編み狂う(10)

斎藤真理子

 いちばんいい編み物は編みかけの編み物だ。そんなことわかっている。
 完成した編み物はつまらない。なぜなら、もう編むところがないからだ。それもわかっている。

 何度も書いた気がするが、縫い物は、生地を裁ったら後戻りできない。でも編み物は途中でどうにでもなるしどこにでも行ける。色も形も変えられる。セーターのつもりだったのをワンピースにしたっていい。いや、実際にはそんなことしない。その自由を使う可能性はほぼ、ゼロ。でも、行使しない自由であっても、保証されているのといないのでは大きく違う。

 昔、昼間は解体現場で働いて夜は彫塑をやっている知り合いがいた。お天道さんが出ている間は壊し、お天道さんが沈むと作る。結局プラスマイナスゼロで、さっぱりした顔して暮らしていた。人体彫刻を五〜六個、ずーっと手入れしつづけて、いつまでも出来上がらない、そういうのが理想ということだった。
 それはわかる。私もできればずっと編んでいたい。でも、彫塑なら半永久的に作っていられるのかもしれないが、編み物は編んでったらどんどん伸びてしまい、どこかできりをつけないといけない。
 だから一応、ウエアの形に落とし込んで、完成形を設定している。それは私が選んだことであり、編み上がるときが来てしまうこと、いつか仕上げなきゃならないことはわかっている。けれども、それによって失われるものが何て多いことか。いうまでもなく、自由を失うということだ。

 パーツの間はまだ、どっちにでも行ける。融通無碍、当意即妙、縦横無尽が揃っている。だがパーツが編み上がってしまうと、「とじ・はぎ」という別世界にワープしないといけない。そこには陶酔はない。
 まず、前身頃と後ろ身頃をとじなくてはいけない。ちなみに、ここでヘタを打つと、着ているときに脇腹のところがたるんだりシワがよったりしてみっともないから気を遣う。丁寧にピンを打って、確かめながらとじていく。
 とじ終わると胴体ができる。これで頭を突っ込むことができるようになるが、その代わり融通無碍が失われる。
 次は袖を丸めて端っこと端っこをとじる。腕を突っ込むことができるようになるが、その代わり当意即妙が失われる。
 そして袖つけ。胴体と袖をつなぐのだ。こうなるともう後戻りができません。これをやるとセーターとかカーディガンとか呼ばれる全体像ができてしまう。はた目には、目標達成にぐっと近づいたことになる。だが縦横無尽までが失われて、いつでもほどけるという自由がほぼゼロに近づく。がんじがらめである。
 とはいいながら、私はこの作業に全神経を集中させる。だって素人くさいセーターやカーディガンの8割は、袖のつき方がモコモコしてださいのだ。
 だからヘタを打たないように、また丁寧にピンを打ち、息を止めて一気に、かぎ針で引き抜き編みをしていく。この作業はなぜか、中腰の気持ちで、追われるかのような心境で一気にやってしまう方がいい。ゆったりした気持ちで、片づいた部屋で、満を持して作業したりするとたいてい失敗する。

 これが終わってもまだ、完成ではない。パーツどうしをくっつけただけでは着られないからだ。袖も胴体も一体化して大物になった編み物に襟を編みつけ、袖口を編みつけ、裾を編みつけ、必要なら前立てを編みつける。これがダメ押しの儀式、がんじがらめをさらに強化する儀式である。
 その果てに、ゴム編み止めという、「強化がんじがらめ」にさらに因果を含める儀式を施す。忌み嫌っている人も相当に存在する、面倒な儀式である。これをやるともう、ほどくことはほとんど不可能になる。とはいいながら私は、ゴム編み止めもかなりうまい。嫌いな仕事ほど、文句をつけられまいとして構えて臨むので上手になり、だんだん愛着すら芽生えてしまう。

 そして、因果を含められたがんじがらめの半永久化という作業がこの後に待っている。ここまで来た編み物には、いたるところから糸端が飛び出している。そのままでは着られないので(いや、着たっていいが)、飛び出した糸を片っ端から針に通してとじ目や編み目にくぐらせ、隠していく。がんじがらめにしたという証拠を隠滅するわけだが、すると水面下でいっそうがんじがらまり、もう未来永劫ほどけない感じになる。にっちもさっちも。いや、ほどこうとすればほどけるんですよ、ほどく必要があれば。だけど、ほどく必要なんて生じない。ほどかないと糸がないとか、そんな切迫した理由は発生しない。それを言ったらそもそも今の時代、どうしても手編みをしなくてはならない差し迫った理由はないのである。

 そもそもが矛盾してるのだった。ずっと編んでいたいのに完成形を設定することも、ほどける自由があるからこそ編んでるときが陶酔なのに、ほどけないことを完成と呼ぶことも。
 だけどそもそも、昨日と今日がすんなりつながってたりはしない。我々の記憶も生活も、端を引っ張ったってすーっとほどけてきたりしやしない。とじて、はいで、言い訳して、糸端を隠して、自分から進んでがんじがらめになって、自分で自由を切り刻むのが生きることなのだと、そうね、こんなふうに、何もかもが何かの比喩であるみたいなことを言ってるうちに人生は終わってしまうだろう。一期は夢よただ狂えと閑吟集に書いてあった。そして、いちばんいい編み物は、編みかけの編み物である。

アジアのごはん(112)たらま島食日記

森下ヒバリ

たらま島に行ってきた。たらま島は宮古島の南西約67km、石垣島の北東約35kmの場所にある小さな島だ。人口は1000人ちょっと。牛の数は5000頭。宮古島空港から琉球コミューターの飛行機で飛び立って15分、青い海に浮かぶ丸い緑の島が眼下に見えてきた。丘はあるが、山はない。サンゴで出来た平らな島である。

今回の旅は、埼玉の小手指でたらまガレージというライブもする飲み屋のおとうの里帰りに、ミュージシャン2名とそのファン、店のファンが一緒についてきた、という形である。まずは宮古島でライブをやって、翌日飛行機でたらま島へ飛ぶ。たらま島では今回の旅のプロデューサーの佐久間さんが車で見どころを案内してくれる。

まずはお昼ご飯だ。たらまのおとうの義理の弟さんからここに行けと指令されたのは、できたばかりの「たねび食堂」という店。席が空くのを待って、店に入るとメニューは「たらまそば」と「たらま牛丼」のふたつ。悩む間もなく、今日は牛丼はないとのことで、たらまそばを頼む。

沖縄地方の「そば」というのはご存じの方も多いと思うが、一昔前の鰹ダシで醤油味の中華そばに近いものだ。宮古島では太めの中華麺に豚バラの煮つけ、てんぷら(かまぼこ)、ねぎが標準装備である。

たねび食堂のたらまそばも、同じく3点セットなのだが、宮古島であまりおいしい宮古そばに当たらなかったので、期待せず割り箸を割った。小さな島なので、営業している店は少ない。食べられるときに食べておかないと・・あ~また豚バラ肉かあ・・箸で取って口に運ぶ。んんん、んんま~い!豚バラがふわっとほどけて肉の油がとろんと舌に溶ける。最高。

宮古島滞在中で食べていたそばの豚バラ肉はちょっと臭みがあって、けっこう気持ち的に「もう、豚バラは食べたくないです」となっていたし、どこも味の素がたっぷり仕込まれていたので、この味はうれしい。紅ショウガも載せて、ずずっといただきました。化学調味料や添加物の入っていないスープもあっさりとしているが滋味深い。大きな肉の固まり、ぺろっといけた。宮古島に三日間いて、おいしかったのは2日目の夕食、居酒屋「志堅原」のみだったので、かなりテンションが下がっていたのだが、急に元気になってきた。

食後に島を回り、たどり着いたのが「たらま民俗学習館」。いわゆる民俗資料館ですね。たらま島の歴史とか、祭りの写真、昔の農工具や漁の道具、食器などが展示されている。大きな巻貝をヤカン代わりに使っていたり、シャコ貝の小さいのを湯呑代わりに畑に置いておいたり、ココナツのひしゃくとか、南の島らしい道具が並ぶ。そして、紙に書いて張ってあるたらま島の「食の変遷」という資料に目がひきつけられた。少し長いが写真から書き写してみよう。

紀元前1500年頃 
一、イノシシやジュゴン、魚、貝類、野草や木の実を採取して食していたと推察される。煮炊きには下田原式土器と呼ばれる素焼きの粗末な土器を使用していた。
十世紀ごろ
一、七~八世紀ごろ八重山地方で確立した根菜農耕文化が伝来したと推察される。粟・麦・豆類・ヤムイモなどの栽培。ヤムイモを利用したイノシシや野ブタの飼育など。
十五世紀頃
朝鮮国・李王朝の歴史書、李朝実録に、次のような記述がある。(一四七九年)
一、キビ、粟、大麦、蒜(ノビル?)ヤムイモなどがあり、土をこねて鼎(かなえ)を造り、これで煮炊きをする。
一、飯はこぶし大に握り、ハスの葉に似た木の葉に盛って食べる。みそやしょうゆ油、塩などはなく、味付けは海水のみでする。
一、家にねずみがいる。牛、鶏、猫を飼う。牛は食べるが、鶏は食べない。
一、昆虫に蚊、蠅、蝸がおり、蝸を煮て食べる。
一、肴には乾魚を用いる。鮮魚を薄切りにしてなますをつくり蒜(ノビル?)を加えて食する。
十六世紀頃
十五世紀同様な食生活だったのではないかと推察される。
十七世紀頃
十六世紀後期(一五九七年)砂川旨屋により中国から宮古島に甘藷が移入され、十七世紀の初め頃、多良間島にも移入される。
一、一六三七年から宮古・八重山地方に人頭税が課せられ、厳しい穀税(粟納)に備えることが精いっぱいで甘藷作は賑わず食糧事情はますます困窮を極めるだけであった。
十八世紀頃
一、食糧難を乗り切るためにソテツを移入し、クツバルニーと水納島に植え付ける。(一七二七年)
一、水納島ではシャリンバイやユリ根も救荒食として利用した。
十九世紀頃
一、唐黍、小麦、下大豆などが移入され、一部の家庭でみそが使用されるようになり、油脂、酢、塩なども伝来しているが、海水のみの味付けも依然として続いていた。
一、一九〇三年(明治三十六年)、人頭税が撤廃され、甘藷作が盛んになる。
二十世紀
一、一九一八年(大正七年)大豆が移入される。大豆製品が多く出回るようになり、この頃から食糧事情は若干緩和される。大正末期にはしょう油も移入され、一部の家庭で使用されるようになる。
一、一九三五年(昭和十年)この頃から戦時体制に入り食糧難を来す。
一、一九四三年(昭和一八年)後半からソテツ食となる。干ばつやサツマイモの病害虫の大発生により大飢饉となってソテツ食が続き・・
一、一九五九年(昭和三十四年)‥が襲来し食糧危機に陥る。・・三食中一食は米食となる。
一、石油コンロはやる。
一、一九六三年(昭和三十八年)この頃から米食が増える。
一、一九六六年(同四十一年)・・台風襲来、最大瞬間風速八五メートル。農作物被害甚大。
・・の所は読み取り不可能な箇所でした。

この小さな島には3500年ほど前から人が住んでいた形跡があるとのこと。それから島に渡ってきた人々は、ほぼずっと食べ物に苦労してきたようである。十世紀ごろまでは狩猟採集生活、その後は農耕も始まるが、海も豊かなのでそれなりに暮らせていたとは思われるが、十七世紀からの過酷な人頭税が島民を苦しめる。税を納めるには粟を作ってそれで納めなければならないので、ほかの作物を作る余裕がないのだ。

十五世紀の李王朝の歴史書、李朝実録に記されている食の有様が興味深い。まだ島には大豆も米もなかったので、味噌がないのは分かるが、調味料が塩もなく海水のみとは。本当なのだろうか。役人とかに知られると税として徴収されるので、黙っていたのではないのか・・。

塩は海水を日に干しさえすれば出来るし、保存も効く。そして、アジアの国々ではその塩を使って小魚を漬けて塩辛にして調味料、保存食としていた。それがいわゆる魚醤である。現在のイメージの液体の魚醤(ナムプラーやニョクマム)はその塩辛から液体を絞った工業製品で、ここ百年ぐらいに普及したものである。

調味料として塩辛の存在も書かれていないので、本当になかったのかもしれないが、ちょっと不自然な気もする。縄文時代から本土では魚醤や肉醤があったとされており、八世紀の万葉集にも長忌寸意吉麻呂の歌に「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛(たひ)願ふわれにな見えそ水葱(なぎ)の煑物(あつもの)」という歌がある。

醤酢とはもろみ状の醤に酢を合わせた調味料。醤は肉や魚と塩から作るものの方がかんたんで時代的に早く、穀類や大豆から作るには麹が必要となり手間も時間もかかるので、そちらは高級品である。この歌の醤がもろみだったのか、味噌だったのかは分からないが、刺身に和えるなら酢味噌の方が合うよね。

たらま島ではライブの次の日におとうの義弟の邦さんが潜ってタコを取って来てくれて、バーベキューでたらま牛や、豚バラ串焼きなどとともにごちそうになった。大きなタコは、まずは炭火コンロで表面をあぶり焼いてから、海に戻って海水で洗ってぬめりを取り皮をむいて、刻んで酢味噌だれで供された。あ、醤酢だ‥。タコはぶつ切りにしたそのままでおいしく、オリーブオイルでマリネにしたい・・などと不謹慎に思いつついただく。
豚バラの串焼きの肉は前日に邦さんの連れ合いのアネットがたれに漬けこんでおいたもので、また豚バラですかと一瞬思ったが、一口食べたらめちゃくちゃおいしい。いくらでも食べられる。こんなに一度にたくさん豚バラ肉を食べたのは初めてではないか。たれに地元のシークワーサー(酸っぱいかんきつ)の果汁を入れるのが秘伝らしい。まん丸に握られたこぶし大の豆ごはんのおにぎりもおいしかった。

宴会は続いていたが、食べ疲れたので、砂浜でひとり昼寝をした。サンゴの白い砂に、たくさんの白化したさんごのかけら。ああ、砂の上に寝っ転がるのは二年ぶりだ。海に入ると青や黄色の小さな魚が群れている。眺めていると大きなウツボがするするっと顔の横を通り抜けた。うわわっ。

豊かな海と濃い緑の島、奪うものさえいなければ人々は飢えることはなかっただろう。

フーガの技法

笠井瑞丈

私が上村なおかと主催している団体
笠井瑞丈×上村なおか
五月プロデュース公演を行う
出演者は多岐にわたり活躍をし
振付そして自身の公演を行っている
平山素子さんと父笠井叡さんのデュオ公演
タイトル J.S.バッハ作曲「フーガの技法」を踊る
構成・振付:笠井叡
出演: 平山素子、笠井叡
音源は高橋悠治さんの演奏を使用

バッハのフーガの技法を知ったのは
今から16年前の7月
叡さんと悠治さんが
毎週土曜日四夜にわたり
神楽坂セッションハウスで
公演をしました
悠治さんの演奏で
叡さんがフーガの技法を
踊ったのが初めてです
16曲約一時間ほどの公演

それがきっかけでフーガの技法を知りました
そして2008年1月に悠治さんの演奏で
世田谷シアタートラム
上村なおか アレッシオ・シルベストリン 横田佳奈子
叡さんの振付で四人でフーガの技法を踊りました

そこからいつかフーガの技法に
挑戦したいという想いを持ち去年の4月はじめて
私の振付で四人の若い女性ダンサーに
フーガの技法を踊ってもらいました
そして同年10月には鈴木ユキオさんと
即興でフーガの技法全曲を二人で踊りました

そして今回このような流れになったのは
去年平山素子さんから叡さんに振付依頼が来たのが始まりです
そして叡さんがテーマとして選んだのがフーガの技法でした
これは横浜KAAT主催のエリア50という企画の中で
平山素子さんが20分のソロを踊るという企画でした

エリア50とは6人の50代のダンサーがそれぞれ
違った振付家の踊りを踊る企画です

ダンサーは

近藤良平さん 小林十市さん
伊藤キムさん SAMさん
安藤洋子さん 平山素子さん

平山素子さんはこの時
全曲ではなく三曲踊りました

そして公演が終わりいつか
デュオで全曲やれたらと言う話から
今回この公演が実現しました

通し稽古には何度か立会いました
空から降ってくる音の雨に打たれて
びしょ濡れになりながら踊る平山素子さん
いつしか時間はなくなり
カラダと音楽は熱に変わる
深い闇の中からまた新しい光が生まれ

2008年1月トラムで踊った日は
とても寒く大雪が降った事を
昨日の事のように思い出す

私が初めてのソロリサイタルを行った
1997年2月も公演終演後大雪が降った

そしてトラム公演の次の週
なおかさんのお父さんが亡くなった

また私もいつかフーガの技法に挑戦したいと思う

ベルヴィル日記(8)

福島亮

 5月のベルヴィルは晴れの日が続いていて気持ちがよかった。ラマダンが終わったので、街路に溢れていたアラブ菓子は姿を消し、かわりにスイカが並び始める。日本のスイカよりも2回りほど大きくて、若干縦に長いスイカ。アフリカからやってくるらしく、太陽を存分に浴びているからとても甘い。またこの季節、市場で山積みになっているのはアーティチョークだ。外の固い部分をむしり、下から半分ほどの柔らかい部分を細く切り、パスタの具にしたり、煮物にしたりする。どことなく食感が筍に似ている。

 ともあれ、今回この日記を書いているのはベルヴィルではない。というのも、5月の末から6月末まで日本に滞在するからである。滞在、というのも変な言い方だが、2年ぶりの帰国を果たしてみると、帰ったという気持ちよりも、滞在しているという気持ちの方が強い。

 シャルル・ド・ゴール空港から12時間のフライトを経て関西国際空港へ、そこから難波に向かい、シャトルバスで伊丹空港まで行き、羽田行きの国内便に乗る、という少々ややこしい帰路だった。関西国際空港に到着すると、感染症対策が待っている。フランスから日本へ入る際の水際対策は緩和されており、3回のワクチンが接種済で、入国時の検査で陰性ならば隔離や自宅待機は必要ない。緩和される前にフランスから日本に帰った知り合いは、自宅待機に加え、自宅待機を短縮するためにPCR検査をせねばならず、さらにそのPCR検査が法外な値段だったため怒り狂っていた。そのことを知っているから、緩和されてよかったと思っている。緩和された、といっても、やはり入国の際には書類の提示や唾液を用いた検査は必要だった。面食らってしまったのは、唾液の採取である。採取容器と小さなロートを渡され、そこに唾液を溜めるのであるが、板で仕切られた採取ブースには、唾液の分泌を促すため、梅干しとレモンの写真が貼られていた。

 帰国して数日経ったのだが、まだ身体が慣れない。たとえばマスク。人が多くないところでは外しても良いのではないか、などと思いもするのだが、連れ合いに言わせるならば、そのような発想は良くないのだそうだ。久しぶりに帰国してみると、なんだか自分が場違いなところに来てしまったような感覚がする。はやくベルヴィルのアパルトマンに帰りたいと思う瞬間も時々ある。あと1年くらいで留学を切り上げたいのだが、その後この場違いなところに完全に戻ってくるのかと思うと、なんだか不思議だ。徐々に慣れるのだと思う。でも慣れなかったらどうしよう。そんなふらふらとした浮ついた不安が心の片隅にある。

あなたのいない二十三年間のこと。

植松眞人

まるで、ずっとそこにいたかのようにあなたは「今日は時間がないんです」と笑いながら言う。けれど、「今日は」とあなたはずっとここにいたように言うけれど、あなたがここにいたのは三年間だけだ。
三年前にふらりと舞い戻って来たあなたは、まるであなたがいなかった二十三年間のことなどなかったかのように、ずっとここにいたように、みんなと同じようにデスクを並べて仕事をした。チャイムが鳴ると教室に行き、淀みなく話して生徒たちの心を掴み、心を掴まれた生徒たちは職員室に来てもまずあなたを探した。
あなたがいなくなってからすぐに、当時の教育主任が決めた「質問は授業中にするように」というルールは、あなたが帰ってきてすぐに、なかったものになった。あなたは授業中も授業が終わってからも生徒に囲まれていた。学校帰りの道でも生徒たちがあなたと話したがった。
私はあなたが生徒たちと仲良くしすぎて問題でも起こせばいいのにと思っていた。ほら、あなたのクラスの背の小さな女の子は、早くにお父さんを亡くして完璧なファザコンなのよ。気づいてた? 彼女のあなたを見る目は恋人を見る目と同じ。
でも、あなたは問題など起こさない。生徒たちに缶ジュースをおごってあげたりすることはあっても、先生と生徒という関係は決して崩さない。そこがあなたのえらいところで、私が大嫌いなところ。
あなたが二十三年前に消えた時のことを私は良く覚えている。新しい校長が赴任してきて、運営方針が大きく変わった。校長はもっと上の指示にしたがっているだけで本当は決定権なんてなかった。だからこそ、先生たちは新しい運営方針に則って、渋々仕事をした。嫌々仕事をしていた。
そんな時、まだ教師になって3年目だったあなたはこう言ったの。
「生徒を第一に考えることが出来ないなら、僕は辞めます」
私は心の中で拍手をした。たぶん他の先生方も。だけど、あなたのように「辞める」と声に出せる先生はいなかった。嫌でも仕事をしなければならなかったから。背負っているものや抱えているものがたくさんあったから。
だから私はあなたが戻ってくる二十三年間、ずっとあなたに負い目を感じて生きて来た。あなたが顧問だった水泳部を引き継いだのも、校庭の花壇の水やりを引き受けたのも、志半ばで辞めていった、あなたへの罪滅ぼしのつもりだった。

でも、あなたは戻ってきた。二十三年間という、そう短くはない期間を経て。そして、私たちがあなたに負い目を感じながら過ごしてきた二十三年間で明るく前向きにいろんなものを吸収していた。
私にはそれが腹立たしかった。あなたの輝きよりも、あなたの輝きが二十三年前の正直なあの一言から始まっているのだとしたら、もう私たちにはあなたと同じ輝きを手に入れる術さえない。そのことが我慢できないくらいに腹立たしかった。
そして、私は思ったの。せめて今日、私はあなたにいまの腹立たしさだけでも伝えておいた方がいいのかしら、と。
「少しお時間いいですか」
私が話しかける。
「いえ、今日は生徒の対応で時間がないんです。申し訳ない」
あなたはそう答えた。
ねえ、二十三年間かかって、私はあなたに話しかけたのよ。あなたの背中に、私はそう呟いてみる。(了)

カエルのうた

北村周一

そのすじの
歌人たちより
おおどかに
ともを求めて
カエルはうたう

       上手下手
    それよりうたい
      継ぐべしと
     カエル来りて
     うら庭に鳴く

婚姻の
いろの音色を
ふるわせて
うたうカエルの
こえ梅雨ちかし

      しごと場に
    いくつかの闇を
        拵えて
    聞きいたるなり
     カエル鳴く声

丑三つどき 
肩いからせて
降る雨も
あるらんカエル
応答をせよ

      見るまえに
    跳べといわれて
      目をつむり
      挑む幅とび
     砂まみれなり

にわたずみ 
仰向けにみる
感じありて
大空たかく
回すパラソル

       口に口を
    つけてこころを
      満たすごと
    ペットボトルの
      水と繋がる

水星が
よべのゆうべの
西ぞらに
ひくくこぼれて
三日月の下

        食卓の
     木目のなかに
      棲むという
     雄ライオンの
     寝顔かわゆし

野良ネコの
ひたいのほどの
さにわべに
手子摺りにつつ
初夏をたのしむ

       空き缶が
     雨のしずくを
      受け止める
     ような仕草に
    クチビルが欲し

ものかげに
人の影ある
これの世の
せつなに肌理の
交わりを編む

      オニゴロシ
     のんで気配を
       消す努力 
   ハザードマップに
    ゲンパツは見ず

青に黄の
いろをはつかに
足すのみに
懶(ものう)きよ ターコイズ・
ブルーというは

     混ざり合うも
    溶け合わずなり 
      ターコイズ・
    ブルーに透けて
    映ゆるイエロー

なかんずく
身内がいちばん
厄介なんだと
イエズスも
言ってたような

        雨に傘 
     顔にマスクの
       常にして
     安くて便利な
    日々うたがわず

みつめ直す
ために花咲く
雨の中 
花びんに枯らす
花あることも

すでにご存知かと

篠原恒木

「すでにご存知かとは思いますが」
と、前置きしてから話す人がいる。おれはこの前置きが大の苦手だ。なぜならおれはほとんどのことを「ご存知」ではないからだ。
「すでにご存知かと思いますが」
と冒頭に述べてから、必ずそのヒトはいわゆる「ギョーカイばなし」を披露する。
「ヤマダ出版がタナカ出版に吸収されたんです。ご存知ですよね?」
「知りませんでした」
おれがそう言うと、そのヒトは鼻を大きく膨らませて、
「おや、そうでしたか。タナカ出版がヤマダ出版を事実上買収したかたちなので、ヤマダ出版の役員陣が相当数退職に追い込まれているようですよ」
などといった、ギョーカイばなしを得意気に喋り出す。おれは正直に、
「そうですか。あいにくヤマダ出版もタナカ出版も知らないもので」
と応える。そのヒトは少しがっかりしたような顔になるが、さらに話を続ける。
「まあ、これもすでにご存知かとは思いますが」
またかよ、とおれはげんなりしてくる。
「毎朝新聞の人事が大幅に変わりました。スズキさんが執行役員になったのは意外でしたが、これでタカハシ局長がラインに乗ったことになりますね」
「そうなんですか」
おれが気のない返事をすると、そのヒトは「そんな情報もインプットしていないのか」と小馬鹿にしたような顔でおれを見ながら、
「だってスズキさんがボードに上がったわけですからね、これは布石ですよ、布石」

この「すでにご存知かとは思いますが」おじさんは、一か月に一回の割合でおれのもとを訪ねて来ては、一方的に「ギョーカイばなし」を披露して帰って行く。
おれはこのテの話にまったく興味がない。ヒトサマの会社がヒトサマの会社に吸収されようが、ヒトサマの会社の人事がどう変わろうが、どうでもいいと思っている。知りたいとも思わない。だいたいボードってなんなのだ。ラインとはなんぞや。ボードは波乗りする前にきちんとワックスを塗るものであるし、ラインはときどきスマートフォンで「今晩会えますか? うふ」などと届くものなのだ。
ヒトサマの会社だけでなく、おれは自分の会社の人事も機構改変ですらも「公示」の日までまったく把握していないし、公示されたところで興味もないし、ピンとも来ない。なぜなら知らない名前に聞いたこともない部署の羅列を見せられるだけだからだ。
「ああ、あいつはあの部署に異動したんだな」
「おや、あいつはずいぶん出世したんだな」
といった感想もないし、興味が湧くはずもない。
「自分が勤めている会社の社員たちの名前くらいはわかるでしょう? そんなに大きい会社でもないんだから」
という声もあるだろうが、おれは社内に友だちがいないので、廊下ですれ違う社員らしきヒトビトの顔も名前もよくわからない奴らばかりなのだ。

「すでにご存知かとは思いますが」
と前置きするおじさんは、どうやらいろいろな会社に行ってはギョーカイの人事情報やよその会社情報をヒトビトに話し、ときどき仕事を得ているようだ。つまりは「ギョーカイばなし」には、それなりの「需要」があるのだろう。
今日も「すでにご存知かとは思いますが」おじさんがやって来て、
「すでにご存知かとは思いますが」と始まったので、おれはすぐさま、
「いえ、ご存知ありません」
と、おじさんの口を塞ごうとした。もうこれ以上、ヒトサマのどうでもいい人事情報などを延々と聞かされるのはたまったものではない。するとおじさんは、
「そうですか、ご存じありませんか。じつはこの四月で夕陽新聞のナカヤマ局長が役員に昇格しました。夕陽もずいぶん変わりましたね」
と、一方的に話を続けるではないか。そのおじさんの鈍感力にオノノキながらおれは言った。
「おれは役員さんと仕事するわけじゃないから、あんまり関係ないですねぇ」
「まあ、それはそうでしょうが、情報として」
やれやれと思いつつ、話を切り上げようとすると、「すでにご存知かとは思いますが」おじさんはおれに言った。
「何かあったらいつでもご連絡ください。なんでしたら夕陽新聞に御社の書籍のパブリシティ記事を書かせましょうか?」
おじさんは「ギョーカイにおける自分の人脈の広さ」を誇示しようとしているらしいが、動脈・静脈・山脈までは認めることができても、人脈という言葉には卑しさを感じてしまうおれは嫌な気分になった。なにより「書かせる」という言い方にカチンときた。
「すでにご存知かとは思いますが」
と、おれは言ったあとで席を立ちながら続けた。
「おれはヒトサマの会社の人事情報にこれっぽちの興味もないのです。したがってそれらの話を存じたくもないのです。あなたを介して夕陽新聞に記事を書かせよう、いや、書いていただこうなんてことも思ってもいません。ご足労ありがとうございました。これで失礼させていただきます」
ここまで言えば、もう「すでにご存知かとは思いますが」おじさんから来訪のアポイント電話も今後はないだろうと思っていたが、一か月後におじさんから電話があった。
「連休明けのどこかでお時間を頂戴したいのですが」
「すでにご存知かとは思いますが連休明けは時間がなかなか取れません」
「では次の週のどこかで」
おれは呆れながらも根負けして、
「じゅ、十六日なら空いている時間が……」
と言ってしまった。これが大きな間違いだった。
「十六日、結構です。何時でも大丈夫です。何時に伺えばよろしいですか?」
「ええと、十七時以降でしたら体が空きます」
「十七時、ですか……困ったな」
「えっ? 何時でも大丈夫とおっしゃったではないですか」
「十七時ですと……すでにご存知かとは思いますが、私の帰りが遅くなっちゃうもんで」

むもーままめ(19)失われた焼肉店を求めて、の巻

工藤あかね

今の家に引っ越す前、かなりのんびりした街に住んでいた。
駅からは遠く、少しアップダウンもあったので、
とくに疲れて帰る日や雨の日は、
駅から家に戻るまでに、かなり体力を消耗するのが常だった。

しかも、住んでいた家の近所にはスーパーマーケットがなかったので、
駅の反対側まで行って買い物をし、
重いレジ袋を腕に食い込ませながら歩いて帰ったものだ。

もう疲れて食事も作りたくない、駅から出たら、
一休みがてらに食事をして、帰りたいと何度も思った。

そんなある日、駅から家に向かう途中に、炭火焼肉屋さんが開店した。
お料理も良いし、雰囲気もくつろいでいたので、
夫もその店を大変気に入って、ついに常連になった。
我が家にとっては、ほとんど第二の台所だった。

店長は気さくな人で、付かず離れずの距離感が絶妙だった。
店員さんも、よく気がつく人たちで、感じがよかった。
ある時は就職で悩んでいる若い店員さんに、
職を紹介しようとしたこともあったっけ。

引っ越してからも、私たちは電車に乗ったり、
ちょっと遠目の散歩をしながらその店に足繁く通った。

ところがある時から、店長の姿を見かけないようになった。
別の街にも出店するために、その店を離れていると聞いた。
店長がいなくても私たちはボトルキープをし、
お店に何度も通っていたのだが、
ある時、はっきりと異変を認めざるを得なくなった。

お肉の質があきらかに落ちている。
炭火の扱いがいい加減になった。
お料理の盛り付けも、味付けも雑になった。
店員さんが店内をきちんと見なくなって、
呼んでも、気づいてもらえなくなった。

それでも、今度こそはと祈りながら通っていたが、
私たちが馴染んでいた店長の目が届かぬうちに、
どんどんお店がダメになっていくのを肌で感じた。

ある時、心に決めた。
もうこの店には来ない。

本当に長く気に入って通っていた店で、
友人知人も、たくさん連れて行った。

そんな店を一軒失うのだと思って、悲しかった。

その後、次なる推し焼肉店を求めて、放浪している。
ネットの評判が良くても、居心地が良くなかったり、
むやみに高かったり、フィットする店を探すのは難しい。

煙がほとんど出ないという炭火焼肉店にも行ってみた。
服に匂いがうつらないのはいいかもしれないけれど、
美味しさが半減する。
どうせ焼肉に行くのなら、
油を含んだ煙がもうもうとしているのを見たい。
食べている時はもちろん、上着を脱いだあとも
煙の残り香に包まれていたい。
そのほうが、汚してはいけない服装で
クリーンに食べるよりも、ずっといい。

最近ようやく、ここなら通うかもしれないな、
という店に出会った。
以前気に入っていた店のようにはいかないとしても、
はかない期待を込めて、
また食べに行ってみようと思う。

『アフリカ』を続けて(12)

下窪俊哉

 先月、井川拓『モグとユウヒの冒険』がようやく本になった。長い、長い道のりだった。本をつくるにあたって著者の不在がどういうことなのかを、嫌というほど思い知らされた。著者の家族にとっては、その本が、彼の分身のように感じられているかもしれない。
 本として完成させるにあたって大きな推進力となったのは、彼の姉である伊東佳苗さんだった。本が完成した後で今回の協働作業を「下窪さんとライブやってたよう」だと言っていたが、物語をあらためてくり返し読み、毎日のようにやりとりをしていた。『モグとユウヒの冒険』の主題は、子供時代、家族、そして自然ではないか。家族のこと、人生のことをあらためてじっくり考えてみる貴重な機会にもなった。

 物語の舞台となっているのは琵琶湖の湖北・マキノ。アサヒとユウヒという小学生の兄弟が、父母と共に暮らしてる。父ちゃんは稼ぐのが苦手な陶芸家、母ちゃんは保険のセールスをする職についていて毎日帰宅が遅い。小4のアサヒは学校から帰ってくるとすぐに遊びにゆき、小川で釣りをしたり野球をしたりして夕方に戻ってくる。小2のユウヒは学童保育所にゆき、父ちゃんの迎えを待っている。そんな日常。
 ユウヒはひとりで絵を描いて遊ぶのが好きで、落書き帖に猫と犬が決闘する絵を描いている。猫は家で飼っているハボコで、犬は昔、父ちゃんの実家で飼っていたモグという「牧羊犬を祖先にもつ雑種犬」だ。
 ユウヒにはモグの記憶がないので、父ちゃんの話を聞いて印象深く覚えている、いわば伝説の犬であるモグを絵に描くとしたら想像で描くしかない。ある日、そんな絵を描いているユウヒの耳に「ふわふわとした声」が聴こえてくる。その声の主はモグを名乗り、ユウヒの描いている絵に文句を、注文をつける。
 物語はそんなふうにして始まる。
 父ちゃんには弟がいて、家族から「ダイボーおじさん」と呼ばれている。ダイボーおじさんは15歳の時に事故に遭い、脳に障害を負っていて、何か話を聞いてもすぐに忘れてしまう。父ちゃんは弟の障害にかんして、まだ受け入れられないところがあるようだし、何か悔いているようでもある。
 そうやって『モグとユウヒの冒険』は、アサヒとユウヒ、父ちゃんとダイボーおじさんという世代の違う兄弟の物語が重層的に描かれていると言っていい。
 その家族にはモデルがあり、『モグとユウヒの冒険』は井川拓の家族史と言えそうだ。フィクションを多分に含んでいるので、家族史のようなものと言おうか(小川国夫が「自伝」に「的」をつけて「自伝的」小説と呼んでいたのを思い出す)。
 突出しているのはやはりモグの存在で、著者の実家で飼っていた犬・メグがモデルになったというが、それだけでは語れない。モグには、いろんな存在が混ざり合っているような感じがある。
 生きている人間は時間を自由に行き来することは出来ないが、主に声だけの存在であるモグは、彼ら家族の歴史を縦横無尽に駆け巡ることが出来るようだ。モグはその歴史を、ユウヒの耳を通して語る。ユウヒにのみ聞こえる声で、イチャモンをつけたり、わがままを言ったりする。人間にしっぽがないのはなぜかとか、遠心力とは何かとか面白い講釈を垂れたり、偉そうに人生訓を語ったりもする。
 私は物語の中に入ってモグの声を聴きながら、モグは人間の感じられる自然そのものではないか、という気がしてくる。

 映像制作集団・空族の仲間だった富田克也さんによると、井川さんが絵本、そして児童文学に向かったのには、ユーリー・ノルシュテインの影響が大きかったらしい。あんなふうに時間をかけて緻密な作品を編み上げてゆくような力は彼にはなかったという話は前回、書いたが、しかし憧れがあった。
 たとえば「霧の中のハリネズミ」(ノルシュテインのアニメーション作品)を思い出すと、あのような自然への驚異が、井川拓という人の中にはあったのではないか。
 富田さんは「井川くんは自然を理屈ではなく、感知し始めていたんじゃないか」と話していた。そこにはおそらく永遠とか、あるいは死というものを見ていた。そんな話をしていると、彼が死をどう感じて、どうやってそこへ入っていったのかということに少し近づけるかもしれないと思えてくる。

 物語の中で永遠とか死について論じているわけではもちろんなくて、子供たちと、かつて子供だった大人たちが、不器用そうに、でも思う存分泣いたり、笑ったり、怒ったり、楽しんで生きているエピソードが満載だ。その物語を読みながら、私も自分の中に生き続けている〈子供〉の存在を、感じ取ることが出来る。

 富田さんによると井川拓という人はいつも苦しそうで、大変な人だったようだ。私たちがいまいる、この社会を眺めてみると、彼が感知していたかもしれない〈自然〉とは真逆の世界ではないか。人間というのは、奇妙な生き物なんだなあと思う。彼ほど真っ正面から引き受けてはいないとしても、誰しもがその大変さを多少は抱えて生きている。
 自分が死んでも、いつ死にたくなってもおかしくないと思っていたのだ。11年前、井川さんが亡くなった時、ついに身近に犠牲者が出てしまった、と思った。彼は『アフリカ』最新号(当時)に書いている人でもあった。しかし彼の死の事情を知れば知るほど、私はわからないことの大海へぽーんと放り出されるような気がした。
 こうすれば生きられる、こうすれば死ぬ、ということが簡単にわかるほど、人間は単純じゃない。
 彼は私にとって大きな死者となった。
 私が考えたり、書いたりするうえでの新たな原点となった。
 井川拓が私に託してくれた問いは、永遠に答えの出ないものかもしれない。だとしたら、永遠に考え続けることができると思う。
 今回、『モグとユウヒの冒険』をつくるにあたり、これまで知らなかった彼の姿も見えてきた。でも私の「わからない」はそんなことで解決するわけはなく、ますます深い霧の中へ誘われている。

「ユウヒ、夢のなかで目を覚ますけん」
 モグが登場するときの定番のセリフだ。その声を聴くと、何だか妙に嬉しい。

 どんな人の中にも、きっとモグはいる。夢のなかで目を覚まして、話し合うことのできるような存在が。

ジャワの物語(1)パンジ物語

冨岡三智

このエッセイを書き続けてほぼ20年、今まで物語に焦点を当てて紹介したことはなかったので、今回は物語に注目して紹介してみよう。

パンジ物語は13世紀頃にまで遡るジャワ発祥の英雄物語で、14〜15世紀のマジャパヒト王国時代に大流行し、17~18世紀頃には船乗りによってジャワからバリへ、さらに東南アジア各地に広まった。タイなどでは、王子はパンジではなくイナオInaoと呼ばれている。2017年にはインドネシア、カンボジア、マレーシア、オランダ、イギリスが協同申請し、パンジ物語はユネスコの世界無形文化遺産「世界の記録の一覧」に登録された。物語は東ジャワの宮廷が舞台で、パンジ王子が失踪した許嫁のチョンドロ・キロノ(別名スカルタジ)王女を探して放浪の旅に出、ついには王女と出会って結婚するという内容だが、様々な派生演目があるようである。この物語を題材にする芸能形態には、ワヤン・ベベル(絵巻を繰り延べながら語る芸能)、ワヤン・トペン(仮面舞踊劇)、ワヤン(=ワヤン・クリッ、影絵)などがある。

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ワヤン・ベベルとワヤン・トペンはワヤン・クリッより以前からあったとされる。ワヤン・ベベルは、今では辺境の地であるジョグジャカルタ州ウォノサリ県と東ジャワ州パチタン県でしか伝承されていない。特定の家系のダラン(語り手)によって魔除け、病気平癒祈願などのためだけに上演され、演目はそれぞれ1種類しかない。娯楽用ではないので、上演時間も短い。絵はダルワンと呼ばれる樹皮紙(カジノキの樹皮を薄く叩きのばして作る)に描かれている。樹皮紙の研究をされている坂本勇先生に記録映像を見せていただいたことがある。

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ワヤン・トペンはスラカルタでは見られないと言ってよい。パンジ物と言えば「クロノ・トペン」や「グヌンサリ」のように単独で舞う仮面舞踊だろう。クロノはスカルタジに横恋慕する異国の王で、男性荒型のキャラクターである。グヌンサリはスカルタジの兄弟で、男性優形のキャラクターだが、実はどんな場面で活躍する人物なんだか私もよく知らない。グヌンサリの場合、仮面なしで上演されることも多い。これらの単独舞踊は物語の特定の場面を描いているのではなく、恋に落ちた武将の様を描写しており、そのキャラクターを表現することが重要である。他に、芸大で作られた『トペン・スカルタジ』というパンジ王子とスカルタジ姫とクロノの3人が登場する演目があるが、これも劇というより三者三様のキャラクター表現を見る舞踊だと言える。

スラカルタで見られないと言ったが、一度だけマンクヌゴロ王家によるワヤン・トペンを中部ジャワ州立芸術センターで見たことがある。同王家には古い仮面のコレクションが多くあるのでワヤン・トペンを復興したという話だった。スラカルタよりはジョグジャカルタの方がワヤン・トペンが盛んなようである。2011年にクロンプロゴ県(パクアラム王家の領地だった地域)で見たことがあるし、最近のyoutube配信でジョグジャカルタ王家のワヤン・トペンも見た。他にもジョグジャカルタのワヤン・トペンの映像はyoutubeに上がっている。スラカルタとジョグジャカルタの間にあるクラテン県にもワヤン・トペンがあり、私は現地で2回見た。それについては先月号の「ジャワの仮面舞踊」で触れたので割愛。しかし、ワヤン・トペンという名で一番有名なのは、たぶん東ジャワ州マラン県のもののように思う。私は2001年に芸大で見た。「ワヤン・トペン・マラン」や「トペン・マラン」と地名をつけて呼ばれることが多く、youtubeでも多くの映像が上がっている。パンジ物語は東ジャワが舞台だから、中部ジャワより人気があるのかもしれない。

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ワヤン・クリッといえば、現在のジャワではほとんどがマハーバーラタを題材としている。ワヤンはマハーバーラタやラーマーヤナなどインド伝来の物語を題材にした演目群(ワヤン・プルウォ)と、パンジ物語などをジャワ発祥の物語を題材にした演目群(ワヤン・グドッグ)に大別されるのだが、ワヤン・グドッグを上演できるのは現在ではバンバン・スワルノ氏のみらしい。私は2000年10月28日、マンクヌゴロ王家で、氏による『Jaka Bluwo』という演目を見たことがある。通常のワヤン・プルウォのように一晩ではなく、4時間余りの上演だったが(予定は2時間…)、ちょうど見つけたこの演目についての論文によると、これはバンバン氏が短縮上演用に作った演目らしい。この論文によると、ワヤン・グドッグの影絵はパク・ブウォノX世の時代(1893-1939)が最盛期だったが、上演はほぼ宮廷内に限られ、学ぶにも許可がいるといったことが衰退の原因のようだ。

ワヤンはラジオ(インドネシア国営放送)でも放送されてきたので、1980年代前半(私が初めて留学したのが1996年だったので、その一昔前)頃だと状況はどうだったのだろう…とふと思って、事情を知る人に聞いてみた。すると、当時のラジオ局の放送担当者にも確認を取ってくれて、次のような回答が届いた。ワヤン・プルウォの方は毎月、観客を入れて朝まで放送、ダランは毎回変わる。一方、ワヤン・グドッグの方は2か月に1度、ラジオ・トニル(生放送だが観客なし)で、夜9時のニュースの後(9時半頃)から24時まで放送(たまに一晩の放送)、ダランはスラカルタ王家のワヤン・グドッグの師匠であるMadyopradonggo氏が1人で担当(たまにもう1人の人も上演)していたとのこと。その師匠が亡くなった後はこの定期放送もなくなったとのことで、ワヤン・グドッグの伝統を絶やさないために続けていたようだ。

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というわけで、パンジ物語の演目はワヤン・ベベルにしろワヤン・トペンにしろ、どうも田舎の方に残っていたものの、都の真ん中(スラカルタ王家)に残ったワヤン・クリッ(グドッグ)では逆に廃れていったという感じのようだ。ジョグジャカルタ王家の場合はよくわからないけれど。

仙台ネイティブのつぶやき(73)浜の暮らしを照らす人

西大立目祥子

 東日本大震災のあと2年が過ぎたころだったろうか、津波で家を失い避難している人たちのもとに、ライター3人くらいがチームをつくり話を聞きに出かける活動に参加していたことがある。避難所にしつらえてある集会所に参加者14、5人が集まってきたところで、主催者が地域のなつかしい写真をスクリーンに映したりたりして、場が和んでくると3〜4人を相手にメモをとりながら話に耳を傾けた。

 そのころは被災した集落ごとに避難所が営まれていることが多く、同じようにプログラムを進行しても、やけに反応がいいところがあれば静かなところもあるという具合で、その雰囲気の違いが被災前の集落の暮らしぶりを教えてくれているようだった。

 いつも打てば響くように反応し、誰もが大きな声でしゃべりたがり、がやがやとあっちこっちで声が上がりちょっとうるさいくらい。それが、荒浜の人たちが集まる集会所だった。「荒浜」というのは江戸時代から漁業を生業としてきた集落で、数が少なくなったとはいえ、いまも日焼けした漁師たちが毎日沖に船を出し漁を続けている。遠慮のない荒っぽいしゃべりっぷりの中に浜っ子の気風が見え、農業で暮らしを立ててきた他の集落とは違う生活の営みがあると気づかされた。

 ちなみにここは仙台唯一の海水浴場でもあり、多くの仙台市民が夏には海で泳いだ記憶を持つ浜だ。私も小さいころから幾度となく遊んだ。だから、あの大地震と大津波に襲われた3月11日の夜、恐ろしい被害がつぎつぎと流れてくるラジオから「荒浜に200から300の遺体」と聞こえてきたときには、あの浜にいったい何が起こったのか、浜一つがつぶれてしまったのかと、誰もが震え上がった。後日、それは誤報だったと知らされたのだけれど、180人を超える人たちが命を落とした。そして、800世帯2600人が暮らした浜は、災害危険区域に指定され、もう誰も住めないエリアになった。

 がやがやと騒がしい集まりの中に、ひときわよく通る太い声で話をするおばあさんがいて目を引いた。よくしゃべり、よく笑い、まわりをリードするような豪快な話しぶりで存在感を放っている。佐藤はついさん。昭和2年、荒浜の漁師の家に生まれ、荒浜で所帯を持ち息子を育て、この大津波で家はまるごと流されたという。この地域では、船を持って漁をすることを「船を掛ける」というのだけれど、はついさんの生家も辰丸という船を掛け、荒浜の前浜で定置網漁を行っていたのだそうだ。仙台なまりでポンポン繰り出される浜の話にすっかり引き込まれて、私はそのあと一人ではついさんのもとを訪ね話を聞くことにした。

 荒浜の海岸は仙台湾を縁取るような砂浜の一部で、船を停泊しておける港があるわけではない。だから船を出すときも引き上げるときも大変で、浜の人たちの手助けが欠かせなかった。荒波を割るようにして沖に向かっていく船は舳先がとがった独特のかたちをしていて、「カッコ船」とよばれた。このカッコ船を、たっぷりと魚の油を塗ったバンギという丸太の上に乗せ、いわばコロの上をすべらせるようにして海へと押し出す。戻ってくるときは、波打ち際で船を回転させ、バックで車庫入れするように船を浜へと引き上げた。

 ここで多くは紹介できないけれど、その話の一部と書くと…
「カッコ船は、先とがってて、漕いで海に出ていかないといけないから、10人くらい乗ってんだね。櫂(かい)は片側に3人。櫂はいまの川舟と同じさ、ボート漕ぐみてえなの。艫(とも・船尾)のところにいる櫓漕ぎっていうのは立って。櫓漕ぎは普通の人ではねえんだ。ベテランの人。普段は父親か父親のおんつぁん(おじさん)だのだった。舳先にタカノリといって、運転する人あんのよ。船をこっち向けたりあっち向けたり。辰丸のタカノリは決まってたな、リキノスケじんつぁん。うんとしっかりした人だった。私うんと可愛がらったんだ」
 …と、こんな具合に漁の細部がいきいきと描き出されていった。

 そして、「おまかない」。荒浜の人たちが漁の話をしてくれるたび口にするおまかないとは、手伝いのお礼に手渡す分け魚のことだ。
「大漁のときは、旗上げて戻ってくるから浜にいてわかんのよ。捕れねときは上げないよ。
 船引き上げるときはね、船は動力じゃねえから、みんなに上げんの手伝ってもらったの。出ないと砂浜だから上げられんねえんだもの。魚もらえっからみな来るさ。フゴ(竹のカゴ)持って手伝いにくるんだもの。傷のついた魚はみな、「おまかない」さ。こっちに上げたり、そっちに上げたり。おまかないっていうのは、毎日食べてること。魚だの売らんねものは「おまかねだわ」って。野菜も傷ついたら「おまかないにすっぺわ」って。うちで食べることをいったのよ。だから、不漁だと気の毒だから飴こ買っておいたって。ありがとうっていうのに」
 沖から旗を上げて戻ってくる船が見えれば、誰もが手伝いに行った。誰もが手伝いに行けたのだ。それは生活に困窮する人たちを脱落させない共同体の仕組みとしても機能していた。

 漁の細部といっしょに、はついさんの心情も語られた。
「私、長女だったから、なんだか責任感じてたの。魚捕れねと、親父がうんとかわいそうなんだよね。海さ入ってね、捕ってきてあげてえくらいだったの」
 はついさんは父親思いの娘だった。というより父の生き方にじぶんを投影する「父の娘」だったのだと思う。
「女は船さ乗せられねっちゃ。網にはさわれっけど、上げられなかったの、女は」というのに。
 話が戦争に及ぶと、はついさんは「私は戦争に行きたかったの」と口にすることが何度もあった。従軍看護婦をめざした一時期もあったともいっていた。ひとことでいえば、肝が座っていて男まさり。男と肩を並べて生き、父親の力になろうと奮闘する娘にとって、時代はどれほど生きにくかったのだろうか。小さな浜に、こういう気概で生きようとする女性がいたことに眼を見張るような思いにさせられるし、私がはついさんの話を聞こうと思ったのも、その抗うような心持ちに心惹かれたからなのかもしれない。

 この日曜日、はついさんと4、5年ぶりに会う機会があった。仙台市が東日本大震災の経験を伝えようとつくった「3・11仙台メモリアル交流館」という施設での催しでのことで、テーマは「荒浜の暮らし」。会場に集まった荒浜の人たちは、やっぱり声が大きく、遠慮が少なく、がやがやとにぎやかで愉快だった。その中にはついさんもいて、映された昭和30年代の小学校の給食風景を見て、「なんだい、あれ、おらいの息子だっちゃ」と話し笑いをとっていた。95歳。どんな時代でもどんな環境でも、じぶんの意思を持って生きる女の人はいた。仙台の小さな浜の暮らしを想像するとき、はついさんは私にとって暗闇を照らしてくれる明かりのような存在になっている。

禁じられたお金

さとうまき

以前、僕がコツコツとシリアのがんの子どものためにお金を送っている話を書いた。しかし、とうとうアメリカに目をつけられてしまった。ロシアがウクライナに侵攻して間もない頃、つまり2月の終わりのことだ。

近所にフィリピンの輸入食材などを扱っている雑貨屋があり、ウエスタン・ユニオンの代理店もやっている。フィリピンバナナなどはここでしか買えないから値段が高いのはわかるが、石鹸とかシャンプーは日本のそれよりも結構高くて、そんなもんをわざわざ買っていく近所のフィリピン人は、結構裕福なのかもしれない。いや少なくとも、僕よりは稼いでいるに違いない。

いつものようにフィリピン人のおやじに送金をお願いする。しかし、おやじは、パソコンとにらみながら「エラーが出て送れないです」という。ウエスタン・ユニオンのサービスセンターに電話すると、どうも審査を受けなければいけないということらしい。電話でいろいろ聞かれたので、正直にシリアのがん患者のこどもに送金していることを説明した。結果、金輪際送金できませんということになった。「なんで?」と聞いても、理由は言えないという。ダメなものはダメですと押し切られた。

理由は簡単だ。アメリカの経済制裁である。いかなる理由であろうが、シリア国内への送金は許さないというわけだ。シリアに送り続ける僕は、アサド政権を存続させる悪いやつということで、二度とシリアにお金を送れないようにしてやれ!という魂胆だ。ただ僕が送金しようがしまいがアサド政権はびくりともしない。

ロシアへの経済制裁も重なり、おそらく米国の当局がウエスタン・ユニオンに圧力をかけて海外送金を厳しく精査するように指示したのであろう。

僕自身、ウクライナ病にうなされ、頭の中がすっかり青と黄色になってしまっていた。結果アレッポのお母さんからの連絡をチェックするのを怠っていたのである。以前はアラビア語のできる学生たちがいろいろ手伝ってくれていたが、彼らも青と黄色に染まってしまったのか、シリアどころではないようだ。それで、グーグル翻訳を使ったりして何とかやり取りしているのだが結構めんどくさい。

気が付くと次のようなメッセージが来ていた。「どうもいつもありがとうございます。忙しいところすみません。お邪魔して申し訳ないのですが、実は病院に行く車の運転手にお金を払えないです。うちの家族は女の子と16歳の長男だけ働いています。その長男はプラスチックホースを製造する工場で働いて、週に55,000のシリアポンドをもらっている。だからパンを買って食べるくらいのお金しかありません。それが私たちの生きるすべです。この間アサド大統領は恩赦を与える大統領令を出したが、その中に夫を見つけることができませんでした。とても惨めです。心配かけて申し訳ございません。サラーハの病気の治療を手伝ってくれる人は他に誰もいませんのでお願いしたいです」

サラーハのお父さんは2015年に行方不明になっているのだ。イスラム国に捕まったかもしれないし、殺されたのかもしれない。お母さんは、シリア政府に拘束されているのではないかというかすかな希望を抱いているのだろう。このご時世で、女手一つで子どもたちを養うのは至難の業だ。

慌てて帳簿を調べてみたら、アレッポからダマスカスの病院に通う交通費がロシアのウクライナ侵攻が始まってから1.5倍にまで高騰して300,000シリアポンドになっている。長男が半年働いても一度も病院に連れていくことはできない金額だ。僕が送ったお金はあっという間に底をつき、お母さんは借金をしまくっている。サラーハの一家は戦争で破壊された廃墟をただで借りている。近所の発電機も燃料が手に入らずにもう電気も来ないらしい。冬場は乗り切ったので凍え死ぬことはないのだが。

どうしてアメリカは、シリアの最底辺の人日を苦しめるのか。アサド政権が崩壊するまでは制裁を続けるようである。しかし、成果を得る兆しはない。そればかりか、米軍はシリアの油田を占拠して、原油を盗んでいるらしい。ひどい話である。

今、シリア人たちは、何とか生きていくために、麻薬の密売や、臓器の売買、子どもを誘拐して身代金をとったりする犯罪も出てきているらしい。ひどい話である。

ともかく、僕はというと何とかしてお母さんを応援して、サラーハ君を無事に病院に通わすことだ。頭が痛い。。。

ふれる

越川道夫

まだ八重桜が散って、その花びらが道を埋め尽くすような頃だった。
一回りも年長の友人と公園で待ち合わせをした。その人は詩人で、詩人と書けば何やら胡散臭さが先に立つが、長年聾学校の教師をしながら詩を描き続けた人である。初めてその人にあった頃、彼は「僕はずっと一人で書いてきました」とポツリと言った。詩人の仲間と連むこともなく、詩誌の同人になることもなく、「聖書」を詩と考え、その言葉とだけ向き合うようにして書いてきた人だと私には思えていた。電話ではやりとりがあったものの、コロナ禍ということもあり会うのは久しぶりで、散歩でもしながらつらつらと話ができればと思っていたのだった。
待ち合わせの駅の改札を出ると、もうその人は先に着いていて路肩のガードレールにもたれかかるようにしていた。聞けば、眩暈がするという。以前にもあったが原因は不明。病院でも何も見つからない。ただ眩暈だけがひどい。二、三日前から予兆はあったのだが、と辛そうである。公園はすぐそこにあり、そのまま帰すにしても少し休んだほうがよさそうなので、小柄な彼を支えるようにしてベンチに向かって歩いた。ここではタクシーも拾えない。
その短い距離の間に、その人は2度吐いた。
マスクから出ている彼の横顔は浮腫んでいるように見え、厚く大きな掌はひどく冷たかった。いけない、いけない。この冷たさはいけない。二人でベンチに座り、それでいいのかどうかもわからず手を摩り続けた。こうしていれば、手に温かさが戻ると信じていたし、どうしてもこの掌に温かさが戻らなくてはならないと思ったのだ。もしくは、それでもまだ温かい自分の手が冷たさを吸い取り、混じり合って、少しでも彼の手に温かさが戻るのではないか、と。
やがて、少し落ち着いたその人は、先頃雑誌に発表した詩について言葉少なに話してくれた。この半年ぐらいの間に、私の周りからは何人もの人がこの世を去っていった。そのことを考えたときに、去っていくひとりの男の姿を思い、その傍らに「きみ」の姿が見えた。そしてそのような詩を書いたのだ、と。私はひどく驚いた。もちろん、彼が私の周りから去っていった人たちを誰ひとりとして実際に知るはずもない。
 
その人が話してくれた詩を読んだのは、それから随分後のことになる。ある雑誌に掲載された「のこりのこと葉」という連作のはじめにその詩はあった。
「岸の上」と題されたその詩を読んで、私は驚き、そして、「一つの詩が生まれる場所」とは、どのような場所なのかということについて考えることになった。おそらく、彼は、私の悲しみに「遠く離れた場所」から「ふれ」たのだ。「ふれる」ことは単に「さわる」ことではない。「ふれる」とは「ふれる」ものと「ふれられるもの」の相互嵌入であり、自他の境目は混じり合い、転位することでもあるだろう。 
 
彼は、他人である私の悲しみに「ふれた」。「ふれる」うちに、その人の目には、会ったこともない「一人の先生」の姿が見えてくる。
「先生」は「草の林にかくれ/そこからまたゆっくり離れて」行こうとしている。
その傍らに「私」はいた。
「先生」に引き連れられた幼い「一人の坊や」として。
 
そして、
 
「私にも大切な/かけ替えのない方だということが改めてわかってくる」(江代充「岸の上」)
 

しもた屋之噺(244)

杉山洋一

涼しい陽気が戻ってきたのは、乳白色の厚い雲が太陽光をすっかり吸い込んでいるからでしょう。コロナ禍での待機期間つき日伊往復で溜めこんだ補講授業を、この2か月足らずで何とか完遂しようと躍起になっているものの、思うように躰は動いてくれません。このところ、庭に植えた紫陽花が純白のうつくしい花を咲かせていて、気が付くと日本の梅雨に思いを馳せていたりするのです。

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5月某日 ミラノ自宅
電話をとると、コンクールを受けに来たYさんの、生気のない掠れた声が聴こえてきた。聴けばここ数日食欲がなく、何も食べられないと言う。家にはまともな食材もないらしく、家人が和食の弁当を作り、夜半、それを自転車でリパモンティ通りまで届けにゆく。家に帰ると、「この御恩は一生忘れません」とのお礼が届いていた。コンクール参加で想像以上のストレスに苛まれていたに違いない。
5月1日以降、イタリア入国に際しEU digital Passenger Locator Form の提示は不要になった。今までは感染症対策のため、ヨーロッパ入国の際、旅程、滞在先の詳細を登録する必要があった。6月15日まで、公共交通機関、演奏会など室内施設やイヴェント、医療施設などに於いて、FFP2マスク着用義務は延長。アゾフスタン製鉄所から民間人避難開始とのニュース。

5月某日 ミラノ自宅
ノーノ「進むべき道はない」譜割り。彼の「プロメテオ」の焦点がより収斂された印象。纏わりついていたものを全て剥ぎ取り、本質のみになるまで徹底的に削ぎ落したようにもみえる。自筆譜より遥かに読みやすいので助かるのだけれど、ノーノに関してはコンピュータ浄書されているとすっきりし過ぎて少し有難みが薄れる気もする。人間とは我儘な生き物だとおもう。

5月某日 ミラノ自宅
遥々日本からコンクールを受けに来たTさんについて、審査をしていた友人が家人にメッセージを送ってきた。審査員全員が「頼むからたまには間違えて弾いてくれ、一音も間違えずに正しく弾く演奏はやめて、人間らしく魂のこもった音楽をやってほしい」と願っていた、という。その上で、「一刻も早く日本をでるよう」助言したそうだ。あまりに身も蓋もない言い方だとも思うが、彼なりに思うところがあったのかもしれない。
確かに日本は曲がった野菜は店頭に並べない。こちらは量り売りなので、曲がっていようとまっすぐであろうと、野菜そのものの味以外は問題にはならない。
日本人なりの言い分もあって、我々は真っ直ぐになるよう丹精込めて作った生産者への賞賛をこめて価値判断をしているのに違いない。そこで彼らが、「見かけがいくらよくとも、味が悪ければ仕方がないのではないか」と反論したとき何と答えるべきか、我々は考えておく必要があるだろう。
先日も、こちらが内心はらわたが煮えくり返っているのを知っている同僚が、それでも平静にレッスンをしているのをみて、「流石日本人だな、俺ならとっくに怒鳴りつけているところだ。やはり侍の文化だな」と言っていた。東京に戻れば現実から遥かに乖離した日本人であっても、イタリア人から見ればやはり同じ日本人なのだった。

5月某日 ミラノ自宅
G がスカラアカデミーを受験したいという。将来的にとても見込みのある生徒なので、是非スカラのアカデミーでコレぺティトゥアの研鑽を積んでほしい。先日レッスンのとき、彼の右手首にざっくりと古い傷跡があるのに気が付いて、それ以来少し心配している。杞憂であればいいと思う。
彼は南部カラブリアの出身で、1月にU君が彼と話したときは、ミラノのイタリア語がカラブリアとまるで違うのでとても苦労している、今はイタリア語を必死に勉強している、と真面目に話していたそうだ。
その話をピアノのMにすると、彼女もフリウリ地方ポルデノーネ出身で、同じ田舎者という意味で彼の気持ちはよくわかると言う。ミラノは雑多な人種の集まりだから、誰も地方出身者など気にしないかに見えるが、ミラノ人や長くミラノに暮らす人間からは、地方出身者に対する言葉の端々に薄い侮蔑を感じる、と力説する。
当初は気後れして誰とも話せなかったし、いつも誰かに見られているような被害妄想に駆られたこともあったそうだが、何時からか、揶揄した本人が無意識に使った単語を相手にそのまま返して、自らを差別主義者と気づかせて諫めたり辱めてきたというから、随分気が強いと感心する。
結局、自分で腹を括って差別的な言葉の雨に耐えつつ、敢えてそこに身を晒すことで、覚悟も決まり自信もつく。その後漸く、ミラノでも本当の意味で友人を作れるようになった、という。
地方出身者を、我々のような外国人と言い換えても、近い部分はあるかもしれない。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科の必修授業の一環で指揮副科を担当しているが、学生の一人、パゾリーニより、Covid19で陽性になり授業に参加できない旨連絡がある。Covid陽性で欠席を余儀なくされた場合、出席扱いになるのだが、実地授業の場合、試験の際困るのは本人なので、何とも厄介な問題だ。
ところで、自分の教えた生徒にはパゾリーニやらヴィヴァルディがいて、今住んでいる家を建てた棟梁はベルガモのロッシーニだったが、ロッシーニは手抜き工事をしていたのか、その後色々と問題が発覚して難儀をした。棟梁からすればいい迷惑だが、こちらからするとどうにも名前負けのそしりは免れない。

5月某日 ミラノ自宅
「ラス・マドレス、自分の人生を聞いているかのように思ってしまいました。穏やかだった日常に嵐が吹き始め、今は一人でぶつぶつ呟いている、そんな風に聞いてしまいました。こんな体験ははじめてです」とのお便りをいただく。
スウェーデン・フィンランドNATO加盟申請正式表明。世界は確実に、そして非可逆的に変わりつつある。毎日歴史は新しいページを開いてゆくのだけれど、前のページに戻ることも読返すことすらできない。戦争が始まる前まで、誰もがパンデミック以前の世界に戻りたいと願い、戻れると信じてきたが、2月24日以降それは共通の幻想となってしまった。ロシア国営放送でホダリョノク退役大佐が「現実を見るべきだ」「我々は全世界と敵対している」と厳しい口調で軍事侵攻批判。その2日後には発言撤回。

5月某日 ミラノ自宅
息子は、親が在宅だと一切ピアノを弾きたがらないので、我々はもう長らく彼のピアノを聴いたことがない。家人は痺れを切らして、国立音楽院に息子のオーディションを盗み聞きに出かけた。蒸し暑い中大ホールの布カーテン裏に隠れて出番を待ち、物陰から演奏を録画して帰ってきた。間違えば不審者と思しき状況であるが、母は真剣である。
兎も角ストーカー紛いの家人の努力で、初めて息子がやっている室内楽を聴いて感無量。親馬鹿なのは充分承知だが、暫くの間、イタリア人に心を閉ざしていた彼が、こうして楽しそうに演奏する姿にただ感激する。アザフスタン製鉄所より、ウクライナ「アゾフ大隊」投降開始。マリウポリ陥落か。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科の自作指揮クラスで、Nは自身が作曲したと偽りピアソラの「ワルツ」をもってきた。剽窃に対する対応を学校に確認すると、30点満点の最終試験の際、10点減点で処理するよう指示される。10点減点が厳しいのか甘いのかよくわからないが、18点が及第点なので、余程よい試験内容でなければ17点以下で落第となる。Nは大学最終学年なので、この単位を落とすと秋の試験期間まで卒業は延期となるが、どうしてそんなことをしたのかと暗澹たる思い。
孤立しているのか、他の学生と言葉も交わさず、授業中もずっと手元の携帯電話を弄っている。何を考えているのか。音楽も彼を救えないのか。そんな学生は彼一人きりだ。

5月某日 ミラノ自宅
朝からサンドロ宅で個人レッスン。U君は「ジプシー侯爵」を持ってきた。自分でもうまく出来ない技術を他人に教えるのは至難の業だ。彼には申し訳ない。
夕方レッスンが終わってから、家人と二人、自転車でスカラ座博物館にでかける。20時から半時間ほど、リストが愛奏したという骨董品ピアノで息子がバッハ、ベートーヴェンの変奏曲、ショパンの練習曲と半時間ほどのハーフプログラムを弾いた。
今日は久しぶりにACミランが優勝したとかで、紅白柄のユニフォームを着たサッカーファンが街中に繰り出しては大騒ぎをしていて、息子の演奏は、ルイジ・ルッソロの「都市の目覚め」のようであった。絶えまないクラクションの音の渦はちょうど無数のイントナルモーリのようで、息子はそれに抗いながら弾いていた。尤も、演奏に集中している彼の耳にはあまり聴こえていなかったに違いないが。スカラ座の絢爛な広間で、年季の入ったピアノを弾く息子を見ながら、背中からは無数のクラクションが盛んに鳴り響いていて、超現実的な光景ではあった。
演奏会には、スカラの児童合唱団時代の友人サラとアンジェリカも聴きにきていて、息子は彼女たちと徒歩で帰宅したが、街中が混乱状態で危険だったので、聴きにいらした長野先生を自転車の後ろに乗せて、ご自宅までお連れする。タクシーなどどこにもいないし、スカラの周りは、叫び声とクラクションで気勢を上げるサッカーファンで埋め尽くされていて、時には身の危険すら感じるほどだった。

5月某日 ミラノ自宅
スカラ・アカデミーのコレぺティトゥア科の入試に落ちてしまった、とGがすっかり打ちのめされた姿で教室に入ってきた。彼のこんな姿をみるのは初めてだった。
経済的に苦しく、授業料が多少の免除される今回の第一次入試でないと授業料が支払えない、と親から言い渡されていたそうだ。彼は生活のため、ミラノに住む親戚の左官業を手伝いながら日銭を稼いでいる。ミラノでは、親戚宅に居候しているので、自分の思うように時間も使えないらしい。普段から明るく振舞ってはいるが、かなり精神的にも厳しかったに違いない。取敢えず今回は、様子を見るため受けてみます、と言っていたので聞き流していたのだが、それほど切羽詰まった状況だったなら、もっと念入りに準備させるべきだったと反省。ウクライナの民間人殺害の疑いで、21歳ロシア兵への初の戦争犯罪裁判で終身刑宣告。

5月某日 ミラノ自宅
息子が大学課程入試のソルフェージュ過去問題を解いている。以下のオーボエ・ダモーレ譜表を実音に書き直す問題で、譜例はマデルナの「ロタールのためのアウロディア(1965)」であった。
実音表記に直す場合、普段は調号を付きで書いているらしいが、この場合どうするのか。息子に、この曲は記譜のハ長調で書いてあるから、実音表記ならイ長調の調号で書くのかと尋ねられたがよく分からない。この間まで、クラリネットB管の読み方をやっていたはずだが、いつのまにオーボエダモーレ譜表まで読めるようになったのか不思議である。
自分が大学1年生の頃、最初に大きな編成を書いたのが、オーボエ・ダモーレと室内オーケストラのための作品だった。なぜわざわざオーボエ・ダモーレにしたのか、どこから楽器を探してきたのか、全く記憶にない。普通ならまずオーボエ曲を書き、より個性的な音のためにオーボエダモーレを使って優美な音色に感動するところが、オーボエなどよく知らない若造がいきなりオーボエダモーレの曲を書いたので、有難みは半減したに違いない。本当に勿体ないことをした。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科クラスのラファエルロが、自作指揮の授業に「百味組曲」を書いてきた。今度の曲はそれほど長くないです、と照れながら楽譜を渡してくれたが、演奏時間は12分ほどもあった。
ジェラートが主人公のアニメーションのための音楽で、「野苺の勝利」「官能的」などと幾つもの部分に分かれている。数十年前の場末のダンスホールで流れていたと思しきチャチャチャなのだが、作曲者本人は腰を振りつつ、嬉しそうに踊りながら指揮していて、その光景も作品も超現実的な中毒性に溢れている。なんとも不器用な踊りながら、時に長髪をかきあげ、髭をたくわえた前時代的な芸術家が、嬉々として無心でチャチャチャを振る光景は圧巻である。同じことを繰り返しているのに単調でもないし、何故か飽きない。求心力、推進力まで包含していて、不思議な音楽の力を思う。
昨年、彼に「子供の情景」と「ミクロコスモス」で指揮の振り方を教えたときは、どうにも出来が悪く頭を抱えてしまったが、全く思いがけない所からだしぬけに飛び出してきた印象だ。
自分の曲を演奏したくて指揮しているのだから、その喜びが身体から迸っているのが何よりも演奏者を刺激する。自分が指揮できる程度の作品を書けばよいのだから、小手先の指揮の技術など、余り問題にならない。クラシックの大作曲家も、案外こんな感じだったのかも知れない。メンデルゾーンであれリストであれ、誰であろうが、自作を指揮するときは、先ずは自分が指揮して自作を演奏できる喜びが何にも勝っていたに違いない。作曲家の本来あるべき姿なのだろう。
6月1日よりイタリア出国72時間以内の陰性証明書のみで、日本入国時のPCR検査、待機など解除と発表。ルハンスク州最後の砦セベロドネツク包囲とのニュース。新聞では毎日のように小麦など、下半期の食料危機を訴える記事が並ぶ。ロシア、ベラルーシは同盟国アルメニア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンとの首脳会談で不調。
ブチャの虐殺に関わった可能性のある兵士として極東マガダン出身のチンギス・アタンタエフを特定と発表。アタンタエフにしても、虐殺に関わったとされるハバロフスクの第64自動車化狙撃旅団にしても、多くの兵士の顔は我々日本人によく似ていて、狙撃旅団長のアサンベコヴィッチ中佐は日本人のルーツともよばれるブリヤート人だ。子供のころから、ロシアやソビエト連邦の極東少数民族の音楽に限らず、文化や風習にはずっと興味をもってきたから、彼らが遥々シベリアを超えてウクライナで戦闘に参加している現実には、少なからず心を痛めている。
学校で指揮の伴奏を手伝ってくれているマルコは、ポーランド人の妻がいるが、最初にロシア軍がウクライナに侵攻したときから、妻や娘と同じスラブ系の顔立ちの市民が苦しむ姿を見るのは耐え難いと話していた。これが率直なヨーロッパ人の心情に違いない。
地中海をゴムボートで渡ってくるアフリカ人や、逃げ惑うシリア人や強制隔離施設のウイグル人もチベット人もアメリカのBLMも、頭では分け隔てなく考えていても、出発点としてDNAに疼く何かが違うのは仕方がない。それを人種差別と呼べばそれまでだが、大方意識すらしていないかもしれない。
同じように、狙撃旅団長がブリヤート人と知ったときの衝撃も、うまく言語化出来るものではなかった。記事が間違っていたらいいと願っているし、一刻も早く諍いが終わってほしい。ただそれだけを願っている。

5月某日 ミラノ自宅
昨日の夕方から酷い風が吹き荒れて、夜半には雨も降りだし嵐になった。それがわかっていたのか、それとも嵐で何かあったのか、庭に巣を作っていたリスの家族が忽然と姿を消した。クルミをやると、前の中学校の校庭の樹から遥々リスが降りてきて、どことなくいつもより静かに餌を口に運んでいる。違うリスなのか、それとも昨日の暴風雨ですっかり怯えてしまったのか。いずれにせよ、3匹で庭で遊んでいた一週間ほど前の元気な姿は見る影もない。
街の道路には、暴風で捥げてしまった背の高い街路樹の枝が散乱している。ミラノの幹線道路の街路樹は軒並みアパート5階分くらいの背丈があって見栄えもするが、何でもこれらは先の大戦後、植樹運動があって植えられたものだという。第二次世界大戦中、ミラノ中の目ぼしい樹は全て切り倒され、暖房などに使われたため、大戦終了時には、街から完全に緑が失われていたと聞いた。在ジュネーブ国連代表部のボリス・ボンダレフ参事官辞任、亡命。

5月某日 ミラノ自宅
良く晴れた日曜の午後、階下から息子とサラが練習するシューマンのソナタが聴こえてくる。珍しく家にヴァイオリンが響くだけで何だか豪奢な心地になる。
シューマンを一通り合わせてから、二人の笑い声とともにカスティリオーニの二重奏のリハーサルが聴こえてきた。カスティリオーニの音楽には、弾き手も聴き手も思わず微笑んでしまう、そんな純粋な音への喜びが溢れていて、すばらしい。
ロシア沿海地方議会で共産党レオニード・ヴァシュケヴィチ議員が、「軍事作戦を已めなければ、我が国の孤児院はますます増大するばかりで、軍事作戦の名の下に若者は死にゆき、不具者になり果て、我が国に深刻な損害をもたらす」と発言。その後、発言権は剥奪され、退場。

5月某日 ミラノ自宅
映画音楽作曲科指揮法クラス1年目修了試験。あまりに皆熱心に勉強してきていて、その上、揃って本番に強かったので、愕いてしまった。たかだか6回の授業で、彼らがここまで出来るようになるとは思わなかった。誰もがとても音楽に溢れた指揮をしている。通常の指揮科の生徒と同じように「子供の情景」と「ミクロコスモス」を使うのだが、指揮者になりたい、とか、憧れの指揮者のようにやりたい、という先入観がないと、素直に音楽が躰に入りこむのかもしれない。ジャズやロックから音楽に入った学生が多いので、シューマンよりバルトークの方が入り込みやすかったのも面白い。バルトークから指揮に親しみ、だんだんシューマンで音楽の感情表現が充足してくる。清く正しく音楽を学んでばかりいると、大切な部分は案外欠落し易いのかもしれない。

夜、サンドロ宅で2年ぶりのホームコンサート開催。ヴァイオリンとクラリネット、ピアノのための、ポンキュエリ作曲「パオロとヴェルジーニア」は、ポールとヴェルジニーを辿る架空のオペラだが、各楽器に役割が宛がわれているのではなく、奇想的に目まぐるしく入れ替わってゆく。オペラ期イタリアに、室内楽がどのように成立していたのかよくわかる。

エマヌエラとマウロ・ログエルチォが演奏した、ハンス・ズィット編ヴァイオリンとピアノのためのベートーヴェン第九交響曲終楽章もとても面白い。奇天烈な編作かと訝っていたのを大いに反省。レコードもCDもなければ、自分の弾ける楽器で自分の聴きたい作品を、自分が聴きたいように、弾きたいように、弾けばよい。
既成の名作を、自在な感性で咀嚼し再構築して、他人にも演奏できるよう楽譜としてアウトプットさえする。当時は当たり前だったのかもしれないが、今のようにユーチューブで検索して簡単に音だけ飛ばし聴きするような乱暴な扱いではなく、実に豊かな音との付き合い方だとおもう。
シュポアのクラリネットオブリガードつき6つのドイツ歌曲や、ブルッフの三重奏による8つの小品も、室内楽の愉悦に浸るには絶好の作品であった。シュポアはロマン派を先取りし、ブルッフは遅れて生まれたきた根っからのロマン派であった。

懐かしい顔ぶれに再会するが、皆どこか窶れているようにもみえる。パンデミックと戦争で、厭世観の厚い帳がすっぽりとわれわれを覆っている。息子はサラとの室内楽の大学卒業試験で満点を貰って帰ってきた。彼はこれから大学入試なので点数はいらないかもしれないけど、と審査員に言われたらしい。
7月の南オセチアのロシア併合信認選挙中止発表。昨日より、イタリア入国に際しワクチンパスポートも陰性証明の提示も不要となった。
(5月31日ミラノにて)

逃げたパン(下)

イリナ・グリゴレ

車のラジオをつけると「天王星でダイヤモンドの雨が降っている」とラジオのアナウンサーが言った。かなりのハイテンションで言った。眠気と戦っている私まで嬉しくなった。天王星は綺麗な青い色をしていると話し続けているので、思わず次の信号で携帯をとって調べ始めた。住みたくなるような色。

そのあと好きなNHKラジオの演歌の番組に切り替えて、また眠気と戦いながら「カジマチ」という弘前の夜に賑やかになる街を通り過ぎる。たまたま幼稚園のお迎えに行く時この町を車で通るけど、毎回面白い看板が二つぐらい目に付く。ずっと前から入りたいと思う特別な映画館とピンクの服を着ているアニメのお姉さんのお店。ピンク色の看板に白くて太い文字で「男性天国」と書いてある。この雰囲気はラジオから聞こえる演歌にピッタリと感じて私は完全に眠気から目覚める。ただの3分ぐらい、別の世界に入って出るというような毎日の繰り返し。帰りも娘たちから「ルビアン」というお店の前に一時止まりするたびに「行きたい、行きたい」と言われ、いつか連れてってあげるからと言いながら右に曲がる。「ルビアン」という昭和の雰囲気がたっぷり残っている喫茶店のパフェが食べたい。

ある日、私が気に入っている無印の性別に関係ないズボンを履いてお迎えの帰りにコンビニに寄った。娘たちはおにぎりが食べたいという。一人で降りた方がグミなど他の買い物をしないで済むから「車で待っていてね」とお願いして、窓を全部開けて店に急いで入った。長女はツナマヨ、次女はシャケと二人の好みが違う。私の手作りおにぎりも好きだけど「コンビニ」の方は特別感があるらしい。1、2、3という袋の開け方も海苔を破らずにできるかどうか私は最後までドキドキする。日本に来てから一度も成功していない。長女は得意技のようにすぐできるから彼女に任せる。

コンビニでおにぎりの開け方について考えながら、知らない間に変わった振り付けのように一歩下がって、後ろにいた人にぶつかった。そしたら後ろにいたお兄さんがニヤニヤし始めた。無印の性別がないズボンをはいても女性としてみられることに対して複雑な気持ちになった。結局、自分の性別から逃げられない、と買ったおにぎりを手にとって店を出た。

そしたら、車のクランクを押しながら前面に開いている窓から顔を出して泣いている二人の娘がいた。私が遅かったせいで泣いていたらしいが、どう考えても2分しか経ってなかった。それより先に、私にニヤニヤしていたお兄さんは店を出た時、娘の姿を見てすごくびっくりしただろう。そうだった、女性だけではなく、母親だった私が性別不明のズボンを履く意味がなかった。

『WASP』という短編映画を思い出した。25分間で、シングルマザーである主人公の世界を描く女性監督のAndrea Arnoldはすごい監督だ。ここ何年か前から日本で生活しているシングルマザーの研究を始めた私にとってリアルな映画だ。私も今まで出会った女性の物語をこうして描きたい。シングルマザーではなくてもお母さんという生き物の生態をよく撮っている。映画は裸足でマンションの階段を降りて娘が喧嘩していた子供のお母さんと戦うシーンから始まる。赤ちゃんを抱きながら。そのあとは偶然に、昔の知り合いと道端で会ってデートに誘われる。先ほどのシーンからの彼女の切り替えがすごい。裸足なのに、赤ちゃんを抱いているのに、男にデートに誘われ女性を捨てることができない。だから嘘をつく。この子供たちはベビーシッターで預かっている、夜になったらバーで会えると。

急いで家に帰ってビンに入っていた小銭を集める。バーに入ってもドリンクは注文できそうだ。ミニスカートにはき替え、ベビーカーを押し、子供たちを連れて夜のデートに向かう。その前に、家で砂糖の袋を長女に渡す。「シェアして」という一言で、長女は小さい子の手のひらに砂糖をのせてみんなは嬉しそうに舐める。このおやつに対して常識的なお母さんならば眉をひそめると思うが、私はこのシーンに対して共感しかなかった。研究ですごく忙しい時、マフィンと甘いパンを焼くなんて、とんでもない。私が焼くマフィンとパンは美味いけど研究の方が大事と言いたら、死刑だろうね。正直、娘たちが隠れて台所から砂糖を盗んで舐めることは何回かあった。私はただ見ないふりをした。

彼女はバーに着き、子供たちを店の外で待たせ、一人で入る。なんともない振る舞い。それでも彼女は子供たちを家に置き去りにせず、少ないお金で自分と彼のドリンク、子供にコーラを買い、ちょくちょく様子を見にくる。女性でありながら、彼女はやっぱり母親だ。最後に外で待っている子供たちはお腹が空いて、待ちくたびれ、赤ちゃんの口に蜂が入りそうになり、「ママ」という長女の呼びかけに彼の車から飛んでいき、子供を守る。最初から最後まで彼女の複雑な境遇がリアルに映し出された、濃い25分の塊だ。最後に、デートしていた男性がお腹を空かせた子供たちをフィッシュアンドチップスの店に連れていって、お腹いっぱい食べさせているシーンで終わる。男性の優しさに感動するが苦い味が口に残る。この最後のシーンは監督の願いかもしれない。こんな優しい男性がいることを願うしかない。

ところで、調査で出会ったシングルマザーの女性のルビーの指輪は私のピアスと同じ色だった。彼女の用事のために車であちこち回りながら、5時間ぐらいいろんな話をして楽しかった。彼女のライフヒストリーを知っている私、彼女の声となって伝えたい。前に言われたことを思い出した。「私たちは似ている」。似ている理由は女性だから、母親だからではない。彼女は赤いルビー、私は赤いクリスタルのピアスを毎日のように魂の現れとして輝かせて一生懸命に生きているからだ。天王星でルビーの雨が降るところを想像してみた。東京タワーのようにたまに青から赤に色を変えても良い。

ある日、小学校の近くで長女を待っている間、知り合いのお母さんは私の疲れた顔を見て「昨日はすごく疲れていたね、歩いているのではなく浮いているように見えた」と言った。そのあとは「私もあと3年で仕事がしたい。やっぱり専業主婦は嫌だ。料理も全てできるけど仕事をしたい」と言われて、嬉しかった。

人生は野菜スープ

若松恵子

5月最後の日の朝は、雨ふり。
仕事をお休みにして正解だった。昨日より気温が下がって少し肌寒い。
家にこもって過ごそう。
片岡義男の3つの短編「人生は野菜スープ」について考えて1日を過ごすことにした。

片岡義男の短編小説集『これでいくほかないのよ』(亜紀書房)が4月の終わりに書店に並んだ。片岡義男.comの「短編小説の航路」に書き下ろしとして公開された8編が1冊にまとめられている。公開時に読んでいたはずだが、紙の書籍で再び読んで「人生は野菜スープ」が印象に残った。角川文庫に入っている第1作が好きな短編だったからだろうか。読後の印象には第1作の時と変わらない何かがあって、でも、今の時代に合わせて進化していると思う部分もあって、そこが嬉しかった。

1976年4月号の「野生時代」に掲載されて角川文庫に収録された第1作、2015年7月号の「群像」に掲載されて『と、彼女は言った』(講談社/2016年4月)に収録された第2作、2021年2月に片岡義男.comに公開され『これでいくほかないのよ』に収録された第3作。順番に紙の書籍で読み返してみる。どれも良かった。

「人生は野菜スープ」は女性たちの物語だ。主人公の女性たちはみんな、何かのしがらみにとらわれるという事なく、自分の暮らしを自分で成り立たせて生きている。何かに寄りかかっているという印象が全くない、美しい彼女たちが、小説の世界のなかで手足を自由に伸ばして動き回るのを読むのは気持ちが良い体験だ。自由であること、自分が使う時間について自由であることが3人の主人公に共通している。彼女たちには時間がたっぷりとあるのだ。

そんな暮らしを成立させるために、第1作の彼女は「パン助」だった。第2作の彼女は「作家」だった。そして第3作の彼女は勤めていたスーパーの雇用契約が満了となって、実家のある街に戻って再就職するという境遇だ。3作が書かれる時間の経過の中で、彼女たちの生き方の自由を成立させる条件が、ちっとも特殊なことではなくなっていることに、良いなと思った。3作目の彼女は、勤務が始まる前のつかの間の休暇中という設定だから時間がたっぷりあるのだけれど、そのことを特別とは思ってはいない様子からは(休暇中の予定は?と聞かれて何もないと答えるのだ)勤務が始まっても彼女のあり方はあまり変わらないのだろうな、何かにせかされて生活するという事にはなりそうに無いなと感じた。

世間から離れている(浮いている)彼女たちの物語は、ある種ファンタジーという作り物なのだけれど、具体的な描写によって、全くの絵空事になっていないところが、片岡作品の魅力なのだろうと思う。物語を読んでいる間は、彼女たちのいる空間に入って同じ空気を感じることができるのだ。

3作とも「野菜スープ」をこれから飲もうとする場面で物語は終わる。インスタントではなくて、滋味あふれるスープがきっと運ばれてくるに違いないと感じさせる。

第2作に、少し種明かしのような部分がある。テーブルに野菜スープが届くのを待ちながら、主人公が友人の女性と会話する。「からっと笑えるロンリー・ウーマンの話」を書いてほしいと依頼を受けた彼女は、「ひょっとして自分たちのことか」と言う友人に対して「違うような気もする」と答えたうえで、ロンリーは「寂しい、孤独、ひとり、惨め、誰かいないかというようなことではなく」そういう浅いことではなく、「浅いところでうろちょろしてても、なんにも始まらない」と言う。「では、深いところとは、なにか」との友人の質問をうけたところで、テーブルに野菜スープが届く。「その複雑な色どりと、深みのある香りに、ふたりは一瞬、おなじ表情になった。」という記述で物語は終わる。

彼女たちが大事にしているのは、例えば人生訓のようなものではなくて、この野菜スープのように、実態ある物なのだ。そしてこの野菜スープを作った、厨房にいる人も「うしろでまとめた髪を上げてうなじをきれいに出した」、表情の良い女性だというところが、また嬉しい。おいしい野菜スープをつくることができる人の人生もまた豊かだ。

水牛的読書日記番外編「私たちは読みつづけている」

アサノタカオ

今月は「番外編」をお届けします。2022年1月、K-POPファンの高校生の娘(ま)との共著で韓国文学をテーマにした小さな本『「知らない」からはじまる』をサウダージ・ブックスから刊行しました。この本については、八巻美恵さんが連載「言葉と本が行ったり来たり」第6回で紹介してくれたので、ぜひ読んでください。

https://www.memorandom.tokyo/yamaki/3515.html

さて、5月16日〜6月中旬、東京・下北沢の本屋B&Bで、本書で取り上げた作品を紹介するフェアを開催しています。またこのフェアでは、著者のふたりが本書刊行後に読んだおすすめの韓国文学を10冊セレクトし、「私たちは読みつづけている」と題して以下のコメントを寄せました。気になる内容があれば、お近くの方は本屋B&Bで、遠方の方は別の書店か図書館で、本を手にとってもらえるとうれしいです。

https://bookandbeer.com/

「私たちは読みつづけている——2022年に出会った韓国文学の本、10冊」

チョン・セラン『シソンから、』(斎藤真理子訳、亜紀書房)
◉朝鮮戦争を生き延びて波瀾万丈の人生を送った女性の美術評論家で随筆家のシム・シソンを取り囲む家族3世代の物語。チョン・セランの代表作『フィフティ・ピープル』が病院町という同じ場所にいる人々の横の繋がりを描いているとしたら、この長編小説はシソンからはじまる家族の歴史という縦の繋がりを描いている。『フィフティ・ピープル』と同じく本書も主人公のいないオムニバス形式で、家族一人ひとりの視点からいろいろな話が描かれているのがおもしろい。登場する人物はとても多く、はじめは名前だらけで分からなくなるから、本の6ページにある「シム・シソン家系図」に戻って読むといい。
私の中で一番心に残ったのは17のキュリムの話。シソンの再婚相手の前妻の孫であるキュリムは高校生で、ハンビッとドヨンという大切な友達がいた。ある日ドヨンがハンビッのことをきついジョークでからかって、メッセージグループ上で軽いいじめに発展してしまう。その時キュリムはグループに参加していなかったのだけど、後からそのことを知る。でも「こんなことになるまで放置しておくなんて」とハンビッから言われて、キュリムは、いじめに加担していなくても傍観者として加害者の立場に近かったことを自覚する。それからはドヨンともハンビッとも疎遠になってしまったが、いつかまた友達に戻りたいという気持ちも捨てられないでいる。
物語の本筋から少し外れたものかもしれないけれど、高校生の私には、この話がとても身近に感じられた。(M)

ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』(橋本智保訳、新泉社)
◉ロシアによるウクライナ侵攻の報道に接して、こんなときに小説を読んでいる場合だろうか、と迷いが生じた。でもタガの外れた世の中で正気を保ち、他者の痛みを想像するためにも文学の読書は必要だと思い直した。本書の舞台はソウルの移民街。戦後の日々、陽の当たらない場所でなお戦争の苦しみを生き、傷によってつながりあう流れ者たちの姿、そのさびしさの奥で震えるやさしさを描いた小説。今こそ読むべき一冊。(T)

ファン・ジョンウン『年年歳歳』(斎藤真理子訳、河出書房新社)
◉母と娘たちの物語、従順であることを強いられる者たちの物語。押し黙ってきた生きることの苦しみ、人それぞれに複雑なその内実を、繊細な小説の言語で描ききっている。感想を書きたいけれど、ことばがなかなか出てこない。噛み切れない思いが自分の外に向かわず内に沈んでいく感じ。最後のページを閉じた後、「家族」として出会いながら「人間」として出会うことのないまま別れた者たちのことを、ふと思い出した。(T)

イ・グミ『そこに私が行ってもいいですか?』(神谷丹路訳、里山社)
◉日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた二人の少女の成長を描いた歴史エンタテインメント。息もつかせぬスリリングな展開にのめりこみ、物語の世界を一気に駆けぬけた。朝鮮から日本・中国・北米へ。アメリカの日系人強制収容所の問題まで語られるなど、著者の視野は広い。韓国では青少年文学として出版されている。少女たちの旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける本書を日本の若い人にも読んでほしい。(T)

イ・ヘミ『搾取都市、ソウル——韓国最底辺住宅街の人びと』(伊東順子訳、筑摩書房)
◉こういう韓国社会の今に迫るノンフィクションを読みたかった。ソウルの「貧困ビジネス」をめぐる調査報道で、生々しい格差の現実を伝える文章の随所から、「幼い頃から貧困と戦ってきた」という著者の歯ぎしりも聞こえる。本書の「はじめに」では、「私」が貧者の物語を書く意味があらかじめ示されている。「私」=著者の主義主張ははっきりしているが、語りや文体はクールで私情に溺れることがない。そこがいい。(T)

ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』(加藤慧訳、イースト・プレス)
◉「それは私じゃない。……あんたがそういうふうに見たかっただけだよ」。小説の中で「彼女」が「僕」に言う台詞が心に突き刺さる。フェミニズムを生きる「彼女」の顔に自分は向き合ったことはあっただろうか。性差別の文化から抜け出せない「僕」の顔を鏡の中に直視したことは……。ここではないどこかへ旅立つ選択をした「彼女」たちの背中に、なんと声をかければよいのか。娘を持つ父としてそんなことも思った。(T)

キム・チョヨプほか『最後のライオニ——韓国パンデミックSF小説集』(斎藤真理子、清水博之、古川綾子訳、河出書房新社)
◉韓国のSFは「やさしい気持ちになれるSF」。YouTubeの番組で翻訳家の古川綾子さんが韓国文学について語ることばに魅力を感じて、読んでみたのがこのアンソロジー。文明批評や環境批評のヴィジョンを物語によって創造するという著者たちの明確な意志が伝わってきて、しかもめちゃくちゃおもしろい。韓国文学をあれこれ読んでみたけど、次に何を読もうと迷っている人におすすしたいのがSFという沼。はまること間違いなし!(T)

キム・ハナ、ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています』(清水知佐子訳、CCCメディアハウス)
◉コピーライターや本の執筆などの仕事をしているキム・ハナと、雑誌「W Korea」で編集長をしていたファン・ソヌのエッセイ集。彼女たちは猫4匹と一緒にマンションでふたり暮らしをしている。バックグラウンドや趣味が似ていて、どうしてもっと早く知り合わなかったのかと残念に思うほど気の合うふたり(けんかもする)。相手が女か男かということにこだわらず、ただ一緒にいて尊敬できる相手と同居している、というところに本当のジェンダーフリーを感じる。
「ひとり」と「ひとり」がゆるく結合する「分子家族」という表現にも興味を引かれた。たしかに学生や若者でない大人でも孤独を感じるだろうし、皆がひとりで生きていけるわけでもないと思う。でもそのために結婚するのは違う、と感じる人もいるんじゃないだろうか(キム・ハナもそのように考えている)。日本でも彼女たちのような新しい家族の形ができていったらいいな、と読んでいて思った。
猫たちのカラー写真も掲載されていて、「ヨンベ」がかわいい。ちなみに、ふたりが運営しているYouTubeチャンネルがあったので見てみると、本のカバーのイラストが実際の本人たちの顔とそっくりなのだとわかってうれしかった。それから「W Korea」はK-POPアイドルがよく表紙を飾る雑誌で、ファンなら知っている人も多い。私の推したち、NCT127のメンバーも過去に何回か掲載されたことがあって、もしかしたらファン・ソヌがエディターを務めていたのかな?(M)

イ・スラ『日刊イ・スラ——私たちのあいだの話』(原田里美・宮里綾羽訳、朝日出版社)
◉日記風のエッセイ集で、「逃げるは恥だが役に立つ」という作品がよかった。友達のカップルと日本を旅する様子が書かれている。看板の日本語が読めないから無能になったと感じるけれど気持ちが楽、ソウルでは何でも読めるからぼんやりするのが難しい。韓国旅行をした時に私も同じことを思った。大阪はソウルの繁華街に似ているそうで、訪ねたのがドンキホーテと回転寿司だけ、というのが新鮮。文章にユーモアがあるのがいい。(M)

キム・ジフン『本当に大切な君だから』(呉永雅訳、かんき出版)
◉作者のキム・ジフンは病気を抱えていた苦しい時間を経験したことがあり、だからこそ本書には、つらい状況の読者が共感できるような言葉が書かれている。すべてを吸い取ろうとするよりも、必要な言葉だけ拾うように読むのがいいと思う。そして時間が経って読み返した時、前よりも頷ける部分が増えていれば、自分に少し余裕ができたことを感じられるのかもしれない。NCT127のリーダー、テヨンが愛読していると聞いて興味を持った。(M)

2022年5月15日の熊本日日新聞に、アサノタカオによる『そこに私が行ってもいいですか?』(イ・グミ著、神谷丹路訳、里山社)の書評が掲載されました。イ・グミの小説、おすすめします。

「意志ある女性たちの連帯」

ディアスポラを生きるものたちの振り幅の大きな旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける韓国発の歴史小説。息もつかせぬスリリングな展開にのめりこみ、物語の世界を一気に駆けぬけた。
主人公は日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた少女たち。1人は「対日協力者」の資産家ユン・ヒョンマンに仕えるキム・スナム、もう1人はヒョンマンの娘チェリョン。階級を異にする2人が出会い、歴史の荒波に押しだされるように日本・中国・アメリカと国境を越えて移動し、苦難を生きのびる過程が語られる。
日本留学中のチェリョンが朝鮮独立運動に関わりを持ち、物語は急展開を迎える。娘の刑務所行きを恐れるヒョンマンの画策により、スナムはチェリョンの身代わりとして満州の「皇軍女子慰問隊」に送り込まれたが脱出して渡米、ニューヨークの大学で学びながら自立の道に目覚める。一方のチェリョンは「日本人」として偽装結婚してアメリカに移住、日米開戦後に日系人強制収容所に送り込まれるなど辛酸をなめる。
複数の言語を学び、読書を通じて未知の世界を想像し、愛する人のために行動を起こすことで新たな人生を切り開くスナム。若き彼女に手を差しのべる「姉」のような存在の女性たち。こうした意志ある女性たちが連帯する姿に著者の希望が託されていると感じるが、解放後の韓国でチェリョンに再会したスナムの後半生は幸せなものではなかった。
人生の岐路で何を選びとり、何を捨てさることが正しかったのか。真の答えは誰にもわからない。
「そこに私が行ってもいいですか?」。本書の題名は、愛娘への「誕生日プレゼント」として使用人を探すヒョンマンに、自らを差しだす幼いスナムのことばに由来する。
懇願するのは誰か、承認するのは誰か。暴力的な支配と従属の関係を脱し、他の何者かの許しを乞うことも自分を偽ることもなく、誰もが自由に「そこ」に行き、生きられる社会を実現することは可能か。読後に兆した問いが、いまも心の中で響く。(T)

* 文末( )内のアルファベットは執筆担当、(M)は(ま)、(T)はアサノタカオを表しています。

211 背表紙、砦、鳥よ

藤井貞和

一九九五年、ベオグラードで編んだ、『鳥のために』が、
内戦勃発のとし、山崎佳代子の詩集になって、書肆山田から

言葉の紡ぎ手たちの、善き手と手とに結ばれて、
旅の始まりでした。 鳥はどこへ、旅の終わりよ どこへ

山崎さんの言う、「本とは、生まれる魂の食物」。 「詩とは、
祈り。 闇のなかの微かな光。 渇きを癒す水」――

仲間たちの書物が砦になって、背表紙になって、
守り続けることでしょう。 守り続けてください、鳥の魂

(菊地信義に続いて、大泉史世の訃報に接します。)

ニュースというウソから

高橋悠治

危ない時代だ。毎日ニュースを見てしまう。世界はアメリカ側とそうでない方に分かれて、日本はアメリカ側だから、報道されないこと、歪められているニュースばかりで、そうでないニュースはネットで探すよりない。

第2次世界大戦が終わったあと、ラジオも新聞も1日で変わった。その後、アメリカ占領下で、また変わったが、新聞に書かれていることから書かれてないことを読み取る技術があって、子どもでも使うことができた。そんな情勢は1950年代の後半まで続いた。

今はまたそういう時代が来ている。これがいつまで続くのかわからない。日本では、今まで見ていた個人のコラムも、信頼できなくなったものが多い。昔アメリカではNew York Times、イギリスでGuardian、フランスでLe MondeとNouvel Observateurを読んでいた。コンサート評も翌日には載っていた。今はどうなっているだろう。テレビや新聞も政府と同じことを書いている。フェイクニュース・偽旗作戦・プロパガンダ、知らせないだけでなく、ウソを書くのが当たり前に通用する。反論は削除されるだけでなく、書き手も排除される。メディアさえも、禁止されて見えないものもあれば、ある日突然見られなくなることもあった。日本では、同調圧力が他より強いと言われるが、今はどこでもそれがあるのが見える。

逆に、メディアが禁止されてない場合なら、日本のことは他所の報道で見たらわかることもある。日本語の報道は多くないし、同じ所の英語報道と比べると、はっきり書くのを避けている感じがする。日本人の排外感情を刺激しないようにしているのだろうか。英語報道も英語圏でないか、小さな独立メディアを見つけないと、ウソと戦争ヒステリーで読めない。

グローバリズムは1990年代から潮が引いて、民主主義は Change! と唱えながら、 クーデターと暗殺と買収の別名になったようだ。歴史は海から大陸へ、西から東へ移っていくのか。

そのなかで、音楽は無用の仕事になるほどに、抵抗と意義を増すのだろうか。分析と精密の代わりに、曖昧なひろがり、息のつける空間、かすかな流れの時間を、どうやって創り出せるだろう。