2020年9月1日(火)

水牛だより

8月の猛暑はいずこに消えたのか。東京は30℃に届かないままに一日が終わりそうな9月のはじめの日です。沖縄や九州では台風が吹き荒れているようですし、このまますんなりと涼しくなってくれるはずはないと思いつつも、秋を感じ、マスクの苦行からもひととき解放されました。

「水牛のように」を2020年9月1日号に更新しました。
猛暑のときにもみな秋の気配を感じとっているのでした! 繊細というよりは頼もしい感じがします。

先月お知らせしたサントリーサマーフェスティバルのオーケストラスペースをききました。7曲のうち、5曲は世界初演、1曲は50年も前の作品で知らない曲です。1曲はきいたことがあるはずなのですが、いざきいてみると、こんな曲だったっけ、という感じで、知らないも同然。はじめてきく曲は、曲について考えたりするよりも、生成される音を全身でただ浴びるのが楽しいと思います。オーケストラのほかに、ソロ楽器としてマリンバやガムラン、三絃まであり、コロナの影響か、楽器がいつもより距離をとって並んでいるので、音も広がってきこえました。
そういう感じも、そのときその場にいたからこそ。耳でなく体で感じる音でした。
会場では一つおきの席にすわることになっていて、それはそれで快適でしたが、この先どうなるのかな。演奏が終わり、会場を出るときには退席の順番がアナウンスされ、ロビーでは「会話はお控えください」と言われ、暑い外に追い出されてからも、旧知の人たちとしばし歓談。なんとなく別れがたかったのは、困難なときだからこそかもしれません。

今月もお知らせを。
●『騎士の掟』イーサン・ホーク 大久保ゆう訳 Pan Rolling 2020
https://www.panrolling.com/books/ph/ph108.html
水牛での大久保ゆうさんの連載を覚えておられますか? 青空文庫を受け継ぎ、翻訳者としても活躍しています。テキストは本の本質ですが、こんなふうに美しく物質化(?)されることで、より親密になりますね。

●『優しい暴力の時代』チョン・イヒョン 斎藤真理子訳 河出書房新社 2020
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309208046/
「編み狂う」が待たれる斎藤真理子さんですが、次々と出る翻訳や連載などを見ると、編む領域にはなかなか戻ってこられないようです。おそらく書きたいことは蓄積していることでしょう。待ちます。

それではまた。来月も更新できますように。(八巻美恵)

190 徳(というような詩題)

藤井貞和

孔子、あいするわれわれの論客に、
わきを通り過ぎゆく隠士が、
屍体の歌を投げつける。
「鳳(おおとり)さん、鳳よ、
おまえの徳はどうしてだめになったの?
過ぎ去ったことを言うのは、よしな。
これからどうするか、考えてみな。
おやめ、おやめ、政(まつりごと)に手を出すのは。
あぶない、あぶない、天(あま)の橋だ」。
歌いながら暮れる天下に、
佇ちつくした魯の人もまた屍体となるか。


〔田を鋤いていた桀溺に、子路が尋ねる、「渡し場はどこでしょうか」。「あんたはだれかね」と桀溺。「仲由という者です」「ああ、魯の孔丘のご一家かな。およし、およし、ひたひたと洪水が押し寄せるように、天下は一面にこんなになってしまった。あんたは人を避ける先生につくより、世を避ける先生についてみたらどうかね」。子路はもどって、われわれの論客に報告する。孔子は言う、「おれが鳥獣のなかまに、なれるわけ、ないだろ。にんげんのなかまからはずれて、だれといっしょに暮らすのだ」と。桀溺は隠士の仮の名、「溺」には排泄物という意味があるんだって。『論語』微子篇より。〕

移ろい、たどり着く

璃葉

蒸し暑い雨の季節から猛暑の季節へ移り変わり、それもまた終わろうとしている。
昼間の蝉の声は夜になると嘘のように静まり、代わりに鈴虫やこおろぎが鳴いていて、部屋に響いてくる音がやさしい。涼しくなった夜に遊歩道を歩けば、漂うように吹く風はもはや秋の匂いだった。こうして少しずつ暑さが収まっていって、次の季節がちらりと顔を見せるときの空気が好きだ。相変わらずの引きこもり生活なので貴重なものとして、マスクをはずし、その空気を存分に吸い込む。

昼時のがらんとした電車を乗り継いで、ちがう街へと向かう。最近は一車両のどこかの窓が必ず開いていて嬉しい。外からの風が冷房の風とちょうどよく混ざり合って、通り抜けていく。

久しぶりに遊びに行った友人の家で、何をするでもなく、噂話や美味しい飲み屋、酒のことで会話が弾んだ。
言葉遊びになったり、あまりの適当さによって、あさっての方向に会話が進んだり、コーヒーやお茶を飲んだり、彼女が仕事でPCに向かっているうちに自分はソファでうたた寝しては、目が覚めた瞬間また話しはじめたり。

綻んだ時間のなか、とてつもなく軽くてどうでもいい話から流れ流れて、ZINEを一緒につくろうか、という話になった。
どんな内容にしようか、こんな体裁はどうか、と次々浮かぶ案を、話しながら、時にはげらげら笑いながら遊び半分にノートに書き留める。彼女は文章、私は絵を担当することになった。デザインはもう一人のともだちがよろこんで協力してくれるという。

話に夢中になっているうちに、明澄な空が少しずつ陰って、紫がかった夕空は夜へ移っていった。
追うように青暗くなっていく部屋の中で、遊びの創作についていつまででも話していられる気がした。たどって、着地するところを想像しながら。

仙台ネイティブのつぶやき(56)カブ菜の長い旅

西大立目祥子

 宮城県県北、秋田と山形の県境の集落、鬼首(おにこうべ)地区に、この集落だけでしか栽培していない「鬼首菜」という菜っ葉があることは、2019年1月号に「峠を越えてきた青菜」として書いた。
 この野菜は夏に種蒔きをし、冬越しさせて、翌年の初夏に刈り取って種を取る。昨年の6月には、私も腰高ほどに伸びた草の刈り取りに行った。その種を蒔き、育て、採種して、いま畑には新たな季節がめぐってきている。お盆過ぎに種蒔きした畑には、小さな緑色の双葉が芽吹いているはずだ
 この間、新たな出会いがあっていろいろ教えられることが多かった。

 一番の収穫は昨年11月に、山形大学農学部の江頭宏昌先生が学生さんを伴って、鬼首菜の畑を見に来てくださったこと。先生は、他県にくらべると群を抜いて在来作物の多い山形県で「山形在来作物研究会」の会長をなさっている。農家とレストランをつないで食べてもらう機会を増やしたり、在来作物に関心を持つ人たちのネットワークをつくったり、15年以上にわたってさまざまな活動を行ってこられた。「在来作物」という名称がこれだけ一般的になったのも先生の功績が大きいと思う。

 長年、鬼首菜をつくり続けてきた高橋一幸さんの畑を見てもらう。11月末の畑には大きく育った鬼首菜が葉を広げていた。高橋さんが、抜いてみましょうか、と手をかけ引き抜くと、大人のげんこつより一回りほど大きな白いカブがあらわれた。もう一つ、といって抜くとそちらは紫色がかったほっそりしたカブである。
 不思議なことに、鬼首菜には紫色と緑色の葉が入り混じる。緑色のはカブが白く、紫色のはカブがピンクがかっている。もしや、他の何かと交雑したからではないだろうか、と前から気になっていた。江頭先生に恐る恐るたずねると、答えは明快だった。

「1つの品種に多様性があるのが在来作物なんです。集団内に多様性があるから、元気でいられる。紫色の株、緑色の株、どちらかに統一すると近交弱勢が起きて、特に鬼首菜のようなアブラナ科の作物は弱ってしまうんですよ」。
 近交弱勢とは、遺伝子の近いもの同士が交配して環境適応力のない個体が増えていくことをいう。バラバラな色の葉を広げながら、鬼首菜は厳寒の冬も、日照りの夏も乗り越えてきたということなのか。野生種に近い作物にとって、多様性は種が生き延びていくために必要不可欠なものなのだろう。
 この話は、そのまま私たちの社会のあり方にも当てはまりそうだなぁと感じながら聞いた。さまざまな考え、さまざまな人種‥そうした均質的でない社会の方が、同質的な社会よりずっと変化への対応力に優れ、暮らしやすいだろうから。
 秋が深まっていくと、葉の緑色は、赤紫、緑と紫がまじったような茶色、深い緑色、白味がかった緑色‥と、描くとしたら絵の具の選択に困るほどの豊かな色彩に染まっていく。そんな色味あふれる畑に立つと、なぜか気持ちが安らいでくるから不思議だ。

 寒くなると鬼首菜は色味だけではなく、辛味も増していく。この喉の奥から鼻に抜けるような辛味が漬物に重宝されて、栽培する人たちが絶えなかったのかもしれない。
何人かを訪ねて、鬼首菜の話を聞き歩いた。
 毎年欠かさず栽培し種取りを続けてきた高橋五十子さんは、今年90歳。「嫁にきた頃はおつかいに行かされる先々で、手にいっぱい漬物盛られて、もうここらあたりが辛くなってねえ」と胸元をさすりながら笑っている。
 「母も家族分の漬物用に栽培してましたよ」というのだから、100年以上にわたってこの地で守られてきたのは間違いない。

 つまり戦前まではかなりの家が栽培していたと思われのだけれど、これが戦後生まれになると違った様相を呈してくる。栽培したことがないという人たちが増えてくるのだ。ある人は、「鬼首に電気が通ったのは昭和34年。冷蔵庫が入ってきて、冬に備えて大きな樽に漬物を漬ける必要がなくなったからじゃないか」と分析する。
 とはいえ、そこは一様ではなく、戦後生まれの人でもいまなお、栽培を続ける人たちがいるのも確かなのだ。ある家は栽培し、ある家は栽培しなくなる。この差はどこから生まれるのだろう。

 話を聞いて気づかされたのは、栽培を担っていたのが女性たちだということである。
家族の食事を切り回す主婦が、その必要から畑の片隅に鬼首菜の種を蒔き、収穫し、漬物に加工し、種取りも行ってきたのだ。栽培と調理が一体となった営為。そこには効率だとか栽培技術だとか、今日、農業に求められるものは入り込んではこない。
 自分が食べたいから、家族に食べさせたいから、冬場の食をつなぐために、少しの手間をかけ、種を蒔き続けたのだろう。高橋五十子さんに、どうして栽培を続けてきたんですか?とたずねると、「食べたいから」「うまいから」と答えが返ってきた。
 「大樽に漬けて、春先にね、樽の底に残った漬物をどぶろくと煮ると、これもまたおいしいんだよ」と話してくれたのは高橋やえのさんだ。孫が漬物を食べてくれないとぼやきながらも、早々と春には旦那さんと作付け場所の相談をしていた。今年も8月の終わりには、2人とも無事、種蒔きをすませたはずだ。

 一株ごとに育ち具合も、葉の色もカブの大きさもてんでバラバラ…在来野菜は、かえって優れた農家にとまどいを与えるものらしい。種苗会社の売り出す種から育つ作物は、うまく育てれば育てるほど均一化する。たとえば「60日型の大根」の種を蒔けば、60日で大根が収穫できるほどに栽培種は規格化されていて、同じ丈に背を伸ばし、同じ色の葉を広げ、ほぼ同じ大きさの実がなって、命は一代で尽きていく。
 そうした種に慣れていると、在来作物の鬼首菜は一体どこが成長のピークかもわからないらしい。きちんと整った均質化した姿を、知らず知らずのうちに求めているからなのだろう。
 それに対して、長く栽培してきた人はこういい切るのだ。「難しいものではないですと。種を蒔けば育つんだから」と。このことばには、100年以上にも渡って続けられてきた、人と在来作物のかかわりあいの基本があるような気がする。

 江頭先生におもしろいことばを一つ教わった。「野良生え」。山道などを歩くと道ばたに種がこぼれて育ったカブ菜を見ることがあり、それをこう呼ぶのだそうだ。野良猫みたいに、人の手から離れたところでたくましく命をつなぐ作物の姿が見えるようだ。
 先生によれば、鬼首菜は間違いなく「カブ菜」であるらしい。葉の部分にばかり注目していた私にとって、これは目からウロコだった。カブ菜は地中海で生まれ、ユーラシア大陸を人の移動とともに旅して日本に渡ってきた。改良がなされ、日本でたくさんの品種が生まれ、鬼首菜は山形から入って、この山間地にある集落に定着したものと思われる。その長い長い旅を思うと、やはり細々とではあっても、種を絶やしてはならないという思いが深くなる。

アジアのごはん(104)京の味「にしんなす」

森下ヒバリ

35℃を超える日がこうも続くと、さすがに参ってくる。暑すぎて散歩にも行けない。困ったもんだな〜と思っていたら高知の友人が畑の野菜を送って来てくれた。ピーマン、ししとう、ゴーヤ、かぼちゃ、つるむらさきの花、そしてなす。

8月初旬に、久しぶりに仕事で北海道にでかけた相方が、おみやげに鰊の甘煮を買って来た。旅行キャンペーンでもらったクーポンが余ったので札幌駅で買ったらしい。
「お、小樽のにしん・・?」ラベルを見るとアメリカ産・・なるほどアラスカ産のにしんを北海道で加工したものである。

京都人はにしんを甘辛く煮つけたものが大好きで、スーパーでもふつうにパック入りのにしんの甘煮(こちらも、アメリカ産で富山加工)を売っており、便利なのだが、たいがい死ぬほど甘い味付けである。京都人の相方は「そお?」とまんざらでない様子だが。なんせ、相方の育った家の煮物は、お菓子かと思うぐらい甘い。甘いおかずの苦手なヒバリは一口も食べられません。

京都のおばんざい(惣菜)屋の煮物もかなり甘いのが多いので、惣菜は気安く買えないのがかなしい。コロナ禍で家で作って食べることがほとんどになり、少しは手抜きもしたいというのに。出し巻は甘くないのにねえ。

小樽の・・じゃなかった北海道加工アラスカ産にしんの甘煮は、味を見てみると京都で売っている甘煮よりはずっと甘さ控えめではあった。よしよし、と水に昆布を入れて出しを取り醤油で味付けしてなすと一緒に煮直すとおいしく食べられた。ちなみに京都のスーパーで売っているパック入りのものは薄めて煮直しても甘すぎて困る。

送られてきたつやつやした紫色のなすを見ていると、また「にしんなす」を食べたくなってきた。夕方になって少し暑さが和らいだころに、少し遠いスーパーマーケットに買い物に行く。そのスーパーには常時ソフトにしんが置いてあるのだ。アメリカ産のものしかないが、まあいいだろう。

日本では、江戸時代は富山湾や秋田で、明治末から昭和20年代ごろまでは小樽から稚内までの北海道沿岸で大量のにしんが獲れていた。当時の小樽にはにしん網元の「鰊御殿」と呼ばれる豪邸が立ち並んだという。しかし、海水温の上昇と乱獲により、にしんの水揚げは激減し、漁場はもっと北のカムチャッカ半島やアラスカ沿岸に移って行ったのである。日本ではロシア産やアメリカ・アラスカ産が輸入されて製品化されることになる。ああ、さんまもこの道を歩むのだろうか。

にしんは脂が多く痛みやすいので、干物にして流通されることが多かった。天日でからからになるまで干したものを身欠きにしんといい、これは戻すのに2日はかかり、さらに三時間ぐらいは炊かないとやわらかくならない。最近は生干し程度の水分量のものが、ソフトにしんとして売られていて、戻す手間がなくすぐ煮えるので、大変便利。

海の遠い京都では、古くから北前船で運ばれてきた身欠きにしんを使って甘辛く炊いたにしんが食べられてきた。京都の有名な名物料理に「にしんそば」というものがあるが、おそらく修学旅行生が食べてがっかりする京都の味ナンバーワンではないかと思われる。

そばの上ににしんの甘煮がど〜んと乗った、にしんそばをヒバリも京都の学生時代に食べてみたことがある。「う〜ん・・」なぜ、やたらに甘い煮魚をそばにのせて食べなくてはならないのか。理解できず、その後食べることはなかったが、これはまあ、ある程度大人にならないと分からない味なのか・・も。いや、やっぱり甘すぎただけか。

それ以来、にしんの煮物とは距離を置いていたのであるが、ふたたび京都に暮らすようになって、にしんとなすを炊き合わせた「にしんなす」を京都人の相方が食べたいという。仕方なく作ってみると、意外においしいではないか。いまではヒバリもすっかりお気に入りである。自分で作ると好みの甘さ、しょっぱさに出来るのがいい。そして、にしんは、そばに乗せるよりもなすと炊き合わせるのが一番おいしいと思う。

京都のおばんざい「にしんなす」は、ソフトにしんを使えば簡単に作れる。ソフトにしんは食べやすい大きさに切り、熱湯を回しかけておく。昆布でだしを取り、醤油とみりんでやや濃いめに味付けしただし汁ににしんとなすを入れて10〜15分煮る。なすは半分に切って斜めに包丁で細かく切り込みを入れて、さらにもう半分に切っておくと味がよくしみて見た目も美しい。生姜の薄切り、山椒のみりん漬や醤油漬けなどを好みで入れるとよい。うちは両方入れます。

一晩冷蔵庫で寝かせると味がしみておいしい。微かなにしん独特のくさみと、なすの香りが合わさって、なんともいえない鄙びた味わい。お酒のつまみにもご飯のお供にもいい。・・なんだか夏の終わりの匂いがする。

北ヨーロッパでは、大西洋や北極海に住むアトランティック・へリングというにしんをよく食べる。もっぱら酢漬けにしたり、スモークにしたり、塩漬けで軽く発酵させたりして食べるという。こちらも酒のつまみに大変よろしそうである。

生のにしんが手に入る北海道などでは切り込み、といって切り身に塩をして麹で漬けるものなどがあるようだが、まだ食べたことはない。にしんの世界は思ったより広そうだ。そろそろ「にしんなす」以外のにしん料理も試してみようかな。

京都のど真ん中で生まれ育った相方に、「にしんなす」以外のにしん料理って京都で何かある? と尋ねたらしばらく考えて、「にしんなすしか食べたことない・・」とのお答え。伝統というか、保守というか、頑なというか・・まあ、おいしいからいいケドね。

社会主義に奪われた暮らし

イリナ・グリゴレ

私が育てられた村は森のすぐそばだった。家の庭から見る森は遠くにいる強大な生き物のようで安心を与えてくれた。森は誰でも入るところではなかった。森をよく知っている人しか入っていけない。それはジプシーたちであった。彼らは森の恵みについてよく知っていて、いつも祖父母の家に新鮮なキノコを届けに来ていた。ハーブも。でも子供の私たちは、森に入ったら帰ってこられないよ、と教えられていた。森の入り口まで遊びにきても、それ以上絶対に奥には入らない。森の入り口を知っていても出口は限られた人しか知らないのだ。そのぐらい神聖で、尊敬すべき場所だった。
 
祖父母の墓は森の入り口にある。村の墓場は森の入り口に近い。森は「あの世」のイメージなのだ。そして祖父は森を良く知っていた。亡くなる前、何年間も自分で組み立てた自転車を引っ張って、森に入って枯れた枝を拾い、薪にしていた。祖父母の暮らしはロストワードのように感じるが、今で言いえばエコな生活が祖父母のリアリティだったのだ。家のタオルとカーペット、寝巻きも自然の素材で作る。自分で食べるものも自分で作る。自分の家で育てた麦とトウモロコシ、野菜、家畜、ワイン、果物酒も作っていた。秋から冬に向けての準備はすごかった。ピクルスや冬に備えたトマトソース、豆類などのストックが地下室に大事にしまってあった。漬けておいたキャベツでクリスマスにはロールキャベツを作った。簡単ではないが、祖父母の作る姿をみていたから私もやろうと思えば彼女が作っていた料理は不思議となんでもできる。

祖父母を感じたいときには、パンやピクルス、ぶどうの葉っぱに包んだひき肉など、子供の時に食べていたものを作り始める。自分の身体は祖母と同じ動きをすることによって同じようなものを作れる。レシピというより、彼女の身体の動きを覚えているのだ。それは彼女を蘇らせる方法だと分かった。子供の頃に見た動きを繰り返すだけで、亡くなった彼女が生きていると感じる。そして、子供の時と同じ感覚が続く気がする。人間の身体の動きと行いは、昔はすべて儀礼の所作のように型を持っていたのだ。

娘を寝かしつける時、私の子供の時の話をした。娘はすごい話がいいと言うから、祖母とまだアスファルト舗装されてない村の道路にごろごろしていた乾いた牛と馬のうんちを拾ってきて、土でできた小屋の壁を直したと話すとびっくりした。この暮らしは懐かしい。牛と馬を身近なところで見ることができるし、果物と野菜は庭からとってその場で食べる。すべては新鮮でプラスチック製品はほとんどない時代だった。乾いた牛と馬のうんちを素手で集めることも違和感はなかった。お日様で乾いていたから、匂いもしなかった。糞は黄色い土と水を混ぜると、家を建てるセメントと同じぐらい強い材料になる。

時空間がおかしくなる時もある。例えば、祖父母の子供の時の思い出が私の思い出になっていることもある。祖父は若かった時、畑に使う馬車の馬を森に連れていき、草を食べさせたという話を良く聞かせてくれたが、私のなかでは私が森のなかに馬を連れていくイメージとしてそれがはっきりが見え、びっくりするほどリアルなのだ。森のなかにはたくさんの馬の群れが見える。馬は二頭しかいなかったのに。母に聞くと、村人たちは馬を森に連れていく習慣があった。それは新鮮な森の下草を食べさせるためだ。だから、森のあたりには馬がたくさんいたのだ。若い男性の仕事だったから週に何回も森で寝泊まりする。身体も馬と同じように、森の一部になるのだ。

馬は機械がなかった時代には大事な労働力だった。畑仕事は簡単なことではない。だが、私の小さかったころには、祖父はもう馬を持っていなかった。社会主義になった時、土地と馬が国にとられたからで、その代わりに祖父は労働者として、マッチ工場で働かされることとなった。朝早く他の村人とともに電車で街まで出て、午後になると電車で帰ってくる。工場で働いていた祖父がどんな作業をしていたのか教えてくれなかったが、親指の半分が工作機械に切り落とされてしまったことを、いつも私は気にしていた。工場と機械は、子供の私にとって祖父の指と身体を奪った悪いイメージの場所だった。

馬も土地も国のものになり、若い時の暮らしは社会主義にとられたが、祖父の心と自由はとられなかった。民謡に合わせて突然踊り出す祖父。そんないつもニコニコしていた優しい祖父が亡くなったのは、お正月のすぐあと。私が日本に来た年、1月4日の朝方だった。前の日に病院で会って話をたくさんした。元気だったが気管支炎のような症状があった。私はもっと勉強したいから日本へ留学するかもしれないと話すと彼はこういった。「あなたが勉強のために進むべき道はもう決まっているよ」。次の日に亡くなった。あまりにも突然すぎた。会いにいった前の日には写真も撮っていた。祖父は翌日死ぬ人間の顔はしていなかったが、頭の上に白い煙のような光のようなものが写っていた。なにがあっても最後まで明るい心の持ち主だったが、結局のところ、検査してみると心臓がダメージを受けていたようだった。

お葬式の時、冷たい手を触った。親指の半分がない彼の手はいまでも恋しい。家族のために家をゼロから立てた手だ。自然の中で生きて、町の病院で亡くなったが、自分で選んだ森の近くの墓で骨を休ませている。帰るたびにあの森で出会える。

私は今『惑星ソラリス』にいると感じる。祖父母が今は失われていた生活をしていたのは遠い地球だ。あの場所はドイツの大手スーパーに植民地化され、現在は昔からの習慣と文化を守る人などほとんどいないが、偶然、あの場で「私」と言う遺伝子の組み合わせができた。私はあの暮らしをすべて覚えている。見たから。カメラで記録したかった。あの暮らしは私が大人になるまでの短い間になくなってしまった。幸いなことに森はまだある。でも、いつまであるのかわからない。小さくなった気がする。枯れ枝を拾う人もういまはいないだろう。今は遠くに離れて思うことはたくさんあるが土地も家も、指の半分を取られても実際に誰にもとられないものがある。それは細胞に削られた生き方の傾向と自由さ。それで、いつも祖父はいつも微笑みながら森に入って薪を抱えて帰ってきた。大自然から学んだことだった。

プラムの季節がやってきた

福島亮

8月はじめの暑さはひどかったが、今はもうすっかり秋だ。マロニエの葉が茶色くなりはじめたら秋が来るよと教えてくれたのは、去年の夏家に呼んでくれたグザビエだった。今年は8月16日から2日間、コレーズ県にあるトラヴァサックという村に遊びにいった。廃屋を何年もかけて一人で修理し、すべて手作業で住める家にしたというジョルジュの家は、二階の客間が中東の真っ赤な布でさながら赤テントのようにしつらえられており、本人によるとそのテント構造のおかげで夜は快適な温度になるのだそうだが、はたして、赤テント効果かどうかはいざ知らず、ぐっすり寝ることができ、朝は近所の雄鶏の元気な鳴き声によって気持ちよく目覚めることができた。8月はじめ、20ユーロもしたわりに2パターンしか風速を調整できず、しかも使ううちに軋むような音をたてはじめた小型扇風機で寝ていたあのパリの寝室を思えば、こんな幸せなことはない。あっという間に終わったフランスの田舎滞在から戻ってみれば、どうだ、マロニエの葉が茶色く変わり、トゲトゲのついた実が鈴なりである。そして、なんと明け方は肌寒いくらいなのである。秋がきた。秋がきた。

フランスの秋。その素晴らしさを知ったのは、2年前、留学のためにやってきた時だった。持ってきた荷物の整理がひと段落した頃には8月の終わりになっていたのだが、その頃になると市場でもスーパーでも至るところにプラムが並ぶのである。真っ赤なもの、緑色のもの、黄色いもの、わけても一度食べてすっかりとりこになってしまったのが、山吹色に輝くミラベルという小粒のプラムである。大きさは直径2センチほど。水でさっと洗い、皮もむかずに口に放り込むと、その蜜のような深い甘さにびっくりした。ミラベル。なんて美しい響きの名前だろう。それは夏の終わりを告げ、秋のよろこびを教えてくれる果物である。今年もさっそくミラベルが売られはじめた。近所の市場では1キロ3ユーロほどで売っている。一人で買って食べるには200グラムもあれば十分だから、70円ほど払えばこの素敵な果物を心ゆくまで楽しめるのである。それにしても市場には様々なプラムが並んでいる。試しに、ミラベルの隣にあった黒いラグビーボール状のものも買った。こちらは生のプルーンである。

昔からプラムが好きだったが、子どもの頃親しんでいたのは、プラムよりも、むしろボタンキョウだった。ボタンキョウはスモモの一種らしいのだが、プラムよりも実がしまっていて、緑色の皮に朱色がさしている。熟すと紅玉のように真っ赤になるものもあった気がする。夏になるといつも、近所の人や親類がビニル袋いっぱいのボタンキョウを分けてくれた。もらったボタンキョウのうち、いくつかは仏壇に供え、線香のにおいがまだ鼻腔に残っているうちに、水で洗ったボタンキョウを大皿に山盛りにして、腹いっぱいになるまで食べたものである。群馬の田舎から東京に出てからはそのボタンキョウとも縁遠くなってしまった。とはいえ、プラムとの付き合いは切れていなかった。大学一年生の時、夏休みの数週間、北軽井沢の農園で住み込みのアルバイトをしたことがある。生で食べられるとうもろこしや野生種のブルーベリーなどに加え、そこでは何種類ものプラムを作っていた。その農園で初めて、ソルダムという大粒の真っ赤なプラムがあることを知った。朝、果樹園にいくと朝露に濡れたソルダムがゴロゴロ落ちている。木になったまま完熟し、自然に落ちたのである。落ちた衝撃でパックリ割れた実には、親指くらいの大きさのオオスズメバチがとまり、汁を吸っている。うまく草の上に落下した無傷の実を探し、かじりつく。薄い皮がはじけ、真っ赤な果実は口の中でとろけ、唇から溢れる。あの美味しさはなんともいえない。実が柔らかいソルダムは未熟な状態で収穫し、出荷するのだそうだ。出荷途中に追熟し、食べ頃になるという仕掛けである。だが、木になったまま完熟するのとそうでないのとではまったく美味しさが違うのだ。そういえば、あの軽井沢の農園にもプルーンの木はあった。でも収穫するには時期が早すぎて、食べることができなかった。ドライフルーツのプルーンしか知らなかった僕に、農園のおばさんは、生のプルーンはちゅるんとしていておいしいよ、と教えてくれた。ちゅるん? どんな舌触りなのだろう。沼袋の下宿に戻ると、八百屋やスーパーで生のプルーンを求めたが、ちゅるん、とはしていなかった。やはり追熟だからなのか。それとも食べるのが早かったのか。

あれからもう随分と時間がたってしまった。今、目の前にはミラベル、そして件のプルーンがある。ミラベルを口に放り込む。もちろん美味い。それからプルーン。ちゅるん、と薄皮から果肉が飛び出し、口の中でやわらかい果肉とかたい種が自然にほぐれる。農園のおばさんの「ちゅるん」である。それから心ゆくまで、ミラベルとプルーンを交互に楽しんだ。そして、ある計画に思いをはせる。せっかくプラムの季節になったのだ、今年はちょっとプラムで遊んでみよう。今度市場にいったら2キロほどミラベルを買い、ジャムや果実酒にする。このミラベルを塩漬けにして干せば、偽梅干しができるらしい。それも面白い。やってみよう。あれだけの甘さだ。きっと蜂蜜漬けの梅干しみたいに甘しょっぱくて素敵な保存食ができるに違いない。こんな計画だ。

この原稿を書きながら、次の市場の日が楽しみで仕方ない。そうそう、思い返せば、フランスにやってくる前、とある先生に「パリに行ったらダイエットに励むつもりです」とメールしたところ、「秋は美味しいものがたくさんあるので、絶対に無理でしょうね」と返事がきた。「絶対に」という学者らしからぬ断言が印象的だった。さて、実際のところどうなのか。それについては、これまでの文章をお読みくださった方々にはいうまでもないことだろう。

病むときは病む

北村周一

文豪谷崎潤一郎が、パニック障害に苦しんでいたことは、比較的よく知られた事実かと思われる。
ネットを検索すると、何人かの精神科医が、谷崎の書いた小説に触れながら、この神経不安の一症例について言及している。
谷崎は、20代の若いころからすでにパニック症を患っていたらしく、初期の短編には、みずからの体験がそっくりそのままに描かれてもいる。
たとえば、1912年(大正元年)出版の「悪魔」、つづいて1913年(大正2年)に新聞に掲載された、その名も「恐怖」。(谷崎は1886年の生まれ)
いずれも短い小説ではあるけれど、内容が内容だけに、真に迫るものがある。
青空文庫の助けを借りて、ちょっとだけ紹介したいと思う。

・・・汽車へ乗り込むや否や、ピーと汽笛が鳴って車輪ががたん、がたんと動き出すか出さないうちに、私の体中に瀰漫して居る血管の脈搏は、さながら強烈なアルコールの刺戟を受けた時の如く、一挙に脳天へ向って奔騰し始め、冷汗がだくだくと肌に湧いて、手足が悪寒に襲われたように顫えて来る。若し其の時に何等か応急の手あてを施さなければ、血が、体中の総ての血が、悉く頸から上の狭い堅い圓い部分―――脳髄へ充満して来て、無理に息を吹き込んだ風船玉のように、いつ何時頭蓋骨が破裂しないとも限らない。そうなっても、汽車は一向平気で、素晴らしい活力を以て、鉄路の上を真ッしぐらに走って行く。・・・(「恐怖」より/青空文庫)

ふうっ、何度読んでも息苦しくなるような、じつに恐ろしい光景である。
とはいっても、このやまいの経験のない人にとっては、汽車や電車のいったいどこがそんなに怖いのかと、ふしぎに思うことだろう。
乗り物に乗ることは、本来楽しいことのはずなのだから。
厚労省の見解では、一生の間にパニック症を発する割合は、100人に1人か2人くらいといわれている。
治癒する人もいれば、10年以上のお付き合いの人もいる。
谷崎は、中年になってからは、発症しなかったらしい。

谷崎は鉄道病と名付けしがパニック障害病むときは病む

愛の不時着

若松恵子

Netflixのオリジナル韓国ドラマ「愛の不時着」がとてもおもしろかった。1話90分、全16話。「冬のソナタ」以来、夢中になって観た韓国ドラマとなった。

ソン・イェジン演じる韓国の女性がパラグライダーの事故で北朝鮮に不時着してしまい、そこでヒョンビン演じる北朝鮮の男性と出会い恋に落ちる。恋に落ちるなんてことが成立するのだろうかという両国間の現実を考えると、2人の恋はファンタジーそのものだ。

前半が北朝鮮、後半は韓国を舞台にドラマは進む。韓国が描いた北朝鮮ではあるけれど、素朴な人情が失われていない、人間の手による暮らしが営まれている国として好意的に描かれている。両国の歴史に疎いからのんきに見ていられたという面もあるかもしれないけれど、いいメロドラマだった。「愛する人のために命を懸けることができるか」なんて青臭いことを久しぶりに思ったりもした、

これから見る人のために詳しいストーリーは書かないけれど、ハラハラドキドキする要素もあって、毎回見ごたえのある連続ドラマだった。主人公2人を取り巻く多様な登場人物もいて、それぞれにもファンができただろうなと思った。

韓国ドラマはラブシーンもキスシーンまでで過激な描写をしない。このことによってプラトニックラブ度が増して、ドラマはますます現実離れしていく。要するに現実逃避しておとぎ話の世界に浸っていた16話だったのだけれど、興ざめさせないストーリーと映像はさすがだと思った。

要約してしまえば、「たったひとりの大切な人と出会うことができた2人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という王道の物語なのだけれど、コロナで出かけられない夏休みには飛び切りのエンターテインメントだった。

Mac Air & Water

管啓次郎

灰色の夏の夕方
仕事机に向かったまま
ついウトウトとまどろみかけていた
(窓の外には泥の海)
すると風が出て
灰色の空が重く下りてきて
雨になった
すずしくていいけれど
少し雨が吹きこんでくる
雨粒が逃げてくる
これではコンピュータが濡れてしまう
眠りはつづく
(小さくはないフェリーボートに乗って
ホテイアオイがびっしりと浮かぶ
小さくはない川を遡上している気分)
キーボードに水しぶきが飛ぶ
でも動くのが面倒だ
そばで仕事をしている若い同僚を見ると
ラップトップが濡れるのをぜんぜん気にしていない
不審に思って、濡れても平気なの、と訊くと
「だってこれ、Mac Air & Waterだから」
と彼女はいうのだ
え、そんなのあるのか、というと
「知らないんですか」と笑われた
デジタル・リテラシーもなく商品知識もない
そうしたことが不要な世紀に生まれ育ったので
あきらめて席を立ち
窓を閉めて
降っているのかいないのかも定かでない
庭に出てみることにした
出がけに紙コップに
コーヒーを注いで行った
仕事が進まないわけを考えつつ
コーヒーを飲みながら歩く
庭には25メートルプールがあり
その向こうには白いテーブルと椅子がある
社長がひとりプールにいて
大きな鰐型の空気マットを浮かべ
そこに寝そべっている
(アーネムランドでもないのに)
紙コップをテーブルに置くと社長が
「今日は気温と湿度の配分がすばらしい」
という。そして「仕事の進行はどう」と訊いてくる
何かが邪魔しています、と答えると
「そうじゃなかった一日があったかしら」
といわれた。別に皮肉ではないのだ
社長はまだ十九歳で
皮肉をいうような年齢ではない
ただこっちが集中できないだけだ
同僚は閉じたラップトップを小脇に抱え
やはり庭に出てくると
いきなりそれをプール越しに投げてよこした
すると投げられたそれがクルクルと
フリズビーのように平らに回転しながら
揚力を受けてふわりと浮かび
こっちに届くまでには円形になっている
ぼくはうわっと声を出して
反射的にそれを受け止めてから
これはすごい!と感嘆の声をあげた
こんな円盤になるなんて
「遠心力よ」と社長が寝そべったままいう
(競技用ビキニを着て
トライアスリートらしい体脂肪の
少ない体型をしている)
銀色のラップトップが銀色の円盤になって
手に持つと重みを感じるけれど
投げて遊ぶにはちょうどいい
ぼくと同僚はしばらく遊んで
宇宙の誰かと交信した気分になってから
また室内に戻った
浮世絵の雨が斜めに降りはじめている
彼女が自分の机にラップトップを置くと
円盤がいつのまにかほどけて
また長方形のコンピュータに戻っている
メタモルフォーシス
形状記憶のトリック
水はまったく平気らしい
キーボードに雨がかかるどころか
手をすべらせてプールに落としても
へっちゃらなんだって
これ、買うよ、欲しい
名前がいいよね、Mac Air & Water か
すると部屋にいたアルバイトの子が
「そういうと思った」というので照れ笑い
地水火風にすぐに引っかかる
ぼくの心を見抜いているのだ
高いのかな、と誰にともなくいうと
別の同僚が「3万円くらいでしょう」というので
またびっくりした
それなら3台くらい買って
二人でジャグリングのように遊ぶのもいい
プールのこっちとむこうで
3枚の円盤を投げ合って
そのつど心は宙に浮かび
運動と静止の統合を味わうだろう
(そうしているうちに時間は過ぎて
プールにはホテイアオイが増殖し
それにまぎれて鰐が目だけ出している
といったことにもなりそう)
不思議な、おもしろい構図だ
長方形の野生だ
次に必要な機能があるとしたら
飛行中の円盤がドローンのように
空中から見えるものを記録してくれるといいな
ただし映像を撮影するのではないんだ
見えている物を円盤が解析し
言葉で描写してくれる
それはそのままぼくの仕事を肩代わりしてくれる
ぼくは苦労もせずに
この世の灰色の表面を書き取る
「おお季節、おお城」
ただしこの城館はホテイアオイの城館で
陽光と水を媒介し酸素を発生させるのだ
水から上がった社長はビキニ姿のまま
書類を点検したり
Siriにスペイン語で天気予報を聞いたりしている
不思議な時代になった
前世紀には予想もできなかったかたちで
計算機が生活や心に入りこんできた
映像画像と文字を同時に
処理できるのが強みだ
心がイメージと言葉でできているなら
両者を束ねて持ち運ぶ「背負子」のような
役目を果たせる機械だ
それだけ心に食いこむ
心のスイスチーズに
穴を開けて住みつく
空気と水に対応できるなら
次は火だ
燃えさかる炎の中を
円盤よ、超えてゆけ
次は土だ
埋められた土の中から
円盤よ、芽吹け
ハワイ島の溶岩平原でも
メコン川のデルタ地帯でも
それを心の故郷として
やがて育つ樹木にも
銀色の円盤がたくさんなって
じゅうぶん熟せば鈴のような
音を立てながら
空へと昇ってゆくだろう
いつも二つか三つの月をもつ
回想の空を支配するために
ブーンと唸り音を出して飛んでゆく
月の未来と交信するために
この円盤は鏡のようでもある
上面が空を
下面が水を映して
それでときどき姿が見えなくなる
このことは比喩ではない
そういうものとして空中に浮かぶことがある

製本かい摘みましては(156)

四釜裕子

買い物袋を持ち歩くようになるとデパ地下がこうも殺風景になるのかと驚いている。政府としてはとにかくオリンピック前にレジ袋の有料化を始めといて「やってます感」を出したかっただけだろうに、ほめてもらいたい相手を失い、陳列棚と通路をアクリル板などで仕切らざるを得なくもなり、現場では「これください」とお願いするとお店の人が隙間から差し出してくれ、こちらはカバンの中からモソモソ買い物袋を取り出して狭いところに広げ、買ったものを放り込むまでジィと待たれて居心地が悪い。「お入れしましょうか」と声をかけてくれる人もいるけれどたぶんそういうことではなくて、これではもはやセルフレジのほうが互いにありがたいのではないかという感じがする。

自宅からスーパーへはカゴぴったりサイズの買い物袋を肩にかけて行きレジで直接詰めてもらうから快適だけれど、買い物の多くはなにかのついでなので持ち歩く薄い袋では不便が多い。コンビニではたびたびビールと何かを買って困っている。一緒の袋に入れたら座りが悪いし水滴で濡れる。小さい袋をいくつか持つとかアンコ代わりに手ぬぐいを持つこともあるが習慣にならない。
ふとよぎったのは、かっば橋商店街のキッチンワールドTDIの長いレジ台だ。いつも新聞紙がきっちり積んであって、清算するとこれでひとまずくるまれる。あの状態で手渡してもらえれば、買い物袋にいろいろ入れても座りはいいだろう。コンビニもレジにいつも新聞紙を積んどいて、「ビールだけ包んでいただける? 2本ずつまとめてでかまわなくってよ」とかなんとか言うのはどうだろう。あり得ないか、そんなの。

斎藤耕一監督の『約束』に紙で包んだ商品のやりとりで印象深いシーンがある。岸恵子に最初で最後の差し入れをしようと開店前の洋品店に飛び込んだショーケンが、下着とかマフラーとか当時圧倒的人気だったらしい「タートル」とかを手当たり次第に買う。しめて5340円、胸元から取り出した100枚はあろうかという札束から1枚を抜いて支払いを済ませると、店主は赤系のぺらぺらの紙で全部まとめて包んで渡したのだった。胸に抱えるショーケン。振り返ると、入ってきた男に体当たりされて包みも金も取られてしまう。
1972年、場所は名古屋の郊外か。当時どれくらいの商店がこうして紙に包んで客に物を渡していたのか知らないけれど、これが持ち手付きの袋であれば、さっと胸に抱える仕草にはならなかったかもしれないし、体当たりされて破けた包装紙のシャカシャカした音はこちらの耳に残らなかっただろう。当たってきた男は三國連太郎。警察だ。床に落ちた包みを拾い上げ、店主に返すのにほこりを払った。パシャパシャッという軽薄な音がこれまた耳に残る。店主から受け取ったと思われる5340円をポケットに入れて表に出ると、仏壇屋が並ぶ通りでショーケンが派手に駄々をこねるのであった。

ひと突きであっさり破れたこの包みはキャラメル包みだったと思う。2、3箇所留めてある透明のセロハンテープが光っていた。こんなに破れやすいのは困りものだが、破れにくいのも困る。
おとというちに届いた古本はやっかいだった。文庫本1冊なのに、カッターで切れ込みを入れた古ダンボールで直方体に仕立ててあり、角という角が布テープで補強してある。どういう具合なのかこれがまったくはがれにくくて、やっとむくと薄い茶紙で包まれた本が出てきて、こちらは縦1本横2本のOPPテープで留めてあるがぴったり過ぎてカッターの刃が入りにくくて、ようやっとむくとOPP袋越しに本が見えたが、これまたサイズに合わせて折った辺が長いセロハンテープでべた留めしてあるのだ。
はぎ取った梱包材にイライラをたっぷり含ませて丸めて捨てた。ようやっと本をめくると、今度は早々に書き込みがあらわれた。しかも赤ボールペン。「書き込みなく良好」って何。ちょっとめくっただけで目に入るでしょうに。この送り主は梱包マニアとでも考えるしかない。

好ましい梱包ももちろんある。最近だと8月中旬、巻き段ボールに包まれて届いた函入りハードカバー1冊は気分がよかった。本の天地プラス10センチ程度の幅でひと巻きしてクラフトテープで留め、天地にはみ出た5センチづつくらいの両端は内側に三角に折り込まれてまとめてクラフトテープでおさえてある。そのテープの両端は真ん中に切れ込みが入れてあり、クロスするようにして貼ってあるのもいい。天か地を開封するだけでOPP袋入りの本が出てきた。こちらは封入口に接着剤が付いたタイプで、サイズに合わせて折ったところには小さく切ったセロハンテープが2箇所で留めてある。開封、かんた~ん! ごみも少ない。送る側の自己満足で梱包を張り切るのはやめていただきたい。

かといって「こころを包む」みたいなことを聞かされるのも困る。ただ、物を包むにはその物をなでることになるので、最後になでた送り手の名残りみたいなものを次になでる受け手が感じることができたなら、そこにはなにか良い匂いがしているのだろう。
ラジオで子どもたちの質問に答えていた小菅正夫さんの口調が今頭を巡っている。「動物園でゾウが死んた。そのあとゾウはどうなるの」という質問だった。小菅さんは、「動物園で死んだ動物はまず、測れるところをとにかく全部測るんだよ」と言った。鼻の長さも尻尾の長さも、足の太さも耳の大きさも……といろいろ言って、それから体の中も見せてもらうんだ、そしてやっぱり胃も腸も、なにもかも測れるところは全部、とにかく全部測るんだ、と言った。部位を言い、全部、全部と繰り返す小菅さんの言葉を、質問した少年がどう聞いたのかはわからないけれど、こちらはぐっときてしまったのだった。
今それを思い出したのは、「測る」というのは「なでる」ということだと合点がいったからだと思う。

ジャワ暦大晦日の宝物巡回

冨岡三智

今年のジャワ・イスラム暦正月は8月20日だった。インドネシアでは西暦、ジャワ・イスラム暦(ヒジュラ暦)、サカ暦(バリ・ヒンドゥー暦)、中華暦正月の4正月が祝日になっており、西暦以外の正月は毎年日が変わる。ジャワでは王宮の伝統行事や冠婚葬祭の日取りなどはジャワ暦で行われるので、西暦正月よりもジャワ暦正月の方が文化的には重要である。ジャワ暦正月については、2003年6月号の『水牛』に寄稿した「スラカルタの年中行事」で触れたことがある。ちなみに2003年は3月4日がジャワ暦正月だった。ジャワ・イスラム暦の1年の長さは西暦より約11日短いので、毎年どんどん早くなるのである。今回は大晦日の夜に行われるジャワ王家の宝物巡回=キラブ・プソコについて。もっとも、ジャワでもこのコロナ禍ゆえ、今年の宝物巡回は行われない。

  ●

スラカルタ王家では、ジャワ暦で正月になる深夜0時から宝物の市内巡回を行う。これは古い時代から続いてきた伝統儀礼のように見えるが、実はスハルト大統領がパク・ブウォノXII世に民族の安寧と統一のためにティラカタンを行うよう依頼したことから始まった。それは1971年あるいは1973年のことで、つまりは「創られた伝統」である。

ジャワ語のティラカタンとは、正月などの大きな儀礼の前夜に人々が集まって寝ずに夜を過ごすことを言う。日本でもかつて大晦日には寝ずに歳神様の来訪を待ったが、それと似ている。そして、寝ずに過ごすために宝物巡回を行うというアイデアが出て始まった行事なのだ。とはいえ、両者は本来別ものである。ジャワ王家の宝物巡回は、そもそも疫病や飢饉が流行した非常時にしか行われなかった(それも非常に稀だったという研究がある)。宝物の霊力によって町を清めるために行われたが、スロ月と関係もなければ、定期的な行事でもなかった。しかし、国の安寧を祈るというのはかつてのジャワの王にとっては政治行為そのものであるため、祝賀行事としての王の即位記念儀礼よりも重要な儀礼だと私に語る王族もいた。

大晦日の夜、スラカルタ王宮の塀の中では巡回に参加する人々が伝統衣装で参集する。夜中の0時に普段は閉じられている王宮正面の門が開けられ、キヤイ・スラメット(白い水牛の名、これも宝物)を先頭に、槍などの宝物を担いだ王族たち、宮廷家臣団、依願して巡回に加わる一般団体(農村から出てきた人たち)の長い長い行列が出ていく。

行列は王宮の正門からまずは北へ向かう。王宮北広場を経て、グラダッグ(中央郵便局のある所)から東へ、電話局を通りパサール・クリウォンの交差点から南下し、ガディンからフェテラン通りを西に進んだ後北上して、スラマット・リヤディ通りに出(確かパサール・ポンに出る)、そこから東へ進み、再びグラダッグから王宮北広場を通って王宮に戻る。行列が王宮に戻ってくるのは朝4時か5時頃だが、それは先頭を歩く水牛のスピード次第だ。王族や高官は履物を履いて良いが、一般の人々は素足で歩く。私も一度、2001年頃に王宮の踊り子たちと一緒に参加したことがある。おそらく踊り子だから許されたのだろうが、私たちは裸足ではなくサンダルを履いた。それでも歩き通すのは大変だった。

この宝物巡回の間、王は王宮内で国の安寧を祈って瞑想する。一方、宝物に従って歩く人々にとってもそれは瞑想の実践であり、私語は許されない。その行列を見るために沿道にはびっしりと人々が集まっている。観光客も多い。これらの人々も夜通し起きてティラカタンをし、キャイ・スラメットに餌を差し出してご利益を得るのだ。

  ●

スラカルタ王家の巡回に先立ち、夜8時頃から分家のマンクヌガラン王家でも宝物巡回がある。こちらでは宝物は同王家の外壁を1周だけ巡るので、ゆっくり歩いても1時間くらいで済んだような気がする。宮廷家臣らは引き続き外壁を7周する。

実はスハルトはジャワ王家だけでなくジャカルタのタマン・ミニ(文化テーマパーク)でも同時に宝物巡回(を模したパレード)を始め、現在まで続いている。コロナ禍の今年はタマン・ミニからオンライン中継されたので見てみた。各宗教の指導者による祈りと舞踊と宝物(を模した物)の巡回が1時間くらいにまとめられている。規模は縮小されているが、内容的には例年通りだという。例年は室内で祈りをしたあと建物の外に出てパレードをするようだが、今年はすべて室内で撮影されている。

夏の終わり

笠井瑞丈

夏休み

祖母の持っていた別荘
毎年よく母と兄弟三人
遊びに行った

茅野の駅を降り
バスで山を登っていく

バス停から眺める山頂
新しい世界を想像する

草の匂
水の流
空の色

車も無かったので
どこにいくのもバスと徒歩

釣り堀に行ったり
プールに行ったり

遠くまでよく歩いて遊びに行った
滅多に飲むことのない缶ジュース

行きはいいが
帰りはつらい

長い坂道を歩いて帰る

遊び疲れた重たい体を一歩一歩運ぶ
追い越していく車を眺め
頭の中で玄関のドアを想像する

あと少し
あと少し

坂をすこし上がった所にあるホテルの温泉
ホテルのロービにあったインベダーゲーム

毎日夢中で遊ぶ

温泉からの帰り道
夜空がいつも綺麗

星は無限の輝きを放つ
宇宙の玄関を開く

ベランダから眺める街の光
光の先に何があるのか想像する

自分はなにであり
自分はどうなるか

近くのスーパーの隣にあった喫茶店
顔と同じくらい大きなかき氷を食べる

写りが悪いテレビのアンテナをいじくる
奇跡的にNHKがたまに映ることがあった
よく高校野球を見た

空が曇りはじめる
テレビが映らなくなる

想像する

いつまでこんな時間は続き
いつになったら時間は終る

夏は沢山の想像を与えてくれた

あの時
開いた玄関から

今の自分を
そして
今の世界を

想像していただろうか

時間はゆっくり進み
世界は変化していく

そんな

夏の終わり

袋小路のタクシー

植松眞人

 まだ町の用水路のほとんどに蓋などされていなかった頃。時々、子どもがそこに落ちて怪我をしたり、水かさによっては死んでしまったりすることもあった。
 自分が子どもの頃は、水があるというだけでそこは遊び場だった。ただ用水路を飛び越えているだけで楽しかったし、水面をアメンボが滑ったり、水の中を小さな魚が泳いだり、水の底をザリガニが歩いたりすると奇声を上げて飛び込んだ。
 当時、僕の家は大通りから細い路地を入った奥の方にあった。両脇に十軒ほどの家を通り過ぎた部分はまるでフラスコのように、円形になっている袋小路だった。僕の家はその袋小路の部分にあって、近所には子どもがたくさんいて、遊び相手には困らなかった。
 夏の暑い日で、まだどの家にもクーラーがあるという時代ではなかったので、大人たちも子どもたちも休日を家の中で過ごせず、表に出ていた。軒先に椅子を置いて涼んでいる人もいれば、玄関先にある水道から水を出し、その蛇口を掌で押さえて辺り一面にまき散らしている人もいた。薄らと虹が出て、その下を僕たち子どもは走り回った。どこまでが汗でどこまでが水道の水なのかわからなかった。
 そこに車のエンジン音が響いた。この路地に入ってくる車は近所のおじさんが乗っているオート三輪しかなかった。他は、配達人のバイクくらいだ。それ以外の車が入ってきたのは僕が知る限り初めてだった。見ると、それは黒塗りのタクシーだった。
 タクシーは左右の家々にミラーをこすらないように細心の注意を払いながら路地を入ってきた。ドアを開けて乗り降り出来るほどのゆっくりしたスピードだった。僕たちはその様子をじっと見守った。子どもが家から出たり入ったりしながら五人ほどいた。大人も同じくらいだろうか。十人ほどの視線を浴びながらタクシーは袋小路までやってきた。さらに細くなる道を見て、運転手は途方に暮れた表情を浮かべた。
 隣のおばさんが
「通り抜けはできひんで」
と運転手に声をかけた。
 運転手は
「そうですね」
 と力なく答えた。
「ここ、グルッと回れますか?」
 運転手は難しいだろうなという顔のまま聞いた。おばさんはちょっと口元に笑みを浮かべて、
「行っていけんことはないけどなあ。うちのお父ちゃんが生きてはったころ、大きなクラウンで、ここ一周まわりはったで」
 それを聞いた運転手は、にっちもさっちもいかないので、とりあえず車を前進させた。その場にいた大人も子どももタクシーのために場所を空けた。置かれていた椅子は家の中に運ばれ、ひっくり返っていた自転車は家と家の間のすき間に突っ込まれた。
 タクシーの運転手は僕たちにペコペコと頭を下げて、すんません、すんません、と言いながら、ゆっくりと車を走らせた。車体の長い車なので円周の短いカーブを曲がるのには四苦八苦していた。それでも、ゆっくりとだけれどなんとか車は袋小路の一番先、入口から一番遠い部分にまで進んだ。問題はここからだった。袋小路を曲がりきったところに用水路があり、それが僕たちの生活道路に食い込むようにほんの少しだけ道幅を狭めている箇所があるのだった。
 このまま行くと脱輪してしまう、と思ったのか運転手が車を降りてきた。近所のおじさんおばさんがみんな出てきて、一緒になって車のタイヤと用水路の位置関係を眺めた。
「これは落ちるな」
 そのあたりでいちばん賢いと言われているおじさんが言った。おじさんはステテコ姿に上半身裸だった。
「もう、バックで来たとおりに帰れ」
 そう怒鳴ったのはずっと黙って様子を見ていたじいさんだった。じいさんはさっきまでなんともなかったのに、ここへ来て急に怒りだしていた。
「いや、タイヤが半分引っかかってたらいける。大丈夫や、そのまま抜けれるやろ」
 そう言ったのは怒っているじいさんの息子で、町内会の会長をやっているおじさんだった。
 運転手はそこそこベテランのように見える白髪の男で、穏やかそうな作りの顔を少し不安げにして、大人たちの意見を聞いていた。そして、最後は自分で決断をした様子で、車の中に乗り込んだ。
 タクシーは一旦、後ろに下がり、少しハンドルを切るとゆっくりと前に来た。
「おちる!」
 子どもたちは笑いながらそうはやし立てたが、運転手はアクセルを緩めず、ゆっくりとしたスピードのまま微妙にハンドルを切った。タイヤは用水路ギリギリになり、さらに前に進むことで、タイヤの下半分には道路はなく、あと少しハンドルを逆に切ってしまうと脱輪しそうだった。子どもたちはこのスリル満点の状況に大興奮だった。
「もうちょっと右に切った方がええんとちゃうか?
 誰かが言ったのだが運転手はその声を聞かずにそのまま車を進めた。タイヤがきしんで本当に脱輪しそうになった。運転手はブレーキを踏み、ギアを入れ直してほんの少しバックした。
「いうこと聞かんからや」
 誰かが怒鳴った。
 運転手がこの場所の空気に飲まれてしまわないように必死で平静を保とうとしているのが子どもの僕にもわかった。
 運転手は窓を全開にして顔を窓から突き出して周囲の状況を確認した。時にはドアを開け、地面すれすれにまで身体を出して後ろのタイヤの位置を確認した。八月の終わり、夕方までまだ時間がある。暑さはピークに達していた。運転手の顔からは汗がしたたり、白いシャツは肌に貼り付いていた。じりじりと照りつける太陽の光と、黒塗りのタクシーから発せられる反射光の暑さで僕たちの袋小路はさっきまでよりも明らかに暑くなっていた。タクシーは触ると火傷しそうだったし、それよりも大人たちのタクシー運転手を見る目は刺々しく、それがより僕たちを暑くして、大人たちをイライラとさせているようだった。
 運転手は苦心しながら何度も何度も一進一退を繰り返した。そして、少しずつ苦境を脱するための努力を重ねていた。もう、彼は誰の声も聞いていなかったし、視線も気にしなくなっていたような気がする。たぶん、僕がその時に思っていた「もうすぐ、もうすぐ」という言葉を頭の中で繰り返していたのだと思う。
 すでに子どもたちの何人かはこのタクシー騒動に飽きて、その場から離れようとしていた。大人たちも引くに引けない気持ちでタクシーをにらみつけてはいるけれど、もうさっきまでの熱はなくなっているように僕には感じられた。
 あと、何度か切り返せばきっとこの袋小路から抜け出せる。みんながそう思っていた時に、どこかのおばさんの声が響いた。
「そんな運転が下手なら入ってくんな!」
 その声はなんとなく落ち着いていた袋小路という鍋の中のものを鍋底から大きくかき混ぜた。運転手が声に驚いて強くブレーキを踏んだ。スピードなんて出ていないのに、小さくはっきりとキュッという音がした。運転手は開いている窓から顔を出した。
「こんな汚い場所、入って来たくて来てるんとちゃうわ!」
 さっきまでの落ち着いた温厚そうな顔とは違う歪んだ顔で運転手は叫んだ。
 男たちが反射的に立ち上がった。女たちは自分のそばにいる子どもを、よその子か自分の子かに関わらず肩を掴んでタクシーから引き離した。それを合図にするかのように、男たちがタクシーとの間合いを詰めた。運転手は失態に気づき、慌てた拍子にブレーキから足を離した。タクシーが大きく前に進もうとして用水路に脱輪した。窓から乗り出していた運転手は用水路側に落ちそうになって、窓枠で鼻を打ち、鼻から鮮血を流した。(了)

万華鏡物語(5)二〇二〇年、八月の手触り

長谷部千彩

 この半年、バカみたいに本を買っていた。本当に手当たり次第。数えてみたら七十冊を超えていた。そのすべてをネットショップで買った。でも、読み終えたのは、ほんの数冊。自由になる時間があまり取れなかった。
 新型コロナウィルスの感染が広がり、外出自粛が呼びかけられ、仕事を減らしたひとたちが大勢いるのに、私の仕事の量は変わらなかった。いや、正しくは、いつもより多かった。幸いなことに。

 一息ついたのは七月の終わり。気がつくと、机の脇には床から膝の高さまで積み上げられた本の柱が何本も立っていた。
 私は一冊ずつ、トレーシングペーパーで本にカバーをかけた。グラシン紙は滑りが良すぎるので、カバーにはトレーシングペーパーを使っている。カバーのかけ方は、昔、私のオフィスで働いていた女の子から教わった。私のもとに来る前、彼女は書店に勤めていたのだ。

 数時間後には、白い霜を巻いたような本の小山ができた。私はその小山を改めて眺め、これが私のコロナ禍の形なのだと思った。
 都心に住んでいると、徒歩五分圏内にいくつもコンビニエンスストアがあり、必要最低限のものは手に入る。食材宅配サーヴィスを利用しているので、食料品が底をつく心配もない。打ち合わせのほとんどがオンラインに切り替わり、テレワークという言葉が一斉に使われるようになったけれども、もともとひとりでPCに向かう仕事をする私にとって、その変化は、日常がほんの少し傾いた程度のものだった。

 運動不足解消のため、時々、近所を当て処もなくぶらぶらと歩いた。
 時々、トレーニングアプリを使って部屋でストレッチをした。
 時々、マンションの屋上で小学生の姪と縄跳びをした。
 規則正しく響くコンクリートを叩く縄の音。私たちの頭上を飛行機が何機も通り過ぎていった。羽田空港新ルートの運用が一月末から始まり、閑静だった住宅街はひっきりなしの轟音に悩まされるようになった。そのことのほうが、新型コロナウィルスよりも、私には身近な問題だった(この問題はこの先も続く)。

 感染の広がりや経済への影響は、いつか回り回って私の生活をいまよりも大きく変えるだろう。覚悟はしている。でも、まだ大丈夫。まだ平気。私はそれほど困っていない。そう捉えて黙々と働いた。
 けれど、息抜きにカフェでお茶を飲むことがなくなった。映画館も美術館も足を運ぶのが憚られた。この仕事が終わったら、美味しいものを食べに行こう。この仕事が終わったら、友達に会いに行こう。この仕事が終わったら、トランクを持って旅に出よう。そう、素敵な靴を履いて。そう、素敵な服を着て。
 その楽しみをひとつひとつ消していったら、「この仕事が終わったら、ゆっくり本を読もう」が残った。満たされないささやかな欲望を、私は本を買うことに置き換えて、半年間、積み上げていたのだ。
 私のフラストレーションは、浪費を伴ってはいたけれど、その形は四角くコンパクト、そして整然としていた。そのことを知り、私は小さくクスッと笑った。

 透ける背表紙の文字を目で辿る。どれから読もうか。全部読み切れるといいけれど。注ぎ足したコーヒーを口に含み、一冊を手に取り、ページをめくる。これが私のコロナ禍の手触り。
 八月は休暇を取ろう、と心に誓った。どこかで蝉が鳴いている。
東京の夏は長い。窓の外に広がる空を、飛行機が低く飛んでいく。

愛しさを抱えて

越川道夫

いつも何冊もの本を抱えて移動している。鞄の中はいつも5冊ぐらいの本が詰め詰めに押しこんであって、なぜそんなに本を持って歩くのか、全部読みもしないのに、と人から言われることもしばしばである。そのたびに、まあ、いいんですよ、これが今の僕の頭の中なのです、と答えるのだが、指摘される通り移動中目を通すのはその中の一冊がいいところである。
移動中ばかりではない。トイレの中も、風呂に入る時も本を抱えている。寝る時も鞄の中に入っていた本をごっそりと、ひどい時には手に抱えきれず顎で支えながら移動することになる。そんな姿を見た母から「本との分離不安」と笑われたこともある。子供の頃からずっとそうなのである。映画を生業にしているくせに映画を見ない日は多い。しかし本を読まない日はない。仕事場に読みかけの本を忘れてきた日は、早くその本にしたいと、自分の頭の中から何か大切なものが欠落してしまったような落ち着かない不安定さを抱えてしまうのだ。母の言う通り「分離不安」なのかもしれない。
そのくせ、言葉は滑り落ちていく。いくら読んでも言葉は自分の内に定着することなく、読んだ端から滑り落ち何も残らないような気がしている。いや、知らず知らずの内にどこかに沈殿し、残っているはずだとも思う。思うが、それは実感できた試しがない。読んでいる最中はもちろん楽しいのだが、「本」の「言葉」は決して自分のものになることはなく、その「言葉」は目の前に閉じられた「本」の中にしかない。
 
「言葉は、自分の外にあって、私の体は「言葉」ではできてはいない」。
ずっとそう思ってきた。「私」と「言葉」は透明に繋がってはいない。むしろ、仲が悪いくらいなのものだ、と。自分で書いたものであろうが、誰かが書いたものであろうが、「言葉」はいつも私にとって「他者」なのだ。「書く」ことも「読む」ことも私にとっての「他者」に会いにいくことであるのかもしれない。しかし、「見る」ことは…。
 
私の眼はポンコツで、今でさえどんなに眼鏡で矯正しても、もはやピントが合うことはない。放っておけばやがては見えなくなるだろう。手術をすれば見えるようにはなるのだから、さっさっと手術でもなんでもすればいいのだ。しかし、手術をした眼は、おそらく今までの眼とは異なる「眼」なのであって、何かが(何かは分からない)変わってしまうのではないか。それをどこかで恐れている。私は、ある「愛しさ」で世界を「見る」。見て、そして「愛しさ」で体を震わせている。そこで感じる「愛しさ」を「新しい眼」でも私は感じることができるだろうか?
 
白い百合の季節は、咲くまでに気を持たせた挙句、一旦花が開くとあっという間に過ぎてしまった。河原に繁茂する葛の花は、昨年よりも一週間遅れて咲き始めた。
 
私は「愛しさ」を抱えて、毎日それを見にいくのだ。
陽が沈む前にと葛の花が咲く河原へと急ぐ足が躍る。

父と子

さとうまき

東京は連日35℃を超えて、それでもコロナ対策としてマスクをつけて職業訓練校に通っている。WEBデザインが金になるのかどうかわからないが、人力車を引いていた若者は、観光客が来なくなって転職せざるを得なくなったそうだ。なぜか看護師もいる。どうして看護師をやめるのか僕にはわからないのだけど。SE業界でくたびれ果てて、耳がほとんど聞こえないが、それでも仕事に着かないといけないというおじさんもいる。そして、僕が加わりこのクラスの劣等生グループである。他は、バリバリ稼ぐ意欲にあふれている若者だ。皆、マスクをつけて、距離を取りながら、恐る恐る授業を受ける。

授業が始まるのが夕方の4時。10時近くに家に帰ると、部屋は散らかり放題で、気が付くとビールの缶やらペットボトルが部屋に散乱している。

3か月一緒に暮らしたムスコをお盆に北海道に送り返して2週間がたった。ムスコが、コロナが原因でふさぎ込んでしまって、部屋から一歩も出なくなってしまった。生きる希望すら失っているというので、別れた妻から頼まれて東京で一緒に暮らすことになった。

年に数回しか会わないからどういう風に接していいかわらず、僕も学校があるので、預けられる施設を探してみたが、息子は、「僕は、人に会うのは嫌だ」とかたくなに拒否し、3か月間、外には一歩も出ずに部屋にこもってゲームばかりしていた。ともかく生活が乱れてしまった。

私が帰ってくるとごはんを一緒に食べる。私はビールを飲み、息子は三ツ矢サイダーだ。サイダーを飲み切ると新しいサイダーを代わりに冷蔵庫に入れる。私のためにビールも冷やしてくれる。三ツ矢サイダーを箱で買うと50-60円/本と安いのだ。しかしムスコは、一口だけ飲んで、また次のサイダーを開ける。机の上には、空き缶だらけだが、半分くらいしか飲んでない。
「最後まで飲めよ。もったいないだろう!うちは貧乏なんだからさあ!」としかると「ごめん」と素直に謝り、一生懸命飲もうとするが、ゲップが出てくるしそうだ。鼻をかむと、そこいら中にティッシュが散乱している。
「お父さんの遺伝子を引き継いだんだ!」確かに!

ムスコは体育が苦手だ。ちょっと歩いただけで疲れたといい機嫌が悪くなり、めんどくさいので、出かけるときは車だった。ちょっとでも運動させたいなと思っていたが、なついてくると、やたら殴りかかってくるようになった。結構向こうは本気でグーで殴ってくる。スパーリングは一時間に及ぶこともあり、こいつこんなに体力あったっけ?と驚くぐらいだった。

僕は料理は苦手だ。それでも、頑張って作った。いろいろ作っても、うまいものとジャンク・フードしか食べてくれない。食べ残しを見ると少し悲しい。結局、息子の残したものばかリ喰っていると5kg増えた。息子は時たま僕が作るうまいものと、外食とジャンクフードで、3か月で12㎏増えた。

イラクの話もした。
「モスルという町は、イスラム国に占領されたんだ。オマル君は、君と同じ年だ。いろいろ悲惨な殺しを目のまえで見て、ショックを受けて調子が悪くなって、そのうちがんになってしまった。神経に腫瘍ができて手術で取り去ったのだけど下半身が動かなくなってしまったんだ。それでも、オマル君はいつもニコニコして挨拶してくれるんだ。お父さんのイラクでの最後の仕事がオマル君の面倒を見ることだったんだ。何か欲しいものがある?って聞いたら、ゲームをしたいという。彼はもう寝たきりだから、ゲーム機を買ってあげることは、決して贅沢じゃないよ。でも、病院にはたくさんの子どもが入院しているから彼だけ特別っていうわけにはいかない。お父さんは、君には、PS4もスイッチだって買ってあげたじゃないか?じゃあオマル君には買ってあげないのかい?って。だから、こっそりゲーム機を買ってあげたんだ。」

その時、僕は思った。オマルは、ムスコと同じ年。生きてほしい。オマル君のような子どもたちが生きるために、僕は世の中に不条理をまき散らすインチキな連中と戦ってきたんだと。
「でも、一か月後に彼は亡くなったんだ。お父さんの最後の仕事だったよ。」
息子は、その話を聞いてから、「僕はゲームを作るんだ。世界中の子どもたちが楽しめるゲーム作るんだ」といって張り切っている。

息子が去った部屋の片づけをしていて、オマル君の最後の日のことを思い出した。普段明るいオマル君も、痛みに耐えきれず苦しそうな表情を見せていた。やせ細っていくオマル君の手を握って、「頑張るんだ!」って励ました。

翌朝、病院に行くとベッドはきれいに片付けてありもう何も残っていなかった。
「朝方、なくなりましたよ」看護師さんが教えてくれた。覚悟はしていたけど、空になったベッドは、ベッド以外の何物でもなく、これから入院する患者を待っているだけなのだ。昨日までのことは嘘だったようにぬくもりすらも残っていない。ぽっかりと穴の開いた気持ちだ。結局オマル君は、僕に「頑張れ!」って言ってくれたんだ。オマル君が亡くなってから、実際、僕は頑張っていないから。オマル君が息子に乗り移ってメッセージを伝えに来てくれたのかもしれない。いやいや、ムスコにとってオヤジがだらしないと困るから、それはムスコの切なる願いでもあるのだろう。

いずれにせよコロナに負けている場合じゃないな。

真夏日の労働

高橋悠治

毎年夏は秋のシーズンのために作曲していた 今年はそれに加えて コロナ感染予防のマスクやシールドで 肺も脳も酸素がじゅうぶんとは言いきれない

コンサートも観客なしのネット配信や 関係者ばかりの閉じた空間 客席を一つおきに空けた赤字公演を続けながら なんとか支えあって いつまで行くのだろう これからは オーケストラやオペラのように集団による集団のための見世物ではなく 空間にちらばった場所がそれぞれに変化していく生活があり 変化が顕れ 風が起こると 通り過ぎた場所が見えてくる 方向だけがあり 消えないうちに ちがう方向からまた近づかないと 場所は褪せていく

サントリー・ホールで8月の終わりにフェスティバルがあり 昔の曲が2曲再演された 「オルフィカ」は80人のオーケストラを ちがう楽器の組み合わせで8つのグループにわけ 6つをステージの奥・中・前の左右に置き 残りを2階の左右に分ける 1969年に作曲してから50年以上経って コロナ後のオーケストラの空間にも聞こえる

1960年代は 反体制運動があった 近代とともにはじまった革命運動は 結局新しい権力を作ったが 普通教育の反面 平等は徴兵制度を作り 産業革命は工場労働を必要とする 福祉国家の実現は生活全体の監視をともなう 反体制運動の挫折の後に新自由主義が生まれ いまはそれが世界のあちこちで アメリカに従わない国家が制裁され 傭兵から戦争をしかけられる 理想をもとめれば原理主義になる 

三味線弾き語りと合奏のための『鳥も使いか』は1993年に作った 弾き語りの所々で 物語に必要な道具や情景が 合奏の曲になって聞こえる 指揮者はそのタイトルを告げ 合図の楽器を打って曲を停める 合奏する楽器は 左右に振り分け 太鼓は舞台裏から聞こえる この思いつきのもとになった九州の琵琶と合奏の「妙音十二楽」は 奏楽する僧侶の数が集まらず 昨年で800年の伝統が絶えた と後で読んだ

西洋近代のオーケストラは オスマン帝国の軍楽隊にまなんで 宮廷の娯楽やオペラの合間に演奏するようになり 100人以上の集団になったが 国歌と行進曲から離れるのはむつかしいようだ ディジタルの時代には 人数は必要ないだろう 歌ったり楽器を奏でたり踊る身体のたのしみは かんたんにはなくならないだろうし 電子音と映像で済ますのでは なめらかすぎて 手応えがない

練習を見ているうちに思いついた 強い音は 強い力では生まれない 力は音を押しつぶしてしまう 逆に 身体の力を抜いて 楽器がよく響く状態を作ってあげるのがよいようだ 弱い音は 注意を集めて 消えていく音が耐える前に介入して 火を掻き立てる そこに楽器を弾く人の個性が映る それは 楽器のあいだに距離をあけた空間で聞こえてくる 楽器を弾く人は 周りの音を聞きながら 自分の楽器の音を添えて 響く空間の色を変える そのわずかな変化が聞こえれば 次の音の出しかたが決まる それを 合奏するたのしみと言ってもよいだろうか

指揮者が音楽を作るのではなく そこにいて見ているだけで すべてがひとりでに立上り 動いていく 動かす中心ではなく 動きがそこに集まってくる それでも 傘の軸のような中心ではある

一つの中心の周りにさまざまなものを配置するかわりに 中心がなく すべてが周辺であるような状態(メキシコの社会運動家グスターボ・エステーバの『世界を周辺化する」)と何が起こるだろう

2人から20人ほどのグループなら それができるかもしれない 『鳥も使いか』の合奏は そのなかで似たやりかたをいくつか試している ただし 全体は一枚の紙の上に書かれている 小さな合奏 邦楽の三曲のかたちを借りた『瞬庵』(2001)は それに近かった

全体のない部分の集まり 多様な組み合わせ 質のちがいが浮き出ないように混ぜ合わせて おだやかに弱く持続する作用をする 漢方薬にも似ている 

2020年8月1日(土)

水牛だより

東に向いた窓のカーテンを通して入ってくる朝の太陽の光を感じたのはいったい何日ぶりのことでしょうか。東京ははっきりと今日から夏です。夏の太陽が出ていれば、薄い麻のシーツは洗濯して干すと、ほんの1時間くらいでパリッと乾きます。爽快です。

「水牛のように」を2020年8月1日号に更新しました。
毎月欠かさずのみなさんも久しぶりのみなさんも、そして、今月は休みます、と連絡をくださったみなさん、いつも水牛の締め切りを覚えてくださっていて、ありがとうございます。原稿の催促はしないとひとり心に決めたことがこんなに成功する(?)とは思っていませんでした。

久しぶりにお知らせを。
●『〈うた〉起源考』藤井貞和 青土社 2020年6月
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3430
本の背には「『ことば』の起源をめぐる壮大な旅へ」とあります。450ページを超える厚い本ですが、三十章もあるのでひとつひとつの章は案外短くて、おもしろく読んでしまいます。

●サントリーサマーフェスティバル ザ・プロデューサー・シリーズ 一柳 慧がひらく
2020 東京アヴァンギャルド宣言

室内楽 XXI-1
8/22(土)18:00開演(17:20開場)ブルーローズ(小ホール)
森 円花:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲「ヤーヌス」(2020)世界初演
カールハインツ・シュトックハウゼン:『クラング―1日の24時間』より 15時間目「オルヴォントン」バリトンと電子音楽のための(2007)日本初演
権代敦彦:『コズミック・セックス』6人の奏者のための(2008)
杉山洋一:五重奏曲「アフリカからの最後のインタビュー」(2013)

バリトン:松平 敬 エレクトロニクス:有馬純寿 フルート:高木綾子 打楽器:神田佳子 ハープ:篠﨑和子 ピアノ:黒田亜樹 ヴァイオリン:山根一仁 チェロ:上野通明 東京現音計画 サントリーホール室内楽アカデミー修了生によるアンサンブル 指揮:杉山洋一

オーケストラ スペース XXI-1
8/26(水) 19:00開演(18:20開場)大ホール
高橋悠治:『鳥も使いか』三絃弾き語りを含む合奏(1993)
山根明季子:『アーケード』オーケストラのための(2020)世界初演
山本和智:『ヴァーチャリティの平原』第2部
iii) 浮かびの二重螺旋木柱列2人のマリンビスト、ガムランアンサンブルとオーケストラのための(2018~19)**世界初演
高橋悠治:『オルフィカ』オーケストラのための(1969)

三絃:本條秀慈郎* マリンバ:西岡まり子/篠田浩美** ガムラングループ・ランバンサリ** 読売日本交響楽団 指揮:杉山洋一

オーケストラ スペース XXI-2

8/30(日)15:00開演(14:20開場)大ホール
川島素晴:管弦楽のためのスタディ「illuminance / juvenile」(2014/20)*世界初演
杉山洋一:『自画像』オーケストラのための(2020)世界初演
一柳 慧:交響曲第11番(2020)世界初演

指揮:鈴木優人/川島素晴* 東京フィルハーモニー交響楽団


最後はおなじみエドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち』から

8月1日 地にまします我らが母よ
今日、アンデスの村々では、母なる大地パチャママが盛大な祝宴を開く。
彼女の息子たちはこの果てしなく長い日に踊り、また歌う。そして彼らは母なる大地に、ご馳走であるトウモロコシの一片と、歓びに潤いを与える強い酒を一口差し出す。
彼らは最後に、大地を傷つけていること、搾取したり毒を撒いたりしていることに許しを乞う。地震や霜、旱魃や洪水その他の怒りで罰を与えぬように頭を下げてお祈りする。
これはアメリカ大陸で最も古い信仰である。
マヤのトホラバル族はチアパスで、以下のようにわたしたちの母に挨拶を送っている。

 あなたはわたしたちに豆を与えてくれる
 唐辛子とトルティーヤと一緒にして食べると
 とても美味しい

 あなたはわたしたちにトウモロコシと美味しいコーヒーを与えてくれる
 愛する母よ、
 わたしたちのことをお護りください。
 けしてあなたたちを売り渡したりしませんから。

母の居場所は天上ではない。地中奥深くに住み、そこでわたしたちを待っている。わたしたちに食べ物を与える大地は、いずれわたしたちを呑み込む大地である。

それではまた! 来月も無事に更新できますように(八巻美恵)

万華鏡物語(4)流転

長谷部千彩

 七月後半、私はとある撮影に立ち会い、都内をロケバスで移動する日々を過ごした。そのうち一日は、千葉県外房までの遠出となった。コロナウィルス感染症発生以降、外出を控えるよう努めていた私にとって八ヶ月ぶりの東京脱出であった。
 機材を抱えたスタッフとともに切り立つ崖をのぼり、海を眺めると、その日は曇天。空と海を分かつはずの一線は、ぼんやりとかすんでいた。去年ブエノス・アイレスで見た海とも、一昨年に見たドブロブニクの海とも違う、水の色はノルマンディーの海を思い起こさせた。マスクをずらし、潮の香りを嗅ぐと、私は急にフランスが恋しくなり、旅立つことの叶わぬこの事態をひどく恨めしく思った。いつになれば私たちは、気まぐれに列車に乗ったり、飛行機に乗ったりできるのだろう。

 撮影の最終日、次の移動までの待ち時間、数名でテーブルを囲んで休憩していると、それまで寡黙だった撮影アシスタントが、思い切ったように口を開いた。アートディレクターと私の仕事について聞きたいと言う。彼女は美大の四年生。就職活動をしなくてはならないのにまだ何もしていない、気が重い、と伏し目でつぶやいた。

 アートディレクターの丁寧なアドヴァイスを彼女とともに聞きながら、私は彼の話が長引くことを願っていた。そうすれば時間切れになり、この質問から逃げられる。
 アートディレクターは、大きな事務所で働くこと、小さな事務所で働くこと、それぞれのメリットやデメリットを説明したあと、「基礎は大事だよ」と付け加えた。フォトグラファーも「うん、基礎は大事」と言った。私は思わず口走ってしまった。
「どうしよう、私、基礎の勉強していない、私の年だともう基礎の勉強は間に合わない・・・」
 冗談ではなかった。私は文章を書いてお金をもらっているけれど、文章の書き方を学んだことがない。アートディレクターとフォトグラファー、若くして活躍しているふたりは、学ぶべきときに学んだからこその信頼を得ているのだろう。私がいまだにぱっとしないのは、そこをスキップしているからかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。

 余計な発言をしたために、アートディレクターの話に区切りがつき、矛先は私に向かった。
「私は就職活動をしたことがないし、私の話はたぶん何の参考にもならないよ?」
 そう答えたけれど、彼女がそれでも聞きたいと言うので、どういう経緯でいまの仕事に至ったか、私はかいつまんで話し始めた。しかし、いくら、端折って、と心がけても、話がずるずると伸びていく。アートディレクターのようにすっきりと整った話にならないのだ。あのときこういうきっかけがあって。あのときこういうひとと出会って。あのときこういう誘いがあって。話しながら、再確認させられる。私には目指すものもなく、積み重ねたものもなく、選択はいつも行き当たりばったりだった、と。

 就職活動をしなかったのは、深い考えがあってのことではない。私が採用されるわけがないと思っていたのだ。採用されるわけがないのに応募するなんて無駄。惨めな思いをするだけ。恋愛にしても仕事にしても、誰かひとりの代えがたい存在にはなれるかもしれないけれど、自分が大勢のひとの中から選び取ってもらえるような人間だとは、どうしても思えなかった。

 だけど、それだけだっただろうか。これから社会に出て行こうとしている女の子(私には二十二歳の彼女が女の子に見えた)との会話は、私が二十代の頃に胸に描いていたもうひとつのことを思い出させた。
 私はあの頃、“流転する人生”を送りたい、そう考えていた。先のことなんて決めずに、川に浮かぶ一枚の葉のように、右に左に流れていく。時には岩にぶつかり方向を変え、時には小枝の溜まりに留まり、時にはくるくるとその場で回る。どこに向かうのかわからないって楽しいな、そんな風に生きて行けたら、と夢想していた。
「心の中に縦軸を持っているひとが苦手」と言っていた時期もある。名声を博するとか、力を持つとか、裕福になるとか、得ることを目指し、登っていくイメージを持って生きるひとに、私は魅力を感じることができなかった。
 もしかしたら、そんな生き方には、私の与り知らぬ充足感が用意されているのかもしれない。得ることで、より自由になれるのかもしれない。でも、私の目には、そういったものよりも、風に引きずれられアスファルトを転がり駆けるイチョウの黄葉のほうが美しく映ったのである。

 彼女の母親ほどの年齢になった私が、いま振り返るならば、概ね願った通りの暮らしが送れたと思う。その結果、いつもというわけではないにせよ、そこそこ楽しく過ごしてきたとも思う。それで乗り切れたのは、人生の前半、日本の経済がいまほど停滞していなかったからかもしれない。2020年を生きる若いひとたちにとって、現実はもっと厳しいものかもしれない。
 私の話はたぶん何の参考にもならない。私が彼女に示せることは、「就職活動をしなくても、なんとか生きている大人がここにひとりいる」ということだけだ。だから、就職活動の末、良い結果が得られれば、彼女にとって私は無関係な存在で終わるだろう。ただ、もしも良い結果が得られなかったときは、私のことを思い出してくれるといいな、と思う。

 就職活動をしなくても、なんとか生きている大人がここにひとりいるよ。
 就職活動をしなくても、なんとか楽しく生きてきた大人がここにひとりいるよ。

トーキョー・アラート

北村周一

吐く息も吸う息さえもつつぬけのマスク貰ってよろこべますか?

質問は受けず応えずはぐらかす逃げゆくさきの私邸富ヶ谷

一行に終わるいちにちみずからの言葉もたねば籠るほかなし

ものいわぬ報道あいてにボウよみによむに任せし国家の大事

私見なれど髪の毛なべてふさふさなりプーチン以外の独裁者たち

「Stay」あれば「Go」すらもあるこれの世の泣く泣くイヌの振りするわれら

イケイケの声に押されて自粛からめざめしのちの五分余りのユメ

「GoTo」の声が高まるそのかげで官民一体選挙がちかい

夏の旅 行くも招くもうたかたの金が金よぶ「GoTo」地獄

賑々しき声はどこから二階から利権まみれの「GoTo」は行く

なにもかもが蒙昧にして出口なき自粛暮らしに雨止まずなり

わすれやすき都民がたくす一票の重さ軽さも七十五日

フリップを手にしてとくとこのわたし見よとばかりに示す公約

なにごとも他人事のようアナウンス口調にかたる明日の都政は

プーチンとコイケユリコとわが夫婦おない年なりこの世は記録

七いろに揺れる「虹橋」背景に以心伝心自衛のススメ

橋ひとつ深紅のいろにそめ上げてライトアップに手抜かりはなし

二度はないトーキョー・アラートさめざめと目立つところに咲くマンジュシャゲ

赤赤と炎える「虹橋」ありしことも褪めるにはやきトーキョー・アラート

猩猩緋かかるおいろに灯さるる都庁すなわちトーキョー・アラート

看板と地盤とカバン 金銭の出どこは同じひとつの財布

(ワイロ)その恐怖にひとり口噤むのみにはたらく思考停止は

賄賂にもいろいろあると知りながら謝罪即ち不起訴ご赦免

ほんとうのことが知りたい証したいマスクしてても声が震える

「疼き」のようなもの

越川道夫

つい少し前までドクダミが白い花をいっぱいに咲かせていたかと思うと、7月の半ばにはその花も終わり、茶色の花芯を残したまま濃い緑と紫色になった葉が斑になって地表に這いつくばっている。薊の花も終わりかけ、褐色の実が破れたところから綿毛が溢れ出している。林の中でオニユリとヤマユリが咲き乱れるのを楽しみにしていた。葛の花が咲き始めたという知らせがあって、少しだけ足を伸ばして河原に見に行ったのだが、まだ花は咲いてはいなかった。
 
今月は、瞬く間に過ぎていった。
コロナウイルスの影響下で、自分の仕事に何一つ指針が見出せないまま、それでも毎日川沿いを歩いて仕事場に通い、それでも申し訳程度にはある仕事をして少しばかりの収入を得、考えあぐねているばかりなのに気づけばもう深夜になっている。自分の中で何かが大きく変わり、これまでのようにはできないことは分かっても、何が変わったのかは分からない。分かっているのは、読むことができる本と、これまでは読めていたのに、この事態を経験してどうにも読むことのできない本ができてしまった、ということぐらいだろうか。
9年前の大きな震災の後もそうだった。仕事は止まってしまい、部屋の中で、「この本は読める」「この本は読めない」と一冊一冊選り分けていたのを思い出す。しかし、「これはもう読めないな」と判断した本も「いつかは読むことができるだろうか」というさもしい思いがあって、なかなか処分することができなかった。今もそれは部屋の隅に埃をかぶって堆く積まれたままになっている。
 
それだけではない。あの時は、「海」に向き合うことができなくなった。
海沿いの町に育ち、嬉しいにつけ悲しいにつけ海を眺めにいくような人人の中で育った。東海大地震と、津波と、やはり近くの海辺にある原発の脅威に脅かされ続け、ちょっとでも気を許せば死人がでるほどの荒い海にも関わらず、海は自分にとっていつも近しい存在だった。それが、あの震災以降、「海」にどんな顔をして会えばいいのか分からない。震災から4年後に初めて映画を監督した作品でも、初めての設定は海だったのだ。しかし、台本にはそう書いたものの、どう「海」にカメラを向けたらいいのかが分からない、分からないまま、舞台を「海」から「山間の湖」に変えたのだった。
やがて、「海」とは和解した、と感じている。きっかけは何のことはない。震災の二ヶ月前に生まれた息子は、何を知っているわけでもないのに赤ん坊の頃からずっと海を恐れていた。それが5歳になったある日、急に「海で遊んでみようかな」と言い出した。半信半疑で連れていくと、波打ち際に恐る恐る近づき、やがて「海」と対話でもしたか波と打ち解けたように遊び始めた。それを見ていて、なぜか「ああ、もう海を撮っていいのだ」と安堵するように思ったのだった。あの頃は、「子どもたち」と、それから「避難区域に取り残された動物たち」のことばかり考えていた。自分には「子どもと動植物以外撮るものがあるだろうか」とも考えていた。そして、その考えは今も変わってはいない。おそらく、どんなに人間の男女のことを映画で描いたとしても、私はきっと人間ではなく別の動物たちのことを描いているのだと思う。例えば、よく散歩で行く公園で出会う野良猫たちのこととか…。「あの野良猫たちを愛するように人間たちのことも見つめたい」と思っているのかもしれない。
 
緊急事態宣言からしばらくして、深夜仕事場から帰る途中、自分の胸の奥底に「疼き」のようなものがあることに気が付いた。それは何と言えばいいだろう。自分を「分解してしまいたい」ような、何かに自分が「解体されていく」ような、そんな「衝動」というか「疼き」のようなものが鳩尾の奥の方にある。あの震災の原発事故の渦中では感じたことがなかった「疼き」。これが、ウイルスの影響下だということなのだろうか。
 
夏にさしかかり植物たちはいっそう存在が強くなっていく。花は強く匂い、緑は獰猛だと感じるほど爆発的に盛り上がっている。人の手によって植えられた木や草花でさえも人間にとっての存在であることを拒絶して、樹は樹でしかなく、草は草でしかなく、私もまたその中で、生まれやがては朽ちていく生命の一つでしかない。
 
1925年スペイン風邪に罹患したヴァージニア・ウルフが、こんなことを書いていた。
 「空がいくら無関心でも、花たちがいくら取り澄ましていても、直立人たちの軍勢は勇ましい蟻ないし蜂よろしく、いざ戦闘へと進軍していく。ミセス・ジョーンズは予定どおりの列車に乗る。ミスター・スミスは車を修理する。(…)横臥(おうが)する者たちだけが、自然は自分が最後に勝つということを隠そうともしない、と知っている。」(「病気になるということ」片山亜紀・訳)

蛍が光る場所

イリナ・グリゴレ

蛍のいる場所は綺麗な場所だ。人のいる場所から少し離れていて、山の向こうにあって、夜にはとても暗くなる場所だ。津軽には岩木山という山がある。この山は神秘的だ。町からでも、どこからでも見える。

ここに住んでしばらく経つ。海に行ったり、山に行ったりして、いろんな生き物と風景を見てきたが、蛍を見るのは今年が初めてだ。きっと今の瞬間が私の心が一番きれいになって、過去、未来のこと一切考えずに「今」を一生懸命に生きようとしているタイミングだからかもしれない。

蛍はイカと同じ。キラキラしたものに騙されて寄ってくる。道路向かいの温泉宿の人から聞いた。ハザードランプを点滅させると、たくさんの蛍が出てきて思わず手に取ってしまった。そういえば子供の時も蛍の光る場所にいた。夏休みにいとこたち家族と一緒に山の方のティスマナという村に泊まった。私が10歳の時だった。古い修道院があった。夜になると山に囲まれているホテルの近くの沢にはたくさんの蛍が飛んでいた。

日常のいろんなことで心と身体が痛んでいた私にとって、初めての蛍を見た瞬間、手に取った瞬間はマジックだった。小さな生き物が私の手の上で歩きながら光る。私の身体全体が光っているように感じた。そのあまりの美しさに、癒しのような、恵みのようなオーラを感じた。きっとこういう自然治療法もあるに違いない。一週間ぐらい、毎晩蛍に会った。古い修道院の近くだったこともあって、あの場所は全体的に綺麗で、思い起こすと今住んでいる青森県の風景と雰囲気がよく似ている。

毎日、近くの川でいとこたちと野生のイワナを釣って食べ、半分以上私たちも山の生き物になっていた。10歳の女の子があんなに次々とイワナを釣るのも、人生に一度きりだと思う。命をいただく大事さを田舎育ちの私は知っていたし、お魚釣り女の子にしても上手といわれたことがあったが、イワナの動きとは他の川魚とちがってすごく激しくて、パワフルな踊りみたいで、毎日感動した。

ティスマナから帰る途中、またすごい出来事が起きた。オルテニア地方のトゥルグ・ジウにあるブランクーシの「無限柱」、「沈黙のテーブル」、「キスの門」という三つの岩石でできた巨大な彫刻を間近に見た。このとき、私はイメージを形にするということを初めて知った。
その瞬間は、私の人生に大きな影響を与えた。私にとっては息苦しい団地生活から解放された初めてのアート表現との出会いだった。圧倒的に違う世界に導かれて、私がこれから歩む道が現れた。蛍のイメージから無限の新しい世界に志す私の心が生まれ変わった気がする。とにかくインパクトがすごかった。

20歳になって出会った知り合いの人から突然に、私の容姿がブランクーシの名作Cumintenia Pamantului(大地の英知)によく似ていると言われて驚いた。きっと私が見た10歳の時の作品のイメージが自分の心に残って、すこし表面に出ていたに違いない。こんなにいいことを言われたのは人生で初めてだった。これ以上の褒め言葉は一生ないだろう。その人は天才的な脳外科医だったので、人の脳を読むのは得意だったのだろう。ブランクーシの作品から、私の日常が遠ざかっていたことは確かだが、実際の像、裸で座っている女性と表情が人の心と身体の内面のイメージを形にするとしたら、それは素晴らしいプロセスだ。きっと、だれにもこういう島みたいな場所が心の中にある。一瞬だけ、内面のことは表情か身体の使い方によって現れる。

子供の頃、蛍を見たシーンが蘇る。この年になっても自分の娘たちと蛍を見ることができてなんだか安心した。あの時の純粋な自分に戻れた気がした。蛍をまだ見ることができたということが、私の心の内面も綺麗なままなのだと勝手に受け止めた。

20代は自分の心を汚し、汚される場所にいた。その傷跡は消えないが、だんだん薄くなっていると蛍をみながら気づかされた。20代で「ラストタンゴ・イン・パリ」という映画のヒロインのふりをした自分がいた。たくさんの不思議な人に出会ったりしたが、私の内面にはブランクーシの作品のようにおとなしく座っている女の子しかいなかった。蛍が車のライトに騙されるように、自分もキラキラしている演技に騙されていた。知らないうちに、相手役も映画のように日常のなかで苦しんでいた。

30代の今の私の身体は、縄文土器の女性のように、産後のお腹がでて垂れている肉に太い脚。こうして私自身もブランクーシの「沈黙のテーブル」に近づいてきた気がする。


 

夏の方丈記

福島亮

ものすごく暑い。7月31日、現在の気温は39度である。朝は7時くらいになると日が照ってきて、ぐんぐん暑くなってくる。それでもフランスは湿気がないから不快ではない。が、この上昇する暑さがずっと続き、午後になると、西日が照りつけるこの小さな部屋はさながらピザ窯である。夜は9時くらいまで明るいから、この酷熱の時間が最も長い。今の住まいは、ベッドを置けばいっぱいになってしまうような部屋である。当然クーラーなど設置されているはずもなく、窓を開けてどうにかやり過ごす。が、ここにきて新たな刺客が登場した。蜂である。なんと、窓のシャッター格納スペースの内側に蜂が巣を作ったようなのだ。朝8時頃から連中は起きだし、暗くなるまで活動を続ける。刺されたことはないから、どれほど危険な種類なのかわからない。くわえて、巣を直接見ることができないので、連中の規模もよくわからない。暑い。だんだん頭がぼんやりしてくる。

ジョルジュ・デュアメルの本を読んでいたら、蜂の巣の話が書いてあった。子どもが蜂の巣を見つけたので、それを庭師に頼んで駆除してもらったそうだ。燻され、崩れ落ちてゆく蜂の巣を見ていると、人間の文明もこの蜂の巣のごときものではなかろうか、と思った、と、まあこんな感じの話だった。どこかで読んだことがあるような考察である。僕はというと、巣がどこにあるのかも分からず、手も足も出ないから、じっと耐えるより仕方ない。さすがに窓を閉め切っておくのは辛すぎるので、観音開きになる窓のうち、蜂の出入りがない方を開けている。連中を刺激することなく、できることならこの狭いスペースを分けあおうじゃないか、と開き直り、ぼんやりと観察していると、蜂は自分の巣へ一直線に戻り、またすぐ出て行く。なかなか働き者だ、と思った矢先、フラフラ部屋の中に入ってきた奴がいつまでもカーテンにしがみついていたりする。これはどう考えてもサボっているとしか思えない。どうも蜂も人間もサボる奴はサボるのだな、と我が身に重ねてみる。巣があると思われる場所のすぐ下には、力尽きた蜂の死骸がいくつか落ちている。だが、しばらくすると風が吹いて、その軽い体はどこかへいってしまった。

その風に誘われたのか。唐突に、最近読んだ方丈記を思い出す。ある人に勧められて堀田善衛の『方丈記私記』を読んだところ、それがあまりに面白く、それから急いで原文を読んだのだ。方丈記で描かれるのは、それはそれは克明な災殃の映像である。とりわけ、地震で崩れた土塀の下敷きになった子どもの話などは、できることなら想像したくない。長明の詳細な筆致を受けて、堀田は大火や地震に見舞われる京の都を空襲で焼かれた東京に重ねる。堀田の文章を読んだ後では、長明の文章を現代に重ねずに読むのは難しい。長明の書いた文章をパリの一室で読んでいると、この鎌倉時代の文章が、ふといつの時代のものなのか分からなくなることがあるのだ。もしや、ついさっき書かれた文章なのではないか。もっとも、私たちは戦乱の只中にいるのだ、などという全体主義じみた言葉の動員をしたいわけではない。唐突に帰ってきた言葉がやけに真新しく感じられるのは、ひとえにこの10年ほどの間に長明の時代とさして変わらぬ出来事が立て続けに起こったからに他ならない。細々とした生活のレベルでは、たしかに変化はあった。郵便局では入場制限をおこなっているし、消毒アルコールは店舗の入り口だけでなくバス停にも設置されている。それでも、リュクサンブール公園に行けば、人々は顔をあらわにして日光浴を楽しんでいるし、知り合いは先日バーベキュー・パーティーを自宅の庭でしたそうだ。いつかの時間がひょっこり戻ってきたのだろうか。それともいつかの時間の化粧をした忘却がふと忍び込んでいるのか。長明の答えはこうである。「すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。」

ぼんやりとした頭で、方丈記を思い返しながら窓辺の蜂を眺めていると、少しずつ、奴らの動きが大人しくなってきた。時折吹く風が涼しい。この部屋で、僕はあと何回夏を迎えるのだろうか。いつか忘れてしまう涼しさならば、今ここでできる限り味わっておこう。——まあ、その前に夕飯か。

コロナと育児(2)

西荻なな

◯月×日(生後152日)
きょうで生後5ヶ月。体重は8kgが目前だ。体重は平均より少し上、身長はほぼ平均値で順調な成長を見せている。首もしっかりすわり、両親の食事風景を興味深そうに眺めてみたり、唾液の量が増えてきたならば、そろそろ離乳食のタイミングがやってきた、ということになるらしい。往々にしてそれが生後5ヶ月から6ヶ月の頃。5ヶ月の時点でその条件を満たしていればはじめてみてもいい、ということで、どうも食欲旺盛で物足りなさを覚えている感じの様子をみながら、ちょうどぴったり5ヶ月の今日、離乳食をはじめてみた。まずは水とお米の量を10対1の加減で炊いた10倍粥を小さじ一杯から。重湯よりはもう少しもったりするくらいの粘度。小さじにすくってとんとんと下唇にサジの先で触れてみると、口を動かして能動的な姿勢を見せてくれた。初めてなのに上手にサジを口に入れる。口に入れた後も吐き出すこともなく、ごくんと飲み込んでくれた。これは順調に進めそうだ。

ところでこの4、5日間悩まされているのは、夜中の頻回授乳。なぜだか新生児の時並みにお腹が空いたと夜中に泣いて起こされる。2時間に1度くらいのペースだからこちらも寝ていられない。一度はこちらが起こさない限り起きないほどに睡眠時間がのびていたのに、時計の針を巻き戻したかのよう。なぜなのかわからず困り果てネットで検索してみると、ちょうど生後5ヶ月頃に授乳間隔が再び短くなってくる子どもがいるらしく、「睡眠退行」というらしい。平均的には1日5〜6回くらいにまで授乳回数が減り、授乳タイミングも毎日スケジュールが定まってきていて、母親はだいぶ楽に育児をできるようになっている、と育児アプリなどには書き込まれているが、我が子はというと昼間も授乳間隔が2時間空けばまだいいほうで、夜などは30分おきだったりする。身体的なきつさは500メートルくらいの中距離走を何本か連続でこなしているようで、これはほんとにしんどい。

離乳食を始めると徐々に頻回授乳も睡眠退行も解消されていく問題らしいけれど、お粥小さじ1レベルの今では、まだまだ先のことに思われてしまう。頻回授乳をすぐに解消するのは難しくとも、お昼寝の少なさをなんとかできないか。寝てくれれば間隔も自ずとあいてくるだろう、とベビーカーに乗せて頻繁にお散歩に出かけるようにすることにした。この晴れ間のない梅雨の合間をぬって。それにしてもいつしか力も強くなっていて、パシパシパシと手で叩かれたり、二の腕をぎゅうとつねられたり、足でどどんと蹴られたりする。指先の動きも器用になり、つかむ力も着実に強くなっている。タオルもビニール袋もティッシュもなんでもつかんでしまう。顔は柔和で優しげなのに、力の加減しないパワフルさに男の子であるなあ、と思うこと度々だ。あと成長といえば、お風呂上がりに突然、スイッチが入ったかのように一人おしゃべりを始めることが増えた。今日もひとしきりおしゃべりして、そのうち泣き出して、大泣きになり、授乳をしたらコテンと寝た。なぜかモーツァルトのメヌエットを口ずさむと、曲が終わる頃にウトウトし始めて入眠への助走となることが多いのだけど、夜の泣きにはとうとうきかず、授乳に流れてしまった。早く眠るのが上手になってほしい。すべては睡眠の質にあり、という気がしてならない。

◯月×日(生後158日)
昨晩は大泣きで大変であった。お風呂上がりに授乳をしてベッドに寝かせたのが19時30分。この時点ではご機嫌だった。しかし、お風呂上がりの運動タイムを終え、いつものように一人おしゃべりを始めると、おしゃべりの様相がだんだんとカオスをきわめていつのまにか収まりのつかない強い泣きに変わった。耳をつんざくような、空気が張り裂けそうな泣き声になり、お手上げ状態。授乳をしても、扇子であおいでも、トントンしても抱っこをしてもダメ。お昼寝のぐずりの時は抱っこ紐に入れてストンと寝てくれることが多いので、抱っこ紐を持ち出してみるが、眠りにおちてくれない。しまいにはひとしきり泣いたところでミルクを足してみて解決したが、そこまで1時間以上泣きっぱなしだった。これが夜泣きというものだろうか。でも、夜泣きの定義は、寝ていたところから急に泣いて起きることらしいので、ちょっと違う。眠れなくてぐずぐず、の寝ぐずりなのだろうか、泣きのパワーが強烈すぎるけれども。

それにしても眠る前に突然、あーうー、あーうー、としゃべり出す様は、何度聞いてもまるで地球外生命体との交信のように思われてしまう。きっと月から「きょうの地球の様子はどうだ、報告してくれ」「そろそろこっちに帰って来たらどうだ、七夕も近いし」とか言われて、「やだやだ、そろそろ地球にも慣れてきたんだから絶対嫌だ」と板挟みの辛さゆえの泣きなのではないか、と妄想が膨らんでしまう。脳の急速な発達で、昼間に浴びたたくさんの情報を処理しきれずに泣く、というのが夜泣きのメカニズムの有力説らしいけど、そうはいってもはっきりと解明されていないのだから、妄想が現実に近いことだってあるかもしれない。でもミルクを足したおかげなのか、6時間くらいその後は連続で寝てくれて助かった。実に久しぶりによく眠れた気がする。

◯月×日(生後163日)
今朝は家から徒歩3分の保育園見学へ子どもを連れて行ってきた。コロナ対策で保育園見学をしたくてもできない時期が続いたが、ようやく7月になって各保育園がちらほらと再開してくれるようになった。1日1組、もしくは2組の限定対応。マスクはマストだし、入り口で検温もするという。案内してくださった園長先生は朗らかな雰囲気の方で、お庭から園の中を案内してくださる。「今はコロナ対応でお休みしているんですけれどもね、毎年園庭ではこの大きな滑り台を使ってスライダーのように夏のプールを楽しむんです」「コロナ対応で今日は入っていただけないけれども、こちらが0歳と1歳児の保育室です」などなど。

途中、もう一人の保育士さんが加わって、園の説明をしてくださるというので、もうひと組のお母さんとともに椅子に腰掛け、スライドの説明を聞くことに。保育士さんとの間には透明の幕を挟む格好で。説明が進むにつれ、膝の上でご機嫌にしていた子どもがぐずり始めた。保育士さんの説明に、ぐずりの合いの手を入れてゆく。泣き止んでくれるといいなあと膝の上であやしていると、脇で説明を聞いていた園長先生が「よかったらちょっと預かりますよ」と受け取ってくださった。はじめてなのに落ち着くのか、とてもいい子にしてる。グズグズが次第に落ち着いたかと思うと、園長先生の腕に自分の手を絡ませた。和やかな空気が流れる。説明ももう終盤という頃、園長先生の腕に手を絡ませたまま、スヤスヤと寝息を立て始めた! それは幸せそうな実にいいシーンで、別れ際、なんとなく別れがたい気持ちに。園長先生も「色白のハンサムボーイですねえ。預けていってくださっても大丈夫ですよ(笑)」と目尻が下がっていた。家族以外の人に抱っこしてもらったことが思えばなかったものなあ、人見知りもせずに嬉しい気持ちになった。

◯月×日(生後167日)
離乳食はあいかわらず順調。いつもこんなに食べて大丈夫かしら、と心配になるほどの食欲で、一昨日からお粥と野菜に、タンパク質も加わった。きょうのメニューはかぼちゃのマッシュ、10倍粥、そして火を通した豆腐。いつも準備を始めると嗅覚が刺激されるのか、お腹が空いたと泣き始めてしまうので、こちらも気持ちが焦る。品目数が3になると、なかなか用意も大変だ。お粥と豆腐は濾さなくても大丈夫かな?と濾すのを怠ったら、やはり粒子が大きいのか、いつもより食べるのがスローに。ここは面倒でも丁寧に濾すべきなのかも。来週からは冷凍の裏ごし済の野菜にも頼ろうと思う。      

夕方はぐずぐずぐずぐず、夕食前にも大きな声で泣いていた。外の風がそよそよ入ってくるのが好きなので、家の通り沿いの窓を開け放っていたところ、お散歩で家の前に差しかかった3歳くらいの男の子が「赤ちゃんが泣いてる!」と言って通り過ぎて行った。そう、そうだよ! と、それを聞いて新鮮な気持ちに。妊娠前の私が同じように赤ちゃんの泣き声に反応することはなかったんじゃないかな。どこかの家の中から赤ちゃんの泣き声がしたとしても、その泣き声に彼のように耳がとまることはなかったような気がする。彼にとっては、赤ちゃんの存在が年齢的にも、そして存在的にも近しいのだな、と感じ入ってしまった。保育園見学に行ったときに、そういえば我が子は0.1歳児のお部屋前で興味深そうに中を眺めていたけれど、同い年くらいの子どもを見て何か思うところはあるのかな。どんなふうに赤ちゃんの存在が目に映るのかな、と時々とても気になる。

◯月×日(生後171日)
一昨日あたりから発語のパターンに複雑さが加わり、「ぱっ、ぱっ」と破裂音を出して遊ぶようになった。これはパパというワードを口にする日も近いか、と思うけれど、その日の夜中3時くらいに突然起きて、一人で5分ほどしゃべり続けたのには驚いた。喃語とはいえ語彙数がいつもよりもずっと多く、うんぬ、うんま、という言葉も聞こえたような気がする。朝になると、そのおしゃべりの記憶がすっかり遠のくので、その驚きを記憶に鮮明にとどめることができないのが残念でならないが、確かにおしゃべりだ。寝返り返りも完璧に習得したので、寝返り→寝返り返り→寝返り、と連続技を決めることも度々。気づくと「ワープしてる!」と叫んでしまう大移動をしているので目が離せない。でもまだ前進するのは難しいみたいで、それゆえに悔し泣きをしている場面に遭遇する。どうすればハイハイができるのかな? 何か成功体験が必要なのかもしれない。

◯月×日(生後176日)
子どもの動きがダイナミックになってきたので、それまで大人のベッドの上にちょこんと乗せていたベッドインベッドを取り払って、同じベッドの上で寝かせてみることにした。ベッドインベッドのちょっとした高さを乗り越えて大人のベッドにダイブしてきてしまうので、そのタイミングがいつやってくるのかわからないとちょっと危ないだろう、と止むを得ずの判断だったのだが、広い荒野に放たれた途端、ハッスルして目は爛々、さらに活動の幅が広がってしまった。ベッドの端から端まで、面を最大限に活用して、ごろんごろんごろん、止まることなく転がり続ける。一方向に転がるばかりか、途中で時計の針のように方向転換をすることも覚えた。寝返り返りも簡単にできる今、ひとりでに転がり続けるので、部屋の端っこにある新たに「壁」や「カーテン」を発見してその質感を確かめるのにも余念がない。カーテンを両腕で抱えて戯れたり、壁に爪を立ててカリカリとその音を楽しんでいたりする。

◯月×日(生後178日)
梅雨の開けない空の重たい毎日。おそらく低気圧にやられたのかな、と具合が悪そうに目覚めた夫が言う。身体が気だるいようで、言葉も少なくなんだかしんどそうだ。いつも一緒に連れて行く散歩もちょっとしんどいと私ひとりで行くことに。もりもりと食べるご飯も控えめでさすがに心配になる。夕方になり、さらに倦怠感が強いというので熱をはかると37度5分の微熱。まったく身に覚えがないけれど、もしやコロナか? と、いざと言う時に備えて夫には別の部屋で寝てもらうことにした。夫婦でコロナに感染しては、乳児の子育てをどうしたらいいだろう。乳児に感染しないとも限らない。コロナの症状について慌てて検索すると同時に、家の窓という窓を開け、トイレや風呂の拭き掃除を夜中から開始し、とれる対策をすべてとった。翌日には平熱に下がったものの、その翌日、恐れていた事態が。朝になり微熱、夜になると38度7分まで熱が上がった。これはもう、コロナに間違いないだろうと判断。祝日ゆえ保健所の電話がつながらないが、明日になっても下がらなければ保健所経由でPCR検査を頼もうと心に誓う。別室で起き上がれない夫に、家庭内ソーシャルディスタンスで食事と飲み物だけを渡し、子どもと別室でご飯を食べ、寝る。家事と育児だけで1日が終わり、いつにも増して隙間がなく、心理的にも辛い。すでに感染していたらどうしよう、と頭を離れずよく眠れない。翌朝、微熱に下がり、だるさも抜けたという言葉にほっとして、軽症のコロナだった可能性も拭えないが、日常生活へと再び戻っていった。

◯月×日(生後182日)
きょうは生後6ヶ月、ハーフバースデー。もう生まれて半年も経ったのか、と驚いてしまう。まだ出産したのが昨日のことのようでもある。体重は8300g。ムチムチしているだけでなくて、相変わらず軽やかに動き回る。こちらの体めがけて頭をドリルのように突進してきたり、寝た姿勢で両足をばたんばたんと振り下ろしたり、腕をコアラのようにつかんできたりする。エアコンのリモコンとかスマホとかティッシュ箱など、サイズが大きい直方体のものもつかむようになった。エアコン操作ボタンを押して暖房機能に設定を変えてしまったり、電気の明るさ調整ボタンを押して部屋を暗くしたりしている。成長を感じるところは他にもいろいろあるけれど、中でも「笑い」に成長ぶりと独自のセンスを感じる。こちらがモノを床に落としてキャハハ、お菓子の袋が破けなくてキャハハ、私の体操ポーズを見てキャハハ。オノマトペの音にキャハハ。他にもたくさんあるのだが、すぐ忘れてしまう。でもセンスがいいな、とその都度思うのは確か。疲れていても笑いに癒されることが多いのは幸せだ。着実に新しいステージに入っている。

数日前、家庭内コロナ感染の危機があった時には、はじめて母娘ふたりの生活を寝室ですることになり、はじめて私も敏さんをお風呂に入れ、ワンオペ育児の大変さを体感したけれど、裏を返せばいつも3人の生活が基本にあるということ。ありがたいかぎりだ。私もコロナにかかって入院生活するかもと思ったときには、入院の連想で不思議と出産の日々のことを思い返していた。ひとりベッドに横たわり、硬膜外麻酔をしてからまだ今日は生まれない、そして心拍が落ちはじめて足にマッサージ機器をとりつけ、口には酸素マスクを当て、しだいに装備が増えてゆくのは怖かった。思えば酸素マスクもつけていた。酸素濃度を指先ではかるオシレーターをつけたのも初めてだった。いまやすっかりパワフル元気な子どもが隣にいるけれど、緊急帝王切開でお腹を開けてみるまでは、本当に元気かどうかもわからなかった。

たまたま昨晩、高校の同級生チャットで生殖医療と出産をめぐる技術の進歩と倫理について話が盛り上がっていて(そのうち、医師が3人いる)、代理母出産をはじめとする出産にも話が及んだのだが、数々の出産立会経験のある小児科医の友人が、「出産はやっぱり大なり小なりリスクがあって、残念ながら悲しい顛末の出産に立ち会うことも何度もあった。母子ともに健康というのは本当に奇跡」と書いていて、本当にそう、奇跡なのだ、と反芻していた。このチャットのメンバーの一人は、1週間前にコロナの中、3人目の子どもを産んだ。立ち会い出産ができないことを残念がっていたし、入院直前には夫の発熱があり、夫婦二人でPCR検査を受けるというストレスフルな状況を経験したようだったが、何事もなく無事に生まれて本当に良かった。コロナの心配と隣り合わせの中で子どもを産むストレスは想像に難くない。こんな時だからこそ、命が生まれることもいっそう奇跡に感じられる。生後半年、これから胎児の時に私から授かった免疫が切れて、風邪をひきやすくなったり病気になったりしやすくなるみたいだけれど、どうか健康に育ってくれますように。

189 花かずにしも もとな

藤井貞和

へぐり(平群)のいらつめの秀歌を、
書き出してみます。 「麻都能波奈 花可受尓之毛
和我勢故我 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追」、
まつのはな、花かずにしも わがせこが、
おもへらなくに、もとな さきつつ――

あなたは万葉集から、この秀歌を、
書き出しました。 夕日があかあか。 もう、
なぜ、立ち止まるのだろう、
万葉は四五〇〇首をかかえている、
世界有数のアンソロジーなのですよ。

いちいち立ち止まってはいけません。 ざっと、
読み明かして、あるいは暮れゆけば、
ぱたっと閉じて、あなたの時間へ、
帰らなければなりません。 歌集から離れて――

いらつめの恋歌は、花かずでしかない、
むかしの少女の物語ですよ。 あなたは、
あなたの恋歌に、世界への恋に、
心を尽くさなければならない、もとな(わけもなく)


(巻十七、三九四二歌。折口は〈この松の花の譬喩は、当時の譬喩としては破天荒のものであったのだろう。佳作」〉とする(口訳万葉集)。新大系を引いておこう、〈松の花を詠むのは、万葉集ではこれのみ。晩春に咲く目立たない花ではあるが、前歌の「待つ」に続けて、「松の花咲く」とは待ち続けるばかりということの譬喩であろう。「花数」は、花として数え挙げられるほどの花の意。他に例のない表現。「思へらなくに」は、「思へり」から「なくに」に続く形。万葉集では唯一の例」〉とある。平群女郎の手になる、佳作を越える傑作である。)

梅雨プルトニー

璃葉

蒸し暑い日が思ったよりも長く続いている。もちろんだが、この季節は苦手だ。
空間がじっとりと重たく、体中に汗がにじむ。
風を通すために網戸にしてあるはずなのに、通り抜けずに停滞しているのはなぜだろう。横から横へと流れてはくれず、上からじんわりプレスされているような、降りかかって溜まって、この部屋全体を包み込んでしまっているのではないかと思うぐらい、重苦しい。
湿気のせいで、歩くたびに足の裏がぺたぺたと板間に張り付く。ふだんよりも倍遅い自分の動きの気配が部屋中に点々と残っているみたいだった。

この気候のおかげで食欲が失せている毎日だけれど、唯一食べたいと思えるのは酸っぱくて辛いものだ。
冷蔵庫に眠っている鶏ひき肉を生姜とニンニクで炒め、刻んだ玉ねぎ、ししとう、パクチーを加える。紹興酒、鶏ガラの素、ライムリーフやレモングラス、唐辛子なんかを適当に放り込み、ついでライムをたっぷり絞ればできあがり。これをレタスで包んで食べるのに最近はまっている。これを食べると大体元気がでるのだ。

食後のお酒をビールか焼酎ハイボールかで迷ったところ、この時期にぴったりのウイスキーがあることを思い出した。
オールド・プルトニー12年は、ストレートで飲むと塩っぽさとオイリーさが目立つけれど、ソーダで割ったとたんすっきりした味わいになって、とても飲みやすくなる。すっきりしているのに塩気も深みもちゃんとあって、ぱちぱち弾けるソーダも気持ちよく、こんなじとじとした日には最適なのだった。スコットランド最北端にあるプルトニー蒸留所の人たちにいつかお礼を言いたい。梅雨にぴったりのウイスキーなのです、と。

じゃわじゃわと鳴き続ける蝉の声と湿気に包まれながら、潮風のような味のプルトニーハイボールを楽しむ。こうして何とか低気圧とうだるような暑さをやり過ごしたい。

トラ・トラ・トラ

さとうまき

コロナ禍で、すっかり忘れてしまいそうだが、終戦75年の夏をまもなく迎えるのだ。なかなか、広島や、長崎に行くこともできないのだが、やっぱり戦争のことをしっかりと考えたいものだ。

僕は、清瀬に住んでいる。清瀬には、非核平和宣言都市という大きな看板があちこちにあるが、原爆ドームのような戦争に関する歴史的なものは見当たらない。結核療養所(現結核研究所)や、ハンセン氏病の療養所(正確には東村山市)や、その他大病院がいくつか連なっているために、病院の町として有名だ。清瀬で戦争を考えるのにはどうしたものか。

僕がなぜ清瀬に住んでいるかというと,オヤジが気象庁につとめていたので、気象衛星センターを設立する際に呼ばれたのである。当時中学3年生だった僕は、センター内の宿舎で暮らすことになった。

センターの前身は、気象通信所で米軍の大和田基地内にあったそうだ。もともとは日中戦争開戦時、アジア太平洋地域の無線受信および傍受目的の基地として建設された。第二次世界大戦中には、真珠湾攻撃の成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」を受信した。また、原爆投下に関する電信を傍受するのもこの通信所の役割であったという。

米軍基地となった通信所は、ベトナム戦争では重要な役割を果たしていた。僕が、清瀬に来たときはすでにベトナム戦争は終結して一年がたっていたけど。通信所の周りは不思議な空気が張り詰めていた。この地域は日本の中でも通信状態が極めていいらしいから、まさにいろいろな通信が飛び交っていたのだろう。

気象庁の土地があったので、私たち家族は、そこを借りて家庭菜園をやっていた。フェンスの向こう側には、米兵がいて不思議な感じがしたものだ。洋館風にこしらえた建物が廃墟になっていて僕はよく忍び込んで、いろいろな物語を想像してみるのが楽しかった。この建物は米兵相手の売春宿で、時には映画監督のように、「24時間の情事」のような作品に仕上げてみる。あるいは時には、つげ義春の漫画の世界のように。満月の夜になると、わくわくしてきてよく自転車で出かけて行った。

先日、92歳になる親父を車に乗せて久しぶりに出かけてみた。あれから40年以上も立っていた。米軍基地はまだあった。前は、道路が基地の入り口までつながっていたのだけど、今は通行止めになって、さびれている感じがしたが、地下には巨大な基地があるのかもしれない。もっと大きな宇宙戦争に絡むような計画がひそかに進められているのだろう。ここに来ると、本当にいろいろな妄想が湧き出てくる。

今から思えば、初めての国産の気象衛星を打ち上げるという国家の一大任務の傍らを担っていたオヤジは、大したものだと思う。その当時の僕は、国家のことなんか全然わからなかったからただのクソガキだった。

「畑耕したよね」オヤジと思い出話をした。オヤジは嬉しそうだった。なんだか、時空を超えて、宇宙にもつながったような気がした。そうそう、戦後75年の話をしようとしていたんだね。随分話がそれてしまったけど。また、大和田通信所に通信を傍受しに行ってくるよ。

アジアのごはん(103)インドの新型コロナとベチバー

森下ヒバリ

長い梅雨がやっと明けた。久しぶりの青い空だ。シーツを洗って、カバーも洗ってとウキウキだ。しかし、今日からもう8月である。梅雨が明けるように新型コロナ感染症の流行も終わってくれればいいのに。

外国はおろか、国内の移動さえままならないとは、だれがこんな事態を自分のこととして考えていただろうか。感染症のパンデミックはずっといつか起こる、起こると予測されていたのに、人間というのは本当におろかなんだな。もちろん自分も含めて。

ワタクシの場合は連れと1月末からマレーシアを経由して南インドを訪ねていた。クアラルンプールを発つとき武漢閉鎖を知ったが、サーズの時のように地域的なものだろうとタカをくくっていた。インド東海岸のチェンナイ空港も誰一人としてマスクをしていなかった。

マドゥライを経てインド西海岸のケララ州にたどり着いたとき、インドで初めて感染者が出た。しかもケララ州アレッピー。これから行くところである。聞くと、武漢で看護学校に留学していた学生が帰国し、3人が陽性となったとのこと。そのまま入院隔離されているとのことで、アレッピーに行っても問題はなさそうだった。

お気楽に南インドを堪能し、2月の後半になってから日本のダイアモンド・プリンセス号の感染が報道されるようになって、食堂などでテレビニュースが流れていると、ちょっと肩身が狭くなってきた。その頃南インドに来た友人は「コロナ、コロナ」とさかんに揶揄されたとのことだが、ヒバリはたった一度小学生に言われただけである。

インドは、西欧と同じく、マスクは病気の人がするものなので、砂ぼこりを避けるためにマスクをしようとする連れを「お願いだからやめて」と真剣に押しとどめるようになったのもこの頃である。フランス人などの観光客も多かった。アジア人を見る目つきがいやそうな白人旅行者も現れるようになった。

2月末に予定通りタイに移動するか、日本に戻るかインドで考えた。しかし、タイは日本より感染者数も格段に少なく、死者も2人ぐらいでむしろ日本より安全ではないか。バンコクに予定通り飛ぶことにして、コーチン空港に行くとさすがに検疫官や出入国管理官たちはマスクをしていた。街中でマスク姿を見たのは、明らかに風邪をひいていたリキシャのお兄ちゃんたった一人であったが。

そして、インドを出発した3日後、インド政府は3人の感染者が5人に増えた時点で、インドビザの無効を発表する。新規の外国からの入国をお断りするという措置である。さすが、強権国家やることが大胆な、と思っていたが、その後のインドの感染状況はすさまじく、現在は感染者累計163万8000人、死者3万5747人になっている。

2月末のタイは、中国からの観光客が日本よりもさらに多いお国柄のため、日本よりもはやく流行が始まったが、あまり感染は広がらなかった。しかし、外出にはマスクが必須となり、人混みにはあまり出て行かないように気をつけた。空港や飛行機、バスなどが危険と思われたので、どこにも行かず、バンコク引きこもり生活。

3月半ばを過ぎると、帰りの飛行機のキャンセルが何度も出て右往左往した。けっきょくエアアジアは16日で国際便をすべて止めた。なんとか別会社の便を取って3月21日に関西に戻ってきたが、成田行きは21日でもう終了、関西行も2日後に一便飛ぶだけで終了という、けっこうギリギリな帰国であった。そして、22日からバンコクはロックダウンされたのであった。

コロナ禍を縫うような旅であったが、まだインドに居るときはあまり気にせず旅を続けられたのは幸いだった。ケララ州のフォートコーチンにゆるゆると滞在していたが、最後の日の散歩ではじめてオーガニックショップを見つけることができた。同じときにフォートコーチンに滞在していた友達が、自分の宿の近所にそれらしきものがあった、と教えてくれたのである。

大きな道路から海の方に入った路地の奥に、ちょっと外国人旅行者向けのこじゃれた食堂と、オーガニック食品・雑貨の店があり、店にはケララの伝統発酵食の塩辛、カツオのふりかけもあった。味見したら、日本のカツオのふりかけそのもの。そして、精油のコーナーがあったので、そうだインドはベチバーの原産国ではないかと思い出し、訊ねると、あるよあるよとベチバーの精油を出してきてくれた。

ベチバーはVetiverとつづり、イネ科の多年草である。まだ実物は見たことはないけど、レモングラスやすすきに似た葉っぱを持つ。根っこが精油成分をもちインドでは古くから虫除けや香料として使われてきた。

そう、ベチバーは実はダニ除けに素晴らしく効果があるのである。昨年から京都の家にダニが出現し、かゆくてたまらなかったので、ダニ取りシートを盛んに使っていたが効果はあまり感じられない。悩みの種だったところ、ふとベチバーオイルがゴキ退治によいという話をネットで見つけ、読んでいるとダニ除けにも効くという。

なに!さっそくベチバーオイルをネットで購入し、アルコールで希釈液を作り、そのベチバースプレーを足にシュッ。すると、足のかゆみがするすると消えた。すばらしいぞ!そして、いつも使っている床掃除のアルカリ電解水シートにスプレーし、毎日床掃除をすることにした。

その効果のほどは、手足にスプレーすると即効で効くものの、家全体のダニを退治するにはなかなか時間がかかった。けれども、1年後のいま、確実に半減以下。そして、意図してなかったけど、ゴキちゃんもいなくなった〜。というわけで、わが家では今ベチバーオイルは欠かせないのである。

ベチバースプレーを作る場合、エタノールの濃度がコロナウイルスに効くほど高くなくてよい。むしろ、肌が荒れるので濃度は低くていい。濃いのは水で薄めて下さい。エタノールは、ベチバーオイルを薄めるために必須。消毒用の高濃度のエタノールは品薄で高いが、濃度の低いのは出回っているので、それを使えば水で薄めなくても。ただ、イソプロピルアルコールIPAは人体にめっちゃ悪いので、使わないでね。

 浄化した水またはミネラルウオーター100ml
 消毒用エタノール10〜20ml (濃度の低いアルコールは量を増やす)
 ベチバー精油10滴
 
これらをガラス瓶か、アルコール耐性のプラスチックスプレーボトルに入れ、よく振って混ぜる。白く濁っても問題なし。

気になる匂いですがじつはヒバリはこのベチバーの匂いが大好き。大地を感じさせる、ほのかに甘く、スモーキーな香り。多くの香水のベースメントに使われるというが、香水臭くはないのでだいじょうぶ。

虫除けとして、精油や煮出し汁を使うだけでなく、根っこをぶらさげておいたりもするらしい。ケララのフォートコーチンのミニスーパーで細い植物の茎みたいなもので編んだタワシ状のものを売っており、エコなタワシかと思っていたら、それがベチバーの根っこの虫除け&香りボールだった。次に行ったらそれを買おう、と楽しみにしていたのに、いったいいつ行けるのだろう‥。

カブト虫を捕りに行く。

植松眞人

 車の運転はおじさんで、助手席にはおじさんの息子で、僕よりもひとつ年下の従兄弟が乗っていた。「嫌というほどカブト虫が捕れるぞ」というおじさんの言葉を信じて二時間ほど獣道のような場所をうろうろと探したので、僕たちはすっかり疲れて黙り込んでいた。従兄弟は自分の父親の言葉が嘘だったことで、僕たちよりもさらにショックを受けていて、あからさまに不機嫌な顔をしていた。
 僕はいつも酒ばかり飲んで飲み過ぎると、まだ小学生の僕らにも絡んでくるおじさんがもともと嫌いだった。それなのにカブト虫につられてしまったことに、自分自身に腹が立っていた。従兄弟のこうちゃんは、たぶん僕がおじさんをあまり好きじゃないということを知っていた。だから余計に、カブト虫が捕れなかったことに、混乱していたのだろう。
「こうすけ、そんな顔するな。しゃあないやないか、カブト虫かていろいろあるんや」
 おじさんは照れくさそうな表情でそう言ったが、こうちゃんの気持ちは収まらない。
「うそつき」
 こうちゃんは小さな、でも強い口調でそう呟いた。おじさんは間髪入れずにこうちゃんのほっぺたを張った。パシッという高い音がして、こうちゃんが泣き出した。よほど悔しかったのだろう。こうちゃんの泣き声はいつまでも収まらなかった。僕と弟はこうちゃんがビンタされたことに驚き、泣き続けるこうちゃんを固唾を呑んで見守った。こうちゃんは泣き続けると決めたようで、泣き止んだかと思うと無理矢理のように鼻をすすり、また泣き始める。僕と弟も気持ちとしては、こうちゃんと同じようにおじさんを嘘つきだと思っていたのだが、正直すでにこの状況に疲れていた。そんな様子を察してか、おじさんが僕に話しかけてきた。
「カブト虫おらんかったなあ。帰りにアイスクリームでも買うたるからな。機嫌直しや」
「うん、わかった」
 僕はそう答えたが、こうちゃんはあからさまに僕をにらんでいる。すると、おじさんは自分の息子であるこうちゃんに笑いかけた。
「もう泣くな。お前にはわからんかもしれんけどな。人生にはこんな日があるんや。いつでもうまいこといくような人生、逆にろくな事ないぞ」
 おじさんはそう言うと、力なく笑って、その後、家に帰り着くまで一言も話さなかった。こうちゃんは泣き疲れて眠っていた。