丑年にちなんで~水牛キヤイ・スラメットの話

冨岡三智

12年前の丑年1月、私は『ジャワのスス(牛乳)屋の話』を書いていたが、今年は水牛について書いてみよう。実は、インドネシア語で干支の丑はサピsapi(牛)ではなくクルバウkerbau(水牛)と言う。調べてみると、牛はウシ科ウシ属、水牛はウシ科アジアスイギュウ属に属し、水牛の原産地はアジアだという。現在でも世界の水牛の95%がアジアに生息しているらしい。そういえばこのサイトの名も『水牛』だ…。

ジャワ暦大晦日の夜から新年(ちなみに2020年にかけて行われるスラカルタ王家の宝物巡行には、聖なる白い水牛が登場する。水牛と聞いて私がまっさきに連想するのがこの行事で、2020年9月号「ジャワ暦大晦日の宝物巡回」と、2003年6月号「スラカルタの年中行事(1)」でも紹介した。夜中の0時、王宮からキヤイ・スラメットの水牛の群れを先頭として、槍などの王家の宝物の列、それに随行する王族、王家家臣、参加希望者(村落などから団体で参加する)らが伝統衣装で正装して列をなし、一晩かけて王宮を取りまく区域(約5kmの距離と本にあった)を巡行し、明け方に王宮に戻ってくる。これは単なるパレードではなく、主催者にとっては町を清める儀礼であり、参加者にとっては祈りの行である。そのため参加者は無言で裸足で歩く(王族は履物を履く)。沿道には夜中まで大騒ぎしてこの行列を見ようとする人であふれているが、ジャワでも正月は昔の日本同様に寝ずに迎えるもの、つまり眠らないという一種の行をしていることになる。この行のことをティラカタンと言う。

沿道の人たちの中にはキヤイ・スラメットに餌を差し出す者もいる。キヤイ・スラメットに食べ物を差し出すとご利益があるとされているからだが、それはこの時だけに限らない。キヤイ・スラメットが飼われている地域付近では、キヤイ・スラメットに店や屋台の商品を食べられても、人々はかえって有難がったものらしい。また、キヤイ・スラマットの糞を肥料にすると農作物がよく実るといって、この巡行の際に糞を拾って持ち帰る人もいるという。ちなみに、王宮のイスラム行事がある時には、王宮モスクからグヌンガンという米や野菜など食物で造った神輿が出るが、この神輿の枠に使う竹ひごなどを持ち帰って田圃の四隅に埋めたり挿したりすると豊作になるという話もある。水牛の糞の話といい、この神輿の話といい、ジャワ王権が農耕基盤であることがよく表れている。

さて、このキヤイ・スラマットという水牛は何なのか。それを議論した4年前のインドネシア人の論文や新聞記事が見つかり、読んでみた。実は私も長年、なぜキヤイ・スラメットは聖なる水牛なのか疑問に思っていたのだ。それらによると、キヤイ・スラメットはポノロゴの領主(中部ジャワに近い東ジャワの都市名)からパク・ブウォノII世に贈られたアルビノの水牛のことで、ラデン・マス・サイドが著した『ババッド・ソロ』(ソロ年代記)にそのことが書かれている。それは都がまだスラカルタに移転する前の話である。パク・ブウォノII世はこの水牛を気に入り、王国の宝物を先導するのにこの水牛を用いたという。この水牛は王家で飼われ、子孫はすでに何代にもわたる。その故事にちなんで、ジャワ暦大晦日から新年の巡行でも、このキヤイ・スラメットの子孫の水牛が先頭を歩くのだと言う。ただ、なぜその初代のキヤイ・スラメットが聖牛とされたのか、なぜポノロゴ領主がパク・ブウォノII世にその水牛を送ったのかは、すべてが口承伝承のため依然として謎のようだ。ただ、王家の人々や一般の人々の実践を通じて、キャイ・スラメットは豊穣繁栄の象徴として定着し、この大晦日の行事のアイコンとなった。

満月と水牛または「みどりは苦い」

北村周一

月末の締め切りがちかづくと、なんとなくそわそわし出す。
どうもじぶんだけではなさそうなのは、水牛のほかの方方の文面からもうかがい知れる。
九月、十月、十一月、そして今月十二月と、月の末はほぼ満月であった。
2020年を振り返るとつぎのようになる。
1月11日 満月
2月9日  満月
3月10日 満月
4月8日  満月
5月7日  満月
6月6日  満月
7月5日  満月
8月4日  満月
9月2日  満月
10月2日 満月
10月31日満月
11月30日満月
12月30日満月
いわゆる旧暦(太陰太陽暦)と、現行の新暦(グレゴリオ暦)とのあいだには、
当然ながら微妙なズレが生じているわけだが、そんなことを考えながら夜空を見上げてみても、なかなか気分は晴れない。ことにこの秋から冬にかけては・・・。
満月にはなんの罪もないけれど、満月イコール水牛の締め切りに結びついてしまうのだった。
閑話休題。
いろはに金平糖、という遊び歌がある。
いろはにこんぺいとう こんぺいとうは甘い
甘いは砂糖 砂糖は白い
白いはウサギ ウサギは跳ねる
跳ねるはカエル カエルは青い
青いはお化け お化けは消える
消えるは電気 電気は光る
光るはオヤジの禿げ頭

これには替え歌があって、
デブデブ百貫デブ
電車にひかれてペッチャンコ
ペッチャンコはセンベイ センベイは丸い
丸いはボール ボールは跳ねる
跳ねるはカエル カエルは青い
青いはキュウリ キュウリは長い
長いはヘービ ヘービは怖い
怖いはユウレイ ユウレイは消える
消えるは電気 電気は光る
光るはオヤジの禿げ頭

地域や年代、男女のちがいによって、若干のことば遣いの差異はあるようだけれど、
この歌の終わり方はほぼ同様な気がする。
夕方遅くなってもまだ遊び足らずにいる子供たちが、互いにふざけ合いながら家路を急ぐ場面。
父親が相応に怖かった時代の話ではある。
はたまた閑話休題。

事務机の引き出しの中にしまってあったシガレットケースが見つからない。
その当時吸っていたタバコの銘柄はチェリー。
そのチェリーを10本ほどケースにおさめてあったのだが、見つからない。
全体が濃いグリーンに彩られた、輪島塗のタバコ入れ。
輪島育ちの祖母から貰ったものだとはいえ、よわい23、4の若造が身に付けるにはちょっと不釣り合いな代物であったかもしれない。
向かいの机の席には、小林さんという50歳くらいの年配の職員が座っていた。
もともと係長職にあった人物なのだが、重い病気を患ったので降格となり、自宅療養後にこちらの部署へと配属されてきたのである。
病が完全に癒えたわけではないのに小林さん、たいへんなヘビースモーカーで、口からタバコが途切れることがない。
酒は飲むのを止めたから、タバコくらいは、ということらしい。
いつも暇そうにしているから、ときどき輪島塗のシガレットケースを小林さんに見せびらかしながらじぶんもタバコを吸った。

思い起こせば、最初にタバコを吸ったのは、高校一年のときだった。
たんに、興味本位の一服だったけれど、あまりの不味さにびっくり仰天して、すぐに洗面所に走っていった。
家の台所の祖母専用の灰皿にのこしてあったタバコの吸いさし。
銘柄は、忘れもしないひらがなで、わかばと書いてあった・・・。

醜い頭部のこと

越川道夫

夜中に仕事場から川沿いを歩いて帰ってくる。コロナ禍によって大切に進めてきた仕事はすべて中止か延期となってしまい再開の目処はまったく立っていない。映画監督としては半ば失業状態というようなものだが、それでもやらなければならないことはある。冬になって川沿いの木木の葉は落ち切ってしまった。それまでは茂った葉に埋もれるように眠っている白鷺を見上げることを楽しみにしていたのだが、裸木になってしまって彼はもうここでは眠っていない。
玄関脇に大きな木があって、その木を覆うようにしてキカラスウリが実をつけている古い家があった。通りかかると木ごとバッサリと切られてしまったらしく、それももうない。もしかしたら家ごと無くなるのかもしれない。疫病の影響とは言い切れないが、このところ古い家が取り壊されたり、売家になっているのを多く目にするような気がする。
 
ふと思い立って出不精の私にしては珍しく松濤美術館に舟越桂展を観に行った。小規模ながら舟越さんの彫刻の仕事が俯瞰的に展示されているのだ。舟越桂さんの父。保武さんの彫刻には、 ほんとに美しいものの「顕現」というものが感じられて好きなのだけれど、桂さんの初期の作品、その人物の彫刻にモデルがいる作品群には、どう言ったらいいのか何か「俗」なものの静謐な佇まいがあってずっと惹かれてきた。「俗」とは悪い意味ではなく、それぞれの身体が持つ「どうにもならないもの」がそこに慎ましやかに現れているような気がするのだ。その彫刻の前に立って、私はその身体に触れたいと思う。その華奢な腰回りを抱きしめ、潮の虚な眼に口づけしたいと思う…。ところが第二展示室に飾られていた近作にはまったく惹かれることがなかった。ある危機感のようなものから出発し、彼の想像力を自由にはばたかせて作られたその彫刻には「モデルがいない」、と説明にはあった。
 
第二展示室から逃げるように初期の作品の展示へと戻りながら、思い出したことがある。中学生の頃、美術で2人ひと組になってお互いの頭部をブロンズで作るという授業があった。私が組みになったのはOくんという美術に特異な才能があった同級生だった。自分ではOくんの頭部をよく観察し、「美しい」Oくんの頭部を作ることができたと思ったのだが、相方のOくんが作った私の頭部を見て驚いた。私は、彼の作った私の頭部を「醜い」と思った。見ることが堪え難かった。そしてその頭部は「醜い」だけではなく、まさしく「私の頭部」だったのだ。私は自分の作ったOくんの頭部がひどく「貧しい」もののように思えた。
 
この「醜さ」が「どうにもならないもの」の正体であるのかもしれない。おそらく、私が作っていたOくんの頭部は、よくデッサンしたつもりでいても、私の「美しいと思う形」に引きずられ、物の一つ一つの存在が持つ「どうにもならないもの」から乖離し、言ってしまえば絵空事になってしまったのだと思う。私が見ていたものは彼の頭部ではなく、自分のつまらない美意識とでもいうものであった。Oくんは私の頭部に「どうにもならないもの」を、私の頭部にしかない「何か」を見てくれていた。それに引き換え、私は自分の美意識を優先して、Oくんの頭部にしかない「何か」を見なかったのである。今でもOくんの作った「醜い」私の頭部のブロンズ像を、とても「美しいもの」として思い出す。

冬至

イリナ・グリゴレ

12月21日、冬至。朝早く起きられなかった。娘たちは私のせいでまた保育園に遅れた。朝はいつも忙しい。長女は私に似て、夜型だ。今日も出発の時間ぎりぎりまで起きず、慌てた。朝ごはんはパンと牛乳またオートミール、次女のお気に入りだ。小さい手で娘が玄関のドアを開ける瞬間が好き。雪の光が眩しくて一瞬目が見えなくなる。写真のフラッシュのようだ。私の目の虹彩に残る。二人の娘の後ろ姿は幻のようだ。その時の私の頭の中のイメージはサイレントムービーだ。

見送った後にそば茶を入れる。今日も雪が積もった。夫の服に着替えて雪かきを始める。こうしていつも彼の身体を借りる。男の服を着るのが好きな私。彼の魂を盗んでいる気分だ。融雪溝に入れても全然流れない。かなりの力仕事。家に戻ってパン作る。発酵は気持ちいい。まずは茶碗でイーストと砂糖を混ぜる。そのあとで小麦粉を少し混ぜる。そば茶の残りのお湯を少し入れると5分で膨らむ。こうして膨らんだイーストをたくさんの小麦粉と混ぜて、お湯を加えたら粘土のように捏ねる。これは何と言っても幸せだ。手で温かい生地を触ると、この生地はこれから何でもなれるという無限の可能性を感じる。捏ねることも、丸めることも、私の手の細胞と合体させることだ。丸くなったら発酵の番だ。これも私流なのだ。祖母の形見の、石でできたブレッド・スタンプを押す。最後は祖母が織ったタオルを上にかけて待つ。このレシピは自分で考えて、一番この家に合うことが分かった。同じ場所に長く住むと、湿度と景色、光の落ちかたによって生きているイーストの状態が身体でわかってくる。私にとって、これにはもう一つの意味がある。パンを通して自分の先祖の身体をもう一度形にして食べることを繰り返し、わたしの身体に戻すのだ。

一瞬、お日さまのひかりが、五つの窓すべてから家に入った。外を見るとまた雪が積もっていた。また雪かきだ。なにも考えずに重い雪を運んでも5分でまた積もる。このまま雪かきをしなかったら、きっと一時間で家の二階までつもる。そんな気がした。

保育園へ迎えに行くとき、川の近くで、吹雪のなかからオオカミが見えた。日本のオオカミはいつ日本から消えたのか、という本を図書館の本棚で見たけれど、絵本と妖精の本を借りた。オオカミの本を借りればよかった。

知らない間にまた朝になってそば茶を飲んでいる私がいた。一瞬しか経ってないのに、気づかないうちに窓に置いたカリンが腐った。早めにジャムにすればよかった。悪いことした。ルーマニアの家でもよく窓においてあった。冬の寒い日に薪ストーブの上に置いて、焼いたらごちそうだった。

パンは発酵してはみ出そう。焼く準備。あ、娘たちの迎え。雪かき。オオカミの本を借りればよかった。何年もここに住んでいるが、初めてオオカミを見た。幻のだ。「日本ではオオカミは神様だよ」夫は言った。

スーパーの鏡に映っていた私の姿は違うものになっていた。たまに勝手に違う者になっている。自分の身体をコントロールできるようになりたい。今回は娘たちが殺した蜘蛛の子供みたいだった。夏の間に母蜘蛛はたくさんの虫を食べて、お腹がすごく大きくなっていた。いつのまにか子蜘蛛が産まれた。家の中を走っていた。ゲジゲジもいるからどのぐらい残っているのか。娘は間違えて殺したと泣き始めた。もっと観察して遊びたかったみたい。大丈夫と励ましてあげた。ルーマニアでは豚一匹を殺して、一冬かけて肉をたべる。今ごろなら豚の内蔵を綺麗にしてソーセージを作っていた。小さい頃は、殺されて焼いた豚の皮膚と耳を食べていた。一年間大きくした豚の命を家族でいただく儀礼はよく見られた。キリスト教以前の習慣だ。

でものこの時期に一番好きだったのは、イエス様が生まれるお知らせを、村の子供たちがその前の日の朝に行うことだ。24日の朝から子供たちだけで村の各家を回って、イエス様が生まれた喜びを大きな声で叫ぶ。各家の門はその朝だけは開いていた。喜びを家に入れるために。こういうのも今はあまり残っていないみたいだ。現在では各家の門は鍵で閉められていて、もう喜びを受けられない状態なのだ。

また雪が積もってきた。そろそろ夫の服に着替えて、雪かきをする。そういえば、車のライトをつけるのを忘れた。夕方なのに、雪の光で気づかなかった。私が見た幻はオオカミではなかったのか。昔、父はVHSでとても怖いホラー映画を借りていたので、仕事をしている間に、弟と隠れて見た。怖かった。黒いヒョウは突然、町に現れて町の人を殺し始める。壁を抜けることができて、一瞬液体になる。黒い液体だ、コールタールのようなものだ。アスファルトを固めるとき使われる。原発を作るときも使われるかも。急にコールタールの匂いを思い出して吐きそうになった。インタネットで見たニュースを思い出した。アルゼンチンの町では子犬がコールタールだらけになっていた。私はコールタール恐怖症だ。

私の身体のデキモノも、いくら手術でとってもまたできる。でも私が見たものはあのヒョウではなく、オオカミだったと信じたい。気配は優しかった。外に出たとき玄関に干している柿の一番下の一個が齧られていた。猫かな。洗濯物を干すのは忘れた。パンの生地がすごく膨らんだ。今日はいいパンができる。

12月21日。白神山地にオオカミはまだいるのか。
西目屋村まで行きたくなった。乳穂ヶ滝のところで探してみたい。西目屋村に住めばよかった。崖の近く、古い家を買って、自分で直し、家の前の田んぼを復活して。でも買わなかった。アトリエにしたかった。あの家に呼ばれたから。窓から覗くと、緑色の昭和のキッチンが見えた。後ろは岩木山とりんご畑だ。滝はもう凍ったかな。

でもあのキッチンでパンを焼くのは難しいだろう。あんな静かな人生はあるわけない。滝のところへ行ってみよう。今日は21日、雪かきを終えたら、あの方に会う予定だった。

あの方に会いに行ってたくさんお話した。私と話が合うひとはなかなかいないのでうれしかった。動物にも、女にも、男にも、ほかのたくさんの生き物になれる人と久しぶりに出会った。私がちょうど生まれ変わったばかりで、手からネバネバな透明な液体がテーブルに流れたので、生まれ変わったばかりということがばれそうだった。目を合わせるたびに部屋が違う空間に変わる。季節も、春、夏、秋になって2秒で冬に戻った。様々な人が部屋に入ってきた気がするが、私にしか見えなかった。初めて出会ったのは森の中のすごく暑い日だった。

寒くなったので、キッチンでそば茶を入れた。保育園に迎えに行くとき、車のラジオから世界の音楽という番組でアフリカの不思議な曲が流れていた。アフリカにオオカミいないだろうと一人で笑った。でもあのオオカミには前もどこかで会ったことがあると思う。どこだろう。思い出せない。そうだ。祖父母の庭に夕方に来ていたのだ。

家に帰って二階のストーブをつけようと思ったら、二階の窓から見えた。窓まで背が高いと昔話で聴いていたけど、確かそうだ。目を合わせる。怖くない。背の高いものは怖くない。さっきのオオカミは、あなただったのか。私にしか見えないが、どうも、トロールだ。家と私を守っているのかもしれない。たまに目を合わせるだけで十分。考えは伝わるから。家の前にこの優しいトロールが立ってから、飼っている金魚が何倍もの大きさになって水槽に入れなくなった。金魚というよりらんちゅうだがそれにしても大きすぎる。

私の理解者は一人いれば十分だ。今日も私の映画は拒否された。裸のシーンを入れればよかった。裸になったつもりで作ったのに、裸のシーンがない。女性の裸ですべて解決できる世の中ではない。女性の裸は神話的な空間だ。限られたものしか見てはいけない。

12月21日本当に短い日だった。残ったそば茶のかすに蜂蜜を混ぜて食べた。

ウシュクベーハーに沈む

璃葉

ウイスキーを味わう日々を送っている。
決してアルコール依存症ではない。とある場所を手伝うことになり、
ゆらゆらふらふら楽しんでいたものを、しっかりと学ばなければならなくなってしまったのだ。

ずいぶん前から思っていたことなのだが、きっと私は、酒の運に恵まれている。
なぜだかウイスキーのほかにも焼酎やワインに関連する仕事がきたりするし、
美味しいお酒をいただく機会が多い。
バッカスでも憑いてるのでは? と姉に言われたときは笑ってしまったが、
もしかしたらそのような気配があるかもしれないと、一瞬背後に意識が向く。
ついでに酒豪代表として、うちの父や祖母なんかも肩に乗っかってそうだ。
ともあれ、私が一番好きなお酒はウイスキーだ。
その日出会えたウイスキーの味を忘れないよう、最近はテイスティングノートをつけることにしている。

グラスに黄金色の液体を注ぐと、顔を近づけないうちから高貴な香りが漂ってくる。
香りを確かめ、一口含んで、じわりとひろがる味から食べ物や花や、情景を連想して、ノートに記していく。
洋梨やりんご、キャラメル、蜂蜜、ビターチョコレート、キャンディ。
花やナッツの香りだったり、バニラのような味が隠れていたり。
真っ暗な景色にぼんやり橙や黄金色がひろがっていく想像をする。
たまに緑や淡い水色も浮かんで、土のような香りもする。かたちがはっきりするものとしないものが現れては消えていく。
味や香りの輪郭を辿るのはたいへんに難しい。自分の感覚を信じられないこともあるし、
まだまだ経験の浅い私には、その複雑な香りをどう表現したらいいのか?となってしまう。
気の遠くなるほどの時間をかけて造られたウイスキーは、どれもこれも味の層が広いのだ。
樽や熟成年数、その他諸々によって驚くほど味が変わる。いやあ、なんて魅力的なのだろう。

何かに夢中になったり没頭することを沼にハマる、というらしい。
だとしたら、ウイスキーの世界はとんでもなく危険な底無し沼である。
もはや両手足ずぶずぶ浸かってしまっているから、私の場合は手遅れだろう。

たすけに来てよ、ワンダーウーマン!

若松恵子

2017年に公開され大ヒットした映画「ワンダーウーマン」の第2作を見に行った。鬼滅の刃に押されて客席はガラガラで残念だったけれど、いいファンタジーだった。

主演のガル・ガドットは、イスラエルの国防軍での戦闘トレーナ経験をへてミス・ユニバースのイスラエル代表から女優になったという経歴の人だ。彼女の自然な美しさによって「ワンダーウーマン」という夢の存在に説得力が生まれている。色々な装備を付けずに、まして「変身」などせずに身ひとつで闘っているところも良い。

第2作は特にCGでなく実写で撮るという事を目標にしたと女性監督であるパティ・ジェンキンスが語っている。第1作の成功によって、太陽をバックに現実の場所で撮影し、数か月がかりのワイヤースタントを撮る膨大な予算を確保する事ができたという。迷いを振り切って人類のために走り出していくバーバラ(ワンダーウーマン)の姿がまさにクライマックスなのだけれど、CGによる不自然な映像ではなく、リアルな肉体をもって表現された「ゆるぎない意志」というものが胸を打つ。アメリカンコミックスの絵柄から勝手に偏見を抱いていたのだけれど、ワンダーウーマンは「拳や拳銃でなく、愛の力で敵に勝利するヒーロー」として生み出されたという事だ。

前作でバーバラは「人類は救うに値するのか」という事に悩む。敵に「いっしょに人類を滅ぼそう」とそそのかされてひるむ。しかし、彼女を踏みとどまらせるのは、自分が出会った何人かの人間への愛だ。

今作でも人間の欲望が人間自身を滅ぼそうとする状況にワンダーウーマンといえどもなすすべがなくなる。彼女自身も「死んだ恋人に再び会いたい」という願いをかなえる事と引き換えに自分のパワーを失っていく。何でも願いをかなえる事ができる魔法の石と何でもできる(かのような)ワンダーウーマンとの対決となる。

ワンダーウーマンさえ来てくれれば問題は解決するのか、人間の問題は人間自身が解決しなければならないのではないか、さらに物語はそんなことも考えさせる。まあ、エンターテインメントなんだけれどもね。

人間に代わって解決してくれる人ではないと分かっても、ワンダーウーマンが横に居てくれるのは心強い。ダメなものはダメだと言って、「悪」に毅然と立ち向かって負けない姿は爽快だ。例えばコロナウイルスをどこかに追い払ってくれとは言わないが、コロナ禍の混乱に乗じて人を痛めつけようとする悪い奴はぶっとばしちゃってほしいと思う。そいつらが放つ悪を古代から受け継いだ盾で全部はね返しながら、そいつらの牙城にどんどん踏み込んでいって、思いっきり・・・・。

むもーままめ(2)注射の名手の巻

工藤あかね

あけましておめでとうございます。
前回、夫を題材にした狂歌を並べたので、
今回はコロナ狂歌の回にしようと思っていました。

けれど新春早々、憂鬱だった年の回顧というのは
どうにも調子がくるうので、別の話題にします。

注射!!!

国内外でワクチンの話題も出ていますし、今回はこれでいきます。

…さて。みなさんの中に、注射が得意な方はいますか。
わたしは、注射が大の苦手でした。

わたしの注射苦手歴は、子供の頃からなのですが、
どのくらい苦手だったかと申しますと、
予防接種の前夜は、緊張で眠れなくなるくらい、です。

予防接種当日の朝には、なんとかして注射を受けないで済むように、
きまって体調不良を装っていました。

「頭がふらふらする。お熱がある気がする。」

ところが母は、私の平熱を確認すると、
顔色も変えず、問診票に記入を始めます。

「〇〇アレルギーはありますか」
「〇〇の病気はありますか」

容赦なく「いいえ」に○をつけてゆく母の手元を、
いつも恨めしい思いで眺めていたものです。

けれど、母の隣にぴったりはりついて、
「ほんとに、いいえ?」
「質問、ちゃんと読んだ?」

などと横槍を入れて、最後の抵抗を試みます。
結局、あっさり注射に送られておりましたが。

それから時が流れて、大人になりました。
ところが注射への苦手意識が克服できたかといえば、さにあらず。
指を怪我して縫うことになった時には、
「麻酔の注射をしましょう」と言われて、
キューっと縮みあがってしまいました。

「注射…。しないで良い方法ないですか…。」と弱々しく尋ねたら、
お医者さまからは、
「麻酔なしでちょんちょんちょんって縫うか、
麻酔一回ちくっとして、痛くないちょんちょんちょん、どっちがいい?」
と、オノマトペ満載のお返事が出てきました。

「うっ…麻酔…。世界一細い針でお願いします」と真剣に伝えたところ、
先生と看護師さんに、大笑いされました。

血液検査だの、注射だのの際には毎回、
「注射、ものすごく苦手です…」と言ってしまいがちなのですが、
この作戦が逆効果になることもしばしば。

わたしが余計な情報を伝えたがために、
打つ側があきらかに動揺してしまって、
注射針を腕に刺したのちに、
血管を探る事態になったこともあります。

ですが、どんな世界にもいるものですね。
名手というものは!!!

わたしはこれまでに、2回ほど、
注射の名手に出会ったことがあります。
彼らのおかげで、積年の注射苦手意識は、
ぱぁっと吹きとびました。

1度目は、柔和でおっとりとした看護師さんでした。
いつものとおり注射が苦手なことを伝えると、その看護師さんは、
「うふふ、わたしも注射されるの苦手ですぅ。いやですよねぇ。」
なんて、言いながら、あっという間に全ての工程をクリア。

これから注射を打ったり血液検査の際には、
あの看護師さんにお願いしたい!と本気で思っています。
看護師さんって指名できるのかしら。

2度目は、看護師さんとお医者さまのチームワークが優れていたケースです。
この日は採血&鎮静剤のコンビネーションだと聞き、朝から怯えていたのですが、
担当してくださった看護師さんが、かゆいところに手が届く気配りの方で、
診察室に入る前にはすでに一段階、心がほぐれていました。

そして、いよいよはじまる、と思ったところで、
その看護師さんは、リフレクソロジーの施術者か、あるいは
瞑想ヨガのインストラクターかというような声色で囁いてきました。

「深呼吸しましょうね。右手を…ぐーぱーぐーぱーしましょうか…」
「はい…ぐーぱー…」

怖さを打ち消そうと、必死で右手をぐーぱーぐーぱーしていましたら、
今度は反対側からお医者さまが、深夜ラジオのパーソナリティーさながらの、
ソフトな語り口で仕上げに入ります。
「呼吸を…らく〜に…してくださいね…落ち着いてきたら…始めますからね…。」

その間、看護師さんからは腕を楽にしてくださいね…と言われた気がしましたが、
看護師さんとは逆方向から話しかけてきた先生の声に気を取られて、
針が刺さったのにも抜けたのにも、全く気がつきませんでした。

国家から命を狙われているスパイなら、そんな手には乗らないのでしょうが、
わたしくらいの小市民なら、赤子の手をひねるレベル。ちょろいもんです。
けれど、本当に痛くないのです。今後も喜んで、その手に引っかかりたい。

彼ら注射の名手たちに共通しているのは、
患者の緊張をほぐすのが大変にうまいこと。

迫り来る注射針に神経を全集中してしまえば、
体は固く緊張し、痛みにも敏感になるに決まっています。
打つ側も打たれる側もハッピーな、痛くない注射への究極の道は、
もしかしてリラックス?これに尽きるのでは!?

たとえ注射の名手に当たらなかったとしても、
こちらがリラックスさえしていれば、もしかしてあまり痛くないで済むかもしれない!!
注射を打つ名手がいる一方で、打たれる名手もきっと存在するに違いない。

ああ、痛そうな顔でインフルエンザの予防接種を受けているお相撲さんたちや、
注射が怖くて泣いちゃう寸前のお子さんたちに教えてあげたい。
リラッックスすれば、(たぶん)注射が痛くなくなりますよ!って。

海外では新型コロナのワクチン接種が始まりましたが、
日本でもそのうち実施されるのでしょう。
コロナをきっかけに、一旦離職していた看護師さんが、
医療現場の現状を見かねて、復職するケースがあると聞きます。
そして、ブランクがある看護師さんからは、
注射に不安があるとの声もあるようで、注射を打たれる側だけではなくて、
打つ側も相当に気をつかうものなのだと知りました。

これからは、復職したばかりの看護師さんが緊張してしまわないよう、
「注射が苦手」と、病院では言わないようにしようと思います。
そのかわりに注射が痛くなくなるおまじないを、心の中でつぶやいてみます。
「リラックス!」

貧乏左翼

植松眞人

 もう十年近く前になるのだろうか。
 東京の日比谷公会堂で歌手あがた森魚のコンサートが開かれた。それほど多くのヒット曲を持つわけではないが、七十年代フォークを語るとき、なくてはならない人ではあるし、彼がリリースしてきたアルバムは、コンセプトアルバムとしてとても優れていて評価が高い。だからこそ、アルバムは毎年のように発表されているし、狭いとはいえライブ会場はファンで一杯になる。
 ましてや、この日はあがた森魚の歌手生活四十周年を記念するコンサートで、ムーンライダーズの面々や矢野誠らが参加してにぎやかに新しい曲やら懐かしい曲やらを演奏しつつ進行していた。
 あの当時、あがた森魚は六十代の後半で、コンサートの観客もほとんどが彼と同年代か、そこから前後五歳程度といった感じだった。つまり、平均年齢が六十代半ばくらい。そんな男女が集まり歴史と趣のある日比谷公会堂に詰めかけ、舞台上の実力ある、いまでは少し埋もれた感のあるあがた森魚をじっと見つめ、時には手拍子し、それぞれに微笑みを浮かべながらコンサートを楽しんでいるのだった。
 そんな中にいて、私は前の席に座っている、おそらく私よりもほんの少し年上の女性の背中を見ていた。あがた森魚の歌う『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど』という大好きな曲を聴きながら、その人が着ていたセーターの背中に着いた毛玉を見ていた。おそらく上質のカシミアで作られたえんじ色のセーターは、大事に丁寧に着られているのだろう。全体が少し毛羽立ち、所々に小さな毛玉があった。しかし、それが不快な感じを与えるのではなく、逆にいいものを大切に着ているという印象を与えるのだった。
 私の前に座っているおそらくあがた森魚のファンであるその女性に好感を抱きつつ、彼女の背中を真ん中に置きながら左右に目を走らせる。あがた森魚の歌が次の曲に移り、少しアップテンポとなり、カシミアのセーターの女性の隣にいた男性のネルのシャツが揺れる。じっと見ると、このネルのシャツも長らく着込まれているのだろう。小さな毛玉が肩から脇へと続く縫い目のあたりにいくつか出ている。こちらも、それほど安くはない良質の素材が使われているのだろう。年季が入り少しは色あせているのだろうが、生地がよれたりしているわけではない。カシミアのセーターとネルのシャツは時々肩の辺りで触れあったりしているので、彼等は一緒にやってきた夫婦なのかもしれない。
 この夫婦から目を左右に移しても、おろしたての色鮮やかなシャツを着ている者はなく、みんながそれぞれに大切に着てきた衣類を身につけているように見える。それはあがた森魚という歌手を聞き続けてきた人たちにふさわしいあり方のように思えて、私は心の中でなるほど、と呟いてしまう。もちろん、そんなふうに思うのはこじつけかもしれないし、この日の日比谷公会堂をくまなく探せば、真新しいシャツに袖を通してきた人もいるだろうし、物事を丁寧に暮らしている人ばかりでもないはずなのだが、そう思わせてしまうカシミアとネルとあがた森魚なのだった。
 そして、このコンサートにくるような人たちが穏やかな人たちばかりではないことを私は知っている。反戦フォークに惹かれ、いつまでもその世界を楽しめるのは、やはりどこか左翼的だ。金を稼げる左翼は、どこかのタイミングでうまく保守中道か若干右側に生きる路線を変えている。そして、真性の左翼は日比谷公会堂であがた森魚を穏やかな笑顔で聞くなんて真似はしない。かつての左がかった思想の持ち主が資本主義に上手く乗ることもできず、かといって共産思想よろしくみんなで手を取り合った仲良く稼ぐこともできず、それぞれに自分の利益だけは確保しながら、守銭奴ではないふりをしている間に、貧乏左翼になってしまったのだ。
 この日、歴史と趣にあふれた、少しかび臭い日比谷公会堂に集まったあがた森魚のファンである貧乏左翼たちは幸せだった。互いの少しずつ食い違う日本の歴史認識も、現政権に対する不満や鬱憤も、目の前のあがた森魚の楽曲が柔らかく解きほぐしてくれたし、真新しいファッションを競うような資本主義的な価値観ともこの空間は無縁だった。前や後ろにいる同じような年代の、同じようなそこそこの服を丁寧に着ている人たちは、いつも一緒に仕事をしているたいしてお金は持っていないけれど声をかければすぐに仕事を手伝ってくれる気の良いあの人やこの人に似ていて、初めて会ったのに気心が知れているようで気持ちが落ち着くのだった。
 彼らの仕事は最高の仕上がりを求めない。自分のできることと、それをサポートしてくれる人たちで、なんとか見栄えにするところに落ち着けば良い。だから、いつもどの仕事もどこか似ている。自分の仕事に自信がある。そして、それを認めてくれる人と組んで、世間一般のレベルにまでできればいい。そう考えているのだ。資本主義的な奴らが金に任せて、その時々の最高のものをと言うけれど、その時々最高のものを作ったところで、時が過ぎればそこそこのものとの差はあまりない。ただし、やはりその時々最高のものを目指す奴らが時代を変えるすき間を見つけ、そこにバールをねじ込んでこじ開けるのは確かなので、保守で右翼的な奴らが時代の改革者になるという皮肉。そう思うと、どこまで言っても左翼は右翼の後を追い、負け戦を知るとノスタルジーに逃げ込んでいる。
 そんな男女のすき間をあがた森魚の大寒町が流れてくる。

大寒町にロマンは沈む
星にのって銀河を渡ろう
かわいいあの娘と踊った場所は
今じゃあ 場末のビリヤード

 それを聞いて私は、ほらやっぱり、と身勝手に思い、会場の後ろのほうから同年代の男女を眺めながら、こいつら全員がいなくなっても大丈夫、と思ってしまう。こんな手軽なノスタルジーに逃げ込むなら、もうみんないなくなってもいいんだと思う。きっとこの会場の人たちが全員、この瞬間に神隠しにあったように消えてしまっても、誰も困らない。日本の経済にも流通にもなんの影響も与えない。そして、彼等が馬鹿の一つ覚えのようにしがみついている芸術や文化という面でも、多少さみしがる人はいるかも知れないけれど、きっと大きな損失はない。だって、もう終わってしまっているものだから。もう終わった人たちが終わった人たちどうしで、互いに必要な存在として成立しているのだから、同時に消えてしまえば、意外に潔くすっきりとするのかもしれない。
 しかし、そんな場末のビリヤードににも、ふらりと入ってくる新しい時代の若い娘がいて、そんな娘をだまそうとする貧乏左翼の爺さんがいて、ごくたまに場末のビリヤードが輝いて見えたりするからややこしい。

製本かい摘みましては(159)

四釜裕子

蠟を塗った紐をといて褐色の包装紙を破ると、本のあいだから8ページの紙切れが滑り落ちた。開くとこう書いてある。〈イギリス、アメリカおよびイギリス植民地における文献閲覧者の協力を求めます。20年前にたいへんな熱意をもって開始された篤志協力者の仕事を完成するために、まだ調べられていない書籍を読んで引用する仕事をしていただきたいのです〉(サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』 鈴木主税訳 早川書房 以下同)。

19世紀、イギリスでの話。引用したのは、オックスフォード英語大辞典(OED)の2代目編纂主幹フレデリック・ファーニヴァルを継いだジェームズ・マレーが、1879年に新聞や雑誌、書店などに送った「訴え」の一節だ。言葉の用例を探すのに篤志家を募っていたが、遅々として進まず、20年ぶりにカツを入れたということらしい。
巷に放たれた2000部のうちの1部が、ある日、バークシャー、クローソンにあるブロードムア刑事犯精神病院の独房に届いた。受け取ったのは、被害妄想でまったく関係のない人を殺めて収容された米国陸軍退役軍人のウィリアム・マイナー。褐色の包装紙で包まれ、蠟を塗ったより紐で縛られて持ち込まれた本のあいだに、その訴えを見つけた。読むとすぐに協力を申し出るのみならず、独自の方法で早速作業を開始したそうだ。

〈マイナーは引出しから一つづりの白い紙と黒インクの瓶を取りだし、ペン先が非常に細いペンを選んだ。紙を折って8ページの小冊子の形にした。(略)興味をそそられる言葉を見つけるたびに、マイナーは自分でつくった8ページの用紙の正しい位置に、拡大鏡が必要なほど細かい文字で書きとめていった〉。

米国陸軍退役軍人として給料と年金を受けとっていたこともあって独房は2室続き、絵を描いたりフルートを吹いたり、多くの書物や酒を持ち込むことも許されていたようだ。訴えの主が望むような稀覯本をすでにいくつか持っていたために、まず手持ちの本から言葉のリストを作り始めたということになろうか。言葉と、書名と、ページと。数年かけてこの作業を終えると、どんな言葉の用例を今必要としているのかを先方に尋ね、それで初めて例文を記述して郵送することを繰り返したようだ。
マレーとマイナーは長く面識を持たなかった。小包にある「バークシャー、クローソン、ブロードムア」という住所からマイナーの素性を知ることはできず、時間と金に余裕のある博識な医師だろうとマレーは思っていたそうだ。

ウィリアム・マイナーは1834年、アメリカに渡って7代目で印刷会社を経営していた父が、宣教師として赴いた地・セイロンで生まれている。イェール大学に進み、軍医として従軍した南北戦争で精神を病んでしまう。1866年、コレラの治療に尽くした貢献が認められて大尉に昇進するが、妄想による症状が進み退役となる。その後、滞在していたロンドンで事件を起こしてしまい、1872年、精神異常を証明された刑事犯として、〈女王陛下の思し召しのあるまで保護処分とする〉との判決で終身監禁となる。1910年、マイナーの弟は米国陸軍から「英国内務大臣の同意があるなら」との条件をとりつけ、ときの内務大臣ウィンストン・チャーチルの了承を得て、マイナーを米国に戻すことになる。

ジェームズ・マレーは1837年、スコティッシュ・ボーダーズのホーウィックにあった仕立て屋と織物商を営む家に生まれている。十代ですでに博学ぶりを示し、学校のノートの余白にはラテン語で「刻苦勉励の人生に勝るものなし」と書いていた。貧しい家の子がたいていそうであったように14歳で学校を卒業。〈知識を得ること自体が目的で、しかもしばしば変わった学び方〉をしたそうで、シリウスが地平線上にあらわれる時間を計算して弟たちにその瞬間を見せて喜ばせたり、遺跡をがむしゃらに発掘したり、牛にラテン語を教えたり。〈製本のしかたも習った。自分で書いた文章を自己流に飾り書きにして品のよい小さな絵をつけたりもし、中世の修道院写本彩色師のようだった〉そうである。独学で言語学を極めるとやがてOED作りをおしすすめる責任者となり、冒頭の8ページの紙切れで同じ時代に生き合わせたマイナーと出会うことになる。

11月になって『博士と狂人』の映画版を観た。マイナーが〈引出しから一つづりの白い紙と黒インクの瓶を取りだし〉、〈ペン先が非常に細いペンを選〉び、〈紙を折って8ページの小冊子の形に〉するシーンを期待したのだけれど、見逃したのか、なかったのか。原作には〈8ページずつに綴じたそれらの用紙〉ともあったので、一枚の紙が折ってあるだけなのか、ナイフで切って開いてあるのか、あるいは紐で軽く綴じてあるのかも見てみたかった。
マイナーは〈注文した初版本の裁断していないページを切るため〉にナイフの所持を許されていたが、それほど使っていないようだとも書いてあった。実際はどうだったのか。「8ページの小冊子」は〈現在もOEDの記録保管所に保存されており、それらを見る人びとは思わず息を止めて驚嘆している〉そうだ。ネットで見られるのだろうか。ナイフはのちに、痛々しい事故の道具となってしまう。

原作の後ろにある「著者の覚書」には、そもそも著者のサイモン・ウィンチェスターが辞典に関心をもったきっかけが記されている。オックスフォード大学出版局で働く友人に倉庫を案内してもらった記念に、放置されていたOEDの凸版印刷版を3枚もらったそうだ。その後引越しのたびに、humoralからhumourまでが載る1枚をお守りのようにして持ち運び続け、あるとき、興味を示した人に貸したのだそうだ。するとしばらくして、手漉きの紙に青と赤で1部ずつ刷り、プレートを中央にして3つ並べて額装してくれて、今それは著者の自宅の壁にあり、その下に、第5巻の同じページを開いて置いて、いわくそこは〈辞書編纂と印刷の喜びや言葉の楽しみをおさめた小さな聖堂〉だという。
続いて、それを見た著者の母親が、humoristという言葉が最も大きいスペースを占めていることに気づいて偶然思い出した話が続く。さらに著者は「参考文献」の記述の文末に、〈辞典のなかで偶然、何かを見つけるのがとてもすばらしいということに、異論を唱える者はまずいないだろう〉と書いている。

本書は、マイナーが妄想の末に命を奪ったジョージ・メリットに捧げられている。マイナーがマレーからの訴えを見つけた包みをたまたま運んだのは、なんとジョージの妻・イライザだった。あの人がいなかったら、そこで出会わなかったら、といちいち言ってみたくなるけれど、そうではない世界というのはないことにまともに向き合うと、我が身に寄せてぞぞっとする。思い出す限りをたぐってつなげて、会うべくして会ったとか偶然にもとか言ってみるのは、考えるのに飽きたりむなしくなるのを納得なるもので避けるためなのだろう。誰の生も死も、納得することは不要だろう。

シンクウカンってなに?(晩年通信 その17)

室謙二

 シンクウカンと言っても、ぜんぜんわからない人がいる。
 この文章を書いているMacの横に、私が組み立てた真空管アンプがおいてある。仏教についてのインタビューに来た若い女性が、これはなんですか?赤く光ってきれいですね、とむき出しのシンクウカンに触ろうとした。あわてて止めた。「熱いですよ、やけどしますよ」。
 「このアンプは私が自分で組み立てのです」とほがらかに自慢したが、まったく感心しない。「秋葉原で買ってきたトランスも格好いいでしょ。もう生産中止なんだ。空港で重たかったよ」。
 いよいよ分からない様子だ。まあ当然だな。
 四角い鉄の箱(シャーシー)の上に電球の小さいのが並んでいて、鉄の塊のトランスが三つ乗っている。ふたつの出力トランスと電源トランスなのだけど、そんなもの初めて見るのである。シンクウカンという音が、どういう漢字なのかも分からない。真空管ですよ。ガラスの中は真空なんです。
 私は音楽を聞きながら、真空の中で光るフェラメントとか、それを囲むプレートを見たいのでアンプのカバーはない。

 真空管には、二極管とか三極管とか五極管があってね、エジソンが電球を発明して、フェラメントとプレートの間を飛ぶマイナス電子の動きを発見したときにまで遡るものなんだよ。と演説したところで、そんなことが音楽を聞くこととなんの関係があるのかしら?
 それにもう少しインタビューをしたいのだけど。という顔をしていても、アンプの電気を切って触ってもやけどしない程度の熱さになったところで、持ち上げて、ひっくり返して裏蓋をはずす。
 ハンダ付けで部品を配線した様子を見せて、「すごいでしょう」と言いたいのだけど、やはり何なのこれ?という感じで、自慢する気がなくなる。
 それで彼女は、だいたいこんな質問をする。
 「音はいいんですか?、高いんですか?」


 
  木村哲さんにおそわった

 このアンプは、いまは病気の木村哲さんに作り方を教わった。ありがとう。
 木村さんのウェブサイトに、丁寧に作り方と原理が書いてある。(http://www.op316.com/tubes/tubes.htm)。これをよく読む。なんどでも何度でも読むのです。まずは理解が肝心。分からない部分もずいぶんとあるけどね。
 その文章にしたがって部品集めをする。バークレーにも、かつて電子部品屋があった。シリコンバレーにコンピュータと電気部品の店があったし、あとは日本に行くときに、秋葉原に行った。そのいずれに行っても、私はうれしくてニコニコしてしまう。
 秋葉原は私が生まれ育ったところから省線で三つの駅だし、都電でも行けた。だから中学生のラジオ少年になってからよく通った。大人になっても、どこの店(ガード下の一人が店番する小さな店だよ)に行けば、どんな部品が買えるか知っている。
 最初の真空管アンプを作ったのは、中学生の時だったなあ。モノラルで小さな出力トランスを使った。大きいトランスは高いからね。
 あのとき感電した。電源を切っていたのだけど、アクシデントで指が配線に触ったら、バーンと肩と肘にショックが来た。電源を切っていてもコンデンサに電気が溜まっている。電流は少なくても200ボルト以上だった。肩と肘にショックが来たのは、肩と肘の関節の骨が向かい合っているところにコンデンサみたいに電気が溜まったのだろう。まったくもって驚いた。
 あのころのラジオ少年は、「模型とラジオ」とか「初歩のラジオ」などという雑誌を読んで、いっしょうけんめい勉強したのです。真空管のなかにあるフェラメントが電気でもって発熱·発光して、これは白熱電球と同じ、マイナス電子が飛び出すのだね。真空管の中には高圧の電気が通じているプレートがあって、プレートが一枚だと二極管で、交流を直流に整流する。それに網状のグリッド加わると三極管になって、電気を増幅する作用があるの。あともう少し複雑な五極管がある。そんなことの原理を読んで、またいろんな真空管の仕様を丸暗記していた。
 真空管を手にとってじっと睨んでいるだけで、回路を組んでいなくても、想像力が働く。また私は天文少年でもあったので、手作り望遠鏡で夜空をにらんでいるときも、想像力が動きだす。
 休みの日に女の子と喫茶店に行くのも楽しかったけどね、真空管と女の子を比べれば、真空管のほうがいい。いつ女の子の手を握ろうか、とドキドキとしなくても、真空管ならいつでもぎゅっと握りしめることができるのです。

 いまでも私の本棚の一角に古い真空管が入っている箱がある。古いといってもまだ使っていないもので、東南アジアとか南米の小さな電気屋を回って使っていない古い真空管を集めてきて、アメリカで売っているオンライン店がある。いまのアンプの真空管が壊れたときのための予備もあるし、いつか作ろうと思っているアンプの真空管もある。でもそんな時間はあるか?私が死んだときに、古びた真空管を捨てるな、と息子に言っておかないといけない。だけど、どうしろと言うのかは、まだ考えていない。
 かつてのソ連(いまは知らないよ)、中国にヨーロッパでも、真空管を作る工場があるのです。というのは一部に真空管アンプ信者がいるし、それよりもギターアンプとして真空管が使われている。大きな入力を入れて真空管から歪んだ音がでてくるのがいい。それが真空管から出てきている音だと知らないで聞いているひとが多いはずだ。半導体アンプでも真空管アンプの音がするように設計されたものがある。

  真空管の寿命

 真空管には、まずナスの形をしたナス管でしょ、それからST管(ダルマ管)、GT管(これを私のアンプは使っている)、それからミニチュア管にサブミニチュア管。サブミニチュア管は、電池で動かして、かつてはポータブルラジオに使った。ちょうど真空管から半導体に変わっていく時期に私はラジオ少年になった。だから、サブミニチュア管と半導体(トランジスタ)の両方を使った経験がある。
 でもサブミニチュア管なんかダメだね。ダルマ管こそが、真空管のなかの真空管のように思える。添付の写真の左から二番目だ。
 真空管を使った並三ラジオとか並四ラジオ(低周波増幅一段と二段の違い)。これは再生検波でピーピーと発振する、U型マグネチックのスピーカーがついている。それに高周波一段をつけたのもあった。いまから考えるとひどい音だ。
 あとでスーパー(スーパー·へトロダイン方式)が出てきて、これは455kヘルツの中間周波数を使っていた。ことなんか思い出すが、文章を読んでいるほとんどの人は、それがなんだか分からないだろう。

 真空管アンプには寿命がある。
 真空管の寿命は長い。使い方にもよるが、精一杯に電圧を上げた回路で使わなければ、十年とか二十年とか三十年とか。興味のある人とはGoogleで調べてください。真空管より、アルミの電解コンデンサの方が最初にへたると思う。雑音がしたり音が歪んだりするらしい。私の真空管アンプはすでに十年だが、アンプもコンデンサもまだまだ頑張って働いています。
 かつて私の仕事場の真空管アンプを前にして、親父が死んだら、どちらが手作りアンプをもらうか息子二人が議論していたことがあり。一人が真空管アンプで、もうひとりが半導体のヘッドフォーンアンプを持っていくらしい。それにこれは私が作ったものではないけど、真空管ギターアンプもある。作りかけのアンプもあったけど、どこにいったのかなあ。仕事部屋の中をみまわしても、見当たらない。天井裏か。
 いま使っているアンプの古くなってきた電解コンデンサを、取り替えておいたほうがいいかもしれない。息子たちのために。
 真空管は終わったテクノロジーなんだ。一部のギターアンプに使われているが。それに宇宙開発で使われているらしい。終わったテクノロジーには美しさがある。インタビューに来た若い女性にはまったく分からなくても、美しいんだよ。
 でも、それは本当かな?
 私は75歳の老人でそろそろ寿命で、だから終わりかけのものは美しいと勝手に書いているのかもしれないよ。若い人は、疑ったほうがいい。

 注 写真は
http://kawoyama.la.coocan.jp/tubestorysubminiature.htmからダウンロードした)


木村哲さんの真空管の本
『情熱の真空管アンプ』(2004年実業之日本社)
『真空管アンプの素』(2011年技術評論社)

コロナが明けたら

三橋圭介

DTM(GaragebandとWaveform)はエフェクトの付いた無限のマルチトラックみたいなものだろうか。ループやディレイが使えるメモリー・マンharazaiを挟み、最近買ったmini jazzmasterとcasio uk-01、トモミンなどを音源とする。

ギターは小学校の5年からやっていたが、大学時代がすっぽり抜けている。中学からリードギターを弾き、バンドという一通りの道を通り抜けたが、大学時代はDX7のシンセと8チャンネルのマルチトラック(yamaha)が遊び場だった。友人と交互に即興を重ね、曲作りをしたりもした。ここ10年は「がやがや」などでへんてこなバンドをやったりしたが、主にボサノヴァギターを弾いていた。いまはエレキギターを加え、マルチトラックがDTMに変わったにすぎない。

基本はドラムを選び、そこになんとなくテンション・コードを入れ、メロディ、ソロを乗せ、ベースも入れる。プラスキーボードや効果音なども入れて曲ができる。7トラックくらいになるが、基本的に即興なのでヴィジョンはその場のもの。ドラムのリズムでなんとなく曲想がきまる。ロックっぽいこともあれば、テクノのときもあれば少し実験ぽいものもある。しかもどのトラックも簡単に削除できるので、最終的な形は定まらない未完成にとどまる。しかもアンプとそれに付随するエフェクトも変えることができるのである程度のヴァリエーションが可能だ。そう、この最後の部分がDTMの醍醐味なのだろう。

エフェクト効果、どんなディストーションをかけるか、これでもないあれでもない。エコーはどれか。8チャンネルマルチトラックのときは手持ちのエフェクトを駆使するか、シンセで音を作るしかなかった。DTMではrock,experimentalなどさまざまなタイプの楽器、効果を選択すれば、子ども用mini jazzmaster、casio uk-01も名機へと姿を変えることができる。もちろんチャンネルは増やすことも、消音することもできるので、メロディだけを残してまったく別の編曲を作ることもできる。そうしてできたものをミックスすることで、うまくすればVan Dyke Parksみたいな面白い効果が生まれるだろう。

DTMで遊ぶことは面白いが、こんな感じあんな感じというものが手軽に即興でできてしまうことで演奏する楽しみが遠のいていく。やはり生のバンドがなつかしい。コロナが明けたらやってみるかな。

透明迷宮

笠井瑞丈

私が企画している
ダンス現在シリーズも気づけば
12月でvol.19となりました

偶数月は笠井叡のソロ公演
奇数月はゲストのソロ公演

2020年12月最後の
ダンス現在という事もあって

ゲストに高橋悠治さんにお願いし
笠井叡×高橋悠治
即興セッションを行いました

叡さんは
よくことある事に

「悠治さんとやりたい」

そんなこともあって
高橋悠治さんに出演をオファーし
今回のセッションが実現しました

二人のセッションは過去何度も行なっています
毎回スリリングで予測不能なセッションです

今回は基本即興を軸に
バッハ平均律8番12番

この曲は私が大好きな曲
悠治さんの演奏で聞けるのは
なんとも至福の時間でした

今年最後のダンス現在に
二人のセッションが実現して
本当に良かった思います

来年もこのダンス現在シリーズは続きます

そしてまた

「悠治さんとやりたい」

呟くと思います

また二人のセッションが見れる事を願って

万華鏡物語(8)もろびとこぞりて

長谷部千彩

その店は壁が一面ガラス張りで、窓に向けて設えられたカウンターに並んで座ると夜の街を見下ろせた。ライトを点けたタクシーやバスが、駅前のロータリーをゆっくり回って大通りへと出て行く。小籠包。黒キクラゲの黒酢和え。青菜炒め。スペアリブ。ピリ辛のワンタン麺。私たちが一緒に食事をするのは一年ぶり。それでも久しぶりという気がしないのはインターネットのお陰。ヨーロッパと東京、遠く離れた場所で暮らしているのに、LINEで頻繁にやりとりをしているため、私には、彼女が大阪あたりからふらりと上京した友人のように感じられるのだった。

私が暮らす街は外出自粛要請に留まったけれど、彼女が暮らす街ではロックダウンという措置が数回取られた。中でも春のロックダウンは厳しく、運動と買い物のための外出時間が一日にわずかに与えられ、それ以外は家にいなければならなかったという。
もちろんその時期も私たちはビデオ通話で連絡を取り合っていた。でも、話題の中心はもっぱら配信動画の情報で、最近観て面白かった作品を教え合う、それは新型肺炎がそれぞれの街で広がり出す前からことだ。
 

家庭内感染を防ぐため、春から秋まで、妹家族と同居している母を私の部屋で預かっていたこと、その中でも私は途切れることなく仕事を続けられたこと、精神的退屈を回避するためオンラインで大学の講義を受けていたこと、それらは既に彼女には話してあったので、新たに報告することは特になく、私たちはせわしなく箸を口に運び、頼みすぎたかと心配した料理はすべて平らげた。台湾料理のチェーン店だが、どれを食べても美味しいと彼女は舌鼓を打った。この店に来るのは初めてだと言っていた。

店を出て、エレベーターに乗ると、私は1階のボタンを押した。他に乗客はいなかった。
ふと彼女が「大変な一年だったね」と呟いた。
自分の履いた紫色のアンクルブーツのつま先を見ることもなしに見ていた私は、その言葉に「そうね。でも、私、あんまり大変だと思わないようにしているのよ」と返した。
「だって、考えてみたんだけど、私、そんなに大変じゃなかったんだもの。昼寝して、マンガを読んで、配信だけど映画も観て、結構楽しくやっていたから」
青白い光の下だと、バックスキンの紫色は茶色に見える。
「それはさ、仕事をなくしたひととかは大変だったと思うけど」と続けると、「実際かかっちゃったひととかね」と彼女が付け加えた。
「そうそう。だから、そんなに大変でもなかった私が、大変だった、大変だった、って言うのは違うかな、と思って」
6、5、4。階数表示の数字が順番に光る。
「確かに。旅行はできなかったけどね」と彼女は言った。
3、2。
「それはね、残念だったよね」と私が返す。
モロッコに行けたら。キューバもいいね。ギリシアにも行ってみたい。去年の今頃、そんな話をふたりでしたことを思い出した。
1。

エレベーターの扉が開く。ビルを出ると、通りには冷たい風が吹いている。
駅前の広場は、電飾がいつもよりキラキラと輝いている。
そうか、来週はクリスマスなのか。
ふと頭をよぎる。
どこかで途方に暮れているひともいるのだろうなあ。
ちょうど目の先にあるガードレール。あそこでいつも帽子をかぶった男性がホームレス自立支援の雑誌を販売している。
私はこの冬、ストールを新調した。それは奮発しただけあって、厚みのあるカシミアで、とても温かく、今日も首に巻いている。
私のことは放っておいてもらっても(いまのところ)大丈夫。だから、私は神様というものがいると思ってはいないけど――もしも神様がいるならば、私には必要のないその手を、どこかで途方に暮れているひとに差し伸べてくれればいい、と思った。

台湾料理のレストランでは、小さな音でクリスマスソングが流れていた。
もろびとこぞりて、
諸人こぞりて、
だれもがこぞって、
大変だったと言うけれど、
私はそれほど大変ではなかった。
「大変」は、本当に大変なひとのための言葉。
「大変」は、きっと彼らにとって大事な言葉。
だから、大変ではなかった私はその言葉を使わない。
2020年、私はそう決めたのだ。
心の中でくちずさむ。
それは、私が好きなクリスマスソング。
もろびとこぞりて、
諸人こぞりて、
だれもがこぞって、
大変だったと言うけれど。

仄暗い宇宙時間

西荻なな

 朝まで一度も起きずにぐっすり眠ることから遠ざかって久しい。夜中に一度、日が昇る前の早朝に一度、泣いて目を覚ました子どもが泣き止むまで、授乳をしたり、背中をトントンして寝疲れるのを待つ。わずか数分のこともあれば、時に一時間にも及ぶこの真っ暗な時間のあと、子どもの眠りに引きずり込まれるように再び寝入ることがほとんどだが、その先に訪れる細切れの夢の数々に絡め取られていた、と気づくのは起床して子どもの世話をして一段落した頃だ。早朝に見たのか夜中に見たのか判然としない、しかし細部までくっきりとした夢の場面が、次々につながって脳裏を駆けめぐる。まるで人生が過去から現在まで巻き戻されるような不思議な夢の現実感に、現実と夢があべこべになる。

 子どもが起きる時間が身体に自然と組み込まれたいま、夜中も早朝も、その泣き声を聞く前に意識だけははっきりと覚醒していて、子どもが泣いて起きるのを眠りの中で待っている自分をはっきりと眺めている。それは長い夜の中で、いちばん輪郭のはっきりした時間だ。子どもがようやく寝てくれた、今日は早く寝てくれてよかった、などと思うそばから、その何より手応えのある雑感はたちまち断片的な夢の中に溶かされていくのだ。

 世の中に出てきた赤ちゃんが、一晩ひとりで眠れるようになるまでの時間、遡れば胎児の時期から始まるこの夜の断片的で広大な時間の流れに、多くの母親は引きずり込まれるのだと思う。果てのない海のような時間に身を委ねていると、すっかり慣れた地球から切り離され、宇宙に漂流したような気持ちになる。ようやく以前のように夜通し眠れるようになった、と安堵を覚える日はまた乳児期の終わりに等しいのかもしれない。この仄暗く甘美な、円環的な時を懐かしむ時もいつかやってくるのだろうかと未来に思いを馳せながら、いまはまだこの宇宙時間に浸っていたい感傷に駆られる。

Sun Dog

管啓次郎

家鴨の群れが住む池がある公園で
ぼくが自分と立ち話をしていると
むこうから友人が歩いてきたのだが
その名前がどうしても思い出せない
そもそもどういう経緯で知り合った
人だったかも思い出せないのだ
だが経度も緯度も超えて
陽の光がさらさらと
青い水のように降ってくる
ものしずかな瑞兆
気のいい友人はにこにこと笑いながら
「一年」 という枠で日々を捉えることの不毛さを
語ってくれた
こうして直接もっとも大切な
話題に入れることこそ友情の特権
名前を知らなくても関係ない
無用な知識はいらない
空っぽの耳に呼びかける
動物たちの声が
池の水面に同心円状にこだまする
池はまるで命の寓話
生まれ死ぬことは水のように
階層も序列もなく
そこに溜まっているのだ
循環の中に
この池の家鴨たちは年間をつうじてここにいる
渡りにあこがれることはないのだろうか
遠い土地に帰りたいとは思わないのか
帰るべき土地がないのか
太陽の南中する位置を月毎に撮影して
その二十四枚を重ねた写真があった
夏至の南中と
冬至の南中の
位置の差には驚くしかない
そのどこかに最適の地点があるとしたら
そろそろ正午だね、とぼくはいって
なぜか深呼吸がしたくなった
するとむこうから自転車でやってくる
若い母親がいて
自転車を止めて友人に挨拶した
サドルとハンドルのあいだにつけられた子供シートに
二歳くらいの女の子が乗っている
ああ、ゆめちゃん、と友人が声をかける
きょうはお兄ちゃんはどうしたの、と彼がいうと
代わって母親が、おるすばんね、と答える
夢ちゃんか、いい名前だね、とぼくはいう
秋田犬みたいな名前だと思ったが黙っている
プーチンのことを思い出させたくなかったので
すると友人が、この子のお兄ちゃん
なんていう名前だと思う、と訊いてくる
ぼくが間髪入れずという感じで
現実
と答えると
友人と母親が目を丸くして驚く
どうしてわかったんですか、と母親に訊かれて
え〜、わかるでしょ、と答えたが
自分でも理由はわからなかった
いい名前だな、とは思う
兄妹にとって。すると友人が
ゲンジツだけどrealityじゃないんだよ、という
それで頭の中でただちに別変換して
あ、幻の、
というと二人がそうそうと肯く
そこではじめて
すごい名前だなあ、と感心する
幻日か、Sun Dogか
偽の太陽か、それもいい
Parhelionが空をかけてゆく
太陽がいればそこには
太陽に連れだって進む太陽犬がいるだろう
しかもしばしば幻日は
太陽の両側に
二匹が連れそっているらしい
現実に見たことはない
極地に行かなければまず見られない現象だ
けれどもその光景を想像すると
杖をついて歩く聖ラザロに
忠実に従う二匹の犬の姿を
思わずにはいられなくなった
The Sun Dogs
3ピースのロックバンドをやるなら
これ以上はない完璧な名前
こうしたことはすべて一瞬
頭をよぎるが
雲の通過にすぎない
ただ過ぎてゆく
突然、夢ちゃんが
ゲンジツ来た、と大声でいうので
見ると片手に野球のミットをはめた
男の子が歩いてくる。
ところで目が覚めて
ああ、きょうも仕事
と口をつく言葉に
一瞬で現実に引き戻された
きょうはいい天気
朝の青空がひろがっている
冬だ
見つめることのできない眩しい太陽が
思考を非常に清潔にしてくれる
履歴を簡潔に
簡明にしてくれる
すぐにでも起き出して
観測を始めなくてはならない
白鳥が渡来する池のほとりの道を
今日は歩いてゆくのだ
すると太陽が次々に上り
空には十二の太陽が乱舞している
それぞれの太陽が二匹ずつの太陽犬を連れて
整然とした踊りをおどっている
こんな宇宙は見たことがなかった
真実とはこういうものだろうか
と思ったとき、ぼくは明るい気持ちで
世界を受け入れる準備ができたようだ
十二の太陽と
二十四の幻日が
ひとつの生涯には十分すぎる
光の場を提供してくれる
肌はガラスのように透きとおり
魂の鼓動を見せるだろう
心は光のひとつの状態にすぎない
心は太陽を真似る
幻日
太陽の犬たち
また流浪の一年だ

しもた屋之噺(227)

杉山洋一

イタリアでコロナ禍のニュースを読むと、国内の財源確保のための欧州議会との折衝を伝える記事が目につきます。自ら財貨を生み出す必要のある日本とは随分違います。政府もこれだけ財源を確保したから、国民もこれだけ協力して欲しいという構図でしょう。
これから何十年か後、日本のニュースも現在のイタリアと同じような見出しを伝えているかも知れません。どちらが良いのかも分かりませんし、来年の今頃、目の前にどんな光景を見出し、何を考えているか、見当もつきません。

12月某日 ミラノ自宅 
新感染者数23225人。ICUは19人減。陽性率は10.24%。死亡者数は993人。第一波の時ですら、これだけ大人数は亡くならなかった。大阪の知事が外出自粛要請。

12月某日 ミラノ自宅 
聖マリアが聖アンナに宿ったとされるImmacolata祭日。
朝一人で歩きながら、ブソッティの詩による小品を考える。原倫太郎さんのマリンバ卓球で遊ぶ若い男性の姿が、ブソッティの獣的同性愛の言葉と、どう象徴的に絡められるか。自分がどう介在できるか。朧気ながら浮かびあがってくる。それはセピア色の哀愁に満ちた情景のようでもあり、橙色に燃える夕焼けの逆光に、どこまでも長く伸びる黒い影のようにも見える。

レプーブリカを買うと、昨日のスカラ座初日代替演奏会について、大きく紙面が割かれていた。MS曰く、歌手は素晴らしかったが、それ以外言うことはないと手厳しい。最後、ウィリアムテルで、ミラノ・ガレリアの空撮風景まで出てきて彼女は我慢ならなかったそうだが、個人的には現在の世情と準備期間、リハーサル時間を鑑みても、とても考えられた演出だと思ったし、特に最後のロッシーニは心に染みた。オペラ畑で暮らす人間にとって、スカラ初日が大衆迎合するのは耐えられないのかも知れない。
正直に言えば、番組終了後、思わず少し心が沈んだ。毎年このイヴェントを目指して、スカラ座関係者たちは準備に余念なかった。息子たちが「蝶々夫人」をやった時、どう転んでも現在のような姿は想像できなかった。
新感染者数14842人で陽性率は9.9%に減少。死者は634人。この日常に於いて、音楽で何が出来るのか。

12月某日 ミラノ自宅
日がな一日、階下で息子が三度の練習曲をさらっている。
朝は生徒たちが送ってきたヴィデオに助言を書き、小品作曲。超現実的な毎日のなか、明るく、意欲を失わない若者の姿に心を打たれる。
新感染者数13720人で、陽性率は12.3%まで上昇してしまった。死者は528人。日々の夜の帳に浮かび上がる、無数の無言の人間の姿。

12月某日 ミラノ自宅
息子は年末の一人暮らしが愉しみなのか、朝起きてくるといそいそ我々の朝食の支度などしている。
家人と「ジョルジア」まで歩いて、チョコレートと洋梨のパネットーネを購う。イタリアに住んで25年、パネットーネは単にミラノのクリスマスケーキという認識でしかなかったが、「ジョルジア」のパネットーネは、愕くほど柔らかく、美味。
新感染者数は18887人。陽性率は11.54%で、564人死亡との発表。
生徒が何時から学校に戻れるようになるのか気が気ではなくて、思わず、毎日夕刻保健省の感染状況発表を確認する。朝10時から夜20時30分まで、遠隔授業。

12月某日 ミラノ自宅
学長より緊急連絡あり。14日より指揮の対面レッスン再開決断とのこと。日本に帰国前に些少でもレッスンを再開できるのは嬉しく、深謝。
陽性率が10.7%で、新感染者は21052人。死亡者は662人。そんな毎日のなか、対面レッスンをする意味を改めて考える。それに値する内容を伝える責任が、教える側にも生ずる。
早急に2回分の補講を手配し、帰国前に計4回レッスンを入れる。
耳の訓練の授業は、随分迷った末、今月は遠隔授業続行と決めた。歌う機会が多い集団授業だから、やはり今は危険だと思う。学生たちから、どうしても対面授業できませんかと連絡が届き、心が痛む。

12月某日 ミラノ自宅
山根さんより、ズームでインタビューを受ける。自分の裡は、湧きたつ音もなく干乾びているから、自分の外にある音を聴く。繰返しへの恐怖は何だろう。同じ事象の繰り返しに薄い罪悪感を感じるのは何故か。ドナトーニの影響かも知れない。彼は生前から非対称を愛していて、未来を規定するのも不可能だし、同じ物体や事象など存在し得るのか、もし存在しないのなら、自然の摂理に反していないか。そんな話を彼とした記憶が、ぼんやり残っている。「自画像には国歌以外の部分も沢山あるのですね」と言われたのが新鮮。

12月某日 ミラノ自宅 
耳の訓練を遠隔授業をして気づいたこと、備忘録。
音を聴く時は耳を使わず、目で音を判断、理解し、感じる。
前頭葉あたりで音を聴く感触があれば、それをそのまま視覚を通し、身体の外、目の前に投影させる。後頭葉、自分の頭の深部へ音を回さないこと。後頭部の音を聴く瞬間、外部で響いている音は聴こえない。
遠隔授業のお陰で、指示がとても具体的になった。
音が聴こえないとこぼす生徒には、自らの指で、鼻先や喉、下唇やオデコを触らせ、そこに現れる音を知覚し、視覚化するよう言う。その際、脳を通さず、直接知覚した感覚を発声させる。
頭で聴こえる音を聴かない訓練。頭で音を鳴らさない訓練。
最近では、授業の時の自問自答さえ止めさせている。音は後頭部奥底で別の音にすげ変わるようだし、自らの分身が間違った答えを悪魔のように囁くからだ。
あくまで自身の意識で、眼前の空間に投影された音符を操作し、論理的に分析し思考して音を理解する。
すると、ズームを使った授業ですら、誰もが音が感じられるようになる。
実際は、聴こえないと思い込んでいた音が聴こえるだけの話なのだが、自分がこんな風に音を聴けるのかと実感すると、難易度を上げても面白いようについて来る。

同時に、聴こえない自分を責める必要がないよう、自らの裡の「Alter Ego maligno、性悪の分身」に責任をなすりつけ、楽観的に音と対峙できるように心がけている。
聴こえている音を、この分身が邪魔して聴こえないようにしている。知覚する回路を堰止めてしまうから、その辺りに神経を通さない、等と怪しげな文句を言っているうち、聴こえない音を聴くために身体を固くしていた生徒たちの身体が少しずつ緩み、すっと音が見えるようになるのは面白い。
聴こえないのは自分が悪いと思うだけで、聴こえる音も聴こえなくなる。まるで催眠術のようだ。実際聴こえているのに、気が付かないだけなのだから。
緊張すると簡単な音程すら判別できなくなる学生たちが、最後はピアノの鍵盤最高音部の和音聴音もできるようになった。音を聴くために具体的な指示が出せれば、指揮のレッスンにも活かせるに違いない。
新感染者数12030人で陽性率は11.6%。491人死亡との発表。

12月某日 ミラノ自宅 
朝7時くらいに家人と散歩に出る。帰ってくると胡桃を4,5個割り、庭の樹の下に置いてやるのが習慣になった。
毎朝8時過ぎ、左の幹の中程にある、嵐で枝がもげて出来た洞(うろ)からリスが顔を出す。リスは胡桃の所在を確認すると、いそいそと胡桃のところへ降りてくる。リスが庭に巣を作っているとは想像もしなかったが、番いで棲みつき、一匹子供までいると知ったときは、目を疑った。
時々、お世辞にも可愛らしさと似合わない、アヒルのような声で啼いたりして、樹から樹へ愉しそうに駆け回る姿は愛らしい。昼過ぎになると腹が減るのか、ベランダ近くまでやってきて、こちらを凝視する。馴れるのも良くないと放っておくが、根負けして数個の胡桃をやったりもする。先日は遠くでこちらを見つけると、一目散で駆け寄ってきた。可愛いが、これ以上近づかない方が互いのためだろう。

週末の早朝、息子を国立音楽院に送った帰りに目にした、聖ソフィア通りを横切る路面電車の側面に貼られた、大きな広告。
「Torneremo ad abbracciarciもうすぐ、きっとまた抱きしめられるようになる」。
病気で死の床にある老チンパンジーが、旧知の動物学者と再会し、満面の笑顔を浮かべて、彼を抱擁する動画を見た。
スキンシップが古来、動物のDNAの奥底に刻み込まれた欲求だとすれば、日本人が対人距離を取るのは、理由があるかもしれない。イタリアにいるとそう感じる。
遠い昔、既に日本列島は凄惨な疫禍に見舞われていて、現在の日本人がその数少ない生残りの末裔だと考えれば、生活習慣はもとより、「疫病神」「縁がちょ」のような穢れの偏執にも納得がゆく。
日本人は子供の頃から穢れの概念と暮らす。イタリアの子供が「お前はバイ菌」と友達を苛めた話は聞かない。日本人は、既に進化した人間の姿なのかもしれない。
昨日からミラノはイエローゾーンとなり、久しぶりに喫茶店でコーヒーが飲めるようになった。店主の笑顔が嬉しい。

12月某日 ミラノ自宅
何重もの免疫機構を乗越え、ウィルスが身体に病巣を形成し、腫瘍やら炎症が起こすとき、先ずは身体の自然治癒力が働くに違いない。体力があればそれだけで完治するかもしれない。併し、短期間に身体中に病巣が拡大し体力や気力を奪えば、次第に体力も弱まり、息絶える可能性もあるだろう。
Covidやパンデミックが怖いのは、身体の細胞のように、地球のフラクタル構造の底辺にいる我々から、戦う気力を奪ってゆくからだ。最初の流行より、第二波、第三波の精神的損傷はずっと根が深いと思う。イギリスで変異種確認。オランダはイギリスからの航空便を休止決定。
新感染者数16308人で陽性率は9.2%。553人死亡。

12月某日 ミラノ自宅
オランダ、イギリス間の航空便閉鎖の翌日、イタリアも英国便閉鎖を発表。ロンドン経由で予約していた家人の帰国便も運航停止となり、パリ経由便の予約確定まで、学校でレッスン中も彼女は気もそぞろ。
イタリアは、クリスマス新年の休暇期間の移動を制限するため、全国的にレッドゾーンになる。明日まで就労、学業目的の移動は認められているはずだが、首相令の解釈にも幅があり、学生たちもそれぞれとても心配しながら、列車でミラノまでやって来る。中央駅など目ぼしい主要駅では警察が細かく自己申告書を確認していて、こちらも気が気ではない。
ジェノヴァから通うマルティーナからは、学業目的では不安で、就労目的と自己申告するので、もし警察から確認連絡があったら話を合わせて欲しい、と連絡があった。
レッスンを終えてトリノに帰るダヴィデは、行きはよいよい帰りは怖い、無事に家に辿り着けるよう祈っていてください、と笑って教室を出て行った。
誰も正確な事情はよく分からないし、学校に確認しても分からないと言う。目まぐるしく状況が変化する中、誰もが断定的な助言を避ける。
権利だったはずの学習すら、立ちはだかるパンデミックを前に風前の灯であって、学生たちはそれぞれ必死に勉強して、明後日からの移動制限を前に帰省する人いきれに揉まれながら、緊張した面持ちで学校までやって来る。
聞き切れないほどの曲を用意して来ていて、出来るだけ彼らの情熱に応えようと務めている。
日本から戻って自主待機の終わる2月、無事レッスンが再開できる保証はどこにもない。口には出さないが、誰もがその恐れは感じているから、一分でも惜しんで今言えることを伝え切らなければいけない。
一年間かけて、どの順序で何を準備し、どう学生を導くか。今までのような計画的なレッスン体系は、今日、机上の空論に近い。
ベートーヴェンで全体構造を、シューベルトで和声構造を、そしてブラームスやドビュッシーでそれらの統合を学び、モーツァルト、ハイドンでそれぞれが本質について考える。それから、という流れで教えることは、現在の情況では不可能だ。
寧ろ、まとめて学校でレッスン出来る時に、ロマン派をやらせることにし、最初のバルトークのミクロコスモスが終わると、無理してでも「兵士の物語」を始め、モーツァルトを同時に読み始めることにした。
メトロノームで練習しながら、どれだけ音楽的にフレーズを作れるかを学ぶ意味で、古典とストラヴィンスキーは明らかな親和性がある。
何年も前から、作曲科生の耳の訓練クラスで教えてきて、今年から指揮を始めたフェデリコが、ピアチェンツァ近郊の出身なのは知っていたが、イタリアで最初のCovid感染爆発が発見されたコドーニョ出身とは理解していなかった。
彼は祖父の代からの教会つきオルガン奏者で、レッスンにも祖父の使っていた、初めてみる鼠色の1945年リコルディ版「子供の情景」を持ってきた。
表紙には「Scene fanciullesiche」と、奥ゆかしい伊訳が印刷されていて、時代を感じさせる。校訂者のレンツォ・ロレンツォ―ニは、ナポリ音楽院でマルトゥッチの薫陶を受け、後年は教育者としてミラノ音楽院で、ガヴァッツェーニやマルチェロ・アッバードを育てている。
夏まで葬儀が禁止されていたので、春の第一波で斃れた故人たちの告別ミサのため、夏の間、少なくとも30回はオルガンを弾いたそうだ。
柩は既に埋葬されているから、亡骸はないまま、遺族がミサで故人の平安を祈った。Covid前に最後に学校で会った時のあどけなさの残る少年の顔から、一気に精悍になったと感じていた。
「コドーニョは感染爆発後、直ぐに街が封鎖されたので、最初に沢山人が亡くなって以降は、感染の広がる周囲からも隔離され、或る意味とても安全でした。それに比べれば、ベルガモは経済界の圧力で最後まで都市封鎖出来なずに悲劇をもたらしましたが、あのような地獄はコドーニョには訪れませんでした。それが不幸中の幸いです」。
そう言って、この後すぐに家に帰って作曲の遠隔レッスンです、と慌てて自転車でサンクリスト―フォロ駅へ走っていった。
夜、階下で家人と息子が、レスピーギの「Natale Natale(クリスマス、クリスマス)」連弾を録音している。クリスマス、山を下りた牧童の葦笛の向こうで、大小さまざまの鐘の音が温かく鳴っている。街の教会や、丘向こうの古いロマネスク教会の小さな鐘楼から、さざめくように響いてくる。
昨日の東京新感染者数は888人。アデス入国は不可能との連絡。

12月某日 ミラノ自宅
ここ暫く家人と散歩していた道を、久しぶりに一人で歩く。Covidで、日本との往来がすっかり困難になったので、秋から昨日まで殆ど毎日欠かさず二人で歩いた。そんなことは結婚来初めての経験だった。
毎朝、歩きながら息子の話などしていたが、思い返せば、そんな時間も結婚来初めてだったと気づく。親の子離れも子供の親離れも目前に迫っている。寂しいような、頼もしいような、味わったことのない不思議な感情。
母親だから、家人はより強くそう感じるかもしれないし、余り大差はないかもしれない。
自分の両親も世界中の家族も、ひいては世界中の動物だって、それぞれ似たような感情を抱きながら、子供の成長を認めているに違いない。所詮、我々人間も動物以上でも以下でもない。
シルヴァーノとロッコに贈った小品を、彼らはとても喜んでくれた。なんて素敵なクリスマスプレゼントだろうと便りを貰う。すぐ近くに住んでいるのに、もう長いこと会っていない。
サンドロに家人のCDを届けに行く。サンドロがCovid感染後、初めての再会だった。2階の窓から顔を出して、嬉しそうにこちらに手を振り、「折角だから上がってきて、一緒にワイン一杯くらい呷っていきなよ。漸く快復したよ。ほらこの通り、ピンピンしている」。
ほんのり顔に赤みがさしていて、クリスマスの昼餐、子供や孫に囲まれ余程嬉しかったに違いない。
イギリスで南アフリカ由来の新変異種発見。ドイツでもイタリアでもイギリスの変異種感染確認のニュース。サンマリノがイタリアとの国境一時閉鎖。イタリアで最初の接種用ワクチン9750本が、警察の警護付きでローマのスパランツァーニ病院へ届く。
新感染者数は19037人。陽性率は12.5%に急増。459人死亡。Rt値はモイーゼ州以外1以下のまま。

12月某日 ミラノ自宅
晴れ渡り、無音で澄み切った朝、並んで庭を眺めながら朝食を摂っていると、「今日は救急車の音が少ないね」と息子が呟いた。
救急車だけではない。空を駆ける飛行機の音も殆ど聴こえなくなった。
日本政府、外国人入国禁止を発表。イタリアからの日本入国に際しCovid検査の陰性証明提出が必要になった、と夜半の領事館からのメールで知る。
年末の休暇期間のそれも週末、どこで検査が受けられるのか、血眼になってインターネットで探す。
ロンドン経由便は運休になり、ヘルシンキ経由便も減便で週に数えるほどしか飛ばない。パリ経由便は、パリ空港の乗継に16時間から24時間かかると言うではないか。信じられない。何という時代になったのか。
東京の新感染者数949人、全国で3881人。死亡者数47人。
イタリアの新感染者数は10407人で、陽性率は12.8%。死亡者数は261人。

12月某日 ミラノ自宅
朝起きると、東京に一足先に戻っている家人からフランクフルト経由便に変更するよう電話がかかる。明日なら便が飛んでいるし、乗継も大分短縮できるそうだ。日本政府が外国人入国拒否を発表したので空席が出たのかも知れない。昼過ぎリナーテ空港脇の検査場に一時間ほど並びCovid検査。陰性。
自分の仕事などする余裕は皆無。
日本新感染者数2941人。死亡者数40人。イタリア新感染者数8913人。陽性率は14.88%に上昇。死亡者は298人。

12月某日 三軒茶屋自宅
朝4時起床。5時に呼んでいたタクシーに乗り、リナーテ空港へ向かう。辺り一面深い雪景色に覆われていて、こんな早朝では未だ道路の除雪もされておらず、吹雪の中、空港まで徐行する。
イギリスの変異種発表により、この数日で世界の航空事情は大きく変化した。Covid検査義務も刻一刻と変化していて、空港職員も乗客も混乱している。まだ朝の6時前だと言うのに、空港職員たちは各国の領事館や大使館にその都度電話して確認を取っている。大変な作業だ。
チェックインに時間がかかり、飛行機に乗込んだのは離陸予定時刻を30分ほど過ぎてからだった。吹雪の中、がらんとした夜明け前の空港で、大型の除雪車が、滑走路の整備に走り回っていた。ただ、幾ら雪を掻いても、吹き付ける雪の方がよほど多くて、すぐに覆われてしまう。視界は酷く悪かった。朝7時過ぎに機体に乗込むと、既に翼を覆う雪の厚さは20センチに達していた。
飛行機の氷雪の融氷、防氷作業も一度では足りず、二度ほど繰返された。機内で3時間待機し、悪天候で空港閉鎖かと思っていると、突然、機長から離陸許可が出たとアナウンスがあり、そのまま慌ただしく出発した。
フランクフルトまではほぼ満席だったが、フランクフルトから羽田までは前回夏に帰国した時より、心なしか人の多い印象を受けた。
羽田空港検疫で唾液検査。こちらは前回夏に帰国よりずっと厳しく、検査結果が出るまで2時間近くかかった。入国者全員にやっているのだろうから、検疫官もさぞ大変だろう。コロナ禍以前からは想像もできない新らしい日常を垣間見る。

12月某日 三軒茶屋自宅
日野原さんに教えてもらいながら、松平夫妻、安江さんとブッソッティ「肉の断片」を読む。ズームごしのみなさんはお元気そうだ。
一見すると極度に密集した楽譜のようだが、読み下してゆくと、ちょうどブッソッティの仕事部屋のように、ごてごてした調度品に囲まれた、整然とした空間が浮かび上がる。
日本の新感染者数4520人。そのうち東京都の新感染者数1337人で東京都昨日の陽性率は10.2%。死亡者49人。イタリアの新感染者数23477人で陽性率は12.6%。死亡者は555人。どちらも状況は急激に悪化している。
12月31日 三軒茶屋にて

194 猫版、試し刷り

藤井貞和

1、猫さん、かわゆいね。〔にゃ〕
2、あれれ、「お世辞」かにゃ。
3、猫さん、あいらしいにぇ。
4、にゃにを望むかにゃ。
5、装幀された猫を、遠くへ投げよ。〔にゃ〕
6、至近への遠投は 猫の丸ごと。
7、受苦堂の散華の後ろ戸。
8、縁切り寺は 戦時の濡れ縁(にゅれえん)。
9、猫さんを階下に埋めた。
10、村は 白地。 沙が神やつ。 猫は 頸響く警笛ののち。
11、旧版に猫さん、降りてきた灰。
12、若い美しい光合成で。
13、天上のおかあさまがあなたを生みました。〔にゃに〕
14、生ける光の語り物。 猫さまは 日だまりで。
15、わたしゃ生ける墓場の竹の下降の猩々さん。
16、けわい坂でお漏らしする猫じゃにゃい。
17、あれれ、蛙の手ににゃる、よこぶえに化けにゃ。
18、あにゃたのために、にゃにも かも。
19、神やつの奏法で、琴板のぜんしんがふるえる。
20、生きて! ぜんしんをあげるから。
21、待って。 ゆかないで。 とまって、沙あらし。
22、にぇむりましょう、18日の妹に会う。
23、19日の姉に会う、こんちにゃわ!
24、おやしゅみ! せいしゅんの切り通し坂。
25、ころげ落ちよ。 またあぶな坂。
26、化粧して、にゃでおろす鬼の胸板。
27、かえでを散らす喉ぶえの琴。
28、おわるまいよ、天上の猫さん。

(十年後に向けて、試し刷り。)

疫病資本主義初年度の終わり

高橋悠治

コロナの年も終わるが コロナは終わりそうもない 今年2020年は それでも録音やコンサートを続けていられたのは幸運だった

コロナについてはわからないことばかり 陰謀説もあれこれあるが そうでなくても 何一つ信じられるものはない 政治だけでなく 報道もそう 日本やアメリカのニュースと ロシア・中國・イランの英語ニュースはまったくちがう アメリカやカナダには それでも国家が隠していることを伝えるメディアがあるが 日本ではそれらの翻訳しか見当たらない ネットでなにかを調べたり検索すれば どこからか追跡されている 追跡数は一週間に百数十以上あり 検索エンジン自体が個人情報のスパイを兼ねているアメリカのものであるのが普通で ツウィートやフェイスブックも 犯罪心理学でいうプロファリングという手法で 個人情報収集機関になっているばかりか 検閲も兼ねていて 反米とみなされる書き込みをすれば アカウントを取り消されてしまい 名前・住所などは記録されている

秋には デヴィッド・グレイバーとアンドレ・ヴルチェックが ドイツとイタリアへの旅の途中で急死した 偶然だろうか

こんな世界で ささやかに音楽を続けていることに 意味があるのだろうか
と思いながら 続けられることは それしかない

音楽は人の集まるところにあるもの ともに生きるためにあり そこに美しさと 心の揺らぎを添える 踊りと響き 爽やかな風と苦しみのない おだやかな心
むかしサキャ・パンディタ(1181-1251)の『音楽のおしえ』を引きながら作曲したことがあった

閉鎖された都市のなかで 貝の火のゆらめきが色を変えてゆく

2018年に Roger Turner と即興のセッションをしたときは 指のうごくままにいつまででも弾いていた 即興の後で 時差で疲れていたかもしれないと言いながら自分のプレイを批判したばかりでなく ピアノについても 片手でじゅうぶんだと言われ 即興をその場かぎりで終わらせない追求の姿勢 それがことばでなく感じられ その時から 音を出す瞬間より その響きを聴きながら変化し続ける音楽の空間を感じる と言っていいのか 先の見えない闇のなかを手探りで進むことを受け入れる と言えばいいのか できれば いくら曲がっていても それが一本の道ではなく 全体の見えない風景の一部であるような 未完成なかたちのない塊が崩れていくプロセス

最近 Christian Wolff: Keyboard Miscellany というシリーズで それぞれ数行の楽譜を演奏する動画を続けて見た システムや方法ではなく パターンでもなく 響きに触れる手から 思いがけない方向へ踏み出していく それらを演奏するのではなく それに似た感触を手に馴染ませるような即興からはじまり 知っている曲を知らない音楽に変える演奏を試してみる というふうにして すこしずつ いままでやってきた音楽の習慣から離れてゆけるだろうか

2020年12月1日(火)

水牛だより

きょうは先月1日とおなじ十六夜の月です。見上げると、「木枯らし途絶えて冴ゆる空より」と歌いたくなる冬の夜空。

「水牛のように」を2020年12月1日号に更新しました。
今月初登場の工藤あかねさんはソプラノ歌手です。ひと月ほど前に、コンサートの後のちいさな打ち上げの席で偶然隣にすわり、どこまでが本当なのかわからないおもしろいお話を聞いているうちに原稿をお願いしていたのでした。
こうして毎月律儀に水牛を更新している私は室健二さんと同じ年の生まれです。室さんとおなじようにコンピュータとは前世紀からの長いつきあいで、便利で手放せないものだとは思っているのですが、室さんとおなじように、最近は実に面倒くさいと感じています。自動車は運転しませんが、コンピュータが車のハンドルのようになってほしいという願いはおなじです。競争や独自性とかの追求でなく、マジでほんとうに使いやすくしてもらいたいものです。
福島亮さんによる「水牛を読む」の1と2も公開されています。力作です。

「水牛」を読む(1):『水牛新聞』創刊号(福島亮)

「水牛」を読む(2):『水牛新聞』第2号(福島亮)

お知らせをいくつか。

さとうまきさんはシリアの青年が描いた水牛の絵とイラクのサブリーンが生前に描いた「ナツメヤシと太陽」をカップリングして、年賀状を作りました。収益はシリアの青年の治療費にあてられます。
12月20日まで予約受付中!
http://teambeko.html.xdomain.jp/team_beko/postcard.html

管啓次郎さん翻訳のパティ・スミス『M Train』は『ジャスト・キッズ』につづく回想録です。

今月お休みの越川道夫さんはおそらく新しい監督作品の『あざみさんのこと』で忙しいのでしょう。

さらに、今月お休みの斎藤真理子さんの翻訳による『アヒル命名会議』が出たばかりです。

水牛ではおなじみの藤本和子さんの『ブルースだってただの唄』がちくま文庫になりました。『塩を食う女たち』に続く黒人女性の聞き書きです。読んでいるうちに頭のなかが、というのか、頭の上が、というのか、スカッとして、しだいに姿勢がよくなってきます。本を読むことの快楽をぜひ経験してください。文庫にするために、くぼたのぞみさん、岸本佐知子さん、斎藤真理子さんと私との四人で力を合わせました。実際に会って相談した最後は去年の12月だったはず。その後は相談のようなことはしないで、それぞれができることをしただけ、というのが実はとてもこころよかったのだと思います。コロナのせいなのですけどね。編集担当者は男性ですが、著者の藤本さんと連絡がとれなくなったときには、シカゴまで訪ねていきます、と言うのでした。彼の熱意がすべてをあるべきところにまとめてくれたのだと思います。

それではよい年をお迎えください! 新年も更新できますように。(八巻美恵)

193 大切なものを収める家、の二刷り

藤井貞和

1905年に著された『海潮音』(上田敏)は 象徴詩を「日本」に齎しました。 そのあと、
自由詩と象徴詩とが結びつき、現代の詩は 大きくその傾向に規制されてまいります。
また、短歌や俳句の模擬というか、結社を作り、仲間をだいじにしながら詩を書く、
という傾向も、現代詩には 見られます。 社会を告発する詩は 政治の詩であると、
見なされることを恐れるのか、なかなか書かれないようです。 以上の結果として、
現代詩は 個人の趣味や、興味の範囲内で書かれることが多いです。 わたくしもまた、
個人の趣味や、興味を「大切なもの」だと考える一人であります。 しかし、今回の、
『大切なものを収める家』(1992)において、わたくしの取り上げようとした「大切なもの」とは、
個人の趣味や、興味と違う別の種類のものであります。挙げると、《民族差別、
クレオール(creole)語など少数者の言語、和歌などの古典語、女性短歌、
絶滅させられる動物、殺される神、排斥される神、縄文時代の土器、
滅んだ形式である旋頭歌、滅んだ恐竜、物語、女性差別、造反教官、一九六〇年代、
受験戦争、沖縄、老人問題、いじめ、機械打ち壊し主義(Luddites)、
そして湾岸戦争》でありました。 ははあ、これらがさしあたって、ですね、
作品に見られる限りでの「大切なもの」の一端です。 繰り返して言います、
これらは 個人の趣味や、興味に属するものではない、外部なのです。
わたくしは 現代の詩について、現代語で書かれることを中心に、と考え、伝統詩に対して、
批判的でありたい。 しかし、詩が緊張した内部を保つためには 伝統詩との、
交流を復活させることが必要だと思っております。 現代の社会、風俗には、
そのままだと、とても詩にならない狸雑な要素が多い。 逃げることなく、
挑戦し続けたい。 そのために詩の自明な成立を危うくさせられることがあっても、
怯まないでありたい。 かつて、大きな詩を書くためには、大きな悪魔との契約が、
必要でありました。 現代詩は しかし、たいていの場合、そのような大魔王との対立を避けて、
裏通りの日常生活の悪人、微小な悪魔たちを自分のなかに飼うことをするから、
大きな文学になりにくいのです。 わたくしの思いは 「大きな悪魔」そのものになく、
「微小」なそれらにとどまるのでもなく、その《あいだ》に定めることになりましょう。
とそこまで述べたとき、うしろの正面がひらかれ、大きな鬼が姿をあらわしました。
人食い鬼で、わたくしをむしゃむしゃ食いはじめました。 肉も、骨ものこりません。〈藤井よ、
おまえは きょうから鬼である。 これを食らえ。〉 骨と肉とを吐き出して、
わたくしに食わせました。 なんだ、私の骨と肉とであります。

(1992年の暮れの、済州島でのスピーチの記録と、そのあと見たこの夢に他意はありません。)

むもーままめ(1)オットキョウカの巻

工藤あかね

このたび寄稿のお誘いをいただきました。内容も文字数も自由だというお言葉に甘えて、心に移りゆく、よしなしごとを書いてみます。

よしなしごと。
そう言ってしまえば身も蓋もありませんが、気ままに浮遊しているわたしの無意識を、パシャっとカメラに収めるみたいにして、時々保存してみるのも悪くないかな、と思いました。

今回は、コロナ以前の日常を、気が向いた時にだけ、狂歌みたいにして、書き綴ったものを蔵出ししてみます。

1 2019/1/17
ちもゆるぐ つまのいびきは鳴りやまず うらみはぐくむ 夜半の月かな

(大意:大地も揺るがすような夫のいびきは鳴り止まない。寝られず月を見ていたら、ますます腹が立ってきた。)

わが夫のいびきは本当に轟音で、
耳栓してヘッドフォンをかぶっても、
別の部屋に逃げても、余裕で聞こえてきます。

結婚当初は、牛がモーモー鳴いている牧場に置き去りにされたり、
自動車整備工場でバイクをふかす音にさらされる夢をみたことも。

不思議なことに、爆音でいびきをかいているのに、
本人には自覚がないようです。

2 2019/1/18
かこひばら わが身はかりてしこふむも くすしとがめて しぼむつまかな

(大意:囲いのようにお腹が張ったので、体重を測り慌てて四股を踏む運動をしてみたが、時すでに遅し。医師に体重を減らすよう言われ、夫はしょんぼりしていた。)

年末年始は、体重を減らしたい人とっては魔の季節。
なんだか体が重いかも…と感じて体重計に乗ったところ、
人生最重記録を叩き出してしまったり。
ちょっと運動したくらいでは、筋肉に変わってはくれないようです。
それと、健康管理については私がなんだかんだ言っても聞く耳を持ちませんが、
お医者様の言葉だと素直に聞いてくれます。
感謝。

3 2020/1/16
けんだまの のするさするの快の音に 腿いたむとも やめぬつまかな

(大意:けん玉が皿に載ったり刺さったりするのが気持ちよくて、 太ももが筋肉痛になっても夫は練習を続けている。)

新年、とあるデパートに行ったところ、
けん玉の実演販売コーナーに遭遇しました。
私はスルーしようと思ったのですが、
夫はどんどん技を繰り出すお兄さんにロックオン。
ついに夫はけん玉を手にとって試してみたのですが、
ちっともうまくいきません。

それを見たお兄さんがすっと近づき、夫に囁きました。
「これまでの人生で…刺したことありますか?」
「いえ…ないです…。」と答える夫に、お兄さんは言います。
「大丈夫です、必ず刺さります!!」

けん玉愛にあふれ、しかも教え上手なお兄さんの手ほどきを受けたところ、
夫は短時間でかなり上達しました。
すっかり気を良くして、けん玉をお買い上げ。
それからしばらくは、朝食前にとめけんを成功させないと、
その日のテンションがあがらない、とまで言っていました。

今でも、けん玉は目につくところに置いてあって、
時々カチャンカチャンと、心地よい木の音を響かせています。

4 2020/1/22
きょくのほか 心のおそしつまなれど 思ひゆるさん とつくにのさけ

(大意:音楽以外のことは、からきし気が利かない夫だが、ワイン頼んでおいてくれたから許してあげようかな。)

わが夫は気が利きません。それもちょっとどころか、相当です。
なんといっても私が高熱を出して寝込んだ時、
「よるごはんはどうなるの」と3歳児のような真顔で言った男です。

こればかりは、私もいまだに根に持っていますが、
夫はその思考で長年きてしまった人なので、
いまから矯正するのは、あきらめるしかありません。

それが、音楽のことになると別人なのです。
わたしがちょっと「〇〇版のヴォーカルスコア、おかしい気がする」などと呟くと、
あっという間にスコアから該当箇所を探し出したり、
いつのまにか海外に、必要な楽譜や資料を注文しておいてくれたりするのです。

ある時、ベートーヴェンの第九の自筆ファクシミリが
家にドーンと現れました。
ここで聞いてはいけないのは値段なのですけれど、
やはりそれなりの…いえ、かなりの…お値段でした。気絶。

その後、夫はわたしへの贈り物だと言いながら「
トリスタンとイゾルデ」自筆スコア・ファクシミリも入手し、
ページをめくってはニヤニヤしていましたっけ。

そんな夫ですが、思いもよらぬ時にワインなぞ注文してくれていたりするので、
そのたびに「よるごはんはどうなるの」発言は、
お酒に免じて許してやろうと、
決意を新たにするわたしなのでした。

今回は、夫に関するネタばかりになってしまいましたが、
このあとはコロナに関する歌が増えてきます。
もしよかったら、またお付き合いください。

ONCE WERE BROTHERS

仲宗根浩

久方ぶり、那覇に映画を見に行くと国際通りにはいつの間にかウーバーイーツの自転車が走っている。人通りはある程度あるが筋道に入るとさびしい。これぐらいが歩きやすいが通りで生活しているひとにとっては厳しいのだろう。映画を見終わったら馴染みない場所からそそくさと帰る。「かつて僕らは兄弟だった」、ロックバンドの悲しい映画だった。引用されていた映画の場面で涙が出てしてまう。中学生の頃、ザ・バンドで最初に買ったレコードが解散コンサートのものだった。

ここ数年調子が悪い借家の照明のリモコン。ネットで調べると三千円近くする。液晶画面があるもののボタンの数は少ない。ダメもとで一旦ネジを外し中身を見てみることにする。ボタン部分は基盤の金メッキ部分に接触するようになっている。ボタン部分はゴムか。両方の接触する部分を指で触り、近くにあった眼鏡を拭きの布で軽く拭いて元にもどし所定のネジをとめて動作を確認すると問題ない。天井扇がついている照明なのですべてがちゃんと動作する。簡単な構造なものは取り敢えずネジを外してみるか。

新聞やテレビで首里城の再建についていろいろ取り上げている。首里城が沖縄のアイデンティティと言われると、ん、そうか、あれは首里のにあるものであってこっちとしては身近にない。正殿の龍柱が正面向きか向かい合っているかでもめている。もめているのを論争という。はずれにいるものとしてはどっちでもいい。そもそもアイデンティティというのはなんなだろう。

万華鏡物語(7)心地よい生活

長谷部千彩

 ページをめくる。え?
 ページをめくる。あれ?
 さらにページをめくる。めくる。めくる。
 私は軽い衝撃を受ける。この雑誌だけだろうか。それとも他の雑誌もこうなのか。

 ヘアサロンでは、持参した本を読むことにしている。今日もエッセイ集を一冊読破するつもりだった。だから、鏡の前に置かれたファッション雑誌に手を伸ばしたのは、ほんの気まぐれだ。
 登場する人々はみな、コロナ禍で暮らしを見直したと語っている。新たに取り入れた習慣とやらを披露する。
 早起き。植物への水遣り。健康的な食事。午前中に部屋の掃除。ドリップ式で淹れる珈琲。週に一回花を買う。公園への散歩。寝る前の読書。
 新たに、と意気込む割には、たいした習慣ではないなと思った。それにまるで小学生の夏休みみたいだ。登校する必要がないのに、早朝に起こされ、ラジオ体操に行かされた記憶が蘇る。いま考えれば、休みの間ぐらい、ゆっくり起きてのんびり朝食でも良かったのに。規則正しくというのは、それほどの美徳なのだろうか。最低限やらねばならないこと以外は適当に、というのは悪徳にあたるのだろうか。

 小学校では、何かにつけて生活を振り返るよう促されていたように思う。目標を立てさせられ、子どもだからすぐに忘れて、後から、達成できていない、ここがダメだったから、これからはこう頑張ろうと思います、と、年中そんなことを言わされていた。目標なんてなくても生きていけるのに。
 合点がいった。ああ、そうか、大人になっても、何かあれば生活を見直し、何かを始める、それを繰り返しているのかもしれない、日本人は(他の国のことは知らない)。そしてそれを良いことだと信じている。

「みんな見直しが好きすぎると思うの。むしろ本当に見直してもらいたいのは政府よ。政治家よ。なのに見直すべきひとは全然見直さない」――私がそう呟くと、背後に立つ美容師さんが鏡の中で笑った。

 家に帰るなり、私はiPadを手にサブスクリプションサーヴィスを使って他の雑誌の内容をチェックし始めた。ファッション誌やライフスタイルマガジン、私が以前好んで読んでいた雑誌。そのどれもが「心地よい」暮らしを提案する特集を組んでいた。
 極端なまでに物の少ない部屋。大きな木製のテーブル。apple社製のノートPCが開かれ、部屋の主(あるじ)が背筋を伸ばして椅子に腰掛け、キーボードに手を載せている。それが女性なら、服は大抵紺か白。PCの脇にはマグカップ。たぶん珈琲が入っている。部屋の隅には鉢植えの植物。恐ろしいほどそっくりなインテリアの写真が、どの雑誌にも掲載されていた。
 いまの時代はどうやら「物がない状態=心地いい」ということになっているらしい。確かに物がなければすっきりして見えるけれど。楽しくない。ページをめくっても全然楽しくない。何もない部屋を雑誌で見せられる意味って何だろうと思った。だいたいそんな部屋で外出自粛生活を強いられたら、絶対に退屈してしまう。そう感じるのは私だけだろうか。家から出られなくても、マスクを外せなくても、楽しく過ごす方法はいくらでもあるよ、ほらこんなに!――そんな風に語りかけるひとはいないんだな、と寂しく思った。

 今年の私。モロッコ旅行はキャンセル。香港にも行けなかった。行動が制限されたのは事実。でも、つらいことばかりではなかった。我慢ばかりでもなかった。たくさん映画を観た。たくさん本やマンガを読んだ。たくさん音楽を聴いた。たくさん買い物をした。そしてたくさん仕事もした。達成感のある仕事。不完全燃焼の仕事。何人ものひとと知り合い、そのうちの数人とは意気投合し、そのうちの数人とは心の中で絶交した。美味しいものも時々食べた。ウーバーイーツで気になっていた店から食事を取り寄せるのは楽しかった。自分の料理には正直飽き飽き。困っていそうなひとのために時々募金をし、街頭に立つ男性からビッグイシューを買った。パンプスの代わりに増えたスニーカーは六足。部屋でつけていた香水はゲランのアクアアレゴリアだ。いろいろと調べてみたけれど、感染しないために、そして感染を広めないために私ができるのは、結局、マスク着用と手洗い、ひとに近づくのを控えること、それだけだった。ならば、それを守ったら、あとは面白おかしく暮らしたい。それでいいと思っている。

Sさんは、テレワークに切り替わって、始業の5分前まで寝ていられるのが幸せと言っていた。
Yさんが最近読んでいるのは『「健康」から生活を守る』という本だと言う。
小学生の姪に、休校中、学校に行けなくて寂しいかと尋ねたら、「全然!」という声が返ってきた。
私の大好きなひとたち。
私に健やかさをもたらしてくれるひとたち。
彼らは生活を見直してはいない。

変わりゆくもの

笠井瑞丈

変わりゆくもの

今年もあと一月
今年は変化の年

自分も
世の中も

新しい出会い
古い友人との再会

ドライブインで
コーヒーを飲み
未来の事を語る

『停止』した時間

世界は少しづつ変化し
見るものも変わってくる

焚き火の木が
空気を吸い込み

バッチンバッチン
拍手を打つ

そろそろ

違う衣装に着替えよう

入口は違い
出口は同じ

きっと

物事は続けていけば
そうなるんだろう

放射し
交差する

たまには

走るのを休め
隣を見てみる

気の合う友人との時間
ひさしぶりに良い時間

ネイティブのつぶやき(58)宮城県美術館、現地存続!

西大立目祥子

11月16日は、午前中からあわただしかった。9時過ぎくらいに、ある知人から電話が入り、今日の知事の記者会見で重要な発表があり、宮城県美術館の移転案は撤回される見込みだと聞かされた。しかし、一方でまだ誰にも知らせないようにと、釘も刺された。その2時間後くらいに、今度はいっしょに活動をやってきた知人からも興奮気味の電話があった。「移転案は撤回です。これから〇〇先生に連絡します」という。どうも本当らしい。

 まさに急転直下。11時半に知事の記者会見が始まり、知事が「宮城県美術館は、現地に存続させる」と発表すると、NHKのほか地元放送局が臨時ニュースのテロップを流し、河北新報は「宮城県美術館移転断念 県決定現地存続へ」と大文字が踊る号外を出した。そうこうするうち、ここ何ヶ月かの活動で知り合いになったテレビ局や新聞社の記者から、活動を推進してきた宮城県美ネットに取材をしたいと連絡が入り、宮城県美術館で応じることにした。月曜で休館日だったのだけれど、この美術館は建物のまわりは庭園になっていて休館日も入り込める。何社ものテレビ局や新聞社がきていて、質問に答えたり、バンサイさせられたり…そうこうするうち、飲み込みの遅い私もようやくほんとなのかもしれないという気分になっていった。

 昨年11月18日に、宮城県が築38年になる前川國男設計のこの美術館を突然、移転すると発表して以来、現地存続の活動を始め、要望書を何度も県に提出し署名活動やロビー活動を展開してきた。特にこの7月に、要望書を提出した団体が連携し「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」という会をつくってからは、30代から80代までのメンバーが団子になって、ほぼ休みなし昼夜なしといっていいほどの熱の入れ方で突っ走った。移転は、建物の解体や売却を意味することだったから、誰もが本気だったのだ。疲れているはずなのに疲れを感じないのは、全員興奮した頭で愉快に笑いながらやってきたからなのか。集団のパワーというのは、全員上機嫌のときに最も発揮されるんだなぁと、いつもみんなの顔を見ながら思っていた。

 それまで知らなかった同士がつながり、一つの目的のために動いていくおもしろさは事務局だけにとどまらなかった。会員の申込みハガキや申込みフォームに「なんでもやります」「手伝います」などと書き添えてくださる方があまりに多いので、手伝ってもらおうよということになり「県美応援団」を組織した。10月10日に開いた第1回目の会合には、40人近い人たちが参加してくれて、何かひと言を、とお願いすると、「デモもやりましょうよ」「署名もう一回やらないとダメ」「絶対に阻止しよう」などと熱い思いが会場にあふれ出てくる。封筒の発送作業も手伝ってくれるので、活動を直接支えてくれるなくてはならない存在になっていった。

 11月29日には、知事の移転撤回後、初めて応援団の集まりを持った。安堵感と達成感がそれぞれの表情に浮かんでいる。あらためて自己紹介を、とお願いすると、口にしてくださったのはこの会の活動の中で自分が得たことだった。「自分の意見をいえる機会をつくってくれてありがとう」「この歳で市民活動をやるなんてね」「残りの人生も悪くないかな、この歳でこんなに署名活動やって達成できたんだから」「人の輪が広がっていくのは楽しい」「未来の県民にあの美術館を手渡すお手伝いができてよかった」「またあの場所の県美に行けるのだから、幸せ」。にこやかに話す人たちの年齢は40歳代から70歳代まで。頑張って実現できたという思い一つでつながるネットワークは、しばらく消えそうにない。

 活動はここで終わりにしないつもりだ。会を継続して、会員も増やし続けながら、つぎは宮城県美術館に直接かかわっていく活動につなげたい。声を上げるためには、何か組織がいることも痛感させられた。私たちの会を中間組織といったらいいのかわからないけれど、個人ではあげにくい声も、誰かが組織をつくり束ねていけば大きな力になりうる。いま会員は2100名。これだけの人たちがこの会に自分の思いを託して声をあげたことになる。

 それにしても、宮城県美術館はしあわせな美術館だと思う。県内広く、たくさんの県民に愛されているのだから。それは青葉山や広瀬川に近い自然豊かな場所に立地していること、質実でありながらもきめ細やかな質感を持つ建物であること、公園としても楽しめることなど、いろんな魅力があるからだ。

 この県民には自明の豊かさを、知事も県も当初はほとんど理解できていなかったのだ。だから、こんな乱暴な移転案が飛び出してきたのだろう。行政と住民の何という意識の乖離。知事は記者会見で、移転する場合は総務省の地方債を使うことに
なり、その場合は前の建物の除去が条件であるため、建物の譲渡先を自ら探したが不発に終わったと話している。もしそれがうまくいっていれば、移転は強引に進められた可能性は十分にある。

 もはや私たちが大切と思うものが、いつまでも維持される時代ではなくなった。大切だと思うものは、通い、手をかけ、いざというときには声をあげなければ守れない。そしてそのためには人と人がネットワークを組み、どこに誰がいて力になってくれるかを知っておかなければならない。今回のこの移転騒ぎが、図らずも残してくれたものはこの人と人のつながりだ。つぎに何か起きたときは、このネットワークが生きてくるだろう。

 ともかく安堵感のうちに師走を迎えられてよかった。
 応援してくださった全国のみなさま、本当にありがとうございました。

ソーシャルディスタンスじいさん

さとうまき

半年通った職業訓練が明日で終わりになる。そもそも、いくつかの学校の試験を受けたのだが、コロナのために、窓は開けっぱなしで寒く、試験官との距離は遠く、しかもマスクをしているからなおさら聞き取りにくい。開校は2週間くらい遅れた。皆マスクをかけているし、話かけづらい雰囲気を醸し出してた。

セクハラ対策なのか、席は男女離れて座らされた。慣れてくると女子同士はよくしゃべる。しかし、男子は一言もしゃべらない。いつしか、男子は空気となり、女子は全く男子の存在など気にせずおしゃべりをしていた。彼氏と暮らしていているとか、ネコを飼っているとか。。。彼氏の話ばかりする女子のおかげで大体彼氏の性格までも容易に想像できるようになった。

この距離は、コロナによってもたらされたものなのだろうか? 僕の場合は、さらに年齢的な距離もあり、そもそも話に入っていけない。自分では若いつもりであったが、白髪が最近増えたと痛感。

就職してこれから社会に羽ばたこうとしている若者を叱咤激励する先生の言葉には、最初から僕は対象外だ。「若いうちだけですからね!しっかり学んでください!若いうちは、やり直し効きますから!」
思わず苦笑いする。「カルチャースクールと勘違いして、WEBを習いに来たじいさん」だとみられているのだろう。

それにしても、男子はしゃべらない。全くしゃべらない男子が大半だ。その中の一人と、帰りが一緒になり、話しかけてみたら普通にしゃべってくれた。職業訓練は2回目らしく、前回は、みんなで酒を飲みにいったりしたらしい。やはり、コロナの影響なのだろう。そういえば、最初のころは男子も 二言、三言くらいはしゃべっていた気もする。次第に男子たちはしゃべるきっかけを失っていった。

職業訓練校は、厚労省からの助成金で成り立ち、生徒をともかく就職させなくてはいけないから必死だ。卒業しても、毎週就職相談を受けなければならないそうだ。就職担当の職員との面接で、
「佐藤さんの場合は、相談はもういいですよね? なんか起業されるとかおっしゃってましたよね?」
「(何を言うか!)老人でも働けるいい仕事があれば、働きたいんですけど」
実際、この半年で稼いだお金は、3万円ちょっとである。本を書くという話もあるが、ベストセラーになるとも思えないし。
「いやいや、起業されるっておっしゃってましたよ? 厚労省には、起業ということで提出しておきますので。ぜひそちらで頑張っていただければよろしいかと」
「そりゃ、起業したいって言いましたけどね、、、、、そんな人生甘くないですよ」
「毎週、遠い距離をこちらに来られるのも大変ですし、私たちも大変なんで、就職指導も終わりということで」

どんどん息が苦しくなり、マスクもずれてくる。僕はそのたびにマスクを直しながら、距離を感じていた。

結局、この半年は何だったのか。「勘違いしたカルチャースクール」で終わってしまうのか。WEBを自由に操り、世界制覇して、世界の格差を埋めていくという野望はどこへ行ったのだ? 今の俺は、磁石のように、社会に近づこうとしても、引き離される。俺は世界から隔離されている!

SDGsとは、ソーシャルディスタンスじいさんのことで、みんなが楽しんでいるところには近寄ってはならないのである。今はそういう磁場が働いているから、いてもしかたがない。

SDGsの本当の意味は、2015年9月25日~27日、ニューヨーク国連本部において、「国連持続可能な開発サミット」が開催され、「私たちの世界を変革する:持続可能な開発のための2030 アジェンダ」が採択されました。このアジェンダは、人間、地球及び繁栄のための行動計画として、宣言及び目標を掲げました。この目標が、ミレニアム開発目標(MDGs)の後継であり、17の目標と169のターゲットからなる「持続可能な開発目標(SDGs)」です。念のため。

ブス

植松眞人

 たった一年ほどしか経っていないのに、どうも顔の印象が違う。以前よりもほっそりとしたし、二十三歳という年齢に見合って大人びた雰囲気を増してはいる。表情を構成する目や唇、鼻や眉の造形に変化もない。つまりは、道でばったり出会っても、きっと「あ、久しぶり」と声をかけてしまうくらいに、以前と変わらないのだ。それなのに彼女と待ち合わせ、駅前でその姿を見かけた瞬間に浮かんだ言葉は「ブス」だった。
 正確には見かけた瞬間ではなかったかもしれない。駅前で約束よりも十分ほど遅れるとスマホにメッセージが入り、そのメッセージ通りの時間に少し小走りで到着した彼女はブスではなかった。ブスという言葉を連想させるものはなにもなかった。しかし、そこで二言三言、言葉を交わした瞬間に、ブスという言葉が彼女の顔にぺたりと貼り付いたのだ。
 その後、焼き鳥屋に入り、何杯かの酒を飲み、いくつかの料理を注文しては食べているあいだも、こちらはずっとそのブスの理由を考え続けていた。なぜ、ブスに見えるのか。なぜ、ブスだと思えるのか。もともとバランスの良い顔立ちではない。目の大きさとよく笑う印象はいいのだが、結局、地頭の悪さで笑うタイミングがいつもほんの少しズレてしまう。本人は気付いてはいないけれど、このタイミングのズレで学生の間は大人たちから反感を買っていたのだった。ただ、反感をもった大人たちもなぜ彼女に反感を持つのか、正確に分かっている者は少なく、結果、互いになんとなく苦手、という感情だけが残るのだった。
 その苦手意識は私にもあったのだが、ただ彼女が私のゼミにいたということで、いつまでも苦手だと言っているわけにはいかず、知らず知らずのうちに、その苦手な部分を個性だと思うことに慣れてしまった。しかし、今回のようにブスだと思ったことはなかったので、正直、彼女が話している仕事の近況などは耳に入らず、目の前に出された名古屋コーチンのレバーを食べるのはやめようと決めた。こんな日に生ものを食べるとろくなことにならない。
 もう私は心の中で彼女のことをブスと呼ぶようになっていた。しかし、ブスのほうは最初の乾杯から上機嫌で、最近手がけた仕事の話などを楽しそうにする。誰もが知っている企業の名前が次から次へと出てくるのは、ブスが働いている会社が大手CM制作会社だからだ。ただ、ゼミを卒業してストレートに就職したわけではなく、彼女は小さな映画の予告篇を作る会社に入った。とても小さな会社で、最初にちょっと危惧したとおりに見事なブラック企業だった。古株は社長と入十年目くらいの女子社員だけで、あとは昨日今日入ったような若手ばかりだったからだ。ようは若手が育たない。そして、社長と十年選手の女子社員だけということになると、想像を巡らさなくてもこの二人ができていることくらいすぐにわかる。実際、そうだったらしく、たった五人ほどしかいない会社なのにちゃんと社長室があり、女子社員は普段後輩社員とのやり取りはすべてメールだけで、一言も喋らないのに、社長室に入ると数時間出てこず、しかも中からは楽しそうな笑い声が響いてくるのだという。
 彼女は結局、入社一年でその会社を辞め、辞めるときに脅されたりいろいろあり、私も相談に乗り、私の知り合いにも相談に乗ってもらったりして、まあ、ブスらしくそれなりに大騒ぎをしたのであった。
 紆余曲折いろいろ合ったのだけれど、結局そこそこホワイトな制作会社に中途採用されることが決まり、ほっと胸をなで下ろし、それなりに頑張っているらしいということを現場で一緒になった同業者から聞いたりもしていたので安心していたのだ。
「実は辞めようと思っているんです」
と話始めたのは、ひとしきり笑い、ひとしきり飲み、それなりに腹一杯焼き鳥を食べた後だった。ははん、と私は独りごちた。それでブスに見えたのか。元々このブスは自分でもそれは掟破りだと思っているようなことをしでかしたり、嘘をついたりすると、学生のころから極端に表情にでるのである。しかも、それを誤魔化そうとして、独りよがりな理屈をこねるのだけれど、やはりいろいろ無理があり、その無理が彼女の表情を歪めてしまう。特に愛想笑いをしようとすると、右頬が中途半端に歪むのだ。それが彼女をブスにする。そうだったのか。また何かやらかそうとしているのか、このブスは。そして、この調子だときっとまた男が絡んでいる。こいつはいつも男が絡むのだ。寂しいからと男と引っ付き、自分のやりたい事に邪魔だからと男と別れる。そんなことを繰り返しているという話は聞いたのだが、おそらくその程度のことならきっと引け目に感じることもなく、もっと晴れやかに飲んでくって騒いでいるはずだと私はじっと彼女を観察する。
 すると、どこか過敏になっているのか、すっと引くのだ。何をと聞かれても困るのだが、こちらに向かってくる熱のようなものが後ろにすっと逃げていく。その逃げた先には、恥を真ん中にしてぐいぐいと力任せに丸め上げた泥団子のようなものがある。
「で、お前、なんかブスになってない?」
 私が聞くと、彼女はさらにブスになって言う。
「えっ。ブスになってますか? 前よりちょっと痩せたし、綺麗になってません?」
 そう真顔で言う顔がこれまたブスなのだが、それを聞いて、また男がらみか、と私はうんざりとしてしまう。
「で、今度はどんな相手だよ」
「相手?」
「なんかしでかしたか、しでかそうとしてるか、どっちかだろ」
 私が言うと、ブスはブスではないという表情を浮かべながら、つまり精いっぱい強がりながら、こう言う。
「いまの会社を辞めようと思うんです」
「まだ一年ちょっとしか働いてないのに?」
「もう一年半です」
「いやまあ、そんなに変わらないけど。これから三年は頑張るって言ってなかった?」
「そのつもりだったんですが」
 と話始めた事情というやつは、彼女の制作会社に出入りしているフリーランスのCMディレクターが「一緒にやらない」と誘ってくるのだ、という話だった。そして、その話は、彼女がすっかりとその気になり、社長に話を通し、先輩にちょっと馬鹿にされながら、すっかり出来上がっている話だった。
「うん、わかった。もうそりゃ仕方がない。僕らの頃は出入りしている会社の新人を自分の会社に誘うなんて、掟破りだったけどね」 そのことについては、彼女は答えず、
「もう、一年も返事を待ってくれていたんです」
 ということだったので、私の方はこれはもう仕事の関係ではないのだと思い、何を言っても仕方がない、という気持ちになってしまう。ただ、これが友だちなら黙っていればいいし、もとの職場の同僚なら頑張れと言えばいいようなものだが、私は彼女が卒業したゼミの担当者なのだった。これは一応、言うしかないという半ば義務感で、
「つまり、入社たった半年の新人に声をかける時点で、個人的には掟破りだと思うし、そんなディレクターに本当にいいものが撮れると思えないけどね」
 なんて、実は心にもないことを言っておくのだった。もちろん、どんなにスケベ根性丸出しなフリーのCMディレクターでも、才能のあるなしとは関係ない、もしかしたらものすごい作品を作り出して大注目されて、ついでにこのブスが絶世に美女に見えるほどに輝く瞬間が訪れるかもしれない。もしかしたら、フリーのCMディレクターよりも、このブスの方が一枚上手で、CMディレクターをきっかけに知り合った、有能なプロデューサーにさっさと乗り換えて、大きなチャンスを手にれてしまうかも知れない。それでも、一応、立場的に言っておかなくてはと思い、そんなことをブスにこんこんと話していると、だんだんこちらもその気になってきて、最後には、
「だから、お前はダメなんだ」
 とか言ってしまう。しかし、別にダメなことはないわけで、本当は好きなように生きるのが一番なのだ。私だって、このブスにブスと言っている場合ではないほどに、ブスになっていることがあるのだろう。焼き肉屋に行って壁に貼ってあるメニューを眺めていると、ハラミとツラミの間に、ネタミとかソネミなんていうメニューが見えてくる気がするほどだ。
「じゃ、帰るか」
 と、ちょっとばかり怒っているふりをして早めに宴席を切り上げる素振りを見せると、ブスが急にしおらしい顔をして、すみませんでした、と小さく言う。しかし、そのちょっと歪んだ顔が笑っているようにしか見えないという恐ろしい事態を生んでしまう。そして、彼女の笑っているような歪んだ顔を見ながら、ああ、こいつはどんな道であっても、その時その時、自信たっぷりに歩いているのだということを知る。歪んだ笑顔になっているのは、私の「じゃ、帰るか」という言葉が脅しにもなんにもなっていないのだ、ということをはっきりと示しているに違いない。このブスは、いま私を哀れんでいる。(了)

しもた屋之噺(226)

杉山洋一

今日からミラノは、都市封鎖のレヴェルがレッドゾーンからオレンジゾーンに緩和されました。良く晴れた静かな深秋の朝です。晴れていても、陽の光が弱いせいか、風景から色味が抜けて、薄く見える気がします。
オレンジゾーンに緩和され、一般店舗と中学生の対面授業が再開し、市内の往来が自由になりました。喫茶店とレストランは相変わらずテイクアウトのみの営業で、市を跨ぐときは今までと同じように証明書が必要ですから、クリスマス商機を見据えた経済緩和策なのでしょう。
まるで正解のない世界に、足を踏みこんだ気がしています。正しいことを目指すにも、何事につけ反駁するに余りある情報の渦に翻弄され、我々の神経だけがすり減り、体力を奪ってゆくようです。
インターネット時代に入って、落ち着いて答えを待つ精神的余裕すら失くしていた我々から、コロナ禍は将来的展望すら奪っていきました。このままでは全てが刹那的に処理され、判断される日々に飲み込まれてしまうのではないか、そんな畏れに薄く慄いてもいます。

  —

11月某日 ミラノ自宅
明日から学校で指揮のレッスンが始まるが、ジェノヴァに住むマルティーナから、電車でミラノまで出かけるのが怖いと連絡があり、急遽レッスンを入れ換える。都市封鎖になったとしても、学校の対面レッスンが続けられれば、むしろその時の方が電車も管理が行き届いているはずだから、安心してミラノに行けるだろうと言う。なるほど、当然の発想だ。いつ封鎖になるか分からないので、一日でもレッスンを受けさせてやりたい、と思うのは、やはり間違っていたと反省。
新感染者数29907人。死亡者数208人。PCR検査陽性率はイタリア全国平均で16.3%。ロンバルディアに限って言えば21.7%まで数値は跳ね上がる。都市封鎖にならない方がおかしい。

11月某日 ミラノ自宅
新年度初めての指揮レッスン。今日は、指揮伴奏ピアニストに家人も入っていて、二人揃って自転車で出かける。偶然、今日のもう一人のピアニストも木村さんだったので、教室は日本人ばかりになった。長年務めているが、初めての経験。
先週までは、ピアニストも学生も、社会的距離は存分にあるとマスクは外していたが、今日は誰も外さない。家人も久しぶりに他の人と演奏出来て多少は気分転換になっただろうか。出かけられず、誰にも会えず、ずっと家に籠っている生活は精神的に良くない。
学校は相変わらず人気がなく、学生たちも、心なしか、どこか少し緊張しているように見えた。感染を恐れているというより、今日でレッスンが終わるのではないか、これから先一体どうなるかという、先の見えない漠とした不安かも知れない。教師としても、行先の見当がつかない航海に漕ぎだした感がある。
新感染者数22253人。233人死亡。今日も陽性率は16.3%。

11月某日 ミラノ自宅
悠治さん「フォノジェーヌ」の新スコア製作をお願いしているアメリカの大西君より、これから投票に出かけるとのメール。自転車を漕いで、ミラノの反対側までISEE証明書を受取りにゆくと、以前息子が黙役で劇場から受取った給金申告証明書が欠けているとの指摘。息子の学校の授業料のためのISEE証明書だが、再度最初からやり直し。
サンドロが高熱を出し、検査を受けると陽性だった。彼は70歳以上だし、ヘビースモーカーでペースメーカーも付けているから、周りは揃って気を揉んでいる。タッローネとスタンウェイ、2台ピアノがある彼の家を借りて、週末は定期的に個人レッスンをやってきて、気が付けばもう20年近くなるのではないか。親戚のような付き合いで、彼は何時でも使えば良いと言うが、今は到底無理だ。

息子曰く、来週に予定されていた日本人学校の英語討論大会を、緊迫した情勢を鑑みて、急建てながら今日の午後に慌てて実施したと言う。中学3年生は全部で5人。そのうちの一人、太郎君は受験で10日後には日本に戻らなければならない。対面で討論大会をするには今日しかないと息子が提案したそうだ。
新感染者数28244人。死亡者数353人。陽性率15.49%。

11月某日 ミラノ自宅
朝起きて、玉葱のパスタを作り、家人とナポリ広場まで少し歩く。チビカ指揮レッスン2日目。ミルコのレッスンの最中、どうにも内省的で表現が小さいので、何故こんな時に音楽をやり、感染の危険を冒して学校まで来て、ここで振っているのか、考えてほしいと言う。レッスンも今日で最後かも知れない。一期一会と思って、限界を考えたり、人への妙な気遣いはやめ、自分の全てを表現して振って欲しいと頼むと、音楽は劇的に変化した。
今朝コンテ首相が同意した新首相令の内容が、なかなか発表されないので、レッスン中も皆気を揉んでいた。
午後3時ころ、学校を経営する財団より教員に一斉メールが届き、すわ休校かと思いきや、単にCovidに注意喚起を呼びかける連絡で、ピアニストの一人、マリアは学校閉鎖は回避されたのよと喜んでいる。
彼女は、今晩は友人宅で夕食だと大きなシャンパンを昼休みに買ってきて、冷やすため、窓の外に置いている。この時世に友人宅で晩餐など、他人事ながら大丈夫かと少し心配になる。
午後レッスンにやってきたベネデットは、遠隔レッスンがとても辛いと言う。彼はピアノの担当教師がローマに住んでいて、ミラノに来られないため、スカイプでレッスンを受けている。
ここ暫く、教室の鍵のかかる戸棚にレッスンに使う自分のスコアやピアノ譜など一切を置きっぱなしにしていたが、今日のレッスンの後、暫く悩んでから、結局家に持って帰った。
夜、家に帰ると、首相令の詳細が発表されていて、芸術専門学校も一律遠隔授業と明記されていた。絶望的な心地9割に圧し潰されそうになりながら、ほんの微かに、学生を感染させる不安から解放された心地もする。
スカラ初日中止の正式発表もあった。大戦中1943年以来の出来事。夜、生徒のジャコモよりメール。「今度は皆に何時会えるのでしょうか」。悲劇的な口ぶり。
本来は彼は今日がレッスンだったが、パートナーが陽性と分かり、自宅待機になってしまった。浦部君は、行動制限が本格化する前に、明日昼のフライトでミュンヘンの柘植さん宅へ発つ算段を立てた。皆が散り散りになってゆく。ノヴァラからミラノの国立音楽院に転院した息子は、今日が最初のレッスンだったので、自転車で出かけた。
新感染者数30550人、陽性率14.42%。ICU67人で死亡者数352人。
眼前の闇の中から、漆黒の大波が、静かに迫ってきている。

11月某日 ミラノ自宅
昨日16時に学校より遠隔授業との連絡あり。同じミラノでも国立音楽院は対面授業、対面レッスン継続を決定。ノヴァラの国立音楽院も対面授業を続行と言う。夜、生徒のGから明日が授業料の支払い期限だが、今後レッスンはどうなるだろうとのメール。Bからは、学生組合代表として明日学長、財団と談判しますと連絡がある。
サンドロの妻のナディアも陽性判明。彼女は、90歳を超える自分の母親に感染させたのではと心配している。
隣のアリーチェも同僚が陽性だったので、濃厚接触者として家族と離れて一週間暮らした。
朝パンを買いに行くと、馴染みのパン屋の妙齢が、これからも私たちはいつも通り、ここに居ますから、と少し諦めたような笑顔で呟いたのが印象的に残った。
新感染者数37809人で陽性率は16.14%。ICU新収容者数は124人。446人死亡。

11月某日 ミラノ自宅
夕刻、バイデン勝利のニュース。息子は封鎖後初めての国立音楽院レッスンに出かけ、こちらは耳の訓練クラスの遠隔授業。皆とてもやる気がある。ミラノやノヴァラと違って、コモの国立音楽院は閉鎖しているそうだ。国と州が出した令状に対し、遠隔授業にするか、対面授業を続行するか、それぞれの学院長が、自らの解釈で采配を揮う。そのため、教育事情は酷く混乱している。
市立音楽院の学院長より、出来るだけ早くに対面レッスンを実現させたいとメールが届く。新感染者数32616人。ICU115人。死亡者数は331人。昨日は新感染者数39811人、ICU119人、死亡者425人だったから、押しなべて見れば、横ばい状態か。

11月某日 ミラノ自宅
夏前にスキャンで送った請求書の原本を郵送するため、郵便局に出かける。人数制限のため、郵便局の中では待てない。郵便局の入口から社会的距離を保って、道端に人がずらりと並んでいる。寒空で待つこと30分以上、漸く入口まで辿り着く。これが極寒だったり、雨が降っていれば簡単に風邪を引く。
実効再生産数Rt値は1.7まで減少したが、1以下でなければ収束しないとも聞く。イタリアのどの地域も1以上で、2に達する地域もある。
昨日は朝10時から夜8時半まで遠隔授業で困憊。明日以降の学校の対面レッスンの行方は不明。文部省のインターネットサイトに、学校授業体系に関する新しい文部大臣令が出るのを待っていると学長より連絡あり。

アブルッツォ、バジリカータ、トスカーナ、リグーリア、ウンブリアの各州がオレンジゾーンとなり、ボルツァーノがロンバルディアと同じくレッドゾーンとなった。新感染者数は35098人で、昨日まで17%を超えていた陽性率は16.11%に減少。ICUには122人収容、580人死亡。
身体から力が抜けてゆく感覚は、3月と同じ。既視感と諦観をこめて日々の報道を追う。
ブレラ美術館のラファエルロの部屋を懐かしく思い出す。初めて見た時から、ピエロ・デルラ・フランチェスカと記憶が結びついているのは。神殿の構図と、静的な祝祭感のためか。階下で、息子がリストの「婚礼」を練習していて、賑々しい鐘楼の響きが哀愁を誘う。

11月某日 ミラノ自宅
昨日は時間ぎりぎりまで学校の対面レッスンの再開を期待していたが、最終的に不可能と分り、改めて落胆。
ミラノ国立音楽院では現学長のクリスティーナが一貫して対面授業を推進しているが、同じミラノの音楽学校でありながら、あちらでは正反対の問題が生まれている。
市立音楽院で、教師や学生組合が学長や財団に対面授業再開を強く求めているのに対して、国立音楽院では、多数の教師が、学校側が教師や学生の健康を蔑ろにしているとクリスティーナの決定に反対、一時転出を希望し、実際多数の教師が一時的に別の音楽院に移動した。
そのため、当初一律対面授業継続を表明したクリスティーナも、各教師の判断に基づき、対面授業、レッスンを継続、と妥協せざるを得なかった。
全国一律の都市封鎖は回避されたようだが、プーリア、リグーリア、エミーリア、ヴェネト、フリウリがレッドゾーンに加えられる可能性があり、感染拡大の頂点は11月27日と予想されている。昨日は新感染者数32961人、陽性率は14,6%に減少して、死亡者623人。今日は新感染者数37978人で陽性率16.18%。ICU89人で死亡者636人。

11月某日 ミラノ自宅
鈴木君からの情報で、悠治さんの「橋II」はツェンダー指揮、オランダ放送室内管弦楽団の演奏で、日本でもラジオ放送されていたと知る。聴いてみたいが、1月の本番が終わってからの方が良いだろう。もちろん悠治さんは演奏されたことはご存じなかった。悠治さん曰く、ツェンダーとは日本で会ったことがあるそうだ。
高校生の頃から、ツェンダーとマデルナは、指揮ができる素晴らしい作曲家という印象を抱いていた。当時は、ブーレーズは、指揮者よりむしろ作曲家、特に自作を指揮する作曲家だと思っていた気がする。それでも、ツェンダーのオーケストラ曲は、レコードを持っていたので随分聴いたし、彼の指揮したクラシックもルネ・レイボヴィッツの「グレート」と同じく、とても気に入っていた。当時は自分が指揮するとは露ほども想像していなかったから、単純に感嘆していたに違いない。
後年ミラノでアンサンブルを作る手伝いをした時も、当初の希望は、何時かツェンダーに振ってもらえるアンサンブルを作ることだった。それもあって、イタリアでは殆ど演奏されていない、ツェンダーの室内楽曲を何曲も取り上げて演奏した。

文部大臣令による対面授業再開は、ディプロマ課程のみに制限され、未だクラスは再開できない。新入生には、課題のミクロコスモスをメトロノームに併せて、歌いながら指揮したヴィデオを送ってもらう。
新感染者数40902人。ICU60人で、死亡者数550人。

11月某日 ミラノ自宅
朝、息子を国立音楽院まで送っていき、帰宅後、遠隔授業。ロンバルディアのPCR陽性率は、昨日の19.1%から22.8%に増加。何という事だ。既にアルトアディジェの救急病院は、受付が生命に危険がある場合のみに限定された。病床が逼迫している。階下から、息子が譜読みしているベートーヴェンのテレーゼソナタが聴こえる。不思議な調性の窓から見える外の風景は、古いすりガラスを向こう側のように、かすれ、そしてぼやけて見える。
全国の新感染者数37255人、陽性率は16.36%。ICUは76人で、死亡者は544人。

11月某日 ミラノ自宅
平山美智子さんのための「海に」送付。基になっているフォーレの「海は限りなく」は1921年、100年前、スペイン風邪が収まったころに書かれた。
昨日の発表では新感染者数は27335人だが、陽性率は18%に上昇し、死亡者数504人。反して今日は新感染者数は32191人で陽性率は15.47%に減少。ICUは120人で、死亡者数は731人。思わず溜息が出る。

11月某日 ミラノ自宅
昨晩送った楽譜を確認しようとピアノで弾いてみると、何かに似ている。日々の暮らしを縁取る、無数の救急車のサイレンにそっくりだった。ミラノの祭りO bej, O bej中止。
ポロ葱のパスタをつくる。沢山のポロ葱に、一つまみの鷹の爪を入れて丹念に炒め、トマトとトマトソースを足して煮込む。食べる時にペコリーノチーズを存分にかけて食べる。パスタの茹で汁を少しずつ差しながらコクを出し、パスタの最後の1,2分はソースの中で仕上げる。
新感染者数は34283人で陽性率は14.6%。死亡者数は753人。数字に対して感覚が麻痺してきている。東京での新感染者数が493人と聞き、驚いている。

11月某日 ミラノ自宅
安江さんの企画のための、ブソッティのテキストによる新作。原さんの木琴ピンポンが時間軸を紡ぐ。昨日は新感染者数37424人で陽性率15.64%、今日は新感染者数34767人で陽性率は14.66%。カーブの頂上から少しずつ下降が始まった。Rt値は1.18まで減少。どう自分が抗っても無意味でしかない、気の遠くなるほどゆったりした時間の流れ。それこそ、我々が長く忘れていた何かかもしれないと思う。

11月某日 ミラノ自宅
ドナトーニ「最後の夜」ヴィデオ収録リハーサルのはずが、家を出る5分前にピアノのルカより連絡あり。別の曲で参加するはずだったパオロが発熱、PCR検査の結果陽性となり、他のリハーサルで一緒に演奏したヴァイオリンのロレンツォやチェロのジョルジョが濃厚接触者と判断され、今日のリハーサルは中止。彼らの緊急PCR検査の結果を待って、今後の予定を決定とのこと。
パオロは、イタリアでNegazionista否定主義者と呼ばれる、Covid非認知主義を唱えていたらしい。高熱が出たので、今朝リナーテ空港の緊急PCR検査を受けてきたそうだ。尤も、非認知主義者とは言え、家族もいるパオロが封鎖期間中にどこに出かけられる筈もなく、せいぜい、中学校に通う娘が学校で貰ってくる程度しか可能性はないだろう。
ともかく現在この感染状況を落ち着かせられなければ、1月イタリアは酷い第三波に見舞われるとの予想。遠隔授業に反対する中高生は、学校の壁の外で、毛布に包まってタブレットで授業を受ける。
新感染者数は28337人で陽性率15.01%。ICU43人、死亡者数は562人。

11月某日 ミラノ自宅
ブソッティが書いた「娶られた少年」の原詩が余りに生々しく、訳出すべきか迷う。ブソッティ風の言葉遊びは出来ないものかとも悩んでいる。
じゃが芋と玉葱、セロリとトマトを煮込んで、そこにパルメザンチーズの外側、硬くて食べられない部分を放り込んでとろみを出し、パスタは中で直接茹でてアミド質を染み出させて仕上げる。鷹の爪も少し入っていて、ペコリーノチーズを沢山かけて食べる。随分量を作った積りが、家族三人で一気に食べきる。冬の味覚。

この状態が続けば、音楽の形態も否が応でも変化するに違いない。オーケストラのような大人数の演奏形態は、様々な理由で練習回数は減るだろう。1回でもリハーサルが多ければ、感染のリスクも上がり、コストも今まで以上にかかるから、当然小規模なオーケストラが好まれる。
既にかかる傾向は認められるが、現在不可抗力とされているものも、少しずつ自然な欲求の中に溶け込んでゆくのではないか。

新作の傾向も演奏会の企画も、少ない練習回数が絶対条件になり、演奏者の感染を想定すれば、名人芸は不必要になり、演奏者が入れ替えられる便宜が優先されるかも知れない。長い年月の間に、管楽器や歌は、現在と別の場所で演奏されるようになるかもしれない。
オーケストラのピット演奏は廃止され、歴史的オペラ劇場には揃って抜本的な換気対策の措置が義務付けられ、平土間席にオーケストラを置かれるようになるか、バレエのように、録音でオペラを上演するのが当然となる可能性も、皆無ではないだろう。
尤も、その頃には、仮想現実モニターで、実際に目の前でオーケストラが演奏している心地は味わえるようになっているのだろうけれども。

11月某日 ミラノ自宅
今日はドナトーニ「最後の夜」リハーサル。中華街を抜けて、Music Hubへ自転車で出掛ける。あまり封鎖下の都市、という印象は受けなかった。喫茶店はテイクアウトの営業しか許可されていないので、そこが普段と様子が違う。
広大なMusic Hubはがらんとしていて、幼稚園児ほどの子供を連れた親子連れが何組か中庭にいただけ。パオロとソニアは、長男のジョヴァンニを連れてきていて、控室で中学の遠隔授業を受けていた。リハーサル中、控室から「先生!」と元気な声が聞こえてくる度、皆で声を出して笑う。
ドナトーニは、4曲目最後の歌と管楽器の部分、Mor…toの歌詞で、アンサンブルの色を消し、装飾音の吹き方を歌手に近づけてみると、今までとは全く違う凄みが浮かび上がる。

今日の新感染者数は23232人。随分と減った印象だ。陽性率も、12.31%にまで減少した。ICUは6人。死亡者は後から押し寄せてくる。853人。ここ数日毎日3人ほどの医療関係者が亡くなっている、との記事も読んだ。
新感染者数が減少しても、死亡者数が多いのには衝撃を受ける。頭では理解しているが、まるで背後で巨大な鞭がしなっているようで、酷い音が立つ度に無数の命が斃れてゆく。
太田さんよりメールをいただき、平山さん追悼演奏会延期を知る。

11月某日 ミラノ自宅
悠治さん「たまをぎ」の初演譜合唱部分が完全な形で発見された。前に見つかっていたのは、再演時のもので、指揮者は田中先生一人。初演時はオーケストラを若杉先生が担当し、合唱を田中先生が担当して、都合二人の指揮者がいたと言う。その時の合唱譜が見つかったことになる。初演時のオーケストラはN響だったそうだが、以前小野さんがN響のライブラリーを探した際には、オーケストラ譜は消失していた。
新感染者数25853人、死亡者722人。

11月某日 ミラノ自宅
フォンターナ州知事、ロンバルディアのレッドゾーンからオレンジゾーンへの変更発表。
ベルゴニョーネ通りのBaseにてドナトーニ「最後の夜」収録。
パオロのところの一番下の娘アンナは、この9月から小学校に就学した。他の兄弟と違って、アンナはマスクと社会的距離の小学校生活しか知らないので、マスクを忘れることもなく、当然のように人と距離を取って暮らしていて、親は複雑な気持ちだと言う。
新生活様式で生まれ育った世代は、その前の世代とどう折合いをつけてゆけるのだろう。全ては手探りで、恐らく正解など存在しない。
そんな中で録音されたドナトーニの「最後の夜」は、実に激しく、心にせまりくるものがあった。
香港で民主派活動家収監。エチオピアで政府軍による虐殺。アルメニア・アゼルバイジャン戦闘激化。中国でモンゴル語使用制限。タイの反政府運動激化。春に作曲しながらささやかに祈っていた平和はどこにあるのだろう。
新感染者数は28352人。陽性率は12.73%。ICUマイナス64人。死亡者は827人。
日本人学校は来週初めから対面授業再開とのこと。指揮クラス、対面レッスン再開は、学長は、出来るだけ早急に再開したいと努力しているそうだ。
リスが毎日庭に来るようになった。樹の下に長年雨曝しになっていた壊れた木椅子を置き、そこにピーナッツや野菜を少し入れてみた。

11月某日 ミラノ自宅
アメリカの大西君が振った、Evan Chambersの「The longing for the peace in the garden of lost children」。戦争に斃れた罪なきアフガニスタンの子供たち。
アメリカらしい音。「アパラチアの春」の冒頭の立ち上るような、朝霧のような懐かしい讃美歌のような響き。イタリアのようなカトリックの国に長く暮らしているせいか、アメリカを訪ねると、思いの外清教徒的な、素朴で敬虔な宗教観が現在も息づいていて驚く。コープランドは清教徒ではなかっただろうが、アメリカ音楽は、清教徒文化と、アメリカが利用した黒人文化に最終的には収斂されるのかもしれない。
「失われた子供たちの庭で、平和をねがう」
とても好きな演奏だった。大西君の指揮は丁寧に音に寄り添っていたし、耳の良さが際立つ。だから演奏者も耳を澄ましている。特に無音で沈黙を聴くところは、素晴らしかった。新感染者数16377人。陽性率は12.5%。ICUはマイナス9人。死者672人。
 
11月某日 ミラノ自宅
夢の構造。何度となく都市封鎖下で暮らす夢をみている。夢の都市封鎖で苦労する自分を、夢だと思って眺める夢の中の自分がいて、都市封鎖は大変だ、などと思っている。夢から覚めると、夢ほどではないけれど、相変わらず街は封鎖されていて、夜明け前の暗闇のなか、遠く対岸のアパートに、気の早いクリスマスの電飾が静かに浮き上がる。
(11月30日ミラノにて)

師事すること

冨岡三智

これまでのエッセイでも書いてきたけれど、私にはジャワ舞踊で師匠と呼べる人が何人かいる。最初はもちろん模倣から入る。できるだけ師匠のようになりたいと思って、私はその師匠の動きをできるだけ模倣する。

けれど、いつの頃からだったか、私は眼前の師を最終的なものとは思い定めなくなった気がする。それは師匠を乗り越えたいという意味でも、その師匠の域に近づかなくてもよいという意味でもない。師匠が体現している境地のその先を見たい、師匠が見ようとしている方向を目指したい、と思って進んでいくのが師事することなのだという気がしている。

師匠の背中を追って行くと、遠くにほの暗い光があって、師匠の背中越しに光が漏れてくる。師匠はその光の方へと踏み出していく。その光源から遠く離れた所にいる他人の目には、私と師匠の距離やブレは大きく感じられるかもしれない。けれど、その光源の位置から見れば、ほぼ一筋に重なってそれぞれの道をたどって来る2人が見えるかもしれない。

犬の詩9篇(大館のために)

管啓次郎

1 ついてくる
犬がついてくる
どこまでもついてくる
きみが行くところならどこだって
山も川も越えて
森を抜け町をさまよって
よろこんでついてくる
何も求めず
文句もいわず
ついてくるのがうれしくて
きみと歩くのが楽しくて
立ち止まって匂いをかぐ
耳をすます
また歩き出してどんどん進む
行き先にこだわらない
困難にひるまない
あらゆる瞬間が発見
すべての道が冒険
犬がついてくる
いつまでもついてくる
この地上での
きみの旅を
見届けるために


2 持来
帰ったらランドセルを投げ出すぞ
ピートと野原に行くんだ
古いテニスボールをひとつもって
草が枯れきった秋にむかって
遠近法が壊れた
一面の灰色世界に入ってゆく
それからまず大きな声で「持来!」と叫ぶ
ピートはあふれるほどうれしくて
ちぎれそうなくらい尻尾を振っている
それからボールを投げる
光を飛ばす
ピートも稲妻のようにかけだす
何も恐れることなく一瞬先の
未来へと飛びこむように
汚れた緑色のボールを捕まえたよ
ピートは自慢げに見える顔をして
ぼくのところに帰ってくる
「持来」とはもってこいという命令の言葉
でもそれは命令というより合言葉
ピートが待ち望んでいる合言葉
ピートは百回でもボールを拾いたい
ぼくはピートのための
専用の投球マシーン
けっして文句をいわない
永久の投球マシーンだ


3 Fetch!
河原は広く砂が溜まっていて
住民たちはそこをビーチと呼んでいた
海も湖も遠いけれど
たしかに砂浜というのがいちばん近いかも
走れば足をとられそうになる
くるぶしまで埋まって
足はどんどん重くなる
ぼくとぺぺは毎日砂浜にゆく
古い野球の硬球をひとつもって
夏の紫色の夕方
こうもりの群れがそろそろ飛び始める時間だ
ぺぺはそわそわしながら待ちかまえている
ぼくがその言葉をいうのを待っているんだ
午後の熱がこもった砂は
まだほてるように温かいが
ぺぺは気にしない
ぼくは空にむかって宣言する
「宣誓。ぼくとぺぺは正々堂々
地球の重力に対して戦うことを誓います」
それから長く引きずるような声でいう
F-E-T-C-H!
ボールは高く飛んでまっすぐ夕焼け空にむかう
ボールにむかって飛び出すぺぺの動きが
まるで誇張されたスローモーションのように
はっきりと見える
それはぺぺとぼくとの合言葉
一日を楽しく終えるための秘密の儀式


4 ブーメラン
ドッグランでしか遊べないのは
都会で暮らす犬のさびしさ
サッカーコートの半分しかない広場だけど
ここでは好きなだけ駆け回っていい
いろんな犬種が集まってきたね
オールドイングリッシュシープドッグから
ジャックラッセルテリアまで
ローデシアンリッジバックから
ビションフリゼまで
みんなそれぞれ独特な姿をして
それぞれ比べようのない魅力がある
ぼくの犬は中型日本犬の雑種です
名前は「さいとうくん」です
ドッグランに来てもさいとうくんは
他の犬とはあまり遊ばない
ただ
ぼくがその言葉をいうのを待ちかまえている
それがぼくにはわかるのだ
ぼくはさいとうくんにむかって
「ブーメラン!」と声をかける
さいとうくんが突然駆け出した
25メートル先のフェンスまでゆくと
180度、方向転換して急いで帰ってくる
戻るとハーハーいいながらこっちを見て
また待っている
ぼくはまた声をかけるだろう
ブーメラン!
さいとうくんが走り出し
こんどは他の犬たちもついてゆく
むこうのフェンスまで行き
あの、犬独特の不格好な方向転換をして
一斉に戻ってくるのだ
二頭、三頭、四頭の他の犬たちが
次々にそれに加わる
ブーメラン!
ぼくの声を合図にして
犬の群れがみんなで駆け出す
メキシカンヘアレスドッグから
カレリアンベアドッグまで
ニューファウンドランドから
フレンチブルドッグまで
先頭を切って走るのは
中型日本犬の雑種のさいとうくん
嬉々として
はれやかに
元気よく
まっすぐに
仲間たちに遊びのルールを教えるようにして
おなじ掛け声を何度も何度も待ちかまえている
さいとうくんとぼくがいつのまにか一緒に考え出した遊びだ
犬のブーメラン


5 春の庭
四月のうららかな日曜日に
庭が沈んでゆく
お誕生日を祝う少女たちのグループの
笑い声が二階から聞こえてくる
倒れたシェパードの目は
もう何も見ようとしない
さわやかな風が吹いている
やわらかい日の光が降り注いでいる
空にひとすじの飛行機雲が引かれて
天国が近くなる
ロック、ロック
舌を出して力なく呼吸するロックが
尻尾をもういちどだけ振ろうとする
気がつくと
近所の二匹の猫が
塀の上にすわってこちらを見ているのだ
猫と猫とぼくが
空間に作る三角形が
倒れたシェパードのための
目に見えない小舟になる


6 空の犬
空にも犬が住んでいる
にぎりめしを作って空に投げてやれ
風のように犬が降りてきて
ぱくりと捉えるだろう
風の犬は敏捷だ
木立を抜け
屋根をかすめ
草原を吹きわたり
波を立てて
なんでも食べられるものを探す
元気にかけまわる空の犬のために
デュエイン・オールマンの霊がスライドギターを鳴らす
うねるような上下動でしょう
ゆったりとした、あるいは機敏な、旋回でしょう
荒々しく、でもやさしい旋律でしょう
まるで雷神の口笛のように
Skydogが音をあやつる
にぎりめしと鶏の頭を
空に投げてやれ
天の狗が笑うような
大音響で答えるだろう


7 耳をすまして
物置で30年間ねむっていた
レコードプレーヤーを出してきた
おなじく30年間ねむっていた
LPレコードも何枚か
まず聴くのはラヴィンスプーンフルとか
ジュディ・コリンズの『鯨とナイチンゲール』なんかだね
するとすぐ犬がやってくる
白い体に黒い耳をした
His Master’s Voiceの有名なNipperがやってきて
グラモフォンのらっぱにむかって
首をかしげている
5センチほどの小さな体で
ぼくのテーブルの上にちょこんとすわっている
「ほら、聞かせてよ、あの昔の歌を」と
ニッパーが言葉を使わずに伝えてくるのだ
レコードを取り替えて聴かせてやると
ニッパーは満足して舌舐めずりをする
犬は餌のみにて生くるものにあらず
犬にも音楽が必要だ
というわけで5センチほどの小さな犬たちが
何十匹もやってくる
やってきてぼくのテーブルをみたし
みんなで首をかしげている
今夜のぼくはかれらのために
LPレコードをかけつづけるので精一杯だ


8 氷河にむかって
地平線があるから
そのむこうに行こうと思ったんだろう
生き延びるための土地を求めて
遠くまで行こうと思ったんだろう
アリューシャン列島からベーリンジア、つまり
氷河期で陸地になったベーリング海峡を超えて
どこまでもどこまでも人間たちが歩いてゆく
それでね、特に頼まれたわけじゃないが
おれたちも一緒に歩くことにしたのさ
だいたい人間の行くところには
ついてゆくことにしてたんだ
やつら火を使うから
寒い時期には便利だよ
餌も気まぐれにくれるので
何かと助かるんだよ
人間というのはレストラン+焚き火つきのキャンプかも
おれたちにとってはね
叩かれたり蹴られたり
ときには食われることもあるけれど
全体として見ると都合がいいと思うよ
だからまた、これから
1万年の冒険だ
それでまた、これから
1万年の共生だ
人間たちをなつかせて


9 旅した子犬
このごろトラのことをときどき考える
六十年以上前の子犬時代
大館から鉄道に乗せられ
たぶん二昼夜をかけて
大分県南部の佐伯まで旅をした
黒味の強い虎毛の秋田いぬ
幼児のぼくにとっては
虎のように巨大な体だった
やさしい獣
縁側から足をさしだすと
やってきておとなしくぺろぺろと舐める
祖父の自慢の犬だった
そのころの祖父の年齢に
自分がいつのまにか近づいてしまった
夕方の散歩にはぼくもついてゆく
日豊本線の蒸気機関車が
延岡のほうへと力強く走ってゆく
老人と幼児と秋田犬が並んで
夕焼けを全身で浴びている
トラの吠え声は一度も聞いたことがない
祖父が語った言葉もほとんど忘れてしまった
それなのにあの夕方を
なんのためにぼくは覚えているのだろう