むもーままめ(6)自動筆記の巻

工藤あかね

パソコンに向かい外から聞こえる車の音はうるさく集中すると聞こえなくなるのあらどうしてだろうと思うけれど隣の部屋でオンライン授業をする声が聞こえて人の歌声が聞こえて訓練されていない声の美しさに聞き惚れたら空が青いだろうと思って外を見たら雲が薄くしか浮かんでいなくてつまんないなもっと強烈なやつが欲しいと思ってぼんやりとしたものより極彩色のアートが好きで渋谷の雑踏のモニターを見たら心が落ち着かなくてなにがビビッドかわからないところに冷麺が急に食べたい陽気だと言うことはやっぱり季節はめぐってきてなぜ冷やし中華ではなくて冷麺なのかと思うと私にも選択肢が増えたなと思って買い物かごの中身をみたら野菜がたくさんあったから野の植物に触れたい動物と触れ合いたいけれど水族館はつるつるしているからもふもふした匂いのするところに行きたいけれど電車ではなくてカゴに入れて箱に入れられてAmazonで知らない人の玄関先に届けられたいそうしたら開けた人が驚いてクレオパトラみたいだねって言ってなんで絨毯入っていないのこれじゃびっくり箱だねと言ってそれではかなり格が落ちるねベランダのジョウロがこっちむいていて水がはいっていないのに水なんかいつでも出してやるぜと言う顔しているのがなんだか生意気で白いジョウロの向きを変えたいけれど窓を開けるのも面倒くさいから念だけで方向変わらないかなととしばらく念を送ったけれど動かなくて私も力が落ちたな緑の葉っぱはこっちむくと太陽のパワーもらえないから向こうむいていていいよがんばれ遠くの背高のっぽのクレーンは今日も働いているなんのために誰のために桜の木の上に生えてる赤いカニの足空に飛んでるやじるしは右から左へあれは宇宙からのメッセージが届いているの灰色だから白い背景には目立ちにくい路地の影なら影は青色と赤色でネオンの名残が朝には消えてもうそんな街はしばらくないからかわりに地面に座って飲み明かした若者の気配が残る空き缶と日の出まで付き合わされてドクターペッパー飲んでいた若者の本当は水でも良かったのに薬草が手に入らなかったから河原に行って片っ端からよもぎを摘んで魔女のやりかたを想像して鍋で煮てみる生き物を入れるのはかわいそうで嫌だから自分の指をお湯にひたしてどうにかならないか企んだけれどやっぱりなんの魔力もなかった人間だから知らないでいいことたくさんあるしできなくていいことたくさんあるしそのほうがもしかしたら神様から見て可愛げがあるかもしれないのだからできないことを誇りに思う今日はいちにち窓際で昼寝をしたいし気が向いたらぼんやり本を読んで寝っころがって天気がいいのに洗濯もしないで怠惰の権化になりたい

新・エリック・サティ作品集ができるまで(3)

服部玲治

軌道修正。間髪入れず。
いささか壮大な「コロムビア×高橋悠治プロジェクト」の提案は、悠治さんのひとことで取り下げとなったものの、それがために、せっかく気持ちが向いてくれているサティすら成就しなかったら目も当てられぬ。
それまでの流れは無かったかのようにふるまい、本題のサティを切りだす。
現在80曲ほど遺されているサティの作品すべてを記したリストを差しだし検討を始めた。
リストには、録音を希望する曲にしるしを付けてあった。当初は、旧録音には収録されていない曲を中心に構成することも考えたが、やはり、王道的なレパートリーもバランスよく入れて話題性を喚起したい。
「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」、「ノクターン」などをメインに据えつつ、そこに旧録音には入ってなかった「星たちの息子」「サラバンド」や「愛撫」「メデューサの罠」などを組み合わせて丸をふっていった。
そのリストを一瞥した悠治さん、わたしの希望する渾身の丸はそこそこに、こうおっしゃる。
「新たに最近出版された作品を含め、子供のために作曲した作品を中心にだったら」。
サティはいまなお新たに発見される曲があり、サティブームと言われていた70~80年代にさまざまなピアニストによって録音された全集には収録されていない曲がいくつもある。
以前の録音時にはこの世に存在が知られてなかった「新・子供の音楽集」と「コ・クォの子どもの頃」のことを悠治さんは教えてくださった。
なるほど、とても面白い。元来のサティ好きとしての心中はそうつぶやいている。ただ、もうひとりの音盤プロデューサーとしての自分とせめぎあう。サティといえば、のジムノペディのような王道曲と組み合わせるならばもちろん素敵だが、「子供のための作品集」というフレームだと、押しがいささか弱くなるやもしれぬ。ついさっき、「高橋悠治×コロムビアプロジェクト」で風呂敷をひろげた際には、シュールホフやらヴィシュネグラツスキやら、王道とは言えない作曲家の提案をした人間が何をかいわんや、である。
とはいえ、ひとつのポジティヴな提案が仙人、否、悠治さんから提案されたことがなにより嬉しく、その日はいただいたコンセプトを満場一致の面持ちで歓迎したように思う。
 
その後、悠治さんとのコンタクトは、ほかならぬこちらの事情でしばらく途絶えてしまった。わたしが担当する別の音楽家、冨田勲氏が逝去し、その追悼公演の制作に追われてしまったのだ。気づけばもう年末。お詫びをしつつメールをすると、翌朝には返信が。
「何を入れるか もうすこし考えてから と思っています/いままで出た曲目だと 定番のジムノペディ それに入れてなかったサラバンドくらいですか」
定番のジムノペディ、という文字に目が釘付けとなった。はて、「子供のための作品集」は?

パンとサーカス

北村周一

圧うすき線描のごともレシートの文字は出で来て酒量を告げる

足るを知れと言われて少しかんがえてコップをきょうはさかずきにする

畳み掛けてきたる正論まえにして声に呟くそれはぼくのコップだ

歩みつつ憤慨しつつそを口に出しつつ老いてゆくんだろうな

へらへらと缶の蓋など撓ませて凹みいるなり ぎんいろの顔

朝起きて夕の献立思案する吉本隆明氏的煩悩おもゆ

おおいなる表面張力濡れた手がいできて指に〈おいだき〉を押す

駅前で目と目が合えばてのひらにテュシューいただくECCの

町田駅連絡通路に躓いて泳ぐ左右の自分の手足

旧陸軍の射撃場跡真直ぐな県立相模原公園に遊ぶ

音なれど泥いろにしてこんなにも近くを飛んでゆくヘリコプター

はたはたとはためくもののいきおいに絆されにつつ投票を終える

自治会に自衛隊にといざなえる横断幕は長さが同じ

公民と自治の名のもと粛々と刃物研ぎ師が刃物研ぎおり

戦争へ行ったことある父さんの話はふんとねむくなるだよ

戦争に行かず仕舞いの叔父さんの話はいつも軍歌で終わる

いつのまに家の南に新幹線北に東名 五輪の前後

絵葉書や切手とともに抽斗へ仕舞いわすれし東京五輪

TOKYOに五輪の来ること心から祝福したいとテレビは言うも

お笑いに出るを目指してがんばったと五輪選手が目かがやかせいう

原子力ムラ感染症ムラ電波ムラ五輪音頭に酔い痴れしわれら

パレスチナの記憶喪失

さとうまき

4月から、大学で少し教えさせていただくことになった。タイトルは、地球地域と中東という壮大なテーマである。

で、まずは、中東の本質的な問題はパレスチナだ!と気合いを入れてみるが、なんせ、20年前のパレスチナの事なんかすっかり忘れてしまった。というか僕はイスラエルに入国拒否をされてしまった2002年にすべてパレスチナを封印してしまったのだ。だってもう二度といけない国なので、とっととそんなことは忘れるのがいいに決まっている。

かつて、パレスチナとヨルダンを行き来してた時、タクシーの運転手がパレスチナ難民と聞けば、僕は得意げに、「いや、俺さー、エルサレムから来たんだよ。あんたのふるさとどこ?」なんて聞いてパレスチナ難民に受けようとしていた。

「あの、パレスチナっていうのがいかに素晴らしいかっていうのは、あんたらが言うもんでなくて、僕たち、難民として生まれ、パレスチナを見ることのないものが言うんだよ。そして、そのパレスチナっていうのは、今はどうなっているかっていうと、イスラエルが破壊して自然公園なんかにして、僕たちが持っている鍵で開ける門なんていうのはもう存在しなくて、かすかに石が残っているだけなんだ。さもなければ、ユダヤ人が接収してとっくの昔に立派なビルを建てちゃっているってことぐらい知しってるさ。それでもそこが僕らのパラダイスっていう意味、分かんないかな、君には。」
そんなまなざしを奥にひそめながらも、ドライバーは、「そうかい、そうかい!パレスチナの解放のために戦ってありがとう!」とお世辞を言ってくれた。

2002年になると、イスラエルは難民キャンプやらをやりたい放題に攻撃した。で、そういうのを外に出されるのは嫌がり、ジャーナリストや、パレスチナシンパの人間は極力入国を拒否しだしたのである。イスラエルから入国拒否されるのは、勲章みたいなものだった。同僚たちは、入国拒否のスタンプをパスポートに押されると飛行場の中にある特別な部屋で過ごして、乗ってきた飛行機にまた乗せられて戻される。

そこの部屋には、Free Palestine!とか、ゲバラの似顔絵が書いてあったり、かなりクールだったのだ。井下医師を送り込んだ時、彼はクソまじめに「わしは、攻撃を受けているパレスチナ人の治療のためにやってきました。」「パレスチナ?どこよ。それ?」こうなるとイスラエルの入国審査官の神経を逆なでしてしまい、
「そんな国はない!あんた入国拒否ね!」と一発退場。

井下医師にとっては、誇り高い退場だった。壁にしっかり、落書きをしてきたと自慢げに話していたが、彼が何を書いたと言っていたかは全く覚えていない。

井下医師を説得し、パスポートを作り直させて、「いいですか!あなたは、医者ではなく尺八奏者です。病んだユダヤ人の心を鎮めるために、コンサートをします、といってください。むきにならないように。まず、入国できなければ、僕たちが、パレスチナ人の命を救うという計画がだいなしですよ。いいですか!」

ユダヤ人は、実は尺八に弱く今度はいとも簡単に入国できた。実際に、井下が尺八を見せると興味津々だ。吹いてみようものなら、うっとりして、尊敬の念まで抱く始末。「モサドなんてちょろいもんだ」と僕らは調子に乗った。

続いて、井下医師の助手を務める看護師を送らねばならない。彼女は尺八やその手の音楽は全くダメ。ならばと普通のギャルになりきってもらい、テルアビブにすむ日本人女性ににわかに友人になってもらって、遊びに来ました作戦にした。井下とは一切無関係。迎えにも行かず、エルサレムで落ち合う手はずだった。彼女が入国審査を受け、テルアビブにすむ日本人女性のことを詳しく説明した。

ところが、どういう言うわけか、井下医師が尺八片手に飛行場に現れ、「わしは、尺八奏者じゃ!秘書を迎えに来たのじゃが、まだ出てこないのでどうしたものか」といってきたというのだ。そこで、職員が怪しげな尺八オヤジを尋問しようとしたところ井下医師も我に戻り、このままだと自分も強制送還されそうだと悟り、走って逃げてしまったというのだ。

こうなってくると怪しい。イスラエル得意の拷問が待ち受けていた。
「おまえ、普通のギャルだといいながら、怪しい親父が飛行場に向かいに来ていたぞ。尺八奏者とのつながりは何だ?」
「あいつはなにものだ?テロリストか?」
「し、しりません。ただの変質者かと」
「まあいい、いずれにしてもあなたは、あやしいので入国はできません」
ということで彼女も、結局、収容施設に入れられ、とんできた飛行機に載せられて帰ることになった。

同じ部屋には、妊娠中のコロンビア人の女性がいた。なんでもユダヤ人の彼氏が麻薬の密売に手を染めて、逮捕され、国外追放されることになったらしい。彼女は、パレスチナ抵抗運動の象徴となったカフィーヤをコロンビア人にプレゼントし、コロンビア人はお返しにポンチョをくれたそうだ。

2002年といえばちょうどワールドカップの日韓大会の真っ最中で、日本VSチェニジア戦をイスラエルの警察は楽しそうに見ていたらしい。

次の作戦は、看護師にもパスポートを作り替えさせて、正攻法で行くことにした。僕は直前まで、UN関連の仕事でアメリカのNGOで働いていたのでイスラエルから発給されたビザが残っていた。期限はきれていたが、テロリストとは思われないだろう。イスラエルはアメリカに弱いから、アメリカのNGOにも推薦状を書いてもらった。政治的には中立で、ともかく人道支援をしに行くという真っ向勝負を選んだ。しかも今回は陸路でヨルダンからアレンビー橋を超えることにした。陸路の場合は飛行機のハイジャックとか空港での爆破とかそういうのがないので、審査は楽だろうという読みだった。審査官も緊張感なく、僕は無事に許可が出た。しかし、看護師のチェックになると尋問するまでもなくコンピューターにすでにデーターが入っていたらしく、「この娘はダメ。」「怪しい娘を入国させようとするあんたもダメね」というわけで、「さあ、かえってちょうだい」という。うん? どうやって?
「その辺んにタクシーいるでしょ」
「あの、どこかの施設に入れられるのでは?」せめて落書きくらいさせてほしいのだけど。結局僕たちを連れてきてくれたのと同じタクシーが止まっていたので、しぶしぶそれに乗せられた。

それで、僕のパレスチナでのお話はおしまい。あまりにもあっけなく、扉は閉じられ、二度とイスラエル、いや、パレスチナの地を踏むことはなかった。そして、僕は、悔しさのあまり、パレスチナのすべてを忘れることにした。銀行にお預けてあってお金。買ったばかりのコーヒーカップ。

さあ、あれから19年がたった。生徒たちを教えるので、なんでもいいから思い出さなきゃ。だって、5年もそこで暮らしたんでしょう?

朝日楼

仲宗根浩

三ヶ月弱の歯の治療が終わる。削られ、貼られ、埋められ、磨かれると、半年後またと言われる。この前はそう言われてずるずると六年経っていた。
四月に入り清明の季節になり一番過ごしやすい時が来る。台風で天気が悪くなったので墓掃除の日を変更して行く。まん延防止なんとかで今年の清明も県外組は遠慮してもらうことにした。宮古の旧暦一月十六日も人が集まらないようにこじんまりとなり、毎年ニュースになる石垣の高校受験時、お昼を家族一緒に学校内で運動会のように食べるニュースもなかった。市役所からワクチン接種券が母親のもとに届く。後期高齢者は早い。中身を見ると予約開始がいつからか記載がない。問い合わせセンターに電話をして確かめる。電話での対応はネット予約へと誘導するかんじだ。九十を過ぎた年齢、パソコンもスマホもないので、代理でネット予約を頼まれているのではなからそのつもりではあるが。接種券、問診表が入った封書は持って帰る。

最近、購入したCD類、すぐ開封して聴くことはなくなってきた。今、専用の再生装置が無いのと、根っからの怠け癖。年末に買ったものを今頃車に乗るときに聴く。ジョニ・ミッチェルの「朝日のあたる家」から始まるアーカイヴ音源五枚組はだんだんとギターに変則チューニングを取り入れ、コードも独特なものになり変化していき、中学生の頃に初めて耳にしたジョニ・ミッチェルになる。でも歌声は二十歳ですでに完成されている。次はサム・クックのボックスセットが待っている。その上サブスクリプション、というのに手を染めてしまった。昨年トータルで半年くらい無料で試してみて必要ないな、と思っていたけど、二年間百円値引きしますよ、という文面に引っかかった。

今の感染症蔓延の中、憲法があるため強力な外出禁止のような対策はできない、とテレビで識者と言われる人や政治、行政にたずさわる人が言っているのを見ると、散々憲法解釈を変えて通した法律の数々はなんなんだ、と。解釈変更あんなに得意だったのに。

仙台ネイティブのつぶやき(61)ちくちく針仕事

西大立目祥子

 友人たちもほとんど親が死んで、そろそろ自分の終活もという年齢にさしかかっているので、たまに会うと、モノを捨てるとか、結局困るのは服と本だとか、という話になる。一方で、企業を定年退職した独り身の友人は、マンションをリフォームしてホテルのようなすっきりした部屋に暮らし、荷物整理は集中してやらないとね、とあっさりいってのける。でもねー、そうはいってもねー。私はお菓子の空き箱とか空き瓶なんかも捨てられないタチである。

 モノの絶対量を減らさないとあとあと大変というのはわかるけれど、ガンガン捨てまくるあの「断捨離」っていったい何なんだろうか。昨年のコロナ禍での非常事態宣言のときは、みんながモノの整理に励んだせいか、たしか仙台市のごみ焼却場も満杯となり、処理は限界といっていたような。つまり、やっているのは大量廃棄じゃないか。断捨離を提唱する女性が、衣服には旬があるので自分は1シーズンごとに服を買い換えると書いていたのを読んで、こういう考えとは絶対に相容れないなと感じた。数ヶ月で処分ということは、モノへの愛着はない、ということなのだろうか。私は衣服は皮膚の上にまとう、もっとも身体に近いものであると思っているので、それを数ヶ月でゴミにすることには根本的な疑問が湧く。モノと人の関係って、そういうものじゃないでしょ。

 というわけで、ということでもないのだけれど、いま私がいちばんやりたいと思っていること、それは「繕いもの」です。このところ遠ざかっていた糸と針を使って、あれこれ直したい。親指のところに穴の空いた靴下とか、使い古して真ん中がすりきれた暖簾とか、ところどころ虫に食われてしまったセーターだとかを、直して蘇らせたいなあ。そう思っていたら、友だちがダーニング用の木製のダーニングマシュルームをプレゼントしてくれた。ダーニングというのは、ヨーロッパの伝統的な布やニットの修繕方法で、穴の補修がしやすいように裏からキノコ型の道具を当てて使う。昔、靴下の穴を繕うのに電球の玉を使ったと聞くけれど、それと同じ。こういうモノも、現代の消費者に合わせて手芸メーカーがつぎつぎと商品化している。それにも疑問は感じるが、友だちがくれたのは、知り合いの木工作家、筑前賢太さんがろくろで挽いてくれたものだ。

 さっそく母の緑色の虫食いセーターにダーニングを試みた。安価なものだったけれどきれいなグリーンでウール100%だから、捨てるのは惜しい。穴にキノコを当て、手持ちのオレンジ色とクリーム色の刺繍糸を3本どりにして、ちくちくと穴をふさいだ。祖母や母がやっていた繕いは、緑の布なら緑の糸を使ってなるべく目立たないように仕上げるものだったけれど、本やネットで見るダーニングはあえて目立つ色の糸を用いて、「ここ直しましたよ」と宣言でもするように修復している。

 胸元にオレンジ色のテンテン模様のアクセントができて完了。ま、いいか。なかなか楽しいので、靴下のダーニングもやってみる。こちらはグレーの地に青とオレンジの模様なので、足先の穴をこの2色の糸でふさいだ。マイナスをゼロに戻す繕いとは少し違って、きれいな色の糸を通していると、小さくても新たなものを創り出す楽しみみたいなものが感じられてくる。こうやって、直して直して。傷んだら、また刺して。手をかける中で、ちっぽけな靴下やどうということもないセーターが息を吹き返して、再び着用ができるものに蘇ってくるのは、ささやかながらよろこびだ。

 東北には「ぼろ」とよばれてきた継ぎ接ぎの衣服がある。擦り切れたところに布を当てざくざく縫って、さらに傷めばまた布を重ねて縫う。もう原型がわからないほどの継ぎ接ぎだらけの夜着や野良着だ。30年くらい前、佐渡の民俗資料館で見た当て布だらけの漁民の手袋が、私のぼろとの出会いだったのだけれど、ごわごわの布の塊のようなミトンは、どこかおだやかで平穏なものと思い込んでいた女の手仕事のイメージを吹き飛ばした。

 それは貧しさの中の工夫であり、生活の一つのあたりまえの行為なんだろうけれど、布の当て方とか針の刺し方の工夫に、創造のよろこびを感じる一瞬があったのではないのだろうか。
そして、ぼろは柳行李や簞笥にしまわれ、代々女たちに受け継がれ繕われてきたのだから、必要に迫られてやる仕事だったとしても、糸を通せば、誰かを思ったり、長い時間の中にじぶんを位置づけて考えるようなひとときもあったかもしれない。

 ちょっとの繕いものでも、気持ちが急くときは針目は曲がりがちで、落ち着いた構えのときは針目がそろう。おもしろいものだ。10年前の大震災のとき、三陸に暮らす友人のところに雑巾を縫って持っていたことがあった。泥に汚れたところをぬぐうのには雑巾だ、という単純な思いからだったが、いま振り返ると、雑巾なんてとんと縫ったことのなかったじぶんが、なぜそんなことをしたのかわからない。それからしばらくの間、タオルを2つに切って折りたたみ、雑巾を縫う小さな習慣ができて、縫っていると気持ちが落ち着いた。津波があまりに乱暴に土地も人も奪っていったから、その対局にあるようなことを反射的にやろうとしていたのだろうか。

 さて、というわけで、連休は少しでも繕いものをしたい。ついでにいうと、もう衣服に高いお金はかけたくないし、新しい服をどんどん買うこともしたくしない。からだになじんだものを大事にして、父が着ていたカーディガンとか、祖母の形見のマフラーとか、おしゃれだった母がこの先残していくだろうあでやかなツーピースなんかを、なんとか地味好みの私に合うように直せないか工夫しながら、じぶんがここにいることを確かめたいなあ。
 

釣り堀の端 その四

植松眞人

 高橋に釣りを教えてもらいながら、耕助はずっと釣り堀の水を眺めていた。循環器の水の流れと釣り堀のそこに仕込んであるいくつかのエアポンプから出る小さな気泡が釣り堀全体に奇妙な波を作っている。自然の池や海とは違ううねるような波は、釣り堀全体が実は緑色の薄いフィルムのような膜で被われているのではないかと耕助には見えるのだった。
 高橋はそれほど熱心というわけでもなく、自分の動きをただ言葉に置き換えるように耕助に釣りの仕掛けの説明をしている。耕助は耕助で釣り堀の水面を眺めながら高橋の言葉にうなずきながら真似をして仕掛けを作る。
「だいたい、ここの仕掛けは雑なんだよ」
 高橋の言葉に耕助はふいをつかれて顔をあげる。
「雑ですか」
「雑だよ。だって、もうウキもオモリも針もばらばらなんだもん」
「ばらばらですか」
「ばらばらだよ。普通はもうちょっと一定というか、さすがに客にバレない程度に同じような仕掛けにするんだけどさ。ここのは、付いてりゃいいでしょ、ぐらいの感じで、ほら、これとこれ見てみなよ。全然違うだろ」
 高橋は耕助の仕掛けと自分の仕掛けを目の前にあげて比べてみせる。
「だから、それを自分で調整するってわけだよ。まあ、先代の時からずっとこうだけどな」
「でしょうね。僕は置いてあったやつを真似して作ってるから」
 耕助がそう言って笑うと、高橋は少し呆れ顔で笑う。
「ま、それがここのいいとこだよ」
 そう言って、高橋は手先を動かしながら、美幸たちのいる小屋を眺める。
「しかし、耕助くんは羨ましいよ。奥さんがあんなにきれいなんだから」
 そう言われて、耕助も顔をあげる。小屋の窓の中で美幸と三浦が笑いながらこっちを見ている。
「きれいですか?」
「きれいだよ」
「そうかなあ。ブスじゃないと思うけど」
 高橋は笑う。
「ブスじゃなきゃ可愛いかきれいなんだよ」
 高橋の言葉に耕助はじっと美幸を見つめる。美幸はそれに気付いて高橋に手を振ろうと片手を高く上げようとした。すると、身体全体のバランスがくずれ、なぜか三浦くんの身体が美幸のほうに引っ張られたのだった。ほんの僅かではあったが、それが耕助にはわかった。なるほど、いままで、美幸と三浦くんは身体の後ろの見えないところで手をつないでいたのだな、ということが耕助にはわかったのだった。高橋はそれにはまったく気付かずにいる。
「可愛いときれいなら、どっちかというときれいだよ、美幸ちゃんは」
 高橋はそう言うと、針を釣り堀に沈めた。
 しばらく耕助は高橋の竿の先の糸が釣り堀の水の中に沈んでいる部分を眺めているふりをしながら時間をおいてから、もう一度小屋を見た。美幸はまだ手を振っていた。三浦くんはさっき美幸に引っ張られた手をかすかにさすりながら小さく眉間に皺を寄せていた。耕助はため息をつきながら自分の竿を持ち、エサを確かめてから釣り堀に針を沈めた。そして、ため息をついて笑った。
「馬鹿だなあ」
 耕助は知らず知らずに小さく声に出した。高橋が隣で、誰が、とこれも反射的に声に出した。しかし、耕助が答えるよりも先に、高橋は問わず語りのように、言うのだった。
「ほんと、三浦くんは馬鹿だよ」
 耕助が目の端で高橋の表情を読もうとしていると、高橋はしっかりと耕助のほうを向いて、
「おれもああいう馬鹿は嫌いじゃないけど、女は好きだからね。ああいう馬鹿が」
「おれも嫌いじゃないっす」
 耕助が答えると高橋は声に出して笑う。
「困ったね、こりゃ」
 耕助も笑い出す。
「困りましたね」
 二人の笑い声は互いに響き合ってだんだんと大きくなって住宅街に響き始める。やがてその声は小屋にいる美幸と三浦くんにも届く。二人は耕助と高橋が笑っているのを眺める。
「なに笑ってるんだろ」
 美幸が楽しそうに言う。
「おれたちのこと笑ってるんじゃないですか」
 三浦くんがそういうと、さっきまで笑っていた美幸が急に真顔になる。そして、もう一度、三浦くんの手を握る。三浦くんは一瞬とまどい手を引こうとするが、美幸がその手を意外に強い力で戻す。そして、外からは見えない古びたデスクの上に、美幸は三浦くんの手を抑え付ける。三浦くんは抑え付けられた手を暫く眺めたあと、笑っている耕助と高橋に視線を向ける。二人はまだ笑っている。こっちを見て笑っている。
「ねえ、三浦くんって、意外に勘が良いよね」
 そう言って、美幸は楽しそうに微笑みを浮かべて、三浦くんの手をなで回す。三浦くんは居心地の悪そうな笑顔を浮かべ、身動きせずにこっちを見て笑っている耕助と高橋に笑顔を送っている。
 耕助たちの笑い声が聞こえたからだろうか。釣り堀のすぐ隣にある二階建ての住宅の二階の窓が相手、丸坊主の中学生がパジャマ姿のまま顔を出して釣り堀をのぞき込んだ。中学生は耕助を見て、高橋を見た。そして、視線を小屋へ移す。二階からだと小屋のなかで三浦くんが手を押さえられているのがよく見えた。手を押さえつけられたまま三浦くんが困ったような顔をしているのを中学生はしばらく眺めていた。中学生はやがてこの大人たちの関係を一瞬にして理解して大笑いして窓を閉めた。(了)

絵コンテとシナリオ

三橋圭介

アントニオーニのスクリプト(台本)やシナリオについて前に書いた。それは設計図のようなものであり、映画が完成された後、映された意図通りに説明を加えてシナリオとして完成を迎える。もうひとつこれとは別に絵コンテという方法もある。これも映画の完成にむけたより具体的な設計図である。というのも何をどのように撮影するかかが詳細に書かれている。当然、カメラアングルも分かるし、カットのコマ割りも分かる。黒澤明の絵コンテは展覧会もするくらいなので非常に有名だが、今回2つの絵コンテを手に入れた。ひとつは宮崎駿のアニメ映画「風の谷のナウシカ」(スタジオジブリ絵コンテ全集1:徳間書店 2021)、もうひとつはポン・ジュノの「パラサイト」(A Graphic Novel in Storyboards PARASAITE : Grand Central Pub 2019)である。

「ナウシカ」はほぼ映画を見ているようにカメラアングル、コマ割りが正確だが、シナリオはなく、核となるセリフのほんの一部がだけがある。できあがった物語の内容に沿ってコマ割りを描き、核となるセリフだけ入れて時間を作りだしていく。何度も見ている人はこの絵コンテだけで物語の世界に入ることもできる。一方、実写の「パラサイト」は絵コンテにシナリオとカメラの動きなどが付属し、本のタイトルにあるようにグラフィック・ノベルとして読むことができる。構成は一場面(たとえば冒頭の半地下の家族の様子など)をひとまとまりとし、それを積み重ねていく方法を取っている。そのため部分間の繋ぎでシナリオの言葉が多少変わっている。また削除部分はたとえば、第2部分のピザの社長とのありとりの後、きょうだいがスーパーで泥棒をするシーン(第3部分)が絵コンテには描かれている。おそらく、社長をやりこめ、お金をもらったこともあり、続けての泥棒シーンは効果がないと判断したのかもしれない。

絵コンテとは何か?  ホン・ジュノ自身が本の序文に書いているので、ここで全文訳してみよう。

「わたしは絵コンテなしで作られた、たくさんの素晴らしい映画があることを知っている。偉大なスティーブン・スピルバーグがしばしば絵コンテなしで映画を撮っていることもきいている。この本の目的は絵コンテがよい映画を作るための近道である、ということではない。実際、わたしは自分の苦悩を鎮めるために絵コンテを書いている。手の内に、その日撮るべき絵コンテがあることに安堵する。絵コンテなしでセットに向かうときはいつも、混雑する場所に下着姿でたたずんでいるように落ち着かない。だが、絵コンテだけが私を正気に保つというのも間違いだろう。絵コンテは細かくショットがいかに構成されるかを示すものである。それらは描かれたような正確なショットとなり、撮影クルーにとって価値ある青写真を提供する。撮影された映画は絵コンテから決してかけ離れることはなく、さらにクルーたちにその撮影プロセスに信頼を与えてくれる。過去に一緒に仕事をしたクルーのメンバーたちは、特にこのことを熟知している。朝、クルー全員はその日の絵コンテをもらうのを楽しみにしている。絵コンテによって、かれらはその日のゴールに向かって集中できるし、その日撮るショットについて話し合うこともできる。その時、絵コンテはクルーだけでなく、わたしの恐れも和らげてくれるのだ。しかしもうひとつの恐れがわたしの内部にある。カメラフレームのなかにある絵コンテのフレームが、マンネリズムに陥らないかと恐れはじめるのだ。その日のセットに漂う沸き立つ活気を取り損なうのではないかという恐怖である。こうしたすべての詳細なプロセスがこの本にある。しかし絵コンテと映画の間の小さな違い、つまり絶えず生じる絵コンテのシーンに存在する恐れとカメラフレームのなかの自発性との刺激的な瞬間があることもじゅうぶん承知しているのである。」

アントニオーニにとってスクリプトからシナリオへの変化は映画の完成と共にある。プレイボーイ誌のインタビューで「スクリプトは出発点だ。固定したものではない。私が紙に書いたものが正しいか正しくないを理解するために、カメラを通して見なければならない」と述べる。役者が目の前にいて、動き始める。それをカメラが見ている。表面的な部分、それは即興的ということもできるが、そうではなく、それ自体が映画を撮るということなのだと。スクリプトから始める映画と絵コンテから始める映画では、前者のほうが予定外のふり幅が大きいだろう。ポン・ジュノの絵コンテとカメラにまたがる「マンネリズム」への恐怖は、アントニーニには存在しない。彼の最後の映画「愛のめぐりあい」の共同監督のヴェンダースが撮影日誌で書いているが、取るはずの場所をその場で変更するのは日常茶飯事のようだ。ポン・ジュノが絵コンテで撮影クルーを安心させるのとはちがい、アントニオーニの撮影クルーは未完成のシナリオにいつも振り回されている。リアルに意味(象徴作用)を積み重ねて強度の時間を構築するポン・ジュノのリアリズム的な映画と、リアルではない表現でリアルを求めるアントニオーニの意味するものを開いていく映画、どちらも繊細な配慮の上でなされている。個人的にはアントニオーニのリアルなものへの懐疑、ゆるさを許すその用心深さが見るものをその視線の欲望へと誘い込むように思える。

山菜の苦み

イリナ・グリゴレ

東北の冬の話をしても実際に体で感じないと分からないことがたくさんある。私の場合は冬の終わりのころに寒さに耐えられなくなる。泣きたいぐらい寒いと感じる。自分の限界を感じる日がある。しかし、限界だと思う日に幻のように、冬が終わりそうもない中で、窓の下の石の間からフキノトウの黄緑の葉が見える瞬間がくる。

フキノトウはしばらく目で十分に楽しんだあと収穫し、津軽地方でいうバッケ味噌を作る。春を身体で感じる瞬間と言ってもいいぐらい喜びを与えてくれる。軽く炒めてからお酒と味噌を混ぜ、瓶に入れる。冷蔵庫で一か月くらい寝かせると、苦みは甘味に変わる。でも、我慢できないので作った日に一口、二口味見する。苦い。ものすごく苦いが、この苦みは人生そのものだと感じる。この日のために冬を過ごしたように。

この苦みを少しずつ味わう季節が今年もやってきた。近くの有名な公園の桜の花よりも、私にとってはバッケの苦みが春と再生の証拠になってきた。歳とともにこの地域の味が分かるようになったのかもしれない。私の喜びが電波で通じたのだろう、次の日に、お向かいに住んでいる方に誘われて、庭のフキノトウが取り放題になった。その夜は天ぷらに。苦くってカリカリし、日本酒に合う。私を天ぷら達人にした新鮮なフキノトウに感謝。

青森県に住んで、すこし狩猟採集民の気持ちを味わっている気がする。春には山菜、秋にはキノコの達人がいる。物々交換の習慣がまだ残っている。ある秋の日、夫と散歩した山で立派なムラサキシメジを発見した思い出がいまだに魂に刻み込まれている。生まれて初めて紫色のキノコを食べた。いまでも山菜と同じで、人生で食べた一番おいしいもののトップになっている。おいしさの秘訣は新鮮で、自分で取っていることに加えて、野生の物であることだ。山の幸という言葉がぴったり。山菜は自分に嘘をつけない。だから苦い。

何年か前に、父親がたまたま山菜の季節に来日した時のことを思い出した。近所のお母さんから山菜の詰まった袋をもらって天ぷらにした。山ウドを初めて口にした父は「肉みたいだけど肉よりおいしい」と言った。たしかに肉のような美味しさだ。山菜とは世界の肉だ。世界の肉は苦いし、濃い緑色をしている。食べると身体も緑になるが、この世で一番おいしいものなのだ。四月中旬に各道の駅に山ウド、タラの芽、こしあぶら、コゴミ、ボンナ、ねまがりだけ、しどけ、うるい、かたくり、にりんそう、ハンゴンソウの芽などを売っている。名前はおまじないの言葉みたいで私の身体に音からなじむ。白い冬の後にくる緑の波のイメージが私の脳を鮮やかにする。

記憶をたどると、この濃い緑は子供の頃から味わっていた。春先に、ルーマニアではイラクサの若芽を食べていた。津軽ではアイコと呼んで食べる。農作業で手の皮膚が固くなっていた祖母は素手で採って煮て、ポレンタと一緒にお皿にもりもり載せていた。イラクサの濃い緑のペーストと鮮やかな黄色のポレンタの組み合わせは美しかった。伝統的な陶器の食器と木のスプーンも自然のもので、復活祭の前の食事に欠かせない一品だった。こういう暮らしにノスタルジーを感じる自分がいるからこそ、毎日この時期に山菜の天ぷらを永遠に揚げる。こういう時に私は本当に幸せだと思う。解放されるから。いろんなことから、いろんな人から、いろんな世界から。私と山菜と家族の小さな物語をリピートで再生するコツを見つけたわけだ。

休日にいろんなことを考えながら、七号線で秋田へ向かった。山菜を探しに。ラジオから昭和の名曲が流れ、道沿いでは山桜と梅の花が終わりを迎えるなか、ニシンの歌の中のニシンが光る海と桜の景色が同じに見えた。夫は空海と道元の思想を説明してくれる。あっという間に二ツ井に到着。縄文時代の面と古代の杉の木が飾ってあるところで、今月が誕生日だった私は、おまけのハートがついているソフトクリームを買う。子供たちは大喜び。

読んだばかりのジャン=リュック・ナンシーの本「福島のあとで」を思い出す。カントは「人間とはなにか」が答えられないというが、今日は私たちが答えなければならないとナンシーはいう。私も一番知りたいことだ。二ツ井のきみまち坂の写真を見ながら、なんとなくこういう時期が来たと思った。恐怖からの解放、いろんなものからの解放のために、この問いが必要になってくる。山菜と同じで、味が苦いかもしれないが。

狼の眉毛という道具がほしい。先日、夢の中で恐ろしい鬼の頭が道端に落ちていた。はっきり見えて、頭の皮膚が向けられて裏返しになって叫んでいた。「鬼滅の刃」の社会現象が、私の夢にまで延長していたと少し驚いたが、そういう時期なのかと改めて思った。これから苦い啓示の時代なのかな。

198 京都

藤井貞和

はくぎんの衣裳が踏みつぶしてゆくね、京都を。
能舞台から下ろして、着替える時のわたくしの涙。
八万四千字を書き込む祈り。 南無かんなづき。
真言を集める徒歩の列もまた踏みつぶされる。
もう終わる眼下の都市を見ています。
不意にその涙が湧いてくる一人の聖人です。
それから修行の日の奥の院の失敗。 浅瀬での禊ぎの手抜きに、
明けない護摩壇の暗部から、
未明というより、ほの明るくて朱塗りの地底です。
あけの桟橋が崩落する。 嵐山電車が大悲を乗せて走る。
三千の眼もまた祈る。 
大文字の高度を斜面で受け止める経文。 
比叡から吹き下ろす山風。 そこは小野の里。
まちの幻影の旧い古代。 旧い怪異。
北山通に流れる読経はあなたのかげを思い出させる。
光背の灰があざやかな肌の匂いを立てましたよ。

(「京都」という題で書いてみたかった。それだけ――)

善玉の殺人(晩年通信 その21)

室謙二

 もう二十年か三十年前だが、殺人の冤罪で数十年間刑務所に入っていた人が出てきて、テレビのインタビューに答えているのを見た。
 外に出てきて驚いたことは、多くの人々が殺人と殺人事件に、とても興味を持っていることだった。と言っていた。人はなぜあんなに「殺人」に興味を持つのだろう。私は人を殺したということで、冤罪で刑務所に入っていた。だから殺人と殺人事件について 普通の人より知りたいのは当然だが、犯罪に関係ない普通の人が、殺人に異常に興味を持つ。なぜだろう?
 人びとは、実は殺人が好きなのだろうか?
 誰かを殺したいと、どこかで思っているのだろうか?

 日本における殺人の数は、他の先進国に比べて少ない。
 国連の統計によれば(United Nation Office on Drugs and Crimeの2018年統計による)、人口十万人あたりの殺人数はアメリカで5件、イギリスで1・2件、フランスで1・2件、ドイツで0・9件、韓国は0・6件で中国は0・5件。ところが日本は0・3件で、もっとも低い国はシンガポールの0・16件であった。日本の殺人の数は、アメリカの約16分の1になる。
 しかし殺人への興味は高い、と殺人の冤罪で出獄した人間は思った。あれは何十年が前のことだが、今では殺人関連の件数(未遂と予備を含める)は1955年の三分の一以下に減っている。

  黒澤明のチャンバラ

 黒澤明の映画を立て続けに三本みた。まず「七人の侍」(1954年 昭和二十九年)で、主演は三船敏郎と志村喬。志村喬がすばらしい。次に「用心棒」(1961年 昭和三十六年)、主演は三船敏郎と仲代達也。それから「 椿三十郎」(1962年 昭和三十七年)、これも三船と仲代の主演、を立て続けに見た。すでに見ている映画だけど、やはりおもしろかった。
 いずれも有名な映画なので筋書きは知っているかもしれないけど、「七人の侍」は、定期的に襲う野武士の集団から、浪人が飯を食べさせてもらう代わりに村を守る話だ。その中の一人が三船敏郎。
 「用心棒」は、宿場町で対立する二つヤクザ集団を、三船が衝突させる話。
 「 椿三十郎」は汚職を告発しようとしている若侍たちに、三船が加担する「 椿三十郎」が三本の中では、いちばん娯楽映画としてよくできている。最後に登場する悪玉だと思われていたが実は善玉家老(伊藤雄之助)の奥方が、トンチンカンでよろしい。長あごの伊藤雄之助もよろしいが。

 この三本の映画では、チャンバラは一本目から三本目に向かって、激しくなる。人がどんどんと切られて死ぬのである。
 村を守る七人の侍のうちの四人が死んでしまう。そのなかに三船敏郎も入っている。この映画では、善玉も死ぬ。
 「 椿三十郎」で、最後に悪玉の仲代達也が三船敏郎に切られるところでは、血が体からどっと吹き出す。残酷なシーンだが、血が霧のように飛び散る美的な効果を持っている。モノクロの映画ではあるが。
 私はこれらの映画を子供の時に見たわけではないが、あの当時の子供たちは、そのへんに落ちている棒を片手に映画のようなチャンバラをしたのである。ただ真剣に、相手の体を叩くわけではない。相手を本当に傷つけてはいけない。バシバシと棒を叩き合う男の子の遊びであった。
 やられると「切られた!」と叫んで倒れる。切るのと切られて倒れるのは、演じられるドラマである。一度切られて死んでも、また立ち上がり相手を切る。今度は相手が倒れて、死ぬことになる。

  シェーンの防衛的殺人

 子供の私のチャンバラごっこ時代と、第二次大戦以後の「ちゃんばら映画」の盛んな時代は重なる。「ちゃんばら映画」は、1920年代(大正末期から昭和の初め)以降、サイレント映画時代に盛んになり、1930年代にはいよいよ盛んになった。第二次世界大戦以後は、その初期にGHQ(連合軍司令部)によって禁止されたが(敵討ちストーリーも禁止された)、私の子供時代、1950年代(昭和30年前後)には盛んになる。
 それはまたハリウッド西部劇映画が日本で盛んになった時代とも重なり、私もカウボーイ・ハットをかぶり、オモチャのピストルでバンバンとカウボーイになったのであった。チャンバラとカウボーイは離ればなれの世界だが、1950年代の日本の男の子の中で一緒になる。そして日本でいっせいを風びしたカウボーイ映画「シェーン」は、1953(昭和二十九年)の公開であった。
 南北戦争後の西部、ワイオミング州での開拓農民と、元からいる牧場主の争いの場に、流れ者のシェーンがあらわれる。シェーンは開拓農民に加担して牧場主とたたかう。話は村の農民の立場に立ってたたかう「七人の侍」と同じようになる。そして当然に相手がたには殺し屋が登場して、三船敏郎が剣で仲代達也とたたかうように、シェーンは、ピストルの打ち合いで悪玉と戦う。
 善玉シェーンは相手を撃ち殺すのだが、これも三船が行うような「合法的殺人」であった。相手がピストルを抜くと、即座にシェーンもピストルを抜き、撃ち殺す。相手がピストルを抜くことが肝心である。その後にシェーンが抜く。防衛戦である。

  ボーボワールと冷戦

 何十年も前に、シモーヌ・ド・ボーボワールの自伝を読んでいたら、そこにボーボワールとサルトルがハリウッド映画の見るシーンがあった。ボーボワールによれば、1950年代のアメリカ西部劇が、悪玉がピストルを抜き撃とうとした瞬間に、善玉がピストルを抜き、防衛として悪玉を撃ち殺すシーンを中心にして話が組み立てられているのは、アメリカとソ連の冷戦構造をあらわしているとのことだった。相手(ソ連)が核ミサイルを撃とうとした瞬間に、アメリカが核ミサイルを発射してソ連を叩き潰すことを正当化しているのだと。
 最初に読んだ時は、もう40年ぐらい前のことだが、あまりに原理的にすぎるなあ、と思った。しかし今になって考えれば、この言葉は当時の冷戦とアメリカ文化を適切に表現しているのではないか。あの当時の日本の子供たちは知らなかったが、ガン(銃)は一貫してアメリカの信仰である。正義の銃とそれの「防衛的発射」は、現在たびたび報道される事件を新聞で読んで分かる通り、アメリカの確固たる信仰、文化なのである。全米ライフル協会(NRA)は、議会に対する政治的力を持ち、また巨大な経済力を持ち、ガンコントロールを跳ね除けている。銃を買ってそれを手に入れるまでに一定期間を設けて、買った人間についてのバックグランド・チェックをすることに反対している。アメリカ憲法修正条項は、個人の武装権を認めている。それがNRAを支える。
 シェーンが相手がピストルを抜いた瞬間に、ピストルを抜き「防衛的」に相手を撃ち殺す時、その後ろにはアメリカの人びとのガン信仰と、全米ライフル協会がある。ボーボワールが指摘したように、それは冷戦の文化での表現であったが、しかし今でも善玉が武装して悪玉を防衛的に殺すことは、アメリカで広くある文化である。合法的殺人を、当然のこととして受け入れる文化である。

  善玉と悪玉の世界

 戦争というのもある。これは合法的殺人の国家・集団レベルのものだ。
 世界中で戦争が行われている。戦争といっても一概に同じレベルではない。あるものは人びとを抑圧する戦争であり、あるいは人びとの側からの解放の戦いかもしれない。あるいは、そんな簡単に戦争を分類はできないよ、とも言える。
 人種差別による合法的殺人もある。ナチのアウシュビッツでの殺人はその一つであった。それはきわめて組織的に行われた。いま読むと唖然とする。

 私たちだって、合法的殺人あそびを、棒の剣を振り回すチャンバラと、おもちゃのピストルを撃つカウボーイごっこをして、大きくなったのだった。
 もっともアメリカと違って、日本ではガンも刃渡りの大きなナイフも手に入れにくい。この文章の最初にあげた国連の調査によれば、日本の殺人の数は、アメリカの約16分1のであり。しかしこれは日本でガンが一般に出回っていないからだとは簡単には言えない。それも要因の一つではあるが、殺人の少ないことはアメリカと日本の社会的構造の違い、文化の違いも大きい。しかしこれも最初にあげたように、殺人への興味は高い。日本のメディアでは殺人が広がっている。
 殺人の冤罪で刑務所に入っていた人が外に出てきて、多くの人々が殺人と殺人事件に興味を持っていることに驚いた。人はなぜあんなに「殺人」に興味を持つのだろう。
 人びとは、実は殺人が好きなのだろうか?
 誰かを殺したいと、どこかで思っているのだろうか? 
 私たちは子供の頃から、合法的殺人の文化の中で訓練されている。
 もっともある宗教は、ある宗派は、善玉と悪玉の違いがあることを認めない。ある宗教は全部が悪玉だといい、ある宗教は全部が善であるともいう。
 しかしながら、善玉と悪玉に分ける考えは、善玉は悪玉を殺していいということは、子供のチャンバラから、国家の戦争まで横断する主要な文化である。

投げ出された影

高橋悠治

三木卓さんと冨田真帆さんから「福井桂子詩集」が届いた(思潮社 現代詩文庫248)

日記のように音楽を作ること 日々それらを弾き またスケッチする
Kurtág の Játákok また Christian Wolff の Keyboard Miscellany
パソコンのフォルダにスケッチを集め
ひらくたびに すこし変えることもあるだろう として
不安定で 変わりやすいものの 仮のかたち 仮置き場
散らし書き 散らし模様

まだ思っているだけで 実行していない
音楽を職業としていると 自分のための音楽を作ることから遠くなってしまった

安定した低音をもたない 対位法や和声のような連続した関係ではなく アシラヒの距離 入りと止めのあいだの見ハカラヒの時
節は折れ曲がり それはできる 途切れ これができない
音は消えても 意識がつながっていると 次の音は関係を作りながら 立ち上がる
響きは 動きが消えた後に殘る聞こえ 消えかたをくふうするより 自然に手を放した という感じがあればよいのかもしれない

20世紀の音楽を思いだしても 遠い昔のことのようだ 読んでしまった本を読み返して 読んだ覚えのないことばに出会うよりも まだ距離がとれていない 調性・和声・対位法 構成と統一にしばられるより 逸れる 外れる 道のないひろい空間のなかで しかも楽器の手触りを残したまま 聞こえる響きが 聴き慣れない翳りを帯びて どことなく居心地がわるく そのかんじに追い立てられるように 思わぬ方向に一歩を踏み出すときを待っている状態

2021年4月1日(木)

水牛だより

四月が来る前にソメイヨシノが散り始めるなんて。この暖かさをぼんやりと楽しんでいますが、もしこのままの速度で夏になったら、ことしも厳しい暑さになりそうですね。どこからどのように考えてみても、オリンピックどころではありません。

「水牛のように」を2021年4月1日号に更新しました。
今月号は原稿の数が多く、また長いものも多いせいか、目次が2ページに渡ってしまいました。はじめてのことです。管啓次郎さんと高橋悠治さんのものはページ最下段の「過去の投稿」をクリックすると表示されます。ご注意ください。
ひさしぶりに斎藤真理子さんの「編み狂う」が戻ってきました。待っていてくださったみなさん、きっと満足していただけると思います。「編み狂う」斎藤真理子さんは、水牛的読書日記(4)に登場するファン・ジョンウン『ディディの傘』の翻訳者でもあります。

3月22日に平野甲賀さんが亡くなりました。この水牛のタイトル文字も平野さんのものです。
平野さんが肺炎で倒れる前には、ちょうどいまごろ、東京に来るという予定があったのです。その第一の目的は、津野海太郎さんたちと会うことだったので、そのときには密かに録音機をONにしようと思っていました。「水牛通信」のころ、平野甲賀、津野海太郎、鎌田慧、高橋悠治という1938年寅年うまれの4人にそれぞれの戦争および戦後体験を話し合ってもらい、「トラたちの8・15」という座談会記事にしました。敗戦時、彼らは6歳か7歳だったので、話題は子どものころのことでした。その少年たちが80歳を超えたいまについて、集まるのを機会にまた語ってもらったらおもしろいに違いないと楽しみにしていたのですが、その機会は永遠に失われてしまいました。
平野さんとはいろんなことをいっしょにやってきましたが、そのどれもが遊びだったような、軽々として隙間の多い明るい経験でした。出来上がってくるものは平野さんでしかありえない際立って斬新なデザインなのに、そこにはいつも静かさが満ちているのでした。亡くなったばかりの人について書くのはむつかしいことです。

それでは、来月も更新できますように!(八巻美恵)

編み狂う(8)

斎藤真理子

 たとえば力を入れて糸をびゅんびゅん撚って、ぎりぎりまで撚り上げたところで手を放し、縒りが戻るにまかせ、ほどけるとこまでほどけて止まった地点を最適解として、そこで寝たり起きたり景色を見たりしていられればいいだろうけど、そうはいかないので、最適値ではないところで労働をしたり生殖をしたり、生殖の結果に責任を負ったりしなくてはならなくて、こんなつもりではなかったんだけどなあという気持ちが、編み物をしていると、どこかから煙のように湧いてくる。

 煙のようだが、実はそれは火かもしれなくて、なぜかといえば生きていると積もってくる釈然としなさには引火性の高いものもあるからで、そのせいかどうか、「火がついたように」といった形容が似合ってしまいそうな勢いで、「編みふける」から「編みいそぐ」「編みばしる」「編みだおれ」へとボルテージが上がっていき、また「白熱」といった単語が立ちこめてきて空気の何パーセントかを占めるので、何にせよやはり温度は高く、そこで特に意識されるのは、編んでいるときは生産と消費が常にプラマイゼロだという強い感覚であって、要は毛糸を1メートル編めば毛糸1メートルが消費されるわけだが、一方で1段とか2段とか編み物が進むので、生産したことにもなってプラマイゼロとなり、そのことにはなぜか一種の安堵感があり、これは自分が何か作っているというより、何かを移動させているだけみたいな気がするので、こういうのを私がよくわかっていないエントロピーの法則にあてはめたらどうなるのか、わかっていないのだからわかるわけがないのだが、絵の具で絵を描いたり小麦粉・砂糖・卵・バターでケーキを焼くのと編み物が絶対に違っている点は、編み物の場合、右から左へ移動したものがほどけばまた左から右へ移動することで、いつでもほどけるんだからねというこの偉大な担保がなかったら多分、こんなに長いこと編み物なんかやってこなかっただろうなあ。融通無碍と徒労が紙一重のところでこんなに白熱しているのがきわどくてよいと思いながら編んできた。

 というのは、生産性なんか少しも上げたくないと私が思っているからで、人間がもっと効率がよく生産性だけが高い生物であったら、とっくに地球は滅びていると思うし、もっといえば生産することにも消費することにもためらいと後ろ暗さがあり、その点、生産すると同時に消費する編み物はどっちつかずともいえ、双方向ともいえるのがよく、何となく一種の緩衝地帯のような感じがして、そこで火がついたように編んでいるのは一瞬が永遠に間延びしたような幸福感もあったし、編んでいなくて白熱しないときにも足湯だけは使っているような気持ちで毛糸のそばにいたら、あっというまに時は過ぎ、いったいそれは何の緩衝地帯だったのか、何と何のせめぎ合いの中で成立した緩衝地帯だと思うのか、そろそろ結論を出せ、判断を示せ、(見切りをつけろ、)と言われているような還暦を迎えてしまった。

 手元に、祖母が編んだ、昔ふうにいえばトッパーコートのようなものが私の手元にあり、それは黒い中細毛糸のメリヤス編みだけで仕上げたもので、別に編んだ襟が千鳥かがりでつけてあり、全体に白い縁取りがあしらわれ、この縁取りをバランスよく編むのはとても難しかったと思うが、そんなの何でもありゃしないというように上手に仕上がっている、編み目もたいへんそろっていて、見るたびに、おばあちゃんきちんとした人だったもんなあと思うけれども、このコートに感じる熱中の質は私のとはかなり違っている、はずだ、だって祖母のころに服を手作りするのは絶対的な必要があったからで、それは母の時代にも引き継がれ、母は手編みと機械編みを両方やって膨大な衣類を作り上げていたが、それだってやはり大幅に必要があってのことで、だからだけではないだろうけど、安価なニットがいっぱい出てくるころには母は編み物はやめてしまった、手しごとはもはや趣味になり、母たちは趣味のために毛糸を買うなんて贅沢なことはしなかったのだ、私の代にはもちろん、自分で編まなかったら寒い日に着るものがないとか風邪をひくといったことなどあるわけがなく、むしろ、手編みのものなんぞ着ていたら暖房のききすぎた地下鉄の中で倒れそうになるほどで、しかし必要に迫られない編み物は合理性を欠くことも多く、お金がもったいない・時間がもったいないといわざるをえないものもずいぶん編んできてしまったよね、だから祖母・母への引け目もあるし、生産と消費のジレンマもいっそうのっぴきならなくて、手に余る。

 けれども、祖母も母も私のときにも変わらなかったはずなのは、編み物には常に目数と段数というものがあるということで、それは自分が常にx軸とy軸が交差した一点に立ってることを意識するのと同じで、また、マトリックスのどこかに存在する「今」を意識せざるをえないということで、そうであればこの人たちも白熱する時間の中で編みいそぎ、編みばしっていたときがあったと思う、夕鶴が機織りしている現場を与ひょうが見ないのと同じように、子供はそんな母親や祖母を目撃しないのだが、刻々と変わる目数段数に乗って小止みなく動きながら、生産と消費が打ち消しあってまたは乗り上げあって、あの人たちも火を吹いた一瞬があったと思う。

 糸と針と人がスパークしてね。

 編みながら、自分にも、びゅんびゅん音を立てて縒りがかかっていく。
 縒りが戻ってほぐれていって止まったところ。
 そこには、自分が行きたいときに行けるわけではないんだよな きっと。祖母も母もそうだったはず。

 どういう緩衝地帯だったかは容易にわかりそうになく、でも、目数段数のマトリックスに足を踏み入れると骨が鳴る。古い氷河期時代の骨で作った風鈴が鳴る。そこから見ると、祖母と母と私の違いは誤差で、そう思うと、羊や蚕のいる方向へ向けて、息ができる。

197 あなたの詩を評す(作品の書き方)

藤井貞和

彼女は世界の子どもをぜんぶ集めて、しかし一人だけ足りないと、
伝説の扉をぜんぶ開け放して、しかしひとつだけ開かなくて。

そのようにして、手つきのやさしい女性の正義で探し求めて、
そのようにして、彼女は地上を終わらせるみたいにして、その直前で。

彼女のからだはガラスをぜんぶ壊した球状で、しかし一箇所だけ、
心をのこしたので、そのようにして破片から、少しやり直して。

さらにはいろう、ぜんぶの森が終わるから。 しかしさいごの樹木が、
彼女をそっと包みいれて、そのようにして送るよ、のこりの香りで。

ひとつだけ足りない、世界の詩集のさいごを、あなたは書こうね。
神さまならば、そのようにして去っていっていいよ、さようならね。

ひとつだけ足りない、世界の歌集が集める誠意や情熱、
うたはそのようにして降りてくる、息がかかってくるのを待って。

詩集の題の究極のこちらがわ。 世界人類はぜんぶ平和で、しかし一部で、
平和が足りなくて、どんな作品がほしいの?

むこうがわの子は歩いてやってくる、扉に手をかけて、
むこうがわにいる声がして、しかしあなたは作品を手渡すことができないで。

作品を手渡すことができる。 かたちの成長にともなって、
それらはどこかにあって、しかし真上にひらいた天井のひっかききず。

音便を言文一致のすきまで叫ぶ。 字は叫ぶ、ひっ|かき|きず。
そのようにして発生する、まぎれるなまり、擬態語、無敬語地帯。

どこかで会うひとがぜんぶ平安でありますように。 しかしひとりの、
不安のためにあなたは書いてたね、今夜の反時計回り(不幸なあなた?)。

現代語は病気である。 ああ、そうじゃなかったのかい。
そのようにしてだれもが書けなくなってゆき、回復するすべはない?

死語からみると、あなたは可能性。 あなたのほかはぜんぶのぜんぶ狂歌です。
しかしながら、だじゃれは禁物。 不可能性の「ふせひめ」さん。

発見でん(八犬伝)とか言っちゃって、「きょうぼくだめかね」=京極為兼。
きょうのぼくはだめだから、あなたは「いい詩」を書きつづけてね。

(詩を書いたので読んでほしいと頼まれて。)

毎日の魚

イリナ・グリゴレ

マニ・コウル監督のUski Roti(私たちの毎日のパン)という映画を朝の4時に見た。1970年に撮影されたインドのニューウエーブ・シネマの名作である。最近、「時間」というものは「私」と関係なくどこか消えてしまうだけの繰り返しの中にある何か、もっと正しく言えば「ない」という感覚が強く、この映画もまさに私の感覚を正当化してしまった。このごろ朝4時か3時半に起きてシネマの名作を見る。今一番やりたいこと、高校生の時にやりたくてもできなかったことだ。朝4時に映画館が営業すればいいのに(今の映画館で見られる映画に興味ないけど)と思ったりしているが、結局のところスマートフォンの小さな画面で寝ている娘たちのつま先のそばで見ている。朝のこの時間、今の時期の青森県はまだ暗い。スマートフォンで見る映画の歴史に名を残す作品は、大スクリーンでの上映のために作られていたはずだが、今の世界ではこのような映画を大きなスクリーンで見られる場所はほとんどない。それでも、私は幸せ。ずっと見たかったから。こうやって暗く静かな「時間」の中、別の世界に入る。娘たちから隠れて、自分だけの時間を満喫する。映画をみて、論文を書いて、本を読む。この三つの行動はこれからも譲れない。

家族が起きだす時間が来ると、私はすでに一日が終わったように疲れている。罪悪感と戦いながらパジャマのままで簡単な朝ごはんを作り、牛乳を温めて、ピンク色に溢れる洋服に着替えさせ、娘たちの髪の毛にブラシを通し、ゴムを探して髪の毛をまとめる。髪の毛の時間だけすこし落ち着いて、その次は靴下を探す。現代の家族ではお揃いの靴下を見つけることがなかなか難しい。なぜかというと、私の精神状態を表すかのように、大人のも子供のもすべてバラバラになっているから。したがって、毎日家族全員は色が違う靴下を穿いている可能性は、毎朝朝日が昇るのと同じくらい高い。それでも楽しんでいる人がいる。次女はこれが当たり前だと思っているので、苦労してペアの靴下を大事にとっておいても、わざわざピンクと青にしたりして、色づかいのセンスはまるでデザイナーだ。二人の娘は毎日のファッションのこだわりが強い。色はピンクとキラキラ模様、それにふわふわスカートと、女の子らしいものがいいみたいだけど、3歳の次女は季節に関係なく着たいものを選ぶ。真冬に半袖とノースリーブを着ようとするので、10分以上交渉時間がかかる。ある朝、彼女はひとりで子供部屋のタンスに服を選びに行った。どかどかと階段から音が聞こえ、中履きの運動靴を右左あべこべに履いたまま、下半身はピンクのふわふわスカート、上半身は裸という新しいファッションを考えた。「着たいもの見つからなかった」と言いながら。皆を笑わせた。

着替えが終わった5歳の長女は、ゆっくり、ゆっくりテレビを見ながら朝ごはんを楽しんでいる。彼女も私に似ていて他の人の時間と違う時空間を生きている。「ゆっくり」と「早く」が真逆になっている。そして交渉が始まる。「いかない」と強く主張している娘たちに対して、私はおもちゃとスイーツを買う約束をしなくてはならない。靴の選び方にもこだわりがたくさんあって、毎日の気分に合わせている。次女は相変わらず右と左を履き間違え、そのまま平気で歩くので、私はむしろ感動する。でも彼女の才能はもっと深いのだ。天気予報が晴れでも彼女が執拗に雨靴を履こうとするとき、昼にはかならず天気が崩れて雨が降る。こういった感覚が大人になってからは失われたかのように皆は生きているが、最近やっとわかった。皆は隠しているだけ。私も母親になっても「しっかりしている大人」になかなかなれない。逆に、これから子供の感覚へ戻ってもいいのではないかと勝手に思う。

娘たちが遅れて出かけたあと、家の状態を観察し、限られた「時間」の中で優先順を頭で決める。原稿を書くことから始めると、お迎えの時間があっという間に来てしまう。休息の時に、洗面台の上をふきながら自分の姿を鏡でみる。髪の毛が癖毛で一本一本違う方へ向いて、目の下真っ黒、パジャマのままで色が白っぽい。現代のお母さんの像だ。これから着替えて化粧するなんて、時間の無駄だ。でもそれだけではない、自分の靴下も娘と同じように毎日左右が違っている。鮮やかな色の靴下が好みだったころから残っているもので、ネオンピンクとネオングリーンの組み合わせなど、毎日足元が賑やかだ。昼ご飯は食べる時間があまりないので、最近では茹で卵にはまっている。お腹がいっぱいになると気づいたから。それで足りないなら、卵かけごはんにする。スーパーに晩ご飯の新鮮な野菜とお魚、肉など買いにいくときは、パジャマの上に黒いコートを着て、違う色の靴下もブーツで隠す。こんな私、自分でも人間の範囲に入らないと思う時があるが、本当に世間の人たちは皆しっかりしているのかと疑い始めた。自分がこうなったのは本当の自分を受け止めたからだ。もう、無理しないと決めた。隠すのはもう嫌だ。今の自分がそのままの自分だ。

娘たちを迎えに行くときはさすがに黒いパンツに着替えて、部屋着のままの上半身はコートで隠し、軽く化粧して、少し芝居の準備をする。でもこれだけでも疲れて、家に帰ったらもう晩酌したくなる、まだ昼過ぎなのに。世間の人々は疲れないのか?と独り言を言い始める。それはそうだよね。大人とは、次女みたいにお風呂から出たばかりの裸のままで、台所に置いてある砂糖の入れ物に手をすっぽり入れて、口に砂糖を繰り返し運び、繰り返すうち小さな身体は砂糖だらけになって、子豚の砂糖漬丸焼きみたいになれない生き物だ。娘たちは大人と子供の違いが分かっていて、今のうちにいたずらをたくさんしておこうという哲学だろうが。子供は人間以外のものにもなれる。ある日、娘たちは子猫ごっこをしはじめたが、長女はそういう気分ではなかったようで、次女に「もう猫やめよう、猫じゃないもん、人間だ!」と言った。次女はその現実を受け入れるのは難しかったらしく、激しく泣き始めた。「人間嫌だ!人間は絶対嫌だ!こわーい!」と5分くらいの間さめざめと泣き続けていた。

私は毎晩のように海の夢を見る。ゴッホは海を描いていないが、ゴッホのように青い色の海を見たり、津波の来る夢を見たり、不思議な空間の中にいる。先日、長女の一つ年上の男の子の友達の家にいった。一緒に遊んだら娘は落ち着いて、純粋な愛、小さな愛の始まりを感じた。人間とはただお互いに愛されたいだけなのではないかと思った。なにか、大事なことを思い出したような気がした。神社の庭で遊んだいたら、キジのつがいも現れて、寒かった私は急に暖かくなった。男の子は誰かが捨てたカキの殻を見つけて長女に説明した「昔はここは海だった、そして今は人間が住んでいる、この貝はあの時からあるよ」。私は最近魚を毎日食べたくなる理由が分かった気がした。その日にたまたまスーパーで見つけた県産の小さめの天然真鯛を買わずにはいられなかった。鱗はキラキラしていて、娘たちの笑顔を思い出させた。あまりにも美しい鯛だったから幻かと思った。私を待っていたかのように、人間だらけのスーパーに置いてあった。自分でさばくから低価格で買って家に持って帰った。なぜか、魚を裁くことが大好きな私。この時間には自分は自分にうそをついていないし、すべて並行に並んでいる気がする。人生は間違っていないと思う時間になる。私もあの鯛のように鱗がキラキラして空間という海の中に泳いでいるのだ。私も鯛になっている。今日の靴下は緑と肌色だ。肌色は何色とでも合う。

映画Uski Rotiに登場するインドの村に住む女性は、毎朝のようにバスの運転手である夫にロティ(ナンに似ている)を届けるためにバスを待っている。夫は町に女ができていて一週間のうちに火曜日しか家に帰らない。彼女はコートを直したり、帰る時にやさしくマッサージしたりして、抗うこともなく毎朝パンを焼き、遠く離れているバス停まで歩いて行く。映画の一つ一つのシーンがとても美しく、インドの独得な時空間と景色、自然の一部としての人間の在り方が表現され、感動を与える。時間は彼女の内面的な時間に変わり、見る側には分からないことがたくさんあっても説明されないまま終わる。女性の人生とは何か、深く考えさせる映画であり、彼女の間違っていない生き方に共感できた。孤独を感じることは人間である限りだれでもできるが、この映画の通り、皆が自分の時空間を生きていることは確かなのだ。

 

3月の記念日におおさわぎのこどもたち

さとうまき

3月はいろいろな記念日が重なる。311は、東日本大震災から10年、315は、シリア内戦から10年、320はイラク戦争開戦から18年。3月は大忙しなのである。10周年というと区切りがいいが、イラクの18年は長すぎで中途半端だし、コロナだし。それでも、高遠菜穂子が、3日前に突然オンラインイベントをやろうと声をかけてくれた。リレートークで一人10分ずつ話す。

18年前は、僕は日本国際ボランティアセンターという団体に所属して、イラクに行き来していた。先日その団体は、長くかかわっていたイラク事業からの撤退を宣言して、現在はイラクを語る人はいなくなってしまった。原文次郎は私の後任だったが、彼も現在はイラクから離れ、日本で反貧困ネットワークで活躍している。私も自ら立ち上げた小児がん支援の団体を去り、いろいろ思い出もあるのだが、後任の池住義憲氏が今回話をされることになっていたのでがんの子どもたちの話はそちらに任せることにしたが、結局話をされたのは、自ら活躍された自衛隊イラク派兵違憲訴訟の話だった。改めて感じるのは、個人としてどうかかわったか。

僕がイラクにかかわって、こだわっていたことは、子どもたちとの出会いの中で描いてもらった絵だ。当時、出版社から谷川俊太郎の詩を絵本にしたいので、適当な絵を貸してほしいと相談された。違和感があった。谷川さんの詩とそれに合うような絵をきれいにくっつけて絵本にすること、それは何かこう、デモに出かけてピースと訴えること自体が目的になって満足している日本の大人たちを満足させるためのものなのだろうか? 手足がもぎ取られ死んでいく子どもたちのことを思えば、是が非でも戦争をとめなければいけなかったのに、そういう上から目線がいやだったから、谷川さんの詩を見せてもらって、なおさらいやになって、お断りをしたのを覚えている。「僕のやり方でやらせてほしい」。結局、2003年の7月にイラクに行って、子供たちに谷川さんの詩を読み聞かせて感じたことを絵にしてもらった。

僕が初めてイラクに行ったのは、バビロン音楽祭に参加するという名目だったので、その足で音楽学校を何度か訪れた。そこで出会った少女がスハッドちゃんで当時11歳だった。彼女が戦争前に描いてくれた、男の子が手を広げて女の子を守っている絵には、ハートマークとJAPANと書かれていて、日本に守ってほしいと訴えているようだった。僕は、その一部を使って「イラクを攻撃したら世界は平和になりますか?」と書き足してポスターを作った。気が付いたらいくつかの団体が印刷してくれて新聞の一面に、このポスターを持って戦争反対のデモに参加している人々の写真が載っていた。今回のトークイベントでは、ワールドピースNOWの高田健氏が当時の新聞を持ってこられてうれしくなった。

スハッドちゃんのお父さんは用務員として学校で働いていたので、一家は学校の建物で暮らしていた。ワークショップをやるときにはいつも兄弟で参加してくれた。絵本には収録されなかったが、マイケル・ジャクソンのWe are the world を一緒に歌ったときに描いた絵がある。地球を子どもたちが手をつないで取り囲んでいる。

人間の盾で参加した相沢恭行は、NGOを立ち上げて活動していたが、現在はミュージシャンに戻り、アラブ音楽とフォーク・ロックを取り混ぜたバンドChalChalを結成して活躍している。彼にCDのデザインをたのまれた。コンセプトは、「コロナ禍を中東と日本を結び音楽で元気にすること」。シリアの子どもたちの絵をたくさん入れ込んでみた。やっぱりイラクの子どもたちの絵も外せない。

スハッドちゃんに連絡を取って、もう一度この絵を使いたいという話をした。そうそう、ソーシャルディスタンス。マスクをつけなくちゃね。手をつないでいる子どもたちにマスクをつけることにした。改めて、子どもたちの絵を見直してみる。原画は手元にないが、データーをあちこち探していた。「この絵を使って!」「僕も!」「私も!」と訴えかけてくる。落書きですら騒ぎ出して大変なことになってしまった。

谷川さんの詩で作った絵本『お兄ちゃん、死んじゃった』の中の「こころを平和にする」では、人を憎んだり、差別したり、無理に言うことを聞かせようとしたり、自分の心に戦争につながるそういう気持ちがないかどうか。心の中で戦争をなくすことから始めようと訴えている。

この18年間、戦争はなくならないし、僕自身個人的に嫌なことがあって人を憎んだり、やられたらやり返したい、些細なことから、大きなことまでいろいろある。こころを平和にするのはたやすくはないけど、努力していかないとなあと。

 18年の歳月を経て、トークイベントはまさに同窓会のように盛り上がった。イベントが終わった後も朝の5時ごろまで皆で語っていた。

ChalChalはこちら

仲宗根浩

仕事から家にもどり、シャワーを浴びていると爪がぽろっととれた。やっと、とれた。去年の七月にちょっとしたことで右足の拇指の爪が剥離した。剥離であって完全に剥がれたのではない。爪の根本はつながっているいるのでとれていない。ぐらぐらの状態で爪はなんとかつながっているし、爪も伸びていた、というより新しく生えた爪が剥離した爪を少しづつ押し上げていたんだろう。爪の白い部分に沿って段差がつきもう少しで外れそうだったし、パカパカ動くし。

去年の十一月ごろだったか仕事中、カーゴのストッパーを足の拇指で押したとき爪になんか負荷がかかったような感じがして、その後に軽い痛み。右足をかばうように歩いていたがそれより負荷をかけてはやく爪が自然に取れるように、ふつうに歩くようにした。それでやっととれる。毎日、患部が炎症をおこさないように軟膏をつけガーゼで巻いていた生活が終わった。

そんな時期をおくりながら、今度は一本残っている親知らずが腫れる。六年ぶりに歯医者に行くとまあ面倒なことになり抜歯となるが、痛み止めや抗生物質を処方してもらい腫れがひき、レントゲン撮影をするとこの親知らずが見事にまっすぐ生えている、これはもったいないので温存しましょうとなった。腫れがまた起こるようであれば親知らずを覆っている部分を切開すると。親知らずはきれいに生えてなくてこぶみたいなものに覆われている、それが腫れの原因だと。とりあえず三十年ぶりの抜歯はまぬがれた。そのあと頭をちょいとぶつけて早乙女主水之介の向こう傷からだいぶずれたところに横型の傷ができる。加齢による身体の空間に対する認識の衰えか、こんなことがよく起こるこの頃。

感染者の数字はだんだんと増えていく。数字に翻弄されていく日がとうぶん続くのだろう。

水牛的読書日記(4)忘れられたものたち、忘れてはならないものたち

アサノタカオ

 曇り空の京都。久しぶりに訪ねた古本屋さんで、棚からさまざまな本を取り出しては指先でぱらぱらとページをめくり、棚にもどすことをくりかえしながら、書きあぐねている原稿のことを考えていた。あたえられたテーマは「人生で、はじめて出会った本」。親に読み書かせてもらった絵本のようなものではなく、子どもころ、かすかな自覚の芽生えの時期にみずから手に取り、読んだ思い出深い本、記憶をさかのぼってもっとも古い「読書」の体験を紹介する、ということらしい。

 何を書いても「聡明な少年時代」という偽の物語を捏造するようで気が進まない。小学生を卒業するまでは国語の教科書以外には漫画や図鑑を読むだけ、というそれほど珍しくない経験があるだけで、どれだけ記憶のなかを探しても、「海外の児童文学を読むのが趣味でした」といった気の利いた話はみつからない。それ以上に、「そんなものはない」という答え以外思い浮かばないのだ。

 そんなものはない、のではないだろうか。頭で読むよりも早く、手が本に触れていた。自分の幼年期は、読書家の祖父が身近にいたために、比較的恵まれた蔵書環境にあったとは言える。函やカバーを外して転がしたり、匂いを嗅いだり舐めたり、落書きをしたり紙を破ったりした数多の書物との愛着の時間を経て、あるとき、肌身離さず持ち歩くお気に入りのおもちゃやぬいぐるみのように、製本がくたびれて表紙の色あせた一冊の本のページに手ひらをおき、文字や絵や写真を指でなぞりはじめる。やがてお話を読み上げる声が、自分の内へ消える。しずけさのなかで、「ここではないどこかの世界」が魔法のように不意に目の前に現れ、幼い自分は興奮し、おののいたことだろう。

 それはたぶん一回や二回のことではなかった。記憶の深いところには、はっきりした「読書」以前に、本と関係を結んできたそれなりに長い時間が落ち葉のように堆積している。いまも自分の指先には、子ども時代、家にあった「もの」としての本を介して「ここではないどこかの世界」に遭遇したときに刻まれた、疼きのようなかすかな感触が残っている。しかしこの「未知との遭遇」は名前の手前、物語の手前、言語の手前でおこった出来事だから、「人生で、はじめて出会った本」を同定することはおそらくできない。それはまるで蜃気楼のようにゆらめく本以前の「非在の本」で、だからタイトルや著者が判明したところで意味がないとも思う。

 記憶の領土の立ち入ることのできない、鍵のかけられた門の向こう側に隠れてしまった本。それゆえに、永遠にあこがれの感情を呼び起こす本。僕が何十年もあきもせず本を読み続けているのは、自覚と無自覚の境界線上で、決定的なかたちで生き別れた一冊の本との、ありえない再会を願っているからではないだろうか。

 思想家のヴァルター・ベンヤミンは、読書論と関わりのある「字習い積み木箱」というエッセイで、こんなことを書いている。「いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない。……私は、かつてどんな風に歩行を覚えたかを夢想することはできる。だがそれは何の役にも立たないのだ。私はいま歩くことができるが、それを覚えることはもはや叶わないのである」

 僕はいま本を読むことができる。いくらでもできる。でも、いったん忘れ去ってしまったあの「はじめての本」との出会いを、言葉によって取り戻すことはたぶんできない。ふるえる指先で「読む」ことを覚えたあのはじまりの日のように、はじめての本をはじめて読むことは、もう二度と叶わないのだから。

 ***

「いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない」というベンヤミンのことばから、韓国の作家、ファン・ジョンウンの『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)のことを連想した。所収の「d」を何度も読み返し、この小説についてずっと考え続けている。ここ数年のあいだに読んだ韓国文学のなかで、もっとも心揺さぶられた作品のひとつ。人間にとっての「喪失」の意味を深く問いかける小説だ。

「d」の舞台は、2014年のセウォル号沈没事件から一年後、新自由主義的な政治経済に支配された社会の矛盾が噴き出し、地揺れするソウルの街の一角。主人公のdは病弱そうな青年で、あごに大きな傷があり、半地下のアパートに暮らしている。「もの」に触れることを避け、人と交わることを避けている。

 それは、幼馴染であり愛する人であるddを無残なバス事故で失ったから。同居するddが部屋に残したタオルやカレンダーや食卓の「ぬくみ」は、かえってddの非在を際立たせることでdを苦しめ、かれは外出もせず、電話で誰かと話すこともなく、「もの」たちとともに引きこもっている。

 この小説は、(おそらく)小学生時代のdとddとの出会いめぐる印象深いエピソードからはじまる。終業後の教室で、dは稲妻が窓を越えて走るのを見た。教室の床の焼け焦げた跡をのぞき込んでいると、ドアに前にddが立っていた。

「見てみ。/dは床を指差してみせた。/雷が落ちたんだ。ちょっと前に。/dが先に指でその跡を触ってみて、ddも触ってみた。/ここだけ熱い。/すごい。/dとddは頭が触れるほどくっついてしゃがんでいたが、焼け焦げの跡にもう一回ずつ触ってから立ち上がった」

 翻訳者の斎藤真理子さんは「この小説は熱で始まって熱で終わる」と鋭く指摘しているが、付け加えれば「熱に触れる手で始まって、熱に触れる手で終わる」とも言えるだろう。あるいは、触れる手と拒絶する手、手と手のあいだの痛ましい相克の物語というふうにも言えるだろうか。

 ddはdにとって「言葉」であり、「身体」だった。差し伸べる指の先にあるべき存在が永遠に失われてしまったとき、愛する人との触れ合いの記憶すら耐え難い何かに変わる。だからdはふたりの思い出の品である「もの」を捨てはじめる。ddの非在とともにあるために、dはみずから「空白」になることを選んだ、ということだろうか。何も記憶に残さない生、死と変わりない生、未来の訪れない「停止した今」を生きている、とかれは言う。

 そんなdを外の世界へ連れ出したのは「声」だった(これも斎藤さんの指摘)。

 半地下のアパートの庭で、朝鮮戦争時代の記憶などを問わず語りに語る大家の老婆、そして世運商街という衰退しつつある電気街でオーディオ修理店を営むヨ・ソニョ。商街で宅配業者の集荷の仕事をはじめたd(かれは常に両手に軍手をはめている)に、60代後半と思われる初老の技術者であるヨ・ソニョが偶然呼びかけるところから、物語の時間が再び動き出す。

 そして「音楽」。
 ヨ・ソニョが用意した真空管アンプのオーディオにdは執着し、ddの実家から取り戻したddのレコードをターンテーブルにのせ、耳をすませる。かつて同じ空間で音の海にひたり、ふたりで同じ音楽に耳を震わせ、からだを震わせた体験をくりかえし想起することで、何かを取り戻したいと必死に祈り続けるように。dは幼い頃から音に敏感だった。

 何かを取り戻したい——。
 dのまわりにいる人たち、たとえば父、「父の妻」と独特な距離感をもって語られる母、ddの家族、大家の老婆、世運商街の住民たちは一様に、華々しく喧騒にみちた社会の日の当たる場所からはじき出され、それぞれに生きづらさを抱え、取り戻すべき何かをあらかじめ奪われているような人たちだった。「僕もddもそして、あなたも。僕らがあまりに取るに足らなくて、一度の衝撃によって、投げ出されてしまう」

 セウォル号沈没事件の犠牲者を追悼し、時の政権の退陣を要求するデモの群衆と警察が対峙する夜のソウルで、dが友人のパク・チョベとさまようシーンも印象深い。声を上げる群衆が立ち去り、警察車両の壁にはさまれて空っぽになった世宗大路の交差点という「空間」に、dはおそらく自分の抱える空白と同じような空白を発見する。目撃されることなく、公的に追悼されることのない死のための空白。「取るに足らない」存在、「滓(かす)のような」存在、そして口をつぐむかれらの沈黙だけが立ち入り、通過することのできる空白。

 物語の最後、「突然流れが消えたあの空間」について考えながら、dはオーディオの電源を入れ、光の灯る真空管にふいに素手を差し伸べ、ガラスを握りしめる。

「疼きが走った。dは驚いて真空管を眺めた。もう手を引っ込めたのに、その薄くて熱いガラスの膜が手に貼りついているようだった。疼痛が皮膚を貫いて食い込んだ棘のように執拗に残っていた」

 読むものの感情のもっとも奥深いところに訴える、ファン・ジョンウン文学の真骨頂とも言える繊細で切実な描写だと思う。

 疼いてもいい、痛くてもいい。共に触れた記憶、共に触れ合った記憶、共に音に震えた記憶を確かめたい、何度でも。ある日突然、不条理のかたちでかけがえのない命を奪われ、にもかかわらず社会の中からあまりにもたやすく忘れ去られてしまう存在。ddを、ddの生の意味を、ddと共にあったみずからの生の意味を取り戻したいと希求しながら、それが叶えられることのない願いであることに絶望するdの悲しみは終わらない。

 しかしその悲しみの内には、個体発生が系統発生をくりかえすように、歴史のなかで語られることのなかった「取るに足らない」存在たちの、集団的な声なき声がしずかに合流し増幅しはじめている、と言えないだろうか。真空管のなかの電気のように。音楽にうながされるようにして再び「もの」に触れ、熱い痛みを感じるdの手、その「たしかさ」から開かれる世界がある。

 個人の感情を超える何か。小説の物語と緻密で複雑な文体を通じて、ほかならぬdの人生の悲しみ、痛みを辿りながら、前進して止まることを知らない時間を生きるために人間が別れなければならず、捨てなければならず、忘れなければならなかったものたちが、瓦礫の山となって積み上げられている荒地の風景を目撃したような気がした。刹那の想像に過ぎないが、こうしたことは、文学でしか味わうことができない体験だ。

 dの友人のパク・チョベが書いた本のタイトルは『Revolution』で、「革命」がこの小説のキーワードでもあった。警察車両の壁にはさまれて空っぽになった世宗大路の交差点を眺めながら、「革命はもう到来していた、これがそれじゃないか」「革命をほぼ不可能にさせる革命」と直感する主人公のdにとって、それは政治体制の打倒といったような一般的な意味での革命ではない。Re(再び)+volution(回る)、忘れられたものたちの回帰、忘れてはならないものたちのいまここへの回帰を暗示するものだろう。

「名前知ってます?……わかるんですか、僕の名前が……」。dとdd、忘れられたものたちは固有の名前を記憶されないものたちでもあるのだろう。しかしその名を知らずとも呼びかけることで、そして「ぬくみ」ある手を差し伸べることでdを支えたのが、大家の老婆やヨ・ソニョら、長い人生の時間を生きぬいてきた老い人たちであったことも思い起こしたい。そこに、読者に託されたこの小説の痛切な祈りがあると僕は思う。

 ***

 京都の古本屋さんというのは、KARAIMO BOOKSのこと。お店を営む旧知のJさんは棚を眺める僕に、「開店以来、これまでにないぐらい女性史やフェミニズムの本が売れているんです。とくに若い人たちに」とうれしそうに語り、チリのフォルクローレ歌手、ビオレータ・パラのアルバムCDをプレイヤーに滑り込ませた。「人生よありがとう/こんなにたくさん私にくれて/……私の歌は同時にあなた方の歌/私個人の歌であるとともにみんなの歌/人生よありがとう」(濱田滋郎訳)

 書きあぐねている原稿のことはいったん忘れよう、と心に決めて棚から抜き出した森崎和江さんの『闘いとエロス』と詩集を数冊抱え、新刊コーナーの平台に目を落とすと、『ディディの傘』があった。赤と紫のカバーにそっと手を触れると、「ほんとうにすばらしい小説ですよね」とこんどはレジの向こうのNさんが声をかけてくる。「dは自分だ」と言い切ってしまいたいぐらいの強い思い入れと共に読んだ『ディディの傘』について、Nさんとじっくり話し合いたいと思ったが、雨が降りはじめ、トタン屋根を打つ音が少しずつ店内をみたし、おのずと会話は中断された。

 やがて雨脚はさらに強くなり、ビオレータの美しく芯の通った歌声もかきけされ、僕らは本をあいだに挟んでただ押し黙っている。火照った自分の額もゆっくりと冷やされていく。ひとりひとりの内に決して思い出せない本があるように、人と人とのあいだには、語ることができない本があるのだろうか。そういうのも悪くない、と思って、再び書棚にむきあうしずかな午後のひととき。

仙台ネイティブのつぶやき(60)ごちゃまぜの3月

西大立目祥子

 自治体の仕事をしていた時期がけっこう長かったので、年度の終わりの3月はなんとも気ぜわしい気分で過ごしてきた。何といっても、締め切りがあるから。
 それでも日差しが明るくなり梅の花もほころんで、仕事の合間に文具店に行くと束のノートが平積みになっていたりして、もう新学期とは縁がなくなっても新しい生活が始まる期待感をおすそ分けされたような気分になる3月は、けっこう好きだった。10年前までは。

 あの大震災があってから、3月は柔らかい日差しを楽しむ月ではなくなった。お盆の最中に終戦記念日がくるように、春彼岸の前にはおびただしい人の死やさらわれてしまった海辺の風景をいやがおうにも思い出す時間がくる。よく話す機会があった仙台市の職員のSさんは、住民の避難誘導のため海辺の集落に車を走らせ津波で命を落とした。3日前の3月8日に会って、中旬に合う約束をしていたのだった。生きていたら、と自分とそう歳の違わなかった彼の年齢を数える。

 今年は10年という節目であることもあって、もう2月から地元新聞社は特集を組み、テレビでも何本ものドキュメンタリーを放映した。いま、私は津波の映像が流れると苦しくてつい目をそらしてしまう。黒い水の中に飲み込まれている人が思い浮かんで苦しくなる。
 夕飯のあとテレビをつけたらNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組で、震災の後、被災地を訪問した回の再放送をやっていて、九死に一生を得た人から根堀葉掘り、どう逃げ延びたかを聞き出すのを見て、腹立たしくなってしまった。答える方もだんだん辛くなって涙ぐんでしまう。でも、震災直後は私も津波の映像を案外と平気で見ていたのだ。あれは何だったのだろう。異常事態に放り込まれて、興奮状態にあったのか。過酷なものばかり見ていると、それが普通になってしまうのかもしれない。

 被災地の近くにいながらボランティアにも行かなかったし、仕事で5年ほど取材に通った以外は、みずから進んで被災地に足を運ばないできた。出かけるとあまりに変わり果てた風景に呆然として、とても抱えきれないほどの荷物を背負わされた気分になってしまうのだ。かさ上げされた土地の底の方に残された震災遺構やどこまでも続く防潮堤を見ると、これは誰が望んでいた復興だったのか、と思わずにはいられない。

 3月11日が過ぎれば報道はぱったりと減って、何事もなかったように日が過ぎる。そうこうするうち春彼岸。寺町近くに住んでいるので、あたりにはどことなく線香の匂いが立ち込め、仏花を抱えた人と行き交う。歩いて10分ほどの祖父母と父の眠る墓にお参りを済ませ安堵した夕刻、ぐらりと2度目の地震がきた。

 1度目は2月13日の夜11時過ぎ。このときは東日本大震災を思わせるような揺れで、震源は福島県沖、宮城県は震度5強。本棚の本が崩れ落ち、ランプシェードが揺れてはずれ金魚の水槽を直撃したらしく、金魚が飛び出て床は水びたし。ほうきで水をかき出し、雑巾がけをすませたら深夜になってしまった。翌日、濡れた本を選り分け本棚に戻した。友人たちも、倒れた本棚の復旧に2日かかったといっていた。この揺れは10年前の震災の地震の余震というのだから、まったく気が抜けない。

 それからひと月後の地震。宮城県はまたも震度5強。震源地は宮城県沖で牡鹿半島の目と鼻の先。これも10年前の余震だという。津波注意報も出たので、気仙沼の友人たちのことを思った。震災からの復興といってもまったく完了してはないし、いまだ避難先にいる人もいる。その落ち着かない生活に揺れはどこまでもつきまとう。プレートとプレートの重なる実にあやういところに張り付いて、私たちは暮らしている。何かが起こればたちまちに崩れてしまうようなぎりぎりのバランスを保って。

 今度の地震は前ほど被害はなかったよ、などと話していたら、宮城県のコロナ感染者数が深刻な状況となってきた。10万人あたりは全国ワーストワン。仙台市に限ると、東京の3倍にもなるという。この原稿を書いている3月31日の夕刻、宮城県の感染者が過去最高の200人になったと速報が出た。宮城県の人口は230万人。東京都は1390万人。ざっと東京が6倍だと考えると、これが東京だったら感染者は1200人を超えたことになる。

 なぜ急速にこれだけ増えたんだろうか。飲食店への時短要請の解除、go to eatのチケット販売再開に加えて、2月13日の地震や3月11日の震災10年を上げる人もいる。2月の地震では東北新幹線が10日ほど止まり首都圏との行き来はバスになった。震災10年で被災地を訪ねようと仙台に降り立ち、ここから三陸に向かった人も大勢いたことだろう。首都圏と行き来する受験生も多い。とにかく人がシャッフルされると感染者が増えるのは間違いない。

 先週、感染者が急増してから、仙台市は仙台市の施設をほぼ全館クローズした。図書館も行けないし、ミーティングのための会議室の予約も5月末までできなくなった。会議もまち歩きも中止。1年前の緊急事態ほどではないけれど、突然生まれた空白の時間に宙ぶらりんな日が過ぎる。

 毎年、桜が開き始めるこの季節は、季節の移り変わりに体がついていけず、花粉症もあってか何ともしまらない精神状態になる。先月、 八巻美恵さんがブログに書いていたけれど、ぼんやりとして、仙台弁でいうところの、これぞ「かばねやみ」そのものだ。桜の満開にも焦点が合わない感じでいるうち毎年、桜はあっという間に散ってしまうのだが、今年の仙台は観測史上最も早く、何と今日、満開になった。梅と桜がいっしょに開いている。

 仙台の桜は、たいてい4月1週目くらいに開花して、10日頃に満開を迎えるものなのだ。3月中に満開なんてありえないよなぁと思っていたら、ブレーカーが落ちた。電力会社を呼んだら漏電が発覚し、明日は漏電箇所を調べに電気屋がくる。

 庭では10日ほど前に冬眠から覚めたカエルがゲコゲコ鳴いている。数年前になぜか2匹のカエルが死んでしまい、こいつはたぶんあぶれオスだ。友だちがいないのは気の毒だなあ。窓の外を三毛猫が通り過ぎて行くというのに、うちの猫どもは窓際で眠りこけている。
 ごちゃまぜの3月が終わった。4月はどうなることやら。

新・エリック・サティ作品集ができるまで(2)

服部玲治

初めてお会いし、打ち合わせをしたのは、夏のさかりの8月だった。
どんな場所でお会いするのが適当なのか。チェーン型大型資本系の喫茶店は、悠治さんとの邂逅にそぐわない、それどころか、そんなお店を提案した日には、怒って来なくなってしまうのではないか。メールでのやりとりばかりだから、わたしの中の悠治さんのイメージは日々増幅し、霞をはみ、世俗をさける仙人の様相を呈していた。
「渋谷は混んでいるので避けてほしい、会社の近くでも」。
日時の指定とともに、これまで通り、無駄なく要件のみのメール。そうか、渋谷、やはり。かといって、社のある虎ノ門界隈も、オフィスワーカー向けのざっかけないチェーン店ばかりだ。ウェブでくまなく検索をかけ、「本とクラシックに囲まれて」「小さな隠れ家」などのレビューが寄せられた、漱石の作品名が冠された喫茶店を、まだ行ったこともないのに、悠治さんとの出会いにふさわしいと断定。
「ではそれで」。
仙人からのたった五文字の電子返信、ぞくぞくしたのを、いまもおぼえている。
 
約束の時間の間際、店に入ると、お客さんはひとり。16時からの打合せを15時からと勘違いし、本を読んで待っていた悠治さんだった。1時間もお待たせしてしまったのか。身にのこった外気の熱と、緊張と、かたじけなさと。途端に額から汗が流れ落ちてやまない。
バロックの流れる店内は、喧噪の街中と隔絶した静謐な空間で、悠治さんとの邂逅にまことにふさわしいものの、初めて対面するぎこちなさを覆い隠すよすががみつからない。呼吸を整える間もなく、沈黙を埋めるように、やおら企画の話を向けた。

この初めての打合せが決まってから、わたしは悠治さんとコロムビアで、継続的なプロジェクトを企画したいと夢想していた。パソコンのフォルダの片隅には、その時に悠治さんに提示した提案書が残っている。2016年8月3日の日付、「コロムビア×高橋悠治プロジェクトのご提案」。
1枚目のサティを皮切りに、6種類のアルバムの提案がここには記されている。2枚目はバッハ。3枚目、ドビュッシーとラヴェルにメシアン。4枚目はショスタコーヴィチとヴィシュネグラツスキ(はたして、どうやって微分音ピアノを入手しようと思っていたのだろうか)。5枚目にはベルクとともにウルマン、シュールホフなど退廃音楽作曲家の作品集、そして最後にバルトーク。
バッハを除けば、20世紀前半に活躍した作曲家を中心に構成したシリーズで、これまでの悠治さんのアルバム・ラインナップとは色あいの異なるコンセプトで展開できないか。サティはともかく、他に名をあげた作曲家は、はたして悠治さんがいま、好きな作曲家なのか、そもそも演奏したことがあるものなのか、用心深く調べることもなく、自分の嗜好のままに編んだアイデアだった。それを悠治さんにいきおい提示してしまったのは、いま思えば、ひどく思慮に欠けた行いだったのかもしれない。

このとき、どんなやりとりがなされたのか。緊張ゆえか、あまり覚えていない。ただ明らかだったのは、
「先のことはともかく、まずはサティの話を」。
わたしの夢見るシリーズコンセプトは、いったん棚上げになった。

ノマドランド

若松恵子

映画「ノマドランド」は、ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞し、今年度のアカデミー賞6部門にノミネートされている話題作だ。キャンピングカーで生活しながら季節労働の現場を渡り歩く現代のノマド=遊牧民を描いた物語だ。ジェシカ・ブルーダーが2017年に発表したルポルタージュ『ノマド 漂流する高齢労働者たち』を原作にしているとの記事を読み、ロードショウ公開されたばかりの日曜日に見に行った。

主人公ファーンを演じるのは『ファーゴ』、『スリー・ビルボード』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したフランシス・マクド―マンド。原作に共感した彼女は、この映画の制作者としても関わっている。実際にキャンピングカー生活をしている人々のなかに入っていって撮影し、印象的な脇役であるリンダ・メイやスワンキーは実在の人物だという。

冒頭、原野で用を足し、ズボンをあげて小走りに車に戻るシーンがある。誰も見ていないのに、身体から恥ずかしさが滲み出ていてかわいい。マクド―マンド、うまい!という感じだが、キャンピングカー生活では排泄が大問題なのだ。ノマド生活のリアリズムを感じるシーンだった。

ファーンは夫を亡くし、思い出の品をキャンピングカーに詰め込んで出発する。夫が務めていた企業がつぶれて社宅も閉鎖され、その企業城下町ごと消えてしまったからだ。ファーンがキャンピングカーで移動していくのはアメリカの西部。まだまだ手付かずのままの広大な自然を背景にした車上生活は、西部開拓時代を彷彿とさせる。一方、彼女が季節労働者として働くのがアマゾンの配送センターであるというのは、苦い現実だ。

企業の倒産によって住む家を失ったのだけれど、彼女の悲しみの中心にあるのは経済問題だけではないのだという事が段々わかってくる。夫という唯一の理解者を失ったことで、彼女は居場所(家)を失ってしまったのだということ、そのことが大きな悲しみであることが分かってくる。

車の修理代を借りるために、久しぶりに姉の家を訪ねるシーンがある。「あなたは昔から変わり者だった。家を飛び出して、そしてボー(ファーンの夫)と暮らすようになって」と姉が述懐するシーンからは、理解し合う事が難しい姉妹の間柄と、変わり者だと家族から疎まれていたファーンの唯一の理解者が夫だったのだということが想像される。もう、どこに住んだって、理解者を失った寄る辺の無さは同じなのだろう。

姉の夫は不動産業だ。同僚を招いたバーベキューで、「ローンを組めない人たちに無理やり家を売りつけて」と非難めいた事を言って場を白けさせてしまうファーンは、姉家族と一緒に住むことなどできないのだ。

珍しくスカートを履いて姉の家を訪問するファーンが、帰りにはいつものジーンズにパーカー姿になっているのを見ると、自分のことのようで身につまされる。

末期がんを患っているスワンキーは、かつて見たアラスカの美しい風景をもう一度見たくて旅をしている。ある日、ファーンのスマートフォンに、スワンキーが語っていた美しい風景の動画が届く。何の言葉も添えられていないけれど、ついに到着したのだというメッセージが、ファーンの胸を打つ。

生活を成り立たせるために、ファーンのノマド生活は続く。唯一の理解者を失った悲しみは癒えない。代わりの人など見つからないことは分かっているからだ。しかし、広大な自然の中を自由に移動して暮らす素晴らしさというものが、ほんとうにかすかに、小さな希望として見えるところで物語は終わる。

それは、ノマドの先輩であったスワンキーが教えてくれたことかもしれない。かつての家の裏庭からは、何にも遮られない広大な砂漠とはるか遠くに連なる山々が見えていた。夫と暮らしていた頃には背景に過ぎなかった広大な砂漠の中に、思いがけずも分け入っていく事になったファーン。そこに人生のおもしろさも感じさせる物語であった。

製本かい摘みましては(161)

四釜裕子

スピカさんに花マルをもらった。いつも担当してくれる歯科衛生士さんで、本名かどうか知らないけど似合う名前だなあと思っている。この人のおかげで年に一度の検診も億劫ではなくなったし、フロスも使えるようになった。定期検診はいつも3月中旬、去年はコロナでその後のクリーニングは行かずじまいになった。今年もその時期だけど手書きの案内はがきがこないのはなぜだろう。
検査が終わると、スピカさんは2色ペンをカチカチいわせて使い分けて、結果と注意などを話しながら歯周検査表の余白にいろんなことを書き込んでくれる。二重線とか星マークとか、「歯がとけてくる」とか「毎日!」とか「2cm」とか。それで去年はついに花マルをもらった。オイオイという感じはしたけど、うれしかったというか、スピカさんはすてきだ。

山本貴光さんは『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社 2020)の中で、本以外の余白への書き込みについても書いている。楽譜があったけど、さすがに歯周検査表はなかったな。歯周検査表なんて公的な書類じゃないし持ち帰って見直したところでそれほどどうってことないのに、こうしてすきまに自在に書き込まれた文言とか花マルがあるから今も捨てられずにいる。お守りとかおまじないみたいなものか。マルジナリアのオマジナイ。

『マルジナリアでつかまえて』で取り上げられている多くは、自著であれ他の誰かの本であれ自分があとで読むことになる書き込みだ。それとは別に作家と編集者が交わす校正ゲラの例もあって、山本さんはこれを〈他人によるマルジナリアとの対話〉と書いていた。読んで、吉村昭さんのエッセーの、あれはどうだったかなと思った。お若いころに刑務所内の印刷所とのやりとりで原稿以外の文字をみつけたという話、あれは「余白」にあったのだったかどうか――。

「刑務所通い」という一編だった。吉村さんは大学の文学部で「赤絵」という雑誌を編集していて、資金集めのために落語会を開いたりもしたが、印刷費削減のために刑務所の中の印刷所にお願いしたという。60ページで12000円、市価の6割だったと思う、と書いてある。初校ゲラまで1か月、再校ゲラまで1か月、刷り上がりまでさらに1か月もかかったが安さにはかえられず、2年ほど小菅に通ったそうである。原稿はところどころ〈巧みに直され、誤字は一字残らず訂正されているのが常であった〉。そのうち〈奇妙な親密感めいたものが生まれてきて〉、〈かれらは朱を入れた私たちの文字に外界の空気を吸い込んでいるように感じているようだった〉。

それがある日、原稿にない文字が入ってきたという。〈或る時、ゲラに朱を入れていた私は、その最後の部分に妙な一節が加えられているのに目を据えた。/そこには、「雨、雨に濡れて歩きたい」という活字が、ひっそりと並んでいた。それは、あきらかに囚人がつけ加えたもので、その活字を消すことは、私にとって苦痛だったが、やはり、私には自分の作品が大事だ。/私は、複雑な気分で、赤い線を一本遠慮しながら引いた。〉

「雨、雨に濡れて歩きたい」と活字を拾ったその人に、新國誠一さんの「雨」を差し入れしてみたかったと思った。

ところでこれは「書き込み」と呼べるのかどうか。最初に「刑務所通い」を読んだ記憶では欄外の余白に付け足されていたように思っていたが、今回改めて読んでみたら、吉村さんの原稿の最後に改行して入れられたように思える。欄外じゃないし、なにより手書きじゃないので、マルジナリアの仲間ではないのかな。
でも「余白」に記されるマルジナリアは「メイン」を持つことが条件で、それは満たしていると言えるだろう。それに、欄外である必要はなさそうだ。「雨、雨に濡れて歩きたい」その人は、わかるひとだけにわかるしかたで精神の脱獄を図る方法があることに気がついて、〈他人によるマルジナリアとの対話〉にかけたみたいだ。拾った活字が印刷されることはなかったけれど、ささやかな対話はここにまた再開された。姿を消したマルジナリア。書いた人も受け取った人もみな消えて。

実際自分はどうかというと、ふだん本を読むのに書き込むことはほとんどない。試しに『マルジナリアでつかまえて』を鉛筆片手にマルジナリアン気取りで読んでみたけど無理だった。でもそれで思い出した。古い広辞苑をバラして紙を加えて製本しなおして遊んでいたことがある。ま行をとじた「ま行本」が棚の奥にまだあった。「マヴォ」「マカヴェイエフ」「まはりくまはりたやんばらやんやんやん」「まじ?」……、あるある、マルジナリア。ない項目を書き足すみたいなことをやっていたのだったか。他の人の筆跡もあるのはなぜだ……。「きょうはま行の日」とかいって「ま行本」を持ち出して「ま」で始まることばを探して書き込むみたいなこともやっていた気がする。せっかくだから、「マージン」のところに吹き出しで「マルジナリア」をマルジナリアして本を閉じよう。

はざーどまっぷ

北村周一

しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
かすかにうみの においがする
ぎんざどおりの かたすみに
そのかみきれは おちていて
はらりはらりと はるかぜの
ふくにまかせて みちのはた
みぎにひだりに つつましく
ゆれていたっけ 
まどいつつ
ひろいあげれば からふるな
ちずのもようは いちまいの
おりたたみしき あんないの
いわばはざーど まっぷにて
たたんでみたり ひらいたり
まわりみわたし あたらしい
もちぬしとなる ことにした
そのないようを よみながら
しればしったで なおさらに
ふあんばかりが ましてゆく
どこへいこうか
しずみそうな
しみずのまちの かわべりの
あーけーどがいの なかほどの
よつじのかどの ふるぼけた
はなやのまえの みちばたで
はざーどまっぷを てにひろげ
ちずのなかへと まよいこむ
しらずしらずに ときがたち
ぎんざどおりの いっかくも 
ひとのざわめき とりもどし
みればいつしか ひのまるを 
てにてにもって えんどうに
ひとがきできて たのしそう
とおいせかいの できごとの
ようにうそぶく ひともいて
きせつはずれの かぜがふく 
それでもくろい ふゆがすぎ 
ふたたびみたび あおあおと
はるがおとずれ すぎさりし 
ときのふかさを おもいだす
どこへいこうか
しずみそうな
しみずのまちの かすかにも
うみのにおいが みちてくる
くらいとおりは けだるくも
みのおきばなき あのはるの
うれいはいまも わすれない
どこへいこうか
あおいとり
ぶるーばーどは こしょうがちで
すけっちぶっくを ともとして
ふうけいかいても ものうくて
じがぞうだけが たよりだった
どこへいこうか
しずみそうな
しみずのまちの あたたかな
うみのにおいに みたされた
まちのしずけさ おもいだし
うとうざかから まんかいの
ふなこしづつみ めぐりゆく     
はなのきのした わらいつつ 
さくらのみちを みんなして
あるいたことも わすれない
どこにいたって むねのおくに
ひろがっている そのことを
わすれずにいよう
しずみそうな
しみずのまちの あたたかな
うみのにおいに みたされた
あのはるのひの しずかなことも 


こんさーとの続篇でもあります

むもーままめ(5)

工藤あかね

 まだコロナ禍が世界を襲う前のある日、銀座の雑踏の中で私は途方に暮れていた。次の予定まで時間が中途半端に空いてしまって、ちょっとお茶でもしようかと思ったが、どこもいっぱいで入れない。道端でぼうっとしていたら中年の女性に声をかけられた。

「お時間おありでしたら、ご協力くださいませんか。アイスクリームのお味を見ていただく調査です。だいたい20分くらいですが、どうでしょう。ご協力の御礼にアイスクリームの商品券も差し上げます。」

 20分ならちょうどいいし、アイスクリームを食べる調査だなんてラッキー!しかも商品券までもらえる。私は二つ返事で、その女性にホイホイとついていった。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 雑居ビルをエレベーターであがり、通された場所は大きな会議室だった。なぜか、このような調査にありがちな個別の仕切りがなく、100人くらいの老若男女が長机の前に座っていた。一見したところ、誰もがちょっと戸惑った様子で、居心地悪そうに座っているのがわかった。

 これはいけない。失敗したかも…。雰囲気から察するに新興宗教団体か、ネズミ講への勧誘か。早く逃げた方がいい。あわてて出入り口を目視して立ち上がった瞬間、高圧的な音ともに扉が閉まった。

 ああ…これは詰んじゃったかな…。もっと早い時点で異変に気づくべきだったのに。アイスなんかにつられた私がバカだった…。

 そこへスーツ姿の男がつかつかと寄ってきて、作り笑いをしながら言う。「ど~うっぞぉ!おかけください。」

 薄気味悪いことこの上ない。しかもなんとなく逆らえない空気があったので、とりあえず従順なふりをして座った。けれど頭のなかは脱出計画のことでいっぱいだ。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 突然、怪しげな音楽が大音量で流れ始めた。素人が安いシンセサイザーで作ったような音響だった。これは完全に新興宗教だ。洗脳されないためにはどうしたら良いだろうか。あまりに逆らおうとするとかえって飲み込まれるかもしれない。私は適当に流す感じで聴こうと、努力した。

 続いてアナウンスが流れる。
「そろそろ星に帰る時が近づきました。みなさま心の準備をしてまいりましょう…。謹んでお知らせ申し上げます。あなた方は……タブラ星人です。」

 え、私、地球の人じゃなかったの!? これが本当なら、新興宗教よりもよっぽど深刻な事態では…。

 集められた人めいめいに、なぜかタライが手渡された。みんな訳がわからずタライをもてあそんでいたが、しばらくすると誰からともなくそれを頭にかぶり、トントンと叩き始めたのだった。会議室はあっという間に、スコールがトタン屋根を弾くときのような、ザーッという音で包まれた。

 私も恐る恐るタライを被ってみる。するとなんたることか、暖かいような懐かしいような気持ちになる。両手首を頭上において、二、三の指でタライを叩くと、やたらにいい音がした。夢中になって叩いているうちに、とうとう自分がタブラ星人であるという、はっきりした記憶が私の中に蘇ったのだった。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 さて、星に帰るとなると、これまで地球で家族や、友人だと思ってきた人たちと離れなければいけない。けれども、いまこの会議室で一緒になってタライを叩いている人たちが、実はわたしの家族や友人かもしれない。もっと一生懸命叩いたらタブラ星にいたときのことをたくさん思い出して、地球を離れることがさみしくなくなるのかな…。

 泣きながら頭上のタライを叩いた。必死で叩いた。全てを捨てることのつらさ、もうきっと地球には戻ってこられないだろうという悲しさで胸いっぱいになりながら、渾身の力をこめて叩き続けた。

 その時である。前方に設置してあったテレビが急に点いて、ドラえもんが画面に走り込んできた。
「勝訴!!みなさぁ~~~~~ん!! 勝訴したから、帰らなくていいですよ~~~~っ!!」

 昭和世代のドラえもん、大山のぶ代のダミ声が会議室に響き渡る。ドラえもんは墨で堂々と「勝訴」と書いた紙を上下に広げて持っていた。私は、ひゅんと我に返ったようになりながら、会議室に集められた見知らぬタブラ星人仲間たちと、地球に残留できることを爆発的に喜び合ったのだった。

 けれども、わたしはここに白状する。この時、心にはほんの一ミリだけ、タブラ星に戻れない寂しさが残っていたような気がすることを。


  ⭐︎⭐︎⭐︎


 今号も夢の話でした。眠りが浅いのか、妙な夢ばかり見るので、ひところは夢の内容を覚えておこうと、起きたらすぐに家族に話したり、内容を書きとめたりしていました。タブラ星の話も、そんななかの一つです。それにしても、タブラなのになぜタライ状だったのかは、自分でもよくわかりません。

釣り堀の端 その三

植松眞人

 釣り堀は車がやっと一台通れるくらいの道路に面していて、両隣は建て売りと思われる二階建ての家屋である。裏にも家があり、釣り堀は周囲を住宅に囲まれている。そして、釣り堀は建売住宅ばかりが建っている区画から家を三軒分くらい更地にして作られたくらいの大きさだ。
 景気の良い頃は、都心まで一時間半ほどかかるこのあたりも不動産が飛ぶように売れたらしい。しかし、長い不景気が訪れると都心の不動産が値崩れして、みんなごみごみとした都心部へとまた帰っていったのである。
 釣り堀の客も同様に減ったが、耕助にとってはちょうど良い数だった。客が来ない日は常連が一人か二人。多い日は十人程度。これでは食えないけれど、美幸のパート勤めと合わせると、なんとか二人で食べていける。なにしろ、もともと爺さんが残した釣り堀だし、自転車で通えるところに爺さんが残した小さなぼろ家がある。元手がかかっていないだけ、耕助は気楽に構えていた。
 美幸としては耕助がそれで良いというのならどこへでも付いていくつもりだった。パートの仕事なんてどうでもよかったし、なんとなく結婚してからも子どもを持つかどうかという話になったことは一度もなかった。家計がぎりぎりだったということもあるけれど、それ以上に子どもを好きだと思ったことがなかった、ということが大きい。もちろん、街中で小さな子と出会い頭にぶつかりそうになってその子が驚いて目を丸くしてから微笑んみながら「こんにちは」なんて言ってくれたら、なんて可愛いんだろうとは思う。けれど、子どもが欲しいなんて思ったことはなかった。子どもを見て可愛いと思うときはいつもペットショップで高級な血統書付きの仔猫でもみているような気分になる。可愛いけれど自分には関係ない。耕助はたぶん子どもが欲しいのだと思う。けれど、彼は自分から絶対に子どもが欲しいなんて言わない。言えば責任が生じてしまうとでも思っているんだろう。そんな考え方をすることが自分にもあるので、美幸は耕助のそういう態度が嫌いではない。もちろん、好きでもないけれど。
 だからといって、今の生活が最高だとは思わない。ぼんやりと耕助と自分という対になったひとつの形が、日々形をはっきりさせているような気がして、そして、それと同時に輝きを失い、表面に細かく小さな粉のようなものを振りかけられているような気がしている。だから、耕助に地方に引っ込んで釣り堀を継ぎたいと言われた時にも、最初に浮かんだ言葉は「お似合い」だった。耕助にも私にも寂れた地方都市のおそらく客がほとんど来ない釣り堀がお似合いだと思えた。
 もともと職を失っていた耕助も、パート勤めだった美幸も引き留めてくれる人もなく、美幸の実家の両親が僅かに眉を顰めたけれど、結局出てきた言葉は「いいんじゃない」だった。
 そんなことを考えながら、三浦くんが背中に触れていた手を美幸はそっとさげた。三浦くんはその手を艶めかしく握った。釣り堀の小屋の窓は横に広く縦に短く、耕助たちからは二人の上半身しか見えなかった。見えない位置で三浦くんは耕助たちに微笑みかけながら美幸の手を握り続けた。美幸も同じように手を握られながら耕助たちに微笑んだ。
 不思議だなあ、と美幸は思う。ここに越してきてまだ数ヵ月。三浦くんと顔を合わせてまだ二週間しか経っていないし、こうして外から見えると言いながら三浦くんと二人っきりの空間にいるのは初めてのことだった。それなのに、こうして三浦くんと手を握り合って、耕助を眺めていることがごく自然のことのように思えるのだった。これから先、三浦くんに抱かれるのかどうかはわからない。どちらかというと、邪魔くさいことにはなりたくないから、そういう関係にならなければいいな、とは思うけれど、こればっかりは成り行きのような気がした。三浦くんが美幸の人差し指と薬指の股のところを自分の人差し指の先で撫でた。最高に気持ちがよかったので、美幸は強く三浦くんの手を握り返しながら、たぶんこの一年でいちばん楽しそうな笑顔を耕助に送った。(続く)

自転車を買う

三橋圭介

自転車を買う。折りたたみ式の小型のRoverで、毎日一回朝8時頃から40分くらい乗る。車輪が小さいので小学生にも追い抜かれていく。いく道は2つくらい、まず白楽の家から片倉町経由で新横浜、菊名、白楽というコース。横浜駅というコース(片道16分)もあるが、これは短いし、あまり景色もよくないのでやめた。もうひとつは三ツ沢経由で東神奈川、白楽コースでは梅、桜並木を眺めることもできる。東横線沿いは山沿いなので多少の坂はあるが、自転車を降りて歩かなければならないほどの急坂はない。最近は新横浜コースをスイスイと進んで、朝の体操がわりにしている。なぜ自転車を買ったかというと、一年間自宅でオンライン授業をやっていたこともある。新学期からはほぼ毎日学校に行くので、体力づくりということでもいいかもしれない。これまでに自転車はなん度か購入し、盗まれたり、マンションの駐車場に放置して破棄されたりしてきた。実際、自転車に乗るための用事がなかった。買い物にはCOOP(生協)がすぐ近所にあるし、コンビニも2軒ある。この環境で自転車に乗るならば、乗ることを目的としなければいけない。でも私は方向音痴である。実は新横浜コースを探すのに苦労をした。暗くなってどうやって帰れるか、こっちか、あっちか、そっちか、どっち? さんざん迷走したあげく、「すべての道はローマに通ず」と何度も心でとなえ、ようやく一本の道を見出し、そしてくり返した(一度、新横浜コースを逆行してみたが、行きつけなかった)。折りたたみ自転車なので帰れなくなれば、最終手段としてタクシーか電車に乗ればいいと思いつつも、それではいけないと思いガラホ(INFOBAR xv)からスマホ(Iphone12 mini)に乗り変えて、Google Mapを携えた。しかしスマホを見ながらのサイクリングはつまらないことにすぐ気づく。結局スマホは使わずに固定したコースを少しずつ逸れながら彷徨うことにした。わが愛車Rover、その意味は「放浪者」、その名にふさわしいサイクリングを目指していく。

ぶらり旅

笠井瑞丈

久しぶりに車で
ぶらり旅に出る
チャボを連れ
なおかさんの故郷
金沢まで車を走らせる
行きは高速で松本まで行き
そこかから下道で
高山まで山道を走り

また高速に乗り

富山そして金沢へと

いつもは松本から長野
そして糸魚川を抜け
そして金沢へと

全ての道中を高速で行くのですが

もう雪も溶けているので
高山の山道を走るルートで行く

私はこのルートの方が好きで
冬以外はこのルートを使う

ところどころ残っている雪
ヘッドライトを消し
星の光だけの世界

川の音
森の匂

デジタル化した都会の
世界からの脱出した気分

二時間おきに
運転を交代
何も考えず
十代を過ごした
ヒットソングをかけ
外の景色を眺め

10年前は片道2500円の青春18切符で
12時間かけて鈍行列車で
東京から金沢まで移動した

これはこれでとても楽しかったけど

今はもう出来ないだろう

時間とともに変化するもの変わらないもの

なおかさん
そして
二羽のチャボ

この旅は楽しい

ゴロベースで遊ぶ(晩年通信 その20)

室謙二

 ゴロベースというのは、ピッチャー役が、ゴムボールを転がす。指でボールを捻って、変化球を転がしたりするのだが、地面が平でないとボールは思ったようには転がらない。バッターは低い姿勢で構えて、地面を走ってくるボールを右手親指の根本で打つ。注意しないと手が地面をこすっていたい。うまく打てば、ボールは早いスピードで地面を転がり、守りの間をすり抜ける。あるいはライナーになったり、フライになってホームランだ。
 友だちとゴロベースで遊んでいたのは、9歳か10歳ぐらいで、だから小学校の3、4年生だったろう。1955年(昭和30年)ぐらいかな。江戸川アパートの中庭だった。ベースは一塁、三塁にホームの三つなので、三角ベースともいった。3人いれば狭いスペースでも遊べる。ベースといっても、白いキャンバスの四角ベースは必要なし。ただここがベースだと言えば、それがベースとなる。大きめの石でも棒切れでもいい。

 あの頃ラジオの野球中継を聞いていると、アナウンサーが興奮して、「バッター打ちました、サード·ゴロ。ファーストに送球」とか、「ピッチャー·ゴロです。あっゴロをこぼしてエラー」」とか、ゴロという言葉がたくさん出てくる。
 ゴロは、ボールが地面を小さく飛び跳ねたり、転がったりしていくことだね。インターネットで調べたら、ゴロの語源は、英語の発音のgrounderが転じたものだとか、擬音語の「ゴロゴロ」が転じたのかもしれないとも書いてある。
 それでゴロとベースが一つになってゴロベースになった。ゴムボール(軟球テニスボール)と素手を使いどこでも遊べる。ひとチームは2人以上、つまりピッチャーと守り手。この二人で一塁も二塁も三塁のベースも守備範囲にできる。一人で掛け持ちしたっていいんだ。だからプレイヤーは1チーム最低2人、でも3人いた方がいいなあ。それ以上何人いてもいい。楽しかった。江戸川アパートの中庭、大きな銀杏の木の下で、日が暮れるまでやっていて、母親が「食事ですよ」と呼んでくれる。

  Play catch

 ゴロベースは、もちろん英語ではない。キャッチボールも、英語ではないね。英語だとPlay catch。
 キャッチボールは、ボールを相手に取りやすいように、だけど早い球で投げる。それを胸の前で受け取り、投げ返す。私は十三歳上の兄さんと、このキャッチボールをよくやった。兄さんは都立高校の硬式野球部で、ショートを守っていた。だから野球はうまくて、十三歳下の弟に教えてくれた。そのころは私は小学生高学年で、兄さんはまだ大学生か大学を卒業したばかり。そしてついに買ってもらった革のグローブと、軟式ボール(プロ野球が使う硬式ボールではない)でキャッチボールをしたのです。
 だけど30年ぐらい前にアメリカに住み始めて、近くの広場とか学校の校庭を見ても、あまりキャッチボールを見ない。だいたい東京に戻っても、子供たちがキャッチボールをしているのを見ない。と言っても、別に統計をとっているわけでもないから。
 試しに英語でPlay catchをGoogleしても、Youtubeでも、例はそんなに出てこない。私の記憶によれば、あのころ、つまり1950年代の少年はキャッチボールをよくやったと思うのだが。あれは戦後の一時期に盛んだった遊びなのだろうか?

  キャッチボールと民主主義

 雑誌「思想の科学」編集会議に、鶴見俊輔さんが寺山修司をゲストに呼んで話しをしてもらったことがある。寺山さんは、キャッチボールと戦後民主主義の話をした。
 爆撃の焼け跡に、一人がボールを持ってあわられる。
 そして他人にボールを投げる。その人はボールを受けて、最初の投げ手に投げ返す。そこに別の人が現れて、3人でキャッチボールを始める。そこにまた別の人が現れる。そうやって何人もの人が、輪になったボールを投げあう。これは争いではない。共同作業なのである。いい球を投げないといけない。助け合いの楽しみだ。
 寺山修司によれば、こうやって戦後民主主義が始まった。寺山修司によれば、民主主義は焼け跡の何もないところで、ボール一つを他人が投げ合ってグループを作っていくことだったのである。でもなにしろ50年以上前のことで、私は22歳だったかな、聞いたことの記憶は、都合のいいように変えられているかもしれない。
 寺山修司は、その方言のアクセントが、当時メディアでからかわれることがあった。中原弓彦(小林信彦のペンネーム)の名前で書かれた「虚栄の市」、もっとも現在出ている「虚栄の市」の作者は小林信彦になっている、その中では寺山修司らしき人間は、徹底的に揶揄してからかわれている。その中の寺山はメディアの中で有名になりたいと動き回る、東北弁訛りの知的でない男である。
 だけど実際に私たちの会議に現れた寺山修司は、背が高く、ハンサムで頭の切れる男であった。メディアで揶揄われている寺山さんを知っていた私は、ちょっと驚いた。もっともいま考えると、演劇的人間である寺山修司は、鶴見俊輔に招かれたので、知的な人間を演じたのかもしれないが。

  日本主義者は中国服を着る

 あるとき天井桟敷(寺山さんが主催していて演劇運動)のティーチインに招かれた。パネラーの一人に日本主義を演じていた男がいて、詰襟の中国服を着ていた。まあこれは日本の中国好きのある種の「伝統」だが。
 それでその人をからかった。私もその男性も若かったのである。
 さっきから日本主義的な言葉を発しているけど、それと詰襟中国服とはどういう関係なのかな?と。その人は、私の言葉を受け流すことができないで、猛烈に不愉快そうな顔をした。
 その時寺山さんは客席にいたらしい。後に友人から伝言がやってきて、あのからかいは、舞台を演劇的にしてよかったよ。というものだった。
 テレビで天井桟敷を見ていて、登場人物が「時代はサーカスの像に乗って、解放された動物園からやってくる」と叫ぶのを聞いて感動した。なぜ感動したのかその時も分からず、今も分からない。
「解放された動物園」ではなくて、「アメリカ」だったかもしれない。でも「時代はサーカスの像に乗って、アメリカの方角からやってくる」だと、寺山さんにしてはちょっと政治的すぎるな。寺山さんの話してくれた焼け跡のキャッチボールが戦後民主主義だというのも、ある種政治的ではあるが、あれは寺山流なんだ。

  寺山さんに教えられて

 野球はインターナショナルである。もっとも北米·中南米·アジアに比べてヨーロッパでは、あまり盛んではないらしい。焼け跡でキャッチボールが始まった時、それは日本でも戦前から行われていたが、野球言語が戦前も今も全て英語であることで分かるように、それはアメリカであった。戦時中は、軍部はそれを全部日本語に、ひけ(アウト)、よし(セーフ)、停止(タイム)にした。傑作なのはバッテリーで、対打機関にした。
 寺山さんの言う焼け跡のキャッチボールは解放であった。それはインターナショナルであり英語であった。しかし同時に戦前から定着していた、日本化されたものだった。キャッチボールは日本語英語であり、ゴロベースに至っては完全に日本語で子供たちに使われた。
 天井桟敷の「時代はサーカスの像に乗って、解放された方角からやってくる」と叫ぶのを聞く時、その「解放された方角」とはどこだったのかな?やってきたものはなにだったのか?キャッチボールとかゴロベースであったのか。寺山さんは、キャッチボールが戦後民主主義だと言ったが、子供の私はそんなことは知らなかった。ただそれを遊んだのである。それは貧乏民主主義の野球·ゴロベースであった。
 あの時、勝ち負けはそんなに重要でなかった。何人かで集まり、ルールだって確かではなく、わいわいと騒いで遊ぶ。そこには上下関係はなく、封建主義はなく、他のスポーツのように審判がいて、正しいことと正しくないことが、明らかにされることもなかった。あの時代を生きたことを幸福に思う。貧乏民主主義を生きたことを幸福に思う。グローブもバットも買えなかったが。

万華鏡物語(10)夜と朝、その間

長谷部千彩

 ステイホームが呼びかけられてからというもの、「ライフスタイルの見直し」が大ブームだ。どの雑誌も軒並み特集はそれで、タイトルはおろか、内容まで似通っている。早起きして、珈琲をドリップして、植物に水を遣り、物の少ない片付いた部屋でMacBookに向かう。適度に運動をし、栄養のバランスを取った食事を心がける。もちろん自炊で。世の中、多様性を謳うわりに、やること考えることはみな同じ。
 まるで正しい夏休みの過ごし方みたいだな、と思う。それも小学生の。
 
 外出自粛は確かに求められたけれど、部屋の中でどう過ごすかなんて自由なはず。そして、通勤から解放されたひとびとにおいては自分でデザインできる時間が確実に増えたはず。なのに、なぜこうまで目指すところが一緒なのだろう。
 時間を無駄にしてはいけないとか、日々を実りあるものにしなければいけないとか、そういった強迫観念にでもとらわれているのだろうか。勤勉というのはもはや宗教なのかもしれない。
 そもそも日本人はなぜ早起きをそこまで推奨するのだろう。社会生活に支障を来していなければ、何時に起きようと、何時に眠ろうと、どうでもいいと思うのだが。確か三島由紀夫は昼夜逆転した暮らしを送っていたはず。ジェームズ・ボールドウィンも執筆は真夜中だった。
 ふと閃く。久しぶりに私も夜型の生活を送ってみようか。飽きたら戻せばいいのだし。
 そして始めた夜更かしが数週間続いている。十年以上、早寝の生活を送っていた身には、これがなかなか新鮮で楽しい。
 
 小さな音量で音楽をかけ、ハーブティーを飲みながら明け方まで貪るように本を読む。
 電話も鳴らない。メールも来ない。眠る街はしんと静か。昨夜はそこに雨の音と自動車が濡れた車道を通り過ぎていく音が加わり、なんとも贅沢な気分を味わった。
 カーテンを寄せ、窓の外を眺めると、信号機が律儀に闇に青く光っている。いつもと違う位置に月が見える。ベランダに出て、春の風を胸に吸い込む。眼下には満開の桜の木。街灯がその花びらを白く浮かび上がらせる。東の方角に目をやれば、遠く重なりあうように建つ高層ビル群の障害灯が赤く明滅している。蛍のようにゆっくりと。清少納言なら、この眺め、このひとときをどう書き綴るだろう。
 気まぐれに広東語の復習をする。気まぐれに古い写真の整理を始める。気まぐれに友だちに長い手紙を書く。夜は気まぐれを優しく許す。
 そして、空が白み始める頃、サイドテーブルのキャンドルの炎を吹き消し、ベッドに潜り込む。私の朝は十一時から始まる。
 
 こんな生活は、いまの時代、決して雑誌に紹介されることはない(ここまで景気が悪くなる前は夜遊びをするひとも多かったけれど)。これも「ライフスタイルの見直し」のひとつなのに。
 先週受けた講義の中で社会学の先生が、資本主義の世界には、自分の時間の中心に労働を置くこと、労働の規律を中心に据えることが無上の価値であるという根深いモラルがあり、それは資本家にとって大変都合が良い。そのモラルとネオリベラリズムという新しい労働イデオロギーが結びついたのが現代社会だ――というようなことを言っていた。私はぼんやりとその話を聞きながら、つくづくその通りだなあ、とうなずいた。ほんとにね、みんな無駄なく有意義に時間を使うことは正しいと信じ切っているものね。頼まれなくても自ら良き労働者になっていこうとするよね、私たちは。

 一方、小学生の姪は、自宅からよりも学校まで近いという理由で、私の部屋によく泊まりにくるのだが、彼女は大抵朝四時に起きる。そして、朝食までの一時間半から二時間、必ずアニメを観る。放課後には宿題があるから、なんとしてもこの時間を活用しなければ、と思っているらしい。それは彼女の何よりの楽しみで、寝ぼけ眼などということではない。目覚ましが鳴るやいなや飛び起きる。先日は、アラームの時刻設定を間違えたようで、夜中の三時半に真っ暗な中、ひとりでアニメを観ていた。このひとは朝の中にいるのか夜の中にいるのか。この早起きは精勤と享楽、どちらがふさわしい表現なのか。その小さな背中を見つめ、私はしばし考え込んでしまった。結論は出ていない。わからない。