やっと終わった(晩年通信 その18)

室謙二

 トランプの時代がやっと終わった。という文章を書きたいのだが、実はそれは終わったのだが、まだ終わっていない。
 NYタイムスの「プラウド·ボーイがトランプを見捨てた」(Jan. 20)とか、BBCの「誰がホワイトハウスに突入したのか?」(Jan. 7)あるいは同じくBBCの「プラウド·ボーイとかアンティファとは誰のこと?」なんかを読んでいれば、トランプ個人の時代は終わったが(多分ね)、トランプ派の力がまだまだあることは分かる。だけどそんなことはもういいな、トランプのことなんか話したくない。インターネットのニュースでトランプの顔が写ると別のチャンネルに変える。別の生活をしたいのです。
 プラウド·ボーイというのはトランプを支持してきた右翼グループで、それが今では、トランプのような弱腰は見捨てるということらしい。私の方も、トランプを見捨てたい。

 それで私が何をしているかと言えば、リコーダー(たて笛)を吹いている。それと「ロミオとジュリエット」というネコとタヌキの話を書いている。晩年通信に「アメリカは燃えているのか?」というのも準備中だが、これはトランプに関係あるから、書くのはやめるかもしれない。

   五年一組 むろけんじ

 「リコーダー(たて笛)を吹くんだ」と言うと、小学校のころに音楽の授業で吹いたことを思い出して、子供みたいだねと思われる。
 でもリコーダー(たて笛)は子供のものではないよ。数えてみたら十歳の時から65年間も、時々思い出したように取り出して、リコーダーを吹いている。完全に遊びです。ずっと初心者だけど楽しい。バッハでもビバルディでも、リコーダー初心者用に簡単なフレーズにしたものがあって、それを吹いている。
 リコーダーは音が単純で表現力がない、と思うかもしれない。確かに初心者には音の強弱をつけにくい。音にいろんな色彩をつけるのが難しい。初心者にはタンギングがうまくできない。タンギングとは、くちびると舌(タン)で音に力と表情をつけること。これができないと、小学生がリコーダーを始めたばかりのような、単純な音とフレーズになってしまう。ビブラート(音を特に高音を細かくふるわす)のかけかたも学ばないと。
 まず息を安定して、静かに確実にリコーダーに吹き込むのが難しい。おなかの下から、息を上にあげてきて、リコーダーに吹き込む。
 強く吹くのではない。確実に安定して静かに吹き込む。
 そうしないと音程の低い音が、きれいに出ません。
 誰にでも簡単に音が出せる楽器だけど(それに安い)、これで音楽を歌うのは、けっこう難しいんだ。初心者でも吹くのは楽しいが、でもそれを聞かされる方は、きっと苦痛だね。
 私の場合、65年たっても聞く方はまだ苦痛だろう。

 私の古いリコーダーには、父親の字で「5の1 むろけんじ」と刻んである。小学五年生の時のもの。音楽授業でリコーダーを始めた。このリコーダーは確かスペリオパイプという名前で、インターネットによれば、当時一本百八十円だった。昭和三十年(1955年)発売とあるから、その次の年から授業で使い始めことになる。

   ポッキリと折れた

 ところがその「大事な」スペリオパイプを、三歳の孫娘がオモチャにして振り回して、ポキリと折ってしまった。うーん、ガックリした。音程もちゃんとしていて、バッハだってビートルズだって吹けたのです。いまは強力接着剤でくっつけてある。だからいちおうは使える。
 また壊されてはたまらないので、遊びにくる孫娘のためにグリーン色リコーダーを買いました。六十五年前のものはクリームがかかった白で、年季が入っている。安物新品のとは存在感が違うよ。
 安物と書いたけど、リコーダーは木製の手作りでなければ、また特殊なものでなければ安い。大手のものであれば、安くても音程もしっかりしている。音色だって安定している。安いけど立派な楽器なのです。(注)

 リコーダーを使った音楽教育は、かなり日本独特のものらしい。最初はイギリスとかドイツから学んだものらしいが、もっとも今でも、私が小学生の頃のようにリコーダーを使った音楽教育をしているかは知らない。あの頃は、クラス全体が何十人かで、一斉にリコーダーを吹く。だから他人がどんなふうに吹いているか、自分の音とフレーズはどうかなのかが、何十人のリコーダーの音に埋もれてわからない。もともと一人ひとりが吹く楽器だと思うのだが。曲は日本の唱歌が多かったね。
 『戦後日本の小学校における、たて笛およびリコーダーの導入過程」(山名和佳子 音楽教育実践ジャーナル vol.7 no.2 2010.3)に、どのようにリコーダーが戦後に導入されたか詳しく書いてある。日本には文部省という国家が教育を管理する機関があって、それがリコーダーを音楽教育に導入した。アメリカにはそんなものはない。州ごとに違っているし、カウンティ(郡と言ったらいいかな)にも違っている。

   一緒に演奏して一緒にうたう

 Nancyに小学生だった1950年代の音楽教育クラスについて聞いたら、「そんなものはなかった」と言う。「えっ?」と聞き返した。
 アート·クラスというのがあって、一週間に一度ぐらい音楽クラスがあった。と言っている。これも地域地域で違う。「何をしたの?」と聞いたら、「覚えていない」とのこと。アートなんて重要ではなかったのだろう。リコーダーなんて、触ったこともなかった。
 同じころ、私たちの場合は、週何回か(だったと思う)音楽クラスがあって、みんなで歌をうたう。この一緒にうたうことが、「アート」より、「集団の一部になること」が重要だった。今や私は老人になって、集団でリコーダーを吹くのではなくて、一人で遊んでいる。
 久しぶりにリコーダーを始めるので、まずインターネットでリコーダーの吹き方を教えているリンクを探したが、私むきのがないねえ。それで次にマニュアル(本)を探した。インターネットでみると、大量に日本語のリコーダー入門書がある。だけどいずれも子供むきだったり、中学生むき。
 私はマニュアルを読むのが大好きだけど、マニュアルを何種類か書いたこともあるが、私の水準に届くものはほとんどない。でも英語のものはかなりちゃんとしたがあるよ。

 レコーダーを楽しんで学ぼうと言うなら、英語の”Recorder Fun! Instruction Book” $8.99という本がいい。練習曲は、ほとんどがバッハとかビバルディ以前のもので、簡単なフレーズのフォークだ。インターネットにオーディオ·ファイルがあるので、ダウンロードする。それを聞きながら、楽譜を見て吹く練習。最終的には、オーディオ·ファイルも聞かない、楽譜も見ないで(これが重要)、暗記した音楽を楽しく吹かないとダメだね。
 もう一つは、”Progressive Beginner Recorder” Koala Music Publications $8.88で、これはCDだけではなくてDVDもついている。でも練習曲は”Recorder Fun! Instruction Book” の方が、古いヨーロッパのフォークでいいなあ。 
 これを読んでいる多くの人は、子供の頃にリコーダーを吹いた経験があるはずだから、ここでもう一度、リコーダーを手に入れて吹いてみたら?
 それを聞いて、下手だなあと馬鹿にする家族なんて気にするな。

   まずは買ってみたら

 音楽は聞くだけではなくて、演奏するのが楽しい。
 グールドのバッハとか、グルダのモーツアルトの聞いてから、自分で入門書を読みながらリコーダーを吹いてみて、あまりのひどさに(グールドと自分の演奏の違いに)ガッカリする事はない。あっちは天才で、こっちは素人の初心者だから。その両方を楽しめばよろしい。
 私はソプラノ(C)だけではなくて、アルト(F)のリコーダーも買った。誰かに教わるのが嫌いだから、全部自分でやっている。つまり自分で、自分のマニュアル(入門書)を書くんだね。それを元に練習する。これは私が何かを始めるときに、いつもする方法です。
 この文章を読んでいる人も、これまでリコーダーとかギターとかピアノを練習したことがあるはずだ。また始めたら?うっとしいアメリカのトランプ時代が終わったのだから、何か新しいことを始めるといい。


(注)
Amazon .co.jpでYamahaのリコーダーを売っている。安いけどオモチャではないよ。立派な楽器です。

Yamaha YRS-37lll ABS樹脂製ソプラノ·リコーダー 1036円(送料1310円)
Yamaha YRA-302Blll ABS樹脂製アルト·リコーダー 2500円(送料1367円)

Amazon.comには、Akai Professional EWI-USB www.akaipro.com
もあります。これはデジタル·リコーダ·シンセサイザーで、私はセールで299ドルで買った。でも定価は497ドルらしい。パソコンにつないで、専門ソフトで設定して、パソコンのスピーカーかパソコンにつないだオーディオシステムで演奏する。

1970年代のジャカルタで生まれたスリンピ〜『チャトゥル・サゴトロ』

冨岡三智

先月末、ライブ配信を通じて15年ぶりくらいにこの舞踊曲を見て、いろいろ感じるところがあったので、今回はこの舞踊曲について紹介したい。なお、ここに書いた内容は本人へのインタビューに基づいている。

『チャトゥル・サゴトロCatur Sagatra』はジャカルタ在住のスリスティヨ・ティルトクスモが1973年、弱冠20歳の時に創ったスリンピ(ジャワ宮廷舞踊、4人の女性で踊る)形式の舞踊曲で、初めて振り付けた作品である。

●振付家
氏は1953年にスラカルタに生まれた。幼少より複数のスラカルタ宮廷舞踊家に男性舞踊を師事し、特にクスモケソウォの弟子として1969~1971年に『ラマヤナ・バレエ』(1961年に開始し現在まで続く大型観光舞踊劇)で2代目ラーマ王子をつとめた。その間、全国ラマヤナ・フェスティバル(1970年)、国際ラマヤナ・フェスティバル(1971年)に出演し、その後1971年に大学教育を受けるためジャカルタに移った。ジャカルタではジャワ舞踊優形の名手として活躍する一方、兄がマネジメントを務めるバラウィディヤ舞踊団でジャワ舞踊を指導し、この曲を嚆矢として以後様々な舞踊作品を振り付けている。

●作品のコンセプト
曲名は、チャトゥルが4、サが1、ゴトロが塊を意味し、4つのものが1つにまとまるという意味。その名前およびコンセプトは氏が1970年にジョグジャカルタ王家のパグララン・ホールで見た同名のイベント(公演&展覧会)に由来する。そのイベントはジャワの4王家(マタラム王国から派生したスラカルタ王家とその分家のマンクヌゴロ家、ジョグジャカルタ王家とその分家のパクアラム家)が共催して回り持ちで開催していたもので、明らかにこのイベント名は4王家の結束を象徴している。それまでスラカルタ王家の様式しか知らなかった氏は、4王家が各様式の舞踊を上演しているのを見て大いに驚き、目が開かれるような思いだったと言う。1973年、氏は「ミジル・ウィガリンテャス」の曲を聞いていたときに、ふと3年前に見たイベント『チャトゥル・サゴトロ』を思い出し、それを見たときに抱いたイメージを体現するような作品、すなわち4王家の様式をすべて取り込んだスリンピ作品を作りたいと思いつく。それも単に各様式の動きをモザイクのようにつなぎ合わせるのではなく、全体として4王家の様式が溶け合ったものを目指した。その結果生まれたのがこの舞踊曲である。

●作品を生み出した背景
とはいえ、20歳の若者がスリンピを作りたいと強く思った動機は何なのだろうか。氏が言うには、当時舞踊を習うのはほぼ女性のみであったため、女性舞踊のレパートリーを増やしたかったというのが第一の動機だという。さらに、当時、ホテル・インドネシア内にあったレストラン『ラマヤナ』では毎週土曜夜に伝統舞踊の上演があり、ジャカルタの各舞踊団に回り持ちで上演依頼があった。氏が指導するバラウィディヤも月に一回程度公演していたが、互いにしのぎを削っているジャカルタで、他の舞踊団にないオリジナル作品を上演して舞踊団のクオリティを高めたい、それによってより多くの上演機会を得たいという強い思いがあり、それが第二の動機だという。というわけで、本作の初演はこのレストランであり、以後上演のたびに改訂を続けて現在の振付に落ち着いたという。

1970年代というのは、実は門外不出だったスラカルタ王家の宮廷舞踊が初めて一般の人に解禁された時代である。ジョグジャカルタ王家が早くも1918年に宮廷舞踊を解禁したのに対し、スラカルタ王家はPKJT(1969/1970年度から始まった国による中部ジャワ州芸術発展プロジェクト)の依頼に応じて、初めて一般の人々に宮廷舞踊を解禁した(王家の宝物とされる『ブドヨ・クタワン』を除く)。スラカルタではPKJTを中心に伝統舞踊の復興と創造の時代を迎えていたが、ジャカルタでも同様に知事が芸術政策に力を入れており、指導者としてスラカルタからガリマン氏を招聘するなどジャワ伝統舞踊の活動が盛んだった。つまり、この舞踊曲はPKJTと同時代に生まれた作品であり、似たような傾向が見られる。
 
PKJTプロジェクトでは上演に1時間近くかかる宮廷舞踊も約15分の長さに短縮され、様々な機会に上演されるようになった。さらに、若い人に受け入れられるようテンポを早くして緩急をつけるなど、演出の手が加えられた。つまり上演芸術化したのである。ジャカルタという都市で上演芸術=見せる芸術として創られた本作もまた、PKJT作品と同様に約15分と短く、早いテンポで一気にクライマックスに向かう性急さと華やかさがあり、私はそこに70年代特有の雰囲気を感じ取る。

●作品の振付
スリスティヨ氏はスラカルタ出身なので、振付や音楽の奏法はスラカルタ王家の様式をベースにしている。4人の女性は左手にダダップ(盾の一種)を持ち、帯の前身頃に短剣を挿している。ちなみに、スラカルタ王家でダダップを使う女性舞踊曲はかつて存在したが(『ブドヨ・カボル』)、現在には伝わってない。

楽曲構成は入場曲が①ラドラン形式の『ラングン・ブロント』で約2分。踊り手が床に座って本曲が始まり、1曲目が②クタワン形式の『ミジル・ウィガリンテャス』で約5分半、その後続けて2曲目の③『スレペッ・クムド』に突入し、戦いの場面を繰り広げたのち剣を納めるまでが約4分、その後座る(立膝)までが約20秒。本来ならその最後のゴングの音で合掌するはずだが、ここでは合掌しない。④パテタン(音取の曲)が始まり、ラク・ドドッ(膝行のような歩き方)で踊り手が元のフォーメーションに戻るのに約1分。入場と同じ退場の曲が鳴って合掌して立ち上がり、退場するのに約2分となっている。

①と②の曲はマンクヌゴロ家の舞踊『ブドヨ・ブダマディウン』でも使われるが、氏は当時まだ同舞踊を見たことはなく、音楽を録音で聞いたことがあるだけだったという。しかし、②についてはジャカルタで活躍する舞踊家レトノ・マルティ女史がこの歌を得意にしてよく作品の中で歌っており、なじみのある曲だった。①の入場曲ではジョグジャカルタ王家でやるようにスネアドラムの音が追加される。踊り手は左手で持ったダダップを肩の高さに掲げ、右手でサンバランと呼ばれるジャワ更紗の裾を手に持って入場するが、これはマンクヌゴロ家の舞踊『スリンピ・アングリルムンドゥン』で弓矢を持って入場するときのやり方と同じである。勇壮なマーチで軍隊が移動するように、踊り手は入場する。②の曲のイントロで先頭の踊り手1人が立ち上がって『スリンピ・アングリルムンドゥン』特有の動きを踊る。この動きはスリンピ各曲の中でも白眉で、多くの舞踊家が自作に取り入れている。その後残りの3人も立ち上がって全員で踊るのだが、スリンピでは曲の最終部で使われるプンダパンがきたり、曲のテンポが変わらないまま2人の踊り手が座る場面があったりと、古典のスリンピにはない動きのつなぎ方をしている。

その後、踊り手4人が剣を抜いて舞台中央に集まったところで太鼓がチブロンに変わり、③の曲に移行して戦いのシーンとなる。スリンピには戦いのシーンがあるが、そこでチブロン太鼓(動きの振りに合わせて激しく太鼓を叩く)を使うのはジョグジャカルタ王家風である。スラカルタ王家ではチブロン太鼓を使うことも、ここで曲が変わることもない。本作で2組の踊り手が右肩合わせの位置で剣を交わすシーンはジョグジャカルタ王家風、裾をいちいち蹴りながら横に移動する(エンジェル)シーンはマンクヌゴロ家風だが、本作の戦いのシーンの激しさはスリンピというより、むしろワヤン(影絵)の戦いのシーンを彷彿させる。素早い場所移動と剣を突く所作、テンポを少し落としてのエンジェルや対決シーンなど、緩急のある戦いの場面が交互に続くので、4分という短時間でも強い緊張感が続く。また、スリンピでは戦いのシーンの後にはシルップ(鎮火する、の意)と呼ばれる静かでゆっくりしたシーンが続き、勝った方が負けた方の周囲を廻るということが2回繰り返されるのだが、本作ではシルップ風にはなっていても戦いはそのまま続いており、また同じシーンの繰り返しではなく戦いのパターンが変わるので、それらがさらに緊張の度合いを大きくする。

最終場面について。宮廷舞踊では本来、踊り手は元の位置に戻って合掌するが、本作では元の位置にも戻らず合掌もしていない。しかし、その後に宮廷特有の歩き方であるラク・ドドッを15分の上演時間のうち1分割いて行い、その後立ち上がる前に合掌をしたことで違和感が薄まって、沈静的な宮廷舞踊の雰囲気を取り戻せるように感じられる。そして入場の時と曲は同じだが、武器として掲げていたダダップを今度は扇のように扱いながら退出する。私自身はこの扱いは好きではないが、入場時の武装したような雰囲気が解除される効果はある。

本作を久しぶりに見て感じたのが、マスキュリンで怒りのエネルギーに満ちた作品だなあということ。一般的にスラカルタ宮廷の舞踊は流れる水のようにフェミニンであると言われ、ジョグジャカルタ宮廷の舞踊はマスキュリンであると言われる。しかし、本作は曲の前半(②)ではスラカルタらしい動きが使われているにも関わらずフェミニンな感じがあまりない。その時間は実は戦いのシーンより長いものの、作品全体の中では印象が薄く、またつなぎ方にも無理があるように感じられる。作品全体から戦いに臨む姿勢が全編に満ちていて、スラカルタ様式のくびきを逃れようとする抗いのようなものまで感じられる。それに比べて後半(③)の戦いのシーンの方が強く印象に残り、完成度が高いように感じる。

●衣装
現在、この舞踊の衣装は冠を被り、ビロードの袖なしの胴着がスタンダードになっている。特にバティック作家イワン・ティルタ氏の提案で、マンクヌゴロ家の冠(金属製)をコピーした冠が使われている。だが、制作当時は冠ではなく、髪を後ろに三つ編みにしてまとめてリボンをあしらった髪型(ジャワの少女期の伝統髪型)にし、ロンピと呼ばれるシンプルな胴着であったらしい。当時は豪華な衣装を揃える余裕もなかったからだという。イワン氏の見立てた金属製の冠は戦闘的な衣装に見え、振付の雰囲気にハマっているように思う。

また、ダダップについては、現在、把手にはめ込む水牛の皮の文様は4人とも同じデザインだが、かつては1人ずつ各王家の紋章を描いたものを使っていたという。

●作品の意味の拡大
1988年、ジャカルタと東京の姉妹都市提携構想が持ち上がり、ジャカルタから東京に舞踊団が派遣されることになった。芸術監督に指名された氏は文化的な融合の象徴として「チャトル・サゴトロ」をテーマとして打ち出し、受け入れられた。そして、4王家の王(実際は3王家の王、パクアラム王は本家のジョグジャカルタ王が外遊中は国内に残らなければならないという取り決めがあったため)が揃っての海外渡航が初めて実現したという。本作はこの舞踊団派遣とは何の関係もない(作品も上演されていない)が、自身の作品の舞踊理念が王家の王たちに受け入れられ、現実社会において意味を獲得したと氏は感じている。
さらに2007年、元・社会相のナニ・スダルソノ女史によりジャカルタ在住の4王家王族のための芸術事業プログラム『チャトゥル・サゴトロ』が立ち上げられ、その後、同名の王族たちのコミュニティも創立された。これは同女史が発案者であるパク・ブウォノXII世(1945~2004)から長らく依頼されていた事業だという。そして、『チャトゥル・サゴトロ』はこの団体が開催する公式行事のオープニングで必ず上演されるのが決まりになっている。スダルソノ女史からスリスティヨ氏にそうさせてほしいと依頼があったという。ここに至り、1970年に見た各王家の公演に想を得て創られた本作は、モチーフとした4王家によってまさにその統合の象徴/アイコンとして託されるに至ったと言えるだろう。
このような過程を見ると、やはり氏の歩みをその師のクスモケソウォの歩みと重ね合わせたくなる。クスモケソウォはスラカルタ王家の舞踊家であり、その当時の同世代の宮廷舞踊家の中でもバリバリの保守派だったが、その時代の使命として「インドネシア化mengindonesia」に取り組み、1961年に始まった『ラマヤナ・バレエ』の監督を務め、スラカルタ、ジョグジャカルタ、+αの様式を取り込んで、インドネシア的なるものを打ち出した。それは芸術の形をとっていたからこそ、スハルト時代になっても、その後もインドネシアのアイコンであり続けている。『チャトゥル・サゴトロ』もそんな作品になっている。

満月と水牛または「二月のひかり」

北村周一

満月は気づかぬうちに欠けはじめ
消えてなくなれカキクケコロナ

コンペイトウいろはの坂を転げ落ち
五輪音頭に嵌まりたるらし

ガマン強い民族にしてひといきに
のみ込まれゆくカーニヴァルへと

代名詞そ、そ、そ、そ、それに守られて
それでもソーリ、ソーリと呼ばれ

殊更に日本モデルをいうひとの
薄らわらいをテレヴィは映す

一ミリでもマシなほうへと冷笑の
時代を生くる冷めたる笑みは

未使用の棺桶二つ軽トラの
荷台にありて運転手居らず

その家も草木もなべて根こそぎに
地主守屋家跡形もなし

年始め通りすがりの老いびとに
それはりっぱな大根貰う

指のツメ剥がしながらに現代の
ピアノ曲弾くおとこの受難

脳いまだわれを語らずエラテル・ア二ミ
カント読む日のこころの弾み

切り通し油画に描かれし霜月の
代々木坂上大正四年

朝日から毎日にかえてそののちに
東京を経てアカハタとする

陽性者増やしたくない思惑が
民を突き上ぐヒノマルを振れ

あんないにお知らせまでと記し置く
コロナ配慮の個展切なし

ゆうぐれは星の数ほどあらんことも
みちみちに月は口説きおるなり

であいとはときのほころびいま一度
ふれ合うために閉ざす眼差し

描くより見るよりふかくわが胸の
うちにひろがる二月のひかり

水牛的読書日記(2)越えていく「ことば」たち

アサノタカオ

「ご出身は?」
 と聞かれるたびに、口ごもってしまう。自分がそこで出生した家屋や病院の所在地を聞いているわけではないだろう。精神的に帰属していると感じる土地、自分の個人史のみならず家族の歴史も書き込まれた故郷、つまり「あなたのルーツはどこなのか」という質問の含意に、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
 いまそこに住んでいなくても、お盆やお正月に里帰りをする実家がそこにあり、一年に何回か、両親や祖父母、兄弟姉妹や親戚があつまって宴会や墓参りや初詣をしたりする、そんな土地はあなたにとってどこなのか? となり近所には、いつまでも自分を子ども扱いするおせっかいなおばちゃんがいて、幼年時代の記憶をわかちあう気の置けない同級生がいて、成人男性だったら秋祭の季節には万障繰り合わせて帰省し神輿を担いだりする、そんなコミュニティがきっとあなたにもあるだろう、と。
 自分には、そういうものすべてが欠如している、という感覚をもって生きてきた。それはいまも変わらない。原因は、はっきりしている。ぼくら一家の長である父に、そういうものすべてが欠如していたからだ。
 父は台湾生まれの「湾生」、台中と台北で少年時代を過ごした植民者の子だった。日本が戦争に敗れ、引き揚げた後、糸が切れた凧のようにふらふらと移動の多い人生の道を歩きはじめ、高度成長期のこの国でサラリーマンになり、母と結婚をし、姉とぼく、ふたりの子どもが生まれてからもいわゆる「転勤族」として関東、中部、北陸、関西と渡り歩いた。
 お盆やお正月などの年中行事にはきわめて淡白で、「やりたかったらやればいい」というスタンス。伝統的な土地の祭りのようなものにも、まるで関心がない。というか、日本においてそういう類の行事に参加したことは一度もなかったのではないだろうか。
 もうこの世の人ではない父から、台湾の話を聞いたことは一度もなかった。戦後に再訪したこともないと思う。父のふるさととしての台湾については、母から教えられた断片的なことがらしか知らない。
 ぼくは子どものころ、父がテレビの前にすわり、中国での日本人残留孤児の報道番組をみながらこっそり涙しているのを、何度も目撃したことがある。涙の理由がはっきりわからないから、少年であるぼくは同情よりも、見てはいけないものを見てしまったような気まずさしか感じなかった。
 けれど人前で決して感情を表したりしなかった、典型的な「昭和の頑固者」である父が手で口を押さえて嗚咽をこらえているのだから、そこに何かただならぬ事情があることだけはうすうす感じていた。そんなふうにして、「あなたのご出身は?」という問いにかかわる「すべてが欠如している」という感覚を、ぼくは父の無言から受け継いだのだった。

 ***

 ここのところ、藤本和子さんの『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』を読み続けている。1986年に刊行された本が、2020年ちくま文庫で復刊された。アメリカに暮らし、英語文学の翻訳を仕事にする藤本さんが、ウィスコンシン州の懲治局につとめる臨床心理士ジュリエット・マーティンと彼女の女友だちのグループ、そして担当する刑務所の服役者から聞いた話を書きとめた内容だ。
 語り手の共通項は黒人であること、女性であることで、著者である藤本さんはアメリカで黒人として生きるとはどういうことか、女性として生きるとはどういうことかを尋ねている。黒人たちがアフリカから連行され奴隷にされた時代から、1960年代・70年代の公民権運動の時代まで、人種差別とそれへの抵抗の歴史を踏まえつつ、「アメリカ社会は良くなったか」という問いに、彼女らは答える。「たたかいなんて、まだ始まってもいない」。
 このことばのもつ意味は、それが語られた時点からさらに切実さを増しているように聞こえる。昨年、アメリカではアフリカ系アメリカ人の男性ジョージ・フロイドが白人の警官の不当な暴行によって命を落とし、「ブラック・ライブズ・マター」の怒りの声が世界中に轟いた。名著と呼ぶに値する、時間の腐食作用に耐える本はこんなふうにして未来に訴える力をもつのか、と驚いた。
 アメリカの黒人たちが生きのびること、集団の歴史を知ること、みずからを語ることばを探すこと。それらについて証言する女性らの語りの随所にエンピツでアンダーラインを引き、目印の付箋の数はどんどん増えてゆく。いまも古びることのないこの本の魅力を知るには、実際にこの本を読んでもらうしかない。さあ、本屋へ行こう。

 ひとつだけ感想めいたことを記すとしたら、ぼくはこの本で黒人女性たちのことばを読みながら、彼女らの語りの背後に、じっと耳をすませる著者の倫理的な態度を一貫して感じ続けた、ということだ。たとえばデブラ・ジャクソンというテレビ局のオーナーの聞き書きの導入部分で、藤本さんはこんなことを書いている。

 「彼女が独身であるか、結婚しているかたずねなかったことに、わたしはいま気づく。ほかの女たちにも、わざわざたずねなかったが、彼女らが話した。デブラはそのことについて、何もいわなかった。わたしはそれでいいと思うのだ。どちらの場合であるにしろ」
 
 社会学者や人類学者であれば、「それでいい」とは思わないだろう。調査票の婚姻歴の空欄を埋めるために、あわてて電話かメールで追加取材するのではないだろうか。しかし、北米の黒人女性の聞き書をまとめたもう一冊の著書『塩を食う女たち』で藤本さんは、自分がやっているのは民俗学的な調査ではない、というようなことを書いていた。
 自分の研究や取材に必要なデータを集めるために、あなたの話を聞いているわけじゃない。今日という日の一期一会の出会いの中で、あなたがいまここで伝えたいと思うことをわたしに聞かせてほしい——。
 語り手である黒人女性たちが、ひとりずつ劇場の舞台にあがるようにして、みずからの人生に意味を与え直す大切な物語を披露する。話すことを通じて彼女らが主体的に生きる、ほかの何物にも変えがたい固有の時間のようなものに、客席に座る藤本さんは最大限の敬意を払う。それが聞き書き家としての彼女の流儀なのだろう。ぼくもまたそれでいいと思うし、むしろそれでこそいいと思った。
 藤本さんは『ブルースだってただの唄』のエピローグを、かつてアトランタで出会い、106歳で亡くなった黒人の老女アニーさんの面影を回想しつつ、このような文章でしめくくっていた。「それを見たければ、わたしにはすぐに見える。どこにいても、ふり返りさえしたら、すぐ見える」。旅の物語の最後に置かれることばとして、もっとも美しいもののひとつだと感じた。
 本を読み終えて目を閉じると、舞台作品のカーテンコールのように登場人物の女たちが手をつないで整列している。壇上に立つ彼女らのすべてを知っているわけではない。みな文字の世界の住人だから、顔すら知らない。しかし、「ことば」を通じて彼女らの人生に一端にふれたという、たしかな手応えがある。いまや自分の中で忘れがたい存在となった黒人女性たちひとりひとりに向かって、立ち上がって大きく手を振りたい気持ちになった。あらんかぎりのリスペクトを込めて。
 
 ***

 『ブルースだってただの唄』には解説として、韓国文学の翻訳者である斎藤真理子さんのエッセイが収録されている。これがすばらしい内容なのだ。藤本和子さんの聞き書きが、詩人・作家の森崎和江さんの仕事の背中を追うものであることの意義を、斎藤さんはていねいに説いている。森崎さんの代表作『からゆきさん』は、明治以降の九州からアジア各地に渡り、娼婦として仕事をした女たちを追うノンフィクションだ。
 『ブルースだって』の中で黒人女性たちは、アメリカの主流の白人社会への「同化」はありえない、と口々に強調していた。それを受けて藤本さんは、朝鮮植民者の子として植民地主義という暴力の歴史を抜きにしないで日本の近現代を問い直した森崎さんの声をおそらく身近に感じながら、こんなことを書いている。「彼女らの視線は、にほん列島に生きる少数者に、同化が答えです、といって疑うこともなかったわれわれにほん人を撃ちはしまいか」。
 植民者二世の父の子である「にほん人」として、苦く重い宿題も渡された。

 なぜ、いま女たちの声なのだろう。どうして、これほどまで気になるのだろうか。
 あいかわらずそんなことをぼんやり思いながら、東京・学芸大学前にあるSUNNY BOY BOOKSに立ち寄った。これから新天地に旅立つという店主の高橋和也さんが、「フェミニズムやジェンダーに関わる本は、うちでも売れていますね」といいながら一冊の本をさしだしてきた。
 ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(西山敦子訳、C.I.P. BOOKS)。モダニズムやロストジェネレーション、文学史上の画期を代表する作家たち。T・S・エリオットやスコット・フィッツジェラルドやポール・ボウルズらの妻や恋人たちが、いかに男性作家の「ミューズ」として創作に貢献し、同時に声を奪われてきたかを論じながら、著者自身がアメリカ社会で感じる女性としての生きづらさを語るメモワール、自伝的なエッセイでおもしろかった。
 この本に登場する男性作家たちの多くは、ぼく自身にとっても文学的なヒーローであり、ザンブレノの本のページをめくるたびに、心の中の殿堂に飾られた彼らの肖像画がべりべりとはがされるような気分を味わった(余談だが、エリオットといえば長編詩「荒地」。日本の詩人グループに「荒地派」があり、このグループにおける最所フミの存在を思った)。
 フランス語翻訳者の相川千尋さんと会うことになったので、彼女が訳したヴィルジニー・デパントのフェミニズム・エッセイ『キングコング・セオリー』(柏書房)を読む。おもしろい、というにはあまりに苦しい著者みずからの性暴力の被害体験や売春体験が語られるのだが、パンチの効いた文体にぐいぐいと引っ張られて、彼女がトラウマ的な記憶をふりかえり、怒りの声をあげ、自分自身を取り戻してゆく物語を一気に読んでしまった。
 現代フランスを代表する女性作家といわれるデパントが本の最後に記す「フェミニズムは革命だ」の前後のくだりは、ひとりでも多くの人に読んでほしい。男である自分も、読んでいて身も心も打ち震えるのを感じた。
 男性優位主義社会に対して、抵抗と不服従の声をあげる。声をあげることが力になる。そして声をあげるデパントが魂の手に握りしめていたのが、パンクロックの音楽とともに、アメリカなど外国のフェミニストの思想や文学の本に記された「ことば」だったことも見過ごすことはできない。
 地縁を越えて、血縁を越えて、時代や国や人種のちがいをも越えていく「ことば」が、女たちの、そして人びとの長い暮らしといのちを支える杖となる。

 「ご出身は?」と聞かれると口ごもるぼくは、毎年12月になると「今年はいつから帰省するの?」などと聞かれることも苦手だ。里帰りすべき故郷がある、という実感がまったくないから、どう答えていいかわからない。しかし昨年から新型コロナウイルス禍の影響で、感染拡大予防のため長距離移動を控える自粛ムードが社会に広がり、年の瀬が近づいても周囲で帰省や里帰りが話題になることが少なくなったと思う。面倒なことがひとつなくなり、これはこれで気分がいい。
 根なし草のぼくは今日もまた本を読み、本を追いかけ、読むことの川のほとりをさまよい歩いている。女たちの声が過去から受け継ぎ、未来に受け渡す「ことば」のひとつひとつに、ずどんずどんと撃たれながら。

鬼は来ない日もくる

イリナ・グリゴレ

ある日マタニティーブルーから解放された。マタニティーブルーではなく、マタニティーブルースと呼ぶことにする。母親になることはジャズだ。その日5年ぶりに頭がはっきりして、長い冬眠からさめた。「むらかみ」という昭和の雰囲気がまだ残っているケーキ屋さんのスポンジケーキを買いに行ったのがきっかけだ。スポンジケーキは次女の大好物だが、それを自分で発見した。大人は日本のケーキ屋さんでなかなか見当たらないサバランを買った。次女はいくつかの種類のケーキの中から迷わず「これ」と指さして、スポンジケーキを選んだ。白くて、なめらかで、高級な生クリームにちょっぴりバニラの風味が入っている。次女は顔全体にそのおいしい生クリームをつけて、ゆっくり、ゆっくり味わっている。この世の最高の食べ物でしょうと、丸い目がキラキラしている。フランス人形のような小さな身体で椅子に座って食べている。その日から、ケーキが食べたくなったら「むらかみ」まで、車で30分かけていく。女将さんの笑顔と、帰りに車から広がる雪、晴れている日に見える岩木山、ラジオから流れている90年代のロックがケーキの味に加わる魅力なのだ。田んぼに積もった雪はスポンジケーキのようになめらかで、食べたくなる。きっとバニラの味がする。サバランには酒がたっぷり入っている。授乳を終えてから私の一つの楽しみになったお酒をサバランでも楽しめる。小学生の時、田舎から町に引っ越したばかりのこと思い出した。馴染めない町の雰囲気と学校で心がボロボロだった。ある日、学校の帰りに母が町のケーキ屋さんに連れていってくれて、テラスでサバランを食べた。小学校時代の唯一のいい思い出となった。あの工場だらけの町はジョン・レノンの曲「ワーキング・クラス・ヒーロー」の雰囲気と同じだった。

マタニティーブルーになった時、自分でもそれに気づいた。でもすることはなにもないと思った。寂しくて、ブルーな気分になっていたこともあるが、一番つらかったのは言葉がごろごろ炭酸の泡のようになって消えていくことだった。気づくと周りにいた人もいなくなったし、踊れなくなった。東京にいてお腹が大きくなった頃は、世田谷の図書館に引きこもってずっと絵を見ていた。お腹の娘が見えている色が普通と違っていた。ものすごく鮮やかだった。谷川俊太郎の『すてきなひとりぼっち』を見つけた。あの青い表紙がとても鮮やかに見えた。谷川俊太郎は私を助けてくれた。言葉はごろごろ、私と世界の間にあってもいいと教えてくれた。シャボン玉のように、毎回世界が壊れてもいい。図書館から出たあと、近くの公園の草の中でビー玉を見つけた。近づくとそのビー玉に写っている世界に、草、木、土、空とともに私もいた。私もいていいと初めて思えた。いて、いい。この世界、この地球、この宇宙に娘たちと同じ、小さな命から私も始まっていた。そして今まで出会った人の中で私の心を傷つけた人もいていい。皆のいていい場所がちゃんとあるのだ。あのビー玉は世界と同じ、小さくてまるこいが、皆でいていい。

生まれてきた長女は天才で、色はお腹にいたときと同じ、鮮やかに毎日絵に描いている。彼女のためにリビングの壁を展示場にした。鮮やかなイメージと窓から見えている吹雪、一生懸命この冬に生き残ろうとしている植物たち、太っている金魚もこのまま、この世にいていい。長女の言葉の表現は豊かだ。この前は突然「鬼は来ない日もくる」と言われた。この言葉は私の日常をよく表している。いつ来るのかわからない恐怖感、不安と苦しみが鬼であって、ブルーになることが多かったこの何年間のあいだ、解放される日も来るだろう。私を苦しめた鬼たちは来る日もあるけれども、近頃は来ない日も多い。

今年に入ってからある日、スーパーで新鮮な鯵を買って捌いた。子供の時によく自分で釣った魚を捌いたので、あの時の感覚に戻りたかったのだ。鯵はフナと違うので、戸惑う。内臓を出して、刺身にするか、アジフライにするか迷った一瞬に、一つの世界が壊れた。結局、アジフライにすると決めた。手で、爪で一つ一つ骨をとった。鯵の細い骨が私の指先を刺して痛いが、なにも感じないより痛みを感じるほうがいい。手で触るのが一番だ。縄文時代に戻りたくなる。娘たちに一匹の鯵を触らせようとしたが逃げられた。「もう死んでいる」といいながら追いかけたら怖いと騒ぐが、もっとこういう経験させなければと思った。

ジョン・レノンは5年間もハウスハズバンドになって、息子のお世話と毎日のパン焼きで精いっぱいだったという。男性なのにと世間が騒いだ。私も母親でありながらやりたいこと、やり残したことたくさんある。でももう怖くない。パンを焼きながら古い世界を手放して、新しい世界を生み出す。ジョン・レノンがいう通り「愛が答え」だ。悪い経験を手放し、春に向かって「この世界にいていい」と自分にいう。

ここ何日間か昼間はすごく忙しくて、クルミと自分で干した干し柿だけを食べた。人間はこのぐらいでも生きていける。辛かった時、誰にも話せなかった時に、スーパーで働いているパートのお母さんたちが私に話をかけて、私も人間であることを思い出させてくれた。世界は私なしで回っていくが、私もなにか、皆の役に立っていることができる。私にしかできないことがあるから。

ある夏、田舎に戻って、朝早く釣りに出かけた。壊れた橋を渡り、修道院が見える場所で、川から上がる霧と反対側の深い森を見た瞬間、町の重さから解放された。前の日は雨が降っていたから、地面はまだ柔らかかった。一つ丘を越えたとき見えたた風景は一生忘れられない。白いキノコが目の前にあざやかに広がっていた。喜びのあまり釣りのことを忘れて、キノコをいっぱい詰めて家に帰った。皆で食べた。毒キノコではなかった。与えられたものをこれからはただ受け止める。

道なき道?

高橋悠治

1月には3つのコンサート 栃尾克樹のバリトン・サックスで『冬の旅』 波多野睦美のシューベルトとシェイクスピアによるコンサート 杉山洋一の探してきた楽譜による『高橋悠治作品演奏会 III フォノジェーヌ』

声の音楽は 1曲が長くない その前後に楽器の音楽が入るのが 自然に聞いていられる音楽のありかたなのかもしれない それぞれの部分に ちがう動きと響きの手触り それらのゆるい組合せが 物語や風景をひかえめに彩り 短すぎず長すぎない時のあいだ続く 19世紀までの音楽はそうだったと思う 世界を映す手鏡を差し出す手や 操る手の陰の暗さに眼を向けることはなく 余韻とともに消えれば それ以上の巧みはいらない

これからしばらくは コンサートもなく 作曲の予定もない 忘れる時間 忘れていたきっかけを思い起こす暇 注意深く過ごす期間 それは決まっているしごとをしていればよい日々よりは かたちもなく きまりもなく かえってむつかしくて ただ流れ去ってしまうだけになるのではないか

音楽を創る(造る)作業は ペーネロペイアのように 昼は織り 夜は解いて待ち続ける 何を? 織り上げた結果が作品となれば 作者は身を退き 身を隠すことになる どこへ?

シモーヌ・ヴェイユのように拒食症にならず イサーク・ルリアのカバラーのように 収縮=ツィムツムとしての創造に耐えて生き延びる 「創る」と「耐える」 「器を破る」と「痕跡を集める」が同時にはたらく場を仮定して かけらにのこる光を集めてのを修復=ティックンにたとえれば バロックの non-mesuré と stile brisé にヒントを得た「あそび」という作曲を 多重プロットに組み上げる 多くの場面が同時に あるいは切り返しで進行する だが 中心になるテーマがまだ見えない

コロナ禍で失われたのは 人は集まる動物だというあたりまえのことで それがなりたたないならば 集まり方を変える実験があってもよいだろう 音楽の実験はそういうものではなかったか 1990年ソ連崩壊以来 多様性の時代と言われているのに アメリカの単独覇権が続いた コロナの後に この矛盾が社会の収容所化とファシズムに向かうのか 単独覇権の「国際社会」の崩壊と近代の終焉と まだ展望の見えない次の社会を探る過渡期の実験期に入るのかは まだ決着のつかない 複雑な葛藤のなかにある そこで何をしていようと いままでのやりかたは続けられないし 回復や回帰はしないだろう 国や社会のなかにいても それらにしばられない一点 アルキメデスの足場をどうやってみつけるのだろう それとも固定した足場はもうありえなくて 距離をとって しかも離れずに 動き続ける そのために あらゆる資源と技術を応用するのか 考えることは多い 考えるより 風を感じて判断する と言ったらいいのか

2021年1月1日(金・祝)

水牛だより

あけましておめでとうございます。
新しい年を静かに迎えました。東京は気温は低めの晴れ渡った元旦ですが、ワクワク感はほぼゼロです。

「水牛のように」を2021年1月1日号に更新しました。
いつも元旦には更新の作業をしていますが、ことしはお雑煮を食べ、おせちを食べ、朝から日本酒を一杯飲みはしましたが、おめでたい気分はまったくわいてこないのでした。でも、こんなときにも原稿を送ってくださるみなさんには感謝しています。アサノタカオさんの「本は水牛である」という最初のセンテンスは楽しく美しいですね。これこそわたしにとってのお年玉だと思いました。

福島亮さんの「『水牛通信』を読む」を独立して読めるようにしました。一号ごとに力作なので、ぜひ読んでください。
「水牛通信」のころといまの「水牛」とがどのように繋がっているのかいないのか、あまり考えたことはないのですが、同じではありえないにしても、少なくともスピリッツは受け継いでいると思っています。「水牛」についてはブログに少しずつでも書き続けていこうと思います。

それでは、来月もきっと!(八巻美恵)

水牛的読書日記(1)本は水牛である

アサノタカオ

本は水牛である。正確な表現ではないが、そのようなことをエドゥアール・グリッサンが言っていた。グリッサンはカリブ海のマルティニック島出身で、フランス語で書く黒人詩人だ。この一見、奇妙な発言は『全—世界論』に収められたエッセイ「世界の本」の中にあり、日本語にも翻訳されている。

詩人は、万物がたえまなく流れ転がり混ざり合う世界の写し絵が本だと考える。さらに言えば、川が山中の源泉から流れはじめて滝になって落ち、そのうちいくつも支流が合流し、やがて分流して河口に三角州を形成し海に注ぐ、その一本の大いなる川の「変容のなかの不変のもの」こそが本ではないか、と。上流であれ下流であれ、流れる清水に人が足を浸せばどこにいてもいかなる時も、「ミシシッピ川」を「ミシシッピ川」と感じる何かこそが本ではないか、と。

エドゥアール・グリッサンの文学という川についてみれば、フランス語を介したヨーロッパの古典の世界が「変容のなかの不変のもの」として滔々と流れていることはまちがいない。ホメロスの叙事詩や『ローマ帝国衰亡史』や『ヨーロッパ文学とラテン中世』、あるいはマラルメの『骰子一擲』などがそれだろう。

と同時に、そこにはヨーロッパの植民者の言語とアフリカ人奴隷の言語の混ざり合いから生まれたクレオール語の話し言葉の世界も、ゆたかに流れ込んでいる。ところがカリブ海の島の女たち、男たちがしゃべるクレオール語の話し言葉の世界は、西欧の伝統的な書物と文字の世界からも、電子的な情報文化の世界からも疎外されていて、本の世界に居場所がない。グリッサンは、この歴史的に疎外されてきた声をも「変容のなかの不変のもの」として受け止める本、ヨーロッパの古典の世界とも、電子的な情報文化の世界とも異なる「世界の本」を想像する。

ここにいたって、グリッサンの語る「川」は比喩的で抽象的な図式のようなものから、きわめて具体的で親しみのある風景にかわる。

ほら、島の川原をみてごらん。そこにはクレオール語を話す日に焼けた労働者たちがいるじゃないか。そして水牛がいるじゃないか。わかるかい、あれが「本」だよ。雲がやってきて、ハリケーンがやってきて、川が氾濫してあふれる水に流され、大波にのまれ、無数の水牛が死んでいった。なんてこった! けれど雲が去って太陽があらわれ、水が引いて土地が乾いて草が生えて風が渡る、すると川原には何事もなかったように、ほら、水牛がいるじゃないか。流れ転がり混ざり合う世界とつねに変わらず共にある「あの孤独な、連帯する、動じない水牛」、わかるかい、あれが「本」だよ——。

本は水牛である、というグリッサンの哲学的なヴィジョンの真相については彼の著作をちゃんと読んで学んでもらうこととして、ぼくにとってこの定義は体験的に腑に落ちるところがあった。

10代の頃、地方の町で自覚的に書店や図書館に通いはじめ、本を集め出して活字中毒になり、あれから30年。部屋は、夏の空き地に日に日に草が茂るように本で埋め尽くされていった。しかし20代からふらふらと移動の多い生活を送ってきたので、引越しのたびに荷物を減らすために本を手放してきたし、いまから10年ほど前、いったん本の世界から離れたいという思いにも駆られて蔵書のほぼすべてをある人に寄贈した。

身軽になったと感じたのはほんの一時期のことで、しばらくすると部屋はふたたび本で埋め尽くされていった。当たり前といえば当たり前の話だ。ぼくの職業は編集者で、すなわち本を作ることを仕事にしているので、仕事のために必要な資料としての本、いつか仕事のために必要な資料になりそうな本、必要な資料かどうかわからないけど気になる本が、生き物のようにわらわらと手元に集まってくる。個人的なたのしみのために読む不要不急の本も、もちろんある。子どものために買ったつもりがけっきょく自分で読んでいる本なんかもある。そして出版業界には「献本」といって同業者同士、企画に関わった本を近況報告の代わりに贈り合う習慣があるので、この仕事を続ければおのずと蔵書の量は増える。やれやれ。

マルティニック島の川原の風景と同じだ。雲がやってきて、ハリケーンがやってきて、川が氾濫してあふれる水に流され、大波にのまれ、無数の水牛が死んでいったように、人生の転換期に合計で何千冊かの蔵書が目の前から消えていった。しかしいつのまにか川原に水牛の群れが戻ってくるように、部屋はふたたび少なくない数の本で埋め尽くされていった。といっても、いまそこにあるのはいわゆる「新刊書」ばかりではない。いったん消えたはずの、ある種のなつかしい古い本たちが——実際には、手放したあとになかば無意識に買い戻したりしているわけだが——なおも棚の中に悠然と並んでいることに最近、注意が向くようになったのだ。そしてまるでグリッサンのいう「あの孤独な、連帯する、動じない水牛」のように、「変容のなかの不変のもの」としてこちらの人生をじっと見つめ続ける一群の書名のことが、どうも気になって仕方がない。

たしかに、本は水牛である。流されても流されても、水牛は、いつもそこにいる。
 
たとえば、リチャード・ブローティガンの小説などアメリカ文学の翻訳で知られる藤本和子さんの本。若い頃からいつか読もう読もうと思いつつ、思うだけでほったらかしにしてきた80年代の彼女の著作『塩を食う女たち——聞書・北米の黒人女性』と『ブルースだってただの唄——黒人女性の仕事と生活』が近年立て続けに文庫化されこともあり、わが視界に戻ってきた。10年越し、いや20年越しの無言の呼びかけに応えるように、いよいよこれらの本の読書がはじまるという予感を抱いている。

それを言えば、部屋に積み上げられたままになっている、詩人で記録文学者の森崎和江さんの本たち、画家の富山妙子さんの本たちも、いまの自分にとってどういうわけか同じように気になる大きな存在だ。偶然なことに、彼女ら3人はいずれも、このウェブマガジン「水牛のように」の前身となる80年代前後の「水牛楽団」や「水牛通信」、あるいはその周辺の活動となんらかの関わりがある書き手で、みなさんおのれの信じる道をひとり歩みつづける「いっぽんどっこ」タイプという感じがする。

藤本さんが編集・翻訳した『女たちの同時代——北米黒人女性作家選』(全7巻)という本もある。アリス・ウォーカー、トニ・モリスン、ゾラ・ニール・ハーストン、一時期それなりに熱心に読んだはずなのにこまかい内容をすっかり忘れてしまった彼女らアフリカ系アメリカ人のウォマニスト作家の文学も再訪したい。昨年2020年はアメリカで、「ブラック・ライブズ・マター」の怒りの声があがった。

そして「水牛」と関わりがあるはわからないけれど、今年は在野の女性史研究家、もろさわようこさんの仕事を尋ねることになりそうだ。やはり80年代前後に刊行されたもろさわさんの主著が自分の仕事用のデスクに並んでいて、彼女が主宰する「歴史をひらくはじめの家」のミニコミ的記録集(京都の古本屋KARAIMO BOOKSでバックナンバーを購入した)のページをめくって行ったら、富山さんの名前があった。

なぜ、女性の書き手なのだろうか。以上にあげた著者たちには、いずれもライフワークとして「女性史」に取り組み、アメリカ黒人の世界であれ日本の辺境の世界であれ、フィクションであれノンフィクションであれ非言語的な芸術表現であれ、歴史の中で語られてこなかった声なき声に耳をすまし、「ことば」を与えるという冒険的な仕事をしてきたという共通点がありそうだ。しかしなぜいま、彼女らの本を読むという予感にとらわれているのか(そしてわざわざ断る必要があるかわからないけれど、なぜ「男性の読み手」である自分がそれを読むのか)、よくわからない。

でも、わからないなりに「孤独な、連帯する、動じない水牛」としての本の群れを追いかけながら、自分自身の読むことの小川をたどる旅をこれからはじめようと思う。牛使いの小僧になったようなつもりで、ともかく歩き出してみることにする。

丑年にちなんで~水牛キヤイ・スラメットの話

冨岡三智

12年前の丑年1月、私は『ジャワのスス(牛乳)屋の話』を書いていたが、今年は水牛について書いてみよう。実は、インドネシア語で干支の丑はサピsapi(牛)ではなくクルバウkerbau(水牛)と言う。調べてみると、牛はウシ科ウシ属、水牛はウシ科アジアスイギュウ属に属し、水牛の原産地はアジアだという。現在でも世界の水牛の95%がアジアに生息しているらしい。そういえばこのサイトの名も『水牛』だ…。

ジャワ暦大晦日の夜から新年(ちなみに2020年にかけて行われるスラカルタ王家の宝物巡行には、聖なる白い水牛が登場する。水牛と聞いて私がまっさきに連想するのがこの行事で、2020年9月号「ジャワ暦大晦日の宝物巡回」と、2003年6月号「スラカルタの年中行事(1)」でも紹介した。夜中の0時、王宮からキヤイ・スラメットの水牛の群れを先頭として、槍などの王家の宝物の列、それに随行する王族、王家家臣、参加希望者(村落などから団体で参加する)らが伝統衣装で正装して列をなし、一晩かけて王宮を取りまく区域(約5kmの距離と本にあった)を巡行し、明け方に王宮に戻ってくる。これは単なるパレードではなく、主催者にとっては町を清める儀礼であり、参加者にとっては祈りの行である。そのため参加者は無言で裸足で歩く(王族は履物を履く)。沿道には夜中まで大騒ぎしてこの行列を見ようとする人であふれているが、ジャワでも正月は昔の日本同様に寝ずに迎えるもの、つまり眠らないという一種の行をしていることになる。この行のことをティラカタンと言う。

沿道の人たちの中にはキヤイ・スラメットに餌を差し出す者もいる。キヤイ・スラメットに食べ物を差し出すとご利益があるとされているからだが、それはこの時だけに限らない。キヤイ・スラメットが飼われている地域付近では、キヤイ・スラメットに店や屋台の商品を食べられても、人々はかえって有難がったものらしい。また、キヤイ・スラマットの糞を肥料にすると農作物がよく実るといって、この巡行の際に糞を拾って持ち帰る人もいるという。ちなみに、王宮のイスラム行事がある時には、王宮モスクからグヌンガンという米や野菜など食物で造った神輿が出るが、この神輿の枠に使う竹ひごなどを持ち帰って田圃の四隅に埋めたり挿したりすると豊作になるという話もある。水牛の糞の話といい、この神輿の話といい、ジャワ王権が農耕基盤であることがよく表れている。

さて、このキヤイ・スラマットという水牛は何なのか。それを議論した4年前のインドネシア人の論文や新聞記事が見つかり、読んでみた。実は私も長年、なぜキヤイ・スラメットは聖なる水牛なのか疑問に思っていたのだ。それらによると、キヤイ・スラメットはポノロゴの領主(中部ジャワに近い東ジャワの都市名)からパク・ブウォノII世に贈られたアルビノの水牛のことで、ラデン・マス・サイドが著した『ババッド・ソロ』(ソロ年代記)にそのことが書かれている。それは都がまだスラカルタに移転する前の話である。パク・ブウォノII世はこの水牛を気に入り、王国の宝物を先導するのにこの水牛を用いたという。この水牛は王家で飼われ、子孫はすでに何代にもわたる。その故事にちなんで、ジャワ暦大晦日から新年の巡行でも、このキヤイ・スラメットの子孫の水牛が先頭を歩くのだと言う。ただ、なぜその初代のキヤイ・スラメットが聖牛とされたのか、なぜポノロゴ領主がパク・ブウォノII世にその水牛を送ったのかは、すべてが口承伝承のため依然として謎のようだ。ただ、王家の人々や一般の人々の実践を通じて、キャイ・スラメットは豊穣繁栄の象徴として定着し、この大晦日の行事のアイコンとなった。

満月と水牛または「みどりは苦い」

北村周一

月末の締め切りがちかづくと、なんとなくそわそわし出す。
どうもじぶんだけではなさそうなのは、水牛のほかの方方の文面からもうかがい知れる。
九月、十月、十一月、そして今月十二月と、月の末はほぼ満月であった。
2020年を振り返るとつぎのようになる。
1月11日 満月
2月9日  満月
3月10日 満月
4月8日  満月
5月7日  満月
6月6日  満月
7月5日  満月
8月4日  満月
9月2日  満月
10月2日 満月
10月31日満月
11月30日満月
12月30日満月
いわゆる旧暦(太陰太陽暦)と、現行の新暦(グレゴリオ暦)とのあいだには、
当然ながら微妙なズレが生じているわけだが、そんなことを考えながら夜空を見上げてみても、なかなか気分は晴れない。ことにこの秋から冬にかけては・・・。
満月にはなんの罪もないけれど、満月イコール水牛の締め切りに結びついてしまうのだった。
閑話休題。
いろはに金平糖、という遊び歌がある。
いろはにこんぺいとう こんぺいとうは甘い
甘いは砂糖 砂糖は白い
白いはウサギ ウサギは跳ねる
跳ねるはカエル カエルは青い
青いはお化け お化けは消える
消えるは電気 電気は光る
光るはオヤジの禿げ頭

これには替え歌があって、
デブデブ百貫デブ
電車にひかれてペッチャンコ
ペッチャンコはセンベイ センベイは丸い
丸いはボール ボールは跳ねる
跳ねるはカエル カエルは青い
青いはキュウリ キュウリは長い
長いはヘービ ヘービは怖い
怖いはユウレイ ユウレイは消える
消えるは電気 電気は光る
光るはオヤジの禿げ頭

地域や年代、男女のちがいによって、若干のことば遣いの差異はあるようだけれど、
この歌の終わり方はほぼ同様な気がする。
夕方遅くなってもまだ遊び足らずにいる子供たちが、互いにふざけ合いながら家路を急ぐ場面。
父親が相応に怖かった時代の話ではある。
はたまた閑話休題。

事務机の引き出しの中にしまってあったシガレットケースが見つからない。
その当時吸っていたタバコの銘柄はチェリー。
そのチェリーを10本ほどケースにおさめてあったのだが、見つからない。
全体が濃いグリーンに彩られた、輪島塗のタバコ入れ。
輪島育ちの祖母から貰ったものだとはいえ、よわい23、4の若造が身に付けるにはちょっと不釣り合いな代物であったかもしれない。
向かいの机の席には、小林さんという50歳くらいの年配の職員が座っていた。
もともと係長職にあった人物なのだが、重い病気を患ったので降格となり、自宅療養後にこちらの部署へと配属されてきたのである。
病が完全に癒えたわけではないのに小林さん、たいへんなヘビースモーカーで、口からタバコが途切れることがない。
酒は飲むのを止めたから、タバコくらいは、ということらしい。
いつも暇そうにしているから、ときどき輪島塗のシガレットケースを小林さんに見せびらかしながらじぶんもタバコを吸った。

思い起こせば、最初にタバコを吸ったのは、高校一年のときだった。
たんに、興味本位の一服だったけれど、あまりの不味さにびっくり仰天して、すぐに洗面所に走っていった。
家の台所の祖母専用の灰皿にのこしてあったタバコの吸いさし。
銘柄は、忘れもしないひらがなで、わかばと書いてあった・・・。

醜い頭部のこと

越川道夫

夜中に仕事場から川沿いを歩いて帰ってくる。コロナ禍によって大切に進めてきた仕事はすべて中止か延期となってしまい再開の目処はまったく立っていない。映画監督としては半ば失業状態というようなものだが、それでもやらなければならないことはある。冬になって川沿いの木木の葉は落ち切ってしまった。それまでは茂った葉に埋もれるように眠っている白鷺を見上げることを楽しみにしていたのだが、裸木になってしまって彼はもうここでは眠っていない。
玄関脇に大きな木があって、その木を覆うようにしてキカラスウリが実をつけている古い家があった。通りかかると木ごとバッサリと切られてしまったらしく、それももうない。もしかしたら家ごと無くなるのかもしれない。疫病の影響とは言い切れないが、このところ古い家が取り壊されたり、売家になっているのを多く目にするような気がする。
 
ふと思い立って出不精の私にしては珍しく松濤美術館に舟越桂展を観に行った。小規模ながら舟越さんの彫刻の仕事が俯瞰的に展示されているのだ。舟越桂さんの父。保武さんの彫刻には、 ほんとに美しいものの「顕現」というものが感じられて好きなのだけれど、桂さんの初期の作品、その人物の彫刻にモデルがいる作品群には、どう言ったらいいのか何か「俗」なものの静謐な佇まいがあってずっと惹かれてきた。「俗」とは悪い意味ではなく、それぞれの身体が持つ「どうにもならないもの」がそこに慎ましやかに現れているような気がするのだ。その彫刻の前に立って、私はその身体に触れたいと思う。その華奢な腰回りを抱きしめ、潮の虚な眼に口づけしたいと思う…。ところが第二展示室に飾られていた近作にはまったく惹かれることがなかった。ある危機感のようなものから出発し、彼の想像力を自由にはばたかせて作られたその彫刻には「モデルがいない」、と説明にはあった。
 
第二展示室から逃げるように初期の作品の展示へと戻りながら、思い出したことがある。中学生の頃、美術で2人ひと組になってお互いの頭部をブロンズで作るという授業があった。私が組みになったのはOくんという美術に特異な才能があった同級生だった。自分ではOくんの頭部をよく観察し、「美しい」Oくんの頭部を作ることができたと思ったのだが、相方のOくんが作った私の頭部を見て驚いた。私は、彼の作った私の頭部を「醜い」と思った。見ることが堪え難かった。そしてその頭部は「醜い」だけではなく、まさしく「私の頭部」だったのだ。私は自分の作ったOくんの頭部がひどく「貧しい」もののように思えた。
 
この「醜さ」が「どうにもならないもの」の正体であるのかもしれない。おそらく、私が作っていたOくんの頭部は、よくデッサンしたつもりでいても、私の「美しいと思う形」に引きずられ、物の一つ一つの存在が持つ「どうにもならないもの」から乖離し、言ってしまえば絵空事になってしまったのだと思う。私が見ていたものは彼の頭部ではなく、自分のつまらない美意識とでもいうものであった。Oくんは私の頭部に「どうにもならないもの」を、私の頭部にしかない「何か」を見てくれていた。それに引き換え、私は自分の美意識を優先して、Oくんの頭部にしかない「何か」を見なかったのである。今でもOくんの作った「醜い」私の頭部のブロンズ像を、とても「美しいもの」として思い出す。

冬至

イリナ・グリゴレ

12月21日、冬至。朝早く起きられなかった。娘たちは私のせいでまた保育園に遅れた。朝はいつも忙しい。長女は私に似て、夜型だ。今日も出発の時間ぎりぎりまで起きず、慌てた。朝ごはんはパンと牛乳またオートミール、次女のお気に入りだ。小さい手で娘が玄関のドアを開ける瞬間が好き。雪の光が眩しくて一瞬目が見えなくなる。写真のフラッシュのようだ。私の目の虹彩に残る。二人の娘の後ろ姿は幻のようだ。その時の私の頭の中のイメージはサイレントムービーだ。

見送った後にそば茶を入れる。今日も雪が積もった。夫の服に着替えて雪かきを始める。こうしていつも彼の身体を借りる。男の服を着るのが好きな私。彼の魂を盗んでいる気分だ。融雪溝に入れても全然流れない。かなりの力仕事。家に戻ってパン作る。発酵は気持ちいい。まずは茶碗でイーストと砂糖を混ぜる。そのあとで小麦粉を少し混ぜる。そば茶の残りのお湯を少し入れると5分で膨らむ。こうして膨らんだイーストをたくさんの小麦粉と混ぜて、お湯を加えたら粘土のように捏ねる。これは何と言っても幸せだ。手で温かい生地を触ると、この生地はこれから何でもなれるという無限の可能性を感じる。捏ねることも、丸めることも、私の手の細胞と合体させることだ。丸くなったら発酵の番だ。これも私流なのだ。祖母の形見の、石でできたブレッド・スタンプを押す。最後は祖母が織ったタオルを上にかけて待つ。このレシピは自分で考えて、一番この家に合うことが分かった。同じ場所に長く住むと、湿度と景色、光の落ちかたによって生きているイーストの状態が身体でわかってくる。私にとって、これにはもう一つの意味がある。パンを通して自分の先祖の身体をもう一度形にして食べることを繰り返し、わたしの身体に戻すのだ。

一瞬、お日さまのひかりが、五つの窓すべてから家に入った。外を見るとまた雪が積もっていた。また雪かきだ。なにも考えずに重い雪を運んでも5分でまた積もる。このまま雪かきをしなかったら、きっと一時間で家の二階までつもる。そんな気がした。

保育園へ迎えに行くとき、川の近くで、吹雪のなかからオオカミが見えた。日本のオオカミはいつ日本から消えたのか、という本を図書館の本棚で見たけれど、絵本と妖精の本を借りた。オオカミの本を借りればよかった。

知らない間にまた朝になってそば茶を飲んでいる私がいた。一瞬しか経ってないのに、気づかないうちに窓に置いたカリンが腐った。早めにジャムにすればよかった。悪いことした。ルーマニアの家でもよく窓においてあった。冬の寒い日に薪ストーブの上に置いて、焼いたらごちそうだった。

パンは発酵してはみ出そう。焼く準備。あ、娘たちの迎え。雪かき。オオカミの本を借りればよかった。何年もここに住んでいるが、初めてオオカミを見た。幻のだ。「日本ではオオカミは神様だよ」夫は言った。

スーパーの鏡に映っていた私の姿は違うものになっていた。たまに勝手に違う者になっている。自分の身体をコントロールできるようになりたい。今回は娘たちが殺した蜘蛛の子供みたいだった。夏の間に母蜘蛛はたくさんの虫を食べて、お腹がすごく大きくなっていた。いつのまにか子蜘蛛が産まれた。家の中を走っていた。ゲジゲジもいるからどのぐらい残っているのか。娘は間違えて殺したと泣き始めた。もっと観察して遊びたかったみたい。大丈夫と励ましてあげた。ルーマニアでは豚一匹を殺して、一冬かけて肉をたべる。今ごろなら豚の内蔵を綺麗にしてソーセージを作っていた。小さい頃は、殺されて焼いた豚の皮膚と耳を食べていた。一年間大きくした豚の命を家族でいただく儀礼はよく見られた。キリスト教以前の習慣だ。

でものこの時期に一番好きだったのは、イエス様が生まれるお知らせを、村の子供たちがその前の日の朝に行うことだ。24日の朝から子供たちだけで村の各家を回って、イエス様が生まれた喜びを大きな声で叫ぶ。各家の門はその朝だけは開いていた。喜びを家に入れるために。こういうのも今はあまり残っていないみたいだ。現在では各家の門は鍵で閉められていて、もう喜びを受けられない状態なのだ。

また雪が積もってきた。そろそろ夫の服に着替えて、雪かきをする。そういえば、車のライトをつけるのを忘れた。夕方なのに、雪の光で気づかなかった。私が見た幻はオオカミではなかったのか。昔、父はVHSでとても怖いホラー映画を借りていたので、仕事をしている間に、弟と隠れて見た。怖かった。黒いヒョウは突然、町に現れて町の人を殺し始める。壁を抜けることができて、一瞬液体になる。黒い液体だ、コールタールのようなものだ。アスファルトを固めるとき使われる。原発を作るときも使われるかも。急にコールタールの匂いを思い出して吐きそうになった。インタネットで見たニュースを思い出した。アルゼンチンの町では子犬がコールタールだらけになっていた。私はコールタール恐怖症だ。

私の身体のデキモノも、いくら手術でとってもまたできる。でも私が見たものはあのヒョウではなく、オオカミだったと信じたい。気配は優しかった。外に出たとき玄関に干している柿の一番下の一個が齧られていた。猫かな。洗濯物を干すのは忘れた。パンの生地がすごく膨らんだ。今日はいいパンができる。

12月21日。白神山地にオオカミはまだいるのか。
西目屋村まで行きたくなった。乳穂ヶ滝のところで探してみたい。西目屋村に住めばよかった。崖の近く、古い家を買って、自分で直し、家の前の田んぼを復活して。でも買わなかった。アトリエにしたかった。あの家に呼ばれたから。窓から覗くと、緑色の昭和のキッチンが見えた。後ろは岩木山とりんご畑だ。滝はもう凍ったかな。

でもあのキッチンでパンを焼くのは難しいだろう。あんな静かな人生はあるわけない。滝のところへ行ってみよう。今日は21日、雪かきを終えたら、あの方に会う予定だった。

あの方に会いに行ってたくさんお話した。私と話が合うひとはなかなかいないのでうれしかった。動物にも、女にも、男にも、ほかのたくさんの生き物になれる人と久しぶりに出会った。私がちょうど生まれ変わったばかりで、手からネバネバな透明な液体がテーブルに流れたので、生まれ変わったばかりということがばれそうだった。目を合わせるたびに部屋が違う空間に変わる。季節も、春、夏、秋になって2秒で冬に戻った。様々な人が部屋に入ってきた気がするが、私にしか見えなかった。初めて出会ったのは森の中のすごく暑い日だった。

寒くなったので、キッチンでそば茶を入れた。保育園に迎えに行くとき、車のラジオから世界の音楽という番組でアフリカの不思議な曲が流れていた。アフリカにオオカミいないだろうと一人で笑った。でもあのオオカミには前もどこかで会ったことがあると思う。どこだろう。思い出せない。そうだ。祖父母の庭に夕方に来ていたのだ。

家に帰って二階のストーブをつけようと思ったら、二階の窓から見えた。窓まで背が高いと昔話で聴いていたけど、確かそうだ。目を合わせる。怖くない。背の高いものは怖くない。さっきのオオカミは、あなただったのか。私にしか見えないが、どうも、トロールだ。家と私を守っているのかもしれない。たまに目を合わせるだけで十分。考えは伝わるから。家の前にこの優しいトロールが立ってから、飼っている金魚が何倍もの大きさになって水槽に入れなくなった。金魚というよりらんちゅうだがそれにしても大きすぎる。

私の理解者は一人いれば十分だ。今日も私の映画は拒否された。裸のシーンを入れればよかった。裸になったつもりで作ったのに、裸のシーンがない。女性の裸ですべて解決できる世の中ではない。女性の裸は神話的な空間だ。限られたものしか見てはいけない。

12月21日本当に短い日だった。残ったそば茶のかすに蜂蜜を混ぜて食べた。

ウシュクベーハーに沈む

璃葉

ウイスキーを味わう日々を送っている。
決してアルコール依存症ではない。とある場所を手伝うことになり、
ゆらゆらふらふら楽しんでいたものを、しっかりと学ばなければならなくなってしまったのだ。

ずいぶん前から思っていたことなのだが、きっと私は、酒の運に恵まれている。
なぜだかウイスキーのほかにも焼酎やワインに関連する仕事がきたりするし、
美味しいお酒をいただく機会が多い。
バッカスでも憑いてるのでは? と姉に言われたときは笑ってしまったが、
もしかしたらそのような気配があるかもしれないと、一瞬背後に意識が向く。
ついでに酒豪代表として、うちの父や祖母なんかも肩に乗っかってそうだ。
ともあれ、私が一番好きなお酒はウイスキーだ。
その日出会えたウイスキーの味を忘れないよう、最近はテイスティングノートをつけることにしている。

グラスに黄金色の液体を注ぐと、顔を近づけないうちから高貴な香りが漂ってくる。
香りを確かめ、一口含んで、じわりとひろがる味から食べ物や花や、情景を連想して、ノートに記していく。
洋梨やりんご、キャラメル、蜂蜜、ビターチョコレート、キャンディ。
花やナッツの香りだったり、バニラのような味が隠れていたり。
真っ暗な景色にぼんやり橙や黄金色がひろがっていく想像をする。
たまに緑や淡い水色も浮かんで、土のような香りもする。かたちがはっきりするものとしないものが現れては消えていく。
味や香りの輪郭を辿るのはたいへんに難しい。自分の感覚を信じられないこともあるし、
まだまだ経験の浅い私には、その複雑な香りをどう表現したらいいのか?となってしまう。
気の遠くなるほどの時間をかけて造られたウイスキーは、どれもこれも味の層が広いのだ。
樽や熟成年数、その他諸々によって驚くほど味が変わる。いやあ、なんて魅力的なのだろう。

何かに夢中になったり没頭することを沼にハマる、というらしい。
だとしたら、ウイスキーの世界はとんでもなく危険な底無し沼である。
もはや両手足ずぶずぶ浸かってしまっているから、私の場合は手遅れだろう。

たすけに来てよ、ワンダーウーマン!

若松恵子

2017年に公開され大ヒットした映画「ワンダーウーマン」の第2作を見に行った。鬼滅の刃に押されて客席はガラガラで残念だったけれど、いいファンタジーだった。

主演のガル・ガドットは、イスラエルの国防軍での戦闘トレーナ経験をへてミス・ユニバースのイスラエル代表から女優になったという経歴の人だ。彼女の自然な美しさによって「ワンダーウーマン」という夢の存在に説得力が生まれている。色々な装備を付けずに、まして「変身」などせずに身ひとつで闘っているところも良い。

第2作は特にCGでなく実写で撮るという事を目標にしたと女性監督であるパティ・ジェンキンスが語っている。第1作の成功によって、太陽をバックに現実の場所で撮影し、数か月がかりのワイヤースタントを撮る膨大な予算を確保する事ができたという。迷いを振り切って人類のために走り出していくバーバラ(ワンダーウーマン)の姿がまさにクライマックスなのだけれど、CGによる不自然な映像ではなく、リアルな肉体をもって表現された「ゆるぎない意志」というものが胸を打つ。アメリカンコミックスの絵柄から勝手に偏見を抱いていたのだけれど、ワンダーウーマンは「拳や拳銃でなく、愛の力で敵に勝利するヒーロー」として生み出されたという事だ。

前作でバーバラは「人類は救うに値するのか」という事に悩む。敵に「いっしょに人類を滅ぼそう」とそそのかされてひるむ。しかし、彼女を踏みとどまらせるのは、自分が出会った何人かの人間への愛だ。

今作でも人間の欲望が人間自身を滅ぼそうとする状況にワンダーウーマンといえどもなすすべがなくなる。彼女自身も「死んだ恋人に再び会いたい」という願いをかなえる事と引き換えに自分のパワーを失っていく。何でも願いをかなえる事ができる魔法の石と何でもできる(かのような)ワンダーウーマンとの対決となる。

ワンダーウーマンさえ来てくれれば問題は解決するのか、人間の問題は人間自身が解決しなければならないのではないか、さらに物語はそんなことも考えさせる。まあ、エンターテインメントなんだけれどもね。

人間に代わって解決してくれる人ではないと分かっても、ワンダーウーマンが横に居てくれるのは心強い。ダメなものはダメだと言って、「悪」に毅然と立ち向かって負けない姿は爽快だ。例えばコロナウイルスをどこかに追い払ってくれとは言わないが、コロナ禍の混乱に乗じて人を痛めつけようとする悪い奴はぶっとばしちゃってほしいと思う。そいつらが放つ悪を古代から受け継いだ盾で全部はね返しながら、そいつらの牙城にどんどん踏み込んでいって、思いっきり・・・・。

むもーままめ(2)注射の名手の巻

工藤あかね

あけましておめでとうございます。
前回、夫を題材にした狂歌を並べたので、
今回はコロナ狂歌の回にしようと思っていました。

けれど新春早々、憂鬱だった年の回顧というのは
どうにも調子がくるうので、別の話題にします。

注射!!!

国内外でワクチンの話題も出ていますし、今回はこれでいきます。

…さて。みなさんの中に、注射が得意な方はいますか。
わたしは、注射が大の苦手でした。

わたしの注射苦手歴は、子供の頃からなのですが、
どのくらい苦手だったかと申しますと、
予防接種の前夜は、緊張で眠れなくなるくらい、です。

予防接種当日の朝には、なんとかして注射を受けないで済むように、
きまって体調不良を装っていました。

「頭がふらふらする。お熱がある気がする。」

ところが母は、私の平熱を確認すると、
顔色も変えず、問診票に記入を始めます。

「〇〇アレルギーはありますか」
「〇〇の病気はありますか」

容赦なく「いいえ」に○をつけてゆく母の手元を、
いつも恨めしい思いで眺めていたものです。

けれど、母の隣にぴったりはりついて、
「ほんとに、いいえ?」
「質問、ちゃんと読んだ?」

などと横槍を入れて、最後の抵抗を試みます。
結局、あっさり注射に送られておりましたが。

それから時が流れて、大人になりました。
ところが注射への苦手意識が克服できたかといえば、さにあらず。
指を怪我して縫うことになった時には、
「麻酔の注射をしましょう」と言われて、
キューっと縮みあがってしまいました。

「注射…。しないで良い方法ないですか…。」と弱々しく尋ねたら、
お医者さまからは、
「麻酔なしでちょんちょんちょんって縫うか、
麻酔一回ちくっとして、痛くないちょんちょんちょん、どっちがいい?」
と、オノマトペ満載のお返事が出てきました。

「うっ…麻酔…。世界一細い針でお願いします」と真剣に伝えたところ、
先生と看護師さんに、大笑いされました。

血液検査だの、注射だのの際には毎回、
「注射、ものすごく苦手です…」と言ってしまいがちなのですが、
この作戦が逆効果になることもしばしば。

わたしが余計な情報を伝えたがために、
打つ側があきらかに動揺してしまって、
注射針を腕に刺したのちに、
血管を探る事態になったこともあります。

ですが、どんな世界にもいるものですね。
名手というものは!!!

わたしはこれまでに、2回ほど、
注射の名手に出会ったことがあります。
彼らのおかげで、積年の注射苦手意識は、
ぱぁっと吹きとびました。

1度目は、柔和でおっとりとした看護師さんでした。
いつものとおり注射が苦手なことを伝えると、その看護師さんは、
「うふふ、わたしも注射されるの苦手ですぅ。いやですよねぇ。」
なんて、言いながら、あっという間に全ての工程をクリア。

これから注射を打ったり血液検査の際には、
あの看護師さんにお願いしたい!と本気で思っています。
看護師さんって指名できるのかしら。

2度目は、看護師さんとお医者さまのチームワークが優れていたケースです。
この日は採血&鎮静剤のコンビネーションだと聞き、朝から怯えていたのですが、
担当してくださった看護師さんが、かゆいところに手が届く気配りの方で、
診察室に入る前にはすでに一段階、心がほぐれていました。

そして、いよいよはじまる、と思ったところで、
その看護師さんは、リフレクソロジーの施術者か、あるいは
瞑想ヨガのインストラクターかというような声色で囁いてきました。

「深呼吸しましょうね。右手を…ぐーぱーぐーぱーしましょうか…」
「はい…ぐーぱー…」

怖さを打ち消そうと、必死で右手をぐーぱーぐーぱーしていましたら、
今度は反対側からお医者さまが、深夜ラジオのパーソナリティーさながらの、
ソフトな語り口で仕上げに入ります。
「呼吸を…らく〜に…してくださいね…落ち着いてきたら…始めますからね…。」

その間、看護師さんからは腕を楽にしてくださいね…と言われた気がしましたが、
看護師さんとは逆方向から話しかけてきた先生の声に気を取られて、
針が刺さったのにも抜けたのにも、全く気がつきませんでした。

国家から命を狙われているスパイなら、そんな手には乗らないのでしょうが、
わたしくらいの小市民なら、赤子の手をひねるレベル。ちょろいもんです。
けれど、本当に痛くないのです。今後も喜んで、その手に引っかかりたい。

彼ら注射の名手たちに共通しているのは、
患者の緊張をほぐすのが大変にうまいこと。

迫り来る注射針に神経を全集中してしまえば、
体は固く緊張し、痛みにも敏感になるに決まっています。
打つ側も打たれる側もハッピーな、痛くない注射への究極の道は、
もしかしてリラックス?これに尽きるのでは!?

たとえ注射の名手に当たらなかったとしても、
こちらがリラックスさえしていれば、もしかしてあまり痛くないで済むかもしれない!!
注射を打つ名手がいる一方で、打たれる名手もきっと存在するに違いない。

ああ、痛そうな顔でインフルエンザの予防接種を受けているお相撲さんたちや、
注射が怖くて泣いちゃう寸前のお子さんたちに教えてあげたい。
リラッックスすれば、(たぶん)注射が痛くなくなりますよ!って。

海外では新型コロナのワクチン接種が始まりましたが、
日本でもそのうち実施されるのでしょう。
コロナをきっかけに、一旦離職していた看護師さんが、
医療現場の現状を見かねて、復職するケースがあると聞きます。
そして、ブランクがある看護師さんからは、
注射に不安があるとの声もあるようで、注射を打たれる側だけではなくて、
打つ側も相当に気をつかうものなのだと知りました。

これからは、復職したばかりの看護師さんが緊張してしまわないよう、
「注射が苦手」と、病院では言わないようにしようと思います。
そのかわりに注射が痛くなくなるおまじないを、心の中でつぶやいてみます。
「リラックス!」

貧乏左翼

植松眞人

 もう十年近く前になるのだろうか。
 東京の日比谷公会堂で歌手あがた森魚のコンサートが開かれた。それほど多くのヒット曲を持つわけではないが、七十年代フォークを語るとき、なくてはならない人ではあるし、彼がリリースしてきたアルバムは、コンセプトアルバムとしてとても優れていて評価が高い。だからこそ、アルバムは毎年のように発表されているし、狭いとはいえライブ会場はファンで一杯になる。
 ましてや、この日はあがた森魚の歌手生活四十周年を記念するコンサートで、ムーンライダーズの面々や矢野誠らが参加してにぎやかに新しい曲やら懐かしい曲やらを演奏しつつ進行していた。
 あの当時、あがた森魚は六十代の後半で、コンサートの観客もほとんどが彼と同年代か、そこから前後五歳程度といった感じだった。つまり、平均年齢が六十代半ばくらい。そんな男女が集まり歴史と趣のある日比谷公会堂に詰めかけ、舞台上の実力ある、いまでは少し埋もれた感のあるあがた森魚をじっと見つめ、時には手拍子し、それぞれに微笑みを浮かべながらコンサートを楽しんでいるのだった。
 そんな中にいて、私は前の席に座っている、おそらく私よりもほんの少し年上の女性の背中を見ていた。あがた森魚の歌う『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど』という大好きな曲を聴きながら、その人が着ていたセーターの背中に着いた毛玉を見ていた。おそらく上質のカシミアで作られたえんじ色のセーターは、大事に丁寧に着られているのだろう。全体が少し毛羽立ち、所々に小さな毛玉があった。しかし、それが不快な感じを与えるのではなく、逆にいいものを大切に着ているという印象を与えるのだった。
 私の前に座っているおそらくあがた森魚のファンであるその女性に好感を抱きつつ、彼女の背中を真ん中に置きながら左右に目を走らせる。あがた森魚の歌が次の曲に移り、少しアップテンポとなり、カシミアのセーターの女性の隣にいた男性のネルのシャツが揺れる。じっと見ると、このネルのシャツも長らく着込まれているのだろう。小さな毛玉が肩から脇へと続く縫い目のあたりにいくつか出ている。こちらも、それほど安くはない良質の素材が使われているのだろう。年季が入り少しは色あせているのだろうが、生地がよれたりしているわけではない。カシミアのセーターとネルのシャツは時々肩の辺りで触れあったりしているので、彼等は一緒にやってきた夫婦なのかもしれない。
 この夫婦から目を左右に移しても、おろしたての色鮮やかなシャツを着ている者はなく、みんながそれぞれに大切に着てきた衣類を身につけているように見える。それはあがた森魚という歌手を聞き続けてきた人たちにふさわしいあり方のように思えて、私は心の中でなるほど、と呟いてしまう。もちろん、そんなふうに思うのはこじつけかもしれないし、この日の日比谷公会堂をくまなく探せば、真新しいシャツに袖を通してきた人もいるだろうし、物事を丁寧に暮らしている人ばかりでもないはずなのだが、そう思わせてしまうカシミアとネルとあがた森魚なのだった。
 そして、このコンサートにくるような人たちが穏やかな人たちばかりではないことを私は知っている。反戦フォークに惹かれ、いつまでもその世界を楽しめるのは、やはりどこか左翼的だ。金を稼げる左翼は、どこかのタイミングでうまく保守中道か若干右側に生きる路線を変えている。そして、真性の左翼は日比谷公会堂であがた森魚を穏やかな笑顔で聞くなんて真似はしない。かつての左がかった思想の持ち主が資本主義に上手く乗ることもできず、かといって共産思想よろしくみんなで手を取り合った仲良く稼ぐこともできず、それぞれに自分の利益だけは確保しながら、守銭奴ではないふりをしている間に、貧乏左翼になってしまったのだ。
 この日、歴史と趣にあふれた、少しかび臭い日比谷公会堂に集まったあがた森魚のファンである貧乏左翼たちは幸せだった。互いの少しずつ食い違う日本の歴史認識も、現政権に対する不満や鬱憤も、目の前のあがた森魚の楽曲が柔らかく解きほぐしてくれたし、真新しいファッションを競うような資本主義的な価値観ともこの空間は無縁だった。前や後ろにいる同じような年代の、同じようなそこそこの服を丁寧に着ている人たちは、いつも一緒に仕事をしているたいしてお金は持っていないけれど声をかければすぐに仕事を手伝ってくれる気の良いあの人やこの人に似ていて、初めて会ったのに気心が知れているようで気持ちが落ち着くのだった。
 彼らの仕事は最高の仕上がりを求めない。自分のできることと、それをサポートしてくれる人たちで、なんとか見栄えにするところに落ち着けば良い。だから、いつもどの仕事もどこか似ている。自分の仕事に自信がある。そして、それを認めてくれる人と組んで、世間一般のレベルにまでできればいい。そう考えているのだ。資本主義的な奴らが金に任せて、その時々の最高のものをと言うけれど、その時々最高のものを作ったところで、時が過ぎればそこそこのものとの差はあまりない。ただし、やはりその時々最高のものを目指す奴らが時代を変えるすき間を見つけ、そこにバールをねじ込んでこじ開けるのは確かなので、保守で右翼的な奴らが時代の改革者になるという皮肉。そう思うと、どこまで言っても左翼は右翼の後を追い、負け戦を知るとノスタルジーに逃げ込んでいる。
 そんな男女のすき間をあがた森魚の大寒町が流れてくる。

大寒町にロマンは沈む
星にのって銀河を渡ろう
かわいいあの娘と踊った場所は
今じゃあ 場末のビリヤード

 それを聞いて私は、ほらやっぱり、と身勝手に思い、会場の後ろのほうから同年代の男女を眺めながら、こいつら全員がいなくなっても大丈夫、と思ってしまう。こんな手軽なノスタルジーに逃げ込むなら、もうみんないなくなってもいいんだと思う。きっとこの会場の人たちが全員、この瞬間に神隠しにあったように消えてしまっても、誰も困らない。日本の経済にも流通にもなんの影響も与えない。そして、彼等が馬鹿の一つ覚えのようにしがみついている芸術や文化という面でも、多少さみしがる人はいるかも知れないけれど、きっと大きな損失はない。だって、もう終わってしまっているものだから。もう終わった人たちが終わった人たちどうしで、互いに必要な存在として成立しているのだから、同時に消えてしまえば、意外に潔くすっきりとするのかもしれない。
 しかし、そんな場末のビリヤードににも、ふらりと入ってくる新しい時代の若い娘がいて、そんな娘をだまそうとする貧乏左翼の爺さんがいて、ごくたまに場末のビリヤードが輝いて見えたりするからややこしい。

製本かい摘みましては(159)

四釜裕子

蠟を塗った紐をといて褐色の包装紙を破ると、本のあいだから8ページの紙切れが滑り落ちた。開くとこう書いてある。〈イギリス、アメリカおよびイギリス植民地における文献閲覧者の協力を求めます。20年前にたいへんな熱意をもって開始された篤志協力者の仕事を完成するために、まだ調べられていない書籍を読んで引用する仕事をしていただきたいのです〉(サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』 鈴木主税訳 早川書房 以下同)。

19世紀、イギリスでの話。引用したのは、オックスフォード英語大辞典(OED)の2代目編纂主幹フレデリック・ファーニヴァルを継いだジェームズ・マレーが、1879年に新聞や雑誌、書店などに送った「訴え」の一節だ。言葉の用例を探すのに篤志家を募っていたが、遅々として進まず、20年ぶりにカツを入れたということらしい。
巷に放たれた2000部のうちの1部が、ある日、バークシャー、クローソンにあるブロードムア刑事犯精神病院の独房に届いた。受け取ったのは、被害妄想でまったく関係のない人を殺めて収容された米国陸軍退役軍人のウィリアム・マイナー。褐色の包装紙で包まれ、蠟を塗ったより紐で縛られて持ち込まれた本のあいだに、その訴えを見つけた。読むとすぐに協力を申し出るのみならず、独自の方法で早速作業を開始したそうだ。

〈マイナーは引出しから一つづりの白い紙と黒インクの瓶を取りだし、ペン先が非常に細いペンを選んだ。紙を折って8ページの小冊子の形にした。(略)興味をそそられる言葉を見つけるたびに、マイナーは自分でつくった8ページの用紙の正しい位置に、拡大鏡が必要なほど細かい文字で書きとめていった〉。

米国陸軍退役軍人として給料と年金を受けとっていたこともあって独房は2室続き、絵を描いたりフルートを吹いたり、多くの書物や酒を持ち込むことも許されていたようだ。訴えの主が望むような稀覯本をすでにいくつか持っていたために、まず手持ちの本から言葉のリストを作り始めたということになろうか。言葉と、書名と、ページと。数年かけてこの作業を終えると、どんな言葉の用例を今必要としているのかを先方に尋ね、それで初めて例文を記述して郵送することを繰り返したようだ。
マレーとマイナーは長く面識を持たなかった。小包にある「バークシャー、クローソン、ブロードムア」という住所からマイナーの素性を知ることはできず、時間と金に余裕のある博識な医師だろうとマレーは思っていたそうだ。

ウィリアム・マイナーは1834年、アメリカに渡って7代目で印刷会社を経営していた父が、宣教師として赴いた地・セイロンで生まれている。イェール大学に進み、軍医として従軍した南北戦争で精神を病んでしまう。1866年、コレラの治療に尽くした貢献が認められて大尉に昇進するが、妄想による症状が進み退役となる。その後、滞在していたロンドンで事件を起こしてしまい、1872年、精神異常を証明された刑事犯として、〈女王陛下の思し召しのあるまで保護処分とする〉との判決で終身監禁となる。1910年、マイナーの弟は米国陸軍から「英国内務大臣の同意があるなら」との条件をとりつけ、ときの内務大臣ウィンストン・チャーチルの了承を得て、マイナーを米国に戻すことになる。

ジェームズ・マレーは1837年、スコティッシュ・ボーダーズのホーウィックにあった仕立て屋と織物商を営む家に生まれている。十代ですでに博学ぶりを示し、学校のノートの余白にはラテン語で「刻苦勉励の人生に勝るものなし」と書いていた。貧しい家の子がたいていそうであったように14歳で学校を卒業。〈知識を得ること自体が目的で、しかもしばしば変わった学び方〉をしたそうで、シリウスが地平線上にあらわれる時間を計算して弟たちにその瞬間を見せて喜ばせたり、遺跡をがむしゃらに発掘したり、牛にラテン語を教えたり。〈製本のしかたも習った。自分で書いた文章を自己流に飾り書きにして品のよい小さな絵をつけたりもし、中世の修道院写本彩色師のようだった〉そうである。独学で言語学を極めるとやがてOED作りをおしすすめる責任者となり、冒頭の8ページの紙切れで同じ時代に生き合わせたマイナーと出会うことになる。

11月になって『博士と狂人』の映画版を観た。マイナーが〈引出しから一つづりの白い紙と黒インクの瓶を取りだし〉、〈ペン先が非常に細いペンを選〉び、〈紙を折って8ページの小冊子の形に〉するシーンを期待したのだけれど、見逃したのか、なかったのか。原作には〈8ページずつに綴じたそれらの用紙〉ともあったので、一枚の紙が折ってあるだけなのか、ナイフで切って開いてあるのか、あるいは紐で軽く綴じてあるのかも見てみたかった。
マイナーは〈注文した初版本の裁断していないページを切るため〉にナイフの所持を許されていたが、それほど使っていないようだとも書いてあった。実際はどうだったのか。「8ページの小冊子」は〈現在もOEDの記録保管所に保存されており、それらを見る人びとは思わず息を止めて驚嘆している〉そうだ。ネットで見られるのだろうか。ナイフはのちに、痛々しい事故の道具となってしまう。

原作の後ろにある「著者の覚書」には、そもそも著者のサイモン・ウィンチェスターが辞典に関心をもったきっかけが記されている。オックスフォード大学出版局で働く友人に倉庫を案内してもらった記念に、放置されていたOEDの凸版印刷版を3枚もらったそうだ。その後引越しのたびに、humoralからhumourまでが載る1枚をお守りのようにして持ち運び続け、あるとき、興味を示した人に貸したのだそうだ。するとしばらくして、手漉きの紙に青と赤で1部ずつ刷り、プレートを中央にして3つ並べて額装してくれて、今それは著者の自宅の壁にあり、その下に、第5巻の同じページを開いて置いて、いわくそこは〈辞書編纂と印刷の喜びや言葉の楽しみをおさめた小さな聖堂〉だという。
続いて、それを見た著者の母親が、humoristという言葉が最も大きいスペースを占めていることに気づいて偶然思い出した話が続く。さらに著者は「参考文献」の記述の文末に、〈辞典のなかで偶然、何かを見つけるのがとてもすばらしいということに、異論を唱える者はまずいないだろう〉と書いている。

本書は、マイナーが妄想の末に命を奪ったジョージ・メリットに捧げられている。マイナーがマレーからの訴えを見つけた包みをたまたま運んだのは、なんとジョージの妻・イライザだった。あの人がいなかったら、そこで出会わなかったら、といちいち言ってみたくなるけれど、そうではない世界というのはないことにまともに向き合うと、我が身に寄せてぞぞっとする。思い出す限りをたぐってつなげて、会うべくして会ったとか偶然にもとか言ってみるのは、考えるのに飽きたりむなしくなるのを納得なるもので避けるためなのだろう。誰の生も死も、納得することは不要だろう。

シンクウカンってなに?(晩年通信 その17)

室謙二

 シンクウカンと言っても、ぜんぜんわからない人がいる。
 この文章を書いているMacの横に、私が組み立てた真空管アンプがおいてある。仏教についてのインタビューに来た若い女性が、これはなんですか?赤く光ってきれいですね、とむき出しのシンクウカンに触ろうとした。あわてて止めた。「熱いですよ、やけどしますよ」。
 「このアンプは私が自分で組み立てのです」とほがらかに自慢したが、まったく感心しない。「秋葉原で買ってきたトランスも格好いいでしょ。もう生産中止なんだ。空港で重たかったよ」。
 いよいよ分からない様子だ。まあ当然だな。
 四角い鉄の箱(シャーシー)の上に電球の小さいのが並んでいて、鉄の塊のトランスが三つ乗っている。ふたつの出力トランスと電源トランスなのだけど、そんなもの初めて見るのである。シンクウカンという音が、どういう漢字なのかも分からない。真空管ですよ。ガラスの中は真空なんです。
 私は音楽を聞きながら、真空の中で光るフェラメントとか、それを囲むプレートを見たいのでアンプのカバーはない。

 真空管には、二極管とか三極管とか五極管があってね、エジソンが電球を発明して、フェラメントとプレートの間を飛ぶマイナス電子の動きを発見したときにまで遡るものなんだよ。と演説したところで、そんなことが音楽を聞くこととなんの関係があるのかしら?
 それにもう少しインタビューをしたいのだけど。という顔をしていても、アンプの電気を切って触ってもやけどしない程度の熱さになったところで、持ち上げて、ひっくり返して裏蓋をはずす。
 ハンダ付けで部品を配線した様子を見せて、「すごいでしょう」と言いたいのだけど、やはり何なのこれ?という感じで、自慢する気がなくなる。
 それで彼女は、だいたいこんな質問をする。
 「音はいいんですか?、高いんですか?」


 
  木村哲さんにおそわった

 このアンプは、いまは病気の木村哲さんに作り方を教わった。ありがとう。
 木村さんのウェブサイトに、丁寧に作り方と原理が書いてある。(http://www.op316.com/tubes/tubes.htm)。これをよく読む。なんどでも何度でも読むのです。まずは理解が肝心。分からない部分もずいぶんとあるけどね。
 その文章にしたがって部品集めをする。バークレーにも、かつて電子部品屋があった。シリコンバレーにコンピュータと電気部品の店があったし、あとは日本に行くときに、秋葉原に行った。そのいずれに行っても、私はうれしくてニコニコしてしまう。
 秋葉原は私が生まれ育ったところから省線で三つの駅だし、都電でも行けた。だから中学生のラジオ少年になってからよく通った。大人になっても、どこの店(ガード下の一人が店番する小さな店だよ)に行けば、どんな部品が買えるか知っている。
 最初の真空管アンプを作ったのは、中学生の時だったなあ。モノラルで小さな出力トランスを使った。大きいトランスは高いからね。
 あのとき感電した。電源を切っていたのだけど、アクシデントで指が配線に触ったら、バーンと肩と肘にショックが来た。電源を切っていてもコンデンサに電気が溜まっている。電流は少なくても200ボルト以上だった。肩と肘にショックが来たのは、肩と肘の関節の骨が向かい合っているところにコンデンサみたいに電気が溜まったのだろう。まったくもって驚いた。
 あのころのラジオ少年は、「模型とラジオ」とか「初歩のラジオ」などという雑誌を読んで、いっしょうけんめい勉強したのです。真空管のなかにあるフェラメントが電気でもって発熱·発光して、これは白熱電球と同じ、マイナス電子が飛び出すのだね。真空管の中には高圧の電気が通じているプレートがあって、プレートが一枚だと二極管で、交流を直流に整流する。それに網状のグリッド加わると三極管になって、電気を増幅する作用があるの。あともう少し複雑な五極管がある。そんなことの原理を読んで、またいろんな真空管の仕様を丸暗記していた。
 真空管を手にとってじっと睨んでいるだけで、回路を組んでいなくても、想像力が働く。また私は天文少年でもあったので、手作り望遠鏡で夜空をにらんでいるときも、想像力が動きだす。
 休みの日に女の子と喫茶店に行くのも楽しかったけどね、真空管と女の子を比べれば、真空管のほうがいい。いつ女の子の手を握ろうか、とドキドキとしなくても、真空管ならいつでもぎゅっと握りしめることができるのです。

 いまでも私の本棚の一角に古い真空管が入っている箱がある。古いといってもまだ使っていないもので、東南アジアとか南米の小さな電気屋を回って使っていない古い真空管を集めてきて、アメリカで売っているオンライン店がある。いまのアンプの真空管が壊れたときのための予備もあるし、いつか作ろうと思っているアンプの真空管もある。でもそんな時間はあるか?私が死んだときに、古びた真空管を捨てるな、と息子に言っておかないといけない。だけど、どうしろと言うのかは、まだ考えていない。
 かつてのソ連(いまは知らないよ)、中国にヨーロッパでも、真空管を作る工場があるのです。というのは一部に真空管アンプ信者がいるし、それよりもギターアンプとして真空管が使われている。大きな入力を入れて真空管から歪んだ音がでてくるのがいい。それが真空管から出てきている音だと知らないで聞いているひとが多いはずだ。半導体アンプでも真空管アンプの音がするように設計されたものがある。

  真空管の寿命

 真空管には、まずナスの形をしたナス管でしょ、それからST管(ダルマ管)、GT管(これを私のアンプは使っている)、それからミニチュア管にサブミニチュア管。サブミニチュア管は、電池で動かして、かつてはポータブルラジオに使った。ちょうど真空管から半導体に変わっていく時期に私はラジオ少年になった。だから、サブミニチュア管と半導体(トランジスタ)の両方を使った経験がある。
 でもサブミニチュア管なんかダメだね。ダルマ管こそが、真空管のなかの真空管のように思える。添付の写真の左から二番目だ。
 真空管を使った並三ラジオとか並四ラジオ(低周波増幅一段と二段の違い)。これは再生検波でピーピーと発振する、U型マグネチックのスピーカーがついている。それに高周波一段をつけたのもあった。いまから考えるとひどい音だ。
 あとでスーパー(スーパー·へトロダイン方式)が出てきて、これは455kヘルツの中間周波数を使っていた。ことなんか思い出すが、文章を読んでいるほとんどの人は、それがなんだか分からないだろう。

 真空管アンプには寿命がある。
 真空管の寿命は長い。使い方にもよるが、精一杯に電圧を上げた回路で使わなければ、十年とか二十年とか三十年とか。興味のある人とはGoogleで調べてください。真空管より、アルミの電解コンデンサの方が最初にへたると思う。雑音がしたり音が歪んだりするらしい。私の真空管アンプはすでに十年だが、アンプもコンデンサもまだまだ頑張って働いています。
 かつて私の仕事場の真空管アンプを前にして、親父が死んだら、どちらが手作りアンプをもらうか息子二人が議論していたことがあり。一人が真空管アンプで、もうひとりが半導体のヘッドフォーンアンプを持っていくらしい。それにこれは私が作ったものではないけど、真空管ギターアンプもある。作りかけのアンプもあったけど、どこにいったのかなあ。仕事部屋の中をみまわしても、見当たらない。天井裏か。
 いま使っているアンプの古くなってきた電解コンデンサを、取り替えておいたほうがいいかもしれない。息子たちのために。
 真空管は終わったテクノロジーなんだ。一部のギターアンプに使われているが。それに宇宙開発で使われているらしい。終わったテクノロジーには美しさがある。インタビューに来た若い女性にはまったく分からなくても、美しいんだよ。
 でも、それは本当かな?
 私は75歳の老人でそろそろ寿命で、だから終わりかけのものは美しいと勝手に書いているのかもしれないよ。若い人は、疑ったほうがいい。

 注 写真は
http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestorysubminiature.htmからダウンロードした)


木村哲さんの真空管の本
『情熱の真空管アンプ』(2004年実業之日本社)
『真空管アンプの素』(2011年技術評論社)

コロナが明けたら

三橋圭介

DTM(GaragebandとWaveform)はエフェクトの付いた無限のマルチトラックみたいなものだろうか。ループやディレイが使えるメモリー・マンharazaiを挟み、最近買ったmini jazzmasterとcasio uk-01、トモミンなどを音源とする。

ギターは小学校の5年からやっていたが、大学時代がすっぽり抜けている。中学からリードギターを弾き、バンドという一通りの道を通り抜けたが、大学時代はDX7のシンセと8チャンネルのマルチトラック(yamaha)が遊び場だった。友人と交互に即興を重ね、曲作りをしたりもした。ここ10年は「がやがや」などでへんてこなバンドをやったりしたが、主にボサノヴァギターを弾いていた。いまはエレキギターを加え、マルチトラックがDTMに変わったにすぎない。

基本はドラムを選び、そこになんとなくテンション・コードを入れ、メロディ、ソロを乗せ、ベースも入れる。プラスキーボードや効果音なども入れて曲ができる。7トラックくらいになるが、基本的に即興なのでヴィジョンはその場のもの。ドラムのリズムでなんとなく曲想がきまる。ロックっぽいこともあれば、テクノのときもあれば少し実験ぽいものもある。しかもどのトラックも簡単に削除できるので、最終的な形は定まらない未完成にとどまる。しかもアンプとそれに付随するエフェクトも変えることができるのである程度のヴァリエーションが可能だ。そう、この最後の部分がDTMの醍醐味なのだろう。

エフェクト効果、どんなディストーションをかけるか、これでもないあれでもない。エコーはどれか。8チャンネルマルチトラックのときは手持ちのエフェクトを駆使するか、シンセで音を作るしかなかった。DTMではrock,experimentalなどさまざまなタイプの楽器、効果を選択すれば、子ども用mini jazzmaster、casio uk-01も名機へと姿を変えることができる。もちろんチャンネルは増やすことも、消音することもできるので、メロディだけを残してまったく別の編曲を作ることもできる。そうしてできたものをミックスすることで、うまくすればVan Dyke Parksみたいな面白い効果が生まれるだろう。

DTMで遊ぶことは面白いが、こんな感じあんな感じというものが手軽に即興でできてしまうことで演奏する楽しみが遠のいていく。やはり生のバンドがなつかしい。コロナが明けたらやってみるかな。

透明迷宮

笠井瑞丈

私が企画している
ダンス現在シリーズも気づけば
12月でvol.19となりました

偶数月は笠井叡のソロ公演
奇数月はゲストのソロ公演

2020年12月最後の
ダンス現在という事もあって

ゲストに高橋悠治さんにお願いし
笠井叡×高橋悠治
即興セッションを行いました

叡さんは
よくことある事に

「悠治さんとやりたい」

そんなこともあって
高橋悠治さんに出演をオファーし
今回のセッションが実現しました

二人のセッションは過去何度も行なっています
毎回スリリングで予測不能なセッションです

今回は基本即興を軸に
バッハ平均律8番12番

この曲は私が大好きな曲
悠治さんの演奏で聞けるのは
なんとも至福の時間でした

今年最後のダンス現在に
二人のセッションが実現して
本当に良かった思います

来年もこのダンス現在シリーズは続きます

そしてまた

「悠治さんとやりたい」

呟くと思います

また二人のセッションが見れる事を願って

万華鏡物語(8)もろびとこぞりて

長谷部千彩

その店は壁が一面ガラス張りで、窓に向けて設えられたカウンターに並んで座ると夜の街を見下ろせた。ライトを点けたタクシーやバスが、駅前のロータリーをゆっくり回って大通りへと出て行く。小籠包。黒キクラゲの黒酢和え。青菜炒め。スペアリブ。ピリ辛のワンタン麺。私たちが一緒に食事をするのは一年ぶり。それでも久しぶりという気がしないのはインターネットのお陰。ヨーロッパと東京、遠く離れた場所で暮らしているのに、LINEで頻繁にやりとりをしているため、私には、彼女が大阪あたりからふらりと上京した友人のように感じられるのだった。

私が暮らす街は外出自粛要請に留まったけれど、彼女が暮らす街ではロックダウンという措置が数回取られた。中でも春のロックダウンは厳しく、運動と買い物のための外出時間が一日にわずかに与えられ、それ以外は家にいなければならなかったという。
もちろんその時期も私たちはビデオ通話で連絡を取り合っていた。でも、話題の中心はもっぱら配信動画の情報で、最近観て面白かった作品を教え合う、それは新型肺炎がそれぞれの街で広がり出す前からことだ。
 

家庭内感染を防ぐため、春から秋まで、妹家族と同居している母を私の部屋で預かっていたこと、その中でも私は途切れることなく仕事を続けられたこと、精神的退屈を回避するためオンラインで大学の講義を受けていたこと、それらは既に彼女には話してあったので、新たに報告することは特になく、私たちはせわしなく箸を口に運び、頼みすぎたかと心配した料理はすべて平らげた。台湾料理のチェーン店だが、どれを食べても美味しいと彼女は舌鼓を打った。この店に来るのは初めてだと言っていた。

店を出て、エレベーターに乗ると、私は1階のボタンを押した。他に乗客はいなかった。
ふと彼女が「大変な一年だったね」と呟いた。
自分の履いた紫色のアンクルブーツのつま先を見ることもなしに見ていた私は、その言葉に「そうね。でも、私、あんまり大変だと思わないようにしているのよ」と返した。
「だって、考えてみたんだけど、私、そんなに大変じゃなかったんだもの。昼寝して、マンガを読んで、配信だけど映画も観て、結構楽しくやっていたから」
青白い光の下だと、バックスキンの紫色は茶色に見える。
「それはさ、仕事をなくしたひととかは大変だったと思うけど」と続けると、「実際かかっちゃったひととかね」と彼女が付け加えた。
「そうそう。だから、そんなに大変でもなかった私が、大変だった、大変だった、って言うのは違うかな、と思って」
6、5、4。階数表示の数字が順番に光る。
「確かに。旅行はできなかったけどね」と彼女は言った。
3、2。
「それはね、残念だったよね」と私が返す。
モロッコに行けたら。キューバもいいね。ギリシアにも行ってみたい。去年の今頃、そんな話をふたりでしたことを思い出した。
1。

エレベーターの扉が開く。ビルを出ると、通りには冷たい風が吹いている。
駅前の広場は、電飾がいつもよりキラキラと輝いている。
そうか、来週はクリスマスなのか。
ふと頭をよぎる。
どこかで途方に暮れているひともいるのだろうなあ。
ちょうど目の先にあるガードレール。あそこでいつも帽子をかぶった男性がホームレス自立支援の雑誌を販売している。
私はこの冬、ストールを新調した。それは奮発しただけあって、厚みのあるカシミアで、とても温かく、今日も首に巻いている。
私のことは放っておいてもらっても(いまのところ)大丈夫。だから、私は神様というものがいると思ってはいないけど――もしも神様がいるならば、私には必要のないその手を、どこかで途方に暮れているひとに差し伸べてくれればいい、と思った。

台湾料理のレストランでは、小さな音でクリスマスソングが流れていた。
もろびとこぞりて、
諸人こぞりて、
だれもがこぞって、
大変だったと言うけれど、
私はそれほど大変ではなかった。
「大変」は、本当に大変なひとのための言葉。
「大変」は、きっと彼らにとって大事な言葉。
だから、大変ではなかった私はその言葉を使わない。
2020年、私はそう決めたのだ。
心の中でくちずさむ。
それは、私が好きなクリスマスソング。
もろびとこぞりて、
諸人こぞりて、
だれもがこぞって、
大変だったと言うけれど。

仄暗い宇宙時間

西荻なな

 朝まで一度も起きずにぐっすり眠ることから遠ざかって久しい。夜中に一度、日が昇る前の早朝に一度、泣いて目を覚ました子どもが泣き止むまで、授乳をしたり、背中をトントンして寝疲れるのを待つ。わずか数分のこともあれば、時に一時間にも及ぶこの真っ暗な時間のあと、子どもの眠りに引きずり込まれるように再び寝入ることがほとんどだが、その先に訪れる細切れの夢の数々に絡め取られていた、と気づくのは起床して子どもの世話をして一段落した頃だ。早朝に見たのか夜中に見たのか判然としない、しかし細部までくっきりとした夢の場面が、次々につながって脳裏を駆けめぐる。まるで人生が過去から現在まで巻き戻されるような不思議な夢の現実感に、現実と夢があべこべになる。

 子どもが起きる時間が身体に自然と組み込まれたいま、夜中も早朝も、その泣き声を聞く前に意識だけははっきりと覚醒していて、子どもが泣いて起きるのを眠りの中で待っている自分をはっきりと眺めている。それは長い夜の中で、いちばん輪郭のはっきりした時間だ。子どもがようやく寝てくれた、今日は早く寝てくれてよかった、などと思うそばから、その何より手応えのある雑感はたちまち断片的な夢の中に溶かされていくのだ。

 世の中に出てきた赤ちゃんが、一晩ひとりで眠れるようになるまでの時間、遡れば胎児の時期から始まるこの夜の断片的で広大な時間の流れに、多くの母親は引きずり込まれるのだと思う。果てのない海のような時間に身を委ねていると、すっかり慣れた地球から切り離され、宇宙に漂流したような気持ちになる。ようやく以前のように夜通し眠れるようになった、と安堵を覚える日はまた乳児期の終わりに等しいのかもしれない。この仄暗く甘美な、円環的な時を懐かしむ時もいつかやってくるのだろうかと未来に思いを馳せながら、いまはまだこの宇宙時間に浸っていたい感傷に駆られる。

Sun Dog

管啓次郎

家鴨の群れが住む池がある公園で
ぼくが自分と立ち話をしていると
むこうから友人が歩いてきたのだが
その名前がどうしても思い出せない
そもそもどういう経緯で知り合った
人だったかも思い出せないのだ
だが経度も緯度も超えて
陽の光がさらさらと
青い水のように降ってくる
ものしずかな瑞兆
気のいい友人はにこにこと笑いながら
「一年」 という枠で日々を捉えることの不毛さを
語ってくれた
こうして直接もっとも大切な
話題に入れることこそ友情の特権
名前を知らなくても関係ない
無用な知識はいらない
空っぽの耳に呼びかける
動物たちの声が
池の水面に同心円状にこだまする
池はまるで命の寓話
生まれ死ぬことは水のように
階層も序列もなく
そこに溜まっているのだ
循環の中に
この池の家鴨たちは年間をつうじてここにいる
渡りにあこがれることはないのだろうか
遠い土地に帰りたいとは思わないのか
帰るべき土地がないのか
太陽の南中する位置を月毎に撮影して
その二十四枚を重ねた写真があった
夏至の南中と
冬至の南中の
位置の差には驚くしかない
そのどこかに最適の地点があるとしたら
そろそろ正午だね、とぼくはいって
なぜか深呼吸がしたくなった
するとむこうから自転車でやってくる
若い母親がいて
自転車を止めて友人に挨拶した
サドルとハンドルのあいだにつけられた子供シートに
二歳くらいの女の子が乗っている
ああ、ゆめちゃん、と友人が声をかける
きょうはお兄ちゃんはどうしたの、と彼がいうと
代わって母親が、おるすばんね、と答える
夢ちゃんか、いい名前だね、とぼくはいう
秋田犬みたいな名前だと思ったが黙っている
プーチンのことを思い出させたくなかったので
すると友人が、この子のお兄ちゃん
なんていう名前だと思う、と訊いてくる
ぼくが間髪入れずという感じで
現実
と答えると
友人と母親が目を丸くして驚く
どうしてわかったんですか、と母親に訊かれて
え〜、わかるでしょ、と答えたが
自分でも理由はわからなかった
いい名前だな、とは思う
兄妹にとって。すると友人が
ゲンジツだけどrealityじゃないんだよ、という
それで頭の中でただちに別変換して
あ、幻の、
というと二人がそうそうと肯く
そこではじめて
すごい名前だなあ、と感心する
幻日か、Sun Dogか
偽の太陽か、それもいい
Parhelionが空をかけてゆく
太陽がいればそこには
太陽に連れだって進む太陽犬がいるだろう
しかもしばしば幻日は
太陽の両側に
二匹が連れそっているらしい
現実に見たことはない
極地に行かなければまず見られない現象だ
けれどもその光景を想像すると
杖をついて歩く聖ラザロに
忠実に従う二匹の犬の姿を
思わずにはいられなくなった
The Sun Dogs
3ピースのロックバンドをやるなら
これ以上はない完璧な名前
こうしたことはすべて一瞬
頭をよぎるが
雲の通過にすぎない
ただ過ぎてゆく
突然、夢ちゃんが
ゲンジツ来た、と大声でいうので
見ると片手に野球のミットをはめた
男の子が歩いてくる。
ところで目が覚めて
ああ、きょうも仕事
と口をつく言葉に
一瞬で現実に引き戻された
きょうはいい天気
朝の青空がひろがっている
冬だ
見つめることのできない眩しい太陽が
思考を非常に清潔にしてくれる
履歴を簡潔に
簡明にしてくれる
すぐにでも起き出して
観測を始めなくてはならない
白鳥が渡来する池のほとりの道を
今日は歩いてゆくのだ
すると太陽が次々に上り
空には十二の太陽が乱舞している
それぞれの太陽が二匹ずつの太陽犬を連れて
整然とした踊りをおどっている
こんな宇宙は見たことがなかった
真実とはこういうものだろうか
と思ったとき、ぼくは明るい気持ちで
世界を受け入れる準備ができたようだ
十二の太陽と
二十四の幻日が
ひとつの生涯には十分すぎる
光の場を提供してくれる
肌はガラスのように透きとおり
魂の鼓動を見せるだろう
心は光のひとつの状態にすぎない
心は太陽を真似る
幻日
太陽の犬たち
また流浪の一年だ

しもた屋之噺(227)

杉山洋一

イタリアでコロナ禍のニュースを読むと、国内の財源確保のための欧州議会との折衝を伝える記事が目につきます。自ら財貨を生み出す必要のある日本とは随分違います。政府もこれだけ財源を確保したから、国民もこれだけ協力して欲しいという構図でしょう。
これから何十年か後、日本のニュースも現在のイタリアと同じような見出しを伝えているかも知れません。どちらが良いのかも分かりませんし、来年の今頃、目の前にどんな光景を見出し、何を考えているか、見当もつきません。

12月某日 ミラノ自宅 
新感染者数23225人。ICUは19人減。陽性率は10.24%。死亡者数は993人。第一波の時ですら、これだけ大人数は亡くならなかった。大阪の知事が外出自粛要請。

12月某日 ミラノ自宅 
聖マリアが聖アンナに宿ったとされるImmacolata祭日。
朝一人で歩きながら、ブソッティの詩による小品を考える。原倫太郎さんのマリンバ卓球で遊ぶ若い男性の姿が、ブソッティの獣的同性愛の言葉と、どう象徴的に絡められるか。自分がどう介在できるか。朧気ながら浮かびあがってくる。それはセピア色の哀愁に満ちた情景のようでもあり、橙色に燃える夕焼けの逆光に、どこまでも長く伸びる黒い影のようにも見える。

レプーブリカを買うと、昨日のスカラ座初日代替演奏会について、大きく紙面が割かれていた。MS曰く、歌手は素晴らしかったが、それ以外言うことはないと手厳しい。最後、ウィリアムテルで、ミラノ・ガレリアの空撮風景まで出てきて彼女は我慢ならなかったそうだが、個人的には現在の世情と準備期間、リハーサル時間を鑑みても、とても考えられた演出だと思ったし、特に最後のロッシーニは心に染みた。オペラ畑で暮らす人間にとって、スカラ初日が大衆迎合するのは耐えられないのかも知れない。
正直に言えば、番組終了後、思わず少し心が沈んだ。毎年このイヴェントを目指して、スカラ座関係者たちは準備に余念なかった。息子たちが「蝶々夫人」をやった時、どう転んでも現在のような姿は想像できなかった。
新感染者数14842人で陽性率は9.9%に減少。死者は634人。この日常に於いて、音楽で何が出来るのか。

12月某日 ミラノ自宅
日がな一日、階下で息子が三度の練習曲をさらっている。
朝は生徒たちが送ってきたヴィデオに助言を書き、小品作曲。超現実的な毎日のなか、明るく、意欲を失わない若者の姿に心を打たれる。
新感染者数13720人で、陽性率は12.3%まで上昇してしまった。死者は528人。日々の夜の帳に浮かび上がる、無数の無言の人間の姿。

12月某日 ミラノ自宅
息子は年末の一人暮らしが愉しみなのか、朝起きてくるといそいそ我々の朝食の支度などしている。
家人と「ジョルジア」まで歩いて、チョコレートと洋梨のパネットーネを購う。イタリアに住んで25年、パネットーネは単にミラノのクリスマスケーキという認識でしかなかったが、「ジョルジア」のパネットーネは、愕くほど柔らかく、美味。
新感染者数は18887人。陽性率は11.54%で、564人死亡との発表。
生徒が何時から学校に戻れるようになるのか気が気ではなくて、思わず、毎日夕刻保健省の感染状況発表を確認する。朝10時から夜20時30分まで、遠隔授業。

12月某日 ミラノ自宅
学長より緊急連絡あり。14日より指揮の対面レッスン再開決断とのこと。日本に帰国前に些少でもレッスンを再開できるのは嬉しく、深謝。
陽性率が10.7%で、新感染者は21052人。死亡者は662人。そんな毎日のなか、対面レッスンをする意味を改めて考える。それに値する内容を伝える責任が、教える側にも生ずる。
早急に2回分の補講を手配し、帰国前に計4回レッスンを入れる。
耳の訓練の授業は、随分迷った末、今月は遠隔授業続行と決めた。歌う機会が多い集団授業だから、やはり今は危険だと思う。学生たちから、どうしても対面授業できませんかと連絡が届き、心が痛む。

12月某日 ミラノ自宅
山根さんより、ズームでインタビューを受ける。自分の裡は、湧きたつ音もなく干乾びているから、自分の外にある音を聴く。繰返しへの恐怖は何だろう。同じ事象の繰り返しに薄い罪悪感を感じるのは何故か。ドナトーニの影響かも知れない。彼は生前から非対称を愛していて、未来を規定するのも不可能だし、同じ物体や事象など存在し得るのか、もし存在しないのなら、自然の摂理に反していないか。そんな話を彼とした記憶が、ぼんやり残っている。「自画像には国歌以外の部分も沢山あるのですね」と言われたのが新鮮。

12月某日 ミラノ自宅 
耳の訓練を遠隔授業をして気づいたこと、備忘録。
音を聴く時は耳を使わず、目で音を判断、理解し、感じる。
前頭葉あたりで音を聴く感触があれば、それをそのまま視覚を通し、身体の外、目の前に投影させる。後頭葉、自分の頭の深部へ音を回さないこと。後頭部の音を聴く瞬間、外部で響いている音は聴こえない。
遠隔授業のお陰で、指示がとても具体的になった。
音が聴こえないとこぼす生徒には、自らの指で、鼻先や喉、下唇やオデコを触らせ、そこに現れる音を知覚し、視覚化するよう言う。その際、脳を通さず、直接知覚した感覚を発声させる。
頭で聴こえる音を聴かない訓練。頭で音を鳴らさない訓練。
最近では、授業の時の自問自答さえ止めさせている。音は後頭部奥底で別の音にすげ変わるようだし、自らの分身が間違った答えを悪魔のように囁くからだ。
あくまで自身の意識で、眼前の空間に投影された音符を操作し、論理的に分析し思考して音を理解する。
すると、ズームを使った授業ですら、誰もが音が感じられるようになる。
実際は、聴こえないと思い込んでいた音が聴こえるだけの話なのだが、自分がこんな風に音を聴けるのかと実感すると、難易度を上げても面白いようについて来る。

同時に、聴こえない自分を責める必要がないよう、自らの裡の「Alter Ego maligno、性悪の分身」に責任をなすりつけ、楽観的に音と対峙できるように心がけている。
聴こえている音を、この分身が邪魔して聴こえないようにしている。知覚する回路を堰止めてしまうから、その辺りに神経を通さない、等と怪しげな文句を言っているうち、聴こえない音を聴くために身体を固くしていた生徒たちの身体が少しずつ緩み、すっと音が見えるようになるのは面白い。
聴こえないのは自分が悪いと思うだけで、聴こえる音も聴こえなくなる。まるで催眠術のようだ。実際聴こえているのに、気が付かないだけなのだから。
緊張すると簡単な音程すら判別できなくなる学生たちが、最後はピアノの鍵盤最高音部の和音聴音もできるようになった。音を聴くために具体的な指示が出せれば、指揮のレッスンにも活かせるに違いない。
新感染者数12030人で陽性率は11.6%。491人死亡との発表。

12月某日 ミラノ自宅 
朝7時くらいに家人と散歩に出る。帰ってくると胡桃を4,5個割り、庭の樹の下に置いてやるのが習慣になった。
毎朝8時過ぎ、左の幹の中程にある、嵐で枝がもげて出来た洞(うろ)からリスが顔を出す。リスは胡桃の所在を確認すると、いそいそと胡桃のところへ降りてくる。リスが庭に巣を作っているとは想像もしなかったが、番いで棲みつき、一匹子供までいると知ったときは、目を疑った。
時々、お世辞にも可愛らしさと似合わない、アヒルのような声で啼いたりして、樹から樹へ愉しそうに駆け回る姿は愛らしい。昼過ぎになると腹が減るのか、ベランダ近くまでやってきて、こちらを凝視する。馴れるのも良くないと放っておくが、根負けして数個の胡桃をやったりもする。先日は遠くでこちらを見つけると、一目散で駆け寄ってきた。可愛いが、これ以上近づかない方が互いのためだろう。

週末の早朝、息子を国立音楽院に送った帰りに目にした、聖ソフィア通りを横切る路面電車の側面に貼られた、大きな広告。
「Torneremo ad abbracciarciもうすぐ、きっとまた抱きしめられるようになる」。
病気で死の床にある老チンパンジーが、旧知の動物学者と再会し、満面の笑顔を浮かべて、彼を抱擁する動画を見た。
スキンシップが古来、動物のDNAの奥底に刻み込まれた欲求だとすれば、日本人が対人距離を取るのは、理由があるかもしれない。イタリアにいるとそう感じる。
遠い昔、既に日本列島は凄惨な疫禍に見舞われていて、現在の日本人がその数少ない生残りの末裔だと考えれば、生活習慣はもとより、「疫病神」「縁がちょ」のような穢れの偏執にも納得がゆく。
日本人は子供の頃から穢れの概念と暮らす。イタリアの子供が「お前はバイ菌」と友達を苛めた話は聞かない。日本人は、既に進化した人間の姿なのかもしれない。
昨日からミラノはイエローゾーンとなり、久しぶりに喫茶店でコーヒーが飲めるようになった。店主の笑顔が嬉しい。

12月某日 ミラノ自宅
何重もの免疫機構を乗越え、ウィルスが身体に病巣を形成し、腫瘍やら炎症が起こすとき、先ずは身体の自然治癒力が働くに違いない。体力があればそれだけで完治するかもしれない。併し、短期間に身体中に病巣が拡大し体力や気力を奪えば、次第に体力も弱まり、息絶える可能性もあるだろう。
Covidやパンデミックが怖いのは、身体の細胞のように、地球のフラクタル構造の底辺にいる我々から、戦う気力を奪ってゆくからだ。最初の流行より、第二波、第三波の精神的損傷はずっと根が深いと思う。イギリスで変異種確認。オランダはイギリスからの航空便を休止決定。
新感染者数16308人で陽性率は9.2%。553人死亡。

12月某日 ミラノ自宅
オランダ、イギリス間の航空便閉鎖の翌日、イタリアも英国便閉鎖を発表。ロンドン経由で予約していた家人の帰国便も運航停止となり、パリ経由便の予約確定まで、学校でレッスン中も彼女は気もそぞろ。
イタリアは、クリスマス新年の休暇期間の移動を制限するため、全国的にレッドゾーンになる。明日まで就労、学業目的の移動は認められているはずだが、首相令の解釈にも幅があり、学生たちもそれぞれとても心配しながら、列車でミラノまでやって来る。中央駅など目ぼしい主要駅では警察が細かく自己申告書を確認していて、こちらも気が気ではない。
ジェノヴァから通うマルティーナからは、学業目的では不安で、就労目的と自己申告するので、もし警察から確認連絡があったら話を合わせて欲しい、と連絡があった。
レッスンを終えてトリノに帰るダヴィデは、行きはよいよい帰りは怖い、無事に家に辿り着けるよう祈っていてください、と笑って教室を出て行った。
誰も正確な事情はよく分からないし、学校に確認しても分からないと言う。目まぐるしく状況が変化する中、誰もが断定的な助言を避ける。
権利だったはずの学習すら、立ちはだかるパンデミックを前に風前の灯であって、学生たちはそれぞれ必死に勉強して、明後日からの移動制限を前に帰省する人いきれに揉まれながら、緊張した面持ちで学校までやって来る。
聞き切れないほどの曲を用意して来ていて、出来るだけ彼らの情熱に応えようと務めている。
日本から戻って自主待機の終わる2月、無事レッスンが再開できる保証はどこにもない。口には出さないが、誰もがその恐れは感じているから、一分でも惜しんで今言えることを伝え切らなければいけない。
一年間かけて、どの順序で何を準備し、どう学生を導くか。今までのような計画的なレッスン体系は、今日、机上の空論に近い。
ベートーヴェンで全体構造を、シューベルトで和声構造を、そしてブラームスやドビュッシーでそれらの統合を学び、モーツァルト、ハイドンでそれぞれが本質について考える。それから、という流れで教えることは、現在の情況では不可能だ。
寧ろ、まとめて学校でレッスン出来る時に、ロマン派をやらせることにし、最初のバルトークのミクロコスモスが終わると、無理してでも「兵士の物語」を始め、モーツァルトを同時に読み始めることにした。
メトロノームで練習しながら、どれだけ音楽的にフレーズを作れるかを学ぶ意味で、古典とストラヴィンスキーは明らかな親和性がある。
何年も前から、作曲科生の耳の訓練クラスで教えてきて、今年から指揮を始めたフェデリコが、ピアチェンツァ近郊の出身なのは知っていたが、イタリアで最初のCovid感染爆発が発見されたコドーニョ出身とは理解していなかった。
彼は祖父の代からの教会つきオルガン奏者で、レッスンにも祖父の使っていた、初めてみる鼠色の1945年リコルディ版「子供の情景」を持ってきた。
表紙には「Scene fanciullesiche」と、奥ゆかしい伊訳が印刷されていて、時代を感じさせる。校訂者のレンツォ・ロレンツォ―ニは、ナポリ音楽院でマルトゥッチの薫陶を受け、後年は教育者としてミラノ音楽院で、ガヴァッツェーニやマルチェロ・アッバードを育てている。
夏まで葬儀が禁止されていたので、春の第一波で斃れた故人たちの告別ミサのため、夏の間、少なくとも30回はオルガンを弾いたそうだ。
柩は既に埋葬されているから、亡骸はないまま、遺族がミサで故人の平安を祈った。Covid前に最後に学校で会った時のあどけなさの残る少年の顔から、一気に精悍になったと感じていた。
「コドーニョは感染爆発後、直ぐに街が封鎖されたので、最初に沢山人が亡くなって以降は、感染の広がる周囲からも隔離され、或る意味とても安全でした。それに比べれば、ベルガモは経済界の圧力で最後まで都市封鎖出来なずに悲劇をもたらしましたが、あのような地獄はコドーニョには訪れませんでした。それが不幸中の幸いです」。
そう言って、この後すぐに家に帰って作曲の遠隔レッスンです、と慌てて自転車でサンクリスト―フォロ駅へ走っていった。
夜、階下で家人と息子が、レスピーギの「Natale Natale(クリスマス、クリスマス)」連弾を録音している。クリスマス、山を下りた牧童の葦笛の向こうで、大小さまざまの鐘の音が温かく鳴っている。街の教会や、丘向こうの古いロマネスク教会の小さな鐘楼から、さざめくように響いてくる。
昨日の東京新感染者数は888人。アデス入国は不可能との連絡。

12月某日 ミラノ自宅
ここ暫く家人と散歩していた道を、久しぶりに一人で歩く。Covidで、日本との往来がすっかり困難になったので、秋から昨日まで殆ど毎日欠かさず二人で歩いた。そんなことは結婚来初めての経験だった。
毎朝、歩きながら息子の話などしていたが、思い返せば、そんな時間も結婚来初めてだったと気づく。親の子離れも子供の親離れも目前に迫っている。寂しいような、頼もしいような、味わったことのない不思議な感情。
母親だから、家人はより強くそう感じるかもしれないし、余り大差はないかもしれない。
自分の両親も世界中の家族も、ひいては世界中の動物だって、それぞれ似たような感情を抱きながら、子供の成長を認めているに違いない。所詮、我々人間も動物以上でも以下でもない。
シルヴァーノとロッコに贈った小品を、彼らはとても喜んでくれた。なんて素敵なクリスマスプレゼントだろうと便りを貰う。すぐ近くに住んでいるのに、もう長いこと会っていない。
サンドロに家人のCDを届けに行く。サンドロがCovid感染後、初めての再会だった。2階の窓から顔を出して、嬉しそうにこちらに手を振り、「折角だから上がってきて、一緒にワイン一杯くらい呷っていきなよ。漸く快復したよ。ほらこの通り、ピンピンしている」。
ほんのり顔に赤みがさしていて、クリスマスの昼餐、子供や孫に囲まれ余程嬉しかったに違いない。
イギリスで南アフリカ由来の新変異種発見。ドイツでもイタリアでもイギリスの変異種感染確認のニュース。サンマリノがイタリアとの国境一時閉鎖。イタリアで最初の接種用ワクチン9750本が、警察の警護付きでローマのスパランツァーニ病院へ届く。
新感染者数は19037人。陽性率は12.5%に急増。459人死亡。Rt値はモイーゼ州以外1以下のまま。

12月某日 ミラノ自宅
晴れ渡り、無音で澄み切った朝、並んで庭を眺めながら朝食を摂っていると、「今日は救急車の音が少ないね」と息子が呟いた。
救急車だけではない。空を駆ける飛行機の音も殆ど聴こえなくなった。
日本政府、外国人入国禁止を発表。イタリアからの日本入国に際しCovid検査の陰性証明提出が必要になった、と夜半の領事館からのメールで知る。
年末の休暇期間のそれも週末、どこで検査が受けられるのか、血眼になってインターネットで探す。
ロンドン経由便は運休になり、ヘルシンキ経由便も減便で週に数えるほどしか飛ばない。パリ経由便は、パリ空港の乗継に16時間から24時間かかると言うではないか。信じられない。何という時代になったのか。
東京の新感染者数949人、全国で3881人。死亡者数47人。
イタリアの新感染者数は10407人で、陽性率は12.8%。死亡者数は261人。

12月某日 ミラノ自宅
朝起きると、東京に一足先に戻っている家人からフランクフルト経由便に変更するよう電話がかかる。明日なら便が飛んでいるし、乗継も大分短縮できるそうだ。日本政府が外国人入国拒否を発表したので空席が出たのかも知れない。昼過ぎリナーテ空港脇の検査場に一時間ほど並びCovid検査。陰性。
自分の仕事などする余裕は皆無。
日本新感染者数2941人。死亡者数40人。イタリア新感染者数8913人。陽性率は14.88%に上昇。死亡者は298人。

12月某日 三軒茶屋自宅
朝4時起床。5時に呼んでいたタクシーに乗り、リナーテ空港へ向かう。辺り一面深い雪景色に覆われていて、こんな早朝では未だ道路の除雪もされておらず、吹雪の中、空港まで徐行する。
イギリスの変異種発表により、この数日で世界の航空事情は大きく変化した。Covid検査義務も刻一刻と変化していて、空港職員も乗客も混乱している。まだ朝の6時前だと言うのに、空港職員たちは各国の領事館や大使館にその都度電話して確認を取っている。大変な作業だ。
チェックインに時間がかかり、飛行機に乗込んだのは離陸予定時刻を30分ほど過ぎてからだった。吹雪の中、がらんとした夜明け前の空港で、大型の除雪車が、滑走路の整備に走り回っていた。ただ、幾ら雪を掻いても、吹き付ける雪の方がよほど多くて、すぐに覆われてしまう。視界は酷く悪かった。朝7時過ぎに機体に乗込むと、既に翼を覆う雪の厚さは20センチに達していた。
飛行機の氷雪の融氷、防氷作業も一度では足りず、二度ほど繰返された。機内で3時間待機し、悪天候で空港閉鎖かと思っていると、突然、機長から離陸許可が出たとアナウンスがあり、そのまま慌ただしく出発した。
フランクフルトまではほぼ満席だったが、フランクフルトから羽田までは前回夏に帰国した時より、心なしか人の多い印象を受けた。
羽田空港検疫で唾液検査。こちらは前回夏に帰国よりずっと厳しく、検査結果が出るまで2時間近くかかった。入国者全員にやっているのだろうから、検疫官もさぞ大変だろう。コロナ禍以前からは想像もできない新らしい日常を垣間見る。

12月某日 三軒茶屋自宅
日野原さんに教えてもらいながら、松平夫妻、安江さんとブッソッティ「肉の断片」を読む。ズームごしのみなさんはお元気そうだ。
一見すると極度に密集した楽譜のようだが、読み下してゆくと、ちょうどブッソッティの仕事部屋のように、ごてごてした調度品に囲まれた、整然とした空間が浮かび上がる。
日本の新感染者数4520人。そのうち東京都の新感染者数1337人で東京都昨日の陽性率は10.2%。死亡者49人。イタリアの新感染者数23477人で陽性率は12.6%。死亡者は555人。どちらも状況は急激に悪化している。
12月31日 三軒茶屋にて

194 猫版、試し刷り

藤井貞和

1、猫さん、かわゆいね。〔にゃ〕
2、あれれ、「お世辞」かにゃ。
3、猫さん、あいらしいにぇ。
4、にゃにを望むかにゃ。
5、装幀された猫を、遠くへ投げよ。〔にゃ〕
6、至近への遠投は 猫の丸ごと。
7、受苦堂の散華の後ろ戸。
8、縁切り寺は 戦時の濡れ縁(にゅれえん)。
9、猫さんを階下に埋めた。
10、村は 白地。 沙が神やつ。 猫は 頸響く警笛ののち。
11、旧版に猫さん、降りてきた灰。
12、若い美しい光合成で。
13、天上のおかあさまがあなたを生みました。〔にゃに〕
14、生ける光の語り物。 猫さまは 日だまりで。
15、わたしゃ生ける墓場の竹の下降の猩々さん。
16、けわい坂でお漏らしする猫じゃにゃい。
17、あれれ、蛙の手ににゃる、よこぶえに化けにゃ。
18、あにゃたのために、にゃにも かも。
19、神やつの奏法で、琴板のぜんしんがふるえる。
20、生きて! ぜんしんをあげるから。
21、待って。 ゆかないで。 とまって、沙あらし。
22、にぇむりましょう、18日の妹に会う。
23、19日の姉に会う、こんちにゃわ!
24、おやしゅみ! せいしゅんの切り通し坂。
25、ころげ落ちよ。 またあぶな坂。
26、化粧して、にゃでおろす鬼の胸板。
27、かえでを散らす喉ぶえの琴。
28、おわるまいよ、天上の猫さん。

(十年後に向けて、試し刷り。)

疫病資本主義初年度の終わり

高橋悠治

コロナの年も終わるが コロナは終わりそうもない 今年2020年は それでも録音やコンサートを続けていられたのは幸運だった

コロナについてはわからないことばかり 陰謀説もあれこれあるが そうでなくても 何一つ信じられるものはない 政治だけでなく 報道もそう 日本やアメリカのニュースと ロシア・中國・イランの英語ニュースはまったくちがう アメリカやカナダには それでも国家が隠していることを伝えるメディアがあるが 日本ではそれらの翻訳しか見当たらない ネットでなにかを調べたり検索すれば どこからか追跡されている 追跡数は一週間に百数十以上あり 検索エンジン自体が個人情報のスパイを兼ねているアメリカのものであるのが普通で ツウィートやフェイスブックも 犯罪心理学でいうプロファリングという手法で 個人情報収集機関になっているばかりか 検閲も兼ねていて 反米とみなされる書き込みをすれば アカウントを取り消されてしまい 名前・住所などは記録されている

秋には デヴィッド・グレイバーとアンドレ・ヴルチェックが ドイツとイタリアへの旅の途中で急死した 偶然だろうか

こんな世界で ささやかに音楽を続けていることに 意味があるのだろうか
と思いながら 続けられることは それしかない

音楽は人の集まるところにあるもの ともに生きるためにあり そこに美しさと 心の揺らぎを添える 踊りと響き 爽やかな風と苦しみのない おだやかな心
むかしサキャ・パンディタ(1181-1251)の『音楽のおしえ』を引きながら作曲したことがあった

閉鎖された都市のなかで 貝の火のゆらめきが色を変えてゆく

2018年に Roger Turner と即興のセッションをしたときは 指のうごくままにいつまででも弾いていた 即興の後で 時差で疲れていたかもしれないと言いながら自分のプレイを批判したばかりでなく ピアノについても 片手でじゅうぶんだと言われ 即興をその場かぎりで終わらせない追求の姿勢 それがことばでなく感じられ その時から 音を出す瞬間より その響きを聴きながら変化し続ける音楽の空間を感じる と言っていいのか 先の見えない闇のなかを手探りで進むことを受け入れる と言えばいいのか できれば いくら曲がっていても それが一本の道ではなく 全体の見えない風景の一部であるような 未完成なかたちのない塊が崩れていくプロセス

最近 Christian Wolff: Keyboard Miscellany というシリーズで それぞれ数行の楽譜を演奏する動画を続けて見た システムや方法ではなく パターンでもなく 響きに触れる手から 思いがけない方向へ踏み出していく それらを演奏するのではなく それに似た感触を手に馴染ませるような即興からはじまり 知っている曲を知らない音楽に変える演奏を試してみる というふうにして すこしずつ いままでやってきた音楽の習慣から離れてゆけるだろうか

2020年12月1日(火)

水牛だより

きょうは先月1日とおなじ十六夜の月です。見上げると、「木枯らし途絶えて冴ゆる空より」と歌いたくなる冬の夜空。

「水牛のように」を2020年12月1日号に更新しました。
今月初登場の工藤あかねさんはソプラノ歌手です。ひと月ほど前に、コンサートの後のちいさな打ち上げの席で偶然隣にすわり、どこまでが本当なのかわからないおもしろいお話を聞いているうちに原稿をお願いしていたのでした。
こうして毎月律儀に水牛を更新している私は室健二さんと同じ年の生まれです。室さんとおなじようにコンピュータとは前世紀からの長いつきあいで、便利で手放せないものだとは思っているのですが、室さんとおなじように、最近は実に面倒くさいと感じています。自動車は運転しませんが、コンピュータが車のハンドルのようになってほしいという願いはおなじです。競争や独自性とかの追求でなく、マジでほんとうに使いやすくしてもらいたいものです。
福島亮さんによる「水牛を読む」の1と2も公開されています。力作です。

「水牛」を読む(1):『水牛新聞』創刊号(福島亮)

「水牛」を読む(2):『水牛新聞』第2号(福島亮)

お知らせをいくつか。

さとうまきさんはシリアの青年が描いた水牛の絵とイラクのサブリーンが生前に描いた「ナツメヤシと太陽」をカップリングして、年賀状を作りました。収益はシリアの青年の治療費にあてられます。
12月20日まで予約受付中!
http://teambeko.html.xdomain.jp/team_beko/postcard.html

管啓次郎さん翻訳のパティ・スミス『M Train』は『ジャスト・キッズ』につづく回想録です。

今月お休みの越川道夫さんはおそらく新しい監督作品の『あざみさんのこと』で忙しいのでしょう。

さらに、今月お休みの斎藤真理子さんの翻訳による『アヒル命名会議』が出たばかりです。

水牛ではおなじみの藤本和子さんの『ブルースだってただの唄』がちくま文庫になりました。『塩を食う女たち』に続く黒人女性の聞き書きです。読んでいるうちに頭のなかが、というのか、頭の上が、というのか、スカッとして、しだいに姿勢がよくなってきます。本を読むことの快楽をぜひ経験してください。文庫にするために、くぼたのぞみさん、岸本佐知子さん、斎藤真理子さんと私との四人で力を合わせました。実際に会って相談した最後は去年の12月だったはず。その後は相談のようなことはしないで、それぞれができることをしただけ、というのが実はとてもこころよかったのだと思います。コロナのせいなのですけどね。編集担当者は男性ですが、著者の藤本さんと連絡がとれなくなったときには、シカゴまで訪ねていきます、と言うのでした。彼の熱意がすべてをあるべきところにまとめてくれたのだと思います。

それではよい年をお迎えください! 新年も更新できますように。(八巻美恵)

193 大切なものを収める家、の二刷り

藤井貞和

1905年に著された『海潮音』(上田敏)は 象徴詩を「日本」に齎しました。 そのあと、
自由詩と象徴詩とが結びつき、現代の詩は 大きくその傾向に規制されてまいります。
また、短歌や俳句の模擬というか、結社を作り、仲間をだいじにしながら詩を書く、
という傾向も、現代詩には 見られます。 社会を告発する詩は 政治の詩であると、
見なされることを恐れるのか、なかなか書かれないようです。 以上の結果として、
現代詩は 個人の趣味や、興味の範囲内で書かれることが多いです。 わたくしもまた、
個人の趣味や、興味を「大切なもの」だと考える一人であります。 しかし、今回の、
『大切なものを収める家』(1992)において、わたくしの取り上げようとした「大切なもの」とは、
個人の趣味や、興味と違う別の種類のものであります。挙げると、《民族差別、
クレオール(creole)語など少数者の言語、和歌などの古典語、女性短歌、
絶滅させられる動物、殺される神、排斥される神、縄文時代の土器、
滅んだ形式である旋頭歌、滅んだ恐竜、物語、女性差別、造反教官、一九六〇年代、
受験戦争、沖縄、老人問題、いじめ、機械打ち壊し主義(Luddites)、
そして湾岸戦争》でありました。 ははあ、これらがさしあたって、ですね、
作品に見られる限りでの「大切なもの」の一端です。 繰り返して言います、
これらは 個人の趣味や、興味に属するものではない、外部なのです。
わたくしは 現代の詩について、現代語で書かれることを中心に、と考え、伝統詩に対して、
批判的でありたい。 しかし、詩が緊張した内部を保つためには 伝統詩との、
交流を復活させることが必要だと思っております。 現代の社会、風俗には、
そのままだと、とても詩にならない狸雑な要素が多い。 逃げることなく、
挑戦し続けたい。 そのために詩の自明な成立を危うくさせられることがあっても、
怯まないでありたい。 かつて、大きな詩を書くためには、大きな悪魔との契約が、
必要でありました。 現代詩は しかし、たいていの場合、そのような大魔王との対立を避けて、
裏通りの日常生活の悪人、微小な悪魔たちを自分のなかに飼うことをするから、
大きな文学になりにくいのです。 わたくしの思いは 「大きな悪魔」そのものになく、
「微小」なそれらにとどまるのでもなく、その《あいだ》に定めることになりましょう。
とそこまで述べたとき、うしろの正面がひらかれ、大きな鬼が姿をあらわしました。
人食い鬼で、わたくしをむしゃむしゃ食いはじめました。 肉も、骨ものこりません。〈藤井よ、
おまえは きょうから鬼である。 これを食らえ。〉 骨と肉とを吐き出して、
わたくしに食わせました。 なんだ、私の骨と肉とであります。

(1992年の暮れの、済州島でのスピーチの記録と、そのあと見たこの夢に他意はありません。)

むもーままめ(1)オットキョウカの巻

工藤あかね

このたび寄稿のお誘いをいただきました。内容も文字数も自由だというお言葉に甘えて、心に移りゆく、よしなしごとを書いてみます。

よしなしごと。
そう言ってしまえば身も蓋もありませんが、気ままに浮遊しているわたしの無意識を、パシャっとカメラに収めるみたいにして、時々保存してみるのも悪くないかな、と思いました。

今回は、コロナ以前の日常を、気が向いた時にだけ、狂歌みたいにして、書き綴ったものを蔵出ししてみます。

1 2019/1/17
ちもゆるぐ つまのいびきは鳴りやまず うらみはぐくむ 夜半の月かな

(大意:大地も揺るがすような夫のいびきは鳴り止まない。寝られず月を見ていたら、ますます腹が立ってきた。)

わが夫のいびきは本当に轟音で、
耳栓してヘッドフォンをかぶっても、
別の部屋に逃げても、余裕で聞こえてきます。

結婚当初は、牛がモーモー鳴いている牧場に置き去りにされたり、
自動車整備工場でバイクをふかす音にさらされる夢をみたことも。

不思議なことに、爆音でいびきをかいているのに、
本人には自覚がないようです。

2 2019/1/18
かこひばら わが身はかりてしこふむも くすしとがめて しぼむつまかな

(大意:囲いのようにお腹が張ったので、体重を測り慌てて四股を踏む運動をしてみたが、時すでに遅し。医師に体重を減らすよう言われ、夫はしょんぼりしていた。)

年末年始は、体重を減らしたい人とっては魔の季節。
なんだか体が重いかも…と感じて体重計に乗ったところ、
人生最重記録を叩き出してしまったり。
ちょっと運動したくらいでは、筋肉に変わってはくれないようです。
それと、健康管理については私がなんだかんだ言っても聞く耳を持ちませんが、
お医者様の言葉だと素直に聞いてくれます。
感謝。

3 2020/1/16
けんだまの のするさするの快の音に 腿いたむとも やめぬつまかな

(大意:けん玉が皿に載ったり刺さったりするのが気持ちよくて、 太ももが筋肉痛になっても夫は練習を続けている。)

新年、とあるデパートに行ったところ、
けん玉の実演販売コーナーに遭遇しました。
私はスルーしようと思ったのですが、
夫はどんどん技を繰り出すお兄さんにロックオン。
ついに夫はけん玉を手にとって試してみたのですが、
ちっともうまくいきません。

それを見たお兄さんがすっと近づき、夫に囁きました。
「これまでの人生で…刺したことありますか?」
「いえ…ないです…。」と答える夫に、お兄さんは言います。
「大丈夫です、必ず刺さります!!」

けん玉愛にあふれ、しかも教え上手なお兄さんの手ほどきを受けたところ、
夫は短時間でかなり上達しました。
すっかり気を良くして、けん玉をお買い上げ。
それからしばらくは、朝食前にとめけんを成功させないと、
その日のテンションがあがらない、とまで言っていました。

今でも、けん玉は目につくところに置いてあって、
時々カチャンカチャンと、心地よい木の音を響かせています。

4 2020/1/22
きょくのほか 心のおそしつまなれど 思ひゆるさん とつくにのさけ

(大意:音楽以外のことは、からきし気が利かない夫だが、ワイン頼んでおいてくれたから許してあげようかな。)

わが夫は気が利きません。それもちょっとどころか、相当です。
なんといっても私が高熱を出して寝込んだ時、
「よるごはんはどうなるの」と3歳児のような真顔で言った男です。

こればかりは、私もいまだに根に持っていますが、
夫はその思考で長年きてしまった人なので、
いまから矯正するのは、あきらめるしかありません。

それが、音楽のことになると別人なのです。
わたしがちょっと「〇〇版のヴォーカルスコア、おかしい気がする」などと呟くと、
あっという間にスコアから該当箇所を探し出したり、
いつのまにか海外に、必要な楽譜や資料を注文しておいてくれたりするのです。

ある時、ベートーヴェンの第九の自筆ファクシミリが
家にドーンと現れました。
ここで聞いてはいけないのは値段なのですけれど、
やはりそれなりの…いえ、かなりの…お値段でした。気絶。

その後、夫はわたしへの贈り物だと言いながら「
トリスタンとイゾルデ」自筆スコア・ファクシミリも入手し、
ページをめくってはニヤニヤしていましたっけ。

そんな夫ですが、思いもよらぬ時にワインなぞ注文してくれていたりするので、
そのたびに「よるごはんはどうなるの」発言は、
お酒に免じて許してやろうと、
決意を新たにするわたしなのでした。

今回は、夫に関するネタばかりになってしまいましたが、
このあとはコロナに関する歌が増えてきます。
もしよかったら、またお付き合いください。

ONCE WERE BROTHERS

仲宗根浩

久方ぶり、那覇に映画を見に行くと国際通りにはいつの間にかウーバーイーツの自転車が走っている。人通りはある程度あるが筋道に入るとさびしい。これぐらいが歩きやすいが通りで生活しているひとにとっては厳しいのだろう。映画を見終わったら馴染みない場所からそそくさと帰る。「かつて僕らは兄弟だった」、ロックバンドの悲しい映画だった。引用されていた映画の場面で涙が出てしてまう。中学生の頃、ザ・バンドで最初に買ったレコードが解散コンサートのものだった。

ここ数年調子が悪い借家の照明のリモコン。ネットで調べると三千円近くする。液晶画面があるもののボタンの数は少ない。ダメもとで一旦ネジを外し中身を見てみることにする。ボタン部分は基盤の金メッキ部分に接触するようになっている。ボタン部分はゴムか。両方の接触する部分を指で触り、近くにあった眼鏡を拭きの布で軽く拭いて元にもどし所定のネジをとめて動作を確認すると問題ない。天井扇がついている照明なのですべてがちゃんと動作する。簡単な構造なものは取り敢えずネジを外してみるか。

新聞やテレビで首里城の再建についていろいろ取り上げている。首里城が沖縄のアイデンティティと言われると、ん、そうか、あれは首里のにあるものであってこっちとしては身近にない。正殿の龍柱が正面向きか向かい合っているかでもめている。もめているのを論争という。はずれにいるものとしてはどっちでもいい。そもそもアイデンティティというのはなんなだろう。