ピアノを弾く

高橋悠治

ピアノを弾く サティの曲のように短く 音の数がすくなく 同じように見えるフレーズが くりかえされるようで どこかがすこしちがう それを何回も別な機会に弾く 自然に指がうごいて できた道に沿って行けば すぐ終わる それでは早く飽きるだろう かんたんで素朴に見える音楽を 毎回ちがう曲のように弾けるだろうか

ひとつのフレーズでもちがう表現はできる でも表現はいらない 鍵盤をさわった時の指の感じ 同じ音でも毎回ちがう 返ってくる響き 皮膚のツボに触れると離れた経絡の端にヒビキを感じるように 慣れた道すじを思い出すのではなく 一歩ごとに 知っていた道を忘れていく 背を押されて そっとさぐりあてる次の一歩 意図も意志もない 方向も展望もない ためらう辿りのたのしみ

1950年代の終りから たくさんの音を操り 前もって計画した全体構図を実現する技術 複雑なリズムや跳躍する音を正確に配置する技術からはじめた 最小限の時間で 細分化した断片をつなぎあわせる練習をかさねて 確実なものにしあげる技術 その頃でも 名人芸や超絶技巧ともてはやされる技術の誘惑は避けたいと思っていた 確率空間に点滅するクセナキスの音の霧と そのなかに不規則に打ち込まれる輝く点のイメージは 5分割と6分割を重ねた時間の二重の網で掬い取られ 楽譜に書かれる 音符やリズムの正確さは すでに歪んだ静止画像にすぎない 分析的な技術ではない 別な技術はどこにあるのだろう 漂い移りゆく響きの雲は 軽くほとんど重みのない指先と 響きの余韻が消えた後の 何もない空間の奥行きがなければ 表面的で暴力的なノイズになってしまう 制御できないほどの複雑さと疲れ切ってからだがうごかなくなった時の力がぬけていく感じ その時やっと重力から解放されて 静けさでもうごきでもない何かが現れる そんな瞬間があった

その後の演奏技術は スポーツのように進化してきた 当時できなかったことも いまやたやすくできる人たちが何人もいる そこでかえって失われたこともあるだろう スポーツとなった技術は長続きしない 若い時は力でぶつかってできることは衰えは早く 鍛えたからだはある日突然こわれる そんな例を時々見かける

クセナキスと最後に会ったのは1997年だった その後のTV番組のために『ヘルマ」を弾いた それからまた年月が経って いままだ弾けるだろうか クセナキスのその後のピアノを使った曲にはない「初心」がある その時の演奏もそうだった 分析的でなく 名人芸でもなく 音に別な音が続くだけの「白い音楽」漂う音の雲の無重力を 毎日1ページずつ習うだけの練習だった というのも後付の思い込みかもしれない

2017年7月1日(土)

水牛だより

2017年の後半がスタートしました。蒸し暑さにとりかこまれて、都議会選の選挙カーがとくにうるさく感じられる昼下がり。窓の下の交差点でちょうど赤信号に止められたりすると最悪です。きょう一日、これから夕方まではガマンをしなければ。

「水牛のように」を2017年7月1日号に更新しました。
新たに北村周一さんをお迎えしました。吉祥寺美術館での展覧会「フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前」ではじめて作品を観て、北村さんにもはじめてお会いしました。それからビールやワインを飲みながらお話ししているうちに、アンテナがプルルと反応したので、原稿もお願いしてしまったのでした。北村さんのブログ《フェンスぎりぎり》では、写真とともに一首短歌が載っています。

今月は体調不良で原稿を休むというメールがいくつか届きました。ミラノでは杉山さんの息子さんも入院だというし、みなさん、ちゃんと養生してくださいね。

それではまた!(八巻美恵)

しろいクツと「三者面談」

北村周一

最初に目に入って来たのはサンダルのような履物だった。
居酒屋によくある安物のあれだ。
ぼくの靴が見当たらない。
下足箱から店のサンダルを出されて、飲み屋に来ていたことを思い出した。
大勢で来ていたはずなのに、いまはぼくひとりだけだ。
勘定を済まさなければいけないのだが、なかなかレジが先に進まない。
女子店員がいらいらしているのがわかる。
勘定が合わないのだ。ぼくの番になっても、何度も計算し直している。
いつまで待たせるつもりだ。
女子店員に代わって、老いた主人が対応してくれていたのだが、
ついつい声を荒げてしまった。
すると店の奥のほうから、哲学者然とした男が現れて、
ここは君のような者が来るところではないと、諭すようにいうのだった。
さっきから若い男子店員が、黒い小さな旗を振りながらにやにやわらっている。
出入禁止?ということなのか。
精算を終えて一刻も早くこの店を出たい。
けれど、ぼくの靴が見当たらない。
替わりに誰のものだかわからない、白い靴を履いて帰るようにいわれる。

 またひとり土鳩の色のスカーフをゆらしつつくる険しき目をして

小学校四年の秋、父が勤めていた会社のアパートから一軒家に引っ越した。
学区外になったのだが、そのまま通学していた。
子どもの足では、遠い道のりだった。
少しでも楽をしようと思って、いくつかの近道をこころみた。
二年後にはオリンピックを控え、ぼくの住む清水の町も、景気が上向いていた頃のことである。
家の南に、東海道新幹線の工事、北に東名高速道路の買収が進んでいた。
それまでは、小さな里山をふたつほど越えるか、回り道をするしかなかったのに、
新幹線が通ることになり、工事現場を抜ければ、早道が可能だった。
その日、一度自宅に戻ってから、午後母と一緒に登校することになっていた。
雨が降り始めていた。
ほんとうにこれが近道なのかね、母は何度もぼくに聞いた。
雨は止むどころか、土砂降りに変わっていた。
工事現場の、雨でぬかるんだ道なき道に足を取られて、白いハイ・ヒールの母は癇癪を起し、ぼくは泣きべそをかいた。
こんなところへ連れて来るんじゃなかった、ここはユメの超特急が走る場所、ぼくの大事な隠れ道、舗装路までのつなぎの道。
三者面談の時刻に間に合い、担任の教師と出会った母は、急ににこやかな顔になった。

イスラム国の終わった日

さとうまき

昨日、「イスラム国は終わった」とアーデル君が言ってきた。慌ててTVのスイッチを入れる。イラク軍が「ヌーリ・モスク」を奪還したと発表した。これを受けてイラクのアバディ首相は「ISという偽りの国家は終わった」との声明を出したというので、大げさな演説をするのかなと思いきや、どうも、twitterで、つぶやいたらしい。

ヌーリ・モスクは、一週間前にISが爆破した、ちょっと傾いた塔のあるモスクだった。この塔の傾きは、西からの風に数世紀もさらされ徐々に傾いっていったというから歴史を感じる建物である。そんなものを平気で壊せるのだからIS恐るべきだ。3年前に、バグダディがイスラム国建国の大演説をした場所だが、イラク軍が奪還しても、ただのがれきの山でしかも、アバディ首相はまだつぶやいただけというしょぼさである。

しかし、思い起こせば、この3年間、いろんなことがあった。3年前のアルビルも暑く、時に50℃を超えることもあったが、キリスト教徒の避難民であふれ、そこら辺の公園にもテントが張り巡らせていた。トラックの荷台に載せられて逃げてきた男の子は脳腫瘍で、野戦病院のテントのベットに寝かされていたが、やがて息を引き取った。ほかにも多くのがんの患者が、僕らが働いているがん病院に運ばれてきた。そんな子は死んでいった。環境が厳しいからだろうか。

ドホークに行くと、こちらは、建てかけ中のビルに避難している人や学校に身を寄せている人たち。パンや水を持っていく。事務所にあった古着を持っていくと、こんな時は、それでも喜んでくれるのだ。あまりに熱いので氷を配ったこともある。

レイプされた女の子が解放されると、健康診断を受けるためのお金を払った。ドホークでは知り合いに知れたくないというので、アルビルまで連れてこさせての妊娠検査。この国では堕胎できないから、妊娠してたら、みんなで引き取って育てようとか、いろいろ思いめぐらしたが、妊娠していなことが分かった時は一緒に喜んだ。

アーデル君も、ヤジディ教徒で、ISに家を追われた青年だ。彼のお父さんは軍隊で働いていたから、ISの攻撃をいち早く知り、親戚の暮らしているクルド自治区に避難した。兄と下の弟は、トルコに逃げそこから海を渡ってギリシャについて、最後はドイツに逃れ難民として認められた。兄さんが、FBで連絡してきて、弟の面倒を見てほしいというから、結局うちで働いてもらっている。彼の口癖は、「イラクには、僕たち少数民族には全く夢も希望もないし、いつまた殺されるかわからない。早くここから出たいよ」
「ISが終わった」というニュースにも喜びすら見せない。「お金、お金。お金」ここを脱出するために金が欲しいといつも言っている。

ちょうど日本では、UNDPのアラブ局のワフブ局長が来日し、インタビューで「モスルの復興に協力してほしい」と訴えたそうだ。

ワフバ局長は「仕事が見つからないという不満や失望が募ると、中には危険を冒してヨーロッパに渡航しようとする者や、過激派グループに加わる者が出てくるおそれがある」と述べ、職業技術の訓練など、避難していた若者が仕事に就く環境を整えるため、日本の企業に協力を呼びかけました。(NHK)

アーデルと一緒に、金持ちになる方法を考えている。ほっておくと、家でビールを飲んで愚痴っているただのおっさんになってしまう。昨日も文句を言いながらひまわりの種をぼりぼり食いながらビールを飲んでいる。机の上には、ひまわりの種の殻。そうだ! これをリサイクルして、和紙でも作ったらどうだろう。そこそこ売れるかもしれないな。とアーデルに持ちかけようとしたら、すでに気持ちよさそうに寝てしまっていた。

パンクから音頭に至る

若松恵子

遠藤ミチロウのバンド「羊歯明神(しだみょうじん)」の活動を追ったドキュメンタリー「SHIDAMYOJIN」を新宿のK’Sシネマで見た。5/27~6/16までの3週間限定のロードショウだったのでもう終わってしまったけれど、どこかで上映の機会があったらぜひ見てほしい。

福島出身の遠藤ミチロウは震災後に支援活動を続けているが、仮設住宅に暮らすお年寄りの言葉を受けとめて盆踊りを復活する。盆踊り復活のなかで結成されたのが民謡パンクバンド「羊歯明神」だ。遠藤ミチロウとギターの山本久人、パーカッションの石塚俊明の3人組がパワフルに音頭を繰り出す。「音頭! いいじゃないか」と思ってしまう。音楽そのものに力があるのがまず良い。

「ソーラン節」は「騒乱節」になり、「小原庄助さん」は「おばかシンゾーさん」と唄われる。「安保も辺野古も原発だって根っこは同じだ覚悟しろチョイヤサエンエンヤー、サアノドッコイショ」と唄われれば、「ドッコイショ~ドッコイショ」と応えずにはいられない。

福島県いわき市の「志田名(しだみょう)」地区は、事故後に発見されたホットスポットで、若者たちが避難した後に残ったジッチやバッパ(浜通りの方言でお爺さん、お婆さん)が放射線衛生学者の木村真三とともに自分たちで放射能汚染地図を作成した地域だ。ミチロウは、そこで生きるジッチやバッパに敬意をもって「ありがたや志田名人(しだみょうじん)」と唄う。いも煮をバッパたちとつくる様子なども映画には登場していて、交わることがなかったはずのパンクロッカーと限界集落に生きる人たちが、原発事故に対する怒りをきっかけに絆を結んでいく様子が描かれていて、嘘のないその様子が心に残った。

民謡歌手の伊藤多喜雄がゲストに呼ばれ、盆踊りの櫓の上で唄う。さすがの声だけれど、ミチロウのわけのわからない音頭もまたお年寄りたちに受け入れられているのではないかと思った。おおらかに笑いながら、何かわけわかんないけど元気でいいじゃないかと櫓の周りをぐるぐる回るお年寄りの姿を見ていてそんなことを思った。

ヘリパッド建設に直面する沖縄の高江、愛知県豊田の橋の下音楽祭、若者も羊歯明神の音頭で踊る。「ザ・スターリン」時代の曲も音頭になって演奏される。原発の再稼働、共謀罪、許せない決定に対してどうやって嫌だと声をあげたら良いのか。盆踊りは解決にはならないけれど、率直に嫌だという声をあげる場になっている。どんどん渦が広がっていけばいいと思う。「王さまは裸だ!」と率直に叫ぶ、その子ども心がパンクだと思うけれど、ミチロウの音頭もブレずにまさにパンクでうれしい。「羊歯明神」はフジロックにも出るようなので楽しみだ。

ジャワの女王・女武将

冨岡三智

現在大河ドラマでは「おんな城主直虎」が放映されているが、女ながら城主であるとか、女ながら戦いに赴くという物語には、何か人々の好奇心をそそるものがあるように思う。というわけで、今回はジャワの物語で有名な女王や女武将を紹介。

●ラトゥ・キドゥル
ジャワで最も有名な女王。名前は南(キドゥル)の王/女王(ラトゥ)という意味。ジャワ島の南に広がる海に住み、精霊界を統べる。ジャワ島南の沿岸部には海に女神が棲んで、緑色の服を着た人がいると海底に引きずり込んでしまうという伝承があるが、ジャワの王家(マタラム王国とその末裔の王家)は、代々のマタラムの王は彼女と結婚することで王権を得るという王権神話を伝えている。ちなみに、ニャイ・ロロ・キドゥルやロロ・キドゥルという呼び方もあるけれど、スラカルタ王家に仕える人は、ニャイ・ロロ・キドゥルと呼ぶのは間違い(ニャイは臣下のことだから)で、女王自身のことはラトゥ・キドゥルと呼ぶべきと言う。とはいえそれもまた通称で、王家での女神の正式の名前はカンジェン・ラトゥ・クンチョノ・サリ。スラカルタ王家に伝わる舞踊「ブドヨ・クタワン」の着付(パエス・アグンと呼ばれる花嫁衣裳の着付に同じ)は女王の姿を写したものと考えられている。この女王はマタラムの王と出会って三日三晩床を共にした時に王に戦いの法を伝授し、王国へ戻る王に対して何かあれば軍隊を率いて王を助けに来ると約束する。霊界の女王だから、彼女の援軍が来たら、霊を飛ばしてのバトルになるのかなあ…なんて想像する。

●スリカンディ
インド伝来の叙事詩「マハーバーラタ」に登場する女性武将で、アルジュノ(インド版ではアルジュナ)の妻にして弓の名手である。元のインド版ではシカンディンという名前だが、実はインド版ではシカンディンは女性ではなく、前世は女性だった男性で、設定が変わってしまっている。ジャワの「マハーバーラタ」では、戦場においてスリカンディは宿敵・ビスモをアルジュノの矢(神から与えられたもの)で倒すが、インド版ではアルジュナがビーシュマ(ジャワ版のビスモ)に致命的な矢を放つ。なんで設定自体が転換してしまったのか、その経緯は分からないが、少なくともここから読み取れるのは、ジャワ人は女性が戦って敵を倒すという話に抵抗がなかったということだ。インド版の話の方が男性上位の社会に見える。

●クンチョノウング
「ダマルウラン」物語に登場するマジャパヒト王国の未婚の女王。ちなみにマジャパヒト王国はインドネシア最後のヒンドゥー教の王国で、この後イスラム教の王国が勃興するようになる。王国はメナジンゴの反乱軍に狙われている。女王はダマルウランという若者が国難を救うという夢のお告げを得て若者を探し出す。ダマルウランは首尾よくメナジンゴを倒し、女王と結婚して国王となる。この「ダマルウラン」物語は、ジャワのマンクヌガラン王家ではラングン・ドリアン(歌舞劇)として上演される。出演者は宝塚歌劇のように女性ばかり、その人たちが恋々と歌い、美しい舞踊を見せるという、なんともあでやかな舞台だ。

●レトノ・ドゥミラ
マタラム王国初代の王・セノパティが攻略したマディウン領主の娘。領主が逃走しても、彼女は剣を取ってセノパティ相手に戦う。破れるものの、二人の間に愛が芽生える。マンクヌガラン王家にはこの物語を描いた「ブドヨ・ブダマディウン」という舞踊がある。

日本のワインのはなし

大野晋

日本で一番ワインを作っている都道府県はどこでしょう?
この質問に正しく答えられる人は少ないです。

山梨県?

はい。不正解です。
正解は神奈川県です。

ああ。近所で葡萄畑を見たことがある。

はい。それも間違いです。フレッシュな葡萄は使っていません。

神奈川県藤沢市に大手ワインメーカのワイン工場があって、海外から輸入したブドウ果汁を使用してワインを製造しているんです。欧州ではワインとは認められないという話もありますが、ここ日本では立派な国産ワインとしてカウントされています。
では、二番目はどこでしょう?

今度こそは山梨県?
いえいえ、正解は栃木県です。ある総合酒造メーカのワイン工場があって、ここも輸入果汁を原料に国産のワインを作っています。ちなみに、この酒造メーカは大阪にも工場があるらしく、そこの製造量で大阪のワイン醸造量も全国で10位以内に入るくらいになっています。

山梨県はたしか、三位なのですが、これも山梨の葡萄を使ったワインというよりも、大手発酵製品会社系のワインメーカの工場での輸入果汁ワインと大手総合酒造メーカ系のワイナリーの輸入果汁ワインです。次が大阪府だったか、岡山県だったかで、岡山県もご想像通りに某ビール会社系のワイナリーで輸入果汁ワインを作っています。

結局、輸入果汁、いわゆる濃縮果汁還元で作った果汁を発酵させたワインがとても多く、日本のワイン製造量の8割ほどを占めています。その辺の事情は、以前お話しした通り、日本の農地法のゆがみと醸造用ブドウの不足、そして原料葡萄価格が高いという問題が原因です。でも、そうして作ったワインの品質に関しては折り紙つきなんですけど。

そうは言いながらも、そのおかしな日本のワイン事情も変わりつつあります。ひとつは貿易交渉の影響で輸入ワインにかけてきた関税がほぼゼロになりつつあって、安価な新大陸のワインが急速に流入しつつあること。チリとか、ニュージーランドとか、オーストラリアといった国の安い、しかも意外とおいしいワインが市場に入ってきて、輸入果汁で作ったワインの市場を食いつぶしつつあります。まあ、そういったワインをタンクで輸入して、国内の工場でボトリングしているのも神奈川や栃木でワインを作っている会社なんですけどね。

もうひとつが、農業環境の変化です。農家の高齢化が背景になって耕作地の放棄が深刻になりつつあります。田舎を車で走ると耕作を放棄された農地がとても多いことに気づくでしょう。特に山間部の農地に関しては深刻です。

その対策の一つとして、企業や法人の農地取得、ワイン用ブドウ畑への転用が進みつ
つあります。なぜワインなのかというと、日本の葡萄栽培技術が非常に優秀で、大手や中堅企業が栽培して醸造したワインが世界のワインコンクールで賞を受賞するようになってきたということもありますね。しかも、ワインは熟成に年数がかかると言ってもウイスキーほどではないですから、メイドイン・ジャパンの輸出品としても有力といったところですか。ただし、高級ワインに限ります。安価なものはチリやオーストラリアと競争になりますから。

ということでここ数年、年々、日本の葡萄で作ったワインはブームです。確かに高級ワイン、しかも1万円前後の日本のワインはおいしいです。値段も値段ですけど。かくして、我が家にも日本のワインが着々と集まりつつあります。そのうち、飲まないとなんですけどね。

問題は甲州のぶどうから作ったワインがなかなか評価が上がらないことなんですが、まあその辺の愚痴はまたそのうち語りましょう。

グロッソラリー―ない ので ある―(33)

明智尚希

しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

≡≡≡>┼○ よみがえってらー

 おとなしくてまじめな少年が凶悪事件を犯すと、周囲は不思議がる。おとなくしてまじめ。どんな悪魔性を抱いているのかこれほど不明な人間はいない。はけ口のない不満は、とげとげしい人間にし、社交性に秀でた天稟を持たぬ性向は、自己嫌悪を増長させる。悪魔性が殻を破って悪魔となった時、初めて少年は自分になる。意想外な自分に。

悪魔 Ψ(Φ皿Φ))) ケケケ

 一気に目覚めたいなら時計よりすそが。人間には「においがきつい」というだけで、そのもの自体に「価値がある」と考える傾向がある。お手近でうそぶいている上玉にお目通りとお目こぼし。甲羅を経たからといって三月兎にゆめゆめなるべからず。凡俗なこちたき三幅対が、空無な至言を吐いて、平均的なニヒリズムに陥る。千三つ屋である。

~~-y( ̄▽ ̄*)ゥヶヶ♪

 一個人が誰よりも偉く、自由に、わがままになれるのは、自殺を思い定めた時である。もはや白痴に堕した他人などが嘴を挟むことは、有害を超えた無益・無策でしかない。自分に対してだけの暴君と化したこの一個人は、やりたいことをやりたい時にできる最初で最後のチャンスを得る。その代わり、自殺に失敗したら死を生きることになる。

_:(´ཀ`」 ∠):_

 各種の文学賞は「話題賞」に定着した。商用のSPツールである以上、話題の引力に頼るのは当然だが、高校生や高齢すぎる人間に受賞させるのは、作品内容そっちのけの印象は拭えない。若くして受賞した「著者」による書評を読んだが、文章の体裁が壊滅しており仰天した。そうか読者を集めるにはこの手があったか、と得心した次第である。

o(@.@)o ナンジャコリャ!

【無茶苦茶のランキング】
第1位:黒電話でメールを打つ
第2位:テレビから出てくる
第3位:G20首脳の壮絶な引っぱたき合い
第4位:全裸・手ぶらで宇宙へ
第5位:スペイン人に津軽弁でドイツ語を教える

\(´◓Д◔`)/

 ベビーカーやキャリーケースを押したり引いたりしている女性を多く見かける。それ自体はどうでもよい。問題は、各々の占める面積が聖域であるかのごとく振る舞うことだ。赤子が乗ってるんだからあまり近寄るな。荷物が入ってるんだからよけろ。と我が物顔。女性が女性でなくなって久しいが、この国の国民の流儀も風前の灯なのだろうか。

゜Д゜)┛そこをどけぇ!

 スピード社会に馴致しているせいか、電車・バスが二三分でも遅れようものならイライラする。前をもたもた歩いている人がいる場合も同様である。そして何よりも本が読めなくなった。小説の筋道立った展開、反復の多い実用書・ビジネス書。どれもまどろっこしく感じる。スローライフを実践しようと買ってみた書籍、まだ読了できずにいる。

ダッシュ!≡≡≡ヘ(* ゚-)ノ

 「また遅刻か」「す、すみ、住みづらい世の中ですね」「は?」「いや、あの、た、体、体重があると狭いところは通れません」「なんなんだ?」「ただのデブです」「違う違う。なんかお前変だぞ」「ご、ご免、ご免なすって」「馬鹿にしてるのか!」「ち、違、『血が出るまでの漢字練習帳』という本がお薦めです」「なあ、もうやめようぜこの儀式」

“/(*▽*) アイタタ・・・

 どうして酒を飲むかって? 思い出すためじゃ。何をかって? 思い出せないものをじゃ。わしも酒をやめたいと思ったことはある。一度もないのと同じくらいにある。禁酒をしながら一杯やり、断酒をしながら一杯やったもんじゃ。やめたうちに入らないって? やめるとなったらとことんやめる。やめるのをやめるのをやめるのを……。

うぃー~~~~~(/ ̄□)/~(酒)

 純真無垢とは、この世ではありえない一態様をさす。昼夜を問わず有象無象に純心を汚されかねず、またその可能性は充分を超えて高い。それでも純心無垢である。常軌を逸した頑迷さが伴うのかと思えば、そういうわけでもない。驚くべきことに世故にたけていたりする。世の男性陣の本音は、このような女性と一生涯を暮らすことである。

(*´∀`*)

 不幸中の禍い。汚名挽回。地獄でオットセイに会う。七転び猪木。負ける嫌い。白沼が仏。勝って兜のおしめを締めよ。大山鳴動して火もまた涼し。健二の足を踏む。犬も歩けば牛も歩く。青名西雄。隣りの芝がない。ほっとけの顔も三度まで。名誉返上。馬鹿と阿呆は使えんよ。鬼の肉棒。逃した魚は泳いでいる。可憐に腕押し。河童の川下り。

(o・。・o) あっ! そっか

 人間はポジティブでナイーブだ。デカルト周辺を除けば、ある出来事・現象に対して、疑いを持つのは後回しになる。もっともらしい内容はそういうものとして受け入れ、いんちき臭い一件もまた同様である。有史以来、疑うことを副次的に扱ってきた。勝手な思い込み、妄想、期待。疑いは、疑いようもなく疑いが決定づけられた時初めて生じる。

ナンカアヤシイo(=¬ェ¬=)oジーーーッ

 テレビはいつからレジャーランドになったんじゃ。芸能人が、食べ、飲み、遊び、喋る。芸能人祭りをどの局も朝な夕な放送している。税金を納めてる身じゃから言わせてもらうが、電波利用料が無駄遣いされているのかと思うと、心中穏やかではない。商品は差別化するのが原則じゃが、その結果同じになるという負のスパイラルか。救えねえ。

テレビポイ!(ノ´ー`)ノ【TV】:・’.:⌒【∧⊥】☆ガッシャン!

 理想は高く、妥協は早く。

ナッ・・ナントッΣo(*’o’* )o

 議論を重ねても結論が下されない時、多数決で決める。これは正しい。一方、「ここは民主的に」との理由で、いきなり多数決を採用する場合がある。これはどうかと思う。民主主義の基本原則は話し合いと多数決なのだが、あくまでも後者は必要悪で、本来は話し合いで解決しないといけない。対人折衝の下手な人間には不利なやり方ではあるが。

d((o゚c_,゚o))b オッケェ牧場♪

 一応も二応もガリ勉くんは、言っても帰らぬことだが、回り灯篭に因果を含められた。生命を賭さなければ、生命というものは決して獲得できないだろう。突然に城の壁も石垣も他の言葉を話し始める。パウリ効果のせいで、問題の人間化をした末、玉房飾りのついた乗馬ズボン姿は、明日は旦那の稲刈りで、アリノミにありつけるのみである。

お( ̄o ̄)い( ̄△ ̄)お( ̄o ̄)い( ̄△ ̄)

 疑似科学という分野がある。歴史は長く見解は多い。近年では一般大衆にもわかるような事例が紹介されている。たとえば血液型による性格診断。A型の人は几帳面で神経質、B型の人はマイペースで移り気などの決めつけが非科学的だというのだ。しかし傾向は見逃せない。科学で立証されてなくとも、人は科学以上に傾向に依存するものだ。

A型 (´・ω`・) B型 (`・ω・´) O型 (´・ω・`) AB型 ( ゚∀゚)

仙台ネイティブのつぶやき(23)今日も種付け

西大立目祥子

 友人のUは家畜の人工授精師だ。 
「おらいの牛、発情したみたいでね、ちょっと来てけねすか?」
彼の携帯には、昼夜を問わずこんな電話が入る。出番はメス牛が発情したときなのだ。牛の発情は21日周期で半日から1日程度続く。肉牛の繁殖農家にとってはこのタイミングを逃すと3週後まで待つことになり、それは経営に影響するから、日頃から牛をつぶさに観察してその兆候が見られたらただちに人工授精師をよぶという運び。先日、種付けに同行させてもらった。

 早朝でも夜遅くても、雨でも雪でも、彼は電話が鳴ったら山間地の農家へ車を走らせる。着くやいなや、手際よく手術着のような青いエプロンと腕の付け根まである長いゴム手袋をつけて牛小屋へ。目当てのメス牛の腸に腕を差し入れ、まず腸の中の便をかき出し、それから再び腕を腸内に差し込んで卵巣や子宮の状態を触診する。腸内から手で探ってわかるらしい。職人技みたいなものなんだろう。

 まだ早いと判断するときはいったん農家にまかせ帰ることもけれど、授精適期となったら、そこで種付けになる。この日は、もうやれると判断したのか、すぐさま車に戻りトランクから冷凍のタンクを降ろしてフタを開けた。タンクの中には種牛の精液が冷凍保存されている。見せてもらうと、ちょうどボールペンの替芯のような容器に入れられ牛の名前が記されていた。「1本0.5ccで3千円ぐらいから。スーパー種牛になると3万も5万もするよ」と説明してくれる。常時、何種類かの種牛の精液を持って動くらしい。頭の中には、それぞれの種牛の特長─たとえば体が大きいとか、サシ(霜降り肉の脂)がよく入るとか─がしっかりと入っていて、掛け合わせるメスの特長を考え合わせて交配するという。農家が飼うメス牛の父が誰かまで覚えているんだろう。「Uさんは血統のことがよく頭に入っているからね」というのが農家の評。この日は「美津百合」という種牛の精液を解凍して子宮内に注入し、種付けは完了。終わると、玄関先で人工授精伝票と授精証明書を発行し1万6千円を受け取っていた。

 それにしても肉牛はすごい世界だ。選りすぐりの種牛を見出し、後継牛を育て、その精液を管理活用していくことが、農家の経営を助け、ひいては県の畜産振興の屋台骨となる。
 宮城県には、かつて「茂重波(しげしげなみ)」というスーパー種牛がいた。昭和49年に兵庫県から導入されたこの牛がすばらしい肉質を誇っていたようようで、仙台牛のブランド化がなったのもこの牛がいたからこそ。何しろ宮城県唯一の「みやぎ家畜市場」には、茂重波よありがとうといわんばかりにその銅像が立っているほど。宮城では、その息子や孫たちが活躍中。息子には「茂勝」がいたし、いまはその息子の「茂洋」や「忠勝美」が懸命に働いている。ま、つまりは、その精液をバンバン活用中ということです。

 肉牛の世界はすごい、というのは、人はここまでやるのか、と驚かされたいうことにほかならない。この世界は、生殖技術開発の実験場なのだ。優れた牛のクローンもつくれるし、オスメスを選択することもできる。スーパーメス牛の卵子とスーパー種牛の精液で、つぎの代の種牛がつくられていく。経済動物の宿命なんだろう。

 さて、種付けから約280日が過ぎれば子牛が生まれてくる。生まれると農家はJAに分娩報告書を提出し、それをもとに耳標をつけ鼻紋をとり、母の名、父の名などを記載して登録が行われていく流れ。つまり牛は戸籍を持っていて、耳標の番号は屠殺後もトレーサビリティの番号として生き続けていく。牛は100パーセント、いや120パーセント、人の管理下におかれている動物といってもいいかもしれない。

 とはいっても生命体、自然そのものである。早産もあれば死産も流産もあるし、そもそも種付けして首尾よく妊娠するとも限らない。農家は「お産は大仕事だよ」という。
うまくいくことを願ってもかなわないこともあるとよく知っているだけに、そのことばには実感がこもる。
 月足らずで生まれれば、たいていは処分されるのだろうけれど、中には手をかけ育て上げる農家もある。知人のTは、20日早く生まれ立つこともできなかった子牛をあきらめず、哺乳瓶でミルクをやり1年をかけてほかの牛並みの大きさに育てた。「この牛が、いまはいちばん働いてくれてねえ、この春7産目。みんな恩返ししてるんだっていうよ」と目を細めるT。愛情をかければ応える。人と牛のあたたかな交感に、ようやく気持ちがなごんだ。

 繁殖農家は、子牛を10カ月ほど育て市場に出荷する。その牛を買って20カ月ほどで800キロをこえるような巨体に仕上げていくのが肥育農家だ。体格だけでなく、与える飼料を変えて、最後は肉にサシが入るような肉質に持っていくのが技量の見せどころらしい。しかし、これは牛にとっては健康的とは決していえず、最後はビタミン不足でふらふら、引いてもらわないと前に歩き出すもしんどい状態になるらしい。そのお肉が高級店のメニューに並ぶのですね、とろけるような味わいの仙台牛として。

 愛玩動物しか接したことのない軟弱な私の頭は、経済動物の世界の現実におたおたするばかり。牛は生き物なのになあ。ことばを失い、ため息が出た。
 一方「発情」だの「種付け」だの「冷凍精液」だの…飛び交うことばに当初はドギマギしたが、話を聞いたり現場を見たりするうち、こっちはもうすっかり慣れてきた。(いまはもう人の前でも平気で口にできます。)
 そして、Uは、じぶんも繁殖農家として15頭の世話に追われながら、今日も種付けに山を走っているはずだ。彼の家には年頃の娘がいる。慣れというのはおそろしい。家にかかってきた農家からの電話に、叫ぶのだそうだ。「お父さん!また種付けの電話だよ!」

笠井瑞丈

久しぶりの旅行
二十時間かけて
何一つない予定
古い友人に会い
たくさん飲んで
ブラブラと街を
たくさんあるく

ブリュッセルから
アムステルダムへ

電車乗る事が好きだ
窓から眺める景色を
何時間でも見ている

ミドリが一面の中
遠くに見えるお家

いつも思う事

ここにも一つの時間があり
ここにも一つの生活がある

もしここに生まれていたら
もしここに住んでいたら

どんな生活なんだろう
どんな時間なんだろう

レッドライト
草の煙の匂い
街を流れる川

川がながれているマチは好きだ
ゆっくりした時間が流れるから

カラダの中の血管
これも一つ街の川

知らない街をただただ歩いた
アイスクリームを食べながら

過ぎていく時間
二十時間かけて
また現実の時間

下半期に突入
また新しい事
また初めたい

そんな事を考えた六月
そしてまた一つ歳とる

さつき 二〇一七年七月 第三回

植松眞人

私が学校に行っている間に、何かが起こったのに違いなかった。今日はずっと家にいるからと笑って送り出してくれた母がいなかった。ただいま、と声をかけても誰も答えてくれないのに玄関の鍵がかけられていなかった。いつも持ち歩いてる父のスマートホンが食卓の上に置きっ放しになっていた。そして、そのスマートホンの周りには、いくつかのお客さん用の湯飲みがあって、父が誰かと話していたことは確かだった。お客さんを見送りに行ったとすると、どこまで見送りに行ったのだろう、と私はものすごく嫌な予感しかしないリビングの真ん中はとても静かで、私には案山子のように突っ立っていた。
「お帰り、さつき」
父の明るい声が聞こえて、私はさらに不安になった。父は普段聞いたことがないくらいの明るい声だった。まるで廊下の白熱球のワット数を間違えたときのように、私はまっすぐに父を見れなかった。
「母さんはもうすぐ帰ってくるから」
父は、とにかく今は何も聞くな。何も心配いらないから、とりあえず今は何も質問しないでくれ、というふうに満面の笑みを浮かべてそう言っているかのようだった。
母が帰ってきたのはそれから二時間くらいしてからだった。
母はぐったりと疲れた顔をしていて、「疲れた」と声に出していうこともできないほどだった。
しばらくの間、父と母は寝室にこもって声を潜めて話をしていた。私はときどき寝室に前にまで行って様子を探ったりしていたのだが、もそもそと話す気配ばかりで気持ちが寂しくなるので、再びリビングに戻ってこの家の中をぼんやりと見回していた。
平成の始まった頃に日本中が浮かれていた
バブル景気があり、その時代に仕事が途切れることがなかった父と母が購入した都内の一戸建てだった。
バブル景気が弾けたと言われていたころ、都内の不動産物件の価格が一斉に下がった。ときどきこの家の前の道を歩いていた母が門扉に『売家』というプレートが掲げられるのを見落とさなかった。
その家は当時、父と母が住んでいた賃貸マンションからすぐの場所にあって、それほど大きくはないけれど小さな庭と井戸があった。
「井戸があれば、おいしい水が飲めるし、夏はスイカが冷やせるじゃない」
母はそう言って、父にその家をまるで自分の家のように紹介したという。もちろん、その頃は別の人が住んでいて、自分たちが本当に住むことになるとは父は思っていなかったらしいけれど、母だけは、きっといつかそこに住むからと、念を送り続けていたらしい。
そこにバブル崩壊である。不動産価格の大幅下落である。母はそれまでにこつこつと貯めたお金と、実家の両親に無心をして頭金を捻出した。母が実家にお金の相談をしたのは、その時が初めてで、祖父母は母をそこまで夢中にする家はどんな家なのかと、下見に来たらしい。そして、そのあまりにも慎ましやかな外観に大笑いして、そんな慎ましさを愛する母に安堵して、お金を貸してくれたのだという。
しかし、実際にはそれでも足りずに、不動産会社に懇願して、家の持ち主に取り次いでもらい、自分がどれほどこの家を気に入っているのか。そして、この家に住むことで、どれほど幸せになれると期待しているのかを話して聞かせた。
その家の持ち主は、とても気の良い年配のご婦人で、子どもたちが巣立ち、ご主人が亡くなり、一人で住むには広すぎるという理由で家を売りに出していたのだった。そして、母の奇妙な申し出に「そんなに気に入ってくれたの」と感動し、自分の子どもたちが「そんな理由で値引きするなんて」というあきれた声を無視して、不動産価格の大幅下落をさらに大幅に上回るような価格調整をしてくれたのだった。
売買契約の日、不動産会社の担当者が「どんな経緯でこんな奇跡が起こるんですか」とため息をついたらしい。もちろん、私はそれがどれほどの奇跡なのかはわからないけれど、奇跡であることには間違いないと思っている。
さて、そんな家から私たちは出て行くことになるのだという発表は父ではなく母の口から発せられた。お金の出所とかいった話は別にして、明らかにこの家は母の家だった。この家を手放すという話をするのであれば、それは母の口からでなければならない。それは父としても同じ気持ちだったに違いない。母の隣に座った父は、どちらかと言えばまるで母の保護者のような顔をして、母を見守っていた。
「つまり、この家を出て行かなくてはならなくなったということね」
私が言うと、母はうなずいた。
「そう。出て行かなくてはならなくなったの」
でも、それはたいした問題じゃないわ、という顔をして答えた。
「出て行くけれど、次に住む家もすぐに見つかるだろうし、そこでかかる家賃も今のうちの収入からすると、なんとかなる、ということなのね」
私も動揺していることを隠すように笑顔で言う。すると、父と母も同じように笑顔でうなずいてくれた。(つづく)

しもた屋之噺(186)

杉山洋一

北棟2階の8号病室は大きな中庭に面していて、とても大きな窓から毎朝気持ちの良い朝日が差し込みます。眩しすぎてカーテンを開けられないほどです。目の前に高さ20メートルはあろうかという街路樹が数本立っている向こう側にはくぐもった鼠色の、コンクリート剥き出しのファシズム様式の中央棟があって、その奥には美しくクリーム色に塗りなおされた南棟が見えます。この病室の窓から見える南棟はいつも人気もなくがらんとしています。
ここはここはミラノの北にあるニグアルダ病院。1939年にムッソリーニが建てた歴史的な病院で、イタリアでは現在でも最も先進的な病院の一つです。

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6月某日 ミラノ自宅
家人は日本に出かけている。日中は父子で問題なく暮らしてはいるが、夜になるのが怖い。喘息と言われて薬を服用しているが、毎夜決まって23時頃から突然厭な咳がはじまり、それが酷い時には1時間から2時間続いた末に困憊して眠り込む。当然ながら朝起きても、疲労の色が濃く見るに忍びない。中学校の授業は殆ど終わっているので、遅刻しても欠席しても特に支障はなく、不幸中の幸いだと思う。級友の何人かは、既に避暑に出かけているとか。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
今月は学校の試験週間で、イヤートレーニングの試験は35人。一人10分で終わらせようとしても、350分かかる上、こちらの大学の試験は一人ずつ成績を書きこむ小冊子に点数を書きこまなければならない。同僚3人と採点するのだけれど、本人がこちらの提示する試験点数に納得ができなければ、学生はその試験を次回の試験に回す権利がある。そんな話を一人ずつしながら35人も試験をすると、単純にとても時間がかかる。
息子を一人で家に置いておくのは不安だが、ともかくY君に家に来てもらって、相手をしてもらうことにした。息子を家において試験をしながら、時々思いが込み上げてきて、涙が溢れそうになる。口頭試問だから、ずっと話し続けなければならないのだけれど、顔をピアノの方に向けていられるのがせめても有難かった。

彼も15時半過ぎには空港へ行かなければならないとかで、同僚に事情を話して16時過ぎに息子を学校へ連れてきてもらい、教室に安楽椅子とピアノ椅子を幾つか並べてベッドを作り、休ませておくことにする。親の近くにいる方が息子もうれしいだろう。
何しろ、イヤートレーニングを教えているのは自分だけなので、試験を他の同僚にやってもらうわけにもいかない。今日35人の試験をやめてもいつ次に時間が作れるか定かではないので、ともかく今日やらざるを得ない。

夕方息子をメルセデスの車で病院の救急へ連れてゆく。
「こんなになるまで、何故連れてこなかったのですか」と言われ、診察の後すぐにCT撮影となった。CT撮影の間、思わず嗚咽が漏れて、メルセデスがティッシュを差し出してくれる。思いがけずすぐにCTを出てきた息子に「お父さん、泣いていたの」と笑われる。CTで特にめぼしいもの見つからないので、そのまま検査入院となったが、癌専門医のメルセデスがついていてくれるのは、とても心強かった。CTで腫瘍が見つからなければ、ほぼ癌ではないと言われる。
イタリアの病院で入院手続きをするのは、息子の出産以来のことだ。メルセデスに病室に付き添っていてもらい、こちらは一旦家に戻り荷物を作って、病院に戻ったのは22時半だった。正面門は閉まっていたので10分ほど歩いて、病院反対側の救急外来入口から入る。病院といっても巨大なものだから、一つの街のようになっている。ムッソリーニが造らせたものは全て大きかった。
息子は生後半年はメルセデスの家で育ったから、家族と変わりはない。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
小児病棟の病室は、清潔な感じの8畳ほどの部屋に、ベッドが二つ。一つは息子のためのもの、その傍らに付き添いの家族のためのベッドが並ぶ。トイレが別にあり、そこにはユニットバスが付いていて冷蔵庫もある。とても快適ではあるが、何もせずにずっとここにいるのは、ただの苦痛でしかない。何しろ30メートルほどの場所しか行き来が許されていないのだから。
朝は6時に検温に来て、7時に息子のベッドを作りにくる。息子が熱で唸っていても、一寸お父さんのベッドへ行って頂戴、ベッドを作るからと言われる。8時頃に朝食。朝食と言っても、ココアとクッキーなどの軽食なのがイタリアらしい。昼と夜の食事はフルコースになっていて、パスタ、主菜、付け合わせ、デザートなど、それぞれ10項目ほどのリストのなかから、今日の昼はこれ、夜はこれとチェックを入れる。
サンドロの奥さんがニグアルダの神経放射線科医なので、すぐにMRIを手配してくれ、彼女自身が検査をしてくれるのが心強い。
2日間出かけていた家人が帰ってきて、二人でMRIに付き添う。ニグアルダには、Kさんが急死したときとドナトーニが死んだとき、冷え切った霊安室を訪ねた記憶が強くて、門をくぐるとき何とも言えない恐ろしさを覚えたけれど、一度門をくぐってしまうと、寧ろ安心感すら覚えた。
息子はMRIの中の音が、何に似ているか想像しながら聴いているうちにすっかり眠り込んだという。入院日記を書くのだと言って、息子は張り切っていたが、2日ほどでやめてしまった。当初は親にも書けと煩くて、「今まで気が付いてやらなくて申し訳なかった。自分で替わってやれるものなら、そうしたい」と書くと、謝るなんて間違っていると言われる。自分が事故に遭ったとき、両親はどんな心地だったか。息子がただ元気でいてくれれば、後は何もいらない。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
6月とは思えないうだるような暑さが続く。ヨーロッパの各所で道路が溶けたというニュースを読んだ。病院は冷房の使い過ぎで昨夕2回も停電して、随分長い間エレベーターが止まった。
今日も息子のMRIが終わって待っている間に、また停電になった。中には若い女性が入ったままになっていて、家人と顔を見合わせる。電気は戻ってもMRIが動かないと技師たちが走り回っていて、暫くして、整った顔立ちの若い女性は担架に乗ったまま外へ出てきた。
神経電動検査は見ているのも痛々しい。息子の身体が跳ねるのを見ているのは辛いが、どうか跳ねてくれと祈りながら眺めている自分に気づく。電流の痛みの精神的なショックで、病室に戻っても息子は暫く口も開かない。厭な検査の後での息子の口癖は「もう我儘をさせてもらいます」というもの。そんなに我儘をさせていないのかと、こちらが申し訳なくなることまで見越して言っているのだろうか。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
脊髄から液を取り出す検査を終えて、寝ている息子の傍らで、届けられた昼食を家人が早速毒見している。どうせこの子はサラミは食べないから、とぱくぱく口に運んでいる。親としては、まあこのくらいの方が良いのかもしれない。息子が左手を使うのが面倒だと言うのを聞いて、自分の小学生の頃を思い出す。小児科病棟のリクレーション室にはグランドピアノが一台置いてあって誰が弾いても良いのだが、息子は人前で弾くのを嫌がっている。
リクレーション室からチェスを借りてきて、息子に教えてもらう。腫瘍があったらどうするつもりだったのか、と尋ねられて言葉に詰まる。同じ質問を家人にしていたが、家人は平然と、だったら生活を全部変えてずっと一緒に過ごすようにするわ、と答えていたが、腫瘍ではないので、今も父子二人。息子は注射がひどく怖いらしく、看護婦から呆れられている。彼曰く、先端恐怖症なのだそうだ。先端恐怖症なら見なければいいと思うのだが、針をじっと見るので、余計怖い。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
生徒たちがお金を出し合ってオーケストラを借り、演奏会を作った。オーケストラを使ってレッスンをして欲しいということだったが、今まで人のレッスンを見ていてもどうもオーケストラを使った指揮のレッスンというものに食指が動かなかったので、11人の生徒にハイドンの交響曲4曲を振り分けることにした。日曜日の演奏会に向けての、3日間のリハーサルの間、極力口は挟まないことにしている。失敗してもどうにも解決が出来ない状況でなければ、何も言わない。失敗をオーケストラとどのように乗越え、リハーサル時間をどう配分し、どのようにオーケストラに自分の音楽を説明し音楽を作っていくか、という実験。
失敗した時に、こうしたらよい、と口を挟んでしまっては、彼らとオーケストラの信頼関係はずっと成立しない。オーケストラは助けてくれて、一緒に音楽を感じるための存在なのだと彼らに学んでほしい。少なくとも、昨日久しぶりに再会した「ミラノ・クラシカ」のオーケストラは、一緒に音楽を作ろうとする感動に満ち溢れている。彼らの顔をみたとき、単なる、指揮のレッスンにしなくて良かったと改めて思う。
今週は毎日病院でシャワーを浴びて出かけ、彼らと一緒にハイドンに遊び喜び、悲しみ笑い、涙しながら、夜はまた病院に戻ってくる。

週末指揮のレッスンをサンドロの家でやっているとき、息子は長机で宿題やら折り紙やら指揮の真似事などをして時間をつぶしているので、生徒たちも彼のことを皆良く知っていて、様子を心配してメールが届く。その内の一通のメール。モレーノが息子の様子を心配した内容のあと、追伸にこう書き足してあった。彼のことは一から教えていて、ある程度のところまで来たので他の教師に預けたところ、どうも彼と合わなかったようで、二か月ほど前に久しぶりにレッスンに来てときには、指揮がつまらない、辛いとこぼしていた。
「13時35分オーケストラが音を出した瞬間、明るいエネルギー情熱の波に吞まれて、数秒後感激して思わず涙が溢れました。本当に素晴らしい感覚でした。今漸くあなたが言わんとしていたことの意味を理解しました。有難う!」
この言葉に励まされて、今日もこれから彼らのリハーサルに立ち会いに出かけようと思う。夕べから今朝方まで、治療の副作用の酷い頭痛で苦しんでいたけれど、今は隣ですやすやと眠っている。生徒たちとオーケストラの音楽の喜びを身体に蓄えて、息子に今夕届けたいと思う。

と、日記を書き終えようとしたとき、ボランティアの初老の婦人二人が息子を訪ねてきた。
「今日が私は最後の日なのだけれど、あなたのことは忘れないわ。よく覚えておいてね。才能、誰でも人それぞれの才能があると思うけれど、才能というのはね、人に分かち合わなければいけないのよ。あなたの才能は人のためのものでもあるの」。

(6月30日ミラノにて)

152 象

藤井貞和

そのかみ、『詩人の爲事』(しじんのしごと)という本を見かけたのですが、
ひとが〈神怒り〉に爲(な)りかわり、うたか句か、
詩の書き手ならば爲(せ)ねばならぬ「爲事」の爲(ため)に、
じんすいしておる時に、かならずおる、ひはんしゃが立って、
詩人の爲(な)すべきはまさに詩を書くこと、時代がどんなであろうと、
書きつづける心葉(大嘗祭の飾りとか)、総角〈あげまき〉の組緒、
添える言(こと)の羽(は)であり(昭和十年代ですね)、神怒りはあのかたたちに、
お任せしようほら、黄河のかなたではたらいていらっしゃると、
叩いてまわる著名なあなた、あなたの名告りこそはひはんの面目で、
そのゆえにしてぼくらの「爲事」は斃れるのですと、若い俳人が、
おそらく出征をまえに嘆いたのでした。 ちなみに「爲」という漢字は、
象のうえに象使いが乗っかった象形文字(ぞうけいもじ)なんだそうです。
象は文字どおり巻き上がる鼻、大きな左右の耳、牙が二本と、
四足(しそく)でしたね漢字「象」。 昭和初年代に象徴詩がおわりまして、これからの、
象徴詩(ぞうちょうし)の季節に、どこへゆくんでしょう仔象。

(この詩、うそ八百で塗り込められています。どこいらへんがうそでしょうか。ちなみに、いま新詩集を出そうと考えて、なかばはこの「水牛のように」サイトで出したのを初稿とする作品集です。謝意のほか、言うことばがないです。書けなくなったところをそれでも持ちこらえることを許して、見守ってくださいました。)

札記1

高橋悠治

耳は世界にひらく 口をひらいても ことばはだれも聞かない
目をひらく 世界をみまもり よけいなうごきはしないのがよい

カフカのノートや日記 てがみは カフカの背中 書かれた文字を読み 意味を分析しても それを書いた手のうごきには届かない その手のうごき 手の心は だれにわかるだろう 手がうごき カフカは手についていく うごきは予測できない 手はカフカからも隠れている

線の両端を軸にして転換する テンセグリティーでも見た関係の網のなかで 位置・重心方向のちがい その感触をためしながらゆっくりすすむ 余韻 隙間 裂け目 分類せず 判断せず 見まもるなかで ひらいてくる世界 

情念はひとを滅ぼす エピクロスのように 羊のチーズとワインだけで日をすごし とまではいかないが 隠れて生きる にはそれなりのスタイルがある こまったことに 音楽を職業としていると 人の集まる場所に行くのは避けられない 

1965年から50年以上 共演し 対話を続けてきたPaul Zukofsky が 2017年6月7日香港で亡くなった 音楽をめぐり ことばをめぐっての メールのやりとりは5月で途絶えた 覚めた目 アイロニーにみちた鋭い観察 ひとり生きたひと

2017年6月1日(木)

水牛だより

5月末からきょうの6月のはじまりにかけて、東京はすでに夏です。暑さとスコールのような雨とが重なれば、夏という以外にありません。

「水牛のように」を2017年6月1日号に更新しました。
そんな不安定な天候ですから、この時期に亡くなった人は多いように思います。高田和子さんも数住岸子さんも。
森下ひばりさんの「グルテンフリーな食卓」を読んで思い出したのはベトナム製の米粉のショート・パスタのことです。一時期よく売っていたのに、いまはどこにも見ません。米粉なので、セモリナのものより茹でる時間が短いし、食感も軽く、愛用していたのに。作られた地域性が関係していたのか、安いのも魅力でした。
冨岡三智さんの「万歩計と歩き方」で思い出すのはやはり何人かのダンザーと武術家のことです。特に武術の達人は、どんなに激しい動きをしてもまったく足音がしないのです。歩数など計れるはずはないと思います。

それではまた!(八巻美恵)

いろいろと

大野晋

1か月ぶりです。

GWの初日。ばたばたした一日の終わりに風呂に入って、出た際、タオルで体をふきながら違和感を感じると、ふと、壁に尋常ではない量の血が飛び散った後を発見。
なにかと思ってふき取っていると、その飛び散りが脱衣場のあちらこちらに広がって、気が付くと足元にも尋常ではない量の血だまりができていました。

すねにあった傷口がぱかっと開いて、血が止まらない状況で、ようやく脱衣場から抜け出して、仕方ないので自分で119番に電話をして事情を話して、救急車を呼びました。10分ほどしてから到着した救急隊の方にとりあえず止血処理してもらいました。「こんなので救急要請して申し訳ない」と言うと、「いや。これは呼んでいいです」と言っていただきました。その後、GW初日の夜中に処置してもらえる病院を探してうろうろと(実際には受け入れ要請を断られ続けて延々と電話連絡をしてもらっていたのですが)、結局、長年かかりつけにしている病院に受けてもらい、なんとか傷の手当ても無事に終了しました。

いやはや、とんでもない思いをしました。しかし、もつべきものはかかりつけの病院ですね?

そんなわけで、ひと月お休みしました。元気なけが人です。すねがまだ痛いです。病院できれいに傷のかさぶたなどが取り去られてしまいましたので、ぽっかりと2センチくらいの大きさの深い穴が開いています。皮が全部とれたので修復には時間がかかるのだとか。傷としてはきれいなものです。

おとなしいながらも、家の整理を敢行して、コミックスを中心に500冊弱の本を新古ショップに売り払いました。結構な冊数だったのですが、まだまだ、家の中にはあるという事は在庫はおそらく4ケタ以上だと思います。ま。その中で読まないもの、どう考えても読み返さないものを選択しました。以前はなんでもかんでも出してしまい、その後、苦労して買いなおしましたから今はそこまで無理して減らすことはないですけど。

書店の店頭でコミックスを見ていると、今は男女問わずに同じコミックスを購入する傾向があるようです。少なくとも、昔の少女コミックスというジャンルについてはほぼ絶滅危惧種状態ですね。まあ、昔ながらの男の子コミックスもあまり見かけなくなりましたし、作家も女性が多く男性誌と呼ばれたジャンルの雑誌に登場しています。そして、少なくともデビュー時に随分と画力のある新人作家が多いですね。そうなると、勢いばかりの男性漫画家よりも、しっかりとした画力がある女性漫画家が有利になるのでしょうか?それと、きちんとしたストーリーテリングができるのも女性作家の特徴かもしれません。

日本のワインも随分と買い込みましたが、この話は次の機会に回しましょう。

151 糸游に

藤井貞和

闌声(らんじょう)とは、わざにたけて、
かたちをやぶるという、ある種の境地を言うそうです。
乱声(らんじょう)にも通じます。
ねんれいでなく、
好奇心があり、
悠治さんのしごとをかこむ、
そしてジャンルにこだわらず、
第一の糸は語る、
第二の糸は歌う、
第三の糸は弾く、
笙の遊びや、
箏の遊びや、
太棹の遊びや、
打ち物の遊び、
一絃琴の遊び。
糸の遊びにふりゅうのにわがひらかれ、
乱声、乱声、その戸をたたく精霊のうごきが、
きょうのおとをつたえます。
詩人のみなさん、いま詩の声(=おと)が聴かれますかと、
高田さんがそう問いかけています。

(新井さんが詩誌で十一回忌というか、十年の歳月を特集するというので、寄稿しました。)

仙台ネイティブのつぶやき(22)見えない場所

西大立目祥子

 25年ほど前、父のガンの手術と治療のために足しげく病院に通っていた時期がある。

 病棟に足を踏み入れるとツンと消毒液の匂いが鼻をつき、決して快適とはいえない病室にはぎっしりベッドが詰め込まれて、術後のからだをいやす人たちが横になっていた。でも、ガン闘病というようなとおりいっぺんのイメージと雰囲気は違っていて、新聞を読み、テレビを眺め、談笑するようなおだやかな時間もそこにはあった。

 階下に行くと、髪の毛の薄くなった子どもたちがカラフルなパジャマで走りまわり、ベッドに小さなテーブルを乗せて書き取りをする子がいる。屋上では洗濯物が風に揺れ、おしゃべりしながら洗濯機をまわすお母さんたちの表情が思いのほか明るいのに驚いた。病院は生活の場でもある、と気づかされた。

 そのころ私は疲れを知らない30代で、術後なかなか熱の下がらない父の額のタオルを冷やすために、病院から借りた小さな簡易ベッドの上で一晩うつらうつらしながら過ごし、朝8時半になると顔を洗いジャージをシャツとスカートに着替えて、自転車で会社に向かった。
 
 ラッシュの人の波をぬって走りながら、思ったものだ。毎日元気に働き、会議だ売上だ、と追いまくられていたら、病院で治療を続ける人たちがいるなんて想像できないだろうな、と。病院は「見えない場所」だな、と。

 晴天の霹靂。この春、私はその見えない場所の住人になった。健診で異常が見つかり、手術のために10日ほどの入院が必要になったからだ。大腸内視鏡だ、胃カメラだ、CTだ、と初めてづくしのドギマギする日々が続き、入院の手引き、手術や麻酔の説明書をよく読むようにと手渡された。

 手引きには、入院時には「マニキュア、ペデキュア、ジェルネイル、つけまつげ、ピアス」をとることとあり、手術の説明書には「入れ歯、補聴器、メガネ、コンタクトレンズ、時計、指輪、ヘアピン」などの身につけているものすべてをはずす、とある。そうか…社会で生活するために必要としていたもの、というか自意識をすべてはぎ落として、ただのヒトとして病んだカラダを手術室のライトの下にさらさなければならない。だんだん気持ちの準備ができてきた。

 主治医です、と現れた医師は、まだ少年の雰囲気を残すような色白で小柄な人だった。まだ30歳ぐらいだろうか。その若さに、父との会話がよみがえる。「執刀する先生っていくつぐらい?」そう聞くと、父は「おまえぐらいかなあ、いや3つ4つ上か」といい、私は自分の頼りなさを思い、30そこそこで大手術がやれるんだろうかと不安を覚えたものだ。でも、いまならよくわかる。入ってくる仕事のすべてがおもしろかったあのころ。怖いもの知らずで勢いのある30代は、難しい事も楽々超えていけるパワーに満ちているときだ。

 そして、担当です、とベッドわきに立った看護士さんが付き従えていたのは、この春採用という看護士になりたてほやほやの若い人で、パフスリーブの白衣から伸びている腕はほっそりとして、これまた少女のよう。まだ固い表情の横顔を見ながら、若い人に支えられて自分が治療に入ることを思い知らされる。私はいつの間にこんなに歳をとったんだろう。

 入院したその日、すたすた歩いていた隣のベッドの人に「私、おととい手術して明日退院なの」と話しかけられ驚いた。「この部屋はすごく回転が早くて、みんな4、5日で出ていくのよ」と静かに話すその人は、40代後半ぐらいだろうか。「早期の乳がんなんだけど、いま思うとこの何年か、子ども3人の面倒みて、パートに出て、睡眠時間3、4時間だった。無理しすぎたのね」と淡々と続ける。私もそうだった。断れきれない仕事に汲々として、介護に右往左往して、自分のことを後回しにして、眠る時間を削っていた。「退院したらどこかで会うことあるかもね」「そうね」二言三言なのに、傷ついた者同士、もっと自分のこと大事にしようね、元気になろうね、という共感に包まれたやりとりに気持ちが和む。

 ことばをかわしたディルームとよばれる部屋は南に面していて、大きな窓から春の日差しがさんさんと射し込む。花盛りが最後にくる八重の桜が散り、樹々が緑に染まっていく季節だ。遠くに雪をかぶった蔵王連峰が輝き、その右には仙台のシンボル、三角のおむすびのような太白山(たいはくさん)がちょこんと姿を見せている。視線をその下に移せば、そこは私の生まれ育った街だ。
 ほわほわとやわらかな緑に染まるのは、通った小学校。ときどき買い物に行くスーパーの看板の陰には、猫を連れて毎日通った動物病院があるはず。図書館に通う道のわきには、幼なじみの家の屋根も見える。ついこの間まで、あの通りをのんきに歩いていたのに。まさか、入院、手術なんてことになるなんて。

 手術日は朝早く体内の電解質を整えるというペットボトルを飲むよう渡され、血栓予防の加圧ストッキングをはき、歩いて手術室に向かった。入ると、サティのピアノ曲が低くかかっていた。上半身の衣服を脱がされながら「よかった、これ好きな曲」というと、一人の看護士さんが「まあ、私が選んだの、大正解ね」といい、あとは麻酔を入れられ意識がなくなった。
 その日は一日、手術した下腹部の激しい痛みに悩まされた。説明されていたとおり、全身管だらけ。それでも寝返りを打つようにいわれ、ベッドの柵にしがみつきながら半身を起こすと、突然嘔吐に襲われる。でも痛くて苦しいのに、いくらでも眠れる。そういうと「一睡もできない人もいるのよ、エライ」とほめられた。辛抱強いというより、痛みに鈍いんだろうか。

 2日目の午後には、早くも歩行練習が始まった。術後、何よりこわいのは血栓らしい。最大の予防は歩いて足裏を刺激し、全身の血流をよくすること。点滴と背中の麻酔の針とおしっこの管とドレーンという排液の管をつけたまま、何とか起き上がり歩く。上半身を起こしたとたん、血流が変わるのを感じる。痛いしやっとやっとの歩行だけれど、ヒトって歩かないとだめなんだというのが、よくわかる。

 3日目の朝のことは忘れない。目が覚めた瞬間、自然と笑顔になれて、みんなに「おはよう」といいたい気分だったから。ひどい痛みが遠のいている。回診の先生たちに「今日は、元気です」といったら、「いいねー」の声とともに管をはずされ、お昼からはおかゆになった。なぜかわからないけれど、本が読めるようになったのもこの日からだ。細胞にとって48時間というのは、回復に必要な時間なんだろうか。この日の夜は、術後初めて歯を磨き、石けんで手と顔を洗った。歯磨きしながら、いつだったか、激戦地で助かった日本兵はみな身なりに気を使う人だった、と誰かがいっていたのを思い出した。その謎が解ける。顔を洗い、髪をすく…身支度を整えるというのは、余力なのだ。カラダがひどいダメージを受けているときは、そんな余裕はない。

 私が回復する間にも、病室の人は入れ替わる。甲状腺の手術を受けた人が退院し、夜遅く盲腸の手術を終えた人が入ってきた。深夜、腸閉塞のおばあちゃんが担ぎ込まれ、カーテン越しに「痛い、痛い」としぼるような声で訴えるベッドまわりが、にわかにあわただしくなったこともあった。次の朝、私の主治医の先生が「◯◯さん、手術して直そうね」と話しかけ、看護士さんが「大丈夫よ、私たちがうまくやるから、心配しなくていいわよ」と説得していると、「先生、手術室空いたそうです」と、もう一人が駆け込んでくる。「えぇっ、いまか。わかった。やろう!」と飛び出して行く医師。
 本当に医療の現場の若い人たちは、だれもが真摯で懸命だった。このまちが再び大地震に見舞われることがあったとしても、戦争が始まる日がきたとしても、彼ら彼女らは目の前の弱った人のために手術を続け、検温に歩くだろう。

 手術から6日目に退院した私は、その2日後には街を歩いていた。見上げると、病院がすぐ間近に白くそびえている。この仙台市立の総合病院が2014年の暮れ近くに、ここに新築移転したことはもちろん知っていたし、手術のための検査にも通院していた。でも、見慣れた街のすぐ向こうにこんなふうに見えることに、どうしていままで気づかなかったんだろう。

 9階の大きく切られた開口部─何度も風景を眺めたディルームが見える。つい10日前、私は手術を控え不安をかかえてあの窓越しに町を見下ろしていたのだった。いま、私は回復してその窓を見上げている。見下ろす私と見上げる私の視線は呼応し交錯し、まるで合わせ鏡のように互いの姿を映し出す。
 私にとって、病院はもう見えない場所ではなくなった。そこは、日常にふりまわされそうになる私に、もうひとつの暮らし方、別の時間があることを教える。そして、いつかまた、見下ろす私と見上げる私が入れ替わる日がくるのかもしれない。
 午後5時。今日の晩ごはんは何にしようか、と気にし始めるころ、病院は夜勤の看護士さんたちの交代の時間だ。「夜担当の◯◯です」という声が、きっと今日も病室に響いているだろう。

オパール石

璃葉

天文台のおじさんがポケットから取り出したのは、オパールの原石だった。
わたしはふだん、彼のことを苗字にさん付けをして呼んでいる。
明るくお茶目だが、すっと背筋がのびた姿勢が素敵なのだ。おじさまと呼びたい気持ちもある。
おじさんは天文台の台長として仕事をしながら、よく石掘りにでかけている。
久しぶりに会う機会があって、鉱石のことや今年の日食のこと、身の回りのことを一頻り話した後、別れ際にとつぜん「あげる」と、嬉しそうにオパール石を渡されたのだった。

その石はわたしの手のひらの窪みにちょうどおさまった。石特有の冷たさを感じる。
ゴツゴツしたその原石は、赤に近いえんじ色の部分が目立っているが、よく観察するとそこから橙色、灰色、薄黄色、クリーム色、薄水色、灰色にひろがって、そこにまたえんじ色が挟まっている。
目を細めて見ると、色は繰り返しの層になっていることがわかる。一切の細工のない自然のかたちだ。
岩石ハンマーをつかって自分で採掘する石もよいけれど、ポケットから不意に渡される石もうれしい。
考えられないほどの巨大な地層の一部分から選ばれた、宇宙のかけらである。

しもた屋之噺(185)

杉山洋一

この日記を書いた後、白河の小峰城二の丸で沢井さんと有馬さんの拙作初演に立ち会いました。天守閣を目の前にいただく演奏会場は広々としてとても心地よく、一面の緑がとても目に鮮やかに映ります。沢井さんは、明代の七絃琴「洞庭秋思」をもとに、李白の「洞庭湖に遊ぶ」を、緩く絃を張った十七絃で詠み下してゆきます。悠治さんの「橋をわたって」のように、ツメもつけずにつま弾くので、どろん、どろろん、という音が響きます。沢井さんの筝が対峙しているのは、その場の沢井さんご自身の音を変調させ、素材としてコンピュータに一時的にストックさせたもの。それを素材として、有馬さんも李白の「洞庭湖に遊ぶ」を詠んでゆきます。楽譜には句の詠み方が何通りか書いてあり、それを各々が選択し、思い思いに詩を詠みあうなか、各々が耳を澄ました瞬間に生まれる有機的な反応が、とても魅力的でした。鳥のさえずりや、時たま通る東北本線の汽車の音と、夕間暮れの城、すっかり溶け込んでいるのでした。

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5月某日
朝、ピアチェンツァの城に遠足に出かける息子を、キックボードの二人乗りで学校まで連れてゆく。行き付けのパン屋で彼の昼食用のピザと、午前と午後の二回のお八つに、小さなフォカッチャをいくつか。それに水を購う。こちらはこの折にこのパン屋で朝食を済ます。学校から戻り、泥棒が庭の土塀に置き忘れて行った梯子を粗大ごみに出そうとするが、出来ず、そのまま学校へ出かける。今日は大学生必修のイヤートレーニングのクラスで、シチリア出身の学生も何人か居る。今日の最終便でパレルモに飛ぶというと、皆決まって最初は羨ましがり、次には、そこには懐かしさと憎しみが交ざっているのです、と付け加える。
夜半日付が変わってパレルモの空港に着き、泥のように眠る。

5月某日
パレルモの光景は、アンデルセンの「即興詩人」冒頭の瑞々しい描写を思い起こさせた。
マッシモ劇場の大階段に、若者たちが腰を掛けて大声でじゃれあう姿は微笑ましい。その前には馬車が数台留まっていて、観光用。馬のヒズメが石畳に響き、アラブ風の小さなキヨスクが2軒、左右に可愛らしく建っている。その辺りには常に黒い大きな犬がだらりと寝そべっていて、ずっと店主の飼犬と思い込んでいたが、どうやら野良犬のようだった。パレルモは、そこかしこに野良猫が佇んでいて、子供などが、アパート2階のヴェランダからパンや菓子を放っているのにも何度か出くわした。息子の歴史の宿題を手伝っていて、ノルマン人、アラブ人などのシチリア侵攻などを復習したばかりだったから、パレルモの乾き、少し剥げかけた茶色の街並みは、まるで多層文化が放つまばゆい輝きに包まれているようで、鳥肌が立った。
街並みにこれほど感激したのは、ローマとパレルモだけ。それぞれの街に美しさはあるが、この二つは圧巻だと思う。

マッシモ劇場の目の前に初めて立つと、その荘厳さに言葉を失う。劇場というより寧ろ教会のような巨大なクーポラが目を奪う。劇場の周りに無数の老若男女が座り込んで憩う姿など、ミラノでは想像もできぬ。感激しながら、関係者入口に足を踏み入れ、練習場所を尋ねると、受付の妙齢は、この場所は名前は知っているが、行ったことがないので道順は教えられないと困った顔で言う。

わざわざ両性用、と指定されたお手洗いに出かけると、便座が半分だけ外れている。外して使うわけにも行かず、付けたまま使おうとすると回転して使えない。
理由はわからないが、石造りの外階段の下に、チェンバロが無造作に放置されていて、通路の暗がりに自転車が立て掛けてある。すっかりこの土地が愉快に感じられてくる。

ここの劇場もオーケストラも初めてだが、特に人懐こい印象はなかった。喋り声が大きく落着かない。練習の最中に弦楽器の編成を減らしたい、と事務直側が言うと、オーケストラは凄い剣幕で反発。殴り合いになるそうで、冷や汗をかいているのに、周りは慣れているのだろう、平然としている。カヴァレリア・ルスティカーナを思い出す。偉いところへ来てしまった。

練習が始まって1時間ほどして、作曲のベッタがやってくる。
「盗まれた言葉」という題名が書いてあったが、変えたのだと言う。ボールペンで大きく「空」と書き直した。
「これはレクイエムなんだ。パレルモ、シチリアだけでなく、すべての失われた命へ捧げている」。
「木管楽器が浮かび上がっては消えてゆくだろう。これは一人一人の魂なんだ。死んだ者の魂はどこにでもいられるんだ。見えないけれど、あのカーテンの陰で、祖父がこちらに微笑みかけているかもしれない」。
初対面でいきなり幽霊の話などされたものだから、吃驚して、オスカルにシチリア人は随分信心深いねと半ばふざけて言うと、真面目な顔で、その通りだと応えるものだから、愈々考え込んでしまった。

5月某日 パレルモホテル
朝食を摂っていると、宿の主人が本を携えてやってきた。あんたは日本人だろう、と尋ねるので、そうだと答えると、これを読むと良い、とずいぶん詳しいパレルモのガイドブックを手渡いてくれる。「これは日本語で書いてある。あんたは仕事で忙しそうで、到底パレルモの名所など訪れる時間もなさそうだ。せめてこれを読んでこの街の素晴らしさに触れておくれよ」。

お世辞にも豪華とは呼べない、10部屋もないと思しき小さな宿屋の主人は、恐らく時間を見つけて古本屋でこの日本語のガイドブックを探しにいってくれたに違いない。胸が熱くなった。
朝食は、皿から溢れんばかりに盛ってくれるフルーツポンチとヨーグルトと自家製ケーキ。淹れたてのコーヒーは、ミラノよりずっと味が固く、力強い。角のある風味。目の前の通りから、笛と太鼓で奏でるサルタレルロが聴こえてくる。

5月某日 パレルモホテル
シチリア人は信心深い、という言葉がずっと頭を反芻していて、今朝はオーケストラの練習はなくしたので、歩いてカプチン会の地下墓地へ出かける。
昼食代わりに、道端にある果物屋の露店でさくらん坊を買う。2キロ2ユーロでいいよ、と言うが、歩きながら食べるので、到底無理だと断り、1キロ。固いザラ紙を器用に漏斗状にするすると丸めて、そこにさくらん坊を入れて、手渡してくれる。

朝早くから、窓の外で誰かが意味不明の言葉を怒鳴っていたのだが、カプチン会通りに右に折れたあたりで、塗装も剥げすっかり草臥れた三輪トラックに老人が凭れて、同じが鳴り声を上げている。
よく耳を傾けると、トマト1キロ何ユーロと嗄れた朗詠調で歌っていて、周りのアパートの窓が開いて、ちょいとあんた、今日はトマトを何某、オレンジ何某おくれよ、と老女が大声を上げる姿を眺めるのは、幸せな気分になる。その小さな三輪トラックに、ほんの数種類の青果しか載っていないのが不思議だった。

入口で僧侶に3ユーロを払って地下墓地へ降りると、色もすっかり消えかけ埃だらけの古い服を着た何千というされこうべが、整然と壁に並ぶ。高い天井あたりから、こちらを見下ろすようにつられた骸骨の下には、3、4層の壁に掘られた穴に、風化した服を着る骸骨が横たわる。
ミイラとなって皮膚が残っているものもあれば、されこうべの中身がすっかり空洞になっているのがみえるものもある。腕や胸のあたり、服の中には藁をつめ、丸みをだしている。

並ぶ遺体は、男性有力者の区画、その妻たちの区画、子供たちの区画、有力者の一族が全て集められた区画、僧侶たちの区画、手工業者の場所と丁寧に分けられていて、博物館のよう。聞けば、18世紀から19世紀にかけてここに死者を葬るのが盛んだったという。
初めは流石に少し居心地が悪いのだが、慣れてくると、自分が別の世界に迎え入れられているような気がしてくるから不思議なものだ。決して気持ちの悪い光景ではなく、荘厳な空気さえ漂うのは、おそらくされこうべの表情が穏やかだからではないか。
されこうべはそれぞれ別の顔をしていて、表情も随分違って、中には笑っているように見えるものすらある。そして、それぞれが生前の自らの服を纏い、名前なども掲げられている。
悪いものではない。死んだ祖父母、会ったことのない祖祖父母のされこうべが、自らの服を着て、この天井から吊り下がっていたら、会いに来たいと思うだろう。
されこうべが、当時の本人の服を着ていると、厭が応にも実感が増す。

13時近く、閉館まぎわに幼児を連れたアラブ人の若い夫婦やってきたが、この只ならない気配を察したのか、幼児はずっと嫌だと泣き叫んでいて、子供も夫婦も気の毒だった。
劇場の近くには、考古学博物館があって、その昔死者の街と呼ばれた、ネクロポリスから出土したさまざまな装飾品、家具、副葬品などが無数に並ぶ。
学生時代、地中海文明、エーゲ海文明の装飾された壺や瓶の写真を眺めるのが好きだった。死の世界というより、寧ろサティロスが悪戯をする様など、大らかな性の描写など面白がって読んでいたのかも知れない。目の前で眺めると、丁寧に書き込まれた描写は、独特の二次元感を醸し出していて、古代エジプトの絵画を思わせる。
シチリアの広大なネクロポリスとカプチン会の地下墓地が、自分の裡で時代を超えて繋がる。そこにベッタやオスカルのような、現代シチリア人の死生観の礎を見る。その後でリハーサルに臨むと、オーケストラの音が変わってくるのは、何故だろう。

5月某日 シチリアホテル
パレルモの劇場前には、食堂が犇めき合う細い辻が2本あるが、結論から言えば、そこには一軒だけ本当に美味で、その上安価な食堂があった。最初に地元の馴染み客が並んでいるからと入ったときに、パレルモはどこでもこんなに美味しいのかと勘違いして、2,3軒は他にも入ったが、どこも高いだけで酷く失望させられた。

20年以上イタリアに住んだなかで、こんなに瑞々しく生き生きとした料理を食べたのは初めてで、ショックを覚えるほどだった。パスタは日に3種ほど、主菜は肉か魚の2種ほどしかなくて、その周りの付け合わせの盛合わせは、3品と6品の二種類を選ぶ。あとはその場で揚げるコロッケを挟んだサンドウィッチや、巨大な丸鍋でその場で料理する内臓料理のサンドウィッチ、ぶつ切りのスイカ。

品書きには「本日のパスタ・エスプレッサ」と書いてあって、「その場仕上げのパスタ」というところか。意味が分からなかったが、日本の立食い蕎麦屋に近いを想像すれば良い。
カウンターに行くと番号札がおいてあり、それを各自取って番号が呼ばれるのを待つ。中では大きな鍋で5人分くらいのパスタを茹でていて、茹で上がったところで、それを皿にもって「はい、56番」などと呼ばれる。それで、カウンターで「茄子とトマトソース」などと言うと、その山盛りのパスタにトマトソースをかけ、その上に揚げ茄子を数枚載せて出してくれる。
だから、ソースをかける類のパスタしか当然用意されないし、パスタの量も多すぎるが、何しろ美味しいのは何が違うのだろう。見ていると、ソースすらかけないで、自分でオリーブ油だけをかけたり、チーズだけをかけて食べる馴染み客も結構いる。
困るのは、そのカウンターのところに、番号を待つむさ苦しい中年男性が給食を待つ小学生のようにわいわい屯して、通行を妨げることくらいか。そこには無論自分も加わっているわけだけれど。

本番の日、流石に昼食にこのパスタでは胃がもたれて演奏会に差し支えると思い、魚の主菜を頼むと、30センチはゆうに超えるカジキマグロのステーキが出てきて、仰天した。こんな料理は他では見たことがない。

歳の頃、7,8歳と思しき少年がおずおずと入口に立ち、中を暫く眺めている。身なりはジプシーのようでもあるが、それにしては狡猾そうなふてぶてしさがない。第一、少し恥ずかしそうな、不安そうな顔をしている。暫くして中に入り、テーブルを回って、恥ずかしそうに手を差し出す。自分のところにもやってきたが、少しだけ迷ってから、断った。断りながら、この子はなぜこの時間にここにいるのだろうと不思議に思う。孤児かしら。どうして独りでいるのだろう。
ふと気が付くと、少年はカウンターに立っていた。カウンターでもお金をねだるのかと訝しく思って眺めていると、女主人がスイカを皿に切り分け、ナプキンも渡して、水が入ったコップを渡している。それを持って少年は皆が食べているテーブルの一つに座って、ナイフとフォークを丁寧に使って、静かにスイカを食べだした。後から店に入ってきたオートバイのヘルメットを小脇に抱えた妙齢も、特に気を留めることなく、その少年のテーブルと相席で、スマートフォンを眺めながらスイカを食べている。ここでは昼食に大きなスイカをのんびり食べる人は、男女関わらず結構いる。
こんな光景は、ミラノでは見られない。せいぜいスイカを受け取った少年は、追い出されるか、逃げるように店を出てゆくに違いない。自分の裡の厭なものを見た気がして、そそくさと店を後にした。

5月某日 パレルモホテル
長らくマフィア抗争による目立った殺人は起きていなかったが、ファルコーネの命日に際して、出所したばかりで、最早老け込み権力もないボスが一人、意味もなく殺された。
マフィアが自分たちの存在を誇示したのだろうと口々に言う。
マンチェスターでは、ライブ会場で爆発が起きた。ボルセッリーノの爆殺現場のような光景が、今日も世界のあちこちで繰返されている。

オスカルとフルヴィアの家に夕食に招か、作曲のベッタと演出のジョルジョとパートナーのオリンピアと連立って出かける。
作曲のベッタも検事の親友を一人、マフィアに殺された。
「アントニオが殺される1か月前、二人で食事に出かけた。当時は毎日どこかで殺人があって、殺人が日常になっていた。マフィア間の抗争だから、基本的には我々に危害は及ばないと信じていたが、余りに多くの人間が関わりあっているので、誰でも友人の一人や二人は何らかの形で失ったのではないだろうか。アントニオに最後に会ったとき、疑い深く常に周りに目を光らせていたのをよく覚えている。彼とは一緒にセミナーをやったこともある。彼と二人で車に乗ると、左右前後にはぴったりと護衛車がついた。いつもと違う道を通るので、運転手にどうしたのかと尋ねると、あなたは知る必要のないことだ、と淡々と言われた。もしマフィアが経営していたら、と思うと、レストランに入るのも恐ろしかった。そして、アントニオは殺された。
当時、マッシモ劇場の舞台監督の一人も、シチリア交響楽団の経営首脳陣の一人も、マフィアとの関係を告白した。それだけ我々の身近はマフィアに染まっていたんだ」。

5月某日 パレルモホテル
演出のジョルジョは少しエミリオに似ている。二枚目で、話し方も洗練されている。人見知りのところもそっくりだ。こちらが名前で呼んでも、ジョルジョは頑として指揮者先生と呼び続けていたが、オーケストラのリハーサルに立合った頃から、自然とヨーイチになった。

エンニオが到着するという日、彼はローマ発の飛行機に乗遅れ、リハーサルの開始は3時間ほどずらされた。
彼が台本を読みだし、空気が一瞬にして変わるさまは、圧巻だった。台本を通して、何かが憑依するように見える。楽譜を通じて、音楽家に何かが降りてくる、というのに近い。余りに言葉が真実味を帯びていて、これも演技なのかと訝っていると、読み終わった途端、彼は「済まない」とだけ言残し、目頭を押さえて部屋を出て行ってしまった。
そこにいた全員、暫し言葉を失う程に感動していて、エンニオのいない部屋に、自然と拍手が沸き起こった。

エンニオは子供の頃から作曲家になりたかったと言う。「家が貧しかったからピアノを習わせてもらえなかった。それで、15歳くらいの時、姉貴がシェイクスピアの本を貸してくれて、バン!こう衝撃を受けたわけさ。そんなわけで、こんな人生になっちまった」。
「音楽は最高の芸術だよ。言葉は国や文化が違えば通じない。音楽はそうじゃない。誰とでも通じ合い、愛し合うこともできる。俺にとって最高の芸術はオーケストラさ。様々な人が集まって一つのエネルギーを作り出す凄さはない」。
「キース・ジャレットのローマ・ライブは一生忘れられない。あの時は、音に神が降りてきていたよ」。
「この台本を、落着いてなど、到底読み続けられない。我々にとって、ファルコーネ・ボルセッリーノ爆殺事件は、現在の政府への憎しみそのものだ」。
彼は毎回涙を流しながら、台本を読んだ。眼光はこちらが慄くほどに輝いていて、そこに泪が溜ると、ちょうど夜のシチリアの海の向こうに明滅する、橙色の街灯を思い起こさせた。
エンニオは一度台本を読み始めるとすぐに没頭して、読み続けてしまうので、毎回彼の台詞の切欠は、こちらから左手の親指と人差し指でオーケーを作って出していた。こちらをじっと見つめているので、瞳が潤んでいるのがよく分かるのだった。

ボルセッリーノの爆殺現場写真を投影しながら、エンニオは現場から抜き取られたボルセッリーノの赤手帳について話す。凄惨な写真が続くが、実際はもっと酷い状況で、それらの写真は投影されなかった。
爆殺現場に最初に駆け付けたカメラマンが、練習の合間に話しかけて来た。
「近くに白い人形が転がっているので、訝しく思って近づくと、手足の捥げた遺体だった。ちょうど現場から700メートルくらいのところで車に乗っていて、家内と息子を車中に残し、必死に駆け付けた。家族と再会したのは、それから72時間後のことだった」。
近くにいた別の新聞記者も口を開いた。
「あの爆殺現場のビルの五階まで、血飛沫と皮膚の残骸が飛び散ってこびりついたんだ」。
コンサートマスターのサルヴォも口を挟む。
「あの時は、街の反対側でレッスンをしていたんだけどね。窓がビリビリと震えてね」。
演出助手のウーゴは、まだ子供だった。
「あのドーンという爆音と、その後に高く立ち昇った黒煙は誰も忘れない」。
その言葉を嚙締めながら、その現実の中に生きる演奏家たちと音を出す。
エンニオはその情熱に応えるように、一言一言に力を込めた。

本番当日、ドレスリハーサルの後で、ジョルジョと最後の打ち合わせをしたあと、エンニオの楽屋を出て、隣にある指揮者楽屋で着替えていると、隣から、不思議なラグタイムが聞こえてきた。エンニオが小さな竪型ピアノを叩いているのだ。左手のオスティナートは、毎回微妙にリズムがずれていて、その上割り切れない拍子になっている。単に不器用でそうなっているのかもしれないが、それにしては右手はきれいに拍節があっていて、ちょっとナンカロウのように聴こえる。

もしかすると彼はとんでもなくピアノが上手なのではないかしら、と少し訝しくなったが、部屋で休みたいので、そのまま楽屋を後にした。天井の高い廊下には、劇場の厳めしい制服を着た美しい妙齢二人が、エンニオの出てくるのを待っていた。彼が出てくれば仕事から解放されるらしく、「もうすぐ出てくるよ」と声をかけると、「そう願いたいものだわ」と二人で顔を見合わせて溜息をつくさまが、現代っ子らしく可笑しい。

5月某日 ミラノ自宅
舞台の最後で、劇場のバルコニー席全てから、白いシーツが垂らされる。25年前、パレルモで巻き起こったマフィア撲滅の旗印のこの白いシーツは、死体をくるむ布を象徴している。
エンニオが舞台の終わりで、さあ、皆さんもシーツを垂らしてください。どんどん垂らしてください。声を上げてください。と観客に語り掛けると、バルコニー席一つ一つから、流れるようにさらさらと音を立てて白い布が垂れてゆき、まもなく劇場の壁面を全てをシーツで覆った。
そこに、マフィアによって殺された無実の市民の恋人、遺族の写真が大きく投影されて、盗まれた言葉の欠片が浮び上る。
公演の始まる前から、オーケストラからも、聴衆からも、関係者一同からも、異様な熱気を感じていた。
現在のマッシモ劇場の裏方として、ファルコーネ検事、ボルセッリーノ検事の家族や親戚も働いていて、毎日顔を合わせていたと、一番最後に知った。最後まで彼がファルコーネの家族だよ、などとは誰も教えてくれなかった。
観客の中では、最初から最後まで号泣している人たちもいて、フラヴィアが座ったバルコニー席には若くして殺された警官の恋人が泣き崩れていたと聞いた。オーケストラの音に、何度も鳥肌が立った。彼ら一人一人が何か大切なことを思い出しながら弾いているのが分かった。
真実の音だったけれど、もっとずっと声に近いものだった。
朝焼けの朝5時、ガイドブックをプレゼントしてくれた宿の主人が、空港まで車で送ってくれた。

「シチリアは無知がまだはびこっているんです」。
高速道路に車を走らせながら、訥々と話してくれる。右手には真っ赤に染まった海が広がる。
「このあたり、かの有名なゼンという地域ですが、この辺りの貧困率は本当に酷いものです。その日に食べるものがない家族が沢山います。その上、昔のように、子だくさんが良しとされる風潮は残ります。当然、親は子供の面倒を見られません。誰か近所の家族が助け合って、食べられない家族のご飯を用意しているんです。子供たちは学校には行かせてもらえません。プラスチックや鉄くずの回収をして、日に10ユーロのお駄賃を稼がされるのです。そして、それは親に取り上げられます。勿論義務教育だから、親は警察に捕まるかもしれない。それでも、毎日の日銭の方が彼らにとっては大事なのです」。

「観光客にはとても見せられないシチリアの一面です。でも、これもシチリアの現実です」。
「そこにアフリカからの難民が押寄せています。難民問題を作ったのは、我々自身です。地域紛争にかこつけて、兵器などを売りつけたりして、どんどん戦いを大きくさせてしまった。その結果がこれです。悪いのは彼らではない。
難民たちは、ちょうどゼンのように、外から見えない貧困地域に固まっています。彼らは言葉もできないから、理想郷と思い描いてきたイタリアで仕事になど殆どありつけません。仕方がないからどうするか。観光客からアクセサリーを盗んだり、バッグをひったくったりして、中身を売りさばいていくばくかのお金を得る」。
「EUのお偉いさんたちは、難民問題を我々が解決できると思っています。そうして、お金を関係地域にどんどん送れば送るほど、それらは市民のためにではなく、別の場所に吸い込まれてゆく」。
先日、劇場前でスイカを恵んで貰って食べていた少年の顔が頭を過る。大きく「Capaci」と書かれた標識が掲げられている。
「ほら、あそこです。道路の左右に細長い塔のモニュメントが建っていますね。そう、これです。ここで25年前にダイナマイトを爆発させてファルコーネが殺されました」。
朝焼けのなか、高速道路を行きかう車もまばらだったので、そう言って彼は車のスピードをぐっと落とした。

(5月31日 ミラノにて)

アジアのごはん(85)グルテンフリーな食卓

森下ヒバリ

グルテンフリーの米粉ケーキがコンスタントにうまく作れるようになった。色々試作して、辿り着いたのが酒粕を入れて作る米粉マフィンや米粉パウンドケーキで、酒粕を入れると失敗知らず。酒粕はまだあまり使い方を極めていないけど、なかなか不思議で面白い素材だ。元はお米なのだけど、カビつけされ醸され絞られて、長い旅路の果てに酒粕に。

米粉ケーキはほうろうパッドや、ステンレスのパッドにクッキングシートを敷いて薄めのシートケーキにすると焼きやすい。

<酒粕入り米粉のケーキ>
A:
米粉180g(このうち20gをひよこ豆粉かココナツ粉、おからや黄な粉にするとなおよい)
片栗粉30g
ベーキングパウダー小さじ1と半分
重曹小さじ3分の2(モンゴル天然重曹を強力おすすめ)
以上をよくかき混ぜておく

B:別のボウルで
酒粕90g(ペースト状。固い場合は少し水を加えてやわらかくしておく)
バージンココナツオイル90g (固まっている場合は溶かす。オリーブオイルでも可)
卵2個と豆乳で300ml
てんさい糖100g
レモン汁(柑橘酢)大さじ1
ハンドブレンダーまたは泡だて器で、油が乳化してとろっとするまでよく混ぜる。

オーブンを180℃で予熱しておき、パッドやマフィン型の準備をしておく。
Aの粉ミックスにBの乳化した酒粕ミックスを混ぜ込む。すばやくパッドや型に入れ、オーブンで180℃10分~12分、その後160℃で10分焼く。生地が厚いと全体にもう少し時間がかかる。AとBを合わせたら、素早く焼くこと。発泡した泡が消えないうちに。

焼きあがったらオーブンから出してクッキングシートごと網の上で冷まし、ラム酒とメープルシロップかはちみつを混ぜたシロップを表面に塗る。
卵アレルギーなら、卵を抜いてかまわない。かわりにバナナの輪切りか潰したものを混ぜ込むとコクが出る。酒粕の匂いが気になることもあるが、半日もおけば消える。

米粉ケーキはわりとあっさりなので、薄く切って間にクリームなんかはさむとさらに楽しそう、と考えて前々から作って見たかったサワークリームを作ってみることにした。しかし、ヒバリは乳製品のアレルギッ子なのだ。ま、実験と思ってよつ葉の生クリームを入手して作ってみた。

サワークリームというのは、生クリームを発酵させたもので、濃厚でものすごくコクがある。味付けせずに、ボルシチにのせたり、タコスにのせたりもする。よく発酵したサワークリームにはちみつを混ぜ込んで甘くすると、もうメロメロになるほど美味しい。

生クリームに豆乳ヨーグルトを加えて発酵させ、干しブドウとはちみつを加えてクリームチーズのように固まったサワークリームを味見してみたら、はああ、う、うまい(泣)。もう一口とスプーンで2さじ食べた。コッテコテだが、これはあの北海道のマルセイのバターサンドのクリームそのものだわさ。などとうっとりしていたら、じわ~っと気分が悪くなってきた。濃厚なので、アレルギーが出るのも量が少なくても早かった。苦しい‥もう食べません。植物性生クリームというのも市販されているが、添加物てんこ盛りだし、まずいので、食べたくない。

くやしいので、豆乳ヨーグルトで何とかサワークリームが作れないかといろいろ試作してみたところ、こんなのができた。ココナツオイルに少し豆乳を足して乳化させるとバタークリームのようになるのは知っていたので、それをアレンジ。

<豆乳サワークリーム>
1 豆乳ヨーグルト300ml を3~6時間ほど水切りする。コーヒードリッパーと紙フィルターを使うと簡単。だいたい100gぐらいになればOK
2 溶かしたバージンココナツオイル30g~40gに、てんさい糖または、はちみつ大さじ1、白みそ小さじ1を加えてブレンダーでよく混ぜ乳化させる。水切りした豆乳ヨーグルト100gを加えてクリーム状になるまで混ぜる。好みでラム酒を少し加えても。
3 干しブドウを加え、冷蔵庫で冷やす。(干しイチジクなどを刻んでも)

まあ、こんなもんか、やっぱり生クリームに比べてコクが足りんなあと思いつつ冷蔵庫で一晩寝かせておいた。翌日、米粉ケーキを焼いて、薄く切って間に豆乳サワークリームをはさんでみた。

いただきま~す。こ、これは‥むぐむぐ。牛乳サワークリームとは別物でイケる! 酸味もいい感じ。寝かせたらコクがぐっと増していた。おいし~い! 濃厚なコクと酸味がありながら、生クリームから作るサワークリームより軽い。いくらでも食べてしまいそう。ケーキにクリームを挟んでラップに包んでから少し冷蔵庫で冷やすとケーキとクリームがなじんでおいしさが増す。

水切りした豆乳ヨーグルトに甘みを加えず、白みそ小さじ1、または塩ひとつまみとココナツオイルを加えてブレンダーで乳化させれば料理用の甘くない豆乳サワークリームが出来る。出来立てはとろんとしているのでそのままソースとして使っても。ココナツオイルの量はお好みで加減してください。

この塩味サワークリームを冷蔵庫に入れて熟成させておいたらやっぱりコクが増して、まさにクリームチーズやんか。キュウリやクラッカーに載せておつまみにもなる。クルミやコショウなどを混ぜて仕込んでも。豆乳サワークリームは、冷蔵庫に入れておいても少しずつ発酵がすすむので、1週間で食べきれない場合や、保存する場合は冷凍がおすすめ。

グルテンフリーでちょっとさみしいのは、うどんや中華そばを使った料理が食べられないことだと思っていた。でも、探せばあるんですねー。グルテンフリーの麺類をいろいろ試食して、スパゲティには南米の穀物キノア(キヌア)を使った麺(アメリカ製NOWFOOD 米・キヌア・アマランサス)が一番おいしく思えた。玄米粉をメインに使ったパスタはちょっと重たすぎ。

日本製(雑穀めん工房・新潟)で乾麺のきびの麺やあわの麺、三穀めんというのがあり、それぞれ食べてみた。三穀めんはスパゲティに、きびの麺やあわの麺は中華そば系の料理、焼きそばや冷やし中華に使える。小麦とそっくり同じテイストではないが、(その必要もないと思うけど)料理法に合った食感と味である。グルテンフリーを始めたときに「さよなら冷やし中華‥」と呟いたけど、外食できないだけで、食べられるうぅ。

お好み焼きも天ぷらも米粉メインで問題ないし、あとはうどんだけ。タイとラオスの米粉とタピオカ粉を使ったカオピヤック(クイジャップ・ユアン)という半生麺が、茹でて水洗いしたらうどんに食感がものすごく近いのだけれど、日本では手に入りません。スーパーに行ってみると、日本の米粉の麺も最近はいろいろ発売されていて、味も進化してきたみたいなので、今後に期待したい。

お米の国、日本で育って住んでいるのだから、小麦が主食な国の人たちに比べたら、グルテンフリーはいとも容易いはずなのに、毎日お米のごはんではやっぱりさみしく感じる。小さいころから給食ではパンと牛乳を毎日、麺はスパゲティや中華そばをしょっちゅう食べていたことを考えると、小麦と乳製品を日本に大量に売りつけようともくろんだ占領国アメリカの戦後の学校給食戦略はおそろしいほど成功しているのだった。

グロッソラリー―ない ので ある―(32)

明智尚希

「1月1日:

(略)

なぜ (?_?) なぜ

 歴史上、幾千万以上の人間が死んできた。死後、彼らは何のメッセージも寄こしてこない。死後の世界があまりに素晴らしく、この世は無視に値するほど取るに足りないのか、業火に包まれ苦しくてメッセージどころではないのか、あるいは完全なる無となってこの世との縁が断絶したのか。人間は死そのものより死後に興味があるというのに。

【( ̄_ ̄)v】遺影

 薬味の効いた寸鉄で人を刺す。ふたつながらの勧進元は角をはやした。画がないのではない。師がいないのだ。岩佐又兵衛に菱川師宣。若き人類が見た夢。堕ちよ、生きよ。正弦波の遺伝的アルゴリズムの自己組織化現象は実はやおいという顛末。鉛の羽根、輝く煙、冷たい火、病める健康。今後は仮想的になんなんとす。心理的紐帯をちぎって。

( `ハ´) ワガハイガ師ダ

 とはいえ、鼻が詰まっていない人も楽観できない。常に鼻の通りはいいかもしれないが、ふと気づけばさらさらの鼻水が上唇を濡らしていることもある。いや、さらさらとはいかないまでも、ねっとりとした鼻水が鼻の下で何時間も落ち着いていることだってある。さらさらもねっとりも鼻水には変わりない。ちり紙でそっと拭き取ればよい。

σ( ̄ii ̄;) ダラー

 文化は精神、文明は物質だという。しかし文化のいかなる明察があれども、それとは無関係に文明はオートマチックに進む。文化の衰退はあっても文明の後退はない。二極分解しえるものが常に一対として語られる。現代は文明が優勢の時代である。そういう時代精神なのである。文化が副次的分際に甘んじている時、歴史的転換が起こりやすい。

ブンメイカイカノ <(个_个。) オトガスル

 1月1日:次郎おじさんは、僕の大好きなおじさんである。ただ無駄話で長広舌を奮う点に難がある。話が面白ければいいのだが、単なるだべりに堕している。それはともかく、次郎おじさんは永遠にこの本を読み続けることになるとかならないとか。僕のほうはといえば、慎重に慎重を重ねて考慮した結果、産まれてくるのをやめることにした。

(; ̄Д ̄)なんじゃと?

 いい歳をしておきながら、自分の発言内容の誤りを認めない人間がいる。誤りを認めないどころか、さも正論であるかのように主張し、相手のほうに非があると責める始末。この種の輩でも人間と呼ぶのだろうか。低劣で性格がひねており頑固、おまけに学がなく脳髄もいささか弱い。この手合いを愛せるか否か、博愛主義者の度量の見せどころだ。

(#゚,_ゝ゚) バカジャナイノ?

 「Cool Head but Warm Heart」。ケインズが師事したマーシャルの有名な言葉だ。聖者とされる人以外には当てはまらないのではあるまいか。先哲の言葉とは概ねそうである。この格言も事後に思い出す類いのものだろう。ケインズの信念のほうがぴんとくる。「It is much important how to be rather than how to do」。弟子がやや優勢か。

パチッ☆-(^ー’*)bナルホド

「ん? 右か。いや、左だ。まっすぐ? いや、やっぱり左で大丈夫だ。いや、駄目だ。右だ。え、左? それなら右だな。またまっすぐかよ。どこにするかちゃんとしてくれよ。もう右だ右。ああまた左だ。そこで右に来るかなあ。なんでそうなっちゃうかなあったく。ああもうすぐだ。左。右。まっすぐ。左。左。まっすぐ。うわっ」ガシャン。

自転車o孕o〜キコキコ

 全知全能の神は、何すべくしてこの世に生物を作ったのだろうか。太陽系における実験か。地球における推移の点検か。あるいは単なる観賞用か。そもそも全知全能なのだから、前二者は必要ないと考えると最後の一つということになる。だが、ペットたる人間・動植物の動向や一生も知り抜いているはずである。気まぐれにしては趣味が悪い。

~~\(゚-゚*)バサッ(*゚-゚)/~~ バサッ(-人-)

 しどくうどくの 婆さりめっけ
うんどく丸だら しゃほろいよ
めれべかんでれ なあ気をさるを
待ちらちてべて しんがるさよろ
なぶてぶっちゃり 刈りしゃぶよ

〈( ^.^)ノ ホイサッサ

 わしは犬になりたい。いつも上機嫌そうで、散歩している時なんかは尻尾をふりふりして実に愛らしくて健やかじゃ。見た目もそうなら、中身も充実しているのじゃろう。難しいことは考えずに食事を楽しみに待っとる。もし飼い主が夜逃げでもして、ただ一匹残されようもんなら死活問題じゃ。誰じゃ! 犬になりたいなどとほざいてるのは!

オテ(*゚▽゚)o”ヘU。・ェ・。U

 この国には四季があるという。そうだろうか? あるのは夏と冬だけのように思う。
春と秋はほんのおまけ。特に春はものの二週間もあれば長いほうで、冬日の翌日がいきなり夏日だったりする。秋も似たようなものだ。残暑が終わったかどうかのうちに寒くなる。秋はどこだ。この国の人は、意地でも四季に分けないと気が済まないらしい。

扇風機→”(((卍)))”o( ̄△ ̄o)ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛〜〜

 長生きは良いこととされている。誰もが長生きしたいと願っているとされている。いずれも死があるからこその表現である。人間は消耗品だから不老は免れまい。だがもし不死が実現したら恐ろしい。衰弱困憊の姿を超越しながら永遠に生き続ける。もはや生き物の埒外の姿形で横たわっている。我々は死があることに感謝しなければならない。

゚ヽ(*´∀)ノ゚.:。+゚ァリガトゥ

 やる気のある人間ほど使えない人材はない。

(´・∀・`) ヘェー

 困った時の神頼み。日常、神も仏もない生活を送っていながら、困窮状態に陥って弱りきっている時にだけ、手と手を握り合わせてひざまずき、にわかごしらえの教徒となる。硬直して祈る姿はまがまがしい人形でしかない。信仰心の薄いというより全くない上に弱り果てた人間の祈りなど、ひいき目に見てもとても宛先にまで届くとは思えない。

(;人;) オネガイシマス

さつき 二〇一七年六月 第二回

植松眞人

私の生まれ月を大切にしているようなないがしろにしているような不思議な両親だが、間違いなく私のことが大好きだ。家族愛とか言い出すと大仰すぎて気恥ずかしくなるが、まさに気恥ずかしくなるくらいに確実に両親は私を好きでいてくれることはわかる。
その割には毎年私の誕生日には誰もなにも言ってくれなくて、二日後三日後くらいに、ふいに「さっちゃん、お誕生日おめでとう」と父か母のどちらかが思い出して叫ぶように言う。小学生の低学年の頃は、これはわざとなのではないかと思っていた。忘れたふりをして私を驚かしておいて、私ががっかりした頃に声をかけて再び驚かせる。二重のドッキリなんだと私は思っていた。しかし、小学校も終わりの頃になると、ただただ両親が粗忽者であるということが私にもはっきりとわかるようになったのだった。なにしろ、二人の遺伝子をしっかりと引き継いでいるのだから。のんきな、というのか、ぼんやりしている、というのか。そんな気質を自覚するようになって、一人っ子の私は真面目に「几帳面にならなければ」と自分を律するようになったのだった。
高校の神谷先生が言うには、それが間違いの始まりだったな、だそうだ。
「それが間違いの始まりだったな。畑中の良さはのんきなとこなんだよ。それなのに、受け答えはやたらとハキハキしていて、何を頼んでも初動がものすごくいいんだよ」
「しょどうがいい」
私は「しょどう」という言葉がわからなくても問い返した。
「最初の動きで、初動。たとえばさ、今度、中庭の花壇をきれいにしなきゃいけないから、チームを組んで誰か担当してくれないか、という話をすると、いの一番に『はいっ!』って手を挙げるだろ」
「はいっ」
「うん、返事がよろしい。そんなふうに良い返事をしてくれるわけだ。そして、『じゃあ、私が何人かの声をかけて、チームを作っておきます』と言ってくれる。で、ここまでが初動だよ。初動はとてもいい」
「はい」
「でも、その後、実はのんびりしてるから、一人か二人に声をかけて断られたりすると、そこで全部ストップしちゃうんだよね。で、しかも、ストップしちゃってることも忘れて、『おい、畑中、あれどうなった?』って聞くと、お前、飛び上がって驚くだろ」
「はい…」
と、私の声をだんだんと小さくなっていくわけだけれども、神谷先生が言うには、最初からぼんやりした顔をしてくれれば、無駄な負荷をかけなくてもよくなるし、お前ももう少し気楽に高校生活を楽しめるのに、ということらしい。
でも、いまさらそんなことを言われても、私にはどうしようもない。一人っ子だけど、なんとなくのんきな両親のおかげで長女のような感覚で育ってしまったし、そこそこのコピーライターだった父は、そこそこだったおかげで飛び抜けた仕事にありつくこともなく、かといって、どうしようもない仕事に手を付ける気持ちにもなれずに、勤めていた広告代理店を辞めてしまっていた。最初のころはフリーランスで細かな仕事を拾っていたのだけれど、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」とあきらめ顔だ。まあ、諦められてもまだまだ物入りな娘としては黙っていられないので、お父さんはそこそこじゃないよ、たいしたもんだよ、なんて父を励ましたりしているのだけれど、当然のごとくあまり効果はない。
というわけで、いまの畑中家を支えているのは母のデザイン仕事だ。もともと母は私が生まれてからは自宅でやれるデザイン仕事を請け負っていて、人見知りの分だけ誠実に丁寧に仕事をこなすと言うことで意外に仕事が途切れない。ただ、母が言うには、仕事は途切れないんだけど文句も言わずにやってくれると思われているみたいで単価が低いのよね、ということになる。郊外の特急は止まらないけれど通勤快速は止まる程度の街で生まれ育った母は単価の安い仕事が続いても、それはそれなりにありがたいという気持ちで仕事に取り組むことができる人だった。
去年の年末に私と父と母による家族会議が開かれて、父は厳粛な面持ちで私の目をまっすぐに見てこう言った。
「さつき、君は六月生まれだけれど、さつきという名前を持った、とても奥深く勉強のできる子だ。だから、是非とも勉強をさらに頑張って公立の高校に受かってください」
もともと、家から一番近い県立高校を受験しようと思っていた私にとっては今更な話なのだが、父と母はどうあっても私に高校くらいは卒業してほしいということらしい。しかし、私立だと学費の負担が重すぎてそれが実現できないということなのだった。
私は話し終わって厳粛などどこに行ったのかと思うほどにホッとした顔をしている父に、奨学金の話をした。私は私で家庭の事情を察していたので、中学の担任の先生と相談をして奨学金制度があるということを知っている。先生にも、申し込むことになると思いますと伝えて、用紙もすでにもらっている。だから、できる限り公立高校を目指すし、どちらに行った場合も奨学金をもらって父さんと母さんには負担をかけないようにするから、と伝えた。それを聞いて、ホッとした顔をしていた父は、今度は涙をこらえる顔になったので、そういうことで頑張るわ、と自分の部屋に引き上げたのだった。
早い話が、わが畑中家は昨日NHKのテレビで特集が組まれていた『増え続ける新たな貧困層』に当たるらしい。毎日、ご飯が食べられないほどでもない。かといって、何もかも安心して暮らせるほどではない。もし、今日、母が病気で倒れたら、いや倒れないまでも、母の使っているiMacの調子が悪くなって二三日仕事ができなくなったら、もしかしたらそれだけで家賃の支払いが滞るかもしれないほどには貧困なのかもしれない。そして、そう思うと、なんだかみぞおちのあたりがキュッと締め付けられるような気持ちになるのだけれど、負けるわけにはいかない、と私は自分の部屋のテレビのリモコンを知らず知らず力一杯握りしめながら思うのだった。
そんな気持ちはいま目の前の神谷先生に対しても抱いていて、決して先生に同情されるような人間にはならないぞと、面談中に握っていた鉛筆が小さくギリギリと折れる寸前の音を立てたような気がしたので、先生が気付かないうちにそっと鉛筆を握りしめていた力を抜いた。(つづく)

『花粉革命』を踊って

笠井瑞丈

振付を踊る
形の連続性
皮膚と空気
生命的チカラ

振付を踊る
点と点の線
内面と外面
新しい生命

振付を踊る
線と面の間
肉と骨の間
消える肉体

踊りが生まれる瞬間
振付が生まれる瞬間
その瞬間に立ち会う

同じ空気を吸って
同じ時間を共有し
同じ空間を共有す

踊ることと感じること
二度と踊ることのない踊り

時間を空間で輪切りにする
カラダで縫っていく作業

振付と血液
同じカラダを共有すること

私の中にあなたが
あなたの中に私が

そんな新しい感覚が生まれる瞬間

万歩計と歩き方

冨岡三智

先月、携帯電話をやっとスマホに替え、使ってみたかった万歩計をインストールする。先月は奈良から岡山まで電車を6回乗り継いで仕事に行く機会がちょくちょくあっていたので、カウントをのぞくのを楽しみにしていた。その何日目かの仕事日、自宅を出て最寄り駅から電車に乗ったところで、ふと自宅から駅まで(徒歩2分)の距離ではどれくらいの歩数だったのか知りたくなって万歩計をのぞくと、カウントが続いていたので仰天する。どうやら電車の振動でカウントされているらしい。その後乗り換えるたびに他の路線でもチェックしたのだが、他ではカウントしない。

調べてみると、万歩計は足が着地した時の衝撃加速によって歩数を計測するらしく、歩く時に上下や横の揺れが大きい人は実際よりも多くカウントされるようだ。それにしても、じっと電車に乗っているだけで歩行状態だとは、最寄駅からの数駅間はかなり電車の振動が激しいのか…とあらためて思う。

衝撃加速で歩数を測るということは、衝撃が少なければカウントされないということでもある。ジャワ舞踊の歩き方なら感知されないかもしれないと思い、自宅で試してみる。ジャワ舞踊では腰を落として歩き、頭が上下する、つまり体が上下する歩き方はダメである。果たして、何十歩歩いてもカウントは進まなかった。平面だけでなく階段の昇り降りも何度も試してみたが、こちらもカウントしない。ちなみにケンセルという、歩くのではなく床を横滑りするような動きもやってみたが、これも歩数はカウントしない。電車に乗っていてもカウントされるのに、自分で移動していてもカウントされないのは、なんだか不思議である。ジャワ舞踊の静かな動きが数値化された…と言いたいところだが、爪先立ちして小走りするスリシックという動きでは、さすがにカウントされた。しかし、上手の踊り手は本当に空を滑るようにスリシックする。もしかしたら、歩数カウントされないような奥義があるかもしれない、と思えてきた。

製本かい摘みましては(128)

四釜裕子

楮の皮をむきに茨城の利根町に行った。日本画家の中村寿生さんが中心となって始めた「文間(もんま)楮――利根町で育てる紙ノ木プロジェクト」の作業にまぜてもらったのだ。中村さんは廃校を活用したアートネ・アートスタジオに草茅舎という工房を構えていて、その庭に2011年から180株ほどの楮を育てて収穫し、新潟の門出和紙の工房で「文間和紙」として漉いてもらっているという。

取手駅で合流した車でしばらく行くと、明日は田植えかな、という田んぼががときどき見えてきた。同乗した青年が「うちも今日から田植えです」という。「いいのか?(by 先生)」「いいんです」「ほんとか?」「じいちゃんには悪いけど明日倍働きますから」「おおー」。「何反歩とか何ヘクタールとか言われてもわからないから今見えている田んぼと比べてあなたんちの田んぼはどれくらいあるの?」と聞いて驚いた。大農家じゃない。

着くとすでにたくさんの人がいた。陽射しも強く、晴れやかな佳境感がまぶしい。建物の外にすえられた窯から湯気があがっている。お昼は用意ありと聞いていたのでとっさに「うまそう」と思ったのだけれどもそうではなくて、1メートルくらいに切り揃えられた楮の枝を縦にして続々投入されている。ぎっしり詰めると上から木樽がかぶせられ、これから2時間蒸すという。やはり作業のタイミングを逸したのだろうか。建物の中に入ると、これまたたくさんの人がブルーシートを敷いた床に座って楮の皮をむいている。窯で蒸しては皮をむいて乾かすという作業を、この日、何度も繰り返すらしい。

軍手をはめて手順を習う。蒸したての楮は熱く、さつまいもやとうもろこしのようないい匂いがする。蒸すことで楮の中身が膨脹するようだ。枝の先っぽを両手で雑巾を絞るようにねじると中身から皮が離れ、それを手がかりにしてむいてゆく。手がかりさえつかめれば、シャー、シャーと、むける。蕗の皮むきと要領は同じではないか。ぐるり手がかりをつかめばまとめていっきにめくれそうだがそううまくはいかない。山積みにされていたであろう楮は間もなくなくなった。隣の少年が「もうないの〜?」といった。私も次の蒸し上がりが待ち遠しい。

むいた皮は6、7枚づつ上下をそろえて藁で束ねる。ぎゅうぎゅう縛らない。藁の先をひけばスルッと解ける方法を教わるが、皮がけっこう固いので難儀する。上下をそろえるのは後日の作業のためらしい。刃物で表面の皮をそぐのに向きがそろっているほうが効率がいいということか。これを風通しのいい通路に渡した丸太にかけて乾かす。かびがはえぬよう、注意が必要とのこと。干したようすはさながら昆布である。

身ぐるみ皮をはがれた枝は表面に綿のような繊維がわずかに残っていて、直径は2センチ程度、固くて真ん中に穴が通っていた。黄色みを帯びた白い肌が美しい。束ねられて次の薪になるのだが、子どもたちは外に出てコンコンといい音をさせてチャンバラをし、学生たちは両手に持ってストレッチをし、疲れた人は杖にして歩き、私たちも何かにできそうと2本ばかり選んだのだった。

外では窯の周りにひとだかりができている。隣に広がる楮畑は数センチの幹を残して刈り取られているわけだけれども、数本残された幹にホワホワした赤い花が咲いていた。刈り取ったままの幹も転がっていて、丈は3メートルもあろうか。1年でこんなに伸びるとは! 幹を太く長く育てるために、またのちに皮をむくときのやりやすさや最終的な和紙の美しさのためにも、夏のあいだの芽欠きが大事と聞く。話を聞きながら一連の流れがまざまざと浮かんだ。

結局つごう3度、皮をむいた。家に帰って改めて、寛政10(1798)年刊『紙漉重宝記』を見る。「楮蒸しの図。……二尺五寸三尺ほどに切て蒸す しバらくして小口のかハ少しむけかかるを見て熟せしを知る……」「楮皮を剥ぐ図。……手にもち皮をむきとるなり 中の真木たきぎの外用立なし」「楮皮干しの図。……くくりめをあバきよく干すべし……」。ほぼこの日見たままの図。非効率とか伝統の技とかいうのではなくて、いかにこれが人が楮から繊維をとりだすのに身の丈に合った方法かということだろう。

足をとめる

若松恵子

伊勢真一監督の『いのちのかたち』を下高井戸シネマで見た。絵本作家いせひでこを描いた、2016年のドキュメンタリー映画だ。

宮城県亘理町の吉田浜。いせひでこは、津波で倒れた1本のクロマツに出会う。東日本大震災で被災した友人を伊勢監督が訪ねた私的ロードムービー『傍(かたわら)』の撮影に同行していた彼女は「そこにいなかったこと」の意味の大きさ、深さを感じてスケッチ帳は持っていたけれど、歩く以外何もできなかったという。そんな時、無人の荒野に倒れて横たわる1本のクロマツに呼び止められる。「描きなさい、わたしを」というクロマツのピアニッシモの声を受けとめて、「えんぴつでそのいのちの姿を記憶すること」に取り組む。横たわるクロマツに雪が降り積もる映像と、いせひでこが想像の中で描いた雪のなかのクロマツの絵が同じ存在感を持って登場する。クロマツとの出会いから4年にわたる画家の旅を描いた映画は、絵本のような余韻を残した。

多くの人が通り過ぎ、見過ごしてしまうものたちに、静かなまなざしが向けられる。いせひでこが足をとめて見つめるものを伊勢監督もまた傍らで見つめている。倒れて横たわるクロマツは、いせにとっては「いのちのかたち」そのものに見えてくる。そのかたちをスケッチすることで、クロマツを自分のなかに刻み込む、記憶しようとする。記憶するという事は、そのものの存在を大切にするということ、愛するという事だからだ。

銘木でも何でもない、倒れてしまった木に足をとめる。通り過ぎることができないという思いを抱く、その姿に心を打たれた。そんな感想を持ったのは、『永山則夫―封印された鑑定記録』(堀川恵子 2013年岩波書店)を読んだばかりだったせいかもしれない。

堀川恵子もまた、忘れ去られようとする永山則夫に足をとめた人だった。この本は、永山則夫の遺品の日記を丁寧に読むなかから、精神鑑定に際して録音されたテープの存在に気づき、278日間にわたる対話を聞くことで、その封印された鑑定記録に光をあてた作品だ。カウンセリングの手法により永山に寄り添い、彼といっしょに幼い日々に戻り、事件に至るつらい日々をたどることで、連続射殺事件に至る真の理由をみつめようとした石川医師もまた、永山の声なき声(ピアニッシモの声)に足をとめた人であった。

石川医師に対して永山が語ったことは犯行直後の供述と矛盾し、石川鑑定自体の信憑性が疑問視される。そして裁判で取り上げられず、封印された鑑定記録となったのだった。しかし、子どもの虐待や貧困が問題となっている今、石川医師と永山則夫の対話から考えさせられることはとても多い。

映画の中で、いせひでこが語っていたことが印象に残った。「根っこもいいけど、津波で倒れた木の根っこがガラスを突き破って入ってきてたくさんのものを流していったんだよ」と言われたことがあって、その時に、彼女は、被災した人たちがどういう思いで自分の絵を見ていたんだろうと考える。でも「言葉もなく、絵もなく記憶もなく、見もせず、通り過ぎて、通り過ぎた事さえ自分が気づかず・・・ていうくり返しだったら、一人の人にも伝えることはできないってことなんですよね」「だから、そんな何百人、何千人に伝えようなんては思ってない。一人でも・・って思ったら、やっぱりどこかで足を止めるんだなって、それをやってきたんだな、とは思ってますけど」(『いのちのかたち』パンフレット映画採録より)絵の傍らで彼女はこう語るのだ。

いせひでこのこの言葉には、堀川恵子の仕事、石川義博の仕事にも共通するものを感じた。足を止める人が居ること。そのかけがえのなさを想う。たとえそれぞれは、ひそやかな行為であったとしても。

別腸日記(5)水を飲むこと

新井卓

夜更けにひとり、キッチンで水をのむ。カルキのほのかな生臭さを帯びたぬるい水──それでも、上等の氷砂糖を一片、溶かし込んだような甘やかな味がするのは、宿酔いのなせるわざだろうか。そんなときいつも、山頭火の「へうへうとして水を味ふ」の句が頭にうかび、へうへう、という声かたちのまま、背を丸めコップに口をつけて水をむさぼる自分の姿は、まるで大きな蛙かなにかのようだ。

2005年の梅雨どき、中越地震から半年と少し過ぎたころ、雑誌の仕事で新潟へ旅したことがあった。取材先の酒造会社をたずねると、担当の男性はひとしきり震災の話をし、それから不意に、わたしたちに問いかけた──なぜ、米どころ、酒どころに地震が多いか知ってますか? 日本という火山帯では、地殻活動が激しい土地ほどミネラルを含んだいい水が湧きだすんです……。
それから、新潟から山道を抜けて被害の大きかった小千谷に向かった。たしかに、彼の言うとおりなのかもしれなかった。
山肌を縫いトンネルを越えるたび、山野の緑は密度と強靱さを増していく。中越や東海、山陰あるいは東北の山あいなど、どこでも大きな広葉樹につる性の植物が覆い被さり、隙間もなく下生えが密生する日本列島の極相林は、ほかのどの国にもない凄みを帯びている。都市や里を離れ一歩藪に踏みいれば、自然はわたしたちを浸食し脅かす存在でもあったことを、忘れていたあの身体の緊張とともに、思い出すことになるだろう。
養鯉農家では、得意先のために早々と錦鯉の売り買いを再開していた。生け簀を循環する、昨晩飲んだ吟醸酒のようにとろりとして重たい水。模様や大きさによってより分けられた鯉たちが、プラスチックの青い盥に浮かんで身動きもせず、ゆっくりと鰓を動かしている。その姿を凝視していると、渇いてもいない喉が無性に渇いてくるのだった。

他所の国から東京へ帰ってきた途端、ああ帰ってきたのだ、と思う、その感覚の大部分はおそらく大気の湿度から来ている。空港を出て一息、戸外の空気を吸い込めば、したたり落ちるようにもとのくらしへ溶け込んでいくのは、風呂水に身を沈めるように、わけもないことに思える(しっとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地ここちおぼゆる/石川啄木)。大岡信が言ったように感情も思想も、身体の七割を占める水が感じ、水が考えているのだとすれば(『故郷への水のメッセージ』1989年)、この土地では思考と言葉は湿度を帯びて形なく漂い、人々は水の不分明に生き個々の境界なくうつろっていくのだろうか。

夜更けのキッチンで、ひとり、水を飲んでいる。地上のあらゆる生きものたちのように、取り残され、干上がりつつある一つの潮溜まりとして。

自由の地はどこにあるのか

西荻なな

次はどこへ行くべきか、ということが、しばしば周囲で話題になる。

それはちょっと旅に行ってこようと思うんだけど、いま旅するならばどこだろうか? という会話で始まることが多い。ひとり旅に慣れた女性たちは不思議と友人にいるもので、主要都市は一通りめぐってしまったから、次はメキシコだ、いやギリシャだ、はたまたインドのジャイプールだ…などと、未だ見ぬ地を探しての“辺境語り”になることが多いのだが、その先にはそれぞれに、日本を脱してさてどこに住むべきか、という未来への思考が続いている気がしてならない。

とりわけ東京近郊、特に東京の何の変哲もない土地に生まれ、上京という大きな引越し体験もが不足している者たちにとって、叶えるかどうかは別として、移住の地をあれこれ妄想してみることは、わりと現実的で切実な問題なのだ。もちろん、世界のどこへ行っても驚きの程度は昔ほどではないのかもしれない。まだ見ぬフロンティアを探すならば、何かをとことん突き詰めて、発見なり創作なりをするほうが、よっぽど意義深いことに思える。同じような風景、同じようなインフラが整備されている環境で育ち、着る服も、暮らしや仕事への価値観もどこか似通っていると、同世代ならば国境を超えて感じられることも多い。

でもそれでも、とりわけ同性の友人たちは“いまここ”ではないどこかを夢想し、緩やかな死に向かいつつある日本から抜け出そうと思っているような気がする。

旅、というよりも、次に住む地を探している旅の途上。それが期間限定で終わるのか、それとも現実のこととなるのかはわからない。でもその間、少なくとも思考は自由でいられる。

少し長期の休みをとって、オランダへ行ってきたのだが、それは今思う“自由”のイメージが、なんとはなしにオランダだったからだ。といってもLGBTに寛容、ドラッグも合法、といったわかりやすい自由の話ではなくて、グラフィックデザインを学びに再度留学した友人や、建築を勉強しに1年間滞在していた友人など、自由を謳歌する知り合いの顔が思い浮かんだからかもしれない。

そういえば、ベーシックインカムを実験的に導入しているような話も聞いたし、古い老舗の新聞社を退職して画期的なメディアを立ち上げた若きジャーナリストたちも、オランダの人たちだった。記憶の断片に、ディストピア的な未来をみすえて、なんだか新しい機運が生まれているような話が思い浮かんだ。

後付的に言えば、オランダ、イギリス、アメリカ、と世界の覇権国が移り変わってきて、もはや覇権国などなくなってしまった時代に突入した今、かつて栄華をきわめた国に行って、取り残された地で何が起きているのか、時間的な“辺境”を探ってみたかったのかもしれない。ここが世界の中心、という軸がゆらいでボーダレスになったかのように見えて、かえってカオス度が増したいまの世の中、降り立つとしたならば、それは時代的にも空間的にも取り残されたように見える、エアポケット的な場所なんじゃないか。そこにこそ自由の気風はあるんじゃないか。なんとなくの予感とともにアムステルダムの地を踏んで、帰ってきたいま、じわじわとその思いを強めている。

無機質で冷たいように見えて機能的で実はカラフル。駅舎や建物、家具のデザインを見て抱いた感想はそれに尽きるのだけれども、一見なんの変哲もなく見えて合理的、でもそれは暮らしの豊かさをむしろ捨てていない合理性なのでは、と感じ入ったのは、運河に集う人たちのあり方と、自転車に乗る風景そのものに現れているように思ったからだ。アムステルダムにしても、アムステルダムをもう一回り小さく牧歌的にしたユトレヒトにしても、街を貫く運河が街のリズムをつむいでいる。

運河の両脇には狭い国土を縦方向に利用したアパートが立ち並び、窓越しにのぞけば、人々の暮らしが見えるようだ。3フロアを機能的に使い分けているような風情、でも花や自転車が彩りを添えている。行く右手にアパートの変化を見ながら運河の脇をずんずん進んでいくと、街のゆるやかな表情の変化も感じられて、夕方にはミントティーやハイネケンを飲んで楽しそうにおしゃべりをする人たちが数多く外の時間を堪能している。誰もがスマホを手にすることなく、熱心におしゃべりに興じていて、日本では、とりわけ東京では忘れられた風景だと思った。お土産を探そうと思っても、オシャレな洋服を置いたお店があるわけでもなく、むしろ“coffee shop”が数多くみられて、通りすがりに煙草ではない香りが立ち込める。暮らしに重きがあるのか、雑貨や日用品を扱ったお店が数多くあるのは印象的で、外よりも内実を充実させるような趣さえある。

15世紀にはエラスムス、17世紀にはスピノザが生まれ、『方法序説』を書いたデカルトやジョン・ロック、ヴォルテールもが移住したり、あるいは亡命の地として一時を過ごしたオランダ。経済的な繁栄と軌を一にして、国の形の定まらないオランダはヨーロッパのエアポケットとして自由の気風を育んだ歴史があるのだと思う。それは今も形を変えて、逆にちょうど時代が一回転して、そこにあるのではないかと思えた。日がな一日、運河を前にぼーっとおしゃべりをしたり、本を読んだりする。これといって何もないけれども、シンプルでどこにいっても美味しいスープの味に歓喜しながら、ユトレヒトでしっかりアパートの値段をチェックして帰路に着いた。

がんとサッカーとシリア難民

さとうまき

ヨルダンのザータリ難民キャンプ。成長しないシリア難民の女の子がいるからみんなで手術を受けさせようと募金集めをすることになった。

しかし、その女の子は、ヨーロッパに移住が決まったらしく、手術はヨーロッパで受けることになった。そこで、急遽ほかにも手術が必要な子どもを探してほしいといわれ、ヨルダンにあるキングフセインがんセンターに相談したところハリッド君という16歳の青年が骨髄移植が必要だというのだ。

2013年、ハリッド君はシリアのダラーからヨルダンに避難してきた。お父さんと一番上の兄は、ダラーに残ったが、その後ヨルダン政府は、国境を閉鎖してしまい、家族は離れ離れのままだ。10人の兄弟姉妹とお母さんでザータリキャンプに入ったが、ハリッド君が喘息を持っていたので、1か月でキャンプをでた。国連の支援で230JD=36000円ほどもらっていて家賃15600円ほどを払っていたが、昨年の10月からはもらっていないそうだ。

ハリッド君は学校に通いながら、一日400-500円ほど稼げるパン屋のバイトをしていた。ある日、同僚から顔が腫れているといわれ検査をしたらリンパ腫だとわかったのだ。化学療法をやってもあまり効果はなく、骨髄移植しかないといわれた。

「一体骨髄移植したらいくらかると思う?」
1000万円近くはかかってしまうのだ。そんなお金は、難民でなくても払えないだろう。私たちの集めたお金で治療を再開し、ヨルダンのNGOが引き続き募金を集めてくれる。私たちは、支援金を振り込んで、ハリッド君の骨髄移植を支援することにした。

3月、病院にお見舞いにいくと、4日間は入院し、その後一日ごとに投薬を繰り返すような化学療法がはじまっていた。その日はお母さんとおばばちゃんが、ハリッド君の面倒を見ていたが、夜になると女性は出ていなかんければならないので、お兄さんがやってくる。しかし、一家を支えているお兄さんは、仕事も思うようにできないと嘆いているそうだ。。

ハリッド君は、薬の副作用で髪の毛が抜けていた。ハリッド君はあまり元気がなかったが、サッカーが大好きで、先日ワールドカップの予選でシリア代表がウズベキスタンに勝利したことを喜んでいた。「体制派、反体制派とか関係なく、サッカーではシリアを応援する。フィラース・ハティーブという選手は反体制派で、チームを去ったけど戻ってきたんだ。僕はシリアの選手すべてが好きなんだ!」

好きな選手を強いてあげれば、「バッセト選手が好きだったけど」という。
バセット選手は、シリアを代表する若手ゴールキーパーで、シリア代表U17、U20にも選ばれ、将来を有望視されていた。非暴力のデモに参加。若者たちを引っ張っていくが、やがて銃をとるように。ドキュメンタリー映画「それでも僕は帰る」に主役として登場する。

血気盛んで、演説もうまくリーダーシップを発揮していくバセットだが、戦いは長引き、おそらく多くのシリア人は、自由とか、民主主義とかそんなものはもうこれっぽっちの美しさも感じなくなってしまっている。ボールの代わりに銃を持ったバッセットにもシリアの若者たちもそろそろ愛想をつかしてしまったと見える。バセットは魂の抜けた抜け殻のようにしか私には見えなかった。

日本とシリアは似ているところもある。民主主義が大事だと若者が声をあげたが、大人たちの世界はそんな生易しい世界ではなかった。バセットは、リーダーであろうと狡猾に立ち回ろうと策をねりながら葛藤し成長していく。対照的に、ベッドの上のハリッド君は、純粋にがんと闘っていた。病魔に追い詰められる子どもたちがどんどんピュアになっていく姿を私は今までも見ていた。

シリア代表チームが来日し、日本代表と親善試合を行うというニュースが飛び込んでくる。隣にいたお母さんも、「絶対シリアがかつわ」と意気込んでいる。

6月3日 14:00からシリアのドキュメンタリー映画:「それでも僕は帰る」を上映します。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://jim-net.org/blog/event/2017/05/63.php