別腸日記(11)冬の客(後編)

新井卓

岩手は気仙のにごり酒「雪っこ」は、気仙沼で長年続く酔仙酒造の製品で、人々に親しまれてきた。2011年3月11日の大震災と津波で工場、倉庫ともども完全に破壊された会社は、驚異的な早さで翌年初夏、隣町の大船渡に再建された。だから「雪っこ」は、岩手の人々にとって特別な酒である。震災後、さらに足繁く通うことになった遠野で酔仙酒造の酒を見かけるたび、奮い起つような心持で、一升瓶を掴まないわけにはいかなかった。

「雪っこ」や東北一帯で飲まれるどぶろくに、なにか普通でない迫力があるとすれば、それはひとつに、東北における米の来歴から来るのかもしれない。

東北の歴史は飢饉の歴史である。のどかな里を歩けばそこかしこに飢饉の碑が見え、記録された死者の数にただ瞠目するばかりである。遠野の民俗学者・佐々木喜善は、度重なる凶作にあえぐ郷里を復興するため民俗学を志したというから、『遠野物語』の鮮烈な民話の背後には飢餓の記憶が深く根を下ろしている(※)。飢えて命を落とす、ということが体感からも社会的風景からも遠ざかったいま、飢饉とはいったい何であるか、ほんとうに理解することは難しい。

東北で稲作が本格化するのは、蝦夷征討ののち、当地に封建制が敷かれて以来のこと、と言われている。太宰治の『津軽』は約五年に一度、「豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回」もつづく凶作の歴史に触れているが、ほんらい亜熱帯の植物である稲を寒冷な土地で作らせること、そのこと自体に、おそらく今日の東北の有り様と決して無関係ではない、強力な支配の構造が透けて見える気がしてならない。

いつも泊めていただく住田町の藤井家や、遠野早池峰でごちそうになる米には、一箸口に運んだ瞬間、山あいの風が抜けるような清冽な甘さがある。たくさんの白飯を頬張って咀嚼するとき襲われる高揚感と、食後におとずれる強烈な気怠さには、どこかしらドラッグに似た強烈な精神作用がある、と思うのは私だけだろうか。
遠野で、住田町で、冬の朝、さよならを言うときかならず持たせてくれる米袋はずっしりと重たい。それを川崎の家に持ち帰って、まずは粥を炊くことにしている。白米一合をざるにあけて冷水で撫でるように研ぎ、五合の煮立った湯に投げ入れる。一度か二度底をさらうように返したら、以降は絶対にかき混ぜない。中火で十分後、一合の差し水をしてさらに二分。火を止めて数分蒸らせば、濁りのない、さらりと透きとおった粥になる。刻んだ青唐辛子を味噌に漬けた南蛮味噌でもいいし、たくあんや梅干しを囓ってもおいしいけれど、じつは粥の味だけで十分である。
遠野の言い伝えでは、人は死ぬとみな早池峰山に帰るという。もし明日死ぬならば、この澄んだ粥を一口すすって、早池峯に昇っていきたいものだ、と、意地汚い酒飲みの柄にもなく、考えてみたりする。

※写真家/民俗学者の内藤正敏さんに、キツネに化かされる話は必ず「蛋白質」と関係している、と教えていただいたことがある。宴席から土産の弁当を提げて帰る道すがら、キツネの怪しい術によってなぜか、蛋白質豊富な食べもの──塩鮭やイワナの煮付けなど──が奪われる。道中忽然と消えたごちそうは、キツネが食べてしまったのだ、そういえば家人も苦笑いするほかない。飢えや抑えがたい欲の鋭い刃先をまるめてくれる存在、それが妖怪なのかもしれない。

うずくまる男

植松眞人

 夜の道を歩き、コンビニへ行く。温かくて甘ったるくはないというだけが取り柄の『挽き立てコーヒー』と銘打たれたコーヒーとパンを買う。部屋に戻れば、冷蔵庫にトマトとコンビーフとレタスがあるから、それでサンドイッチが作れる。仕事納めの日だというのに、なぜか新規の仕事の問い合わせばかりが立て込んで、午前中で終わると思っていた仕事が深夜にまでずれ込んでしまったのだった。 朝昼兼用で、午前中に事務所の近所のそば屋でざるそばを食ったきりなので、腹が減って仕方がない。さあ、店じまいだと思うたびに電話がかかってくるという仕打ちはまるで嫌がらせのようだと思ったのだがどうしようもない。一件一件丁寧に応対して、解らないことをネットで調べたりしているうちにこんな時間になってしまった。行きつけの居酒屋や定食屋に行くにも、年の瀬なので早じまいしていたり、納会で満席だったりするのに決まっている。というわけでコンビニなのだった。
 近所の会社でこんな時期に夜を徹しての会議でもあるのか、スーツ姿の男女がコンビニにあふれていて、コーヒーマシンでコーヒーを一杯買うにも時間がかかってしまった。不思議なもので、コンビニの中に人がたくさんいると、今がすでに深夜になっていることを忘れてしまう。支払いを済ませて自動ドアを一歩出て冬の冷たい風が強く吹いている最中に足を踏み出すと、自分はいまたった一人で夜の町にたたずんでいるのだということを思い知らされる。
 そんな思いに包まれた瞬間だったからか、歩道の真ん中に同じように一人だということを色濃く霧散させている男がうずくまっていることにすぐ気付いた。
 私が手にしているのと同じ店名の入ったレジ袋と使い込んだショルダーバッグが転がっていて、おそらく七十半ばくらいの年齢の男が、まるで老婆のように横座りの体勢になっていて、両腕をついて小さく唸っていた。
 僕は通りすがりの一瞬に人に危害を加えたりはしないだろうと判断してしゃがみ込んで男に声をかけた。「大丈夫ですか?」
 男は声をかけられたことに気付かないのか、しばらくぼんやりとしていた。しかし、唸り声をあげることは止め、どこから声をかけられているのか確かめようとしているかのようだ。
 それでも顔を上げるでもなく目をキョロキョロさせるわけでもないのだった。その動きの緩慢さに、私にはこの男の老いを感じ取ってしまう。私はもう一度声をかけようとした瞬間だった。
「酔ってるんでね」
 それほど酔っ払っているようには見えなかったが、男はそう答えて周囲に散らばったレジ袋やショルダーバッグに手を伸ばし始めた。
「大丈夫ですか?」
 私はもう一度声をかけてみる。男はやっと顔をあげて私を見る。
「このあたりは、割と物騒な奴が多いんです」
 そう言われて、私は脅されているのかと思った。この男は「おれがその物騒な奴かもしれねえぜ」と言っている気がしたのだ。しかし、そうではないということは、男の曖昧な照れたような表情を見ていればすぐにわかった。男は安心していたのだった。自分が妙な男に絡まれたのではない、という事実に安堵していたのだ。
 私も少し安心して、改めて男を観察した。右の頬のあたりに怪我をしているのか、小さく血が滲んでいる。
「怪我してるみたいやけど」
 私が言うと、男は無造作に、私を指さしたあたりを手の甲でぬぐうのだった。すると、頬についていた血が頬全体に広がってしまった。そして、自分の手の甲についた血を見て、男は「たいしたことねえや」と笑う。
 たいしたことがないなら、それでいい。そう思った私はその場を立ち去ろうと立ち上がった。
「大阪の人?」
 男が私に聞く。
「そうです」
 私が答える。すると、男はにやりと笑う。
「なまりでわかる」
 そう言うと、男はさらに下卑た笑みを浮かべる。
「だいたい、大阪の人はおせっかいだしな」
 男は、歩道にどっかりと腰を下ろした格好で私を見上げながら話し出した。
「おおきにやで」
 わざとらしい大阪弁で、男が言う。
「いえ、どういたしまして。じゃ、この辺で」
 そう言うと、私は男のもとを立ち去り歩き始めた。すると、男はさっきよりも大きな声で私の背中に怒鳴り始めた。
「おーい。おおきにやで。助かったっちゅうねん」
 調子づいた男は、どこで覚えたのか妙なイントネーションの大阪弁を次々と私の背中に投げるのだった。
「おおきにやで!」
「しばいたろか!」
「おもろいなあ!」
「むちゃくちゃやんかいさ」
 子どもの頃に見聞きした演芸番組かなにかで覚えたのか。もしかしたら、何年か大阪に住んだことがあるのか。
 男は神経を逆なでするような大阪弁の声に出し続けた。私はその声を振り切るように、歩道をぐいぐいと歩き続けた。男の声はしばらくの間、小さくなっていったのだけれど、やがて後ろから近づいてきた。振り返ると、男は手にレジ袋を持ち、ショルダーバッグを肩から提げて、こちらに向かって歩いてきているのだった。
 目の前の信号が赤になり、私は立ち止まった。男はぶつぶつと大阪弁を呟きながら、私の真後ろに付いた。いい加減鬱陶しくなってきた私は、信号に背を向けて、男の方に向き直った。二人の距離は思いの外近くて、私が振り返ったことに男はとても驚いた表情を見せた。
「東京生まれですか?」
 私は男に聞く。
「そうだよ」
 男は笑っている。
「いいですね、なまりがなくて」
「そうだよ。なまらないんだよ」
 笑いながらそう答えた男に、私は言う。
「人生はかなりなまっているようだけどね」
 私が言うと、男は急に目の置くに凶暴な孤独の影を見せた。
「なんだと」
 男はそう言うと、コンビニのレジ袋を振り回し始めた。私は男のレジ袋を素手でグッと摑む。すると、振り回していた勢いで、男はバランスを崩す。その瞬間に私はレジ袋から手を離す。男がレジ袋を奪われまいと力を入れたのと同時だったからか、レジ袋が男の顔に向かって飛んだ。そして、怪我をしていたのとは、逆の左側の頬に新しい傷ができた。 男は顔にレジ袋が飛んできたことを歩道の上に倒れ込んでしまう。そして、男はさっき私が見つけた時と同じ姿勢になっていた。レジ袋やショルダーバッグの配置も手の付き方もまるで同じだった。ただ、男の両方の頬に血が滲んでいるというところだけが違う。
 さっきも、男は私に絡んだように誰かに絡んで、今、目の前で起きたようにして路上にうずくまる結果になったのだろうか。私は男を見下ろしながらそんなふうに考えていた。そして、そうでなければこんなふうになるわけがない、と確信にも似た気持ちを持つようになっている。
 だとしたら、男に絡まれ、男のレジ袋を摑んで結果的に男を路上にうずくまらせた相手は、私にそっくりな奴なのだろうか、と考える。するとまた、考えれば考えるほど、その男は私に似ているのだという確信にも似た気持ちになる。そして、もしかしたら、それは似ているのではなく私だったのかも知れない、という妙な気持ちになるのだった。(了)

しもた屋之噺(192)

杉山洋一

「水牛」の原稿を書くたび、今回は何回目か数字を確認するのですが、そのたびに、この数字から何か閃かないか、無意識に数字遊びをしています。それは何か有名な作品番号であったり、年号であったりするわけですが、例えばこの192であれば「良い国つくろう鎌倉幕府」の1192年だったりします。
もうすぐ年が明けるので、家の周りでは花火がずっと打ち上っていますが、今年はいつもより少し静かな気がするのは、多分雨が降っているからかもしれません。

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12月某日 ミラノ自宅
Aさんに「オペレーション・オイラー」の楽譜を送る。小学校終わりか中学の頃にくらいに、貯めた小遣いを持って渋谷のヤマハで買ったもの。
1969年に書かれ、Laurence SingerというBartolozziと共同作業をしていたオーボエ奏者に捧げられたこの作品は、子供の頃から楽譜だけ眺めていて、実際の音を想像しながら憧れていたので、何とか一度聴いてみたいと思う。表紙の裏には、タイプ打ちの進行表が書かれていて、可能な演奏順、組み合わせが指定されている。何十年かぶりに実家で見つけると、裏表紙はなくなっていたが、運よく楽譜は揃っていた。程なくAさんから返信があって「とんでもないものを見てしまった気分です。オーボエで聞いたことのない音ばかり。頑張ります」。

この秋は落ち着いて家にいなかったので、初めて庭の落ち葉かきをする。やりたそうにしている息子を誘う。落ち葉かきがこれほど重労働だとは、この家に住むまで知らなかった。息子が落ち葉かきをしたい理由は、集めた落ち葉の山に走って飛び込むこと。少し走り込んで仰向けや俯せで歓声を上げて飛び込む。スヌーピーでも同じような場面があった気がするが、勘違いかもしれない。

アメリカの大西くんから連絡あり。「カガヒ」は確かに公共図書館の書庫から取り出されてファクシミリ係には届けられたらしいが、その先の所在が分からないという。クリスマス前でアメリカの図書館も混乱しているのか。

12月某日 ミラノ自宅
ニューヨークからルカが戻ったので、ボローニャで来年10月の「Kraanerg」打合せ。政治色の強い大学街ボローニャだからだろう、来年2018年は1968年のボローニャ大学占拠事件から50年という節目にあたり、ボローニャやエミリア・ロマーニャ州に住む老若男女の有志を何十人と募って、プロのダンサーを核に据えたグループに分かれてワークショップを重ねて、社会に対する抗議や主張の象徴であるクセナキスと対峙させる、ずいぶん大規模な企画。
これが彼らの社会に何を意味するのか、歴史を掘り下げて理解してゆかなければならないだろうが、単純に日本に置き換え、東大紛争50年を記念して市民参加でクセナキスのバレエをやると考えると、思考が停止しそうになる。
約束の時間に劇場へ入って、皆待っているからと秘書についてゆくと、関係者一同久しぶりに訪れる劇場の喫茶店で、寛いだ様子でコーヒーを啜っていた。

昼過ぎの特急でミラノに戻る前に、劇場からほど近い角の食堂で、蕪のパスタとバカラの煮付けを食べた。特に打ちたての「耳たぶ状パスタ」に絡めたくたくたの蕪のソースが秀逸で、思いの外唐辛子が効いていて、何より自分で作るものよりずっと柔らかく煮込んである。食堂の主人が、冬は蕪のパスタに勝るものはないね、こんな美味い野菜は他にない。うちらもつい今しがたあんたと同じものを喰ったばかりだ、と胸を張るだけのことはある。帰りしな中央駅で、息子が見たがっていた「マカロニ」と「ボッカチオ70」のDVDを購う。

12月某日 ミラノに戻る車中にて
1泊2日で家族揃ってニースを訪れる。ミラノからは乗り換えなしの4時間過ぎで、列車で簡単に着く。海辺を走るジェノヴァからニースまでの車窓は、国境を越えればもっと変化するものかと思っていたが、さほどではなかった。コバルトブルーの海の色が本当に美しい。

すっかり冷え込んでいるミラノと比べると、たとえ風が強くとも、実に明るく美しい南国の太陽。息子にとっては、スイスと日本以外の初めての外国だそうで、スイスはイタリア語も通じるので、言葉の通じない初めての外国、とはしゃぐ。家人が血眼になりながら、インターネットでレストラン探しに躍起になっていて、普段あまり見ない姿なので意外だった。お陰で2日のみの滞在で、3つのレストランに入り、全て実に美味しかった。
イタリアでも、観光地で調べもせず美味しい食堂には巡り合えないので、家人の努力の賜物には違いないが、インターネットで評判の良い所は、どこも洒落ていて、洗練された料理が並ぶということを知った。

息子はすぐに足が疲れて歩けなくなるので、その度に背におぶってやる。ニースは坂がなだらかで良かったが、翌日訪れたアンティーブでは、坂と階段だらけのなか、息子を背負いながら歩き回って、すっかり困憊した。実は、今まであまり息子を背負ったことがない。何度か試してみたが、その度にすぐに吐き気と眩暈を催し倒れてしまうので、意図的に避けてきた。今回何とかやり過ごせたところを見ると、必要に迫られれば体質も変わるのかも知れない。

それまで歩けずにいた息子が、ニースの海岸に降り立った途端に立ち上がって、嬉しそうに跳ね廻る姿には、感動を覚えずにはいられなかった。親としては、まるで狐に摘ままれた心地になる。医者から、最早あと残っているのは自律神経による障害でしょうと言われても、目の前で息子を見ていれば、精神的なストレスによる場合と、身体の使い過ぎで困憊している時の違いくらいは分る気がする。
人影の少ない抜けるような青色の海辺で走り回る息子は、親の常識を覆す姿だった。街に戻ると、またすぐにへたり込んでしまったが、あれだけ動き回った後ではそれは当然と、妙に安心すらするほどだった。
目の前で海を眺めていた男性がいきなり服を脱ぎだしたかと思うと、下着一枚でそのまま海に飛び込んでいった。
何年か前、ターラントまで今は亡き家人の恩師を訪ねた時の海を思い出す。恩師の家の裏にはほんの小さな浜があって、同じ美しいコバルトブルーがどこまでも広がっていた。浜が小さいだけ、目の前の大海原が広大で、少し恐ろしく感じられるほどだった。

翌日アンティーブのピカソ美術館を訪ねる。丘の上まで背負って身体が限界だったので、美術館では車椅子を借りる。1946年にアンティーブにピカソが通い出してからの作品が並ぶ。あまりにウニばかり書くものだから、余程ピカソはウニが気に入ったのよと家人が嬉しそうに繰り返す。彼女はウニが大好物だ。実際は造形的に面白かっただけかも知れないが、確かに郷土料理にウニは色々使われているようだった。

特に愕いたのは、ピカソのキュビズムについて、息子が事も無げにさらさらと説明することだった。目の前に並んだ1946年のスケッチを前に、重力が実際と比べてどう置換され、視覚の方向性がどう置換され、結果としてこの物体はこのように表現されている、などと立て板に水宜しく話していて、尋ねるとピカソのキュビズムの特徴とその分析方法を習ったらしい。学校について殆ど息子は話したがらないので一体何をしているのか、ずっと不思議に思っている。日本人らしき親子がイタリア語で話していて、学芸員に珍しがられる。

12月某日 ミラノ自宅
朝、8時半からのレッスンのため、6時に起きて楽譜を整理し、7時半には自転車に跨ってミラノの反対側を目指す。週末の早朝など街はすっかり閑散としていて、中国人のやっている喫茶店で朝食を摂ってレッスンに出かける。週末の早朝から働くのは、中国人くらいのものだ。
ふと20数年前、ミラノにやってきたばかりの頃の記憶が蘇る。今と同じように、週末、朝6時半にランブラーテにあったドナトーニのアパートの前で待っていると、髪を揃え小ざっぱりと身支度をしたドナトーニが降りてきて、愛用のトヨタの助手席に乗せて貰い、ブレッシャのロマーノ・ロマニーニ財団のレッスンに連れて行って貰った。何時も同じ高速の喫茶店に寄っては、ホットミルクとハムを挟んだトーストを頼むので、よく飽きずに同じものばかり頼む人だと感心した。そうして、ブレッシャに着くと、決まって道が分からなくなり、それでもあちらこちらを回るうちに学校の目の前に偶然着くのだった。どこか達観して凛とした教育者ドナトーニの横顔を思い出しながら、冷え切ったトリノ通りの石畳を自転車で駆ける。

12月某日 ミラノ自宅
日が暮れて、初旬2か月の通信簿を貰うため、息子の通う中学へ自転車を走らせる。小学校の頃から通信簿は親が受領のサインをして貰っていて、中学になってもそれは同じだが、一つ違うところがあるのは、小学校は一人一人個人面談のようにして受け取っていたのが、中学は親が教室に揃ってから、一通り教師が所感を述べた後、他の親の目の前で渡されること。

学校と言えば、先日息子が色めき立って学校から帰ってきて、大切な話があると言う。聴いているから話したらと言うと、家人と二人目の前にきちんと並んで聞かなければならないと譲らない。仕方がないので言われた通りにすると、大変なことがあったのだが、大変過ぎてどう説明したらよいか分からないので、そちらから質問をしてくれれば、然るべく答えようと言うので、思わず声を上げて笑う。
「だから、体育の授業と言えばあれでしょう」と、息子の興奮度が増してくる。体育の授業と言うと何かと質問すると、そんなことも分からないのか、更衣室に決まっているでしょう、と言う。興奮が収まらない息子の話を断片をつなぎ合わせ、漸く内容が見えてくる。

朝、2年生の息子たちが体育の授業の前に更衣室で着替えていると、烈火の如く怒った1年生担任の女性教師が怒鳴りながら入ってきて、彼女のクラスの男子生徒が息子のクラスの男子生徒に苛められたと言う。誰だか名前がわからないので、白状しなければ、男子は全員停学と言われたそうだ。何でもズボンを頭から被されて目隠しをされた挙句、布かばんで頭を殴られたらしく、怯えて登校拒否になってしまったのだと言う。随分酷いことをするものだが、クラス24名のうち8名しかいない男子生徒全員が、身に覚えがないと言う。息子曰く、クラスの男子は、全員苛められてきた弱虫ばかりだからできる筈がない、と突拍子もない理由を尤もらしく話す。

その夜、クラスの母親を中心とした連絡網のSNSのやりとりが何度となく送られてくる。息子のクラスと決めつけ怒鳴りこんできた女性教師の態度が疑問と言うものや、どこの誰がやったかは別にして、こんな事件が学校で起きたこと自体が大変だと言うもの、うちの息子に限ってそんなことができるわけない、という男子生徒の母親や、うちの娘は学校から帰ってきて塞ぎこんで何も話してくれない、というメッセージもあった。印象に残ったのは「娘の話ではクラスの女子生徒が一致団結して男子生徒を女性教師の脅迫から守ったそう。娘たちを誇りに思う」というもので、イタリア女性の強さを思う。

12月某日 ミラノ自宅
早朝コーヒーを沸かしながら、ふと外に目をやると、目の前に何やら巨大な影が見える。見れば、すぐ目の前の鉄道の電信柱に一羽の鳶が悠然と留まっていて、周りを興奮した烏が三羽、騒ぎ立てながら飛び回っていた。近くに烏の巣でもあるのかと思ったが、こんな冬枯れに雛がいるとも思えない。何をやっていたのだろう。

息子の体調が優れず、さほど疲れているはずもないし、学校でストレスを覚えるようなこともない筈なのに、何度も階段で足の力が抜けては、ずるずる下まで落ちてゆく。そんな時はまるで入院前に戻ったようにすら見える。危なくて一人で階段を歩かせることも出来ない。病院での化学治療に目処がついたので、セレナに紹介されたシュタイナーのアントロポロゾフィー医の診察を受ける。病院のリハビリと並行して、アントロポロゾフィーで身体を少しずつ強くしてゆこうとのこと。どういうわけか、息子はラヴェンダー油で全身をマッサージされるのが、とても気に入っている。

そういう状況なので、12月最後の中学登校日、クラスのカラヴァッジョ展訪問に際しては、美術館に先回りして車椅子を借りておいた。カラヴァッジョ展はとても見たかったので、息子の見学にかこつけて一緒に廻りたかったが、車いすを恥ずかしがる息子に許して貰えなかった。カラヴァッジョ展を70分かけて周ったそうだし、学校から地下鉄まで片道20分近く歩いたそうだから、車椅子は必須だったと思う。

12月某日 ミラノ自宅
クリスマスから年末まで家人が日本に戻る間、息子と二人、ニースで過ごした。空気が良くて温かく、息子の大好きな海もあり、学校の仏語にも多少は慣れる切っ掛けにもなる。アパートで自炊しても食材も悪くないし、美術館など訪れるところには事欠かない。
冷え込むミラノに二人で過ごすより、気が紛れるだろうし、身体にも良いかも知れないとは思ったが、毎日階段から滑り落ちて泣く息子と二人きり、一週間ニースで過ごすのは流石に覚悟が必要だった。先日下見に出かけたが、あの後息子の体調は頗る悪く、ニースに出かけると決めてからは、不安で夜も眠れなかった。

ニースは急な坂や階段が比較的少なく、二人で乗れる折り畳み式のキックボードをミラノから携えてゆき、普段は息子を前に乗せ、急な坂では彼を乗せて歩いた。3日目くらいからは右足のふくらはぎが酷い筋肉痛になったが、息子の身体もその頃には随分しっかりして、ミラノに戻る前日には、Entrevauxの小さな山の頂上の古城まで、急な石畳道を自分の脚で登りきってしまった。流石に自分でも信じられなかったらしく、帰りはずっと大声で雄叫びを上げながら坂を下るので、見ていて心配するほどだった。

二日目からは、アパートのある駅裏手の界隈を一人で闊歩してはパン屋に入って朝食のクロワッサンとチョコレートパンを買うようになり、ハムを買えるようになった。一番最初は何にも分からないとパン屋を出た瞬間に泣き出したが、そうして買ったバゲットが思いの外気に入ったらしく、人目も憚らず美味しい美味しいと泣きながら齧って歩いた。アパートの階下にある「職人のつくるパン屋」のクロワッサンとパン・オ・ショコラがお気に入りだった。

ヴァロリスまで、ピカソの「戦争と平和」を見に行った時のこと。こちらは、長い坂を息子を乗せ走ってきたので、漸く見られた震えるような感激に浸り「戦争と平和」を眺めていると、息子は、もう先へ行きたい、何故ならこの絵は良く知っているからだと言う。

「この左側の悪の御者が、暗闇に浮び上る白い手の陰、つまりこれはこうとしか描くことができない死者を表しているのだけれど、死者を踏みにじり、下には血が川のように流れ、それを平和の象徴の鳩を頂く盾と、運命の天秤を従える槍を携える平和の兵士が迎える。悪の御者の馬は、ほら聖書を踏みつけているでしょう。右側の平和で、運命の天秤の上に遊ぶ一人の手には鳥かごに魚が躍り、もう一人の天秤は平和の象徴の鳥たちとバランスをとっている。この右端の樹はアダムとイブのあのリンゴの樹で、左端の笛吹きは、大きな貝に乗っている。正面の人々が捧げ持つ平和の象徴の鳩は、本来キリスト教が信じている三位一体ではなく、敢えて四人の人間で支えているでしょう」。

何処までが本当に習ったことで、何処からが今適当に口をついて出てきている話なのか分からないが、その境界線すら曖昧なところに感心する。これは学校の美術の口頭試問の問題だったので良く覚えているらしい。その試験の問題は、この3面の絵の時間軸は互いにどう関連付けし解釈されるべきかというもので、奥から平行に時間軸が流れているのか、右から左へもしくは左から右へ一方方向へ流れていると解釈すべきか、3面別々の時間軸を並置していると解釈すべきか自分の考えを述べよ、というものだったそうだ。理由は分からないが、彼の美術の教師が相当なピカソ好きであることだけは理解した。

劇場にバレエを見にゆけば、主人公にあてるスポットの位置が、スカラならシャンデリアの上に見えないようについているが、ここはスポットがそのまま見えてしまうとか、幕上の絵は布みたいだがべニアに描いてあるに違いないとか、時計が壊れて針を取ったままにしているとか、オーケストラピットが小さすぎて金管楽器が全く見えない、と言いたい放題で、イタリア語が分かる客が周りに居たらどうしようと冷汗をかいた。桟敷席は、皆とてもリラックスしていて、特に休憩中しどけない恰好で妙齢たちが長椅子に寝そべっているのが面白い。

シャガールに特に強い興味を覚えたこともなかったのが、シャガール美術館を訪れまるで変ってしまった。シャガールもピカソもフランス人ではないし、フランス芸術ではないのは分かっているけれども、少なくともシャガールの作品を眺めている間は、ずっとプーランクの「グローリア」やらメシアンの「キリストの昇天」、デュリュフレの「レクイエム」などが頭の中で反芻していたのは何故だろう。
長年不思議に思ってきたフランセやデュリュフレ、プーランクが、ブーレーズが活躍する同じ時代、文化でどう共存し得たのか、長年ずっと疑問に思っていたことが、勘違いかも知れないが、少し感覚的に理解できる気がした。それは「感覚」が第一義的な存在であって、出来るだけ骨組みを見えないように、重力から解放して、意識的に輪郭を曖昧にしてゆく文化ではなかったか。

オリーブ油とバターであれば、明らかにオリーブ油を使った方が素材の味がそのまま染み出る。バターをそこに併せたり、バターのみで素材を調理すれば、より味も円やかになって、輪郭が揺らぐ。ソースを掛ける調理方法も、素材の輪郭を敢えて溶け込ませる効果があるのではないか。イタリアの和声法がフランスに至って丁寧に角を取られ、3度を積んで色彩を加え、出来る限り素地を見せぬよう配慮された絶妙な方法論を確立させたのを思い出す。あれ程繊細なフランス料理の作れる国で、何故どうにも茹で過ぎてふやけたパスタが出てくるのか、少し納得がゆく。

イヴ・クラインの作品が並ぶ現代美術館で特に印象に残ったのは、Pierre Pinoncelliが1975年に行ったパフォーマンス「Hold-up contre l’Apartheid(アパルトヘイト政策に反対する強奪)」。
ニースが南アフリカのケープタウンと姉妹都市関係を結ぼうとしたことに反対して、ドクロの面を被って銃を携え口にバラを咥えて、大通りのSociété Générale de Nice
銀行に強盗に入ったパフォーマンス。象徴的に1フランを要求し、後に経済のインフレを理由に要求額を10フランに増額し、程なくピノンチェッリは逮捕されたが、一部始終はヴィデオと写真に残されて現代美術館ではそのヴィデオも写真も見ることが出来る。このダダの生き残りのような姿勢も面白いが、実際に彼の恰好の写真を見ると、独特の美的感覚がイヴェントに香りを与えていることが理解されるに違いない。ブソッティの美意識に独特のまとわりつくような香りを感じるのは、やはり彼がフランス文化に強く影響を受けたからなのだろう。

(12月31日ミラノにて)

女友達

若松恵子

年の瀬に、麗蘭(れいらん)のライブを見るために京都に出かけるようになって10年になる。四条にあるライブハウス磔磔(たくたく)は、有名なブルースマンもライブを行ってきた、築100年になる蔵だ。麗蘭のメンバーである仲井戸麗市と土屋公平が、音楽の神様が住んでいるなんて言っていたけれど、その夜限りの特別な演奏が繰り広げられて(ライブというものはたいていそういうものなのだけれど)遠くまで出かけてきた甲斐があったものだといつも思う。クリスマスも終わり、初詣に備えて掃き清められてシンとした京都の街も気持ち良くて、通い続けることになった。

日帰りがほとんど、長くても1泊のささやかな旅だが、毎回どこかを観光している。今年は前から行きたかった恵文社一乗寺店に行くことができた。12月30日も営業していたからだ。叡山鉄道の一乗寺駅で降りて、どこか懐かしい感じのかわいい商店街を歩いてガイドブックで見ていた恵文社のドアを開ける。年の瀬だというのに本屋はたくさんの人で賑わっていた。恵文社の魅力ある棚を時間をかけて眺める。今年のうちに、これもあれも買ってしまいたい衝動にかられるが、東京に帰っても手に入るものはがまんして、女性作家のエッセイを集めた棚を眺めていた時、1冊の本に呼び止められた。雨宮まみ著『東京を生きる』だ。帯に追悼の字がある。著者の急逝を惜しむコラムを、どこかで読んだ、あの人かもしれないと思って棚から抜き出す。2015年4月の刊行だが、これまで他の本屋で出会う事がなかった。

「藤圭子の歌う『マイ・ウェイ』は、普遍的なことを歌っているようで、ただひとりの誰かの、とても個人的な、秘められた思いを歌っているように聴こえる。」と書く「マイ・ウェイ」。
「ほんものの美にひとが打たれる瞬間を、見たことがある。」そんな1文から始まる「美しさ」。

25本のエッセイが編まれたこの本にたちまち魅せられて、帰りの新幹線のなかで一心不乱に読み続けた。実際には聴いたことのない、雨宮まみの声にずっと耳を傾けていた。彼女の本のなかに、彼女の声が確かにあった。雨宮まみの目を通して描かれる、東京の寂しさと美しさに魅かれる。それはそのまま、彼女の美しさと寂しさなのだけれど、彼女自身にはそれは手の届かないものとして認識されている。

新幹線の横の座席に彼女が坐って、ずっと話すのを聴くようにして彼女の著書を読んできて、もうすっかり彼女は私の女友達のような気がしている。年上の女として、元気づけてあげたかったと、そんな事を思っている。

知られざるイヌ(年)の傑作

北村周一

父には友達が少なかった。
少ないというより、ほとんどいなかったように思う。
いるとすれば、戦友の二人、山梨さんと、杉山さんくらいであろうか。
山梨さんは代々醤油屋を営んでいたが、そのころには廃業していて、
土地を切り売りして生きているようだった。
昭和三十年代中ごろのことである。
父はその山梨さんから土地を買い付けた。
けれども、話がうまくまとまらず、一番欲しかった繁華街の土地はあきらめて、
電気も満足に通っていないような、荒れた畑地を半ば強引に手に入れたのだった。
騙されたというか、裏切られたとでもいうべきか、
以来山梨さんとの付き合いは途絶えてしまった。
しかし、世の中変われば変わるもので、
繁華街の旧市街地は、道が狭いためにその後あまり発展せず、
父が購入した、いわば新開地のほうが、急激な発展を遂げたのだった。
昭和四十年代に入り、家のわりと近くに清水インターチェンジが出現し、
土地の良し悪しでいえば、立場が事実上逆転してしまった。

そんなある日のこと、めずらしく戦友のひとり、杉山さんがわが家を訪ねて来てくれた。
一匹の子犬を連れて。
クルマに酔ったその子犬は、家の庭で少しく吐いた。
そんな姿がなんともあどけなく、家の中で飼いたいと父に申し入れてみたが、
聞き入れてもらえなかった。
杉山さんは温厚な人で、自分が飼っていた四国犬が子を産んだので、
父の犬好きを知り、一匹分けてくれたのだった。
それから、外で飼えば十分ですよと教えてもくれた。
古風な血統書が付いていた。
名は雲仙号。生後四か月ほどの男の子。大事に飼おうとこころに決めた。
とはいえ、雲仙号ではちょっと重たかったので、名前を能登に替えた。
母もぼくも輪島生まれだったからである。
能登はすくすくと育ち、大きくなった。
四国犬は、血筋的には紀州犬の親戚筋にあたり、中型犬ではあっても、気性が荒い。
特にオスは、家族には懐いても、見知らぬ人には獰猛な一面がある。
綱を切っては、家の外へ飛び出すこともままあった。
そしてよく咬みついた。
見てくれは可愛いので、撫でようと手を差し出すと、ぱくりと咬むのである。

昭和四十年代半ば過ぎ、能登が五、六歳のころ、家の増改築の工事が始まった。
ぼくが大学に入り、上京して2年ほど経っていたと思う。
帰省すると、能登がいない。犬小屋はそのままなのに。
四国犬の能登は、どちらかというと猟犬タイプで、嗅覚が鋭いので、
ぼくが帰って来ると、それを察知して必ず吠えた。
かなり遠くからでも、能登が吠える声が聞こえた。

父は真面目いっぽうの人だった。
本格的な増改築工事が始まるまえに、能登を保健所に連れて行ったのだ。
清水の街の中央を、巴川という川が流れている。
その土手沿いに、保健所がある。
ふだんは何をいってもわれ先にと進みたがる能登ではあるが、
父の話によれば、土手の道を引きずるように連れて行ったらしい。
さいごは、両腕に抱えて。

それから20数年ののち、ぼくは犬を飼うことにした。
名はラク、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク種の女の子。
いまの家で、13年と2か月生きた。
雪降る二月の末日、わが家にやって来て、13年後の同じ日に荼毘に付された。
やっぱり雪が降っていた。
ラクを飼ってみてわかったのだけれど、
むかし飼っていた、いや、飼い切れなかった犬たちの記憶が、甦って来るのだった。
もう忘れてもいいようなことまで。

 家族には見せぬ笑顔もそれぞれがラクを介してゆるすひととき

ジャワ舞踊の衣装(2)上半身の衣装

冨岡三智

昨年10月号で下半身の衣装を説明したので、今回はその続き。

ジャワ舞踊では下半身にはジャワ更紗(バティック)を巻く。…と10月号に書いたが、実は例外があることを書き忘れていた。それは宮廷舞踊ブドヨの場合である。ブドヨでもバティックを巻くことはあるのだが、儀礼性の高いブドヨではチンデというインド伝来の模様の布を巻く。現在のジャワではチンデといえば染めだが、本来は織りである。実はジャワ王宮では、チンデは貴族がその地位を示すために使われる。男性なら帯やズボン(バティックの下に穿く)身に着ける。女性舞踊でそのチンデを下半身に巻く時の上半身の衣装は、通常のバティックのサイズより縦も横も2倍大きいドドット・アグンというサイズの布に、森羅万象を示すアラス・アラサンという柄(森に棲む各種動物の柄)を金泥で描いたもの。結婚式の花嫁衣裳の姿でもある。宮廷でも「ブドヨ・クタワン」という、今でも門外不出の舞踊にしか使われない。それ以外のブドヨには、上半身にドドット・アグンのサイズのバティックを巻く。

・素材

宮廷舞踊のスリンピや、宮廷舞踊から発展したゴレック、あるいはワヤン・オラン(舞踊劇)の上半身の衣装は、ビロードの布に金糸や金コード、ビーズなどで刺繍したものだ。デザインには袖無しで前開きのコタンと、ビスチェのように肩が露出するムカッの2種類があり、スリンピにはどちらのタイプも用い、ゴレックではコタンを用いる。ビロードはどう見ても西洋風に見えるが、事実、イタリアで発明され、ルネサンス期に発展した素材だ。日本には南蛮貿易で伝来したことを考えると、ジャワ島に伝わったのも日本とそう変わらない時期ではないかと思う。伝統技法のバティックとの組み合わせは変に感じるが、バティックも発展したのは17世紀頃からと、ビロード伝来時期とあまり変わらないようである。当時の宮廷人にとってはどちらも最新の豪勢な素材で、宮廷の権威を示すにふさわしい素材だったのだろう。

一方、民間舞踊のガンビョンでは木綿に絞りを施した布を胴に巻き付ける。この布のことをクムベンと呼ぶ。絞りは世界各地で古代から見られる手法で、庶民が着用できる(安い)素材なのだ。アクセサリも豪華ではなく、その代わり、ジャスミンの花輪を首にかけ、ジャスミンやカンティル(モクレンの仲間、指先くらいの大きさ)を髪に挿す。実はガンビョンの舞踊では、このジャスミンの花を身に着けることが重要なのだと着付の師に教えられた。ガンビョンは本来豊穣祈願の舞踊なのだが、その踊り子たちが身に着けたジャスミンの花には病気を直す力があると信じられ、観客たちは欲しがったそうである。

・色

ジャワ舞踊では、上半身の衣装の色と腰に巻くサンプールという布の色の取り合わせがコーディネートで重要になる。特に舞踊劇ではキャラクターを表現する上で色が重要だ。たとえば、スリカンディはスラカルタ様式では赤色のムカッに青色のサンプールを組み合わせることに決まっている。赤い衣装は荒型用の色だが、スリカンディは女性ながら司令官として戦場に立つ女性なので赤色がふさわしく、赤×青のコントラストでキャラクターの強さを一層強調するのである。一方、優美なキャラクターを表現したり、曲の優美さを強調したりしたいなら、黒、紺、深緑、深紫などの落ち着いた色のビロードの上着に深い色の緑色やマゼンタ色のサンプールを合わせるのが良い。黄色やオレンジ色のサンプールは舞台映えするが、キャラクターがついているので、宮廷舞踊には合わないと私の着付の師匠は言う。また、日本人だと紫色の上着にはピンク色をコーディネートしたくなるが、ピンク色はジャワではほとんど見ないように思う。どうも、ジャワ人にはピンク色は煽情的な色に見えているのではないかと感じている。

ジャワでは特定の色の組み合わせに名前がついていることがある。一番有名なのはパレアノムと呼ばれる若い緑色×黄色の組み合わせだろう。これはマンクヌガラン王家の旗印の配色である。ちなみにパレは苦瓜、アノムは若いという意味。だから、同王家が振り付けて有名になった作品「ガンビョン・パレアノム」では、緑色のクムベンに黄色のサンプールを合わせる。

2017年活動記録

笠井瑞丈

1月『雪の蝿』
2月『Moratorium end』(三浦宏之振付)
3月『沈黙する世界』(ダンス専科 振付)
5月『花粉革命』(笠井叡振付)
6月『youがme』(鈴木ユキオとのデュオ作品 金沢)
9月『Duo』(小暮香帆とのデュオ作品)
10月『Duo』(小暮香帆とのデュオ作品 リトアニア)
11月『youがme』(鈴木ユキオとのデュオ作品 神楽坂セッションハウス)
12月『R.S.B conversation ’17』(米澤一平企画)
12月『Requiem〜序章〜』(高原伸子振付)
12月『ONDOSA#6 〜黙って話して〜』(南弓子企画)

1月 初めてオーディションという形でダンサーを集い、ゲストに鈴木ユキオさんを迎えての公演。『虚舟』の続編。モーツァルトのレクイエムを振付る。

2月 久しぶりに三浦宏之さん振付作品に出演。気のしれた仲間達とのリハ、懐かしい時間が蘇る。

3月 ダンス専科。毎年行うセッションハウス企画ワークショップ公演

5月『花粉革命』自分にとって一番大きな挑戦の公演でした。

6月 初めて鈴木ユキオさんとのデュオ作品。二人で深夜バスに乗って金沢へ。嫁不在の嫁の実家初滞在。

9月 笠井叡が20年前に行っていた天使館公演企画『ダンス現在』それを今年引き継ぎ再始動。第一弾として小暮香帆とのデュオを行う。

10月 初めてのリトアニア 初めて行く土地 初めて出会う人 初めて飲むビール 初めて踊る踊り しかし物価の安さにビックリ 

11月 鈴木ユキオさんとの作品再演 音楽構成はそのまま ダンス構成はやっぱり変わる 作品は再演を繰り返し熟成する

12月 三本
『R.S.B conversation ’17』初めてタップダンサーとのセッション
『Requiem〜序章〜』レクイエムを踊る、2018年2回目レクイエム 始まりと終わり
『ONDOSA#6 〜黙って話して〜』無音で踊る企画

振り返れば2017年もいろいろ公演がありました
すべて一つ一つに意味があった公演です

公演を通して

新しい人と出会い
新しい自分を発見し
新しいテーマを見つける

2018年も一つ一つを丁寧に

公演活動
舞踊活動
人間活動
修行活動

どうぞよろしくお願いします

製本かい摘みましては(133)

四釜裕子

年末で閉店と聞いた古書店に向かうとシャッターが下りていた。今日は早じまいされたのかなと軽い気持ちでネットで探ると、十日前に閉店していた。いつもなら可動式の棚が並ぶ入り口に立ったまま、最終日のようすを書いたどなたかのブログを読む。たくさんのお客さんがいらして思い思いに店主に声をかけておられたそうだ。渋谷区渋谷一丁目、青学前にあった巽堂書店。昭和9年の創業で、現店主は二代目だった。立ち寄るばかりでたいした買い物はしなかったし店主とまともな会話をしたこともないけれど、この道を歩けば必ず寄った。こういう場所が町を人の居場所にしてくれる。

数件先の中村書店に向かう。こちらは昭和24年の開店で、創業者の中村三千夫さんについては、なないろ文庫ふしぎ堂時代の田村七痴庵さんが書いた「渋谷宮益坂上の中村書店に行ってみなさい」(日本の古本屋「古本屋のエッセー」/初出・東京古書組合発行「古書月報」)を今もネットで読むことができる。http://www.kosho.ne.jp/essay/magazine04.html

店に入って左側からずずずーっと、棚の前に積まれた「VOU」の乱れを直しつつ詩集棚を奥まで眺め、Uターンして別の側の棚を入り口の方へ戻る。ドアに手をかけたところで、茄子紺の表紙に『文楽と土門拳』という文字をぎゅうぎゅうに詰めた冊子が目に入る。44年前の正月、昭和49年1月4日から22日まで新宿・小田急百貨店本館11階のグランドギャラリーで開かれた同展(主催:財団法人文楽協会、土門拳写真展事務局)の図録(文:武智鉄二 構成:田中一光 編集・発行:土門拳写真展事務局 制作:駿々堂)だ。昭和47年に大著『文楽』(土門拳「文楽」+武智鉄二「土門拳文楽 その背景」の2冊セット)が、同じく田中一光の構成で駿々堂 から刊行されている。

人形の面、人形師や三味線方、人形遣いの手や腰周りのアップから、組み立て中の大道具部屋、舞台など、全体のおよそ9割がどっしりとした土門拳(1909-1990)の写真だ。いずれも、左右162ミリ×天地257ミリ中、下部47ミリの墨ベタに、ちょっと平たい白い文字でごく短い説明がある。全体に黒っぽいけれど黒々と刷ってやるぞというのではなくて、写真の白黒のグラデーションが紙にしっとりしみ込んでいると感じる。見返しはレザック66、それに表紙カバーをノドまで折り込んだ簡易な造本で、糸綴じなのでよく開く。4枚ごとにノドにあらわれる綴じ糸の白は、人形がかぶる手拭いのほつれや手足を吊るひも、衣装の柄や三味線の弦に同期して邪魔にならない。

「文楽私語」と題された土門の文章もいい。特に、舞台にかぶりつきで仕事をしながら聞こえてくる、浄瑠璃の語りや三味線の掛け声など人形芝居に必要なもの以外の音の蒐集がおもしろい。チョッという舌打ちは後見を呼ぶ音。立廻りで互いの調子をとるための人形遣いのスウスウという長い呼吸音。引込みで太夫に合わせて思わず人形遣いからもれたハアテレツクテレツク、スッテンテン。人形のもみじ手が屈伸するたびにたてるカチカチや立廻りで頭がふれて出るゴツンゴツン、等々。土門には人形そのものも、ほかの仕事人と等しく見えていた。〈浄瑠璃や三味線や下座が、それぞれの専門部門で、深奥な技術的展開をとげているあいだに、人形は人形で、また、独特な絵画的形象美の完成への道を、ひたすら突き進んでいたと言えるのである。そうだからこそ、写真の世界にも、被写体として、完全にはまりこむことができたのであると、私は考える〉。

よほど文楽座を懇意にして土門の撮影は始まったのだろうと思いきや、芝居の世界は初めてで、緊張のあまり神経衰弱になりそうだったそうである。昭和16年から2年余、〈ぼくは心のふるさとへ帰るように、日本の古典、弘仁彫刻と文楽人形浄瑠璃の撮影に没頭した。昭和16年12月8日、対米宣戦布告の号外を見たのも、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋だった。留守宅に赤紙がきてはしないかと、いつもあやぶみながら、空きっ腹をかかえて、旅をつづけていた〉(『古寺巡礼』第1集)。

昭和18年、土門は文楽座の座員に「文楽座員調査表」なるものをガリ版で刷って送る。添えた趣意書には、進行中の撮影は本にまとめること、そこに座員全員の顔写真と芸歴をのせたいことが書いてある。そして――。〈大体自分の生まれた年や師匠など判り切っていると思い勝ちですが、それは生きている自分だけの話であります。五十年とたたない明治時代の有名な名人上手の人達でも今ではどこの生まれやら、いつ生まれたのやら判らなくなっている人が多いです。こういうことは生きている人を生きているうちに本人も他人も祖末にするからだと思います〉。調査表はほぼ回収し、翌年の暮れには6000点余りのガラス乾板を土門の自宅の防空壕に運んで埋めている。さらに翌年、大阪にあった文楽座の本拠地は空襲にあい、多くの資料や人形が、土門の写真の中だけに残された。

新年の雑記

大野晋

新年あけましておめでとうございます。
新しい年を迎えるにあたって、思い浮かぶことをつれづれと書いてみます。

まず、今年は3年の移行期間を経て、国産のワインに関する呼称ルールが正式に施行されます。簡単に言うと、より葡萄の産地について厳密になり、他の産地の葡萄を使ったワインを売れなくなります。日本のワイナリーは農地法の影響で、戦後、自前の葡萄農場を持てなかったために、長らく農家から買い付けた葡萄を使って醸造してきましたが、この結果、葡萄産地とワイナリーの所在地の乖離が起きてきていたのを適正化しようという流れのように思えます。ま、この辺の話は以前しましたね。

こんなことを考えていたら、他の酒類はどうなんだろうか?と気になりました。まず、日本酒はワインと同じ非蒸留酒です。米の種類による味の違いはあるのですが、それよりも、醸造法や精米率、そしてなによりも水の影響を強く受けます。要は農産物のできふできの影響はあまり受けません。このため、ワインのような原料の産地表示の規制はあまり意味はないかもしれません。

蒸留酒であるウイスキーは原料の影響よりも蒸留方法や長期熟成することから熟成時期の貯蔵地、貯蔵法の影響を強く受けます。なんといっても、現在、日本で作られるウイスキーはほぼ100%が輸入原料から作られています。しかも、ウイスキーの特徴でもあるピートによる燻蒸も実は輸入時に原料会社の方で実施済みのものが輸入されてきます。まあ、原料産地の規制はあまり意味がないかな?

焼酎も蒸留酒で、ある程度の期間の貯蔵熟成することから原料産地の影響はそれほどでもないですね。泡盛にいたっては、原料はほぼ全量が海外から輸入したタイ米です。

ということで、ワインはやはり特殊なようです。葡萄の品種、その年の気候条件、栽培条件で出来不出来が左右されるワインはやはり農産物としての要素が強いのでしょう。

さて、寒くなるとなんとなく、新美南吉の「手袋を買いに」が気になってきます。なんと言うことのない童話なのですが気になって、青空文庫にすぐに登録しました。ツイッターを見ていると、多くの人がそれを読んでいてくれるようで嬉しく思います。悪い経験からの大人の思い込みと純粋な子供の体験。どちらも大切なのですが、時には大人の常識を子供の体験が崩してくれることもあると気付かせてくれる物語だと思います。

小学生の頃、片親だった私は、常日頃、自分の読む物語には普通に両親の揃っている家庭が出てくることに不思議な感じを持っていました。今では、片親だけの家庭の話もたくさんありますが、その当時はハンを押したように、主人公にはお父さんとお母さんがいたものでした。そんな時に読んだケストナーの「飛ぶ教室」などの本が当たり前ではない家庭の話として、新鮮で、心が落ち着いたものでした。日本では色々なところにタブーを作って、自分で口を噤んでしまいますが、子供にとっては包み隠すことのない話も大切なのだと思います。

さて、新しい年にはどのような事件が起こるのでしょう。個人的には、今年はきちんと写真を撮りたいと思っています。時間ができるように整えたり、新しい機材も欲しいですね。そして、つれづれと文章が綴れれば幸いです。

立ち止まって

高橋悠治

2015年に石田秀実の「Frozen City II」をパイプオルガンの3段譜のまま弾いてみたがうまく行かなかったので 2段譜に書き直してみた ずっと鳴りつづけ 拍を刻む一つの音に対して 他の音が点滅し 空間をしばらく照らし また消えていく 風景がすこしずつ移り変わる 低音が持続する上で和音の柱が移動する伝統的なスタイルとちがって 高音の持続するリズムに誘われて出没する音の群れは 前面に出てメロディーを作らず 一つの音に影を落とし こだまの深さを変えていくように感じる 二つの手とペダルの余韻の変化で どこまでできるだろう

12月には芦屋美術博物館の「小杉武久 音楽のピクニック」個展を見に行って 思いついたことをすこし話した 『点在 interspersion』という作品群がある 異なる周期のパルスの群れ 空白の多い時間は リズムパターンを作らない ひとつひとつの周期から 全体として不規則なずれが生まれる 耳を近づけると 小さな音の点が見えない空間をかたどる

『Anima 7』では 日常の一つの動作を極端にゆっくりおこなう指示 たとえば 上着を脱ぐのは数秒でできるが それに10分かけてやってみるとき 何を感じるだろう ゆるみ崩れていく内部の感触 それを見ている身体には 何が起こるだろう 近くにいるというだけで ちがう内部感覚が起こるのに身をまかせている と言えばいいのだろうか

1969年から1972年まで続いた「タージ・マハル旅行団」の時期の記録を見ると 数人の即興演奏が一つの音楽になるのではなく その場その時にいて それぞれがちがうことをしたり しなかったりする そういう身体の配列があるだけだったように見える それは音楽がいままで知らなかった空白の領域だったのか それとも はかりしれない世界のひろがりと 予測できないできごとの起こるなかで 声の糸を織り合わせて共感のなかにやすらごうとするそれは ほとんど忘れられた古いやりかたなのかもしれない 

これから2018年のためにいくつか作曲をして ピアノも練習しなければならない いつでも 何かを始める前には ためらう時間がある おなじことをくりかえすのはいやだから 本を読んだり 他の音楽を聞いて ぼんやりしている やがてそれも居心地が悪くなると しごとにもどってくることになる いままでともちがう 見聞きしたものでも充たされなかった なにかが兆してくればいい どこにでもあるようで どこにもまだないもの 全体の計画もなく 理論も設計もなく 方向も軸もない 測ったり数えたりする尺度もない ひとりでに生まれてきて どのように作ったかも説明できない音楽 説明のいらない楽譜 そんなことをいつも思っているが どうしてもそこには届かない 

2017年12月1日(金)

水牛だより

昼間は晴れる予報だったのに、太陽は雲のむこうに隠れたままで日没となってしまった一日。夕方に啼く鳥がいるので、姿を探すと案外ちいさい。あのちいさな体からあの大きな啼き声が出るのがいつも不思議です。ことしのカレンダーをめくるのはきょうが最後です。そして来週月曜日はことし最後の満月ですね。

「水牛のように」を2017年12月1日号に更新しました。
今年最後の更新ということに若干の思いのあるものや、それとはまったく関係のないものや、いつものように取り揃えてお送りします。冬であること、そしていろんな意味で時間や空間を旅すること、それらが全体を覆っています。寒いときにはもっと寒いところを旅するのが魅力ですが、寒さというものを存分に経験していると、つい南を目指してしまうこのごろです。

一年ぶりに出したウールのセーターが虫食いだらけだったので、捨てようと思ったのですが、試しに繕ってみることにしました。虫食いの穴の周辺をちくちくと縫うだけですが、ラメ入りの刺繍糸を使って、目立つように運針してみたら、無地の紺色のセーターがおしゃれに変身。古いけれども着やすく暖かなセーターなので、この冬も着ます。こんなふうに繕ったと言いたいところですが、黙って着ていればいいのです。

そして、原稿を待つうちに、今年の流行語大賞に「忖度」も決まったと知りました。秋に片岡義男さんたちと京都に行ったときに、駅の売店で「忖度まんじゅう」なるものが売られていて、同行の某出版社の人が職場のお土産に買っていた脇で、そのまんじゅうの見本をじっくりと眺めていた片岡さんでした(笑)

それではまた。よい年が来ますように!(八巻美恵)

製本かい摘みましては(132)

四釜裕子

高橋麻帆さんの『「高橋麻帆書店」という古書店』(龜鳴屋 2017.6.1)という本が小型で未綴じというので、今夏、手にした。本文136ページ(16ページ×8折+8ページ×1折)に、取り扱い品の写真と説明が表裏に刷られたペラが40枚、さらに追補の1枚が、コの字型の表紙にくるまれ、桃色の題箋を貼った青灰色の函におさめられている。題箋と表紙は活版刷りで、函の口には中身が取り出しやすいような型抜きがしてある。造本設計/龜鳴屋、写真撮影/小幡英典、印刷/山田写真製版所と尚榮堂(函題紙、表紙)。限定510部、税別3200円。大きさが92ミリ×135ミリなのはわかっていたのだけれど、想像以上に小さくてかわいらしい。厚みは16ミリくらい。特装本も予定されているようで、表紙は、百年前のドイツの白い亜麻布か、大正から昭和にかけてのえびいろの絹帯と案内がある。

ヘルマン・パールの自伝が古本屋に出ていることを銀座の資生堂パーラーで恩師から聞いた高橋さんは、そのまま走って本屋に向かう。ヘルマン・パールというのはウィーン世紀末のキーパーソンで批評家だそうで、高橋さんが博士論文を書いていたときに〈喉から手が出るほど欲しかった〉本だったそうだ。向かったのは神田神保町の田村書店。その後、なんと高橋さんはここの洋書部のドイツ書担当として働くようになる。データ取りや目録作りに没頭し、ヘーゲルの書き込み本発見の一部始終を目撃することにもなり、〈想像を絶する楽しい仕事〉をして過ごした数年後、金沢に戻って古書店を開業するにいたった道のりとその後を描いたのが本書だ。

装丁は龜鳴屋の勝井隆則さん。シュトゥルム本をもとにオマージュとして作ったそうだ。シュトゥルムは、〈植物図版本が王様貴族のためのものとして豪華に作られるばかりであったことを憂いて、意図的に、この本を身近な植物をテーマとして廉価に作成、一般の人が手に取りやすいように〉作ったという。装幀工房に出す前のシュトゥルム本写真が、取り扱い本を写した図版ページに掲載されている。あわい桃色の紙は表紙だろうか。小さくて良くわからないけれども、本書が、文字のレイアウトも含めてシュトゥルム本に極めて良く似せて作られたことはわかる。函は、高橋さんにとって大切な青緑色(資生堂パーラーのソーダの色)に近い水色に見えるが、これも実際は本書の函の色が近いのだろう。

本文中、「手彩色の魅力」と題されたなかに、〈本自体に果たして美しさはあるのだろうか。〉という問いがある。本の価値は来歴や希少性に置かれ、大切なのは背後の物語であるが、美しい本という視点で考えるならば、インキュナブラ以前の写本時代のものとドノヴァンに代表される彩色博物誌の分野だけは別格だと高橋さんは言う。そして、この、印象的な一文。〈本という存在があまりにも完璧で、近づきがたいと感じる日には、図版に欠けのある本や、またバラバラになっても大切に保存されてきた版画、あるいは、本を目指して製作されながらも、一度も綴じられたことのない、いまだ一枚のままの姿である版画のことを眺めたいと思う。〉(107ページ)

図版の中には、手彩色なしの『アイヒシュテットの庭園』(ベスラー 1713)の一枚もあった。索引ページにドイツ語で色が記されているのを読みながらこの図を眺める楽しさがあること、また、銅版の線を味わうにはむしろ彩色のない図譜がいい、と、裏面に書いてある。「手彩色の魅力」の本文に戻ると、” 当時彩色 “というのは極めて稀なんだそうである。古書や版画の市場に出ている彩色物は、かつて持っていた人やディーラーが施したもの、なぜならば色がなければ売り物にならないという暗黙の了解があるから、という。

実際、こんな風にして図版を見ては本文に戻り、また図版に戻っては本文をめくり……を繰り返すのに、未綴じはやっぱり扱いにくい。本文だけ、穴を3つずつあけて軽く糸で綴じておこうかな。シュトゥルム本はいったいどんな風に装幀されていたのだろう。ネットオークションの写真でいくつか見かけたが、はっきりわからない。ドイツの白い亜麻布か日本のえびいろの絹帯でくるまれる本書の特装本はきっとそのあたりも教えてくれるだろうから、目にする機会が待ち遠しい。

『「高橋麻帆書店」という古書店』は龜鳴屋の二十四冊目の本だ。同社の五冊目である伊藤人譽さんの『馬込の家 室生犀星断章』が手元にあるのだが、普及版とはいえ本文は活版刷りで糸かがり、表紙には前田良雄さんの手摺り木版(手彩色)、そして、栃折久美子さんが寄稿していた。栃折さんは、筑摩書店で犀星を担当していたころに『蜜のあはれ』の装本用に金魚の魚拓をとっている。犀星はそれをネタに短編「火の魚」を書き、主人公の名を栃見とち子としたのだった。

『馬込の家』にも、表紙がスウェードで ” 竹穂垣風 ” 貼函に入れた特装本がある。改めて、版元の公式サイトで「龜鳴屋とは」を読む。〈時流におきやられ、世間から忘れられた作家でも、掬すべき作ありと思えば一冊の本に仕立て、この世にその痕跡をとどめるのが、零細版元の本領〉。「龜」という字を大きく紙に書いてみる。これを機会に、龜をそらで書けるようになろうと思う。

157立詩(5)追伸(ついしん)

藤井貞和

1969年て、「無惨な思想の工場」(または胸のなかの……)で、
「生きてきた失語の優しい活字たち」で、
星の鏃(やじり)で占拠や封鎖して、解放し、
漢字を割いてかなをとりだして鑢切ってタイプ印刷で、
野荒らしの日の編集会議が休刊続きで、
困難反戦日比谷六月の使者ゲバメット黙祷転位の詩篇で、
死体で帰ってきて帰ってきたことに間違いなくて、
ほんとだってば関係は持続するよ思想に背景はないんだからって、
無い哲学を聴いてまっ赤なぬかるみの「形容辞」に聴いて、
牕から突き出されて無い形容辞で白銀の60年代は終わって、
聴き手に求めたすべてが報われてまたは報われなくて

(「追伸」。でも「追悼」と読まれるので「ついしん」と書きます。この世への「ついしん」を書いて亡くなった遠ざかる友人たちのために、けっして「ついとう」しません。)

今年失くしたもの

西荻なな

今年は、失くしものばかりした。失くしもの履歴をたどってゆくと、今年1年とともに来年の運勢まで占えそうだ。

はじまりは5月のオランダ行きだった。ヨーロッパへ行く際には、とりわけ注意深くを心がけていたはずだというのに、旅の終盤、白い内装が素敵な小さくも可愛らしいチューリップショップに立ち寄ってどの球根を買おうかと吟味すること1時間、レジに颯爽と向かって財布を取り出そうとしたら、ないことに気づいたのだ。みればカバンが物の見事にあいている。チューリップにすっかり気を許してしまっていたのだ。球根は妹の会計に任せた。

スマホをタクシーに忘れた! と気づいたのは、大阪出張帰りの7月のこと。スケジュールが過密で、東京駅から急いでタクシーに乗り込んで深夜近くに職場へと向かったのだ。降り立った瞬間に忘れたことに気づき、翌朝すぐに電話をしたものの、運悪く乗り込んだのは個人タクシーだった。どうやら個人タクシーの遺失物管理はタクシー運転手が自宅近くの警察署に届けることになっているらしく、届けられた先は葛飾警察署だということが判明した。都心から遠く離れて、葛飾区! 長らく東京に住んでいるというのにほぼ行ったことのないエリア。遠路はるばる押上からさらにその先の京成押上線に乗り、半日トリップで出かけ、降り立ったのは町工場がちらほら点在するなじみのない街。ひたすらに心細さしかなかったが、後日その打ち明け話をした人に、
「そのエリアには昭和スタイルの素敵な居酒屋がいくつかあるの! 連絡くれればよかったのに」
と言われ、新たな街を開拓する端緒を得たと思った。

小さい忘れ物をあげるときりがない。六本木の映画館にはいつも持ち歩いている数冊の本が入ったエコバッグを忘れ、ともに行った友人が次に映画館に立ちよったついでに訊ねてくれて、麻布警察署に届いていると教えてくれた。もはや中に入っていた本のタイトルがなんであったのか忘れていたので、受け取った際には新鮮な発見をしたものだ。それも夏のこと。いつもはビニール傘なのに久しぶりに買った晴雨兼用のお気に入りの傘を美術館に忘れたなんてこともあった。

9月、遅い夏休みをとってイタリアへ旅立つことにした。いつも思い立ってからチケットを取るまでの期間が短く、準備万端な旅なんてケースはそもそも少ないが、数日前に旅程確認などを始めたところ、なんとパスポートがない! 今から新規に発行して取り直すには日数が足りない。ことは深刻だ、ここはすべてをキャンセルしなければならないかと最悪を覚悟しながら、部屋を空っぽにする勢いで隅から隅まで探してみた。本1冊1冊をもページをめくりながら点検してみる。頭を抱えることに、忘れていた重要な何かがそこからはらりと落ちてきたりする。しかしパスポートはない。

作業途中の机の上を最後に整頓し始めたそのとき、オランダで財布をなくしたとき、遺失物申請をした保険会社の控えがあることに気づいた。蛍光ペンでなぞられた箇所が浮き上がって見える。パスポートのコピーの控えを提出、とある。ということは、最後にパスポートを使ったのはこの遺失物申請の際だろう、と記憶を手繰り寄せ、まさかとは思いつつ、コピーをしたに違いない近くのコンビニに電話をかけてみる。すると、実に平然とした声で「はい、お預かりしております」という答えが返ってきたのだ。住所が書いてあるというのに、ご近所だというのに、警察にも届け出ずコンビニに保管されていた。失くしものを補完するためにさらに大事なものを失くしていた我が愚かさに愕然としつつも、ほっとした、というのが今年のハイライトかもしれない。

実はその後、大切なアンティークの腕時計を失くして見つからずに立ち直れない、という新たな失くしものが現在進行中だ。同じく時計をなくした過去があり、大切な人との縁が切れた切れ目に起きた出来事だった。おそらく今回もそうで、その符号に驚きを隠せないのだが、まだ見つかる可能性を信じている。

今年もあと1ヶ月だ。

2017年私的アニメーション棚卸し

大野晋

最初に、TPPからの米国の離脱で気を抜いていた著作権保護期間の延長だが、年の瀬も押し迫って、欧州EPAに関連して、国内の保護期間も延長するとの外務省の文書が飛び出した。外務省が隠しただの隠さないだのの議論が全く盛り上がらないところが意図的な情報統制を想起させるが、モリだのカケだのといった蕎麦屋の注文よりもよっぽど取り上げられるべきだと思っている。何を考えているのやら?

さて、がらりと話題を変えて、このところ、アニメーションのビジネスモデルが変わってきたと言われている。なんとかジャパンというキャッチフレーズで日本の基幹産業にしようとされている漫画やアニメーションなどだが、年間かなりの本数が制作されて放送されているテレビアニメーションは目的によっていくつかのパターンをもっているようだ。

ひとつはビデオが普及した以後に多くなった「円盤」と呼ばれるDVDやBDに焼かれたコンテンツ販売のためのプロモーションだ。3か月12回で1クールと呼ばれる放送単位で、数千本売れると2期放送が決定するなどと言われるのはこのコンテンツ販売が目的の場合の話である。

この他に、出版社が本や雑誌の販売促進のためにアニメーションを作ることもある。
しかし、最近、言われているのは、グッズと呼ばれるキャラクター商品の販売量が本体のDVDやBDの販売よりも重要になってきたらしい。

そう言えば、アニメに関して言えば、すでに録画やレンタルで見るのではなく、ネットからのダウンロードやストリーミングと呼ばれる手法での配信で見られる機会が増えているようで、すでに円盤が売れた売れないという時代でもなくなってきている。

宮崎駿が新作を作らないとゴネてから久しいが、ようやく日本のアニメーション作家として、ヒット作家が出たと思ったのが「君の名は」の空前のヒットだろう。もはや、論評は不要だと思うがアニメーション映画の新しいスタイルを築いたように感じた。(と思っていたら、出ないはずの宮崎駿が新作を作ると言い出したが蛇足にならないことを祈ろう)

テレビ放送では、長年アニメ化が噂されながら実現されなかった「3月のライオン」がNHKから放送された。まだ、連載中の作品だが丁寧な構成で2クールの時間をかけてじっくりと映像化された。好評だったからか、間髪を置かずに、現在第二期の放送が始まっている。

現代型のアニメーションとしてはノイタミナでかつて放送された「冴えない彼女の育てかた」の第二期が放送になった。等身大のフィギュアが発売されていきなり完売したりと関連グッズの展開では話題に事欠かない作品だったが、映像配信でも放送局のサイトではなく、アマゾンの配信サイトから配信されるなど特別扱いとなった。アジアなどの地域でも根強い人気を誇っていると聞くので今後の展開からも目を離せない。ちなみに、こちらの原作はめでたく今年完結となった。現在、ファンの関心は完結まで続編が作られるのかどうかにある。まあ、コンテンツ展開だけ考えても作られる要素は大きいように思えるが。ちなみにこちらの制作委員会に名前を連ねるアニプレックスやアニメ制作を担当したA-1ピクチャーはソニーグループで、いまやソニーの稼ぎ頭の分野となっているのだよと小ネタを付け加えておく。

しばらくぶりということでは、1980年代からシリーズが続くマクロスの新作が2クール半年の期間で放送された。音楽コンテンツとともに展開する形態はマクロスらしく、今回はグループ歌手が主役となった。こちらは映画の制作が発表されるとともに、新しい作品の制作も同時に発表されている。なかなかのご長寿な作品になってきた。夏に放送された「プリンセスプリンシパル」はかわいい外見のキャラクターに似合わず世界観の作り込みのち密さとハードボイルドなストーリーのミスマッチが魅力の快作だった。

今年放送されたアニメーションのほんの少しを振り返ったが、心配なのはその製作本数が非常に多いという事だろう。制作本数が多くなれば、作画やその他の作り込みに不満の残る作品も増えてくる。1990年代のアニメブーム時にそうした劣悪な作品が増えたために視聴者のかい離が起きたことを思い出すと作品の品質を確保するための制限も必要かも入れないなどと思うが、まあ自由主義の国ではそうも言っていられないだろう。

さてさて、来年は何本のアニメーションがお眼鏡に適いますでしょうか。楽しみでもあり、楽しみでもあります。

アジアのごはん(88)ルアンパバーンのポンせんべい

森下ヒバリ

ラオスの古都ルアンパバーンからメコン川をスローボートでさかのぼることにした。早朝、郊外のボート乗り場について、乗船中のお弁当を買おうとしたが、屋台や弁当売りの姿がないではないか。アジアの国々では、バスターミナルや鉄道駅などのある程度の時間がかかる移動手段の場所には、もれなく食べ物屋台、食堂、弁当売りの姿がある‥はずだった。

「な、なんで7時間も8時間もかかる船旅の船着き場で食べ物売ってないの!」ショックを受けるヒバリ‥。しかし、土手の上に一軒だけ小さな雑貨屋があり、どうやらお菓子類を売っているようである。その店に駆けつけると、保存料と添加物で出来たようなスナックしかない。せめて、ラオスの主食、もち米を蒸したカオニャオぐらい売っててよ~。

そのとき、ふとビニール袋に入れられて軒からつるされている丸いものが目に入った。やった、カオキアップだ。わたしはとりあえずカオキアップを買占め、土手を降りてスローボートに乗り込んだのであった。

「食べ物あった?」と連れ。「カオキアップしか売ってなかった‥」「ええっ。なんで売ってないんやろ?」「フランスパンサンドとか、カオニャオと干し肉とかふつう売ってるんだけどね」「途中で売りに来るかな」「鉄道やないんやから‥」

カオキアップとは、もち米のポンせんべい、とでも言いたくなる一種の「おこし」だ。蒸したもち米を直径8~10センチぐらいに円盤状にまとめ、日に干して乾燥させたあと油でかりっと揚げたものである。揚げてはあるが、あまり油は感じない、サクサクとした食感がこころよい。タイ、ラオス、雲南省のシーサンパンナ、ビルマのシャン州というタイ族居住圏で作られている。

タイでは表面にヤシ砂糖をかけて、甘く仕立てておやつに食べるのが一般的。カオキアップとは呼ばず、カオターンと呼ぶ。ラオスではほんのり塩味で、麺に割って入れたり、そのままご飯代わりに食べたりと、食事に近い扱いだ。

カオキアップ・クンというスナックもあって、つまりはえびせんべいだが、米ではなくタピオカでんぷんにエビの粉末を練り込んで生地を作り、スライスして乾燥したものを油で揚げる。ルーツはインドネシアのクルプック・ウダンである。こちらはビールのおつまみにぴったり。あれ、クルプック‥カオキアップ、なんだか似ているな。

スローボートに乗って出発を待っていると、はしけの上に立って何やら受け渡しをしている人がいる。「なんか食べ物を売ってる気配がする」「ほな、ちょっと行ってみるわ~」連れが船の先頭まで歩いていって、嬉しそうに戻ってきた。「弁当売ってた!」「やった、どんなん?」売っていたのは米粉を溶いたのを蒸して半透明のクレープ状にしたもので肉あんを包むスナックのカオキアップ・パク・モーだった。「う~ん、これ一パックじゃ足りないよ」「そ、そやろか。ほなもう一パック買うてくる」

前の席の白人旅行者が「食べ物売ってるの?」と訊いてきた。はしけの上でスナックを売っているおばさんは、足元に箱をおいて立っているだけで、食べ物を売っている気配がほとんどしないのだ。「そうそう、あの人だよ」と教えてあげると、おじさんは嬉しそうに買ってきた。それを見た別の外国人旅行者が彼に尋ね、また買いに行き‥伝言ゲームのように、船着き場で食べ物を買いそびれたと思しき旅行者のほぼ全員が何とか食べ物を入手したのであった。売店で数個しかなかったポンせんべいを買い占めたヒバリとしては、ちょっと罪悪感が薄れ、よかったよかった。

よく見るとスローボートの一番後ろには小さな売店コーナーがあり、お湯のポットもあってタイ製のカップ麺やスナック菓子、水やインスタントコーヒーも売っていた。何も食べるものを持っていなければ、ここで何とか飢えはしのげる。

もち米ポンせんべいのカオキアップは、旅行に便利だ。日持ちはするし、軽い。そして素朴な味でうまい。軽いのに食べるとかなりの満足感もある。ラオスの旅の携帯食としては蒸したもち米のカオニャオと焼き鳥や干し肉などのセットが一番と思っていたが、事前に用意するのはむずかしい。駅やバス亭、船着き場で売っていなければアウト。その点、カオキアップは事前に買っておくことができる。あまり持ち運ぶとばらばらに崩れてしまうけど。

ルアンパバーンの町を歩いていると、家の軒先でカオキアップを干している姿をよく見る。ライスペーパーも作っている。竹を使って作った縦長の笊のようなものに張り付けて家の壁や塀に立てかけて乾かす。日本で売っているライスペーパーに四角い交差したような模様がついているのは、この竹で編んだ干し板に張り付けて干した跡なのである。

ルアンパバーンでカオキアップ作りが盛んなのは、早朝の僧侶の托鉢で大量のもち米が余るからだという話もある。早朝の托鉢をする僧侶にもち米やスナックなどをタンブン(喜捨)するのが、観光の目玉になっているのだ。

地元の人は早起きしてもち米を蒸して、おかずを作ってそれをもって家の前で僧侶が来るのを待つ。タンブンする品物やもち米は道端で売られているので、観光客はそれを買って、僧侶にタンブンする。僧侶たちは自分たちで食べる分しか持ち帰らない。僧侶は喜捨のもち米やスナック類を受け取るものの、托鉢の鉢がいっぱいになるとその辺に置かれている箱やかごに中身を空けてしまうのだ。

袋入りのスナック菓子などは、子供たちが持ち帰ったり、リサイクルに回してもう一度観光客に売られたりする。そして、蒸したもち米は、かごや箱を置いた人が持ち帰って、カオキアップに加工して売る、という仕組み。これもまたなかなかいいリサイクル。とはいっても、僧侶の托鉢をそっと眺めるのはいいが、観光客がタンブンに参加して大量に食べ物を余らせるというのは、やはり違和感がある。

スローボートはのんびりとメコン川をさかのぼり、8時間予定のところを10時間かかって、パクベンという町に着いた。カオキアップも生クレープスナックもすべて食べ尽くした。ルアンアバーンからパクベンの間のメコン川とその両岸はあまり人も住んでいない。原生林が残り、自然のままの緑濃い景色が堪能できる。うつくしい緑の森と河。頭の中は空・緑・茶色い水の3つで溢れそう。

このボートはパクベンが終点で、これから先タイの国境があるフェイサイまでは明日以降のフェイサイ行のスローボートで向かうことになる。乗客は全員、この村で泊まるのだ。船着き場からぬかるむ泥の道をすべって転びながら何とか土手を上がって、ゲストハウスを探し、部屋に入るころにはもうまわりはすっかり暗くなっていた。メコン川ももう見えない。お腹がぺこぺこだ。さあ、今晩は何を食べようかな。

さつき 二〇一七年十二月 第八回

植松眞人

 ねえ、また家を手に入れましょうよ、と母が言い出した。それはとても唐突で、私はぐっと足を突っ張ってしまい、目の前に座っていた父の足を蹴ってしまった。出したばかりのコタツが持ち上がった。
 がたんと音がして、私と父は母をじっと見つめた。母はさっき言った「ねえ、また家を手に入れましょうよ」という言葉が嘘ではないということを私たちに信じ込ませるように今までにないくらいに柔和な笑顔を浮かべていた。
 今朝、私は学校へ行き、教室の入り口ですれ違った神谷先生に「お早うございます」と挨拶したときに、「お前、なんか大丈夫そうだな」と言われた。私は「はい、大丈夫だと思います」と答えた。私が小学生の頃、父がこんなことを言ったことがある。「うちはね、母さんが笑っていれば大丈夫なんだ」と。そして私は、母の笑顔で父が笑えるようになったら、父も大丈夫なんだ、とその時思ったのだった。
 誕生日を迎えた六月からこの十二月まで、東京はオリンピック関連のイベントがあちこちで開かれて、なんだかそんな東京を引っ張っていくぞ、と先頭に立っていた都知事の人気が急に上がったと思ったら急に地の底にまで落ちた。安部さんのスキャンダルはものすごくうやむやになって、奥さんが校長をしていた小学校は知らない間に潰され、安部さんのお友達が作ろうとした獣医さんの学校は無事に作られる運びになった。潰されたほうと、作られるほうにどんな違いがあるのか私は知らない。私ならそんなスキャンダルまみれの大学になって絶対入りたくないと思うけれど、たぶん同級生に獣医になりたい、という子がいたら「別にその学校に罪があるわけじゃないから」とか言って、偏差値さえあえば、平気で受験しそうな気がしてものすごく嫌だ。
 それはたぶん、マクドナルドのハンバーガーを「いったい、どこの肉を使っているのかわからないし、農家や牧場の人の仕事を値切りまくって、こんな値段にしてるんだよ、きっと。だって、百円バーガーなんて、まともな材料使ってたら、出せなくない?」なんて話しながらも、「安くて、そこそこ食べられるから」という理由だけで、平気で通っている私の行動と実は地続きだと思うから、私自身はえらそうには言えない。言えないけれど、そのことは忘れずにいたいと思う。そして、そのことを忘れないために、私は今日からマクドナルドにはいかない。今までも、他の同級生たちに比べればあまり行かなかったと思うが、今日からは絶対に行かないようにする。どこまで続くか解らないけれど、いま私は私自身にそのことを高らかに宣言したのだった。そして、もし、今日クラスの誰かが「帰りにマック行く?」と誘ってきたら、なんといって断ろうと考えている。いまの政府に意義をとなえるためにいかない、なんて言っても誰もわかってくれないと思うし、なんとなく政治的な話をしないように穏やかに暮らしたいと思うから。私の毎日は愛ではなく優しさでできているのかもしれない。何が優しさで何が愛なのか、その境界線もよく知らないけれど、うちが貧困層だということを知り、神谷先生と話している間に、同級生たちと私との間には優しさばかりが満ちあふれているのだ、と感じる瞬間がたくさんあった。手をさしのべてくれる人はほとんどいないが、優しい笑顔で対応してくれる人はたくさんいる。
 そして、コタツは我が家の優しさだと思う。少し寂しかったり、少し落ち込んだりした私を救ってくれるだけの温かさがある。そして、母がその冬コタツを出すタイミングは、すべて母に一任されていて、私たちが母に「そろそろコタツを出して」と言ったことはない。そう思う前に、というか、そう思った瞬間に必ずコタツは出されていた。いつも、ああ、今日は寒かった、と思いながら家に帰るとコタツはリビングにどんと置かれていた。それを見ると私は一瞬身動きがとれなくなってしまう。このコタツにこの冬もやられてしまうのか。コタツを中心とした家族のなかに今年も足を入れるのか、という妙な思いがわき上がって、その温かさを躊躇してしまう私がいる。
 でも、私がコタツに抗えたことは一度もない。本気で抗ったことさえない。いつも、一瞬躊躇した後、私はその躊躇をなかったことにして、足を入れる。なんなら、誰よりも早くそこに足を入れようとする。だって、コタツに入って話をしながら、みかんを食べたり、笑いながら同級生の話をしたり、お茶を飲んだりすることこそが家族だと私は思っているからだ。
 神谷先生から、大丈夫そうだな、と言われ、家に帰るとコタツがあり、制服姿のままそこに足を入れていると母が帰ってきて、みかんとお茶を用意して一緒になって食べていると、父が「ああ、神田の古本屋まで歩いて行ってきたよ」とドアを開けて、私が「神田の古本屋って、歩いて行けるの?」と驚いていると、父が「歩けるよ、地続きなんだから。二時間かかったけど」と笑い、母があきれた顔をして、「一緒にみかん食べましょうよ」というと父は「鯛焼き買ってきたよ」と茶色い紙袋をひょいと見せて、コタツに入って、三人家族がコタツに揃ったのだった。
 そこで、母が言ったのだ。
「ねえ、また家を手に入れましょうよ」
 その言葉に、私と父は気持ちが明るくなった。十二月の寒空の下だけれど、コタツがあって家族が揃って、また母が新しい家を手に入れようと提案したことで、神谷先生が言ってくれた「大丈夫そうだな」が「もう大丈夫」に変わった気がした。私たちは大丈夫だ。いつもの冬と同じように、コタツに入って足が触れあった瞬間に私たちは大丈夫になった。父がコピーライターという仕事に絶望し、母がお気に入りの家を出たことに絶望し、親の絶望に私が絶望してしまった時間をなかったことにはできないのだろうが、コタツがあれば大丈夫なんだと私は思ったのだった。家族が揃ってコタツに足を突っ込むことができるのなら絶望にのまれてしまうことはない。
 私はいつものように鯛焼きを頭から食べている母と、しっぽから食べている父に聞いてみた。
「ねえ、今度はどんな家に住みたいの?」
 母は鯛焼きをもぐもぐと食べながら、しばらく考えて答えた。
「そうね。今度はさつきが気に入った家ならそれでいいわ」
 しっぽを食べていた父が笑った。(了)

ツインピークス再び

若松恵子

デビッド・リンチ監督の連続テレビドラマ「ツインピークス」の新シリーズが、25年ぶりに制作されて、日本でもWOW WOWで7月から18回にわたって放送された。

毎週土曜日の夜9時からの放送を楽しみにして、夏が過ぎ、秋が来て、冬も深まってくる11月の終わりに最終回を迎えた。

かっこつけて言ってるわけじゃないけれど、わけのわからない世界をテレビで見るなんて、ほんとに久し振りで感激だった。謎は謎のまま投げ出されて、パチンと電気を消すように最終回が終わってしまった。あの時ああなったあの人はその後どうなったのだろうなんて気になるけれど、ほったらかしである。

細部を何度も見直して、謎解きすることもできるのかもしれないけれど、大人をも怖がらせる映像に触れただけで、まずは満足だった。邪悪なものは心底邪悪で怖かったし、毎回最後に登場するバーでのバンドの演奏シーンは、この世のものとは思えないあやしさを秘めていて魅惑的だった。

25年経って、ますます異端なデビッド・リンチの感性に感心した。あるいは、映像技術の発達によって、彼の頭の中の映像化が過激に可能になったのだとも言えるのかもしれない。

世の中は快方に向かっていない。邪悪な者が相変わらず動き回っている気配がするのだ。主人公のクーパー捜査官を演じたカイル・マクラクランも、25年後のローラを演じたシェリル・リーもいい具合に老けている。この間の世の中の厳しさを反映して、顔に年月が刻まれている。そんな感じも良かった。

別腸日記(10)冬の客(前編)

新井卓

北へ向かう衝動は、なぜ、いつも突然にひらめき胸を締めつけるのか。冬の旅には、そくそくと迫る寂しさと仄白い希望のようなもの、それらがないまぜになった静謐な感情がある。

今年も、遠野に冬が来た。寒波の到来は例年よりも早く、まだ十一月というのに、土淵や附馬牛など、すこし上がったところの村々は一面の雪景色となった。

この時期、心待ちにしていた酒が、酒屋やスーパーの冷蔵庫に並びはじめる。酔仙酒造の「雪っこ」は、酵母が生きたまま封入された濁り酒で、気温が高い時分は発酵が進んで破裂するおそれがあるため、晩秋から翌春までの期間に限って出回る季節限定の酒である。

二〇一〇年ころ初めて旅してから、山深い自然と人々の心のあたたかさにすっかり魅了され、何十回となく遠野に通ってきた。宿に困っていると、いつもにこやかに家に迎えてくださる藤井家を訪れるとき、冬ならばいつも、この「雪っこ」の一升瓶を提げていくことにしている。藤井さんの家は遠野からすこし南東の、気仙郡住田町にある。いつ、どうして「雪っこ」を手土産にするようになったのか忘れてしまったけれど(たぶん自分で飲みたかっただけだろう)、緑色のさっぱりした瓶を差し上げたときの、奥さんの満面の笑顔は、どうやらこの酒が一家にとって特別な存在であることを物語っていた。

藤井家の広々とした客間、あるいは数年前に農機具置き場を改装してしつらえた宿泊所に荷物を下ろしてほっと一息つくと、もう夕餉の支度が調っている。藤井さん夫婦と息子さん夫婦、孫のルイ君(八歳くらいの頃はよくコタツの中で裸になっていたが、最近はすっかり立派な中学生になった)、そしておばあちゃんとの食卓はとても楽しい。おばあちゃんは気仙語を話す。遠野言葉に少し慣れてきた耳でも、南部と伊達の違いなのか、山あいと海辺の隔たりなのか、その言葉を聞き分けることはたいへん難しい。なぜかわたしのことを「先生」と呼ぶのは、いつか農繁期によく来ていた大学の先生と間違えているらしいことが後で判明したが、まあいいか、と思い先生のふりで通すことにした。それに当時はアルバイトで大学の非常勤講師もやっていたから、とりあえず身分詐称にはなるまい。

「雪っこ」は、おばあちゃんの好物でもあった。──「雪っこ」さ、まづ、先生に。しづかに、飲んでください。

わたしはこの、しづか(静か)に、という言葉がとても好きだ。気仙語なのかどうかは確かめていないが、しづかに、という確かめるように一端沈み込む語と、ぐい飲みに首をかがめ黙して酒をすする感じが、いかにもぴったりしているし、何か儀礼的な所作の趣さえ出てくるではないか。そして、細かいことだが「まづ」は絶対に「づ」であり「ず」ではないのである。
(つづく)

しもた屋之噺(191)

杉山洋一

庭に鎮座している背の高い樹があって、10年以上住んでいて未だにちゃんと種類を調べていないのですが、夏の暑い盛りは青々と茂る葉で家をすっぽり日陰に隠してくれ、秋から冬は同じ樹とは見紛うほど、葉を落とした姿はふと見上げると思いの外頼りなく見えます。今目の前を見上げると、か細い骨の向こうに、美しい橙色の満月がてらてら光っています。冬らしい深い漆黒の夜空の背景と相俟って、その光景が妙に心に突き刺さるのはなぜでしょう。

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10月某日 三軒茶屋自宅
練習を始めて1時間くらいすると、まるで手の力がすっかり入らなくなる。恐らく先日までのんでいた抗生物質をやめたばかりで、体力が落ちていたからだと思うのが、力が入らないのが、これだけ怖いものかと愕く。
息子がここ暫く自転車に乗らないのは、道の途中ですとんと力が入らなくなるからだそうだが、右足で適当に漕げばよいと思っていたが、それほど簡単ではなかった。力を入れようとしてもぐにゃりとして入らないというのは、恐怖以外の何物でもなかった。このまま倒れるのではないかという恐怖が先に立ち、神経が引き攣る思い。オーケストラの皆さんにも申し訳ない。
それでも、本番はこちらが倒れてもオーケストラの皆さんが何とかしてくれると信じて、何が起きてもよい積りで指揮台に立つことができた。演奏者を信頼できるということは、これほど有難いことはない。
堤先生のどこまでも誠実な音楽と、新鮮な響きの成田くんが織りなす音楽の深さ。緊張で倒れそうになっているこちらを、いつも温かく励まして下さる木村さんの優しさ、どこまでも音楽を深く掘り下げようと練習の度にさまざまな提案をしてくださる児玉さん。共演者の音楽の技量の深さに助けて頂いた。
二重協奏曲では一柳先生の音楽の深さには圧倒され、「クロノ」に、会場を突き抜けて飛び出してゆく湯浅先生の火の玉のような「コスモロジー」を目の当たりにした。

10月某日 三軒茶屋自宅
日本で医者をしている家人の友人が、杉山は指の足りない左手をいつも隠していると家人に話したそうで、余計なお世話だと憤慨していたが、別に本人は特に隠そうと思っているわけでもなく、指がない姿など自慢するものでもないし、殊更誰も見たくもないはずだから、あまり人の目に触れないようにしたいと無意識には思っているかも知れない。
成行き上、曲がりなりにも指揮などさせて頂くことになり、それも現代作品に関わる機会が多くなってしまうと、左手を隠してなどいられない。否が応でも左手でキューサインを出すことは多く、その度に内心醜くて申し訳ないとは思っているが、無い袖は振れない。
キューサインのみで7分ほど音楽を作ってゆく箇所があって、リハーサルで両脇の演奏者から左手のキューサインが何本出ているか見えないと何回か言われると、単に見づらかっただけに違いないけれど、心の底から消え入りたい心地に駆られそうになる。リハーサルからの帰途、自分が今の息子と同じくらいの頃、息子よりずっと酷い対人恐怖が続いていたことをぼんやり思い出す。自分でも嫌な心地に自分が飲み込まれてしまう感じとは、確かにこんな感じだったと思う。
まあ、当時に比べれば良くも悪くもすっかり太々しくなって、お陰で何とか生き長らえている。

11月某日 三軒茶屋自宅
町田の実家に戻った折、期せずその昔買った水牛楽団のカセットブック「休業」を見つける。カセットは思いの外良い音で、美恵さんや悠治さん、それに楽団の皆さんの若々しい声が記録されていて、思いがけず再会した忘れていた時間を前にして、感激に震える。今の自分の歳とほぼ同じ頃の録音だけれど、今自分がやっていることは、当時の彼らのように、何某か意味を残せるものなのだろうか。渋谷のユーロスペースに「水牛楽団」を見に行った時、目の前に黒マントを羽織った時代がかった妙な男性が居たなあ、と父が笑う。言われてみれば、そんな気がしてくるから不思議なものだが、確かにあそこに黒マントの男性が居ても、全く違和感はなかった。
母は、小学校5年から3年くらいひばり合唱団で歌っていたが、中学に入って酷い熱を出してやめたそうだ。続けていれば良かったと思っていたが、孫がミラノで歌っているのを見ると何か繋がっている気がして嬉しいのと言う。

11月某日 三軒茶屋自宅
林原さんの演奏会を聴きにゆく。お世辞を言う間柄ではないのだけれど、実に素晴らしく、忘れ難い演奏会だった。林原さんがチベットの子供たちへの教育支援をしているのを聴いていたこともあり、「馬」というチベットの民謡をもとにした小品を書いたので、それを聴きに行ったのだけれど、会場にはチベット関係者が沢山集ってくださり、ニマさんには純白のカタまでかけていただいた。演奏も素晴らしかったし、思いがけずチベットの皆さんと触れ合えたことも嬉しかった。
それに輪をかけて、林原さんと吉田さんの演奏が、素晴らしかった。別に素晴らしいでしょう、と見せる演奏ではないのだけれど、音の向こう側にある林原さんの人の温もりが、そのまま伝わってくる演奏会で、このような演奏会は誰にでも出来るものではないと思う。
目の前で微笑むチベットの皆さんが、それぞれどんな経験を経て今自分の目の前にいるのかと思うと、思わず胸が一杯になった。一月に日本へ戻る際の再会を約束して、会場を後にした。

11月某日 ミラノ自宅
自分は日本人だし、イタリア語を学校で聞くだけで気分が悪くなると言っていた息子が、随分元気になって、学校にも毎日通うようになり、友達と電話で話すようにもなった。息子が神経質になのは家が静かすぎるからだ、等と周りから文句を言われたが、確かに家にはテレビもないし、ラジオを付ける以外は必要以外音楽も殆ど聴かない。家の中が静かであるほど、頭でいろいろ音楽も聴こえるし、あまり飽きることはないというのは、こちらの言い分であって、家人に言われると亭主関白が過ぎるらしい。

そういう気質のせいか、日本の生活は本当に音に溢れていると思う。消防車も救急車も、サイレンを鳴らした上に、マイクのボリュームを上げ、反対車線を走ったり、信号無視して通過することを詫びながら走る。こちらでアナウンスしながら走る緊急車両は見たことがないし、第一緊急車両が詫びるというのは、どうもしっくり来ない。反対車線を走ることを伝えなければいけないのなら、サイレンは要らない気もするし、サイレンを付けて緊急車両が通るのであれば、両車線共に道を譲るべきではないのか。

電車のホームのアナウンスも、発車を知らせるジングルのメロディーも、動く歩道の終わるところで無表情に流れ続けるwatch your stepのテープ音声も、渋谷のスクランブル交差点のように、何枚もの電光掲示板から同時に大音量の広告が流れているさまも、まるでパチンコ店から洩れてくる音の洪水のように見える。
それなのに電車に乗れば、殆ど誰も話もせず、話し声はとても低く抑えられていて、今年くらいに漸く気が付いたが、リュックは後ろに背負うのではなく、前に抱えて持つことで、スペースを節約できるので奨励されていた。こちらでリュックを前に抱える場合は、特にスリを警戒している場合くらいなので、それに見慣れていると、皆がリュックを抱えて電車に乗る治安の良い東京の姿は初めは異様に映った。

地下鉄のホームで行き先が分からなくて困っているお年寄りがいて、助けてあげたいけれど、全く東京の地下鉄は分らないのでどうしようもなく、無人化された長いホームで漸く見つけた駅員に尋ねようとしても、駅員は列車を定刻通りに発車させることに必死で、彼女は無下にされたまま話すら聞いてもらえない。
こんなことを感じるのは、20年以上外国に住んでいるからに違いなく、東京に住めば慣れてしまうことばかりだろうが、東京だって自動アナウンスを流すようになるまでは、目の見えない人に普通に手を差し伸べていて、「インフォメーションカウンター」まで行かずとも、駅員は誰でも気軽に乗客の相談に乗ってくれていた気がする。
地下鉄駅の光景にショックを受けたせいか、今回ミラノに戻って空港のバゲージクレームを出た瞬間、ざっと耳に入ってきた雑多な会話の響きに、言葉にできない安堵を感じた。そんな深い安堵を感じた自らに、改めて打ちのめされた。だから、単に無音を欲しているのではなくて、雑音で何かが見えなくなったり、聴こえなくなったりするのが厭なだけ、というのも、やはり亭主関白か。

11月某日 ミラノ自宅
未だに日本語を話すのは、とても苦手だ。息子が生まれてからずっと父子はイタリア語、母子は日本語を通して来たが、去年くらいから時々息子が何故父子でイタリア語を話すのか、イタリア語は苦手だと反抗するようになった。自分は先ず日本語で考えてからイタリア語を話している、と言い張るが、これは客観的に見ていて流石にあり得ない。彼がここ暫く病気と学校の事で辛かった時はこちらも日本語で返していたが、彼が元気を取り戻すと、何時の間にか会話もイタリア語に戻った。

こちらは日本語、特に仕事場で話す日本語はとても苦手だ。イタリア語、英語、日本語のどれが一番仕事が楽かと言われれば、これは断然イタリア語で、第一外人がイタリア語を話すというだけで印象は良いだろうし、それも敢えてこちらの作戦で、最初から相手の懐に飛び込んでゆくような、イタリア流の付き合い方をする。簡単に言えば敢えて馴れ馴れしく話すわけだ。20年以上も住んでいれば、馴れ馴れしくとも、下品でない言葉を選ぶことも出来るし、深い表現をしたい場合もある程度は伝えられる。第一馴れ馴れしくとも、使う構文の形式は至って丁寧だから、それだけで相手からすれば言葉へのリスペクトは感じられているはずだ。リハーサルで疲れてきた時などには下卑た表現を使って、相手を笑わせたりして、指揮者対演奏者という形を一切作らないように心を配っている。英語なら大して話せるわけでもないので、微細な表現の綾について心配する必要もない。相手がネイティブでなければ、お互い何とか通じればいいだけだし、相手がネイティブなら、この人は話せないから仕方がないと諦めてくれる。

日本語になるとこれはどうして良いか分からない。日本語の表現そのものもむつかしいし、日本人とのコミュニケーションもあまり上手ではないのかもしれない。イタリア人相手にやるように、馴れ馴れしく相手に飛び込んでゆくと誤解を生むことが良くあって、オーケストラの中の同級生や学校の友人から注意される。これはとても有難い。
最近は出来るだけていねいに、でも慇懃無礼にならないように気を付けながら話しているが、丁寧な言葉づかいを紡ぎつつ、相手の胸の中に飛び込んでゆけるような表現、人間関係を作るのはとても難しい。オーケストラで何時も助言してくれる演奏者がいて有難く思っていたから、こちらは尊敬できる友人のつもりで接していたが、相手は単に仕事相手として助言していただけで、誤解を受けたこともある。恐らく日本に住んでいたら、そんなことは当たり前なのかも知れないが、難しいものだと思う。そうしてリハーサルを積むなかで指揮者対オーケストラの関係に落着きそうになる時があって、必死に回避を試みる。オーケストラの一員になりたい、というとそれは無理と一蹴されるだろうが、それでもそれを目指してみる。オーケストラ全員を引き受ける責任など到底引き受けられない。結局どのみち無責任なだけか。

11月某日 ミラノ自宅
ミラノのドゥオーモ裏、大通りから脇に入ったコルソ通りにも、ファシズム建築の小さなガレリアがあって、どこまでも青空が澄み渡る朝、そこの2階でガブリエレと近代イタリア音楽について話し込む。
イタリアで1880年代前後に生まれた作曲家は「80年世代の作曲家」とまとめられる。レスピーギ、カセルラ、マリピエロ、ピッツェッティ、ザンドナイ、アルファーノの名前がよく知られているが、ガブリエレのところへわざわざ足を運んだのは、この世代の作家を取り上げるに当たって、自らを納得させたかったからだ。1943年に作曲されたカセルラの弦楽、ピアノと打楽器のための「協奏曲」作品69は、晦渋な音楽で、所々に驚くほど美しい旋律が浮かび上がっては、荒々しく断ち切られる。曲頭にダイナミズムが大胆に用いられていて、最初はこれこそファシズムのプロパガンダに迎合した作品かと訝り、随分悩んで何度も聴き返してみたが、聴けば聴くほど鳥肌が立つほど美しい。カセルラはファイズムに当初から囲み入れられていた作家で、悔いて改めて作品71「平和のための大ミサ曲」を書いたのが1944年のことだ。この第二次世界大戦の極限の状況下で「協奏曲」がどういう経緯で、カセルラや音楽家たちが何を考えて作曲をしたのかどうしても知りたかった。
「協奏曲」の最終楽章で現れ断ち切られる天啓のような美しい旋律は、まるで断絶された扉が空に向かって開かれたかのように「大ミサ曲」冒頭にそのまま受け継がれる。

ファシスト党がいわゆるローマ進軍を行い、政権を取ったのが1922年のこと、ムッソリーニがナチス・ドイツとPatto d’acciaioいわゆる「鋼鉄協約」を結んだのが1939年、それによって行きずり式に第二次世界大戦にイタリアが参戦したのが1940年。Tre asseいわゆる「日独伊三国同盟」を結んだのが1940年。連合国軍がシチリアに上陸したのが1943年7月10日、ムッソリーニが身柄が拘束され幽閉されたのが1943年7月27日。イタリア王国が連合国軍に無条件降伏したのは9月8日で、ムッソリーニがナチスに救出されたのが9月12日。ナチスの傀儡政権「イタリア社会共和国」いわゆるサロ共和国が建国されたのが、9月23日。そのままイタリア全土は内戦に突入し、イタリア国内に残ったドイツ軍と社会共和国軍が連合国軍を相手に戦争を続けた。
当時カセルラが滞在していたローマが連合国軍によって解放されたのは44年6月4日。まさにナチス・ドイツ軍によってローマが占拠されている中で「協奏曲」は書かれ、恐らく連合国軍によって解放された後、もしくはその前後に書かれたのが「大ミサ曲」となる。社会共和国、ナチスが連合国に降伏したのが1945年4月25日、現在イタリアの祝日「解放記念日」になり、ムッソリーニはその2日後に捕らえられ射殺された。

彼ら80年世代の作曲家たちが、どれだけファシズムに貢献したのかとを理解するためには、ファシズムとナチズムとの相違を明確にしておかなければならない。ナチスは先進的な芸術一般を「退廃芸術」と称し排除していたのと反対に、ファシズムは当初からイタリア未来派と繋がり、先進的、未来志向の芸術を歓迎していたし、カセルラやマリピエロなど当時国際的な芸術家とされていた作曲家に対して重要なポジションを与えて積極的に庇護し、文化活動の展開に務めたと言う。当時「国際的文化人」と理解されたのは、特にフランスでの活動が認められる場合だった。「ドイツとイタリアの関係は、実に複雑なんだ」とガブリエレは笑った。最終的にはムッソリーニがヒトラーに保護される立場となったが、ヒトラーが当初手本にしたのがムッソリーニであって、その反対ではなかった。
1904年生まれのペトラッシの作品を、カセルラが指揮したのがペトラッシ29歳の時。その直後33歳の時には、ペトラッシが既にヴェニスのフェニーチェ劇場の総監督に据えて「新芸術」を強く後押ししたのは、ファシスト党の意向を強く反映していたのだと言う。尤も、1939年に鋼鉄協約でヒトラーと結ばれるまで、ファシズムに対して明確に反体制を唱える文化人は本当に少なかったのだと言う。殆どが皆何等かの形でファシスト党に関わっていて、例えばダラピッコラでさえ少なくともファシズムを否定する立場には当初なかったのだと言う。

当時オペラから近代音楽までを一手に引受けていた大手出版社がリコルディ社で、1960年代まで長く保守系の経営陣が構えていた。そのため30年代頃から「現代音楽」に特化し、ダルラピッコラを始め、より先進的でファシスト体制に好意的でない作曲家が集まりだしたのが、ツェルボーニ社だったと言う。1950年代基本的に保守系で構成されたイタリア政府は、芸術文化一般を急進派で構成された諮問委員会に一任した。その影響は、例えばイタリア映画のネオ・リアリズム運動などを思い出せば分かりやすいだろう。
その音楽部門責任者が、先日亡くなった、パルチザンの闘士としてナチスと戦い名を馳せた音楽学者ルイジ・ペスタロッツァだった。彼は大臣などの役職は一度たりとも引受けなかったが、長くイタリアの音楽事情に深く関わった。1960年代に、リコルディの経営陣が保守系から急進系へと大幅に刷新されて、ツェルボーニの作曲家たちは、一地方出版社だったツェルボーニよりも、より契約体系の保証できた巨大出版社リコルディ社に移ったのだと言う。その中ではドナトーニは最後までツェルボーニで粘った一人だ、とガブリエレは笑った。

どうしてレスピーギは、特に政治的犯的に捉えられるのか、と尋ねると、恐らくそれは、余りに地方色が濃いからではないか、と言うので、少し意外だった。ガブリエレ曰く、カセルラやマリピエロのような「国際的作曲家」ではなく、少しばかりロシアに留学はしたものの、飽くまでもイタリア国内でしか活動していなかったレスピーギは、単に広い視点で捉えられることが少なかったのではないか、というのが彼の意見だった。
彼とずいぶん話したお陰で、靄がかかっていた思いがすっきり晴れた。ナチスがローマを占拠していた時のカセルラも、戦後解放されたマリピエロも、是非演奏してみようと思う。そこから何か当時の彼らの思いが、或いは見えてくると信じている。

(11月30日ミラノにて)

イカの日

璃葉

夜明け前の空の下で、私鉄に揺られながら漁港へ向かう。四角い窓から見える空はまだ暗く、薄雲が広がっている。電車のなかでぬくぬく温まった体は、漁港へ着いてものの数秒ですぐに冷え切ってしまった。

友人Zの誘いによって、やっと実現したイカ釣りは、想像以上に楽しいものとなった。早朝に起きることに慣れさえすれば、漁港には何度でも訪れたい。

海から吹く風のつめたさにすっかり動作が小さくなったが、この日の気候はいつもよりも暖かいようで、集まった釣り師たちは、今日あったかいよねえ、などと呟き合っていた。

乗合の釣り船が沖へ動き出したとき、ようやく地平線から顔を出した太陽がゆっくりと空を昇っていく。太陽は雲の向こうから優しく海面を照らし、波は黄金色に呼応していた。船がスピードを上げるたびに水しぶきがかかり、心身ともに凍る寸前だったが、雲が去り青空が広がると海の色もたちまち碧くなり、体も芯から暖かくなってくるから、世界は太陽の力で動かされているのだと実感する。

私の釣りのセンスが皆無なのか運が悪いのか、なかなか釣れないままおよそ6時間が過ぎたころ、ようやく疑似餌に食いついたイカがゆらゆらと紺碧の水面の奥から浮かび上がってきた。その風貌はエイリアンのような、摩訶不思議なかたちである。このような方々がわんさか漂っていることを考えると、やはり海のなかは宇宙空間と同様なのかもしれない。

釣り上げたイカの透き通った乳白色が美しい。その半透明の体から勢いよく噴き出すイカ墨のどす黒さといったら! バケツのなかで墨を吐き出しながら暴れるアオリイカを眺めながら、一層美味しく食ってやろうと決意する。すっかり上機嫌になり、再び釣り糸を垂らすと、またもや竿が勢いよく曲がり、もう一匹釣れたかと心躍るが、姿を現したのは気味の悪い妖怪のような魚だった。アカヤガラという衝撃的なフォルムをした朱色の細長い魚は、刺身はもちろん、良い出汁が出ることでも有名らしい。周りの釣り師たちがニコニコ笑顔を向けてくる。私は潔く妖怪アカヤガラをZに譲った。

バケツの中のイカはすっかり落ち着き、底で怪しく動いている。私は何となく、このイカとずっと目が合っているような気がした。ぎょろりとしたその丸い目玉は、自身の行く末を解っているようだった。
友人3名で釣り上げた7杯のイカは、程なくして出張寿司職人の手に渡った。その宵、イカ達は信じられないほどの美味しい寿司と刺身になり、たくさんのヒトの胃袋のなかへ吸い込まれていったのだった。

能舞台に舞うジャワ舞踊

冨岡三智

去る11月25日に奈良春日野国際フォーラム「甍」能楽ホールでジャワ舞踊を上演する機会を得たので、今回はその話。この上演は日本アートマネジメント学会第19回全国大会の関連企画「能舞台に出会う」の一環で、能舞台の魅力を引き出すというのがテーマだった。私自身、能舞台でジャワ宮廷舞踊を舞ってみたいという希望を長らく持っていた。能をインドネシアで紹介する事業を実施した(水牛2007年2月号参照)のも、両者の空間感覚に通じるものを感じていたから。今回その希望がかない、しかも学会のサポートもあって照明の使用などをホールに認めてもらうことができたのを嬉しく思う。

●『ブドヨ〜天女降臨〜』

これは今回の私の上演題目で、ジャワ宮廷女性舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』の前半を1人で舞った。スリンピは4人の女性による宮廷舞踊、ブドヨは9人の女性による宮廷舞踊の種類で、演出や衣装が異なる。この曲は今ではスリンピだが、本来はブドヨとして作られた。振付やステップにブドヨの儀礼的な性格を色濃く残しており、かつ、ブドヨとしても最も古い時代のもので、演目としても「重い」。だから、今回はブドヨとして扱い、ブドヨの衣装であるドドット・アグンを着た。

能舞台で上演するならブドヨだと決めていたのだが、それは、ブドヨの起源が神代に天女が天界の音楽にあわせて舞ったことにあるとされているから。鏡板の松に降臨する天女が舞うとすれば、それはやはりブドヨだろう。ジャワの王はブドヨ上演を通じて王国の安寧を祈念する。それらの点が、天界の調べにのせて国土の繁栄を祈念しつつ、宝物を降らせながら昇天していく『羽衣』の世界に通じるように感じる。

ジャワ宮廷舞踊は四方舞であり、大地を踏むステップが多いブドヨには特に呪術要素が強い(水牛2004年4月号参照)。能と言えばその摺足歩行が注目されるが、たまに床をドンと踏みしめる音に私は惹きつけられる。ジャワ宮廷舞踊にも、床を踏み鳴らすステップがあるのだ(その音からドゥブゥッと呼ばれる)。このステップは民間舞踊にはなく、宮廷舞踊を特徴づけるものになっている。

●柱と床

ジャワ宮廷の儀礼舞踊は、プンドポと呼ばれる壁のない建物の中央の、四本の柱で囲まれたホールのような空間で上演される。この4本の柱(ソコ・グル)は高い屋根を持つ建築全体を構造的に支えているだけではなく、日本の「大黒柱」という言葉のように徴的な意味合いを持つ。4本の柱が四方:東西南北を象徴するとされるのは能舞台と同じである。高い屋根の梁には祖霊神が棲んでいるとされ、4本の柱は天と地=プンドポの四角い空間を垂直につなぐ。ジャワ王家ではソコグルは1本の巨木を4分割して採られるが、それは、世界は結局1つの軸でつながっていることを示しているかのようだ。ソコグルの柱の中には布で覆われ、供物が置かれているものがあるが、それはその柱に霊が宿っていることを示す。

能舞台とプンドポの空間感覚には通じるものがあると前に言ったけれど、少し違う部分もある。プンドポでは柱が重視される一方、能舞台では床面の方が重視なのではないかと今回感じた。舞台上では必ず白足袋を履くのも、床面の保護という物理的な理由以上に、清浄さを尊ぶからのように感じられる。ちなみに、プンドポの床面は王宮なら大理石である。そして、本来なら裾にバラの花びらを巻き込んで舞う。だから、裾を蹴り出すたびにバラの花びらがこぼれ舞い散って、まるで散華のように見えるのだが、日本だと能舞台でなくても室内でこの演出をするのは難しい。

能舞台の床面は想像以上に滑らかで、体重をかけると自然と滑り出してしまいそうだ。この床上で『安宅』や『石橋』のような激しい動きができることに驚く。ケンセルという横に滑る動きが、何のひっかかりもなく流れていく。もちろん、それは足袋を履いているからこそだが、長く引きずる裾(ジャワ舞踊の衣装)に載って滑る(無論、そんなことはしてはいけない)よりも、よく滑る。橋掛かりを退場する時に客席の方を向いてケンセルしたのは、天空を滑るような感覚が表現できそうに思ったからだった。

その橋掛かりだが、実際に見える以上に遠いと感じた。実際に歩いた時間は揚げ幕を出てシテ柱まで1分、そこから舞台中央前方まで30秒であり、ジャワ宮廷舞踊の上演時には5〜8分くらい入退場に時間をかける私にとっては、時間的に長いわけではない。けれど、思った以上に橋掛かりから観客も舞台も遠く、違う世界から1人で舞台に上陸していくという感覚が確かにあって、少し怖さを感じた。

●照明

今回の舞台で私がこだわったのは、地明かり以外に照明器具を持ち込むことだった。能では〜ジャワ宮廷舞踊でも同じだが〜、舞台全体をフラットに照らした中で上演し、スポットライトなどオプションの照明を使うことはしない。そこに、見せるための舞台芸術(ジャワで言うトントナン)ではないという古典芸能の矜持を強く感じる一方、世阿弥なら使ったかもしれない…と、不遜にも思うのだ。私は2007年にジャワでブドヨ公演をしたときにも照明を使ったことがある。舞踊の振付を分析すると、当時の演出家も照明やズームカメラ(映像なら)など様々な技法を使いたかっただろう…と確信できる点があったからだが、賛否両論の反応があった。今回も賛否両論あるだろうな…とは覚悟している。

今回照明をつけたのも、第一に振付自体に陰影を感じさせるものがあるからだが、第二に、空間的、雰囲気的(神秘的だとか)な奥行を作り出したかったからである。地明かり照明は舞い手の姿をはっきり見せる一方、空間をフラットに見せてしまう。しかし、能が描くのは幽玄な空間であり、ゆがんだ時空の裂け目に顔を出す非日常の世界なのだから、現代のような舞台技術があれば世阿弥もそれを利用するのではないか?と私には思えてしまう。

私は橋掛かりを通る時に鏡の間から一筋のように光を照らしてもらい、また、舞台にいる時は遠く上手から一筋の光を投影してもらった。このような使い方は意外だったようである。実のところ、私が照らしたかったのは自分自身ではなくて床だった。私は平面的な世界に影を落とす存在(天女だけど)として舞台に登場したかった。能舞台では柱よりも床が重要なように感じると前述したけれど、光が差し込み、地面で照り返し、それが対象物に当たって影ができてこの世が切り開かれていくような空間が能舞台には合うのではないかな…と私には思えた。それが成功しているか失敗しているかは見た人の判断によるのだけれど、少なくとも私自身が見たいと思う能舞台空間を演出しようと思ったことは間違いない。伝統芸能の舞台でも、演者の技量だけでなく空間自体を見せることを考えても良いのではないかと思っている。

https://youtu.be/Fy_SIfJpvWE

ダンス現在

笠井瑞丈

9月から『ダンス現在』と言う自主企画を始めました
天使館を会場とし電球とちょっとした照明で行う公演
この『ダンス現在』と言う企画名は15年前に笠井叡が
天使館での若手公演として使用していた名前です

父の作った事を少しづつ
自分なりの新しい形で
発信し引き継ごうと思う

花粉革命を踊る
それも同じこと

ダンスをする事
ダンスをする場

やりたいこと
実験的のこと

普段の公演では出来ないこと

照明の打込
音楽の演奏

作品を磨き
自分を磨く

踊る場所を探す
踊る場所を作る

少しづつ理想な形を作っていきたい

そんな公演

すこしづつ
すこしづつ
これから続けていこうと思う

少しづつ
少しづつ
地球に
侵色していけば

白の和紙に
色を垂らす

ダンス現在vol.1
小暮香帆とのデュオ作品『Duo』を上演しました。
ダンス現在vol.2
上村なおかソロ作品『Lief』を上演しました。

告知

ダンス現在vol.3 2018年1月14日 21日
『曉ニ告グ』
笠井瑞丈×鯨井謙太郒

どうぞおろしくお願いします

仙台ネイティブのつぶやき(28)思い出のブラウス

西大立目祥子

 セーター売り場で、いかにもウール100パーセントという感じのざっくりと編んだセーターが目にとまった。いいなぁ、ウールって。思わず手をのばしたら、となりの30代前半とおぼしき女性2人の会話が耳に入ってきた。「これいいけど、ウール100でしょ。縮むからいや」
 へぇ。確かに縮むし、虫食いにもあいやすい。でも、空気をふくんだ弾力感とか、細い繊維がより合わされて生まれる独特のやわらかさは、何ものにも変えがたい。私の中ではセーターの素材としては最上位にくる繊維だ。

 とはいっても、このごろは高価なせいか、アクリルとかポリエステルとかの混紡が主流になってきた。衣服全体がそうだ。そういう服を着て育てば、繊維の質を気にとめることは少なくなって、それよりはデザインや色を重視するようになるのかもしれない。

 振り返ってみると、衣服の素材の違いに気づいたのは10歳のころ。それは、母のお手製のブラウスを着せられていたからのような気がする。私の子ども時代は、既成の子ども服はそう多くなく、母親が家族のためにミシンで服を縫い上げることは、ごくごく普通のことだった。特に夏服はそうだった。婦人雑誌には型紙の付録がついていて、母はデパートの包み紙の上にその付録を広げ、ルレットという小さな歯車状の道具を転がして型紙をつくった。数日後、学校から帰ると、ミシンに掛けられていた目新しい布は私の夏の服になっているのだった。

 おしゃれな母にとっては、ミシンを踏んで子どもたちの服を縫うことは大きな楽しみだったのだろう。夏休みの家族旅行のときはワンピースを、海水浴のときは砂浜で着るガウンをつくってくれたし、仲のいい友だちと二人で着るおそろいの服も縫ってくれた。

 いまもよく覚えているお気に入りの夏のブラウスがある。襟先がギザギザと左右で4つに割れているデザインで、おもしろい襟だね、とよくほめられた。私が気に入ったからなのだろうか、同じ型紙で違う生地を使って母は何着か仕立ててくれた。シャリ感のある赤い木綿の半袖、白に緑の水玉模様の薄手の木綿、オリーブ色のウール地を使った八分袖…。袖の長さが違うだけで同じかたちなのに、薄い生地はよく風をとおし、少し厚手の木綿は体にまとわりつくことがなく涼しくて、ウールは断然暖かい。一方で化繊のワンピースは袖つけのところがチクチクする。袖を通し身にまとって1日を過ごす中で、子どもなりに素材による着心地の違いをかぎわけていたのだと思う。

 さすがに裏地のついた上着とスカートは、母の手に余ったのだろう。幼稚園入園のときは、知人がオレンジとベージュの千鳥格子のウール地をツーピースに仕立ててくれ、小学校入学のときは連れられて近くの洋品店に行き、薄紫の生地でこれまたツーピースをつくった。

 じぶんで縫った服も、よそで縫ってもらった服も、母は容赦なく批評をした。特に評価の低かったのが小学校の入学式にきた薄紫色の服で、「色選びに失敗した」とか「仕立てが田舎くさい」とか何度もいっていた。じぶんで縫ったブラウスにも「生地がぺらぺらで安っぽい、ああ失敗」とか「いい生地はやっぱり違う」とか、独り言のようにいうこともあった。

 いまこうして文章を綴っていて驚くのは、数十年前の服のディテールをじぶんがしっかりと覚えていることだ。からだが大きくなる時期だから何年も着たわけでもないのに、生地の色味や質感、ボタンのかたちまでが鮮明に記憶に残っている。手ざわりや身にまとったときの感触を、からだが覚えているからだろうか。

 服の組み合わせも思い出す。オリーブ色のウールのブラウスには、えんじ色のタータンチェックのスカートを合わせた。赤い木綿のブラウスには、茄子紺の麦わら帽子をかぶった。そして緑の水玉のブラウスには、小さな刺繍の入った紺色のプリーツスカートをはいた。
 考えてみると、タータンチェックも、麦わら帽子も、プリーツスカートも(いまはスカートははかないけれど)ずっと好きできたものだ。中学生のころに買ってもらったツィードのコートやニットのアンサンブルも、いまだに好きなアイテムだし、何よりはっきりした色合を好むのは母譲り。母の好むものを与えられる中でそれを受け入れ、服に対する母のつぶやきを聞かされながら、いつのまにかじぶんの好みをかたちづくってきたということなのだろう。

 こんなふうに書くといかにも仲のいい親子と思われるかもしれないけれど、そうではない。長じて私は生意気な娘となり、母とはことごとくぶつかり、共感を持って話をすることはほとんどないままにいまに至っている。
 それでも、ハンカチ1枚を選ぶときでさえ、白やピンクといったやさしい淡い色合いのものではなく、黒と赤と黄のチェックというようなまさに母の好みの柄を探すじぶんに、苦笑してしまう。

 先日、近くのショップで千鳥格子のコートを見つけた。わぁ、大好きな千鳥格子だ。エンジとベージュの柄に心が踊ったものの品質表示のタグを見てがっくりくる。ウールの混合率はわずかに10パーセント。これがいまの時代の肌触りなんだろうか。

誰もがサンタになりたがっている

さとうまき

大学生だったころ、サンタクロースのアルバイトをやったことがある。某デパートのクリスマスプレゼントをサンタが届けるという。綿の付け髭が何とも安っぽい。こんなの信じる子どもがいるんかと。当時の僕は20歳。痩せていて貫禄もない。

しかしだ。ピンポーンとドアをあけると子どもがウルウルしている。
「お母さん、嘘つかなかったでしょ!」と得意そうな母親。高学年の子どもですら、サンタを信じているんだ。

軽トラの助手席でお弁当を食べるとき、付け髭を外していたら、「子ども達の夢を壊すといけないので、髭はつけたままにしてください」しぶしぶ、髭をすこしもちあげて、もぐもぐとお弁当を口にもっていって食べたのを思い出す。

僕は、小学校に入ったらサンタの存在はおかしいとさとった。うちには、当時お風呂を薪でくべていたけど、小さな煙突しかない。あんなとこから入ってくるはずはないし、玄関は戸締りが厳しかった。一度夜に泥棒がはいったことがあり、父ちゃんも、かあちゃんも爆睡していて誰も気が付かず、朝居間が足跡で荒されていた。それ以来、戸締りには神経質だ。

父ちゃんに町のお店で、「あの赤い車買ってほしい」といったらそっくり同じものがクリスマスに枕元に置いてあった。どう考えても、父ちゃんがおいておいたとしか思えない。そこで、ある日、「サンタクロースなんていないんでしょ。父ちゃんがやったんでしょ」と問いただした。親は、あっさりと認めてしまった。ちょっとがっかりだ。

なので、こんな子供だましのサンタなんかあほらしいな、子どももだませないなと思っていたが、意外と、子どもは素直だった。それ以来、いつか、本物の髭が白くなってサンタになりたいというのが私の夢となったのだ。

東日本大震災では相玉県の騎西が双葉町の避難所になっていて、炊き出しに行くのにサンタの格好をしてJIM-NETのがんの子どもが描いた絵を使ったチョコを配りにいった。しかし、全然受けない。子ども達が喜んでくれると思ったのだが、実は数日前に、ノルウェーから見るからに本物のサンタっぽい人がやってきたらしい。

そのままの格好で、2歳半の息子にプレゼントを渡そうと家に戻ってピンポンとおすと、息子が出てきて、「あ! パパがサンタの格好している!」と見破られてしまった。

その息子も小学校2年生。普段会えないので、誕生日とクリスマスのプレゼントはどうしても贅沢なものに。こないだは任天堂のスイッチがほしいというからいいよいいよといったものの、さすがに、4万円もする。もう少し安物で何かないかと元妻に聞いてもらった。

こないだ、本人に会ったときに、「クリスマスに何がほしいんだい? ただし、一万円を超えたらだめだよ」といったら、「上限をきめるって、パパがサンタさんなの?」って聞いてきた。いままで、パパの貢献をアピールするために、クリスマスプレゼントはサンタじゃなくて、パパからだ! のつもりだったのに、元妻は、サンタさんからといって渡していたのか! と思えば腹立たしいのだが、「こいつ、サンタを信じているのか?」と思うとちょっとほほえましい。

「サンタは、みんなにプレゼントをくばるでしょ。君だけに高いものを買えないんだよ」と分かち合いの精神を教えたつもり。

ぜひ、クリスマスのプレゼントにJIM-NETのチョコを忍ばせて、助け合いの精神を注入してください。

https://youtu.be/y31TXTm66sg

チョコの申し込みはこちら
https://www.jim-net.org/support/choco_donation/

一ダースの月

北村周一

奥湯河原温泉にあそぶアーティスト河原温氏がえがく一月

崇高のひかりあまねくカーテンの隙間に踊りはじめる二月

震災が何かを変えたと思うまで絵を描くのみにすごす三月

絵空ごと熱しやすくて校庭のすみに小暗きタネまく四月

段階的明暗技法は身につかず気づけば嚏止まらぬ五月

『洗濯バサミは攪拌行動を主張する』の絵を新しく描きたす六月

バブル弾けても肩幅ひろきW着こなし夜明けまではしゃぐ七月

花煉瓦はなれんがためにふれ合うを意味をもとめて病める八月

置き去りにされしメールが和蘭のひかりの粒を夢みる九月

遮断機をくぐりし友が鉄道の錆びのにおいに噎せる十月

有名になる前のきみに逢いたくて階段駆け上がる十一月

駅頭に聖少女らが客寄せのベルをリンリンと振る十二月

音を手渡す

高橋悠治

ジュリア・スーのために書いたピアノ曲『夢蝶』のおかげで莊子を思い出した 偶然見つけた陳育紅の詩『印象』は周夢蝶の病後の印象 やせほそり/線香/けむり/雨ひとすじ/柳の枝/芦の茎/冬の太陽のようにほそり という回復のプロセス そのなかの芯のしなやかさが 甲虫の触角のような世界へのかかわりと しっかりした骨組みを失わない この詩の呼び起こすイメージを音で想像してみるうちに 周夢蝶という名から莊子の斉物論篇の「蝶の夢」を読み返した 荘周と蝶はちがう世界を生きている そうした物の変化は 人が蝶になるように記憶をつみあげるのではなく 忘れることで別な世界が立ち上がる それを音楽とすると こんな曲もできるかもしれない

自分で弾かないで 他のピアニストに渡したのははじめてだと思う それからジュリア・スーの演奏を聞いたとき 自分の楽譜は見なかった ことばで説明もしなかった これも莊子の物化に倣ったと言えるかもしれない

拍のような外側の時間尺度にしばられず 相身互いですすむ楽譜にも その都度のやりかたがある ひところのように作曲家の論理で図形楽譜を作ることはしないで 演奏者が慣れた記譜法をすこし変えて使い お互いの音符の長さが合わないようにしてあれば 自然と拍から離れる senza tempo という指定もできるが 何も書かなくてもそうなれば もっといい

大きなアンサンブルでは そうはいかない 指揮者がそこにいる さてどうするか いろいろためしてみたが なかなかむつかしい 田中信昭のように長くいっしょにしごとをした人には何も言わない 一度演奏された曲は 他の人が再演しても やりかたの一部は受け継がれる そうでないと……

東京佼成ウインドオーケストラの委嘱で『透影』を書いた それぞれの楽器の音が聞こえるように タイミングをずらす 最初3連音や5連音を使って書いたが 拍の始まりだけがいっしょになるのと 楽譜が無用に複雑になるので すべて16分音符で書き 演奏者が自分の感じでタイミングを早めたりおくらせて ずれをつくり さらに指揮者がテンポを不安定にするように指定してみた 

透影は几帳に映る人影 寝殿造の室内は足元の灯台しかなく 几帳は個別に置いていたらしい

最初の練習に参加して希望を伝えると 個々の演奏者については問題がなかったが 指揮者が管理をゆるめ きこえてくる音に反応してテンポを変えるほうは なかなかむつかしかった 指導をやめて司会進行役をつとめるのは職業倫理に反するのかもしれない 均等に書かれた楽譜を ロックのような16ビートにせず リズムやテンポをたえず崩していくのも そろって書かれている音符をばらばらにするのも 指揮する身体には耐えられないのかもしれない

オーケストラと指揮者は対面している 自立した音響体であるオーケストラに 指揮者が外部から介入して システムをかき乱す これはオートポイエーシスからまなんだやりかただが 数世紀の経験をもつ現実のシステムを変えるのは 別なシステムを立ち上げるよりむつかしい

それでも コントラバス・クラリネットやバストロンボーンの荒々しい低音 ピッコロ・トランペットや木鉦の切り裂くような高音をひさしぶりに聞いたのは クセナキスを演奏していた頃のような内蔵の快感ではあった

莊子秋水篇には「魚の楽しみ」がある 魚でないのに どうして魚の楽しみがわかるのか 論理ではない 感覚でもない 魚と荘周が近くにいて ちがう楽しみを生きている 直感も神秘もない

2017年11月1日(水)

水牛だより

ひと月ほど前倒しになったような寒さがしばらく続いたので、一部だけ冬の衣服を出して、半袖はしまいました。日本では四季があり、ひとつの季節は三か月です。その三か月を前の季節から次の季節かけての移行と考えれば、三日ごとに次の季節に向けて移っていく。それなら、持っている衣服で100通りの組み合わせができればいいわけですが、計算は計算で楽しいけれど、そうは単純にいかないのが毎日の現実の気候ですね。きょうの東京の午後は温かく、少し歩くと、白い山茶花が満開でした。もう冬、です。

「水牛のように」を2017年11月1日号に更新しました。
はじめての登場は溝上幾久子さん。以前からの知り合いであり、彼女のエッチングの工房を見にいきたいと思って、実現しないままです。最近のSNSでおもしろい投稿を見て、書いてもらおうと思ったのでした。今月に限ってではありますが、溝上さんと璃葉さんの絵の色合いが似ているのは偶然ではないかもしれません。

冬になるとチョコレートがおいしくなります。さとうまきさんのJIM-NETのバレンタインチョコには最初から寄付してきました。生死にかかわる重いことがらですが、そこに軽さとパンクが加わると抽象性が高まって本質がよく見えてきます。チョコレートの原料はカカオで、カカオの学名はギリシャ語で「神の食べ物」を意味するのだそうです。

それではまた!(八巻美恵)

心象風景としての山

溝上幾久子

このごろ、就寝前に「心象風景としての山」を画題とした習作を続けています。

実際に山にでかけるわけでもなく、山の写真を見るわけでもなく、その言葉どおり、こころに浮かんだ山を描いていく試みです。こころの山とは、記憶のなかの風景でもありますが、必ずしも記憶の再現というわけではありません。

画材は、クレパスにしました。クレパスはクレヨンよりも柔らかく、パステルよりも粘性があります。水彩用紙は凹凸があるので、クレパスをかなり強くこすりつけて描画します。そのせいなのか、紙の上で、色と色が混ざり合い、思いもよらなかった色が現れてくることがあります。

描き始めるときには、頂が紫色で、薄い群青の空ととけあっているような山の風景を描こう、などと一応プランはあるのですが、手を動かしていくうちにすぐさまその青写真は崩れてしまいます。必ずと言っていいほど、自分が何を描こうとしていたのかがわからなくなります。画面を思うようにコントロールできなくなり、谷底をさまようような心細さに見舞われてしまうのです。

それでも、意識はずっと「風景」におきながら、こころに浮かびつづける色と形を重ね、画面のなかで道をさぐるように描き進めていくと、やがて、画面が輝きだす瞬間がやってきます。そこではじめて、ひとここちついて紙の上の散策を終えるのです。そのときに絵は、すでに山ではなく抽象的な色と形の重なりにしか見えません。けれどそれは、わたしにとってはまぎれもなくわたしだけの山なのです。

心象風景をさぐろうとする試みは少しの苦しさと少しの喜びをもたらします。求めているうちは、まだしばらくは続けてみようかと思っています。こころがざわついているときには、この散策が気持ちを落ち着かせてくれると気がついたのは、思いのほかのことでした。誰の胸中にも山水があるというのは、ほんとうのことなのだと思います。


INNER MOUNTAIN (2017)  (c) Icuco Mizokami

仙台ネイティブのつぶやき(27)山の暮らしを継ぐ

西大立目祥子

 先月、山形で地域づくり活動をする若い人5、6人とお酒を飲む機会があった。みんな30歳ぐらい。出身地をたずねて、ちょっと驚いた。山梨、長崎、神奈川、大阪…と東北以外からやってきた人ばかりで、もちろん山形生まれは一人もいない。

 ざっくりとその理由を私なりに探ってみると、ひとつには1992年に開学した東北芸術工科大学の存在が思い浮かぶ。けっこう目的意識をはっきりと持った学生が集まり、地域と緊密なプログラムの中で学び、卒業後も山形に住み続けて仕事を起こしたり地域とかかわり続ける人たちが、少数とはいえいるのだ。

 そして、もうひとつは「地域おこし協力隊」という制度だ。2009年に総務省が始めたこの制度は、地方の町や村が都市の若い人たちを住人として受け入れ、集落の人たちと暮らしてもらいながら、農作業の補助から生活支援、地場産品の開発や販売、都市住民との交流などのにない手を育てようとするもの。期限は3年で、生活費や活動費が支給される。

 東京や名古屋、大阪などの大都市にますます人口が集中する流れの中で、あえて田舎暮らしを選択する人たちなのだから変わり種なのだろうけれど、それだけに都市の暮らしに限界を見て、自分自身の新たな生き方やこれからの社会のあり方を模索するのに一生懸命なのだろう。地域移住への足がかりにする人もいるし、任期の3年を終えたあと地域にそのまま定住する人もあらわれ、あちこちで活躍を耳にするようになってきた。この山形の飲み会でも3人が地域づくり協力隊、もしくはその出身者だった。

 実際、地方の町、特に山間地では息子・娘世帯は家を離れて都市に移住し、年寄りの一人暮らし二人暮らしが目立ってきている。ジジ・ババたちは案外と元気にたくましく生活しているけれど、冬場の雪かきや雪おろしはかなり難しくなりつつあるし、ぽつりぽつり次世代が離れていく集落の行く末を案じていることは確かだ。そこに若い人が飛び込んでいけば大歓迎、懐深く受けとめていろんなことを教えてくれるようだ。

 私の知人の息子も夫婦で子育てしながら、新潟のとある町の地域づくり協力隊となった。夫婦そろってミュージシャンである彼らは、家々の雪かきをこなし、自然農法の米づくりを見習い、地域の人が歌うときには生オケをつとめ、ときおり演奏に出かけていく。「地域づくり協力隊+アルファ」という生き方は、地域に根ざす生き方と自己実現という、これまで隔絶していた2つの価値をつないでいるように見える。

 福島のある町に出かけたときは、小さなワイナリーの入り口のラックに地域づくり協力隊の女性がつくったニュースレターを見つけた。一色刷りの表裏イラスト満載の手描きのレターは素朴な味わいで、田舎暮らしを満喫することばでいっぱい。電車やバスの少ない里山を舞台に軽トラでのデートコースを提案したり、東京と移住してからのおサイフ事情を比較したりしている。それを読むと、移住してからの生活費は都会暮らしの約半分。都会は「お金をかせぎほしいものを買う貨幣経済」、田舎は「自給自足など直接的な方法で必要なものをまかなう自分経済」とあって、「いなかで暮らすと生きていく方法の幅が広がっておもしろい」と率直な思いが記されている。(「おにぎり新聞Vol.2」二本松市地域おこし協力隊ニュースレター)
 豊かな中で生まれ育った若い人たちが都市と田舎を等価値に見て、むしろ人同士の付き合いが深く、モノのやりとりや知恵の出し合いをする暮らし方に共感を覚えているのが小気味いい。

 思えばずっと東北の人々は田舎を脱して都会に出ることを夢みてきたし、なまりを恥じて、小さな町や村の出身であることを隠してきたとろもあった。たとえば、宮城県出身者なら、「仙台生まれ」と答えるように。

 でも、彼ら彼女らは違う。山間の集落に入り込み、ともに田んぼや畑で汗をかき、収穫した野菜を農家の人からどっさりと受取りながら、土地で営まれてきた知恵と技を驚きをもって見つめ、人々の生き方を追いかけている。
 その姿に、私は新しい世代が登場したんだと感じるし、集落にかろうじて共同体や自然を活かした暮らし方が残っているいまこの時期に彼らが登場してくれてよかったとも思う。ぎりぎり彼らがその文化を継いでくれるかもしれない。

 山形で出会ったT君は、地域おこし協力隊になったのをきっかけに山形県鶴岡市の山間地にある大鳥集落に入り、マタギの見習いとなり、ひとり地元の人々に聞書きを重ねて『大鳥の輪郭』という民俗誌を仕上げていた。冬期間の積雪は3メートル。高齢化率は70パーセント。社会的には限界集落とよばれるこの地域の人々が、数百年にわたりどのように生業を保ち集落を維持してきたのか、60ページの一行一行に人々への畏敬と愛情とみずみずしい感性があふれていてすばらしい。それでいて、都会の人間が遠く自然の中で暮らす人々を外から眺めて礼賛するのとは明確に違う、内部に入り込まなければ決してつかみきれない圧倒的な自然の生々しさ、怖さも伝えようとしている。

 何人ものT君が、全国の小さな集落を今日もめぐり、地域の人々のために働いて居るはずだ。こうした若い人たちの現れは、私たちの暮らし方、社会のあり方の転換点を示しているのかもしれない。私には、彼ら彼女らがほころび始めた集落の、いやもっと大げさにいえば社会の修復の役割をになっているように見える。