歩けないきみが

管啓次郎

歩けないきみが歩くことを決意して
まず心で歩き出す
話せないきみが話すことを決意して
まず心で声を出す
きみの筋肉はすべて麻痺し
呼吸も人工呼吸器に頼るしかない
食べることがむずかしいので
胃に直接、流動食を流し込む
それで生きてゆく
溌剌と生きている
まばたきはする
笑顔は作れない
歯を嚙むわずかな力を使って
コンピュータに文字をしめさせる
でも心はいつもフル回転
生きることの意味を問いながら
日々の暮らしを戦いながら
奪われた者たちに無言で呼びかけるのだ
生きることを権利として試みようと
歩けないきみの体が魔法のじゅうたんに乗って
議会へと飛んでゆく
話せないきみの声が鳥の群れとなって
声なき人々に戦いを呼びかける
社会が強いるあらゆる障壁を
乗り越える意志がまたたく
きみの道はまるで流星の道
しずかな銀色の細くてたしかな線が
荒れはてた首都に別の風景を作り出す
大きくカーヴした時間の先に
別の未来を作り出す
歩けないきみが歩き出すとき
話せないきみが声をあげるとき
世界が変わる

【ダブ・ポエトリーとしてハミングバード制作のトラックに載せ、2019年7月27日、カフェ・ラバンデリアにて初演。】
 

ヒマラヤ

璃葉

とあるきっかけで、5月中旬に大田区池上本門寺旧参道にオープンした“SANDO BY WEMON PROJECTS(さんど・ばい・ゑもん・ぷろじぇくつ)”というスペースで手伝いをしている。一人の建築家とアーティストユニットによってつくられたこの空間は、コーヒーショップ、喫茶、ふらりと立ち寄って一杯飲むためのパブとして使える、ゆるい時間が流れる風通しのよい場所だ。イベントの企画や独自のメニューを作る傍ら、カウンターの中でコーヒーやラテを温め、ときにはウイスキーのソーダ割りをつくりながら、来てくれた人たちや働いているみんなと話す。店のつくりもメニューの内容も、どこか未完成のような雰囲気が漂っているのは、最初から型にはめず決めつけず、日々変化しながら植物のようにニョロニョロ根を張って、徐々につくられていく空間だからなのだと、勝手に解釈している。

お店の営業が終わったあと、みんなで近所を徘徊し、ご飯を食べるときがある。池上は静かな街だけれど、とにかく個性的ですばらしいお店がひっそりと隠れている。そしてついに、毎日通いたいぐらい最高のお店を見つけてしまった(現に3日連続で通った)。ネパール薬膳家庭料理屋「ヒマラヤ」だ。

その小さな空間に初めて足を踏み入れたとき、日本とは思えないただならぬ空気と漢方みたいなスパイスの香りに、とんでもないところ(もちろんとても良い意味で)に来てしまったと感じたのを今でも覚えている。

お店を仕切っているヘマさんはネパールの山間部出身。元気いっぱいで、いつもツヤツヤの笑顔で出迎えてくれるのがうれしい。彼女しか作ることのできないオリジナルレシピにはたくさんの野菜と、厳選したネパールの蜂蜜や塩、ギー、貴重なスパイスがふんだんに使われている。油はほとんど使用していないらしく、とくに数十種類のスパイスとたっぷりの野菜を煮込んだカレーの味はしっかり濃いのに、とても優しい。この味をなんと表現したらいいのかわからないぐらい、何層もの深みがある。

食べ終わるころには身体のなかにある車輪が鮮やかな色になってまわりはじめ、中心から末端にかけて、芯からあたたまっていく。

地方からこの味を求めてやってくるお客さんがたくさんいるそうだが、それを手軽に食べられるこの状況は、陳腐な言い方だけれど、もはや運命としか言いようがない。一緒に食べているみんなの顔もすっかり幸福感に包まれて、とろけそうになっていた。池上との縁は深くなりそうだ。


犠牲祭(イドゥル・アドハ)

冨岡三智

犠牲祭(イドゥル・アドハ)は世界中の人々がメッカを巡礼する大巡礼の最終日を祝う行事で、イスラム教徒にとっては断食明けの大祭(イドゥル・フィトリ)と同じく重要な祭日だ。インドネシアでは祝日で、各町内会ごとに集まって供出されたヤギやウシなどの生贄を自分たちで殺し、皆で肉を分け合い、調理して食べる。今年の犠牲祭は8月11日で、その後には独立記念日(8月17日)も控えているから、今年のインドネシアの8月はとても賑やかになりそうだ。

さて、私が初めて留学した1996年の犠牲祭は4月28日だった。イスラムの祭日はイスラム暦(1年354日)に従うので、西暦で言えば毎年約11日ずつ早くなる。つまり、この23年の間に4月、3月、2月…12月、11月…とどんどん前倒しになって、今年は8月になったというわけなのだ。留学当時の日記が見つかったので、今回は1996年4月28日の犠牲祭の思い出について書いてみる。

私は4月13日には一軒家に引っ越していたが、犠牲祭の日はそれまで住んでいた宿のあるRT(町内)に見に行った。宿の従業員が、このRTは全戸がイスラム教徒だから犠牲祭はにぎやかだよ〜、おいでよ〜と誘ってくれたのだ。一方、新しく入居した家のRTの住人はほとんどキリスト教徒だったようで、特に町内では何もやらなかった。

朝9時から始めるというので行く。この町内は1つのガン(小路)を挟んだエリアである。このガンから大通りに出る手前にある排水溝の大きな蓋(コンクリート製)が開けられ、ホースが引かれていた。ここで屠殺するようだ。そして、小路にはヤギが10頭近く、牛も1頭つながれている。これらは住人らが供出したもの。持てる者は分に応じて持たざる者に施しをするのがイスラムの教えなのだ。だから、犠牲祭の数日前になると、急に街にヤギを売る人・買う人が現れる。ヤギ相場も値上がりするようで、お金に余裕がある人は少し前からヤギを仕入れておいて、犠牲祭直前に高値で売るようだ。私の日記には生後4〜5年の小さ目のヤギが11万ルピアというメモが残っている。ちなみに、当時のレートは1ルピア=約20円。私の宿滞在費半月分の値段なので、庶民にはそれなりに大きな金額である。

さて、ヤギから屠殺が始まるが、肉屋ではなく地域の住民が手がけていることに驚く。ずっとお祈りを唱えている小さい子供たち(小学生低学年までくらい)に囲まれて、大人の男性がヤギの頸動脈を切り、血を排水溝に直接流す。子供たちと違って、私は怖くてその瞬間をどうしても正視することができなかった。その現場が見えない所につながれているヤギも自分の命運を察知し、順番が回ってきても抵抗してなかなか動こうとしない。屠殺されたヤギは木の枠にぶら下げられて解体が始まり、皮が剥がされ、肉や内臓が取られて骨だけがきれいに残る。皆とても手慣れていて、作業がてきぱきと進む。

解体の力仕事は男性がやる一方、内臓や肉のブロックを小さくしたり調理したりするのは女性。私も1頭分だけヤギの腸を伸ばすのを手伝うことにした。とはいえ3人がかりである。大きなざるに腸の塊が1頭分載せられてくる。塊に手を当ててみるとまだ温かい。さっきまで生きていた証。不思議に怖いとは感じず、命をいただく愛おしさを感じる。1人目がそのくねくね曲がった腸チューブをつまんで塊からはがし、しごく。2人目と3人目はそのしごかれたチューブを受け取ってさらにしごき、腸内の内容物を押し出してきれいにする。肛門に近い辺りでは内容物は全部コロコロした糞に変化してぎっしり詰まっている。1頭だけ…と気楽に考えていたが、腸がものすごく長いことに気づき、嫌気がさしてきた。いま調べたところ、ヤギの腸の長さは体長の25倍あるらしい。ヤギの体長は1〜1.5mだから、腸の長さは約25〜35mとなる。うろ覚えだが、2時間くらいひたすら腸をのばしていた気がする。

ヤギやウシの赤身や内臓は持ち帰り用に秤で測って分配される。それ以外にその場でヤギ肉の煮込みが調理され、皆で食べた。全部の解体と下ごしらえ、調理が終わって食事にありつけたのは2時過ぎだったと思う。暑さと周囲に充満する肉の匂いと空腹で頭がぼーっとしていたことを思い出す。こういう経験は1度で十分だというのが正直な感想だが、それでも経験できてよかった。命をいただいて食べることの重さを、私は腸の重さとして実感することができた…。

灰いろの水のはじまり(その5)

北村周一

ここで、気をつけなければならないことがあります。

こういってしまっては、元も子もないのですが、所謂グレイと呼ばれているはいいろには、灰色と、灰いろの、ふたつの種類があるのです。

いままで扱ってきたグレイは、むろん後者の灰いろのほうです。

それに対して、前者のほうの灰色は、白に黒(または黒に白)を混ぜ合わせてつくった、極めて純度の高い、文字通りのはいいろであります。

白と黒との二色によって得られるグレイのヴァリエーション(グレイ・スケール)は、ほかのどんな色とも相性がよく、その組み合わせによる混合(配合)技法は、滑らかで安定した色彩を表現できる可能性を広げたといわれています。

市販のプリンタを例にとってかんがえてみましょう。

黒のインクと、ほかの有彩色たとえば青系、赤系、黄色系三色のインクを備えた機種があるとします。このような機種の場合には、グレイをつくるのに都合全四色を混ぜ合わせることになります。

そのために、グレイの色合いが一定せず、結果的に青味がまさったり、赤味が増してしまう傾向が避けられませんでした。

つまり、安定した色彩のグラデーションを得ることができないということになります。

とはいっても、いまどきのデジタル印刷の場合には、当然のことながら、ドット(点)とドット(点)との重なり(離れ)具合によって、全体の色の階調を整えているのですから、今回のワークショップのように、絵具を溶かしながら混ぜ合わせるといった、いわば古色蒼然としたえがき方は、もとより計算外のことでしょう。

それでも不安定なグレイという色は、デジタルにとっては扱いにくるしむ色のひとつということになるようです。

さらにいえば、白のインクがはじめから用意されているわけではありませんから、必然的に白の色は用紙の白色系をベースにするしかありません。

グレイ・スケールからは若干話が逸れますが、筆を手に和紙に墨をつかって描く(書く)伝統的な技法も、白(和紙)と黒(墨)による灰色の展開といえなくもないかなと思っています。

もっとも、和紙を含めた墨の濃淡は、やや有機的な艶やかさを秘めているために、一口に灰色とはいいがたく、鼠色のほうがふさわしいかもしれませんが。

さて、白と黒との混合によるはいいろ、さらにそのヴァリエーションを、灰色と呼び、ほかのさまざまな色彩による混色を灰いろと呼ぶことにした経緯は、以上のとおりなのですが、パレット灰いろ作戦との関連がらみにかんがえ直してみると、はいいろを、灰色と灰いろの二色に厳密に分けることは、それほど有効な手段ではないかのように思えてきます。

実践では、黒はともかく、白は重要な役割を担っていましたし、もし純正のグレイがあれば、利用した人もいたかもしれません。

とはいえ、パレット灰いろ作戦は、思わぬビッグなプレゼントを落としてくれました。

前回からのくり返しになりますが、・・・

しかしながら、テーブルの上に目を移すと、各人一個ずつあてがわれていた筆洗用の透明のプラスチックカップの中の水が、なんと灰いろになっているではありませんか。

微妙にそれぞれ色合いが異なっているといっても、総じて灰いろに間違いありません。

参加者12名、十二色の灰いろが、目の前のテーブルの上に並んでいたのでした・・・。

それぞれの、えがき終わったばかりのキャンバス上の灰いろ絵具と、卓上の筆洗用の透明なプラスチックカップの中の灰いろの水とは、決して同じではないにしても、少なくとも作者は同一といわねばなりません。

テーブルの上には、むらさきがかった灰いろもあれば、きらきらとピンクめいた灰いろもあり、まったく同じような灰いろは一つとしてありませんでしたから。(つづく)

帰国記(2019年)

福島亮

6月末から7月いっぱいまで日本に一時帰国した。一時帰国なのだから、意識としては「帰る」という動詞がしっくりくるのだが、困ったことに、その一時帰国が終わって留学先のパリに「戻った」時も、やはり意識としては「帰る」という動詞がしっくりきてしまった。要は帰る場所が二つあるということなのか。実際、羽田空港に降り立ち、スーツ姿の人混みやピカピカと光る電光看板の重なりにぼくはどうしようもなく「帰ってきた」感覚を覚えた。新宿駅東口、新宿通りを通って紀伊国屋書店に行き、そのまま真っ直ぐ進んで明治通りとの交差点に出るあたりの都市の風景(それは風景なのか?)は、どういうわけか懐かしかった。いや、待てよ、そんな東京への懐かしさも、結局はよそ者の心情が形を変えて姿を現したものかもしれない。というのもぼくは群馬県出身で18歳で東京に出たから、「帰る」のは東京ではなく群馬のはず。でも、群馬に帰ってもあまり懐かしいとは思わない。むしろ実家に帰るという行為はぼくの場合、近親者の病気や死の記憶と結びついていてあまり心地いいものではない。今でも高崎線に乗って籠原を過ぎたあたり、深谷、岡部、本庄と続く駅の名前を車内アナウンスで聞くと胸がザワザワする。東京へ、東京へ、だが、いつの頃からか口にしていたその土地から離れ、今度はパリに舞い「戻って」きてみると、どういうわけだか、空港から住まいまで運んでくれるB線の汚れた車両がやけに親しいものに思えたりもする(まだ10ヶ月程度しか住んでいないのに)。ここでもまた、所詮はよそ者が抱く郷愁にすぎないのか。そんな自問を繰り返しつつ、この二重の帰国の際に感じた変な気持ちを記しておこうと思う。

日本に帰国してしばらくしてから原因不明の高熱が出た。伝染病か? はたまた久しぶりに食べた刺身がいけなったのか? よくわからないが、日本を出る時に健康保険を抜いていたぼくは医者にかかるのも気が引けて、原因もわからないまま滞在先の連れ合いの家で寝てすごすことになった。悲しいことに、この高熱こそ今回の帰国の思い出である。

ヴァンサン・ランベールの死を伝えるニュースが飛び込んできたのはそんな時だった。日本ではあまり大きく報道されていないようだけれど、フランスでの生活が開始してからずっとぼくが関心を持っていたのは彼についてのニュースだった。特に5月、6月は彼をめぐる「裁判」のことでもちきりだった。2008年に不慮の事故で「植物状態」になった彼の延命治療を巡って彼の両親と彼の配偶者が対立するという未聞の裁判をフランスのメディアは連日のように取り上げていた。一時は治療継続を望む両親の側の「勝利」とも思われたが、日本の最高裁にあたる破棄院は延命治療の停止を認め、7月2日、彼への水分・栄養の供給が停止された。そして11日、彼は逝った。42歳だった。一人の人間の生命が、裁判で争われ、しかも当事者のランベールは法廷で言葉を発することもできず、無言のまま合法的な死を受け入れるしかなかったのである。水分と栄養を断たれた人間の肉体が残された脂肪を燃やし、燃え尽き、その生命活動が停止した後にゆっくりと体温が失われていくありさまは想像するだけでも苦しい。熱と軽い頭痛を感じながらベッドで寝ていると、ふと、幾万の合法的な死を受け入れざるを得なかった者たちの絶叫が遠くの方でしたような気がした。それは熱がもたらしたまぼろしだったのか。

熱が引いた。それからは人と会ったり、お酒を飲んだりして過ごした。今年は変な夏だ。いつまでも梅雨が明けず、肌寒いような日もあった。18日が過ぎ、19日頃から暑くなり始め、夏だと勇んでクーラーをつけたのがいけなかったのだと今は思う。20日の夜、またしても高熱が出た。翌日は昼間から人と会う予定があったから、どうにか市販薬で熱を抑えた。が、結果として22日の夜から扁桃腺が腫れ始め、23日にはほとんど声が出なくなった。困った。病院に行けば良いものを、それをせずに、大根や生姜やレモンを蜂蜜に漬け込んで飲んだのだが、こと既に遅し、一緒に暮らしている連れ合いにも風邪をうつしてしまい、残り少ない日本滞在は二人して喉の痛みと闘いながら過ごす羽目になった。こうして一時滞在は最終日を迎えた。

日本からフランスへ帰る飛行機がふわりと宙に浮く。見送りにきてくれた連れ合いは今頃帰りの電車の中だろう。ふと、遠くの方で無数の絶叫がこだましたような気がした。幾人もの人たちが今この瞬間に死んでいるなか、空の高みへ、高みへと昇っていく飛行機に無数の生者たちが乗っているのが不思議に思えた。誰の詩だったか、飛行機に乗る無数の足を幻視した詩があったような気がする。その詩をぼくは暗唱できるわけではないのだが、空の高みを無数の足の群れが滑ってゆくイメージだけは鮮明に覚えている。記憶の中にイメージだけを残して忘れられた詩人、彼が見たものは本当に生きている人間たちの足だったのか。あるいは空の高みへと消えていかねばならなかった者たちの足だったのではないか。

パリに着いたのは明け方だった。日本で報道されていた熱波はどこに行ってしまったのだろう。明け方のパリの街は涼しく、どこかひんやりとしていた。住まいに着くと、顔なじみの掃除人のおばさんが歓声をあげて出迎えてくれた。どこにでも自分はいていいのだ。そして、どこにでも今は帰ることができる。それはいつまでも隠れん坊をして遊んでいる子どもの歓喜と不安に近い心境かもしれない。いちぬけたをすれば帰れる。でも、もう隠れ家に帰ることはできない。あるいは、見つかりたくない、しかし、このままずっと見つからなかったらどうしよう。声を発しようか、鬼さんこちら。もしかしたらみんな帰ってしまったかもしれないから。そんな不安と喜びが入り混じった変な気持ちを抱きながら、夏だというのになぜか涼しい部屋でぼくはこの帰国記を書いている。

人間の尊厳(上)

イリナ・グリゴレ

八歳の時、団地の長い暗い回廊が私の舞台になっていた。雨が降るたびに屋根から壁に流れる黒い液体やカビの匂いは、引っ越したばかりの時から気持ち悪かった。それは草のようなものが生える感触だった。あの団地では生きているものはカビしかなかった。暗かったからあの回廊を通ると目が刺される気がした。そこで私は、ある日突然バレエの練習をはじめた。バレエといっても、裸電気の下の無茶な踊りに過ぎないが、私にとってそれは団地で暮らした日々の中で一番気が晴れる時間だった。

社会主義が解体して、テレビが自由(本当の意味での自由かどうかまだ分からないが)になった。海外の番組もはじめてみた。しかし、テレビと言えば、私の覚えている最初のイメージは、やはりチャウシェスクが殺された映像だった。あのシーンは全国民がテレビで見たはずだ。世界もそれを見ただろうが、私たちはまだ外の世界からとても遠いところにいた。

毎年クリスマスごろになると、いまだにチャウシェスク夫婦の裁判と射殺シーンが流される。そのたびに、一連の動きが映画のように細かくカットされる感覚に変わる。何回も見ているうちに、次第に映画のように見えるようになるのだ。チャウシェスクの声とエレナ夫人の言葉は全部覚えてしまうし、仕草やまなざし、拳銃の音やリズムなどが、すべて自分の身体に染み付いていく。彼らは最後の最後まで、何十年にもわたるパフォーマンスを止めなかったのだ。

日本で突然出遭った人と世間話をした時、私がルーマニア出身と知ったら「貴方の国も最高のパフォーマンスを世界に見せたね」と言われた。そのシーンのことだとすぐ分かった。世界は見たかっただろう、こういうものを。遠い昔、ここはデュオニュソスの地だった。世界にパフォーマンスを見せないわけにはいかない。でも、その後すぐに観客は立ち去り、ステージは空っぽになった。流された血がリアル過ぎだった、と感想を漏らした。チャウシェスクを打倒したあの革命の時、若者らは自分の命が奪われても、ステージに立って、己の役を演じ切った。

社会学者のゴフマンが言ったとおり、日常はパフォーマンスであり、世界は大きな結婚式だ――この場合は葬式か。私は、たまたまそのような場所に生まれた子供だった。

はじめて、テレビでバレエを観た時のことを覚えている。こういう類のパフォーマンスの日常を生きていた時、フランスのアルテというチャンネルがケーブルで繋がった。白い、軽いバレリーナの身体は、私に特別な印象を与えた。こんな軽い身体をもっている人がいるなんて。踊りの演目はぜんぜん分からなかったが、バレリーナの身体だけ興味深かった。それはとびぬけて白く、自由な人たちはこんなに軽い身体をもつのかと思い始めた。

バレエをテレビで見たあと、団地の回廊で真似し始めた。父の母は昔、布を作る工場でずっと働いていたから、家にはきれいな白い布の端切れがいっぱいあった。だれも使わないキラキラした布。私は自分の身体に巻いて衣装を作る。バレリーナというより古代ローマの貴族の奴隷みたいになったけど、その衣装でずっと何時間も暗い回廊で踊っていた。暗がりのなか、私の巻いた白い布が光っていたと勝手に思った。そして、新しい夢が見えた。そうだ、私はバレリーナになるのだ。だが、現実はいくら白い布を巻いても、私の身体が暗みの中に浮かぶだけだった。

その年のうちにその夢は完全に潰された。いま考えてみれば、環境が違いすぎたのだ。社会的な格差もあったが、私の身体はもっと深いところで何か非常に重い物に引っ張られたようだった。街中の団地に引っ越しても、家族そろって他所から引っ越して来た、ただの田舎者だった。悪い意味ではなく、ただ、町の暮らしに身体が慣れるまで何年もかかるのだから仕方ないのだ。団地特有の狭くて薄暗い空間に自分の身体が絞られるような感覚、息が出来ない感覚が毎日のように感じられた。

団地があったのは社会主義の名残を残した小さな工場だらけの町なので、大学に上がるまでオペラやバレエの上演がある劇場や映画館に出かけたことが全然なかった。今にしてみれば、あれは宗教とアート、尊厳を奪ったら、その人間に何が残るのかという、一種の社会実験だったのかとさえ思う。

母と父は経済的な余裕がなかった。二人とも生きるのに必死だった。母は朝から肉と牛乳の行列に並び、父は工場の仕事にすべてのエネルギーを使い果たすような毎日だった。ある意味、私たちは日常生活そのものをパフォーマンスとして生きていた。父は毎晩遅く工場から帰ってきて、顔は真っ赤でアルーコルの匂いがした。そしていつも何か叫んでいた。私と同じく彼にも潰された夢がたくさんあったのだ。

家族では毎晩、壮大な劇が演じられた。物が割られ、服が破られ、壁に酒瓶が投げ付けられる。それが朝まで続く。

父が働いていた工場は、街で最大のものの一つだった。一回その仕事場を見に行った時、チャップリンの『モダン・タイムス』を想起させる不気味な雰囲気があって、正直とても怖かった。人間が機械を支配しているのか、それとも機械が人間を支配しているのかわからない。それはとても微妙な関係が生まれているような空間で、身体に染み込んでくる。オーウェルの『1984』の雰囲気がよく当てはまる。

私が言いたいのは、そのような工場が本当に存在していたということだ。そして、そこで働かされていたのは、私の父みたいな肉体を持っている生の人間だったのだ。工場は子供の目線から見ると、人間と機械が混ざった、豚の内臓のような無茶苦茶な空間に映った。解体した豚を一度みるといい。内臓と血の塊の中からまだ温かい、死んだばかりの生き物の湯気が立ち上る。

私にとって、工場の機械も生物の器官として理解できたが、やはり豚が生き物なのに対して、あの中の鉄塊が恐ろしいものの内臓としか見えなかった。父は仕事服を着て、自慢の顔でその化け物のような機械を紹介する。父はプロパガンダ映画に出ている若手エンジニアの像そのものだ。工員の顔を観るのはとても好きだった。そこで働いていた人たちは父と同じ、田舎出身だった。辛かっただろう。川と森の代わりに機械を見守る毎日。社会主義国家に生まれ、完全に計画経済の子だったため、工場は彼らの身体を支配し続けた。父は良く頑張ったと思う。私はそのようにはなりたくなかったから、私の身体があらゆるものにたいして抵抗しつづけた。言葉を完全に失うまで。

毎晩、父が暴れるたびに、私の身体は動かなくなった。ひとたび傷つけられると、身体がまったく反応しなくなる。金縛りのような状態が何時間も続いた。マグリットの絵に出てくる空に浮かぶ大きな石のように。不思議に意識があるけれど身体が動かせない。つらかったというより、今にしてみればある類の踊りにしかすぎなかった。傷つけられた身体で懸命に自然を探そうとしていた。

(「図書」2016年11月号)

別腸日記 (29)竹林から遠く離れて(後編)

新井卓

人類学者・木村大治さんから聞いた、バカ・ピグミーの暮らしについて。バカの村ではよく、独り言が聞こえるという。それも、隣近所はおろか村全体に響き渡る大声で。ある日、木村さんが風邪で寝込んでいると表から「日本人が寝ている!寝てるよ!」というような独り言が、壁の向こうから大音声で届いたという。「ボンガンド」と呼ばれるその「独り言」は、ほとんどが愚痴とかうわさのような取るに足らない内容で、ときにトーキング・ドラムで行われ近隣の村まで届くというから、迷惑というか、うるさいことこの上ないと思う。村人たちは時々届く独り言を聞き流しているのか、実は聞いているのか、とくに気にしない風だという(ちなみにトーキング・ドラムの場合は時々、葬式や大事な集会の情報を伝えることもあり、そのときは村人全員が立ち止まって注意を払うらしい※)。

木村さんのお話を聞いて少し経ったころ、ふとラジオからバカの音楽が流れ、はっとして耳を澄ませた。それは水面をリズミカルに叩いて演奏するウォーター・ドラムの音源で、バカたちが川で洗濯しているところを環境音と一緒に録音したものだった。次いでバカの歌が流れ、密林の小鳥、虫たちの声が彼/彼女たちの声がシンクロしているような、していないような、ヒトとその他の生きもの、物質との奇妙な混淆がそこにあった。

あなたとわたしの境界はどこにあるのだろうか──「わたし」は必ずしも一人の個人におさまらず、他人やムラ、その外側に広がるヒトならぬ存在に浸透しており、その果てははっきりと峻別できず、ただやわらかいグラデーションだけがあるのではないか。身体のことをやらなくては、そう思うときいつもバカたちのことを考えるのは、ままならない自分の身体や家族、他者たちとの関わりについて、そこに何か別のとらえ方が示されているかもしれない、そう感じるからだ。

いまこの原稿を、友だちを訪ねてどういうわけか流れ着いた、ドイツ・オーストリア国境の保養地で書いている。山間に点々とする湖はどれも美しく、こちらの人々は老若男女みな裸になって、夏の陽に温んだ水に半身を沈めたり、沖あいまで泳いでゆく。わたしもそれに倣って裸で泳ぎはじめる、が、それは〈わたしの〉裸ではなくヨーロッパ文明に帰属する、一個人の裸体にすぎない。だからわたしは、裸ではない。バカ・ピグミーから、竹林からも遠く離れて──手許にジャンベかスティール・ドラムがあればいいのに、と思う。だれかに聞かせるためでなく、ただ盛大な独りごとのために。

※木村大治「どのように〈共に在る〉のか……双対図式から見た「共在感覚」,『談』(81), たばこ総合研究センター, 2009。

マギさんゴマちゃん

笠井瑞丈

7月はいろいろなことがあった

うちにチャボがやってきた
正確に言うとやって来たのではなく
7月の『ダンスがみたい21』の作品に出てもらうため
自分で探して沼津の養鶏場の方に譲ってもらったのですが

雨の中 車を高速走らせ
沼津までチャボを貰いに行く
譲ってくれた大村さん 
とても親切な方だった
たくさんいるチャボの中
一目惚れした一番小さい
真っ白のチャボと
碁石チャボを譲ってもらう

家では在宅している時は基本放し飼いで
一緒に生活している

辺り構わず糞をするので
その都度拾って床を拭く
それ以外は共に生活してしていて
何も支障はない

夜お酒を飲みながら
ギターを弾いていると
ピョンと肩のうえに飛んでくる
そしてずっと肩の上で一休み

そしてしばらくすると
そこから一番高いところの
テレビの上へと飛んでいく

ここが一番のお気に入りの場所
気づくとそこで目を閉じて寝る

最初はケージに布をかけてあげて
暗くしてその中で寝かせていたけど

最近はテレビの上で一晩中寝かせている
朝起きたらチャボも起きてテレビから飛び降り
新しい一日が共にはじまる

この子たちが来た事で
全く新しい生活が始まった

チャボは人懐こい動物である
マギさんとゴマちゃん

誰も読んじゃいない。

植松眞人

 『映画とは何か』
   昇華芸術大学映像学科三年 千原達明

 映画とはベース面に塗られたエマルジョンに明滅する光と影を焼き付け、多くの(または少数の)観客に向けて投影する映像体験である。
 と、定義できたのはエジソンがキネトスコープを開発した一八八九年からついこの間まで。百年以上脈々と続いてきた「フィルム」による映画の歴史はすでに(ほぼ)絶たれている。
 いま現在、映画と言えば、本来三十コマであったビデオの機構を擬似的に二十四コマに置き換えて撮影されるフィルムルックのビデオ作品を指す。
 そんな大きな変革期を迎えた時期に映画制作を志す者として、「映画とは何か」というテーマでレポートを記述するのはとても困難なことだと思われる。しかし、私は自分が心惹かれる映画作品の内容を改めて分析するところからこの壮大なテーマに挑んでみようと考えている。
 これまで通算すると三百本程度の映画を観た。様々な角度から検討すると、どの映画がいちばん心惹かれた映画なのか、ということを決めることはできない。しかし、たった一度しか観ていないのに、私の心の奥底に、ずっと留まっているワンシーンを有する作品があり、私はこの作品を紐解くところから、「映画とは何か」ということを考えようと思う。
 私が………

 とここまで、上原先生の授業・映像研究の前期最終課題『映画とは何か』を書き始めてみた。しかし、『映画とは何か』という壮大で尊大なテーマを掲げるくらいのレポート改題である。どうせ、誰も読んじゃいない。最初の書き出しの段落と、最後の段落辺りを適当に書いておけば、後は上原君が規定の枚数を書いてあるかどうか、途中でラクガキをしたり、悪口を書いたり、改行改行でズルをしていないか、ということを確かめるくらいだ。あとは学生一人一人の顔と名前さえ一致しないインチキ非常勤講師が出席と日頃の贔屓目でAからCまでの成績を振り分ける。そして、出席が足りない学生はD判定を下して、単位を渡さない。だから、このレポートの『原稿用紙五枚以上』という規定は、「とりあえず、そこそこの枚数を書きやがれ」という適当な気持ちでの規定に違いない。
 どうせ誰も読んじゃいない。そう思いながら書かれる文章というものは、いったい何をモチベーションに書かれるべきなのだろう。誰も見ていなくても、丁寧に書くことが、きっと自分自身の未来に繋がるんだよ、という説教臭い話を信じながら、教会で祈るような気持ちで書けばいいのか。それとも、誰かに呪いを掛けるような、これから先も生きていけるかどうか分からないのに人生相談に答えているかのように書けばいいのか。
 ただ、とても小さなことだと思うし、逆に自分の不甲斐なさを露呈するようではあるが、「誰も読んじゃいないだろう」という気持ちで、読み手である非常勤講師の裏をかくようなこの行為は、少し緊張感があって面白い。久しぶりに、ほんの少しだけれど、「ああ、書いている」という気持ちになっているし、これがもしバレて単位を落としたとしても、それはそれで構わないという程度に興に乗っている。
 どちらにしても、俺はこの非常勤講師の授業がそれほど好きではない。自分の語りやすい映画作品を選び、適当に分析し、適当に学生を脅してみたりする。「この作品のこの場面に心が震えないようでは、映画など撮れないよ」などと言い、自分はいかに繊細で物わかりがいいのかを俺たちに売り込もうとする。あんたのそういうところが、俺は苦手だ。黙って優れた映画作品を見せてくれてばそれでいい。しかも、それはハリウッドのヒット作じゃなくていいんだ。あんた以外の確かな映画人や映画評論家の基準で名画だと判定された映画を見せてくれればそれでいい。
 あ、でも、一度だけ、あんたが見せてくれた映画に心震えた瞬間があった。あれは何だったんだろう。タイトルを思い出すことができないよ。と、ここまで脱線してきたけれど、ここらで改行を二回ほどくり返してレポートを締めくくらないと。
 つまり、私自身が「映画」だと確信をもって言える映画作品に共通しているのは、主人公や登場人物に対して、過度に感情移入ができない、という点である。
 それが何を意味しているのか、と考えるにつれて浮かび上がってくるのは、映画は私自身の感情に沿っていれば良い、と言うのではなく、私の気持ちとは別の感情をもった人がいると気付かせてくれることであり、同時に私自身がスクリーンの中にいると気付かせてくれることなのかもしれない。
 映画とは何か、というテーマの答えを乱暴に導くと、私には「私」という言葉しかない。それが正解であるとは思えない。しかし、間違っているとも思えない。そして、この答えが映画と何かという問いかけから遠く離れた場所にポツンとあるような気がしてしまう。
二千十九年九月三十日

映像学科三年 千原達明
単位認定 合格
レポート評価 A

シリアの戦争に勝つのは誰?

さとうまき

シリア人が革命を起こすなんて思ってもいなかった。僕が働いていたのは、シリアの工業省だった。そこにいた若者は、全くやる気がなかった。

1994年といえば、1991年の湾岸戦争で、イラクのサダムフセインが嫌いなハーフェズ・アサドは多国籍軍に参加した。そのおかげでシリアは、アメリカから少し評価してもらって、経済も上向き加減だった。

若者たちは、公務員を辞めてもっと儲かる仕事を探し始めていた。例えば、アハマドくん。年は20歳くらいだと思う。職場に来ては、居眠りして時間になると帰っていく。

「俺は、毎晩ホテルで歌っているんだ」

公務員は、どこの国でも生活は保障されるがそれ以上ではない。

アハマッドは、アフリカ人のように色が黒かった。ホテルで歌っているなんて、カサブランカのワンシーンを僕は思い浮かべた。彼は、ゴラン高原に住んでいたが、戦争で逃げてきて貧しい暮らしをしていた。結婚するためにお金が必要らしい。でもよく聞くと、毎晩ホテルで鼻歌を歌いながら皿洗いしているとのことだった。

アハマッドが結婚する前に「お願いがあるんだ」と頼み込んできた。なんだい?と聞くと、「君の家に遊びに行っていいかなあ」という。

「もちろんだとも」

というと、実は、ビールを飲ませてほしいというのだ。イスラム教徒は、節目節目で立派なムスリムになっていく。結婚はそのステップらしい。結婚する前にビールとやらを飲んでみたいとのことだった。

バース党の独裁政権で、常に監視され、自由がない。だから彼らは政治なんかまったく関心がない。選挙はお祭り。アサド大統領が99.00パーセントで信任される。小数点以下だけが毎回変わる数字。それ以外の選択肢がないと人間は何も考えない。

パンと自由と世界の世直しのために、アハマッドが戦うなんて考えられなかった。僕が接していたのは、ほとんどが公務員だったし、近所の人たちも、政治には無関心だった。でもそれは確かに一部分でしかなかったのだろう。その当時からクルド人は、PKKを支持し、ダマスカスにもアジトを作っていた。当時はシリアはトルコと緊張関係にあったので、アサド政権はPKKの政治活動は容認していたのだ。

先日「ラジオ・コバニ」という映画をみた。実は2回目なのだけど、試写会で見た時は、疲れていたので不覚にも居眠りをしてしまったのだ。コバニは、クルド人が多く住む町で、2014年にイスラム国に占領された。その時、僕が暮らしていたイラクのアルビルにも難民がやってきたので、毛布を持っていったり粉ミルクを配ったりの支援をしていた。ただ、話を聞くだけではコバニがどうなっているかはよくわからなかった。ドローンで撮影されたコバニの町は瓦礫の廃墟と化していた。それはまるで、遺跡のように美しくもあった。戦闘機がやってきて空爆する。前線のクルドの兵士YPG(PKKのシリア版)が、米軍の空爆を助けに地上からイスラム国を追い詰めていく。

YPGの兵士が散髪しているシーン。「子どもたちは洗脳され自爆要員として使われる。残酷な戦争だった。ISの兵士たちは顔を覆って隠していた。顔がわかるのは、武器を奪うために、死体の近くまで行ったとき。そこで初めて子どもだと気が付くんだ。そんな時は、ひどく心が痛んだ。今も頭から離れない。でも戦場では戦うしかない。殺さないと後で仲間がやられるからね。時々殺した子どもたちが夢に出てくる。子どもを殺したと知ると苦しかったが殺さなければ自分が死んでいた。」

僕は、イラクでISと戦っていたクルド人の兵士(ペシュメルガ)とは何人かと話したし、知り合いが兵士だったりした。彼らは得意げに、殺したIS の兵士の死体を見せてくれた。

一方2000人のペシュメルガが戦いで命を落としている。アメリカはイラク戦争で4000人の米兵が命を落とし、帰還兵はPTSDを発症したり、自殺したりして社会問題になっているのに、クルドは、皆、平然と暮らしていたので、むしろ映画のように語る兵士はまっとうに感じた。

もう忘れ去られようとしているシリアだが、イドリブでの攻撃は激しくなっている。シリア政府はイスラム過激派の拠点を空爆している。しかし、数日前のニュースでは、シリア政府軍の空爆で倒壊した建物の下敷きになった5歳の少女が生後7か月の妹のシャツをつかんで助けようとしている映像がSNSで流れてきた。女の子はその後死亡した。赤ちゃんも集中治療室で手当てを受けている。母親は死亡した。

戦争に勝者はいない。アハマドも40代後半になっている。彼も子どもたちも20歳くらいだから徴兵に取られているかもしれないし、反体制派として戦っているかもしれない。たまらなく、アハマッドに会いたくなった。

しもた屋之噺(211)

杉山洋一

ボローニャはマッジョーレ広場から程近い宿でこれを書き始めました。今までマッジョーレ広場で、国営放送局のインタビューを受けていました。隣のフランス人観光客の家族が騒いだり、物乞いが「空腹!お恵みを」と書いた段ボールを持って近づいてくるので、その度に録りなおしになったりして、格闘一時間半。明るい夏のボローニャの広場の夕刻は、人々の笑顔が印象的です。
….

7月某日 ミラノ自宅
寝不足と暑気が重なり、体調を崩した。吐き気が止まらず、手首辺りから先が麻痺している。椅子に坐っていられなくて、思わず床に倒れこむ。顔が真っ赤だが一体どうしたの、と母が驚く。
地下鉄サンタゴスティーノ駅のキオスク店主が、客と話し込んでいる。こんな仕事、本当に何の愉しみもない。月給6000ユーロ貰っても辞めたいと言う。

7月某日 ミラノにて
12世紀サレルノ医学校で編纂された養生訓をテキストにした西川さんから頼まれた新曲を送付する。12世紀だというのに、過労死への警句がまず最初に書いてある。ストレスという単語はまだなかったかもしれないが、あまり今と変わらない。
ウナギやクルミがいけないのは、消化に時間がかかるからだろう、との見解を読む。イタリア人が風呂好きなのは、古代ローマ時代から連綿と続く文化。医学が体系化されてゆくのは、この養生訓が書かれたこのサレルノ医学校で、世界の叡智が結びついてからのことだ。
ヨーロッパ全土をなめつくしたペストの大流行の前に書かれているが、この後すぐに訪れるペスト流行とは少し違った意味で、「死」との距離は非常に近い。彼らにとって、生命とは今よりずっとシンプルなものだった。生きるか、さもなくば死ぬ。

 サレルノ養生訓
「12世紀、世界で最初の医学校が、南イタリア、ナポリの少し南にあるサレルノに生まれた。当時サレルノを含む南イタリアは、ビザンチン、アラビア、ラテン文化が混ざり合う文化の宝庫で、才能豊かなシチリア王フェデリコ2世のもと、アラビア人、ユダヤ人など世界各地から叡智が集った。サレルノには、各地の医者が諍いなくそれぞれの知識をあわせ、近代医学の体系を整えようとしていた。このサレルノ医学校を認可し、医者の資格をこの医学校を修了した者に与えると決めたのも、フェデリコ2世だった。当時の医者たちがうつくしい詩の形で書き残した養生訓集から抜だしたものに、フェデリコ2世時代シチリアの賛歌、Congaudentes jubilemus 冒頭の旋律を使って作曲を試みた。西川さんからVox humanaのためにと新作をお願いされ、まず頭に浮かんだのは、ラテン語のテキストを使うこと、望月さんのオペラで演奏者としてVox humanaの皆さんとご一緒した経験から、一人一人の卓越した技術と個性を際立たせることを思いつき、そしてささやかながら、さまざまな異文化のより豊かで平和な共存が実現するよう、願いをこめた」。
息子はCongaudentes jubilemusによる主題が気に入って、厭きずにずっとピアノで弾いている。

Regimen sanitatis salernitanum
サレルノ式養生訓

 1

Triste cor, ira frequens, bene si non sit, labor ingens,
Vitam consumunt haec tria fine brevi.
Haec namque ad mortis cogunt te currere metas.
Spiritus exultans facit ut tua floreat aetas :
Vitam declinas tibi, sint si prandia lauta.
Si fluxum pateris, haec ni caveas, morieris :
Concubitum, nimium potum, cum frigore motum.
Esca, labor, potus, somunus, mediocria cuncta:
Peccat si quis in his, patitur natura molestis.
Surgere mane cito, spaciatum pergere sero,
Haec hominem faciunt sanum, hilaremque relinquunt.

かなしみ、くりかえす怒りは、よくありません。度を過ぎた仕事も。
この3つは、生命をたちまち燃えつくします。
死と出会いのを早めるだけ。
愉快なこころは、あなたの齢に花をさかせますが、
豪華な食事は、あなたから、瞬く間に一日を過ぎさります。
熱があがり、血のめぐりがわるく、性生活も控えず、
酒をのんで、動きまわっていると、死にます。
食事、仕事、酒、眠り、どれもほどほどがよいでしょう。
このどれか欠ければ、おのずと不愉快が増します。
朝早くおきて、夜散歩にでかけると
人を健康にし、快活にします。

 2

Vitam prolungat , sed non medicina perennat;
Custodit vitam qui custodit sanitatem.
Sed prior est sanitas quam sit curatio morbi ;
Ars primitus surgat in causam, quo magis vigeatis.
Qui vult longinquum viam perducere in aevum,
Mature fiat moribus ante senex;
Senex mature, si velis esse dici.

薬は命をのばしますが、永遠にのばせるわけではありません。
命を守る人は、健康を守る人のこと。
病気を治すより、まず健康であることが大切です。
この芸術は、健康であるほど、あなたの役に立つでしょう。
老いらくまで長生きしたいなら、
生活習慣を成熟させることです、老人になるまえに。
すぐに老けますよ、あなたが望めばね。

 3

Lumina mane manus surgens frigida lavet unda.
Hac, illac modicum pergat, modicum sua membra  
Extendat, crines pectat, dentes fricet;  ista
Confortant cerebrum, confortant caetera membra.
Lote, cale, sta, pranse vel i, frigesce minute.

朝ベッドから起きたら、つめたい水で目と手を洗いましょう。
しばらく歩いてから、四肢もすこしのばしてください。
髪をとかして、歯をみがきましょう。すると、
頭がすっきりして、身体のあちらこちらに元気が湧いてきます。
風呂で身体をあたため食事をとり、少し休むか散歩をして、ゆっくりほてりを冷ましましょう。

 4

Sit brevis, aut nullus somnus tibi meridianus.
Febris, pigrities, capitis dolor, atque catarrhus
Quatuor haec somno veniumt mala meridiano.
 tibi proveniunt ex somno meridiano.

昼寝はほんの少し、いや、とらなくてもよいでしょう。
発熱やなまけ癖、頭痛やカタル。
これが昼寝の四悪です。
午後の眠りのあと、あなたに訪れます。

 4

Post pisces nux sit; post carnes caseus adsit.
Unica nux prodest, nocet altera, tertia mors est
Post pisces nux sit, post carnes adsit.

魚のあとのクルミはよいでしょう。肉のあとにはチーズ。
クルミ一個はよいのですが、もう一個食べると身体にわるく、三個たべれば死にます。
三つのうち、一つだけなら身体にとてもよい。

 5

Vocibus anguillae nimis obsunt, si comedantur;
Qui physicam non ignorant hoc testificantur.
Caseus, anguilla mortis cibus ille vel illa,
Si tu saepe bibas et rebibendo libas,
Non nocet anguilla vino si mergitur illa.

ウナギを食べて、声がおかしくなるのは
道理を理解する人なら、証言してくれるはずです。
チーズとウナギを一緒にたべれば、死にます。
しばしばワインを口にし、またのんで、ちびちび舐めていれば
ウナギは差し障りありません。ワインと一緒にたべるのならね。

 6

Cur moriatur homo cui salvia crescit in horto?
Contra vim mortis non est medicamen in hortis.
Salvia confortat nervos, manuumque tremorem
Tollit, et eius ope febris acuta fugit.
Salvia salvatrix, naturae consolatrix !
Salvia dat sanum caput et facit hoc Adrianum.

なぜ人が死ぬと、庭でサルヴィアが育つのでしょう。
人の命に対する薬は、庭にはありません。
サルヴィアは神経をやわらげ、手から震えをとり、
高熱もサルヴィアのおかげで消えてしまいます。
ああ、生れながらにして心やさしき、救世主サルヴィアよ、
サルヴィアは頭を健康に、聡明なハドリアヌス帝のようにしてくれます。

 7

Coena brevis, vel coena levis fit raro molesta,
Magna nocet: medicina docet, res est manifesta.
Numquam diversa tibi fercula neque vina
In eadem mensa, nisi compulsus, capienda:
Si sis complulsus tolle quod est levius.
Si sumis vina simul et lac sit tibi lepra.
O puer, ante dabis tibi aquam post prandia dabis
Omunibus assuetam jubeo servare diaetam.
Ex magna coena stomacho fit maxima poena.
Ut sis nocte levis, sit tibi coena brevis.
Si fore vis sanus, sit tibi parca manus :
Pone gulae metas ut sit tibi longior aetas;
Ut medicus fatur parcus de morte levatur.

手短にすます食事、軽い食事が、身体に悪いことはまずありません。
食べすぎは身体にさわります。医学でもそういいますし、明白です。
無理強いされないなら、あなたをそそのかす豪華な料理や数々のワインは断ること。
無理強いされるなら、そのなかで一番軽いものを選んでください。
牛乳とワインを一緒にのむと、湿疹がでます。
ああ少年よ。食事の前後に、水をのむことです。
この養生訓をみんなにつたえましょう。
ぜいたくな夕食は、胃をたいへん痛めます。
心地よく夜を過ごすため、夕食は軽くしてください。
長生きするため、食道楽はやめましょう。
医者のいうとおり、慎ましさが死を遠ざるのです。

これを書き出しながら、何か記憶の奥底で反響するものがある。悠治さんの「エピクロスのおしえ」だ。書き出すまで、サレルノのさまざまな民謡を繰返し聴き、私設動物園でキリンを飼っていたフェデリコ2世のまわりの音楽を繰返し聴いた。
ラテン語の詩は、響きもとてもうつくしい。友人が、ラテン語は、イタリア語のように回りくどくなく、単刀直入に言い切るのが気持ちよいと言っていた。ラテン語に通じているわけでもないが、少し気持ちはわかる。

7月某日 ミラノ自宅
藤木大地さんと福田進一さんのための新曲を送付する。
没後500年のダヴィンチが残した「鳥の飛行について」手稿の一部をテキストにし、リラ・ダ・ブラッチョの名手で、優れた歌手だったダヴィンチの残した「音判じ物Rebus musicali」から断片を一つ使って作曲した。「音判じ物」は、楽譜の音名を辿ると、テキストが浮かび上がる謎かけ。「レラソミファレミレ」と音符が書かれ、”Amore la sol mi fa remirare”「あの愛はわたしを振り返らせるばかり」と読むもの。ウィンザー手稿に収録されている。歌いまわしは、ヴィンチ村のあるトスカーナ地方で盛んな民謡、Stornelliを参考にした。

Il Volo degli Uccelli    Leonardo Da Vinci
Fig. 19
Quelle penne che son più remote dal loro fermamento, quelle saran più piegabile. Addunque, le cime delle penne dell’alie senpre saran più alte che li lor nascimenti, onde potren regionevolmente dire che senpre le ossa dell’alie saran più basse nell’abassare dell’alie che nessuna parte dell’alia; e nell’alzare, esse ossa d’alie saran più alte che nessuna parte di tale alia. Perché senpre la parte più grave si fa guida del moto.
付け根から離れるほど、羽はより曲げやすくなるようだ。翼の羽の先端は、翼が付け根より高い位置にあるから、翼の骨は翼をさげれば他の部分より低くなり、翼をあげれば、翼の他の部分よりも高くなる。なぜなら、より重たい部分が運動を先導するから。

Fig.27
Quando l’ucello si vorrà voltare alla destra o sinistra parte, nel battere dell’alie, allora esso batterà più bassa l’alia onde esso si vorà voltare, e così l’ucello si  torcerà il moto dirieto all’inpeto dell’alia che più si mosse.
鳥が右や左に曲がるとき、曲がりたい方の翼をより低く羽ばたかせ、向きを変える。このようにして、翼をより羽ばたいて推進力を得るより、翼の後ろの風の勢いをねじる。

Fig.28
Quando l’ucello, col suo battimento d’alie, si vole innalzare, esso alza li omeri, e batte le punte dell’alie in verso di sè, e viene a condensare l’aria, che infralle punte dell’alie e ‘l petto dell’ucello s’interpone, la tensione della quale si leva in alto l’ucello.
鳥が翼を羽ばたかせ上昇するとき、肩を上げ翼の先を自らの身体へ向け羽ばたかせる。すると翼先と鳥の胸の間の空気が圧縮され、鳥を上へ押し上げる力が生じる。

Il nibbio e li altri uccelli, che battan poco le alie, quando vanno cercando il corso del vento, e quando il vento regnia in alto, allora essi fieno veduti in grande altura, e se regnia basso, essi stanno bassi.
風の気流を探すあいだ、トビやその他の鳥は、あまり翼を羽ばたかない。風が高い位置を支配するとき、鳥はとても高い位置を飛ぶだろうし、低い位置を風が支配するとき、鳥は低く飛んでいる。

Quando il vento non regnia nell’aria, allora il nibbio batte più volte l’alie nel suo volare, in modo tale, che esso si leva in alto e acquista inpeto, colo quale in peto, esso poi declinando alquanto, va lungo spazio sanza battere alie; e quando è calato esso di novo fa il simile, e così segue successivamente; e questo calare, sanza battere alie, li scusa un modo di riposarsi per l’aria, dopo la fatica del predetto battimento d’alie.
風が凪いでいると、トビは、より多く羽ばたいて高くまで上昇し、しっかり推進力をたくわえたところで、その勢いを使って翼を動かさずに長い距離をかけて降下する。そうして降りきったところで、ふたたび同じ手順を繰返すのだ。羽ばたきを使わない降下により、疲れた身体をやすめることができる。

Tutti li uccelli che volano a scosse di levano in alto col lor battimento d’alie, e quando calano, si vengano a riposarsi, perché nel lor calare non battano le alie.
翼を羽ばたかせて急上昇する鳥が、降下で身体を休められるのは、降下で翼を羽ばたかないから。

Fig.29
Senpre il discenso del obbliquo delli uccelli, essendo fatto incontro al vento, sarà fatto sotto vento, e ‘l suo moto refresso sarà fatto sopra vento.
向い風で鳥が降下するとき、鳥は風の下にもぐりこみ、上昇するなら、風の上に身を置くだろう。

Ma se tal moto incidente sarà fatto a levante, traendo vento tramontano, allora l’alia tramontana starà sotto vento, e nel moto refresso farà il simile, onde, al fine d’esso refresso, l’ucello si troverà colla fronte a tramontana.
しかし北風に乗って東へ下降するときは、北向きの翼を風の下に入れる。上昇も同じだが、額は北へ向ける。

Ed è di tanto vilipendio la bugia, che s’ella dicessi be’ gran cose di dio, ella to’ di grazia a sua deità; ed è di tanta eccellenzia la verità, che s’ella laudassi cose minime, elle si fanno nobili.
たとえ神の偉大な逸話であっても、偽りは実に卑しむべきであり、虚偽は神性からも歓びを奪い去る。真実こそが何物をも超越した存在であり、些細な事実であれ、高潔な誉れが与えられる。

Sanza dubbio, tal proporzione è dalla verità alla bugia, quale da la luce alle tenebre; ed è essa verità in sè di tanta eccellenzia, che ancora ch’ella s’astenda sopra umili e basse materie, sanza conparazione ell’eccede le incerteze e bugie estese sopra li magni e altissimi discorsi; perché la mente nostra, ancora ch’ ell’abbia la bugia pel quinto elemento, non resta però che la verità delle cose non sia di somo notri mento, delli intelletti fini, ma non di vagabundi ingegni.
疑うべくもなく、真実と虚偽は光と闇の相違に等しい。どれほど慎ましく貧弱な物質であれ、真実がそこに介在するとき、不確実性やどんな高邁な説法を振りかけられた偽りをも、真実は掛け値なしに超越する。たとえ偽りが人の思考の一部を成していても、物事の真実こそが、洗練された思考、驚くべき知性の偉大な滋養であることは変わらない。

 Ma tu che vivi di sogni, ti piace più le ragion soffistiche e barerie de’ palari nelle cose grandi e incerte, che delle certe.
でも夢に生きるお前なら、確実で当然で我々の理解を逸脱しない事実より、むしろ大袈裟で不確実な事実に怪しげな推論を立て、言葉巧みに貶める方が、よほど好きではないのかね。

1505 marzo-aprile Firenze

実際の写本は、これらの言葉の傍らに、鳥の動きのスケッチが書かれている。ダヴィンチの言葉は、イタリア語が未だ現在のような形になる前の姿を現していて、響きも独特な味わいだが、詩ではない散文調で、当初音に載せるのにずいぶん苦労した。

7月某日 ミラノ自宅
ボローニャで作曲コンクール審査。1位と2位はイタリア人、3位は中国人だった。4位と併せて特別賞を得たのは、ブラジル人だった。中国、韓国、日本の他、イランやトルコから複数、ブルキナファソからも一人の応募があった。
審査の途中でソルビアティとドナトーニの話になる。In Caudaの初演時、ドナトーニは純白なシャツを着ていた。演奏会直前、喫茶店でカンパリをこぼして、胸のあたりに大きな赤いシミを作って、ニヤリと笑ったと言う。「彼はわざとやったんだ、自分が呼ばれるときに、あの服でスカラ座の舞台に上がりたかったのさ」。理由は分からないが、妙に説得力のある逸話ではある。

7月某日 ミラノ自宅
ミラノ滞在中の母とわが息子が「わらび餅」を作った。美味。
母曰く、戦時中お八つと言えば、笹の葉に包んだ梅干をちゅうちゅうと吸うばかりだったそうだが、そんな話を息子はどう聞いているのか不思議に思う。
スキエッパーティ宅での息子のレッスンを見学。特にチェルニー練習曲がどんどん音楽的に、立体的になってゆくのに瞠目。和声的なアプローチも、こういう時こそ役に立つと知る。タッチについても、他の曲よりずっと細かく教えてゆく。レッスンにベートーヴェン「サリエリの主題による変奏曲」も持って行ったので、サリエリ、ベートーヴェン、チェルニーと師弟が揃った。こうして聴くと、意外なほど明確に親和性、関係性が浮き彫りになる。言葉ではなく、自らの指でピアノ史の重要な一ページを読んでいるのは、聴いていてとても羨ましい。

 7月某日 ミラノ自宅
吉澤さんから8月15日演奏会のリハーサル録音が届く。ダヴィンチがミラノに滞在していた時期のミラノ・スフォルツァ家の音楽家たちの作品5曲を、賢順らが初めて西洋音楽に接したときを想像しながら、邦楽四重奏で書き直した。届いた録音は、失礼を承知で演奏があまりに上手過ぎると正直に感想を書く。あくまでも西洋文化も、西洋音楽も見たことも聞いたこともない人間が、自分の知っている言葉を使って、それらしいものをやろうとする。おそらく縄文弥生の時代から、日本人の典型的な姿であったであろう、外来文化への尊敬と真摯な姿勢の原点をそこに見る。現在はコミュニケーション技術が過度に発達して、結果が先に見えてしまっているから、こうすればよい、という方法論ばかりが論じられる。良しも悪きも日本的な精神論は、結果へ到達しようとするその過程を補填してきたわけだから、その部分が抜け落ちてしまうと、これから我々の文化はどうなってゆくのかと不安にもなる。
ともあれ、送っていただいた録音の演奏は素晴らしいので、すっかり気に入って何度も聴き入ってしまった。傍らで息子もすっかり聴き入って、珍しく神妙な顔をして「感動した」と呟き、「何だか中国の民族音楽みたいだ」と言葉を継いだのには、内心妙に感心したものだ。
ルネッサンス音楽と邦楽は想像通り、実に親和性があった。もっと邦楽でルネッサンス作品が演奏されるとよいと思う。恐らくそれは、邦楽の古典の先入観を払拭し、自らの演奏スタイルを見つける助けになるはずだと信じている。

7月某日 三軒茶屋自宅
ヴォクスマーナリハーサルより帰宅。一言、自らが書いた音の目指している方向を示すだけで充分だった。西川さんも歌手のみなさんも、皆揃って音の感受性が豊かで、表現の幅が深く広い。だから練習はとても楽しい。聴いているこちらも、鄙びた田舎ののど自慢大会に参加している気分になる。ちょうど土用のウナギの日に「ウナギを食べると死にますよ」と歌うのは愉快な経験であった。

7月某日 ボローニャ・ホテル
朝早くにミラノをでて、ボローニャにて8月2日作曲コンクール演奏会リハーサル。オーケストラとは、10月のクセナキス以来。再会を喜ぶ。
ホテルでヒジャブの妙齢とエレベーターで乗り合わせた。彼女は同行の年配のイタリア人婦人と英語で話していて、彼女たちと同じ階でエレベータを降り、歩き出したとき、かちゃかちゃと不思議な音がして、無意識にその音の方に目をやると、義足がアディダスを履いていた。
 

7月31日 ボローニャ・ホテルにて

変化するちいさなはたらき

高橋悠治

いつも夏のあいだ 秋の準備をする コンサートもあまりなく 暇な時間に見えるだろうが この暑いなかで 自分でしごとの締切を作って 作曲し ピアノの練習をする ゆっくりしかできないのは 暑さのせいかもしれない それに 音楽を何十年もやってきて いままでにやらなかったことを見つける 知らなかったことをためすのがむつかしくなってきているのだろう

やらなかったことは たくさんあるようだが できることは限られている そのなかで 逆に いままでやったことを振りかえり そこからほんの半歩だけ遠ざかる どこへ行くかは考えない

それぞれのしごとに具体的な条件がある 作曲のばあいなら 使う楽器 それを弾く人 
演奏時間 発表の場 たとえばコンサートのプログラム 他の曲のあいだで それらのどれともちがう位置 niche その楽器のために作曲した自分のいままでの曲 知っている限りでの他人の曲から どのように距離をとるかで できることが ある程度見えてくる瞬間がある その時を逃さずにはじめないと また霧がたちこめて 見えていたイメージは バラバラの断片になって忘れられてしまう イマージそのものではなく それらをつなぎとめている見えない糸が切れないように 見えている部分を配置しておくことができれば その日のしごとを終えてもいいだろう

しごとの速い作曲家がいる ダリウス・ミヨーは 委嘱された日に書き上げてしまい さすがに すぐ渡すことはせず 期日まで 抽斗に鍵をかけておいたと言われる ヒンデミットもクルシェネックもしごとは速かった こういう職人芸は必要ではないとは言わない そういう人たちがいなければ 音楽業界は困るだろう 委嘱した側から言えば 期待された作品ができてくるのはよいことだ 期待以上の音楽は 望まれてもいないし 時にはそれがプログラムの中心になっては困る場合さえある もちろん 期待以下では話にならないし 期日までに楽譜をわたしてくれなければ 練習日程や演奏の質にかかわる

でも 職人芸はそれ以上のなにか 思いがけない発見を誘うことはむつかしい ほとんど自動的に手がうごき 意外性まで計算されていて 演奏も安全な軌道の上を走っていく さて どうするか

思いついたときは 新鮮に思えるが 発見のよろこびは しごとをすすめるうち だんだん薄れていく 速いしごとが手慣れた表現におちつきそうになる前に中断して 他のことをする あるいは何もしないで ぼーっとしている ゆっくりしごとをすすめれば いつか脇道に逸れていく 中断して次の日にそこにもどると 飽きそうになった手作業に まだちがう間道が見えるかもしれない 夏の暑さも そう思えば しごとにちょうどよい季節とも言える

2019年7月1日(月)

水牛だより

日本にはもう季節というものはない。あるのは異常気候だけだ、と言ったのは片岡義男さんだったか。かろうじて夏と冬だけはまだありますが、その日々の天候は落ち着かず、冷暖房がそれに拍車をかけていると思います。夏のなかに冬があり、冬のなかに夏がある。衣替えもかんたんにはできませんね。

「水牛のように」を2019年7月1日号に更新しました。
北村周一さんたちの展覧会「絵画の骨」が開催中です。国立の宇フォーラム美術館で7月7日まで。木金土日のみ開館です。北村さんによれば、この美術館は壁も天井も床もすべて灰色なのだそうです。

やってみようか、やってみたいな、と思ったことのどれだけが出来ているのかと、ふと考えることがあります。みなささやかなことですが、もちろん(!)ほとんど出来ていません。朝、いつもより少し早く目を覚まし、でも起き上がらないで、その日最初のコーヒーを飲みながら、達成感のないことを考える時間はいいものです。

それではまた!(八巻美恵)

私の遺伝子の小さな物語(下)

イリナ・グリゴレ

ルーマニアではロシア正教会に生まれた、私。東方正教には修道院が多く、ルーマニア国内にもたくさんある。子供の時のことを思い出すと祖母の生き方はすごかった。日曜日、村の古い修道院の礼拝に連れられて、礼拝の音や光を浴びた私の身体が懐かしい。古いしきたりに則った礼拝が持つ儀礼のパフォーマンス的な力は身体に響く。神様と自然、すべて神秘的だった。この古い東方正教の人の中には、神様と直接話す人がいる。その聖人は修道院の近くの森や洞窟に入って森の実しか食べず、動物のこと、森のこと、世界のすべてが分かるようになった。ルーマニアに生きている私の家族みたいな一般農民は、政治も科学も信じない。唯一助けになるのは聖人の身体と人生。だから病気になったらこういうすごい聖人の助けを求めるしかない。もちろん、こういう中世の習慣を軽蔑する近代的な人にとってはただの迷信にしか映らないが。私も十八歳から町のポスト社会主義の若者と混ざって子供の時の感覚を忘れがちだったが、病気になると世界観が変わる。

聖人は亡くなっても体が腐らない。そのまま残っていて、ものすごくいい匂いがする。その体が聖になった証拠。私もちょっとみたが、すごいいい匂いがした。

社会主義時代、たくさんの神父さんが拷問にかけられて、殺された。彼らが庶民の力になることを恐れたから。それでも、奇跡的な出来事が起きて、聖人の身体の強さに皆は驚いた。

正教会では、身体が神様のお寺みたいなものだ。だから、病気は罪の表れだと思われる。私だけの罪ではなく、先祖代々の罪がこの私の細胞にある。今までいろんな人生を歩んだ人が自分の中にたくさんいる。私の先祖のことだ。私の身体に細胞の歴史がある。今まで生きてきた先祖の最高の表れが私の身だと思うと、強い責任を感じる。

こうやって自分の先祖のこと考えながら、なぜかトーマス・マンの『魔の山』を思い出した。窓の近くまでいけるようになったら、小さい公園とそこにあるブランコが別の世界のようだった。ある日、向こうの部屋の患者の方が急にいなくなった。ドアから空いている白いベッドが見えた。年配の女性が忙しそうに服を片付け、その夫らしい人が電話でお葬式の準備のことを話していた。この病室にいた方は静かに生から飛び出して幸せなところに戻ったのだろう。この死はどこか中世ヨーロッパの絵でみたことがあるイメージだった。

手術から何日かたって、病院の屋上にはじめて上がった時の穏やかな気分を忘れることができない。太陽の光が私の皮膚を温めてくれた瞬間、これは生きている証拠だと思った。屋上は車椅子でいっぱいだった。この古い病院の患者さんは静かに秋の光を浴びていた。

病院にいる間に二歳の時の私が遊びにきた気がする。ある日、病院のベッドでカモミール茶を飲んでいたら、忘れていた思い出が浮かんできた。二歳ごろの夏だった。野生のカモミール畑で遊んでいた、私。太陽の光がとても気持ち良く、村の子供とカモミールの花を集めていた。病気は私の歴史を改めて考えさせる。

一九八六年、日本では昭和六一年だ。一九八六年に私の弟が生まれた。その年の四月に私はちょうど二歳になった。十日後、チェルノブイリの雲は、私が遊んでいた祖母の家のカモミール畑まで来た。桜の木、庭に植えられた野菜と花、近くの森に、見えない暗い毒を浴びせた。当時、誰も知らなかった。今聞くと、あの時のことはもっと後から分かったらしい。嘘か真実か、誰にも分からない。農民にとってこの土地は身体の一部だから信じがたいだろう。野菜を洗えば大丈夫だろうと皆は思ったに違いない。だって、生まれてからずっとそこにある森や畑、一所懸命育った野菜や花に、見えない、人工悪魔のような毒がついていると突然言われても、嘘のような話にしか聞こえない。とくにチャウシェスクの時代は、なにがリアルかなにが嘘なのかはっきりわからないまま。大自然のことしか信じない。

しかし、私の身体にこの事件の影響がなかったとは言えない。弟が生まれたから、母の乳の代わりに新鮮な牛乳を飲まされて、祖母が作った野菜を食べた。その時に大好きな野菜、家から見えた森やどこまでも広がった野草はひどく傷んでいたのだろう。私の身体が彼らの傷みを感じなかったはずはない。だって、私の身体はその森、花、祖父と祖母の家の一部だと言える。しかし、私たちは人間が作った社会主義の下に暮らしていたことを知らなかった。神様が作った森のこと、虫のこと、野菜や植物のことはたくさん知っていたのに。そして、チェルノブイリのことも、私には誰もなにも言わなかったけど、自然が教えてくれた。

二歳の子どもの身体でも、世界でなにが起きたか感じることは出来るに違いない。あの後、私は悪夢を見た。夢の中で、何日間も、祖父母の家のある村で、森の上の空から腐っている気持ち悪い蛙の雨が降っていた。あの時に、何年間もこの夢を見ることを、地球が私の身体に教えてくれたとしか思えない。そして三十歳になった今でもあの時に傷んだ身体を持つ。その時と同じ病気だ。手術は痛いし大きな傷跡が身体に残された。地球も痛かっただろう。

私の病気は遺伝子のせいと言われるけど、でも二歳までの遺伝子はどうだったのだろう。私の病気は私が生まれる前にこの世界を傷つけた社会主義なのではないか? 私の両親は社会主義に生まれ、彼らの人生の大分を傷めただろう。私の骨、皮膚、細胞は彼らの思いを知らないわけではない。ずっと恐怖の中で生きてきた私の両親は、この恐怖を私の骨と神経に伝えただろう。遺伝子だって、私の先祖の苦しみを知っているだろう。皆の思い、この身体が覚えている。そして病気はこういうものではないか。

手術後に敏感になった私の身体が、そう思った。戦争に行ってきたという感覚に近い。前回の手術と合わせて、今は身体に二十センチ以上の傷がある。戦争に行って二十八歳の若さで帰ってこない先祖の気持ちは、きっと私の気持ちとあまり変わらない。祖父の父さま、大丈夫ですよ、あなたの遺伝子を持っている私、ちゃんとわかっているよ、あなたの苦しみを。私の遺伝子は戦争、原発事故、社会主義を知った。正直に言うと戦争、原発事故、社会主義こそ病気だった。今も世界が傷んでいる。

母の夢をみた。二歳の私と二人で懐かしい村の森にいた。春の明るい日、最初の花が咲く時に、森に遊びに行く習慣があった。木の青い、まだ若い葉っぱから光が入って幻想的な背景を生み出す。目に見えるところまでバヨレート(シラー・シベリカ)の花が広がっている。私たちが楽しそうにバヨレートの花をいっぱいとって家に帰ろうとしている。

森から出ると村に入るまでに村の墓所がある。この墓所に私たちの先祖が森の音を聞きながら眠っている。墓所の前を、私と母がとても青いバヨレートを持って歩いていた。私が二歳ならお母さんは二十六歳ごろ。今の私より若い。夢の私は歩くのに疲れて、母はバヨレートの花束を下に置いて私を抱いて歩き始めた。バヨレートの花が道の真ん中に残った。ちょうど墓所の前のほこりだらけの道路に、光るように青い花が置いてあった。

村に入って、お父さんの実家に寄った。父の母からミートボールを貰うが血の塊が出たミートボールだった。そこから出ようとする。「どこに行く?」と聞かれる。「何でいつもあそこへ?」枯れた声で追い出す。あそことは母の実家のこと。私を育てた祖母に会いに行く。道中、遠い親戚の家の前を通ると、パイをのせたお皿で私達を誘う。庭の中に入ると家の外にパイがたくさん置いてある。家に入ると、亡くなった親戚と軍隊の制服を着ている若い男がスープを飲んでいる姿が見える。若い男が食べ物をテーブルに置いて私の方を見ている。亡くなった親族のお食事会のようだった。この夢こそ私たちの遺伝の物語だった。 

(「図書」2015年5月号)

頭の悪い私の哀しみ

植松眞人

 即身仏になりかけた修行僧のような顔だと、あなたを初めて見た時に私は思った。よく見ると愛嬌のある笑みを浮かべるし、女慣れしていないような慌てて話す様子も嫌いでは無かった。けれど、この人と身体を重ねることになるとは思わなかった。いや、もしかしたら、初めて会った半年ほど前のあの時に、そんなことを考えたかもしれないけれど、その時に私の気持ちは「セックスが下手そうだし、この顔に抱かれるのはいや」というもので、それは割とはっきりしたものだった。
 それなのに、私が修行僧のような立木君と付き合うようになったのは、ひとえに立木君の頭が良かったからだ。
 私たちは同じ大学の同級だけれど、立木君は実は四つ年上だ。彼は高校に上がるときに父親の仕事の関係でアメリカに移り住んだ。語学に関する能力が高かったのか、英語圏での生活はまったく問題が無かったという。
「語学のいいところは、覚えればいいってことだよ」
 立木君はそう言って笑うのだけれど、それが決して嫌味ではなく、立木君が言うと、確かにそうなんだろうな、と思う。
「でも、それなりに努力はしたんでしょ?」
 私が聞くと、立木君は笑って答えた。
「日本語を話す人とは徹底的に話さなかったことかな」
「親とも?」
「親とも」
「英語を習得するために?」
「英語を習得するために」
「とにかく、追い込まれないと人は何にも覚えないってことは、高校生になったらわかるじゃない」
 そう言われて、私はわかっていたっけ、と思ったのだが、それは口に出さずに、なるほど、と私は答えた。
 とにかく、立木君はアメリカに移り住んで一年もすると日常生活に困らない程度の英語を身につけたそうだ。そして、ある程度、英語に自信がついたところで立木君はアメリカ文学に目覚めたという。
「言葉を覚えたら、その言葉をさらに深めないとと思ったんだ。最初はテレビを見たり、映画を見たり、学校の友だちと積極的に話すという方法をとっていたんだけれど、結局、今の芸術とか今の人たちは、僕らと同じ程度に軽薄で僕らと同じ程度に賢いんだ。学ぶなら、もっと賢い人から学ばなくてはと考えて僕は学校の近くにあった公立の大きな図書館に通うようになったんだ」
 自分の周りには学ぶべき賢い人はいなかった、という高校生にしては不遜な考えは、いまの立木君を嫌いだという人たちが、立木君を嫌う部分とまったく同じで、立木君は高校生のころから、すでにちょっと嫌な奴として確立されていたのだなあと改めて思うのだった。
 でも、立木君のそんな不遜なところにゾクゾクする。立木君が周囲を不遜な態度で見ていることにもゾクゾクするし、その対象が私だったりするとさらにゾクゾクする。ただ、それが不遜に扱われている事に対するものなのか、いつか立木君が足元をすくわれて頭でも打つんじゃないだろうか、ということに対するゾクゾクなのかがわからない。どちらにしても、私は立木君に惹かれてしまい、後戻りすることができなくなった。
「付き合って」
 私がそういったときに、立木君は、
「どうして?」
 と私に聞いた。
「頭がいいから」
 と私が応えると
「頭、いいかな」
 と、立木君はちょっと困った顔をした。
 その困った顔に、私は少しがっかりした。
「立木君」
「なに?」
「立木君は困った顔しちゃだめだよ」
「困った顔?」
「いま、してたよ、困った顔」
「してたかな、困った顔」
「してたよ、困った顔」
 そう言われて、立木君は生真面目に自分のほんの少し前の顔と、その顔をさせてしまった自分の心持ちについて思い出しているようだった。そして、ふいに何かに思い至ったようだった。
「付き合うって、どういうことなんだろうって、そこが分からなくて困ったんだと思う」
 立木君がそう言う。
「困っちゃだめだよ」
「困っちゃだめなの?」
「だって、立木君、頭良いんでしょ。知らないことがあって困っちゃだめなんだよ。知らないことがあっても、知ってるふりして乗り越えないと」
「知ってるふりか」
「得意でしょ」
「日本に帰ってきてから、得意になった」
「日本に帰ってから?」
「そう。日本に帰ってから」
「アメリカでは知ってるふりしなくていいの」
「しなくていい」
「どうしてなのかしら」
「どうしてだろう」
 どうしてなのかを考えている立木君の顔を見ながら、知っているふりをしなくていいアメリカという国はつまらないなあと思った。
「ねえ、日本のほうが面白くない?」
「うん、日本のほうが面白い」
 立木君は笑った。 (了)

製本かい摘みましては(147)

四釜裕子

付録が話題の月刊『幼稚園』が、7月号は早々に重版決定したそうだ。当号付録は江崎グリコとのコラボレーションで、4つのボタンを押すとコーンアイスが出てくる自動販売機「セブンティーンアイスじはんき」が作れる紙工作キット。ぱっと見、直方体だし、幼稚園児にも分かるように作られているのだろうから簡単でしょうと思いきや、「幼稚園ふろくチャンネル」なる動画を見ると作りはかなり細やかだ。これ自体はおもしろいのだけれど、教えるおとなとか、こうしてのぞくおとなのために、おとなが動画を用意していて、よいこのみんなには、おとなになると自分で自分が好きなものを買えるわよ、とだけ言いたい。

こちらの転居のせいでいつからか届かなくなったJT生命誌研究館の季刊『生命誌』の付録も楽しみだった。毎号、さまざまな仕組みを駆使した紙工作がついていて、今でもいくつか手元に残してある。からくり仕掛けありのペーパークラフト・古生物シリーズ、似ている生きもののシルエットが並ぶように組み立てられる「他人のそら似」シリーズ(ホホジロザメとイクチオサウルスとか)、38億年続いてきた生きものを支えるバランスを学ぶ「生きものヤジロベエ」などなど。研究の成果を、一般のひとが楽しめるように美しく表現することを大切にしてきた、中村桂子さん率いる同館の特徴の一つと思う。

そしてこちらは付録ではなくて実物見本ということだが、『デザインのひきだし』。2007年の創刊で、実物見本が付くようになったのはいつごろからだろう。最新の37号の特集は「活版・凸版」。実はこの実物見本、材料費が乏しい製本の授業で重宝してきた。オフセット印刷や紙の加工特集などの見本をばらばらにして学生にまず好きなものを選んでもらって、それに合わせて無地の安価な紙を選び、それぞれの製本材料にするという具合。

数年前から、「身の周りにある紙の中から、製本で使えそうな、きれいなもの、おもしろいものを集めて持ってきて。店で買う必要はありません」に対する反応が鈍ってきていた。「雑誌でも包装紙でもフライヤーでも紙ゴミでも、いろいろあるでしょ?」と言うのだけれど、つるつるのうすうすの紙にぺかぺかに刷られた洋服通販冊子を複数の人が持ってくるようになったのだ。この紙をきれいと思うの? この柄をおもしろいと思うの? これを使って製本してみたいと思うの? 

聞けばそういうことではなくて、ふだんの暮らしでみつけられる「紙」がそれだっただけで、きれいともおもしろいとも思っていない。買うのはナシと言うのでこれを持ってきた、というのであった。暮らしの中から紙が減っているのは確かだろう。電車の車内吊りや新聞の印刷広告もテキトーなものばっかり(今朝の『君の名は。』の新聞両面広告はよかったけど)。それにしても、なんということだろう。今、「紙」を初めてまじまじ眺めようとしている人の日常に、うつくしい印刷物がこれほど減っているなんて。

しかし、ただそれだけのことかもしれない。うつくしくておもしろい紙や印刷物を知る機会さえあれば、たちまち夢中になるのでは? それで『デザインのひきだし』実物見本。毎回みんなくらいつく。選ぶのに迷ううちに夢中になって、作業しながらわいてきたアイデアに自分でびっくりしている姿を見るのがうれしい。終わってほんとは『デザインのひきだし』本体を読んで欲しいのだけれど、毎度それは「次の機会に」。「次」は自分で見つけてね。もう、ひきだしの一つは開いているのだし。

MY LIFE IS MY MESSAGE

若松恵子

ロックバンドHEATWAVEの山口洋が、東日本大震災の直後の2011年4月に福島県相馬市の人々とともに「町とこころの復興」を目指してMY LIFE IS MY MESSAGEというプロジェクトを立ち上げて活動している。友人が相馬市に住んでいたことをきっかけに(確かレコード屋さんだったと思う)相馬市という具体的な町とつながって、自分にできることは何かと悩みながら支援を続けてきたプロジェクトだ。自分の本業である音楽を活動の軸に、相馬に暮らす人たちを元気にしようと、チャリティコンサートや美空ひばりのフィルムコンサートの開催などをしてきた。あわせて、賛同してくれるミュージシャンと相馬以外の地でもMY LIFE IS MY MESSAGEのタイトルのもとにライブをしたり、野外フェスに出演しながら相馬を応援する仲間を広げてきた。募金を集めて何かをプレゼントするとか、再建するとか、分かりやすい目標のようなものがあるわけでは無いようなので、継続していく事自体難しいことだったろうな、と思う。ライブのチケット代と支援のお金が直結しているわけでもないので、普通のライブとどこが違うの?と言われてしまうかもしれないとも思った。

6月28日に、8年目を迎えるMY LIFE IS MY MESSAGE2019のライブを見に行った。今回の出演者は山口洋と2013年からずっと参加している仲井戸麗市の2人。それぞれのパートと、いっしょに演奏するパートの充実した3時間だった。このライブに対する2人の思いが静かに、静かに伝わってきて余韻が残った。

震災から8年経って、直接相馬に行ってしなければならないことも少なくなってきて、誰かのために汗を流すことよりも自分の持ち場でしっかり音楽をすることこそが重要になってくる。ガンジーの言葉を引用したプロジェクト名なのだから、そういうことなのだけれど、支援活動としてはますます間接的になってきて、それはそれで難しい挑戦になるだろうなと思う。でも、続けてほしいなと心から思った。自分たちの音楽を精一杯鳴らすこと、そのことでまず目の前にいる人たちを元気にする、そして「あの日のことを忘れない」という思い(メッセージ)を唄に込めて伝える。音楽に、唄にどれだけの力があるのだろうかと迷いながらも、自分たちが一番うまくできることで役に立ちたいと思っている…そんな誠実さを2人の姿から感じた。彼らの音楽を聴き、心打たれるという、直接には相馬への支援になっていない参加の仕方ではあるけれど、私も見続けていきたいと思っている。

自分と同じように日常を大切に生きているたくさんの人への連帯の気持、原発事故の責任がきちんと取られていないという不正義への怒り、それぞれの人生を自分の好きなように輝かせて生きようという励まし、歌詞に直接うたわれているわけではないけれど、そんな大切なものを音楽から感じた夜だった。

しもた屋之噺(210)

杉山洋一

ここ数日、酷暑に見舞われています。ミラノだけではなく、ヨーロッパ全土が異常な熱波に襲われているとか。毎年七月半ばが一年で一番暑いのですが、今年はそれが早まったようです。七月に向けてこのまま気温上昇が続くと想像したくないのですが、一体どうなるのでしょう。

6月某日 ミラノ自宅
朝5時半起床。息子の弁当に入れるパスタを作ってから、6時半、朝食のパンを買いにゆく。朝食の準備をして7時半には家をでて、マントヴァから戻った家人と中央駅で落合って、8時過ぎの列車でキアヴァリのマルコ・バルレッタのピアノを見に出かけた。マルコは旧いピアノを修復して使えるようにしているのだが、弦が交差しない形の平行弦のピアノは、音域毎に音質が違うので、同時に何声部も弾いても、それぞれ音がきれいに分離するし、現在のような均質な音色を求めるピアノをモーツァルトが持っていたら、アルベルティバスは書かなかったと力説していた。音質や鍵盤、時に声部が不均等である美しさは、その昔メッツェーナ先生のレッスンを聴講しているときに覚えた。

6月某日 ミラノ自宅
通常、指揮セミナーは教師が熟知するレパートリーをやらせるものだが、生徒がお金を出し合ってアンサンブルやオーケストラを指揮する我々の場合、編成や演奏時間が優先される。教師は曲を余り知らないまま、良く言えば先入観なしに生徒の作りたい音楽の手助けをする。一応楽譜の勉強はしたが、生徒の方がよほど深く読み込んでいて、解釈で蘊蓄など垂れる必要はない。むしろ、深く読み込み過ぎて、泥濘に嵌りそうになると、少しだけ言葉をかける。

今回特にチリ人の血を引くグエッラが担当したファリャ「チェンバロ協奏曲」の素晴らしさに衝撃を受けた。演奏も指揮も意外に難しく、編成が小さいほど、粗が露わになるからだろう。無駄なく冗長な要素を極端に廃した構造は、性格は違うがマリピエロのようでもある。
3楽章の楽譜を読んでいるとき、息子がシューベルトの即興曲2番を歌いながら通りかかって、初めてこの中間部がファンダンゴと気づく。常識と言われればそれまでだが、無知とは恐ろしいものでこの歳まで知らなかった。アルゼンチン人のバレンボイムの演奏を聴くと、カスタネットを叩いて躍っているように聴こえる。

浦部くんにお願いしたウォルター・ピストンが、ジェノヴァ人の家系だとは知らなかった。イタリアには、確かにピストーネという名字もあるそうだ。ピストンの「喜遊曲」に、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」の足跡を見る。ピストンの「喜遊曲」は1946年、バルトークの「協奏曲」は1943年。後年はボストンシンフォニーとミンシュでピストンの6番交響曲が録音されているほど、ピストンは長い間ボストンで盛んに活動していたようだし、クーセヴィツキとボストンシンフォニーの1944年の初演も聴いていたかもしれない。高校生の頃中古レコード屋で見つけたこのミンシュのLPを愛聴していた。
要するに指揮セミナーというのは、無知の教師が自らの無知を確認する、格好の機会ということ。

6月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院に細川さんがいらして、ガルデッラも交えて昼食をご一緒する。美食家のガルデッラが探してくるレストランは外れたためしがない。食事の席でエヴァ・クライニッツの訃報に接し、言葉を失う。
夜は尺八の黒田くんとmdi ensembleの演奏会があって、桑原ゆうさん、浦部くんの作品を聴きにSirinに出かける。浦部くんは新作の初演をし、通訳も指揮もして企画までこなし、八面六臂。桑原さんの作品も次々とアイデアが沸き上がる様が素晴らしい。スタイルは違うけれど、知り合ったばかりの頃のみさとちゃんを思い出した。
もう20年近く前から何回か、パリのみさとちゃんもこのSirinにやってきては、mdiとのリハーサルに熱心に付き合ってくれた。当時は主人のフランコも健在で、お昼はいつもヴェラ通りの年配女性が揚げるカツを乾燥トマトやチーズと一緒にパンに挟んでもらって食べた。皆あのおばちゃんを慕っていて、ミラノ語でシューラ(おばちゃん)と呼んでいたが、あの店も大分前になくなった。
当時、いつもヴェーラ通りの角には、整った顔立ちに濃いめの化粧を引いた妙齢が立っていた。 晴でも雨でも、暑夏でも厳冬でも、物憂げで、どこか凛とした風情で立っていたのを思い出す。彼女の前に車が停まり、二言三言言葉を交わして助手席に乗込むところに、何度も出くわした。未だ若かりし頃のアンサンブルの演奏者たちのちょっとしたマドンナだったから、朝、練習が始まるとき、彼らが「今朝はシニョリーナもう道に立っていたね」、などと嬉しそうに声を上げていたのが懐かしい。彼女の姿ももう長い間みていない。
フランコが亡くなり、一人残されたミラを皆でいつも気にかけていたが、会うたび、この家は広すぎるしフランコとの思い出があり過ぎて辛いと涙をこぼした。友人らがお金を積んでこの家を借りるとか、購入するとか色々と案を出したが、結局彼女はさっぱりと売却を決め、年内には家を明け渡すことになっている。家人も、ピアノが好きだったフランコの楽譜をずいぶん沢山貰って来た。
黒田くんの演奏会に出かけ、フルートのソニアと話した。「シューラ、未だ元気かな」「どこかの養老院で、今も楽しくやっているといいわね」。

6月某日 ミラノにて
朝、東京の尚さんから便りが届いた。
「悠治さんのピアノは、涙が出そうになるような愛に溢れた音、音楽でした。張詰めた空気感、優しいロマンティックな雰囲気、静かなたたずまいなど、色彩豊かな時間で胸がいっぱいになりました」。

家人の留守中、息子の弁当の助っ人に母を来てもらっている。残念ながらうだる暑さで日中どこにも出かけられない。今朝は週末で弁当の必要がなかったので、朝早く、連立ってジョルジアの菓子屋まで朝食を買いに出かけた。こちらは徒歩で、八十路半ばの母は鶯色のブロンプトン自転車に跨り、颯爽と。
息子が魚を余り食べないとこぼすと、母も幼少期、魚にあたってばかりいたので、口にするのは好きではなかったと言う。当時は氷冷蔵庫しかなくて、暗いところで冷蔵庫を開けると、魚がぼうっと光っていて薄気味悪かったそうだ。母曰く、魚のリンが発光したからと言うが、真偽のほどは分からない。

(6月29日ミラノにて)

シリアの民主主義

さとうまき

今、僕はシリアのことをいろいろ考えて本を書こうという気になった。8年にわたる「シリア内戦の分析」をする。というわけではない。僕が、25年前の7月19日に初めてシリアに行ってから25周年という記念日なのだ。

久しぶりに25年前のノートを開いてみた。まだ、ハーフェズ・アサドの時代。驚くほどアナログの時代。インターネットもなければ、デジタルカメラもなかった時代を信じる方が難しい。今は、スマホ一台ですべてが補えるのだからすごい進歩だと思う。だからこそ、民主主義も進歩したはずなのに、シリアの今は内戦が続く。そんなことを徒然なるままに筆を執ってみる覚悟をして、25年前のノートを読み返してみるとなかなか興味深い時代だったんだなあと改めて感じた。

1994年8月

ダマスカスの工業省に赴任して間もない夏。ウマイヤッド・スクェアにバスがさしかかった時、アラビア語で書かれた垂れ幕がやたらと張ってあるのが目に付く。一緒に乗っていた職場のシリア人女性に聞いてみるが、「明日までに調べておくわ」。きっと政治的なスローガンが書かれているのだろう。

アパートに帰ってラジオ・ダマスカスを聞く。このころFM放送で英語放送をやっていた。国会議員の選挙があるらしい。一般庶民のシリア人はあまり新聞を読まない様だが政治には本当に無関心だった。

少し昼寝をして町をうろつく。確かに町中がポスターやら垂れ幕やらでお祭りの様ににぎわっていた。テントが張られていて、裸電球とシリアの国旗がたくさんぶら下がっている。椅子がならべられていて、奥には大統領と1994年1月に不慮の事故でなくなった長男のバーセル(バッシャール現大統領の兄)の写真がかざってあった。トルコ風民族衣装に身を包んだ給仕が、ちらほらと集まってきた近所の老人達にアラビアコーヒーを振る舞っていた。実にのどかな光景のなかで日が暮れていく。心地よい夜の風が吹く。

突然車のクラクションが鳴り響く。子供が走ってくる。そして肩車された若者がやってくるとみんなは拍手喝采で迎え入れる。今度は、ひずめの音がしたかと思うと馬にのった男達がやってくる。こういうときは、絶対ロバではだめだ。彼らは、候補者の名前を叫ぶと、「あんたが一番!あんたが一番」とたたえる。小さな子供達も選挙運動に参加していた。ポスターを広げて候補者の名前を叫んでいる。若者は、興奮していろいろと説明してくれるが、僕にはさっぱり理解できなかった。

結局「おまえも一緒に来い」と言われて子供達と一緒にトラックの荷台に乗せられた。トラックは急発進すると次の目的地へと向かった。トラックの運転は手荒かった。しっかりとしがみついていないと振り落とされそうだった。曲がる度に子供達は荷台を転がり回っていた。商店街に入ると通行人が手をふって応援してくれる。やがて車は高速道路下のテントへ到着した。ここにはお歴々がそろっているらしかった。

中国人かといわれ、「いや、日本だ」と答えると、「じゃあ空手ができるんだ」。子供達が寄ってくる。カメラを見つけるとサウルニー(私を撮って)とせがむ。大人がやってきて子供達を叱りつけ追っ払ってくれる。うるさいガキどもを追っ払ってくれるのは実にありがたいのだが、必ず「さあ!俺を撮るのだ」とくる。結局、フィルムの無駄遣いはさけられない。当時はデジカメなんかなかった。

「コーヒーを飲むか」。彼らが差し出してくれたのは、カルダモンの香りが効いた濃いコーヒーだった。まるで九州人のようにお猪口で回しのみをするので、一気にぐっとやってしまわなければならない。僕は進められるままにこのコーヒーを3杯も飲んでしまったので胃が痛くなった。

「ところで、君たちの候補者は一体だれなんだい」

「マハディーン・ハブーシだ。彼にたのめばなんでもやってくれるさ 」

「そうさ。本当だよ」小さい子供までが付け加えた。

選挙運動はだいたいこんな感じで進んでいった。公約を宣伝カーでふれまわるようなことは決してなかった。夜、しかも決められた場所で有権者にコーヒーを振る舞う。灼熱の太陽が没した後に人々は集まり、お茶を飲み、トルコ風の剣の舞を楽しむ。

投票日

この日は投票日だった。投票はだいたい小学校などを利用して行う。俺はいつものようにカメラを持ってカファルスーセの町をうろついていた。近所の就学前の少女がついてきた。小学校の前にさしかかると、調子の良さそうな連中が「おいで」と言ってくれる。シリアの小学校は高い壁に覆われておりそれはまるで刑務所のようだった。運動場もない。

「それは、子供達が脱走しないようにさ」

「じゃあ、やっぱり刑務所だ」

女の子に「さあ!一緒に行こうか」と言ったが怖がって中には入ってこない。中では警官の立ち会いのもと、投票が行われていた。何ら緊張感がなく皆楽しそうに選挙を手伝っていた。女性の選挙管理委員もいる。みんな歓迎してくれて写真を撮らせてくれた。すると警官がやってきて俺に職務尋問をした。そして「俺を撮れ」と言ってポーズをとった。写真を撮ってやると、二人の警察官が俺の両脇について、「さあ!出るんだ」と言って外へ連れ出された。

俺が連れ出されると、入り口で待っていた女の子が「どうだった?」と駆け寄る。「まあまあだよな。写真もとれたしね。君もそのうち刑務所に行くんだ。でもそんなに怖がることはないよ」と諭した。

翌日のシリアタイムスの一面には、「投票は自由と秩序、そして正義の名の下におこなわれる。投票率61.18%、158人が新人。女性議員は28名。民主主義の自信にあふれた結果である」と賞賛した。

そして25年経ったシリアの民主主義の行くつくところはどこなんだろう。答えを求めて若者たちは戦っている。

灰いろの虹

北村周一

はじまりは点描にしてまたひとつ視野を抜けゆく雨とは光り

ぽつりまたぽつりとひらく点描の、雨は遠のく光りのうつつ

点描はことのはじまり ふる雨に濡れゆく屋根の瓦のいろも

雨白き条をひきつつすみやかに視野を抜けゆくまでの明るさ

ひぐれのち雨の気配はカンヴァスにありていろ濃く撓む空間

ひとすじの圧もてひらくつかの間を雨と呼びあう窓べの時間

絵は音に音は絵となるひとときを歌いだしたり雨垂れのごと

みたされしものから順に零れだす雨という名の後さきおもう

塗りのこし俄かに失せて雨音の変わりゆく見ゆ しろき雨脚

雨晴れて棚引きわたる灰いろの虹 たまゆらを天がけるゆめ

霽月や下田にひとりおとうとが島田にひとりいもうとが居り

*霽月・せいげつ 
雨がはれたあとの月。
くもりのないさっぱりとした心境にたとえる(広辞苑)

インドネシアで住んだ家(4)3軒目の家

冨岡三智

今回は3回目の長期滞在で住んだジャワの家について。前の2回が留学ビザだったのに対し、今回(2006年8月〜2007年9月)は調査ビザでの滞在。受け入れ機関は元留学先なので、今回もスラカルタ市内カンプンバル地域で、前回と同じ人に頼んで家を探してもらった。こんどの家は車が通れる道に面しており、家の前に車が3、4台は停められる空きスペースがある。今までの家よりも広いとはいえ、また家が立派な作りで家具付きとはいえ、思ったより賃貸料は高かった。この家だけでなく、この市役所裏の一帯の賃貸価格は前回留学した時よりも上がっている。ジャカルタ資本がこの辺の土地を買って(借りて?)商業ビルにする例が増えてきたようだ。

私が借りた家の所有者は大学教授である。実家は私が最初に住んだ家の町内にあるが、普段はジャカルタの大学で教え、たまに帰省してこの家に泊まっている。定年退職したらこの家に住むつもりだが、1年だけなら貸しても良いという話だったらしい。家の管理は実家の人がしている。持ち主の祖父?曾祖父?は近所にある銀行(カンプンバルには銀行が数行集まっている)の創立者の1人だそうで、この家はかつてその銀行の社宅にしていたらしい。社宅といっても、3、4人で住む感じだが。

この家に住んでみると、時折、高額な家具や電化製品や美容品などの頒布会のチラシが投げ込まれる。同じカンプンバルに住んでいても、今までこういうことはなかった。また、ヤクルト事業(ヤクルトレディなどを統括する代理店?)を展開しないかと営業に来られたこともあるし、保険の売り込みが来たこともある。住む家のクラスによって入ってくる情報は異なることを、ここに住んで初めて痛感した。

近所はこの辺りでワルンを出して商売している家が多い。一番親しかったのが米から雑貨まで商う店で、店主は私とほぼ同年の夫婦。私がテレビに出た時は、ここでオンエアを見せてもらった。それから左隣のご飯屋。女性と子供とベチャ(人力車)引きの老父が住んでいて、老父はもう流しで車夫をするのは無理なので、頼まれた時だけベチャで荷物運びなどをしている。近所の人たちは電気代などの支払い代行を頼んでいたので、私もお願いすることにし、それ以外に正装して出かける時や、自分が主催する事業で荷物を運ぶ時にベチャを出してもらっていた。はす向かいの店は氷屋(他にも雑貨を売っていたかもしれない)をしていて、やけどをした時にここで氷を買った記憶がある。店番のおじいさんはラジオでよく影絵やガムラン音楽を聴いていた。

1、2回目に住んだ裏通りの家と違って、この家はグーグルのストリートビューで出てくる。周囲の家はあまり変わらないが、この家の外観はかなり変わっていた。外壁が違う色で塗り直され、前の空きスペース一杯に車庫が建て増しされ、車庫のフェンスの合間から大きな車やバイクが見える。大家さんはもう定年退職してこの家に戻ってきたのだろう。このストリートビューは2016年1月の撮影だが、それから変化はあるのだろうか…。

失われていく言葉

笠井瑞丈

六月は自分の誕生月
小さい時から六月は
何か特別の月である

いつも
当たり前のように
やってきて
当たり前のように
去っていく

そんな当たり前を
当たり前にしないため
今年は何かをしようと
六月十六日誕生日
ソロの会を行った

タイトル『701125』

言葉を刻むように
行為を刻むべきだ
(三島由紀夫)

今できる事
今しかできない事
今だからできる事
そんなことをカラダで
行為しようと思いました

言葉の持つ本当のチカラ
言葉の持つ本当の意味

そのような事が
体とどのように
結びつき繋がり

新しいチカラを生み出すのか

そんなことを自分に課して
作品を作ってみることにしました

今は言葉が
飽和している時代
SNSの発展とともに
誰でも架空世界に言葉を
責任なく投げ込める時代

嘘が本当になり
本当が嘘になる

そんな世界だ

書斎の中で一晩考えた言葉が
本当の言葉であり
これが表現行為だと信じるよ
(三島由紀夫)

失われていく言葉のチカラ
今一度考えなきゃいけない

仙台ネイティブのつぶやき(46)絵本の中で

西大立目祥子

 じぶんがどうやって文字を覚えたのか、はっきりとした記憶がない。だれかが、たとえば父や母が「これは“あ”。これは“い”」というように五十音を一文字ずつ教えてくれたのだろうか。それともひらがなの本を読み聞かせてもらっているうちに何となく身につけたのだろうか。

 文字を覚えて自力で本を一冊読み終えたときの感動は、いまもじぶんの中にくっきりと残っている。5歳くらいのことだったろうか、叔母がクリスマスにグリム童話をプレゼントとしてくれたことがあった。それはそれまでなじんでいた色付きの絵本とは違って文字だけで書かれた分厚い本で、ところどころに殺風景な挿画が入っているだけ。文字の読めない幼児には文章はただの黒いシミの羅列でしかなく、ぱらぱらとめくって放り出した。

 それからどれくらい経ってからのことだろう。あるときその本を引っ張り出して読み始めた私はたちまち物語に引き込まれ、黒いシミの向こうに壮大な世界が広がっていることに驚きながら本を閉じたのだった。本という紙で閉じられたモノが持っているすごさと大きさに、幼いながら感動させられたのだと思う。

 ちょうど文字を覚えつつあった時期、6歳のころに読んで、いや正確にはたぶん母に読みかせてもらっていまだに忘れられないのが、幼稚園に毎月届くのを楽しみに待っていた絵本「キンダーブック」だ。大判の薄い冊子のような体裁の本は月替わりで内容が変わったのだけれど、中でも「オッペルと象」と「シュバイツァー博士」は、いまだに絵の細部とともに、ページを繰るごとに揺り動かされた生々しい感情が残っている。子どもの眼力と記憶力は大人が想像する以上なのかもしれない。

 「オッペルと象」では、強欲の農夫オッペル(当時は“オッベル”ではなくこう表記されていたと思う)の小屋に足を踏み入れた大きな白象が、オッペルにいわれるままに働き始める。白象は働くことがよろこびなのだ。そこにつけこむずる賢いオッペルは、つぎつぎときびしく仕事をいいつけながら逃げられないよう象の足に錘をつけたり鎖をくくりつけて食事の量を減らしていく。

 真っ白い大きな象のからだは、ページをめくるたびやせ細っていき、細くなった足にはますます重たさを増したように錘がぶら下がる。象の顔から笑いが消えて、目からは涙がしたたり落ちる。幼い私は白象がかわいそうでかわいそうで身がよじれるようだった。子供心に大きなナゾだったのは、白象がオッペルを憎まずに祈ることだった。弱り切った象は夜、月を見上げて「サンタマリア」というのだ。マリア様なら知っていた。幼稚園の朝の礼拝や食事の前には、みんなで手を合わせ祈っていたから。

 象が助けを求める手紙を書いて、森からどーっと仲間の象たちがオッペルをやっつけにやってきて、白象は仲間に救い出される。たくさんの象が長い鼻をすり寄せてよろこび合う最後のページまできて、息を詰めるようにして白象にじぶんを重ねていた6歳の私もようやく救われた。もしあのまま白象が死んでしまったら、私の世界も終わるように感じたかもしれない。

 「シュヴァイツァー博士」では、勉強をし直してアフリカに渡り病気の人々を助ける博士が描かれる。明るい日の光の下で新しい診療所の工事を指示する姿や、ケガをした男の子の手当をし動物にも愛情を持って接するようすに、幼かった私は心打たれた。そして、最後のページでは、漆黒の窓辺を背景に明かりの下、白髪や白髭にふちどられた横顔が浮かぶ絵に、博士は音楽家でもあって夜はオルガンの練習をするのです、というような文章が添えてあって物語は閉じられる。ここまでお話を読み聞かせてもらって、「尊敬」というような難しいことばは知らなくても、ひたひたとあこがれのような感情に満たされたのだった。

 中でも何とも魅力的に映ったのは、博士が診療に忙しく過ごす昼の顔と、ひとりオルガンに向かって稽古する夜の顔を持っていることだった。6歳の子どもにそんなことがわかったのだろうか、と大人になった私は疑いたくもなるのだけれど、でもあのときの私は確かに2つの時間を生きる博士を何ともステキだと感じたのだ。親にも話さずに私はそっと胸の底に「シュヴァイツァー博士」の名前を押し込めて毎日を過ごし、ときどきアフリカの青い空を思い浮かべたりしていた。

 9歳になった1965年の9月初めの朝のことだ。学校に出かけようとしていたときに、テレビを見ていた父が「あ、シュヴァイツァーが亡くなった」といったので画面をみると、白黒のテロップに「シュヴァイツァー博士死去」とあった。ショックだった。もう私が尊敬する人はこの世にはいないんだと思いながら、とぼとぼ学校に歩いていった記憶がある。

 それから25年くらいが過ぎて、私はある古書市でこの「キンダーブック」に再会した。発行は昭和37年。A4版でわずかに16ページ。表紙には「しゅばいつぁーはかせ」とあって、中の文字はすべてひらがな。幼稚園の1年間に「キンダーブック」を読んでもらいながら、私はひらながを習得していったのかもしれない。

 各ページの絵は、記憶の中の絵と少し違っていた。でも最後の窓辺でオルガンを引く博士の横顔は記憶どおりだった。文章は「はかせは、おるがんのめいじんです。まいばんけいこをしています。」とある。博士への尊敬を決定的にした文は、こんなにシンプルなものだったのだ。子どもは絵と文を激しく増幅させて、その世界へと入り込むのかもしれない。大人はもうこういう読書はできないだろう。

 わきにはごくごく小さな文字で、出版元であるフレーベル館の顧問の坂元彦太郎という人の企画意図が「博士へのあこがれを胸にきざみこんでおけば、やがてはそれぞれの胸の中でゆたかに開花する日のあることと、期待しているのです。」と記されている。

 うーん。確かに胸には深く刻まれた。でも開花はしていない。博士へのあこがれはいまもあって、それはどんなにへたくそでもいいから、夜の窓辺で博士のようにバッハを稽古することなのです。

176 その古い話が終る

藤井貞和

その古い話が終る。 土間(どま)の神は去り、
鍋が割られる。 さいごのスープを、
地面へこぼすと、もう(地面の)口はひらかれることがない、
古い話は終わる。 さいごの餅も、小豆(あずき)も、
いまでは語り草(かたりぐさ)。 知らない人ばかりがあつまり、
祈りを忘れる。 その少年に、かまど(竈)は、
さいごのことばを教える。 でも、それは、
火の神の遺言である。 「よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

少年の火は、石と石とをたたき合わすだけだし、枯れ枝を
燃え上がらせても、さいわいに雨が降って消すことを告げる。
どんな捧げ物も最初、火に捧げました。  
食物の一掬いを、捧げました。 感謝の祈りとともに。

みかる(見軽)という名の少年が、義父のところへ行く途中、
わしい(鷲)の家を訪ねます。 客人はたいせつにしなければね。
ところが、おどろいたことに、わしいの家の、
女主人は鍋から一掬いを火に注がなかったのです。
みかるは自分のために出されたテーブルの上のスープを、
カップからそっと、一掬い、火に注ぎました。

夜中、みかるは目を醒まします。 弱い、けぶったような光の向こう、
炉のかたわらに痩せた男の子がすわっています。
こうつぶやくのです、「ぼくは、ここで痩せてしまった。 だれも、
食べものをくれないのだ。 いつもおなかをすかせている。 
麦のスープをくれたのはあなたがはじめてだ。 これに対して、
お礼をしますよ。 よく聞きなさい。 すぐにここを、
出るのです。 見ていなさい、何かが起きるから!」

みかるは身震いして、わしいに挨拶もせずに、
そとへ出ました。 振り返ると、
わしいの小屋はほのおに包まれていたと、ふるい神話のような、
昔語りです。 ことばの継ぎ目に、まだ残されたことばがあるなんて。
「よく聞きなさい。 すぐにここを出るのです。 見ていなさい、
何かが起きるから!」

(ヤクートの神話の、舞台を変えて改作です。現代詩の危機って、ほんとうにあるのですね。)

ピアノ練習のあとで

高橋悠治

6月はアンサンブル・ノマドの練習とコンサートがあった 月末にはパラボリカ・ビスでの音楽と詩の交錯を語るイベントがあったが そのことはまたあとで

今年はピアノ演奏技術を維持するために バロックと自作やサティなどに限っていて ずっと離れていた20世紀西洋音楽とその後の多様化と分散の結果できた音楽を練習してみた

香港にいるアメリカの作曲家で 長年の友人だったポール・ズコフスキーを看取り 灰を海に撒いたクレイグ・ペプルズの作品は テッセラの「新しい耳」でソロを2曲彈き ジュリア・スーと2月に録音したが ニューヨークのズコフスキー追悼コンサートから ペプルズの2台のピアノのための「遊ぶサル」とストラヴィンスキーの「2台ピアノのソナタ」をノマドのプログラムに入れてもらった

ペプルズのアルゴリズムを使った作品の空白の多い 限られたピッチの組み合わせが変化するスタイルには興味をもっていた いわば唐詩的な側面でもあり ヨーゼフ・マティアス・ハウアーが易占で選んだ12音遊戯に近いかんじがする サルが果物を投げ交わす始まりの部分はともかく 拍の変化のなかでディジタルなパルスを感じつづけるのはなかなかできない 共演した稲垣聡や中川賢一にはなんでもないようなことでも 昔から音階やオクターブ奏法など 均等なものは苦手で 一柳慧の「ピアノメディア」は弾けず クセナキスの「エヴリアリ」はもう弾きたくないし 弾けないと思う 練習してよかったと思ったのは かなり低い椅子に座っても 鍵盤上の離れた位置に平行移動するのは可能だったこと 今年3月に演奏し録音もしたチャポーの「優しいマリア変奏曲」も もうすこしらくにできたかもしれない 今年はまだクセナキスの「アケア」をアルディッティたちと演奏する予定がある どうなることか

むかしクセナキスの「ヘルマ」やブーレーズの「第2ソナタ」を弾いていた頃は 超絶技巧とは反対のやりかた 制御能力を越えた状況で疲れ切ったときに 身体の緊張がゆるんで 自由にうごけるようになる それは古代ギリシャ語の最初に習うプラトン(ソクラテス)のことば「試練のない生は生きるに値しない」が指している身体技法だったと いまでは思えるが もうそういうやりかたはしない おなじに見えるもののわずかなちがいを感じられるように そのものではなく その表面と それを囲む空間の気象変化を感じて 風のままにただよう 不安定なままでいる自由のほうが好ましい 速度をぎりぎりにまで落として それができても おなじやりかたをくりかえさない それとおなじように 右手と左手は それぞれの指は ちがう時間でうごいていく

コンサートのプログラムに取り上げられた自分の昔の作品でも そういう試みはしていた 管楽器はタンギングをしない 弦楽器はコントロールしにくくなるまでに弓の毛をゆるめて 力を抜いた状態で弓の速度を変えながら弾いてみる すると抑えていた意識以前の身体内部の感触が透けて見える瞬間がある でも これにも慣れてしまうと 浮かび上がってきた異なる感覚もまた どこかへ沈んでしまう すこしずつやり方を変え 片足が沈まないうちに 別な足を出す そうして どこへいくのか

2019年6月1日(土)

水牛だより

うるわしき五月が、うるわしくもなく去ってゆき、きょうから六月です。どんな六月になるのやら、気候も世界もめちゃくちゃですね。

「水牛のように」を2019年6月1日号に更新しました。
きょうは世田谷美術館で開催されている「ある編集者のユートピア」に行き、水牛の同志である津野海太郎さんのトークを聞いてきました。「ある編集者」とは小野二郎さんのことで、晶文社を始めた人ですから、津野さんのトークは必須だったのです。津野さんの「わっはっは」という豪快な笑い声を味わい、なつかしい人たちにも会えて、楽しい午後でした。
今月は、お休みします、とか、さぼります、というメールがいくつか届いて、いつもより原稿の数は少ないのは五月だからかなと思ってみたり。。。

それではまた!(八巻美恵)

仙台ネイティブのつぶやき(45)あなたでいること

西大立目祥子

 母はこのごろ、私のことをときどき「まっちゃん」と呼ぶようになった。「まっちゃん」て誰?
 それは、小学生のとき同級生だった女の子の名前だ。10数年前、渋る母をデイサービスに誘い出したとき、偶然にもそこで母は、まっちゃんと数十年ぶりに再会したのだった。「わぁ、まっちゃん」「みよちゃん!」と肩を抱き合うような出会いとなって、母はよろこんでデイサービスに出かけるようになった。

 まっちゃんには、私もおぼろげな思い出があった。美容師さんで、理容師のご主人と、美容院と理髪店の2つのドアのある大きな店を構え、小学生のころ髪をカットしてもらいに行ったことがある。小柄ではつらつとした人だったけれど、あれから50年近くもたって母と同じように体が弱り、記憶もあいまいになってきたのか。30代だった人が働き詰め働いているうちに、いつのまにか80代になってしまった人生の長いようで短い時間を想像した。

 母の口から「まっちゃん」という名前がひんぱんに出てくるようになり、そのときはいつも楽しそうな表情だから、2人はいつも話しこみ名前を呼び合いいっしょにごはんを食べて、子ども時代に帰ったように親密なひとときを過ごしていたのだろう。
 残念ながら数年して、そのデイサービスは経営者が変わりやがて閉鎖されて、母はやめざるを得なくなり、まっちゃんのその後もお元気なのか亡くなってしまったのか、もうわからない。

 でも、別のデイサービスに移っても、母はにこにことバスに乗り込み出かけていく。別のまっちゃんに会うために。誰かと会えば2人にしかわからないようなやり方でおしゃべりをし手を握り合い、涙を流したりしていい時間を過ごしているのだと思う。きっと母は相手を「まっちゃん」と呼んでいるのだろう。

 母にとって、いまここにいるじぶんをまっすぐに見て話してくれる人はみな「まっちゃん」なのかもしれない。いつしか、私にも、「まっちゃん、ありがとう」とか「まっちゃん、いてくれてよかった」とかいうようになり、その頻度は増している。
 介護も15年をこえて、私はこういう事態にも、ついに娘の名前もわからなくなったかなどとあせったりあわてたりすることはなくなった。「はーい、まっちゃんですよ」と胸の中でつぶやく。

 そして、気づく。一人称の「わたし」であるじぶんに向きあってくれる二人称の「あなた」が、人には必要なのだ、と。そこには必ずしもことばはいらない。目と目を合わせたり、肩をなでたり、わたしとあなたは、そうやって会話して気持ちを通じ合わせことができるのだ。ここにいてくれるあなたは、遠くにいる三人称の彼や彼女とはまったく異なる存在で、わたしの中に入り込み、つながって安心をもたらしてくれる。

 はいはい、なりましょうともあなたのあなたに、おかあさん。そんなふうに胸の内で応え、そして笑ってしまう。どこまでいっても折り合いが悪く、口を開けば言い争っていた思春期をはるかに過ぎて、母と私はことばを介さず、存在と存在として理解しあっているんじゃないか…。

 もちろん、いいことばかりではない。私の感情を母はクリアな鏡のように映し出す。眉間のしわは、くぐもった表情のわたしの眉間のようだし、荒っぽい口調は、さっき母に投げつけたいらだった私のことばそのものだ。お、今日のその笑顔は私が上機嫌だからだね。
 何年もかかって、機嫌よく接することの大事さに、ようやく私は気づかされた。
とはいっても、日々、平かな気持ちでいることの何と難しいことだろう。いまのじぶんをどこか遠くから俯瞰するように見ていないと、そうはふるまえない。

 こういうことは母が教えてくれたことといっていいんだろうか。衰えていく人がその姿をさらしながら気づかせてくれることがある。世間的にいえば、母はもうここがどこか、いまがいつかもうわからない認知症の老人だ。でも、そこにそうやっているだけで、私に、人についての理解を、人と人のかかわりの意味を教える。あの人は認知症、あの人は○○などと簡単にレッテルは貼るまい。

 母は、若かったときは想像もつかなかったようなおだやかな顔で、いまここにいる。長いつきあいの中でかかわりを変えながら、私はいっしょに庭の緑を眺めている。

シノップの娘

さとうまき

久しぶりにトルコ経由の飛行機に乗ることになり、トランジッドに時間があったので、反原発の活動家のプナールさんに連絡してみた。プナールさんはイスタンブールに住んでいるが、反原発の運動にも盛んに参加し、「シノップの娘」と呼ばれている。シノップはトルコが原発を作ろうとしている黒海に面した港町。日本は福島の原発事故以降も海外への原発輸出に積極的で、トルコは三菱が頑張っていたが、しかし、安全対策を考えると全くビジネスにならず、昨年12月に撤退を表明した。

1976年生まれのプナールさんが、核の問題に関心を持ったのは、子どものころにトルコの詩人ナーズム・ヒクメットが書いた「死んだ女の子」に出会ったことだという。広島の原爆で亡くなった女の子のことを詩っている。

あけてちょうだい たたくのはあたし

あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの

こわがらないで 見えないあたしを

だれにも見えない死んだ女の子を

(中略)

戸をたたくのはあたし

平和な世界に どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

(ナジム・ヒクメット作詞、中本信幸訳)

日本に関心を持った彼女は、日本語を学び、日系企業で働いていた。福島の原発事故を知り、悲しみを肌で感じたという。そして、2013年には日本とトルコが原子力協定を結び、原発輸出を決めた時はショックを受け、その後福島を4度訪問している。

2015年ドイツに、自然エネルギーの調査に行って戻ってくると、右派からスパイ呼ばわりされ、TVでも報道されたという。

「今のトルコ政府は、逆らうものは全部テロリスト呼ばわりされるわ」と危機感を募らせる。

4月の終わりになるとチェルノブイリの事故の記念日をトルコ人は忘れていなくて、いろんなイベントをやる。なんといってもソ連はトルコの隣国だった。トルコにも汚染被害が及んだ。この地域では、家族が必ず一人はがんで死んでおり、因果関係を疑っている。プナールさんはそういった集会やシンポジュームで福島のことを話している。今回もシンポジュームに呼ばれた。途中原発が作られる予定地を車で走ってくれた。ところどころで牛を放牧している農家を抜け、美しい森を抜けると、65万本の木が切られていた。

「トルコ政府は、日本が撤退したことをいまだにきちんと言わないのです。これだけの木を切り倒してプロジェクトがぽしゃったとなると、だれも納得しないでしょう」

この辺をうろうろしていると警察に捕まることもあるらしい。車をずっと運転くれたブレントさんは、頭が少し禿げていて、穏やかな中年。その禿げ方が共産主義者ぽくみえる。車で流してくれた曲が、インターナショナル、不屈の民、We shall overcome..とかで、何とも時代がタイムスリップし、彼は戦っている!感じがにじみ出ているのだ。

シノップは小さな港町。漁船が停泊して、カモメが飛び交う。

夜、魚料理を食べたくなって、海岸のレストランで小魚2種類を一匹ずつフライにしてもらった。ところが、言葉が通じなくて大量の小魚のフライが出てきた。イスラムの国だが、この町ではお酒はどこでも出してくれるので、小魚をつまみに、夜が更けていくまでビールを飲んでいた。

広島が世界の反核運動の中心になっている。一方、福島後も日本は原発を輸出しようとしているのは情けない。人民よ!連帯せよ!

別腸日記 (28) 竹林から遠く離れて(中編)

新井卓

彫刻家、絵描き、写真屋の打楽器トリオ〈チクリンズ(竹林図)〉の名前は、「竹林の七賢」の故事から拝借した。俗世から1ミリも脱する気配のないわれわれには──と言っても彫刻家の橋本雅也だけは浮き世からかなり遠い人であることは、人々の認めるところであるが──もったいない名前である。

ところで、三国時代のボヘミアンのように聞こえがちな竹林の七賢の物語だが、当時はその暮らしぶり、思想、話し方そのものが命がけだったようで(実際、嵆康/ジー・カンという人は風紀紊乱の罪に問われ処刑されてしまった)、その意味で彼らの活動は積極的/批判的/政治的ドロップアウトといってよい。夜中にみなで踊ったりすることが違法で、道ばたで歌うだけで職務質問にあうこの日本という国で、七賢の精神性はわれわれに引き継がれているのだ、と、無理矢理にでも信じよう。

わたしの音楽体験は、ずいぶん長いあいだ「習いごと」であったのかもしれない。物心つく5、6歳のころからピアノを習いはじめ、17、8で受験を理由にやめるまで、音楽、イコール「練習すること」だった。高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いていた時もそうだったし、もっと後で友だちにギターを教わろうとしたときも、それは変わらなかった。

ひとつ言い添えたいのは、わたし(と母と弟)のピアノの先生はたいへん素晴らしい音楽家だった、ということである。彼女は日本を代表する気鋭の作曲家で──お名前を出すのはご本人の名誉に関わるので、仮にK先生とする──ピアノをつづけられたのは、毎週K先生にお会いしたいという一心からだった。むしろそれだけが動機だったため事前の練習はたいへんお粗末で、どれだけ迷惑だったか知れず、今となっては身の縮まる思いがする。

K先生は何も話さずとも、その穏やかな佇まいの内奥から、澄んだ知性と精神性が絶え間なく発散しているような人で、子どもながらに強い尊敬の念を抱かずにはいられなかった。幼いころK先生に出会わなければ、わたしはおそらく、アーティストにならなかったに違いない。

ピアノを練習していると、楽譜にいろいろな指示が見える。音符を正しく追いかけることすらできないのに、”amoroso”(アモローソ=愛情ゆたかに)なんて、どうやって弾けばいいのだろう。どうやら「音楽」とは、何よりも技術の研鑽であり、膨大な時間と集中力を費やして身体を調律していき、その上ではじめて、活き活きとした感情とともに表出されるものであるらしい──次第にそう考えるようになってしまうと、その果てしない道のりと、自分の手の遅さに無力感ばかりが募っていった。一方で、音楽通の友だちからジャズを、ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソン、キース・ジャレット、とりわけセロニアス・モンクの存在を教わると、それら呪術的な力をもつ音の連なりに圧倒されると同時に、自分で練習する「音楽」未満のものとの断絶に耐えられなくなって、いつしか、ピアノの前に座ることは滅多になくなってしまった。

それから、半端に調律された、わたしの音楽の身体はそのまま放置され、貪欲に耳だけを澄ませる時間がつづいた。旅の途中で出会う音楽も、レコード屋やインターネット配信で手当たり次第に試聴する雑多な分野の音楽を、手の届かない何かに対する憧れに似た感情とともに、聴いていたのではなかったか。

それから、音楽について、というよりも、わたし自身の身体のありかたについて、考えることになった契機が何度かあったように思う。十五年ほど前に煩った全身麻痺の病はもちろんのこと、不思議なことに、依頼撮影の取材先で出会った人類学者・木村大治教授から伺った、バカ・ピグミー(カメルーンからコンゴ、ガボン、中央アフリカ共和国にかけて生活するピグミーの民族グループ)の暮らしのことを、いまでも頻繁に思い出す。
(つづく)

お知らせ:本日(2019年6月1日)から、横浜で「チクリンズ」の三人の小さな展覧会が始まります。
GRAYS, SEEING
新井卓+橋本雅也+藤井健司
会期: 2019年6月1─9日 / June 1─9, 2019
時間: 土日 Sat/Sun 11:00─19:00 / 月─金 Weekdays 15:00─19:00
場所: 新井卓事務所 横浜市南区高砂町1-3-4-1F
詳細: http://takashiarai.com/grays-seeing-3-persons-exhibition/

世界は一つの肺に包まれている

笠井瑞丈

少し前の事ですが
毎年携わらせてもらっている
セッションハウスの企画
ダンス専科で作った作品

『世界は一つの肺に包まれている』

ダンサーはノンセレクト
ワークショップに二ヶ月参加できれば
誰でも参加できるというシステム

毎年の事ですが
今年も面白い人達が
参加してくれた

田植えをしてる人
歌を歌っている人
普通の会社員の人
大学生の学生の人

そして

ダンサーを目指す人
今年の参加者は十人

様々なバックグラウンドを
持った人達と作品を作る

ダンサーであろうが
ダンサーでなかろうが

カラダを動かし
表現をする事は
すべてのヒトに
与えられた特権
だと思っている

そんな人達とのワークは
毎年新しい発見がある

上手下手もなく
ただただ
カラダに
耳を澄まし
カラダの
音を聴く

苦しみの中から
喜びを掘り出す

表現の根底とは
そうでなければ
いけないと思う

新しい景色が生まれる
踊る事ってそんな事だ

人間が生まれ 人間の呼吸 人間の想像
大地にかえる 植物の呼吸 世界を作る