団扇と女優

北村周一

私はことのほか団扇が好きで、汚れたり破れたりしても捨てることができずに大事に使って参りました。
団扇といっても、いまふうのプラスチック製のものではなく、骨組みが竹製の、少し大きめの団扇のことです。
私が子供の頃は、どの家にも目立ったところに団扇が一、二本は置いてありました。
夏はむろん涼しい風を起こしたり、蚊を追い遣ったりと出番が多いのですが、それだけではなく、台所や風呂のマキを焚きつけたり、炭や練炭の火を熾したり、ときには塵取りの代わりになったりと、用途はさまざまでした。
団扇には当時はやりの女優さんの顔が描かれていて、うらがわには、○○米穀店とか、△△酒造店とか広告が印刷されておりました。
団扇に描かれた、女優さんのまったりとした笑顔を見ていると、日常のよしなしごとがふと馬鹿らしく思えてきたことも、二度三度ではありません。
団扇そのものが醸し出す特別な雰囲気もありましたが、その団扇を手にしている人が、祖母であったり、父や叔父であったりと、持つ人によって場面が変わるのも興味深いことでした。
そしてなにより、風を送る相手があるときは、たとえば母が小さな子供を寝かしつけようと団扇をあおいでいるとき、また相手が、老いた病人のときなど、いろんな光景を思い出すことができます。

  ***

女優というお仕事に就いて、もうどのくらい経ちましたでしょうか。
長くこの仕事を続けていると、どこまでがほんとの自分なのか、わからなくなることがあるように思います。
ほんとうの自分といっても、それがどんなだかはっきりといいあらわすことはできませんけれど。
役を作っていくうちに、その一部が自分の中に残ってしまうことがあるのかもしれません。
自分自身が気づかなくても、まわりの家族が変だなと感じるときがあるようです。

私には三人の子供がいます。夫はすでに他界しております。
子供は、うえ二人が男の子、末が娘です。
長男は学校を出て独立しておりますが、した二人がまだ学生で、いまは三人暮らしというわけです。
私は仕事の都合で、いったん家を出ると帰りが遅くなりがちなので、朝食だけはみんなで摂ろうと決めて、子供たちも朝だけ一緒の食卓についてくれます。
とはいえ次男は、夫の死後ますます無口になってしまい、私がなにをいっても、軽く返事をするだけで、自分から話すことはめったにありません。
娘はといえば、思春期はとうに過ぎたというのに、学校へは行かず、たまにアルバイトに出かけているみたいですが、ふだんは夜昼逆転の生活をしております。
それでも三人一緒に朝食を摂るスタイルは変わりません。
娘も食堂にやってきて、テーブルにつくことはつくのですが、寝たふりとでもいうのでしょうか、目を瞑ったままじっとしているだけで、なにもものいわず椅子に座ったままなのです。
私が出かけた後にひとり食事しているのでしょうが、なんとももどかしい限りです。
そんなある日、風邪でも引いたのでしょうか、娘が自室から降りて来ず、次男と二人だけの朝食となりました。
あの娘、眠たければ、あんな寝たふりなんかしてないで、
自分の部屋で寝てればいいのに、
なんかあてつけがましいわよ、と次男にそれとなく話しかけてみました。
次男は黙って聞いていましたが、食事を済ますと、ぽつんとつぶやくように、こういいました。
あいつ、寝たふりしてるんじゃないよ。
ほんとうに寝てるんだよ。
みんな一緒になると、落ち着くんだってさ。

病人生活

璃葉

ずいぶん息苦しい場所をさまよっていた。充分な酸素を得られず、ここがどこなのかもわからない…。宇宙のような、海のような感覚をただ泳ぎ続ける。

これが夢なのだと気付いて、じわじわと目を開く。部屋は真っ暗で、カーテン代わりにしている布の隙間からほんのり青い光が漏れていた。明け方なのか暮れ時なのかがわからず、一瞬戸惑う。
外では風が強く吹いているようだった。台風が去っていった後の朝だ。

ひどい風邪の原因は思い当たる。友人宅で夜通し酒を酌み交わし、そのまま泊まり翌日、二日酔いのまま嵐のなか選挙の投票に行き、自宅にもどって雨に濡れた格好でしばらく過ごしていた(部屋はとても寒かった)あの日。
布団をかぶりながら自分の馬鹿さを思い出しては、唸ってしまう。気付かないうちに、弱った体にすかさず風邪菌様が住み着いたのだ。憎らしい。

久しぶりの病人生活はすぐに飽きた。8割は寝て、目が覚めれば映画を見たり、読み途中の本を手にとってみたりする。最初は意外と楽しかったが、やっぱりつらい。わたしがいまできることは、死んだ魚のように横たわるだけだ。日差しが東から入り、西へ消えていっても、わたしは何も変わらずそこで眠るだけなのだ。

その後、台風はまたやってきた。光がほんの少ししか部屋に届かないので、昼間から白熱灯をつける羽目に。
布団に包まれ、窓硝子にバチバチと音を立てて当たる雨粒をずっと聞いていた。時々起き上がっては、やかんで温めた白湯をひたすら飲んだ。このまま焼酎で割ってやろうと酒瓶に手を伸ばすが、これ以上ヘマをしたくないので既のところで止める。
風邪は高熱でわたしを苦しめた後、咳だけを残していった。その咳がさらにわたしを苦しめるので、本当に泣きそうになる。
「咳やのどには絶対に蜂蜜」と友人に言われたことを思い出した。そういえば、幼い頃風邪をひいたときも、よく舐めた気がする。

明け方、むくりと起き上がり、灯りもつけないままキッチンを物色し、瓶にたっぷり入った「りんごはちみつ」を手にとる。
スプーンたっぷり一杯すくった蜂蜜を湯のみに入れ、お湯を注ぐと、ほの暗い部屋の中に甘い湯気が立ち昇る。
外では風はまだ強く吹いていたが、空は晴れている。昨日の嵐で、桜の葉はすっかり散っていた。
枝に残された葉はまさに蜂蜜の色そのもので、朝日に照らされ輝いていた。

アジアのごはん(87)ビルマの和え麺ナンジー・トゥッ

森下ヒバリ

ビルマ(ミャンマー)の都市ヤンゴン8日目。久しぶりに日本料理屋に行って、和食を食べるつもりだったのだが、お目当ての店「SAKURA」は見事にお休みでシャッターが下りていた。しかし、ココロはすでに和食モード。この近所にないかな? 地図で探すと、もうしばらくマハバンドゥーラ通りを行けば「横綱」という店がある。うまいかどうかは分からないが、まあとりあえず行ってみよう。てくてく歩いて、辿り着いたらここもお休み。ああ、日曜日だもんな。

腹ペコで、もうなんでもいい。通りの反対側にYKKOという店があったが、ビルマに似つかわしくない、ピカピカしたファミリーレストラン風。う~む。その近くにかわいらしい手作りのタイ料理屋の看板があった。数日後にはタイに戻るのにタイ料理もねえ。とりあえず矢印にそって小路を入り店の前に行くと、その隣にもビルマ食堂らしきものがあった。

「バーマース・トラディショナルフード」とビルマ語の看板の下に英語で書いてあるのが読めた。半分開けっ放しの食堂に入ると、大きな黒板にビルマ語でメニュウが書いてある。作り置きのヒンと呼ばれる油煮込み料理がトレーに並ぶ、いわゆるビルマ定食の店ではないようだ。まあ、他の客が食べている料理を指させばいいだろう。

テーブルに座ると、少年が注文を取りにやって来たが、英語は通じない。みんな何を食べているのかときょろきょろしていると、マネージャーぽいおじさんが簡単な英語のメニューを持って来てくれた。おお、すばらしい‥しかし、読んでもどんな料理かほとんどわからない。

「う~ん、ナンジー・トゥッ?ライスヌードル・チキングレービーっていうのはどう?」「それ何?」「知らないよ‥あんかけ麺かな」マネージャーに聞くと、厨房とつながったカウンターに連れて行ってくれて、茹でておいてある白い米麺を指差した。おお、まるで稲庭うどんのような麺。こんなうどんのような太い米麺はまだ食べたことがない。

じゃあ、これね、と注文したところでカウンターに他の客の卵焼きのせご飯が出てきた。タイのカウ・カイジヨウとまったく同じだ。しかもトマトなんかも入ってすごくおいしそう。もうひとつはコレ~!と無事注文を終えて、まつことしばし。

先に麺が出てきた。あれ、あんかけじゃないのか。汁けのない和え麺である。ちょっと黄色いたれに絡まった麺の上にはゆで鶏肉の裂いたのと香草がのっている。付け合せに茹で卵とライムが添えられている。わたしは、鶏肉がどういうわけか5年ほど前からほとんど食べられなくなったので、これは相方の分である。このバージョンで豚肉とか魚はないのかと聞いたが、ないとのこと。ふうん?

「あ、これ‥!」ライムをぎゅうぎゅうと麺に絞ってかけ、かきまわして一口二口食べた相方が、ぱあっと顔を輝かせて叫んだ。「これ、スパゲティやわ、なんてったけ、ほらあれ!」「はあ?」何アホなこと言ってんの、と思いつつ一口味見してみた。「う、うまい。これはあれやわ、カルボナーラ!」「そう、それそれ!」

なぜ、米麺にチキングレイビーソースを絡ませたら、生クリームと生卵・ベーコンのカルボナーラ味になるのだ! もちろん、乳製品も生卵も入っていない。何か不思議な調味料でも入っているのか? ビルマの麺料理は奥が深い、深すぎるぞ。

日本に帰って、いろいろ調べてみたところ、最初に見つけたナンジー・トゥの作り方はこうだ。

太い米麺ナンジーを茹でる。チェッターヒン(ビルマのチキンカレー)の汁を絡ませ、チキンの身をほぐしてのせ、香草を刻んでのせ、ライムを絞る。
え、残り物のチキンカレーで作る料理ですか?

さすがに、それは家庭での話らしい。きちんと作るには、玉ねぎ、ショウガ、ニンニクを刻んでたっぷりの油で煮て、チキンを加えてパプリカパウダー、粉トウガラシ、ターメリック、魚醤(ナムプラー)を加えてさらに煮て水分を飛ばし、(つまりビルマチキンカレーを作り)それを茹でた麺と和え、焼いたひよこ豆の粉をふり、香草をちらし、ライムを絞る、という。

ビルマ料理の中核をなす、油煮込み料理のヒンは、カレーというにはスパイスをあまり使わない。なので、インドカレーに比べるとおだやかな味である。油分が多いのだが、この油にはうまみが濃縮されている。しかし、油になれていない日本人は食べ過ぎるとお腹を下すので要注意だ。ビルマカレーを食べるときは、上に浮かんでいる油はなるべく食べないように‥って残すのはもったいないしな~。

やっぱりナンジー・トゥッは残ったカレーの油っぽい汁の再利用から始まっているのかも。ひよこ豆の粉を加えることで、まろやかなコクがでて、カルボナーラみたいな味になるのかも。ライムの酸味も重要そうだ。そういえば、うちには、米粉と合わせて使うと風味が上がるので、ひよこ豆粉が常備してあるではないか。ほかには、入手困難なスパイスも使わないので、ナンジー・トゥッを再現できるかもしれない。

もちっとした太い米麺というのも、他のアジア諸国では見かけない。この麺だからこそ、スパゲティのような食感がでるのだ。ビルマの米麺には、ビルマ族が主に食べるインディカ米で作った米麺と、シャン族が食べるジャポニカ米で作る米麺、米粉を発酵させて作る中華系のビーフンの三種がある。インディカ米の麺は、モウヒンガーに使う細麺、中太麺、太麺、平麺、切り麺の種類があり、麺料理によって使う麺がだいたい決まっている。

ビルマの麺料理と言えば、魚の身をすり潰してスープに加えたカレー風味の米麺モウヒンガー、そしてココナツミルクの入った鶏だしスープの小麦中華麺オンノカウスエ、そしてシャン族の米麺シャン・カウスエが有名である。考えてみたら、これまでこの三種類の麺料理しか食べたことがなかった。ナンジー・トゥッのおかげでビルマの麺料理にはまだまだ広い世界があることが分かって、楽しくなってくる。

卵焼きのせご飯もやって来た。スープとキャベツの浅漬けが付いてくる。このキャベツの漬け物がまたうまい。ビルマの漬け物はどこで食べてもはずれがない。先日行ったシャン・ヌードルの店では、付け合せの高菜の漬け物がおいしくて友達の分ももらって三人前も食べた。う~ん、乳酸菌をたっぷり補充して満足。

市場に行くと、さまざまな塩辛の調味料が山積みされていたし、大きな桶に入った漬け物コーナーも充実していた。漬け物は米のとぎ汁と塩を入れて乳酸発酵させるタイプが多い。青菜、大根、たけのこ、ほか何種類もの野菜の漬け物桶が並ぶ姿を見れば、いかにビルマ人が漬け物好きか分かるというものだ。日本人はあまりしない利用法だが、乳酸発酵の漬け物は漬け汁ごとスープなどの料理にも使われる。その他、発酵させた豆の煮もの、魚の馴れずし、お茶の葉の漬け物ラぺ、などビルマは発酵食品の宝庫であった。

人口の7割を占めるビルマ族、そのほかタイ系のシャン、カチン、カレン、カヤー、チン、ラカイン、アラカン、先住民族のモーン、ピュー、インダーなどビルマには135もの民族がいる。多民族国家なのだ。長い歴史の中で、交流の多い民族間では食文化も互いに影響し合い、区別がつかないほど同化しているものもあるが、ビルマの国の食は民族のバラエティに富み、滋味あふれ興味が尽きない。

オタク的なサブカルチョコレート

さとうまき

寒くなってくるとチョコレートの季節。

今日は、昨晩から新宿に泊まり込んで、駅の地下にあるベルクというお店にチョコを置いてもらうために、朝の5時30分から作業だ。夜明け前の新宿。血を流してへたりこんでいる若者がいる。ハロウィンの仮装だ。ガード下にはホームレスが寝ていて、こちらは仮装ではなさそう。

イラクの子どもたちの絵も展示してもらえるというので、今年の缶の絵を描いてくれたSUSUの絵を、加工したものを作った。1960年代のポップアートを2017年という時代に焼き直してみるというコンセプト。技術は進歩して、フォトショップを使って家庭用のプリンターで打ち出すだけでいい。

広告が氾濫するように、メッセージが氾濫してほしい。僕らは、イラクのがんの子ども達を支援しているわけだが、「もっと薬を!」みたいな支援を訴える広告性だけでなない。SDGsに絡めて、みんなが医療を受けられるようなシステムづくりといったアドボカシーや、劣化ウランを廃絶せよとか、核兵器反対、NO WAR などのメッセージを氾濫させる。フェースブックでも簡単に拡散できる時代だ。しかし残念なことに、流れに乗らないと誰も見向きもしてくれない。新宿のベルクは一日1500人のお客さんが来るから、否が応でも、一か月は僕たちのアートに触れてもらえる。

さて、今回使った絵を描いてくれたのがSUSU。アニメのキャラクターのような絵を描く19歳。イラク、バスラの貧困街で生まれ、10歳で卵巣がんになる。闘病中は絵を描いて過ごすした。がんを乗り越えるが、学校には行かず引きこもりに。2013年に私が彼女の家を訪ねたときは、ほとんど口もきいてくれなかった。

アニメのキャラクターのような絵でチョコを作るのは結構難しいが、イラクのがんの子どもの絵をパラパラ見ていると、ディズニーキャラはもとより、スポンジボムとか日本風のアニメもある。ピカソのようなオリジナリティあふれるものは実は少ない。

思えば、日本の文化で海外で評価されているのは、昔の、ソニー、キャノン、トヨタ、すごい!という時代は終わっていて、日本といえば、漫画やアニメやゲームのオタク文化であり、世界の潮流になろうとしている。日本語でゲームをしたいとわざわざ日本語を勉強する若者もいる。なので、今回はそういうオタク的なサブカルに挑戦することになった。

SUSUの協力が必須で、アルビルまで呼び出してきてもらった。お母さんが一緒じゃなきゃいやだというのはわかるが、マナール先生も一緒じゃないといやだという。まあ、バスラからアルビルは、飛行機もそれほど高くないからお安い御用ではあった。

2017年に再会したら背も僕よりも大きくなっていた。2013年の印象が強く、恐る恐る話しかけてみたら、結構明るくなっていた。病院を訪問し看護師やソーシャルワーカーに自分の体験を話してもらった。結構本人も感じるところがあったのか、お母さんも、「バスラにいるときとは信じられないくらい積極的」だったという。

その後JIM-NETのスタッフとして働くことになった。さて、そのSUSUがメッセージを書いて送ってくれた。
「それまでの私は、普通の10歳の子供と同じような人生でした。しかし、それから一か月もしないうちに、私の人生は完全に変わってしまいました。私の体調は非常に悪くなり、痛みもひどくなりました。
様々な検査を受け、癌という結果が出ました。そして手術を受け、手術は無事に成功しました。手術で私の体から腫瘍を取り除きましたが、医師の考えと検査結果から化学療法を受けなくてはならなくなりました。
私は自分の運命、未来を知りませんでした。癌とはどういう意味なのかさえも知りませんでした。癌は他の病気と一緒で薬を服用したり、注射をすれば治るものだと思っていました。
病院では毎日たくさんの子どもの患者が、私の眼の前で亡くなりました。そのことは私の人生の中で、最もつらい出来事でした。
化学療法は他の治療と違って、私の容姿と心を完全に変えてしまいました。痛みがあったり、時々食欲がなくなり、免疫が弱くなりました。そして家族は、私がもうすぐ死んでしまうのではないかと恐れていました。
さらにつらいことは、人々が私を死が近づいている子どもであると、憐れみの眼で見ることでした。また彼らは、癌は伝染する病気と考えていたため、私に近づこうとはしませんでした。
私は、彼らが私の髪の毛がないことを笑ったり、質問したりしたことを、今でも覚えています。そして学校にも行けなくなりました。
しかしながらこれらすべてのことは、私を強くしました。自分は気にしていないし、強いということを見せようとしました。そして徐々に強さと笑顔を見せるようになりました。
私は治療を終えましたが、癌が再発しました。それでも癌に打ち勝ち、2010年にすべての治療を終えました。
私は、私よりも強力な病気と闘って勝ったことを誇りに思います。私の体験談や、絵が多くの子ども達にちょっとした笑顔を与えて、たくさんの癌をやっつけてくれたらいいと思います。
私を優しく支えてくれた医師たち、家族、先生たちとJIM-NETに感謝しています。」

今回の展示ではSUSUだけだはなく、2009年に目のがんで亡くなったサブリーンが描いた絵もリメイクしている。実はSUSUの本名はサブリーン。2008年にSUSUが病院に来て初めてサブリーンに出会った時のこと。
サブリーンは、SUSUに、「この病院には、2人のサブリーンがいるのね。でも私はもうすぐいなくなるのよ」と言われて、当時10歳のSUSUにはよくわからなかったが、一年後にサブリーンが亡くなった。そして次は自分かもしれないとおびえていた。サブリーンが、イラクのがんの子ども達のために絵を描き続けたことを改めて知り、遺志を継ごうとしている。是非見に来てください。

ベルク 11月1日―11月30日(7:00-23:00)
「イラクとシリアのHappy なアート展」

さつき 二〇一七年十一月 第七回

植松眞人

 母が仮住まいと呼んでいる青い屋根の小さな家に引っ越してきてから、まだ一ヵ月しかたっていない。それなのに、私はもうずっとここに住んでいるみたいに、この家に馴染んでいた。前の家にいるときよりも、その狭さが私と父や母との距離を縮めているからかもしれない。
 でも、距離が近くなった分だけ、母がこの家を仮住まいとしか呼ばない気持ちもひしひしと伝わってくるし、父が引っ越しをはさんだ一週間ほどだけいなくなっていた理由もわかるような気がした。
 そして、どうしたって、人は新しい環境の中でだんだんとそこに慣れていくのだ、ということを私は知ったのである。もしかしたら、父は少しでも早く、仮住まいに慣れることで、ここしばらくのごたごたをなかったものにしたいのかもしれない。そして、母は仮住まいに慣れずに抗うことで、微かな希望のようなものを見失わないように必死なのかもしれなかった。
 北朝鮮は中途半端にミサイルを飛ばし続け、アメリカはそれを叱りつけ、日本はよく意味のわからない総選挙をして、十一月もそろそろ半ばを過ぎた。
 選挙の日には選挙権のない私も一緒に投票所に行く、という慣例は今回も守られ、東京の帰りにファミレスに行って、ちょっといいメニューを頼む、というルールもいつも通り守られた。
 私たちのルールはいつも通りだったのだけれど、選挙そのものはこれまでになかった政党を都知事が急に作ってみたり、そこに合流しようとした既存の政党が合流を断られたり、選挙権のない私が見てもてんやわんやだった。そして、選挙前に父が話していたとおり、お金持ちがもっとお金持ちになりそうな、お金のない人がもっとお金のない人になりそうな、そんな準備が整ったのだと思った。
 あ、それからもう一つ、いつもと違うことと言ったら、今年の十一月がやたらと寒いということだった。選挙でみんなが熱を使い果たしたのか、どうしようもないくらいに寒い日が続いた。昼間の日差しがあるうちはまだましだけれど、朝なんて真冬のように起きるのが辛くて、布団に潜ったままでいたくなる。
 また冬が来る。ただ冬が来るだけなのに、なにか今年の冬はいつもより寒くて厳しい冬になりそうだ、とまだ子どもの私にも予測できた。しかし、その対策を何一つ考えられないことが狂おしい。
 家の中にいるのに、本当にこのまま凍え死んでしまうのではないかと思ってしまう。本当に気温が低いというだけではなく、仮住まいがいつまで続くのかとか、母はちゃんと持ちこたえるのかとか。ちょっと壊れている父はなんとか元に戻れるのだろうかとか…。
 そんなことばかり考えていると、私は今年の冬の寒さが厳しくならないようにと祈るばかりだ。昔、ある漫画の主人公がおばあちゃんから言われていた言葉を思い出した。
「人には怖いものがいっぱいあるけど、いちばん怖いのは寒さやで。寒い、ひもじい、死にたい。この順番に不幸はやってくるんや。そやから、まず温かいもんを食べる。そしたら、とりあえず大丈夫や」
 その漫画を読んだとき、まだ私は小学生だったけれど、なるほどその通りだとものすごく納得したことを思い出した。
「ねえ、今日は何時に帰ってくる?」
 母が聞いて、私は
「今日は普通に授業があるだけだから、そんなに遅くないよ」
「だったら、晩ご飯の買い物に一緒に行こうか」
 私は母の提案にうなずいてから、母と夕飯の買い物に行くなんて、もしかしたら、一年以上ぶりじゃないかと思い、驚いた。

   *

 夕方、母は学校の近くまで来て私を待っていた。以前、母が私に聞いたことがある。
「学校の友だちに、親を見られるのって恥ずかしくない?」
 私は「そんなことないよ」と答えた。すると母はこんなことを話してくれた。
「私が子どものころ、親と出かけていて、大好きな男の子に見られたの。そしたら、翌日、その子に、『お前、お前んちのおばさんにそっくりだな』って。あたりまえよね。自分のをお母さんなんだから。でもね、なんかその時、私はがっくりと落ち込んじゃったのよ。そうか、私はお母さんと似ているのかって思っちゃったのよ。それから、妙に意識してしまって。私、お母さんと、つまりさつきのお婆ちゃんと、一緒に出かけるのを避けるようになっちゃったよ」
「母さんはどうして、お婆ちゃんと似ていることが嫌だったの?」
「わからない。大好きだったし、顔が似ているのも嫌じゃなかった。きれいな母さんだなあって思っていたし」
「うん」
「たぶん、他人に母と似ていると言われたことが悔しかったのかもしれない。もっと深いところでつながっていると思っていたのに、誰から見てもわかる顔が似ている。そう指摘されたことが嫌だったのかもしれない。ちょっとわからないよね」
「うん。そうだね」
「私もよくわからないんだけど、なんとなくそんな感じだったと思うんだ」
「でも、私はそんなこと全然ないよ」
「そうなの?」
「母さんや父さんと出かけるの好きだし、それを友だちに見られてもなんともない。大好きな男の子になんか言われたら…。う~ん、それはもしかしたら、内容によってはちょっと傷ついたり怒ったりすることもあるかもしれないけれど、まだ経験していないことをあれこれ考えても仕方がないし」
「そうだね」
 母は、そう言うと少しのあいだ黙った。そして、気を取り直したように顔をあげると、私に「母さんもさつきを見習おうっと」と言うと、ちょっとわざとらしい気もするけれど、楽しそうに私の手を握って、私たちは商店街のある通りへと向かって歩き始めた。(つづく)

創作ダンス?

笠井瑞丈

姪っ子からラインがくる

「学校の授業で創作ダンスの振り付け考えなきゃいけないんだけど
どうしていいか皆目検討がつかなくて
ざっくりでいいから考え方を聞いてもいいですか?」

確かに創作ダンスとはなんなのだ?
自分がやっている事なのに
いざ言葉で説明しろと言われると
かなり説明に困る。

よくダンスやってますと言うと

だいたい

「ヒップホップ」
って聞かれる

「いやそうじゃなくてコンテです」
そうすると

「それどういうダンス」

この時にもなかなか説明するのに困る

そもそもダンスと言っても

コンテポラリーダンス
モダンダンス
舞踏
ヒップホップ
バレエ
社交ダンス
等等等

たくさんあるし、これもひとくくりに創作ダンスと言ってもいい。

そして姪っ子に
悩んだ末
たたき出した五つ答え

創作ダンスとは
 ↓
1. 今までの人生でやったことのない動きを探す
2. カラダの自由を探すこと
3. 意味のない動きの連続性
4. 無意識で動かず意識的に動く
5. 自分がダンスと思わないことをダンスする

こんな回答でよいのだろうか!!
ちゃんと自分のやってる事を答えられるようになろう

これからも踊っていきます

しもた屋之噺(190)

杉山洋一

カタロニアの独立宣言を東京で知り、かなりの衝撃を受けています。イギリスのEU脱退と同じか、それ以上に驚いていますし、絶対に回避してくれるに違いないと信じていたところもあります。今月はイタリアでも国民選挙があって、北部の自治権拡大を強く支持する結果になりました。ただ、「北部同盟」のように北イタリア独立を求める声は、少なくとも周りにはありません。
一等地に住むアリストクラシー以外、現在でもミラノに住んでいる、生粋のミラノ人など、全体の何パーセントなのでしょう。周りを見回してもあまり思いつきません。教えている学生たちも、大体親の世代に南から移住してきた家族が目につきます。南には仕事がないので、北に移住してくるのです。
ミラノでも、少し離れたブリアンツァの小都市に出かければ、恐らく今でも土地の出身者はそれなりの数住んでいるのかもしれません。
カタロニアの事情は分かりませんが、少しは近しい部分もあるのかも知れないと思いながら、移民者の一人としてニュースを読んでいます。

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10月某日 ミラノ 自宅
今月末で家人の滞在許可証が切れるので、更新に必要の書類作りに奔走。驚いたのは、現在まで10年も滞在許可証を貰っていて、市役所に戸籍登録されていなかったこと。最初は何かの手違いだったのだろうが、今となっては原因は分からない。改めて戸籍登録をして事なきを得る。
最初はミラノの市役所に出かけて、該当する人物は見つからないと言われ、あなたと子供さんだけモンツァから転出されてきている、きっとあなたはモンツァに奥さんの戸籍を忘れてきたのよと笑われ、朝一番の列車でモンツァの市役所まで出かけて尋ねると、「スギヤマ」は何人か登録されているが、該当する「スギヤマ」はいないようだと言われ、狐につままれた思いで帰宅した。
日本で、外国人不法滞在者や不法移民が話題に上ると、決まって自国へ早急に送還すべきと言われるので、正直なところ、内心穏やかではない。日本の滞在許可申請について明るくないが、申請書類を準備するのに思いがけず時間がかかったりして、全く不可抗力的に滞在許可証が切れ、再発行手続きが間に合わないことも考えられる。事実イタリアでは、以前は滞在許可証が切れても何日以内かに申請すれば、更新手続きとして受領して貰えたが、現在どうなっているか分からない。保育園や小中学校の子供の声は近所迷惑で、育児休暇もむつかしく、子連れの外出も憚られ、出生率は当然低下しつつ、外国人は風紀を乱すし、外国人でもクリアしなければいけない専門職の試験は、我々でも分からないむつかしい日本語が並び、近隣諸国は嫌いだとすると、これから日本の国力はどうやって上げてゆけるのだろう。
まあ、怪しげな移民の立場では偉そうなことも言えない。

10月某日 パドヴァ ホテル
ヴェニス行き特急に乗り、ヴェニス一つ手前の停車駅、パドヴァ駅で降りる。この街には、今から20年以上前に、一度だけパドヴァ大学の演奏会にやってきた。当時は伊政府給費が突然止められた時だったから、文字通り無一文で、作曲の先生だったゴルリがそれを見かねて、自分のアンサンブルの演奏会の折に、アシスタントとして雇ってくれた。何をするわけでもないのに、一緒についてゆき、ホテル代も出してもらっていた。リハーサルを聴いて、バランスや音間違いなどをチェックした程度だったに違いない。本当に彼のお陰で生き長らえたと改めて思う。パドヴァ大の演奏会で、確か「主のない槌」がプログラムにあったような気がするが、間違っているかもしれない。場末のホテルにチェックインした時、彼がホテルに出した身分証明書にアレッサンドロ・ゴルリと書いてあって、初めて本名はアレッサンドロで、通名がサンドロと知った。あの時は、とても寒くて、暗い印象ばかりが残っている。実際にその通りだったのかもしれないし、鬱々とした毎日を過ごしていたのかもしれない。
食べるものにも事欠く状態だったはずなのに、食事に関してはあまり惨めな印象が残っていないのは、市役所を罷めて八百屋を始めた友人がいたからだ。
相変わらず曇り空で肌寒いパドヴァ駅で、そんなことを想う。

10月某日 パドヴァ ホテル
いつもリハーサルに出かけるとき、忘れ物がないかととても不安に駆られる。幸い楽譜は揃っていたが、本番用の黒シャツを詰めるのを忘れていた。
パドヴァ駅の案内所で男物の洋品店を尋ねると、駅の向かいにあると云う。そこは中国人が経営する所謂場末のアウトレットだったが、黒シャツもちゃんと一種類置いてある。17ユーロ。一体、どこで誰が、どんな状況でこれらの製品を作っているかと思う。昔モンツァの集合住宅に暮らしていた頃、隣の部屋は階下の中華料理屋の使用人たちが暮らしていた。とても狭い部屋に一体何人暮らしていたのだろう。何度か警察がやって来たのを覚えている。或る日突然、その部屋の玄関が開け放たれ、中はがらんともぬけの殻になっていて、仰天したことがある。警察に捕まったのなら、調度品など残っていそうなものだから、夜逃げしたのだろうと家人と話した。
捕まっていなければいい、理由はないが漠然とそう思った。夕方になるとランニングシャツ一枚の中国人が、へろへろの外に突き出た通路にもたれて煙草を吸っていて、イタリアは好きかと聞くと、寂しそうに笑って、「家に帰りたい」、とたどたどしい伊語で答えた。
今回パドヴァでリハーサルするプログラムに、カン・ヘスンを独奏者に迎えて郭文景(Guo Wenjing)のヴァイオリン協奏曲があるのを思い出し、マオカラーの黒い国民服みたいなシャツはないか尋ねてみる。一瞬怪訝な顔をしたが、果たしててらてらの中国生地のシャツがあって、15ユーロ。どちらが本番服に合うかわからないので、二つとも購入して計32ユーロ。安い製品を購入するのは、搾取される労働力に幾何か還元する唯一の道なのか、さもなければ奴隷扱いに等しい経済構造にただ拍車をかけるだけなのか。

10月某日 パドヴァ ホテル
パドヴァ・ヴェネト州立室内管リハーサル。古くはヴィオラのジュランナ、暫く間までピアノのアシュケナージが音楽監督だったが、現在のアンジュスに替わって以来、近現代作品を演奏する回数が飛躍的に上がった。ジュランナとグッリと録音したモーツァルトの「協奏交響曲」の名演が忘れられなくて、このオーケストラと現代作品を演奏する現実感が伴わない。練習会場は、郊外の宗教施設に併設された古い劇場で、時には映画も上映していた風情も漂う。外のインターホンにはオーケストラの名前が書かれていたし、2階には事務所と楽譜庫があったから、今は専らリハーサル会場として使われているようだ。
愕いたことに、リハーサルが始まる14時から15時半まで、一帯が工事停電する、と今しがた通告されたと言う。どうしましょう、とステージマネージャーは困り果てた顔をする。最初のリハーサルは、筝の後藤さんを迎えた岸野さんの作品だったが、左右舞台脇の出口の扉を開け放して、外からの寂しい光を頼りに練習を始めた。
光が多少は入ったところで、映画館のような漆黒の空間に差し込む二筋の太陽光では、到底オーケストラが練習できる筈もなく、暫く試してすぐに頓挫。冗談みたいなことを、真剣に出来ると思う不思議。イタリアに歴史に残る天才が数多く残る証かも知れない。
夜、散歩中に見つけた「狙撃隊」というヴェネト料理屋に入る。「肉が食べられないのですが、何かありますか」と尋ねると、烏賊の煮込みとカジキマグロのパスタを用意してくれる。一杯くらいワインはどうかと言われたので、疲れていたので、珍しく頂くことにする。白ワインか赤ワインかと尋ねられ、一旦は白をと答えたものの、ウェイトレスの後姿でふと思い返し「でもここは赤ですよね」と声をかけると、嬉しそうに「そうです」とこちらを振り返った。

10月某日 ヴェニス ホテル
ホテルからすぐのサント・ステファノ広場あたりのバールで朝食を摂ろうと、散歩を兼ねて早朝ヴェニスを歩く。一軒開いていたバールは、覇気のない若い夫婦がやっていて、注文しようと幾ら待っていても目もくれない。ところが、後から入ってきた近所の老人が、菓子パン頂戴と声を掛けるとすぐに出したので、こちらも注文してよいかと尋ねると、「別の用事してんだから待ってなさいよ」と酷い剣幕で言うので、「常識知らずのヴェネチア人、恥を知ればよい」とだけ応え店を後にした。若い夫婦の顔色がさっと変わるのが分かった。
ヴェネチア人が観光客を嫌っているのは、本人たちから何度となく聞いて知ってはいるが、彼らにどこか食堂を紹介してくれと頼むと、「この何某亭に行ったら、馴染みのヴェネチア人に紹介されて、後で待遇がどうだったか確かめて、悪ければ文句をつけに来るそうだ」と脅迫染みた文句まで言わなければ相手にされない、と聞き呆気に取られる。そこまでして、ヴェニスで外食したいとも思わない。
尤も、フランチェスコと昼食を摂ったガリバルディ通りの郷土料理屋は親切で、何より美味だった。フランチェスコは8歳までヴェニスで育ち、それから親の仕事の都合で、嫌々フィレンツェに引っ越した。ヴェネチア人は実はとても優しく話も通じるが、フィレンツェ人はどこまでも攻撃的なので身も蓋もない、と確かに身も蓋もない言い草をする。フィレンツェに引っ越した当時、ストレスからか突然字が書けなくなったそうで、「繊細だったんだろう」と笑う。
観光ガイドに、お薦めの郷土料理屋のリストが載っているのか、観光客相手のレストランには閑古鳥が鳴き、地元の小料理屋にばかり観光客が群がって、文字通り「観光客相手の料理屋」になっている。

10月某日 ヴェニス ホテル
大くんの「ホルン協奏曲」。大くんと初めて会ったのは随分昔にベルリンで、KNMが彼の作品を紹介した時だった。それからは京ちゃんと3人でイタリアをツアーしたり、会っては話し込む機会が続いていたのだけれど、ここ暫くご無沙汰していた。
楽譜を広げると、一瞬単純そうに見える明快な譜面だけれど、演奏は難しいだろうと覚悟していた。実際練習時間は他の曲よりずっと多く取らなければならなかった。
昔から大くんはメジャーコードが好きだと言っていたが、和音をピアノで弾いてゆくと、一つ一つの和音に表情があって、翳ってみたり、くぐもった顔をしたり、光が差し込んできたり、後ろを振り返ってみたり、その変化がとても美しいと思う。
その和音が響かせるためには、オーケストラは互いに耳をそばだてて聴きたい音を探してゆかなければならない。オーケストラが耳を開くと、それが巨大な花びらのように広がってゆき、その中心に独奏の福川くんの音が沁みとおってゆく。
オーケストラで使われる楽器はどれも禁欲的だし、禁欲的な姿勢を強いると思うけれど、ホルンはその最たるものではないか。その佇まいに美しさを見出したところが、大くんの、もしかすると、ヨーロッパ的ではない視点が働いていたのかも知れない。福川くんの音は素晴らしかった。
尤も、今回大くんとは音楽の話より、寧ろ彼が凝っている「腸内細菌」についてばかり話し込んでいた気がする。

10月某日 ミラノ行車中
朝4時半に起きチェックアウトをして、冷え込みの厳しい夜明け前の路地を伝い、5時の水上バスに乗る。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていて、ただ聴こえるのは波の音と、時たま通る汽船の低い警笛、それにエンジン音くらいだろう。ぽつりぽつりと水面に尾を引く橙色の街灯が、波に揺れていて美しい。
早朝の水上バスは、意外に利用客もいるが、大方が、荷物を抱えて駅に向かう労働者のようにも見え、何人か外人も交じっていた。どういう事情か分からないが、ヴェネチア本島に住んで、メストレ方面に働きに出かける労働者がいるかどうか。
昨晩の演奏会の後、食事を摂りながらヘソンと話していて、彼女が韓国を後にした時の話になった。当時は海外に出るのがとても大変で、それも姉妹で留学したので、親はとても苦労したと言う。何時でも整った身なりをしていて、一見澄ました雰囲気も醸し出しつつ、完璧な演奏をしていた。リピッツァー賞の審査員をした時、日本のヴァイオリン奏者のスタイルが以前とずっと変わっていて驚いたと話していた。韓国より、長く暮らしているフランスの方が暮らしやすいと言う。母親とは気軽にインターネットで連絡が取れるようになったし、でもずっと離れていると、会話の内容が一辺倒になってしまっていけない、と笑った。元来フランスは移民の国だが、それでも最近はフランス人への優先度が高くなり、外人への門戸は途端に狭くなり、留学してくる自分の生徒たちが大変だ、と話す。

10月某日 ミラノ 自宅
息子は吐気と眩暈で布団に突っ伏している。中学時代の自分にそっくりで、何故こういうどうしようもない処ばかり遺伝するのか、息子に申し訳ない思い。親の心子知らずと言うが、両親はどう思っていたのだろう。尤も当時のは明らかに自律神経失調症で、息子に関しては、自律神経なのかウィルスなのか、さもなければ神経なのかも良く分からない。実際に巷では酷い吐き気を伴う風邪が流行っているということで、病院からは吐気止めを処方されたが、効果は見られない気がする。
食べられないので体力も落ちるのだろう、自転車に乗りたがらない。道路を走っている途中で、いきなり力が入らなくなる時があって、恐いのだそうだ。
勿論、それを見越してリハビリも兼ねて乗らせているので、心配しないで乗ればいいのだが、夜半中トイレに立って吐き気と戦っているのを見ると、とても強く励ます気は起こらない。

10月某日 ミラノ 自宅
7月に息子が退院してすぐ、思い立ってサンタゴスティーノの自転車屋へ走った。朝、息子が混んだ路面電車で転んだので、その日の午後から、息子を後ろに乗せて走れるような自転車が必須だった。どういう自転車が必要かと言われたので、12歳の息子を乗せて走れる自転車なら何でもよいと伝えた。
「失礼ですが、一体どういう訳で」と我々くらいの年代の店主に尋ねられたので、事情を説明すると、実は自分も昨日病院から出てきたばかりだと言う。
「私は実は癌でしてね。ちょうど昨日、やっと化学療法が終わって、退院してきたのです。ですからほら、髪の毛も身体中の毛も、すっかり抜け落ちてしまいました。息子さんが癌じゃなくて本当によかった。でも大変ですね。一緒に頑張ろうと伝えてください」。
あれから、自転車が丁度サンタゴスティーノあたりでパンクしたので、店主のところへ持ってゆくと、髪もすっかり生え揃って、見違えるように活動的な姿になっていて、思わず「本当にお元気になって嬉しい」と言うと、そんなことを誰もが思い出してくれるわけじゃない、有難うと、手を取って顔をくしゃくしゃにして答えた。目には涙がたまっているように見えた。

7月、丁度この黒い婦人用Delmaの自転車を購入したばかりの頃、家の玄関先で、アルフレッドに会った。正確な年齢は知らないが、60はとうに過ぎた、ミラノでは名のある建築家で、このマンションの最上階のペントハウスに、何時もケリーブルーテリアを散歩させている、小さな可愛らしい奥さんと住んでいる。このマンションの建築も彼がサンドロと一緒に手がけた。
アルフレッドに声をかけられたと言っても、最初挨拶された時、すっかり痩せこけていて一瞬誰だか分からなかった。
「君のところの息子さんの具合はどうだい。実は僕は癌でね。君と同じように、ニグアルダで治療しているんだ。ちょうど化学療法の治療期間が終わったところでね。ナディアから息子さんの事情は聞いたよ。大変だったね。でも癌じゃなくて本当に良かった」。
台所で家人と二人、夕食の準備をしていると、見かけない黒い車が庭先に止まった。胸騒ぎがして窓を開けて外を見ると、木棺が車に積み込まれるところで、傍らには、いつもより小さく見えるアルフレッドの奥さんの姿があった。彼女は棺が車に収まったのを見届けると、糸の切れた凧のように歩きながら、別の車に乗り込んだ。
二日ほど後、道でいつものように犬を連れている彼女に会って、かける言葉もなくただ肩を抱くと、「本当に、とても辛かったわ」と絞り出すように声を出した。化学療法は途中で肺炎を起こして中断し、再度検査すると、癌はもう手の施しようもない状態になっていた。

10月某日 三軒茶屋 自宅
期日前投票に出かける。自分だったら可能な限り投票したいと思うが、何故投票率がこれだけ低いのか。
イタリアで如何なる投票権を持っていないので、投票権に切実な意義を感じるのかも知れない。何時でも投票用紙が送られて来ると、案外なおざりにしたくなるのかも知れない。三軒茶屋の食卓にスコアを広げて仕事をする。どうこれから譜読みをこなすのか途方に暮れながらも、「一度には一つの事しか出来ず」「急がば回れ」と言い聞かせてみるが、言い聞かせる口調も悲壮なので、余計心臓に良くない気がする。
窓際に、何時も仕事に出かけるときに持ち歩いている、息子がずっと小さかった時に書いた「さいごまでよくがんばったね」というイラスト付きの紙ぺらを飾る。片面には、両親の笑顔が赤ペンで描かれていて、「よくさいごまでがんばったね」と吹き出しの中に書いてあり、その裏にはずっと大きな字で、「でぷろま よくピアノをがんばったね」とある。小学校の時に使っていた、日本の通信教育の冊子の影響だろう。
湯浅先生の新曲「軌跡」の楽譜を読みながら、ドナトーニの「prom」のオリジナルの楽譜を渡された時のことを思い出す。
どちらも似たような大病の直後の作品で、表現力、訴求力の方向性が少し似ているような気がする。強靭な精神力と、生命力を感じる。
音の意味を一つ一つ嚙締めながら、読んでゆく。

10月某日 三軒茶屋 自宅
インターネットが出来たとき、行ったことのない土地の人と話し、世界中の図書館にアクセスすることが出来る、夢の世界の誕生だと言われた。
1971年に作曲され、子供の時分から一度は聴いてみたいと思っている曲があって、思い立って9月半ばから探し始めた。出版社に連絡すると、もう取り扱っていないし、素材も一切残っていないと言われる。楽譜は残っていなかったが、作曲者から初演者の名前を教えてもらった。初演した指揮者は鬼籍に入っていて、初演したオーケストラは破産したと言う。この指揮者の死亡記事を書いた音楽ジャーナリストに直接便りを出して、探している楽譜があって、もしかしたら家族のもとにあるかも知れないと書いたが、返事はなかった。日本でも演奏されたことがあって、テレビでも放映されたという。78年のことだから、自分が9歳くらいの時のことだ。
日本で演奏したオーケストラには楽譜は残っていなかったし、番組の制作会社にも楽譜はなかった。当時のヴィデオは見られるか尋ねたが、もしVTRが残っていたとしても、簡単に再生できないので、とてもお金がかかるだろう、といわれる。

初演はアメリカ西海岸の話だったので、サンフランシスコの劇場で働いている幼馴染に連絡したり、邦楽器で活動している知合いにお願いして、ロサンジェルスのオーケストラのライブライアンと連絡を取ったのは、ロサンジェルスのオーケストラで演奏したという記録も見つけたからだ。
ライブラリアンはとても親切で、ここにはその楽譜は残っていないが、その指揮者の残した資料は、遺族がスタンフォード大に寄贈して、コレクションになっているので、連絡したらどうかと助言してくれる。スタンフォードのコレクションのカタログには、確かに初演時の写真の記録と思しきものもあったので、司書に連絡すると、この写真は別の演奏会のものだった。

実は写真ではなく、楽譜を探していると伝えると、楽譜は全く別の場所に保管しているが、取り寄せて調べてくれると言う。数日して連絡が来て、丁寧に残した楽譜を調べてみたが、該当する楽譜は見つからなかった。ただ、全世界の図書館検索にかけると、ニューヨーク公共図書館と、ドイツの図書館にコピーがあると言う。
ニューヨークに住んでいた作曲の友人に頼んで、この楽譜が閲覧、複製できるか、何度となくやりとりを繰返してもらっている。
物凄く長い旅をしている気がするけれど、会ったこともない人たちとも、もちろん忙しい友人たちにも、本当にとても親切にしてもらっていて、楽譜探しの旅は、人間の温もりを実感する旅のようだ。

10月30日 三軒茶屋にて

別腸日記(9)断酒のテキサス(後編)

新井卓

メスカルは竜舌蘭を原料として作られる蒸留酒で、地中に穿った穴で材料を蒸し焼きにするためか、その余韻に泥臭いような、スモーキーな香りがある。遠い昔、記憶の少し黄ばんだ部分をくすぐるような、深い味わいは親戚のテキーラと似て非なるものだ。

テキサス州サン・アントニオで、仲間のアーティストも滞在先のアートペイス(美術NPO)のスタッフも誰ひとりとして酒を飲まない中、わたしは毎日仕事が終わると、窓辺を壮大に彩る夕日を眺めながら、一人寂しくメスカルを嘗めていたのだった。

そんなある日、それまであまり話したことがなかった一人のスタッフが、わたしのスタジオにやってきた。アートペイスで子供向けのプログラムを担当しているメキシコ移民の男で、エルネスト、といった。彼は開口一番、つい先週もう五年近く付きあってる彼氏と別れちゃってさ、落ち込んでるんだよね、とこぼしはじめた。いきなりなんだ、と思いながらも、じつは僕も飲む相手がいなくてつまらなくて……と話すうちに、じゃあ今晩にでも飲みに行こうか、という流れに相成った。

その日、仕事が終わってから、わたしたちは街の北側へ自転車を走らせた。最近の好景気で真新しくなった街区に洒落た服屋やレストランが並び、大通りの入り口には大きな虹の旗が翻っていた。このあたりは比較的成功した(establishedな)LGBTの連中がやってる店が多いんだ、とエルネストが教えてくれた。まずは腹ごしらえを、とハンバーガー・ショップに入り、1パイントの地ビールとアボガド入りダブル・チーズ・バーガーを注文した。肉汁たっぷりのパティは、表面が少し焦げるくらいで香ばしく、オリオン・ソースに混ぜ込まれた刻んだハラペーニョがいいアクセントになっていた。

ウェイターはエルネストの古い友人らしく「あたしもう帰るとこだったけど。フラれちゃって辛そうだからもうちょっといてあげてもいいけど」と言った。エルネストが悪いけど細かいのないんだよね、でも彼、本当はシフト終わってるからちょっと多めに頼むよ、と耳打ちするので、わたしはチップを三倍払った。

それにしても、なぜテキサスの人々は酒を飲まないのか──彼らに疑問をぶつけると、エルネストが皮肉な笑みを浮かべ「それはさ、白人たちと一緒に見て回るサン・アントニオは、本当のサン・アントニオじゃないから」と言った。

ではいったい何が本物のサン・アントニオなのか? 折しも季節は晩秋を迎え、街はハロウィン一色に染まっているかに見えた。10月31日、またエルネストがやってきて、今日はパーティだから一緒にどう? と誘ってくれた。もしかしてハロウィン? と聞くと、まさか! とんでもない、「死者の日」の前夜祭で一晩中飲んで踊るのだ、と満面の笑みで答えた。

夜、工場を改築したアート・センター「ブルー・スター・コンテンポラリー」に行くと、もうパーティは始まっていた。わたしたちが群衆に近づくと、皆がふり返って、ようエルネスト! と声をかける。夜な夜な地元のパーティでDJをこなし、休日には移民の子どもたちにボランティアでシルク・スクリーンを教える彼は、このあたりではちょっとした有名人、アニキ的存在なのだ。

地元の高校生バンドやメキシコから遠征してきたブラスバンドが次々に演奏を披露する中、わたしたちはひたすら飲み、夜の冷え込みに震えながら踊った。また近くのバーに漂っていけば、そこでも別のパーティが花開き、一人の白人もおらずヒスパニックだけの男女がべったりと抱き合い、喧噪の中で飲み、テーブルによじ登って笑いながら歌っていた。

どうやらサン・アントニオには、ふたつの異なる地図が重ね合わされているようだった──エルネストたちが、メキシコをメヒコ、と呼び、テキサスをテハス、と確かめるように発音するように、それらの時空は決して交差することはないだろう。バーにメスカルはなかったので、仲間たち(といってもその晩かぎり二度と会うことのない酒の盟友たち)と安いテキーラを何杯もあおって変な踊りを踊りながら、わたしは全身に染みわたる悦びに浸っていた。その素晴らしい開放感は、アルコールと脳の痺れからくるのか、あるいは、彼の地における一人のマイノリティとしての孤独から絞り出されたものだったか、今ではもう、どちらでもよいことに思える。

人、響きあう

若松恵子

秋も深まってきた日々、ボブ・ディランをカバーした2枚のアルバムをよく聴いている。

1枚目はブライアン・フェリーの『DYLANESQUE』(ディラネスク/2007年)。ディラン様式という造語だろうか。ロキシー・ミュージックのボーカリストであるブライアン・フェリーは、確か初めてのソロアルバムもカバー集だったと思う。原曲をよく知らないまま、どことなく魅かれてよく聴いていた。全曲ボブ・ディランのカバーであるこのアルバムも、ブライアン・フェリーらしく、ポップで洒落ていて心魅かれる。ディランが使いそうもない楽器をいっぱい使って、歌われるブルース(憂鬱な気分)も透明で明るい。満員の通勤電車に耐えながら、聴いている。「運命のひとひねり」、「親指トムのブルースのように」「見張り塔からずっと」「イフ・ノット・フォー・ユー」ディランの代表曲が並ぶ。ブライアン・フェリーが愛聴したであろうディランの曲の数々、「こう受け取りましたよ」と言う彼の応答であるカバー、その音の広がりに、満員電車の私は救われている。

2枚目はジョン・オズボーンの『SONGS OF BOB DYLAN』(2017年)。ラジオから流れてきたアルバムの中の1曲を聴いて、たちまち好きになってしまった。彼女のカバーを聴いて、ボブ・ディラン自身が「エクセレント!」と言ったというエピソードが紹介されていた。ディランのこのコメントを聞いて、彼女うれしかっただろうな。このアルバムで初めて知った彼女の略歴を見てみると、1962年生まれで同い年。音楽のキャリアを重ねてきて、自分の力量も、いっしょに演奏する仲間もできて、やっと自分らしくボブ・ディランを表現できるようになったのだろう。ウッドストックの紅葉のなか、車にもたれかかるディランを真似して撮ったアルバムジャケットもちょっと得意気でかわいい。
ディラン自身も気づいていない彼の楽曲の良さが、カバーによって見出されている。
そんなことを思って、2枚のアルバムを聴いている。

この春から「かえるの学校」に通っている。フリーライターの渡邉裕之氏の大森の住まいを「人が交流するきっかけになれば」との思いでフリースペースとして解放して学校にしたもので、渡邉氏が文章教室を、大西寿男氏が「校正教室」を開いている。長く出版の世界に関わるなかで身につけてきた、本づくりや雑誌づくりの技術や考え方を伝えるクラスだが、本作りだけでなく、「実人生でも使えるような知恵を伝えることを目指します。」とある。渡邉氏の文章教室は「インタビュー原稿の書き方を中心に教えますが、そこから「他者の声を聴く力」を模索していきす。」という事であり、大西氏の教室も「校正をただ原稿のまちがいを正していく作業ではなく「他者のことばを力づける(エンパワメントする)」仕事と定義し、授業に臨みます。」と説明されている。

友人に誘われて、私は渡邉氏の文章教室「オーラル・ストーリー」のクラスに参加した。このクラスは「声の物語=「オーラル・ストーリー」を聴きとり、ことばにしていく技術を伝える教室」で、「具体的には、受講生にインタビュー原稿を書いてもらいます。」ということだ。

6月の土曜日の午後、5人のクラスメイトと一緒に菊地文代さんをインタビューして、それぞれが聞き取った物語を1冊の小冊子にまとめた。菊地文代さんは、昭和5年に生まれ、ドキュメンタリー映画製作、共同保育、伊豆河田での「いりあい村」と多彩な人生を送った女性だ。同じ時間を過ごしたのに、それぞれが描いた菊地文代さんは、受け取った者の形に否応なく鋳型されていておもしろい。菊地さんに響いた自分と、他の受講生に響いた自分の両方が居る。私が菊地文代さんから受け取ったもの、それを言葉に表したものが、今、よく聴いているカバーアルバムのように、菊地さん自身にとってもうれしい応答になっていれば良いのだけれど。

植物図鑑ってなんだ?

大野晋

先月、長い長い出版延期の末に日本で一番信頼性のあった植物図鑑の改訂新版が完結した。通常、新しい図鑑の刊行には長時間かかるのが当たり前で、何年もかけてひとつひとつの植物について吟味しながら原稿を執筆するので、全巻揃うのに何十年もかかるなんていうこともざらにある。しかし、今回は新しい図鑑の刊行ではなく、定評のある図鑑の「改訂新版」である。しかも、刊行の発表から最初の第1巻までの刊行にさほど時間を置かなかったことから、すでに原稿もできていて、さほど時間もかからないだろうとたかをくくっていた。ところが、蓋を開けてみると出版時期が延期に次ぐ延期でいつできあがるのか、わからない状態になっていた。まあ、とりあえずできてひと段落というところである。

ところが、問題はできてからの方が大きく、一応、10数万円もかけて全巻そろえてみたものの、どう扱うべきか? 悩んでいる。

今回の改訂の目玉は、どうも、国立科学博物館の標本庫も採用したという新しい植物の分類と配列ということらしい。ところが、まず、この「科博が採用」という全くの権威主義のような宣伝文句がいただけない。博物館が採用したということなら、大英帝国が威信をかけて全世界へプラントハンターを派遣して収集したという王立キュー植物園の標本庫は確か独自配列である。全世界の多くの種の命名登録のもとになっている基準標本はキューにあるのでこちらに揃えたというのなら面白いが、学会の新しい学説に合わせてみましたというのはあまり聞こえのいいことではない。しかも、これがさらに大きな問題をはらんでいるのならなおさらだ。

植物分類学の学者の世界は「自然分類」至上主義とでもいうような状況にある。要は遺伝子の研究をしていた学者たちが「俺たちがみつけた配列こそが正しい」という権威付けのために、今までの外見をもとに行ってきた植物の分類を否定しようということらしい。この見解によると、いままでの合弁花、離弁花や単子葉、双子葉といった分類はおろか、木本、草本と区別することも悍ましいということになるらしい。この主義を新しい「改訂新版」は徹底しようとしたために、新しい図鑑では、木も草もなんもかんもごちゃまぜに並ぶことになってしまい、全5巻、数千ページの図鑑の中にどこに何があるのかが容易にわからなくなってしまったのだ。

図鑑とは、名前のわからない植物を探すためにあるものだと思うが、残念ながらこの新しい植物図鑑はそうした用途には向いていない。この問題の出どころはどこなのか考えると、出版者が出版物の目的をよく理解せず、目的の達成から、変えることが目的にすり替わってしまっていることが理由だろう。立ち止まって身の回りを見回すと、こうした問題は意外と多いことに気づく。これはなんなんでしょうね?

十月、台風

仲宗根浩

10月はたそがれの国、という小説を初めて読んだのは高校生のころだったか。今では本なぞ全然読まなくなる。近視の老眼、その上に左右視力が異なると遠近両用眼鏡にしても本の活字を読む場合は眼鏡をはずしたほうが楽になり、そのまま長時間となると疲れてどうしようもない。そんな加齢はついに肩にきた。右腕を曲げたままの状態で腕をを挙げようとすると肩に痛みが出て、これが四十肩、齢五十過ぎれば五十肩かと。今まで右肘、左ひざに痛みを感じたときは無理な使い方という原因がはっきりしていたが今回は突然にやってきた。痛みを感じつつ生活をしていると、痛むところを庇うためか、他の関節やらに軽い違和感を感じ、元の肩はだんだんと痛みがやわらいでいき、分散され仕事、日常でも何事もなくなる。

たそがれたい十月なのに選挙やヘリコプター炎上、ある芸人さんが言った昭和のプレロスのような分裂新党などなどかまびすくなる日々。九月の台風の長い強風域で少しは涼しくなるかと思ったが甘い考えで暑さは続き十月の台風21号ランちゃんが過ぎたあとやっと涼むことができ冷房要らずとなったと思ったら22号サオラーちゃんが三年ぶりの直撃でバスは運休、久々の台風の目に入った静かな二時間余りを過ごし、これは仕事が三連休になるかと思い、夕方から家飲み満々の心積もりでいたが勢力今ひとつ足りずお仕事通常稼動でいやいや仕事にいく。強い台風だったらもっと潮のにおいがするから。

以前は朝の七時半に聞こえていた基地から聞こえるラッパの音が最近二分くらい遅れて聞こえてくる。

わからなさの方へ

西荻なな

謎は謎のままに生きることがあった方がいいのかもしれない。
答えはすぐに求めてはいけないのかもしれない。

自分の中に答えのない未知の出来事や感情に遭遇した時、その居心地の悪さに耐えかねて、つい取り込みやすい形の、わかりやすい答えや結果を切迫に求めてしまう。ということが、我が身を振り返ってみてとても多いことに気づいた。何かに行き詰まった時、往々にして問題は自分の心の中にある。その答えは自分の心の中にある。それなのに、外側に答えがあるはずだと思って掘り続けてしまう。そこに終わりはない。

もちろん問題の要因が社会にあることだってある。
時に尊厳をかけて闘わなければならないことだってある。
でも、目の前に横たわる謎が必ずしもネガティブなものでなくて、今後どう展開していくのかわからない白黒はっきりしない分からなさであるような場合、不確定で、先が読みにくいもやもやとした不定形なものであるような場合、その中にダイブしてみることを恐れていては、真に冒険に身を委ねることなどできないのかもしれない。
例えば親しい友人との関係に何か暗雲が立ち込めてきた時。何があったの? 私が何かした? と問いを相手に差し向けるのではなくて、ゆったりと次の晴れ間が差してくるまでとにかく待ってみる。その会話や問いを一度宙吊りにして、そこから離れた日常の時間に戻ってみる。他の豊かな何かで自分の心を満たしてみる。
そうして初めて不思議と霧が晴れる瞬間が訪れたりもする。相手に問題があると思っていたことが、ああ私のこんなところに引っ掛かりがあったのかと積年の何かに気づかされたりもする。相手の中に、目の前の何かとの関係を解くことに答えがあると考えて、解を求めることに必死になってしまったならば、わからなさとの戯れの中にあるはずの無数の可能性を見逃してしまう。豊かな時間は目の前にあるのに、そのことに気づかないままに通り過ぎてしまうのかもしれない。

わからないことはそのままに日常の中に漂わせておいて、日々の流れに身をしっかりと委ねてみる。わからなさをしっかりと一度抱えて、わからなさの中に堕ちてみる。そうして別のタイムラインで、別の空間で感じたことをもう一度地上に持ち帰ってみる。今までと違う空気をまとって、違う音楽を奏でられるような何かをそっと目の前に差し出してみる。そこで何が起きるのかを静かに待ってみる。

156立詩(4)刈萱

藤井貞和

少女を過ぎてゆく           風
歳月は、               過ぐる
抱いてもくれぬおとこを        かやが
見送っていた。            下根
おとこを思い乱れて、          の
かやのした根に、           つゆ
寝みだれる少女はさわる。       ばかり
少女のさわるのは、          ほどなき
くろずむ露をしたたせる暗渠か     世を
〈とそこまで訳して、老後の私が、    や
少女の日をなつかしむ。〉        思ひ乱れむ

(定家の百歌より。)

音についていく

高橋悠治

カフカは書く手についていくと言った 石田秀実の作曲は音についていくことだときいて その時はわからなかった 設計図はなく はじめの音から次の音へ 無数の可能性がひらけるなかで 一つの道を採ると 見える風景が変る 水平のメロディーとも垂直の和音ともかぎらず 同時に見える音も崩し つながる音にも越えがたい距離がある 音についていく指や手 からだが左右上下前後にゆれうごくなかで 時間と空間の格子がゆがむように感じられ というより 音の外側に格子のある空間が感じられなくなるまでに 輪郭のない音が溶けて うごいていく光の窓 「人は自然の中で移ろい、多様な音空間に出会う。音空間は人を包み、人はその中に埋もれる。」(「水牛」2006年11月 石田秀実『幾何学と音楽2』) 人も変わり 世界も変る すべてが流れて「霞が気に変わり 気は形に 形は生に いままた死に変る」(莊子至楽篇十八)

ピアノの鍵盤の上で 指と手と前腕が前後左右上下にそろって回転するとき 触れたキーから出てくる音の運動は その場にいて聴く耳には 聞いている身体の上に感じられるだろう 録音し録画すると この感じは薄れる 音が外側に感じられるからか

動いている指が偶然に触れた音もその後の音の進路に影響するので 弾く手についていく音を記録して楽譜にしたものををもう一度弾いてみても おなじにはできないだろうし 手が自然につくりだした音のうごきは かえって不自然に曲がりくねった運動になるだろう ムカデがすべての足の動きを意識したらうごけないように 意識したらおなじうごきは二度と再現できないだろう 平安時代の書をなぞって音の線に変えたピアノ曲『散らし書き』では 見た線の印象を音にしてみた 線をコンピュータ・ソフトで変換したら まったくちがう音になっただろう Earle Brown: Summer Suite ’95 は まさにそれを試みている ブラウンが即興的に描いた線画をコンピュータで変換して楽譜にしているらしい 痙攣するようなリズムと思いがけないピッチの変化は ブラウンらしい音楽ではあるが それまでの作品のなかで図形楽譜や 時間間隔を音符の間の距離で表したtime notation を見ながら演奏する場合とちがって 機械が決めた音やリズムを手がなぞるのはむつかしい

それを練習しながら いわゆる「現代音楽」の演奏から遠ざかってしまったことを あらためて考える ケージの易やクセナキスの確率関数の利用は 慣習的なパターンから逃れるためのくふうだった それに応える演奏技術も練習法も作られている それとはちがう音楽をさがしているうちに忘れてしまった技術を思い出すべきなのか それとも他の音楽のありかたをさがしているいまは 昔の身体技法ではない 別な技法を見つけるべきなのか

2017年10月1日(日)

水牛だより

そこここで金木犀が香る東京の日曜日。酔芙蓉の大きな木にはたくさんの花が咲いています。咲いたばかりは真っ白。時間がたつにつれて淡いピンクから濃い紅色にまで色づいてきます。花は一日でおわり。おしまいに近いのは花びらが閉じて濃い紅色をしていて、次の日にもそのまま木についていたりしますが、ほんとうに酔っ払っているような風情です。太陽に当たることによって、しだいに赤くなっていくというのが真相のようですが、歩きながら美しい酔っぱらいに見惚れます。

「水牛のように」を2017年10月1日号に更新しました。
大野さんの原稿の冒頭にあるように、「10月は休む傾向が」ある、つまり原稿の数が少ないのは今年も当たっているようです。これまで考えたことがありませんでしたが、何か理由があるのでしょうか。まあ、10月はたそがれの国ではあるのです。とはいえ、先月はお休みだった人が復活していたりするので、ひどく少ないというわけではありません。じっくりと読んでください。

次の更新のときには衆議院選が終っています。日本の政治はもう一歩凋落への道を進んでいるかもしれませんが、日々は続きます。

それではまた!(八巻美恵)

155立詩(3)最後に語る昔話

藤井貞和

あったてんがない、とんと昔があってなあ、
にわ(土間)で一本の穂を拾ったと。
あいつはそいつを、鍋ん下、がいがいがい、
小豆とともに炊いて、大きなぼたもちさ、
作ったと。 まだ地面の流れて固まらず、
じんるいは生まれてなかったが、
かみくらを、かみくらを満たさねばならぬ。
いっぱいにして待たねばならぬ。
ほんの少しのま、ことばをつなぐしごとを、
土間の神の語らす。 それでこっぽり。
もう滅亡のときなのかよ、待って。

(「最初に語る昔話」というのが昔話集にはあります。)

何を残すか

大野晋

牛の過去の記事の一覧に目を通す。
どうやら、10月は休む傾向があって、ところどころに穴が開いている。

まあ、こんなことをしている今年も何を書くべきか思い悩み、うつうつとこんな時間
まで来てしまった。いや、もう少し詳しく書くと、書く話は確かにあった、はずだった。しかし、時間が経ち、考え直すたびに話の中身に迷いを生じ、やがては蔵の中に押し込んでしまう。結局、そうして押し込んだ話は書くべきではないのだろうと思いなおす。

徐々に残りの時間が気になるようになり、ずっとやりたかった絵や写真をきちんとす
べきだと思うようになってきている。青空文庫へのお仕事も、少しずつ始動しないと抱え込んだままどんどん老いることになる。もっとも、視力の衰えはずっと早く、老眼鏡なしでは細かい入力や校正の仕事はもうすでにできそうもない。

何を残すのか?と考える。
何が残るのかとも考える。

すでに、監訳して出版した書籍の過半数は市場には残っていない状況を考えると思った以上に世の中に何かが残るなんてことはないのかもしれない。このところ、迷いっぱなしなのである。

何だかわからないけれども上手の何か

西荻なな

景色が見える、と思うことがある。
たとえるなら、麓を霧に覆われて山を登っているいま、その頂上を見ることはできないけれども、目を閉じた時にぼんやりと山全体の輪郭が思い浮かぶ、登頂した後に眼下に広がる風景をすでにどことなく感じられるように思われる、そんな感覚だ。先験的に知っている、と科学や哲学の文脈で言い表されるものがそれだろうか。いまここに実現していない未来が、まだリアリティをもって感じられるわけではなくとも、おぼろげながら、まるで夢を見た後の残像のように、その光景が心の中にある。全貌が眼前に姿を現してはいなくとも、でもこの先に、確かにそれが見えるとわかるから、根拠のない自分なりの確かさを頼りに、一歩一歩山道を歩いて行くのだし、歩いていける。刻々と移り変わる山肌の景色にハッとしながら地道に歩いて行く。

人生はおしなべてそのようなもの、と言えてしまうのかもしれないけれども、まだ知らない道が残されている手前から、人生はこういうものだ、と語りたいのではなくて、私が思うのは、「いまここ」を超えるものを、常に思い描いていたいということだ。「いまここ」の時間軸、価値軸に引っ張られないもう一つの軸をもつということ。細切れの時間軸と既存の価値観に絡め取られそうになった時に、もう一度そちらに、未来側に自分を置き直すことだ。日々の自分の姿を鏡の中に覗き込むように、アジャストメントを繰り返してゆく。
思い描く風景と、いまここにあるものとの間にイメージの齟齬はないだろうか。
あるいは、思い描く風景を共有できる誰かがいるだろうか。
共有できる誰かがいないならば、共有できる誰かを育てることはできるだろうか。
その問い直しの積み重ねの先には、時に大きな変革だって含まれるだろうと思う。たとえば、どこに身を置くのか、誰と仕事をするのか、といった座の組み直しのようなもの、などと書くとビジネスライクに響いてしまって、ことの本質からずれてしまう気もする。

「どう作るのか」のより実際的な話よりも、「いかに作るのか」において、より景色が見えることの大切さを思う。確かに見えると思われるその先の風景を逆照射しながら、「いまここ」における地歩を固めてゆくということは、今日と明日の歩みの中に、未来の風景の要素のようなものを一振り、振りかけてみることだ。そうして一つひとつ着実に、ここにはない何かを含んだものを作っていくことができるならば、思いがけない形で人の心に伝わったり、大きな森ができ上がったりしていくのではないだろうか。見える、と思っていたその風景のイメージを颯爽と超えていくような、もっと見たこともないようなものが生まれるような、魔法が偶然にも入り込んでしまうような土壌をどうやったら作れるのか。

と考えているところで、小林秀雄と数学者・岡潔の対談集『人間の建設』を読み返していたら、ふと気になるフレーズが2、3飛び込んできた。
岡が言う「数学が情緒だ」という話におよその見当はついたが、その内容というのはこういうことかと小林が問う。「数学者は、数学者を超える存在のなかで数学をやっているわけでしょう。そういう、いわば上手の存在、あるいはリアリティ、そういうものがあるとお考えでしょう」、ならば「数学者はリアリティに近づかなければならない。それが何だかわからないけれども、そこに近づきたいというわけでしょう」と。ここでいうリアリティは「真理」に近いものだろうか。
返す岡は、「いや、リアリティはあるけれども見えていない。見えない山を少しずつ探していくのが数学者で、物理学者とは違って、むしろ自然をクリエイトする立場に立っている」というようなことを言う。
「自分の存在を超えるような上手の何か」、この小林の表現が実にしっくりくるとともに、「それは見えていないけれどもクリエイトするのだ」という岡の返しにも、すとんと落ちるものがある。その火や電気を絶やさないためのものを小林は「記憶」と呼び、岡は「情緒」と呼んでいる。何か大きく超えていくもの、上手の何か。その風景を忘れないようにしたい。

第二のカラダ

笠井瑞丈

フルマラソン 
42.195キロ 
しにいくご
42.195キロ

人が走れる最長の距離
小学校の時そのように
教わったのを思い出す

かさいみつたけ
四十二歳ト三ヶ月
フルマラソンで言えば
四十二・一九五歳

いろいろな変化が
カラダの中で起こる

良い変化も
悪い変化も
その変化に
耳を澄ます

42年前のカラダ
そしてゼロからの
42年後のカラダ

ここらでコップのミズを
入れ替えなければならない
ここらで第二のカラダを
手に入れなければならない

四十二・一九五
そんな歳なのだ

四十二歳前を
第一のカラダ
四十二歳後を
第二のカラダ

新しい衣装を着る
新しい作品を作る

ここからがゼロ歳
新しい旅の始まる

ねむるまで

別腸日記(8)断酒のテキサス(前編)

新井卓

テキサス──一度も訪れたことがないのに、これほど記憶の中でなじみ深い場所は、ほかにあるだろうか。ただし、そのイメージはカウボーイやテキサス・レンジャーズといったステレオタイプな細部に縁取られたファンタジー以外の、なにものでもないのだが。

ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1985)は、テキサスに実在するパリを目指して(驚くなかれ、テキサスにはトーキョーもベルリンもある)、架空の場所を彷徨いつづけるロード・ムービーなのかもしれない。来歴と名前の間に引き裂かれた、アメリカという土地が持つ二重性は、旅する者を宙づりにしてしまう。

2015年、テキサスの美術NPOアート・ペイスで三ヶ月の滞在制作(ある場所に長期滞在して、調査や作品制作、パフォーマンスをおこなう半公共的な枠組みで、世界中に存在する)の機会を得て、はじめてその地を踏んだ。わたしが滞在したのは同州のほぼ南端、メキシコ国境に近いサン・アントニオという街だった。

わたしはそこで、太平洋戦争中、原爆投下の模擬演習として日本各地に投下された「カボチャ爆弾」をテーマに映像作品を作ることにした。別の街に保存されている現役のB25爆撃機──といっても今では軍用ではなく、結婚式で空から花を巻いたり、最近ではハリケーンの被災地に食料を届けるといった平和な活動をしている飛行機──をチャーターして、上空からほんもののカボチャを投下する、そんな冗談のような映画だった(*)。

テキサスでは、大の大人たちが揃ってなにか仕事しようというとき、とりあえずジョークの一つも飛ばさなければなにも始まらない。そんな風なので、大して流暢に英語も話せないわたしとしては、テキサス特有のアクセントやスラングと相まってずいぶん戸惑ったものだ。

子どものころからハリウッド映画や昼の海外ドラマで培ってきたテキサスのステレオタイプなイメージは、当たっている部分もありそうだが、そうでもない部分も同様に多く、いまひとつ判然としない。中でも意外だったのが、彼/彼女らは酒をまったく飲まない、ということだった。

アート・ペイスには、年三回の滞在制作期間中、それぞれ三人のアーティストが住み込みで活動する。施設の二階にはキッチンと浴室が完備した個室があり、階下には広々としたスタジオが、一つずつ各人に割り当てられていた。わたしと一緒に滞在したアーティストは、テキサスのオースティン在住のアナ・クラチーと、ニューヨークのアダム・ヘルムスだった。気安い人々だったので、わたしたちはすぐに打ち解けて話すようになった。

南部テキサスの9月。夏の暑熱が残ってはいても、さらりと乾燥した大気が心地よい夕暮れ、一日の仕事を終えると無性に喉が渇いてくる。深紅からバイオレットへ、窓の外が壮大な暮色に輝くころ、グラスの縁にこんもりとスパイシーな塩を盛った(rimmingした)とびきりに冷えたマルガリータや、ホップの効いたドライなビールを求めるのは、わたしには最早自然の摂理のように思えた。

しかし、アナは飲酒という習慣を嫌っているようだったし(「人が飲むのはもちろん構わないかど、でもそれを端で見ているのはどこかしらterrifyingな(ぞっとしない)感じね・・・」)、アダムに至ってはマンハッタンのストレスからアルコール中毒になり、今アルコール依存症の更生プログラムを受けているとのことだった。

入居早々、二人はビールを山ほどかかえて私の部屋にやってきた。地元産のそれらのビールは、管理人のチャドが気を利かせて入居前に冷蔵庫に仕込んでいてくれたものだった。「これ、もらってほしいんだけど」思い詰めた表情のアダムを前に、わたしは二人の前では今後一切アルコールの話をしないよう、固く心にきめた。

(つづく)

*『49 PUMPKINS』2015. アート・ペイスによる委嘱作品. http://takashiarai.com/49-pumpkins/

仙台ネイティブのつぶやき(26)まちに渦をつくった人

西大立目祥子

出雲幸五郎さんが9月7日、86歳で亡くなられた。といっても、仙台に暮らす人以外で出雲さんを知る人はそう多くはないだろう。
文具店「幸洋堂」の店主。店のある荒町(あらまち)のまちづくり仕掛人。荒町商店街振興組合の初代理事長。この30年、まちのために休むことなく東奔西走した人。私は出雲さんというと、白髪、メガネに赤いエプロンをつけて、いつもせわしなく動き回る姿が思い浮かぶ。街中で、自転車をこぎ配達に急ぐ姿もよく見かけた。

出雲さんが商売の枠を超えて動き出したのは、ちょうど日本中のあちこちのまちやむらで地域づくり、まちづくりが活発になった時期でもあったから、仙台では「元祖まちづくり仕掛人」といわれたりすることもある。でも、出雲さんは地域を冷静に眺めて事を企てる専門家でも、ましてや評論家では決してなかった。額に汗してみずから行動を起こした人。仙台で、ここまでやった人はそうはいない。すべて、じぶんの生まれ育った愛するまちを少しでもよくしたい一心からだった。
いま振り返ると、荒町の魅力をよくわかっていたなと思う。人は案外、足元のことは見えないものだ。

荒町は仙台駅から地下鉄で一駅ほど南にある商店街で、間口の狭い個人商店が連なり、大学が近くマンションやアパートも多いから、小さな食堂から日曜雑貨、クリーニングまで、まあ、何でもそろうちょっと雑然とした雰囲気の通りだ。でも歴史は古くて、江戸時代は奥州街道だったこの通りを参勤交代が通ったし、もともと荒町は伊達家に付き従ってきた由緒ある御譜代町(ごふだいまち)の一つ。
まちを歩くと、ちまちました商店の奥には、昌伝庵、仏眼寺…といった古刹が広大な境内を誇り、中でも通りの中央にある毘沙門堂は子育ての神様として江戸時代から信仰を集め、大相撲の興行が行われてにぎわいの中心でもあった。

この毘沙門堂に目をつけた出雲さんは、1986年、プロになってまだ数年だった仙台フィルハーモニー管弦楽団を8月1日のお祭りによんで「第1回星空コンサート」を開いた。何でも値切りに値切ったらしい。何しろ野外だから、ヴァイオリニストをはじめ弦楽器の団員はヒヤヒヤ。最初のフレーズを弾いたとたん雨がぽつりぽつりと降ってきて中止になったこともあったと聞く。私も「チケット買ってよ」といわれ何度か聴きに出かけた。まちの人たちがうちわ片手にサンダル履きで集まり、がやがやした中で演奏が始まるのだけれど、曲が進み夕闇が迫ってくると境内は何ともいえない一体感に包まれていくのだった。コンサートがはねると、お祭りの屋台でヴァイオリンケースを持った団員の人たちがたこ焼きを買い、まちの人とおしゃべりする。オーケストラを聴く敷居をグンと下げたまま、星空コンサートは20年続いた。

同じころ、出雲さんは町内の若手経営者といっしょに、町名改正反対運動に乗り出した。1970年から始まった市内の町名改正で最後に残ったのが、この周辺の町々だったのだ。荒町、南鍛冶町、穀町、南材木町、三百人町、五十人町、六十人町…江戸時代から続く町名を守り抜こうと、出雲さんは町内でフォーラムを開き、署名活動を展開し、ねばり強い交渉を続けて、ついに仙台市側が変更を断念した。かつての城下町でまとまったエリアとして町名が残っているのはここしかない。ちょうどバブルが始まろうとしていた時期に、何が守るべきものかを出雲さんはわかっていたんだなあ、といまあらためて思う。「やるときはやれ、力を出せ」と教えられた気がする。

そしてこの30年、まちを通る人たちに話題を提供してくれていたのが、店の前のキャッチコピー。大きな筆文字で「今日という日は本日限」とか「そのうちって、いつの事」とか「恋はザルですくった水の如く」とか「さわやかな女」とか…。ピンとくるものも「?」というものもいろいろだったけれど、ちょうど店の前で信号待ちのバスが停まるから、通勤や通学で楽しみにしていた人もいたと思う。何しろ「オレは荒町の糸井重里」と豪語しコピー集までつくる始末。私も1冊買わされた。けっこう自信家だったよね。
本音でつづる文章もうまくて、発行していた「こうごろう新聞」は、『熱血こうごろう』『こうごろう新聞 仙台荒町奮戦記』としてまとめられ、秋田の無明舎から出版されている。

思ったことはずばりずばりと口にする人だったから、よくまわりとケンカもした。でも、がーっと押し切るような力があったからこそ、小さな商店街の荒町でこれだけのことがやれたのだろう。大震災では沿岸部にあった文具店の倉庫が流され、その直前にはガンもわずらった。でも、屈することなくいいたいことはいい続け、まちづくりは最後の最後までやめなかった。

目の前のことは、けっこう簡単に歴史になってしまう。お通夜に参列したら、この30年仙台でいっしょにやってきたなつかしい人たちがいて、昔話になった。出雲さんがやってきたことを私はすぐそばで見てきたつもりだけれど、こうやって同時代で見続けてきた人たちが消えたら、もう何にもわからなくなるのかもしれない。

昨晩、店の前を通ったら、看板がはずされシャッターが下りていて、大きな筆文字の張り紙がしてあった。「幸五郎さん頑張ったね秋日和」「幸五郎さんお別れの日はやっと晴れ」だれが書いたんだろう。鼻の奥がツンと熱くなる。

荒町は、一昨年、新たな地下鉄が開業してからというものバスの本数が減り、歩く人も減り、シャッターを下ろす店が増えてきた。いま、こうしてまちをかき回し渦をつくってきたうるさい人も消えて、一時代が終わったのを目の当たりにしている気がする。

さつき 二〇一七年十月 第六回

植松眞人

母が見つけてきたのはとても小さな一戸建ての家だった。小さいけれど真っ青な屋根瓦の二階建てだった。一階は六畳間と台所とお風呂とトイレ。二階は四畳半の小さな部屋と押し入れとベランダがあるだけだった。それでも、母は気に入っている様子で、「ほら、一緒に散歩しよう」と私に言って、家の周りをぐるぐると歩いた。家の周りを歩くだけなら、百歩もいらない。五十歩ほどで一周できるほどだった。
「この家の屋根瓦の青いのが気に入ったのよ。曇っていても雨が降っていても、うちだけ青空みたいな感じがして」
母はそう言うと、しみじみとした顔をして、真っ青な屋根瓦を眺めた。私も母と同じように屋根を見た。空は真っ青に晴れていて、でも、これから住む家の屋根は、空よりも青いかもしれないと思うくらいに見事に青かった。

十月になってすぐに母のお気に入りだった家を出て、青い屋根の家に引っ越した。ほとんどの荷物を処分して、どうしても置いておかなければならないものだけを残しておくようにと言われて、私は子どものころに大好きだったぬいぐるみを半分に減らそうと頑張った。これは持って行く。これは処分する。そう呟きながら、大きなゴミ出し用のビニール袋にぬいぐるみを分けていった。持って行くぬいぐるみがビニール袋に三袋。処分するほうは三袋になった。
片付けがほとんど終わった自分の部屋の隅に置かれたぬいぐるみの入った六袋のビニール袋を眺めていると、持って行くものと処分するものとの境界線がとても曖昧で、本当はもう少し持って行けるんじゃないか、とか、あれを処分するなら、これだって処分した方がいいんじゃないか、とか。私は考えすぎて、それなら、とあえて声に出して、ぬいぐるみは全部処分することに決めた。
二階の四畳半は私の部屋になった。自分の部屋なんかいらいよ、と私は言ったのだが、母は「年頃の女の子なんだから、ちゃんと自分の部屋を持って、きちんと整理線頓しながら暮らすことを覚えたほうが良いのよ」と言ってくれた。そして、「でもあなたの部屋を通ってベランダに洗濯物を干しに行かないといけないから、プライバシーはあんまり守れないかもしれないけれど」と笑った。
私は前の家の半分ぐらいの広さになった自分の部屋を眺め、その部屋から見える窓の外の景色を眺めた。家の隣が古い平屋だったので、都会の二階なのに、意外に景色が広々としていた。
母も私と同じように、おそらくいろんな覚悟をして容赦なく荷物を選別した。あまり悩まず、次から次へと荷物を選別していく。そして、帰ってこない父の荷物は自分の荷物の倍くらいの速さで選別した。
荷物が驚くほど少なくなったおかげで、引っ越しは半日ほどですんだ。いらないものはゴミ処分場に運んでもらい、必要だけれどどうしても新しい家に入らない家電や場所を取る荷物は、母の実家へ運んだ。
テレビのニュースでは北朝鮮のえらい人と、アメリカの大統領がののしり合っていて、時々ミサイルが発射されたりしていた。
「ミサイルが撃ち込まれたりしている時に、引っ越ししてるなんて、なんか八月にテレビで見た戦争映画の疎開みたいだね」
私がそう言うと、母は笑った。
「そうだね。でも、いまだって戦争みたいなもんだよ」
母はそう言って少し引っ越し作業の手を止めた。
「昔の戦争は国と国との戦争だけど、こんな時に解散総選挙をやろうっていう首相がいるんだから、国と国だけじゃなくて、国と私たちも戦争してるみたいなもんだよ」
そう言って、小さく早く息を吐いて、母は立ち上がり、空になった段ボール箱を折りたたんだ。

父が帰ってきたのは私たちの疎開のような引っ越しが終わって、十月も半ばにさしかかったあたり。友だちたちがシルバーウィークのことを話題にしだした頃だった。
父がふいに帰ってきたのは、土曜日の遅い朝に、母と私が朝食を食べている時だった。帰ってくるなり父はこう言った。
「ねえ。シルバーウィークって僕らが子どもの頃、十一月の頭だったよね」
出て行った日に着ていた見慣れたシャツをきて、いつものジーンズで帰ってきた父は、やせてもいなかったし、太ってもいなかった。ただただ、いつも通りの父がずいぶん前からこの家で一緒に暮らしていたかのように現れて、シルバーウィークの話をし始めたのだった。
「そんな気がするわね。確か、十一月の文化の日のあたりだった気がするもの」
と、母も父と会うのが半月ぶり、という表情をおくびにも出さずに話し始めた。普通は朝出て行って、夕方に戻ってきた人に対しても「お帰りなさい」とか「今日はどうだったの」なんて聞くもんだろうと思ったのだが、妙なあうんの呼吸のような会話は、私の立場を少し追いやって、ただでさえ狭い一階の六畳間で片隅で私は父と母が話すシルバーウィークの話を聞いていた。
二人はひとしきり話すと、少し黙った。
「お帰り」と母が言うと、
「ただいま」と父が答えた。(つづく)

グロッソラリー―ない ので ある―(36)

明智尚希

良い思い出に浸って、悪い気分になる。

子供は本能で動く、大人は煩悩で動く。

期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいのを期待したいのを……。

まもなくまもなく言うな。このあとすぐこのあとすぐ言うな。

できると思うことはやるな。できそうだと思うことをやれ。

酔いは酔いのための酔いであってはならない。酔いは何かに向けられて初めて酔いとなる。酔うことで上っ面の屋根と建屋が吹っ飛んで、地中からめきめきと育ってくる恐るべきものがある。

真夏のカンカン照り。砂は我が名は砂であると虚勢を張りながら胸を張る。そこへゲリラ豪雨、泥。

【散々文のはじめ】

「あなた普通の人じゃないね」との風俗嬢の慧眼に小さく小さく憤慨する。

あまり車の通らない道を、一台がさっそうと通る。次もあるのではと思う。(ここはチャリンコルーレットの場だ)

原稿に向かうには、夏ならば冷房がきんきんに利いた空間が必要だ。

義務があるだけ幸福だ。

暇だからといって飲酒してはいけない。

睡眠障害、鬱病、パニック障害、不安神経症、空間恐怖症、対人恐怖症、心身症、起立性調節障害、自律神経失調症、統合失調症陰性、神経性じんましん、気分変調症、大球貧血症、神経性片頭痛、アルコール依存症、色弱、震顫、軽度てんかん、腎臓病、慢性中耳炎、難聴――僕らはみんな生きている。

本は読めない。着想の嵐に立ち向かえないから。

長い沈黙は、過去をたぐり寄せる。

逆境は逆境。乗り越えられる逆境などない。

好きになるのは早いが、嫌いになるのはもっと早い。

自分の中に、自分などいない。

幸運は飽きっぽい性向。あきらめても、続けている人に、不承不承に目配せする。

何かを信じるには、信じる基盤を保つための素養が必要である。

人が恐く、嫌いではない。

生きてりゃあ死ぬことだってある。

生きている限りは人間ではない。

人の不幸に接した時のみんなの陰湿にして盛大な喜んでいる顔ったらない。

他人は、ちょっとした失敗をした人間を、あらゆる方策を講じて糾弾する。

【散々文の終わり】

人格者はえてして模範的な傍観者になりやすい。

叶わなかった夢、報われなかった努力、それらが夜の暗闇の正体だ。

アルコールで苦しみ、アルコールで楽になる。

日中は酒を飲む。現実という裏社会から逃れるためだ。

歌われている、苦しみ、悲しみ、痛み、そんなもの実生活で総ざらい経験した。

すれ違いざまに、いちいちこちらの顔を見るなよ。

種類の憎しみやら悲しみを抱えながら、紙を破る。

不快を恐れて感覚を殺していたら、不感症になってしまった。

男は忘れようとして忘れられないが、女は忘れようとしなくても忘れる。

命の危機にあっても他人は冷たい。結局は自分が第一。

すがるものが何もないというのは、何事にもまさる強みだ。

人は小さな不幸には興味を持つが、大きな不幸となると退散する。

死ぬことほど、簡単で難しいことはない。

一人の生命より重いもの、それは個々人の生活の安泰だ。

週末の飲んだくれた帰り道、わしは友人から突然やや厚めの封筒を受け取った。家で読んでみてくれと言う。友人も別の誰かから受け取ったらしい。アルコールが入っていたこともあり、ことの顛末や封筒の中身については何も聞かずにそのまま友人と別れた。
翌朝、その封筒を開けてみると、右上をゼムクリップでとめられたA4サイズの紙の束が出てきた。断章と顔文字がずらりと横書きに並んだワープロ原稿だった。表紙には「グロッソラリー ―ない ので ある―」とあり、下のほうに「忽滑谷源八郎(※ぬかりやげんぱちろうと読むのか?)」と記名してあった。
なぜわしにこのような原稿を託したのか判然しないまま、とりあえず少しずつ読み進めてみることにした。細かい内容には触れまい。ただ、断章はバラエティ豊かで、口語体もあれば文語体もあり、扱う分野も多岐に渡っていた。アフォリズムもあるし実験的な試みもしている。体裁の整合性が取れているとは言い難いが。
そうした奔放さや顔文字の多様から、若いかもしくは複数の書き手によるものかとも思ったが、「わし」と表現しているのを素直に受け止めれば、年配の人間による作品としておくのが穏当だろう。しかしよくここまで書いたものだと感心もした。

さて、タイトルにある「グロッソラリー」とは何のことか。外国語を含む辞書類には一切載っていない。インターネットでかろうじて一件だけ引っかかった。種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』である。早速購入し「グロッソラリー」について調べてみた。氏の定義では、「霊媒や意識不明者の発する言葉」とあり、また「グロッソラリーは『グロッソ』(舌の・言語の)と『ラリー』(l(エル)とrの音の区別がつかず、まさにラリること)の結合語である」としている。
その他のナンセンス関連の本を渉猟したが、「グロッソラリー」については上記の説明しか得られなかった。おそらく言葉としては存在していながらも、使われる機会が極端に少なく、決定的な意味はないのだろう。外国語スペルが見つからなかったのもその証拠と言えよう。忽滑谷氏は酒への言及も多いことから、酔って意識が混濁した状態で書いたと言いたかったのだと推測できる。
また「ない ので ある」のダブルミーニングについて、「ないからある(無という有)」と「ないのである(無)」という具合に作品内容を両方に位置づけたのだろう。こうした曖昧性、意味が複数取れる表現、更には意味の所在が明らかでないものも本文に散見される。また、断章と絵文字のバランスが必ずしも妥当でないこともある。著者の持ち味と解釈しておく。しかし断章の文字数をほぼ統一している点がある一方で、前掲のように不統一な箇所もある点は疑問に残る。何でもありという考えなのだろう。
前置きはこれくらいにして、まずは読んでみることをお薦めする。忽滑谷氏が健在であることを祈りつつ。

ジャワ舞踊の衣装(1)下半身の衣装

冨岡三智

今回からしばらくジャワ舞踊の衣装を紹介しよう。ここでは私がやっているスラカルタ様式の舞踊衣装の説明が中心になるのだが、その前にジャワ舞踊が指し示す範囲について説明しておく。というのも、衣装には地方や様式の差がはっきり表れるからなのだ。

一般にジャワ舞踊はジャワ島で踊られる舞踊だと解されているけれど、伝統芸術の分野では、ジャワ島中部の王宮都市であるスラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(短くジョグジャと呼ばれる)の様式の舞踊だけをジャワ舞踊と呼ぶ。ちなみに、ジャワ島の西部(スンダ地方)の舞踊はスンダ舞踊、ジャワ島東部の舞踊は東ジャワ舞踊と呼ばれて、ジャワ舞踊とは区別される。また、ジャワ島中部のソロとジョグジャ以外の地域にもいろんな種類の地方舞踊があるのだが、それらもジャワ舞踊には入れない。つまり、中部ジャワの2つの王宮の影響を受けて、そのお膝元で発展した舞踊だけがジャワ舞踊なのである。

前置きが長くなったけれど、ここから本題。ソロ様式の舞踊にはいくつかの種類があり、種類ごとに着付が変わる。このシリーズでは、部位ごと―今回は下半身―に注目して、舞踊の種類ごとに衣装がどのように違うのかを説明してみたい。以前にも書いたことがあるが、東南アジアの伝統衣装は、おしなべて下半身が伝統の染めや織りの素材、上半身にビロードなど外来素材を使うことが多い。

●カイン・バティック

ジャワ舞踊では下半身にバティック(ジャワ更紗)と呼ばれる布=カインを巻くが、日本人がジャワ更紗と聞いて想像するような赤や青色を使った花鳥柄はジャワ舞踊では使わない。ソロやジョグジャのバティックは地味な茶色が基調で、舞踊にはパラン(波型刃の剣)模様という半ば抽象的な柄を用いる。パラン模様は、本来王族だけが着用できる禁制柄である。

普通の正装の場合、ソロではソガ色(黄色がかった茶色)のバティックを着、ジョグジャでは焦げ茶と白のコントラストの強いバティックを着る。そのため、なぜワヤン・オラン(舞踊劇)ではソロでも白のパラン模様のバティックを着るのか疑問に思っていたのだが、亡き師匠が言うには、ソロでも以前は舞踊には白地のパラン模様のバティックを着るのが普通だったそうだ。なぜなら、それはソロとジョグジャに分裂する以前のマタラム王家の意匠だからだという。

しかし、舞踊劇以外の舞踊作品ではソガ色のバティックを着用することが多い。それはソロらしさを強調するため、ジョグジャではなくソロの舞踊だと強調するためだろうと思われる。たとえば、今やソロを代表する舞踊にガンビョンがある。これは1970年代以前は一般子女が踊るにふさわしくないとされ、商業劇場の踊り子しか踊らなかった。そのガンビョンの衣装にはソガ色のバティックを着ることが多いが、1950〜60年代には色物のカインを着ていたという話を聞いたことがある。色もののカインを着るというのは、つまり、ジャワ王宮の舞踊ではないということを示しているのだ。それが、王宮の舞踊の影響を受けて洗練され、芸術高校や芸術大学で欠かせない演目となってくると、バソロらしく、王宮の雅を取り入れたバティックを着るようになったということなのだろう。

●着付

スラカルタの女性舞踊には、サンバランと呼ばれる裾を長く引き摺る独特の着付がある。通常のバティックより1mほど長い。これは王宮で踊られていたスリンピやブドヨ、あるいはワヤン・オラン舞踊劇でも着用する。また、もともとこの着付をしないゴレッという舞踊でも、この着付をする演目がある(『ゴレック・スコルノ』、『ゴレック・マニス』など)。

サンバランはジョグジャカルタ舞踊にはない着付である。私が聞いた人は、本家のソロ王家がジョグジャ王家に使用を許さなかったのだと言っていた。実は、マタラム王家はソロとジョグジャの2王家に対等に分裂して消滅したのだが、分裂当時の王都(スラカルタ)や王の名前(パク・ブウォノ)を引き継いだソロの方が本家だと見なされている。ソロ王家は相手に使用を許さないというやり方で、自らの権威を表現しているのだ。

前項でも言及したガンビョンやボンダン(子供をあやす舞踊)では、通常の正装用の着方と同じように前身頃に襞(ひだ)をとったバティックを巻く。この襞は女性なら指1本分の幅で、端からきれいに折りたたんで作る。ソロとジョグジャではバティックの色が違うだけではなく、襞の取り方や巻き方も異なっている。ソロの場合、襞の数は7本〜13本で奇数になるようにする。

ゴレックと言えばジョグジャを代表する舞踊だが、ソロにもゴレックがある。ただし、ジョグジャのゴレックが大人の女性用の作品で、音楽や振付が複雑であるのに対し、ソロのゴレックは子供用で単純だ。私の亡き師匠が子供の頃(1930年代)にはすでに子供用として定着していたと言う。ゴレックでは体の右側か左側に――ということはどっち向きに巻いても良い――大きく襞を作って着用する。ソロ王家の子供用の着付にはない巻き方だから、ジョグジャ舞踊の真似をして作られたのだろうと思う。(だから、着付が適当なのだ。)一方、上述の『ゴレック・スコルノ』や『ゴレック・マニス』は、ゴレックと銘打ちつつも大人の女性向けに作られた作品だ。だからこそ、サンバランの着付を導入しているのだろう。

舞踊劇から独立した演目で『スリカンディvs.ムストコウェニ』がある。どちらのキャラクターも女性である。スリカンディの衣装はサンバランだが、ムストコウェニの衣装はサンバランに似ているものの、片足は顕わになっていて、下にズボンを穿いているのも見える。実はムストコウェニは人間ではなく、姿を変えられる妖怪だ。この妙な姿はそれを表しているのだろうと思う。ソロ様式の舞踊では女性がズボンを穿くことはないが、ジョグジャ様式の舞踊ではスリカンディなどもズボンを穿いている。私がジョグジャ舞踊を見て一番驚いたのが、女性のズボン姿である。ソロの女性よりも強いなあ〜と感じたのだった。

カーニバルは終わったクルドの朝

さとうまき

ドバイでなかなか飛行機が飛ばない。なんでも軍事作戦を実施しているらしい。追い詰められた「イスラム国」への最後の作戦なのだろうか。アルビル国際空港に到着したのは、一時間ほど遅れてだった。滑走路には、ちょうど米軍の輸送機が離陸準備をしており、我々の着陸と入れ替わりで飛んで行った。この飛行場は、民間の飛行場だったのに、「イスラム国」掃討作戦がはじまってからすっかり軍の飛行場のようになっている。任務を終えた戦闘機も停泊しているのが見える。

もう9月も終わりにちかづいているのに、まだまだ40℃近い暑さだ。大使館から電話が入る。9月25日に控えた「クルド独立を問う」国民投票。「前後を含め5日間ほど休みになるかもしれない。お店も閉まってしまうことも考えられるので、食料を備蓄しておいたほうがいいですよ」とのアドバイスをいただいた。早速、スーパーマーケットに行き、カップラーメンとか、缶づめを大量に買い込む。半分は事務所に、残りは住居に運び込んだ。ローカルスタッフは、普段はこてこてのクルドの家庭料理を食べているから、インスタント食品は珍しく、「これは緊急時なの?」と今すぐにでも食べたい様子。

イラク政府は、もとよりトルコやイランは強く反対し、力ずくでも阻止するという。アメリカもこの時期に国民投票を行うのはふさわしくないとした。本当に、国民投票を支持しているのはイスラエルだけ。そんな状況で国民投票は延期せざるを得ないだろうというのがメディアの論調だった。

町中を歩くと、クルドの国旗だらけ。9月17日は公園で集会があるという。クルドの民族衣装や、国旗をデザインした衣装に身を包み、楽しそうに集まってくる。一万人以上はいただろう。政治的なアピールとい言うよりは、ミュージックフェスの雰囲気。次々と歌手がステージで歌って踊る。この盛り上がりは、阻止できないだろう。

中央政府に言われたからといって、国民投票を中止したらバルザーニ・クルド自治区大統領の面目が丸つぶれだ。だからといって国民投票をやったら、今度は国際社会から厳しい仕打ちをくらう。難しい局面に追い込められた。先ほどから上空を飛び回って、サービスをしているクルド警察やクルド軍のヘリが事故でも起こし、落ちてくれば、延期する口実になるかもしれない。もしかして、すでにゴルゴ13が雇われているかもしれない。

バルーザーニ大統領は各地のサッカースタジアムで遊説して回り、9月23日、アルビルのフットボールスタジアムで最後の演説を行った。4万人は集まったという。スタジアムの収容人数は、サッカーのためかと思いきや、こういう使い方があるんだ。
「私たちは、バグダッド政府と、友好的に分かれるときが来た。国民投票は、私の手の中から離れ、政治ではなく、すべては、あなたたちクルドの人民にゆだねられたのだ。」と締めくくった。

殆どのクルド人は、国民投票を楽しんだ。国際社会がピリピリしていることなどあまり理解していなかったと思う。クルドが独立することは99%がYesだろう。ただこの時期がどうなのかというと慎重派もかなりいた。乱暴な推測をすれば半分はこの時期に独立うんぬんは避けたいと思っている。

クルドは、特にイラク戦争後は、自治というのを謳歌していた。バグダッドがなかなか治安が良くならず、挙句アンバールやモスルは、「イスラム国」の手に落ちてしまった。そんな中で、クルド自治区だけが治安を安定させ、経済発展をつづけた。

しかし、2014年の初めには、クルド自治政府が、中央政府を無視して石油を独自に取引を行っていたことに、中央政府が怒り、国家予算の17%をクルド自治政府に割り当てるという約束を差し押さえてしまったのである。その結果、公務員の給与は25%から75%のカット。予算がもらえないなら、自分たちで石油収入を頼りに独立国家を運営する!というわけだ。

しかし、そもそも、石油で稼いだお金はどこに行ったのか? バルザーニ大統領の独裁政権に疑問をいだいているクルド人も多いのだ。2005年から任期8年ですでに有効期限が切れているバルザーニ大統領。選挙が行われていないのも問題だ。

「俺は、国民投票に行かない」といっていたドライバー。選挙を見たいので、車を出して投票所に連れていってもらった。みんな、お祭り騒ぎ。楽しそうなので、急遽、その場で投票してしまった。「君は反対だったから、Noに投票したんだね?」と聞くと、「いや、Yesと書いてしまった」という。

もう一人、投票にはいかないといっていた、ヤジディ教徒の青年。もともと彼がいたシンジャールは、中央政府の支配地域だったが、「イスラム国」の攻撃で避難生活を送っている。クルド政府がヤジディ教徒の人権を守る気があるのか疑問だという。投票に行ったの? と聞くと、「投票所を見に行ったんだ。そしたら、友達が、投票しろて言うから、投票してしまった」自分の名前は、その投票所にはなかったが、誰かの代わりということでと評してしまったらしい。「で、Noに?」「いやYesと書いてしまった」

シリア難民も何人かは投票しているらしい。モスルから避難している国内避難民も投票に行っている。投票に来ない人の分をその場で何回かなりすまし投票をした人もいるらしい。こういうのがちゃんと無効票に数えられていればいいのだが。かくしてお祭りは終わり、72%の投票率で、賛成が92%という結果だった。

大使館から電話。
「イラク中央政府が、金曜日から飛行場を閉鎖するといっています。帰れなくなるかもしれませんので早く出てください」
急遽、ヨルダンに避難し日本に帰ることになってしまった。カーニバルは終わりをつげた。

飛行場につく。クルドの国旗がでかでかと飾られている。思ったほど人が殺到しているわけでもなかった。チェックインを終えてフライトをまつ。ぺシュメルガ(クルド軍)を称える歌がながれている。勢いのある歌のはずがなぜか物悲しく響く。滑走路には、米軍機が着陸し、そして入れ替わりで、私の飛行機が離陸した。
さらば、クルディスタン。

製本かい摘みましては(131)

四釜裕子

100円ショップのスケッチブックでノートを作りたいと言われて試作を始める。スケッチブックの台紙を使うのも条件だ。台紙といってもけっこう柔らかいので、表紙の芯にするにしてもゆるっとした綴じがいいだろう。裏打ちした布で台紙をくるんで表紙にして、コプト風製本にすることにした。コプト「風」としたのは、表紙を板ではなく紙に、またリンクステッチで表紙と本文を続けてかがる手順をより簡略化したいと考えたからだ。

東京製本倶楽部の会報61号(2011.9.23発行)と62号(2012.9.10発行)に河本洋一さんが書かれた記事を読み直してみる。これは、同倶楽部が2011年5月から勉強会で「歴史的製本のサンプル作り」を行うにあたって、〈”ABC of Bookbinding” の歴史タイムライン略図を参考に、古い物からやってみる〉こととし、実際に作るにあたっては〈その時代の形式の典型的なものを作る〉〈元の書物のデータが分かっているものをできるだけ再現する〉と決め、歴史的解説を担当された河本さんが2回にわたって寄稿されたものだ。当時私は都合がつかず、参加することができなかったのだった。

最初に作ったのが「ナグ・ハマディ・コデックス」。ナグ・ハマディ はエジプトのナイル川中流の地名だ。1945年に、コプト語(ギリシア大文字)で書かれたキリスト教文書などの写本13冊がたまたまこの地で見つかったそうで、その中のひとつの再現を試みている。本文はパピルス、表紙は革。表紙の芯にもパピルスが用いられ、一折中綴じで表紙に綴じつけて、全体を革紐でくくってある。芯に用いられたパピルスのなかに穀物の領収書の端切れがあり、340年代の日付があったそうだ。それ以前から冊子の形態はあったようだが、現在確認されている最古の実物ということになるだろうか。

勉強会で次に作ったのが、表紙に板を用いて、本文を複数の折りとしてリンクステッチでつないだもの。年代的には、本文のみリンクステッチでかがって表紙の板に貼りつけるタイプが先にあったようだ。原本は表紙の板が樺(カンバ)で2.5ミリ厚、本文はパーチメントのところ、カエデ3ミリの板と、紙を本文として再現を試みる。板には斜めに穴をあけ、本文と続けてかがる。これを一般的にコプト製本と呼んでいる。河本さんの報告には、〈12折りのリンクステッチは、綴じ方がやや複雑な事もあり、目の疲れる作業となった〉とある。確かにこれまで見聞きしてきた限り、本文と表紙の板をつなぐところに奇妙な複雑がある。

コプト製本をおおまかにつかんだとろで、簡略化を試みる。ありがたいことに日々世界中の製本愛好家が動画を公開してくれている。表紙に板の替わりにボードや厚紙を用いる「コプト製本」は満載、さらに、表紙と本文をつなぐ手順のさまざまも見つけることができた。最終折りのみ、糸が二重になってしまうけれども、今回与えられた条件ではこれがベストと思える方法に行き着いて、手順書をまとめる。かがり糸はあと少し太くていいかもしれない。穴に針を通したらそのまま引き抜かないで、両手の指先で糸をたぐるようにすると糸がからまないよとメモをつけよう。

ところで100円ショップのスケッチブックには驚いた。想像以上に良いことがわかった一方で、何冊も買った中に、本文を半分に折ったら直角がとれていないものがあったからだ。たまたまかもしれない。いや、そもそもスケッチブックが直角である必要は? 別にないなぁ。なのになぜ? 笑ってしまった。でも、なにしろこれで100円なのだ。私の手にやってくるまでにこの一冊に関わったすべての人がそれぞれになんらかのプラスになっていればそれでいいのだけれど。そんなことってありうるのだろうか。いわゆるメーカー品の値段への納得が深まりつつも……。

8月末にはコプト正教会最高位聖職者初来日のニュースを聞いた。昨年、日本初のコプト正教会が京都の木津川市に開設されたそうなのだ。来日前に教皇タワドロス2世は朝日新聞に、エジプトで相次ぐコプト教会を狙ったISによる爆破テロについて、「エジプト国民の分断を狙ったもので、国家を傷つけている」と言った。紀元1世紀ごろにエジプトで始まったコプト教、信徒はコプト語、コプト暦を用いて、エジプト全人口およそ9200万人中、10〜15%を占めるそうだ。

しもた屋之噺(189)

杉山洋一

春先から今まで何となく空一面を覆っていた厚い雲が、少しずつ薄くなってきて、わずかな雲の切れ間のそのずっと奥に、抜けるような青空が広がっているのが、微かに垣間見られる気がします。
辺りはすっかり秋めいて夜の闇はとても濃く、運河沿いのアパート群の橙色の明かりが、温かさを放って見えるようになりました。

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9月某日 三軒茶屋自宅
芥川作曲賞本番。想像していた以上に会場に配置される奏者の距離が遠く、途方に暮れる。今回モニターは使わないと決めてあったので、左手に白手袋をはめて遠目にも見やすくしサインを送る。楽譜がめくれないので、親指と人差し指に桃色と黄色のゴム指サックの滑り止めを付けた。
永野くんの端麗な演奏にオーケストラが弾けるようにぶつかる音像が、さざめくように会場に響くばらまかれた弦楽器の音と相俟って、ホログラムのように浮き上がる。
ピアノの田中くんは、スクリャービン4番のソナタが漆黒の宇宙空間に散り蒔かれたような音群を、鮮やかな室内楽のごとく弾ききった。演奏会後、田中くんは永野くんの古いCDに彼のサインを求めていたのが微笑ましかった。
古部君のお宅に伺い、久しぶりに百子ちゃんにも再会する。真面目な話ばかりしていた筈だが、勧められるまま杯を重ねて、見事な秋刀魚やら海老の刺身やらご馳走ばかりの印象が残って、酔いが醒める頃には古部くんにプレゼントした指揮棒のことしか覚えていない。

9月某日 三軒茶屋自宅
酒の勢いか、或る音大の作曲教授から「秋吉台夏の講習会なんて知らないし、ここの学生はゆく必要もない。この大学はそれだけ豊かなプログラムを提供している」と言われる。
暫く前に、同大学の作曲科主任が、「作曲科を受験する学生が減って困っている。昨年二人取った新入生も全員辞退してしまい、学部はすっかり肩身が狭くなってしまった。今や自分が高校へ受験をお願いしに出かける始末だ」とこぼしていたが、少子化が進んで、いよいよ大学数ばかりが目立つようになったのか。
その集いには卒業したばかりの若い音楽家たちも交じって、教師と並んでワインを呷る。
「あのコンクールの課題に出た現代曲。あんなのは音楽じゃないです。弾けないし弾きたくもない。僕は演奏拒否の署名運動に参加しました」。若いピアニストが口角泡を飛ばして激するのを黙って聴く。

9月某日 三軒茶屋自宅
伊左治君の指揮姿が見たくて、サントリーホールへ出かける。湯浅先生のお祝いで再会した時から約束してあったが、伶楽舎の演奏も素晴らしく彼の指揮が際立つ。大学生活初めからの付合いの伊左治君の雄姿は、まるで息子の快復を激励してくれるようだ。
日本に一月も滞在するのは久しぶりで、運動不足がたたって身体が辛い。ハースの練習に毎日早稲田まで自転車で出かけたが、思いの外早かった。週末半被姿の老若男女が神輿を担いで練り歩く姿を、何度見かけただろう。誰もが清々しく、凛々しい表情をしていて、涼しい週末、先導する太鼓の音も心地よい。
そんな喧噪を遠くに聴きながら、ハースと昼食の江戸前寿司をご一緒した。彼がエリック・ガーナーのために書いた「息ができない」はどういう切っ掛けで作曲されたのか尋ねると、黒人の妻をもつ彼は彼女が体制に怯えておびえているのは知っていたが、或る日仕事をしていて、目の前に静かな、しかし大規模なデモ行進が歩を進めているのを見て、思わず道へ飛び出しその人の流れに自らも身を投じたのだと言う。それが「エリック・ガーナー」との出会いだったと言う。寿司が大好きで、「イカ下さい」と日本語で注文していたのが印象に残った。

9月某日 三軒茶屋自宅
木戸さんから思いがけなく、和琴について書かれたご自身の文章「ウル日本音楽」のコピーが届く。「純粋な初期日本音楽」は、最近読んで強烈な印象を残した、田中克彦「言語学者が語る漢字文明論」の、本来の意味での「日本語」と共通するものがある。「ウル日本音楽」は、渡来人によってもたらされた雅楽を排して残るもの。「漢字文明論」は、日本語から漢字というツールを剥ぎ、視覚的先入観を排して残る、本来の「日本語」。
漢字は絵文字のようなものだから、「海」と印刷された文字を「うみ」と読むか「かい」と読むか、「ハイ」と読むか「オーシャン」と読むか、「ラ・メール」と読むか「イル・マーレ」と読むか、など本来は自由であり、どれでも通じる筈だと言う。和琴も渡来人によってすっかり豊富になった雅楽の「音」のなかで、共鳴し合いよく震える日本の土着の音を、静かに今に伝える。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京現音のための「アフリカからの最後のインタヴュー」でも、沢井さんと有馬さんのための「盃」でも、エレクトロニクスのパートは、出来るだけ古臭い音がするよう頼んだ。有馬さんはこちらの意向を良く理解して下さって、物凄く複雑な手続きで、アナログの素朴な音に近いものが鳴るよう手助けしてくれた。昔は大変な作業を重ねてこの音にたどり着いたが、現在は複雑な手続きを重ねて、昔の音に近づこうとしている。テクノロジーが求める目標がまるで違うので、手続きは煩瑣を極める。
自分にとって理想的な電子音は、ケージやチュードアが演奏している「イマジナリーランドスケープ1番」の録音のようなへろへろとした音が根本にあって、そこからずっと発展して、60年代の電子音響くらいまでが憧れの対象になり、悠治さんの「フォノジェーヌ」や「時間」と言った作品が頭に浮かぶ。さもなければケージの「フォンタナ・ミックス」のような具体音になってしまい、これでは現在音楽を書くコンテキストから乖離する気がしていたが、現在でも小杉武久さんの音楽は我々の手の匂いが漂う古臭い電気の音で、ハイテクコンピュータに管理された電子音響ではないと思うし、足立智美さんも、無臭無害な電子音響に人間臭さをどう取り戻させるのか、様々な取組みをされているように思う。
「新しいもの」「新しさ」を探求する上で、「音楽」として成立条件について、精査を怠ることもあった気がする。湯浅先生の「未聴感」には、本来音響に限らず様々な成立条件も含まれていたのではないか。
現在でもコンピュータ作曲支援ソフトは、ツールとして認識されているけれども、過去のある時期から我々の思考を越えた「ツール」として、仮想現実を実現するシュミレーターになった。「仮想現実」を音楽として認知するに至り、コンピュータに選ばれたサンプルから我々が選択し、それを実際のオーケストラが演奏する。シュミレーションが演奏のモデルとして添付され、これが理想の演奏だから、これに近づくようにと頼まれるようになる。当然既視感のある音響が生まれる。
以前コンピュータの能力がここまで発達していなかった頃は、こんな音響が生まれるはず、程度の情報しかコンピュータは提供できなかったので、音響の2割か3割は結局作曲者の想像力で補なわざるを得なかった。よって、オーケストラが音を出した瞬間かかる既視感はもたらされなかったに違いない。
我々は既にテクノロジーを使うのではなく、テクノロジーに使われてしまっている。これからもそれは続くだろうし、恐らく将来、我々自身がテクノロジーによって破綻を来すに違いない。原子力のように、我々自身が管理出来ない知性、それが美しいかどうかはさておき、我々の知性を遥かに超えた正しい知性を、育ててしまうに違いない。
その時、音楽とは何を表すものになっているのだろうか。

9月某日 三軒茶屋自宅
ハースは曲も魅力的だが、リハーサルで演奏者と互いに耳を開いてゆく作業がとりわけ新鮮だった。多井くんや永野くんに倍音を聴かせて貰って、そこに若林さんや上田さん辺見くんが音を嵌めてゆく。神田さんはその音響の表面をシンバルの倍音などでコーティングする。
互いに自分の音を主張するのではなく、自分の音の持つ役割と意味が浮かび上がる音を奏すると、音楽が有機的に息づき始める。曲の構成は、一見すると奇妙なバランスに見えるけれど、音そのものが有機的に生成を始めると、確かに別の音楽構造がしっくり来るようになった。
息子より連絡あり。ミラノを訪れた知人のSNSを息子が偶然見つけ、それが罵詈雑言の羅列だったものだから、息子が本人を叱責したと言う。息子が理路整然と世代の違う知人に説教を垂れ、謝罪の言葉まで引き出したというから仰天する。気が付かないうちに、彼の思考もすっかり大人になっていた。
「言霊」はやはり存在する気がする。神様でも仏様でもお天道様でも構わないが、天に唾を吐けば因果応報は巡るとどこかで思っていて、それは「因果応報」そのものではあるが、人生に於ける「確率」も無意識に作用していると思う。
自分は既に交通事故に遭っているので、同程度の交通事故に遭遇する確率は他人より極めて低い、といった思い込みだが、そう思うだけで気が楽になる。今回息子が体調を崩しても、ここで厄を落としておけば暫くは大丈夫だろうと高を括っているのが、果たして良いか悪いか分からない。

9月某日 倉敷ホテル
カルテットが別のプログラムをリハーサルしている間、部屋でビエンナーレの譜読みを続ける。グオのヴァイオリン協奏曲の2楽章は1/4拍子のプレストが続く。振り難いし見難し、リズムも4拍子だったり3拍子だったりするので纏めて振ろうかと考えていて、昼食の時に天ザルを啜りつつウェンティンとニアンに相談すると、これは中国の伝統音楽から来ている1拍子だから纏めては駄目だと言われる。フレーズが見えてはいけないと言って、ニアンは二胡を弾く真似をしてくれる。聞けば、ウェンティンもニアンも、誰に習ったわけでもなく家では伝統楽器で遊んでいたそうだ。
グオのオーケストレーションは独特で、ヨーロッパ的に迎合しないところに好感を抱く。
何故我々がヨーロッパ的書法を標榜しなければならないのかと考えれば、案外それは思い込みではないのかと思うこともある。ヨーロッパ人も、自分たちと同じ音楽を特に望んでもいないのではないか。
韓国や中国を持ち上げるつもりもないが、何時から我々は自国を特別視するようになったのか。それもどれだけヨーロッパ化出来たかが評価対象で、自国の文化の発展とは常に同じレールを走ってきたわけではない。その昔、彼の地を通って様々な文化が日本を潤した時は、もっと豊かな文化交流がなされたような気もする。特に、現在日本人が内向きだと呼ばれるのは非常に気に懸かる。

9月某日 倉敷ホテル
「子供の情景」は、どういう作品にすべきか最後まで悩んで、結局、最初に自分が考えた音を書いた。
そう書くと矛盾するようだが、春先から息子と息子の身体と付き合ってきた中で、これらの音は生まれた。特に、息子の病室で過ごした長い時間がなければ、この作品は書けなかった。一月近い時間、窓も開けられず、30メートル四方以外はどこにも出かけられない監禁状態の中で、心が砕けそうになりながら、彼の心が外の風景へ飛び出してゆくのを見ていた。病室は無味乾燥としていたが、息子がその向こうに映し出している心の風景はとても瑞々しかった。
1曲目「見知らぬ国と人々」を聴くと、自分にとっては病院の二重窓の向こうで行き交う人々を眺めている息子の顔が浮かぶ。
6曲目「大事件」と10曲目「むきになって」は、シューマンの名前から採られた数列で作曲。
「大事件」は先に亡くなった、メッツェーナ先生へのオマージュ。彼は音色を豊かに輝かせるため、パート毎に音色を作らず、敢えてソプラノの音色をテノールへ、バスの音色をアルトへと常に廻すように教えてくれた。
4曲目「おねだり」は、泣きじゃくっているところ。本当に泣いていることもあるが、大方ねだるときにわざとする泣き真似。
7曲目のトロイメライ「夢」は、息子が去年の春にカニーノ先生と一緒に弾いたクルターク=バッハへのオマージュで、影のように倍音が寄り添う。病院のリクレーション室に置かれた調律の狂ったピアノを右手だけ、好きだったスカルラッティの断片を少し、寂しそうに弾いていた姿が目に焼き付いている。
どの曲も子供の視点で書き、特に最後まで苦労した9曲目「木馬の騎士」は、子供の背丈から眺めた部屋の風景を描いたつもりだが、12曲目「眠るこども」のみ、息子を眺める自分の視点で書いた。ヴィオラの低音域の5分法ハーモニクスとアルペジオを薄く重ねると、丁度息子の寝息のような手触りが浮かび上がる。
この歳になるまで、作曲家の感情が作品に直截に影響を及ぼさないと信じてきた。ヨーロッパ人の信仰心が音楽と無関係であるはずはないが、モーツァルトが「レクイエム」を書いても、自身の環境や境遇は作品には如実に反映されずに、ずっと昇華された核だけが、楽譜に記されているのだと思っていた。しかしここ数年で、かかる自分の信条ががらがらと崩れ去るのを実感した。
ロマンティシズムではなく、寧ろ、より現実的写実的な何かが、演奏に訴えかける強さを持つのを理解できるようになったのかも知れない。今井さんは、好きなように書きなさいと仰って下さったが、こんな厄介な作品は届くとは想像していなかっただろう。にも関わらず、彼女を初め演奏者全員どれだけ誠実に取組んで下さったかは、感謝の念は到底書ききれない。

9月某日 ミラノ自宅
一ヶ月ぶりに息子に会う。ここ数日吐き気が取れずに体調が優れないと聞いていたが、思いの外しっかりしていて安心する。身長も伸びて大人びた感じもするが、自習していた指揮の課題のミクロコスモスを見てくれというので、5拍子はとても良いが、最初がそれでは始められない、とコメントを言うとむくれて指揮なんか厭と布団を被った。
日本にいる時から楽しみにしていた「ヘンゼルとグレーテル」を観に行く直前、合唱で出演する息子は彼は相変わらず困憊してなかなか布団から出られない。結局自転車の後ろに乗せて猛烈な勢いで劇場まで走ってゆき、事なきを得る。ちょうどミラノ・コレクションで街中道が混雑していて、もしタクシーを拾っていたら間に合わなかった。
演出も大道具もとても美しく、ライティングの妙には誰もが見惚れた。息子も元気よく舞台を駆けずり回り、大したものだと感心する。舞台が終わるとぐったりしているが、本番中は気が張っていて分からない。
貧困問題を直裁に取り上げた演出で、前半フィナーレは貧困者たちが天に召されるところで終わり、オペラのフィナーレは、幼い兄妹の亡骸を抱えた貧困者の行列が近づいてくるところで終わる。
ミラと並んで観劇していて、気がつくと彼女は涙を流していた。フランコと結婚してから、オペラなど全く見たこともなかったミラは、定期券で数えきれないほど劇場に通うようになったと言う。でもフランコをこうして思い出せるのは嬉しい、そう言ってまた涙を流した。

9月某日 ミラノ自宅
2年間一緒に勉強した作曲の今堀君がクラスを修了し、去年から入った矢野君は、コンクールを控えてファビオの楽譜と首っ引きになっている。現代曲を振るのは初めてなので、敢えて彼にはピアノのリダクションを頼んで、自分がスコアから聴きとりたい音を、自ら並べて理解して貰うと、随分シンプルに音楽が感じられるようになったようで嬉しい。今年は新しく浦部君が入学して、早速「クープランの墓」を持ってきた。縦に和音を並べて圧縮せず、横に並べながら音の間に質量を感じてもらう。矢野くんと同期のグエッラはフランスのコースの準備をしていて、ボーノはロンドンのコースを準備している。皆充実していて、思わずこちらも励まされる思い。

9月某日 ミラノ列車中
再検査で、息子の脊髄の炎症の完治が確認された。まだ左半身に軽い麻痺は残り酷い倦怠感と戦っているが、これから先はとにかくリハビリで身体を作り行くことが中心になる。
毎朝倦怠感が酷いのか、学校へ行かないと大騒ぎして親を困らせる。仕方ないので抱きかかえて外まで連れ出すと、漸く諦めがつき渋々自転車の後ろに乗るが、酷い時は道路の途中で飛び降りて逃げようとする。8月半ばから今まで親に甘えられず、リハーサルに励んでいたのだから仕方ないとも思う。殴られて蹴られこちらは身体中痛いのだが、これだけ力が余っていれば大丈夫だと内心ほくそ笑む。
息子と一つ違いの生徒がコンクールを受けていて、どうせ自分はピアノが弾けないと自暴自棄になり、教えるのなんか罷めてと暴言を吐く。自分も小学生の頃、同じように云って母親を困らせていたのを思い出す。

9月某日 ミラノ自宅
夏前に頼んでおいた息子のための自転車をマリオが届けてくれる。イタリアで60年代に大流行した「La Graziella」というタイプのレプリカで、シャーシなど全て息子が注文した明るい黄緑色で統一されている。60年代イタリアらしいデザインが美しい。中学校は車の少ない裏道のサヴォーナ通りを走り、スタンダール通りを左に折れてフォッパ通りを越したところ。一昨日から始まった「ナブッコ」のリハーサル会場は、スタンダール通りを右に折れてすぐのところにある。「ナブッコ」の演出はダニエレで、息子ときたら練習初日から早速ダニエレに話しかけたらしく得意になっている。
ずっと自転車の後ろに座らされていたので、多少疲れても自分の足で好きなように自転車を漕げるのは嬉しそうで、疾走する息子の姿に、ただ感慨を覚える。

9月30日 ミラノにて

翳りの複雑

高橋悠治

バロックの鍵盤音楽をピアノで弾いていると チェンバロの音とちがって 余韻が短く 音がすぐ消えることはないが 長い音をそのまま弾いていると 間がぬけて聞こえるから 装飾を付けて音を揺らしてみる 音が一瞬波立ってすぐ静まる それだけで音に表情が現れ まわりの音に影を落とす 装飾は型通りのはずだが なかば偶然の不安定な乱れが 時間の流れにリズムをあたえる 規則的なようでどこか不規則な領域に入り込んでいる 複雑にすることなしに 単純なまま かえってなにかが欠けている それも粗雑な省略でなく 意識のとどかないほどの わずかなためらいから起こる「ずれ」

それとは別に 「崩し」の技法もある 同時に幾つかの音を打つ和音では どれかの音に重みをかけることで さまざまなニュアンスがあるが 指や手や腕だけでなく 前に傾けた上半身の重みをそれぞれの指にふぞろいに振り分けるピアノの奏法ではなく 和音を分散して それぞれの指の重みではなく 音の入り時間の差をまちまちにして リズムというよりは躓きのひっかかりを不器用なままにしておくと 一回限りの偏りから生まれるきらめきが 音楽のあちこちをまだらに彩るだろう

装飾はその前の音から切れて際立つことが多いが 時には前の音が伸びた尾が揺れ動くこともある するとリズムの歩みが急におそくなる

時代楽器の奏法を現代の楽器に使うのは 時代様式の正統性を装っているが ちがう楽器には必要がない演奏法を移すと 楽器の響きをあいまいにして どこにもない音色の印象をつくりだすこともある 演奏の実験から バロックの装飾法や演奏習慣を使わなくても 揺れ動く響きや 一見単純な楽譜から 何もつけたさず 逆に微細な脱落による 見えない音楽の波を立ち上げることができるかもしれない 詩人たちは 言えないことを言わないままに 時代を記録し表現することばの技法をみがいてきた 音楽にも 音にならない臨界領域に近づく技法はありうるし それを必要とする時代もあるだろう

2017年9月1日(金)

水牛だより

ある日を境に季節が変わる、今年の9月はそんなふうにやってきました。事実は2、3日前からグッと涼しくなったのですが、そこに9月が加わると、ほんとうに夏は終わったのだなあと、あんなに文句を言った暑さをもう懐かしく思い出します。今年は秋の服を早めに出しておくほうがよさそうですね。

「水牛のように」を2017年9月1日号に更新しました。
藤井貞和さんの詩集『美しい小弓を持って』(思潮社)が発売になっています。スランプもあり6年ぶりの詩集ということですが、「水牛のように」には毎月かかさず書き続けてくださっています。
水牛がそのような場として機能しているのはほんとうにうれしいことです。

このところずっと小説を読むのがおもな仕事でした。それが一段落したところに、小説についてのこんな文章を偶然に読んで、ほっと一息。
「(漱石の)他の小説の題名は『それから』と言う。書くことは、ただたんに次に来るものを知ることだ。小説はそれ以上のものではない。人生の無限の「その後」のほうへと向けられた視線なのだ。」(フィリップ・フォレスト『さりながら』澤田直訳 白水社 2008年)

それではまた!(八巻美恵)

夏休み

笠井瑞丈

徳島で行われる『阿波踊り』を見るの旅
青春18切符での鈍行電車の旅

8月9日
西国分寺から川崎
川崎で大好きな家系ラーメンを食べ
熱海を目指す 熱海途中下車
熱海はとっても大好きな場所
なんとなくちょっと寂れた感じが好きだ
駅前の商店街から海に繋がる道を歩く
今年初めての夏の海
ビール片手 海辺での昼寝
本日の最終目的地名古屋へ
一泊五千円の安ビジネスホテル泊

8月10日
次の目的地の岡山へ
名古屋から米原 米原から姫路
姫路途中下車 初めての土地
この旅二回目のラーメン
姫路城を遠くから見学
姫路から岡山へ移動
岡山で友達のダンス公演
三浦宏之×小暮香帆
『ふたりしずか』を観劇
岡山ビジネスホテル泊

8月11日
最終目的地徳島へ
初めて渡る瀬戸大橋
初めての四国
四国は突然隆起し
現れた島と父が行く前に教えてくれた
なんとなく神々が住んでそうな島
勝手ながら想像する
午後無事徳島駅着
この旅三回目のラーメン
街は阿波踊りの準備で大盛り上がり
友達のGORIさんが迎えに来てくれる
徳島から一時間車を走らせ美馬市
GORIさんの住んでいる山奥へ
今夜は踊り明かそう
今夜は呑み明かそう

8月12日
GORIさんの知り合いの車屋社長宅へ
本日は社長のご好意で社長の持っている
会員制ホテルに宿泊させてもらう
豪華なホテルにビックリ
ホテルにプール 今年初のプール
夕方いざ徳島阿波踊りへ
大勢の阿波踊りの連
徳島一番の大イベント
鳴り響く太鼓のリズム
中腰で踊る男踊り
爪先で踊る女踊り
飲んで踊って
踊って飲んで
はじめて本場阿波踊りを堪能
ほろ酔いのよい夜

8月13日
レンタカーを借りる
帰郷する予定を二日伸ばして
明日から急遽四国一周の車旅を計画
美馬市探索
古い劇場 オデオン座
東京にはない素敵な劇場
古い街並み 大きな川
川が流れている街は好きだ
夜社長が食事をご馳走してくれる
みんなでお好み焼きを食べる
見も知らない僕達にこんなにもよくしてくれる
社長に本当に感謝

8月14日
朝GORIさんにお礼と別れを告げ
いざ出発
一度やってみたかったただ車を走らせるの旅
好きな音楽をカーステから流し
変わりゆく景色をただ眺めている
川 山 海 猿 花火
カミさんが車の免許を取ったため
運転手は二人
二時間おきに交代でひたすら走る
本日の目的地高知へ
道中たくさんのお遍路さんを目撃
八十八箇所霊場を巡拝するのは大変だろう
いつかやって僕もみたいと思う
二十一時無事高知着
高知の安ビジネスホテル泊
その前に今回四回目のラーメン

8月15日
本日この旅最終日
足摺岬を目指す
一般道だけで旅をしたかったのですが
東京に帰る電車に間に合わないため
高速道路を車を走らせいざ出発
カミさんとこんな時間は久しぶり
車中いろいろ話をする
笑 喧嘩 笑 いつもの事だ
十三時に足摺岬に到着
時間がおしているため車を降りず
ルートを変更してここで美馬市に戻る
十五時無事美馬市着
十六時の電車まで時間
社長に挨拶に行く
旅は本当にいろいろ
新しい人と出会い
新しい場に出会い
新しい自分を発見する

ながい夏休みでした
よし明日からまた踊ろう

いざ東京へ