238 別室、別室

藤井貞和

「別室」という 作品を書いて、しばらくする と、
別室のドアを 亡霊が押して はいってくる

別室では、いたはずの あの聖牛の、
毛並みが 売りに出される

別室に つぎつぎ乗り込む、影のない
白いみこ姿にも すうっと立ちあがる背景はある

すうっと去る、別室へ。 神の獣を別室に閉じ込めて、
立ち上がる、白い みこ姿が亡霊だった と気づく

草原の坂に ドアが落ちている。 そこを通って、
別室へ続くとわかり切っており、出会いたい

でも、最初からなかった? かわいそうだな
と思う? これは 夢ではない。 ――別室である

水没する引きガラスをガラガラ引いて、
別室は静かな画面に変わる、うまく言えた と思って

きのうの別室は きょうの別室で、
あしたは もっと断片になる。 そんなこと わかり切って

きみが通過する炎道よ。 もう氷のびゃくどう(白道)である。
聖牛は 立ったまま 別室の影になる

これも夢では ないな。 別室が燃えている。
つらいな。 電力を送る事故をくりかえす

動画がまきもどす。 別室で、もう一回上映する
これがさいごでありますように

砂遊び場の信号機の火あそびの石溺れ谷、
別室の壁は囲む さいごの思想のまえ、うしろ

退路はいつもやさしい坂。 別室への
さらにやさしい思想の初版を送る

倒れた 送電線が送る鉄塔に、
よじ登って、きのうのように修理する、別室の子ども

(旧作、再稼働する別室。無関係ながら、経産省が廃炉分、自社の他原発に「建て替え」と、2024年6月16日づけ、朝刊より。)

夜のエレベーター

植松眞人

 奈良の橿原という町に住んでいたことがある。最寄り駅は近鉄の大和八木という駅で、当時は駅前だけが開発されており、大型のショッピングモールが一つと、小さめの近鉄百貨店があるくらいだった。ほんの十分も歩けば、周囲は田畑が広がるのどかな風景だった。
 そこに初めてできた高層マンションがあり、ひょんなことからそこに住むことになった。窓からの景色は素晴らしく、低く連なる大和三山を眺めながら洗濯物を干したり、ベランダでぼんやりとタバコを吸ったりするのが好きだった。
 当時は車で移動することが多かったが、夜になると街灯も少なく、無灯火の自転車にぶつからないよう注意して運転しなければならない緊張感が常にあった。
 その日も、暗い夜道を運転してマンションに帰ってきた私は、立体駐車場に車を入れながら、一日の仕事のやり取りを思い出してため息をついていた。それでも、部屋に戻ればまだ小さな我が子に会えるので、少し嬉しい気持ちになりながらエントランスを通り抜け、急いでエレベーター乗り場に向かった。時間は夜の12時くらいだっただろうか。もちろん、エントランスにもエレベーター前にも誰もいなかった。エレベーターは二基あり、一つは一階に、もう一つは十五階建てのマンションの中間にあたる七階に待機していることが多かった。その日も、エレベーターは一階と七階にそれぞれ停まっていた。
 私が上りボタンを押すと、通常は一階にあるエレベーターが動き出すはずだったが、なぜか動かない。その代わりに、ブーンという音とともに、七階にあったエレベーターが一階に向かって降り始めた。
 あれ? と思ったものの、特に気にせず待っていたが、どうもエレベーターが遅い。どうやらこんな夜中なのに、一階ずつ停まっているようだ。もしかしたら、私がボタンを押す直前に誰かが七階で降りて、全ての階のボタンを押していたずらしたのではないかと思ったが、そうであれば私が来た時点でエレベーターが動いていないのはおかしい。どうしたんだろうと思いながら待っていると、チャイムの音と共にエレベーターが一階に到着した。ドアが開くと、中には十人ほどの人々が乗っていた。全員が無言で、他人同士のように見えた。彼らはドアが開くと同時にエントランスを出て行った。
 私は、こんな夜中に友だちを呼んでパーティーでもしていたのかと思いつつ、彼らと入れ替わるようにしてエレベーターに乗り、自分の住む九階のボタンを押した。しかし、エレベーターが動き始めると、先ほどの人たちが何か普通とは違う存在であるように強く感じ始めた。到着するまでのわずか十数秒間で恐怖を覚え、九階に到着しドアが開いた瞬間、慌てて自分の部屋に走り込んだ。振り返ると、エレベーターのドアは閉まり、そのまま上へと上がっていった。(了)

『アフリカ』を続けて(40)

下窪俊哉

 長く続けていて、何か劇的なことがあると、以前のことをたくさん思い出す。私にとって(『アフリカ』にとって)この1年は、そのようにして過ぎたが、どうして思い出すことがそんなにもあり、劇的な出来事に複雑な色を添えるのかと考えてみると、やはり「続けて」きたからだということがわかる。ただし「続けて」いる間にはそうそう劇的なことは起こらないし、悲劇は嫌だけれど、嬉しいこともない、言ってみれば退屈な日常が延々と続くようなものである。
 劇的なことが起こると、この連載の文章にも(良くも悪くもだが)熱が入り、なんと情熱的な文章なんだろう! などと言われもする。確かに書いている方としても、ノッているし、力作が書けたような気がした。しかしずっとそれでは私の精神がもたないかもしれない。そうすると続けることは出来ないのである。力作でもなく大して面白くもないようなものをいかに書き、つくり続けるかということが肝心なのではないか。本音を言えば、ただ穏やかに暮らしていたい、ということにもなろうか。人生は思ったようにゆかないものだ。

 さて、次、だ。と思う。『アフリカ』にかんして、私は、いつも「さて、次、だ」と思っているのである。通り過ぎてきたことに、こだわっているわけにはゆかない。いや、こだわってはいるかもしれないが、とりあえず置いておこう。未来がなければ、過去も消えてしまうような気がする。未来を描くことが、過去を描くことにもつながる。
 とはいえ、どんな展望があるの? と訊かれると、答えに窮してしまう。相変わらずの五里霧中、私はいつでも暗中模索しているのだから。
 もう、つくらなくてもいいのだよ、と自分に問いかけてみる。何もつくらなくても、「続けて」いると言えるようなところまで来ているような気もする。でも、つくり続けているからそう感じられるのだ、とも思われるのだった。こんなふうに自分の中でブツブツやっていても何にもならないことがわかっているので、まずは誰かに連絡してみたり、会いに行ける人には会いに行ったりする。
 八重洲でもう20年以上行きつけにしている喫茶店があるのだが、最近そこで、定期的に会って話している人がいる。厳しすぎる暑さで萎れていた夏を越して、数ヶ月ぶりに会うとまずは近況報告を、ということになった。私にも抱えている問題がいろいろとあるので、つい「いまは『アフリカ』なんかやってる場合じゃないと思うんだ」とこぼしてしまうのだが、その人は涼しい顔をして「『アフリカ』は続けなきゃダメですよ」と打ち返してきてくれる。
 そこで、「なぜ?」とは、簡単に言えない。
 なぜ『アフリカ』のような雑誌をやっているのだろう。
 その前に、なぜ書いているのだろう。人は、なぜ書くのだろう。
 書き始めた若い頃、「なぜ?」はあまり大した問題ではなかったような気がする。しかし、それから四半世紀を通り過ぎてきたいま、「なぜ?」がとても大きなことになっている。

 そういえば春に、小林敦子さんと再会した際、「下窪さんが小説を書き続けられていること自体、大変なことだ」というふうなことを言われたのだった。言われてみれば、小説に限らず、(頼まれもせず)こんなに書き続けている人はあまりいないのかもしれない。でも知らないだけかもしれないよ? という気もする。ひそかに書き続けている人は、きっとたくさんいる。そう思う方が、自分には良いみたいだ。
 小林さんはどうしていたの? というふうに私は訊かなかったと思うが、その話は、原稿に書いて届けてくれたのだった。

 時間が流れたと思う。自分も変わりつづけた。『アフリカ』の創刊のころ、筆名などを使って、ただ書いて、書いて、文学への気持ちを高めた。ひどく懸命だった。十年以上が経って、かつていた京都から流れ出て、瀬戸内の街で教員の仕事を始め、子どもを生んで、人と別れ、居をかまえた。ずっと文学のことを話しては書き、書いては話していた。けれど自分の中の文学は変わらぬようで、どんどん変わっていった。自分の精神に生活が広がっていった。(小林敦子「再びの言葉」/『アフリカ』vol.36より)

 生活に追われて、書けなくなる。簡単にそう言ってしまうと、よくある話かもしれないが、だからこそ、よくわかる、というふうにも思えるんだろう。
 自分に照らして思い返してみると、とくに幼子との暮らしは、私の人生を一度リセットしたような感じがあった。子が生まれてくるより前に、自分がどんな日常を送っていたのか、うまく思い出せないのである。確かに小説は(あまり)書けなくなった。でも常に何かは書いていた。書くことを自分の仕事の一部としたからだ。ただし原稿で稼ごうとはしなかった。書くことをめぐる仕事を、自分でつくったのである。いろんな名称があったが、総称として「ことばのワークショップ」と呼んでいた。私はそのワークショップの「案内人」ということになっていたが、自分もその中に入って、とにかく書き続けた。その結果、日の目を見ていない(もちろん『アフリカ』にも載っていない)原稿が山ほど生まれた。その延長にある営みが現在、ウェブ上で毎月リリースしている『道草の家のWS(ワークショップ)マガジン』である。そこでは粗製乱造を推奨している。とにかく何でもいいから書こう、書いたものを残しておこう、というわけだ。

 ワークショップを始めて以降、「まだ書き続けるのか」「では、なぜ書くのか」と自分に問い続けてきた。リルケのことばを思い出すのだが、書かなくても生きてゆけると心の底から感じられるのなら、止めたらいい。でも自分の答えは、生きるために書きたい、なのである。あるときに、では雑誌をやるのは? と浮かべた問いを見て即座に、闘うため、と出てきた。何と闘っているのかはわからない(『ドン・キホーテ』か)。
 言ってみれば、答えはどうでも、何でもいいのである。その辺に打ち捨てられていることばを拾って、答えに当てはめてみればわかる。そうか、そういうものかもしれないな、と感じられるはずだから。大事なのは、「なぜ?」という問いの方だ。
 つまり「なぜ?」を考えることが、書くことにつながり、雑誌をつくることにもつながる。
 自分はなぜ『アフリカ』をつくるのだろうか? その問いを持ち続けることが、次号につながるのである。さて、どうなりますやら。

製本かい摘みましては(189)

四釜裕子

「紫式部日記」で読んでいた「源氏物語」の製本シーンを楽しみにしていた。中宮彰子が一条天皇に献上した際のもので、9月29日に放映された大河ドラマ「光る君へ」だ。彰子が料紙を選び、女房たちが二つに折って重ねて整え、こよりで折を仮綴じし、書写を頼んで戻ってきたら丁合をとって校正し、折を綴じて断裁して表紙をかけて題箋を貼り、仕上がった三十三帖を並べ、彰子を囲んで女官ら皆で喜び合う……。どんな綴じ方や紙を採用したのか、その詳細は映るのか、それが今回の関心事だった。放映時間は短かかったけれども、流れをつかむことができてよかった。早い段階で奥に二人のこより制作チームが見え、以降、二つに折った料紙の天地からこよりがちらと見えたので、列帖装(れつじょうそう)だろうと思った。途中、大きさや形が枡形本に見えた気がしたけれども気のせいで、立派な四半本だった。女房たちの作業は折る・縫う・切る・貼るなど。「初めて」というほど特別なものではないので、これらのしぐさに対してはわりと大らかな印象を受けた。断裁する人(手元のみ)と表紙がけする宮の宣旨の手つきがよかった。

見終わってみると、印象に残ったのは料紙の張りだった。以前、河本洋一さんの製本ワークショップで定家写本の「更級日記」とほぼ同じものを作ったときに、両面に書写可能な紙というのはこういう厚さかと実感した(用意されたものはそれでもまだ薄いとのことだったが)。今回の「光る君へ」で、まひろが折を宙に浮かせてめくっているところとか、彰子が御手ずから赤い絹糸で綴じる針を料紙に刺すところとか、あるいは唐紙の表紙込みとはいえ、一条天皇が片手でぴんと持ち上げたり宙に浮かせてめくるところとか、のちに藤壺で女房が両手で縦に持って朗読する様子を見ると、想像を超えた張りがあるとわかった。とにかく料紙がいたまぬよう、かがりの糸は切れやすくて結構、むしろ推奨されるものだということを、そうだよなと感じることができた。今、和本の綴じをするのにこの感覚はつかめない。糸が切れても簡単に直せる利点はわかるが、かといって、よほど高価とか貴重な紙を綴じるとか奇を衒わない限り、わざわざ糸が切れてもいいとは考えないだろう。直筆なら紙は肉体そのものだが、印字の場合、紙は衣装にすぎない。糸の立場や綴じの役割も自ずと変わる。悪い意味で言うつもりはないけれど、花切れ・花布の”なれのはて”にも重なる。そもそも違う。

今や人気のコデックス装は、かがる上での理屈は列帖装と一緒だ。しかし今見たように綴じるものが肉体か衣装かという決定的な違いがあるので、古くからあるとか開きやすいとか過剰な表紙を排除とかそういう問題ではない。日本で「コデックス装」なる機械製本法を名乗ったのは、2010年祥伝社刊、林望さんの『謹訳 源氏物語』だった。342ページにある宣言を引用しよう。〈本書は「コデックス装」という新しい造本法を採用しました。背表紙のある通常の製本形態とはことなり、どのページもきれいに開いて読みやすく、平安朝から中世にかけて日本の貴族の写本に用いられた「綴葉装(てつようそう)」という古式床しい装訂法を彷彿とさせる糸綴じの製本です〉。出ました、綴葉装。和本の綴じの名称は難しい。列帖装も綴葉装も同じことを指しているのにこの界隈ではこれを「という言い方もある」で済ませ続けているので、いつまでたっても新参者が混乱のまま離れていく。

「光る君へ」の公式サイトに、「ドラマをもっと楽しむコラム 彰子が発案!紫式部も行った『源氏物語』の冊子づくり」というのがあった。こよりで仮綴じしたところの写真もあっていいのだが、〈「粘葉装」という書物装丁の一つを採用〉とある。ん? また出たか、和本の綴じ名曖昧問題。説明は続く。〈1枚の料紙を二つに折り、折り目の外側に糊をつけて貼り重ね、表紙を加えて冊子にする方法です〉。粘葉装の説明としては納得するが、さらに続けて、〈この赤いものは、紐になります。ページ数が多くなると仮綴じでは状態を維持できないので、紐を通した針で縫い、仮綴じした料紙をさらに重ね合わせてひとまとめにしていくという感じです〉とある。この説明は列帖装のものでしょう。粘葉装にした折を列帖装に? ナンセンス! と思うのに、いや、そういうのもあるのかもと思わせる。混乱は究極へ。しかしドラマに料紙を糊で貼るシーンはなかった。とりあえず、時間を置いてまた見ることにしよう。

「光る君へ」のこの回で、定子の娘の脩子内親王に仕える清少納言が読んでいたのも「源氏物語」か。献上版よりもちろん紙も薄く判型も小さく、ごく簡単な結び綴のように見えた。ちなみに以前、伊周が一条天皇に献上した「枕草子」は結び綴の超豪華版、行成が献上した「古今和歌集」は列帖装だった。今回の「源氏物語」のきらびやかな表紙については、紙の地に緑と紺と紫の色を重ねて、金や銀の箔のきらめきがよりカメラに映えるようにしたそうだ。いずれも緻密な時代考証のうえに撮影や演出を考慮して作られた別の極み。これらの冊子もいつかまとめて見てみたい。

たけのこなので

芦川和樹

補角が海のほうから歩いてくる時刻
ラッパと。すりおろした果物の入った
ゼリーとかヨーグルトとか
名札を指差して

グリズリーのいびきは

をふにゃふにゃにする
草木は、急いで実をつけます(果物)
ランドセル(果物)

冬眠はまだですか
火山を見ている、ベーグルを飛ばして
撮った映像を――綱引き、映像を
牛乳と混ぜて、ついにロボになる
カフェテラス

カフェー、ぶんぶん振るやわらかい素材
あれは昨日見た
のだっけ
昨日は見ていない
のだっけ
たけのこなので忘れちゃう

画鋲がとれてだらんとした掲示物
げんこつ
向こうのあの樅(も、み)を蹴って
(かるく蹴ってくださいよ)
先に戻ってきたほうが勝ちよいどん

樅じゃなかった楡(に、れ)です

おへそを通って完全体になる。ロボついに
完全だっておっしゃいますけど不具合です
不具合がなければ完全ではないでしょう?


きしりとーるは滅んだのです     市
ガーベラか、花瓶か、フルーツを選ぶ、子

…がーべら…は画鋲。花瓶…も画鋲
…ふるーつ…は(果物)だったもの
…ろぼ…は充電ができないから
…うごかない三つ葉
…三つ葉…はふにゃふにゃの岩で
…ぐりずりーのいびき(の一部)ごがー
…らっぱ帯…た、い…原っぱのこと
…疲れたときは…寄りかかっている
…たけのこなので(市子)
…花瓶ふるーつをください

我がツマ

篠原恒木

ツマと結婚して、およそ四十年になる。
「ツマ」と表記する理由だが、「妻」と漢字で書くのは何だか照れくさいからだ。奴はそんなに立派なもんじゃないだろう、という気がする。かといって「嫁」「奥さん」「家内」「女房」は、もはや女性蔑視語でよくないらしい。「カミさん」なら問題ないのだろうが、あまりしっくりこない。「カーチャン」だと、母親のようでこれもダメだ。
「サンカミ」「チャンカー」とひっくり返せばいいとも思うが、
「昨日、サンカミにはショナイでチャンネーとミーノして、テルホでリーヤしちゃった」
のようなギョーカイ臭が漂う。やはり文章で使うときは「ツマ」なのだ。

ツマはすぐ怒る。いつもおれは怒鳴られ、そのたびにおれは「ごめんなさい」と謝るのだが、
「謝れば済むと思っているでしょ! いつもそうでしょ。同じことで何回謝っているのよ。謝る前にそういうことをしないで!」
と、さらに怒りに油を注いでしまう。だがおれはツマの言う「そういうこと」の内容をすぐ忘れてしまうので、ツマはそのたびにおれを罵倒する。毎日の暮らしの至る所に地雷が仕掛けられていて、おれはそのなかをビクビクしながら匍匐前進しているような気分だ。だが、忘れっぽいおれはすぐ地雷を踏むことになる。よし、いい機会なので、「地雷」の内容を必死に思い出して、ここに書いておこう。以下はおれがツマに怒られるケースの一部だ。

・部屋の灯りを付けっぱなし
・食卓に要冷蔵のドレッシングなどを置きっぱなし
・外出時にエアコンを付けっぱなし
・下着類を洗面室に脱ぎっぱなし

こう列挙していくと、我が地雷は「っぱなし」方面が圧倒的に多いのがよくわかるが、ほかにもまだある。

・忘れ物をする
・どこに何をしまったのか分からなくなる
・内緒で異性とデートする
・高額なモノを無断で購入する
・食べ物を床にこぼす。特に煎餅、ポテト・チップスの細かい破片
・クルマの運転が荒い
・日常の発言に優しさが欠如している
・以上のようなことを指摘、注意されると、すぐ嫌な顔になる

まだまだたくさんあるような気がするが、忘れた。ゆえにツマは今日も、
「アタシの言っていることなんて聞いてもいないんでしょ!」
と逆上することになる。すまねぇ。

ツマの思考回路はユニークだ。先日も落語会を一緒に聴くために、大手町の日経ホールで待ち合わせることにした。ツマは家から、おれは会社から出発して、日経ホールの座席で落ち合おうという手筈だ。すると当日、開演時刻の一時間も前に、まだ会社にいるおれにツマからの携帯メールが入った。
「ニッケイビルとサンケイビルは違うの?」
おれは短い文面を見て驚いた。どうやらツマは大手町で道に迷っているらしいことが分かったが、この質問はどういうことなのだろう。ニッケイビルとサンケイビルは別の建物に決まっているではないか。大丈夫か。喩えて言うのなら、
「リンゴとミカンは違うの?」
に近い質問である。おれは面白がって、
「サンケイビルは右寄りです。ニッケイビルは比較的真ん中です。ちなみに左に向かうと朝日ホールがあります」
と返信しようと思ったが、さらに混乱しそうなので、ちゃんと地図を添えてメールを返した。

そういうツマなのだが、たまにTVのクイズ番組を一緒に観ていて、おれが間違った答えを口走ると、ここぞとばかり非難してくる。
「知ったかぶりをしないで!」「バッカじゃない!」「そんなわけないじゃん」
ところが正解のときは褒めてもくれない。黙りこくったままである。
「合ってた」
と、おそるおそるおれがアピールを試みると、
「私も知ってた」
と、TV画面を向いたまま冷たく呟く。徹底した塩対応なのだ。極めて遺憾である。

ツマとおれは趣味が合わない。
おれはボブ・ディランが大好きだが、ツマはあり得ないほどに嫌悪している。クルマの中でディランの曲を流すと、すぐさま停止させてしまう。
「ガマガエルのような声で、メロディーがない」
そう言うのだが、当たらずとも遠からずなのでおれは何も言えない。ちなみにツマの推しはKing & PrinceとNumber_iだ。両方のファン・クラブにも入会している。
「孫のように可愛い」
と言って、誕生日になるとメンバーから届くヴィディオ・メッセージに狂喜している。アイドルの彼らはスマートフォンの画面から問いかける。
「お誕生日、おめでとう! 何歳になったのかな?」
ツマはニッコリして、
「六十五さーい!」
と、画面に向かって応えている。もしメンバーたちが直接見たらドン引きするだろう。

おれは映画『男はつらいよ』シリーズを好んで視聴するが、妻は拒否反応を示す。おれも妻も葛飾柴又のすぐ近くで生まれ育った身である。おれなどは映画の冒頭に、あのテーマ曲のイントロが流れ、江戸川の土手が映し出されるだけで鳥肌が立つ。それなのに妻は、
「またこれを観るの?」
と、不満を口にする。なぜそんなに『男はつらいよ』を嫌悪するのか、その理由を訊いたところ、こう言った。
「寅さんも周りの人もみんないい人ばかりでしょ。悪人が一人も出てこない。善人だらけなのに、いつも結末は切ない。だから観ていてつらい」
だから「つらいよ」なのではないかと反論したくなったが、そうするとその後は「おれはつらいよ」になるのでやめておいた。

ツマはコストコが大好きだ。コストコとは、Costcoであり、コストコ・ホールセール。そう、あの会員制の巨大な倉庫式スーパー・マーケットだ。
「コストコなら一日中いられる」
そうツマは言うのだが、おれはまっぴらごめんである。何が楽しいのかまったく分からない。だが、ツマは運転免許を持っていないので、おれが運転手となり、コストコの駐車場へと続く列に延々と並ばされる。クルマは遅々として進まない。
「ああ、今日も駐車行列だな」
と、ハンドルを握りながら呟くと、ツマは途端に不機嫌になる。
「なんでそんなことを厭味ったらしく言うのよ? じゃあ、もうアンタとは絶対に一緒に来ない!」
それでは誰と行くのかと思うのだが、おれはじっと耐えて言葉を繕う。
「いや、そういう意味で言ったわけじゃないよ。ごめんなさい」
ようやく駐車場に辿り着き、クルマを停めると買い物に付き合わされることになる。おれはカークランドのトイレット・ペーパーやらキッチン・ペーパーやらに、まったく興味がない。リンツ・リンドールのゴールド・アソートもウォーカーズのクッキーもどうでもいい。混雑している倉庫内で、人波を縫うようにして巨大なカートをズルズルと押しているのが苦痛でならない。ツマは一人で商品を選び、次から次へとカートに載せていく。
買い物が終われば大量の収穫品をクルマに積むのも骨が折れるが、家へ帰れば再び大荷物をクルマから運び出さなければならない。何回もクルマと室内を往復する羽目になるのだが、少しでも嫌な顔をしようものなら、ツマはまた総攻撃を仕掛けてくる。

だが、おれはツマのことを心底憎めないでいる。彼女にはいいところもたくさんあるのだ。おれはその証拠として、これからツマの長所をひとつひとつ丁寧に列挙しようと思う。

思い浮かばないのでやめた。

むもーままめ(43)木彫りのお地蔵さんの効能あるいは才能について、の巻

工藤あかね

 ぎっくり腰の治りかけから、全身状態が一気に悪化しはじめた。膝が痛くてしゃがむ姿勢が取れない、肩が痛い、首が痛い、ついでに足首まで痛い。その日を境に生活が一変した。何をするにも痛みを怖がって、しまいには服の着替えも痛いから面倒、出かけるのも痛いから面倒、だから自炊もできない、おまけに寝返りも痛い、となった。それからほどなくして、寝起きに首ががんじがらめになったような痛みを感じ、それ以来、私は後ろの人に呼ばれると、一旦立ち止まって体勢を整え、体ごとターンしないとその人の方を向くことができなくなってしまったのである。

 整体の先生に見てもらうと、「腰が悪い時にあちこちで庇って歩いて、正しくないところに筋肉が使われ、正しいところの筋肉がすっかり弱ってしまったのでは?」と仰るではないか。「ストレッチや軽い運動から体を動かしましょう」とアドバイスを受け、これまでいい加減な気持ちで、惰性に任せやっていたラジオ体操を本気でやってみたのである。

 けれども、身体は、まあ動かないこと動かないこと。昔、夏休みに公園でラジオ体操をさせられたときは、テレビで見る模範の3人の先生たちより体が柔らかいのでは?と錯覚して得意になっていた。だから、後ろに体を伸ばす時に「んぐぐぐぐ」とか「うああああ」と声を上げるお爺さんが不思議で仕方がなかった。

 ところがいまではすっかり「んぐぐぐぐ」と「うぁぁぁぁ」の仲間入りである。自慢?ではないが、あまりによたよた歩くせいか、とうとう先日、バスの中でご高齢の紳士に席を譲られてしまった。何度お断りしてもにっこりとしたお顔で席をすすめてくださるので、これ以上お断りするのも失礼かと思って甘え、降りる際にもう一度お礼を言った。今思い出してもはずかしい。

 そんな調子なので、本番やリハーサルではなるべく元気を出してバレないように振る舞っている。この原稿を書く前日は結構ハードなコンサートの本番があった。歌がわたし、ヴィオラが松岡麻衣子さん、バリトン歌手で夫の松平敬は声だけでなくて、なぜかピアノも担当した。高橋悠治さんの曲では「長谷川四郎の猫の歌」全曲と、「カフカノート」の抜粋を歌った。結構な分量の語りもした。会場にはなんと高橋悠治さんと、八巻美恵さんがおいでくださった。夫は、人前でピアノを弾く初めての演奏会で、「お二人がおいでくださる」と聞いて、初めての発表会に出る小学生のような顔で、ひどく緊張していた。一方わたしは、目下一番痛みの強い首が、歌唱に影響しなければいいなあと祈る気持ちだった。首は痛みを避けているうちにだんだんストレートネックが激しくなって、そのうちろくろ首になりそう。

 昨夜の本番後の集合写真を見ながら、この姿勢のひどさと痛みをなんとかせねばと思った。ネットで探し回ったところ、首の痛みを軽減する方法を発見した。化粧水のボトルなどに水を入れて、あごの下にあて、首を動かしてみるだけ。こんなので効いちゃえば最高だよなぁ。。。と疑心暗鬼のまま、とりあえず試そうとしたら、いいサイズの化粧水のボトルがない。そこで、似た形状のものを使わせていただくことにした。木彫りの小さなお地蔵さんの置き物である。

 これにはちょっとした曰くがある。先日帰郷した夫が、亡くなった親族家を訪問したところ、大小さまざまの、手作りのお地蔵さんが大量に遺されていたという。処分に困ったご遺族は、訪問する人にここぞとばかりお地蔵さんを持たせているのだろう。夫もお地蔵さんをいくつか持たされて帰京したのである。(夫の親戚には凝り性が多く、能面などを彫り続けている方もいる。祖母もレース編みや、毛糸で作ったいわゆる「おかんアート」のアーティストであった。)

 夫が持ち帰ったのが、故郷のお菓子数点と、お惣菜、そして親戚が掘った木彫りのお地蔵さんたち。バッグから次々出てくるお地蔵さんを見た私は、夫の親族作だし無碍にもできず、なんとなく複雑な気分のまま受け入れたのである。そして、夫の手によってテレビの前に二体、小さなワインセラーの上に一体ちょこんと乗せられた。あとはどこにあるのかわからない。

普段はありがたみも何も感じず、ワインセラーの上に座らせていただけのお地蔵さん。ひらめいた私は、惹きつけられるようにお地蔵さんを手に取り、化粧水ボトル代わりに首の運動に強制参加させた。するとどうだろう、不思議なほど首の痛みがひいてゆき、上下左右すっと動かせるようになったのである。ええええ、なにこれ。。。!!! お地蔵様はありがたいことに私の首の悩みを軽くして下ったのである。すごい効能ではありませんか。もしかしたら、ここにいるお地蔵様の姿形がなした技なので、もはや才能?もう、敬語ですよ。お地蔵様今まであんまり大事にしていなくてごめんなさい。どうぞこれからもワインセラーの上に乗って、我らの首をお見守りくださいますように。。。

 それにしてもマッサージしようが、首のツボを押そうが効き目がなかったのに、こんな技があるなんて。本番の前日までに、知りたかったなぁぁぁ。

満身創痍の演劇

越川道夫

次々と花を開かせている。白い、とわざわざ書いたのは、なぜか私の住む近辺では、まず白い彼岸花が花を咲かせ、それからゆっくりと赤い彼岸花が盛りになっていく。彼岸花といえば赤という先入観があるせいか、その様子を何か不思議なものでも見るような気持ちで毎年眺めている。この秋、といか初冬の11月の太田省吾さんの戯曲『更地』を三鷹SCOOLで演出することになった。久しぶりの舞台。稽古も始まっているが、Twitter上で自分が考えていることをまとめる意味で『更地』初演の頃のことを何回かに分けて投稿した。それをここに加筆した上でまとめておこうと思う。
 
太田省吾作・演出『更地』の初演は1992年。私が27歳の時である。縁があって、私はこの演劇の稽古場助手についた。『更地』は、太田さんが主宰した転形劇場解散後、初の芝居。転形劇場の芝居は、赤坂工房の時代から『小町風伝』、いわゆる沈黙劇三部作『水の駅』『地の駅』『風の駅』を経て『水の休日』と解散まで追いかけるように観ていた。自分も小さな芝居を作っていた頃である。転形劇場の作品だけではなく、今でも最も好きな俳優である中村伸郎さんのために書かれた『棲家』や『午後の光』も観ていたし、太田さんの『飛翔と懸垂』『劇の希望』といった演劇論をいつも手元に置いて何度も読み返し、太田省吾という人は間違いなく若い日の自分に大きな影響と刺激を与えてくれた演劇人のひとりであった。だから『更地』の助手の話をもらった時、一も二もなくその仕事に飛びついたのだ。太田省吾の演出を間近で見ることができるのだから。私は、『小町風伝』『水の駅』を作った太田演出の「秘密」が知りたかったのだと思う。しかし、結果から言えば、私はその「秘密」をひとつも知ることができはしなかったのだった。
『更地』の出演者は夫婦である男と女の2人。その2人がおそらく長らく棲んだ家を取り壊した後の更地にやってくる1時間20分ほどの2人芝居である。初演の出演は、岸田今日子さんと元転形劇場の瀬川哲也さん。稽古初日から本読みはなく立ち稽古(あったのかもしれないが私は参加していない)。しかも通し稽古(戯曲を頭から終わりまで演じる)だった。その後も、抜き稽古はほぼ記憶にない。連日昼からまず一回通しをしてダメ出し、もう一度通しをして終了という稽古が続くこととなった。稽古初日で覚えていることと言えば、最初の通しで演じる岸田さんと瀬川さんを一度も見ない太田さんの姿だった。あれは音を聴いているのかもしれない。しかし、俯いたままチラとも見ない…。
 
演じ終えた瀬川さんと岸田さんが並んで太田省吾さんの前に立つ。どんなダメ出しをするのかと、固唾を呑んでいる私の耳に聞こえてきたのは、具体的な演技についてではなく演劇の状況論とでもいうべきものだった。「197X年から演劇のタームが変わりましたね。」正直言うと太田さんが何を言おうとしているのだか。若かった私には一つも分からなかった。話は20分も続いただろうか。「…ということです。ではもう一度」。何が「ということ」なのだろう? 今の話を聞いてお二人はどんなことを考えているのだろう? 疑問の中で始まった2回目の通し。すると、瀬川さんが突然台詞を喋りながら何度も立ち幅跳びの様に跳び始めたのだ。我ながら馬鹿みたいだが、あ、跳んだ、と思った。なんで瀬川さんは跳んだのか? その通しが終わった後、太田さんがその跳躍に言及したかどうか記憶にはない。おそらくなかったのだと思う。
 
初日の稽古が終わった後、瀬川哲也さんと新宿の喫茶店に入った。私の中には聞いてみたいことが渦巻いていたのだと思う。「太田さんのあの演劇論のようなダメ出しですが、何を言おうとしているのか分かりましたか?」。「一つも分からない」。「でも、あの後、瀬川さん跳びましたよね」。「(考えて)…太田省吾の言葉に対抗するには役者は身体で対抗するしかない。だから跳んでみた」。この瀬川さんの言葉を今でもよく反芻することがある。演出を俳優との関係、言葉と演じる身体の関係を考えるときに、いつもこの時のやりとりがまず頭に浮かんでくる。「太田省吾の言葉に対抗するには役者は身体で対抗するしかない」。『更地』の稽古は、まさにその繰り返しだったと思う。瀬川さんがあのように跳んで台詞を言うことは、それ以降なかったが、それからも太田さんは時にはダメ出しで演劇論を語り、時には具体的な指示を出し、1日2度の通しを繰り返しながら稽古は淡々と続いた。私は「秘密」など一つも掴むことができないまま、『更地』という演劇が豊かに育っていくのをどこか置いてきぼりを食っているような気持ちで眺めている無能な助手であったと思う。
 
あの衝撃的だった沈黙劇『水の駅』について瀬川さんに問うたのもこの頃だったと思う。舞台中央に剥き出しの水道がある。蛇口からは水が細く絶え間なく流れ続けており、その水道にさまざまな人たちがたどり着き、関わって、また去っていく。観客には一切の言葉は与えられない、あの舞台。「あの芝居には、台本があって台詞もあった」と瀬川さんは言う。「それがどうやって沈黙劇になったのですか?」「初めから意図して沈黙劇にしようとしたわけではなかった。いろいろやっているうちに言葉は全てなくなってしまった。だから、どうやって沈黙劇になったのか言うことはできない。(長く考えた後)だから、どうやって沈黙劇になったのか言うことはできない…魔法だと思って欲しい」。
 
瀬川さんは、『水の駅』がどうやって出来上がったのか語ることができない、「魔法」だと思ってくれ、と言う。後年、元転形のメンバーだった大杉漣さんにその話しをすると、「魔法って、瀬川さん、そりゃカッコよすぎるなー」と大笑された。「あれは大変だったんだよ」と。
 
昨年、早稲田大学演劇博物館で「太田省吾 生成する言葉と沈黙」展があった。その展示で興味深かったのは、『水の駅』の台本が全ページ、PC上で閲覧できたことである。これか、と夢中で頁を繰った。初めて目にする『水の駅』の台本。そこにあるのは夥しい「言葉」、溢れんばかりの「引用」。それぞれのシークエンスに、そこで演じられる「言葉」があったのです。それは、鈴木志郎康の詩であり、金杉忠男や太田省吾さん自身の戯曲、アラバールの戯曲の断片、尾形亀之助の小品、言葉だけではなく「絵画」の図像の引用…。この「言葉」たちをひとつの作品の中で演じるということは、どういうことなのだろう。台本を目の当たりにしても「謎」は深まるばかりだった。「言葉」に「服従」するのではなく、「言葉」と「身体」または「演じること」がどう拮抗するのか。どのような作業をすればそれが可能になるのか。この膨大なテキストから、どうしたら私たちが今映像で見ることができる『水の駅』の身振りが生まれてくるのか。その途方もない「遠さ」。「他者の言葉」との「格闘」の末に出来上がったのが、あの『水の駅』だということに目眩がする思いだった。これではまるで「言葉」に対して素手で喧嘩をするようだ。私が観ていたのは、演劇というよりも『水の駅』という満身創痍の格闘の痕なのではないか。もし万が一『水の駅』を再演することがあるのであれば、今一度この「言葉」たちと格闘するほかはない。その末に立ち上がるのは、あの『水の駅』とは、まったく異なるものになるだろう。
 
言うまでもなく、太田さんにとっても瀬川さんにとっても『更地』は、このような沈黙劇における「言葉」との格闘を経ての「台詞劇」という側面を持っており、『更地』の稽古の底には、やはり「言葉」との激しい格闘が隠されていたのだと思う。私が稽古場で見たものは、その格闘の軌跡だったのだろう。それは静かな格闘だった。とてつもなく静かで激しい。基本的には穏やかで、深い声で話し、寡黙と言っていいほど言葉の多くはない太田省吾さんが稽古場で苛立ちを隠さず、怒鳴るわけでも何かに当たるわけでもなくむしろその激しい苛立ちに耐えるようにそこにいた姿をとてもよく覚えている。あれから30年以上が経ち、太田さん、瀬川さん、岸田さんもいない。「年をとったら自分も『更地』を」と話してくれた大杉漣さんも、もういない。
 

仙台ネイティブのつぶやき(99)無口の写真家

西大立目祥子

そうたくさん話したわけではないのに、じぶんの中に忘れがたい足跡を残す人というのがいるものだ。写真家、小野幹さんは私にとってそういう人だった。くっきりとした足跡というのではない。降り積もった雪を踏み込んだときのような、輪郭はくずれてはっきりしないけれども深い足跡。のぞき込むと、断片的ではあるけれど、表情や立ち居振る舞いがよみがえってきて、あんな人はいないという思いに行き着く。

小野幹さんは昭和6年(1931)岩手県藤沢町生まれ。戦後は仙台に暮らし、昭和30年代から仙台市内はもちろんのこと東北各地の山村や漁村をくまなく歩いて、人々の生活の風景を撮り続けた。仙台におけるプロ写真家の草分けのような存在で、まわりには志を同じくする人の輪ができていた。

私が最初に接点を持ったのは30数年前。バブル経済で街なかの風景が激しく変わった時期に、その前の時代の風景を知ろうと写真記録を撮っていた幹さんを訪ねたのだった。
出してくださる昭和30年代の写真は新鮮だった。自転車に一升瓶を乗せてお使いに行く男の子、道路脇の掘割にかがみこんで手を洗う老人、まだケヤキ植栽前の仙台駅前の青葉通をスキーを担いで横断する若い人、歩道で客を待つ靴磨きのおばさん…人があふれ、働く人がそこらじゅうにいて、空襲の焼け跡にビルが立ち並んでいく写真を見ながら、戦後の仙台はここから始まったんだと思ったし、この街並みを私は生きてきたんだとも感じた。そして、幹さんの数十年撮り続けた記録写真は膨大な量に及ぶことを知った。

その凄さが身にしみるからなのかもしれないが、近寄りがたいような怖い感じも受けた。ギョロ目でちょっといかついお顔で、あんまりしゃべらない人なのだ。私が何かいうと、かなりの間があって、ぽつりと「そうだね」と返ってくる。何をたずねても間が生まれる。その間が耐えられないほど長く感じられて、用件がすむとそそくさと辞去する数年が過ぎた。

それから7,8年が経ったころだったろうか。友人のライターと交代で、タウン誌に30〜40年前の仙台の街並みと現在を比較しながら当時の暮らしを探る連載を始めることになり、再び写真をお借りするために訪問を再開した。フィルムカメラからデジタルカメラに切り替わり暗室の必要がなくなったからだろうか、幹さんのスタジオはいつのまにか妻ようこさんが運営するギャラリーに取って代わり、写真のプリントは2階の倉庫兼書斎に置いてあるプリンターで出力するようになっていた。

約束の日にうかがうと幹さんは、何枚もキャビネ判に焼いた写真を用意して待ってくれていた。「これは昭和36年の青葉通」「これは昭和42年の国分町」と写真を提示してくださるのだが、中には場所が特定できないものもある。「どこだったかね…」とおっしゃるときはその前後のベタ焼きを見せてもらって検討し、それでも解決しないときは当時の住宅地図を持って歩き回りあたりをつけたりした。そのあとライターの私たちは街に出て、写真の時代を知る人を探し歩き話を聞いて文章をまとめた。その成果は『仙台の記憶』『40年前の仙台』『追憶の仙台』(いずれも無明舎出版)という3冊の写真集になった。

この経験がおもしろかったこともあって、私は新たな仕事を引き受けるたび幹さんの写真で何かできないかと考えるようになってしまった。広瀬川流域がテーマの仕事では、信じられないほど粗末な木橋や河口にあった渡し船の写真に驚きながら、大洪水で水に沈んだ街を記憶する人を探し、小舟に野菜を積んで対岸の集落を回った女性を紹介してもらって話を聞き、書いた。次から次へと出てくる幹さんの写真に導かれるようにして、昭和20年代から50年代の仙台の地べたの暮らしを、物語を聞くように暮らしてきた人たちから直接教えてもらったのだと思っている。

それにしても幹さんが成し遂げた仕事の量には圧倒される。いや、仕事といういい方は当たらない。歩くように撮り、見るように撮り、生きていくことが撮ることだったのだ、といまは思える。ときどき街で首から小さなカメラを下げ、歩いたり自転車に乗っている姿を見かけた。カメラを持った幹さんにばったり出会ったことがあって「お仕事ですか?」とたずねると、「いや、用事があるわけではないんだけど…」と返されたこともあった。

ご自身が撮影した写真については「記録しようと思って撮ったことはないんだ。ただ目の前のものがおもしろくてカメラを向けていただけ」とおっしゃっていたのが印象深い。たしかにアサヒカメラの最優秀作家賞をはじめたくさんの受賞歴がある幹さんの写真は、いうまでもなく人の眼では捉えきれない瞬間を切り取りつつも対象への温かさにあふれた、作家の作品と呼べるものだ。中でも子どもたちを写した写真は忘れがたい印象を残す。写真集『わらしこの昭和 昭和30年代の子どもたち』(河出書房新社)の子どもたちは、野良で働き、兄弟を背負って子守をし、新聞売りをしながら、みんな懸命で精一杯。そこに幹さんは無垢な心根を写し取るし、ソリに乗ったり川原で煮炊きをしたり遊び呆けカメラに底抜けの笑顔を見せる表情に生命の輝きをつかみ取っている。カメラをまったく意識していない表情に、一体どうやって幹さんは子どもたちに近づきシャッターを押したのだろうと思う。

通ううちに、幹さんはおだやかでやさしい人だということがよくわかってきた。怖い人だなんて感じていた、私の若いころの眼はまったくの節穴。いつも平常心を保ち、上機嫌でいられる人だったのかもしれない。甘いものに目がなくて、豆大福とかきんつばとか茶饅頭とかを詰めた小さな包みを手土産にすると、一瞬ぱっと眼を輝かせてうれしそうにされる。でも口に出して、うれしいなどとはいわない。相変わらずの、何というのか上等の無口ぶりなのだった。

ギャラリーの片隅でようこさんと3人でお茶を飲むひとときは、ゆったりとして楽しい時間だった。話すのは、ほとんどようこさんと私。ときどきようこさんがイライラしたように「ほんとに、この人は何にもしゃべらないの、何聞いてもいいとも悪いともいわない」と口にしても、幹さんは表情も変えず飄々としたたたずまいでおまんじゅうを幸せそうに頬張っている。感情が波立たないというのか、まるで存在感を消したようにそこにいるというのか、だからこそ対象にそっと警戒されることもなく近づいて、気づかれることもなくシャッターを押せたのだろうか。

やがて90歳を迎えた幹さんは転倒をきっかけに施設に入所された。施設内でも使い慣れたカメラで撮影しているとうかがった矢先、今度はようこさんが体調を崩され自宅で療養する事態となってしまった。ようこさんのお見舞いにお好きだったお団子を持っていき少しお話もして安堵した数日後、幹さんの訃報が入った。そしてご葬儀にお別れにうかがったわずか5日後、何とようこさんが旅立たれた。こんなことがあるのだ。6月初めのことだった。

先日、お墓参りをしてきた。菩提寺は仙台市中心部から車で15分ほどの山中にある、一度訪ねてみたいと思っていた寺だった。草木の生い茂る参道は修行寺という歴史もあってか想像以上の険しさで、幹さんにまた導かれているなあと感じながら先の見えない石段を上り詰め、刻まれたばかりの二人の名前が並ぶ墓石に手を合わせた。

また親しかった人が消え、一つの扉が閉じられた。それは、じぶんの中に固定されたその人の記憶が生まれるということでもあるのだけれど。

子どもの写真について、幹さん自身は前述の写真集の中でこんなふうに話している。
「僕は70歳を過ぎたいまでも子どもたちには好かれるみたいなんだよ。さっきも犬の散歩をしていたら、下校途中の子どもたちが寄ってきて…なんていうか、子どもたちとは呼吸が合うんだよ」
読みながら、ああいう静かな人は間違いなく動物にも好かれただろうなと思う。

短いてがみ

北村周一

受話器から
友の声あり
「サクラサク」 
文を手に手に
チルわがいたり

友はサク
われにはサクラ
チルという
文の届きし
春の日のこと

「春」を待つ
サクラ花びら
はらはらと 
文待つのみの
春の気怠さ

花咲けば
散るを憂うる
親もいて
来ては遠のく
郵便バイク

投稿歌
したため直して
ポストまで 
撓垂れかかる
米屋の国旗

書くよりも
手紙出すときにわれ
緊張す 
赤き郵便
ポストの前で

一瞬の
ためらいののちに
出す封書 
おもさ失くせし
てのひらを抜く

海の向こうへ
わたり損ねし
画家宛ての
メールがひとつ
届かずにいる

置き去りに
されたメールが
和蘭の
ひかりの粒を
夢みる九月

あかねさす
日にいできては
メール打つ 
義父危篤の文字は
薄れゆくのみ

一行に
終わるいちにち
みずからの
言葉もたねば
籠るほかなし

よみ手なき
ブログを今日も
書き終えて
ひとりのみゆく
うたうたうため

遠近(おちこち)より
ムーン情報
集いおり 
月は見えねど
秋深みかも

秋なのに
どこを切っても
自分しか
いないブログの
らららな世界

どこからか
飛んで来たので
あろうけど
ひかり回線
この世はコトバ

ひんぱんに
テレビの窓に
顔を出す
ひとらどなたも
声は勇まし

品切れの
棚くうかんに
弁明の
文字が居ならぶ
あるところにはある

マスクして
手袋をして
交わりの
ことば少なに
レジ打つひとよ

短冊の
ごとき用紙に
名をしるし
祀らんごとも
投票箱へ

ささの葉の
新芽のほどの
おもさもて
渡されている
投票用紙

痛みある
ところにあてて
綴り置く
きょうの日付の
短いてがみ

絵日記の
ように汚れて
しまうから
苦手なのかも
ながい手紙は

目障りな
あなた要らない
つくづくと
絵巻物めく
書面賑わし

あとからは
何とでも言える
ささらさら
原告からの
書面(2)を読む

能う限り
簡潔にあれと
思えども
法律文書は
漢字多けれ

生命線
ほつれやすくて
歿年の
彫られしきみの
お墓あたらし

花言葉
唯我独尊
嫌われて
背高秋の
麒麟草かな

アパート日記 9月

吉良幸子

9/1 日
古今亭始改メ「伝輔」の襲名披露パーティにお呼ばれして行ってきた。パーティなんて苦手やけど、公子さんは表立ったとこはヤ!とか言うて不参加やし、こりゃ行かん訳にもいかんなぁと後学のために参加した。受付に総番頭してはる馬久さんがおらはってわざわざ声をかけてくれはった。毎月やってたいわと寄席の1期目、最後の時にうちのおかぁに捕まってあーだこーだ講釈を聞かされたのが効いたのか、私の顔も覚えてくれはったらしい。あれ以来会うたびに、お母さんお元気ですか?と聞いてくれはる、なんて優しい馬久さん。
甲賀さんの文字で幟を作ったんやけど、私のテーブルをそのすぐ前にしてくれてた。気が利いてる始さん!同じテーブルに着物の仕立てをしてる、いわと寄席にも来てくれてはったみかさんがいてくれてよかった。ああいう場所は知った顔がいるだけで安心する。右隣に座ってはったおっちゃんも愛知からわざわざ来たとかいう方でええ方やった。お客さん100人以上いたんとちゃうかな、ものすごい人でびっくり、そしてみんな「伝輔」になる始さんを心配してる感じ。落語頑張ってや、伝輔師匠!
帰ったら、どうだった?と公子さん。引出物を開けてもらったお菓子をすでに食うてる。甲賀さんの文字で作った新しい名前は手拭いやのし紙、そして扇子にも使われておった。扇子に小さく銀の文字で入った名前はすごく上品な感じでかわいい。大事に使おう、いや、これは取っておこうかな。

9/4 水
自転車に乗ってても風が急に秋めいてきた。夏の間は庭の雑草が伸び放題で、例年にないくらい森になってもた。あまりにも木になってきたから公子さんがちょっと枝先を切ってくれはって、そのおかげでソラちゃんが塀の上に登る道ができた。涼しくなったのも相まって今朝は数ヶ月ぶりに庭からおかえりのソラちゃんに、秋が来た!と公子さんと思わず顔を見合わす。妙なとこで秋の訪れを感じるアパート組。

9/7 土
一昨日から粘土でひたすら落語ねこづくり。来週からの展示に向けてやってんやけど、粘土自体始めたのは7月の終わりでお手本もなけりゃ先生もおらん。絵具職人のながさきさんの奥さんが粘土に絵具混ぜて色々作ってはった話を聞いたのがきっかけで、自分もなんとなしに作ってみた。それが周りから予期せぬ好評、友達の展示にコラボする話が急に舞い込んだ。気楽に乗ったものの時間もなし手探り手探り。途中からものすごい助太刀、米朝さんの落語してる最中の写真集を手に入れて、特に知ってる噺のなんか写真見ながらかたちつくるのがものすごおもろい。いっぱいつくったんはええけど絵付けが思いの外大変で時間を食う。和の色ってどやって出すねやろ、あーでもないこーでもないとやっとると時間ばっかし過ぎてゆく。それで昨日は夜中の3時半くらいまでやって、どうしても眠たくて筆持ったまま色塗り中に寝ておった。
そんなこんなの夜が明けて出稼ぎ行ってもねむぅてしゃーない。でも今日は帰りに宇佐美さんがやる、オープン妖怪屋敷に予約してもうてる。疲れてるし行くか悩んだんやけど、行ってよかった~!!!!ものすごおもろくて帰る時には元気をチャージできておった。宇佐美さんや時々自動は、彼らからにしかない独特な栄養みたいなんを持ってはって、それを摂取するために毎回観に行ってる気がする。今回のは所謂お化け屋敷みたいなびっくりさすのじゃなくて、木造二階建ての家の中をただただ色んな妖怪がうろうろしておる空間。入り口の黒いカーテンを開けた瞬間から混沌すぎて笑える。あんな予想もでけんおもろい場所が、都心の大通り一本入ったとこにあるなんて…この世でいっちゃんおもろい妖怪屋敷やった!

9/8 日
粘土ねこたちの搬入が無事終わった!なんとかかんとか間に合ってよかった~!!帰りの電車でほっとしたのかまぶたが重い。文字通り重くなるのね。ここ数日ずっと畳の上で仮眠みたいな寝方してたからやっとお布団で寝られる。ぺったんこな煎餅布団でも、やっぱし布団さまさまやわ。

9/9 月
久しぶりに夢に自分のじぃちゃんが出てきた。滅多に出てきてくれへんから嬉しい。一番仲良しのじぃちゃんで中学の時に亡くなったんやけど、いつもの台所でばぁちゃんもおかぁはんもみんなおる楽しい夢やった。ああもうちょっとここにおらせてくれというところで、ソラちゃんがにゃぁにゃぁと帰ってきて起こされた。一方その頃公子さんは、みんなで水泳大会に出て、自分だけ洋服で泳ごうとして大笑いしている夢を見ておったらしい…。

9/11 水
展示してるとこへ知り合いがたくさん来てくれて賑やかな日やった。まず展示とは知らず、着物をくれたおタカさんが甥っ子さんと一緒に。また川島雄三の本をいただいて、私もお返しにジョージア映画の本をあげた。なんや、ものすご文化的やない?!そこへ、この前まで展示してたさえさんと、落語仲間のくみまるさんが来てくらはった。あーだこーだ話せて楽しい日やった…と締め括ろうとしたら、おタカさんから不在着信が。甥っ子からぶどうをもらったからみんなで食べにきなさいと。電話を切ってすぐ周りに聞くけど急に行けるのはヒマな私くらいなもん。しゃぁない、久しぶりに寄してもろかとひとり行ってきた。これでもか!という程シャインマスカットをいただいて、贅沢な晩ごはんやった。

9/15 日
出稼ぎで満身創痍でも寄席にはせっせと行く。今日はご贔屓の扇辰師匠がトリを務める鈴本演芸場へ。おもろいことにメトロで前に座ってたキラキラのサンダル履いたおばちゃんが、鈴本では隣に座っておった。いつも通りのアサダ二世に真っ当にうまい歌奴さん、それに愉快な彦いちさんと時代錯誤な米粒写経まで観れて楽しい会やった。

9/17 火
中秋の名月に誘われて公子さんと蕎麦屋へ夕方ふらふらと歩いていった。冷酒の倉本がむちゃくちゃおいしい。ふたりで1合のつもりが、もう1合!と公子さんが高らかに追加で注文したはる。帰り道にふたりともほろ酔いで、商店街の和菓子屋へ月見団子につられて寄った。酔うてるし、パックなんていらんで!と各々が団子を片手に帰る。あったかいお団子を食べながら家路についた。こんなに酔うてソラちゃんに怒られるわ~と玄関を開けたら家の中で待ってはる。はて、外におったのにどやって入ったんかしら?と思ったら、台所に豆かんてんが置いてあるやんか!留守中に丹さんが置いてってくれたらしい。そん時にソラちゃん家に入ったのね。呑みすぎのぐるぐる回る頭で布団にどかっと寝た。ああええ夜や。

9/21 土
今日から真打披露興行が始まる。約45日に渡って新真打4名が寄席で代わる代わるトリを務める。今日は大初日で、月頭にパーティに呼んでくれはった伝輔さんのトリの日。出稼ぎを早退けして鈴本演芸場へ向かった。いつもと違う出口から出てキョロキョロすると、甲賀さんの文字の幟がはためいてるのが見えて思わず走った。幟ってやっぱし遠くからでもよう目立つ。この前展示に来てくれはったくみまるさんも合流して中へ入ると、いつもと打って変わってほぼ満席。伝輔さんのお客さんいっぱいで、破れんばかりの拍手やった。

9/25 水
お米屋さんで米糠をもらってきた。漬物を作るためやなくて、銭湯で体や顔を洗うために。まずぬか袋を作らないかんが、木綿がうちにない。これ良さそうじゃない?!と公子さんから包帯をもらう。伸縮性があるし、長さも自分のええところで切って使えるから良さそう。口の部分に紐を通したり縫うのがじゃまくさくてボタンにしたら、そんなヌカ財布作ってどうするの!と言われた。上の部分を折りたたんで使っても糠が出てこようとするし、小さく作りすぎて試作ひとつめは失敗。ふたつめは長めに作ってちゃんと紐も通したらええ感じ。水に浸すとええ匂いやし、これから楽しみ。

9/27 金
ここ数ヶ月、家ではもっぱら剣菱を呑んでおるんやけど、剣菱のホームページで買った酒器とお酒たちが大きな箱で届いた。むっちゃおいしくてちびちび呑んでおる。公子さんと協定があって、冷の熟成酒、灘の生一本はようまわるから1日におちょこ1杯、極上黒松はおちょこ2杯まで。やのに銭湯帰りに暑くて極上黒松をいっぱい飲む公子さん!協定破棄や!!と私も3杯やったらぐるぐる回って死んだように寝てもうた。

9/28 土
初展示が今日でおしまい!展示のおかげで飛ぶように早い9月やった。無事に終わって嬉しいような、淋しいような、ほっとした感じ。最終日に1体お買い上げがあって、明日北京へ持っていきますと言われた。まさか海外まで行くなんて思ってなかったけどありがたい。厳重に梱包した、駕籠持ったポーズのねこよ、元気にいってらっしゃい!

9/30 月
三遊亭兼太郎さんの会に行くため、公子さんと田原町まで。やっぱり浅草はむっちゃ遠いねぇ~。家出る前にソラちゃんが帰ってきて、出掛けるのを察してんのに膝に乗して寝さしてほしいとばかりに見てくる。膝だけ置いてってんか~と言いそう。
田原町の駅の出口でゆくえプロジェクトのまことさんと待ち合わせ。また色々企んでいる公子さんの仲間。来てたお客さんは少なかったけど、落語は面白かった。最初に会った時からそんな時間経ってないけど、ぐんぐん上手くなってゆく気がする。今後、兼太郎さんに出てもらう会もあるし、終わってから4人で打ち合わせがてらちょっと打ち上げ。色々話せて楽しかった。

劇場に冠された名前

冨岡三智

昨年(2023年)、コロナ明けで4年ぶりにインドネシアに行った時、留学していた芸術大学に足を運んでやりたいことがあった。それは、構内の各劇場の名称を確認することである。コロナ禍の時代にライブ配信が盛んになったのもあって、私は芸大からの公演や各種セレモニーの中継映像をせっせと見るようになったのだが、その時に、いつの間にか構内の劇場に名前がついていることに気づいた。以前は単にプンドポ(ジャワの伝統的な儀礼用の建物)、大劇場、小劇場と呼ばれていた建物が、それぞれ『プンドポ・ジョヨクスモ』、『ゲンドン・フマルダニ大劇場』、『クスモケソウォ小劇場』と呼ばれている。これらはいずれも芸術大学に貢献した人物の名前である。

ジョヨクスモは芸術大学の初代学長である。実は、スラカルタの芸術大学は芸術高校の教員を二分するような形で1964年に設立された。これは当時のインドネシア政府が取った学校設立法で、ジョヨクスモはそれまで芸術高校の校長をしていたが、芸大に移って初代学長となった。この人はスラカルタ王家のパク・ブウォノX世の王子である。オランダ植民地時代にはオランダ留学の経験もある知識人で、2023年に大統領からパラマ・ダルマ文化勲章(芸術関係では最高の栄誉)を授与されている。

ゲンドン・フマルダニは1970年代に芸術大学を発展させた学長である。実はスラカルタ王家の一画に置かれた国の芸術発展プロジェクト(PKJT)の所長としてスラカルタに来て、芸術大学でも講師として教えるようになり、芸大学長とPKJT所長を兼任して宮廷舞踊の解禁や現代舞踊の発展などに大いに貢献した。2002年に文化大臣からサティヤ・ランチャナ勲章を授与されている。

クスモケソウォは私が舞踊で師事していたジョコ女史の舅にして1950年に設立された芸術高校の初代舞踊教師であり、芸術大学設立後はその教育にも携わった。現在までプランバナン寺院で続く『ラーマーヤナ・バレエ』の初代振付家でもあり、2021年にはパラマ・ダルマ文化勲章を大統領から授与された。学長だった2人の人物に伍して地味な舞踊教師の名が冠されるのは意外にも思われるが、スラカルタの舞踊教育においては重要な人物である。

私がyoutubeでざっと見たところ、2018年4月のイベントのビデオではすでにこれらの人物名が冠されているが、2017年に撮影された映像にはまだ入っていないようだ。また、同様の動きは近年、芸術高校やタマン・ブダヤ(州立芸術センター)でも見られ、芸術高校のプンドポは「プンドポ・スルヨハミジョヨ」と冠されている。スルヨハミジョヨは芸術高校の創設者であり、『ラーマーヤナ・バレエ』プロジェクトの責任者であり、実はジョヨクスモと同じくパクブウォノX世の王子である。2023年の映像ではプンドポに名前が冠されているのが確認できるが、それ以前のものはまだ確認できていない。ただし、私が同プンドポで公演した2006年にはすでにスルヨハミジョヨ氏の胸像がプンドポの奥に置かれていたし、それはそのずっと前からすでにあったような気がする。ただ、劇場に名前を冠して顕彰するという発想が近年までなかっただけなのだ。タマン・ブダヤはPKJTが発展解消してできた機関なので、PKJT所長の名を冠して『ゲンドン・フマルダニ プンドポ』と名付けられている。

というようなわけで、近年になって一気に芸術面で功績のある人物の名がつけられることになった。インドネシアでは通りの名前に国家英雄の名がつけられることはよくあるが、芸術関係者の名が冠せられるのはそう多くはないように思う。1968年に開業したジャカルタのイスマイル・マルズキ劇場は作曲家の名前にちなんでつけられているが、21世紀になってスラカルタの芸術機関でいきなりそのやり方が流行したのはなぜなのだろう。なぜ、今になって先人を顕彰し始めたのだろう…と気になる。

九月

笠井瑞丈

豊岡演劇祭
金沢で一泊
そして城崎へ

心強いスタッフ
音響角田さん
映像中瀬さん
そしてもちろん
チャボさん達も
六人の旅

前回熊に遭遇した
あの山道を再び
松本から富山へ
もう通い慣れた道

昼間にこの道を
通るのは久しぶり
夜だと気づかない
初めて見る景色

震災の影響で
土砂崩れで崩壊した道
あちらこちらに
震災の被害の後

金沢着

4人で食べるお寿司
明日は城崎へと移動

初めて通る高速道路
初めて見る景色の風
海から山に変わる色

城崎着

これから踊る城崎文芸館
一通り打ち合わせとリハ

一棟貸しで借りた宿
六人の短い共同生活

海の匂いが漂う青い空

知り合いの写真家がフラッと
愛犬と共に訪ねて来てくれた

彼はこの家から数分の所に住んでいる
夜は夜で飲み屋で久しぶりに会う友人
お酒を飲みながら懐かしい昔話が続く

美味しい食事をすぐ食べてしまうように
楽しい時間はあっという間に過ぎていく

翌日

公演も無事終了
近くの中華をテイクアウト
宿でひっそりとし打ち上げ

翌日帰京の日

午前中車で30分ほど離れた所
岩下徹さんと梅津和時さんの
セッションライブを見に行く
カラダの結晶体
自然に響く音楽
少しづつ少しづつ
混ざりあっていく

最後に大好きなモーツァルト
クラリネット協奏曲がかかる

良いものを見た
そんな九月のひととき

話の話 第19話:お金の話

戸田昌子

我が家にも新札がやってきた。なんとなく安っぽくてダサい感じがするのは、新しいデザインに慣れていないからなので、仕方がない。旧札が導入されたのは1985年なのだそうで、その時のことははっきりと覚えているが、安っぽくてとてもじゃないけどお金に見えない、と不満を持ったのを覚えている。それもいつしか慣れてゆき、聖徳太子の千円札がむしろ古めかしく感じるようになっていったことだって覚えている。なにしろわたしは岩倉具視の500円札すら記憶にあるのだ! と、娘にマウントを取ってみるが、全然通じない。500円玉が現れたときは、こんな高額コイン、落としたらどうすんねん、と不安に思ったものだった(それは今でも変わらない)。

しかし、旧札と新札が入り混じっている今は、まだまだ紛らわしくて違和感がある。特に千円札の奴! 北里柴三郎だかなんだか知らないが、とても偉そうな風貌なので、つい五千円札だと思い込んでしまい、「3890円です」と言われたので新千円札を出し「これでお願いします」と言ったら、店員が固まっている。あれ? と思ってよく見たら千円札。あわてて「あっ、すみません……これ、千円札でしたね!」とわざとらしく騒いでしまう。

お金っていうのは、あったらあっただけ、消えてしまうものだ。学費の支払いのためにかき集めた100万円を見つけた娘が「うちってお金ないわけじゃないんだね」などと言うので、「あのね、お金ってのはね、とどまらないのよ。もうね、右から左へ、こう、する〜っと」とわたしが身振り手振りをまじえて言ったらば、「ああ、流しそうめん」と娘が応じる。そこでついわたしも悪ノリして、「あら、いいこと言うわね。あのね、お金はハナクソと一緒でね、溜め込んだら臭くなるのよ」などと言うと「例えが最悪だな」と冷たい目で見られた。

だいたい、むかしから同じようなことを言ってはいるような気がする。これは7歳くらいのときのわたしと娘の会話。

娘「わたしを愛してないの!」
わたし「娘ちゃん、愛っていうのはね、一方的にもらうとかあげるとかじゃないの、お金と一緒で、世の中をぐるぐるまわっているわけ。だから、いわば経済なわけね。だから……」
娘「わたしに何か悪い事を教えようとしてるでしょ!」

娘、なかなか鋭い。でもね、娘ちゃん、いまでもお母さんは思うのだけど、お金と愛には深〜い関係があるんですよ。だって、命かけて愛した男なのに、そいつが手切れ金をよこしたとたんに気持ちが冷めますでしょう。井上靖『河口』には、手切れ金の封筒の厚みで女の気持ちがあっさりと萎えた様子を見てとった男が、手切れ金をなぜか値上げしていく場面が描かれてありますが、愛を終わらせるには、やはりお金なのです。

そんなことをぶつぶつ言っていると、娘が

「ねぇ、お金には目が無いのに、どうして羽はついてるの?」

などと言う。確かに、お金には目がないのに、羽はついていて、ヒラヒラとあっさりどこかへ行ってしまいますね。それでも我々は幸運にも生活が立ち行かなくなるというほどではなくて、なんとか誤魔化しながら暮らしている。

じっさい、当方はこんないい加減な人間だけれど、わたしの両親ははるかに堅実な暮らしを営んだ人たちで、6人の子どもを全員、大学まで出したのである。その代わり、お小遣いはもらったことがないし、家族旅行もしたことがないし、洋服はいつだって親戚や友人たちのお下がりだったし、美容室や床屋に行かせてもらったこともないし、外食の経験もほぼゼロである。ある意味で世間知らずだったので、わたしが高校生になって蕎麦屋でバイトを始めたとき、お客さんに「おてもと」を下さい、と言われてそれが何かよくわからず、お手拭きを持って行ってしまったことがある。しかし貧乏暮らしではあったものの、貧乏くさくはなかったようだ。必要なことには両親は金を惜しまなかったし、趣味の音楽には思い切った出費をしていたから。父が結婚したころに買ったフルトヴェングラーのベートーベン交響曲LP12枚組は、当時のサラリーマンの月収に相当するほどの額だったはずだが、そういうものには金をつぎこんでいた。ピアノはいつも家に2台以上あったし、高額なステレオセットもあった。たまに毎月の食費が足りなくなって、子どもたちが大事に溜め込んでいたお年玉が徴収されることさえあったことを思い出せば、手周り不如意なことと、生活そのもののギャップはなかなかすごかった、と言える。

小遣いがもらえないことを納得していたわけではない。小遣いがないから、もちろん買い食いもできないし、そのことへの不満はあった。それだからちょこちょこと、親の財布から小銭をくすねるのである。それで買うのはせいぜい駄菓子に過ぎないのだけれど、たまに贅沢をして、バーガー屋のポテトフライの一番小さいのを買って、妹と一本ずつ数えながら食べたりもした。もちろんしまいにはバレてこっぴどく叱られる。ただ、そうしたことはこのくらいの年齢の子どもにはよくあることで、他の兄弟たちもしばしば同じことをやり、順繰りに叱られていた。年中行事みたいなものであった。

そんなふうだから、自分の子どもに小遣いをやることが、わたしはどうしても嫌だった。「働かざるもの食うべからず」と言われ、家事の手伝いをさんざんしてきたのに小遣いなど貰わなかった自分の気持ちとしては、必要だと言われれば出すけれど、毎月、サラリーマンのように子どもがお金をもらうのには、正当性が全くないと感じたのである。お金が欲しいなら盗みやがれ、わたしが黙って財布から金を自動的に出すと思うな。それがわたしの考えだったが、娘はわたしよりはるかに堅実なのであった。小学生の高学年ごろからメルカリに興味を持って調べ始め、中学生で取引用の銀行口座を作り、わたしの不用品を手に入れてはメルカリで販売して小銭を稼ぐようになった。その商売の元手となるわたしの不用品が、つまり彼女の「小遣い」というわけである。不用品はしばしば高額になることがあるし、転売はそれなりに稼げるものだ。あるときなど、人から100個以上の「おそ松さん」の缶バッチを譲っていただいたことがあって、娘はそれをちみちみと売り続けては日銭稼ぎをしていた。それだから、彼女の財布にはいつだって万札が入っており、無駄金は一切使わない。「だって万札がないと不安じゃない」と彼女は言う。実に堅実である。

やよい「クマさんと一緒にいるのもわるくないやよ。お金のこととか、いろいろ教えてくれるやよ」
わたし「何をクマから習ったの?」
やよい「ふわたり……」

「ともだちはいいもんだ」という歌がある。「友だちはいいもんだ 目と目でものが言えるんだ困った時は力を貸そう 遠慮はいらないいつでもどこでも 君を見てるよ 愛を心に君と歩こう」と、歌詞はだいたいこんな感じなのだが、うちのクマはこんなふうに歌う。

ともだちはいいもんだ
いつでもお金を貸せるんだ
困ったときはお金を貸そう
遠慮はいらない〜 ♪
いつでも〜どこでも〜トイチで貸すよ〜♪

トイチというのは、10日で1割の利子がつくということである。かなりの高利貸である。そうやって友達にいらぬ友情を押し付けたあげく、それを元手に高利貸をし、ケツ毛までむしってやろうというのだから、ひどい話である。

むかしの人は偉かった、と思う。わたしの祖父は友人の借金の保証人になってしまい、借金取りが家まで押しかけてくるようになってしまったので、雲隠れをしてしまった。仕方がないので祖母は一人で5人の子を育てながら和裁を教え、その借金をひとりで返しきった。しかし7、8年ほどトンズラしていた祖父がどこにいたのかと言えば、女のところにいたのである。それも、戦争未亡人という類の人だったらしくて、戦友の最期を報告に行った際に、境遇を憐んだか、わりない仲になったようで、そこに転がり込んでいたのだという。気骨のある祖母は、その女のところに、30万円を握りしめて乗り込んだ。この金で夫を返せというのである。詳しいやりとりがどうだったかは知らないが、祖母は夫を取り戻した。しかし30万円と言えば、現在の貨幣価値に換算すれば、軽く300万ほどの価値にはなろう。相手の女性にも生活があるだろう、働き手の男なしに暮らしていくのは辛かろう、そういった武士の情けだと言えよう。実に男らしい祖母であるが、確かに金は愛を断ち切るための道具なのだ。金で愛が買えるかどうかは知らないが、金は愛をチャラにできる、そういう事例はこの世に数多ある。

知り合いのピアニストが、ピアノの演奏を頼まれ、もらった謝礼の封筒にうっすらとした厚みがあった。「今日の報酬〜」とヒラヒラさせていいた彼女の封筒を、夜の仕事をしている別の女性が指先でぱっと挟んで、「んー、20万円」と瞬時に査定する。開けると、確かに20万円。封筒の厚みは、誠意の厚み。

娘が生まれてまだ半年だったころ、大病をして手術をし、1ヶ月あまり、入院したことがあった。乳幼児の入院には「付き添い入院」と言って、病室に簡易ベッドを持ち込んで、親族の女性が24時間、子どもの面倒をみるというシステムがあり、わたしも1ヶ月あまり、病院で子どもとともに暮らした。四人部屋だったので、親子合計8人が同じ部屋で眠る。大人の食事は出ないので子どもが落ち着いている隙を狙ってコンビニ飯を買いにゆき、急いで喉に流しこむ。風呂と言ってもシャワーで5分入れればいいところで、毎日入るほどの余裕はなかった。夜中には看護師の巡回もあり、術後の子どもは起きたり泣いたりが激しい。付き添いは心身ともに消耗する厳しい仕事だった。それなのに夫は、なぜか怪我をして、術後の子どもの面倒を見る手伝いにはほとんど来なかった。娘の病状を心配するあまり、自宅のトイレの扉に足の親指を挟み込み、爪を剥がす大きな怪我をしてしまったからである。本人も痛い思いをしているのだから、文句を言うわけにもいかないながら、心身の消耗の激しいわたしは、どうしても不機嫌になってしまう。ようやく病院に現れた夫に「もう肩がこっちゃって」と不満を漏らした。すると夫、財布からぺらりと一万円札を抜き出し、わたしの肩にそれをすっと置き、「これで癒される?」と尋ねた。「めっちゃ癒される〜!」と即答するわたし。このことを近隣の病室のママ友たちに話したら、「わたしの肩のコリもそれで癒されたい!」と大絶賛であった。あとで「なんであんなことしたん」と尋ねたら夫「いや……ぼくが下手な肩揉みをするとか、きっとそういうんじゃないかなって思って」とぼそぼそ言っていた。夫、大正解。

確かに、金で解決できることは金で解決するべきなのだ。世には金で解決できないことが山ほどあるのだから。

吾輩は苦手である 3

増井淳

 吾輩は音楽が苦手である。
 どうもニンゲンの世の中では、「音楽を聞く」というのが日常的なこととして推奨されているように思える。
 歩いていても走っていても車を運転していても、ともかくスキさえあれば音楽を聞いている人が多い。ほとんどの店がBGMを間断なく流している。演奏会なども毎日のようにどこかで開かれていて、そこにも多くの人が押し寄せている。
 しかし、吾輩はほとんど音楽を聞かない。イヤフォンも苦手なので、移動中に音楽を聞くことはない。
 音楽は苦手であるが、嫌いというわけではない。
 たまにはソファーに寝転んでCDを聞いたりもするのだが、どうも音楽というのがしっくりこない。
 小学校低学年のころ、かんたんなノドの手術を受けた。そのせいか声変わりをするまでずっとかすれ声だった。「大声を出さないように」と病院で注意もされたので、音楽の授業中は小さな声でしか歌わなかった。楽器も苦手だったので、授業をたのしいと思ったことはなく、音楽の成績はずっと最低だった。
 ノドが弱いせいか、演奏会の会場などのように空調の効いた密室にいると咳が止まらなくなる。よって演奏会などにもほとんど出かけない。もっとも、渡辺裕『聴衆の誕生』(春秋社)によると「十八世紀の演奏会ではむしろ聴衆がおとなしく聴いていないのがあたりまえだった」そうだし、会場に犬を連れてきたり、場内で煙草を吸ったりもしていたという。その時代に生まれていれば、少しは音楽とのつきあい方も変わっていたかもしれない。

 音楽は苦手だが、生きていると思わぬことが起こる。高校生の頃、突然、ギターが好きになりずいぶんと練習もした。ギターの音色は今でも好きだし、時々はギターを弾きたいと思う。
 その後、男声合唱団に入った。学校の授業で落ちこぼれていたので、その時、芥川也寸志の『音楽の基礎』(岩波新書)や「楽典」などで勉強し直した。吾輩の声がハーモニーの中に調和すると、得も言われぬ快感がある。合唱がたのしくて、しばらく夢中になったが、それ以外のことがおろそかになり、結局、合唱はやめてしまった。
 ところが、出版社で働きだして最初に編集したのは田川律『ぼくの時代、ぼくらの歌』という本で、これは音楽の本である。この本がきっかけでしばらくは田川さんが関わっていたコンサートにも出入りするようになった。まったく人生、何が起こるかわからない。
 さらに、中年になって混声合唱団に入ってしまった(いやはや)。その時もしばし合唱に夢中になり、声楽の個人レッスンも受けた。『コールユーブンゲン』や『イタリア古典歌曲集』などで練習した。楽器ができないので楽譜作成ソフトに音符を打ち込んで「音取り」もしていた。
 合唱練習を繰り返していると、「正しい音」というのがわからなくなってきた。たとえば意識して「ド」の音を出しても、「正しいドの音」より吾輩の声は少し低めに響くというのだ。その低めの「ド」を少し高くするのが吾輩には上手くできなかったし、今もできない。
 話はそれるが、合唱をやっていたころ、何度かプロの演奏家に接する機会があった。そういった時、大方の人は演奏家を「先生」と呼んでいたのだが、吾輩はプロというだけで人を先生と呼ぶのはいかがなものかと考える。先生というのはやはりそれなりの人格がある人のことを言うものではないのか。演奏家のプロフィールに「◯◯氏に師事」とかやたらと書いてあるが、あれも腑に落ちない。これは音楽の世界だけのことではないだろうが、吾輩の経験したなかでは音楽の世界での「先生」の乱発は、いかがなものかと思われたことの一つである。

 結局、音楽との長いつきあいでわかったことは、吾輩には「音感・リズム感がない」ということだ。
 たとえば、楽譜を初見で歌うという機会が何度かあったが、音感のない吾輩には初見で楽譜どおりの音を出すことは不可能なこと。それは、鉄棒の「逆上がり」ができない子どもに向かって「月面宙返り」を要求するようなものだ。
 こういった音楽に対する絶望的な思いを何度か経験すると、音楽がない生活に慣れてしまう。むしろ、音楽がない生活こそ、しずかでおだやかなものに思えてくる。
 たとえば、テレビでメジャーリーグの試合と日本のプロ野球の試合を観戦するのだが、メジャーの球場では応援の際に楽器などを演奏することはあまりない。ところが、日本では楽器やら声援が試合が終わるまで鳴り止まない。日本の試合では打球の音や選手や球審の声はほとんど聞き取れない。これでは応援なのか騒音なのかわからない。
 音楽がなくとも、耳をすませば日常にはさまざまな音があふれている。人の話し声、猫の鳴き声、鳥や虫の音、風や雨の音、車の音などなど、さまざまな音が聞こえる。
 そもそもほとんどの生き物は、音楽なしで生きているではないか。
 吾輩の家の猫など、ほんの小さな物音にも敏感に反応するから、ニンゲンの方もできるだけしずかに暮らすよう気をつける。それがだんだんと日常化し、音楽なしに慣れてしまった。こういった生活こそ、生き物としてはまっとうな道ではないかと吾輩は確信する次第である。
 そうはいっても、ときどき、風呂の中で歌を歌ったりはするのだがね。

ベイルート(大量)殺人事件

さとうまき

今年の6月、僕はベイルートにいた。イスタンブールでお金を盗まれてしまい、当初予定していたシリアへ行くお金が無くなり、さてどうしたものか、パレスチナが気になっていたが、帰りのチケットの関係でとりあえずは、レバノンに数日滞在することになったのだった。今回の旅の目的の一つは、アラブの人たちがいかにパレスチナに連帯しているかを見てくることだった。トルコでは金を盗まれ、僕がそれどころではなかったし、イラクでは、出会う若者は、パレスチナの話はあまりどちらでもよくてアニメの話をしてきた。レバノンはさすがに違うだろうと期待する。

予約していたホテルに朝6時に到着したのだが、夜の10時から翌朝10時まで電気がないという。西ベイルートのハムラ通りは、言ってみれば新宿のような繁華街なのに、ほとんど電気が来ないというのである。レバノンは数年前から財政破綻していてホテルですら燃料が買えずに自家発電ができないところがたくさんあるという。コンピュータが動かないからチェックインできないというのでロビーで仮眠して時間をつぶす。気が付くと10時になったのでTVのスイッチが入ってニュースが流れていた。レバノン南部では毎日のようにイスラエル軍とヒズボッラーが交戦している。

ベイルートは今のところ平穏だが今後どうなるかわからないという緊張感で、ホテルの従業員もニュースに見入っている。
「さあ、チェックインするの?しないの?」フロントの女性はてきぱきとした英語で聞いてくる。
「夜、電気が来ないんですよね」
「そうよ、夜は寝てればいいわよ」
「僕は、夜行性なんで、いろいろ仕事したいし」
「早く決めて頂戴」とせかされる。

僕は、結構体力的にも、何よりもイスタンブールでお金を盗まれた精神的なショックから、これからホテルを探す気にもなれなかったが、電気がないともっと落ち込みそうだったので、できるだけ停電時間の少ないホテルに移動することにした。実際10時を過ぎると街中は真っ暗だった。ホテルのオーナーは、いかにヒズボラが素晴らしいかを説明してくれた。「俺は、暴力で問題を解決することは、反対だが、レバノンを守らなければならない、ヒズボッラーの党員でも、支持しているわけでもないが、イスラエルが攻めてきたら一緒に戦う」戦争が激化することを恐れていた。

何とか気力で、知り合いの日本人と会ったり、シリア難民を訪問したりした。そしてベイルートに来ると必ず、シャティーラパレスチナ難民キャンプを訪れる。昨年10月から始まったイスラエルのガザ攻撃に怒りの声を上げるパレスチナ人たちの様子も見たかったのだ。パレスチナに行けない分、難民たちとともに連帯したい。訪問するたびに、パレスチナ人の置かれている状況はひどくなっている。レバノン経済が悪いから当然なのかもしれない。パレスチナ難民はレバノンでは冷遇されていて、仕事にも就けない。キャンプのインフラは最悪だ。ガザはイスラエルの占領にパレスチナ人は苦しんでいる。レバノンのパレスチナ難民は、レバノン政府の弾圧、差別政策に苦しんでいる。最も、レバノン政府にしてみれば、勝手にやってきた難民を保護する義務もないというわけだ。レバノンは難民条約に批准してないのだから。

キャンプ内を歩くと、ごみがあふれていた。おなかをすかせた牛が2頭と羊が数匹ゴミ捨て場でものすごい勢いでごみをあさっている。悪臭が漂い、狭い路地裏に人々があふれながら何とか生きているのだった。世界は、あたかも、パレスチナ人はガザや西岸だけだと思っている。レバノンのパレスチナ難民には誰も関心を持とうとせず、見捨てられてしまっていた。レバノンのパレスチナ難民たちは、自分たちのことで精いっぱいで、デモに行く元気すらないように見えた。

まもなく一年になろうとするガザ戦争。ハマスに連れ去られた人質の解放の交渉は遅々として進まず、ネタニヤフ政権に反対するイスラエル市民たち50万人が先日デモやストに参加した。ネタニヤフはそれでも戦いをやめようとしない。最近はハマスと共闘するヒズボラを壊滅させると言い出し、レバノンを攻撃しだした。

9月17日には、ヒズボラが使うポケベルが一斉に爆発し12名が死亡2800人近くが負傷した。イスラエルが5000のポケベルに爆弾を仕掛けたとされている。ヒズボラは、イスラエルに居場所を特定されないように、携帯電話の使用をやめてポケベルで連絡を取り合うようになったという。イスラエルは、そのことを知りハンガリーにBAC社という会社を登記し、台湾のゴールドアポロ社からライセンスを取ってこのポケベルを製造し、レバノンのヒズボラへ売りつけた。ヒズボラ幹部からの発信を装って一斉に端末を爆破させたというのである。

ハンガリー政府によると、BAC社は、国内に製造拠点を一切持たないと発表しており、このポケベルが一体どこで製造されてレバノンに運ばれたのかは謎である。18日には今度はトランシーバーが一斉に爆発し、20名が亡くなり450名がケガをしたという。トランシーバーは日本の会社、アイコム社製でmade in Japan と書かれていたそうだ。しかし、アイコム社によるとすでにこのタイプのトランシーバーは10年前に製造中止しているらしく、これまたイスラエルの偽造品である可能性が高い。

ヒズボラは、イスラエルに報復を行うと息巻いてみたものの、何もさせてもらえず、9月27日には、ヒズボラの党首、ナスララ師が、いとも簡単に暗殺されてしまった。ネタニヤフの人気は再び上がり始めた。ぞっとした。

しもた屋之噺(272 )

杉山洋一

仕事帰り、ふと道端に目をやると、見事な黄金色をした猫じゃらしの叢が静かに月光を浴びていて、秋の訪れに気がつきます。このところ、日本の春夏秋冬が薄れかけていると思い込んでいて、秋などどこかへ消えてしまった積りでいましたから、なんだかすっかり嬉しくなってしまいました。

9月某日 三軒茶屋自宅
母と連立って墓参。湯河原、小田原、茅ケ崎、横須賀、久里浜と訪ねる、文字通り目まぐるしい一日であった。
豪雨の影響で昨日まで運休していた小田急線の秦野あたりを通ると、復旧工事に使った分の残りなのか、線路沿いに土嚢が積まれていた。
車窓には、雲一つなく澄み渡った空のすぐ下に美しい富士山が浮かび上がり、母はそれを写真に撮ろうと何度か携帯電話を向けてシャッターチャンスを狙っていたが、結局あきらめた。新松田を過ぎて間もなく、酒匂川の鉄橋から写真を撮ろうとしていたから、てっきり松崎の実家を撮るつもりかと勘違いしていたが、母の横顔がどこかすっきりして見えたのは、朝らしいつんとした空気と美しい秋の青空のせいだろうか。
湯河原の駅をおりて英潮院に向かう途中、ちょうど出がけの叔父さんの顔をみることが出来た。暫く会っていなかったが頗る元気そうで嬉しい。茅ケ崎の寿司でさっと昼食を摂った折、母は初めてのヒゲソリ鯛の握りに舌鼓を打っていた。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻って早速市立音楽院入学試験。新入学した中国出身の妙齢は以前ウクライナのキエフ音大で合唱指揮を学び、イタリアに引っ越して6カ月になるという。「わたしは何某を勉強してまいりました。これからイタリアでぜひ指揮の研鑽を積んでゆきたいです」といったメッセージをイタリア語に訳し、プリントしたものを我々の目の前で読んでくれて、初々しいと微笑ましく眺めていると、一人の同僚が、彼女のようにただ音楽だけやりに来ている中国人を見るたび、自分は思わずスパイかと疑いたくなるというのでびっくりする。
尤もたとえ彼女がスパイだったとしても、こちらは特に有益な情報の提供もできないので実質関係がない。常日頃人種差別など激しく抗議する同僚が、そんなことを想像しているとは考えも及ばず、衝撃を受けた。

9月某日 ヴィヴェローネ 民宿・聖アントニオ・アバーテ
ロッポロでのマスターコース1日目。息子が弦楽器を振るのは初めで、難しくてトラウマになるかと内心穏やかではなかったが、本人はすっかり楽しんでいるようで安堵する。息子は別の村の民宿で他の学生たちと相部屋生活。彼にとってはよい経験になるだろう。ドヴォルザークは想像通り遅くなったが、ストラヴィンスキーは悪くなかったと思う。
思い返せば、「ニ調の協奏曲」は若い頃、仲間たちと演奏会で演奏した最初の曲だった。あの頃トップを弾いていた高橋比佐子も、その隣に座っていた鈴木まどかも、今頃はあちらで仲良く四方山話に花を咲かせていると信じたい。
「杉山氏ったら自分の子供にまでストラヴィンスキーやらしているわよ」と比佐子がケタケタ笑うと、まどかが「いやあねえ」と笑い返すさまが目に浮かぶ。二人はとても仲がよかった。

9月某日 ヴィヴェローネ 民宿・聖アントニオ・アバーテ
ロッポロの隣村、ヴィヴェローネの旅館にて。
朝は台所で自らコーヒーを淹れ、冷蔵庫からチーズと果物を出して、美味しいハチミツとトーストと一緒にいただく。朝食を摂っていると、フランスからの巡礼客夫婦が食堂に入ってきて、どことなくはにかみながら「昨晩わたしたち、うるさくありませんでしたか」と言われ、妙な心地。
リハーサル前にロッポロ城まで散歩がてら歩く。軽い山道で30分ほど。練習三日目だからか最終日だからか、どこかオーケストラは神経質になっている。毎日朝から晩まで馴れない学生の相手をしていれば困憊するのも当然だ。
午後、全てのリハーサル後のミーティングで、「ヴィオラとヴァイオリンの二人がとても愛想悪くて耐えられない」とアンドレアが滔々と不平をこぼす。城の眺望台に立つと、眼下にはヴィヴェローネ湖が広がり、その奥に薄い刃のようにそそり立つアオスタの稜線が、奇観となってアルプスの果てまで続く。耀く夕日が湖の水面すべてを金色に染め上げていた。
ギター奏者では名うてのアンドレアだから、若い演奏家の視線に神経質になっていたのか。ガブリエレは未だオーケストラの圧迫感に慄くばかりで、足を踏み出す勇気が出ないようにみえる。彼らに交って参加している息子も、神妙な顔つきで会話に加わる。息子は、普段から父親に対して疑問に思っていることを、ここぞとばかりに色々聞きだしたいようであった。何故指揮を始めたのか、最初の演奏会で振った曲はなにか、他愛もないが答えに窮する質問が続く。

9月某日 ミラノ自宅
昼食のため、旅館にほど近いパン屋で、地元のチーズを挟んだ小さなサンドウィッチを作ってもらう。家人にはピエモンテのサラミを、こちらは地元ボー産トマ・チーズを自家製のパンに挟んでもらった。素朴ながら実に美味で端正な味がする。小さなサンドウィッチ4つとヨーグルト2個で6ユーロ。ミラノならどんなに安くとも10ユーロはするところだ。このパン屋なら、美味しいフォカッチャやピザがあると聞いて出かけたのだが時既に遅し、全て売切れていた。恰幅の良い中年の婦人が一人切り盛りしていて、実に愛想がよい。
夜の演奏会が開かれた教会は、詰めかけた聴衆で一杯。アンドレアもガブリエレもそれぞれの問題を解決し、見事な演奏をしてくれたし、南イタリアの最果てレッチェからやってきたジュゼッペが演奏したグリーグは、心に響く歌があった。息子は特にドヴォルザーク後半、なかなかエスプレッシーヴォに歌わせながら美しく熱い音を引きだしていて愕く。この経験はピアノを弾く上でも役立つに違いない。
田中信昭先生の訃報。「たまをぎ」や「おでこのこいつ」だけでなく、先生のレコードやエアチェックしたカセットテープを、どれだけ聴いたかわからない。その度に躍動感溢れる音楽にいつも満たされた。我々は、高校大学と先生から合唱を教えていただいた世代で、当時、学校は贅沢過ぎるほどの環境であった。先生はお洒落でダンディで、いつも早足で歩いていらした。
先生から初めて曲を頼まれたとき、緊張してどうしてよいか分からなかった。阪神淡路大震災の燃え盛る映像をみながら、自分に作曲なんかできるのかと茫然としていた。あれはイタリアに住み始める直前で、引き剥がした自らの裡の一部を日本に残してゆきながらイタリアに住み始めた。あの日本に置き去りにした自分の欠片は、あれからどうなったのだろう。
ずいぶん時間が過ぎて、多治見の合唱団で先生が「たまねぎの子守唄」を振ってくださったとき、先生が紡ぎ出す生命感に、圧倒され涙がこぼれた。自分の曲を聴いて泣いたことは初めてで、自分の裡の音楽に対するわだかまりがカタルシスとともに溶けていったような気もする。水牛を読み返すと2006年10月の日記だったから、息子はまだ1歳たらず、「味とめ」で悠治さんや美恵さんに抱いてもらっていたころだ。

しもた屋之噺(59)


それほどに感動した演奏を生みだした信昭先生のエネルギーに何も触れていないのは、演奏が素晴らしくて、詩人の世界で頭が一杯になっていた自分の若さゆえには違いない。若い頃は、何によって自分が生かされているのか、自分を生かしてくれているのか、気がつかない。先生のひたむきな音楽への喜びと愛を思い出しながら、そんなことを思う。当時は子供が生まれたばかりで、無事に育ってほしいと願ってやまなかったから、人生で最も人間を信じたい、信じられるようになりたいと渇望していた頃ではなかったか。先生から頼まれた「光の子」と「たまねぎの子守唄」を通して見えてきた何か、感じられるようになった何かを大切にして、今日まで生きてきたことに気づく。それこそが田中先生が下さった最高の贈り物だと今になって知る。深圳で男児が刺され、翌日の報道で亡くなったとの報道。息子も以前ミラノの日本人学校に通っていた。

9月某日 三軒茶屋自宅
最近、時差がとても身体に堪える。昨晩は結局11時くらいに家に着き、軽く夜食を作って食べて、朝の4時に起きて日本行の荷造りを始めた。ローマ空港に着いて、乗り換えの順路に沿って暫く歩くと、まもなく手荷物検査場に着いてしまった。係員に羽田行きのチケットを見せ、手荷物を検査して順路を進むと、パスポートコントロールもなく、気が付けばヨーロッパ圏外便ターミナルに足を踏みいれていた。狐につままれた心地でラウンジに入り、「すみません、ミラノから来たのですが、昨夜殆ど寝ていないせいか寝ぼけていて、ここに来る折、パスポートコントロールを通ってきた記憶がないんです、大丈夫ですかね」と告白すると、入口の係員に「あら、イタリア語お上手ですねえ、でもパスポートコントロールは当然通っているはずですよ」と一笑に附されてしまった。ところが、続いてやってきた同じミラノ便の乗客が、今日はパスポートコントロールがなかった、手荷物検査場の係員の妙齢がまったく埒が明かない、クレームをつけてきたよというので、受付の女性たちは青ざめてしまった。
早速こちらのパスポートをチェックしたところ、確かにどこにもイタリア出国のスタンプが見当たらない。続いてやってきた別のミラノ便客も、同じ苦情を呈した。どうやら順路の動線を空港職員が間違えたらしい。結局、ミラノ便利用客は集められて、近くの出口から一旦外にでて、改めて出国手続きをすることになる。そうでないと飛行機に乗せてもらえない危険もあったらしい。あなたが気が付いてくださらなかったら、とんでもないことになっていた、と受付の妙齢から神妙な面持ちで感謝される。

9月某日 三軒茶屋自宅
羽田から自宅に着いてシャワーを浴び、自転車で桜新町の練習場へ向かう。時差ボケで身体全体が怠い。エルザに収斂する事象のベクトルを、広い空間で発散できるようにしたいと思いつつ、悠治さんの家の前を通りすぎる。
フレーズの感覚を視覚的に把握すること。一見並列する事象を少し俯瞰してみるだけで、方向性とフレーズが見えてくる。上方から楽譜を眺めれば、思いの外古典的な形式美も浮かび上がり、はっとさせられる。今日、橋本さんと一緒にやった練習風景の録音が送られてきて、音そのものが宿す色や匂いや響き、距離、感情、機敏、空気感から湿度に至るまで、より鮮やかに実感できる。とても細やかに作りこんであって、作品への理解、心に映る光景の豊かさ、それを声にできる能力の高さに舌を巻く。
能登で改めて豪雨被害。イスラエル、ヨルダン川西岸アルジャズィーラ放送局をイスラエルが45日間閉鎖。ロシア空軍機、日本領海を3回にわたり侵犯、航空自衛隊フレアによる警告。世界は、人間はどうしてこうも不公平なのか。毎日、能登の豪雨や世界の諍いの報道を目にするたび、自らの無力を恨めしく思う。
先日、送られてきた般若さんと辻さんの演奏を聴いて、自分の悔恨が吸い込まれてゆく気がした。尤も、どんな心地で曲を書こうとも、失われた命が戻るわけでも、流された家屋や破壊された病院が戻るわけはない。自分にできるのはその程度でしかない、と諦観と共に受け入れるしかない。水平線の彼方で微かに蓋が開いてみえるあれが、パンドラの箱か。

9月某日 三軒茶屋自宅
市村さんよりメールが来て、ギターの藤元さんからの質問が届く。丁度こちらもシャリーノのギターパートの記譜法が理解できず困っていたので、ピサーティに電話をする。彼はシャリーノ弟子でシャリーノのハープ曲をギターに編曲もしているから、信頼できる。ピサーティ曰く、シャリーノのギター記譜法は誰もが理解に苦労するらしく、ローマ数字はヴァイオリン族の記譜と同じく弦番号を示し、丸の付いたハーモニクスは通常の自然ハーモニクスで1オクターブ下が鳴るが、菱形のハーモニクスは、ヴァイオリン族の記譜と違い、実音がそのまま菱形ハーモニクスで記譜されているそうだ。指定された弦でそのハーモニクスが鳴らなければ、弦を変えるか人工ハーモニクスにして、要はその音が出ればよいらしい。彼が学生だった頃、ミラノ・スカラ座の「ローエングリン」初演を見た衝撃は忘れられないという。シャリーノの作品の中でも特に傑出していると思うし、その後もシャリーノはオペラを沢山書いたけれど、ローエングリンは別格の美しさだという。エルザ役を歌ったバルトロメイは勿論のこと、ピサーティには3人の男声が特に鮮烈な印象を残したそうだ。彼ら3人がエルザをより錯乱した世界の深部へと誘うのだから当然だろう。
町田の両親宅にて夕食。コンニャクの味噌田楽と秋刀魚の塩焼き。味噌田楽は、子供の頃、湯河原の祖父が夏開いていた海の家でよく食べた懐かしい味で、同じ味がした。当時あの味噌だれを作っていたのは誰か尋ねると、他でもない父自身だった。ガブリエレよりトリエステ国立音楽院に無事入学とのメッセージ。これが彼の自尊心と自信を取り戻す切っ掛けになってほしい。袴田巌さん無罪判決。イスラエルによるヒズボラへの攻撃で、レバノンでは270人以上死亡との報道。

9月某日 三軒茶屋自宅
大ホールの舞台にたった一人立つ感想を聞かれた橋本さんが、実に明るく「楽しいです」というので、一同感嘆。われわれと演奏している時、演技する時のように没我しそうになるのを、必死に堪えるんです、と笑った。
自分はどうしてもシャリーノが意図した音楽をやりたいんです、と語る橋本さんの言葉に、車座になった我々全員が強く心を揺すぶられる。静かな言葉だったが決然としていて、一語一語我々の臓腑に沁みるようでもあり、決然の強度に思わず圧倒されて、帰宅しながら喉がからからになっているのに気づく。
シャリーノの音楽を聴きにきた人に、喜んでもらえる仕事をしたい、真剣な眼差しでそう語っていて、この人は本当に音楽をやりたいのだろうとおもう。これだけ音楽的感性に長けていて、今まで音楽と本当に無縁だったなら、これも不思議だね、と矢野君と話していた。音楽を通しての会話、沈黙の深度、時間軸の速度の知覚には驚くほどの感性だとおもう。楽器を弾けるだけが音楽家ではないとは分かっているが、こういう現実を目の当たりにすると、音楽をする尺度そのものを考え直す必要もあるかもしれない。彼女がこれだけ真摯に取り組んでいる音楽に対して、我々はどう応えられるのか。一期一会というのか、こうして別の視点から自分の仕事を見つめ直すとても倖せな機会を一柳さんに頂いた。彼はやはり只者ではない。

9月某日 三軒茶屋自宅
昨日は立稽古の動きを最後まで定着してから、全体の通し。今日は矢野君に振ってもらって県民ホール3階席から舞台の橋本さんとやりとりをしながらリハーサル。広い空間でも、演者の意識が客体化され言葉から意識的に感情を切り離すだけで、橋本さんの言葉の音が際立ってくる。面白いものだね、隣に座っている山根さんと菊地さんの顔が思わずほころぶ。
シャリーノのローエングリン初演をしたガブリエルラ・バルトロメイの「未来派音楽」。バルトロメイ自身が作曲したイタリア未来派のマリネッティやボッチョーニをテーマにした一連の作品群らしいが、解説がないので詳細がわからない。リコルディから出ている「ローエングリン」CDの印象が強くて、デイジー・ルミーニが初演したと錯覚していたのを、スカラ座での「ローエングリン」第1稿初演に立ち会っていたピサーティと電話で話して、あれはルミーニじゃないよ、バルトロメイだよ、と言われて気が付いた。
バルトロメイは、ブソッティやダニエル・ロンバルディなど、前衛のなかでも特にダダイズムとか少し奇矯な現代音楽との即興などを多く手掛けた女優で、フィレンツェの国立音楽院で声楽と舞台演技の研鑽を積んだ後、前衛音楽や前衛演劇の分野で活躍したようだ。音楽院で声楽を学んだのに楽譜が読めないというのが不思議だが、当時スカラのローエングリンでコレぺティトゥアをやっていた作曲のガブリエレ・マンカと話したところ、ガブリエレはローエングリンのスコアを適当にピアノで弾いて稽古をつけたが、バルトロメイは楽譜が読めなかったので、ネウマ譜のような特別な楽譜で勉強したという。楽譜が読めなかったのは本当らしい。そのためか彼女は何でも暗譜でやっていた。
スカラ座のアーカイブには初稿スカラ座初演時の写真や詳細な記録が載っていて、一人でエルザとローエングリンを歌うバルトロメイの他、エルザ役、ローエングリン役の黙役俳優が一人ずつ、そのほか3人の男声合唱とパントマイムの黙役6人も舞台に上がったようだ。この公演は現在も続くミラノ・ムジカ音楽祭の一環だった。
シャリーノはあまり気に入らなかったそうだが、スカラ座アーカイブの写真でみるピエルルイジ・ピエルアッリの演出は実に端麗である。マンカもピエルアッリの演出を絶賛していた。吉開さんと山崎さんが築いた舞台は、このピエラッリと双璧をなすような息を呑む美しさで、隅々まで触覚的に研ぎ澄まされている。
劇場用に書かれた初版の演奏は、シャリーノが淡々と指揮して曲を進める一方、その流れにそってアシスタントたちがバルトロメイや他の出演者にキューを出して進めていたようである。バルトロメイのパートも、現在流通している第2稿よりずっと大雑把で定着度の低いものだったに違いない。
現在の第2稿は、後にラジオドラマ用に大きく作り直されたもので、エルザ役もバルトロメイからピアノも歌も学んだマルチ・シンガーソングライター、デイジー・ルミーニに変更されたから、エルザのパートも、以前に比べずっと緻密に書き込まれたに違いない。マンカ曰く、初演ではシャリーノの振るテンポがいつも違うので、演奏者は大層困ったそうである。イスラエルの爆撃によりヒズボラのナスララ師が死亡。

9月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラ・リハーサル初日。想像していた通り、「瓦礫のある風景」の演奏は非常に困難。とは言え、特に優れた演奏者が集まっているから、次第に浮き上がってくる光景の鮮明さと恐ろしさに、ふと言葉を失いそうになるほどだ。シャリーノはウクライナ侵攻への抗議をこの曲に込めたが、ロシアのウクライナ4州併合宣言から今日で2年になる。
橋本さんとオーケストラとの顔合わせでは、不思議なくらい違和感を覚えなかった。ごく自然に演奏に溶け込み、何の問題もなく進んでゆく。最初の休憩に入るとき、成田君が「いや、橋本さん凄い…」と絶句していたのが印象的だった。「想像できなかったでしょ」と言うと「いやあ、それを遥かに超えていました」と大きくかぶりを振った。
練習が終わると、彼女はオーケストラ全員から拍手喝采を浴びていて、皆から仲間として温かく受け容れられているのがよく分かった。目の前に並ぶ錚々たる演奏者たちから彼女がソリストとして讃えられている姿は感慨無量であった。
県民ホールでのリハーサルを終え家路に着こうと携帯電話を手に取ると、シャリーノからメッセージが入っていて、日本の調子はどう、と書かれていた。

(9月30日 三軒茶屋にて)

追悼 佐々涼子さん

若松恵子

ノンフィクション作家の佐々涼子さんが9月1日に亡くなった。
仕事から帰ってつけたNHKニュースで、丁度、そのページだけ切り取って差し出されたように、彼女の訃報を知った。カマラ・ハリスの笑顔を見るたびに佐々さんを思い出す、私には、そんな印象の彼女だった。

2008年、新井敏記氏が講師を務める「クリエイティブ・ライティング講座」で、私は佐々さんと同級生だった。旅、文学、音楽、写真と新井氏が取り上げるテーマや人に魅力を感じ、雑誌『SWITCH』や『Coyote』のファンである受講生が集まった。事前に提出する作文によって選考されるとの事だったが、誰ひとり落とせないという新井氏の判断で、希望した44人全員が受講できる事になったのだった。講座は2008年6月から10月までの全3回。会場は、西麻布にあるスイッチ本社の地下「Rainy Day Bookstore & café」だった。

オリエンテーションで、受講動機を書いた応募原稿を全員がみんなの前で朗読した。44人の言葉に耳を傾ける時間は予想をはるかに超えて、入り口のドアから差し込む光は夕暮れとなり、夜になり、夕ご飯も食べないままさらに深まって行った。受講生それぞれの思いを割愛せずに聞く、その日の体験の驚きが受講生にも主宰する新井さんにもあったのだと思う。

講座は、文章の書き方を新井さんに習うというよりも、書こうと意志する人どうし、学び合うスタイルになった。書いたものも、それを読む声にも、受講生の強い個性が表れていた。朗読された作品が心に残る書き手が何人かいて、佐々さんもその1人だった。佐々さんにとっては、その後ノンフィクションライターになっていく前夜の、まだ何者でもない時代、不安もあるけれど、これから何者かになっていこうとする、言い換えれば何者にもなれる自由に満ちていた、そんな時期だったのではないかと思う。

「クリエイティブ・ライティング講座」に来ているのだから、文章を書くことを仕事にしたい、それで身を立てたいという思いをみんな胸に秘めていたと思うし、既に新聞社や出版社で仕事をしている人たちも、自分だけに書ける作品を書きたいという意志を持っていたと思う。はっきり宣言できないそんな思いを共有していることが、受講生同士を結び付けていったように思う。

新井さんも含めた受講生のメーリングリストが作られ、講座の時間を伴走した。終了する時に新井さんが「メーリングリストは焚火だった」と言っていたけれど、入れ替わり立ち代わりやってきては、焚火のあたたかな火に手をかざしながら語り合う、そんなやりとりだった。誰かが投げ入れた薪に、炎が高く上がることもあって、はらはらしたり、ドキドキしたりした。言葉によって自分を伝え、言葉によってつながりを深めていった。

メーリングリストがきっかけとなって、片岡義男、沢木耕太郎を招いての特別講座や柴田元幸の朗読会が企画された。片岡講座の内容をまとめる小冊子をつくろうと、ある日の食事会で私に囁いたのは佐々さんだったし、沢木耕太郎に会った感激に一緒に座り込んでいたのも佐々さんだった。梅雨の前に始まった「クリエイティブ・ライティング講座」は、夏を経て秋を過ごし、クリスマスの頃に終わった。

私の人生の年表に、旗が立っている年があるとしたら、2008年は間違いなくそんな年だ。2008年からそれぞれ歩んだ佐々さんと私の道は、生と死という岐路まで来てしまった。彼女のように、命を削るように書いては来なかったという思いが胸をよぎる。しかし、そんな言い訳をしてはいけないとも思うのだ。

『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』開高健ノンフィクション賞(2012年11月/集英社)、『エンド・オブ・ライフ』本屋大賞(2020年2月/集英社インターナショナル)、『夜明けを待つ』(2023年11月/集英社インターナショナル)。佐々さんの渾身の作品が私の本棚に並んでいる。クリエイティブ・ライティング講座の後に彼女が経験した世界は大きく、多彩なものだったと思うけれど、彼女と共有した、まだ何者でもなかった時代、あの輝くような半年間の思い出を書いておきたいと思った。

本小屋から(11)

福島亮

 河原で本を読むのは良いことだ。やさしい日の光のもとで印刷された文字を読むと、いつまで読んでいても目が疲れない。風に吹かれながら頁を繰るのも気持ちが良い。パリにいた頃は、街を歩いていると、よくセーヌ川の岸辺に座って本を読んでいるひとを見かけた。地下鉄のなかでもスマートフォンをいじるひとより本を読んでいるひとの方が多かったような気がする(電話をしているひとも多いけれど)。ただ、今年の夏は、あまり河原に行かなかった。本小屋の近くには多摩川が流れているから、夕方気が向いたら、その時読んでいる本を無印のトートバックに入れて河原に行き、熱いコンクリートの上に腰を下ろして読書をすることができる。でも、8月、9月と、窓の外の暮れなずむ空に目をやり、いま外で読書したらさぞ気持ちがいいだろうなともたもたしているうちに暗くなってしまって、今日はお預け、ということが続いた。今度こそ、と思っていたが、気がついたら秋になっていた。

 本を読みながら、どうしてこれまで会ったことがなかったのだろうと思うひとがいる。著者の趣味や行動範囲、登場するいくつかの固有名詞などを勘案すると、どこかの機会ですれ違っていてもおかしくないのに、最後の最後まで会えなかったひと。今年のはじめに亡くなった榎本櫻湖さんは私にとってそういうひとで、9月16日に行われた追悼イベント「サクラコの会」に参加し、「ここにいるひとたちは、みんな詩人なんだ……」と完全なおのぼりさん気分でビールを飲みながら、どうして会ったことのないひとの追悼を私はしているんだろう、どうして会えなかったのだろう、と会のあいだじゅうずっと思っていた。

 一週間に一度豪徳寺駅を使うので、時々少し足を伸ばして、詩の本屋、七月堂に行く。あれはまだ夏の盛りだったが、平積みにされていた榎本さんの詩集『Lontano』(2018年)を購入した。切り詰められた言葉が、ラジオメーターの薄い羽根のように不思議な運動を繰り広げており、晦渋な語彙の選択や黒々とした漢字の使用はここでもみられるけれど、全体としての印象はずっと淡い。やわらかくくすんだ陽光が小窓からさす古い図書館や、真夜中の空に刻まれた星辰図を切り裂いて流れる火球のイメージ。たとえ具体的な言葉として書かれていなくとも、私は榎本さんの詩の向こうにそのような熱さと冷たさの間の静かな何かを感じてしまう。そんな静けさを言葉の繁茂のなかから垣間見せることのできるひとと、一度会ってみたかった。

 鞄のなかに薄い詩集を一冊入れておくのは良いことだ。歩いていれば、時に静かな河原に出ることがあるだろう。その時そっと取り出して読むための詩集を一冊持ち歩くのである。しばらくの間、その一冊は榎本さんの詩集になると思う。

「わたしたち」を失くすこと

新井卓

 大多数性/マジョリティ性というのは、おおよそ獲得するものではなく、大多数に属する人々が生まれつき持っているものだ。元から持っているものに能力とか努力は必要ない。いっぽう少数性/マイノリティ性は、もちろん生まれつきの場合もあれば、人生の旅の過程で獲得される場合もある。そしてマイノリティには生きのびるための能力と努力が──それは日常の営みに標準化され、外側からも内側からもはっきりとは見えない──求められるのだろう。

 川崎からベルリンに移って一年が経とうとしている。話すとき、ものを書くとき、一つの主語を使わなくなったことに気づいた。それは「わたしたち」という主語だ。自分がマジョリティに属する国を去り移民になることは、「わたしたち」の一部だったわたしを、移住先の国から見れば「彼/彼女ら」の範疇へ移しかえることを意味する。だから、「わたしたち」は消え「わたし」だけが残った、というわけ。

 そして、ベルリンには同じような人がたくさん暮らしていて、無数の「わたし」がひしめき、きらめき、くたびれながら、朝の地下鉄や自転車用レーンを行き交っているのだということが、次第にわかってきた。そのような「わたし」たちの多くは、なんらかのコミュニティに属することで「わたしたち」という主語を取り戻すことにそれほど積極的でないように見える(なかでも積極的なのはLGBTQ+コミュニティだが、LGBTQ+当事者だからといってコミュニティに属しているとは限らない)。ある夜、何かの集まりで初めて出会った人と恐いくらいに意気投合し、もしや前世で生き別れた友ではないか、と互いに感じたとしても、夜が明ければ二人とも「わたし」に戻ってなぜかさっぱりした気持ちになり、半年も音沙汰なし、ということが何度もあった。

 ちなみに、わたしとわたしの家族が暮らすノイケルンはベルリン環状線(Berliner Ringbahn/ベルリン中心部を囲む鉄道。東京の山手線みたいなイメージ)の南端地区の一つで、人口の五割弱が移民というドイツではもっとも民族的に多様な街だ。民族的に多様、というと素敵な言い方だが、要するに家賃が安く富裕層に人気がないので移民が暮らしやすい、という背景があり、街はごみだらけで、街頭でけんかも絶えない。引っ越してすぐの頃、子供時代の川崎に戻ってきてしまったような、変な既視感を覚えたものだ。

 最寄りの地下鉄駅ヘアマン・シュトラーセまで歩くあいだ、ドイツ語よりもトルコ語かアラビア語が耳に飛び込んでくる。ノイケルンで、人の数と景色のマジョリティは圧倒的に地中海東沿岸地域に属するとさえいえる。ドイツからもノイケルンからも二重の異邦人であるわたしが、長い冬のあいだ(ベルリンの冬は文字通り長くて暗くてみじめだ)、どれほど自分を頼りなく感じたことか──ベルリンの「川崎」に少しずつ慣れ、様々にあきらめがつき、わたしがようやく精気?を取り戻したのは四月下旬、パレスチナに関する作品に取りかかることを決め、パレスチナ会議(Palästina Kongress)に参加したころだった。

(つづく)

聖なる骨 2

イリナ・グリゴレ

聖女マリナのこと考えながらドブロジャ地方を渡り、移動販売していた地元の人たちから葡萄を買って車で娘たちと食べた。白い葡萄と赤い葡萄、どれもフランキンセンスの味がした。ワインも飲みたい。売ってなかった。ハチミツとすっぱいサクランボの自家製果実酒。美味しいがちょっと甘い。朝ご飯に出る。スモークした豚の脂の塊と共に。東ヨーロッパの朝ご飯が好き。チーズとトマト、脂の塊に卵料理に自家製果実酒。ホテルに出てこないものばかり。全部家での手作り。材料も実家製で添加物はゼロに近い。朝から豚の脂(卵もそのラードでスクランブルエッグにする)と酒なんて現代人にとって考えられないような組み合わせが、実に身体にいい。祖先の知恵が詰まっている。自然の油脂は脳にいい。その後半日以上も続く畑仕事の体力にも役立つと思いつつ、洗ってもいない買ったばかりの農薬だらけの葡萄を口に入れる。

この30年の間にルーマニアはだいぶ変わった。食べ物も車だらけの景色も。自分の思い出より家も庭も葡萄畑も小さい。娘と祖父母の庭で葡萄を食べている私と弟。世代が変わって、この家を守れなかったと言葉で言えないがお互いの目を見て思う。ここにはもう誰も住んでない。争いのせいで、ここに帰ってきても意味ないけれど、全てを失ったとまでは言えない。みずみずしい白い葡萄の場所を探して。もうそこには葡萄がないと覚った。祖母はあの葡萄をワインに入れず、必ず私たち孫に残していた。この家の匂いは変わらない。焼き立てのパンと雨の匂い。娘は一つの入り口から入ってもう一つの入り口から出て笑いながら舞うような動きをする。雨を呼ぶ儀礼のようだ。庭で見つけた大きな葉っぱで、バヌアツの女の子が教えてくれた面を作って開けた穴から顔を出す。その姿がこの土地の精霊としか見えない。娘をここに連れてきたかった。私にとってどんなに大変なことであっても。耳を澄ますと近くの森林から見える動物と見えない妖精が何かを言おうとする。娘は大人の私にはっきり聞こえないと思い口に出す「ママ、この家を諦めないで、思い出の家でしょう。」

でも、どこかで私も弟もこの家を諦めている。この家の肉体は自分のものではないと分かっている。この土地は骨と皮膚と肉でできているのではなく、森と精霊のものだ。森のすぐそばの墓地は骨だらけだ。この村の土地を所有した骨だらけ。私はこの家から欲しいものがあるとしたら青い食器棚と祖母の織った布だけ。あとはイコン。お祈りとは人から人へ教えられると最近気づいた。5歳の頃、イコンの前でしたお祈りのやり方を教えてくれた祖母の姿が聖女のようだ。自分で織った布を白いリネンの寝巻きに仕立てて、田舎の夜だとあの白さは光って見える。子供と一緒に寝ていた奥の部屋にベッドに正座してイコンを見て守護天使の祈りを言う。初めて言葉の祈りを教えてもらった。

Înger, îngerașul meu,
Ce mi te-a dat Dumnezeu,
Totdeauna fii cu mine
Și mă-nvață să fac bine!
Eu sunt mic – tu fă-mă mare;
Eu sunt slab – tu fă-mă tare;
In tot locul mă-nsoțește
Și de rele mă ferește!
Doamne, îngerașul Tău
Fie păzitorul meu
Să mă apere mereu
De ispita celui rău!

守護霊とは、伝統を受け継ぐ人々の間に生まれたら決して珍しくないリアリティだ。子供のころ祖母からお祈りを教えてもらったとき、お祈りとは全てであるとも教わった。きっと書くこともそうなのだ。この知恵をどう娘に伝えるのかは、今回の旅の目的でもあった。娘は祖父母に会えなかったが、二人が住んでいた家を見て、同じ土を踏んだ。同じ葡萄を食べて、葉っぱで遊んだ。過去は未来になった。線がつながった。村の川のように私と母、娘の身体に祖先の川が流れて、その流れは穏やかになって、時にゼリーのような保存食のようなプルプルしたものになる。ルーマニアの伝統的な料理がある。豚の豚足をよく煮て、肉と骨が溶けるまで待つ。クリスマスの頃に半年育てた豚を丸ごと捌いて料理をする。長い冬と次の半年の食材とするため、保存食を作る。当時は冷蔵庫もないので、保存食がいくつかもあった。先に出た豚の脂の燻製、ソーセージ、そして何日も食べられる豚足のニンニクたっぷりのゼリー寄せ。私の大好物。ニンニクと豚の骨のエキスをむしゃむしゃ食う自分と礼拝堂で聖人の骨に触り接吻をする自分とは何の変りもないと気づく。娘はどっちも嫌がる違う世代の生き物だが、このことをどう伝えれば良いのか。食卓の豚が太古の動物犠牲の儀式の一部であり、人間の食事として聖になる犠牲であること。食事と祈りがこのようにして深いところで繋がっていること。娘にはまだ分かってないようだ。食べ物にも魂が存在すること。この真実は今では忘れられているから。

自分が食べ物について考えていることは多い。聖人たちはこの食欲から解放されていると言われる。木の実、木の根っこ、木や草の実しか口にせず、祈りを続ける生活。祈りは彼らの食事だから。食べ物の意味は元々祈りに近いと、葡萄を食べ続けながら祖父母の家で聖女マリナについて調べながら思う。彼女が退治した悪魔の顔つきがあまりにも可哀想で不思議に笑いたくなる。祖母に教えてもらった最初の祈りのイコンは同じくモンスターを退治した聖ゲオルギオスだった。このイメージにもさまざまな解釈がついているけれども、モンスターを退治するという意味では、このドラゴンも西洋的な考え方にとどまらない。もっと深い意味が込められているので、西洋と非西洋の、二分法的な解釈を無視したい。

聖女マリナの人生に何かヒントがある。彼女はローマ時代初期キリスト教のトルコ、シディアのアンティオキアに生まれた。裕福な家庭だったはずが、彼女が赤ん坊の頃に母が亡くなったため、父の手によって施設に預けられ、そこでキリスト教のことを知った。15歳のある日、道を歩いていたら若い権力者と鉢合わせになった。彼は彼女のあまりの美しさに結婚を申し込んだ。断られると、マリナがキリスト教徒だと聞き、彼女を捉えて拷問した。棒で半死になるまで叩き、肉が剥けて骨が見えるまで拷問が続けられた。虫の息の状態で牢屋に放り込まれたが、そこでも彼女は祈りを続けた。夜になると彼女のところに悪魔が怪物の姿で現れ、彼女の頭を飲み込むと言う。祈りを続ける彼女はその瞬間に差してきた光に包まれ救われる。翌日、すっかり怪我の治った状態で牢屋を出てきたので、人々は彼女を魔女だとして再び拷問にかける。この二回目の拷問では首を締めあげられ、蝋燭で全身を火傷させられた。彼女は祈りつづけながら「水があれば洗礼を受けていたのに」と水をほしがる。死刑執行人がそれを聞いて、たくさんの水を頭からかけて溺れさせようとする。だが、マリナは滝のような水の流れから傷もなく光と共に出てきて、それを見たたくさんの人々が彼女を信じたので、その人たちも殺される。最後に死刑執行人に斬首されて死ぬが、彼女の死と拷問を目撃したテオティムが文章を残した。

聖女マリナは初期のキリスト教の聖人の話によくある、美しい女性が求婚を断ったせいで拷問を受けると言う物語だが、彼女が悪霊に憑依される人を助ける聖人になったのは興味深い。

耳の底に沈む色

高橋悠治

眼に見える形をくらべることは一瞬でできる。耳で聞いた動きの形を記憶するには時間がかかり、その間に形が変わっても、だいたい同じとみなせるのは、手を動かしてその形をなぞっているか、その動きを思い浮かべるだけでも、手のなかに何か動く感じが起こるとき、その動きを覚えているときかもしれない。

鍵盤の上の指、弦を押さえる指の位置、管の横の指孔の位置と指の組み合わせ、また吹き込む息の速さと強さ、そうした小さな違いから、短3度と長3度は、距離の違いだけではない、「音色」の違い、それは何百年もかけて作り上げられた「伝統」のなかで、それに従い、反発しながらも保たれてきた尺度、その基準を変えることが、どうしたらできるのか。そもそも変える必要がどこにあるのか。

世界や社会が変わっていくなかで、風景も変わり、時間の過ごし方も変わっていく。

一つの全体があり、そのいくつかの要素の違う組み合わせを、ページをめくるように次々に見せていく、という見る本ではなく、手で触る表面を耳で確かめる道と、曲がり角ごとに、踏み出さない脇道を残した、一つの行き方を顕しておく、そんな音楽のスケッチができないかと、いろいろ試してみるが、今までのところ、満足できる結果は得られないでいる。だが、「満足できる」という言い方は何だろう。

「繰り返し」のような主張や協調でなく、変化しながら続く一本の線というより、滑らかに過ぎてしまう時間ではなく、トゲの多い枝が、収まるべき場所が見つからないまま、身震いを続けている、言い直しと、綴れ織の時間に飛び散るかけらの、躓きと乱反射と影の乱れを、書き残し、次に進む手がかりを、そこここに伺わせるように、不完全なままに投げ出しておく、と今は言っているだけで、もしかしたら、考えただけでなく、それを口にしてしまうと、やらないで済ますことに終わるのだろう。考えたり、言ったり書いたりしないで、手が動くままに任せることが、どうしたらできるのか、と思う前に、手が動き、耳がいくつかの動きを掬い上げ、そこから違う動きがひとりでに始まらなければ、知らない土地には出られない、と言ってみる。その言い方も、道を塞ぐ石の、もう一つにならないだろうか。