ジャワの物語(2)ラーマーヤナ

冨岡三智

ラーマーヤナは言うまでもなくインド起原の叙事詩で、4世紀頃までにヴァールミーキによりまとめられた。しかし、その冒頭の、主人公のラーマ王子がヒンドゥーの神ヴィシュヌの転生として誕生する場面と、最後にヴィシュヌ神に戻って昇天する場面は後世に別の作者によって付加されている。物語の主な内容は、森に追放されたラーマ王子が、魔王ラウォノにさらわれた妃シンタを取り戻すため、猿の援軍を得て魔王の国に乗り込み、魔王らと戦って王妃を奪還して国に戻るという話である。

ラーマーヤナは東南アジアに9世紀頃に広まった。ジャワ島中部にあるヒンドゥー寺院プランバナンの回廊にはラーマーヤナの物語のレリーフがある。が、ジャワはその後イスラム化するので、ラーマーヤナを題材とする舞踊作品が多く作られ始めるのは1961年にプランバナン寺院で観光舞踊劇『ラーマーヤナ・バレエ』が始まって以来だと思われる。『ラーマーヤナ・バレエ』については今までも何度も書いているので今回は省略して、今回はコンテンポラリ舞踊作品に描かれたラーマーヤナを紹介したい。

●サルドノ・クスモ『サムギタ』(1969)

振付家のサルドノは『ラーマーヤナ・バレエ』で初代のハヌマン(白猿)を務めたが、元々は宮廷舞踊家クスモケソウォ(『ラーマーヤナ・バレエ』の総合振付家でもある)の弟子である。『サムギタ』はインドネシアのコンテンポラリ舞踊の嚆矢とされる作品で、ラーマーヤナの中にあるスグリウォとスバリという2匹の猿が戦うエピソードをテーマとしている。1969年のジャカルタ初演時は伝統と現代の融合したものとして好評だったが、1970年にスラカルタで再演された時には舞台に腐った卵が投げ込まれ野次が飛ぶというセンセーショナルな反応で、一躍伝説的な舞台となった。舞台背景を女性が開脚した形にして、その股間部から踊り手が入退場するようにしたという点は、スラカルタの観客には抵抗が大きかったようである。修士論文調査をしていた時に当時の関係者にいろいろと話を聞いたのだが、ともかく師匠のクスモケソウォには全く受け入れられず、他の弟子たちも師の怒りを恐れて舞台に参加できなくなったり、見に行けなくなったりしたという。卵を投げた陣営の人も私の留学先の芸大教員の中にいたのだが、その話によると、やはりブーイングをしたのはサルドノらと競い合っていた芸術団体の人たちだとのこと。熱い時代だったのだな…と思うのだが、ここは何といってもサルドノの勝ちである。新しいものを目指した舞台が首都で好評だったというだけでは伝説的な舞台にはならなかっただろう。偉大な宮廷舞踊家の師匠と対立し、破廉恥な舞台装置に怒った保守的な都市スラカルタの観客に腐った卵を投げつけられる…というストーリーが成立したからこそ、サルドノはカリスマ的存在になった気がする。

●サルドノ・クスモ『キスクンド・コンド』(1989)

これもやはりサルドノのコンテンポラリ作品で、これもまたスグリウォとスバリのエピソードがテーマである。もしかしたら、サムギタとテーマは通底するのかも…と今になって気づいたが、まだ確認できていない。この作品は『<東西の地平>音楽祭III ガムランの宇宙』(1989年、東京)で上演され、私も見に行った。プログラムによれば、物語の内容は、母の所有するアスタギナという聖なる箱を取り合う男2人と女1人の武将階級のきょうだいが、その欲望ゆえに堕落するというもの。この2人の兄弟がスグリウォとスバリで、彼らはサルに変わってしまう。これはジャワの影絵で語られるバージョンである。この作品を演じたのはスラカルタの芸大教員の故スナルノ氏とパマルディ氏、そしてスラカルタ王家のムルティア王女の3人だった。男性2人は人間からサルへと変わっていく様子を動きで表現する。後に私は留学してパマルディ氏に男性優形舞踊を師事することになり、スラカルタ王家の定期練習に参加することになるのも不思議な縁だ。

『アフリカ』を続けて(13)

下窪俊哉

 人によっては、自分の書いた原稿を本にしたいとは思っても、他人の書いた原稿にこだわって本にしたいと考えることはないという。個人的な雑誌をつくるのにも似たようなことが言えそうで、わざわざ何人もに声をかけて、一緒につくろうと自分が考えるのはなぜだろう。

 エッセイとか小説とか(私はあまり書かないが、詩とか)、いわゆる文芸作品のようなものを書き始めてから、数えてみればもう24年たつ。自分の作品リストを眺めてみると、多くを自家製の本や雑誌として発表している。それも全て、他所に持ち込んで断られたから自分で出そうというのではなくて、いわば自給自足である。
 人知れず、書き続けてきた。なんて言えたらカッコいいのかもしれないけれど、身近な読者には常に恵まれていたし、恵まれている。24年間、ずっと並走してくれている1人の読者がいるというわけではなくて、その時々で、ふさわしい読者が現れて、道を示してくれる。
 はじめの頃は学生時代で、書いたら、持ってゆき読んでもらっている友人がいた。音楽サークルでの活動を共にしていた仲間だった。ある日、いつものように書き上げた短い原稿を持ってゆくと、すぐに読んでくれて、なぜか文楽の比喩で話をしてくれたのだが、数年後、ひとり暮らしをしていた私の部屋をふらっと訪ねてきて「文楽に応募してきた」と言った。彼はその後、文楽の太夫となり活躍している。片岡義男の本を読みあさるようになって影響を受けたのも、彼に薦められたからだった。
 好きになった女性に読んでもらう、というのはよくあることかもしれないが、もちろん読んでもらった。ある意味、若い頃の原稿は殆どが恋文のようなものだったかもしれない。フィクションになっていたり、街や川や海や山の風景が書かれていたりして、じつに変わったラヴ・レターですけれど。
 そういう読者は、目の前に来た原稿を評価しようとはしない。面白かったとか、よくわからないところがあったとか。それすら言わず、読んだよ、というだけの場合もある。
 自分にとって重要なのは、出来・不出来よりも、また未完成の原稿であっても、そこに何か力を感じてもらえるか、ということだった。大切に扱ってもらえるか、と言えばよいだろうか。そこに何かしらの力を感じられなければ、大切にしようもないだろうから。

 そんなふうに私の場合は、出版業界への憧れとか、作家になりたいとか、そういう動機はなくて、身近にいる大切な人に届けるものとして書き始めた。それが原点だった。そういった営みの先に、たまたま周囲にいた文学者たちからの評価とか、小川国夫さん(先生)との付き合いといったものにも拡がっていったのだった。
 そうなったのには幸運もあったが、それよりも、雑誌をつくる人たちの中に入ってゆき、発表したからだ。どんなに簡素なものでも、本をつくるというのはいいなあ、と思った。
 親しい友人や恋人には原稿を読んでもらえばよいが、本というかたちにすれば、読者との出合いは一気に拡がる。
 1990年代の終わり頃の話である。私はまだインターネットの世界に触れていなかったし、携帯電話すら持っていなかった(今は昔の話になるが、外で電話を受けるのに抵抗があった)。その後、まずは携帯電話を持たなければならなくなり、ノート・パソコンを買ってインターネットの海に漕ぎ出してから、書くことも、本をつくることも変化したようだった(この話はいつかじっくり書きたい)。
 だからその前の時代に、短い期間でも書いて、本をつくる人たちの中にいられたことも私にとって幸運の一部だったかもしれない。

 その頃から読者が、とても大切な存在になった。書く人にとって読者が大切、そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、まだ「これが自分の作品です」と言えるようなものを書く前の書き手にとって、読者の存在をありありと感じられたというのは当然のことではないような気がする。読者というのは自分にとって、身近に感じられる存在だった。読者は、客ではなかった。

 ところで数年前、神奈川近代文学館で花田清輝展を観た。
 そこで展示されていた原稿の中に「古沼抄」というエッセイがあって、その時に初めて読んだのだが、連歌について書かれたものだ。展示されていたのは一部だったので、すぐに図書館で探し出してきて、全文を読んでみた(1973年に「東京新聞」で2回にわたって書かれたものらしい)。
 その時、自分はこんなふうなことを書いている。

 永禄5年(1562年)の3月、三好長慶が連歌の会をひらいていて、誰かが「すすきにまじる芦の一むら」とよんで、一同がつけなやんでいたら長慶が「古沼の浅きかたより野となりて」とつけた、という話を受けて、「かれの生きていた転形期の様相を、はっきりと見きわめていたことを示した」「思うに、時代というものは、そんなふうに徐々に変わって行くものではあるまいか」と書いたあと、芭蕉の「古池や〜」よりこちらの方がスケールが大きいような気がする、それにはこれが連歌の一部であるというのが大きくて、と「共同制作」への考察へとうつってゆく。

 どうして現代の文学は、制作をひとりでやろうとするのか?

 ひとりでやることには限界がある。いや、ひとりでやる文学はちっちぇえ。と、言いたい様子でもあり、ああでもない、こうでもない、とことばを尽くしてくれている。(2019年2月18日のnote「古沼と共同制作」より)

 自分にとってある種の読者は共同制作者なのではないだろうか。雑誌をやると、そこにかかわる人は皆、読者=共同制作者になる。数人でも集まれば、1人の意思を超えた「場」がうまれる。そこで行われるコミュニケーションには共鳴もあれば、反発もあるだろう。しかし私が本当に面白いと思うのは、何か狙いからは微妙にズレたものが現れてくることだ。そうしたズレを、私はたいへんありがたく受け取り、より深く感じられるようになりたい。

 先日、ある方から「『アフリカ』は手に取って、ひらいて読んでみないと何が出てくるか本当に予想できない」と言われて、ははあ、そうなのか、と妙に感心してしまった。予期せぬものを、『アフリカ』は待っているのかもしれない。そんなふうに言うと、ミステリアスな雑誌なんですね? どうかなあ。

212 発見と状況

藤井貞和

一個の反省とは、発見とは、内心を無防備に、
道義で満たす? 古いよな、でも、
実存を既存から解放する。 「実在へ、だろ?」、
軍務のあいだ、ずっと背嚢に隠しおおせた、
『死者の書』(折口信夫)でした。 あなたの、
自死を救えなかった戦後に、悔いこそ残れ、
戯曲と詩との会話です、50年代。
真(まこと)らしさでなく、真そのもの、
荒地らしさでなく、荒地そのもの。
芸能史の、清らかな恋からの、
敗戦を超えられなかったのか、時代は、
60年代という状況へ向かいます。

(新井高子さんの『唐十郎のせりふ』(幻戯書房)という本のオンライン書評会に「参加」して、やや感想を書いたので、以下に貼り付けます。「発見」(発見の会)、「自由」(自由舞台?)、「状況」(唐さん)など、ぼんやり考えていると、私の枯渇からわりあいだいじなことがらが出てきたもようで、この際、あと出し感想を述べさせてください。民間も伝統も、日本芸能史はまっぷたつで、相容れないですね。一つはお能で、もう一つが歌舞伎です。前者は山からというか、神楽を含み、「うたい」で、楽器は鼓とか笛とか、権力者にくいこみ、宗教的にも上層部にくいいり、たいへん。後者は「かたり」で、琵琶や三味線、海からで、人形ぶり(文楽、浄瑠璃)、街道すじ、下級芸能者、差別され、これもたいへん。山本ひろ子さんが演劇を不得意だとするのも、摩多羅神が鼓を持つのも、全部、符合するからおもしろい。渡辺保さんは歌舞伎ですが、『唐十郎のせりふ』にびっくりした理由がわかる気がする。で、私はお能派? 歌舞伎派? どちらもです、はは。清濁あわせ呑む、です。私は奈良びとで、金春さんの文化。小学生の習い事のひとつに謡いがあり、同級生が何人も毎週、かよい、かれらは子方や仕舞をやってました。私はうらやましくて、母親に訊いたら、謡い本をひらいて、「経政」など、謡ってくれました。観世ではこう謡うんだと、金春さんとの違いを、小学生には高級なレクチュアでした。薪能など、かぶりつきで観るような子だったので、祖母が京都へ、能舞台(初めて)の能を観に連れて行った。演能のおわりごろに、紋付きの方がうしろに出てきて座るので、あれは何だとあとで訊いたら、「こうけん」という、偉いひとが出てくるんだと。あれはだれだったのかな、もしかしたら喜多六平太、年代が合わない、もしかして金剛巌、写真で見るとちょっとちがうかな。70年代には三信遠に神楽系の芸能を追っかけ、80年代になり、琵琶法師を九州に追いかけ、結果的に清濁合わせ呑むにいたった次第です。『唐十郎のせりふ』は、60年代の状況劇場(花園神社、新宿西口公園事件)から現代へ、橋が架けられました。状況と言えば、「恭しき娼婦」や「蝿」「悪魔と神」、サルトルの演劇から唐さんははいったかと思っていました。サルトルその人が声明に言う、「あの連中は、自分と無関係さ」。でも、あの連中とは『存在と無』の愛読者なのだから、と。『加藤道夫全集』より。)

素描

璃葉

用事を終えて帰宅した瞬間、少し目眩。どうやら軽い熱中症になってしまったようだった。ということで、今日はすべてを諦めて部屋でぐうたらしている。幸せである。水をがぶがぶ飲んで横になっているうちに眠ってしまったようで、目を覚ましたころには少し陽が傾いていた。

夢を見た。延々と石膏像の素描をする夢だ。
中学生のころ、受験のために絵画塾の夏期講習に数週間通っていたことがある。白い壁、白い床、青白い照明。何の色気もない事務テーブル、丸椅子、イーゼル、他の生徒の作品などが雑然と並べられている。そしてひたすら、その空間の中で石膏像の素描をしたのだ。画溶液の匂いだろうか、きっと絵画に関わっている/いた人ならあの独特な匂いがわかると思う。室内には、少し酸味の混じったような匂いが充満していた。
わたしにとってあの塾の夏期講習は正直なところ、非常に苦痛な時間であった。今まで自由気ままに絵を描いてきたのに、所謂受験のための課題をこなしていかなければならないからだ。学校がつまらないのと一緒で、カリキュラムに沿って、型にはめていくような作業が病的に苦手なのであった。それでも高校は行くべきだと思っていたし、美術と関わっていくには基礎を学ばなければならなかった(と当時は意外と真面目に考えていた)。
講習中は頻繁に鉛筆を削りながら、空が青い…外は陽射しが強くとても暑そうで、蝉の声が響いているな…漫画読みたいな…などとどうしようもない現実逃避をしていた。ヴィーナスの胸像を眺めながら、何のためにわたしは絵を描いているのか、と考えだす始末だった。とんでもなく辛抱できない奴なのであった。夏が苦手なはずなのに無性に外に出たくて、陽の光を浴びたかった。基礎を学ぶ重要な時間なのは事実だったし、自分で選んだ道なのにも関わらず。忍耐のないわたしには1日中その場所に縛られていることは地獄でしかなかった。無機質な部屋から家に帰ったときの安堵感といったら。なんかやたら空や森の美しさに感動していたような気がする。
とはいえ、嫌だ嫌だと思いながらも一応講習は乗り越え、先生方ともうまくやれたし、私のなかでは若きころの唯一頑張った小さな試練として記憶に残っている。

ちなみに、今となっては素描ほど楽しいものはないな…と思っている。対象物をじっくり観察して、無心で何種類もの尖った鉛筆で陰影をつけていく作業は、ちょっとした瞑想に近い。うるさい思考が静かになっていき、身体の芯が整う気がする。最近そういう作業と距離が遠くなっているからか、時々やりたくなることのひとつになっている。だから夢に出てきたのだろうか。このひどい暑さも作用して。

しもた屋之噺(245)

杉山洋一

ここ暫くミラノのある北イタリアの旱魃は深刻で、昨日はミラノの大司教が干乾びた畑に赴き雨乞いの儀式を行った、とニュースになっていました。感染症で社会は疲弊し、戦争により物流は滞り、物価はさらに上昇し続ける。この下半期に向かってアメリカと欧州、ロシアと中国にますます二極化が増しているようにも感じます。

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6月某日 ミラノ自宅 
相変わらず、すっかり溜まった補講のため、毎日日がな一日学校でレッスンし、困憊して夜帰ると草臥れて居間で眠り込み、夜半に全音解説文執筆。弁当を用意するため朝は6時過ぎには起床する。夕食は家人が用意してくれるので、弁当はこちらの当番である。さて、書きあがるのか。
「シチリアの晩鐘」で強調されている言葉「祖国Patria」「故郷の地Suolo, Terra」「復讐Vendetta」。この諍いの発端は、現地の妙齢への性的暴力だったが、13世紀の当時も今も侵略者との戦いの本質は変わらない。
愕くべきは、Covid以前は誰もが13世紀より文明や社会形態は進化し、世界をつなぐ距離感もますます縮まると信じて疑わなかった。様々な世界条約を採択する国際機関もつくった。
世界規模の感染症が起きれば、人々は以前の感染症と同じように慄き、代理戦争が始まれば、今まで12時間で往来していた航路も、飛行距離は伸びて、軽く6時間以上加算されてしまう。飛行機の切符も、燃料の高騰の煽りを受け、目を疑う値がつく。
我々が妄信していた文明の進化発展など、せいぜいこの程度のものなのだ。起きるはずのなかったヨーロッパへの戦争が始まり、このまま戦争と自然現象で「起きるはずのない」事象が続けば、まもなく世界の大部分から人間はいなくなるかもしれない。それでも何某か生き延びる人はいるだろうけれども、彼らが我々の文明をどう解釈し、理解するのか、興味深い気もする。
我々の未来は、案外、我々が生きるこの文明の先にはないかもしれない、そんなことを、この数年間で考えるようになった。誰が悪いわけではなく、我々全てが、地球の崩壊に何らかの形で加担している。
 
 6月某日 ミラノ自宅
木戸敏郎氏もとい文右衛門氏のミラノ・サローネ個展に出かける。数年前に「虚階」を拝見したときより比較を超えて世界が広がっていて、瞠目する。木戸さんの芸術に対する天命には、以前から国境など存在しなかったし、時空間も自在に絡めとられていた。だから、以前文右衛門氏の「虚階」を見ると、決まってパレルモで通った「古代地中海文明博物館」陳列品を無意識に想起した。
古代ギリシャ人に通じる、大らかな人間賛美や自然愛を見出したからかもしれないし、時間を超越して、案外木戸さんは古代ギリシャ人と同じものを見ているのかもしれない、とも思う。
数年ぶりに「虚階」を拝見すると、彼の世界は、我々の住む、この地球がぽっかり浮かぶ宇宙空間にまで拡張していた。以前の氏の姿勢そのままであって、ただそれが限りなく拡がり続ける。貪欲な欲望がそうさせているのではない。それはまるで、無重力で、最初に弾みをつければ無限に走り続ける、ひとつの台車のようでもある。
矍鑠とした文右衛門氏に感銘をうける。生まれた頃から知っている林太郎が、今や立派に通訳を務めていて、思わず胸が熱くなる。
 
6月某日 ミラノ自宅
市立音楽院のレッスンが終わって、ブラームスの交響曲第1番について家人の考察がふるっている。
「何がすごいって、30分以上演奏した挙句の果て、漸く最後の和音まで辿り着くと、目の前にまるで新しい世界が啓けていると知ることよ」。
最後の和音を弾き終わったとき、気が付くと新しい人生の章が捲られている。達成感よりむしろ、人生に対する肯定的畏怖に近いものか。
 
6月某日 ミラノ自宅
湯河原の法事から帰ってきた父と話す。親戚が集う祖父母の法事は、今回が最後だろうという。年齢的に当然でもあるし、責任の一端も感じているが、親戚が揃う機会を失うのは無念でもある。「仕方ない」、この言葉が跋扈して、自分に近しかった日々の温もりが少しずつ冷たくなってゆくのは、どうにも寂しい。
この夏、ミラノに戻る前に墓参だけはするつもりだが、その際、叔父や叔母の顔だけでも見ることができれば嬉しい。
思えば、子供の頃はずいぶん湯河原に通ったし、祖父母にも叔父叔母にも大層可愛がってもらったとおもう。
夏の間は祖父が海水浴客に「海の家」を出していて、自家製の叉焼をのせたラーメンが本当に美味であった。手羽や野菜を大鍋で煮だしたスープを注いで、ラーメンを作っていたが、今思い出しても、あの「海の家」調理場裏で、ビールケースに座って一人で食べるラーメンは至福の一時だった。
あの叉焼は家ではおかずになっていて、少しソースを垂らして食べると、幾らでもご飯がすすんだ。後年、東京のあちこちのラーメン屋で叉焼を頼んでは、あの祖父の味を探したが、二度と出会うことはなかった。
 
6月某日 ミラノ自宅
一年のレッスンが終わって、生徒たちとバールで歓談。南イタリア、カラブリアからやってきたガブリエレは、Castrum Soundという民謡バンドでアコーディンやオルガネット、チャラメッラやザンポーニャを弾いている。夏の間に60回ライブの予定。今までロンドンやパリのシャトレ座でもやってきたんです、と自慢げである。
現在でも、カラブリアでは、若者がダンスホールで、民謡に合わせて踊るのは盛んだそうで、まず夕食後は市内のダンスホールでタランテルラなど踊った後、大きな街のディスコテカなどへ繰り出して夜が更けるまで愉しむのだという。
チャラメッラは、日本のラーメン屋台で3音だけ使って客寄せに使う、日本のチャルメラという楽器の原型、と説明すると大笑いしていた。
家に帰って調べると、日本のチャルメラは中国から伝わった嗩吶を、江戸時代に訪れたポルトガル人がチャルメラと呼んだもので、正確にはチャラメッラとは別物であった。尤も、遥か昔は同じ楽器から生まれたものには違いない。
ガブリエレ曰く、カラブリアには今も昔ながらの愉快な風習が強く残っていると言う。
彼の故郷の村の中心に、30軒ほど固まって誰も住んでいない一角があって、モナキッド(U monachiddo)という僧侶の格好をした小人が原因だ。
南イタリアのあちこちにこのモナキッドの言伝えがあって、それぞれ少し内容が違うそうだが、ガブリエレの村のモナキッドは、一方の手は柔らかくもう一方の手は鉄で出来ていて、夜半寝静まったころにこのモナキッドが街を徘徊し、目ぼしい家々を訪ねては、主人の枕元にふっと立つ。家の主人の頬を柔らかい手で撫でれば幸運になり、鉄の手で撫でればその家には不幸が訪れる。
それが理由で界隈が無人化するのは不思議だが、現在そこは男女の密会に使われ、麻薬中毒者の巣窟となっている。
その呪いは解けないのか尋ねると、彼の母ができると言うではないか。ガブリエレの母親は代々呪術師の血筋で、何かにつけて村人に頼られている。
その呪いはクリスマスの夜、決まった教会の決まった場所でのみ口伝することが許されていて、そのあとの公現祭(エピファニー)の際、何某かの儀式をして免許皆伝となる。
キリスト教と土着の風習はあまり関係ないらしいが、村の鎮守神にイタリアと日本の違いはないのだろう。
 
6月某日 ミラノ自宅
ドナトーニの誕生日なので、マリゼルラにメッセージを送る。もうすぐシエナのキジアーナ音楽祭の演奏会がある。最初にドナトーニとマリゼルラに出会ったのは、まだ日本の大学に通っている頃、夏季講習会を受けに来たキジアーナ音楽院の広い教室だった。最後にドナトーニと遠出したのも、このキジアーナ音楽院だった。ドナトーニが引退して、当時はコルギが作曲講師を担当していた気がするが、或いは記憶違いかもしれない。
マリゼルラから、自分一人だけで旅中フランコの世話をするのは不安だ、と頼まれたような気がする。音楽院へむかう昇りの石畳を、必死に肩を貸して歩かせたことと、その時とても暑かった記憶だけが、鮮明に脳裏に残っている。
遥々ミラノからシエナまで、きっとマリゼルラの車で移動したはずだ。大層な距離で大儀だったはずなのに、どうして何も思い出せないのだろう。シエナを訪れるのはあの時以来だから、かれこれ20年以上の歳月が流れたことになる。
色々想い出もあって、むやみに触れたくない場所だったのかもしれないし、単に巡りあわせで時間が徒に過ぎただけかもしれない。
 
6月某日 ミラノ自宅
ルカ・ヴェジェッティから連絡を貰った。2013年にミラノ市立演劇学校で彼が演出した、パゾリーニのバレエ未完作Vivo e coscienzaの再演だという。
「Vivo e coscienza」は1960年代に作曲のマデルナと女優ラウラ・ベッティのために書き始められ、未完のまま残されたもの。今回使われたテキストは、パゾリーニの文章を当時養老院で過ごしていたフランチェスコ・レオネッティが朗読したもの。
レオネッティは生前パゾリーニとともに雑誌「オッフィチーナ」を刊行し、「奇蹟の丘」をはじめ、多くのパゾリーニの映画にも出演した前衛作家だが、レオネッティは当初、老衰ですっかり惚けてしまっていて、会話などできる状態ではなかった。ところが、ある時突然意識が戻って語り出すと、そのまま一語一句も直すことなく、完璧に朗読したというから驚きだ。そして、語り終わった途端に意識は再び混濁し、まるで別人になってしまった。
市立演劇学校も市立音楽院も同じ財団によって運営されているが、違う場所にあって、何しろ雰囲気もまるで違う。演劇学校は音楽院よりずっと開放的で、いつ訪ねても心地が良い。
音楽院は学校内は未だマスク着用が求められているが、演劇学校でマスクをしている人は数えるほどしかいない。性的少数者への理解も進んでいるようだが、音楽家に比べて気にする人も少ないのだろう。
とは言え、担当の音楽院の授業では、クラスにいた妙齢4人はそれぞれ二人ずつのカップルになっていた。先日、試験の折、初めて顔を合わせて知ったのだが、別に彼女たちも隠していなかったし、誰も気にも留めなかった。
市立演劇学校では、数カ月ぶりでロッコにも再会した。ブソッティが亡くなった直後、フィレンツェで会って以来である。近況を尋ねると、毎日一枚ずつ、シルヴァーノの絵や楽譜の表紙をスキャンしては、フェースブックに載せているという。
今日は「小鳥さんUccellino」の表紙を公表した、と嬉しそうであった。「小鳥さん」は、ブソッティが最後に東京を訪れた際、自ら歌って披露した、可愛らしい歌曲である。
 
6月某日 ミラノ自宅
サンタンブロージョ教会からほど近いダヴィンチ科学博物館の、ピエトロ・ジラルディのフレスコ画で知られる「会食堂」前室に、1917年製のエラールピアノが置かれていて、このピアノを使い、国立音楽院の学生たちのレクチャーコンサートが開かれた。息子が弾いた「雨の庭」は、ちょっと不思議な体験であった。
冒頭の雨粒は、このピアノで聴くと、小刻みにくぐもった倍音がゆれるような、細かく震えるような、空間を絵筆でかき回したような、まことに霊妙な響きが立ち昇るのだった。そこには、石畳を打つ雨音や、浮世絵状に可視化された驟雨に雑じって、まるで雨の向こうに立ち上る霞や、遠くに浮かび上がる虹まで見えてくるようで、圧巻であった。
「版画」の完成は1903年だから、このピアノより少し年代は前になるが、なるほど彼が思い描いていた雨の庭は、本来はこんなにも具体的に、まるでホログラムのように浮かび上がるものだったに違いない。
息子は、いかにもイタリアらしくドビュッシーを読み解き、演奏してみせた。先生からそう習っているからだろうが、イタリア的な読譜法については、この2年ほど音楽院で特訓してきた、ソルフェージュの影響は少なくないと思う。
傍から見ていると、ここ暫く息子はピアノより余程ソルフェージュにのめりこんでいる体であった。先生が好きだったのか、苦手なソルフェージュが解るようになり、すっかり面白くなったのか。ともかく、観念性を極端に排除した読譜法で、これは素晴らしい伝統だと、家人ともども感嘆していた。
最初に感情で音を読むと、音符そのものが歪んでしまうので、読譜を全く独立した別の生理機構に任せることで、感情のこもった音ではなく、感情を表現する音として、発音することができる。感情のこもった音は、幾ら内部に感情を包み込んでいても、外側は何も感情を顕さないので、感情表現として他者には認知されない。
我々が元来不得手な部分で、日本語は響きが比較的平板で、あまり感情を抑揚に反映させないのを良しとしてきた部分すらある。その分、中に秘められたものの深さや強さに、より心を動かされるのであろう。どちらが正しいというものではなく、結局、美徳は一つではないという、当然の事実と対峙することになる。

6月某日 ミラノ自宅
息子が一人で東京に発つのを見送る。フランクフルト乗継ぎの質問など、何度か電話やメッセージがきたけれど、無事に成田行きに搭乗できた。親切なご婦人が声を掛けて下さり、助けて下さったとのこと。今頃はまだ機中だろう。
急に家ががらんとして、夜半など家が語りかけてくるような、不思議な感じだ。
ロシア軍の精密誘導ミサイルが、ウクライナ・クレメンチュク商業施設を爆撃。
マドリッドの北大西洋条約機構首脳会議にて、ロシアを事実上の敵国と認定。
(6月30日ミラノにて)

侵略から年寄りをまもれ!

さとうまき

戦争で犠牲になるのは女性と子どもだ!と言われるが、TVを見ていると動けない老人を一生懸命車に乗せて避難している光景もよく見る。ウクライナも高齢化がすすんでいるのだろうか。

我が家も父は94になり、母は89になった。戦争が起きたら避難させるのも大変だなあと考えていた。長生きの秘訣は、昔から母が食べ物にうるさかったから。最近ではともかく健康に良いというサプリをたくさん買っている。ところが最近認知症が出てきて、振り込みも自分ではできなくなり、何度も請求書が届く。挙句弁護士からの手紙が入っていて、「法的手段に取ります」と書いてある。僕は、ともかくそういうお金を振り込んで、「今後、一切そういう(怪しげな)ものを送ってこないでください」と電話をする。

いろいろ問題はあるのだが、最近一番頭を悩ませているのは、実家が侵略され、占領されてしまったということだった。そう、まさに戦いが始まっていたのだ。

昔イエメンで買ってきたジャンビアナイフと、シリアで買ったダマス鋼のペーパーナイフを友人に見せびらかしたくなり実家に探しに行ったときのことである。2階に行くと、侵入者によって荒らされていて、まるでウクライナの民家がロシア兵に荒らされたのと同じ状況になっていたのだ。箱に入っていたサプリメントが散乱して食い散らかしてある。そしてクソまでしていったらしい。なんだ、これは! 僕は恐怖に震えた。死体が2体転がっていた。ネズミが住み着いていたのだ。

我々には武器がなく、粘着剤のついたネズミ捕りをしかけておいて捕まえたら処刑する。すでにこの一か月で、彼ら10人(匹)を捕獲して父が処刑していった。しかし、彼らを根絶するには至っていない。サプリメントのおかげで、パワーアップし、繁殖力が半端ないのだ。ケアマネさんからも電話があった。「ヘルパーさんが、彼らの遺体を見て、ショックを受けて倒れてしまったそうです。このままでは、ヘルパーを送ることはできません」彼らは、精神的にも揺さぶりをかけてくる。台所から、寝室やリビング、あらゆるところを自由に動き回り糞を落としていく。もう許せない。こちらとしても総攻撃をかけて彼らを根絶やしにしてやる。最終決戦はすでに始まっていた。

薬味とは

篠原恒木

おれは「違いのわかる男」である。
なにしろ「クワイ河マーチ」と「大脱走マーチ」と「史上最大の作戦マーチ」の三曲を、混同せず瞬時にハミングすることもできるのだ。これらの違いをすぐにわかる男はそうザラにはいない。
「クワイ河マーチ」は、タタ、タタタ、タッタッターだ。
「大脱走マーチ」は、タタ、タタータ、タタだ。
「史上最大の作戦マーチ」は、タタター、タタタ、ターターである。
こう書くと、違いがまるでわからないのがもどかしいが、とにかくおれは違いがわかる男なのだ。

おれの妻はときどき携帯電話にメールを送って来る。大概の場合、その骨子は、
「会社から帰って来る時に買い物をしてきてくれ」
というものだ。
だが、違いのわかるおれでも、彼女のメールはさっぱりわからないことがしばしばある。先日には次のようなメールが届いた。
「薬味を買ってきて」

おれは携帯電話のディスプレイを見て、途方に暮れた。
薬味とはなになのか。あまりにも具体性に欠けるではないか。
ネギなのか。三つ葉なのか。シソなのか。あるいは生姜なのか。ニンニクだって薬味と言えるだろう。ミョウガ、カイワレ大根もそうだ。角度を変えれば唐辛子やゴマ、山椒だって立派な薬味だ。

だいたい今夜、妻が作ろうとしている料理は何なのだ。それがわからなければ、薬味という、おれにとってはボンヤリとした「概念」を提示されても、どんな薬味を買って帰ればいいのかもわからないではないか。
「どんな薬味?」
と、返信メールを送ればいいじゃん、とのご意見もあるだろうが、連れ添って三十七年、妻の性格はおれがいちばんよく知っている。そんなメールを送ったら、
「薬味にどんなもあんなもこんなもないでしょっ! 少しはアタマを使いなさいよ!」
と、叱咤されるに決まっているのだ。叱咤激励という熟語があるが、この場合は叱咤のみだ。激励は一切ない。

だから、おれは考える。妻の欲している薬味について必死に推理を巡らす。電車の中でも考え続ける。結論が出ないまま、自宅の最寄り駅で降車し、スーパー・マーケットに入店するが、売り場が広すぎて、どこに何が置いてあるのかもわからず、すっかりヒルんでしまったおれは逃げるように店を出てしまう。脳内で「大脱走マーチ」が流れる。タタ、タタータ、タタ。タタ―タ、タータタタ、タタ。

おれは作戦を変更することにした。セブン・イレブンならば、販売している薬味の種類もかなり絞れるだろう。そのなかでエイヤッとばかりにひとつ選んでしまえばいい。これは我ながらいい作戦だと思った。脳内に「史上最大の作戦マーチ」が流れるなかで、おれはセブン・イレブンへと向かった。タタター、タタタ、ターター。タタター、タタタター。

店内を点検すると、今度はあまりにも選択肢の少なさに戸惑った。刻んだ白ネギと、刻んだ青ネギ、そして小さな缶に入った唐辛子と、生姜チューブくらいしか見当たらない。面倒だから全部買って帰ろうかと思ったが、そんなことをしたら、
「こんなに薬味ばかり買ってきて、どうするつもりなの!」
と、妻から罵詈雑言を浴びせられるに決まっている。この場合は罵詈だけではない。雑言もプラスされるのだ。

面倒になったおれは陳列棚から「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」をむんずと手に取り、レジへと向かった。隣に陳列されていた「洗わずそのまま使用できる きざみ青ねぎ・40グラム/要冷蔵」が気になったが、白ネギでいいではないか、いや、もうどうだっていいではないか、と思っていたのだ。
レジで108円を支払った。ポリ袋に入れてもらおうかと思ったが、左右11センチ・天地15センチほどの小袋に入った白ネギである。わざわざかねを払ってポリ袋に入れるまでもないだろうと判断したおれは、
「レジ袋は要りません」
と、店員に告げ、店のドアを出て、小さなビニール袋に入った「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」を、通勤用のバッグにヒョイと入れようとしたが、そのときに気付いた。

刻んだ白ネギが入っているビニール袋の表面は、ひんやりとした湿り気を帯びていたのだ。程よく冷蔵された棚に置いてあったからであろう。この袋を通勤用のバッグに入れると、あとでとても面倒なことになるかも知れない。さあ、どうする。
おれはバッグの中に「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」を入れるのを諦め、右手の親指と人差し指で濡れた小袋をつまむように持ち、通勤用のバッグは肩から下げて、そのまま歩行することにした。

しかしながら、この姿態は明らかに傍から見れば異様な印象を与えることをおれは自覚した。根がスタイリッシュなおれは、その日もトム・ブラウンのニットシャツにアンクル・パンツをコーディネートし、通勤用のバッグも同じくトム・ブラウンのカーフ・ショルダー・バッグで寸分の隙なくキメキメにキメていた。だが、右手が問題だ。透明なビニールの小袋に入った刻み白ネギは、往来する人々から丸見えで、袋の上部には大きく「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ」と印字されている。その小袋をおれは右手の親指と人差し指でつまみながら、歩行時の手の振りに合わせてブラブラと揺らしているのだ。

おれは有料のレジ袋をケチったことを後悔したが、根が吝嗇にできているので仕方がない。そして、根が自意識過剰にもできているおれは、すれ違う人々がことごとく我が右手を不審げな顔で見やっているような気がしてきた。根が見栄っ張りにできているおれは、持っているものがセブン・イレブンで購入した108円(税込み)の刻み白ネギなのが致命的なのだと思った。これがエディアールなどで購めた細長いバゲットで、紙袋に包まれながらもバゲット上部の約五分の一が剥き出しになっているようなものだったら、右手でそれをむんずと掴みながら歩くか、あるいは無造作にバッグに入れ、バゲット上部の約四分の一がバッグから外に出ていれば完璧なルッキングではないか。

結局、おれはすれ違う人々の視線を避け、俯きながら、しかし「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」は依然として右手でつまんだままブラブラさせて、歩を速めた。傍目からはかなり滑稽に映っていることに違いない。ふと、「クワイ河マーチ」の替え歌が俺の頭の中をよぎった。
サル、ゴリラ、チンパンジー。

帰宅したおれは台所にいた妻に右手の親指と人差し指でつまんだ「洗わずそのまま使用できる きざみ白ねぎ・40グラム/要冷蔵」を、おそるおそる見せた。
「あのぉ、薬味って、こ、これのことだよね」
おれの声はかすかに震えていた。妻は俺の指先にあるものを一瞥すると言った。
「そこに置いといて」
妻は鍋で蕎麦を茹でていた。おれの脳内では歌劇「アイーダ」の凱旋行進曲が流れ始めた。
タッタター、タタタタタ、タッタター。

プールサイド

北村周一

ひたひたと
歩き回るは
なんぴとか
すでにプールの
みずは抜かれて

  からっぽの
 プールの底に
  身をしずめ
  動く右手は
 ペンキ塗る人

そらいろの
補色のいろに
昏れながら
プールの底の
塗り替えを急く

  塗りのこし
 見比べにつつ
  プールより
あたま上げおり 
 刷毛持つ右手 

プールへと
降りゆくきみ
塗装工にて
みずいろの
使者のごとしも

  塗り終えて
 ならび立つ影
  ひのくれを
プールサイドに
四、五本の刷毛

みずみちて
浮かび上がりし
みずいろの
水底はみゆ 
プール塗り終う

   瑞々しき
においこもれる
   夕まぐれ
 プール開きの
 予感にみちて

ゆびからめ
金網越しに
見入る子の
目にはさやけし 
プール満水

  かげりなき
  空の一部を
  みたしめて
プールサイドへ
 溢れ出すみず

掛け声は
プールサイドに
こだまして
初泳ぎまだ
水は冷たそう

    忽ちの
 雨降りそそぎ
  沸き上がる
  子らの叫喚
 プールを奔る

雨上がりの
プールサイドに
群れいたる
スズメにぎわし
溜まりの水に

  ひとの子の
 背丈のほどを
  洩れ出づる
  水の音あり
プールサイドに

なつやすみ 
水着のいろも
まちまちに
静かなるかな
開放プール

    裏窓ゆ
うすみずいろの
  かげりさし
すずしかりけり
  学校プール 

むもーままめ(20)恐怖のクララちゃんの巻

工藤あかね

SNSを見ていたら、数日間連続で、同じシチュエーションの夢をみたという人の話が流れてきた。下宿のような部屋で女性と暮らしている設定で、たしかにちょっと奇妙な話だった。しかも何日目かにはついに明晰夢になって、女性から「またここに来たのね」と言われたという。コメント欄には怪談だ、ホラーだ、という言葉が踊っている。「ああ、夏が来たのだな」と思った。

繰り返し見る夢。そういえば私にも何度かあった。今でも覚えている話は、どれもこれも怖いシチュエーションばかり。つい先ほど、夢判断サイトでためしに調べてみたら、キーワードに出てくるのは恐怖、不安、ストレスなど、不穏であることこの上ない。まあ、子供の頃から物の考え方がどうやら特殊なせいもあってか、生きづらい傾向があったからかなぁ。それで、どんな話だったか知りたい人なんている?人の夢の話なんて面白くないよね?とはいえ、子供の頃の私の恐怖や不安やストレスを成仏させるために、ここに書いて残しておこうと思う。

小学校に上がる前、自宅から駅へ向かう道の途中に、なんとなく人通りの少ないエリアがあった。何かの工場の跡地だったのだと思うけれど、さびた鉄の大きな門があって、子供心にちょっと気味が悪いと思っていた。そのあたりを通るときはたいてい家族の誰かと一緒だったから、本当は走ってさっさと通り抜けたいくらい嫌なのに、いつも、なんでもないふりをしてゆっくり通り過ぎていたのだ。けれどときどき、耐えられないほどの恐怖が急激に襲ってきて、気を紛らわすために大声で歌を歌い出し、家族にびっくりされることもあった。

何度も繰り返し見ていた悪夢の舞台は、まさにその場所だ。ある夕方、私が一人で通りかかると、長い金髪に青い目の大きなフランス人形が、鉄の門の前で足を放り出して座っている。お人形の名前は「クララちゃん」。私の背よりもずっと大きい、少女の格好をしたお人形である。お人形だと思っていたその子はムクっと立ち上がり、なんの説明もなく、いきなり私を襲おうとして全力で追いかけてくるのだ。私は命からがら家まで走って、階段も上って間一髪で部屋の扉を閉める。ここまでが何度も繰り返された夢の場面である。

起きたあともあと引く怖さが残り、クララちゃんの夢を見てしまった日は、ショックのあまり朝から泣いたりしていた。親に「クララちゃん」がどんなに恐ろしいかを訴えても、「クララちゃんなんていないから大丈夫」としか言われない。「ううん、クララちゃんはいる」といつも心の中で反論していた。親に恐怖を訴えたところで、何の心の慰めにも、解決にもならないと子供心に悟った私は、ある時をもって、クララちゃんの夢の話を親に話すことをあきらめた。

夢で味わった恐怖は、現実にまで侵食してきた。とうとう例の鉄の門のあたりは、私にとって完全に無理な場所になってしまった。誰といようが、けっして通らないですむように、泣き叫んで遠回りを要求した。お豆腐屋さんに行くのにも、文房具屋さんに行くのにも、クララちゃんがいるかもしれないから絶対そこは通りたくない。ましてや夕方以降なんてありえない。親はなるべく私の意見を尊重しようとはしたけれど、本当に遠回りをしてくれたのは数回で、たいていは道の反対側に渡って、鉄の門が目に入りにくい歩き方をする程度で手を打った。

小学生になり、その辺りがなんとなく整備されてしばらく経った頃、ありがたいことにクララちゃんのことを一時的に忘れていた。そんなある夜、習い事の帰りに一人で、うっかりその場所を自転車で通ってしまった。かつての恐怖はすっかり消えていた…と思ったのだが、数秒後に、全身粟立つような怖さが沸き起こってきてしまった。気が狂ったように大声で歌を歌い、自転車を死にそうになりながら立ち漕ぎしてその場を去り家に逃げ帰った。

それから何十年も経ったのに、まだクララちゃんのことを思い出す。あの連続した夢の正体は、いったいなんだったのだろう。

六月

笠井瑞丈

六月は一年の中で節目の月
一年の中で折り返しの最後の月と言う事と
自分の誕生日月だからだ

十代の時には二十代を夢みて
二十代の時に四十代を想像した

そして今その答え合わせをしてみる

自分が夢見て想像した
世界がはたして
ここにあるだろうか

やはりまだ夢見て想像した
世界だとは言えない

テレビや雑誌で
夢が叶いましたという事を聞く
そう言う意味で言えば僕は

まだ夢の中だ

だからといって今の状況に
不満があるというわけではない
今は今の状況を楽しんでいる

ただまだ覚めぬ夢の中

夢を見る四十代
あまりいないと思うけど
夢なんて一生見ていいものだ

誕生日6月16日

ふっと思い立って車で
一人で遠出をしようと思う

目的地は金沢

上村なおかさんが
北陸ダンスフェスティバルで
週末ソロを踊るのでそれを
見に行こうと思ったからだ

金沢はなおかさんの故郷
年に数回チャボと二人で車で帰る

しかし今回はチャボと一人だ
午前の仕事を済ませ夕方出発
東京から松本まで高速に乗り
松本から高山まで山道を走り
高山から金沢へと向かう

この車の時間が
僕はとても好きだ

全てから解放され
好きな音楽をかけ
好きな事を想像し
好きな歌を歌う

大きな景色だけが
包み込んでくれる

夢という車に
ガソリン補給
そんな時間だ

金沢21世紀美術館
北陸ダンスフェスティバル
AプロとBプロを見る
二つとも面白いプログラムだった

なおかさんのソロは特に良かった
自分には絶対できない踊りだ

まだまだ人生も踊りもこれからだ

まだ覚めぬ夢

言葉と本が行ったり来たり(11)『プーチン、自らを語る』

長谷部千彩

八巻美恵さま

今日は明るい曇り空、風も吹いていて気持ちのいい日曜日。梅雨入り間近、その後は灼熱の夏が続くので、こんな穏やかな天候もあと数日。ベランダ園芸家としては、作業のしやすい今のうちにやっておかねばならないことがたくさんあって、朝から忙しく過ごしています。

前回の手紙で紹介されていたアリ・スミスの小説、面白そうですね。興味を持ちました。八巻さんは小説を読まれることが多いのですね。いつも私の知らない作家、知らない小説の名が挙っていて、手紙を読むのが楽しみです。自分のことを、広大な書物の世界のほんの片隅を囓っているネズミのように感じます。アリ・スミス、ウェブマガジン≪memorandom≫で連載を始めるイラストレイター山本アマネさんが海外小説に詳しい方なので、今度会ったときに訊いてみようかな。彼女なら、その小説はもう読んだ、と答えるかもしれない。

私はといえば、相変わらずの乱読です。先週は『プーチン・自らを語る』という本を読みました。出版されたのは2000年3月(邦訳版は2000年8月)。三人のロシア人ジャーナリストによるプーチンへのインタビュー集。プーチンが自身の生い立ちから大統領代行になるまでを語っています。大統領選挙前の談話なので、知名度の低かった彼をPRするプロバガンダの意味合いの強い本ですが、最終章「政治家」では、チェチェン紛争についてジャーナリストもかなり粘って厳しく質問しています。他の章では淡々と答えるプーチンが、その章になると段違いに強硬な発言を繰り返していて、彼のパーソナリティや信条もあるだろうけど、当時のロシア国民が大統領に望んだものも透けて見えるような気がしました。

ウクライナへの軍事侵攻のニュースは、毎日、どうにかならないのか?とジリジリしながら見ています。“何故こんなことに?”とも思います。私が理解できないのは、成り行きではなく、“何故その方法を採らなければならないのか?”ということです。
ただ、ロシアの現代史に触れるたび、また、この本を読んでもそうですが、つくづく思うのです。私の想像力の及ばぬことがあまりに多い、と。

日本は「経済」大国と言われるけれど、総合的に見て大国とは言えない。第二次世界大戦の敗戦国で、よって安保理での発言力も小さい。共産主義も、連邦国での生活も、私は体験したことがない。自分の国が崩壊するのを目の当たりにするのは、どんな気持ちなのだろう。
ベルリンの壁が壊れたとき、歓喜する民衆の側でテレビを見ていたけれど、壁が壊れたことによって挫折を感じたひとがいるなんて―例えば当時KGBに所属していたプーチンのように―私は想像すらしなかった。信じていたものがまったく無価値のように扱われる経験をしたことのない私に、そういうひとの感じ方、考え方が理解できるのだろうか。試みたところで、やっぱり奥底までは理解できないのではないかと思います。ロシアに関して知れば知るほど、前提になるものが違いすぎると感じるのです。歴史というものが、別な地点から関われば、まるで違うものになってしまう。そのことに呆然としてしまいます。
『プーチン・自らを語る』でも、“国民のため”という言葉に託されたイメージが、私たちとはだいぶ違うと感じました。“ヨーロッパ”という概念が西側諸国と全然違うとも感じました。認識の乖離があちこちに見られ―そう、その言葉がぴったりなのです。対立ではなく、乖離。その乖離に渡す一本の綱を、国際社会は探し出せるのか、それとも新たに編み出すのか。私の心に疑問符だけがぽつんと残ります。

ロシアは一度、訪れたことがあります。休暇ではなく、仕事での招聘だったので、残念ながら案内された場所しか知りません。それでもロシア料理が美味しかったこと、その夏のひどく蒸し暑かったこと、道路も建物もとにかく巨大だったこと、パスポートに貼られた全く読めないキリル文字の並ぶビザ、そして迎えの車が黒いジャガーだったことを覚えています。
一日も早くウクライナのひとびとがこの惨状から救い出されますように。

久しぶりにお会いしてお喋りしたいです。
近々連絡しますね。それでは、また。

2022.06.05
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(10)『春』(八巻美恵)

大きな鉄塔の下の屋根裏部屋のこと。

植松眞人

 兵庫県伊丹市は大阪の中心部から阪急電車で一回の乗り換えを含めても三十分から四十分程度という場所にある。通勤にも便利なため、衛星都市として発展してきた。神戸の震災で阪急伊丹駅の駅舎が倒壊してしまい、再建されるまでの期間、ほとんどの人がJR伊丹駅を利用するようになった。そのため、市内を縦横に走っていた乗り合いバスの終点が「阪急伊丹駅」から「JR伊丹駅」に変更されることになり、以来、阪急伊丹駅周辺の商業環境の凋落が始まった。いまでも、きれいになった駅ビルのテナントには空きがある。逆にJR伊丹駅周辺の商業、住環境は大きく発展した。大型のショッピングモールが出来、引き寄せられるように大型のマンションが数多く建てられた。
 そんな中心部から私の実家は市バスに乗って約三十分ほどの場所にある。自転車で五分も北に走れば宝塚市。西に走れば西宮市。つまり、伊丹市の端っこのほうにある町で、人口密度も低い。また、大きな変電所を抱えていることで、実家の窓の外を見ると必ず空に向かってそびえるような鉄塔が目に入る。
 梅雨時の寝苦しい深夜に目が覚めてしまい、窓のカーテンを開けると、真っ暗ななかに陽の昇る気配だけがあり、その証拠を示すかのように鉄塔の影が青暗い夜と朝の間に強いコントラストでそこにはっきりと見えるのだった。
 そんな時、私はもう一度寝ることを諦めて、二階の仕事部屋の窓際の机に向かって座る。そして、窓の外を見ると寝室と同じように鉄塔が見える。しかし、二階の仕事部屋から見える鉄塔はその足元を生活道路を隔てた向かいの家のシルエットで隠されている。
 向かいの家には小池さんという家族が住んでいて、この家族の朝は早い。ご主人が洋装品の販売関係の仕事をしていると聞いているのだが、朝の五時には家の窓のほとんどに明かりがついている。
 目覚める前のまだぼんやりとした頭で、仕事部屋から窓の外を見ている私の眼には、そびえ立つ変電所の鉄塔と、その足元にある小池さんの家のシルエットと、そのシルエットのなかに少しずつともされる部屋の灯りが、とても不思議なものに思える。特に伊丹の外れの町の実家の二階にいる時の私は、十九歳でこの実家を飛び出したはずなのに、という想いを背中に背負ったまま窓からの風景を眺めているような気持ちになる。東京にもまだ住まいはあるが、年に何回か子どもたちの様子を見に戻る程度で、ほとんどこの実家で、妻とともに老いた母の様子を見ながら未曾有の疫病が収まるのを待っている。
 そんなここ数年の鬱々とした気持ちが、青みを増していく夜のなかの朝の気配に浮かびあがってくる鉄塔と小池家の輪郭を見入らせるのかもしれない。
 今日はまだ小池家の灯りはともってはいない、と思ったその時に一つ灯りが見えた。しかし、いつもよりもその灯りの位置が高い。二階の仕事部屋に使っている部屋から見ているのに、目の前の灯りは少し高い。小池家も二階建てのはずなのに、と思いながらまだ朝が来る前の暗さのなかに目をこらす。屋根裏部屋かもしれない。亡くなった父と、いま階下で眠っている母がこの家を建てて三十年近い。その間、何度もこの実家には足を運んでいるし、ここ数年は一年の半分以上をこの家で過ごしている。それなのに、私はいま気がついたのだ。向かいの小池家に屋根裏部屋があるらしいことに。
 屋根裏部屋があるんですか、と小池家の人たちに直接聞くことはないだろう。また、双眼鏡を持ってきて、小池家の屋根裏部屋らしき場所の小さな窓の奥を探るようなこともないだろう。もしかしたら、妻にも、老いた母にも話す機会はもうないかもしれない。
 それでも、私は開け始めた夜のなかで、兵庫県伊丹市の端っこの大きな変電所のある町で、ふいに向かいの小池さんの家に屋根裏部屋があるのかもしれないということに気付けたことが、とても嬉しかった。(了)

綿飴、いちご飴とお化け屋敷

イリナ・グリゴレ

デパートの最上階の温泉に週に何回も行くことになった。家から車で8分、町の真ん中にある。暗い駐車場に入って、最上階までグルグル回るのが好き。儀礼のように感じる。明るいところから暗いところに入ると、眼が一瞬、見えなくなる。この瞬間は違う世界に入ると感じる。東京に住んでいたころも世田谷区の温泉をよく使っていた。銭湯と温泉の解放感が癖になる。日本では、場の境界線は薄い。一つの状況から次の状況に移動するのに何秒もかからない。デパートの温泉もその一つ。

昼前に突然薄暗い風呂場の中で他の女性たちと裸になってゴシゴシ身体を洗う。ここに来ると街で見かける彼女らの顔が全然違って、外の世界ではなかなか見せない顔が皮膚の表面から眼の奥まで伝わってくる。この顔をどこかでみたことがあると思い出そうとして、露天風呂に入りながら風が吹いていたその日に水の表面に虹の輪が光って、お祭りの時の人の顔だと気づいた。

娘たちも温泉に入るのが好きみたい。一人で行ったことがバレたら「ママはずるい」と言われる。娘たちは20分ぐらい離れている西目屋の「しらかみの湯」と言う場所がお気に入りだ。夕方に弘前市から岩木川添を通り、6月の初めのアカシアの花の匂いが全開した車の後ろの窓から入って、娘たちはアカシアの蜜を飲んでいる蜂に変身した気分になる。アカシアの花の天ぷらもサクサクにあげて、食べる時には心の中でお祭り騒ぎだ。ルーマニアにも春になるとよくアカシアの花が咲いて、そのあと一年中アカシアの蜂蜜を食べていた。懐かしい味と匂いだが、天ぷらにすると油で揚げた花の甘みが大人の味になる。甘塩っぱい気持ちのように日本酒とよく合う。アカシアも元々日本の植物ではないからお互いの気持ちがわかる。人間も植物も動物も移動し、変化し更新し、生き続けてきたと実感する。

ある夜、寝る前に娘たちとの会話が盛り上がった。今回はアリについて。長女は「昨日は小学校の男の子がたくさんのアリを殺して、かわいそうだったよ」と、手の平にアリの山が乗っている仕草をした。次女は幼稚園で女王アリを見つけて怖かったと、身体で女王アリの真似をしながら虫が怖いアピールし始める。ここから私は女王アリのイメージをよくするため、真面目に女王アリの生態を説明し、卵を産むこと、ママであることを主張する。娘たちは「ママが女王アリだ」と歌い始め、ベッドで不思議な儀式が始まった。私が卵を産む代わりに次女は私の足の間から出る踊りを振り付けた。そういえば、この前も公園で散歩していた時、突然に次女は「ママ、〇〇ちゃんが(自分の名前)生まれたね!」と初めて気付いたように言った。

こうした気づきが最近ではよくある。例えば、ショッピングモールのフードコートで、可愛いピンク色のドーナツを選んで、満足した顔で食べ、ずっと上を見ていた。その時、「ママ、〇〇ちゃんは空を見ている」とニコニコしながら言った。上を向いて見たら初めて窓があるのがわかった。その何日後も蒸し暑い家の中にいて、窓から外を覗いていた次女は「小鳥さんは外に自由に飛んでいるのに、〇〇ちゃんはなぜ家にいるの?」と右と左とを逆に靴をはいて、返事を待たずに外に出た。ここ2ヶ月前から、たんぽぽの綿が出始めた。次女から見れば種が生きているとしか思わない。その綿が風や人の息で揺れているのではなく、動いているから生きていると思っている。そのタネを集めて、「かわい子ちゃん」という名前をつけて毎日のように家に連れてくる。「かわい子ちゃんは口がある?」と聞かれた時、答えが見つからず、食べものをあげようとしているとわかった。たんぽぽ綿に綿飴を食べさせようとした場面も。

次女の一番怖いものが弘前桜祭りのお化け屋敷だ。コロナが明けた後、屋台が大好きな二人にとって桜祭りの弘前公園は世界で一番ワクワクするところだった。獅子舞の練習に赤ちゃんから連れていったおかげなのか、二人ともお祭りという時空間が居心地いい。長女も街のあっちこっちを車で通るとお祭りに行った場所を1歳から覚えている。ここは美味しいイチゴのかき氷、ここは「やーやどー」(ねぷた祭り)と次女も言う。今年の弘前さくらまつりも満喫した二人にとって綿飴とイチゴ飴の記憶が鮮やかだ。

お祭りといえば、もう一つ思い出がある。私がお気に入りの昭和風な食堂でタコとつぶ貝のおでんを食べたあと、綿飴といちご飴の屋台にたどり着くためには、お化け屋敷の前を通らないと行かれない。人混みの中を歩くと、客寄せの声がスピーカーから聞こえてくるけれど、次女は怖すぎていつも屋台の裏に隠れてなかなか前に歩かない。たくさんのお化けの絵と人を呼び寄せるおばさんの声が独特で、本物のお化けがいるとしか思えない。本物と偽物とは、最近では自分の中のテーマであり、「ひょっとしたらお化け屋敷ではなく、本物のお化けは人間の腹黒さの中かもしれない」と思った。

授業でもよく口癖になっている言葉があって、それは「共感」だ。人間とは知らないことが怖いがその反対に「共感」というものがある。学生にさまざまな民族史映画を見せて、「原始社会」と「未開社会」と言う言葉をなぜ使ってはいけないと説明する。アフリカのアザンデ族についての映像を見せたあと、家に帰ったら学生からメッセージが届いて、授業の感想と共に、一言「アザンデ族が羨ましい」と正直な心の言葉が書いてあった。これからずっと私が人類学を真面目に若い人に届けたいと自分の道を信じた瞬間だった。中では、ジャン・ルーシュの「狂気の主人たち」を日本語の字幕なしで見せた日も心に残る。学生は「言葉からではなく」身体で全てのイメージを受け止めて、植民地される側の気持ちと共感ができたと言う。

今日も娘たちと西目屋の温泉に向かっていた。途中から岩木山川の近くに花火大会があると気付き遠回りになったが、夕暮れの空に朝顔とハート形の花火の合間に見えた雲、長女が思わず「綿飴みたい」と呟く。次女は田んぼの蛙の声を聞いて「お化け屋敷の音だ」と言う。この時期にいろんな種類の蛙が相手を探して、声でアピールする。ウシガエル、雨蛙、ヒキガエルが同時に聞こえ、祭り気分が永遠に続く。浴衣を着て、コンビニの前と道路沿い、各家の前でバーベキューしながら酒を飲んで花火を楽しんでいる人々がいた。

ベルヴィル日記(9)

福島亮

 パリのアパルトマンに数日前に戻ってきた。猛暑を想像していたが、実際にはそこまで暑くない。朝などは寒いくらいである。この時期のフランスはとにかく日が長い。夜10時頃まで明るいので、時間感覚が日本とずいぶん違う。着いた翌日、さっそく市場で買い出しした。季節の果物、この時期だとサクランボが安い。1キロで2ユーロくらいだった。

 ふりかえれば、約一ヶ月日本に滞在した。2年ぶりの日本だった。それまであまり強く感じたことがなかったのだが、今回2年ぶりに帰国して、その変化の乏しさ、といったら良いのか、「遅れ」といったら良いのかに愕然とした。まずもってそれを感じたのは、現金がいまだ大きなウエイトを占めていることである。日本に到着して早々、関西国際空港から難波に行った際にコインロッカーを探したのだが、100円硬貨が7枚だか8枚必要だというではないか。また、滞在先の近所の某ドーナツ店では、クレジットカードは使用できないと書かれていた。こんなことで良いのだろうか。

 いちいち挙げていけばきりがない。人がいない屋外でのマスク着用はさすがに不要だろう。節電といいながら電車のなかでも駅のなかでも至るところで煌々とコマーシャルを垂れ流している電子広告のモニター、あれはなんだ。鉄道関連でいえば、電車のなかで路線図が隅に追いやられ、せいぜい数駅分しかドアの上のモニターには表示されていないのも、利用者としては不便だ。今回の帰国は、まずは到着した国際空港の唾液採取ブースに掲げられた梅干しとレモンの写真の洗礼からスタートしたわけだが、細かいレベルでの感覚のずれというか、なんだこれは、というものの多さに困惑し続けた滞在だった。

 このような困惑、ないし不満は、今回の旅の最後までついてまわった。それは日本から出た後も続いた。フランスへ戻る便は、成田から発った。成田、ソウル、アムステルダム、パリという乗り継ぎをせねばならなかったのだが、アムステルダムでの乗り継ぎが今回最大の難関だった。というのも、荷物検査をおこなうカウンターが完全に麻痺しており、長蛇の列から抗議の怒声が飛び交い続けていたからである。おそらく最新のものと思われる検査装置が何台もあるというに、担当者が2人か3人しかおらず、一台しかその装置が機能していないのだ。人員削減をしたところに、観光客が押し寄せたのだろう。当然長蛇の列ができる。並んでいるうちに飛行機が飛び立ってしまった人もいた。そういう人に、空港職員は自身の腕時計を突きつけ、あなたの飛行機は飛び立ちました、と絶叫している。ほとんどパニック状態といってよい有様だった。

 ベルヴィルに戻り、アパルトマンでくつろいでいると、連れ合いから例の自民党議員連盟会合で配布されたという冊子についてのYahooニュースが送られてきた。ヨーロッパではYahooのニュースは見ることができないので、記事の部分をテクストにして送ってもらった。普段、あまりこういうネガティヴなニュースを連れ合いは送ってこない。このニュースを送ってくること自体に、まずは強い怒りがあるのを感じた。それはそうだ。同性婚に反対する合理的な理由というものを私は聞いたことがないのだが、今回合理的どころか、不合理な差別的思想が列挙された件の冊子が配布されたわけである。底が抜けた、と思った。いや、とっくに底など抜けていたのだ。件の冊子のもとになったと思われる某政治団体の機関紙が団体のホームページからダウンロードできるのだが、そこに並ぶ言葉のなんという既視感。使い古された紋切り型の数々が、この底の抜けた虚しい空間に渦巻いている。

水牛的読書日記 2022年5月と6月

アサノタカオ

5月某日 韓国の詩人・金芝河の訃報に接する。享年81。編集中の本の注釈に彼の名前が登場するので、責了直前に没年を赤字で書き込む。あすは外出するので、『金芝河詩集』(姜舜訳、青木書店)を鞄に入れて連れていこう。詩集の装画は画家・富山妙子さんの作品で、富山さんは昨年の夏に亡くなった。同時代の読者ではなかったが、1990年代、大学生の頃に古本屋でこのシブい本に出会ったのだった。もうこの世にいない詩人を思う。

 ここから
 あそこまでは
 だぁれもいない

 黒い
 下水に月光が没落する石橋の上に
 この不思議なほど美しい
 吐く息が白白とたちこめた家のなかには
 だぁれもいない
 ——金芝河「だぁれもいない」(姜舜訳)

5月某日 『金芝河詩集』と戸井田道三『能芸論』(勁草書房)をもってI先生と本作りの打ち合わせのためW大学へ。昼前、江ノ島駅から乗った小田急線のシートに腰を沈め、何度読んだかわからないぐらい読みつづけているこれらの本のページを交互にひらく。そして乗客もまばらな車内で、民衆の「知」が世代を超えて受け継がれていく長い時間のことを考えた。

帰宅後、若手の社会学者・ケイン樹里安さん急逝の知らせが届き、絶句する。享年33……と記すだけでつらい。共編著『ふれる社会学』(北樹出版)は話題になった学術入門書。「ハーフ」をめぐる言説を批判的に考察する論考の数々を興味深く読んでおり、カルチュラル・スタディーズ学会などでことばを交わしたこともあった。現代の人種主義に抗う。文章や会話の端々からみずみずしく情熱的な知性がほとばしるのを感じて、ケインさんの今後の活躍を大いに期待していたところだった。なんということだ……。

5月某日 『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』(クオン)が第8回日本翻訳大賞を受賞。翻訳した姜信子さん、一文字辞典翻訳委員会メンバーのみなさま、おめでとうございます! 韓国の詩人による「ことば」をテーマにした随想集で、企画の独創性という点で出色の1冊。本当によい本が選ばれたと思う。同時受賞のクラリッセ・リスペクトルの小説『星の時』(福嶋伸洋訳、河出書房新社)はこれから。韓国文学とブラジル文学の同時受賞というのがうれしい。海外文学をもっともっと読みたい。

5月某日 東京・下北沢の本屋B&Bでは、サウダージ・ブックスより刊行した『「知らない」からはじまる—10代の娘に聞く韓国文学のこと』のフェアがはじまった。タイトルにある通り韓国文学をテーマにしたこの本の共著者である自分と高校生の娘(ま)の親子で、おすすめの作品をPOP付きで紹介。「知らない」刊行後、2022年に読んだ韓国文学の本も10冊選書し、「私たちは読みつづけている」と題してふたりでコメントを書いた。

https://suigyu.com/2022/06#post-8276

JR横浜駅で学校帰りの(ま)と待ち合わせをし、電車を乗り継いで下北沢のB&Bへ。若い書店員のMさん、Nさん、そして(ま)、年代の近い人たちの会話が弾み、高校生になると中学時代より活動範囲が広がって、スマホもあるし、遊びや部活や受験に忙しくなるし読書の時間が少なくなるよね、と。たしかにそうかも。こうしておしゃべりしているあいだにもフェアコーナーで本を手に取る人がいて感激した。Mさんは韓国ドラマに詳しい。帰宅後、B&Bですすめられて購入した『韓ドラ語辞典』(著者/高山和佳、イラスト/新家史子、誠光堂新光社)を読む。すごくおもしろい。

5月某日 三重・津のブックハウスひびうたで主宰するオンライン自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第10回を開催。課題図書は詩人・山尾三省の講義録『アニミズムという希望』(野草社)。テーマは「ついの栖」。場所、人生、生涯の仕事との出会いについて。三省さんが言う「森は/ひとつの大きな闇であり」というメッセージの意味を、それぞれの人生に照らし合わせて考える時間に。

5月某日 熊本日日新聞に、韓国の小説家イ・グミの『そこに私が行ってもいいですか?』(神谷丹路訳、里山社)の書評を寄稿した。読み応えのある重厚な歴史小説で、韓国では「青少年文学」として出版されていると知り、驚いた。神谷さんの翻訳が大変読みやすく、多くの人におすすめしたい。日本植民地時代の朝鮮半島に生まれた2人の少女の成長、彼女らの壮絶な旅の物語を通じて、生きることの切実さを問いかける小説。自分はこの本の最後のページを閉じた後、物語の世界に束の間登場し、消えていったさまざまな女性たちの行く末を想像した。

5月某日 沖縄復帰50年。「反復帰論」を唱えた琉球弧の詩人思想家・川満信一さんから手紙が届く。献呈した宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』(サウダージ・ブックス)のお礼と激励が、詩的なことばで綴られている。川満さんは今年の4月で90歳になり、「自分の身体と精神を不思議なものを観るようにみています」とのこと。本を作ること、ことばを伝えること。仕事に対する気持ちを引き締める。

5月某日 大阪のNPOココペリ121で出版編集の勉強会をおこなうために関西出張。小田原駅から乗車した新幹線の車内では、韓国の作家ハン・ガンの『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン)を再読。すばらしい小説、すばらしい翻訳。

新大阪駅で地下鉄に乗り換えて緑地公園駅へ向かい、blackbird booksへ。新型コロナウイルス禍をあいだに挟んだ久しぶりの訪店で、喜びがこみ上げる。藤本徹さんの詩集『青葱を切る』を購入。新刊棚で手に取り、詩のことばも装幀もすばらしいと奥付をみたら、blackbird booksの発行。「しっかりしたことばを載せた本は売れます」と店主の吉川祥一郎さん。そういう本を自分も作ろうと思った。藤本さんの私家版の詩集『あまいへだたり』も購入した。

夜は勉強会の会場で、ココペリのスタッフのみなさんが心づくしの手料理をふるまってくれた。ロシア料理のボルシチとギリシヤ風サラダ。ごちそうまでした。

5月某日 夕方、大阪・豊中の服部天神駅へ。はじめて降りた駅、ホームには御神木の楠が生えていて屋根を突き抜けている。「足の神様」を祀るという服部天神宮でお参りをした後、 gallery 176でふたりの写真家、前川朋子さんと宮脇慎太郎の写真展「双眸 —四国より—」を。徳島在住の前川さんの写真をはじめて鑑賞する。身の回りの暮らしの風景の中に、流れ去る時間とは異なる《時そのもの》が降り積もる痕跡をじっと注視するような静かなまなざし。徳島について、ではなく徳島のかたわらで撮影するという姿勢に共感した。

一方、香川在住の宮脇慎太郎は四国・宇和海の風景と人びとを記録した写真集『UWAKAI』所収の作品を展示しており、こちらは対照的に「動」の印象。全体としてかなり大きなサイズになる海の組写真もあり、ダイナミック。展示を企画した写真家の木村孝さんの司会で前川さん、宮脇くんのギャラリートークもおこなわれた。会場には愛媛・南宇和出身の知人も京都から来てくれてうれしかった。

gallery 176は複数の写真家が共同で営む自主ギャラリー、木村さんらメンバー有志による写真冊子『服部天神』(176books)を購入。 また前川さんが写真作品を寄稿する「今、徳島で暮している女性たち」の文芸誌『巣』(あゆみ書房)も。これは、作家のなかむらあゆみさんが責任編集をつとめる本。旅の道中で読みはじめる。

5月某日 朝、大阪市内から阪急電鉄京都本線に乗り込み、東へ。途中下車して長谷川書店水無瀬駅前店に立ち寄り、ついで京都市内に入りKARAIMO BOOKS に。新刊の韓国文学コーナーを眺めていたら、「荷物のお届けで〜す」と郵便局の配達員が入ってきて、出版社クオンの新刊本が到着。ハン・ミファ『韓国の「街の本屋」の生存探究』(渡辺麻土香訳)がやってきた。お店を営む奥田直美さん、順平さんと本のこと、韓国文学のこと、これからの人生のことなどを話す。KARAIMO BOOKSが発行する冊子『唐芋通信』をもらった。

地下鉄やバスを乗り継いで古書・善行堂へ。お店では納品した宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』が売り切れとのこと。ありがとうございます。店主の山本善行さんから「いい写真集」と言ってもらい、うれしかった。サウダージ・ブックスで制作した『UWAKAI』のリーフレットを善行さんに手渡す。時間切れでゆっくり棚を見られず残念。あわててタクシーに乗って京都駅に向かい、東京方面の最終の新幹線に滑り込んだ。

5月某日 普段は自宅に引きこもる生活なのだが、めずらしく外出がつづく。東京・新宿の新大久保でおこなわれた「李良枝没後30年」の集いに参加し、編集を担当し、刷り上がったばかりの李良枝エッセイ集『ことばの杖』(新泉者)を関係者のみなさまに届けた。李良枝は1992年に亡くなった在日コリアンの芥川賞作家。刊行を作家の命日である今日という日に間に合わせてよかった、と心の底から思った。

5月某日 文学フリマ東京にサウダージ・ブックスとして初出展。東京流通センターの会場では写真家で作家の植本一子さんと再会したのだが、何年ぶりのことだろう。植本さんのブースで日記本と書簡本(植本一子『ウィークリーウエモト』vol.1、『食卓記』、植本一子&滝口悠生『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』)と手ぬぐい、そして「植本一子謹製おみくじ」を買い、みごと大吉を引き当てた。横浜・妙蓮寺の本屋・生活綴方のメンバーや作家の安達茉莉子さん、ほかにも懐かしい人たちに会うことができて楽しい。

「文フリ」で何よりも感動したのは、未知の若い表現者たちとの出会いだった。短歌、フェミニズム文芸、冷麺研究、東アフリカ百合小説……。いずれもすばらしい作品で、会場に行かなければ知らなかっただろう。商業出版の業界の外にも、書物の沃野が広がっていることを再確認。入手したのは以下の本たち。

おしまい、浅井、笹沼の短歌『ヴィータ』
to『A is OK.』
『夏のカノープス』(夏のカノープス編集部)
『冷麺の麺は黄色か? 灰色か? 2021年日本で「冷麺」を食べ歩いて謎に迫る』
鹿紙路『ねごとだよりⅡ 征服されざる千年 試し読み』

文芸サークル「夏のカノープス」のブースで購入した『A is OK.』vol.2がすばらしい内容だった。著者は toさん。本文8ページのZineの特集は「トムボーイの将来」、K-POPグループの f(X)の元メンバーで現在は米国でソロ・アーティストとして活動するアンバーのことがテーマになっている。韓国の女性アイドルの中で「トムボーイ」「ボーイッシュ」を代表する存在だった台湾系アメリカ人のアンバー・リュー。音楽業界のさまざまな抑圧の中でみずからのスタイルを貫くアンバーのあり方を通じて、根深い「ジェンダー規範」を批判的に問い直す。toさんの文章は、「わたし」を抜きにしない真摯な文化批評として読み応えのあるものだった。

YouTubeでMVを見ると、アンバーはソロになってさらにのびのびと表現しているように感じる。「自由」を求めてひとりで歌い、踊るアンバーの姿はやっぱりかっこいいと思ったし、ひるがえって彼女が自分であることを貫けない世界っていやだな、とも思った。同じブースで購入したフェミニズム文芸誌『夏のカノープス』もなかなかすごい。批評、エッセイ・コラム、短歌で構成。帰りの電車で、眞鍋せいらさんの短歌「明け方ひとりでワルツを踊る」から読みはじめる。

帰宅するとすぐにYouTube番組「第32回 不忍ブックストリームⅡ」の「韓国本、なにから読めばいいの?」に娘の(ま)とともに出演。『「知らない」からはじまる』の著者として、最近読んだ韓国文学の話などをした。ご視聴いただいた皆様、また番組の南陀楼綾繁さん、瀬戸雄史さん、鈴木喜文さん、ありがとうございます。

ところで「K-POPに触れたきっかけは?」というライター・編集者の南陀楼さんの質問に対して、(ま)は「中1のときYouTubeのおすすめ動画でたまたまBTS の『血、汗、涙』のパフォーマンスを見て」と話していた。「そこからすべてがはじまった感じです」と。これは初耳。聞いたことがあるようで、なかったのだ。親子関係では、よくあること。「血、汗、涙」との出会い以降、(ま)はネットで韓国文化の情報を集めるようになり、やがて母親とともにソウルへBTS聖地巡礼の旅をして、父親のすすめで韓国文学を読むようになった。『「知らない」からはじまる』という韓国文学をテーマにしたわが親子本が生まれたのもBTSのおかげだ。

5月某日 仕事の外出の途中で東京・三軒茶屋の書店twililight に立ち寄り、カフェで「麦生のビスケット、アイスクリーム添え」を注文。これは、前田エマさんの初小説『動物になる日』(ちいさいミシマ社)刊行記念フェアのコラボメニュー。冷たくて、おいしかった。お店の奥の窓辺には 画家nakaban さんの絵がひっそりと置かれている。『動物になる日』を1冊予約。お店を出ると、下り坂の先に紫色の夕空が広がっていた。夏を感じた。

6月某日 ここのところ毎朝、『W・S・マーウィン選詩集』(連東孝子訳、思潮社)を読んでいる。アメリカ文学史の中で、こんなすばらしい野の詩人がいたなんて知らなかった。翻訳もブックデザインもすてきな、宝物にしたい一冊。

6月某日 近年の韓国文学の翻訳は小説が中心だけど、エッセイもいい。例えば『日刊イ・スラ』(原田里美・宮里綾羽訳、朝日出版社)。近づいたり、少し離れたり。共に生きる人との距離を測りつつ、私が私であることの内実を描き出すしなやかな文体が魅力的。「手紙の主語」という1編に感動し、以来すっかりイ・スラさんのファンになった。

6月某日 晴天の土曜日のお昼から下北沢の本屋B&B に在店。デッキに本の屋台を出し、『「知らない」からはじまる』フェアに関連して19名の人におすすめの韓国文学の本を(ついでに台湾文学も日本文学も)紹介した。楽しかったなあ。売上とは別に、「あ、これ読みたい!」ともっとも多く声があがったのが、ミン・ジヒョンの話題作『僕の狂ったフェミ彼女』(加藤慧訳、イースト・プレス)だった。でも、当たり前のことだが、目の前の読者の関心はじつに多様で小説、詩、エッセイ、ノンフィクションなどいろいろなジャンルの韓国文学の本が満遍なく手に取られたという印象。私物として持っていった『金芝河詩集』に反応してくれる若い人もいて感激。

下北沢では、念願叶ってBOOKSHOP TRAVELLER を訪問。ビルの3階まで階段を上がって中へ入ると、想像以上に広い本の空間だった。以前大阪のAISA BOOK MARKETで会った店主の和氣正幸さんに挨拶し、『Neverland Diner 二度と行けない台湾のあの店で』『Neverland Diner 二度と行けない下北沢のあの店で』(ケンエレブックス)の2冊を購入。ついで対抗文化専門のカフェ・バー&古本屋の気流舎へ流れ、居合わせた運営メンバーのハーポ部長とおしゃべり。アナキズム紙編集委員会が発行する『アナキズム』第26号に、ハーポ部長のエッセイ「学び逸れつつ継承するもの」が掲載。店名の由来となった真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)のことが書かれている。

新代田駅に移動し、夜のバックパックブックスを訪問。駅の目と鼻の先にあるお店には「旅」を感じさせる本がぎっしり。街路に開かれた、風通しの良いすてきな本屋さん。そこで一目惚れして購入したのが、エリザベト怜美さんの詩・訳/モノ・ホーミーさんの絵『YOU MADE ME A POET, GIRL ユー・メイド・ミー・ア・ポエット、ガール』(海の襟袖)だった。エリザベト怜美さんの詩はどれもすばらしく、冒頭に置かれたとりわけ解放的な作品「金星の月」を何度も読み返している。モノ・ホーミーさんの描く女の人たちの絵はどこか神話的な世界を感じさせるもの。ちいさな本のすべてがかっこいい!

6月某日 好天の江ノ島の浜辺で読書をした。小山田浩子さんのエッセイ集『パイプの中のかえる』(twililight)。とても良い本。そして美しい本。生きていく上で大切にしなければならないことを思い出させてくれた。エッセイ集の発行所でもある書店twililightで以前購入した際、付録としてもらった刊行記念インタビューの冊子も読んだ。いつか、小山田さんの小説をまとめて読もう。

6月某日 矢作多聞さん、つたさんの共著『美しいってなんだろう?』(世界思想社)が届く。「はじめに」の文章に引き込まれる。これから時間をかけて、矢萩さん親子の対話に耳を傾けたい。そして高松で古本屋YOMSを営む齋藤祐平の『人生は複数』も届く。彼はアーティストでもあり詩人でもあり、この本はスケッチと写真とアフォリズム的な文章から構成される冊子。《自分が書いた文章が詩なのかなんなのかよくわからなくても、文章をまとめ、それを口実に誰かに連絡を取ることは詩そのものだ》。いやあ、最高だ。

6月某日 ブックハウスひびうたで主宰する自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」第11回を開催。課題図書は詩人・山尾三省の講義録『アニミズムという希望』(野草社)。テーマは「「出来事」というカミ」。参加者はみなそれぞれにカミ的な何かから「呼ばれている」らしい。とはいえ大げさなものではない、小さな声で。おもしろいエピソードが次々と出て笑い声がたえない。

6月某日 東京・渋谷のユーロスペースで、ヤン・ヨンヒ監督『スープとイデオロギー』を観る。在日コリアンの家族を記録しつづける監督の年老いた母(オモニ)は1948年に起こった「済州島4・3事件」のただ中にいたという。鑑賞後に残された問いは、ずっしりと重い。でもすばらしい映画だった。

「4・3事件」について簡単に記すことはできないが、監督の家族ドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』を含むすべての作品を観ているものとして、「観徳亭…」というつぶやきからはじまる証言は驚きの内容だった。前作でオモニがこの事件を匂わせる発言をしたことは一切なかったと思う。2018年、「4・3」で虐殺された島民を慰霊する70周年追悼式に参加するため、監督はパートナーの荒井カオルさんと共にオモニを連れて大阪から故郷の済州島へ。長年語らなかったことを語りはじめたその時、オモニの認知症が進行していた。自分は不思議な縁があって60周年の式に家族とともに出席し、大阪の路地の風景にもなじみがある。そういうこともあり、映像を前にして胸がいっぱいになった。

『スープとイデオロギー』での旅するオモニの姿を観て、人間の記憶には尊厳があり、忘れにも尊厳があることを知った。忘れることは必ずしも過去の痛みを失うことではなく、言葉ではなくからだで覚えていることでもあるのだろう。しゃべる(語る)舌の手前のところに、しゃぶる(味わう)舌があるのだ。語らずとも味わう舌で飲み込み、腹の底に沈めた思いもまた、いまここに実在するにちがいない。おし黙るその思いに、後からやってきた者はどんな顔で対面すればいいのだろう……。映画館を出て熱い鶏スープを食べたくなり、そして雨の坂道を下りながら、オモニの肩を揉み、オモニの子の背中をさする荒井さんの手を思い出した。

6月某日 頭の中に作りたい本の構想があったのだが、すでに編集者の久保覚が執筆し、没後に書籍化されていた。『古書発見 女たちの本を追って』(影書房)。《女性創造者・活動家の埋もれた仕事に光をあて、女性の書き手を発掘し…》(編者の「はしがき」より)。彼のこういう一面はあまり知らなかった。『古書発見』(影書房)の中で、著者である久保覚は在野の思想家・戸井田道三のあることばと表情を記している。

《戸井田さんは突然、窓の外を指さしながら、こう言いました。/「キミ。歩いて行くあの娘たちが、このきれいな風景をさらに美しくしていると思わないか。あの娘たちが自分のクニの服を着て、生きいきと歩いている姿を見ることができるのは、本当にうれしいことだね。あの娘たちがあの服を着ることができず、そして、もし暗い顔をして歩いていたら、疑いもなく日本が悪い社会になっている証拠だよ」と。/戸井田さんの指さす窓の向こうにみえたのは…チマ・チョゴリ姿の五・六人の女子高校生たちのグループでした。》

続けて著者が書いているように、日本は確実に——彼が本書を執筆した時代よりもはるかに——「悪い社会」に成り果てていると言わなければならない。戸井田さんが、「ヘイト」なる人種主義的暴力の横行するするいまの日本社会をみたらどう思うだろう。そして1960年代後半に女子高校生だった彼女らは、その後どうなったのだろう。

6月某日 きょうは打ち合わせのあと、地元で何軒か本屋さんと図書館をまわりたいと考えているが、ウクライナの作家ワシーリー・グロスマンの小説の翻訳本に出会えるかどうか。その前にここ数年続々と刊行されているJ・M・G・ル・クレジオの小説の翻訳も読んでおきたい。いまは、韓国を舞台にした『ビトナ』(中地義和訳、作品社)を読書中。

6月某日 詩人・作家の森崎和江さんの訃報。享年95。ああ…。

 生まれたところ そこがふるさと
 などとわたしにいえるはずもない
 そこはあなたのふるさと
 …
   ここは地の底
 旅ゆくところ
 いのちの根のくに 旅のそら
 ——森崎和江「旅ゆくところ」

6月某日 渋谷のユーロスペースで映画『スープとイデオロギー』を鑑賞。2回目、今度は高校生の娘の(ま)とともに。そのせいか、映画の中で描かれる親子関係についていろいろと新しい気づきがあった。上映後は109に入っている韓国・済州島発の自然派コスメの店、イニスフリーでの買い物につきあったあと、界隈を散策して韓国料理屋で参鶏湯定食を(この作品を観ると食べたくなる)。映画の感想を聞くと、(ま)は幼い頃に旅した島のことを思い出したようだった。

翌日、日暮里で済州島4・3抗争74周年追悼の集いに参加。会場では『スープとイデオロギー』にも登場する済州4・3研究所所長、ホ・ヨンソンさんの詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社)を販売していた。多くの人に読んでもらいたい1冊。今年は、この詩集でも語られる済州海女抗日闘争90周年の年でもある。自分は出版社・新幹社のブースで代表の高二三さんからすすめられ、金蒼生の小説『風の声』を購入した。

6月某日 西への旅は大阪から。先月と同じく新大阪駅から緑地公園駅に直行し、blackbird books に駆け足で立ち寄る。店内で、藤本徹さん詩集『青葱を切る』刊行記念の詩と絵の展示を鑑賞。詩「青葱を切る」のテキストをプリントした青と白の大きな布が展示されていて、これがとてもよかった。西淑さんによる装画の原画も。新刊棚には、編集を担当したハン・ガン詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン)が面出しでPOPを添えて並べられていた。「すごくよかったです」と店主の吉川祥一郎さんがおっしゃっていてうれしい。花店を併設しているので、お店にはいつも美しい植物がたくさん並べられている。身も心もやすらぐ。

6月某日 NPOココペリ121で出版編集の勉強会を終え、手製のハンガリー料理をいただいて一泊し、翌朝は難波駅から高速バスに乗車。瀬戸内海を眺めながら四国へ向かうにつれて独特の懐かしさがこみあげてくる。徳島のうつわと暮らしのもののお店 nagaya.を訪ねるのは何年ぶりのことだろう。お店の近くにある地元の書店・平惣でほしかった『徳島文学』4&5号を購入してから、nagaya.を営む吉田絵美さんと再会。4年ぶりぐらいだろう。

nagaya.では、宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』刊行記念のトークイベント「地方で、地元で、表現すること」をおこなった。著者の宮脇慎太郎、徳島発の文芸誌『巣』を主宰するなかむらあゆみさん、そしてサウダージ・ブックス編集人である自分も出演。作家のなかむらさんの司会進行がしっかりしていて、質問に答えているうちに時間切れに。文芸誌『巣』のことをもっと聞きたかったのに……。でも、宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』となかむらさんの小説「巣」が《ステテコ》でつながる点を発見できたのはよかった。イベント終了後は宮脇くんの運転で夜の高松へドライブ。古本屋のYOMSと本屋ルヌガンガに立ち寄り、本好きの面々とお酒とご飯の店・時宅に集まり遅めの食事。

6月某日 朝目覚めると、蝉が鳴いている。高松の定宿近くの温泉で朝風呂に浸かり、瓦町の南珈琲でモーニング。コーヒーとトーストで税込300円代。午後はYさんと落ち合い、書き下ろしの新著の打ち合わせ。帰りはJR高松駅からマリンライナーで瀬戸大橋を渡って岡山へ、そこから東京方面の新幹線「ひかり」に乗り換え。

6月某日 文芸誌『巣』を読了。なかむらあゆみさんの小説「巣」が不思議な味わい。女性たちの集う少し現実から離れた世界で、少し斜めから見られた人間の生きづらさの独特の陰影が浮き彫りにされる。巣とはなんだろう。動物の巣、人間の巣。共同体と継承ということについて考えている。

久保訓子さん「砂の鳥」、髙田友季子さん「後を追う」もすばらしい小説だった。砂嵐、あるいは家族。抑圧の気配の中で決壊寸前の感情を抱えて生きる女性たちのリアリティをそれぞれのやり方で描き尽くしていて息をのんだ。不穏なもの、という読後の印象が「巣」を含めた3作に共通すると思う。短歌もエッセイも「三番叟まわし」のお話も興味深い作品で、文芸誌『巣』は最初から最後まで読み通したい本だった。

いつのまに梅雨が明けたのだろうか。雨を感じないまま、猛暑の日々がはじまった。

耳から手にわたす

高橋悠治

3ヶ月前に書いた『時間のキュビズム』の続きになるが、時間/空間というカテゴリーで考えることも、音楽の場合は「たとえ」にすぎない、創られ現われた音を測られる空間のなかの点や線として視覚化して扱うのは便利ではあっても、失われるのは、音を作り、保ち、消すか消えるにまかせる身体の動きとその感触・体感ではないだろうか。

考えるのではなく、感じつづける状態、ある一瞬に始まり、すぐにうつろい消える音を造る意志よりは、身体がゆるむにつれて、どこからか顕れ、誘いかける窪み、指圧や鍼灸でいうツボに向かって指が吸い寄せられるように、風や水が流れこみ、そこに溜まってまた流れ出すように、たゆたう線が途切れがちに、あてどなく過ぎてゆく。夢をイメ(寝目)と読んだむかしの、さまよう旅のひと。

息がかよう狭い小径、ゆったりした拍がさらにかぼそく、感じるともなく気配にまで鎮まって、身体の内側に感じるよりは、外の世界のどこかに遠ざかってゆく。その瞬きを追うともなく、追ってゆくとき。掠れてまばらに散るしるし、兆しなのか…

それが江戸の「邦楽」や能(申楽)で「間」と言われたものかもしれない。間は「あいだ」、余白、それだけでは立っていられない、応えを呼ぶ「欠けた」まま立ちすくんでいるところと言っていいだろうか。そこで断ち切れば、かえって余韻に想像のはたらくゆとりが残るのだろうか。

こうして書くだけではわからない、音楽は音楽学ではないから、実際に試してみないと、わからないことがある。自分でわかるだけではなく、それを文字にしても、書かれたこととはちがう想像を誘わなければ、書かない方がましになるかもしれない。「自分でわかっている」というのも、思い込みに過ぎないのは、あたりまえ。

次には、もうすこし続きを書けるだろうか…