シリアの戦争に勝つのは誰?

さとうまき

シリア人が革命を起こすなんて思ってもいなかった。僕が働いていたのは、シリアの工業省だった。そこにいた若者は、全くやる気がなかった。

1994年といえば、1991年の湾岸戦争で、イラクのサダムフセインが嫌いなハーフェズ・アサドは多国籍軍に参加した。そのおかげでシリアは、アメリカから少し評価してもらって、経済も上向き加減だった。

若者たちは、公務員を辞めてもっと儲かる仕事を探し始めていた。例えば、アハマドくん。年は20歳くらいだと思う。職場に来ては、居眠りして時間になると帰っていく。

「俺は、毎晩ホテルで歌っているんだ」

公務員は、どこの国でも生活は保障されるがそれ以上ではない。

アハマッドは、アフリカ人のように色が黒かった。ホテルで歌っているなんて、カサブランカのワンシーンを僕は思い浮かべた。彼は、ゴラン高原に住んでいたが、戦争で逃げてきて貧しい暮らしをしていた。結婚するためにお金が必要らしい。でもよく聞くと、毎晩ホテルで鼻歌を歌いながら皿洗いしているとのことだった。

アハマッドが結婚する前に「お願いがあるんだ」と頼み込んできた。なんだい?と聞くと、「君の家に遊びに行っていいかなあ」という。

「もちろんだとも」

というと、実は、ビールを飲ませてほしいというのだ。イスラム教徒は、節目節目で立派なムスリムになっていく。結婚はそのステップらしい。結婚する前にビールとやらを飲んでみたいとのことだった。

バース党の独裁政権で、常に監視され、自由がない。だから彼らは政治なんかまったく関心がない。選挙はお祭り。アサド大統領が99.00パーセントで信任される。小数点以下だけが毎回変わる数字。それ以外の選択肢がないと人間は何も考えない。

パンと自由と世界の世直しのために、アハマッドが戦うなんて考えられなかった。僕が接していたのは、ほとんどが公務員だったし、近所の人たちも、政治には無関心だった。でもそれは確かに一部分でしかなかったのだろう。その当時からクルド人は、PKKを支持し、ダマスカスにもアジトを作っていた。当時はシリアはトルコと緊張関係にあったので、アサド政権はPKKの政治活動は容認していたのだ。

先日「ラジオ・コバニ」という映画をみた。実は2回目なのだけど、試写会で見た時は、疲れていたので不覚にも居眠りをしてしまったのだ。コバニは、クルド人が多く住む町で、2014年にイスラム国に占領された。その時、僕が暮らしていたイラクのアルビルにも難民がやってきたので、毛布を持っていったり粉ミルクを配ったりの支援をしていた。ただ、話を聞くだけではコバニがどうなっているかはよくわからなかった。ドローンで撮影されたコバニの町は瓦礫の廃墟と化していた。それはまるで、遺跡のように美しくもあった。戦闘機がやってきて空爆する。前線のクルドの兵士YPG(PKKのシリア版)が、米軍の空爆を助けに地上からイスラム国を追い詰めていく。

YPGの兵士が散髪しているシーン。「子どもたちは洗脳され自爆要員として使われる。残酷な戦争だった。ISの兵士たちは顔を覆って隠していた。顔がわかるのは、武器を奪うために、死体の近くまで行ったとき。そこで初めて子どもだと気が付くんだ。そんな時は、ひどく心が痛んだ。今も頭から離れない。でも戦場では戦うしかない。殺さないと後で仲間がやられるからね。時々殺した子どもたちが夢に出てくる。子どもを殺したと知ると苦しかったが殺さなければ自分が死んでいた。」

僕は、イラクでISと戦っていたクルド人の兵士(ペシュメルガ)とは何人かと話したし、知り合いが兵士だったりした。彼らは得意げに、殺したIS の兵士の死体を見せてくれた。

一方2000人のペシュメルガが戦いで命を落としている。アメリカはイラク戦争で4000人の米兵が命を落とし、帰還兵はPTSDを発症したり、自殺したりして社会問題になっているのに、クルドは、皆、平然と暮らしていたので、むしろ映画のように語る兵士はまっとうに感じた。

もう忘れ去られようとしているシリアだが、イドリブでの攻撃は激しくなっている。シリア政府はイスラム過激派の拠点を空爆している。しかし、数日前のニュースでは、シリア政府軍の空爆で倒壊した建物の下敷きになった5歳の少女が生後7か月の妹のシャツをつかんで助けようとしている映像がSNSで流れてきた。女の子はその後死亡した。赤ちゃんも集中治療室で手当てを受けている。母親は死亡した。

戦争に勝者はいない。アハマドも40代後半になっている。彼も子どもたちも20歳くらいだから徴兵に取られているかもしれないし、反体制派として戦っているかもしれない。たまらなく、アハマッドに会いたくなった。

しもた屋之噺(211)

杉山洋一

ボローニャはマッジョーレ広場から程近い宿でこれを書き始めました。今までマッジョーレ広場で、国営放送局のインタビューを受けていました。隣のフランス人観光客の家族が騒いだり、物乞いが「空腹!お恵みを」と書いた段ボールを持って近づいてくるので、その度に録りなおしになったりして、格闘一時間半。明るい夏のボローニャの広場の夕刻は、人々の笑顔が印象的です。
….

7月某日 ミラノ自宅
寝不足と暑気が重なり、体調を崩した。吐き気が止まらず、手首辺りから先が麻痺している。椅子に坐っていられなくて、思わず床に倒れこむ。顔が真っ赤だが一体どうしたの、と母が驚く。
地下鉄サンタゴスティーノ駅のキオスク店主が、客と話し込んでいる。こんな仕事、本当に何の愉しみもない。月給6000ユーロ貰っても辞めたいと言う。

7月某日 ミラノにて
12世紀サレルノ医学校で編纂された養生訓をテキストにした西川さんから頼まれた新曲を送付する。12世紀だというのに、過労死への警句がまず最初に書いてある。ストレスという単語はまだなかったかもしれないが、あまり今と変わらない。
ウナギやクルミがいけないのは、消化に時間がかかるからだろう、との見解を読む。イタリア人が風呂好きなのは、古代ローマ時代から連綿と続く文化。医学が体系化されてゆくのは、この養生訓が書かれたこのサレルノ医学校で、世界の叡智が結びついてからのことだ。
ヨーロッパ全土をなめつくしたペストの大流行の前に書かれているが、この後すぐに訪れるペスト流行とは少し違った意味で、「死」との距離は非常に近い。彼らにとって、生命とは今よりずっとシンプルなものだった。生きるか、さもなくば死ぬ。

 サレルノ養生訓
「12世紀、世界で最初の医学校が、南イタリア、ナポリの少し南にあるサレルノに生まれた。当時サレルノを含む南イタリアは、ビザンチン、アラビア、ラテン文化が混ざり合う文化の宝庫で、才能豊かなシチリア王フェデリコ2世のもと、アラビア人、ユダヤ人など世界各地から叡智が集った。サレルノには、各地の医者が諍いなくそれぞれの知識をあわせ、近代医学の体系を整えようとしていた。このサレルノ医学校を認可し、医者の資格をこの医学校を修了した者に与えると決めたのも、フェデリコ2世だった。当時の医者たちがうつくしい詩の形で書き残した養生訓集から抜だしたものに、フェデリコ2世時代シチリアの賛歌、Congaudentes jubilemus 冒頭の旋律を使って作曲を試みた。西川さんからVox humanaのためにと新作をお願いされ、まず頭に浮かんだのは、ラテン語のテキストを使うこと、望月さんのオペラで演奏者としてVox humanaの皆さんとご一緒した経験から、一人一人の卓越した技術と個性を際立たせることを思いつき、そしてささやかながら、さまざまな異文化のより豊かで平和な共存が実現するよう、願いをこめた」。
息子はCongaudentes jubilemusによる主題が気に入って、厭きずにずっとピアノで弾いている。

Regimen sanitatis salernitanum
サレルノ式養生訓

 1

Triste cor, ira frequens, bene si non sit, labor ingens,
Vitam consumunt haec tria fine brevi.
Haec namque ad mortis cogunt te currere metas.
Spiritus exultans facit ut tua floreat aetas :
Vitam declinas tibi, sint si prandia lauta.
Si fluxum pateris, haec ni caveas, morieris :
Concubitum, nimium potum, cum frigore motum.
Esca, labor, potus, somunus, mediocria cuncta:
Peccat si quis in his, patitur natura molestis.
Surgere mane cito, spaciatum pergere sero,
Haec hominem faciunt sanum, hilaremque relinquunt.

かなしみ、くりかえす怒りは、よくありません。度を過ぎた仕事も。
この3つは、生命をたちまち燃えつくします。
死と出会いのを早めるだけ。
愉快なこころは、あなたの齢に花をさかせますが、
豪華な食事は、あなたから、瞬く間に一日を過ぎさります。
熱があがり、血のめぐりがわるく、性生活も控えず、
酒をのんで、動きまわっていると、死にます。
食事、仕事、酒、眠り、どれもほどほどがよいでしょう。
このどれか欠ければ、おのずと不愉快が増します。
朝早くおきて、夜散歩にでかけると
人を健康にし、快活にします。

 2

Vitam prolungat , sed non medicina perennat;
Custodit vitam qui custodit sanitatem.
Sed prior est sanitas quam sit curatio morbi ;
Ars primitus surgat in causam, quo magis vigeatis.
Qui vult longinquum viam perducere in aevum,
Mature fiat moribus ante senex;
Senex mature, si velis esse dici.

薬は命をのばしますが、永遠にのばせるわけではありません。
命を守る人は、健康を守る人のこと。
病気を治すより、まず健康であることが大切です。
この芸術は、健康であるほど、あなたの役に立つでしょう。
老いらくまで長生きしたいなら、
生活習慣を成熟させることです、老人になるまえに。
すぐに老けますよ、あなたが望めばね。

 3

Lumina mane manus surgens frigida lavet unda.
Hac, illac modicum pergat, modicum sua membra  
Extendat, crines pectat, dentes fricet;  ista
Confortant cerebrum, confortant caetera membra.
Lote, cale, sta, pranse vel i, frigesce minute.

朝ベッドから起きたら、つめたい水で目と手を洗いましょう。
しばらく歩いてから、四肢もすこしのばしてください。
髪をとかして、歯をみがきましょう。すると、
頭がすっきりして、身体のあちらこちらに元気が湧いてきます。
風呂で身体をあたため食事をとり、少し休むか散歩をして、ゆっくりほてりを冷ましましょう。

 4

Sit brevis, aut nullus somnus tibi meridianus.
Febris, pigrities, capitis dolor, atque catarrhus
Quatuor haec somno veniumt mala meridiano.
 tibi proveniunt ex somno meridiano.

昼寝はほんの少し、いや、とらなくてもよいでしょう。
発熱やなまけ癖、頭痛やカタル。
これが昼寝の四悪です。
午後の眠りのあと、あなたに訪れます。

 4

Post pisces nux sit; post carnes caseus adsit.
Unica nux prodest, nocet altera, tertia mors est
Post pisces nux sit, post carnes adsit.

魚のあとのクルミはよいでしょう。肉のあとにはチーズ。
クルミ一個はよいのですが、もう一個食べると身体にわるく、三個たべれば死にます。
三つのうち、一つだけなら身体にとてもよい。

 5

Vocibus anguillae nimis obsunt, si comedantur;
Qui physicam non ignorant hoc testificantur.
Caseus, anguilla mortis cibus ille vel illa,
Si tu saepe bibas et rebibendo libas,
Non nocet anguilla vino si mergitur illa.

ウナギを食べて、声がおかしくなるのは
道理を理解する人なら、証言してくれるはずです。
チーズとウナギを一緒にたべれば、死にます。
しばしばワインを口にし、またのんで、ちびちび舐めていれば
ウナギは差し障りありません。ワインと一緒にたべるのならね。

 6

Cur moriatur homo cui salvia crescit in horto?
Contra vim mortis non est medicamen in hortis.
Salvia confortat nervos, manuumque tremorem
Tollit, et eius ope febris acuta fugit.
Salvia salvatrix, naturae consolatrix !
Salvia dat sanum caput et facit hoc Adrianum.

なぜ人が死ぬと、庭でサルヴィアが育つのでしょう。
人の命に対する薬は、庭にはありません。
サルヴィアは神経をやわらげ、手から震えをとり、
高熱もサルヴィアのおかげで消えてしまいます。
ああ、生れながらにして心やさしき、救世主サルヴィアよ、
サルヴィアは頭を健康に、聡明なハドリアヌス帝のようにしてくれます。

 7

Coena brevis, vel coena levis fit raro molesta,
Magna nocet: medicina docet, res est manifesta.
Numquam diversa tibi fercula neque vina
In eadem mensa, nisi compulsus, capienda:
Si sis complulsus tolle quod est levius.
Si sumis vina simul et lac sit tibi lepra.
O puer, ante dabis tibi aquam post prandia dabis
Omunibus assuetam jubeo servare diaetam.
Ex magna coena stomacho fit maxima poena.
Ut sis nocte levis, sit tibi coena brevis.
Si fore vis sanus, sit tibi parca manus :
Pone gulae metas ut sit tibi longior aetas;
Ut medicus fatur parcus de morte levatur.

手短にすます食事、軽い食事が、身体に悪いことはまずありません。
食べすぎは身体にさわります。医学でもそういいますし、明白です。
無理強いされないなら、あなたをそそのかす豪華な料理や数々のワインは断ること。
無理強いされるなら、そのなかで一番軽いものを選んでください。
牛乳とワインを一緒にのむと、湿疹がでます。
ああ少年よ。食事の前後に、水をのむことです。
この養生訓をみんなにつたえましょう。
ぜいたくな夕食は、胃をたいへん痛めます。
心地よく夜を過ごすため、夕食は軽くしてください。
長生きするため、食道楽はやめましょう。
医者のいうとおり、慎ましさが死を遠ざるのです。

これを書き出しながら、何か記憶の奥底で反響するものがある。悠治さんの「エピクロスのおしえ」だ。書き出すまで、サレルノのさまざまな民謡を繰返し聴き、私設動物園でキリンを飼っていたフェデリコ2世のまわりの音楽を繰返し聴いた。
ラテン語の詩は、響きもとてもうつくしい。友人が、ラテン語は、イタリア語のように回りくどくなく、単刀直入に言い切るのが気持ちよいと言っていた。ラテン語に通じているわけでもないが、少し気持ちはわかる。

7月某日 ミラノ自宅
藤木大地さんと福田進一さんのための新曲を送付する。
没後500年のダヴィンチが残した「鳥の飛行について」手稿の一部をテキストにし、リラ・ダ・ブラッチョの名手で、優れた歌手だったダヴィンチの残した「音判じ物Rebus musicali」から断片を一つ使って作曲した。「音判じ物」は、楽譜の音名を辿ると、テキストが浮かび上がる謎かけ。「レラソミファレミレ」と音符が書かれ、”Amore la sol mi fa remirare”「あの愛はわたしを振り返らせるばかり」と読むもの。ウィンザー手稿に収録されている。歌いまわしは、ヴィンチ村のあるトスカーナ地方で盛んな民謡、Stornelliを参考にした。

Il Volo degli Uccelli    Leonardo Da Vinci
Fig. 19
Quelle penne che son più remote dal loro fermamento, quelle saran più piegabile. Addunque, le cime delle penne dell’alie senpre saran più alte che li lor nascimenti, onde potren regionevolmente dire che senpre le ossa dell’alie saran più basse nell’abassare dell’alie che nessuna parte dell’alia; e nell’alzare, esse ossa d’alie saran più alte che nessuna parte di tale alia. Perché senpre la parte più grave si fa guida del moto.
付け根から離れるほど、羽はより曲げやすくなるようだ。翼の羽の先端は、翼が付け根より高い位置にあるから、翼の骨は翼をさげれば他の部分より低くなり、翼をあげれば、翼の他の部分よりも高くなる。なぜなら、より重たい部分が運動を先導するから。

Fig.27
Quando l’ucello si vorrà voltare alla destra o sinistra parte, nel battere dell’alie, allora esso batterà più bassa l’alia onde esso si vorà voltare, e così l’ucello si  torcerà il moto dirieto all’inpeto dell’alia che più si mosse.
鳥が右や左に曲がるとき、曲がりたい方の翼をより低く羽ばたかせ、向きを変える。このようにして、翼をより羽ばたいて推進力を得るより、翼の後ろの風の勢いをねじる。

Fig.28
Quando l’ucello, col suo battimento d’alie, si vole innalzare, esso alza li omeri, e batte le punte dell’alie in verso di sè, e viene a condensare l’aria, che infralle punte dell’alie e ‘l petto dell’ucello s’interpone, la tensione della quale si leva in alto l’ucello.
鳥が翼を羽ばたかせ上昇するとき、肩を上げ翼の先を自らの身体へ向け羽ばたかせる。すると翼先と鳥の胸の間の空気が圧縮され、鳥を上へ押し上げる力が生じる。

Il nibbio e li altri uccelli, che battan poco le alie, quando vanno cercando il corso del vento, e quando il vento regnia in alto, allora essi fieno veduti in grande altura, e se regnia basso, essi stanno bassi.
風の気流を探すあいだ、トビやその他の鳥は、あまり翼を羽ばたかない。風が高い位置を支配するとき、鳥はとても高い位置を飛ぶだろうし、低い位置を風が支配するとき、鳥は低く飛んでいる。

Quando il vento non regnia nell’aria, allora il nibbio batte più volte l’alie nel suo volare, in modo tale, che esso si leva in alto e acquista inpeto, colo quale in peto, esso poi declinando alquanto, va lungo spazio sanza battere alie; e quando è calato esso di novo fa il simile, e così segue successivamente; e questo calare, sanza battere alie, li scusa un modo di riposarsi per l’aria, dopo la fatica del predetto battimento d’alie.
風が凪いでいると、トビは、より多く羽ばたいて高くまで上昇し、しっかり推進力をたくわえたところで、その勢いを使って翼を動かさずに長い距離をかけて降下する。そうして降りきったところで、ふたたび同じ手順を繰返すのだ。羽ばたきを使わない降下により、疲れた身体をやすめることができる。

Tutti li uccelli che volano a scosse di levano in alto col lor battimento d’alie, e quando calano, si vengano a riposarsi, perché nel lor calare non battano le alie.
翼を羽ばたかせて急上昇する鳥が、降下で身体を休められるのは、降下で翼を羽ばたかないから。

Fig.29
Senpre il discenso del obbliquo delli uccelli, essendo fatto incontro al vento, sarà fatto sotto vento, e ‘l suo moto refresso sarà fatto sopra vento.
向い風で鳥が降下するとき、鳥は風の下にもぐりこみ、上昇するなら、風の上に身を置くだろう。

Ma se tal moto incidente sarà fatto a levante, traendo vento tramontano, allora l’alia tramontana starà sotto vento, e nel moto refresso farà il simile, onde, al fine d’esso refresso, l’ucello si troverà colla fronte a tramontana.
しかし北風に乗って東へ下降するときは、北向きの翼を風の下に入れる。上昇も同じだが、額は北へ向ける。

Ed è di tanto vilipendio la bugia, che s’ella dicessi be’ gran cose di dio, ella to’ di grazia a sua deità; ed è di tanta eccellenzia la verità, che s’ella laudassi cose minime, elle si fanno nobili.
たとえ神の偉大な逸話であっても、偽りは実に卑しむべきであり、虚偽は神性からも歓びを奪い去る。真実こそが何物をも超越した存在であり、些細な事実であれ、高潔な誉れが与えられる。

Sanza dubbio, tal proporzione è dalla verità alla bugia, quale da la luce alle tenebre; ed è essa verità in sè di tanta eccellenzia, che ancora ch’ella s’astenda sopra umili e basse materie, sanza conparazione ell’eccede le incerteze e bugie estese sopra li magni e altissimi discorsi; perché la mente nostra, ancora ch’ ell’abbia la bugia pel quinto elemento, non resta però che la verità delle cose non sia di somo notri mento, delli intelletti fini, ma non di vagabundi ingegni.
疑うべくもなく、真実と虚偽は光と闇の相違に等しい。どれほど慎ましく貧弱な物質であれ、真実がそこに介在するとき、不確実性やどんな高邁な説法を振りかけられた偽りをも、真実は掛け値なしに超越する。たとえ偽りが人の思考の一部を成していても、物事の真実こそが、洗練された思考、驚くべき知性の偉大な滋養であることは変わらない。

 Ma tu che vivi di sogni, ti piace più le ragion soffistiche e barerie de’ palari nelle cose grandi e incerte, che delle certe.
でも夢に生きるお前なら、確実で当然で我々の理解を逸脱しない事実より、むしろ大袈裟で不確実な事実に怪しげな推論を立て、言葉巧みに貶める方が、よほど好きではないのかね。

1505 marzo-aprile Firenze

実際の写本は、これらの言葉の傍らに、鳥の動きのスケッチが書かれている。ダヴィンチの言葉は、イタリア語が未だ現在のような形になる前の姿を現していて、響きも独特な味わいだが、詩ではない散文調で、当初音に載せるのにずいぶん苦労した。

7月某日 ミラノ自宅
ボローニャで作曲コンクール審査。1位と2位はイタリア人、3位は中国人だった。4位と併せて特別賞を得たのは、ブラジル人だった。中国、韓国、日本の他、イランやトルコから複数、ブルキナファソからも一人の応募があった。
審査の途中でソルビアティとドナトーニの話になる。In Caudaの初演時、ドナトーニは純白なシャツを着ていた。演奏会直前、喫茶店でカンパリをこぼして、胸のあたりに大きな赤いシミを作って、ニヤリと笑ったと言う。「彼はわざとやったんだ、自分が呼ばれるときに、あの服でスカラ座の舞台に上がりたかったのさ」。理由は分からないが、妙に説得力のある逸話ではある。

7月某日 ミラノ自宅
ミラノ滞在中の母とわが息子が「わらび餅」を作った。美味。
母曰く、戦時中お八つと言えば、笹の葉に包んだ梅干をちゅうちゅうと吸うばかりだったそうだが、そんな話を息子はどう聞いているのか不思議に思う。
スキエッパーティ宅での息子のレッスンを見学。特にチェルニー練習曲がどんどん音楽的に、立体的になってゆくのに瞠目。和声的なアプローチも、こういう時こそ役に立つと知る。タッチについても、他の曲よりずっと細かく教えてゆく。レッスンにベートーヴェン「サリエリの主題による変奏曲」も持って行ったので、サリエリ、ベートーヴェン、チェルニーと師弟が揃った。こうして聴くと、意外なほど明確に親和性、関係性が浮き彫りになる。言葉ではなく、自らの指でピアノ史の重要な一ページを読んでいるのは、聴いていてとても羨ましい。

 7月某日 ミラノ自宅
吉澤さんから8月15日演奏会のリハーサル録音が届く。ダヴィンチがミラノに滞在していた時期のミラノ・スフォルツァ家の音楽家たちの作品5曲を、賢順らが初めて西洋音楽に接したときを想像しながら、邦楽四重奏で書き直した。届いた録音は、失礼を承知で演奏があまりに上手過ぎると正直に感想を書く。あくまでも西洋文化も、西洋音楽も見たことも聞いたこともない人間が、自分の知っている言葉を使って、それらしいものをやろうとする。おそらく縄文弥生の時代から、日本人の典型的な姿であったであろう、外来文化への尊敬と真摯な姿勢の原点をそこに見る。現在はコミュニケーション技術が過度に発達して、結果が先に見えてしまっているから、こうすればよい、という方法論ばかりが論じられる。良しも悪きも日本的な精神論は、結果へ到達しようとするその過程を補填してきたわけだから、その部分が抜け落ちてしまうと、これから我々の文化はどうなってゆくのかと不安にもなる。
ともあれ、送っていただいた録音の演奏は素晴らしいので、すっかり気に入って何度も聴き入ってしまった。傍らで息子もすっかり聴き入って、珍しく神妙な顔をして「感動した」と呟き、「何だか中国の民族音楽みたいだ」と言葉を継いだのには、内心妙に感心したものだ。
ルネッサンス音楽と邦楽は想像通り、実に親和性があった。もっと邦楽でルネッサンス作品が演奏されるとよいと思う。恐らくそれは、邦楽の古典の先入観を払拭し、自らの演奏スタイルを見つける助けになるはずだと信じている。

7月某日 三軒茶屋自宅
ヴォクスマーナリハーサルより帰宅。一言、自らが書いた音の目指している方向を示すだけで充分だった。西川さんも歌手のみなさんも、皆揃って音の感受性が豊かで、表現の幅が深く広い。だから練習はとても楽しい。聴いているこちらも、鄙びた田舎ののど自慢大会に参加している気分になる。ちょうど土用のウナギの日に「ウナギを食べると死にますよ」と歌うのは愉快な経験であった。

7月某日 ボローニャ・ホテル
朝早くにミラノをでて、ボローニャにて8月2日作曲コンクール演奏会リハーサル。オーケストラとは、10月のクセナキス以来。再会を喜ぶ。
ホテルでヒジャブの妙齢とエレベーターで乗り合わせた。彼女は同行の年配のイタリア人婦人と英語で話していて、彼女たちと同じ階でエレベータを降り、歩き出したとき、かちゃかちゃと不思議な音がして、無意識にその音の方に目をやると、義足がアディダスを履いていた。
 

7月31日 ボローニャ・ホテルにて

変化するちいさなはたらき

高橋悠治

いつも夏のあいだ 秋の準備をする コンサートもあまりなく 暇な時間に見えるだろうが この暑いなかで 自分でしごとの締切を作って 作曲し ピアノの練習をする ゆっくりしかできないのは 暑さのせいかもしれない それに 音楽を何十年もやってきて いままでにやらなかったことを見つける 知らなかったことをためすのがむつかしくなってきているのだろう

やらなかったことは たくさんあるようだが できることは限られている そのなかで 逆に いままでやったことを振りかえり そこからほんの半歩だけ遠ざかる どこへ行くかは考えない

それぞれのしごとに具体的な条件がある 作曲のばあいなら 使う楽器 それを弾く人 
演奏時間 発表の場 たとえばコンサートのプログラム 他の曲のあいだで それらのどれともちがう位置 niche その楽器のために作曲した自分のいままでの曲 知っている限りでの他人の曲から どのように距離をとるかで できることが ある程度見えてくる瞬間がある その時を逃さずにはじめないと また霧がたちこめて 見えていたイメージは バラバラの断片になって忘れられてしまう イマージそのものではなく それらをつなぎとめている見えない糸が切れないように 見えている部分を配置しておくことができれば その日のしごとを終えてもいいだろう

しごとの速い作曲家がいる ダリウス・ミヨーは 委嘱された日に書き上げてしまい さすがに すぐ渡すことはせず 期日まで 抽斗に鍵をかけておいたと言われる ヒンデミットもクルシェネックもしごとは速かった こういう職人芸は必要ではないとは言わない そういう人たちがいなければ 音楽業界は困るだろう 委嘱した側から言えば 期待された作品ができてくるのはよいことだ 期待以上の音楽は 望まれてもいないし 時にはそれがプログラムの中心になっては困る場合さえある もちろん 期待以下では話にならないし 期日までに楽譜をわたしてくれなければ 練習日程や演奏の質にかかわる

でも 職人芸はそれ以上のなにか 思いがけない発見を誘うことはむつかしい ほとんど自動的に手がうごき 意外性まで計算されていて 演奏も安全な軌道の上を走っていく さて どうするか

思いついたときは 新鮮に思えるが 発見のよろこびは しごとをすすめるうち だんだん薄れていく 速いしごとが手慣れた表現におちつきそうになる前に中断して 他のことをする あるいは何もしないで ぼーっとしている ゆっくりしごとをすすめれば いつか脇道に逸れていく 中断して次の日にそこにもどると 飽きそうになった手作業に まだちがう間道が見えるかもしれない 夏の暑さも そう思えば しごとにちょうどよい季節とも言える

2019年7月1日(月)

水牛だより

日本にはもう季節というものはない。あるのは異常気候だけだ、と言ったのは片岡義男さんだったか。かろうじて夏と冬だけはまだありますが、その日々の天候は落ち着かず、冷暖房がそれに拍車をかけていると思います。夏のなかに冬があり、冬のなかに夏がある。衣替えもかんたんにはできませんね。

「水牛のように」を2019年7月1日号に更新しました。
北村周一さんたちの展覧会「絵画の骨」が開催中です。国立の宇フォーラム美術館で7月7日まで。木金土日のみ開館です。北村さんによれば、この美術館は壁も天井も床もすべて灰色なのだそうです。

やってみようか、やってみたいな、と思ったことのどれだけが出来ているのかと、ふと考えることがあります。みなささやかなことですが、もちろん(!)ほとんど出来ていません。朝、いつもより少し早く目を覚まし、でも起き上がらないで、その日最初のコーヒーを飲みながら、達成感のないことを考える時間はいいものです。

それではまた!(八巻美恵)

私の遺伝子の小さな物語(下)

イリナ・グリゴレ

ルーマニアではロシア正教会に生まれた、私。東方正教には修道院が多く、ルーマニア国内にもたくさんある。子供の時のことを思い出すと祖母の生き方はすごかった。日曜日、村の古い修道院の礼拝に連れられて、礼拝の音や光を浴びた私の身体が懐かしい。古いしきたりに則った礼拝が持つ儀礼のパフォーマンス的な力は身体に響く。神様と自然、すべて神秘的だった。この古い東方正教の人の中には、神様と直接話す人がいる。その聖人は修道院の近くの森や洞窟に入って森の実しか食べず、動物のこと、森のこと、世界のすべてが分かるようになった。ルーマニアに生きている私の家族みたいな一般農民は、政治も科学も信じない。唯一助けになるのは聖人の身体と人生。だから病気になったらこういうすごい聖人の助けを求めるしかない。もちろん、こういう中世の習慣を軽蔑する近代的な人にとってはただの迷信にしか映らないが。私も十八歳から町のポスト社会主義の若者と混ざって子供の時の感覚を忘れがちだったが、病気になると世界観が変わる。

聖人は亡くなっても体が腐らない。そのまま残っていて、ものすごくいい匂いがする。その体が聖になった証拠。私もちょっとみたが、すごいいい匂いがした。

社会主義時代、たくさんの神父さんが拷問にかけられて、殺された。彼らが庶民の力になることを恐れたから。それでも、奇跡的な出来事が起きて、聖人の身体の強さに皆は驚いた。

正教会では、身体が神様のお寺みたいなものだ。だから、病気は罪の表れだと思われる。私だけの罪ではなく、先祖代々の罪がこの私の細胞にある。今までいろんな人生を歩んだ人が自分の中にたくさんいる。私の先祖のことだ。私の身体に細胞の歴史がある。今まで生きてきた先祖の最高の表れが私の身だと思うと、強い責任を感じる。

こうやって自分の先祖のこと考えながら、なぜかトーマス・マンの『魔の山』を思い出した。窓の近くまでいけるようになったら、小さい公園とそこにあるブランコが別の世界のようだった。ある日、向こうの部屋の患者の方が急にいなくなった。ドアから空いている白いベッドが見えた。年配の女性が忙しそうに服を片付け、その夫らしい人が電話でお葬式の準備のことを話していた。この病室にいた方は静かに生から飛び出して幸せなところに戻ったのだろう。この死はどこか中世ヨーロッパの絵でみたことがあるイメージだった。

手術から何日かたって、病院の屋上にはじめて上がった時の穏やかな気分を忘れることができない。太陽の光が私の皮膚を温めてくれた瞬間、これは生きている証拠だと思った。屋上は車椅子でいっぱいだった。この古い病院の患者さんは静かに秋の光を浴びていた。

病院にいる間に二歳の時の私が遊びにきた気がする。ある日、病院のベッドでカモミール茶を飲んでいたら、忘れていた思い出が浮かんできた。二歳ごろの夏だった。野生のカモミール畑で遊んでいた、私。太陽の光がとても気持ち良く、村の子供とカモミールの花を集めていた。病気は私の歴史を改めて考えさせる。

一九八六年、日本では昭和六一年だ。一九八六年に私の弟が生まれた。その年の四月に私はちょうど二歳になった。十日後、チェルノブイリの雲は、私が遊んでいた祖母の家のカモミール畑まで来た。桜の木、庭に植えられた野菜と花、近くの森に、見えない暗い毒を浴びせた。当時、誰も知らなかった。今聞くと、あの時のことはもっと後から分かったらしい。嘘か真実か、誰にも分からない。農民にとってこの土地は身体の一部だから信じがたいだろう。野菜を洗えば大丈夫だろうと皆は思ったに違いない。だって、生まれてからずっとそこにある森や畑、一所懸命育った野菜や花に、見えない、人工悪魔のような毒がついていると突然言われても、嘘のような話にしか聞こえない。とくにチャウシェスクの時代は、なにがリアルかなにが嘘なのかはっきりわからないまま。大自然のことしか信じない。

しかし、私の身体にこの事件の影響がなかったとは言えない。弟が生まれたから、母の乳の代わりに新鮮な牛乳を飲まされて、祖母が作った野菜を食べた。その時に大好きな野菜、家から見えた森やどこまでも広がった野草はひどく傷んでいたのだろう。私の身体が彼らの傷みを感じなかったはずはない。だって、私の身体はその森、花、祖父と祖母の家の一部だと言える。しかし、私たちは人間が作った社会主義の下に暮らしていたことを知らなかった。神様が作った森のこと、虫のこと、野菜や植物のことはたくさん知っていたのに。そして、チェルノブイリのことも、私には誰もなにも言わなかったけど、自然が教えてくれた。

二歳の子どもの身体でも、世界でなにが起きたか感じることは出来るに違いない。あの後、私は悪夢を見た。夢の中で、何日間も、祖父母の家のある村で、森の上の空から腐っている気持ち悪い蛙の雨が降っていた。あの時に、何年間もこの夢を見ることを、地球が私の身体に教えてくれたとしか思えない。そして三十歳になった今でもあの時に傷んだ身体を持つ。その時と同じ病気だ。手術は痛いし大きな傷跡が身体に残された。地球も痛かっただろう。

私の病気は遺伝子のせいと言われるけど、でも二歳までの遺伝子はどうだったのだろう。私の病気は私が生まれる前にこの世界を傷つけた社会主義なのではないか? 私の両親は社会主義に生まれ、彼らの人生の大分を傷めただろう。私の骨、皮膚、細胞は彼らの思いを知らないわけではない。ずっと恐怖の中で生きてきた私の両親は、この恐怖を私の骨と神経に伝えただろう。遺伝子だって、私の先祖の苦しみを知っているだろう。皆の思い、この身体が覚えている。そして病気はこういうものではないか。

手術後に敏感になった私の身体が、そう思った。戦争に行ってきたという感覚に近い。前回の手術と合わせて、今は身体に二十センチ以上の傷がある。戦争に行って二十八歳の若さで帰ってこない先祖の気持ちは、きっと私の気持ちとあまり変わらない。祖父の父さま、大丈夫ですよ、あなたの遺伝子を持っている私、ちゃんとわかっているよ、あなたの苦しみを。私の遺伝子は戦争、原発事故、社会主義を知った。正直に言うと戦争、原発事故、社会主義こそ病気だった。今も世界が傷んでいる。

母の夢をみた。二歳の私と二人で懐かしい村の森にいた。春の明るい日、最初の花が咲く時に、森に遊びに行く習慣があった。木の青い、まだ若い葉っぱから光が入って幻想的な背景を生み出す。目に見えるところまでバヨレート(シラー・シベリカ)の花が広がっている。私たちが楽しそうにバヨレートの花をいっぱいとって家に帰ろうとしている。

森から出ると村に入るまでに村の墓所がある。この墓所に私たちの先祖が森の音を聞きながら眠っている。墓所の前を、私と母がとても青いバヨレートを持って歩いていた。私が二歳ならお母さんは二十六歳ごろ。今の私より若い。夢の私は歩くのに疲れて、母はバヨレートの花束を下に置いて私を抱いて歩き始めた。バヨレートの花が道の真ん中に残った。ちょうど墓所の前のほこりだらけの道路に、光るように青い花が置いてあった。

村に入って、お父さんの実家に寄った。父の母からミートボールを貰うが血の塊が出たミートボールだった。そこから出ようとする。「どこに行く?」と聞かれる。「何でいつもあそこへ?」枯れた声で追い出す。あそことは母の実家のこと。私を育てた祖母に会いに行く。道中、遠い親戚の家の前を通ると、パイをのせたお皿で私達を誘う。庭の中に入ると家の外にパイがたくさん置いてある。家に入ると、亡くなった親戚と軍隊の制服を着ている若い男がスープを飲んでいる姿が見える。若い男が食べ物をテーブルに置いて私の方を見ている。亡くなった親族のお食事会のようだった。この夢こそ私たちの遺伝の物語だった。 

(「図書」2015年5月号)

頭の悪い私の哀しみ

植松眞人

 即身仏になりかけた修行僧のような顔だと、あなたを初めて見た時に私は思った。よく見ると愛嬌のある笑みを浮かべるし、女慣れしていないような慌てて話す様子も嫌いでは無かった。けれど、この人と身体を重ねることになるとは思わなかった。いや、もしかしたら、初めて会った半年ほど前のあの時に、そんなことを考えたかもしれないけれど、その時に私の気持ちは「セックスが下手そうだし、この顔に抱かれるのはいや」というもので、それは割とはっきりしたものだった。
 それなのに、私が修行僧のような立木君と付き合うようになったのは、ひとえに立木君の頭が良かったからだ。
 私たちは同じ大学の同級だけれど、立木君は実は四つ年上だ。彼は高校に上がるときに父親の仕事の関係でアメリカに移り住んだ。語学に関する能力が高かったのか、英語圏での生活はまったく問題が無かったという。
「語学のいいところは、覚えればいいってことだよ」
 立木君はそう言って笑うのだけれど、それが決して嫌味ではなく、立木君が言うと、確かにそうなんだろうな、と思う。
「でも、それなりに努力はしたんでしょ?」
 私が聞くと、立木君は笑って答えた。
「日本語を話す人とは徹底的に話さなかったことかな」
「親とも?」
「親とも」
「英語を習得するために?」
「英語を習得するために」
「とにかく、追い込まれないと人は何にも覚えないってことは、高校生になったらわかるじゃない」
 そう言われて、私はわかっていたっけ、と思ったのだが、それは口に出さずに、なるほど、と私は答えた。
 とにかく、立木君はアメリカに移り住んで一年もすると日常生活に困らない程度の英語を身につけたそうだ。そして、ある程度、英語に自信がついたところで立木君はアメリカ文学に目覚めたという。
「言葉を覚えたら、その言葉をさらに深めないとと思ったんだ。最初はテレビを見たり、映画を見たり、学校の友だちと積極的に話すという方法をとっていたんだけれど、結局、今の芸術とか今の人たちは、僕らと同じ程度に軽薄で僕らと同じ程度に賢いんだ。学ぶなら、もっと賢い人から学ばなくてはと考えて僕は学校の近くにあった公立の大きな図書館に通うようになったんだ」
 自分の周りには学ぶべき賢い人はいなかった、という高校生にしては不遜な考えは、いまの立木君を嫌いだという人たちが、立木君を嫌う部分とまったく同じで、立木君は高校生のころから、すでにちょっと嫌な奴として確立されていたのだなあと改めて思うのだった。
 でも、立木君のそんな不遜なところにゾクゾクする。立木君が周囲を不遜な態度で見ていることにもゾクゾクするし、その対象が私だったりするとさらにゾクゾクする。ただ、それが不遜に扱われている事に対するものなのか、いつか立木君が足元をすくわれて頭でも打つんじゃないだろうか、ということに対するゾクゾクなのかがわからない。どちらにしても、私は立木君に惹かれてしまい、後戻りすることができなくなった。
「付き合って」
 私がそういったときに、立木君は、
「どうして?」
 と私に聞いた。
「頭がいいから」
 と私が応えると
「頭、いいかな」
 と、立木君はちょっと困った顔をした。
 その困った顔に、私は少しがっかりした。
「立木君」
「なに?」
「立木君は困った顔しちゃだめだよ」
「困った顔?」
「いま、してたよ、困った顔」
「してたかな、困った顔」
「してたよ、困った顔」
 そう言われて、立木君は生真面目に自分のほんの少し前の顔と、その顔をさせてしまった自分の心持ちについて思い出しているようだった。そして、ふいに何かに思い至ったようだった。
「付き合うって、どういうことなんだろうって、そこが分からなくて困ったんだと思う」
 立木君がそう言う。
「困っちゃだめだよ」
「困っちゃだめなの?」
「だって、立木君、頭良いんでしょ。知らないことがあって困っちゃだめなんだよ。知らないことがあっても、知ってるふりして乗り越えないと」
「知ってるふりか」
「得意でしょ」
「日本に帰ってきてから、得意になった」
「日本に帰ってから?」
「そう。日本に帰ってから」
「アメリカでは知ってるふりしなくていいの」
「しなくていい」
「どうしてなのかしら」
「どうしてだろう」
 どうしてなのかを考えている立木君の顔を見ながら、知っているふりをしなくていいアメリカという国はつまらないなあと思った。
「ねえ、日本のほうが面白くない?」
「うん、日本のほうが面白い」
 立木君は笑った。 (了)

製本かい摘みましては(147)

四釜裕子

付録が話題の月刊『幼稚園』が、7月号は早々に重版決定したそうだ。当号付録は江崎グリコとのコラボレーションで、4つのボタンを押すとコーンアイスが出てくる自動販売機「セブンティーンアイスじはんき」が作れる紙工作キット。ぱっと見、直方体だし、幼稚園児にも分かるように作られているのだろうから簡単でしょうと思いきや、「幼稚園ふろくチャンネル」なる動画を見ると作りはかなり細やかだ。これ自体はおもしろいのだけれど、教えるおとなとか、こうしてのぞくおとなのために、おとなが動画を用意していて、よいこのみんなには、おとなになると自分で自分が好きなものを買えるわよ、とだけ言いたい。

こちらの転居のせいでいつからか届かなくなったJT生命誌研究館の季刊『生命誌』の付録も楽しみだった。毎号、さまざまな仕組みを駆使した紙工作がついていて、今でもいくつか手元に残してある。からくり仕掛けありのペーパークラフト・古生物シリーズ、似ている生きもののシルエットが並ぶように組み立てられる「他人のそら似」シリーズ(ホホジロザメとイクチオサウルスとか)、38億年続いてきた生きものを支えるバランスを学ぶ「生きものヤジロベエ」などなど。研究の成果を、一般のひとが楽しめるように美しく表現することを大切にしてきた、中村桂子さん率いる同館の特徴の一つと思う。

そしてこちらは付録ではなくて実物見本ということだが、『デザインのひきだし』。2007年の創刊で、実物見本が付くようになったのはいつごろからだろう。最新の37号の特集は「活版・凸版」。実はこの実物見本、材料費が乏しい製本の授業で重宝してきた。オフセット印刷や紙の加工特集などの見本をばらばらにして学生にまず好きなものを選んでもらって、それに合わせて無地の安価な紙を選び、それぞれの製本材料にするという具合。

数年前から、「身の周りにある紙の中から、製本で使えそうな、きれいなもの、おもしろいものを集めて持ってきて。店で買う必要はありません」に対する反応が鈍ってきていた。「雑誌でも包装紙でもフライヤーでも紙ゴミでも、いろいろあるでしょ?」と言うのだけれど、つるつるのうすうすの紙にぺかぺかに刷られた洋服通販冊子を複数の人が持ってくるようになったのだ。この紙をきれいと思うの? この柄をおもしろいと思うの? これを使って製本してみたいと思うの? 

聞けばそういうことではなくて、ふだんの暮らしでみつけられる「紙」がそれだっただけで、きれいともおもしろいとも思っていない。買うのはナシと言うのでこれを持ってきた、というのであった。暮らしの中から紙が減っているのは確かだろう。電車の車内吊りや新聞の印刷広告もテキトーなものばっかり(今朝の『君の名は。』の新聞両面広告はよかったけど)。それにしても、なんということだろう。今、「紙」を初めてまじまじ眺めようとしている人の日常に、うつくしい印刷物がこれほど減っているなんて。

しかし、ただそれだけのことかもしれない。うつくしくておもしろい紙や印刷物を知る機会さえあれば、たちまち夢中になるのでは? それで『デザインのひきだし』実物見本。毎回みんなくらいつく。選ぶのに迷ううちに夢中になって、作業しながらわいてきたアイデアに自分でびっくりしている姿を見るのがうれしい。終わってほんとは『デザインのひきだし』本体を読んで欲しいのだけれど、毎度それは「次の機会に」。「次」は自分で見つけてね。もう、ひきだしの一つは開いているのだし。

MY LIFE IS MY MESSAGE

若松恵子

ロックバンドHEATWAVEの山口洋が、東日本大震災の直後の2011年4月に福島県相馬市の人々とともに「町とこころの復興」を目指してMY LIFE IS MY MESSAGEというプロジェクトを立ち上げて活動している。友人が相馬市に住んでいたことをきっかけに(確かレコード屋さんだったと思う)相馬市という具体的な町とつながって、自分にできることは何かと悩みながら支援を続けてきたプロジェクトだ。自分の本業である音楽を活動の軸に、相馬に暮らす人たちを元気にしようと、チャリティコンサートや美空ひばりのフィルムコンサートの開催などをしてきた。あわせて、賛同してくれるミュージシャンと相馬以外の地でもMY LIFE IS MY MESSAGEのタイトルのもとにライブをしたり、野外フェスに出演しながら相馬を応援する仲間を広げてきた。募金を集めて何かをプレゼントするとか、再建するとか、分かりやすい目標のようなものがあるわけでは無いようなので、継続していく事自体難しいことだったろうな、と思う。ライブのチケット代と支援のお金が直結しているわけでもないので、普通のライブとどこが違うの?と言われてしまうかもしれないとも思った。

6月28日に、8年目を迎えるMY LIFE IS MY MESSAGE2019のライブを見に行った。今回の出演者は山口洋と2013年からずっと参加している仲井戸麗市の2人。それぞれのパートと、いっしょに演奏するパートの充実した3時間だった。このライブに対する2人の思いが静かに、静かに伝わってきて余韻が残った。

震災から8年経って、直接相馬に行ってしなければならないことも少なくなってきて、誰かのために汗を流すことよりも自分の持ち場でしっかり音楽をすることこそが重要になってくる。ガンジーの言葉を引用したプロジェクト名なのだから、そういうことなのだけれど、支援活動としてはますます間接的になってきて、それはそれで難しい挑戦になるだろうなと思う。でも、続けてほしいなと心から思った。自分たちの音楽を精一杯鳴らすこと、そのことでまず目の前にいる人たちを元気にする、そして「あの日のことを忘れない」という思い(メッセージ)を唄に込めて伝える。音楽に、唄にどれだけの力があるのだろうかと迷いながらも、自分たちが一番うまくできることで役に立ちたいと思っている…そんな誠実さを2人の姿から感じた。彼らの音楽を聴き、心打たれるという、直接には相馬への支援になっていない参加の仕方ではあるけれど、私も見続けていきたいと思っている。

自分と同じように日常を大切に生きているたくさんの人への連帯の気持、原発事故の責任がきちんと取られていないという不正義への怒り、それぞれの人生を自分の好きなように輝かせて生きようという励まし、歌詞に直接うたわれているわけではないけれど、そんな大切なものを音楽から感じた夜だった。

しもた屋之噺(210)

杉山洋一

ここ数日、酷暑に見舞われています。ミラノだけではなく、ヨーロッパ全土が異常な熱波に襲われているとか。毎年七月半ばが一年で一番暑いのですが、今年はそれが早まったようです。七月に向けてこのまま気温上昇が続くと想像したくないのですが、一体どうなるのでしょう。

6月某日 ミラノ自宅
朝5時半起床。息子の弁当に入れるパスタを作ってから、6時半、朝食のパンを買いにゆく。朝食の準備をして7時半には家をでて、マントヴァから戻った家人と中央駅で落合って、8時過ぎの列車でキアヴァリのマルコ・バルレッタのピアノを見に出かけた。マルコは旧いピアノを修復して使えるようにしているのだが、弦が交差しない形の平行弦のピアノは、音域毎に音質が違うので、同時に何声部も弾いても、それぞれ音がきれいに分離するし、現在のような均質な音色を求めるピアノをモーツァルトが持っていたら、アルベルティバスは書かなかったと力説していた。音質や鍵盤、時に声部が不均等である美しさは、その昔メッツェーナ先生のレッスンを聴講しているときに覚えた。

6月某日 ミラノ自宅
通常、指揮セミナーは教師が熟知するレパートリーをやらせるものだが、生徒がお金を出し合ってアンサンブルやオーケストラを指揮する我々の場合、編成や演奏時間が優先される。教師は曲を余り知らないまま、良く言えば先入観なしに生徒の作りたい音楽の手助けをする。一応楽譜の勉強はしたが、生徒の方がよほど深く読み込んでいて、解釈で蘊蓄など垂れる必要はない。むしろ、深く読み込み過ぎて、泥濘に嵌りそうになると、少しだけ言葉をかける。

今回特にチリ人の血を引くグエッラが担当したファリャ「チェンバロ協奏曲」の素晴らしさに衝撃を受けた。演奏も指揮も意外に難しく、編成が小さいほど、粗が露わになるからだろう。無駄なく冗長な要素を極端に廃した構造は、性格は違うがマリピエロのようでもある。
3楽章の楽譜を読んでいるとき、息子がシューベルトの即興曲2番を歌いながら通りかかって、初めてこの中間部がファンダンゴと気づく。常識と言われればそれまでだが、無知とは恐ろしいものでこの歳まで知らなかった。アルゼンチン人のバレンボイムの演奏を聴くと、カスタネットを叩いて躍っているように聴こえる。

浦部くんにお願いしたウォルター・ピストンが、ジェノヴァ人の家系だとは知らなかった。イタリアには、確かにピストーネという名字もあるそうだ。ピストンの「喜遊曲」に、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」の足跡を見る。ピストンの「喜遊曲」は1946年、バルトークの「協奏曲」は1943年。後年はボストンシンフォニーとミンシュでピストンの6番交響曲が録音されているほど、ピストンは長い間ボストンで盛んに活動していたようだし、クーセヴィツキとボストンシンフォニーの1944年の初演も聴いていたかもしれない。高校生の頃中古レコード屋で見つけたこのミンシュのLPを愛聴していた。
要するに指揮セミナーというのは、無知の教師が自らの無知を確認する、格好の機会ということ。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院に細川さんがいらして、ガルデッラも交えて昼食をご一緒する。美食家のガルデッラが探してくるレストランは外れたためしがない。食事の席でエヴァ・クライニッツの訃報に接し、言葉を失う。
夜は尺八の黒田くんとmdi ensembleの演奏会があって、桑原ゆうさん、浦部くんの作品を聴きにSirinに出かける。浦部くんは新作の初演をし、通訳も指揮もして企画までこなし、八面六臂。桑原さんの作品も次々とアイデアが沸き上がる様が素晴らしい。スタイルは違うけれど、知り合ったばかりの頃のみさとちゃんを思い出した。
もう20年近く前から何回か、パリのみさとちゃんもこのSirinにやってきては、mdiとのリハーサルに熱心に付き合ってくれた。当時は主人のフランコも健在で、お昼はいつもヴェラ通りの年配女性が揚げるカツを乾燥トマトやチーズと一緒にパンに挟んでもらって食べた。皆あのおばちゃんを慕っていて、ミラノ語でシューラ(おばちゃん)と呼んでいたが、あの店も大分前になくなった。
当時、いつもヴェーラ通りの角には、整った顔立ちに濃いめの化粧を引いた妙齢が立っていた。 晴でも雨でも、暑夏でも厳冬でも、物憂げで、どこか凛とした風情で立っていたのを思い出す。彼女の前に車が停まり、二言三言言葉を交わして助手席に乗込むところに、何度も出くわした。未だ若かりし頃のアンサンブルの演奏者たちのちょっとしたマドンナだったから、朝、練習が始まるとき、彼らが「今朝はシニョリーナもう道に立っていたね」、などと嬉しそうに声を上げていたのが懐かしい。彼女の姿ももう長い間みていない。
フランコが亡くなり、一人残されたミラを皆でいつも気にかけていたが、会うたび、この家は広すぎるしフランコとの思い出があり過ぎて辛いと涙をこぼした。友人らがお金を積んでこの家を借りるとか、購入するとか色々と案を出したが、結局彼女はさっぱりと売却を決め、年内には家を明け渡すことになっている。家人も、ピアノが好きだったフランコの楽譜をずいぶん沢山貰って来た。
黒田くんの演奏会に出かけ、フルートのソニアと話した。「シューラ、未だ元気かな」「どこかの養老院で、今も楽しくやっているといいわね」。

6月某日 ミラノにて
朝、東京の尚さんから便りが届いた。
「悠治さんのピアノは、涙が出そうになるような愛に溢れた音、音楽でした。張詰めた空気感、優しいロマンティックな雰囲気、静かなたたずまいなど、色彩豊かな時間で胸がいっぱいになりました」。

家人の留守中、息子の弁当の助っ人に母を来てもらっている。残念ながらうだる暑さで日中どこにも出かけられない。今朝は週末で弁当の必要がなかったので、朝早く、連立ってジョルジアの菓子屋まで朝食を買いに出かけた。こちらは徒歩で、八十路半ばの母は鶯色のブロンプトン自転車に跨り、颯爽と。
息子が魚を余り食べないとこぼすと、母も幼少期、魚にあたってばかりいたので、口にするのは好きではなかったと言う。当時は氷冷蔵庫しかなくて、暗いところで冷蔵庫を開けると、魚がぼうっと光っていて薄気味悪かったそうだ。母曰く、魚のリンが発光したからと言うが、真偽のほどは分からない。

(6月29日ミラノにて)

シリアの民主主義

さとうまき

今、僕はシリアのことをいろいろ考えて本を書こうという気になった。8年にわたる「シリア内戦の分析」をする。というわけではない。僕が、25年前の7月19日に初めてシリアに行ってから25周年という記念日なのだ。

久しぶりに25年前のノートを開いてみた。まだ、ハーフェズ・アサドの時代。驚くほどアナログの時代。インターネットもなければ、デジタルカメラもなかった時代を信じる方が難しい。今は、スマホ一台ですべてが補えるのだからすごい進歩だと思う。だからこそ、民主主義も進歩したはずなのに、シリアの今は内戦が続く。そんなことを徒然なるままに筆を執ってみる覚悟をして、25年前のノートを読み返してみるとなかなか興味深い時代だったんだなあと改めて感じた。

1994年8月

ダマスカスの工業省に赴任して間もない夏。ウマイヤッド・スクェアにバスがさしかかった時、アラビア語で書かれた垂れ幕がやたらと張ってあるのが目に付く。一緒に乗っていた職場のシリア人女性に聞いてみるが、「明日までに調べておくわ」。きっと政治的なスローガンが書かれているのだろう。

アパートに帰ってラジオ・ダマスカスを聞く。このころFM放送で英語放送をやっていた。国会議員の選挙があるらしい。一般庶民のシリア人はあまり新聞を読まない様だが政治には本当に無関心だった。

少し昼寝をして町をうろつく。確かに町中がポスターやら垂れ幕やらでお祭りの様ににぎわっていた。テントが張られていて、裸電球とシリアの国旗がたくさんぶら下がっている。椅子がならべられていて、奥には大統領と1994年1月に不慮の事故でなくなった長男のバーセル(バッシャール現大統領の兄)の写真がかざってあった。トルコ風民族衣装に身を包んだ給仕が、ちらほらと集まってきた近所の老人達にアラビアコーヒーを振る舞っていた。実にのどかな光景のなかで日が暮れていく。心地よい夜の風が吹く。

突然車のクラクションが鳴り響く。子供が走ってくる。そして肩車された若者がやってくるとみんなは拍手喝采で迎え入れる。今度は、ひずめの音がしたかと思うと馬にのった男達がやってくる。こういうときは、絶対ロバではだめだ。彼らは、候補者の名前を叫ぶと、「あんたが一番!あんたが一番」とたたえる。小さな子供達も選挙運動に参加していた。ポスターを広げて候補者の名前を叫んでいる。若者は、興奮していろいろと説明してくれるが、僕にはさっぱり理解できなかった。

結局「おまえも一緒に来い」と言われて子供達と一緒にトラックの荷台に乗せられた。トラックは急発進すると次の目的地へと向かった。トラックの運転は手荒かった。しっかりとしがみついていないと振り落とされそうだった。曲がる度に子供達は荷台を転がり回っていた。商店街に入ると通行人が手をふって応援してくれる。やがて車は高速道路下のテントへ到着した。ここにはお歴々がそろっているらしかった。

中国人かといわれ、「いや、日本だ」と答えると、「じゃあ空手ができるんだ」。子供達が寄ってくる。カメラを見つけるとサウルニー(私を撮って)とせがむ。大人がやってきて子供達を叱りつけ追っ払ってくれる。うるさいガキどもを追っ払ってくれるのは実にありがたいのだが、必ず「さあ!俺を撮るのだ」とくる。結局、フィルムの無駄遣いはさけられない。当時はデジカメなんかなかった。

「コーヒーを飲むか」。彼らが差し出してくれたのは、カルダモンの香りが効いた濃いコーヒーだった。まるで九州人のようにお猪口で回しのみをするので、一気にぐっとやってしまわなければならない。僕は進められるままにこのコーヒーを3杯も飲んでしまったので胃が痛くなった。

「ところで、君たちの候補者は一体だれなんだい」

「マハディーン・ハブーシだ。彼にたのめばなんでもやってくれるさ 」

「そうさ。本当だよ」小さい子供までが付け加えた。

選挙運動はだいたいこんな感じで進んでいった。公約を宣伝カーでふれまわるようなことは決してなかった。夜、しかも決められた場所で有権者にコーヒーを振る舞う。灼熱の太陽が没した後に人々は集まり、お茶を飲み、トルコ風の剣の舞を楽しむ。

投票日

この日は投票日だった。投票はだいたい小学校などを利用して行う。俺はいつものようにカメラを持ってカファルスーセの町をうろついていた。近所の就学前の少女がついてきた。小学校の前にさしかかると、調子の良さそうな連中が「おいで」と言ってくれる。シリアの小学校は高い壁に覆われておりそれはまるで刑務所のようだった。運動場もない。

「それは、子供達が脱走しないようにさ」

「じゃあ、やっぱり刑務所だ」

女の子に「さあ!一緒に行こうか」と言ったが怖がって中には入ってこない。中では警官の立ち会いのもと、投票が行われていた。何ら緊張感がなく皆楽しそうに選挙を手伝っていた。女性の選挙管理委員もいる。みんな歓迎してくれて写真を撮らせてくれた。すると警官がやってきて俺に職務尋問をした。そして「俺を撮れ」と言ってポーズをとった。写真を撮ってやると、二人の警察官が俺の両脇について、「さあ!出るんだ」と言って外へ連れ出された。

俺が連れ出されると、入り口で待っていた女の子が「どうだった?」と駆け寄る。「まあまあだよな。写真もとれたしね。君もそのうち刑務所に行くんだ。でもそんなに怖がることはないよ」と諭した。

翌日のシリアタイムスの一面には、「投票は自由と秩序、そして正義の名の下におこなわれる。投票率61.18%、158人が新人。女性議員は28名。民主主義の自信にあふれた結果である」と賞賛した。

そして25年経ったシリアの民主主義の行くつくところはどこなんだろう。答えを求めて若者たちは戦っている。

灰いろの虹

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ視野を抜けゆく雨とは光り

ぽつりまたぽつりとひらく点描の、雨は遠のく光りのうつつ

点描はことのはじまり ふる雨に濡れゆく屋根の瓦のいろも

雨白き条をひきつつすみやかに視野を抜けゆくまでの明るさ

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃く撓む空間

ひとすじの圧もてひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

絵は音に音は絵となるひとときを歌いだしたり雨垂れのごと

みたされしものから順に零れだす雨という名の後さきおもう

塗りのこし俄かに失せて雨音の変わりゆく見ゆ しろき雨脚

雨晴れて棚引きわたる灰いろの虹 たまゆらを天がけるゆめ

霽月や下田にひとりおとうとが島田にひとりいもうとが居り

*霽月・せいげつ 
雨がはれたあとの月。
くもりのないさっぱりとした心境にたとえる(広辞苑)

インドネシアで住んだ家(4)3軒目の家

冨岡三智

今回は3回目の長期滞在で住んだジャワの家について。前の2回が留学ビザだったのに対し、今回(2006年8月〜2007年9月)は調査ビザでの滞在。受け入れ機関は元留学先なので、今回もスラカルタ市内カンプンバル地域で、前回と同じ人に頼んで家を探してもらった。こんどの家は車が通れる道に面しており、家の前に車が3、4台は停められる空きスペースがある。今までの家よりも広いとはいえ、また家が立派な作りで家具付きとはいえ、思ったより賃貸料は高かった。この家だけでなく、この市役所裏の一帯の賃貸価格は前回留学した時よりも上がっている。ジャカルタ資本がこの辺の土地を買って(借りて?)商業ビルにする例が増えてきたようだ。

私が借りた家の所有者は大学教授である。実家は私が最初に住んだ家の町内にあるが、普段はジャカルタの大学で教え、たまに帰省してこの家に泊まっている。定年退職したらこの家に住むつもりだが、1年だけなら貸しても良いという話だったらしい。家の管理は実家の人がしている。持ち主の祖父?曾祖父?は近所にある銀行(カンプンバルには銀行が数行集まっている)の創立者の1人だそうで、この家はかつてその銀行の社宅にしていたらしい。社宅といっても、3、4人で住む感じだが。

この家に住んでみると、時折、高額な家具や電化製品や美容品などの頒布会のチラシが投げ込まれる。同じカンプンバルに住んでいても、今までこういうことはなかった。また、ヤクルト事業(ヤクルトレディなどを統括する代理店?)を展開しないかと営業に来られたこともあるし、保険の売り込みが来たこともある。住む家のクラスによって入ってくる情報は異なることを、ここに住んで初めて痛感した。

近所はこの辺りでワルンを出して商売している家が多い。一番親しかったのが米から雑貨まで商う店で、店主は私とほぼ同年の夫婦。私がテレビに出た時は、ここでオンエアを見せてもらった。それから左隣のご飯屋。女性と子供とベチャ(人力車)引きの老父が住んでいて、老父はもう流しで車夫をするのは無理なので、頼まれた時だけベチャで荷物運びなどをしている。近所の人たちは電気代などの支払い代行を頼んでいたので、私もお願いすることにし、それ以外に正装して出かける時や、自分が主催する事業で荷物を運ぶ時にベチャを出してもらっていた。はす向かいの店は氷屋(他にも雑貨を売っていたかもしれない)をしていて、やけどをした時にここで氷を買った記憶がある。店番のおじいさんはラジオでよく影絵やガムラン音楽を聴いていた。

1、2回目に住んだ裏通りの家と違って、この家はグーグルのストリートビューで出てくる。周囲の家はあまり変わらないが、この家の外観はかなり変わっていた。外壁が違う色で塗り直され、前の空きスペース一杯に車庫が建て増しされ、車庫のフェンスの合間から大きな車やバイクが見える。大家さんはもう定年退職してこの家に戻ってきたのだろう。このストリートビューは2016年1月の撮影だが、それから変化はあるのだろうか…。

失われていく言葉

笠井瑞丈

六月は自分の誕生月
小さい時から六月は
何か特別の月である

いつも
当たり前のように
やってきて
当たり前のように
去っていく

そんな当たり前を
当たり前にしないため
今年は何かをしようと
六月十六日誕生日
ソロの会を行った

タイトル『701125』

言葉を刻むように
行為を刻むべきだ
(三島由紀夫)

今できる事
今しかできない事
今だからできる事
そんなことをカラダで
行為しようと思いました

言葉の持つ本当のチカラ
言葉の持つ本当の意味

そのような事が
体とどのように
結びつき繋がり

新しいチカラを生み出すのか

そんなことを自分に課して
作品を作ってみることにしました

今は言葉が
飽和している時代
SNSの発展とともに
誰でも架空世界に言葉を
責任なく投げ込める時代

嘘が本当になり
本当が嘘になる

そんな世界だ

書斎の中で一晩考えた言葉が
本当の言葉であり
これが表現行為だと信じるよ
(三島由紀夫)

失われていく言葉のチカラ
今一度考えなきゃいけない

仙台ネイティブのつぶやき(46)絵本の中で

西大立目祥子

 じぶんがどうやって文字を覚えたのか、はっきりとした記憶がない。だれかが、たとえば父や母が「これは“あ”。これは“い”」というように五十音を一文字ずつ教えてくれたのだろうか。それともひらがなの本を読み聞かせてもらっているうちに何となく身につけたのだろうか。

 文字を覚えて自力で本を一冊読み終えたときの感動は、いまもじぶんの中にくっきりと残っている。5歳くらいのことだったろうか、叔母がクリスマスにグリム童話をプレゼントとしてくれたことがあった。それはそれまでなじんでいた色付きの絵本とは違って文字だけで書かれた分厚い本で、ところどころに殺風景な挿画が入っているだけ。文字の読めない幼児には文章はただの黒いシミの羅列でしかなく、ぱらぱらとめくって放り出した。

 それからどれくらい経ってからのことだろう。あるときその本を引っ張り出して読み始めた私はたちまち物語に引き込まれ、黒いシミの向こうに壮大な世界が広がっていることに驚きながら本を閉じたのだった。本という紙で閉じられたモノが持っているすごさと大きさに、幼いながら感動させられたのだと思う。

 ちょうど文字を覚えつつあった時期、6歳のころに読んで、いや正確にはたぶん母に読みかせてもらっていまだに忘れられないのが、幼稚園に毎月届くのを楽しみに待っていた絵本「キンダーブック」だ。大判の薄い冊子のような体裁の本は月替わりで内容が変わったのだけれど、中でも「オッペルと象」と「シュバイツァー博士」は、いまだに絵の細部とともに、ページを繰るごとに揺り動かされた生々しい感情が残っている。子どもの眼力と記憶力は大人が想像する以上なのかもしれない。

 「オッペルと象」では、強欲の農夫オッペル(当時は“オッベル”ではなくこう表記されていたと思う)の小屋に足を踏み入れた大きな白象が、オッペルにいわれるままに働き始める。白象は働くことがよろこびなのだ。そこにつけこむずる賢いオッペルは、つぎつぎときびしく仕事をいいつけながら逃げられないよう象の足に錘をつけたり鎖をくくりつけて食事の量を減らしていく。

 真っ白い大きな象のからだは、ページをめくるたびやせ細っていき、細くなった足にはますます重たさを増したように錘がぶら下がる。象の顔から笑いが消えて、目からは涙がしたたり落ちる。幼い私は白象がかわいそうでかわいそうで身がよじれるようだった。子供心に大きなナゾだったのは、白象がオッペルを憎まずに祈ることだった。弱り切った象は夜、月を見上げて「サンタマリア」というのだ。マリア様なら知っていた。幼稚園の朝の礼拝や食事の前には、みんなで手を合わせ祈っていたから。

 象が助けを求める手紙を書いて、森からどーっと仲間の象たちがオッペルをやっつけにやってきて、白象は仲間に救い出される。たくさんの象が長い鼻をすり寄せてよろこび合う最後のページまできて、息を詰めるようにして白象にじぶんを重ねていた6歳の私もようやく救われた。もしあのまま白象が死んでしまったら、私の世界も終わるように感じたかもしれない。

 「シュヴァイツァー博士」では、勉強をし直してアフリカに渡り病気の人々を助ける博士が描かれる。明るい日の光の下で新しい診療所の工事を指示する姿や、ケガをした男の子の手当をし動物にも愛情を持って接するようすに、幼かった私は心打たれた。そして、最後のページでは、漆黒の窓辺を背景に明かりの下、白髪や白髭にふちどられた横顔が浮かぶ絵に、博士は音楽家でもあって夜はオルガンの練習をするのです、というような文章が添えてあって物語は閉じられる。ここまでお話を読み聞かせてもらって、「尊敬」というような難しいことばは知らなくても、ひたひたとあこがれのような感情に満たされたのだった。

 中でも何とも魅力的に映ったのは、博士が診療に忙しく過ごす昼の顔と、ひとりオルガンに向かって稽古する夜の顔を持っていることだった。6歳の子どもにそんなことがわかったのだろうか、と大人になった私は疑いたくもなるのだけれど、でもあのときの私は確かに2つの時間を生きる博士を何ともステキだと感じたのだ。親にも話さずに私はそっと胸の底に「シュヴァイツァー博士」の名前を押し込めて毎日を過ごし、ときどきアフリカの青い空を思い浮かべたりしていた。

 9歳になった1965年の9月初めの朝のことだ。学校に出かけようとしていたときに、テレビを見ていた父が「あ、シュヴァイツァーが亡くなった」といったので画面をみると、白黒のテロップに「シュヴァイツァー博士死去」とあった。ショックだった。もう私が尊敬する人はこの世にはいないんだと思いながら、とぼとぼ学校に歩いていった記憶がある。

 それから25年くらいが過ぎて、私はある古書市でこの「キンダーブック」に再会した。発行は昭和37年。A4版でわずかに16ページ。表紙には「しゅばいつぁーはかせ」とあって、中の文字はすべてひらがな。幼稚園の1年間に「キンダーブック」を読んでもらいながら、私はひらながを習得していったのかもしれない。

 各ページの絵は、記憶の中の絵と少し違っていた。でも最後の窓辺でオルガンを引く博士の横顔は記憶どおりだった。文章は「はかせは、おるがんのめいじんです。まいばんけいこをしています。」とある。博士への尊敬を決定的にした文は、こんなにシンプルなものだったのだ。子どもは絵と文を激しく増幅させて、その世界へと入り込むのかもしれない。大人はもうこういう読書はできないだろう。

 わきにはごくごく小さな文字で、出版元であるフレーベル館の顧問の坂元彦太郎という人の企画意図が「博士へのあこがれを胸にきざみこんでおけば、やがてはそれぞれの胸の中でゆたかに開花する日のあることと、期待しているのです。」と記されている。

 うーん。確かに胸には深く刻まれた。でも開花はしていない。博士へのあこがれはいまもあって、それはどんなにへたくそでもいいから、夜の窓辺で博士のようにバッハを稽古することなのです。

176 その古い話が終る

藤井貞和

その古い話が終る。 土間(どま)の神は去り、
鍋が割られる。 さいごのスープを、
地面へこぼすと、もう(地面の)口はひらかれることがない、
古い話は終わる。 さいごの餅も、小豆(あずき)も、
いまでは語り草(かたりぐさ)。 知らない人ばかりがあつまり、
祈りを忘れる。 その少年に、かまど(竈)は、
さいごのことばを教える。 でも、それは、
火の神の遺言である。 「よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

少年の火は、石と石とをたたき合わすだけだし、枯れ枝を
燃え上がらせても、さいわいに雨が降って消すことを告げる。
どんな捧げ物も最初、火に捧げました。  
食物の一掬いを、捧げました。 感謝の祈りとともに。

みかる(見軽)という名の少年が、義父のところへ行く途中、
わしい(鷲)の家を訪ねます。 客人はたいせつにしなければね。
ところが、おどろいたことに、わしいの家の、
女主人は鍋から一掬いを火に注がなかったのです。
みかるは自分のために出されたテーブルの上のスープを、
カップからそっと、一掬い、火に注ぎました。

夜中、みかるは目を醒まします。 弱い、けぶったような光の向こう、
炉のかたわらに痩せた男の子がすわっています。
こうつぶやくのです、「ぼくは、ここで痩せてしまった。 だれも、
食べものをくれないのだ。 いつもおなかをすかせている。 
麦のスープをくれたのはあなたがはじめてだ。 これに対して、
お礼をしますよ。 よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

みかるは身震いして、わしいに挨拶もせずに、
そとへ出ました。 振り返ると、
わしいの小屋はほのおに包まれていたと、ふるい神話のような、
昔語りです。 ことばの継ぎ目に、まだ残されたことばがあるなんて。
「よく聞きなさい。 すぐにここを出るのです。 見ていなさい、
何かが起きるから!」

(ヤクートの神話の、舞台を変えて改作です。現代詩の危機って、ほんとうにあるのですね。)

ピアノ練習のあとで

高橋悠治

6月はアンサンブル・ノマドの練習とコンサートがあった 月末にはパラボリカ・ビスでの音楽と詩の交錯を語るイベントがあったが そのことはまたあとで

今年はピアノ演奏技術を維持するために バロックと自作やサティなどに限っていて ずっと離れていた20世紀西洋音楽とその後の多様化と分散の結果できた音楽を練習してみた

香港にいるアメリカの作曲家で 長年の友人だったポール・ズコフスキーを看取り 灰を海に撒いたクレイグ・ペプルズの作品は テッセラの「新しい耳」でソロを2曲彈き ジュリア・スーと2月に録音したが ニューヨークのズコフスキー追悼コンサートから ペプルズの2台のピアノのための「遊ぶサル」とストラヴィンスキーの「2台ピアノのソナタ」をノマドのプログラムに入れてもらった

ペプルズのアルゴリズムを使った作品の空白の多い 限られたピッチの組み合わせが変化するスタイルには興味をもっていた いわば唐詩的な側面でもあり ヨーゼフ・マティアス・ハウアーが易占で選んだ12音遊戯に近いかんじがする サルが果物を投げ交わす始まりの部分はともかく 拍の変化のなかでディジタルなパルスを感じつづけるのはなかなかできない 共演した稲垣聡や中川賢一にはなんでもないようなことでも 昔から音階やオクターブ奏法など 均等なものは苦手で 一柳慧の「ピアノメディア」は弾けず クセナキスの「エヴリアリ」はもう弾きたくないし 弾けないと思う 練習してよかったと思ったのは かなり低い椅子に座っても 鍵盤上の離れた位置に平行移動するのは可能だったこと 今年3月に演奏し録音もしたチャポーの「優しいマリア変奏曲」も もうすこしらくにできたかもしれない 今年はまだクセナキスの「アケア」をアルディッティたちと演奏する予定がある どうなることか

むかしクセナキスの「ヘルマ」やブーレーズの「第2ソナタ」を弾いていた頃は 超絶技巧とは反対のやりかた 制御能力を越えた状況で疲れ切ったときに 身体の緊張がゆるんで 自由にうごけるようになる それは古代ギリシャ語の最初に習うプラトン(ソクラテス)のことば「試練のない生は生きるに値しない」が指している身体技法だったと いまでは思えるが もうそういうやりかたはしない おなじに見えるもののわずかなちがいを感じられるように そのものではなく その表面と それを囲む空間の気象変化を感じて 風のままにただよう 不安定なままでいる自由のほうが好ましい 速度をぎりぎりにまで落として それができても おなじやりかたをくりかえさない それとおなじように 右手と左手は それぞれの指は ちがう時間でうごいていく

コンサートのプログラムに取り上げられた自分の昔の作品でも そういう試みはしていた 管楽器はタンギングをしない 弦楽器はコントロールしにくくなるまでに弓の毛をゆるめて 力を抜いた状態で弓の速度を変えながら弾いてみる すると抑えていた意識以前の身体内部の感触が透けて見える瞬間がある でも これにも慣れてしまうと 浮かび上がってきた異なる感覚もまた どこかへ沈んでしまう すこしずつやり方を変え 片足が沈まないうちに 別な足を出す そうして どこへいくのか

2019年6月1日(土)

水牛だより

うるわしき五月が、うるわしくもなく去ってゆき、きょうから六月です。どんな六月になるのやら、気候も世界もめちゃくちゃですね。

「水牛のように」を2019年6月1日号に更新しました。
きょうは世田谷美術館で開催されている「ある編集者のユートピア」に行き、水牛の同志である津野海太郎さんのトークを聞いてきました。「ある編集者」とは小野二郎さんのことで、晶文社を始めた人ですから、津野さんのトークは必須だったのです。津野さんの「わっはっは」という豪快な笑い声を味わい、なつかしい人たちにも会えて、楽しい午後でした。
今月は、お休みします、とか、さぼります、というメールがいくつか届いて、いつもより原稿の数は少ないのは五月だからかなと思ってみたり。。。

それではまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(45)あなたでいること

西大立目祥子

 母はこのごろ、私のことをときどき「まっちゃん」と呼ぶようになった。「まっちゃん」て誰?
 それは、小学生のとき同級生だった女の子の名前だ。10数年前、渋る母をデイサービスに誘い出したとき、偶然にもそこで母は、まっちゃんと数十年ぶりに再会したのだった。「わぁ、まっちゃん」「みよちゃん!」と肩を抱き合うような出会いとなって、母はよろこんでデイサービスに出かけるようになった。

 まっちゃんには、私もおぼろげな思い出があった。美容師さんで、理容師のご主人と、美容院と理髪店の2つのドアのある大きな店を構え、小学生のころ髪をカットしてもらいに行ったことがある。小柄ではつらつとした人だったけれど、あれから50年近くもたって母と同じように体が弱り、記憶もあいまいになってきたのか。30代だった人が働き詰め働いているうちに、いつのまにか80代になってしまった人生の長いようで短い時間を想像した。

 母の口から「まっちゃん」という名前がひんぱんに出てくるようになり、そのときはいつも楽しそうな表情だから、2人はいつも話しこみ名前を呼び合いいっしょにごはんを食べて、子ども時代に帰ったように親密なひとときを過ごしていたのだろう。
 残念ながら数年して、そのデイサービスは経営者が変わりやがて閉鎖されて、母はやめざるを得なくなり、まっちゃんのその後もお元気なのか亡くなってしまったのか、もうわからない。

 でも、別のデイサービスに移っても、母はにこにことバスに乗り込み出かけていく。別のまっちゃんに会うために。誰かと会えば2人にしかわからないようなやり方でおしゃべりをし手を握り合い、涙を流したりしていい時間を過ごしているのだと思う。きっと母は相手を「まっちゃん」と呼んでいるのだろう。

 母にとって、いまここにいるじぶんをまっすぐに見て話してくれる人はみな「まっちゃん」なのかもしれない。いつしか、私にも、「まっちゃん、ありがとう」とか「まっちゃん、いてくれてよかった」とかいうようになり、その頻度は増している。
 介護も15年をこえて、私はこういう事態にも、ついに娘の名前もわからなくなったかなどとあせったりあわてたりすることはなくなった。「はーい、まっちゃんですよ」と胸の中でつぶやく。

 そして、気づく。一人称の「わたし」であるじぶんに向きあってくれる二人称の「あなた」が、人には必要なのだ、と。そこには必ずしもことばはいらない。目と目を合わせたり、肩をなでたり、わたしとあなたは、そうやって会話して気持ちを通じ合わせことができるのだ。ここにいてくれるあなたは、遠くにいる三人称の彼や彼女とはまったく異なる存在で、わたしの中に入り込み、つながって安心をもたらしてくれる。

 はいはい、なりましょうともあなたのあなたに、おかあさん。そんなふうに胸の内で応え、そして笑ってしまう。どこまでいっても折り合いが悪く、口を開けば言い争っていた思春期をはるかに過ぎて、母と私はことばを介さず、存在と存在として理解しあっているんじゃないか…。

 もちろん、いいことばかりではない。私の感情を母はクリアな鏡のように映し出す。眉間のしわは、くぐもった表情のわたしの眉間のようだし、荒っぽい口調は、さっき母に投げつけたいらだった私のことばそのものだ。お、今日のその笑顔は私が上機嫌だからだね。
 何年もかかって、機嫌よく接することの大事さに、ようやく私は気づかされた。
とはいっても、日々、平かな気持ちでいることの何と難しいことだろう。いまのじぶんをどこか遠くから俯瞰するように見ていないと、そうはふるまえない。

 こういうことは母が教えてくれたことといっていいんだろうか。衰えていく人がその姿をさらしながら気づかせてくれることがある。世間的にいえば、母はもうここがどこか、いまがいつかもうわからない認知症の老人だ。でも、そこにそうやっているだけで、私に、人についての理解を、人と人のかかわりの意味を教える。あの人は認知症、あの人は○○などと簡単にレッテルは貼るまい。

 母は、若かったときは想像もつかなかったようなおだやかな顔で、いまここにいる。長いつきあいの中でかかわりを変えながら、私はいっしょに庭の緑を眺めている。

シノップの娘

さとうまき

久しぶりにトルコ経由の飛行機に乗ることになり、トランジッドに時間があったので、反原発の活動家のプナールさんに連絡してみた。プナールさんはイスタンブールに住んでいるが、反原発の運動にも盛んに参加し、「シノップの娘」と呼ばれている。シノップはトルコが原発を作ろうとしている黒海に面した港町。日本は福島の原発事故以降も海外への原発輸出に積極的で、トルコは三菱が頑張っていたが、しかし、安全対策を考えると全くビジネスにならず、昨年12月に撤退を表明した。

1976年生まれのプナールさんが、核の問題に関心を持ったのは、子どものころにトルコの詩人ナーズム・ヒクメットが書いた「死んだ女の子」に出会ったことだという。広島の原爆で亡くなった女の子のことを詩っている。

あけてちょうだい たたくのはあたし

あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの

こわがらないで 見えないあたしを

だれにも見えない死んだ女の子を

(中略)

戸をたたくのはあたし

平和な世界に どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

(ナジム・ヒクメット作詞、中本信幸訳)

日本に関心を持った彼女は、日本語を学び、日系企業で働いていた。福島の原発事故を知り、悲しみを肌で感じたという。そして、2013年には日本とトルコが原子力協定を結び、原発輸出を決めた時はショックを受け、その後福島を4度訪問している。

2015年ドイツに、自然エネルギーの調査に行って戻ってくると、右派からスパイ呼ばわりされ、TVでも報道されたという。

「今のトルコ政府は、逆らうものは全部テロリスト呼ばわりされるわ」と危機感を募らせる。

4月の終わりになるとチェルノブイリの事故の記念日をトルコ人は忘れていなくて、いろんなイベントをやる。なんといってもソ連はトルコの隣国だった。トルコにも汚染被害が及んだ。この地域では、家族が必ず一人はがんで死んでおり、因果関係を疑っている。プナールさんはそういった集会やシンポジュームで福島のことを話している。今回もシンポジュームに呼ばれた。途中原発が作られる予定地を車で走ってくれた。ところどころで牛を放牧している農家を抜け、美しい森を抜けると、65万本の木が切られていた。

「トルコ政府は、日本が撤退したことをいまだにきちんと言わないのです。これだけの木を切り倒してプロジェクトがぽしゃったとなると、だれも納得しないでしょう」

この辺をうろうろしていると警察に捕まることもあるらしい。車をずっと運転くれたブレントさんは、頭が少し禿げていて、穏やかな中年。その禿げ方が共産主義者ぽくみえる。車で流してくれた曲が、インターナショナル、不屈の民、We shall overcome..とかで、何とも時代がタイムスリップし、彼は戦っている!感じがにじみ出ているのだ。

シノップは小さな港町。漁船が停泊して、カモメが飛び交う。

夜、魚料理を食べたくなって、海岸のレストランで小魚2種類を一匹ずつフライにしてもらった。ところが、言葉が通じなくて大量の小魚のフライが出てきた。イスラムの国だが、この町ではお酒はどこでも出してくれるので、小魚をつまみに、夜が更けていくまでビールを飲んでいた。

広島が世界の反核運動の中心になっている。一方、福島後も日本は原発を輸出しようとしているのは情けない。人民よ!連帯せよ!

別腸日記 (28) 竹林から遠く離れて(中編)

新井卓

彫刻家、絵描き、写真屋の打楽器トリオ〈チクリンズ(竹林図)〉の名前は、「竹林の七賢」の故事から拝借した。俗世から1ミリも脱する気配のないわれわれには──と言っても彫刻家の橋本雅也だけは浮き世からかなり遠い人であることは、人々の認めるところであるが──もったいない名前である。

ところで、三国時代のボヘミアンのように聞こえがちな竹林の七賢の物語だが、当時はその暮らしぶり、思想、話し方そのものが命がけだったようで(実際、嵆康/ジー・カンという人は風紀紊乱の罪に問われ処刑されてしまった)、その意味で彼らの活動は積極的/批判的/政治的ドロップアウトといってよい。夜中にみなで踊ったりすることが違法で、道ばたで歌うだけで職務質問にあうこの日本という国で、七賢の精神性はわれわれに引き継がれているのだ、と、無理矢理にでも信じよう。

わたしの音楽体験は、ずいぶん長いあいだ「習いごと」であったのかもしれない。物心つく5、6歳のころからピアノを習いはじめ、17、8で受験を理由にやめるまで、音楽、イコール「練習すること」だった。高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いていた時もそうだったし、もっと後で友だちにギターを教わろうとしたときも、それは変わらなかった。

ひとつ言い添えたいのは、わたし(と母と弟)のピアノの先生はたいへん素晴らしい音楽家だった、ということである。彼女は日本を代表する気鋭の作曲家で──お名前を出すのはご本人の名誉に関わるので、仮にK先生とする──ピアノをつづけられたのは、毎週K先生にお会いしたいという一心からだった。むしろそれだけが動機だったため事前の練習はたいへんお粗末で、どれだけ迷惑だったか知れず、今となっては身の縮まる思いがする。

K先生は何も話さずとも、その穏やかな佇まいの内奥から、澄んだ知性と精神性が絶え間なく発散しているような人で、子どもながらに強い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。幼いころK先生に出会わなければ、わたしはおそらく、アーティストにならなかったに違いない。

ピアノを練習していると、楽譜にいろいろな指示が見える。音符を正しく追いかけることすらできないのに、”amoroso”(アモローソ=愛情ゆたかに)なんて、どうやって弾けばいいのだろう。どうやら「音楽」とは、何よりも技術の研鑽であり、膨大な時間と集中力を費やして身体を調律していき、その上ではじめて、活き活きとした感情とともに表出されるものであるらしい──次第にそう考えるようになってしまうと、その果てしない道のりと、自分の手の遅さに無力感ばかりが募っていった。一方で、音楽通の友だちからジャズを、ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソン、キース・ジャレット、とりわけセロニアス・モンクの存在を教わると、それら呪術的な力をもつ音の連なりに圧倒されると同時に、自分で練習する「音楽」未満のものとの断絶に耐えられなくなって、いつしか、ピアノの前に座ることは滅多になくなってしまった。

それから、半端に調律された、わたしの音楽の身体はそのまま放置され、貪欲に耳だけを澄ませる時間がつづいた。旅の途中で出会う音楽も、レコード屋やインターネット配信で手当たり次第に試聴する雑多な分野の音楽を、手の届かない何かに対する憧れに似た感情とともに、聴いていたのではなかったか。

それから、音楽について、というよりも、わたし自身の身体のありかたについて、考えることになった契機が何度かあったように思う。十五年ほど前に煩った全身麻痺の病はもちろんのこと、不思議なことに、依頼撮影の取材先で出会った人類学者・木村大治教授から伺った、バカ・ピグミー(カメルーンからコンゴ、ガボン、中央アフリカ共和国にかけて生活するピグミーの民族グループ)の暮らしのことを、いまでも頻繁に思い出す。
(つづく)

お知らせ:本日(2019年6月1日)から、横浜で「チクリンズ」の三人の小さな展覧会が始まります。
GRAYS, SEEING
新井卓+橋本雅也+藤井健司
会期: 2019年6月1─9日 / June 1─9, 2019
時間: 土日 Sat/Sun 11:00─19:00 / 月─金 Weekdays 15:00─19:00
場所: 新井卓事務所 横浜市南区高砂町1-3-4-1F
詳細: http://takashiarai.com/grays-seeing-3-persons-exhibition/

世界は一つの肺に包まれている

笠井瑞丈

少し前の事ですが
毎年携わらせてもらっている
セッションハウスの企画
ダンス専科で作った作品

『世界は一つの肺に包まれている』

ダンサーはノンセレクト
ワークショップに二ヶ月参加できれば
誰でも参加できるというシステム

毎年の事ですが
今年も面白い人達が
参加してくれた

田植えをしてる人
歌を歌っている人
普通の会社員の人
大学生の学生の人

そして

ダンサーを目指す人
今年の参加者は十人

様々なバックグラウンドを
持った人達と作品を作る

ダンサーであろうが
ダンサーでなかろうが

カラダを動かし
表現をする事は
すべてのヒトに
与えられた特権
だと思っている

そんな人達とのワークは
毎年新しい発見がある

上手下手もなく
ただただ
カラダに
耳を澄まし
カラダの
音を聴く

苦しみの中から
喜びを掘り出す

表現の根底とは
そうでなければ
いけないと思う

新しい景色が生まれる
踊る事ってそんな事だ

人間が生まれ 人間の呼吸 人間の想像
大地にかえる 植物の呼吸 世界を作る

深夜カレー

璃葉

奇妙な縁により、ここ最近、人が集まる空間と独りの空間を行ったり来たりする日々が続いている。

昼前に家を出て、ふたたび戻るのは日付が変わる前。

動きまわって疲れ果てると、やがて自分の内側にある芯がむき出しになって、からからに干上がった土みたいになる。そんなときは無性にカレーを食べたくなる。スパイスのたくさん入ったカレーを今すぐ。

午前0時半。友人からもらった佐渡の米(これがたまらなく美味しい)を鍋で炊きながら、冷蔵庫にある野菜を片っ端から切り刻む。にんにく、しょうが、セロリ、玉ねぎ、トマト。スパイスはクローブ、コリアンダー、クミン、カルダモン、チリパウダー、ターメリック。厚手の鍋にそれらとひき肉を放り込んで炒め、これまた冷蔵庫に眠っていた安い白ワイン(生のローズマリーを2、3本ほど詰めてある。これは知人から教えてもらったのだけれど、安酒が薬草酒みたいになる)をどばどば入れて、ひたすら煮込む。

セロリの甘さと香辛料の混ざった絶妙な香りが、せまい部屋に充満していく。チリパウダーを入れすぎたかもしれない。

時計を見やると午前1時半。一体私は何をやっているのだろうかと我にかえる。でも、たまにつくる深夜のカレーは驚くほど自分を救ってくれる。疲れたときは煮込み料理とするといいと教えてくれたのは誰だっただろうか。

できあがった激辛カレーを、ひいひい言いながら湿気のこもった部屋で黙々と食べる。いけないと思いつつも、氷水を勢いよく飲んでしまう。

午前2時、薬のようなスパイスによって身体はほぐされ、養分を与えられた土のようにじんわり柔らかく、やっと元の自分に戻ってゆく。

しもた屋之噺(209)

杉山洋一

五月が終わるという目まぐるしさに言葉を失っています。このところ日本と反対に肌寒い日々が続いていて、毎日突発的に激しい驟雨に降られているうち、一ヶ月が経っていました。そんな中、NさんやHさんから齋藤徹さんの訃報を受け取り呆然としました。Nさんは「参りました」と、Hさんは「できそうなことは、さっさとやっておくしかありません」と、それぞれの心中をしたためていらして、言葉にできぬ焦燥感に駆られるばかりです。
階下で家人がフォーレの三重奏を練習していて、フォーレが見事な白百合の花のように、悲しみにどうしてこうも寄り添うのか、不思議に思います。最初にそう気付いたのは、高校の頃、祖父の葬儀の翌朝に聞いたレクイエムだったかとおもいます。フォーレのあの寂寥感は、すっかり浄化されて天使の声と一体になった、天上の慟哭なのでしょうか。

  —

5月某日 セストリ・レヴァンテ 
家人が日本に戻っていて、息子が受けるピアノ・コンクールに付添う。会場のあるセストリはジェノヴァからラ・スペーツィア方面へ少し行ったところにある観光地で、夏場は大変な賑わいに違いないが、今日は肌寒く黒い雲が低く立ち籠めていて、人気も殆どない。所々にコンクールを受ける子供たちと親が連れ立って歩く姿を見かける程度だ。
ジェノヴァあたりの建築は、ミラノでは殆ど見かけない黒光りする磨き上げられた石の印象がある。大理石なのか、御影石なのか疎くてわからない。厳めしく重厚で深い味わいを醸し出し、南国的な光と影の強い対照を描く。宿の黒々とした旧い石階段も、すっかり磨り減って中ほどが緩やかに窪んでいた。
この建築様式が、イエズス会文化と無意識に繋がるのは何故だろう。セストリの小さな中央教会も外装は酷く簡素だが、一歩足を踏み入れた途端、絢爛で愕かされる。これをイエズス会文化と結びつけるのも荒唐無稽だが、ジェノヴァで1607年に小西行長の殉教劇などを上演した記憶など、無意識に日本と結びつけているのかもしれない。
ジェノヴァ人は一般的に守銭奴で性格がきついと言われる。ミラノの友人が、ジェノヴァ名物のペーストのパスタでもてなしてくれた折、そこにいた一人のジェノヴァ人が、ジェノヴァ人は到底ミラノのペーストは食べられないと笑っていて、質の悪い冗談かと思っていると本当に一口も食べなかった。それ以外、ジェノヴァの劇場で仕事もしていないし、関わりもなく、セストリにも来る機会もなかった。
今回泊まった宿の主人は話好きで愛想が良かった。部屋にはラウシェンバーグとケージのコラージュやら、リキテンスタインが掛かり、イタリアはすっかりアメリカナイズされた、と不平をこぼしているのが不思議だった。
彼に薦められた食堂で、ジェノヴァ風ペーストを食べると、なるほどミラノで食べるものとはまるで似て非なるものであった。

5月某日 ミラノ自宅
ソルビアティが子供のためのピアノ小品集「弦とハンマー corde e martelletti」100曲を完成し、バーリ、ベルガモ、カリアリ、ノヴァラ、ピアチェンツァ、ミラノの国立音楽院に通う10歳から15歳のピアノの生徒29人で全曲演奏をした。
ノヴァラの音楽院から息子も参加して、リハーサルと本番、二日続けて息子を自転車の後ろに乗せ、ヴェルディ音楽院と往復した。
とにかく曲がとても魅力的だった。普段大きな編成のアレッサンドロの曲ばかり聴いていたので、これだけ短い作品がそれぞれ印象的に響くのは、新鮮だった。無調の現代曲ばかりだが、子供たちは全く意に介さないばかりか、実に見事に弾きこなしている。
内部奏法だけの作品や歌いながら弾く作品、叫んだり泣いたりしながら弾く作品、チェーンを弦に乗せてチェンバロを模す作品、プリペアド・ピアノ作品らも適宜雑じっていて、聴いていても厭きない。20時30分から演奏が始まり、休憩なしで23時40分終了。
アレッサンドロは勿論、知り合いのピアニスト、作曲家、指揮者らが勢揃いした錚々たる聴衆のなか、子供たちは立派に演奏して感心する。
ピアチェンツァのピアノ教師にダヴィデがいて、昨年シューベルト・リストを一緒にやって以来の再会。こんな風に会うとはね、と大笑いする。作曲者夫人エマヌエラとは、秋にボローニャで共演するカセルラの話。

5月某日 ミラノ自宅
食卓でカセルラの譜面を広げていると、階下から、家人の練習するラヴェルとフォーレの三重奏が聴こえてくる。ラヴェルとカセルラは、共にフォーレの作曲クラスで同時期に学び、近所のアパートに住んで親しく交流した。先だって書上げたレスピーギ「噴水」解説では、カセルラが「ダフニス」のイタリア初演をした折の日記を訳出した。1915年のバレンタインデー、2月14日のことだった。ラヴェルの「三重奏」は、そのわずか半月足らず前の1月28日にカセルラがピアノを担当して初演された。ダフニスそっくりの三重奏の三楽章ファンファーレなど、間違いなくカセルラとラヴェルで冗談を言い合ってリハーサルをした筈だ。「ラ・ヴァルス」2台版をカセルラとラヴェルで初演したのは1920年。フォーレの三重奏をコルトーらが初演したのが1924年。カセルラがピアノ三重奏とオーケストラのための三重協奏曲を初演したのは、それから10年近く経った1933年。
ラヴェル「三重奏」をカセルラとラヴェルが共に稽古をしていた時期は、第一次世界大戦下だった。フランス、イタリアは共にドイツ、オーストリアと対戦し、ラヴェルもカセルラも共に従軍し、ラヴェルは凍傷にかかり病院に収容され、カセルラは虚弱体質で病院に収容された。しかし二人とも、国内のドイツ音楽禁止の声明には賛同しなかった。20年後カセルラの三重協奏曲はベルリンで初演されていて、時代の流れを感じる。

5月某日 ミラノ自宅
息子が日本人学校に通うようになり、今まで特に指摘もしなかった日本語の間違いを直す機会が増えた。我々もささやかながら自らの日本語を律していて、最近気を付けているのは、話す際に「やつ」を、書く際に「こと」の多様を避けるというもの。響きが悪いし語彙力の低下も否めないから。なかなか思うように出来ないのだが、面倒でも単語はしっかり使うべきではないか。
昔から日本語の文章を書くとき、一人称単数の人称代名詞を使わない理由は、自分でもよくわからない。日本語に欧文とは違う、言い切らない美しさがあるとして、「自分」を表す人称代名詞は、欧文調で無粋な気がするからか。尤も「吾輩は猫である」のように、それを逆手に取れば強い印象も残すから、言葉はやはり興味深い。
もう大分前から、予め明確に使用すると決めない限り、作曲する際、特殊奏法、特殊楽器の類は使わない。それらを使う人は大勢いるし、本来使われるべき音色が、結局は楽器の本質と思わされる機会も多い。電子楽器のような音が欲しいなら電子楽器を使えばよいし、打楽器的な音が必要なら打楽器を使えばよいと言ってしまうと、楽器も音楽もこれ以上発展は望めない気もする。何より我乍ら年寄り臭い言草に、自己嫌悪。

5月某日 ミラノ自宅
週末ノヴァラの国立音楽院まで息子の付添いに出掛ける。地下鉄でミラノ中央駅に行き、近郊電車でトリノ方面に向って小一時間。街にはピエモンテらしい洗練された洋菓子店が並び、何でもノヴァラ名物も多いそうだが、未だ何も知らない。
「メレンゴーネ」特大メレンゲという名の巨大メレンゲは、直径30センチはある。高さだけでも15センチは優にありそうだ。目抜き通りのこじんまりとした古い洋菓子店一杯に、この特大メレンゲが犇めき合っている様は、愉快で圧巻でもある。
特大カルメ焼きに等しい代物だが、これもノヴァラ名物なのか。息子のレッスンの最中、ノヴァラに住むEちゃん宅にお邪魔して仕事をさせてもらう。Eちゃんは長く家人の生徒だったから、拙宅にも幾度となく遊びにきていて気が置けない。
マリピエロ「交響曲第6番(弦楽)」を読むほどに、不思議な浮遊感が襲ってくるのは、須賀敦子さん曰く「ヴェネチア独特の浮遊感」かとも思う。心地良いが無機的で、切り貼りされながら表現力に長ける、まるで矛盾した超現実的な音と構成の扱いに、同世代のデ・キリコの表現を思う。彼の弟も作曲家だった。
デ・キリコらを「形而上的絵画」を呼ぶのなら、マリピエロは「形而上的音楽」と呼んで然るべきか。「形而上的絵画」の特徴は、遠近法の欠如、人物の矮小化、擬人的静物、超自然的現象だそうだが、なるほど、そのままマリピエロに当て嵌められそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日今日の二日間、piano city milano2019の期間中だけでミラノでは大小450以上のピアノ演奏会が開かれた。
アルフォンソが最近キアヴァリのマルコから購入した50年もののザウターがとても良かったので、マルコのピアノに興味を持っていたところ、彼がちょうどpiano cityに1850年製の特注プレイエルと、1880年製のスタンウェイを持ってきたので見物にゆく。
プレイエルは当時ミラノの出版社Luccaで使われていて、ワーグナーも愛奏したという。Lucca社は、19世紀Ricordi社とオペラ出版で覇権争いを繰広げた一流楽譜出版社だ。それらのピアノが、見事に装飾されたダヴィンチ科学技術博物館の「晩餐の間」に置かれると、美しさが一際映えるようであった。
誰かがプレイエルでショパンを暫く試奏していて、終わってみると旧知のフェドリゴッティだった。続いて風邪で体調が悪いと言いながら、翌日の演奏会のためカニーノが訪れた。少し立ち話をしてから、バリスタと二人、右端のスタンウェイを使ってリハーサルを始めた。
高らかに明るく立ち昇るような音が、不思議なくらい鮮明にこちらに飛んでくる。仄暗い部屋で巨匠二人が、所々立ち止まったり、繰返しながら仲睦まじく音を紡ぐ姿は、音楽そのものを体現していた。彼らから温かく優しいものが流れ出し、会場を満たすようであった。

5月某日 ミラノ自宅
週末、相変わらず息子を自転車の後ろに乗せ、ミラノの反対側にある、リバティ宮まで出かける。7キロ程度だから距離はさほどでもないが、途中道路工事で路肩が急激に狭まり危険なので、自身が交通事故に遭った身からすると、到底息子を一人で自転車に乗せられない。結局、環状線を走る際は、未だにこうして二人乗りになる。家人に過保護と言われても仕方がない。自分が再び交通事故に遭う確率は低いと信じて、後ろに乗せる。
先週思いがけなく博物館で会ったカニーノが、今日は旧知のオーケストラとハイドンの協奏曲を弾く。息子共々どうしても聴きたくて自転車を飛ばしたが、大いにその甲斐があった。想像通りハイドンは、最高級の喜劇に等しい至福に満ち、オーケストラも指揮者も、勿論カニーノ自身の顔も微笑みに綻んでいた。聴衆も同じ表情をしていて、本当に彼は聴衆からも愛されているのだった。
絶妙な即興的な合いの手も即興的なカデンツァも、凡てに艶があって輝いていて、何より愉快であった。音を遊ばせていて、と書くのは簡単だが、どうすればそう実現できるのか想像も出来ない。ハイドンを弾いただけで、会場が熱狂の渦に巻き込まれた。

5月某日 ミラノ自宅
カセルラの作品構造メモ。ピアノ三重奏とオーケストラのために書かれているからか、数字の3に因む素材が散見される。等しくフォーレクラスに学んだ同世代の作家でも、ラヴェルと全く違って、カセルラはシェーンベルクを偏愛し無調へと進んだ。そして、無調に至ったところで、結局はより簡明な平行和音へと帰結したから、和声だけ取り出せば、最終的にはよほどラヴェルの方が複雑だった。
そのラヴェルの手の込んだ和音は、戦後、前衛音楽には直結しなかったが、カセルラの簡明な和声構造は、バルトークの影響と雑じって、戦後イタリア前衛音楽の礎となった。
協奏曲故か、提示部が長大で入組んでいるのに対し、再現部は簡略化され、最後にコーダが付加される。展開部にあたる部分は、複雑な展開構造を繰り広げるより、むしろ提示部の変奏、変容に近かったりする。

5月某日 ミラノ自宅
ここ暫く家人が練習に励んでいたラヴェルとフォーレの三重奏を聴きにゆく。アルドが、フォーレの二楽章はレクイエムを想起させると話していて、迫真で感極まる演奏に胸が一杯になる。今朝は抜けるような青空が広がった。庭の芝生を刈らなければと思っているうち、雨続きと仕事にすっかり庭は荒れてしまった。雑草は盛んに伸びて、どれも30センチは優に超え、黄のタンポポや薄紫のクローバーの花が、庭一杯に咲き乱れている。
「訃報」というメールが届き、吉田美枝さんがお亡くなりになったのを知る。「今日の音楽」で、ナッセンの公開レッスンの通訳をして頂いたのは、大学の終りの頃だった。つい最近まで、ご主人を通してずっと近況のやりとりはしていたが、結局お目にかかれず、それきりになってしまった。
雲一つない青空と新緑の碧の下、無数の黄と薄紫が微風に目の前に揺らめいていて、これを刈りとるべきか、ぼんやりと眺めている。


(5月30日ミラノにて)

Caminando

管啓次郎

Caminando, caminando
Llorando, llorando
Sufriendo, sufriendo
Cantando, cantando
Cansado, cansado
Querendo, querendo
Llamando, llamando
Amando, amando
Caminando, caminando
 

Caminando 歩きながら
Llorando 泣きながら
Sufriendo 苦しみながら
Cantando 歌いながら
Cansado  疲れ果てて
Querendo 求めながら
Llamando 呼びながら
Amando 愛しながら
Caminando 歩きながら

製本かい摘みましては(146)

四釜裕子

「ル・コルビュジエ」がペンネームだとは知らなかった。本名、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1887年スイスに生まれ、通っていた美術学校の先生のすすめで建築方面へ進み、1912年には事務所を構える。5年後、パリに移って画家のアメデ・オザンファン(1986年生)と出会い、〈機械文明の進歩に対応した「構築と統合」の芸術を唱えるピュリスムの運動〉を始める。1918年、ドイツ軍によるパリ砲撃が始まるとオザンファンはボルドーへ避難、ジャンヌレが訪ね、以降、油絵を始めたそうだ。第一次世界大戦集結1ヶ月後の12月、ギャラリー・トマでオザンファン&ジャンヌレ展、共著『キュビズム以降』を刊行して「ピュリスム」を宣言。1920年からはおもに2人で雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を刊行するようになり、ここで初めてル・コルビュジエを名乗ったそうだ。概要を把握せずに出掛けた国立西洋美術館60周年記念『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ピュリスムの時代』展で、スロープを上がったら淡白なデッサンが並んでいて、若きコルビュジエが影響を受けた作品群かと思い近づくと長い作者名のあとに(ル・コルビュジエ)とあり、初めて知った。

図録にあるピエール・ゲネガンさんの「ビュリスム 新精神の人、アメデ・オザンファン」に、ペンネームを決めたいきさつが詳しくある。オザンファンがジャンヌレと連名で「エスプリ・ヌーヴォー」に建築論を連載するにあたってすすめたのがきっかけだったようだ。従兄弟の名前のルコルベジエを言うとオザンファンは、「2語に分けるともっと立派に見えるだろう!」。さらに、中世の教会には「君の国のヴィルヘルム・テルみたいに、鐘楼の上にとまって糞をするカラスに弓を射る役目の人間」がいてコルビュジエと呼ばれたこと、「君の役目はまさに建築を……(原文伏字)するのだから丁度いいではないか。それに君の顔はカラスに似ている。この名前は君にぴったり合っているよ」(オザンファン『回想』より)と。〈私は自分と彼の本名を絵画と美学の論文に残しておきたかった。それで私は(建築に関する論文に)母方のソーニエという名前を使った。だから彼にも母親の名字を使うように言うと、ジャンヌレは、それはできないというのだ。「母の姓はペレだから。オーギュスト・ペレと一緒にされてしまう」〉。

ジャンヌレはオザンファンの隣人でもあったオーギュスト・ペレを介して初めてオザンファンと会っている。パリに移る前からオザンファンが出していた『エラン』(1915-16)という雑誌を見ていて、〈フランスとドイツの近代芸術を比較した自著の出版に協力を仰ぐことが第一の目的だった〉のではないかと、図録の他のところにあった。2人はやがてたもとをわかち、ル・コルビュジエは建築家としての評価を高めていくが、その間も絵を描き続け、1928年からは油彩画にもこの名をサインするようになる。

オザンファンの助言を得て始めた身近な静物の素描には、瓶やグラス、パイプ、ポットなどのほか本も多く描かれている。《カップ、本、パイプ》(1917 鉛筆、紙)の本は無地で開いてあり、特によく開くページがあったのか、小口の一部がはっきり乱れている。《本、コーヒーポット、パイプ、グラスのある静物》(1918 鉛筆、紙)には閉じた3冊の本が積まれている。右に伸びる影のかたちを好みに作るためであるかのように、重ね方に乱雑風の装いがある。〈最初のタブローである〉と本人が言う《暖炉》(1918 油彩、カンヴァス)には、画面中央に豆腐のような白の立方体、その左に2冊、画面左下に2冊、それぞれ重ねた背を手前にして描かれている。下の2冊は隆々たる背バンド付き、上の2冊はあっさり製本、いずれも柄は排除されて淡い濃淡でシルエットが見える。《開いた本、パイプ、グラス、マッチ棒のある静物》(1918頃 鉛筆・グアッシュ、紙)は本がメインだ。ぺったりと開ききったページにうっすらと図や文字が見える。オーギュスト・ショワジーの『建築史』(1899)の古代ギリシャ建築イオニア式柱頭に関するページだそうで、実物の該当ページが開かれてそばに展示してあった。

油彩になると、《青い背景に白い水差しのある生物》(1919 油彩、カンヴァス)、《赤いヴァイオリンのある静物》(1920 油彩、カンヴァス)、《垂直のギター》第一作(1920 油彩、カンヴァス)、《積み重ねた皿のある静物》(1920 油彩、カンヴァス)など、開いた本が口髭のようにみえるシルエットとしてたびたび現れる。本文が180度ぺったり開かない硬い背の本を、こんもりと両ページが等しく曲線を描くように真ん中から開いた状態で、それをコンクリートで固めて縦に置いたり横に置いたりという具合。口髭というか、古典建築の柱の上部辺りも連想されて、それは、白い皿をやたら積み上げたものがバウムクーヘンというかやはり古典建築の柱を連想させることや、パイプが排水管を連想させるのに似ている。

《アンデパンダン展の大きな静物》(1922 油彩、カンヴァス)になると、本は画面右奥に立てられて瓶の背景を白くする役割になる。デッサン《ヴァイオリン、グラス、瓶のある静物》(1922 鉛筆、パステル、紙)を見なければ、それとは分かりにくい。《多数のオブジェのある静物》(1923 油彩、カンヴァス)や《エスプリ・ヌーヴォー館の静物》(1924 油彩、カンヴァス)は見た中でもっとも描かれたものの数が多いが、はっきりと分かる本を見つけることができない。改めてル・コルビュジエの建築写真を見ると、曲線部分がことごとく紙に見えてくる。1932年、エスプリ・ヌーヴォー社の株主総会で解散を正式に決定。ル・コルビュジエは1965年8月27日、オザンファンは1966年5月4日に亡くなった。

君を嫌いになった理由(2)

植松眞人

 毎朝、ひょうたん坂と呼ばれていた坂を通って通学していた。その坂がなぜひょうたん坂と呼ばれていたのかは知らないし、それが正式な名前なのかどうかもしらない。その坂を見た瞬間に確かにひょうたんのようだ、と思える形だったのかどうかもまったく覚えてない。ただ、その少し急な坂道を上り、登り切る前に右手に折れると学校の正門が目に飛び込んでくると言う流れが大好きだった。

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。  何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。

 何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

175声を盗む

藤井貞和

はくちょうの成瀬有、いま翔ります。年の夜のそらに放つ 流離伝

まぼろしのうた 盗らむ。たれか ことばかず。のこしては去る。ゆめもまぼろし

闇の夜の恋しいページ。小説のゆめ うたのゆめ、すべてまぼろし

冷え冷えと今宵冷たき砂の国。アルベール・カミュ きみがたたかう

病棟の灯(ひ)の奥、もえるページからページへわたる。きみがたたかう

数値さがることなき ことしより明年へ 病棟に棲む魔ものらは

年占としての春駒に祈りを籠めて「あなたはこの世が好き」

新(にい)繭隠り 緑の苔によこたわって春駒がどこに! そらに! 翔る身体

身体の声は新繭に恋してる 恋してる! わたしの57577

(どこから?)白い繭。白馬になりなさい(いさなりなにばくは)

古代の空の〈うた〉を盗作するわたしです ひめやかに終るノート

灘の翔福鶴 恋し。あまやかに薰る病室 あなたに送る

天からの繭が降りてくる。露も玉つくりに懸命。おかしいね 笑える?

天のつゆじもに包まれる大きな結晶を育てています 笑って!

    *

つらいなら引け広辞苑電子版「鳥の鳴き声」ワライカワセミ

(入院の夜、書き散らしていた反故ノート。他作の混じる可能性があります〈許せ〉。譫妄のなかより。)

私の遺伝子の小さな物語(上)

イリナ・グリゴレ

この病院にいても、世界で起きていることを感じる。寝たきりのベッドの近くの窓からは一本の松の木しか見えないのに、この傷んだ身体はものすごく敏感だ。病院の中にいると、この世で苦しんでいる人々が私以外にも大勢いると分かる。今日は大きな手術をして四日目だ。熱も下がって、少しだけど動けるようになった。病院ベッドの食事テーブルの上に、サイエンティフィック・アメリカンの特集、「Evolution — The human saga」がおいてある。入院する前に自分で持ってきたが、まだ読んでない。人間の体の進化は昔に終わったが、それは本当に出来上がっているのか。未完成な作品にすぎないだろう。今日、点滴がぬかれて、やっと自分のこの手で食事をとることが出来た。この手で必死に茶碗を取って箸を持つ。手が震えるけど神経の動きを細かく感じる。箸を持つ動作は、自分の文化には決して見当たらない習慣なのに、この身体はどこで覚えたのだろう。そして、この大変な時でもちゃんと生き残るために、手は震えても箸をちゃんと持って、米の飯を必死に口に運んでいる。

小さな細胞が動くのを感じた。自分の身体に入れるものは、命の秘密を持っているのだろう。食べ物には、生きている食べ物と死んでいる食べ物があると、はじめて気づいた。ルーマニアから送られた蜂蜜を一番食べたいと思った。この前、何千前の古代エジプトの蜂蜜が発見された。まだ腐ってなかったという。我々の身体はすぐ腐るけど。でも生きているうちに傷んだ身体が、命への繋がりを必死に欲しがっている。四日間寝たきりだった私の体が、神秘的な知恵に目覚めたと思った。

この身体は、六年間に大きな手術を二つ受ける運命を持っていた。ベッドから起きて初めの一歩は、この地球に生き返ってきた私にとって、最初に歩いた人間の状態と同じではないか。

手術の麻酔から意識が戻った瞬間に大きなショックを受けた。麻酔で脳が騙されても、体は覚えている。手術の間に起きたことがなんどもなんども繰り返される微細な感覚が残っていた。傷つけられた時を、私の皮膚が覚えている。

病院の長い廊下から動物のような叫び声が聞こえた。朝方までずっと痛みに苦しんでいた鳴き声が自分の肌に響いた。子供の時から知っていた悪魔たちが出始めた。気持ち悪い、醜い者が私に触ろうとしている。私の身体を欲しがっている。お腹が空いた野良犬が肉を発見する時と同じ。この痛んでいる傷だらけの身体はあの悪魔たちのご褒美だろう。

この感覚はどこからきているのかわからなかったが、人間に共通するのは間違いない。見えるまで、体験するまで信じないのは現代人の癖だ。科学の歴史は三百年に過ぎないが、人間の身体とその身体の知恵や生命力はものすごく古い。この小さな細胞に生の秘密、そしてこの地球の秘密、宇宙の秘密は含まれている。キリスト教、仏教でも、世界の宗教では共通している微細な感覚を忘れてはいけない。この痛みを経験したら神様以外に救いはないと思った。

何日か経って、窓の近くまで歩けるようになったら、外の世界が美しかった。病院の裏の子供が遊んでいる公園には赤いブランコがあって、そして松の木は一本だけではなかった。そうなのだ、一本だけで生きていけない、人間と同じだ。病気のことも考え直す必要がある。遺伝子の命へのつながりの道を考えてみょう。

すべての答えはこの身体にあると感じた。手術の一日目のことは、はっきり覚えている。古いオペ室に自分で歩いてお医者さんの説明をうけた。自分でオペ室でしか着ない服を着て、自分で髪の毛を結び、透明のキャップを被った。この動きは自分で意識した上で行った。お医者さんの目を必死に探して、これからこの二つの体の間におきる動きを想像してみた。お医者さんの身体の一部、とくに手が私の身体に入る。これはすごく神秘的な行動だと思った。科学的な知識より手の指先の感覚やビジョンが必要とされるのだろう。お医者さんの目を見て、一瞬だけど私の身体の中が見えた。不思議なイメージだった。こうやって身体は関係を作るのだろう。身体たちを繋ぐ装置は目にあると思った。

ここは『カリガリ博士』の白黒映画の雰囲気で想像してほしい。オペ室の雰囲気は六〇年代の大学病院のまま。フランケンシュタインが作られた場所と似ている。そういえば私もこの世の創作の一つなのだ。あの世から来て、三十年の間に私の身体になにが起きたのか。この六〇年代のオペ室に、私の身体のMRI画像が、大きなスクリーンに映っていた。見るとびっくりするぐらい、ただのモンスターにしか見えない。その後は狭い、スポンジがいっぱいおいてあるテーブルの上に横になる。腕に注射が打たれて、この注射の力に驚く。

私の血になにが入れられる? 鉄のような、重いものが流れる。私の腕が後の川のように、重い石が運ばれる流れになる。暗い……ここはこの世界の底だろう。ここは静かだ。手術中、夢をみたと思う。でも、寝ている間の夢と違う……すごく幸せな気分だった。亡くなった祖母と祖父に会った。私の身体を、三百年の歴史がある科学に渡したと思ったら、あの世への旅になった。あの世にも身体があった。軽くて、動きやすい身体だった。「私」と一体化していた。私の身体が神様の物であり続けたと感じた。この感覚は子供の時以来なかった。麻酔から起きた時に手術のことを全く忘れていた。「なぜ戻されるのか、戻してよ!」と怒っていた。その後は痛みを感じて、痙攣し始めた。あまりにあの世とこの世は違っていた。赤ちゃんが生まれる時、幸せなところから来てこんなショックをうけるのだろう。

この身体は誰のものなのか。目を開けると星が見える。こんな近くに星が見えるなんてすこし怖い。私の身体が宇宙に浮いている小惑星だったら、手術でとられたものを細かく調べて、地球はどうやって生まれたのか分かるだろう。

夜が来ると、私の身体が一番欲しがっている自然の光がない。身体が熱い、この熱さは地球が出来た時と同じマグマのような熱さだ。神経が爆発した痛み。急にとても寒くなる。叫ぶ。お母さん、あなたから生まれたこの身体は苦しすぎる。お母さん、帰りたい、あなたのお腹に。夢の中に母の胎内に戻る。そこは木がある。命の木だ。

母が今はルーマニアの北部にある聖人パラスケヴァのところにいる。聖パラスケヴァの遺骸は三百年前から腐らない。科学と同じ、三百年前から。母は私のためにお祈りしに行った。母は教会の前から電話した。母の声が綺麗。マリア様は聖なる母だとはじめて分かった。

こうやって病院では信じることを学び始めた。これも子供の時からの懐かしい感覚だった。その後の何日間、母が電話でマリア様の祈りを読んでくれたのが、効かない痛め止めより効いた気がする。母の声とマリア様のお祈りで毎日少しずつ光を感じるようになった。この光を浴びて、身体が奇跡のように復活し始めた。私には信じることが必要だった。

(「図書」2015年5月号)

散歩する人

高橋悠治

去っていく人の後姿 肩掛けかばん 遠ざかる 小さくなる 弱まる

現実にできることの限界 それでもその場所で そのときできることは ひとつではない そのなかのひとつをためしてみれば 次のひとつが自然と出てくる 考えるでもなく 意識もしないうちに その次にいる 次があれば その先も見えてくる 発見は向こうから来る こういうやりかたでいいのだろうか らくなようで じっさいはそうでもない 時間が限られているという思い 次がどこか向こうから来るまで しんぼうして待っている それに なにかをしているうちに あきてくるかもしれない あきてもつづければ できることも できなくなっていく 二つのことを かわるがわるするやりかたもある しばらくはそれでもいい そのうち二つをあわせて一つにしていることに気づく まとめて一つにする その一つは どこまでもつきまとうのか

実験をくりかえし いつもおなじ結果が出れば そこには法則があるのだろう 一歩また一歩とすすんで そのたびに先に見える風景が変わっていたのが 法則があると気づけば 霧が晴れて 景色全体を見渡す場所から 出発と到着を結ぶ直線を引くことができるだろう まがりくねった試行錯誤のたくさんの道を見おろすハイウェイ 人間が歩かないで運ばれていく道

近道 裏道 間道 廂間(ひあわい) ハイウェイにならない トンネルにもならない 途中と途中をつなぐ いくつもあるやりかた

出発点と言える場所がない 気づいたときは もうはじまっていた 到着もない 見える風景が変わっていくと 予想しない場所にいて 別な行く手が見える そこに辿り着く前に 道はまた曲がる

どこまでも途中にいる 全体は見えない 一つでも 二つでもない 間にいる 道もないのかもしれない 歩けるところを縫って歩いている 足元が草か水かわからない 草の葉を踏みつけないように 水に沈まないように 糸を操るように 脚を浮かして 通りすぎていく 脚を置く場所がなければ 脚はとまらない 風景が変わっていく 

2019年5月1日(水)

水牛だより

まったく偶然のこととはいえ、令和の第一日目が更新の日となってしまいました。5月は快晴が似合うのに、あいにくの雨模様の東京です。そして寒い!

「水牛のように」を2019年5月1日号に更新しました。
イリナ・グリゴレさんの「生き物としての本」は先月に続く後半なので、今月も先頭に置きました。
昨年のおわりに小さな出版社がひっそりと誕生しました。出版舎ジグといいます。イリナさんの日本語で書きたいという望みに寄り添っていこうと思っていた私には、この新しい出版社はイリナさんの望みを推進してくれるところだとすぐにわかったのです。アンテナの感度よし! ですからイリナさんを紹介して、すでにもう連載がスタートしています。「生き物としての本」は2014年に書かれたイリナさんのはじめての文章であり、ジグに掲載されている「マザーツリー」は2019年4月に書かれた、おそらく最新のものだと思います。水牛でもジグでも連載は続きます。楽しみに読み続けてください。
管啓次郎さんの「海を海に」はダブ・ポエトリー。レゲエに乗せて朗読する管さんのライヴにそのうち行ってみたいと思っています。

何か書き残したことがあるような気がしますが、とりあえず、ここまで。

それではまた!(八巻美恵)