しもた屋之噺(188)

杉山洋一

練習が終わって家に戻ろうとすると、目の前に雲に墨汁を垂らし一面に広がったような、美しい白黒の空が続いていて、思わず見とれてしまいました。窓際に立て掛けた家族の写真を眺めつつ、日記帳のメモ書きを書き出してみます。政府広報に「ミサイル落下時の行動について」が掲載されたかと思いきや、間もなくJアラートの警報が実際に鳴り響き、それでも目の前の風景はいつもと同じで、自分もごく普通に暮らしている。何も感じないのは、何かが麻痺して感じなくなっているからなのか、そうでないのか。
イタリアに20年以上住んで、政府が「ミサイルが飛翔してきたら」と国民に呼びかけるのを聞いたことはないし、他のヨーロッパ各国を鑑みても、そんな警報が発せられるのは、よほど異常な事態でなければあり得ないのではないでしょうか。
太平洋戦争前夜、国民の大半はこうして何も考えずに普通に暮らしていたのだろうか。井の中の蛙、ではないけれど、気が付いたら周りの風景から、全て色味が抜け落ちていたりするのだろうか。まさか本当に戦争などという馬鹿げた真似はする筈はないと信じていますが、未来永劫、戦争なしにやり過ごせるかと言われれば、それも俄かには信じ難い気がします。
尤も、イタリアに戻れば、ミサイルこそ飛んで来なくとも、どこでもテロと隣り合わせです。本当に不穏な時代になってしまったけれど、その中で自分が音楽をしている意味を考えます。意味はないのかも知れないし、もしかしたら、どこかにはあるのかも知れない。

8月某日 ミラノ自宅
大人が座れるようなバランスボールからテニスボールやリハビリ用のスポンジボール、と色、大きさや重さの違うさまざまなボールが家に並ぶ。もともと倉庫を改造した家なので天井も厭に高く、掃除に困っていたのだが、こういう時には都合がよい。フワフワのボールを息子と互いに左手で投げ合う。当初全く力が入らなかったが、不思議なもので、時々息子が「あ、分かった」と叫んで投げると、突然凄い勢いでボールが飛んできたりするので、筋力が落ちているというより、力を入れる神経の回路を思い出しているようにも見えるし、右手、右足と交互に投げたり蹴ったりしつつ、神経に電流を流すコツを見つけているようにも見える。
最近気に入っているリハビリは、綺麗に巻きとってあった包帯を一度解いてから、丹念に丸く巻き直す作業。これは巻くときに力が必要で掌全体も使う動きなので、効果的だという。小学校の算数の最初で一の位、十の位と百の位を学ぶために使う、5ミリ、10ミリ、15ミリの、ほんの小さな色のついたブロックもリハビリ道具だ。目を閉じて左の指の下にこのブロックを置き、大中小のどれかを当てるのだが、案外簡単ではない。
左手や左足に神経を集中すると、すぐに困憊する。仕事をしていると「リハビリして疲れたから抱きしめて」と傍らにやってくる。ピアノを少し弾いてみて、思うように左手が動かないと、右手で左手を持って「もうこんな腕もぎ取ってやりたい」と呟く。

8月某日 ミラノ自宅
「子供の情景」の校正とパート譜を作りを今堀くんに頼んだ。浄書ソフトに暗いものだから迷惑をかけてしまったが、どれだけ助けられたか分からない。息子と日本に発つので3人で朝鮮料理を食べる。肉の食べられない人間が頼めるメニューは、魚のスープと烏賊の辛味炒めと冷麺くらいなので、息子の焼き肉に誰か付き合ってくれると実に有難い。
病気の話になり、今堀くんの近しい知り合いにも左手が使えない人がいると言う。幼少の麻痺が残ってしまったそうで、もちろん息子とは比較にもならない。病院にリハビリに行けば、隣には脚や腕がない人も沢山いて、彼らが明るくリハビリに励む姿に、実はいつも力を貰っている。今堀くんは、今年、ローマのイヴァンの作曲クラスを首席で修了したというから、立派なものだ。2年間彼に学校で指揮を教えて、自分がよい教師だったか分からないけれど、彼は最近特に伸びてきたところなので、是非指揮も続けていってほしい。

8月某日 ミラノ自宅
来月からの息子の学校生活へ向け、慌ただしく準備している。中学の校長に手紙を書き、授業のノートをコンピュータで取ったり、録音したりする許可も貰った。イタリアでは、板書より寧ろ、教師の言葉を書き取って勉強するらしく、長い時間鉛筆を使うのが難しい息子には、少々厄介が伴う。
何時も自転車を頼んでいるマリオには、息子が通学に使う自転車をこしらえて貰っている。リハビリに行こうと混んだ路面電車に乗ったとき、無理に乗り混んできた老人に、重心のまだ定まらない息子は跳ね飛ばされてしまった。その場で老人に凄い剣幕で怒ったので、息子には妙に感心されたが、周りの乗客も一斉に老人を咎めたのに愕いた。哀れな老人は次の停留所で降りていった。

8月某日 三軒茶屋自宅
食事の支度をしながらフランス国際放送のニュースを聴いていて、北朝鮮に名指しされたグアムの特派員の中継になった。グアムでは大きなミサが行われて、信者たちが熱心に神に平和を祈っていると言う。ミサ参列者のインタヴューが流れて、どれだけ自分たちが神に願っているかを切々と話す。日本のマスコミとは目の付け所が違うことに感心する。宗教観の違いなのだろうか。
イタリアにいてもレストランで食事するのは余り好きではない。味は濃すぎることが多いし、どの程度の食材を使っているか分かることもある。家に帰って、自分が好きな素材で、好きな味の料理を作る方が精神衛生上宜しい。
先日、三軒茶屋で夜半何か食べたいと思ったけれど、家には余った大根とシラス、それから実家で作った紫蘇の葉、多少のトマトしか無かった。これらの素材でパスタを作ってみると、思いの外美味だった。
特にイタリアに似た料理はないが、大根はイタリアでよく食される蕪に似ていて、シラスは小魚の湯がきそのものだし、紫蘇も香草なのだから、併せて調理すれば美味しくない筈がない。
自分の好きな量のオリーブ油を使い、好きな塩梅にトマトから果汁を引き出して、シラスから染み出た魚の旨味と合う。紫蘇は使いようによってはバジリコより味が円やかなので多めに入れ、硬めに茹でたパスタを絡めて、ソースで乳化し味が馴染んだところで頂く。これに美味しいオリーブでも入れて煮込めたら文句なかった。
日本のスーパーの食材でイタリア風イタリア料理を作るよりずっと自然で、音楽と同じだと思う。

8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台の講習会が終わり帰宅。
今年はお加減が良くなかった湯浅先生の代わりに、頼暁先生がいらした。頼暁先生は講義の折、音列や構造の抽出の仕方を丁寧に板書されるのだが、それを後から眺めると実に美しい。勿体ないので暫く消さないで欲しいと頼んでも、これは又書直せるからと、何事もなかったかのように消し去ってしまう。
頼暁先生は、講習会の間に、秋吉台の演奏家の名前を使って、弦楽三重奏を作曲された。音列と全体構造までを最初の講義で説明し、後は細切れの時間に作曲されて、新しく書き足された部分が、毎日受付の横に貼りだされていた。基本的な作曲工程が思いの外似ていて、思わず親近感を覚える。ただ、頼暁先生はオクターブ恐怖症で何としてもオクターブを回避するのに比べ、こちらは絶対に同じ繰り返しを強迫的に避ける、繰り返し恐怖症なのが違う。

毎年秋吉台の作曲クラスの後ろに仕事机を置き、皆のディスカッションを聴きながら、楽譜を広げて仕事をする。時々口を挟んだりもするのだが、今年は足立さんがいらして、考えていたことの半分以上は、彼が先に代弁してくれた。そんなに同じことを考えるものかと、内心とても驚いていたのだが、面と向かって足立さんには伝えそびれてしまった。彼の作品で好きな作品もたくさんあるが、基本的に大きな音量が続くと耳が疲れてしまうので、音量の小さい作品はあるのかと尋ねると、そう言われると、確かに音量の大きな作品ばかりだと笑っていらした。
低音デュオの演奏した彼の近作は、面白かったし有難く静かな作品だった。ずるいと思うほど心憎い仕掛けが最後に待っていた。

足立さんが、作曲を学ぶのなら、是非即興演奏も学んで欲しいと言われていたが、尤もだと思う。間違った音楽を排除し、正しい音楽を目指すより、悪い音楽を排し、良い音楽を目指したいと思う。即興はその最たるものでもあるし、もちろんジャズや民族音楽が魅力的なのも、恐らくそこだと思う。

去年自作を指揮していた村上さんが、新しく書いた曲を聴かせてくれる。彼女自身がヴォイスパフォーマンスで参加している室内楽は、物凄く魅力的だった。それに近いことをオーケストラを使って演奏したものは、オーケストラは彼女の魅力を半減させていた。オーケストラは基本的に、西洋伝統音楽を演奏するために発展してきた演奏形態である事実は、如何ともしがたい。それを受入れるか、拒絶するか。さもなくば諧謔に転じるか。

特殊奏法を使えば、音楽の可能性が広がるかと問われれば、それも難しいように思う。西洋楽器は、伝統的な奏法に於いて最も表現の幅が生まれるように発展してきたのだから、特殊奏法を否定するわけではないけれど、可能性を広げているように見えて、案外それは袋小路に過ぎないのではないか。
現在使われている特殊奏法は、プリペアードピアノをはじめ、元来は代替音色の発明だったように思う。現在のようにサンプラーの技術もライブエレクトロニクスの技術も進めば、楽器で特殊奏法をする意味は、もしかしたらまた別の意味合いをもたらす結果になるかも知れない。

作曲学生のディスカッションに登場したコンピュータ浄書は、現代の作曲家にととっては、殆ど必要不可欠になった。譜面とは書くものではなく、最早打つものに変化しつつある。今後、我々はより一層コンピュータに認識されやすいよう、自らを発達させてゆくのかもしれない。そうして思考が画一化してゆくと、個は何を意味するようになってゆくのだろう。そのままゆけば、コンピュータが我々の思考に甲乙を付けるようになるに違いない。
電脳は、ツールではなくなった。

8月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルに出かけると、いつも顔を合わせていたメンバーに加えて、古部くんや先週まで秋吉台で一緒だった山澤くん、ずっと会っていなかった菊地くんや斎藤さんの顔を見つけた。振っていると、すごく助けてくれるので嬉しい反面、自分の譜読みがあまりに覚束なく、申し訳ない思いにかられる。
指揮を始めたばかりの頃、「指揮者は、どういう形であっても振り続けていることが一番大切」と古部くんからアドヴァイスを頂いた。とても含蓄のある言葉で、今まで事ある度に反芻してきた。作曲家のNさんが、とても温かい音を出すオーケストラと感激していたけれど、全く同感。譜読みがどんなに辛くても、音が出た瞬間に、一緒に音楽が出来る喜びに払拭される。

練習から帰宅し、千々岩くんのフランクのソナタを聴き、思わず涙がこぼれた。聴き惚れつつ困憊した身体に音が染み通ってゆくのが分かる。一音ごとに音色が変化して、シラブルのイントネーションのように聴こえる。伝える言葉と伝えたい言葉を持っている音楽家は、あれ程淡々と音を紡いでゆくので充分だった。話すように演奏する、という喩えは常套句だけれど、文字通り話すように演奏をしていると実感したのは、初めてだった。名曲過ぎてこのソナタは好きではなかったのだが、考えを改めた。訥々とした深い語り出しに、彼の歩んできた人生の厚みを感じる。

8月某日 三軒茶屋自宅
時間を見つけて母にタブレットを買い、町田に届けにゆく。初期設定をしていて、彼女の誕生日が1935年3月5日なのを見つけた。聞けば彼女は数字の3と5が好きなのだという。この歳になるまで気が付かなかった。
どうして時間は昔に戻せないのだろう。小学校位にまで戻れれば、やり直したいことはたくさんある。やり直せるものなら、今まで自分が犯してきた誤りを全て正した、もう少しだけでも真っ当な人生を送ってみたい。両親はもちろん息子や家人にも、違う自分の姿が見せられたに違いない。ただ、もしそれが出来たとしたら、家人にも、今の息子にも出会えなかった。

(8月31日三軒茶屋にて)

154立詩(2)坑夫

藤井貞和

「東京へ帰りなよ」と、
漱石が言う、落石を避けながら。
「おれもそう思う」と、
鏡花の言い分は落花みたい。
「川はやばいて。 まもなく、
水が落ちてくる」と、
芥川も追いかけて言う。
徳山ダムに、
カミオカンデは作らせない。
星空が落ちてくると、
ほんとにやばいです。

(この地方の鉱山には五つの種類の金属が見出され、坑夫の肉体は地中深く妖怪になる。というのは、土と金属の気とによって身体が養われるからである。坑夫たちは生きているのでなければ、死んでいるのでもない。新たに坑夫が鉱山に入ってきたらば、この者たちは彼らをつかまえて逃がさない。しかし坑夫が、頭上に燈をともしているならば歓迎され、たばこを求められる。この贈り物で親しくなると、坑の外へ引き上げてくれるよう、妖怪たちに懇願されるが、坑夫はまず豊かな鉱脈を教えてもらう。それから自分たちは最初に外に出ると、妖怪どもを結わえてある縄を切ってやる。妖怪は上にまで達する。しかし、風にさらされて、衣服や肉体、骨は化して水になってしまう。その腐敗した気は生臭く、それを嗅いだ者は悪疫で死ぬ。坑夫が大勢であれば、妖怪を四角い土壁の中に閉じこめ、その上に燈を備えつける「台」をおく。このことで惨禍を避けることができる。風をうけると悪疫を吐きだす雲南のこの怪物は「乾麂〈かんき〉」〈乾いた鹿〉の名称でよばれる。――マルセル・グラネ『中国古代の舞踏と伝説』より。)

ここそこにある境界

大野晋

お盆休み明けに、信州から、お盆休み前に予約を入れていたデラウェアが届いた。今年は、梅雨明け以降、天候不順が続いたために、なかなか収穫できず、例年だと8月初旬から出回り始める露地物が遅れて、8月の中旬も過ぎて下旬になってしまった。とはいえ、今年は甘みは今一つだけれど、風味が強い、おいしいぶどうになっていた。たぶん、今年のワインはおいしい。ぱちぱちに張りつめたぶどうを食べながらいろいろと考えた。

近年はワインツーリズムが注目されているらしく、専門家にとても多くのコメント依頼が入るらしい。そういえば、昨夜のテレビのニュース番組でも、明日の予定は「日本ワイン」だとどこかできいたキーワードが出てきていた。日本のワインだから日本ワインではなく、国税庁の拵えたハードルでは日本国内で収穫されたぶどうを使用して、日本国内で醸造したものを「日本ワイン」と名乗ってもいいと決められている。ところが、そこにいろいろな不思議な物語があることは先月までのお話しで述べてきたとおりである。

日本には「おらが村のぶどう」と「おらが村のワイン」の間に深い境界線が存在している。要するに、おらが村のワインは必ずしもおらが村のぶどうから作られていないということで、風景として見えるぶどう畑は実は今飲んでいるワインには必ずしもならないという事実があるという話だ。これを「観光ブドウ園」と称したが、まだまだ、観光ブドウ園のようなワインはたくさん存在している。まあ、さすがにぶどう畑も見当たらない神奈川県がワイン生産量日本一だから、日本で一番ブドウが採れているとは思わないだろうとタカをくくっていたら、近所のブドウ園のぶどうだと思ったというコメントがSNSでついて苦笑してしまった。実際に消費者は生産の現場から遠い所に住んでいる。ただし、ワインツーリズムとなると話は別で、さすがにブドウ畑がない場所では成り立たないだろうとは思うが、もしかするとびっくりの裏技が出てくるのかもしれない。

さて、最近、地方の中小都市にこじゃれた料理屋が増えたような印象がある。いずれも、地元の食材を使っていて、地元でしか食べられない料理が食べられたりする。いいことばかりかと思っていたら、松本の長く通っていた蕎麦やが閉店していた。大きな水車が目印の蕎麦やだったが、一時は店に入りきれないくらいの客でにぎわっていたが最近は地元客の嗜好が蕎麦からうどんやラーメンに移ったためか、店舗が維持できなかったようだ。店が大きかったのが災いしたのかもしれない。

大きな店、小さな店、残るもの、消え去るもの、そこにある境界の不思議に思いを寄せてみる。そろそろ、秋の夜長となる。

狂狗集 6の巻

管啓次郎

あ あみなだぶ暁を呼べ愛と呼べ
い 犬を眠らす羊の群れの習慣性
う 牛の巡歴つきあへば日が暮れる年が暮れる
え 映像の核心はエイ鰭への信心
お 大阪を待ちながら往生要集を読んでゐた

か 「彼は誰」や危険な時刻の禅問答
き 貴種流離を語るな遺伝に履歴なし
く 苦しみが募る時つひチョコレートを齧るんだつて
け 傾向として系譜にひれふす庶民性
こ 向上心なく水平をさす水準器美し

さ 再会を約す地上の祝祭日
し 死よ死神よ詩や詩神とのかくれんぼ
す 西瓜が好きだが半球の潜り食ひは無理
せ 性器といふ用語がCsOを裏切つてゐる
そ 爽快な崩壊 砂の城が波に洗われる

た 体言止めといふが体型の経年変化をだうするの
ち 椿事出来しても表面的には平常心
つ 作り物の感情に溺れて運河氾濫す
て 定家に定義ありや定式ありやその定法を学ぶべし
と 闘牛を讃えし藝術家たち地獄で苦しめよ

な 内容と形式はひとつそれなら反復練習だ
に 肉体に傷をつけ時々血を流す苦行
ぬ ヌートリア泳ぐ河川のにぎやかさ
ね ねぎらひと涅槃念仏ねぎと鴨
の 農業を企業支配から奪取せよ

は 橋が落ちた神のフィルムを巻き戻せ
ひ 干潟よ干潟小さな命の運動会
ふ 不況より軍需産業の隆盛を選ぶのか
へ 変身に希望を託して肌を彫る
ほ ほんたうにほんたうに恐い話をしてよ

ま まいまいずへ下りて若水がぶ飲みす
み 見過ごしていた日常性のマラビーリャ(maravilla)
む むこうみずなきみの人生マラビーダ(mala vida)
め 明示された価格で正直に生きたいね
も 猛獣にヒトの捕食をうながしたい

や 夜間飛行で星のシャワーを浴びる夢
ゆ 夢の中で「夢だ」とつぶやくが理由は忘れた
よ 洋館で吠えているよ柴犬二匹

ら 来週という言葉はもつとも手軽な希望
り 臨終にどの風景を思ふのか
る 類が友を呼びこの部屋は悪者ばかり
れ 霊界の友人が仕事をいろいろ助けてくれる
ろ ロートレアモン一度はきみに会いたかった

わ 和解せよ心はいずれ大同小異

仙台ネイティブのつぶやき(25)寒い夏に耐える

西大立目祥子

仙台では、この夏、7月22日から8月26日まで36日間雨が降り続き記録的長雨となった。しとしとした雨が止んだかと思うとまた降り出し、朝起きて今日はくもり空かと思っていると、いつのまにか霧雨に変わっている。気温も低く、寒がりの私は長袖を羽織る日が多かった。

オホーツク海に高気圧が居座り、冷たく湿った海風が流れ込んでくるためだ。東北の人々が「ヤマセ」とよんでおそれてきた北東の風である。雨天が30日間を過ぎるあたりから、地元メディアでは「昭和9年(1934)の35日間に迫る」という報道がなされるようになった。「昭和9年」と聞いて、ひやりとする。東北各地が深刻な凶作に苦しんだ大冷害の年として記録に残されているからだ。

「ヤマセ」はおそろしい。初めて身を持って知ったのは大冷害となった平成5年(1993)の夏だった。このときも、ひと夏気温が低く雨の日が続き、カーディガンを手放せなかった記憶がある。私にとっては、ちょうど仙台東部の農家の話を聞き始めた時期で、冷害の予感の中で聞く農家の人々の苦労や発せられる言葉が胸にしみた。
農家にとっては豊作が何よりも願いなのに、どんよりしたくもり空の下に広がる目の前の田んぼの稲は、日照不足と長雨で、夏の終わりになっても青く突っ立ったまま。実が入らないために穂が上を向いたままの「青立ち」よばれる状態に陥っていた。

ヤマセの吹き込む田んぼに立って、まだ幼かったころに聞いた話がよみがえったのだろうか。代々米づくりを続けてきた、堀江正一さんという大正生まれの古老が口にした言葉が忘れられない。「うちの親父は、昭和9年の冷害の年は、ひと夏、綿入れを着て過ごしたといってたよ」
昭和9年、その前は大正2年、その前は明治39年。農家は収量の増加をめざしながら、代々家の中で、凶作の記憶を語り継いできているのだ。

この年の宮城県の米の作況指数は「37」。青森は「28」、岩手は「30」。例年100前後で推移し、豊作の年には100をこえることを考えれば、未曾有の不作だったことがわかる。米不足のために、政府は大々的な米の輸入に踏み切った。
たったひと夏の気候変動のために、私たちの食卓は危機に直面するんだ…。飽食だとかグルメだとか、そんな言葉を頭から信じ込んでいたわけではないけれど、いまの時代、食糧は何とかなるだろうとどこかで高をくくっていた私は、不意を突かれうろたえた。毎日の食は、私たちの想像以上にあやうい生産と供給のうえに成り立っている。このときから私は、生産する人の側に寄って食べものを考えるようになった。

郷土史をひもとけば、東北の中では雪が少なく、そうきびしい気候風土ともいえない仙台でさえ、度重なる冷害に苦しめられてきている。江戸時代の中期から後期にかけては、大量の餓死者を生むほどに悲惨だった。
中でも、宝暦5年(1775)、天明3年(1783)は大飢饉の年として記録に残されている。領内各地から食べものを求めて難民が仙台城下に集まり、河原に藩のお救い小屋を立てて粥をほどこしたものの、行き倒れる人々が日に150人も出たという宝暦の飢饉。5月から9月までの長雨に加え、浅間山噴火の火山灰が遠く運ばれ降り積もったという天明の飢饉。飢饉のあとつくられた城下絵図では武家屋敷の氏名が赤文字で記されていて、これはおそらく主が餓死して空き家となったためだ。
人々が埋葬された河原も、弔われた叢塚も、私がふだん行き来する通りのすぐ近くにある。この場所で飢えて命を落とした人たちがいたのだ。200年前の出来事も、同じようにヤマセがもたらしたものだ。

霧雨の続く8月中旬、旧知の農家の人たちと山形に研修旅行に出かけた。西に向かい奥羽山脈を超えたら、一転して青空が広がっている。久しぶりに見上げる晴れやかな空に、胸の奥にまで日差しが入り込む気がした。広大な田んぼでは稲が重たく穂を下げ、心なしか青色から黄味ががった実りの色に移り始めたようにも見える。東北といっても一様ではない。太平洋側が雨天続きで不作でも、日本海側は天気に恵まれ豊作となることも少なくない。
「うらやましいなあ、もう稲刈りできんでねえか」「俺らはどうなんだべ」「大体雨続きで、薬も撒けないしな」「稲刈りは10日は遅れるなあ」
ため息に近いような言葉がつぎつぎと口についで出た。

手を尽くしきっても、あとは天気しだい。農家は天を仰ぐだけだ。岩手に生きた宮澤賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」と書いたその気持ちがわかるような気がする。

長雨のあと仙台では30度を超す日が数日あったけれど、また雨が降ったりやんだりぐずぐずとした天気に戻った。今日の最高気温は23度、明日は17度。気温が戻るといい。農家も稲も雨と寒さに耐えている。

太陽を喰べる月

璃葉

太陽、月、地球が一直線に並んだときに起こる日食。偶然のような必然の瞬間を見ることができるアメリカの一部地域は、異様な盛り上がりを見せていた。

飛行機を乗り継ぎ、ポートランド空港から街へ出れば、「Solar Eclipse on August 21, 2017」という文字や日食、皆既帯(皆既日食を見られる地域)の地図がプリントされたポスター、パネル、Tシャツなどがあちらこちらで目についた。ホテルでなんとなくテレビをつけてみたら、ニュースはやはり、その話題で持ちきりだった。− 決して肉眼で太陽を見てはいけません −と、何度もアナウンスしながら、インタビューや日食の仕組みを説明していた。日食に乗じたイベントも多く開催されていて、どこもお祭り騒ぎなのだ。

日食2日前、ポートランドからさらに小さな街へ移動するとき、夜明け前の低い空に一本の毛のような月が浮かんでいた。移動中のバスの中は天文に近しい人たちばかりだったから、いまにも消えてしまいそうな月を窓ガラス越しに撮影したり眺めたりしていた。あの月が新月になる日に、日食は起こるのだな、と思いながら、半目で空をぼうっと眺める。
か細い月は、閉じたまぶたのようにも見える。後ろの席に座っていたおばあさんのゆったりとした、空気のような囁きがじんわり耳に入ってきて、わたしはしばらく眠りについたのだった。
今にも こわれてしまいそうな月 そっとしておいてあげないと

当日、日食観測の準備は、薄明前からおこなわれた。冬のような寒さに震えながら(夜空には冬の星座がひろがっている)暗闇のなかで、みなさん器用に望遠鏡やカメラを設置していく。空には天の川が見え、金星が明るい。紙コップに注いだコーヒーの香りを吸い込みながらうろうろしているうちに、空はどんどん薄紫色になり、やがて太陽が顔を出し、世界を照らしていく。気温はぐんと上がって、日差しの強い真夏になった。街のひとたちが、丘の上や小高い場所に徐々に集まってきている。ビーチチェアに寝転がって待っているひともいた。街全体のざわめきが聞こえてくるようだった。

月が太陽にゆっくりかぶさっていく様子は、たいへん奇妙だった。新月が、太陽の光を喰べていく。太陽が欠けていくのを黒いフィルム越しに見つめながら、自分の立っている場所が、影の世界になっていくのがわかった。消えていく光によって夕暮れのような現象が起こり、気温も下がる。冷たい風が吹き、鳥たちが不安そうに上空を飛び回っていた。
月が太陽を完全に覆い尽くしたとき、街中から大歓声が聞こえる。およそ1分間だけの皆既日食だ。碧い空のなかに、まんまるの新月が黒く輝く。
太陽の光が影から漏れると、空は徐々に明るくなり、あっという間に夏の真昼にもどった。

紀元前585年に起こった皆既日食は、長期にわたって繰り広げられていた戦争をも中断させてしまったそうだ。たしかに、戦の最中に突然こんな現象が起これば、なにも知らない兵士たちはさぞかし戸惑ったのではないだろうか。壮大な宇宙のうごきのなかで人間同士が小競り合いをしているのは、どう考えても滑稽としか思えない。そもそもヒトが生きていること自体が、ふしぎなことかもしれない。

グロッソラリー―ない ので ある―(35)

明智尚希

恥ずかし村の村長さんは、とても恥ずかしがり屋だ。恥ずかし村の住民も恥ずかしがり屋だけど、村長さんほどではない。村長さんは一番の恥ずかしがり屋だから、指一本見られるのも恥ずかしい。だからもちろん外には出ない。外に出ないのは住民も同じだ。ではどうやって恥ずかし村の村長さんを選んだのか。恥ずかしいから答える人はいない。

(*/ω\*)

 欧米の詩の中に、神は何度その名を呼ばれたことか。ほとんどが切羽詰まった場合や愁嘆場である。詩人が困難や絶望に直面し、自力で克服するための術を見つけるべき時に「おお神よ」と相なる。神への甘え、逃げでしかない。仮にも一個の人間なら、人間臭く泥臭く生命を賭して、攻めの一歩を踏み出す義務がある。便利な手段に頼らずに。

カミ ヾ(◎´∀`◎)ノ デス

 肉体が疲弊している時、自分にとって何が重要かを気づかせてくれる。無駄な思想や欲望が剥落し、精神は束の間の均衡状態にある。身の回りでその時に有意義な役割を果たすもののみが、新鮮な訴求力を発揮してくる。本来なら鋭敏な感覚も常ならず落ち着いているため、ツールや感覚に従ってあらゆる判断を下すにはうってつけの時間となる。

(-公- 😉 ツカレタ

 ヘミングウェイ、キャパ、セリーヌのように、死と隣り合わせとなった状況を望み、生き甲斐となった人物は不幸である。死は求めれば逃げていき、恐れれば近づいてくる。人間の思惑との帳尻が合わないからこそ、死は畏怖の対象たりえている。ヘミングウェイのように死の探求の冒険がナンセンスと知った者は、最後の冒険に出るしかない。

死は(▼▼ )( ▼▼)どこだ

 明察・省察・継続により技術は向上する。その技術をもってして一分野を追求する。追求するほどに世俗的ではなくなっていく。世俗的ではなくなるにつれ、いわゆる「あっちの世界」の作り手・研究者となる。「あっちの世界」の住人たるを自覚することで、俗世間との乖離の大きさに気づく。乖離の大きさに気づいたら、技術を引き戻す。

あーあ( -Д-)=3

 図工の時間、担任の教師の机の前に立たされて、怒られている小学一年生の姿がある。人物画の背景を真っ黒に塗ったのだ。もちろんベラスケスもゴヤもまだ知らない。他の児童は外の風景を描いていたのに、一人だけ真っ黒。教師の気に入らなかったらしい。給食・掃除の時間も過ぎた。「夜なんですか!」。面倒臭くなって答えた。「そうです」。

ヘ(。≧O≦)ノ ヨルナンデスカ!

 春になると「陽気な」人が出来するという定説がある。数か月に渡る冬の鋭角的な寒さの締め付けで、内へ内へと巻き込まれ孤独感と逼迫感が助長されていたのが、温暖な気候の牛歩ながらの訪れのおかげで解放され、自分の精神と肉体の不可視な面積が増えるからだろう。彼らの登場は有名だが、いったいどこへ消えていくのか誰も知らない。

ヘ( ̄▽ ̄*)ノ・ ・.♪ヒャッホーイ♪.・ ・ヾ(* ̄▽ ̄)ノ

 ぼんやりしていると言われない程度に思考から離れている。街の構成物になんとなく気を取られながら歩いている。日々の雑事をいつも通りのモチベーションでこなしている。やるべき仕事を淡々とやっつけている。その時点のことをそういうものとしてとらえておらず、自分自身から遊離しかかっている。地震はそういう時にやってくる。

!!!地震(゚ω(ω(゚ω゚)ω)ω゚)地震!!!

 巷間では、季節の変わり目をなにやら嬉しそうに話題にするが、わしにとっちゃ大きな異変じゃ。まず体が神経が不調になる。高熱に侵されたかのごとく、脱力し意気阻喪する。桜前線や真夏日がどうのと騒いでるのに対し、こちとらもう終わるのではないかと静寂そのものじゃ。四季折々の死にかけ。季節など一つこっきりで十二分じゃ。

”_| ̄|○”ハァハァハァ

 知人の子供を見るにつけ思う。こちらは現在と変わらぬまま、十年前後には楽々と追い抜かれているのだろうと。仕事・資産・社会的地位。こちらがいかに嫌がろうとも、世人はそれらを唯一無二の絶対的な指標・基準として他人を選別し、尊敬か軽蔑をする。だが満足度では、前途を約された子供たちより、駄目人間の旗振り役のほうが大きい。

だめ人間です(⌒o⌒;A どーも

 何だろうこの眠気は。睡眠障害なのは認めるが、日中の眠気では前例の少ない種類だ。倒れそうなほど眠いというすがすがしいわかりやすさはなく、睡魔が障害物に引っ掛かっていて、眠りには至らないような状態。脳が意識をシャットダウンするか否か迷っているのだろう。こういう日の夜は眠剤を増やさないと、二三日は容易に徹夜をする。

ネムイ(´っд・。)

 夢は突拍子もない空想でしかない。希望はロマンチックな勘違いでしかない。努力は態のいい時間の浪費でしかない。憧れは気づきにくい現実逃避と自己疎外でしかない。信仰は信仰のために信仰するというトートロジーでしかない。願いは無軌道・無計画な戯れ言でしかない。理想は根拠らしきものと絶縁している空白でしかない。

;;;;(;・・)ゞウーン

オーストラリアと福島、そして警察官

さとうまき

先月書いたように、8月は福島とオーストラリアを無理やりにこじつけてみることにしたのだ。2つの大きなつながりがそこにはある。先ずは核燃料サイクル。オーストラリアのウラン埋蔵量は世界一らしく、日本もウラン輸入はオーストラリアに頼り切っているらしい。心あるオーストラリア人は、自分たちの国から輸出されたウランがアメリカで核兵器になり、劣化ウラン弾も作られていることに心を痛め、さらに福島原発で使われていた核燃料がオーストラリア産のウランを使っている可能性は十分あることで心を痛めている

もう一つは、オーストラリアは、都合のいい国。英語を勉強したりするのに、オーストラリア人が日本語を勉強したりしているらしく、双方の交流は難しくない。観光地としては持ってこいで、カンガルーもコアラもいる。

それはそうと、私は慎重にサカベコ(赤べコをサッカー仕様に絵付け)したものを車に300体ほどそーっと積み込んで練馬の展示所に向かっていた時のこと。いきなり警察官が歩いて追いかけてくる。駐車して窓を開けると、「あなた何をしたかわかりますね?」という「え?」

どうも交差点の手前で進路を変更してしまったようだ。6000円の罰金だという。流れに合わせて運転していたからオレンジ色のラインをまたいでしまったという感覚はなかったのだが、警官が見ていたというからそうなんだろう。
こういう日は、とても気分が悪くなる。

最近、加齢とともに、目も悪くなっているから、無事故を続けているけど、警察に捕まることが多い。しかも、一時停止を無視したとか、気を付けていても、標識がよくわからないところにあったりとか。まあ、悔しいが、今回の進路変更無視というよりは、おまわりさんは、将来起こりうるべくもっと大きな事故を予感して注意してくれたのだろうと割り切った。落ち込んでいる僕を見て、うちのスタッフが、運転してくれた。ところがこれまた駐車場のポールに側面をぶつけて、車がへこむ羽目に。

そして2週間がたち、今度は会津で大熊町から避難している中学校を訪ね、教頭先生やオーストラリア人の英語の先生から話を聞きながらサカベコを書いてもらい、会津にある大熊町役場にも行きそこでもサカベコを作ってもらったその帰り、青信号だったので交差点を直進していたときのことだ。対向車線の直進車の後ろからいきなり、車が左折しようと飛び出してきたのである。「あああああ、ぶつかる? あ、ぶつかった」一瞬時間がとまったようだったが、ブレーキは間に合わず。中から老夫婦が出てきて、「母ちゃんが、急に曲がれというから。。」と言い訳をしている。

なんと私の車はバンパーがとれてフェンダーもめくれ上がりとんでもない状況に。廃車にした方がいいですよと保険屋には、進められる始末。一か月の間に警察に2度もお世話になってしまったのだ。

災難が続く。

車がつかえないので、レンタカーを借りて、再びサカベコを輸送することに。今度は別のスタッフが運転してくれた。助手席の私。「こないだ、ここで黄色いラインを超えて、警察に捕まったんだよ。気を付けてね」と話す。
「どちらに曲がりますか?」「右に」というと彼は、黄色いラインを踏んで車線変更した。「今のわかる? 黄色い線を踏んだでしょ。僕はそれで捕まったんだから。気を付けて」といった矢先、まさかのおまわりさんが白バイで追っかけてきた。「ハイ、6000円」

結局、一か月の間にサカベコの展示を4か所でおこなったが、3回警察にお世話になるというありさま。深く反省するしかない。。最後のサカベコ展は、9月3日まで新宿のカタログハウスの福島応援ショップ「本日!福島」に展示中です。

詳しくはこちら

カタカナの誘惑、たとえば絵のなかに見るような

北村周一

木村拓哉が主人公を演じていたテレビドラマのひとつに『華麗なる一族』という番組があった。
いまその番組の冒頭のシーンを思い浮かべている。
ドラマは、戦後の高度成長期を迎えようとする関西、とりわけ神戸周辺を舞台に展開されていたと記憶している。
のだけれど、ちょっとおかしい。違和感があるのだ。
毎回番組のはじめに神戸の市街地と思しき光景が映し出されるのだが、その遠景のワンショットが気になって仕方がない。
なぜなら、あきらかに別の町、それもよく見慣れたある町の映像だったからである。
テレビの画面に映っている町並みや、湾岸部、石油タンクの数々、そして遠くの海は、どう見てもあの清水ではないか。
繁栄した神戸ではありえない。
1960年代の神戸の町は知る由もないが、この番組の初回の冒頭シーンを見た時から、この風景は清水の日本平から見た景色に違いないと思っていた。
とはいえどこかおかしい。
富士山がないのだ。
清水の北西部から海側を望む景色として描かれているのだから、左手に大きく富士山がなくてはならない。
右手にはむろん清水港。
テレビ画面から、港および倉庫群は消されてはいなかったものの、あのニチレイの看板が見当たらない。
細かく観察しようにも、10年も前の番組だから、記憶に頼るしかないのだけれど、お門違いの間違い探しはこれくらいにして、本題に入りたいと思う。

ニチレイ、いわずと知れた日本を代表する冷凍食品会社である。
清水港はマグロで有名だが、はごろもフーズをはじめとしていまも食品加工会社が軒を連ねている。
そのなかにあって、ニチレイの大きな看板はひときわ目立っていた。
当時あまり背の高い建物のなかった清水市街にあって、ビルの屋上に作られた大看板は、カタカナ四文字の奇抜さも相俟って、他を威圧していたように思う。
海側からも山側からもそれと見てとれたのである。

清水港のやや東側、折戸湾に突き出た防波堤の突端に通称赤灯台と呼ばれる小さな灯台が立っている。
ふだんは釣り人しか近寄らないところなのだが、魚市場から歩いていける距離にあるので、たまにスケッチに立ち寄る場所でもあった。
かれこれ40年も前の話ではあるけれど。
赤灯台から眺める清水の町並みは、それなりに決まった構図ではあったと思うが、いったん描き始めると、さてニチレイの看板の文字はどうしようかと思い悩むこととなった。
アルファベットなら、苦しまずに済んだかもしれない。
春が近いとはいえまだまだ寒い時期だった。
夕暮れが迫り、パステルの色調もだんだんに陰りを帯びてくる。

 なにもまだ生んでいないのに春は来て父となりたるわれを待つらん

はじめての子が生まれてくる前の何ともいいようのない不安が、ニチレイのカタカナ四文字に重なる。
仕事を辞めて画家を志したところまではよくある話といえなくもないだろうが、人に見せるに足る絵が一枚もないのだから、ほんとうにお先真っ暗だったのだ。
最初の個展が開けるようになるまで、それから5、6年は悶々とする日々が続いた。

『華麗なる一族』の主役を務めたキムタクは、全撮影が終わった後、「今だから笑って言えるけれど、逃げたかった」と告白したと伝えられている。

さつき 二〇一七年九月 第五回

植松眞人

 夏がおさまらない。
 学校が始まっても蝉はいつまでもクマゼミにならずに、相変わらずアブラゼミがやかましく鳴いている。
 八月の半ば頃、東京では雨が二十日以上続き、すっかり涼しくなってこのまま秋に突入だと思っていたのに、夏の暑さは涼しくしていた頃の分まで含めてぶり返しているようだ。九月になっても毎日朝起きた途端に、びっしょり汗をかいていることに気付いてげんなりする。
 それでも、今朝は少しましだ。昨日の家族の会話を思い出すと自然に笑ってしまう。
 昨日はテレビの晩ご飯の後、テレビのニュースを家族みんなで見た。北朝鮮がまた日本の上空に向けてミサイルを発射したとしたら、今度は必ず打ち落とす、と安部さんは言っていたけれど、きっと嘘だと私は思う。だって、八月に北海道の上空を飛んだときに打ち落とさなかったくせに、次は打ち落とすから信用してくれと言われて信用する馬鹿はいないと思う。
 父は、ひとしきり北朝鮮の話をして、もし自分が太ってしまうと、丸顔だから北朝鮮の指導者のようになってしまうかもしれないと真剣に嫌な顔をしたのが面白かった。
 その後、父が都民ファーストの会の話をし始めて、なんとなく「小池百合子もさあ」と父が言うのを聞きながら、ああ、この人は小池百合子が好きなんだなあ、とわかってしまったのだった。小池百合子が好きというか、小池百合子の快進撃に期待してしまっているんだなあと言うことが感じられてしまって、ほんの少しだけ、父が歳取って見えてしまったのだった。
 たかが高校生の意見ではあるけれど、私は政治の話は楽しいエンターテインメントだと思う。何しろ、こちらの生活がかかっている。エンターテイメントって、結局、観客を感動させればいいわけで、だとすれば生活がかかっているとなると、これ以上の興奮や感動があるわけもなく政治ってものすごいエンターテインメントだと私は思うようになったのだった。
 だって、小池百合子がミドリムシのゆるキャラのように見える衣装でおばさまたちの人気を独り占めしたのも、結局はみんなが戦隊ものの緑色のヒーロー、ヒロインみたいなやつをみんなが追い求めているってことを露呈したのだし、その結果、ミドリムシ連合のような都民ファーストの会が大躍進して、多勢に無勢で国会ではあんなに偉そうにしていた自民党の安倍さんも最近はなんだか元気がない。
 しかし、東京都民である私たち家族にとって、いますぐ小池さんが何かをしてくれるわけではなく、相変わらず元コピーライターの父は薄ぼんやりと毎日を過ごしているし、人見知りのグラフィックデザイナーの母は相変わらず、単価の安いデザイン仕事を請け負っている。「こんなんじゃ誰も幸せにならないのよ」が最近口癖になった母だが、その口癖を大きな声で叫ぶことはない。小さな声で、私にだけ伝えて、小さなため息をついて、机の上のパソコンに向かって、マウスを動かし始める。
 選挙特番を見ているときには、「都民ファーストの会が自民党一党体制に風穴を開けた」的な妙にわくわくした気持ちに包まれたのは確かだし、選挙権もないのに、なんとなくドキドキしながら、都民ファーストの人に投票しに行った感覚があった。
 だけど、テレビを見ていて、次々と小池さんが緑色のリボンを当選者の名前のところに付けていくのを見ながら、コピーを書かなくなって久しいコピーライターの父が「どうせ、何にもかわらないのにな」と呟いた。
「変わらないと思う?」
 私がそう聞くと、父は、
「残念ながら変わらない。今の世の中を変えることなんてできるのかなあ。もちろん、いつかは変わる。だけど、それが今だなんて思えないんだよ」
 父はそういうと、私をまっすぐに見た。私は父になにかを問われている気がして、答えを探してみた。小池百合子に期待しちゃってるくせに、と私は答えを探しながら思った。期待しているくせに諦めてるって、どういうことだろう、と私は父の表情を盗み見た。そして、瞬時にいろいろ考えた結果、私も父と同じように、それが今だなんて思えなかった。
 翌日、学校へ行くと、ホームルームの時間に神谷先生がなんとなく政治の話をした。ホームルームなので、込み入った話ではなく今の政治はこれまでの選挙の反映であって、政治家だけがどうこういうのは間違っているという、まあ先生としては至極まっとうな正論で、正論過ぎてなぜ先生がいまこの話をしだしたのか私にはまったくわからなかった。
 きっと先生も夏休み明けに私たち生徒たちがなんとなく気合いの入らない顔をしているので、それらしいことを言ってお茶を濁すつもりだったのかも知れない。それなら、と私は先生に聞いてみた。
「先生、どうせ何も変わらないと思いますか?」
 私がそう言うと、クラスがしんとした。先生も小さく「え?」と声を出した。
 それもそうだ。私がホームルームで発言するなんて、初めてのことだし、誰かに質問されることはあっても、自分から誰かに質問したことなんてなかったからだ。しかも、手も上げずに、着席したままで、ふいに先生に質問したのだから、みんなが驚くのは無理もない。
 一瞬しんとした教室の中が、次第にざわざわし始めた時、先生は「うーん、そうだな」と答え始めた。
「うーん、そうだな。どうせ変わらないという気持ちもわからないでもない。だけど、それを言っちゃおしまいだ、という感じかなあ」
 それを聞いて私は、良い答えだなと思った。思ったけれど、今度は私がどう答えていいのかわからず黙っていた。
「それは、あれか? 畑中がそう思っている、ということか?」
「えっと、いえ、同じ畑中でも、私じゃありません」
 先生は怪訝な顔をする。
「同じ畑中でも、私じゃない…」
 先生はしばらく教室のなかの、クラスメートたちを眺めていた。ここに、私以外の畑中がいたかどうか確かめているのだった。いるわけがない。畑中は私一人だ。
「先生、違います。私の父です」
「あ、お父さんか」
 そう言って、しばらくしてから、先生は続けた。
「畑中のお父さんは絶望してるのか?」
 先生はものすごく普通にそう言った。驚いた様子でもなく、諭すでもなく、一緒に道を歩いていた友達が歩行者用の信号を見て「青だよ」と言ったときのように、本当に普通のトーンで、神谷先生はそう言った。
 先生にそう言われて、私は、そうか父は絶望していたのかと思った。そうだ。確かにいつものように笑っているけれど、父は絶望していたのに違いない。それも昨日今日の絶望ではない。おそらく、父が前に私に話したように、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」と感じたときには、すっかり絶望していて、自分のことをそこそこの、と思い至ったときに、知らない間に投げやりな歩き方をし始めていたのに違いない。私はいままで絶望という言葉は使っていても、その言葉にそれほどネガティブな印象を持ったことがなかった。ただただ自分の気持ちを表す言葉として、「絶望的だ」と言っていただけで、その言葉に強い印象を持っていなかったのだ。
 しかし、父が薄らと笑いながら「そこそこのコピーライターは」と話したときのことを思い出した途端に、絶望という言葉は悪魔の言葉になった。穢れた言葉になった。
 私が衝撃を受けている間にホームルームは終わっていた。気がつくと、クラスメートは好き勝手に立ち上がり、半分くらいが教室を出て行った後だった。私は自分でも気付かないうちに鞄を持ち、教室を出ようとしていた。すると、別の生徒からの質問に答えていた神谷先生が私を呼び止めた。
「畑中、おい、畑中」
 私は立ち止まった。
「はい」
 私が答えると、先生は少しだけいつもと違う笑顔で言う。
「お父さん、大丈夫か?」
 そう聞かれて、なんとなく私はえらいことになったと思った。父はあんまり大丈夫ではないはずだ。
「わかりません」
 そう答えると、私は教室から駆けだして、家に向かった。
 家に帰る道で、私は買い物帰りの母の後ろ姿を見つけた。「お帰り」と母が言い、私が「お父さん、大丈夫かな」と聞く。すると母がしばらく考えて、「もしかしたら、家にいないかもしれないけれど、きっと大丈夫」と答えた。
 家に帰ると、本当に父はいなかった。そして、晩ご飯を食べる時間になっても帰ってこず、翌日も私が学校から帰ると父の姿はなかった。でも、母は嬉しそうに帰ってきてこう言った。
「新しい仮住まいが見つかったわよ」(つづく)

製本かい摘みましては(130)

四釜裕子

どこかわずか違和感をおぼえる日本語で話す5人の若い男が写真を撮ろうとしている。赤茶色の紙にガリ版で「LE MOULIN」と大きな「3」の文字。これで本文紙をくるんだ薄っぺらな冊子『LE MOULIN』の3号が、机に積み上げられる。仕上げはホチキスだろうか。送り先の名前を一人ずつ書いた短冊状の紙を中にはさみ込む両手が映る。先の5人のうちの誰かだろう。顔は映らず、まさか誰かがひとりで作業しているわけでもあるまいに、そのにぎわいも映らない。黄亞歴(ホアン・ヤーリー)監督の『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』の冒頭だ。

日本統治下にあった1930年代の台湾に、日本語で詩を書くグループがあった。「風車詩社」といい、中心となった楊熾昌(よう・ししょう)は東京の文化学院に学び、『椎の木』や『詩学』、『神戸詩人』に投稿していた。1933年、李張瑞(り・ちょうずい)、林永修(りん・えんしゅう)、張良典(ちょう・りょうてん)らと作ったのが同人誌『LE MOULIN 風車』である。西脇順三郎、ジャン・コクトーなど当時の多くの文化人の影響を受けて、台南で日本語による新しい台湾文学を築こうと活動していた。会は一年半で解散、『LE MOULIN 風車』も4号までだったが、同じ時期、1910年に台湾に家族で渡り早稲田大学を卒業して1933年に台湾に戻っていた西川満が台湾日日新報社で学芸欄を担当しており、彼がなにか大きな役割を担っていたように見える。

映画は、実際の日記や写真、記事を骨組みとして、おびただしい数の同時代の詩集、詩誌、絵画、写真、映画、ニュース映像、音声、音楽、そして日本語と中国語を併記した詩の引用を重ねて見せてくれる。その姿が確認できた詩集、詩誌だけでも、『MAVO』『薔薇・魔術・学説』『詩と詩論』『衣装の太陽』『椎の木』『三田文学』、西脇順三郎『Ambarbalia』、北園克衛『火の菫』、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』……、実際はもっとたくさんあったが、今思い出せるのはこれで精いっぱいだ。しかもその多くは誰かが持って来て「ほら、ごらん!」と机の上に置く瞬間を切り取ったようなアングルで、説明解説のたぐいもない。

冊子のみならず。ダリもキリコも古賀春江も三岸好太郎も山本悍右も、重厚な民族衣装をまとう女性の姿やサトウキビの収穫風景も、とにかくみな次々と。村野四郎の「飛込」に重なる繰り返しの飛び込みシーンはニュース映像か。大きく揺れる机で当時の台南での地震を知る。戦後蒋介石政権による白色テロで銃殺されてしまう李さんには、何十分か前に見た「白い少女」という複数の文字が画面いっぱいに拡大してきた映像が思い出されてしまう。実際に演じている人の台詞はごく少なく、ぎこちないのは日本語だからか。演技もあえてぎこちないように感じる。このめくるめく感じ。技法というようり、実感に近い印象を持つ。

昭和11(1936)年、コクトーが来日していたときに日本にいたのは、慶応義塾大学に留学していた林さんだろうか。フランス語ができないので作品を読んでもわからないけれども、新聞で動向をつかみスクラップするだけで楽しかったと話すのには大いに共感した。そこに、歌舞伎座で六代目菊五郎の『鏡獅子』を観るコクトーのニュース映像が重なる。隣には藤田嗣治。やはり新聞でコクトーの帰国を知った林さんが横浜港にかけつけると、江間章子の『春への招待』(1936)を手土産に抱えていた。日々の記録を、ときに写真を添えてのこしたようだ。大学では西脇順三郎に師事し、いっしょに多摩川を散策して深大寺でそばを食べた日の写真もある。先生はパイプを吸う、その隣りにいられることがうれしい、と書いた。

最後になって、西川満の小さな詩集がいくつか映された。『媽祖祭』(媽祖書房1935)と『採蓮花歌』(日孝山房 1936)か。『媽祖祭』は中を開いて、はさみこまれた複数のページもよく見せてくれた。コギトさんのホームページで見ていたものだ。こんなに小さくて愛らしいものだったとは……。『採蓮花歌』は画面では四つ目綴じに見えたが、改めてウェブに探すと高貴綴じのようだ。さらにウェブに西川満さんを捜しに行く。

中島利郎(なかじま・としお)さんの『日本人作家の系譜 日本統治期台湾文学研究』(研文出版 2013)の、「台湾文芸協会」の成立と『文芸台湾』——西川満「南方の烽火」から」に、装幀にも深い関心を持つ西川の姿があった。自宅で媽祖書房をおこし、300部限定の文芸誌『媽祖』、さらに詩集『媽祖祭』を330部限定で刊行したが、〈西川は戦前、自身の媽祖書房から限定本を出していたが、それらは七十五部限定のものが多かった〉、それは〈「真の読者は七五人居れば充分だ」という独自の考えがあったから〉とある。映画の監督がインタビューの中で、『LE MOULIN』の刷り部数は毎号75部だったと答えていたのが気になっていた。なにか縁起のいい数字なのかと思っていたが、西川の助言だったのだろうか。

・四季・コギト・詩集ホームページ/にしかわみつる【西川満】『媽祖祭』1935

別腸日記(7)飲み過ぎる人たち(後編)

新井卓

よその国から帰ってきて東京の夜の街へ漂い出ると、まず驚くのが酔いつぶれて路傍や駅舎に転がる人の多さだ。たとえばロスアンゼルスとかアムステルダムでそういう人がいたら、まずドラッグのオーバー・ドーズが疑われる。

いったい何が彼/彼女らをそこまで駆り立てるのか。自分のことを思い返しても、ひとり家にあって潰れるまで飲む、ということは余程のことがなければ起こらない。わたしたちが飲み過ぎるのは大抵の場合、社交の場においてである。

かつて勤めた広告写真の制作会社での二年間は、それこそ酒で海馬を焼き切ってしまいたい暗い日々だったが、その中でもっとも耐えがたかったのは、上司や客たちによって時々に設定される宴会だった。

そして、宴席とはいつでも無礼講なのである。ブレーコー、とは何か──16世紀に来日したポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリーゲスは、日本人の乱酒の習慣におどろき、日本人にとって酒宴は第一に相手を泥酔させることを目的としている、と書き残している(*)。この国の社会はいまだ年功序列主義に囚われているから、十代からたたき込まれる敬語の使い方と同様に、酒の席での立ち振る舞いはシステムから逸脱していないかどうかの指標として常時監視の眼から自由であることはない。

こうして視線の相克にあって酒はとどまるところをしらず、結局酔いつぶれるまで飲んでしまう。路上に座り込んでいるのは、果てしない戦いからようやく解放され、帰路なかばで難破した手負いの戦士たちにも見えてくる。

* ジョアン・ロドリーゲス「大航海時代叢書〈第I期 9〉日本教会史 上」岩波書店(1967)

八月最後の日。

仲宗根浩

昼前ににわかに暗くなると、北の方向から頭上にかけて雨雲がかかりそうになっている。洗濯物を取り込む。ちょっと時間がたつと雨が降る。東側にあるベランダの先は晴れのまま雨雲は家の真上を通りすぎる。
旧暦の七夕、灼熱の午前中に墓掃除。デッキブラシ、たわしでコンクリート製の墓についた水垢をごしごしと落とすと。たっぷり過ぎるほど汗をかき、旧盆を迎えるごあいさつをすませる。七夕の前の週に子供は夏休みを終え、二人分の昼ごはんをつくることから解放され、暑いなか中学生は一学期後半が始まる。

車が古くなれば自動車税も高くなり維持費が高くなるが、別の車を買う余裕は今は無く、走行距離十万キロ越えれば交換しなくてはいけない部品があり、運転席側のパワーウインドウは完全に壊れた状態で半年以上、いよいよ修理見積もりをしてもらう。電動で開け閉めする窓は人力の力わざを使い、こちらの筋肉が鍛えられる。電動で開け閉めする窓の部品がこれまた結構なお値段で。遂に修理と部品交換に出すと、代車の軽自動車はキーレス・エントリー、バックモニターとオールド・スクールの人間にはとまどうことばかりだが、車内は広く、走りはスムーズで静か。十数年前の軽自動車と比べるとその進化に驚く。

沖縄防衛局から電話がある。いかにも電話での対応に不慣れな口調の担当者さん、昨年出した受信料減額の手続きに不備があったので書類送付する、ついては記入後に返送願います、と。いやいやこちらは、そちらの方まで赴き、ご担当の方と面と向かい、ご指示に従い必要書類記載しご担当者様と共に確認の上提出しましたがそれを今ごろになって不備がありましたとは納得がいかない、ということを小心者のため言えず、胸のうちに納め、ハイハイわかりましたと返事をし電話を切る。しばらくして届いた書類には受信料金額が変更したたため云々。今更、変更など一括払いで引き落としされているものをちゃんと確認したはずだしどこの不備だ。基地の護岸工事はチャッチャと手早く進めるけどこういうことはチャチャッとできないお役所。

外に出ると今までと違う、熱をもった風ではなく涼しさを感じさせるような風が一瞬吹くが、すぐ現実の暑さのなかにもどされ汗がどんどん出てくる。車に乗り込み、空港に向かい、飛行機で羽田。羽田から東京駅に行き新幹線に乗り込み長野へ向かう八月最後の日。

ゆれうごく格子

高橋悠治

毎年夏の暑い時に 秋のために作曲したり練習したりする日々がつづく 今年は録音もあり ほとんど休みなくはたらいていた これでは考えたり 感じる余裕もないと思いつつ いくつかのちいさな発見で 他のことを忘れる

作曲したのはジュリア・スーのためのピアノ曲『夢蝶』 陳育紅の詩の 日本語のように仮名がまじらない 漢字だけのイメージから音のうごきが見えてくるののか 周蝶夢はもう一人の詩人の筆名であり 莊子の一節でもある 蝶の夢と夢の蝶は どこか似ているそれぞれの世界にから 回りながら現れ 消えてゆく もう一つの世界を忘れるのが この世界のたのしみ

8月はずっとウィンドオーケストラの曲を書いていた 全体の空間はトーマス・タリスの40声部の合唱曲 Spem in Alium の構図から思いついた 楽器群のあいだを移動する線が辿る方向や 線をよりあわせて ゆるやかに束ねた織物が 輪郭を変えながら ゆれうごく格子をくぐりぬける 流れの変化 ちいさな渦 タイトルの『透影』は几帳を透かして見える灯影 『源氏物語』のことば

録音したのはサティ 息づかいと そっと音に触れる指の感触 慎ましい白の ためらう歩み 青柳いづみこと連弾したストラヴィンスキー 『春の祭典』と『ペトルーシュカ』 手のうごきを内側から感じる こどものたのしみ 瞬間にはじける即興

2017年8月1日(火)

水牛だより

東京では湿度の高い八月のはじまりの日です。ここ何日か、夏の快晴はありません。とはいえ、太陽からの直射がないと、道を歩くのは案外快適なので、どこへでも歩いて行けてしまうのですが、真夏なのに照りつける直射がない昼間はちょっぴりさみしく、どうしたのかなと思ってしまう。勝手な人間です。

「水牛のように」を2017年8月1日号に更新しました。
来るはずの原稿を待ちつつ、そのあいだに少々あそんだりもして、こうして更新できることは、原稿を書いて送ってくださるみなさんのおかげです。何度も書いているように、催促はほとんどしない方針を確立できたのは、やはり水牛という小さなメディアを貫いてきたからだと思っています。編集者として意識的あるいは意図的にまとめあげるのではなく、植物がゆっくりと繁茂していくようにまかせてみよう。そう考えています。それはひとつひとつの原稿のことでもあり、それらがずらずらと並んでいる毎月のことにも言える、複雑系です。

エドワード・D・ホックというミステリー作家の怪盗ニックシリーズを愛読してきたのですが、「怪盗ニック全仕事」にまとめられたのを機に年代順に再読しはじめました。価値のないものを盗むことだけ引き受けるプロの泥棒のいくつもの短編です。寝る前のひとときにひとつ読んで、ふふふと笑うといいのです。

それではまた!(八巻美恵)

沖縄とともに

小泉英政

沖縄の高江や辺野古の、米軍基地建設に反対する運動の中で奮闘していた宮城節子さんが亡くなった。本人が語るには、進行の遅い珍しいガンで、医者も研究対象として大事にしてくれているとのことだったのだが、病状が急変し、帰らぬ人となった。

葬式はしない、そして散骨をというのが遺言だと聞いて、とても彼女らしいと感じた。集まった友人、仲間たちで相談して、辺野古の海、高江、彼女の農場があった大湿帯(オオシッタイ)、伊江島に散骨する事になったと聞いた。さらに、その相談の中で、彼女が「もう一度、三里塚に行きたい」と強く願っていたということで、ぼくの方に、「よねさんのお墓に散骨できないか」と電話で問い合わせがあった。

宮城さんとは、1970年の日米安保条約にに反対する坐りこみ運動の中で知り合った。その後彼女は、僕たちと同じ時期に三里塚の空港反対運動に参加し、よねさんや染谷のばあちゃん、村のおっかさん達とつきあいを深めていった。

よねさん宅が代執行され、反対同盟がよねさんの住まいとして、東峰の島村さんの畑の一角にプレハブ小屋を建てた時、宮城さんはしばらくの間、同居し、よねさんを気づかった。宮城さんは沖縄出身で、その後一時期、家族の何がしかの事情で沖縄に戻っていた。

宮城さんが居ない間に、よねさんが病に倒れ、いくつかの経過を経て、僕たちが養子になった。反対同盟からの養子要請の候補に宮城さんは含まれて居なかったが、宮城さんがその時いたならば、自ら「私がなる」と申し出たかも知れないと、今になって思う。そういう熱い心の持ち主だった。

僕たちと宮城さんとの関係、そして、よねさんと宮城さんとの関係、「よねさんのお墓に散骨できないか」と尋ねられて、断る理由はなかった。宮城さんは特別なのだ。

宮城さんの散骨に、沖縄の親しかった女性陣が賑やかに7人もいらっしゃると言う。その日を待つ間、宮城さんのことをいろいろ想った。最後に会ったのは、2016年の一月末、沖縄でだった。その頃はとても元気そうで、高江のヘリパッド反対の坐りこみに頻繁に出かけている話や、散骨の場所ともなった伊江島に通って、「阿波根さんの芝居の練習しているんだけど、歌が難しくてなかなか覚えられない」と苦笑いしていた。

阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)、名前は聞いたことはあるが、詳しくは何も知らなかった。「阿波根さんの本を読んでみて!」姿なき宮城さんから、そんな声が届いた気がして、阿波根昌鴻著『米軍と農民〜沖縄県伊江島』(岩波新書)を取り寄せて読んで見た。

ちっとも読書家ではないぼくがこんな事を言っても、何の意味もないだろうが、その本は何度も繰り返して、深いところから僕の心を揺さぶってやまなかった。

ぼくの目を開かせた一つは、ぼくが沖縄のことを知らなすぎる事によるが、終戦後、アメリカの施政権下に置かれていた沖縄と、本土に育った僕たちとの、あまりにも異なる境遇の違いだ。沖縄戦で本土を守るための捨て石にされ、直視できない、痛ましく凄まじい戦禍に見舞われた沖縄、そこまでの認識は持っていたつもりだが、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄が切り離され、その後もずっと、「沖縄は、アメリカが血を流して得た戦利品だ。あなた達には、YESもNOもない」と言われながら、長い間、アメリカの軍靴の下に踏みつけられていた。

本土の僕たちは新憲法のもと、戦争の放棄や基本的人権などの理念の中で育ったが、沖縄の人々は虫けらのように扱われていた。それをこの国の政府がずっと黙認して来た。沖縄を知ると言う事は、自分自身を知ることになる。

もう一つ、そんな厳しい状況下にあって、阿波根さんをはじめとする伊江島の農民達は結束して、自分達の命を、生活を守るため、銃剣とブルドーザーによる基地建設の為の土地接収に対して、非暴力で果敢に抵抗した。住んでいた家が、野菜が育つ畑が、重機で押しつぶされたり、鉄条網で囲われる。命を繋ぐためには、中に入って食料を得て来なければならない。逮捕者は尽きない、負傷者も出る、米軍に射殺された青年、子供達に少ない食べ物を与えて自分は我慢し、餓死する若い母親、沖縄戦が続いているのと同じだ。

そんな中、農民達を支えた約束事があった。「陳情規定」と名づけられたその箇条書きの文章は1954年に作成されたものだが、63年経た今でも、非暴力の姿勢を具体的に示したものとして、これからも必要とされる非暴力の手本として、僕にはとても貴重に思えた。
その一部を抜粋してみよう。

一、反米的にならないこと。
一、怒ったり、悪口をいわないこと。
一、耳より上に手を上げないこと。
一、大きな声を出さず、静かに話す。
一、軍を恐れてはならない。
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。

これらの申し合わせ守り、力を合わせ、島の63パーセントあった基地を31パーセントまで縮小させることが出来たと言う具体的な成果は驚きだ。

もう一度、宮城さんの話に戻そう。

散骨の前日、沖縄から宮城さんの女友だちがやって来た。南国の果物や野菜などを携えて賑やかにやって来た。 よく話すこと、よく笑うこと、よく歌うこと、その明るさに圧倒された。彼女達は宮城さんがそうだった様に、阿波根さんの意志を継ごうとする人たちだ。 宮城さんも、陳情規定に強い関心を寄せていたと言う。

東京での坐りこみ当時、23歳の頃、宮城さんはこんな事を言っていた。「私が生きている毎日って言うのは、全然、非暴力じゃないわね。それこそ、自分の汲んだ水を飲んでね、自分で織ったその着物を着るとか、作った野菜を食うぐらいに、全て請負しなきゃ駄目だと思うんだけれど」。
その後、三里塚をかいくぐるなかで、土に触れ、沖縄に戻ってからは、畑を耕し、機織りを覚え、そして阿波根さんや伊江島の農民達の心に触れ、非暴力の幅を拡げていった。突然の知らせはとても残念だったが、沖縄の魅力的な仲間達が「節ちゃん」の後を継いで行ってくれるのは間違いない。

「辺野古移設が唯一の解決策」との言葉を繰り返す安倍政権の姿は、「YESもNOもない!」と言ったアメリカの軍人に重なる。その政権を選んだのは紛れもなく、本土の僕たちなのだ。

高江、辺野古と、沖縄の厳しい状況が続く。「沖縄とともに生きる」と心に刻む人たちが増えていくことが求められている。

別腸日記(6)飲み過ぎる人たち(前編)

新井卓

酒の話はむつかしい。早くも先月、連載を休んでしまった。やります、といったことを果たさずに啜る酒はうしろめたく、できない理由を並べながら酔いすすめば、もう厳冬のオホーツク海にでも身投げしようか、などと気鬱の止むところを知らない。もう二十年近く、仕事をサボっても、電気とガスがとめられても倦むことなく飲みつつづけてきたというのに、これは一体どういうことか。

私ごときがあの酒はうまいだの、この酒はこの文人ゆかりでその由来は云々(でんでん)、だのと書き立ててもおそらく腹立たしいだけであろう。そうなれば、飲んだ場所や相手(じっさい変な酒敵には事欠かない)、その後どうなったのか、という話に向かうよりほかなく、結果それは交遊録とか紀行文のような体裁に落ちつくだろうことは、容易に想像できる。まあそれでいいのかもしれないが、ここに今一つの根本的な問いが浮かび上がってくる。

なぜ、飲むのか──わたしたちを拒み未踏峰のごとくそびえ立つその問いに対峙することなく、この先書いてゆくことは、どうにもできそうにない。それがそこにあるから(Because it’s there)。登山家ジョージ・マロリーの言葉を酒に当て嵌めてみても、答えになっていないどころか単なるアル中の戯れ言にしか聞こえないから不思議である。

夭折の哲学者・池田晶子は「下戸の心が理解できない」と公言してはばからなかったが、逆に下戸にしてみれば、なぜすすんで毒を摂取しつづけたいのか、そちらの方が理解しがたいに違いない。ちなみに、体内でアルコールから生成される毒素、アルデヒドを分解できるモンゴロイドは、全体の54パーセントしかいない(コーカソイド、ネグロイドでは100パーセント)という(*1)。残りの約半数は弱いが少しは飲める、または全く飲めないかどちらかであり、したがって多くの日本人にとって、飲酒とは文字通り服毒に等しい行い、ということになる。

長年、左党が免罪符のように信じつづけてきた「酒も適量ならば薬になる」という説は、どうやら統計手法の誤りから生まれた迷信に過ぎず、飲んだ量に正比例して様々な疾患の罹患率が上がることが、最近の研究で明らかになってきた(*2)。長期間一定量のアルコールを摂りつづけると、海馬が萎縮しさらに認知機能も著しく低下するという。そうならないためには、毎日ビールをコップに半分くらい、が限度らしい。わたしのような者にとっては、あまりにも無慈悲な真実、というほかない。
(つづく)

*1 原田勝二(元筑波大)「神経精神薬理 6,NO.10,681」(1984)
*2 Anya Tpowala et.al “Moderate alcohol consumption as risk factor for adverse brain outcomes and cognitive decline: longitudinal cohort study” 2017

グロッソラリー―ない ので ある―(34)

明智尚希

不覚にも次郎衛門は寝小便をした。二歳か三歳の時以来だ。それから二十余年、もはや粗相をしでかす歳ではない。人に知られたら大変である。次郎衛門は汚れた敷布団を、人気のない日の当たる縁側にそっと延べた。だが見ていた。三治郎が見ていた。この少年が長じて全国地図を作る人物になろうとは、誰が予想できたろう。まあ嘘ではあるが。

(。-д-。) 嘘ダッタノカ……

 長く生きてきたが、無益とまでは言わないまでも、自他に対して有益な人生を送ってきたとは思えん。毎年毎年限りなく無益に近づいていってるんじゃないかと思う。誕生日は忌々しいね。不要だった一年がまた追加されたという、了解しがたい事実の通告じゃから。こういう無駄な人間が、全国津々浦々で同じことをぼやいておるんじゃろうな。

(# ̄З ̄) ブツブツ

 物心のついた人が、巷間にある物を純粋に楽しむのは難しくなってきている。どこの製品か、その企業はどうなのか、製造国はどこか、この国との関係はどうなのか、誰が何の目的で作ったのか。かつては大人の王国だった。が、現在は逆である。政財官の人々や有権者でもない若年層が、厳しい慧眼を世に突き刺し、本質を射抜き、冷めている。

シーン ( ( ̄ (  ̄(  ̄( ̄  ̄( ̄  ̄))

 まず秒針がある置時計を用意する。次に畳の八畳間へ入る。東に正対するするように正座をする。時計を両膝間の線の延長線上に置く。十センチが適切である。一度大きく深呼吸をし、秒針が十二のところに来たら息を止める。十五秒、三十秒と経つ。四十五秒が過ぎる。一分が経過したら呼吸を再開する。大きな幸せを勝ち得た気分になれる。

(○ ̄ 〜  ̄○;)ソウデスカ……

 海外に到着した時に、いきなり開放的になる人が少なくない。母国はそんなに息詰まる場所なのか。多少の興奮があるのは理解できるが、激しく買い物をしたり容易にはめを外したりするのは謎である。感性に左右される人は自我が整っておらず、誰かのフォローが不可欠となる。同伴者は解放されない程度に、相棒に嫌がられるのが宿命である。

U\(●~▽~●)Уイェーイ!

 寝苦しいほどアイミスユー。歯磨き粉味のアブサンをあおりながら、近代建築五原則を唱えよ。虹こそは人間の努力を映す鏡で、人生は彩られた映像としてだけつかめる。だから全て無常なものは、ただ映像に過ぎない。内在律のラポールが提灯記事を書いた。総カラオケ現象という垂直の大騒ぎに呆れる、見切り問屋は蒼ざめた馬に乗る騎手だ。

(/≧◇≦\) アチャー!!

 アポリネール、アラゴン、アルプ、エリュアール、エルンスト、グロス、クロッティ、シャド、シュヴィッタース、スーポー、ツァラ、デュシャン、トイバー、ハウスマン、バーゲルト、バーダー、ハートフィールド、バル、ヒュルゼンベック、ファイニンガー、プライス、フラエンケル、ブルトン、ヘッヒ、ヘルツフェルデ、ペレ、メーニング……。

゚(゚´Д`゚)゚

 「それではここでお知らせです。今月十四日から全国ロードショーされる『シャーロックホームズと謎の財宝』ですが、犯人はレイノルズ夫妻です。最初のカットから犯人が登場するという非常に珍しいケースです。真ん中くらいに出てくる日雇い労働者のサンチェスは怪しいですが善良な市民です。みなさん是非劇場に足をお運び下さい!」

アホ (* Ŏ∀Ŏ) デス

 不思議な女の子がいた。どこのライブ会場でも必ず右隣りの席にいた。見た感じせいぜい小学校の高学年といったところだ。ライブが始まりみんな一斉に手拍子を送る中、その子だけは突っ立ったまま。加えて、小柄であるため前が見えるはずもないのに、背伸び一つしようとしない。ライブ後、会場が明るくなると、隣りには誰もいなかった。

†┏┛墓┗┓†~~~~~ (m´□`)m 幽霊

 鬱でも躁でもないニュートラルな状態を獲得するのはたやすいことではない。「職場鬱」や「軽症鬱」に代表されるように、心的平和を保てない人は少なからずいる。出窓でまどろむ猫がやすやすと獲得しているものを、人間様は七転八倒して考え、悪戦苦闘してなおも考えて、疲労困憊した挙げ句ようやく手に入れられる。が、長くは続かない。

o(^・x・^)o ミャァ♪

 あくまでも理解は可能という前提に立っての話じゃが、わしからすると、主意主義的な要素がみんなに欠けているように見える。意志なきところに理解なし。まあ今思いついたことを言ってみただけじゃが、理解に限らず意志がないと他人には何も伝わらないもんじゃ。ほれ、パスカルだか誰だかが言ってたろ、人間は考える石である、とな。

アシ(○ ̄ 〜  ̄○;)ナンダガ……

 「それじゃあ、国語の授業に入る前に、先生からとても重要な一言。いいか、よく聞いてろよ。試験に出すぞ。都市計画において一つの地域全体を機能、用途、法的規制などにより小部分に分けることであって、都市計画法に基づいて、機能、用途、高度、高度利用、特定、防火、風致の各地域として定め、建築物に制限を設ける云々、しかじか」

ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ ) ナンヤソレ

 問一:国語の問題を答えなさい。

————————————————
————————————————
————————————————
————————————————

ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ ) ワカルカイナ

 粗野で愚鈍な人は、なぜそうであるようにしていられるのか。人を不愉快にし時には怒らせる。誰かがその性質を露骨に糾弾しても自覚する様子はなく、そもそもその能力も具わっていない。どうすればいいのか。これは医学の範疇だろうから、いつか特効薬が出るかもしれない。そうかといって、重大な何かが解決されるというものでもない。

… (´・ω・)_θお薬です

 あのー、あれじゃ。あれ。なんつったっけなあ。こう、紙とか板とかの上に、こう、あるやつじゃよ。わからんか。大きくはない。それどころかぽちっとしてて小さいもんじゃ。紙や板じゃなくてもいい。平面じゃなくてもいいんじゃ。とにかく何かの上っちゅうか表面っちゅうか、全然目立たない感じで小さく存在しておるものなんじゃ――点。

* ゚ー゚) φ.

 鬱病はただひたすらに落ちていく。どんどん落ちていき、いったい自分が何者なのか、何の病気なのかが不明瞭になる。搏動一つが感じられ、一鼓動ごとに病に養分が与えられる。無関係な想念を黒々と巻き込みながら、底なしに落ちていく。上からは鉄柱に押され下からは極太の綱に引き込まれる。人間の形を失ったとしても不思議ではない。

{{{{(|||▽|||)}}}}

さつき 二〇一七年八月 第四回

植松眞人

 私たちはずっと生まれ育った家を出て行くことになった。なぜ引っ越さなければならなくなったのか、ということについては、母に詳しく説明されてもよくわからなかった。ただ、父が「なんだか時代とうまくやっていけなくなったんだよ」とつぶやいて、なんとなくそれが私の腑に落ちた。
「父さんはずっと父さんなりに一生懸命に仕事をしてきたんだけれど、だんだん父さんの一生懸命を世の中が『鬱陶しいなあ』なんて思い始めたみたいに、気持ちが通じ合わなくなったんだ」と以前父は私に言ったことがある。あのときの気持ちが通じないと、いまの時代とうまくやっていけないは、きっと同じ話なんだろうと思う。そして、それを言うなら、母だって時代とうまくやっていけるタイプじゃないだろうし、遅かれ早かれ、母だって世の中と気持ちが通じ合わなくなるんだろうなと私は思うのだった。もちろん、父と母だけではなく、私も時代とはうまくやってはいけない気がする。学校で起こる嫌なことなんて、実は小さなことだから、世の中に出れば全部解決するさ、と担任の先生に言われたことがあったけれど、きっとそれは嘘だと私は思っている。
 学校は家族以外の『社会』の最小組織だし、その最小の組織の中で、なんとなくうまくいかない私は、学校の外の『社会』に出たって、うまくやっていけるはずがない。今と同じように人に嘘を吐かれてがっかりしてみたり、正直に生きたいのに小さな嘘を吐いてしまって落ち込んでみたりする日々を、これからもずっと送るのだろうと思う。きっと間違いなく。
 高校生になってまだ一年も経たないのに、私はうちの家族が格差社会の低い方に属しているのだということをはっきりと意識させられた。誕生日にスマホを買って!と無邪気に言ってはいけない層に属しているのだ、夏休みに温泉旅行に行こうよ!と笑いながら言ってはいけない層に属しているのだ、ということを強く意識している私には、これからも父と母の娘として、陰りのない表情で過ごせるかどうか自信がない。自信はないけれど、そうしなければならないのだ、と気持ちを引き締めているだけで、私の中から力の粒子が抜けていったような気がするのだった。
 七月の都議会議員選挙で圧勝した都民ファーストの会だけれど、あれだけ新人の議員たちが都民ファーストというだけで当選してしまったら、結局、わけのわからない人たちで東京都議会が満席になってしまうんじゃないの、と私は思うのだけれど、そんなことを学校で友達に話しても「政治の話はお断り」と言われてしまう。
 夏休みの登校日が昨日あったのだけれど、結局、誰ともまともな会話をせずに帰ってきた。ディズニーランドに行っただの、海外旅行にこれから行くだの、そんな話を聞いても楽しくもなんともない。人は自分が「いつか行けるかも」と思うことにしか興味を持てないのだと、改めて思うのだった。そして、今私の最大の関心事である、都民ファーストの会のことを話せないのなら、ストレスがたまるだけだと、私は登校日のホームルームとオリエンテーションが終わると、足早にちょっと壊れかけた家に向かった。
(つづく)

甲州は好きですか

大野晋

さて、ワインの話の続きです。

山梨県はぶどうの産地として特に東日本では有名です。葡萄は明治維新の殖産産業としてワイン製造が導入されましたが残念ながら世界的な病害虫の蔓延により、日本の産地はことごとく被害を受けてほぼ全滅してしまいます。ところが日本在来の葡萄である甲州ぶどうが栽培されていた山梨県では被害を免れます。結果として、被害を受けなかった甲州種がその後の日本の栽培種として大きな地位を築き、山梨県がその産地として確立します。

戦争中は軍事利用のために葡萄の醸造が行われますが、ワインは副産物として品質の向上がされませんでした。一方、日本では赤玉ポートワインに代表される甘く糖分添加された酒が主流であったために、本格的なワイン醸造は1970年代まで遅れます。結局、終戦後も山梨県のワインはあまり品質向上することはありませんでした。

1970年代から日本の食卓の欧米化が始まり、本格的なワインが輸入され始めると、長野県ではそれまでの甘味果実酒用のブドウ栽培から本格的な欧州のワイン品種の栽培に切り替わり始めますが、山梨県の甲州ブドウは生食にも利用されるため、山梨県でのワイン用ブドウへの切り替えは遅れます。

結果として、長野県では先行してワイン用ブドウの栽培がはじまり、産地形成されていきますが、山梨県では醸造業者が多く、観光ブドウ園などの業態も成立したため、ワイン専用品種への切り替えも、ワインの品質向上も遅れます。一部の大手メーカは醸造用ブドウを長野県に求めるようになります。現在でも、日本ワインコンクールの上位入賞ワインや国外のワインコンクールで入賞するワインがほとんど長野産のぶどうでできているのはこうした理由からです。一方、甲州ブドウは、いわゆる「試飲商法」で、おみやげ用として、観光客に販売する販路で消化されます。まあ、こうして売れるうちは良かったですが、最近の主に外国人客相手では試飲で買ってもらえることはないですから、旗色は徐々に悪くなっている状況です。

甲州は日本を代表するブドウの品種ですが、生食では巨峰やデラウェア、ワイン用ではメルローやシャルドネに負けてしまいます。結局、1000円ワインの原料となりますが、輸入ワインの関税がほぼなくなる昨今、売り物になるかどうかの瀬戸際と言わざるを得ません。数千円で売られる甲州のワインもありますが、まだまだ少数です。さて、今後、どうなるか?大きな問題でもあります。

甲州ぶどうって、好きですか?

音楽と数字

笠井瑞丈

なかなかピアノが上達しない
でも好きだから毎日弾きます

譜面を眺めるのが好きだ
そして頭のなかで
譜面を数字におきかえる

シャープは三つ
フラットは嫌い

なぜだか分からないけど

音楽と数字
数字と音楽

数字

音楽

一章節480
ラの音440

踊る事
弾く事

振付も譜面に起こせたらた考える

独学で始めたピアノ
好きの曲だけを弾く

戦場のメリークリスマス

家の人からクレームがきても
懲りずに今も弾き続けている

初見で弾けるようなりたい
来世はピアニストに

8月は福島の月だとこじつけてみる。

さとうまき

個人的には、サッカーが好きというわけだが、というよりは、イラクの支援をやっているうちにどうしても避けては通れないのがサッカーだった。なので、イラクのサッカーを応援するのは、9割は仕事だと思っている。

6月のワールドカップ予選、イラク vs 日本戦がイランで行われ、何と40℃近い日中に試合をするなんてことはあり得ないのだが、日本もバテバテ。でもイラクの選手も同じくらいしんどかったはず。試合はズブズブの戦いになり1-1で引き分け。こういうワイルドな試合も見てて面白かった。ただ、TVで暑い、暑いといってもなかなかその暑さは伝わらない。

僕は、その試合が終わってすぐに、イラクのアルビルに行ったが、これまた暑く、とうとう日中は55℃にもなってしまった。こうなると息をするのも苦しいし、耳に熱風が当たるとひりひりする。おまけに公共の電気がとまる。すると、自家発電を皆が動かすから、この排気ガスでさらに気温は上昇。しかも、個々が自家発を回し、蓄電されないから、こんなに電気効率が悪い冷房が使えるくらいのアンペアのある発電機を入れるのに300万円近くする。そして、動かすための燃料も結構高い。ならばソーラーとかもっとそういうエネルギーをまともに考えればいいのに。

さて、8月31日、今度はオーストラリアとの対戦。これに勝てば日本がワールドカップに出場できる。しかも日本での試合だからもっと盛り上がるはず。オーストラリア、うーんあんまり縁がないなあ。これは、1割すらも仕事にできないなあ。
「オーストラリアに移住したイラク難民の今は?」みたいな特集?

最近は、オーストラリアの難民政策がひどいことが有名になっている。「豪州には住まわせない」という方針で、海上で拿捕された船に乗っている難民認定申請者は、そのままパプアニューギニアのマヌス島かナウル共和国に連行され、そこに作られた収容所に入れられる。そして、そういった収容所では虐待がおこなわれているというのだ。そもそもナウルっていう場所は、オーストラリアがリン鉱山に目をつけて掘るだけ掘って滅茶苦茶にしちゃってどうしようもない国になっちゃったらしい。それでオーストラリアはその責任を感じ、お金を払って難民を収容してもらっているということらしい。

しかし、任せたナウルの人たちがこれまた荒んでいるらしく、難民の管理がめちゃくちゃ。性的暴力とか虐待で、人権問題になってしまった。オバマ大統領が離任直前にオーストラリア政府と合意して、収容所から、イランやシリア、イラクといった難民を1250人引き取り、代わりに、アメリカの中南米の難民と交換するというなんだかよく分けのわからない取引をしたらしい。

ヨルダンで知り合ったイラク難民のランダちゃんを思い出した。彼女らはヨルダンでオーストラリア政府の面接を受けて合法的に難民として、2006年に移住したのだ。そのような合法的な難民は、毎年1万人くらいいるらしく、シリア内戦が始まってからはその枠が2倍ほどになっているから、オーストラリアにいる分には寛容な国に見える。

早速フェースブックで呼び出してみる。
「元気?」
「こんどさー日本とオーストラリアが試合するけどさ、どっち応援する?」
「日本!」
「お世辞言わなくていいから」
「だって、今のチームは好きでないもん」

というわけで、ランダは、すっかり女子大生になっていて、学生生活をエンジョイしていた。5歳の時から知っているので、それだけでうれしくなってしまい、ナウルの難民問題とか切り出す感じではなかった。

オーストラリアは日本人にとっては、人気のある国の一つ。友好姉妹都市もたくさんある。そこで調べてみると、福島の大熊町といわき市がバーサスト市とタウンビルズ市とそれぞれ姉妹都市を結んでいる。

うん? オーストラリアは、ウラン鉱山で有名で世界1の埋蔵量だといわれている。日本のウランの輸入先のNO1がオーストラリアなのだ。そして福島原発事故。オーストラリアは、日本が脱原発なんてなってしまったら一番困る。でも、オーストラリアには、原発がない。友人のオーストラリア人に聞いたら、「原発やれば核のゴミが出る。その捨て場がない。そしてそもそも原発はコストがかかりすぎる。住民の反対運動で、原発はできなかったんだ」と教えてくれた。

先日、国連で核兵器禁止条約ができたのに、日本も、オーストラリアも参加せず。きな臭い友好関係だ。オーストラリアは、核実験やウラン鉱山からヒバクシャを生み出し、広島、長崎は、核爆弾の犠牲になった。そして福島は原発の犠牲に。

それらの市民たちが友好的にもっとつながり、きな臭い友好関係にくさびを打つ必要がある。というわけで、8月は日本にいて、福島を行き来しいろいろこじつけて仕事をしてみるつもり。

製本かい摘みましては(129)

四釜裕子

製本アーティスト、山崎曜さんの作品展「みなも・あわい・うた」には、色とりどりのバインダーのようなものが並んでいた。2枚の薄いアクリル板のあいだにさまざまなものがはさんであって、板の四辺に空けた細かい穴を糸で縫い合わせたものを表紙とし、背にあたる部分を革でつないである。OHPフィルムに焼いた写真、木の葉や脱脂綿、羽根、金網、グラシン紙、寒冷紗や糸等々が層をなしてとじ込めてある。手にとって開け閉めしたり灯りにすかして見ていると、どこか森に誘われて、湖面に映る景色の揺らぎに足元がおぼつかなくなったり底なし沼に驚いたり。

一連の作品は「サンドイッチホルダ」と名付けられ、内側に貼った革に切れ目が入れてあり、ノートや手帳をはさんでカバーとして使うことができるようになっている。一つ一つの作品がどんなきっかけでどんな素材で作られたのか、そのなりたちを書いた長めの文章も添えてある。作り手の愉快と覚悟の息を土管の向こうから真っ正面に受ける味わいがあって、解説というより物語であった。「サンドイッチホルダ」は使い手それぞれのノートをはさむものとして提示されたけれども、すでに一つ一つが作り手による物語をホルダしていて、その意味では完結しているのではないかと思った。革の切れ目がただひと筋のこされたためらい傷のようにすら見えてくる。

曜さんはアトリエでの教室や大学などでの講義のほかに、カッターや刷毛の使い方や糊の作り方など、基本的な技術に限って教える講習も行っているそうだ。会場でカッターの使い方をちょっと聞いただけで、私も習いたいと言ってしまった。どうすればうまく使えるかと聞かれたときに、「余計な力を入れないこと。あとは、なれることですね」と最後を締めくくる自分の曖昧さにさすがにうんざりしていたからだ。いつまでたってもなれない自分がいる。このままでは、なれる前に必ず死ぬ。力を入れたくないのに入っちゃうから余計なのであり、皆それに困っている。私も。

「人差し指を、カッターの上ではなく右脇に添えるといいです」と言われる。多くの人(私もそう)はカッターを鉛筆を握るように持つけれども、これでは刃先を紙に押しつけることになる。すると「切ってやる」という意識が高まって余計な力が入りやすくなるというのだ。カッターの右脇に添えれば、「上から力を入れることができなくなるから、余計な力を入れることなく、手、全体でカッターが使える」。なるほど……。かたいボール紙などは切り筋を入れたらあとはフリーハンドで切ってしまうそうだ。「手や腕を動かすのではなく、身体全体を後ろへ引くようにする」。会場で “エア・ボール紙切り” をしていただくと、一瞬にして場の気が変わった。腰のすえ方、身のこなし、手つき目つき、”修行僧” みたいだった。“製本エクササイズ”と思った。これらは曜さんの『手で作る本』にも詳しくあるのだけれど、どうも私には器用な方々が駆使する技のひとつに見えてしまって、試したことがなかったのだった。目の前で見るのはやはり圧倒的だ。

曜さんの身のこなしには理由があるだろう。ご自身のブログによると「構造動作トレーニング 骨盤おこし」なるものを体得されていて、始めたきっかけは〈本の背への箔押しの「だましだまし」な感じの改善〉だという。箔押しと骨盤おこしの動きは〈つながるものがある〉のだそうだ。曜さんはさらに、ルリユール工程の花ぎれ編みが苦手で筋肉痛になっていたのも、ご自身の身体に聞いて解決している。花ぎれ編みは絹糸で本の背の天地に編みつけるごく細やかなものだから、筋肉痛になるほうがむずかしいと言っていい。力なんていらないのに力んでしまうのは、苦手だから力が入ってしまうのでも、なれていないからでもなく、〈右手で糸を引くのが強すぎて、対抗して左手でも引きすぎ〉ていたためと分析するのだ。曜さんの身体と曜さんの頭のおしゃべりを、曜さんが仲立ちしている。

展示会場には木製のモビールもいくつかあった。使われていたのは曜さんのアトリエにある木製定規を細かく切ったものだ。わずかな風を受けて揺れ、やわらかい音をたてている。改めて、今回の展示の口上を読む。〈僕という動物体が見つけて集めてくるものに、僕の人間部分は見立てのようなことをしていきます。無意味なところに意味付けごっこをします〉。生きるとはまずひと続きの一人ごっこ遊びだ。と、思った。

しもた屋之噺(187)

杉山洋一

櫻井さんから沢井さんの演奏会の録音が届いたので、真夜中にヘッドフォンで聴きながらこの原稿を書いています。伊語で写真を撮るときによく使われる「永遠化-immortalizzare」という動詞が頭を過ります。仕掛けだけを書いた楽譜によって演奏家から溢れる音を聴き、それが永遠化され録音として残る。

完全を目指す作品は、同じく完全な演奏を要求するでしょう。完全を目的とする演奏と音楽を目的とする演奏とは本来意図が全く違うもので、完全を目指す演奏は自分とは一線を画す気がしています。音楽の中に正しさを追求するのは、何か違うように感じます。正確な読譜法や演奏法が大切なのは言うまでもありませんが、それは到達点でもなければ、音楽の質を保証もしません。非の打ちどころなく造り込まれた録音が最良の音楽とも限らないでしょう。ただ日頃そうした音に耳が慣れ親しんでいると、不揃いな音は耳障りにしか感じられなくなるかも知れない。ただそれは、防腐剤や化学調味料漬けの食材と同じように、我々自身が作り出してきた産物でもあるのですから、誰のせいでもありません。

誰が演奏しても悪い演奏にならない曲を書くことが理想ですが、ケージでもあるまいしそれでは理想論に偏りすぎるでしょう。せめて、信頼する演奏家の音楽が自ずから零れ出るような作品を書けるようになったらよいと願います。
特に現代音楽に通じているわけでもない父から、沢井さんの演奏会で特に印象に残ったのが七絃琴だと聞き溜飲が下りたのは、七絃琴に聴き手が共感できるか心配していたからです。
リハーサルでも、仲間たちと本番直前まで喧々諤々試行錯誤を繰返していたのは、これら古代の楽器を、本来の姿で提示すべきか、我々現代人の耳が欲する姿で提示すべきかという点でした。これは気の遠くなるほど難しい作業でしたが、そうした皆さんの情熱は本番の沢井さんの演奏のなかに現れていたと思います。
そうして改めて正倉院七絃琴の録音を聴き、音の立ち上がりの瑞々しさにはっとする瞬間が何度もあり、その瞬間を見事に永遠化する録音の妙に、改めて感嘆したのでした。
夜更け、訥々とつま弾かれる七絃琴の音がこれ程自分の心に沁み入るのは、立て続けに受取った訃報のせいもあるでしょう。
沢井さんのドレスリハーサルにいらしたOさんが、涙を拭っていらしたと伝え聴きました。娘さんのお話はしませんでしたが、聴いて頂けたことにただ深く感謝を覚えました。

七月某日 二グアルダ病院
劇場付合唱団のインぺクをしているキアラが、息子を訪ねてくれる。彼女はオーストラリア生まれで、父親はヴァイオリン奏者で、世界を放浪するのが好きな小説家だったと言う。彼女の家は二グアルダにあって病院から近く、折を見つけては訪ねてくれて、その度に何十年も前のテーブルゲームや、父親が子供向けに書いた小説などを持ってきてくれる。彼女は、相手の眼を覗き込むと、その人の前世の動物が見えるという。その動物が守護神として守ってくれていて、自分の性格などを理解するのにも役立つのだそうだ。家人は、猛禽類。鷹だか鷲だかと言われて体裁がよい。当方は、まず海に居る動物だと指摘され、何だろうこれはと少し考えてから、
「あら、あなたの眼には蛸が映っているわ。蛸はとても頭のよい動物よね」と声を弾ませた。
愛嬌もあり味も良いので、蛸は嫌いではないが、どう喜ぶべきか少々当惑する。昨夜、息子の夕食用に朝鮮料理を届け、烏賊の辛味炒めを食べたところだったが、烏賊を食べる分には問題なかったのか暫し考え、言われてみれば、確かに今まで蛸のように生き永らえて来た気にもなる。三ツ子の魂何たらで、蛸と言われると小学生の頃「のらくろ」と一緒に読み耽った「蛸の八ちゃん」の顔ばかりが頭に浮かぶ。
息子は最近、薄味の病院の食事には全く手をつけない。3週間も食べれば流石に厭きるようで、毎日仕事帰りに、スリランカ・カレー、インド・カレー、四川料理、朝鮮料理など、手を変え品を変え夕食を病室に持ち帰って食べている。味が濃いと少し食欲が湧くように見える。見廻りの看護婦が消灯ですと入ってきて、机いっぱいに広げられた朝鮮料理に愕いて、あらまあと言葉を失って出てゆくこともある。

七月某日 二グアルダ病院
イタリア海兵隊広場のリバティ宮で、生徒たちが集まってハイドンの中期交響曲4曲を振るのを聴きにゆく。2階のバルコニー席にいたのだが、平土間席の挟んだ向こうのバルコニー席に、二十歳過ぎの感じの良い男女が座った。アルドが「告別」の2楽章、とても美しい緩徐楽章を振っている時のこと。最後の頁の美しい転調に差し掛かるところで、二人が何気なく顔を見合わせて、微笑みながら口づけを交わした。掛け値なく幸せな瞬間に思わず鳥肌が立った。
アルドは60歳近いのではないか。元来は、映画音楽の打込みをやっていて、実際のオーケストラを勉強したいと勉強を始めた。奥さんを癌で失くしたのは、もう一昨年になるだろうか。朴訥然として、不器用で時代がかった趣味だけれど、実に豊かな音楽を持っている。「告別」で聴き手を幸福で包み込んだのは、その彼の音楽の力だった。
自分が好きな作曲家の名を尋ねられれば、迷いなくハイドンとシューベルトを挙げる。ハイドンの音楽にここ暫くどれだけ癒されているか、とても言葉では言い尽くせない。

七月某日 二グアルダ病院
ミラノの反対側にある病院への息子の入院で、タクシーに乗る機会が増えた。6月炎天下の下自転車で通って数日すると目が回ってこちらが倒れてしまった。小児病棟だから尤もなのだが、元気な息子の隣の家族用ベッドにひもねす伸びている父親に対しては看護婦も殊の外すげなく、隣で点滴を受けている息子が父が眩暈と言うと、困りますね、誰か他の家族は来られないの、酷いならお父さんも救急に行くことですねと言われ、情けない思いをした。
昨日のタクシー運転手も、こちらの職業をまず尋ねてきた。音楽関係だと答えると、実は自分の親戚に世界的に有名な指揮者がいると言う。名前を聞くと、確かに名前は知っていた。
「ところが、彼は庭の最近芝刈り機で指を2本切断してしまったのですよ。可哀そうに。娘はまだ幼くて7歳だったかな」。
余りにさらりと彼が言うものだから、こちらが聞き間違えたのかと思わず聞き返したが、間違っていなかった。
「今は演奏活動を中断して、リハビリをしているのです。その手術を受持ったのは父でして」。
事情がよく分からないまま、黙って話を聞いていた。
「父は世界で最初に手の再構築手術をしたイタリアの外科チームの一人で、手の精密な手術の専門医なんです。世界的に有名なんですよ」。
少し狐につままれた思いで話を聞き続ける。
「ですから父が彼に緊急手術を施して、取り合えず指の先を縫合して処置したのです」。
「指は繋げたのですか」。
「残念ながら、切れた方の指は形を留めない状態で使い物にならなかったそうです。だから縫合処置しか出来なかったと言っていました」。
他人事とは思えない内容で、こちらの指先が痺れてくる。
暫く沈黙が続いた後、彼は話を続けた。
「実は母も姉も皆医者なんです」。
「恐らく、誰もが運転手さんに尋ねると思いますが、あなたは何故医学の道に進まれなかったのです」。
「父があまりに高名ですからね。幾ら自分が頑張っても、きっと親の七光りと言われるでしょう。大学では経済学を専攻しました」。
「こう見えても、大学在学中から実は史上最年少で大手保険会社の支店長を任されていたのです。当時は所謂高給取りでした」。
「ただ、あの職業は自分には続けられなかった。嘘をついてでも、健康な人に無理やり不安感を押し付けなければ、会社に貢献できないでしょう。それは自分には出来なかったのです」。
「お父さまの血を引継いでいらっしゃるのですね」。
「ある時から不眠に悩まされるようになりましてね。家に帰って、無邪気な可愛い娘の寝顔を見ると辛くて堪らなかったです」。
「それで10年前すっぱりと退職しました。以前よりずっと長く働いていますが、今の方がずっと幸せです」。

そんな話をしていると間もなく二グアルダ病院の正面玄関前に着いた。厳めしく荘重な白い石造りで、天使ガブリエレとマリアの美しい浮き彫り細工を中央に頂く。
「Ave gratia plena-めでたし恵みに満ちた方」。天使祝詞冒頭が刻まれている。

「よいお話聞かせて頂き、有難うございました」
「こんな詰まらない話に付き合って頂いて、こちらこそ有難うございました」
「息子さんのお身体、大切にして上げて下さい。私ごときは何もして差上げられませんが、これでアイスクリームでも買って上げて下さい。ささやかな気持ちです」。
そう言って彼が寄越した領収書には、15ユーロ多く金額が書き込まれていた。

七月某日 ミラノ自宅
二グアルダ病院で息子のリハビリ療法を担当するフランカは、イタリア語で俳句を作る俳人で、作品は出版もされている。五・七・五のシラブルで構成され、意図的か分からないが、作品は我々が思う俳句にとても近い印象を与える。
リハビリに立ち会っていると、普通だと思っていたことが、どれだけ複雑な小さな運動の連なりによって成立しているかを知り、それを息子が達成する度に心を躍らせている自分に気づく。原因が違うので感覚も違うだろうけれど、小学生の頃に事故に遭ってから高校に入る位まで、左手全体の神経がぼやけていた感覚が甦ってきた。
息子の施術は決まって朝9時からと早いので、朝食もそこそこに病院に出かけていると、フランカに叱られてしまった。困憊している息子でも、朝7時半家を出る直前に起こして食べる気が起きる朝食は何かと考えた挙句、シチリア風に、息子の好きなバニラとクッキー味のジェラートをパンに挟んで朝食とする。大人ならパンにリキュールを零してみたりするところだが、息子の場合、見つからぬようパンやジェラートにロイヤルゼリーを塗っている。

七月某日 ミラノ自宅
メッツェーナ先生訃報。イタリア半島南端に引っ越されてから、結局一度しかお目にかかれなかった。その時に先生からカセルラが著した「ピアノ」を頂き、それきりになってしまった。何度も伺おうとしたのだけれど、実現出来なかった。ジョンから葬儀に出られるかと連絡が来て、息子の体調が不安定なので、家人が急遽夜行寝台を予約し慌ただしく出かけて行った。ストライキと寝台急行の故障が重なって、往路は散々だった。ターラントまで駆け付けられる縁者は限られていたのか、ほんのささやかなミサだったと言う。家人は教会で神父から頼まれ、オルガンで「主よ人の望みと喜びを」を弾いて見送った。神父はメッツェーナ先生が誰なのか殆ど知らなかったようだから、家人やジョンの姿を見て先生も喜んでいらっしゃるに違いない。先生のお宅のすぐ裏にある、コバルト色の海ばかり思い出している。

七月某日 三軒茶屋自宅
沢井さん宅で「峠」のリハーサル。五絃琴の録音の上に、七絃琴の演奏を重ねてゆく。五絃琴は流刑に処された夫を想って一針ずつ直向きに衣を縫う女の姿。七絃琴は妻から引き離され流刑地へ曳かれてゆく男の重い足取り。一見すると相聞歌は対話のようだけれど、永遠に再会の許されぬ次元へ引き裂かれた二人の、それぞれの孤独な叫び。
同じ相聞歌をテキストに、奈良の民謡を使って最初クラリネットとピアノの曲を書いた。どちらも現代の楽器が我々の言葉を話してくれた。同じ頃に沢井さんのお宅で、五絃琴と七絃琴に出会った。七絃琴は相聞歌が書かれた頃に同じ場所に存在していて、遠く中国から運ばれてきた。五絃琴は中国で以前から存在し、辛追夫人の柩にも描かれていた。これ等の逸話が自分の裡で絡み合い、七絃琴は故郷を遠く離れる男の嘆き、五絃琴はかの地に残された女の嘆き、という相聞歌の姿になった。
初めて五絃琴と七絃琴が重なるのを聴いた時、五絃琴は背景に留まったまま、七絃琴ばかりが、次第に五絃琴から離れ、どこまでも我々に近づいて来る錯覚を覚えた。古代の楽器が古代の音を使って往時の別離を唄うと、思いがけず生々しく響くことに驚く。

七月某日 ミラノ自宅
送られてきたオーケストラの楽譜を眺めながら、オーケストレーションとサウンド・デザインは同義かとぼんやり考える。旋律の概念、旋律を支える伴奏の概念が崩壊して以降、現代音楽、特に西洋音楽の伝統に端を発するオーケストラ作品は、音響体としての構築に目が向けられる。音楽を違う視点で成立させようとすれば、特に社会構造を映しこんだオーケストラという構造物など、どのように成立し得えるかと考える。

七月某日 ミラノ自宅
バーゼルのスコラ・カントルムのマッシミリア―ノがレッスンに来て、割と最近まで、街ごとにどれだけ調律が違っていたかについて、色々と説明してくれる。ヴェルディの時代でさえも、今の歌手が頭声と胸声のチェンジで苦労するのは、調律が当時と違うからだと言う。当時の調律であれば、チェンジなしで歌える難所が幾つもあると言う。インターネット時代の現在にあっても国ごとに調律は随分違うのだから、100年前の相違はかなりのものだったに違いない。
時刻も昔は街ごとに日の出日の入りで時刻を定めていたから、旅行は不便で仕方がなかったと言う。標準時が決められて随分すっきりしたが、同時に矛盾も生じた。
創成期の楽器もそれぞれが混沌の中にあって、街ごと国ごとに違った姿をしていたが、当時はそれでも余り不便を感じなかったのだろう。方言が淘汰され、小さな言語が大きな言語に吸収され消滅していったように、或る楽器は廃れ、或る楽器は民族楽器として残り、或る楽器は西洋音楽の主流として残ってゆく。
現代音楽の楽譜を眺めていて、マッシミリアーノの話を思い出す。100年200年後、この記号は何を表しどう演奏していたのか、何故作曲家毎に書き方が違って、一貫性のない記譜法が採用されたのかと論争の種になっているかも知れない。現在浄書ソフトに使われている譜面のサンプルを、各作曲者が便宜上採用していても、150年200年後「フィナーレ」や「シベリウス」が使用されているか甚だ怪しい。先日も演奏会の後「味とめ」で悠治さんと話していて、本来本末転倒である筈だが、今や作曲家の方が浄書ソフトに併せて、浄書ソフトの出来ることを使って作曲している状況が話題にのぼった。

七月某日 ミラノ自宅
庭を眺めながら息子と蕎麦を啜る。夕立が上がった途端、出し抜けに奇妙なほど明るい光線が目の前に差し込む。燦燦と輝く眩い光は、辺りを橙色にも黄金色にも一気に染め上げる。夜の9時前とは思えない不思議な光景に、息子は怖がっている。ハイドンの「海の嵐」をかけていたが、音楽と目の前の風景が一体化し過ぎるのだと言う。
「海の嵐」を表わすのだからこの光景に合うのは当然だが、そうでなくても恐ろしい程煌々としているのだから、止めてくれと言う。この曲はオペラのようで、聴いているといくらでも舞台が想像出来るだろうと尤もらしく言うので驚く。「Sturund Drang-疾風怒涛」の音楽表現をよく言い得ていて感心する。

七月某日 ミラノ自宅
五月末から2か月、息子の喘息が酷くなってから今まで、魘されるような時間を「子供の情景」の作曲と共に過ごした。これほど息子の傍で過ごしたのも、好きなだけ甘えさせているのも、本当に何時以来だろうと毎日考えた。或いは、事故に遭った後の自分と父親との関係も、少しこれに近いものだったのかも知れない。
「子供の情景」を今井さんのために書くにあたって、シューマンの描く無邪気な子供の姿と目の前の息子の姿との落差に、病室では全く真っ当に頭が働かなかったのは我乍ら情けなかったが、どうしようもなかった。
Oさんの娘さんの話を聞いた時もメッツェーナ先生の訃報に接したときも「子供の情景」を思い出した。ほんの数日前も、仙台でお世話になったHさんの訃報が届き、彼女の朗らかな笑顔と、未だ小さいお子さんを思い出していた。

未だ息子は好きなピアノは思うように弾けないので、気分転換に指揮の手ほどきをしてみる。今までも小さい頃からレッスンを眺めていて、一緒に指揮の真似事をして時間を潰していたから厭ではないのは知っていたが、やらせてみるとプルソが思いの外上手なのに、率直に驚いた。最初からこんなに綺麗なプルソが出来る筈はないので、子供乍ら何年も今まで真剣に観察していたのかと思うと少し切なくなった。
疲れると言うことを聞かない左足から力を抜かせ、右足の前に頭を持って来させて重心全体を右足で取る。安定して立ち続けるのも未だ甚だ難儀だが、他の指揮の初心者と同じように「子供の情景」を課題に出すと、ベッドの中でずっと喜んで楽譜を眺めていた。
彼が1曲目を振り出した時、不覚にも涙がこぼれそうになったのは何故だろう。こんな反応は自分で想像もしていなかった。単純に息子が好きな音楽をやっている姿に心が動かされたのかも知れないし、子供の目に映る「子供の情景」の音が目の前に流れ出した驚きかもしれない。自分では絶対出せないような、シンプルな美しい音がしたのだ。もう少しざらついて欲しいくらいの、無垢で透明なガラス細工のような息子のピアノの音は、指揮をしても同じだった。
(7月31日 ミラノにて)

ジャワの雨除け、雨乞い

冨岡三智

日本での雨の降り方が熱帯地方化しているように思える折柄、今月はジャワでの雨のコントロール法について述べよう。

●雨除け

王宮で結婚式の行事があった時にやっていた方法が、竹ひごを束ねた箒を逆さ立てて、その先に唐辛子をたくさん刺すというもの。ネットで調べてみたら、祈祷師(パワン)がやる一般的な方法のようで、唐辛子以外にニンニクとバワン・メラ(赤エシャロット)も使うらしい。これらは唐辛子と並んでジャワ料理を代表する3大基礎香辛料と言えるだろう。どういう理屈で雨が止むのか分からないが、あるネット記事には「祈る人は確信してやるべし」と書いてあった(笑)。

私も雨除けのためにパワンを呼んだことがある。それは、2006年11月に舞踊「スリンピ・ゴンドクスモ」の曲を録音した時のことだった。この時は芸大のスタジオではなく、芸大元学長スパンガ氏の自宅のプンドポで録音した。プンドポは王宮や貴族の邸宅には必ずある伝統的な建物で、儀礼を行うための空間だ。ガムランはこういう場所に置かれている。壁がなく柱だけで屋根を支えている建物だから屋外も同然だが、プンドポでは天井に上がっていった音が下に降ってきて音響的には素晴らしく、ガムランとは本来こういう空間で上演されるものだと実感できる。スパンガ氏の屋敷は広大で、しかも塀の前には田んぼが広がっているから、雨さえ降らなければ夜は静かになる。というわけで、雨除けが必要なのである。11月は雨期に入っているし、それに録音予定の週には町内で結婚式が2つもある(ジャワでは自宅で結婚式を挙げることも多い)。それらの家でもパワンを呼ぶから、あっちで雨除け、そっちで雨除けされたら雲がスパンガ氏の家の辺りに集まってきて、録音日に雨が降るかもしれない!こっちでも雨除けが必要だ!と演奏者たちに要請されてしまったのだ。

それで当日パワンに来てもらうことになったが、他にも伝統的な雨除けの方法として、パンツをプンドポの屋根の一番上の柱に上げるというのもあるけど、やる?と冗談交じりに聞かれた。もちろん却下であるが、そういう場合、パンツは録音主催者の私のものであるべきか、家の当主であるスパンガ氏のものなのか…、また古い時代ならパンツではなく褌などになるのだろうか?などと色んな疑問が沸き起こる…。しかし、これもどういう理屈なのだろう。

話を元に戻す。録音では夜8時集合にしていたが、私は準備のため7時過ぎにバイクで現地に到着した。しかし、道中で土砂降りの雨が降り始めたので怒り心頭である。8時には雨は小雨になったが、まだ誰も来ない。少なくともパワンは先に着いて雨除けのお祈りか何かをしていてしかるべきではないか?竹箒に唐辛子は準備しないのだろうか?などという思いが脳裏をよぎる。8時半頃に雨がやみ、出演者が集まり始めた。録音準備をやってとりあえず晩御飯である。この段になってパワンがやってきて、晩御飯を食べてすぐに帰って行った…。あとは演奏するだけとなった時には雨はすっかりやんで、しかも田んぼのカエルたちも全然鳴かない。演奏者たちはパワンの成果にすっかり満足だが、そもそも予定時間から遅れているのだし、1人ずぶぬれになった私にすれば結果オーライでも割り切れない部分がある。別に謝礼と晩御飯を用意しなくても雨はやむべくしてやんだような気がするし…。しかし、パワンにすれば、本来一晩雨のはずが録音を実行できる状態にできた成功事例だったのかもしれない。

●雨乞い

私が最初に留学したのは1996年の3月から2年間で、ちょうど雨季の終わり頃に着いた。そして乾季を過ぎ、次の雨季が来ようとする頃…。雨季は11月頃から始まり、本格的な降りになるのは12月頃からなのだが、この時は1月半ばになってもほとんど雨が降らなかった。ちょっと小高い所にある大学の周辺の下宿では井戸水が枯れる所も多く、大学に来てマンディ(水浴び)をする学生がこの頃は多かった。大学は公的機関だけあって井戸は深く掘られていたようだ。

そんな折、私が参加していたカスナナン王宮の宮廷舞踊の定期練習では、「スリンピ・アングリルムンドゥン」を練習する機会がぐっと増えた。この曲はムンドゥン(雲)という語を含むように、雨を呼ぶと言われている。宮廷舞踊のレパートリーの中でも1年に1回、即位記念日にのみ上演される「ブドヨ・クタワン」という曲に次いで重いとされる曲で、王宮の練習に参加して半年余りたったこの時点で、1度も練習したことがない曲だった。演奏家たちは農村地帯に雨が降るようにとお祈りをしたのちに演奏を始めたものだ。王宮の周辺では相変わらず雨は降らなかったが、郊外では微量だが雨が降ったという。

また、「ババル・ラヤル(帆を揚げる)」という曲が雨乞いのために演奏されたこともある。この曲はグンディン・ボナンと呼ばれる合奏形態で演奏される儀式用の曲の1つだが、雨と関わる由緒があるらしかった。これは、カスナナンではなくマンクヌガラン王家の演奏練習の日だったかもしれない。

これらの雨乞いは別に王家が公的にアナウンスして行ったわけではなく、王宮付き芸術家による私的な行為である。しかし、ジャワの王宮と農村との間にある精神的な紐帯を思い出させてくれる。音楽や舞踊にはこんな霊的な力があると信じられている。

仙台ネイティブのつぶやき(24)職人さん訪問

西大立目祥子

 7月末は、私にとって「せんだい職人塾」の季節だ。ちょうど小学生が夏休みに入ってすぐのこの時期、10組ほどの親子といっしょにバスに乗り込み、職人さんの元を訪ねるという仙台市の企画を長いこと手伝ってきた。水先案内役なのだけれど、運転手さんのわきでマイクを握りしめ話をするのだから、まるでにバスガイドだ。

 訪ねるのは、桶屋、畳屋、表具屋、鍛冶屋、カバン屋、こけし屋、和裁屋、和楽器屋、仙台簞笥の金具職などなど。中には、東北大学理学部で実験用のガラス器具を製作する職人さんもいる。

 もちろん私には、こうした一つひとつの仕事を解説できるほど知識もましてや経験もない。以前、仙台市内の職人さんの仕事場を訪ね歩き冊子をつくる仕事をしたことがあって、ものづくりをする人々が自分の暮らす街にも少なからずいることを知ったことがきっかけだ。その仕事ぶりや人となりに興味と関心を抱くようになって、そうした人たちの存在と仕事ぶりを多くの人に知ってほしいという一心で続けてきた。

 仙台は江戸時代から消費都市としての性格が強かった街で、いまも2次産業の基盤は弱いといっていい。つまりは、つくって売るより仕入れて売るという商売の方が圧倒的多数だったわけで、その中でこつこつ時間のかかる仕事をやり続けてきた人たちというのは、まわりに流されることなく自分自身の中に意志や思いや考えを持つ人、という印象を抱いてきた。

 多くが亡くなられてしまったけれど、忘れられない職人さんもいる。奥さんを亡くされたあとも自立した一人暮らしを続け、早朝起床してまずトイレ掃除をし、朝食をつくって食べ、それから仕事場に入るという日課を守り通した桶職の「桶長」こと高橋長三郎さん。高橋さんのよく手入れされた庭は、いつも色とりどりの花が満開だった。サワラ材を使った桶は、寿司桶としての注文も入るほど典雅で美しかった。  
10年ぶりに訪ねた私に向かって「ああ、あんたか、久しぶりだな。俺の包丁なあ、ますます切れるようになってきたぞぉ」と話しかけてきた鍛冶職の千葉久さん。千葉さんは地元の農家のために鎌をつくり、塩竈の卸売業者のために大きなマグロ包丁も製作した人で、四、五年前病に倒れてなお、いまも工房で研ぎの仕事を続けている。

 すぐれた職人さんの仕事場はよく整理整頓され、掃除がゆき届き、手入れされた道具がきちんと定位置におさまり、足を踏み入れたとたんすがすがしい気持ちに満たされる。五感を研ぎ澄まし、段取りよく仕事を進めるためには、機能的であることが必要だからだろう。じぶんの背筋がしゃんと伸びるような、ではキミ自身の仕事場はどうなの?と問いかけられているような思いにもさせられて、私にとっては職人さんの仕事場を訪ねることは、じぶんを振り返る意味でも大切なひとときだ。

 さて、この「せんだい職人塾」。夏がめぐってくるたび2日間、それぞれ2カ所ずつ訪問するので、まずは訪問先を確保しなければならない。もちろん、いつでも快く受け入れてくださる工房はあるし、そこをまた訪ねればいいのだけれど、毎年負担をおかけすることにもなり、私自身がマンネリに陥る。できれば、1カ所ずつでも新たな訪問先を開拓したい。

 今年はどうしようか─。6月ごろ、思案していて、そうだ!と思い浮かべた顔があった。尾形章くん。25、6歳ぐらいだろうか。私と同じ仙台生まれの仙台育ちで、地元の工業大学の学部の学生だったころ知り合って、歴史的建造物の保存活動を手伝ってもらっていた。若いのに、数十年前に消えてしまった市内の旧町名を知っているし、よく歩いていてどの町内にどんな古い建物が残っているかを把握している。話が通じるので私たちはとても重宝し、頼りにもしていたのだ。彼は大学院に進み修士論文で「建具」を取り上げ、卒業後はどうするんだろうと思っていたら、市内の木工所に就職して建具職の見習いになってしまった。すらりとした長身で、いつもはにかんだような笑みを浮かべ、真摯で驚くほど率直で、私はひそかに職人の資質は十分と見込んでいたのだ。そうか、やっぱり。その進路には納得がいった。

 彼を通じて社長さんに打診してもらい、受け入れのお願いにうかがった。国道沿いの敷地に立てられた広々とした工房には、機械が据え付けられ、尾形くんを含め4人の職人さんが障子やふすま、ドア、家具などの建具の製作をしている。それぞれの作業台には長年使いこまれたカンナや金槌などの道具が置かれ、壁には旋盤鋸の歯がすっきりと納められ、光の射し込む窓際に刃物の研ぎ場がしつらえてあった。
 社長のTさんの図らいで、見学だけでなく体験もできるようにと、ミニ障子の衝立の組み立てをそれぞれひとつずつ製作させてもらうことになった。

 いよいよ当日。あいにくの雨模様の中、前半の畳屋さんの見学を終えたあと、9組18人の親子を案内する。まずTさんが「障子が出来るまで」と書かれたペーパーをもとに、流れを説明してくださる。製材され運ばれてきた材料を用いて「木取り」するところからこの工場の仕事が始まる。「墨付け」「ほぞ加工」「組子加工」…と続くのだけれど、カンナもノミも見たことのない子どもたちに、理解してもらうのはなかなか難しい。聞くと、家に鋸や金槌のない子もいるようだ。

 説明のあと、雪見障子の製作を見せてもらった。この道50年という年配の職人さんと尾形くんがいっしょに説明してくれる。初々しい無垢材で組み立てられた障子の何と美しいこと。0コンマ数ミリという精緻な仕事の見事さを感じてほしいと思いながら説明を補足するのだけれど、伝わっているのかいないのか、いつものことながらもどかしい。

 それでも、用意してくださったミニ障子衝立の組み立ての体験に入ると、どの子も夢中になり始めた。「一番長いのを印のついた方を右側にして、上の方に置きます」「次に短いのを自分の前にタテに置きます」と手順を説明してくれるのは尾形くんだ。見習い2年目。恵まれた職場で、少しずつ力をつけているのがわかってうれしくなった。職人さんの手助けを借りながら組み立てを終え、最後は障子紙を張ってできあがり。お母さんたちもそれぞれつくり上げて、みんな満足した表情だ。見るだけでなく、じぶんの手を使うというのも、理解のためには大切なことなんだろう。

 下加工、紙やのり、筆の購入など、受け入れの準備は大変だったはずだ。事務の仕事を担っているというTさんの奥さんにお礼をいうと、「私たちにとっても刺激になったのよ」と笑顔が返ってきてほっとした。

 数日後、尾形くんにお礼のメールを送ると「自分の仕事を説明して理解してもらうこと、伝えることの難しさを実感しました」と返事が返ってきた。伝えるためには、毎日自分がやっていることを意識化して客観的に眺めなければならない。それは熟練する中で無意識でこなせるようになっていく小さな一つひとつの作業を見直し、コトバ化することにつながることになるのかもしれない。

 外から私たちが訪ねることで、職人さんがじぶんの仕事を見つめ直すことになるのなら本当にうれしい。まったくの素人でも手仕事に生きる人を応援できる、と気づいたこの夏の収穫だ。

香港の友人

西荻なな

香港からの友人が帰って行った。嵐が過ぎ去ってしまって寂しい思いだ。マシンガントーク、というのにふさわしく、出会い頭から、分析的かつ遠慮のないツッコミの連続を繰り出す彼女にたじたじとなってしまうことも多いのだが、空気の読みあいが支配する日本をつきぬけていくような気持ちよさもあって、年に何度かやってくる嵐の到来を、心待ちにしているところもある。

香港でブランドロゴのデザインなどを手がける家族経営の会社の実質社長である彼女は、正直すぎるほどに正直な反面、多分にロマンチスト。この二つの変数の掛け算で、存在自体が発する熱量がものすごく大きなものになっている、というのが私の分析だ。掛け合わせの妙で最大値を記録した時にはなかなかの爆発力を発揮するようで、大きなクラッシュを見せる場面にも、歓喜する場面にも居合わせたことがある。仕事の成功をつかめば最大限にハッピーになるし、差別的な話を見聞きすれば憤りを隠さない。仲の良い友人の身に起きるあれこれも、まるで自分のことのように喜んだり、怒ったりする。人生の主役感がどこか欠如した私にとって、ドラマチックに生きている彼女の姿は時に眩しい。

恋愛をめぐっても友情をめぐっても仕事をめぐっても、あらゆる面で”本物”への追求に余念がないため、それが”genuine”かどうか、というのが彼女の口癖だ。食一つとってみてもこだわりは半端なく、鮮度や味の深みなど、徹底して吟味を怠らない。いまいちと思った時に箸をとめるのは彼女自身が実際に料理上手なことに裏打ちされてもいるのだが、美味しいと思えば賛辞も最大級。山梨のシャインマスカットや山形のだだちゃ豆、気に入った素材は産地まで徹底的に情報をインプットした上で、彼女のお取り寄せリストに並ぶことになる。

メイドインジャパンのお気にいりの洋服が欲しいから、どこか良いお店に連れて行って! というわがままも度々で、新宿渋谷銀座、代官山から青山まで東京中を案内した。見る目は確かだし、高すぎるものには手を出さない。手触りで確かめて、コストパフォーマンスをきっちり計算して吟味するあたり、さすがビジネスをやっているだけあると感心する。自分に似合うものをよく心得ているから失敗もしない。そればかりか私への見立てもまた上手で、香港に足を運んだ時には徹底してスタイリストを務めてくれるのだ。互いの文化の”本物”を交換できることが嬉しい、といって、香港の本物を紹介してくれることにもためらいがないから、かえって気持ちがいい。

というのが基本線なのだが、今回の日本滞在中、彼女のクラッシュの場面がふた山ほどやってきた。その一つは香港のビジネスパートナーからもたらされた知らせによるもので、最初は歓喜として捉えていたニュースが、次の日にはいかにそこから手を引くか、というシリアスな話題へと転じていた。ナーバスになっているのだが、いかんせんこちらも背景事情までは理解が及ばない。建築家や工事現場の人たちと協働での仕事ゆえ、工場サイドのことまで把握していなければならない仕事の難しさがあるようなのだが、何かそのパワーバランスで悩みの種が出てきたらしい。そして人間関係も深く関わるものらしい。とりあえず怒りの感情が爆発しているふうで、しばらく収まりそうにない。こちらも仕事でてんてこ舞いで困っていたなと思っていたら、ある友人たちとの夕食会がきっかけで、すっと彼女のテンションが収束していった。それは物語的で、とても印象的なワンシーンだった。

最近私が知り合った、とてもきもちのよい女性たちの集いに、今日が東京滞在最終日という彼女を連れて行ったのだ。三々五々集まってくる面々。でも私もまた彼女たちとじっくり話すのは、その日が初めてのことだった。自己紹介もそこそこに、ナーバス気味な香港の友人 は、初めて会う私の知り合いに仕事の悩みを英語でぶつける。理知的で冷静、分析的な返しを彼女がしてくれることに申し訳なさと、ホッとする気持ちとを抱えながら、なんだかこの場の雰囲気を壊していないだろうかと内心ヒヤヒヤもしたのだが、それはそれで会話も展開しているようで、胸をなでおろしつつあった頃、一組の姉妹が遅れてやってきた。どちらもそれぞれに優雅さと落ち着きをたたえた、素敵な姉妹で、スウェーデンでバイオリンをやっている妹さんが香港友人の隣に座った。そのバイオリンの彼女が口を開いた時、今までとは違う雰囲気に場が包まれたのだ。とても静かで穏やかで、人の心を深く落ち着けてゆくような佇まいと声のトーン。まるで何か、ミヒャエル・エンデの世界から抜け出してきたような、という印象を抱いた。バイオリンというよりは、ビオラのような音程の声かもしれない。一言発するごとに、ハッと惹きつけられる。それは誰もが感じるに違いないものなのだろうけれども、驚いたのは、彼女と会話を始めた香港友人の声のボリュームが下がり、穏やかになり、その後、二人が静かに話を展開していく様だった。にぎにぎしい喧騒が静寂に包まれて、シンと透き通り、しだいに甘やかささえ満ちてくるようだった。打楽器がそれぞれに打ち鳴らされていたのが、急に場所場所でハーモニーを奏で始めるような不思議な雰囲気に包まれた。いつまでもそこに身を委ねていたいような、森の静けさに身を包まれたような、安心感。

翌朝、すっかり人が変わったような香港友人は、心から名残惜しそうに東京を後にした。その時に、彼女が残した一言が忘れられない。新たに友人になったバイオリン弾きの彼女のことを、”She’ s the sound of a mountain unaffected by the city”といったのだ。都市の喧騒の中にあって、彼女はその何にも影響されることなく、まるで山が奏でる音のようだ、と。私自身、いかにも香港人で、香港の喧騒みたいにおしゃべりでズバズバ色々と言ってしまうけれど、彼女みたいな静けさを私も身にまといたい、と。人と人とが出会って、そのハーモニーが心の深くに根を下ろしてくことが本当に素敵だと思える一夜だった。香港の喧騒もまた懐かしい。

153立詩(1)ハイ・プリンター

藤井貞和

新楽府(しんがふ)を、この炎天に想う、諷喩の試み地上にはなきを。
わが怒り、自嘲へ霧消し、世に従うや ぶざまなおいらよ。
心より検閲起こり、あっ虚空に浮かぶハイ・プリンター。
次第に降りてくるぞ、なんだあれは 巨大なコピー機。
ことしのUFOが近づいてくるぞ、サン・チャイルドだ、
いやドラゴン。コピーしに降りてくるヤマユリの精(せい)。
水紋をコピーする、復興するすべてのうそをコピーする。
唐のみやこ中唐のこと、はくらくてんは中編詩をいくつか書いて、
住むことができなくなる コピーでのこそう。はるかな以前には詩の国からの、
追放だった。もういいの、なんでもありだ、ったく、
ハイ・プリンターは印字して地上にばらまく、はなびらの一枚一枚に。

(おいらのロー・プリンターもできるすべてを尽くして、長安のみやこにはなびらを一枚一枚、印字しては散る中編詩。)

アジアのごはん(86)パイナップル酢

森下ヒバリ

「天然発酵の世界」(サンダー・E・キャッツ著 築地書館)という本を読んでいたら、アルコール発酵の変化形という章にメキシコのパイナップル酢の作り方がのっていた。なんか、めっちゃ簡単そうである。ちょうど、石垣の無農薬パイナップルが届いたところだったので、さっそく作ってみることにした。現地ではピニャグレ・デ・ピーニャ、と呼ぶらしい。かわいらしい語感で、早口言葉の練習もできそう。

ふむふむ。パイナップルは皮のみを使う。中身はおいしく食べた後の皮で出来るとは、すんばらしい。材料は以下の通り。

・パイナップル1個分の皮
・砂糖カップ4分の1
・水 1リットル

水に砂糖を溶かし、粗く刻んだパイナップルの皮をガラスの保存ビンに入れて水と砂糖を加える。密封はせずにガーゼでふたをする。室温で発酵させる。1週間ぐらいで液体の色が濃くなってきたと感じたら、パイナップルの皮や芯を濾して捨てる。こしとった液体を時々かき混ぜたりゆすったりしながらさらに2~3週間発酵させるとできあがり。

ということなのだが、真ん中の芯の部分も入れて、砂糖は粉状のてんさい糖を使った。(この砂糖は発酵菌のごはんである)数日するとぷつぷつと気泡が出るようになり、いい感じに発酵してくる。1週間で味見してみると、美味しい微炭酸パイナップルジュース。ここで発酵ジュースとしてゴクゴク飲んでもいいのだが、とりあえず酢を作ってみたいのでがまん。

10日ぐらい置いてから皮や芯を取り出した。この段階ではちょっと酸っぱいぐらい。皮や芯を入れている時には、水がかぶっているようにしないと表面に白い産膜酵母が出たり、他のカビができやすいので注意。産膜酵母はゆすってやるとできにくい。産膜酵母は無害なので気にしない。他のカビは取る。

液体を濾して、さらにガーゼでふたをしたまま室温に2~3週間。どんどん酸っぱくなってくる。味見を時々して、つーんとくるようになったら出来上がり。産膜酵母の白いモロモロがあれば濾してキャップのできる瓶に詰め直す。パイナップル酢ができた~。微妙な臭みが少しあったが、ほのかにパイナップルの香りがして、まろやかでうまい。しばらくしたら臭みも抜けたし、大成功。サラダや酢の物に合うね。

う~ん、酢って作れるんだな‥。考えてみれば、いつも豆乳ヨーグルトの種と、お風呂に入れるためにお米のとぎ汁を発酵させて乳酸菌発酵液を作っているけど、長いこと置いておくとかなり酸っぱくなり、料理にけっこう使っている。これもマイルドな酢といえなくもない。まあ、これはちょっと臭みが出やすいが。

いつも料理に使っている酢は京都・宮津の富士酢である。米酢はまず酒を造ってからそれをさらに発酵させて酢にするが、ここは米から自分たちで無農薬で作って仕込んでいる。富士酢は完成された大変おいしい米酢である。米酢を一から自分で作るのはとても大変だ。でも、パイナップル酢なら簡単に作れる。

梅の季節がやって来て、梅干しを仕込んでいたら3つだけ一部がじゅくじゅくした梅が残った。潰れてはいないが、梅干しに仕込むと潰れてしまいカビが来やすいのでどうしようか。3つだけ甘く煮るのも面倒‥そうだ酢にしてみよ! と、オリーブの実が入っていた細長いガラス瓶を出して梅を入れ、水と砂糖を入れて置いてみた。梅も表面にたくさん乳酸菌や酵母菌がいるのだろう、すぐにプクプクしてきた。で、待つこと数週間、しっかり梅の酢になりました。砂糖の甘みが残っているようではまだ発酵が足りないので、注意。

梅干しを作ると出来る梅酢はとても美味しいのだが、とにかくしょっぱい。なので、ショウガやミョウガを薄めて漬けたりするぐらいであまり活用できない。水に入れて薄めて飲んでも全然減らない。しかし、この水漬け発酵の梅酢は甘くも塩っぽくもないのだ。これは使えます。

暑い夏の日、外から帰って来た時に梅シロップをソーダで割ったりしたものをゴクゴク飲むと生き返る気がする。しかし、しばらくすると、身体が重くなってきて、疲れがど~と出てしんどくなり、後悔することが多い。疲れた時に甘いものは、実は体に良くないのである。なので、最近は梅ジュースなどの砂糖漬け食品は作らなくなった。

で、この間外から帰って来て、暑い‥と思った時にこの梅の酢を冷たいソーダで薄めて飲んでみた。これは、おいしい。身体にすーっと入って行く。調子に乗ってもう一杯。それでも、身体はちっともしんどくならない。

パイナップルの皮や梅以外でも簡単にフルーツ酢ができそうである。皮とか芯、熟れすぎまたはちょっと傷んだもの、あまったものなどの利用にぴったり。出来た酢に火を入れるかどうかは、好き好きだが、発酵が終わって完璧に酢になっていれば必要ないだろう。できれば生のままで使いたいところ。

昔タイの東北イサーンに住んでいた頃、ワカメの酢の物が食べたくなって、乾燥ワカメを戻したのはいいが、いい酢がなくて困った。タイ料理では、酸味はマナオというライムの一種を絞って使うか、タマリンドの酸っぱい実を水で濾して使うことがほとんどで、いわゆる醸造酢というものを使わない。まあ、マナオを絞って酢の物にすればいいのだが、日本の酢の物の味とはまったく別物になる。

いちおう、スーパーなどで醸造酢らしきものも売っていたのだが、酢酸を薄めただけかっ、と叫びたくなるような無機的な味であった。ミツカン酢でいいからほしいと身悶えしたぐらいだ。だいたいこれをタイ人が使っているのを見たことがない。汁麺を食べさせるクイティオ屋で、自分でかけて味を調整するトウガラシの酢漬に使われているだけじゃないかと思う。

まあ、最近は輸入品が簡単に手に入るから、タイにいても美味しい米酢がほしくて身悶えすることはないのだが、その頃このピニャグレ・デ・ピーニャやフルーツ酢の作り方を知っていたら、と悔やまれる。フルーツ天国なんだし作り放題ではないか。

でも、この時のかんたんに日本の味が手に入らないタイ地方暮らしの経験から、梅干しや味噌を自分で作ってみたい、美味しい日本の味のいろいろを自分で作ってみたいと思うようになり、ヒバリの台所術は始まったとも言える。タイ暮らしをやめて日本に戻った時には仕事がなくて、会社勤めももう(がまん)できない体と心になっていたし、とにかくお金がなかったので、美味しいものを食べるには自分で作ってみるしかなかったんだけどね。

水面にうつる夏

璃葉

窓の外からは蝉の声が聞こえ、昼を過ぎると陽の光は一層強くなっていく。
夏という季節は好きだけれど、街中で過ごす夏は嫌いだ。ビルとビルの間を吹き抜ける熱風、極端に寒いオフィスやレストランの室内は、人の過ごす場所ではないといつも思う。
外と内の温度差によって、不自然に汗をかく日が続く。これに慣れてしまうと、もう冷房なしでは生きていけない。
毎年、東京の真夏を無理やり乗り越えている気がしてならないのだ。

自宅にもどり、買ってきたルッコラとトマトを皿に盛った。バルサミコ酢とレモン汁、塩をかけて食べる。
窓から見える空は次第に暗くなり、大粒の雨が降り始めた。突然、風がまっすぐ網戸を通り抜けてきた。土や草の青くさいにおいが混じった風だ。湿気は最高潮となり、自分の肌も、さわるとぺたぺたする。
雨粒はすぐに強くなり、地面や窓ガラスを叩いた。蝉の声も、降り始めは元気がよかったが、雨が強くなるにつれて鳴かなくなった。

「甕覗(かめのぞき)」という色の名がある。薄い水色のことをそうよぶ。
白い布を藍染めの甕に浸すとき、またはその甕の水面にうつる空が薄い水色だということから名付けたようだ。一雨通り越したあとの空は、まさしくそんな色だった。
この茹だるような暑さを人間のためにどうにかしてくれるのは、やはり夏そのものだった。夕立の後のひんやりした空気は、夜の遊歩道を散歩する気持ちにさせてくれる。
のぞき込むようにして、夏の始まりを見つけていく。