うれしくて笑い出しそう(晩年通信 その12)

室謙二

 そのころはB29爆撃機が飛んできても、それに対抗する戦闘機はもうなかったのだね。高射砲も爆撃で破壊されていた。B29はゆうゆうと飛んできて、木造建築を焼き払う焼夷弾を落としていった。
 私の父親は、鉄筋コンクリートの江戸川アパートの中庭に出て、B29が飛んでいる空を見上げていたらしい。
 空に爆弾が振りまかれて落ちてくる。その一つが、父親の立っているところに向かって落ちてきた。父親は江戸川アパート四組の入り口に飛び込む。爆発がおこり、入口階段の石壁を焼き焦がし、一階の我が家の窓を破壊して、積んであった本の一部に火がついた。父親は火のついた本に、どんどんと水をかける。こうやって父親が大事にしていた英語の本は、水浸しになった。
 これは敗戦の年、1945年(昭和20年)の5月のことだっただろう。すでに東京は、三月の大空襲で焼けて平らになっていた。鉄筋コンクリート六階建ての江戸川アパートは、その焼け野原に建っていたのである。

 焼夷弾は、我が家の窓の下にあった鶏小屋を直撃した。そして三羽のニワトリは、跡形もなく消滅した。ニワトリにはそれぞれ名前がついていて、オス鶏の名前は権兵衛でみんなに愛されていた。だが鶏たちが直撃弾によって跡形もなくなり、食糧難のおり大切な関白質であったタマゴを、食べることができなくなる。
 その爆撃で庭に開いた穴を、私は覚えている。私が生まれたのは1946年の1月だから、爆撃の八ヶ月あとであとだが、穴は何年も埋められることはなかった。そしてその横にまた新しい鶏小屋が立てられて、鶏たちが毎朝わたしたちにタンパク源を供給してくれていた。まだ温かなタマゴを取りに行くのが、私の朝の仕事であった。

アメリカに来たのね

 私には十二歳年上の兄と、十六歳年上の姉がいる。爆撃の時、兄は学童疎開で東京にいなかったが、姉は工場に働きに行かされて、軍需品を作っていた。学校の授業はもうなかった。5月の空襲のとき、父親は娘は工場への爆撃で死んだと思った。軍需工場はいつも狙われていた。そんなところに、軍部は十代中頃の娘を働きに出す。しかしその工場への爆撃はなく生き延びたのである。
 何十年もあとに、私は姉と一緒にハワイに遊びに行った。姉はフラダンスとウクレレをやっていて、ケンちゃんいっしょにハワイに行こうと私をさそった。連れて行ってくれ、ということだった。
 ホノルル空港で、乗り換え便を待ってベンチに座っていると、「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」とうれしそうにいった。彼女の上に爆弾を振りまいていた、敵国アメリカについにやってきた、ということだった。
「ケンちゃん、お姉さんは怖くて怖くてね、B29の爆音が遠くから聞こえてくるでしょ。最初のころは高い高度だったけど、最後のころは低い高度で爆弾を落とす。音を立てて落ちてくる。それが本当に怖いのよ」と言っていた。
 姉さんの友人の一人は、B29の護衛についてきた戦闘機が急降下してきて、それに狙い撃ちされたらしい。操縦席のパイロットの顔をが見えたとのこと。パイロットにもその女学生の顔が見えたのか?
 パッパッパと地面に弾丸があたったが、彼女には当たらなかった。
 2001年5月の、アルカイダのアメリカへの自爆攻撃テロのとき、姉さんはビルが崩れ落ちる映像をテレビで見て、気持ちが悪くなり吐いてしまった。B29による自分たちへの爆撃を思い出したのである。十代の娘にとっては、空襲は、思い出すと吐いてしまうぐらい、恐ろしい体験だったのである。
 無差別の絨毯爆撃(Carptet bombing)であった。絨毯をひくように、地上に爆弾を落としていく。工場とか港とか軍需拠点と、普通の人びとの暮らしの場を区別しない。おおくの非戦闘員が死ぬことは、アメリカはわかっていた。それが戦争の政治であった。しかし爆弾の雨の中にいた娘にとっては、アメリカがどうのこうの、日本がどうのこうのではなく、ただ恐怖以外のなにものでもなかった。

うれしくて笑い出しそう

 「だからね、戦争が敗戦で終わった時は、もううれしくし笑い出しそうだったわ」
 彼女はすでに戦争が敗戦で終わることを、父親から聞いて知っていたのである。父親は、敵国語の英語は教えなくていいと、高校教師の仕事をやめさせらて、NHK海外放送部門で働いていた。同じ高校が戦争が終わると、英語教師として戻ってきてくれと懇願したらしい。父親は不愉快なので戻らなかった。
 家族は、戦争が終わることを知っていた。
 女学校でみんなが集められて、天皇の放送を聞いたのよ。そしてみんなが泣き出した。だけど私は、もううれしくてね。これで死なないですんだ、と思ったの。アメリカ軍が来たら、若い女性は強姦されるという脅かしがあったけど、英語で放送を聞き、英語を読める父親は、そんなことはないよ、と言っていたから。  
「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」と姉が言うとき、そこには思いがこもっている。ケンちゃん、私の子供の時の記憶は、ずっと戦争だったのよ。日本が中国で盧溝橋事件を起こしたのは1937年(昭和12年)で七歳、真珠湾攻撃のときは11歳で、敗戦は15歳だった。ああ戦争が全部終わったということね。
 父親も早く戦争が終わってほしいと思っていて、それは敗戦であると知っていた。そう家族にも言っていた。姉さんは、そんなこと外で言ったら、特高警察がやってきて父親が逮捕されることを知っていた。だから学校では鬼畜アメリカであっても、知らん顔をしていたのである。二重生活だった。よくあんな危険なことを15歳の娘に教えた、と大人になってから言っていた。
 父親はアメリカが勝ち、日本が負けることは戦争中から受け入れることができた。しかし父親は、アメリカが大都市に対して行った無差別の絨毯爆撃については、決して許さないと言っていた。あれだけ非戦闘員を殺したのは、戦争犯罪だと思っていた。無差別爆撃によって日本の降伏が早まって、多くの人が死なずにすんだというアメリカの言い分を、父親はけっして認めなかった。
 3月の夜間空襲では、十万人の民間人が焼け死んだのであった。木造建築を取り囲むように焼夷弾を落として火事を作れば、多くの人が焼け死ぬことをアメリカ軍は知っていただろう。

8月15日がやってくる

 8月15日がやってくる。しかしその敗戦の日の意味も、いまやすっかり薄れてきている。私は75年前のその日を、母親のお腹の中で経験した。
 妊娠した母親は、お腹の中の子供と自分の体のための食べ物を、戦争末期と敗戦直後で十分に手に入れることができなかった。「私たちには栄養のある食べ物がなかったので、ケンジは私のお腹の中で、内側から私を食べながら育っていったのよ」と笑いながら何度も言っていた。母親は、私と息子のお前はひとつの体なのだよ、と言いたかったらしい。
 毎年やってくる8月15日は、アメリカでは日本ほとんど大きなものではない。もっとも一度だけ、1995年の戦争終結50周年記念、というのが大きかった。新聞は特別記事をのせ、テレビも数日にわたり特別番組を作った。それをアメリカ人の妻と一緒に読み、テレビ番組を見て、私たちが敵同士だったことを思い出した。
 いつもはそんなことは、考えたこともない。不思議なものね、私たちは敵同士だったのよ、と言い合ってわらった。

コロナと育児

西荻なな

今年の1月末に子どもが生まれた。病院を退院すると同時に世の中が新型コロナで騒がしくなってきた。しばらくは慣れない育児に明け暮れ、昼も夜もない授乳とおむつ替えの日々に慣れるのに精一杯だったが、産後の肥立ちの1ヶ月を過ぎ、さてそろそろ外に出られるようになるかな、という頃に緊急事態宣言が発せられ、とうとうそのまま外に出られなくなってしまった。でも、子どもの成長は目覚ましく、見ていて飽きない。ニュースを見て感染者数が増えてゆく事態に不安を覚えながらも、私だけでなく誰もが外に出られなくなってしまったことが不思議で仕方なかった。育児とは、細切れな、それまでの連続的な時間軸とは別の時間軸に突入してゆくことだと体感しているけれども、プライベートな変化が世の中の時空のエアポケット化と連動していたことになんとも言えない感慨を覚えている。育児をする日々が、コロナの日常と軌を一にしていた。子育てがちょうど落ち着き始めてきた4ヶ月目以降の、育児日記を抜き書きしてみる。

◯月×日(生後110日)
昨日は、大変な1日だった。朝起きて授乳したあとに急に右胸にしこりが出てきたのに気づき、痛みを感じたと思うと、胸があっという間に岩のようになりかけた。文字通り岩のようである。7時間もぶっ通しで子どもが寝ていたからだろうか。ハーブティーを飲む、マッサージをする、搾乳をするなど自分でできる対処をあれこれとやってみるけれど、改善の兆しがなさそうで、これは母乳外来に行くしかないと腹をくくる。明らかに母乳マッサージなど濃厚接触であるのだから、それだけは避けたいと思って、乳腺炎になる一歩手前の状態にありながら、自己流でやり過ごしてきたのだが、どうも今回はそれでは乗り切れなさそうだ。産院に電話すると、受付可能なのは最短で明々後日ということで、他の助産院に行くことを勧められる。早いうちに他でやってもらうのがいいです、いま乳腺症が流行っていて、と同じ流派の助産院を紹介された。電話をするとやはり、いま具合悪い人が多くてね、とのこと。梅雨シーズンが近づいて湿気が高いのも悪さするんだろう、コロナのストレスだってあるに違いない。状況を伺うと、前後の人とは時間を少しあけているから、安心してきてくださいという。確かにコロナの感染者数もピーク時よりは減ってきている。今ならば前よりもリスクは低いだろうし、それより何よりこの状況を放っておいたら大変なことになりそうだ。子どもは夫に任せて身一つで行くことに。外出は買い物以外では久しぶりだ。

助産院に着いてさっそくベッドに横たわると、助産師さんは透明のフェイスシールドをつけている。私はマスク。しこりのできている原因を即座に見破って、母乳マッサージを始めてくれた。乳腺炎というよりも、乳管の詰まりのようだ。母乳の生成される量と子どもが飲んでくれる量との兼ね合いで、生成量の方が多いと母乳が滞留して乳管の詰まりが引き起こされるらしい。授乳に慣れてきたころにこそこういうことが起こりがちなのですよ、とアドバイスをもらい、牛蒡の漢方薬をいただいて帰宅する。胸のしこりが落ち着いたのはありがたい限りだが、濃厚接触をしたには違いないので、急いで帰ってシャワーを浴びた。

今日はそれにしても、子どもが急成長を見せてくれた。朝の時点で体重は6400gあまり。お昼前くらいにお布団の端っこの方に仰向けでゴロンとしているのを確認してちょっと目を離したすきに、なんと寝ていた布団の上ではなく、フローリングに腹這いになっている。しかも、あーうー、と元気に声を出している。うむむ、これはさっきの姿勢から考えるに、つまり私が見ないあいだに一人で寝返りをしたということだ。なんと〜、その瞬間を見られなかったのが残念だけど、今日は「寝返り記念日」だ。数日前から寝返りをしたいという姿勢は見せていたし、なにかの弾みで出来ちゃったのかしら。まだ4か月に満たないというのに、成長目覚ましいことだ。

◯月×日(生後116日)
コロナ感染者数が着実に減り、肌寒い雨のお天気にようやく終止符が打たれた昨日、バギーに初めて敏さんをのせて近くの公園までお散歩に行くことにした。座る姿勢も基本的に好きなのか、初めてなのに実に堂々としたもの。足なんて投げ出して、ちょっとオラオラなくらいの雰囲気だ。バギーを押して動き始めると大人しく時々笑みを浮かべている。久しぶりのお散歩が抱っこ紐じゃなくて外が自分の目でしっかり見えるのは嬉しかったんじゃないかな。ここのところ、目の前の世界が急に着実に広がっているはずで、私が実に久しぶりの自転車散歩から帰ったあと、面白いくらいにくるくると寝返りを続けた。思えばその日の朝もそうだったけれど、段差を利用してまぐれ的にできちゃった、ではなくて完璧にコツをつかんで連続技を決めている。よくよく見てみると、片足をもう片方の足にクロスさせて、胸の前で両手をあわせて、体をくるりとひっくり返す遠心力の助けとしている。ちょうどフィギュア選手が空中で回転するときのように。それに付随して、自分の右手と左手をあわせて握ることもできるようになっていた。すごい! どこでそんなコツを体得したんだろう。本人も嬉しいのか、とにかく暇さえあればコロコロくるくるしていて、ちょっと目を離した隙に床に落ちてたりするのであぶないあぶない。お風呂上がりに薬を塗っていてうつ伏せ姿勢にしたときにもゴロンとしそうだし、お洋服を着せるときにもゴロンとしたそうだ。運動量がそんなわけで半端ないのでお腹もよく空くようで、よく飲み、よく成長をしていて、授乳で子どもの身体を左右反転させるのも一仕事。私の腰は悲鳴をあげていて、一昨日にはとうとう鍼に出かけてきたのだった。どうやらほぼぎっくり腰だったらしく、肩首も鉄板のよう、一度ではほぐれきらないらしかったのでまた行かなければならない。コロナのさなか、濃厚接触のきわみゆえにやっぱりまだ気が気でない。でも昨日は再び乳腺炎の危機を感じたのだから、徹底的に身体のケアをしなければならない。藁にもすがる思いで出かけた近所の漢方薬局で虚血ですから、血を補うケアをしておかないと後々大変ですよ、と言われてたしかにその通りだとオイスターの錠剤を買った。朝のうちはまだ元気でも、授乳を繰り返して夕方、子どもをお風呂に入れる頃には身体の前半分が前方に引っ張られるようなクラッとした疲労に襲われるので、貧血っぽさがあるんだと思う。母乳をあげるつど、鉄と亜鉛が抜けてゆくのだからそれも当然か。私が日に日にげっそりしてゆく傍ら、子どもは日に日にぷっくり。ほっぺも落ちそうなら、手首のあたりと太ものあたりがムチムチである。背中の湿疹がはかばかしくないのがやや気がかりだけど、毎日ご機嫌に健やかに成長していて、どんどん喋れる感じになっていて楽しい日々であることだ。

◯月×日(生後119日)
ここ数日、完全に寝返りをマスターしたと思ったら、それでは飽き足りず、ずり這いに突入しつつある。おもに朝、夕食時、ちょうど1日2回くらいのタイミングでその旺盛な運動欲がむくむくと身をもたげてくるのか、くるくるっとしたかと思うと、今度は、うーっあーっと声を出しながら懸命に前に進もうとする。リビングに敷いているベビー布団の端っこに手がかかると、リーチ! という感じで危ないので目が離せない。昨日だったか、ちょっと床に軽くごつんとなって大泣きをしていた。でもまったく懲りる様子がない。もうこのへんにしとこうよ、ほら危ないから、と言ってこちらが止めに入ると、むしろ泣いてもっとやりたいと訴えてくる。4カ月を前にずり這い。このすべてを先取りしてゆくかんじはどうしたことだろう。誰に似たのかしら。運動量が増えるということはすなわちいつも腹ペコということなのだから、授乳をしている私は休みなしで応戦しなければならない。次善の策として、ゆらゆらひとりでに揺れるバウンサー(という椅子)に乗せてみても、わりとすぐに身をよじりはじめる。もっと僕は動きたいの! と言わんばかりだ。今日授乳をするのに子を横抱きにしてみると、こんなにがっちりしてたかしら、と驚いた。見た目はムチムチなのに、思いのほか筋肉質だ。そんなわけでエネルギーを持て余し気味のようなので、今日もお昼どきにベビーカーで散歩。コロナで家にこもりがちだったけれども、最近は近所の公園に少しずつでも脚を伸ばすようになった。ベビーカーに乗ると不思議と足を投げ出して、態度は大きいのだけれど、すっと大人しくなる。多分外に行く刺激があるんだろうなあ。もう家にいるだけでは飽き足りなくなってきた。3回ほど行き交うベビーカーに乗る赤ちゃんをちらりと見たけれど、我が子は白い。白さが際立っていることに気づく。一方で体重は昨日くらいから急カーブを描き6800グラムを超えて、4カ月を前に7キロ台が見えてきた。昨日、一昨日は授乳をしてもしても足りないようで、文字通りずっと授乳をしていたけれど、今日になってやや落ち着きを得たのは助かった。授乳ペースが少しでも落ち着くとこちらも余裕ができるので、ホッとお茶を飲んで一息つけたりする。でも日々食欲は変動があってなかなか読み難いものだ。

○月×日(生後128日)
髪が抜けて、朝も夕もそこかしこに抜ける髪の毛の存在を感じている。授乳をするつど抜けるようだ。このままのペースでは早晩禿げてしまうのではないかと、日に日に薄くなりゆく髪の毛の行方が心配でならないが、子どもは日々面白いくらいぷくぷくしてゆく。数十分のお昼寝から目覚めても、あらまた成長したかしらと思うこともあり、なんとなくここ数日、膝下が長くなったと昨日気がついた。

予防接種も3回目となる今日。予防接種の日はコロナ対策も考えながら外出準備をしたり、何かとバタバタしてしまうのだが、子どもは朝4時くらいにぶりぶりぶりっといつものように豪快な音とともにウンチをした。夫がオムツ替えをして眠りに二人で戻ろうとすると、程なくしてまたもやウンチ。2回目のオムツ替えを見届けることなく私は眠りにおちた。ここのところ夜中の授乳が眠くて眠くて、朝方はやたらと夢を見ている。断片的に夢が次から次へとやってくる。起きても夢の中なのか現実なのか判然としないことも多い。朝方のオムツ替えでひときわ眠気の覚めない今朝、お天気は完全に夏日なようなので、小児科には徒歩ではなくタクシーで行くことにした。家を出る前に再びウンチ、慌ててオムツ替えをして準備万端だ。ベビーカーに乗せて配車アプリでタクシーを呼び、自宅前で待つ。車が来るまで5分と表示される。タクシーが眼前にやってきたその瞬間、ぶりぶりぶりーっと音がする。あら、さっきも家を出る少し前にオムツを替えたばかりだが?

帰宅するまでもうオムツ替えの心配はいらぬと思ったのに。到着して予防接種の前にお肌の確認。透き通るように白いですね、と先生。乳児湿疹に悩まされた数ヶ月、お薬をがんばって塗った甲斐があった。4カ月検診はコロナ対策ゆえ区が見送った旨を伝えると、股関節脱臼がないかどうか、チェックしてくれるそうだ。しかし、それにはオムツのオープンが必要だった! 先生、実は先ほどウンチをしてしまいまして(まだオムツを替えてないのですが)、と伝えたけれど、意に介さずオープン! 股関節は正常で何もなくてよかったのだが、本当にウンチに彩られた日だった。予防接種も無事に終え、夜、お風呂上がりに体重をはかると7160g。ベッドに寝かせて夫婦で会話をしていると、おしゃべりに加わりたいのか笑顔でたくさん声を出しはじめる。あーうーあーうー。合唱のようになってなんとも愛らしい。

◯月×日(生後144日)
昨日は私と母、妹の女3人で吉祥寺を散歩した。妹と会うのは3月の連休以来だから、もう3ヶ月ぶりくらいになる。妹との対面は久しぶりだったけれど、子どもはまだ人見知りをするでもなく(マスクをしたままで、子どもにしてみれば人見知りも何もないのだろうか)、土曜日のすっかり平常モードになったと思われる吉祥寺の人混みを抜けて、小さな公園に向かった。あちらこちらにお昼時の行列があって驚いたけれど、公園に到着して人心地ついた。買ったサンドイッチを広げてさてランチ、という頃には子どもはバギーの上でお昼寝を始めている。とてもいい子だ。大人のペースに合わせてくれるかのようだ。途中で目を覚ましてお腹が空いた感じだったので、その場で授乳ケープをして授乳。昔はもっと公共の空間で授乳をする人を見たような気がしているけれど、この頃はすっかり授乳室で授乳するということになっているのかしらね、と母。授乳ケープがあれば私自身は外で授乳することも気にならないけれど、むしろ周りにいる人がどう感じるのだろう、という方が気がかりかもしれない。 

帰り際、ちょっとその辺の喫茶店でコーヒーでも、と思ったけれど、東急百貨店あたりは混雑がすごかったのでそのまま帰ってお茶することに。帰宅してエネルギーを補給すると、子どもはいつものようにくるくると寝返りを始めた。かと思うと、お尻をキュッと持ち上げてさらに前に進もうと果敢に挑んでいる。その場で両足をバタバタと強く蹴って両手も遠くに伸ばして腹這いになる。けれど思ったように前進できないのか、悔し泣きを続けては、あーうー、と元気に声を出してトライし続けていた。そんな子どもを見ながら大人はおやつタイムで椅子に腰掛けておしゃべりを始めた。途中から僕も混ぜてくれ、と訴えたので膝上に乗せてあげると、手元のテーブルクロスの質感を楽しみはじめた。そういえば最近は布団を敷いているゴザに手を伸ばして、がりがりがり、っとゴザの質感を楽しんでいるけれども、それと同じ要領で新しい素材が目の前に来ると研究に余念がない。食卓に向かってちょこんと座った姿勢でテーブルクロスの質感を両手の全部の指を使って確かめ始めると、その様はまるでピアノを弾いてるかのようだった。大人も楽しくなってしまって途中でジャズをかけ始めると、リズムを完璧に捉えているような身振りで、大人もリズム隊として手拍子で参加した。このワンシーンはかなりおかしかった! 兎にも角にも指先でいろんな質感を楽しむのがここ最近のブームで、今日新たに存在を発見していたのが紙だ。手にもってくしゃくしゃっと丸めで楽しんでいる。お昼すぎには風で揺れる窓辺のカーテンと戯れてもいた。こうなったらもっといろんな素材を教えてあげたくなる。

◯月×日(生後149日)
この4.5日ほど、子どもが夜中に起きすぎである。授乳のために夜中起きる回数はせいぜい2回ほどだったのに、2-3時間間隔で起きては授乳をしていて、新生児の頃に逆戻り状態だ。あまりに授乳回数が多いので、大人のベッドの真ん中に置いているベッドインベッドに子どもを戻したかどうか、あやふやなまま眠りに落ちてしまう。大人が子どもに覆い被さって窒息してしまう、というケースもないではないのだから、気が気でない。あまりに授乳が頻回になっているため、この前は夢の中でも授乳をしていた。そして起きても授乳をする。どちらが現実なのだかわからなくなる。そうやって意識が朦朧とするだけでなく、実際に身体がきつく、今朝は胃痛で起きる始末だった。昼は昼でだいぶ頻回授乳、毎日身体をはっている自覚だけはある。もう5ヶ月近くになり、どの育児書にも授乳間隔は空いて楽になってくる、とあるのだが、それは我が子には当てはまらないようだ。どうしたものかとあれこれ読んでみると、子どもの昼寝時間が決定的に足りないことに気づいた。新生児の頃から眠るのがどうも下手な傾向にある。今の月齢だと、平均的には1日に3ー4回昼寝をするらしい。朝、昼、夕と。泣いてはお腹が空いているのだろうと授乳を始めていたが、うち何回かは眠くて眠れなくて泣いているのだなあ。お散歩も朝夕二回、できるだけ連れて行くようにしているけれども、この梅雨のシーズンで難しいことも。でも本当はもう少し長い時間外に出してあげていたら、リズムができてちゃんとお昼寝もできるのだろうか。

そういえば昨日、いつものようにお風呂上がりの授乳をして、さてこれから入眠ですよ、というタイミングで、子どもが私の人差し指をしっかと握り、こちらの眼をじっと見て、あーうーあーうー、と5分間くらいしゃべり続けた。あまりに真摯な眼差しに、これはきっと何かを伝えたいんだと思ってびっくりして、あれこれと訊いてみた。「私がヘトヘトでちょっとイライラしてたからかな、ごめんね」「元気出してと言ってるのかな」などなど、向こうのおしゃべりに応答するように話しかけてみる。それでも止むことなく、まっすぐな目で、あーうーあーうー、と言い続けたまま、やがてそのまま目を閉じて寝てしまった。まるでETのようだった。ETの造形はこの頃の子どもとの対話にあるんじゃないかと思ったくらいだ。こちらの心情を察していたかのよう。疲れてしまったかな、ごめんね、僕はもう今日は寝るね、と言っていたように思った。昨日今日と、私がちょっとささくれだっていたことと無関係でない気がしてならない。

コロナ貧困ものがたり

さとうまき

自分で言うのもなんだが、僕はいつも最先端を走っている。イラク戦争では、まさに前線で命からがら働いてきたし、福島原発事故では、放射能のせい?で家庭が崩壊して妻子に逃げられた。そして、コロナは。

一年前に失業してから、仕事がない。失業保険で暮らしていたが、そろそろ失業保険も切れかけたころ、前妻から電話があった。北海道にいたムスコが転校したばかりで、友達ができる前にコロナで学校が休みになった。STAY HOMEしていた息子は母親との関係にも行き詰まり部屋から出てこなくなったらしい。暫く東京で預かってほしいといわれたのだ。

急を要するらしく、ともかく慌てて北海道に迎えに行ったものの、息子とは年に3日ほどしか会わないから、どう扱っていいかわからない。児童相談所とか、片っ端から電話した。「いうこと聞かない場合は、どうしたらいいんですか? 殴っていいんですか?」
そういう風に言うと大概は、親身になってくれる。

最初は、ただ、家に帰らせて! と泣いていたムスコも打ち解けてきた。僕は、何とか仕事をせねばならず、夜間学校で職業訓練を受けることになった。昼には出かけて行って、夜の10時ころに家に帰ってくる。

ムスコは先日11歳になったのだが、成長期でよく食うのだ。なんと一か月に5キロも増えているし、ぐんぐんと大きくなっているのがわかる。当然食費がかさむので、近所の子ども食堂がお弁当を届けてくれたりして、何とか食いつないでいるありさまだ。優しい人たちがいるもんだ。しかし、偏食も激しく、僕が作ったおかずの肉だけ食ったりとかするもんだから、僕も自信がなくなり、仕方なく残り物を食うから、こっちまで太ってしまう。

学校の帰りに西友によるとちょうどお弁当が半額になっていたりするのでこれはありがたいのだ。ところが息子ときたら賞味期限にはクソまじめときている。半額の納豆巻を買っておいて、翌朝食べさせそうとしたら、
「酸っぱい味がする」
「すしだから酸っぱいでしょう」
「賞味期限一時間切れている」
「それくらい、大丈夫だって。」
「くさいんですけど」
「納豆だからくさいんだよ」

結局息子は納豆巻には一切手を付けなかった。
「あのさあ、生活厳しいんだからさあ、賞味期限ぎりぎりのものを狙うっていうテクニックわかってほしいんだけど」
僕は納豆は嫌いなので、結局食わずに捨てることになった。結局これでますます食費がかさむ。

すでに、息子と暮らし始めて2か月だ。それでも、最底辺の毛の生えたような貧困生活を楽しんでいる。コロナで似たように生活の苦しい仲間もいるから。

ところで最近シリアに、アメリカが、「シーザー・シリア市民保護法」と呼ばれる経済制裁を課した。人権侵害を繰り返すアサド政権を窮地に追い込むのが目的だが、シリアでは現地通貨が暴落し、コロナの影響もあり、経済活動が成り立っていない。今彼らに必要なのは仕事をして普通に暮らすこと。

アメリカ曰く、人道支援に関しては制裁の対象ではないらしいが、そんな支援にどっぷりつかるような暮らしは好まないだろう。なぜなら、援助関係者が偉そうにふるまって、一部の心無いNGOなんぞは、戦争産業の一部と化して暴利をむさぼる。ローカルスタッフとして雇われた暁には、普通に働いている人の(いや、普通に働けない者がもうあふれているわけで)何倍もの給料をもらって、偉そうに食料を配われたんじゃたまらん。

その構造は、日本でも同じだ。給付金をめぐって、電通はやりたい放題。コロナ禍でたとえ世界が封鎖されようが、我々、庶民は世界とつながっていく。息子は、「お金には価値がない。価値なんてこの世界にはないんだ」ってぶつぶつ言っている。コロナを強く生き抜いてもらいたいもんだ。

落首または自粛のすすめ

北村周一

(アベさんから)このひとことが効いている(バレやしないさ)黙っていれば

トンネルに出口入口あることも巡りめぐって潤う自民

トンネルを掘るに長けたる代理店電通それはべんりな仲間

自重自愛自制自活自助自足自恣自棄自大自己責任大

自粛自戒自衛自警自画自賛自公自堕落自浄力皆無

つかいすてマスクを干すを日課とし缶詰め料理に舌つづみ打つ

としとると笑わぬことの多くなり目じりを下げてそれを繕う

民族を煽るアイテム愛国にして暴力に右ひだりあらず

うそがうそを掻き消す手口それさえも打ち消すように国会終わる

サ協とはサービスデザイン推進協議会の略にしてカタカナ表記がいかにも胡散臭い

ニチギンもエヌ・エイチ・ケイもデンツーもわが意の儘に恐いものなし

トンネルの闇のくらきに安倍かわの蜜をもとめて群がるアリは

ときを超えよみがえり来たる悪行のあれこれ そうだ祖父はあの人

嘘のうえに嘘をかさねてしらじらとなにを嘯くマスクの声に

くらぐらとマスクに浮かぶくちさきの動くをみれば「民度」が知れる

民の声に耳傾けることもなく騙るうそぶく「民度がちがう」

子会社を通り抜けゆくそれだけで利潤を生むをトンネルという

トンネルをひとつ抜けゆくそのたびに利潤を得るを癒着ともいう

絶対的かずをたのみに直走る権力にみる躓きの石

視聴率も支持率もまた権力のちからの証し 人気がすべて 

支持率がすべての君にぶらさがる数の論理は信仰に近し

意に添わぬものは排除の論理にて 死んだふりして逃げのびる蟲

わるさしたらお仕置きをする約束のそれをみのがす上級のひと

悪行のかずかず代々に至るまで紐付けられてわたしは小舟

ぬけ目なく民をとりこむ為政者の独り善がりなゆうべの声は

隠蔽と虚偽と改竄てんこもりの恐怖政治に目詰まりは見ず

看板から「自由」と「民主」は剥がれ落ち無能無策は歯止めかからず

ノンシャランと息吐くように嘘をつく だまされやすき民を狙って

背景にシュプレヒコールの声のこし今日の内閣委員会中継おわる

王さまはハダカですよと告げるべき声なき声はハッシュタグより

とどのつまりあの「手口」に学べということか オキテ破りのならず者らよ

番犬をマクラにねむる飼い主のユメもふくらむサクラ記念日

猫を殺したかもしれない。

植松眞人

 当時の市役所の駐車場は、まだゲートなどもなく用事のある市民なら誰もが自由に利用できるようになっていた。時間の制限もなかったので、駐車場を持たない人たちがマイカーの駐車場として、車を停めるということもあった。
 今となっては信じられないだろうけれど、一九八〇年頃はまだ軽自動車を購入するときに車庫証明を必要としていなかったと記憶している。青空駐車という言葉がまた日常的に使われていて、
「どこに車を停めているの」
「いや、お金がないから青空駐車だよ」
という会話が成立していた。
 もちろん、軽自動車よりも大きなサイズの乗用車には購入時に車庫証明を取ることが義務づけられていた。しかし、僕は親をだますようにして初めての車を手に入れた時には家に駐車場はなく、隣町に住む祖母の家の庭を車庫として申請していたのである。そのため、実際に住んでいる自宅には駐車場はなく、近所の神社の駐車場やこの出来たばかりの市役所の駐車場に勝手に車をとめてしのいでいた。
 このやり方は「車庫飛ばし」と呼ばれていて、厳密には違法だった。しかし、普通にみんながやっていて、中古車販売店の営業マンも「飛ばせる車庫があれば、私が手続きしますよ」と言ってくれて、僕は車を手に入れたのだった。
 まだ二十歳になったばかりの僕は車を運転することが楽しくて仕方がなかった。無茶なスピードを出したり、激しく山道を攻めたり、ということにはまったく興味はなかったが、ただ自分でハンドルを握ってアクセルを踏むという行為が楽しかった。窓を開けて、風を受けながら車を走らせることが楽しくて仕方がなかった。
 二十代の初め頃、僕は映画やドラマの撮影現場で助監督や制作進行をしていた。職場である京都の撮影所やテレビ局のスタジオに行く時には、いつもマイカーだった。サンキューセールの目玉商品として売られていた三十九万円の日産バイオレットという地味な乗用車は、サスペンションがへたり気味だったが、そんなことはまったく気にならなかった。
 その日も深夜、確か零時を少し回ったあたりに、僕は市役所の駐車場に車を滑り込ませた。市役所がこの場所に作られた頃は、深夜に車を停めている人など誰もいなかったが、次第に自由に車を停めておけるということが知られてくると深夜にもそこそこの数の車が停められるようになった。自分でも身勝手に使っていながら、入口にゲートが付けられ出入りが制限されるようになるのも時間の問題だと僕は思った。
 その日は、朝から細かな撮影が続き、気疲れしていた僕は帰り道の高速のインターチェンジで温かなうどんを食べたあと、とても強い眠気に襲われていた。それでも、煙草を吸い、ガムを噛みながらなんとか市役所まで帰ってきた。いつもの場所に軽トラックが停められていたので、少し入口側のいつもは停めない場所に車をバックで駐車させた。上着を羽織り、荷物を持って車の外に出ると、寒くて息が白くなった。車のキーを閉じるのに手間取って、一度鍵を落としたりしている時に、ニャアニャアという猫の声が聞こえた。猫の声は激しく数回聞こえた後、消えた。僕はしばらく耳をすませていたのだが、猫の声は聞こえなかった。どこで鳴いていたんだろう、と思いながら僕は家に帰ろうと車を離れた。すると、またニャアという声が聞こえた。さっきよりも激しく、大きく、とても近くから聞こえた気がした。僕は車の奥の方から聞こえた気がして、自分の車の周りをくるりと見てまわった。猫は見つからなかった。僕はどこだろうと思いながら、仕事の疲れもあって猫を見つけることを諦めて、帰ろうとした。するとまた、猫の声がする。僕は荷物を置いて、ニャアという声がする方に歩いて行く。僕の車の後ろの方だ。何もいない。僕は膝をついて、車のリアタイヤのすき間から車体の下をのぞき込んだ。ニャアという鋭い声がして、何か黒い塊が見えた。駐車場の街灯がアスファルトを照らし、その反射した光が黒い塊をうっすらと浮かびあがらせた。黒い猫だった。ニャアと鳴いた瞬間に大きな口を開けているのが見えて、真っ赤な口が見えた気がした。
 僕はその表情に気圧されて立ち上がった。自分が寝ていた場所に僕が急に車を止めたので怒っているのだろうと思った。犬猫がもともと得意ではなかったので、その怒ったような表情と声が怖くて、僕はその場を離れた。いったん顔を見られたからか、猫はさっきまでよりも激しく鳴き始めた。
 僕はときどき車を振り返りながらも駐車場を出て自宅への道を急いだ。猫の声は次第に聞こえなくなり、一つ目の角を曲がるとただ夜の静寂だけがあった。その時、僕にはふいにさっきの猫の映像が浮かんだ。あの猫は大きな声で鳴くときに真っ赤な口の中を見せていたような気がする。しかし、猫の口のなかというのは普通、真っ赤だっただろうか、と僕は考えた。実際に猫を飼ったことがなかったので、考えてもはっきりとはわからなかった。そして、もう一つ疑問が浮かんできた。なぜあの猫は怒りながらも僕の車の下から逃げ出さなかったのだろう。
 僕は疲れた頭で、そんなことを考えていた。考えながら、ひとつの答えが見えた。僕は猫を自分の車で轢いてしまったのかもしれない。空いた駐車場のスペースで、安心して眠りこけているところに、僕が車を滑り込ませて、あの黒猫を引いてしまったのかもしれない。そんな思いが一瞬浮かんできた。だからこそ、あの猫はその場から動かず、ただ口をあけてニャアニャアと声をあげていたのではなかったのか。そして、動けないほどの怪我をしていたからこそ、口の中に血が溢れていたのではなかったのか。
 僕が自宅にたどり着いたころには、この考えは確信のようなものに変わっていた。しかし、僕は疲れていた。そして、何よりも怖かった。猫を殺してしまったかもしれない、という考えがとても怖かった。駐車場は暗すぎて何もかもがはっきりとは見えなかった。けれど、轢いてかもしれない、という手ざわりのようなものが、ふいに見上げた空と見下ろしたアスファルトの間から、粒子のように僕の掌に降り積もり、消えることはなかった。寒さをしのぐように、手を擦り合わせながら息を吹きかけると、その感覚はますます強くなった。きっと僕が猫を轢いてしまったという事実は、確実ではなくても、まったくの虚実でもないという妙な感覚になった。
 その夜、僕は風呂にも入らずぐっすりと寝てしまい、昼前に起きたときにはすっかり、そのことを忘れてしまっていた。もう一度思い出したのは、昼過ぎに市役所の駐車場に向かった時だった。そして、僕は昨日の夜とは違い、あれはきっと猫がただ居場所を奪われそうになって怒っていただけだと考えようとしていた。駐車場に行ったら、決して車体の下などのぞき込まず、そのままエンジンを掛け、そのまま立ち去ろう。僕はそう心に決めて駐車場に向かった。
 市役所の駐車場に到着すると、これまでには見たことがない光景があった。警察官が一人と、役所の職員が一人。二人の男が駐車場で車を出し入れしようとするドライバーに声をかけていたのだ。僕はこれまでの違法駐車をとがめられるのではないかと思い緊張した。しかし、仕事があるので車を出さないわけにはいかなかった。できるだけ平静を装って警察官と職員が立っている出入り口を通過しようとした。すると、職員が僕に声をかけてきた。四十過ぎくらいの温厚そうな男性だった。それほど高くはないけれど、ちゃんとしたスーツを着ていた。
「申し訳ありません。この駐車場はいつもご利用ですか?」
 職員はそう聞いた。
「はい。わりと」
「そうですか」
 と今度は警察官が答えた。
「実は、来月からこの駐車場が有料になるんです」
「ああ、そうなんですね」
「で、ちょっとだけ利用状況を調査していまして」
 と今度はまた職員が声をかけてきた。
「今回のご利用時間はどの程度でしたでしょうか」
 そう聞かれて僕はほんの少しだけ考えて、
「そうですね。住民票を取ってきただけなので、三十分くらいかな」
 そういうと、職員がメモを取り、二人は僕に頭を下げて、ご苦労様でした、と言った。僕も二人に軽く頭を下げると、ご苦労様でした、と声をかけた。
 僕は二人から離れて、昨夜、自分の車を止めた場所を眼で探し、そこに向かって真っ直ぐに歩いた。運転席のドアを開け、乗り込み、エンジンを掛けて前を見ると、二人のうち警官だけが僕を見ていた。僕はゆっくりと車を出した。二人から離れた方の出入り口に向かうためにすぐに左折した。すると、助手席の窓の向こうにさっきまで自分が車を停めていた場所が見えた。僕はその場所をじっと見た。特に昨夜猫が鳴いていたはずの場所を見つめた。アクセルを緩めて、僕はブレーキを踏んだ。そこには何もなかった。黒い猫の死骸も肉片のようなものも、血だまりのような物もなにもなかった。僕はハンドルを握ったまま、長いため息をついた。運転席側の窓をコツコツと叩く音がした。さっきの警察官が立っていた。僕が窓を少し開けると、彼は笑顔を浮かべながら、どうかしましたか?と聞いた。僕は、いえ大丈夫です、と答えて窓を閉じた。ゆっくりとアクセルを踏み入れ、少しずついかにも普段から安全運転をしているかのような慎重な運転で、僕は駐車場の出口を通りかかった。バックミラーのなかで、警察官も市役所の職員も頭を下げていた。
 僕は駐車場の外を出て、バス通りに車を進めながら、昨日見たことは僕の思い違いで、ただ猫が怒っていただけなのだと思った。その証拠に猫の死骸も血だまりの後もなかったじゃないか。そう思うととても気分が軽くなった。
 しかし、あれから三十年以上の月日が流れたのだが、「あの時、猫を轢き殺したのかも知れない」という思いが僕の中から消え去ってしまうことがない。(了)

インドネシアの公共料金支払いの思い出

冨岡三智

6/16の記事で、インドネシアのモスク評議会は、金曜集団礼拝の時間を携帯電話の番号が偶数か奇数かによって分けることを推奨したとあった。この偶数か奇数かでグループ分けするというのがいかにもインドネシアで、留学していた時の水道料金の支払いのことを思い出した。というわけで、今回は留学中の各種料金の支払いに関する思い出。

私がスラカルタ市(人口約50万人の都市)に留学/調査で住んだのは3回(①1996~1998年、②2000~2003年、③2006~2007年)。いずれも市役所の裏のカンプンバルという地域で、電気、水道、固定電話のある家を借りていた。実は、2019年に『水牛』で4回、当時住んでいた各家について書いている。私が住んでいた当時、この町の中心部でも固定電話のある貸家はあまりなかったし、井戸しかない貸家もあったので、割と贅沢したわけである。

①1996~1998年(5月初めまで)

この時、大家さんはすでにスマトラ島に引っ越しており、私は請求書(名義は大家さん)が家に届いたら自分で支払いに行くように言われていた。水道代は毎月7~20日の間にパサール・ルギ(ルギ市場)近くにある水道局に支払いに行った。ただし、いま水道局は移転して、別の機関がこの建物に入っている。水道局の受付時間は月~木曜日が8:00~13:00、金曜日は8:00~11:00。しかし、15日以降は7:30から開くというメモがある。これは、20日近くになると支払いが混むためである。ちなみに、金曜の昼にはイスラムの集団礼拝があるので、役所や学校は11時で終わる。段取りだが、家に届いた請求書を受付で渡すと番号札をくれるので、あとは番号が呼ばれるのを待つ。会計窓口は2つあり、奇数と偶数に分かれている。各窓口が交互に10~20人ずつ位一度に番号を呼ぶので、呼ばれた方の窓口に行くが、そこから先は早い者勝ちになり、窓口を奇数と偶数に分ける意味があるようにも思えない。日本のように、受け付け順に「〇番さん、x番窓口へ~」と呼ぶ方が公平な気がするのだが…。ここでの支払いはだいたい1時間以上かかり、いつも非効率なやり方だと思っていたものだ。

余談だが、この水道局の前には当時、牛の駅?駐留場?があった。荷物やレンガなどを運ぶのに、当時はまだ牛車も使われていて、ここに待機していたのである。今から思うと、ルギ市場に仕入れに来る人が利用していたのかもしれない。

次に、電気代の支払いは指定銀行に毎月10~20日の間に行く。受付は月~金曜の8:30~13:00。指定銀行の1つが舞踊の師匠の家から比較的近いので、いつもレッスンの前か後に行ったが、ほとんど待ったことがない。

電話代は、我が家から徒歩圏内にある中央電話局に支払いに行く。毎月1~20日の支払いで、月~木曜日は8:00~13:30、金曜日は11:30までだがお祈りで一時中断したのち13:30まで受付。やはり待ち時間は長く、1時間くらいかかったように思う。ここでは受付番号ではなく人名(請求書にある大家さんの名前)で呼ばれたと記憶している。

②2000~2003年

この時は同じ町内に大家さんが住んでいて事務所もあるので、その事務所に支払いに行っていた。大家さんは電気、水道、電話代すべてを口座引き落としにしていたので、全部の引き落としが済んでから合計金額を事務所に支払いに来てくれという話だった。というわけで、この間はどういう状況だったのか分からない。

③2006~2007年

再び、公共料金の支払いを自分ですることになる。①の留学を終えて帰国直後、スハルト大統領は退陣し、インドネシアは民主化された。その後、状況はいつの間にか変わっていた。水道料金は徒歩圏内にある中央郵便局で支払うことができるようになっていたのである。郵便物を出すカウンターの数が減って、代わりに公共料金の支払いカウンターができていた。また、支払いとは関係ないが、局内の壁に有料広告を出せるようになっていたのも大きな変化だ。1996年に日本からダルマブダヤ(関西のガムラン音楽団体、私も所属していた)が公演に来た時、私はポスターを掲示させてもらったのだが、実はその時は無料だったのである。内心、有料でないことに驚いたくらいだ。民主化により、サービスを高め、稼げる体質目指して方向転換したのだろう。②の時期にはすでにそうなっていたのだろうか…。

電気料金は電力公社で支払うようになっていた。ここも徒歩圏内にあるが、①の時期にはまだその場所で支払いはできなかったはずである。建物が新しくなり、中に入ると受付番号の自動発行機が据えられ、日本並みに便利になったなあと感じたものだ。

電話料金の支払いについては、どういうわけか記憶がない。ただ、この1年間で各種支払いに自分で行ったのは最初の1月だけだった。2019年7月号にも書いたけれど、隣に住む元・ベチャ(人力車)引きのおじいさんから申し出られたこともあり、代行を頼むことにしたのである。以前のように延々待つことはないだろうけれど、やはり毎月支払いに回るのはめんどくさいと思ってお願いした。

あれから10年以上経ったけれど、この間に公共料金支払いはさらに便利になったのだろうか?建物や職員の働きぶりは変わっただろうか。ちょっと気になっている。

6月のビートルズ

若松恵子

残念ながら、ビートルズと出会った!と思える鮮烈な体験は無い。「ヘイ・ジュード」は吉永小百合が出ていたドラマ「花は花嫁」の主題歌だったし、「シー・ラブズ・ユー」はエドウィンのコマーシャルで知った。

14歳のころに繰り返し聞いていたのは、ビートルズに大きな影響を受けた日本のバンド「チューリップ」だった。ビートルズみたいなチューリップの曲を、原曲より前に好きになってしまったのだ。アビイロードのB面の最後のメドレーを聞くと今でも胸がいっぱいになるけれど、これまでところどころ聞いてきたのがビートルズだった。

今年の4月28日に片岡義男さんの新刊『彼らを書く』(光文社)が出版された。最初の彼らであるビートルズのDVDを取り寄せて休日ごとに家で見ている。リンゴスターがフューチャーされた映画「That’ll Be The Day」から始まり、「エドサリバンショウ」、エドサリバンショウに出演するビートルズを追いかける3人のファンの女の子たちのコメディ「抱きしめたい」、ハンブルグに出かける前までのジョンレノンを描いた「NOWHERE BOY」、ハンブルグ時代を描いた「BACK BEAT」、初めてのアメリカツアーのドキュメンタリー「THE FIRST U.S VISIT」と見ていって、ビートルズと出会いなおした気がした。

劇映画とドキュメンタリーと混在しているのだけれど、どの作品にもビートルズというもののエッセンスがあって、それらの作品を重ねて見ることでビートルズの存在がより身近なものになった。エドサリバンショウに至るまでの道のりを知ってから見ると、輝くような笑顔で演奏する彼らの姿は、また違った印象にうつる。

『彼らを書く』に紹介されている作品は、さりげないけれど、ビートルズを良く描けているものばかりなのではないかと思う。本の帯に「DVD31作品のなかに、いまも彼らはいる」とあるけれど、その通りだ。

今日は6月30日。夜になっても雨を含んだ生暖かい風が強く吹いている。1966年6月29日に、珍しく関東を直撃した台風の影響で10時間遅れてビートルズは羽田空港に着いた。来日公演の映像を残念ながらまだ見ることができていない。でも、今年の私の6月は、ビートルズの6月になった。

仙台ネイティブのつぶやき(55)鳩の家は、どこ?

西大立目祥子

 庭で、真っ白な鳩が動けなくなっていたことがあった。迷い鳩に違いない。草木の中で、ほとんど歩くこともせずじっとしている。しばらくようすを見ていたのだけれど、何時間がたっても一向に飛び立つ気配はない。どこか傷めているのだろうか。日は暮れるし、このままでは猫やカラスに襲われるんじゃないか、と心配になった。
 保護しようと思ったものの、捕獲に役に立ちそうなのは洗濯カゴだけ。そうーっと近づいて上から静かにカゴをかぶせたら、あっけないほど簡単に捕まえることができた。

 家の中で観察すると、血が出ているとか翼がぶら下がっているとか、外傷はなかった。よく見ると、細いピンク色の足に、銀色の鑑札をつけている。暴れもしないので、抱いて鑑札に目を凝らすと「03-××××-××××」と刻んである。もしや東京03の電話番号ではないのか。思いきって電話をすると、中高年と思われる男性が出た。

私「もしもし、あのーどちら様でしょうか?」
男性「はぁ? どちら様ですか?」
と、おかしなあいさつのあと、「仙台からかけているのですが、庭で白い鳩が飛べなくなっていて…」というと、男性は「また、仙台でだめだったか」と話し、こう続けた。
「数日前に岩手の花巻から出発する鳩レースに出したんです。とうに東京に戻ってもいいのに、帰ってこないので心配していたんですよ。仙台上空は越えるのが難しいんです。そこでいつも何羽かが脱落しましてね」。

 純白の鳩はレース鳩だったのだ。
 岩手を下り、北上川を越え、宮城県北のおだやかな丘陵地を飛び、広大な水田地帯を順調に通過しても、仙台に入ったとたんあちこちから飛んでくる電波で鳩の頭脳は撹乱されてしまうのだろうか。でも、なぜうちの庭に? 思い当たるのは北側300メートルの近さに標高60メートルほどの緑濃い丘陵地があること、そしてうちの庭には何本か樹木が茂り小さな池があることだ。もしかすると、丘陵地の頂上に大きな3基のテレビ塔があることが障害になったのかもしれないし、そこをねぐらにする鳶に襲われたのかもしれない。不時着しようとして、上空から光る水辺が目に入ったのだろうか。

「どうしたらいいですか?」とたずねると、男性は「お手数ですが、日通の鳩便をよんで、それに乗せてください、着払いで」といった。鳩便なんてものがあるのか。住所を聞いて驚いた。「東京都新宿区信濃町」。そんな都心でレース鳩を育てている人がいるなんて。
 翌日、電話をすると日通のお兄さんが鳩便の段ボールを持ってきた。ちょうどバレーボールが入るくらいの大きさで空気穴がついている。中に入れても鳩は静かで、フタをされトラックで運ばれていった。無事に着いたのだろう。数日すると、男性からクッキーが送られてきた。お礼の電話をすると、男性は「あれは友人から譲り受けた大事な鳩でしてね」といい、少し鳩レースのことを話してくれた。日本中に夢中になって鳩を訓練し、レースをめざす男たちがいることを初めて知った。今日も東北の上空を、鳩たちは帰りたい一心で住処をめざし飛んでいるのかもしれない。

 鳩といえば、野生のキジ鳩も動けなくなって庭に避難していたことがある。数日、物置で保護していたのだけれど、これもまた飛び立つ気配をみせないので、仙台市の動物園に電話をしてみた。「野生の鳩なら引き取ります」といわれ連れていくことにした。いったいどうやって運んでいったのだったか。覚えているのは、事務棟の階段を上がっているときに、飛べないはずの鳩が急に暴れて逃げようとしたことだ。人に飼われているか、自然の中で生きているのかで、生きものはまったく違う行動をする。

 それにしても鳥はどうやって水辺を感知するのだろうか。数十メートルの上空からでも見つけられるのは、目のよさなのか、匂いによるのか。命をつなぐために、人には想像もつかないような力を働かせて鳥は舞い降りてくる。このごろは定期的に、シジュウカラが水を飲みにくる。春はカッコウが毎日のように通り道にしていた。隣の敷地の桜の花びらの蜜を吸ってお腹いっぱいになると池のまわりで過ごし、どこかへ飛んでいく。ずいぶん前のことになるが、池で金魚を飼っていた頃は、光る魚を狙ってか、大きなサギが下りてきて驚かされたこともあった。

 小さいし汚いし、ドブのような池である。それでも、春になるといつのまにかアメンボが動き、夏にはヤブ蚊がわいて、それを狙うトンボがくる。トンボはここを産卵の場所にしているようで、夏はハグロトンボもシオカラトンボもヤンマも寄ってきた。去年はメダカを20匹ほど放したら、だめになったかに見えて春になったらどこにひそんでいたのか、数倍の数となって現れ、すいすい泳ぎ回っている。水中生物もいるし、くさむらにはカナヘビもいるから、目のいい鳥は、それをめざとく狙って舞い降りて下りてくるのだろう。

 水辺のまわりの生きものの循環。たったこれだけの水たまりが、見えない微生物を育て虫を集め、高く飛ぶ鳥にまでその存在を知らせて、生きもの図鑑のような大きな世界をつくりあげているのだ。水ってすごいなぁと、ながめるたびに小学生のように感嘆する。
 まぁ、待っていても、レース鳩はあれから一度も訪れてはくれないけど。

製本かい摘みましては(155)

四釜裕子

窓辺の本が、けぶるような雨をぬって射し込む光を表紙カバーの銀に集めてきれいだ。小さく並ぶ銀のポツポツはこの本に登場する350冊の〈美しい本〉のタイトルで、漢字は濃く、かなと○は薄く、雨だれのように光って流れ込んでくる。タイトルは、表紙カバーの裏に続いてカバーを外した表紙にも続く。色合いもすごくいい。臼田捷治さんの『〈美しい本〉の文化誌 装幀百十年の系譜』(Book&Design)だ。
箔押しを担当したコスモテック社の方の「note」によると、繊細な文字の表現と、印刷と箔押しの位置合わせが難しかったそうだ。紙は「アングルカラー」のきぬ白、四六判130キロ。ストライプ模様のテクスチャーがあって、その凹凸に左右されることなく箔を押しとどめるための接着剤選びにも苦心されたようだ。そういうことを何ひとつ知ることなく銀の雨だれに見とれたのは、閉じこもりが始まってまもなくの春の雨が続いたころだ。今夜の雨は梅雨前線によるもので、時折吹きつける強風のために窓を開けておくことができず蒸している。

大きくみて、装画家や版画家が表紙絵だけを担った時代から、グラフィックデザイナーが本文の組にいたるまで尽くした時代、そして現在と、日本における洋装本の装幀文化史はたった110年ということにも改めて驚く。さまざまな立場の人が残した装幀にまつわる言葉をたっぷり引用しながら、臼田さんは350の〈美しい本〉について細かく言及する。膨大な数の人名書名社名に羅列感はなく、読んでまずなめらかだ。カラー写真が添えてあるのはごく一部。全て見られたらもちろんサイコーだけど、読み物としての物足りなさを少しも感じない。字数ミニマムを極めた〈美しい本〉への賛辞には妖艶さすら漂う。三島由紀夫が『聖セバスチァンの殉教』(編集・装幀 雲野良平)について語った話のあとはこうだ。《生き物を菰の上から育て上げるのと類するような手間暇と愛情を惜しみなく注いだ本書が理想の美本の代表格であったろうと推測する由縁である》(p216)。

冒頭の口絵16ページにはこんな言葉が添えられている。「時代を隔てたふたりによる〈共作〉」「象徴詩と近代詩へのしつらい」「『装幀は要するに女房役であって、内容をうまくおさめて行くと云う仕事……』」「独自の世界を究めた昭和の名匠ふたり」「詩人装幀の系譜の清新な流れ」「世界的な創造者による稀有な結実」「画家による仕事の新次元」「本文組を起点とする新しい歴史と東西の造本言語の融合と」「プレモダンの劇を鮮烈にかたちにする」「著者自装と九〇年代〈美本〉の白眉」「〈美の使徒〉への至上のオマージュ」「〈版〉の重みと版画家が紡ぐ物語」「確かな感触を取り戻すチャレンジ」。それぞれどんな本が並んでいるかはページをめくってのお楽しみ。

第4章「装幀は紙に始まり紙に終わる 書籍のもとをなす〈用紙〉へのまなざし」から第5章「〈装幀家なしの装幀〉の脈流 著者自身、詩人、文化人、画家、編集者による実践の行方」への流れが特にいい。時代時代で装幀のメインストリームに立つ職種やムードがあるわけだけど、そういうのに任せっきり、あるいは任せられっきりなのにがっかりする臼田さんの姿がときどき現れる。こういうとき、人の側ではなく本の側からしゃべっているように感じる。《装幀が〈素人〉にも開かれ、門外漢がもっと口出しできるような状況が再び来てもよいのではないだろうか》(p157)と言っているのも、〈素人〉擁護でも〈玄人〉批判でもなく、本たちの窮屈の声に聞こえる。

自装は〈素人〉装幀の代表と言っていいのだろう。1920~30年代ころの自装本は《とくに専門のブックデザイン界からの評価はきわめて低》(p164 )く、古臭いと思われているそうだ。どう言われようが私は好きなのでかまわないが、あの時代の自装本が華やかだったのは《出版界にもそれを受け入れる度量があった》からともあるので、一般読者には分からぬ装幀界の窮屈があるのかもしれない。
大庭みな子の『寂兮寥兮(かたちもなく)』や永井荷風の『来訪者』に触れたあとには、《……その自装本の巧拙をうんぬんしても始まらない。いかに等身大の自分自身を出すか、に尽きるだろう。余計な気取りも背伸びも無用。自然体で臨めばよいことをふたりの実践は示している》(p170)と書く。高度成長期以降を代表する編集者装幀の名人としてあげた、萬玉邦夫、雲野良平、藤田三男について述べたあとはこうだ。

《……渡辺一夫の装幀について串田孫一がそれを余儀だとか専門家級だとか枠づけすることが無益であることを的確に指摘したように、三人の装幀術を玄人はだしだとか、あるいはセミプロ級の仕事だとかといったレッテルを貼ることには慎重でありたい。安易にすぎる〈地勢図〉への落し込みになるからだ。三者の仕事は現在の支配的なブックデザイン作法に照らすと、突き刺さるように鋭角的な洗練度には物足りなさがあるかもしれない。が、そうした比較に意味はないだろう。(略)ブックデザイナーにとっては装幀の仕事ひとつひとつはワン・オブ・ゼン。それに対して編集者のそれは、言ってみればワン・オブ・ワンである。この違いは小さくないはずだ》(p218)。

ここに垣間見えるのも本の側でしゃべる臼田さんだ。本書のタイトルすらそう見えてきて、これは〈美しい本〉の自叙伝なのかなとも思う。いちおう言っておくが、ワン・オブ・ワンの装幀をしている装幀家にももちろん言及しておられる。

北原白秋は、自装した第2歌集『思ひ出』の前書きに「こうしてこの小さな抒情小曲集を今はただ家を失ったわが肉親にたった一つの贈物としたい為めに」「而して心ゆくまで自分の思を懐かしみたいと思って、拙いながら自分の意匠通りに装幀」したと書いたそうだ(p157)。志茂太郎の「ツキつめて行けば、紙と印刷だけで本は成り立つ」(p140)にならい勝手に言ってみるならば、ツキつめて行けば装幀は、それを運ぶため、届けるため、手渡すための包みと思う。
本の表紙が、装幀する人や手がけた人、売る人のギャラリーとなり本屋やネットに鼻息荒く並ぶことへの居心地の悪さがある。装幀には本という商品のパッケージの役割があると言うならば、手に取らせる陳列のためばかりでなく、手渡しする包みとしての思いは浮かばないものなのだろうか。臼田さんの「ワン・オブ・ワン」に、本屋の平台の前でときおりひとりごちるセリフが重なる。

彼らには、それが分かる。

越川道夫

得体の知れない苛立ちと息苦しさの中で日々が過ぎ去ってしまった。それでも、まだ梅雨入りの報せが届かない頃は、近くの神社の境内にある菩提樹の花が満開になり、それを毎日のように見上げに行った。細切れの睡眠が続き、何かを漠然と待ち続けているような日々の中で、今月は菩提樹の花に救われるのかもしれない、などと思っていたのだ。しかし、私は何を待っているのだろう?
この春は、私の周りに限って言えば、蝶やトンボを見かけることが少ないように思う。そこここで行われた工事のせいで、彼らの棲息している場所が壊されてしまったのかもしれない。借家の庭にある柿の木が、植木屋にひどく切られてしまったことがあった。裸の木。そうなってしまうとまた実がなるまでに3年かかった。一度壊してしまえば、修復されるまでに時間がかかる。かかるのだけれど、また修復されるところが自然というものの凄みなのかもしれない、廃屋を緑が覆い、やがてその建物を壊し飲み込んでしまうように。
 
映画の撮影をしていると、こういうことがある。例えば、奄美の島で撮影をしていた時、芝居のテストが終わり、スタッフが忙しく照明などの準備をする。多くの人々が動く。やっと準備が整い、本番に行きましょうか、ということになるのだが、人々が慌ただしく動いたその場所は一見そうは見えなくても、踏み荒らされ、その準備の騒めきが消えていない。消えていないどころか、場所は落ち着きなく震えている。言ってしまえば、そこは登場人物たちが暮らす島の場所でも何でもなくなってしまっているのだ。それは、「奄美」に限らない、「いわき」でも、「長島」でも、どこでもそうだった。言ってしまえば、場所は怯え、どこでもない、ただ怯えた空間がそこにはあった。助監督が、じゃあ、カメラを回しましょう、と言う。しかし、これでは何も写りはしない。スケジュールが立て込んでいるので焦る気持ちはあるのだが、ちょっと待って欲しい、とみんなに頼む。この場所が落ち着き始め、その「場所」であるのを取り戻すのをジッと待つのだ。俳優たちもスタッフもスタンバイのまま、待つ。誰も動いてはいけない。動けば、また同じことだ。待っていると、場所はだんだんその「場所」であることを取り戻していく。どこでもない怯えた空間が、その「場所」に、「島」に戻っていく。鳥が鳴き始める。蝶やトンボが戻ってくる。もういいかい、と「場所」と会話をしながら、それを待っている。
 
いつもならば、仕事場への途中で、とまっている蝶やトンボを素手で捕まえる。一心に花の蜜を吸っている蝶に静かに近づき、人差し指と中指をそっと蝶の羽の横に差し出し、羽をなるべく傷つけないようにゆっくりと挟むのだ。モンシロチョウでもアゲハチョウでも、トンボでも。もちろん、すぐ離すのだけれど。経験的な物言いで申し訳ないが、私と蝶やトンボのリズムが調和していると感じられる時には、慌てて指を挟まなくても、Vの字にした指の間にいる蝶はジッとしていて逃げることはない。調和していない時、例えば私の胸の内が騒ついていたりすると、ちょっと動いただけでも蝶やトンボは飛び去っていってしまう。仕事に向かう数分の間、そんなふうに虫たちに遊んでもらいながら、その日の自分の状態を確かめていたのだろうと思う。数は少ないながらも、今年も試し見てはいるのだが、一度もできたことがない。ただの一度も。私の胸の内は、いま随分と乱れ、騒ついているらしい。彼らには、それが分かる。

透明袋に入っていた金魚

イリナ・グリゴレ

18歳になった頃の自分を思い出すと、今でも理解できないことがたくさんある。高校時代は同級生たちと離れて過ごした気がする。いつも自分と周りの子との距離をとって生きていた。人のことより本が好きだったから。ちょうどそのときガブリエル・ガルシア=マルケスの小説とロルカの詩集を友達の母親から借りて繰り返し読んでいた。授業中もずっと読んで、家に帰っても、夜遅くまで読んで、朝起きたらまた読み続ける。

すると、読めば読むほど自分の言葉を失う現象に気づかされた。たとえば、文学の授業では読んだ本について分析したり、説明したり、クラスの前で議論するが、私はそれが一切できなかった。読んでいるうちにトランスのような状態になって、ただただ本の世界に入ってしまう。今にしてみれば、高校生にしか体験できないことを味わえなかったし、周りとのコミュニケーションもうまくいかなかった。高校を卒業する直前に同じクラスにいた子から「あなたと友達になりたかったがどうにもならなかった」といわれた時などは、初めてその子を見た気がして、自分の冷たさにびっくりした。私はこんな冷たい人ではないはずだと思ったが、周りから見ればそうだったに違いない。

あのころから、自分は周りの世界にとても敏感だった。住んでいた団地のドアから入る光、匂い、音の影響を受けすぎたのか、微細な感覚の持ち主だった。本の影響もあった。映画もたくさん見ていたから身体感覚は何倍も鋭くなって不思議な夢を見続けるという感覚が続いていた。自分の内面の世界にとても疲れていたので、周りとの交流に興味がないというより、余裕がなかった。私の見た目もすごかった。当時はあまり個性が認められなかったが、私だけはジプシーに憧れていたので、ジプシーの女性のファッションを真似て、長い、色鮮やかなスカートに髪の毛をいつも二つに分けて三つ編みにしていた。エミール・クストリッツァの映画をいつも見ていたが、いくら映画を見てもそれについて話す相手がいなかったので、自分の頭の中でいろんなシーンを見直して楽しんでいた。どうやって自分を表現したらいいのか、まだ検討していた途中で、一人ぼっちだった。自分の家族と周りにアートに興味がある人はほとんどいなかった。感じていたことを表現する方法は見つからないままだった。

18歳の誕生日を迎えた時、父は私は望んでいたビデオカメラを買ってきてくれた。カメラといっても、古いVHSのカメラなので、撮った映像をどうやって編集するのかわからない。撮りっぱなしのテープをどこかにおいておくだけだった。今のようにどこでもなんでも映像が取れたら、私も自分の表現の道をもっと磨いていたはずだ。やっと、今の時代はあの時に私が望んでいた世界になってきた。どこでも映像を撮れる。すぐ編集できるし、自由に表現できるからだ。

ルーマニアの社会主義の独裁政治に台無しにされた後の地方の小さな町で生きた私を思い出すと、あまりにも可哀そうに思う。ポスト社会主義を生きる自分がいたことに対して複雑な気持ちになる。チャウシェスクの独裁時代を生きていた私の親と比べてまだましだとは思っても、やはり、あのくらい、ねばねばしたトランジションの時代を思い出すと気持ちが悪くなる。まず父の働いている工場が潰れた。新しい仕事をするようになると、ビジネスができる人とできない人の差がものすごくできて、いろんな意味で貧しかった。これでもミドルクラスだ。団地の前のゴミ置き場で食べ物を探す小さな子供たちを毎日団地の窓から見ていた。これって、資本主義だと思いながら、なにもしてあげられないままただただ見ていた。小学校の先生だった母のクラスにそんな子がたくさんいて、ごみ集会所の前で目を合わせると「先生、他の子に言わないでください」と可哀そうな声で言った。母は一生懸命私たちの小さくなった服を集めて、生徒たちにあげていた。町という人の集まりとはこういう格差を生み出す場所なのだ。

18歳の誕生日の過ごし方も個性的だった。町から離れたところ、周りになにもない畑の真ん中に一本の大きな樫の木があるのを知っていたので、あの木の下で一人ワインを飲みたいと親に言った。父は私を連れていってくれて、私がワインを飲み終わるまで何かの儀式のように車の中で待っていた。あの木のようにまっすぐに、なにがあっても一人で自分の道を進もう、という願いからだったのだが、周りの友達はどの子も18歳の誕生日にはパーティーをやっていたので、私の行いは白い目で見られた。

あの日にもらったVHSのカメラで様々な映像を撮った。編集できる機会がなかったので、自分で撮ったイメージを見ることができず、どこかにしまってあった。とてもシュールな映画を撮り始めたことを、なんとなく覚えている。生きた金魚を水が入った透明のプラスチック製容器に入れ、同じ高校の同級生の男子友達に、団地と工場だらけの町を歩かせるという映像だった。今にしてみれば、とても不思議なもので、なぜあの時その映像を撮りたかったのもわからない。日本に来てしばらくして、共通の友達から連絡があった。彼がひどい交通事故で亡くなったという不幸な知らせだった。涙がとまらなかった。

彼と交わした言葉より、あの日ずっと魂のように金魚を手にとって団地と工場だらけの町を歩いている映像が私の頭から離れない。私が最初に撮った映像はそれだったので、彼が今はこの世にいないとは思い難い。彼はあの映像のなかにずっといる。彼の身体がもう存在しなくても、私と彼しか知らない映像の中にいるので、時空間を通して彼は永遠にいる。こうしてみると、映像とはすごい力がある気がする。

今の時代は映像を誰でも、どこでも撮れるので、この強大アーカイブが様々な時空間で残される。私も最近では毎日のように動画を撮りたくなる。動いているイメージは生きていると感じるからだ。ものと人間の本質が現れている気がする。カメラは私の身体の一部になっている。私はこの世界をもっと詳しく、細かく見たい。カメラは私の観察の助けになる気もする。なんとなく、世界はいい方向に向かっていると感じる時もある。

アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』という映画を久しぶりに見た。世界の終わりがくるので自分の家族を7年の間、家に閉じ込める男性の話がある。ある女性聖人が近くに生きていたイタリアの温泉街で、男性はろうそくの火が消えないまま温泉を渡ったら世界が救われると信じて何度もやろうとしていたが周りから止められた。彼はイカれた人間だと思われているが、本質として世界を助けようとした。彼はイエスの言葉をよく理解し、一人で自分を救うということはできない、周りの人を一緒に救わないと世界は救われないと信じていたのだ。タルコフスキー監督自身、映像は祈りだと言いながら映画を作っていた。彼は思想家なのだ。『ノスタルジア』のメッセージは明らかだ、人類を救うには種のように小さくても信念が必要だ。

最近見た夢の中で、私がある古い建物の階段を上がっていたら、誰かが突然私の手を取って上まで上がるのを手伝ってくれた。

18歳の時の自分に戻れるとしたら、私と友達になろうとした子の話を聞いて、一緒に何か楽しいことをし、一緒に笑うだろう。今の時代では100歳まで生きると言われるので、私は18歳でやりたくて出来なかったことを60歳頃からやる。たとえば、人とともに本格的に踊り始めるし、人とともに映画を作る。これからは、自分の身体が透明になるまで世界に開いていく。

しもた屋之噺(222)

杉山洋一

今年は一体どういう年なのでしょうか。一ケ月前に、現在世界が覆われている状況を想像できたでしょうか。Covid-19確認感染者数は28日日本時間21時の時点で1011万1,639人。死亡者数は50万1874人と発表されています。一分後にサイトを読込みしなおすと、既に感染者数が1増えていました。
BLMはこの一ケ月で想像も絶するほどのうねりを見せ、ジョージ・ワシントン像が倒され、ウィンストン・チャーチル像や奴隷解放の父リンカーン像まで落書きされ、アメリカ、ヨーロッパに限らず、アジアにまでBMLは広がっています。
経済の建直しを迫られる各国に、Covid第二波が始まりつつあるともいわれます。東京の新感染者数は高止まりとも言われていますが、再封鎖して経済を止める余裕はないでしょう。日本は非常に危険だった3月から現在までをやり過ごして来れたのですから、このまま何も起こらないことを祈っています。
音楽界も少しずつ再開し始めていますが、一度失敗すれば、それを取戻すのにどれだけの労力がかかるか想像もつかず、本当に少しずつ試しているようです。
数値上ではイタリアは随分収まってきたように見えます。来月、世界が一体どのような変化を見せているのか、想像するのも少し怖い気がします。
少し前まで、皆の笑顔と再会するまで、あとほんの少しかと思った時期もありましたが、また世界が違うエネルギーに引き摺り込まれて、皆の表情から柔和な笑顔が消えてゆきそうなのが不安です。

・・・

6月某日 ミラノ自宅
今日からイタリアは往来が自由になる。が、殆ど生活に変化はない。
母より孔雀サボテンの深紅の花の写真が送られきた。
「久しぶりに大輪が咲きました。孔雀サボテン、本当は此れが10輪も咲くはずでしたが、鉢を落として割ってしまい、蕾は2個だけ生き残りました。でも今年は家にいましたから、大輪を咲かせてくれました」。
眺めるほどに惹きこまれる。放射状に並んだ花弁の中心から、まるで落ちゆく花火の光跡に見えるのが雄蕊だろう。複数の放物線がはらはらはかなく落ちてゆく。夜空に大輪を浮かび上がらせる花火のようだ。花弁の沈むような紅に、雄蕊と雌蕊は、光加減なのか、黄金色に耀いてみえ、時間が止まる。
昨日朝テレビをつけると、マッタレルラ大統領が、人気のないローマのヴィットリオ・エマヌエレ記念廟で、一人、故国壇に建国記念の花輪を手向けていた。大統領が歩を進める傍らで、弔礼ラッパが一人寂しく吹かれ、頭上を9機の空軍機が三色旗を空に描いて飛び去った。
平年なら、記念廟が聳えるヴェネチア広場には見物客が犇めき、数人一斉にラッパを吹きならす。今年は全てが静謐のもと執り行われていた。
それからマッタレルラ大統領は、ヨーロッパCovid発端の地となったコドーニョの墓地に向かい、入口の壁に嵌め込まれた目新しい「イタリア共和国大統領 Covid-19に斃れたものの追憶に 2020年6月2日」と刻まれた大理石碑に、改めて追悼の花輪を捧げた。
「互助そして寛容の精神に、専門職の誇りに、忍耐に、規則の順守に、わたしたちはこの手で触れました。事あるたび、わたしたちは国家の意味と利他主義をあらためて発見しました。わたしたちは苦難の絶頂を前にして、共和国の真実の顔を見出しました。そして今、この掛け替えのない財産を無に帰することなど、どうして出来ましょうか。何よりまず、わたしたちはこの数週間の間にウィルスに斃れた、医師や看護師、医療関係者のみなさんを思い起こさなければなりません。どんな困難にあっても、この絆こそがこれからもわたしたちをより力強く結びつけてくれるに違いありません」。
カリアリの劇場オーケストラでリハーサル再開。ソーシャルディスタンスを保ち、仕切りを立てて演奏しているから、オーケストラも大変だろう。スタジオ録音のように、指揮者もブース毎の音の整理が先決になる。各セクション毎にそれぞれの呼吸や感覚に任せていたものを、否が応でも指揮で併せざるを得ない。東京アラート発令。

6月某日 ミラノ自宅
サンドロとナディアの姿を玄関の向こうに認める。家族間の往来封鎖も解けて、早速隣に住むアリーチェの娘を迎えにきたようだ。サンドロが満面の笑顔で「おお、何箇月ぶりだろう」と嬉しそうに声を上げると、2歳になるマリアンナが「おじいちゃん、おばあちゃん」と叫んで、駈け寄った。
サンドロが思わず抱きあげようとすると、「キスは駄目ですよ」と隣からナディアが悪戯っぽくい声をかけた。ナディアは先日定年を迎えるまで、ニグアルダ病院放射線科の医師だったから、サンドロの健康管理には細心の留意を怠らない。恨めしそうにナディアを見るサンドロの姿が子供のようで微笑ましい。

192名が死亡した2009年7月5日ウルムチ騒乱までの新疆ウイグル自治区弾圧の流れ、最近高まる抗議活動の発端の一つ、2011年3月のチベット僧侶の焼身自殺から現在まで、そして2019年の香港夏の抗議活動についても、「自画像」に含めることを決める。

戦争、紛争と弾圧との線引きが素人には難しく、数ケ月悩んできた。当事者ではないからわからないし、陪審員を気取るつもりは毛頭ないが、中国各地の問題は、紛争ではなく一方的弾圧に見える。当初、作品には戦争、紛争のみ収録すると決めていたが、こんな曲を書くことも金輪際ないだろうから、後悔したくなくて結局入れることにした。
紛争であれ弾圧であれ、双方言い分はあるに違いない。アジア解放と大東亜共栄を実現すべく日本軍はアジアで戦争する、本気でそう信じて戦った兵士は多数いたに違いない。
息子がイタリアの小学校に通っていた頃、仲の良かった級友のアドリアンに、「お前のこと好きだけど、日本はフィリピンに昔酷いことをしたんだって。お母さん言ってた」と言われ、どういうことか息子に問い質された。戦争とはそういうことだ。

6月某日 ミラノ自宅
マッタレルラは「国家を再発見した」と言ったが、では国家とは何か。
複数国家間で国民に決定的憎悪を植付けるのは、市民、国民レヴェルでは容易ではない。インターネットが進んだ今日ですら、最初の一歩は、市民レヴェルではなく何らかの煽動が介在あってこそ、踏み出せるのではないだろうか。
例えどこかの国家を恨んでも、国家と市民は全く別だ。そこには善人も悪人もいて、自分と気の合うものも合わないものもいる。悪人も気の合わない連中も、国家ではない。
国家として殺戮に参加しても、裁かれることはないかも知れないが、殺める相手を国家ではなく一市民と認識した瞬間から、自らの脳裏には殺人として記憶に刻まれ、途轍もない懊悩に苛まれる。
酷い薬物中毒下で判断不能にされていても、ほんの一瞬でも正気に戻れば、以後一生絶望に打ちのめされるに違いない。今日、世界各地に多数捨て置かれた過去の少年兵たちの記憶を、誰が癒やせると言うのか。

6月某日 ミラノ自宅
シリア国歌を書いている最中に、さとうまきさんのコラムを読んだのは、 毎月のことだから偶然とは呼べないのかもしれないが、ちょうど香港の州歌を書いていて、香港の国歌条例が成立したのを知ったときには、少し気味が悪かった。現在、香港では中国国歌「義勇軍行進曲」を侮辱するのは禁止されている。
2019年香港デモの部分で、香港記念歌「香港に栄光あれ」を使用したが、以前の西沙諸島、南沙諸島紛争に於いては「義勇軍行進曲」を素材とした。
チベット州歌を書いていると、日本のチベット難民と知合ったためか、無意識に感情を籠めそうになる。聴こえない筈のものを、無理に目立たせようとしていることに気が付き、自らを諫める。各旋律を認識させる目的で書き始めたのではなかった。

3月以降、外食、出前、惣菜など一切食べていない。一日三食全て作り、一人で食べるのは、人生初の経験。以前は街の閉鎖で出来なかったが、閉鎖が解除されても、帰国まで病気に罹るわけにいかなくて、気が付けば自炊が続く。

6月某日 ミラノ自宅
帰国前に更新する身分証明書の写真を撮りに出ると、家の前で、車で駆け付けた川本さん御一家と会う。どうしているかと心配して、買ったばかりのキムチと日本米を届けて下さった。ありがたいことだ。ご家族みなさんお元気と伺い安堵する。
作曲終盤、強弱を書き込んでいくと、音が途端に瑞々しくなる。つい音楽的に音を置きたくなるが、感情に流された音は、大抵翌日消去することになる。そうした音には信念がなく、信頼されていないから、身体に纏わりついてくる。
ウルムチ7.5騒乱を書足す。流れで書きそうになる度、消しては顧みている。

6月某日 ミラノ自宅
日記を書留める時間もない。朝3時半に起きて作曲をして、7時過ぎにナポリ広場まで歩きパンと新聞を買って帰る。それから日がな一日作曲。
マリゼッラとメールのやりとり。
「あれから元気にやっていますか。今や欠かせない習慣みたいになったけれど、フランコに宜しくお祝いを伝えてください」
「いつも心遣い有難う。お陰様でわたしも元気。わたしにとっても、今日はフランコを思い出す特別な一日です。いつも思い出しているけれど。あなたもどうか元気で。もうすぐミラノでの一人暮らし日々も終わるわね」
「未だミラノです。漸くオーケストラを書き終えられそう。くれぐれもよろしくお伝えください。今年はヴェローナに花を届けられそうもないから」
「あなたの曲が完成して嬉しいです。どうか日本の演奏会が実現しますように。わたしも何時ヴェローナに会いに出かけられるか、わからないわ。電車に乗るのは未だこわいもの。でもフランコにはよく言っておくから心配しないで」。

6月某日 ミラノ自宅
リコルディのマルコから「Prom」について連絡があり、直後にティートからも電話がかかる。11月ティートがドナトーニ曲再演を考えていて、どれがよいか相談を受ける。電話を切った途端、今度はパオロから「最後の夜」の再演に手を貸してほしいと連絡が入る。まるで皆が彼の誕生日を待っていたかのようで、不思議な心地。
歿後20年。生前、自分が顧みられるのは歿後5年くらいのものだ、10年でも凄い、などと笑って話していたから、20年経ってこうして話題に上るのは、本人はきっと大喜びしている。

日本のSさんより電話あり、この春、封鎖下のミラノで邦人芸術家Aさんが自死されたと聞く。思いつめてアパートから飛び降りた。
街全体が重苦しい空気に圧し潰されそうだったあの頃、誰でもそうなる可能性はあったのかもしれない。
ダヴィデより「diventa pi? chiara quando ridi(微笑めばより澄んでゆく)」の楽譜を送ってくれとメッセージが届く。昨年失った娘がそこにいると言う。
大学研究科終わりに書いた曲だが、していることは現在と大差ない気もする。無意識に同じ場所へ戻って来ていたのか。昔は確信ないまま音を置いていたものが、煩悩も消え媚びる意味も感じなくなって、裡に沸々していたものが、吐露されるようになったのか。向学心の欠落か。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」作曲の過程で取上げたリベリアについて思い出す。
解放された黒人奴隷のアフリカ帰還計画に基づき、1822年初めてアメリカからの帰還者が入植をはじめた。
1847年アメリア合衆国憲法を手本に憲法を制定し、リベリアは建国された。
解放奴隷の入植者、アメリコ・ライべリアンは、同じ黒人の先住民族を差別弾圧し、労働力としてゴム農園で奴隷同様にあしらい、1931年には国際連合から告発されている。
1980年、先住民族出身者によるクーデターで、アメリコ・ライべリアンの大統領は暗殺されると、今度は別の部族出身者が先住民族出身の新独裁者に攻撃を加えるようになった。こうしてリベリアの凄惨で長大な内戦が始まった。
1989-97年の第一次内戦で40万人から62万人が、99-2003年の第二次内戦で15万人から30万人が死亡したと言われる。
リベリアでは、現在でもアフリカ系住民以外投票権を持てないはずだが、黒人が黒人を支配し、互いに怨恨を重ねてきた歴史は、内戦後漸く落着きを見せつつある。併しながら、これだけの命を失った国力は、簡単には戻らないだろう。単に黒人がアフリカに帰れば幸せに暮らせるわけではない。物事を単純化しなければ理解できなくなったのは、我々が思考を放棄しつつある証左かもしれぬ。

ここ数日、ジョージアでアントニオ・スミスが警察に誤認逮捕され手首を骨折したり、ボルチモアのOuzo Bayで、マルシア・グラントと9歳の息子がレストランから拒否されるさまが、インターネットで伝播されている。特に彼女の9歳の息子が唇を噛みしめ屈辱に耐える姿は正視できない。
人口比率が大幅に逆転し、早晩黒人が白人を統制する立場になったとき、黒人が白人を対等の友人として受け止めてくれることを切に祈る。

6月某日 ミラノ自宅
69年から現在に至る紛争地域を巡る「自画像」では、ソマリアやジブチ、エリトリア、リビアの国歌を複数用いる必要があった。言うまでもなく、この半世紀に繰返し戦禍に見舞われた地域で、これら三国及びエチオピアが、第二次世界大戦までイタリア植民地だった。
殊に、1885年から1941年までイタリア統治下にあったエリトリアのアズマーラは「アフリカのローマ」と喩えられ、特に美しい街と仄聞する。未来派建築、ファシズム建築傑作の宝庫で、近年ユネスコ世界遺産に登録され、ミラノ工科大が修復に携わる。
未来派建築は昔から大好きだったから、1938年ジュゼッペ・ペタッツィが設計した飛行機形「Fiat Tagliero」が現在も無事に残っていると知った時には、すっかり興奮した。ファシズム期文化遺産のなかでは、音楽や文学、絵画と比べても、建築は傑出している。これだけ芸術品の名に相応しい建築物の犇めく街はイタリアにも皆無だから、ただ羨ましい。
アズマーラ人はイタリア植民地文化を現在まで受継ぎ、バールでエスプレッソを啜り、アニス酒を舐め、オリーブ油を胡麻油で、小麦をヒヨコ豆粉で代用し、美味しそうな植民地風イタリア・エリトリア料理を食べる。
アズマーラには、最大級のイタリア人学校があって、伊語話者は現在も一定数残っている。ムッソリーニがエチオピア戦線を始めるまでは、イタリア人とエリトリア人は平和的に共存していたとも読んだ。
エリトリア難民は1974年のエチオピアクーデター以降急増し、93年のエリトリア独立戦争後彼らの多くはエリトリアに帰国したが、今度はエリトリアの独裁体制に耐えきれず、イタリアに戻ったものも多いそうだ。
現在イタリアには9000人余りのエリトリア人が暮らし、そのコミュニティの中心はローマとミラノにある。リビアやジブチから船でイタリアを目指したものも多いが、エリトリアを出国できず国境で処刑されるもの多し、とある。

それとは別に、イタリア人とエリトリア人の間に生まれたイタリア系エリトリア人も数多い。
当初入植者として平和に暮らしていたイタリア人と現地人との間に生まれた子供は、80年間に少なくとも15000人にのぼるが、その実、彼らイタリア人の殆どはイタリアで既に結婚しており、本国に妻を残してきたものばかりだった。
そのため、「イタリア系アフリカ人の血統を保護する」という理由をつけ、ムッソリーニは、dqala=混血児と蔑まされた子供たちが父姓を名乗るのを禁じる法律を施行した。本国のイタリア人の血統を重んじたのだ。
その結果、6年前の統計でさえ、未だ300人以上のイタリア国籍申請がアズマーラで滞っていて、認められた国籍申請は現在まで80人足らずと言う。
エリトリアに限らず、イタリア本国に引揚げたアフリカ系イタリア人は確かに多く、良く知っている音楽家仲間にも一人いる。周りは全く気にしていなかったが、暫く前に苗字をイタリア風に改名して、愕いた覚えがある。
彼は特に打楽器奏者だから、アフリカ風の名前なら一層格が上がる気すらしたけれど、それは他人の勝手な言い分であって、本人は複雑な過去を引き摺って生きてきたに違いない。

6月某日 ミラノ自宅
離れていても毎日電話するような関係ではないが、週に一回ほど富山に滞在している息子から電話がかかる。そんな時、息子は決まって伊語で話しかけてくる。日本に滞在していて、伊語も自身のレゾンデートルの一部と気が付いたのだろうか。単語が出て来ないと繰返していて、随分変わったと思う。以前は伊語など絶対話さないと拒絶していた。
イタリアで「中国人」とか「你好」と揶揄われるのが、堪えられなかったようだ。そんな事かと笑いたくなるが、思春期の息子にはさぞ辛かったのだろう。
確かに幾度となく「中国人!」と声をかけられた経験はあるが、こう罵られる中国人を可哀想とこそ思えども、こちらは中国人ではないので、何時の間にか何とも思わなくなっていた。
人種差別は悪だろうが、差別や偏見を持たぬ人間など、どれだけいるのか。自分だって、きっと無意識に人種差別や偏見に参加しているに違いない。せめても他人に向けて言葉を発する前に、今一度顧みる努力を惜しまずに、成るべく美しい言葉を選びたい。

早朝散歩の折、二三日に一度、トルストイ通りのキオスクに立寄っては「レプーブリカ」新聞を買って読むのが日課なのだが、今朝は、ファンファンの封鎖下武漢日記「Wu-han」を購った。報道されない市民生活や政府への不信が赤裸々に綴られている。封鎖期間をミラノで過ごした人間にとって、自らの数ケ月と重なる部分も多々あって、胸が締め付けられる。

6月某日 ミラノ自宅
「自画像」の楽譜データを送付。
3月初めに家族とノヴァラへ向かった際、夜半、宿から友人宅に泊まっていた家人とメッセージのやりとりをして、このままミラノに残り未曽有の経験と対峙した方が、納得できる作曲が出来ると励まされたのを思い出す。
学校の仕事もミラノで闘病を続けていた留学生も含め、家人がそう言ってくれなければ、残ることはできなかった。不安定な状況下で、半年に亙って息子の面倒を一人でみて貰い、感謝に堪えない。
謝意は息子に対しても等しく抱く。家人を支えるよう繰返してきたが、今度会う時には、以前より格段に逞しくなっていると確信している。
毎朝3時や2時半に目を覚まし、5時半くらいまで作曲をしてから、無人の街を暫く歩き、授業や試験がなければ1日作曲を続け、22時くらいには困憊して眠り込む。そんな生活をしていると、身体が文字通り空洞になるほど、感覚が鋭敏になってゆく。
メルセデスから連絡あり。ミラノの成長学研究所(Auxologico di Milano)で血清検査を受けてきたという。結果は陰性。

6月某日 ミラノ自宅
学校から通知が届いた。6月15日より、漸次校内使用を許可してゆくとのこと。尤も、校内の使用は年度末の実技試験が中心で、恐らく室内楽の補講なども行われるのだろう。
務めている音楽院は、ミラノ市立学校というミラノに四つある大学資格の専門学校の一つで、音楽(クラシック・ジャズ)、語学(翻訳・通訳)、舞台(演劇・ダンス)、映画とそれぞれ別組織から成り立っている。
それら四校を取りまとめている財団より、先日の遠隔授業に関するアンケートの結果が送られてきた。興味深いので書き出しておく。各学校は2月24日から遠隔授業を開始している。
全校併せて144名の教師より回答あり。
そのうち73%が今回初めて遠隔授業に携わった。
そのうち58%が理論実地の混成授業。32%が実地授業、10%が理論授業を行った。
それら遠隔授業のうち、65%がヴィデオ会議形式の集団授業、17%がヴィデオ会議形式の個人授業、9%がそれらの混合、3%が資料の共有によるもの、3%が授業実施が不可能、3%が録画、録音を使って行われた。
遠隔授業に際して、33%がスカイプ使用、同じく33%がZoom使用。17%がMicrosoft Teams、2%がWebex、同じく2%がWhat’s app 1%がGoogle meetを使用した。音楽の教師のうち13%は複数の方式を採用していた。
そのうち54%の教師が、遠隔授業は有効と回答。そのうち38%はどちらかと言えば有効、15%は有効と回答。語学校の教師のうち70%有効と回答したのに比べ、映画43%、舞台36%に留まった。
全体の62%の教師が、遠隔授業方法について、何らかの訓練、サポートが有効と回答。そこには語学の68%、音楽の57%の教師が含まれる。
全体の53%の教師が、covid終息後、遠隔授業継続は不可能と回答。しかし語学の62%は継続可能と回答。
全体の71%の教師は、今回の経験に学生は満足していると回答。そのうち59%はどちらかと言えば満足している、12%は明らかに満足していると回答。しかし、肯定的回答は、映画では57%、舞台では46%に留まった。
自由記入欄には、学生側の通信事情の難しさや、人間的な相互の関係構築の困難、精神的、肉体的、視覚的な疲労、教師の準備量の増加など、否定的な意見として挙げられているのに対し、より密な学生との関係構築の可能性、学生が各自より責任意識をもって参加、資料共有などの簡略化、移動省略によるストレス軽減、環境への負担軽減、授業時間の柔軟対応の可能性、他国からの参加の可能性など肯定的な意見も挙げられている。
今後の可能性については、学生に等しくデバイスを供与し、アプリケーションなどの無償使用許可を与えること。独自のシステムの構築。授業外の準備に対する給与保証。

6月某日 ミラノ自宅
あれだけ沢山の音を書いて、曲に書き込めた思いは、せいぜい一つくらいではないだろうか。その一つが確かに演奏者や聴き手に伝えられれば、それ以上の幸せはないが、きっと難しいことだろう。
悲しみと怒りと恐怖。或いは、連帯感に対して、身体の芯に燻る感動や使命感の自覚、足を踏み出すために必要な自己肯定感や、それに対する喜びに近い感情の混交だろうか。
言葉として表現不可能な、混沌、混濁した何か。

長い間RFIのアフリカ関連の番組を愛聴していたから、今回これらの国々の歴史をより深く知る機会にもなった。誰とも会わずどこにも出かけず、家に籠っていただけだが、各地を探訪する心地すら味わえたのも、きっと寂しさを半減させてくれたに違いない。

各国の国歌に触れられたのも大きな喜びだった。初めてソ連邦アルメニア国歌を聴いたときは、端麗で愕いたが、アラム・ハチャトリアン作曲と知り納得した。ハチャトリアンは1942年にコルホーズを舞台にガイーヌを書き、その2年後ガイーヌ三幕の主題を基にこの国歌を書いたのは、ソ連邦賛美の意味もあっただろう。

各国歌それぞれに思い入れはあるが、戦時中に使用されていなかったため「自画像」には使用しなかった現ラオス国歌の旋律も、ソ連邦アルメニアやグレナダの国歌と同じように壮大で美しい旋律だ。
ビルマ国歌から素材を作るため、ずいぶん時間をかけた。往々にして軍事政権が行進曲風旋律を国歌に制定する傾向にあるなか、ビルマ国歌は個性的な前奏を伴い、不思議な魅力をもつ。
複数の国にまたがるカシミール地方のように、独立を目的として独自のスローガン歌を持ることもあった。やはり音楽は力を生み、協調を助けるのだろう。

日本帰国前に片付けなければいけない厄介で、地下鉄に乗ってセストの会計士事務所に出かける。
「車内のソーシャルディスタンスがとれない場合、次の電車をお待ちください」。一駅ごとに煩いほど車内アナウンスが入るが、既に乗りこんた乗客に向かって説教しても仕方がない。車内はある程度混んでいる。座席は隣り合って座らないよう、ステッカーが貼られている。
音楽院の院長選挙の結果、マルチェッロが圧倒的多数で院長に選出された。ジストニアが悪化する前まで、彼には指揮レッスン伴奏など随分世話になっていたから、早速お祝いを書き送る。

6月某日 ミラノ自宅
出発前に体調を崩したら困ると、必要以上に神経質になっていたのか、朝目が覚めると頭が重い。心配しながらナポリ広場まで歩く。日本に戻れば、暫く外出もできない。
歩いているうち気が紛れたのか元気になり、帰国前最後の機会と通っていた焙煎屋に顔を出した。2月以来の再会を喜び、何時ものようにコーヒーを呷ると、実に美味であった。
帰宅後、意を決して芝を刈り、気掛りだった雑木を軒並み切倒す。食卓前に聳えていた雑木は、気が付けば高さ3、4メートルにまで育っていた。

6月某日 東京行機中
朝6時半にタクシーを呼び、久しぶりにミラノの街を出た。とてもよく晴れていて、目の前に未だ雪を頂く雄大なアルプスが広がっていて、思わず歓声を上げた。
ミラノのタクシー運転手は併せて5000人ほどだそうだが、市民は未だ以前のように移動せず、特に夜間の利用客はほぼ皆無で、以前は夜間働いていた運転手も日中勤務に変わったため、現在全く仕事にならないと言う。
一ケ月も家に籠っていると、感覚もおかしくなってくる。ニュースを見れば気分が沈むので、最近はテレビも見なくなったそうだ。
SF小説が好きでよく読むが、我々はSFの世界を超えた状況を生きていて、本当に信じ難い、と繰返した。
週末の早朝だからか、道はとても空いていた。間もなく到着した半年ぶりのマルペンサ空港は、入場可能なゲートが2箇所のみに限定されており、全員検温を受けるようになっている。
早朝だからか、店は軒並み閉まっていて、人も少なく、がらんとしている。アリタリア便は未だ日本へ飛んでいないので、ルフトハンザ便でフランクフルトを経由して戻る。
朝食を摂ろうと喫茶店に入るが、外食は3月初旬以来初めてだから、妙な心地がする。
食後は水と新聞を買い、人混みを避けて時間を潰した。飛行機に乗り込むまで落ち着かず、緊張していたが、こんな思いは本当に初めてだった。
フランクフルトまでは、機体も小さくほぼ満席でよく揺れたが、深く眠り込んでいたからよく覚えていない。ヨーロッパ人が揃ってマスクをしているさまは、奇矯で愉快ですらあった。今後はこの姿が当たり前になってゆくのか。
眼下にフランクフルトの街が見えてくると、こうして外国へ来られたことが信じられず、感慨深い思いに駆られる。
フランクフルト空港に着くと、自由な往来が許可されているヨーロッパ便ターミナルは人も多く活気がある。様々な言語が飛び交う賑々しい風景に、懐かしさを禁じ得ない。少々怖い反面、嬉しくもある。
パスポートコントロールを抜け、ヨーロッパ圏外への航空便ターミナルに足を踏み入れた途端、まるで休止中のターミナルに間違って足を踏みいれたのかと思うほど、人の気配がすっかり失せて、店舗も全て閉まっている。
イタリアよりドイツは開放が進んでいると想像していたから意外だったし、不気味なほど殺風景な光景は、封鎖下のミラノの風景を彷彿とさせた。
羽田便は空いていた。隣の席は空席で、全体を見渡してもせいぜい2割か1割程度しか埋まっていないようだ。これで満席なのかどうか分からないが、Covidの厄介を除けば、機内は快適である。
乗客はそれぞれゴム手袋をつけたり、思い思いに自衛策を講じている。長時間のフライトだから当然だろう。靴を脱ぐ客はあまり見かけなかった。このような状況下で、働いている客室乗務員には、頭が下がる。
機中すっかり「武漢」を読み耽った。「無人の武漢の街は思いがけなく美しく」との下りに、数か月前、久しぶりに訪れたミラノをマンカが形容した言葉を思い出した。

6月某日 三軒茶屋自宅
朝、羽田空港に着くと、先ずゲートに全員が集められた。日本人のみ30人ほど。揃って海外在住者のようだが、当然だろう。外国人の姿が皆無なのは、乗客は日本人のみだったからのか、それとも外国人は別のゲートに集められているのか、政府が外国人入国を制限しているからか。
機内で予め書き込んだ問診票を検疫官に確認してもらい、順番にPCR検査を受け、別のホールで待機する。近隣のホテルに移動するためには、検査の結果が出るまでホールに留まる必要があるが、公共交通機関を使わなければ、迎えが到着した時点で帰宅が許可される。早朝だったためか、思いがけず全ての手続きが迅速に進んだのは意外だった。
ホールを出てトランクを引取りにゆくと、全てのトランクが名前ごとに並べてあり、一つ一つに手書きの感謝のメッセージが貼ってある。日本人らしい心遣いに感銘を受ける。
予約してあったcovid対応ハイヤーで自宅に戻り、すぐに風呂を使って休んだ。家族が富山に行っていなければ自宅には帰宅できなかったので、有難い。
夕刻、家人が手配しておいてくれた食材宅配が届く。大根、ズッキーニ、玉ねぎ、小松菜、サラダ菜、プチトマトなどの野菜に、牛乳、卵、納豆など。今はこんなものも宅配できるのかと愕きつつ深謝。ドイツ、スペインの一部地域が封鎖されたと読む。

6月某日 三軒茶屋自宅
普段から和食を作るのは家人で、調理下手のせいもあるが、米はつい食べ過ぎて身体が重くなるので、家にある食材でパスタを作る。結局この方が炭水化物を総じて減らせるとこの数か月の経験で分かった。
解凍した桜エビを食べきらずに残しておき、小松菜一把とズッキーニ、大根少々に併せてパスタを作る。イタリアの大根をパスタに入れようとは思わないが、日本産は甘くて柔らかいのでズッキーニとの相性もよく、桜エビの出汁がよく絡む。
夜、先に帰国していたAさんより久しぶりにメッセージ。すっかり元気になり、イタリアの遠隔授業に参加するようになったと聞き、とても嬉しい。
国際通貨基金の経済予測発表。イタリアは前回発表時より大幅に悪化し−12.8%。日本は− 5.8%。イタリア各新聞に、IMF「壊滅的経済予測発表」の文言躍る。

6月某日 三軒茶屋自宅
6月のイタリアCovid推移新感染者数178-318-321-177-270-197-280-283-202-379-393-346-338-303-210-329-333-251-262-224-218-122-296-175 etc.
国内死亡者数60-55-71-85-72-53-65-79-71-53-78-44-26-34-43-66-47-49-24-23-18-31-34-8 etc.
ロンバルディア州死亡者数19-12-29-29-27-21-32-15-32-25-31-23-21-8-9-14-36-18-23-13-3-6-7-22 etc.月別致死率推移
3月1日3.15%-4月1日16.96%-4月21日18.52%-5月1日18.12%-6月1日18.12%-6月25日17.78%
数値でしか表せない人間の命とは何だろう。むしろ、数字は複雑な人生を歩み、人生がたくさん詰まった人間すらも表現できるもの、と考えるべきかも知れない。

ナポリの南、カゼルタ州のモンドラゴーネ、ボローニャ近郊、ジェノヴァ、ピエモンテの北にあるオッソラで新しい集団感染発生。新感染者数ではローマのあるラツィオ州がロンバルディアを超えた。ロンバルディアより早く全面解除された他州で、再感染が始まった。
東京都の新感染者数も55-48-54と続く。検疫所よりPCR検査陰性との連絡あり。引き続き自宅待機を続けるようにとのこと。
マリでデモ激化のニュース。写真でしか知らない、トンブクトゥやジェンヌの壮麗なモスクを思い出す。北朝鮮が対韓国軍事演習の可能性、中印国境紛争再燃。黒人差別問題だけでなく、書ききれなかったさまざまな世界の綻びがより広がってゆく。
目の前の小学校校庭では子供たちが歓声を上げ、体育の授業をやっている。イタリアでは学校は封鎖が続いていたから、久しぶりに聞く子供たちの声に感動する。

6月某日 三軒茶屋自宅
「ウスティカの悲劇」より40年。
1980年6月27日の20時59分、南伊ウスティカ島沖で81人搭乗のイタヴィア機が、不詳の二機の戦闘機からミサイル攻撃を受け墜落。
本来同時刻にリビアのカダフィが同海域を飛行するはずだったが、北太平洋条約機構軍の監視を察して早々にカダフィは引返した。イタヴィア機はこのカダフィ搭乗機と誤認されたと言われる。
裁判で証言するはずだった関係者が全員、揃って裁判直前に謎の自死を遂げ、真相は未だに明らかになっていない。
近海で訓練をしていたのが、唯一フランス艦のみだったため、イタリアではフランス軍の誤爆と考える市民が多いが、フランスは当然一切認めていない。81人の命と引き換えに、第三次世界大戦開始が、水際で回避されたとも言われる。
その三年後の1983年の9月1日、ソ連防空軍によって、領空を侵犯した大韓航空機が宗谷沖で撃墜され269人が死亡した。世界のどこでも冷戦の緊張がはりつめていた。
北大西洋条約機構のなかで、イタリアだけ国内の共産党勢力が突出していて、疎ましいことも多々あったのだろう。その名残は現在の一帯一路、果ては今日のCovidまで連綿と繋がる。
近代まで欧州の支配階級だった英仏独と、イタリアはどこかで一線を画している。昨年8月、追悼の作曲コンクールに指揮で参加した1980年8月2日のボローニャ駅爆破テロとウスティカの悲劇も密接に繋がっていると言われるが、どちらも真相は明らかになることはないだろう。左派テロとも、右派テロとも言われるが、巻き添えになるのは何の関わりもない我々市民に他ならない。
当時はそんな時代だったとも思うが、マレーシア航空がウクライナのドネツクで誤爆され298人も亡くなったのは、今からわずか6年前のことだ。
本日イタリアの新感染者数174人。死亡者22人。


(6月30日 三軒茶屋にて)

「出口の町」

管啓次郎

さびた橋をわたってゆくといい
電柱が樹木に変身中だ
垂直と水平がどこでも戦っている
また窓の不安がつづく
水路が心にひび割れさせる
あれはセイタカアワダチソウなのそうなの?
この風景こそ人の世のキワだ
そして終わりはいつでもやってくる
居住が無くなって土地にシメナワが張られる
だが土の下は1kmはあるはずだ
掘ってゆくつもりなら根気よく
決算を裏返して否定するのか
用水路は潜在的には奔放な大河
車がランダムな方向に逃げてゆく
また終わった、途切れた道が
明るい墓にぽつんと立つ女は白い服を着て
空は鏡のように曇っている
五色の吹き流しで苗床を守れ
どんなに守っても空にさらされている
雲の美しさ、美しい重さ
幽霊のように十字架が立っている
幽霊のように鳥たちが舞っている
土は山脈
もぐらは見えない
この先で直進するか左折か
水の光にふるふると脅かされている
ビニールハウスほど恐いものはない
つづく窓の恐ろしさ
区画された天国の扉
舗装なき道が川のように流れて
住宅を岸壁に変える
巨大なプレートが翼のようだ
おかげで川が生気を取り戻した
生気を与えることで生気が湧いてくる
この道には舗装がない
木々もすっかり裸になって
美しく瘦せている
葉のない枝が空をかきむしる
空に読めない文字を篆刻するのだ
古墳のような丘があって
聖域を定義しなおしているらしい
遊ぶ子は神々か、踊るのか、泣くのか
枯草が海のように荒れている
道のすぐ脇の通行不可能
突然に西洋が現われた
どこにもない西洋の亡霊だ
「暴戻」という言葉は使ったことがないな
人間はみんなそれだ
それが得意なのだ
人が占有した空虚が道路なら
私が花を咲かせましょうと樹木がいう
夕方の光がルートインを燃やし
すでに闇にある水を怒らせる
その家の住人は知りません
空が重いから必ず右へゆけ
「れ」の命令を守れ
霊は死にません組に投票しましょう
命がカナトコのように重い
水のように重くて運べない
氷のようにすべってほしい
ペイント屋の手前で花が道を守る
この道路もやはり誰も通らない
まるで牢屋のようにフェンスがつづく
この小川は渡るなと鎖がいう
重機(ローラー車)がぽつんと待っている
サッポロビールを飲みにゆこうよ
ほら、その先の紫の花を曲がってください
江戸切り蕎麦のそばに変な屋根がある
またニセの西洋
ここにホンモノは何もない
すべては既視の光景だったが
歩いていると
どんどん見慣れないものになってゆく
SALVAGEというが何を救うんだ
頬にエンボスされたタイトルの光
アスファルトが水の皮膜におおわれて
その奥の小さな部屋に住むのはきみだ
「住宅」と書かれた軽乗用車
水田の中を曲がってゆきな
整った白い箱に住む人々もいる
あの片流れの屋根を見ていると
どうにも苦しくなる
広すぎる駐車場に車はいない
草が飛んで戻ってきた
水の層を避けて生きるのか
かまぼこ型の孔があいた建物や
丸い木に守られた家がある
山は遠いか、気配は近いか
車たちが集まり出口は見つからない
家が問題だ家の屋根が
区画のゆがんだ水田
壊している/放置された建物の構造
光が棄権する
危険な角度において太陽を避けようと
塀際を歩く
一本の電線の下をゆく
誰も着ない洋服を由麻はどうする
樹木が頭髪のように刈られて
むきだしの地面を見ている
下着姿の女
2/4は軽乗用車、窓は黒い
アパートの窓が観客席のように多いな
スリットになった窓は機械山羊の目
白い砂利をばらまきながら
太陽光発電を支援している
ここまで来たら住めないでしょうというくらい
ブロック塀の中は森に戻った
クリスがクスリのアオキに通うため
地面に道ができました
もう作物はできない
水たまりは湖のように広がる
使われない車に青いシーツをかけておく
過去十年のうちに塀が倒れてしまった
それも緑の反乱だ、遠くが明るい
雲は厚いが夕方の光がやってきた
影を連れて
小さな人が歩く姿が光の刷毛で
暗い緑にさらりと描かれている
道が終わった
道が道を回避する
鳥が飛んで道を回復する
その先では亜熱帯を制作中
棕櫚が泣きながら灰色に抵抗する
この道を使ってはいけないこのアスファルトを
標識が三角形の白い顔をして
さびしそうに笑っている
高架があるときその下で何かが途絶えた
行き場がなくもう出口もない
だんだん写真に映らなくなってきた
もうこの絵を見ているだけでいいよ
そこで出てそこを走ると
THE SPORTS AUTHORITY があり
TOYS ‘R’ USがある(Rは鏡文字)
荒れる海のような中央分離帯だ
命を預けたくないので
病院のまえは必ず迂回する
ここにも奇妙な西洋パティスリあり
とても人が住める気温でない夏だ
温度や湿度というより雲の色だ
灰色だ、人を拒絶している
鳥獣や霊を歓迎している
そしてまた濡れた路面があって
草が勇気のように湧いてくる
側溝にかぶせた網目の蓋が
心を割る
それから非常に場違いなigrejaがあった
ポルトガル語の祈りが聞える
不法投棄された石の群れが
血を流しているように見えるだろう
そこからゆっくりカーヴする道は
誰も住まない充満した町
あの街路樹はなんといったっけ
桐生に海はないのに競艇場があるのか
そこに広大無辺な無料駐車場あり
森を作るつもりか雨上がりの地面では
緑の予感がゆれる
そして整地された廃屋(まだ人が住んでいる)
そしてピュアな恋愛ホテルの裏は墓場
突然出現する朝鮮飯店で
しゃぶしゃぶでも食べようかな
スロープありて軽が並びし夕方を
そのまま絵にしたわけだ
この道はもう使わないので
植物たちに返そう
アスファルトも自由に割ってください
マグマを割るように
この広場なら水たまりでいいです
車はおとなしくお尻をむけている
この季節にはツツジ咲き
できそこないのアメリカのようだ
その証拠にはごらんあちらに
自由の女神が立っている
手前には「土」がつまれて
(さくらっ子? もぐらっ子?)
さらに地面に孔が開いている
いらないものは高架道路下で回収します
ここにきみの心や
誰であれ死体を捨てないでください
その先にぽつんと立つ新建材住宅は
もうじき太陽からも捨てられそうだ
そうなったらさようなら
さようなら
すべてが救われて
出口はまだない


(吉江淳写真集「出口の町」全3冊の観察から)

梅雨の日々

高橋悠治

人間が地球の隅々まで入り込んで そこにいた動物たちを追い出し 草木を切り倒しているうちに バクテリアやウィルスをお返しにもらうことは これからもなくならないだろう だからといって 閉じこもって暮らすのは 長続きしない 人間はじっといてはいられない動物で さまよい歩くほうが向いている と言いたくもなる

6月は毎日のように出歩いていた 小さな店がならぶ通りや 裏の小径 大通りは人気がなく 大きな店は閉まっていた

録音が二つ 声とピアノのために書いた曲を波多野睦美と フローラン・シュミットの連弾やダリウス・ミヨーの朗読とピアノの曲を青柳いづみこと 知らない音楽で 自分では選ばないような曲に出会うと それが自然にできる他人の手がふしぎに見える

それが終わって 7月のリサイタルの練習にもどると 手が まるでちがう動きかたに とまどってしまう 1966年にはじめてアメリカに行った時に出会い それから何年かつきあっていたポール千原の音楽 近藤譲を通じて知ったリンダ・カトリン・スミスの曲(井上郷子が2013年日本初演している)

ポールの『サヨナラ』という ベートーヴェンの『告別』ソナタと美空ひばりの『リンゴ追分』が聞こえる曲で終わるので プログラムの最初に『告別』を置いてみた 引退公演だと思うひともいて それもいいかもしれないが 生活のためには まだピアノを弾いているだろう それでも 大きなホールではもうリサイタルはできないだろうし しない感じがする リサイタルというかたちよりは その前からある 何人かの合奏やソロの入り混じったかたちのほうがおもしろいだろうし まだ知られていない可能性があるかもしれない

小さな曲を作る機会はまだある 長い曲は 他人の時間を使って作られる オーケストラや合唱は それぞれちがう人たちをひとつにまとめようとする 反対に まとまろうとするものを散らし 続こうとするフレーズを邪魔して 隙間をいれる サティやモンポウのように短い曲 ヴェーベルンの結晶のようにまとまって閉じていない 言いさしのように 先が見通せない曲がった道のように 断片のように 途切れとぎれて いつか聞こえなくなる音楽 そう思っていても 終わったところで 終わった感じができてしまう これをどうしたらよいのか

2020年6月1日(月)

水牛だより

東京の6月は雨であけました。気温も低く、梅雨が近いことを感じます。明日はまた暑いという予報。暑くて湿度が高いときのマスクはつらそうですね。できるだけ薄くて楽なのを、などと考えていると、マスクをする意味を見失いそうになります。

「水牛のように」を2020年6月1日号に更新しました。
「シリア水牛物語」を読んで、パソコンで検索できることを知ったとき、最初に検索してみたのは水牛という動物についてだったことを思い出しました。しかしほとんどなにもわからないというのが当時の実情でガッカリ。タイでは農耕のために飼われている水牛は家族みんなにかわいがられている農家の財産でもあったことは知っていました。木製の鈴を首にかけられて、歩くたびに乾いた木のいい音がします。鈴はみな違う音がするので、自分の家の水牛の音は聞き分けられる。もうすでに失われた光景かもしれません。
最近、というのは自粛生活の少し前のことですが、水牛のミルクで作ったモッツアレラチーズをはじめて食べたのですが、想像どおりのやさしい味でした。

きょうはBSで映画「タクシードライバー」を見ました。そして、水牛通信でも1980年6月16日に光州について手書き(!)の号外を出したことも思い出しました。当時ともっとも違っているのは通信手段だと、あらためて感じます。

来月も無事に更新できますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

シリア水牛物語

さとうまき

赤ベコがアラブ人にとっては豚のように見えるらしい。そこで、いろいろ考えてサッカーのベコにしてしまえという奇策を編み出した。しかしもうこうなると、赤い牛という本来持っていた無病息災のパワーがなくなってしまうのだ。まさに、赤ベコは会津地方に天然痘が流行した時に子どもを病気から守るお守りとして重宝されたのだ。

シリアの小児がんの子ども達も封鎖が続き病院に行くのも大変だ。我々が支援しているイブラーヒーム君8歳は、サッカーが大好きでFCバルセロナのメッシのファンだという。久しぶりにサカベコを作りってイブラーヒーム君に送ってあげたいなあと思ったのだ。

コロナ禍は我が家にも襲ってきた。10歳の息子が1月に、札幌から倶知安に転校して、あまり学校になじめていなかったそうだが、コロナで学校が休校になり、STAY HOMEで母親との関係に行き詰まり、部屋に閉じこもってしまったという。それで、しばらく面倒を見てくれないかと別れた妻に頼まれたのだ。

うちの息子は、何か役に立ちたいと思いながらも、思春期に差し掛かり、自分ではどうしていいかわからずに、癇癪を起していた。
「あのさあ、君とね、同じくらいの男の子ががんと闘っているんだけどさ、ちょっと手伝ってくれない?」
いやだ、いやだ、を繰り返す息子も、素直に顔を赤く塗って目とか口を描いてくれた。で、水牛の角を付けたらどうだろうって話になり、紙で角を作ってみるとこれは、どう見ても水牛。豚には見えない!

ところで、シリア人は水牛を知っているのかなあ。イラクには水牛いたけどシリアにはいるのかなあと思ってググってみると面白い記事を見つけた。
https://www.middleeasteye.net/features/where-they-no-longer-roam-syrias-disappearing-water-buffalo

水牛は、普通の牛より空腹にも耐え、乳を出す量も多いらしい。水牛のミルクから作ったゲマルと呼ばれるバターというか生クリームはとてもおいしくて蜂蜜や、ナツメヤシのシロップと一緒に食す。イラクでも南部バスラの湿地帯でよく見かけた。

シリアでもハマという町の北部は、オロンティス川が流れ、水牛の放牧が盛んだったらしい。しかし、2011年の内戦が始まると川を挟んで、アサド政権と反体制派が激しい戦いを繰り広げる。この地域にいた水牛は600頭から200頭に減った。戦闘が激化して、避難するために水牛を置き去りにし、飢え死したり、食肉用として屠殺されたり、実際に空爆や銃撃戦で水牛が被弾して亡くなった牛もいる。

この記事は2017年に書かれており、今はこの地域は完全に政府軍が支配している。牛飼いたちは、また水牛の放牧を始めたのだろうか? 水牛を追い求めてまたシリアに行きたくなった。水牛のベコはきっと戦争とコロナで疲弊したシリアに福をもたらすはずだ!

さらに調べていくと2004年にシリアで発行された水牛の切手が出てきた。私がシリアで働いていたのは1994年から96年だったが、もちろんその当時はインターネットなんかなかった。電話すらアパートに引くことはできず、国際電話をかけるのには電話局に行って、とてもめんどくさい手続きをしなければならず、一度もそういうのは使ったことがなかった。日本には手紙をよく書いた。切手はというとアサド大統領(当時はバッシャールの父のハーフェズ)の肖像画。値段が違うと色違いになるだけ。ベロンと独裁者をなめるのはどうも気が引けるし、苦い味がするに違いない。しかし、それ以外の選択肢はないからひたすらべろんべろんとなめ続けた。民主主義がないというのはつまりそういうことなのだ。

そのあと1997年からパレスチナで5年間暮らしたが、当時は、パレスチナ自治政府ができて、初めてパレスチナの切手ができたというニュースで沸いていた。切手はというとアラファト議長。ベロンとなめると甘かった。民主主義は置いておいて、彼岸のパレスチナ切手だから苦い筈はない。そしてイラクに行くと今度は、サダム・フセイン切手。さすがにイラク戦争のころはインターネットでの通信ができるようになり、切手はお土産に売ってただけでなめる必要はなかったが相当苦そうな感じ。

この水牛切手が発行された2004年といえば、シリアはすでにバッシャール大統領に代わっていたが、バッシャール大統領は当初は、自身を偶像崇拝の対象にはしたくないというタイプだった。そしてインターネットの通信がシリアでも主流になりつつあったので、バッシャール切手は作られなかったのだと思う。2011年の内戦をしぶとく生き抜いたバッシャールは、立派な独裁者になっていて、先日シリアに行くと2000シリアポンド紙幣にバッシャール大統領の肖像画が刷り込まれていた。まあ、お札はなめる必要がないので救われるのだが。
ともかく、これからは、水牛のベコが活躍するので乞うご期待ということで。

しもた屋之噺(221)

杉山洋一

月末までに書きあげようと思っていた新曲は未だ仕上がらず。この場に及んであろうことか、昨日一昨日は眩暈にやられて、30時間ほど昏々と寝込んでしまいました。関係者のみなさんには、ただただ申し訳ない思いに駆られています。
本日イタリアの死亡者総数は70人。新感染者数は593人。ロンバルディア州知事は、これなら6月3日以降ロンバルディア州を完全に開放可能だろうと話しています。現在イタリアの確認されている感染者総数は231732人。そのうち快復者は150604人で64パーセント。死亡者総数は33142人で14.3パーセント。現在の患者総数は47986人で20.7パーセントと書かれています。

5月某日 ミラノ自宅
明日からイタリア開放への一歩が始まる。15人までの制限つきながら、禁止されていた葬式がようやく再開。
初めてスクリャービンの自作自演で2番ソナタを聴く。聴いてみたかった演奏に思いがけず近くて、愕いた。特に声部は整理されないから、むしろ雑然とした印象すら与えるかもしれない。ただ、それぞれの音が一つの空間に同等にきらめき、漂い、主張しながら、感情には流されない。聴かせたいものを提示するために音があり、感情発露の手段ではない。
1969年の北イエメン国歌を、誤って新国歌で作り、一から作り直し。イタリア一日の死亡者数は174人まで減少。総計28884人の死亡。快復者81654人で17242人が入院中。

5月某日 ミラノ自宅
封鎖解除2日目。朝五時半、二か月ぶりにナポリ広場まで歩く。この時間は人通りもなく、今までと変わった印象はない。敢えて言えば、使用禁止だった24時間営業の自動販売機が使われていたことくらいか。パン屋より先に足を延ばしたのが2か月ぶりで、遠出を禁じられていた子供が、冒険心につられてちょっと遠回りするような新鮮さは味わうことができた。
7時半にパン屋に出向き、封鎖が解けて何か変わったか尋ねるが、やはり今日のところは余り違いはないと言う。「未だみんな怖いんでしょう」。日本政府は非常事態宣言延長を発表した。

朝10時から夜8時半までズームを使って授業。いつも教室で教えていても十分疲れるものを、オンラインで教えれば、教師も学生も困憊は倍増する。朝5時過ぎから作曲したが、困憊しきった夜はほとんど机に向かえない。オンラインでの授業はおそらく秋以降も続くだろうと聞いた。
6月以降許可される予定の限られた教室の使用は、指揮や室内楽のレッスンなど、どうしても対面でなければ出来ない課程に宛がう必要があって、教室もそれぞれ広さによって入れる人数が厳しく制限されている。一番大きい講堂ですら同時に入れるのは最大10人で、何時もレッスンや授業に使う109番教室は最大5人というから、指揮の個人レッスンは伴奏ピアニスト2人入れても何とか使用可能だが、15人、20人と学生が集う耳の訓練の授業など、現在の状況では到底教室では行えない。

学校のマッシモとズームで話す。現在の状況は、深い霧の中、船乗りが目視で恐る恐る進んでいるようなもの。来年以降のことなんて想像も出来ない、と笑った。とにかく今年のカリキュラムを片付けなければならない。指揮レッスン補講は9月後半文字通り毎日入れてやりくりし、来年度の始業も一ケ月遅らせる運びだと聞いた。

5月某日 ミラノ自宅
無限に並列された情報に塗れていると、選ばれた言葉や音の方が、ずっと心の深い部分に沁み通るのを改めて実感する。言葉や音は感情表現の手段として発達してきたが、古来それは不完全なままであって、言わば四捨五入された表現とすらよべるものであった。
かかる端数が切り捨てられた大雑把な表現だからこそ、伝える内容に幅が生まれ奥行きが広がり、それらの歪さが豊かな表現を生み出して、我々に強い印象を残すのだろう。

戦後、コンピュータ開発が進み、大雑把だった素材が悉く現実に肉薄するようになり、人間の表現能力、判断能力を超えるようにもなったが、それは四捨五入の時代、読み手や聴き手が無意識に補っていた、人間本来の想像力すら侵食しつつあるのかもしれない。
形にして録音を残す意義、後世に資料を残す責について思いを巡らす。消費とは何か。今まで消費と効率ばかりが評価基準に充てられてはいなかったか。
ここよりもう少し郊外にあるチスリアーノで、血清実験開始。今日は195人が亡くなり、1225人が快復した。

5月某日 ミラノ自宅
美恵さんへのメール。
「イタリアに予定調和は皆無ですが、各人が毎日の人生を大なり小なり発明しつつ生きぬいてきていて、肝が据わっているかもしれません。政府を信じてもいないし、自国を持ち上げる気風もないけれど、他の欧州諸国より優れた文化を育ててきた妙な自尊心もあって、不思議な国です。昔から列強のヨーロッパ諸国から植民地扱いされてきているから、強かなところもあり、結局他国を信じていない」。

そんなイタリアが事もあろうにCovid最初の感染拡大国となり、急遽防疫体制を仕立て、欧州から援助も得られぬまま、孤立無援で対応を迫られた。その後、結果的にイタリアが作った防疫体制を各国が倣い、それを下敷きに各国が対応に当たった。有事で何より重要なのは、潤沢な資金だとイタリアの誰もが痛感させられた。本日クレモナの死亡者は0人で、73日ぶりだそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
朝4時半、家のすぐ傍で、保線車両が大きな汽笛を鳴らした。封鎖解放に併せ保線作業を進めているのだろうか。
朝5時過ぎ、ナポリ広場に向かって歩いていて、身体の強張りを不思議におもう。数か月間の思考の強張りが身体にまで影響しているのかもしれない。この時間、鳥たちの囀りが賑やかで、全方角から燦燦と降り注ぎ、人間より余程知能に長けているように聴こえる。我々が進歩と信じてきたことは、著しい退化の一途ではなかったのか。ふと疑心暗鬼が頭をもたげる。

フランクフルトよりAさん帰国。空港での検査は陰性だったが、暫く空港周辺のホテルを借りたとメッセージが届く。
「思い出すと辛くなるんです。色々とよい経験をしたのに、よくわからない怒りがこみあげてきたりして。何とも言えない気持ちです。誰が悪いわけでもないし」。
イタリアの不法滞在者をこの機会に正規滞在者に認定し、アスパラガスやイチゴの収穫に借り出す試案をベッラノーバ農林政策大臣提出。不可視だった不法滞在者をゲットーから解放し、健康管理をすることこそ、イタリア国民全体の安全に繋がるという。
イギリスの死亡者数がイタリアを上回ったが、それでもイタリア国内で1444人もの新感染者。369人の死亡者と8014人の快復者。

5月某日 ミラノ自宅
月。赤く巨大な月。早朝歩いていると、目の前で月が沈んでゆく。月も燃え尽きるようにして沈んでゆく。庭の階段の下に、燕が巣を作ろうとしている。
朝パン屋に出かけると、このところ、以前より街に人が溢れていて怖いという。毎日日がな一日家で仕事をしていると変化を感じない。家人にはサティのVexationsを全世界とズームで繋いで一日がかりで演奏しようとの誘いが届いた。Aさんからは2回目の検査も陰性と連絡が届く。記憶に蓋をして溢れる思いを堰き止めていると言う。
イタリアは今日一日で243人が亡くなり、総計30201人に達した。イギリスに次ぎ、3万人を超える犠牲者を数える。

5月某日 ミラノ自宅
ニグアルダ病院のベルガモーニ先生とやり取りをし、小児科・小児脳神経科が担当している社会的有用性の非営利団体あてに日本のAAR難民を助ける会から寄付金1万ユーロが届けられる運びとなる。柳瀬房子さんからの有難いご提案を押し頂いた。
ニグアルダ病院に寄付する、と言っても、受付先は何ヶ所かあって、そのどこにするかを何度か相談した上で、結局寄付金の使用用途が確認し易く、covidで治療に支障をきたしている子供たちの話を伺い、息子もお世話になった小児脳神経科へ直接寄付を決めた。Covidのため病院で受け入れられなくなった、遠隔治療を強いられる家庭への支援器具等も含まれている。
深山さんより新しいCDが送られてきた。彼女と音とを真空の空間が繋いでいて、音が発せられる瞬間まで、彼女の感情は無為に音を歪ませない。

5月某日 ミラノ自宅
現在のところ、まったく使う必要のない公共交通機関だが、今後はバスや路面電車に乗る際、手袋をしなければいけない。使い捨てゴム手袋をスーパーや薬局で探すが、全く見当たらない。息子が通っていた小学校前の文房具店が思いがけず開いていて、A4コピー紙を購入した。「どうなるのかね」。久しぶりに女店主と話す。「とにかく仕事しないとね。先ずは学校が開いてくれないことにはね」。

もう何年も指揮伴奏を担当してくれているマルコに女児が誕生し、写真が送られてきた。不思議に、自分が最初に息子を抱いて撮った写真や、家人の写真にも似ている。母親は出産の大仕事を終えて、顔つきが似るのも分かるが、父親の姿もどことなく似るのは面白い。小さすぎる赤ん坊に少し戸惑い、初めて抱くと、これでいいのか、という表情になるのが初々しい。
友人より日伊便6月欠航決定の知らせ。「今朝延期のメッセージを見て、気持ちが崩れ落ちました。メッセージには、ほぼ世界全土の長距離便キャンセルが書いてあり、事態の深刻さが示されていました」。153人が亡くなった。封鎖後最も低い死亡者数という。

5月某日 ミラノ自宅
誰もが少しずつ精神を病んできている気がする。子供の頃から、時として無性に叫びたくなることがあったのを思い出す。ベッラノーバ大臣が不法就労者を正規化する法案を成立させ、涙ながらに発表。朝歩きながら、何箇月も全く人と触れ合っていないことに気付く。当然ながら、釣銭一つ手を介してやりとりしていない。2月には、アメリカにいたジョンのお母さんがCovidで亡くなっていた。
ベルガモでは墓地が開いた。ウクライナの国歌を書いている最中、2014年スラヴャンスク紛争で命を落としたイタリア人報道写真家アンドレア・ロッケルリの記事が新聞で目に留まり、ルワンダの国歌を書いているとき、フェリシアン・カブガがパリで逮捕と知る。偶然に違いないが、これらの出来事が日常とこれほど近しいとは、全く気付いていなかった。

レプブリカ紙、ピッコロ劇場演劇アカデミー所長インタビュー。
今回の事態についてアカデミアは、来年度の大学初等課程に相当する三年コースを特例として一年増やし、そのうち半期は本年度分の捕捉に充て、残りの半期は続く上級課程に等しい準備期間として充実させると言う。授業料の問題や教師の補充さえ解決できれば、理想的な方法には違いない。
古来、演劇は幾度となく伝染病を乗り越えてきた。だから今回どんな状況で置かれても、きっと演劇は未来に残ると確信し、より深く踏み込み、充実した授業計画を立てたと語る。何かを信じている。

ストラヴィンスキーは迫りくるスペイン風邪流行の中「兵士の物語」を書いた。彼自身もスペイン風邪で床に臥したのち、ディアギレフの依頼で「プルチネルラ」を書き、結果的にそれが彼の新古典時代を切り拓いた。しかしこの古典回帰は、本当にディアギレフだけが切っ掛けだったのか。第一次世界大戦や感染症で荒廃した世界は無関係だったのか。無意識であれ、何か顧みる思いがそこには生まれなかったのか。今後、我々がどうなってゆくのか興味がある。
94人の死亡者。そして2月以来初めての500人以下の新感染者数。

5月某日 ミラノ自宅
2月、家人が自分で開けたシャンパンの蓋を、誤って自分の眼に命中させた。翌日どうも調子が変だと言うので、二人で救急病院に出かけ順番を待っていて、不安に駆られた家人から、結婚して一番幸福だった思い出を尋ねられた。
家人曰く、息子の出産だと言う。暫く考えて、自分には、息子が退院した時が一番幸せだったと気が付いた。退院した日そのものの記憶は曖昧だが、その前後の日々をまとめて、幸福を噛みしめていた。窓を開けると、小さなトカゲが頭を傾げ、こちらをじっと見つめていたが、暫くして逃げてしまった。

家人より「お父さんがすべて間違っている。あのままミラノにいれば無駄なお金も使わず、離れて暮らす必要もなかった」との息子の言葉を聞き、妙に嬉しい。
結果的に彼がそう思える状態こそ、この不自由な日常で最良の選択だったと思う。漸く自らの選択に納得することができた。今回の事態に限っては「何もこの必要はなかった」と云われる程度で丁度良い。

5か月ぶりにミラノ大学の前まで散髪に出かける。ナポリ広場より先へ出掛けるのは4か月ぶりだ。
マスクをつけて自転車を漕ぐと息苦しく、急いではいけない。人通りはほぼ前と同じに見える。もっと感動があるかと思ったが、不思議なもので、全て夢のようにも見える。
車の通りも前と変わらず、抜け落ちたこの数か月の実感が湧かない。バスや地下鉄を使えば違うのかもしれないが、一人で自転車を漕いでいる限りでは分からない。

今も自分の精神状態が以前の通りに戻ったとも思えないが、少なくとも2月から5月の半ばまでは、特に緊張を強いられていたのはわかる。鏡に映る自分の姿が老けたように感じるのは、白髪が目立つからだけなのか。ところで一日中、あちらこちらで教会の鐘がひっきりなしに鳴っているのは何故だろう。

何年も連絡が取れなくなっていた母の姉の消息が思いがけなくわかる。残念ながら、叔母は2年前に既に他界していた。
こうして書き出しながら、頭の中を空にしてゆく、頭の中の要素を少しずつ減らしてゆく。すると必要なものが漸く見えてくる。

5月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めて間もなくだったから、もう25年近く前、当時ライプツィヒに留学していた同期のピアノの学生と二人でベルガモの街を訪れた。彼がライプツィヒをそろそろ終えるから、とイタリアを訪問したような記憶もあるが、定かではない。

初めてベルガモを訪れ、どのようにして丘の上の旧市街まで着いたのかも、今となっては思い出せない。ただ覚えているのは、コルレオーネ礼拝堂の荘厳なだんだら模様のファサドと、その左隣、聖母大聖堂(サンタマリア・マッジョーレ)の翼廊口に鎮座する、二頭の赤獅子像のみなのは何故だろう。印象的な赤味を帯びたヴェローナ石で彫られた獅子たちは、長年の手垢でてかりを帯びていて、1353年ジョヴァンニ・ダ・カンピオーネの作だと言う。なるほど、当代一の彫刻家の作だから、印象に残ったのかも知れない。
その時、日本の神社の境内の狛犬に似ているのが不思議だったのと、古い微かな記憶の奥で、小学校三年生終わりの自分が、狛犬の上で遊ぶ小学三年生の自分が写りこんだ、日に焼けたモノクロのスチール写真を思い出していた。

この写真は、代々木八幡神社の境内で、大原れいこさんが写真家の人と一緒に番組用に撮ってくださったもので、恐らく今も町田の実家のどこかに残っている。
当時、母がマッシュルームカット風に髪を切り揃えてくれていたから、狛犬に跨り、その長めの髪を垂らして、愉快そうに斜め下に視点を落としていた覚えがある。
何十年も経って沢井さんと野坂先生の演奏会に大原さんが駆けつけて下さったとき、初めて紹介した息子は、ちょうど同じ歳頃だった。彼女の記憶はそのころの洋一くんで止まっていたから、何度となく息子に向かって「洋一くん」と声を掛けては、「あらごめんなさい、また間違えちゃった」と無邪気に笑っていらした。

どういう経緯で、大原さんと今井さんの間で「子供の情景」のアイデアが持ち上がったのかよく分からないが、ともかく大原さんから頼まれた「子供の情景」を書いているとき、左半身が麻痺した息子と二人で、ニグアルダ病院のよく冷房の効いた病室から、暑く気怠そうな外の風景をぼんやり眺めていた。

大原さんと最後にお会いしたのは、表参道の路地裏にある彼女の行きつけの蕎麦屋だった。岡村さんと三人でささやかに彼女の誕生日をお祝いした。道すがら、すっかり元気になった息子が、この夏アイルランドに英語研修に行くと張り切っていると話すと、彼女もアイルランドがとても好きなこと、オハラという名字がアイルランドにあって親近感を覚えてね、などと、嬉しそうに話していらした。

あれから、ほんの短い電話だけは何度か通じたけれど、殆ど会話らしい会話もできぬまま、先日届いた訃報に言葉を失った。
「考えれば考えるほど寂しくなります。どうしてでしょうね。天国にいらっしゃるはずなのに。遠いんでしょうかね」。そんなことを岡村さんに愚痴ったりした。
今朝、荒木さんから「子供の情景」のヴィデオがインターネットに載せられていると便りを頂戴して早速拝見した。最後に大原さんと演奏会でお会いした時の記録だった。

5月某日 ミラノ自宅
三善先生から頂いた端書を棚に飾り、毎日何となしに眺める。ざくっとした太めの筆感、しっかりとした指先で、じっと筆重をかけ、ねじこむように書かれた筆跡を眺めると、無意識に背筋が伸びる。
軽井沢から送られてきた端書だが、裏面には瀬戸内海の風景画が描かれていて、何故だろうと思う。すると、何の気なしに階下に足が向かい、気が付くと寝室の書棚から詩画集「いきてる」を手に取っていた。三善先生が詩を寄せ、雨田光弘先生が絵を描かれたもので、町田とミラノと一冊ずつとってある。
夜明け、ふらふらと病院に吸い寄せられるようにして思いがけず立ち会った祖父の臨終のように、自分の意志とは関係なく、誰かに呼ばれるようにぼんやり手に取っただけだが、ふと函に書かれた先生の題字に目を落とすと、突然涙が溢れた。
「いきてる」と先生の声が聞こえた。
何年も開けていなかったから、蝋ひき紙にくるまれた布表紙の本を出すのに苦労したが、目にした途端、年甲斐もなく号泣した。この数カ月身体に溜まっていたものが突然噴出したように、誰もいないのを幸いに声を上げて泣き、木の机の涙の染みを腕で拭いつつ日記を書く。

いきてる 三善晃 1986年

こないだ おかしかったな
        いもうと

ふたりでけんか  してたら
とうちゃんが  おこったろ
なにしてる  って

いきてる  と  おれ

いきしてる  と  おまえ


とうちゃん  ぽかんとしてたな

         それから

そりゃ  すばらしい  がんばれ

         だとよ

ひとりでいると 
 みんながいる

みんながいると 
 じぶんがいる

なにもないとき 
 ぜんぶがある
    みたい

おれが ぜんぶだ
 なにもないから

—-

ここで
ながいこと おまえを
まっていた   のは

おまえがいないことは
なになのか  を

おれにわからせるのに
どれだけひつようだ  と
おまえがかんがえたのか  を

かんがえるため  だったのさ

—(中略)

あそうぼうぜ みんなと

あそびのはじめは
だれもえらくない

    あそぶと
えらいやつと
えらくないやつが
   できるけど

それだけさ

あしたはあした
  はじめから

おまえが なけば
おまえのなかのおれは
たいがい なく

みんなが わらえば
みんなのなかのおれは
たいがい おこる

おれは しねない
  いそがしくて
  ややこしくて

   ずいぶん
いじわるしたな
   おまえに
いじめたな
   おまえを
けっこう たのしく

おれのしたことで
おぼえているのは
それだけだ ほんと

 だから おれが
 ごめん いったら
それだけよそれだけよ
 いみ あるのは

 それ
 いつか いう

いきてるか
 と おれがきいたら
いきしてるか
 と おれにきいてくれ
      いもうと


いもうと

あき
はなみずきのめが
らいねんのはるを
だきしめている いま

(5月29日ミラノにて)

コロナ蟄居

冨岡三智

5/25の全都道府県の緊急事態宣言の解除を受けて、また状況が変わる。先月号で「4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった」と書いたけれど、残りの1校が6月1日から対面授業に決まった。この大学は医大で必修科目が多いため、オンライン授業も当面(最短で5月末まで)という予定だったのだ。さて、来月はどんな状況になっているだろう…。

閑話休題。

この緊急事態宣言下での家籠り生活が長くなってきた頃、昔の武士にとって蟄居閉門が刑罰になるという意味が分かったという内容のツイートを見かけて、なるほどと思う。家にこもるのがわりと好きで落ち着いていると先月書いたけれど、少し気疲れがたまってきて、最近それがあまり抜けなくなってきた。人に自由に会ったり話しかけたりできないのも拘束感を覚えるものなのだ。これが蟄居生活というものか…。6月からは週に1コマだけだが通勤が発生する。もう1セメスターの半分は過ぎたから、今さらの通勤に少しめんどくささも感じているけれど、気分が晴れるかもしれない。

ちあう、ちあう

イリナ・グリゴレ

ヴァルター・ベンヤミンのエッセイを読み始めると、2歳の娘は私の手から本を取って、ページをめくり始めた。翻訳することについて読むところだったが、彼女の動きに集中している顔を夢中になって観察し続けた。最近では、本棚からいろんな本を出して読むふりをしている。「これはすごい」というリアクションをしたり、ずっと文字を見続ける時もあったり、写真だけ見て本を床に置いたりする。絵本を渡すと「ちあう、ちあう」(違う)と大きな声で言って、邪魔しないようにとアピールする。彼女にとっては文字と言葉は、日本語であっても英語であっても大人とは違うものだ。目で写真を撮っているように、一枚、一枚のページを見ている。ベンヤミンがいう理想的な翻訳に近いかもしれない。彼女にとって読むことはまだ言語化することではないので、すべて違う、すべて同じような言葉が「見える」。

子供が新しい言葉を作る能力はすごい。長女もそうだった。いまだになにを意味するのかわからない言葉がたくさんある。例えば「シャバデイ」という言葉を長女は1歳半から使っているが、まだ意味を掴めていない。次女も5月に「モモイ」という言葉をずっと使っていたが「鯉のぼり」のことを指していたことがはっきりした。こうしてみると人間は幼い時からイゾラドかもしれない。たくさんの習慣と言葉が心の中にこもり、通訳と解釈は常に難しくなる。

『悲しき熱帯』では、先住民たちが自分の身を綺麗な花とビーズを使って飾るシーンが私には印象的だった。母親になって自分の娘たちが同じ行動をするのを見た。次女は素裸になって過ごすことに加えて、飲み物と食べものをもらうときに一つの儀式を通さないとなにも始まらない。それは「クラ」に似ているともいえる。「クラ」とはトロブリアンド諸島で行われる交易のこと。娘は牛乳を欲しがっているが、最初にコップを渡そうとすると、「ちあう」と言って、受け取ろうとしない。大体三回ぐらいこの動作を繰り返し、最終的に満足した顔でもらって飲んでいる。

まだ解釈できない習慣がたくさんあるなか、踊りと歌が大好きな娘たちをみて、21世紀の人類学のことを考えてしまう。人間の一人一人の身体は島であると感じる。各島の環境と植物、動物、細かいところ、細胞まで解釈も翻訳もできない、言葉で押し付けることのできない生き物の本質の現れを探る。例えば、日本語で翻訳されても翻訳しきれない本、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの『千のプラトー』、一つの全体としての身体を翻訳しきれない。翻訳をするのではなく、「一つの言語」から「一つの言語」へではなく、子供の感覚に戻るといいかもしれない、いつか、お互いに言葉だけではなく、イメージなど、もっと様々なコミュニケーションができるかもしれない。『不思議の国のアリス』のティーパーティーを思い出してみよう。参加者はお互いに話し合っているけれど、お互いになにを喋っているかわからない。言葉だけで足りないのだ。

娘たちを観察して思った。もしかたら人間とは「イヤイヤ期」がまだ終わってないのではないか? 昔見た『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』という映画では、たくさん詰まった言いきれない言葉が溢れるまでのパフォーマンスが描かれていた。最後は主人公が川に落ちて子供のように泣いているシーンだった。人間の身体に詰まっている感覚、感動、愛情の塊は「言葉」だけでは伝えにくい。私たちの日常の中では、「言いつくせないもの」でお互いの「コミュニケーション」の壁を破けない日々を生きている。

「人類学」の最初の授業では、丹野正先生が狩猟採集民アカ・ピグミーのところにいらっしゃった最初の日のことについてお話ししてくださった。荷物も水も食べものも持っていかなかった。もちろん、言葉も知らないまま、ただ彼らの近くに座って待っていた。すると、夕方になると、一人の女性がその日男性たちが狩りをした肉を丹野先生のところへ持ってきたのだ。言葉の先に人間は「分かち合う」ことをする。このイメージは私の頭からずっと離れなかった。子どもも「笑う」こととか、踊ることを分かち合おうとする。はじめて会う人にも持っている食べものなどをあげようとする。

ベンヤミンの言葉も翻訳されて、解釈され続けている。彼が「アウラ」と呼ぶものは非常に興味深い。なぜ「アウラ」という言葉を選んだのか、少し分かる気がする。彼の遊び心が現れている。「アウラ」は、あるイメージを直接的に読んでいる側に伝える。彼の書き方は非常にパフォーマティブだ。この意味でベンヤミンは「言葉」から「言葉」にではなく、「言葉」から「イメージ」への道を提案したのだ。

そういえば祖母に久しぶりに会った時、最近みた夢について家族で語り合った。皆の夢のイメージがリアルすぎて、祖母の家の小さな部屋にいくつものプロジェクターがあって、それらが投影されているような気がしていた。

仙台ネイティブのつぶやき(54)今日も塗り、明日も塗る

西大立目祥子

 4月の初め頃、軒並み中止に追い込まれていく新聞下段のコンサート情報を眺めていたら、小さな記事が目に入った。
 「第60回東日本伝統工芸展」とあって「東京・日本橋三越本店で開催予定でしたが中止します」の一文。もう工芸展までだめなんだ…と思いながら記事に目を戻して、おっと思った。「写真は、朝日新聞社賞の伴野崇さん(長野県佐久穂町)「乾漆合子『残照』」」と記され、卵を寝せて下を切ったような赤い漆塗りの蓋付き容れ物がカラー写真で紹介されている。伴野くんだ!彼は私の若い友人なのだ。

 確か数年前にも同じ工芸展で同じ朝日新聞社賞を受賞していた。年末に「作家によるうるしおわんうつわ展」という展示会が、池袋の西武アート・フォーラムで開かれ、出品するという案内をもらったまま、連絡もせず気にになっていた。がんばっているんだなあ。おととし、人間国宝である師匠の小森邦衛のもとから年季明けで独立し、輪島から故郷の長野に戻って工房を構えたところだった。このタイミングでの受賞は、きっと励みになるはずだ。
 何年かぶりで電話をしておめでとうというと、変わらない口ぶりで「そうですね、独立して受賞できて、よかったかな…そうなんです、なぜか前と同じ朝日新聞社賞で。載ってるよと知らせてくれた人がいて、自分もそれから新聞を買いにいって」などとぼそぼそと話す。浮き足立つこともなく、いつも静かな水面が胸の内にあるような感じだ。

 伴野くんと初めて会ったのはもう15、6年も前。仙台で幕末からつくられてきたという仙台箪笥の取材のために「門間箪笥店」という箪笥づくりをする工房を訪ねたときのことだった。仙台箪笥は、指物と塗りと金具という3つの職人技がなければ完成しない。表の店舗にしか入ったことのなかった私は、このとき初めて奥の工房まで足を踏み入れることができ、古めかしい木造の工房の中で鋸を巧みに引くベテラン指物師や床に座って黙々と塗りを続ける若手塗師や女性塗師の姿を見ることができた。その中に伴野くんもいたのだった。うつむいて絶え間なく手を動かしあまり喋らない。職人さんの中では際立って若く20歳を過ぎたくらい、まだ少年っぽさが残る、目の涼やかな若者という印象だった。

 そのあと何回か会ううち、高校中退のあと、ものを作る仕事がしたい、箪笥はどうだろうと考えて全国の箪笥産地を訪ね歩き、門間箪笥店がいいと仙台にやってきたのだと聞いた。確か当時、伴野くんはやけに頑丈なつくりの黒い自転車─仙台ではかつて米の運搬に使われていたことから運搬車と呼ばれている─に乗っていて、足元はいつも下駄だったような。朝8時から働き4時半過ぎに仕事を終えると、急ぎ市立高校の2部に通うのだった。えらいね、というと、淡々とした口調で「でも、昔の人はみんなこうだったと思いますよ」という。真面目で、静かなのだけれど芯棒のようなものが一本通っていて、昔の青年はこうだったのかなぁと会うたび思わされた。「明治とか大正とかに生まれた方がよかったんじゃないの、生まれる時代を間違ったのかも」とつい口に出し、はははと笑いあったような記憶がある。

 知り合ってしばらくして、私は伴野くんと、その同僚でちょっと年上の指物師の阿部くんに呼び出された。門間箪笥店の近くの喫茶店に行くと2人は隅の席に窮屈そうに並んで座っていて、あいさつがすむと思いつめたような表情で「仙台箪笥を伝承する会をつくるので協力してほしい」というのだった。聞けば、伝統的な技術を受け継いで見える仙台箪笥も、その形、材料は明治期とはずいぶん違っている。一度、昔の素材と工法で一棹製作して原点に立ち戻り、人とモノのつき合い方を問いたいという。その後、2人は自治体の助成金を獲得するために審査会のプレゼンテーションに臨み、箪笥研究では第一人者の小泉和子さんに原稿の依頼をし、冊子を制作の費用を捻出しようと広告とりに歩いたりもして、「仙台箪笥復活祭」をやってのけた。1年近く準備にかけたのではなかったろうか。いま振り返れば、ファストファッションのような安い使い捨ての暮らし方が広がる中で、世代をこえて使われるような伝統的な箪笥をつくり続けることへの若い人ならではのひりひりするような危機感があったのだと思う。

 この会の代表としてあれこれ考え、人に会ううちに伴野くんは変わっていったに違いない。あるとき「輪島の漆芸研修所に行って勉強し直します」と聞かされた。箪笥は堅牢さを追求しながら大きな面を均一に塗るような仕事だけれど、もっとたくさんの漆芸の技法を学んで繊細な仕事を極めたいという気持ちになったのだろう。 
 居酒屋を貸し切ったお別れ会には、30人か40人かとにかく大勢の人が集まり門出を祝った。私と伴野くんとのつきあいは限られたものだったし、暮らしぶりもよくわからなかったのだけれど、10年に満たない仙台在住の間にずいぶんと友だちをつくり、いろんな人に親しまれていたんだなあと、親戚のおばさんのような気持ちで人の輪の中にいる伴野くんをながめた。

 何かいい餞別はないだろうかと思案して、ああ、そうだと思いついたのは、宮城県北、鳴子温泉に残っている澤口悟一(1882〜1961)が製作した「猩猩の大皿」を見せることだった。この町出身の澤口は漆芸の研究に生涯を捧げた人で、集大成として昭和8年に著した『日本漆工の研究』は日本学士院賞を受賞した。東京美術学校時代、夏の休暇で帰省するたびに製作したというのが、直径120センチの見る人を圧倒するようなこの大皿である。結局在学中には仕上がらなかったというエピソードが残されている。鳴子には澤口の弟子となり、いまも塗師として活躍する小野寺公夫さんもいるから、その話も聞かせてやりたい。がんばれよの気持ちで、私の仕事のときに車に乗せて連れて行った。

 石川県立輪島漆芸研修所で5年、さらに小森邦衛の弟子となって4年。その間、どんな思いで何をつくり、どこをめざしてきたのかは私にはわからない。でも、作品展のパンフレットや工芸展のHPに掲載されている作品をみれば、細やかな目と腕を持つ自立した作家になったことが伝わってくる。私にはとうてい見えないものを見て、想像もできない道に分け入っているのだと思う。昨年暮れに送ってくれたパンフレットに載っていたポートレートはきびしい大人の顔だった。

 一度、人から譲り受けた2段重ねの弁当箱を輪島に送り修理を頼んだことがある。傷んではいたのだけれど、はげ落ちた漆の下はしっかりと麻布でまいてあるので、手入れをすればよみがえるかな、と思ったのだった。1年以上がたって戻ってきた弁当箱は見違えるようだった。漆の盛り方、蓋の縁の処理などに勉強ぶりがうかがえた。お節を詰めたり雛祭りの料理を盛ったり、伴野くんの顔を思い浮かべながら大切に使っている。ていねいに手をかけてつくったものを使うときは、蓋の開け閉めにしても使い終わって洗うにしても、使い手の扱いもおのずとやさしくなることを教えられる。

 伴野くんに限らず、これから塗師たちはどんな道を歩んでいくのだろうか。精進、献身…そんなことばを身の内に構えとしてつくられなければ、続けられない仕事だろう。見るたびに美しいと感じられ使用にも耐える暮らしの道具をつくる仕事でありながら、連綿とつながってきた技術をつぎの塗師へと手渡す使命も負う。考えれば考えるほど、かけることばが思いつかない。今日も塗り、明日も塗る。それ以外に道はないことを誰よりも知っているのは、彼ら自身なのだから。

 ところで、伴野くんは最近結婚した。おめでとう。よかったなあ。私は祝福しながら、やっぱり親戚のおばさんみたいにどこかほっとした気持ちでいる。彼の中のいつも静かな水面にも、ときおり楽し気な水しぶきが立っているだろうか。 

みね子のモダン本

璃葉

実家からもどる際、祖母のみね子が所有していた本をいくつかもらってきた。
明治・大正期の作家の初版本を昭和中期に復刻したもので、そこそこ貴重なものなのかもしれない。神保町の古本屋街でも同じものをたまに見かけることがあったが、そのたびに実家の畳部屋の隅に置いてある、みね子の古びた書棚が頭に浮かぶので、もはや私の脳内では“みね子の本”という位置づけでしかなかった。
実家整理中のいま、飾りのように並んでいるその本たちをなんとなく放っておけず、勢いで東京行きの段ボールに仕舞ったのだった。

東京の自宅アパートに戻り、段ボールからみね子の本を取り出す。
本はどれも二重函仕様で、本体はグラシン紙に包まれていた。グラシン紙はとても繊細ですぐに破けてしまう。でもこの薄くて脆い紙のおかげで、色褪せることなく良い状態に保たれているのだ。触るたびにぱりぱり鳴る乾いた音は嫌いじゃない。
慎重にグラシン紙をはずすと、表紙はずいぶん派手な朱色だった。ページも小口もヤケどころか汚れもなく、真っ白と言っていいほど綺麗で、自分が生まれたときにはすでにあった本であるのに、もしかするとほとんど読まれていなかったのかもしれない。汚してしまわないように、丁寧に扱わなければと再び慎重に函に戻すが、一冊一冊確認するたび、どうしても読み始めてしまう。
部屋いっぱいに雨の気配がたちこめる深夜2時、名だたる作家たちの文章に、さっそくページをめくる手がとまらない。

製本かい摘みましては (154)

四釜裕子

広辞苑を買った。3月末にいきなりテレワークが申し渡されて数日後、ひと月くらいで終わる感じではないし図書館も閉まったし、うちには広辞苑がないのでなんだか急に心細くなり、せっかくだから近くの本屋で買おうと出かけたら閉まっていて、悔しいけどネットで買った。翌々日、配送屋さんがピンポンを鳴らして「重たいものです」と届けてくれた。ここ最近はお互いのために「ボックス置きでお願いしまーす」と言うわけだけれども、生ものです、とか、大きいものです、とか、言ってくれるのだ。いつもありがとうございます。

前にあった広辞苑はその昔、高津駅前の新刊書店横の小道を入ってラーメン屋の隣の古本屋で函なしカバーなしを買ったのだったが、まだ営業しておられるだろうか。2年前に郷土史家の鈴木穆(あつし)さんを高津に訪ねたとき、落馬打撲とか腎盂腎炎とか急性難聴とかで何度もお世話になった病院が駅前をすっかり飲み込んでいてびっくりした。駅前の府中街道を右に数分、大山街道の交差点にあった名物店(骨董屋というかガラクタ屋というか目の前を通るバスやダンプぎりぎりに掲げるディスプレイと裸電球が絶妙)もなくなっていた。この店のことは写真家の鬼海弘雄さんが『東京夢譚』の「第13話 アルミの急須と愛の証」に書いている。しかしちょっと離れると以前のままの家並みもあって、当時の私は鈴木さんをはじめ近隣のひとと親しくしていたわけでもないのに、思い出すままに話すうちにこの町に懐かしく迎えられたような気になるのはいい気なものだ。鈴木さんが「タウンニュース」高津区版の創刊(1996.5.23)から22年9か月、1085回連載した「高津物語」は、『高津物語(上・中・下)』としてまとまっている。

さてその広辞苑は数年前の引越しで処分していた。第七版が出た2018年には自宅で紙の辞書を引くことはなくなっていたので買っていない。充電さえできているスマホがあれば、いつでもどこでも誰かと話をしているときですら、なんでもだいたい調べて分かった気になれる夢のような暮らしだ。しかし分からないことがあまりにもさっと分かるのから、そもそもその程度の分かる・分からないはどうでもいいんじゃないかとか、分かる・分からないにたいした違いはないんじゃないかとか、調べてるつもりが調べられてるだけだよって検索のむなしさにフッと気が遠くなる。それはたぶん、答えが一瞬で目の前に出るという登場のしかたにも問題がある。パッとあらわれるということはパッと消えるということで、実際なにもかもほとんどパッと消えている。

辞書で引いたところでパッと消えるのは経験的に分かっている。だけど、辞書は引くもの、調べるものというよりは読むものだなと今は実感できていて、だからそれはパッと消えてもいいんじゃない、とも思える。いまだ広辞苑に「新村出編」とある理由を聞かれた岩波書店辞典編集部の平木靖成さんは、〈国語辞典でありながら百科事典も兼ねて一冊本を作るというコンセプトからずれたら『広辞苑』とは言えないので、そのベースを新村先生が作ったという記念として将来もはずせないものだと思います〉(ブクログ通信 2017.11.30)と言っていた。姉に初めて辞書の使い方を教わった日を思い出す。姉の赤い国語辞典を借りて何か言葉を引いたのだけれど、説明に書いてあることがまた分からないのであった。すると姉が「それをまた辞書で引くんだよ」と言う。あっちをめくりこっちをめくりすればいつか分からないことがなくなるということだった。すごいと思った。ただし、それは辞書ではなくて教えてくれた姉がすごいと思ったというのがかわいいところ。しかしあの異様な驚きがこのタイミングで蘇ったのは意味があるかもしれない。

広辞苑のつくりをじっくり見てみる。外函にうっすら浮かび上がるのはオーロラの写真か。辞書本体と付録の冊子も入ったこの函ごと全部で3.3kg。本体の厚みは8cmある。表紙カバーの紙はごく淡いクリーム色で、全体にマットな黒を引いて文字と岩波書店の種まく人のマークを紙色に抜いてある。表紙のクロスは、はなだ色と言っていいのかな。背に銀箔でタイトルなど。そして、実は今回初めて気付いたことがある。背に、安井曾太郎による白鷺に葦とさざなみ(かな?)の絵柄が浮き出ているのだ。背の凸凹には気付いていたけど、使い古してノリが浮いた跡とばかり思って気にしてじっくり見たことがなかった。見返しは灰色。扉は、表紙カバーの紙色に近い淡いクリーム色で、見返しの紙に近い灰色と錆色の2色で枯れ木立ち風の絵とタイトルがある。

本文紙は扉に比べると少し赤みがある。刊行時に特に話題になった「ぬめり感」を確かめてみる。自分の指と紙の関係のぬめぬめもさることながら、この薄い紙どうしの関係におけるぬめぬめがすごいと感じる。実は今、いっときのトイレットペーパー不足により紙問屋の店頭でようやく買った一枚仕立てでかたく巻いてあるタイプを使っていて、なかなか気に入っているのだけれど残り8分の1くらいになると巻きがうまくはがれてこなくなるのだ。トイレットペーパーよりずいぶん薄い広辞苑専用の本文紙も抄紙後は巨大トイレットペーパー状になっていたわけで、ひとロールどれだけの重さになるのか、それがみなすっとむけるとはなんてすごいことだろうと、思うのであった。

広辞苑の本文紙が特注品である理由も刊行時に話題になった。製本の機械が厚み8cmまでしかできないので、より多くの項目を入れるためには紙を薄くするしかない。開発に5年。結果、第六版から1万項目追加で140ページ増えても厚みは8cmにおさまった。第七版の140ページで5mm弱あるから、そうとう薄くなったと考えていい。薄いと透けるが、それではまずい。不透明度を高めるために「酸化チタンがまぶされた」という表現を当時のニュースで読んだ。開発した王子エフテックスのサイトを見ると、不透明度を保つポイントの一つは〈紙の中に填料を留める技術〉。流れ出ないように定着するということだ。それと、通常は抄紙の際に上から下の一方向に脱水するのを両側から行うなどして、鉱物である填料が偏らないようにするそうだ。版元がこだわるぬめり感(静電気で指にまとわりついたり、次のページが一緒にめくれたりせず、快適にページをめくっていける絶妙な触感)は、特別なコーティング材のたまものらしい。

5月25日は1955年の初版の発売日で、「広辞苑の日」として毎年誕生日を祝っているそうだ。昨年、DNPプラザ(DNP=大日本印刷株式会社。初版から秀英体で広辞苑を印刷)で開かれた「広辞苑大学」では、初版1冊分の清刷(組版を印刷したものを撮影して5分の3に縮小したものを製版としてオフセット印刷。片面印刷なので5冊に分けてある)や、コピー用紙で作った「広辞苑のコピー本」を展示したり、刷り出しで缶バッジを作ったりしたようだ。今年は静かに誕生日を迎えたのかな。遅ればせながら、7度の全身改造を経た65歳に羨みと敬意を表しつつ、第七版に記された装丁に関わる表記のいくつかをここに抜き書きしてみます。

『広辞苑 第七版』岩波書店

扉裏)
装幀 安井曾太郎

p1618)
せいほん【製本】原稿・画稿・印刷物・白紙などを糸・針金・接着剤などで綴じて表紙をつけ、小冊子・書籍などに形づくること。和装本(和綴じ)・洋装本(洋綴じ)に大別→装丁(図)

p1695)
そうてい【装丁・装釘・装幀】(本来は、装(よそお)い訂(さだ)める意の「装訂」が正しい用字。「幀」は字音タウで掛物の意)書物を綴じて表紙などをつけること。また、製本の仕上装飾すなわち表紙・見返し・扉・カバーなどの体裁から製本材料の選択までを含めて、書物の形式面の調和美をつくり上げる技術。また、その意匠。装本。
*付されたイラスト〔装丁〕には「角革・平(ひら)・角・地(罫下)・ちり・しおり・耳・背・溝・平の出・みきり・天・小口・扉・花ぎれ・のど・見返し・カバー・帯紙・遊び紙・見返しの遊び」が記される。

p1699)
そうほん【装本】本の表装。装丁。
ぞうほん【造本】書物の印刷・製本・装丁、また、用紙・材料などの製作技術面に関する設計とその作業。

p2569)
ブック【book】(略)―・デザイン【~ design】本の、装丁から本文の書体まで全般にわたるデザイン。(略)

p3185)
後記
(略)
 装丁は初版以来、安井曾太郎氏の手になるものである。外函の写真はInmagine123RF株式会社のお世話になった。(略)
 大日本印刷およびDNPメディア・アートの方々にはコンピューターを駆使した編集資料の作成と組版・印刷において、王子エフテックスの方々にはより薄く高品質の本文用紙の開発・抄造において、牧製本印刷・松岳社の方々には堅牢で使いやすい造本において、多大なるご尽力をいただいた。
(略)

奥付裏)
本文用紙 王子エフテックス株式会社
表紙用クロース ダイニック株式会社
見返し・カバー用紙 特種東海製紙株式会社
本文製版 株式会社DNPメディア・アート
本文印刷 大日本印刷株式会社
扉・函印刷 株式会社精興社
製函 株式会社加藤製函所
製本 牧製本印刷株式会社

マスクドットコム★2020

北村周一

ほんのりとマスクの表に色づくは神の絵すがたはたまた黴か
 
煩雑な経路をたどりゆくゆくは届くのであろう配給マスク
 
舌の根も乾かぬうちにあらたなるウソが飛びだす マスクを伝い
 
かの総統の手口にまねぶ男ありて一に恫喝二に布マスク
 
嘘と狡とマスク二枚が束ねられ 民をあざむく手口の暗さ
 
ほんとうのことは言わない(言わせない)マスクつけても嘘は飛びちる
 
減らず口かくすためある愛用のガーゼ・マスクはいつも新品
 
マスク越しに交わす挨拶ぎこちなくじゃあまたねとはいえない死角
 
目には目を口には口をほころばせマスクしててもあすは満月
 
いろいろのマスクさまざまにあることもちょっとうれしいこのよのじじつ
 
薄っぺらなコトバゆき交う初夏の カメラ止まればマスク脱ぐかれ
 
マスクの声てぶくろの手に交わりはことば少なにレジを離りぬ
 
顔の上の白いマスクに護られて足に蹴散らすさくら花びら
 
粛粛とマスク購う人つける人脱ぐ人ありてそを拾う人
 
捨てマスク顔のかたちにひらきしを風が舞い上ぐ天までのぼれ
 
マスクから目鼻耳くち脱ぐように両のてのひら浄めいるなり

山本久土がいい!

若松恵子

新型コロナウイルス感染拡大防止のために、ライブハウスが営業できない。
ライブハウスを回って直接音楽を届けることをしていたミュージシャンは全く仕事ができなくなってしまった。文字通り、手の届く距離で唄っていた、その魅力に支えられていた仕事が全くできなくなって、どうしたものかというまま4月、5月が終わる。

山本久土(ひさと)は、PHEWがボーカルを担当するMOST、遠藤ミチロウとのMJQ、羊歯明神のギタリストで、自身もギター1本で歌う。MJQでも羊歯明神でも、1本のギターで分厚いサウンドを作り出していて、リードギターもセカンドギターも、ベースも1人でやってのける、ギタリストとしての凄さがまずあったのだけれど、ミチロウが亡くなった後は覚悟が決まったのか、歌にも磨きがかかった感じだ。率直に自分らしい歌い方で、ミチロウの曲が歌い継がれていることに魅力を感じる。

演奏することは、収入の面だけでなく、自分の生活の軸としても必要なことなのだろう。ライブハウスの協力で、無観客ライブの配信をしていて、これがなかなか良い。
ラモーンズみたいな髪型(前髪がうっとうしく伸びていて、目を覆い隠している。早く床屋に行きなさい!と叱られる髪型)で、ギターをかき鳴らし、歌う。
配信でがまんしておこう、というレベルではなく、配信でも十分いいのだ。
画面のこちらから拍手を送りながら見ている。
こんな時だから歌いたい歌、歌われるべき歌が演奏されている。
先日は、高校生の時以来だと言って、RCサクセションの「あきれて物も言えない」がカバーされた。

どっかのヤマ師が オレが死んでるって言ったってさ
よく言うぜ あの野郎よく言うぜ
あきれて物も言えない

ところが おエラ方 それで血迷ったか
次の週には 香典が届いた
前の土曜日にガンバローって乾杯したばかりなのに

オイラ その香典集めてこうして遊んでるってワケさ
ますます 好き勝手な事ができる
さあ オマエに何を買ってやろうか

ヤマ師が 大手を振って 歩いてる世の中さ
汗だくになってやるよりも 死んでる方がまだマシだぜ
「あきれて物も言えない」(作詞・作曲 忌野清志郎)

この曲を今、選んで歌う山本久土はいかしてると思う。

ゴジラの逆襲(晩年通信 その11)

室謙二

 私は科学少年であった。
 鉱石ラジオと、星座早見盤の少年であった。
 読むものは「子供の科学」に「初歩のラジオ」(いずれも誠文堂新光社)、それと「模型とラジオ」(科学教材社)かな。
 科学少年という言葉が、今でも一般に使われているのだろうか?
 使われていたとしても、私が子供だったころ、1950年代の中ごろとは違うだろう。あの当時、少年にとっては科学が万能の時代だった。科学が世界を変える、科学が世界を救うはずだった。鉱石ラジオ少年は、いま風に言えばテック少年だが、その「未来の科学」に参加していたのである。
 鉱石が高周波を低周波に検波して聞こえるようにする「鉱石ラジオ」が、少年にとっては大変なテクノロジーであった、といっても単純なもので、部品数はいくつかしかない。全部が目に見える形で触ることができた。いまのテックと違って、自分で作ることもできた。鉱石ラジオには、電源(電池など)は必要ない。しかしまずアンテナが必要だ。木に登って電線を引っ掛けてアンテナとした。次はアースである。庭の土を掘って水を注ぎ込み、そこに金属片を差し込む。それにつないだ電線を、アースとして鉱石ラジオにつなぐ。ドロンコである
 このアンテナとアースがないと、かの鳴くような音のラジオさえ聞こえない。イヤホーンは、耳に差し込むタイプのクリスタル・イヤホーンだった。
 エナメル線を買ってきて、紙の筒にコイルを巻く。雑誌に何回巻くとか全部書いてある。コイルに並列にコンデンサーをつなぐ。並列と直列のつなぎ方がわからない人は、困ったなあ、でも説明しない。コンデンサーがなにかも説明しないけど、これがバリコンでなくて固定の値のものだと、コイルからタップを出したり、表面をけずって電線で触ってコイルの値(インダクタ)を変えないと、周波数を変えられないね。周波数の仕組みがなんだって?ああ、絶望的だ。
 こういう単語がわからない人には、全部が「ギリシャ語」であろう。という言い方は英語で、It’s Greek to Meで、日本語だとチンプンカンプでわからない、という意味だ。だけど続ける。

宇宙競争がスゴイ

 わからない人がいる反面、私なんかこういう昔の「テック」の話をするとうれしくなる。ああいう時代があったのだなあ。
 バリコンてなに?バリアブル(可変)コンデンサーのことで、言葉で説明するのが難しいので写真を添付した。もっともこのバリコンは古典的なもので、もう使っていないだろうね。今ではもっと小さくなって、金属の間にポリエステルをはさんでポリバリになった。それに対応して、写真の古いバリコンは、素朴に空気バリコンと呼ばれていた。
 子どもたちにとって、科学が万能に思えたのは、ソ連が一九五七年の冷戦時代に最初の人工衛星(スプートニク)打ち上げて、世界中が驚き、アメリカはソ連に先を起こされて大騒ぎになったからでもある。一九五八年にはアメリカでNASA(アメリカ航空宇宙局)が設立された。アメリカの子供の科学教育・数学教育が大きく立ち遅れているというので、新数学(New Math)カリキュラムが始まる。ずっとあとで、数学者・人工知能の専門家のシーモア・パパート(MIT)さんと仕事をしたとき、この新数学カリキュラムが教育現場をどのように混乱させたか教えてくれた。それまでは、アメリカの女子は数学はやらなくてもよろしい、「家庭科」をやっていないさい、だったそうだ。日本の女の子は受験勉強で、男子と対抗して難しい数学を勉強している。と言ったら、パパートさんは驚いていた。
 ソ連とアメリカの間で宇宙競争がはじまった時に、日本の子供はそれを見て「わー、スゴイなあ」ということになったのである。というわけで、バリコンの模型ラジオ少年は、ボール紙で筒を作り、両端にレンズをいれた手製望遠鏡と星座早見盤の宇宙少年にもなった。

 光年という単位にも驚かされた。
 光が飛ぶ、移動するのに、時間がかかるということも信じられなかった。しかし科学は、光の移動には時間がかかるという。そしてその光が一年間飛ぶ距離が「光年」という単位だと知ったときは、うーん。それは想像を絶する距離だ。
 Googleの光年のページによれば、光が太陽から地球まで飛んでくるのに八分かかる、太陽系にもっとも近い恒星は、太陽から四光年の距離だそうだ。わが銀河系の直径は十万光年で、アンドロメダ銀河までは250万光年だそうだ。つまり私たちがいま見ているアンドロメダ銀河は、250万年以前のモノ(光)である。地球から観測可能な宇宙のはてまでは457億光年である。宇宙少年の私は、こういう数字を知って、夜空を見上げていたのである。
 その宇宙に向かって、ソ連とアメリカのロケットが飛び出す。と言ってもまだ宇宙の手前でウロウロしているにすぎない。いま地球からもっとも遠くにある、人間が作ったもの(ボイジャー一号)が、地球から一光年の距離まで行くには一万8000年かかるというのだから。観測できる宇宙の端までボイジャーが飛ぶには、一万8000千年の457億倍かかる。
 片手に鉱石ラジオをもち、片手に自作の望遠鏡をもっていた私は、科学はスゴイなあと思っていた。鉱石ラジオは蚊の鳴くような音をかなで、夜空を見上げれば、457億光年が広がっていたのである。

ゴジラの登場

 ところがそこに、ゴジラが登場する。
 人間の作った都市と、人間が使う科学を破壊する。口から火炎のような白熱光・放射線を発するのである。スプートニクとかアメリカのへなちょこ人工衛星など問題ではない。人間の文化を破壊する怪物である。
 もっとも最初のゴジラ映画は、スプートニク(1957年)以前の1954年に始まっている。1955年に第二作の「ゴジラの逆襲」、七年後の1962年に、三作目「キングコング対ゴジラ」で日米対決となる。科学万能の科学少年は、科学に立ち向かうゴジラに唖然としたが、バンザイ、ゴジラも頑張れであった。
 ゴジラ映画の直接の引き金は、第五福竜丸事件であった。1954年のアメリカのビキニ諸島での核実験のときに、アメリカの指定した危険水域の外にいたにもかかわらず、第五福竜丸は放射性降下物「死の灰」を浴びて半年後に無線長だった久保山愛吉が死亡、大事件となった。
 ゴジラはジュラ紀(一億五千万年ほど前)の生き物であったが、海底洞窟で生きていたのである。アメリカの核実験で洞窟が破壊され、放射能で性格も変化して獰猛になり、口より白熱光=放射熱線を発するようになった。この怪物が東京にやってくる。破壊につぐ破壊である。1954年のゴジラ攻撃は、アメリカ軍による東京・大阪への民家への無差別爆撃、長崎・広島へ核攻撃の九年後の出来事だ、都市の破壊のシーンは、当然おおくの人びとに戦争による被害を思い出させたであろう。
 しかし今回は、それに対して科学で対応する。水中の生物をすべて破壊する化学物質を発明した科学者が、それを使ってゴジラを殺す。同時にその科学者は、発明に関するすべの資料を破棄して、それを発明した自分自身をも殺して、地上からその化学物質の危険性を消し去る。
 ゴジラは、科学によって殺されるのだが、同時にこの映画は、科学というものがどれほど危険であるかも伝えようとする。何十年ぶりにインターネットで、オリジナルの「ゴジラ」を見たがよくできている。感心した。

 いまはコロナの時代である。ところがコロナは、まだ科学でコントロールできないらしい。
 ワクチンもなく、治療法も確立されていない。
 でもコロナが、科学によってコントロールされる時期はやってくる。
 ゴジラは科学(核実験)に怒って立ち上がったが、科学によって殺されてしまった。コロナも科学によって殺されるだろうが、だけどゴジラもコロナも、また必ずやってくる。
 二作目の映画「ゴジラの逆襲」(1955年)があるので、すぐ見ないといけない。昔の科学少年は、いまだに科学少年(科学老年)でもあるが、ゴジラに共感をよせる科学批判老年でもある。

新しい目覚め

笠井瑞丈

私には二人の兄がいます
長男は写真家
次男はオイリュトミスト
三男私はダンスをやってます

三人集まってお酒なんかを飲み交わす
よく喧嘩に発展することもありますが
そんなに悪い兄弟関係ではありません

次男とはエレキギターを弾くという共通の趣味もあり
そして家も近いとういうこともあり
二人でたまにジャムセッションをしたりもします

彼は日本の高校を卒表してから
ドイツのオイリュトミーシューレに行き
オイリュトミーを学んで日本に帰国しました
今は学校でオイリュトミーを教えています

そして彼の奥さんというのは私がダンスを始めた頃からの古い友人で
私は彼より先に奥さんとは知り合いでした
まさかその後結婚するとは当時思ってもいなかったので
人と人の出会いは不思議なものだ

彼の奥さんはもともとはダンスをしていて
自分のグループも持って活動していました
その後オイリュトミーの勉強も始め
今はダンスそしてオイリュトミー
二つの分野で活動をしています

そして私の奥さんもダンスをしています
そして彼女もオイリュトミーを学び
二つの分野で活動をしています

こんなに身近に舞台活動をしている人が
三人もいるとはこもまた不思議なものだ

そして父も舞台を生業としているので
父を含めると一家五人が舞台人です

父とは仕事をする事はありますが
兄夫婦とは今まで一度もありません

こんなに近くいるのに共に作品作りをした事は一度もありません

作品を作ろうと思うには
二つのきっかけがあります
一つは誰かに依頼されて作品を作り始める場合
一つは自発的に自分から作品を作ろうと決意する場合です

どちらの場合も嬉しい事です

でも

二つの性質には違いがあります
外から始まりを作ること
中から始まりを作ろこと

私は何か新しいダンス作品を自発的に作ろうと思うきっかけは
街でばったり昔の友人に会った時に得る感覚と同じようなもので
この感覚が生まれた時に新しい作品を作ろうと決意します

この感覚はとても私は好きです
この時にダンスをする喜びを感じます
何かが頭の中で泡のように膨らんでいき
作品を作ろうと思う瞬間に出会うのです

これは長い眠りから覚めるのと同じで
時に数年眠り続けることもあります

新しい目覚め

2020年7月31日金曜日
2020年8月7日金曜日

『世界の終わりに四つ矢を放つ』
神楽坂セッションハウス
構成 演出/笠井瑞丈
出演 振付/笠井瑞丈 笠井禮示 上村なおか 浅見裕子 笠井叡

新しい作品を発表します

どうぞよろしくお願いします

187 汚職

藤井貞和

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰ってきません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたはこころに従いました。

むずかしい時代になると、
けがれた手で書いて、
もっとだめにしました。

汚れた言葉を遠慮せよ、
だれもが父に言いました。

怒りで汚れたこころを、
ぼくはうたいますか。


(おとうさん、50年が経ちましたね。だめなぼくは50年、自粛に明け暮れてきました。)

オンライン授業

植松眞人

 非常勤講師をしている大学のオンライン授業を担当することになった。新型インフルエンザが世界中で大流行してから一年がたった。
 すでに世界はそんな感染症の流行などすっかり忘れいてるけれど、いまだに世界地図の片隅にある名前も知らない国で、急に集団感染があったり、国内でもふいに有名人の感染が報道されたりする。ただ、すでにワクチンが開発されているので、以前のようにテレビの報道も恐怖心を煽るようなことはなく、淡々としたものにとどまっている。
 パンデミックと言われる大流行は、世界中の経済活動を停止させて、私たちの生活を一変させた。本来なら、そのままじっと息をひそめて感染症が感染する先をなくしてしまうのが賢明なのだろうと思うけれど、世界中の首脳陣はその道を選ばず、感染症を抱えながらも経済活動を再開する道を選んだ。お金こそがこの世界の血液なのだということをみんなが再確認し、お金の前には誰もが黙り込んで通勤電車に乗り込むしかなかったのだ。
 しかし、自宅で仕事をすることが実は可能なのだと知ってしまった人たちは、朝の通勤電車に無自覚に乗っているわけではなかった。虎視眈々と会社組織に属しながらも、テレワークを再開するための根回しを始めていた。
 私が働く大学というところは、パンデミックの間、オンライン授業という新しい道を見つけることで、学生からの授業料返還要求を最低限に抑えることができた。オンラインだけれど授業はちゃんとやっている、という事実には学生も世間も、学校も被害者なのに頑張ってくれている、ということが伝わったのだった。
 同時にオンラインなら学校の施設をほとんど使わずに、学校のブランドだけで新しい商売を始められるのだということに気がついたのだった。いま、私が担当しているオンライン授業はいわゆる大学生のためのものではなく、社会人に向けた一般教養の講座だった。これまで「社会人のための大学講座」として開講していたものをパンデミック時に整えたオンライン授業のインフラで行おうという商売だ。今回のウイルスは高齢者にこそ感染しやすいらしいという情報もあり、高齢者をあまり外に出したくない、という家族にもアピールしたらしくどの講座もすぐに満員になってしまうらしい。私が担当する講座は「メディアと社会」という不要不急を絵に描いたような講座なのだが、それでも半期の一度の募集はすぐに二十人の定員一杯になり、半年間脱落者がほとんどいないらしい。
 この講座も元々は大学の一室で直接対面で行っていた講座だが、その時よりも人気が出て、そのおかげで私の首もギリギリで繋がっていると言ってもいいだろう。オンライン授業はやりにくいとか、文句を言っている場合ではないのである。むしろ、ありがたい。そして、回数を重ねていると、だんだんオンラインでのやり取りも面白くなって来たのである。
 オンライン授業の面白さは、一人一人の受講者との距離がほぼ同じだということかもしれない。距離的にも参加者が小さな格子状のマス目の画面の中に一人ずつ並び、誰かが発言するとその画面が大きく表示される。声が小さいから印象に残らない、ということもない。表情でアピールされなくても、キーボードのボタンを押すとその人に発言権がいく。そんな今までにない感覚が面白い。そう思い始めると、私はオンライン授業にはもっとたくさんの可能性があるのではないかと思い始めた。
 ある日、受講生の一人が映っている一マスが大きく揺れた。大丈夫ですか、と声をかけるとそこに映っていた年配の女性が、スマホが倒れたんです、と答えた。最近、パソコンを持っていなくてスマホで参加している受講者が多いとは聞いていたので、なるほど、と私は言って淡々と授業を進めた。しかし、ふと思ったのだ。メディアと社会などという講座をやっているのなら、例えば、それぞれの受講者が発信してくるような内容も面白いかも知れない、と。そう思うといても立ってもいられなくなり、私は先ほど画面を大きくゆらした女性に、オンライン上から呼びかけた。
「いま、家の中ですか?」
 私がそう聞くと、女性は少し驚いた様子だったが、
「はい、そうです」と答えた。
「ちなみに、あなたのスマホもメディアのひとつですね」
「どういうことでしょう」
「いま、あなたはこちらからの情報を受け取っているのだと思いますが、私からするとあなたの映像という情報を発信されているわけですから」
「なるほど」
 女性がそう答えて笑うと、その周囲のマス目の中からも一斉に受講生たちが笑いかけてきた。
「例えば、あなたの部屋から見える窓の外の景色を見せてもらえますか」
 私が言うと、女性は少しだけ手間取ったあと、窓の外を映した。青い空が見えた。私がいる大学の部屋にも小さな窓があり、青い空が見えていた。ああ、空は繋がっているのだなあと思った。すると、他の何人かの受講生も窓の外の空を映し始めた。パソコンのカメラを空に向けたり、なかにはパソコンからスマホに切り換えてわざわざ空を映す人もいた。受講生は二十人程度なのだが、そのうち、私のデスクトップのパソコンにある二十のマス目に様々な色の空の映像が並んだ。
「ああ、メディアと社会ですね」
 私はそうつぶやいていた。
 そうつぶやいてから、こんな叙情的なものに流されていてはいけないと気持ちを引き締めてみようとしたのだが、その弾みに私は涙を流していた。一人だけ、デスクトップのモニターのなかに顔を映していた私が泣いていた。青空に囲まれながら泣いている私はとても美しかった。(了)

楽園

越川道夫

「いや、世界は残る。…失われるのは、ぼくらのほうだ」
           エドワード・アビー『砂の楽園』
 
家と仕事場を往復して引き籠る生活をつづけている。決まった道を通り、決まった道を帰ってくる。誰が決めたわけでもないのに。このような日々の前は、少しはいつもと違う道を通って、とか、少し遠回りをして、とか考えたはずなのに、それをするのもすっかり億劫になっている自分に気付く。それでもと自分を励ましながら遠回りをしてみれば、塀のわずかな隙間という隙間からドクダミが顔を出し、花の咲く頃は壮観だった古い家は跡形もなく取り壊されて、そこは更地になっている。あんなに茂っていたドクダミもすっかり抜かれ、庭木も根こそぎ倒され、家であったはずの瓦礫の間に横たわっている。テニスコート脇の路肩の土が剥き出しになったところにアザミが覆い茂っていて、それを見るのを毎年楽しみにしていたのだが、そこも何の工事が始まるのかすっかり白い塀で囲われ踏み荒らされてしまった。街路樹はばっさり切られ、どういうわけか切り口がコンクリートで固められている。川岸の草むらを、草刈機が唸り声をあげて刈り払っていく。
 
なんだか痛々しい気持ちになってしまった。
ある時、借家の小さな庭をひと夏伸ばし放題に伸ばしたことがあった。植えたものも自然に生えてくるものも。ヘクソカズラやヤブカラシ、ゴーヤと言った蔓の類は庭木を覆い尽くし、その下で隠花植物たちが繁茂した。蝶がその上を飛び、ヤモリやヒキガエル、ニホンカナヘビが徘徊する。そんな庭の姿は、なんというか「楽園」だった。そうとしか言いようがない。
 
卒業した中学校の昇降口の脇に大銀杏があった。「あった」と書いたのだから、今はもう「ない」。その大銀杏は、太平洋戦争の前、その場所に高等女学校があった時からあった、と祖母に聞いた。祖母はその女学校に通っていた。校舎は焼けたが、樹は戦災を奇跡的に免れ、女学校だった場所に新制中学校ができても、樹はそこにあった。父や叔父叔母もその樹のある学校に通った。わたしがその中学校に通った頃は、大銀杏は昇降口の脇にあり、生徒はその樹に迎えられるようにして通学した。校舎は、どう考えても樹を避けるようにして建てられていた。大銀杏はその校舎に通う子供たちを見守るようだった。それからずいぶん時が経ち、近年、その中学校が小中一貫校になることになって全面的に校舎が建て替えることになった。しかし、もう人々が樹を避けることはなかったのだ。大銀杏は伐られ校舎は建てられた。
 
2015年に奄美で映画の撮影をしていた。9月の奄美は、本土では聞くことができない、キュアンキュアンというようなオオシマゼミの声で溢れかえっていた。奄美に育った島尾伸三さんが、幼い頃夏に外で友達と話していて、蝉の声があまりに大きくて友達の声が聞こえなくなることがありましたよ、と話してくれた。その蝉の声をマヤ(島尾さんの妹)はとても怖がっていました、とも。
そんなオオシマゼミの声の中で、私たちは撮影した。ラブシーンの撮影の最中、奄美の固有種のカエルが鳴いた。なんというか、ゲロゲロではなく、ブヒッというような声で。甘いラブシーンの中で突然響くその声は笑ってしまうような、ラブシーンの興を削ぐような声だったけれど、わたしたちはその声をそのままにした。やはり夜の撮影でカメラのレンズを一瞬、照明に寄ってきた巨大な蛾が覆ってしまった。さすがにNGになったのだが、そのことに南の島で育った老優は激しく怒った。これが島だ。本土で撮ってるんじゃないんだ。なぜ今のがNGなんだ。
音の仕上げをするダビングルームでも、わたしは何度か声を荒げた。なぜドラマの都合で、人間の勝手な都合でカエルや蝉を鳴かせたり、その声を消したりするのか、と。蝉は蝉の都合で鳴く。カエルはカエルの都合で鳴く。あの島で、何を聴いてきたのか。映画の撮影中、ヒロインが夜の縁側で島の唄を歌い始めると、森の闇の奥でコノハズクが鳴き始めた。一頻り歌い、鳥は鳴き続け、歌い終わるとコノハズクも鳴き止んだ。バラバラに有るものが一瞬唱和した、そんな瞬間もあったのだ。
 
夜、雑木林の横を通って仕事場から帰る。
その雑木林を抜けたところには縄文時代の遺跡があって、この雑木林がその時代ずっと続く林だということが分かる。夜になると樹樹は一層鬱蒼として見える。風もないのに波打ち、ざわめいて私語をしている。
彼らは彼らとして、そこに在る、と思った。
枝と枝の闇からコサギがこちらを見つめている。

音楽の気象と感染力

高橋悠治

コロナ・ウィルスの見えないはたらきのなかで 音楽のかたちが変わていくだろうか オーケストラやオペラのような多くの人の集まりは 疫病のときにはできないといって オンライン会議システム ZOOM でバラバラの空間とずれた時間をあわせて コンサートの代用にするというレベルではない もっと大きな変化が起こるのか 

世界にひろがる感染症のあと 今のような社会がそのままで 以前の姿にもどるのか そうでなければ ファシズムや 相互監視の息苦しい社会になるのか その兆しはじゅうぶん見えているが 方向はそれひとつではないだろう 混乱がつづくにしても いまの社会はいずれは崩壊して 予想をこえたかたちが現れてくるのだろうか

音楽を見えないはたらきと言ってしまえば これもウィルスのように感染力をもっている 楽譜や演奏の動画はその仮の現れで うごき 変化する振動は そのたびにかたちを変え はたらきも変わる

音のうごきを組織するのが いままでの演奏論であり 作曲論だった うごこうとする意志が 動きを作り その瞬間 音がはじまる その動きを制御している時間が音の長さになり リズムは数えられ 音符として見えるかたちで組み合わされるが 音符は音のはじまる瞬間と持続を管理する手段で 楽譜を通して 作曲し演奏する能力がある人間が 音楽を使うことができる そこに社会的な意味が生まれるなら その意味は いまの社会を管理しているエリートの意志にしたがっているとも言えるだろう

鳥が鳴き声で自分の領域を主張するように 人間の音楽も意識しないでも 社会を支配する者たちの意志を伝えてしまう 

と書いていれば 書いたことばが論理を組み立てて かってにうごいていくだろう ことばを意味や論理の支配から自由にすることは 無意味な音や文字の組み合わせにもどさなくても できるかもしれない 世界を映すだけでなく まだない世界を夢みる 意識にしばられない組み合わせが 浮かんでくるかもしれない

音楽でも 20世紀の実験とはちがう さまざまなかたち というか まだかたちにならない断片を とぎれとぎれに 撒き散らしておくほうが いいのかもしれない

ティム・インゴルドの区別を借りれば 音をつらねる線の物語から 響きという痕跡へ 意志をもった発音から 耳元に囁きかける 途切れがちの記憶の表面 その気象学へ