221 良心・2

藤井貞和

現代詩は しかしたいていの場合に、大魔王との対立を避けて、
裏通りの日常生活の悪人、微小な悪魔たちを自分のなかに飼うことをするから、
大きな文学になりにくいのです。

わたくしの思いは「大きな悪魔」そのものになく、「微小」な、
それらにとどまるのでもなく、その《あいだ》に定めることになりましょう。

とそこまで述べたとき、うしろの正面がひらかれ、大きな鬼が姿をあらわしました。
人食い鬼で、わたくしをむしゃむしゃ食いはじめました。 肉も、骨ものこりません。

〈藤井よ、おまえはきょうから鬼である。 これを食らえ。〉 骨と肉とを吐き出して、
わたくしに食わせました。 なんだ、私の骨と肉とであります。

(良心なんて、不味(まず)い食事ですよ。それでもあなたは食らいますか。皿を新しくして、おいしい料理へと作り替えませんか。消しましょう。)

311 トルコの旅

さとうまき

さて、僕は、久しぶりの海外旅行に胸をときめかせながらも、あまりにも日本に長くいすぎたために旅行の仕方をすっかり忘れてしまっていたのである。最後にヨルダンに行ってから3年もが経過していた。果たして準備ができていないことに不安を覚えながらもともかく旅に出た。

ワルシャワからイスタンブールに到着すると、飛行場には、シリア難民のムハンマッドさんが出迎えてくれた。今回の地震でいくらかお金を集めることができたので、トルコで被災したシリア難民にもお金を渡すことにしたのだ。

ムハンマッドさんは、シリアのダラアで生まれ育った。2011年の内戦は、ダラアの学校の壁に子どもたちが落書きをしたことに腹を立てたアサド政権の警察が子どもたちを連行して暴行したことで一気に広がって行った。ムハンマッドさんは、兄夫婦を失い、残された家族を一手に面倒を見て、今ではイスタンブールで暮らしている。ボランティアなのか、有給なのかはよくわからなかったが、トルコ政府に登録しているという小さなNGOで働いていた。

僕はできたら、トルコの被災地域まで出かけて行って何かしたかった。東日本大震災の時に、多くの人々が感じた「あれ」。つまり、自分が役に立たないっていうことを実感して、「死にたくなる」ような感覚。正確には、「生きていることの意味」を見いだせないという、あの感覚だ。当時の新聞などで、芸能人や芸術家と呼ばれる人たちの多くが、「あれ」のことを語っていた。

今の僕は、世界でどのような悲劇が起ころうが、自分は駆けつけることはない。外からつつましく応援するだけだ、それが年寄りがやる事だと思っていたが、「あれ」がどうしてもモヤモヤと沸き起こってくる。「貧乏な年寄りが行っても足手まといになるだけだ」というまっとうな考え方だけではなくて、僕にはそういうことをする体力も、気力も、財力もないというのが本音であり、トランジットでトルコに行くなら、イスタンブールの人たちがどういう風に、「あれ」を感じて苦しんでいるのか、そこは寄り添いたいなあという気持ちもあり、福島を応援してくれた友人のトルコ人に会いたくなったのだ。それで3月11日にトルコで飛行機を降りる事にしたのである。

トルコにはシリア人のネットワークもあり、いろいろ面倒を見てくれることになった。ともかく、イスタンブールにつくと、ムハンマッドさんが、わざわざ僕の名前を書いたプラカード(日の丸)付をもって迎えに来てくれ、ホテルまで一緒についてきてくれたのだ。

ムハンマッドはほとんど英語が喋れないので、通訳を買って出たアブドラとホテルで合流し、今日はガラタサライの試合の日だったので、僕たち3人はサッカースタジアムに向かった。といってもサッカーの試合を見に行くわけではなかった。確かめたいことがあった。なかなかタクシーが拾えず、途方に暮れていた老婆も一緒に、途中まで送ってあげた。「ここの建物は老朽化しているのよ。私たちの住んでいるところだっていつ壊れるかわからないから、怖くて仕方がない」という。

私たちがガラタサライの本拠地、ネフ・スタジアムについたときは、殆ど試合は終わりかけていた。トルコで最大のスタジアムで5万2000人が収容でき、いつも満席になるという人気のクラブだ。長友佑都も所属していたこともあった。今回の地震では、いち早く救援物資を現地に届けたり募金運動を積極的に行っていた。被災地では、ハタイ・スポルというクラブのクリスチャン・アツという元ガーナ代表選手や、クラブのスタッフ数名も死亡が確認されており、サッカー界も沈鬱な空気が漂っていたという。

この日もスタジアムは満席で、ガラタサライが勝利を収めていた。アブドラに頼んでスタジアムから出てくるファンに地震のこととか聞いてみた。「勝てたのはうれしいが、あまりいい試合じゃなかった。被災地ではサッカー選手も含めて多くの人たちが亡くなっている。我々のチームが、被災地支援を行っていることを誇りに思います!」

アブドラは、シリア難民で大学に通っているが、自分の話をしてくれた。「先日アンタクヤに行ってきたんだ。悲惨だった。僕は大学で勉強しているんだけど、同級生のシリア人だけじゃなくてトルコ人も家族を亡くした。最初の3日はほとんど救援チームもこなかった。4日目になってようやくチームが入ってきた。僕たちは誰でも死ぬ可能性があった。家族たちは天国で合うことができたと思う。安らかに眠ってほしい。」美しくライトアップされたスタジアムから流れ出る人々を見ながら涙ぐんでいた。

サッカーの試合を見るわけでもなくここへ戻ってきたのはそれなりの訳があった。 スタジアムにいる居心地の良さ。ちょうど4年前、最後のイラク出張の2週間は本当に地獄だった。そこで見たものは墓場まで持っていかなければならないような代物だった。もううんざりだった。ユニフォームに着替えてこっそりと一人でホテルを抜け出した。知らない人達と肩を組んで応援した。その時だけは幸せだった。ガラタサライは優勝して、ホテルに戻った僕は、何もなかったようにスーツに着替え、夜中の飛行機にのった。その後2度とイラクに行くことはなかった。
 
あの時の一体感、今世界はあの時の一体感を必要としているのかもしれなかった。
路傍には屋台が出ていてケバブサンドを売っている。日本で言うのとは違い、ひき肉を固めて焼き、フランスパンにはさんだもので、塩辛いヨーグルトドリンク付きだ。
相変わらず、肉は堅かったが4年前と同じ味がした。

苗字と名前

北村周一

足早に来ては去りゆく街宣の
 マイクの声は疲れを知らず

車上より手を振りながらウグイスの
 声はすぎゆく選挙の春は

街宣のマイクの声もたからかに
 選挙の春がまたも来ている

休みなく笑みをふりまく乙女らを
 乗せて選挙はいまがたけなわ

ゆく春を惜しむごとくに道々に
 選挙カーあり声を枯らして

街宣のクルマゆき交うこの町の
 空をあおげばオスプレイまで

ウグイスの声をマイクにのせながら
 最後のさいごのお願いに来る

選挙カーのウグイスさんと目が合って
 おもわず笑みを交わしてしまう

投票所まえの通りを行き来する
 街宣車の数ひごとに増しおり

きょうでみんなお終いとでもいうように
 街宣車は来ぬ候補者をのせて

候補者の肉声あちらこちらから
 聞こえおりあすはもう投票日

人の名を連呼しているゆうぐれの
 声は賑わし投票日はあした

マイク手に熱意あらわに道を説く
 候補者もまた夕暮れのなか

期日前投票に来て書き写す
 つごう四人の苗字と名前

持参せし2Bエンピツ取り出だし
 じっと見ている候補者名簿

短冊のような用紙に見も知らぬ
 ひとの名を書き投票箱へ

すずやかな新芽のほどのおもさもて
 渡されている投票用紙

ちり終えし花の樹のした候補者の
 顔と名まえはいまが満開

道端にならぶポスター眺めつつ
 思うことなし選挙が近い

選挙用の顔が居並ぶ一画を
 通りすぎつつ投票へ来ぬ

投票に来ての帰りに眺めゆく
 顔となまえはたぶん忘れる

かんばんと地盤とカバン三つとも
 継がせて貰って世襲となりぬ

声上げて覚えてもらうしかないと
 連呼している苗字と名前

候補者の顔となまえが集いたる
 立て看板はいつしかに消ゆ

司法の手に委ねられたる一票の
 格差すなわち主権のかるさ

ひげを剃りツメを切りして散髪に
 向かいしごとも投票へ行く

何事もなかったように春は暮れ
 なにも言わないテレビを笑う

やわらかに期待させては翻す
 癖あるひとの袖口は暗し

むもーままめ(28)飲酒時に起こる謎の全能感について、の巻

工藤あかね

GWですね。感染症対策でみんなが人の集まるところへ行くのを控えていたこの2年間とはまったく違う光景が広がっています。何にも解決なんてしていないのに。
コロナで行動制限がはじまってから、いろいろなことがありました。コロナ禍で行きつけのお店がいくつも閉店したこと。知人のご家族が危篤のときに、コロナ対策だと病院に言われ、ご家族が最期の瞬間に立ち会わせてもらえなかった話。国際結婚しているカップルの奥様が外国出身で出入国が難しく、出身国に戻って体調不良の親の顔さえ見るのが難しくなっていたこと。世界中を飛び回っている演奏家の知人が、国ごとに基準の違う証明書の準備に困り果てていたこと、入国後の隔離でかえって体調を崩してしまったこと…。

個人的にはコロナで自宅にこもっていた時期、外食できないせいもあって、酒量が増えました。予定していた本番がいくつも中止になったので、朝起きた時の体調を敏感に考える必要もなくなり、自宅に篭る時間も極端に増えていました。夕方くらいになるとその日何を飲むかでソワソワし、食事が終わってから空のボトルがさらにもう一本増える。なんとも自堕落な生活でした。しかもタチが悪いことにワインのボトルが一本空く頃には、謎の全能感が満ちてきて、まだ飲めるような気がしてしまうのです。あれって、いったいなんなのでしょうね。飲まない時の自分はそんなに抑圧されているのだろうか。だとすれば、アルコールひとつでそんなに解放されるなんて、随分簡単ですね。

コロナ禍での飲酒時、我が家ではまず、スパークリングワインのボトルの量が少ないんじゃないかという疑惑が持ち上がりました。750mlと書いてあっても「このワイン量が少ない気がする…」と、どちらともなく言い出し、最終的には「もう一本飲もうか?」という流れになるのが常でした。お酒が好きな友人と食事をした時にも、同じ現象が起こったので、わりとメジャーな行動パターンなのかも。とはいえ、量が少ない疑惑は単なる言いがかりであることはあきらか。へんな疑いをかけたことをお酒のメーカーさんに謝らなければ。なんといっても、飲んでいる時はまだまだ行ける気がしても実はしっかり酔っていて、まっすぐ歩けなかったりするのですから。

不思議なことに、アルコールだけではなく食べ物にも同じ現象が起こりませんか? まだ飲める気がしている時には、まだ食べられる気もします。さんざん食べた後にもかかわらず、飲食店で店員さんを見るなり「焼きそばください」「お茶漬けください」とか口走ってしまうのです。お水でも飲んで大人しく帰ればいいのに、もうひと押し胃袋をパンパンにしないと気が済まないあの感じ。それで帰りの道すがら、コンビニでプリンとかシュークリームとかを買い込み、家に帰るとそのことを忘れてバタン。翌朝それらを冷蔵庫で発見して「このお菓子なんだろう?」なんてとぼけたことを思ったりするのです。

翌朝、胃が重かったりするともうこんな飲み方はやめようと思うのに、夕方になるとまたソワソワ。これの繰り返し。つくづくダメな行動パターンだなと思いつつ、なかなかやめられないのがかなしい。最近はコロナ禍がひところよりシビアな感染拡大防止状況ではなくなってきて、人々の行動範囲も広がりました。個人的には一日中アクティヴに動いたり働いたりしているうちに、お酒を飲む時間がない日や家に帰るなりバッタリ倒れ込むように眠る日も増えてきました。これって健康的なの? それとも?

4月にボブ・ディランがやってきた!

若松恵子

春にボブ・ディランが来日した。2020年4月のツアーがコロナで中止になって、もうボブ・ディランの音楽を生で聴くことはできないのではないかと思っていたが、突然のお知らせに大げさに騒ぐ暇もなく、4月になってボブ・ディランがやってきた。

今回は、4月7日から16日まで。大阪3公演、東京5公演、名古屋3公演の計11公演。2020年に8年ぶりに発表されたオリジナルアルバム「ラフ・アンド・ロウディ・ウエイズ」を携えた最新ツアー(2021年~2024年)の一環としての来日だった。

有明にある東京ガーデンシアターで行われた東京公演の初日と最終日に出かけて行った。前回にも増してチケット代は値上がりし、「こんなに払っても聴きたいか?」とディランに試されている気がした(採算の問題なのだろうけれどね)。入り口でスマートフォンを指定の袋に格納させられ(どういうしくみか、パチンと閉めたらテコでも開かない)金属探知機を体に当てられ、手荷物検査をして双眼鏡が没収された。「歴史上の人物、ボブ・ディランを見た」と自慢したい人の出鼻をくじく対応なのである。こんなめんどうな作業をさせちゃって、さすがボブ・ディランだなと愉快になった。こんな対応をしているにも関わらず、さっそく隠し撮りされた日本公演のライブ映像や音源が配信されていて、ファンの根性もたいしたものだとうれしくなったりもするのだけれど。

ステージは薄暗く、中央に置かれた小さなグランドピアノを弾きながらディランは歌う。ギターを抱えてハーモニカを吹くディランのイメージから更新できていなかった人には、誰がディランかすぐには分からない。「風に吹かれて」も「ライク・ア・ローリングストーン」も「フォーエバー・ヤング」もやらない。かつてのヒット曲を期待して行った人には、知らない曲だらけで退屈だったのではないかと思う。知っている曲についても、ただいま現在のアレンジで演奏されているので、今日のディランに興味を持てないとちっとも面白くないだろう。

ディランが「うた」のなかから見出したリフレインをピアノで弾く。時に調子っぱずれでバンドのアンサンブルを壊しかねない突然のフレーズに、バンドメンバーが答えつつ演奏を展開していく。メンバーも手練れのバンドマンなのである。譜面通りでない一夜限りの演奏がうまくいったら、それこそがツアーを回るやりがいというものではないかという演奏なのだ。客もうまくいった演奏を聴いてうれしい。演者とともにその喜びをノリとして共有できる幸せ。81歳になった今も、予定調和ではなく、夜ごと新鮮に音楽を作り続けている姿に、ディランファンの多くは心惹かれているのではないかと思う。客の期待通りにやらないディランはガーデンシアターを満席にすることができなかったけれど。

ディランの熱心なファンからも信頼されている、みうらじゅんが、ラジオ番組で来日公演について話していて共感した。みうらじゅんは、「英語がわからないのに、なぜこんなに面白いと感じるのだろう。そのひとひとりの全てが歌われているからなんじゃないか」と言っていた。「英語の歌詞をなんにも理解せず、時々聞こえてくる単語、たとえば“キーウエスト”にしびれてる自分に、すごくない?と思う」と。ディランの「キーウエスト」に、私もしびれる。「キーウエスト」と歌われる1語に込められているディランというひとひとりの全て。

蜂飼耳の書評集『朝毎読』を読んでいて出会った印象的な文章を思い出す。
「いつ、だれが書いたのか、名前があってもなくても、どこかのだれかが書いた言葉や伝えた言葉が、読むこと、受け取ることを通して、身体を通過していく。抜けていき、忘れてしまうこともある。というより、むしろその方が多い。抜ける途上で、思いがけず身体に残るものが生じる場面もある。それは読書の記憶、痕跡となる。数えきれない記憶や痕跡が地層を成していく。この景観は、外側からはほとんど見えない。その人だけが知る精神的な地層だ。人が人と出会うときには、知らず知らずのうちに、さまざまな意味において、この精神的な地層を見せ合うものだ。心の中にある道や谷や崖、言葉の蓄積が模様を描く地層を、そっと見せ合い、何事かを納得する。読んでも忘れてしまう本や言葉が、そこに計り知れないほど含まれていることは不思議だ。覚えていることだけが重要なのではない。忘れてしまい、もはや復元できない経験は、覚えている事柄と同じくらい大切でかけがえがない。これは、ある程度大人にならないと気づかないことかもしれない。子どものあいだは、覚えなければいけないことがあり過ぎるから。」
「言葉」を「音楽」に置き換えて、この文章を読むこともできるだろう。演奏によって垣間見えるディランの地層は、とんでもなく深い。

都電の線路沿いの家

植松眞人

 東京に唯一残った路面電車が走るのは、ほとんどが専用軌道で、路面電車という呼び名から想像するような光景とはほど遠い。車や人の通行の邪魔にならない隅っこを申し訳なさそうに走っている路面電車には、バスが自由を奪われたような貧しさがある。
 私が乗る駅はあまり人の乗り降りがないところで、そこから乗り込んで駅を三つほど過ぎたあたりで降りる。時間にするとほんの数分で、民家の軒先をかすめるように走るばかりで目を見張るようなものはなにもない。
 ただ、かすめるように走るとは言いながら、これ以上近づくと屋根と電車が接触するのではないかと思うほどの場所がある。少し軌道がカーブし、そのカーブに合わせて、周辺の民家との距離もほんの少し軌道から遠のいている場所があるのだ。しかし、その一軒の家だけは逆に軌道に近づいているように見える。他が下がっている分、一歩前に出ているようにみえるのだが、周囲の人たちはその風景を見てもなにも思わないようだ。私だけが毎回驚き、時には息が詰まるほどに動揺してしまう。路面電車に乗る度に、毎回見ている風景なのに、毎回同じように驚いている事自体がおかしいのはわかっている。それでも、その微妙な差異とでも言えるような違和感は、慣れるどころか次第に際立っているように思えてしまう。
 昨年の五月五日、その日も私は路面電車に乗っていた。その路面電車が通過する場所には都内の大きな繁華街もあれば、学生街もあり、遊園地もあるので、意外なほどに電車は混んでいた。そして、私は自分が降りる1つ手前の駅で、降りる人たちに押し出されるように一度ホームに降りてしまうことになった。もちろん、一度ホームに降りて、降りる人たちをやり過ごしたらもう一度電車に乗るつもりだった。しかし、私はホームに足を付けた途端に電車に戻ろうという気持ちにはなれなかった。路面電車の駅の間隔はそれこそバス停と同じくらいでとても短い。目的地の駅まで歩いたってたかが知れている、という気持ちと、そう言えばあの毎回驚いてしまうカーブがすぐ近くだということに気持ちを奪われたのだ。
 ここから私の本来の目的地までは、路面電車沿いの歩道がない。路面電車を隠すように民家が建ち並んでいる。私は時折民家の合間から見える路面電車の軌道を確かめながら歩き始めた。いままで歩いたことのなかった道を歩き、知らなかった町名を確認しながら私は歩いた。歩きながら、いつも電車の中から見ているあのカーブにそろそろ行き着くはずだと注意はしているのだが、民家に邪魔されてはっきりとはわからない。そうこうしているうちに、本来の目的の駅に着いてしまった。しかし、どう考えても私はここまで真っ直ぐに歩いてきたように思う。どこかで道を折れた記憶がない。私はなんとなく不安になってもう一度来た道を返した。しかし、ここまで来るときには軌道ばかり気にしながら歩いていたことで気付けなかったが、いま来た道を見ると、どう見ても道は真っ直ぐでカーブなどしていないように見える。
 私はまた振り返って、目的地の駅の方を見つめ、また振り返って、来た道を見つめた。そして、とても仕方のない気持ちになって、その真っ直ぐに伸びている道に沿って走る路面電車が、民家で見え隠れしている間に、ほんの少し蛇行している様子を想像してみた。(了)

ボブとエリックの日々

篠原恒木

四月はボブとエリックの日々だった。僕とエリックではない。ボブとエリックだ。

ポール・サイモンに『僕とフリオと校庭で』という曲があったが、あの歌がラジオで初めて流れたとき、おれは『僕と不良と校庭で』だとばかり思っていた。ずいぶんと剣呑な歌だと感じたが、曲を紹介した当時のディスク・ジョッキーの発音が悪かったに違いない。いや、こんなことは今回の話とまったく関係がなかった。

ボブ・ディランの東京公演は四回行った。エリック・クラプトンの東京公演には二回足を運んだ。だから四月はボブとエリックの日々だったのだ。雇用延長、低収入の身で馬鹿なカネの使い方だと自分でも思う。妻にバレたらエライことになる。少ないへそくりは底をついた。
でも、もういいんだ、とも開き直っている。おれだっていつ何が起こるかわからない。少しでも観ておきたい、聴いておきたい、と思ったら、その欲望には従うべきなのだ、もうおれだってそういうトシなのだ。文句あっか。文句のあるやつは前に出て来い。妻が真っ先に出て来るだろう。彼女が前に出て来ると怖い。だからナイショなのだ。

ボブのライヴは有明の東京ガーデンシアターで行なわれた。素晴らしいコンサート・ホールだった。アクセスは不便だが仕方ない。へそくりがなくなったので、ツアー・グッズは買わなかった。おれは思うのだが、ヒトはあんなにイケていないTシャツやキャップを買ってどうするのだろう。まさか日常であれを着るのか。それとも記念品感覚なのだろうか。おそらくは後者だと信じたい。おれはライヴに行くと、記念品代わりにいつもパンフレットを購入するのだが、最近のボブのツアーはパンフレットを販売していない。GOLDシートのチケット購入者には特典として「記念品」が用意されていたので楽しみにしていたら、安っぽいトート・バッグとその中にいろいろと細々したモノが入っていただけなので、少しがっかりした。いま、おれのもとにはそのトート・バッグと中身のおもちゃが四セットある。四回行ったからだ。同じものを四セットも要らないのだが、貰えるものは貰っておこう。

席は四回ともステージ中央で前から二列目だった。僥倖ではないか。おれは席に座って間近に迫るステージを眺めながら、高校時代を思い出していた。ボブ初来日公演のときのことだ。おれは始発電車に乗ってプレイガイドの行列に並んでチケットを買ったのだ。インターネットなんて影も形もなかった頃だ。WEB予約などあるはずもない。少ない小遣いを貯めて足を運んだ初公演の会場は日本武道館だった。高校生のおれは二階席の座席に座って、ライヴが始まるのを待っているときにフト思ったものだった。
「おれはいまボブ・ディランと同じ屋根の下にいるのだ」
そう考えたら、感動、感激のあまり、おしっこがチビりそうになったのだ。ライヴが始まると、はるか遠くのステージにいるボブは豆粒ほどの大きさ、いや、小ささだったが、それを観たら鳥肌が立って涙が出た。ところがどうだ、今のおれは。
「お、いい席じゃん。嬉しや嬉しや」
「それにしても三階席がガラガラだなぁ。チケット代が高すぎたせいかな」
という、まことにもって味気ない感想しか胸に迫ってこない。
「これを堕落と呼ぶのだ」
と、おれは自分を戒めた。これでは正真正銘のすれっからしではないか。あの瑞々しい感性、若々しいミーハー気分はどこへ行ってしまったのだ。

四公演とも開演時刻きっかりにボブは現れた。二分前に登場したこともある。彼と待ち合わせをするときは十分前に到着していないと不機嫌になるだろう。以後気をつけよう。バンド・メンバーたちが登場する寸前にはいつもベートーヴェンの交響曲第九番の第一楽章が十秒ほど流れた。シブい。この選曲からしてボブは観客を煙に巻く。ステージにボブたちが現われても、客電は完全に落ちない。これでは満員とは言い難い客席の様子がボブの目から見えてしまうではないか。機嫌を損ねてそのまま帰ってしまったらどうしよう、と不安になったが、おれの目の前に現れたボブはすぐピアノの前に中腰で陣取った。グランド・ピアノが客席の正面を向いていたので、おれの座席からはボブの顔しか見えなかった。ボブが気まぐれを起こして、セッティングしてあったマイクの位置を下げた日があったが、その日はボブの口元がピアノで隠れてしまった。近距離でありながら顔の上半分しか拝めなかったのが悲しかったが、仕方ない。

四公演すべてのライヴ・レポートを書いてもいいのだが、退屈な文章になるのでやめておく。おれには音楽的な素養もない。だが、そのかわり、以下にボブがライヴでおれに伝えたかったことを演奏曲順に並べておこう。これがボブからおれへの手紙だ。十七曲分ある。

言いたいことはさほどないんだ
おれは砂だらけの土手に座って 川の流れを見つめている

おまえがおまえの道を行くのなら おれはおれの道を行く

おれはギリギリまで進む 最後までまっすぐ行くぞ
失われたものすべてが再びかたちになるところまで突き進むのだ

おれは一番だ 唯一無二だ ベストな人間のなかでラストの一人だ
残りの奴らは埋めてしまえばいい 

いつかすべては美しく輝くだろう おれが傑作を描くときは

おれの魂は苦しんでいる おれの心は戦場のようだ

おれは誰かを生き返らせたい 言っている意味は分かるよな

今宵、おれはきみの恋人になるのさ

おれはすべての希望を捨て去り ルビコン川を渡った

一日中働いて おれは甘いご褒美を貰う 
おまえと二人きりになることさ

おれは自分が正しいと思うこと、ベストだと思うことをしている

おまえがイギリスやフランスの大使だろうと
ギャンブル好きだろうと ダンスが好きだろうと
ヘビー級の世界チャンピオンだろうと 
おまえは誰かに仕えなければならない
まあ、それは悪魔かもしれないし 神かもしれないが
おまえは誰かに仕えなければならない

おれは絶望の長い道を旅してきた
ほかの旅人とは誰一人として会わなかった
おれは決めた あなたにこの身を捧げることを

そう、愛は愛だ 消え去るものじゃない
そう、愛は愛だ 消え去るものじゃない

おれは天命より長生きしてしまった
おれはいま身軽な旅をしている ゆっくりとhomeに向かっている

さらばジミー・リード さよなら おやすみ
おれはあなたの王冠に宝石をつけ 明かりを消すよ

おれはぶらさがっている 人間の現実性というバランスのなかで
落ちていくスズメのように ひとつひとつの砂粒のように

以上が、ボブがおれに伝えたかったことのすべてだ。おれはありがたくそれらを頂戴した。いや、そうではない、それはおまえの主観に過ぎない、という意見もあるだろうが、音楽や文学、絵画、映画などを客観的に判断してどうするのだ。主観のみで味わうべきだろう。そして、おれはこれらのディランの言葉を「愛、裏切り、信仰、苦悩、老い、傲慢、欺瞞、諦観、死、望郷」などというイディオムの羅列では語りたくない。あ、語ってしまった。いけないいけない、もともとボブの歌にメッセージなどはないのだから。

演奏は緊張感あふれるものだった。ボブの弾くピアノは相変わらず滅茶苦茶、いや、気まぐれだった。ギターやベースはボブの周りを取り囲み、必死に彼の手元を覗き込み、即興でフレーズを弾いていた。いつコード・チェンジをするのかはボブの気分次第だ。十四曲目には「カヴァー曲」を演奏するのが決まりで、ずっとThat Old Black Magicをプレイしていたのだが、東京公演ではカヴァー曲が日によってコロコロと変わった。これは嬉しいプレゼントだった。四月十二日は、なんとグレイトフル・デッドのTruckin’を初カヴァーしてくれた。おれは興奮してその日のライヴが終わり、外へ出てスマートフォンを見たら、
「今夜、ボブ・ディランは東京公演で、彼のキャリアでも初披露となる曲を生演奏した」
と、英語のニュース・サイトで速報が配信されていた。さすがはノーベル文学賞受賞者、セット・リストが一曲変わっただけで国際的なニュースになるのだと感心してしまった。十四日のカヴァー曲は同じくデッドのBrokedown Palaceになり、翌日の十五日にはバディ・ホリーのNot Fade Awayへと変わった。カヴァー曲のコーナーになると、バンド・メンバーがボブの周りに集まり、短い打ち合わせをして演奏が始まっていた。どうやら楽屋では何の曲を演るかは決めておらず、候補曲だけ挙げておいて、ステージ上のその場の気分で決めていたようだ。じつにボブらしい。最近のツアーではセット・リストが固定されていて、サプライズはなしというパターンが多かったので、これには胸がときめいた。もっとも昔のライヴでは、日によってセット・リストが半分近く変わる時代もあったので、それに比べれば大したことはないのだが、予想外のサーヴィスだった。

機嫌のいい日には「サンキュー」という言葉が二回ほどボブの口から出て来る。これだけで観客は大騒ぎだ。
「あのボブが喋った!」
という反応だ。今回のある日の公演では「サンキュー、ベイビー」と言ってくれた。
「おお、ベイビーをつけてくれた!」
またもやおれを含む観客席は大盛り上がりだ。ファンはみんなボブのしもべなのだ。
すべての演奏が終わると、ボブはピアノから離れて全身を見せ、お得意の仁王立ちをして観客席に向かい合う。客席はどの日も満員にならなかったのに、彼はクサらず、同じ曲でもアレンジをその日によって変えて最後まで演奏してくれた。素晴らしい四公演だった。

ボブが終わると、おれの四月はすぐさまエリックの日々になった。と言っても、エリック・クラプトンは六公演のうち二回しか行っていない。これには我が経済的諸事情のほかに理由がある。エリックはここ数年、
「これが最後の来日になるだろう」
と、いつも匂わせていたのに、また来日するので、おれは「来ない来ない詐欺」といつからか秘かに思っていたのだ。
「そっちが来ないと言うのなら、こっちも行かないぞ。気が変わった、やっぱり来ると言っても行くものか」
そう心に決めるおれなのだが、「来る」と言われれば、ついつい足を運んでしまうのであった。こうしておれはずっとエリックの来日公演に付き合っている。酒でボロボロ状態のときもあった。ギターが彼しかいないというバンド編成のときもあった。ヴェルサーチやアルマーニに身を包んで、バブルのセレブリティを気取っていたときもあった。ジョージ・ハリソンと一緒に来て「ライヴを途中でやめてしまったミュージシャン」と「とにかくやり続けてきたミュージシャン」の歴然とした違いを見せつけてくれたときもあった。かと思うと、デレク・トラックスやドイル・プラムホールⅡを伴って来日したときは、彼らのギターに任せて、自分はかなりサボり気味というときもあった。つまりおれはエリックが病めるときも健やかなるときも、せっせと彼のステージに通っていたのだ。ひと言でいえば「ファン」なのである。今回も観に行くしかないではないか。

おれがチケットを手に入れた日本武道館の四月十八日と二十四日の二公演は両日とも超満員だった。運よくアリーナの前列を確保できたおれはエリックを間近で観ることができた。高校生のときに、二階席の柱で遮られた席から体を斜めにしてはるか遠いステージを覗き込んでいたときとは雲泥の差である。だが、おれはトキメいていない自分に気が付いた。ボブのときと同じである。ここでもおれはすれっからしだった。自分が徹底的にいやな奴になったような気分になった。

エリックのステージについて書くことはあまりない。「よかった」と思える熟練のライヴだった。十八日のセットで披露したエレクトリックのLaylaが、二十四日にはCocaineに変わっていたが、基本的には安定のメニューだ。Laylaは驚くほどテンポを落として演奏していたので、引っ込めて正解だったような気もする。最近次々と亡くなってしまったジェフ・ベックやゲイリー・ブルッカ―の盟友たちに捧げる曲も披露した。ジョージ・ハリソンもかなり前に他界したが、かつてそのジョージがエリックに提供したBadgeも演奏した。
そして、おれがこのBadgeという曲で今回初めて気づいたことがあった。曲のタイトルは、ジョージが歌詞をメモに書き留めているものをエリックが見たときに「Bridge」(曲の繋ぎの部分)と手書きされたものを「Badge」と誤読したのが由来だという。だから発表当時のヴァージョンではバッジのことなど歌詞には登場しない。「バッジ」はタイトルだけで、バッジそのものとはまったく無関係な歌だった。だが、現在ではこのBadgeは発表当時にはなかった新たな歌詞が加えられている。それは最終パートの次のフレーズである。

Where is my badge?
Where is my badge?

おれのバッジはどこだ?
おれのバッジはどこへ行ったんだ?

この新しい歌詞がいつから足されるようになったのか、はっきりとした記憶はない。ジョージが死去したのは二〇〇一年だが、ひょっとしたらその頃からではないだろうか。いや、もっと前から歌詞は書き加えられていたような気もする。二〇〇一年十一月にジョージが亡くなったニュースが流れた当日も、エリックは日本武道館でこのBadgeを演奏した。「ジョージへ」と、ひと言だけマイクに向かって話してから演奏を始めたのは覚えているが、新しい歌詞のことは記憶にない。だが、ジェフ・ベックやゲイリー・ブルッカ―、J.J.ケイル、ボブ・マーリーなどの故人に捧げるかのように曲を演奏していた今回の彼を観るにつけ、このbadgeとはジョージ・ハリソンのことではないのだろうか、と初めておれは思ったわけである。「おれのジョージはどこへ行ったんだ?」と、エリックは繰り返し歌っていたのだ。確信はないが、きっとそうなのだ。

柄にもなくおれはセンティメンタルな気分になって武道館をあとにした。だが、おれには切迫したモンダイが生じていた。かねがない。高額ライヴに足繁く通ったため、へそくりが完全に底をついた。帰りの電車の中でおれはボブが書き下ろしたThe Philosophy of Modern Songという新刊本のページをめくった。そこにはこう書いてあった。

かねで買えるものは重要ではない。
あなたが椅子をいくつ持っていようと、そこへ乗せる尻はひとつしかないのだ。

いや、ボブさん、その通りなんですけどね、おれは一公演につき椅子をひとつしか買っていないのですよ。そのひとつしかない椅子にひとつの尻を乗っけただけで、素寒貧になったわけでして。え? 椅子を六つも買うからだ、ですって? そんなロクでもないことは言わないでください。

しもた屋之噺(255)

杉山洋一

今月も殆ど何も書き留められぬまま、一ヶ月が経ってしまいました。庭の芝刈りすら未だ出来ていないのですが、その理由はまた後日書くことにします。来月末にはさすがに芝刈りも終わっているでしょう。3年前、各地の紛争を調べながら「自画像」を書いていて、これから先、平和が続くよう、祈りながら様々な国歌をパッチワークしていました。しかし、ウクライナもスーダンも、アフガニスタンもシリアもイエメンもあの頃のまま紛争が続いているか、寧ろ状況はずっと悪化しているのを見るにつけ、その裏に無数の市民の命が吊り下がっていることを思い、ただ言葉を失うばかりです。

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4月某日 ミラノ自宅
フランチェスコ・シカーリに、ダンテ「新生」による小さな歌曲を送る。ダンテ協会のプロジェクトの一環で、3月に入籍したマリア・エレオノーラとアルフォンソの結婚祝いにかこつけて書いた。「Si lungiamente m’ha tenuto Amore (永きにわたり、わたしを繋ぎとめていた情愛について)」は、失ったベアトリーチェへの愛を謳う悲劇的なテキストでもあるけれど、その昇華した愛は無限な別世界を啓いていて、どこまでも清澄な姿にわたしたちは深く心を動かされる。自分にあてがわれたこのソネットが結婚祝に見合うか当初は逡巡したが、純化された愛情の表現をそのまま受け容れることにして、彼らへの小さなオマージュとなった。
息抜きに小さな歌曲を書くのは楽しい。ちょうど1年前、アルフォンソがリストによる「山への別れ」を弾き、そこでマリア・エレオノーラが譜めくりしていたのを思い出し、この小歌曲にもリストを忍び込ませた。

4月某日 ミラノ自宅
心を動かす音楽かどうかが、作品の価値基準となり得るか否かについて、ふと考える。直截に心に訴える作品は危険であるか。主観を厳密に排除し、作品意義、技術を客観的に判断することでより公平な判断が可能だとすれば、早晩、さまざまな芸術作品コンクールは人工知能に任せられるようになるかもしれない。
先の世界大戦中、大衆煽動に際し幅広く音楽が利用された事実は、際限なく顧みられるなかで、その後の現代音楽の方向付けに大きな影響を与えた。
誰にでも理解し易い傾向は、寧ろ危険とさえ認識されることすらあった。テレジン収容所のオーケストラや、フルトヴェングラーのワーグナーや第9など、演奏者の本意とは別に音楽を利用した反省から、新音楽たるは危険な主観を排し、技術的、論理的、倫理的に音楽を展開させることから、音楽の未来を託そうともした。あれから80年を経て、我々は何を考えているのか。
ミラノのサンマルコ教会で、エマヌエラの弾く「世の終りのための四重奏」を聴いた。壮麗な教会でメシアンを聴くと、演奏会場とは全く違った宗教儀礼に近い体験になる。闇を映す天窓から音が降り注ぎ、鈍く輝き、ゆらめく燭台の焔の向こうで、音は独特の陰影を湛える。
メシアンがゲルリッツ収容所で作曲し、収容されていたユダヤ人音楽家たちが初演したと説明すると、「きっと彼らには、特別な”役”が与えられていたのだろうな」と息子が言った。「でなければ、疾うに皆殺しにされていたでしょう」。
今日は夕方家族で連れ立って自転車で出かけ、演奏会前、慌てて教会裏のピザ屋で腹ごしらえをする。素朴なピザで美味であった。フィンランド北大西洋条約機構加盟完了。

4月某日 ミラノ自宅
最近、息子が学校の音楽史の授業でやっているグレゴリア聖歌史について、しばしば質問を受けるようになった。尤も、無学が祟って満足な答えもままならず、息子を落胆させるばかりである。
折角なので、今年は息子と一緒にヴァチカンで執り行われる復活祭ミサのテレビ中継を見た。国営放送では、何度となくウクライナ侵攻について言及がなされ、今年はロシア正教会やウクライナ正教会も何度か話題にのぼっていた。文字通り、今年は戦争と平和を象徴する復活祭であった。
それまで眠そうにテレビを見ていた息子が、あっと声を上げて思わず色めき立ったのは、合唱隊がグローリアを歌いだしたときだ。それは彼が一昨年に受けていた音楽院の合唱の遠隔授業で、毎週ずっとコンピュータに向かって声を張り上げていた、あの聖歌である。
息子の部屋から、一年中毎週決まった時間に同じ旋律を繰返し歌っているのが聴こえていて、covidの影を曳きずるそこはかとなく悲哀を湛える聖歌が、賑々しく絢爛豪華なヴァチカンから壮麗に流れてくるのは、何とも不思議な心地を呼び覚ます。

4月某日 ミラノ自宅
レッスンに来たトンマーゾは、才能あふれるコントラバス奏者だが、普段からオーケストラで弾いているからか、演奏者に気を遣いすぎて、素の自分を曝け出すのを躊躇う傾向がある。尤も、誰でも自分の身体の裡にある音楽を外に掻きだすのは容易なことではない。自分の前面に音符を投影し、その各音符に焦点を合わせながら振って貰うと随分違うが、なにか肝心なものが音楽に届いていない気がする。
試しに眼前ぎりぎりまで音符を近づけ、網目の向こうに見える風景に焦点を合わせてもらう。そうして符尾の網目の向こうに流れる、陽光に耀く心地よい小川のせせらぎを追うようにして音楽を奏でてみる。眼で追うと言うと何か少し違う気がするが、その流れを注視しつつ、流体の触感を共有する感覚だろうか。するとどうだろう、音楽はそれまでくすぶっていた彼の身体から抜けてゆき、恰も演奏者の懐へそのまま飛んでゆくようで、思わず驚いた。
馬齢を重ね、音楽が増々わからないと感じることがある。自分で分かる気がするのは、何も理解できていないことのみ。
久しぶりに浦部君と再会。元気そうで嬉しい。少し逞しくなったように見える。
復活祭でカラブリアの実家に戻っていたガブリエレは、実家で採れたオリーブ油を一斗缶に詰めて持ってきてくれた。早速夕食は庭で摘んだセージを千切り、パルメザンチーズを削ってパスタに載せ、採れたてのオリーブ油を存分にかけて頂く。至福の味である。

4月某日 ミラノ自宅
2年ほどの大工事を経て、この年始、二軒先に立派なマンションが完成した。ちょうどその玄関先に、高さ15メートルは下らない立派なケヤキが生えていて、往来の人々の目を楽しませていた。
流石に誰もがこのケヤキを切ることはなかろうと思っていると、ある朝造園業者の一団が、道路を通行止めにして上枝から順番に電動のこぎりで掃い始めた。そうして午後には、直径1メートル半ほどの切り株だけ残して、見事に全て切り倒してしまったので、近所の人々はみな呆気に取られた。
それから4カ月ほど経って春が到来し、そのケヤキの切り株の後ろから、思いがけず新緑が元気よく芽吹いているのを見たときは心が躍った。
朝の散歩の帰り道、家人とまじまじとその新芽を愛でていると、同じマンションに住む紳士が通りかかった。
「あんなに立派な樹だったのに、なんて罰当たりなことをしたもんだろうね」。「でも見てください、この新芽、こんなに元気ですよ。感激しますよ。ほら、凄いでしょう」。
「おお、そうだな。でも前の姿に戻るまで20年は下らんよ。それまでは流石にこちらが持たんだろうな」。
一瞥すると軽く溜息をつき、足早に我々のマンションに姿を消した。
息子は、先日フィレンツェでカニーノ先生のレッスンを受けたヤナーチェクのヴァイオリンソナタを練習している。カニーノさん曰く、冒頭の音型を彼は少し引掻ける塩梅で弾くそうだ。確かに少し角ばったような音像があると、燃え立つようで野趣も増し、ヤナーチェクの民族色も浮き彫りになる。そこにはイタリア的な読譜観が絶妙に共存していて、感嘆した。
無駄のない素晴らしい作曲家なのは言うまでもないが、観念に凭れぬ合理性がイタリア人の音楽観と多くを共有するのか、ヤナーチェクを絶賛するイタリア人音楽家はとても多い。
日本政府の有識者会議より、技能実習生制度廃止への提言発表。

4月某日 ミラノ自宅
運河の向こうに佇む「夢想者」食堂では、毎朝息子が気に入っているシチリア風甘食パンを焼いている。今朝あわててそれを買いに出かけた折、誤って強たか胸を打った。
その瞬間脳裏に甦ったのは、小学生の頃、父と連立って金沢八景に釣りに行き、何某かを堤防から海に落としてしまい、それを父が身を乗り出して拾ってくれたときのこと。その瞬間、彼はドーンという、鈍い、大きな音とともに、鉄柱に胸を打ってしまった。普段痛みに強い筈の父が、やっとの思いで起き上がると辛そうに酷く顔を歪めていて、暫く言葉すら出せなかった。
あの時、子供心ながらただ申し訳ない思いだけが残り、恐らくしっかり謝ることさえできなかったのではないか。何が起きたのか、よく分からなかったが、自分が胸を打った瞬間、ああこれだと独り言ちて、あの甘酸っぱい自責の念が、まざまざと蘇った。理解できなかったのではなく、子供ながら無意識に理解そのものを躊躇っていたのかもしれない。家族というのは、不思議な繋がりだとおもう。
ヘルソンにてレプーブリカ紙特派員コッラード・ズニーノとウクライナ人ガイド、ボグラン・ビティクがロシア狙撃兵の攻撃を受け、ビティクは死亡。スーダンより退避の邦人、自衛隊機で帰国。外国為替相場、対ユーロで円安が進んで14年ぶりに150円台に下落。

(4月30日ミラノにて)

どうよう(2023.05)

小沼純一

きょうからむしたちがなきはじめた
きのうとなにがちがうんだろう
ないてるのはすこしいた
ちがうんだずっとずっとおおいんだ
ずっとずっといろいろだ
ひはみじかくなってきてる
ひとがわかるのはそれくらい
すこしすずしかったかもしれない
あめもふったかもしれない
あついのはあまりかわらない
かわらないみたいにおもえるのに
むしたちはわかるんだきづくんだ
いっせいに

かんじることいっぱい
おもうこといっぱい
いろんなとこがうずまいて
おさえるだけでせいいっぱい
ぐっとのみこみのみこんで
かたちだけでもそれなりに
けんえついっぱい
うそもほうべん

くちにしなけりゃ
おなかいっぱい
やりすごすのはできても
いっぱいどこかにあながあく
いちょうのけんさは
このきずあとをかぞえるため
ほんと 
うそ
ほんともうそもそもって
ついくちさきで

よくいきてるっておもうよね

まだ
まだなの

なにもいってないよ
だれかがいってる
じぶんでいってる

じぶんがいちばんいやになる
することない
むりできない
することあってもできやしない

まだ
まだなの

いつ
いつまで
きになっても
こればっかりは

いってるじゃない
じぶんで
だれかじゃないよ

まだ
まだなの

よくいきてるっておもうでしょ

やりたいことしかしたくない
やりたくないことしたくない
やりたいことなどなにもない
やりたいことなどあるものか
やりかたばかりこきように
やりたいほうだい
やりがいなんてかいしらない
したくないことしたくない
したくないからなにもしない
したくしないとなにもしない

こちらにそのきはなかろうと
からだはかってにいきをして
なにかをみみはきいている
なにもしたくはないからに

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
ちずでさがしてしゃしんみて
よるにはまちをゆめにみる
はんとう いったことないとこばかり
せかいのほとんどそうだけど

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
しろくまさんではないけれど
ひぐまさんたちそばにすむ
たがいにいるなとおもってる
ひととひぐまのしれとこしゃりまち

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
うみにつきだすもりとまち
ひととくまさんしゃけをわけ
やさいとくだもの かわるいろ
いまかさきかとまっている 

しれとこ とこさん
しろぬき くまさん
地図で探して写真みて
夜には町を夢にみる
半島に行ったことはないけれど
世界のほとんどだっておんなじ

ゆうべ見た夢 02

浅生ハルミン

 恐ろしいものに追いかけられて、足裏は、あるようなないような地面を蹴ってはいるが、空回りして少しも前に進めない、という夢にたびたび遭遇しますが、ゆうべはその正反対の夢を見ました。夢の中で私はてきぱきとした、現実とは違う人柄になっていました。夢の中ではなぜ輝かしい人になれるのだろうか。そして眠りにつく前に、「素晴らしい夢を見たら、憶えているうちにメモしよう」などとけちな算段をする私は、眠れば明日も、今朝と同じように目が覚めると信じ切っているんだ、そう思いながら夜毎、寝室の明かりをぱちんと消しています。

   ✳︎

 中くらいの長さの夢を見た──夢の中で私は自分の部屋らしきアパートの一室に、仙台からやって来た友人Mさんと一緒にいるようだった。Mさんは叩きつけるような激しい雨の中を、銀色のリモワのスーツケースを転がして、たった今私の部屋に到着したようだった。窓の向こうは、雨ごしに団地のような、大型マンションのような、玄関ドアの集合体が見える。黄色いドアが多かった。雨は激しさを増し、その雨粒がものすごく大きい。おしゃれなしずく型の室内加湿器ってあるでしょう、あれくらいのサイズの雨粒がどんどん降ってくるのにもかかわらず、それを私とMさんは異常なことだと思っていないようだった。Mさんは窓を全開にして「こんなに降るなんてね」と空を見上げた。
 窓からアパートの前の道路を見下ろすと、急いで歩く人や、走り抜ける自動車。空中にはリャマに似た薄茶色の哺乳類が浮かんでいた。その哺乳類は一度もまばたきをせずに目を見開いたまま、ゆっくりと沈んだり、また浮上したり、見ていると気持ちがよくなる上下運動を繰り返している。
 雨の空中で、溺れそうになっている白鳥が私の目の前を通過していく。だめ!ここに着岸して部屋に転がり込みなさい、さあ早く。私は両腕を伸ばして、トングのように挟んだり、フォークリフトのように掬い上げたりした。ほわほわした羽根にくるまれた生温かさが徐々に近くなってきて、命からがらに窓の高さまで浮上したところをどさっと抱きかかえると、白鳥は見る間に大きな白い犬になり、床に放すとたちまち三毛猫になって元気に駆け回った。
 三毛猫は赤い首輪をしていた。内側のスリットに、猫ワクチンを接種した年月日と動物病院の名を記した紙片が仕舞われていることに気づいた。なるほど、これなら迷子になっても帰れるもんね。でも肝心の飼い主の連絡先は書かれていなかった。「このまま飼ってしまうとか?」とMさんがささやいた。
 知らぬ間に、お団子ヘアの女性とその弟子らしき人物が部屋に入ってきた。顔を見る前から、ああ怒られる、と肝を冷やした。この部屋は動物の飼育が禁止されているのだった。しかし空中で溺れている元・白鳥で現・猫が目の前にいたら、誰だって中に入れるでしょう、というもっともな理由と訴えを私は持っているのだった。お団子ヘアの女性に、白鳥から犬、そして猫になった経緯を説明した。夢の中で私は勇敢で、複雑な事情をすらすらと説明できる理知的な人になっていた。そして白鳥を抱え上げたとき、眠りの外の世界でも同じ手の形をしていたらしく、目を覚ましたとき、両腕の肘から先が寝床から少し浮き上がった格好のまま、掛け布団を持ち上げていた。

言葉と本が行ったり来たり(16)『音楽は自由にする』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 やってしまいました。自分でもいつかやるんじゃないかと思い、気をつけていたのにとうとう。
 いつものようにその夜もiPad miniを手にベッドに入り、Kindleアプリで本を読むつもりだったのです。新聞やSNSに目を通す日もあるけれど、その時間に私がするのは大抵読書。それが日々の楽しみだから。なのにふらふらっとウェブサイト記事を読み始め、その記事のリンクからAmazonに飛んで、そうするとおすすめの新刊などが表示されますから、それを眺めて、へー、今月の『芸術新潮』は坂本龍一特集なのか、『芸術新潮』って特集によっては即完売、入手困難になるよね、この号もそうなるのかなぁ・・・っていうか、え?芸新だけじゃない、この雑誌もこの雑誌も追悼坂本龍一特集、おまけに自伝も緊急(?)文庫化された、と・・・そうか・・・みんな教授が大好きなのね・・・私は・・・好きでも・・・嫌いでも・・・ない・・・けど・・・。この辺りでウトウトし始めて、きっと疲れていたのでしょう、気づくと朝。そして私のアドレスには、今月号の『芸術新潮』と文庫化されたという坂本龍一氏の自伝の注文確認メールが。え、どうして⁈ 私、ファンじゃないのに! 喉まで出かかったけれど、誰のせいでもない、私が悪い。ここまで簡単にネットショッピングできる時代になって、そのうち寝ぼけて注文なんてこともしかねない、普段からお財布の紐が緩い私だし、怖い怖い――そこまで予測していたのに。キャンセルすることも考えたけれど、既に発送作業に入っている様子。迅速すぎるのが恨めしい。仕方がない、己の行動には責任を持とう。覚悟を決め、届いた本『音楽は自由にする』のページを開くと、帯には「自らの言葉で克明に綴った本格的自伝」とあるものの、自叙伝ではなく、人生を振り返るインタビューを自伝風にまとめたものでした。

 ボリュームはそれほどでもなく、一日で読み終えたのですが、これが意外と面白くて。というのも、坂本龍一さんとは仕事の事務的なメールを数回やりとりしたことはありますが、直接お会いしたことはなく、先に書いた通り、彼の音楽は知っているけれど、私生活には興味がなかったので(音楽家に対しても作家に対しても、私の興味が向かうのは作品だけで、ほとんど人柄に向かわないので)、だから、よく知らないひと、自分に無関係のひとの身の上話を聞いているようで、それが新鮮だったのです。バーでたまたま隣に居合わせた人が生い立ちを語り出したから、これも何かの縁と思い、最後まで聞いてみた、みたいな感じ。
 他人の人生を一方的に知るって何だか変な気分です。聞いたところで影響を受けるわけでもない。でも、その距離感を以って聞く他人の人生は面白い。へー、とか、ほう、とか、心の中で感嘆しながら、世の中にはいろいろなひとがいるなあ、と思う。それ以上でもそれ以下でもない。ただ聞く、ただ知るだけの行為。それで終わるそれだけの行為。私はそれがわりと好きなのだと思います。逆に、文章に限らず、例えば映画でも、時々、登場人物に自分を強引に結びつけて没入し、号泣したり怒り狂ったりするひとがいるけれど、私はそういうのは苦手です。

 そしてふと思ったのですが、私が、ひとごとの距離感で聞く/知るという行為に面白さを感じる人間ならば、分厚さにたじろいで部屋の隅に積んだままにしているピエール・ブルデューの『世界の悲惨』も、案外するすると読めるのかもしれない(読む気が起きた)。友人が、岸政彦さんが編んだ、これまた鈍器並みに分厚い本『東京の生活史』を面白いと言っていたけど、それもひとごとの距離感で聞く/知る言葉としてなら読み通せるかもしれない(読む気が起きた)。

 話を戻すと、坂本龍一さんの本は東京の文化史のようにも読めました。入れ替わり立ち替わり登場するのが、三善晃、武満徹、大島渚、フェリックス・ガタリ、ベルナルド・ベルトリッチなどなど錚々たる顔ぶれで(この本にはものすごい数の人名が出てくる)、語りの中にそれをひけらかす感じは全くなかったけれど、とてもキラキラした物語になっています(10歳の頃に高橋悠治さんの公演を聴きに行ったという話も出てきます)。まあ、これは編集者がそういうエピソードを多く拾ったのかもしれませんが。ともあれ、政治家や財界人は別として、日本の文化人でここまでセレブリティであることを感じさせる自伝を出せるひとってそんなに多くない、と気づいたり。“世界のクロサワ”の評伝などは、どれももっと泥臭いですからね。

 今日は四月最後の日。お返事を待たずに書いてみました。「行ったり来たり」ではなく、「行ったり行ったり来たり」になるのも良いかな、と思いまして。
 それでは、また。今月こそはお会いしたいです。マスクを外して。

2023年4月30日 長谷部千彩

公演『幻視 in 堺 ―南海からの贈り物―』の演出(2)

冨岡三智

第2部のスリンピ公演では、舞踊の展開に沿って照明をつけた。私が宮廷舞踊に照明をつけたのは、①2007年に中部ジャワ州立芸術センターで宮廷舞踊「ブドヨ・パンクル」完全版の公演をした時が初めてで、その次が②2012年に豪華客船ぱしふぃっく・びいなす号の「西オーストラリア・アジア楽園クルーズ」で「スリンピ・スカルセ」を上演した時(録音使用)、さらに③2017年に能舞台で宮廷舞踊「スリンピ・アングリルムンドゥン」の前半を単独舞踊にアレンジして踊った時(日本アートマネジメント学会第19回全国大会<奈良>関連企画)、そして、④2021年の公演『幻視 in 堺 ~能舞台に舞うジャワの夢~』で「スリンピ・ロボン」を上演した時である。また、⑤宮廷舞踊ではないけれど、自作の「陰陽」を2019年に能舞台で上演した時も、宮廷舞踊と同じコンセプトで照明をつけた。これらの照明プランは全部自分で考えている。

ジャワ宮廷舞踊で一番重要なのは、振付(動きとフォーメーション)が音楽形式と連関し、音楽の展開に沿って振付が変化していく点だと私は考えている。ジャワのガムラン音楽では曲の変わり目にテンポが速くなって、新しい局面(曲)に突入するのだが、一般の観客にとってはテンポが変化したかどうかすら分かりづらい。あるいは、舞踊の後半では2組の踊り手の間でそれぞれ戦い(ピストルを撃つ)が起こり、負けた方が座る。そのピストルを撃つまでの緊張感の高まりも分かりづらい(実はこの曲は似たような動きが多いので、演奏者にも分かりづらい)。このような変化を視覚的に分かりやすくするために照明をつけるというのが私の基本的な考えである。だから、生演奏で公演する時にはガムラン音楽が分かる人が照明を担当するか、あるいは照明担当者に指図する必要が出てくる。というわけで、③④⑤では元ガムラン演奏家でもある人に舞台監督兼照明指示係をお願いしている。②のクルーズ船での公演では録音を使用したので、秒単位で進行表を作成して指示出しをすることができたが、やはり生演奏ではそれは難しい。

ジャワで2007年に初めて照明をつけた時、実は賛否両論だった。日本では能や日舞といった伝統舞踊では地明かりにするのが普通なように、ジャワでも伝統舞踊にはフラットな地明かりというのが一般的で、照明をつけるなんて古典を冒涜していると批判した人もいたくらいだった。とはいえ照明は無色のみで、赤だの青だのは使っていないのだが…。日本でも同じことを言われるかもしれないという危惧はあったが、アンケート結果ではその批判は皆無だった。しかし、これが能の公演であれば言われる可能性はあるように思う。その差が興味深いが、日本人にとってジャワ舞踊は自分たちの伝統舞踊ではないということなのかもしれない。

上で、ピストルを撃つと書いたけれど、実際にピストルを手にするわけではなく(実際に持つ場合もある)、サンプール(ウェストに巻いて前に垂らした長いショールのような布)を手にすることでそのことを象徴的に表す。そして、戦いののち負けた方が座ると、立っている人だけを照らすようにする。もっとも、立っている人は座っている人の方に近づいていって周囲を廻るので、その時は座っている人も照らされることになる。たぶん、舞台照明なんてものがなかった時代、踊り手の一部が座るということは、その人たちは映像の画面から外れるようなものだったと思うのだ。舞踊が作られた当時に照明器具があったら、きっと、宮廷舞踊家は振付と音楽の展開だけでなく、照明の展開も一致するような作品を作り上げたに違いないと私は思っている。そして、それはきっとこんなものだったろうというものを、私は創造的に再現している。

『アフリカ』を続けて(23)

下窪俊哉

(戸田昌子さんによる前説)
 ここに『音を聴くひと』という本があって、下窪さんがやっているアフリカキカクというところから出ている本です。これは下窪さん自身の短篇集なんですね。私がTwitterで一度、下窪さんのブログを紹介したというか、ふっと見にいって、さーっと読んで、その読後感に特別な感じがあったので、へえ面白い! と思ってパッと書いたツイートがあったんです。それを下窪さんが見て、喜んでくださって、そのコメントをこの本の中で使ってもいいですか? どうぞどうぞ、となって、そのコメントも載っている。この本の中から、「そば屋」っていうのを朗読してみようと思います。

 私は小学生の頃、長いこといじめられっ子で、学校で誰とも喋らない毎日だったんですね。でも国語の授業で音読の順番が回ってくる、じつはそれをすごく楽しみにしていて、声を出したいと思っていた。読むということが好きだったし、読み終わる時に教室がしーんとしているということが度々あったんです。あとは高校生の頃に演劇部にいて、声がいいって言われていたというのもあって。朗読は好きなので、これから趣味でやってゆこうと思ってるんです。
 この「そば屋」は、じつは朗読するのが難しい。下窪さんはテンポが一定の文章を書く人だと思っているんですね。コンスタントに長く書いている人で、文章にもその感じというのが、とてもよく出ています。こういうテンポ感が安定して、ずーっと続いていく文章って、あるようでないっていうか、それが独特の読後感を生んでいるという感じがします。そういう文章なのに、ちょっとトリックがあるんですよね。そこをわざとらしくなく読もうと思うと、難しいんです。

(「ほとぼり通信」より、戸田昌子さんとの対話)
 じつは今日が初対面なんですよね。下窪さんと呼べばよいか、道草さんがいいか。
 どうもはじめまして。
 でもそんな気がしないですね。Twitterではかなり前からの知り合いなので。
 2018年か、それくらいからですよね。
 でもその前に、岡村展(「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」2014年、東京都写真美術館)には来てくれていたんですよね。岡村のことは、それ以前から知ってました?
 あの時に初めて知ったんじゃないかなあ。
 たぶんそういう人が多かったと思うんですね。
 何というか、目を逸らしたくなるような場面がたくさん写っているんだけど、なぜか見入っちゃうというか、くり返しその前に立ちたくなる写真が多かった。よく覚えてます。
 学芸員の方に「こんなに静かな会場って他の展示ではあまりないのよ」って。
 でも戸田さんの名前は、見たと思うけど、覚えてはいなかったですね。あの時の(実質的な)キュレーターだったんだと知ったのは、Twitterでお見かけするようになってしばらくしてからでした。その後、2019年の夏のある日、ご注文いただいたんですよね、『アフリカ』のキャベツの断面が表紙になった号で。
 私は岡村にかんする『シャッター以前』というミニコミをやってもいるし、そういう媒体への関心はすごくあるんですね。『アフリカ』っていう謎な名前だし、道草さんでしょ? 何か書いてあるらしいから、私にもちょっと見せろって思って。読ませてもらったんですけど、たぶんその時には何も言ってない。読んで、満足しちゃったというか。そのときの印象はあまり言葉にならなくて。
 そうですね、感想をいただいたりはしなかった。
 今回の号は、一番最初の方の文章がすごくよかった。こういったものを読むことは私の日常生活の中にはあまりないわけですよ。学術的なものを、すごい勢いで読みこなさなければならないといったものが殆どだし、情報収集という感じがあるから。これは、すごくテンポ感がいいんですよ、ちゃんと歩いている速さで歩いてる、それが私にとっては新鮮なんですね。なつめさんという方の「ペンネームが決まる」っていう文章なんですけど、書き始めたばかりの方?
 どこかに発表するというのは初めてのはずです。なつめさんのような、文芸作品を書こうとは思ってないような人がふらっと入ってくる場所なんです。
 へえ、そこが面白いんですよね。しかもその方の文章がなぜか一番最初に載っているというのが、『アフリカ』っぽいなと思ったんです。それを読んでね、俗っぽい言い方になるんだけど、癒やされたというか、これが生活のペースだよな、と思ってホッとした。
 今回の『アフリカ』で言えば、神田由布子さんも、翻訳者としての仕事はけっこうあるようですけど、詩を発表するのは初めてだそうです。
 詩といえば、詩とはなんぞやってことを考え始めているんですけど、私も10歳くらいの頃から詩は書いているんですね。岡真史っていう人がいるでしょう、『ぼくは12歳』という詩集があるんだけど、その年齢で自死した後に出された本なんですね。亡くなる少し前に両親の前で暗唱したという「便所掃除」という(濱口國雄さんの)詩なんですけど、「便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません」というのがあって。それを読んだ時に、私も詩を書いていいんだ? って思ったんですね。それで書き始めたっていうのがあって。ただ、それが詩なのかどうかっていうのは、わからないものだなって、ずっと思っていて。
 詩とは、書いてもいいもの、だけど、詩かどうかわからないもの?
 わからないんです。でも写真と似てるんです。
 えっ? そうですか。
 写真って、みんな撮るでしょう。それが作品っていうか、つまり人に見せていい写真なのかというのはわからない。結局自分が写真をやれてるかどうかっていう不安を抱くようなんですね。
 詩をやれているか、っていうことですね。
 わからないんですよ。私なんかは自分が満足できればいいと思っているし、別に発表してもいいけど、詩集をつくる気はないわけです。でも、こういう(『アフリカ』のような)場所に出すのはいいんです。学生の頃に文集をつくろうって言ってやっていたのと同じ感じで。
 あー、私も自分の本をつくるということには、ハードルを感じてましたね。あまりやる気がなかったというか。だから『音を聴くひと』も読みたいという人がいたからつくったのであって、自分の中で盛り上がるものは、そんなになかった。
 それまで書きためてきた短篇を、集めたものなんですよね。
 雑記もけっこう入ってますけどね。この中から今日、「そば屋」を朗読しようと思ったのは、なぜですか?
 このあまりにも短い、瞬時に終わるような感じに、びっくりしたんです。極小の短篇というか、あんまりないと思う。ちょっとした風景の描写のようにも見えながら、でも、そうじゃないか。これが架空の話なのか、実際にあった話なのかも曖昧だし、それは他のものにかんしてもあって、リアルな話なんだろうけどちょっと妄想なんじゃないかという部分がある。
 25年前に書いたものなんですね、19歳の自分には、これが精一杯だったんです。
 生まれてきたものという感じがしますよね。たぶん、これなんだな、っていう。
 原稿用紙にして2枚半くらいなんですけど、これだけ書くのに必死だった時代があるんですね、フレッシュでしょう?
 いまは毎日書いているのにね。でも私にはそんなフレッシュな時代一度もなかったな。だって小学校入って、原稿用紙もらって3枚書いて、もっと欲しいって言ったらごめんね3枚以上あげられないからって先生に言われた記憶があるもの。
 とにかく他の人みたいに書けないんですよ。でも周囲の人たちから言わせると、どうしてそんなふうに自由に書けるんだ? っていうことだったみたいで。
 これを読むとそう思いますよね。
「そば屋」はたぶん夢を書いたんじゃないかと思ってますけど、忘れちゃいましたね。現実じゃないことは確かです。
 そうなんだ? 私は「音のコレクション」っていう短篇にもすごく興味あるんですけど、人の収集した音を聴くっていう面白いことをやっている。
 そういう、小説の仕掛けですね。
 えー! 小説ですか? ちょっとショックを受けている私。『音を聴くひと』の中に収録されているんですけど。
 旅に、カメラではなくレコーダーを持って行くっていう人たちへの関心はもちろんありますよ。
 小説だったんだ。ドキュメンタリー的に読んでいた。この本は、私は8割方ドキュメンタリーだと思って読んでる。本当っぽく感じられるんだもの。
 これは失踪した友人の話ですね。フィクションですけど。
 その人が残した録音ディスクが山のようにあって、それをどうしようかっていうことで、この「彼」が聴くんですよね。私は仕事柄、亡くなった人の作品を大量に見せてもらいに行くっていうのが多いんです。誰かが残したもの、作品だけじゃなくて、手紙みたいなものもあったりするし、何かよくわからない、とにかく残してあるものがあって、そうか、「音」に執着する人っていうのもあるかもしれない。それって再生してみないと聴こえないわけです。だからね、再生して聴かなきゃいけないっていうのが、大変というかね、音は聴かなきゃ聴こえないんですよね、ということにふと気づいて。ちょっと朗読にも似てるんですけど、音として再生した途端に理解が全く違ってくる。目で追っているのとは、ひっかかってくるものが違うし。朗読って歌と近いというか、自分が楽器のようなものとしてあって、声を出すためにの楽譜のように考えているのかな。(ふだん本を読む時は、私は)5行くらい一遍に読むんですよ。スキャンしていくみたいに。でも音にするというのは、そのところを音にしていくということなので、テキストの使い方が全く違う。
 声に出して読むことは、意識しているんですね。戸田さんの朗読は、私にはとてもいいんです。2020年だったか、サン=テグジュペリの『夜間飛行』を読まれましたよね、あの頃からずっと聴いている。何がいいんだろう? と考えてみたら、やっぱりテンポ感かなあ。朗読がいいなあと思う人はじつはそんなに多くないんです。速すぎると感じたり、わざとらしさを感じたりして。でも戸田さんの読み方はスッと入ってきますね。
 小学生の頃に初めて自分でカセットテープに朗読を録音して、聴いたんですね、そういう学校の宿題があって。その時、(はじめて聴いた自分の声が)細くて高い声で、この人死んじゃうんじゃないか? と思ってびっくりして。
 それが自分の声なんですね。自分の声をわかって、自分の声で読んでいるからいいんですよ。「音のコレクション」を朗読したら、どうなるかなあ。元々は『アフリカ』の最初の号に載っている作品なんですけど。
 あー! これ? 素敵! いまの『アフリカ』はね、プロっぽいんですよ。えーとね、私の気持ちとしてはちょっと上手すぎるっていうか、でも、もちろん綺麗だから好きなんですけど、この微妙な感じがいいじゃないですか。この表紙の上の方にグラデーションが入っている、仄かなダサさ。でも1号ってこうありたいですよね。
 そうですか?
 いや、だって、1号から上手かったら、お前なに狙ってんの? ってなるでしょう?
 たしかに、そうかも?
 そういえばどうして今日、呼んだのかというと、理由のひとつには、私もそこに書きたいという気持ちがあるんですよ。
 えっ、それは嬉しい、いつでも書いてください。この話の流れは予想してませんでしたね。
 そう思っている人は他にもいると思う。でも自分からそれを伝えにゆくのは恥ずかしいというか。
 私は戸田さんも何か、ミニコミ的な何かを始めようとされているのかなあと予想して来たんです。
 それもね、じつはあります。
 たのしみですね。

バオバブの種

福島亮

 セネガルに行っていた友人が、はいこれ、といってそれを手渡してくれた。バオバブの種である。友人がセネガルに行くと知って、私がねだったのだ。それは思っていたよりもずっと小さく、豆まき用の煎り大豆を焦茶色にしたような見た目だった。こんな粒が巨木の種だなんて、なんだか嘘みたいだ。友人によると、セネガルではバオバブの実をジュースにするという。この小さく、硬く、黒っぽい種子を、どんな果肉が包んでいるのかと思い、きっと比較的乾燥した地域の植物だろうから、サボテンの実がそうであるように、水分をいっぱい含んだ果実に違いないと、まだ見ぬバオバブの実を想像した。そういえば、ウチワサボテンの実も赤や黄色のみずみずしい果肉の中に黒胡椒のような硬い粒が無数に入っていた。きっと、バオバブもそうに違いない。

 しばらくしてから、その友人とパリにあるセネガル物品店に行った。4畳あるかないかの小さな店内に入ると、一方の壁際に薬草や乾燥した木の根が所狭しと積まれており、他方の壁際には石鹸やスパイスがやはりみっちりと並んでいた。友人は、店員と何やらウォロフ語まじりのフランス語で会話し、見慣れぬ黒い粉を購入した。あとでそれが「カフェ・トゥーバ」という香辛料入りのコーヒーであることを知った。私はといえば、探していたのはただ一つ、バオバブの実である。名前のわからない乾燥植物が積まれたあたりをいくら探しても、想像しているみずみずしい果実は見つからない。そこで私たちの方を訝しそうに見ていた(おそらくセネガル人の)老人にバオバブの実はあるかと尋ねると、これだ、という。老人の指先にあったのは、ポリ袋に詰められた何やら白く粉っぽい物体、見ようによってはちびたチョークのように見える何かだった。これが、と思いつつ、とりあえず一袋買った。3ユーロくらいだった。

 帰宅し、袋を開けてみると、それはやはりちびたチョークにしか見えない何かであるのだが、友人によると、これこそがバオバブの実なのだという。カカオの実のような殻の中に、この粉っぽい果肉を纏った種がいっぱい詰まっているのだそうだ。なるほど、よく見ると、例の焦茶色の種子の周りに落雁のようなものがこびりついているのがわかる。口に入れると甘酸っぱく、おそらく同じ棚に詰め込まれていた石鹸の匂いが移ったのだろうが、香水のような不思議な匂いがした。この粉状のものを水に溶かしてドロドロにしたものがバオバブジュースなのだという。袋の中には50粒ほどの種子が、果肉の繊維と思われる筋のようなものと一緒に入っていた。こうして今、私の手もとでバオバブの種子は蒔かれるのを待っている。

 バオバブの種子は硬い殻を持っており、動物に食されその体内をくぐり抜けても、びくともしないどころか、むしろ消化液に浸される刺激を経験しないとうまく発芽しないのだという。実際、バオバブの種の蒔き方を調べてみると、熱湯に24時間浸せだの、濃硫酸に数時間浸せだのと、おおよそ植物に似合わぬ暴力的な処置を施すよう説かれている。海外のバオバブ愛好家が種を蒔く動画もいくつか見てみたが、魔法瓶に種を入れ、そこに70度ほどの湯を入れて、48時間放置してから蒔いていた。なお、バオバブの発芽に必要な温度は最低20度とのことで、最低気温が20度を下回る日本の4月は播種にはまだ早い。5月の中頃に、(さすがに濃硫酸を用意するのは怖いので)70度の湯を使って発芽処理を行なってから、種を蒔こうと思っている。

 小学生の頃、私が愛読していたのは卓上国語辞典、および『新世紀ビジュアル大辞典』だった。バオバブの木の存在を知ったのは、この二つの辞典のどちらか、おそらく前者の巻末に載っていた熱帯植物のカラー写真によってではなかったかと思う。この卓上辞典は、私の家にあった数少ない本のひとつであり(冠婚葬祭事典などもあったのだが、子どもにとってそれは興味の対象ではなかった)、また後者は、ある日祖母がなんらかの返礼品としてもらってきたものである。この『新世紀ビジュアル大辞典』には、作家や芸術家の顔写真が多く掲載されており、何度読んでも飽きなかった。小学生の私はいつまでもいつまでも、床に寝転がって見知らぬ人々の顔を眺めては彼らがどんな創作活動を行なっているのか想像して楽しんでいた。額の広い、宇宙人のような色白の男性が武満徹という作曲家であることを知ったのもこの辞典を通してだったし、チューリップの花の写真がメイプルソープという写真家のものだと知ったのも同じく大辞典を通してだった。その時知った幾人かの作品は、私の10代20代を支えてくれたのだが、バオバブだけは直接的な縁を持てずにいた。

 たしか辞書の説明によると、バオバブは大変な巨木で、現地ではそのウロに死者を埋葬すると書いてあったような気がする。この木の存在を知ったのと同じ頃、ひょんなことから即神仏というものの存在を知った私は、バオバブの木の穴に入れられた人間がゆっくりと木乃伊になっていく様子を勝手に想像し、さらにそのウロがどういうわけか閉じてしまって、樹木の中心部に人間の亡骸が孕まれる様子を思い浮かべた。この空想は今でも時折思い出され、バオバブの巨木の写真を見ると、その幹の中に胎児のように膝を抱えた人間がいる気がする。

 この生きた棺は、とはいえ発芽してから何百年も経ってようやく完成するのであって、少なくとも手もとの種子が一人前のバオバブになるのを見届けることは、私には不可能である。私の人生の尺度を超えるものが、この煎り大豆のような種子の殻の中に詰まっている。そう思うと、種を蒔くことが良いことなのかどうか怪しくなってくる。私がいなくなった後、何百年間も誰かが水を与え続けねばならないのだが、おそらくそんなことはできっこない。仮に地面に植えたとしても、日本では冬の寒さでこの木は死んでしまうので、寒くなる前に守ってやらねばならない。それを何百年間も続けなくてはならないのである。
 遠くからやってきた小さく、硬く、黒っぽい種子を眺めながら、百年、二百年とこの木を世話する人々の姿を思い浮かべている。

   ***

最後に、宣伝をひとつ。6月9日から11日にかけて、調布市せんがわ劇場で「死者たちの夏2023」と題した以下のようなイベントを行う予定です。

「死者たちの夏2023」
100年前の首都圏で、日本人はなぜ、ふつうに人間に対するように朝鮮人に向き合うことができなかったのか。
人を「殺害可能」な存在とみなすために、どのような偏見や妄想が醸成されたのか。
私たちは7年前の7月に相模原市の障害者施設で殺傷事件が起きたときにも、同じ問いを自分にぶつけた。
世界には残虐な行為があふれている。いまも、さまざまな時に、さまざまな場所で、人間が人間を殺している。なぜ?
この歴史の問いかけに向き合うために生まれた、文学があり、音楽がある。

公演情報
■ 音楽会 Music Concert
「イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ」
6月9日(金)19:00 START
出演:大熊ワタル(クラリネット ほか)、
こぐれみわぞう(チンドン太鼓、箏、歌)、
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
解題トーク:東 琢磨、西 成彦 ほか

■ 朗読会 Reading
「ヨーロッパから日本へ」
6月10日(土)14:00 START
「南北アメリカから日本へ」
6月11日(日)14:00 START
出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
演出:堀内 仁 音楽:近藤達郎
解題トーク:久野 量一、大辻都、西 成彦 ほか

場所:調布市せんがわ劇場 京王線仙川駅から徒歩4分
料金(各日):一般3,200円/学生1,800円
リピーター料金:各回500円割引
ホームページ:https://2023grg.blogspot.com
お問い合わせ: 2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)

音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
照明・舞台監督:伊倉広徳
衣装:ひろたにはるこ

■ 実行委員長:西 成彦(ポーランド文学、比較文学)
■ 実行委員(50音順)
石田 智恵(南米市民運動の人類学)
大辻 都(フランス語圏カリブの女性文学)
久野 量一(ラテンアメリカ文学)
栗山 雄佑(沖縄文学)
瀧川 真澄(俳優・プロデューサー)
近藤 宏(パナマ・コロンビア先住民の人類学)
寺尾 智史(社会言語学、とくにスペイン・ポルトガル語系少数言語)
中川 成美(日本近代文学、比較文学)
中村 隆之(フランス語圏カリブの文学と思想)
野村 真理(東欧史、社会思想史)
原 佑介(朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨(音楽批評・文化批評)
福島 亮(フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁(演出家)
■ 補佐
田中壮泰(ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅(原爆文学)
■ アドバイザー
細見和之(詩人・社会思想史)

水牛的読書日記 2023年4月 台湾旅行編

アサノタカオ

4月某日 台湾旅行1日目。火曜日、晴れ。出版関係の仕事を片付けた翌朝、最寄りのJRの駅から成田エクスプレスに乗車し、成田国際空港へ。これから午後の便で台湾へ飛ぶ。ひさしぶりの海外旅行だ。

台湾では先月末から新型コロナウイルス対策としての入国後7日間の自主防疫義務が撤廃され、国境の管理はほぼ平常状態にもどった。このタイミングで、大学院時代からの友人で台湾文学研究者の朱恵足さんから、「大学がちょうど春休みで台東に里帰りをしているから、遊びに来ない?」と声をかけられ、誘いに乗ったのだ。とはいえ世の中にはなおコロナの影響はあり、けっしてにぎわっているとは言えない空港で搭乗と出国の手続きを済ませ、免税店でお土産を手早く買い込む。3時間半ほどのフライト。機内で読みかけの本のページをめくり、うたたねをしていたら、いつのまにか台北の桃園国際空港に着陸。窓の外に広がる景色を照らす強烈な太陽の光に目を見張った。5年ぶりの台湾だ。

桃園でMRTに乗り換えて台北へ向かうと、朱さんのお姉さん(長女=大姉、ダージェ)と姪が迎えに来てくれて、さっそく駅中の台湾料理店へ案内された。平日の午後ということもあるだろうが、巨大な台北駅の構内は想像以上に閑散としている。お姉さん(ダージェ)とは以前、日本で会ったことがあり、鎌倉を散歩したのだった。初対面の姪はスペイン語を学ぶ大学生で、7月から留学するという。カタコトの英語でおしゃべり。夕ごはんをごちそうになった後(ここで台湾の押し豆腐「豆干」のおいしさにはまった)、乗り換えの改札前で二人とあわただしく別れる。東海岸回りのローカル線の特急列車に乗り、ここから一路、南東部の都市・台東をめざすのだ。

列車が花蓮を通過するころには、窓の外は夜の闇につつまれていた。リュックサックから、コピーして持参した台湾中央研究院の文化研究者・王智明氏のエッセイを取り出して読む。タイトルは「『台湾有事』、ではどうするか?——反戦思想の活路」(丸川=盧哲史訳、『けーし風』第117号)。短いかながらも刺戟的な内容で、昨今の「台湾有事」言説への説得力ある批判だと思った。〈反戦思想の核心は……政権が民権をないがしろにすることの否定でなければならない〉。ちょうど今回の旅の数日前、蔡英文総統がアメリカを訪問し、下院議長と対談、中台関係の緊張度が一気に高まっていた。そして日本では「台湾有事」への懸念をひとつの口実に防衛費の増額、沖縄・南西諸島の軍事拠点化が進行する現在、いついかなるときもこの「民権をないがしろにすることの否定」という視点を行動の軸にしなければ、と自分に言い聞かせる。

途中の駅を通過するたびに車内アナウンスに耳を傾けると、中国語や英語のほかにも2、3の耳慣れない言語が聞こえてきた。これは台湾の閩南語や原住民のことばだろうか。

夜遅く、はじめての台東にたどりつく。駅前には台湾南東の沖合に浮かぶ孤島・蘭嶼に住むタオ族の木造カヌー「チヌリクラン」が飾られている。熱帯の生暖かい風を感じて上着を脱ぎ、あたりを見回すと笑顔の朱さんが手をふっていた。彼女の親戚が営む旅館で荷物をおろし、コンビニでアップルサイダーを買って旧台東駅の近辺を歩いてみる。深夜にも関わらず複数の種類の鳥が樹上で鳴き交わしている。その声を聴きながら、町の空気を思い切り吸い込み、大きく腕を伸ばした。

4月某日 台湾旅行2日目。水曜日、晴れ。台東にて。旅館の部屋でグアバをかじって朝食をすませ、朱恵足さん、そして彼女のお母さんとお姉さん(三女=三姉、サンジェ)とともに海沿いをドライブ。

「海山のあいだ」と呼ぶのにふさわしい野生的な土地をめぐり、名所を尋ね歩いた。なかでも富岡地質公園の海岸で出遭った、大地の背骨が剥き出しにされたかような奇岩巨石群(豆腐岩、蜂の巣岩、蕈状岩……)には圧倒された。岸辺から海に目を向ければ、はるか先にはひたすら水平線だけが広がる。人間以後の世界、ということばが頭に浮かぶ。この世のものと思えないSF的な光景に息をのんだ。

その後、かつて沖縄の漁師も多く住んでいたという漁業の町・成功へ。お母さんの知り合いが営む海産店で昼ごはん。牡蠣と豆腐の味噌炒めをはじめ、麵もスープも魚介の主菜も副菜もなにもかもおいしい。いや、おいしい/おいしくないという以前に、食べ物がからだにしっくり合う感じがするのはなぜだろう。三仙台という離れ島と陸地を結ぶ8つのアーチをもつ跨海歩橋や、日本統治時代に架けられた吊り橋などを見学し、川沿いの遊歩道を散策。カヌーで川下りをする観光客の団体が大騒ぎをしている。そのかたわらで、生い茂る木々の枝を台湾猿の群れが悠々と歩いていった。

台東の町に戻り、朱さんの部屋を借りてデスクワークをすこしする。晴れていれば緑島が見えるらしい海沿いの一室。シャワーを浴びてひと仕事終えて、夜は彼女の知り合いの地元卓球クラブの青年たちと大きな魚の頭の鍋を囲んだ。青年たちはビール、朱さんとぼくは金桔檸檬のジュースで乾杯。

4月某日 台湾旅行3日目。木曜日、晴れ。爆音で目覚める。台東には空軍基地があり、朝の7時半過ぎから戦闘機の飛行訓練がはじまるのだ。これには毎朝、閉口させられた。

この日も朱恵足さんたちとともに山側へドライブ。中央山脈と海岸山脈の谷間の町、関山で自転車をレンタルして、美しい山並みを眺めながら環鎮サイクリングロードを辿る。全長20キロ弱。森の中の道で群蝶に遭遇し、親水公園で三叉山事件(1945年、フリピンで日本軍から解放されたアメリカ人捕虜を乗せた軍用機が墜落した大惨事)の石碑などを見学してから自転車を返却し、ついでお米の産地として知られる池上へ移動。見渡す限り広がる田んぼの緑がまぶしく、風に揺れる稲穂の青い香りがただよっている。このあたりの農地ではコーヒーの栽培もしているらしく、観葉植物や雑貨も販売するおしゃれなカフェがあった。お昼時の静かな集落を歩いていても人に会うことはなく、犬だけがうろうろしている。

池上の町の食堂で麺とスープ、デザートとして豆花を食す。地元の農協的なスーパーで、買い物がてら商品の値段を調べると、こちらでも卵の値段がかなり高い。「おひとりさま*個まで」と購入制限の札もあった。日本と同様、鳥インフルエンザの流行による大量の鶏の殺処分、異常気象や飼料代の高騰などの影響による深刻な卵不足がおこっているようだ。

夜は朱さんの実家でお母さんの手作り、豚足のにゅうめんをいただいた。やさしい塩味。朱さんが帰省のたびにかならずお願いするという「おふくろの味」が、心身のすみずみまで染み渡る。お母さん、ごちそうさまでした。

4月某日 台湾旅行4日目。金曜日、晴れ。台東にて。旅館近くのカフェで美式珈琲(アメリカンコーヒー)とドーナツの朝食。午前中は朱恵足さんの部屋を借りて、編集中の本の校正刷を読み込む。今日は海の向こうに緑島が見えるだろうか、と思ってふと目をあげると、海上の霧が晴れてくっきりと島影が見えた。

昼ごはんは町中のやや高級なお店で牛肉麺を食し、市役所前の印刷所へ。何台もの複写機や製本機が並べられた作業場で、熟練の女性スタッフがてきぱきと動き、日本語の赤字を書き込んだ校正刷のスキャニングや出力をしてくれた。朱さんの部屋に戻り、日本の著者や出版社などへ電子メールで校正刷のデータを送る。週末に予定している取材の準備も済ませて安心し、ソファで寝転がってしばしのあいだ昼寝。

夕方、朱さん、彼女のお姉さん(サンジェ)や同級生たちと連れ立って温泉へ行った。水着を着て入浴するスタイル。女性たちがわいわいおしゃべりするかたわらで、熱いお湯にじっとつかり、旅に疲れたからだを休める。この日も朱さんの実家で夕ごはんをいただき、おだやかに1日をすごした。

朱さんにとって今回の里帰りは、幼なじみや女子高時代の同級生たちと旧交を温める機会でもあったらしい。いまはそれぞれに家庭をもち、さまざまな仕事をしている女の人たちを紹介され、彼女たちの昔話をひととおり聞かかされた(朱さんが高校時代に学内文芸誌の編集長をやっていたというのは、長い付き合いのなかではじめて知った)。そんな同級生のひとりが連れて来た、小学生の息子との心に残る出会いがあった。

彼の名前はタイロン。母親が台湾人で、父親がイギリス人。10代の入り口に立つ少年で、あどけなさが残る。流暢な英語をしゃべるので、家庭で英語を使用していたりインターナショナルスクールに通ったりしているのかと思ったら、そうではないという。悲しいことに、父親はもうこの世にいない。お父さんともっと話したかった、という思いから独学で英語を学んでいると聞いて胸を打たれた。朱さんがやさしくほほえんで、「今晩は父親がわりになってあげて」と耳打ちしてくる。

タイロンは家庭と学校では中国語を話し、祖父母とは閩南語で話す。英語もできるし、挨拶程度の日本語も。東京や沖縄を旅行したことがあるという。学校での彼のあだ名は「アミ」。これは完全に人種主義的なステレオタイプなのだが、イギリス人の父親の血も引くややエキゾチックな風貌と快活な少年らしいよく日に焼けた肌の色から、原住民のアミ族を意味する「アミ」と呼ばれているらしい。タイロンはそれを屈託なく受け入れ、驚いたことにアミ語の勉強もしているという。「原住民の村で買い物ぐらいはできるよ」と、おどけながら「おばさん、こんにちは。このお菓子をください。ありがとうございます」などとアミ語ですらすらとしゃべっていた。

どうして台湾を旅行しているのか、日本でどんな仕事をしているのか、好きなサッカー選手やミュージシャンは誰か。居間のソファで肩を並べて腰かけ、くりくりした目を輝かせながら英語で質問をしてくるタイロンの愛らしい姿に接して、多民族・多言語が混じり合うクレオール世界ならでは人間存在のあり方をひさしぶりに思い出した。われ多民族の血を受け継ぐ、ゆえにわれあり。われ多言語をしゃべる、ゆえにわれあり。世界の多様性をごく自然な好奇心をもって受け止め、複数の言語という通路を行ったり来たりしながら自分の視野をどんどん広げる。だってそういうことはよいことだから、と楽天的に、しかも深く信じている。ぼくが知るもうひとつ別のクレオール世界であるブラジルにも、こういう開放的なタイプの人々がたしかにいたのだ。

もじもじしながらなにか日本語を書いてほしい、というタイロンの求めに応じて、ノートに彼の名前をひらがなで書いた。アルファベットよりは日本語の表記は台湾の繁体字に近いと思っていたのだろう。「太龍」という漢字の2文字が、「たいろん」とひらがなの4文字にひらかれることに目を丸くして驚き、「うわ〜変なの〜!」とうれしそうに笑っている。日本語をもっと書いて書いて、とせがむので、彼に出会うまで今日1日におこった出来事を記した。そのページをノートからきれいに破って「はい、どうぞ」と渡すと、不思議そうにじっと見つめた後、四つ折りにしてポケットにしまっていた。

「ママ〜!」と、ダイニングで朱さんと話し込む母親のもとに駆け寄るタイロン。はなやぎを振りまくその後ろ姿を眺めながら、クレオール島の少年のおおらかな楽天主義がこのまま素直に成長しますように、そしてそれがいつかぶつかるにちがいない人生の壁を乗り越える力になりますように、と心の中で祈った。

4月某日 台湾旅行5日目。土曜日、曇り。朝、台東市中央市場で生まれ育った朱恵足さんゆかりの地を訪ねる。

父親の仕事が軌道に乗って市場を離れるまで、家族の暮らしは貧しかったという。お母さんが働いていた生地を扱う店の2階、祖父母、両親、5人きょうだいが肩を寄せ合って暮らした窓のないひと間で、就学前の朱さんは包装用の新聞紙やテレビの字幕を眺めながら文字を覚え、市場の大人たちに文章を朗読してもらい、やがて図書館で本を借りて読みはじめ、中学生になるころには海外文学を通じてはるかな世界へ思いを馳せるようになったという。

「ここはお肉屋さんだった。ここはお菓子の問屋さん、ここは女性の下着を売るお店。私が病気になると、母がここで買って来た熱い鶏スープを飲ませてくれて……」。一軒一軒の商店の前で立ち止まり、もう存在しない記憶の風景を呼び戻しながら、人生を振り返る彼女の問わず語りにじっと耳を傾ける。いまや台湾屈指の国立大学である台中の中興大学の教授となり、名実ともに文学研究の第一人者となった朱さんは、親きょうだいの期待だけではなく、この市場でつつましく生きる住民たちのもっと大きな願いを背負って勉強と学問に励んできたのだろう。路地を先に行く彼女のちいさな背中が、その重みを無言で語っていた。

その後、朱さん、彼女のお姉さん(サンジェ)とともに山側の鹿野へ。日本統治時代の移民村・龍田村のあった場所を訪ね、歴史資料館や古い日本家屋(教員宿舎や保育所)などを見学する。植民地主義の象徴である神社の鳥居の前などで「そこに立って」とか「座って」などと言われるがままポーズを指定され、写真を撮られるのだが、正直気が進まない。「なにもこんなところで……」と不平をこぼしても、「せっかく来たんだから!」と朱さんは聞き入れずにスマートフォンでばしばし撮影する。台東の別のある場所では、ぼくが「ここはずいぶんきれいな並木道だね」と何気なしに言ったのに答えて、彼女が「ああ、むかし日本人が台湾人と原住民に作らせたからね。ははは〜」と笑い飛ばしたことがあったが、こちらは笑えない。

さらにお茶畑が広がる山道をのぼり、朱さんの同級生が営む果樹園へ。ここでは「釈迦頭」と呼ばれるバンレイシの実をはじめて収穫する。台湾に来てから毎日のように「おいしい、おいしい!」と果物を食べているが、この同級生からパイナップルなどの1キロあたりの卸値を聞いてあまりの安さに驚いた。これでは農家が生活していくのは厳しいだろう。彼女は夫とともに電飾の技術を活かして旬の時期を過ぎても実がなるように工夫して栽培し、釈迦頭が市場に多く出回らず、値段のあがる時期を見据えて収穫と出荷をしているという(この2日後、2023年4月17日付の朝日新聞で「台湾パインの対日輸出、中国の輸入禁止で8倍超 農家『日本に感謝』」という記事を読んだ)。

地元の食堂での昼食後、紅烏龍(ホンウーロン)の名店へ。店主がていねいに淹れてくれた台湾茶は絶品だった。見た目は寡黙な職人風、しかし店内の雰囲気からデザイン的なセンスのよさを感じさせる若手の店主と、お姉さん(サンジェ)とは顔なじみのようで、オフグリッド住宅の建築のことなどをふたりで語り合っている。

台東の町に戻ると、雨。朱さんの実家近く、廃線になった旧鉄道の線路沿いの遊歩道を散策した。台湾桜がちょうど開花の時期で、あざやかなピンクが目に止まる。すずやかな小雨が降りしきる中を歩いていると、火照った全身が潤いをとりもどすようで落ち着いた気持ちになった。

夜、朱さんにことばの橋渡しをしてもらい、詩人の董恕明さん(朱さんの女子高の先輩)にお話をうかがった。董さんは中国・浙江省出身の父とプユマ族出身の母のあいだに生まれ、現在は台東大学で華語文学や原住民文学の教育研究をおこなっていて、彼女のエッセイは日本語にも訳されている(『台湾原住民文学選第8巻 原住民文化・文学言説集』〔下村作次郎編訳、草風館〕)。

董さんが語ってくれたのは、たとえばポーランド出身のノーベル文学賞作家オルガ・トカルチュクのこと、台湾原住民作家の孫大川やワリス・ノカンやシャマン・ラポガンのこと、そして中国の文化大革命期に迫害された知識人らのこと。「差異が大切です」と彼女は強調した。口を開く前にじっくり考え、一つひとつのことばに魂をこめて語る人だった。話題は文学のほかにも、都築響一『圏外編集者』の感想や台湾の大学教育、原住民の土地問題まで多岐にわたり、いずれも興味深い内容だった。

董さんは、文学者としてはオーソドックスなスタイルで、山海の自然と人間の交わるところから生活実感に寄り添う詩のことばを紡ぎ出す。屋久島の詩人・山尾三省の作風と近いのかもしれない、という印象を持った。

不確定的雲和雲撞在一起
很確定的風就散架了
不確定的浪和浪撞在一起
很確定的岸就扭到了
不確定的雨和雨撞在一起
很確定的山就骨折了
不確定的霧和霧撞在一起
很確定的夜就失眠了
不確定的路和路撞在一起
很確定的夢就醒了,醒來
……
 ——董恕明〈春遊〉より

4月某日 台湾旅行6日目。日曜日、晴れ。朝、台東駅から南回りの特急列車に乗り、台湾第三の都市・高雄へ。台北からの列車では時間が夜だったので車窓越しの風景が見えなかったが、この日の鉄道旅で目にした南東部の景色の美しさにはことばを失った。エメラルドグリーンの光り輝く海。これを見せたかったんだよ、と隣の席で朱恵足さんがつぶやく。

2時間ほどで高雄に到着、地図を見るとかなり大きな町だ。MRTに乗り換え岡山へ移動する。ここで、文藻外語大学で教えながら台湾文学の翻訳をおこなう倉本知明さんも合流。プユマ族出身で原住民文学を代表する作家の一人、元職業軍人という異色の経歴を持つパタイ(巴代)さんの自宅にうかがい、奥様も交えて昼ごはんをいただきながらインタビューをおこなった(インタビューを含む訪問記はいずれどこかで発表する予定)。

パタイさんの子供時代をめぐる思い出を、日本統治時代のプユマ族の村を舞台にした長編小説『タマラカウ物語』(魚住悦子訳、草風館)に登場する「マワル少年」の姿に重ねながら聞く。なんとも豊かな時間。この小説にしばしばあらわれる檳榔と陶器のかけらを用いたお守りがどういうものか、実物を見せてもらったことも貴重な経験だった。部族のシャーマニズムに通じる母親の作ったお守りをパタイさんはいまも使っていて、台北や海外のホテルに泊まる時などにはかならず部屋の東西南北の隅に置いて結界を張り、邪気を払うという。

インタビューを終えると、あっという間に夕暮れ。パタイさんが車で橋頭の駅まで送ってくれて、ここでお別れ。作家の風貌や体格はいかにも軍人らしいがっしりしたものだが、若い頃は憂愁を漂わせる細身の文学青年だったという。帰り際に固い握手を交わしたこの分厚い手のひらから、原住民の歴史物語をめぐる文学が生み出されるのだ。老練な知性と無垢な心をあわせもつ、魅力的な人柄だった。

駅前のちいさな食堂で朱さん、倉本さんとサロンパス味(!)の台湾コーラで乾杯し、麺を食べる。軽い夕ごはんを終えて、彼はスクータに乗って颯爽と帰って行った。ちなみに、倉本さんは日本でも話題の歴史グラフィックノベル『台湾の少年』(岩波書店)や呉明益の小説『眠りの航路』(白水社)の翻訳者として知られるが、その訳書のなかでぼくがもっとも好きな作品は、蘇偉貞の長編『沈黙の島』(あるむ)だ。

高雄再訪を誓い、こんどは在来線の電車で古都・台南に向かう。橋頭からおよそ30分。あいにく若者たちの帰宅(あるいは夜の町に遊びに行くのだろうか)のラッシュとぶつかり、席には座れず朱さんと立ち話をしているうちに台南到着。駅前の地下通路に横たわる多くのホームレスらしきの人々の顔を横目で眺めることしかできず、心の水面が波立った。小ぎれいなホテルに投宿し、冷房の効いた部屋のベッドの上に寝転がって物思いにふける。

4月某日 台湾旅行7日目。月曜日、晴れ。台南にて。ホテルをチェックアウトし終日、観光を楽しむ。朱恵足さんの案内で定番のお廟やオランダ統治時代の史跡などをめぐり、白うなぎのスープなど地元の料理や、牧野富太郎が学名をつけた果実・愛玉の種子から作られた寒天風のスイーツなどを食べ歩いた。台湾文学館では「食と文学」をテーマにした屋外の路上展示をしていておもしろかった。例のサロンパス味(!)の台湾コーラに捧げられた詩まである。

黄昏時、信じられないぐらい巨大なガジュマルの枝々に飲み込まれたイギリスの貿易会社(のちに日本の塩業会社)の倉庫跡地も訪ね、ここがよかった。閉館時間まで木陰のベンチに腰掛け、朱さんと家族や子供のこと、最近の仕事のこと、これまでの旅のことなどを、まるで学生時代のようにのんびりと語り合う。台湾の西部で日没を見ようと海岸へ急いだが、この日の水平線は厚い雲がかかっていて願いは叶わず。

一日中、熱帯の強烈な日差しを浴びながら歩き回ったので、すっかり体力を奪われた。へろへろの状態で台湾高鉄(新幹線)に乗りこみ、台中の朱さんの自宅へ向かう。

4月某日 台湾旅行8日目。火曜日。台中にて、曇天の朝を迎える。

近所を散歩すると、どこからか歌声が聞こえる。なんとお廟の外の東屋にカラオケの機械とモニターが設置され(有料)、朝っぱらからおじいさんやおばあさんがしっとりと歌っているではないか。これはお廟のお布施集めの一環であり、地域のお年寄りの拠り所としても機能しているというが……。聖地とカラオケ、なかなかシュールな組み合わせ。見物をしていると、人懐っこい笑顔を浮かべるおじいさんが「さあ、こちらにいらっしゃい」と手招きをするので、慌てて一礼をしてお廟から逃げ出した。

はじめて台中を訪れたのは2008年のこと。15年前に訪れたのと同じ屋台で、麺と豚の内臓のスープの朝食をとる。その15年前、台中駅の裏手には戦前、鉄道関係の仕事をしていたぼくの祖父やこの地で生まれ育った父が住んでいた地区があり、瓦葺きの平家の日本家屋も何軒か残っていた。この日に訪ねると、駅そのものが大々的にリニューアルされて駅前も現在進行形で再開発中、日本人地区は跡形もなくなっている。目に見える風景はすっかり変わった。しかしこの場所に立つたびに、懐かしい思いと懐かしんではならないという思いが入り混じり、複雑な気持ちになることに変わりはない。植民地主義の暴力に直接的な責任を負うことはできないが、この暴力の歴史がほかならぬ自分自身を作ったという事実が、からだの深いところで疼くのだ。

台中市第三市場で牛奶果(スターアップル)など珍しい果物を買った後、誠品書店で(繁体字を読めるわけでもないのに)何冊かの本と雑誌を購入。朱さんの解説を聞くと、歴史をテーマにする美術家の高俊宏の著作《拉流斗霸:尋找大豹社事件與餘族》《橫斷記:台灣山林戰爭、帝國與影像》は読み応えがありそうだ。

最後の夕暮れ。台中の中心部の高層ビルとビルの合間、白い雲の向こう側で赤々と燃えさかる太陽にしばし見惚れ、立ち尽くす。

待ち合わせたレストランで出会った日本からの留学生で、朱さんの教え子でもあるHさんが先月刊行されたばかりの『うつくしい道をしずかに歩く——真木悠介 小品集』(河出書房新社)をかばんから取り出した。本書の編集協力をしているのでびっくり。最近、台湾に遊びに来た両親が届けてくれたそうだ。ところでこのレストランでは、待望の臭豆腐を食べることができて大満足、 Hさんもおいしそうに料理を平らげている。

日本の家族へのお土産を買ったり朱さんが通う卓球教室を見学したりした後、彼女とともに夜市の通りを歩き、熱くて甘い芋入りのおかゆを持ち帰った。

4月某日 台湾旅行9日目。水曜日、曇り。台中にて。「朝はあまり食べないから控えめでいいよ」と言っているのに朱恵足さんとの朝食は毎回テーブルにご飯や麺の主食と一汁三菜がずらりと並ぶ。朝食にかぎらず、朝昼晩の三食、ちいさな体でよく食べる。そんな朱さんとの屋台での最後の早餐、冬瓜のスープがおいしかった。

旅の最後の最後、町の中心部にある国立台湾美術館で日本統治時代を生きた彫刻家・黄土水(1895〜1930)の大型銅板レリーフ「水牛群像」に対面し、生きとし生けるものの生命力とは異なる、時間を超越したものの不朽の生命力のようなものに畏怖の感情を抱く。これが芸術の力か。

美術館前から乗車したタクシーの運転手は「縁があるのか今日は駅までお客さんを乗せていくのは、これで6回目ですよ〜」と笑いながら、ぐんぐんスピードをあげていく。高鉄の台中駅まで見送りに来てくれた朱さんと別れの握手を交わした。9日間も一緒に過ごしたので名残惜しいが、出発時刻が迫っているので早歩きでプラットホームまで向かう。新幹線で1時間足らずで桃園に到着し、空港で手続きを終えて飛行機のシートに腰を沈めた。こんなふうにして、旅の幕はいつもあっさりと降ろされる。機内の窓から外をのぞくと、土砂降りの大雨で、景色らしい景色はもう何も見えなかった。

「図書館詩集」7(表紙の縁がうっすらと緑色に見える本は)

管啓次郎

表紙の縁がうっすらと緑色に見える本は
読んではいけません
あざやかな赤の線が走っているものは
必ずお読みなさい
あまり信じられない占いのように
そう忠告してくれるおばあさんがいた
ぼくは信じます
だがそんな色の遊戯になかなか出会わなくて
いくつもの図書館を遍歴するばかりだった
そのうち五稜郭にやってきた
空から見ている、星形の砦を
何を守ろうとして誰がたてこもるのか
使うものがいなくなれば
次の者が、また次の者が?
砦が砦にふりつもる
たてこもるのもいいだろう
誰かが攻めてくるだろう
誰でも攻撃したいやつらはたくさんいる
じっと耐える者のほうがずっと偉い
それなら指先に、ろうそくのように
火をともす、艱難辛苦の果てに
世界秩序を変える夢を見ることにしようか
冷たい春の風が吹いている
塔の高さはすべてをジオラマ化し
雄大(雄大?雌大!)な北の地形の中にこの
正確な要塞が埋め込まれているのがわかる
砦にいま住むのは人間ではなく
赤松の歩哨たち
かつて佐渡から移植されて
歴史を見てきたらしい
きみたちはロシア語を話しますか?
この問いはどうにも避けられないだろうな
何も知らないのでただ
こんな言葉をくりかえすんだ
オーチェニ・クラシーヴァ!(すばらしいですね)
そうです
くじらはキート
いるかはジェリフィーン
あざらしはチュリェーニ
海はモーレ
岬はムイース
こんな知識で何がいえるわけでもないが
詩は書ける
「すばらしいですね、くじら!
すばらしいですね、あざらし!
すばらしいですね、海!」
ここに詩を見出すことができる人なら
あとはただそれを掘ってゆくだけだ
あるいは
「ヴガラーフ・ムノーガ・メドヴェーヂェイ?」
(山には熊がたくさんいるの)
この文と現実(実在)のあいだを
埋めるのが詩だ
つまりそれは生に非常によく似ている
語と語をどうつなげても
それが体の中を通らないかぎり
生気を帯びない
詩にはならない
逆に
くじら、あざらし、海!
くじら、あざらし、海!
くじら、あざらし、海!
といろいろな強度と音量とかすれと曲げをもって
千回発声をつづけることができるなら
それはきみの現実をその場で変えて
その変形力において詩に非常に近づく
ぼくはそう思っているよ
くじらがそこにいないなら、くじら
あざらしがそこにいないなら、あざらし
海がそこにないなら、海
心がそこにないなら、心
命がそこにないなら、命
そうつぶやきながらどんどん歩いていった
歩き、かつ、登ってゆくのだ
正教会は閉まっていた
カトリック教会にお参りした
聖公会は建築をちらり
信仰心をもたずにお邪魔してすみません
あ、ちなみにうちは「お東さん」です
一揆に親和性がある宗門です
でも元来は徹底的なパシフィストなんですよ
そのまま外人墓地にゆくと
猫が何匹もいて気持ちが安らぐ
猫は猫社会をもち
人間に人間社会の外を知らせることにおいて
人間につねによい作用をしていると思う
中国人墓地には漢字あり
外人墓地にはアルファベットで記された名前
若者もいるようだな、船乗りか
異邦で葬られるのは、それも運命かな
ぼくはある時期「客死」という言葉を恐れていた
お客さん、死にましたか?
Guest death がいつかは自分の運命かも
そう思ってふるえていたが
そもそも
死期も死地も自分で決められる
と思うほうが傲慢なのか
寒くなってきたので脂身を食べて
体を温めることにした
レイモンさん、焼きソーセージを一本くださいな
辛子をつけて齧ると
脂と塩でおなかがぽかぽかしてきた
肉食をめぐる問いを克服していないが
いまはまだヴィーガンになれそうにない
ときどき肉を食うから
許してください
肉よ、私を食ってくれ
食うものは食われて仕方がない
蛋白質もだが脂肪と糖分は
人間には悪魔的な魅力がある
脂身はまた最終的なスーツでもあるようだ
ホメロスを読んでいると勇士を荼毘に付すために
動物の脂身で屍をすっかり包み
おまけに戦友たちは髪を切って
棺をみたし弔いのしるしとする
という描写が出てきて
うー、へー、と思った
土地ごと時代ごと
さまざまな習慣があるものだ
できればあらゆる慣習から中立でありたいが
それは生き方としても死に方としても
人に疎まれるだけかもしれない
ならば獣の世界へゆくか
「函館山に熊はいますか?」
ここで熊といえばいうまでもなく
羆だ、Sun Bear だ
直に見れば目がつぶれても仕方なし
太陽信仰にとっても中心的な動物だ
「います、いるようです、被害は出ていないけれど」
別の人は「ここにはいない」というが
証明できるのだろうか、そんな不在証明を
この山はいわば島
長い砂洲が陸へと橋を架けている
都市区域を隔てて
むこうの山々と地続きとはいっても
たしかに熊交通にとってはかなり不便
ニンゲンが眠る深夜に熊は
ひとり都会の街路をわたっていくのか
それとも何か超自然的な力で
空を(たとえば高度5メートルで)飛んでゆくのか
なんとも美しい羆のイカロスよ
ろうが溶けないように月夜を飛んでいけ
ぼくは風に飛ばされないように歩いている
そして長谷川家の跡を探すのだ
長谷川家の四兄弟のことなら
いつも漠然と頭にあった
もっともぼくの興味を惹いたのは
長男の海太郎と末っ子の四郎かな
めりけんじゃっぷのさのばがん
丹下サゼンは林フボー
牧逸馬の作品は読んだことがない
やはり好きなのは谷ジョージだな
でも彼のように地平線を踊らせることは
そんな生き方をする根性がなかったので
ごめんなさい
それでもカール・ロスマンのオクラホマ野外劇場
のように、ぼくには
アラバマのチャイナグローヴがあった
末弟の四郎のシベリア体験のことも
よく知らない
というか目をそらしていた

 長谷川四郎(1909-1987)
 香月泰男(1911-1974)
 石原吉郎(1915-1977)
 内村剛介(1920-2009)

シベリアでの抑留体験をもつ
かれらひとりひとりの文章や絵の影に
名前も伝わらない何十人も何百人もの体験があった
無理だ、追うのは、凍土に
塗りこめられた死を想像することもできない
けれどもその歴史を抜きにしては
戦後の日露関係というか日ソ関係も
まったくわからないし本当は
詩も絵も読めないのだ
いったい歴史を歴史に閉じこめておいていいのかな
死者を死んだものとして無口だと思っていいのかな
きみが生きていて歩いていて
あるとき何かにふと近づくと
突然鳴り出すものがあるじゃないか

  ほろびるもの、つねないもの。
  ひとと しぜんを むすぶ、かはらない
  なにかを もとめて、
  おんさの やうに ちかづく、ふれて
  なりあふために。
  (吉田一穂「ひびきあふもの」より)*

近づくと鳴り出す
ぽーんと鳴り出す、うなり出す
そこに美しい天然が生まれるが
その理由は何よりも
そこにも命が懸かっていたからだ
その命は別の命の助けを借りて
初めてよみがえるからだ
気を取り直して四郎の小さな本を手にとる
甦りのために
そうそう、この本は若いころ好きだった
四郎がガンガン寺の思い出を書いている
それはハリストス正教会のこと
ガンガンと鐘を鳴らすのがやかましかった
幼児の彼はそのそばの家に住んで
父親は投獄されていた
彼の長兄(海太郎)は後に単身アメリカにわたり
自分自身をビリーと呼び
次兄(潾二郎)をジミーと呼び
三兄(サンズイのついた睿)をスタンリと呼び
四郎をアーサーと呼んでいたそうな
冗談好きな想像力
最高だね
だがかれらはロシア語にもよく親しんでいた
「ロシヤ語についてだが私が
英語のアルファベットよりもさきに
ロシヤ語のアルファベットをおぼえたのは
私の生れ育ったころの函館はカムチャツカ
漁業の基地でロシヤ船がよく入港
したので、ロシヤ語のカンバンがほうぼうに
出ていたからだ」
(長谷川四郎『文学的回想』晶文社より)
「アーサーよ、お前は床屋になれ」と
ビリー兄さんは手紙に書いてきた
四郎のその後の人生については
ここではふれない
ただ野間宏がこう書いていると
四郎自身が紹介していた
「私はひとり酒を飲みながらよく
私の横に長谷川四郎がいるのを思い浮かべるが
この時彼の大きい身体は小さくなり、彼は
みみずく
野兎
かわうそ
のような姿をして、私をからかうのだ」(同書)
これはいい話、すばらしい話だ
人間だって、他の人間の想像力の中で
こうした動物を演じることができるなら
そのときわれわれの生は根本的に贖われ
(贖うとは「罪ほろぼし」をすること)
われわれはいつか北の強い風に吹かれて
はればれとした顔で笑っているだろう
みみずく、野兎、かわうそとともに
からかうように
からかわれるように
笑っている
ありがとう
動物たち

函館市中央図書館、二〇二三年三月一二日、晴れ

*吉田美和子『吉田一穂の世界』(小沢書店、一九九八年)より

話の話 第2話:行方知れずの人々

戸田昌子

すぐ行方知れずになる人、というのがいる。たいてい親族のなかに一人はいたりするものだが、私のオジサンという人がそうだった。訳あって高校をドロップアウトして以降、定職についたことがなく、なにをしているかはいつも不明。毎年2月ごろふらりとやってきて、私たちきょうだいにお年玉を渡して、季節外れの雑煮を母に作らせて食って帰る。なぜ2月かというと、正月を迎えてから、「おお、正月か……」と気付き、それから日雇いに出かけ、お金を作ってから我が家に来るからである(私のきょうだいは6人だから、お年玉の算段は簡単ではないのである)。そのため子どもたちは、正月早々にオジサンが来ない、ということは知っているのだが、「今年はいつになるのかねぇ」と楽しみに待ち構えるのである。

そのオジサンが、ある時、ガリガリに痩せてふらりとあらわれた。母に「コーヒーをくれ」と言って、砂糖をたっぷり入れてぐるぐるかき混ぜて、美味しそうに飲んでいる。何かの病気なのかと心配する私に、ボソリと、「人間ってさ、メシを食わないとどうなるのかと思ってさ。2週間、何も食ってないんだけどさ。けっこう平気なもんだな」と言って、コーヒーをすすっている。それから「なんか食わしてくれ」と言って、母に雑煮を作らせ、旨そうに食べた。そのあと、最後に行方不明になってから10年は経過しているので、この世を放浪しているとはあまり思われない。

いつ現れるか予測がつかないのに、なんだかふと気づくといたりする、ふらふらしている人の代表格が、私にとってのカウチさんである。カウチさんは、私にTwitterをやれと言った人である。「なんか戸田さん、向いてると思うんですよねTwitter」というのである。「賑やかな往来に面した喫茶店でおしゃべりしているみたいな場所」なのだとカウチさんは言っている。

カウチさんがはじめて我が家へ来たのがいつだったのかは思い出せない。確か7、8年前に一度来たはずだっだが、そのときカウチさんがあたりまえの大人ぶった手土産などを持参したはずはないが、そこで何時間滞在し、何の話をしたのだったかすらも覚えていない。そのあと来たのは、彼女が編集した本を持ってきたときである。カウチさんは長年、個人的に河田桟さんの本の編集を担当しているのだが、『馬語手帖』『はしっこに、馬といる』に続く3冊目となる『くらやみに、馬といる』(すべてカディブックス刊行)を作っていたとき、突然、表紙候補の2枚の写真を送ってきて、「どっちがいいですかね」とわたしに聞いた。わたしは自分のそういうものを選ぶセンス(ある意味での思い切りの勇気)が自分にないことを知っているので、娘にたずねた。暗闇のなかでたてがみらしき毛をぼさぼさとさせた馬のぼんやりした写真と、数頭の馬が薄暗がりに佇んでいる写真である。娘は、前者のぼんやり写真をゆびさし「こっち」と即答した。それは馬であるということがわかりやすい写真ではないのだけれど、「くらやみと言うのだから、馬の形がわかることは必要ない」、というのが娘の答えだった。そういうわけで、私がその本を5冊ほど購入したいので郵便で送ってほしいと頼んだら、「私は郵便を送るのは苦手だから、ポストに入れに行きますね」とカウチさんはなぜか一方的に言って、私が知らないうちに来てマンションの郵便受けにその本を詰め込んで帰ってしまった。私が帰宅すると夫が、なにやら不審な顔をしている。そして「誰かが郵便受けに変なものを詰めていったから、新聞が入らなかったみたい。知り合い?」と私にもごもごと言うのである。

そして先日、2度目(3度目?)に、今回は玄関からちゃんと入って来ようとしたカウチさんは「警察だぁ!開けろ!」と低い声で唸りながら我が家に押し入った。その前夜、仕事のため徹夜していたカウチさんは我が家の台所がまるで引っ越し前のようだとケチをつけたり、天井に達する本棚に感嘆して大きな声を出したり、MRIが出すノイズの「ズンドコズンドコ」を真似たりしながら1時間あまりノンストップで喋り続け、しまいに終電が無くなると言い放って突然帰っていった。その一部始終は私のインスタグラムに動画として記録されている。

そもそも彼女とは、1年に1度だって会っているわけではないし、彼女と遊んだことはないような気がする。初めて会ったのは私が30年ほど関わっている「岡村昭彦の会」の年一回の会合で、カウチさんはで、大勢の前で自己紹介を求められて「編集者の賀内麻由子です。私は貧民窟で死ぬと思います」と言い放って、居合わせた人々の度肝を抜いたのだった。その姿はキラキラしていて、実に私のハートを射抜いた。だからパーティーで細野容子さんにあらためてカウチさんを紹介されたとき、自分が作っている本のことで相談したいので、あらためてお会いできませんかと私から話を持ちかけたのだった。この当時、カウチさんはメアリー・エイケンヘッドという、18世紀アイルランドのカトリックのシスターで、ホスピスのルーツとなる仕事をした人物の本を作っていた細野さんの担当編集者で、いちおうは会社員であった(いまも会社員ではあるらしい)。

初めての待ち合わせ場所に指定されたのは、JR御茶の水駅前の喫茶店「穂高」。紫煙ただよう出版関係者の巣窟として有名なところ(いまはたぶん紫煙は漂っていない。彼女は煙草呑みではないのに、そういう場所に入り浸る癖がある)。私がおよそ一人で入ったことはない店なので、「あの穂高か……」という、えも言われぬ気持ちで向かったら、その日は定休日。編集者というものはおよそ、こういった待ち合わせのアレンジメントに長けている人々だと私は思っていたから少し慌てた。幸い、当時すでにわれわれには携帯電話というものがあったので(なかったらどうなることか)、携帯でそのことを伝えると、少し遅れて現れたカウチさんは、慌てもせず「じゃあこっちで」と、人がやっと通れるくらいの怪しい路地へとスタスタ入っていき、喫茶店「ミロ」へと私を導いた。確かに存在は知ってはいたが入ろうと思ったことのない、昭和の香り漂う小さな喫茶店である。案内されたテーブルに座ると、水の入ったグラスに、15センチくらいの、ちょろりと根っこの出た長ネギが突き立っている。どう見ても長ネギである。長ネギの水耕栽培というのは聞いたことがないが、といぶかしく思っていると、カウチさんもちらりと目をやり「長ネギですね」と言ったが、それほど驚いた様子もなく「まあまあ、そういう店ですよ」と言った。そのあとの話は、ものすごく盛り上がったというわけではなかった気がする。カウチさんは、何かのけじめをつけるだか、自分なりの責任を取るだかの理由をぶつぶつと述べながら、これから会社をやめるのだと話していた。そのあとカウチさんは文字通り放浪の日々を過ごすようになるので、本の話は結局、何度か相談に乗ってもらったものの、仕事という形にはならなかった。

カウチさんは貧民窟で死ぬと言ったけれど、私は暴動のどさくさにまぎれて刺されて死ぬと思います、という話をしたことがある。するとカウチさんは、「どちらにしてもわれわれ、畳の上では死にませんよ」とあっさり言うのである。

そして私が知らないうちに、いつのまにか郵便を送ることができるようになったカウチさんは、昨年の末に、ダンボールでいろいろ送ってきた。入っていたのは、カウチさんが編集を担当した八巻美恵さんの新刊『水牛のように』(horo books、2022年)と、何種類もの珍妙なコーヒー、そして不思議で美しい色の毛糸玉が3つ。「ダンボールを閉じる瞬間、なぜか毛糸玉を入れたくなって。戸田さんは編み物はしないはずだと、何度も手を止めたんですが」と、カウチさんはあとで弁明する。世の中には、思わず変な行動をしてしまう人、というのが確かに存在するので、私はそれ以上の説明をカウチさんに求めなかった。

先日、詩人の白井明大さんがふいに「ビールを飲みませんか」とメッセージを送ってきた。面識はなかったのだが、私が、白井さんの「日本国憲法の詩訳」が掲載されたフリーペーパーを朗読したいなどとぶつぶつ言っていたのを小耳に挟んで、忘日舎という西荻窪の本屋さんを経由して、その小冊子を送ってくれたことがある(これは今年3月にKADOKAWAから『日本の憲法 最初の話』として出版されている)。白井さん、忘日舍、そして私をうまくつないだのはやはりカウチさんだった。そういうわけだから、ビールは白井さんと、カウチさんと、3人で飲むことになった。桜の季節に都電荒川線沿線をふらふらして、巣鴨に辿り着いて、たこ焼きをアテにビールを飲んだ。カウチさんは意外なことに下戸である。そのわりにはいつも少し酒が入っているかのようなテンションのカウチさんと、内気ぶって寡黙だがニヤニヤしている白井さんと、出まかせに思いついたことをしゃべり続ける私の、3人の話はあてもなく漂って、どうやらこの3人は同じ星の住人らしいと私は結論することになる。散歩中、カウチさんの姿は何度も見失われ、私と白井さんがあわてて追いかけたのは当然の顛末であった。

どこかへすっとんで行ってしまう癖はどこか私にもあるようで、同じ場所にいると息苦しいようなところがある。まだ娘が幼稚園に通っていた頃、イスラエルに来ませんかと言われて、「そうねぇ、一度はキブツを見てみたいし」というような理由で行ったことがある。10日間も留守にするとは言えず、2、3日で帰ってくるような雰囲気をかもして出立した。母が当面、帰ってこないと知った娘は、気丈に振る舞っていたそうだが、電車のなかで航空会社の宣伝写真をみてふいに「ママは飛行機に乗って行ってしまったよ、もう帰ってこないかもしれないよ」と涙をぽろぽろこぼしていたという。それ以来、私は娘にまったく信用されなくなり、出かけるときは帰宅時間を紙に書かされ提出させられるという日々が続くことになる。

想像の先にある想像の世界

笠井瑞丈

北海道までの車旅
ただただ車を北に走らす
見たことこのない景色を想像し
夕方の青森港のフェーリ乗り場
初めて車に乗りながら船に乗船する
暗闇を掻き分け冷たい深い海を渡る

70年前ここで起きた洞爺丸事故
1000人近くの人が亡くなった

この海で祖父は命を
この冷たい海の中で
最後の刻を迎えた

想像できない
苦しみだっただろう

そんな事を考えて
函館港が暗闇の向こうから
少しずつ少しずつ迫ってくる
同じ日本なのに外国に旅してる
初めて車に乗りながら船から下船
窓を開け冷たい空気を吸い込む

『はるばる来たぜ函館』
北島三郎の曲をかけてみた
遠くに輝く函館の街を左に
再び広い道をただただ北へ
高速道路ヘッドライトの前に
鹿が歩いている
北海道に着いた

室蘭で車中泊

日本最北端の宗谷岬を目指す
漁港の近くにある海鮮食堂へ
海鮮ラーメンを食べ出発する
高速に乗り札幌を抜け
海岸横を走る231号線
夕方宗谷岬に到着
海の向こうの景色を想像する
この向こうにはすぐサハリンが
どのような生活があるのだろう
ただ想像してみる

枝幸町で車中泊

網走を目指す
一度行ってみたかった網走刑務所
あまり観光スポットは行かないけど
ここに来て知ったのだけど
昔は違う場所にあり
昔あった場所から移され
今は博物館として運営されている
よく何棟もあるこんな大きな建物を
ここまで運んで来れたものだ
博物館から10分くらい離れたところに
今の網走刑務所がある
正門まで行ってみる
この壁の奥にはどのような景色が
どのような生活があるのだろう
ただ想像してみる

釧路で車中泊

帯広を抜け苫小牧へ
車の旅での生命線と言ってもいい
シガーソケットが故障してしまう
携帯の充電
バッリーの充電
全てができない
近くのディラーに車を持っていき
修理可能かみてもらう
部品の交換が必要で
部品の取り寄せには
一週間かかるとのこと
待つことはできない
諦めオートバックス
簡易的なシガーソケットが置いてある
店員にこれをつけれるかと尋ねてみる
とても親切な店員さんがなんとか
応急処置的に裏の配線からうまく線を繋ぎ
シガーソケットをつけてくれた
予定外の時間をロスする
この旅一番の危機を脱して
目的地の函館を目指す

函館で車中泊

函館港で車に乗りながらフェリーに乗船
帰りは青森港ではなく大間港を目指す
一時間半の船旅大間港で下船
なぜかまだ家には程遠いのに
戻ってきたってという気分に
広い北海道を大体一周した
あとは現実の世界
東京に戻るだけだ

どこにいたとしても想像すれば
そこはヨーロッパにもなるし
そこはニューヨークにもなる

でもやはり旅というのは
その土地の匂いや空気に触れ
まだ見たことのない色そして景色
そこに行かなきゃ感じることのできない
想像の先にある想像の世界なのだ

まだ無限に広がる
想像の世界を
どこまでも
見たいと思う

また旅に出よう

仙台ネイティブのつぶやき(82)老いのあとさき

西大立目祥子

 93歳になる叔母が、このところめっきり弱ってきた。90歳過ぎてなお一人暮らしで、毎日台所に立ち食事の仕度をしていたのに、昨秋、夜に猛烈な腰の痛みに襲われて救急搬送され、10日間の入院をしてからというもの、一気にカラダのあちこちにガタがきた感じ。70代のときに腰のすべり症とか脊柱菅狭窄症とかいろいろな問題が出てきて、相当迷いながら手術ではなく筋肉をつける選択をして何とかもちこたえていたのに、さすがに90歳を過ぎて筋力も限界なのかもしれない。

 叔母の家は標高120メートルほどの山に開かれた団地にある。てっぺんにある植物園まで週に何度かは歩いて登り野草を眺めて木々のスケッチをするのが、鍛錬をかねた楽しみだった。急坂を下って国道のわきのポストまでハガキを出しにいったり、そんなことも1年前にはできていたのに。

 この1月に1週間、お試しで老健施設に入ると、さらに症状が悪化した。「ごはんの時間に食堂に集まったって、だれもひと言も話さないんだもの。すぐにじぶんの部屋に引き上げて」退所したときの口ぶりは、めずらしく愚痴っぽかった。立ったり、座ったり、歩いたり、話したり。ひとのカラダの筋肉のひとつひとつは、日常生活の意識もしていない動作の連続で維持されているとあらためて思う。母が昨夏コロナ騒ぎで5日間入院したときも、つかまり立ちしないと立っていられないほど衰えた。筋力に余力がない年寄りは、数日じっとする生活を強いられただけで相当なダメージを受けてしまうようだ。

 家の中でもカートを押すようになり、それでも何度か転倒した。明け方にトイレに起き、寝室に戻ったもののベッドに上がれなくなったこともあった。転ぶとひとりでは起き上がれないから、そのたびにクルマで10分くらいのところに暮らす息子を呼び出したり、契約している防犯会社にブザーを押して知らせて何とか窮地を切り抜けている。「たった50センチのベッドに足が上がらない。ロックかかったみたいに動かないの」訴えとも違う独り言のようにつぶやく叔母のひと言に、意思と身体のズレ感の大きさを感じてしまう。

 階段を上がろうとしても右足が段差を越えるほどに上がらず、デイサービスから帰ってくるときは両側からの介助が必要になってきた。「じぶんでは一生懸命上げようとしているのに、ダメなのね」と叔母がいう。いつのまにか、湯のみ茶碗はマグカップに、箸はプラスチックのスプーンに変わった。足腰のような大きな筋肉だけでなく、手指の小さな筋肉も細やかな動きをとれなくなっているのだろう。叔母の衰えは、小さな筋肉の痛みが最初の徴候として始まっている。

 つかんだはずの湯呑が手のひらから滑り落ち、持ち上げた箸がテーブルに転げ、50センチの高さのベッドに座ることもできなくなったらどうなるか。胸の内のイライラややるせなさはどれほどのものか。私自身、このところ大勢の人に会うとすぐくたびれるし、やらなければならない仕事のとっかかりは遅いし、集中は続かないし、やれやれと思うことが多いが、それが動作のひとつひとつに及んだら、それは日々目の前にそそり立つ壁のように感じられることだろう。この15年、カラダは元気なのに頭がみるみる衰えていく母を見続けてきた。叔母は頭はしっかりしているのに、ここにきてカラダがいうことをきかないことに苦しんでいる。長く生きることは、頭とカラダのくい違いに耐えることを人に強いる。

 2月の頭に93歳を迎えた叔母にスケッチブックを2冊プレゼントに持っていくと、「生きているうちに2冊も使えない。1冊でいい」と返そうとしたのだけれど、3月に窓の外に椿が花を咲かせると、水彩絵具で真紅の花を描き出した。白い紙にこぼれるように描かれた椿の赤に、叔母の中にまだ燃えている生命力を見たような気がして、私の気持ちもぱっと明るくなった。日に日に増してくる春の日差しに感応したのだろうか。次に訪ねたときは、壁に画鋲でとめておいた片岡球子の富士山の年賀状を見て気持ちが動いたのか、カラフルな富士山のクレパス画が上がっていた。次の週は『片岡球子全版画』という画集を図書館から借りて持っていき、富士山の下に決まって描いている花は富士山への献花なんだってよ、と話すと、「片岡球子はいいねえ。色がすばらしい、しばらくこの本見てていいの?」とページをめくっている。訪ねたときは決まって1時間半ほどおしゃべりするのだが、特に絵の話題になると話しているうちに声にハリがみなぎってきて、私よりむしろ叔母のおしゃべりが止まらない。

 少しずつ、動かないからだと折り合いをつけていくのだろうか。創意工夫の人でもあり、じぶんを遠くから眺めることもできる人だからなのか、こんなに長くつらい思いをして生きなくたっていいといいつつ、老いる我が身をためつすがめつしているところがあって、この間は、「足元に手が届かない年寄りの靴下のはき方」を伝授してくれた。靴下を絨毯とかカーペットの床にぽんと並べ置き、靴べらを使って足を差し込み、ざらざらした床と靴下の摩擦力をうまく利用してかかとまでを納めるというやり方。「あんたも、カラダが動かなくなった人から靴下をどうやって履いているか聞いて本つくってよ」などと話し、こうなるとカラダの不自由さがどこかユーモアをおびてきて、こちらも気が少し楽になる。

 先日、まだ日が高い時間に、カートを押していて叔母はまた転倒した。仰向けにひっくり返って、さてどうしようかと考えたのだそうだ。スマホはテーブルの上。警備会社のブザーがぶら下がるベッドまでは2メートル。小一時間かけて、ベッドまで匍匐前進ならぬ背進(?)を続けブザーにタッチ、すぐにやってきた会社の人は、リビングのガラス越しにひっくり返って玄関の方向を指さしている叔母を見て「何やっているんですか?」と声をかけたというのだから、笑ってしまった。結局、すべて施錠されていたために仙台市消防局が台所の小窓を突き破って入り、またしても救急搬送。

 ねぇ、どうしたって転ぶんだから、転ばないように気をつけるより、転んだらなんとかハイハイできるように鍛錬したら? 私の提案も、知らない人が聞いたらただのおふざけのような中身になってきた。が、もちろん本気。私の義母は大正生まれの人だったが、生涯を畳で暮らし、歩けなくなってからも畳の上を這って移動しほぼ自立した生活を送った。椅子より座に暮らす方が、最後は助けとなるかもしれない。私もときどき床にごろんと横になり、からだの向きを変え、ハイハイしてみる。

 最近、叔母は話し疲れるとすぐ昼寝する。リビングに移動したベッドに横になると「ああ、寝るほど楽はなかりけり」と笑みを浮かべて目を閉じる。カーテン閉めて、という庭の向こうには、崖の斜面の上に大木の桜が枯れた姿をさらしている。樹齢はたぶん300年超え、毎年まわりの桜が終わり新緑に変わる頃に、風格ある幹のてっぺんにゆっくりと淡い色の花をつけてきた。叔母が絵のモチーフにして何度も描き「この桜と私とどっちが先に逝くか」と話していた木だ。
数年前、描いている最中に、桜は地響きを立てて、張り出していた太い幹のような枝を落とした。そしてついに枯れた。まわりは緑に燃え命があふれているのに、その木だけは異形の姿というのかツヤを失い茶色い杭のように突っ立つ。この命絶えた木のことを叔母はもう何もいわない。墓標のような太い幹を前に、私も何も聞かないでいる。

感覚の刹那と論理の間

高橋悠治

ピアノの鍵盤を道具として、指で触れた場所を耳で確かめながら進む。蝶がとまる場所を変えるように軽く触れて。見えない風や光の移るままに。長く留まった場所が重みで沈まないように、そこにいても、すぐに移れるように、でも構えはなく。

感覚はその刹那だけ、論理は、それを他の音と結ぼうとする。時間のなかで変化する音を楽譜に書けるような空間のなかの図式とみなせば、枠に入れられる形が生まれ、それを刻むあいだ、時間は停まる。過ぎてゆく音を形にまとめる作業が音楽と言われるのだろうか。

限られた範囲で指が動く。その時、予測される道ではなく、その時に指の歩いた跡を書き留めて、それを最初の線とする。見えない魚に引かれて動く浮きとおなじに、動かないものを外から動かす痙攣をあちこちで試す、他力を映す釣り糸の浮き、動きの遅れ。先立つ計らいもなく、整った反復もない。動くのではなく、動かされている、という感じ。元に戻れない、だから繰り返せない、すると即興であったも、書き留めておかないと忘れてしまう、逆に、書き留めてれば、おなじことを二度やらないで済む、でも、本当にそうだろうか。

書かれた楽譜を弾いてみる、おなじように、でも、おなじにはならない、わずかなちがいから、それまで見えなかった隙間、そこから垣間見る別な解決。それが一通りでなくありうるなら、どれをとっても、そこからの風景は変わってくる、そこまでの成り行きにも、その選択が影を落としているのは、その時はわからなくても、次の機会にわかるかもしれない。

指が表面を歩き回る。指は音を出すために、ある時間にはじまって、留まる場所を変えていく。これが指先に現れた身体の変化の流れで、外側からは、その指の動きから作られる音を通して感じられる身体の変化が、別な身体に押し付ける変化の波となって、その時間を染めているとしようか。
 
響きは、音の変化に連れて、聴く身体の内側で動き回る、痺れるような感覚の矢を感じとるうちに、生まれてくる、ことばにならない「もどかしさ」とでも言おうか。こうして、あるいは散り、あるいは絡まる音を聴く人は静まっていく。