「がやがやのうた」と8月の発表会

三橋圭介

港大尋とグループ「がやがや」のCD製作が最終段階に入っています。5月から6月に2日間、小学校の音楽室を借り、簡易スタジオを作って録音しました。7月25日、櫻井卓さんの協力でマスタリングを終え、後はほとんどデザインだけが残っている。これが大変だが、もはや時間の問題でしょう。すでにタイトルは港が書き下ろした「がやがやのうた」に決定(全12曲)、9月1日発売に向かって、心はウサギのように集積する難題にぴょんぴょん飛び跳ね、そのたびに立ち止まりながらも亀の歩みでちゃくちゃくと進んでいます。ということで、完成形はまだぼんやりとしているにもかかわらず、CDの完成を記念して先行発表会を行うことになりました。8月26日、「がやがや」がいつも練習している光が丘区民センター(大江戸線の光が丘駅3分。駅構内から直通です。2階洋室1・2・3、開場3時半 開演4時、終了5時すぎ。無料:先着70名)です。CDでは港率いるソシエテ・コントル・レタも数曲参加していますが、発表会では港のピアノとギターを中心にいつもの練習風景のような発表会を行う予定です。みなさん、遊びにきてくださいね。CDの先行発売も予定しています。もちろん、9月1日には水牛のホームページでは大々的に発売開始いたします(特集ページもあります)。どうぞよろしくお願いします。

砂漠のモルヘイヤ作戦

さとうまき

皆さんは、モルヘイヤをご存知でしょうか? エジプトだけではなく広くアラブで食べられている葉っぱです。みじん切りにして、コンソメスープで煮詰めます。山芋のようにとろみがありねばねばしてます。それだけでも体によさそうなので、肉が中心の中東の食生活の中でレストランでは必ずモルヘイヤスープを頼むことにしています。

6月、ヨルダンの事務所に泊まることになった。本当は、ホテルに泊まろうと思っていたのだが、私が仕事をしやすいようにと、普段事務所にいるスタッフが気を利かしてホテルに移ってしまったのだ。まあいいかと思いながら顔を洗おうとしたら水道の蛇口にガーゼが巻いてある。部屋中の水道の蛇口にガーゼがかぶせてあり紐で縛ってあるのだ。変だなあと思いながらも、翌日まで待って、西村さんに聞いてみると、「おたまじゃくしがいるんですよ」という。蛇口からガーゼをはずして見せてくれる。そこには、黒い粒粒がたくさんついていたのだ。

よく見ると一匹、一匹がおたまじゃくしのような形をしているらしい。私は気持ちが悪くなって、しばらくするとおなかが痛くなってきた。それからしばらくすると下痢が止まらない。友達のイラク人も下痢をしていた。ヨルダン人も下痢になっていた。「うちの妻も下痢だ。アンマン中の人間が、モルヘイヤのような糞をしているんだ」という。そういうたとえか? しばらくモルヘイヤは食えんのう。と思いながらも翌日は、鎌田實医師を筆頭に何人かの医師団を連れて、国境の難民キャンプに行かなければならない。

砂漠を4時間車で走るからトイレは厳しい。そこで点滴を打ってもらいともかく気合で直すことにした。私の下痢は気合で治ったが、今度はチームの若い医師が下痢になってしまった。途中砂漠でトイレ休憩を入れながらも難民キャンプにたどり着くが、今度は、難民が怒っていた。国連が水を持ってきてくれるが、水のせいでみんな下痢になった。ちゃんとした水を持ってきてくれという。「そういわれてもなあ、アンマンでもみんな下痢なんだけどなあ。。。」と思いながらも、帰りがけにペットボトルにはいった水をわたされた。これを国連に分析してもらってくれと頼まれた。その日は朝早くでて、アンマンについたのは、翌朝2時、がんばらないはずの鎌田先生も「がんばったなあー」というぐらい皆疲れてしまった。

翌朝、ペットボトルがない! もしかして誰か飲んだ? 疲れていてみんな記憶が飛んでいる。その後、さらに何名かが下痢になったので、もしかしたらやっぱり誰か飲んじゃったのかも。

さて、日本から、要冷蔵の白血病の薬を持ってきた。今回はクウェートまでイブラヒムに出てきてもらい、彼がイラクまで持ち帰る。しかし、クウェートに運ばれた薬には保冷剤が少なすぎる。これから陸路で、国境を越えてイラクに運ぶのはもっと保冷財が必要だ。なんせ、昼間は50℃。

どうしたものかと、イブラヒムとスーパーマーケットに行くとモルヘイヤをみじん切りにして冷凍したものが売っている。これを使おう! ということになった。
イブラヒムが「今回の作戦はなんていうんだ」と聞いてくる。言われてみれば最近は作戦名をつけてなかった。「砂漠のモルヘイヤ作戦!」この作戦は、イラクに薬を持ち帰り、しかもモルヘイヤが冷たければ作戦は成功である。イブラヒムがモルヘイヤを食べて、下痢にならなければ完璧だ。もし、モルヘイヤのような糞がでたら、作戦は失敗だ。

「わかった。ぼくは、体を張ってモルヘイヤをたべるよ」
数日後、イブラヒムから連絡があり、「モルヘイヤは無事だったよ。」との連絡。モルヘイヤは、イブラヒムのおなかの中で消化され、再び地上にあわられることはなかったのである。

さて、ついに、イブラヒムが来日。8月6日から約一ヶ月滞在します。佐藤真紀と2人で日本全国を回りますので、ぜひイブラヒムのトークを聞きに来て下さい。イブラヒムの人生を絵本にした「イブラヒムの物語」も600円で販売します。詳しくはHP(http://www.jim-net.net/contents.html)をご覧ください

舞踊の小物について

冨岡三智

今月はジャワ舞踊(スラカルタ様式)で使う小物について書いてみたい。宮廷で発展した舞踊作品、およびその流れに沿って作られた作品は、男性舞踊であれ女性舞踊であれ、また抽象度の程度こそあれ、戦いを描いている。とくれば、小物の代表格は武器ということになる。

弓矢
これは男性荒型、男性優形、女性舞踊のあらゆる型で使われる。この順にしたがって弓のサイズは小さく細くなる。踊り手は5本の矢を入れたエンドンというものを背負い、手に弓を持って登場する。あるいは舞台上にあらかじめ弓が置かれている。マンクヌガラン宮では、弓が必要になるシーンになると控えの女性が出てきて踊り手に弓を手渡すが、こんなことは人手が多い王宮以外ではまずありえない演出だ。弓を持つキャラクターの代表といえば、男性優形ならばアルジュノ、女性ならばスリカンディーで、弓を持って出たからには、当然、曲の途中で矢を放つ。

この矢を放つのに、矢を前方に向けて放つやり方と、矢を放つふりをして踊り手の背後に落とすやり方がある。私の師、故・ジョコ女史は前者のスタイルで、それが当然だと思っていたところ、芸大で後者のやり方を習って大変驚いた。一般的には矢を前に飛ばす人の方が多い。しかし芸大で教鞭を取っていた故・ガリマン氏は、この後ろに飛ばすやり方だった。矢を前方に向けて放つと、当然相手の踊り手、あるいは観客の方に向かって矢が飛んでいく。それは危険でもあるし、また矢が実際に飛ぶという、あまりにもリアルな表現を避けたかったからかもしれないと思う。

ちなみにここインドネシアでは、芸術公演ではなく一般大衆向けのイベントで舞踊が上演される場合、矢がピューッとしっかり飛んでいくと、期せずして拍手喝采が起こる。こんなことは、少なくとも私は日本で経験したことがなかった。なんでこんなところで盛り上がるのだろうかと、留学当初はあ然としたものだ。

実は、弓の形にはもう1つ別のデザインがある。弓と1本の矢が始めから1つにセットされていて、踊り手はエンドンを背負わない。これは宮廷女性舞踊のスリンピやブドヨに特有のデザインである。この場合は踊り手が最初から手に持って登場する。弓の中央部に穴が開いていて、そこに矢を通す。矢は弓から抜けないようストッパーがついていて、さらに弦(ゴム糸)を引っ張って矢を放つと、カチャッと音がして矢が元の位置に戻る。これを使う演目は「スリンピ・ロボン」、「スリンピ・グロンドン・プリン」、「ブドヨ・スコハルジョ」である。元から矢がセットされた弓を持って踊っているから、いつ矢を放ったのかが分かりにくい。あくまでも優雅に、抽象的に矢を放つシーンが描かれる。

ダダップ
これは宮廷舞踊の男性優形と女性舞踊で使われる。60cmくらいの柄に、ダダップを手にする踊り手が扮する人物を皮に透かし彫りしたもの(ワヤン人形のようなもの)、あるいはグヌンガン(山を抽象化した形)のそれが嵌めてある。一見したところ、団扇のようにも見える。うまく言葉で説明できない代物だが、これ(柄の部分)は防御用の武器で、武器としての本物のダダップだと、柄に鉄が嵌められてあるらしい。踊り手はダダップを右手に持って登場し、しばらくそのまま踊っているが、戦いのシーンになるとダダップを左手に持ち替え、右手でクリス(剣、女性はチュンドリック)を抜く。2人の踊り手の一方が剣で突き、一方がダダップで防御するという型を繰り返し、最後は剣を収めて、またダダップを右手に持ち替えて退場する。

ダダップを使う舞踊には、男性優形では故・ガリマン氏が復曲した宮廷舞踊「パラグノ・パラグナディ」、「カルノ・タンディン」の他、同氏が単独舞踊として振り付けた「パムンカス」がある。これは相手がいないが、抽象的に戦いを描いている。宮廷女性舞踊でダダップを使う演目は、少なくともスラカルタ宮廷には残っていない。「ブドヨ・カボル」がダダップを使う演目だったという。故・ジョコ女史が、その演目を習いかけて間もなく先生が亡くなってしまったとかで、「この曲は戦いのシーンがとても素晴らしいと先生から聞いていたのだけれど、結局習いきれなくて・・・」と、とても残念がっていたことを思い出す。女性舞踊でダダップを使うものには、これもやはり故・ガリマン氏が振り付けた「モンゴロ・ルトノ」という、4人の女性によるスリンペン(スリンピ風の舞踊の意)の作品がある。

クリス
ジャワでは男性は正装すると必ずクリス(剣)を腰に差す。男性舞踊でも、たとえ抜くことがなくてもクリスは必ず差している。クリスは日本刀と同様、美の対象であり、精神性の象徴であり、超神秘的な力が宿っているとされるものもある。クリスの収集家はジャワで聖なる日とされている日にクリスの手入れをする。現在のクリスの刃は波型をしているが、舞踊でクリスを抜く場合は、かならず刃がまっすぐになっているものを使う。しかしそれを常設している店はほとんどないので、特別注文することになる。

このクリスにはコロン・クリスという、ジャスミンの花を房にした飾りを柄にひっかける。そうすると、戦いのシーンになって剣と剣とが打ち合わされるたびに、ジャスミンの花が細かく飛び散って非常に美しい。ただこの花房は、結婚式の花婿のクリスみたいに豪華に、房の数を多くしたり長くしたりしてはいけない。剣を振り回すたびにコロン・クリスは手元でくるくると回り、剣先にからみつき、串団子のようになってしまうからだ。房が長いほどからみつきやすくなる。

チュンドリック
これは女性が腰の前に挿している短剣で、クリスよりもずっと小さい。女性同士の戦いの踊りで使われる。これにも花房飾りをつける。

ピストル
スラカルタの宮廷舞踊のほとんどのスリンピとブドヨにはピストルを使うシーンがある。とは言え、実際にピストルを腰に挿して踊ることは少なく、現在ではサンプール(腰に巻いている布)の扱いで、ピストルを表現することが多い。ピストルのシーンは必ず曲の後半部にあり、ピストルを抜くシーン、弾を込めるシーン、発砲するシーン、そして元におさめるシーンがある。

私はピストルを使って練習したかったので、ジョコ女史にどういうピストルが良いのかと聞いたところ、とにかく音の出るものをと言われ、おもちゃ屋をずいぶん廻ったことがある。ピストルを使うことにこだわっているある舞踊家が持っているピストルは、その昔ヨーロッパ公演に行ったときに買い求めたというアンティークのものだ。持たせてもらうと、ずしりと重い。ただしこのピストルの弾はもちろんないし、音もしない。

確か1997年のマンクヌゴロ家当主の即位記念日に上演された「ブドヨ・スルヨスミラット」では、舞台上の踊り手は音の鳴らないチャチなおもちゃのピストルを手にしていたが、舞台下に伝統的な兵士の格好をして並んだ女性たちが、踊りのタイミングに合わせてピストルで空砲を打った。これはかなりの音量だったので仰天した。聞けば使用したのは本物のピストルで、彼女たちは現役の警官だという。本物は警官でないと撃てないからということで、警官の登場とあいなったそうだ。ピストルの音を重視するのなら、こういう手もあるのだ!とはいえこんな演出は王家だからこそできたことに違いない。果たして日本の警官は舞踊演出のためだけに空砲を撃ってくれるものだろうか?

ジャワの宮廷舞踊でピストルを使うのだと言うと、他の民族舞踊をやっている友人たちにひどくびっくりされる。私もピストルを使用した舞踊は他に見たことがない。ヨーロッパ寄りのジャワ王家の姿勢がもろに武器に見て取れる。それにしても、ピストルを舞踊に使おうと思った最初の人は誰だったのだろう。剣や弓を手にしての戦いには、精神論的な意味を付与する余地もあるというものだが、宮廷女性がピストルを手にしながら、表情も変えずに優雅に踊り続ける光景というのは、考えてみたらとても怖い気がする。

その他
これら以外に、男性荒型の兵士の舞踊(ウィレン)では槍、クリス以外のデザインの剣、盾、こん棒などの武器が使われる。1人で演舞のように踊られることもあるし、2人以上の偶数人数で、対戦のように踊られることもある。この手の、武術がベースになった舞踊はアジアの各地に見られ、宗教との結びつきも深いようだ。

半径ほぼ三百メートル

仲宗根浩

ここは沖縄です。歩いてすぐ、白い砂浜、海があるわけでもなく、まわりはどこの地方でもよくみるシャッターをおろしたままの空き店鋪が多いアーケードの商店街。すこし違うのは近くに空軍基地があることくらい。昔は兵隊さん相手の店ばかりだったがいまは数えるほど。六月までは職場も自宅から歩いて二分とかからない場所だったので、生活するうえでの行動範囲は半径ほぼ三百メートル以内でほとんどのことが済んでしまう。飲み食いするところ、趣味道楽関係の店(CD、楽器屋)、家電量販店(ここでパソコン関係のものは全部揃う)など。これに出無精がかさなると、車を運転するのも月に一回あるかないかで遠出もしない。休みの日、暑くなると外出もめんどうになり軽い引きこもり状態。これから行動範囲がどれほど広げられるか。自転車のギアをいつなおすかにかかっている。

で、最近本屋がなくなったんです。わたしのささやか生活圏内から。十年前、二十数年ぶりに沖縄にもどり生活をはじめたころは、いわゆる大型書店、そんなにひろくないながらも二階フロアーがあり、文具もそろえた書店、昔から商店街にあるこじんまりとした本屋さんと三軒ありました。それが、大きいほうからなくなり、ついに最後の商店街にある本屋さんが閉店すると電話で連絡がありました。その本屋さんには隔月刊のブルース、ソウルの雑誌が定期購読とういうシステムがなかったため、取り寄せてもらっていて、唯一、購読している音楽雑誌です。「今回は店を閉めるためこれが最後になります。」と。取り寄せてもらっていた雑誌も創刊号から購入しているのでこちらも意地で買い続けているところもありますが、こうなると注文取り寄せをしてくれる本屋さんというのが歩いていける距離にないのでネット購入するか、音楽雑誌も取り扱っている楽器屋でお取り寄せが可能か問い合わせるしかない。小さい本屋さん、どんどんなくなってきてます。

さいきん、ずいぶん減ってきたような気がするのが、ごきぶり。こっち来て当初、夜遅くアーケード街を歩いているとごきぶり(方言ではとーびぃーらぁ)がよくわたしめがけて向かって飛んできたが、最近そういうこともない。ひさしぶりに台所仕事をしていて、大きめのボールを出そうと、ふだんあまりあけることがない、シンクの下をあけ、ボールを出すと底にはカラカラに乾燥した三匹のごきぶりが仰向状態。大きさは三センチ足らずくらいの小ぶり。ボールは取りあえず、ごきさんを取り除き、きれいに洗い、消毒する。ここでは、やもりは毎晩鳴き、ごきぶりはどこでも出る。台所大掃除、そろそろ。その前にCD、本、雑誌、カセットテープ他もろもろのガラクタ整理をやれと、言われる。

製本、かい摘まみましては(31)

四釜裕子

「水牛」をご覧のみなさまには、7月7日の青空文庫10周年記念式典の場で涼やかに旗揚げされた「青空文庫製本部」のことは、周知のことと思う。その旗揚げの、「は・た・あ」あたりのある一日、準備会でお手伝いしながら、初めて青空文庫にアクセスしたときのことや、それをプリントしては製本していたころを思い出していた。

日販を中心としたオンデマンド出版会社ブッキングが立ち上がり、青空文庫のテキストを「ぼくらが書籍化する」とリリースしたのは、1999年だったろうか。製本はどうするの?と、とっさにメールで問い合わせた。「時代を超えて生き続ける名著の息吹を、手触りの良い紙の本としてお届け出来れば」とあったことに期待してしまったのは、オンデマンド印刷というものを私があまりにも知らなかったからだろう。まもなく、青空文庫のテキストをプリントして製本した『十八時の音楽浴』を手にブッキングの事務所に遊びに行き、そこではじめて、オンデマンド印刷のしくみやその仕上がりを目にすることになる。

コピー用紙をただ束ねただけのようなこのカタチのどこが「手触りの良い紙の本」なの?とこちらが言えば、『十八時の音楽浴』を見て、こんな製本が手作りでできるんですか、と返される。このたびの事業はバリアフリーの新出版「ユニバーサルBOOK」なのだと言うならば、今ここでおこっている製本の概念のバリアもフリーにしたいね、など雑談するうちに、「東京国際ブックフェア」の同社のブースで、ユニバーサルブック構想の一例として、糸かがりハードカバー仕立ての『十八時の音楽浴』を展示することになったのだった。

青空文庫の、宣言やしくみの広々とした気持ちよさに、だれもが焦がれる。ブッキングのスタッフもそうだったのだと思う。私も焦がれた。軽々しく、「テキストがオープンになっていく」なんて言って、それをどんなふうに読んでいこうか、モニターでいい、縦書きなんて不要、電子本はどうだ、やっぱりプリント、しかも糸かがり製本だ、なんてはりきって、楽しかった。青空文庫があったから、具体的なカタチとして試し、考えることができたのだと思っている。

そんなわけで久しぶりの「青空文庫本」作り、特に今回はブアツイ一冊を仰せつかって製本したので、うまくいくかと緊張もした。これまでいかに短編ばっかり選んで製本していたかが、よーくわかりました。

チドリアシで帰ってきた(翠の虱34)

藤井貞和

暗いな、

チドリの脚もとがぼおっと明るくて、

暗い砂地

酔っ払って歩く、

千鳥足

浜をゆけば、

しばらくそうやって、

あっと思い返す、

韻(ひび)きの糸

(砂地の上の虫などを捕らえるときに、一旦、無関係の方向に行くと見せかけて、いきなり急襲するという習性のためだって。敵が卵やヒナに近づくと、親鳥は負傷してもがいているようなふりをして敵の注意をひきつけ、巣から遠ざける。この行動は擬傷(ぎしょう)行動と呼ばれる、と。フリー百科事典からの引用。)

しもた屋之噺(68)

杉山洋一

「イポポー、パパー、イポポー!」
2歳4ヶ月になる息子のお気に入りは、指揮の恩師からもらった、木製の小さな軽便鉄道セットで、木のレールを好きに組合わせて、赤、黒、緑、青ときれいに塗られた小さな機関車やら貨車やらを走らせます。
今はもう高校を卒業しようかという恩師の長男ロレンツォが、その昔さんざん遊んだ模型のお古で、とても大切に使ってありました。

息子も、早朝ベッドから起掛けに、さっそくおもちゃ箱からゴソゴソと汽車を出しては、「イポポー(汽車ポッポ)、イポポー」とはしゃいで嬉々としています。ご飯だと言聞かせてもやめないときは、わめく息子を無視して、しまいにはさっさと片付けてしまいます。子供のベッドに寝かしつけるときも、「イポポー、イポポー!」と、機関車を布団に持ち込みたがるのですが、つい遊び道具を許すと、結局遊び始めてなかなか寝付かないので、様子をみて埒があかなければ、お前はもう寝るんだから、と取上げて、泣き声を聞きつつ、ベッドサイドに並べてやったりします。

男の子が小さいころから鉄道や車が好きなのはごく自然のことでしょう。自分もその昔は軽便鉄道が大好きでした。ミラノの自宅は、ポルタ・ジェノヴァからアレッサンドリアに延びるローカル線の脇にあって、長らく放置されていて、最近使われだした、雑草の生い茂るひなびた引込み線が並走しています。少し行ったところにサン・クリストーフォロ駅があって、シチリアやバーリまで車ごと旅行できる列車の発着駅となっています。

庭のレンガ壁の先、2メートルあるかないか、文字通り目と鼻の先にある、背丈より高い雑草の繁茂するひなびた引込み線で、毎日数回、ガサガサと草を掻き分けながら、のんびり車を載せる貨車の入れ替えをやっていて、機関車のディーゼル音が近づいてくるたび、息子は、窓から身をのりだして、「イポポー、ピー!(汽笛)、イポポー、カタンカタン!(車輪の音)」と歓声を上げます。

あまりに線路が近いので、ちょうどミラノを訪れている母など、初めて見たときは、「ちょっと、大変だよ!」と慌てて知らせにきてくれたくらいで、毎度見るたびに、もし自分が子供だったら、さぞかし興奮しただろうなと思ったりします。息子がうれしいのは当然だ、と妙に納得するのです。

ふと、自分が小学生のころ、父親に頼んで、加古川や七戸の軽便鉄道に連れていってもらったことを思い出しました。あれは小学校の4年生か5年生くらいだったと思いますが、軽便鉄道をどうしても見るため、父親と母親と3人で労働者用の簡易宿泊施設に泊めてもらった記憶すらあります。よほど場違いだったからでしょう、肝心の軽便鉄道より、プレハブ作りの宿泊所が今も鮮明によみがえってきます。野辺地に着いたときは確か寒くて雨が降っていて、出かけるときは上野から夜行列車に乗った覚えがあります。子供には、それもとても嬉しいものでした。七戸から下北半島にも少し足を伸ばして、父親と偶然に途中下車した駅の周り一面、表札が「杉山」だったことにびっくりした覚えがあります。

考えてみれば、父親は当時、たびたび徹夜で仕事をこなしていて、家に戻らないこともしばしばでした。それなのに、こうして無理に時間をつくっては、愚息の他愛もない道楽に厭な顔もせず付き合い、青森まで面白くもない軽便鉄道に一緒に足を運んでくれたのか。そう気がついてはっとさせられました。

自分だったらどうだろう。職種も違うし、ここは自宅も仕事場を兼ねているし、子供と顔を合わせている時間だって同じではない。でも、もし父だったら、息子がご飯も食べずに機関車で遊んでいたとしても、眠りたくないとベッドで機関車をいじっていても、何事もなかったかのようにおもちゃを取上げただろうか、おそらく違ったのではなかろうか、と。

そう思うと、すやすやとベッドで寝息を立てている子供が妙にいじらく見え、今も明るく元気に応対してくれる父親が、とても深いものに感じられます。子を持って初めて気がつかされることの多さに、こうして思わず言葉を失うことも少なくありません。

(ミラノにて 7月20日)

花筺――高田和子を悼み

高橋悠治

      霧たちわたれ 川面に
      見つめ 思い起こすために

1991年から2007年まで 音楽の道をともに歩んで来た 
三味線奏者の高田和子が 7月18日に亡くなった
16年の道行を終えて まだ生きているものから
先立つひとを送り そのひとに贈ることばを ここに書く

1990年 国立劇場での 矢川澄子の詩による『ありのすさびのアリス』の
声のパートが 最初の出会いだが 
次の年Music Today Festival で『風がおもてで呼んでゐる』の演奏依頼が
長い道のはじまりだった
邦楽では 初演者が委嘱した作品を私有する慣習がある
それを知りながら あえて演奏を引き受けたために
彼女はそれまでの仲間と別れて 異なる音楽の道に踏み迷うことになった
最初の共演コンサート「三絃蘭声」には それまでの聴衆は来なかった

闌=技術を越える表現の自由 世阿弥の「闌位」から
声=彼方から耳に達する響き 字義から

その後の数年間 電子音響をはじめ 雅楽や西洋楽器との合奏や 
声明や合唱との共演で 三絃と声だけでなく 箏や古代楽器も演奏してくれた
伝統楽器やその音楽についてまなんだだけでなく
作品の細部 奏法 記譜法についても 相談しながら決めた

三絃弾きうたいとオーケストラのための『鳥も使いか』(1993)は
1993年金沢で初演後 オーストラリア シンガポールの旅公演や 
他のオーケストラの共演もあった

  わたし自身も長い間組織の外で 手本のない道を歩いてきた(高田和子)

この協力関係は 平坦な道ではなかった
それまでの高田和子は 現代音楽作曲家たちの要求する超絶技巧を 
三絃という前近代の楽器で実現することのできた例外的なヴィルトゥオーゾだった
だが いっしょに探求したのは 楽器と伝統をさかのぼり
ありえたかもしれないが じっさいには存在しなかった
音楽の別なありかたを見つけること

20世紀音楽の 神経症的な速度や複雑な運動ではなく
繊細な音色の差異と 
拍節構造のような 外側からの規律ではない 
身体感覚にもとづく時間
モデルの断片を即興的に組み替えながら
他の楽器との関係をその場で創ること

これは 現代邦楽とは逆方向の道
現代音楽の制度からも外れていた
共演はしても 雅楽や声明でもなく 
どのシステム どのジャンルにも入れない音楽

しかも この冒険をつづけながらも
そこだけで閉じてしまわないように
まだ 制度に組み込まれていない 若い作曲家や演奏家をみつけて
それぞれが ちがう場に出ていく時もある
危うい同意のバランスの上で 逃亡しては また惹き付けられる
揺れうごく関係の磁場

2002年

  今年はどうやらわたしにとってふしぎな年まわりのようだ
  人の身に起こり得ることの10年分くらいが
  一度に来てしまったという感じがする
  それは身内の闘病と死
  親しい人の突然の病
  ・・・・・・
  あたりまえに過ごしている日常のなかに
  多くのだいじなことがある ということに
  人は それを失うまで気がつかない
 
  高橋悠治さんの作品『心にとめること』は
  わたしが今までずっと大切にうたってきた歌である
  わたしが心をひかれるのは、次の言葉たちだ
  「わたしは老いるもの、老いをのがれられない」
  「わたしは病むもの、やまいをのがれられない」
  そして
  「親しいものも楽しいことも 変わり 離れてゆく」
  と続く
  まるで今年わたしのまわりで起こった出来事を歌っているかのようだ

彼女は ことあるごとに この歌をうたいたがった 
歌が人を
なにか妖しい運命に引き寄せるようなことは
あってはならない と思いながらも 
彼女のために書いて来たのは
『那須野繚繞』『畝火山』『狐』『影媛の道行』『悲しみをさがすうた』

おなじ2002年 
こちらが突然の病気で ほとんど死にかけて以来
しばらくは 三絃とも遠ざかっていた
毎日のように 電話やメールで 長い対話をつづけていても
共演の企画はなかなか実現しなかった
彼女には この頃 ほとんどしごとがなく
邦楽組織の外にいるために 教職に就くこともできなかった
それは聞いて 知っていた
だが ピアノばかり弾いていて 
もう帰って来ないのではないか と 
あきらめかけていたのは 知らなかった
どこかで まだ時間はあると思っていた

いまの瞬間は すぎていく ひきとめようもなく

2005年 
彼女もやっと大学の講師にもなり
いくらかは演奏の機会もできたようだが
会う機会はますます すくなくなった

その頃のこころみ
ビオレータ・パラの歌を三絃弾き語りにアレンジした
『ありがとういのち』『愛の小舟』『天使のリン』
三絃という楽器を 世界音楽の野に放ち
唄は 日常の声に近づける

かなしみに洗われて
うたは かがやきを増してゆく

彼女のための最後の作品は石垣りんの詩による『おやすみなさい』
2005年11月16日初演

  知らなければ三味線だと思わないかもしれない
  いつもと全然違う声でごく自然にうたっている自分のことも
  とても不思議です
  この曲を聴いた人たちが
  みんな幸せに眠れますように

次は三絃ソロ小曲集を書こうと決めていた
予定タイトルは 花筺
花々を盛った籠としか思っていなかった
能や地唄に先例があり
別れの贈り物 追悼の曲を意味するとは知らなかった

2007年2月に共演でのコンサートを決めたすぐ後に
彼女は入院した いまの医学では治療できない病気で
死ぬと知りながら
入退院のくりかえし ひろがっていく麻痺と頭痛

  普通の人には確率的にまず起こらない事を
  病気でも人生でも一身に引き受ける運命なのかもしれない

最後の演奏は6月はじめ 放送のための録音
2001年に初演してくれた曲 勅使河原宏追悼のための『瞬庵』
その放送の日を待たず 三度目の入院

亡くなる前日 病室
繊細な響きの場所を 糸の上でさぐりあてた あの手も
ふくれあがり 感覚もなく うごきもない
ひびわれ つぶれた水泡に血のにじむ唇
やせ細った腕のくぼみをさすり 呼びかけると
ふっと眼がひらいて 
まばたきもしないで じっと見つめる
そのまなざしの先に こちらの眼をあわせ 見交わした
またたきの合図を送り ほほえもうとしてみた 
静かだった
ことばを失った喉がうごき かすかな声が一度だけ

どのくらいそうしていたのか
眼がゆっくり閉じていった
また明日 と言って 病室を出たが
翌日対面したのは 霊安室の棺台の上
頬に触れると 冷たかった

あれは ほんとうにあったことだろうか
意識のない眼に こちらの思い込みを投射しただけ それとも
助けをもとめてすがりつく 消えかかる炎の弱いかがやきか

後からの疑いや 説明するこころみは
その瞬間にはなかった
いまでも その時の姿勢の記憶から
感覚がよみがえってくる
 
まなざしだけが
ことばもなく 思いもなく
時間のない ほの暗い空間にただよっている

  It is possible that to seem – it is to be
      (Wallace Stevens: Description without Place)
  そう見えることは 存在すること――でありうる

真珠湾(翠の虱33)

藤井貞和

し しらなみ立てて、べんぴの終わり、

ら らんびきの、べんきに狙うしょうすい、

た 立腐れ、真珠のうんちを撃ちつくせば、

ま ま昼の、げりを湾にまき散らす開戦。

(「日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばい」〈小林秀雄〉で、「太平洋の暗雲といふ言葉自身、思へば長い、立腐れの状態にあつた言葉」〈河上徹太郎〉。「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した」〈竹内好〉。こんな〈ランビキ〉言葉ばかり、開戦直後の知識人たち。「十二月八日――真珠湾――知識人と戦争」〈曽根博義、『國文學』2006・5〉、および加藤陽子「戦争を決意させたもの」〈『あの戦争になぜ負けたのか』所収〉より。)

しもた屋之噺(67)

杉山洋一

最近、目先のことばかり片付けていて、頭のなかに溜まってゆく記憶とか、思考とか、そういうものを全く整理しないまま、ひたすら物置にただ放り込み続けているような、薄いフラストレーションを感じます。何かに反応し知覚した感情の襞は、改めて自分の言葉で検証したり、意味を問い質したりして、ようやく身体の奥にしっくりと馴染むような気がする。出会ったひとの表情や、演奏のしぐさ、まなざしや呼吸、そんなものを、どこかにうっちゃって無感覚に過ごしているような、自らに対しての苛立ちのようなもの。こうして書きとめようとしても、触覚的な感覚を思い出せなかったりするのももどかしいのです。

3回ほどレッジョ・エミリアのアンサンブルとリハーサルをして本番をやってきました。もう何年も前からご一緒しているのですが、いつも20人前後の大所帯の仕事ばかりで、今回初めて5人というきわめてシンプルな形でお付き合いさせていただいき、とても楽しかったのです。やっぱり、お互い聴きあうことを中心に練習できるからかも知れません。大編成でも、オーケストラでも同じはずですが、なかなかそうは行かないのは自分の力不足、経験不足なのでしょう。彼らと秋にサーニの新作オペラでご一緒するときは、例によって大所帯ですから、その前に密に仕事が出来たことは幸運でした。

数日前このオペラ譜のゲラが届きました。マフィアの撲滅に身を捧げたジョヴァンニ・ファルコーネが主人公で、彼がパレルモの空港から高速道路で爆破させられる直前、最後の飛行機に乗っているところが舞台で、登場人物もマフィアと警察なので男性ばかりで合唱も男声。

もっとマフィアのことを勉強して、オペラの楽譜を読まなければと思いながら、あるとき、指揮クラスのシチリア人の生徒に、突然だけどマフィアというのは身近な存在なのかね、例の「沈黙の掟(組員はもちろん、たとえ公衆の面前で殺人があっても、誰もそのことを証言しないこと)」は本当かと訊ねると、あっさり認めてくれました。

そりゃマフィアはいますよ。でも組員以外には係わらない話ですからね。ときどき抗争の巻添えになったりするけれど、あれは例外。幼馴染にもマフィアの家の子がいて、よく仲良く遊びましたよ。頭も良かった。でもそいつ可哀想に18歳で殺られちゃいました。

「沈黙の掟」ね、あくまでもシチリア人は独特ですから。何しろイタリアで一番古く、12世紀に既にしっかりとした政府が出来た地方なのに、その後ひたすら侵略され続けてきましたから、みな排他的で不信感の塊なんです。自分の身は自分で守るし、誰も助けてくれないと思っている。

排他的といえば、イタリア人一般にそういう傾向は否めない気もします。先日もミラノのアンサンブルがヴァイオリン奏者を換えることになり、何人かとリハーサルをして、その中にはジュリアード出身の上手な韓国人もいました。彼女は国際的に現代音楽畑で活躍しているから当然選ばれると思っていると、アンサンブルは彼女よりずっと若く経験も少ないイタリア人を選びました。演奏スタイルが違うのと、フィーリングの問題がその理由でした。

先月息子を知合いの4歳児の誕生日会に連れていったとき、周りはもう幼稚園に通う元気溢れる4、5歳児ばかりで、言葉もままならない2歳児が相手にされるわけもないのですが、4人ほどの腕白に囲まれて、「お前何もしゃべれないのか。おいこのチビ中国人」に始まり、しまいには息子の尻の辺りにゴム風船を膨らませ、からかわれました。周りに親たちもいるのですが、関心もないのか咎めもせず談笑するのに憤慨しつつ、これも経験と諦め傍観を決め込みました。

先日久しぶりに滞在許可更新のために警察署にゆくと、道路に溢れんばかりの外人を虫けらのように蹴散らしながら、警官が「お前ら外人だからって言葉がわかんなくても、つんぼじゃなかろうに! あっちゆけよ」と声高に罵りました。でも、こういう経験はしないよりした方が良いと思うのです。毎日これでは堪りませんが、年に一度か二度こういう風に思い知らされるのとそうでないのとでは、世界観も変わりますし、日本に滞在する外国人の苦労を垣間見る気がします。大変な思いをして日本に滞在しながら、日本人の嫌がる職業について社会を支える、大切な人たちを思うからです。

もっとも、そんなネガティブなことばかりではありません。先日、友人二人が結婚して、イタリアで初めて結婚式に出席しました。イタリアに住んだ当初友人は既婚者ばかりでしたが、自分の生徒や、若い演奏家の友人も増えてきて、こうして初めて結婚式の経験と相成ったのです。お祝いは、元来この辺りの風習によれば、カップルが指定の店を予め招待客に伝えて、招待客はその店に出向きカップルが必要としている日用品、家具のリストから、好きなものを選んで贈るそうですが、彼らは何も用意しなかったので、友人通し値段を決め、150ユーロ包んでわたしました。

といっても、日本のようにいつ渡すか決まっているのでもなくて、結婚のミサが終わり、教会から出てきた花嫁、花婿に親戚がお米を投げる傍ら、続いて始まる葬式の準備をする坊さんを横目に(教会の扉に、葬式用のビロードの装飾をつける)、「ハイこれね」、とさっと渡す按配で、日本のフォーマルな雰囲気とはずいぶん違います。

結婚のミサも初めてでしたが、式目はほとんど変わらず、親族のお祝いやら、神父の説教指輪交換が挿入されるくらい。1時間弱でミサが終わって、皆揃ってレストランに移動して、14時から19時過ぎ(これでも途中で引揚げさせてもらった)まで何をしていたかと言うと、これがひたすらご飯を食べるのです。日本の披露宴と違いアトラクションがあるわけでもなく、誰か友人の言葉を言うのでもなく、ダラダラとものすごい量のご飯を、ひたすら時間かけてたっぷり食べる。

ご飯も美味しかったので当初は喜んでおりましたが、2時間も経てば全体に座も白け、子供たちは駆けずり回りはじめ、四方山話に花が咲くわけもなく、どのテーブルも間延びした雰囲気のなか、花嫁花婿も気晴らしに外に散歩に出かけてしまい、手持ち無沙汰で傍にやってきた双方の父親に「どうです先生、良い結婚式でしたね。披露宴もなかなかでしょう。楽しんでいらっしゃいますか」、などと声をかけられ、「イタリアの結婚式は初めてで、こういうものかと咀嚼しているところです」と頓珍漢なやりとりの挙句、ベルルスコーニ贔屓の花婿の父親から、「先生、現代音楽はですな、どうか、凡人にもわかるようにやっていただきたい」と懇々と諭されてしまいました。日本の披露宴で、新郎の父親から現代音楽を諌められることはないでしょうから、愉快なものです。

ただ、教会でのミサの途中、指輪を交換し教会の台帳に互いに記帳した後、神父が、「これであなた方は神と契約を交わし、今、神の国で永遠の愛を誓ったのです」と言うのを聞いて、急に彼らが見えない敷居を越え、あちら側に行ってしまった気がしました。未だ離婚も堕胎も避妊すら許されず、同性愛も受け入れられず、医療研究用の受精卵も認められない、燦然たるカトリックの世界です。「あなた方は音楽家で、音楽を通じて神と交信している。常に神を身近に感じる存在なのです」と説教され、胸の奥で疼くものがありました。違う土壌に育ってきたこと痛感して、寂しさがふと過ぎったのも嘘ではありません。

(6月29日ミラノにて)

第4回インドネシア舞台芸術見本市

冨岡三智

今月は、先月書いた「都市文化という意識」の続きについて書くつもりだったのだが、6月5日から9日までソロで行われた第4回IPAM(イパムと読む)=インドネシア舞台芸術見本市(インドネシア観光文化省主催)について先に書いておきたいと思ったので、いつものことながら「続きはそのうちに〜」ということにさせてもらう。私は2年前にバリで開かれた第3回IPAMにも出席していて、水牛の2005年7月号、8月号にその内容を書いている。併せて読んでいただけると幸いである。

今回は前回から比べて大きく規模縮小し、またかなりの変更があった。

まず出演団体は、前回の27組に対して今回は10組、しかもその内5組が地元ソロからの出演だった。(ただし前回もソロからの出演者は多かった。)

次に見本市の舞台となる会場が高級ホテルから芸術大学になった。前回はすべての催しがホテルで行われ、かつ海外からのプレゼンターも観光文化省のお役人もそのホテルに泊まっていたのに対して、今回は、プレゼンターやお役人らは郊外の高級ホテルに泊まり、ワークショップだけそのホテルで開催したものの、舞台芸術の催しは全部芸術大学で、開会式はソロ市長公邸で、閉会式はマンクヌガラン王宮で、と市内の複数会場で行われた。

さらに、今年のIPAMの公演には一般の人々も入場できるようになった。そのためもあるのだろう、見本市の催しの上演の合間(30分)に、次の会場の入口前でアトラクションの催しも行われた。

今回のIPAMを見た感想を一言で言うならば、インドネシアの舞台芸術を海外に売り出したいというのが主目的なはずなのに、単なる普通の公演、あるいはソロ市観光プロモーションイベントみたいになってしまって、見本市のテーマがぼやけてしまったという感じがする。

その理由の1つが、肝心のプレゼンターがほとんどいなかったこと。前回の66組に対して今回は海外から4組+国内からほんの少しだったのだ。プレゼンターに来てもらわなくては、売れるものも売れまい。今回の事務局は前回とは別の会社だが、一体どういうプロモーションをしたのだろう。ともかく、外部からのプレゼンターがほとんどいないために、観客層は、ソロで芸術イベントがあるとやってくる常連の人々になってしまった。半数を占めるソロの団体にとっては、異質の観客層に向けて公演するせっかくのチャンスがなくなってしまった。

プレゼンターが少ないという以前の問題として、実行委員会や事務局側にも、外国人を受け入れる態勢があまり整っていなかった。

たとえば、会場がホテルの仮設ステージではなくて芸大にある専用の劇場(プンドポ、大劇場、小劇場)であったことは、芸術上演の観点からは望ましい。しかし、これはプレゼンターらにしてみればかなり不便なことだった。なぜなら芸大の劇場にはロビースペースがほとんどなく、周辺にも、ちょっとお茶を飲んだり休憩したりできる施設がほとんどないからである。まして外国人が抵抗を感じない程度にこぎれいな施設となると皆無である。前回はホテルですべてのことが済んだので、上演の合間に出演者や他のプレゼンターらと話をすることができた。本当はイベントを見ることもさることながら、こういうコミュニケーションを取ることの方こそ大事だと思うのだが。

さらに各催しの合間の30分(夕食時は1時間)にアトラクションがあったが、私には不要だと思える。実行委員会の1人に聞くと、これは委員会の方から芸大に依頼したことだという。しかしこれは、一般のインドネシア人観客の気質―時間が空くと帰ってしまう―対策としては有効かも知れないが、見本市の内容を見に来た外国人プレゼンターにしたら、疲れさせるだけの代物だ。

この見本市では1演目の上演時間が45分になっている。見終わったら少し休憩して気分を切り替えて次の演目に臨みたいと思っているところに、劇場の外で、大音量のスピーカーでにぎやかな民俗舞踊や音楽、その他が始まるのである。私だけでなく、他の日本人や外国人の友人にはこのアトラクションは不評だったし、プレゼンターや実行委員会側の人たちもあまり見ていなかった。ともかく、落ち着く暇がない。こういうやり方は都会的でない、田舎臭いとある友人が評したが、全く同感だ。重要なのは会場の中で行われる公演の方なのだし、プレゼンターはそれらを見にわざわざ海外から来るのだから、普通に考えたら途中で帰るわけがない。それよりも、最後まで疲れずに公演を見てもらえるように環境配備をすることの方が重要だ。そのために必要なのはアトラクションではなくて、静かにゆっくり休憩できる場所の設置と清潔な飲食物の準備だろう。

このアトラクションは開催地であるソロ市の文化を印象づけるには意味があるのではないかと言ったインドネシア人もいたが、それは歴史的な建物での開会式と閉会式、エクスカーション・ツアー(チャンディ・スクー寺院)だけで十分だ。それより私には、トイレが汚かったとか、ホテルから劇場の移動中に見える町の様子がゴミゴミしていて都市化が遅れているとか、劇場側のホスピタリティーが足りないとかの方が、むしろ外国人の印象に残るだろうと思っている。実を言うと、こういう点は、能をソロで紹介したときに能楽師さんたちの反応から私自身も気づいたことだ。高級ホテル以外の場で国際的なイベントをするのには、こんなリスクもあるのだ。

さらに気になったのが、ソロのマスコミの反応である。全国紙コンパスは別として、地元有力紙のソロポスなど、見出しにもIPAMという語がなく、記事にもIPAMの概要や全出演団体の名などが掲載されていない。公演の翌々日にある特定の公演の評が出ても、それがIPAMという枠で催されたことがほとんど分からない記事になっている。しかもIPAM出演団体ではなくアトラクションの方が写真つきで取り上げられていることもあった。これは地元紙の記者のレベルが低いこともあるだろうが、IPAMの趣旨が地元の事務局やマスコミに周知徹底されていなかったのではなかろうかという感もぬぐえない。

その結果、IPAMを見ていた観客の多くは、IPAMを単に芸大で行われている芸術イベントの1つとしてしか認識していなかったように見える。もっとも、出演者の半数がソロのグループだったことや、国内外からのプレゼンターがほとんどいなかったことは大きく影響しているだろう。そういう私も、会場はなじみの芸大だし、芸術見本市を見ているという実感があまり持てなかった。

という風に書いてきたけれど、それぞれの公演の内容自体が不満だったわけではない。メンバーをよく知っているソロの各団体の作品も、ソロではなかなか見られない地域の作品もそれぞれに力作で見ごたえがあった。だからこそ余計に、プレゼンターが少なかったこと、マネジメントの出来がよくなかったことが残念だなあと思うのだ。

製本、かい摘まみましては(30)

四釜裕子

4年前に刊行した大きな写真集の函をこのたび作ったからとりにこないか、という展が、Nichido Contemporary Art であった。佐内正史さんが2003年に刊行した『Chair Album』という写真集で、300mm×250mmの大判に四方余白をたっぷりとって写真を配したページが240ある。白と黒のウール糸を織った布で角背上製本に仕立てられて重厚感はなお増すのだが、タイトルも帯も「はじめに」も「あとがき」も、奥付すらページに刷られることなく、かつてどこの家にもあったモノクロの写真を四つ角で貼る「アルバム」を彷彿とさせる写真集だ。どんな函だろう。重たい写真集をさげてでかける。

会場には函がうずたかく積まれ、ブラウン管テレビのモニターには写真集を函におさめる様子を撮ったビデオが映されている。大きく開いた窓、そこから見える庭や通り、風。ふたりの女性が床にすわって作業をしている。函はごく普通のダンボールを折り畳んで形づくられたもので、写真集がよりぴったりおさまるように工夫がなされている。ぱたん、としめたふたの四方からぷふっと空気が抜ける。段ボールならではのやわらかな応答。女性たちの所作は次第に流れるように見えてきて、さながら「Chairの函」のためのお点前ビデオのようである。かつてある製本工場でたまたまこの『Chair Album』の最後の検査行程を目にしたときのことがよみがえる。白い大きなテーブルのうえで、多くのひとが一枚ずつページをめくっていたあの手つきだ。いわばそれに吸い寄せられてこのタイトルを知り、刊行を待ち望んだのであった。

いわゆる「本の函」とこれは違うが、「いわゆる本の函」はめっきりなくなった。保護のための必要性もほとんどないから、普段読む本に函はやっぱり邪魔ではある。函づくりをしてきた職人さんたちの技術は今、アーティストが造る本や企業が顧客に送る記念品、菓子箱や商品パッケージまで、広く活かされている。紙の素材適正や貼るためのニカワの選択、製図や抜き型の作り方から反りを防ぐための空調設備、さらには印刷への助言まで、専門性は高く深い。テキスタルデザイナーの有田昌史さんが2005年に作った絵本『IGLOO』は、継ぎのない紙に片面4色刷りして空押しし、蛇腹に折って厚表紙をつけ、それを函に入れてある。表紙と函は自らデザインした布を用いて複数種類あり、函にぴんと張られた鮮やかな布地は、棚に飾ると額装されたひとつの作品となる。製本したのは美篶堂。ぱたん、とふたをしめれば、これまた四方から細くすぅと空気が抜けた。

小さな函やさんで社長が奥から取り出してきた「試作品」のことが忘れられない。本のためのごく普通の貼函だ。やっぱり本の貼函が作りたいという。紙も接着剤もインキも日々変わっているから、いつ注文がきても応じられるように作るのだと言った。

アジアのごはん(20) バナナの花は大人の味

森下ヒバリ

バナナの花というのをご存知だろうか。形はみょうがを十倍ぐらい大きくしたようなつぼみ型である。萼が何十にも重なっていて、萼には内側にひとつづつ、おしべとめしべが付いている。外から順に受精していって皮をはぐようにその部分が小さなバナナになっていくので、バナナが実っている姿は、幾つものバナナが房になり、その房がまた三重か四重になっている。そして、その房の先にはまだバナナの花が着いている。

つぼみの形をしているのでひとつの花と思いがちだが、何十個もの花の集まりなのだ。タイやラオスでは、このバナナの花を食べる。バナナの花の内側の方の柔らかい部分をたべるのだが、そのまま齧ってみると、めちゃめちゃ渋い。

「なぜ、こんなものを食べるの?」タイに通い始めてから何年も、いや十年近くは、ずっとそう思っていた。そう思って、バナナの花の存在を無視していたのである。

バナナの花は、焼きそばに似たパッタイという米麺のナムプラー炒めの付け合せとして生で添えられるほか、スパイシーな料理の付け合せとしていろいろな生ハーブが添えられるときに、その一種に入っていることもある。バナナの花とエビやイカなどをココナツミルクで甘く和えた、ヤム・フアプリーという料理もあるが、味つけが甘ったるくてあまり好きではない。あとはカノムチーンという米の押し出し麺のたれに、バナナの花を使うものがある。

バナナの花の味に目覚めたのは、ラオスの首都ビエンチャンでのことだった。ビエンチャンに行ったときには、メコン川辺りの屋台で必ず食べる料理があり、ネーム・カオ・クルックと言う。タイ東北部にもあるが、断然ビエンチャンのものがおいしい。ネームとは豚肉のなれずしである。発酵ソーセージと以前は思っていたが、製法を知れば、なれずしであった。

このネームは、ごはんコロッケを潰したものと和えて、レタスや大きめの葉っぱの上に乗せ、各種生ハーブと揚げたトウガラシをのせて包んで食べる。この料理がなんともおいしい。生ハーブには、名前を知らないいろいろなものがある。よく知られているものはミント、バジル、パクチーぐらい。

あるとき、このハーブの中にバナナの花が入っていた。
「おいしいね〜。あれ、これは何? へえ、バナナの花。これも入れてみようっと」
「え〜、それかなり渋いよ」

初めてラオスに一緒に行った友人はすっかりこのネーム・クルックが気に入り、ハイテンションでわたしの言うことも気に留めず果敢にいろいろなハーブに加えて、バナナの花も少しちぎってネームに加え、レタスに巻いて口に入れた。
「んん。さっきより、おいしい!」
「うそ・・」

ところが、そのままでは渋くてとても食べる気のしないバナナの花は、ネーム・クルックに少し入れると、その渋みが味を引き締め、全体のおいしさをぐっと上げてしまうのであった。なんというか、背後に回ってしっかり味をまとめるというか、味の複雑さを取り仕切るといおうか、とにかく味に深みが出るのである。
「なんてことを・・今まで入れてなくて損した〜〜」

それ以来、ネーム・クルックには必ずバナナの花を加えて食べるようになった。これにはバナナの花のほかにも香菜のパクチーや揚げトウガラシも不可欠なのであるが、最近は、外国人になれてきた店主のラオス人のおばちゃんなどが、これ外人は食べないでしょ、と勝手に思ってろくにハーブの入っていないハーブセットを出してきたりすることがあり、そういうときは断固として要求しなくてはならぬ。

ビエンチャンのメコン川辺りには、メコンに沈む夕陽を見ながらラオスビールのビアラオを飲み、ごはんを食べることのできる屋台がたくさん出ているのだが、ここ数年どうも味が低下してきている。タイと橋でつながり、観光客がふえ、外国人の客も多いせいか、なにか手抜きで、外国人に迎合した味の店が増えてきたのが残念でならない。

そうこうするうちに、また最近あらためてバナナの花に目覚めた。タイにはパッタイという米の麺を炒めた料理がある。たいへんおいしくて簡単な料理なのだが、店によっては麺がベタベタだったり、激甘にするところがあって、味のレベルの差が激しい。なので、味をよく知っている店でしか食べないようにしていた。
バンコクの定宿の近くにあったパッタイ屋さんがなくなって、しばらくパッタイをあまり食べていなかったのだが、また近所に店が出来た。さっそく友人と一緒に食べに行く。
「この店、おいしいといいなあ」
「甘くしないで、とちゃんと言えばいいんちゃう?」

とりあえず、初めての店は食べてみなければ分からない。作り手のお兄さんは、誠実そうで、てきぱきと麺を炒めている。出来上がったパッタイは、たいへんおいしかった。そして、通うことになるのだが、この店でもときどきバナナの花が付け合せについて来た。それまで、パッタイについてくるバナナの花は、少し齧るぐらいで、ほとんど食べなかったが、ふとラオスのネームを思い出した。
「ねえ、このバナナの花も、小さくちぎって混ぜて食べたらおいしかったりして」
「あ、そやわ。ネームを食べるときみたいに・・」

タイ人のパッタイの食べ方を見ていても、むしってそのまま食べる人はいても、細かくちぎって麺に混ぜ込む人は見たことがない。しかし試しになるべく柔らかそうな萼を選んで混ぜてみると、やはり、ぐぐっとおいしくなったではないか。
「く〜っ、なんでもっと早く気付かなかったんやろ〜」
「まあ、気付いたからええやん・・」

このとき初めて、バナナの花がパッタイの付け合わせとして存在している価値が分かったのである。タイと付き合い始めて、パッタイを食べ始めてもう二十年近くなろうというのに・・。ビエンチャンでネームとバナナの花の相性に目覚めてからも数年が経っていた。渋さというのは、なかなか一筋縄ではいかない味であることよ。

それにしても、タイ人はこのすばらしい渋みの効用に気付いて添え物としておきながら、食べない人も多いし、それになぜ混ぜ込んで食べないのだろう。そのまま食べても渋いだけなのだが。渋さに強いのか? う〜ん、口の中で混ぜているのかしらん?

陰陽・四大・偏差

高橋悠治

 [生き物文化誌学会「ビオストーリー」vol.5, 2006に掲載された文章の改定]

古代人は考えていた
人間がうごかすことができない ものごと
いつ出会うかもしれない それらを徴として

日が沈むと 創造の夜が来る
陰は暗い空間 保存の状態 これを母とし
陽はひらかれる時間 離れていく運動 これを父とし
すべては変わり 崩れていく
陰の1/8老陰は変質して 陽になり
陽の3/8老陽は 陰になる
あわせて 全体の5/8が陰に変わる
見上げる空に
太陽は星々の極 月は惑星の極

そして地上では
土は堅く また柔らかくひろがるはたらき  
水は流れ あるいはまつわりまとまるはたらき
火は熱く それともぬるく ならしととのえる
風は うごきをささえ つよめるエネルギー
それら四大は 身体のなかにも外にもあって
むすびつき 切り分けられない
さらに色があり 香りがあり 味があり 養分がある
もののなかで それだけを取り出すこともできず
ものの外に漂っても そこから離れない

暗い空間を落ちる雨の粒のように
見えない原子の偏りが 飛び散り 引き合って
たえず作られ こわれていく世界
その一瞬にかがやく結び目の網が 
それは見えないこの世界のはたらきの 見えている徴

アジアのごはん(18)竹の子の漬物

森下ヒバリ

先日、家の近所の八百屋さんで赤紫色の皮の細い竹の子、淡竹が売られているのを見かけた。淡竹と書いて、はちくと読む。柔らかい孟宗の竹の子が終わる頃に、食べごろになる歯ごたえのある竹の子である。淡竹は日本のたけのこの中で、タイの竹の子の味にいちばん近い味だ。炒め物、タイカレー、佃煮に向く。

この竹の子を見るといつも、バンコクの定宿の近所にある、おいしいおかずかけごはん屋のことを思い出してしまう。で、くだんのバンコクのおかずかけごはん屋さんの料理のなかで、わたしが大好きなおかずのひとつが、パット・プリック・ノーマイドーン(竹の子漬の唐辛子炒め)という竹の子料理なのである。

見た目は、竹の子の薄切りを鶏肉とキノコと炒めただけである。おおまかにすり潰したトウガラシの赤い色がアクセントだ。ところが、この料理、じつに味わい深い。さわやかな酸味もあり、あっさりとナムプラーだけの味つけのはずなのに、なにこのおいしさは・・! この店に毎日このおかずがあるわけではないが、作り手のおばちゃんも好きらしく、よく登場するメニューではある。

何度目かにこの竹の子炒めを食べた後、わたしはこの料理の名前をおばちゃんに尋ねた。名前を聞いて、この味の深さが分かった。この薄切り竹の子は、ただ茹でただけのものではなく、軽く漬けて発酵させてある竹の子だったのだ。

市場に行くと、根元の部分をごく薄く輪切りにした竹の子を水の入った大きなボウルに入れて売っているが、それが竹の子の漬物ノーマイ・ドーンだ。この漬物の詳細については調査をし忘れたので(食べる方が忙しくって・・)、憶測だが、薄い塩水に漬けて発酵させる漬け方だと思う。だから発酵の程度は軽い。日本の古漬けなどを想像してもらっては困る。でも、酸味が出て、うまみがぐっと増している。

薄くて、しゃくしゃくと歯ごたえのある竹の子とキノコと鶏肉の味のからみは絶妙である。自然の酸味とナムプラーの調和。完璧な味だ〜と、いつもの二倍の量をごはんに乗せてもらって食べていたら、口のまわりがヒリヒリして腫れてきた。辛い。おなかが熱くなってきた。どうしてこんなに辛いのだろう。この店の料理の中でも一、二を争う辛さではないか。でもこの辛さが竹の子の酸味に合う。タイ人は酸味と辛味の使い方がほんとうに上手だなあ、と感じ入る。でも次からはやっぱり、一人前食べるだけにしておこう・・。

このおかずかけごはん屋さんの竹の子炒めはじつはもう一種類ある。同じ味つけのものなのだが、竹の子は根元の方のスライスではなく、上の方の部分で、拍子木切りか削ぎ切りのような形にしてある。そして、具はルークチンというつみれのような物。形は丸いが、味は魚かまぼこである。そして、キノコと赤いトウガラシ。

味は同じく辛く酸っぱくナムプラー味であるのだが、食感がかなり違うので、同じ料理とは思えない。竹の子はつるりとした舌触りで、ルークチンもふにゃふにゃ、つるり。うーん、これはまたこれで、なかなか。しゃくしゃくの方が好みではあるが。

この店のおかげで、わたしはすっかり竹の子好きになってしまった。しかし、タイのたけのこ料理の中にはちょっとなじめない料理もある。タイ東北部の料理でスップ・ノーマイという。竹の子の煮物なのだが、これもけっこう酸味があるが、やはり発酵した酸味だろうか。と思い、イサーン料理の本をめくってみたら、そうではなかった。

こちらは茹でた細い竹の子を木の棒などで叩いて、縦の繊維に沿って細かく割る。それを食べやすい大きさに切って、ひたひたの水で煮て、ナムプラー、プララー(塩辛液)、マナオ汁で味つけする。炒った米粉も入れる。生ハーブで和える。細ネギ、ミントの葉、そしてパクチー・ラオことディル。粉トウガラシ。まるで、たけのこのラープ。(ラープというのはイサーン料理の一つでスパイス叩き和え。おもに肉や魚を叩いて作る。ウマイ)
バンコクの友人オノザキさんはこのスップ・ノーマイが大好物である。だから、彼と一緒にイサーン料理を食べるときは必ずこれを頼む。ただし、彼の目の前からこの皿が動くことはほとんどない。食べられないわけではないが、何か食指をそそらないのだ。プララーの味は好きだが、たくさん入りすぎなのか。生ハーブのディルだって、かなりクセが強いがそんなに嫌いなわけでもない。

料理本のスップ・ノーマイのレシピにヤー・ナーンという不審なハーブの名前があった。聞いたことがない。辞書で調べると、たけのこのえぐみをやわらげるための薬草、とある。ただし、本当は心臓に悪い毒草で、タイでは薬として少量使うという。レシピには少量どころか20枚も葉っぱを入れろと書いてある・・いいのか? もしやこの毒草を舌が拒否しているのかしらん?

スップ・ノーマイはともかく、わたしは竹の子炒めがあれば幸せである。明日にでも八百屋さんで淡竹を買ってきて茹でようっと。根元の方をスライスしたら塩水に漬けてみようか。冷蔵庫の中で残った茹で竹の子が、酸っぱくなっているのを「ありゃ、腐っちゃった」と捨てていたのは、実はもったいないことだったのかもしれない。乳酸発酵しておいしくなっていただけではないのか。

もし、冷蔵庫に残り物の竹の子があって、それがどうやら酸っぱくなっているようだったら、ぜひ薄く切って炒めてみてください。今のところわたしの冷蔵庫には残り物の竹の子はないので自分で実験は出来ないですが、万が一乳酸発酵じゃなくて、腐敗であった場合でもわたしは何の責任も持ちマセン。

ラオスの南部の町パクセーの市場の隅では、一斗缶に水を入れて薪で焚き、そこに竹の子の皮を剥いては詰め込んで茹で、そのまま封をする作業を行っていた。市場の茹で竹の子はこんな風に作られていたのだ。タイの場合はもうガス火の場合がほとんどだろうが、ラオスでは今も薪や炭が大切な燃料である。薪や炭で煮たり焼いたりしたものは、なんでもうまい。薪で豪快に茹でる竹の子をつい、うっとりと見つめてしまった。小さな頃まで生家にあったおくどさんが懐かしい。いや、もう一度ほしい。

都市文化という意識

冨岡三智

ここソロ(正称スラカルタ)市では、観光都市化を目指していろんな取り組みが行われている。もちろんインドネシアは昔から観光に力を入れていた国で、ソロでもそれは同様だ。特にソロには2王宮が存在するから、観光の目玉といえば王宮であり、また王宮文化に端を発する舞踊や音楽といった芸術ものになる。だから、ソロの観光インフォメーションセンターでもらえるチラシなどには、カスナナン王家、マンクヌゴロ王家を筆頭として、ラジオ局、スリ・ウェダリにあるワヤン・オラン劇場、芸術大学や芸術高校などが観光スポットとして載っている。

しかしこういう芸術の専用機関とは別に、最近では特に、地域一帯で、あるいはまた公共の場で、町おこし的なイベントが仕掛けられるようになってきた。

たとえば昨年9月1日〜7日までソロではワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていたのだが、その時にカウマンというバティック産業の地域で、ある晩いろいろなイベントがあった。2階にはずらりとバティックを干してあるバティック工房の中で現代的な舞踊や影絵が行われ、その次には路地の辻に小さいステージを組んでの有名な歌手の公演があり…と、観客はその地域内を移動しながらいろんなイベントを見る。

そこでは芸術イベントの内容自体よりも、バティック工房の中を見せること、そしてその地域自体をアピールすることに力点が置かれていたように思う。この地域は私の住んでいる地域から大通りをはさんですぐ向かい側にあり、昔からよく自転車で通過していた。しかし別にバティックの小売店があったわけでもなく、表からは何をやっているのかよく分からない家が並んでいて、地味な印象しかなかった。けれど、そのフェスティバルの時に行ってみたら、新しくバティック製品の小売店も何軒かオープンしており、またバティックをする婦人像を軒先に据えている工房もできていた。これらはどれも、バティックの商取引をする人たちにとっては直接関係のないものである。これらは明らかに、バティック産業の地を見たいと思っている(潜在的)観光客のために設けられたものだ。

また先月のことで言えば、5月12日に花市場でジャズ・イン・パッサールという催しが、また5月17〜20日まではヌスッアン市場、トリウィンドー市場、大市場、花市場でそれぞれ芸術フェスティバルがあった。私はこれらのイベントは見ていないが、新聞の写真(花市場でのイベント)を見た限りでは、子供の踊りがあったりして日本の「○○祭り」という感じの雰囲気のようである。どちらもマタヤ・アーツ・アンド・ヘリテージというプロダクションが手がけている。

同じマタヤが手がけているイベントに、隔年実施の「ソロ・ダンス・フェスティバル」というのがある。(これはソロ=スラカルタのダンスの催しではなくて、ソロ=単独の舞踊の催し)今までは芸大の劇場で実施していたのだが、今年4月はオランダ時代に建てられたDHC’45という建物の敷地内で実施された。私は1日目の計3演目しか見ていないが、1人目は鉄の中門の外側で上演し、2人目はその門の中を入ってずーっと移動しながら、ちょうど先ほどの門の内側で上演し、3人目は、2階建ての建物の裏階段の下から上へ、そして2階のバルコニーで上演した。

劇場専用の建物に限られた芸術家だけが集まるというのではなく、芸術をもっと身近なものにしたい、一般の人が多く集まってくるところに芸術を進出させていきたい、とマタヤは考えているようだ。さらにソロの町には王宮以外にも文化財としての建物が多くあり、そのような場で芸術イベントを催していきたいということだった。つまり、都市固有の価値、歴史的記憶に裏づけされた芸術を打ち出していきたいということなのだ。以前は芸術プロダクションを名乗っていたマタヤが、最近アーツ・アンド・ヘリテージと改名したのもそのためだということだった。

(続く)

イラク的な生活

さとうまき

最近、日本の中にいて、イラク的な生活をどうやって造っていくかを考えている。

この間札幌に仕事に行ったときに農的な暮らしという言葉を聞いた。建築家の永田さんが、山の中で暮らしていて、レストランのようなゲストハウスのような「やぎや」をやっている。やぎを飼っていて、乳を絞り、チーズも自家製。裏庭には、畑がある。農的な暮らしをして、戦争しなくてもいい社会を作りたいという。自給自足に近い生活だ。

でも、北海道の気候はアジアの農村とは違う。ニューヨークのようだ。2005年にNPT(核非拡散条約)の延長会議で、国連本部のあるマンハッタンに行ったのだが、そこで知り合った平和運動家のおばさんたちが、ヒッピーをやっていた人たち。「ヒッピーの村があって、ヒッピーの子どもたちの通っている学校がある」というので、マンハッタンからバスに乗って、NY州の州都、オーバリーというところに行った。そして、彼らは、もともとマンハッタンに住んでいたのだが、当時を懐かしみ、ウッドストックあたりに住んでいた。

マンハッタンで暮らす人たちは、なんだか、いつもおびえているようだ。バリバリと音を立てて働き続け、高層ビルにしがみついてないと落ち着かない。いつも、アメリカに忠誠を誓っていないといけない。市民権がいつ剥奪されるかにおびえているような気がした。でも、ここのウッドストックに住んでいる連中は、白人のアメリカ人そのもの。アンティークな屋敷をリノベーションして、楽しく暮らしている。平和について言いたいことが言える。北海道もなんだか、同じようなゆとりを感じたのである。気候も近いのだろう。

驚いたことに、札幌には、JIM-NET農園というのがあって、イラクの医療支援をやろうと、有志で畑を借りて、農作物を作っている。収穫した野菜を、バザーで売って換金して、イラクのがんの子どもたちの薬代を捻出してくれている。小さな畑らしく、そんなに収穫できるわけではないけど、皆が楽しみながら農的暮らしの中にイラク支援を取り入れているのが素敵である。

さて、東京に帰ってきて、満員電車にのるとたちまち頭痛がしてきた。イラクからのニュースは、爆弾テロばかり。相変わらずイラクでは平均して毎日100人が巻き込まれて死んでいる。皆うんざりしている。「暮らしの中にイラクを取り入れるって、自爆テロでもやるの?」といわれてしまいそうだが、そうではない。つまり、暮らしを見直して戦争しないようにするのだ。

日本がイラク戦争を支持した理由は、一言で言えば、日本の国益にかなうからだ。アメリカが言ってたような大量破壊兵器もなかったし、911を支援したという証拠もなかった。それでも、いまだに日本が、自分たちがやってきたことが正しいと言い張るのは、国益である。国益といえば、日本人皆が豊かになって幸せになりそうな響きがある。これって、結構魔法の言葉みたいだが、現実はどうなんだろう。戦争をやれば、お金が動くから、一部の人は儲けているだろうけど、石油の値段だって、上がり続けているから庶民の生活は決して楽にはなっていない。国民の税金は、アメリカの国債を買って、結局戦費に使われて軍需産業が儲かるのだろう。戦争なんかしなくたって、お金なんかなくたって、のんびりと豊かに暮らしていける方法があるはずだ。ただし、貧乏くさいのはよくない。

久しぶりに、日本国際ボランティアセンターの事務所に行くと若者たちが石鹸を作っている。タイで自給自足的な生活をしてきた若者が、廃油を利用して石鹸を作っているのだ。そういうライフスタイルを東京でもやってみようと遊んでいる。そこで、イラク石鹸を作ってくれと頼んだ。簡単にできるらしい。イラクっぽい香りとして、アラビアコーヒーの粉末を混ぜてもらった。熟成に一ヶ月くらいかかるそうだ。これを、イラクの子どもたちが描いてくれた絵でパッケージにして、友達に配るのが楽しみである。今度、ヨルダンに行ったら、イラクっぽい香りを探してこよう。ジャスミンの花とかいいかもしれないし、バスラの乾しライムなんかも使えるかもしれない。やがては、石鹸教室を開いて稼いでやろう、なんて。

一週間に一回ぐらいは、バスラに電話をする。イブラヒムは、最近、停電がひどいとぼやく。一日に3時間くらいしか電気が来ないそうだ。もう住民は怒りまくって、タイヤに火をつけて抗議しているという。タイヤに火をつけるものだから、またまたバスラは糞暑くなる。暑い、暑い。気温は最高気温で45度、最低でも30度になっている。そんな中でもうれしいニュースといえば、がんが再発して右目を最近手術したササブリーンの話題。サブリーンの描く絵にはいつも12歳って書いてある。もう2年くらい経っているから本当は14歳くらいだと思うんだけど。「サブリーンが猫を飼い始めた」3匹飼っていてとってもかわいいらしい。イブラヒムは写真をたくさんといってきたといって誇らしげだが、停電が多くて画像を旨くパソコンで送れないと嘆いていた。

サブリーンの絵を大きく引き伸ばして部屋に張ってみる。イラク的な暮らしもだんだん様になってきたようだ。

朝の5時、こんな時間に電話。相手はイブラヒムである。いやな予感がするけど、イブラヒムは電話口で、「がんが再発した子をシリアで放射線療法を受けさすんだ。明日出発するんだ。皆でカンパを集めているので、日本からもいくらか出して欲しい」
「いくらいるんだ。」
「いくらでもいい」
「だから、いくらなんだ」
「いくらでもいいんだよ」
イラク人ってこういうときはっきりと金額を言わない悪い癖がある。
私は寝ぼけながら、「じゃあ、100ドルね」
「サンキュー、サンキュー」とイブラヒム。
でも、バスラからシリアまでは、車で移動しても500ドルくらいはかかりそう。
「じゃあ、とりあえず、200ドルね」
「サンキュー、サンキュー、サンキュー」
イブラヒムのサンキューの回数が増えた。訃報じゃなくてよかった。無事に治療が受けられますように。

また、うとうとして、目を覚ますと、北海道からもらってきたミントの苗が伸びている。ひょろっと伸びている。このまま伸びるとジャックと豆の木のように天まで伸びていきそう。いいぞ、いいぞ。早く、イラク風のミント・ティを飲みたいものである。

イブラヒム来日決定
8月10日から9月10日までバスラの小児がん病棟で活躍するイブラヒム先生を日本に招聘することになりました。
皆様のカンパや講演会の企画などを募集しています。
詳細は http://www.jim-net.net/notice/07/notice070530.html

八本の針(翠の虱32)

藤井貞和

刺繍による、布地のうえの曼珠沙華、ヒナゲシ。

縫いとる絨毯を引き辟(さ)くこと。 ぼくのシーツ。

あめ牛、馬が糞をする、そのうえに小便をするぼくの、

美しい絨毯。 現実の像だ、図形によって色相を奏でる、

浮紋だけが真偽を超えるから。 菅(すげ)よ、

ここにあなたを引き辟(さ)くための八本の針がある。

……一本は龍樹の鉢のなかに落とされた針である。

童話のなかにあった、寝転がって見ていたら。

「ぽとりと落とされた針の極微(ごくみ)を」と、そこにはあった。

中間子の白雪姫がひろった。 湯川(=秀樹)が

宇宙の箱を差し出して、輪に描く。 切り辟(さ)き魔よ、

天の運針によって、大きな大きな輪をえがいて! 

「えがく」という語をどうか、文字通りに受け取ってほしい。 

これにかぎらず、どうか。(4月1日)

(「電話口で、詩を読むように話してくれた。/神様、神様、/誰が、私たちの望みをかなえてくれるの?/たくさんの贈り物で、この日を幸せにして。/私が、学級で勉強するのを助けてくれるとうれしいなあ。/科学の力で私の頭を賢くして、心をきれいにして。/私とこの国をすべての悪いことから救ってください。」〈[水牛のように]5月1日「太陽の布団」佐藤真紀〉より。私こと、〈戦争のない国〉研究に今月から取り組んでいる近況です。)

しもた屋之噺(66)

杉山洋一

とんでもない暑さが続いて、流石に扇風機を使い始めたかと思うと、途端に気温が下がって今度は毛布を出したりしています。と思えば、突然もの凄い嵐が吹き荒れて、3時間もすると何事もなかったかのように天気が戻ってきたりします。剥げていた庭の芝が、ようやく生え揃いつつあって、ペットボトルを振り回して新しく蒔いた種を食べにくる鳩や小鳥を毎日追い散らしつつ、元気よく伸びるホウレン草やルーコラを摘んでは新しい料理を考えるのが、家人のちょっとした楽しみになっています。ルーコラなど、生で食べることくらいしか考えていなかったものが、ボウボウ生えて、どんどん食べないことには雑草化する状態になると、いろいろ試す余裕も出てきます。炒めても苦味がちょうどよい塩梅に上がることが分かって、チリメンジャコと大蒜と一緒に炒めて中華だしで味を調えた炒飯など乙なものです。

ここ暫く、ひどく寒い毎日が続いているので控えていますが、暑気にやられていた頃は、毎日芝の水撒きを息子が楽しみにしていて、ホースの水とさんざんじゃれては、通りかかる犬やら近所のおばさんたちに声をかけていました。

イタリアに来たばかりの頃に比べはっきり自覚できるのは、人間の可能性への確信です。本当にたくさんの人に出会って生きてきて、本当に厭だと思える人に会ったことがないのと、周りのひとたちが、見違えるように輝いてゆくのも見て、人というのは、本当にいいものだと思えるようになったのでしょう。このように感じられるというのは、自分がそれだけ恵まれた環境に育ち、恵まれた友人に囲まれて生きている証だろうし、有り難いことだといつも思っているのです。

イタリア人のヴィオラ奏者でPという男がいるのですが、彼は確か今27歳くらいだと思います。18歳まで遊びでヴァイオリンをさわっていた程度で、高校を出たら両親は彼を保険会社に勤めさせる積りで、彼自身ほとんど就職を決めていたところが、青春時代のもやもやから何となく就職もやめ、やることがないので嫌々ヴァイオリンでディプロマを取ったのが21歳くらい。それからヴィオラに転向し、ナイトクラブでタンゴなど弾いていて、自分でも何をしたいのか分からないから、とりあえず作曲の勉強でもしておこうと思い、ヴィオラを勉強する傍ら、2年ほど個人レッスンを受けていたらしい。

ミラノの若いアンサンブルで、ヴィオラをどうしても探さなければいけなくなって、ロンバルディアの田舎に住んで、作曲も勉強している友達がいる。まだヴィオラになって間もないので、楽器に関しては自分のものとなっていないかも知れないが、すごく真面目だし、本当にやろうと思うと、すごくしっかりやる男で信用できる。試してほしい、と言われ、ヴィオラが弾けない男をわざわざ選ぶアンサンブルも変わっているが、自分のアンサンブルでもないし、まあいいか程度の気持ちで会ってみました。現代音楽には興味があるが、自分にはとても出来るはずがないですから、と、とても尻込みしていたのを覚えています。

実際弾かせてみると、決して器用なわけではなかったのですが、人間的にも信用できそうだし、音が太くて良かったので、暫く一緒に仕事をしてみることになり、こうして今まで付き合いが続くことになりました。

それからというもの、人一倍真面目に楽譜を勉強し、こちらが幾ら細かく注文をつけても文句も言わず、瞬く間に上手になっていきました。上手になったからといって偉ぶるわけでもなく、人間的に誰からも信望されて、周りのアンサンブルからも声がかかるようになったころ、ようやくヴィオラのディプロマの試験を受けるとか受けないとか言っていた記憶があります。

そうやって、いつしかあちこちのオーケストラからエキストラに呼ばれるようになり、そうすると、オーケストラのオーディションの招待も少しずつ受け取るになり、今はオーケストラ・ケルビーニの首席として、ムーティなどと定期的に仕事をするようになりました。アンサンブルを振りに来たドイツ人指揮者に引き抜かれて、ドイツ・ケルン放送の新曲録音を頼まれたりするようにもなり、以前のどことなく不安な面影もなく、とても充実しているのがわかります。
「自分の周りにはずっと音楽の才能のある友達が何人もいる。18歳のころ、友人のピアニストのAなど、雲の上のような存在だった。何でも知っていて、何でも出来て本当に尊敬していたのに、彼はこの歳になってもコンヴァトの伴奏研究員で使いまわされている程度だろう。世の中は何て理不尽なのかと歯がゆくなる。何が違うのだろうかと何時も不思議に思うんだ」。

ヨーロッパの人たちは、日本的な器用さを誰でも持っているわけではないので、たとえば指揮のレッスンをしていても、どうにも上手くならないことも多いのです。そのなかで、恐らく最も指揮が不可能と思われていたジャズマンが一人いたのですが、昨日の指揮のレッスンでは、ジークフリート牧歌を上手に暗譜で振っていました。一体何年勉強を続けたことか。とにかく、まだ駄目だといわれても、勉強を続けたい一心でとにかくこつこつと続けてきて、いつしか、彼の顔つきも変わってきました。奇跡とまでは言いませんが、昔の彼を知っている人が見れば、恐らく奇跡と呼んではばからないかもしれません。

人間にはこういうとんでもない可能性があって、その可能性を引き出せるのは本人だけなのだな、奇跡というのは、そんな、とんでもない無限の小さな力が起こすものなのだな、そんなことを、2歳になった息子を眺めながら感じています。

(5月31日 ミラノにて)

製本、かい摘まみましては(29)

四釜裕子

「オペラ座のジオラマを一緒に作らない?」と八巻さん。ジオラマ? 何で作るの? オペラ座なんて外から見ただけで入ったことがないんだけど……。数日後、江戸前寿司を食べたあと八分咲きの桜の木の下で八巻さんが見せてくれたのはA4サイズの冊子。「これを切って貼って組み立てるのよ。どう? おもしろそうでしょ」。L’Instant Durableというフランスの会社が作るオペラ座(ガルニエ)の紙製建築模型組み立てキットといったところか。

縮尺は250分の1、正面から見て左右に分けた形で作り上げ、外側だけではなく一部は内部も組み立てられるようになっている。完成すれば38cm×63cm×高さ26cm。作り方と建物についてそれぞれごく簡単な説明が付され、のりしろには合番がふられているから作業はそれほど複雑ではないだろう。ある雑誌のオペラ座特集に、これを仕上げて載せようとのこと。冊子は片岡義男さんのものだからそのまま使うわけにはいかず、カラーコピーして持ち帰る。折しもBSで映画『オペラ座の怪人』を久しぶりに観る。

段取りを考えて、早速いくつか切り抜いてみる。パーツに分けると、ペーパークラフトとしての細やかな設計が際立つ。コピー用紙で、大丈夫だろうか。ボンドでうまく、貼れるだろうか。試しに、正面玄関の二階、レンガをアーチ状に組んだ天井部分を組み立ててみる。三枚を貼り合わせて立体がたちあがった瞬間に、ひしゃげてしまう。両面テープで張るにはのりしろが小さい。「八巻さん、これ、無理かも」「じゃあ裏貼りしようか」。ケント紙を貼って、やり直す。

裏貼りのおかげで紙に張りが出て伸びも防げたが、その厚みによって今度は折りがうまくいかない。へらを使って折り山をつぶすが、繊細な設計とは厚み分の誤差が出てしまう。のりしろが水色に塗られているので、はみ出ると目立つ。二等辺三角形を重ね貼りするようにして作るドームも、てっぺんに厚みが重なってうまくおさまらない。「どうしましょう」「気にしない気にしない」「そっか」「そうそう」。いい「加減」のチームだ。

それから週におよそ一度、顔を合わせて組み立てた。途中合番が見つからなければ誤植だと言いのけ、貼る相手が見つからないのりしろは切り捨て、紙幅が足りなくなればひっぱって伸ばして貼りもした。毎回やりはじめは二人とも気が遠くなっているが、慣れてくると「今日で完成かもね」、そうしてつごう4回の作業であった。最後に撮影の段になって、貼り忘れていた天井画の縁がやっぱり気になりもじもじしていると、カメラマンのあべさんが「両面テープでひっかけるようにしたら?」と抜群のアドバイス。ピンセットでそっと差し込み、シャガールの絵の縁にひっかけて、その粘着力があるうちにカメラにおさめていただいた。

全体を眺めてみると、正面入口から見て一番奥、そこは事務棟なのだろうか、屋根の部分は小さなパーツを複雑に組み合わせて貼らねばならず、えらく面倒だったのになんだか地味だ。できるだけ窓を多くとろうとしたのかただ増築を重ねただけなのか、中庭というにはあまりに狭い空間を囲む構造も、外側からはわからない。それに、一番大きな三角屋根に付けた小さな出窓はやっぱり謎だ。窓を開けても外が見えない。「オペラ座の蜂蜜」の蜂蜜の部屋か。あるいは鳩部屋? いったい、どんな部屋なんだろう。とにかく、遠目に見れば見事なオペラ座が完成だ。どんなふうに誌面に出るやら、不安だけどもう満足、なのであった。

撮影したその日、八巻さんがまたまた「こんなのがあるわよ」と取り出したのは桂離宮である。集文社刊、縮尺は100分の1、建物の説明は宮元健次さん、模型制作は小保方貴之さんだ。印刷は鮮明で、「敷地」として庭を描いた台紙も付いている。なにより気になるのは、クリーム色を帯びた「紙」。伸びにくく折り山がつきやすく、厚みはないけど張りがあって、きっとこのために開発された特殊な紙に違いない。これは試してみなくては。ただ、興を削がれる要素がふたつ。作り方の説明が丁寧過ぎること、表紙に「最後までがんばって模型づくりの楽しみをさらに深めてください。」とあること。集文社さんはよけいなことを言いなさる。

アフロ・アジア的

高橋悠治

数える デジタル 量る アナログ 
デジタルは点描 アナログはスケッチ
固まった輪郭を溶かして 
書けない 言えない 微妙な変化を感じてください
ほの暗い空間に明滅する 眼差し
地下から現れ どこともなく消えてゆく 川
始まりもなく 終わりもない 流れ
巡りはじめると ささやきに引き込まれ
つぶやく声が起き上がり
心は揺さぶられ だんだんに鎮まる
だれのものでもない意識がめざめる
指先のかすかな揺らぎも はっきりわかるほど
眼交いに 揺れうごく気配
何ものかが 周りをうろついている
500年も世界にこだました軍隊の行進
その後から 賛美歌の合唱
そんな無残な響きを洗い流してくれる
囲い込まれた島々にまき散らした種から
黒い大西洋を渡って運ばれた リズム
密やかな両手が撚り合わせる アフロ・アジアの書
モザイクからアラベスクへ アラベスクから文字の模様へ
見渡せば 遠い霞が縁取る 乱れた線
暈 影の光 あいまいに光る葉陰
ゆっくり移ってゆく色に 偲ばせる 長雨の兆し
染みわたる虹の 徴

* いくつかのことばを石田秀実と井筒豊子から借りて

太陽の布団

さとうまき

今日は、久しぶりに晴れた日曜日だ。ふかふかの布団が心地よい眠りをくれる。布団を干すことが、ここまで気持ちいいのかと、改めて思う。いつまでも寝ていていいのかもしれないけど、なんだか不安が吐き気に変わって、もはや居心地は悪くなり、布団から出る。

イラク戦争が始まってから4年。イラクは地獄に落ちてしまったが、この日本は、どうなんだろう。なんだか、息が詰まりそうで、僕の周りには、酸素が少ないような気がする。イラクでは、難民が数百万いるのに、日本ではネットカフェ難民? 街中には、ホームレスが増えている。政府がいつも説明する国益のために、賛成したというイラク戦争の効果は、どうなのか。

イラクのニュースは、今日もテロばかり。100人以上が殺され続けている現実には、胸が痛む。イラクの友人が巻き込まれていないか気になる。日本もイラクも暗い話ばかり。

そんな中で、写真が送られてきた。戦争前に出会ったスハッドちゃんという9歳の女の子がいたのだが、とっても素敵な絵をかいてくれた。両手をいっぱいに広げた少年の絵。それは、後ろにいる女の子を守っているかのようだ。それをポスターにして、何万枚も作って僕らは戦争反対を訴えた。03年戦争が始まったときに、ああ、どうしてるんだろうと心配したが、音楽学校の庭に防空壕を掘って難を逃れていたのだ。お父さんが、学校の守衛をやっているので、住み込みで学校で暮らしている。

戦争が終わると盗賊が学校をめちゃくちゃに壊していった。ピアノを壊したり、バイオリンを壊していったのはアメリカ軍ではなかった。イラク人である。隣の児童館も、ダワ党がやってきて、児童館を破壊して政党事務所にしようとした。ダワ党は、今のマリキ首相の党である。子どもたちは涙して、「イラクはひとつ!」と訴えていた。ああ、その子ども達の言葉の重み。イラクは一つになれず、イラク人同士が殺しあう状況が続いている。

そして、スハッドちゃんの写真を見るとすっかり、立派な娘になっている。もう14歳になるのだ。生きているってすばらしいなあと思う。そして、平和のメッセージを書いてくれたそうだ。あの少女の目のきらめきは、衰えることなく、輝き続けている。

先日、ジャーナリストの綿井さんの報告会に行ってきた。先月バグダッドに行っていたので、その話が楽しみだった。彼とは、04年の3月にイラクで会って、がん病棟の取材をしてもらった。スハッドちゃんにも会っているので、バグダッドに行くんだったら会ってきてと言っておいた。
「取材は厳しくて。病院の取材はできませんでした。保健省の許可がでない。挙句、賄賂を要求される」
学校もなかなか難しくて、通訳の関係する別の学校の映像を見せてくれたが、綿井さんは、危なくて行けなかったという。映画リトルバードに出てくる子ども達に再会するのだが、それも、コンクリートの壁に覆われた、パレスチナホテルまで来てもらったという。通りまで見送りたかったそうだが、外国人と一緒にいるところは見られたくないと、家族たちは、去っていった。なんともさびしい映像だった。

一方、私がであったバスラの白血病の子ども達は、この4年でほとんど死んでしまった。バスラに電話するとイブラヒムが、病院にいるという。アルラール・ジャバルちゃん(9歳)が電話口で、詩を読むように話してくれた。

神様、神様、
誰が、私たちの望みをかねてくれるの?
たくさんの贈り物で、この日を幸せにして。
私が、学級で勉強するのを助けてくれるとうれしいなあ。
科学の力で私の頭を賢くして、心をきれいにして。
私とこの国をすべての悪いことから救ってください。

うれしくなった。生きている。生きて欲しい。
この詩を友達に見せたら、「膨らませて曲をつけてみよう」ということになった。楽しみだ。
5月27日のライブで歌ってくれるという。
さあ、私はこれから布団を干して、ふかふかの布団に寝よう。
そして、子どもたちに届ける薬代、数千万円を今年度も集める計算をしなければならない。よく考えたら私の仕事はいつ倒産するかもわからない中小企業の社長のようなもの。このストレスを乗り切るのはまず、ふかふかの布団だな。太陽をいっぱい吸収して。

『イラクの子供達は今 vol.2』5月27日(日)新宿LIVEたかのや
スタート/13:00(終了〜15:30)
料金/¥3000+1ドリンク

Nights(翠の虱31)

藤井貞和

Outrageous!
Two kids died, and
then a whole bunch of
them, including her son,
was shot and
she did not hear until
a quarter to 11 at night.

In Nagasaki by terrorism
the mayor Ito was shot
and died in the hospital at
night, the peace-declared
city’s nightmares.

32 person’s faces, at CNN site, young
or aged, futurefull students
or Liviu an old professor who
protected one of the classroom’s
doors.

Ross, 20, her sophomore son who
had just declared English as his
major was suddenly attacked by the
discontinuing of his dreams.

(Three 18, four 19, six 20, one 21, four 22, ……。以前に服部君のお父さんお母さんの尽力が功を奏してか、銃規制の時限立法をかちとったことがある。銃社会下で、武器を持たない大学社会が無防備であることの悲劇は、銃規制を強化することに一縷の望みをかけて再発を繰り返さないようにする。やれるのか、アメリカ合衆国は。)

11月のスリンピ公演〜舞踊について

冨岡三智

……ここまで書いて、はたと、公演の周辺のことばかり書いていて、肝心の舞踊については何にも書いていないことに気づく。というわけでそれはまた来月に。(続く)

と先月号の最後で書いたけれど、舞踊そのものについて書くというのは難しい。別に舞踊だけに限らないけれど、当事者が自分の作品なり上演なりについて文章を書くと、主観と言い訳だらけの描写になってしまう。と、言い訳をしておいて、それでも書いてみる。

   ●音楽のイラマ

音楽のイラマ(テンポ)は、現今の宮廷舞踊のイラマよりも少し遅めに、私の好みの速さでリクエストした。だから当然、現役の宮廷音楽家や、宮廷舞踊を知っている人からはイラマが遅いという批判があった。しかし別に気にしていない。私だって宮廷の舞踊練習に5年間参加していたから、そのことは百も承知している。それでもなお、ジャワ舞踊の動きを生かすという点から見ると、現行のイラマは少し早い気がするのだ。現在の宮廷のイラマが最上のものかどうか、舞踊が作られた当時からそのイラマで演奏していたかどうか分からないのだから、「今回はこのイラマしかありえない」と私が信じるイラマを提案したいと思っていた。

だからこの公演を見たある芸大音楽科教員が、「この公演のイラマは多数派とは言いがたいけれど、こういう可能性もあって良いと思った。自分たちは、マルトパングラウィット(宮廷音楽家、芸大の教育でも重要な役割を果たした)の教えを指針にしているけれど、そこに(従来になかった)彼独自の解釈が入っていなかったと断言することはできないのだから。」と言ってくれたことは、私には大いに嬉しかった。

音楽の演奏もよくでき、舞踊家・振付家として実力のある芸大教員2人からは、「音楽家のことも考えないと。特にあのイラマではグンデルの人が(遅すぎて演奏しづらいから)かわいそう。」とコメントされた。正直なところ、私には何でそんなことを心配するのかよく分からなかった。同じ曲でもクレネガン(演奏会)スタイルで演奏する時は、舞踊伴奏よりもイラマは遅いのに。念のため当のグンデル奏者(芸大教員)に感想を聞いてみたら、別に全然つらくないとの答え。

ただ私は大ベテランのこの先生に対してもイラマについて注文をつけたので、若輩で外人のくせに失礼な…と思われていただろうなと思っていた。しかし、この人は意外にポジティブに受け止めてくれた。踊り手が演奏家に対していろいろと希望を伝えるのはむしろ良いこと、それによって演奏家もその踊り手の好みが分かるのだし、と言ってくれた。そして、スリンピというのはどちらかというと成熟した大人の舞踊なのだから、これくらいの方が舞踊のウィレタンが生きて良い、芸大の速い短縮版スリンピでは演奏した気にならないと言った。さらに続けて、「芸大短縮版のスリンピは(1970年代に作られている)、イラマをダイナミックに変えるとか、時間短縮のため曲の移行部で無理なつなげ方をしたとか、従来の伝統音楽ではなかったことがたくさんあって、当時はそれになじむのに時間がかかった。」

そうなのだ。1970年代に音楽を不自然な風に変えたことに対して、現在の舞踊科教員たちは疑問を感じていないのに、なんで今回のオーソドックスな演奏に対して、音楽家がかわいそうだなんて思うのだろう。

   ●入退場

宮廷でスリンピ上演する時は、入退場ともパテタンを演奏するというのが基本だ。パテタンというのは雅楽の音取りみたいな感じである。舞踊の入退場に使う場合、パテタンの速さや長さ、繰り返し回数はすべて踊り手の歩くイラマに合わせるのが基本だ。しかし芸大では舞踊本体の時間の短さとイラマの速さに合わせてパテタンも短く速く設定してあるから、踊り手の方がそれに合わせて入場してくる。

私はパテタンの調べにのって、踊り手が一列になって奥の方から厳かに会場に入っていき、そして退場していきたいと思っていた。パテタンのこの入退場のシーンが長すぎるという声が、一部の観客や他の踊り手からあった。確かにどちらも約7分かかっている。宮廷で一番重要な儀礼舞踊ブドヨ・クタワン(上演時間1時間半)を大プンドポで上演するときの入退場でさえそんなものだし、芸大で15分くらいに短縮したスリンピを上演するときは、1分くらいで入退場する。だから通常の感覚でいけば7分というのは長すぎるのだ。

ただ私は、舞踊では舞踊本体もさることながら踊っていない時間、特に最初の出が一番大事だと思っているから、あえて時間をかけて登場したかった。プンドポというのは普通の額縁舞台とちがって、1つの「世界」だ。能にしろ舞楽にしろ、そういう方形の舞台が描く「世界」へと出て行く舞踊は、出をとても大切にする。パテタンも、単に踊り手の入退場を伴奏するというだけではなくて、無の中からその「世界」の雰囲気や観客の方の心構えを徐々に作りあげてゆく機能があると思っている。そして舞い終わった後には余韻や名残を舞台にとどまらせながらも、徐々に世界を無に帰していく役目があると思っている。芸大の短縮版のようにスタスタサッサという入退場では単なる空間移動であって、他のどの舞踊でもない、「世界」を描く舞踊を見る醍醐味というのは激減する。

   ●動きを揃えること

動きを全体で揃えようと努力しないように、各踊り手にはそれぞれにウィレタンを追求してもらいたい、というのが私が他の踊り手に出したリクエストだった。それについては昨年11月号の水牛で書いた。

公演の時には、スリンピという舞踊が1970年代に短縮されたこと、その時以来ジャワ舞踊でも踊り手全員の動きを揃える方向に進んできたこと、しかし今回の公演では短縮されていないバージョンで1時間、あえて皆の動きを揃えることをせずに公演するのだということを、開始の前にナレーションしてもらった。だから、観客の見方を誘導したことになる。しかし誘導がなければ自由な見方をしてくれるのかといえばそうではなく、今までの惰性と先入観だけで判断されてしまう恐れがある。しかもそれは全くの素人よりも、舞踊のプロの方が陥りやすい。

1人だけ違うとか、間違っているとか言われることを嫌がっていた他の踊り手たちも、このナレーションのせいか、ビデオで見るとある程度のびのびと踊っていたようだ。そしてそれに対する観客からのコメントも、まちまちだった。私1人だけ違うと否定的に言った人もいれば、やっぱり他の3人は長年の習慣で揃ってしまい、その癖を取るのは難しいねと言った人もあり、また他の3人の中にもその癖から抜けつつある人もいる言った人もいれば、四者四様の持ち味が出ていたという人もいた。

コメントはバラバラだが、しかし、もし皆の動きがビシッと揃っていたら、おそらくこんなにバラバラなコメントは出てこなかっただろう。また長時間の舞踊だからこそ、1人1人の踊り手に目が向けられたという気もする。15分の短縮版では、さまざまに変わる踊り手全体のフォーメーションに目がいってしまい、個人にまで目が向けられなかったと思う。そういう意味で、観る側の先入観も少しは変えられたかな、踊り手をマスとしてでなく、個人として観てもらえたかなと思っている。

   ●笑み

宮廷舞踊では顔の表情を作らない。表情で観客の注意をひきつけるなんてことはせずに、己を無にして踊る。ところが私は笑みを浮かべていたということで、宮廷舞踊はそういうものではないというコメントを何人かの人からもらった。しかし私自身には笑顔を作っているつもりはなかった。とは言え表情を無にしようという努力もしなかったから、そういうコメントがあるかもしれないとは予想していた。

「宮廷舞踊は神聖なもの」とキャッチフレーズのように言われているけれど、実は曲の性格はいろいろである。そしてこのゴンドクスモという曲は、全スリンピの中で一番ルラングンlelangenな、つまり心を悦ばせるような曲であるように思える。そして舞踊の動きでも特に波打つようなものが多い。鎮静的な舞踊ではなくて、ある種官能に訴えかけるような舞踊なのだ。だから別に無理をして表情を殺す必要もないのではないかと思っている。

上のように宮廷舞踊はそういうものじゃないと言った人は皆、音楽家だった。宮廷音楽家だとか、そうでなくても宮廷音楽のことを知っている人である。自分では踊らないために、よけいに宮廷舞踊はこういうものという固定観念が強いのではなかろうかと感じた。逆に舞踊の人からは、笑みを浮かべているのが良かった、と言う声が複数あった。2002年にスリンピ、ラグドゥンプルの完全版を上演したときにもそう言ってくれる人がいた。だから見ていて表情に不自然さはなかったのだろう。念のため、宮廷でよく踊っていたある舞踊家に私の表情についてどう思ったかと聞いてみた。「三智はもともとそういう顔じゃないかなあ。だから表情を殺そうと意識してしまうと、今度は舞踊の動きの方に悪影響が出てくると思う。そのままでいいんじゃないの?」というのがその回答だった。おそらく私の舞踊がもっと深まっていけば、「もともとそういう顔」でも、表面的でない深い表情ができるようになるのだろう。

そういう未熟を承知で言うのだが、私は表情というのは踊り手が意識して作るものではなくて、おのずと生まれてくるものだと信じている。つまり、踊り手の身体が空の容器となって、そこに音楽が流入してくるようになれば、その作品にふさわしい表情は音楽によって自然と作られるものだろう、と思うのだ。だからこの舞踊ではもっと笑ってとか、逆に笑ってはいけませんとかと人が指導したり評したりするのを見聞きすると、違和感を感じてしまう。そしてそういうテクニック的な理解は伝統舞踊に多いという気がする。

   ●

というわけで、やはり言い訳だらけの文になってしまった。しかし踊り手がこんなことを考えているということを分かってもらえたら嬉しい。

Night Hike in Matsumoto

大野晋

老舗の鰻屋で一杯飲んで、ほろ酔い気分で夜の街に出た。
ぶらぶらと、まだ肌寒い空気を感じながら、あちらこちら暗い街を歩くのが気持ちよい。
ところどころ、街の空気が写真に納められないかとシャッターを切ってみる。
信州のぴんとした空気には夜の街の光が似合うように思う。
街角の電灯、緑の公衆電話ボックス、人もまばらなナワテ通り、女鳥羽川に架かった橋の欄干、
そんなものを見ながら歩いていると、やがて、酔いが覚めてきた。

Night Hike in Matsumoto。

どうも、止められそうもない。

しもた屋之噺(65)

杉山洋一

ミラノに引っ越して良かったのは、子供が遊べる庭があり、虫や鳥や草木に毎日触れることが出来ることです。大きな木がどんと一本立っていて、特に春になり色々な鳥が毎日遊びにきては、庭の芝をちょんちょん跳ね回って何やら啄ばんでいます。すっかり馴れっこで、水まきしても逃げませんから、二歳になったばかりの息子はチッチ、チッチと大喜びです。

ここはポルタ・ジェノヴァ駅からのびる国鉄の線路脇にあって、庭は低い垣根を隔てて小学校の校庭になっています。朝は子供たちの体育の授業を見ながら朝食のコーヒーをすすったり、垣根のところで、息子が小学校の女の子相手に得意のダンスを披露したり、水まきをしていれば、サッカー少年たちが「ペットボトルに水入れてよ」と集まってきたりするわけです。

カーテンすらない全面ガラス張りで外から丸見えですから、裸で家を闊歩などできませんが、採光は問題ありませんし、お陰で冬も殆ど暖房を使いませんでした。その昔工場だったところを住居に改造してあるので、半円形の大きな分度器のような天井は、当時のままだそうです。ちょうど日本の体育館の天井のような造りを想像して貰えば良いでしょう。一箇所、大きな天窓が開けてあり、ここから朝日が具合よく差し込みます。今は夜明け前で、外の鳥たちのさえずりが最高潮に達しようかと言うところ。ミラノにも、これだけ変化に富んだ鳥がいるものだと感心させられます。実に心地良い住宅には違いないのですが、ひとつ問題があります。
どなたも気軽に拙宅にお上がりになれるのです。

庭の左側には鉄道の線路、目の前は校庭、右側には金網越しに人通りの少ない道路という按配で、パヴィリオンのガラスのブースよろしき開放感溢れる造りです。住むには少々勇気がいるかも知れません。それどころか、家が完成するまで庭壁の向こう、線路ぎわにはジプシーのバラックが建っていたし、夜半や朝方、麻薬中毒と思しき怪しげな通行人が、線路上をふらついているのも見かけます。昨年9月の完成後、既に3軒程並びの家が泥棒にやられていますが、拙宅が物色に値しないのを常日頃から誇示しているからか、幸い被害にはあっていません。泥棒が、熱心に観察しているのは確かですけれども。

5日前の午前1時過ぎ、子供を寝かしつけてから家人と居間で話していると、天井が妙な音をたてました。天窓脇あたりで、むぎゅっというような、重みがかった軋みがしたのです。ふと予感がしてすぐ外に飛び出し、線路脇に顔を出すと、線路脇の壁面に、随分大きな梯子が天井まで架かっているではありませんか。やれやれ天井を這っているのが人間だと分かったので、早速天井のつながっている隣の家に走り、奥さんを呼んでくると、流石に彼女も仰天しています。
「おいお前、何やっているんだ」と叫んだ矢先、慌てふためきながら大柄の男が、どたどたと梯子を降りてきて、生い茂る雑草によろめきつつ、線路に向こうへ逃げてゆきました。

庭から線路まで2メートル半ほど高さがあり、真夜中には飛び降りられず、仕方ないので、近所を巡回していた市の夜間警備員を呼んで状況を話し、並立する8階建てマンションの非常階段からうちの天井を俯瞰しましたが、空の果物籠が放置されているばかりで、人影はありませんでした。どうやら単独犯だったようです。こうして見ると、天井伝いに簡単にマンションに侵入できることがわかり、少なくとも拙宅には興味なかった模様です。警備員曰く、「俺はもう18年も辺りの警備をしているが、事件一つ起きたこともないし落着いたものだ」。こちらは泥棒が入ったから呼んでいるのに、何とも呑気なものです。今までは、警備員がいるからと少しは安心していたのですが、迂闊にあてにも出来ないことが分かりました。
「今晩泥棒が戻ることもないだろうから、安心して寝てください」と相変わらずのんびりした警備員に引き取ってもらい、次の朝早く梯子を取りにゆくと、これがとんでもなく重たい代物で驚きました。間違って通報でもされると厄介だと心配しつつ、梯子を庭壁に架け泥棒気分で家に戻ってから、引き上げて庭の端に片付けました。それから暫く、あの梯子が線路脇から壁に架けてあったのよ、泥棒から盗んだ梯子よ、などと話題になっていました。

それからと言うもの、夜半になると天井が気になって仕方なかったのですが、先ほどのこと、仕事を片付けて漸く布団に入ってまどろみ始めたところ、庭に下りる階段で足音がして、話し声が聞えるではありませんか。先日の今日ですから飛び起きて窓を開けて、「何やってる」と声を上げると、思いがけなく「警察だ」と言うのです。何事かと庭に出ると、果たして制服姿の警官二人が庭の階段のところで、線路の向こうを覗いています。

何でも、追い駆けている犯人が線路に逃げたらしく、ここから線路にどうやって下りられるのか尋ねるので、物盗りの置き土産の梯子がありますと答えると、おおそれは具合良いねと言いながら、泥棒梯子を庭からたらして、するすると降りてゆき、「後でまた上がってくるから、片付けちゃ駄目だよ」と言い放って、懐中電灯片手に線路の向こうへ走ってゆきました。折角の機会なので「先日もこの梯子を使って物盗りが天井にいたのですけどね」、と一応声をかけてみましたが、全く関心を払って貰えませんでした。近くにパトカーも居ませんでしたが、警官二人もどこから入って来たのやら。そろそろ夜も明けようかと言う頃ですが、未だ泥棒梯子から警官が登ってくる様子はありません。

(4月30日ミラノにて)

アジアのごはん(18)ココナツミルクの誘惑

森下ヒバリ

バンコクではいつもプラトゥーナムという地域に泊まっている。初めてタイに来たときから、だいたいこの周辺に宿を取っている。どうもプラトゥーナムから抜け出せない。もう少し違う場所にも泊まってみようかとも思うが、二の足を踏む。それは、宿の近所のラーン・カオ・ケーン、日本では一膳飯屋とでも言おうか、おかずかけごはん屋さんのせいに違いない。

近所のごはん屋さんは毎日、朝から午後一時か二時くらいまで開いている。ガラスケースの中には五、六種類のおかずがトレーに入れられて注文を待っているが、十二時ともなると、すでに人気のおかずは売り切れて、残りはほんの一、二種類。
「しまった、取り置きしといてもらえばよかった・・」

用事をしたりして、少し遅くなると目当てのおかずがなくなっていることは珍しくない。もっと大量に作ればいいのにとも思うが、この店のおばちゃんは淡々と同じ量のおかずを作り、売り切れたらおしまい。最近はあんまりくやしいので、昼ごはんを少し早めに食べるようにしたほどである。つまり、それほど、この店の料理はおいしい。

作り置きのおかずなど、正直言っておいしいとはあまり思っていなかった。以前は、その場でさっと炒めたり、揚げたりしてくれる注文料理屋が最高で、昼もそういう店に行っていたのだが、この路地のおかずかけごはん屋さんに出会って、すっかり考えを変えてしまった。

もちろん、この店のシェフのおばちゃんの腕がすばらしいのが大きな理由だが、作り置きおかずかけごはん屋にもいいところがたくさんあることに気がついたのである。まずは実物を見て注文できることと、名前の知らない料理や食べたことのない料理を食べられることにある。また、以前食べて、今ひとつ、と思っていた料理に改めて開眼することもある。

注文の仕方はこうだ。皿にごはんを盛ってもらい、その上に好きなおかずを選んでのせてもらう。この店では一種類だと15バーツ、二種類で20バーツ。三種類で25バーツが基本。指差しであれとこれ、と注文できるのでタイ語ができなくてもだいじょうぶ。さらに、スープもののおかずなどを碗に入れてもらって別皿にすることもできる。

「今日は・・もやし炒めと・・う〜ん、何かなこれ」
ごはんの上にもやし炒めと、鶏肉とキノコの入ったスープのようなものをかけてもらった。はじめはトムヤム・スープかとも思ったがカレーのようにも見える。口に入れてみると、さわやかな酸味とココナツミルクのとろみと微かな甘み。後から辛味ががつん。
「うん、おいしい! あれ、これってもしかして?」

店のおばちゃんに聞くと、トム・カーだよ、と答える。スープの正体は、トム・カーと呼ばれるココナツミルク・スープであった。だが、今まで食べたことのあるトム・カーのどれよりも素晴らしくおいしいではないか。トム・カーはカーという生姜の一種の南姜(なんきょう)を味のベースにして、ココナツミルクをたっぷり入れて鶏肉などを煮込んだスープである。だいたい、ココナツミルクが多すぎて甘ったるくどろんとしていて、おいしいと思ったことはあまりなかった。

この店のトム・カーは、南姜のほかに、レモングラスとトウガラシが入っていて酸っぱくて辛くて、ほのかに甘い。酸っぱくて辛くて、といえばトムヤム・スープとどう違うの? と言われそうだが、こちらの味の主役はやはり南姜とココナツミルク。トム・カーとは、辛いのが苦手な観光客やお子さま向けの甘ったるい料理、というイメージをあっさり崩してくれた。
「トム・カーってこんなにおいしいスープやったんや〜」
わたしはうう〜んとうなりながら、トム・カーをのせたごはんを食べた。ココナツミルクのコクとかすかな甘み、レモングラスの酸味と南姜のピリッとした香りとが絶妙のバランス。はあ、しあわせ。料理というのは、ほんのちょっとしたさじ加減で、快楽の味になり、また苦痛の味にさえなる・・。

トム・カーによく似たスープがお隣のカンボジアにもある。いや、むしろ、カンボジアの方が本家であろう。レモングラスとココナツミルクと鶏肉のスープや、またアモックという魚介類をココナツミルクで甘酸っぱく煮たものもある。これはタイではホーモックといい、魚介のすり身にココナツミルクをまぜて蒸したものだが、カンボジアで食べたものはまったくのどろりとしたポタージュ状のタイプであった。

しかし、とにかくカンボジアのココナツミルク入りスープの類は、とてつもなく甘い。ココナツミルクがたっぷりと入っているのだが、さらにヤシ砂糖なども大量に加わっているかもしれない。お菓子のようだ。タイ料理にもけっこう甘みの利いた料理は多いが、カンボジアはタイよりもさらに甘い料理が多い。ココナツミルクを大量に使うし、チャーハンや野菜炒めに甘みとしてパイナップルを入れたがる。トムヤムに似た酸っぱ辛いスープにもパイナップルを入れる。わたしは、このパイナップルを料理に入れるのが大変苦手で、というか正直言って大嫌いである。好きだという人もいるので、まあ、これは好みの問題もあるとは思うが、ナムプラー味のチャーハンや野菜炒めにパイナップルを入れるという感性は理解不能である。パイナップルは、そのまま食べるに限る。
つい、パイナップル問題に力が入ってしまったが、ここで話題にしたいのはココナツミルクなのだ。ココナツミルクは、いまやタイ料理にもよく使われるが、実はもともとものタイ料理にはなかった素材である。

タイ族は3世紀ごろから11世紀にかけて、中国西南部・ベトナム北東部あたりから大規模な移住を繰り返して現在の地に落ち着いた民族だ。まず中国雲南省南部、ラオスとタイ北部、ビルマ東北部のシャン州、かなり遅れてタイ中部へ進出した。そして、進出した先にはたいがい先住民族が居たので、先住民とあるときはまあまあ平和的に、あるときは武力で服従させて自分たちが主導権を握ってきた。その先住民族を皆殺しにしたりはせずに、自分たちの中に取り込んでタイ族化させてしまうのである。と、同時に相手の文化も惜しみなく吸収する。

そんなタイ族が、インドシナ半島を南下して行く中で高度な文化を持っていたモーン族とクメール族にぶつかった。モーンは現在のタイ王国の中部から南部、そしてビルマの東南部にいくつかの国をつくっていたし、クメールは現在のカンボジア、タイ東北部の南部、ベトナムのメコンデルタ地域に勢力を持っていた。かれらは、モーン・クメール語族と言語学的にも分類されるように、タイ族とはかなり系統の違う民族で、インド南部やインドネシア地域の民族にルーツを持つ。また文化的にもインドの影響が大きい。

地域によって、その地の先住民族たちの料理が取り込まれてはいるが、中国の雲南省やビルマのシャン州のタイ料理、またラオス北部の料理はかなりもともとものタイ料理に近いと思われる。これらの地域ではほとんどココナツミルクを料理に使わない。もっぱらお菓子に使う。トムヤムの原型のような酸っぱいスープはあっても、ココナツミルクは入れないし、ココナツミルクたっぷりのカレーもない。料理はあまり甘くない。共通しているのは、もち米をよく食べること、魚を発酵させた調味料、そして発酵した肉・魚・野菜をよく食べること。酸っぱいものが大好きなこと。食べることを大切にしていること。

そんなタイ族の一派が南下して、現在の地にタイ王国を作り、先住の民から自分たちの料理に取り込んだのがココナツミルクなのだ。もちろん、亜熱帯のこの地域にはココナツミルクの元になるココヤシをはじめ、アブラヤシ、砂糖ヤシと有用なヤシの木がたくさん生えている。当然ながら先住の民たちはヤシの利用に長けていた。

そして、彼らがヤシから取れるココナツミルクや花蕾から取れるヤシ砂糖の甘みを深く愛していたことは、モーン・クメールの文化を大量に取り込んだタイ族=現在のタイ王国のタイ人たちが、ほかの地域のタイ族たちから見て過激なほど甘党なのからも、明らかというものでしょう。

製本、かい摘まみましては(28)

四釜裕子

バックアップのつもりで、ブログに書いたものをたまに印刷している。ブログサービスには、それを「本」として印刷製本する機能が今やあたりまえのようについているので便利だ。私がよく使っている「エキサイトブログ」は、欧文印刷株式会社とイースト株式会社による「MyBooks」と提携していて、文庫本サイズを選べるのがいい。書きなぐりの文章をプリントするのは勇気がいることで、A5サイズでは、ちょっと耐えがたいのである。

書き込みが半年ほどたまったところで、白無地表紙、モノクロ印刷、文庫本サイズで注文する。だいたい250〜300ページ、料金は3000円(消費税、送料込)を超えたことがない。写真もあるからカラーにしたくて毎度見積もりだけはとるが、10000円を超えるのでやめる。ページ単位の計算になるから高いのだ。ブログ本は注文して一週間ほどで届く。改めて読み返すようなたぐいのものではないけれど、ウェブのブログよりは、はるかによくページをめくる。

ハードカバーに仕立て直そうかな。と思って、表紙の紙をぐっと開いてみる。すると背から2ミリくらい手前、天地中央に13ミリのホッチキス針。なんとこの本は、針金平綴じであった。丹念に読むものではないから柔らかな表紙ごと片手で持ってぺらぺらめくるだけだし、なにしろこの冊子に「開き」を求めるつもりはなかったので全く気にならなかった。それよりも、オンデマンド製本にも強力な接着剤があってそれで十分であろうに、わざわざ針金で留める理由が気になる。

「はてな」で去年作ったブログ本(はてなダイアリーブック)を見てみると、ごく普通の無線綴じだ。印刷は株式会社デジタオで、同社のオンデマンド印刷製本サービス「book it! 」のウェブサイトでは、460ページまで可能になった、とある。束にすれば2センチくらいまでOKということか。頼むほうにしてみれば、できるだけ多くのページを一冊にしたほうが割安だから、要望が強かったのだろう。ただし「book it! 」では判型がA5変型以上。「MyBooks」で作ったのは文庫本サイズだったから、針金で留める必要があったのかもしれない。

「はてな」では早くから、「この世にたった一冊しかない大切な日記を、質感の高い上製本で仕上げて見ませんか」として、上製本仕様を受け付けてきた。どんなものかと一度頼んだことがある。表紙の色は10種類から選べるが、紙はもみ紙風の一種類のみ。背にも表1にもタイトルなどの印刷ができず、表紙の芯にするボール紙が2ミリ厚なので、ある程度の束がないとバランスがとれない。値段は通常のタイプに加えること3000円。背に補強の寒冷紗、花ぎれ、見返し、表紙貼りと、その手間がかかることはわかるが、ただ堅い表紙をつけたところで本の質感があがるわけではないことの、いい例だ。

書いたものを誰かに読んでもらいたくて、コピーをとったりプリントして複製し、運びやすく読みやすいように製本したのがかたちとしての本である。今手にしているブログ本もかたちとしては本なのだけれど、書き散らかしたものを自分の手元に置くために、たった一冊作ることがおもしろい。しかも、お金を払って。バックアップのつもりなら自分でプリントして製本すればいいものを、やるとなったら手間をかけたくなるし、とは言え手間が見合うような内容ではない。だから快く、注文できるというわけだ。

炎(最終回)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

ピンパーはため息をつくと過ぎていく街へ眼をやりながら、わたしの方へ手をのばし小声で言った、
「タバコもう1本ちょーだい。お願い」
それから彼女もわたしもずっと黙ったままでいた。そしてついにわたしが声を上げた。さっきよりさらに気後れしながら。
「ぼくのところに泊まってもいいよ、でもぼくひとりじゃないんだ」
「いいわ、かまわないでくれていいの。わたしここら辺で降りるから。次のバス停でね」と、彼女は身体を動かした。
「家に帰れないんだったらほんとにうちに泊まっていっていいんだ。友達に君が親戚の子だって言うから。どうってことないさ」
「やめとくわ。わたしなんとかするし。。 いつかまた会おうよ、地球は丸いんだからさ」

バスが速度を落としたとき、わたしは彼女の腕を掴んでいた。ふたりともまばたきもせずに見つめ合った。わたしはまだ彼女の腕を離していないし、もう離しはしないだろう。触れ合っている感触が再び気持ちを高揚させるや最前話されたことはもう忘れていた。

「行ってくれ、誰も降りないから」わたしは運転手に向かって大声を出した。
けれどもバスは道路脇にしばし停まった。降りようとしている乗客が文句を言っている声がする。わたしは申し訳ないことをしたのだと気づいた。それから他の乗客がもう数人しかいなくて、みなわたしに視線を注いでいるのがわかった。けれどもわたしと視線が合うとみな眼をそらした。自分はどうも恥ずべき変なやつになっているらしい。

ピンパーは相変わらず黙っている。バスはそこから急発進するとさらにスピードを増していく。その速さはタイヤがまるで道路に接していないかのようにわたしには感じられた。わたしは最前の感情を抑えようと最後の1本のタバコをとりだした。ところが火をつけるのがやけにむずかしい。ライターを持つ手がぶるぶるふるえているのだ。火がつくと深く煙を吸い込んだ。タバコの先端から火の粉が線を描いて飛び散って行く。それが身体に当って熱かった。後部座席の人にも当たっているのではないかと、謝ろうとして後ろを振り向いたが誰もいなかった。切符切りのバスボーイがひとり笑顔で座っているだけだ。ピンパーは、あれは悪霊のひとつが嘲笑っているのだ、と言う。わたしはぞっとして鳥肌がたちあわてて目をそらした。

ピンパーはさきほどよりもいっそうぴったりと身を寄せてきた。わたしの膝の上で右手をしっかり握り締めている。それからバスがスピードを上げすぎているとしきりにつぶやいた。わたしは何も言わず、ただ彼女の肩をなだめるように抱いていた。バスは疾走している。風が顔に痛いほど叩きつけている。わたしはたばこを指でとってから煙を吐き出し、左手を肩から腰へ下ろしてピンパーをしっかりと抱き寄せた。彼女はずっと黙して語らない。わたしは椅子の背に凭れかかり眼を閉じると願った。さあ、もっと速く走ってくれ、可能な限り速く走ってくれ、地獄なりなんなりと連れて行ってくれ、と。

(完)
1969年スラチャイ21歳のときの作品。1970年刊の短編集『どこへ向かって行くのか』収録。今回は2006年第11刷より翻訳。十代後半バンコクへ上京して美術学校へ行きながら詩や短編を書きはじめたころです。ギターをもつことになるほんの少し前のころのスラチャイ。家がなくて友人の下宿を泊まり歩いたり、王宮前広場で蚊取り線香1本で夜を明かしたりしていたころを髣髴とさせる作品です。約40年前の作品とはいえ、最近のものとあまり変わらないですね、まるで絵を描いているような表現のしかた、巧みさ。(荘司和子)

GS Opera メモ再録その他

高橋悠治

書く手の下から書かれた文字が立ち上がるように
楽器を弾く手の下で音の群れがまとまろうとして 
一様に流れる時間軸に添って横たわるかわりに
身を起こしてくる感じが 指に伝わる
時間が 各声部ごとにめくれ上がり
それぞれに脈打ちはじめ
葉陰からこぼれる光のように
ばらばらの音が降ってくる

毎月の最後の日に書くコラムにいつもなやまされ
書くことがみつからないでいるうち
『水牛のように』2005年3月に書いた『gertrude――肖像』
のもとになったメモを発見した 半分は意味不明になっている
それをコピーペーストし その後に別なメモを書き加える

playは こどもや子猫があそぶ もてあそぶ 光がかろやかにうごく
また playは 役割を演じる ふるまう 演じる 上演する でもある
前にはとどこおることのないあそびが
後には既成の型に押し込まれて みせかけのものになる

もうひとつ
play  あそびをもたせる ゆとり 自由にうごける範囲
この範囲をすこしずつひろげていく
くさびを打ち込んでこじ開けるようにして
あるいは遠心分離 振り回しているうちにばらばらになる

interest はラテン語 inter+esse 間に位置する 関係する から
興味・関心をもつこと もたせる力 おもしろさ その対象
したがってinteresting おもしろい には主客の区別がない
interest のもう一つの意味 利害関係 利子
間に発生する関係が 無私の関心から 私的利益に移って行く
ことばの近代化だろうか

continuous present 
全体のゆったりした進行 と相対的に自立した細部
単語が紙の上に並んで現れる 
アリの行列の線と 順序交換できる個々のアリの群
数珠と数珠玉 樹と木の葉 
書かれた文字が紙の上に起き上がろうとしてもがいている

反復か更新か リズムは変化する
changing same (Amiri Baraka)
波また波 
すこしずつ変化する写真の連鎖から映画へ
現実は直線ではなく ためらい手探りする進行
階段を降りる裸体(デュシャン) 時間的キュビズム
フィルムの一コマには写真の意味はない
反復ではなく
どこか似ているものが そこここに現れるだけ
これが逆遠近法か

毎日が新しくはじまる
始める可能性(ハンナ・アーレント)

story 作り事 物語 また 階
階は上下に積み重ねられ
物語は線に沿って伸びていく
風景としてのplay 人物の配置図は
そのたびに組み直される
進んでいくと 遠い山が何回も正面に現れる
道は曲がっている
立ち聞きした会話
物語はいらない
話題は混ぜ合わされ 解決なく放置される

小文字のi(カミングス)
everybody = every body 無名の ただの 身体
 = no body 身体のない身体
だれでもないものが 耳を澄ましている
i feel / they think
感じの直接性・即時性・具体性から
考えの間接性・非時間性・抽象性へ

common sense 共有感覚