2020年4月1日(水)

水牛だより

日曜日の春の本格的な雪にはびっくりしましたが、今日の東京は雨です。あまりにも変わりやすい天候というものも、不穏な世界と無関係ではないのかもしれません。

「水牛のように」を2020年4月1日号に更新しました。
杉山洋一さん、室謙二さんだけでなく、みなコロナウイルスの影響を受けています。わたしの周辺はまだほんの少し呑気さがただよってはいるものの、いまの政府のもとではお先真っ暗ですね。

夜眠る前に『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)を少しずつ読んでいます。昨夜は8月30日「行方不明者(デサパレシードス)の日」。短いので全文をどうぞ。

 行方不明者とは墓のない死者、名前のない墓。
 さらに、
 天然の森
 都会の夜の星
 花の香り
 果物の味
 直筆の手紙
 時間を無駄に過ごせる古いカフェ
 路地のサッカー
 歩く権利
 呼吸する権利
 安定した仕事
 確実な年金
 格子のない家
 鍵のないドア
 共同体の感覚
 そして常識。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

しもた屋之噺(219)

杉山洋一

伊語で深い沈黙を表す形容詞に、tombaleつまり「墓地のような」静寂という言葉がありますが、半世紀近く生きてきて、今ほどこの言葉を反芻したことはありません。確かに電車も路面電車もバスも普通に走っているけれど、驚くほど無人です。特に妙に明るい電灯ばかり目立つ夜の電車は、薄気味悪く感じるほどです。今見られるのは、アパートの住民が家の前でのみ許されている犬の散歩をしている姿でしょうか。庭の木の枝は、めいっぱいに新芽を蓄え、すぐにでも思い切り葉を広げようとしています。息子が生まれた記念に植えた杉も、6メートルの高さに成長しました。うまい具合に大木の木陰から少しずれて、自ら伸びやすい場所をしっかり確保しているように見えます。本来なら、そろそろ庭の芝生を刈る準備をするところですが、今年に限っては、薄桃色や黄色に咲き乱れる野草を、もう暫く愛でることにいたします。

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3月某日 ミラノ自宅
死亡者数41人。ロンバルディア州学校閉鎖より一週間。医師、看護師の大学卒業を三月に繰上げ、同時に現場登用決定。イタリアの致死率が中国より高いのは、高齢者数が多いためとの報道。
ロンバルディア南部のコドーニョが危険地域に指定される以前、北部ベルガモから或る歌手がコドーニョの演奏会に出かけ、感染を知らずに帰宅してしまった。間もなく、歌手が関係するベルガモの音楽院で急激に感染が広がり、現在も教師一人が重体のまま集中治療室から出て来られないと聞いた。演奏会など滅多になかろう片田舎のコドーニョに、この時期に限って演奏会が企画されていたなど、何故不幸は重なるのだろう。

3月某日 ミラノ自宅
一昨日は52人死亡で149人回復。昨日は79人死亡で160人回復。学校より遠隔授業の準備するよう連絡あり。イヤートレーニングの授業は、学校の授業と同じ内容で毎週ヴィデオを撮り、それに沿って各々が自習する形にし、指揮のレッスンは、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」などを、メトロノームに合わせて口三味線で歌いながら指揮して、ヴィデオを送ってもらう。ピアニスト相手に振っていると、気が付かないソルフェージュの甘さも明快になると思う。

早朝散歩に出かけ、ナポリ広場で物乞いの老女に2ユーロ渡すと、とても嬉しそうな満面の笑顔で礼を云われる。何年も彼女の前を通り過ぎてきたが、いつもとても暗い顔で、言葉すら話せると思っていなかった。
トルストイ通り角にある、中国人経営のよろず屋のシャッターに「2月26日より当局の指示により休業します。近所の皆さんに協力します。再開は当局の指示に従います」とメッセージが貼ってある。
その先の中国人経営の喫茶店のシャッターには「3月8日までコロナウィルス予防のため休業します。私たちは元気です」とメッセージが書かれていた。メルセデスは、新しい患者数が昨日少し減少したので、これが続けば抑え込みに成功したことになる、と話していた。

3月某日 ミラノ自宅
早朝は曇り。昨日の物乞いの老女は、遠くから目ざとくこちらを見つけると、満面の笑顔で大手を振って挨拶してくる。実に陽気な老女だった。今日は手持ちがなく、50セント硬貨2枚のみ渡す。昨日のマッタレルラ大統領の演説の終わり、「我々はイタリアを信じることができるはずですし、そしてまた、イタリアを信じてあげなければいけないのです」という言葉に、思わず涙が込み上げてきたのは何故だろう。

驚くなかれ、昨夕の発表では死亡者148人。学校のマルチェッロより、休校中の学生との繋がりを保つためヴィデオはとても有効だから、是非続けてとの連絡。普段教室で学生の顔を見ながら話しているものを、相手もなく話し続けるのは苦痛だが、この際仕方がない。ユーチューバーには到底なれない。ミラノと東京を結ぶアリタリア便は今日から運航休止。愚息や家人はクラスメートや友人らとヴィデオ通話で気を紛らわせたり、情報を交換している。

「自画像」の作曲は心地良いものではない。戦争、紛争地域の国歌は、軍歌のように「国威発揚」の意図も多分に含まれ、「自画像」に於いては多数の国民の死を体現する。トルコとシリアの戦況が活発になり、逃れた難民がギリシャから発砲されている。
テレビでは、世界各地でイタリア人が差別を受けているニュースの後、最初にコロナウィルスが認められたコドーニョには、ミュンヘンより来訪の中国人が疫禍をもたらしたと言っている。

ルカより家人に連絡があり、来週、無観客で演奏会を収録したいので、何か弾いてくれとのこと。皆この状況で何ができるか、必死に考えている。家人はバッハ=ブラームスの左手のシャコンヌを弾くことにした。息子が外に出たくないと愚図るのは、劇場に行きしな、コロナウィルス患者を集中治療しているバッジョのイタリア軍人病院の傍らを通るのが怖いからだ。それでも、自分がすぐ弾けるレパートリーからプーランクを選び、渋々さらい始めた。

毎日家にいるせいか、ここ暫く頻繁に台所に立っている。今朝は朝一番にスーパーに出かけて、当分暮らせるよう食料品を買い込んだ。未だ目が黒い美味しそうな鯛二尾を5ユーロで買い、昼食はアクア・パッツァで煮込み、茸で簡単にパスタも作る。美味。普段魚嫌いの息子も喜んで食べていて嬉しい。気軽に買い物に出かけられず、精の付くものを食べさせていなかったので、少々安心する。

3月某日 ノヴァラ ホテル
日本政府がロンバルディア州に対する渡航制限を引き上げた途端、日本から派遣された教員の引揚げが決まり、息子の通う日本人学校は、休校中ながら翌日終業となった。

終業式もなく、息子と家人が通信簿と学校に残した荷物を受取りに出かける間、簡単に昼食を用意し、帰宅後直ぐに食事にする。昨夜家人が作った炊込みご飯の残りを雑炊にし、嵩増しに餅を入れたのが、思いの外息子に好評だった。
食後急いで荷物をまとめ、タクシーでロット広場へ向かい、地下鉄に乗り換え見本市会場駅へ向かう。

最初にやってきた列車に乗り込み、ポットに詰めた温かい紅茶で喉を温めながら、ロンバルディア州を超えノヴァラを目指す。今日の午後、封鎖地域をロンバルディア州全体に広げるか閣議にかけられると夕べ新聞で読み、まさかそんな決定はなかろうと思いつつ、家人が月末の日本の仕事に間に合うよう出発できないと困るからと、州境を超え様子を見ることにした。

家に籠るため買い込んだ食料品を、大きなリュックに詰め込めるだけ詰め、家人と息子を友人宅に預け、こちらは小さな安宿を取る。行交う車も減り空気も澄んでいたのか、車窓の向こうに雪を頂く美しいアルプスが連綿と続いていて、それは見事であった。ノヴァラの手前で、ティチーノ川の鉄橋を越えピエモンテ州に入った途端、それまで緊張していた家人と息子は、無人の車内で思わず歓声を上げた。

夜、友人宅にて、持ち込んだ葱とズッキーニとツナでパスタを作る。閉まりかけていた宿の傍らの肉屋でノヴァラの赤ワインを購い、道すがらパンとケーキも買い足し、夕方ミラノから着いた友人二人も合流して、ワインで乾杯する。二週間、ミラノでひたすら息をこらして暮らしていて、漸く危険のないノヴァラにきた喜びを実感しながら食事を始めると、ワインが進む。アルコールは、困憊している時しか飲まない。

3月某日 ノヴァラ駅よりミラノ行車内
始発のミラノ行は何事もなかったかのように駅に佇む。ロンバルディア州他11都市封鎖が決まった途端、テレビでは中央駅やガリバルディ駅に雪崩込み、夜行列車でミラノから逃げる人々の姿を映し出していた。それと反対にミラノに向かう自分は、不思議な心地だ。ともかく家族をミラノから安全に連れ出したので、安心した。

列車が走り出す。これで暫く彼らとも会えないかも知れないが、その分仕事に専心したい。ティチーノ川を越えてロンバルディア州に戻ると、その実感がいよいよ重く圧し掛かる。
封鎖は一ケ月、4月3日迄の予定だが、その後の進展によっては、六か月継続する可能性があると新聞に書いてある。作曲して学校の課題など作っていれば何とかやり過ごせるだろう。
有事だから仕方ないが、暫く会えないのなら、その積りで家族に言葉をかけたかった。挨拶もろくに出来なかったし、息子など既にベッドで寝込んでいたから、頑張れとも言ってやれなかった。彼らが病気に罹らず、今日までやり過ごせたことで満足とする。

3月某日 ミラノ自宅
離陸直前、ローマの空港から家人が電話をかけてきたようだが、眠っていて気が付かなかった。
昨夜、葱のパスタを食べ終わる頃になって、封鎖決定の素案がどこからかメディアにもたらされた。久しぶりのアルコールで軽く酔った頭には、最初は悪い冗談としか思えなかったが、テレビをつけると、確かに記者が現在素案を閣議で取りまとめている最中だと繰返していた。

息子のように、ロンバルディアからノヴァラの国立音楽院に通う学生も多い。昨夜は素案がニュースで取り上げられた途端、もうノヴァラのみなさんと暫く会えないわね、残念ね、元気でね、というメッセージが、厄介になった友人宅の学生にも届いた。
日付が変わっても閣議の結果が出ないので、もしこのニュースが本当なら、近日中に皆でノヴァラから日本に戻ろうと話して、一旦宿に戻る。

日本に仕事のある家人と、ここ暫く学校もない息子はともかく、作曲も学校も全て放棄して日本に帰ってよいのか、もし日本に戻るとその後イタリアに直ぐに入国できるか。すっかり酔いの冷めた頭で考えると、自分は残らざるを得ないと気が付く。ミラノには、コロナウィルスで闘病中の留学生も一人いて、万が一の事を思えば、気軽に帰国はできない。夜半その旨家人に伝えると、始発に乗ればきっとまだミラノに戻れるわよ、と返事が届く。朝の5時過ぎノヴァラ駅に着くと、思いの外普通であった。労働者風のアフリカ人ばかり屯していて、列車も普通に動いた。

夜中に友人宅で用意してもらった紅茶で身体を温めながら、昨日と同じく見本市会場駅からロット駅まで地下鉄に乗り、少し怯えた心地で朝の7時に家に着いた。すると間髪開けずに、昨日遅れてノヴァラに着いた友人から、素案と違ってノヴァラも封鎖された、と慌しく連絡が届く。

昨夜の夜行列車騒ぎで今後がすこぶる不安になり、家人には封鎖のないトリノまで早急に出るよう伝え、連絡をくれた友人には先に駅へ駆けつけ、列車の運行状況を調べてもらった。彼らは7時54分のトリノ行の列車に飛び乗り、そのまま同日トリノ発の便で、ローマから東京へ戻った。

テレビをつけると、南イタリアでは、北から逃げてきた旅客を追返すやら隔離やらと、醜い騒ぎになっている。面会を禁止した刑務所で暴動。「Fuga Sud(南部への逃避)」音楽用語が躍っている。「Viaggio nel ghetto Lombardia, spacca l’Italia ゲットー状態のロンバルディアからの移動で、イタリア真っ二つ」。人々の顔から笑いが消えた。

「1メートル以内に人に近づかない。くしゃみと咳はティッシュを使い、手洗い励行。目、鼻、口はみだりに触らず、握手とキスはしないこと」とテレビは繰り返す。ジョヴィノッティがウードを携え登場するコマーシャル。「実は昔これを買ったんだけど、ずっと使ってなかったんだよね。折角のこの機会に、家で練習しているんだ。こんな日々が長く続かないといいけれど、皆も家に居よう。今は学校がなくたって、休暇じゃないんだ。ウィルス止めなきゃ」。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は97人死亡。早朝散歩をして行きつけパン屋に寄ると、「これからはカウンターではなく席でコーヒーを飲んでくれ」と云われる。他人と1メートル以内に近づいてはいけない条例には、カウンターでの食事を禁止する項目が入っている。月末、息子が語学研修に出かけるはずだったマルタもイタリアとの国境を閉ざしてしまった。日本でもイタリアからの帰国者は肩身の狭い思いをしていると聞いて、家人や息子が頭に浮かぶ。
学校の指揮クラスでピアノの伴奏をしているマリアが、歌を作ったから聴いて頂戴と送ってきた。

こわい伝染病のせいで わたしたちの街は
まるで病院みたい
夢かしら 頭おかしく なっちゃったかしら
第一線でわたしたちを守ってくれる お医者さんたち
これが新しい現実
わたしたちの毎日の かけがえのない一番の英雄

頑張ってと 肩を抱くことも
元気でねと 頬っぺたくっつけるのも  今はがまん
顔をおおうマスクと 大きなメガネの奥に
あなたの 誰にも屈しない力 しっかり見えてる

ウィルス研究で
どうかわたしたちを助けて 病気を治して
わたしたちは ここにいるの
頑張ってるの うんと想像力 働かせているの

暮らしも大変だけど
少しは 頭も働かせないと だめよね
どうにかなるわよ
家に閉じ込められたって
いろんなこと できるわよ

思いもかけない 夢みたり
いろんな計画 たてたり
希望 追いかけたり
新しい それぞれ違う 目に見えない世界が
きっと あなたのことも 待っているはず

伝染病がどこにいたって
どんな伝染病だって
わたしたちは負けないの

わたしから 1メートル離れていて
あなたのこと 大好きだけど
あなたからも 1メートル
そう そこにいて
今は こうしないと だめよね

頑張ってと 肩を抱くことも
元気でねと 頬っぺたくっつけるのも
今はやめて
顔をおおうマスクと
大きなメガネの奥に
あなたの 誰にも屈しない力 しっかり見えてる

思いもかけない 夢みたり
いろんな計画 たてたり
希望 追いかけたり
新しい それぞれ違う 目に見えない世界が
きっと あなたのことも 待っているはず

伝染病がどこにいたって
どんな伝染病だって
わたしたちは負けないの
https://youtu.be/C47Qbzx_15A

出席簿確認のため、久しぶりに学校に出かける。全く人気がなく、受付も無人だ。事務所のアンナが開けてくれて、がらんとした校内では、学院長のアンドレアと、アンナしか見かけなかった。「なんだか変でしょう。授業のない夏休みの雰囲気とも全然違うのよ。やっぱり」とアンナが寂しそうに呟く。本日の死亡者数は168人。夜、寝つきが悪い。欠伸のせいか、気が付くと涙がこぼれている。

3月某日 ミラノ自宅
今日の死亡者は196人。併せると827人にもなる。少しずつ数字に頭が麻痺してきている。感染者数10590人、快復したのは1045人。学校の授業のヴィデオを作るのに一日かかる。イタリア政府は必需品以外の店や喫茶店の休業を決め、WHOはパンデミックと発表。

フェデーレから便りが届く。
「こちらペスカーラ。(周りのイタリア人のように)家で隔離生活を営んでいるけれど、みんな元気。この恐ろしい体験が一刻も早く終わることを願うばかりだ。どうやら何箇月もかかかりそうだけど。自分みたいに、普段から家に居ずっぱりの人間さえも、人生滅茶苦茶だ。それだけが問題じゃないだろう。何しろ将来が見通せなくなってしまった。これが本当にやり切れない。ともかく皆で頑張ろう。一緒に乗りかかった舟なのだから。
何とか踏み止まって、跳ね返してやろうじゃないか。我々がこの危機から抜け出せたら、新しい人生を始めよう。願わくば上っ面でない、もっと成熟した展望を掲げて」。

3月某日 ミラノ自宅
人気を嫌い、朝5時半に24時間スーパーに出かけると、意外にもちゃんと開店していた。店内には同じ考えと思しき主婦が、カート一杯に買物している。一度家に戻っても未だ人気はなく、ナポリ広場まで歩きに出かけると、いつも開店していた喫茶店は軒並みシャッターを下ろしたままになっている。「当局の条例に基づき休業」などと貼ってあり、異様な光景。

現在までの死亡者は併せて1016人。快復したのは1258人。感染者数12839人。リナーテ空港は閉鎖され、今後は救急医療用の航空機発着のみ認可とのこと。ジャンベッリーニ通りの時計屋のシャッターには「Chiuso per vincere il nemico 敵を倒すべく休業」とメッセージが貼られている。

この数週間、風呂場の体重計周辺に棲みついていたトカゲを、漸く捕えて庭へ逃がす。体重を測るたびに、トカゲが一緒になって数字のところへ顔を出すのが可笑しかった。

3月某日 ミラノ自宅
これからは、朝のパンを買いに出るときも「自己宣誓証」と身分証明書を携帯して、警察に求められた際、必ず提示しなければならない。

コッリエーレ誌上で、ミラノ古謡「O mia bela Madunina わたしの聖母さま」を窓から吹くトランペット奏者が喝采、とある。名前を見ると、ずっと昔、学校の学生オーケストラで吹いていたラファエレだった。とても素敵な演奏で、吹き終わった途端、近所から一斉に「Viva Milano ミラノ万歳」と歓声が上がる。何だか自分のことのように嬉しく、誇らしい。救急車のサイレンばかり耳につく毎日のなか、こうした瞬間はかけがえがない。

ジョンソン首相が今後集団免疫を目指すと発表。大切な家族を大勢失うことになると発言、物議を醸している。日本ではイタリアからの帰国者による二次感染が批難されている。自宅待機中の家人から体調に変化なしと聞き安堵する。

日本よりお見舞いメール。「何故この程度のことでこれだけ大騒ぎしているのでしょう」。今日一日で175人死亡。併せて1441人死亡。快復した患者1966人。感染者総数21157人。

3月某日 ミラノ自宅
朝6時に近所の24時間営業スーパーマーケットに出かけると、営業時間が7時から夜半2時に変更になっていた。仕方がないのでシエナ広場のスーパーマーケットへ出かけるが、既に入口に行列が続いていて、そのまま帰宅した。昨日の死亡者は368人。延べ1809人死亡。総感染者数20603人。快復した患者は今日一日で369人。

夜9時、家を消灯した住民たちが、一斉にバルコニーから電灯を光らせ、歓声をあげる。そんな行為に意味があるか不思議だったが、実際目の当たりにして心底感動したのは何故だろう。
ここ数日、SNSで時間を決め、このように一斉に国歌を歌って医療関係者への謝意を表したり、互いの結束を確認し、士気を保とうとしている。自分もその一端を共有している。
フランチェスコ法王が、閑散としたローマの街を歩き、祈りを捧げた。日本ではイタリアの医療崩壊が話題を呼んでいて、日本人旅行者が自身のイタリアの救急病院体験など紹介している。パリ封鎖。アメリカ、ドイツ交通封鎖開始。

3月某日 ミラノ自宅
早朝出向いて失敗したので、夜11時過ぎにスーパーマーケットへ出掛ける。人に会うのが怖い。現在感染者数は23073人。快復した患者は2749人。今日の死亡者は349人で総死亡者数2158人。患者も死亡者も本来人間であって数字ではなかった。ロンバルディア州だけでも、死亡者数は212人にのぼる。今日より三善先生の形見の五線譜を使い始める。万感の思い。

3月某日 ミラノ自宅
一日の感染者数2989人、一日の死亡者数345人、総死亡者数26062人、一日の快復患者数192人、総快復患者数2941人。ベルガモで人工呼吸器が不足。ガレーラ・ロンバルディア保険担当評議員が、風邪の症状があれば、家に留まるよう市民に強く要請。ヨーロッパ交通封鎖決定。

ヴァレーゼ近郊クアッソ・アル・モンテのニコロ・カゾーニ神父が、ミラノ大司教の要請を守らず秘密裡にミサ強行。理由は「世界の終焉が始まったと見られ」、「司教らはキリストの教えを退け、国家法を優先し」、「聖カルロは裸足で聖釘と聖遺物ともに、ペストに覆われた街を歩まれた。そして我々は風邪ごときに慄いている」から。
聖カルロの逸話は、1576年ミラノを襲ったペスト禍の折、ミラノ大司教カルロ・ボッロメオが執行した悔悛の行列のこと。時代錯誤だが、従来、宗教はかかる疫禍、凶禍のときこそ、人々の心の拠り所であった。

では何の為の作曲かと自問する。これは作曲とは言えないかもしれないが。三善先生と悠治さんから共通して社会に対しての意識に影響を受け、ドナトーニから音に感情を込めないことを学んだ。オーケストラと仕事を続けてきたから、楽器としてではなく、一人の人間として彼らそれぞれの顔が思い浮かぶ。国歌は従来あまり好きではなかった。軍歌に至っては、旋律の裏に数えきれない命がぶら下がっているようで、幼少より慄いていた。

3月某日 ミラノ自宅
昨日は475人死亡。併せて2978人死亡。併せて35713人感染。1084人快復。朝からヴィデオを2つ録画し生徒に送り、彼らから送られてきたヴィデオを何度も見返して助言を送る。普通に学校で授業やレッスンをするより、ずっと時間も手もかかり、熱心な生徒は夜中の12時にヴィデオを送ってきたりする。今日の発表では、一日で415人死亡し、4480人が新たに感染した。統制を図るべく陸軍の投入が検討されている。

マリアに電話をすると、先週彼女の友人がサッコ病院で亡くなり、日曜まで茫然自失の毎日だったと云う。62歳の男性で持病があった。
「重篤患者が、孤独のなか愛する人に看取られず逝くだけでも悲劇だけれど、お葬式もあげてもらえず、遺体を満足に土に帰してあげることすらままならないなんて、本当に地獄だわ。わたしは決して未来を悲観しているのではないけれど、真実は嘘偽りなく伝えなければいけないと思うの」。

ミラノからミュンヘンに疎開中だった留学生も、ベルリン滞在中のMちゃんも日本に帰国した。毎日四通以上の通知が、日本外務省とミラノ領事館から届く。今日は遂に日本より全世界に対する渡航注意通知が届く。状況は刻一刻と変化している。

ミラノの留学生の容態が悪くなりかけた折、伝染病は素人には手助けが難しいと実感した。出かけて様子をみることも出来ない。第一、自らの外出すら困難を伴う状態である。
代りに病院に電話しようにも、具体的症状を明確に伝えられない。病床が限られていて、軽症であれば自宅療養を求められるが、重篤化した時に救急を呼ぶにせよ、呼吸困難で電話など出来るのか。ホットラインは電話が多すぎて繋がり難いとも聞く。

ここ数日、年末年始に墓参を済ませたこと、年始を両親と家族と過ごせたこと、別れる前、存分に家族へ食事を振舞っておいたことに、安堵を覚えている。

3月某日 ミラノ自宅
一日の死者627人。現在まで併せて4032人死亡。感染者数は37860人にのぼる。
夜、ジャコモとマルコから送られてきたヴィデオを見て、注意事項など書いていると、遠くから教会の鐘が聴こえる。最初は何も感じなかったが、時計を見て、改めて鐘の音を聴いて鳥肌が立つ。
弔鐘に違いない。
最近妙な時間に鐘が聴こえるものだ、頻繁に鐘が鳴るものだと不思議に思っていた。

今日からミラノに陸軍が投入されたらしいが、外に出ていないので分からない。
70体もの亡骸を近隣州の斎場で荼毘に附すため、棺を積んだ陸軍のトラックの行列が、夜半のベルガモの街を静かに進む。イタリア国内の死亡者数は中国の発表数を超えた。

3月某日 ミラノ自宅
天気良好。昼前運河の向こうのアパート群で、バルコニーから人々が口々に叫ぶ。
「家に戻りなさい。家に戻ってよ。家にいなきゃ駄目なんだから。しっかり全部見えているのよ。通報するぞ。あんたたち人間じゃない。お医者さんを助けたいと思わないの」
老若男女、女の子の大声も交じる。誰かが運河沿いの遊歩道でジョギングでもしていたのか、怒号が渦巻く。誰もがこの状況に必死に堪えているのをひしひしと感じる。

母から桜の写真が送られてきた。不思議な静けさが辺りを覆っている。
今日一日で793人死亡。併せて4825人が死亡。感染者数は42481人。
「一日でこれほど死亡者数が増えたのは初めて」。どうなってしまうのか。

3月某日 ミラノ自宅
日曜正午、街中の教会の鐘が一斉に鳴り響く。25年住んで初めて聞く、荘厳で、途轍もなく哀しい、何時までも終わることなく、さざ波のように続く弔鐘だった。

夜半、メルセデスが送ってきた、ユヴァル・ノア・ハラリがFinancial Timesに寄稿したThe World after Coronavirus https://www.ft.com/content/19d90308-6858-11ea-a3c9-1fe6fedcca75 を読んで、眠れなくなる。薄く予感しているもの、無意識に目を背けているものを、目の前に突き付けられた思い。

ベルガモのマンカ宅近所の病院でも、毎日10人は亡くなっているという。危険地域で郵便も停止している。つい先日も近所のスーパーマーケットでレジ打ちをしていた47歳の女性が突然発症し、そのまま緊急入院後3日で帰らぬ人となった。
イタリアに向け中国が発送したマスクと人工呼吸器など救援物資を、チェコ税関が不法に押収、チェコ国内の病院に既に配布済みとのニュース。各々の余裕がなくなってくると、普段気が付かない綻びが一気に噴き出す。

3月某日 ミラノ自宅
治療にあたる医師の死亡者が20人になった。1日の死亡者数651人。快復した患者数952人。

朝8時、ソデリーニ通りのスーパーマーケットに出かけると、既に無言で並ぶ先客15人ほど。寒くて堪らないので、ロレンテッジョ通りの肉の直売店でオリーブ油と卵を購い、ジャンベッリーノ通りのパン屋で牛乳やパスタ、パン、ヨーグルトなどを買う。

生徒が参考にできそうな録音がないか探していて、311翌年に演奏したモーツァルトのレクイエムの録音を聴く。合唱団に福島と関わりのある方が多かったせいか、胸に迫る演奏だったが、この状況で聴くと胸が潰されそうになる。

ミラノ留学中のAさんより電話。肺の息苦しさが戻って来たという。見舞いに行かれないが、担当教師と電話連絡を取り、緊張しながら今後に備える。

「酒盛りを彩る満開の桜の傍らを、一人自転車で駆抜ける気分と来たら、暫く前に流行った映画の一場面を追体験するようだわ」。
息子にせがまれ何度も見たのでよく覚えている。隕石落下を予め知る主人公が、壊滅を回避しようと、落下直前、住民の移動に躍起になる場面だ。家人と息子は揃って生粋の劇場型。

3月某日 ミラノ自宅
愚息15歳の誕生日。電話で話すとミラノを発った時より幾分しっかりしている。一年前、彼の誕生日を家でささやかに祝った写真が出てきた。息子と一緒に写る二人の友人も既に帰国した。「また、ミラノでお会いできる日が来ることを願っています」とその一人からメールが届く。確かに、暫くはそういうことも出来ないかとぼんやり思う。
自宅待機が解け、家人と息子は松山の海に出かけた。

昨日はロンバルディアにとって、初めて可能性が垣間見られた日となった。一日の死亡者数は602人。併せて6077人だが、新感染者数が減少傾向にあると言う。「真っ暗なトンネルのずっと先に、微かに出口が垣間見られた」とガレーラ評議員が語る。キューバとロシアより派遣された医師団到着。

このコロナ禍に於いて痛感するのは、情報の氾濫の中で、それらの情報を自らがどのように判断し、分析する必要性であり、今までになく能動的な紐解きが必要と言うこと。「自己責任」という無責任な単語だけは、どうか禁止してほしいと切望する。

ベルガモの葬儀社の話。「救急車に乗る時は至って元気で普通に話が出来たのに、そのまま病院で重篤化して逝ってしまっても、伝染病だから家族は看取ることすらできない。外出も禁じられていて、病院にも入れないから、棺にすら近づけず、亡骸は孤独の中そのまま荼毘にふされてしまう。斎場に向かう霊柩車だけでも、せめて家族の住むアパート前を通って、最後の別れを惜しませて欲しいと懇願される。本当に辛い」。

拡声器を手にした呼吸器科の女医が、病院の廊下から喉を嗄らして、大声で語りかける。
「みなさん、どれだけ聞こえるか分からないけれど。聞こえますか? イタリア中の国民がみなさんを応援していますよ。国民みんながあなた方を応援していますよ。みんながあなた方の事を祈っていますよ。思っていますよ。頑張ってください」。そうして、イタリア国歌を皆で歌う姿に号泣する。
おそらく辺りは呼吸器に酸素を送る白色騒音に満たされていたに違いない。言葉は少しでも出来た方がよい。相手の心を知るため、単語は一つでも多く、知っておいた方がよい。

3月某日 ミラノ自宅
本日は743人死亡。3612人感染者増。東京滞在中のローマの薬剤師が、何故アヴィガンをイタリアで使用しないのかとインターネットに投稿すると、瞬く間にイタリア国中に広まり、市民保護局までその話題を取り上げるほどになった。お前はどう思うかとヴィデオが回ってきて、こちらは素人で何もわからないと答えたばかりだった。東京都知事が首都封鎖の可能性を示唆。現在までコロナ禍の采配を振るってきた市民保護局長アンジェロ・ボレッリ発熱。後日陰性が確認された。

3月某日 ミラノ自宅
本日683人死亡。全体で7503人死亡。現在まで細々と続いていた国境を、完全封鎖する素案が提出。Aさんより昼前に電話あり。やはり呼吸がおかしく救急車を呼ぶと言う。Aさんの両親は何も知らないので怖くもなったが、駆付けた救急隊員の判断の下、未だ自宅療養を続けることとなった。

パリのエミリオより電話あり。演奏活動だけで暮らしていると、流石にこの状況は厳しいと言う。長男のロレンツォはパプア・ニューギニアの赤十字で働きだしたが、コロナ禍でパリに戻るべきか悩んでいるそうだ。

外に歩きに出られないので、意を決して縄跳びを始める。持病の眩暈で当初20回程度しか跳べなかったが、繰返すうち一日500回程はこなせるようになった。

3月某日ミラノ自宅
昨日の死者は712人。併せて8165人死亡。スペインで400人を超す死者、フランスで365人死亡。アメリカが世界一の感染者数となる。これだけ目まぐるしく状況が変化すれば、イタリアに来たばかりで言葉や状況に慣れない人は、どれだけ不安なことか。毎日届く外務省や領事館からのメールがどれだけ助けになっているか分からない。25年イタリアに住んで、イラク戦争もここで体験したが、これほど生々しく有事に巻き込まれたことはなかった。日本のYさんの団体からイタリアに何か支援をしたいので、窓口になって欲しいとお便りを頂戴する。

3月某日 ミラノ自宅
美恵さんが先月「来月の更新のとき、世界はいったいどうなっているでしょうか」と書いていらしたが、現在まで、こんな風にならなければよい、と想像した通りに世界は進んで来ていて、我乍ら信じ難い。本日の死亡者数969人、快復した患者数589人と聞いて言葉を失う。ここまで来ると、落胆して医療関係者の士気が落ちないか心配になる。彼ら医療関係者は、文字通りの英雄だ。街中に貼られる、慈しんでイタリアを胸に抱く看護師のポスターを、一生忘れることはないだろう。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は夜半2時3時にも途切れることなく救急車のサイレンが聞こえていた。今朝起きると午前中何度となく頭上を軍のヘリコプターが往復していたが、患者を搬送していたのだろうか。

家人とメッセージのやりとり。
「あなた感動的っていってたじゃない。
感動的って?
ミラノにいると、生きてる感じがして感動的と言ってました。
ここにいれば、そうなると思います。人間、生きるか死ぬかしかないのですから」。

本日の死亡者は889人。死亡者は併せて10023人。コロナ禍に斃れた患者はイタリアだけで一万人を超える。快復した患者数は1434人増えて12384人。集中治療室で3856人が病気と闘っている。4月3日に予定されていた休校中の学校再開は繰越しになった。
日本より派遣されているミラノ日本人学校の先生方は、即時帰国要請を出した政府に対し、ここに残る生徒を思って、ミラノに残れるよう粘り強く交渉して下さった。
家人は、担任の渡邊先生を「二十四の瞳」の大石先生に譬えて感激している。気持ちは充分通じるが、少し勘違いしている気もしないでもない。中山先生や丸田先生初め、病後で難しい時期の息子を、みなさんが本当に一丸となり支えて下さり、深謝に余りある。

3月某日 ミラノ自宅
昨日のイタリアの死亡者756人。併せて10779人死亡。医療関係者の死亡者数は現在まで63人にのぼる。この週末だけで13人亡くなった。イタリアで5種類のワクチンの実験が始まる。ベルガモから170基の柩が荼毘にふされるため、州外に運び出された。アルバニアより救援医療関係者到着。今日の死亡者は812人。今日の新感染者数は1648人で、ここ暫く減少傾向なのはよい兆候だそうだ。現在までの総感染者数は101739人で10万人を超えた。これが完治した患者、死亡した患者、闘病中の患者を併せた数字となる。
東京でも死亡者数4人。その一人は志村けんさん。数字はデータではない。各人が生きてきた時間が、累々とうずたかく積もるさまに他ならない。

3月某日 ミラノ自宅
この危機を越えた先に、我々は何を見るのだろう。我々には何が見えているのだろう。どこを見ているのだろう。やがて特効薬が開発され、ワクチンを世界中の人が受けられるようになったとき、今からほんの2か月前の世界に、果たして戻れるのか。周りを見渡せば、今までと同じ家族や友人たちの顔を、等しく見られるのだろうか。それとも、まるで違う光景に言葉を失うことになるのか。

50年生きてきて、何度か、音楽を罷めようと思ったことがある。交通事故で楽器が弾けなくなったとき、子供心にも無理だと諦めかけた。それから成人するまで、岐路に何度か遭遇したが、イタリア政府給費を突然止められ、文字通り無一文で困窮し、路頭に迷った時は、さすがにもう音楽と関わることもなかろうと覚悟を決めた。でもあの時に、音楽の意味を初めて実感できた気がする。
その後何時しか、図らずも慢心を起こしていたのではなかったか。コロナ禍が過ぎ再び顔をあげられるその時、あの頃の自分のように、改めて心から音楽に共感できることを切に願う。

マリアが、自宅のチェンバロとZoomを使って、トリエステの家族や友人のためホームコンサートを開いた。一曲目は、ヘンデルの「Lascia che pianga 涙溢れるまま」だった。

Lascia ch’io pianga
mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà.
Il duolo infranga queste ritorte
de’ miei martiri sol per pietà.

涙溢れるまま
わたしの不運に思い馳せ
この嘆息は自由を求む
ああ慟哭よ 絶て
この懊悩を絡める絆

(3月31日ミラノにて)

コロナに閉じ込められてしまった(晩年通信 その9)

室謙二

 私たち老人は、コロナに閉じ込められてしまった。
 家から出られないのである。外出禁止令が発せられた。不必要な外出は、切符をきられるらしい。釣りの仲間に聞いたら、小さな湖にでかけて、友人とかたまって釣りをしていた人間が、四百ドルの罰金を払わされたとのこと。
 どこにも立ち寄らないなら、人が集まっているとこに行かないなら、出会う人と二メートル以上はなれているなら、外に出ても、散歩してもいいらしい。しかし「人が集まっているところに近づかないなら」と言っても、そんなものはもうない。
 人の集まる場所、この辺のカフェとかレストランは、すべて州政府の命令で閉鎖されてしまった。人の集まるところではコロナが広がる。でもスーパーとか食料品店は開いている。私たちは、人がいてキケンだからそこにも行きません。オンラインで注文したり、電話で注文したりする。クルマで店の前まで行けば、店の人が、食品の入ったダンボール箱をトランクに運び入れてくれる。そういう段取りをした。
 私たち七四歳と七七歳のカップルで、ふだんはあまり老人だとは思わない。でも老人はコロナにやられないように、家から出ないでじっとしていろ。とテレビもインターネットも脅しをかけてくる。老人はコロナ・ヴィールスに取りつかれると、重症化する可能性があるからね。死ぬかもしれない。
 ロシアに住んでいる息子は、私のことを老人扱いしたり健康を心配したりはしない。でも今回は、心配しているらしい。近所の若い人も、必要であれば私たちが食料品の買いだしに行きますから、とこれもやさしいのである。戦時下の隣組です。
 そうかワレワレは老人なんだ。コロナに狙われているんだね。

 もともとコロナのことを、水牛通信で書くつもりはなかった。「イシ、道元に会う」というのを、書くはずであった。本棚には、一年に一回とか数年に一回、かならず手にとって読む本がある。イシもそうだし、道元の本もそうである。たとえば道元の「典座(てんぞ)教訓」と、イシに関するIshi the Last Yahi – A Documentary Hisoryかな。「典座教訓」には、僧院の料理人の心構えと料理の実際、それに仏教について書いてある。Ishi the Last Yahi はイシが発見されたころのメディアの反応と、イシを囲む人々のドキュメンタリーである。道元は天才だが、イシも天才だと思う。バークレー・キャンパスのクローバー人類学博物館に、イシの作った日常品(カゴその他)が展示してある。素晴らしく美しい。それを見た瞬間、イシは特別な人なんだなと思った。特別の人だったから、それを助けた人々(バークレーのクローバー教授とかウォーターマン)は、すっかりイシの魅力にのみ込まれてしまった。イシには、自分の部族と家族を全部殺してしまったた白人に対して寛容の精神がある。
 ところがコロナの大騒ぎで、まっすぐに座禅に向かう道元どころではないし、部族が全部殺されて生き残ったイシについて、白人に対する許しと仏教があるように思うが、それらを書く気分にはなれない。
 テレビとインターネットで、いまのコロナはどうなっているかを見ていた。時間ごとにいろいろと新しいことが起こっている。アメリカ中が、カリフォルニア中が一つのことに向かっている。ひとつの内容をひとつの方法(テレビ)で繰り返し見せている。方法と内容が一つで、一つの方向に向かうことは、ファシズムのような気がするなあ。トランプも進歩的メディアも、少し時差があるのだが、同じことを言っている。だからどうだと言うの?事実なんだからしょうがない。それで私たちは、インターネットもテレビもやめた。洗脳されそうだから。しかし外出もできない。

 まず音楽を聞くことに決める。キース・ジャレットのピアノ・トリオなんかいい。「マッカーサーと天皇のどちらが偉い?」(岩波書店 2011)を書いていたとき、これを繰り返して聞いていた。ときどきはモーツアルトのピアノ協奏曲。これなんか高校時代から聞いているから、オーケストラとかピアノといっしょに旋律を歌うことができる。グローバー・ワシントンの軽くスイングするテナーも、この時代にはいい。親父に教わった。親父は学生に教わったそうだ。
 アコースティック・ギターも弾く。でも下手なんだ。このごろはエレクトリック・ギターで、ごく最近エレクトリック・ベースを手に入れた。音が大きいので、妻がいないときだけ。
 もう一つは、コロナ騒ぎ最中の仕事部屋の片付け。すでにたくさんのものを捨てた。ここに住んで長いけど、いつか使うから取っておこうとか、懐かしいから大事にしまっておいたものも、どんどん捨てた。GoodWillにも持っていったが、本当にずいぶんと捨てた。息子の海太郎が、私の死んだあとに残ったガラクタを整理するのはかわいそうだからね。だいたい私の未来が、どれだけあるか分からないでしょ。過去の思い出なんか、持っている必要はなし。忘れてしまってかまわない。
 食べ物にかんしてはあまり楽しくない。私は毎日あるいは数日おきの食料品の買い出しが好きで、スーパーでどさっと買い込み、いくつもの紙袋をクルマに積み込むのは好きではない。いつも散歩で行く近くの小さな食料品店Yasai(ヤサイ)も閉まってしまった。でもさっきYasaiに電話をしたら、Textで買い物リストを送ったら準備しておいてくれて、店の前までクルマで行けば、ダンボール箱をトランクに運び入れてくれるそうだ。三十年のカスタマーで、いつもお金を払いながらナンダカンダと話す、顔と名前を知られているKenjiだから特別なのかと思ったら、残念ながら誰にでもそうしているとのこと。
 あとはすでに買い込んだ冷凍食品、自分で冷凍した食品、缶詰とお米もたくさんあるからダイジョウブ。そのうえ週に三日間はディナーを配達してくれる会社と契約しているしね。老人としてコロナに閉じ込められても、たべものはある。買い出しにいかなくても、何週間かは生き延びられるよ。

 でも釣りに行きたい。フライフィッシングのキャスティング(ロッドでフライを投げること)が好きなのは、まず後ろに投げて、それから前に投げるから。後ろにちゃんと投げないと、前に投げられない。これがいい。
 いまはシングルハンド(片手で投げる)ではなくて、ダブルハンドをやっている。ダブルハンドは力を入れてはだめで、両手を梃子(てこ)のように使って、かる〜く投げるのがプロですよ。でも妻いわく、釣り場にいったら、友人に会う機会があるでしょ。コロナが飛んでいます。ダメです、家でじっとしていなさい。と言う。
 彼女が特に注意深いのは、一年半前にガンの手術をして、放射線治療も化学療法もして(これはいまも続いている)、体が十分に回復していないから。ここにコロナがとりついたら大変、私がコロナになっても一緒に暮らしているのだから、彼女にうつる可能性が高い。だから結婚三五年、いまは対コロナで団結してます。
 音楽に戻れば、音楽のいいところは、今だということだね。過去でもない、未来でもない。二百五十年ほどまえのモーツアルトが、いまの瞬間を作り出してくれる。その瞬間に入って時間の経過を音で経験すれば、コロナなんかなんともない。お酒の好きな人は、お酒もいいかもしれない。マリワナの好きな人は、マリワナもいいのかな、日本だと大犯罪みたいだけど。カリフォルニアだったら、たいしたことはない。もっとも私は、マリワナもお酒もだめです。偏頭痛がおこる可能性があるから。あれは嫌なものだ。
 毎日、二回は座禅をすること。それにせっせと音楽を聞くこと。座禅は宗教とは関係ない。音楽は毎日の作業で芸術とは関係ない。この二つで、コロナに対している。(二〇二〇年三月二三日)

追記1(三月二四日}
CNNニュースの健康ページに、「結婚生活がコロナから生き延びられるかな?」というのがあった。夫婦で、コロナヴィールスについての考え方が違うかもしれない。コロナにどう対応するか、日常の生き方がそれぞれ違う。それに外出禁止令なので、夫婦がいっしょに家にいないといけない。これは結婚の試練です。

追記2(三月二四日}
LAタイムスによれば、LAのガン・ストアーは、全部閉じることを命令されたらしい。昨日のニュースに、ガン・ストアーの前に人が並んで待っている写真があった。今のうちにガンを買って防衛したほうがいい。ということらしい。今日、LAのガン・ストアーは全部営業停止。

追記3(三月二五日}
コロナ用のマスクに色んなものがある。私の息子の一人は緊急治療室の医者で、マスクは医者個人で用意する。それで頭から顔全体から首までおおう、大きなプラステックのマスクを買って送った。個人で自分を守らないといけない。SF映画みたいなマスクを見て、患者は驚くだろうなあ。

追記4(三月二七日)
金持ちは、ニューヨークを脱出した。ゴーストタウンと化したサンフランシスコ。
https://www.facebook.com/watch/?v=213086639906108

追記5(三月二八日)
パリからのメールによれば、パリの金持ちも脱出したらしい。

追記6(三月二九日)
https://vimeo.com/399733860?ref=em-v-share
このビデオはコロナについて教えてくれる。外では人に二メートル以内に近づかない。帰ってきたら、手を消毒剤と石けんで洗う。顔を手で触らない。目、ハナ、口からヴィールスが体にはいるから。空気伝染の可能性は極めて少ない。街でのマスクは役に立たない。ただしマスクをしていれば手で顔をさわれないから、そういう意味ではいい。

追記7(三月三一日)
握手もせずハグもせず。その代わりに、腕をたたんで肘を突き出し、お互いに肘で突きあう。これがこの数週間の新しい挨拶です。ペンス副大統領も、ヒラリーもやっています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ma9T91pbz_Q&feature=youtu.be

カラダを持つ前のカラダ

笠井瑞丈

DUOの會

4ヶ月稽古していた作品

今回の作品は私と川口隆夫さんとのデュオを笠井叡が振り付ける作品

笠井叡のカラダの半分には、大野一雄氏によって作られた身体性が厳然として存在している

川口さんが大野先生を踊り
私が笠井叡を踊る

過去に笠井叡と大野一雄が踊った三作品
新作一作品を私と川口さんで踊る

1.儀儀 
1963年朝日講堂

私は悪徳の限りを尽くしました
骨の中の住人は火事にあって骨の中から追い出された

この二つの言葉からイメージを膨らます

戦争での体験
死体を焼く炎

記憶にはないカラダの記憶を探る
当時の時代のカラダの匂いを探る

カラダを持つ前のカラダを探る

2.丘の麓
1972年青年座

過去現在を行き来して踊る

私のなかにあなたのカラダが
あなたのなかに私のカラダが

カラダを持つ前のカラダと出会う

3.病める舞姫
2002年スパイラルホール

上星川の稽古場
流れる音楽と共に踊り出す
初めて見た大野先生のリハ

あの時間に立ち会えた事は
かけがえのない体験でした

カラダを持つ前のカラダと踊る

4.笠井叡の大野一雄

レクイエム
大野慶人さんに捧ぐ踊り

初日と二日目が終わり
三日目と四日目は中止となる

私が踊りを始めて
公演が中止になるのは
初めての経験です

今の世の中の状況を考えれば
仕方ないことではありますが

やはり四日間踊りたかったというのが本音

早くこの状況が収まる事を祈るばかりです

コロナこの頃

冨岡三智

コロナ収束には時間がかかりそうだ。1年以上かかるかもしれない。実は、2月末から3月半ばまでインドネシアに渡航しようと、1月下旬に予約を入れていたのだが、2月半ばに取りやめた。行くのは問題ないとしても帰国する頃の状況が不透明、日本に入国できなかったり2週間隔離されたりするかも…という旅行社のアドバイスに従ったのだ。3月2日から日本では小中高の臨時休校が始まったけれど、3月末には収束しているだろうと感じていたのに、結局それどころではなくなってしまった。人の出入国だけでなくて郵便まで制限されてきている。この分だと8~9月にインドネシアに行くのも無理そうか…。今年は行ってやりたいことがあって、時間もとれたのになあと残念だ。

そして非常勤講師で行っている大学の授業だが、4校のうち1校が2週間遅れで開講、1校が1か月遅れで開講、1校が通常開講だけれど1か月間は対面授業禁止(オンライン対応)、1校が通常通り開校である。通常通りというのに驚いたので大学に確認したところ、必須授業が多いので換気等に注意してやるとのこと。5月になる頃にはとりあえずの収束は見えてくるのだろうか。

長い手足と平べったい胸のこと(6)

植松眞人

 トイレの窓から見える空の青さに、私は時間を忘れた。最初はぼんやりと、でも、知らないうちにわたしは空の青に入り込み何も見えなくなって青い世界にいた。青い世界はお風呂に似ていた。パパやママに内緒で深夜に入る静かなお風呂に似ていた。みんなが寝静まったあと、一人でお風呂を沸かして、そっと忍び込むように湯船に入って過ごす時間に似ていた。
 湯船の中は青くはないけれど、空の青さと同じくらいに底なしだった。湯船の底に座っているのに、どこまでも沈み込んでいってしまいそうな心地よさと怖さがあった。誰かがわたしの足を掴んで引っ張れば、そのままわたしはこの世界からいなくなって、誰にも知られずに行方不明になってしまう。それを望んでいるような、怖れているような気分で、わたしはいつもじっと息を殺しながら湯船に身を潜めていた。
 空の青さもそれに似て、こんなににぎやかなはずの学校のなかで静まりかえった空間をわたしにくれる。わたしは真っ青な空に浮かんでただ一人ぼんやりと漂っているような気分になる。アキちゃんやセイシロウはどうしているんだろう。そう考えてはみたけれど、もうそれだってどうでもいいことのように思えてしまって、わたしはただ心地よく空を感じているだけだった。
 ふいに風が吹いた。そして、わたしの身体は青い空の真ん中で揺れた。身体が揺れるとさっきまで感じていなかったわたし自身の身体の重みが感じられて、わたしはバランスを崩した。一度崩れたバランスはもう絶対に元には戻らないと言うことをわたしは知っていた。右に左にへと微かに身体は振り子のように揺れ、その揺れは次第に大きくなり、空の青は少しずつ白っぽくなり、学校中のみんなの笑い声やバカ騒ぎする声がフェードインしてきて、わたしは一気におちた。わたしは自分の長い手足を大きく振って何かに捕まろうとしたけれど、空には何もなかった。そして、わたしの平べったい胸は、風に抗うこともなくまっすぐにわたしはおちた。死んでしまうとは思わなかったけれど、アキちゃんにもセイシロウにもごめんなさいと繰り返した。不思議とパパとママのことは思い出さなかった。いや、正確にはパパとママのことは思い出さないなあ、という形で思い出したのだけれど、それでも順番はアキちゃんやセイシロウの後だったし、それもすぐにわたし自身の平べったい胸が結局は大きくならなかったなあという思いに掻き消された。
 セイシロウが手を握っていた相手がわたしだったら、わたしは嬉しそうな顔をしながらセイシロウの手を握り返していたのだろうか。誰の手も握ったことがないのだから、セイシロウ以外でもいい。誰が男の子から電車の中であんなにエッチでいやらしい手の握り方をされたらわたしは嬉しいのだろうか。たぶん、嬉しいのだと思う。わたしは身長ばかり伸びてしまったけれど、本当は平べったい胸と同じくらいに精神年齢の低い子どもなのだと自分で知っている。知っているから、アキちゃんがセイシロウと彼女が手を握っている様子をみて、すっかり興奮しているのを見逃さなかった。あの時、わたしはセイシロウよりアキちゃんの方が気持ち悪かった。セイシロウは目の前の気持ちよさに酔っていたけれど、アキちゃんは気持ちよさそうなヤツを見て気持ちよくなってしまい、それが恥ずかしいからとセイシロウに当たり散らしていただけだと思う。
 結局、わたしはこの平べったい胸が大好きで大嫌いなんだと思う。身長に見合う大きな胸が欲しいとずっと思っていたのだけれど、それは人としてのバランスが取れるということで、わたし自身が大人になるということなのかもしれない。大人になりたい。大人になんかなりたくない。
「子どもか……」
 とつぶやいた時には、空の青は元通り、トイレの窓から見える小さな四角に切り取られていた。洋式トイレの便座に座ったまま、そこにアキちゃんもセイシロウもいないことがとても哀しかった。普段誰もやってこない南校舎の四階の隅っこにあるトイレにわたしがいるということをあの二人が知らないということがとても寂しかった。その寂しさを映した空が青からオレンジに変わった。日が暮れて、高校生たちの話し声や部活のかけ声や自転車のブレーキの音が入り交じって窓から入り込んでわたしを包んだ。息ができないほどの寂しさにわたしは身動きもできずにいた。わたしの長い手足と身長は中学生だった頃のサイズに戻っていた。まわりに子たちを見て、毎日、あんなふうに大きくなれるんだろうかと悩んでいた頃のようにわたしは小さくなった。その小ささと平べったい胸はバランスが取れていて、わたしはちゃんと子どもになった。子どもになった私は安心してトイレの便座に座り直して、帰り道に家の近くのコンビニでどんなお菓子を買おうとかと、財布のなかの小銭を確かめ始めた。(了)

イラク戦争から17年とコロナ危機

さとうまき

イラク戦争当時、相沢恭行君は、人間の盾でイラクに入っていたのだ。もともと彼はミュージシャンだということを僕は知らなかった。

2003年3月。イラク戦争が始まる直前、僕は、本当ならイラクにいるはずだったのだが、帯状疱疹になってしまい2月の半ばにいったん日本に帰国して1か月ほど日本で様子を見ていた。僕は、そんな状況でもうまく立ち回っていてイラクのビザを取得できたのだが、日本大使館がイラクから撤退してしまい、アメリカの攻撃は避けられなくなってきたのが明らかだった。それで隣国のヨルダンに行って待機していた。

新聞記者やTV関係者がヨルダンに結集していて、毎日それは「お祭り騒ぎ」みたいになっていた。くそみたいなフリーランスもいて、「ボランティアしますから一緒に連れて行ってください」と寄ってくる。大手のTVも、「衛星電話渡しますので、イラクに入ったら一分○○円で契約しましょう」といってくるから面白かった。

僕の仕事は、人道支援だったので、決してそういうお金に目がくらむことはなかったので、彼らがいくら提示したかも覚えていない。いや、その金額を聞いたら目がくらむから、最初から聞こうともしなかったのだろう。NGOでもくそみたいに金を日本政府からもらってた人もいた。ある看護婦は一か月100万円で雇われていた。まあ、そういう金には程遠かったが、メディア関係者は情報交換だといって毎日のように、うまいものを食わせてくれたのでそれくらいの恩恵はあった。

その時、相沢君らは、人間の盾としてイラクに入っていた。サダム政権が崩壊して、すでに人間の盾は必要なくなったので彼らはヨルダンに出てきた。某通信社が、面白い日本人がその中にいるというので、一緒にすしを食うことになり、始めて相沢君に会ったのだ。その翌日僕は、入れ替わりにイラクへ入っていったのを思い出す。

あれから、17年がたっていた。僕は、昨年、「この仕事を潔くやめなさい。」という天の声が聞こえてきて、イラクからは引退することにした。相沢君は数年前から、ミュージシャンに戻って、イラクの歌をアラビア語と日本語で歌たりしてかかわり続けていて、イラク戦争開戦の日にメモリアルイベントをやろうと誘ってくれたのだ。しかし、新型コロナウィルスで、イベントは中止せざるを得なくなった。

幸いにも、会場は、荻窪のThe ancient world というオリエント・ワインを扱うお店の地下室だったので、撮りためた写真を展示してもらうことにした。今回30枚ほどの写真を展示しているが、かなりフォトショップで加工した。2003年の写真なんて、本当にカメラもぼろくて、画素数が荒すぎたりしてクソみたいな写真。それでも、加工してみると面白い。

なによりも、写真に写っている子どもが、もう立派な大人になって、昨年から始まったイラクの汚職追放と、民主化を求めたデモに参加している。例えば、ムスタファは当時8歳で、米軍の空爆で足を怪我した。隣にいたおじさんは即死だった。その彼がデモに参加している写真を自撮りして送ってくれる。17年前、ギプスをしている写真を僕がとってやったのを大事にしていて、送ってきた。そして、デモに参加した友人が怪我をしてギプスをしている写真を送ってくる。「17年前と同じだよ」イラクはいまだにギプスが必要な国なのだ。

しかし、SNS が普及して、すごい時代になっている。コロナで世界中が閉鎖されてしまっても、砂漠の難民キャンプからデンマークに移住したアザット青年は、「マスクがないんだけど、送ってくれない?」って時差も気にせずに連絡してくる。Facebook のおかげで写真に写っている奴らの消息がつかめるのがすごい。

昨日は、モスルの男の子がいきなりビデオ通話してきた。「だれ?」「僕だよ」「うーん、第一どこにいるの?」「モスルだよ」一年間にモスルの小児がん病院のクリスマスパーティに行ったときにたまたま参加していた子供だった。外出ができず暇らしい。イラクから離れた僕にとっては、彼らが連絡してくれるのがとてもうれしい。そういえば、昨年の天の声は、「潔くやめるのがかっこいいぞ」と言ってきたが、イラクにかかわった17年間の写真を改めて焼いてみて、戦場はいつだって泥臭いわけで、潔いとか、かっこいいとかそういうのとは程遠く、写真の中の彼らの成長を見続けていきたいと思うのだ。

コロナが世界規模で大変なことになってきた。経済の打撃は大きくて、貧富の差はどんどん開いていくだろうな。相沢君はミュージシャンだから、ライブのキャンセルが続いていて大変そうだ。それでもぶれずに歌い続けるところがすごい。僕も人のことは言えず、そろそろ仕事を探しに、面接に行ってきたが、マスクかけたままでいいといわれたが、面接官との距離が遠く彼らもマスクかけてもごもごしゃべるから声がはっきり聴きとれないし、換気のためか窓が開けっぱなしで寒い。なんかすっかりやる気がうせてしまった。いやいや、やる気になってもらわないと困るんだけど(これは天の声)

さて、3月31日までの展覧会は、一週間くらい延長することにした。
展覧会に来てくださいとは誘えないが、ワインを買いに来るついでに覗いてほしい。特にアッシリアワインはおすすめ 。


 詳しくはこちら
 http://ancient-w.com/
 展覧会の様子はこちらで配信しています。
 https://youtu.be/9uKnB5ovWTQ

『或る国のこよみ』をよんで・・・(下)

北村周一

世界は無限にふくざつな色に包まれてゐる・・・と、
片山廣子(広子)は、『或る国のこよみ』というエッセイの中で、
ケルトの古いこよみに触れて書いている。
十二ある月のそれぞれに、興味深いことばを当て嵌めながら、日本の古歌もいくつか紹介している。
そのことばの連なりに触発されて、十二の月を短歌にしてみようと思い立った。
けれども、一月から六月まで作ったところで息切れがしたので、
一年を前半と後半とに分けることにした。
そんなわけで、今回は七月から十二月までのこころみとなる。
もう一度、このエッセイの冒頭の部分を引用したい。

一月  霊はまだ目がさめぬ
二月  虹を織る
三月  雨のなかに微笑する
四月  白と緑の衣を着る
五月  世界の青春
六月  壮厳
七月  二つの世界にゐる
八月  色彩
九月  美を夢みる
十月  溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
  
  *

わたり来よ 霊を呼ぶ声絶えずしてふたつ世界をむすぶ七月

いろどりは多彩なるべし夏の花 におい妖しくひらく八月

色褪めてこその黄と赤もみじ葉の散るものこるも絵となる九月

濡れのこる枯れ葉おちばに足取られふとも溜息落とす十月

冬枯れの木々の切実 老いてなお手と手をつなぎ合う十一月

眠りとはいのりの一部ながき夜を夢にしずめて 聖十二月

  *

或る国のこよみ(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/001346/files/49137_33187.html

骨の部屋

璃葉

墓の香炉をずらすと、穴から墓の半地下、納骨室がみえる。石にかこまれた小さな骨の部屋だ。骨袋を両手でそっと持ち、なかに入れる。その空間に入れた両手首より先が、ひんやり冷たくなった。洞窟や鍾乳洞を歩いたときのことを思い出す。雰囲気は違えども、石から放たれる冷気は嫌ではない。

納骨室の中に10年ほど前におさめた母の骨は、まだちゃんと残っていた。袋が劣化したのか、かけらが少し散らばっている。火葬の骨はどうやら本当に土に還らないらしい。白く、丈夫なままだ。一見、流木や石にもみえる。

母の骨の上に積み重ねるように、父の骨が入った骨袋をおく。そのうちどちらの骨なのかもわからなくなって、混ざっていくのだろう。粉末にして岐阜の山奥にばらまきたい衝動に駆られながらも、両手を室から引っ込める。春先の生暖かい空気が手のひらにもどってきた。ふたたび入り口を香炉でふさぐ。骨の部屋はまた、夜よりも深い暗闇になる。

もっとゆっくり、もっと遅く(帰国記その2)

福島亮

パリを発ったのが3月7日、あの頃はまだ外出も自由にできたし、どこか呑気な空気があった。その前日、ひと月ほどパリを離れるのだからその前に、と思い、シャイヨー国立劇場で名和晃平とダミアン・ジャレによるパフォーマンスを見たが、劇場が暗くなるとみんな一斉に咳払いをし、それがおかしくて笑いが巻き起こった。隣国で病が猖獗を極めていたとしても、それはどこか遠い国の話で、わずかの不安はあっても、冗談めいた笑いがその不安をかき消してくれる、そんな雰囲気がまだあったのである。日本についたのが8日の夜、羽田空港は人影が少なかった。10日ほど前に、参加予定だった学会が中止になったという連絡を受けていた。それでも、他に二つの研究集会に参加する予定だったし、この機会に手続きを終えねばならぬものもあったから、日本に帰ることに揺らぎはなかった。人影まばらな空港を歩きつつ、過密に詰め込んでいた予定に一つ穴が空いたことで、時間にゆとりができたとさえ思っていのだから、思えば相当呑気なものだ。その穴がじわりじわりと広がって、カレンダーが白紙になるとはその頃思ってもみなかった。

結論からいうと、帰れなくなった。どこに? パリに。正確には、僕はフランスの滞在許可証を持っているから、EUに入ることはできるらしい。が、そもそも飛行機がないのである。航空会社に電話をしてみると、相当の減便を行なっているから、まず飛ばないだろう、とのことであった。僕とほとんど入れ違いで、パリでは外出規制がしかれ、EUは封鎖された。幸いなことに、僕自身は、日本についてから二週間以上経つがまだ熱や咳は出ていない。僕の身に起こったことで困ったことといえば、1日に何度も手を洗い、アルコール消毒をするから、掌が少し荒れていることくらいである。それでも、パリに帰れなくなったことは僕の心に不安としてこびりついていて、何とも変な感じなのである。実は帰国したというよりも、生活の場を(一時的に)失ったという方が心持ちとしてはしっくりときていて、日本に帰ってきたのに、帰るべき場所に帰れなくなってしまった、というストレスを感じているのだ。連れ合いにしても、僕が予定日を超えて居候しようというのだから大変である。一部屋しかないアパートに大の大人が二人。たまったものじゃないと思っているに違いなく、些細なことで僕は叱られるようになり、ことあるごとにいつ出て行くのか、実家に帰ってはどうか、トイレの上蓋は閉めろとあれほど言ったのに、と言われるようになった。いや、些細なことという文言は、撤回しておこう。連れ合いにしたら決して些細なことではないのだから。そもそも、9月から留学用の奨学金が給付されるまで、僕は完全な無収入なのだから、連れ合いにしてもとんだお荷物を抱え込んだと思っているに相違ない。そういうわけで、僕も連れ合いも先行きの不透明な状況の中、あまり現実的なことは考えないようにし、水とレモンと蜂蜜があれば楽しめる愛玉子なんぞを作って、風呂上がりに杓子ですくって二人で食うのである。

帰宅するなりその日使っていたマスクを中性洗剤で洗い、スーパーの棚にわずかに残っていた乾麺で夕食を作ろうと、鍋に湯を沸かす。湯が沸くまで、ふととりとめのないことを思って暇を弄ぶ。—衛生の歴史とは過剰さの歴史だったのではないか。注射器などはその良い例だろうが、いまみんなが困っているマスクもそうだろう。徹底的に安く生産され、気軽に買うことができ、いつでも捨てられる使い捨てマスク。いや、本当は捨てなくてはならない使い捨てマスク。使い捨てを運命付けられたこの一枚数円の—いっときはその何十倍もの値がつけられた—不織布は、どこか過剰な存在なのではないか。捨てられるために生産されるものすべてにそういうことができる。プラスチックスプーンしかり、弁当のパックしかり、個包装のビニル袋しかり。そういう使い捨てのものたちが「クリーンな」生活を支えており、そういう使い捨てのものたちが明日の世界を汚している。マスクを洗いながら、もしかしたら、この使い捨てという生産と消費の構造にどこか無理があったのではないか、とふと思う。増産してくれれば、当面はありがたいけれども、それで済む話ではないのかもしれない。まあ、WHOはどう言うかしらないけれども、個人的な肌感覚としては、マスクは予防のために必要なのであって、だからマスクをどれだけ消費しようと、それは過剰ではないはず、とも思う。むしろ、過剰なのは現在の流通システムに対する需要の方である、という冷静な見方もできよう。これら過剰をめぐる独り言は、生産と流通と消費を一つの生態系としてみることを意味するのかもしれない。なに、素朴な、しかもとりとめのない思いつきである。そこに個人的なエピソードを付け加えておくなら、何年か前、家族が病気になった時は、マスクは決して手放せないものだった。抵抗力の落ちた人間にとって、マスクは生存のための必需品だったのである。少なくとも、医学的効果があるかどうかは分からないが、あの頃マスクが手元にあることはどうしても必要なことだった。—そろそろ乾麺を鍋に投入する時分だ。

—そういえば、「生存」という言葉にも、どこか過剰なおもむきがある。日本語の生存にあたるフランス語はsurvivireだが、surという接頭辞の意味を考えるべく、おもむろに辞書を引けば、死の後に依然として生きた状態であること、とある。死の後に、つまり、死してなお、記憶の中にありありと生きていること、という意味。あるいはまた、周囲の者たちが殲滅された状態で、それでも自分だけは生きている、生き残っている、ということか。誰もが受け入れねばならなかったはずの死、その一線を超えでて、どうにか生きていること。つまり、通常なら終わらなければならない生が延長されること。だとしたら、その越え出た生は、死に呑みこまれなかった余りの部分、過剰な生なのか。そういう解釈を支えるかのように、survivreという語には、わけもなく生き続けていること、という残酷な意味もあるらしい。

survivreという単語の意味を調べようともう少しだけ辞書を読んでいくと、「何かよりもずっと遅く生きること」とも書いてある。正しくは、何かよりももっと遅くまで生きること、である。しかしまた、その遅さを時間的な遅さというよりも速度としての遅さとして誤解することはできないか。誰もが死なねばならないという状況で、誰よりも遅くまで生きること、最後の最後まで生き残ること、という意味ではなく、むしろ、誰もが死なねばならない状況で、ゆっくりと生きること、文字通り遅く生きること、そんなふうにsurvivreを曲げて解釈してみることはできないものか。遅さ。それも過剰な遅さ。このろくに収入もない、世間からはモラトリアムと蔑視される生き方でも、実はそういう遅さを失っていると感じることがある。何やら忙しい。あっという間の時間。もしかしたら、この帰国期間は、そういう時間を再考するための試練なのではなかろうか。もっとゆっくり、もっと遅く。—そんなことを考えていると、投入した麺が柔らかくなりすぎている。まずは食わねば。話はその後。

そういうわけで、何やらずっと食っている。食って食って食いまくっている。連れ合いからは、その過剰な腹をどうにかしたらどうか、と言われ続けている。

185 錫の歌

藤井貞和

Tin. きみは源流へ、暗灰白色の自然錫を、
 Tin. 探しにゆく。  イリドスミンのともだちで、
  Tin. 金の隣、白金のうしろ、自然錫。
 Tin. 錫石、鋼玉とともに産する。  きらり、
Tin. きみの山師がうたう、錫。  きらりと、
 Tin. 三十年、探し続けたおまえ。
  Tin. 坑内に山師のかばねはうたう、「ここだよ、
 Tin. 自然は錫を隠す。  そこにしかない、
Tin. New South Walesの源流で。  ここだよ」。
 Tin. 産業革命にも、打ち壊しにも、
  Tin. 生き延びて、ここだよ。  答える、
 Tin. 錫。  母岩が教える錫の歌、聞こえ、
Tin. 貧金属のかばね、β錫。  泣くよ、
 Tin. あかつちのなか、浮く錫のいろ。 
  Tin. 峠の鉱山。  波動が山師を打ち据える。
 Tin. 病名からも生き伸び、黒い谷には、
Tin. もうだれも吸い寄せられない。  危険な、
 Tin. 空笑を、せせらぎに聴く。
  Tin. 林道を逸れて過つ稜線の暗部に、
 Tin. 山師は斃れたな。  腐った僧衣や、
Tin. 錫杖の起源だ、この物語は。
 Tin. 民俗学者よ、語れ。  聖なる盃にひそむ蛇は、
  Tin. 冬を越えて衰弱する。   ほそながい紐になり、
 Tin. きみの杖に棲むという物語。 鈴は、
Tin. 錫じゃなかったのかい。  ヒースの荒地に、
 Tin. 鉱毒を垂らした神話の牛の群れ。 
  Tin. 白亜の壁に歌湧く。  そらに北欧の雲、
 Tin. 極地の微光、凍土の泥炭、ペスト。
Tin. それが歴史じゃなかったのか、と問う。
 Tin. 三月の見えない敵に太陽を。
  Tin. 詩の文法に終りを。  地球はわずかな生存とたたかう、
 Tin. 植物のあとから。 
Tin. 錫は歩む、動物の死滅を履歴する。 
 Tin. 石油を噴き上げる盆地のはんぶん。
  Tin. 魔法数をかぞえる、いまは苦しい、
 Tin. 地底の椀に盛ろう。  僧衣をしぼって、
Tin. 血とパン、イリドスミンの少し、
 Tin. 金の枝の結晶をもぎとるちから。
  Tin. 絞め木にのこる中世の伝説を、
 Tin. 染みこませた赤いアスファルト。
Tin. 溶かし込む数珠。  錫のつばさの、
 Tin. 切片で玉にする数珠の、いまは苦しいな。
  Tin. 山師のうめきが地下で終る。
 Tin. よし、聴く終りに耳を澄ませば、
Tin. あれ、鈴の歌。  聞こえるか
 Tin.

(自然錫はあるのだと輓近鉱物辞典〈木下亀城〉が言う。)

引きこもりを強制される日々

高橋悠治

コロナウィルスのグローバル化とともに 権力をもつ政治家のウソや情報隠蔽 ウィルス検査のサボタージュ 行政末端のごうまんな態度が目立ってくる ジャーナリストで映像作家の アンドレ・ヴルチェックが 飛行機を乗り継ぎながら 香港からバンコク ソウル アムステルダム パラマリボ(スリナム) ベレン(ブラジル)を経由して8日間かけてチリのサンチャゴに着くまでの記録を読み その後でスロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの『コロナウィルスはキル・ビル風の資本主義攻撃でコミュニズムの再発明につながるかもしれない』を読む タランティーノの映画『キル・ビル2』に出てくる必殺技 五点掌爆心拳は 指先で相手の体の5つのツボに当てると 相手は5歩歩いて心臓破裂で死ぬという武術の手だが 民族国家を超えて 世界の連帯と協力にもとづく もう一つの社会が生まれる兆しはまだ見えない 

それどころか 都市閉鎖から国境閉鎖 選挙の延期と権力支配の拡大と延長 アメリカのイランに対する経済制裁の強化と 中国・キューバ・ロシアのイタリーに向けた医療支援の妨害 とりあえずの医薬品となるマラリア治療薬やインターフェロンの無視と使用禁止 というニュースさえ 日本のメディアでは報道されない 御用メディアと 最近では御用学者の声しか聞こえない 冷戦が終わって30年だが じっさいは世界は二つに割れていた 片側にアメリカと EU イスラエル 日本とサウジアラビアがあり 中国とイラン ロシアは反対側にある 経済の崩壊は見えてきたようだ 今の政治体制を支えている経済が崩壊すれば 政治がそれを救うのは 自分の髪を引っぱり上げて溺れまいとするのにも似ている 

13世紀のペストはヨーロッパ中世を終わらせた 1980年代からの格差社会はどうなるだろう 『デカメロン』や『方丈記』のように ひきこもって物語しながら いったい何年待つのだろうか 場のないところで音楽を続けるのはもっとむつかしいかもしれない

2020年3月1日(日)

水牛だより

あたたかな日曜日の夜の空。上弦に近い月が遠くおぼろにかすんでいます。きっと雨になるでしょう。

「水牛のように」を2020年3月1日号に更新しました。
新井卓さんの久しぶりの原稿はうれしかったのですが、それが戸島美喜夫さんの追悼だったことにはまた違う感慨をおぼえました。戸島さんと最後に会ったのは、昨年9月の名古屋でした。そう頻繁ではなかったけれど、会えば必ずお酒を飲んで楽しく語らったことは、ひとつの理想と言ってもいい安定した関係だったと思います。突然の訃報でしたが、それも戸島さんが望んだことだったのだと、少しずつわかるようになってきました。R.I.P.

コロナウィルスの感染拡大を知るほどに、国境というものがあまり意味を持たないことに気づきます。来月の更新のとき、世界はいったいどうなっているのでしょうか。。。

ブログに書きたいことも溜まっています。近いうちに更新しますので、待っていてください。

それではまた!(八巻美恵)

別腸日記 (31) 野辺のうた(戸島美喜夫さんへ)

新井卓

あなたが眠る日
二度と明けなければいい、そう思った夜がいま薄明に染まり
ばら色の日輪が雲間に上る
ひとつかみの雨
二月。
春の支度にわたしたちはまだ、間にあわないというのに
ラッパ水仙のかぐわしい香りや
せっかちな乙女椿に誘惑されて、足どりも軽く
旅たってしまったのだろうか
いまごろ恵那の山の巓で
粉雪の降る音に耳を澄ませているだろうか
それとも解きはなたれた心は歓びに満ちて
タージマハルへ
はたまたシルクロードへ
一陣の風となって
カラコルム回廊の牧童を驚かせているだろうか
それとも案外よく冷えたピルスナーかなにかを
嬉しそうに傾けているかもしれない
愛する人たちに迎えられて
花散る野辺で
──そんなに泣かなくても大丈夫
そうおっしゃるだろうか
それでも、早すぎる春に座礁したわたしたちの裂け目から
雪融けの水はあふれ
あなたの小舟を運んでゆけ
あなたが眠る日、二月
早すぎる春に

184 碧玉 ——詩折(しをり)二題

藤井貞和

  亡いひとに

碧玉? とても悲しくて、
みどりの石? きっとそこいらで遊んでる、
古いことば、みんなでいくつも拾おう、
たいせつにする、ぼくは約束する

わたしも拾う、あなたが寝ているすきに、
数じゃない、きれいじゃない、
でも、きたないわけでもない、
たいせつなあなたのために、拾う

遊んでいる「みどり」さん、碧玉、
うみのおもての浮き輪も寂しい、
だからと言って、夕暮れだから、

暗くなるから、いちばん、
あなたが光るときだから、
どうか起きて、こちらを向いてすわって

  リベラリズム

清水昶さんが、鮎川さんについて、「 
  」と、言ったの迄(まで)は、
聞こえたよ、聞こえたさ、めちゃな、
酔い加減のあきら詞(ことば)よ、しりめつれつで、

十年にいちど、「十年に一回だけ、
鮎川さんはリベラリストで、」と、
言いかけて、北村さんも、中桐さんも、
リベラリストである、と言いかけて、

いったい明晰な「理性」とは、「実存」とは、
何だったのだろう、疑問詞をのこして、
めちゃな昶さんがゆく、聞いてる?

さいごの句は「遠雷の、轟く沖に、
貨物船」でしたよね、ゆくまぼろし、
友人を載せた軽い石もまぼろし

(軽い石、でも言葉遊びじゃないよな。言葉遊びはたいせつさ、軽い石。おまえは最低のところへ来る、堕ちる。軽みがほしいよな、おまえ。詩折を折る、やめてもいいんだぜ。心が折れる、芭蕉さんの棲む古池。違う、堕ちる石。帰れない、やめてもよいのに。遠雷でしたね、今夜の海上を光らせて。)

小さな泉から

璃葉

父が死んだ。2月15日の朝のことだった。
空には雲がひろがっていて、家の窓から入る冷たい光が父の顔を照らす。
今まで上下していた胸はもはやうごくことなく、まるで精密につくられた人形が横たわっているような、奇妙なものがそこにあるだけだった。息をしているわたしとしていない人の一対一の空間は、やけに静かだった。魂が抜けている、という意味を本能的に、初めて理解した。この体にもう父はおらず、正真正銘、どこかへ旅立ったのだ。反射的に涙が出てくるものの、そこまで悲しみはなかった。なぜなら、父はいよいよ容態が悪くなる前日まで、本当にたのしんで生きていたからだ。起き上がれず横になったままでも、せん妄が激しくなっても、首を少し起こして、たばことコーヒー、夜はビールとワインを飲んでいた。とてもうれしそうに。

去年の11月中旬に癌と告知された後日、生検をした父は退院するときに腕時計をなくしたと騒いでいた。むかしから使っていたものだ。看護師たちと一緒に探したが結局見つかることはなく、仕方なく年末にふたりで近くのホームセンターに腕時計を買いに行った。以前よりもずっと安物だけれど、文字盤が大きく見やすかったから、これでいいやという感じで選んだ。ついでにチューリップの球根もいくつか買う。思えばあれが父との最後の買い物だったのだ。

通夜と葬儀はあっという間に過ぎ、父が使っていた体はすっかり焼けて骨だけになった。お骨を箸で拾うとき、あまりにも太くて丈夫で、びっくりして思わず笑いがこみあげてしまった。太ももの骨なんてあまりにもしっかりと残っているものだから(ギャートルズに出てくるやつみたいだった)、壁に飾りたいぐらいだね、と身内で盛り上がる。
そもそも父の体を焼いている最中、待合室での親族の会話は本当に愉快だった。
叔母や兄たちから今まで聞いたことのない、若かりしころの父の話がどんどん出てきて、父という役割を外れて彼がどんな人だったのか、ほんの少しだけわかった気がした。

数日が経ち、ゆるゆると実家の片付けをしているとき。何かのきっかけで父があまり使っていなかった眼鏡ケースを開けると、そこにはなんと、彼が病院でなくしたと騒いでいた腕時計が入っていた。シチズンの、しっかりとしたつくりの銀色の腕時計は、忘れられた小さなケースの中でちゃんと時を刻んでいたのだ。なんでこんなとこにあんねん、と呆れながら空中にぼやいてしまった。とりあえず仏壇に向かい、あったよ、と報告。

コーヒーとたばこをたのしみながら庭にあるオトメツバキと柚子の木、その向こうの、父が間伐した森を窓から眺める。むかし川底だった森の木と木の間から、陽が差している。まばらにたくさん、陽だまりができている。

泉を絶やすな、と言われたことを今でも覚えている。人との関わり方に悩んでいた何年か前のわたしにそう言い放った。数えきれない人とのつながりにこだわるより、自分のなかに湧き出る小さな泉とのつながりに焦点を、と。泉とは言わずもがな、創造のことだ。今思えば、あれは彼が自分自身に言い聞かせていたような気もする。

父は今、どこにいるのだろう。目も足腰もようやく自由になったわけだから、きっと世界中を文字通り飛びまわって、音の旅をたのしんでいるはずだ。その話はそのうち向こうで聞かせてもらうとして、わたしはわたしで、こちらの世界の時間をたのしむことにする。

1958

管啓次郎

ダム湖に沈む村を見下ろしながら
甘い水にまどろんでいた
太陽に初めてふれた日
顔をしかめてくしゃみをした
木々はそのまま燃えるように
秋の中を群れなして走ってゆく
獣たち鳥たちは人の世界をとりまき
空と地表をひとつにむすぶ
母の顔は覚えていない
偶然たどりついたその森が
逃れることのできない故郷になった
(それから一度も訪れていないけれど)
その年は火山がよく噴火した
東京バベルには美しい電波塔
チキンラーメンを誰が先に食べるかで
中学生たちは楽しく競い合った

ジャワ舞踊作品のバージョン(7)ガンビョン

冨岡三智

ガンビョンについては、2003年1月号の『水牛』に寄稿した「ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(2)民間舞踊」の中で書いている。ここまで古い号はバックナンバーでもカバーされていない。ちなみに、これが『水牛』への寄稿3作目だった。その次は2014年11月号に「ジャワ舞踊の衣装 ガンビョン」を寄稿していて、これはバックナンバーにある。意外にも、それ以外は書いていない…ということで、今月はガンビョンについて書こう。

まず、私の手許に残る幻(?)の2003年の『水牛』寄稿記事からの引用…。

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ガンビョンはチブロン太鼓の奏法とともにスラカルタで発展した、現在ではスラカルタを代表する舞踊ジャンルである。その太鼓奏法も現在ジャワ・ガムランにおける演奏会スタイルの標準になっている。ガンビョンは楽曲優先の舞踊で、太鼓が繰り出す手組み(スカラン)を聞いて、踊り手がそれに合った振りを踊る。ガンビョンでは最初4つと最後のスカランが決まっている他、終わり方にも定型がある。他は順不同とは言え、歩きながら踊るスカランと止まって踊るスカランを交互に演奏しなければならない。これらの制約の中で太鼓奏者は数多くのスカランから自由に選んだり、また即興的に作ったりして演奏した。

ガンビョンは女性の単独舞であるが、実は1960年代後半まではガンビョンは一般子女が嗜むにはふさわしくない舞踊だった。ガンビョンを踊るのは、レデッ又はタレデッと呼ばれる流しの女性芸人か、または商業ワヤン・オラン(舞踊劇)劇場の踊り手に限られていた。その芸風は歌いながら踊るというもので、しかも性的合一に至るコンセプトを描いた扇情的な振りが多かった。

それは農村の豊穣祈願の踊りに発するからだという。(日本でも農耕儀礼ではしばしば性的な行為が模倣される。)だがそれゆえ多産を願うものとして、昔からしばしば結婚式ではプロの踊り手を呼んでガンビョンを踊ってもらったという。現在でも結婚式や各種セレモニーでガンビョンが踊られることが多いのは、根底に儀礼的な性格をまだ残しているからだろう。

さて、開放的な気風のマンクヌガラン宮ではガンビョンを取り入れ、接待用の娯楽舞踊として洗練させた。そして宮廷舞踊の要素を付加し、即興的な要素を排して歌いながら踊るのも止め、レデッのイメージを払拭した演目「ガンビョン・パレアノム」を作り上げる。それでも当初は親族が踊るのはタブーだったが、60年代後半には親族も踊るようになった。パレアノムはスラカルタの舞踊家達に知られて広まり、また芸術機関でもガンビョンをスラカルタを代表する舞踊として取り上げるようになって、ガンビョンは一般に定着した。

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ガンビョンは楽曲がラドラン形式かグンディン形式かによって太鼓(ひいては振付)のパターンの組み方が違う。どの曲を使っても良いのだが、ラドラン形式なら「パンクル」、グンディン形式なら「ガンビルサウィット」という曲を使うのが定番で、カセットも市販されている。いずれもガムランを嗜む人なら誰もが知っている曲である。上で述べた「ガンビョン・パレアノム」もメインで使う曲は「ガンビルサウィット」だが、通常のグンディン形式のガンビョンではやらないケバルという演出(速いテンポで踊る)を追加しており、別物になっている。

「ガンビョン・パレアノム」がマンクヌガラン王家で最初に作られたのは1950年、初演されたのは1951年の王家当主(マンクヌゴロVIII世)の妹の結婚式であった。なお、「パレアノム」(若いニガウリの意)はマンクヌガラン王家の旗印のことで、同王家を代表する曲として作られたことを端的に表している。このオリジナル版は宮廷舞踊のように構成されており、長さも45分あった。1973年に(次で述べるガリマン版が作られた翌年に)15分の短縮版が王家で作られた。

王家の外で初めて「パレアノム」をアレンジしたのはガリマンで、1972年のことである。カセットも市販されている。ガリマンは誰かの結婚式でマンクヌガラン王家の「パレアノム」を見て(おそらくマンクヌゴロ家縁者の結婚式だったのだろう)、生き生きとしてダイナミックな展開に魅了され、自分でもアレンジしてみたのだという。ガリマン版の特徴は10分と短いこと、そして決まっている最初の4つの太鼓の手組(スカラン)のうち1つしかやっておらず、さらに他の手組もあまり知られていないものや自分で創作したものを入れていることである。このガリマン版は当初は批判されたらしい。しかし、音楽家でもあるガリマンは、民間のレデッが必ずしも順番通りにスカランを演奏するわけではないことを知っており、かつ規則通りに踊るとガンビョンはどれも同じような舞踊になってしまうため、あえて変化をつけたようだ。

ガリマン版が出た翌年頃、私の師:ジョコ女史も義弟の結婚式で上演するために「パレアノム」をアレンジした。ガリマン版を土台にしながら、最初の部分は規則通りにスカランを並べている。端的に言えば、ガリマン版(主要部であるインガーの長さが2周期)の前に1周期足して3周期にしている。ジョコ女史はなるべくたくさんのスカランを教えられるようにアレンジしたので、18分余りもあって結構長く感じる。このジョコ女史版は、芸術大学のカセット・シリーズの中に入っている(ただし入退場の曲は、ジョコ女史とは異なっている)。

ジョコ女史は自分がアレンジした「パレアノム」をある舞踊団体で教えていたが、芸術大学(当時はASKIと言った)教員がそれを習い覚え、ジョコ女史版(3周期)の3周期目をカットして、入退場の曲を変えてPKJT-ASKI版にアレンジした(PKJTは当時芸大の学長が兼任していた芸術プロジェクトの名前)。これが1979年のことで、カセットも市販されている。ただ、これはあくまでも結婚式上演用のアレンジで、私が芸大で授業を履修していた時に「ガンビョン・パレアノム」として習ったのは、長い方のジョコ女史版であった。

実はこれ以外に、ガリマンと並ぶ2大巨匠のマリディも「ガンビョン・パレアノム」をアレンジしていて、カセットも出ている。が、基本はジョコ女史版と同じで、入退場曲をさらに変え、スカランを1つ差し替えているくらいである。マリディは、同世代のガリマンやジョコ女史がアレンジしているのを見て、自分もやらねばと思ったらしい。

こんな風に「ガンビョン・パレアノム」が大流行したのは、マンクヌガランで作られた演出の面白さが核にあっただけでなく、結婚式で上演する機会が多く、かつカセット化によって多くの人が習い踊ることができるようになったという点が大きい。

『或る国のこよみ』をよんで・・・(上)

北村周一

片山廣子(広子)、という名の歌人がいた。
といっても、岩波現代短歌辞典に一首のみ掲載されていたのを、
たまたま拾い読みしていたに過ぎないし、
ほかにどんな歌を作っていたのかも知らない。
ゆえにどんな歌人なのかも知る由はなかった。
ちなみにその一首はつぎの通り。
きりぎりすものの寂しきあけがたを昔の人も聞きし音に鳴く
「きりぎりす」の項目に掲載されている。

さて、ちょっと古くなるけれど、2018年4月の水牛だよりに、
片山廣子の書いたエッセイが紹介されていた。
https://suigyu.exblog.jp/m2018-04-01/
短歌を詠む人、と書かれていたので、気になって少しく調べてみた。
歌人の名は忘れていたが、調べていくうちにきりぎりすの歌にぶつかった。
きりぎりすの歌はそれなりに憶えていた。
それで、青空文庫に飛んだ。
色んなことがわかってきた。
歌人であるだけでなく、アイルランド文学の翻訳者であることも知った。
翻訳のときの筆名は、松村みね子であることも。
この名前には見憶えがある。
いくつかエッセイも読んでみた。
『或る国のこよみ』に興味をそそられた。
そんなこんなで、きっかけを与えてもらった気がして、
なんとなく短歌にして見ようかと思い立った。
この短いエッセイの最初の部分を書き移そうと思う。

  * 

はじめに生れたのは歓びの霊である、この新しい年をよろこべ!
一月  霊はまだ目がさめぬ
二月  虹を織る
三月  雨のなかに微笑する
四月  白と緑の衣を着る
五月  世界の青春
六月  壮厳
七月  二つの世界にゐる
八月  色彩
九月  美を夢みる
十月  溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
ケルトの古い言ひつたへかもしれない、或るふるぼけた本の最後の頁に何のつながりもなくこの暦が載つてゐるのを読んだのである。
この暦によると世界は無限にふくざつな色に包まれてゐる。・・・

  *

このケルトのこよみは、日本の旧暦に当たるように思われる。
片山廣子も文中でなんどか触れているが、
季節感が少々ずれているように感じる。
北方であることも、影響しているようだ。
そんなことを踏まえながら、十二ある月を、
今回は、一月から六月までだけれど、
それぞれに引用しながら、歌にしてみた。

霊いまだめざめを知らず 白濁の声にしわぶくあけの一月

虹を織る手ゆびかすかにふるえつつ浅葱のいろにときめく二月

むらさきの小雨降るなか微笑するまなこ散りばめゆるし合う三月

とりどりに白にみどりの衣かさね祝いの踊りおぼえる四月

うれいなき青を育むさみどりの世界あまねく煌めく五月

ときまたず目覚めては泣く嬰児のこえ荘厳にして雨の六月

製本かい摘みましては (153)

四釜裕子

「旅先で会った人に『ナンダテビドサガリダチャー』と言いながら深々とおじぎする」という話がある。もうちょっとイントネーションに配慮すると「なぁんだて、びどさがりだちゃ~」。山形弁(村山地方弁と言うべきか)で「なんてみっともないの!」みたいな意味なんだけれども他の誰にもわからないだろう。というわけで、相手の目を見てにこにこしながらこれを言っておじぎをすると、先方もつられておじぎを返してくれて可笑しい、という、タワイもオチもない話。

久しぶりにこの話を思い出して「ビドサガリでまちがいなかったっけかな」とネット検索したらあまりヒットしなかったけれども、「想画」や生活綴り方を戦前の山形で指導していた教育者、国分太一郎さんの『ずうずうぺんぺん 東北のことばとこころ』(1977 朝日新聞社)に登場していた。国分さんが子どものころ、東京ではビドサガリをなんて言うのかを先生に尋ねると、〈なんでも教えてやるみたいにいっているのに教えてくれない〉のでおもしろくなくなって、〈あっちには、なんでも、よいものがあるっていうのはウソだな。こっちにあるもので、あっちにないものもあるんだな〉という考えをなんべんも起こした、という。

国分さんは、1911年、山形県北村山郡東根町(現東根市)生まれ。両親ともに今の東根市生まれで、父・藤太郎さんは小さいころ西村山郡寒河江町(現寒河江市)の床屋で修業している。この本は国分さんが「朝日ジャーナル」と「望星」に連載したものから選んでまとめたもので、オガルとかアブラコとかアガスケとか、ほかにもたくさん村山弁が出てきておもしろい。各地の方言がいわゆる標準語に言い換えられないのはよくある話で、ニュアンスの種類がいちばん少ないから標準語なのだ。ちなみに『ずうずうぺんぺん』の中で先生はビドサガリのことをこう言っている。〈家の中など、よくかたづけないし、着物はせんたくもよくしないで、何日もきているし、流す(台所)のところは、ゴチャゴチャだし……。そんな人のことをいうのだな〉。長いよ。

小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅に出る』(PUMPQUAKES)の第一話、「オシンコウ二皿ください」を読んで思い出したのだった。昔話を聞きに宮城県を訪ね歩いていた小野さんに、1921年生まれの栄一さんが教えてくれた話である。どこに行ってもズーズー弁で笑われるものだから、旅先で先回りして得意の方言でバスガイドさんをからかった。別の日、お店で、ダントツ安い「オシンコウ」なるものを注文してみたらなかなか出てこない。と思っていたら、なんと目の前のぴらぴらした2枚の大根漬けがオシンコウだった、と。〈相手にわかんねぇ東北弁で一本取ってやるつもりが、向こうの言葉で一本取られてしまって、結局五分五分の勝負だったのしゃ〉。「昔話」と言うには若い話だなあという気がしていたら、このあと小野さんがこう書いていた。〈これはまぎれもなく「これから実を結ぶ民話の芽」ともいうべき話である〉。

小野さんはおよそ50年、地縁も血縁もない土地で民話を求めて旅してきた。1000本にもなるカセットテープを前に、〈本音を言えば、これは残さなくてもいい。本来ならば、消えてなくなるものだから〉とも言ったそうだ。2014年、小野さんは80歳になったのを記念して、30代半ばから50代にかけて記した「民話探訪ノート」から8話をまとめ、ホチキスで綴じた冊子を40冊作ったそうである。家族や近しい人に送ったなかの1冊を受け取った清水チナツさんは、読んでたちまち、たくさんの人に届けたいと思った。それから5年半、小野さんと、仲間と、本にした。それがこの『あいたくて ききたくて 旅に出る』だ。ホチキスではとうてい留まりきらない厚さの本に、小野さんによる35の再話と、それを訪ね聞いたいきさつや話してくれたひとのこと、思うこと、考えたことがたっぷりある。どんな民話も最初から「民話」であったはずがないんだよなあとつくづく思えて、ひといきにまず読んで、行きつ戻りつして、登場するおじいちゃんおばあちゃんが懐かしいひとに思えてしまった。

おひとりだけ、紹介しょう。小野さんが民話探訪し始めたころに出会ったヤチヨさん(1882年生)。〈集落に紛れ込んできた、誰が見ても正気とは思えない当時のわたしだったが、そんなわたしに向き合って、初めて相手をしてくださった〉。一話語るごとに「よく覚えていたもんだ」と自分に感心していたという。ある日、「形見だと思ってとってくれ」と絵本を手渡された。その写真が載っている。擦り切れた表紙に『赤穂義士 誠忠画鑑』の文字。3つ穴を紐で平綴じした横長の本で、なかは着物の紋まで細密に極彩色で刷られているそうだ。とにかく表紙がボロボロ。角はめくれあがっている。〈集落の神社が改築された時に、工事のために他国からやってきた宮大工がくれたもの〉で、〈亭主を亡くして途方に暮れていたヤチヨさんに、なにくれとなく親切にしてくれた男だったと、頬を染めて言われた〉。

字は読めなかったそうだけれど、テレビもラジオもなかったころにどれだけめくったことだろう。どれだけ大事に手元に残してきたことだろう。病気と戦争で4人の子どももなくした(ヤチヨさんは「殺した」と言う)。〈子もないし、家もない。いい着物一枚持っているわけでもない〉〈あんた、おれの「むがすむがす」を一生懸命に聞いてくれたのがうれしい〉。そう言って、絵本を手渡されたという。〈この絵本がなかったら、わたしの民話を求める旅は、こんなに長く続かなかったと思う〉。

極彩色で刷られているという『赤穂義士 誠忠画鑑』はどんな本だったのか、ネットで見るといくつか出てきた。福岡のパノラマ書房にあったのは、昭和14年、省文社刊、国史名画刊行会編、鳥居言人(五代目 鳥居清忠)画、21cm×38cm、52枚、8500円。表紙が、厚紙を唐紙みたいなものでくるんであるように見える。タイトルと柄は彩色されているし、紐も金色。豪華版とか改装版ということか。同様に大ぶりの絵の右端に2段組で小さな文字を添えた本が、国史名画刊行会から数年にわたってシリーズで出ていたようだ。どんなひとたちが読んでいたのだろう。

『あいたくて ききたくて 旅に出る』は装丁もきれいだ。ホローバックでクータも入って表紙に折れ線も入っているから開きやすい。なんだけど、内容も出版のいきさつも最高だからこそ言いたいのだけれど、本文紙が厚すぎた。開いて置いてもページが踊る。行きつ戻りつして読みたい気持ちにページがついてこない。重たい。再話部分の文字が灰色なのも読みにくかった。大事な気持ち、守りたい気持ちが、物理的に出ちゃったのかなと思う。

二つの作品

笠井瑞丈

去年に続き今年もセッションハウスダンスプログラム
 ダンスブリッジの総合演出をさせて頂きました。
今年は二つの作品を作りました。
一つは自分も出演する四人の男性群舞の作品。
一つはマドモアゼルシネマの七人の女性作品。

タイトルは 『四人の僧侶』『七つの大罪』です。

『四人の僧侶』

この作品は吉岡実の『僧侶』のテキストを使いました。
このテキストを初めて読んだのは去年の笠井叡振付『土方巽原風景』に出演した時です。
その作品でこのテキストの半分を使い作品が作られました。
私が初めてこの詩を聞いた時に何か不思議な物を感じました。
内容は一度読んだだけでは全く最初は掴めなかったのですが。
読めば読むほどガムを噛むようにジワジワと味が滲み出てくるのを感じました。
公演が終わりしばらくした時に『僧侶』この詩で作品を作りたいと思いました。
出演者は小出顕太郎さん 鯨井謙太郎さん 奥山ばらばさん すぐにこの三人が浮かびました。そしてすぐ出演のお願いしました。鯨井さん奥山さんは今まで何度も作品に出てもらっています。小出さんは今回初参加です。バレエダンサーの男性に作品に出てもらうのは初めてとういうこともあり、特に小出さんの出演は自分にとって新しい挑戦になるだろうと思いました。言葉から動きを探り、言葉の骨格を形に変え、そんな作業を繰り返し、振付を考えました。言葉を発声し、言葉を読み、言葉が粘土のように捏ねられ、そこから踊りが生まれてきました。男性だけで作る作品は今回が初めてだったので色々と新しい事が経験できました。

『七つの大罪』

マドモアシネマの七人の女性に振付をした作品です。
『四人の僧侶』は振付をメインに作ったのですが、『七つの大罪』は基本的にイメージから動きを作るところにフォーカスしました。基本的には即興という形式をとりました。
作品の作り方としてまず言葉を彼女達に渡しそこから自由に発想してもらい、それを構成していきました。即興性の強い作品を作るのは私にとっても初めての経験でしたので最初手探りで迷いながら作品作りは進みました。振付作品は一つ一つ積み上げて行く作業に対し、即興作品はクリエーションに時間がかかります。植物みたいに種を蒔いて芽が出てくるのを待つ時間が必要になります。芽は蒔いた翌日には出てきません、我慢強く待つ時間が必ず必要です。時に不安になる時もあります。自分の作り方は間違っているのではないかと自問自答した時もありました。公演の二週間くらい前に芽が出てこない事の焦りから一全てリセットして振付作品に変更しようと思った時がありました。でも結局は変更しませんでした。その時間が今になっては新しく自分を成長させてくれた時間だったと思います。あの時間を乗り超えられたのはとても大きな収穫でした。そして待てば芽出てくるものです。一度出た芽は土の下で溜めていた生命力を放出するかのようにすくすくと育っていきます。そして結果的にはマドモアゼルシネマの七人のダンサーは私の期待以上にパフォーマンスをしてくれました。

新しく何かを産み出すことには必ず痛みが伴うものです。
でもその先にはかならず喜びがあります。
今回二つの作品を作らせて頂き多くの事を学びました。
そして大きな試練でもありました。

この大きな試練を共に過ごしてくれたダンサーには大きな感謝しかありません。

これからもまた新しい試練が待っていると思います。
今回の事を経験にこれからも新しい事に挑戦し作品作りをしていこうと思います。

長い足と平べったい胸のこと(5)

植松眞人

 たぶん、アキちゃんはセイシロウに暴力をふるった。たぶん、きっと。銀杏並木の端っこで倒れてしばらくの間、わたしは少しぼんやりした後、いままでなんとも思っていなかったセイシロウのことを本気で嫌いになった。そして、本気で殴ってやろうかと思ったのだけれどわたしは手足が長いくせに腕力にはからっきし自信がない。そう思うと、なんだか泣けてきて、その涙はわたし自身のわたしに対する情けなさなのだけれど、きっとこの涙はみんなに誤解されると思ったら、いてもたってもいられなくなって、わたしは一人立ち上がりセイシロウもアキちゃんも放り出して走った。

 だから、そのあとどうなったのか正確にはなにも見ていない。見ていないけれど、教室に入ってからのセイシロウの大人しさとわたしとは一瞬たりとも視線を合わせないという覚悟のようなものを感じ取って、きっとアキちゃんはわたしの代わりにセイシロウを殴るか蹴るかしたのだと思う。

 でも、それはそれでセイシロウに本気で腹が立っているのはわたしで、アキちゃんにセイシロウを殴る資格があるのかと考えてしまってわたしはいつものように自己嫌悪に陥ってしまう。いつもこうだ。結局はわたしが勝手にはじめて、わたしが勝手にややこしくして、わたしが勝手に落ち込んでしまう。こうなると、あとでアキちゃんが話しかけてもセイシロウが話しかけてきても、一言でも口を聞くのが嫌になる。セイシロウから話しかけてくるのが筋だろうと思いつつ、話しかけられると困るから、こっちも視線を合わせない。休み時間だって、アキちゃんがこっちに来る前に走って廊下に出て、いつもは使わない南校舎の四階の奥のトイレに駆け込む。ここのトイレの一番端っこの個室には上の方に小さな窓があって、空が見える。わたしは嫌なことがあると、ときどきここに来て休憩時間のあいだ窓の外を眺めながらじっとしている事がある。

 空が青い。雲が見えないから、空だという気がしない。窓枠一杯に真っ青な色紙が貼ってあってもわからないくらいに青い。

 わたしは洋式便器に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げている。ただ真っ青な四角い窓を見上げながら、今朝の出来事を思い返しながら、セイシロウの顔とアキちゃんの顔を思い出し、そしてセイシロウが握っていた女の子の手の白さを思い出していた。セイシロウが力を入れると、女の子の手もセイシロウの手を握りかえした。女の子の手は小さく肌が白かった。意外に大きなセイシロウの手の中にすっぽりと収まってしまう女の子の手は握り占められている間に少しずつ赤くなり、その色の変化にわたしは魅せられしまっていた。アキちゃんはひと目もはばからず興奮していたし、わたしはそんなアキちゃんを見ながらたぶん赤面していた。

 窓の外の青空から届く光は、わたしを照らしわたしをものすごく冷静にした。空の青は女の子の手の赤さを映し、さっきまでわたしの中でふつふつと沸き上がっていたセイシロウへに怒りも、アキちゃんへの苛立ちも消え去り、ただただ女の子の手の形がきれいだったということばかりに思いを巡らせていた。(つづく)

誰がいちばん前衛なの?

さとうまき

2017年に、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流」を見に行った。僕は当時イスラム国から逃げてくるシリア難民とか、イラク人の支援活動に奔走していて展覧会を見るような時間がなかったが、アート好きな友人が無理やり連れて行ってくれて 「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉に出会って励まされ、すっきりした。

僕は、いわゆる人道支援に携わってきて、必然的に、お金を集めなければならなかった。時には、「お金をください」と難民に代わって、物乞いのように頭を下げなければならない。まさに、みじめさを体現して彼らによりそった。

「展示」することは、お金集めのための必然だったわけだが、説明ではなく、アートとして展示したいという気持ちを常に持っていたと思う。例えば、数時間前にイスラム国から逃げてきた子供にであうとスケッチブックを出して絵を描いてもらう。ヨーロッパを目指し船をこいでギリシャに向かった難民の子どもをドイツに追いかけて脱出の経過を描いたものは、絵巻物として展示した。

昨年、僕は団体を抜けてフリーランスになり、シリアとどうかかわるか格闘しているが、やっぱり意識して、ソーシャリー・エンゲイジド・アートのピースとして、子供たちの絵をインスタレーションしていきたいという思いが強い。ただ、アートというものは時としてよくわからない。僕がいいなあと思うものと専門家が賞賛するものが異なるし、値段のつけ方がさっぱり理解できないことが多いい。ということは、目が肥えていないということなのだろう。

美術クラブの先輩たちには、アートのコレクターになったり、美術の教科書の編纂に携わっている方もおり、レクシャーしてくれるというので聞きに行った。

「コメディアン」という先品は、ダクトテープで壁に貼られた1本の本物のバナナ。価格は12万ドル(約1300万円)だという。ますますもって価値がわからなくなってしまった。さらにオチがあって、展覧会場に現れたパフォーマンス・アーティストがバナナを食べてしまったという。「バナナ」は概念であり、作品が壊されたわけではないという。驚くべきは、作品の値段。パフォーマンスに値が付き、話題になることでネットのアクセス数があがりユーチューバーがお金を稼ぐようなイメージだろうか。

ところで僕は、友人が主宰するアマチュアのオーケストラ、「不協和音」のコンサートのチラシを年2回頼まれている。今回のプログラムはハイドンとシェーンベルク。いずれもウィーンで活躍した作曲家による。シェーンベルクは前衛的な作曲家のイメージあり、ハイドンは、何か古くて保守的なイメージだ。

「ハイドンは、その時代では前衛作曲家です。今回演奏するハイドンの交響曲54番も、和音の移り変わり、楽器の使い方、構成など、実験的なことをやっています。今度の演奏会では、そんな先鋭的なハイドンの心意気を感じるものにしたいなと思っています。というわけで、時代の違いはあれ、前衛作曲家ハイドン、シェーンベルクといった感じのテーマで絵は描けないでしょうか?」という依頼が来た。

シェーンベルクは自画像も描いている。そこで、彼らが自画像を描いてどっちが前衛的か比べているという構成にしてみた。シェーンベルクが手にするのは、自らの作品、「赤い目の自画像」ハイドンは、風船を持った自画像で、自ら絵を掲げるとシュレッターで裁断されてしまうというオチ。これはバンクシーの作品が、オークションで1億5000万円!の値がついた瞬間にシュレッターにかけられたというニュースをパロった。二人が立つのは、シリア内戦で破壊されたがれきの山。ハイドンの自画像は、まさに世界の平和を訴えるソーシャリー・エンゲージド・アートになっており、シェーンベルクが一本取られたと焦っている。

ポストカードを多めに作ってもらったので、シリア支援のイベントで配ったりしている。ただ、残念なことに、僕の作品には値段が付かず、無料奉仕なのだ。

シリアの小児がんの支援を本格的に始めようということになり、またしても金策に走らなければならないのだが、「シリア」を概念にして作品にして、アートとしてオークションに! 一体いくらで入札されるのかな? と考えているだけで楽しくなる。いや、考えているだけが楽しい。

仙台ネイティブのつぶやき(52)つながりの中で、宮城県美術館

西大立目祥子

 宮城県美術館の現地存続を求める活動で、怒涛のような2ヶ月半が過ぎた。連日、知恵を絞ったり人に会ったり電話をかけたりで、ヒートアップ気味で頭の芯が熱かった。慣れないことが続いて知らず知らずのうちに疲れがたまっていたのだろう、先週はついに具合が悪くなりダウン。まさか、今年がこんなことになるとはなあ…。
 
 でも、渦中にいて感じるのは、これまでにない運動の広がりと手応えだ。特に12月中旬に始まった署名活動では、賛同が日を追うごとに先々に浸透し広がっていくのを実感してきた。1月中旬に5000筆だった署名は、1月末には10000となり、提出日を探っているうちにあっという間に15000をこえた。
 2月19日に、総勢10名で宮城県議会に美術館の現地存続を求める陳情書と署名簿を提出したのだけれど、署名筆数は17773。年末年始をはさんだわずか2ヶ月半に集めた数としては驚異的ではないだろうか。
 陳情の場には30人もの議員さんたちが出てきてくれ、そこに10名もの与党議員がいたのにもまたびっくり。議会にとっても、移転に反対する声はもはや無視できないものになっていることを感じる。

 突然降って湧いた美術館移転案に居ても立っても居られない気持ちで署名を始めたのは、市内中心部からちょっとはずれた西公園近くで喫茶店を営むKさんという女性だ。開店35年というこの店は美術好きの人たちのたまり場で、白い壁は個展をやりたいという人に貸し出されている。この問題が報道されてから、カウンターに座るお客さん同士がコーヒーを飲みながら「ひどい話だよ、なんかやろう」「黙っていられない、署名がいいんじゃない?」と話すうち、気風のいいKさんが「もう私やる!」と決心して、おそらく自然発生的に始まったのだと思う。それは12月中旬のことだった。
 
 そのころには、私は友人たちと細々と続けていた「まち遺産ネット仙台」という会から、知事や宮城県議長あてに要望書を提出していた。さらにこの問題に関心を持つ人たちといっしょにもっとゆるやかな「アリスの庭クラブ」という会を立ち上げ、ウェブサイトを運営し、そこにKさんの署名用紙をダウンロードできるように掲載したところぐんぐんおもしろいように活動が広がっていった。
 私自身もいつもバッグに用紙を入れて持ち歩いていたのだけれど、知り合いに会って署名を頼むと、「白い用紙はないの?」と返される。1枚渡すと、その人がさらにその用紙をコピーして方々に配るという具合にして、知らない人からさらにその先へと署名用紙は増殖を重ねながら手渡されていった。

 Kさんの店のポストには連日、用紙で分厚くふくらんだ封筒がどさりと配達された。店の前に車を停めて「200人分です!」と署名を持って勢いよく飛び込んでくる女性がいるかと思うと、雨の中わざわざやってきて、おもむろにアタッシュケースから「町内の人が書いてくれました」と紙の束を取り出したあと椅子に座り、ゆっくりとコーヒーをすする男性もいる。
 あるとき、女性2人が1000筆の署名を集めて持ってきたのには驚いた。縁起をかついでくれたのか「福袋」と書かれた赤い紙バッグにぶわっとふくらんだ紙が100枚!初めてお会いする方だったけれど、美術館を話題にしばらくおしゃべりを楽しんだ。別れ際には「私たちがついてますからね!」とエールをくれた。
 カウンターでお茶を飲んでいると、隣り合わせになった見ず知らずの男性から、「活動の情勢は?」とたずねられ、しゃべっていると後ろのテーブルから話に入り込む人もいる。
 
 ここはつまり性別も年齢も関係なく、絵が好きな人と人が集い、胸襟を開いて話ができるサロンなのだ。この店がなかったら、署名活動にここまで弾みがつくことはなかったかもしれない。つくづくコーヒーハウスは文化の基盤であり、運動が生まれてくる母体であることを教えられた。考えを持ったオーナーのいる街に開かれた小さな場から、出会いが生まれ議論が起こり文化は生まれてくるのだ。

 宮城県議会への署名簿提出に同行してくれたのは、旧知の友人たちに加え、この店で知りあった方たちだ。県内最大のスケッチ会の代表のSさん。民芸の研究家のH先生。画家で登山家で何かとアドバイスをくれるH先生。伝統建築の修復や設計をしているTさん。市内中心部でスケッチ会を主宰するIさん。みんなつい3ヶ月前までは知り合うこともなかったり、顔見知りではあってもじっくり話をすることはなかった人たちである。
 私はこれまで仙台で3回、歴史的建造物の保存活動をやり、3回とも失敗している。そのとき同じ思いでつながる友人ができ、そのとき建造物の有事の際にはぱっと動けるようにと「まち遺産ネット仙台」を立ち上げた。結局、個人的な思いでつながる人と人のかかわりからしか活動は始まらないし進まない。仙台、宮城で歴史ある建物が危機に瀕しても多くは声も上がらないまま見過ごされてきたのは、こうしたつながりの弱さに起因するのかもしれない。つまりは互いに遠慮して思いを口にしたり、無理矢理にでも人をつないでいく人がいなかったということか。

 12月に私たちが要望書を提出して以来、要望書を提出する団体が増え、すでに7団体を数えるまでになった。また、12月末に県が県民からの意見を募集したパブリックコメントは1月末に締め切られたが、221通寄せられたうち移転に賛成するのはわずか5通だったという。多くの県民はあの前川國男設計の建物が現在の静かな青葉山と広瀬川のほとりにあり続けることを願っているのだ。
 この2ヶ月半の間に局面はつぎつぎと変わり、この問題では移転反対の世論が圧倒的多数になってきた。(変化し続ける局面をみながら、人に会い人と人をつなぎ、つぎにどんなアクションを起こしていくかを考えるのは実にスリリングで楽しいことなのだけれど、これについてはまた別の機会に書きたい。)

 署名を提出した翌日に開かれたこの問題を議論する宮城県の懇話会は、(新県民会館と)集約移転する方向で検討するという最終案を提出した。反対する県民への配慮として、「検討する」ということばが加わっただけで、移転という方向性に変更はなかった。この最終案を受けて、3月末に県としての最終案を示すことになっている。

 それにしても行政というのは、なぜ決めたことを見直し、よりよい方向へと変更することをしないのだろうか。まだ議会にかける前の段階である。もし、現地存続という勇気ある方向転換をしたら、署名をした17000人の県内外の人たちは大歓迎して入館者を増やすべく宮城県美術館に通い、活動にもふかくかかわって本当の意味で県民の美術館にしていくための努力は惜しまないだろうに。

ナマステとロシア語(晩年通信 その8)

室謙二

 孫娘のNanamiがインドで、ナマステをおぼえた。一歳半である。
 合掌して、ちょっと頭を下げて、ナマステと言う。まわりのインド人は大喜びだ。もっともそれが挨拶とは知らないから、Skypeで見ていると、クルマが走っている通りに向かって、合掌してナマステと言ったりしている。かわいい。その七海が北カリフォルニアにやってきた。三週間いる。それでグランパKenjiは浮かれています。
 Nanami(七海)は、インターナショナルである。ロシアの黒海沿岸ソチで生まれて、大阪に行って、北カリフォルニアとフロリダに来て、インドのマイソールにいて、そしてまた北カリフォルニア。一年半で、それだけの場所に数ヶ月づつ住んだ。パスポートは、アメリカとロシアのを持っている。
 母親はロシア生まれのロシア育ちで、モスクワで大学に行ったロシア人だから、Nanamiにはロシア語で話しかける。だからNanamiも、ロシア語の単語らしきものも発音することもあり。父親の海太郎は日本生まれで、中学校の途中からアメリカで英語で教育を受けて、カリフォルニア大学サン・ディエゴを卒業したから、Nanamiには主に英語で話しかける。家族共通語は英語だが、海太郎はときどきは日本語で話しかけている。私の役割は、日本語グランパである。別れた日本人の妻も同じく日本語担当である。日本語も知っていたほうがいいからね。
 海太郎は、娘には漢字は教えないよ、と言っている。漢字の読み書きができるようにするには、時間がかかりすぎる。その価値があるかな? Nanamiの場合は、その時間と努力を別に費やしたほうがいいね。

  三つの言葉を生きる

 彼女は三つの言葉の中で生きている。ロシア語と英語と日本語である。しかしNanamiがいま話す言葉は、Nanami語である。英語でもなく日本語でもなくロシア語でもない言語を、大きな声で話している。ほとんどが分からないが、いくつかの単語はその意味がわかる。パパは父親のことではなく人間のことらしい。周りにいる大人の全部。母親のKatyaが海太郎をさして「パパ」と言ったのだろう。そうしたら人は全部、パパになった。
 ベイビーは赤ん坊のことではない。自分の歳に近い人間、子供が全部「ベイビー」になったらしい。この二つの単語は分かるけど、あとは何がなんだか分からない。ロシア語とも日本語とも、英語とも思われない発音で、身振り手振りでさかんに言っている。
 母親はもっぱらロシア語で話しかけて、それが彼女の母語であるし、だからNanamiの母語はロシア語になるだろう。父親の海太郎と母親のKatyaは英語で話をしているので、それを聞いて育っている。私の担当は日本語なので、それで話しかけないといけないのだが、まわりが英語だとそれを忘れる。

 三つの言語は、Nanamiにはどう聞こえているのだろうか? どう理解しているのだろうか? 三つの言語を、それぞれ別の言語体系だと思ってはいない。だろう。別々の言語体系、などという考えはない。だろう。全部がひとつのコミュニケーション・ツールで、それが一歳半の子供のまわりの環境を飛び交っている。
 言語学者によれば、いくつもの言語が存在する環境(家庭)に育った子供は、言語習得のスピードが少し遅れるらしい。もっともそれを聞いたのは、何十年も前だから、いまGoogleで調べたら違うかもしれない。ともかくちょっと時間がかかるが、いくつもの言語を同時に理解してしまうらしい。多言語家庭のケースは日本にはあまりないが、ヨーロッパではいくらもあるし、東南アジアでも経験したことがある。クアラルンプール空港で中国人の大家族が二十人以上輪になって座っていて、食べたり大声で話したり。マレー語と英語と広東語と北京語がまざって飛び交っていた。大人は英語が分からないようだし、少年たちは広東語がわからない。マレー語が普段の言葉で、北京語は学校で教わっているのかもしれない。
 インド洋のアフリカに近い小島の家に滞在していたときに、そこの家族がセンテンスをフランス語のイリア・デ・ボクで始めて途中で英語に変わったり、その島のローカルの言葉とかが混ざる。これには驚いた。大人も子供も、そうやって三つの言葉をチャンポンに話していた。
 もっともいずれのところにも学校があり、教育言語は英語だったりフランス語だったりする。でもそれは私が旅行をしていた何十年も前の話で、そのときすでにフィリピンではタガログ語で、マレーシアではマレー語で教えるべきだという運動があって、部分的にはそうなっていた。ただ高等教育(大学)は英語だったなあ。日本の大学は何語で教えるの? と若い女性に聞かれて、不思議なことを聞くものだと、「日本語だよ」と答えると、私たちの国も自分の国の言葉で大学教育が行われるといいわね、と言っていた。
 Nanamiはまだ一歳半で、これから言語を学んでいくわけで、どういうプロセスを通るか興味しんしんです。と書いて、イヴァン・イリイチを思い出した。

  イヴァン・イリイチ

 ずいぶんと昔の話だな、イヴァン・イリイチと池袋の炉端焼きで話していて、多言語社会の話になった。イリッチはウィーンのユダヤ人で、多言語環境の中で育った人間で、多言語を使って仕事をしている。
 彼いわく、日本人とか中国人は自分の言葉が、特に漢字が何か特別なように思っているね。実は特別でもなんでもない。ひとつの言葉にすぎない。と言っていた。彼は国連の仕事でガールフレンドと日本に来ていて、友人のダグラス・ラミスの紹介で会った。たしか日本家屋の二階の畳の部屋に、下宿のように住んでいた。そうだ、いろいろと思い出す。彼と多言語の話になったのは、あなたのマザー・タング(母語)はなんですか? と私が聞いたからだった。
 そうしたら、マザー・タングはない。という答えだった。家族の中でいくつも言葉が話されていて、母親もいくつもの言葉、父親もいくつもの言葉、一緒に住んでいるみんながそれぞれいくつも言葉を話す。一人の人間が、一つの言葉を代表しない。とするとマザー・タング(母語)はなくなるんだ。と言っていた。へー、そんなものかと思った。
 孫娘のNanamiの場合は、家族の中で三つの言葉があるとしても、母親がロシア語のみで話しかけているので、母語はロシア語だろう。だけど前に述べたように、両親は英語で話しているし、私たちは日本語で話しかけるので、その三つの言葉をどう理解しているのか観察しているところ。

 言葉というのは、その人が暮らしいている社会・環境とどういう関係を持ち、その人間にどういう影響を与えているのだろう? イリッチが言うように、日本人は、あるいは中国人は、自分たちの言語(書き言葉の漢字を含む)が、自分とその社会に決定的とは言わないでも、非常に大きな影響を与えていると思っている。イリッチは、それは幻想だよ、と言っていたのだが、私はそう思う時もあり、そう思わないときもある。イリッチは、自分に母語がなく、四つだかの言葉を平等に話し読むが、そういう言葉とは別に自分というものがある、と言っていたようだった。
 Nanamiはどうなるだろう?

  言語と歴史と文化から自由になる

 日常生活は三つの言語だが、学校はロシア語か英語の学校、あるいはその両方になる。それがNanamiにどのような影響を与えるのか? なんとなく、七海は七海だよ、と思う。ずっと以前に、英語のわかる日本人に、ムロさんは英語を使っているときも、日本語を使っているときも、まったく同じムロさんですね、と言われたことがある。たしかに日本語を話しているときと、英語で話しているときが違う日本人がいる。ビジネスのときは「流暢」に英語を話し、夜になると日本人同士で麻雀を囲む人間ではムロさんはありませんね、ということだ。
 たぶんNanamiも私のようになる。ロシア語を話すときも、英語を話すときも、日本語を話すときも、同じようにNanamiだろう。言語はコミュニケーションの道具に過ぎない。もっともそれぞれの言葉の背景に、文化と歴史がどーんとあるので、簡単ではないが。ともかくNanamiには、言語にも歴史にも文化からも自由な人間になってほしい。と書いたが、そんなことは可能かしら?

編み狂う(6)

斎藤真理子

時間は、本当は均等になんか流れていない。
編み物をする人はみんなそのことを知っている。

1分が1分でなく、10分にもなり、それどころかとうてい測れないほど長くなることもある。それはたぶん「長い」という形容詞では表せないものだ。「濃い」というべきかもしれない。

「時間つぶし」とは反対で、そこでは時間が暴力的にふくらむ。「すきま時間」なんていうものじゃない。予定と予定の間にはさまれて大人しくしているようなタマではない。満腹なはずなのに別腹ができてデザートを飲み込むように、時間にも脇芽のようなものができて、それがどんどん繁茂する。それがどんどん編みふける。時間は決して一直線ではなく、複線で、サルガッソーみたいで、それが糸に手を伸ばしたら私たちは後を追っかけていくしかない。

編み物の時間には濃淡がある。濃度が最大に達したときのことを覚えている。そういうのを測量するカウンター(ガイガーカウンターみたいなの)があればぴーぴーぴーぴー鳴りつづけて、みんなににらまれそうだったとき。

朝、最大限に会社に行きたくなかった。行ったら会社の偉い人に、いま抱えているこの無理難題について説明を求められるに決まっていて、言い訳のしようがなかった。

満員の地下鉄の中で、なぜこの状況でわざわざ窮鼠(私)は猫の巣に向かうのだろうかと思い、生物の本能に背いているのではないかと思い、辛いのは心があるからだ、人間だからだ、有機物だからだと思い、無機物になればいいんじゃないかと思い、それならばと無機物の気持ちになり(無機物にたぶん、気持ちは、ないが)、無機物になったつもりでつり革につかまってみたが気分がましになるわけがない。

定時ちょっと前に会社のそばに着いてしまったが、会社の建物に歩いて入っていける気がしない。電話を入れて帰宅しようかとも思ったが、そうしたら明日がもっときつくなることがわかっていた。電話を入れて、一時間遅れると伝えて、カフェに入った。

そして無機物になって編んだ。ものすごくはかどった。竹の編み棒が羽根のよう。多分カフェの中で私のいる場所だけ、ほかと気圧が違ってたんではないかと思う。私が火事場の馬鹿力を発揮していた一時間。

あんな一時間がいっぱいあったらセーター一枚なんかあっという間じゃないかと思うし、そもそも、そんな馬鹿力が出るなら仕事に活かせばよかったんじゃないかと思うけれども、現実はそうはいかない。ただ、時間が最大限濃厚に、ねっとり流れるときは、決して居心地の良いシチュエーションではないという一例だ。

一時間が過ぎると無機物は編み物をまるめてバッグに入れ、「無機物だから心はない」と自分に言い聞かせて、猫に飲まれるために会社の建物に入っていった。その後たぶんものすごく居心地の悪い時間があったと思うが、よく覚えていない。有機物は都合よく記憶を始末する。

ああいうのは、窮鼠猫を編むというか、追い詰められた時間なので、いくら火事場の馬鹿力を発揮したって別に嬉しくはない。

でも、そういう時間ばかりではない。編み物をしていると、時間がいろいろな形をとる。

歩いていけるところに、昔住んでいたアパートの跡地がある。今は取り壊されて、駐車場になっている。子どもと二人でそこに暮らしていた。保育園時代から、小学校五年生のころまで。

鉤の手の形をしていたアパートがなくなり、その分視界が開けて、向こうの景色が道から見える。自分が知っていたのとは違う空気が流れている。あそこの二階に住んでいたんだよ、と思って空中を見ながら通り過ぎる。

あそこにいたころ、たぶんそのころ、編み物の時間は粉だった。余暇はなく、あるいは余暇は分単位で、秒単位で、でも顆粒か粉末かわからないけれどもそれはたぶん一日の上に、振りまいてあった、まぶしてあった。だからうずくまってそれを拾っては、一目一目編みつないでいたと思う。

あの家で編んだものは今もまだしゃんとしていて、凝った編み方で、編み目もそろっていて、最近編んだものよりずっときれいだ。どこからこんなものが出てきたのかと思う。これを編んだのは私だろうかと思う。 

アパートだったところが駐車場になり、その先に大きなびわの木が見える。住んでいたときには見えなかった木だ。

そこに私がいた証拠など一つもなくて、その向こうで知らない大きな木がゆっくりと葉を揺らしている。足を止めてそれをじっと見ていると、来世ってあんな感じなんじゃないかと思えてくる。

私がいっとき生きて、何をやったかには全く頓着なく風が吹いている。あの木の向こう側に私が回って、こちらを見ていることを考える。

来世からこちらを見る私は、時間が均等に流れていないところを探し、そこで編み棒を持っている人を見つけたらサインを送るだろう。けれどもその人は気づかずに、今日は異様に編み物が進んだと思うだろう。時間の濃いところを踏んで明日に渡るだろう。どうして編み物をしていると時間はあっというまに経つのだろうと、編み物が生まれて以来大勢の人が思ったことを同じように思いながら。

しもた屋之噺(218)

杉山洋一

目の前には美しい夕焼けが広がっています。市立音楽院も愚息の中学校も休校しているので、隣の部屋で彼がベートーヴェン「サリエリの主題による変奏曲」を練習しているのが聴こえます。机に向かって仕事をしていて、時折イタリアの新聞サイトを開き、死亡者数が増えていないか確認します。昨日は朝1人が亡くなって以降死亡者数が増えずに少し安心していましたが、先程確認したところ、今日は既に2人も亡くなっていたと知り、暗澹とした気分が戻ってきました。コンテ首相が、イタリアは安全だ、国民は安心して、旅行者の安全も保証する、と毎日連呼しているのが、愈々虚しく響きます。それでも庭の樹の枝には臙脂の蕾が膨らみ、夜明けには鳥たちの囀りが、澄んだ空気を走り抜けてゆきます。人通りが少なくなった分、それが余計新鮮に瑞々しく感じられるのかもしれません。


2月某日 ミラノ自宅
橋本さんから演奏会の録音が届く。冒頭のチューバ音は神秘的で寺の梵鐘のよう。チューバ版は橋本さんの見事な編作の賜物で、自作と呼ぶのはおこがましい。藤田さんのピアノに、彼女の熱い想いを聴く。こんな風にチューバと正格に交われるのは、お二人の信頼関係あってのことだろうが、知らなかった彼女の姿を垣間見た気がする。深い絡み合いに耳を奪われつつ、作品の主役は実はピアノだったのかと独り言ちていた。

同日、サクソフォンの大石さんと和太鼓の辻さんの録音が届く。昨年暮れ、この作品の演奏会を聴いていらしたSさんが、ぽろりと、あれは重い内容だった、と話していたのが印象的で、録音を聴いてみたかった。
聴き手の耳自身が、広い空間の宙に浮かんで音を紡いでゆく心地がするのは、聴き手の耳が目の前の梯子を掴もうとする瞬間、その梯子がふっと消えてゆくからかも知れない。そうやって手を宙に泳がせながらも、少しずつ高みへときざはしを昇ってゆく。和太鼓は宙にぶらさがった足にそっと手を差し伸べ、次の梯子に手を伸ばそうとすると、ほんの少しその足に弾みをつけてくれる。

大石さんなら、この楽譜をどのようにでも吹きこなして下さるとは思っていたが、想像を遥かに超える空間の広がりに、愕きを禁じ得ない。和太鼓パートに、幼少から可愛がっていただいた石井眞木さんへのオマージュを籠めた。辻さんが眞木さんの作品を演奏するのを聴いて、大変感銘を覚えたのが切掛けでもあり、眞木さんを介し辻さんと知合った感謝の徴でもある。
こうした素晴らしい演奏を聴かせていただき、冥利に尽きる。交通事故で一度死にかけているので、それから後の人生は、運よく授かりし余白の時間、お負けで授かった人生と最近頓に感じる。だから、誰かにへつらい、顔色を窺いつつ生きずともと、有難く落掌した余白の人生を生き長らえている。

2月某日 ミラノ自宅
ミラノの市立学校は、音楽、演劇、映画、通訳翻訳の専門学校と4校あり、一つの財団が管理している。昨年暮れ、ミラノ市から市立学校への助成金が大幅に削減されたのに反対し、4校の学生が揃って市庁舎の前で抗議の座りこみをし、その様子はテレビや新聞でも大きく取上げられていた。一番先に解雇されそうな立場なのに、何も知らずに授業をしていて、今日は何故学生が少ないのかと訝しんでいたのだから、呑気なものだ。

月曜は朝の10時から夜8時半まで、3時間の授業を三つ立続けにこなす。17時半から始まる最後の授業は、去年開講した「音響技師科」の12人程の大学生相手、と言えども、他の学生とは違って型破りな若者ばかりの集う、愉快な授業だ。
去年教え始めたばかりの頃は、ト音記号すら読めず、歌を歌ったこともない連中相手に途方に暮れたが、何時の間にか自由で煩い小学生のような彼らと、がやがや授業するのがすっかり愉しくなった。
誰かが隣であてられて練習していても、周りは騒がしく話しこんでいるか、ヘッドフォンの音楽に合わせて身体を揺らしているかで、教師に何のリスペクトもないように見える。とんでもないクラスを引受けたと思ったが、実はやる気がないのではなく、単にそういう人種なのだった。
寧ろやる気は十分あって、順番が来れば真剣に課題に取組むし、今日も授業の後、何時もヘッドフォンを掛けて身体を揺らしている学生の一人から、「いやあ、この授業最高ですね。去年までラップのレコーディングやると、決まって後で音程の微調整やってたのに、今じゃ先生のお陰で一発、生録音でバッチリですよ。本当に信じられませんよ。先生最高!」と褒められた。

2月某日 ミラノ自宅
息子のコンピュータの充電器が壊れ、近所の電気屋に修理に持ってゆく。職業を尋ねられ音楽関係と言うと、目を輝かせ「こう見えても俺は一流の音楽家だ、この上のスタジオを見ろ」と梯子を登り、中二階に設えたミキサーのコンソールとエレキギター数本、壁にかかるゴールデンディスク数枚を自慢した。

音楽で何をやるのかと繰返し質問するので、耳の訓練などしていると言うと、彼も独自の音楽理論コースを開こうと思うから話を聞けと言う。
適当に返事を返していると、「俺にはお前の心が読める。早くこの話を終わらせろと切望しているな」と詰め寄られ、仕方なく「それは違う」と否定すると「では俺の話が聴きたいのだな」と修理したコンピュータを返さない。

彼曰く、音楽が心地よいのは、楽器が発する波動が、人間のそれと合致するからだそうで、何か根拠となるデータはあるのかと尋ねると、俺の話を信じないのか、と凄まれる。
話は終わらず「お前は偉くなりたいだろう、金持ちになりたいだろう」と畳み込まれ、「金儲けには興味がないので失礼する」と言うと、「お前が金持ちになれる方法を教えてやる」と譲らず、「金持ちになるためには、高次元の波動を集めて、高次元な波動を音から発すればよい。そうすれば、より高い次元で波動が共鳴しあって、世界中の人々を心地よくさせる。そうすればお前も金持ちになる」と力説して譲らない。

漸く次の客が店に入ってきたので、ここぞとばかりにコンピュータを取戻し、「素晴らしい話を有難う」と店を後にすると、相手も諦めず、わざわざ店先まで走ってきて、「お前になぜこんな貴重な話をしたかわかるか。俺は世界の別の場所にいる自分の心の兄弟を探している。お前なら俺の話が分かると思って、話をしたんだぜ。近々連絡くれ」と念を押される。
3日ほど経って心の兄弟が修理した充電器はすぐに壊れた。80ユーロも出したので、家人は取り替えて貰うべきだと譲らなかったが、結局通信販売で23ユーロの別の充電器を購入した。

2月某日 ミラノ自宅
プレトネフのリサイタルを聴く。シューベルト作品164のイ短調のソナタに、作品120のイ長調のソナタ。後半はチャイコフスキー「四季」。アンコールにシューベルト即興曲3番。文字通り放心状態で帰宅し、翌日もそのまま放心状態で一日を過ごす。
予定調和は皆無で、その場で音楽が生れる姿を目の当たりにする。音楽が顕れる瞬間に立ち会う新鮮さと崇高さ、そして沈黙の素晴らしさ。響きの際限ない可能性から、まるで宇宙を漂う錯覚に陥る。
人を驚かせるのは、強音ではない。これ以上の弱音は存在し得ないほど弱い、玉のように美しい弱音を聴いた後、それ以上に弱い音を耳にする、まるでパンドラの箱の蓋を開いて中を覘いてしまったかのような、現実離れした緊張感と興奮。時間の感覚を麻痺させられる音楽。
音楽を崇高に感じるのは、こういう瞬間なのだろう。宗教的高邁さとは比較にならず、それよりずっと先、遥か彼方の、命の萌芽を目の前で見るような体験。
即興曲3番が始まると、最初のアルペジオで、周りの客席から先ず一斉に深い吐息が洩れ、それから皆が低い声で、そっと旋律を歌い出した。プレトネフの音を慈しむように、本当に薄く数小節だけ旋律を歌う声が聴こえ、客席は沈黙に戻った。
一体どのように弾いたのか、冒頭の内声で耳にしたことのない音がピアノから零れてきた。輝くものがこちらに流れてくるような、ガス状の光がピアノから漂ってきたかと思いきや、何時しかホール全体をそのきらきらしたものが満たしていた。
弾き終えても客席も沈黙したまま。始まりのときと同じ、深い吐息が会場のあちらこちらから聴こえるだけだった。

2月某日 ミラノ自宅
昨日朝、市立音楽院より、学校は一週間休校とする旨のメールを受取る。
朝6時に散歩し、卵とブリオッシュ購入。朝30分ほど歩きまわるのは大分前からの日課。
学校は休み、愚息の通う中学校も休み。ロンバルディア、ヴェネト封鎖。スカラ、フェニーチェともに休演。葬式、結婚式、ミサも中止。リヨンでイタリアからの長距離バス通行止。インスブルックでヴェニス発ミュンヘン行列車通行止。モーリシャスでイタリア人の該当地域からの旅客隔離。スーパーに生鮮食品は殆どなし。ミラノのドゥオーモ閉鎖。コドーニョは街全体封鎖。株価暴落。スーパーでは、若者二人に「逃げろ!」と叫ばれ、小学生くらいの男の子をつれた父親も、慌てふためきながら目の前から走り去るが、仕方がない。先日までミラノに滞在していたSちゃんも、街で「コロナ!」と名指しされたと言う。

2月某日 ミラノ自宅
アジア人だから、人前で到底くしゃみも咳も出来ないので、ともかく健康を害さないよう過ごす。人込みを避け、夜遅く24時間営業のスーパーマーケットへ出かける。昨日より棚に並ぶ商品が少ないのは何故だろう。今朝には商品が補充されていたはずが、これだけ少ないのであれば、日中よほど市民が買い物に走ったのか。文字通り空になった棚から、最後に残るスパゲティ2袋を購う。昨日はミラノ北部で感染者が見つかり、付近のスーパーマーケットが封鎖された。その際、州の関係者が、封鎖がミラノ全体に広がる可能性を否定しなかったため、こうしたパニックが起こったと思っていたが、封鎖を正式に否定した筈の今日ですらこうならば、人々の恐怖心は未だ到底払拭されていないのであろう。
今日は息子より少し上くらいの年齢の妙齢二人が、こちらを上目遣いに見ながら、スカーフで口を覆って傍らを通り過ぎてゆく。何とも言えない心地。イタリア人からイタリア人へ感染している現在、アジア人を避けようが、口をスカーフで覆ったところで意味があるとは思えないが気持ちはわかる。11人目の死者が出て、消毒用ジェルやマスクは手に入らない。
311の時は、日本がどうなるか固唾を呑んで見守るしかなかったが、今回は文字通りピンポイントで、日本とイタリア、それもロンバルディアが当事者になった。先日は、両親の住む町田の隣の相模原駅職員が感染とニュースで読んだところで、彼らの年齢を鑑みてそちらの方が余程気懸りながら致し方ない。311の時は息子は未だ幼く、状況に怯えていたのは家人だけだったが、今回は家人の傍らで、息子も時事ニュースに耳をそばだてている。

2月某日 ミラノ自宅
朝、人気のないジャンベッリーノ通りを散歩する。
以前はユニセフ、現在は「国境なき医師団」のためにコンゴで仕事をしている、ロレンツォに誕生日祝いを書く。ロレンツォはエミリオの長男で、幼い頃からよく知っている。エボラ熱や、難民のために働く、ロレンツォや彼の同僚たちに日頃から感服している。

中世「死の舞踏」を描いた画家たちは、どれほど過酷な状況でかかる絵画を描いたのか。今回の伝染病はペストの致死率とは比較にならぬ。医学が進歩した現在でこの状況ならば、未だウィルスの可視化もままならなかった中世、累々たる亡骸を横目に、どんな思いで骸骨を踊らせ、ボッカチオは艶笑譚を書いたのか。

そんなことを考えながら、行きつけの珈琲焙煎屋に立ち寄ると、年寄りの主人が息まいている。
「全く外出禁止令なんてさっさと取っ払って貰わないと、こっちは仕事が上がったりだ。来週からは学校も何も普通に戻るそうだ。ついでにマスク着用も禁止、禁止!マスクなんぞつけて外を歩くと、何十万の罰金だとさ。マスク着用じゃあどんな悪党でも見分けがつかない。物騒で仕様がないさ。昨日も銀行の受付が言っていたが、昨今誰でもマスク着用で皆銀行に入って来るが、そりゃあ不気味で仕方ないらしい。彼だって、いきなり目の前でピストル取り出されてズドンじゃあ堪らないよ」。そう言って、豪快に笑った。

2月某日 ミラノ自宅
死亡者数は14人になった。ミラノ行のブリティッシュ・エアウェイズは乗客が殆どいないので、暫く休止とのニュース。ロンバルディア、ヴェネトからの旅客は、ヨーロッパや世界各地の空港で隔離措置や経過観察などの措置。封鎖されているコドーニョの事業者たちがテレビで、事業の再開許可を強く求めている。経営破綻が目の前に迫っている、政府の下支えが必要と力説している。日本からの留学生にメールをして様子をたずねる。幸い全員健康と聞き安心する。
ミラノのサッコ病院の研究者ら、コドーニョの患者4人から採取したコロナウィルスの病原分離に成功とのニュース。近日中にワクチン開発が始められるが、実用化には手順が嵩み時間がかかる、とある。新聞を読み返すと、死者は3人増え、17人になっていた。

ミラノ・アレッサンドロ・ヴォルタ科学高校(liceo scientifico Alessandro Volta)ドメニコ・スクイッラーチェ(Domenico Squillace)校長より、学生父兄宛の手紙。
「”ドイツ軍がミラノにペストをもたらすのではと保健当局は危惧していたが、ご存じの通りペストはミラノにやってきた。よく知られるように、それどころかペストはイタリアの大部分を侵し、人々をなぎ倒していった。”
これは「いいなづけ」(Alessandro Manzon: I Promessi Sposi邦題「いいなづけ」「婚約者」。マンゾーニの不朽の名著)第31章冒頭の言葉です。この章では続く章とともに、1630年ミラノを斃したペスト伝染病の描写がつづきます。実に啓示に富み、驚くほど現代的な文章ですから、この混乱した日々のなか、心して読むことを奨めます。これらのページには、外国人の危険性への偏見、当局間の激しい諍い(首相と州知事との軋轢が話題になった)、(今回イタリアに病気を持ち込んだ)第一号患者の病的なほどの捜索劇、専門家に対する侮辱、(中世ペスト塗りと呼ばれた)ペスト感染者狩り、言われなき風評、もっとも馬鹿げた治療、生活必需品の掠奪、保健機構の緊急事態など、全てが書かれています。これらのページを捲れば、Ludovico Settala 、Alessandro Tadino(両者ともペスト治療に尽力した高名な医者)、Felice Casati(ペスト流行時Lazzaretto院長だった高僧)のように、わが校周辺の通りに名が冠され、みなさんもよく知っている名前にも出会うでしょう。何よりわが校は、ミラノLazzaretto(伝染病患者収容施設としてヴェネチア門から外に建設されていた)地区の中心に建っているのですから、こうして綴られた言葉は、マンゾーニの小説からというより、わたしたちの日々のページから飛び出してきたようですね。

みなさん例え学校が閉まっていても、わたしはこれだけはお話したい。わたしたちの世界は、昔からずっと同じことを繰返してきました。わたしたちの高校は、規律を貴び、落着いて勉学に励むべき学び舎であり、今回のような関係省庁からの、異例な学校閉鎖通告に従うのは当然です。わたしは専門家ではありませんし、専門家を偽るのも嫌ですから、当局の今回の措置について、個人的意見を述べるのは避け、彼らの対策を尊重し、全幅の信頼を置いて、彼らからの助言を注意深く見守ってゆきたい。わたしは、皆さんが冷静沈着につとめ、落着いて行動し、集団心理の過ちに陥らず、細心の注意を払いつつも、ぜひごく普通の生活を続けてほしいと願います。
どうか、この時間をぜひ有効に役立ててください。家から出て散歩をし、良書に接してください。みなさんが健康ならば、家に閉じこもる必要はありません。スーパーマーケットや薬局に押し掛ける理由はないのです。マスクは苦しんでいる患者さんたちに譲りましょう。彼らにこそ必要なものです。今日、地球の端から端まで、この病気の伝わるめざましい速さは、わたしたち自身が作り出したものであり、それを阻める壁などありません。その昔も、伝播する速さが多少緩慢なだけで、等しく伝わってゆきました。

マンゾーニや、彼よりむしろより力強くボッカチオがわたしたちに教えてくれること、それはこうした出来事で社会生活や人々の繋がりに毒が盛られ、市民生活がより粗野になることです。
目に見えない敵に脅かされていると感じると、わたしたちの身体に走る本能が、どんなものも敵であるかと見誤らせてしまいます。危険なのは、わたしたちとまるっきり同じものでさえ、まるで脅威のように、潜在的な攻撃者のように見せてしまうのです。
14世紀17世紀の伝染病と比べて、わたしたちには現代医学があるのを忘れないでください。医学の発達や精度を信じてください。理性的な思考を使おうではありませんか。医学とは、わたしたちの最も尊い財産、つまりこの社会やわたしたちの人間性を守るために生まれたものです。わたしたちに今それが本当にできないのであらば、ペストが本当に勝利したことになるでしょう。
では近いうちに。みなさんを学校で待っています」。
https://www.corriere.it/scuola/secondaria/20_febbraio_26/coronavirus-cari-ragazzi-leggete-manzoni-boccaccio-non-fatevi-trascinare-delirio-59cd3726-5869-11ea-8e3a-a0c8564bd6c7.shtml

(2月28日ミラノにて)

追伸
3月1日朝現在。死亡者29人。感染者1000人を超え、現在まで50人回復。アメリカで初の死亡者。トランプ大統領がイタリアのレッドゾーン(ロンバルディア、ヴェネト、エミリア・ロマーニャ3州)へ渡航を控えるよう発表。アメリカン・エアラインス4月24日までミラノ便休止。昨日のAA198ミラノ便はJFKから発つはずが、乗務員がコロナウィルスを理由に搭乗拒否。今日のアリタリア便で帰国予定。イタリア人がニューヨークなどで酷い扱いを受けている、との告発記事掲載。イタリアレッドゾーンから世界各国への渡航が困難になりつつある。
レッドゾーンの各学校はなお1週間休校決定。ミラノ工科大など、インターネットでストリーミング授業を再開予定。
医療関係者不足を解消するべく、ロンバルディア州は、現役を退いた医者の招聘検討。コドーニョなど封鎖された街での医療環境の急激の悪化をはじめとして、数日前から医療関係者が感染、隔離されて、各病院での医療に支障を来している。「いいなづけ」31章の描写は、現在のミラノを彷彿とさせる臨場感と緊張感に満ちている。(3月1日ミラノにて)

感染症

高橋悠治

コロナウィルスの感染症拡大で 3月に予定されていたリサイタルは7月に延期された 4ヶ月の練習期間ができた と言っても 演奏がその分よくなるというよりは ちがうアプローチや 思わぬ発見があればよい 

街も人通りがすくなくなっている 公共のイベントは中止が多い 自由業には打撃で 主催者が払い戻す手間と損失はどうなるのか 日本の政治家は毎晩宴会でやりすごすのだろう

この際アルベール・カミュの『ペスト』を読み返そうかと思ったときは 図書館でもすべて借り出されていた 本屋でも売り切れらしい 薬屋ではマスクだけでなく ティッシュペーパーの棚も空になっている マスクは予防にはならないと言われても 不安だから みんなとりあえずかけているのだろうし 日本では他人の眼があるから うっかり咳もできないだろう

「感染症の歴史」wiki を見ると アテーナイの天然痘と推測される病気の流行から 今の感染症にいたるまで 文化が盛りを過ぎ 下り坂になったとき起こるのか それとも 感染症は 文化が発展し 世界的になる裏側にある危険なのか 人間はひとりでは生きられない動物だから 何回も疫病が起こり 治療費が払えない人たちから犠牲になる 疫病の後は 社会が崩壊したり 戦争が起こった 2018年には豚熱があり 2019年には鳥インフルがあった 次が新型コロナウィルスの流行だが これらは無関係だと言えるのだろうか

閉ざされた空間でも 人が多く集まる場所でも 感染するのなら どうすればよいのか テレビでは 公園のベンチで 人から離れてひとりでいるのは安全 と言われていた 年金生活者の老後のような話だね ツイッターでは ヘイト発言がひろがっている それも崩壊の兆候なのか

2020年2月1日(土)

水牛だより

立春が近い今日、午後のあたたかい陽射しは窓ガラスを通して部屋をふんわりと暖かくしてくれました。外に出ると、やはり2月らしい冷たい風が吹いていて、おお寒い!

「水牛のように」を2020年2月1日号に更新しました。
「製本かい摘みましては」に書かれているオーディオブックは、カセットテープの時代からたくさん売られていました。ひとりで長いドライヴをするときにかけっぱなしにすると楽しいよ、と言う友人がいて、なるほどと思いましたが、車の免許は持っていないので、そういう機会はありませんでした。目が見えるうちは文字を読むとして、その後の楽しみもたくさんあるわけです。そのときに耳がだいじょうぶかどうか、それは保証の限りではありませんが。。。

カレンダーをめくると、今月は29日まである。いまさらながらに4年に一度やってくる日付をじっと見つめました。そしてオリンピックは中止になりますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

製本かい摘みましては(152)

四釜裕子

月に一度、原稿を受け取りながら会っていたひとに30代の終わりに失明していた方がいる。本でも雑誌でも映画でも耳で読んで観ていて、その量たるや、すごかった。人工透析のあいだは、お気に入りのアナウンサーが朗読するものをおもに聞いていたようだ。ほとんどは一度しか聞かないというのに、読んだものについていつもおもしろくこまごまと的確に話してくれた。「目で読むほうが、そりゃあ速いですよ」と言うのだけれど、スピードというのはこの場合もつくづくどうでもいいことだと思った。映画『シン・ゴジラ』を観た直後に会ったときには、往年のゴジラマニアとはいえストーリーのみならずビジュアルにいたるまで、こちらがまったく気づかなかったことまで教えてもらった。確かゴジラ好きのひとによる音声ガイドを聞きながら都内のユニバーサルシアターで観たと言っていた。あのひとの記憶力と読解力はやっぱりイジョウだったかもしれない。音声ガイドのひともかなりイジョウな能力の持ち主と思う。イジョウの2乗は最強。

そのひとが急逝してまもなく1年になる。透析のあいだ好んで聞いていたという朗読をネットで探すうちに、Audibleのサイトに行き着いた。オーディオブック系のサイトをのぞくのは久しぶり。ずいぶんいろいろなジャンルが出ている。落語もある。ニュースやヨガ、ラジオの番組もある。そうか、みんな「オーディオブック」でもあるわけか。「NHKラジオ深夜便」のコンテンツもある。花山勝友さん、鎌田實さん、安保徹さんなど、1時間弱の人気のインタビューだ。Audibleの「ヒストリー」を見ると、セントラルパークをカセットテーププレーヤー片手に長年ジョギングしていたドナルド・カッツさんが、ネット上でのデジタルファイル変換にたどりついて1995年にAudibleを設立。1997年に世界初のポータブルデジタルオーディオプレーヤーを発売して(スミソニアン博物館に保存)、2008年にアマゾン組となる。2015年に世界で6番目の国として日本でもサービス開始、2018年からダウンロード形式になったようだ。日本ではほかのオーディオブックもだいたい同じころに始まったのだったか。

サンプルもたくさん用意してある。聞いてみた。『人生がときめく片づけの魔法』はささやきボイス。『留学しないで英語の頭をつくる方法』は人工音声みたいな肉声。『ハリー・ポッターと賢者の石』は演劇調。『理由』は「……であった(ha~)」みたいに語尾が無声で伸びるタイプ。『コンビニ人間』がいい。朗読は大久保佳代子さん。聞きながら最寄りのコンビニが頭に浮かぶ。バイトはほとんどアジア系の留学生でみんな優秀。先月レジでわたしの前にいた観光客が無茶なお願いをしていたので「大丈夫だった?」と声をかけたら、笑顔で「シカタナイデスネ」。うれしくなった。都心でよく行くコンビニはむかしの女教師みたいな店長の声かけ指導が徹底していて、バイトの留学生が「いらさいませ」「ありがとざいます」となってしまうのに心をいためているのだけれど、ここはそういうことがないのもいい。

『コンビニ人間』の朗読はサンプルなので5分だけ、主人公が子どものころに、死んだ青い鳥を食べようと言ったあたりまでだった。ナレーターのコメント欄にあった「8回くらいクスッとくる」には遭遇しなかった。詩もある。雰囲気たっぷりだったり音楽をつけたりして過剰なものが多い。『Becoming』は、著者のMichelle Obamaさんが読んでいる。とにかく読み手がいろいろだ。

作家と作品と朗読者による舞台、そこに聞き手として加わるのは楽しい。ところがその舞台があまりにも完璧で、作品と声がもはや分かちがたくなることもある。わたしにとってそれはたとえば、石澤典夫さんの声と夏目漱石「夢十夜」(なかで特に〈日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。ーー赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、ーーあなた、待っていられますか〉)と、高橋悠治さんの声と北園克衛「熱いモノクル」(なかで特に〈まづいピアノを弾く〉)。分かちがたいというよりは、乗っ取られたという感じすらする。作家1、作品1、朗読者1という舞台を聞き手は頭でいつでも勝手に独占する。

あのひとの頭のなかは、本も雑誌も映画もなにもかもがこんな舞台でいっぱいだったのかと改めて思った。体の端々まできゅんきゅんに詰まっていたのだろうと思った。