2020年5月1日(金)

水牛だより

晴れて急に気温が高くなった今日の東京。マスクをして午後の町を歩くと、光は満ちているし、そこここの庭にも路端にも花々は咲いていて、季節は美しいのでした。人と会わない道ではマスクをはずして歩きます。そうすると花の香りや風の香りが気持ちよい。この先もっと気温が高くなってもマスクは必要そうな状況ですが、顔をなかば覆うことにいつまで耐えられるのか? 先は見えないまま、どう行動することが正解なのかわからない世界を生きる日々です。

「水牛のように」を2020年5月1日号に更新しました。
初登場は映画監督の越川道夫さんです。まだお会いしたことはありません。ツイッターで毎日のように越川さんが投稿する小さな植物や鳥や猫や子どもの写真を見てきました。写真に言葉はほとんどついていないのですが、どのような被写体に興味があるのかわかります。越川さんがつけた「人嫌い」というタイトルがすべてを物語っています。人が嫌いな映画監督、おもしろいですね。

先月も引用した『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)から、今月も5月1日(メーデー)のところを以下に。

五月一日 労働者の日
 協力して飛行する技術とはこういうものだ——一番目に飛ぶ雁は二番目の雁に道を開き、二番目は三番目が飛ぶ準備を整え、三番目が飛ぶときの力が四番目を飛ばし、四番目は五番目を助け、五番目の推進力が六番目の背中を押し、六番目は七番目が飛ぶ風を送ってやる……
 一番目の雁は疲れると、群れの最後尾に回って別の雁に場所を譲り、その雁が、群れが空を飛ぶときに描く例のV字形の頂点に行く。全員が後ろに回ったり先頭を行ったりと入れ替わる。先頭を飛ぶから自分が上級の雁だと思う雁はいないし、最後尾を飛ぶから下級の雁だと思う雁もいない。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

人嫌い

越川道夫

映画監督などという商売をしていて言うのもなんだが、人間があまり好きだとは言えない。もちろん自分も人間の端くれではあるので、自分のことも含めて。子供はまだしも、大人の姿を目の中になるべくなら入れたくない。だから、朝起きて、顔を洗っても、鏡で自分の顔を見ない。もう見ないことが習慣になっているので、わざと避けるのでなく、そもそも見ない。一度も自分の姿を見ない日もあれば、例えば出先のガラスに写る姿を見て初めて、ハハァ、今日オレハコノヨウナ姿ヲシテイルノカ、と思う日もある。毎日自宅を出て、二駅ほど離れたところにある仕事場に歩いていく。コンクリートで固められた川とも言えないような東京の川沿いを歩いていくのだが、その時、もなるべく人間の姿が目に入らないように歩いている。要するに空を見上げているか、それとも下を、地面を見ているか。地面を見ていれば、そこには植物が生えている。道端に、コンクリートやアスファルトの割れ目に。そこし前まで、ナズナが繁茂していたところに、カラスノエンドウが覆い繁って、それもすぐに実をつけて終わるだろう。オオイヌノフグリは、まだ咲いている。虎杖が立ち上がったと思うまもなく、雨のたびにぐんぐんと背を伸ばして、サツキやツツジの生垣を突き抜けている。晩春である。
村田了阿という人の書いた「花鳥日記」を識ったのは、若い頃に偶然読んだ石川淳の短編小説の中だったと思う。「雅歌」だったか。了阿は江戸後期の俳人であり博学多識とあるが、詳しくは知らない。「雅歌」の主人公は、「花鳥日記」のその肉筆の原本を渇望し、その原本が手に入るとしたならば、「ふだんほしくてたまらない金銭も入らず、しゃれた服装もいらず、酒とたばこは…これはちょっとつらいが、ウソをついて、絶対にいらないということにして、まして婦女子ごときもの、櫻子1からnまで全部ひっくるめて、西の海にさらりとして、何もかもなげうって、ただこればかりの、うすっぺらな花鳥日記一冊ととりかえる。」と言う。その「花鳥日記」は、『近世文藝叢書 日記十一』で活字では読むことができるのだが、本文二段組みでわずか4ページほどの日記である。
 
◯正月
四日、朝報春鳥鳴く、
六日、朝またしきりに鳴く、
二十二日、晝過より春雨長のどかに降りて、雪も消えあたたかになりければ、廿四日の朝、比叡のふもと山王下の御寺の竹園にて鶯しきりに鳴く、
 
といった具合であり、「一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、木、蟲などの消息がきはめて清潔にうつされている他には、このみぢかい日記の中には他の何もない。感想とか詠嘆とか、歌とか句とか、よごれっぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたというふようすで、立ちすがた。みごとである。」と石川淳は書いている。
原本が欲しいとは思わないが、わたしもまた『近世文藝叢書 日記十一』のわずか4ページの「花鳥日記」を事あるごとに読み返している。読み返して、「花や鳥が、自然みづからが」書いた文というものを夢想して、ひとり震える。あの大きな地震の後で、わたしは、もう動物や虫、植物か子供のことしか描くものはない、人間のましてや大人のことなど描くことはできない、と真剣に考えていた。それは今もさほど変わっていない。人の色恋沙汰を描きながら、どこかあの路地に溜まる野良猫たちの恋のことを、自分は書いている気がしてならない。
 
それでも買い物をしなければならず、駅前のスーパーに立ち寄る。疫病が流行し、いくつかの店は自治体の要請でシャッターを下ろしている。国家は金勘定はしても、町で暮らすわたしたちと向き合っているとはとても思えない。人の心が次第に荒んでいくのを感じるが、この国の権力を持ったものたちはもともと人の心の荒んだ部分を弄び、心の荒みを糧にして権力の座に居座り続けているように見える。道端で子供に当たった当たらないで親子と犬を連れた初老の男が口論している。思いもかけないような怒号が町中に響き渡る。自分の思ったように進めない自転車の男が、目の前歩く人に罵声を浴びせる。
買い物を終えて、また川の方へ降りると、ギシギシが赤い小さな花をつけている。群れて咲いていたセイヨウタンポポが、全て綿毛を散らしていいる。芽生え、立ち上がり、花をこぼれるまで咲かせて、実をつけ、そして枯れる。白鷺がコンクリートの川底から小さなナマズを捕らえ、食べていた。
 

仙台ネイティブのつぶやき(53)とりとめなく春が過ぎ

西大立目祥子

 世界中が疫病に巻き込まれるなんて。9年前に東日本大震災が起きたとき、おびただしい人が亡くなって、家も町も流されて、もうここまで深刻な災害を体験することは生きている間にはないだろうと思っていたのに。世界中から恐ろしい死者の数が日々伝えられてくる。
 いまもまだ毎日、地元紙の河北新報の1面には、東日本大震災の死者数が掲載されている。「宮城9543人(1217人)、岩手4675人(1112人)、福島1614人(196人)」という具合に。かっこの中は行方不明者だ。
 あのときの体験があるので、何万という人が亡くなったときに一体どういうことが起きるか、少し想像はできる。地元で火葬できない人たちは、山をこえて新潟や山形に運ばれていった。新聞には連日たくさんの死亡広告が載り、そこに見覚えのある名前をみつけることもあった。親しい人を失った人たちは、いま、お別れもできずに悲嘆にくれているだろう。

 仙台は3月のお彼岸くらいまではまだどこか呑気で集まって打ち合わせをしたりしていたのだが、4月に入り繁華街のパブがクラスターになったことがわかると、さすがに緊迫してきた。会議は全部中止になって書面で決済とか、延ばした日程をまた先延ばしにするとか、美術館も図書館も閉館になるとかで外出はめっきり減った。時間はあるはずなのに、なんというのか所在がない。ニュースを眺め、やりかけの仕事やってみるものの進まず、桜を眺めても心踊らず、集中力が全然出ない。

 それなのに、いろんなことが起きた。認知症の母がベッドから落ちてお尻の骨にヒビが入り、介護認定を見直したり部屋の中あちこちに手すりをつけたりでバタバタする。そうこうするうち猫の食欲が落ちてきてまったく食べなくなった。カゴに押し込み病院に連れて行くと、先生が一目見るなり「これはまずい」というではないか。血液検査をしたりレントゲンを撮ったり右往左往する。さらに「今晩預かってもいい」とまでいわれ動揺した。いい猫なのだ。私はこの猫といっしょに母の介護をしていると思っているので、なでるたび「長生きしてよ」と耳元でささやいてきた。戦友が奪われるのは困る。絶対に困る。
 
 幸い、母は回復して痛みを訴えることはなくなり、歩行も以前と同じまではいかないけれど、そろそろと歩けるようになった。つくづく食べてる人は強いと感じる。入れ歯なし91歳の母は、夕食は私と同じ量を食べる。グラタンもミートソースのパスタも食べる。そして、猫も回復した。皿に入れておいたごはんが空になっているのを見つけたときのよろこび。ああ、今日は食べてくれたと感じると、一瞬じぶんの中にも感応するように元気のスピリットがわき起こる。今日食べる力があれば、明日は生きられる。昨日今日食べたものが、翌週の血肉になるというのをリアルに感じる日々だ。

 ほっとしたのもつかの間、頭痛と吐き気で今度はじぶんが起きられなくなった。理由はわかっている。前々日の晩、集中力が出なくてあげられない原稿を無理して徹夜してやっつけたからだ。3年前に手術をして以来、それまでの頑健さはどこへやら、頑張り過ぎると決まってへたって吐いたり下痢したりする。でも深刻なことには至らなくてならなくて、お腹を休めて眠るとすぐ回復する。
 目にした新聞記事に福岡伸一さんがこう書いていた。「病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ」。からだはいったんリセットされて、新たな動的平衡をつくりあげるためにゆらゆら揺れながらいい状態を見つけようとしているんだろうか。いや、これがもう新たな動的平衡なのか。とすれば、まだ頭がついていってない。先行するからだに合わせて、つい頑張っちゃうクセの硬直した頭も揺らさないとだめなんだなあ。

 コロナ後の社会も、新たな動的平衡を求めて揺れることになるのだろう。人と人のかかわり方は変わるだろうか。3日前、初めてズームで打ち合わせのテストを試みた。確かに数人で集まって顔を見ながら話ができるのだから、集まり方を変えるかもしれないけれど、これが「場」になるのかどうか私にはまだわからない。

 ときどき車を走らせる宮城と秋田と山形の県境、鬼首という山間地に暮らす知人が山菜のコゴミを送ってくれた。すり鉢でゴマをすり、アーモンドやクルミを刻み入れてさらにすり、お醤油をちょっとたらしてナッツ和えにしたらおいしかった。春の味だ。ひと畝に何種類もの野菜を育て、こまめに料理をして暮らす知人は、春は決まって近くの禿岳(かむろだけ)に山菜採りに出かけて野性味あふれる味を楽しむ。都市がウィルスに翻弄されていても、山里の春はいつもどおりなのだろう。
 麓に広大な草原が広がり急峻な山道を持つ禿岳を、山登りする人たちは「アルプスのような山」と絶賛する。谷筋には雪が残り、尾根が黄緑色に染まっていく山を、ああ見たい、と思う。でもじぶんが感染源になる恐れがないとはいえないからこの春は無理だなぁと舌打ちしつつあきらめている。ニュースを見ていてもつくづく感染症はすべてが密な都市の病なんだと感じる。

 連休は庭でがまんしよう。でも目を凝らせば、シラネアオイ、イカリ草、二輪草、エビネ、一人静…と、さながら山にいるようにあちこちに山野草が小さな花を咲かせている。父が何年もかけて植え込んだ。絵ばかり描いていた高校の頃、祖父に幽玄な薄紫のシラネアオイを描いてくれといわれ、ものすごく閉口したことがあった。どこが魅力なのかちっともわからなかったから。30歳を迎えた頃だったろうか、楚々とした独特の白い花を咲かせる一人静を愛でる父に「おまえ、可愛いと思わないのか」と真顔で問われ、返答に窮したこともあった。その歳になってもわからなかったのです。いまはわかる。静かで可憐で目を凝らさないと存在を見出せないような花たち。しゃがみこんで向き合えば、その呼吸、命の明滅が胸に響いてくるよう。地べたに目を凝らして、5月。

すべては変わっていく(晩年通信 その10)

室謙二

 晩年通信の原稿が書けそうもない。コロナで鬱なのかもしれない。それで手紙を書くことにしました。
 原稿は、ひとつの作品でしょ。公の要素を持つ。手紙は個人的な通信で、今回はそれでいこう。
 原稿として書こうと思ったのは、鎌倉時代の仏教の天才たちが生きていたら、いまのコロナ騒ぎについて何と言うのだろうか、ということです。それで法然(1133 – 1212)を取りだして、日蓮(1222 – 1282)も、道元(1200 – 1253)も一遍(1239 – 1289)も取り出してきて読んでみた。すぐに気がつくのは、あの時代はいまのコロナと比べもにならないぐらいタイヘンな、ひどい時代だったこと。鴨長明(1155ー1216)の方丈記(1212)には、そのひどさが書かれている。
 まず大火事(1177)があって、京都の三分の一が焼けてしまう。つぎに京都の中心で旋風(1180)が吹いて、街を破壊した。「家の内の資材、数を尽くして空にあり(中略)、もの言ふ声も聞こえず、かの、地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ぼゆる」という次第であった。次に都が移る福原遷都(1180)があり、養和の飢饉(1181)が起こる。
 飢饉の次は地震(1185)が起こる。
 それだけではなく、一二七四年には外国から元が攻めてくる。
 養和の飢饉にについては、特に詳しく方丈記は書いている。
 京都の街の道端で、多くの人が倒れて、餓死している。臭いに満ちている。
 親子・夫婦などでは、「その思いまさりて深きも者、必ず、先立ちて死ぬ」とある。食べ物を、子供なり夫に渡して自分は食べないので、先に餓死してしまう。「さまざまの御祈り始まりて、なべてはならぬ法ども行はるれど」、まったく効果なし。「この世の地獄とでも言うべき」と書いている。

 あの時代の公家の日記などあつめて編集した、百錬抄(十三世紀末に成立)という記録がある。それによれば、嬰児が道路に捨てられ、死骸に満ちている。「夜、強盗、所々放火」、「京中狼藉多」ともある。別の養和二年記には、「天下飢餓す。清水寺の橋の下、二十余ばかりある童、小童をを食う。又、犬たおれるを、又、犬食う」と書かれている。ひどいものだ。(いずれも、講談社学術文庫「方丈記」の解説より。)
 つまりコロナ騒ぎどころの話ではないのである。
 そういう時代に鎌倉仏教の天才たちは生きて、修行して、人々に仏教を教えた。たとえば法然は、四三歳のとき(1175)国家仏教の比叡山を下りて、京都で民衆の仏教である浄土宗を始めるのだが、そこでは前に書いたように大火事(1177)があり、旋風(1180)が吹いて街を破壊、養和の飢饉(1181)、大地震(1185)が起こる。その中で上からの目線ではなくて、地べたからの目線で、民衆の目線で南無阿弥陀仏と浄土を教えた。ナムアミダブツには、そういう悲劇を救う音声が込められている。加藤周一は、「一五〇〇年以上の日本仏教思想史のなかから、もしただ一人の思想家を挙げるとすれば、まず法然を挙げる必要があろう。(「十三世紀の思想」)と書いている。
 
 法然の死んだ年に書かれた「方丈記」に戻れば、鴨長明はその最後の方で突然に(私には突然に、唐突にと思われるのだが)、「それ三界は、こころ一つなり」(我らが生き死にを繰り返す世界は、こころ一つで決まる)と言っている。法然も鴨長明も、南無阿弥陀仏であり西方浄土なのだが、法然にはそこに確信があり、鴨長明には確信はない。「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」と書いて、「はたまた、妄信の至りて狂ぜるか」とある。
 そして「その時、心、さらに答ふる事なし。ただ、傍に、舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」(迷った心が高じて、わが修行を狂わせているのか?そう自分にたずねても、心はこたえようとしたない。そこでやっとのこと舌根を動かして、南無阿弥陀仏と念仏を二、三度となえて、終りにしてしまった)
 私たちの多くは、南無阿弥陀仏も西方浄土も「信じて」はいない。南無阿弥陀仏と心の底から唱えることも、「浄土の存在」を認めることもしない。だから法然の確信より、鴨長明の「舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、止みぬ」の方に共感する。
 
 一九六〇年代の終わりに、サンフランシスコ禅センターを始めた鈴木俊隆老師は、一九六八年にカリフォルニアのタサハラ山中で修行中の一人に、「仏教は一言でいえば何なのか?」と聞かれた。白人修行僧たちは、そのあまりにまっすぐな質問にザワザワして、そして笑った人もいたらしい。鈴木老師はあわてずに、”Everytihng changes”と言ってから、「次の質問は?」と、付け加えたらしい。
 仏教を一言で言った、「すべては変わっていく」という言葉と、それ三界はこころ一つなり、は近い言葉のように思える。法然の問答集を読むと、そこには確信はあるが、人々に対応した揺れ動く教えがあるがあり、身動きできない確定した教えはない。Everytihng changesと、それ三界はこころ一つなり、はともに揺れ動く教えである。
 手紙のつもりで書こうと思ったけど、なんだか「作品」みたいになったかな。

追記1 一遍聖絵と踊り念仏のことを書くつもりだったが、そこまで行かなかった。一遍なら、コロナについてなんと言うか?ただ南無阿弥陀仏と唱えなさいと言うだろうが。

追記2 一遍のことを読み直したのは、柳宗悦「南無阿弥陀仏」を本棚に見つけたから。一遍のことを書いている。これは父親の本で、あちこちに英語の書き込みがある。この本の柳の文体は、美しい口語文体ですね。

追伸3 法然は面白い。だけど私は道元の学生で、南無阿弥陀仏とは唱えないで、座禅をする。道元は南無阿弥陀仏の合唱を、田んぼのカエルがガーガー鳴くようでうるさい、とからかっている。

追伸4 コロナに引きずられて、真面目すぎる文章になった。次回はもっと愉快なものを書くぞ。

シーグラス

イリナ・グリゴレ

ある日、家の前に植えた小さな梅の木の花が満開になっていた。わずかな梅の香りが二階の窓から家に入ってきて、繊細な空間を生み出した。梅の木はあまりにもちいさくて、木と言いえないぐらいミクロな世界の矢印のようにしか見えなかった。これでも夏になると20個の梅が実る。私はその小さな梅を梅干しにする。

梅はすごくデリケートだといつも思う。梅を干すというのはすごく手間がかかる。カビだらけならないように、天気のいい日だけ外に出す。梅を干す時期には私もすごく天気や湿度に敏感になって、梅が生まれ変わるまでの時間を儀礼的な繰り返しの動作で見守る。

春の晴れた日、毎日のように子供たちを車に乗せる動作は、日差しの差し方に関係するのかもしれないが、スローモーションのように感じる。梅の香りのせいでもある。この香りは私の脳に0.2秒で届くらしい。車のドアで小さな梅の木を倒しそうになった。

梅の木を近くで見るとミツバチが花の近くに飛んでいる。そうしてこのミツバチのバイブレーションだけが聞こえてくる、リピートで。頭の中で場所と時間が変わる。子供の時がフラッシュバックで蘇る。私は祖父母の家にいる。毎年、春になると祖父と村から町に出かけ、市場でチューリップとヒャシンスのブーケを売った。この手伝いは私のお気にいりだった。家の前の庭と葡萄畑の中には何百本もの鮮やかな色のチューリップと、ピンクと青色のヒャシンスがあった。この花をブーケにする動作をいまも思い出す。

春の夕焼けの時、家族全員で集まってたくさんの花束を作る。ヒャシンスの肉々しい感触がいまでも手に残っている。香りは光のスピードで家に広がる。ブーケを作りながら祖父は幼い頃、修道院の近くに住んでいた時のことを話したり、教会でお手伝いしていた時、若かった頃の馬と森の話をしたり、時間はあっという間にすぎた。いまでも祖父母の声をもう一度聞きたい。特別な機械で録音したい。その声の内面まで、魂の奥まで録音したい。祖父は機械を作ることが好きだった。不思議な自転車を作っていたことを覚えている。森から薪を運ぶ自転車だった。

あのときは、祖父母の声を残すことを考えていなかったが、今はできれば特別な装置で再生したい。最近気づいたのだが、私は人の声に非常に敏感だ。娘が色に敏感なのと同じく、私は音それ自体ではなく、人の声に敏感だと分かった。心臓の音と同じ。声は人によって全然違うので、声というのは各人に限る音になる。その声は私の身体に響くので、人によって私の身体に毎回違う反応が起こることに気づいた。

話の内容より、私は声に夢中になるときがある。トランス状態のような現象で、不思議にその時は様々なイメージの連続が起きる。例えば、今、こうして書いているときに祖父の声を頭で再生すると、スクリーンショットの連続のようなものが出てくる。ものすごいスピードで。この間見た夢の中では、祖父母のもう一つの庭でスズランの花を見ていた。夜中に私は暗みの中でスズランの白い花を見ていた。あの庭にはスズランがたくさんあったのに、夢の中ではスズランが減っていた。葉っぱをよけて白い花を一生懸命探していた。

そういえば、あの庭には土で作った小さな小屋があって、そこで祖父は昼寝をしたとき不思議な夢を見たと言った。祖父の夢の中では、地獄の入り口で行列を作る男たちがいた。彼らは制服を着て、おでこに数字が書かれていた。祖父もその一人だったが、誰かが祖父を行列から引っ張っていき、おでこに書いてあった数字をさして「まだ、あなたの番ではない」と言ったという。この夢はとても怖かったと祖父は言った。子供の私にはこの夢の雰囲気は骨まで伝わった。当時、ロマの女の子の友達が、私たちを狙う悪魔がいると教えてくれた。世界の終わりのことも子供たちで毎日のように話して想像をふくらませて、その日のための準備をしていた。家から隠してもってきたカーペットなどでテントを作って避難の準備もしていた。畑からトマト、ピーマン、キュウリを取ってきて待っていた。結局、持って来たものを食べて夕方には家に帰ったが、繰り返し何日もこの行動を行って、世界の終わりを待っていた。

カルロス・レイガダス監督の映画『闇のあとの光』にあるように、突然、家に赤い悪魔が歩いてくるシーンは印象深い。村の子供たちはみんな知っていた。私もある日、夕方に畑から一人で家に入ったら鏡にあの姿が映った。赤くなかったけど、今でも身体が震えるぐらい恐ろしかった。

前の日に見た夢の中では、どこかで見たことのある若い金髪の男の子が何もない道で新聞を売っていた。素敵な笑顔で私に近づいて「ジュースください」と可愛い声で言った。この男の子に会うのは初めてではない気がした。この声は知っていると思ったが、思い出せない。誰の声だったのか。子供のときの祖父の声だったのか。父は私たち家族を守る聖人、ルーシのジョンだったのではないかと言った。そのあと、私は地下室(ルーマニアではワインと自家製の瓶詰などを保存するため農家に必ず地下室がある)のようなところに入って、スイカと葡萄が並んだテーブルからおいしそうなスイカと葡萄を選んだ。

梅の木のその日に戻ると、なぜ祖父母の家を思い出したのか分かった。祖父母の家と庭が生まれ変わったからだ。あそこで今はハチミツが採れる。ミツバチを飼い始めて、あの庭と近くの森と畑から蜜が運ばれて甘いハチミツができる。こうやって見ると、場所の命の反復力はすごい。遠く離れた今も、私は自分が育った家、村、庭の蜜、あの場所を食べている。繰り返し私の身体の一部になっている。世界の肉がミツバチのおかげで、私の肉になっている。

今はジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる。イントロダクションにこう書いてあった。「反復することは何らかのやり方で振舞うことである。しかし、何かユニークな特別な何かに置き換えられない関係の中で繰り返される。」また「そして、そのような外的行動としての反復は、それはそれでまた、秘めやかなバイブレーション、すなわちその反復を活気づけている特異なものにおける内的でより深い反復に反響するだろう」。

この「内的でより深い反復」に注目したい。誰もいない公園で娘たちと遊んでいるときに、アザミの若いツルツルの葉っぱに水玉が溜まっていてキラキラしていた。娘は繰り返し水玉を指でつぶして喜んだ。この「外的な行動」は彼女とそれを見ている私に、桜が咲いている誰もいない公園という場所に繊細なバイブレーションを与え、内的な反復が生まれた。彼女の水玉を「初めてを見る」、「触る」体験、その瞬間は永遠に反復される。

私は、自分のふるまいによって、内的に、幼い時に暮らした家、背景、そのとき出会った人々の暮らしを永遠に繰り返し再現しようとしている。

この晴れた日は私の誕生日だった。保育園からの帰り道、カーラジオからプッチーニの「ある晴れた日に」が流れてきた。初めて聞くわけではないのに、はじめて聞いた気がした。ソプラノの声は非常に苦労した声のように感じて、美しかった。

後日、子供たちと日本海に行き、たくさんのシーグラスをひたすら夢中で拾った。石ころの間に小さな、ユニークな、青い、緑、ピンクのガラスのかけらを見つけて喜びを感じた。私たちの命もこの小さなシーグラスのように繰り返し現れるだろう。

ルーマニアのハチドリそっくりな蛾 花の蜜を食べている

天球のなかで

璃葉

世界のうごきによって、気づけば前の生活に戻ることができなくなっていた。とにかく今はひとり部屋にこもって、ひたすら鉛筆で落書きをし続けている。この奇妙な暮らしのなかで、とにかく自分を安心させてくれるのは身のまわりの物と、電話越しに聞く友人の声。
机の下にゴミのように転がっていたメモを見て、改めてそう思った。なぜこれを書いたのかは忘れた。でもこの単語を見るとなんだかとてもときめくのだった。

本 裏紙 ノート ペン 鉛筆 PC 女友達との電話
コーヒー タバコ ビール おいしいウイスキー 

部屋に閉じこもって何日経ったか。鬱々するどころか、最近はご飯もどんどん美味しく感じられる。
散歩がてら食料を買いにいくのも。
時間を忘れて本を読みふけるのも。
夕暮れの星と月をみる楽しさも、どんどん研ぎ澄まされていく。
体内のどこかで、仄かに光が灯ってくれている。

NASAの運営する「Astronomy Picture of the Day」というwebサイトには、毎日何かしらの天体写真や動画がアップされる。ある日更新されていたのは、世界各地の星の動きを定点カメラで、早回しで見せる動画だった。ピピピと輝く無数の星が、山脈や光る街の後ろで一定の方向にぐんぐんと上がって沈んでいくのを、何度も繰り返し再生しては凝視する。このような動画は腐るほど見てきたはずなのに、目が離せなかった。
現実の空の動きはあまりにも緩やかで星も見えにくく、自分が立っている場所がじつはまわっていることも、そこにある空が無限の宇宙の窓であることも忘れてしまっている。そういえば私は、元素が集まったとてつもなく不安定な球体に、奇跡的に生きている。

アジアのごはん(102)おから三昧

森下ヒバリ

さて、緊急事態宣言下、外出自粛生活もひと月にならんとする今日この頃、皆さまいかがおすごしでしょうか。ワタクシは3月にインドからタイに移動してからは、バンコクでもSTAY HOME状態だったので、3月末に日本に戻ってからと合わせてほぼ2か月STAY HOME状態が続いております。

う〜ん、飽きてきた・・。

しかし、ウイルス感染が蔓延しては困るので、なんとかやり過ごさなくてはならない。まあ、いつも日本ではけっこう引きこもりなので、家にいるのは構わないのだが、問題は同居人だ。うちの同居人はミュージシャンで、3月末からライブがほぼ中止になり、ずっと家にいる。いままではだいたい金土日月はライブで不在だったので、これは厳しい。食事作りがヒバリの担当のため、毎日毎日2回(うちは朝食は食べない)食事を作るのである。(一人の時は適当)

え、ワタシ以前から毎日3食作っていますが?・・という方にはスイマセン。とにかく料理の回数が普段の2倍になったのである。そこで、作り置き副菜おかずをまとめて多めに作っておくようにしてみた。切干大根と糸こんにゃくの煮物とか高野豆腐の煮物とか、たけのこの煮物とかだ。3〜4日は副菜を一品作らなくて済む。

そして今日はちょっと暑かったので、さっぱりとしたおからの酢の物を作ってみた。

おからはふつうに炊いてもおいしいけれど、目先を変えて酢の物もいいのですよ。これは京都のおばんざいのひとつだろう。いいおからを使えば、炒る必要もなく、とても簡単だ。

材料は何でもいいが、今ならきゅうりの薄切り、新玉ネギの薄切り、あればきくらげ、にんじんも。薬味にシソやみょうが、ショウガを加えるとさらにいい。ワカメもおいしい。野菜は塩で揉んでおいて、そこにおからを加える。米酢かりんご酢、しょうゆ、塩などで味をつけて和える。ちょっとだけみりんを入れても。

出来上がりのイメージは、おからの炊いたものよりは具材が多く、ほんの少し水っぽいぐらい。べちゃべちゃしてはいけない。しっとり、です。茶色くなると見た目が悪いので、出来るだけ薄口しょうゆか白醤油を。そして、これにしめ鯖の薄切りやアジの酢じめなどを混ぜ込むとごちそうになる。かまぼこやカニかまでもいける。野菜や海草だけの精進でもおいしい。ちょっと冷やしてどうぞ。

おからは基本火が通った状態で市販されているので、酢の物の場合は炒る必要なしで、火を使わずさっと作れる。あ、さっき出雲から届いたたけのこ、薄切りにしていれてみようっと。豆のピクルスや茹で枝豆も合う。

おからは食物繊維のかたまりである。免疫力をあげるには食物繊維をたくさん食べて、腸内細菌を元気にすることが重要だ。発酵食品も重要だが、もっと大事なのが、腸内細菌のエサである食物繊維なのである。「腸内細菌がよろこぶエサをあげる」ことを食事作りの時に忘れてはいけない。毎日ささっとおいしい食物繊維たっぷりのおかずを作って、ウイルスに負けない体を作りましょう。薬は治してくれないよ。

新しい生活

笠井瑞丈

緊急事態宣言
家を出ることのない生活
毎日をチャボのマギちゃんゴマちゃん
なおかさんとの四人の生活
ほとんどあまり人と会わず
たまに行うzoomミーティング

チャボのマギちゃんゴマちゃん
うちにきてもう少しで一年
今はもう完璧に家族の一員

ゲージは置いてはあるものの
ほぼ放し飼いで
いつも部屋を歩き回っている

最初うちに来た時は怖くて
ゲージから出てこれなかったのに
今となっては我が物顔で部屋を徘徊している
ちょっとでもゲージに閉じ込めようものなら
「出せ!出せ!出せ!出せ!!!!!」と
言わんばかりに叫び続ける

テレビの裏の隙間が
今は彼女たちの寝床

夜になるとぴょんとそこに登って
朝になるとぴょんとそこから降りる

降りると必ず枕元でおまんじゅうみたいな形になって
顔をカラダの中にねじ込んで残りの睡眠を続ける

一日おきに卵を産む
一日おきに体の中で
殻を作り
卵を作る

卵を産む時もテレビの隙間に登り
じっとそこで生まれる瞬間を待つ

その瞬間を眺める

生命の力を感じる瞬間
モノを生み出す力瞬間

神聖な時間

ちょっとした事にすぐ怯え
すぐ慌てて逃げだすチャボ

臆病なのに強く生きている姿が
けなげでとても可愛らしく思う

チャボにありがとうと言う

そんな変わらない毎日をチャボと過ごす
世の中はコロナ問題で日々変化している

いまはチャボさんと過ごす平凡な時間がとても愛おしく思う

早く収まる事祈るばかり

編み狂う(7)

斎藤真理子

私が編み物を何のためにしているかというと。
一応、着られるものを編んではいるが、それが目的ではない。この「編み狂う」を書きはじめたとき、「編んでいるその瞬間がいいから編み物をしている」と書いた。それも本当だが、それが目的かというとまた違う。

目的というものはたいがい単線ではなく、複線だし、もっといえば四車線道路みたいなもので、上り下りが同時に動くから、上りと下りで打ち消しあって結果がどうなっているのかよくわからない。要は、「何のために何をやっているのか」がわからず、忙しくしているうちに何十年も経つ。そういうことがよくある。

子供のころ、縄文土器が好きだった。
博物館に行くと飾ってあるやつではなく、そのへんの田んぼに転がっている破片に夢中になった。わが家の近所には昔、人がいっぱい住んでいたらしく、場所を狙い定めて行けば土器片はわりと容易に拾えた。

それらは、「自分は別にここにいたいわけでもないが、いたくないわけでもなく、この四、五千年はここにいるだけだが、お前が拾いたいなら拾え、嬉しくもないが悲しくもない」という風情で、平気で私に拾われていた。縒った植物の繊維や貝殻の縁、竹の断面などで模様をつけた厚手の焼き物の破片で、宝ということばをあてがうのもためらわれるほど、とくべつであったね。平たい菓子の箱に並べてずいぶん大事にしていたが、今は一かけも残っていない。縄文のゴミ捨て場から私を経由して、いつの間にか昭和のゴミ箱に行ったのだろうが。

その延長で大学は考古学科に入った。ところが、いくらでも土器に触れるようになったら、別に嬉しくもないのだった。しばらく発掘の手伝いにも行っていたがやめてしまい、ただの、だらだらした学生になった。

1990年代になって、廃墟マニアと分類されるような人たちが登場し、彼らが作った写真集が出はじめたとき、自分はこっちだったとようやく気づいた。そういえば縄文土器だけではなく、江戸時代の墓も、朽ち果てそうなお堂も、廃工場跡も好きだった。いちばん好きだったのは筑豊の炭鉱のホッパー跡だし。

そもそも、考古学が気になりだしたいちばんの大元を思い出してみたら、子供のときに読んだ、トロイアを発掘したシュリーマンの伝記だった。しかも私が気に入ったのは、シュリーマンがやった発掘調査や研究ではなく、冒頭に書かれた、きわめて情緒的なトロイア戦争の描写であった。負けたトロイアの都に火が放たれ、誰か(たぶん、アイネイアスという人)が父親をおぶい、幼い息子の手を引いて燃えさかる門をくぐるや否や、門はその背後で轟音を立てて崩れ落ちる……焼け跡と化したトロイア……長い歳月を経てそこには塵が積もり、土に埋もれ、忘れられ、何も知らない牧童が風に吹かれて笛を吹いている……みたいな(そういう挿画が入っていたと思う)。

私は自分が、モノそれ自体に語らせるという、学問の手法としての考古学に惹かれたと勘違いしていた。蒐集癖もあったので、それが縄文土器に結びついたのかとも思っていた。だが、総合してみるとただの「プチ諸行無常」好きだったことが、判明した。

要は、つわものでも、たわけものでも、何ものでもいいのだが、「これ、夢の跡なんじゃないの」と思われるものを見つけるとうっとりするという、それだけなのである。

今は旅行に行けないので、ウォーキングの途中にこっそり廃屋を見ているが、それで十分だ。
近所の空き家で十分なのに大学の考古学科まで行ったのは、相当に無駄と思えるが、「自分は何のために何をやっているのか」がわからなかったのだから仕方がない。

では翻って、廃屋を見て満足するのはいったい、何のために何をやってることになるのだろうか。

最近、それはイメージトレーニングだということがわかってきた。滅びるレッスンの一環である。滅びる途中のものを見て、それが消えたときのことをイメージし、「消えても大丈夫」→「私がいなくなっても(地球が)あるから大丈夫」と連想を広げていくトレーニング。どうも、イメトレの方が無駄にスケールが大きすぎ、実技に役に立たない気がするが、これもまたしょうがない。

そして、さらに話を戻すと、編み物も同じだ。
韓国語には「時間を過ごす」というときに使う지내다(チネダ)という動詞と、「時間を送る」というときに使う보내다(ポネダ)という動詞がある。この使い分けは日本語とよく似ている。例えば日本語で「いかがお過ごしでしたか」とは言うけれど、「いかがお送りでしたか」とは言わない。「チネダ」と「ポネダ」の使い分けもこれとほとんど同じなので、ちょっと驚いてしまう。

だが、「ポネダ」の方には、日本語の「送る」とは違うニュアンスがある。この言葉は日本語の「送る」と同様、荷物や手紙、視線や賞賛を「送る」ときにも使われるが、人間を目的語として使うと、人をどこかへ送り出す・派遣する・結婚させたり海外留学に行かせる、またはもっと遠くに行かせる(=死に別れる)を意味する場合もある。字面でいえば「遣(や)る」というニュアンスに近いかもしれない。

そして編み物は、時間を「ポネダ」する行為なのである。
これもまた1回目に書いたことだが、「時間はなぜ私と相談もせずにかくもすばやく去るのであるか」というのが、私の憤慨のもとなので、それが積もり積もってくると、時間が去るのをただ見ているのが嫌になり、逆ギレして、いっそ自分も加担した方がましだと思いはじめる。

時間の背中に両手を当て、力をこめて、ぐいぐい押す。
「ああもう、そんなことならばいっそ、早く行って仕舞へ」
みたいになる。編み物はそこに油を注ぐ行為。
限られた自分だけの時間を、自分の裁量(自分の編み針)で、前のめりに押す。

この情緒は確かに「プチ諸行無常」の一部ではあるが、百人一首でいえば「花よりほかに知る人もなし」とか、「あはれ今年の秋もいぬめり」的な寂しさ・はかなさでなく、「はげしかれとは祈らぬものを」とか、「つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」とか、「むべ山風を嵐といふらむ」的な、やかましく、逆上しがちな、無駄な動きの多い情緒だと思う。

そのようにして、加速度をつけて編み狂っていると、次第に
「盛大に行けばよい。私のことは考えなくてよい。すまぬなどと思うな、行くがよい!」
みたいな、大仰な身振りになってきて、さらに力が入る……編み針が早くなる。

放っておいても過ぎ去るはずの時間に、わざわざ体当たりして、「ポネダ」する。
うららかに流れる時に、何もかも飲み込んでくださるという悠久の時にむかってわざわざ突撃して、「ポネダ」するんですよ、編み針という槍をふりかざして……ばかではないのか……しかし、そうやって貴重なはずの時間をがんがん蕩尽することは、自分の意思で時間を制御しているという歪んだ自負に通じ、「私は時間を惜しんではいない、滅びることを意に介していませんよ」というジェスチャーに通じ、脳内麻薬がどんどん分泌される。イメトレが現実を凌駕する。

本来、すきま時間に畑のすきまでハーブを栽培するようなことが、いつのまにか焼畑農業になっている。

こういうときの編み物はたいへん暴力的なのだ。そして、暴力が通過した後は、編みあがったものも、編んだ私もどうせ滅びるので、どうでもよく、縄文土器の破片なみに畑に転がっている感じ、つまり私の編み物の目的は畑に転がって無になることらしい。ついでに言うと私が好んで編む編み地は、ぼこぼこしていて、立体感があり、縄文土器のテクスチャーに何となく似ています。

韓国映画を観ていると、暴力的に編み物をする女性がときどき出てくる。例の『パラサイト』の冒頭でも、母親がかぎ針でコースターみたいなものを編んでいた(内職かもしれない)。情緒もへったくれもない編み方で、親近感が湧いた。あの人も多分、家族を含む他人によって規定された時間の枠内で生きてきて、編み針で操作している時間だけが、自分のものといえる時間なのかもしれないと思った。

非常事態宣言の夜

植松眞人

 オリンピックイヤーを迎え、安倍晋三は華々しく有終の美を飾るはずだった。しかし、二〇二〇年は前年からの不穏な未知のウイルスの世界的な蔓延によってオリンピックどころではなくなってしまった。

ロックダウンはしない。
外出、通勤の自粛を国民にお願いする。
効果があると言われ始めているアビガンという薬を早急に用意する。
PCR検査を二万件にまで増やす。
各家庭に何度でも洗って使用できる布製のマスクを二枚ずつ配布する。

 テレビの前で身構えながら、じっと安倍晋三の言葉を聞いていた美樹は「布製のマスクを二枚ずつ」というところでスッと力が抜けていくのを感じた。結局、この国難もこの首相にとってはスタンドプレイのネタでしかないのだということがよくわかったからだ。
 ここしばらく、中国武漢から始まった未知のウイルスが静かに広がっているという状況を知っておこうとテレビのニュースを見る時間が増えた。そんな中で、手洗いとマスクが最も有効だと聞かされながら、どこへ行ってもマスクが手に入れられない苛立ちを感じていた。しかも、それを甲高い声で叫ぶようにアピールする安倍晋三は、自らマスクなどしていない。そのことに強い違和感を抱いていたのである。
 しかし、数日前から急に安倍晋三がマスクをするようになり、美樹の違和感はさらに高まった。それて、いまテレビの中の安倍晋三が「布製のマスクを各家庭に二枚ずつ配る」という声を聞いて、ふいに「あれが配られるのか」と息が詰まってしまったのである。
 一国のトップのあごまで覆うことができないような無様なマスクを私たちに配ろうと言うのか。そして、一度決めたら勇気ある撤退など考えもしない安倍晋三はどんなことがあろうと、いかにもこの小さそうな、そして、洗えばすぐに縮んでしまいそうなマスクを送ってくるのだろう。
 生活が苦しい中で実施された消費税の増税や、勤めていた小さな会社の社長を苦しめる税務署の対応や、どう考えても弱い者いじめにしか見えない法改正など、これまでにも何度もこの国やこの国のトップを恨んだり嫉んだりしたことはあった。
 でも、と美樹は思うのだった。安倍晋三の顔も覆えないほど小さなマスクをこの国は私たちに配ろうというのだ、と。しかも、家族の人数分ではなく、何人家族であろうとたった二枚だけを。
 美樹はテレビを消し、玄関脇に届いていた宅配の小さい箱を手にしてテレビの前に戻ってきた。東京で一人暮らしをする娘を心配して、母が送ってきたものだった。電話では聞いていたが、箱の中身は何枚かの布とゴム紐が入っていて、その他に電話では聞いていなかったレトルトのご飯とカレーが入っていた。
 布とゴム紐はジプロックに入れられていて、開けるとほんのりアルコール消毒の臭いがした。ジプロックの中にはメモが入っていて、そこにはマスクを手作りする方法が書かれていた。美樹はさっそく母が送ってくれた布を手に取り、マスクを作る準備を始めた。自分の裁縫道具も用意して、まず布を一枚、自分の口元に当ててみた。安倍晋三のマスクよりも一回り大きなマスクになるように、母が裁断してくれていた。美樹はその布を二枚重ねにして、まずは上下を縫い合わせようと考えた。上を縫ったあと、今度は下の方の布をほんの少し折り込んでサイズを調整する。その時、美樹は一度折り込んだ布を改めて広げてみた。そして、さっきよりも大きく折り込んで、自分の口元へと当ててみたのだった。
 美樹の口元の布は少し小さく、美樹のあごが丸見えになっていた。ちょうど、安倍晋三がしていた小さな布製のマスクくらいに。同時に美樹は思ったのだ。もしかしたら、安倍晋三よりも大きなマスクをしてはいけないのではないかと。安倍晋三のマスクよりも大きなマスクをする国民など、いてはいけないのではないか。美樹はふいにそう思い手が止まってしまった。
 もちろん、東京都知事だって安倍晋三よりも大きなマスクをしているのだから、作ったところで罰せられることはないだろうが、そんなことよりも、作ろうだなんてことは思ってはいけないのだと美樹は思ったのだった。その時、美樹が思い浮かべていたのは、安倍晋三の顔ではなく、大学入学のために上京し、バイト先で知り合い、すぐに付き合い出した隆史のことだった。
 二人はとても仲が良かった。周囲の誰もが美樹は隆史と結婚するものだと思っていた。美樹自身もそう思っていたのだが、付き合い始めて七年ほど、働き始めて三年ほどしたある日、二人の気持ちは離れた。大きなきっかけがあったわけではない。その日、ひどい風邪を引いていた美樹は、マスクをしていた。マスクをしたまま隆史の心ない言葉を聞き、美樹は美樹で心にもない言葉を返して、二人の関係は終わった。
 美樹は母が送ってきた布を口元に当てたまま、身体の中から力が抜けていくのを感じた。力が抜けていくのを感じながら、美樹は安倍晋三のマスクよりも一回り小さなマスクを縫い始めた。縫い始めた瞬間、美樹は何もかも忘れて、マスクを繕うことに集中した。ものの数分でマスクは出来上がった。
 美樹はしばらく出来上がったマスクを手にしたままじっとしていたのだが、やがて和ばさみを手にすると、糸を切り、マスクをほどき始めた。そして、最初に母が採寸していた通りのサイズで、マスクを縫い直し始めた。(了)

シリアのコロナ事情

さとうまき

なぜシリアは新型コロナウィルス感染者が少ないのだろう。

新型コロナウィルスの感染が広がっている。日本でも4月6日に緊急事態宣言が出され、なかなか外出ができない状況だ。わが国際協力チームBEKOがシリア支援の活動を本格的に開始したところでイベントも中止。窮地に立たされている。

当のシリア国内はどうかというと、今のところコロナの感染者が43人しか出ていない。激しい内戦を続けてきて、病院も破壊され、医者も国外へ逃げてしまった。しかも戦闘はまだ続いている。こんな状況で、感染症が抑えられるのか不思議だ。

そこで、まず考えられるのが、
1)アサド政権はコロナの患者数を隠蔽している?
反体制系サイトのサウト・アースィマは3月28日、シリア軍の兵士40人が新型コロナウィルスに感染し、ダマスカス郊外の国立病院に搬送・隔離されていると伝えた。また、シリア人権監視団は29日、信頼できる複数の医療筋の情報として、新型コロナウィルスへの感染を疑われて隔離されている患者の数が260人以上に達していると発表した。
ただ、このシリア人権監視団も、安田純平氏が解放された際に、「カタールが身代金を払った」と不確かな情報を平気で発表する傾向がある団体なので、当てにならないのだが。イラクもシリア政府を非難している。イラクのカルバラー県のナズィーフ・ハッタービー知事はビデオ声明を出し、「カルバラー県は、11人の新型コロナウィルス感染者を確認している…。そのほとんどがシリアからの帰国者だ」と発表したうえで、「シリア政府と医療当局が正確な情報を与えてくれていない」と非難した。(イラクは、2,003人が感染して死亡者数92人)

2)きちんと検査ができていない。
先に述べたように内戦で医療崩壊してしまっているから検査がきちんとできるとは思えない。つまりちゃんと検査すればもっと感染者は増える。(これは日本と同じか?)

3)人の出入りが少ない。
シリアに行き来する人の数が圧倒的に少ない。日本の外務省は2012年から退避勧告を出し続けていた。

4)結構対策が早かった。
日本が非常事態宣言が出たのが4月6日。シリアは、3月22日に初めて新型コロナウィルス感染者がでると3月25日からロックダウンを宣言。功を奏しているのかもしれない。

分断されたシリア、コロナ対策で一つになれるのか? 今のシリアは、アサド政権が支配する地域と、北東シリア(クルド自治区)、そして北西部のイドリブ県(トルコが支援)に分かれている。イドリブでは今年1月からロシアの支援を受けたシリア政府軍と、トルコの支援を受けた反体制派が激しい戦闘を繰り広げ52万人ほどが国内避難民になっている。3月6日にはロシアとトルコで停戦合意が結ばれた。現在は、落ち着いており、トルコ政府系のサイトでは、18万5000人の民間人が帰還したと発表。アジアプレスの玉本英子さんは、イドリブ在住で市民記者としてアラブメディアに現地の状況を伝えてきたアル・アスマール氏のコメントを掲載している。
「各国で新型コロナ問題に関心が注がれるタイミングを利用して、アサド政権が非道な攻撃をするかもしれません。私たちは、新型コロナに加え、いつ空爆や砲撃の犠牲になるかわからない不安な毎日を送っているのです。この現実も知ってください」

イドリブの人たちの憎しみは強い。イドリブでは、反体制派のホワイトヘルメットが「国民対応チーム」を作り、トルコのガジアンテップ市にあるWHOの監督のもと、さまざまな感染防止にあたっているという。しかし、反体制派でも、イスラーム主義者を掲げるシャーム解放機構(アル・カーエダ系)は、ラマダーン月にモスクでの礼拝をおこなっており、密集を避けよという指導も届かない。トルコも、感染者が12万人に達し、シリア人の患者を受け入れる余裕はないようだ。

アレッポのアハマッドさんは、赤新月社で働いている。かつて日本語を勉強したことがあり、流ちょうに話す。
「難民が家に帰り、協力して家や都市を再建したいです。再び美しくなったシリアの景色を、日本をはじめ外国人観光客と楽しみことができる日が待ち遠しいです。」という。

ある日、赤新月社を頼って、小児がんの患者2人の家族が訪ねてきた。貧しくて病院に通うお金がないという。特にコロナ危機で交通費が値上がりしているというのだ。また、本来は治療費はかからないのに病院に薬がないと、自腹を切らなければいけない。この2人の子どもをとりあえず支援してほしいと持ち掛けられた。

がんの子どもたちは免疫力が弱く、感染症にやられやすい。がんの子どもを治療する病院は限られていて、政府とか反体制派とか言っている場合ではない。みんなで助け合わないと命が危ない。彼らに協力しようとクラウドファンディングを立ち上げた矢先に日本の方が大変なことになり、マスクはないわ、トイレットペーパーまでなくなるわで、ピリピリした空気が流れる中、シリアを支援しようとはなかなか大きな声で言えなかったが、チームの大学生4人組が奮闘してくれている。若い力に背中を押される。
https://readyfor.jp/projects/teambeko-japansyria

僕たちの世代は、本当にコロナのせいで明日食っていけるかわからない。僕も含めてだが、最近仕事を失った連中が多いのだ。コンサートが流れたり、イベントもできず、あとどれくらい生きていけるんだろう、みたいに考えて過ごしている。夫に先立たれ一人暮らしをしている同級生がいて、ちょっと心配になって電話してみた。すると、けらけら笑いだす。どうしたのって聞くと、「コロナで株が動くのよ! ここで儲けなきゃ。私は勝負が大好きなの!」という。なんとポジティブなんだろう。「で、その儲かったお金はどうするの?」「贅沢することで自分は輝けるのよ。信じるものはお金よ。」貧困がつらいというよりも、このギャップがとてもつらくなってきた。

ラマダーン月は、昼間は空腹に耐え、貧しい人のことを考える、そしてコーランを読み、善であろうとする。もしかしたら、コロナは、私たちにとってのラマダーンなのかもしれない。でも経典がないから、変な方向に走っていく人もいる。コロナが去った後は何が残るんだろうなあ。

コロナ アモックにならないように…

冨岡三智

先月、非常勤講師先の大学の3/31時点での状況を書いたけれど、4/7緊急事態宣言が発令されることになったので、4/3頃にすでに状況は一変した。4月2週目から対面授業を開講するとしていた大学も急遽オンライン授業に変更し、けっきょく本日4/30時点では4校中3校が前期はすべてオンライン授業と決まった。仕事上の課題はあるにしても、実はわりと落ち着いている。家にこもるのが好きで仕事も一応あるからだが、物理的危害が加えられそうな不安はまだない…という理由が大きい。

最初のインドネシア留学時に、通貨危機(1997年)をきっかけにルピアが下落し、逆に物価が高騰して生活物資が不足し、暴動からスハルト大統領退陣(1998年5月)に至る直前までの状況を経験したから、あの当時の状況よりはマシである。研究者の調査報告を読んでいると、当時の買い溜めパニックは相対的に富裕層の高級スーパーにおける買い溜めが引き金となって伝統市場などに波及していったようだ。当時、特に不足が叫ばれていた代表格が食用油と砂糖だった。これは揚げ物が多い食事にたっぷり砂糖を入れたお茶を飲む南国ならではの状況だったろう。教会やモスク、王宮などが油や砂糖を買い付けて配給していたことを覚えている。

当時私がよく買い物していたマタハリ・デパートでは値札が頻繁に差し替えられ、そのうち値上がりに追いつかなくなって手書きになり、私が帰国する直前(5月上旬)に値札が一斉に棚から消えた。つまり時価になったのだ。そして、売り場の棚の所々にバーコードリーダーが置かれ、自分で値段を読み取るようになっていた。(余談だが、当時のマタハリには最新の富士通のPOSレジが導入され、バーコードリーダーで値札を読み取るようになっていた。)この、値札が消えた時の衝撃が忘れられない。同日午後に友人がマタハリに行った時には、すでに閉まっていたらしい。そして、私の帰国後にマタハリは放火されてしまった。

現在の日本でもマスクなどの高額販売や転売が問題になっているが、貧富の差が激しかったインドネシアでは物価上昇を狙って売り惜しみをしていると思われる店や、政府と癒着する富裕層への怨嗟が増していった。マタハリの実情は知らないが、大手のショッピングセンターや日本車などのショールームなどがそのために焼き討ちの対象になり、富裕層と目される華人に矛先が向かった。私たち日本人留学生の顔も、インドネシア人から見れば華人と区別がつき難いから狙われるかもしれない…という恐怖を、あの頃は本当に感じていた。自分の借りている家に「ここは日本人の家です」とペンキで書いた方がいいかもしれないと、留学生同士でしたくらいだ。今、自粛しない店への嫌がらせが一部で起きている。インドネシアには圧倒的な貧富の差と30年に渡るスハルト強権政治に対する反動があり、現在の日本ではあそこまでアモックにはなるまいと信じている。アモックamokはインドネシア語(マレー語)から英語に取り入れられた単語の1つだ。理性を失って荒れ狂った様を言う。1998年の暴動~政変の間によく使われた。最近、ふと当時のことを思い出す…。

窗のない夢

北村周一

ひき籠るほかなく画家のいちにちは
 暮れるにはやくすでにほろ酔い
みんざいの代替えにしてひとりのむ
 ボトル・キープは自宅を出でず
睡眠力高めむとして寝静まる
 家具のごとくに夜をたのしむ
夜ねむるまえの大事な所作のひとつ
 けっして後ろをふり向かぬこと
切歯にて噛みちぎりたる眠剤の
 片割れがいまのみどに落ちぬ
とり敢えずデパスその一 目覚めたら
 のむ約束のまくらの友よ
追伸2 ソラナックスにしておこう
 深い眠りは枕許より
おもうよりふかいところに根を下ろし
 きょうの不眠は午後のコーヒー
ゆめさめて何思うなき夜ながら
 不眠因子はわれをゆるさず
不眠因子みつけえぬまま夜の深けを
 布の織目に笑まう人面
ねむったままいってしまえば夢心地 
 ずれた布団が少し重たい
細き灯りかべに向ければ夜の淵を
 音なくすすむ秒針その他
ひとり事のごとく一本の道ありて
 見つめるために見つめいるなり
窗のない夢をとけだす雨音の
 増しゆくそれは雨滴(泣きたい)
微睡みからさめつつあらむ夜のあけを
 夢の数だけまもる沈黙

186 連呼・2

藤井貞和

以前に私は書きました。

「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
「詩に何を期待しますか」
「世界の転覆」
と正津勉は答える
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ほんとうのことが起きる

以前にそう書いたあと、ほんとうのことは起きましたか。

「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
「月末の支払いはあたしにまかせて」
美少女がやって来て、言う
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ことばを連呼するとどうなる
ほんとうのことが起きる

以前にそう書いたあと、ほんとうのことは起きましたか。

ほんとうのことが起きますように(1974年)
ほんとうのことが起きますように(1986年)
ほんとうのことが起きますように(1991年)
ほんとうのことが起きますように(2001年)

2020年、連呼してはいけないと思います。

(「物語」が必要な時はほかにない。進退きわまる時に「物語」が来る。ぼくらは、わたしたちは、試されているよ。どうする?)

しもた屋之噺(220)

杉山洋一

すっかり目の前の木々は立派な新緑に覆われ、通り抜ける風が葉を撫ぜるたびに、さらさらと心地良い音を立てながら、枝を揺らします。学校には六月半ばまでには一度日本に帰りたいと伝え、遠隔授業の試験日程について考慮をお願いしたところです。東京で一定期間隔離されて、万事首尾よく進んでも家族の顔を見るのは7月の声を聞いてからになるのでしょう。
本日、日本の知事会が非常事態宣言の延長を政府に求める決定、とラジオで話すのを耳にしながら、家族を帰国させたのは正しかったのか、自問自答を繰り返しています。

  —

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの死亡者数837人。新感染者数2107人。死亡者総数は12428人。ロンバルディア州は六日間続いて新感染者数が減り、集中治療室の患者数も減少。東京では感染者78人で7人が亡くなったと言う。
愚息と家人は知己を頼って富山に滞在。世田谷の中学では息子を一時的に通わせられず、富山で便宜を図っていただき、一時的に通学が許可された。深謝。学校から借りた息子の詰襟姿の写真が送られてきた。国際郵便が止まると聞き、信じ難い思い。

4月某日 ミラノ自宅
ナポリでは、道路に面した最上階のベランダから道路にまで届く長い紐の先に籠をつけ、自分たちの食べる昼食のパスタの余りや、食料品や淹れたコーヒーなど詰めて、下まで垂らす。
「できる人は入れて。できない人は取って」と書いてある。
道行く人も、買い物のついでに、通りがかりにパスタの袋や卵を籠に入れ、そのまま家に戻ってゆく。宗教施設の炊き出しなども全て閉鎖され、ホームレスなどは、そこから出来立てのパスタを取り出してゆく。「互助籠Panaro Solidale」。同じものはミラノにもあって、「吊籠Ceste Sospese」と呼ばれている。

4月某日 ミラノ自宅
留学生Aさんより連絡あり。体調は一進一退とのこと。イタリアの学校再開は4月13日に延期決定。目の前に見えていた出口がどんどん遠のいてゆく。富山滞在中の息子は、同級の友人に励まされていると聞いた。
今日のイタリアの死亡者数は760人に上るが、感染者数ではスペインがイタリアを超えたという報道。ベルギーでは既に1143人も亡くなっており、ロシアも601人が命を落としている。ドイツですら1日145人も亡くなる現状に何を思えばよいか。

4月某日 ミラノ自宅
庭を訪れる鳥は例年より多く、心なしか呼び交わす啼き声が輝きを帯びているのは、普段雑踏に塗れて聞いていないからか、我々が避けられているのか。当初イタリア政府が予定していた封鎖期限は越えたが、未だピークは迎えていないという。ミラノ市公共交通機関は、ソウルやシンガポール、武漢の関係者が、どのように通常営業に戻してゆくのか指示を仰いでいる。New Start。イタリア初のワクチン動物実終了との報道。

4月某日 ミラノ自宅
在日米国大使館が日本滞在中の米国市民に帰国要請。
感染学者曰く、血清学的検査で自己免疫がウィルスに勝るのか調べているそうだ。今後イタリアでは仕事の復帰にあたり、抗体の有無が重要かも知れないと書いてある。不思議なものだ。これからは、仕事の必須条件が感染になるのだろうか。医師の犠牲者は80人になってしまった。看護師も併せて25人も亡くなっている。今日一日で死亡者は681人に上る。ウクライナより医師団到着。

4月某日 ミラノ自宅
波を思う。高校生の頃一度海で溺れかけたとき、浜からも遠く高い波に飲みこまれ、引きずり込まれる錯覚に陥った。あの瞬間どうしたのだったか。一度思い切り水中に潜って、自分が位置を確認した覚えもするし、このまま離岸流に運ばれて溺れるのかと、少し気が遠くなった気もする。記憶など、主観で後から幾らでも造作できるのだろう。あの時の感覚と、途轍もなく広い大海原と、目線ぎりぎりの水面の奥に広がっていた、沸き立つ絶望的な光景を思い起こす。

コロナは既にアメリカを舐めるようになぎ倒しゆき、これから日本がどうなるのか怖い。バチカンでフランチェスコ法王が棕櫚の主日のミサを無人で行う姿がテレビに映し出される。
ロンバルディアでは外出時マスク着用が義務化され、シチリアから本土への渡航は48時間前までにオンラインで予約が必須となった。航空会社のBさんと電話。取るものも取り敢えず、着の身着のまま不安そうに空港に到着する家族の姿に、これは戦争だと思ったという。敵不在で、家もインフラも破壊されぬまま、人だけがそこから抜け落ちてゆく戦争。

4月某日 ミラノ自宅
3月19日来初めて死亡者数が525人まで減り、集中治療室の患者数も減少した。下り坂が始まり、政府は第二期の具体的な検討に入った。
近所のトリヴルツィオ養老院で高齢者70人死亡。一たび老人ホームで集団感染が始まると、病院に連れてゆくことも、ホーム内での隔離もされず、治療も受けられないまま死んでいった。もみ消されているとの報道。基礎疾患も末期だったりと、肺炎に罹らずとも先は長くなかった高齢者ばかりだったかもしれないけれど。そこまで記者は云って、言葉に詰まった。一方、入院しながら、快復が見込まれずにモルヒネで安楽死しなければならない高齢者の話も聞く。

4月某日 ミラノ自宅
ここ数日Aさんの具合が良くないと連絡がくる。怖くてニュースは一切見ていなかったという。英国首相が集中治療室に運び込まれた。ニューヨーク・ハートアイランドの公園に無縁墓地を掘られていて、40基の柩が埋められた。フランスの今日一日の死亡者数は833人で、イタリアの636人を大きく超えた。どうなっているのか。イタリアの医師の犠牲者は89人にまで増えてしまった。言葉が見つからない。
マンカと電話で話す。定期健診で久しぶりにミラノを訪れ、どんな悲しい街に見えるかと想像していると、実際は思いの外美しく素敵な街並みに、寧ろ当惑したという。こんなに美しい街だったかと思わず独り言ちたそうだ。

東京の状況は悪化し、明日には非常事態宣言発令と聞いた。一日一回町田の実家に短い電話するのは、万一にも入院となれば、そのまま話す機会を失う覚悟はあるから。生徒に送るヴィデオを、生存確認と題して町田にも送っている。普通なら笑い飛ばすところが、今回ばかりは仕方がない。息子の富山通学は楽しいと聞き安堵する。

4月某日 ミラノ自宅
米国で一日の死亡者数が1150人に上った。イタリアのテレビは「今イタリアは堪える時」と繰返し「家にいましょう」と締めくくる。天気予報も「今日は一日晴れに恵まれますが、家にいましょう」と連呼する。2月を家族3人ミラノで落着いて過ごせて良かった。天の恵みと思うことにする。現在まで医師の死亡者数は94人。ミラノの小売食料品店再開。日本では非常事態宣言発令。

4月某日 ミラノ自宅
富山の中学も二週間の休校。全世界の死亡者数は8万人を超えた。
頭の中の音をどう書けばよいか、どう書くのがよいかを考える。揃わずに演奏者それぞれの顔が見えるオーケストラを目指す、実践的記譜とは何か。パヴィアでは抗体による治療が本格化。現在のところ良好な結果が出ている。

4月某日 ミラノ自宅
ヴァイオリンパートを初めから書直そうとすると、下書きに使う五線紙が足りない。通販で購入すべきかと思うが、書きなぐるための五線紙を、配達員の健康を危険に晒してまで買うべきものか悩む。使えないページは消しゴムで鉛筆を消して、改めて使う。
日伊間の航空便は、311の時でも関西空港便は残ったが、現在は皆無だ。例えばロンドン経由で日本に向かおうと思っても、第一ロンドン・ミラノ便が運航していない。東京、いと遠し。
息子の通うノヴァラの国立音楽院より、試験はヴィデオ審査になったとの連絡あり。我々の学校よりも決定が早く感心。全て劇的に変化してゆく早さに戸惑いを覚える。

4月某日 ミラノ自宅
春の風物詩、綿帽子が飛び始めた。風と共に、目の前には真っ白い綿帽子で一面埋め尽くされる幻想的風景が広がる。今年はこれを息子にも家人にも見せられない。現在この自宅待機下に於いて、インターネットもスカイプもyoutubeもとても助かるが、かかる時代でなければ、恐らくここまで急激なコロナの拡散もなかった。
イタリアでは542人、イギリスで938人、アメリカでは1939人が一日で死亡し、トランプ大統領は世界保健機構を批難。EUは欧州内の移動制限を5月15日まで延長。イタリアではシュノーケルと3Dプリンターで作った応急酸素マスク使用開始。抗体ライセンスは未だ作る段階にないという。

4月某日 ミラノ自宅
目の前の雑草だらけの庭と、その向うに広がる無人の中学校校庭。毎朝甲高い鳥の声が俄かに聞こえるようになり、世界の街角を闊歩する野生動物のニュースや、減少した各地の大気汚染、澄んだヴェネチア運河を泳ぐ魚を思う。
将来の地球について、核戦争で到底人間は外を歩けないような、汚染されたディストピアの姿を漠然と想像していた。併し案外、100年後の地球はちょうど現在のように街を歩く人影は疎らで、野生動物が自由に往来し、辺りは静謐に包まれ、誰も互いに接触ない世界が支配しているのかもしれない。
世界で今起きている事象は、将来まで歴史に残るに違いない。この後も人間が歴史を学び続けてゆくならば、我々の生きるこの激動の時代から、恐らく彼らは何かを学ぶことになるのだろう。
医療関係者の死亡者104人。シチリアはイタリア本土との往来を一時遮断。分断はヨーロッパ各国のみならず、国内各所にまで広がる。富山の病院でも院内感染発表。

4月某日 ミラノ自宅
ラジオニュースで小池都知事の要請を聞きながら、2月フォンターナ・ロンバルディア州知事が市民に自宅待機要請した記者会見を思い出す。
最初の会見の頃は我々も余り実感がなかったが、暫くして中国から派遣された検疫官が記者会見に登場し、「ミラノの様子を拝見したが、こんなに人が出歩ていては全く無意味だ。人が多すぎる」と余りに辛辣に批判した時は愕いた。早速その翌日だったか、翌々日からレストランも喫茶店も全て閉鎖され、気が付けば現在に至る。
微笑みも全くない、不愛想で権威的な中国人の検疫官の姿と、それに従わなければ進路すら見いだせない我々の姿に、言葉に出来ない虚しさと、将来への漠然たる不安を覚えた。ボルツァーノとボローニャの劇場から、寂しそうな便り。

4月某日 ミラノ自宅
医師でも政治家でも事業家でもなく、社会に何ら貢献できないので、せめて感情を排し目の前の事実を音に残すくらいしか出来ない。音に感情を込めると、音と自分との間に壁が邪魔するので、音が見えなくなる。感情を排すのは西欧的発想なのか、日本の例えば弓道の無心などと全く相反するのか、自分では分かりかねる。

Aさんよりメッセージが届いた。
「今日は悪化しました。 一進一退とはこの事ですね。精神的に辛いです。今日は無心で寝ます」。
「申し訳ない」とか「迷惑かけてはいけない」という日本的発想は、イタリアでは一先ず忘れるよう伝える。

毎日世界の死亡者数が目まぐるしく増えてゆく。世界の死亡者が7万人を超えたと聞いたばかりなのに、それは直ぐに8万人となり、9万人となり、現在9万5千人と報道で言っている。
この奇妙な静けさの中、25年前、住み始めたばかりのミラノを思い出す。忘れるのは思いの外早いが、それはそれで良いのかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
東京都で189人の新感染者が確認された。日本人は既に免疫を持つとの仮説を、心から願うばかり。ジョンソン首相集中治療室より戻る。ここ数日イタリアの新感染者数は増加。
ヨーロッパ各国から余裕が失われ、助け合いは困難になった。往来の途絶えたメッシーナ海峡を鯨が泳ぎ、ランペデゥーサ島に辿り着いたアフリカ難民からもコロナの感染者が確認されたという。サヴォナでは老人二人が孤独に堪えられず自殺し、無人のバチカンでフランチェスコ法王が思いつめた表情でVia
Curcisの祈りを捧げている。
コロナウィルスが展開する構造が解明されたとのニュースと同時に、イタリアの本日の死亡者数570人と発表され、世界の総死亡者数は10万人に近づく。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭名物「鳩ケーキ」を買うべきか少し悩んでから、一人では食べきれないので止した。
医師の犠牲者が109人、看護師28人まで増加している。アメリカでは一日に2108人が亡くなったと聞くが、東京の感染者数は197人に踏み留まり、日本の死亡者数は指数関数的には増えていない。どうかこのまま乗り越えてほしい。ミラからメッセージが届く。明日がフランコの命日で「天の火」を聴いているそうだ。

昼食時にスーパーに行けば空いているかと思ったが、入口の外には既に3人ほど、それぞれ間隔を開けて並んでいた。口と鼻は必ずマスクで覆い、中の客が一人外に出る毎に一人だけスーパーに入るよう、但し書きが貼ってある。
「お困りのお年寄り、気分の落込んでいる方やお手伝いボランティアなどの相談窓口はこちらまで」と店内放送が繰返している。
日伊間の航空便再開延期が決定。状況を鑑みれば当然だが、改めて暗澹たる心地。
家人と話す。当初は外に出る度に、何故ここにいるのかと涙がこぼれたのだという。

4月某日 ミラノ自宅
意を決して、今年初めて庭の芝刈りをする。土壁の隣を電車が、運河の対岸を路面電車が走る。何も走っていなければ、それなりに現実感も伴うが、一見日常の風景に見えて、実際は乗ってはいけない電車と路面電車であって、とても超現実的な光景である。バスも路面電車も、有事だからか、広告料が払われないのか全ての広告も外し、乗客も疎らで、まるで幽霊路面電車、幽霊バスの如く走る。

芝を借り始めるとすぐ、目の前の2階に住むウェンディがベランダに出てきて、挨拶を交わす。「久しぶりねえ、元気なの?」誰であれ、3月初めからひたすら一人家に閉じ籠っているのは、精神的にも決して容易ではない。
暫くして隣のアリーチェが通りかかった。自宅で面倒を見ていたお母さんの加減が悪化し病院に入院したという。容態は予断を許さないが現在病院は訪問禁止で、見舞いもままならない。パリで暮らす弟は、イタリアに帰国不可能だという。

4月某日 ミラノ自宅
復活祭。昨晩はフランチェスコ法王が無人のヴァチカンで復活祭の祈りを捧げ、マッタレルラ大統領は、国民に向かって、今年の復活祭は「孤独の復活祭」だと表現した。法王の思いつめた表情は、衝撃的ですらあった。

朝四時突然目が覚めて便所に立ち、手を洗う折ふと顔を上げると目が真っ赤に充血している。新型ウィルスの初期症状は結膜炎と読んだばかりで、すっかり狼狽する。両親にはそう簡単には会えないと覚悟はしてきたが、家人と息子にも会えないかと思うと、流石に途方に暮れた。
熱はないので、心を落ち着け布団に入っても、芝刈りで汗が目に入って手で拭ったのがいけなかったのか、スーパーの後ろの体調の悪そうな婦人か、パックの茸を直接手で触ったからか、とつまらないことばかりが頭に浮かんでは消え、まんじりともせず夜が明けた。
取り急ぎ何かあった時のためCovid専用の直通電話番号を確認し、とにかく新作を最後まで書かなければと焦る。頭の中にある音も言葉も、書き出されなければ何の意味も成さないし、何も伝わらない。

文章を書き始める時、最後が既に見えていても、その間の膨大な情報の渦に惧れをなしたり、躊躇ったりするのに似ている。三善先生やドナトーニの顔が過り、とにかく書かなければ罰があたると思う。そこまで考えて漸く少し頭が落ち着いたのか、2時間ほど熟睡した。
朝起きて携帯電話を確認すると、夜半目が覚めた一分後の4時1分、奇妙なことに母からからメールが届いていた。「大木の葉っぱはちょうどよい加減の色。目が休まります」とだけ書いてある。確かに充血は引いていて、漸く愁眉を開く。おそらく芝刈りの汗で軽い結膜炎を起こしていたのだろう。
昼過ぎ町田に電話をすると、珍しく少し緊張した声色の父が開口一番「お母さんがお前に何かあったのではないかと物凄く心配している」というので、却ってこちらが吃驚する。

世界中の人々がそれぞれにこんな思いに駆られ、それぞれの絶望が空の上で絡み合っているかと思うと、胸が押しつぶされる。Aさんの心地を垣間見る。

4月某日 ミラノ自宅
庭で水まきをしていると、ツグミの雛が寄ってくる。昔三和土で死んでいたツグミを土壁の脇に埋めると、不思議なことに、翌春からそのすぐ上手に毎年ツグミが巣を作るようになった。鳥でも何か思うところはあるのだろうか。家人より富山のチューリップ畑の写真が送られて来た。

人それぞれ、自らの寿命は予め決められて生まれてくるのかもしれないし、そう思えば残された者の心が軽くなるかもしれないが、自分はその与えられた時間内にどれだけのことをしているのか、しばしば、もどかしい思いに駆られる。

ミラノのトリブルツィオ養老院では、結局高齢者110人の死亡が確認され、別の介護老人福祉施設では数日間に70人死亡と発表。死亡原因について警察が調査を開始。ホスピス末期の患者が多く、新型肺炎に罹らなくとも10日から数週間で亡くなっていたかもしれないが、感染報告の義務を怠り…と記事は続き、現在併せて12の介護老人福祉施設が警察の調査対象と結ばれている。EUのフォンデアライエン委員長は、年末までは高齢者を隔離すべきと発表した。

瞬く間にアメリカが死亡者数でイタリアを超えたのにも衝撃を受けたが、現在までイタリアでは既に105人の神父が他界している。そのうち25人はベルガモの教区を預かっていた。ジョゼッペ・バルデッリ神父は、人工呼吸器は若い人へ譲りたいと人工呼吸器装着を頑なに拒否して亡くなり、自己犠牲の精神に賞賛が集まっている。ただ、言葉にならぬわだかまりが、身体の奥に澱のように残っている。自己犠牲で完結させては駄目だ、身体の芯で反響する声がする。

4月某日 ミラノ自宅
初めて聴く息子のエオリアンハープの動画が送られてきた。技術的なことは分からないが、ひたひたとした音楽に感銘を受ける。幼少から親の音楽を聴いていると、無意識に音の趣味もどこか少しは近づくこともあるのだろうか。

ベルリンから一時的に東京に戻ったMさんより、「ミラノのAさんはお元気ですか、ちょっと嫌な夢を見たので気になって」とメールをもらう。実はここ数日Aさんと連絡が取れず、心配していたところで、嫌な予感がした。今日漸く連絡がとれたが、案の定熱がぶり返して臥せていたという。カニーノさんとロッコよりメール。皆元気なのを確認して安堵する。
WHOはCovidはインフルエンザの十倍の致死率と発表し、保険省のロカッテルリは学校再開は9月との個人的見解を記者会見で述べた。一体これからどうなってゆくのか。諦観とはよく言ったものだと思う。

4月某日 ミラノ自宅
不思議なもので、同じ作業を繰り返しても素材毎に全く違う顔が生まれる。西洋のオーケストラは一つのハーモニーを皆で奏でるため発展してきた。支え合い色を混ぜ合い、共に旋律を歌うもの。それら全てを逆説的に作曲する。
オーケストラを鳴らす方法はそれなりに理解している積りだが、それが鳴らないのであれば、それが現実なのかもしれない。当初、世界にこれだけの諍いが断続的に続いていると理解していなかった。我々自身が互いに響きを打消し、共鳴を止めている。オーケストラは鳴らすための集団であるべきかどうか、正直よくわからない。

ミラノの感染者増。救急車のサイレンが耳にこびりついて離れない。
602人死亡、死亡者総数21067人。新感染者数減少。2972人。日本の国内死亡者数19人。一日で東京都の感染者数は161人に達した。日本の死亡者数が上昇しないことを心から願う。アメリカの死亡者総数は2万5千人を超え、スペインでも1万8千人という。世界ではほぼ12万人が亡くなっている。信じられない。

4月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領WHO拠出金一時停止発表。国際通貨基金が、本年度イタリアの国民総生産はマイナス9.1パーセント、世界経済成長率はマイナス3パーセント、イタリアの失業率12.7パーセント見込みと発表。IMFイタリア代表はドイツがユーロ債発行に反対していると名指しで批難し、ヨーロッパ連合の結束は音を立て崩れてゆく。トリブルツィオ養老院の死亡者数は143人と訂正された。

どのような名目の下であれ戦争には反対だし、どれほど罵られても息子は戦争に絶対に送らない積りで生きてきた。伝染病は戦争ではないが、余りにも易々と簡単に自分も家族も世界の波に飲まれる無力感には、近いものがあるかもしれない。殉教や殉死という言葉が、自分の周りにこれほど身近に息づいているとは、想像もしなかった。このCovidで世界中でどれだけの医療関係者や宗教関係者が命を落としているのか。
憲法改正に積極的な国民ならば、どれだけ有事に迅速な対応ができるか期待していたが、少し肩透かしを食らった気がしている。政治批判には興味はない。能動的であれ受動的であれ、選挙権があり或る程度公正な選挙が保証された国家であれば、責は常に国民にある。

4月某日 ミラノ自宅
日本が全国に非常事態宣言発令。

ベルガモのジョヴァンニ23世病院の、カプチン会修道僧ピエルジャコモ・ボッフェルリのインタビュー。初めて新型肺炎の患者が彼らに会うと、「まず最初はちょっとびっくりするのです。長い入院生活の間、医者でも看護師以外の誰にも会っていませんから。それから、マスクと看護服の間の合間から、わたしたちが修道士だとわかると、喜んでくださるんです。それで、少しほっと表情が和らぎます。我々がいることで、神さまが傍においで下さるのを感じて、よきサマリア人のように、彼らの辛苦の傍に神さまがいらっしゃるのを理解してくれるのです。状況が許せば、この試練を癒す病者の塗油を授けてよいか尋ねます。
しばしば、私たちは深い痛悔を勧めます。そして罪への赦しの祈りを捧げます。この非常事態が過ぎたら、司祭の下にゆき懺悔するようにいいます。その日が早くくることを祈っています。
毎日、われわれのうち誰か一人、霊安室で亡骸に祈りと臨終の祝福を授けています。もし、彼らの家族が亡骸に寄り添い涙を流せなくとも、しばしばそこには医師や看護師たちの姿をみます。彼らが悲しみに打ちひしがれている姿を、何度も見ているのです。彼ら自身が、パンデミックに斃れた人たちを死の淵まで見届けたのですから。しばしば看護室長から呼ばれて、看護師たちと共に聖母の祈りや主の祈りを捧げています」。

別のカプチン僧アクイリーノのインタビュー。
「誰か思って電話に出ると、ある女性でした。彼女は病院にご主人を連れてきて、それきり会うことも叶わず、ご主人は亡くなりました。最後に顔をみることも、キスも叶わなかったのです。電話して下さいませんか、と彼女はわたしに頼みました。ですから、わたしは霊安室に出向き、柩の前で彼女に電話をしてこう言いました。今ご主人の前にいます。もう柩は閉められてしまっていますが、祈っています。祝福しています、と。そう言って二人とも電話で泣き崩れてしまいました」。

未だ実験段階だが、イタリア国内で抗体検査が開始された。数カ月前の日記でさえ無性に懐かしく、愛おしい。心なしかうまく話が出来ない気がするのは、誰にも会わず、話もしていないからか。

4月某日 ミラノ自宅
知ってしまう畏れを思う。インターネット初期、父が電子写植からDTP印刷に移行するのを躊躇っていた後ろ姿とも重なる。良いものは残ると信じつつ、安価で容易に用が足せる方法に次第に慣れてゆき、早晩DTPそのものの質が向上して、気が付くと立場は逆転している。
この人数で十分ではないか、この程度で十分使えるではないか、と無意識に納得させる思考の怖さを思う。そして反対に、物事を忘れ去る速度や、人間の社会活動が停止した途端、地球が自浄を始める早さについて思いを巡らせ、我々自身が害と自覚する恐ろしさについて思う。そして、未だ音楽をする意味と、自らの無力について考える。

こういう時代が訪れるとは思っていたが、こんなに早く、突然訪れるとは想像もしていなかった。これから先、息子や生徒たちに何を伝え、何を正しいと教えればよいのか。我々が信じてきた正論は、果たして正しかったのか。
息子や若い人たちに申し訳ないと思うのは、我々が慢心を折り重ね築いてきた世界が、彼らのささやかな夢を奪ってゆくからだ。自分が生きている間は、前時代的であれ何とか生き永らえると信じてきたが、今後は自分すらどうなるか分からない。すっかり喪心して、今書いているソ連邦の音列を、幾たびか書き間違えた。

イタリアが実験的に発表した、感染者との接触を避けるための携帯ソフトstop
covidを無意識にインストールしようとして、我に返る。昨日まで我々が社会構造を維持できていたのは、ぎりぎりで互いに薄く噛み合っていた偶然に過ぎず、構造と呼ぶには余りに脆弱な砂上の楼閣ではなかったか。東京でも一日の感染者数確認が200人を超えた。相変わらず、どうも口がうまく回らない気がする。

4月某日 ミラノ自宅
イタリアの私立学校の3分の1は、今後資金不足で立行かなくなる可能性がある。既に世界では15万人が亡くなり、ベルギーが現在、特に酷い状況下にあるという。

Aさんよりメッセージが届く。
二ヶ月ぶりに普通の呼吸をしてる感じがします。
気管に蓋が付いたようで、開いてる時は良好なのですが、閉まると微妙になります。治りに時間がかかるのですね。自然治癒するものなのかちょっと心配ですが、6月まで飛行機は出ないことだし、人生の休憩期間と思って。なんというか人生観変わりますね。人は結局孤独だし、死は結構身近なものなんですね。楽しく、人生歩みたいです。

4月某日 ミラノ自宅
自分が忘れるから書く。日記も日本語を忘れないために書き始めた。家人曰く、人が死ぬたびに曲を書いているらしい。大学時分、急逝した級友をしのんで曲を書き始めて以来、確かにそうかも知れない。忘れ易いのを自覚しているからだ。誕生に際して曲を書いたのは、息子が生れた時くらいではないか。尤も、あのテキストも獄中のエルナンデスが死の直前に書き残した悲痛なものだが。

子供の頃から父の写植機をいじるのが大好きで、大学時代は、父と二人で一緒に夜なべをして演奏会のチラシの版下を作った。彼も仕事で忙殺されていた筈だが、二人で会社に泊まり込み夜明けまでかけて、数えきれないほど作った。
こうした小さな出来事も全て忘れてゆくから、書留めておきたくて作曲する。別に美しい旋律が浮かぶわけでも、人を驚かせるような野望を抱くわけでも、理念を啓蒙するためでもなく、逆説的に言えば、作曲も日記も忘れるために書く。全てを覚えてゆくためには、途轍もないエネルギーが必要だからだ。忘れることは素晴らしい。

ベルガモの教会に保管されていた夥しい数の柩が、初めて全て搬出され、無人で寂寥とした教会の写真。ミラノ・ニグアルダ病院の集中治療室の一つから初めて患者全員退室して、無人のベッドに医療関係者が歓声を上げる写真。
ボルツァーノ近郊のオルティゼイOrtiseiで実験的に行われている抗体検査で、49パーセントの市民が陽性と読んだ。流石に素人でもこれは高すぎると思うので、自分は罹ったと訝しむ市民ばかりが、こぞって検査を受けているのだろうか。

4月某日 ミラノ自宅
今日のように肌寒さが戻ってくると、気のせいか、普段よりコロナが気にかかる。
2月末、息子がミラノの街でマスクをしても大丈夫か、東洋人と罵られないかと心配していたのが懐かしい。今やマスクなどすっかり品薄で、薬局の店先で皆が並んで買っている。あの頃に戻りたい気がするが、無理なのは承知している。常にあの頃は良かったと顧みながら、我々は進化してきた。

ミラノ大霊園(Cimitero Maggiore di Milano)の87区画(campo 87)に、コロナウィルスで命を落とした、身寄りがない亡骸のため無縁墓地が作られた。
イタリアと一口に言っても、現在はロンバルディアと他州とは随分差があるようだ。ここからどこにも出られないので、現状は分からないが、少なくとも随分状況は明るいに違いない。ドイツで人間に対するワクチンテスト許可とのニュース。
昼過ぎ、救急車が静かにマンションの前に停まった。防護服の救急隊に続いて、若い女性が救急車に乗り込む後姿を見送りながら、気が滅入る。

4月某日 ミラノ自宅
米国の死亡者総数は52000人を超えた。イタリアでは未だ一日に415人も亡くなっているが、感染者数は六日間連続して減少している。キアラより連絡あり。スカラの給料は3月までしか払われていないこと、おそらく劇場再開は12月の新シーズンからということ、癌治療で病院に行かなければならないが、感染が怖くて行きたくないことなどを聞く。

今まで我々は本当に恵まれていたのだろう。息子には、これからきっと状況は悪くなると言い続けてきたけれど、これほどあっけなく状況が変わるとは思ってもみなかった。

4月某日 ミラノ自宅
コンテ首相が「第二期fase 2」と呼ばれる封鎖開放計画を発表。夜の闇の中、運河の向こうのアパートから「Cela faremo! Cela faremo! 負けないぞ!やってやるぞ!」と叫ぶ男の声と、どこからか大きな花火の音がこだましている。澄み切った夜空に、細く鋭い月光の眼光が輝く。

プーリアやジェノヴァでは、亡くなった医療関係者の名前を、新しい道路に冠そうとしている。現在まで150人を超える医師が命を落とし、そのうち、政府からのCovidの招集に応じた医師も多かったはずだ。忘れてはいけない名前は、どこかに刻んでおかなければならない。ヴェローナ記念墓地の記念碑や、ヴェローナ郊外のつつましい遊具のならぶ公園に冠されたドナトーニの名前を思い出す。物凄く長い一つのフレーズが、少し終わりかけてきている気もする。

境界線上にいるのかも知れない。感染者が責められていた昨日と、非感染者が差別される明日との境界線。感染者のみが働く、昨日までの常識が100パーセント覆る境界線。
基準の変換点。歴史上イデオロギーの急激な変換点は幾たびもあった。我々の世代は平和だったからナイーフなままこの歳になり、少し当惑しているのかもしれない。

4月某日 ミラノ自宅
100年前、1918年から1920年まで、世界を覆ったスペイン風邪は5億人の命を奪った。アポリネールはパリで、クリムトやシーレはウィーンで斃れた。プラハでは、結核から治りかけていたカフカの肺を容赦なく襲い、死まで追いつめていった。

ラフマニノフはアメリカに着いて間もなくインフルエンザで床に臥したし、プッチーニ三部作には、第一次世界大戦で疲弊した世界のみならず、スペイン風邪に斃れた姉の死が影を落とす。
伝染病に罹りブダペストで臥せていたバルトークが、病床で「めくるめく感覚が目を襲い、時には突然眼底を刺すような痛みに苦しみ、眼底で小蟻が引掻く我慢できない痒みに苛まれ」なければ、「中国の不思議な役人」の強烈な音響は生まれなかったし、ブラジル滞在中のミヨーが、眼前で斃れる伝染病の悲劇と対峙しなければ、「フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのソナタ」終楽章の、深く、そして感情を喪失した無機質の、葬送行進曲を書くことはなかった。

母の死への悲しみのみならず、世界に吹き荒れる伝染病の嵐こそが、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」の陰鬱な響きの根底に滾々と流れる、不穏なエネルギーではなかったか。
ラヴェルに「ラ・ヴァルス」の作曲を掛けたディアギレフとロシアバレエ団は、あの荒廃した世界にあって、後世に残る傑作を数多く世に送り出せたのは何故だろう。ディアギレフは病的に感染症を恐れていたはずなのに。

1918年9月ロンドンでディアギレフが「クレオパトラ」を再演したとき、レオニード・マシーンも、感染への恐怖に怯えながら、ほぼ全裸で舞台に立たなければならなかった。
「自分が死ぬシーンの後、凍える舞台上で、染入る寒さに耐えながら、何分間も横たわっていなければなりませんでした。…その後は何も覚えていません。翌日、いつも劇場前に立っていた、ひと際体格のよい警官が、インフルエンザで亡くなっていたのを知ったのです」。

当時スペイン風邪で延期になった公演記録は、実際は沢山あったのかも知れないが、手元の資料では「兵士の物語」程度しか目に留まらなかった。当時は伝染病を管理する衛生意識が著しく低かったか、大戦や革命で、塗炭を舐めていた芸術家は、生きることに必死だったのか。

ボルシェヴェキから逃れたばかりで無一文のストラヴィンスキーが、スイスで小編成の楽劇「兵士の物語」ツアーを計画したのは、紛れもなく生活のためだった。
プロダクションメンバーがスペイン風邪に罹らなければ、「兵士の物語」は、現在とまた違った扱いを受けていたかも知れない。後日スペイン風邪で床に臥せたストラヴィンスキーが、糊口を凌ぐため「火の鳥」を身軽な組曲として改作したのも、作品をより広める上で役立ったかもしれない。

毎日のように生徒から届く「兵士」のヴィデオを眺めながら、そんなことを思う。2か月会わないうち互いに髪も伸び、かと思えば大雑把に自分で刈り上げる生徒もいて、時間の経過を実感する。

4月某日 ミラノ自宅
新型肺炎陽性の現在の患者数101551人。死亡者27967人。快復者75945人。一日の死亡者数は285人。東京のYさんより、イタリアの病院に送る寄付金が集まったとの知らせを頂戴する。日本も大変な時期な筈なのに本当に有難く、深謝あるのみ。

第一次世界大戦と伝染病を当時の音楽家はどうやり過ごしたのか。レスピーギ、カセルラ、トスカニーニの自伝や書簡集に戦況に関する記述は散見されるが、伝染病で将来を悲観する様子も、オーケストラや演奏会が閉鎖された様子もないのは何故だろう。単に伝染病に関する文章を割愛しているのか、現在のように、パンデミックを恐怖の対象として量的に捉える情報を共有していなかったのか。

当時のカセルラは、第一次世界大戦下で忌避されていた敵国音楽、ドイツ音楽が戻ってきたことを喜んでいる。オーストリアがイタリアに降伏した翌日、ヴィッラ・ジュスティ休戦協定が発効した日、カセルラはこう書いた。
「1918年11月4日。ローマの道に溢れる人々はまるで気でも違ったようだった。遂に惨い禍難は過ぎ去ったのだ。ヴィットリオヴェネトの勝鬨の声で終わったのだ。正午頃、ウンベルト王通りのリコルディ社へ、ベートーヴェン32のソナタ最後の手稿を届けるため家を出ると(1915年から続けてきた壮大な校訂作業は、大戦の終結と共に完成した)、沸き立つ歓喜が街の隅々まで支配していた。夜になって路地には久しぶりに街灯が戻ったが、3年間もの気の遠くなる長い時間を経て眩しく輝いていて、まるで初めて目にするものに見えた」。
「1919年1月26日。二年もの不在を経て、漸くベートーヴェンがアウグステオ音楽堂に戻ってきた。エグモント序曲を指揮したヴィットリオ・グイの功績だ。この音楽の帰還が、どれほど力強く、筆舌に尽くせない感動を与えたか、今や想像もできないに違いない。悲しむべき精神的過失が、長い間我々からこの音楽を奪い取っていた」。

この記述から半年ほど前、1918年の春から夏にかけて、同じくローマにあったレスピーギは、スペイン風邪に罹って、2か月近く床に臥していた。
「”1918年 6月11日 ローマ クラウゼッティ殿
御返事大変遅くなりましたこと、どうかご容赦願います。何かは判然と致しませんが、ローマで猛威を振るう炎症にやられて、何日も続いた熱のあと、漸く今日、初めて布団から起き上がった次第です。今日は何とかやり過ごしている感じです。ふらつき鈍重で、まるで酔っ払いです…(中略)…貴方の「小人のバラード」原稿を受取りました。誠に愛くるしく、この詩だけで音楽に溢れています。何とか早く仕事に復帰したいものです。この仕事を、ひときわ情熱をもって手掛けたいと思うのです。なぜなら、この詩は、とても音楽的な言葉を発しているからです。これ以上はもう続けられません。哀れなこの頭はもう何も考えられません。目が回ります。目が回ります”。

後日「スペイン風邪」と呼ばれるようになったレスピーギはあのインフルエンザに罹った、最初の一人であった。その症状は一見軽そうに見え、ほんの数日、熱が続き、それから起き上がろうとすると、何週間もの間、嫌な感覚が纏わりつき、全く力が入らなくなってしまうのであった。
彼が病床に臥している間、わたしは午後になると、出かけていって暫く彼の話し相手になっていたが、数日後にはわたしも床に臥してしまった。一週間後、漸く起き上がってみると、レスピーギより酷い、極度の衰弱に身体が曳きづられる思いであった。それは一ケ月以上も続いた」。

このようにエルサ・レスピーギは回想している。当時エルサはサンタチェチリアでレスピーギに作曲を習っていて、彼らはこの後間もなく婚約した。カセルラの日に同じ、大戦終結の日のレスピーギの手紙はこう始まる。

「親愛なるアゴスティーニ 昨日からローマは歓喜に溢れています。誰もが道で大騒ぎして、大変な筈のスペイン熱のことなど、皆すっかり忘れてしまったかのようです。一ケ月前は一日で600人も死んでしまいましたが、今は随分落ち着きました。昨日は75人だけです。もう酷いニュースは沢山です!…」

2か月ほど前、3月末に日本で弾くつもりで、家人がリストの編曲したロッシーニのナポリ風タランテラを練習していた。レスピーギがスペイン風邪の闘病後、最初に仕上げた大作は、この「ナポリ風タランテラ」を含む、ロッシーニのピアノ曲のオーケストラ編作「魔法屋 la boutique fantastique」だった。タランテラといえば、家人の恩師が眠るターラントを起源とする、発汗効果で解毒させる、激しい毒消し踊りだったのを思い出した。

(4月30日ミラノにて)

夜店の明かり

高橋悠治

せまい通りを明るく照らしていた街灯が消えていたのか しぼられていて 店ごとにちがう灯りが照らしている 稲垣足穂の『星を売る店』 だれもいない中学校の図書室で読んだ ガラス瓶のなかの金平糖 色とりどりの星

戸島美喜夫が亡くなって2ヶ月になろうとしている はじめて会ったのはいつだったか 1960年代のグループ「音楽」だったのか 次には 鶴見良行のバナナの本による『絵とき唄とき・バナナ食民地』を水牛楽団で演奏し そのとき水上勉の戯曲『冬の棺』のために書いた音楽にもとづいたピアノ曲『冬のロンド』を弾いた それが1980年名古屋だったから その前から会っていたはずだが

その後 水牛楽団がタイに行ったときもいっしょだった あれはいつだったのか 内灘にもいっしょに行ったような気がする それからは名古屋に演奏で行くたびに会っていたし 家に泊めてもらっていた 東アジアの民謡のメロディーや そのスタイルの劇中歌から作られたピアノ曲を何度も弾き CD にもした

ことばの抑揚からメロディーが生まれるなら その音のうごきやリズムの なにげなく通りすぎてゆく足どりの わずかなためらいや陰りに 震えている気配を感じるか たとえ感じても そこで足をとめず かすかに向きを変えたり 息を継いで 続けるだけで その後の色が一瞬濃くなるような

戸島美喜夫が妻の音楽帳に書いた『鳥のうた」 カタルーニャのクリスマスの歌 といっても だれでも知っているあのメロディーよりは それを縁取る装飾 音のあそびの慎ましさとおちつき 「薄氷を踏むような」というたとえ 何かを加える「編曲」ではなく 「そこに影を落とす」ありかた と言っていいのだろうか

最後に会ったのは昨年9月 名古屋で山田うんのダンスのためにサティを弾いたとき 2回来てくれた いつもと変わった様子はなかったが

璃葉が書いていた ・・・父はいよいよ容態が悪くなる前日まで、本当にたのしんで生きていたからだ。起き上がれず横になったままでも、せん妄が激しくなっても、首を少し起こして、たばことコーヒー、夜はビールとワインを飲んでいた。とてもうれしそうに。・・・(『水牛のように』2020年3月号)

2020年4月1日(水)

水牛だより

日曜日の春の本格的な雪にはびっくりしましたが、今日の東京は雨です。あまりにも変わりやすい天候というものも、不穏な世界と無関係ではないのかもしれません。

「水牛のように」を2020年4月1日号に更新しました。
杉山洋一さん、室謙二さんだけでなく、みなコロナウイルスの影響を受けています。わたしの周辺はまだほんの少し呑気さがただよってはいるものの、いまの政府のもとではお先真っ暗ですね。

夜眠る前に『日々の子どもたち あるいは366篇の世界史』(エドゥアルド・ガレアーノ 久野量一訳 岩波書店 2019)を少しずつ読んでいます。昨夜は8月30日「行方不明者(デサパレシードス)の日」。短いので全文をどうぞ。

 行方不明者とは墓のない死者、名前のない墓。
 さらに、
 天然の森
 都会の夜の星
 花の香り
 果物の味
 直筆の手紙
 時間を無駄に過ごせる古いカフェ
 路地のサッカー
 歩く権利
 呼吸する権利
 安定した仕事
 確実な年金
 格子のない家
 鍵のないドア
 共同体の感覚
 そして常識。

来月も無事に更新できますように。

それではまた!(八巻美恵)

しもた屋之噺(219)

杉山洋一

伊語で深い沈黙を表す形容詞に、tombaleつまり「墓地のような」静寂という言葉がありますが、半世紀近く生きてきて、今ほどこの言葉を反芻したことはありません。確かに電車も路面電車もバスも普通に走っているけれど、驚くほど無人です。特に妙に明るい電灯ばかり目立つ夜の電車は、薄気味悪く感じるほどです。今見られるのは、アパートの住民が家の前でのみ許されている犬の散歩をしている姿でしょうか。庭の木の枝は、めいっぱいに新芽を蓄え、すぐにでも思い切り葉を広げようとしています。息子が生まれた記念に植えた杉も、6メートルの高さに成長しました。うまい具合に大木の木陰から少しずれて、自ら伸びやすい場所をしっかり確保しているように見えます。本来なら、そろそろ庭の芝生を刈る準備をするところですが、今年に限っては、薄桃色や黄色に咲き乱れる野草を、もう暫く愛でることにいたします。

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3月某日 ミラノ自宅
死亡者数41人。ロンバルディア州学校閉鎖より一週間。医師、看護師の大学卒業を三月に繰上げ、同時に現場登用決定。イタリアの致死率が中国より高いのは、高齢者数が多いためとの報道。
ロンバルディア南部のコドーニョが危険地域に指定される以前、北部ベルガモから或る歌手がコドーニョの演奏会に出かけ、感染を知らずに帰宅してしまった。間もなく、歌手が関係するベルガモの音楽院で急激に感染が広がり、現在も教師一人が重体のまま集中治療室から出て来られないと聞いた。演奏会など滅多になかろう片田舎のコドーニョに、この時期に限って演奏会が企画されていたなど、何故不幸は重なるのだろう。

3月某日 ミラノ自宅
一昨日は52人死亡で149人回復。昨日は79人死亡で160人回復。学校より遠隔授業の準備するよう連絡あり。イヤートレーニングの授業は、学校の授業と同じ内容で毎週ヴィデオを撮り、それに沿って各々が自習する形にし、指揮のレッスンは、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」などを、メトロノームに合わせて口三味線で歌いながら指揮して、ヴィデオを送ってもらう。ピアニスト相手に振っていると、気が付かないソルフェージュの甘さも明快になると思う。

早朝散歩に出かけ、ナポリ広場で物乞いの老女に2ユーロ渡すと、とても嬉しそうな満面の笑顔で礼を云われる。何年も彼女の前を通り過ぎてきたが、いつもとても暗い顔で、言葉すら話せると思っていなかった。
トルストイ通り角にある、中国人経営のよろず屋のシャッターに「2月26日より当局の指示により休業します。近所の皆さんに協力します。再開は当局の指示に従います」とメッセージが貼ってある。
その先の中国人経営の喫茶店のシャッターには「3月8日までコロナウィルス予防のため休業します。私たちは元気です」とメッセージが書かれていた。メルセデスは、新しい患者数が昨日少し減少したので、これが続けば抑え込みに成功したことになる、と話していた。

3月某日 ミラノ自宅
早朝は曇り。昨日の物乞いの老女は、遠くから目ざとくこちらを見つけると、満面の笑顔で大手を振って挨拶してくる。実に陽気な老女だった。今日は手持ちがなく、50セント硬貨2枚のみ渡す。昨日のマッタレルラ大統領の演説の終わり、「我々はイタリアを信じることができるはずですし、そしてまた、イタリアを信じてあげなければいけないのです」という言葉に、思わず涙が込み上げてきたのは何故だろう。

驚くなかれ、昨夕の発表では死亡者148人。学校のマルチェッロより、休校中の学生との繋がりを保つためヴィデオはとても有効だから、是非続けてとの連絡。普段教室で学生の顔を見ながら話しているものを、相手もなく話し続けるのは苦痛だが、この際仕方がない。ユーチューバーには到底なれない。ミラノと東京を結ぶアリタリア便は今日から運航休止。愚息や家人はクラスメートや友人らとヴィデオ通話で気を紛らわせたり、情報を交換している。

「自画像」の作曲は心地良いものではない。戦争、紛争地域の国歌は、軍歌のように「国威発揚」の意図も多分に含まれ、「自画像」に於いては多数の国民の死を体現する。トルコとシリアの戦況が活発になり、逃れた難民がギリシャから発砲されている。
テレビでは、世界各地でイタリア人が差別を受けているニュースの後、最初にコロナウィルスが認められたコドーニョには、ミュンヘンより来訪の中国人が疫禍をもたらしたと言っている。

ルカより家人に連絡があり、来週、無観客で演奏会を収録したいので、何か弾いてくれとのこと。皆この状況で何ができるか、必死に考えている。家人はバッハ=ブラームスの左手のシャコンヌを弾くことにした。息子が外に出たくないと愚図るのは、劇場に行きしな、コロナウィルス患者を集中治療しているバッジョのイタリア軍人病院の傍らを通るのが怖いからだ。それでも、自分がすぐ弾けるレパートリーからプーランクを選び、渋々さらい始めた。

毎日家にいるせいか、ここ暫く頻繁に台所に立っている。今朝は朝一番にスーパーに出かけて、当分暮らせるよう食料品を買い込んだ。未だ目が黒い美味しそうな鯛二尾を5ユーロで買い、昼食はアクア・パッツァで煮込み、茸で簡単にパスタも作る。美味。普段魚嫌いの息子も喜んで食べていて嬉しい。気軽に買い物に出かけられず、精の付くものを食べさせていなかったので、少々安心する。

3月某日 ノヴァラ ホテル
日本政府がロンバルディア州に対する渡航制限を引き上げた途端、日本から派遣された教員の引揚げが決まり、息子の通う日本人学校は、休校中ながら翌日終業となった。

終業式もなく、息子と家人が通信簿と学校に残した荷物を受取りに出かける間、簡単に昼食を用意し、帰宅後直ぐに食事にする。昨夜家人が作った炊込みご飯の残りを雑炊にし、嵩増しに餅を入れたのが、思いの外息子に好評だった。
食後急いで荷物をまとめ、タクシーでロット広場へ向かい、地下鉄に乗り換え見本市会場駅へ向かう。

最初にやってきた列車に乗り込み、ポットに詰めた温かい紅茶で喉を温めながら、ロンバルディア州を超えノヴァラを目指す。今日の午後、封鎖地域をロンバルディア州全体に広げるか閣議にかけられると夕べ新聞で読み、まさかそんな決定はなかろうと思いつつ、家人が月末の日本の仕事に間に合うよう出発できないと困るからと、州境を超え様子を見ることにした。

家に籠るため買い込んだ食料品を、大きなリュックに詰め込めるだけ詰め、家人と息子を友人宅に預け、こちらは小さな安宿を取る。行交う車も減り空気も澄んでいたのか、車窓の向こうに雪を頂く美しいアルプスが連綿と続いていて、それは見事であった。ノヴァラの手前で、ティチーノ川の鉄橋を越えピエモンテ州に入った途端、それまで緊張していた家人と息子は、無人の車内で思わず歓声を上げた。

夜、友人宅にて、持ち込んだ葱とズッキーニとツナでパスタを作る。閉まりかけていた宿の傍らの肉屋でノヴァラの赤ワインを購い、道すがらパンとケーキも買い足し、夕方ミラノから着いた友人二人も合流して、ワインで乾杯する。二週間、ミラノでひたすら息をこらして暮らしていて、漸く危険のないノヴァラにきた喜びを実感しながら食事を始めると、ワインが進む。アルコールは、困憊している時しか飲まない。

3月某日 ノヴァラ駅よりミラノ行車内
始発のミラノ行は何事もなかったかのように駅に佇む。ロンバルディア州他11都市封鎖が決まった途端、テレビでは中央駅やガリバルディ駅に雪崩込み、夜行列車でミラノから逃げる人々の姿を映し出していた。それと反対にミラノに向かう自分は、不思議な心地だ。ともかく家族をミラノから安全に連れ出したので、安心した。

列車が走り出す。これで暫く彼らとも会えないかも知れないが、その分仕事に専心したい。ティチーノ川を越えてロンバルディア州に戻ると、その実感がいよいよ重く圧し掛かる。
封鎖は一ケ月、4月3日迄の予定だが、その後の進展によっては、六か月継続する可能性があると新聞に書いてある。作曲して学校の課題など作っていれば何とかやり過ごせるだろう。
有事だから仕方ないが、暫く会えないのなら、その積りで家族に言葉をかけたかった。挨拶もろくに出来なかったし、息子など既にベッドで寝込んでいたから、頑張れとも言ってやれなかった。彼らが病気に罹らず、今日までやり過ごせたことで満足とする。

3月某日 ミラノ自宅
離陸直前、ローマの空港から家人が電話をかけてきたようだが、眠っていて気が付かなかった。
昨夜、葱のパスタを食べ終わる頃になって、封鎖決定の素案がどこからかメディアにもたらされた。久しぶりのアルコールで軽く酔った頭には、最初は悪い冗談としか思えなかったが、テレビをつけると、確かに記者が現在素案を閣議で取りまとめている最中だと繰返していた。

息子のように、ロンバルディアからノヴァラの国立音楽院に通う学生も多い。昨夜は素案がニュースで取り上げられた途端、もうノヴァラのみなさんと暫く会えないわね、残念ね、元気でね、というメッセージが、厄介になった友人宅の学生にも届いた。
日付が変わっても閣議の結果が出ないので、もしこのニュースが本当なら、近日中に皆でノヴァラから日本に戻ろうと話して、一旦宿に戻る。

日本に仕事のある家人と、ここ暫く学校もない息子はともかく、作曲も学校も全て放棄して日本に帰ってよいのか、もし日本に戻るとその後イタリアに直ぐに入国できるか。すっかり酔いの冷めた頭で考えると、自分は残らざるを得ないと気が付く。ミラノには、コロナウィルスで闘病中の留学生も一人いて、万が一の事を思えば、気軽に帰国はできない。夜半その旨家人に伝えると、始発に乗ればきっとまだミラノに戻れるわよ、と返事が届く。朝の5時過ぎノヴァラ駅に着くと、思いの外普通であった。労働者風のアフリカ人ばかり屯していて、列車も普通に動いた。

夜中に友人宅で用意してもらった紅茶で身体を温めながら、昨日と同じく見本市会場駅からロット駅まで地下鉄に乗り、少し怯えた心地で朝の7時に家に着いた。すると間髪開けずに、昨日遅れてノヴァラに着いた友人から、素案と違ってノヴァラも封鎖された、と慌しく連絡が届く。

昨夜の夜行列車騒ぎで今後がすこぶる不安になり、家人には封鎖のないトリノまで早急に出るよう伝え、連絡をくれた友人には先に駅へ駆けつけ、列車の運行状況を調べてもらった。彼らは7時54分のトリノ行の列車に飛び乗り、そのまま同日トリノ発の便で、ローマから東京へ戻った。

テレビをつけると、南イタリアでは、北から逃げてきた旅客を追返すやら隔離やらと、醜い騒ぎになっている。面会を禁止した刑務所で暴動。「Fuga Sud(南部への逃避)」音楽用語が躍っている。「Viaggio nel ghetto Lombardia, spacca l’Italia ゲットー状態のロンバルディアからの移動で、イタリア真っ二つ」。人々の顔から笑いが消えた。

「1メートル以内に人に近づかない。くしゃみと咳はティッシュを使い、手洗い励行。目、鼻、口はみだりに触らず、握手とキスはしないこと」とテレビは繰り返す。ジョヴィノッティがウードを携え登場するコマーシャル。「実は昔これを買ったんだけど、ずっと使ってなかったんだよね。折角のこの機会に、家で練習しているんだ。こんな日々が長く続かないといいけれど、皆も家に居よう。今は学校がなくたって、休暇じゃないんだ。ウィルス止めなきゃ」。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は97人死亡。早朝散歩をして行きつけパン屋に寄ると、「これからはカウンターではなく席でコーヒーを飲んでくれ」と云われる。他人と1メートル以内に近づいてはいけない条例には、カウンターでの食事を禁止する項目が入っている。月末、息子が語学研修に出かけるはずだったマルタもイタリアとの国境を閉ざしてしまった。日本でもイタリアからの帰国者は肩身の狭い思いをしていると聞いて、家人や息子が頭に浮かぶ。
学校の指揮クラスでピアノの伴奏をしているマリアが、歌を作ったから聴いて頂戴と送ってきた。

こわい伝染病のせいで わたしたちの街は
まるで病院みたい
夢かしら 頭おかしく なっちゃったかしら
第一線でわたしたちを守ってくれる お医者さんたち
これが新しい現実
わたしたちの毎日の かけがえのない一番の英雄

頑張ってと 肩を抱くことも
元気でねと 頬っぺたくっつけるのも  今はがまん
顔をおおうマスクと 大きなメガネの奥に
あなたの 誰にも屈しない力 しっかり見えてる

ウィルス研究で
どうかわたしたちを助けて 病気を治して
わたしたちは ここにいるの
頑張ってるの うんと想像力 働かせているの

暮らしも大変だけど
少しは 頭も働かせないと だめよね
どうにかなるわよ
家に閉じ込められたって
いろんなこと できるわよ

思いもかけない 夢みたり
いろんな計画 たてたり
希望 追いかけたり
新しい それぞれ違う 目に見えない世界が
きっと あなたのことも 待っているはず

伝染病がどこにいたって
どんな伝染病だって
わたしたちは負けないの

わたしから 1メートル離れていて
あなたのこと 大好きだけど
あなたからも 1メートル
そう そこにいて
今は こうしないと だめよね

頑張ってと 肩を抱くことも
元気でねと 頬っぺたくっつけるのも
今はやめて
顔をおおうマスクと
大きなメガネの奥に
あなたの 誰にも屈しない力 しっかり見えてる

思いもかけない 夢みたり
いろんな計画 たてたり
希望 追いかけたり
新しい それぞれ違う 目に見えない世界が
きっと あなたのことも 待っているはず

伝染病がどこにいたって
どんな伝染病だって
わたしたちは負けないの
https://youtu.be/C47Qbzx_15A

出席簿確認のため、久しぶりに学校に出かける。全く人気がなく、受付も無人だ。事務所のアンナが開けてくれて、がらんとした校内では、学院長のアンドレアと、アンナしか見かけなかった。「なんだか変でしょう。授業のない夏休みの雰囲気とも全然違うのよ。やっぱり」とアンナが寂しそうに呟く。本日の死亡者数は168人。夜、寝つきが悪い。欠伸のせいか、気が付くと涙がこぼれている。

3月某日 ミラノ自宅
今日の死亡者は196人。併せると827人にもなる。少しずつ数字に頭が麻痺してきている。感染者数10590人、快復したのは1045人。学校の授業のヴィデオを作るのに一日かかる。イタリア政府は必需品以外の店や喫茶店の休業を決め、WHOはパンデミックと発表。

フェデーレから便りが届く。
「こちらペスカーラ。(周りのイタリア人のように)家で隔離生活を営んでいるけれど、みんな元気。この恐ろしい体験が一刻も早く終わることを願うばかりだ。どうやら何箇月もかかかりそうだけど。自分みたいに、普段から家に居ずっぱりの人間さえも、人生滅茶苦茶だ。それだけが問題じゃないだろう。何しろ将来が見通せなくなってしまった。これが本当にやり切れない。ともかく皆で頑張ろう。一緒に乗りかかった舟なのだから。
何とか踏み止まって、跳ね返してやろうじゃないか。我々がこの危機から抜け出せたら、新しい人生を始めよう。願わくば上っ面でない、もっと成熟した展望を掲げて」。

3月某日 ミラノ自宅
人気を嫌い、朝5時半に24時間スーパーに出かけると、意外にもちゃんと開店していた。店内には同じ考えと思しき主婦が、カート一杯に買物している。一度家に戻っても未だ人気はなく、ナポリ広場まで歩きに出かけると、いつも開店していた喫茶店は軒並みシャッターを下ろしたままになっている。「当局の条例に基づき休業」などと貼ってあり、異様な光景。

現在までの死亡者は併せて1016人。快復したのは1258人。感染者数12839人。リナーテ空港は閉鎖され、今後は救急医療用の航空機発着のみ認可とのこと。ジャンベッリーニ通りの時計屋のシャッターには「Chiuso per vincere il nemico 敵を倒すべく休業」とメッセージが貼られている。

この数週間、風呂場の体重計周辺に棲みついていたトカゲを、漸く捕えて庭へ逃がす。体重を測るたびに、トカゲが一緒になって数字のところへ顔を出すのが可笑しかった。

3月某日 ミラノ自宅
これからは、朝のパンを買いに出るときも「自己宣誓証」と身分証明書を携帯して、警察に求められた際、必ず提示しなければならない。

コッリエーレ誌上で、ミラノ古謡「O mia bela Madunina わたしの聖母さま」を窓から吹くトランペット奏者が喝采、とある。名前を見ると、ずっと昔、学校の学生オーケストラで吹いていたラファエレだった。とても素敵な演奏で、吹き終わった途端、近所から一斉に「Viva Milano ミラノ万歳」と歓声が上がる。何だか自分のことのように嬉しく、誇らしい。救急車のサイレンばかり耳につく毎日のなか、こうした瞬間はかけがえがない。

ジョンソン首相が今後集団免疫を目指すと発表。大切な家族を大勢失うことになると発言、物議を醸している。日本ではイタリアからの帰国者による二次感染が批難されている。自宅待機中の家人から体調に変化なしと聞き安堵する。

日本よりお見舞いメール。「何故この程度のことでこれだけ大騒ぎしているのでしょう」。今日一日で175人死亡。併せて1441人死亡。快復した患者1966人。感染者総数21157人。

3月某日 ミラノ自宅
朝6時に近所の24時間営業スーパーマーケットに出かけると、営業時間が7時から夜半2時に変更になっていた。仕方がないのでシエナ広場のスーパーマーケットへ出かけるが、既に入口に行列が続いていて、そのまま帰宅した。昨日の死亡者は368人。延べ1809人死亡。総感染者数20603人。快復した患者は今日一日で369人。

夜9時、家を消灯した住民たちが、一斉にバルコニーから電灯を光らせ、歓声をあげる。そんな行為に意味があるか不思議だったが、実際目の当たりにして心底感動したのは何故だろう。
ここ数日、SNSで時間を決め、このように一斉に国歌を歌って医療関係者への謝意を表したり、互いの結束を確認し、士気を保とうとしている。自分もその一端を共有している。
フランチェスコ法王が、閑散としたローマの街を歩き、祈りを捧げた。日本ではイタリアの医療崩壊が話題を呼んでいて、日本人旅行者が自身のイタリアの救急病院体験など紹介している。パリ封鎖。アメリカ、ドイツ交通封鎖開始。

3月某日 ミラノ自宅
早朝出向いて失敗したので、夜11時過ぎにスーパーマーケットへ出掛ける。人に会うのが怖い。現在感染者数は23073人。快復した患者は2749人。今日の死亡者は349人で総死亡者数2158人。患者も死亡者も本来人間であって数字ではなかった。ロンバルディア州だけでも、死亡者数は212人にのぼる。今日より三善先生の形見の五線譜を使い始める。万感の思い。

3月某日 ミラノ自宅
一日の感染者数2989人、一日の死亡者数345人、総死亡者数26062人、一日の快復患者数192人、総快復患者数2941人。ベルガモで人工呼吸器が不足。ガレーラ・ロンバルディア保険担当評議員が、風邪の症状があれば、家に留まるよう市民に強く要請。ヨーロッパ交通封鎖決定。

ヴァレーゼ近郊クアッソ・アル・モンテのニコロ・カゾーニ神父が、ミラノ大司教の要請を守らず秘密裡にミサ強行。理由は「世界の終焉が始まったと見られ」、「司教らはキリストの教えを退け、国家法を優先し」、「聖カルロは裸足で聖釘と聖遺物ともに、ペストに覆われた街を歩まれた。そして我々は風邪ごときに慄いている」から。
聖カルロの逸話は、1576年ミラノを襲ったペスト禍の折、ミラノ大司教カルロ・ボッロメオが執行した悔悛の行列のこと。時代錯誤だが、従来、宗教はかかる疫禍、凶禍のときこそ、人々の心の拠り所であった。

では何の為の作曲かと自問する。これは作曲とは言えないかもしれないが。三善先生と悠治さんから共通して社会に対しての意識に影響を受け、ドナトーニから音に感情を込めないことを学んだ。オーケストラと仕事を続けてきたから、楽器としてではなく、一人の人間として彼らそれぞれの顔が思い浮かぶ。国歌は従来あまり好きではなかった。軍歌に至っては、旋律の裏に数えきれない命がぶら下がっているようで、幼少より慄いていた。

3月某日 ミラノ自宅
昨日は475人死亡。併せて2978人死亡。併せて35713人感染。1084人快復。朝からヴィデオを2つ録画し生徒に送り、彼らから送られてきたヴィデオを何度も見返して助言を送る。普通に学校で授業やレッスンをするより、ずっと時間も手もかかり、熱心な生徒は夜中の12時にヴィデオを送ってきたりする。今日の発表では、一日で415人死亡し、4480人が新たに感染した。統制を図るべく陸軍の投入が検討されている。

マリアに電話をすると、先週彼女の友人がサッコ病院で亡くなり、日曜まで茫然自失の毎日だったと云う。62歳の男性で持病があった。
「重篤患者が、孤独のなか愛する人に看取られず逝くだけでも悲劇だけれど、お葬式もあげてもらえず、遺体を満足に土に帰してあげることすらままならないなんて、本当に地獄だわ。わたしは決して未来を悲観しているのではないけれど、真実は嘘偽りなく伝えなければいけないと思うの」。

ミラノからミュンヘンに疎開中だった留学生も、ベルリン滞在中のMちゃんも日本に帰国した。毎日四通以上の通知が、日本外務省とミラノ領事館から届く。今日は遂に日本より全世界に対する渡航注意通知が届く。状況は刻一刻と変化している。

ミラノの留学生の容態が悪くなりかけた折、伝染病は素人には手助けが難しいと実感した。出かけて様子をみることも出来ない。第一、自らの外出すら困難を伴う状態である。
代りに病院に電話しようにも、具体的症状を明確に伝えられない。病床が限られていて、軽症であれば自宅療養を求められるが、重篤化した時に救急を呼ぶにせよ、呼吸困難で電話など出来るのか。ホットラインは電話が多すぎて繋がり難いとも聞く。

ここ数日、年末年始に墓参を済ませたこと、年始を両親と家族と過ごせたこと、別れる前、存分に家族へ食事を振舞っておいたことに、安堵を覚えている。

3月某日 ミラノ自宅
一日の死者627人。現在まで併せて4032人死亡。感染者数は37860人にのぼる。
夜、ジャコモとマルコから送られてきたヴィデオを見て、注意事項など書いていると、遠くから教会の鐘が聴こえる。最初は何も感じなかったが、時計を見て、改めて鐘の音を聴いて鳥肌が立つ。
弔鐘に違いない。
最近妙な時間に鐘が聴こえるものだ、頻繁に鐘が鳴るものだと不思議に思っていた。

今日からミラノに陸軍が投入されたらしいが、外に出ていないので分からない。
70体もの亡骸を近隣州の斎場で荼毘に附すため、棺を積んだ陸軍のトラックの行列が、夜半のベルガモの街を静かに進む。イタリア国内の死亡者数は中国の発表数を超えた。

3月某日 ミラノ自宅
天気良好。昼前運河の向こうのアパート群で、バルコニーから人々が口々に叫ぶ。
「家に戻りなさい。家に戻ってよ。家にいなきゃ駄目なんだから。しっかり全部見えているのよ。通報するぞ。あんたたち人間じゃない。お医者さんを助けたいと思わないの」
老若男女、女の子の大声も交じる。誰かが運河沿いの遊歩道でジョギングでもしていたのか、怒号が渦巻く。誰もがこの状況に必死に堪えているのをひしひしと感じる。

母から桜の写真が送られてきた。不思議な静けさが辺りを覆っている。
今日一日で793人死亡。併せて4825人が死亡。感染者数は42481人。
「一日でこれほど死亡者数が増えたのは初めて」。どうなってしまうのか。

3月某日 ミラノ自宅
日曜正午、街中の教会の鐘が一斉に鳴り響く。25年住んで初めて聞く、荘厳で、途轍もなく哀しい、何時までも終わることなく、さざ波のように続く弔鐘だった。

夜半、メルセデスが送ってきた、ユヴァル・ノア・ハラリがFinancial Timesに寄稿したThe World after Coronavirus https://www.ft.com/content/19d90308-6858-11ea-a3c9-1fe6fedcca75 を読んで、眠れなくなる。薄く予感しているもの、無意識に目を背けているものを、目の前に突き付けられた思い。

ベルガモのマンカ宅近所の病院でも、毎日10人は亡くなっているという。危険地域で郵便も停止している。つい先日も近所のスーパーマーケットでレジ打ちをしていた47歳の女性が突然発症し、そのまま緊急入院後3日で帰らぬ人となった。
イタリアに向け中国が発送したマスクと人工呼吸器など救援物資を、チェコ税関が不法に押収、チェコ国内の病院に既に配布済みとのニュース。各々の余裕がなくなってくると、普段気が付かない綻びが一気に噴き出す。

3月某日 ミラノ自宅
治療にあたる医師の死亡者が20人になった。1日の死亡者数651人。快復した患者数952人。

朝8時、ソデリーニ通りのスーパーマーケットに出かけると、既に無言で並ぶ先客15人ほど。寒くて堪らないので、ロレンテッジョ通りの肉の直売店でオリーブ油と卵を購い、ジャンベッリーノ通りのパン屋で牛乳やパスタ、パン、ヨーグルトなどを買う。

生徒が参考にできそうな録音がないか探していて、311翌年に演奏したモーツァルトのレクイエムの録音を聴く。合唱団に福島と関わりのある方が多かったせいか、胸に迫る演奏だったが、この状況で聴くと胸が潰されそうになる。

ミラノ留学中のAさんより電話。肺の息苦しさが戻って来たという。見舞いに行かれないが、担当教師と電話連絡を取り、緊張しながら今後に備える。

「酒盛りを彩る満開の桜の傍らを、一人自転車で駆抜ける気分と来たら、暫く前に流行った映画の一場面を追体験するようだわ」。
息子にせがまれ何度も見たのでよく覚えている。隕石落下を予め知る主人公が、壊滅を回避しようと、落下直前、住民の移動に躍起になる場面だ。家人と息子は揃って生粋の劇場型。

3月某日 ミラノ自宅
愚息15歳の誕生日。電話で話すとミラノを発った時より幾分しっかりしている。一年前、彼の誕生日を家でささやかに祝った写真が出てきた。息子と一緒に写る二人の友人も既に帰国した。「また、ミラノでお会いできる日が来ることを願っています」とその一人からメールが届く。確かに、暫くはそういうことも出来ないかとぼんやり思う。
自宅待機が解け、家人と息子は松山の海に出かけた。

昨日はロンバルディアにとって、初めて可能性が垣間見られた日となった。一日の死亡者数は602人。併せて6077人だが、新感染者数が減少傾向にあると言う。「真っ暗なトンネルのずっと先に、微かに出口が垣間見られた」とガレーラ評議員が語る。キューバとロシアより派遣された医師団到着。

このコロナ禍に於いて痛感するのは、情報の氾濫の中で、それらの情報を自らがどのように判断し、分析する必要性であり、今までになく能動的な紐解きが必要と言うこと。「自己責任」という無責任な単語だけは、どうか禁止してほしいと切望する。

ベルガモの葬儀社の話。「救急車に乗る時は至って元気で普通に話が出来たのに、そのまま病院で重篤化して逝ってしまっても、伝染病だから家族は看取ることすらできない。外出も禁じられていて、病院にも入れないから、棺にすら近づけず、亡骸は孤独の中そのまま荼毘にふされてしまう。斎場に向かう霊柩車だけでも、せめて家族の住むアパート前を通って、最後の別れを惜しませて欲しいと懇願される。本当に辛い」。

拡声器を手にした呼吸器科の女医が、病院の廊下から喉を嗄らして、大声で語りかける。
「みなさん、どれだけ聞こえるか分からないけれど。聞こえますか? イタリア中の国民がみなさんを応援していますよ。国民みんながあなた方を応援していますよ。みんながあなた方の事を祈っていますよ。思っていますよ。頑張ってください」。そうして、イタリア国歌を皆で歌う姿に号泣する。
おそらく辺りは呼吸器に酸素を送る白色騒音に満たされていたに違いない。言葉は少しでも出来た方がよい。相手の心を知るため、単語は一つでも多く、知っておいた方がよい。

3月某日 ミラノ自宅
本日は743人死亡。3612人感染者増。東京滞在中のローマの薬剤師が、何故アヴィガンをイタリアで使用しないのかとインターネットに投稿すると、瞬く間にイタリア国中に広まり、市民保護局までその話題を取り上げるほどになった。お前はどう思うかとヴィデオが回ってきて、こちらは素人で何もわからないと答えたばかりだった。東京都知事が首都封鎖の可能性を示唆。現在までコロナ禍の采配を振るってきた市民保護局長アンジェロ・ボレッリ発熱。後日陰性が確認された。

3月某日 ミラノ自宅
本日683人死亡。全体で7503人死亡。現在まで細々と続いていた国境を、完全封鎖する素案が提出。Aさんより昼前に電話あり。やはり呼吸がおかしく救急車を呼ぶと言う。Aさんの両親は何も知らないので怖くもなったが、駆付けた救急隊員の判断の下、未だ自宅療養を続けることとなった。

パリのエミリオより電話あり。演奏活動だけで暮らしていると、流石にこの状況は厳しいと言う。長男のロレンツォはパプア・ニューギニアの赤十字で働きだしたが、コロナ禍でパリに戻るべきか悩んでいるそうだ。

外に歩きに出られないので、意を決して縄跳びを始める。持病の眩暈で当初20回程度しか跳べなかったが、繰返すうち一日500回程はこなせるようになった。

3月某日ミラノ自宅
昨日の死者は712人。併せて8165人死亡。スペインで400人を超す死者、フランスで365人死亡。アメリカが世界一の感染者数となる。これだけ目まぐるしく状況が変化すれば、イタリアに来たばかりで言葉や状況に慣れない人は、どれだけ不安なことか。毎日届く外務省や領事館からのメールがどれだけ助けになっているか分からない。25年イタリアに住んで、イラク戦争もここで体験したが、これほど生々しく有事に巻き込まれたことはなかった。日本のYさんの団体からイタリアに何か支援をしたいので、窓口になって欲しいとお便りを頂戴する。

3月某日 ミラノ自宅
美恵さんが先月「来月の更新のとき、世界はいったいどうなっているでしょうか」と書いていらしたが、現在まで、こんな風にならなければよい、と想像した通りに世界は進んで来ていて、我乍ら信じ難い。本日の死亡者数969人、快復した患者数589人と聞いて言葉を失う。ここまで来ると、落胆して医療関係者の士気が落ちないか心配になる。彼ら医療関係者は、文字通りの英雄だ。街中に貼られる、慈しんでイタリアを胸に抱く看護師のポスターを、一生忘れることはないだろう。

3月某日 ミラノ自宅
昨晩は夜半2時3時にも途切れることなく救急車のサイレンが聞こえていた。今朝起きると午前中何度となく頭上を軍のヘリコプターが往復していたが、患者を搬送していたのだろうか。

家人とメッセージのやりとり。
「あなた感動的っていってたじゃない。
感動的って?
ミラノにいると、生きてる感じがして感動的と言ってました。
ここにいれば、そうなると思います。人間、生きるか死ぬかしかないのですから」。

本日の死亡者は889人。死亡者は併せて10023人。コロナ禍に斃れた患者はイタリアだけで一万人を超える。快復した患者数は1434人増えて12384人。集中治療室で3856人が病気と闘っている。4月3日に予定されていた休校中の学校再開は繰越しになった。
日本より派遣されているミラノ日本人学校の先生方は、即時帰国要請を出した政府に対し、ここに残る生徒を思って、ミラノに残れるよう粘り強く交渉して下さった。
家人は、担任の渡邊先生を「二十四の瞳」の大石先生に譬えて感激している。気持ちは充分通じるが、少し勘違いしている気もしないでもない。中山先生や丸田先生初め、病後で難しい時期の息子を、みなさんが本当に一丸となり支えて下さり、深謝に余りある。

3月某日 ミラノ自宅
昨日のイタリアの死亡者756人。併せて10779人死亡。医療関係者の死亡者数は現在まで63人にのぼる。この週末だけで13人亡くなった。イタリアで5種類のワクチンの実験が始まる。ベルガモから170基の柩が荼毘にふされるため、州外に運び出された。アルバニアより救援医療関係者到着。今日の死亡者は812人。今日の新感染者数は1648人で、ここ暫く減少傾向なのはよい兆候だそうだ。現在までの総感染者数は101739人で10万人を超えた。これが完治した患者、死亡した患者、闘病中の患者を併せた数字となる。
東京でも死亡者数4人。その一人は志村けんさん。数字はデータではない。各人が生きてきた時間が、累々とうずたかく積もるさまに他ならない。

3月某日 ミラノ自宅
この危機を越えた先に、我々は何を見るのだろう。我々には何が見えているのだろう。どこを見ているのだろう。やがて特効薬が開発され、ワクチンを世界中の人が受けられるようになったとき、今からほんの2か月前の世界に、果たして戻れるのか。周りを見渡せば、今までと同じ家族や友人たちの顔を、等しく見られるのだろうか。それとも、まるで違う光景に言葉を失うことになるのか。

50年生きてきて、何度か、音楽を罷めようと思ったことがある。交通事故で楽器が弾けなくなったとき、子供心にも無理だと諦めかけた。それから成人するまで、岐路に何度か遭遇したが、イタリア政府給費を突然止められ、文字通り無一文で困窮し、路頭に迷った時は、さすがにもう音楽と関わることもなかろうと覚悟を決めた。でもあの時に、音楽の意味を初めて実感できた気がする。
その後何時しか、図らずも慢心を起こしていたのではなかったか。コロナ禍が過ぎ再び顔をあげられるその時、あの頃の自分のように、改めて心から音楽に共感できることを切に願う。

マリアが、自宅のチェンバロとZoomを使って、トリエステの家族や友人のためホームコンサートを開いた。一曲目は、ヘンデルの「Lascia che pianga 涙溢れるまま」だった。

Lascia ch’io pianga
mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà.
Il duolo infranga queste ritorte
de’ miei martiri sol per pietà.

涙溢れるまま
わたしの不運に思い馳せ
この嘆息は自由を求む
ああ慟哭よ 絶て
この懊悩を絡める絆

(3月31日ミラノにて)

コロナに閉じ込められてしまった(晩年通信 その9)

室謙二

 私たち老人は、コロナに閉じ込められてしまった。
 家から出られないのである。外出禁止令が発せられた。不必要な外出は、切符をきられるらしい。釣りの仲間に聞いたら、小さな湖にでかけて、友人とかたまって釣りをしていた人間が、四百ドルの罰金を払わされたとのこと。
 どこにも立ち寄らないなら、人が集まっているとこに行かないなら、出会う人と二メートル以上はなれているなら、外に出ても、散歩してもいいらしい。しかし「人が集まっているところに近づかないなら」と言っても、そんなものはもうない。
 人の集まる場所、この辺のカフェとかレストランは、すべて州政府の命令で閉鎖されてしまった。人の集まるところではコロナが広がる。でもスーパーとか食料品店は開いている。私たちは、人がいてキケンだからそこにも行きません。オンラインで注文したり、電話で注文したりする。クルマで店の前まで行けば、店の人が、食品の入ったダンボール箱をトランクに運び入れてくれる。そういう段取りをした。
 私たち七四歳と七七歳のカップルで、ふだんはあまり老人だとは思わない。でも老人はコロナにやられないように、家から出ないでじっとしていろ。とテレビもインターネットも脅しをかけてくる。老人はコロナ・ヴィールスに取りつかれると、重症化する可能性があるからね。死ぬかもしれない。
 ロシアに住んでいる息子は、私のことを老人扱いしたり健康を心配したりはしない。でも今回は、心配しているらしい。近所の若い人も、必要であれば私たちが食料品の買いだしに行きますから、とこれもやさしいのである。戦時下の隣組です。
 そうかワレワレは老人なんだ。コロナに狙われているんだね。

 もともとコロナのことを、水牛通信で書くつもりはなかった。「イシ、道元に会う」というのを、書くはずであった。本棚には、一年に一回とか数年に一回、かならず手にとって読む本がある。イシもそうだし、道元の本もそうである。たとえば道元の「典座(てんぞ)教訓」と、イシに関するIshi the Last Yahi – A Documentary Hisoryかな。「典座教訓」には、僧院の料理人の心構えと料理の実際、それに仏教について書いてある。Ishi the Last Yahi はイシが発見されたころのメディアの反応と、イシを囲む人々のドキュメンタリーである。道元は天才だが、イシも天才だと思う。バークレー・キャンパスのクローバー人類学博物館に、イシの作った日常品(カゴその他)が展示してある。素晴らしく美しい。それを見た瞬間、イシは特別な人なんだなと思った。特別の人だったから、それを助けた人々(バークレーのクローバー教授とかウォーターマン)は、すっかりイシの魅力にのみ込まれてしまった。イシには、自分の部族と家族を全部殺してしまったた白人に対して寛容の精神がある。
 ところがコロナの大騒ぎで、まっすぐに座禅に向かう道元どころではないし、部族が全部殺されて生き残ったイシについて、白人に対する許しと仏教があるように思うが、それらを書く気分にはなれない。
 テレビとインターネットで、いまのコロナはどうなっているかを見ていた。時間ごとにいろいろと新しいことが起こっている。アメリカ中が、カリフォルニア中が一つのことに向かっている。ひとつの内容をひとつの方法(テレビ)で繰り返し見せている。方法と内容が一つで、一つの方向に向かうことは、ファシズムのような気がするなあ。トランプも進歩的メディアも、少し時差があるのだが、同じことを言っている。だからどうだと言うの?事実なんだからしょうがない。それで私たちは、インターネットもテレビもやめた。洗脳されそうだから。しかし外出もできない。

 まず音楽を聞くことに決める。キース・ジャレットのピアノ・トリオなんかいい。「マッカーサーと天皇のどちらが偉い?」(岩波書店 2011)を書いていたとき、これを繰り返して聞いていた。ときどきはモーツアルトのピアノ協奏曲。これなんか高校時代から聞いているから、オーケストラとかピアノといっしょに旋律を歌うことができる。グローバー・ワシントンの軽くスイングするテナーも、この時代にはいい。親父に教わった。親父は学生に教わったそうだ。
 アコースティック・ギターも弾く。でも下手なんだ。このごろはエレクトリック・ギターで、ごく最近エレクトリック・ベースを手に入れた。音が大きいので、妻がいないときだけ。
 もう一つは、コロナ騒ぎ最中の仕事部屋の片付け。すでにたくさんのものを捨てた。ここに住んで長いけど、いつか使うから取っておこうとか、懐かしいから大事にしまっておいたものも、どんどん捨てた。GoodWillにも持っていったが、本当にずいぶんと捨てた。息子の海太郎が、私の死んだあとに残ったガラクタを整理するのはかわいそうだからね。だいたい私の未来が、どれだけあるか分からないでしょ。過去の思い出なんか、持っている必要はなし。忘れてしまってかまわない。
 食べ物にかんしてはあまり楽しくない。私は毎日あるいは数日おきの食料品の買い出しが好きで、スーパーでどさっと買い込み、いくつもの紙袋をクルマに積み込むのは好きではない。いつも散歩で行く近くの小さな食料品店Yasai(ヤサイ)も閉まってしまった。でもさっきYasaiに電話をしたら、Textで買い物リストを送ったら準備しておいてくれて、店の前までクルマで行けば、ダンボール箱をトランクに運び入れてくれるそうだ。三十年のカスタマーで、いつもお金を払いながらナンダカンダと話す、顔と名前を知られているKenjiだから特別なのかと思ったら、残念ながら誰にでもそうしているとのこと。
 あとはすでに買い込んだ冷凍食品、自分で冷凍した食品、缶詰とお米もたくさんあるからダイジョウブ。そのうえ週に三日間はディナーを配達してくれる会社と契約しているしね。老人としてコロナに閉じ込められても、たべものはある。買い出しにいかなくても、何週間かは生き延びられるよ。

 でも釣りに行きたい。フライフィッシングのキャスティング(ロッドでフライを投げること)が好きなのは、まず後ろに投げて、それから前に投げるから。後ろにちゃんと投げないと、前に投げられない。これがいい。
 いまはシングルハンド(片手で投げる)ではなくて、ダブルハンドをやっている。ダブルハンドは力を入れてはだめで、両手を梃子(てこ)のように使って、かる〜く投げるのがプロですよ。でも妻いわく、釣り場にいったら、友人に会う機会があるでしょ。コロナが飛んでいます。ダメです、家でじっとしていなさい。と言う。
 彼女が特に注意深いのは、一年半前にガンの手術をして、放射線治療も化学療法もして(これはいまも続いている)、体が十分に回復していないから。ここにコロナがとりついたら大変、私がコロナになっても一緒に暮らしているのだから、彼女にうつる可能性が高い。だから結婚三五年、いまは対コロナで団結してます。
 音楽に戻れば、音楽のいいところは、今だということだね。過去でもない、未来でもない。二百五十年ほどまえのモーツアルトが、いまの瞬間を作り出してくれる。その瞬間に入って時間の経過を音で経験すれば、コロナなんかなんともない。お酒の好きな人は、お酒もいいかもしれない。マリワナの好きな人は、マリワナもいいのかな、日本だと大犯罪みたいだけど。カリフォルニアだったら、たいしたことはない。もっとも私は、マリワナもお酒もだめです。偏頭痛がおこる可能性があるから。あれは嫌なものだ。
 毎日、二回は座禅をすること。それにせっせと音楽を聞くこと。座禅は宗教とは関係ない。音楽は毎日の作業で芸術とは関係ない。この二つで、コロナに対している。(二〇二〇年三月二三日)

追記1(三月二四日}
CNNニュースの健康ページに、「結婚生活がコロナから生き延びられるかな?」というのがあった。夫婦で、コロナヴィールスについての考え方が違うかもしれない。コロナにどう対応するか、日常の生き方がそれぞれ違う。それに外出禁止令なので、夫婦がいっしょに家にいないといけない。これは結婚の試練です。

追記2(三月二四日}
LAタイムスによれば、LAのガン・ストアーは、全部閉じることを命令されたらしい。昨日のニュースに、ガン・ストアーの前に人が並んで待っている写真があった。今のうちにガンを買って防衛したほうがいい。ということらしい。今日、LAのガン・ストアーは全部営業停止。

追記3(三月二五日}
コロナ用のマスクに色んなものがある。私の息子の一人は緊急治療室の医者で、マスクは医者個人で用意する。それで頭から顔全体から首までおおう、大きなプラステックのマスクを買って送った。個人で自分を守らないといけない。SF映画みたいなマスクを見て、患者は驚くだろうなあ。

追記4(三月二七日)
金持ちは、ニューヨークを脱出した。ゴーストタウンと化したサンフランシスコ。
https://www.facebook.com/watch/?v=213086639906108

追記5(三月二八日)
パリからのメールによれば、パリの金持ちも脱出したらしい。

追記6(三月二九日)
https://vimeo.com/399733860?ref=em-v-share
このビデオはコロナについて教えてくれる。外では人に二メートル以内に近づかない。帰ってきたら、手を消毒剤と石けんで洗う。顔を手で触らない。目、ハナ、口からヴィールスが体にはいるから。空気伝染の可能性は極めて少ない。街でのマスクは役に立たない。ただしマスクをしていれば手で顔をさわれないから、そういう意味ではいい。

追記7(三月三一日)
握手もせずハグもせず。その代わりに、腕をたたんで肘を突き出し、お互いに肘で突きあう。これがこの数週間の新しい挨拶です。ペンス副大統領も、ヒラリーもやっています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ma9T91pbz_Q&feature=youtu.be

カラダを持つ前のカラダ

笠井瑞丈

DUOの會

4ヶ月稽古していた作品

今回の作品は私と川口隆夫さんとのデュオを笠井叡が振り付ける作品

笠井叡のカラダの半分には、大野一雄氏によって作られた身体性が厳然として存在している

川口さんが大野先生を踊り
私が笠井叡を踊る

過去に笠井叡と大野一雄が踊った三作品
新作一作品を私と川口さんで踊る

1.儀儀 
1963年朝日講堂

私は悪徳の限りを尽くしました
骨の中の住人は火事にあって骨の中から追い出された

この二つの言葉からイメージを膨らます

戦争での体験
死体を焼く炎

記憶にはないカラダの記憶を探る
当時の時代のカラダの匂いを探る

カラダを持つ前のカラダを探る

2.丘の麓
1972年青年座

過去現在を行き来して踊る

私のなかにあなたのカラダが
あなたのなかに私のカラダが

カラダを持つ前のカラダと出会う

3.病める舞姫
2002年スパイラルホール

上星川の稽古場
流れる音楽と共に踊り出す
初めて見た大野先生のリハ

あの時間に立ち会えた事は
かけがえのない体験でした

カラダを持つ前のカラダと踊る

4.笠井叡の大野一雄

レクイエム
大野慶人さんに捧ぐ踊り

初日と二日目が終わり
三日目と四日目は中止となる

私が踊りを始めて
公演が中止になるのは
初めての経験です

今の世の中の状況を考えれば
仕方ないことではありますが

やはり四日間踊りたかったというのが本音

早くこの状況が収まる事を祈るばかりです

コロナこの頃

冨岡三智

コロナ収束には時間がかかりそうだ。1年以上かかるかもしれない。実は、2月末から3月半ばまでインドネシアに渡航しようと、1月下旬に予約を入れていたのだが、2月半ばに取りやめた。行くのは問題ないとしても帰国する頃の状況が不透明、日本に入国できなかったり2週間隔離されたりするかも…という旅行社のアドバイスに従ったのだ。3月2日から日本では小中高の臨時休校が始まったけれど、3月末には収束しているだろうと感じていたのに、結局それどころではなくなってしまった。人の出入国だけでなくて郵便まで制限されてきている。この分だと8~9月にインドネシアに行くのも無理そうか…。今年は行ってやりたいことがあって、時間もとれたのになあと残念だ。

そして非常勤講師で行っている大学の授業だが、4校のうち1校が2週間遅れで開講、1校が1か月遅れで開講、1校が通常開講だけれど1か月間は対面授業禁止(オンライン対応)、1校が通常通り開校である。通常通りというのに驚いたので大学に確認したところ、必須授業が多いので換気等に注意してやるとのこと。5月になる頃にはとりあえずの収束は見えてくるのだろうか。

長い手足と平べったい胸のこと(6)

植松眞人

 トイレの窓から見える空の青さに、私は時間を忘れた。最初はぼんやりと、でも、知らないうちにわたしは空の青に入り込み何も見えなくなって青い世界にいた。青い世界はお風呂に似ていた。パパやママに内緒で深夜に入る静かなお風呂に似ていた。みんなが寝静まったあと、一人でお風呂を沸かして、そっと忍び込むように湯船に入って過ごす時間に似ていた。
 湯船の中は青くはないけれど、空の青さと同じくらいに底なしだった。湯船の底に座っているのに、どこまでも沈み込んでいってしまいそうな心地よさと怖さがあった。誰かがわたしの足を掴んで引っ張れば、そのままわたしはこの世界からいなくなって、誰にも知られずに行方不明になってしまう。それを望んでいるような、怖れているような気分で、わたしはいつもじっと息を殺しながら湯船に身を潜めていた。
 空の青さもそれに似て、こんなににぎやかなはずの学校のなかで静まりかえった空間をわたしにくれる。わたしは真っ青な空に浮かんでただ一人ぼんやりと漂っているような気分になる。アキちゃんやセイシロウはどうしているんだろう。そう考えてはみたけれど、もうそれだってどうでもいいことのように思えてしまって、わたしはただ心地よく空を感じているだけだった。
 ふいに風が吹いた。そして、わたしの身体は青い空の真ん中で揺れた。身体が揺れるとさっきまで感じていなかったわたし自身の身体の重みが感じられて、わたしはバランスを崩した。一度崩れたバランスはもう絶対に元には戻らないと言うことをわたしは知っていた。右に左にへと微かに身体は振り子のように揺れ、その揺れは次第に大きくなり、空の青は少しずつ白っぽくなり、学校中のみんなの笑い声やバカ騒ぎする声がフェードインしてきて、わたしは一気におちた。わたしは自分の長い手足を大きく振って何かに捕まろうとしたけれど、空には何もなかった。そして、わたしの平べったい胸は、風に抗うこともなくまっすぐにわたしはおちた。死んでしまうとは思わなかったけれど、アキちゃんにもセイシロウにもごめんなさいと繰り返した。不思議とパパとママのことは思い出さなかった。いや、正確にはパパとママのことは思い出さないなあ、という形で思い出したのだけれど、それでも順番はアキちゃんやセイシロウの後だったし、それもすぐにわたし自身の平べったい胸が結局は大きくならなかったなあという思いに掻き消された。
 セイシロウが手を握っていた相手がわたしだったら、わたしは嬉しそうな顔をしながらセイシロウの手を握り返していたのだろうか。誰の手も握ったことがないのだから、セイシロウ以外でもいい。誰が男の子から電車の中であんなにエッチでいやらしい手の握り方をされたらわたしは嬉しいのだろうか。たぶん、嬉しいのだと思う。わたしは身長ばかり伸びてしまったけれど、本当は平べったい胸と同じくらいに精神年齢の低い子どもなのだと自分で知っている。知っているから、アキちゃんがセイシロウと彼女が手を握っている様子をみて、すっかり興奮しているのを見逃さなかった。あの時、わたしはセイシロウよりアキちゃんの方が気持ち悪かった。セイシロウは目の前の気持ちよさに酔っていたけれど、アキちゃんは気持ちよさそうなヤツを見て気持ちよくなってしまい、それが恥ずかしいからとセイシロウに当たり散らしていただけだと思う。
 結局、わたしはこの平べったい胸が大好きで大嫌いなんだと思う。身長に見合う大きな胸が欲しいとずっと思っていたのだけれど、それは人としてのバランスが取れるということで、わたし自身が大人になるということなのかもしれない。大人になりたい。大人になんかなりたくない。
「子どもか……」
 とつぶやいた時には、空の青は元通り、トイレの窓から見える小さな四角に切り取られていた。洋式トイレの便座に座ったまま、そこにアキちゃんもセイシロウもいないことがとても哀しかった。普段誰もやってこない南校舎の四階の隅っこにあるトイレにわたしがいるということをあの二人が知らないということがとても寂しかった。その寂しさを映した空が青からオレンジに変わった。日が暮れて、高校生たちの話し声や部活のかけ声や自転車のブレーキの音が入り交じって窓から入り込んでわたしを包んだ。息ができないほどの寂しさにわたしは身動きもできずにいた。わたしの長い手足と身長は中学生だった頃のサイズに戻っていた。まわりに子たちを見て、毎日、あんなふうに大きくなれるんだろうかと悩んでいた頃のようにわたしは小さくなった。その小ささと平べったい胸はバランスが取れていて、わたしはちゃんと子どもになった。子どもになった私は安心してトイレの便座に座り直して、帰り道に家の近くのコンビニでどんなお菓子を買おうとかと、財布のなかの小銭を確かめ始めた。(了)

イラク戦争から17年とコロナ危機

さとうまき

イラク戦争当時、相沢恭行君は、人間の盾でイラクに入っていたのだ。もともと彼はミュージシャンだということを僕は知らなかった。

2003年3月。イラク戦争が始まる直前、僕は、本当ならイラクにいるはずだったのだが、帯状疱疹になってしまい2月の半ばにいったん日本に帰国して1か月ほど日本で様子を見ていた。僕は、そんな状況でもうまく立ち回っていてイラクのビザを取得できたのだが、日本大使館がイラクから撤退してしまい、アメリカの攻撃は避けられなくなってきたのが明らかだった。それで隣国のヨルダンに行って待機していた。

新聞記者やTV関係者がヨルダンに結集していて、毎日それは「お祭り騒ぎ」みたいになっていた。くそみたいなフリーランスもいて、「ボランティアしますから一緒に連れて行ってください」と寄ってくる。大手のTVも、「衛星電話渡しますので、イラクに入ったら一分○○円で契約しましょう」といってくるから面白かった。

僕の仕事は、人道支援だったので、決してそういうお金に目がくらむことはなかったので、彼らがいくら提示したかも覚えていない。いや、その金額を聞いたら目がくらむから、最初から聞こうともしなかったのだろう。NGOでもくそみたいに金を日本政府からもらってた人もいた。ある看護婦は一か月100万円で雇われていた。まあ、そういう金には程遠かったが、メディア関係者は情報交換だといって毎日のように、うまいものを食わせてくれたのでそれくらいの恩恵はあった。

その時、相沢君らは、人間の盾としてイラクに入っていた。サダム政権が崩壊して、すでに人間の盾は必要なくなったので彼らはヨルダンに出てきた。某通信社が、面白い日本人がその中にいるというので、一緒にすしを食うことになり、始めて相沢君に会ったのだ。その翌日僕は、入れ替わりにイラクへ入っていったのを思い出す。

あれから、17年がたっていた。僕は、昨年、「この仕事を潔くやめなさい。」という天の声が聞こえてきて、イラクからは引退することにした。相沢君は数年前から、ミュージシャンに戻って、イラクの歌をアラビア語と日本語で歌たりしてかかわり続けていて、イラク戦争開戦の日にメモリアルイベントをやろうと誘ってくれたのだ。しかし、新型コロナウィルスで、イベントは中止せざるを得なくなった。

幸いにも、会場は、荻窪のThe ancient world というオリエント・ワインを扱うお店の地下室だったので、撮りためた写真を展示してもらうことにした。今回30枚ほどの写真を展示しているが、かなりフォトショップで加工した。2003年の写真なんて、本当にカメラもぼろくて、画素数が荒すぎたりしてクソみたいな写真。それでも、加工してみると面白い。

なによりも、写真に写っている子どもが、もう立派な大人になって、昨年から始まったイラクの汚職追放と、民主化を求めたデモに参加している。例えば、ムスタファは当時8歳で、米軍の空爆で足を怪我した。隣にいたおじさんは即死だった。その彼がデモに参加している写真を自撮りして送ってくれる。17年前、ギプスをしている写真を僕がとってやったのを大事にしていて、送ってきた。そして、デモに参加した友人が怪我をしてギプスをしている写真を送ってくる。「17年前と同じだよ」イラクはいまだにギプスが必要な国なのだ。

しかし、SNS が普及して、すごい時代になっている。コロナで世界中が閉鎖されてしまっても、砂漠の難民キャンプからデンマークに移住したアザット青年は、「マスクがないんだけど、送ってくれない?」って時差も気にせずに連絡してくる。Facebook のおかげで写真に写っている奴らの消息がつかめるのがすごい。

昨日は、モスルの男の子がいきなりビデオ通話してきた。「だれ?」「僕だよ」「うーん、第一どこにいるの?」「モスルだよ」一年間にモスルの小児がん病院のクリスマスパーティに行ったときにたまたま参加していた子供だった。外出ができず暇らしい。イラクから離れた僕にとっては、彼らが連絡してくれるのがとてもうれしい。そういえば、昨年の天の声は、「潔くやめるのがかっこいいぞ」と言ってきたが、イラクにかかわった17年間の写真を改めて焼いてみて、戦場はいつだって泥臭いわけで、潔いとか、かっこいいとかそういうのとは程遠く、写真の中の彼らの成長を見続けていきたいと思うのだ。

コロナが世界規模で大変なことになってきた。経済の打撃は大きくて、貧富の差はどんどん開いていくだろうな。相沢君はミュージシャンだから、ライブのキャンセルが続いていて大変そうだ。それでもぶれずに歌い続けるところがすごい。僕も人のことは言えず、そろそろ仕事を探しに、面接に行ってきたが、マスクかけたままでいいといわれたが、面接官との距離が遠く彼らもマスクかけてもごもごしゃべるから声がはっきり聴きとれないし、換気のためか窓が開けっぱなしで寒い。なんかすっかりやる気がうせてしまった。いやいや、やる気になってもらわないと困るんだけど(これは天の声)

さて、3月31日までの展覧会は、一週間くらい延長することにした。
展覧会に来てくださいとは誘えないが、ワインを買いに来るついでに覗いてほしい。特にアッシリアワインはおすすめ 。


 詳しくはこちら
 http://ancient-w.com/
 展覧会の様子はこちらで配信しています。
 https://youtu.be/9uKnB5ovWTQ

『或る国のこよみ』をよんで・・・(下)

北村周一

世界は無限にふくざつな色に包まれてゐる・・・と、
片山廣子(広子)は、『或る国のこよみ』というエッセイの中で、
ケルトの古いこよみに触れて書いている。
十二ある月のそれぞれに、興味深いことばを当て嵌めながら、日本の古歌もいくつか紹介している。
そのことばの連なりに触発されて、十二の月を短歌にしてみようと思い立った。
けれども、一月から六月まで作ったところで息切れがしたので、
一年を前半と後半とに分けることにした。
そんなわけで、今回は七月から十二月までのこころみとなる。
もう一度、このエッセイの冒頭の部分を引用したい。

一月  霊はまだ目がさめぬ
二月  虹を織る
三月  雨のなかに微笑する
四月  白と緑の衣を着る
五月  世界の青春
六月  壮厳
七月  二つの世界にゐる
八月  色彩
九月  美を夢みる
十月  溜息する
十一月 おとろへる
十二月 眠る
  
  *

わたり来よ 霊を呼ぶ声絶えずしてふたつ世界をむすぶ七月

いろどりは多彩なるべし夏の花 におい妖しくひらく八月

色褪めてこその黄と赤もみじ葉の散るものこるも絵となる九月

濡れのこる枯れ葉おちばに足取られふとも溜息落とす十月

冬枯れの木々の切実 老いてなお手と手をつなぎ合う十一月

眠りとはいのりの一部ながき夜を夢にしずめて 聖十二月

  *

或る国のこよみ(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/001346/files/49137_33187.html

骨の部屋

璃葉

墓の香炉をずらすと、穴から墓の半地下、納骨室がみえる。石にかこまれた小さな骨の部屋だ。骨袋を両手でそっと持ち、なかに入れる。その空間に入れた両手首より先が、ひんやり冷たくなった。洞窟や鍾乳洞を歩いたときのことを思い出す。雰囲気は違えども、石から放たれる冷気は嫌ではない。

納骨室の中に10年ほど前におさめた母の骨は、まだちゃんと残っていた。袋が劣化したのか、かけらが少し散らばっている。火葬の骨はどうやら本当に土に還らないらしい。白く、丈夫なままだ。一見、流木や石にもみえる。

母の骨の上に積み重ねるように、父の骨が入った骨袋をおく。そのうちどちらの骨なのかもわからなくなって、混ざっていくのだろう。粉末にして岐阜の山奥にばらまきたい衝動に駆られながらも、両手を室から引っ込める。春先の生暖かい空気が手のひらにもどってきた。ふたたび入り口を香炉でふさぐ。骨の部屋はまた、夜よりも深い暗闇になる。

もっとゆっくり、もっと遅く(帰国記その2)

福島亮

パリを発ったのが3月7日、あの頃はまだ外出も自由にできたし、どこか呑気な空気があった。その前日、ひと月ほどパリを離れるのだからその前に、と思い、シャイヨー国立劇場で名和晃平とダミアン・ジャレによるパフォーマンスを見たが、劇場が暗くなるとみんな一斉に咳払いをし、それがおかしくて笑いが巻き起こった。隣国で病が猖獗を極めていたとしても、それはどこか遠い国の話で、わずかの不安はあっても、冗談めいた笑いがその不安をかき消してくれる、そんな雰囲気がまだあったのである。日本についたのが8日の夜、羽田空港は人影が少なかった。10日ほど前に、参加予定だった学会が中止になったという連絡を受けていた。それでも、他に二つの研究集会に参加する予定だったし、この機会に手続きを終えねばならぬものもあったから、日本に帰ることに揺らぎはなかった。人影まばらな空港を歩きつつ、過密に詰め込んでいた予定に一つ穴が空いたことで、時間にゆとりができたとさえ思っていのだから、思えば相当呑気なものだ。その穴がじわりじわりと広がって、カレンダーが白紙になるとはその頃思ってもみなかった。

結論からいうと、帰れなくなった。どこに? パリに。正確には、僕はフランスの滞在許可証を持っているから、EUに入ることはできるらしい。が、そもそも飛行機がないのである。航空会社に電話をしてみると、相当の減便を行なっているから、まず飛ばないだろう、とのことであった。僕とほとんど入れ違いで、パリでは外出規制がしかれ、EUは封鎖された。幸いなことに、僕自身は、日本についてから二週間以上経つがまだ熱や咳は出ていない。僕の身に起こったことで困ったことといえば、1日に何度も手を洗い、アルコール消毒をするから、掌が少し荒れていることくらいである。それでも、パリに帰れなくなったことは僕の心に不安としてこびりついていて、何とも変な感じなのである。実は帰国したというよりも、生活の場を(一時的に)失ったという方が心持ちとしてはしっくりときていて、日本に帰ってきたのに、帰るべき場所に帰れなくなってしまった、というストレスを感じているのだ。連れ合いにしても、僕が予定日を超えて居候しようというのだから大変である。一部屋しかないアパートに大の大人が二人。たまったものじゃないと思っているに違いなく、些細なことで僕は叱られるようになり、ことあるごとにいつ出て行くのか、実家に帰ってはどうか、トイレの上蓋は閉めろとあれほど言ったのに、と言われるようになった。いや、些細なことという文言は、撤回しておこう。連れ合いにしたら決して些細なことではないのだから。そもそも、9月から留学用の奨学金が給付されるまで、僕は完全な無収入なのだから、連れ合いにしてもとんだお荷物を抱え込んだと思っているに相違ない。そういうわけで、僕も連れ合いも先行きの不透明な状況の中、あまり現実的なことは考えないようにし、水とレモンと蜂蜜があれば楽しめる愛玉子なんぞを作って、風呂上がりに杓子ですくって二人で食うのである。

帰宅するなりその日使っていたマスクを中性洗剤で洗い、スーパーの棚にわずかに残っていた乾麺で夕食を作ろうと、鍋に湯を沸かす。湯が沸くまで、ふととりとめのないことを思って暇を弄ぶ。—衛生の歴史とは過剰さの歴史だったのではないか。注射器などはその良い例だろうが、いまみんなが困っているマスクもそうだろう。徹底的に安く生産され、気軽に買うことができ、いつでも捨てられる使い捨てマスク。いや、本当は捨てなくてはならない使い捨てマスク。使い捨てを運命付けられたこの一枚数円の—いっときはその何十倍もの値がつけられた—不織布は、どこか過剰な存在なのではないか。捨てられるために生産されるものすべてにそういうことができる。プラスチックスプーンしかり、弁当のパックしかり、個包装のビニル袋しかり。そういう使い捨てのものたちが「クリーンな」生活を支えており、そういう使い捨てのものたちが明日の世界を汚している。マスクを洗いながら、もしかしたら、この使い捨てという生産と消費の構造にどこか無理があったのではないか、とふと思う。増産してくれれば、当面はありがたいけれども、それで済む話ではないのかもしれない。まあ、WHOはどう言うかしらないけれども、個人的な肌感覚としては、マスクは予防のために必要なのであって、だからマスクをどれだけ消費しようと、それは過剰ではないはず、とも思う。むしろ、過剰なのは現在の流通システムに対する需要の方である、という冷静な見方もできよう。これら過剰をめぐる独り言は、生産と流通と消費を一つの生態系としてみることを意味するのかもしれない。なに、素朴な、しかもとりとめのない思いつきである。そこに個人的なエピソードを付け加えておくなら、何年か前、家族が病気になった時は、マスクは決して手放せないものだった。抵抗力の落ちた人間にとって、マスクは生存のための必需品だったのである。少なくとも、医学的効果があるかどうかは分からないが、あの頃マスクが手元にあることはどうしても必要なことだった。—そろそろ乾麺を鍋に投入する時分だ。

—そういえば、「生存」という言葉にも、どこか過剰なおもむきがある。日本語の生存にあたるフランス語はsurvivireだが、surという接頭辞の意味を考えるべく、おもむろに辞書を引けば、死の後に依然として生きた状態であること、とある。死の後に、つまり、死してなお、記憶の中にありありと生きていること、という意味。あるいはまた、周囲の者たちが殲滅された状態で、それでも自分だけは生きている、生き残っている、ということか。誰もが受け入れねばならなかったはずの死、その一線を超えでて、どうにか生きていること。つまり、通常なら終わらなければならない生が延長されること。だとしたら、その越え出た生は、死に呑みこまれなかった余りの部分、過剰な生なのか。そういう解釈を支えるかのように、survivreという語には、わけもなく生き続けていること、という残酷な意味もあるらしい。

survivreという単語の意味を調べようともう少しだけ辞書を読んでいくと、「何かよりもずっと遅く生きること」とも書いてある。正しくは、何かよりももっと遅くまで生きること、である。しかしまた、その遅さを時間的な遅さというよりも速度としての遅さとして誤解することはできないか。誰もが死なねばならないという状況で、誰よりも遅くまで生きること、最後の最後まで生き残ること、という意味ではなく、むしろ、誰もが死なねばならない状況で、ゆっくりと生きること、文字通り遅く生きること、そんなふうにsurvivreを曲げて解釈してみることはできないものか。遅さ。それも過剰な遅さ。このろくに収入もない、世間からはモラトリアムと蔑視される生き方でも、実はそういう遅さを失っていると感じることがある。何やら忙しい。あっという間の時間。もしかしたら、この帰国期間は、そういう時間を再考するための試練なのではなかろうか。もっとゆっくり、もっと遅く。—そんなことを考えていると、投入した麺が柔らかくなりすぎている。まずは食わねば。話はその後。

そういうわけで、何やらずっと食っている。食って食って食いまくっている。連れ合いからは、その過剰な腹をどうにかしたらどうか、と言われ続けている。

185 錫の歌

藤井貞和

Tin. きみは源流へ、暗灰白色の自然錫を、
 Tin. 探しにゆく。  イリドスミンのともだちで、
  Tin. 金の隣、白金のうしろ、自然錫。
 Tin. 錫石、鋼玉とともに産する。  きらり、
Tin. きみの山師がうたう、錫。  きらりと、
 Tin. 三十年、探し続けたおまえ。
  Tin. 坑内に山師のかばねはうたう、「ここだよ、
 Tin. 自然は錫を隠す。  そこにしかない、
Tin. New South Walesの源流で。  ここだよ」。
 Tin. 産業革命にも、打ち壊しにも、
  Tin. 生き延びて、ここだよ。  答える、
 Tin. 錫。  母岩が教える錫の歌、聞こえ、
Tin. 貧金属のかばね、β錫。  泣くよ、
 Tin. あかつちのなか、浮く錫のいろ。 
  Tin. 峠の鉱山。  波動が山師を打ち据える。
 Tin. 病名からも生き伸び、黒い谷には、
Tin. もうだれも吸い寄せられない。  危険な、
 Tin. 空笑を、せせらぎに聴く。
  Tin. 林道を逸れて過つ稜線の暗部に、
 Tin. 山師は斃れたな。  腐った僧衣や、
Tin. 錫杖の起源だ、この物語は。
 Tin. 民俗学者よ、語れ。  聖なる盃にひそむ蛇は、
  Tin. 冬を越えて衰弱する。   ほそながい紐になり、
 Tin. きみの杖に棲むという物語。 鈴は、
Tin. 錫じゃなかったのかい。  ヒースの荒地に、
 Tin. 鉱毒を垂らした神話の牛の群れ。 
  Tin. 白亜の壁に歌湧く。  そらに北欧の雲、
 Tin. 極地の微光、凍土の泥炭、ペスト。
Tin. それが歴史じゃなかったのか、と問う。
 Tin. 三月の見えない敵に太陽を。
  Tin. 詩の文法に終りを。  地球はわずかな生存とたたかう、
 Tin. 植物のあとから。 
Tin. 錫は歩む、動物の死滅を履歴する。 
 Tin. 石油を噴き上げる盆地のはんぶん。
  Tin. 魔法数をかぞえる、いまは苦しい、
 Tin. 地底の椀に盛ろう。  僧衣をしぼって、
Tin. 血とパン、イリドスミンの少し、
 Tin. 金の枝の結晶をもぎとるちから。
  Tin. 絞め木にのこる中世の伝説を、
 Tin. 染みこませた赤いアスファルト。
Tin. 溶かし込む数珠。  錫のつばさの、
 Tin. 切片で玉にする数珠の、いまは苦しいな。
  Tin. 山師のうめきが地下で終る。
 Tin. よし、聴く終りに耳を澄ませば、
Tin. あれ、鈴の歌。  聞こえるか
 Tin.

(自然錫はあるのだと輓近鉱物辞典〈木下亀城〉が言う。)

引きこもりを強制される日々

高橋悠治

コロナウィルスのグローバル化とともに 権力をもつ政治家のウソや情報隠蔽 ウィルス検査のサボタージュ 行政末端のごうまんな態度が目立ってくる ジャーナリストで映像作家の アンドレ・ヴルチェックが 飛行機を乗り継ぎながら 香港からバンコク ソウル アムステルダム パラマリボ(スリナム) ベレン(ブラジル)を経由して8日間かけてチリのサンチャゴに着くまでの記録を読み その後でスロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの『コロナウィルスはキル・ビル風の資本主義攻撃でコミュニズムの再発明につながるかもしれない』を読む タランティーノの映画『キル・ビル2』に出てくる必殺技 五点掌爆心拳は 指先で相手の体の5つのツボに当てると 相手は5歩歩いて心臓破裂で死ぬという武術の手だが 民族国家を超えて 世界の連帯と協力にもとづく もう一つの社会が生まれる兆しはまだ見えない 

それどころか 都市閉鎖から国境閉鎖 選挙の延期と権力支配の拡大と延長 アメリカのイランに対する経済制裁の強化と 中国・キューバ・ロシアのイタリーに向けた医療支援の妨害 とりあえずの医薬品となるマラリア治療薬やインターフェロンの無視と使用禁止 というニュースさえ 日本のメディアでは報道されない 御用メディアと 最近では御用学者の声しか聞こえない 冷戦が終わって30年だが じっさいは世界は二つに割れていた 片側にアメリカと EU イスラエル 日本とサウジアラビアがあり 中国とイラン ロシアは反対側にある 経済の崩壊は見えてきたようだ 今の政治体制を支えている経済が崩壊すれば 政治がそれを救うのは 自分の髪を引っぱり上げて溺れまいとするのにも似ている 

13世紀のペストはヨーロッパ中世を終わらせた 1980年代からの格差社会はどうなるだろう 『デカメロン』や『方丈記』のように ひきこもって物語しながら いったい何年待つのだろうか 場のないところで音楽を続けるのはもっとむつかしいかもしれない

2020年3月1日(日)

水牛だより

あたたかな日曜日の夜の空。上弦に近い月が遠くおぼろにかすんでいます。きっと雨になるでしょう。

「水牛のように」を2020年3月1日号に更新しました。
新井卓さんの久しぶりの原稿はうれしかったのですが、それが戸島美喜夫さんの追悼だったことにはまた違う感慨をおぼえました。戸島さんと最後に会ったのは、昨年9月の名古屋でした。そう頻繁ではなかったけれど、会えば必ずお酒を飲んで楽しく語らったことは、ひとつの理想と言ってもいい安定した関係だったと思います。突然の訃報でしたが、それも戸島さんが望んだことだったのだと、少しずつわかるようになってきました。R.I.P.

コロナウィルスの感染拡大を知るほどに、国境というものがあまり意味を持たないことに気づきます。来月の更新のとき、世界はいったいどうなっているのでしょうか。。。

ブログに書きたいことも溜まっています。近いうちに更新しますので、待っていてください。

それではまた!(八巻美恵)

別腸日記 (31) 野辺のうた(戸島美喜夫さんへ)

新井卓

あなたが眠る日
二度と明けなければいい、そう思った夜がいま薄明に染まり
ばら色の日輪が雲間に上る
ひとつかみの雨
二月。
春の支度にわたしたちはまだ、間にあわないというのに
ラッパ水仙のかぐわしい香りや
せっかちな乙女椿に誘惑されて、足どりも軽く
旅たってしまったのだろうか
いまごろ恵那の山の巓で
粉雪の降る音に耳を澄ませているだろうか
それとも解きはなたれた心は歓びに満ちて
タージマハルへ
はたまたシルクロードへ
一陣の風となって
カラコルム回廊の牧童を驚かせているだろうか
それとも案外よく冷えたピルスナーかなにかを
嬉しそうに傾けているかもしれない
愛する人たちに迎えられて
花散る野辺で
──そんなに泣かなくても大丈夫
そうおっしゃるだろうか
それでも、早すぎる春に座礁したわたしたちの裂け目から
雪融けの水はあふれ
あなたの小舟を運んでゆけ
あなたが眠る日、二月
早すぎる春に