さつき 二〇一七年十月 第六回

植松眞人

母が見つけてきたのはとても小さな一戸建ての家だった。小さいけれど真っ青な屋根瓦の二階建てだった。一階は六畳間と台所とお風呂とトイレ。二階は四畳半の小さな部屋と押し入れとベランダがあるだけだった。それでも、母は気に入っている様子で、「ほら、一緒に散歩しよう」と私に言って、家の周りをぐるぐると歩いた。家の周りを歩くだけなら、百歩もいらない。五十歩ほどで一周できるほどだった。
「この家の屋根瓦の青いのが気に入ったのよ。曇っていても雨が降っていても、うちだけ青空みたいな感じがして」
母はそう言うと、しみじみとした顔をして、真っ青な屋根瓦を眺めた。私も母と同じように屋根を見た。空は真っ青に晴れていて、でも、これから住む家の屋根は、空よりも青いかもしれないと思うくらいに見事に青かった。

十月になってすぐに母のお気に入りだった家を出て、青い屋根の家に引っ越した。ほとんどの荷物を処分して、どうしても置いておかなければならないものだけを残しておくようにと言われて、私は子どものころに大好きだったぬいぐるみを半分に減らそうと頑張った。これは持って行く。これは処分する。そう呟きながら、大きなゴミ出し用のビニール袋にぬいぐるみを分けていった。持って行くぬいぐるみがビニール袋に三袋。処分するほうは三袋になった。
片付けがほとんど終わった自分の部屋の隅に置かれたぬいぐるみの入った六袋のビニール袋を眺めていると、持って行くものと処分するものとの境界線がとても曖昧で、本当はもう少し持って行けるんじゃないか、とか、あれを処分するなら、これだって処分した方がいいんじゃないか、とか。私は考えすぎて、それなら、とあえて声に出して、ぬいぐるみは全部処分することに決めた。
二階の四畳半は私の部屋になった。自分の部屋なんかいらいよ、と私は言ったのだが、母は「年頃の女の子なんだから、ちゃんと自分の部屋を持って、きちんと整理線頓しながら暮らすことを覚えたほうが良いのよ」と言ってくれた。そして、「でもあなたの部屋を通ってベランダに洗濯物を干しに行かないといけないから、プライバシーはあんまり守れないかもしれないけれど」と笑った。
私は前の家の半分ぐらいの広さになった自分の部屋を眺め、その部屋から見える窓の外の景色を眺めた。家の隣が古い平屋だったので、都会の二階なのに、意外に景色が広々としていた。
母も私と同じように、おそらくいろんな覚悟をして容赦なく荷物を選別した。あまり悩まず、次から次へと荷物を選別していく。そして、帰ってこない父の荷物は自分の荷物の倍くらいの速さで選別した。
荷物が驚くほど少なくなったおかげで、引っ越しは半日ほどですんだ。いらないものはゴミ処分場に運んでもらい、必要だけれどどうしても新しい家に入らない家電や場所を取る荷物は、母の実家へ運んだ。
テレビのニュースでは北朝鮮のえらい人と、アメリカの大統領がののしり合っていて、時々ミサイルが発射されたりしていた。
「ミサイルが撃ち込まれたりしている時に、引っ越ししてるなんて、なんか八月にテレビで見た戦争映画の疎開みたいだね」
私がそう言うと、母は笑った。
「そうだね。でも、いまだって戦争みたいなもんだよ」
母はそう言って少し引っ越し作業の手を止めた。
「昔の戦争は国と国との戦争だけど、こんな時に解散総選挙をやろうっていう首相がいるんだから、国と国だけじゃなくて、国と私たちも戦争してるみたいなもんだよ」
そう言って、小さく早く息を吐いて、母は立ち上がり、空になった段ボール箱を折りたたんだ。

父が帰ってきたのは私たちの疎開のような引っ越しが終わって、十月も半ばにさしかかったあたり。友だちたちがシルバーウィークのことを話題にしだした頃だった。
父がふいに帰ってきたのは、土曜日の遅い朝に、母と私が朝食を食べている時だった。帰ってくるなり父はこう言った。
「ねえ。シルバーウィークって僕らが子どもの頃、十一月の頭だったよね」
出て行った日に着ていた見慣れたシャツをきて、いつものジーンズで帰ってきた父は、やせてもいなかったし、太ってもいなかった。ただただ、いつも通りの父がずいぶん前からこの家で一緒に暮らしていたかのように現れて、シルバーウィークの話をし始めたのだった。
「そんな気がするわね。確か、十一月の文化の日のあたりだった気がするもの」
と、母も父と会うのが半月ぶり、という表情をおくびにも出さずに話し始めた。普通は朝出て行って、夕方に戻ってきた人に対しても「お帰りなさい」とか「今日はどうだったの」なんて聞くもんだろうと思ったのだが、妙なあうんの呼吸のような会話は、私の立場を少し追いやって、ただでさえ狭い一階の六畳間で片隅で私は父と母が話すシルバーウィークの話を聞いていた。
二人はひとしきり話すと、少し黙った。
「お帰り」と母が言うと、
「ただいま」と父が答えた。(つづく)

グロッソラリー―ない ので ある―(36)

明智尚希

良い思い出に浸って、悪い気分になる。

子供は本能で動く、大人は煩悩で動く。

期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいのを期待したいのを……。

まもなくまもなく言うな。このあとすぐこのあとすぐ言うな。

できると思うことはやるな。できそうだと思うことをやれ。

酔いは酔いのための酔いであってはならない。酔いは何かに向けられて初めて酔いとなる。酔うことで上っ面の屋根と建屋が吹っ飛んで、地中からめきめきと育ってくる恐るべきものがある。

真夏のカンカン照り。砂は我が名は砂であると虚勢を張りながら胸を張る。そこへゲリラ豪雨、泥。

【散々文のはじめ】

「あなた普通の人じゃないね」との風俗嬢の慧眼に小さく小さく憤慨する。

あまり車の通らない道を、一台がさっそうと通る。次もあるのではと思う。(ここはチャリンコルーレットの場だ)

原稿に向かうには、夏ならば冷房がきんきんに利いた空間が必要だ。

義務があるだけ幸福だ。

暇だからといって飲酒してはいけない。

睡眠障害、鬱病、パニック障害、不安神経症、空間恐怖症、対人恐怖症、心身症、起立性調節障害、自律神経失調症、統合失調症陰性、神経性じんましん、気分変調症、大球貧血症、神経性片頭痛、アルコール依存症、色弱、震顫、軽度てんかん、腎臓病、慢性中耳炎、難聴――僕らはみんな生きている。

本は読めない。着想の嵐に立ち向かえないから。

長い沈黙は、過去をたぐり寄せる。

逆境は逆境。乗り越えられる逆境などない。

好きになるのは早いが、嫌いになるのはもっと早い。

自分の中に、自分などいない。

幸運は飽きっぽい性向。あきらめても、続けている人に、不承不承に目配せする。

何かを信じるには、信じる基盤を保つための素養が必要である。

人が恐く、嫌いではない。

生きてりゃあ死ぬことだってある。

生きている限りは人間ではない。

人の不幸に接した時のみんなの陰湿にして盛大な喜んでいる顔ったらない。

他人は、ちょっとした失敗をした人間を、あらゆる方策を講じて糾弾する。

【散々文の終わり】

人格者はえてして模範的な傍観者になりやすい。

叶わなかった夢、報われなかった努力、それらが夜の暗闇の正体だ。

アルコールで苦しみ、アルコールで楽になる。

日中は酒を飲む。現実という裏社会から逃れるためだ。

歌われている、苦しみ、悲しみ、痛み、そんなもの実生活で総ざらい経験した。

すれ違いざまに、いちいちこちらの顔を見るなよ。

種類の憎しみやら悲しみを抱えながら、紙を破る。

不快を恐れて感覚を殺していたら、不感症になってしまった。

男は忘れようとして忘れられないが、女は忘れようとしなくても忘れる。

命の危機にあっても他人は冷たい。結局は自分が第一。

すがるものが何もないというのは、何事にもまさる強みだ。

人は小さな不幸には興味を持つが、大きな不幸となると退散する。

死ぬことほど、簡単で難しいことはない。

一人の生命より重いもの、それは個々人の生活の安泰だ。

週末の飲んだくれた帰り道、わしは友人から突然やや厚めの封筒を受け取った。家で読んでみてくれと言う。友人も別の誰かから受け取ったらしい。アルコールが入っていたこともあり、ことの顛末や封筒の中身については何も聞かずにそのまま友人と別れた。
翌朝、その封筒を開けてみると、右上をゼムクリップでとめられたA4サイズの紙の束が出てきた。断章と顔文字がずらりと横書きに並んだワープロ原稿だった。表紙には「グロッソラリー ―ない ので ある―」とあり、下のほうに「忽滑谷源八郎(※ぬかりやげんぱちろうと読むのか?)」と記名してあった。
なぜわしにこのような原稿を託したのか判然しないまま、とりあえず少しずつ読み進めてみることにした。細かい内容には触れまい。ただ、断章はバラエティ豊かで、口語体もあれば文語体もあり、扱う分野も多岐に渡っていた。アフォリズムもあるし実験的な試みもしている。体裁の整合性が取れているとは言い難いが。
そうした奔放さや顔文字の多様から、若いかもしくは複数の書き手によるものかとも思ったが、「わし」と表現しているのを素直に受け止めれば、年配の人間による作品としておくのが穏当だろう。しかしよくここまで書いたものだと感心もした。

さて、タイトルにある「グロッソラリー」とは何のことか。外国語を含む辞書類には一切載っていない。インターネットでかろうじて一件だけ引っかかった。種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』である。早速購入し「グロッソラリー」について調べてみた。氏の定義では、「霊媒や意識不明者の発する言葉」とあり、また「グロッソラリーは『グロッソ』(舌の・言語の)と『ラリー』(l(エル)とrの音の区別がつかず、まさにラリること)の結合語である」としている。
その他のナンセンス関連の本を渉猟したが、「グロッソラリー」については上記の説明しか得られなかった。おそらく言葉としては存在していながらも、使われる機会が極端に少なく、決定的な意味はないのだろう。外国語スペルが見つからなかったのもその証拠と言えよう。忽滑谷氏は酒への言及も多いことから、酔って意識が混濁した状態で書いたと言いたかったのだと推測できる。
また「ない ので ある」のダブルミーニングについて、「ないからある(無という有)」と「ないのである(無)」という具合に作品内容を両方に位置づけたのだろう。こうした曖昧性、意味が複数取れる表現、更には意味の所在が明らかでないものも本文に散見される。また、断章と絵文字のバランスが必ずしも妥当でないこともある。著者の持ち味と解釈しておく。しかし断章の文字数をほぼ統一している点がある一方で、前掲のように不統一な箇所もある点は疑問に残る。何でもありという考えなのだろう。
前置きはこれくらいにして、まずは読んでみることをお薦めする。忽滑谷氏が健在であることを祈りつつ。

ジャワ舞踊の衣装(1)下半身の衣装

冨岡三智

今回からしばらくジャワ舞踊の衣装を紹介しよう。ここでは私がやっているスラカルタ様式の舞踊衣装の説明が中心になるのだが、その前にジャワ舞踊が指し示す範囲について説明しておく。というのも、衣装には地方や様式の差がはっきり表れるからなのだ。

一般にジャワ舞踊はジャワ島で踊られる舞踊だと解されているけれど、伝統芸術の分野では、ジャワ島中部の王宮都市であるスラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(短くジョグジャと呼ばれる)の様式の舞踊だけをジャワ舞踊と呼ぶ。ちなみに、ジャワ島の西部(スンダ地方)の舞踊はスンダ舞踊、ジャワ島東部の舞踊は東ジャワ舞踊と呼ばれて、ジャワ舞踊とは区別される。また、ジャワ島中部のソロとジョグジャ以外の地域にもいろんな種類の地方舞踊があるのだが、それらもジャワ舞踊には入れない。つまり、中部ジャワの2つの王宮の影響を受けて、そのお膝元で発展した舞踊だけがジャワ舞踊なのである。

前置きが長くなったけれど、ここから本題。ソロ様式の舞踊にはいくつかの種類があり、種類ごとに着付が変わる。このシリーズでは、部位ごと―今回は下半身―に注目して、舞踊の種類ごとに衣装がどのように違うのかを説明してみたい。以前にも書いたことがあるが、東南アジアの伝統衣装は、おしなべて下半身が伝統の染めや織りの素材、上半身にビロードなど外来素材を使うことが多い。

●カイン・バティック

ジャワ舞踊では下半身にバティック(ジャワ更紗)と呼ばれる布=カインを巻くが、日本人がジャワ更紗と聞いて想像するような赤や青色を使った花鳥柄はジャワ舞踊では使わない。ソロやジョグジャのバティックは地味な茶色が基調で、舞踊にはパラン(波型刃の剣)模様という半ば抽象的な柄を用いる。パラン模様は、本来王族だけが着用できる禁制柄である。

普通の正装の場合、ソロではソガ色(黄色がかった茶色)のバティックを着、ジョグジャでは焦げ茶と白のコントラストの強いバティックを着る。そのため、なぜワヤン・オラン(舞踊劇)ではソロでも白のパラン模様のバティックを着るのか疑問に思っていたのだが、亡き師匠が言うには、ソロでも以前は舞踊には白地のパラン模様のバティックを着るのが普通だったそうだ。なぜなら、それはソロとジョグジャに分裂する以前のマタラム王家の意匠だからだという。

しかし、舞踊劇以外の舞踊作品ではソガ色のバティックを着用することが多い。それはソロらしさを強調するため、ジョグジャではなくソロの舞踊だと強調するためだろうと思われる。たとえば、今やソロを代表する舞踊にガンビョンがある。これは1970年代以前は一般子女が踊るにふさわしくないとされ、商業劇場の踊り子しか踊らなかった。そのガンビョンの衣装にはソガ色のバティックを着ることが多いが、1950〜60年代には色物のカインを着ていたという話を聞いたことがある。色もののカインを着るというのは、つまり、ジャワ王宮の舞踊ではないということを示しているのだ。それが、王宮の舞踊の影響を受けて洗練され、芸術高校や芸術大学で欠かせない演目となってくると、バソロらしく、王宮の雅を取り入れたバティックを着るようになったということなのだろう。

●着付

スラカルタの女性舞踊には、サンバランと呼ばれる裾を長く引き摺る独特の着付がある。通常のバティックより1mほど長い。これは王宮で踊られていたスリンピやブドヨ、あるいはワヤン・オラン舞踊劇でも着用する。また、もともとこの着付をしないゴレッという舞踊でも、この着付をする演目がある(『ゴレック・スコルノ』、『ゴレック・マニス』など)。

サンバランはジョグジャカルタ舞踊にはない着付である。私が聞いた人は、本家のソロ王家がジョグジャ王家に使用を許さなかったのだと言っていた。実は、マタラム王家はソロとジョグジャの2王家に対等に分裂して消滅したのだが、分裂当時の王都(スラカルタ)や王の名前(パク・ブウォノ)を引き継いだソロの方が本家だと見なされている。ソロ王家は相手に使用を許さないというやり方で、自らの権威を表現しているのだ。

前項でも言及したガンビョンやボンダン(子供をあやす舞踊)では、通常の正装用の着方と同じように前身頃に襞(ひだ)をとったバティックを巻く。この襞は女性なら指1本分の幅で、端からきれいに折りたたんで作る。ソロとジョグジャではバティックの色が違うだけではなく、襞の取り方や巻き方も異なっている。ソロの場合、襞の数は7本〜13本で奇数になるようにする。

ゴレックと言えばジョグジャを代表する舞踊だが、ソロにもゴレックがある。ただし、ジョグジャのゴレックが大人の女性用の作品で、音楽や振付が複雑であるのに対し、ソロのゴレックは子供用で単純だ。私の亡き師匠が子供の頃(1930年代)にはすでに子供用として定着していたと言う。ゴレックでは体の右側か左側に――ということはどっち向きに巻いても良い――大きく襞を作って着用する。ソロ王家の子供用の着付にはない巻き方だから、ジョグジャ舞踊の真似をして作られたのだろうと思う。(だから、着付が適当なのだ。)一方、上述の『ゴレック・スコルノ』や『ゴレック・マニス』は、ゴレックと銘打ちつつも大人の女性向けに作られた作品だ。だからこそ、サンバランの着付を導入しているのだろう。

舞踊劇から独立した演目で『スリカンディvs.ムストコウェニ』がある。どちらのキャラクターも女性である。スリカンディの衣装はサンバランだが、ムストコウェニの衣装はサンバランに似ているものの、片足は顕わになっていて、下にズボンを穿いているのも見える。実はムストコウェニは人間ではなく、姿を変えられる妖怪だ。この妙な姿はそれを表しているのだろうと思う。ソロ様式の舞踊では女性がズボンを穿くことはないが、ジョグジャ様式の舞踊ではスリカンディなどもズボンを穿いている。私がジョグジャ舞踊を見て一番驚いたのが、女性のズボン姿である。ソロの女性よりも強いなあ〜と感じたのだった。

カーニバルは終わったクルドの朝

さとうまき

ドバイでなかなか飛行機が飛ばない。なんでも軍事作戦を実施しているらしい。追い詰められた「イスラム国」への最後の作戦なのだろうか。アルビル国際空港に到着したのは、一時間ほど遅れてだった。滑走路には、ちょうど米軍の輸送機が離陸準備をしており、我々の着陸と入れ替わりで飛んで行った。この飛行場は、民間の飛行場だったのに、「イスラム国」掃討作戦がはじまってからすっかり軍の飛行場のようになっている。任務を終えた戦闘機も停泊しているのが見える。

もう9月も終わりにちかづいているのに、まだまだ40℃近い暑さだ。大使館から電話が入る。9月25日に控えた「クルド独立を問う」国民投票。「前後を含め5日間ほど休みになるかもしれない。お店も閉まってしまうことも考えられるので、食料を備蓄しておいたほうがいいですよ」とのアドバイスをいただいた。早速、スーパーマーケットに行き、カップラーメンとか、缶づめを大量に買い込む。半分は事務所に、残りは住居に運び込んだ。ローカルスタッフは、普段はこてこてのクルドの家庭料理を食べているから、インスタント食品は珍しく、「これは緊急時なの?」と今すぐにでも食べたい様子。

イラク政府は、もとよりトルコやイランは強く反対し、力ずくでも阻止するという。アメリカもこの時期に国民投票を行うのはふさわしくないとした。本当に、国民投票を支持しているのはイスラエルだけ。そんな状況で国民投票は延期せざるを得ないだろうというのがメディアの論調だった。

町中を歩くと、クルドの国旗だらけ。9月17日は公園で集会があるという。クルドの民族衣装や、国旗をデザインした衣装に身を包み、楽しそうに集まってくる。一万人以上はいただろう。政治的なアピールとい言うよりは、ミュージックフェスの雰囲気。次々と歌手がステージで歌って踊る。この盛り上がりは、阻止できないだろう。

中央政府に言われたからといって、国民投票を中止したらバルザーニ・クルド自治区大統領の面目が丸つぶれだ。だからといって国民投票をやったら、今度は国際社会から厳しい仕打ちをくらう。難しい局面に追い込められた。先ほどから上空を飛び回って、サービスをしているクルド警察やクルド軍のヘリが事故でも起こし、落ちてくれば、延期する口実になるかもしれない。もしかして、すでにゴルゴ13が雇われているかもしれない。

バルーザーニ大統領は各地のサッカースタジアムで遊説して回り、9月23日、アルビルのフットボールスタジアムで最後の演説を行った。4万人は集まったという。スタジアムの収容人数は、サッカーのためかと思いきや、こういう使い方があるんだ。
「私たちは、バグダッド政府と、友好的に分かれるときが来た。国民投票は、私の手の中から離れ、政治ではなく、すべては、あなたたちクルドの人民にゆだねられたのだ。」と締めくくった。

殆どのクルド人は、国民投票を楽しんだ。国際社会がピリピリしていることなどあまり理解していなかったと思う。クルドが独立することは99%がYesだろう。ただこの時期がどうなのかというと慎重派もかなりいた。乱暴な推測をすれば半分はこの時期に独立うんぬんは避けたいと思っている。

クルドは、特にイラク戦争後は、自治というのを謳歌していた。バグダッドがなかなか治安が良くならず、挙句アンバールやモスルは、「イスラム国」の手に落ちてしまった。そんな中で、クルド自治区だけが治安を安定させ、経済発展をつづけた。

しかし、2014年の初めには、クルド自治政府が、中央政府を無視して石油を独自に取引を行っていたことに、中央政府が怒り、国家予算の17%をクルド自治政府に割り当てるという約束を差し押さえてしまったのである。その結果、公務員の給与は25%から75%のカット。予算がもらえないなら、自分たちで石油収入を頼りに独立国家を運営する!というわけだ。

しかし、そもそも、石油で稼いだお金はどこに行ったのか? バルザーニ大統領の独裁政権に疑問をいだいているクルド人も多いのだ。2005年から任期8年ですでに有効期限が切れているバルザーニ大統領。選挙が行われていないのも問題だ。

「俺は、国民投票に行かない」といっていたドライバー。選挙を見たいので、車を出して投票所に連れていってもらった。みんな、お祭り騒ぎ。楽しそうなので、急遽、その場で投票してしまった。「君は反対だったから、Noに投票したんだね?」と聞くと、「いや、Yesと書いてしまった」という。

もう一人、投票にはいかないといっていた、ヤジディ教徒の青年。もともと彼がいたシンジャールは、中央政府の支配地域だったが、「イスラム国」の攻撃で避難生活を送っている。クルド政府がヤジディ教徒の人権を守る気があるのか疑問だという。投票に行ったの? と聞くと、「投票所を見に行ったんだ。そしたら、友達が、投票しろて言うから、投票してしまった」自分の名前は、その投票所にはなかったが、誰かの代わりということでと評してしまったらしい。「で、Noに?」「いやYesと書いてしまった」

シリア難民も何人かは投票しているらしい。モスルから避難している国内避難民も投票に行っている。投票に来ない人の分をその場で何回かなりすまし投票をした人もいるらしい。こういうのがちゃんと無効票に数えられていればいいのだが。かくしてお祭りは終わり、72%の投票率で、賛成が92%という結果だった。

大使館から電話。
「イラク中央政府が、金曜日から飛行場を閉鎖するといっています。帰れなくなるかもしれませんので早く出てください」
急遽、ヨルダンに避難し日本に帰ることになってしまった。カーニバルは終わりをつげた。

飛行場につく。クルドの国旗がでかでかと飾られている。思ったほど人が殺到しているわけでもなかった。チェックインを終えてフライトをまつ。ぺシュメルガ(クルド軍)を称える歌がながれている。勢いのある歌のはずがなぜか物悲しく響く。滑走路には、米軍機が着陸し、そして入れ替わりで、私の飛行機が離陸した。
さらば、クルディスタン。

製本かい摘みましては(131)

四釜裕子

100円ショップのスケッチブックでノートを作りたいと言われて試作を始める。スケッチブックの台紙を使うのも条件だ。台紙といってもけっこう柔らかいので、表紙の芯にするにしてもゆるっとした綴じがいいだろう。裏打ちした布で台紙をくるんで表紙にして、コプト風製本にすることにした。コプト「風」としたのは、表紙を板ではなく紙に、またリンクステッチで表紙と本文を続けてかがる手順をより簡略化したいと考えたからだ。

東京製本倶楽部の会報61号(2011.9.23発行)と62号(2012.9.10発行)に河本洋一さんが書かれた記事を読み直してみる。これは、同倶楽部が2011年5月から勉強会で「歴史的製本のサンプル作り」を行うにあたって、〈”ABC of Bookbinding” の歴史タイムライン略図を参考に、古い物からやってみる〉こととし、実際に作るにあたっては〈その時代の形式の典型的なものを作る〉〈元の書物のデータが分かっているものをできるだけ再現する〉と決め、歴史的解説を担当された河本さんが2回にわたって寄稿されたものだ。当時私は都合がつかず、参加することができなかったのだった。

最初に作ったのが「ナグ・ハマディ・コデックス」。ナグ・ハマディ はエジプトのナイル川中流の地名だ。1945年に、コプト語(ギリシア大文字)で書かれたキリスト教文書などの写本13冊がたまたまこの地で見つかったそうで、その中のひとつの再現を試みている。本文はパピルス、表紙は革。表紙の芯にもパピルスが用いられ、一折中綴じで表紙に綴じつけて、全体を革紐でくくってある。芯に用いられたパピルスのなかに穀物の領収書の端切れがあり、340年代の日付があったそうだ。それ以前から冊子の形態はあったようだが、現在確認されている最古の実物ということになるだろうか。

勉強会で次に作ったのが、表紙に板を用いて、本文を複数の折りとしてリンクステッチでつないだもの。年代的には、本文のみリンクステッチでかがって表紙の板に貼りつけるタイプが先にあったようだ。原本は表紙の板が樺(カンバ)で2.5ミリ厚、本文はパーチメントのところ、カエデ3ミリの板と、紙を本文として再現を試みる。板には斜めに穴をあけ、本文と続けてかがる。これを一般的にコプト製本と呼んでいる。河本さんの報告には、〈12折りのリンクステッチは、綴じ方がやや複雑な事もあり、目の疲れる作業となった〉とある。確かにこれまで見聞きしてきた限り、本文と表紙の板をつなぐところに奇妙な複雑がある。

コプト製本をおおまかにつかんだとろで、簡略化を試みる。ありがたいことに日々世界中の製本愛好家が動画を公開してくれている。表紙に板の替わりにボードや厚紙を用いる「コプト製本」は満載、さらに、表紙と本文をつなぐ手順のさまざまも見つけることができた。最終折りのみ、糸が二重になってしまうけれども、今回与えられた条件ではこれがベストと思える方法に行き着いて、手順書をまとめる。かがり糸はあと少し太くていいかもしれない。穴に針を通したらそのまま引き抜かないで、両手の指先で糸をたぐるようにすると糸がからまないよとメモをつけよう。

ところで100円ショップのスケッチブックには驚いた。想像以上に良いことがわかった一方で、何冊も買った中に、本文を半分に折ったら直角がとれていないものがあったからだ。たまたまかもしれない。いや、そもそもスケッチブックが直角である必要は? 別にないなぁ。なのになぜ? 笑ってしまった。でも、なにしろこれで100円なのだ。私の手にやってくるまでにこの一冊に関わったすべての人がそれぞれになんらかのプラスになっていればそれでいいのだけれど。そんなことってありうるのだろうか。いわゆるメーカー品の値段への納得が深まりつつも……。

8月末にはコプト正教会最高位聖職者初来日のニュースを聞いた。昨年、日本初のコプト正教会が京都の木津川市に開設されたそうなのだ。来日前に教皇タワドロス2世は朝日新聞に、エジプトで相次ぐコプト教会を狙ったISによる爆破テロについて、「エジプト国民の分断を狙ったもので、国家を傷つけている」と言った。紀元1世紀ごろにエジプトで始まったコプト教、信徒はコプト語、コプト暦を用いて、エジプト全人口およそ9200万人中、10〜15%を占めるそうだ。

しもた屋之噺(189)

杉山洋一

春先から今まで何となく空一面を覆っていた厚い雲が、少しずつ薄くなってきて、わずかな雲の切れ間のそのずっと奥に、抜けるような青空が広がっているのが、微かに垣間見られる気がします。
辺りはすっかり秋めいて夜の闇はとても濃く、運河沿いのアパート群の橙色の明かりが、温かさを放って見えるようになりました。

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9月某日 三軒茶屋自宅
芥川作曲賞本番。想像していた以上に会場に配置される奏者の距離が遠く、途方に暮れる。今回モニターは使わないと決めてあったので、左手に白手袋をはめて遠目にも見やすくしサインを送る。楽譜がめくれないので、親指と人差し指に桃色と黄色のゴム指サックの滑り止めを付けた。
永野くんの端麗な演奏にオーケストラが弾けるようにぶつかる音像が、さざめくように会場に響くばらまかれた弦楽器の音と相俟って、ホログラムのように浮き上がる。
ピアノの田中くんは、スクリャービン4番のソナタが漆黒の宇宙空間に散り蒔かれたような音群を、鮮やかな室内楽のごとく弾ききった。演奏会後、田中くんは永野くんの古いCDに彼のサインを求めていたのが微笑ましかった。
古部君のお宅に伺い、久しぶりに百子ちゃんにも再会する。真面目な話ばかりしていた筈だが、勧められるまま杯を重ねて、見事な秋刀魚やら海老の刺身やらご馳走ばかりの印象が残って、酔いが醒める頃には古部くんにプレゼントした指揮棒のことしか覚えていない。

9月某日 三軒茶屋自宅
酒の勢いか、或る音大の作曲教授から「秋吉台夏の講習会なんて知らないし、ここの学生はゆく必要もない。この大学はそれだけ豊かなプログラムを提供している」と言われる。
暫く前に、同大学の作曲科主任が、「作曲科を受験する学生が減って困っている。昨年二人取った新入生も全員辞退してしまい、学部はすっかり肩身が狭くなってしまった。今や自分が高校へ受験をお願いしに出かける始末だ」とこぼしていたが、少子化が進んで、いよいよ大学数ばかりが目立つようになったのか。
その集いには卒業したばかりの若い音楽家たちも交じって、教師と並んでワインを呷る。
「あのコンクールの課題に出た現代曲。あんなのは音楽じゃないです。弾けないし弾きたくもない。僕は演奏拒否の署名運動に参加しました」。若いピアニストが口角泡を飛ばして激するのを黙って聴く。

9月某日 三軒茶屋自宅
伊左治君の指揮姿が見たくて、サントリーホールへ出かける。湯浅先生のお祝いで再会した時から約束してあったが、伶楽舎の演奏も素晴らしく彼の指揮が際立つ。大学生活初めからの付合いの伊左治君の雄姿は、まるで息子の快復を激励してくれるようだ。
日本に一月も滞在するのは久しぶりで、運動不足がたたって身体が辛い。ハースの練習に毎日早稲田まで自転車で出かけたが、思いの外早かった。週末半被姿の老若男女が神輿を担いで練り歩く姿を、何度見かけただろう。誰もが清々しく、凛々しい表情をしていて、涼しい週末、先導する太鼓の音も心地よい。
そんな喧噪を遠くに聴きながら、ハースと昼食の江戸前寿司をご一緒した。彼がエリック・ガーナーのために書いた「息ができない」はどういう切っ掛けで作曲されたのか尋ねると、黒人の妻をもつ彼は彼女が体制に怯えておびえているのは知っていたが、或る日仕事をしていて、目の前に静かな、しかし大規模なデモ行進が歩を進めているのを見て、思わず道へ飛び出しその人の流れに自らも身を投じたのだと言う。それが「エリック・ガーナー」との出会いだったと言う。寿司が大好きで、「イカ下さい」と日本語で注文していたのが印象に残った。

9月某日 三軒茶屋自宅
木戸さんから思いがけなく、和琴について書かれたご自身の文章「ウル日本音楽」のコピーが届く。「純粋な初期日本音楽」は、最近読んで強烈な印象を残した、田中克彦「言語学者が語る漢字文明論」の、本来の意味での「日本語」と共通するものがある。「ウル日本音楽」は、渡来人によってもたらされた雅楽を排して残るもの。「漢字文明論」は、日本語から漢字というツールを剥ぎ、視覚的先入観を排して残る、本来の「日本語」。
漢字は絵文字のようなものだから、「海」と印刷された文字を「うみ」と読むか「かい」と読むか、「ハイ」と読むか「オーシャン」と読むか、「ラ・メール」と読むか「イル・マーレ」と読むか、など本来は自由であり、どれでも通じる筈だと言う。和琴も渡来人によってすっかり豊富になった雅楽の「音」のなかで、共鳴し合いよく震える日本の土着の音を、静かに今に伝える。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京現音のための「アフリカからの最後のインタヴュー」でも、沢井さんと有馬さんのための「盃」でも、エレクトロニクスのパートは、出来るだけ古臭い音がするよう頼んだ。有馬さんはこちらの意向を良く理解して下さって、物凄く複雑な手続きで、アナログの素朴な音に近いものが鳴るよう手助けしてくれた。昔は大変な作業を重ねてこの音にたどり着いたが、現在は複雑な手続きを重ねて、昔の音に近づこうとしている。テクノロジーが求める目標がまるで違うので、手続きは煩瑣を極める。
自分にとって理想的な電子音は、ケージやチュードアが演奏している「イマジナリーランドスケープ1番」の録音のようなへろへろとした音が根本にあって、そこからずっと発展して、60年代の電子音響くらいまでが憧れの対象になり、悠治さんの「フォノジェーヌ」や「時間」と言った作品が頭に浮かぶ。さもなければケージの「フォンタナ・ミックス」のような具体音になってしまい、これでは現在音楽を書くコンテキストから乖離する気がしていたが、現在でも小杉武久さんの音楽は我々の手の匂いが漂う古臭い電気の音で、ハイテクコンピュータに管理された電子音響ではないと思うし、足立智美さんも、無臭無害な電子音響に人間臭さをどう取り戻させるのか、様々な取組みをされているように思う。
「新しいもの」「新しさ」を探求する上で、「音楽」として成立条件について、精査を怠ることもあった気がする。湯浅先生の「未聴感」には、本来音響に限らず様々な成立条件も含まれていたのではないか。
現在でもコンピュータ作曲支援ソフトは、ツールとして認識されているけれども、過去のある時期から我々の思考を越えた「ツール」として、仮想現実を実現するシュミレーターになった。「仮想現実」を音楽として認知するに至り、コンピュータに選ばれたサンプルから我々が選択し、それを実際のオーケストラが演奏する。シュミレーションが演奏のモデルとして添付され、これが理想の演奏だから、これに近づくようにと頼まれるようになる。当然既視感のある音響が生まれる。
以前コンピュータの能力がここまで発達していなかった頃は、こんな音響が生まれるはず、程度の情報しかコンピュータは提供できなかったので、音響の2割か3割は結局作曲者の想像力で補なわざるを得なかった。よって、オーケストラが音を出した瞬間かかる既視感はもたらされなかったに違いない。
我々は既にテクノロジーを使うのではなく、テクノロジーに使われてしまっている。これからもそれは続くだろうし、恐らく将来、我々自身がテクノロジーによって破綻を来すに違いない。原子力のように、我々自身が管理出来ない知性、それが美しいかどうかはさておき、我々の知性を遥かに超えた正しい知性を、育ててしまうに違いない。
その時、音楽とは何を表すものになっているのだろうか。

9月某日 三軒茶屋自宅
ハースは曲も魅力的だが、リハーサルで演奏者と互いに耳を開いてゆく作業がとりわけ新鮮だった。多井くんや永野くんに倍音を聴かせて貰って、そこに若林さんや上田さん辺見くんが音を嵌めてゆく。神田さんはその音響の表面をシンバルの倍音などでコーティングする。
互いに自分の音を主張するのではなく、自分の音の持つ役割と意味が浮かび上がる音を奏すると、音楽が有機的に息づき始める。曲の構成は、一見すると奇妙なバランスに見えるけれど、音そのものが有機的に生成を始めると、確かに別の音楽構造がしっくり来るようになった。
息子より連絡あり。ミラノを訪れた知人のSNSを息子が偶然見つけ、それが罵詈雑言の羅列だったものだから、息子が本人を叱責したと言う。息子が理路整然と世代の違う知人に説教を垂れ、謝罪の言葉まで引き出したというから仰天する。気が付かないうちに、彼の思考もすっかり大人になっていた。
「言霊」はやはり存在する気がする。神様でも仏様でもお天道様でも構わないが、天に唾を吐けば因果応報は巡るとどこかで思っていて、それは「因果応報」そのものではあるが、人生に於ける「確率」も無意識に作用していると思う。
自分は既に交通事故に遭っているので、同程度の交通事故に遭遇する確率は他人より極めて低い、といった思い込みだが、そう思うだけで気が楽になる。今回息子が体調を崩しても、ここで厄を落としておけば暫くは大丈夫だろうと高を括っているのが、果たして良いか悪いか分からない。

9月某日 倉敷ホテル
カルテットが別のプログラムをリハーサルしている間、部屋でビエンナーレの譜読みを続ける。グオのヴァイオリン協奏曲の2楽章は1/4拍子のプレストが続く。振り難いし見難し、リズムも4拍子だったり3拍子だったりするので纏めて振ろうかと考えていて、昼食の時に天ザルを啜りつつウェンティンとニアンに相談すると、これは中国の伝統音楽から来ている1拍子だから纏めては駄目だと言われる。フレーズが見えてはいけないと言って、ニアンは二胡を弾く真似をしてくれる。聞けば、ウェンティンもニアンも、誰に習ったわけでもなく家では伝統楽器で遊んでいたそうだ。
グオのオーケストレーションは独特で、ヨーロッパ的に迎合しないところに好感を抱く。
何故我々がヨーロッパ的書法を標榜しなければならないのかと考えれば、案外それは思い込みではないのかと思うこともある。ヨーロッパ人も、自分たちと同じ音楽を特に望んでもいないのではないか。
韓国や中国を持ち上げるつもりもないが、何時から我々は自国を特別視するようになったのか。それもどれだけヨーロッパ化出来たかが評価対象で、自国の文化の発展とは常に同じレールを走ってきたわけではない。その昔、彼の地を通って様々な文化が日本を潤した時は、もっと豊かな文化交流がなされたような気もする。特に、現在日本人が内向きだと呼ばれるのは非常に気に懸かる。

9月某日 倉敷ホテル
「子供の情景」は、どういう作品にすべきか最後まで悩んで、結局、最初に自分が考えた音を書いた。
そう書くと矛盾するようだが、春先から息子と息子の身体と付き合ってきた中で、これらの音は生まれた。特に、息子の病室で過ごした長い時間がなければ、この作品は書けなかった。一月近い時間、窓も開けられず、30メートル四方以外はどこにも出かけられない監禁状態の中で、心が砕けそうになりながら、彼の心が外の風景へ飛び出してゆくのを見ていた。病室は無味乾燥としていたが、息子がその向こうに映し出している心の風景はとても瑞々しかった。
1曲目「見知らぬ国と人々」を聴くと、自分にとっては病院の二重窓の向こうで行き交う人々を眺めている息子の顔が浮かぶ。
6曲目「大事件」と10曲目「むきになって」は、シューマンの名前から採られた数列で作曲。
「大事件」は先に亡くなった、メッツェーナ先生へのオマージュ。彼は音色を豊かに輝かせるため、パート毎に音色を作らず、敢えてソプラノの音色をテノールへ、バスの音色をアルトへと常に廻すように教えてくれた。
4曲目「おねだり」は、泣きじゃくっているところ。本当に泣いていることもあるが、大方ねだるときにわざとする泣き真似。
7曲目のトロイメライ「夢」は、息子が去年の春にカニーノ先生と一緒に弾いたクルターク=バッハへのオマージュで、影のように倍音が寄り添う。病院のリクレーション室に置かれた調律の狂ったピアノを右手だけ、好きだったスカルラッティの断片を少し、寂しそうに弾いていた姿が目に焼き付いている。
どの曲も子供の視点で書き、特に最後まで苦労した9曲目「木馬の騎士」は、子供の背丈から眺めた部屋の風景を描いたつもりだが、12曲目「眠るこども」のみ、息子を眺める自分の視点で書いた。ヴィオラの低音域の5分法ハーモニクスとアルペジオを薄く重ねると、丁度息子の寝息のような手触りが浮かび上がる。
この歳になるまで、作曲家の感情が作品に直截に影響を及ぼさないと信じてきた。ヨーロッパ人の信仰心が音楽と無関係であるはずはないが、モーツァルトが「レクイエム」を書いても、自身の環境や境遇は作品には如実に反映されずに、ずっと昇華された核だけが、楽譜に記されているのだと思っていた。しかしここ数年で、かかる自分の信条ががらがらと崩れ去るのを実感した。
ロマンティシズムではなく、寧ろ、より現実的写実的な何かが、演奏に訴えかける強さを持つのを理解できるようになったのかも知れない。今井さんは、好きなように書きなさいと仰って下さったが、こんな厄介な作品は届くとは想像していなかっただろう。にも関わらず、彼女を初め演奏者全員どれだけ誠実に取組んで下さったかは、感謝の念は到底書ききれない。

9月某日 ミラノ自宅
一ヶ月ぶりに息子に会う。ここ数日吐き気が取れずに体調が優れないと聞いていたが、思いの外しっかりしていて安心する。身長も伸びて大人びた感じもするが、自習していた指揮の課題のミクロコスモスを見てくれというので、5拍子はとても良いが、最初がそれでは始められない、とコメントを言うとむくれて指揮なんか厭と布団を被った。
日本にいる時から楽しみにしていた「ヘンゼルとグレーテル」を観に行く直前、合唱で出演する息子は彼は相変わらず困憊してなかなか布団から出られない。結局自転車の後ろに乗せて猛烈な勢いで劇場まで走ってゆき、事なきを得る。ちょうどミラノ・コレクションで街中道が混雑していて、もしタクシーを拾っていたら間に合わなかった。
演出も大道具もとても美しく、ライティングの妙には誰もが見惚れた。息子も元気よく舞台を駆けずり回り、大したものだと感心する。舞台が終わるとぐったりしているが、本番中は気が張っていて分からない。
貧困問題を直裁に取り上げた演出で、前半フィナーレは貧困者たちが天に召されるところで終わり、オペラのフィナーレは、幼い兄妹の亡骸を抱えた貧困者の行列が近づいてくるところで終わる。
ミラと並んで観劇していて、気がつくと彼女は涙を流していた。フランコと結婚してから、オペラなど全く見たこともなかったミラは、定期券で数えきれないほど劇場に通うようになったと言う。でもフランコをこうして思い出せるのは嬉しい、そう言ってまた涙を流した。

9月某日 ミラノ自宅
2年間一緒に勉強した作曲の今堀君がクラスを修了し、去年から入った矢野君は、コンクールを控えてファビオの楽譜と首っ引きになっている。現代曲を振るのは初めてなので、敢えて彼にはピアノのリダクションを頼んで、自分がスコアから聴きとりたい音を、自ら並べて理解して貰うと、随分シンプルに音楽が感じられるようになったようで嬉しい。今年は新しく浦部君が入学して、早速「クープランの墓」を持ってきた。縦に和音を並べて圧縮せず、横に並べながら音の間に質量を感じてもらう。矢野くんと同期のグエッラはフランスのコースの準備をしていて、ボーノはロンドンのコースを準備している。皆充実していて、思わずこちらも励まされる思い。

9月某日 ミラノ列車中
再検査で、息子の脊髄の炎症の完治が確認された。まだ左半身に軽い麻痺は残り酷い倦怠感と戦っているが、これから先はとにかくリハビリで身体を作り行くことが中心になる。
毎朝倦怠感が酷いのか、学校へ行かないと大騒ぎして親を困らせる。仕方ないので抱きかかえて外まで連れ出すと、漸く諦めがつき渋々自転車の後ろに乗るが、酷い時は道路の途中で飛び降りて逃げようとする。8月半ばから今まで親に甘えられず、リハーサルに励んでいたのだから仕方ないとも思う。殴られて蹴られこちらは身体中痛いのだが、これだけ力が余っていれば大丈夫だと内心ほくそ笑む。
息子と一つ違いの生徒がコンクールを受けていて、どうせ自分はピアノが弾けないと自暴自棄になり、教えるのなんか罷めてと暴言を吐く。自分も小学生の頃、同じように云って母親を困らせていたのを思い出す。

9月某日 ミラノ自宅
夏前に頼んでおいた息子のための自転車をマリオが届けてくれる。イタリアで60年代に大流行した「La Graziella」というタイプのレプリカで、シャーシなど全て息子が注文した明るい黄緑色で統一されている。60年代イタリアらしいデザインが美しい。中学校は車の少ない裏道のサヴォーナ通りを走り、スタンダール通りを左に折れてフォッパ通りを越したところ。一昨日から始まった「ナブッコ」のリハーサル会場は、スタンダール通りを右に折れてすぐのところにある。「ナブッコ」の演出はダニエレで、息子ときたら練習初日から早速ダニエレに話しかけたらしく得意になっている。
ずっと自転車の後ろに座らされていたので、多少疲れても自分の足で好きなように自転車を漕げるのは嬉しそうで、疾走する息子の姿に、ただ感慨を覚える。

9月30日 ミラノにて

翳りの複雑

高橋悠治

バロックの鍵盤音楽をピアノで弾いていると チェンバロの音とちがって 余韻が短く 音がすぐ消えることはないが 長い音をそのまま弾いていると 間がぬけて聞こえるから 装飾を付けて音を揺らしてみる 音が一瞬波立ってすぐ静まる それだけで音に表情が現れ まわりの音に影を落とす 装飾は型通りのはずだが なかば偶然の不安定な乱れが 時間の流れにリズムをあたえる 規則的なようでどこか不規則な領域に入り込んでいる 複雑にすることなしに 単純なまま かえってなにかが欠けている それも粗雑な省略でなく 意識のとどかないほどの わずかなためらいから起こる「ずれ」

それとは別に 「崩し」の技法もある 同時に幾つかの音を打つ和音では どれかの音に重みをかけることで さまざまなニュアンスがあるが 指や手や腕だけでなく 前に傾けた上半身の重みをそれぞれの指にふぞろいに振り分けるピアノの奏法ではなく 和音を分散して それぞれの指の重みではなく 音の入り時間の差をまちまちにして リズムというよりは躓きのひっかかりを不器用なままにしておくと 一回限りの偏りから生まれるきらめきが 音楽のあちこちをまだらに彩るだろう

装飾はその前の音から切れて際立つことが多いが 時には前の音が伸びた尾が揺れ動くこともある するとリズムの歩みが急におそくなる

時代楽器の奏法を現代の楽器に使うのは 時代様式の正統性を装っているが ちがう楽器には必要がない演奏法を移すと 楽器の響きをあいまいにして どこにもない音色の印象をつくりだすこともある 演奏の実験から バロックの装飾法や演奏習慣を使わなくても 揺れ動く響きや 一見単純な楽譜から 何もつけたさず 逆に微細な脱落による 見えない音楽の波を立ち上げることができるかもしれない 詩人たちは 言えないことを言わないままに 時代を記録し表現することばの技法をみがいてきた 音楽にも 音にならない臨界領域に近づく技法はありうるし それを必要とする時代もあるだろう

2017年9月1日(金)

水牛だより

ある日を境に季節が変わる、今年の9月はそんなふうにやってきました。事実は2、3日前からグッと涼しくなったのですが、そこに9月が加わると、ほんとうに夏は終わったのだなあと、あんなに文句を言った暑さをもう懐かしく思い出します。今年は秋の服を早めに出しておくほうがよさそうですね。

「水牛のように」を2017年9月1日号に更新しました。
藤井貞和さんの詩集『美しい小弓を持って』(思潮社)が発売になっています。スランプもあり6年ぶりの詩集ということですが、「水牛のように」には毎月かかさず書き続けてくださっています。
水牛がそのような場として機能しているのはほんとうにうれしいことです。

このところずっと小説を読むのがおもな仕事でした。それが一段落したところに、小説についてのこんな文章を偶然に読んで、ほっと一息。
「(漱石の)他の小説の題名は『それから』と言う。書くことは、ただたんに次に来るものを知ることだ。小説はそれ以上のものではない。人生の無限の「その後」のほうへと向けられた視線なのだ。」(フィリップ・フォレスト『さりながら』澤田直訳 白水社 2008年)

それではまた!(八巻美恵)

夏休み

笠井瑞丈

徳島で行われる『阿波踊り』を見るの旅
青春18切符での鈍行電車の旅

8月9日
西国分寺から川崎
川崎で大好きな家系ラーメンを食べ
熱海を目指す 熱海途中下車
熱海はとっても大好きな場所
なんとなくちょっと寂れた感じが好きだ
駅前の商店街から海に繋がる道を歩く
今年初めての夏の海
ビール片手 海辺での昼寝
本日の最終目的地名古屋へ
一泊五千円の安ビジネスホテル泊

8月10日
次の目的地の岡山へ
名古屋から米原 米原から姫路
姫路途中下車 初めての土地
この旅二回目のラーメン
姫路城を遠くから見学
姫路から岡山へ移動
岡山で友達のダンス公演
三浦宏之×小暮香帆
『ふたりしずか』を観劇
岡山ビジネスホテル泊

8月11日
最終目的地徳島へ
初めて渡る瀬戸大橋
初めての四国
四国は突然隆起し
現れた島と父が行く前に教えてくれた
なんとなく神々が住んでそうな島
勝手ながら想像する
午後無事徳島駅着
この旅三回目のラーメン
街は阿波踊りの準備で大盛り上がり
友達のGORIさんが迎えに来てくれる
徳島から一時間車を走らせ美馬市
GORIさんの住んでいる山奥へ
今夜は踊り明かそう
今夜は呑み明かそう

8月12日
GORIさんの知り合いの車屋社長宅へ
本日は社長のご好意で社長の持っている
会員制ホテルに宿泊させてもらう
豪華なホテルにビックリ
ホテルにプール 今年初のプール
夕方いざ徳島阿波踊りへ
大勢の阿波踊りの連
徳島一番の大イベント
鳴り響く太鼓のリズム
中腰で踊る男踊り
爪先で踊る女踊り
飲んで踊って
踊って飲んで
はじめて本場阿波踊りを堪能
ほろ酔いのよい夜

8月13日
レンタカーを借りる
帰郷する予定を二日伸ばして
明日から急遽四国一周の車旅を計画
美馬市探索
古い劇場 オデオン座
東京にはない素敵な劇場
古い街並み 大きな川
川が流れている街は好きだ
夜社長が食事をご馳走してくれる
みんなでお好み焼きを食べる
見も知らない僕達にこんなにもよくしてくれる
社長に本当に感謝

8月14日
朝GORIさんにお礼と別れを告げ
いざ出発
一度やってみたかったただ車を走らせるの旅
好きな音楽をカーステから流し
変わりゆく景色をただ眺めている
川 山 海 猿 花火
カミさんが車の免許を取ったため
運転手は二人
二時間おきに交代でひたすら走る
本日の目的地高知へ
道中たくさんのお遍路さんを目撃
八十八箇所霊場を巡拝するのは大変だろう
いつかやって僕もみたいと思う
二十一時無事高知着
高知の安ビジネスホテル泊
その前に今回四回目のラーメン

8月15日
本日この旅最終日
足摺岬を目指す
一般道だけで旅をしたかったのですが
東京に帰る電車に間に合わないため
高速道路を車を走らせいざ出発
カミさんとこんな時間は久しぶり
車中いろいろ話をする
笑 喧嘩 笑 いつもの事だ
十三時に足摺岬に到着
時間がおしているため車を降りず
ルートを変更してここで美馬市に戻る
十五時無事美馬市着
十六時の電車まで時間
社長に挨拶に行く
旅は本当にいろいろ
新しい人と出会い
新しい場に出会い
新しい自分を発見する

ながい夏休みでした
よし明日からまた踊ろう

いざ東京へ

しもた屋之噺(188)

杉山洋一

練習が終わって家に戻ろうとすると、目の前に雲に墨汁を垂らし一面に広がったような、美しい白黒の空が続いていて、思わず見とれてしまいました。窓際に立て掛けた家族の写真を眺めつつ、日記帳のメモ書きを書き出してみます。政府広報に「ミサイル落下時の行動について」が掲載されたかと思いきや、間もなくJアラートの警報が実際に鳴り響き、それでも目の前の風景はいつもと同じで、自分もごく普通に暮らしている。何も感じないのは、何かが麻痺して感じなくなっているからなのか、そうでないのか。
イタリアに20年以上住んで、政府が「ミサイルが飛翔してきたら」と国民に呼びかけるのを聞いたことはないし、他のヨーロッパ各国を鑑みても、そんな警報が発せられるのは、よほど異常な事態でなければあり得ないのではないでしょうか。
太平洋戦争前夜、国民の大半はこうして何も考えずに普通に暮らしていたのだろうか。井の中の蛙、ではないけれど、気が付いたら周りの風景から、全て色味が抜け落ちていたりするのだろうか。まさか本当に戦争などという馬鹿げた真似はする筈はないと信じていますが、未来永劫、戦争なしにやり過ごせるかと言われれば、それも俄かには信じ難い気がします。
尤も、イタリアに戻れば、ミサイルこそ飛んで来なくとも、どこでもテロと隣り合わせです。本当に不穏な時代になってしまったけれど、その中で自分が音楽をしている意味を考えます。意味はないのかも知れないし、もしかしたら、どこかにはあるのかも知れない。

8月某日 ミラノ自宅
大人が座れるようなバランスボールからテニスボールやリハビリ用のスポンジボール、と色、大きさや重さの違うさまざまなボールが家に並ぶ。もともと倉庫を改造した家なので天井も厭に高く、掃除に困っていたのだが、こういう時には都合がよい。フワフワのボールを息子と互いに左手で投げ合う。当初全く力が入らなかったが、不思議なもので、時々息子が「あ、分かった」と叫んで投げると、突然凄い勢いでボールが飛んできたりするので、筋力が落ちているというより、力を入れる神経の回路を思い出しているようにも見えるし、右手、右足と交互に投げたり蹴ったりしつつ、神経に電流を流すコツを見つけているようにも見える。
最近気に入っているリハビリは、綺麗に巻きとってあった包帯を一度解いてから、丹念に丸く巻き直す作業。これは巻くときに力が必要で掌全体も使う動きなので、効果的だという。小学校の算数の最初で一の位、十の位と百の位を学ぶために使う、5ミリ、10ミリ、15ミリの、ほんの小さな色のついたブロックもリハビリ道具だ。目を閉じて左の指の下にこのブロックを置き、大中小のどれかを当てるのだが、案外簡単ではない。
左手や左足に神経を集中すると、すぐに困憊する。仕事をしていると「リハビリして疲れたから抱きしめて」と傍らにやってくる。ピアノを少し弾いてみて、思うように左手が動かないと、右手で左手を持って「もうこんな腕もぎ取ってやりたい」と呟く。

8月某日 ミラノ自宅
「子供の情景」の校正とパート譜を作りを今堀くんに頼んだ。浄書ソフトに暗いものだから迷惑をかけてしまったが、どれだけ助けられたか分からない。息子と日本に発つので3人で朝鮮料理を食べる。肉の食べられない人間が頼めるメニューは、魚のスープと烏賊の辛味炒めと冷麺くらいなので、息子の焼き肉に誰か付き合ってくれると実に有難い。
病気の話になり、今堀くんの近しい知り合いにも左手が使えない人がいると言う。幼少の麻痺が残ってしまったそうで、もちろん息子とは比較にもならない。病院にリハビリに行けば、隣には脚や腕がない人も沢山いて、彼らが明るくリハビリに励む姿に、実はいつも力を貰っている。今堀くんは、今年、ローマのイヴァンの作曲クラスを首席で修了したというから、立派なものだ。2年間彼に学校で指揮を教えて、自分がよい教師だったか分からないけれど、彼は最近特に伸びてきたところなので、是非指揮も続けていってほしい。

8月某日 ミラノ自宅
来月からの息子の学校生活へ向け、慌ただしく準備している。中学の校長に手紙を書き、授業のノートをコンピュータで取ったり、録音したりする許可も貰った。イタリアでは、板書より寧ろ、教師の言葉を書き取って勉強するらしく、長い時間鉛筆を使うのが難しい息子には、少々厄介が伴う。
何時も自転車を頼んでいるマリオには、息子が通学に使う自転車をこしらえて貰っている。リハビリに行こうと混んだ路面電車に乗ったとき、無理に乗り混んできた老人に、重心のまだ定まらない息子は跳ね飛ばされてしまった。その場で老人に凄い剣幕で怒ったので、息子には妙に感心されたが、周りの乗客も一斉に老人を咎めたのに愕いた。哀れな老人は次の停留所で降りていった。

8月某日 三軒茶屋自宅
食事の支度をしながらフランス国際放送のニュースを聴いていて、北朝鮮に名指しされたグアムの特派員の中継になった。グアムでは大きなミサが行われて、信者たちが熱心に神に平和を祈っていると言う。ミサ参列者のインタヴューが流れて、どれだけ自分たちが神に願っているかを切々と話す。日本のマスコミとは目の付け所が違うことに感心する。宗教観の違いなのだろうか。
イタリアにいてもレストランで食事するのは余り好きではない。味は濃すぎることが多いし、どの程度の食材を使っているか分かることもある。家に帰って、自分が好きな素材で、好きな味の料理を作る方が精神衛生上宜しい。
先日、三軒茶屋で夜半何か食べたいと思ったけれど、家には余った大根とシラス、それから実家で作った紫蘇の葉、多少のトマトしか無かった。これらの素材でパスタを作ってみると、思いの外美味だった。
特にイタリアに似た料理はないが、大根はイタリアでよく食される蕪に似ていて、シラスは小魚の湯がきそのものだし、紫蘇も香草なのだから、併せて調理すれば美味しくない筈がない。
自分の好きな量のオリーブ油を使い、好きな塩梅にトマトから果汁を引き出して、シラスから染み出た魚の旨味と合う。紫蘇は使いようによってはバジリコより味が円やかなので多めに入れ、硬めに茹でたパスタを絡めて、ソースで乳化し味が馴染んだところで頂く。これに美味しいオリーブでも入れて煮込めたら文句なかった。
日本のスーパーの食材でイタリア風イタリア料理を作るよりずっと自然で、音楽と同じだと思う。

8月某日 三軒茶屋自宅
秋吉台の講習会が終わり帰宅。
今年はお加減が良くなかった湯浅先生の代わりに、頼暁先生がいらした。頼暁先生は講義の折、音列や構造の抽出の仕方を丁寧に板書されるのだが、それを後から眺めると実に美しい。勿体ないので暫く消さないで欲しいと頼んでも、これは又書直せるからと、何事もなかったかのように消し去ってしまう。
頼暁先生は、講習会の間に、秋吉台の演奏家の名前を使って、弦楽三重奏を作曲された。音列と全体構造までを最初の講義で説明し、後は細切れの時間に作曲されて、新しく書き足された部分が、毎日受付の横に貼りだされていた。基本的な作曲工程が思いの外似ていて、思わず親近感を覚える。ただ、頼暁先生はオクターブ恐怖症で何としてもオクターブを回避するのに比べ、こちらは絶対に同じ繰り返しを強迫的に避ける、繰り返し恐怖症なのが違う。

毎年秋吉台の作曲クラスの後ろに仕事机を置き、皆のディスカッションを聴きながら、楽譜を広げて仕事をする。時々口を挟んだりもするのだが、今年は足立さんがいらして、考えていたことの半分以上は、彼が先に代弁してくれた。そんなに同じことを考えるものかと、内心とても驚いていたのだが、面と向かって足立さんには伝えそびれてしまった。彼の作品で好きな作品もたくさんあるが、基本的に大きな音量が続くと耳が疲れてしまうので、音量の小さい作品はあるのかと尋ねると、そう言われると、確かに音量の大きな作品ばかりだと笑っていらした。
低音デュオの演奏した彼の近作は、面白かったし有難く静かな作品だった。ずるいと思うほど心憎い仕掛けが最後に待っていた。

足立さんが、作曲を学ぶのなら、是非即興演奏も学んで欲しいと言われていたが、尤もだと思う。間違った音楽を排除し、正しい音楽を目指すより、悪い音楽を排し、良い音楽を目指したいと思う。即興はその最たるものでもあるし、もちろんジャズや民族音楽が魅力的なのも、恐らくそこだと思う。

去年自作を指揮していた村上さんが、新しく書いた曲を聴かせてくれる。彼女自身がヴォイスパフォーマンスで参加している室内楽は、物凄く魅力的だった。それに近いことをオーケストラを使って演奏したものは、オーケストラは彼女の魅力を半減させていた。オーケストラは基本的に、西洋伝統音楽を演奏するために発展してきた演奏形態である事実は、如何ともしがたい。それを受入れるか、拒絶するか。さもなくば諧謔に転じるか。

特殊奏法を使えば、音楽の可能性が広がるかと問われれば、それも難しいように思う。西洋楽器は、伝統的な奏法に於いて最も表現の幅が生まれるように発展してきたのだから、特殊奏法を否定するわけではないけれど、可能性を広げているように見えて、案外それは袋小路に過ぎないのではないか。
現在使われている特殊奏法は、プリペアードピアノをはじめ、元来は代替音色の発明だったように思う。現在のようにサンプラーの技術もライブエレクトロニクスの技術も進めば、楽器で特殊奏法をする意味は、もしかしたらまた別の意味合いをもたらす結果になるかも知れない。

作曲学生のディスカッションに登場したコンピュータ浄書は、現代の作曲家にととっては、殆ど必要不可欠になった。譜面とは書くものではなく、最早打つものに変化しつつある。今後、我々はより一層コンピュータに認識されやすいよう、自らを発達させてゆくのかもしれない。そうして思考が画一化してゆくと、個は何を意味するようになってゆくのだろう。そのままゆけば、コンピュータが我々の思考に甲乙を付けるようになるに違いない。
電脳は、ツールではなくなった。

8月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルに出かけると、いつも顔を合わせていたメンバーに加えて、古部くんや先週まで秋吉台で一緒だった山澤くん、ずっと会っていなかった菊地くんや斎藤さんの顔を見つけた。振っていると、すごく助けてくれるので嬉しい反面、自分の譜読みがあまりに覚束なく、申し訳ない思いにかられる。
指揮を始めたばかりの頃、「指揮者は、どういう形であっても振り続けていることが一番大切」と古部くんからアドヴァイスを頂いた。とても含蓄のある言葉で、今まで事ある度に反芻してきた。作曲家のNさんが、とても温かい音を出すオーケストラと感激していたけれど、全く同感。譜読みがどんなに辛くても、音が出た瞬間に、一緒に音楽が出来る喜びに払拭される。

練習から帰宅し、千々岩くんのフランクのソナタを聴き、思わず涙がこぼれた。聴き惚れつつ困憊した身体に音が染み通ってゆくのが分かる。一音ごとに音色が変化して、シラブルのイントネーションのように聴こえる。伝える言葉と伝えたい言葉を持っている音楽家は、あれ程淡々と音を紡いでゆくので充分だった。話すように演奏する、という喩えは常套句だけれど、文字通り話すように演奏をしていると実感したのは、初めてだった。名曲過ぎてこのソナタは好きではなかったのだが、考えを改めた。訥々とした深い語り出しに、彼の歩んできた人生の厚みを感じる。

8月某日 三軒茶屋自宅
時間を見つけて母にタブレットを買い、町田に届けにゆく。初期設定をしていて、彼女の誕生日が1935年3月5日なのを見つけた。聞けば彼女は数字の3と5が好きなのだという。この歳になるまで気が付かなかった。
どうして時間は昔に戻せないのだろう。小学校位にまで戻れれば、やり直したいことはたくさんある。やり直せるものなら、今まで自分が犯してきた誤りを全て正した、もう少しだけでも真っ当な人生を送ってみたい。両親はもちろん息子や家人にも、違う自分の姿が見せられたに違いない。ただ、もしそれが出来たとしたら、家人にも、今の息子にも出会えなかった。

(8月31日三軒茶屋にて)

154立詩(2)坑夫

藤井貞和

「東京へ帰りなよ」と、
漱石が言う、落石を避けながら。
「おれもそう思う」と、
鏡花の言い分は落花みたい。
「川はやばいて。 まもなく、
水が落ちてくる」と、
芥川も追いかけて言う。
徳山ダムに、
カミオカンデは作らせない。
星空が落ちてくると、
ほんとにやばいです。

(この地方の鉱山には五つの種類の金属が見出され、坑夫の肉体は地中深く妖怪になる。というのは、土と金属の気とによって身体が養われるからである。坑夫たちは生きているのでなければ、死んでいるのでもない。新たに坑夫が鉱山に入ってきたらば、この者たちは彼らをつかまえて逃がさない。しかし坑夫が、頭上に燈をともしているならば歓迎され、たばこを求められる。この贈り物で親しくなると、坑の外へ引き上げてくれるよう、妖怪たちに懇願されるが、坑夫はまず豊かな鉱脈を教えてもらう。それから自分たちは最初に外に出ると、妖怪どもを結わえてある縄を切ってやる。妖怪は上にまで達する。しかし、風にさらされて、衣服や肉体、骨は化して水になってしまう。その腐敗した気は生臭く、それを嗅いだ者は悪疫で死ぬ。坑夫が大勢であれば、妖怪を四角い土壁の中に閉じこめ、その上に燈を備えつける「台」をおく。このことで惨禍を避けることができる。風をうけると悪疫を吐きだす雲南のこの怪物は「乾麂〈かんき〉」〈乾いた鹿〉の名称でよばれる。――マルセル・グラネ『中国古代の舞踏と伝説』より。)

ここそこにある境界

大野晋

お盆休み明けに、信州から、お盆休み前に予約を入れていたデラウェアが届いた。今年は、梅雨明け以降、天候不順が続いたために、なかなか収穫できず、例年だと8月初旬から出回り始める露地物が遅れて、8月の中旬も過ぎて下旬になってしまった。とはいえ、今年は甘みは今一つだけれど、風味が強い、おいしいぶどうになっていた。たぶん、今年のワインはおいしい。ぱちぱちに張りつめたぶどうを食べながらいろいろと考えた。

近年はワインツーリズムが注目されているらしく、専門家にとても多くのコメント依頼が入るらしい。そういえば、昨夜のテレビのニュース番組でも、明日の予定は「日本ワイン」だとどこかできいたキーワードが出てきていた。日本のワインだから日本ワインではなく、国税庁の拵えたハードルでは日本国内で収穫されたぶどうを使用して、日本国内で醸造したものを「日本ワイン」と名乗ってもいいと決められている。ところが、そこにいろいろな不思議な物語があることは先月までのお話しで述べてきたとおりである。

日本には「おらが村のぶどう」と「おらが村のワイン」の間に深い境界線が存在している。要するに、おらが村のワインは必ずしもおらが村のぶどうから作られていないということで、風景として見えるぶどう畑は実は今飲んでいるワインには必ずしもならないという事実があるという話だ。これを「観光ブドウ園」と称したが、まだまだ、観光ブドウ園のようなワインはたくさん存在している。まあ、さすがにぶどう畑も見当たらない神奈川県がワイン生産量日本一だから、日本で一番ブドウが採れているとは思わないだろうとタカをくくっていたら、近所のブドウ園のぶどうだと思ったというコメントがSNSでついて苦笑してしまった。実際に消費者は生産の現場から遠い所に住んでいる。ただし、ワインツーリズムとなると話は別で、さすがにブドウ畑がない場所では成り立たないだろうとは思うが、もしかするとびっくりの裏技が出てくるのかもしれない。

さて、最近、地方の中小都市にこじゃれた料理屋が増えたような印象がある。いずれも、地元の食材を使っていて、地元でしか食べられない料理が食べられたりする。いいことばかりかと思っていたら、松本の長く通っていた蕎麦やが閉店していた。大きな水車が目印の蕎麦やだったが、一時は店に入りきれないくらいの客でにぎわっていたが最近は地元客の嗜好が蕎麦からうどんやラーメンに移ったためか、店舗が維持できなかったようだ。店が大きかったのが災いしたのかもしれない。

大きな店、小さな店、残るもの、消え去るもの、そこにある境界の不思議に思いを寄せてみる。そろそろ、秋の夜長となる。

狂狗集 6の巻

管啓次郎

あ あみなだぶ暁を呼べ愛と呼べ
い 犬を眠らす羊の群れの習慣性
う 牛の巡歴つきあへば日が暮れる年が暮れる
え 映像の核心はエイ鰭への信心
お 大阪を待ちながら往生要集を読んでゐた

か 「彼は誰」や危険な時刻の禅問答
き 貴種流離を語るな遺伝に履歴なし
く 苦しみが募る時つひチョコレートを齧るんだつて
け 傾向として系譜にひれふす庶民性
こ 向上心なく水平をさす水準器美し

さ 再会を約す地上の祝祭日
し 死よ死神よ詩や詩神とのかくれんぼ
す 西瓜が好きだが半球の潜り食ひは無理
せ 性器といふ用語がCsOを裏切つてゐる
そ 爽快な崩壊 砂の城が波に洗われる

た 体言止めといふが体型の経年変化をだうするの
ち 椿事出来しても表面的には平常心
つ 作り物の感情に溺れて運河氾濫す
て 定家に定義ありや定式ありやその定法を学ぶべし
と 闘牛を讃えし藝術家たち地獄で苦しめよ

な 内容と形式はひとつそれなら反復練習だ
に 肉体に傷をつけ時々血を流す苦行
ぬ ヌートリア泳ぐ河川のにぎやかさ
ね ねぎらひと涅槃念仏ねぎと鴨
の 農業を企業支配から奪取せよ

は 橋が落ちた神のフィルムを巻き戻せ
ひ 干潟よ干潟小さな命の運動会
ふ 不況より軍需産業の隆盛を選ぶのか
へ 変身に希望を託して肌を彫る
ほ ほんたうにほんたうに恐い話をしてよ

ま まいまいずへ下りて若水がぶ飲みす
み 見過ごしていた日常性のマラビーリャ(maravilla)
む むこうみずなきみの人生マラビーダ(mala vida)
め 明示された価格で正直に生きたいね
も 猛獣にヒトの捕食をうながしたい

や 夜間飛行で星のシャワーを浴びる夢
ゆ 夢の中で「夢だ」とつぶやくが理由は忘れた
よ 洋館で吠えているよ柴犬二匹

ら 来週という言葉はもつとも手軽な希望
り 臨終にどの風景を思ふのか
る 類が友を呼びこの部屋は悪者ばかり
れ 霊界の友人が仕事をいろいろ助けてくれる
ろ ロートレアモン一度はきみに会いたかった

わ 和解せよ心はいずれ大同小異

仙台ネイティブのつぶやき(25)寒い夏に耐える

西大立目祥子

仙台では、この夏、7月22日から8月26日まで36日間雨が降り続き記録的長雨となった。しとしとした雨が止んだかと思うとまた降り出し、朝起きて今日はくもり空かと思っていると、いつのまにか霧雨に変わっている。気温も低く、寒がりの私は長袖を羽織る日が多かった。

オホーツク海に高気圧が居座り、冷たく湿った海風が流れ込んでくるためだ。東北の人々が「ヤマセ」とよんでおそれてきた北東の風である。雨天が30日間を過ぎるあたりから、地元メディアでは「昭和9年(1934)の35日間に迫る」という報道がなされるようになった。「昭和9年」と聞いて、ひやりとする。東北各地が深刻な凶作に苦しんだ大冷害の年として記録に残されているからだ。

「ヤマセ」はおそろしい。初めて身を持って知ったのは大冷害となった平成5年(1993)の夏だった。このときも、ひと夏気温が低く雨の日が続き、カーディガンを手放せなかった記憶がある。私にとっては、ちょうど仙台東部の農家の話を聞き始めた時期で、冷害の予感の中で聞く農家の人々の苦労や発せられる言葉が胸にしみた。
農家にとっては豊作が何よりも願いなのに、どんよりしたくもり空の下に広がる目の前の田んぼの稲は、日照不足と長雨で、夏の終わりになっても青く突っ立ったまま。実が入らないために穂が上を向いたままの「青立ち」よばれる状態に陥っていた。

ヤマセの吹き込む田んぼに立って、まだ幼かったころに聞いた話がよみがえったのだろうか。代々米づくりを続けてきた、堀江正一さんという大正生まれの古老が口にした言葉が忘れられない。「うちの親父は、昭和9年の冷害の年は、ひと夏、綿入れを着て過ごしたといってたよ」
昭和9年、その前は大正2年、その前は明治39年。農家は収量の増加をめざしながら、代々家の中で、凶作の記憶を語り継いできているのだ。

この年の宮城県の米の作況指数は「37」。青森は「28」、岩手は「30」。例年100前後で推移し、豊作の年には100をこえることを考えれば、未曾有の不作だったことがわかる。米不足のために、政府は大々的な米の輸入に踏み切った。
たったひと夏の気候変動のために、私たちの食卓は危機に直面するんだ…。飽食だとかグルメだとか、そんな言葉を頭から信じ込んでいたわけではないけれど、いまの時代、食糧は何とかなるだろうとどこかで高をくくっていた私は、不意を突かれうろたえた。毎日の食は、私たちの想像以上にあやうい生産と供給のうえに成り立っている。このときから私は、生産する人の側に寄って食べものを考えるようになった。

郷土史をひもとけば、東北の中では雪が少なく、そうきびしい気候風土ともいえない仙台でさえ、度重なる冷害に苦しめられてきている。江戸時代の中期から後期にかけては、大量の餓死者を生むほどに悲惨だった。
中でも、宝暦5年(1775)、天明3年(1783)は大飢饉の年として記録に残されている。領内各地から食べものを求めて難民が仙台城下に集まり、河原に藩のお救い小屋を立てて粥をほどこしたものの、行き倒れる人々が日に150人も出たという宝暦の飢饉。5月から9月までの長雨に加え、浅間山噴火の火山灰が遠く運ばれ降り積もったという天明の飢饉。飢饉のあとつくられた城下絵図では武家屋敷の氏名が赤文字で記されていて、これはおそらく主が餓死して空き家となったためだ。
人々が埋葬された河原も、弔われた叢塚も、私がふだん行き来する通りのすぐ近くにある。この場所で飢えて命を落とした人たちがいたのだ。200年前の出来事も、同じようにヤマセがもたらしたものだ。

霧雨の続く8月中旬、旧知の農家の人たちと山形に研修旅行に出かけた。西に向かい奥羽山脈を超えたら、一転して青空が広がっている。久しぶりに見上げる晴れやかな空に、胸の奥にまで日差しが入り込む気がした。広大な田んぼでは稲が重たく穂を下げ、心なしか青色から黄味ががった実りの色に移り始めたようにも見える。東北といっても一様ではない。太平洋側が雨天続きで不作でも、日本海側は天気に恵まれ豊作となることも少なくない。
「うらやましいなあ、もう稲刈りできんでねえか」「俺らはどうなんだべ」「大体雨続きで、薬も撒けないしな」「稲刈りは10日は遅れるなあ」
ため息に近いような言葉がつぎつぎと口についで出た。

手を尽くしきっても、あとは天気しだい。農家は天を仰ぐだけだ。岩手に生きた宮澤賢治が「サムサノナツハオロオロアルキ」と書いたその気持ちがわかるような気がする。

長雨のあと仙台では30度を超す日が数日あったけれど、また雨が降ったりやんだりぐずぐずとした天気に戻った。今日の最高気温は23度、明日は17度。気温が戻るといい。農家も稲も雨と寒さに耐えている。

太陽を喰べる月

璃葉

太陽、月、地球が一直線に並んだときに起こる日食。偶然のような必然の瞬間を見ることができるアメリカの一部地域は、異様な盛り上がりを見せていた。

飛行機を乗り継ぎ、ポートランド空港から街へ出れば、「Solar Eclipse on August 21, 2017」という文字や日食、皆既帯(皆既日食を見られる地域)の地図がプリントされたポスター、パネル、Tシャツなどがあちらこちらで目についた。ホテルでなんとなくテレビをつけてみたら、ニュースはやはり、その話題で持ちきりだった。− 決して肉眼で太陽を見てはいけません −と、何度もアナウンスしながら、インタビューや日食の仕組みを説明していた。日食に乗じたイベントも多く開催されていて、どこもお祭り騒ぎなのだ。

日食2日前、ポートランドからさらに小さな街へ移動するとき、夜明け前の低い空に一本の毛のような月が浮かんでいた。移動中のバスの中は天文に近しい人たちばかりだったから、いまにも消えてしまいそうな月を窓ガラス越しに撮影したり眺めたりしていた。あの月が新月になる日に、日食は起こるのだな、と思いながら、半目で空をぼうっと眺める。
か細い月は、閉じたまぶたのようにも見える。後ろの席に座っていたおばあさんのゆったりとした、空気のような囁きがじんわり耳に入ってきて、わたしはしばらく眠りについたのだった。
今にも こわれてしまいそうな月 そっとしておいてあげないと

当日、日食観測の準備は、薄明前からおこなわれた。冬のような寒さに震えながら(夜空には冬の星座がひろがっている)暗闇のなかで、みなさん器用に望遠鏡やカメラを設置していく。空には天の川が見え、金星が明るい。紙コップに注いだコーヒーの香りを吸い込みながらうろうろしているうちに、空はどんどん薄紫色になり、やがて太陽が顔を出し、世界を照らしていく。気温はぐんと上がって、日差しの強い真夏になった。街のひとたちが、丘の上や小高い場所に徐々に集まってきている。ビーチチェアに寝転がって待っているひともいた。街全体のざわめきが聞こえてくるようだった。

月が太陽にゆっくりかぶさっていく様子は、たいへん奇妙だった。新月が、太陽の光を喰べていく。太陽が欠けていくのを黒いフィルム越しに見つめながら、自分の立っている場所が、影の世界になっていくのがわかった。消えていく光によって夕暮れのような現象が起こり、気温も下がる。冷たい風が吹き、鳥たちが不安そうに上空を飛び回っていた。
月が太陽を完全に覆い尽くしたとき、街中から大歓声が聞こえる。およそ1分間だけの皆既日食だ。碧い空のなかに、まんまるの新月が黒く輝く。
太陽の光が影から漏れると、空は徐々に明るくなり、あっという間に夏の真昼にもどった。

紀元前585年に起こった皆既日食は、長期にわたって繰り広げられていた戦争をも中断させてしまったそうだ。たしかに、戦の最中に突然こんな現象が起これば、なにも知らない兵士たちはさぞかし戸惑ったのではないだろうか。壮大な宇宙のうごきのなかで人間同士が小競り合いをしているのは、どう考えても滑稽としか思えない。そもそもヒトが生きていること自体が、ふしぎなことかもしれない。

グロッソラリー―ない ので ある―(35)

明智尚希

恥ずかし村の村長さんは、とても恥ずかしがり屋だ。恥ずかし村の住民も恥ずかしがり屋だけど、村長さんほどではない。村長さんは一番の恥ずかしがり屋だから、指一本見られるのも恥ずかしい。だからもちろん外には出ない。外に出ないのは住民も同じだ。ではどうやって恥ずかし村の村長さんを選んだのか。恥ずかしいから答える人はいない。

(*/ω\*)

 欧米の詩の中に、神は何度その名を呼ばれたことか。ほとんどが切羽詰まった場合や愁嘆場である。詩人が困難や絶望に直面し、自力で克服するための術を見つけるべき時に「おお神よ」と相なる。神への甘え、逃げでしかない。仮にも一個の人間なら、人間臭く泥臭く生命を賭して、攻めの一歩を踏み出す義務がある。便利な手段に頼らずに。

カミ ヾ(◎´∀`◎)ノ デス

 肉体が疲弊している時、自分にとって何が重要かを気づかせてくれる。無駄な思想や欲望が剥落し、精神は束の間の均衡状態にある。身の回りでその時に有意義な役割を果たすもののみが、新鮮な訴求力を発揮してくる。本来なら鋭敏な感覚も常ならず落ち着いているため、ツールや感覚に従ってあらゆる判断を下すにはうってつけの時間となる。

(-公- 😉 ツカレタ

 ヘミングウェイ、キャパ、セリーヌのように、死と隣り合わせとなった状況を望み、生き甲斐となった人物は不幸である。死は求めれば逃げていき、恐れれば近づいてくる。人間の思惑との帳尻が合わないからこそ、死は畏怖の対象たりえている。ヘミングウェイのように死の探求の冒険がナンセンスと知った者は、最後の冒険に出るしかない。

死は(▼▼ )( ▼▼)どこだ

 明察・省察・継続により技術は向上する。その技術をもってして一分野を追求する。追求するほどに世俗的ではなくなっていく。世俗的ではなくなるにつれ、いわゆる「あっちの世界」の作り手・研究者となる。「あっちの世界」の住人たるを自覚することで、俗世間との乖離の大きさに気づく。乖離の大きさに気づいたら、技術を引き戻す。

あーあ( -Д-)=3

 図工の時間、担任の教師の机の前に立たされて、怒られている小学一年生の姿がある。人物画の背景を真っ黒に塗ったのだ。もちろんベラスケスもゴヤもまだ知らない。他の児童は外の風景を描いていたのに、一人だけ真っ黒。教師の気に入らなかったらしい。給食・掃除の時間も過ぎた。「夜なんですか!」。面倒臭くなって答えた。「そうです」。

ヘ(。≧O≦)ノ ヨルナンデスカ!

 春になると「陽気な」人が出来するという定説がある。数か月に渡る冬の鋭角的な寒さの締め付けで、内へ内へと巻き込まれ孤独感と逼迫感が助長されていたのが、温暖な気候の牛歩ながらの訪れのおかげで解放され、自分の精神と肉体の不可視な面積が増えるからだろう。彼らの登場は有名だが、いったいどこへ消えていくのか誰も知らない。

ヘ( ̄▽ ̄*)ノ・ ・.♪ヒャッホーイ♪.・ ・ヾ(* ̄▽ ̄)ノ

 ぼんやりしていると言われない程度に思考から離れている。街の構成物になんとなく気を取られながら歩いている。日々の雑事をいつも通りのモチベーションでこなしている。やるべき仕事を淡々とやっつけている。その時点のことをそういうものとしてとらえておらず、自分自身から遊離しかかっている。地震はそういう時にやってくる。

!!!地震(゚ω(ω(゚ω゚)ω)ω゚)地震!!!

 巷間では、季節の変わり目をなにやら嬉しそうに話題にするが、わしにとっちゃ大きな異変じゃ。まず体が神経が不調になる。高熱に侵されたかのごとく、脱力し意気阻喪する。桜前線や真夏日がどうのと騒いでるのに対し、こちとらもう終わるのではないかと静寂そのものじゃ。四季折々の死にかけ。季節など一つこっきりで十二分じゃ。

”_| ̄|○”ハァハァハァ

 知人の子供を見るにつけ思う。こちらは現在と変わらぬまま、十年前後には楽々と追い抜かれているのだろうと。仕事・資産・社会的地位。こちらがいかに嫌がろうとも、世人はそれらを唯一無二の絶対的な指標・基準として他人を選別し、尊敬か軽蔑をする。だが満足度では、前途を約された子供たちより、駄目人間の旗振り役のほうが大きい。

だめ人間です(⌒o⌒;A どーも

 何だろうこの眠気は。睡眠障害なのは認めるが、日中の眠気では前例の少ない種類だ。倒れそうなほど眠いというすがすがしいわかりやすさはなく、睡魔が障害物に引っ掛かっていて、眠りには至らないような状態。脳が意識をシャットダウンするか否か迷っているのだろう。こういう日の夜は眠剤を増やさないと、二三日は容易に徹夜をする。

ネムイ(´っд・。)

 夢は突拍子もない空想でしかない。希望はロマンチックな勘違いでしかない。努力は態のいい時間の浪費でしかない。憧れは気づきにくい現実逃避と自己疎外でしかない。信仰は信仰のために信仰するというトートロジーでしかない。願いは無軌道・無計画な戯れ言でしかない。理想は根拠らしきものと絶縁している空白でしかない。

;;;;(;・・)ゞウーン

オーストラリアと福島、そして警察官

さとうまき

先月書いたように、8月は福島とオーストラリアを無理やりにこじつけてみることにしたのだ。2つの大きなつながりがそこにはある。先ずは核燃料サイクル。オーストラリアのウラン埋蔵量は世界一らしく、日本もウラン輸入はオーストラリアに頼り切っているらしい。心あるオーストラリア人は、自分たちの国から輸出されたウランがアメリカで核兵器になり、劣化ウラン弾も作られていることに心を痛め、さらに福島原発で使われていた核燃料がオーストラリア産のウランを使っている可能性は十分あることで心を痛めている

もう一つは、オーストラリアは、都合のいい国。英語を勉強したりするのに、オーストラリア人が日本語を勉強したりしているらしく、双方の交流は難しくない。観光地としては持ってこいで、カンガルーもコアラもいる。

それはそうと、私は慎重にサカベコ(赤べコをサッカー仕様に絵付け)したものを車に300体ほどそーっと積み込んで練馬の展示所に向かっていた時のこと。いきなり警察官が歩いて追いかけてくる。駐車して窓を開けると、「あなた何をしたかわかりますね?」という「え?」

どうも交差点の手前で進路を変更してしまったようだ。6000円の罰金だという。流れに合わせて運転していたからオレンジ色のラインをまたいでしまったという感覚はなかったのだが、警官が見ていたというからそうなんだろう。
こういう日は、とても気分が悪くなる。

最近、加齢とともに、目も悪くなっているから、無事故を続けているけど、警察に捕まることが多い。しかも、一時停止を無視したとか、気を付けていても、標識がよくわからないところにあったりとか。まあ、悔しいが、今回の進路変更無視というよりは、おまわりさんは、将来起こりうるべくもっと大きな事故を予感して注意してくれたのだろうと割り切った。落ち込んでいる僕を見て、うちのスタッフが、運転してくれた。ところがこれまた駐車場のポールに側面をぶつけて、車がへこむ羽目に。

そして2週間がたち、今度は会津で大熊町から避難している中学校を訪ね、教頭先生やオーストラリア人の英語の先生から話を聞きながらサカベコを書いてもらい、会津にある大熊町役場にも行きそこでもサカベコを作ってもらったその帰り、青信号だったので交差点を直進していたときのことだ。対向車線の直進車の後ろからいきなり、車が左折しようと飛び出してきたのである。「あああああ、ぶつかる? あ、ぶつかった」一瞬時間がとまったようだったが、ブレーキは間に合わず。中から老夫婦が出てきて、「母ちゃんが、急に曲がれというから。。」と言い訳をしている。

なんと私の車はバンパーがとれてフェンダーもめくれ上がりとんでもない状況に。廃車にした方がいいですよと保険屋には、進められる始末。一か月の間に警察に2度もお世話になってしまったのだ。

災難が続く。

車がつかえないので、レンタカーを借りて、再びサカベコを輸送することに。今度は別のスタッフが運転してくれた。助手席の私。「こないだ、ここで黄色いラインを超えて、警察に捕まったんだよ。気を付けてね」と話す。
「どちらに曲がりますか?」「右に」というと彼は、黄色いラインを踏んで車線変更した。「今のわかる? 黄色い線を踏んだでしょ。僕はそれで捕まったんだから。気を付けて」といった矢先、まさかのおまわりさんが白バイで追っかけてきた。「ハイ、6000円」

結局、一か月の間にサカベコの展示を4か所でおこなったが、3回警察にお世話になるというありさま。深く反省するしかない。。最後のサカベコ展は、9月3日まで新宿のカタログハウスの福島応援ショップ「本日!福島」に展示中です。

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カタカナの誘惑、たとえば絵のなかに見るような

北村周一

木村拓哉が主人公を演じていたテレビドラマのひとつに『華麗なる一族』という番組があった。
いまその番組の冒頭のシーンを思い浮かべている。
ドラマは、戦後の高度成長期を迎えようとする関西、とりわけ神戸周辺を舞台に展開されていたと記憶している。
のだけれど、ちょっとおかしい。違和感があるのだ。
毎回番組のはじめに神戸の市街地と思しき光景が映し出されるのだが、その遠景のワンショットが気になって仕方がない。
なぜなら、あきらかに別の町、それもよく見慣れたある町の映像だったからである。
テレビの画面に映っている町並みや、湾岸部、石油タンクの数々、そして遠くの海は、どう見てもあの清水ではないか。
繁栄した神戸ではありえない。
1960年代の神戸の町は知る由もないが、この番組の初回の冒頭シーンを見た時から、この風景は清水の日本平から見た景色に違いないと思っていた。
とはいえどこかおかしい。
富士山がないのだ。
清水の北西部から海側を望む景色として描かれているのだから、左手に大きく富士山がなくてはならない。
右手にはむろん清水港。
テレビ画面から、港および倉庫群は消されてはいなかったものの、あのニチレイの看板が見当たらない。
細かく観察しようにも、10年も前の番組だから、記憶に頼るしかないのだけれど、お門違いの間違い探しはこれくらいにして、本題に入りたいと思う。

ニチレイ、いわずと知れた日本を代表する冷凍食品会社である。
清水港はマグロで有名だが、はごろもフーズをはじめとしていまも食品加工会社が軒を連ねている。
そのなかにあって、ニチレイの大きな看板はひときわ目立っていた。
当時あまり背の高い建物のなかった清水市街にあって、ビルの屋上に作られた大看板は、カタカナ四文字の奇抜さも相俟って、他を威圧していたように思う。
海側からも山側からもそれと見てとれたのである。

清水港のやや東側、折戸湾に突き出た防波堤の突端に通称赤灯台と呼ばれる小さな灯台が立っている。
ふだんは釣り人しか近寄らないところなのだが、魚市場から歩いていける距離にあるので、たまにスケッチに立ち寄る場所でもあった。
かれこれ40年も前の話ではあるけれど。
赤灯台から眺める清水の町並みは、それなりに決まった構図ではあったと思うが、いったん描き始めると、さてニチレイの看板の文字はどうしようかと思い悩むこととなった。
アルファベットなら、苦しまずに済んだかもしれない。
春が近いとはいえまだまだ寒い時期だった。
夕暮れが迫り、パステルの色調もだんだんに陰りを帯びてくる。

 なにもまだ生んでいないのに春は来て父となりたるわれを待つらん

はじめての子が生まれてくる前の何ともいいようのない不安が、ニチレイのカタカナ四文字に重なる。
仕事を辞めて画家を志したところまではよくある話といえなくもないだろうが、人に見せるに足る絵が一枚もないのだから、ほんとうにお先真っ暗だったのだ。
最初の個展が開けるようになるまで、それから5、6年は悶々とする日々が続いた。

『華麗なる一族』の主役を務めたキムタクは、全撮影が終わった後、「今だから笑って言えるけれど、逃げたかった」と告白したと伝えられている。

さつき 二〇一七年九月 第五回

植松眞人

 夏がおさまらない。
 学校が始まっても蝉はいつまでもクマゼミにならずに、相変わらずアブラゼミがやかましく鳴いている。
 八月の半ば頃、東京では雨が二十日以上続き、すっかり涼しくなってこのまま秋に突入だと思っていたのに、夏の暑さは涼しくしていた頃の分まで含めてぶり返しているようだ。九月になっても毎日朝起きた途端に、びっしょり汗をかいていることに気付いてげんなりする。
 それでも、今朝は少しましだ。昨日の家族の会話を思い出すと自然に笑ってしまう。
 昨日はテレビの晩ご飯の後、テレビのニュースを家族みんなで見た。北朝鮮がまた日本の上空に向けてミサイルを発射したとしたら、今度は必ず打ち落とす、と安部さんは言っていたけれど、きっと嘘だと私は思う。だって、八月に北海道の上空を飛んだときに打ち落とさなかったくせに、次は打ち落とすから信用してくれと言われて信用する馬鹿はいないと思う。
 父は、ひとしきり北朝鮮の話をして、もし自分が太ってしまうと、丸顔だから北朝鮮の指導者のようになってしまうかもしれないと真剣に嫌な顔をしたのが面白かった。
 その後、父が都民ファーストの会の話をし始めて、なんとなく「小池百合子もさあ」と父が言うのを聞きながら、ああ、この人は小池百合子が好きなんだなあ、とわかってしまったのだった。小池百合子が好きというか、小池百合子の快進撃に期待してしまっているんだなあと言うことが感じられてしまって、ほんの少しだけ、父が歳取って見えてしまったのだった。
 たかが高校生の意見ではあるけれど、私は政治の話は楽しいエンターテインメントだと思う。何しろ、こちらの生活がかかっている。エンターテイメントって、結局、観客を感動させればいいわけで、だとすれば生活がかかっているとなると、これ以上の興奮や感動があるわけもなく政治ってものすごいエンターテインメントだと私は思うようになったのだった。
 だって、小池百合子がミドリムシのゆるキャラのように見える衣装でおばさまたちの人気を独り占めしたのも、結局はみんなが戦隊ものの緑色のヒーロー、ヒロインみたいなやつをみんなが追い求めているってことを露呈したのだし、その結果、ミドリムシ連合のような都民ファーストの会が大躍進して、多勢に無勢で国会ではあんなに偉そうにしていた自民党の安倍さんも最近はなんだか元気がない。
 しかし、東京都民である私たち家族にとって、いますぐ小池さんが何かをしてくれるわけではなく、相変わらず元コピーライターの父は薄ぼんやりと毎日を過ごしているし、人見知りのグラフィックデザイナーの母は相変わらず、単価の安いデザイン仕事を請け負っている。「こんなんじゃ誰も幸せにならないのよ」が最近口癖になった母だが、その口癖を大きな声で叫ぶことはない。小さな声で、私にだけ伝えて、小さなため息をついて、机の上のパソコンに向かって、マウスを動かし始める。
 選挙特番を見ているときには、「都民ファーストの会が自民党一党体制に風穴を開けた」的な妙にわくわくした気持ちに包まれたのは確かだし、選挙権もないのに、なんとなくドキドキしながら、都民ファーストの人に投票しに行った感覚があった。
 だけど、テレビを見ていて、次々と小池さんが緑色のリボンを当選者の名前のところに付けていくのを見ながら、コピーを書かなくなって久しいコピーライターの父が「どうせ、何にもかわらないのにな」と呟いた。
「変わらないと思う?」
 私がそう聞くと、父は、
「残念ながら変わらない。今の世の中を変えることなんてできるのかなあ。もちろん、いつかは変わる。だけど、それが今だなんて思えないんだよ」
 父はそういうと、私をまっすぐに見た。私は父になにかを問われている気がして、答えを探してみた。小池百合子に期待しちゃってるくせに、と私は答えを探しながら思った。期待しているくせに諦めてるって、どういうことだろう、と私は父の表情を盗み見た。そして、瞬時にいろいろ考えた結果、私も父と同じように、それが今だなんて思えなかった。
 翌日、学校へ行くと、ホームルームの時間に神谷先生がなんとなく政治の話をした。ホームルームなので、込み入った話ではなく今の政治はこれまでの選挙の反映であって、政治家だけがどうこういうのは間違っているという、まあ先生としては至極まっとうな正論で、正論過ぎてなぜ先生がいまこの話をしだしたのか私にはまったくわからなかった。
 きっと先生も夏休み明けに私たち生徒たちがなんとなく気合いの入らない顔をしているので、それらしいことを言ってお茶を濁すつもりだったのかも知れない。それなら、と私は先生に聞いてみた。
「先生、どうせ何も変わらないと思いますか?」
 私がそう言うと、クラスがしんとした。先生も小さく「え?」と声を出した。
 それもそうだ。私がホームルームで発言するなんて、初めてのことだし、誰かに質問されることはあっても、自分から誰かに質問したことなんてなかったからだ。しかも、手も上げずに、着席したままで、ふいに先生に質問したのだから、みんなが驚くのは無理もない。
 一瞬しんとした教室の中が、次第にざわざわし始めた時、先生は「うーん、そうだな」と答え始めた。
「うーん、そうだな。どうせ変わらないという気持ちもわからないでもない。だけど、それを言っちゃおしまいだ、という感じかなあ」
 それを聞いて私は、良い答えだなと思った。思ったけれど、今度は私がどう答えていいのかわからず黙っていた。
「それは、あれか? 畑中がそう思っている、ということか?」
「えっと、いえ、同じ畑中でも、私じゃありません」
 先生は怪訝な顔をする。
「同じ畑中でも、私じゃない…」
 先生はしばらく教室のなかの、クラスメートたちを眺めていた。ここに、私以外の畑中がいたかどうか確かめているのだった。いるわけがない。畑中は私一人だ。
「先生、違います。私の父です」
「あ、お父さんか」
 そう言って、しばらくしてから、先生は続けた。
「畑中のお父さんは絶望してるのか?」
 先生はものすごく普通にそう言った。驚いた様子でもなく、諭すでもなく、一緒に道を歩いていた友達が歩行者用の信号を見て「青だよ」と言ったときのように、本当に普通のトーンで、神谷先生はそう言った。
 先生にそう言われて、私は、そうか父は絶望していたのかと思った。そうだ。確かにいつものように笑っているけれど、父は絶望していたのに違いない。それも昨日今日の絶望ではない。おそらく、父が前に私に話したように、「そこそこのコピーライターは、そこそこ年齢がいくと仕事が減っていくのさ」と感じたときには、すっかり絶望していて、自分のことをそこそこの、と思い至ったときに、知らない間に投げやりな歩き方をし始めていたのに違いない。私はいままで絶望という言葉は使っていても、その言葉にそれほどネガティブな印象を持ったことがなかった。ただただ自分の気持ちを表す言葉として、「絶望的だ」と言っていただけで、その言葉に強い印象を持っていなかったのだ。
 しかし、父が薄らと笑いながら「そこそこのコピーライターは」と話したときのことを思い出した途端に、絶望という言葉は悪魔の言葉になった。穢れた言葉になった。
 私が衝撃を受けている間にホームルームは終わっていた。気がつくと、クラスメートは好き勝手に立ち上がり、半分くらいが教室を出て行った後だった。私は自分でも気付かないうちに鞄を持ち、教室を出ようとしていた。すると、別の生徒からの質問に答えていた神谷先生が私を呼び止めた。
「畑中、おい、畑中」
 私は立ち止まった。
「はい」
 私が答えると、先生は少しだけいつもと違う笑顔で言う。
「お父さん、大丈夫か?」
 そう聞かれて、なんとなく私はえらいことになったと思った。父はあんまり大丈夫ではないはずだ。
「わかりません」
 そう答えると、私は教室から駆けだして、家に向かった。
 家に帰る道で、私は買い物帰りの母の後ろ姿を見つけた。「お帰り」と母が言い、私が「お父さん、大丈夫かな」と聞く。すると母がしばらく考えて、「もしかしたら、家にいないかもしれないけれど、きっと大丈夫」と答えた。
 家に帰ると、本当に父はいなかった。そして、晩ご飯を食べる時間になっても帰ってこず、翌日も私が学校から帰ると父の姿はなかった。でも、母は嬉しそうに帰ってきてこう言った。
「新しい仮住まいが見つかったわよ」(つづく)

製本かい摘みましては(130)

四釜裕子

どこかわずか違和感をおぼえる日本語で話す5人の若い男が写真を撮ろうとしている。赤茶色の紙にガリ版で「LE MOULIN」と大きな「3」の文字。これで本文紙をくるんだ薄っぺらな冊子『LE MOULIN』の3号が、机に積み上げられる。仕上げはホチキスだろうか。送り先の名前を一人ずつ書いた短冊状の紙を中にはさみ込む両手が映る。先の5人のうちの誰かだろう。顔は映らず、まさか誰かがひとりで作業しているわけでもあるまいに、そのにぎわいも映らない。黄亞歴(ホアン・ヤーリー)監督の『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』の冒頭だ。

日本統治下にあった1930年代の台湾に、日本語で詩を書くグループがあった。「風車詩社」といい、中心となった楊熾昌(よう・ししょう)は東京の文化学院に学び、『椎の木』や『詩学』、『神戸詩人』に投稿していた。1933年、李張瑞(り・ちょうずい)、林永修(りん・えんしゅう)、張良典(ちょう・りょうてん)らと作ったのが同人誌『LE MOULIN 風車』である。西脇順三郎、ジャン・コクトーなど当時の多くの文化人の影響を受けて、台南で日本語による新しい台湾文学を築こうと活動していた。会は一年半で解散、『LE MOULIN 風車』も4号までだったが、同じ時期、1910年に台湾に家族で渡り早稲田大学を卒業して1933年に台湾に戻っていた西川満が台湾日日新報社で学芸欄を担当しており、彼がなにか大きな役割を担っていたように見える。

映画は、実際の日記や写真、記事を骨組みとして、おびただしい数の同時代の詩集、詩誌、絵画、写真、映画、ニュース映像、音声、音楽、そして日本語と中国語を併記した詩の引用を重ねて見せてくれる。その姿が確認できた詩集、詩誌だけでも、『MAVO』『薔薇・魔術・学説』『詩と詩論』『衣装の太陽』『椎の木』『三田文学』、西脇順三郎『Ambarbalia』、北園克衛『火の菫』、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』……、実際はもっとたくさんあったが、今思い出せるのはこれで精いっぱいだ。しかもその多くは誰かが持って来て「ほら、ごらん!」と机の上に置く瞬間を切り取ったようなアングルで、説明解説のたぐいもない。

冊子のみならず。ダリもキリコも古賀春江も三岸好太郎も山本悍右も、重厚な民族衣装をまとう女性の姿やサトウキビの収穫風景も、とにかくみな次々と。村野四郎の「飛込」に重なる繰り返しの飛び込みシーンはニュース映像か。大きく揺れる机で当時の台南での地震を知る。戦後蒋介石政権による白色テロで銃殺されてしまう李さんには、何十分か前に見た「白い少女」という複数の文字が画面いっぱいに拡大してきた映像が思い出されてしまう。実際に演じている人の台詞はごく少なく、ぎこちないのは日本語だからか。演技もあえてぎこちないように感じる。このめくるめく感じ。技法というようり、実感に近い印象を持つ。

昭和11(1936)年、コクトーが来日していたときに日本にいたのは、慶応義塾大学に留学していた林さんだろうか。フランス語ができないので作品を読んでもわからないけれども、新聞で動向をつかみスクラップするだけで楽しかったと話すのには大いに共感した。そこに、歌舞伎座で六代目菊五郎の『鏡獅子』を観るコクトーのニュース映像が重なる。隣には藤田嗣治。やはり新聞でコクトーの帰国を知った林さんが横浜港にかけつけると、江間章子の『春への招待』(1936)を手土産に抱えていた。日々の記録を、ときに写真を添えてのこしたようだ。大学では西脇順三郎に師事し、いっしょに多摩川を散策して深大寺でそばを食べた日の写真もある。先生はパイプを吸う、その隣りにいられることがうれしい、と書いた。

最後になって、西川満の小さな詩集がいくつか映された。『媽祖祭』(媽祖書房1935)と『採蓮花歌』(日孝山房 1936)か。『媽祖祭』は中を開いて、はさみこまれた複数のページもよく見せてくれた。コギトさんのホームページで見ていたものだ。こんなに小さくて愛らしいものだったとは……。『採蓮花歌』は画面では四つ目綴じに見えたが、改めてウェブに探すと高貴綴じのようだ。さらにウェブに西川満さんを捜しに行く。

中島利郎(なかじま・としお)さんの『日本人作家の系譜 日本統治期台湾文学研究』(研文出版 2013)の、「台湾文芸協会」の成立と『文芸台湾』——西川満「南方の烽火」から」に、装幀にも深い関心を持つ西川の姿があった。自宅で媽祖書房をおこし、300部限定の文芸誌『媽祖』、さらに詩集『媽祖祭』を330部限定で刊行したが、〈西川は戦前、自身の媽祖書房から限定本を出していたが、それらは七十五部限定のものが多かった〉、それは〈「真の読者は七五人居れば充分だ」という独自の考えがあったから〉とある。映画の監督がインタビューの中で、『LE MOULIN』の刷り部数は毎号75部だったと答えていたのが気になっていた。なにか縁起のいい数字なのかと思っていたが、西川の助言だったのだろうか。

・四季・コギト・詩集ホームページ/にしかわみつる【西川満】『媽祖祭』1935

別腸日記(7)飲み過ぎる人たち(後編)

新井卓

よその国から帰ってきて東京の夜の街へ漂い出ると、まず驚くのが酔いつぶれて路傍や駅舎に転がる人の多さだ。たとえばロスアンゼルスとかアムステルダムでそういう人がいたら、まずドラッグのオーバー・ドーズが疑われる。

いったい何が彼/彼女らをそこまで駆り立てるのか。自分のことを思い返しても、ひとり家にあって潰れるまで飲む、ということは余程のことがなければ起こらない。わたしたちが飲み過ぎるのは大抵の場合、社交の場においてである。

かつて勤めた広告写真の制作会社での二年間は、それこそ酒で海馬を焼き切ってしまいたい暗い日々だったが、その中でもっとも耐えがたかったのは、上司や客たちによって時々に設定される宴会だった。

そして、宴席とはいつでも無礼講なのである。ブレーコー、とは何か──16世紀に来日したポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリーゲスは、日本人の乱酒の習慣におどろき、日本人にとって酒宴は第一に相手を泥酔させることを目的としている、と書き残している(*)。この国の社会はいまだ年功序列主義に囚われているから、十代からたたき込まれる敬語の使い方と同様に、酒の席での立ち振る舞いはシステムから逸脱していないかどうかの指標として常時監視の眼から自由であることはない。

こうして視線の相克にあって酒はとどまるところをしらず、結局酔いつぶれるまで飲んでしまう。路上に座り込んでいるのは、果てしない戦いからようやく解放され、帰路なかばで難破した手負いの戦士たちにも見えてくる。

* ジョアン・ロドリーゲス「大航海時代叢書〈第I期 9〉日本教会史 上」岩波書店(1967)

八月最後の日。

仲宗根浩

昼前ににわかに暗くなると、北の方向から頭上にかけて雨雲がかかりそうになっている。洗濯物を取り込む。ちょっと時間がたつと雨が降る。東側にあるベランダの先は晴れのまま雨雲は家の真上を通りすぎる。
旧暦の七夕、灼熱の午前中に墓掃除。デッキブラシ、たわしでコンクリート製の墓についた水垢をごしごしと落とすと。たっぷり過ぎるほど汗をかき、旧盆を迎えるごあいさつをすませる。七夕の前の週に子供は夏休みを終え、二人分の昼ごはんをつくることから解放され、暑いなか中学生は一学期後半が始まる。

車が古くなれば自動車税も高くなり維持費が高くなるが、別の車を買う余裕は今は無く、走行距離十万キロ越えれば交換しなくてはいけない部品があり、運転席側のパワーウインドウは完全に壊れた状態で半年以上、いよいよ修理見積もりをしてもらう。電動で開け閉めする窓は人力の力わざを使い、こちらの筋肉が鍛えられる。電動で開け閉めする窓の部品がこれまた結構なお値段で。遂に修理と部品交換に出すと、代車の軽自動車はキーレス・エントリー、バックモニターとオールド・スクールの人間にはとまどうことばかりだが、車内は広く、走りはスムーズで静か。十数年前の軽自動車と比べるとその進化に驚く。

沖縄防衛局から電話がある。いかにも電話での対応に不慣れな口調の担当者さん、昨年出した受信料減額の手続きに不備があったので書類送付する、ついては記入後に返送願います、と。いやいやこちらは、そちらの方まで赴き、ご担当の方と面と向かい、ご指示に従い必要書類記載しご担当者様と共に確認の上提出しましたがそれを今ごろになって不備がありましたとは納得がいかない、ということを小心者のため言えず、胸のうちに納め、ハイハイわかりましたと返事をし電話を切る。しばらくして届いた書類には受信料金額が変更したたため云々。今更、変更など一括払いで引き落としされているものをちゃんと確認したはずだしどこの不備だ。基地の護岸工事はチャッチャと手早く進めるけどこういうことはチャチャッとできないお役所。

外に出ると今までと違う、熱をもった風ではなく涼しさを感じさせるような風が一瞬吹くが、すぐ現実の暑さのなかにもどされ汗がどんどん出てくる。車に乗り込み、空港に向かい、飛行機で羽田。羽田から東京駅に行き新幹線に乗り込み長野へ向かう八月最後の日。

ゆれうごく格子

高橋悠治

毎年夏の暑い時に 秋のために作曲したり練習したりする日々がつづく 今年は録音もあり ほとんど休みなくはたらいていた これでは考えたり 感じる余裕もないと思いつつ いくつかのちいさな発見で 他のことを忘れる

作曲したのはジュリア・スーのためのピアノ曲『夢蝶』 陳育紅の詩の 日本語のように仮名がまじらない 漢字だけのイメージから音のうごきが見えてくるののか 周蝶夢はもう一人の詩人の筆名であり 莊子の一節でもある 蝶の夢と夢の蝶は どこか似ているそれぞれの世界にから 回りながら現れ 消えてゆく もう一つの世界を忘れるのが この世界のたのしみ

8月はずっとウィンドオーケストラの曲を書いていた 全体の空間はトーマス・タリスの40声部の合唱曲 Spem in Alium の構図から思いついた 楽器群のあいだを移動する線が辿る方向や 線をよりあわせて ゆるやかに束ねた織物が 輪郭を変えながら ゆれうごく格子をくぐりぬける 流れの変化 ちいさな渦 タイトルの『透影』は几帳を透かして見える灯影 『源氏物語』のことば

録音したのはサティ 息づかいと そっと音に触れる指の感触 慎ましい白の ためらう歩み 青柳いづみこと連弾したストラヴィンスキー 『春の祭典』と『ペトルーシュカ』 手のうごきを内側から感じる こどものたのしみ 瞬間にはじける即興

2017年8月1日(火)

水牛だより

東京では湿度の高い八月のはじまりの日です。ここ何日か、夏の快晴はありません。とはいえ、太陽からの直射がないと、道を歩くのは案外快適なので、どこへでも歩いて行けてしまうのですが、真夏なのに照りつける直射がない昼間はちょっぴりさみしく、どうしたのかなと思ってしまう。勝手な人間です。

「水牛のように」を2017年8月1日号に更新しました。
来るはずの原稿を待ちつつ、そのあいだに少々あそんだりもして、こうして更新できることは、原稿を書いて送ってくださるみなさんのおかげです。何度も書いているように、催促はほとんどしない方針を確立できたのは、やはり水牛という小さなメディアを貫いてきたからだと思っています。編集者として意識的あるいは意図的にまとめあげるのではなく、植物がゆっくりと繁茂していくようにまかせてみよう。そう考えています。それはひとつひとつの原稿のことでもあり、それらがずらずらと並んでいる毎月のことにも言える、複雑系です。

エドワード・D・ホックというミステリー作家の怪盗ニックシリーズを愛読してきたのですが、「怪盗ニック全仕事」にまとめられたのを機に年代順に再読しはじめました。価値のないものを盗むことだけ引き受けるプロの泥棒のいくつもの短編です。寝る前のひとときにひとつ読んで、ふふふと笑うといいのです。

それではまた!(八巻美恵)

沖縄とともに

小泉英政

沖縄の高江や辺野古の、米軍基地建設に反対する運動の中で奮闘していた宮城節子さんが亡くなった。本人が語るには、進行の遅い珍しいガンで、医者も研究対象として大事にしてくれているとのことだったのだが、病状が急変し、帰らぬ人となった。

葬式はしない、そして散骨をというのが遺言だと聞いて、とても彼女らしいと感じた。集まった友人、仲間たちで相談して、辺野古の海、高江、彼女の農場があった大湿帯(オオシッタイ)、伊江島に散骨する事になったと聞いた。さらに、その相談の中で、彼女が「もう一度、三里塚に行きたい」と強く願っていたということで、ぼくの方に、「よねさんのお墓に散骨できないか」と電話で問い合わせがあった。

宮城さんとは、1970年の日米安保条約にに反対する坐りこみ運動の中で知り合った。その後彼女は、僕たちと同じ時期に三里塚の空港反対運動に参加し、よねさんや染谷のばあちゃん、村のおっかさん達とつきあいを深めていった。

よねさん宅が代執行され、反対同盟がよねさんの住まいとして、東峰の島村さんの畑の一角にプレハブ小屋を建てた時、宮城さんはしばらくの間、同居し、よねさんを気づかった。宮城さんは沖縄出身で、その後一時期、家族の何がしかの事情で沖縄に戻っていた。

宮城さんが居ない間に、よねさんが病に倒れ、いくつかの経過を経て、僕たちが養子になった。反対同盟からの養子要請の候補に宮城さんは含まれて居なかったが、宮城さんがその時いたならば、自ら「私がなる」と申し出たかも知れないと、今になって思う。そういう熱い心の持ち主だった。

僕たちと宮城さんとの関係、そして、よねさんと宮城さんとの関係、「よねさんのお墓に散骨できないか」と尋ねられて、断る理由はなかった。宮城さんは特別なのだ。

宮城さんの散骨に、沖縄の親しかった女性陣が賑やかに7人もいらっしゃると言う。その日を待つ間、宮城さんのことをいろいろ想った。最後に会ったのは、2016年の一月末、沖縄でだった。その頃はとても元気そうで、高江のヘリパッド反対の坐りこみに頻繁に出かけている話や、散骨の場所ともなった伊江島に通って、「阿波根さんの芝居の練習しているんだけど、歌が難しくてなかなか覚えられない」と苦笑いしていた。

阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)、名前は聞いたことはあるが、詳しくは何も知らなかった。「阿波根さんの本を読んでみて!」姿なき宮城さんから、そんな声が届いた気がして、阿波根昌鴻著『米軍と農民〜沖縄県伊江島』(岩波新書)を取り寄せて読んで見た。

ちっとも読書家ではないぼくがこんな事を言っても、何の意味もないだろうが、その本は何度も繰り返して、深いところから僕の心を揺さぶってやまなかった。

ぼくの目を開かせた一つは、ぼくが沖縄のことを知らなすぎる事によるが、終戦後、アメリカの施政権下に置かれていた沖縄と、本土に育った僕たちとの、あまりにも異なる境遇の違いだ。沖縄戦で本土を守るための捨て石にされ、直視できない、痛ましく凄まじい戦禍に見舞われた沖縄、そこまでの認識は持っていたつもりだが、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄が切り離され、その後もずっと、「沖縄は、アメリカが血を流して得た戦利品だ。あなた達には、YESもNOもない」と言われながら、長い間、アメリカの軍靴の下に踏みつけられていた。

本土の僕たちは新憲法のもと、戦争の放棄や基本的人権などの理念の中で育ったが、沖縄の人々は虫けらのように扱われていた。それをこの国の政府がずっと黙認して来た。沖縄を知ると言う事は、自分自身を知ることになる。

もう一つ、そんな厳しい状況下にあって、阿波根さんをはじめとする伊江島の農民達は結束して、自分達の命を、生活を守るため、銃剣とブルドーザーによる基地建設の為の土地接収に対して、非暴力で果敢に抵抗した。住んでいた家が、野菜が育つ畑が、重機で押しつぶされたり、鉄条網で囲われる。命を繋ぐためには、中に入って食料を得て来なければならない。逮捕者は尽きない、負傷者も出る、米軍に射殺された青年、子供達に少ない食べ物を与えて自分は我慢し、餓死する若い母親、沖縄戦が続いているのと同じだ。

そんな中、農民達を支えた約束事があった。「陳情規定」と名づけられたその箇条書きの文章は1954年に作成されたものだが、63年経た今でも、非暴力の姿勢を具体的に示したものとして、これからも必要とされる非暴力の手本として、僕にはとても貴重に思えた。
その一部を抜粋してみよう。

一、反米的にならないこと。
一、怒ったり、悪口をいわないこと。
一、耳より上に手を上げないこと。
一、大きな声を出さず、静かに話す。
一、軍を恐れてはならない。
一、人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。

これらの申し合わせ守り、力を合わせ、島の63パーセントあった基地を31パーセントまで縮小させることが出来たと言う具体的な成果は驚きだ。

もう一度、宮城さんの話に戻そう。

散骨の前日、沖縄から宮城さんの女友だちがやって来た。南国の果物や野菜などを携えて賑やかにやって来た。 よく話すこと、よく笑うこと、よく歌うこと、その明るさに圧倒された。彼女達は宮城さんがそうだった様に、阿波根さんの意志を継ごうとする人たちだ。 宮城さんも、陳情規定に強い関心を寄せていたと言う。

東京での坐りこみ当時、23歳の頃、宮城さんはこんな事を言っていた。「私が生きている毎日って言うのは、全然、非暴力じゃないわね。それこそ、自分の汲んだ水を飲んでね、自分で織ったその着物を着るとか、作った野菜を食うぐらいに、全て請負しなきゃ駄目だと思うんだけれど」。
その後、三里塚をかいくぐるなかで、土に触れ、沖縄に戻ってからは、畑を耕し、機織りを覚え、そして阿波根さんや伊江島の農民達の心に触れ、非暴力の幅を拡げていった。突然の知らせはとても残念だったが、沖縄の魅力的な仲間達が「節ちゃん」の後を継いで行ってくれるのは間違いない。

「辺野古移設が唯一の解決策」との言葉を繰り返す安倍政権の姿は、「YESもNOもない!」と言ったアメリカの軍人に重なる。その政権を選んだのは紛れもなく、本土の僕たちなのだ。

高江、辺野古と、沖縄の厳しい状況が続く。「沖縄とともに生きる」と心に刻む人たちが増えていくことが求められている。

別腸日記(6)飲み過ぎる人たち(前編)

新井卓

酒の話はむつかしい。早くも先月、連載を休んでしまった。やります、といったことを果たさずに啜る酒はうしろめたく、できない理由を並べながら酔いすすめば、もう厳冬のオホーツク海にでも身投げしようか、などと気鬱の止むところを知らない。もう二十年近く、仕事をサボっても、電気とガスがとめられても倦むことなく飲みつつづけてきたというのに、これは一体どういうことか。

私ごときがあの酒はうまいだの、この酒はこの文人ゆかりでその由来は云々(でんでん)、だのと書き立ててもおそらく腹立たしいだけであろう。そうなれば、飲んだ場所や相手(じっさい変な酒敵には事欠かない)、その後どうなったのか、という話に向かうよりほかなく、結果それは交遊録とか紀行文のような体裁に落ちつくだろうことは、容易に想像できる。まあそれでいいのかもしれないが、ここに今一つの根本的な問いが浮かび上がってくる。

なぜ、飲むのか──わたしたちを拒み未踏峰のごとくそびえ立つその問いに対峙することなく、この先書いてゆくことは、どうにもできそうにない。それがそこにあるから(Because it’s there)。登山家ジョージ・マロリーの言葉を酒に当て嵌めてみても、答えになっていないどころか単なるアル中の戯れ言にしか聞こえないから不思議である。

夭折の哲学者・池田晶子は「下戸の心が理解できない」と公言してはばからなかったが、逆に下戸にしてみれば、なぜすすんで毒を摂取しつづけたいのか、そちらの方が理解しがたいに違いない。ちなみに、体内でアルコールから生成される毒素、アルデヒドを分解できるモンゴロイドは、全体の54パーセントしかいない(コーカソイド、ネグロイドでは100パーセント)という(*1)。残りの約半数は弱いが少しは飲める、または全く飲めないかどちらかであり、したがって多くの日本人にとって、飲酒とは文字通り服毒に等しい行い、ということになる。

長年、左党が免罪符のように信じつづけてきた「酒も適量ならば薬になる」という説は、どうやら統計手法の誤りから生まれた迷信に過ぎず、飲んだ量に正比例して様々な疾患の罹患率が上がることが、最近の研究で明らかになってきた(*2)。長期間一定量のアルコールを摂りつづけると、海馬が萎縮しさらに認知機能も著しく低下するという。そうならないためには、毎日ビールをコップに半分くらい、が限度らしい。わたしのような者にとっては、あまりにも無慈悲な真実、というほかない。
(つづく)

*1 原田勝二(元筑波大)「神経精神薬理 6,NO.10,681」(1984)
*2 Anya Tpowala et.al “Moderate alcohol consumption as risk factor for adverse brain outcomes and cognitive decline: longitudinal cohort study” 2017

グロッソラリー―ない ので ある―(34)

明智尚希

不覚にも次郎衛門は寝小便をした。二歳か三歳の時以来だ。それから二十余年、もはや粗相をしでかす歳ではない。人に知られたら大変である。次郎衛門は汚れた敷布団を、人気のない日の当たる縁側にそっと延べた。だが見ていた。三治郎が見ていた。この少年が長じて全国地図を作る人物になろうとは、誰が予想できたろう。まあ嘘ではあるが。

(。-д-。) 嘘ダッタノカ……

 長く生きてきたが、無益とまでは言わないまでも、自他に対して有益な人生を送ってきたとは思えん。毎年毎年限りなく無益に近づいていってるんじゃないかと思う。誕生日は忌々しいね。不要だった一年がまた追加されたという、了解しがたい事実の通告じゃから。こういう無駄な人間が、全国津々浦々で同じことをぼやいておるんじゃろうな。

(# ̄З ̄) ブツブツ

 物心のついた人が、巷間にある物を純粋に楽しむのは難しくなってきている。どこの製品か、その企業はどうなのか、製造国はどこか、この国との関係はどうなのか、誰が何の目的で作ったのか。かつては大人の王国だった。が、現在は逆である。政財官の人々や有権者でもない若年層が、厳しい慧眼を世に突き刺し、本質を射抜き、冷めている。

シーン ( ( ̄ (  ̄(  ̄( ̄  ̄( ̄  ̄))

 まず秒針がある置時計を用意する。次に畳の八畳間へ入る。東に正対するするように正座をする。時計を両膝間の線の延長線上に置く。十センチが適切である。一度大きく深呼吸をし、秒針が十二のところに来たら息を止める。十五秒、三十秒と経つ。四十五秒が過ぎる。一分が経過したら呼吸を再開する。大きな幸せを勝ち得た気分になれる。

(○ ̄ 〜  ̄○;)ソウデスカ……

 海外に到着した時に、いきなり開放的になる人が少なくない。母国はそんなに息詰まる場所なのか。多少の興奮があるのは理解できるが、激しく買い物をしたり容易にはめを外したりするのは謎である。感性に左右される人は自我が整っておらず、誰かのフォローが不可欠となる。同伴者は解放されない程度に、相棒に嫌がられるのが宿命である。

U\(●~▽~●)Уイェーイ!

 寝苦しいほどアイミスユー。歯磨き粉味のアブサンをあおりながら、近代建築五原則を唱えよ。虹こそは人間の努力を映す鏡で、人生は彩られた映像としてだけつかめる。だから全て無常なものは、ただ映像に過ぎない。内在律のラポールが提灯記事を書いた。総カラオケ現象という垂直の大騒ぎに呆れる、見切り問屋は蒼ざめた馬に乗る騎手だ。

(/≧◇≦\) アチャー!!

 アポリネール、アラゴン、アルプ、エリュアール、エルンスト、グロス、クロッティ、シャド、シュヴィッタース、スーポー、ツァラ、デュシャン、トイバー、ハウスマン、バーゲルト、バーダー、ハートフィールド、バル、ヒュルゼンベック、ファイニンガー、プライス、フラエンケル、ブルトン、ヘッヒ、ヘルツフェルデ、ペレ、メーニング……。

゚(゚´Д`゚)゚

 「それではここでお知らせです。今月十四日から全国ロードショーされる『シャーロックホームズと謎の財宝』ですが、犯人はレイノルズ夫妻です。最初のカットから犯人が登場するという非常に珍しいケースです。真ん中くらいに出てくる日雇い労働者のサンチェスは怪しいですが善良な市民です。みなさん是非劇場に足をお運び下さい!」

アホ (* Ŏ∀Ŏ) デス

 不思議な女の子がいた。どこのライブ会場でも必ず右隣りの席にいた。見た感じせいぜい小学校の高学年といったところだ。ライブが始まりみんな一斉に手拍子を送る中、その子だけは突っ立ったまま。加えて、小柄であるため前が見えるはずもないのに、背伸び一つしようとしない。ライブ後、会場が明るくなると、隣りには誰もいなかった。

†┏┛墓┗┓†~~~~~ (m´□`)m 幽霊

 鬱でも躁でもないニュートラルな状態を獲得するのはたやすいことではない。「職場鬱」や「軽症鬱」に代表されるように、心的平和を保てない人は少なからずいる。出窓でまどろむ猫がやすやすと獲得しているものを、人間様は七転八倒して考え、悪戦苦闘してなおも考えて、疲労困憊した挙げ句ようやく手に入れられる。が、長くは続かない。

o(^・x・^)o ミャァ♪

 あくまでも理解は可能という前提に立っての話じゃが、わしからすると、主意主義的な要素がみんなに欠けているように見える。意志なきところに理解なし。まあ今思いついたことを言ってみただけじゃが、理解に限らず意志がないと他人には何も伝わらないもんじゃ。ほれ、パスカルだか誰だかが言ってたろ、人間は考える石である、とな。

アシ(○ ̄ 〜  ̄○;)ナンダガ……

 「それじゃあ、国語の授業に入る前に、先生からとても重要な一言。いいか、よく聞いてろよ。試験に出すぞ。都市計画において一つの地域全体を機能、用途、法的規制などにより小部分に分けることであって、都市計画法に基づいて、機能、用途、高度、高度利用、特定、防火、風致の各地域として定め、建築物に制限を設ける云々、しかじか」

ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ ) ナンヤソレ

 問一:国語の問題を答えなさい。

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ヘ(..、ヘ)☆\(゚ロ゚ ) ワカルカイナ

 粗野で愚鈍な人は、なぜそうであるようにしていられるのか。人を不愉快にし時には怒らせる。誰かがその性質を露骨に糾弾しても自覚する様子はなく、そもそもその能力も具わっていない。どうすればいいのか。これは医学の範疇だろうから、いつか特効薬が出るかもしれない。そうかといって、重大な何かが解決されるというものでもない。

… (´・ω・)_θお薬です

 あのー、あれじゃ。あれ。なんつったっけなあ。こう、紙とか板とかの上に、こう、あるやつじゃよ。わからんか。大きくはない。それどころかぽちっとしてて小さいもんじゃ。紙や板じゃなくてもいい。平面じゃなくてもいいんじゃ。とにかく何かの上っちゅうか表面っちゅうか、全然目立たない感じで小さく存在しておるものなんじゃ――点。

* ゚ー゚) φ.

 鬱病はただひたすらに落ちていく。どんどん落ちていき、いったい自分が何者なのか、何の病気なのかが不明瞭になる。搏動一つが感じられ、一鼓動ごとに病に養分が与えられる。無関係な想念を黒々と巻き込みながら、底なしに落ちていく。上からは鉄柱に押され下からは極太の綱に引き込まれる。人間の形を失ったとしても不思議ではない。

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さつき 二〇一七年八月 第四回

植松眞人

 私たちはずっと生まれ育った家を出て行くことになった。なぜ引っ越さなければならなくなったのか、ということについては、母に詳しく説明されてもよくわからなかった。ただ、父が「なんだか時代とうまくやっていけなくなったんだよ」とつぶやいて、なんとなくそれが私の腑に落ちた。
「父さんはずっと父さんなりに一生懸命に仕事をしてきたんだけれど、だんだん父さんの一生懸命を世の中が『鬱陶しいなあ』なんて思い始めたみたいに、気持ちが通じ合わなくなったんだ」と以前父は私に言ったことがある。あのときの気持ちが通じないと、いまの時代とうまくやっていけないは、きっと同じ話なんだろうと思う。そして、それを言うなら、母だって時代とうまくやっていけるタイプじゃないだろうし、遅かれ早かれ、母だって世の中と気持ちが通じ合わなくなるんだろうなと私は思うのだった。もちろん、父と母だけではなく、私も時代とはうまくやってはいけない気がする。学校で起こる嫌なことなんて、実は小さなことだから、世の中に出れば全部解決するさ、と担任の先生に言われたことがあったけれど、きっとそれは嘘だと私は思っている。
 学校は家族以外の『社会』の最小組織だし、その最小の組織の中で、なんとなくうまくいかない私は、学校の外の『社会』に出たって、うまくやっていけるはずがない。今と同じように人に嘘を吐かれてがっかりしてみたり、正直に生きたいのに小さな嘘を吐いてしまって落ち込んでみたりする日々を、これからもずっと送るのだろうと思う。きっと間違いなく。
 高校生になってまだ一年も経たないのに、私はうちの家族が格差社会の低い方に属しているのだということをはっきりと意識させられた。誕生日にスマホを買って!と無邪気に言ってはいけない層に属しているのだ、夏休みに温泉旅行に行こうよ!と笑いながら言ってはいけない層に属しているのだ、ということを強く意識している私には、これからも父と母の娘として、陰りのない表情で過ごせるかどうか自信がない。自信はないけれど、そうしなければならないのだ、と気持ちを引き締めているだけで、私の中から力の粒子が抜けていったような気がするのだった。
 七月の都議会議員選挙で圧勝した都民ファーストの会だけれど、あれだけ新人の議員たちが都民ファーストというだけで当選してしまったら、結局、わけのわからない人たちで東京都議会が満席になってしまうんじゃないの、と私は思うのだけれど、そんなことを学校で友達に話しても「政治の話はお断り」と言われてしまう。
 夏休みの登校日が昨日あったのだけれど、結局、誰ともまともな会話をせずに帰ってきた。ディズニーランドに行っただの、海外旅行にこれから行くだの、そんな話を聞いても楽しくもなんともない。人は自分が「いつか行けるかも」と思うことにしか興味を持てないのだと、改めて思うのだった。そして、今私の最大の関心事である、都民ファーストの会のことを話せないのなら、ストレスがたまるだけだと、私は登校日のホームルームとオリエンテーションが終わると、足早にちょっと壊れかけた家に向かった。
(つづく)

甲州は好きですか

大野晋

さて、ワインの話の続きです。

山梨県はぶどうの産地として特に東日本では有名です。葡萄は明治維新の殖産産業としてワイン製造が導入されましたが残念ながら世界的な病害虫の蔓延により、日本の産地はことごとく被害を受けてほぼ全滅してしまいます。ところが日本在来の葡萄である甲州ぶどうが栽培されていた山梨県では被害を免れます。結果として、被害を受けなかった甲州種がその後の日本の栽培種として大きな地位を築き、山梨県がその産地として確立します。

戦争中は軍事利用のために葡萄の醸造が行われますが、ワインは副産物として品質の向上がされませんでした。一方、日本では赤玉ポートワインに代表される甘く糖分添加された酒が主流であったために、本格的なワイン醸造は1970年代まで遅れます。結局、終戦後も山梨県のワインはあまり品質向上することはありませんでした。

1970年代から日本の食卓の欧米化が始まり、本格的なワインが輸入され始めると、長野県ではそれまでの甘味果実酒用のブドウ栽培から本格的な欧州のワイン品種の栽培に切り替わり始めますが、山梨県の甲州ブドウは生食にも利用されるため、山梨県でのワイン用ブドウへの切り替えは遅れます。

結果として、長野県では先行してワイン用ブドウの栽培がはじまり、産地形成されていきますが、山梨県では醸造業者が多く、観光ブドウ園などの業態も成立したため、ワイン専用品種への切り替えも、ワインの品質向上も遅れます。一部の大手メーカは醸造用ブドウを長野県に求めるようになります。現在でも、日本ワインコンクールの上位入賞ワインや国外のワインコンクールで入賞するワインがほとんど長野産のぶどうでできているのはこうした理由からです。一方、甲州ブドウは、いわゆる「試飲商法」で、おみやげ用として、観光客に販売する販路で消化されます。まあ、こうして売れるうちは良かったですが、最近の主に外国人客相手では試飲で買ってもらえることはないですから、旗色は徐々に悪くなっている状況です。

甲州は日本を代表するブドウの品種ですが、生食では巨峰やデラウェア、ワイン用ではメルローやシャルドネに負けてしまいます。結局、1000円ワインの原料となりますが、輸入ワインの関税がほぼなくなる昨今、売り物になるかどうかの瀬戸際と言わざるを得ません。数千円で売られる甲州のワインもありますが、まだまだ少数です。さて、今後、どうなるか?大きな問題でもあります。

甲州ぶどうって、好きですか?

音楽と数字

笠井瑞丈

なかなかピアノが上達しない
でも好きだから毎日弾きます

譜面を眺めるのが好きだ
そして頭のなかで
譜面を数字におきかえる

シャープは三つ
フラットは嫌い

なぜだか分からないけど

音楽と数字
数字と音楽

数字

音楽

一章節480
ラの音440

踊る事
弾く事

振付も譜面に起こせたらた考える

独学で始めたピアノ
好きの曲だけを弾く

戦場のメリークリスマス

家の人からクレームがきても
懲りずに今も弾き続けている

初見で弾けるようなりたい
来世はピアニストに