誰がいちばん前衛なの?

さとうまき

2017年に、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展 社会を動かすアートの新潮流」を見に行った。僕は当時イスラム国から逃げてくるシリア難民とか、イラク人の支援活動に奔走していて展覧会を見るような時間がなかったが、アート好きな友人が無理やり連れて行ってくれて 「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という言葉に出会って励まされ、すっきりした。

僕は、いわゆる人道支援に携わってきて、必然的に、お金を集めなければならなかった。時には、「お金をください」と難民に代わって、物乞いのように頭を下げなければならない。まさに、みじめさを体現して彼らによりそった。

「展示」することは、お金集めのための必然だったわけだが、説明ではなく、アートとして展示したいという気持ちを常に持っていたと思う。例えば、数時間前にイスラム国から逃げてきた子供にであうとスケッチブックを出して絵を描いてもらう。ヨーロッパを目指し船をこいでギリシャに向かった難民の子どもをドイツに追いかけて脱出の経過を描いたものは、絵巻物として展示した。

昨年、僕は団体を抜けてフリーランスになり、シリアとどうかかわるか格闘しているが、やっぱり意識して、ソーシャリー・エンゲイジド・アートのピースとして、子供たちの絵をインスタレーションしていきたいという思いが強い。ただ、アートというものは時としてよくわからない。僕がいいなあと思うものと専門家が賞賛するものが異なるし、値段のつけ方がさっぱり理解できないことが多いい。ということは、目が肥えていないということなのだろう。

美術クラブの先輩たちには、アートのコレクターになったり、美術の教科書の編纂に携わっている方もおり、レクシャーしてくれるというので聞きに行った。

「コメディアン」という先品は、ダクトテープで壁に貼られた1本の本物のバナナ。価格は12万ドル(約1300万円)だという。ますますもって価値がわからなくなってしまった。さらにオチがあって、展覧会場に現れたパフォーマンス・アーティストがバナナを食べてしまったという。「バナナ」は概念であり、作品が壊されたわけではないという。驚くべきは、作品の値段。パフォーマンスに値が付き、話題になることでネットのアクセス数があがりユーチューバーがお金を稼ぐようなイメージだろうか。

ところで僕は、友人が主宰するアマチュアのオーケストラ、「不協和音」のコンサートのチラシを年2回頼まれている。今回のプログラムはハイドンとシェーンベルク。いずれもウィーンで活躍した作曲家による。シェーンベルクは前衛的な作曲家のイメージあり、ハイドンは、何か古くて保守的なイメージだ。

「ハイドンは、その時代では前衛作曲家です。今回演奏するハイドンの交響曲54番も、和音の移り変わり、楽器の使い方、構成など、実験的なことをやっています。今度の演奏会では、そんな先鋭的なハイドンの心意気を感じるものにしたいなと思っています。というわけで、時代の違いはあれ、前衛作曲家ハイドン、シェーンベルクといった感じのテーマで絵は描けないでしょうか?」という依頼が来た。

シェーンベルクは自画像も描いている。そこで、彼らが自画像を描いてどっちが前衛的か比べているという構成にしてみた。シェーンベルクが手にするのは、自らの作品、「赤い目の自画像」ハイドンは、風船を持った自画像で、自ら絵を掲げるとシュレッターで裁断されてしまうというオチ。これはバンクシーの作品が、オークションで1億5000万円!の値がついた瞬間にシュレッターにかけられたというニュースをパロった。二人が立つのは、シリア内戦で破壊されたがれきの山。ハイドンの自画像は、まさに世界の平和を訴えるソーシャリー・エンゲージド・アートになっており、シェーンベルクが一本取られたと焦っている。

ポストカードを多めに作ってもらったので、シリア支援のイベントで配ったりしている。ただ、残念なことに、僕の作品には値段が付かず、無料奉仕なのだ。

シリアの小児がんの支援を本格的に始めようということになり、またしても金策に走らなければならないのだが、「シリア」を概念にして作品にして、アートとしてオークションに! 一体いくらで入札されるのかな? と考えているだけで楽しくなる。いや、考えているだけが楽しい。

仙台ネイティブのつぶやき(52)つながりの中で、宮城県美術館

西大立目祥子

 宮城県美術館の現地存続を求める活動で、怒涛のような2ヶ月半が過ぎた。連日、知恵を絞ったり人に会ったり電話をかけたりで、ヒートアップ気味で頭の芯が熱かった。慣れないことが続いて知らず知らずのうちに疲れがたまっていたのだろう、先週はついに具合が悪くなりダウン。まさか、今年がこんなことになるとはなあ…。
 
 でも、渦中にいて感じるのは、これまでにない運動の広がりと手応えだ。特に12月中旬に始まった署名活動では、賛同が日を追うごとに先々に浸透し広がっていくのを実感してきた。1月中旬に5000筆だった署名は、1月末には10000となり、提出日を探っているうちにあっという間に15000をこえた。
 2月19日に、総勢10名で宮城県議会に美術館の現地存続を求める陳情書と署名簿を提出したのだけれど、署名筆数は17773。年末年始をはさんだわずか2ヶ月半に集めた数としては驚異的ではないだろうか。
 陳情の場には30人もの議員さんたちが出てきてくれ、そこに10名もの与党議員がいたのにもまたびっくり。議会にとっても、移転に反対する声はもはや無視できないものになっていることを感じる。

 突然降って湧いた美術館移転案に居ても立っても居られない気持ちで署名を始めたのは、市内中心部からちょっとはずれた西公園近くで喫茶店を営むKさんという女性だ。開店35年というこの店は美術好きの人たちのたまり場で、白い壁は個展をやりたいという人に貸し出されている。この問題が報道されてから、カウンターに座るお客さん同士がコーヒーを飲みながら「ひどい話だよ、なんかやろう」「黙っていられない、署名がいいんじゃない?」と話すうち、気風のいいKさんが「もう私やる!」と決心して、おそらく自然発生的に始まったのだと思う。それは12月中旬のことだった。
 
 そのころには、私は友人たちと細々と続けていた「まち遺産ネット仙台」という会から、知事や宮城県議長あてに要望書を提出していた。さらにこの問題に関心を持つ人たちといっしょにもっとゆるやかな「アリスの庭クラブ」という会を立ち上げ、ウェブサイトを運営し、そこにKさんの署名用紙をダウンロードできるように掲載したところぐんぐんおもしろいように活動が広がっていった。
 私自身もいつもバッグに用紙を入れて持ち歩いていたのだけれど、知り合いに会って署名を頼むと、「白い用紙はないの?」と返される。1枚渡すと、その人がさらにその用紙をコピーして方々に配るという具合にして、知らない人からさらにその先へと署名用紙は増殖を重ねながら手渡されていった。

 Kさんの店のポストには連日、用紙で分厚くふくらんだ封筒がどさりと配達された。店の前に車を停めて「200人分です!」と署名を持って勢いよく飛び込んでくる女性がいるかと思うと、雨の中わざわざやってきて、おもむろにアタッシュケースから「町内の人が書いてくれました」と紙の束を取り出したあと椅子に座り、ゆっくりとコーヒーをすする男性もいる。
 あるとき、女性2人が1000筆の署名を集めて持ってきたのには驚いた。縁起をかついでくれたのか「福袋」と書かれた赤い紙バッグにぶわっとふくらんだ紙が100枚!初めてお会いする方だったけれど、美術館を話題にしばらくおしゃべりを楽しんだ。別れ際には「私たちがついてますからね!」とエールをくれた。
 カウンターでお茶を飲んでいると、隣り合わせになった見ず知らずの男性から、「活動の情勢は?」とたずねられ、しゃべっていると後ろのテーブルから話に入り込む人もいる。
 
 ここはつまり性別も年齢も関係なく、絵が好きな人と人が集い、胸襟を開いて話ができるサロンなのだ。この店がなかったら、署名活動にここまで弾みがつくことはなかったかもしれない。つくづくコーヒーハウスは文化の基盤であり、運動が生まれてくる母体であることを教えられた。考えを持ったオーナーのいる街に開かれた小さな場から、出会いが生まれ議論が起こり文化は生まれてくるのだ。

 宮城県議会への署名簿提出に同行してくれたのは、旧知の友人たちに加え、この店で知りあった方たちだ。県内最大のスケッチ会の代表のSさん。民芸の研究家のH先生。画家で登山家で何かとアドバイスをくれるH先生。伝統建築の修復や設計をしているTさん。市内中心部でスケッチ会を主宰するIさん。みんなつい3ヶ月前までは知り合うこともなかったり、顔見知りではあってもじっくり話をすることはなかった人たちである。
 私はこれまで仙台で3回、歴史的建造物の保存活動をやり、3回とも失敗している。そのとき同じ思いでつながる友人ができ、そのとき建造物の有事の際にはぱっと動けるようにと「まち遺産ネット仙台」を立ち上げた。結局、個人的な思いでつながる人と人のかかわりからしか活動は始まらないし進まない。仙台、宮城で歴史ある建物が危機に瀕しても多くは声も上がらないまま見過ごされてきたのは、こうしたつながりの弱さに起因するのかもしれない。つまりは互いに遠慮して思いを口にしたり、無理矢理にでも人をつないでいく人がいなかったということか。

 12月に私たちが要望書を提出して以来、要望書を提出する団体が増え、すでに7団体を数えるまでになった。また、12月末に県が県民からの意見を募集したパブリックコメントは1月末に締め切られたが、221通寄せられたうち移転に賛成するのはわずか5通だったという。多くの県民はあの前川國男設計の建物が現在の静かな青葉山と広瀬川のほとりにあり続けることを願っているのだ。
 この2ヶ月半の間に局面はつぎつぎと変わり、この問題では移転反対の世論が圧倒的多数になってきた。(変化し続ける局面をみながら、人に会い人と人をつなぎ、つぎにどんなアクションを起こしていくかを考えるのは実にスリリングで楽しいことなのだけれど、これについてはまた別の機会に書きたい。)

 署名を提出した翌日に開かれたこの問題を議論する宮城県の懇話会は、(新県民会館と)集約移転する方向で検討するという最終案を提出した。反対する県民への配慮として、「検討する」ということばが加わっただけで、移転という方向性に変更はなかった。この最終案を受けて、3月末に県としての最終案を示すことになっている。

 それにしても行政というのは、なぜ決めたことを見直し、よりよい方向へと変更することをしないのだろうか。まだ議会にかける前の段階である。もし、現地存続という勇気ある方向転換をしたら、署名をした17000人の県内外の人たちは大歓迎して入館者を増やすべく宮城県美術館に通い、活動にもふかくかかわって本当の意味で県民の美術館にしていくための努力は惜しまないだろうに。

ナマステとロシア語(晩年通信 その8)

室謙二

 孫娘のNanamiがインドで、ナマステをおぼえた。一歳半である。
 合掌して、ちょっと頭を下げて、ナマステと言う。まわりのインド人は大喜びだ。もっともそれが挨拶とは知らないから、Skypeで見ていると、クルマが走っている通りに向かって、合掌してナマステと言ったりしている。かわいい。その七海が北カリフォルニアにやってきた。三週間いる。それでグランパKenjiは浮かれています。
 Nanami(七海)は、インターナショナルである。ロシアの黒海沿岸ソチで生まれて、大阪に行って、北カリフォルニアとフロリダに来て、インドのマイソールにいて、そしてまた北カリフォルニア。一年半で、それだけの場所に数ヶ月づつ住んだ。パスポートは、アメリカとロシアのを持っている。
 母親はロシア生まれのロシア育ちで、モスクワで大学に行ったロシア人だから、Nanamiにはロシア語で話しかける。だからNanamiも、ロシア語の単語らしきものも発音することもあり。父親の海太郎は日本生まれで、中学校の途中からアメリカで英語で教育を受けて、カリフォルニア大学サン・ディエゴを卒業したから、Nanamiには主に英語で話しかける。家族共通語は英語だが、海太郎はときどきは日本語で話しかけている。私の役割は、日本語グランパである。別れた日本人の妻も同じく日本語担当である。日本語も知っていたほうがいいからね。
 海太郎は、娘には漢字は教えないよ、と言っている。漢字の読み書きができるようにするには、時間がかかりすぎる。その価値があるかな? Nanamiの場合は、その時間と努力を別に費やしたほうがいいね。

  三つの言葉を生きる

 彼女は三つの言葉の中で生きている。ロシア語と英語と日本語である。しかしNanamiがいま話す言葉は、Nanami語である。英語でもなく日本語でもなくロシア語でもない言語を、大きな声で話している。ほとんどが分からないが、いくつかの単語はその意味がわかる。パパは父親のことではなく人間のことらしい。周りにいる大人の全部。母親のKatyaが海太郎をさして「パパ」と言ったのだろう。そうしたら人は全部、パパになった。
 ベイビーは赤ん坊のことではない。自分の歳に近い人間、子供が全部「ベイビー」になったらしい。この二つの単語は分かるけど、あとは何がなんだか分からない。ロシア語とも日本語とも、英語とも思われない発音で、身振り手振りでさかんに言っている。
 母親はもっぱらロシア語で話しかけて、それが彼女の母語であるし、だからNanamiの母語はロシア語になるだろう。父親の海太郎と母親のKatyaは英語で話をしているので、それを聞いて育っている。私の担当は日本語なので、それで話しかけないといけないのだが、まわりが英語だとそれを忘れる。

 三つの言語は、Nanamiにはどう聞こえているのだろうか? どう理解しているのだろうか? 三つの言語を、それぞれ別の言語体系だと思ってはいない。だろう。別々の言語体系、などという考えはない。だろう。全部がひとつのコミュニケーション・ツールで、それが一歳半の子供のまわりの環境を飛び交っている。
 言語学者によれば、いくつもの言語が存在する環境(家庭)に育った子供は、言語習得のスピードが少し遅れるらしい。もっともそれを聞いたのは、何十年も前だから、いまGoogleで調べたら違うかもしれない。ともかくちょっと時間がかかるが、いくつもの言語を同時に理解してしまうらしい。多言語家庭のケースは日本にはあまりないが、ヨーロッパではいくらもあるし、東南アジアでも経験したことがある。クアラルンプール空港で中国人の大家族が二十人以上輪になって座っていて、食べたり大声で話したり。マレー語と英語と広東語と北京語がまざって飛び交っていた。大人は英語が分からないようだし、少年たちは広東語がわからない。マレー語が普段の言葉で、北京語は学校で教わっているのかもしれない。
 インド洋のアフリカに近い小島の家に滞在していたときに、そこの家族がセンテンスをフランス語のイリア・デ・ボクで始めて途中で英語に変わったり、その島のローカルの言葉とかが混ざる。これには驚いた。大人も子供も、そうやって三つの言葉をチャンポンに話していた。
 もっともいずれのところにも学校があり、教育言語は英語だったりフランス語だったりする。でもそれは私が旅行をしていた何十年も前の話で、そのときすでにフィリピンではタガログ語で、マレーシアではマレー語で教えるべきだという運動があって、部分的にはそうなっていた。ただ高等教育(大学)は英語だったなあ。日本の大学は何語で教えるの? と若い女性に聞かれて、不思議なことを聞くものだと、「日本語だよ」と答えると、私たちの国も自分の国の言葉で大学教育が行われるといいわね、と言っていた。
 Nanamiはまだ一歳半で、これから言語を学んでいくわけで、どういうプロセスを通るか興味しんしんです。と書いて、イヴァン・イリイチを思い出した。

  イヴァン・イリイチ

 ずいぶんと昔の話だな、イヴァン・イリイチと池袋の炉端焼きで話していて、多言語社会の話になった。イリッチはウィーンのユダヤ人で、多言語環境の中で育った人間で、多言語を使って仕事をしている。
 彼いわく、日本人とか中国人は自分の言葉が、特に漢字が何か特別なように思っているね。実は特別でもなんでもない。ひとつの言葉にすぎない。と言っていた。彼は国連の仕事でガールフレンドと日本に来ていて、友人のダグラス・ラミスの紹介で会った。たしか日本家屋の二階の畳の部屋に、下宿のように住んでいた。そうだ、いろいろと思い出す。彼と多言語の話になったのは、あなたのマザー・タング(母語)はなんですか? と私が聞いたからだった。
 そうしたら、マザー・タングはない。という答えだった。家族の中でいくつも言葉が話されていて、母親もいくつもの言葉、父親もいくつもの言葉、一緒に住んでいるみんながそれぞれいくつも言葉を話す。一人の人間が、一つの言葉を代表しない。とするとマザー・タング(母語)はなくなるんだ。と言っていた。へー、そんなものかと思った。
 孫娘のNanamiの場合は、家族の中で三つの言葉があるとしても、母親がロシア語のみで話しかけているので、母語はロシア語だろう。だけど前に述べたように、両親は英語で話しているし、私たちは日本語で話しかけるので、その三つの言葉をどう理解しているのか観察しているところ。

 言葉というのは、その人が暮らしいている社会・環境とどういう関係を持ち、その人間にどういう影響を与えているのだろう? イリッチが言うように、日本人は、あるいは中国人は、自分たちの言語(書き言葉の漢字を含む)が、自分とその社会に決定的とは言わないでも、非常に大きな影響を与えていると思っている。イリッチは、それは幻想だよ、と言っていたのだが、私はそう思う時もあり、そう思わないときもある。イリッチは、自分に母語がなく、四つだかの言葉を平等に話し読むが、そういう言葉とは別に自分というものがある、と言っていたようだった。
 Nanamiはどうなるだろう?

  言語と歴史と文化から自由になる

 日常生活は三つの言語だが、学校はロシア語か英語の学校、あるいはその両方になる。それがNanamiにどのような影響を与えるのか? なんとなく、七海は七海だよ、と思う。ずっと以前に、英語のわかる日本人に、ムロさんは英語を使っているときも、日本語を使っているときも、まったく同じムロさんですね、と言われたことがある。たしかに日本語を話しているときと、英語で話しているときが違う日本人がいる。ビジネスのときは「流暢」に英語を話し、夜になると日本人同士で麻雀を囲む人間ではムロさんはありませんね、ということだ。
 たぶんNanamiも私のようになる。ロシア語を話すときも、英語を話すときも、日本語を話すときも、同じようにNanamiだろう。言語はコミュニケーションの道具に過ぎない。もっともそれぞれの言葉の背景に、文化と歴史がどーんとあるので、簡単ではないが。ともかくNanamiには、言語にも歴史にも文化からも自由な人間になってほしい。と書いたが、そんなことは可能かしら?

編み狂う(6)

斎藤真理子

時間は、本当は均等になんか流れていない。
編み物をする人はみんなそのことを知っている。

1分が1分でなく、10分にもなり、それどころかとうてい測れないほど長くなることもある。それはたぶん「長い」という形容詞では表せないものだ。「濃い」というべきかもしれない。

「時間つぶし」とは反対で、そこでは時間が暴力的にふくらむ。「すきま時間」なんていうものじゃない。予定と予定の間にはさまれて大人しくしているようなタマではない。満腹なはずなのに別腹ができてデザートを飲み込むように、時間にも脇芽のようなものができて、それがどんどん繁茂する。それがどんどん編みふける。時間は決して一直線ではなく、複線で、サルガッソーみたいで、それが糸に手を伸ばしたら私たちは後を追っかけていくしかない。

編み物の時間には濃淡がある。濃度が最大に達したときのことを覚えている。そういうのを測量するカウンター(ガイガーカウンターみたいなの)があればぴーぴーぴーぴー鳴りつづけて、みんなににらまれそうだったとき。

朝、最大限に会社に行きたくなかった。行ったら会社の偉い人に、いま抱えているこの無理難題について説明を求められるに決まっていて、言い訳のしようがなかった。

満員の地下鉄の中で、なぜこの状況でわざわざ窮鼠(私)は猫の巣に向かうのだろうかと思い、生物の本能に背いているのではないかと思い、辛いのは心があるからだ、人間だからだ、有機物だからだと思い、無機物になればいいんじゃないかと思い、それならばと無機物の気持ちになり(無機物にたぶん、気持ちは、ないが)、無機物になったつもりでつり革につかまってみたが気分がましになるわけがない。

定時ちょっと前に会社のそばに着いてしまったが、会社の建物に歩いて入っていける気がしない。電話を入れて帰宅しようかとも思ったが、そうしたら明日がもっときつくなることがわかっていた。電話を入れて、一時間遅れると伝えて、カフェに入った。

そして無機物になって編んだ。ものすごくはかどった。竹の編み棒が羽根のよう。多分カフェの中で私のいる場所だけ、ほかと気圧が違ってたんではないかと思う。私が火事場の馬鹿力を発揮していた一時間。

あんな一時間がいっぱいあったらセーター一枚なんかあっという間じゃないかと思うし、そもそも、そんな馬鹿力が出るなら仕事に活かせばよかったんじゃないかと思うけれども、現実はそうはいかない。ただ、時間が最大限濃厚に、ねっとり流れるときは、決して居心地の良いシチュエーションではないという一例だ。

一時間が過ぎると無機物は編み物をまるめてバッグに入れ、「無機物だから心はない」と自分に言い聞かせて、猫に飲まれるために会社の建物に入っていった。その後たぶんものすごく居心地の悪い時間があったと思うが、よく覚えていない。有機物は都合よく記憶を始末する。

ああいうのは、窮鼠猫を編むというか、追い詰められた時間なので、いくら火事場の馬鹿力を発揮したって別に嬉しくはない。

でも、そういう時間ばかりではない。編み物をしていると、時間がいろいろな形をとる。

歩いていけるところに、昔住んでいたアパートの跡地がある。今は取り壊されて、駐車場になっている。子どもと二人でそこに暮らしていた。保育園時代から、小学校五年生のころまで。

鉤の手の形をしていたアパートがなくなり、その分視界が開けて、向こうの景色が道から見える。自分が知っていたのとは違う空気が流れている。あそこの二階に住んでいたんだよ、と思って空中を見ながら通り過ぎる。

あそこにいたころ、たぶんそのころ、編み物の時間は粉だった。余暇はなく、あるいは余暇は分単位で、秒単位で、でも顆粒か粉末かわからないけれどもそれはたぶん一日の上に、振りまいてあった、まぶしてあった。だからうずくまってそれを拾っては、一目一目編みつないでいたと思う。

あの家で編んだものは今もまだしゃんとしていて、凝った編み方で、編み目もそろっていて、最近編んだものよりずっときれいだ。どこからこんなものが出てきたのかと思う。これを編んだのは私だろうかと思う。 

アパートだったところが駐車場になり、その先に大きなびわの木が見える。住んでいたときには見えなかった木だ。

そこに私がいた証拠など一つもなくて、その向こうで知らない大きな木がゆっくりと葉を揺らしている。足を止めてそれをじっと見ていると、来世ってあんな感じなんじゃないかと思えてくる。

私がいっとき生きて、何をやったかには全く頓着なく風が吹いている。あの木の向こう側に私が回って、こちらを見ていることを考える。

来世からこちらを見る私は、時間が均等に流れていないところを探し、そこで編み棒を持っている人を見つけたらサインを送るだろう。けれどもその人は気づかずに、今日は異様に編み物が進んだと思うだろう。時間の濃いところを踏んで明日に渡るだろう。どうして編み物をしていると時間はあっというまに経つのだろうと、編み物が生まれて以来大勢の人が思ったことを同じように思いながら。

しもた屋之噺(218)

杉山洋一

目の前には美しい夕焼けが広がっています。市立音楽院も愚息の中学校も休校しているので、隣の部屋で彼がベートーヴェン「サリエリの主題による変奏曲」を練習しているのが聴こえます。机に向かって仕事をしていて、時折イタリアの新聞サイトを開き、死亡者数が増えていないか確認します。昨日は朝1人が亡くなって以降死亡者数が増えずに少し安心していましたが、先程確認したところ、今日は既に2人も亡くなっていたと知り、暗澹とした気分が戻ってきました。コンテ首相が、イタリアは安全だ、国民は安心して、旅行者の安全も保証する、と毎日連呼しているのが、愈々虚しく響きます。それでも庭の樹の枝には臙脂の蕾が膨らみ、夜明けには鳥たちの囀りが、澄んだ空気を走り抜けてゆきます。人通りが少なくなった分、それが余計新鮮に瑞々しく感じられるのかもしれません。


2月某日 ミラノ自宅
橋本さんから演奏会の録音が届く。冒頭のチューバ音は神秘的で寺の梵鐘のよう。チューバ版は橋本さんの見事な編作の賜物で、自作と呼ぶのはおこがましい。藤田さんのピアノに、彼女の熱い想いを聴く。こんな風にチューバと正格に交われるのは、お二人の信頼関係あってのことだろうが、知らなかった彼女の姿を垣間見た気がする。深い絡み合いに耳を奪われつつ、作品の主役は実はピアノだったのかと独り言ちていた。

同日、サクソフォンの大石さんと和太鼓の辻さんの録音が届く。昨年暮れ、この作品の演奏会を聴いていらしたSさんが、ぽろりと、あれは重い内容だった、と話していたのが印象的で、録音を聴いてみたかった。
聴き手の耳自身が、広い空間の宙に浮かんで音を紡いでゆく心地がするのは、聴き手の耳が目の前の梯子を掴もうとする瞬間、その梯子がふっと消えてゆくからかも知れない。そうやって手を宙に泳がせながらも、少しずつ高みへときざはしを昇ってゆく。和太鼓は宙にぶらさがった足にそっと手を差し伸べ、次の梯子に手を伸ばそうとすると、ほんの少しその足に弾みをつけてくれる。

大石さんなら、この楽譜をどのようにでも吹きこなして下さるとは思っていたが、想像を遥かに超える空間の広がりに、愕きを禁じ得ない。和太鼓パートに、幼少から可愛がっていただいた石井眞木さんへのオマージュを籠めた。辻さんが眞木さんの作品を演奏するのを聴いて、大変感銘を覚えたのが切掛けでもあり、眞木さんを介し辻さんと知合った感謝の徴でもある。
こうした素晴らしい演奏を聴かせていただき、冥利に尽きる。交通事故で一度死にかけているので、それから後の人生は、運よく授かりし余白の時間、お負けで授かった人生と最近頓に感じる。だから、誰かにへつらい、顔色を窺いつつ生きずともと、有難く落掌した余白の人生を生き長らえている。

2月某日 ミラノ自宅
ミラノの市立学校は、音楽、演劇、映画、通訳翻訳の専門学校と4校あり、一つの財団が管理している。昨年暮れ、ミラノ市から市立学校への助成金が大幅に削減されたのに反対し、4校の学生が揃って市庁舎の前で抗議の座りこみをし、その様子はテレビや新聞でも大きく取上げられていた。一番先に解雇されそうな立場なのに、何も知らずに授業をしていて、今日は何故学生が少ないのかと訝しんでいたのだから、呑気なものだ。

月曜は朝の10時から夜8時半まで、3時間の授業を三つ立続けにこなす。17時半から始まる最後の授業は、去年開講した「音響技師科」の12人程の大学生相手、と言えども、他の学生とは違って型破りな若者ばかりの集う、愉快な授業だ。
去年教え始めたばかりの頃は、ト音記号すら読めず、歌を歌ったこともない連中相手に途方に暮れたが、何時の間にか自由で煩い小学生のような彼らと、がやがや授業するのがすっかり愉しくなった。
誰かが隣であてられて練習していても、周りは騒がしく話しこんでいるか、ヘッドフォンの音楽に合わせて身体を揺らしているかで、教師に何のリスペクトもないように見える。とんでもないクラスを引受けたと思ったが、実はやる気がないのではなく、単にそういう人種なのだった。
寧ろやる気は十分あって、順番が来れば真剣に課題に取組むし、今日も授業の後、何時もヘッドフォンを掛けて身体を揺らしている学生の一人から、「いやあ、この授業最高ですね。去年までラップのレコーディングやると、決まって後で音程の微調整やってたのに、今じゃ先生のお陰で一発、生録音でバッチリですよ。本当に信じられませんよ。先生最高!」と褒められた。

2月某日 ミラノ自宅
息子のコンピュータの充電器が壊れ、近所の電気屋に修理に持ってゆく。職業を尋ねられ音楽関係と言うと、目を輝かせ「こう見えても俺は一流の音楽家だ、この上のスタジオを見ろ」と梯子を登り、中二階に設えたミキサーのコンソールとエレキギター数本、壁にかかるゴールデンディスク数枚を自慢した。

音楽で何をやるのかと繰返し質問するので、耳の訓練などしていると言うと、彼も独自の音楽理論コースを開こうと思うから話を聞けと言う。
適当に返事を返していると、「俺にはお前の心が読める。早くこの話を終わらせろと切望しているな」と詰め寄られ、仕方なく「それは違う」と否定すると「では俺の話が聴きたいのだな」と修理したコンピュータを返さない。

彼曰く、音楽が心地よいのは、楽器が発する波動が、人間のそれと合致するからだそうで、何か根拠となるデータはあるのかと尋ねると、俺の話を信じないのか、と凄まれる。
話は終わらず「お前は偉くなりたいだろう、金持ちになりたいだろう」と畳み込まれ、「金儲けには興味がないので失礼する」と言うと、「お前が金持ちになれる方法を教えてやる」と譲らず、「金持ちになるためには、高次元の波動を集めて、高次元な波動を音から発すればよい。そうすれば、より高い次元で波動が共鳴しあって、世界中の人々を心地よくさせる。そうすればお前も金持ちになる」と力説して譲らない。

漸く次の客が店に入ってきたので、ここぞとばかりにコンピュータを取戻し、「素晴らしい話を有難う」と店を後にすると、相手も諦めず、わざわざ店先まで走ってきて、「お前になぜこんな貴重な話をしたかわかるか。俺は世界の別の場所にいる自分の心の兄弟を探している。お前なら俺の話が分かると思って、話をしたんだぜ。近々連絡くれ」と念を押される。
3日ほど経って心の兄弟が修理した充電器はすぐに壊れた。80ユーロも出したので、家人は取り替えて貰うべきだと譲らなかったが、結局通信販売で23ユーロの別の充電器を購入した。

2月某日 ミラノ自宅
プレトネフのリサイタルを聴く。シューベルト作品164のイ短調のソナタに、作品120のイ長調のソナタ。後半はチャイコフスキー「四季」。アンコールにシューベルト即興曲3番。文字通り放心状態で帰宅し、翌日もそのまま放心状態で一日を過ごす。
予定調和は皆無で、その場で音楽が生れる姿を目の当たりにする。音楽が顕れる瞬間に立ち会う新鮮さと崇高さ、そして沈黙の素晴らしさ。響きの際限ない可能性から、まるで宇宙を漂う錯覚に陥る。
人を驚かせるのは、強音ではない。これ以上の弱音は存在し得ないほど弱い、玉のように美しい弱音を聴いた後、それ以上に弱い音を耳にする、まるでパンドラの箱の蓋を開いて中を覘いてしまったかのような、現実離れした緊張感と興奮。時間の感覚を麻痺させられる音楽。
音楽を崇高に感じるのは、こういう瞬間なのだろう。宗教的高邁さとは比較にならず、それよりずっと先、遥か彼方の、命の萌芽を目の前で見るような体験。
即興曲3番が始まると、最初のアルペジオで、周りの客席から先ず一斉に深い吐息が洩れ、それから皆が低い声で、そっと旋律を歌い出した。プレトネフの音を慈しむように、本当に薄く数小節だけ旋律を歌う声が聴こえ、客席は沈黙に戻った。
一体どのように弾いたのか、冒頭の内声で耳にしたことのない音がピアノから零れてきた。輝くものがこちらに流れてくるような、ガス状の光がピアノから漂ってきたかと思いきや、何時しかホール全体をそのきらきらしたものが満たしていた。
弾き終えても客席も沈黙したまま。始まりのときと同じ、深い吐息が会場のあちらこちらから聴こえるだけだった。

2月某日 ミラノ自宅
昨日朝、市立音楽院より、学校は一週間休校とする旨のメールを受取る。
朝6時に散歩し、卵とブリオッシュ購入。朝30分ほど歩きまわるのは大分前からの日課。
学校は休み、愚息の通う中学校も休み。ロンバルディア、ヴェネト封鎖。スカラ、フェニーチェともに休演。葬式、結婚式、ミサも中止。リヨンでイタリアからの長距離バス通行止。インスブルックでヴェニス発ミュンヘン行列車通行止。モーリシャスでイタリア人の該当地域からの旅客隔離。スーパーに生鮮食品は殆どなし。ミラノのドゥオーモ閉鎖。コドーニョは街全体封鎖。株価暴落。スーパーでは、若者二人に「逃げろ!」と叫ばれ、小学生くらいの男の子をつれた父親も、慌てふためきながら目の前から走り去るが、仕方がない。先日までミラノに滞在していたSちゃんも、街で「コロナ!」と名指しされたと言う。

2月某日 ミラノ自宅
アジア人だから、人前で到底くしゃみも咳も出来ないので、ともかく健康を害さないよう過ごす。人込みを避け、夜遅く24時間営業のスーパーマーケットへ出かける。昨日より棚に並ぶ商品が少ないのは何故だろう。今朝には商品が補充されていたはずが、これだけ少ないのであれば、日中よほど市民が買い物に走ったのか。文字通り空になった棚から、最後に残るスパゲティ2袋を購う。昨日はミラノ北部で感染者が見つかり、付近のスーパーマーケットが封鎖された。その際、州の関係者が、封鎖がミラノ全体に広がる可能性を否定しなかったため、こうしたパニックが起こったと思っていたが、封鎖を正式に否定した筈の今日ですらこうならば、人々の恐怖心は未だ到底払拭されていないのであろう。
今日は息子より少し上くらいの年齢の妙齢二人が、こちらを上目遣いに見ながら、スカーフで口を覆って傍らを通り過ぎてゆく。何とも言えない心地。イタリア人からイタリア人へ感染している現在、アジア人を避けようが、口をスカーフで覆ったところで意味があるとは思えないが気持ちはわかる。11人目の死者が出て、消毒用ジェルやマスクは手に入らない。
311の時は、日本がどうなるか固唾を呑んで見守るしかなかったが、今回は文字通りピンポイントで、日本とイタリア、それもロンバルディアが当事者になった。先日は、両親の住む町田の隣の相模原駅職員が感染とニュースで読んだところで、彼らの年齢を鑑みてそちらの方が余程気懸りながら致し方ない。311の時は息子は未だ幼く、状況に怯えていたのは家人だけだったが、今回は家人の傍らで、息子も時事ニュースに耳をそばだてている。

2月某日 ミラノ自宅
朝、人気のないジャンベッリーノ通りを散歩する。
以前はユニセフ、現在は「国境なき医師団」のためにコンゴで仕事をしている、ロレンツォに誕生日祝いを書く。ロレンツォはエミリオの長男で、幼い頃からよく知っている。エボラ熱や、難民のために働く、ロレンツォや彼の同僚たちに日頃から感服している。

中世「死の舞踏」を描いた画家たちは、どれほど過酷な状況でかかる絵画を描いたのか。今回の伝染病はペストの致死率とは比較にならぬ。医学が進歩した現在でこの状況ならば、未だウィルスの可視化もままならなかった中世、累々たる亡骸を横目に、どんな思いで骸骨を踊らせ、ボッカチオは艶笑譚を書いたのか。

そんなことを考えながら、行きつけの珈琲焙煎屋に立ち寄ると、年寄りの主人が息まいている。
「全く外出禁止令なんてさっさと取っ払って貰わないと、こっちは仕事が上がったりだ。来週からは学校も何も普通に戻るそうだ。ついでにマスク着用も禁止、禁止!マスクなんぞつけて外を歩くと、何十万の罰金だとさ。マスク着用じゃあどんな悪党でも見分けがつかない。物騒で仕様がないさ。昨日も銀行の受付が言っていたが、昨今誰でもマスク着用で皆銀行に入って来るが、そりゃあ不気味で仕方ないらしい。彼だって、いきなり目の前でピストル取り出されてズドンじゃあ堪らないよ」。そう言って、豪快に笑った。

2月某日 ミラノ自宅
死亡者数は14人になった。ミラノ行のブリティッシュ・エアウェイズは乗客が殆どいないので、暫く休止とのニュース。ロンバルディア、ヴェネトからの旅客は、ヨーロッパや世界各地の空港で隔離措置や経過観察などの措置。封鎖されているコドーニョの事業者たちがテレビで、事業の再開許可を強く求めている。経営破綻が目の前に迫っている、政府の下支えが必要と力説している。日本からの留学生にメールをして様子をたずねる。幸い全員健康と聞き安心する。
ミラノのサッコ病院の研究者ら、コドーニョの患者4人から採取したコロナウィルスの病原分離に成功とのニュース。近日中にワクチン開発が始められるが、実用化には手順が嵩み時間がかかる、とある。新聞を読み返すと、死者は3人増え、17人になっていた。

ミラノ・アレッサンドロ・ヴォルタ科学高校(liceo scientifico Alessandro Volta)ドメニコ・スクイッラーチェ(Domenico Squillace)校長より、学生父兄宛の手紙。
「”ドイツ軍がミラノにペストをもたらすのではと保健当局は危惧していたが、ご存じの通りペストはミラノにやってきた。よく知られるように、それどころかペストはイタリアの大部分を侵し、人々をなぎ倒していった。”
これは「いいなづけ」(Alessandro Manzon: I Promessi Sposi邦題「いいなづけ」「婚約者」。マンゾーニの不朽の名著)第31章冒頭の言葉です。この章では続く章とともに、1630年ミラノを斃したペスト伝染病の描写がつづきます。実に啓示に富み、驚くほど現代的な文章ですから、この混乱した日々のなか、心して読むことを奨めます。これらのページには、外国人の危険性への偏見、当局間の激しい諍い(首相と州知事との軋轢が話題になった)、(今回イタリアに病気を持ち込んだ)第一号患者の病的なほどの捜索劇、専門家に対する侮辱、(中世ペスト塗りと呼ばれた)ペスト感染者狩り、言われなき風評、もっとも馬鹿げた治療、生活必需品の掠奪、保健機構の緊急事態など、全てが書かれています。これらのページを捲れば、Ludovico Settala 、Alessandro Tadino(両者ともペスト治療に尽力した高名な医者)、Felice Casati(ペスト流行時Lazzaretto院長だった高僧)のように、わが校周辺の通りに名が冠され、みなさんもよく知っている名前にも出会うでしょう。何よりわが校は、ミラノLazzaretto(伝染病患者収容施設としてヴェネチア門から外に建設されていた)地区の中心に建っているのですから、こうして綴られた言葉は、マンゾーニの小説からというより、わたしたちの日々のページから飛び出してきたようですね。

みなさん例え学校が閉まっていても、わたしはこれだけはお話したい。わたしたちの世界は、昔からずっと同じことを繰返してきました。わたしたちの高校は、規律を貴び、落着いて勉学に励むべき学び舎であり、今回のような関係省庁からの、異例な学校閉鎖通告に従うのは当然です。わたしは専門家ではありませんし、専門家を偽るのも嫌ですから、当局の今回の措置について、個人的意見を述べるのは避け、彼らの対策を尊重し、全幅の信頼を置いて、彼らからの助言を注意深く見守ってゆきたい。わたしは、皆さんが冷静沈着につとめ、落着いて行動し、集団心理の過ちに陥らず、細心の注意を払いつつも、ぜひごく普通の生活を続けてほしいと願います。
どうか、この時間をぜひ有効に役立ててください。家から出て散歩をし、良書に接してください。みなさんが健康ならば、家に閉じこもる必要はありません。スーパーマーケットや薬局に押し掛ける理由はないのです。マスクは苦しんでいる患者さんたちに譲りましょう。彼らにこそ必要なものです。今日、地球の端から端まで、この病気の伝わるめざましい速さは、わたしたち自身が作り出したものであり、それを阻める壁などありません。その昔も、伝播する速さが多少緩慢なだけで、等しく伝わってゆきました。

マンゾーニや、彼よりむしろより力強くボッカチオがわたしたちに教えてくれること、それはこうした出来事で社会生活や人々の繋がりに毒が盛られ、市民生活がより粗野になることです。
目に見えない敵に脅かされていると感じると、わたしたちの身体に走る本能が、どんなものも敵であるかと見誤らせてしまいます。危険なのは、わたしたちとまるっきり同じものでさえ、まるで脅威のように、潜在的な攻撃者のように見せてしまうのです。
14世紀17世紀の伝染病と比べて、わたしたちには現代医学があるのを忘れないでください。医学の発達や精度を信じてください。理性的な思考を使おうではありませんか。医学とは、わたしたちの最も尊い財産、つまりこの社会やわたしたちの人間性を守るために生まれたものです。わたしたちに今それが本当にできないのであらば、ペストが本当に勝利したことになるでしょう。
では近いうちに。みなさんを学校で待っています」。
https://www.corriere.it/scuola/secondaria/20_febbraio_26/coronavirus-cari-ragazzi-leggete-manzoni-boccaccio-non-fatevi-trascinare-delirio-59cd3726-5869-11ea-8e3a-a0c8564bd6c7.shtml

(2月28日ミラノにて)

追伸
3月1日朝現在。死亡者29人。感染者1000人を超え、現在まで50人回復。アメリカで初の死亡者。トランプ大統領がイタリアのレッドゾーン(ロンバルディア、ヴェネト、エミリア・ロマーニャ3州)へ渡航を控えるよう発表。アメリカン・エアラインス4月24日までミラノ便休止。昨日のAA198ミラノ便はJFKから発つはずが、乗務員がコロナウィルスを理由に搭乗拒否。今日のアリタリア便で帰国予定。イタリア人がニューヨークなどで酷い扱いを受けている、との告発記事掲載。イタリアレッドゾーンから世界各国への渡航が困難になりつつある。
レッドゾーンの各学校はなお1週間休校決定。ミラノ工科大など、インターネットでストリーミング授業を再開予定。
医療関係者不足を解消するべく、ロンバルディア州は、現役を退いた医者の招聘検討。コドーニョなど封鎖された街での医療環境の急激の悪化をはじめとして、数日前から医療関係者が感染、隔離されて、各病院での医療に支障を来している。「いいなづけ」31章の描写は、現在のミラノを彷彿とさせる臨場感と緊張感に満ちている。(3月1日ミラノにて)

感染症

高橋悠治

コロナウィルスの感染症拡大で 3月に予定されていたリサイタルは7月に延期された 4ヶ月の練習期間ができた と言っても 演奏がその分よくなるというよりは ちがうアプローチや 思わぬ発見があればよい 

街も人通りがすくなくなっている 公共のイベントは中止が多い 自由業には打撃で 主催者が払い戻す手間と損失はどうなるのか 日本の政治家は毎晩宴会でやりすごすのだろう

この際アルベール・カミュの『ペスト』を読み返そうかと思ったときは 図書館でもすべて借り出されていた 本屋でも売り切れらしい 薬屋ではマスクだけでなく ティッシュペーパーの棚も空になっている マスクは予防にはならないと言われても 不安だから みんなとりあえずかけているのだろうし 日本では他人の眼があるから うっかり咳もできないだろう

「感染症の歴史」wiki を見ると アテーナイの天然痘と推測される病気の流行から 今の感染症にいたるまで 文化が盛りを過ぎ 下り坂になったとき起こるのか それとも 感染症は 文化が発展し 世界的になる裏側にある危険なのか 人間はひとりでは生きられない動物だから 何回も疫病が起こり 治療費が払えない人たちから犠牲になる 疫病の後は 社会が崩壊したり 戦争が起こった 2018年には豚熱があり 2019年には鳥インフルがあった 次が新型コロナウィルスの流行だが これらは無関係だと言えるのだろうか

閉ざされた空間でも 人が多く集まる場所でも 感染するのなら どうすればよいのか テレビでは 公園のベンチで 人から離れてひとりでいるのは安全 と言われていた 年金生活者の老後のような話だね ツイッターでは ヘイト発言がひろがっている それも崩壊の兆候なのか

2020年2月1日(土)

水牛だより

立春が近い今日、午後のあたたかい陽射しは窓ガラスを通して部屋をふんわりと暖かくしてくれました。外に出ると、やはり2月らしい冷たい風が吹いていて、おお寒い!

「水牛のように」を2020年2月1日号に更新しました。
「製本かい摘みましては」に書かれているオーディオブックは、カセットテープの時代からたくさん売られていました。ひとりで長いドライヴをするときにかけっぱなしにすると楽しいよ、と言う友人がいて、なるほどと思いましたが、車の免許は持っていないので、そういう機会はありませんでした。目が見えるうちは文字を読むとして、その後の楽しみもたくさんあるわけです。そのときに耳がだいじょうぶかどうか、それは保証の限りではありませんが。。。

カレンダーをめくると、今月は29日まである。いまさらながらに4年に一度やってくる日付をじっと見つめました。そしてオリンピックは中止になりますように。。。

それではまた!(八巻美恵)

製本かい摘みましては(152)

四釜裕子

月に一度、原稿を受け取りながら会っていたひとに30代の終わりに失明していた方がいる。本でも雑誌でも映画でも耳で読んで観ていて、その量たるや、すごかった。人工透析のあいだは、お気に入りのアナウンサーが朗読するものをおもに聞いていたようだ。ほとんどは一度しか聞かないというのに、読んだものについていつもおもしろくこまごまと的確に話してくれた。「目で読むほうが、そりゃあ速いですよ」と言うのだけれど、スピードというのはこの場合もつくづくどうでもいいことだと思った。映画『シン・ゴジラ』を観た直後に会ったときには、往年のゴジラマニアとはいえストーリーのみならずビジュアルにいたるまで、こちらがまったく気づかなかったことまで教えてもらった。確かゴジラ好きのひとによる音声ガイドを聞きながら都内のユニバーサルシアターで観たと言っていた。あのひとの記憶力と読解力はやっぱりイジョウだったかもしれない。音声ガイドのひともかなりイジョウな能力の持ち主と思う。イジョウの2乗は最強。

そのひとが急逝してまもなく1年になる。透析のあいだ好んで聞いていたという朗読をネットで探すうちに、Audibleのサイトに行き着いた。オーディオブック系のサイトをのぞくのは久しぶり。ずいぶんいろいろなジャンルが出ている。落語もある。ニュースやヨガ、ラジオの番組もある。そうか、みんな「オーディオブック」でもあるわけか。「NHKラジオ深夜便」のコンテンツもある。花山勝友さん、鎌田實さん、安保徹さんなど、1時間弱の人気のインタビューだ。Audibleの「ヒストリー」を見ると、セントラルパークをカセットテーププレーヤー片手に長年ジョギングしていたドナルド・カッツさんが、ネット上でのデジタルファイル変換にたどりついて1995年にAudibleを設立。1997年に世界初のポータブルデジタルオーディオプレーヤーを発売して(スミソニアン博物館に保存)、2008年にアマゾン組となる。2015年に世界で6番目の国として日本でもサービス開始、2018年からダウンロード形式になったようだ。日本ではほかのオーディオブックもだいたい同じころに始まったのだったか。

サンプルもたくさん用意してある。聞いてみた。『人生がときめく片づけの魔法』はささやきボイス。『留学しないで英語の頭をつくる方法』は人工音声みたいな肉声。『ハリー・ポッターと賢者の石』は演劇調。『理由』は「……であった(ha~)」みたいに語尾が無声で伸びるタイプ。『コンビニ人間』がいい。朗読は大久保佳代子さん。聞きながら最寄りのコンビニが頭に浮かぶ。バイトはほとんどアジア系の留学生でみんな優秀。先月レジでわたしの前にいた観光客が無茶なお願いをしていたので「大丈夫だった?」と声をかけたら、笑顔で「シカタナイデスネ」。うれしくなった。都心でよく行くコンビニはむかしの女教師みたいな店長の声かけ指導が徹底していて、バイトの留学生が「いらさいませ」「ありがとざいます」となってしまうのに心をいためているのだけれど、ここはそういうことがないのもいい。

『コンビニ人間』の朗読はサンプルなので5分だけ、主人公が子どものころに、死んだ青い鳥を食べようと言ったあたりまでだった。ナレーターのコメント欄にあった「8回くらいクスッとくる」には遭遇しなかった。詩もある。雰囲気たっぷりだったり音楽をつけたりして過剰なものが多い。『Becoming』は、著者のMichelle Obamaさんが読んでいる。とにかく読み手がいろいろだ。

作家と作品と朗読者による舞台、そこに聞き手として加わるのは楽しい。ところがその舞台があまりにも完璧で、作品と声がもはや分かちがたくなることもある。わたしにとってそれはたとえば、石澤典夫さんの声と夏目漱石「夢十夜」(なかで特に〈日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。ーー赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、ーーあなた、待っていられますか〉)と、高橋悠治さんの声と北園克衛「熱いモノクル」(なかで特に〈まづいピアノを弾く〉)。分かちがたいというよりは、乗っ取られたという感じすらする。作家1、作品1、朗読者1という舞台を聞き手は頭でいつでも勝手に独占する。

あのひとの頭のなかは、本も雑誌も映画もなにもかもがこんな舞台でいっぱいだったのかと改めて思った。体の端々まできゅんきゅんに詰まっていたのだろうと思った。

墓日和

璃葉

墓参りをしよう、という思いつきは突然にやってくる。もちろんお盆やお彼岸、誰かの命日があって墓に参る日というものはあるけれど、どれにも当てはまらないときがある。そしてそのタイミングはあまりにもあっさり、すっきり決まる。−なんか、墓参りしたいね−という軽い流れで。

澄んだ青空を目の前にして、おんぼろの軽自動車で急斜面をのぼり、高台にある寺の敷地に入る。ぐねぐねと曲がる細い道を通り抜け、なだらかな坂を下ると、見晴らしのよい風景が現れた。街と街の間を流れる大きな川、山の連なりが見えて気分がいい。

敷地の丘には数えきれないほどの墓石が所狭しとならんでいて、私の先祖たちの墓もそのなかにある。きっちりと場所を覚えているわけでもないのだが、行けばわかるものだ。確かここの階段をだいぶのぼったあのへん、というようなおぼろげな感覚で探し当てる。

墓の花立や水鉢には雨水がたまっていた。前回来たのはいつだったか。だいぶ前だということを、墓石の汚れが物語っている。使い古したスポンジで磨くが、黒ずみは擦っても落とせない。今回は諦めることにして、袋から数珠や蝋燭立て、線香などを取り出し、花を生ける。強風が吹いてきて、蝋燭になかなか火をともせない。髪の毛があっちに行ったりこっちに行ったり。いつもこうだよね、と姉とぼやきつつ、マッチを数本無駄にしたところ、ライターでなんとか点火。数珠を持ち、しばし手を合わせる。目を瞑れば頭の中は言葉もなく、静かだ。まぶたの奥に黄色やピンク色がぽこぽこと浮かんでは、消えていく。ほんの数秒の祈り。

片付けをして長い石段を下ると、古びたベンチに野良猫が2、3匹、あるいは4匹、日向ぼっこをしていた。静かで広く、木々もたくさんあるこの土地は考えてみれば、猫たちにとっては絶好の住処だ。尾張の血生臭い歴史が染み込んだ文化財が今や猫天国となっているのは微笑ましい。皆毛並みがよく、日の当たる暖かい石畳に寝転がって幸せそうな表情をしている。水を飲むためのボウルまで置いてあるのだから、寺の人たちがちゃんと見守っているのだろう。

墓参りついでに本堂にも寄り、鐘をつき、一仕事終えたような晴々とした気持ちで車にもどる。そして駐車スペースにも、やはり猫。

平日の昼間だからか人も少なく、のんびりとした時間が流れていた。なぜ今日、墓参りをしたのかはわからないまま。見えないものに助けを求めたいのかもしれない。墓をきれいに整えたい気持ちも。もしくは、憩いに集う猫たちに会うために。

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ボロブドゥール(晩年通信 その7)

室謙二

 インドネシアのジャバ島に、仏教ピラミッドがあると知ったのは、いつのことだったか?還暦のときに、洞窟に描かれた壁画を見に中国の敦煌まで行った。七十歳のときは、ボロブドゥールに行こうということになった。
 Nancyがオーストラリアで仕事がある。私は東京で人に会わないといけない。ずいぶん長い間いっしょに旅行していないね。どこかで休暇をすごそう。
 太平洋を中心とした世界地図をひろげて、カリフォルニアとオーストラリアと東京の三角形を見ていると、ジャワ島があった。ジャワ島の東の端にはバリ島もある。妻はジャワ島には興味を示さなかったが、「バリ島」と聞くと急に元気になった。だけどジャワ島のボロブドゥールもいいなあ。と言ったら、それはなに?
 もっとも私だって、ボロブドゥールのことなんかよく知らない。でも分かったふうなことを言う。仏教ピラミッドなんだよ。ジャワ島はもともとインドのヒンドゥー文化でしょ、そこに西からイスラム教がやってきて、いまでは人びとはモスレムになっている。だけどジャワ島の東の端のバリには、インド文化がのこった。インド仏教とヒンドゥー教にイスラム教が重なって、もとからある土着の信仰もあるし、多層文化らしいよ。
 ボロブドゥールは、仏教の時代が作ったピラミッド遺跡なんだ。仏教と聞いて、彼女はいよいよ興味を持った。十年前に敦煌に行ったでしょ。あれは仏教の影響の西北のはじで、バリ島は仏教文化の南東のはじだね。と地図を見せた。
 私たちはカリフォルニアからインドネシアまで飛んで、ジャワ島とバリ島で休暇をすごす。それから私は北に東京に飛ぶ。Nancyは南にオーストラリアに行く。とすぐに決まった。

  ピラミッドのストゥーパ

 ボロブドゥールは一片が一一五メールの四角の基盤の上に、九層の石階段ピラミッドがのっている。世界最大級の仏塔(ストゥーパ)である。エジプトの大ピラミッドの基盤の一片は二三〇メールだそうだから、ピラミッドとしては大きくない。高さは三十メールと以上あり、もともとは四十メール以上あったらしい。石の積み重ねの回廊を上がったり降りたりするのは、そうとうに怖い。石の一段一段は普通の階段よりずっと大きい。うっかりすると、落ちて頭を打って死ぬかもしれないぞ。
 回廊には天人やら鳥や獣、植物文様が描かれている。九世紀には完成したらしいが、その後、大乗仏教の後退とともに森林の中に埋もれてしまった。発見されて発掘が始まったのは一九世紀であった。インドネシアはいまはイスラム文化圏で、仏教徒はほとんどいない。だからボロブドゥールは、インドネシアにとっては現在の宗教寺院ではなくて、過去の遺産、観光地である。 
 それをわざわざカリフォルニアから見に来たのは、世界唯一の特別なものだと思ったからだった。仏教ピラミッドである。ピラミッドが仏塔になっている。
 ピラミッドは有名な北アフリカのものだけでなく、メキシコから中南米にある。メキシコのは一九七〇年代に見に行った。インドにも南ヨーロッパにも、北アメリカにもある。世界各地にある。ピラミッドの形は、どこかにオリジナルがありそれが世界に広がったのではなくて、どうやら人間の持つ、天に向かう空間認識の基礎的な形らしい。北アフリカのピラミッド、メキシコのピラミッド、それにジャワ島のピラミッドは、なんの関係もない。それぞれが独立して作られた。
 そしてこのピラミッドには、仏教がやってきた西の世界、またインドを通り過ぎた西、ギリシャにいたるまでのモノとか人が刻まれている。敦煌の壁画には天使が描かれていて、これはギリシャの影響だろうが、ボロブドゥールでさがしたら、やっぱり翼をもつ天使がいました。これもギリシャの影響だろう。それにアジア人ではない、長い髭をはやした背の高いヨーロッパ人がいる。
 人びとはこの仏塔で、どのような宗教的な儀式をして、どのような宗教的な感情を持ったのだろうか。インドからここまでやってきた仏教は、いま東南アジアにある上座部仏教ではなくて大乗仏教であった。観光客の私たちは、日が昇るときと日が落ちるときの両方を、ボロブドールの頂上から見ていた。そして他の白人観光客とちがって、私はポケットに入れていた般若心経と観世音菩薩普門品をとりだし、唱えたのである。
 ピラミッドに刻まれている人とかイメージを見ると、これは多層的な多様的な仏教であったことが分かる。西はヨーロッパからインドから東南アジアの、さまざまな要素が結びついている。日本のいまの葬式仏教からは遠く離れている。この多様性・多層性はバリ島に行っても同じである。

 バリ島で料理をする

 私はバリ島で観光客だったので、それらしいことを探して、ホテルでバリ料理のクラスがあることを見つけた。バリ料理といっても特別なものではない。中国料理、インド料理も少し、東南アジア料理がまざっている。蒸したもち米、野菜炒めに焼きそば、赤い唐辛子、豆腐の厚揚げ、それにサティ。ピーナッツ・ソースを付けて串揚げ。バナナの皮で包んで料理する鶏肉。エビも焼き魚もあり。それらをセンセイに教わりつつ作ってから、Nancyと私とセンセイで食べた。おいしい。それに暑い田んぼを歩いていたら、ヤシの実がころがっている。それを見ていたら少年がやってきて、ヤシの実の汁をのみたいか?
 飲みたいと言ったら、するするとヤシの木に登って、実を落としてくれた。ナイフで一部を削って、中にストリーを入れて汁を飲みます。あとで汗が、ヤシ臭くなる。それは知っている。
 
 観光客なので、バリ島の踊りも見て、ガムラン音楽も聞きに行きます。独特の音階だね。床においた大きな鐘を叩いてメロディーが作られ、太鼓が低い音程でリズムをきざむ。ヨーロッパ音階をもとにした音楽とは、まったく違う。
 女の人はお尻を突き出した独特な格好で踊る。最後に恐ろしげな男、神の一人なのだろう、がでてきて踊りまくって、焚き火の上に立って裸足の足で、火を踏み潰して消してしまった。驚いた。この男は、すでにこの世からあの世に行ってしまっているので、ヤケドもしないし痛くもない。のだろうか?
 バリ島には仏教の寺がたくさんある。その一つの門を入ったら、老人が出てきて、ここは私の家です。とカトコトの英語でいった。スミマセン、お寺だと思ったので、と言ったら、私の家のお寺です。個人の敷地の中に小さな寺がある。それでその老人といっしょに寺をお参りした。ブッダとヒンドゥーの神々が祀ってあった。
 ここは、モーターサイクルの世界でもある。二人乗りはもちろん、三人乗り、こどもを二人載せた夫婦の四人乗りもあり、通りをぶんぶん走っている。市場は楽しい。果物を買って食べる。カリフォルニアへのお土産は、バティーク(紅型)だな。バティークを作っているところまで出かけて買いました。
 二十代後半からはじめて七十歳まで、世界各地のいろんなこところ旅行したが、もう一度行きたいとしたらどこか?
 バリ島です。

訃報続き

冨岡三智

ここのところ、お世話になった方々が連続して亡くなった。追悼の意を込めて少し思い出について書いてみる。

昨年末の12月29日にはスプラプト・スルヨダルモ氏(74歳)が亡くなった。在野で国内外の舞踊家に大きな影響を与えた舞踊家で、私も尊敬する舞踊家の口からプラプト氏のことについて聞く機会が何度もあり、氏の影響力をつくづく感じたものだ。氏は聖なる場や自然と一体化し、内的なものから生まれる動きに従って踊る人だった。実はサルドノ・クスモ氏と同年(1945年)、同地域(スラカルタ市クムラヤン地域、宮廷芸術家が多く住んだ地域)の生まれである。この2人がジャワの現代舞踊の2大潮流をつくり出したと言って良い。氏は海外で指導することも多く、1986年にスラカルタに開いたスタジオ「ルマ・プティ」では国内外から学びに来る舞踊家を受け入れ、舞踊イベントなども開いていた。私も何度かそこでのイベントに参加したこともある。それ以外に、毎年大晦日から新年にかけてはヒンズー教のスクー遺跡でスラウン・スニ・チャンディ」(遺跡での芸術の集い、の意)というイベントを開催されていた。私も2011年大晦日に声をかけていただき出演したが、観光文化省の信仰局長やスラカルタ王家のムルティア王女を来賓に迎えるほどの規模の大きなイベントだった。

今年に入り、1月18日には留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のサルユニ・パドミニンセ女史(61歳)が亡くなった。私が芸大に留学した時に1年生の基礎の授業を受け持っていたのがサルユニ女史だった。私にとっては芸大授業で初めて習った女性の先生である。2度目に留学した2000年、ちょうど芸大に開設された大学院に入学したサルユニ女史は、私がジョコ・スハルジョ女史から受けていた宮廷舞踊のレッスンに、もう1人の教員と一緒に参加してくれた。そして2000~2003年の3年間はずっと一緒にジョコ女史の元で宮廷舞踊を練習し、2002年にはジョコ女史も入れて4人で芸大大学院の催しで『スリンピ・ラグドゥンプル」完全版を踊った。その翌年にはジョコ女史の息子が振り付けた公演でも一緒に踊り、2006年と2007年に私がスリンピとブドヨのプロジェクトをして3公演を制作した時にもすべて出演してもらった。芸大の授業では先生は見本を見せてくれるとは言え、最初から最後までついて踊ることはしない。しかし、長い宮廷舞踊をずっと一緒に踊る時間を共にできたことは、今から思えば非常に贅沢な時間で、言葉にならない影響をいろいろ受けたように思う。

1月22日にはバンバン・スルヨノ氏(芸名:バンバン・ブスール氏、60歳)が、翌1月23日には岩見神楽岡崎社中の元代表の三賀森康男氏が亡くなった。2人は、私は友人たちが2008年に企画したジャワ舞踊と岩見神楽の共同制作に参加して島根で『オロチ・ナーガ』を一緒に作り上げてくださった方々である。バンバン氏はマンクヌガラン王家の舞踊家として活躍するだけでなく、2000年に大学院が開設されて以降はサルドノ氏の助手として指導にあたり、呼吸や声についての独自のメソッドを持っていた。島根で公演した時には舞踊のワークショップもしてもらったのだが、バンバン氏の呼吸法や声にものすごく私の身体が感化されて、あくびが止まらなかったことを覚えている。三賀森氏は社中の中で最も年長ながら、最も柔軟な姿勢で受け入れてくれた。伝統を極めた人はこんなにも自在なのだと感じた。お互いに長い歴史を持つ岩見神楽とジャワ舞踊の間をつなぐすという経験をして、私は、遠く離れた場所でそれぞれ井戸を深く深く掘り下げていけば、いつかは同じ地下水脈に行き当たるのだな…と感じたことだった。

2019年活動

笠井瑞丈

2019年の活動

1月 『花粉革命』ニューヨーク公演(笠井叡振付)
1月 『高岡親王航海記』 京都l公演(笠井叡振付)
1月 『高岡親王航海記』  東京公演(笠井叡振付)
3月 『あなたがいない世界』M-laboratory (三浦宏之振付)
4月 『世界は一つの肺に包まれている』ダンス専科 (笠井瑞丈振付)
5月 『神々の残照』(笠井叡振付)
6月 『701125』笠井瑞丈ソロ公演
7月 『三道農楽カラク』を踊る(笠井瑞丈 上村なおか振付) 
10月 『道成寺』(花柳佐栄秀振付}
10月 『かませ犬』(近藤良平振付)
10月 道頓堀劇場 ストリップショー特別出演
12月 『四人の僧侶』『七つの大罪』(笠井瑞丈振付)

朝が来れば夜が来る
また
朝が来て夜が来て
また
朝が来る

一月も終わります
二月の始まりです

一年というのは本当にあっという間に過ぎていきます

去年の活動をまとめました

色々なことを
やったような
やってないような

去年は新年明け
1月1日にニューヨ-クに飛んで始まった
今年も色々なことに挑戦できたらと思う
一つ一つ大切に作品作りダンスを踊っていきたいと思います

どうぞよろしくお願いします

いざ、東京2020へ、日本晴れ!

さとうまき

2020年は、大きな転機になりそうな年だ。なんといっても東京オリンピックと戦後75周年が同じ時期に重なる。アメリカの圧力で、8月になったらしいが、閉会式が8月9日というのも気になる。国連事務総長をはじめ各国の要人がこの時期に来日するから、日本が閉会式で、核兵器禁止条約に署名でもすればまさに日本でオリンピックをやった意味がある。

昨年、サッカーのオリンピック代表チームのユニフォームの発表があって、それがなんと迷彩色そのもので驚いた。「日本晴れ」をテーマに雲をちりばめたらしいのだが、どう見ても、海兵隊や海上自衛隊の軍服そのもので違和感を覚えた。

中東では、青の迷彩は、警察が着ることが多い。国際試合などで政治的に微妙な国同士が対決する場合は、青の迷彩を着たポリスがピッチの周りに配備され緊張感を醸し出す。しかし、日本人の多くは青の迷彩に戦争のイメージを感じてないようで気にならないようだが、もう少し気の利いたデザインはあったはず。一体だれがこういうのを考えるのだろう。

一方、日本サッカー協会は、昨年暮れに親善試合を広島、長崎で開催し、オリンピックイヤーに向けて、サッカー選手がヒバクシャの話を聞いたり、千羽鶴を慰霊碑に献上したりして盛り上げていた。森保監督は、長崎で育ち、広島でプレーした。2014年のインタビューでは、「ここでたくさんの人が亡くなられて、そういう方々の犠牲があって、今の我々の豊かな暮らしがある。幸せな暮らしがあるということ。そこは忘れちゃいけない。広島という都市で活動するものは、活動する意義を忘れちゃいけない」と広島ドームの前で涙ぐんでいた。いい監督だなあ。選手たちも、森保監督は謙虚な人で、意見を聞いてくれて素晴らしいという。

新年早々に、オリンピック出場権をかけたU23の選手権がタイで開かれた。日本は開催国なので、参加が決まっているが、残りの3か国をアジアで選出する大会だ。シリアと日本が同じ組だったので、僕は、シリアを応援していたが、なんと、日本は後半の残り数分のところで失点し負けてしまった。TVの解説は、シリアの選手が倒されていたがっていると、「わざとだ」というような下品な解説もあり嫌な感じだったが、
相馬選手は、インタビューで「やっぱり得点のあとにああやって泣いて地面にうずくまって喜ぶ選手がいたり、僕らも全力で戦うというのは話しましたけど、そこは本当に賭けているものが違うなというのは身に沁みました」と語り、対戦相手の五輪出場に対する気迫をひしひしと感じていたようで好感が持たれた。

結局日本は3試合やって一勝もできなかった。当然監督への批判が高まる。これ、今の日本社会だと思う。TVは今まで、森保監督は素晴らしい人格者みたいな持ち上げ方してきたのに180度変わって、「戦犯」扱いだ。

オリンピックに来るのは、韓国、サウジ、オーストラリアの3か国に決まった。個人的には、今も戦争で苦しんでいるシリアとかイラクに来てほしかったが、オリンピックを平和の祭典にするかどうかは、我々日本人にかかっており、世界から期待されていることを忘れてはいけないと思う。森保監督の平和主義者の部分はめげずに強く打ち出してほしいものだ。

しもた屋之噺(217)

杉山洋一

巷で「断捨離」という言葉をしばしば耳にするようになりました。特に物欲があるのでもなく、趣味らしい趣味もなく、不要物など捨てるよう常に心掛けていても、少しずつ家に物が増えてきました。ただ最近では、それは自分が音楽を生業にし、生きてゆく上で、過去から連綿と続いてきた時間の重さを、誰かがそれとなく教えてくれているようにも感じるようになってきました。

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1月某日 三軒茶屋自宅
元旦、珍しく家族揃って町田の実家で朝を迎えた。目が覚めると、子供の頃から使っていた黒漆の重箱と屠蘇器が食卓に用意されていて、息子がさも嫌そうに屠蘇を呷るのが愉快だ。そうして、揃って幼少から食べつけた大根のみの雑煮を食べる。
昔はこれに巾海苔をかけて食べたが、何時しか巾海苔も手に入り辛くなってしまった。この雑煮は元来網元だった湯河原の祖父の処で食べていた。

日は既に沈んでいたが、元旦の晩少し時間もあり、ちょうど湯河原を通りかかったので、思い切って家人と二人で祖父母の墓前に駆け付け、線香を焚き手を併せた。流石に店はどこも閉まっていて、仏花は買えなかった。
英潮院に届く吉浜の波音が心地よく、顔を上げれば満天の星が輝く。日暮れ後に墓参するものではないと言うが、何時でも出かけられるわけもなく、幼少から通い馴れた墓だからと許してもらう。尤も、家人が電灯を照らしていなければ、漆黒に月明りだけでは石階段の足元も覚束なかった。

1月某日 ミラノ自宅 
息子に付添ってノヴァラに出かけた際訪れた、分割主義(divisionismo)展覧会に強い衝撃を受けた。以前から興味があった社会派の画家モルベッリ(Angelo Morbelli 1853-1919)の、ミラノの回顧展に行きそびれたから足を運んだのが切っ掛けだったから、当初分割主義そのものには興味はなかったが、実際に眼前で彼らの作品を目にして、鳥肌が立つほど強く心を動かされた。

モルベッリの作品は、写真でしか見たことがなかったので、実物にこれだけ感動するとは想像していなかった。モルベッリだけではない。セガンティーニ (Giovanni Segantini 1858-1899)もロンゴ―ニ(Emilio Longoni 1859-1932)もフォルナ―ラ(Carlo Fornara1871-1968)も、写真からは到底想像できない筆致の瑞々しさと生命力に圧倒された。
ただ、写真と実物の印象がこれだけ乖離した体験は生まれて初めてで、すっかり当惑してしまった。実物を見て改めて写真で鑑賞しても、やはりさほどの感動は蘇らない。そこに興味を覚えて、数日後また息子を連立って展覧会へ赴くと、やはり実物に刻み込まれた筆致の一つ一つは、そのまま身体に響いてくるようである。

当世流行りの三次元絵画などより、手で書き込まれている分、妙に生々しい。以前から特に愛好していたボッチョーニ初期作が生まれる源を目の当たりにしているのだから、興奮せずにはいられない。
分割主義はスーラの点描画法に似て非なるもので、フランス新印象派の点描画と比較すると、そこには音楽、料理、言語、全てに共通する、近くて遠い伊仏文化の差異が明確に浮彫りになる。

女性の社会進出や識字率向上、貧富格差への社会批判など、分割主義の作家が好んだ主題もフランス印象派とは一線を画すが、何より印象派一般の風景が浮き上がるような効果と、分割主義者らの風景をカンバスに刻みこんでゆく効果は、ほんの少しゴッホを思い起こすところもあって、寧ろ反対の印象さえ受ける。今改めてイタリア印象派と呼ばれるマッキア派(macchiaioli)の作品を眺めれば、何か違った印象を持つかもしれない。

分割主義からは、イタリア統一運動に寄り添うヴェルディの触感はもちろん、蓬髪派(scapigliatura)に参加したクレモナ(Tranquillo Cremona 1837-1878)に端を発して、同じ蓬髪派だったボイトの世界観、ヴェリズモオペラの誕生に至るイタリア近代音楽史にまで思いを馳せることができる。
あれだけ丹念に一本ずつ書き連ねた光線に至っては、やはり写真では絡み取ることができないのだろう。

1月某日 ミラノ自宅
アルフォンソよりメッセージが届き、「天の火」のDVDが出来たと聞いて、少々愕いてしまった。
この曲はアルフォンソも親しかったフランコ・モンテヴェッキ(Franco Montevecchi1942-2014)が亡くなった折、彼と残された夫人のために書いたのだが、フランコは裕福な家庭の生まれで、音楽にも幼少から親しんでいた。彼の母親はピアニストだったから、家には旧いスタンウェイが残っていて、フランコ自身もピアノをよく弾いた。

そうして晩年までミラノとトリノの工科大の教壇に立ちバイオエンジニアリングを教えていたが、数年癌で闘病したのち亡くなったのは2014年だったから、もう五年が過ぎたことになる。彼とミーラ夫人は、工科大近くに大きな邸宅を構え、そこで演奏会も何度となく開いていたが、残されたミーラは自分には広すぎるからと、昨年暮れ近所の小さなアパートに引っ越した。

そうして以前の邸宅に残っていた家具の多くを、ちょうど昨日、ミーラや生徒に手伝ってもらい、拙宅に運びこんだところだった。だから、アルフォンソからの便りに吃驚したのだ。

どの家具も元来フランコの家から受継いだもので、ミーラとフランコに子供がいなかったので、拙宅へやってきた。
どれも1900年かそれ以前のものらしいが、詳細はわからない。ただ、現在の家具と違ってそれぞれ強く主張し、個性的な存在感を醸し出している。それらが置かれていた以前の家は、寧ろ実にモダンな造りで、地下室の天井も一面ガラス張りだったが、消防法に抵触するから、売却するため天井もすっかり造り替えられ、演奏会やレッスンに使った、光が差しこんでいた地下の広間は、夜のように真っ暗だった。

この家で、友人たちとアンサンブルを練習を始め、何度となく試演会を開き、友人を招いては少しずつ活動を広めていった。フランコは家人のピアノが好きで、何度も演奏会を開いてくれ、フランコは最後まで彼女のCDを喜んで聴いていた。
真っ暗の家を出る時、ミーラが「Ciao! Casa! サヨナラ!家さん!」と声を掛けていて、流石に胸に込み上げてくるものがあった。

この家具を受け入れる用意をするべく数日間家の整理をしていると、「坊ちゃんのご誕生おめでとう!!洋一くんが僕んちに来てたときのことを思うと、夢のようですね。お母さんになった方ともどもお大事にね。幸せを祈ります。僕は今夏ここで静養しています。軽井沢 三善晃GIAPPONE」という端書きが出てきた。懐かしく読み返していて、ふと気が付くと、その日がちょうど三善先生のお誕生日だった。

年始に荻窪のお宅に伺ったとき、由紀子さんが留学中に同宿していたルーマニア人に教わったというカリフラワー煮込みと、彼女のお父上のチェコ土産のシェリーグラスで、美味のシェリーを振舞って下さったのを思い出す。それどころか前回に等しく、先生が使い残した五線紙と、宗左近さんから贈られた古い蕎麦猪口二客迄いただき、甚だ恐縮する。

ほぼ酒もやらず骨董のコの字も分からない輩には、猫に何某、豚に何某だが、もう何年も肉も食べていないから、そこだけ先生に近づいたかもしれない。先生も滅多に肉は召し上がらなかったと、亡くなった後で由紀子さんが教えてくださった。頂いた端書きを、四客の猪口の下に飾る。

1月某日 ミラノ自宅
林原さんから借りたヘルゲルの「日本の弓術」は、実に含蓄に富む。日本文化をヨーロッパ人が理解するためには、かかる噛砕いた説明が必須であって、ならば逆もまた然りかもしれない。
ヘルゲルは我々と正反対の疑問に苦悩していて、合点がゆく部分もあり、不思議でもある。

自分と音の間に空間があって、そこに感情を込めると音は鳴らないし、輪郭も曖昧になる。クラシック音楽は、西欧の構造やその階層に則って構成されているためか、ほぼこの傾向にある。

我々日本人の特質として、一音入魂が生来備わっているのは、ヘルゲルから見ればどれほど羨ましかっただろう。無になること、無心になること、これは西洋的に考えれば、一音入魂してそこに同化している状態かもしれない。確かにその特質こそが邦楽の美学の礎となっている気もする。

そう考えれば、感情から発音された楽音では、全体を構造的に構築すべき西洋音楽には、表現手段として向かないのが理解できる。音一つ一つが意味を持ちすぎて、文章にならないともいえるし、一語一語が本来それぞれ繋がりたいと欲しても、完結した感情通し関連できないのかもしれない。

それとは別かもしれないが、日本人であろうとイタリア人であろうと、気持ちが先走って音がすくむとき、ちょっとした切っ掛けで視点が変わって、まるで頭にぽっかり第三の眼が開いたように耳が開くのは何故か。自分と音との間に感情の澱が淀んでいなければ、発音された空間の向こうで、気持ちは自然にすっと響きに入り込み、聴き手までそのまま飛んでゆく。

学生たちの耳の訓練も長く担当しているが、そこでは、音を耳で聴かずに、気楽に目で音を見るよう口を酸っぱくして教える。耳で聴いていると、集中するほどに、それは脳が自分に読み聞かせる音となり、現実と相容れなくなる。発音の前に気持ちで押し出すと、脳内の音に気持ちが籠るだけで、現実の音には反映されないのかも知れない。
余程馴れてない限り、楽譜に書かれていることを正しくやろうとすればするほど、音は表情を失ってゆく。正しい音楽など本来存在しない筈なのに、それを求めようとするからか。

人それぞれ話す言葉も使う語彙もイントネーションも違うが、最低限の文法規則は守って話しているのと同じで、音楽上の文法さえ間違えなければ、話す言葉はそれぞれ違ってよい筈だし、誰かの真似をしても、それは似非音楽に終わるだろう。我々素人が正しい日本語を話そうとすればするほど、自らの感情から乖離した、規則的な別の言語になってゆくはずだ。

西洋音楽上の文法とは、音楽を構成する各要素を、順番を間違えずに階層状に並べてゆくことではないか。一番下に構造があり、その上に和声があり、その上に旋律があり、フレーズがあり、強弱や音色などがその上にあるべく、バロック期から後期ロマン派まで、一貫してこのヒエラルキー構造を保持してきた。

例えば、構造上にそのまま強弱を載せれば、強弱に幅がなくなる。強いか弱いか、その程度の意味しか為さないので当然だろう。実際は構造と強弱の間には、さまざまな層が複雑に入り組んでいて、その上に強弱が載っているから、一つとして同じ弱音も強音もない。

一切の強弱の記号を排し、書かれた音を繰返し吟味した後で、その上に載せられた強弱と対峙すれば、より積極的に強弱記号と向き合うことができる。古典派のごく簡潔な指定にも、ウィーン後期ロマン派の一見不可思議な指定にも、同じ姿勢で向き合えるはずだ。第二次世界大戦とともに、かかるヒエラルキーは崩壊したとも言えるが、連綿と継承してきた音楽形態で演奏する上に於いて、本質的にあまり変わっていないようにも見える。

そのようにして楽譜を勉強した後、では自分がこの楽譜からどんな風景を、どんな色を、どんな匂いを感じ、表現したいと思うか。音符から頭が離れて、自分の世界を映し出した途端に、溢れるようにそれぞれの個の言葉を話し始める。それは本人にも他者から見ても不思議な光景で、何故かと問われても、何が起きているのか尋ねられてもよくわからないが、ともかく楽譜から音が解放される様は詳らかになる。

たとえば、先日もベートーヴェンの交響曲一番第一楽章の勉強を始めた二人の生徒に何を表現したいかと尋ねると、一人は自分が住んでいるヴェローナからミラノまで、18世紀風の汽車に乗りながら車窓に眺める風景(実際その時代未だ汽車は通っていなかったが)と言い、もう一人は、自分の住むノヴァラの市民を沢山載せた大きな現在の汽船が、河で火災を起こして人々が逃げ惑う姿だと言う。

因みにその彼曰く、二楽章は光景こそ浮かばないが、一面銀色か黄金色に耀いていると言うので、哀れなノヴァラ市民が昇天し後光が差す様なのか、と皆に大笑いされていた。ベートーヴェンの一番で、かような想像は普通は出来ないが、奇天烈であればあるほど、寧ろ強烈に身体に残像が残るのかもしれない。

国立音楽院で長くチェンバロを教えているルジェ―ロがレッスンに来たときは、モーツァルト「リンツ」第一楽章は、ミラノ南部の田舎をよく晴れた五月の週末に夫人と散歩する様で、第二楽章は夫人と夜半、静かに語らう様だと言ってから、これだけ持ち上げたのだから、夫人には大いに感謝してもらうと笑っていたが、その後で振った彼のモーツァルトは、音も深く、春の風景の光と匂いが漂ってくる実感を伴っていて、一同驚いたものだ。

実際内容はどうでもよいのだが、自分で何某具体的に想像し、口に出した後で演奏すると驚くほど音が変化する。別に自分が思い描いているものを他人に説明する必要もないし、常にそうすべきものとも思わないが、少なくとも楽譜の中に音楽はないと実感するのは無駄ではないだろう。指揮に関して、技術は本質的には意味がないのかもしれない。

(ミラノにて1月25日)

モロッコ

管啓次郎

いつ地中海をわたったのか気づかなかった
モロッコに着いてから海を見に行った
赤い空に緑の星が浮かんでいる
海を見ると別の海のことを思い出す
波が思考に通信を送りこんでくるのか
それでぼくらはカーボヴェルデの歌を聴きながら
ハワイ諸島の海辺のようすを語った
黄色い夕方が雨のように降って
灰色の海を記憶の狩り場にする
鷹匠を呼んできて小鳥たちに
この海は迂回してよと知らせなくてはならない
Aは力士のように大きなモロッコ男の外交官(詩人)
Zはリスボンで暮らすフランス語教師のブルガリア女(詩人)
出会って一時間にもならないのに
もうわれわれは詩をサッカー試合のように
熱烈に議論している
並んで磯に立ち、波を浴びそうになりながら
世界の背後にある詩を競馬のように予想している
言葉よりもイメージの破線を
直接波から借りられるなら
やがて三人で同時に呼びかけてみた
海よ、来い
波よ、来い
ここにはいない栄螺よ、のろのろとやって来い
ぼくらが声をそろえて「海!」というとき
その一語の背後に世界のさまざまな海がある
時空に隔てられた遠い海たちが
呼びかけられてたちまち集結する
緑色、ターコイズ、青色、群青色
それぞれの声がひらめや昆布や
プランクトンを率き連れてやってくる
水と水が記憶かお菓子のように
層をなして現われる
風の薔薇のように並んだ鰯をつまみながら
立ったままビールを飲んでいるのだ
いつでも駆け出せることを願いつつ
実際いつでも過去に戻ってゆけることを望んでいる
そんな心にとって過去と未来の区別はない
町(Rabat)に戻ると心が落ち着いた
ずんぐりした椰子の並木を歩いていると
ジャン・ジュネがずんぐりした坊主頭で
にっこり笑っている
「おれはその先のホテルに住んでいるんだよ
駅のそばの」
サインを下さいといいかかったが
死者にペンが持てるものだろうか
イメージでしかないのだ
肉体も存在もないし声もない
すぐ別れて看板を頼りに進んでゆく
アラビア語とフランス語ともうひとつ
知らない言葉の文字をときどき見かけている
意味も音もわからないのでそれは
ぼくには文字とはいえない
砂漠よりももっと遠い土地に住む
知らない民族の言葉らしかった
バス通りをわたると
旧市街地(Medina)に迷いこんだ
働いている遠い土地の民族の
背の高い女が頭よりもずっと高く手をあげて
その位置から見事にお茶を注いでくれた
サルト・アンヘルのような細い細い滝に
つかのまの虹が浮かぶ
野原のようにたくさんの葉が入っている
甘いミント茶を飲んで力をつけて歩いた
細い石畳の道がひんやりとつづき
あらゆる街路が二つに分岐してゆく
犬たちがいつのまにか集まってきて
何もいわずに後をついてくる
犬を集める檻をろばが牽いて行く
五百年前にもここを歩く他所者がいただろう
その誰かはあるいは中国語の
いずれかの方言を話したかもしれない
梵字が読めて
アラビア語のカリグラフィをよくしたかも
石造りの家はどこもしずかで
時間の水に沈んでいるみたいだ
五世紀前
「私」はまだいなかったが
「私」に連なる遺伝子はすでに誰かに乗っていた
何も覚えていないけれど
「私」の兆しはすでにあった
その先にある噴水の広場には
いまと変わらず立っていたことがあったかもしれない
私になる以前の私が曖昧な顔をして
そこは世界=歴史のメタフォリックな中心?
メタフォリックな中心に立つとき自分もまた
メタファーになる
何かを携えている
それを見ている自分はそこにいながら
遠心的に世界の縁をさまようことになる
ひとつの建物からウードの音が聞えてきたので
ついふらりと迷いこむ
すると意外にも友人たち(AとZ)が待っていて
ここで俳句を作れというのだ
反対する理由もない

 青い町 青インクで夜に 町を描け
 赤い村 赤土で顔を 鬼にせよ
 白い都市 暦の白に 迷いこめ
 黒い空 カラスの群れを 焚きつけろ

Aがにやりと笑う
それは俳句としてはどうかしら、とイッサがいう
「季語」はどこにある?
一茶ではないモロッコ人の彼の名は
アラビア語でイエス(キリスト)のことだが
俳句の知識はぼくよりもずっとたしかなのだ
ぼくは困って照れ笑いをするが
「照れ笑い」とは翻訳可能なのだろうかと
自信が持てない
俳句のためのイメージがなかなか訪れない
雨乞いでもしてみるか
音楽は進む
つい  “Não sou nada…” (私は何でもない)と苦し紛れにつぶやくと
Zがにっこり笑って “Fernando Pessoa” といった
それで救われた
“Nunca serei nada…” (私はけっして何にもならない)
もう夕方だ
記憶が間歇的になってくる時間だが
ペソアのこの言葉が甦ってきた

Não posso querer ser nada.  (私は何かになろうと欲することができない)
À parte isso, tenho em mim  (そのことを除けば、私のうちには)
Todos os sonhos do mundo.  (世界のすべての夢がある)

湖にみんなで行こうとハッサンがいう
ニッサンの車に乗ってしばらく走り
美しい夕方の光の中で
野鳥が集う湖畔を歩いた
そのときの充実はどこか田舎の
郵便局員以外には理解できないだろうな
空が赤く染まり緑の星が見えてくる
いつかはネクロポリス(死者の都)を訪れなくてはならないが
いまは歩きながら白夜の森を思い出している
まだしばらく歩行はつづく
自転車を押しながら歩いたあの道
湖での水切り遊び
凧揚げの思い出
夏の湖が夕方のように光っていた
魚が跳ねたと思ってふりむくと
亀が水面に落ちたらしかった
芭蕉の反復
別のかたちで
誰かがウードをつま弾き
それに答えるように琵琶の音もする
方丈に住んだ鴨長明が
出てきてくれたのだろうか
歌い交わすように
語り合うように
しばらくこの音色を響かせてくれ
この湖畔の光の中で

長い足と平べったい胸のこと(4)

植松眞人

 学校までの道は真っ直ぐで、右にも左にも曲がらずに続いている。二車線の車道があり、両脇に広めの舗道がある。銀杏の並木があって、今はまだ葉っぱが青い。わたしは青い銀杏の葉っぱが大好きで、時々立ち止まって見上げてしまうことがある。
 でもいまはセイシロウとアキちゃんへの苛立ちでガサガサとスニーカーの底を擦りながら歩いている。わたしはいつもスニーカーの底を擦って歩くクセがあり、そうならないように気をつけて歩いているのだが、いまはそんなことに頭がまわらず、学校に着くまでに穴が開いてしまうのではないかと思うほど、靴底を擦りながら歩いている。もしかしたら、右の足と左の足の長さが違うのかもしれない、とわたしが小さなころパパが言っているのを聞いたことがあるけれど、気をつけして立っている時にどちらかに傾いているという気持ちはしない。だからきっと、片側の靴底だけがどんどんすり減っていくのはわたしの歩く姿勢が悪いからだと思う。ずっと前にママが、世の中を斜めに見ているから、身体が斜めになって片方の靴底だけすり減ったりするんだと言っていたけれど、なんとなくそうかもしれない、と思ったりもする。
 だから、いつもは意識して、ほんの少しだけ身体を起こして歩くように気をつける。そうすると、靴底がアスファルトを擦る音が少しだけマシになるような気がする。そんなことを考えていると、ちょっと気持ちが落ち着いてきた。歩く速度を落として、身体を少し起こして、よし、今日これからのことに集中しようとした、その瞬間だった。後ろから、肩を掴まれた。驚いて振り返るとセイシロウだった。
 いつも学校で大人しくて、誰とも話さずぼんやりとして見えるセイシロウが、いまわたしの肩を意外に強い力で掴んでいる。そして、わたしはそのことにかなり驚いていて、さっきまでの腹立ちのようなものを急激に思い出している。セイシロウはそんなわたしをじっと見ている。
「なあ、なんで蹴るねん」
 セイシロウが口を開いた。
「腹が立ったからだよ」
 わたしが答えるとセイシロウは
「藤村はおれのことが好きやったのか」
 と驚き顔で言うのだった。
 わたしは、藤村のその言葉に驚いて声が出ず、ただ呆然としていたのだが、このままだとわたしが図星を指されて恥ずかしくて声も出ないということになってしまう、と焦って、もう一度、藤村の足を思いっきり蹴り上げた。
 藤村はわりと大きな声を出して、私の肩から手を離すと大げさなぐらいに身体をくねらせて倒れた。わたしは、倒れたセイシロウの脇に立って、「誰がお前のことが好きやねん。むしろキショイ。むしろ吐きそう」
 そう言うと、わたしが再び黙って歩き出し、学校へと向かった。すると、後ろでアキちゃんが呼ぶ声がした。
「よっちゃん、ちょっとこいつ締めなあかん」とドスのきいた声で言う。私が振り返ると、アキちゃんは倒れているセイシロウの上にまたがっているのだった。
 不思議なもので、誰かがとんでもないことをしていると、さっきまでの腹立ちが霧散してアキちゃんを止めなければという気持ちになり、わたしは二人のところへと引き返した。
アキちゃんの加勢に戻ってきたと思ったのか、セイシロウが「なんや!」と叫びながら身体を起こした。そのタイミングでアキちゃんがひっくり返った。ひっくり返ったアキちゃんの身体につまずき、わたしは二人の身体を覆うようにうつ伏せに倒れた。わたしたちは三人で片仮名の「キ」という字を書いているように銀杏並木の端っこでしばらく倒れたままになっていた。
 同級生たちはそんな私たちが見えないかのように、うまく避けながら学校へと歩いていった。(つづく)

茹でじらす

北村周一

赤児なりし祖父を抱き上げくれしひと

 男次郎長歌詞に知るのみ

やさしかりし祖父の名を持つシラス舟

 熊吉丸は清水のみなと

海を背に網繕える祖父にして

 かえし来す笑み日焼けしてあり

日酒ちびりちびりとやるは老い人の

 特権にして漁師の午後は

茹で上がりし笊のしらすを簾のうえに

 開けてほころぶおみならの声

うで立てのしらすを口に撮みつまみ

 干しゆく甘きこの茹でじらす

一合の量り升からこぼれたがる

 茹でじらすそをお口へはこぶ

三保沖にシラスを掬いそを茹でて

 日々のくらしは海に賄う

漁終えてガラス徳利一合の

 酒をくきくきのみ干すこころ

羽衣の松はいつしか銭湯の

 極楽絵図となりて名を成す

カラフルな釣り具のわきに釣り師いて

 寡黙なり雨の江尻埠頭に

雨上がりみどり滴る山並みは

 かくも真近し港より見る

この町から抜け落ちてゆくさまざまの

 おもい閉ざしてシャッター開かず

はつなつの三保沖、江尻、生じらす

 月夜の晩に従姉をさそう

茹でじらす晩夏ほろ酔いゆうぐれは

 袖師、横砂、かぜふくままに

183 手紙二題

藤井貞和

若松英輔編『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房)を、私も求めました。
立川へ出て、ジュンク堂(書店)で装丁に引かれて手にすると、新編志樹詩集でした。
木村哲也『来者の群像—大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』では、(編集室水平線の、
ホームページによると)志樹さんが故人だったため、取材が叶わず、言及も、
わずかなものになったとのことです。 若松さんは解説で、

  神さまへ
  妻へ 友人へ 野の花へ
  空の雲へ
  庭の草木へ そよ風へ
  へやに留守をしている オモチャの子犬へ
  山へ 海へ
  医師や 看護婦さんへ
  名も知らぬ人へ
  小石へ     (「てがみ」より)

を引いて、明恵の手紙である「嶋殿へ」を思い合わせています。
嶋へ、そして嶋の大桜へ、明恵は呼びかけて手紙をしたためます。
込山志保子さん作成の年譜も、志樹を支える家族や仲間たちにふれて、
心を打つ労作でした。 古書ですが、
思想の科学研究会編『民衆の座』(河出新書、昭和30年)では、
志樹が「病人——西木延作の生活と思想——」という一文を寄せています。

(明恵の友達の義覚坊という人の詠歌は不思議なリズムで、「ウレシサノ アヲフチ(青淵)ニ シヅミヌル ウカブコトゾ カナシカル」という、およそ短歌のリズムから外れており、同道して上京することが、嬉しいのか、悲しいのか、青淵とは何だろう、岩波文庫『明恵上人集』の注には語調が整っていないが、欠脱によるものでなく、本来この形であったか、とある。不可解な「かりごろもこずゑも散らぬ山かげに ながめわぶる秋の夜の月」(これも破調)について、義覚坊じしんの解答に、「かりごろも」は雲のことで、月が着ているのだという。「こずゑ」は雲のね(峰あるいは根)で、雲の先に円座ばかりの雲があるのをいう。「山かげ」も曇れるを言うと。ようするにぜんぶ、雲という次第。一つ一ついわれがあるので、けっしていい加減に作る歌ではないという主張である。「嶋殿へ」のエピソードは『栂尾明恵上人伝記』上に見える。)

揺れる目盛り

高橋悠治

音階理論の前に音階がある 理論ができると 音階はこわばり 自由なうごきの足枷になる

音階理論の前に音程理論があった octachord の前に tetrachord や pentachord 8度周期の枠より もっとちいさい4度枠や5度枠からはじめれば メロディーの線ははるかに自由になる ミャンマーには trichord の枠もある それらの組み合わせだけでなく それらの転換 ベトナムの音楽学者 Tran Van Khe が metabole と名づけたはたらき この変形として 小泉文夫のテトラコルド理論 その洗練と一般化である柴田南雄の「骸骨図」 それとは別に クセナキスのアリストクセノスと中世ビザンティン音程理論や記譜法から抽象化した「篩の理論」など 領域と固定音と浮動音の区別による音楽分析理論があるが 近代啓蒙主義科学から すくなくとも18-20世紀の人間中心の論理ではない展望をひらけるのか 

デリダの本でタルムードの体裁をしたものがあった 何というタイトルだったか 中心にテクストがあり 注釈が四方から取り囲む タルムードでは 中心のテクスト自体も 口伝律法の注釈で その口伝は 神のことばを 人間が聴きとったとされる律法の注釈とすれば だれでもないものの ことばでないことばを 耳から口へ 口から手へと移し(/映し/写し)ているうちに浮かび上がる さわり かんじ タマネギの皮を剥いていくように はがしとり けずりとり ちいさく 閉じていく と そのなかに 最後に残るのも やはり皮にすぎなかった それはことばにさえならない ひびきのない 音でもなく 動きでもない ふるえ ゆらぎ のような かすかななにか

中心もなく 周囲もないことば 意味を別な意味で消し 色に別な色を溶かし込み 響きを別な響きの余韻でぼかす 線は曲がり くねり 反り 面から離れてとぎれても その先に着地する 目盛りの針は止まらない 付かず離れず 良い加減の 連綿

壁ではなく膜 張らず ゆるく 寛く 薄く 透けて通(透)す 染み染まり にじみ 漏れる 薄明かり おぼろげおぼろに 仄めきも仄かに 影は翳り ……

2020年1月1日(水)

水牛だより

あけましておめでとうございます。
ことしも水牛をどうぞよろしく!
東京は明るく晴れて、冬の日らしい寒さの元旦です。

「水牛のように」を2020年1月1日号に更新しました。
ことしはねずみの年。「ネズミのいる生活」は富岡三智さんだけでなく、わたしもたくさん経験しています。少し前までは東京でもネズミはふつうに家に住み着いていました。物置の隅や屋根裏に住んでいる彼らは夜になって人間が寝静まると、人間の居住区域に出てきて、食べ物をあさるのでした。朝になって、固形石鹸を齧ったあとを見つけたときには、石鹸を食べたらおなかのなかが泡だらけになるのに、と子供ごころに心配になったものです。屋根裏を忙しそうに走る足音も、そういうものとして、こわいとも思わない暮らしでした。

一年が暮れていき、新しい年を迎える時期には、過ぎた一年をふりかえって、いろんなできごとがあったと少し感慨にふけってみたりしますが、日々というものはすきまなくつながって単純に過ぎてゆくものだと思い直します。スヌーピー曰く「だれにでも未解決の問題はあるもんだよ!}

それではまた!(八巻美恵)

新年

管啓次郎

深夜に誰もいない道を歩いていると
新年がやってきた
新月のように暗い夜に無音の花火が上がり
風車がくるくると回り出す
小人たちの一群が釣竿と猟銃をかついで
がやがやと歩いてくる
中心にいるのは新年だ
ぼんやりと発光しているのでそれとわかる
いったいどこに行くんですか
きみも来ればわかるよといわれて
後についてゆくことにした
歌をうたうわけでもないのに
心がうきうきしている
何の声も出さないのに
にぎやかな集団だ
シャッターの降りた商店街をすぎ
夜通し仕事をしている新聞店をすぎ
小学校をすぎ信者のいない寺院をすぎて
河原の空き地にやってきた
ここで魔物と対決するんだよと
裸足で歩く小人のひとりが耳打ちしてくれた
見ると大きな黒い影が
ゆらゆらと体をゆらしている
実体があるかどうかわからないが
妙に存在感の強いやつだ
新年はそれに比べるとずっと小さくて
光も頼りないほど弱いのだ
ぼんやりして見える
心配しないで私には勇気がある
という声が響いて新年が女だということがわかった
名前はヌヴェラン
やさしいヌヴェラン
冷たい風が吹き辺りは
カンザスのように荒涼としている
小人たちは思い思いに釣竿を
鞭のように鳴らしたり
猟銃をかまえたりしている
牛乳売りがガラス壜をかたかたと鳴らしながら
荷台が前にある自転車で通っていった
人魂のようなドローンがいくつか旋回して
どうやらこの場面を世界に
同時中継しているようだ
夜の川ではときどき水音がする
この水系だけに住むカワウソが
不眠にまかせて夜通し遊んでいるのか
ぼくは不安と好奇心のはざまで
やじろべえのように揺れている
すると対決がはじまった
黒い影は邪悪な魔
姿を変えつつこの世を不幸にする
腐った魚のような臭いを放ち
風にさからって空気をよどませる
愛想がよく言葉が巧みだ
といっても音声なく直接に
人の心に偽の映像を送りこむので
人々は誘惑され影のいいなりになる
動物たちはまったくだまされない
小人たちが釣竿を振り空気を切って
目を覚ませ目を覚ませという
猟銃に弾をこめいつでも
空を撃てるようにしている
だが影は邪悪なやつらを意のままに使うのだ
利権まみれの政治屋や自信にみちた教師たち
その手先になる卑劣なギャングや無自覚な優等生たち
すべて嘘で固めたニンゲンたち
でも犬猫はだまされないので
いつのまにかそこに集まって観客となっている
ごろごろにゃーん、おわあおわあ
ばうわうわう、あいおーん
喧噪の中で突然戦いがはじまった
影が新年をおさえこむ
もがく新年がひどく苦しそうな顔をする
(彼女に顔はないのにそれがわかる)
影は姿を変え彼女の足をつかんで
逆さにして吊り上げ遠くへ投げようとする
新年の光が急激に弱くなる
見ているこっちは心臓がつかまれる思いだ
すると夜の中ではその金色の目しか見えない
黒猫ばあちゃんが怒りの鳴き声をあげた
世界各地の雷鳴を合計したような
驚くべき音量だ
(アイスランドにエチオピア高原
雲南省にパタゴニア
金沢に奄美大島など)
それに答えて夜の鳥たちが
瞬時のうちに集まってきた
夜カラス、夜タカ、夜鳴きウグイスが渦巻く
そしてすべてを知るフクロウが
あの昼間は眠い目を大きく見開いて
アラビアの科学者のように
影の急所を鳥たちに指示する
一陣の風が吹き起こり
ぐるぐると竜のように巻く
勇気を得た新年が閃光を飛ばす
夜空が一瞬、美しい青に染まる
音にならない悲鳴を上げて
影はひときわひどい臭気を放ち
そのままちりぢりになったようだ
鳥たちに助けられた新年は
しっかりまとまった光となって
地上10メートルくらいのところに浮かんでいる
それから彼女はしんと冷えた
美しい声で
集まったものたちにこう告げる
みなさん、今夜はありがとう
これから夜明けがやってきます
みんなで恐れることなく入ってゆきましょう
誰もが生きられる新しい年へ
犬猫の群衆が
にぎやかな鳴き声で答える
鳥たちもそれぞれの言葉で
歓声をあげる
小人たちはよろこんで釣竿を鳴らし
空に鉄砲を撃って祝祭のようにする
すると小人(さっきの、裸足の)が
ぼくにささやくのだ
「でもね、影が散るのは
ほんの一時のこと、あいつは
必ず帰ってくる、臭い息をして
新年の戦いは今夜だけのことじゃない
いつもまた新しくくりかえされる
おれだってもう
三百年くらいつきあってるよ」
そういって小人はキャラメルをくれた
それからまもなく朝が来て
みんな新しい年の中に帰っていった

ネズミのいる生活

冨岡三智

今年は子年というわけで、今月はネズミとの思い出をあれこれ語ってみよう。

●留学前の日本での話~
ある夜、風呂上がりのあと台所で本を読んでいたら、オーブンの下からすぐ近くの棚の下に何かが走った気配がする。直接姿を見ていないが、これはネズミだなと直感。しばらくすると、もう少し距離が離れたコーナーの物陰に走る影。またしばらくすると、今度は素早く移動せず、様子を伺いながら出てくる。果たしてネズミだ。物陰でない所にまで出て来たから、私の存在にはまだ気づいてなさそうである。このまま悟られなかったら私の勝ち…と勝負を挑む気になり、私は息をひそめ、視線は床に落とさず、気配を消した。…ネズミは物陰のない所を横断して、私のいる食卓の方に近づいて来た。が、まだ私に気づかない。…私は木になりきろうとする。…私の足元の近くまで来た。…私は緊張感を出さないように気をつける。…が、ここでネズミがいきなり私の足の甲に上ってきた!しばらく我慢したものの、ついに足が浮いてしまった。当然、ネズミの方も驚いてオーブンの下に一直線に逃げ込んでしまった!(実は食卓はオーブンの近く)ネズミにとっては、私の足は小山にしか見えなかったのかもしれないが、いくら何でも足に上った時点で気づきそうなものだ。私の気配の消し方がうまかったというより、あのネズミの方が鈍感だったように思えてならない。

●ジャワの話
最初の留学時に住んだ家には、二階の物干し場に上がる階段の中にネズミが住んでいた。何匹かいたかもしれないが、私が目にする時はいつも1匹だけだった。この家ではその階段がある家事部屋が一番奥で、次に水浴場と水屋があり、次に寝室があり、一番手前が客間になっていた。入居当初はネズミも警戒心が強くて家事部屋でもなかなか目にすることもなかったのに、いつの間にか水浴場に、さらに寝室に進出してくるようになった。とはいえ、私が気づくと猛ダッシュで階段の方に駆け戻る。私は家にいるときは客間で舞踊の練習をしていることが多かったが、そのうち寝室との境(ドアはついてない)の所にまで来る気配がするようになった。その頃には、私がネズミを目撃しても昔ほど速攻でダッシュせずに一呼吸おいて逃げ出したり、ダッシュしても途中で一瞬立ち止まってこちらを振り返ったりするようになっていた。

そんなある日、私は男踊りの練習に疲れて床に腰を下ろしていた。腰の両脇に垂らしたサンプールという布はつけたまま、無造作に後ろに払っていた。壁にもたれてお茶を飲みながらぼーっとすることしばし…、さて練習を再開しようとサンプールを見ると、なんとサンプールの上にネズミが後ろ座りに座っている!目と目が合い、お互いにフリーズしてしまった。とは言え、ネズミの方が一瞬早く我に戻り、ダッシュで逃げ出す。普段はネズミの気配が分かるのに、しかも私が身に着けている布の上に座られているのに、全然気づかなかったのが不思議だ。それにしても、なぜサンプールの上に座ろうと思ったのだろう…。

このネズミは一度水浴び場の水溜めに落ちたことがある。夜中に私が机に向かっていると、水浴び場から急にパーンと物が飛ぶ音が聞こえた。さてはポルスターガイストか!?と気味が悪くなりつつ水浴び場に行くと、水溜めからパシャパシャ水音がする。見ればネズミが足掻いていて、私の顔を見るやキーキーと声を出して必死に鳴く。横に水浴び用のプラスチックの手桶が転がっている。さては、ネズミがこの手桶に飛び乗ったところ、手桶がひっくり返ってネズミが水溜にはまり、その反動で手桶は宙に舞って床に音を立てて落ちたのだろう…。トム&ジェリーみたいな状況だが、それしか考えられない。それはともかく、手桶を横にして水面に平行にネズミの方に近づけて掬い上げ、床に放してやると、いつもほどに機敏でないが階段の方に戻っていった。

この家のネズミには他にもいろいろと思い出があるのだが、どうも私を警戒しつつも存在には気づいてほしくて距離を縮めてきたような気配があった。家ネズミは2年以上生きることもあるそうだから、同一のネズミだったのではないかなと思っている。日本の我が家にいたネズミもそうだが、はしこい割には間抜けなところがあって、そこが愛嬌のあるところかもしれない。

182 天の紙と風の筆

藤井貞和

天の紙に、風の筆で、雲間の鶴をえがくこと!
山という機織り機械に、霜の杼(ひ)をかけて、
もみじの錦を織ること! ああ自由に、
詩文をあやつることができるのならば!
金色のカラスは西の宿舎に臨もうとする、
つづみの音がはかない命をせき立てる、
よみじには客も主人もいない、たった独りで、
この夕べ、家を離れて向かう

(鮎川信夫が終戦時に立てこもったという福井県境の土蔵を見に行ってきました。「鮎川さーん」と声をかけたのですが、返辞はありませんでした。この年、『戦中手記』を書いていた鮎川です。十数メートルに及ぶ巻紙にぎっしりと書き込まれたその手記を、横浜の近代文学館で見たことがあります。足が竦みました。国家もなくなり、歴史もなくなり、荒地すらなくなったこの国への、辞世みたいな手記。上の「天の紙……」は大津皇子の辞世の漢詩でした。)

裏切りとコンプライアンス

さとうまき

人生は裏切りの連続だ。

12月4日には、ペシャワール会の中村哲さんがアフガンで凶弾に倒れたというニュースが舞い込む。今まで、同業者が殺されると、ショックを受けて落ち込んだりした。でも中村哲さんの訃報を聞いたとき、「ああ、志を果たされて天国に召されるのだろう」という思いしかなかった。正直うらやましかった。

知り合いが、彼が残した言葉をいくつか拾ってFBに乗せてくれた。その中で心に響いた2つがある。

「誰かに裏切られたと思っても、すべてを憎まないことが大切。その部分だけではなく、良い面もあると信じて、クヨクヨしないということが何よりも大切」

人は簡単に裏切るものだ。イラクやシリアに入っていった人達はフィクサーに裏切られて、殺されていった。多分、中村哲さんの場合も内通者がいたのだろう。多分、お金をちらつかせると人は簡単に裏切る。僕も、イラクやシリアに入るときには、信頼のおけるローカルスタッフにすべてを任せるって豪語していたが、イエス・キリストだって弟子のユダに裏切られたのだ。資本主義と拝金主義がはびこる日本。最もビジネスの世界では、裏切りではなく、それも競争でしかないのかもしれない。

2番目。

「ちょっと悪いことをした人がいても、それを罰しては駄目。それを見逃して、信じる。罰する以外の解決方法があると考え抜いて、諦めないことが大切。決めつけない『素直な心』を持とう」と哲さんが言っていたそうだ。

ちょうど、62歳の学校の教諭が廃棄処分になるパンを4年間持ち帰って家で食べていたことが発覚して懲戒処分、依願退職させられたニュース。6月に、「ルール違反ではないか」と匿名の通報があり発覚したらしい。

パン約1000個、牛乳4200本分として31万円を市に返金し12月25日のクリスマスに依願退職したそうだ。弁護士によると、「微妙な窃盗にあたる」らしい。確かにルールはルールなのだが、イエスがわざわいだといったパリサイ人のような人たちがコンプライアンスを掲げている。インターネットの時代なのに、イエスの時代にさかのぼったような寓話だ。

というわけで2019年は終わりを告げて、2020年という忙しそうな年がやってきた。なんといってもオリンピックだが、戦後75年に日本でオリンピックをやるからにはそれらしきものを世界に発信してほしい。

鶴見俊輔(晩年通信 その6)

室謙二

 私は二十一歳だった。精一杯の背伸びをしていたのである。
 私は知的な人間であると思っていた。タダたくさんの本を読んだだけのことであったが。神田神保町の書店街が私の書庫であって、どの書店のどの棚になんの本があるか記憶していた。自宅から都電に乗って神保町でおりて、書店を回って私の本を棚からとって読めばいい。
 頭を振ってみると、活字が頭の中でガラガラと鳴ったのである。
 そして鶴見俊輔に会ってみたいと思った。
 片桐ユズルは、私の父親が自宅で主催する、意味論と英語教授法の研究会に参加していて、同時に思想の科学の記号の会にも参加していた。ユズルから、記号の会の鶴見俊輔のことを聞いていたし、すでに俊輔の本を読んでいた。

 なんで会ってみたかったのか? 自分の中に危機があったからである。
 それは特別な危機のように思えたが、いまから思えば単なる青年期の危機である。そして話に聞く鶴見俊輔は、私のその危機を、繰り返せば私はそれは特別の危機だと思っていたのだが、助けてくれると思ったのだろう。それで会いにいった。五十年以上前のことである。
 ずっとあとになって、津野海太郎が鶴見俊輔を紹介してくれ、というので会わせたら、帰り道に津野さんが「人間離れした頭脳だ」と言った。不思議な表現だったがあたっている。最初に気がつくのはすさまじい記憶力で、つぎに気がつくのは、遠く離れたものを結びつける想像力である。
 最初のころは、鶴見さんが何を言っているのか分からない。私が精一杯背伸びをして発言すると、はっはっはっ、おもしろい。ムロさんの言った、何々となになにの関係なんか、ユニークな指摘ですよ。と言われても、へー、私はそんなことを言ったのかと思う。俊輔は私には面白い人であった。大インテリをつかまえて面白い人と評するのは失礼かもしれないが、実際ワクワクするぐらい楽しい。だけどわからない。
 当時、記号の会は折口信夫(釈迢空)を読んでいた。
 折口もよくわからない。でもそこで上野博正に会った。上野さんは江戸っ子であって、産婦人科医にして飲み屋を経営して、新内をうたうということだった。何回目の記号の会のあとに、みんなで浅草に行こうということになった。それまで浅草なんかに行ったことがない。東京山の手の少年だったのです。

 縁でこそあれ末かけて

 上野博正が案内して、たしか一階がお好み焼き屋だったような気がするけど、そこの女将に、ちょっと二階を借りるよと気安く言ってあがっていく。それについて、俊輔さんも私も上がっていく。そして、なんとかサンをすぐに呼んでよ、と上野さんは言って畳に座って待っている。新内の仲間だそうだ。
 現れたのは三味線を持った若い芸子さんで、彼女がちょっと三味線の調子をあわせる。それから上野さんが、頭のてっぺんから出すような声で、体をよじりながら、「縁でこそあれ末かけて、約束固め身を固め、世帯固めて落ち着いて、ああ嬉しやと思うたば、ほんに一日あらばこそ」と歌い出したときは、私はぶったまげてしまった。まずその声の出し方である。生まれてはじめて、新内というものを聞いたのである。これはあとで調べると、心中の話なんだな。五十年以上まえのことだが、このシーンをはっきりと覚えている。
 鶴見さんは大喜びで、例のワッハッハである。私は二重に驚いた。上野さんの、からだをよじって出すおんなの声色の新内と、鶴見さんの態度にである。ハーバード大学で哲学を学んだインテリが、こんなものに大喜びするとは。インテリというのは、こういうものを否定すると思っていたのである。
 私の両親はともに大正デモクラシーの時代に青春と大学を経験していて、家族に反発して駆け落ち同然に大阪から東京に走り、家族制度に反対して反封建主義であった。特に戦争中の軍部の日本主義の利用を経験したあとでは、アメリカ輸入のデモクラシーからではなく、自分たちの経験から封建主義に反対することと、見合い結婚に反対することに徹底していた。特に母親がそうである。古い日本文化の否定である。
 新内なんかとんでもない。私の経験から、インテリというものは日本の古い文化を否定するものだと思っていた。ところが俊輔は、ワッハッハの大喜びなのである。インテリがこういうものを喜んでいいのかなあ?

 また別の記号の会のあとに、参加者で小さな神社を訪ねたことがあった。私はそれまで神社仏閣に入ったことがなかった。自宅には神棚も仏壇もなかった。両親は戦争協力をした既成の仏教も神道も信用せずに否定していた。ずっとあとになって、大学を定年退職してから、父親は親鸞に従う仏教徒になった。もっとも戦争責任のある既成の仏教を信用しないので、お寺にはいかない。僧侶にも会わない。亡くなる前に手書きの遺書を書いて、私は仏教徒なので、私の死を日本の僧侶と寺に触らせるな、とのことだった。
 母親も神社に出入りしない。近くに靖国神社があって、あるとき母親は「あそこに弟たちが祀られているのよ」と言ったが、絶対に入らないのである。神道が弟たちを殺したと思っていたのである。それで私も神社仏閣に、二十歳をすぎても入ったことがなかった。そんなところに入るのは、両親に対する裏切りである。
 ところが俊輔さんは、さっさと神社に入って、紐を引っ張って鈴を鳴らし、賽銭をなげいてれ、お辞儀をして柏手を打った。私は立ち止まって、呆然とそれを見ていた。
 俊輔さんは振り返ると、即座に私の状態を理解して、そのへんは素晴らしい洞察力なんだな、ムロさんお金はこう投げ入れて、鈴をこう鳴らして柏手はこうする、と投げ入れるお金もわたしてくれた。リベラルなインテリがこんなことをしてもいいのか、と思ったが、鶴見俊輔を尊敬していたので、真似をした。こうやって私ははじめて神社の境内に入り、日本人みたいなことをしたのである。

 俊輔は生きている、ということにした

 俊輔が亡くなったのを知ったのは、孫たちといっしょのカリフォルニアの山奥のキャンプ地であった。そこでは朝の一時間だけ、オフィスでWiFi経由のインターネットが使える。ポケットにiPhoneを入れてオフィスの前を通ったら、iPhoneが自動的にWiFiにつながって、俊輔が亡くなったというニュースを受け取った。私がそれを読みながら暗い坂道を上っていくと、突然に鹿が近寄ってきた。
 次の日になっても、鶴見俊輔が死んだという気がしない。
 それで俊輔のお気に入りだったNancyに、俊輔が死んだという気がしないんだ、と言ったら、だったら「俊輔は生きているということにしたらいいじゃない」と言われた。
 だから俊輔は、まだ生きているのである。

しもた屋之噺(216)

杉山洋一

大晦日の東京の夕日は久しく見られなかったようなうつくしいものでした。一面が暗い赤に染まり、吹きすさぶ冷たい風で空気がすっかり浄化されて、澄み切った風景の奥で、山々の黒いシルエットが鮮やかに凛と浮き立つさまは、実に清々しいものでした。

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12月某日 ミラノ自宅
忙しい日本からイタリアに戻り、日がな一日イタリアの学生を教えていると、心が落着く。祖父から教会つきオルガン職を引継ぎ3代目のフェデリコと話す。同じレパートリーばかり同じ要領で即興し続ける生活に嫌気がさして、フェデリコは作曲を学びはじめた。

彼曰く、得てしてオルガニストは神父とは仲が悪く、信心深くもならないと言う。神父は押しなべて吝嗇だと殊更に強調するのは、相場はミサ一つ担当して25ユーロにしかならず、領収書も契約書も神父から発行されない不法就労も多いそうだ。この条件では、教会を複数掛け持ちしてどんなに稼いでも一か月750ユーロ、9万円強にしかならず、それでは食べられないので、兼業を余儀なくされる状況は、ドイツやイギリスとはまるで違って酷いと嘆く。その上、聖歌はプロテスタントの讃美歌を流用し、最近はオルガンを使用せず、ギター伴奏も多いそうだ。アメリカンスタイル。

葬儀ミサは殆ど形態に変化がないので神父と折合いがつくが、結婚ミサは、しばしば神父と揉める。宗教と無関係の曲の演奏リクエストが多く、神父が反対するらしい。

日曜ミサを無理に一日に4回5回と入れて、合唱リハーサルを一週間のどこかで1回やって、一週間の給金は50ユーロ程度にしかならない。それも税金に申告できない不法就労だったりするから、とてもじゃないが、と嘆息を漏らす。

因みに、オルガンの稽古は真夜中に一人教会を開けて行うそうで、彫像やら壁や床に犇めく聖人や有力者たちの墓の犇めくなか、恐いと思ったりした経験はないらしい。Studiare con spirito! 気持ちを高めて練習するんだ、と笑うのは、spiritoとは伊語では亡霊の意味にもなるから。

亡霊と一緒に勉強する、というと、気持ちを新鮮に保って、みたいな意味に使われる。

彼曰く、葬儀ミサは大歓迎で、段取りも単純で短いし、棺から亡骸が見えることもなく、特に死者を意識することもないという。何しろオルガニストの演奏場所は、通常参列者よりずっと高いところにある。ともかく、信心深いオルガン奏者などいるわけがない、とフェデリコが力説するのは愉快だった。

12月某日 ミラノ自宅
高校からの友人、年森宅を訪れて、彼女が携わっている音楽療法のヴィデオを見せてもらう。グランドピアノに癲癇の少女をのせて、二人で即興劇をやる。学校でもどこでも、突然癲癇のショックに襲われて記憶が抜け落ちる。先生からも友達からも彼女は「特別だから」と扱われているが、それが彼女の自信喪失に繋がる。小さな犬のぬいぐるみは、彼女の分身。この犬は「わたしは特別なんかじゃないの、わたしは特別なんかじゃないの」と即興で節をつけて繰返している。

昨日は東京で大石君と辻さんの新作本番だった。2回程練習の録音を聴かせていただいたが、二人ともそれぞれの世界が実に豊かで、作曲者が口を挟むこともあまりない。本番の演奏を聞いた垣ケ原さんより便りが届く。歌舞伎の冬をおもわせる和太鼓からはじまり、春夏をすぎ、最後は「奥山に紅葉ふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき」を想起したとのこと。演奏家も聴衆も、作曲者よりよほど感受性が豊かかもしれないし、演奏者の感受性が聴衆を直接感化することもあるだろう。

12月某日 ミラノ自宅
スタンザの譜割りをしてから昔の録音を聴くと、楽譜と多少違う部分もある。これは武満さんが望んだのかもしれないし、単に演奏が困難だったのかもしれない。実際演奏を聴いて作曲者が変更することも普通にあるし、曲者の趣味そのものも時間とともに変化してゆく。作曲時の演奏を蘇らせるのは、試みとして意義もあるし興味深いが、実際はその作家の人生の、ほんの一部分のみを切出すことになる。勿論それが悪いというのではないのは言うまでもないし、演奏の質とは無関係だ。

先日の京ちゃんの新作でも、fpとsfの表示でアタックについて、二人で意見が割れた。fpのfは発音の固くないsfに近いのでは、というと意外な顔をされた。イタリア語話者の演奏家なら、sfと書かれていれば、このsfはどの意味かとしばしば確認する。Sforzareは強調の意味だから、fpにはならない。全体の強弱がpの部分に、sfと書かれていれば、イタリア語としては、全体的にpの部分で、sfはpのなかで強調されるべき音、という意味になるが、音楽用語の慣用表現として、fpに近い表現を求める作曲家もいるだろう。つまり、何を強調するのか、演奏家の間で、意味を統一させる必要がある。尤も、相手がイタリア語話者でなければ、このニュアンスはわからないので、自動的にfpと同義と理解されるだろう。

先日カセルラを演奏した際、楽譜にAlquanto allargandoと書いてあり、このAlquantoの意味を巡って、演奏者間で意見がわかれた。意味としてはAssaiやAbbastanzaに近い言葉だが、現在は使わない表現で、「かなり」「随分と」という曖昧な意味をもつ。MalipieroでもPiuttosto lentoという意味としては似たような指示があり、これもオーケストラ団員通しでそれぞれ意見が割れた。

閑話休題。武満作品であれば、結局楽譜に書かれた通りに演奏するよう、努めるしかないだろう。録音でこうやってい、というのは、作曲者本人から直接聞いたわけでないのだから、確証としては弱い。たとえ、それが例えば晩年の武満さんの趣味と違っていても、残された楽譜を尊重するしかないだろう。案外、作品作曲時の武満さんの意図には、より忠実な演奏が実現できるかもしれない。

尤も、悠治さんや京ちゃんのように、作曲者が元気なうちは、彼らの意見を反映させた演奏を続けてゆくに違いない。一見楽譜と違っているようでも、たとえ彼らがそこにいなくても、彼らの意にそぐう演奏を目指すことになるだろう。ダブルスタンダードで矛盾していても、文化の形成とは元来そういうものではなかったか。

12月某日 ミラノ自宅
波多野さんのプラテーロを繰返し聴く。演奏の誠実さ、詩の翻訳の美しさ、感情に流されぬ、客体化された朗読の美しさが相俟って、ひたひたと作品の思いを伝え、プラテーロの魅力が凛と際立つ。カセルラに学んだカステルヌオーヴォ=テデスコは、日本ではピッツェティの高弟と紹介されることが多いが、カセルラの影響も等しく顕著だと思う。尤も、本国イタリアではピッツェッティとカセルラでは、圧倒的にカセルラの方が評価が高い。

12月某日 堺ホテル
堺で御喜美江さんの演奏会にうかがう。満席の観客が演奏に集中する姿に感銘を覚える。演奏のすばらしさは言うまでもなく、御喜さんはお話も実に上手で、演奏の緩急を活かした、効果的なプログラムと、聴衆の感情にしみわたるような音楽で充足感を覚えて帰途につく。
聴けば、聴衆のほとんどが堺地域の方たちだという。百舌鳥、古市古墳群がユネスコ世界遺産に指定されて、堺市民が自らの街の歴史、文化に目覚めたタイミングでもあるのかもしれない。

武満作品演奏会の準備において、演奏者全員が3日間堺に合宿する恰好になったのがよかった。演奏姿勢が共有できたし、リハーサル以外の時間も演奏者通し共に過ごしたりして、親睦も深めた。何より武満さんの60年代室内楽作品をこれだけ纏めて勉強したこともなかったので、自分にとっては、またとない貴重な機会となった。一見複雑なオーケストラ作品よりも、室内楽の方がずっと難しい。

12月某日 堺ホテル
60年代の武満作品を、まとめて実演できたことは、限りない喜びだ。残されている録音一つだけで音楽を判断するには、音楽が豊か過ぎる。聴こえる音にも対しても録音ではバラつきが生じるだろう。実演はやはり作品に空間性が生じる。何しろ、先日の悠治作品でも痛感したが、半世紀前の現代作品は、音の説得力がまるで違う。音の質量も現在とは比較にならないほど高いのは、これはどういうわけだろう。思わず自らを省みたくなる。

その音の説得力は、演奏者にも大きく影響を与える。演奏は極めて困難だったりするが、音の力が、演奏家を文字通り惹き込むのだ。そうして生まれる演奏は、聴衆に対する音楽表現としても、説得力が極めて高くなるのは、当然かもしれない。

今回、堺での武満ミニフェスティバルは3日通して、全て満席だったのにも愕いたが、一日目の60年代室内楽の演奏会でも、聴衆は最後の一音まで、集中を欠くことはなかったのに、心底驚嘆した。聴衆の潜在的な文化度、民度の高さと、作品がもつ世界の深さがあって、初めて成立する関係だったとおもう。

二日目の合唱演奏会では、歌っている合唱のみなさんの感動が、そのまま聴衆に伝わってくるようだったし、三日目、真樹さん、荘村さんとcobaさんの演奏会最後は、スタンディングオベーションで幕を閉じた。とても大切なものの手触りを実感させられる堺での滞在となった。

12月某日 町田実家
ここ暫くずっと気になっていて時間が見つけられなかった墓参に出かける。朝早く、三軒茶屋自宅脇から大森駅にバスで出て、東海道線で茅ヶ崎へ向かう。

仏花を探して、駅前の路地をしばらく徘徊しつつ、強烈な郷愁に襲われる。相模湾沿岸の鄙びた風景は、幼少から数えきれないほど通った街の潮の匂いに繋がってゆく。

この辺りは母の旧姓「三橋」の苗字が非常に多く、墓石はどれにも「三橋」と書いてある。異字で「三觜」と書いて区別しているものもある。うろ覚えのまま、花を手向け線香を焚き、念のため母に墓石の位置を確認してもらったのは、既に横浜まで東海道線で戻ったところだった。

今度いつ来られるかわからなかったので、茅ケ崎に戻り、母から聞き伝えの墓石を訪れると、白い杖をついた小柄の老人とその家族らしき人が7、8人集っている。

愕いたことに、操さんと言う88歳のこの老人は、母が幼いころに生別れた近しい従弟で、母が24歳くらいのときに彼の家を訪ねたとのだという。眼はよく見えないようだったが、「千恵子さんの住所は5の10でしたっけ」と実に闊達で、鮮やかな記憶力に舌を巻いた。「5の10」は、昔住んでいた住所だ。息子さん曰く、操さんは最近は英語を学んでいて、「自分の父親ながら、感心しますよ」と笑った。慌てて皆で写真を撮り、連絡先を交換して、待たせていたタクシーに飛び乗り、母に報告の電話をかけた。その瞬間ふと気が付いて、運転手に寺に戻ってほしいと懇願した。ウナギの寝床のような、車一台漸く通れるほどの辻を、そろそろとバックしながら寺まで戻ってみると、操さんたちもちょうど寺を出発するところだった。母に電話をつないだまま、慌てて操さんに駆寄り、直接二人で話してもらうことができた。

「もう兄弟で残っているのは僕だけですよ」と電話口で操さんは明るく母に話していた。

その表情は寂しさとか悲しみより、もう兄弟たちは皆とうにあちらで落合って楽しくやっているが、自分だけがまだ居残りでねえ、でもあちらで揃って待っていてくれるからねえ、という、安心感なのか、さっぱりとした口調が印象的だった。素敵な齢の重ね方に感じた。

昭和10年だったか11年だったか、母が生まれ直ぐに病死してしまった祖父は、最早、墓の近くにはいない気がしていたが、吸寄せられるように巡り合った操さんの家族を前に、自らの早計に恥じいる思いがした。

(12月31日町田にて)

そらの空白

北村周一

身にふかく落ちてはひらく点描の雨はしばしばこころにも降る

ふいの死のおもみをはかり損ねつつもどす受話器の意外な重さ

六月の雨に濡れたる家々のしずかなること 義弟さき立つ

草いろのけむり重たき雨の日の午後を鋭く蕎麦すする音

庭を降る雨と語らうひとときを写真のひとは嫋やかに笑む

低い声にときおり和する高い声 だれもがみとめ合うために死を

腰に巻くベルトをくびに添わしめて泳ぐ視線のさきざきに雨

不図われにかえりしきみがなにごとか躊躇うようにのぼる階段

折り方を思い出しつつオリヅルは通夜を彩ることばとなりぬ

いもうとよ、ぽつりぽつりと風呂おけに落つる水滴死に切れずあり

あかときのホテルに眠る現身の生きるというは音立てること

折り畳み傘をぺきぺき撓らせて死者の側へとそを差し出だす

任意の点見失いたるひとつぶの雨の軌跡をてのひらに受く

「止むかしら」蒼み帯びたる水無月のそらにちいさく息を吐くひと

一台の特種用途車しみじみと見送りしのちのそらの空白

編み狂う(5)

斎藤真理子

 誤算した。

 年末なので、師走に毛糸を買う話を書こうと思っていた。
 具体的には、何度か読んだ昔の小説の一場面だ。二人の女性作家が、年の瀬の賑やかな町で、舶来の毛糸を買うのだ。
 1930年代後半の話。

 舶来の毛糸。
 メーカー名も覚えている。ビーハイヴ、或いはビーハイブ。イギリスの有名な会社で、ここの毛糸は高級品だった。糸そのものの質が高いうえに、「トップ染め」という工法で染められていたからである。トップ染めとは、糸に紡ぐ前の羊毛の段階で染色すること。糸に加工してから染めるとべったりと平板な色になりやすいが、羊毛の段階で染めた毛糸はずっと色に深みがあり、また色褪せもしにくかったようだ。

(図版は『主婦之友』昭和九年十一月号の広告。主婦の友社が代理店となって、国産のアトラスという毛糸と、英国製のビーハイブの毛糸の両方を扱っていたらしい)

 憧れの毛糸だった。
 と、いうようなことを得意げに書こうと思っていたのだった。
ところが、いざその小説を読み返してみたらビーハイブが出てこない。

 そもそも毛糸を買うシーン自体がない。一冊読んでしまっても誰も毛糸を買わないので、あれーと思って、もう一冊思い当たるブツを図書館で借りて読んでみた。
 またもや、誰も毛糸を買わない。ほかのどうでもいいものばっかり買っている。そんなあ、と思ったがもう時間がない。

 こうなるともう、毛糸玉の糸端を見失ってしまったようなもので、手が出ない。
 毛糸玉の糸端なんて造作なく見つけられると思うかもしれないが、そんなことない。編み物をする人は、玉の内側から糸を引き出すのです。その方が糸が汚れず、きれいな状態で編めるからだ。そのため、内側の糸端にメーカーが紙のタグをつけてくれている。

 自分で「かせ」から玉に巻くときも、内側の糸端がちゃんと確保できるように気を配って巻きはじめる。ところが、「巻き」の強さとかいろんな条件によっては、糸端がこんがらがって出てこなかったり、たいへん手こずったりすることもある。
 どうも最近、私の記憶自体がそんなふうになっている。

 ビーハイブの毛糸を二人の女性作家が買う。もうちょっといえば、二人の作家は二人とも、プロレタリア作家と呼ばれる人たちだ。
 そういう描写が絶対、世界の中にあった。だって読んだんだから。けれども、毛糸玉の糸端がどっか別のところに結ばれてしまって、そこを引っ張っても呼び出されてこない。
 どこかこの界隈にはいるはずなのだが。

 年の瀬で町は賑やか。でも、時代が良くない方へ変化していくことをありありと感じながら輸入品の毛糸を買うという、それは贅沢だったのだと思うが、贅沢と覚悟とどっちの方が多かったのか、読むたびにその比率は変わって感じられるだろうと思って半ば予想していたから、また読み返すのが楽しみでもあった。のだが、ふたをあけてみたらそこになかった。毛糸玉が。

 なので、幻の糸端を持ったままで年越しをすることにします。

 1930年代後半の舶来毛糸は、あたたかく、色がよく、長持ちして、何度ほどいて編み直してもへたりが少なく、自分と家族を守るものだから買われたはずだ。そんなときにも、編み狂う一瞬は誰かのところに必ずあったと思うが、編み狂いだけに浸っていられるような時間が許されていたかどうか。
 私がそんなことをしていられるのは寿命が延びたからだ。
 そんなことを考えながら。

 セーターも毛糸玉もほぐせば一本の糸であることがよい。
 別に素晴らしくはなくて、単に、よい。

長い足と平べったい胸のこと(3)

植松眞人

「エモい」とアキちゃんが小さな声でつぶやいた。そう言ったままアキちゃんはセイシロウが女の子とつないでいるややこしい手元を見つめていた。わたしは「エモい」と「エロい」はどう違うのか、と思っていたのだけれど、アキちゃんはどう見たって少し興奮気味で、朝の通学の電車の中で妙な空気が出来上がっていた。

 前から思っていたのだけれど、アキちゃんはあんまり賢くない。どちらかというとアホだ。アホのくせに感覚的に賢そうなふりをしようとする。不思議なものでアホな子が賢そうなふりをしようとすればするほど、アホに見えてしまう。

 電車が揺れる。アキちゃんが冗談半分に揺れにあわせて、わたしの身体を押した。わたしはセイシロウのほうへ押し出される。おじさんを一人挟んで、わたしとセイシロウが立っている。わたしは身動きが出来なくなって、しばらくの間、セイシロウの横顔を眺めている。セイシロウはそんなに背が高くない。きっと一七〇センチあるかないか。わたしは女子の中では背が高い方だから、顔の位置があまり変わらず、ほんの少しだけ見上げる格好だ。わたしはじっとセイシロウを見ている。セイシロウは色が少し白い。そして、セイシロウはまつげが長い。だから、髪を伸ばせばもしかしたら女の子に見えるかもしれない。ただ、セイシロウを男らしくしている部分があるとすれば眉だ。セイシロウの眉は濃い。太いわけではなく、濃いのだ。キリッとしている。セイシロウが普段あまりしゃべらないのに、なにかちゃんとした意見を持っていそうに見えるのは、きっとこの濃い眉のせいだと思う。

 わたしがセイシロウの眉をじっと見つめている時に、セイシロウがふいにわたしを見た。顔を動かさずに瞳だけをこちらに向けて、わたしを見た。わたしはセイシロウと目が合ってしまって驚いた。驚いて視線を外すことが出来ず、ただじっとセイシロウを見つめてしまった。セイシロウは笑った。何を笑ったのかはわからなかったけれど、確かにセイシロウは笑った。そして、セイシロウが笑った瞬間にわたしは我に返って、セイシロウから視線を外して下を向く。下を向くと今度はセイシロウと女の子の握り合っている手が見えた。二人の手はさっきよりも、ほんの少し動いていて、これはもうアキちゃんいう「エモい」なんてレベルじゃなく、絶対に「エロい」だった。

 わたしの胸にはふいに怒りのようなものがこみ上げてきた。クラスでも大人しい、まともに女子と話もしないような男子が、朝っぱらから電車の中で女の子の手をエロく握っているという現実が受け入れられずにわたしは明らかにむかついていた。セイシロウ、てめえ!と思いながらわたしは視線をセイシロウの顔に戻した。セイシロウはじっとわたしを見たままだった。わたしを見ながら、セイシロウは他の女の子の手をいやらしく握っているのだった。わたしはまるで自分の手を握られているかのような気持ちになって混乱した。アキちゃんは自分自身が気付かないうちにエロい目になってセイシロウの手元を見ていた。わたしはそんなアキちゃんにもむかつきながら、おじさんの向こう側にいるセイシロウの足を蹴った。わたしの前にいたおじさんは驚いた顔をしたけれど、わたしにはわたしが止められなかった。おじさんの足と足の間から、わたしはセイシロウの足を目がけて、自分の足を蹴り上げた。わたしの足は、ほんの少しだけおじさんの足をかすりながら、セイシロウのふくらはぎあたりを蹴った。

「いてっ」

 セイシロウは小さく声をあげて、おじさんをはさんで、私の方に向き直った。ちょうど電車が駅について、私は一緒の駅に降りる同じ学校の生徒たちを押しのけながらホームに降りた。後ろから、「よっちゃん!」というアキちゃんの声と、「なんだよ藤村!」というセイシロウの声が同時に聞こえた。わたしはその声を無視して、誰よりも先に改札を抜けて学校への道を歩き始めた。(つづく)

製本かい摘みましては(151)

四釜裕子

江戸時代の明暦の大火や富士山の噴火、日本にはほとんど史料が残っていない肥前長崎地震(1725~26)の記録などが、長崎にあったオランダ商館の歴代館長の日記に残されていたそうだ。1年任期で来日した館長らは「日記」をつけることが義務付けられていて、1633年から幕末1833年までの197冊が、オランダのハーグ国立公文書館に収蔵されている。

フレデリック・クレインスさんの『オランダ商館長が見た江戸の災害』で読んだ。ワーヘナール、ブヘリヨン、タント、ハルトヒ、ファン・レーデ、シャセーという6人の館長を中心に紹介されていて、日記の中から災害についての記述をひろい、磯田道史さんが解説を寄せている。出島からの江戸参府の道中で、おのずと見聞きしたり体験もしたようだ。オランダ人の目には日本人は災害に対してあっさりして見えたようで、火事のあとなどは燃え残った材木を集めさっさと小屋を作ってしまうのに驚いた、ともある。後述する「江戸火災図」などでは人々が天を仰ぎ悲嘆に暮れているようすが描かれているが、実際は天を仰ぐ余裕もないわけで、ここは空想のバイアスを楽しむところだろう。

ハルトヒが就任した1725年10月からは半年以上地震が続いたそうだ。特に詳しく、その心情も記されている。〈ハルトヒはふたたび日記の「読者」に向かってこの状況下での生活がどれだけ惨めであるかについて長々と訴えている。そして、すでに七十四日間も続いている地震がまもなく終息してくれるよう、ふたたび神に祈りを捧げている〉。「読者」とは、東インド会社のえらいひとや後任の館長ということだろう。ならばこのハルトヒというひとはあまりに正直というかあまりにつらかったのかもしれない。上司が実際にその日記を読むのはだいぶあとだから、書いても「訴え」にはならず愚痴になるだけであろうに。ともかく、歴代館長の日記は書記によって「写本」が作られ、東インド会社のアジア本部があるバタフィアへ、そしてオランダへ送られた。公にされることはなかったが、いくつかは個人的に持ち帰られて、本になることもあったらしい。そうか。「写本」するのか。どのタイミングで、何冊ぐらい作ったものなのか。

たとえばワーヘナールの日記の写しは、没後、オランダの作家・モンターヌスが手にいれて、ほかの東インド会社社員の渡航日記と合わせて『オランダ東インド会社遣日使節紀行』(1669年)となった。オランダ人画家による挿画「江戸火災図」などは、画家でもあったワーナヘールの明暦の大火の記録を参考にしたようで、木桶で水をかけるようすや屋根にかけたはしご、荷車などが鮮明だ。それに比べて、日本人の顔、表情はともかくとして、体型、着物、髪型などはあまりにトンチンカンで笑える。仏像も下手。むずかしい、苦手、というより、興味が向く順番として下位なのだろうか。先に知った他のアジア人との区別がつかなかっただけかもしれない。『オランダ東インド会社遣日使節紀行』は英仏独語に訳されてぞくぞく出版、明暦の大火にいたってはたった12年の時差で海外に伝えられたことになる。

シャセー館長時代に商館付属の外科医として勤めていたアンブロシウス・ケラーというひとも、こちらは宛先はなかったが報告書をさまざま書いたそうだ。その「写本」もまもなく本国に渡り、島原の災害についてはなぜかケラーの名を記すことなく、「月刊オランダ・メルクリウス」(1794年3月号)に掲載されたという。その「写本」の一つは元商館長ティツィングの手にもわたって、やはりティツィングもケラーの名を記すことなく、島原の災害のことを『歴代将軍図譜』(1820年)に掲載したそうだ。こうなると、例えばケラーのそれは「写本」って言うのかしらと思ってしまう。書き写しただけじゃん。あ、だから、いいのか、「写本」で……。報告書や日記の写本は筆跡も真似るのかな。

『歴代将軍図譜』の挿画「島原地震噴火津波」は、四角く描いた島原城を中心にして、地震・噴火・津波のようすを俯瞰して一輪のバラの花のように描いていてすごくいい。これを描くひとに、誰がどう説明したのだろう。『オランダ東インド会社遣日使節紀行』も『歴代将軍図譜』も、国際日本文化研究センターのウェブサイトから見ることができる。