梅雨の日々

高橋悠治

人間が地球の隅々まで入り込んで そこにいた動物たちを追い出し 草木を切り倒しているうちに バクテリアやウィルスをお返しにもらうことは これからもなくならないだろう だからといって 閉じこもって暮らすのは 長続きしない 人間はじっといてはいられない動物で さまよい歩くほうが向いている と言いたくもなる

6月は毎日のように出歩いていた 小さな店がならぶ通りや 裏の小径 大通りは人気がなく 大きな店は閉まっていた

録音が二つ 声とピアノのために書いた曲を波多野睦美と フローラン・シュミットの連弾やダリウス・ミヨーの朗読とピアノの曲を青柳いづみこと 知らない音楽で 自分では選ばないような曲に出会うと それが自然にできる他人の手がふしぎに見える

それが終わって 7月のリサイタルの練習にもどると 手が まるでちがう動きかたに とまどってしまう 1966年にはじめてアメリカに行った時に出会い それから何年かつきあっていたポール千原の音楽 近藤譲を通じて知ったリンダ・カトリン・スミスの曲(井上郷子が2013年日本初演している)

ポールの『サヨナラ』という ベートーヴェンの『告別』ソナタと美空ひばりの『リンゴ追分』が聞こえる曲で終わるので プログラムの最初に『告別』を置いてみた 引退公演だと思うひともいて それもいいかもしれないが 生活のためには まだピアノを弾いているだろう それでも 大きなホールではもうリサイタルはできないだろうし しない感じがする リサイタルというかたちよりは その前からある 何人かの合奏やソロの入り混じったかたちのほうがおもしろいだろうし まだ知られていない可能性があるかもしれない

小さな曲を作る機会はまだある 長い曲は 他人の時間を使って作られる オーケストラや合唱は それぞれちがう人たちをひとつにまとめようとする 反対に まとまろうとするものを散らし 続こうとするフレーズを邪魔して 隙間をいれる サティやモンポウのように短い曲 ヴェーベルンの結晶のようにまとまって閉じていない 言いさしのように 先が見通せない曲がった道のように 断片のように 途切れとぎれて いつか聞こえなくなる音楽 そう思っていても 終わったところで 終わった感じができてしまう これをどうしたらよいのか

2020年6月1日(月)

水牛だより

東京の6月は雨であけました。気温も低く、梅雨が近いことを感じます。明日はまた暑いという予報。暑くて湿度が高いときのマスクはつらそうですね。できるだけ薄くて楽なのを、などと考えていると、マスクをする意味を見失いそうになります。

「水牛のように」を2020年6月1日号に更新しました。
「シリア水牛物語」を読んで、パソコンで検索できることを知ったとき、最初に検索してみたのは水牛という動物についてだったことを思い出しました。しかしほとんどなにもわからないというのが当時の実情でガッカリ。タイでは農耕のために飼われている水牛は家族みんなにかわいがられている農家の財産でもあったことは知っていました。木製の鈴を首にかけられて、歩くたびに乾いた木のいい音がします。鈴はみな違う音がするので、自分の家の水牛の音は聞き分けられる。もうすでに失われた光景かもしれません。
最近、というのは自粛生活の少し前のことですが、水牛のミルクで作ったモッツアレラチーズをはじめて食べたのですが、想像どおりのやさしい味でした。

きょうはBSで映画「タクシードライバー」を見ました。そして、水牛通信でも1980年6月16日に光州について手書き(!)の号外を出したことも思い出しました。当時ともっとも違っているのは通信手段だと、あらためて感じます。

来月も無事に更新できますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

シリア水牛物語

さとうまき

赤ベコがアラブ人にとっては豚のように見えるらしい。そこで、いろいろ考えてサッカーのベコにしてしまえという奇策を編み出した。しかしもうこうなると、赤い牛という本来持っていた無病息災のパワーがなくなってしまうのだ。まさに、赤ベコは会津地方に天然痘が流行した時に子どもを病気から守るお守りとして重宝されたのだ。

シリアの小児がんの子ども達も封鎖が続き病院に行くのも大変だ。我々が支援しているイブラーヒーム君8歳は、サッカーが大好きでFCバルセロナのメッシのファンだという。久しぶりにサカベコを作りってイブラーヒーム君に送ってあげたいなあと思ったのだ。

コロナ禍は我が家にも襲ってきた。10歳の息子が1月に、札幌から倶知安に転校して、あまり学校になじめていなかったそうだが、コロナで学校が休校になり、STAY HOMEで母親との関係に行き詰まり、部屋に閉じこもってしまったという。それで、しばらく面倒を見てくれないかと別れた妻に頼まれたのだ。

うちの息子は、何か役に立ちたいと思いながらも、思春期に差し掛かり、自分ではどうしていいかわからずに、癇癪を起していた。
「あのさあ、君とね、同じくらいの男の子ががんと闘っているんだけどさ、ちょっと手伝ってくれない?」
いやだ、いやだ、を繰り返す息子も、素直に顔を赤く塗って目とか口を描いてくれた。で、水牛の角を付けたらどうだろうって話になり、紙で角を作ってみるとこれは、どう見ても水牛。豚には見えない!

ところで、シリア人は水牛を知っているのかなあ。イラクには水牛いたけどシリアにはいるのかなあと思ってググってみると面白い記事を見つけた。
https://www.middleeasteye.net/features/where-they-no-longer-roam-syrias-disappearing-water-buffalo

水牛は、普通の牛より空腹にも耐え、乳を出す量も多いらしい。水牛のミルクから作ったゲマルと呼ばれるバターというか生クリームはとてもおいしくて蜂蜜や、ナツメヤシのシロップと一緒に食す。イラクでも南部バスラの湿地帯でよく見かけた。

シリアでもハマという町の北部は、オロンティス川が流れ、水牛の放牧が盛んだったらしい。しかし、2011年の内戦が始まると川を挟んで、アサド政権と反体制派が激しい戦いを繰り広げる。この地域にいた水牛は600頭から200頭に減った。戦闘が激化して、避難するために水牛を置き去りにし、飢え死したり、食肉用として屠殺されたり、実際に空爆や銃撃戦で水牛が被弾して亡くなった牛もいる。

この記事は2017年に書かれており、今はこの地域は完全に政府軍が支配している。牛飼いたちは、また水牛の放牧を始めたのだろうか? 水牛を追い求めてまたシリアに行きたくなった。水牛のベコはきっと戦争とコロナで疲弊したシリアに福をもたらすはずだ!

さらに調べていくと2004年にシリアで発行された水牛の切手が出てきた。私がシリアで働いていたのは1994年から96年だったが、もちろんその当時はインターネットなんかなかった。電話すらアパートに引くことはできず、国際電話をかけるのには電話局に行って、とてもめんどくさい手続きをしなければならず、一度もそういうのは使ったことがなかった。日本には手紙をよく書いた。切手はというとアサド大統領(当時はバッシャールの父のハーフェズ)の肖像画。値段が違うと色違いになるだけ。ベロンと独裁者をなめるのはどうも気が引けるし、苦い味がするに違いない。しかし、それ以外の選択肢はないからひたすらべろんべろんとなめ続けた。民主主義がないというのはつまりそういうことなのだ。

そのあと1997年からパレスチナで5年間暮らしたが、当時は、パレスチナ自治政府ができて、初めてパレスチナの切手ができたというニュースで沸いていた。切手はというとアラファト議長。ベロンとなめると甘かった。民主主義は置いておいて、彼岸のパレスチナ切手だから苦い筈はない。そしてイラクに行くと今度は、サダム・フセイン切手。さすがにイラク戦争のころはインターネットでの通信ができるようになり、切手はお土産に売ってただけでなめる必要はなかったが相当苦そうな感じ。

この水牛切手が発行された2004年といえば、シリアはすでにバッシャール大統領に代わっていたが、バッシャール大統領は当初は、自身を偶像崇拝の対象にはしたくないというタイプだった。そしてインターネットの通信がシリアでも主流になりつつあったので、バッシャール切手は作られなかったのだと思う。2011年の内戦をしぶとく生き抜いたバッシャールは、立派な独裁者になっていて、先日シリアに行くと2000シリアポンド紙幣にバッシャール大統領の肖像画が刷り込まれていた。まあ、お札はなめる必要がないので救われるのだが。
ともかく、これからは、水牛のベコが活躍するので乞うご期待ということで。

しもた屋之噺(221)

杉山洋一

月末までに書きあげようと思っていた新曲は未だ仕上がらず。この場に及んであろうことか、昨日一昨日は眩暈にやられて、30時間ほど昏々と寝込んでしまいました。関係者のみなさんには、ただただ申し訳ない思いに駆られています。
本日イタリアの死亡者総数は70人。新感染者数は593人。ロンバルディア州知事は、これなら6月3日以降ロンバルディア州を完全に開放可能だろうと話しています。現在イタリアの確認されている感染者総数は231732人。そのうち快復者は150604人で64パーセント。死亡者総数は33142人で14.3パーセント。現在の患者総数は47986人で20.7パーセントと書かれています。

5月某日 ミラノ自宅
明日からイタリア開放への一歩が始まる。15人までの制限つきながら、禁止されていた葬式がようやく再開。
初めてスクリャービンの自作自演で2番ソナタを聴く。聴いてみたかった演奏に思いがけず近くて、愕いた。特に声部は整理されないから、むしろ雑然とした印象すら与えるかもしれない。ただ、それぞれの音が一つの空間に同等にきらめき、漂い、主張しながら、感情には流されない。聴かせたいものを提示するために音があり、感情発露の手段ではない。
1969年の北イエメン国歌を、誤って新国歌で作り、一から作り直し。イタリア一日の死亡者数は174人まで減少。総計28884人の死亡。快復者81654人で17242人が入院中。

5月某日 ミラノ自宅
封鎖解除2日目。朝五時半、二か月ぶりにナポリ広場まで歩く。この時間は人通りもなく、今までと変わった印象はない。敢えて言えば、使用禁止だった24時間営業の自動販売機が使われていたことくらいか。パン屋より先に足を延ばしたのが2か月ぶりで、遠出を禁じられていた子供が、冒険心につられてちょっと遠回りするような新鮮さは味わうことができた。
7時半にパン屋に出向き、封鎖が解けて何か変わったか尋ねるが、やはり今日のところは余り違いはないと言う。「未だみんな怖いんでしょう」。日本政府は非常事態宣言延長を発表した。

朝10時から夜8時半までズームを使って授業。いつも教室で教えていても十分疲れるものを、オンラインで教えれば、教師も学生も困憊は倍増する。朝5時過ぎから作曲したが、困憊しきった夜はほとんど机に向かえない。オンラインでの授業はおそらく秋以降も続くだろうと聞いた。
6月以降許可される予定の限られた教室の使用は、指揮や室内楽のレッスンなど、どうしても対面でなければ出来ない課程に宛がう必要があって、教室もそれぞれ広さによって入れる人数が厳しく制限されている。一番大きい講堂ですら同時に入れるのは最大10人で、何時もレッスンや授業に使う109番教室は最大5人というから、指揮の個人レッスンは伴奏ピアニスト2人入れても何とか使用可能だが、15人、20人と学生が集う耳の訓練の授業など、現在の状況では到底教室では行えない。

学校のマッシモとズームで話す。現在の状況は、深い霧の中、船乗りが目視で恐る恐る進んでいるようなもの。来年以降のことなんて想像も出来ない、と笑った。とにかく今年のカリキュラムを片付けなければならない。指揮レッスン補講は9月後半文字通り毎日入れてやりくりし、来年度の始業も一ケ月遅らせる運びだと聞いた。

5月某日 ミラノ自宅
無限に並列された情報に塗れていると、選ばれた言葉や音の方が、ずっと心の深い部分に沁み通るのを改めて実感する。言葉や音は感情表現の手段として発達してきたが、古来それは不完全なままであって、言わば四捨五入された表現とすらよべるものであった。
かかる端数が切り捨てられた大雑把な表現だからこそ、伝える内容に幅が生まれ奥行きが広がり、それらの歪さが豊かな表現を生み出して、我々に強い印象を残すのだろう。

戦後、コンピュータ開発が進み、大雑把だった素材が悉く現実に肉薄するようになり、人間の表現能力、判断能力を超えるようにもなったが、それは四捨五入の時代、読み手や聴き手が無意識に補っていた、人間本来の想像力すら侵食しつつあるのかもしれない。
形にして録音を残す意義、後世に資料を残す責について思いを巡らす。消費とは何か。今まで消費と効率ばかりが評価基準に充てられてはいなかったか。
ここよりもう少し郊外にあるチスリアーノで、血清実験開始。今日は195人が亡くなり、1225人が快復した。

5月某日 ミラノ自宅
美恵さんへのメール。
「イタリアに予定調和は皆無ですが、各人が毎日の人生を大なり小なり発明しつつ生きぬいてきていて、肝が据わっているかもしれません。政府を信じてもいないし、自国を持ち上げる気風もないけれど、他の欧州諸国より優れた文化を育ててきた妙な自尊心もあって、不思議な国です。昔から列強のヨーロッパ諸国から植民地扱いされてきているから、強かなところもあり、結局他国を信じていない」。

そんなイタリアが事もあろうにCovid最初の感染拡大国となり、急遽防疫体制を仕立て、欧州から援助も得られぬまま、孤立無援で対応を迫られた。その後、結果的にイタリアが作った防疫体制を各国が倣い、それを下敷きに各国が対応に当たった。有事で何より重要なのは、潤沢な資金だとイタリアの誰もが痛感させられた。本日クレモナの死亡者は0人で、73日ぶりだそうだ。

5月某日 ミラノ自宅
朝4時半、家のすぐ傍で、保線車両が大きな汽笛を鳴らした。封鎖解放に併せ保線作業を進めているのだろうか。
朝5時過ぎ、ナポリ広場に向かって歩いていて、身体の強張りを不思議におもう。数か月間の思考の強張りが身体にまで影響しているのかもしれない。この時間、鳥たちの囀りが賑やかで、全方角から燦燦と降り注ぎ、人間より余程知能に長けているように聴こえる。我々が進歩と信じてきたことは、著しい退化の一途ではなかったのか。ふと疑心暗鬼が頭をもたげる。

フランクフルトよりAさん帰国。空港での検査は陰性だったが、暫く空港周辺のホテルを借りたとメッセージが届く。
「思い出すと辛くなるんです。色々とよい経験をしたのに、よくわからない怒りがこみあげてきたりして。何とも言えない気持ちです。誰が悪いわけでもないし」。
イタリアの不法滞在者をこの機会に正規滞在者に認定し、アスパラガスやイチゴの収穫に借り出す試案をベッラノーバ農林政策大臣提出。不可視だった不法滞在者をゲットーから解放し、健康管理をすることこそ、イタリア国民全体の安全に繋がるという。
イギリスの死亡者数がイタリアを上回ったが、それでもイタリア国内で1444人もの新感染者。369人の死亡者と8014人の快復者。

5月某日 ミラノ自宅
月。赤く巨大な月。早朝歩いていると、目の前で月が沈んでゆく。月も燃え尽きるようにして沈んでゆく。庭の階段の下に、燕が巣を作ろうとしている。
朝パン屋に出かけると、このところ、以前より街に人が溢れていて怖いという。毎日日がな一日家で仕事をしていると変化を感じない。家人にはサティのVexationsを全世界とズームで繋いで一日がかりで演奏しようとの誘いが届いた。Aさんからは2回目の検査も陰性と連絡が届く。記憶に蓋をして溢れる思いを堰き止めていると言う。
イタリアは今日一日で243人が亡くなり、総計30201人に達した。イギリスに次ぎ、3万人を超える犠牲者を数える。

5月某日 ミラノ自宅
ニグアルダ病院のベルガモーニ先生とやり取りをし、小児科・小児脳神経科が担当している社会的有用性の非営利団体あてに日本のAAR難民を助ける会から寄付金1万ユーロが届けられる運びとなる。柳瀬房子さんからの有難いご提案を押し頂いた。
ニグアルダ病院に寄付する、と言っても、受付先は何ヶ所かあって、そのどこにするかを何度か相談した上で、結局寄付金の使用用途が確認し易く、covidで治療に支障をきたしている子供たちの話を伺い、息子もお世話になった小児脳神経科へ直接寄付を決めた。Covidのため病院で受け入れられなくなった、遠隔治療を強いられる家庭への支援器具等も含まれている。
深山さんより新しいCDが送られてきた。彼女と音とを真空の空間が繋いでいて、音が発せられる瞬間まで、彼女の感情は無為に音を歪ませない。

5月某日 ミラノ自宅
現在のところ、まったく使う必要のない公共交通機関だが、今後はバスや路面電車に乗る際、手袋をしなければいけない。使い捨てゴム手袋をスーパーや薬局で探すが、全く見当たらない。息子が通っていた小学校前の文房具店が思いがけず開いていて、A4コピー紙を購入した。「どうなるのかね」。久しぶりに女店主と話す。「とにかく仕事しないとね。先ずは学校が開いてくれないことにはね」。

もう何年も指揮伴奏を担当してくれているマルコに女児が誕生し、写真が送られてきた。不思議に、自分が最初に息子を抱いて撮った写真や、家人の写真にも似ている。母親は出産の大仕事を終えて、顔つきが似るのも分かるが、父親の姿もどことなく似るのは面白い。小さすぎる赤ん坊に少し戸惑い、初めて抱くと、これでいいのか、という表情になるのが初々しい。
友人より日伊便6月欠航決定の知らせ。「今朝延期のメッセージを見て、気持ちが崩れ落ちました。メッセージには、ほぼ世界全土の長距離便キャンセルが書いてあり、事態の深刻さが示されていました」。153人が亡くなった。封鎖後最も低い死亡者数という。

5月某日 ミラノ自宅
誰もが少しずつ精神を病んできている気がする。子供の頃から、時として無性に叫びたくなることがあったのを思い出す。ベッラノーバ大臣が不法就労者を正規化する法案を成立させ、涙ながらに発表。朝歩きながら、何箇月も全く人と触れ合っていないことに気付く。当然ながら、釣銭一つ手を介してやりとりしていない。2月には、アメリカにいたジョンのお母さんがCovidで亡くなっていた。
ベルガモでは墓地が開いた。ウクライナの国歌を書いている最中、2014年スラヴャンスク紛争で命を落としたイタリア人報道写真家アンドレア・ロッケルリの記事が新聞で目に留まり、ルワンダの国歌を書いているとき、フェリシアン・カブガがパリで逮捕と知る。偶然に違いないが、これらの出来事が日常とこれほど近しいとは、全く気付いていなかった。

レプブリカ紙、ピッコロ劇場演劇アカデミー所長インタビュー。
今回の事態についてアカデミアは、来年度の大学初等課程に相当する三年コースを特例として一年増やし、そのうち半期は本年度分の捕捉に充て、残りの半期は続く上級課程に等しい準備期間として充実させると言う。授業料の問題や教師の補充さえ解決できれば、理想的な方法には違いない。
古来、演劇は幾度となく伝染病を乗り越えてきた。だから今回どんな状況で置かれても、きっと演劇は未来に残ると確信し、より深く踏み込み、充実した授業計画を立てたと語る。何かを信じている。

ストラヴィンスキーは迫りくるスペイン風邪流行の中「兵士の物語」を書いた。彼自身もスペイン風邪で床に臥したのち、ディアギレフの依頼で「プルチネルラ」を書き、結果的にそれが彼の新古典時代を切り拓いた。しかしこの古典回帰は、本当にディアギレフだけが切っ掛けだったのか。第一次世界大戦や感染症で荒廃した世界は無関係だったのか。無意識であれ、何か顧みる思いがそこには生まれなかったのか。今後、我々がどうなってゆくのか興味がある。
94人の死亡者。そして2月以来初めての500人以下の新感染者数。

5月某日 ミラノ自宅
2月、家人が自分で開けたシャンパンの蓋を、誤って自分の眼に命中させた。翌日どうも調子が変だと言うので、二人で救急病院に出かけ順番を待っていて、不安に駆られた家人から、結婚して一番幸福だった思い出を尋ねられた。
家人曰く、息子の出産だと言う。暫く考えて、自分には、息子が退院した時が一番幸せだったと気が付いた。退院した日そのものの記憶は曖昧だが、その前後の日々をまとめて、幸福を噛みしめていた。窓を開けると、小さなトカゲが頭を傾げ、こちらをじっと見つめていたが、暫くして逃げてしまった。

家人より「お父さんがすべて間違っている。あのままミラノにいれば無駄なお金も使わず、離れて暮らす必要もなかった」との息子の言葉を聞き、妙に嬉しい。
結果的に彼がそう思える状態こそ、この不自由な日常で最良の選択だったと思う。漸く自らの選択に納得することができた。今回の事態に限っては「何もこの必要はなかった」と云われる程度で丁度良い。

5か月ぶりにミラノ大学の前まで散髪に出かける。ナポリ広場より先へ出掛けるのは4か月ぶりだ。
マスクをつけて自転車を漕ぐと息苦しく、急いではいけない。人通りはほぼ前と同じに見える。もっと感動があるかと思ったが、不思議なもので、全て夢のようにも見える。
車の通りも前と変わらず、抜け落ちたこの数か月の実感が湧かない。バスや地下鉄を使えば違うのかもしれないが、一人で自転車を漕いでいる限りでは分からない。

今も自分の精神状態が以前の通りに戻ったとも思えないが、少なくとも2月から5月の半ばまでは、特に緊張を強いられていたのはわかる。鏡に映る自分の姿が老けたように感じるのは、白髪が目立つからだけなのか。ところで一日中、あちらこちらで教会の鐘がひっきりなしに鳴っているのは何故だろう。

何年も連絡が取れなくなっていた母の姉の消息が思いがけなくわかる。残念ながら、叔母は2年前に既に他界していた。
こうして書き出しながら、頭の中を空にしてゆく、頭の中の要素を少しずつ減らしてゆく。すると必要なものが漸く見えてくる。

5月某日 ミラノ自宅
イタリアに住み始めて間もなくだったから、もう25年近く前、当時ライプツィヒに留学していた同期のピアノの学生と二人でベルガモの街を訪れた。彼がライプツィヒをそろそろ終えるから、とイタリアを訪問したような記憶もあるが、定かではない。

初めてベルガモを訪れ、どのようにして丘の上の旧市街まで着いたのかも、今となっては思い出せない。ただ覚えているのは、コルレオーネ礼拝堂の荘厳なだんだら模様のファサドと、その左隣、聖母大聖堂(サンタマリア・マッジョーレ)の翼廊口に鎮座する、二頭の赤獅子像のみなのは何故だろう。印象的な赤味を帯びたヴェローナ石で彫られた獅子たちは、長年の手垢でてかりを帯びていて、1353年ジョヴァンニ・ダ・カンピオーネの作だと言う。なるほど、当代一の彫刻家の作だから、印象に残ったのかも知れない。
その時、日本の神社の境内の狛犬に似ているのが不思議だったのと、古い微かな記憶の奥で、小学校三年生終わりの自分が、狛犬の上で遊ぶ小学三年生の自分が写りこんだ、日に焼けたモノクロのスチール写真を思い出していた。

この写真は、代々木八幡神社の境内で、大原れいこさんが写真家の人と一緒に番組用に撮ってくださったもので、恐らく今も町田の実家のどこかに残っている。
当時、母がマッシュルームカット風に髪を切り揃えてくれていたから、狛犬に跨り、その長めの髪を垂らして、愉快そうに斜め下に視点を落としていた覚えがある。
何十年も経って沢井さんと野坂先生の演奏会に大原さんが駆けつけて下さったとき、初めて紹介した息子は、ちょうど同じ歳頃だった。彼女の記憶はそのころの洋一くんで止まっていたから、何度となく息子に向かって「洋一くん」と声を掛けては、「あらごめんなさい、また間違えちゃった」と無邪気に笑っていらした。

どういう経緯で、大原さんと今井さんの間で「子供の情景」のアイデアが持ち上がったのかよく分からないが、ともかく大原さんから頼まれた「子供の情景」を書いているとき、左半身が麻痺した息子と二人で、ニグアルダ病院のよく冷房の効いた病室から、暑く気怠そうな外の風景をぼんやり眺めていた。

大原さんと最後にお会いしたのは、表参道の路地裏にある彼女の行きつけの蕎麦屋だった。岡村さんと三人でささやかに彼女の誕生日をお祝いした。道すがら、すっかり元気になった息子が、この夏アイルランドに英語研修に行くと張り切っていると話すと、彼女もアイルランドがとても好きなこと、オハラという名字がアイルランドにあって親近感を覚えてね、などと、嬉しそうに話していらした。

あれから、ほんの短い電話だけは何度か通じたけれど、殆ど会話らしい会話もできぬまま、先日届いた訃報に言葉を失った。
「考えれば考えるほど寂しくなります。どうしてでしょうね。天国にいらっしゃるはずなのに。遠いんでしょうかね」。そんなことを岡村さんに愚痴ったりした。
今朝、荒木さんから「子供の情景」のヴィデオがインターネットに載せられていると便りを頂戴して早速拝見した。最後に大原さんと演奏会でお会いした時の記録だった。

5月某日 ミラノ自宅
三善先生から頂いた端書を棚に飾り、毎日何となしに眺める。ざくっとした太めの筆感、しっかりとした指先で、じっと筆重をかけ、ねじこむように書かれた筆跡を眺めると、無意識に背筋が伸びる。
軽井沢から送られてきた端書だが、裏面には瀬戸内海の風景画が描かれていて、何故だろうと思う。すると、何の気なしに階下に足が向かい、気が付くと寝室の書棚から詩画集「いきてる」を手に取っていた。三善先生が詩を寄せ、雨田光弘先生が絵を描かれたもので、町田とミラノと一冊ずつとってある。
夜明け、ふらふらと病院に吸い寄せられるようにして思いがけず立ち会った祖父の臨終のように、自分の意志とは関係なく、誰かに呼ばれるようにぼんやり手に取っただけだが、ふと函に書かれた先生の題字に目を落とすと、突然涙が溢れた。
「いきてる」と先生の声が聞こえた。
何年も開けていなかったから、蝋ひき紙にくるまれた布表紙の本を出すのに苦労したが、目にした途端、年甲斐もなく号泣した。この数カ月身体に溜まっていたものが突然噴出したように、誰もいないのを幸いに声を上げて泣き、木の机の涙の染みを腕で拭いつつ日記を書く。

いきてる 三善晃 1986年

こないだ おかしかったな
        いもうと

ふたりでけんか  してたら
とうちゃんが  おこったろ
なにしてる  って

いきてる  と  おれ

いきしてる  と  おまえ


とうちゃん  ぽかんとしてたな

         それから

そりゃ  すばらしい  がんばれ

         だとよ

ひとりでいると 
 みんながいる

みんながいると 
 じぶんがいる

なにもないとき 
 ぜんぶがある
    みたい

おれが ぜんぶだ
 なにもないから

—-

ここで
ながいこと おまえを
まっていた   のは

おまえがいないことは
なになのか  を

おれにわからせるのに
どれだけひつようだ  と
おまえがかんがえたのか  を

かんがえるため  だったのさ

—(中略)

あそうぼうぜ みんなと

あそびのはじめは
だれもえらくない

    あそぶと
えらいやつと
えらくないやつが
   できるけど

それだけさ

あしたはあした
  はじめから

おまえが なけば
おまえのなかのおれは
たいがい なく

みんなが わらえば
みんなのなかのおれは
たいがい おこる

おれは しねない
  いそがしくて
  ややこしくて

   ずいぶん
いじわるしたな
   おまえに
いじめたな
   おまえを
けっこう たのしく

おれのしたことで
おぼえているのは
それだけだ ほんと

 だから おれが
 ごめん いったら
それだけよそれだけよ
 いみ あるのは

 それ
 いつか いう

いきてるか
 と おれがきいたら
いきしてるか
 と おれにきいてくれ
      いもうと


いもうと

あき
はなみずきのめが
らいねんのはるを
だきしめている いま

(5月29日ミラノにて)

コロナ蟄居

冨岡三智

5/25の全都道府県の緊急事態宣言の解除を受けて、また状況が変わる。先月号で「4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった」と書いたけれど、残りの1校が6月1日から対面授業に決まった。この大学は医大で必修科目が多いため、オンライン授業も当面(最短で5月末まで)という予定だったのだ。さて、来月はどんな状況になっているだろう…。

閑話休題。

この緊急事態宣言下での家籠り生活が長くなってきた頃、昔の武士にとって蟄居閉門が刑罰になるという意味が分かったという内容のツイートを見かけて、なるほどと思う。家にこもるのがわりと好きで落ち着いていると先月書いたけれど、少し気疲れがたまってきて、最近それがあまり抜けなくなってきた。人に自由に会ったり話しかけたりできないのも拘束感を覚えるものなのだ。これが蟄居生活というものか…。6月からは週に1コマだけだが通勤が発生する。もう1セメスターの半分は過ぎたから、今さらの通勤に少しめんどくささも感じているけれど、気分が晴れるかもしれない。

ちあう、ちあう

イリナ・グリゴレ

ヴァルター・ベンヤミンのエッセイを読み始めると、2歳の娘は私の手から本を取って、ページをめくり始めた。翻訳することについて読むところだったが、彼女の動きに集中している顔を夢中になって観察し続けた。最近では、本棚からいろんな本を出して読むふりをしている。「これはすごい」というリアクションをしたり、ずっと文字を見続ける時もあったり、写真だけ見て本を床に置いたりする。絵本を渡すと「ちあう、ちあう」(違う)と大きな声で言って、邪魔しないようにとアピールする。彼女にとっては文字と言葉は、日本語であっても英語であっても大人とは違うものだ。目で写真を撮っているように、一枚、一枚のページを見ている。ベンヤミンがいう理想的な翻訳に近いかもしれない。彼女にとって読むことはまだ言語化することではないので、すべて違う、すべて同じような言葉が「見える」。

子供が新しい言葉を作る能力はすごい。長女もそうだった。いまだになにを意味するのかわからない言葉がたくさんある。例えば「シャバデイ」という言葉を長女は1歳半から使っているが、まだ意味を掴めていない。次女も5月に「モモイ」という言葉をずっと使っていたが「鯉のぼり」のことを指していたことがはっきりした。こうしてみると人間は幼い時からイゾラドかもしれない。たくさんの習慣と言葉が心の中にこもり、通訳と解釈は常に難しくなる。

『悲しき熱帯』では、先住民たちが自分の身を綺麗な花とビーズを使って飾るシーンが私には印象的だった。母親になって自分の娘たちが同じ行動をするのを見た。次女は素裸になって過ごすことに加えて、飲み物と食べものをもらうときに一つの儀式を通さないとなにも始まらない。それは「クラ」に似ているともいえる。「クラ」とはトロブリアンド諸島で行われる交易のこと。娘は牛乳を欲しがっているが、最初にコップを渡そうとすると、「ちあう」と言って、受け取ろうとしない。大体三回ぐらいこの動作を繰り返し、最終的に満足した顔でもらって飲んでいる。

まだ解釈できない習慣がたくさんあるなか、踊りと歌が大好きな娘たちをみて、21世紀の人類学のことを考えてしまう。人間の一人一人の身体は島であると感じる。各島の環境と植物、動物、細かいところ、細胞まで解釈も翻訳もできない、言葉で押し付けることのできない生き物の本質の現れを探る。例えば、日本語で翻訳されても翻訳しきれない本、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの『千のプラトー』、一つの全体としての身体を翻訳しきれない。翻訳をするのではなく、「一つの言語」から「一つの言語」へではなく、子供の感覚に戻るといいかもしれない、いつか、お互いに言葉だけではなく、イメージなど、もっと様々なコミュニケーションができるかもしれない。『不思議の国のアリス』のティーパーティーを思い出してみよう。参加者はお互いに話し合っているけれど、お互いになにを喋っているかわからない。言葉だけで足りないのだ。

娘たちを観察して思った。もしかたら人間とは「イヤイヤ期」がまだ終わってないのではないか? 昔見た『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』という映画では、たくさん詰まった言いきれない言葉が溢れるまでのパフォーマンスが描かれていた。最後は主人公が川に落ちて子供のように泣いているシーンだった。人間の身体に詰まっている感覚、感動、愛情の塊は「言葉」だけでは伝えにくい。私たちの日常の中では、「言いつくせないもの」でお互いの「コミュニケーション」の壁を破けない日々を生きている。

「人類学」の最初の授業では、丹野正先生が狩猟採集民アカ・ピグミーのところにいらっしゃった最初の日のことについてお話ししてくださった。荷物も水も食べものも持っていかなかった。もちろん、言葉も知らないまま、ただ彼らの近くに座って待っていた。すると、夕方になると、一人の女性がその日男性たちが狩りをした肉を丹野先生のところへ持ってきたのだ。言葉の先に人間は「分かち合う」ことをする。このイメージは私の頭からずっと離れなかった。子どもも「笑う」こととか、踊ることを分かち合おうとする。はじめて会う人にも持っている食べものなどをあげようとする。

ベンヤミンの言葉も翻訳されて、解釈され続けている。彼が「アウラ」と呼ぶものは非常に興味深い。なぜ「アウラ」という言葉を選んだのか、少し分かる気がする。彼の遊び心が現れている。「アウラ」は、あるイメージを直接的に読んでいる側に伝える。彼の書き方は非常にパフォーマティブだ。この意味でベンヤミンは「言葉」から「言葉」にではなく、「言葉」から「イメージ」への道を提案したのだ。

そういえば祖母に久しぶりに会った時、最近みた夢について家族で語り合った。皆の夢のイメージがリアルすぎて、祖母の家の小さな部屋にいくつものプロジェクターがあって、それらが投影されているような気がしていた。

仙台ネイティブのつぶやき(54)今日も塗り、明日も塗る

西大立目祥子

 4月の初め頃、軒並み中止に追い込まれていく新聞下段のコンサート情報を眺めていたら、小さな記事が目に入った。
 「第60回東日本伝統工芸展」とあって「東京・日本橋三越本店で開催予定でしたが中止します」の一文。もう工芸展までだめなんだ…と思いながら記事に目を戻して、おっと思った。「写真は、朝日新聞社賞の伴野崇さん(長野県佐久穂町)「乾漆合子『残照』」」と記され、卵を寝せて下を切ったような赤い漆塗りの蓋付き容れ物がカラー写真で紹介されている。伴野くんだ!彼は私の若い友人なのだ。

 確か数年前にも同じ工芸展で同じ朝日新聞社賞を受賞していた。年末に「作家によるうるしおわんうつわ展」という展示会が、池袋の西武アート・フォーラムで開かれ、出品するという案内をもらったまま、連絡もせず気にになっていた。がんばっているんだなあ。おととし、人間国宝である師匠の小森邦衛のもとから年季明けで独立し、輪島から故郷の長野に戻って工房を構えたところだった。このタイミングでの受賞は、きっと励みになるはずだ。
 何年かぶりで電話をしておめでとうというと、変わらない口ぶりで「そうですね、独立して受賞できて、よかったかな…そうなんです、なぜか前と同じ朝日新聞社賞で。載ってるよと知らせてくれた人がいて、自分もそれから新聞を買いにいって」などとぼそぼそと話す。浮き足立つこともなく、いつも静かな水面が胸の内にあるような感じだ。

 伴野くんと初めて会ったのはもう15、6年も前。仙台で幕末からつくられてきたという仙台箪笥の取材のために「門間箪笥店」という箪笥づくりをする工房を訪ねたときのことだった。仙台箪笥は、指物と塗りと金具という3つの職人技がなければ完成しない。表の店舗にしか入ったことのなかった私は、このとき初めて奥の工房まで足を踏み入れることができ、古めかしい木造の工房の中で鋸を巧みに引くベテラン指物師や床に座って黙々と塗りを続ける若手塗師や女性塗師の姿を見ることができた。その中に伴野くんもいたのだった。うつむいて絶え間なく手を動かしあまり喋らない。職人さんの中では際立って若く20歳を過ぎたくらい、まだ少年っぽさが残る、目の涼やかな若者という印象だった。

 そのあと何回か会ううち、高校中退のあと、ものを作る仕事がしたい、箪笥はどうだろうと考えて全国の箪笥産地を訪ね歩き、門間箪笥店がいいと仙台にやってきたのだと聞いた。確か当時、伴野くんはやけに頑丈なつくりの黒い自転車─仙台ではかつて米の運搬に使われていたことから運搬車と呼ばれている─に乗っていて、足元はいつも下駄だったような。朝8時から働き4時半過ぎに仕事を終えると、急ぎ市立高校の2部に通うのだった。えらいね、というと、淡々とした口調で「でも、昔の人はみんなこうだったと思いますよ」という。真面目で、静かなのだけれど芯棒のようなものが一本通っていて、昔の青年はこうだったのかなぁと会うたび思わされた。「明治とか大正とかに生まれた方がよかったんじゃないの、生まれる時代を間違ったのかも」とつい口に出し、はははと笑いあったような記憶がある。

 知り合ってしばらくして、私は伴野くんと、その同僚でちょっと年上の指物師の阿部くんに呼び出された。門間箪笥店の近くの喫茶店に行くと2人は隅の席に窮屈そうに並んで座っていて、あいさつがすむと思いつめたような表情で「仙台箪笥を伝承する会をつくるので協力してほしい」というのだった。聞けば、伝統的な技術を受け継いで見える仙台箪笥も、その形、材料は明治期とはずいぶん違っている。一度、昔の素材と工法で一棹製作して原点に立ち戻り、人とモノのつき合い方を問いたいという。その後、2人は自治体の助成金を獲得するために審査会のプレゼンテーションに臨み、箪笥研究では第一人者の小泉和子さんに原稿の依頼をし、冊子を制作の費用を捻出しようと広告とりに歩いたりもして、「仙台箪笥復活祭」をやってのけた。1年近く準備にかけたのではなかったろうか。いま振り返れば、ファストファッションのような安い使い捨ての暮らし方が広がる中で、世代をこえて使われるような伝統的な箪笥をつくり続けることへの若い人ならではのひりひりするような危機感があったのだと思う。

 この会の代表としてあれこれ考え、人に会ううちに伴野くんは変わっていったに違いない。あるとき「輪島の漆芸研修所に行って勉強し直します」と聞かされた。箪笥は堅牢さを追求しながら大きな面を均一に塗るような仕事だけれど、もっとたくさんの漆芸の技法を学んで繊細な仕事を極めたいという気持ちになったのだろう。 
 居酒屋を貸し切ったお別れ会には、30人か40人かとにかく大勢の人が集まり門出を祝った。私と伴野くんとのつきあいは限られたものだったし、暮らしぶりもよくわからなかったのだけれど、10年に満たない仙台在住の間にずいぶんと友だちをつくり、いろんな人に親しまれていたんだなあと、親戚のおばさんのような気持ちで人の輪の中にいる伴野くんをながめた。

 何かいい餞別はないだろうかと思案して、ああ、そうだと思いついたのは、宮城県北、鳴子温泉に残っている澤口悟一(1882〜1961)が製作した「猩猩の大皿」を見せることだった。この町出身の澤口は漆芸の研究に生涯を捧げた人で、集大成として昭和8年に著した『日本漆工の研究』は日本学士院賞を受賞した。東京美術学校時代、夏の休暇で帰省するたびに製作したというのが、直径120センチの見る人を圧倒するようなこの大皿である。結局在学中には仕上がらなかったというエピソードが残されている。鳴子には澤口の弟子となり、いまも塗師として活躍する小野寺公夫さんもいるから、その話も聞かせてやりたい。がんばれよの気持ちで、私の仕事のときに車に乗せて連れて行った。

 石川県立輪島漆芸研修所で5年、さらに小森邦衛の弟子となって4年。その間、どんな思いで何をつくり、どこをめざしてきたのかは私にはわからない。でも、作品展のパンフレットや工芸展のHPに掲載されている作品をみれば、細やかな目と腕を持つ自立した作家になったことが伝わってくる。私にはとうてい見えないものを見て、想像もできない道に分け入っているのだと思う。昨年暮れに送ってくれたパンフレットに載っていたポートレートはきびしい大人の顔だった。

 一度、人から譲り受けた2段重ねの弁当箱を輪島に送り修理を頼んだことがある。傷んではいたのだけれど、はげ落ちた漆の下はしっかりと麻布でまいてあるので、手入れをすればよみがえるかな、と思ったのだった。1年以上がたって戻ってきた弁当箱は見違えるようだった。漆の盛り方、蓋の縁の処理などに勉強ぶりがうかがえた。お節を詰めたり雛祭りの料理を盛ったり、伴野くんの顔を思い浮かべながら大切に使っている。ていねいに手をかけてつくったものを使うときは、蓋の開け閉めにしても使い終わって洗うにしても、使い手の扱いもおのずとやさしくなることを教えられる。

 伴野くんに限らず、これから塗師たちはどんな道を歩んでいくのだろうか。精進、献身…そんなことばを身の内に構えとしてつくられなければ、続けられない仕事だろう。見るたびに美しいと感じられ使用にも耐える暮らしの道具をつくる仕事でありながら、連綿とつながってきた技術をつぎの塗師へと手渡す使命も負う。考えれば考えるほど、かけることばが思いつかない。今日も塗り、明日も塗る。それ以外に道はないことを誰よりも知っているのは、彼ら自身なのだから。

 ところで、伴野くんは最近結婚した。おめでとう。よかったなあ。私は祝福しながら、やっぱり親戚のおばさんみたいにどこかほっとした気持ちでいる。彼の中のいつも静かな水面にも、ときおり楽し気な水しぶきが立っているだろうか。 

みね子のモダン本

璃葉

実家からもどる際、祖母のみね子が所有していた本をいくつかもらってきた。
明治・大正期の作家の初版本を昭和中期に復刻したもので、そこそこ貴重なものなのかもしれない。神保町の古本屋街でも同じものをたまに見かけることがあったが、そのたびに実家の畳部屋の隅に置いてある、みね子の古びた書棚が頭に浮かぶので、もはや私の脳内では“みね子の本”という位置づけでしかなかった。
実家整理中のいま、飾りのように並んでいるその本たちをなんとなく放っておけず、勢いで東京行きの段ボールに仕舞ったのだった。

東京の自宅アパートに戻り、段ボールからみね子の本を取り出す。
本はどれも二重函仕様で、本体はグラシン紙に包まれていた。グラシン紙はとても繊細ですぐに破けてしまう。でもこの薄くて脆い紙のおかげで、色褪せることなく良い状態に保たれているのだ。触るたびにぱりぱり鳴る乾いた音は嫌いじゃない。
慎重にグラシン紙をはずすと、表紙はずいぶん派手な朱色だった。ページも小口もヤケどころか汚れもなく、真っ白と言っていいほど綺麗で、自分が生まれたときにはすでにあった本であるのに、もしかするとほとんど読まれていなかったのかもしれない。汚してしまわないように、丁寧に扱わなければと再び慎重に函に戻すが、一冊一冊確認するたび、どうしても読み始めてしまう。
部屋いっぱいに雨の気配がたちこめる深夜2時、名だたる作家たちの文章に、さっそくページをめくる手がとまらない。

製本かい摘みましては (154)

四釜裕子

広辞苑を買った。3月末にいきなりテレワークが申し渡されて数日後、ひと月くらいで終わる感じではないし図書館も閉まったし、うちには広辞苑がないのでなんだか急に心細くなり、せっかくだから近くの本屋で買おうと出かけたら閉まっていて、悔しいけどネットで買った。翌々日、配送屋さんがピンポンを鳴らして「重たいものです」と届けてくれた。ここ最近はお互いのために「ボックス置きでお願いしまーす」と言うわけだけれども、生ものです、とか、大きいものです、とか、言ってくれるのだ。いつもありがとうございます。

前にあった広辞苑はその昔、高津駅前の新刊書店横の小道を入ってラーメン屋の隣の古本屋で函なしカバーなしを買ったのだったが、まだ営業しておられるだろうか。2年前に郷土史家の鈴木穆(あつし)さんを高津に訪ねたとき、落馬打撲とか腎盂腎炎とか急性難聴とかで何度もお世話になった病院が駅前をすっかり飲み込んでいてびっくりした。駅前の府中街道を右に数分、大山街道の交差点にあった名物店(骨董屋というかガラクタ屋というか目の前を通るバスやダンプぎりぎりに掲げるディスプレイと裸電球が絶妙)もなくなっていた。この店のことは写真家の鬼海弘雄さんが『東京夢譚』の「第13話 アルミの急須と愛の証」に書いている。しかしちょっと離れると以前のままの家並みもあって、当時の私は鈴木さんをはじめ近隣のひとと親しくしていたわけでもないのに、思い出すままに話すうちにこの町に懐かしく迎えられたような気になるのはいい気なものだ。鈴木さんが「タウンニュース」高津区版の創刊(1996.5.23)から22年9か月、1085回連載した「高津物語」は、『高津物語(上・中・下)』としてまとまっている。

さてその広辞苑は数年前の引越しで処分していた。第七版が出た2018年には自宅で紙の辞書を引くことはなくなっていたので買っていない。充電さえできているスマホがあれば、いつでもどこでも誰かと話をしているときですら、なんでもだいたい調べて分かった気になれる夢のような暮らしだ。しかし分からないことがあまりにもさっと分かるのから、そもそもその程度の分かる・分からないはどうでもいいんじゃないかとか、分かる・分からないにたいした違いはないんじゃないかとか、調べてるつもりが調べられてるだけだよって検索のむなしさにフッと気が遠くなる。それはたぶん、答えが一瞬で目の前に出るという登場のしかたにも問題がある。パッとあらわれるということはパッと消えるということで、実際なにもかもほとんどパッと消えている。

辞書で引いたところでパッと消えるのは経験的に分かっている。だけど、辞書は引くもの、調べるものというよりは読むものだなと今は実感できていて、だからそれはパッと消えてもいいんじゃない、とも思える。いまだ広辞苑に「新村出編」とある理由を聞かれた岩波書店辞典編集部の平木靖成さんは、〈国語辞典でありながら百科事典も兼ねて一冊本を作るというコンセプトからずれたら『広辞苑』とは言えないので、そのベースを新村先生が作ったという記念として将来もはずせないものだと思います〉(ブクログ通信 2017.11.30)と言っていた。姉に初めて辞書の使い方を教わった日を思い出す。姉の赤い国語辞典を借りて何か言葉を引いたのだけれど、説明に書いてあることがまた分からないのであった。すると姉が「それをまた辞書で引くんだよ」と言う。あっちをめくりこっちをめくりすればいつか分からないことがなくなるということだった。すごいと思った。ただし、それは辞書ではなくて教えてくれた姉がすごいと思ったというのがかわいいところ。しかしあの異様な驚きがこのタイミングで蘇ったのは意味があるかもしれない。

広辞苑のつくりをじっくり見てみる。外函にうっすら浮かび上がるのはオーロラの写真か。辞書本体と付録の冊子も入ったこの函ごと全部で3.3kg。本体の厚みは8cmある。表紙カバーの紙はごく淡いクリーム色で、全体にマットな黒を引いて文字と岩波書店の種まく人のマークを紙色に抜いてある。表紙のクロスは、はなだ色と言っていいのかな。背に銀箔でタイトルなど。そして、実は今回初めて気付いたことがある。背に、安井曾太郎による白鷺に葦とさざなみ(かな?)の絵柄が浮き出ているのだ。背の凸凹には気付いていたけど、使い古してノリが浮いた跡とばかり思って気にしてじっくり見たことがなかった。見返しは灰色。扉は、表紙カバーの紙色に近い淡いクリーム色で、見返しの紙に近い灰色と錆色の2色で枯れ木立ち風の絵とタイトルがある。

本文紙は扉に比べると少し赤みがある。刊行時に特に話題になった「ぬめり感」を確かめてみる。自分の指と紙の関係のぬめぬめもさることながら、この薄い紙どうしの関係におけるぬめぬめがすごいと感じる。実は今、いっときのトイレットペーパー不足により紙問屋の店頭でようやく買った一枚仕立てでかたく巻いてあるタイプを使っていて、なかなか気に入っているのだけれど残り8分の1くらいになると巻きがうまくはがれてこなくなるのだ。トイレットペーパーよりずいぶん薄い広辞苑専用の本文紙も抄紙後は巨大トイレットペーパー状になっていたわけで、ひとロールどれだけの重さになるのか、それがみなすっとむけるとはなんてすごいことだろうと、思うのであった。

広辞苑の本文紙が特注品である理由も刊行時に話題になった。製本の機械が厚み8cmまでしかできないので、より多くの項目を入れるためには紙を薄くするしかない。開発に5年。結果、第六版から1万項目追加で140ページ増えても厚みは8cmにおさまった。第七版の140ページで5mm弱あるから、そうとう薄くなったと考えていい。薄いと透けるが、それではまずい。不透明度を高めるために「酸化チタンがまぶされた」という表現を当時のニュースで読んだ。開発した王子エフテックスのサイトを見ると、不透明度を保つポイントの一つは〈紙の中に填料を留める技術〉。流れ出ないように定着するということだ。それと、通常は抄紙の際に上から下の一方向に脱水するのを両側から行うなどして、鉱物である填料が偏らないようにするそうだ。版元がこだわるぬめり感(静電気で指にまとわりついたり、次のページが一緒にめくれたりせず、快適にページをめくっていける絶妙な触感)は、特別なコーティング材のたまものらしい。

5月25日は1955年の初版の発売日で、「広辞苑の日」として毎年誕生日を祝っているそうだ。昨年、DNPプラザ(DNP=大日本印刷株式会社。初版から秀英体で広辞苑を印刷)で開かれた「広辞苑大学」では、初版1冊分の清刷(組版を印刷したものを撮影して5分の3に縮小したものを製版としてオフセット印刷。片面印刷なので5冊に分けてある)や、コピー用紙で作った「広辞苑のコピー本」を展示したり、刷り出しで缶バッジを作ったりしたようだ。今年は静かに誕生日を迎えたのかな。遅ればせながら、7度の全身改造を経た65歳に羨みと敬意を表しつつ、第七版に記された装丁に関わる表記のいくつかをここに抜き書きしてみます。

『広辞苑 第七版』岩波書店

扉裏)
装幀 安井曾太郎

p1618)
せいほん【製本】原稿・画稿・印刷物・白紙などを糸・針金・接着剤などで綴じて表紙をつけ、小冊子・書籍などに形づくること。和装本(和綴じ)・洋装本(洋綴じ)に大別→装丁(図)

p1695)
そうてい【装丁・装釘・装幀】(本来は、装(よそお)い訂(さだ)める意の「装訂」が正しい用字。「幀」は字音タウで掛物の意)書物を綴じて表紙などをつけること。また、製本の仕上装飾すなわち表紙・見返し・扉・カバーなどの体裁から製本材料の選択までを含めて、書物の形式面の調和美をつくり上げる技術。また、その意匠。装本。
*付されたイラスト〔装丁〕には「角革・平(ひら)・角・地(罫下)・ちり・しおり・耳・背・溝・平の出・みきり・天・小口・扉・花ぎれ・のど・見返し・カバー・帯紙・遊び紙・見返しの遊び」が記される。

p1699)
そうほん【装本】本の表装。装丁。
ぞうほん【造本】書物の印刷・製本・装丁、また、用紙・材料などの製作技術面に関する設計とその作業。

p2569)
ブック【book】(略)―・デザイン【~ design】本の、装丁から本文の書体まで全般にわたるデザイン。(略)

p3185)
後記
(略)
 装丁は初版以来、安井曾太郎氏の手になるものである。外函の写真はInmagine123RF株式会社のお世話になった。(略)
 大日本印刷およびDNPメディア・アートの方々にはコンピューターを駆使した編集資料の作成と組版・印刷において、王子エフテックスの方々にはより薄く高品質の本文用紙の開発・抄造において、牧製本印刷・松岳社の方々には堅牢で使いやすい造本において、多大なるご尽力をいただいた。
(略)

奥付裏)
本文用紙 王子エフテックス株式会社
表紙用クロース ダイニック株式会社
見返し・カバー用紙 特種東海製紙株式会社
本文製版 株式会社DNPメディア・アート
本文印刷 大日本印刷株式会社
扉・函印刷 株式会社精興社
製函 株式会社加藤製函所
製本 牧製本印刷株式会社

マスクドットコム★2020

北村周一

ほんのりとマスクの表に色づくは神の絵すがたはたまた黴か
 
煩雑な経路をたどりゆくゆくは届くのであろう配給マスク
 
舌の根も乾かぬうちにあらたなるウソが飛びだす マスクを伝い
 
かの総統の手口にまねぶ男ありて一に恫喝二に布マスク
 
嘘と狡とマスク二枚が束ねられ 民をあざむく手口の暗さ
 
ほんとうのことは言わない(言わせない)マスクつけても嘘は飛びちる
 
減らず口かくすためある愛用のガーゼ・マスクはいつも新品
 
マスク越しに交わす挨拶ぎこちなくじゃあまたねとはいえない死角
 
目には目を口には口をほころばせマスクしててもあすは満月
 
いろいろのマスクさまざまにあることもちょっとうれしいこのよのじじつ
 
薄っぺらなコトバゆき交う初夏の カメラ止まればマスク脱ぐかれ
 
マスクの声てぶくろの手に交わりはことば少なにレジを離りぬ
 
顔の上の白いマスクに護られて足に蹴散らすさくら花びら
 
粛粛とマスク購う人つける人脱ぐ人ありてそを拾う人
 
捨てマスク顔のかたちにひらきしを風が舞い上ぐ天までのぼれ
 
マスクから目鼻耳くち脱ぐように両のてのひら浄めいるなり

山本久土がいい!

若松恵子

新型コロナウイルス感染拡大防止のために、ライブハウスが営業できない。
ライブハウスを回って直接音楽を届けることをしていたミュージシャンは全く仕事ができなくなってしまった。文字通り、手の届く距離で唄っていた、その魅力に支えられていた仕事が全くできなくなって、どうしたものかというまま4月、5月が終わる。

山本久土(ひさと)は、PHEWがボーカルを担当するMOST、遠藤ミチロウとのMJQ、羊歯明神のギタリストで、自身もギター1本で歌う。MJQでも羊歯明神でも、1本のギターで分厚いサウンドを作り出していて、リードギターもセカンドギターも、ベースも1人でやってのける、ギタリストとしての凄さがまずあったのだけれど、ミチロウが亡くなった後は覚悟が決まったのか、歌にも磨きがかかった感じだ。率直に自分らしい歌い方で、ミチロウの曲が歌い継がれていることに魅力を感じる。

演奏することは、収入の面だけでなく、自分の生活の軸としても必要なことなのだろう。ライブハウスの協力で、無観客ライブの配信をしていて、これがなかなか良い。
ラモーンズみたいな髪型(前髪がうっとうしく伸びていて、目を覆い隠している。早く床屋に行きなさい!と叱られる髪型)で、ギターをかき鳴らし、歌う。
配信でがまんしておこう、というレベルではなく、配信でも十分いいのだ。
画面のこちらから拍手を送りながら見ている。
こんな時だから歌いたい歌、歌われるべき歌が演奏されている。
先日は、高校生の時以来だと言って、RCサクセションの「あきれて物も言えない」がカバーされた。

どっかのヤマ師が オレが死んでるって言ったってさ
よく言うぜ あの野郎よく言うぜ
あきれて物も言えない

ところが おエラ方 それで血迷ったか
次の週には 香典が届いた
前の土曜日にガンバローって乾杯したばかりなのに

オイラ その香典集めてこうして遊んでるってワケさ
ますます 好き勝手な事ができる
さあ オマエに何を買ってやろうか

ヤマ師が 大手を振って 歩いてる世の中さ
汗だくになってやるよりも 死んでる方がまだマシだぜ
「あきれて物も言えない」(作詞・作曲 忌野清志郎)

この曲を今、選んで歌う山本久土はいかしてると思う。

ゴジラの逆襲(晩年通信 その11)

室謙二

 私は科学少年であった。
 鉱石ラジオと、星座早見盤の少年であった。
 読むものは「子供の科学」に「初歩のラジオ」(いずれも誠文堂新光社)、それと「模型とラジオ」(科学教材社)かな。
 科学少年という言葉が、今でも一般に使われているのだろうか?
 使われていたとしても、私が子供だったころ、1950年代の中ごろとは違うだろう。あの当時、少年にとっては科学が万能の時代だった。科学が世界を変える、科学が世界を救うはずだった。鉱石ラジオ少年は、いま風に言えばテック少年だが、その「未来の科学」に参加していたのである。
 鉱石が高周波を低周波に検波して聞こえるようにする「鉱石ラジオ」が、少年にとっては大変なテクノロジーであった、といっても単純なもので、部品数はいくつかしかない。全部が目に見える形で触ることができた。いまのテックと違って、自分で作ることもできた。鉱石ラジオには、電源(電池など)は必要ない。しかしまずアンテナが必要だ。木に登って電線を引っ掛けてアンテナとした。次はアースである。庭の土を掘って水を注ぎ込み、そこに金属片を差し込む。それにつないだ電線を、アースとして鉱石ラジオにつなぐ。ドロンコである
 このアンテナとアースがないと、かの鳴くような音のラジオさえ聞こえない。イヤホーンは、耳に差し込むタイプのクリスタル・イヤホーンだった。
 エナメル線を買ってきて、紙の筒にコイルを巻く。雑誌に何回巻くとか全部書いてある。コイルに並列にコンデンサーをつなぐ。並列と直列のつなぎ方がわからない人は、困ったなあ、でも説明しない。コンデンサーがなにかも説明しないけど、これがバリコンでなくて固定の値のものだと、コイルからタップを出したり、表面をけずって電線で触ってコイルの値(インダクタ)を変えないと、周波数を変えられないね。周波数の仕組みがなんだって?ああ、絶望的だ。
 こういう単語がわからない人には、全部が「ギリシャ語」であろう。という言い方は英語で、It’s Greek to Meで、日本語だとチンプンカンプでわからない、という意味だ。だけど続ける。

宇宙競争がスゴイ

 わからない人がいる反面、私なんかこういう昔の「テック」の話をするとうれしくなる。ああいう時代があったのだなあ。
 バリコンてなに?バリアブル(可変)コンデンサーのことで、言葉で説明するのが難しいので写真を添付した。もっともこのバリコンは古典的なもので、もう使っていないだろうね。今ではもっと小さくなって、金属の間にポリエステルをはさんでポリバリになった。それに対応して、写真の古いバリコンは、素朴に空気バリコンと呼ばれていた。
 子どもたちにとって、科学が万能に思えたのは、ソ連が一九五七年の冷戦時代に最初の人工衛星(スプートニク)打ち上げて、世界中が驚き、アメリカはソ連に先を起こされて大騒ぎになったからでもある。一九五八年にはアメリカでNASA(アメリカ航空宇宙局)が設立された。アメリカの子供の科学教育・数学教育が大きく立ち遅れているというので、新数学(New Math)カリキュラムが始まる。ずっとあとで、数学者・人工知能の専門家のシーモア・パパート(MIT)さんと仕事をしたとき、この新数学カリキュラムが教育現場をどのように混乱させたか教えてくれた。それまでは、アメリカの女子は数学はやらなくてもよろしい、「家庭科」をやっていないさい、だったそうだ。日本の女の子は受験勉強で、男子と対抗して難しい数学を勉強している。と言ったら、パパートさんは驚いていた。
 ソ連とアメリカの間で宇宙競争がはじまった時に、日本の子供はそれを見て「わー、スゴイなあ」ということになったのである。というわけで、バリコンの模型ラジオ少年は、ボール紙で筒を作り、両端にレンズをいれた手製望遠鏡と星座早見盤の宇宙少年にもなった。

 光年という単位にも驚かされた。
 光が飛ぶ、移動するのに、時間がかかるということも信じられなかった。しかし科学は、光の移動には時間がかかるという。そしてその光が一年間飛ぶ距離が「光年」という単位だと知ったときは、うーん。それは想像を絶する距離だ。
 Googleの光年のページによれば、光が太陽から地球まで飛んでくるのに八分かかる、太陽系にもっとも近い恒星は、太陽から四光年の距離だそうだ。わが銀河系の直径は十万光年で、アンドロメダ銀河までは250万光年だそうだ。つまり私たちがいま見ているアンドロメダ銀河は、250万年以前のモノ(光)である。地球から観測可能な宇宙のはてまでは457億光年である。宇宙少年の私は、こういう数字を知って、夜空を見上げていたのである。
 その宇宙に向かって、ソ連とアメリカのロケットが飛び出す。と言ってもまだ宇宙の手前でウロウロしているにすぎない。いま地球からもっとも遠くにある、人間が作ったもの(ボイジャー一号)が、地球から一光年の距離まで行くには一万8000年かかるというのだから。観測できる宇宙の端までボイジャーが飛ぶには、一万8000千年の457億倍かかる。
 片手に鉱石ラジオをもち、片手に自作の望遠鏡をもっていた私は、科学はスゴイなあと思っていた。鉱石ラジオは蚊の鳴くような音をかなで、夜空を見上げれば、457億光年が広がっていたのである。

ゴジラの登場

 ところがそこに、ゴジラが登場する。
 人間の作った都市と、人間が使う科学を破壊する。口から火炎のような白熱光・放射線を発するのである。スプートニクとかアメリカのへなちょこ人工衛星など問題ではない。人間の文化を破壊する怪物である。
 もっとも最初のゴジラ映画は、スプートニク(1957年)以前の1954年に始まっている。1955年に第二作の「ゴジラの逆襲」、七年後の1962年に、三作目「キングコング対ゴジラ」で日米対決となる。科学万能の科学少年は、科学に立ち向かうゴジラに唖然としたが、バンザイ、ゴジラも頑張れであった。
 ゴジラ映画の直接の引き金は、第五福竜丸事件であった。1954年のアメリカのビキニ諸島での核実験のときに、アメリカの指定した危険水域の外にいたにもかかわらず、第五福竜丸は放射性降下物「死の灰」を浴びて半年後に無線長だった久保山愛吉が死亡、大事件となった。
 ゴジラはジュラ紀(一億五千万年ほど前)の生き物であったが、海底洞窟で生きていたのである。アメリカの核実験で洞窟が破壊され、放射能で性格も変化して獰猛になり、口より白熱光=放射熱線を発するようになった。この怪物が東京にやってくる。破壊につぐ破壊である。1954年のゴジラ攻撃は、アメリカ軍による東京・大阪への民家への無差別爆撃、長崎・広島へ核攻撃の九年後の出来事だ、都市の破壊のシーンは、当然おおくの人びとに戦争による被害を思い出させたであろう。
 しかし今回は、それに対して科学で対応する。水中の生物をすべて破壊する化学物質を発明した科学者が、それを使ってゴジラを殺す。同時にその科学者は、発明に関するすべの資料を破棄して、それを発明した自分自身をも殺して、地上からその化学物質の危険性を消し去る。
 ゴジラは、科学によって殺されるのだが、同時にこの映画は、科学というものがどれほど危険であるかも伝えようとする。何十年ぶりにインターネットで、オリジナルの「ゴジラ」を見たがよくできている。感心した。

 いまはコロナの時代である。ところがコロナは、まだ科学でコントロールできないらしい。
 ワクチンもなく、治療法も確立されていない。
 でもコロナが、科学によってコントロールされる時期はやってくる。
 ゴジラは科学(核実験)に怒って立ち上がったが、科学によって殺されてしまった。コロナも科学によって殺されるだろうが、だけどゴジラもコロナも、また必ずやってくる。
 二作目の映画「ゴジラの逆襲」(1955年)があるので、すぐ見ないといけない。昔の科学少年は、いまだに科学少年(科学老年)でもあるが、ゴジラに共感をよせる科学批判老年でもある。

新しい目覚め

笠井瑞丈

私には二人の兄がいます
長男は写真家
次男はオイリュトミスト
三男私はダンスをやってます

三人集まってお酒なんかを飲み交わす
よく喧嘩に発展することもありますが
そんなに悪い兄弟関係ではありません

次男とはエレキギターを弾くという共通の趣味もあり
そして家も近いとういうこともあり
二人でたまにジャムセッションをしたりもします

彼は日本の高校を卒表してから
ドイツのオイリュトミーシューレに行き
オイリュトミーを学んで日本に帰国しました
今は学校でオイリュトミーを教えています

そして彼の奥さんというのは私がダンスを始めた頃からの古い友人で
私は彼より先に奥さんとは知り合いでした
まさかその後結婚するとは当時思ってもいなかったので
人と人の出会いは不思議なものだ

彼の奥さんはもともとはダンスをしていて
自分のグループも持って活動していました
その後オイリュトミーの勉強も始め
今はダンスそしてオイリュトミー
二つの分野で活動をしています

そして私の奥さんもダンスをしています
そして彼女もオイリュトミーを学び
二つの分野で活動をしています

こんなに身近に舞台活動をしている人が
三人もいるとはこもまた不思議なものだ

そして父も舞台を生業としているので
父を含めると一家五人が舞台人です

父とは仕事をする事はありますが
兄夫婦とは今まで一度もありません

こんなに近くいるのに共に作品作りをした事は一度もありません

作品を作ろうと思うには
二つのきっかけがあります
一つは誰かに依頼されて作品を作り始める場合
一つは自発的に自分から作品を作ろうと決意する場合です

どちらの場合も嬉しい事です

でも

二つの性質には違いがあります
外から始まりを作ること
中から始まりを作ろこと

私は何か新しいダンス作品を自発的に作ろうと思うきっかけは
街でばったり昔の友人に会った時に得る感覚と同じようなもので
この感覚が生まれた時に新しい作品を作ろうと決意します

この感覚はとても私は好きです
この時にダンスをする喜びを感じます
何かが頭の中で泡のように膨らんでいき
作品を作ろうと思う瞬間に出会うのです

これは長い眠りから覚めるのと同じで
時に数年眠り続けることもあります

新しい目覚め

2020年7月31日金曜日
2020年8月7日金曜日

『世界の終わりに四つ矢を放つ』
神楽坂セッションハウス
構成 演出/笠井瑞丈
出演 振付/笠井瑞丈 笠井禮示 上村なおか 浅見裕子 笠井叡

新しい作品を発表します

どうぞよろしくお願いします

187 汚職

藤井貞和

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰ってきません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたはこころに従いました。

むずかしい時代になると、
けがれた手で書いて、
もっとだめにしました。

汚れた言葉を遠慮せよ、
だれもが父に言いました。

怒りで汚れたこころを、
ぼくはうたいますか。


(おとうさん、50年が経ちましたね。だめなぼくは50年、自粛に明け暮れてきました。)

オンライン授業

植松眞人

 非常勤講師をしている大学のオンライン授業を担当することになった。新型インフルエンザが世界中で大流行してから一年がたった。
 すでに世界はそんな感染症の流行などすっかり忘れいてるけれど、いまだに世界地図の片隅にある名前も知らない国で、急に集団感染があったり、国内でもふいに有名人の感染が報道されたりする。ただ、すでにワクチンが開発されているので、以前のようにテレビの報道も恐怖心を煽るようなことはなく、淡々としたものにとどまっている。
 パンデミックと言われる大流行は、世界中の経済活動を停止させて、私たちの生活を一変させた。本来なら、そのままじっと息をひそめて感染症が感染する先をなくしてしまうのが賢明なのだろうと思うけれど、世界中の首脳陣はその道を選ばず、感染症を抱えながらも経済活動を再開する道を選んだ。お金こそがこの世界の血液なのだということをみんなが再確認し、お金の前には誰もが黙り込んで通勤電車に乗り込むしかなかったのだ。
 しかし、自宅で仕事をすることが実は可能なのだと知ってしまった人たちは、朝の通勤電車に無自覚に乗っているわけではなかった。虎視眈々と会社組織に属しながらも、テレワークを再開するための根回しを始めていた。
 私が働く大学というところは、パンデミックの間、オンライン授業という新しい道を見つけることで、学生からの授業料返還要求を最低限に抑えることができた。オンラインだけれど授業はちゃんとやっている、という事実には学生も世間も、学校も被害者なのに頑張ってくれている、ということが伝わったのだった。
 同時にオンラインなら学校の施設をほとんど使わずに、学校のブランドだけで新しい商売を始められるのだということに気がついたのだった。いま、私が担当しているオンライン授業はいわゆる大学生のためのものではなく、社会人に向けた一般教養の講座だった。これまで「社会人のための大学講座」として開講していたものをパンデミック時に整えたオンライン授業のインフラで行おうという商売だ。今回のウイルスは高齢者にこそ感染しやすいらしいという情報もあり、高齢者をあまり外に出したくない、という家族にもアピールしたらしくどの講座もすぐに満員になってしまうらしい。私が担当する講座は「メディアと社会」という不要不急を絵に描いたような講座なのだが、それでも半期の一度の募集はすぐに二十人の定員一杯になり、半年間脱落者がほとんどいないらしい。
 この講座も元々は大学の一室で直接対面で行っていた講座だが、その時よりも人気が出て、そのおかげで私の首もギリギリで繋がっていると言ってもいいだろう。オンライン授業はやりにくいとか、文句を言っている場合ではないのである。むしろ、ありがたい。そして、回数を重ねていると、だんだんオンラインでのやり取りも面白くなって来たのである。
 オンライン授業の面白さは、一人一人の受講者との距離がほぼ同じだということかもしれない。距離的にも参加者が小さな格子状のマス目の画面の中に一人ずつ並び、誰かが発言するとその画面が大きく表示される。声が小さいから印象に残らない、ということもない。表情でアピールされなくても、キーボードのボタンを押すとその人に発言権がいく。そんな今までにない感覚が面白い。そう思い始めると、私はオンライン授業にはもっとたくさんの可能性があるのではないかと思い始めた。
 ある日、受講生の一人が映っている一マスが大きく揺れた。大丈夫ですか、と声をかけるとそこに映っていた年配の女性が、スマホが倒れたんです、と答えた。最近、パソコンを持っていなくてスマホで参加している受講者が多いとは聞いていたので、なるほど、と私は言って淡々と授業を進めた。しかし、ふと思ったのだ。メディアと社会などという講座をやっているのなら、例えば、それぞれの受講者が発信してくるような内容も面白いかも知れない、と。そう思うといても立ってもいられなくなり、私は先ほど画面を大きくゆらした女性に、オンライン上から呼びかけた。
「いま、家の中ですか?」
 私がそう聞くと、女性は少し驚いた様子だったが、
「はい、そうです」と答えた。
「ちなみに、あなたのスマホもメディアのひとつですね」
「どういうことでしょう」
「いま、あなたはこちらからの情報を受け取っているのだと思いますが、私からするとあなたの映像という情報を発信されているわけですから」
「なるほど」
 女性がそう答えて笑うと、その周囲のマス目の中からも一斉に受講生たちが笑いかけてきた。
「例えば、あなたの部屋から見える窓の外の景色を見せてもらえますか」
 私が言うと、女性は少しだけ手間取ったあと、窓の外を映した。青い空が見えた。私がいる大学の部屋にも小さな窓があり、青い空が見えていた。ああ、空は繋がっているのだなあと思った。すると、他の何人かの受講生も窓の外の空を映し始めた。パソコンのカメラを空に向けたり、なかにはパソコンからスマホに切り換えてわざわざ空を映す人もいた。受講生は二十人程度なのだが、そのうち、私のデスクトップのパソコンにある二十のマス目に様々な色の空の映像が並んだ。
「ああ、メディアと社会ですね」
 私はそうつぶやいていた。
 そうつぶやいてから、こんな叙情的なものに流されていてはいけないと気持ちを引き締めてみようとしたのだが、その弾みに私は涙を流していた。一人だけ、デスクトップのモニターのなかに顔を映していた私が泣いていた。青空に囲まれながら泣いている私はとても美しかった。(了)

楽園

越川道夫

「いや、世界は残る。…失われるのは、ぼくらのほうだ」
           エドワード・アビー『砂の楽園』
 
家と仕事場を往復して引き籠る生活をつづけている。決まった道を通り、決まった道を帰ってくる。誰が決めたわけでもないのに。このような日々の前は、少しはいつもと違う道を通って、とか、少し遠回りをして、とか考えたはずなのに、それをするのもすっかり億劫になっている自分に気付く。それでもと自分を励ましながら遠回りをしてみれば、塀のわずかな隙間という隙間からドクダミが顔を出し、花の咲く頃は壮観だった古い家は跡形もなく取り壊されて、そこは更地になっている。あんなに茂っていたドクダミもすっかり抜かれ、庭木も根こそぎ倒され、家であったはずの瓦礫の間に横たわっている。テニスコート脇の路肩の土が剥き出しになったところにアザミが覆い茂っていて、それを見るのを毎年楽しみにしていたのだが、そこも何の工事が始まるのかすっかり白い塀で囲われ踏み荒らされてしまった。街路樹はばっさり切られ、どういうわけか切り口がコンクリートで固められている。川岸の草むらを、草刈機が唸り声をあげて刈り払っていく。
 
なんだか痛々しい気持ちになってしまった。
ある時、借家の小さな庭をひと夏伸ばし放題に伸ばしたことがあった。植えたものも自然に生えてくるものも。ヘクソカズラやヤブカラシ、ゴーヤと言った蔓の類は庭木を覆い尽くし、その下で隠花植物たちが繁茂した。蝶がその上を飛び、ヤモリやヒキガエル、ニホンカナヘビが徘徊する。そんな庭の姿は、なんというか「楽園」だった。そうとしか言いようがない。
 
卒業した中学校の昇降口の脇に大銀杏があった。「あった」と書いたのだから、今はもう「ない」。その大銀杏は、太平洋戦争の前、その場所に高等女学校があった時からあった、と祖母に聞いた。祖母はその女学校に通っていた。校舎は焼けたが、樹は戦災を奇跡的に免れ、女学校だった場所に新制中学校ができても、樹はそこにあった。父や叔父叔母もその樹のある学校に通った。わたしがその中学校に通った頃は、大銀杏は昇降口の脇にあり、生徒はその樹に迎えられるようにして通学した。校舎は、どう考えても樹を避けるようにして建てられていた。大銀杏はその校舎に通う子供たちを見守るようだった。それからずいぶん時が経ち、近年、その中学校が小中一貫校になることになって全面的に校舎が建て替えることになった。しかし、もう人々が樹を避けることはなかったのだ。大銀杏は伐られ校舎は建てられた。
 
2015年に奄美で映画の撮影をしていた。9月の奄美は、本土では聞くことができない、キュアンキュアンというようなオオシマゼミの声で溢れかえっていた。奄美に育った島尾伸三さんが、幼い頃夏に外で友達と話していて、蝉の声があまりに大きくて友達の声が聞こえなくなることがありましたよ、と話してくれた。その蝉の声をマヤ(島尾さんの妹)はとても怖がっていました、とも。
そんなオオシマゼミの声の中で、私たちは撮影した。ラブシーンの撮影の最中、奄美の固有種のカエルが鳴いた。なんというか、ゲロゲロではなく、ブヒッというような声で。甘いラブシーンの中で突然響くその声は笑ってしまうような、ラブシーンの興を削ぐような声だったけれど、わたしたちはその声をそのままにした。やはり夜の撮影でカメラのレンズを一瞬、照明に寄ってきた巨大な蛾が覆ってしまった。さすがにNGになったのだが、そのことに南の島で育った老優は激しく怒った。これが島だ。本土で撮ってるんじゃないんだ。なぜ今のがNGなんだ。
音の仕上げをするダビングルームでも、わたしは何度か声を荒げた。なぜドラマの都合で、人間の勝手な都合でカエルや蝉を鳴かせたり、その声を消したりするのか、と。蝉は蝉の都合で鳴く。カエルはカエルの都合で鳴く。あの島で、何を聴いてきたのか。映画の撮影中、ヒロインが夜の縁側で島の唄を歌い始めると、森の闇の奥でコノハズクが鳴き始めた。一頻り歌い、鳥は鳴き続け、歌い終わるとコノハズクも鳴き止んだ。バラバラに有るものが一瞬唱和した、そんな瞬間もあったのだ。
 
夜、雑木林の横を通って仕事場から帰る。
その雑木林を抜けたところには縄文時代の遺跡があって、この雑木林がその時代ずっと続く林だということが分かる。夜になると樹樹は一層鬱蒼として見える。風もないのに波打ち、ざわめいて私語をしている。
彼らは彼らとして、そこに在る、と思った。
枝と枝の闇からコサギがこちらを見つめている。

音楽の気象と感染力

高橋悠治

コロナ・ウィルスの見えないはたらきのなかで 音楽のかたちが変わていくだろうか オーケストラやオペラのような多くの人の集まりは 疫病のときにはできないといって オンライン会議システム ZOOM でバラバラの空間とずれた時間をあわせて コンサートの代用にするというレベルではない もっと大きな変化が起こるのか 

世界にひろがる感染症のあと 今のような社会がそのままで 以前の姿にもどるのか そうでなければ ファシズムや 相互監視の息苦しい社会になるのか その兆しはじゅうぶん見えているが 方向はそれひとつではないだろう 混乱がつづくにしても いまの社会はいずれは崩壊して 予想をこえたかたちが現れてくるのだろうか

音楽を見えないはたらきと言ってしまえば これもウィルスのように感染力をもっている 楽譜や演奏の動画はその仮の現れで うごき 変化する振動は そのたびにかたちを変え はたらきも変わる

音のうごきを組織するのが いままでの演奏論であり 作曲論だった うごこうとする意志が 動きを作り その瞬間 音がはじまる その動きを制御している時間が音の長さになり リズムは数えられ 音符として見えるかたちで組み合わされるが 音符は音のはじまる瞬間と持続を管理する手段で 楽譜を通して 作曲し演奏する能力がある人間が 音楽を使うことができる そこに社会的な意味が生まれるなら その意味は いまの社会を管理しているエリートの意志にしたがっているとも言えるだろう

鳥が鳴き声で自分の領域を主張するように 人間の音楽も意識しないでも 社会を支配する者たちの意志を伝えてしまう 

と書いていれば 書いたことばが論理を組み立てて かってにうごいていくだろう ことばを意味や論理の支配から自由にすることは 無意味な音や文字の組み合わせにもどさなくても できるかもしれない 世界を映すだけでなく まだない世界を夢みる 意識にしばられない組み合わせが 浮かんでくるかもしれない

音楽でも 20世紀の実験とはちがう さまざまなかたち というか まだかたちにならない断片を とぎれとぎれに 撒き散らしておくほうが いいのかもしれない

ティム・インゴルドの区別を借りれば 音をつらねる線の物語から 響きという痕跡へ 意志をもった発音から 耳元に囁きかける 途切れがちの記憶の表面 その気象学へ

2020年5月1日(金)

水牛だより

晴れて急に気温が高くなった今日の東京。マスクをして午後の町を歩くと、光は満ちているし、そこここの庭にも路端にも花々は咲いていて、季節は美しいのでした。人と会わない道ではマスクをはずして歩きます。そうすると花の香りや風の香りが気持ちよい。この先もっと気温が高くなってもマスクは必要そうな状況ですが、顔をなかば覆うことにいつまで耐えられるのか? 先は見えないまま、どう行動することが正解なのかわからない世界を生きる日々です。

「水牛のように」を2020年5月1日号に更新しました。
初登場は映画監督の越川道夫さんです。まだお会いしたことはありません。ツイッターで毎日のように越川さんが投稿する小さな植物や鳥や猫や子どもの写真を見てきました。写真に言葉はほとんどついていないのですが、どのような被写体に興味があるのかわかります。越川さんがつけた「人嫌い」というタイトルがすべてを物語っています。人が嫌いな映画監督、おもしろいですね。

先月も引用した『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)から、今月も5月1日(メーデー)のところを以下に。

五月一日 労働者の日
 協力して飛行する技術とはこういうものだ——一番目に飛ぶ雁は二番目の雁に道を開き、二番目は三番目が飛ぶ準備を整え、三番目が飛ぶときの力が四番目を飛ばし、四番目は五番目を助け、五番目の推進力が六番目の背中を押し、六番目は七番目が飛ぶ風を送ってやる……
 一番目の雁は疲れると、群れの最後尾に回って別の雁に場所を譲り、その雁が、群れが空を飛ぶときに描く例のV字形の頂点に行く。全員が後ろに回ったり先頭を行ったりと入れ替わる。先頭を飛ぶから自分が上級の雁だと思う雁はいないし、最後尾を飛ぶから下級の雁だと思う雁もいない。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

人嫌い

越川道夫

映画監督などという商売をしていて言うのもなんだが、人間があまり好きだとは言えない。もちろん自分も人間の端くれではあるので、自分のことも含めて。子供はまだしも、大人の姿を目の中になるべくなら入れたくない。だから、朝起きて、顔を洗っても、鏡で自分の顔を見ない。もう見ないことが習慣になっているので、わざと避けるのでなく、そもそも見ない。一度も自分の姿を見ない日もあれば、例えば出先のガラスに写る姿を見て初めて、ハハァ、今日オレハコノヨウナ姿ヲシテイルノカ、と思う日もある。毎日自宅を出て、二駅ほど離れたところにある仕事場に歩いていく。コンクリートで固められた川とも言えないような東京の川沿いを歩いていくのだが、その時、もなるべく人間の姿が目に入らないように歩いている。要するに空を見上げているか、それとも下を、地面を見ているか。地面を見ていれば、そこには植物が生えている。道端に、コンクリートやアスファルトの割れ目に。そこし前まで、ナズナが繁茂していたところに、カラスノエンドウが覆い繁って、それもすぐに実をつけて終わるだろう。オオイヌノフグリは、まだ咲いている。虎杖が立ち上がったと思うまもなく、雨のたびにぐんぐんと背を伸ばして、サツキやツツジの生垣を突き抜けている。晩春である。
村田了阿という人の書いた「花鳥日記」を識ったのは、若い頃に偶然読んだ石川淳の短編小説の中だったと思う。「雅歌」だったか。了阿は江戸後期の俳人であり博学多識とあるが、詳しくは知らない。「雅歌」の主人公は、「花鳥日記」のその肉筆の原本を渇望し、その原本が手に入るとしたならば、「ふだんほしくてたまらない金銭も入らず、しゃれた服装もいらず、酒とたばこは…これはちょっとつらいが、ウソをついて、絶対にいらないということにして、まして婦女子ごときもの、櫻子1からnまで全部ひっくるめて、西の海にさらりとして、何もかもなげうって、ただこればかりの、うすっぺらな花鳥日記一冊ととりかえる。」と言う。その「花鳥日記」は、『近世文藝叢書 日記十一』で活字では読むことができるのだが、本文二段組みでわずか4ページほどの日記である。
 
◯正月
四日、朝報春鳥鳴く、
六日、朝またしきりに鳴く、
二十二日、晝過より春雨長のどかに降りて、雪も消えあたたかになりければ、廿四日の朝、比叡のふもと山王下の御寺の竹園にて鶯しきりに鳴く、
 
といった具合であり、「一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、木、蟲などの消息がきはめて清潔にうつされている他には、このみぢかい日記の中には他の何もない。感想とか詠嘆とか、歌とか句とか、よごれっぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたというふようすで、立ちすがた。みごとである。」と石川淳は書いている。
原本が欲しいとは思わないが、わたしもまた『近世文藝叢書 日記十一』のわずか4ページの「花鳥日記」を事あるごとに読み返している。読み返して、「花や鳥が、自然みづからが」書いた文というものを夢想して、ひとり震える。あの大きな地震の後で、わたしは、もう動物や虫、植物か子供のことしか描くものはない、人間のましてや大人のことなど描くことはできない、と真剣に考えていた。それは今もさほど変わっていない。人の色恋沙汰を描きながら、どこかあの路地に溜まる野良猫たちの恋のことを、自分は書いている気がしてならない。
 
それでも買い物をしなければならず、駅前のスーパーに立ち寄る。疫病が流行し、いくつかの店は自治体の要請でシャッターを下ろしている。国家は金勘定はしても、町で暮らすわたしたちと向き合っているとはとても思えない。人の心が次第に荒んでいくのを感じるが、この国の権力を持ったものたちはもともと人の心の荒んだ部分を弄び、心の荒みを糧にして権力の座に居座り続けているように見える。道端で子供に当たった当たらないで親子と犬を連れた初老の男が口論している。思いもかけないような怒号が町中に響き渡る。自分の思ったように進めない自転車の男が、目の前歩く人に罵声を浴びせる。
買い物を終えて、また川の方へ降りると、ギシギシが赤い小さな花をつけている。群れて咲いていたセイヨウタンポポが、全て綿毛を散らしていいる。芽生え、立ち上がり、花をこぼれるまで咲かせて、実をつけ、そして枯れる。白鷺がコンクリートの川底から小さなナマズを捕らえ、食べていた。
 

仙台ネイティブのつぶやき(53)とりとめなく春が過ぎ

西大立目祥子

 世界中が疫病に巻き込まれるなんて。9年前に東日本大震災が起きたとき、おびただしい人が亡くなって、家も町も流されて、もうここまで深刻な災害を体験することは生きている間にはないだろうと思っていたのに。世界中から恐ろしい死者の数が日々伝えられてくる。
 いまもまだ毎日、地元紙の河北新報の1面には、東日本大震災の死者数が掲載されている。「宮城9543人(1217人)、岩手4675人(1112人)、福島1614人(196人)」という具合に。かっこの中は行方不明者だ。
 あのときの体験があるので、何万という人が亡くなったときに一体どういうことが起きるか、少し想像はできる。地元で火葬できない人たちは、山をこえて新潟や山形に運ばれていった。新聞には連日たくさんの死亡広告が載り、そこに見覚えのある名前をみつけることもあった。親しい人を失った人たちは、いま、お別れもできずに悲嘆にくれているだろう。

 仙台は3月のお彼岸くらいまではまだどこか呑気で集まって打ち合わせをしたりしていたのだが、4月に入り繁華街のパブがクラスターになったことがわかると、さすがに緊迫してきた。会議は全部中止になって書面で決済とか、延ばした日程をまた先延ばしにするとか、美術館も図書館も閉館になるとかで外出はめっきり減った。時間はあるはずなのに、なんというのか所在がない。ニュースを眺め、やりかけの仕事やってみるものの進まず、桜を眺めても心踊らず、集中力が全然出ない。

 それなのに、いろんなことが起きた。認知症の母がベッドから落ちてお尻の骨にヒビが入り、介護認定を見直したり部屋の中あちこちに手すりをつけたりでバタバタする。そうこうするうち猫の食欲が落ちてきてまったく食べなくなった。カゴに押し込み病院に連れて行くと、先生が一目見るなり「これはまずい」というではないか。血液検査をしたりレントゲンを撮ったり右往左往する。さらに「今晩預かってもいい」とまでいわれ動揺した。いい猫なのだ。私はこの猫といっしょに母の介護をしていると思っているので、なでるたび「長生きしてよ」と耳元でささやいてきた。戦友が奪われるのは困る。絶対に困る。
 
 幸い、母は回復して痛みを訴えることはなくなり、歩行も以前と同じまではいかないけれど、そろそろと歩けるようになった。つくづく食べてる人は強いと感じる。入れ歯なし91歳の母は、夕食は私と同じ量を食べる。グラタンもミートソースのパスタも食べる。そして、猫も回復した。皿に入れておいたごはんが空になっているのを見つけたときのよろこび。ああ、今日は食べてくれたと感じると、一瞬じぶんの中にも感応するように元気のスピリットがわき起こる。今日食べる力があれば、明日は生きられる。昨日今日食べたものが、翌週の血肉になるというのをリアルに感じる日々だ。

 ほっとしたのもつかの間、頭痛と吐き気で今度はじぶんが起きられなくなった。理由はわかっている。前々日の晩、集中力が出なくてあげられない原稿を無理して徹夜してやっつけたからだ。3年前に手術をして以来、それまでの頑健さはどこへやら、頑張り過ぎると決まってへたって吐いたり下痢したりする。でも深刻なことには至らなくてならなくて、お腹を休めて眠るとすぐ回復する。
 目にした新聞記事に福岡伸一さんがこう書いていた。「病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ」。からだはいったんリセットされて、新たな動的平衡をつくりあげるためにゆらゆら揺れながらいい状態を見つけようとしているんだろうか。いや、これがもう新たな動的平衡なのか。とすれば、まだ頭がついていってない。先行するからだに合わせて、つい頑張っちゃうクセの硬直した頭も揺らさないとだめなんだなあ。

 コロナ後の社会も、新たな動的平衡を求めて揺れることになるのだろう。人と人のかかわり方は変わるだろうか。3日前、初めてズームで打ち合わせのテストを試みた。確かに数人で集まって顔を見ながら話ができるのだから、集まり方を変えるかもしれないけれど、これが「場」になるのかどうか私にはまだわからない。

 ときどき車を走らせる宮城と秋田と山形の県境、鬼首という山間地に暮らす知人が山菜のコゴミを送ってくれた。すり鉢でゴマをすり、アーモンドやクルミを刻み入れてさらにすり、お醤油をちょっとたらしてナッツ和えにしたらおいしかった。春の味だ。ひと畝に何種類もの野菜を育て、こまめに料理をして暮らす知人は、春は決まって近くの禿岳(かむろだけ)に山菜採りに出かけて野性味あふれる味を楽しむ。都市がウィルスに翻弄されていても、山里の春はいつもどおりなのだろう。
 麓に広大な草原が広がり急峻な山道を持つ禿岳を、山登りする人たちは「アルプスのような山」と絶賛する。谷筋には雪が残り、尾根が黄緑色に染まっていく山を、ああ見たい、と思う。でもじぶんが感染源になる恐れがないとはいえないからこの春は無理だなぁと舌打ちしつつあきらめている。ニュースを見ていてもつくづく感染症はすべてが密な都市の病なんだと感じる。

 連休は庭でがまんしよう。でも目を凝らせば、シラネアオイ、イカリ草、二輪草、エビネ、一人静…と、さながら山にいるようにあちこちに山野草が小さな花を咲かせている。父が何年もかけて植え込んだ。絵ばかり描いていた高校の頃、祖父に幽玄な薄紫のシラネアオイを描いてくれといわれ、ものすごく閉口したことがあった。どこが魅力なのかちっともわからなかったから。30歳を迎えた頃だったろうか、楚々とした独特の白い花を咲かせる一人静を愛でる父に「おまえ、可愛いと思わないのか」と真顔で問われ、返答に窮したこともあった。その歳になってもわからなかったのです。いまはわかる。静かで可憐で目を凝らさないと存在を見出せないような花たち。しゃがみこんで向き合えば、その呼吸、命の明滅が胸に響いてくるよう。地べたに目を凝らして、5月。

すべては変わっていく(晩年通信 その10)

室謙二

 晩年通信の原稿が書けそうもない。コロナで鬱なのかもしれない。それで手紙を書くことにしました。
 原稿は、ひとつの作品でしょ。公の要素を持つ。手紙は個人的な通信で、今回はそれでいこう。
 原稿として書こうと思ったのは、鎌倉時代の仏教の天才たちが生きていたら、いまのコロナ騒ぎについて何と言うのだろうか、ということです。それで法然(1133 – 1212)を取りだして、日蓮(1222 – 1282)も、道元(1200 – 1253)も一遍(1239 – 1289)も取り出してきて読んでみた。すぐに気がつくのは、あの時代はいまのコロナと比べもにならないぐらいタイヘンな、ひどい時代だったこと。鴨長明(1155ー1216)の方丈記(1212)には、そのひどさが書かれている。
 まず大火事(1177)があって、京都の三分の一が焼けてしまう。つぎに京都の中心で旋風(1180)が吹いて、街を破壊した。「家の内の資材、数を尽くして空にあり(中略)、もの言ふ声も聞こえず、かの、地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ぼゆる」という次第であった。次に都が移る福原遷都(1180)があり、養和の飢饉(1181)が起こる。
 飢饉の次は地震(1185)が起こる。
 それだけではなく、一二七四年には外国から元が攻めてくる。
 養和の飢饉にについては、特に詳しく方丈記は書いている。
 京都の街の道端で、多くの人が倒れて、餓死している。臭いに満ちている。
 親子・夫婦などでは、「その思いまさりて深きも者、必ず、先立ちて死ぬ」とある。食べ物を、子供なり夫に渡して自分は食べないので、先に餓死してしまう。「さまざまの御祈り始まりて、なべてはならぬ法ども行はるれど」、まったく効果なし。「この世の地獄とでも言うべき」と書いている。

 あの時代の公家の日記などあつめて編集した、百錬抄(十三世紀末に成立)という記録がある。それによれば、嬰児が道路に捨てられ、死骸に満ちている。「夜、強盗、所々放火」、「京中狼藉多」ともある。別の養和二年記には、「天下飢餓す。清水寺の橋の下、二十余ばかりある童、小童をを食う。又、犬たおれるを、又、犬食う」と書かれている。ひどいものだ。(いずれも、講談社学術文庫「方丈記」の解説より。)
 つまりコロナ騒ぎどころの話ではないのである。
 そういう時代に鎌倉仏教の天才たちは生きて、修行して、人々に仏教を教えた。たとえば法然は、四三歳のとき(1175)国家仏教の比叡山を下りて、京都で民衆の仏教である浄土宗を始めるのだが、そこでは前に書いたように大火事(1177)があり、旋風(1180)が吹いて街を破壊、養和の飢饉(1181)、大地震(1185)が起こる。その中で上からの目線ではなくて、地べたからの目線で、民衆の目線で南無阿弥陀仏と浄土を教えた。ナムアミダブツには、そういう悲劇を救う音声が込められている。加藤周一は、「一五〇〇年以上の日本仏教思想史のなかから、もしただ一人の思想家を挙げるとすれば、まず法然を挙げる必要があろう。(「十三世紀の思想」)と書いている。
 
 法然の死んだ年に書かれた「方丈記」に戻れば、鴨長明はその最後の方で突然に(私には突然に、唐突にと思われるのだが)、「それ三界は、こころ一つなり」(我らが生き死にを繰り返す世界は、こころ一つで決まる)と言っている。法然も鴨長明も、南無阿弥陀仏であり西方浄土なのだが、法然にはそこに確信があり、鴨長明には確信はない。「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」と書いて、「はたまた、妄信の至りて狂ぜるか」とある。
 そして「その時、心、さらに答ふる事なし。ただ、傍に、舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」(迷った心が高じて、わが修行を狂わせているのか?そう自分にたずねても、心はこたえようとしたない。そこでやっとのこと舌根を動かして、南無阿弥陀仏と念仏を二、三度となえて、終りにしてしまった)
 私たちの多くは、南無阿弥陀仏も西方浄土も「信じて」はいない。南無阿弥陀仏と心の底から唱えることも、「浄土の存在」を認めることもしない。だから法然の確信より、鴨長明の「舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」の方に共感する。
 
 一九六〇年代の終わりに、サンフランシスコ禅センターを始めた鈴木俊隆老師は、一九六八年にカリフォルニアのタサハラ山中で修行中の一人に、「仏教は一言でいえば何なのか?」と聞かれた。白人修行僧たちは、そのあまりにまっすぐな質問にザワザワして、そして笑った人もいたらしい。鈴木老師はあわてずに、”Everytihng changes”と言ってから、「次の質問は?」と、付け加えたらしい。
 仏教を一言で言った、「すべては変わっていく」という言葉と、それ三界はこころ一つなり、は近い言葉のように思える。法然の問答集を読むと、そこには確信はあるが、人々に対応した揺れ動く教えがあるがあり、身動きできない確定した教えはない。Everytihng changesと、それ三界はこころ一つなり、はともに揺れ動く教えである。
 手紙のつもりで書こうと思ったけど、なんだか「作品」みたいになったかな。

追記1 一遍聖絵と踊り念仏のことを書くつもりだったが、そこまで行かなかった。一遍なら、コロナについてなんと言うか?ただ南無阿弥陀仏と唱えなさいと言うだろうが。

追記2 一遍のことを読み直したのは、柳宗悦「南無阿弥陀仏」を本棚に見つけたから。一遍のことを書いている。これは父親の本で、あちこちに英語の書き込みがある。この本の柳の文体は、美しい口語文体ですね。

追伸3 法然は面白い。だけど私は道元の学生で、南無阿弥陀仏とは唱えないで、座禅をする。道元は南無阿弥陀仏の合唱を、田んぼのカエルがガーガー鳴くようでうるさい、とからかっている。

追伸4 コロナに引きずられて、真面目すぎる文章になった。次回はもっと愉快なものを書くぞ。

シーグラス

イリナ・グリゴレ

ある日、家の前に植えた小さな梅の木の花が満開になっていた。わずかな梅の香りが二階の窓から家に入ってきて、繊細な空間を生み出した。梅の木はあまりにもちいさくて、木と言いえないぐらいミクロな世界の矢印のようにしか見えなかった。これでも夏になると20個の梅が実る。私はその小さな梅を梅干しにする。

梅はすごくデリケートだといつも思う。梅を干すというのはすごく手間がかかる。カビだらけならないように、天気のいい日だけ外に出す。梅を干す時期には私もすごく天気や湿度に敏感になって、梅が生まれ変わるまでの時間を儀礼的な繰り返しの動作で見守る。

春の晴れた日、毎日のように子供たちを車に乗せる動作は、日差しの差し方に関係するのかもしれないが、スローモーションのように感じる。梅の香りのせいでもある。この香りは私の脳に0.2秒で届くらしい。車のドアで小さな梅の木を倒しそうになった。

梅の木を近くで見るとミツバチが花の近くに飛んでいる。そうしてこのミツバチのバイブレーションだけが聞こえてくる、リピートで。頭の中で場所と時間が変わる。子供の時がフラッシュバックで蘇る。私は祖父母の家にいる。毎年、春になると祖父と村から町に出かけ、市場でチューリップとヒャシンスのブーケを売った。この手伝いは私のお気にいりだった。家の前の庭と葡萄畑の中には何百本もの鮮やかな色のチューリップと、ピンクと青色のヒャシンスがあった。この花をブーケにする動作をいまも思い出す。

春の夕焼けの時、家族全員で集まってたくさんの花束を作る。ヒャシンスの肉々しい感触がいまでも手に残っている。香りは光のスピードで家に広がる。ブーケを作りながら祖父は幼い頃、修道院の近くに住んでいた時のことを話したり、教会でお手伝いしていた時、若かった頃の馬と森の話をしたり、時間はあっという間にすぎた。いまでも祖父母の声をもう一度聞きたい。特別な機械で録音したい。その声の内面まで、魂の奥まで録音したい。祖父は機械を作ることが好きだった。不思議な自転車を作っていたことを覚えている。森から薪を運ぶ自転車だった。

あのときは、祖父母の声を残すことを考えていなかったが、今はできれば特別な装置で再生したい。最近気づいたのだが、私は人の声に非常に敏感だ。娘が色に敏感なのと同じく、私は音それ自体ではなく、人の声に敏感だと分かった。心臓の音と同じ。声は人によって全然違うので、声というのは各人に限る音になる。その声は私の身体に響くので、人によって私の身体に毎回違う反応が起こることに気づいた。

話の内容より、私は声に夢中になるときがある。トランス状態のような現象で、不思議にその時は様々なイメージの連続が起きる。例えば、今、こうして書いているときに祖父の声を頭で再生すると、スクリーンショットの連続のようなものが出てくる。ものすごいスピードで。この間見た夢の中では、祖父母のもう一つの庭でスズランの花を見ていた。夜中に私は暗みの中でスズランの白い花を見ていた。あの庭にはスズランがたくさんあったのに、夢の中ではスズランが減っていた。葉っぱをよけて白い花を一生懸命探していた。

そういえば、あの庭には土で作った小さな小屋があって、そこで祖父は昼寝をしたとき不思議な夢を見たと言った。祖父の夢の中では、地獄の入り口で行列を作る男たちがいた。彼らは制服を着て、おでこに数字が書かれていた。祖父もその一人だったが、誰かが祖父を行列から引っ張っていき、おでこに書いてあった数字をさして「まだ、あなたの番ではない」と言ったという。この夢はとても怖かったと祖父は言った。子供の私にはこの夢の雰囲気は骨まで伝わった。当時、ロマの女の子の友達が、私たちを狙う悪魔がいると教えてくれた。世界の終わりのことも子供たちで毎日のように話して想像をふくらませて、その日のための準備をしていた。家から隠してもってきたカーペットなどでテントを作って避難の準備もしていた。畑からトマト、ピーマン、キュウリを取ってきて待っていた。結局、持って来たものを食べて夕方には家に帰ったが、繰り返し何日もこの行動を行って、世界の終わりを待っていた。

カルロス・レイガダス監督の映画『闇のあとの光』にあるように、突然、家に赤い悪魔が歩いてくるシーンは印象深い。村の子供たちはみんな知っていた。私もある日、夕方に畑から一人で家に入ったら鏡にあの姿が映った。赤くなかったけど、今でも身体が震えるぐらい恐ろしかった。

前の日に見た夢の中では、どこかで見たことのある若い金髪の男の子が何もない道で新聞を売っていた。素敵な笑顔で私に近づいて「ジュースください」と可愛い声で言った。この男の子に会うのは初めてではない気がした。この声は知っていると思ったが、思い出せない。誰の声だったのか。子供のときの祖父の声だったのか。父は私たち家族を守る聖人、ルーシのジョンだったのではないかと言った。そのあと、私は地下室(ルーマニアではワインと自家製の瓶詰などを保存するため農家に必ず地下室がある)のようなところに入って、スイカと葡萄が並んだテーブルからおいしそうなスイカと葡萄を選んだ。

梅の木のその日に戻ると、なぜ祖父母の家を思い出したのか分かった。祖父母の家と庭が生まれ変わったからだ。あそこで今はハチミツが採れる。ミツバチを飼い始めて、あの庭と近くの森と畑から蜜が運ばれて甘いハチミツができる。こうやって見ると、場所の命の反復力はすごい。遠く離れた今も、私は自分が育った家、村、庭の蜜、あの場所を食べている。繰り返し私の身体の一部になっている。世界の肉がミツバチのおかげで、私の肉になっている。

今はジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる。イントロダクションにこう書いてあった。「反復することは何らかのやり方で振舞うことである。しかし、何かユニークな特別な何かに置き換えられない関係の中で繰り返される。」また「そして、そのような外的行動としての反復は、それはそれでまた、秘めやかなバイブレーション、すなわちその反復を活気づけている特異なものにおける内的でより深い反復に反響するだろう」。

この「内的でより深い反復」に注目したい。誰もいない公園で娘たちと遊んでいるときに、アザミの若いツルツルの葉っぱに水玉が溜まっていてキラキラしていた。娘は繰り返し水玉を指でつぶして喜んだ。この「外的な行動」は彼女とそれを見ている私に、桜が咲いている誰もいない公園という場所に繊細なバイブレーションを与え、内的な反復が生まれた。彼女の水玉を「初めてを見る」、「触る」体験、その瞬間は永遠に反復される。

私は、自分のふるまいによって、内的に、幼い時に暮らした家、背景、そのとき出会った人々の暮らしを永遠に繰り返し再現しようとしている。

この晴れた日は私の誕生日だった。保育園からの帰り道、カーラジオからプッチーニの「ある晴れた日に」が流れてきた。初めて聞くわけではないのに、はじめて聞いた気がした。ソプラノの声は非常に苦労した声のように感じて、美しかった。

後日、子供たちと日本海に行き、たくさんのシーグラスをひたすら夢中で拾った。石ころの間に小さな、ユニークな、青い、緑、ピンクのガラスのかけらを見つけて喜びを感じた。私たちの命もこの小さなシーグラスのように繰り返し現れるだろう。

ルーマニアのハチドリそっくりな蛾 花の蜜を食べている

天球のなかで

璃葉

世界のうごきによって、気づけば前の生活に戻ることができなくなっていた。とにかく今はひとり部屋にこもって、ひたすら鉛筆で落書きをし続けている。この奇妙な暮らしのなかで、とにかく自分を安心させてくれるのは身のまわりの物と、電話越しに聞く友人の声。
机の下にゴミのように転がっていたメモを見て、改めてそう思った。なぜこれを書いたのかは忘れた。でもこの単語を見るとなんだかとてもときめくのだった。

本 裏紙 ノート ペン 鉛筆 PC 女友達との電話
コーヒー タバコ ビール おいしいウイスキー 

部屋に閉じこもって何日経ったか。鬱々するどころか、最近はご飯もどんどん美味しく感じられる。
散歩がてら食料を買いにいくのも。
時間を忘れて本を読みふけるのも。
夕暮れの星と月をみる楽しさも、どんどん研ぎ澄まされていく。
体内のどこかで、仄かに光が灯ってくれている。

NASAの運営する「Astronomy Picture of the Day」というwebサイトには、毎日何かしらの天体写真や動画がアップされる。ある日更新されていたのは、世界各地の星の動きを定点カメラで、早回しで見せる動画だった。ピピピと輝く無数の星が、山脈や光る街の後ろで一定の方向にぐんぐんと上がって沈んでいくのを、何度も繰り返し再生しては凝視する。このような動画は腐るほど見てきたはずなのに、目が離せなかった。
現実の空の動きはあまりにも緩やかで星も見えにくく、自分が立っている場所がじつはまわっていることも、そこにある空が無限の宇宙の窓であることも忘れてしまっている。そういえば私は、元素が集まったとてつもなく不安定な球体に、奇跡的に生きている。

アジアのごはん(102)おから三昧

森下ヒバリ

さて、緊急事態宣言下、外出自粛生活もひと月にならんとする今日この頃、皆さまいかがおすごしでしょうか。ワタクシは3月にインドからタイに移動してからは、バンコクでもSTAY HOME状態だったので、3月末に日本に戻ってからと合わせてほぼ2か月STAY HOME状態が続いております。

う〜ん、飽きてきた・・。

しかし、ウイルス感染が蔓延しては困るので、なんとかやり過ごさなくてはならない。まあ、いつも日本ではけっこう引きこもりなので、家にいるのは構わないのだが、問題は同居人だ。うちの同居人はミュージシャンで、3月末からライブがほぼ中止になり、ずっと家にいる。いままではだいたい金土日月はライブで不在だったので、これは厳しい。食事作りがヒバリの担当のため、毎日毎日2回(うちは朝食は食べない)食事を作るのである。(一人の時は適当)

え、ワタシ以前から毎日3食作っていますが?・・という方にはスイマセン。とにかく料理の回数が普段の2倍になったのである。そこで、作り置き副菜おかずをまとめて多めに作っておくようにしてみた。切干大根と糸こんにゃくの煮物とか高野豆腐の煮物とか、たけのこの煮物とかだ。3〜4日は副菜を一品作らなくて済む。

そして今日はちょっと暑かったので、さっぱりとしたおからの酢の物を作ってみた。

おからはふつうに炊いてもおいしいけれど、目先を変えて酢の物もいいのですよ。これは京都のおばんざいのひとつだろう。いいおからを使えば、炒る必要もなく、とても簡単だ。

材料は何でもいいが、今ならきゅうりの薄切り、新玉ネギの薄切り、あればきくらげ、にんじんも。薬味にシソやみょうが、ショウガを加えるとさらにいい。ワカメもおいしい。野菜は塩で揉んでおいて、そこにおからを加える。米酢かりんご酢、しょうゆ、塩などで味をつけて和える。ちょっとだけみりんを入れても。

出来上がりのイメージは、おからの炊いたものよりは具材が多く、ほんの少し水っぽいぐらい。べちゃべちゃしてはいけない。しっとり、です。茶色くなると見た目が悪いので、出来るだけ薄口しょうゆか白醤油を。そして、これにしめ鯖の薄切りやアジの酢じめなどを混ぜ込むとごちそうになる。かまぼこやカニかまでもいける。野菜や海草だけの精進でもおいしい。ちょっと冷やしてどうぞ。

おからは基本火が通った状態で市販されているので、酢の物の場合は炒る必要なしで、火を使わずさっと作れる。あ、さっき出雲から届いたたけのこ、薄切りにしていれてみようっと。豆のピクルスや茹で枝豆も合う。

おからは食物繊維のかたまりである。免疫力をあげるには食物繊維をたくさん食べて、腸内細菌を元気にすることが重要だ。発酵食品も重要だが、もっと大事なのが、腸内細菌のエサである食物繊維なのである。「腸内細菌がよろこぶエサをあげる」ことを食事作りの時に忘れてはいけない。毎日ささっとおいしい食物繊維たっぷりのおかずを作って、ウイルスに負けない体を作りましょう。薬は治してくれないよ。

新しい生活

笠井瑞丈

緊急事態宣言
家を出ることのない生活
毎日をチャボのマギちゃんゴマちゃん
なおかさんとの四人の生活
ほとんどあまり人と会わず
たまに行うzoomミーティング

チャボのマギちゃんゴマちゃん
うちにきてもう少しで一年
今はもう完璧に家族の一員

ゲージは置いてはあるものの
ほぼ放し飼いで
いつも部屋を歩き回っている

最初うちに来た時は怖くて
ゲージから出てこれなかったのに
今となっては我が物顔で部屋を徘徊している
ちょっとでもゲージに閉じ込めようものなら
「出せ!出せ!出せ!出せ!!!!!」と
言わんばかりに叫び続ける

テレビの裏の隙間が
今は彼女たちの寝床

夜になるとぴょんとそこに登って
朝になるとぴょんとそこから降りる

降りると必ず枕元でおまんじゅうみたいな形になって
顔をカラダの中にねじ込んで残りの睡眠を続ける

一日おきに卵を産む
一日おきに体の中で
殻を作り
卵を作る

卵を産む時もテレビの隙間に登り
じっとそこで生まれる瞬間を待つ

その瞬間を眺める

生命の力を感じる瞬間
モノを生み出す力瞬間

神聖な時間

ちょっとした事にすぐ怯え
すぐ慌てて逃げだすチャボ

臆病なのに強く生きている姿が
けなげでとても可愛らしく思う

チャボにありがとうと言う

そんな変わらない毎日をチャボと過ごす
世の中はコロナ問題で日々変化している

いまはチャボさんと過ごす平凡な時間がとても愛おしく思う

早く収まる事祈るばかり

編み狂う(7)

斎藤真理子

私が編み物を何のためにしているかというと。
一応、着られるものを編んではいるが、それが目的ではない。この「編み狂う」を書きはじめたとき、「編んでいるその瞬間がいいから編み物をしている」と書いた。それも本当だが、それが目的かというとまた違う。

目的というものはたいがい単線ではなく、複線だし、もっといえば四車線道路みたいなもので、上り下りが同時に動くから、上りと下りで打ち消しあって結果がどうなっているのかよくわからない。要は、「何のために何をやっているのか」がわからず、忙しくしているうちに何十年も経つ。そういうことがよくある。

子供のころ、縄文土器が好きだった。
博物館に行くと飾ってあるやつではなく、そのへんの田んぼに転がっている破片に夢中になった。わが家の近所には昔、人がいっぱい住んでいたらしく、場所を狙い定めて行けば土器片はわりと容易に拾えた。

それらは、「自分は別にここにいたいわけでもないが、いたくないわけでもなく、この四、五千年はここにいるだけだが、お前が拾いたいなら拾え、嬉しくもないが悲しくもない」という風情で、平気で私に拾われていた。縒った植物の繊維や貝殻の縁、竹の断面などで模様をつけた厚手の焼き物の破片で、宝ということばをあてがうのもためらわれるほど、とくべつであったね。平たい菓子の箱に並べてずいぶん大事にしていたが、今は一かけも残っていない。縄文のゴミ捨て場から私を経由して、いつの間にか昭和のゴミ箱に行ったのだろうが。

その延長で大学は考古学科に入った。ところが、いくらでも土器に触れるようになったら、別に嬉しくもないのだった。しばらく発掘の手伝いにも行っていたがやめてしまい、ただの、だらだらした学生になった。

1990年代になって、廃墟マニアと分類されるような人たちが登場し、彼らが作った写真集が出はじめたとき、自分はこっちだったとようやく気づいた。そういえば縄文土器だけではなく、江戸時代の墓も、朽ち果てそうなお堂も、廃工場跡も好きだった。いちばん好きだったのは筑豊の炭鉱のホッパー跡だし。

そもそも、考古学が気になりだしたいちばんの大元を思い出してみたら、子供のときに読んだ、トロイアを発掘したシュリーマンの伝記だった。しかも私が気に入ったのは、シュリーマンがやった発掘調査や研究ではなく、冒頭に書かれた、きわめて情緒的なトロイア戦争の描写であった。負けたトロイアの都に火が放たれ、誰か(たぶん、アイネイアスという人)が父親をおぶい、幼い息子の手を引いて燃えさかる門をくぐるや否や、門はその背後で轟音を立てて崩れ落ちる……焼け跡と化したトロイア……長い歳月を経てそこには塵が積もり、土に埋もれ、忘れられ、何も知らない牧童が風に吹かれて笛を吹いている……みたいな(そういう挿画が入っていたと思う)。

私は自分が、モノそれ自体に語らせるという、学問の手法としての考古学に惹かれたと勘違いしていた。蒐集癖もあったので、それが縄文土器に結びついたのかとも思っていた。だが、総合してみるとただの「プチ諸行無常」好きだったことが、判明した。

要は、つわものでも、たわけものでも、何ものでもいいのだが、「これ、夢の跡なんじゃないの」と思われるものを見つけるとうっとりするという、それだけなのである。

今は旅行に行けないので、ウォーキングの途中にこっそり廃屋を見ているが、それで十分だ。
近所の空き家で十分なのに大学の考古学科まで行ったのは、相当に無駄と思えるが、「自分は何のために何をやっているのか」がわからなかったのだから仕方がない。

では翻って、廃屋を見て満足するのはいったい、何のために何をやってることになるのだろうか。

最近、それはイメージトレーニングだということがわかってきた。滅びるレッスンの一環である。滅びる途中のものを見て、それが消えたときのことをイメージし、「消えても大丈夫」→「私がいなくなっても(地球が)あるから大丈夫」と連想を広げていくトレーニング。どうも、イメトレの方が無駄にスケールが大きすぎ、実技に役に立たない気がするが、これもまたしょうがない。

そして、さらに話を戻すと、編み物も同じだ。
韓国語には「時間を過ごす」というときに使う지내다(チネダ)という動詞と、「時間を送る」というときに使う보내다(ポネダ)という動詞がある。この使い分けは日本語とよく似ている。例えば日本語で「いかがお過ごしでしたか」とは言うけれど、「いかがお送りでしたか」とは言わない。「チネダ」と「ポネダ」の使い分けもこれとほとんど同じなので、ちょっと驚いてしまう。

だが、「ポネダ」の方には、日本語の「送る」とは違うニュアンスがある。この言葉は日本語の「送る」と同様、荷物や手紙、視線や賞賛を「送る」ときにも使われるが、人間を目的語として使うと、人をどこかへ送り出す・派遣する・結婚させたり海外留学に行かせる、またはもっと遠くに行かせる(=死に別れる)を意味する場合もある。字面でいえば「遣(や)る」というニュアンスに近いかもしれない。

そして編み物は、時間を「ポネダ」する行為なのである。
これもまた1回目に書いたことだが、「時間はなぜ私と相談もせずにかくもすばやく去るのであるか」というのが、私の憤慨のもとなので、それが積もり積もってくると、時間が去るのをただ見ているのが嫌になり、逆ギレして、いっそ自分も加担した方がましだと思いはじめる。

時間の背中に両手を当て、力をこめて、ぐいぐい押す。
「ああもう、そんなことならばいっそ、早く行って仕舞へ」
みたいになる。編み物はそこに油を注ぐ行為。
限られた自分だけの時間を、自分の裁量(自分の編み針)で、前のめりに押す。

この情緒は確かに「プチ諸行無常」の一部ではあるが、百人一首でいえば「花よりほかに知る人もなし」とか、「あはれ今年の秋もいぬめり」的な寂しさ・はかなさでなく、「はげしかれとは祈らぬものを」とか、「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」とか、「むべ山風を嵐といふらむ」的な、やかましく、逆上しがちな、無駄な動きの多い情緒だと思う。

そのようにして、加速度をつけて編み狂っていると、次第に
「盛大に行けばよい。私のことは考えなくてよい。すまぬなどと思うな、行くがよい!」
みたいな、大仰な身振りになってきて、さらに力が入る……編み針が早くなる。

放っておいても過ぎ去るはずの時間に、わざわざ体当たりして、「ポネダ」する。
うららかに流れる時に、何もかも飲み込んでくださるという悠久の時にむかってわざわざ突撃して、「ポネダ」するんですよ、編み針という槍をふりかざして……ばかではないのか……しかし、そうやって貴重なはずの時間をがんがん蕩尽することは、自分の意思で時間を制御しているという歪んだ自負に通じ、「私は時間を惜しんではいない、滅びることを意に介していませんよ」というジェスチャーに通じ、脳内麻薬がどんどん分泌される。イメトレが現実を凌駕する。

本来、すきま時間に畑のすきまでハーブを栽培するようなことが、いつのまにか焼畑農業になっている。

こういうときの編み物はたいへん暴力的なのだ。そして、暴力が通過した後は、編みあがったものも、編んだ私もどうせ滅びるので、どうでもよく、縄文土器の破片なみに畑に転がっている感じ、つまり私の編み物の目的は畑に転がって無になることらしい。ついでに言うと私が好んで編む編み地は、ぼこぼこしていて、立体感があり、縄文土器のテクスチャーに何となく似ています。

韓国映画を観ていると、暴力的に編み物をする女性がときどき出てくる。例の『パラサイト』の冒頭でも、母親がかぎ針でコースターみたいなものを編んでいた(内職かもしれない)。情緒もへったくれもない編み方で、親近感が湧いた。あの人も多分、家族を含む他人によって規定された時間の枠内で生きてきて、編み針で操作している時間だけが、自分のものといえる時間なのかもしれないと思った。

非常事態宣言の夜

植松眞人

 オリンピックイヤーを迎え、安倍晋三は華々しく有終の美を飾るはずだった。しかし、二〇二〇年は前年からの不穏な未知のウイルスの世界的な蔓延によってオリンピックどころではなくなってしまった。

ロックダウンはしない。
外出、通勤の自粛を国民にお願いする。
効果があると言われ始めているアビガンという薬を早急に用意する。
PCR検査を二万件にまで増やす。
各家庭に何度でも洗って使用できる布製のマスクを二枚ずつ配布する。

 テレビの前で身構えながら、じっと安倍晋三の言葉を聞いていた美樹は「布製のマスクを二枚ずつ」というところでスッと力が抜けていくのを感じた。結局、この国難もこの首相にとってはスタンドプレイのネタでしかないのだということがよくわかったからだ。
 ここしばらく、中国武漢から始まった未知のウイルスが静かに広がっているという状況を知っておこうとテレビのニュースを見る時間が増えた。そんな中で、手洗いとマスクが最も有効だと聞かされながら、どこへ行ってもマスクが手に入れられない苛立ちを感じていた。しかも、それを甲高い声で叫ぶようにアピールする安倍晋三は、自らマスクなどしていない。そのことに強い違和感を抱いていたのである。
 しかし、数日前から急に安倍晋三がマスクをするようになり、美樹の違和感はさらに高まった。それて、いまテレビの中の安倍晋三が「布製のマスクを各家庭に二枚ずつ配る」という声を聞いて、ふいに「あれが配られるのか」と息が詰まってしまったのである。
 一国のトップのあごまで覆うことができないような無様なマスクを私たちに配ろうと言うのか。そして、一度決めたら勇気ある撤退など考えもしない安倍晋三はどんなことがあろうと、いかにもこの小さそうな、そして、洗えばすぐに縮んでしまいそうなマスクを送ってくるのだろう。
 生活が苦しい中で実施された消費税の増税や、勤めていた小さな会社の社長を苦しめる税務署の対応や、どう考えても弱い者いじめにしか見えない法改正など、これまでにも何度もこの国やこの国のトップを恨んだり嫉んだりしたことはあった。
 でも、と美樹は思うのだった。安倍晋三の顔も覆えないほど小さなマスクをこの国は私たちに配ろうというのだ、と。しかも、家族の人数分ではなく、何人家族であろうとたった二枚だけを。
 美樹はテレビを消し、玄関脇に届いていた宅配の小さい箱を手にしてテレビの前に戻ってきた。東京で一人暮らしをする娘を心配して、母が送ってきたものだった。電話では聞いていたが、箱の中身は何枚かの布とゴム紐が入っていて、その他に電話では聞いていなかったレトルトのご飯とカレーが入っていた。
 布とゴム紐はジプロックに入れられていて、開けるとほんのりアルコール消毒の臭いがした。ジプロックの中にはメモが入っていて、そこにはマスクを手作りする方法が書かれていた。美樹はさっそく母が送ってくれた布を手に取り、マスクを作る準備を始めた。自分の裁縫道具も用意して、まず布を一枚、自分の口元に当ててみた。安倍晋三のマスクよりも一回り大きなマスクになるように、母が裁断してくれていた。美樹はその布を二枚重ねにして、まずは上下を縫い合わせようと考えた。上を縫ったあと、今度は下の方の布をほんの少し折り込んでサイズを調整する。その時、美樹は一度折り込んだ布を改めて広げてみた。そして、さっきよりも大きく折り込んで、自分の口元へと当ててみたのだった。
 美樹の口元の布は少し小さく、美樹のあごが丸見えになっていた。ちょうど、安倍晋三がしていた小さな布製のマスクくらいに。同時に美樹は思ったのだ。もしかしたら、安倍晋三よりも大きなマスクをしてはいけないのではないかと。安倍晋三のマスクよりも大きなマスクをする国民など、いてはいけないのではないか。美樹はふいにそう思い手が止まってしまった。
 もちろん、東京都知事だって安倍晋三よりも大きなマスクをしているのだから、作ったところで罰せられることはないだろうが、そんなことよりも、作ろうだなんてことは思ってはいけないのだと美樹は思ったのだった。その時、美樹が思い浮かべていたのは、安倍晋三の顔ではなく、大学入学のために上京し、バイト先で知り合い、すぐに付き合い出した隆史のことだった。
 二人はとても仲が良かった。周囲の誰もが美樹は隆史と結婚するものだと思っていた。美樹自身もそう思っていたのだが、付き合い始めて七年ほど、働き始めて三年ほどしたある日、二人の気持ちは離れた。大きなきっかけがあったわけではない。その日、ひどい風邪を引いていた美樹は、マスクをしていた。マスクをしたまま隆史の心ない言葉を聞き、美樹は美樹で心にもない言葉を返して、二人の関係は終わった。
 美樹は母が送ってきた布を口元に当てたまま、身体の中から力が抜けていくのを感じた。力が抜けていくのを感じながら、美樹は安倍晋三のマスクよりも一回り小さなマスクを縫い始めた。縫い始めた瞬間、美樹は何もかも忘れて、マスクを繕うことに集中した。ものの数分でマスクは出来上がった。
 美樹はしばらく出来上がったマスクを手にしたままじっとしていたのだが、やがて和ばさみを手にすると、糸を切り、マスクをほどき始めた。そして、最初に母が採寸していた通りのサイズで、マスクを縫い直し始めた。(了)

シリアのコロナ事情

さとうまき

なぜシリアは新型コロナウィルス感染者が少ないのだろう。

新型コロナウィルスの感染が広がっている。日本でも4月6日に緊急事態宣言が出され、なかなか外出ができない状況だ。わが国際協力チームBEKOがシリア支援の活動を本格的に開始したところでイベントも中止。窮地に立たされている。

当のシリア国内はどうかというと、今のところコロナの感染者が43人しか出ていない。激しい内戦を続けてきて、病院も破壊され、医者も国外へ逃げてしまった。しかも戦闘はまだ続いている。こんな状況で、感染症が抑えられるのか不思議だ。

そこで、まず考えられるのが、
1)アサド政権はコロナの患者数を隠蔽している?
反体制系サイトのサウト・アースィマは3月28日、シリア軍の兵士40人が新型コロナウィルスに感染し、ダマスカス郊外の国立病院に搬送・隔離されていると伝えた。また、シリア人権監視団は29日、信頼できる複数の医療筋の情報として、新型コロナウィルスへの感染を疑われて隔離されている患者の数が260人以上に達していると発表した。
ただ、このシリア人権監視団も、安田純平氏が解放された際に、「カタールが身代金を払った」と不確かな情報を平気で発表する傾向がある団体なので、当てにならないのだが。イラクもシリア政府を非難している。イラクのカルバラー県のナズィーフ・ハッタービー知事はビデオ声明を出し、「カルバラー県は、11人の新型コロナウィルス感染者を確認している…。そのほとんどがシリアからの帰国者だ」と発表したうえで、「シリア政府と医療当局が正確な情報を与えてくれていない」と非難した。(イラクは、2,003人が感染して死亡者数92人)

2)きちんと検査ができていない。
先に述べたように内戦で医療崩壊してしまっているから検査がきちんとできるとは思えない。つまりちゃんと検査すればもっと感染者は増える。(これは日本と同じか?)

3)人の出入りが少ない。
シリアに行き来する人の数が圧倒的に少ない。日本の外務省は2012年から退避勧告を出し続けていた。

4)結構対策が早かった。
日本が非常事態宣言が出たのが4月6日。シリアは、3月22日に初めて新型コロナウィルス感染者がでると3月25日からロックダウンを宣言。功を奏しているのかもしれない。

分断されたシリア、コロナ対策で一つになれるのか? 今のシリアは、アサド政権が支配する地域と、北東シリア(クルド自治区)、そして北西部のイドリブ県(トルコが支援)に分かれている。イドリブでは今年1月からロシアの支援を受けたシリア政府軍と、トルコの支援を受けた反体制派が激しい戦闘を繰り広げ52万人ほどが国内避難民になっている。3月6日にはロシアとトルコで停戦合意が結ばれた。現在は、落ち着いており、トルコ政府系のサイトでは、18万5000人の民間人が帰還したと発表。アジアプレスの玉本英子さんは、イドリブ在住で市民記者としてアラブメディアに現地の状況を伝えてきたアル・アスマール氏のコメントを掲載している。
「各国で新型コロナ問題に関心が注がれるタイミングを利用して、アサド政権が非道な攻撃をするかもしれません。私たちは、新型コロナに加え、いつ空爆や砲撃の犠牲になるかわからない不安な毎日を送っているのです。この現実も知ってください」

イドリブの人たちの憎しみは強い。イドリブでは、反体制派のホワイトヘルメットが「国民対応チーム」を作り、トルコのガジアンテップ市にあるWHOの監督のもと、さまざまな感染防止にあたっているという。しかし、反体制派でも、イスラーム主義者を掲げるシャーム解放機構(アル・カーエダ系)は、ラマダーン月にモスクでの礼拝をおこなっており、密集を避けよという指導も届かない。トルコも、感染者が12万人に達し、シリア人の患者を受け入れる余裕はないようだ。

アレッポのアハマッドさんは、赤新月社で働いている。かつて日本語を勉強したことがあり、流ちょうに話す。
「難民が家に帰り、協力して家や都市を再建したいです。再び美しくなったシリアの景色を、日本をはじめ外国人観光客と楽しみことができる日が待ち遠しいです。」という。

ある日、赤新月社を頼って、小児がんの患者2人の家族が訪ねてきた。貧しくて病院に通うお金がないという。特にコロナ危機で交通費が値上がりしているというのだ。また、本来は治療費はかからないのに病院に薬がないと、自腹を切らなければいけない。この2人の子どもをとりあえず支援してほしいと持ち掛けられた。

がんの子どもたちは免疫力が弱く、感染症にやられやすい。がんの子どもを治療する病院は限られていて、政府とか反体制派とか言っている場合ではない。みんなで助け合わないと命が危ない。彼らに協力しようとクラウドファンディングを立ち上げた矢先に日本の方が大変なことになり、マスクはないわ、トイレットペーパーまでなくなるわで、ピリピリした空気が流れる中、シリアを支援しようとはなかなか大きな声で言えなかったが、チームの大学生4人組が奮闘してくれている。若い力に背中を押される。
https://readyfor.jp/projects/teambeko-japansyria

僕たちの世代は、本当にコロナのせいで明日食っていけるかわからない。僕も含めてだが、最近仕事を失った連中が多いのだ。コンサートが流れたり、イベントもできず、あとどれくらい生きていけるんだろう、みたいに考えて過ごしている。夫に先立たれ一人暮らしをしている同級生がいて、ちょっと心配になって電話してみた。すると、けらけら笑いだす。どうしたのって聞くと、「コロナで株が動くのよ! ここで儲けなきゃ。私は勝負が大好きなの!」という。なんとポジティブなんだろう。「で、その儲かったお金はどうするの?」「贅沢することで自分は輝けるのよ。信じるものはお金よ。」貧困がつらいというよりも、このギャップがとてもつらくなってきた。

ラマダーン月は、昼間は空腹に耐え、貧しい人のことを考える、そしてコーランを読み、善であろうとする。もしかしたら、コロナは、私たちにとってのラマダーンなのかもしれない。でも経典がないから、変な方向に走っていく人もいる。コロナが去った後は何が残るんだろうなあ。

コロナ アモックにならないように…

冨岡三智

先月、非常勤講師先の大学の3/31時点での状況を書いたけれど、4/7緊急事態宣言が発令されることになったので、4/3頃にすでに状況は一変した。4月2週目から対面授業を開講するとしていた大学も急遽オンライン授業に変更し、けっきょく本日4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった。仕事上の課題はあるにしても、実はわりと落ち着いている。家にこもるのが好きで仕事も一応あるからだが、物理的危害が加えられそうな不安はまだない…という理由が大きい。

最初のインドネシア留学時に、通貨危機(1997年)をきっかけにルピアが下落し、逆に物価が高騰して生活物資が不足し、暴動からスハルト大統領退陣(1998年5月)に至る直前までの状況を経験したから、あの当時の状況よりはマシである。研究者の調査報告を読んでいると、当時の買い溜めパニックは相対的に富裕層の高級スーパーにおける買い溜めが引き金となって伝統市場などに波及していったようだ。当時、特に不足が叫ばれていた代表格が食用油と砂糖だった。これは揚げ物が多い食事にたっぷり砂糖を入れたお茶を飲む南国ならではの状況だったろう。教会やモスク、王宮などが油や砂糖を買い付けて配給していたことを覚えている。

当時私がよく買い物していたマタハリ・デパートでは値札が頻繁に差し替えられ、そのうち値上がりに追いつかなくなって手書きになり、私が帰国する直前(5月上旬)に値札が一斉に棚から消えた。つまり時価になったのだ。そして、売り場の棚の所々にバーコードリーダーが置かれ、自分で値段を読み取るようになっていた。(余談だが、当時のマタハリには最新の富士通のPOSレジが導入され、バーコードリーダーで値札を読み取るようになっていた。)この、値札が消えた時の衝撃が忘れられない。同日午後に友人がマタハリに行った時には、すでに閉まっていたらしい。そして、私の帰国後にマタハリは放火されてしまった。

現在の日本でもマスクなどの高額販売や転売が問題になっているが、貧富の差が激しかったインドネシアでは物価上昇を狙って売り惜しみをしていると思われる店や、政府と癒着する富裕層への怨嗟が増していった。マタハリの実情は知らないが、大手のショッピングセンターや日本車などのショールームなどがそのために焼き討ちの対象になり、富裕層と目される華人に矛先が向かった。私たち日本人留学生の顔も、インドネシア人から見れば華人と区別がつき難いから狙われるかもしれない…という恐怖を、あの頃は本当に感じていた。自分の借りている家に「ここは日本人の家です」とペンキで書いた方がいいかもしれないと、留学生同士でしたくらいだ。今、自粛しない店への嫌がらせが一部で起きている。インドネシアには圧倒的な貧富の差と30年に渡るスハルト強権政治に対する反動があり、現在の日本ではあそこまでアモックにはなるまいと信じている。アモックamokはインドネシア語(マレー語)から英語に取り入れられた単語の1つだ。理性を失って荒れ狂った様を言う。1998年の暴動~政変の間によく使われた。最近、ふと当時のことを思い出す…。

窗のない夢

北村周一

ひき籠るほかなく画家のいちにちは
 暮れるにはやくすでにほろ酔い
みんざいの代替えにしてひとりのむ
 ボトル・キープは自宅を出でず
睡眠力高めむとして寝静まる
 家具のごとくに夜をたのしむ
夜ねむるまえの大事な所作のひとつ
 けっして後ろをふり向かぬこと
切歯にて噛みちぎりたる眠剤の
 片割れがいまのみどに落ちぬ
とり敢えずデパスその一 目覚めたら
 のむ約束のまくらの友よ
追伸2 ソラナックスにしておこう
 深い眠りは枕許より
おもうよりふかいところに根を下ろし
 きょうの不眠は午後のコーヒー
ゆめさめて何思うなき夜ながら
 不眠因子はわれをゆるさず
不眠因子みつけえぬまま夜の深けを
 布の織目に笑まう人面
ねむったままいってしまえば夢心地 
 ずれた布団が少し重たい
細き灯りかべに向ければ夜の淵を
 音なくすすむ秒針その他
ひとり事のごとく一本の道ありて
 見つめるために見つめいるなり
窗のない夢をとけだす雨音の
 増しゆくそれは雨滴(泣きたい)
微睡みからさめつつあらむ夜のあけを
 夢の数だけまもる沈黙