている世界に色気を感じてたというか、おれもこれくらいの教養のある世界にいたいという思いはあった。でもそこで何か勉強してかっこつけようというのはなかったね。あこがれの世界だよ〉。東京の蕎麦屋の味が変わったことに腹をたてていた。もううどんしか食べないとも言った。展示を観たあと、私は平野さんと小豆島を思いながら小豆島大儀銀座店でごぼう天うどんを食べた。三つのごぼう天のうち、一つは汁にたっぷり浸してあるのがいいと思った。

アジアのごはん(89)酒粕三昧

森下ヒバリ

酒粕には小さいころからお世話になってきた。生家は祖父母がお酒と文房具を贖っていたので、酒粕は冬になると取引先の造り酒屋から好きなだけもらえたからだ。祖母は居間の火鉢の横が定位置で、冬になるとその火鉢に網をかけておやつに板状になった酒粕をちぎって焼く。焦げ目がつくくらいに焼くと、アルコールがいい塩梅に抜けて、香ばしい匂いが漂う。祖母が酒粕を焼き始めるとそばについて、じっと待っていたものだ。もっともアルコールは抜けきってはおらず、あまり大量には食べられない。塩も味噌も砂糖も何もつけない、そのまま焼いただけのものだが、どういうわけか好きだった。

そして、もう一つの定番は酒粕から作る甘酒であった。甘酒というのは酒粕から作るものだと、大人になるまで思っていて、麹からつくる甘酒が正統であると知った時はなにか釈然としない気持ちになった。酒粕をちぎって水に浸し、柔らかくなったら煮て、仕上げに砂糖を入れてショウガをちょっと入れて飲む。鍋一杯に作られた酒粕甘酒は、好みの甘さに調整できたし、好きなだけたっぷり飲んで、温まることが出来た。大人になって麹から作る甘酒を作ってみると、強烈な甘みに驚いた。砂糖を入れていないのに、こんなに甘みが出るとは。

麹が米のでんぷんを分解して出来る甘みだが、この甘みの成分は一体なんなんだろう。調べてみるとなんとブドウ糖であった。麹甘酒はたしかにとてもおいしい。しかし、作ると飲み続けてしまう。小さなグラスに1杯飲んで冷蔵庫にしまうと、1時間もしないうちに飲みたくなり、ちょこっと1杯。そしてまた。これが終わらない。どうしてこんなに止まらないのか不思議だったが、ブドウ糖なら納得だ。

いわゆる糖質を摂取すると、血糖値が急上昇し、その後インシュリンが大量放出されて急低下する。血糖値が急低下すると、脳がはげしく糖分を要求するので、またまた糖質がもうぜんと欲しくなる、ということになる。糖質には炭水化物と糖類があり、糖類の中でもとりわけブドウ糖はすぐに吸収されて血液に回ってしまうのでこの血糖値上昇率がナンバーワンなのである。ブドウ糖は脳の栄養なのでいいものだと思ったら大間違いで、体の中で精製するぶんには問題ないが、直接食べるのは極力さけるべきものである。

麹の甘酒にはいろいろな栄養分があり、食物繊維も多いので、美容や健康にいいところも多いが、連続摂取、大量摂取はやめたほうがいい。糖尿病や血管破壊にまっしぐらだ。甘酒の甘みは砂糖じゃないので体にいいと信じて、いくら食べても大丈夫などとは思ってはいけません。飲むとしたら、空腹時ではなく食後に少し。

甘酒への終わりなき欲求と血糖値ジェットコースターに恐れをなしてからは、麹の甘酒をあまり作らなくなったが、ふと思いついた。甘酒に豆乳ヨーグルトを加えて乳酸発酵をさせて、糖分を乳酸菌に食べてもらったら、ブドウ糖の害がなくなり、甘酒のいいところはそのままでさらに乳酸菌のいいところまで摂取できるスーパー甘酒(あまくないけど)ができるんちゃうか!

さっそく、ヨーグルティアで甘酒を500mlほどつくって、そこに豆乳ヨーグルトを大匙2〜3杯混ぜ込む。それをさらにヨーグルティアでヨーグルトを作る要領で5〜6時間保温すると‥。

ふむ、けっこううまい。甘くないから甘酒ではないが、酸味が加わってヒバリ的にはかなり好みの味である。で、常温に2〜3日置いていたら、あれ、なんかこれ、お、お酒のような‥。え〜、どぶろくを作ってしまったのか? 健康のために飲むなら、できたら冷蔵庫にしまって早めに飲みましょう。どぶろくにしたいならイースト菌を加えるとしゅわしゅわともっと発酵します。

酒粕の話からそれてしまった。酒粕焼きと酒粕甘酒がおやつだった幼少のころだが、どういうわけか生まれた家ではそれ以外にあまり酒粕を使わなかった。粕汁や奈良漬はあったが苦手だった。なので、大人になってからは酒粕との縁も切れていたのだが、最近は少しづつ酒粕を使う料理や保存食にトライしてみている。

まずは、酒粕と白味噌を混ぜた漬け床。酒粕メインの漬け床よりもクセがなく食べやすい。使いやすいように板状の酒粕は同量の水に浸し、塩を1%加えてブレンダ―などでクリーム状にしておく。保存がきくのでこれは多めに作って冷蔵庫に保存しておくと、酒粕料理にすぐ使えて便利。これと白みそを同量ぐらい合わせて野菜にまぶすようにして漬ける。一度つけると使いまわしはできないので、少量づつ。

これに一番合うのが、なぜかセロリであった。セロリは茎を皮をむいて食べやすい大きさに切り、酒粕白みそをまぶして冷蔵庫へ。2〜3日でおいしくなる。漬け床も一緒に食べられる。先日アボカドで漬けたら、わたしはおいしいと思ったが同居人には不評であった。なので、少しづつゆっくり食べていたら1週間ぐらいしたらいきなり漬け床が発酵してクリームチーズのようになった。こちらは奪い合いになった。その後作ったものはなかなか漬け床クリームチーズになってくれないので、たまたまいい菌がいたのだろうか。

酒粕をクリーム状にしたものは、この漬け床に使う以外にも、そのまま味噌汁に入れれば粕汁に、鍋に入れれば石狩鍋に、パスタソースやシチューにちょっと加えるとぐっとこくが出る。

米粉メインでケーキをいろいろ作ってみたが、酒粕を加えると味に深みが出るだけでなく、しっとりとおいしく仕上がることに気が付いた。もう、酒粕なしで米粉ケーキは作れません。グルテンフリーを実践するにあたって酒粕は大切な助っ人になるのであった。

ただ、酒粕は加熱するとチーズに近いコクが出るとはいえ、酒粕メインのパスタソースはまだ成功していない。奈良漬けに通じる酒粕の匂いがどうも苦手だ。もっと弱火でゆっくり加熱する必要があるのかも。あまり加熱すると酵素が破壊されてしまうと思うと、なかなか熱を通せないのだが、そうも言ってられないか。

先日、秋田に大好きなお酒「出羽の雫」を注文したら、同じ刈穂酒造の酒粕をいただいた。「刈穂」の大吟醸酒粕である。板粕ではなく水分多目のクリーム状の練り粕であった。ぺろっとなめてみたら、そのままでうまいっ。う〜ん、やはり元の酒で味がちがうなあ。さっそくこれでレーズンを漬けてみた。そのまま練り粕とレーズンを混ぜておくだけ。1週間ぐらい漬けるといい感じ。酒粕とレーズンを一緒に食べる。新しいおやつのラインナップ入り決定。

今これを書いているのはマレーシアのクアラルンプールだ。明日からラオスに飛ぶ。旅に出る前に、今回は久しぶりに味噌を漬けてきた。味噌の仕込みのベストシーズンは大寒の頃と言われる。一番冷え込む時期に仕込み、最初の発酵をじっくりゆっくり進めるためだ。夏を超えて、秋が深まる頃から食べられるが、もうちょっと長く熟成させる方が好み。春あたりから、仕込んだ味噌の表面にカビが出やすくなる。酒粕でびっちり蓋をするとカビが来ない、来ても酒粕ごと捨てれば下の味噌は無事、酒粕にカビが来なければクリームチーズのように酒粕も熟成してウマいなどという話を耳にしたので、さっそくやってみた。

初めて味噌を仕込んだときは晒し手ぬぐいで蓋をしてみたが、きっちりカビが来た上に甕のふたが甘かったので小バエが湧いてしまい、恐れおののいた。怖くて放置していたら虫は羽化して飛んで行ったので、ほっとした。もうダメだろうと思って上の方からすくって捨てていたら、下からきれいな味噌が出て来て安心した。これが初めてにして最大の失敗で、その後はつつがなく味噌が出来ている。

それからは味噌の上にサランラップをぴっちり敷いて、かめのふたの下にも虫が入らないようにラップを巻いたりしていた。やっぱり無添加ラップといえどもラップを味噌の表面にぴっちり敷くのはちょっといやだなあ、と常々思っていたので、酒粕蓋が成功するといいな。さて、味噌も酒粕蓋もおいしくできますように。