しもた屋之噺(210)

杉山洋一

ここ数日、酷暑に見舞われています。ミラノだけではなく、ヨーロッパ全土が異常な熱波に襲われているとか。毎年七月半ばが一年で一番暑いのですが、今年はそれが早まったようです。七月に向けてこのまま気温上昇が続くと想像したくないのですが、一体どうなるのでしょう。

6月某日 ミラノ自宅
朝5時半起床。息子の弁当に入れるパスタを作ってから、6時半、朝食のパンを買いにゆく。朝食の準備をして7時半には家をでて、マントヴァから戻った家人と中央駅で落合って、8時過ぎの列車でキアヴァリのマルコ・バルレッタのピアノを見に出かけた。マルコは旧いピアノを修復して使えるようにしているのだが、弦が交差しない形の平行弦のピアノは、音域毎に音質が違うので、同時に何声部も弾いても、それぞれ音がきれいに分離するし、現在のような均質な音色を求めるピアノをモーツァルトが持っていたら、アルベルティバスは書かなかったと力説していた。音質や鍵盤、時に声部が不均等である美しさは、その昔メッツェーナ先生のレッスンを聴講しているときに覚えた。

6月某日 ミラノ自宅
通常、指揮セミナーは教師が熟知するレパートリーをやらせるものだが、生徒がお金を出し合ってアンサンブルやオーケストラを指揮する我々の場合、編成や演奏時間が優先される。教師は曲を余り知らないまま、良く言えば先入観なしに生徒の作りたい音楽の手助けをする。一応楽譜の勉強はしたが、生徒の方がよほど深く読み込んでいて、解釈で蘊蓄など垂れる必要はない。むしろ、深く読み込み過ぎて、泥濘に嵌りそうになると、少しだけ言葉をかける。

今回特にチリ人の血を引くグエッラが担当したファリャ「チェンバロ協奏曲」の素晴らしさに衝撃を受けた。演奏も指揮も意外に難しく、編成が小さいほど、粗が露わになるからだろう。無駄なく冗長な要素を極端に廃した構造は、性格は違うがマリピエロのようでもある。
3楽章の楽譜を読んでいるとき、息子がシューベルトの即興曲2番を歌いながら通りかかって、初めてこの中間部がファンダンゴと気づく。常識と言われればそれまでだが、無知とは恐ろしいものでこの歳まで知らなかった。アルゼンチン人のバレンボイムの演奏を聴くと、カスタネットを叩いて躍っているように聴こえる。

浦部くんにお願いしたウォルター・ピストンが、ジェノヴァ人の家系だとは知らなかった。イタリアには、確かにピストーネという名字もあるそうだ。ピストンの「喜遊曲」に、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」の足跡を見る。ピストンの「喜遊曲」は1946年、バルトークの「協奏曲」は1943年。後年はボストンシンフォニーとミンシュでピストンの6番交響曲が録音されているほど、ピストンは長い間ボストンで盛んに活動していたようだし、クーセヴィツキとボストンシンフォニーの1944年の初演も聴いていたかもしれない。高校生の頃中古レコード屋で見つけたこのミンシュのLPを愛聴していた。
要するに指揮セミナーというのは、無知の教師が自らの無知を確認する、格好の機会ということ。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院に細川さんがいらして、ガルデッラも交えて昼食をご一緒する。美食家のガルデッラが探してくるレストランは外れたためしがない。食事の席でエヴァ・クライニッツの訃報に接し、言葉を失う。
夜は尺八の黒田くんとmdi ensembleの演奏会があって、桑原ゆうさん、浦部くんの作品を聴きにSirinに出かける。浦部くんは新作の初演をし、通訳も指揮もして企画までこなし、八面六臂。桑原さんの作品も次々とアイデアが沸き上がる様が素晴らしい。スタイルは違うけれど、知り合ったばかりの頃のみさとちゃんを思い出した。
もう20年近く前から何回か、パリのみさとちゃんもこのSirinにやってきては、mdiとのリハーサルに熱心に付き合ってくれた。当時は主人のフランコも健在で、お昼はいつもヴェラ通りの年配女性が揚げるカツを乾燥トマトやチーズと一緒にパンに挟んでもらって食べた。皆あのおばちゃんを慕っていて、ミラノ語でシューラ(おばちゃん)と呼んでいたが、あの店も大分前になくなった。
当時、いつもヴェーラ通りの角には、整った顔立ちに濃いめの化粧を引いた妙齢が立っていた。 晴でも雨でも、暑夏でも厳冬でも、物憂げで、どこか凛とした風情で立っていたのを思い出す。彼女の前に車が停まり、二言三言言葉を交わして助手席に乗込むところに、何度も出くわした。未だ若かりし頃のアンサンブルの演奏者たちのちょっとしたマドンナだったから、朝、練習が始まるとき、彼らが「今朝はシニョリーナもう道に立っていたね」、などと嬉しそうに声を上げていたのが懐かしい。彼女の姿ももう長い間みていない。
フランコが亡くなり、一人残されたミラを皆でいつも気にかけていたが、会うたび、この家は広すぎるしフランコとの思い出があり過ぎて辛いと涙をこぼした。友人らがお金を積んでこの家を借りるとか、購入するとか色々と案を出したが、結局彼女はさっぱりと売却を決め、年内には家を明け渡すことになっている。家人も、ピアノが好きだったフランコの楽譜をずいぶん沢山貰って来た。
黒田くんの演奏会に出かけ、フルートのソニアと話した。「シューラ、未だ元気かな」「どこかの養老院で、今も楽しくやっているといいわね」。

6月某日 ミラノにて
朝、東京の尚さんから便りが届いた。
「悠治さんのピアノは、涙が出そうになるような愛に溢れた音、音楽でした。張詰めた空気感、優しいロマンティックな雰囲気、静かなたたずまいなど、色彩豊かな時間で胸がいっぱいになりました」。

家人の留守中、息子の弁当の助っ人に母を来てもらっている。残念ながらうだる暑さで日中どこにも出かけられない。今朝は週末で弁当の必要がなかったので、朝早く、連立ってジョルジアの菓子屋まで朝食を買いに出かけた。こちらは徒歩で、八十路半ばの母は鶯色のブロンプトン自転車に跨り、颯爽と。
息子が魚を余り食べないとこぼすと、母も幼少期、魚にあたってばかりいたので、口にするのは好きではなかったと言う。当時は氷冷蔵庫しかなくて、暗いところで冷蔵庫を開けると、魚がぼうっと光っていて薄気味悪かったそうだ。母曰く、魚のリンが発光したからと言うが、真偽のほどは分からない。

(6月29日ミラノにて)

シリアの民主主義

さとうまき

今、僕はシリアのことをいろいろ考えて本を書こうという気になった。8年にわたる「シリア内戦の分析」をする。というわけではない。僕が、25年前の7月19日に初めてシリアに行ってから25周年という記念日なのだ。

久しぶりに25年前のノートを開いてみた。まだ、ハーフェズ・アサドの時代。驚くほどアナログの時代。インターネットもなければ、デジタルカメラもなかった時代を信じる方が難しい。今は、スマホ一台ですべてが補えるのだからすごい進歩だと思う。だからこそ、民主主義も進歩したはずなのに、シリアの今は内戦が続く。そんなことを徒然なるままに筆を執ってみる覚悟をして、25年前のノートを読み返してみるとなかなか興味深い時代だったんだなあと改めて感じた。

1994年8月

ダマスカスの工業省に赴任して間もない夏。ウマイヤッド・スクェアにバスがさしかかった時、アラビア語で書かれた垂れ幕がやたらと張ってあるのが目に付く。一緒に乗っていた職場のシリア人女性に聞いてみるが、「明日までに調べておくわ」。きっと政治的なスローガンが書かれているのだろう。

アパートに帰ってラジオ・ダマスカスを聞く。このころFM放送で英語放送をやっていた。国会議員の選挙があるらしい。一般庶民のシリア人はあまり新聞を読まない様だが政治には本当に無関心だった。

少し昼寝をして町をうろつく。確かに町中がポスターやら垂れ幕やらでお祭りの様ににぎわっていた。テントが張られていて、裸電球とシリアの国旗がたくさんぶら下がっている。椅子がならべられていて、奥には大統領と1994年1月に不慮の事故でなくなった長男のバーセル(バッシャール現大統領の兄)の写真がかざってあった。トルコ風民族衣装に身を包んだ給仕が、ちらほらと集まってきた近所の老人達にアラビアコーヒーを振る舞っていた。実にのどかな光景のなかで日が暮れていく。心地よい夜の風が吹く。

突然車のクラクションが鳴り響く。子供が走ってくる。そして肩車された若者がやってくるとみんなは拍手喝采で迎え入れる。今度は、ひずめの音がしたかと思うと馬にのった男達がやってくる。こういうときは、絶対ロバではだめだ。彼らは、候補者の名前を叫ぶと、「あんたが一番!あんたが一番」とたたえる。小さな子供達も選挙運動に参加していた。ポスターを広げて候補者の名前を叫んでいる。若者は、興奮していろいろと説明してくれるが、僕にはさっぱり理解できなかった。

結局「おまえも一緒に来い」と言われて子供達と一緒にトラックの荷台に乗せられた。トラックは急発進すると次の目的地へと向かった。トラックの運転は手荒かった。しっかりとしがみついていないと振り落とされそうだった。曲がる度に子供達は荷台を転がり回っていた。商店街に入ると通行人が手をふって応援してくれる。やがて車は高速道路下のテントへ到着した。ここにはお歴々がそろっているらしかった。

中国人かといわれ、「いや、日本だ」と答えると、「じゃあ空手ができるんだ」。子供達が寄ってくる。カメラを見つけるとサウルニー(私を撮って)とせがむ。大人がやってきて子供達を叱りつけ追っ払ってくれる。うるさいガキどもを追っ払ってくれるのは実にありがたいのだが、必ず「さあ!俺を撮るのだ」とくる。結局、フィルムの無駄遣いはさけられない。当時はデジカメなんかなかった。

「コーヒーを飲むか」。彼らが差し出してくれたのは、カルダモンの香りが効いた濃いコーヒーだった。まるで九州人のようにお猪口で回しのみをするので、一気にぐっとやってしまわなければならない。僕は進められるままにこのコーヒーを3杯も飲んでしまったので胃が痛くなった。

「ところで、君たちの候補者は一体だれなんだい」

「マハディーン・ハブーシだ。彼にたのめばなんでもやってくれるさ 」

「そうさ。本当だよ」小さい子供までが付け加えた。

選挙運動はだいたいこんな感じで進んでいった。公約を宣伝カーでふれまわるようなことは決してなかった。夜、しかも決められた場所で有権者にコーヒーを振る舞う。灼熱の太陽が没した後に人々は集まり、お茶を飲み、トルコ風の剣の舞を楽しむ。

投票日

この日は投票日だった。投票はだいたい小学校などを利用して行う。俺はいつものようにカメラを持ってカファルスーセの町をうろついていた。近所の就学前の少女がついてきた。小学校の前にさしかかると、調子の良さそうな連中が「おいで」と言ってくれる。シリアの小学校は高い壁に覆われておりそれはまるで刑務所のようだった。運動場もない。

「それは、子供達が脱走しないようにさ」

「じゃあ、やっぱり刑務所だ」

女の子に「さあ!一緒に行こうか」と言ったが怖がって中には入ってこない。中では警官の立ち会いのもと、投票が行われていた。何ら緊張感がなく皆楽しそうに選挙を手伝っていた。女性の選挙管理委員もいる。みんな歓迎してくれて写真を撮らせてくれた。すると警官がやってきて俺に職務尋問をした。そして「俺を撮れ」と言ってポーズをとった。写真を撮ってやると、二人の警察官が俺の両脇について、「さあ!出るんだ」と言って外へ連れ出された。

俺が連れ出されると、入り口で待っていた女の子が「どうだった?」と駆け寄る。「まあまあだよな。写真もとれたしね。君もそのうち刑務所に行くんだ。でもそんなに怖がることはないよ」と諭した。

翌日のシリアタイムスの一面には、「投票は自由と秩序、そして正義の名の下におこなわれる。投票率61.18%、158人が新人。女性議員は28名。民主主義の自信にあふれた結果である」と賞賛した。

そして25年経ったシリアの民主主義の行くつくところはどこなんだろう。答えを求めて若者たちは戦っている。

灰いろの虹

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ視野を抜けゆく雨とは光り

ぽつりまたぽつりとひらく点描の、雨は遠のく光りのうつつ

点描はことのはじまり ふる雨に濡れゆく屋根の瓦のいろも

雨白き条をひきつつすみやかに視野を抜けゆくまでの明るさ

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃く撓む空間

ひとすじの圧もてひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

絵は音に音は絵となるひとときを歌いだしたり雨垂れのごと

みたされしものから順に零れだす雨という名の後さきおもう

塗りのこし俄かに失せて雨音の変わりゆく見ゆ しろき雨脚

雨晴れて棚引きわたる灰いろの虹 たまゆらを天がけるゆめ

霽月や下田にひとりおとうとが島田にひとりいもうとが居り

*霽月・せいげつ 
雨がはれたあとの月。
くもりのないさっぱりとした心境にたとえる(広辞苑)

インドネシアで住んだ家(4)3軒目の家

冨岡三智

今回は3回目の長期滞在で住んだジャワの家について。前の2回が留学ビザだったのに対し、今回(2006年8月〜2007年9月)は調査ビザでの滞在。受け入れ機関は元留学先なので、今回もスラカルタ市内カンプンバル地域で、前回と同じ人に頼んで家を探してもらった。こんどの家は車が通れる道に面しており、家の前に車が3、4台は停められる空きスペースがある。今までの家よりも広いとはいえ、また家が立派な作りで家具付きとはいえ、思ったより賃貸料は高かった。この家だけでなく、この市役所裏の一帯の賃貸価格は前回留学した時よりも上がっている。ジャカルタ資本がこの辺の土地を買って(借りて?)商業ビルにする例が増えてきたようだ。

私が借りた家の所有者は大学教授である。実家は私が最初に住んだ家の町内にあるが、普段はジャカルタの大学で教え、たまに帰省してこの家に泊まっている。定年退職したらこの家に住むつもりだが、1年だけなら貸しても良いという話だったらしい。家の管理は実家の人がしている。持ち主の祖父?曾祖父?は近所にある銀行(カンプンバルには銀行が数行集まっている)の創立者の1人だそうで、この家はかつてその銀行の社宅にしていたらしい。社宅といっても、3、4人で住む感じだが。

この家に住んでみると、時折、高額な家具や電化製品や美容品などの頒布会のチラシが投げ込まれる。同じカンプンバルに住んでいても、今までこういうことはなかった。また、ヤクルト事業(ヤクルトレディなどを統括する代理店?)を展開しないかと営業に来られたこともあるし、保険の売り込みが来たこともある。住む家のクラスによって入ってくる情報は異なることを、ここに住んで初めて痛感した。

近所はこの辺りでワルンを出して商売している家が多い。一番親しかったのが米から雑貨まで商う店で、店主は私とほぼ同年の夫婦。私がテレビに出た時は、ここでオンエアを見せてもらった。それから左隣のご飯屋。女性と子供とベチャ(人力車)引きの老父が住んでいて、老父はもう流しで車夫をするのは無理なので、頼まれた時だけベチャで荷物運びなどをしている。近所の人たちは電気代などの支払い代行を頼んでいたので、私もお願いすることにし、それ以外に正装して出かける時や、自分が主催する事業で荷物を運ぶ時にベチャを出してもらっていた。はす向かいの店は氷屋(他にも雑貨を売っていたかもしれない)をしていて、やけどをした時にここで氷を買った記憶がある。店番のおじいさんはラジオでよく影絵やガムラン音楽を聴いていた。

1、2回目に住んだ裏通りの家と違って、この家はグーグルのストリートビューで出てくる。周囲の家はあまり変わらないが、この家の外観はかなり変わっていた。外壁が違う色で塗り直され、前の空きスペース一杯に車庫が建て増しされ、車庫のフェンスの合間から大きな車やバイクが見える。大家さんはもう定年退職してこの家に戻ってきたのだろう。このストリートビューは2016年1月の撮影だが、それから変化はあるのだろうか…。

失われていく言葉

笠井瑞丈

六月は自分の誕生月
小さい時から六月は
何か特別の月である

いつも
当たり前のように
やってきて
当たり前のように
去っていく

そんな当たり前を
当たり前にしないため
今年は何かをしようと
六月十六日誕生日
ソロの会を行った

タイトル『701125』

言葉を刻むように
行為を刻むべきだ
(三島由紀夫)

今できる事
今しかできない事
今だからできる事
そんなことをカラダで
行為しようと思いました

言葉の持つ本当のチカラ
言葉の持つ本当の意味

そのような事が
体とどのように
結びつき繋がり

新しいチカラを生み出すのか

そんなことを自分に課して
作品を作ってみることにしました

今は言葉が
飽和している時代
SNSの発展とともに
誰でも架空世界に言葉を
責任なく投げ込める時代

嘘が本当になり
本当が嘘になる

そんな世界だ

書斎の中で一晩考えた言葉が
本当の言葉であり
これが表現行為だと信じるよ
(三島由紀夫)

失われていく言葉のチカラ
今一度考えなきゃいけない

仙台ネイティブのつぶやき(46)絵本の中で

西大立目祥子

 じぶんがどうやって文字を覚えたのか、はっきりとした記憶がない。だれかが、たとえば父や母が「これは“あ”。これは“い”」というように五十音を一文字ずつ教えてくれたのだろうか。それともひらがなの本を読み聞かせてもらっているうちに何となく身につけたのだろうか。

 文字を覚えて自力で本を一冊読み終えたときの感動は、いまもじぶんの中にくっきりと残っている。5歳くらいのことだったろうか、叔母がクリスマスにグリム童話をプレゼントとしてくれたことがあった。それはそれまでなじんでいた色付きの絵本とは違って文字だけで書かれた分厚い本で、ところどころに殺風景な挿画が入っているだけ。文字の読めない幼児には文章はただの黒いシミの羅列でしかなく、ぱらぱらとめくって放り出した。

 それからどれくらい経ってからのことだろう。あるときその本を引っ張り出して読み始めた私はたちまち物語に引き込まれ、黒いシミの向こうに壮大な世界が広がっていることに驚きながら本を閉じたのだった。本という紙で閉じられたモノが持っているすごさと大きさに、幼いながら感動させられたのだと思う。

 ちょうど文字を覚えつつあった時期、6歳のころに読んで、いや正確にはたぶん母に読みかせてもらっていまだに忘れられないのが、幼稚園に毎月届くのを楽しみに待っていた絵本「キンダーブック」だ。大判の薄い冊子のような体裁の本は月替わりで内容が変わったのだけれど、中でも「オッペルと象」と「シュバイツァー博士」は、いまだに絵の細部とともに、ページを繰るごとに揺り動かされた生々しい感情が残っている。子どもの眼力と記憶力は大人が想像する以上なのかもしれない。

 「オッペルと象」では、強欲の農夫オッペル(当時は“オッベル”ではなくこう表記されていたと思う)の小屋に足を踏み入れた大きな白象が、オッペルにいわれるままに働き始める。白象は働くことがよろこびなのだ。そこにつけこむずる賢いオッペルは、つぎつぎときびしく仕事をいいつけながら逃げられないよう象の足に錘をつけたり鎖をくくりつけて食事の量を減らしていく。

 真っ白い大きな象のからだは、ページをめくるたびやせ細っていき、細くなった足にはますます重たさを増したように錘がぶら下がる。象の顔から笑いが消えて、目からは涙がしたたり落ちる。幼い私は白象がかわいそうでかわいそうで身がよじれるようだった。子供心に大きなナゾだったのは、白象がオッペルを憎まずに祈ることだった。弱り切った象は夜、月を見上げて「サンタマリア」というのだ。マリア様なら知っていた。幼稚園の朝の礼拝や食事の前には、みんなで手を合わせ祈っていたから。

 象が助けを求める手紙を書いて、森からどーっと仲間の象たちがオッペルをやっつけにやってきて、白象は仲間に救い出される。たくさんの象が長い鼻をすり寄せてよろこび合う最後のページまできて、息を詰めるようにして白象にじぶんを重ねていた6歳の私もようやく救われた。もしあのまま白象が死んでしまったら、私の世界も終わるように感じたかもしれない。

 「シュヴァイツァー博士」では、勉強をし直してアフリカに渡り病気の人々を助ける博士が描かれる。明るい日の光の下で新しい診療所の工事を指示する姿や、ケガをした男の子の手当をし動物にも愛情を持って接するようすに、幼かった私は心打たれた。そして、最後のページでは、漆黒の窓辺を背景に明かりの下、白髪や白髭にふちどられた横顔が浮かぶ絵に、博士は音楽家でもあって夜はオルガンの練習をするのです、というような文章が添えてあって物語は閉じられる。ここまでお話を読み聞かせてもらって、「尊敬」というような難しいことばは知らなくても、ひたひたとあこがれのような感情に満たされたのだった。

 中でも何とも魅力的に映ったのは、博士が診療に忙しく過ごす昼の顔と、ひとりオルガンに向かって稽古する夜の顔を持っていることだった。6歳の子どもにそんなことがわかったのだろうか、と大人になった私は疑いたくもなるのだけれど、でもあのときの私は確かに2つの時間を生きる博士を何ともステキだと感じたのだ。親にも話さずに私はそっと胸の底に「シュヴァイツァー博士」の名前を押し込めて毎日を過ごし、ときどきアフリカの青い空を思い浮かべたりしていた。

 9歳になった1965年の9月初めの朝のことだ。学校に出かけようとしていたときに、テレビを見ていた父が「あ、シュヴァイツァーが亡くなった」といったので画面をみると、白黒のテロップに「シュヴァイツァー博士死去」とあった。ショックだった。もう私が尊敬する人はこの世にはいないんだと思いながら、とぼとぼ学校に歩いていった記憶がある。

 それから25年くらいが過ぎて、私はある古書市でこの「キンダーブック」に再会した。発行は昭和37年。A4版でわずかに16ページ。表紙には「しゅばいつぁーはかせ」とあって、中の文字はすべてひらがな。幼稚園の1年間に「キンダーブック」を読んでもらいながら、私はひらながを習得していったのかもしれない。

 各ページの絵は、記憶の中の絵と少し違っていた。でも最後の窓辺でオルガンを引く博士の横顔は記憶どおりだった。文章は「はかせは、おるがんのめいじんです。まいばんけいこをしています。」とある。博士への尊敬を決定的にした文は、こんなにシンプルなものだったのだ。子どもは絵と文を激しく増幅させて、その世界へと入り込むのかもしれない。大人はもうこういう読書はできないだろう。

 わきにはごくごく小さな文字で、出版元であるフレーベル館の顧問の坂元彦太郎という人の企画意図が「博士へのあこがれを胸にきざみこんでおけば、やがてはそれぞれの胸の中でゆたかに開花する日のあることと、期待しているのです。」と記されている。

 うーん。確かに胸には深く刻まれた。でも開花はしていない。博士へのあこがれはいまもあって、それはどんなにへたくそでもいいから、夜の窓辺で博士のようにバッハを稽古することなのです。

176 その古い話が終る

藤井貞和

その古い話が終る。 土間(どま)の神は去り、
鍋が割られる。 さいごのスープを、
地面へこぼすと、もう(地面の)口はひらかれることがない、
古い話は終わる。 さいごの餅も、小豆(あずき)も、
いまでは語り草(かたりぐさ)。 知らない人ばかりがあつまり、
祈りを忘れる。 その少年に、かまど(竈)は、
さいごのことばを教える。 でも、それは、
火の神の遺言である。 「よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

少年の火は、石と石とをたたき合わすだけだし、枯れ枝を
燃え上がらせても、さいわいに雨が降って消すことを告げる。
どんな捧げ物も最初、火に捧げました。  
食物の一掬いを、捧げました。 感謝の祈りとともに。

みかる(見軽)という名の少年が、義父のところへ行く途中、
わしい(鷲)の家を訪ねます。 客人はたいせつにしなければね。
ところが、おどろいたことに、わしいの家の、
女主人は鍋から一掬いを火に注がなかったのです。
みかるは自分のために出されたテーブルの上のスープを、
カップからそっと、一掬い、火に注ぎました。

夜中、みかるは目を醒まします。 弱い、けぶったような光の向こう、
炉のかたわらに痩せた男の子がすわっています。
こうつぶやくのです、「ぼくは、ここで痩せてしまった。 だれも、
食べものをくれないのだ。 いつもおなかをすかせている。 
麦のスープをくれたのはあなたがはじめてだ。 これに対して、
お礼をしますよ。 よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

みかるは身震いして、わしいに挨拶もせずに、
そとへ出ました。 振り返ると、
わしいの小屋はほのおに包まれていたと、ふるい神話のような、
昔語りです。 ことばの継ぎ目に、まだ残されたことばがあるなんて。
「よく聞きなさい。 すぐにここを出るのです。 見ていなさい、
何かが起きるから!」

(ヤクートの神話の、舞台を変えて改作です。現代詩の危機って、ほんとうにあるのですね。)

ピアノ練習のあとで

高橋悠治

6月はアンサンブル・ノマドの練習とコンサートがあった 月末にはパラボリカ・ビスでの音楽と詩の交錯を語るイベントがあったが そのことはまたあとで

今年はピアノ演奏技術を維持するために バロックと自作やサティなどに限っていて ずっと離れていた20世紀西洋音楽とその後の多様化と分散の結果できた音楽を練習してみた

香港にいるアメリカの作曲家で 長年の友人だったポール・ズコフスキーを看取り 灰を海に撒いたクレイグ・ペプルズの作品は テッセラの「新しい耳」でソロを2曲彈き ジュリア・スーと2月に録音したが ニューヨークのズコフスキー追悼コンサートから ペプルズの2台のピアノのための「遊ぶサル」とストラヴィンスキーの「2台ピアノのソナタ」をノマドのプログラムに入れてもらった

ペプルズのアルゴリズムを使った作品の空白の多い 限られたピッチの組み合わせが変化するスタイルには興味をもっていた いわば唐詩的な側面でもあり ヨーゼフ・マティアス・ハウアーが易占で選んだ12音遊戯に近いかんじがする サルが果物を投げ交わす始まりの部分はともかく 拍の変化のなかでディジタルなパルスを感じつづけるのはなかなかできない 共演した稲垣聡や中川賢一にはなんでもないようなことでも 昔から音階やオクターブ奏法など 均等なものは苦手で 一柳慧の「ピアノメディア」は弾けず クセナキスの「エヴリアリ」はもう弾きたくないし 弾けないと思う 練習してよかったと思ったのは かなり低い椅子に座っても 鍵盤上の離れた位置に平行移動するのは可能だったこと 今年3月に演奏し録音もしたチャポーの「優しいマリア変奏曲」も もうすこしらくにできたかもしれない 今年はまだクセナキスの「アケア」をアルディッティたちと演奏する予定がある どうなることか

むかしクセナキスの「ヘルマ」やブーレーズの「第2ソナタ」を弾いていた頃は 超絶技巧とは反対のやりかた 制御能力を越えた状況で疲れ切ったときに 身体の緊張がゆるんで 自由にうごけるようになる それは古代ギリシャ語の最初に習うプラトン(ソクラテス)のことば「試練のない生は生きるに値しない」が指している身体技法だったと いまでは思えるが もうそういうやりかたはしない おなじに見えるもののわずかなちがいを感じられるように そのものではなく その表面と それを囲む空間の気象変化を感じて 風のままにただよう 不安定なままでいる自由のほうが好ましい 速度をぎりぎりにまで落として それができても おなじやりかたをくりかえさない それとおなじように 右手と左手は それぞれの指は ちがう時間でうごいていく

コンサートのプログラムに取り上げられた自分の昔の作品でも そういう試みはしていた 管楽器はタンギングをしない 弦楽器はコントロールしにくくなるまでに弓の毛をゆるめて 力を抜いた状態で弓の速度を変えながら弾いてみる すると抑えていた意識以前の身体内部の感触が透けて見える瞬間がある でも これにも慣れてしまうと 浮かび上がってきた異なる感覚もまた どこかへ沈んでしまう すこしずつやり方を変え 片足が沈まないうちに 別な足を出す そうして どこへいくのか

2019年6月1日(土)

水牛だより

うるわしき五月が、うるわしくもなく去ってゆき、きょうから六月です。どんな六月になるのやら、気候も世界もめちゃくちゃですね。

「水牛のように」を2019年6月1日号に更新しました。
きょうは世田谷美術館で開催されている「ある編集者のユートピア」に行き、水牛の同志である津野海太郎さんのトークを聞いてきました。「ある編集者」とは小野二郎さんのことで、晶文社を始めた人ですから、津野さんのトークは必須だったのです。津野さんの「わっはっは」という豪快な笑い声を味わい、なつかしい人たちにも会えて、楽しい午後でした。
今月は、お休みします、とか、さぼります、というメールがいくつか届いて、いつもより原稿の数は少ないのは五月だからかなと思ってみたり。。。

それではまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(45)あなたでいること

西大立目祥子

 母はこのごろ、私のことをときどき「まっちゃん」と呼ぶようになった。「まっちゃん」て誰?
 それは、小学生のとき同級生だった女の子の名前だ。10数年前、渋る母をデイサービスに誘い出したとき、偶然にもそこで母は、まっちゃんと数十年ぶりに再会したのだった。「わぁ、まっちゃん」「みよちゃん!」と肩を抱き合うような出会いとなって、母はよろこんでデイサービスに出かけるようになった。

 まっちゃんには、私もおぼろげな思い出があった。美容師さんで、理容師のご主人と、美容院と理髪店の2つのドアのある大きな店を構え、小学生のころ髪をカットしてもらいに行ったことがある。小柄ではつらつとした人だったけれど、あれから50年近くもたって母と同じように体が弱り、記憶もあいまいになってきたのか。30代だった人が働き詰め働いているうちに、いつのまにか80代になってしまった人生の長いようで短い時間を想像した。

 母の口から「まっちゃん」という名前がひんぱんに出てくるようになり、そのときはいつも楽しそうな表情だから、2人はいつも話しこみ名前を呼び合いいっしょにごはんを食べて、子ども時代に帰ったように親密なひとときを過ごしていたのだろう。
 残念ながら数年して、そのデイサービスは経営者が変わりやがて閉鎖されて、母はやめざるを得なくなり、まっちゃんのその後もお元気なのか亡くなってしまったのか、もうわからない。

 でも、別のデイサービスに移っても、母はにこにことバスに乗り込み出かけていく。別のまっちゃんに会うために。誰かと会えば2人にしかわからないようなやり方でおしゃべりをし手を握り合い、涙を流したりしていい時間を過ごしているのだと思う。きっと母は相手を「まっちゃん」と呼んでいるのだろう。

 母にとって、いまここにいるじぶんをまっすぐに見て話してくれる人はみな「まっちゃん」なのかもしれない。いつしか、私にも、「まっちゃん、ありがとう」とか「まっちゃん、いてくれてよかった」とかいうようになり、その頻度は増している。
 介護も15年をこえて、私はこういう事態にも、ついに娘の名前もわからなくなったかなどとあせったりあわてたりすることはなくなった。「はーい、まっちゃんですよ」と胸の中でつぶやく。

 そして、気づく。一人称の「わたし」であるじぶんに向きあってくれる二人称の「あなた」が、人には必要なのだ、と。そこには必ずしもことばはいらない。目と目を合わせたり、肩をなでたり、わたしとあなたは、そうやって会話して気持ちを通じ合わせことができるのだ。ここにいてくれるあなたは、遠くにいる三人称の彼や彼女とはまったく異なる存在で、わたしの中に入り込み、つながって安心をもたらしてくれる。

 はいはい、なりましょうともあなたのあなたに、おかあさん。そんなふうに胸の内で応え、そして笑ってしまう。どこまでいっても折り合いが悪く、口を開けば言い争っていた思春期をはるかに過ぎて、母と私はことばを介さず、存在と存在として理解しあっているんじゃないか…。

 もちろん、いいことばかりではない。私の感情を母はクリアな鏡のように映し出す。眉間のしわは、くぐもった表情のわたしの眉間のようだし、荒っぽい口調は、さっき母に投げつけたいらだった私のことばそのものだ。お、今日のその笑顔は私が上機嫌だからだね。
 何年もかかって、機嫌よく接することの大事さに、ようやく私は気づかされた。
とはいっても、日々、平かな気持ちでいることの何と難しいことだろう。いまのじぶんをどこか遠くから俯瞰するように見ていないと、そうはふるまえない。

 こういうことは母が教えてくれたことといっていいんだろうか。衰えていく人がその姿をさらしながら気づかせてくれることがある。世間的にいえば、母はもうここがどこか、いまがいつかもうわからない認知症の老人だ。でも、そこにそうやっているだけで、私に、人についての理解を、人と人のかかわりの意味を教える。あの人は認知症、あの人は○○などと簡単にレッテルは貼るまい。

 母は、若かったときは想像もつかなかったようなおだやかな顔で、いまここにいる。長いつきあいの中でかかわりを変えながら、私はいっしょに庭の緑を眺めている。

シノップの娘

さとうまき

久しぶりにトルコ経由の飛行機に乗ることになり、トランジッドに時間があったので、反原発の活動家のプナールさんに連絡してみた。プナールさんはイスタンブールに住んでいるが、反原発の運動にも盛んに参加し、「シノップの娘」と呼ばれている。シノップはトルコが原発を作ろうとしている黒海に面した港町。日本は福島の原発事故以降も海外への原発輸出に積極的で、トルコは三菱が頑張っていたが、しかし、安全対策を考えると全くビジネスにならず、昨年12月に撤退を表明した。

1976年生まれのプナールさんが、核の問題に関心を持ったのは、子どものころにトルコの詩人ナーズム・ヒクメットが書いた「死んだ女の子」に出会ったことだという。広島の原爆で亡くなった女の子のことを詩っている。

あけてちょうだい たたくのはあたし

あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの

こわがらないで 見えないあたしを

だれにも見えない死んだ女の子を

(中略)

戸をたたくのはあたし

平和な世界に どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

(ナジム・ヒクメット作詞、中本信幸訳)

日本に関心を持った彼女は、日本語を学び、日系企業で働いていた。福島の原発事故を知り、悲しみを肌で感じたという。そして、2013年には日本とトルコが原子力協定を結び、原発輸出を決めた時はショックを受け、その後福島を4度訪問している。

2015年ドイツに、自然エネルギーの調査に行って戻ってくると、右派からスパイ呼ばわりされ、TVでも報道されたという。

「今のトルコ政府は、逆らうものは全部テロリスト呼ばわりされるわ」と危機感を募らせる。

4月の終わりになるとチェルノブイリの事故の記念日をトルコ人は忘れていなくて、いろんなイベントをやる。なんといってもソ連はトルコの隣国だった。トルコにも汚染被害が及んだ。この地域では、家族が必ず一人はがんで死んでおり、因果関係を疑っている。プナールさんはそういった集会やシンポジュームで福島のことを話している。今回もシンポジュームに呼ばれた。途中原発が作られる予定地を車で走ってくれた。ところどころで牛を放牧している農家を抜け、美しい森を抜けると、65万本の木が切られていた。

「トルコ政府は、日本が撤退したことをいまだにきちんと言わないのです。これだけの木を切り倒してプロジェクトがぽしゃったとなると、だれも納得しないでしょう」

この辺をうろうろしていると警察に捕まることもあるらしい。車をずっと運転くれたブレントさんは、頭が少し禿げていて、穏やかな中年。その禿げ方が共産主義者ぽくみえる。車で流してくれた曲が、インターナショナル、不屈の民、We shall overcome..とかで、何とも時代がタイムスリップし、彼は戦っている!感じがにじみ出ているのだ。

シノップは小さな港町。漁船が停泊して、カモメが飛び交う。

夜、魚料理を食べたくなって、海岸のレストランで小魚2種類を一匹ずつフライにしてもらった。ところが、言葉が通じなくて大量の小魚のフライが出てきた。イスラムの国だが、この町ではお酒はどこでも出してくれるので、小魚をつまみに、夜が更けていくまでビールを飲んでいた。

広島が世界の反核運動の中心になっている。一方、福島後も日本は原発を輸出しようとしているのは情けない。人民よ!連帯せよ!

別腸日記 (28) 竹林から遠く離れて(中編)

新井卓

彫刻家、絵描き、写真屋の打楽器トリオ〈チクリンズ(竹林図)〉の名前は、「竹林の七賢」の故事から拝借した。俗世から1ミリも脱する気配のないわれわれには──と言っても彫刻家の橋本雅也だけは浮き世からかなり遠い人であることは、人々の認めるところであるが──もったいない名前である。

ところで、三国時代のボヘミアンのように聞こえがちな竹林の七賢の物語だが、当時はその暮らしぶり、思想、話し方そのものが命がけだったようで(実際、嵆康/ジー・カンという人は風紀紊乱の罪に問われ処刑されてしまった)、その意味で彼らの活動は積極的/批判的/政治的ドロップアウトといってよい。夜中にみなで踊ったりすることが違法で、道ばたで歌うだけで職務質問にあうこの日本という国で、七賢の精神性はわれわれに引き継がれているのだ、と、無理矢理にでも信じよう。

わたしの音楽体験は、ずいぶん長いあいだ「習いごと」であったのかもしれない。物心つく5、6歳のころからピアノを習いはじめ、17、8で受験を理由にやめるまで、音楽、イコール「練習すること」だった。高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いていた時もそうだったし、もっと後で友だちにギターを教わろうとしたときも、それは変わらなかった。

ひとつ言い添えたいのは、わたし(と母と弟)のピアノの先生はたいへん素晴らしい音楽家だった、ということである。彼女は日本を代表する気鋭の作曲家で──お名前を出すのはご本人の名誉に関わるので、仮にK先生とする──ピアノをつづけられたのは、毎週K先生にお会いしたいという一心からだった。むしろそれだけが動機だったため事前の練習はたいへんお粗末で、どれだけ迷惑だったか知れず、今となっては身の縮まる思いがする。

K先生は何も話さずとも、その穏やかな佇まいの内奥から、澄んだ知性と精神性が絶え間なく発散しているような人で、子どもながらに強い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。幼いころK先生に出会わなければ、わたしはおそらく、アーティストにならなかったに違いない。

ピアノを練習していると、楽譜にいろいろな指示が見える。音符を正しく追いかけることすらできないのに、”amoroso”(アモローソ=愛情ゆたかに)なんて、どうやって弾けばいいのだろう。どうやら「音楽」とは、何よりも技術の研鑽であり、膨大な時間と集中力を費やして身体を調律していき、その上ではじめて、活き活きとした感情とともに表出されるものであるらしい──次第にそう考えるようになってしまうと、その果てしない道のりと、自分の手の遅さに無力感ばかりが募っていった。一方で、音楽通の友だちからジャズを、ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソン、キース・ジャレット、とりわけセロニアス・モンクの存在を教わると、それら呪術的な力をもつ音の連なりに圧倒されると同時に、自分で練習する「音楽」未満のものとの断絶に耐えられなくなって、いつしか、ピアノの前に座ることは滅多になくなってしまった。

それから、半端に調律された、わたしの音楽の身体はそのまま放置され、貪欲に耳だけを澄ませる時間がつづいた。旅の途中で出会う音楽も、レコード屋やインターネット配信で手当たり次第に試聴する雑多な分野の音楽を、手の届かない何かに対する憧れに似た感情とともに、聴いていたのではなかったか。

それから、音楽について、というよりも、わたし自身の身体のありかたについて、考えることになった契機が何度かあったように思う。十五年ほど前に煩った全身麻痺の病はもちろんのこと、不思議なことに、依頼撮影の取材先で出会った人類学者・木村大治教授から伺った、バカ・ピグミー(カメルーンからコンゴ、ガボン、中央アフリカ共和国にかけて生活するピグミーの民族グループ)の暮らしのことを、いまでも頻繁に思い出す。
(つづく)

お知らせ:本日(2019年6月1日)から、横浜で「チクリンズ」の三人の小さな展覧会が始まります。
GRAYS, SEEING
新井卓+橋本雅也+藤井健司
会期: 2019年6月1─9日 / June 1─9, 2019
時間: 土日 Sat/Sun 11:00─19:00 / 月─金 Weekdays 15:00─19:00
場所: 新井卓事務所 横浜市南区高砂町1-3-4-1F
詳細: http://takashiarai.com/grays-seeing-3-persons-exhibition/

世界は一つの肺に包まれている

笠井瑞丈

少し前の事ですが
毎年携わらせてもらっている
セッションハウスの企画
ダンス専科で作った作品

『世界は一つの肺に包まれている』

ダンサーはノンセレクト
ワークショップに二ヶ月参加できれば
誰でも参加できるというシステム

毎年の事ですが
今年も面白い人達が
参加してくれた

田植えをしてる人
歌を歌っている人
普通の会社員の人
大学生の学生の人

そして

ダンサーを目指す人
今年の参加者は十人

様々なバックグラウンドを
持った人達と作品を作る

ダンサーであろうが
ダンサーでなかろうが

カラダを動かし
表現をする事は
すべてのヒトに
与えられた特権
だと思っている

そんな人達とのワークは
毎年新しい発見がある

上手下手もなく
ただただ
カラダに
耳を澄まし
カラダの
音を聴く

苦しみの中から
喜びを掘り出す

表現の根底とは
そうでなければ
いけないと思う

新しい景色が生まれる
踊る事ってそんな事だ

人間が生まれ 人間の呼吸 人間の想像
大地にかえる 植物の呼吸 世界を作る

深夜カレー

璃葉

奇妙な縁により、ここ最近、人が集まる空間と独りの空間を行ったり来たりする日々が続いている。

昼前に家を出て、ふたたび戻るのは日付が変わる前。

動きまわって疲れ果てると、やがて自分の内側にある芯がむき出しになって、からからに干上がった土みたいになる。そんなときは無性にカレーを食べたくなる。スパイスのたくさん入ったカレーを今すぐ。

午前0時半。友人からもらった佐渡の米(これがたまらなく美味しい)を鍋で炊きながら、冷蔵庫にある野菜を片っ端から切り刻む。にんにく、しょうが、セロリ、玉ねぎ、トマト。スパイスはクローブ、コリアンダー、クミン、カルダモン、チリパウダー、ターメリック。厚手の鍋にそれらとひき肉を放り込んで炒め、これまた冷蔵庫に眠っていた安い白ワイン(生のローズマリーを2、3本ほど詰めてある。これは知人から教えてもらったのだけれど、安酒が薬草酒みたいになる)をどばどば入れて、ひたすら煮込む。

セロリの甘さと香辛料の混ざった絶妙な香りが、せまい部屋に充満していく。チリパウダーを入れすぎたかもしれない。

時計を見やると午前1時半。一体私は何をやっているのだろうかと我にかえる。でも、たまにつくる深夜のカレーは驚くほど自分を救ってくれる。疲れたときは煮込み料理とするといいと教えてくれたのは誰だっただろうか。

できあがった激辛カレーを、ひいひい言いながら湿気のこもった部屋で黙々と食べる。いけないと思いつつも、氷水を勢いよく飲んでしまう。

午前2時、薬のようなスパイスによって身体はほぐされ、養分を与えられた土のようにじんわり柔らかく、やっと元の自分に戻ってゆく。

しもた屋之噺(209)

杉山洋一

五月が終わるという目まぐるしさに言葉を失っています。このところ日本と反対に肌寒い日々が続いていて、毎日突発的に激しい驟雨に降られているうち、一ヶ月が経っていました。そんな中、NさんやHさんから齋藤徹さんの訃報を受け取り呆然としました。Nさんは「参りました」と、Hさんは「できそうなことは、さっさとやっておくしかありません」と、それぞれの心中をしたためていらして、言葉にできぬ焦燥感に駆られるばかりです。
階下で家人がフォーレの三重奏を練習していて、フォーレが見事な白百合の花のように、悲しみにどうしてこうも寄り添うのか、不思議に思います。最初にそう気付いたのは、高校の頃、祖父の葬儀の翌朝に聞いたレクイエムだったかとおもいます。フォーレのあの寂寥感は、すっかり浄化されて天使の声と一体になった、天上の慟哭なのでしょうか。

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5月某日 セストリ・レヴァンテ 
家人が日本に戻っていて、息子が受けるピアノ・コンクールに付添う。会場のあるセストリはジェノヴァからラ・スペーツィア方面へ少し行ったところにある観光地で、夏場は大変な賑わいに違いないが、今日は肌寒く黒い雲が低く立ち籠めていて、人気も殆どない。所々にコンクールを受ける子供たちと親が連れ立って歩く姿を見かける程度だ。
ジェノヴァあたりの建築は、ミラノでは殆ど見かけない黒光りする磨き上げられた石の印象がある。大理石なのか、御影石なのか疎くてわからない。厳めしく重厚で深い味わいを醸し出し、南国的な光と影の強い対照を描く。宿の黒々とした旧い石階段も、すっかり磨り減って中ほどが緩やかに窪んでいた。
この建築様式が、イエズス会文化と無意識に繋がるのは何故だろう。セストリの小さな中央教会も外装は酷く簡素だが、一歩足を踏み入れた途端、絢爛で愕かされる。これをイエズス会文化と結びつけるのも荒唐無稽だが、ジェノヴァで1607年に小西行長の殉教劇などを上演した記憶など、無意識に日本と結びつけているのかもしれない。
ジェノヴァ人は一般的に守銭奴で性格がきついと言われる。ミラノの友人が、ジェノヴァ名物のペーストのパスタでもてなしてくれた折、そこにいた一人のジェノヴァ人が、ジェノヴァ人は到底ミラノのペーストは食べられないと笑っていて、質の悪い冗談かと思っていると本当に一口も食べなかった。それ以外、ジェノヴァの劇場で仕事もしていないし、関わりもなく、セストリにも来る機会もなかった。
今回泊まった宿の主人は話好きで愛想が良かった。部屋にはラウシェンバーグとケージのコラージュやら、リキテンスタインが掛かり、イタリアはすっかりアメリカナイズされた、と不平をこぼしているのが不思議だった。
彼に薦められた食堂で、ジェノヴァ風ペーストを食べると、なるほどミラノで食べるものとはまるで似て非なるものであった。

5月某日 ミラノ自宅
ソルビアティが子供のためのピアノ小品集「弦とハンマー corde e martelletti」100曲を完成し、バーリ、ベルガモ、カリアリ、ノヴァラ、ピアチェンツァ、ミラノの国立音楽院に通う10歳から15歳のピアノの生徒29人で全曲演奏をした。
ノヴァラの音楽院から息子も参加して、リハーサルと本番、二日続けて息子を自転車の後ろに乗せ、ヴェルディ音楽院と往復した。
とにかく曲がとても魅力的だった。普段大きな編成のアレッサンドロの曲ばかり聴いていたので、これだけ短い作品がそれぞれ印象的に響くのは、新鮮だった。無調の現代曲ばかりだが、子供たちは全く意に介さないばかりか、実に見事に弾きこなしている。
内部奏法だけの作品や歌いながら弾く作品、叫んだり泣いたりしながら弾く作品、チェーンを弦に乗せてチェンバロを模す作品、プリペアド・ピアノ作品らも適宜雑じっていて、聴いていても厭きない。20時30分から演奏が始まり、休憩なしで23時40分終了。
アレッサンドロは勿論、知り合いのピアニスト、作曲家、指揮者らが勢揃いした錚々たる聴衆のなか、子供たちは立派に演奏して感心する。
ピアチェンツァのピアノ教師にダヴィデがいて、昨年シューベルト・リストを一緒にやって以来の再会。こんな風に会うとはね、と大笑いする。作曲者夫人エマヌエラとは、秋にボローニャで共演するカセルラの話。

5月某日 ミラノ自宅
食卓でカセルラの譜面を広げていると、階下から、家人の練習するラヴェルとフォーレの三重奏が聴こえてくる。ラヴェルとカセルラは、共にフォーレの作曲クラスで同時期に学び、近所のアパートに住んで親しく交流した。先だって書上げたレスピーギ「噴水」解説では、カセルラが「ダフニス」のイタリア初演をした折の日記を訳出した。1915年のバレンタインデー、2月14日のことだった。ラヴェルの「三重奏」は、そのわずか半月足らず前の1月28日にカセルラがピアノを担当して初演された。ダフニスそっくりの三重奏の三楽章ファンファーレなど、間違いなくカセルラとラヴェルで冗談を言い合ってリハーサルをした筈だ。「ラ・ヴァルス」2台版をカセルラとラヴェルで初演したのは1920年。フォーレの三重奏をコルトーらが初演したのが1924年。カセルラがピアノ三重奏とオーケストラのための三重協奏曲を初演したのは、それから10年近く経った1933年。
ラヴェル「三重奏」をカセルラとラヴェルが共に稽古をしていた時期は、第一次世界大戦下だった。フランス、イタリアは共にドイツ、オーストリアと対戦し、ラヴェルもカセルラも共に従軍し、ラヴェルは凍傷にかかり病院に収容され、カセルラは虚弱体質で病院に収容された。しかし二人とも、国内のドイツ音楽禁止の声明には賛同しなかった。20年後カセルラの三重協奏曲はベルリンで初演されていて、時代の流れを感じる。

5月某日 ミラノ自宅
息子が日本人学校に通うようになり、今まで特に指摘もしなかった日本語の間違いを直す機会が増えた。我々もささやかながら自らの日本語を律していて、最近気を付けているのは、話す際に「やつ」を、書く際に「こと」の多様を避けるというもの。響きが悪いし語彙力の低下も否めないから。なかなか思うように出来ないのだが、面倒でも単語はしっかり使うべきではないか。
昔から日本語の文章を書くとき、一人称単数の人称代名詞を使わない理由は、自分でもよくわからない。日本語に欧文とは違う、言い切らない美しさがあるとして、「自分」を表す人称代名詞は、欧文調で無粋な気がするからか。尤も「吾輩は猫である」のように、それを逆手に取れば強い印象も残すから、言葉はやはり興味深い。
もう大分前から、予め明確に使用すると決めない限り、作曲する際、特殊奏法、特殊楽器の類は使わない。それらを使う人は大勢いるし、本来使われるべき音色が、結局は楽器の本質と思わされる機会も多い。電子楽器のような音が欲しいなら電子楽器を使えばよいし、打楽器的な音が必要なら打楽器を使えばよいと言ってしまうと、楽器も音楽もこれ以上発展は望めない気もする。何より我乍ら年寄り臭い言草に、自己嫌悪。

5月某日 ミラノ自宅
週末ノヴァラの国立音楽院まで息子の付添いに出掛ける。地下鉄でミラノ中央駅に行き、近郊電車でトリノ方面に向って小一時間。街にはピエモンテらしい洗練された洋菓子店が並び、何でもノヴァラ名物も多いそうだが、未だ何も知らない。
「メレンゴーネ」特大メレンゲという名の巨大メレンゲは、直径30センチはある。高さだけでも15センチは優にありそうだ。目抜き通りのこじんまりとした古い洋菓子店一杯に、この特大メレンゲが犇めき合っている様は、愉快で圧巻でもある。
特大カルメ焼きに等しい代物だが、これもノヴァラ名物なのか。息子のレッスンの最中、ノヴァラに住むEちゃん宅にお邪魔して仕事をさせてもらう。Eちゃんは長く家人の生徒だったから、拙宅にも幾度となく遊びにきていて気が置けない。
マリピエロ「交響曲第6番(弦楽)」を読むほどに、不思議な浮遊感が襲ってくるのは、須賀敦子さん曰く「ヴェネチア独特の浮遊感」かとも思う。心地良いが無機的で、切り貼りされながら表現力に長ける、まるで矛盾した超現実的な音と構成の扱いに、同世代のデ・キリコの表現を思う。彼の弟も作曲家だった。
デ・キリコらを「形而上的絵画」を呼ぶのなら、マリピエロは「形而上的音楽」と呼んで然るべきか。「形而上的絵画」の特徴は、遠近法の欠如、人物の矮小化、擬人的静物、超自然的現象だそうだが、なるほど、そのままマリピエロに当て嵌められそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
昨日今日の二日間、piano city milano2019の期間中だけでミラノでは大小450以上のピアノ演奏会が開かれた。
アルフォンソが最近キアヴァリのマルコから購入した50年もののザウターがとても良かったので、マルコのピアノに興味を持っていたところ、彼がちょうどpiano cityに1850年製の特注プレイエルと、1880年製のスタンウェイを持ってきたので見物にゆく。
プレイエルは当時ミラノの出版社Luccaで使われていて、ワーグナーも愛奏したという。Lucca社は、19世紀Ricordi社とオペラ出版で覇権争いを繰広げた一流楽譜出版社だ。それらのピアノが、見事に装飾されたダヴィンチ科学技術博物館の「晩餐の間」に置かれると、美しさが一際映えるようであった。
誰かがプレイエルでショパンを暫く試奏していて、終わってみると旧知のフェドリゴッティだった。続いて風邪で体調が悪いと言いながら、翌日の演奏会のためカニーノが訪れた。少し立ち話をしてから、バリスタと二人、右端のスタンウェイを使ってリハーサルを始めた。
高らかに明るく立ち昇るような音が、不思議なくらい鮮明にこちらに飛んでくる。仄暗い部屋で巨匠二人が、所々立ち止まったり、繰返しながら仲睦まじく音を紡ぐ姿は、音楽そのものを体現していた。彼らから温かく優しいものが流れ出し、会場を満たすようであった。

5月某日 ミラノ自宅
週末、相変わらず息子を自転車の後ろに乗せ、ミラノの反対側にある、リバティ宮まで出かける。7キロ程度だから距離はさほどでもないが、途中道路工事で路肩が急激に狭まり危険なので、自身が交通事故に遭った身からすると、到底息子を一人で自転車に乗せられない。結局、環状線を走る際は、未だにこうして二人乗りになる。家人に過保護と言われても仕方がない。自分が再び交通事故に遭う確率は低いと信じて、後ろに乗せる。
先週思いがけなく博物館で会ったカニーノが、今日は旧知のオーケストラとハイドンの協奏曲を弾く。息子共々どうしても聴きたくて自転車を飛ばしたが、大いにその甲斐があった。想像通りハイドンは、最高級の喜劇に等しい至福に満ち、オーケストラも指揮者も、勿論カニーノ自身の顔も微笑みに綻んでいた。聴衆も同じ表情をしていて、本当に彼は聴衆からも愛されているのだった。
絶妙な即興的な合いの手も即興的なカデンツァも、凡てに艶があって輝いていて、何より愉快であった。音を遊ばせていて、と書くのは簡単だが、どうすればそう実現できるのか想像も出来ない。ハイドンを弾いただけで、会場が熱狂の渦に巻き込まれた。

5月某日 ミラノ自宅
カセルラの作品構造メモ。ピアノ三重奏とオーケストラのために書かれているからか、数字の3に因む素材が散見される。等しくフォーレクラスに学んだ同世代の作家でも、ラヴェルと全く違って、カセルラはシェーンベルクを偏愛し無調へと進んだ。そして、無調に至ったところで、結局はより簡明な平行和音へと帰結したから、和声だけ取り出せば、最終的にはよほどラヴェルの方が複雑だった。
そのラヴェルの手の込んだ和音は、戦後、前衛音楽には直結しなかったが、カセルラの簡明な和声構造は、バルトークの影響と雑じって、戦後イタリア前衛音楽の礎となった。
協奏曲故か、提示部が長大で入組んでいるのに対し、再現部は簡略化され、最後にコーダが付加される。展開部にあたる部分は、複雑な展開構造を繰り広げるより、むしろ提示部の変奏、変容に近かったりする。

5月某日 ミラノ自宅
ここ暫く家人が練習に励んでいたラヴェルとフォーレの三重奏を聴きにゆく。アルドが、フォーレの二楽章はレクイエムを想起させると話していて、迫真で感極まる演奏に胸が一杯になる。今朝は抜けるような青空が広がった。庭の芝生を刈らなければと思っているうち、雨続きと仕事にすっかり庭は荒れてしまった。雑草は盛んに伸びて、どれも30センチは優に超え、黄のタンポポや薄紫のクローバーの花が、庭一杯に咲き乱れている。
「訃報」というメールが届き、吉田美枝さんがお亡くなりになったのを知る。「今日の音楽」で、ナッセンの公開レッスンの通訳をして頂いたのは、大学の終りの頃だった。つい最近まで、ご主人を通してずっと近況のやりとりはしていたが、結局お目にかかれず、それきりになってしまった。
雲一つない青空と新緑の碧の下、無数の黄と薄紫が微風に目の前に揺らめいていて、これを刈りとるべきか、ぼんやりと眺めている。


(5月30日ミラノにて)

Caminando

管啓次郎

Caminando, caminando
Llorando, llorando
Sufriendo, sufriendo
Cantando, cantando
Cansado, cansado
Querendo, querendo
Llamando, llamando
Amando, amando
Caminando, caminando
 

Caminando 歩きながら
Llorando 泣きながら
Sufriendo 苦しみながら
Cantando 歌いながら
Cansado  疲れ果てて
Querendo 求めながら
Llamando 呼びながら
Amando 愛しながら
Caminando 歩きながら

製本かい摘みましては(146)

四釜裕子

「ル・コルビュジエ」がペンネームだとは知らなかった。本名、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。1887年スイスに生まれ、通っていた美術学校の先生のすすめで建築方面へ進み、1912年には事務所を構える。5年後、パリに移って画家のアメデ・オザンファン(1986年生)と出会い、〈機械文明の進歩に対応した「構築と統合」の芸術を唱えるピュリスムの運動〉を始める。1918年、ドイツ軍によるパリ砲撃が始まるとオザンファンはボルドーへ避難、ジャンヌレが訪ね、以降、油絵を始めたそうだ。第一次世界大戦集結1ヶ月後の12月、ギャラリー・トマでオザンファン&ジャンヌレ展、共著『キュビズム以降』を刊行して「ピュリスム」を宣言。1920年からはおもに2人で雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を刊行するようになり、ここで初めてル・コルビュジエを名乗ったそうだ。概要を把握せずに出掛けた国立西洋美術館60周年記念『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ピュリスムの時代』展で、スロープを上がったら淡白なデッサンが並んでいて、若きコルビュジエが影響を受けた作品群かと思い近づくと長い作者名のあとに(ル・コルビュジエ)とあり、初めて知った。

図録にあるピエール・ゲネガンさんの「ビュリスム 新精神の人、アメデ・オザンファン」に、ペンネームを決めたいきさつが詳しくある。オザンファンがジャンヌレと連名で「エスプリ・ヌーヴォー」に建築論を連載するにあたってすすめたのがきっかけだったようだ。従兄弟の名前のルコルベジエを言うとオザンファンは、「2語に分けるともっと立派に見えるだろう!」。さらに、中世の教会には「君の国のヴィルヘルム・テルみたいに、鐘楼の上にとまって糞をするカラスに弓を射る役目の人間」がいてコルビュジエと呼ばれたこと、「君の役目はまさに建築を……(原文伏字)するのだから丁度いいではないか。それに君の顔はカラスに似ている。この名前は君にぴったり合っているよ」(オザンファン『回想』より)と。〈私は自分と彼の本名を絵画と美学の論文に残しておきたかった。それで私は(建築に関する論文に)母方のソーニエという名前を使った。だから彼にも母親の名字を使うように言うと、ジャンヌレは、それはできないというのだ。「母の姓はペレだから。オーギュスト・ペレと一緒にされてしまう」〉。

ジャンヌレはオザンファンの隣人でもあったオーギュスト・ペレを介して初めてオザンファンと会っている。パリに移る前からオザンファンが出していた『エラン』(1915-16)という雑誌を見ていて、〈フランスとドイツの近代芸術を比較した自著の出版に協力を仰ぐことが第一の目的だった〉のではないかと、図録の他のところにあった。2人はやがてたもとをわかち、ル・コルビュジエは建築家としての評価を高めていくが、その間も絵を描き続け、1928年からは油彩画にもこの名をサインするようになる。

オザンファンの助言を得て始めた身近な静物の素描には、瓶やグラス、パイプ、ポットなどのほか本も多く描かれている。《カップ、本、パイプ》(1917 鉛筆、紙)の本は無地で開いてあり、特によく開くページがあったのか、小口の一部がはっきり乱れている。《本、コーヒーポット、パイプ、グラスのある静物》(1918 鉛筆、紙)には閉じた3冊の本が積まれている。右に伸びる影のかたちを好みに作るためであるかのように、重ね方に乱雑風の装いがある。〈最初のタブローである〉と本人が言う《暖炉》(1918 油彩、カンヴァス)には、画面中央に豆腐のような白の立方体、その左に2冊、画面左下に2冊、それぞれ重ねた背を手前にして描かれている。下の2冊は隆々たる背バンド付き、上の2冊はあっさり製本、いずれも柄は排除されて淡い濃淡でシルエットが見える。《開いた本、パイプ、グラス、マッチ棒のある静物》(1918頃 鉛筆・グアッシュ、紙)は本がメインだ。ぺったりと開ききったページにうっすらと図や文字が見える。オーギュスト・ショワジーの『建築史』(1899)の古代ギリシャ建築イオニア式柱頭に関するページだそうで、実物の該当ページが開かれてそばに展示してあった。

油彩になると、《青い背景に白い水差しのある生物》(1919 油彩、カンヴァス)、《赤いヴァイオリンのある静物》(1920 油彩、カンヴァス)、《垂直のギター》第一作(1920 油彩、カンヴァス)、《積み重ねた皿のある静物》(1920 油彩、カンヴァス)など、開いた本が口髭のようにみえるシルエットとしてたびたび現れる。本文が180度ぺったり開かない硬い背の本を、こんもりと両ページが等しく曲線を描くように真ん中から開いた状態で、それをコンクリートで固めて縦に置いたり横に置いたりという具合。口髭というか、古典建築の柱の上部辺りも連想されて、それは、白い皿をやたら積み上げたものがバウムクーヘンというかやはり古典建築の柱を連想させることや、パイプが排水管を連想させるのに似ている。

《アンデパンダン展の大きな静物》(1922 油彩、カンヴァス)になると、本は画面右奥に立てられて瓶の背景を白くする役割になる。デッサン《ヴァイオリン、グラス、瓶のある静物》(1922 鉛筆、パステル、紙)を見なければ、それとは分かりにくい。《多数のオブジェのある静物》(1923 油彩、カンヴァス)や《エスプリ・ヌーヴォー館の静物》(1924 油彩、カンヴァス)は見た中でもっとも描かれたものの数が多いが、はっきりと分かる本を見つけることができない。改めてル・コルビュジエの建築写真を見ると、曲線部分がことごとく紙に見えてくる。1932年、エスプリ・ヌーヴォー社の株主総会で解散を正式に決定。ル・コルビュジエは1965年8月27日、オザンファンは1966年5月4日に亡くなった。

君を嫌いになった理由(2)

植松眞人

 毎朝、ひょうたん坂と呼ばれていた坂を通って通学していた。その坂がなぜひょうたん坂と呼ばれていたのかは知らないし、それが正式な名前なのかどうかもしらない。その坂を見た瞬間に確かにひょうたんのようだ、と思える形だったのかどうかもまったく覚えてない。ただ、その少し急な坂道を上り、登り切る前に右手に折れると学校の正門が目に飛び込んでくると言う流れが大好きだった。

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。  何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

 ひょうたん坂を後にして、学校の正門をくぐろうとした時に、後ろから鈴木君の声がした。

「おはようございます」

「おはよう」

 鈴木君が少しだけ走って僕と肩を並べた。

「おはようでいいよ」

 僕が言う。

「え?」

 鈴木君が聞き返す。

「だって、同級生なんだから。おはようございますって言わなくても、おはようでいいよ」

「あ、そうやね」

 鈴木君は嬉しそうに笑った。

「仲がええな」

 そう声をかけながら自転車で通り過ぎたのは、中山だった。

 その中山の走り去る背中を鈴木君は視線で追った。

「えっと」

「中山」

「あ、中山くんか」

「覚えることないよ」

「どうして覚えなくていいの」

「ろくでもない奴だから」

「ろくでもないの」

「中村の腰巾着のように引っ付いていて、自分ではなにもできない。そのくせ、自分の立場を守るためには、平気で先生に告げ口したり、友だちのことを不良グループに言いつけたりする。あいつのおかげで苦労した奴がクラスにもたくさんいる」

「きみも?」

「僕は関係ない」

 僕は強く言って鈴木君よりも半歩前を歩いた。そのすぐ脇を中村の自転車が通り過ぎた。

「今日帰りに、うちに寄らない」

「鈴木君の家に?」

「うん。昨日、藤村くんの話をしたら、遊びに来てもらったらって母さんが」

 僕はしばらく迷っていた。友だちと外で会ったり遊んだりした流れで、友だちの家に行ったことはあるが、こんなふうに誘われたことがいままでになかったからだ。

「引っ越してきて、最初に丁寧に接してくれた友だちは大事にしないといけないからって、母さんが言うんだ」

「わかった。行くよ。学校帰りに、そのまま行けばいいんだよね」

「うん」

 僕は中学生になって初めて、友だちらしい友だちが出来そうな予感に身震いがした。

 鈴木君の家は、ひょうたん坂を学校に曲がるほうではない逆側に曲がったところを真っ直ぐに十五分ほど歩いたところにあった。

 平屋の三軒長屋の右端で、木造のとても古くて小さな家だった。表札が立派でその家には不釣り合いだった。もっと大きな家についていても不思議ではない石で出来た表札がもんも何もない引き戸の玄関の脇に付けられていた。もしかしたら、この表札のせいで家が傾くことだってあるかもしれない、と僕は本気で考えた。

 鈴木君は玄関を開ける前に大きな声で

「ただいま!」と言った。

「お帰り」

 鈴木君の家の中からお母さんらしき人の声がした。そして、すぐ後に、隣の入口の中からおじさんぽい声でも、お帰り、という声が聞こえた。

「あれは隣のおじさん」

 そう言って鈴木君は笑った。僕は笑えずに、鈴木君が勢いよく開けた家の中を立ち尽くしたまま見ていた。

「入って」

 学校での転校生らしいおどおどした様子がまったくない堂々とした鈴木君だった。鈴木君はお母さんに学生鞄を手渡した。お母さんはまるでテレビドラマに出てくる勤め帰りのお父さんの鞄を受け取るお母さんのように、鈴木君の鞄を受け取ると家の奥へと持っていた。鈴木君は帽子を脱ぎ、学生服の上着を脱いでハンガーに掛けて、部屋の隅のかけた。

「遠慮せずにあがってください」

 いつの間にか玄関に戻ってきていたお母さんに声をかけられ、僕は靴を脱いだ。

「まあ、藤村くんは大きな靴をはくのねえ」

 お母さんはとても上品に言うと、笑った。その笑い声に誘われるように奥から幼稚園くらいの女の子が、お母さんと同じように笑いながら出てきた。

「ほら、チーちゃん。見てご覧なさい。お兄ちゃんのお友だちの藤村くんのお靴よ。こんなに大きいの」

 チーちゃんと呼ばれた妹は、僕の靴を見てコロコロと笑った。

「ほら、ケーキがあるの。さあ、あがって」

 お母さんにそう言われて僕は家の中に上がり込む。鈴木君の家は入るとすぐに台所だった。そして、六畳くらいの部屋と、その奥にも同じくらいの部屋があるようだった。

 初めての部屋で、初めて会う鈴木君のお母さんと妹と一緒に囲む食卓はとても居心地が悪かった。ケーキを食べながら、鈴木君とお母さんが話をして、それを僕と妹のチーちゃんが笑うということが何度かくり返された。

 何を話していたのか僕はまったく覚えていなかった。ただ、鈴木君の家は鈴木君のにおいがした。少し臭かった。トイレがくみ取り式だったせいもあるかもしれない。家の中は湿気た空気に満たされていて、かび臭さとトイレの臭さが混ざっていた。そのにおいは学校でときどき、鈴木君からしてくるにおいと同じだった。(続く)

175声を盗む

藤井貞和

はくちょうの成瀬有、いま翔ります。年の夜のそらに放つ 流離伝

まぼろしのうた 盗らむ。たれか ことばかず。のこしては去る。ゆめもまぼろし

闇の夜の恋しいページ。小説のゆめ うたのゆめ、すべてまぼろし

冷え冷えと今宵冷たき砂の国。アルベール・カミュ きみがたたかう

病棟の灯(ひ)の奥、もえるページからページへわたる。きみがたたかう

数値さがることなき ことしより明年へ 病棟に棲む魔ものらは

年占としての春駒に祈りを籠めて「あなたはこの世が好き」

新(にい)繭隠り 緑の苔によこたわって春駒がどこに! そらに! 翔る身体

身体の声は新繭に恋してる 恋してる! わたしの57577

(どこから?)白い繭。白馬になりなさい(いさなりなにばくは)

古代の空の〈うた〉を盗作するわたしです ひめやかに終るノート

灘の翔福鶴 恋し。あまやかに薰る病室 あなたに送る

天からの繭が降りてくる。露も玉つくりに懸命。おかしいね 笑える?

天のつゆじもに包まれる大きな結晶を育てています 笑って!

    *

つらいなら引け広辞苑電子版「鳥の鳴き声」ワライカワセミ

(入院の夜、書き散らしていた反故ノート。他作の混じる可能性があります〈許せ〉。譫妄のなかより。)

私の遺伝子の小さな物語(上)

イリナ・グリゴレ

この病院にいても、世界で起きていることを感じる。寝たきりのベッドの近くの窓からは一本の松の木しか見えないのに、この傷んだ身体はものすごく敏感だ。病院の中にいると、この世で苦しんでいる人々が私以外にも大勢いると分かる。今日は大きな手術をして四日目だ。熱も下がって、少しだけど動けるようになった。病院ベッドの食事テーブルの上に、サイエンティフィック・アメリカンの特集、「Evolution — The human saga」がおいてある。入院する前に自分で持ってきたが、まだ読んでない。人間の体の進化は昔に終わったが、それは本当に出来上がっているのか。未完成な作品にすぎないだろう。今日、点滴がぬかれて、やっと自分のこの手で食事をとることが出来た。この手で必死に茶碗を取って箸を持つ。手が震えるけど神経の動きを細かく感じる。箸を持つ動作は、自分の文化には決して見当たらない習慣なのに、この身体はどこで覚えたのだろう。そして、この大変な時でもちゃんと生き残るために、手は震えても箸をちゃんと持って、米の飯を必死に口に運んでいる。

小さな細胞が動くのを感じた。自分の身体に入れるものは、命の秘密を持っているのだろう。食べ物には、生きている食べ物と死んでいる食べ物があると、はじめて気づいた。ルーマニアから送られた蜂蜜を一番食べたいと思った。この前、何千前の古代エジプトの蜂蜜が発見された。まだ腐ってなかったという。我々の身体はすぐ腐るけど。でも生きているうちに傷んだ身体が、命への繋がりを必死に欲しがっている。四日間寝たきりだった私の体が、神秘的な知恵に目覚めたと思った。

この身体は、六年間に大きな手術を二つ受ける運命を持っていた。ベッドから起きて初めの一歩は、この地球に生き返ってきた私にとって、最初に歩いた人間の状態と同じではないか。

手術の麻酔から意識が戻った瞬間に大きなショックを受けた。麻酔で脳が騙されても、体は覚えている。手術の間に起きたことがなんどもなんども繰り返される微細な感覚が残っていた。傷つけられた時を、私の皮膚が覚えている。

病院の長い廊下から動物のような叫び声が聞こえた。朝方までずっと痛みに苦しんでいた鳴き声が自分の肌に響いた。子供の時から知っていた悪魔たちが出始めた。気持ち悪い、醜い者が私に触ろうとしている。私の身体を欲しがっている。お腹が空いた野良犬が肉を発見する時と同じ。この痛んでいる傷だらけの身体はあの悪魔たちのご褒美だろう。

この感覚はどこからきているのかわからなかったが、人間に共通するのは間違いない。見えるまで、体験するまで信じないのは現代人の癖だ。科学の歴史は三百年に過ぎないが、人間の身体とその身体の知恵や生命力はものすごく古い。この小さな細胞に生の秘密、そしてこの地球の秘密、宇宙の秘密は含まれている。キリスト教、仏教でも、世界の宗教では共通している微細な感覚を忘れてはいけない。この痛みを経験したら神様以外に救いはないと思った。

何日か経って、窓の近くまで歩けるようになったら、外の世界が美しかった。病院の裏の子供が遊んでいる公園には赤いブランコがあって、そして松の木は一本だけではなかった。そうなのだ、一本だけで生きていけない、人間と同じだ。病気のことも考え直す必要がある。遺伝子の命へのつながりの道を考えてみょう。

すべての答えはこの身体にあると感じた。手術の一日目のことは、はっきり覚えている。古いオペ室に自分で歩いてお医者さんの説明をうけた。自分でオペ室でしか着ない服を着て、自分で髪の毛を結び、透明のキャップを被った。この動きは自分で意識した上で行った。お医者さんの目を必死に探して、これからこの二つの体の間におきる動きを想像してみた。お医者さんの身体の一部、とくに手が私の身体に入る。これはすごく神秘的な行動だと思った。科学的な知識より手の指先の感覚やビジョンが必要とされるのだろう。お医者さんの目を見て、一瞬だけど私の身体の中が見えた。不思議なイメージだった。こうやって身体は関係を作るのだろう。身体たちを繋ぐ装置は目にあると思った。

ここは『カリガリ博士』の白黒映画の雰囲気で想像してほしい。オペ室の雰囲気は六〇年代の大学病院のまま。フランケンシュタインが作られた場所と似ている。そういえば私もこの世の創作の一つなのだ。あの世から来て、三十年の間に私の身体になにが起きたのか。この六〇年代のオペ室に、私の身体のMRI画像が、大きなスクリーンに映っていた。見るとびっくりするぐらい、ただのモンスターにしか見えない。その後は狭い、スポンジがいっぱいおいてあるテーブルの上に横になる。腕に注射が打たれて、この注射の力に驚く。

私の血になにが入れられる? 鉄のような、重いものが流れる。私の腕が後の川のように、重い石が運ばれる流れになる。暗い……ここはこの世界の底だろう。ここは静かだ。手術中、夢をみたと思う。でも、寝ている間の夢と違う……すごく幸せな気分だった。亡くなった祖母と祖父に会った。私の身体を、三百年の歴史がある科学に渡したと思ったら、あの世への旅になった。あの世にも身体があった。軽くて、動きやすい身体だった。「私」と一体化していた。私の身体が神様の物であり続けたと感じた。この感覚は子供の時以来なかった。麻酔から起きた時に手術のことを全く忘れていた。「なぜ戻されるのか、戻してよ!」と怒っていた。その後は痛みを感じて、痙攣し始めた。あまりにあの世とこの世は違っていた。赤ちゃんが生まれる時、幸せなところから来てこんなショックをうけるのだろう。

この身体は誰のものなのか。目を開けると星が見える。こんな近くに星が見えるなんてすこし怖い。私の身体が宇宙に浮いている小惑星だったら、手術でとられたものを細かく調べて、地球はどうやって生まれたのか分かるだろう。

夜が来ると、私の身体が一番欲しがっている自然の光がない。身体が熱い、この熱さは地球が出来た時と同じマグマのような熱さだ。神経が爆発した痛み。急にとても寒くなる。叫ぶ。お母さん、あなたから生まれたこの身体は苦しすぎる。お母さん、帰りたい、あなたのお腹に。夢の中に母の胎内に戻る。そこは木がある。命の木だ。

母が今はルーマニアの北部にある聖人パラスケヴァのところにいる。聖パラスケヴァの遺骸は三百年前から腐らない。科学と同じ、三百年前から。母は私のためにお祈りしに行った。母は教会の前から電話した。母の声が綺麗。マリア様は聖なる母だとはじめて分かった。

こうやって病院では信じることを学び始めた。これも子供の時からの懐かしい感覚だった。その後の何日間、母が電話でマリア様の祈りを読んでくれたのが、効かない痛め止めより効いた気がする。母の声とマリア様のお祈りで毎日少しずつ光を感じるようになった。この光を浴びて、身体が奇跡のように復活し始めた。私には信じることが必要だった。

(「図書」2015年5月号)

散歩する人

高橋悠治

去っていく人の後姿 肩掛けかばん 遠ざかる 小さくなる 弱まる

現実にできることの限界 それでもその場所で そのときできることは ひとつではない そのなかのひとつをためしてみれば 次のひとつが自然と出てくる 考えるでもなく 意識もしないうちに その次にいる 次があれば その先も見えてくる 発見は向こうから来る こういうやりかたでいいのだろうか らくなようで じっさいはそうでもない 時間が限られているという思い 次がどこか向こうから来るまで しんぼうして待っている それに なにかをしているうちに あきてくるかもしれない あきてもつづければ できることも できなくなっていく 二つのことを かわるがわるするやりかたもある しばらくはそれでもいい そのうち二つをあわせて一つにしていることに気づく まとめて一つにする その一つは どこまでもつきまとうのか

実験をくりかえし いつもおなじ結果が出れば そこには法則があるのだろう 一歩また一歩とすすんで そのたびに先に見える風景が変わっていたのが 法則があると気づけば 霧が晴れて 景色全体を見渡す場所から 出発と到着を結ぶ直線を引くことができるだろう まがりくねった試行錯誤のたくさんの道を見おろすハイウェイ 人間が歩かないで運ばれていく道

近道 裏道 間道 廂間(ひあわい) ハイウェイにならない トンネルにもならない 途中と途中をつなぐ いくつもあるやりかた

出発点と言える場所がない 気づいたときは もうはじまっていた 到着もない 見える風景が変わっていくと 予想しない場所にいて 別な行く手が見える そこに辿り着く前に 道はまた曲がる

どこまでも途中にいる 全体は見えない 一つでも 二つでもない 間にいる 道もないのかもしれない 歩けるところを縫って歩いている 足元が草か水かわからない 草の葉を踏みつけないように 水に沈まないように 糸を操るように 脚を浮かして 通りすぎていく 脚を置く場所がなければ 脚はとまらない 風景が変わっていく 

2019年5月1日(水)

水牛だより

まったく偶然のこととはいえ、令和の第一日目が更新の日となってしまいました。5月は快晴が似合うのに、あいにくの雨模様の東京です。そして寒い!

「水牛のように」を2019年5月1日号に更新しました。
イリナ・グリゴレさんの「生き物としての本」は先月に続く後半なので、今月も先頭に置きました。
昨年のおわりに小さな出版社がひっそりと誕生しました。出版舎ジグといいます。イリナさんの日本語で書きたいという望みに寄り添っていこうと思っていた私には、この新しい出版社はイリナさんの望みを推進してくれるところだとすぐにわかったのです。アンテナの感度よし! ですからイリナさんを紹介して、すでにもう連載がスタートしています。「生き物としての本」は2014年に書かれたイリナさんのはじめての文章であり、ジグに掲載されている「マザーツリー」は2019年4月に書かれた、おそらく最新のものだと思います。水牛でもジグでも連載は続きます。楽しみに読み続けてください。
管啓次郎さんの「海を海に」はダブ・ポエトリー。レゲエに乗せて朗読する管さんのライヴにそのうち行ってみたいと思っています。

何か書き残したことがあるような気がしますが、とりあえず、ここまで。

それではまた!(八巻美恵)

生き物としての本(下)

イリナ・グリゴレ

七歳の秋、小学校に上がるために、両親のもとで暮らすことになった。独裁者が殺害されて国の歴史が変わったのと同じ年、私の中の歴史も大きく変わった。それはカフカの小説に出てきそうな不条理な気分だった。社会主義の澱がよどんでいる、魂を失った人々の町に移ったのだ。秋の涼しい朝、母に連れられて、祖父と菊の花を売るために乗ったのと同じ始発に乗り込んだ。あの冷たい朝の悲しみは、死ぬまで忘れられない。それは死のように感じられたし、別れという言葉の真の意味をかみしめたのもその時だった。そのころ、母は週末にしか実家に立ち寄れず、祖父母が実の親のようなものだったから。

私は家から駅までの道をずっと泣き通し、喉がかれるほどの大きな声で叫び続けた。母の手に引っ張られて、朝まだ暗い駅へ向かった。この村にいつでも戻ることが出来ると言われても、どうして同じ私に還れるだろう。確かにあのとき、私の中の何かが完全に失われてしまった。その日、ともかく電車で森に囲まれた村を出て私は、世界に捨てられた気持ちで小学校の入学式を迎えた。

両親は鉄筋コンクリートの団地に住んでいたが、学校は一時間くらい歩いたところにあった。母と弟と三人で町の周辺を通って、一番貧しい地区にあった学校へ通った。道の途中には、まるでデスバレーのような深い穴が掘られたかなり広い空き地があって、ゴミに混ざって動物の死骸がたくさん投げ込まれていた。経済が混乱していたせいか、当時は病気らしい馬や犬がよく路上に倒れていた。なかには半死半生のまま野良犬に喰われる哀れな馬などもいたが、それが文字通り骨の状態になるまでを最初から最後までみた。毎朝見かけるこの死の光景は、地獄そのものだった。

想像してほしい。ある朝通りかかると、ひどく病んではいたが毛色の美しい白馬が穴に投げ込まれていた。最初は可愛そうなこの馬を助けたいと思う気持ちで心が痛んだが、毎朝それを観ていると次第に死の匂いが自分の皮膚に移りはじめる。どうしても消えない死の匂いとイメージが重苦しく残る。

小学校から帰るとアパートの四階の窓枠に腰掛けてじっと外を眺める。ゴミをあさる貧しそうな子供たちがいる。ゴミの山から顔をだしてパンをかじっている。その子たちが私より不幸せかどうかなど関係なかった。私には食べ物があったけど、あの子たちと同じ、この人工的に作られた工場とコンクリートの町に閉じ込められていた。

町に住む私たちの生活は、祖父母の食糧で支えられていたから、週末と夏休みは村で過ごした。菊の花を売り、ワイン作りの手伝いをした。毎朝動物の死骸を見る生活から解放され、金曜日の午後、電車から見える森や畑の景色と再会するたびに涙が出た。両親はワインのバケツと収穫物を運び、終わると私と弟を連れて町に帰る。そのたびに私は泣きわめいた。

町に住み始めた私の助けになったのは、読書だった。町にいるときはずっと本を読み続け、夏休みに村に帰っても図書館で借りて読み続けた。朝から晩まで懐かしいクルミの木陰で、桜の木に登って、本をむさぼり読んだ。村の図書館の蔵書は豊かで、夏休みが終わると祖父が大きなバッグに本を詰め込んで図書館に返しに行ってくれた。そして高校生になって庭の桜が枯れた頃、図書館の新着本の中に、ルーマニア語版『雪国』を発見した。読み始めたら止まらなかった。

それは列車だった。川端康成が書いた冒頭の有名なシーンは汽車だったが、私の中では、あの村と町を結ぶ列車のイメージとして再生された。車内の若い女が自分と重なりあい、忘れがたい感覚を呼び起こした。本の中で初めてこんなに自分と似ている人がいた。遠い日本の汽車なのに、私も乗っている気がした。ずっと列車に乗っていた。同じ車内に私もいたと叫びたいぐらい、自分の体が痛いぐらい懐かしかった。日本語を勉強し始めたきっかけは、そんな読書体験からだった。

その二年後、偶然遭った人から俳句の本をもらい、さらに二年後にまた列車に乗り、青森という雪国に向かった。「あなたは読んでいた本のところにいつも行けるなんて! この勇気はジプシーの乳を飲んだからじゃない?」と母は笑って言った。運命の妖精は踊りながら、きっとそこまで考えていたのだ。

私が育った村の家の通りを数軒行ったところに、ジェル・ナウムという名の老人が住んでいた。あまり見かけることはなかったけれど、どこかへ釣りに出かけるジェル・ナウムとすれ違った時のことは、はっきり覚えている。がっしりとして背が高く、オーバーオールを着て、肩に長い釣ざおを担いでいた。歩き方は踊りのようだった。汚い裸足の私は農夫の子供にしかみえなかったはずだが、一瞬だけ目が合った。空気が薄くなった気がした。

子供の私には知る由もなかったが、ジェル・ナウムはシュルレアリスム運動の主要メンバーで、パリで詩作をしていたこともある。ナウムの言葉に初めて触れた時、シュルレアリスムではありながら、否むしろそれだからこそ、私が生きた村の背景や、私が感じた目に見えない存在が凝縮されていると感じた。彼の本それ自体が生きた動物であるかのように。シュルレアリスムにはルーマニア人の血が流れているのだ。本を生かすのは踊りのような言葉にほかならない。本もまた身体の一部なのだ。私の肉が育った村を通して、それは世界の一部だった。

(「図書」2014年9月号)

174哲学の夢

藤井貞和

消える? 消す? 文法の夢
終る? そこから遅れる? はかない準拠に凭れて
さいげつを流し、実らないということ?
おら、人称をうしない――

時称はおいしくいただくけものにくれてやる、哲学の夢?
おら、うしない尽くして
文末に置き去られた縁語。 幼児の車
さいごにのこった車を うごかす――

きみを送る しゃりんがうつつを別れて
きょうもあしたも旅立つ
おら、むなしく実らないさいげつでした

それでもゆるせと声がする
いま、おらのしんだいしゃです
やだな さいごには哲学がのこるはずです

(半世紀の昔、当時の文学部長だった中村元さん、インド哲学者に、用向きがあって、私は抗議の電話でしたが、かけたことがあります。氏は私の用向きを一通り聴き取ったあと、「アッハー」と、受話器のおくから一言。その一言で終りました、負けたね。アッハー。)

一人旅

笠井瑞丈

高校を卒業
就職もせず
進学もせず

分からぬまま時間が過ぎていく中

そんな中フッと頭の中をよぎった
自分が育ったドイツに一人旅しよう

そんな計画を自分の中でたてた

時給が良かったと言う理由で
パチンコ屋さんの店員をやった
当時800円とかの時給が多い中
1200円の時給をもらえた

仕事はなかなかキツかったが
50万貯めたら辞めようと決め
我慢して週5日から6日
朝から晩まで働いた

意外と早く目標の50万は貯まり

サッとバイトを辞め
パッと航空券を購入

旅立ちの日

当時付き合ってたいた彼女が
成田空港まで見送りに来てくれた

一人旅は二ヶ月

当時は携帯電話もなく
メールなんてものもない時代だ
二ヶ月の別れというものが
永遠の別れのように感じた

涙を流す彼女を背中に
秋のドイツに旅立った

旅をしながら本を読もうと
一冊の本を持っていった
それまで母によく
本を読めと言われていたが
全く本を読む習慣が無かった
これは大きな決意であった

飛行機の中で
涙を流してくれた
彼女の事を考え
本のページを開く

そしてドイツに着く

懐かしの公園や
市電に乗りながら
カフェのベンチや
教会の中

寝る前に

少しづつ
少しづつ

毎日ページを進めていく

小さい時に過ごしたドイツの記憶を辿る旅と
小説の物語が並行して時間を共有していた

今も思い出す

街の匂い
空の匂い
雨の匂い

変わる事のない景色

そしてあの時読んだ
小説の中の景色も
今も変わらない

そんな二つの世界を旅していた

そして二ヶ月が経ち帰国した
見送りに来てくれた彼女とは
もう会うことが出来なくなっていた

今とは遥かに時間の感覚が違い
二ヶ月は短いようで長い

全ての人に時間は平等だ
そしてページは捲られる

新しい物語は生まれ
新しい景色に変わる

二ヶ月
沢山の事を経験し
沢山の事を学んだ

その代償として失ってしまったものもあるけど

しかしこの時出会った小説が
自分の道を作る小説となった

三島由紀夫
『春の雪』

1998年行なった
処女ダンスリサイタルのタイトルを
『春の雪』
とした

あれから時間が過ぎ
日々色々なことが
変化していくなか

記憶の中の時間は変わることなく
いつも鮮明にカラダに浸色している

その色彩と共に
人は成長し年老いていくのだろう

カラダの痛みもいつかは一つの色彩変わる
そして自分だけのカラダの色彩を纏う

あの時
あの旅を
しなかったら

もしかしたら……………….。

難破船にヴァルタン(星人?)

くぼたのぞみ

 いや、じつはヴァルタン星人の話ではないのだ。

 北海道の田舎町に住んでいた10代のころ、テレビで「シャボン玉ホリデー」が翻案和製ポップスをやっているのをよく観ていた。そのうちオリジナルの曲を聴きたくなって、遠い東京から飛んでくる電波に5球の真空管ラジオのダイヤルを必死で合わせた。木製で、スピーカーの前面が布張りのあれだ。ニッポン放送、文化放送、TBSラジオ、etc…1964年ころのことだ。

 そのころ流行った曲が、YOUTUBEを探すと出てくる、出てくる。いつだったかそんな曲をブログにアップしたことがあった。サンレモ音楽祭なんてのが話題だったころのウィルマー・ゴイク「花咲く丘に涙して」とか「花のささやき」とか、60年代末に流行った歌謡曲の「ひどい」歌詞をこてんぱんに批判しながら。
 数日前の深夜に、疲れた耳になつかしの一曲を、とペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」の動画をクリックしたら、すぐ下にシルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」が出てきた。おお! 白黒の、粒子のあらい動画だったけれど、これが思いのほかよかったのだ。中学生のころは、あまり聞こえなかったフランス語の歌詞が、耳にちらほら聞こえてきた。1964年のヒット曲か。

 Ce soir, je serai la plus belle pour aller danser⤵︎⤴︎ Danser⤴︎
   ス・ソワール、ジュ・スレ・ラップリュ・ベル・プーラレ・ダンセェエエ。ダンセェエ。
 (今夜はあたし、サイコーの美人になって踊りにいくんだ、踊りに)
 
 中2女子の耳には「ラップリュ・ベル」が「ラッキュ・ベル」と聞こえて「?」だったのだけれど。動画のシルヴィちゃんは、あごまでの髪をふわっとカールさせている。でも、ひらひらの衣装は揺れても、髪が揺れない。これには笑った。あのころはスプレーでカチッと固めたのだ。だから一見ふわっとしたカールも、決して揺れない。
 じつはシルヴィ・ヴァルタンのイメージが苦手だった。マリリン・モンローふうに軽く口もとをゆるめて、あごをあげ、上目づかいの目線はどこか眠たげ、そんなショットが多い。男に受ける金髪美女のイメージ、知性は隠す。ああ、もやもやする。鬱陶しい。なにしろ反抗期まっさかりだからね。いまなら、I matter.  I matter eaqually.  Full stop. といえるんだけど。
 シルヴィ・ヴァルタンはブルガリアからの移民だと、Wiki を見て知った。1944年生まれ、8歳でフランスに家族で亡命、17歳でデビュー、20歳でロッカーのジョニー・アリディと結婚、翌年息子誕生、15年後に離婚、ect…。父は外交官でアーチストだったというから、移民とはいえ恵まれた環境で育ち、とことんエンタテナーとして生きてきた人なのね。日本に20回もきてたなんてぜんぜん知らなかった。後年きりっとカメラを直視する目はいいな──現在74歳か。ヴァルタン星人はこの人の名前からとられたって、ホントカナ? 『地球星人』は読んだばかりだけど。

 でも、じつは今回「アイドルを探せ」の初期バージョンを聴いて、ありありと思い出したのはまったく別のことだったのだ。ヴァルタンの声といっしょに浮かんできたのは、屋外のスケートリンクを青いラメ入りセーターで滑っている少女の姿だった。

 北の深雪地帯のスケートリンクは、雪を踏み固めて水をまいて作る、陸上競技場のトラックのような楕円で、まんなかに雪がうず高く積もっている。前夜に降った雪は除雪して、凹凸部分にはホースで水をまいて再度凍らせる。これで、つるつるの町営リンクのできあがり。場内には流行りの音楽が鳴っていた。あのころ、いつ行ってもかかっていたのがこの「アイドルを探せ」だった。だから記憶のなかでこの曲と強く結びついているのは、1964年の冬の、あの町のスケートリンクなのだ。
 青いラメ入りのセーターを着て、毛糸のマフラーに毛糸の帽子、伸縮する布のスキーズボン(スケートズボンとはいわない)、もちろん手袋は太い毛糸で編んだミトンで、まだレザーの手袋はなかった。黒いスケート靴を買ってもらったときは歓喜した。刃の長いスピードスケートで、前屈みの姿勢でエッジをきかせてコーナーワークをやる爽快感は、雪に閉じ込められて過ごす長い厳寒の冬を制圧するサイコーの復讐法だった。

 記憶をたどれば、スケート靴はたぶん母が買ってくれたのだ。ラメ入りのセーターはわたしのリクエストで母が編んでくれたものだ。激しい反抗期の中2女子は、もてあましたエネルギーをポップミュージックとスケート、スキーに投入した。記憶をたどれば、それを可能にしていたのは、女の子がスピードスケートなんかやって、女の子がスキーなんかやって、と周囲の人たちに陰口をたたかれても、気にしなくていい、やりたいことをやりなさい、といって長すぎるスキー板まで買ってくれた母のことばだった。思い出した。
 あのスケートリンクで鳴っていた「アイドルを探せ」が──シルヴィ・ヴァルタンはこの曲に尽きる──難破寸前の記憶の船から当時の母のことばをすくいあげ、救命ボートに乗せてくれたみたいなのだ。これは深夜の音楽救助隊か。Merci beaucoup, la musique!

 母が逝って5年が過ぎた。

絶望ポートレート(1)

璃葉

私は、絵を描いている。幼いころから楽しみ遊んでいたもので、今この瞬間まで続いているのは絵だけかもしれない。誰かに師事したことは一度もなく、芸大はもちろん大学にも行っていない。高校はエスケープしまくっていた。基本的に学校というものが大嫌い(もはや憎悪の域といえる)だった。学校で覚えた、生きるのに役立つ唯一の技は、仮病だけだったと思っている。

思えば小学生のころから、団体行動や教師の発することばにいちいち拒否反応を起こしていた。起立、礼、着席、休め、前へ倣え、など軍の演習のような動作を覚えさせられ、気味の悪い「道徳」の番組を見せられる。最初は受け入れていたけれど、そのたびになんだか得体の知れない違和感が渦巻いては、体の中に蓄積されていった。それらが本当に退屈で興味も湧かず、適応できない自分が異常なのかもしれないとも考えた。拒否権のない学校という世界の中で、脳内は常に空想状態で、コンクリートでできた白い要塞から逃げ出すことだけを考えていた。もちろん楽しいこともあったし、絵を描くことで、周りと打ち解けることができ、理解者もいてくれたから死なずに済んだが、義務教育とよばれる9年間は、私にとってほとんど地獄の日々といってよかった。

小学二年生のころの担任教師には、要領の悪い生徒だけに暴力をふるう癖があった。言うまでもなく私は「要領の悪い」組であり、常に強めの体罰を受けていた(算数の時間はかならず)。おかげさまで計算は今も苦手だ。年が変わる少し前の算数の授業で、鉛筆で頭を刺されたときには、さすがに母親が怒りのあまり学校へ出向いたことを覚えている。今だったらもっと大ごとになっていただろう。担任は、バツが悪そうに私に謝り頭を撫でてきたけれど、強烈に嫌な思い出として残っている。今思えば、あれは教育的指導にもならない、ただのひとりの人間の八つ当たりだったのだ。あの年ごろの子供の目線で見る周りの大人は身体的にも精神的にも巨大に見え、そのなかでもあの担任は大木のように聳え、同じ人間だとも思えなかった。大きな人に対して、小さき人は絶対に逆らえないものだと当たり前に思い込んでいた私はその後、勉強の仕方もわからず、信頼のおける教師にも出会うことがないまま、成長した。
ようやく暗算ができるようになったのは20歳のころ。働いていたカフェで同僚が面白おかしく教えてくれた。それでも計算は未だに苦手だし、頭が真っ白になることもある。

やはり私は学校が大嫌いだ。

仙台ネイティブのつぶやき(44)住み続けたいという思い

西大立目祥子

この春もまた、我妻勝さん、美智子さんご夫婦から、春祭りにいらっしゃいとお誘いを受けた。かつて暮らしていた集落の明神様、大和神社の春祭りだ。美智子さんはいつもヨモギの香りのする草餅にお煮しめ、何種類もの漬物、色とりどりの寒天など手づくりの料理をテーブルいっぱいに広げて待っていてくださる。お招きはもう3回目で、心踊らせていそいそとうかがった。

我妻さんとは2014年の冬に、仙台市沿岸部の津波被災の取材で知り合った。暮らしていたのは仙台港の南に位置する和田という地区で、すぐそばを七北田(ななきた)川が流れている。
大津波はこの川を何度も逆流して押し寄せて一帯を水に沈め、我妻さんの家もがれきと泥に襲われた。そのとき、一人家に残った勝さんは2階に逃げ、美智子さんは生後一ヶ月の孫やお嫁さんらと車で避難したところを水で高く持ち上げられ、近くの家の屋根づたいに車から脱出して命を拾った。

それでも家は流されず何とか無事だった。行政が修復して住むことを許可したこともあって、勝さんは自ら手を入れ、年老いた母のみさをさん、美智子さんとここでの暮らしを再開した。取材にうかがったのはそんな暮らしもいくらか落ち着いた頃だったと思う。庭先では、ザルに広げた切り干し大根がやわらかな冬の日射しを受けていた。手をかけて暮らしてきたようすがうかがえ、災害で荒れた風景の中にあって人の気持ちの通うあたたかさに触れたような気がしたものだ。

台所からつぎつぎと手料理を運びながら、美智子さんは「ここは何やるにつけてもすぐにまとまるいい町内だったの」と静かに話し、それを受けて勝さんはこういった。「殿様が中心にいたからな」と。
殿様? そう、この地域には殿様がいたのだ。実体ではないけれど影でもない、その間くらいの、でもかなりしっかりとした存在として。

ここは古くから「和田新田」とよばれていて、その名は、伊達家の家臣、和田為頼、房長親子に由来している。京都伏見で伊達政宗に召し抱えられた為頼は領内の大がかりな河川改修工事を推進した人物で、その息子の房長も水上交通の基盤をつくりあげた。和田家が藩から与えられたのがこの地で、殿様の暮らす館があり、整然と道が切られ家中の人々の屋敷が並んで、いわば小さな城下町のような集落が江戸時代を通して維持されてきた。
こうした集落は領内のあちこちにあったのだけれど、ここが特異なのは和田家が昭和に入ってからも暮らし続け、代替わりしても固い家中の結束が保たれたことだ。

和田家が奈良から勧請した大和大明神を守る明神講、近くにあるお地蔵さんを守る地蔵講、葬儀を近所で助け合う契約講…などなど。集落の人々が力を出し合ってきたかかわり合いはいくつもある。勝さんから「俺たちは“契約兄弟”とよんだんだ」とうかがって、戦後の経済成長の時代、みるみる都市化する仙台の片隅にこうした暮しが息づいていたことに驚かされた。

特に私が興味深く聞いたのは、一軒では難しい重労働を助け合いで実践した一つにお茶づくりがあったことだ。家々のまわりに育てていたお茶の新芽を摘み取って、みんなで集まり蒸して揉み、1年分のお茶をつくったという。杜の都仙台の“杜”はもともと自給自足の暮らしを支えた屋敷林をさすのだけれど、そこに確かにお茶の木も植えられていたのだ。「田植えのあとのもうクタクタになっているときなんだけど、蒸して一晩おいて、次の日は団子つくって持ち寄って、1日中揉む作業するの」と美智子さん。玉のような汗をかきながら作業をするうち小屋の中にはお茶の香りが充満してきて、さぁ一服だとつくったばかりのお茶を入れ、ああうまい、今年はいいね、などとといいながらにぎやなひとときを過ごしたのだろうか。そんな共同作業を一軒一軒めぐりながらやったという。

しかし、そんな親しく緊密だった地域の暮らしは、津波で大打撃を受けた。当初、住み続けられると家を修復したものの、その後仙台市がこの地区を災害危険区域としたことによる混乱があって、早々と移転を決めてしまう人、少しでも長くとどまろうとする人など集落内の人の思いは次第にばらけ、集団移転の道筋が見出せないままに、
我妻さんご夫婦は予想もしなかった集落解散という事態に追い込まれていった。

出会いから1年後にうかがうと「町内会もいよいよ解散だよ」と勝さんは苦渋の表情で話し、美智子さんは「解散とかお別れ会とか、ほんとはいやなの」と意気消沈していた。地域への深い愛着のことばを聞くたび、こうした住民の思いに耳を傾けることから復興計画をつくることはできなかったのだろうかと私は半ば怒りを覚えなら繰り返し思い、簡単に住み替えや買い替えを考える都市的な発想では、そもそも我妻さんのような“土地に根ざす”ことへの想像力を持つことは無理なのかもしれないと考えたりもした。

なぜか、移転を決意してから、我妻さんは取材で出会った私たち(取材は3人でクルーを組んでいた)を、地域の大切な大和神社の祭りによんでくださるようになった。
私たちが関心を寄せて話を聞いてきたからなのか、地域の大きな変化をちゃんと見届けてと伝えたいからなのか、真意をたずねたことはないのでわからないのだけれど。

結局、我妻さんは2017年の秋に、もとの場所から車で10分ほどのところに新居を立てて移り住んだ。そして、離れてなお、大和神社をひんぱんに訪れて掃き清め、見守り、地域の人々が守ってきたお地蔵様に冬になればマフラーを巻いてやり、お供えのお菓子を見ては、誰か訪ねてきた人がいることを確かめている。あたりがどんなに様変わりしたとしても、二人は体が動く限り通い続けるだろう。

いつもお祭りにお招きを受けたときは、まずはいっしょに神社にお参りをする。始まった工事で神社は向きまで変わっていた。七北田川にはのっぺりとしたコンクリートの堤防が築かれ、その前にお地蔵様が北向きに置かれ、何となく居心地が悪そうに見えた。地域のシンボルだった松の大木は変わらない姿なので「松はそのままですね」と聞くと「あの松も移転したんだ」と勝さんはいい、「だから、神社の桜も何とか移してくれ、と仙台市に頼み込んだんだ」と新しく区割りされた小さな境内の桜を指差した。ピンク色のつぼみがほころんでいる。勝さんの気持ちもいくらかはなぐさめられただろうか。

津波のあと、一人でこの地域を歩いたことがあった。和田家の屋敷跡ははっきりと認識でき、城下町を思わせる道筋や集落のまわりの土塁もしっかりと残っていた。小城下町の原型としてこのまま保存されればいいのにと思ったものだ。発掘調査が行われて埋め戻され報告書がつくられたが、結局のところ区画整理事業が進められて数年後には工場地帯になるのだろう。暮らしは時代とともに変わるし、災害が打撃を与えることもある。でも最も大きな変化をもたらすのは、人為によるものではないのか。動き続ける重機を見ていると、そんな思いが頭をもたげてきた。

お参りを終えてごちそうをいただいた。大根に大豆や細切りにした昆布やスルメを入れた漬物、レンコンやシイタケのはさみ揚げ、マヨネーズを使ったという寒天…毎年同じものが重ならないようにと気づかいながらつくってくださる料理をいただきながら、美智子さんにとってはこうやって料理をつくってもてなすことが、以前の暮らしを取り戻すことでもあるのだな、と気づかされる。

食事の合間に、集落で不幸があったときみんなで念仏を唱えながらまわしたという数珠を見せられた。集落が解散したいま、もう使われることはない数珠。「どうしたらいいのかしらね」という美智子さんのことばに、みんなで顔を見合わせる。
住み続けたかったという思いを胸の底に押し込め移転した我妻さんご夫婦。我妻さんだけでなく、仙台の大津波の被災地で私は多くの人から同じ思いを聞いてきた。人はなぜそこに住み続けようとするのだろう。一人ではかかえきれないような大きな問いに、いつもたじろぐ。

製本かい摘みましては(145)

四釜裕子

函入りの冊子を作ってみたいと言う。接着剤やカッターの扱いにもう少し慣れてからチャレンジしてもらうとして、お菓子や雑貨の小さな箱に合わせた冊子を作ることを課題としてみよう。まずは試作。空き箱をみつくろって作業するにあたり、ながら映画を何にしようかとアマゾン・プライムで探したら、2004年、ジーナ・ローランズ主演、ニック・カサヴェテス監督の『きみに読む物語(原題  The Notebook)』があったので「今すぐ観る」。劇場で見ていないし内容も把握していない。

認知症で施設に入っているアリー(ジーナ・ローランズ)を見舞うデューク(ジェームズ・ガーナー)は、読み聞かせをボランティアでしているだろうか。髪の毛をなでつけて看護師に「今日こそは」などと言っているから、アリーを狙っているのかも。話すのは男女の青春物語で、テーブルに開いた本を見ると、丸背ハードカバーで青い表紙に角が赤茶、タイトルはなく、太くて長い白のスピンがはさんである。厚さは15ミリくらいか。ちらっと見えた本文は手書きにみえる。

冒頭、夕日に映える渡り鳥が建物の上を行き過ぎる。窓辺にアリー。映画のほとんどは青春物語の再現で、ところどころにアリーとデュークの今があらわれる。アリーはその話を気に入っている。初恋の相手が、自分と婚約者のあいだで揺れる女性へ当てた手紙の部分を聞いてアリーが言う、「美しいお話」。デュークが詩をそらんじると、「あなたの詩?」「ホイットマンだ」「知ってるわ」「そのはずだ」。ん? 話を最後まで聞いたアリーが涙する。しかし間もなくワレに返る。「頼む、行かないでくれ」、鎮静剤を打たれる姿に嗚咽するデューク。

自室に戻ったデュークが開いたノートブックが大きく映し出される。万年筆で「愛の物語 アリー・カルフーン著 最愛のノアへ これを読んでくれたら私はあなたの元へ」の文字。白無地ノートにアリーが手書きしたものだった。それはつまり……。この映画、絶対に前もって展開を知りたくないヤツ。公開当時どんな宣伝をしていたのだろう。知らずに見られてほんとによかった。というわけでもう一度。見直したらまた別の疑問が湧いて出る。話は「めでたし、めでたし」で終わっている、ならばノアが君はどうしたいのかと執拗に聞いたのにアリーが答えた、これは物語ではないか。かつて母親に止められ受け取ることのできなかった365通のノアの手紙(=クウに散ったノアの1年)への返信?

青いノートブックを小脇に抱えてテーブルについて、スピンをつまんでページを開いて、続きの始まりを指でさぐってデュークは読む。何度もそうしてきたのだろう。少なくともノートブックが開かれた時だけアリーが戻れる場所がある。ノアにあてて書いた物語だけれども、そのとき目の前にいる「あなた」がノアである必要はないだろう。デュークが帰る場所はアリーだ。デュークもアリーに会うためにノートを広げる。今日の分を読み終えたら、パタンと音をたてて中の空気ごと押し出して閉じきる。ハードカバーという構造がそれを助ける。長い白のスピンも、指先まで伸ばした腕、あるいはシザイユの刃のようで、似合うと思った。

肝心の試作作業は、10センチ四方2センチ厚の空き箱を選んで青い紙でくるんで終わった。おかげで構想はできた。中にぴったり入る冊子を『きみに読む物語』と『愛の物語』がブック・イン・ブックになるように仕立てよう。ハードカバーで、白くて長いスピンをつけて。『愛の物語』ではアリーの母親とロイの父親の言葉も拾いたい。

しもた屋之噺(208)

杉山洋一

息子を中学校に迎えにゆき、そのまま付添ってノヴァラに向かっています。中学校からほど近い、ユダヤ人街を走るソデリーニ通りに「meglio disoccupato che raccomandato!(コネ野郎より失業者!)」と痛切なスプレーの壁の落書きを見つけ暗澹たる心地になり、地下鉄では、細いブレスレットがつけられなくて苦労している、痩せた浅黒い中年女性をぼんやり眺め、ガリバルディ駅から乗ったこの近郊電車は、春の心地よい日和のもと、気が付けば、数年前に開催されたミラノ万博跡地の傍らを走っていました。
ここからノヴァラまで、まだ深い雪をいただく切り立ったフランスアルプスを右手に仰ぎながら、水田地帯を走ってゆきます。田植えの季節なのか、ロンバルディアとピエモンテを分けるティチーノ川から引かれた灌漑用水路を伝い、水田はどこも満々と水を湛えており、周りの田園風景が水鏡に映ります。ペトラッシが音楽をつけた、映画「苦い米」の舞台はこの地方のもう少し先、ヴェルチェッリでした。「苦い米」当時の出稼ぎ労働者は各地のイタリア人でしたが、現在のピエモンテは多くの外国人、特にアフリカ系の移民が大切な労働力を担い、この近郊電車でもアフリカ人を多く見かけます。
後期の授業にニコルというアフリカ系の女学生が入ってきて、いつも陽気な彼女は、リズム練習になるといつも楽しそうに身体を揺らし、踊りながらテンポを取るのが印象的です。

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4月某日 ノヴァラ、回廊喫茶にて
昨年秋に息子が日本人学校に転校して以来、イタリアの中学で習っていたフルートはすっかり放り出していたのだが、最近になって突然、全て忘れてしまうのは悲しいと言い出した。
二週間前の週末、息子の付添いでノヴァラの音楽院を訪れた際、突然、おいと声を掛けられ顔を上げると、フルートのジャンニである。思わず、何年ぶりだ、10年ぶりどころではないな、と再会を喜ぶ。ジャンニとはエミリオのクラスで一緒に指揮を習った仲である。当時、エミリオのクラスには、市立音楽院で同僚のギターのグイドや、このジャンニや、トリノの国立放送響でピアノを弾くアントニオ、今はトリノの国立音楽高校で教鞭を取るマルコの姿があった。
あれから何度か、国内の音楽祭でジャンニと演奏もした。当時彼はレッジョ・エミリアの国立音楽院で教えていたが、その後にクーネオに転出し、5年前からノヴァラで教鞭を取るようになったと言う。息子が通うレッスン室斜向かいが、旧知のヴィオラのマリアのレッスン室で世の中狭いと愕いたが、ここでジャンニが教えているのは知らなかった。事情を話して、早速息子はジャンニに副科フルートを習い始めた。
先日はジャンニに誘われ、彼の担当している学生オーケストラの基礎クラスを訪ねた。そこでは、ジャンニがエミリオを彷彿とさせる指揮姿で、モリコーネの「ニューシネマ・パラダイス」とヴィヴァルディの2本フルート協奏曲のリハーサルをしていて、窓から射し込む午後の黄金色の日差しがジャンニを逆光に浮きたたせ、「ニューシネマ・パラダイス」と見紛う光景に胸が一杯になる。
トリノのマルコも同僚のグイードも、指揮を学びたい学生がいると連絡してくる。彼らから送られてきた生徒たちも、我々が昔エミリオから学んだ指揮を揃って踏襲していた。
エミリオは指揮者をつくるレッスンはしなかった。音楽の真理を伝えるのには懸命だったが、職業指揮者になるための訓練には興味がなかった。しかし、その核心は現在も我々一人ひとりにしっかり残り、我々のそれぞれが自分の言葉で生徒に伝えていて、「真実は、一度知ってしまうと覆せないもの」と繰返していたエミリオは間違っていなかった。
息子を待ちつつ、ノヴァラの公園下の喫茶店で当時に思いをめぐらしている。
 
4月某日 ミラノ拙宅
市立音楽院での指揮レッスンは、ピアニスト2人を振る個人レッスンである。そしてピアニストが昼休みを取るあいだ、ピアノを使わずにテクニックだけを取り出して集団レッスンをしている。今年は新入生の進度が揃って早く、基礎的技術に留まらないレッスンができる。
技術的な問題が解決できると、寧ろ本質的な問題が浮彫りになった。正しいことを正しくやるだけでは、音楽にならない。一人ずつ順番に「原始的で獰猛に怒りながら」級友たちを叫ばせてみる。どんな手段でもよいと言ってあり、こうなると最早技術ではない。もの凄い形相をしても、拳骨を振りかざしても、身体を震わせても、この「原始的」エネルギーが体内から放出されなければ、どうにも叫ばせられない。面白いものである。
例え放出できても、相手までエネルギーが届かなければ、出てくる声にはエネルギーは反映されない。いつもはにかんでいて、まともに演奏者の目を見るのにも苦労していたエマヌエレが、意外にもとても上手に叫ばせていて興味深い。
あまりやると喉を壊すので10分程度でやめたが、その間にうちの教室を通りかかった同僚たちが、目を丸くして仰天しながら、「これは素晴らしいレッスンで…」と逃げてゆき一同抱腹絶倒した。通りかかる度に怪しげに手袋を頭に載せていたり、沈黙のなか時計を凝視していたり、教室の壁を眺めて振っていたり、と同僚らも毎度呆れているのだが、挙句の果てに生徒が順番に級友を叫ばせていれば、これはいよいよ世も末である。
 
4月某日 ミラノ自宅
日本の恩師より近況を伝えるメールをいただく。
「心配かけて済みません。あちら此方の病院に係りますと、同じ症状でも違う事をいわれます。なるべく良い事の方を聞くようにしています。年はいやでも取るので、仕方在りません。一日一日がいまでは大切です。お天気の心配、猫の健康の心配、鳥の餌の心配、心配事のデパートです。悲劇も喜劇も劇には変わりありません。二つあってのこの世ですかね」。
少しシェークスピアばりのお便りを頂戴したので、その晩みた夢をお返事がてら書き送った。
「録音を三善先生のお宅に届けに上がった夢をみました。先生が亡くなっているのはわかっているのですが、こんなものを書いたら先生から怒られそうです、とメッセージをしたため、昔の阿佐ヶ谷のお宅にあった大きな甕の中にしまいました。今も相変わらずお忙しく作曲をしていらっしゃると思うのですが、というようなことも書いて。雨が降っていたので、その上に新聞を被せて帰ってきました。その巨大な甕だけが阿佐ヶ谷のお宅のままで、周りの風景は、小学校のころ住んでいた東林間の近所にある坂だらけの住宅地のようでした。夜、雨が降るなかそこを訪れて、なぜか家を一回りして、玄関の甕のなかにメッセージとCDをいれて帰ってきた、というところで目が醒めました」。
それに対するお返事が届く。
「其れは夢ではありません、貴男の心の中の世界です」。
「私も若返りたいのはやまやまですが、子供の頃の戦争の時代はごめんです。運の良い猫にでも生まれ変われればその方が好いですね。今朝はどんよりと薄ら寒く鬱とうしい一日になりそうです」。
 
4月某日 ミラノ自宅
1969年から2019年まで、時間軸に沿って半世紀に亙る世界中の目ぼしい戦争と紛争を書きだしてみる。先ずその数の多さに言葉を失い、無数の諍いのまにまに、幾つかの大きな流れが浮かび上がる。アルカイダの名前を聞くようになるあたりから、明らかに以前の戦争の定義に収まり切れぬ、不穏な空気が世界へ広がりゆくのを実感する。無意識にぼんやり感じていたものを、目の前に露にされたよう。自分の無知の深い闇を元気なうちに少しでも埋めておこうと願う。
 
4月某日 ミラノ自宅
夜、食卓に息子と並んで座り、夕食。二人で家に居るときは、こうして二人で庭の木を眺めながら食べる。思春期真っ盛りの息子からは、「お父さんには夢がない」と呆れられているが、確かに夢のない人生を送ってきた気もする。「大きくなったら何になりたかったか」と尋ねられ、「ローカル線とか鉱山鉄道とか森林軌道のトロッコ運転手」と答えると、大いに失望される。オールドファッションだという。
子供の頃は、鉱山鉄道などぺんぺん草の繁茂する廃線跡をたどって、一人で歩き回っていたが、ミラノの拙宅もアレッサンドリア方面に延びる、鄙びた列車の線路沿いにあって、庭の2メートル先は、草むした引き込み線のレールが走り、年に何度かは臨時列車のヤード作業のため、背の高い草を倒しながら、のんびりとここまで列車もやってくる。子供の時分であれば飛び上がって喜んでいた光景だ。
年始から今まで、作曲も譜読みもしないでワーグナーやらレスピーギやらカセルラの資料ばかり読んでいて、果たしてこれが一体将来自分の役に立つのかと思っていたが、思いがけなく今年の秋にはカセルラの三重協奏曲とマリピエロの交響曲をボローニャから頼まれた。
「夢」ほどロマンティックではないが、ささやかな希望は、空の上かどこからか、誰かが叶えてくれるような気もする。
 
4月某日 ミラノ自宅
小長谷正明の著書は今まで随分読んだ。最後まで読み残していた「神経内科病棟」を電車で読みながら何度も涙が溢れそうになる。身内にこうした病気を抱えたことがある人なら、誰でも同じだろう。息子の闘病中、親身になって力を貸してくれたニグアルダ病院の医師たちの顔を一人一人思い出しながら読む。普通に読んでも胸をうつ文章に違いないが、実体験と結びついてしまうと、なかなか客観的に想像できない。
 
4月某日 ミラノ自宅
今年は「ブラームス・ア・ミラノ」という、ミラノ各地の公会堂で年間14回の演奏会を開き、ブラームスの室内楽作品全曲を演奏するプロジェクトがある。家人もスキエッパーティと2台ピアノでピアノ五重奏の二台ピアノ版として知られる二台ピアノのソナタを演奏した。
22歳で早逝したチェリスト、マルコ・ブダーノの名を世に留めるため、若い音楽家二人を中心に創設されたアソシエーションが企画をサポートしている。毎回演奏会前にミラノ各地を案内つきで歩いて散策してから、夜、演奏会が行われる。
先日は第二次世界大戦の爆撃の瓦礫を集めた丘陵で知られるQT8地区を散策ののち、QT8地区の公会堂で演奏会があった。企画者をよく知っていて何度も演奏会に通ったが、どれも心に残る素晴らしいものだった。ブラームスだけの室内楽演奏会を上級の演奏で愉しむのは、究極の贅沢だと気がつく。
 
4月某日 ミラノ自宅
授業の合間の休憩中、学生二人に日本のような君主制国家の感想を求められ、しばし戸惑う。日本の君主は象徴だから、実際は共和制に近いともいわれる。
今井信子さんや岩田恵子さん、澤畑恵美さん、林美智子さん、米沢傑さん、河野克典さんとモーツァルトを演奏したとき、美智子さまが演奏会にいらしていて、演奏会後に少しお話した。
林さんは、自分の名前は美智子さまにあやかってつくれてくれたもので、こうして直に聴いていただけて感無量とお話ししていらした。自分の番になって、美智子さまから出し抜けに「これだけのことをなさって、さぞかし皆さんで練習を積まれたのでしょう」と質問を受けた。大いに狼狽えながら「ああ、はい。それはもちろんです」と言った途端、一同爆笑したのが懐かしい。2012年のことだった。
2014年には、地震で甚大な被害をうけたイタリア中部のラクイラで、ジャーナリストのガッド・レルナーと一緒にファビオ・チファリエルロ・チャルディの「Voci Vicine」を演奏した。Voci Vicineは明仁天皇の311犠牲者へのヴィデオメッセージで始まり、最後も明仁天皇のメッセージで終わる。メッセージの音響とアンサンブルが同期するように書かれ、舞台ではヴィデオも映写されるので、アンサンブルの音が明仁天皇から発せられるような錯覚に陥るのだ。もしかすると、これを日本で演奏すれば不謹慎と問題になるかもしれない。明仁天皇の優しく気品ある声色や発音は、演奏者からも聴衆からも、頗る評判が良かった。
息子は、昨年夏、草津にカニーノのレッスンを受けに行った折、どういう経緯か美智子さまの傍らでお昼をご一緒したとかで、美智子さまから「よくお食べなさいね」と励まされた、と暫くの間、周りに自慢してまわっていた。

(4月30日ノヴァラ・ジュスティ庭園にて)