編み狂う(11)

斎藤真理子

 商店街のカフェでよく編んでいた。歩道を行く人が見える席で、コーヒーが冷めてもまだ編んでいた。

 編みものをしているとときどき話しかけられる。多くは編み物の好きな人、年配の人だ。

「ね、何編んでらっしゃるの」(カーディガンです)
「今着てらっしゃるのも、編んだものなの」(そうです)
「すてきねえ、似合っているわねえ」(これは儀礼的な言葉だ、でも、よい儀礼である)
「でも難しそうな編み方ねえ」(複雑な編み方で糸がいっぱいかかりますと答えて、同情してもらう)
「私も前はいっぱい編んだんですけど今はさっぱりやらなくなってしまったわね。やっぱり手編みはいいわねえ」(上手に編める方はみんなそうおっしゃるのですよね)

 感想は、この範囲を大きくは越えない。よく知っているお庭を巡回する感じで、この中ならどれを聞かれても困らない。
 お連れがいて、その人が編み物に興味がなさそうな場合「もうやめなさいよ、一生けんめい編んでらっしゃるのに」とたしなめられたりしている。年配の人が多いと書いたが、この商店街で三十年編み物しているうちに、自分も年配になった。

 編み物をしていると、親切な人と間違われるのか、こんなこともあった。
「お姉さん、編み物お上手ですね」とチェーンのカフェで話しかけられ、顔を上げると、大きく、生き生きした四つの目がこっちを見ている。「私も高校時代には編んでたけど」などと言われる。同年代かもうちょっと上ぐらい。たぶん二人姉妹で、横にお父さんとおぼしき方が座っている。
 そのうちだんだん様子がわかってきた。二人はお父さんの受診につきそって、近くにある大きな病院まで行ってきたのだ。疲れたのでここで休憩しているのだが、これから商店街で少し買い物をしたい。なので、差し支えなければその間、父の話し相手をしていてくれませんかと。
 それなら私も経験がある。全然かまわない、どうぞ行ってらしてくださいと送り出し、失礼して編み棒は動かしながら、お父さんと何十分か、ぽつぽつお話をした。大きな袋をいっぱい下げ、息を弾ませるようにして姉妹は戻ってきた。お父さんは貿易の仕事をしていらしたようだった。

 私は本を読みながら編み物をするが、ときどき韓国語の原書を広げていることもある。
 あるとき、いちばんリーズナブルなチェーンのカフェでそうしていると、横の席から「何の本ですか」と聞かれた。「韓国の小説です」と答えると「そう、そう」と返事が。
「そう、朝鮮語」
「はい、朝鮮語」
 洗濯を重ねた感じのワイシャツの袖口、背広の中の古びた毛糸のチョッキ。かなりの年配と思える紳士、椅子に杖が立てかけてある。
 ハングルの本を指して、「これは……」とおっしゃるので、韓国の女性の作家のもので、日本でも人気がありますと説明してみるが、あまり聞いてはいらっしゃらない。
「あ……」と言って、紅茶を一口。それから、
「朝鮮と韓国は、同じ民族なんですよ。ただ、思想が違うからね」。
 また紅茶をゆっくり飲んで、
「韓国と朝鮮はね、同じ民族ですよ。思想が違うだけでね」。
 何十年も、何度となくこんなふうに日本の人たちの前に立って説明してきたのであろう、そういう話し方で。
 このあたりには民族学校があって、子供たちが区民センターで伝統音楽や踊りを披露するときには、おじいちゃん、おばあちゃんたちもやってきて、じっと見ていたのを私も見た。 
 商店街のカフェではそんな人に会うこともあった。今はもうお目にかからない。
 
 商店街は劇場だと思う。お店をやっている人、買いに来る人、ときどき来る人、たまたま寄った人。みな一つの舞台にいる。
 元気にお店を守っていた人が、店を閉めてお客になって、シルバーカーをゆっくり押して歩いている。編みながら、カフェの窓からそれを見ている。道で会ったらあいさつをする。やがて家族に腕を取られて歩いている姿を見かける。そしてある日を境に、会わなくなる。
 
 劇場にはカーテンコールというものがある。みんなこの商店街での最後の日、カーテンコールをしてくれたらいいのに。もちろん誰にとっても、その日がいつなのかわかりはしないけれども。

 アーケードのある商店街を「銀天街」と言ったりする。銀天のさらに上空で、その人のいちばん優雅な身ごなしで、下で継続している人生たちに向けて、カーテンコールをしてくれたらいいのにと思う。
 その気配をとらえることができたなら、私は編み棒をしばらく上に向け、小さいあいさつをするだろう。

何も意味しないとき、静かに朝を待つ(上)

イリナ・グリゴレ

こぼれ落ちてもう二度と帰ってこない日常を必死に思い出そうとして、スマホの写真アプリを開く。写真は薪ストーブで温まったように暑い記憶と違って、冷えている。窓まで積もった雪の上に屋根から落ちた氷柱の痕と同じ、写真の跡が私の身体に深い跡を残す。何年か前の娘たちは髪の長い妖精にしか見えない。海、植物、虫、鮮やかな服、階段に散らかっているぬいぐるみ、バレエからの帰りの練習着で食べる唐揚げ、ラズベリーで汚れた手、川の近くで交尾する蝶々、りんご畑、タンポポ、カエル、フキの葉っぱが天井からぶら下がる写真。獅子舞の映像と写真、インタビューの録音と録画、インフォーマントの若い時の写真。お寺、桜祭り、おでん、焼いたお菓子、パン、庭の赤い実、杏、山菜、キノコ、雪の上の鹿の足跡、信号待ちの映像、また虫、動物の写真、妊娠中のお腹の写真、出産の映像。祖父母の若い時の写真、何年前かルーマニアに帰った時の弟と私。弟はハリウッド俳優のような顔つき。何年も会ってない。会いたい。2月に家族と行くと言ったのに、戦争で飛行機代が一人30万円もするので諦めた。

ここ数年、私は意識して必死に自分の日常を撮り、いつかインスタレーション映像と展示を作ろうとしている。誰にも興味のない個人の日常が消え去る一瞬前に撮られたイメージだ。だが普通の写真と違う。それは事件が起きた後の証拠写真に近い。大きな穴を掘っている時に土から出てきた面白いゴミのようだ。誰も価値があると思わないようなものが土を洗うと鉱石の美しさが明らかになる。透明な木の根っこが、あの写真に写っている全ての生き物を子宮の中にいる赤ん坊と臍の緒のように囲んで繋いでいる。しかし、いくら探しても私がそこにいない。写っている20代後半から30代の女性が自分だと認識できない、私の脳が、壊れたA Iのようだ、エラーが出る。この絡み合いの中で私は確かに存在していたが、絡み合う命に溢れている生き物の一部でしかない。娘の発表会のピアノの中にもいたし、森の木の中にも、海の泡にも。確かにいた。こうして写真を見ると音楽に近い状態で存在していたと思うようになった。自分の身体がこれらのイメージと音が響く平地のような物体だった。広がった、開かれた。外か中にいるのかわからないまま。冷たい川の流れの一部になる日々だった。川の水に雪が降って、また水の一部、流れの一部になる。私もこの写真の川に溶ける雪結晶だ。

バッハの『音楽の捧げ物』の「6声のリチェルカーレ」が車内に溢れる。歯医者から帰るところだった。顔の半分が麻酔で動かせない。狭い雪道を運転するのは難しい。ブレーキは効かないし対向車があれば譲り合うしかない。自分の車の前に学校から帰る女の子がいて、反対からは車がずっと走ってきてなかなか進めないから、後ろの車がクラクションを鳴らした。女の子は私が鳴らしたと勘違いして、とても寂しげな目つきで私の目を見た。「私じゃない」、「私じゃない」と泣き始めた。この世を傷つけているものは私ではない。麻酔で動かせない顔の半分で泣く。だから戦争がまだあると思った。イライラしてクラクションを鳴らしたのは後続車の男だ。でも私が泣いたのは誤解を受けたからではない。女の子の眼を見て泣いたのだ。私たちはあの人と同じ世界を共存しないといけない。お互いのことを何も知らないまま。彼は知ろうとしない。雪の中を歩く白い犬が綺麗。あの犬になりたい。

スマホの写真の中で探していた写真を見つけた。4年前のシャガールの展示を見に行った時、初めて来日した父が笑顔満々の赤ちゃんの次女を抱いている。この写真を見ると次女をではなく、父が私を抱いていると感じる。あの頃も孫に会いにきた父と毎日のように喧嘩していたが、昨年の夏にもう一度父が来日したとき初めて共存できた。父は私の周りの知り合いの女性にかっこいいと言われて人気者になった。父はこんな人だったのかと思うようになった。女性に好かれて、かっこいい男の父。冗談を言う父、孫と一緒に散歩に出かける父を見て、自分の父もこの絡み合いの一部であることがわかった。私たち、いわゆる娘と父の作られた関係ではなく、何かの条件で塊として交差している命だ。父を初めて生命としてみた。人間ではなくてもいい、お互いに、偶然に風に飛ばされた土に触れた葉っぱのような関係でいい。

父のアル中をずっと理解できなかった気がする。この前、東京に行って、潰れるまで酒を飲んだ。自分は酒を飲むとき父になりきっている。今回は自分の限界を超えるまで飲んだ。目眩しながらホテルの部屋で倒れた。いつも少しだけいいホテルの部屋を選ぶにはまだ誰も言ったことがない秘密があるからだ。次の朝に大事な約束があったから起きようとしたが動けなかった。酒が全然抜けてなかった。味わったことのない吐き気に追われて壁を押しながらなんとか洗面所にたどり着いて痙攣しながら吐いた。東京のホテルの部屋で身体が動けないままベッドに倒れた夜。飛ぶはずがない白鳥の声が聞こえた。白鳥の声が苦手と思いながら。辛かった。この状態が自分の外からくる湯気のようで火傷するほど暑くって苦しい。誰かを呼びたかった。誰かを呼ぶとしたら誰を呼べばいいと身近な人の顔が浮かんだけど、小さな声で「お父さん」と言った。その朝に自分の父が来て、助けて欲しかった。自分の父の苦しみを初めてわかった。二人で初めて生きる苦しみを分かち合った。今までの喧嘩と苦しみには何の意味もなかった。お互い理解し難い存在だった。何も意味しない時、静かに朝を待つ。次女が言うには、その時、魂が剥ける。蝉のように、蛇のように皮が剥けるまで待つ。こぼれ落ちる日常が去るまで待つ。なんとなく身体を動かして、イヤホンでKendrick Lamarの『DNA』を聴きながら朝の混んでいる山手線の電車に乗って渋谷へ向かった。

『アフリカ』を続けて(20)

下窪俊哉

 前回は新しく始めたウェブの雑誌『道草の家のWSマガジン』の編集が楽しいという話で終わっていたが、その後、約1年ぶりに紙の雑誌である『アフリカ』の”セッション”も再開した。しかし年1冊というのは、重い。1冊のヴォリュームは落としてもいいので、年数冊を出すというくらいのペースに戻してゆきたいのだが、そのために理想を言えば、原稿が勝手に集まってくるというふうなシステムが要る。編集人(私のことだが)の重い腰が上がるのを待つというのでは、やはり年1冊のペースになるだろうし、そうするとやはり雑誌自体にも重さが出る。

 じつは前号(vol.33/2022年2月号)の感想で多かったのが、これまでになくシリアスな内容だった、というものだった。いつも『アフリカ』を読んでくださっている皆さんには、その重さも愉しんでもらえたかもしれない。そうなった理由はそれぞれの作品の中にもあるかもしれないが、編集によるものが大きかったかもしれない。前半に並べた「書く」ことについてのエッセイは、考えることを読者に誘うものだったし、深刻というより真面目。あるいは、このどこか暗い時代の影響を受けてそうなっているのだったりして。などと考えていると、よし、次はもう少し明るいもの、軽いものを目指そう、ということにもなる。
 とはいえ、書く人たちには、書きたいことを書きたいように書いて、というだけなので、明るい編集、軽い編集、ということになる。どうやって、どうなるのかは、やってみなきゃわからない。結局はいつものようなことになるだけかもしれないが、頭の隅には置いておこう。

 ところで、『WSマガジン』を読んだ方からは、「読みやすくて面白かった」という感想が多い。中には「『水牛のように』を毎月、隅々まで読むのは楽じゃないけど、『WSマガジン』は全体をさらっと読める」と話してくれた人もいる。褒められているのだろうことを承知の上で、しかし私はまた考えてしまう。まあそうやって比べる必要はないと思うけど、楽じゃない部分もあった方が面白いような気もする。もっと何というか、読んでいてひっかかったり、詰まったりするようなところがあってもいいのにな、と。
 書きっぱなしの粗削りのものをどんどん出してゆこう、と言ってはいても、実際に書いてみたら、読みやすくてちょっと面白いような文章になってしまう。読みやすい文章を書くなんていうことは楽なことなんだろう。
 ということは、読みにくい文章を書くのは難しい?
 何にひっかかるのか、どこで踏みとどまるのか、あるいは、どこで書けなくなるのか。
 そんなことがじつは大事なことなのかもしれない。
 書けないことをこそ、書きたいと思う気持ちが自分にはある、なんて言ってみたくもなったりして。
 もっとゴツゴツした、うまく言えないようなことを書こうとして失敗したような文章が並んでいてもいいと思う。

 その「ゴツゴツした」という言い方は、富士正晴さんからいただいた、好きなフレーズだ。太平洋戦争の前に『三人』、戦後に『VIKING』という同人雑誌をつくり、亡くなるまでかかわり続けた富士さんは、全国各地から送られてくる同人雑誌を読むのも好きだったらしい。ここで、そのことを少し書こうと思って『贋・海賊の歌』(未来社・1967年)を出してきて、「VIKING号航海記」を読むと、「同人雑誌の小説のたいていは文壇の風俗、流行のイミテーション」だが、稀に「今の文壇で通用しないかも知れないふしぎな純度をもっている作品」「硬質の結晶体のような作品」を見つけ出すことがある、それが「同人雑誌読みとしてのわたしのいささかの楽しみ」だと書いている。この話の裏を返せば昭和の一時期、文芸の同人雑誌が「文壇」の2軍と見られていたことを語ってもいるのだが、私がかつてから注目しているのは例えば次のような文章である。

 このごろうれしいことは同人雑誌が文壇への階段であることを目的とせず、自分自身の存在を第一目的とするような傾向がふえて来たことだ。あまり目がチラチラよそに走っていない。これは自信というものだろう。よそに認められなくても安定している。つまり、雑誌中の評価を相当信じ合っているということである。

 これはつまり『VIKING』のフォロワーが出てきて喜んでいるのである(その「傾向」はいつ頃まで続いたのだろうか)。『VIKING』は自らの存続そのものを目的とし(というふうな言い方をする)、いわば自動操縦の船を造り乗り込み、内側にはその時々でいろんな問題を秘めているとしても、富士さんの没後35年たついまもその航海を続けている。しかも月刊である。
 私はそこに「続ける」ということの花や果実を見るような気がする。
 どこか離れたところに湧く評価を動力としているようでは、「続ける」が燻り弱ってくる。燃料は、自ら与えればよいわけだ。
 そこには「原稿が勝手に集まってくるというふうなシステム」があるはずだ。
 自分がそういうシステムをどうやって構築できるか、という問いの先に、ワークショップというイメージがあったのだ、ということがここまで書いてきて何となく理解できる。自動操縦とまではゆかなくとも、いつでも(雑誌をつくっていない時でも)場が活発に動いて、生きている必要があるだろう。その役割を『WSマガジン』が担ってくれるのではないか、という予感がいまはある。

 どんな小さな石でも、投げれば何らかの波紋を呼ぶだろう。それがどんな波紋になるかはわからない。しかしそんなことはこの際、どうでもいいではないか。それより小さな石を集め、投げ続けることの方に歓びがある。いまのこの社会にはどうやら、失敗が許されない(過去の失敗を許さない)とか、傷つくことを徹底して回避しようとするような傾向があるらしいという話も聞く。そこで失敗こそ人を育てるとか、傷つくことのない人生が面白いかなどとお説教を始めるのもまた容易いか、しかし、ね、小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。ただ続けたらよいだけだ、ということを私はいま少し言いたいような気がしている。

しもた屋之噺(252)

杉山洋一

この原稿を書いているコンピュータの脇に、野坂恵子さんのお葬式でいただいた、小さなカードがおいてあります。表には後光をいただく聖女が描かれていて、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」とあります。

新年は明けましたが、今年がよい一年として人々の記憶に残る可能性は、限りなく低いと思います。たとえそんな一年であろうとも、人々は等しく必死に生きて、沢山笑ってとめどなく泣いて、時には怒ったりもしながら、美味しいものをたらふく食べるのを夢見つつ、われわれも頑張ってよい音楽をやろうとしているはずです。そんなささやかな毎日を積み重ねて、何とかこの暗い一年を無事にやり過ごせたらいいな、そう思いながら暮らしています。
心なしか、日中の陽の光が少しだけ強くなってきた気もします。気のせいかもしれませんが、でもそう信じて、一歩ずつ足を踏み出したい、そんな思いに駆られてもいます。

1月某日 ミラノ自宅
日本滞在中の息子が町田の両親宅を訪問。スカイプで少し話し、両親と息子と一緒のスクリーンショットを撮った。手製の叉焼でラーメンを作ってもらい、簡単なお節と一緒に、大根だけのあっさりした雑煮も食べたという。夜、息子は老父に町田駅まで送ってもらったらしい。

美恵さんにメールしていて、小学生の頃、すっかり日焼けした立原の小さな詩集を持ち歩いては、立原の詩の内容よりも、ところどころの旧字体の漢字に痺れていたのを思い出した。とりわけ「八月の金と緑の微風のなかで眼に沁みる麦藁帽子」の「麥」の字を偏愛していて、半世紀過ぎてこう告白するだけでさえ、胸の高まりを抑えられない。

1月某日 ミラノ自宅
武満作曲賞で演奏したシンヤンから年賀状が届く。現在、中国は特に高齢者の死亡が多く、シンヤン自身も年配の親戚を失った。シンヤンはアメリカに滞在中だから、葬式すら出られない、ただただ辛い、と書かれている。

大晦日夜半、ロシア軍占領地域ドネツク州マキイウカのロシア軍臨時兵舎爆破。ウクライナ軍は400人殺害と発表、ロシア軍も89人の死亡を認めた。ただ、戦争とは狂気そのものだとおもう。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりにティート宅を訪問。昼食にヒヨコ豆のパスタをご馳走になる。妻のマリアはブルガリア人で、彼女は子供たちと常にブルガリア語で話している。マリアの両親は医者で、揃ってソヴィエトもロシアも嫌悪していたが、現在までブルガリアは親ロシア勢力が強い影響力を持ち、ウクライナへの協調を気軽に表明できる状況にはないそうだ。アルバニアのオペラ劇場が終身雇用で月給1000ユーロになったと話すと、ブルガリア国立オペラよりずっと待遇が良いと驚く。

昨日の日本Covid死亡者が456人で本日463人。過去最多とのこと。新規感染者数は23万8654人。イタリアの本日の発表は未だだが、12月26日から元日までの統計では、Rt値が0.84から0.94。死亡者数は、12月23日から29日の合計706人で、12月30日から1月5日の合計が775人とある。新規感染者数を見ると、1月第一週は一日平均17443人、二週目は一日平均19424人で、例え計算方法に相違が認められたとしても、日伊の差は顕著である。現在の日本の状況は、一体何が原因なのか見当がつかない。これからヨーロッパでも同じ現象に襲われるのかもしれないが、未だその兆しすらない。尤も、イタリアの公共交通機関では、自主的にマスクをしている年配者は多い。
旧暦のクリスマスを祝い、ロシア軍は一方的に休戦宣言。ロシア、ウクライナ共に散発的な戦闘は止まず。

1月某日 ミラノ自宅
家人曰く、作曲をしているときは機嫌が良いらしいが、こうも筆が進まないと、どう気分を変えてよいかもわからない。

当初、功子先生からは「自画像」のようなヴァイオリン協奏曲を書いて欲しいと言われていて、それ以来、2021年8月タリバンがアフガニスタンの公共の場での音楽演奏禁止を発表した直後に銃殺された、民謡歌手ファワド・アンダラビの弾くギチャクの旋律を使うべきか、まだ迷っている。ペルシャの民族楽器ギチャク(Ghaychak)は、ヴァイオリンに近しい弓絃楽器で音域もほぼ等しい。

功子先生のための作品を生々しいものにするのは気が引けるが、アフガニスタンから逃げ出した無数の音楽家たちや、息を凝らして必死に生きるアフガニスタンの女性の姿が頭から離れず、何らかの標を自作に書きつけておかなければと思ってきた。だから、もう少し悩んでから、きっと何某かの形でファワドの旋律がヴァイオリン協奏曲に埋め込まれることになるのだろう。

本日の日本Covid関連死亡者520人との発表。一体どうなっているのか。NHKラジオニュースを聞いていて耳を疑う。家人、息子ともにミラノ帰宅。

1月某日 ミラノ自宅
松平頼暁さんの訃報。心底Covidが恨めしい。松平さんから直接お願いされた、未初演のレクイエム上演を完遂できぬまま、松平さんが亡くなってしまった。ただ悔しく申し訳なく、限りなく無念だ。

「冬の劇場」の頃から、足繁く演奏会を聴きに来てくださり、その度に励ましていただいた。その松平さんご自身からレクイエムのお話しを伺い、とても光栄に思っていたし、当初はお元気なうちに上演可能と信じて疑わなかった。オペラ「挑発者たち」と「レクイエム」は、絶対に納得ゆく形で上演すると心に決めてきたが、結局コロナ禍に翻弄されてしまった。併しその逡巡は、自分の詰めの甘さや一寸した気の緩みや、微かな諦めが折り重なった所為ではなかったか。後から悔やむくらいなら、人生無理にでも突っ走った方がよいと頭では理解している積りだったが、浅はかであった。今はどうにも気持ちの整理がつかない。

フェニーチェ堺の福尾さんよりお便りを頂く。平井さんや当時関わった様々な方を思い出すと、涙が止まらない、とある。
「みんな、どこにいってしまわれたのでしょう。でもこうして杉山さんからのメールを拝読し、ああ、あの時間は本当にあったんだ。同じ時間と同じ至福の時を過ごした方がいらっしゃったんだ、そのことを思い出せただけでもありがたく、嬉しかったです」。

1月某日 ミラノ自宅
朝、11時。霙雑じりの雨に打たれながらパトリツィアに会いにでかけた。昨今の音楽界を席巻するのはSNSで人気を博す音楽家ばかりで、本当によい音楽家であるかどうかは二の次になっている。娘や孫の世代にどんな音楽や文化を遺してやれるのか甚だ不安だ、と畳み込むように話す。
彼女曰く、ブレンデルはマスターコースをするとき、完璧な演奏より寧ろ個性が生きる演奏を目指して指導していたそうだ。

岡村雅子さんの訃報が届く。岡村さんとは、大原れいこさんと三人で集っては、川上庵で蕎麦など啜りつつ、いつも他愛もない四方山話にばかり花を咲かせていたから、音楽関係者というより、ごく普通の友人として受け入れて下さっていたのだろう。
下北沢のレディジェーンで、娘さんがいれたボトルを二人で静かに味わったこともあった。そんな時ですら一切涙もこぼさず坦々と娘さんを偲んでいらしたから、流石に格好良すぎる、無理をしないでほしい、と内心心配していた。
「16歳!もう親の手綱からは離れているんでしょうね。でも不思議なことに、遺伝子はいろいろなところに見受けられて、もどかしいというか、親子の繋がりを、いろいろな場面で感じることができて。突然、私の娘のことを思い出してしまいました」。
「娘のことは大丈夫です。折につけ、いろいろ思っていますから。この間下北沢の小さな空間でハロルド・ピンターの2人芝居を演出した演出家は、ほぼ30年前私達家族がここに家ができて引っ越してきた時に、娘が一番初めに連れてきた人で、きっと、演劇の話をしたら止まらない、別に恋人じゃないけど、いつまででも話していたい、そんな間柄だったんだなあと今頃思ってますし。折につけ、そんな感じで娘が登場しています。色々な人との出会いも楽しんでます」。
漸く春彦さんとも娘さんとも、勿論れいこさんとも再会されて、岡村さんは相変わらず格好よく、素敵な時間を過ごしていらっしゃるに違いない。我々は少しの間寂しいけれど、でも岡村さんが倖せなら、それも我慢できる気がする。

1月某日 ミラノ自宅
早朝、中央駅6時過ぎの特急でフィレンツェへ向かい、佐渡さんのマーラー、リハーサルを見る。朝8時過ぎのフィレンツェは行き交う人も疎らで、ジョットの鐘楼はどこか凛とした佇まいを見せる。街角で道を尋ねると、みな実に親切に教えてくれる。朝の冷気もミラノより少し緩く、心なしか人々の表情も明るい。
佐渡さんの音楽は懐が深く自然に呼吸していて、尖ったり邪魔をするものがないから、演奏者の身体にそのまま溶け込むのだろう。オーケストラの奏する音はみるみる変化して、文字通り圧巻である。オーケストラも、のびのびとしていて、とても弾きやすそうだ。
夕方からミラノで授業があったので、ゆっくりと話し込む時間はなかったけれど、つかの間の再会を喜ぶ。ミラノに戻る直前、駅前の四川料理屋で海鮮麺と肉なし麻婆豆腐をかきこむ。周りの客は地元の中国人だったらしく、揃って中国ケーブルテレビの旧正月記念番組に見入っていた。

1月某日 ミラノ自宅
ケルン旧消防署にて、渡邉理恵さん指揮、アンサンブル・デヒオのリハーサル見学。特殊奏法の多いファラの作品に対して、まず奏者の疑問をていねいに溶きほぐしてから、それらを音楽の流れに浮かべてゆく。外から眺めていると、作曲者、指揮者、演奏者、それぞれの音楽が、次第に中心へ収斂され、一つになってゆくのが、つぶさに理解できた。やがて、作品を通して、演奏家、指揮者の音楽がより鮮明に浮かび上がるのも興味深い。

稲森くんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏しているとき、こうしたヨーロッパの日々が彼らの楽譜の向こうに見えていたつもりだったが、久しぶりに間近でその空気に触れると、より具体的に、直接的に、彼らの音楽の本質を深く肌で感じられて、なんだか嬉しかった。

作曲者が提起するアイデアの収斂点から、どんどん深く掘り下げて啓いてゆく姿勢は、瑞々しく新鮮であった。何より、指揮者と演奏家が揃って作曲者の意図を誠実に汲取ろうとする姿勢に大変感銘を受けた。リハーサルは濃密でありながらしつこくはなく、有意義であった。

ミラノ国立音楽院のアウシュヴィッツ解放記念の記念演奏会で、息子がロッシーニやショパンの断片を弾いた、と家人よりヴィデオが届く。

1月某日 ミラノ自宅
旧消防署庁舎近くの広場の朝市でドイツ風クロワッサン二種とワッフルを購い、スタンドでコーヒーを淹れてもらい朝食とする。美味。クロワッサンはどちらも濃厚な味わい。そのまま渡邉さんとすっかり話し込む。朝市の肉屋の店先はすっかり磨き上げられていて、高級感が漂っていた。聞けばこの朝市は富裕層がターゲットで、質も高く値も張るそうだ。

ケルンより帰宅。ケルン在住の作曲家、ファルツィアはイラン出身で、家族はみな本国に残っている。数年前に比べて、状況はすっかり厳しくなった、とこぼす。イランに戻れるけれど、自分は現政権にとって不都合な人間になる。家族とも連絡は取れるけれども、安全ではないし、インターネットは遮断されているから、VPNを使わなければならない。
海外からの情報は以前から制限されていて、市民は国外からの文化や情報を渇望していた。その証に、家人がテヘランを訪れたときは、熱狂的に歓迎された。現在はその交流すらすっかり影を潜めている。国が変わらなければいけないが、それはとても大変だともいう。君の音楽はご家族の希望だねと話すと、そうね、と少しだけ口元が緩んだ。
彼女はケルン・ボン空港の近所に住んでいて、発着する飛行機を見上げては、時に思いを馳せているという。

1月某日 ミラノ自宅
ナポリ広場の広告板には、黄色と青色のデザインで、ずいぶん長い間「NO WAR」と表示されていたが、このところ、「あなたのため、ミラノのため」特集に入れ換えられた。
路面電車の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、公共交通機関を使おう」、LED電球の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、LED電球を使おう」、階段の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、階段を使おう」と書いてあって、要は節電要請である。
ウクライナ侵攻から1年近く経ち、戦争反対の声は聴かれなくなった。NO WAR ではなく、STOP WARとスローガンは書き換えられ、英米国に続き、ドイツもレオパルド2のウクライナへの供与を決定し、ヨーロッパ全体として、ウクライナの侵攻を現実に受けとめているようだ。サンレモ音楽祭のなかでゼレンスキー大統領が声明を発表するとかで、サンレモでゼレンスキーが話して意味があるのかとイタリアでは冷笑が広がっている。

冷戦中ソビエトのミサイルは、北大西洋条約機構基地のあるトリエステではなく、ユネスコ世界遺産であるヴェニスに焦点を定めていて、ウクライナ市民やライフラインを狙うロシア軍を思わせる。1年後、我々の生活がどうなっているか、正直なところ、わからない。

1月某日 ミラノ自宅
どこか妙な一日であった。朝、家人と散歩して帰宅中、路面電車の停留所で、まさに乗込もうとしている格好そのまま、俯せに倒れ、微動だにしない男がいて、運転手が駆けつけていた。
夕刻、学校を終えて帰宅すると、家人が後ろから走ってきた電動スケートボードに跳ね飛ばされ、全身を強く打っていた。

自宅前のドン・ミラーニ橋から、シーツに黒スプレーで書きつけられた垂幕がかかっていて、現在収監中のFAI(非公式無政府主義者同盟)指導者アルフレッド・コスピトが、刑務所規則41条bis反対して行っているハンガーストライキが150日に突入し、健康状態の悪化を訴えている。イタリア各地で非政府主義者同盟の支持者らが、火炎瓶などを使った抗議活動を展開しており、国外でもベルリンとバルセロナのイタリア大使館関連施設での破壊暴力活動に及んだ。ミラノの日本領事館から、デモなどに近づかぬようメールが届く。

(1月31日ミラノにて)

どうよう(2023.02)

小沼純一

きかせてよ
うみのむこうにいるあなた
わたしおもって
いとしいこえを

あンあンあン

きいててね
うみのむこうにいるあなた
わたしいまって
こんなかも

あンあンあン

あのひとかな
こんなとこにいるんだから
こういうつながりなのかしら
それらしい あいさつだけで
にこにこしながらしておけば
いい
のかな
おひさしぶり
おかわりありません

か か か
さいきんはどういった
すこしでもおもいだせばしめたもの

みんなみんないいひとばかり
いつからこんないいひとばかり
むねやけちりちり

たえまなく
はきけぐぶぐぶ
あいだをおいて
とまらない

みんなみんないいことばかり
いつからこんないいことばかり
いいひといいことあっぷっぷ

ふるまえふるまいふるまでに
いいひといいことぶってぶって

わかれてはしまったが
わすれたのはよかったこと

いいことだって
たのしいことだって
いくらもあった
はずなのに
なかなかみえないトンネルの
でぐちのように
みえにくい

わかれてはしまったが
おぼえているのはいいことだけ

わるいことだって
いやなことだって
いくらもあった
はずなのに
はなをいちりんふってたり
さがっためじりは
すぐそこに

わかれてはしまったが
ひらいているのはかさばかり

あめにふられて
むかうむかいの
すれちがい
かみからくつうら
いいもいやなもあやめなく
へやのそとには
まっかなかさが
あめふらし

いちにさんし
うんだつぎにはなくなる

ことばちがえるひとに
おしえました
むかしそういってたかたが

いちにさんし
さんとしと
いっしょだとややこしい
って
あてつけだっていわれるから
いわなかったかな
しのあと 
しご
ってつづくんだよと

いちにさんし
そのあとはなんだろ

にさんしごろく
ごろくはやはりかきつけか
どこかに
きっとのこってる
だれかさがしに
ろくしちはちく

ポルトガルの海

植松眞人

 東京メトロを千駄木駅で降りて、団子坂を登り切ったところに森鴎外記念館がある。その前の通りを右に折れたあたりに文京区の図書館がある。
 鴎外が実際に暮らした観潮楼跡に建てられた森鴎外記念館はかなり気合いを入れて設計されている分、目と鼻の先のこの図書館の建物の地味さが際立つ。役所の一角なのかと見間違うほど、なんの特徴もない。それでも、自然と森鴎外の書籍を探し始める。「文学」と書かれたプレートが奥の方に掲げられていたので、そちらに向かうと「近代文学」「純文学」と棚がわかれていたので迷わずに「近代文学」を探す。「純文学」は「男性作家」と「女性作家」に別れているのだが「近代文学」は男女では別れておらず、シンプルに「あ」「い」「う」と五十音別に並べられている。
「も」のプレートを探そうと目を走らせた瞬間に背表紙が上下逆さまになっている青い本が飛び込んできた。自分の顔を少しひねって、なんとか逆さまになった文字を読むと、背表紙には『ポルトガルの海』とあった。『ポルトガルの海』と言えば、確かと思いながら、著者名を見ないようにする。『ポルトガルの海』と言えばと書棚に背を向けてる。自力で思い出したい。スマホに頼らずに思い出したい。しかし、還暦を迎えてすっかりこらえ性がなくなってしまい、そんなこだわりはすぐに知りたいという気持ちにあっさりと負けてしまう。振り返り、書棚に手を突っ込み、逆さまになった本を取りあげ、著者名を確認する。そうだった。フェルナンド・ペソアだった。
『うた』と題された詩編から始まるその本がなぜ日本の近代文学の書棚に突っ込まれるように置かれていたのかは知らない。けれど、それを見た瞬間から、森鴎外が若き日に留学した国がドイツではなくポルトガルだったらという思いから抜け出せなくなっていた。
 ペドロ・コスタの映画『溶岩の家』や『ヴィタリナ』に出てくるようなポルトガルの辺境の町を鴎外が歩いていたとしたら、エリスにも会わなかっただろうし、万一、エリスのかわりにポルトガル女性に会っていたとしたら、鴎外はその後日本に帰国しなかったかもしれない。ドイツは何かを学び何年か後に帰ってくる場所にはなり得ても、ポルトガルは違う気がする、などとドイツにもポルトガルにも行ったことがないのに、勝手に決めつけている。
 受付で聞くと、文京区に住んでいなくても身分証明書があれば本を借りることができるというので、手続きをして『ポルトガルの海』を借りる。そして、学生たちが自習をしているデスクがずらりと並んだ場所をすり抜け、老人たちがぼんやりと時間を潰しているソファの空いた席に座り、借りた本を開く。同時にスマホでウィキペディアにアクセスして、鴎外とペソアの生年月日を調べる。
 鴎外はペソアよりも三十年近くはやく生まれ、十年ほどはやく亡くなっている。鴎外がドイツ留学から帰ってしばらくしてからペアソが生まれたので、仮に留学先がポルトガルだったとしても、二人の人生が交錯することはない。ただ、ペソアの詩集の日本語訳が森鴎外記念図書館の「近代文学」の書棚になったことは記憶の中で決して忘れることのできない出来事になった。
 鴎外とペソアは生涯分かちがたく結びついてしまった。誰かがペアソの詩を乱雑に書棚にしまったがために。鴎外の名前はすでに、ペソアの『ポルトガルの海』の表紙の色だ。そして、それが本当にポルトガルの海の色をイメージしてデザインされたものかどうかは知らないけれど。(了)

字あまり、または1ダースの月’23

北村周一

シンゴジラやらシンウルトラマンも現れてシンハマオカに集う一月

二俣の売家に二股かけられてくんずほぐれつ逃げる二ん月 

字あまりに臆することなく憤るその溜息でくもる三月

夜さり夜さり酒酌み交わす友もなく一人ふたりと消えゆく四月

つまの吐くね息のなかにわが眠りしずめんとして縮こまる五月

耳の中の小さな石の不始末を眩暈と呼んで鬱ぐ六月

物を見てえがくすなわち手描きへの自負と偏見煽る七月

AIにたくすすなわち手描きへの自負と偏見くたす八月

さめぎわに消残る夢のあさくして自問自答に悶える九月

老いてなおここよりほかの場所数多夢に浮かべてさやぐ十月

絵日記は汚れやすくてぽちぽちと杳いメールを打つ十一月

子煩悩な親ほど怒りやすしとも ラク書き消して回る十二月

片岡義男作品のなかの珈琲3つ

若松恵子

片岡義男さんの新刊『僕は珈琲』が1月24日に発売された。片岡さんの本を読むと、おいしい珈琲が飲みたくなる。ヤクザ映画を見た人が、肩をいからせて歩くように、珈琲を片手に私も小説の中の人になる。片岡作品のなかの、心に残る珈琲の場面を3つ引用して紹介したいと思う。

***

 横断歩道を渡ってきた彼女は、ビルの前を右へ歩いた。右へすこしだけ歩くと、そこがビルの角になっていて、さっき彼女が渡ってきた往復八車線の道路からわきに入りこんでいく道路とのT字交差だった。
 ビルの角を、彼女は、わき道に沿って、まがった。このビルのこちら側だけは、アーケードのような通路になっている。ビルの壁面にその通路がくいこんだ造りになっていて、雨の日でも濡れずに歩ける。
 一画を大きく占拠しているそのビルの裏手へ、彼女は歩いた。彼女がいま歩いていく通路と、そのビルの裏にある道路との角にあたる部分は、カフェテリアになっていた。角を中心にして両側の壁は大きな透明のガラス窓だ。カフェテリアの内部が、いつも外から見えた。
 歩いてきた彼女は、カフェテリアのガラス・ドアを押し、店のなかに入った。ガラスのドアのまんなかに、クリスマスの花輪が飾ってあった。夕方の混みあう時間を過ぎた店内に、客はあまりいなかった。ハンバーガーとコーヒーの香りが、静かに店内をひたしていた。
 カギ型にあるステンレスのカウンターの手前に、テイク・アウトの窓口があった。その窓口の前に立った彼女は、ユニフォームを着た若いウエートレスに、「コーヒーをふたつでいいの」と注文を告げた。丈の高いカウンターの縁にトレンチ・コートを着た片腕をかけ、彼女は待った。
 カウンターで食事をとっている二人の外国人男性の話し声が、聞こえるともなく聞こえてきた。会社帰りの、ビジネスマンのようだった。ひとりはアメリカの英語を喋り、もうひとりの英語はフランスなまりだった。
 コーヒーが、できてきた。紙コップに入れて薄いプラスチックのふたをし、クリーマーと砂糖、それにままごとのようなスプーンをべつにそえ、紙袋におさめたものだ。
 彼女は、料金を払った。ウエートレスがくれた小さなレシートをトレンチ・コートのポケットに入れ、テイク・アウトのカウンターを離れた。
 店の外に出た彼女は、角にむかって歩いた。信号のない裏通りの横断歩道を渡るとき、ちらっと彼女は店をふりかえった。
 大きな透明の窓ごしに、店の内部が見えた。光っているステンレスのカウンターに、機能的に美しくととのえられた調理場、そして英語のメニューとカウンターで食事している二人の外国人。そんな光景が、彼女の目に入った。外国の街角で見る光景のようだった。
 横断歩道を渡りきって、彼女は右のほうに目をむけた。道路のむこうに、国電の高架駅があった。車体がブルーの電車が、その駅に入ってくるところだった。
 人通りのすくなくなった夜のオフィス街を歩きながら、彼女はコーヒーの紙袋を開いた。熱いコーヒーの入った紙コップをひとつとりだし、プラスチックのふたをとった。ふたを紙袋のなかに落とし、紙袋の口を閉じなおした。
 紙コップを、彼女は口にはこんだ。強い香りのする、熱いブラック・コーヒーを、彼女は唇のさきですこし飲んだ。

 『吹いていく風のバラッド』 18 (1981年2月 角川文庫)

トレンチ・コートの彼女は、コーヒーを飲みながらオフィス街を歩いて、最後は地下鉄に乗る。その姿が描写されているだけの物語だ。1981年当時、テイク・アウトのコーヒーを飲みながら歩くという事は、新鮮でただただかっこ良かった。

***

 コーヒーに蜂蜜を入れようとしたスティーヴンは、カップもスプーンも、これまで見たこともないほどに汚れているのに、はじめて気づいた。
 黒いカップだと思っていたのだが、じつは汚れの蓄積によって黒くなっているのであり、本来は白なのだった。取手の指の触れる部分と、唇のさわるとこ、そして底の二センチか三センチほどが、ほのかに白かった。指で触れてみると、汚れの厚みがはっきりとわかった。
 スプーンもおなじだった。ぜんたいにまっ黒で、こびりついた固い汚れで形はいびつに見えた。心のなかではひるみながら、スティーヴンはスプーンで蜂蜜をすくいとった。そして、コーヒーに入れた。あまりかきまわすと汚れがコーヒーのなかに溶けだすのではないかと思い、すぐにスプーンをひき出した。
 コンロイは蜂蜜を使わなかった。
 白い部分に狙いをつけて唇を寄せ、スティーヴンはコーヒーを飲んだ。そして、驚嘆した。コーヒーは、ものすごくおいしかった。熱い芳しい液体が口から喉へ落ちていくのを感じながら、これまでに飲んだ何千杯とも知れぬコーヒーのなかで、いま自分の手にあるこの一杯がいちばんおいしい、とスティーヴンは確信した。
 自分をとりまいている自然のなかのあらゆるものが、一杯の熱いコーヒーに凝縮されていた。そのコーヒーが、自分の体の内部へ流れこんでいく。深いスリルに鳥肌の立つような、魔法の瞬間だった。
 人里遠く離れた丘のつらなり。澄みきった冷たい夜の空気。夕もやの、しっとりした香気。夜の匂い。草のうえにいる数百頭の羊たちの鳴き声の合唱。犬の声。そういったおだやかな物音が吸いこまれていく、自然の空間の広さ。もうはじまっている、高原の長い夜の静寂。こういったものすべてが、一杯のコーヒーになって自分の体の内部に流れこんだ。と同時に、スティーヴンの感覚は、コーヒーが口のなかに入った一瞬、冷たい夕もやの立ちこめる夜の広さのなかへ、いっきに解き放たれた。

彼はいま羊飼い(『いい旅を、と誰もが言った』1981年2月角川文庫 )

一杯のコーヒーによって、彼はいま羊飼いだ。
自然そのものが凝縮されているコーヒー。つつましい日常の中で、そんなコーヒーを飲みたいと願いつつ・・・。最後は片岡さんの詩集から。

***

  秋のキチンで僕は

目を覚ました僕は寝室を出た
彼女は仕事にでかけたあとだった
僕はキチンに入った
食卓のいつもの椅子に、僕はすわった
キチンのなかには匂いがあった
パーコレーターでいれたコーヒー
シナモン・トースト
彼女のシャンプーおよびリンスの香り
そしてさらに、なにであるか不明の、なにかの匂い
服の匂いかな、と僕は思う
彼女の、秋の服
今日から彼女は、秋の服の人になったのではないだろうか
僕はいまでもまだ、Tシャツにトランクス一枚だ
涼しさをとおり越して、肌寒さをはっきりと感じる季節
僕は両腕を撫でてみる

日焼けが目に見えて淡くなりつつある
残念だ
どうしよう
というところからはじまる、今日という一日
キチンのなかで僕は
彼女が残していった香りを
ひとりで懐かしんでいる。

『yours』(1991年3月 角川文庫)

片岡さんの描く台所はキチンだ。珈琲を飲む場面は出てこないけれど、珈琲の香りを感じて静かに深呼吸する。

カタオカさんとおれ

篠原恒木

片岡義男さんについて書こう。

カタオカさんは物知りだ。
いろんなことを知っている。

雨の日におれはL.L.Beanのレインブーツを履いていたが、タイルが敷かれた地面を歩くとツルツル滑ることをカタオカさんに訴えたら、こう言った。
「それはそうだよ。そのブーツはハンティングをするのに沼地へ入るときのものだから」
「は?」
「音も立てずに沼地を進むためのブーツさ。獲物に気付かれないようにね。防水性には優れているけど、都会の道路には向いていない」
ううむ、知らなかった。じつにすべらない話ではないか。

「アメーラトマトってあるだろ」
「ありますね。アメーラってイタリア語ですか。トマトだけに」
「アメーラは静岡地方の言葉で『甘いだろ』という意味だよ」
「知らなかった。てっきり外国語だとばかり思っていました。オメーラ、タダじゃおかねぇ、とは日頃よく言いますが」
これは見事にすべった。

先日出版されたカタオカさん著の『僕は珈琲』のなかでも書かれているが、「アメリカン・コーヒー」の由来は、第二次世界大戦でアメリカでの珈琲豆が不足して、節約のため薄い珈琲を淹れたことが始まりらしい。カタオカさんは回想する。
「僕はアメリカン、とよく喫茶店でオーダーしていた人がいたよなぁ」
ううむ、これも薄味ではない、じつに濃い内容の話ではないか。

だが、カタオカさんは物を知らない。
「えっ、そんなことも知らないの?」というケースがよくある。

居酒屋の壁一面に貼られたメニューの短冊をじっと見つめながら、カタオカさんは呟いた。
「いぶりがっこ」
「食べますか、いぶりがっこ」
「いぶりがっこって何?」
「知らないんですか」
「知らない」
「大根を燻った漬物です」
「だからいぶりなのか。がっこって何?」
「学校のことです」
「本当かよ」
「嘘です。秋田地方で漬物のことをがっこと言うのではないか、と思います」
「旨いの?」
「クリーム・チーズをディップにして食べたりすると旨いです」
「ふーん」
カタオカさんはメモ帳とペンを取り出し、大きな文字でゆっくりと「いぶりがっこ」と書いた。それがおれの目にはとても可愛らしく見えた。
ほどなくして「いぶりがっこ」が登場する小説を発表したのだから、作家というヒトは恐ろしい。

「安保という漢字が読めなかったんだ」
「アンポ? あの日米安全保障条約のアンポですか」
「もちろん音としては認識していたよ。周りがみんなアンポ、アンポと言っていたからね。だけど、どう書くかについては知らなかった。立看板に『安保反対』などと書かれていたけれど、ヤスホとは何のことだろうと思っていた」
「そういうのをアンポンタンと言うのです」

『僕は珈琲』のなかでも、これと同じようなことが書かれている。「外為」という言葉についての話だ。クスリと笑うけれど、言われてみれば確かにそうだ、とおれは思ってしまった。安全保障条約を縮めてアンポと呼ぶのはいささか乱暴のような気がしてくる。ましてや「ガイタメ」なんて、考えてみればヒドい略語ではないか。

日本人はこういった略語が大好きだが、カタオカさんにとっては嫌な感じがするらしい。ちなみに「パソコン」「テレビ」「スマホ」「コンビニ」とはどうしても書けないと言う。「PC」「TV」「スマートフォン」と書く。「コンビニ」に至っては「人々がコンビニ、と呼んでいる店」と書いていた。これは略語に対する凄まじい嫌悪、いや、憎悪ではないか。
「ではラジオはどうなんです? レディオとは書かないでしょう」
「ラジオはラジオだね。日本語として」
確かにラジオは略語ではない。カタオカさんは重度の略語アレルギーなのだろう。

カタオカさんは怒らない。
怒ったことを見たことがない。
「なぜ怒らないのですか」
「怒ってもしょうがないだろう。疲れるだけだよ」
「でも怒ってヒトを怒鳴りつけたことも一度や二度はあるでしょう?」
カタオカさんはしばらく考えて、こう言った。
「昔、書いた原稿を編集者が失くしてしまったことがあったなあ。電話がかかってきたんだ」
「編集者はなんと言ったのですか?」
「市ヶ谷の大日本印刷に原稿を届けに向かう途中で、小脇に抱えていた原稿の束を一枚残らず外堀に落としてしまいました、と言ったんだよ」
「ええっ、あの市ヶ谷駅の脇にある川のようなところですよね。つまりはすべての原稿を水没させてしまったと」
「そうなんだよ。きっとバサバサッ、ヒラヒラと紙が舞って外堀に落下したんだろう。まだ原稿用紙に手書きの頃だったな」
「それはいくらなんでも激怒したでしょう。原稿のコピーは?」
「とってないよ」
「ひゃあ、おれだったら怒鳴り散らしますよ。当然怒りましたよね?」
「いやぁ……怒るもなにも、呆れたよね」
カタオカさんは笑いながらそう言った。そのあとの書き直し作業については訊くのが怖かったので、おれはそこで絶句してしまった。

怒らないからといって、ナメてはいけない。
カタオカさんは優しい顔を保ちながら穏やかな声で、本質的なひと言を口にする。そのひと言はかなり怖い。ひと言の内容はここでは書けない。何通りかのパターンがある。鋭い刃物のようなひと言だ。おれはよせばいいのに、
「もうちょっと嚙み砕いて言うと、こういうことですか?」
と尋ねてしまうのだが、ブラック・カタオカは、
「そうなんだよ」
と言って、微笑みを浮かべる。こういうときは怖い。怒らないのに怖いのだ。おれのように声を荒げて罵詈雑言をまくしたてる奴は、臆病なワンコと同じなのだ。弱い犬ほどよく吠える。悪い奴ほどよく眠るのだ。

カタオカさんは裏切る。
裏切り者なのだ。
おれがあらかじめイメージしていたような原稿を書いてくれない。いつも裏切られる。
「もっとこのあたりを詳しく書いてくださいよぉ」
「いやぁ……ここはこれ以上書けないよ」
いくら誘っても、こちらが思っているイメージに近づいてくれないのだ。だからおれはある時からこちら側に誘うのをやめた。カタオカさんのイメージにおれのほうから近づこうと、考え方を変えたのだ。
だから最新刊の『僕は珈琲』でも、事情の許す範囲の限度ギリギリまでカタオカさんの文章と寄り添う写真を入れた。書き下ろしのエッセイ集に写真を散りばめるのは邪道かもしれない。「描写のカタオカ」と呼ばれている作家が丹念に描写している人やモノの写真を文章のすぐそばに挿し込むのは失礼にあたるのかもしれない。だが、あれがおれなりの「近づき方」なのだ。

原稿を読み返すと、おれは思う。
カタオカさんは「何を書くか」ではなくて「何を書かないか」に心を砕いているのではないかと思うのだ。おれが書いてほしいとイメージしていたのは「書かないほうがいい」部分ばかりなのかもしれない。そうなのだ。それを書き足したら、冗長で散漫な文章になってしまうのだ。

冗長で散漫な文章はここで終わる。

日本のおばあちゃんとパレスチナの坊ちゃん

さとうまき

僕は、昨年から80歳を過ぎたおばあちゃんのお世話というアルバイトを始めた。「いろいろ相談に乗る」という仕事だ。おばあちゃんは、敬虔なカトリック信者である立場から、イスラエルとパレスチナ双方にも深い友人がいるそうだ。英語、フランス語、ヘブライ語が話せ、そしてアップルのコンピュータをバリバリ使いこなしているからすごいのである。といっても後期高齢者であることには変わりなく、ところどころ補わなくてはいけないのが僕の仕事である。

僕としては聖書の話とかユダヤ人が何を考えているのかいろいろ教えてもらいたい。イスラエルは近年右傾化が進み、昨年暮れに誕生したネタニヤフ政権は、パレスチナを挑発しまくり2国家共存などはあり得ないような勢いだ。

まず1月3日に極右のベングビール国家安全保障相が神殿の丘を訪問しパレスチナを挑発。神殿の丘の訪問は2000年も第2次インティファーダ―のトリガーとなっており、イスラエル側の戦線布告といっていいだろう。

さらに1月8日には、ひどい行動にでる。国連総会が昨年12月30日に、イスラエルによるパレスチナ占領を巡り国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)に法的見解を示すよう求める決議を採択したことの報復措置として、パレスチナ自治政府の代理で徴収している税金のうち、約1億3900万シェケル(約52億円)の送金を差し止め、パレスチナ人によるテロ攻撃の犠牲者家族への補償に充てることを決めたというのである。

報復って、国連決議案出しただけで報復? 国際社会はこういうイスラエルのわがままで傲慢なやり方にこそ制裁措置を課すべきではないかと思ってしまう。

そして1月9日にはベングビールは、「本日、私はイスラエル警察に対し、テロ組織との同一性を示すパレスチナ解放機構の旗を公共の場で掲げることを禁止し、イスラエル国家に対するあらゆる扇動を止めるよう指示した」と述べてパレスチナを刺激する。

極右政党「ユダヤの力」の党首、ベングビール(46歳)とはいったいなにものだろう。イスラエルからアラブ人を追い出すことを信条にカハ党で若者のリーダーとして活躍していたらしい。カハ党は、ユダヤ系テロリストとつながっており、たびたびテロを起こしていた。のちに、反社会的としてイスラエルに非合法化される。ベングビールは弁護士となり、極右やユダヤ人テロリストの弁護をすることになった。若いユダヤ人からの支持が強いことが厄介である。

パレスチナ人の憎悪をあおっておいて、イスラエル軍は西岸へ治安部隊を展開し、今年になってすでに約30人の死者が出ている。パレスチナ側もシナゴーグを襲撃するなどして暴力が激化しているのだ。

そんな中、老婆が可愛がっているイスラエル国籍を持つアラブ人のおぼっちゃんが急遽来日することになった。本当は昨年の秋に来日することになっていたが、コロナがらみで、せっかく降りたビザも来日のタイミングを逃し、「早く来なさい」と促したら、急遽数日後に来日ということになってしまい、僕もお手伝いに奔走する羽目になってしまったのである。

そもそも何をしに来るのかよくわからなかったのだが、どうせなら現場の生々しい話を語ってもらうという報告会をして、恵まれないパレスチナの子どもたちにカンパを集めようということになった。そんな中、カンパならぬ寒波が急襲し、我が家の水道管が破裂し、修理に痛い出費となってしまった。悲しんでいるまもなく仕事がふえる。

報告会は、まず人集めに苦労する。修道院を借りてオンラインでも配信することにした。直前に申し込み者も増えて、何とか人が集まったものの生配信のトラブルが発生。老人の前で、こういうトラブルでもサクサクと乗り切り、かっこのいいところを見せたかったのだが、うまくいかずに精神的にかなり落ち込んだ。お坊ちゃんは、時間配分を考えずに話すので、時間もかなり長引いてしまった。それでも現場の話は貴重だった。

さて、ぼっちゃんはベツレヘムからお土産をたくさん買ってきた。老人の命令で、日本で売って孤児院に寄付するというのである。お金の清算をしていたらなんと30万円ぶんの雑貨を購入してきたことが判明。中には、こんなのが売れるのかと思うようなものもある。収益を出すためには、これを1.5倍くらいの定価にしても15万円の利益。簡単に売れればいいけど、その準備の手間暇とか考えてまたまた凍り付く。

仙台ネイティブのつぶやき(79)雪の中で食べるもの

西大立目祥子

寒い。もちろん1月下旬から2月にかけての時期が、1年でいちばん寒いとはわかっているのだけれど、1月25日の気温には驚愕した。最高気温がマイナス4.2度で、最低気温がマイナス7.5度とは。たぶん仙台で経験した中で、最も寒い冬の日だ。

母の気配が消えた家に午後遅くに行くと、前の晩洗い残した土鍋に氷が張っていた。しかも、はかなげな薄氷ではなくて、土鍋の縁の部分は3、4ミリくらいもある。流しの上の台拭きもスポンジも、かちかち。さすが、築62年、北向きの台所だけのことはある。温泉地でよく聞かされるように、こういう日に外で濡れた手ぬぐいを振り回したら棒みたいに固まるのかも。体は寒さですっかり縮こまっていたのに、なんだか愉快な心持ちになってきた。

よし!とつくるのは、浅葱(アサツキ)の酢味噌和え。この時期に出回る東北の浅葱は、まだ育っていなくて手のひらに乗るほどの長さしかない。20本くらいが束になって、長く白いひげのような根の部分がギュッと輪ゴムでしばられ袋に入っている。仙台に入ってくるのは福島産が多く、スーパーや八百屋の店先で見つけると迷わず買う。特に売れ残っていたりしたら、福島の農産物を何とかしなくちゃという気持ちになり、2束カゴにいれてしまう。

いつも青菜は買ってくると、根本を数ミリ切り落としてからボールに水を張って入れておくのだけれど、浅葱はきゅうくつそうな輪ゴムをはずして水の中に白い根をのびのびおよがせてやる。ボールをのぞくと、おやここにも氷が張っている。鍋にお湯を沸かしている間に、じっくりと浅葱を観察した。真っ白な根元はふっくらとしていて、その中から濃い緑色の芽が数センチ伸び始めている。それがいかにも、雪の中に埋もれていても、大地の蠢きというのか芽吹きの力というのか、春に向かって地面の中が動き出す予兆のように感じられてくる。寒さはいよいよこれからさらにきびしくなり、雪も本格的に降り積もってくるのだけれど。東北に暮らす人たちは、冬が長いぶん、この辛くてしゃきしゃきした走りの味で春を呼び寄せようとしているのかもしれない。

歯ごたえがなくなるから長くは茹でない。お湯が沸く間にすり鉢に味噌とお酢と砂糖を少々、すりこぎでごりごり。なめらかに整えたところで、水にとった浅葱をきっちり絞って投入。あっという間にできあがり。私にとっては真冬どまん中の春待つ味だ。
ところで、「あさぎいろ」は「浅葱色」と書く。浅葱色といったら、渡りの蝶アサギマダラのようなターコイズブルーでしょう? どうして濃い緑のアサツキと同じ字なんだろう。

そして、この季節、魚屋で探すのは真鱈の卵の「鱈の子」。「食指が動く」とよくいうけれど、食べたいもの、これだ! というものを目にすると自然に手がのびてしまうのだよなあ。コロナ禍の3年の暮らしで、触るのはひかえるようになったけれど。魚屋のケースに鮮度のよさそうな卵を見つけると、手にとってしまう。真鱈の卵は大きくて、ひと房20センチ以上はある。秋の終わり頃から出始め、年が明けると房が大きくなり、中の卵のつぶつぶも心持ち大きくなってくる。いまが食べ頃だ。

合わせるのは糸こんにゃく。アク抜きした糸こんにゃくを炒め、そこに鱈の子を投入する。どろんと大きな房の薄皮をはぎ、中の卵だけを絞り出すように菜箸でしごきながら鍋に入れるのがちょっと難しい。薄皮は軽くあぶって細かく切り猫たちにやると、よろこんで食べる。糸こんにゃくといっしょに軽く炒めたら出汁を投入して煮込み、お酒と醤油で味付けして、焦げないように注意しながら炒って水分を飛ばしていく。できあがったら、大きめの器にごはんをよそい、上に分厚く盛り、海苔を手もみしてぱらぱらとふりかけ、テーブルへ。「鱈の子どんぶり」はひと冬の間に3回、いや4回はつくる定番食だ。

冬をとおして、落花生もよく食べる。あのかさかさした手ざわりと形と色と網目模様と。落花生はかわいさにあふれている、とひそかに思っているけど、女子で落花生が好物と公言する人にあまり会ったことがない。注意して食べないと殻と赤い薄皮の破片がセーターについたり、テーブルにちらばったりするので、きれい好きの人は嫌がるかもしれない。私も家人にぶつぶついわれながら食べ続けている。

落花生好きは父譲りだ。父には食べ方の流儀?があってフタ付きの空き缶に一袋をザーッと全部あけてしまい、食べた殻も薄皮も入れたまま。まだ入っている殻を探り当てながら食べるのが楽しみのようだった。一度、殻捨てればいいのに、といったことがある。すぐに反論された。これが楽しいんだ、と。ソファに寝転がり、テーブルの空き缶に右手を突っ込んで実の入った落花生をまさぐりつつミステリーを読むのが、彼の夜の至福の時間なのであった。

年齢を重ねていくと食べものもいろんな記憶に縁取られていくんだなぁ、というのが最近の実感。鱈の子どんぶりをつくるときは、いつも母にいいつけられ鍋底が焦げないようにしゃもじでかき回していた、分厚く小さめの使い込んで少しいびつになっていた片手鍋を思い出す。ストーブの上やガスコンロでやった冬の手伝い。ふりかける海苔はあのころは、必ずコンロであぶってから使っていた。いまみたいにジップロックなんてないから、湿気ってしまっていたのか。父のこだわりは手もみであること。高校生のころだったか、私は針のように切った海苔が美しいと思っていてハサミで切っていたら、海苔は手もみ、手でちぎる方がうまい、と却下されたことがある。

母に、お父さんは浅葱の酢味噌和えが好きだったと聞かされたのは、亡くなったあと。肉食、揚げ物好きだったから驚いた。独身時代、福島県の奥只見で仕事をしていたときにお世話になった農家のおばさんが、そのうまさを教えてくれたようだ。雪の中から浅葱を掘り出してつくってくれたのかもしれない。茅葺きの農家の囲炉裏端に持ち出された大きな擂り鉢に味噌を落とし、使い込んだすりこぎをごろごろまわすおばさん。にいちゃんもやってみっかい? そんな声がかかったかもしれない。

忘れぬ時間

笠井瑞丈

母が急に歩けなくなったのが去年の4月
そこからリハビリをつみ重ね
自力歩行ができるまで回復し

8月はここ最近恒例となった
僕が企画構成演出している
セッションハウスで行う
笠井家総出公演にも出演できた

9月は鎌鼬芸術祭参加のため
羽田空港から飛行機に乗って
秋田まで行くこともできた

11月は天使館主催
吉祥寺シアターで行われた
『DUOの會』『カルミナブラーナー』
二作品の作品上演のため
二週間毎日吉祥寺に
通うこともできた

12月は今まで滅多にしてなかった
年末に笠井家旅行を企画した
二泊三日の箱根の旅
ホテルではなく
貸別荘を借り
笠井家7人の旅ができた

僕の車とレンタカー1台借り
箱根に向かう
行きは山の方から行き
帰りは海の方から帰る
まず中央道で山中湖を目指す

着いた夜は酒盛りし
翌日芦ノ湖を通り温泉へ
夜は予約しておいてバーベキュー
こんな事するのは初めてだ
次の日は帰る日だ

たまたま見つけた
熱海の海の崖の上にあるレストラン

窓の向こうにあるホテルを眺め
叡さんが「久子来年もまた来よう」と


ただただ
そんな時間が過ぎ
とても貴重な時間だ

この旅は
今年の大きな
思い出になった


また行こう

ベルヴィル日記(15)

福島亮

 12月末から1月初めにかけて、なんだかやけに慌ただしい日々をすごした。その反動なのか、後半は無為にすごしてしまったように思う。1月の初め頃は寒いといっても空気にかすかな温もりがあり、風もひどくなく、今年の冬はやけに暖かいと甘くみていたのだが、後半から寒さが厳しくなり、外を歩いていると頬が切れるように痛む。居間の窓には一日中結露ができ、それがゆっくりと下までつたって、木製の窓枠をふやかすから、窓を開くのも一苦労だ。部屋の中で洗濯物を干していると、空気が湿り、さらに部屋の温度が下がるような気がする。そうこうしているうちに風邪を引き、楽しみにしていた旧正月も、閉め切った窓の外から聞こえてくる音楽を聞きながら、獅子舞を想像するだけだった。

 家から20メートルほどのところにディナポリというチュニジア料理屋がある。ムラウィ(Mlawi)という薄いパンで作ったサンドイッチが名物で、常に行列ができている。薄焼き卵、クリームチーズ、アリッサ(ニンニクとトウガラシのペースト)、玉ねぎ、オリーブを乗せ、くるくると巻いたものがこのサンドイッチだ。つい先日、なんだか疲れていたので夕食はムラウィを買って済ますことにした。注文して、出来上がるのを待っていると、なんだか良い匂いが漂ってくる。横を見ると、細かく砕いたパンが入ったどんぶりのようなものを持った若者たちがいて、そこに店員がスープのようなものを注ぎ、さまざまなトッピングをのせていた。見たことのない料理なので、どんぶりを持っている一人にそれが何かを尋ねると、チュニジアの大衆料理で、ラブラビ(Lablabiあるいはラブレビlablebi)というものだと教えてくれた。

 数日後、満を持して食堂に入り、ラブラビを、と店員に伝えてみた。ちょっと驚いた顔をして、「知っているのか」と言ってから、半分に切ったバゲットをどんぶりに入れて渡してくる。チュニジアのバゲットは、フランスのバゲットと違い、きめが細かく、スポンジのような感じで、いかにもスープをよく吸いそうである。見よう見まねで渡されたパンを細かく千切り、それをボールに入れて改めて店員に渡すと、ひよこ豆を煮たスープ、アリッサ、ツナ、半熟卵、オリーブなどをトッピングし、スプーンを二本添えて返してくれる。壁際の立ち食い席で、どんぶりをかき混ぜ、それを食べていると、何だかここがパリでないような気がしてきた。横では分厚いジャンパーを着た中年女性がやはりラブラビを黙って食べている。その様子をうかがいながら、なんとなく、日本の牛丼屋を思い出していた。はて、ここはどこだろうか。

製本かい摘みましては(180)

四釜裕子

年末に若き日のヤミの日記帳や手帳をまとめて捨てた。昨夏父を見送って、その父にお願いすれば、日記に書かれたヤミのことごとが私に捨てられても寂しくはなかろうと思えたからだ。「お父さん、ヨロシク」とか言い添えて、読み返すこともなくいろんなノートをあっさり捨てた。これはいけるぞと思って、それまで実家から持ち越していたわずかなものも捨ててみた。大丈夫だった。自分も寂しくならなかった。年が明け、現役の日記帳も新しくした。コロナ以降は手帳と日記帳を年1冊にまとめている。ところがなんと早々にひと月ずれたところに書いていた。1月4日は水曜日、なのになぜか青いのだ。青は土曜、土曜の4日は2月の4日、そこで初めて気がついた。間違いに気づくのに4日もかかった。おめでたく、2023年がスタートした。

1月末の夕刊に「消えゆく県民手帳」という記事。高崎のコンビニでレジ前に積まれたぐんまちゃんが表紙の手帳を見つけ、店員さんに群馬県民手帳ですよと教えてもらったばかりだった。県民手帳の多くは統計を担当する部署が編集・発行している。2023年版を刊行したのは39県、平均して670円だそうだ。部数でいうと、例えば滋賀ではピーク時の2万5千部が2021年に7600部となり、2023年版が最後の刊行となるそうだ。ピーク時の3分の1に減ったとか1万部を割ったとか、そのあたりが存続を判断するラインの1つになるのだろうか。手帳はISBNがついて書店にも並ぶ書籍の扱いということをあえて考えると、全体的に減っているとはいえ、1950年代あたりから毎年40前後の版元の1つ1つが少なくとも1万部以上売り続けているのはすごいなと思うし、何よりも県民手帳が消えゆく理由を、紙手帳離れとか材料費や印刷代の高騰だけに収束して記事にしているのは甘すぎる。

ちくま文庫の『文庫手帳』は2023年版も健在。いつからあったのかなと筑摩書房のサイトを見ると1988年版が最初のようだ。今ざっと検索しても過去のものを扱っている古書店が結構ある。そこで売っているのは書き込みのないものだろうけど、あえて使用済みの『文庫手帳』を集めている人はきっといるに違いない。背の「文庫手帳 ○○○○年」の下に自分の名前を書いて、年々増えるのを楽しみにしている人もいるだろう。いとうせいこうさんのパーソナライズ小説『親愛なる』(2014  いとう出版)の場合は、『親愛なる 四釜裕子様』というふうに本の背にも注文者の名前が印刷されて届いたものだ。小説自体にも注文者の名前がさまざまに登場して、さらに注文者の自宅界隈が舞台の一つとなっている。申し込んだ時の住所から最寄り駅などを判断して挿入するしくみだろうけれども、同姓同名の人物がたまたま小説に出てきても驚きこそすれ不思議というほどではないかもしれないが、加えて自宅の近所が出てくると俄然恐怖が増す。今、久しぶりに読んでもぞくっとした。

『本だったノート』(2022  バリューブックス・パブリッシング)という、読むところはないが文庫本サイズのりっぱな本がある。バリューブックスはオンラインでの古本買取販売をメインとして本にまつわるさまざまな試みをしているが、毎日届く2万冊の古本のうち半分は古紙に回さざるをえない現状に、古紙回収が悪いことではないけれど別のかたちで価値を生みたいとアイデアを重ね、ノベルティ用に作ったら好評だったので、翌2022年、クラウドファンディングで資金を募り製品化したそうだ。本文紙は牛乳パックの再生パルプを3割加えたザラ紙で、ところどころに文字のかけらが混じっている。手元のものには小さな「日」とか「は」とか「る」が見える。インクは捨てられる予定だった「廃インク」を利用、表紙カバーのデザインには自然なグラデーションを採用し、それは、濃度調整をすることで無駄になってしまう用紙が極力出ないようにするためらしい。私のは淡い黄色のきれいなグラデ。シルバーの帯が付き、表紙カバーの袖にはQRコード。ここから「本だったノート」のストーリーを読むこともできる。880円。本文紙には何も印刷されていないけれど、読後感が確実に得られる本だ。

古書をそのまま本文紙にした『100 BOOKS 1907-2006』(2006 ひつじ工房)という本もある。古書店ユトレヒトの代表だった江口宏志さんが、1907年から2006年までに出版された本の中から、1年1冊、1ページづつ切り取って、新しいものから順番に綴じて100部限定で刊行したものだ。その23番を、表参道のギャラリー同潤会で開かれたAAC展で購入したのだった。『100 BOOKS 1907-2006』の判型より元の本が大きければ裁ち落としだが、小さいサイズの本も結構あるから背固めはさぞや慎重になされたことだろう。選ばれた本たちは和書・洋書、ジャンルもいろいろ、紙質もいろいろ。中には書き込まれたページもある。1910年の『尋常小学読本』にはきれいな鉛筆文字で、「拝借」の「借」に「シャク」などルビが振ってある。1974年の『考えるヒント2』(小林秀雄 文藝春秋)には、「世の中には、時をかけて、みんなと一緒に、暮してみなければ納得出来ない事柄に満ちている」の横に太い緑色の線が引いてある。1987年の『夢をみた ジョナサン・ボロフスキーの夢日記』(イッシ・プレス)は図版の一部だが、説明が裁ち落とされているのでそれが何かわからない。気になってうちの棚の『夢をみた』で探したところ、「夢」と「カウンティング」によるインスタレーション(1979  ボロフスキー)の一部とわかった。でもこの本はノンブルがないので、ここにそのページを記すことができない。製本後の検品は結構大変だったんじゃないだろうか。

墓に入る。訃報はくる。

仲宗根浩

なんだろう、去年十一月から近所で不幸ばかりが一月も続いている。去年最後はうちの兄だったが。クリスマスも吹っ飛びお通夜、納棺とあわただしい。葬儀の後に納骨のため墓に入ることになった。墓の中の広さは二畳以上三畳未満くらい。葬儀屋さん、お坊さんの指示にしたがい今まで墓の門番をしていた父親の甕を一段上にあげるため祖父、曾祖父の甕をすこし移動し、空いた場所に父親の甕を置く。父親の甕があったところに、火葬された骨が入った甕を受け取り置く。収骨から数時間経った甕はまだ暖かかった。父親の納骨のときと違い葬儀屋さんの指示でだいぶ今時というか負担にならないようになっている。

おめでとうはない正月を迎え、集まってご馳走を仏壇に供えた後、皆で食べる。三が日を過ぎると訓練が始まり戦闘機の音が大きくなる。老朽化のためF15は引退し新しい戦闘機に置き換わり一段と音が大きくなり回数も増えている。

昔、一緒に仕事した人とわずかにLineでつながっている。平井さんの命日だ、と書き込むと当時部下だった近藤さんから平井さん宅にお花を送り、奥様から電話があり昔話をしたと返信。そんなやり取りをしていてしばらくすると田川律さんの訃報が届く。沢井先生のとこで内弟子をしていた丸ちゃんからFacebookにアップされて知ったと。去年平井さんが亡くなってメール、携帯電話のショートメールを送ったけど返信が一切無かった。もうかなりやり取りしてなかったから仕方ないか、とおもっていた。最後に会ったのは東京で悠治さんが音楽を担当した映画の上映会だったから十五、六年前、もっと前か。昨年、平井さんが亡くなった時と重複するが、コレクタという事務所に出入りするようになった。その前後かどうかはっきり記憶にないが舞台監督田川律という人がいた。田川律という名前は知っていた。兄が買って来い、という雑誌が「ヤング・ギター」と「新譜ジャーナル」だった。その当時のフォーク、ロックの楽譜や記事が載っていて、パシリとなった小学生はそんな雑誌も読んでるうちに田川律という名前も覚えた。名前を覚えていたがどのようなことを書いていたかは記憶にない。平井さんのおかげでいつの間にか舞台監督をやらされたため、田川さんの下でいっしょにコレクタが制作に関わる演奏会に携わるようになる。インターリンクフェスティバル、北九州の響ホールの杮落としから翌年の音楽祭、草月ホールでの師匠沢井一恵のリサイタル、悠治さんのコンサートシリーズ、クセナキス近作展等々。そうこうしていると、スケジュール他の都合で田川さんに頼めないものはこちらに依頼が来るようになる。そういう時も田川さんに舞台で必要なものがあると色々なとこに話をつけてくれて都合してくれた。ファッションデザイナーのイベントで時間がかなりあったので田川さんと演奏者が卓を囲みに行ってしまいヘアメイクの時間になっても戻って来ない、今配牌をして積もっている最中ですとも言えずなんとかごまかしたこともあり、と。色々な肩書はあるがわたしが知っているのは舞台監督田川律、それだけ。平井さんが出張の時にコレクタの事務所で仲間内集まりお好み焼き会をやった時もあったか。
あとは七日づつ数えて七七日までゆっくりと自分の中でお別れする。

むもーままめ(26)綿100%バンザイの巻

工藤あかね

すこし前に日本列島が寒波に襲われましたよね。連日これでもかってくらいに寒くて、参ってしまいました。あまりに寒いので、日本を離れると気温が下がるというジンクスがある松岡修造さんがどこにいるのか調べてしまいました。なんと日本が寒波の時に松岡さんはソチにいらしたそうで、ソチは春の陽気だったそう。さすが太陽神とあだ名されるだけあります。

冗談はさておき、この寒さを乗り越えようと、自宅にいるときはモコモコの服を重ね着して暮らしておりました。寝る時までヒートテックの上からフリースを着て、それはそれは温かく過ごしておりましたとさ。ところがっっっっ!!!! 連日、ヒートテック&全身フリースのコンボを決めていましたら寝汗がひどく背中に溜まり、よく眠れなくなりました。最初は眠れない理由がそれだとは気づかなかったのですが、しばらくしたら今度は全身に謎の湿疹が!!!

保湿クリームが合わなかったのだろうか、日帰り温泉の泉質が肌に合わなかったのだろうか、サウナ&塩がダメだったのだろうか、自宅の長風呂が原因だったのだろうか、最近野菜不足だったかな、などと、ぐるぐるぐるぐる考えていましたが、痒みは一向におさまらず。かといって皮膚科に行く時間も取れそうになく悩んでおりました。

ネットで画像検索し、私の症状に近い湿疹を探したら、あったんですよ、そっくりな症状の画像が。「ヒートテック湿疹」と書いてありました。初めて聞く言葉だなとは思ったのですが、どうやらヒートテックの化学繊維が汗を吸収せず肌表面の熱と湿度を奪って乾燥させてしまうために起こる湿疹のようなのです。

最初湿疹が出た日に、もしかして寝具にダニでもいるのかも?と思い、オットにどこか刺されたかを尋ねるも彼は無傷。ダニが私ばかりを狙うと言うのもおかしいなとは思ったけれど、ダニも退治できると言う布団乾燥機を即座に購入して使用。結果お布団がふかふかでいい気分にはなったけれど、どうもそれが湿疹の原因ではなさそう。

やはりこれは、「ヒートテック湿疹」を疑うべきかも、と思い立ったが吉日、すぐに対策を考えました。化繊を肌に触れさせないことが肝要とのことで、シルクのパジャマを買う口実ができた。まずネットで調べたがやたらお手頃価格のシルクのパジャマはどうも信用ならない。これは大丈夫そうと言うお店の商品を見たら、今度はとても気楽に日常使いできるような価格ではない。しかも毎日手洗いして陰干して、最低でも2着を揃えるなんて…私には…できない…うっうっうっ(涙)。

というわけで、綿100%のパジャマを購入。購入に際しては、複数の友人がとても有益な情報をくれたので、とても助かりました。で、寝てみたんですよ、綿100%のパジャマで。それが、ほんとうにすごいんですよ。もちろんフリースのようにモコモコほわほわではないのですが、布団に入ってしばらくするとその効果の凄さがわかりました。汗をちゃんと吸ってくれる。汗をかいてもひんやりしない。何より体が乾燥しにくく、かゆくならない。よく眠れる。翌朝、湿疹の様子をみたら明らかに改善しているではありませんか。調子に乗って、昼間出かける時も綿100%を着ることにしました。ヒートテックと違って重ね着すると太って見えるのが難点ですが、この際肌を治すのが先決ですわ。

そうしたらですね、なんと昼の綿100%着用1日でなぜか肩こりが消えました。わたしは冬になるとやたら帯電する体質で、ドアをさわると音が出ることもあるほどだったのですが、静電気もだいぶ弱くなったような気がしました。全身綿100%とはいかないけれど、少なくとも肌着を変えてみて劇的な効果を感じたので、これからしばらく試してみたいと思います。

堺公演でのスリンピ完全版上演によせて

冨岡三智

2021年度に引き続き2022年度(2023年3月)も堺市で公演をすることになり、いま追い込み中である。また、3月の公演にタイミングを合わせて2021年公演の公演映像をyoutubeで無料公開した。というわけで、今回はその両者の宣伝も兼ねての記事。

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どちらの公演も、第2部の演目はスリンピの完全版1曲のみ。これで大体50分である。前回は「スリンピ・ロボン」、今回は「スリンピ・スカルセ」を上演する。私は実はスラカルタ宮廷舞踊全曲(ブドヨ2曲、スリンピ10曲)を完全版で上演したいという野望を密かに持っている。この3月の公演で、ブドヨ1曲、スリンピ5曲…やっと半分だ。もっとも、スカルセは2011年にジャカルタのGelar社が記録映像を製作した時に私が指導して踊っているし、2012年には豪華客船「ぱしふぃっく・びいなす」号の船上で上演したから、実は3月で3回目。しかし、前の2回は録音を使用したので、生演奏で上演するのは今度が初めてになる。

スラカルタでは1970年に宮廷舞踊が一般に解禁されて以来、短縮版が作られてきた。宮廷舞踊はだいたい約1時間かかるので、それを1/4(約15分)か1/2(約30分)に短縮する。けれど、短縮するとどうしても辻褄が合いにくいところが出てくる。また、他人の手になる短縮版だと、その手法に賛同できない場合がある。というわけで、振付として納得できる完全版をきちんと上演したいと思うのだ。また、1時間かけて踊ることによって得られる没入の感覚というか三昧の境地は15分や30分の上演からは得られるものではない。ほとんど完全版で上演する人がいないからこそ、私は完全版で上演し続けたいなと思っている。

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3月に上演する「スリンピ・スカルセ」は私がジョコ女史から初めて習った完全版の宮廷舞踊曲で、思い入れが深い。ペロッグ音階ヌム調の音楽は瞑想的で、これを聞くと一気に雨季の夕方にレッスンをしていた頃の自分を思い出す。この曲にはレイエという動きが多い。レイエは辞書によると「(建物が)崩壊する」という意味で、倒壊していくように上体を折り、再び反対側に揺れ戻るような動きだ。大きな波のような動きにも見える。この曲には多く、またレイエではないが似たような動きも多いから、集中していないと動きが分からなくなることがある。私がスリンピに使われる動きで一番好きなのがこのレイエで、こんな動きを昔の宮廷人はなぜ思いついたのだろうか…と不思議に感じる。

「スカルセ」特有の部分はシルップにある。シルップは2人ずつ組になって戦う場面の後、負けた方が座る場面のこと。火山が鎮火している状態をシルップと言うように、音楽の音量も静かになる。このシルップの場面で、勝った方が衛星のように回転しながら負けた方の周囲を巡るのが美しい。ジョコ女史は自身が振り付けた「クスモ・アジ」という舞踊の中で、コモジョヨとコモラティという男女の神が廻るシーンでこの動きを使っていたし、スリスティヨ・ティルトクスモ氏の作品「キロノ・ラティ」でも、シルップのシーンで使われている。また、スラカルタ王家のムルティア王女が、父王パク・ブウォノXII世の80歳の記念式典のために振り付け、9人の王女で上演したブドヨ作品にも取り入れられている。実は、古典曲の中で魅力的な動きほど新作で使われることが多く、「スカルセ」のシルップ場面はそれくらい魅力的なので、実際に見ていただけたらなあ…と思っている。というわけで、堺までどうぞご来場ください!

●2023年3月11日、フェニーチェ堺・小ホール
『幻視 in 堺ー南海からの贈り物ー』公演
第1幕:
 音楽「夜霧の私」(山崎晃男作曲): 静かな音がジャワへといざなう…
 音楽「ババル・ラヤル」: 青銅打楽器の音色が力強く響く宮廷儀礼の曲
 音楽「ガドゥン・ムラティ」: 柔らかい音色の楽器と歌から成る霊力のある曲
 ※ スラカルタ王家の儀礼映像(Dr.IGP Wiranegara,M.Sn)の上映と共に
第2幕:
 宮廷舞踊「スリンピ・スカルセ」完全版

詳細➡ http://javanesedance.blog69.fc2.com/blog-entry-1095.html 

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●2021年10月23日、堺能楽会館 
『幻視 in 堺 ―能舞台に舞うジャワの夢―』公演

映像記録➡ https://www.youtube.com/watch?v=1Q4kTQbxwVE

図書館詩集4(三つの川が流れる土地に)

管啓次郎

三つの川が流れる土地に
天使が住む町がある
ペルナンブコ州でそう聞かされて育った
Anjoとはポルトガル語で天使
神と人をむすぶ御つかい
だが特にユダヤ=キリスト教を信じる者ではないので
どうもぴんとこなかった
空がまるごと神だと考えるなら
少しわかりやすくなる
空が大きな目としてきみを見ている
きみをすみずみまで見ている
地は人間世界
天と地をむすぶのは鳥だ
鳥は一羽でも百羽でも
どんな種類でも
そのまま天使なのだと考えればどうだろう
鳥の身振りを真似たわけでもないが
やがてぼく自身
空をくぐりぬけて
この土地にやってきた
三河安城
Chegou aquí na terra dos anjos!
快晴だ
青空にときどき閃光が見える
その名残がいつまでも心にとどまる
たくさんの羽が舞い
たくさんの目が刺す
あれが天使?
だがそれらをいざ目撃しても
光としてしか感知されないのだ
人間の感覚は一定のスケールにあるので
ある閾を超えるとすべては光
鳥たちはどう見ているのかな
この世の光をどう思っているのか
鳥と人には共通の信仰がありうるのか
少なくとも季節をわれわれは共有する
鳥たちの大きな秘密はかれらが
多にして一
一にして多であることだと
むかし鳥の言葉を研究していた
言語学者が話していた
鳥にはどうも群れであること
少なくとも複数であることに
本質的な意味があるように思える
ダンテの『神曲』で空(天国)にゆくと
多くの霊が集まってまるで
一羽の大きな鷲のように見えた
というところがあった
それはぼくには啓示だった
われわれは自分がそう感じたものを
ひとつのおなじものとして受けとめる
たとえばからすに出会いつづけるとき
それらからすのすべてをおなじからすとして
見ているのではないか
考えているのではないか
「おなじもの」との出会いが反復されるのだ
鳩だって
カルガモだって
翡翠だって
おなじことだ
見分けることのできない個体を超えて
その種をおなじ一羽の鳥として
受けとめている
このことに気づいたとき
どうにもさびしい気持ちになった
それは説明しても仕方がないことだ
種と個体はそのような関係にある
ある年のある季節の可憐な小鳥が
翌年また帰ってきたと思っても
その確証がもてなくなった
でもね、ジョウビタキのジョビちゃんが
その体長わずか15センチの体で
バイカル湖あたりから房総半島まで
冬ごとに飛んで来ては
彼が弾くチェロに留まるのを
みごとにフィルムにおさめた美術家がいる
それは心霊写真のように稀で
科学映画のように具体的だ
ジョビちゃんは島にやってきた
ぼくも島にやってきた
空をくぐり抜けて
わたった
われわれは誰もが
命という島にやってくるのかもしれない
こうして椅子にすわって
明るい窓に身をさらしていると
いやでもこの命への滞在時間を考えるようになる
ジョビちゃんがシベリアに帰ってゆくように
時がくれば
ぼくもまたどこかへ帰っていくのだろう
ただそのどこをどことも知らないだけ
そんなことを考えていると
頭がぼうっと痺れたようになる
ところでソクラテスのあの異様な病を知っていますか
あの話はおもしろかったな
「アリストデモスを連れて来たソクラテスは
たいへん遅れて到着します。途中で彼は、発作
とも呼べる状態に陥ったからです。ソクラテスの発作は、
街角でぴたりと立ち止まり、そのまま一本の足で
立ち尽くしているというものでした。この夜彼は、
何の用もない隣家で立ち止まってしまいました。
彼は玄関の傘立てとコート掛けの間に突っ立ってしまい、
もはや彼を目覚めさせる術はなかったのです」
(ジャック・ラカン『転移』小出・鈴木・菅原訳、岩波書店より)
誰にもFreeze!と声をかけられたわけでもないのに
凍てついたように動作を止め
思考の発作に潜ってゆく
自分の脳内へ
さすがにギリシャは鷹揚だ、それで
許されるのであれば
だがぼくにもそんな発作はしばしば起きるのだ
とりわけ図書館と牛小屋では
書物の森に迷いつつ
何かが呼びかけてくるともう動けない
片足を上げたまま歩けなくなる
そこでただ
考えているか読んでいる
そもそもずっと混迷している
心はもうそこにはない
猟犬なら片足をあげて
薮の中にいる雉子に注意を集中するところだが
ぼくの注意はむしろ拡散し
図書館の空間そのものまで拡がっている
発作だ
魂は鳥のように飛んでいる
錯視もはじまる
錯視とは客観的なもので
ひとりにそう見えて他の者にはそう見えないのでは意味がない
それは宮沢賢治が自問したことでもあった
ぼくがいう錯視はたとえばブルトンが『ナジャ』で
アラゴンから聞いた話として語っているようなもので
パリの街角にある
MAISON ROUGE (赤い家)という看板の文字が
ある角度から見るとMAISONが消え
POLICE(警察)に見えるというようなこと
このような錯視が共有されたとき
暴動が起きることがある
錯視のほうに
真実が宿ることもある
「きみにはわからないよ
彼女は心臓なき花の
心臓のようなんだ」とは
誰のせりふだったか
しかしもっとも悲痛なのはナジャ自身の
ひとりごとをめぐる言い訳だった
「だからね、私はひとりでいるときは
こうしてひとりごとをいうのよ
あらゆる物語を
自分にむかって語る
むなしい作り話ばかりじゃない
私は全面的にこんなふうにして
生きているともいえる」
そして至高のひとこと
「火と水がおなじものだということは本当」
そのように世界が見えたらどうしよう
そのように錯視が共有されたらどうしよう
そのように人々がふるまいだしたらどうしよう
いや、じつはそれが真実なのに
まだわれわれが気づいていないだけではないのか
地表にいてわれわれが
紫色の光の中を泳ぐいるかの群れだとしたら
都市の地下街は水のみちた川で
ヌートリアが巣をつくり
地上にはシギその他の鳥が住んでいるとしたら
陽気な話だ
そんな都会なら住んでみたい
と思ったとき足の縛りが解けて
また歩けるようになったので
歩いた
もっとも自然なtransition
目が覚めて心が覚めて
いろいろなことを考えられるようになった
目下の関心は山の暮らし
前世紀に奥三河の花祭りを見に行ったことがあったが
夜中にどうしても起きていられなくて
眠ったら最後めざめると
すべてが終わった朝だった
“Manhnã, tão bonita, manhã” という
カルナヴァルのあとのやさしい歌声が聞こえた
それもいい眠りは大切だ
起きているときだけこの世に参加して
眠りの国ではカワウソやカワセミと遊ぶ
そんな生活の自由を
取り戻してゆきたいと思う
強いられた眠りではなく
選んだ眠り
強いられた生活ではなく
選んだ生活
「図書館で本を選ぶこと」
がそのまま提喩になるように
ナジャ、そのためにぼくは戦って
きみのひとりごとを
誰にもじゃまさせない
錯視の革命

アンフォーレ安城市図書情報館、2022年12月28日、快晴

水牛的読書日記 2023年1月

アサノタカオ

1月某日 深夜、宮内勝典さんの『ぼくは始祖鳥になりたい』(上下、集英社)をひもとく。年末年始の静かな時間のなかで、この小説の一字一句を心身に刻みこむようにして読むことで、自分が自分であるための輪郭線のようなものが浮き彫りにされるのを確かめるのだ。今月、文化人類学者の今福龍太先生の解説を付して集英社文庫で再刊されるらしい。うれしいニュース。

1月某日 昨年から積み残した仕事やら何やらが膨大にあり、正月気分を味わうことはない。仕事関係の本の山に囲まれながら、粛々と原稿を読み、校正刷を読む。1月22日の旧正月まで「新年」を延期することにしようか。困ったことだ。

1月某日 終日、オープンしたばかりの神奈川県立図書館の新棟にこもり、仕事のための資料調査。

昨年から、編集者で在野の朝鮮民衆文化史研究者でもあった久保覚(1937-98年)の著作を探して読んでいる。『収集の弁証法』『未完の可能性』(久保覚遺稿集・追悼集刊行委員会)、共著の『仮面劇とマダン劇』(梁民基と、晶文社)や『旅芸人の世界』(朝日文庫)。昨年読んだ『古書発見 女たちの本を追って』(青木書店)の読書をきかっけに興味をもちはじめたのだが、久保が晩年、企画と編集に協力した本『こどもに贈る本』(第1・2集、みすず書房)や『女たちの言葉』(青木書店)もとてもよい本だった。同時代に交流のあった編集者の松本昌次、詩人の高良留美子、津野海太郎さんや四方田犬彦さんの著作にも目を通し、久保をめぐる証言を拾い読みする。

1月某日 関西からやって来たライターの枡郷春美さんと江ノ島を散策。すこし風があるけれど、晴れていて気持ちがいい。海の向こうに、冬の富士山。みんなで江島神社でお参りをしてお団子を食べておしゃべりをしたあと、『イルカと錨』5号をいただいた。枡郷さんが、アメリカへ移民した曾祖父について書いた「移民日記 時のこえ」が掲載されている。

1月某日 今月からホメロス『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読む会に参加。古代ギリシャの戦場で神々や人間が延々と争うのだが、かれらが争わなければならない根本的な理由は判然としない。正体不明ながらも圧倒的な力によって人間は次から次へと斃されていくのだが、死の描写が異常なまでに生々しい。この残酷なリアリズムが強烈な印象を残す。

1月某日 大学で学期最後の授業。学生たちがチームで制作したZineを受け取る。テーマはアニメ、スイーツ、小説、音楽、ごはん。5つのチームがそれぞれ企画や編集、エディトリアル・デザインの解説をする発表を聞いて講評し、授業は終了。かれらは座学の時間はだるそうにしていても、実習にはわりと熱心に取り組む。デザインやゲームに関心のあるという学生と少し話して、大学図書館で仕事用の資料調査をして帰宅。

1月某日 東京・西荻窪の忘日舎で店主の伊藤幸太さんとともに自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」の番外編を開催。テーマは「2022年の詩とことばを振り返って」。『現代詩手帖』2022年12月号「アンケート 今年度の収穫」で取り上げた5冊の本を紹介(5冊の本のタイトルは先月の日記に記した)。それに加えて、「アンケート」で取り上げることのできなかった文月悠光さんの詩集『パラレルワールドのようなもの』(思潮社)、あする恵子さん『月よわたしを唄わせて』(インパクト出版会)も。今回もまた、参加者のみなさんと本についてゆっくり語り合うよい時間だった。

1月某日 「旧正月」を迎える。ところが「新年快楽」とはいかず仕事やら何やらは依然として積み残されたまま。仕事のために読まなければならない本の山もどんどん高くなっていって途方に暮れる。読むことは、山上に岩を運んで転がり落ちる岩を山上にふたたび運ぶシジフォスの労働みたいなものだ。

1月某日 夜、韓国の作家ぺ・スアの小説『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(斎藤真理子訳、白水社)を読み始める。タイトルもすばらしいし、喪失の気配の中で書物が言葉以前の何かを喚起する様子を描く冒頭のシーンもすばらしい。「ああ、これは好きな小説だ」と出会いの感動をひとり嚙み締めながら、物語に引き込まれていく。

218 石の索引

藤井貞和

漂う
石のイコン 暗黒の
投石機
石で
狙うあなた 賢者の
石が川を遡る あなたの中に尽きることなく
石が生じるのを
ぼくは聞く ルーネ文字が刻まれた
石 その
石は 捕獲するものや捕獲されるものたちの
皮を赤くなるまで剥ぐ
舗石の 数知れない影の中
原石にあらがって
段石――レンブラント
岩石の
机の上で 見る力を持った
石 甲虫たちの背後への
落石 ぼくの苦痛の

(パウル・ツェラン『雪の区域(パート)』〈飯吉光夫訳〉を利用しています。というか、そのままです。ごめんなさい。)

二度と見つからない

高橋悠治

時は移る。忘れていくことも多い。ピアノを弾く職業から休みを取って、作曲でもしようと思っていたのに、何もできないうちに、休みの終わりが見えてきた。カフカの日記のどこかで見た二つの動詞、einfallen と nachziehen、思いがけず出会うことと引きなおすこと、と日本語にしてみるだけで、もう元とは違う色合いを帯びてくるので、元の箇所を見直そうと思ったが、見つからない。日本語で「あしらい」と「みはからい」という二つのことばも同じように、どこかから取り出して使ってみるが、これらも結局はピアノを弾く手の動きを言っていることに気づいてしまう。17世紀フランスの鍵盤楽器の前弾きと崩しのやり方を指した non mesuré (拍がない)と brisé (崩し)に似た手の動きを言っている、としても、これらのことばが前提にしている拍や和声という全体がない状態で、ことばだけ転用できるのだろうか?

ことばも使っていないと、だんだん忘れてゆく。すると、ことばの端の方から別な動きが始まって、意味を崩していく。それを「もどき」と呼べば、「もどき芸」の色がついてしまうから、そうはしないで、待っていると、ことばや意味の前に、外れた動きが生まれ、その次の動きを思いつくと、それが定着する、というような経過を辿って、ゆっくり進んでいくが、それでも全体が予定調和に収まっていくのに気づく時が来る。

踏み出した一歩が空を切ることが時々ないと、安定したリズムが主役になる。と書き進めて、ふたたび気づく。こうして書いていると、現実から離れていくばかり。

ことばに逸れることなく、手の動きの前に、身体、不安定な状態、細かく揺れ、震えたあげくに、一歩踏み出し、その一歩から、次の一歩に、転ばないようにするには、止まってはいられない、そんな状態が、ひとりでに続く設定をしておくのには、どうするのか、それが今の課題。