遠藤ミチロウ追想

若松恵子

時代が令和に変わって、最初に飛び込んできたニュースが遠藤ミチロウの訃報だった。お祭りムードに水を差すような、最後までミチロウらしいなという感じがした。

浦和の古本屋で、パーカッションの関根真理と結成したばかりのユニット、ハッピーアイランド(福島のことらしい)を聴いた夜が最後になってしまった。アコースティックギターで歌うミチロウにやっと間に合って、これからを楽しみにしていたところだったから、彼の歌をもう聴くことができないのは本当に残念だ。

その夜、終演後に「セットリストをください」と話しかけた若者がいて、「セックスしてください」と言われたと聞き間違えたミチロウは、絶句してしまった。聞き間違え方の経路もミチロウ独特だなあと思うけれど、きっと、一瞬、本気でどうしようかと迷ったに違いない、そう思うと忘れられないエピソードだ。日経新聞の追悼記事で渋谷陽一が「人柄の良さ」と表現していたけれど、遠藤ミチロウはそういうやさしい人だった。

10月14日に、渋谷のクラブクワトロで追悼ライブ「死霊の盆踊り」が開催された。年代も音楽スタイルも多様なメンバーが集まって、ミチロウの世界の幅の広さを改めて感じる5時間だった。ミチロウなしのMJQ(山本久土とクハラカズユキ)と羊歯大明神(山本久人、関根真理、石塚俊明)の演奏が心に残った。音頭をギター1本で支えていた山本久土が、ミチロウの代わりに歌った。ミチロウのスピリットは、彼が継いでいくんだなと思った。

来場者に配られたパンフレットには、丁寧につくられた年譜が載っている。ヒッチハイクで山形から九州に旅行する、頭脳警察や友部正人のコンサートを大学で企画する、大学卒業後にネパールなど東南アジアを1年間放浪する・・・。初めて知る若き日のミチロウの足跡。年譜に添えられた若いポートレートは、女の子みたいな髪型で、笑う目元が本当にやさしい。

誰もいない映画館

笠井瑞丈

10月18日祖母が亡くなった

5年過ごしたドイツから父と二人で日本に帰る
私は9才から11才の2年間を祖母と過ごす

あまり父も家にいなかったので
おおくの時間を祖母と過ごした

ドイツの学校から
日本の学校に移る

最初は日本の環境に慣れることが出来ず
友達も作ることが出来なかった

ドイツでは野原を駆け回って
サッカーをしてよく遊んでいた

日本ではちょうどファミコンが一大ブームの時であった
遊ぶと言ったら誰々の家に行ってファミコンをして遊ぶ

私にはまだその「誰々」というものがいなかった
学校終わりはいつも「今日誰々の家に何時に集合ね」

私の友達は祖母であり
私の母親は祖母であった

日曜日は必ず教会に連れてかれた
そしていつも千円を渡され
好きな本を買う
この本を探しに行く時間が
私にとってはたまらなく
大好きな時間であった

当時私はジャッキーチェンが大好きであった
ジャッキーチェンの本を買ったつもりが
間違えてブルースリー の本を買ってしまった

しかしこの時買ったブルースリーの本が
初めてカラダというものを捉える
きっかけになった本になる

それから

ブルースリー に毎日どっぷりはまり
彼のようになりたいと日々没頭した
カラダを動かし
足を高く上げる
回ったり
飛んだり

今考えればあの時が初めての
ダンス体験だったのかもしれない

金曜ロードショー

テレビの前に椅子を並べ
自分だけの映画館
作る
誰もいない映画館
作る
祖母だけがいつも観に来てくれた

毎週映画を観た

私の中の一番の最高の記憶

亡くなる三日前

祖母の目の中のには炎を見た

その瞬間に
全ての時間がよみがえった

ありがとう

私の中にあなたがいる
あなたの中に私がいる

また一緒に映画を観よう
サヨウナラ サヨウナラ サヨウナラ

ハロー、グッバイ。サブリーンの思い出

さとうまき

10月16日は、イラクのある少女の命日だった。

サブリーン・ハフェドが亡くなってちょうど10年。僕は、仕事をやめて、つらい状況に追いやられている。仕事から離れたら僕と付き合っても金にならないから人はどんどん去っていく。一方で、それでも付き合ってくれる優しい人たちもたくさんいることはうれしい。

イブラヒムというイラク人がいて、彼のことを本気で心配して面倒を見てやった。彼はその当時、妻をがんで亡くして途方に暮れ今の僕のようにつらい状況だった。いつしか、仕事を手伝ってもらうようになって、サブリーンという貧しいがんの少女を見つけてきて絵をかかせてみたのは、彼のお手柄だった。その後、様子をちょくちょく見てもらうようになった。僕のお目当てはいつも決まって、彼女が描く絵だった。

右目を摘出して左目だけで描く絵は、線がぶるぶるとしていて躍動感があった。彼女が、「私のことを忘れないで」って言い残して私に遺品をくれた。今回、僕は仕事をやめるにあたり、彼女の描いた絵も何枚かは手元に置いておくことができた。サインペンで描かれた絵は、彼女が生きたという証拠そのものだった。僕は、毎年彼女の話を講演でしてきた。

初めてイラクに行って、小児がんの先生に支援をしたいといったら、「たとえ一回薬を届けてくれても、それじゃ子どもたちは助からない。偽善にすぎません」ときっぱり言われた。偽善だって? 上等じゃないか。偽善でも偽悪でも何でもいいから、結果を出せばいい。15年間薬を届けることができたのだから。でもサブリーンだけではなく、僕と一緒に絵を描いた子供たちの多くが亡くなっていったことは悔しい結果だったが。

5年位前にイブラヒムに連れられて、サブリーンの遺族を訪ねたことがある。貧困地区でごみ収集で生計を立てている人たちがたくさん住んでいる地域だ。鉄くずもあり、劣化ウラン弾で攻撃された戦車などが集められていたから放射能汚染していたのだろう。あのお母さんや妹たちはどうしているのだろうか様子を見に行ってくれるとイブラヒムは」約束していた。しかし、その後イブラヒムからは連絡が来なくなって様子がおかしかった。バスラの治安も悪くなっているというので電話をしてみた。

イブラヒムは、「申し訳ない。私にも生活をしていかなければいけないんだ」彼はおびえていた。「これ以上連絡をしてこないでほしい」という。頼んでも彼はもはや動いてくれなかった。10年前は、毎日イブラヒムがサブリーンの様態を伝えてくれて、僕がそれをMLで発信して多くの日本人がサブリーンのことを心配していたのだった。

関西や松本や札幌で、かつてサブリーンのことを心配して涙した仲間たちが僕を呼んでくれた。「私のことを忘れないで」といって死んでいったサブリーン。僕は、サブリーンのことを今までのように話した。そかし、講演が終わるとどっと疲れて、つらくなった。イブラヒムは、すべて忘れてくれという。

イブラヒムはサブリーンと僕を結び付けた絆だった。サブリーンは作られた物語の中で生きていく。その物語には、僕は出てこないのだ。物語は真実だったのだろうか? 感動的な話は、僕が勝手にいろいろ勘違いして、さらに感動的に変えられていったのだろうか? そのことを一緒に語ってあの時こうだったよね? って確認しあえるのはイブラヒムしかいなかった。僕は講演会で話してホテルに戻ると薬を飲まないと耐えられなくなっていた。

でも僕の手の中には、彼女がつけていたサングラスや、洋服、スカーフといった抜け殻。そして魂の入った数枚の絵には、「まきへの贈り物です」と書いてある。それらは、イブラヒムがすべて届けてくれたものだった。そのイブラヒムも僕の目の前から消えていったが、それでも、僕には何かが残っていた。天国への階段があって、それを登っていくとサブリーンが待っている。透き通った心の少女が待っている。

アッサンブラージュ展

11月22日―27日 11:00-19:00(最終日は17:00まで)ギャラリー日比谷

千代田区有楽町1-6-5

グループ展ですが、さとうまきのコーナーでサブリーンの原画と、サブリーンのオマージュ作品を展示します。

しもた屋之噺(214)

杉山洋一

静岡駅で鯛めしを二つも買い込み、早速食べてから、これを書いています。子供の頃から、父方の祖父母の住む湯河原に出かける愉しみの一つが、小田原か湯河原の駅で「鯛めし」を買ってもらって東海道線から海を眺めながら食べることでしたから、三つ子の魂なんとか、です。

隣で垣ケ原さんが、我々が今聴いてきたばかりの、藤木さんと福田さんの「死んだ男の残したものは」の素晴らしさを、「あれほど、歌詞の意味をわかって歌ってくれる人はいない」と繰返していて、その言葉どおり、演奏中には周りで洟をすする音や、ハンカチを目にあてる人が沢山いました。ああこれが本当の歌なのだなと感じ入るばかりでした。

道中、この武満さんの歌に端を発して、垣ケ原さんと年末に大阪で演奏する彼の60年代の作品に流れる芯の力強さについて話し、その決然とした信念のようなものは、一昨日の悠治さんの作品にも通じるという話から、先日FMで放送された、湯浅先生のNHK放送用音素材の話にもなりました。

あの時代の音楽や文化には、既視感がないのです。すべてが躍動していて新鮮で、何でもやってやろう、見てやろう、という、貪欲なまでの率直な音への愛情に満ちています。それが、湯浅先生が仰る「未聴感」につながってゆくのでしょう。まあこうなるだろう、どうせこうだろう、という諦観の欠片もない。まるで初めて遊びや物事を吸収する子供のように、好奇心に彩られて全てが愉快で、何物もが掛け替えのない豊かな時間を育んでいたように感じられます。

先日の演奏会の折、悠治さん曰く、当時の作曲は、こうやったらどうなるか試すためだけに書き、書いてしまえば務めは終わったものだったそうだけれど、本来の瑞々しい音は、そうした切っ掛けこそが産み落とすものであったのかもしれません。

垣ケ原さんは、悠治さんこそ常に一番前衛だったに違いないと力説していて、ある人が先日の演奏会の後、50年前当時、情報量が複雑すぎて理解できなかったことが、漸く現代になって、聴衆も処理できる能力を身につけてきたのだろう、と話していたのを思い出しました。「だから結局、悠治さんが一番前衛だったんだよね。ご自分でも気が付いてらっしゃらなかったかもしれないけれど」。そう言って、垣ケ原さんは新横浜で下車してゆきました。


10月某日 ミラノ自宅
家人が日本に戻っているが、息子の弁当の準備は友人にお願いしたので、ゆっくり6時過ぎに起きて、朝食だけ作る。ジャガイモを炒め、上に新鮮な卵の目玉焼きを載せてサラダを添えるだけでも、ただ甘いパンを食べるよりは良いだろう。子供時分に母がやってくれたように、半分に切ったグレープフルーツにナイフを入れて食べやすくして、傍らにならべる。当時は、グレープフルーツの果肉より、食べ終わりそれを絞ってジュースにして呑むのが楽しみだったが、息子はそこには興味がない。よって息子の分もジュースを愉しむ。

息子を学校に送り出し、こちらは折り畳み自転車に跨ってサンタゴスティーノまで走る。そこから中央駅まで15分弱地下鉄に乗り、特急でボローニャへ向かう。

ボローニャの劇場は、駅から歩けない距離ではないが、それでも歩けば15分程度かかるから、自転車を飛ばして5分程度で辿り着けるのは有難いし、今日のようにリハーサル前に、公園で譜読みの続きをして劇場に向かうとき等、便利この上ない。どういうわけか公園では蠅が煩くて、手で蠅を払いつつ、少し汗ばむ陽気の下カセルラを読む。

リハーサル終了後、ボローニャ駅から電車に乗り込むところで、息子に電話をして、家の近所のバールで待ち合わせて夕食を摂る。家に帰ってから料理をするより、早く食べられるし、息子を寝かせることもできる。

10月某日ミラノ自宅
マリピエロの6番交響曲は、一見とても単純そうな楽譜だが、演奏は意外なほどむつかしい。デキリコの所謂形而上絵画にそっくりで、形而上音楽とでも呼びたいが、書かれている音楽と演奏される音楽の間に大きな差異が存在する。

フレーズが4拍子だが、それを一貫して3拍子で書き、とても情熱的なフレーズの処理を、いともそっけなく捨置いたりする。こう書くと新古典期のストラヴィンスキーの難しさを想像させるが、随分視点が違って、別の厄介なのだ。

その上、技術的にも難しいので、2回目のリハーサルでは、楽譜に書かれた初演時の小編成の弦楽合奏から人数を大幅に増やした。少人数では音が潰れてしまうとコンサートマスターのエマヌエレから受けた助言に従ったわけだが、全くもって彼の言うとおりだった。少人数の方が小回りが利きそうだが、実際は逆で、寧ろ人数が多い方が複雑な音型はずっと楽に弾ける。その結果が、近代オーケストラ作品で、あれだけ複雑な音を書き込むようになった。

分かり易い例がマーラーやリヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションで、あれにはやはり彼ら自身が指揮をしていた経験がそのまま反映しているのは誰の目にも明白だろう。ワーグナーの革命的オーケストレーションに至る過程にも、やはり指揮者としての彼の経験が活きていて、書く音と鳴る音の落差や、演奏者の皮膚感覚が見えてこそ、実現可能だったのではないか。

彼らの影響を強く受けながら、オーケストラを理想化して音を目いっぱい書き込んだのが、今回のプログラムで言えば、優れたピアニストだったカセルラだ。彼は確かに指揮もしたが、音楽家としての気質はやはりピアニストだったのだろう。理想化された形で音を定着しているので、それらの何をどのように響かせるか、演奏者は一つ一つ吟味する必要がある。丁寧に細かい音を聴かせたいと思えば、鈍重になる。それを避けつつ、書かれた音を出来るだけ聴かせたい、書かれた和音を出来るだけ聴かせたいと思うと、独奏者らとオーケストラとの間で非常にむつかしい匙加減が必要になる。オーケストレーションが厚いので、たやすく独奏者を覆い尽くしてしまうし、何しろ独奏者たちが弾きにくい。

三重協奏曲は名曲の一つで、特に二楽章の美しさは比類ない甘美さを誇る。誰でも一聴すれば、ラヴェルのト調のピアノ協奏曲の二楽章を手本に書いたように見えるが、ラヴェルがカセルラのこの二楽章を手本にピアノ協奏曲を書いたと聞いて愕く。そこではティンパニが薄くリズムを刻んでいて、ほんの少し強調して、と無理をお願いしたところ、独奏者にすぐに却下されてしまった。

この二楽章最後の部分のイングリッシュホルンを、奏者が何故かいつも演奏しないでこちらを見ているので、パート譜を確認すると、その部分はパート譜には書かれていなかったが何故だろうか。これが作曲者の意図かどうか定かでないので、この本番では演奏した。

楽譜が、演奏しづらく、読みにくいのは、作品がホ調で書かれているからに違いない。フラット系の調性へ読み替えてゆくときに、変へ調に読み替え、そこから転調してゆく。ホ調をナポリ調に置けば、変ホ調が基本調性になり、そこから平行調へ逃げれば、今度は変ハ調という実に読みにくく、鳴りにくい調性に容易に辿り着く。言うまでもなく、それをドミナントに変化させれば、そのままホ調に戻れるわけである。

基本的に、和音は調性に則り書かれているが、その上に載せられる旋律やフレーズは、敢えて調性を飛び越えて書かれているので、意識しなければ無調に聴こえる。

そうした楽譜ながら、しばしば楽譜に不備があって、一体何の音か分からない、臨時記号が不明な箇所がいくつか残ったが、それらはパート譜に書き込まれた訂正を参照した。

一つ一つ和音を吟味してゆくと、最終的には実に単純な和音構造が見えてくる。非常に引き延ばされた調性下部構造の上に、無数の多調的装飾を施してあるから、こうした上部構造、旋律に重点を置いて演奏すると、恐らく非常に複雑な音楽に聴こえるに違いない。オーケストラ自身もそうだろう。

併しながら、通常録音を聴くと非常に複雑に聞こえる箇所も、「この箇所、実はすごく分かり易い和音でしたよね。皆さんでこれらの音を聴き合って、浮きあがらせてくれませんか」と一言いうだけで、一瞬にして明快な響きにとって代わられる。調性は、音を互いにぶつけ合うと絶対に浮き上がらない。

一方で、マリピエロは基本的に東洋旋法などを多用するから、エキゾチックな響きにはなるが、第6交響曲の四楽章に顕れるに日本的な旋律は何をあらわすのだろう。カセルラは明らかに古典的なソナタ形式を拡大しているが、マリピエロは、それも順番を入れ替えて重力、方向性を分散している。

併し実際演奏してみれば、実に情熱に溢れた音楽であることがわかる。1946年に書かれ、旧き思い出に捧げられ、曲尾に蜃気楼のような葬送行進曲が浮き上がるさまから察するに、やはり大戦と関係あるのだろうか。

10月某日 ミラノ自宅
ボローニャの演奏会が終わって、ミラノで研鑽を積んでいる久保君と浦部君の曲を演奏するためにジェノヴァを訪れ、東洋文化研究所でマッテオとカルラと日本音楽に於ける「間」についてコンフェレンスに招かれた。

日本の「間」こそが「日本音楽に於ける特徴で、そこには西洋にはない美意識が働き」、「沈黙に深い意味があり」、「日本文化における特徴的な時間感覚は、禅など仏教思想と繋がっている」。

「どうですか」と尋ねられ、「まあ日本にも色々な人が居ますから」と応えると少しがっかりした顔をされる。イタリアに25年近く住む日本人に、日本の「間」について尋ねるところが間違っている。せめて禅寺の近所に住む日本人なら、もう少しは気が利いたことを答えてくれるかもしれない。

関ヶ原の戦いの後首を刎ねられた、熊本の小西行長の没後わずか7年の1607年、殉教者小西を讃える音楽劇「Agostino Tzunicamindono Re Giapponese アウグスティヌス・ツニカミンドノ 日本の王小西行長」が上演されたのがジェノヴァだった、などと言おうかとも思ったが、話が脱線してややこしくなりそうだから、黙っていた。ジェノヴァに招いてくれたマッテオの母親は、東洋文化の研究者だった。

10月某日 ミラノ自宅
ジェノヴァは、古のジェノヴァ共和国の隆盛を偲ばせる豪奢な建物と、娼婦が寂れた玄関先に立つ港町の顔が同居していて、ミラノにもないほどの巨大な銀行の裏に、昼間娼婦が立つ。普通であれば、娼婦が立つ路地と銀行街は別の界隈にあるものなのだが。ジェノヴァの娼婦は昼に春を鬻ぐが、これも他ではあまり見られない光景だろう。普通は、夜の帳とともに街角に女が立つ。

この街が戦後本当に貧しかったころ、ジェノヴァの主婦が春を売って生計を立てていた名残だそうで、近年はアフリカや東欧の女性が立つようになった。尤も足繁く通うのは、船乗りなどより、妻に先立たれた近所の老人ばかりだ、とステファノが苦笑いした。「ジェノヴァ人の性格は」と尋ねると、「性悪なこと」と言って大笑いした。

10月某日 ミラノ自宅
スカラ・アカデミーのフランチェスコが、突然メールを寄越す。ジェノヴァのコンフェレンスの内容について興味があると言う。彼はアカデミーの主管を務めつつ、ボローニャ大に提出する日本音楽に関する論文を準備していて、例の小西行長の音楽劇やら、ミヒャエル・ハイドンの高山右近「右近殿」をモーツァルトが聴いて、それが「魔笛」に影響を与えた可能性の話やら、正倉院以前の伝統音楽や、宣教師のキリシタン音楽が邦楽に与えた影響も話題にのぼった。能とギリシャ悲劇との共通点や、雅楽や舞楽が現在までどれほどシルクロードの影響を色濃く残しているか、日本文化がどれだけ神仏混淆の結果培われたか話す。

とどのつまり、日本にも色々な人がいる、という至極当然の内容に帰結する。彼はスカラのアカデミーに務めているだけあって、蝶々夫人以前のジャポニズム劇に焦点を合わせたいと思っているようだったが、プッチーニの関わりで言えば、例えば彼は中国民謡「茉莉花」を使ってトゥーランドットのlà sui monti dell’Estを書いたけれど、あれが明清楽として長崎民謡になっていると知ったらどうだろう。それでも日本文化の特質は「間」だと言い続けるのか。それとも明清楽は流行歌だから日本文化ではないとされるのか。

そんな流れで久しぶりに落語「らくだ」を見て、こんなに笑ったのは久しぶりというほど笑う。例の死んだらくだが明清楽のかんかん踊りをする下り、あれこそ日本文化の真骨頂ではなかろうか。同じ話をヨーロッパ人にしても、宗教観、死生観がまるで違うから、多分本来の笑いは共有できない気がする。

10月某日 ミラノ自宅
サックスの大石くんと和太鼓の辻さんのための新作。

夏に安江さんと加藤くんのために書いたピアノとグロッケンシュピールのための小品は、オラショがグレゴリオ聖歌の原曲「Gloriosa
domina」に、グロッケンシュピールは「Dies irae」に変化しくものだったが、それと同じことをこの編成でもやってみる。

ねんねしなはれ  寝る子はみじょか    起きて泣く子は    つらにくい

あらよ   つらさよね    他人のめしは    おれはなけれど    のどにさす

しっちょこまっちょこよ    酒屋の子守り    酒ばのませて    歌わせて

あめがた  にいほお    寝せつけた

大山ぼたん鉱    磯辺の千鳥    日暮れ    夜暮れは    泣いて 暮す 指をくわえて    角に立つ

書き採った歌詞は、或いは間違っているかもしれない。16歳になった少女たちが三年間無償奉公させられた、長崎福江藩の三年奉公の悲しみを歌う「岐宿の子守唄」は、長崎生月島のオラショへ変容する。

参ろうやな 参ろうやな パライゾの寺に参ろうやな

パライゾの寺と申するやな 広い寺と申するやな    広い狭いはわが胸にあるぞなや

しばた山    しばた山    今は涙の先なるやな    先はな   助かる道であるぞなや

この旋律からは、思わず柴田南雄さんの「宇宙について」を思い出す。その歌詞に導かれ、旋律は次第にグレゴリオ聖歌の葬送歌「in paradisum」へと変容してゆく。

In paradisum deducant angeli. in tuo adventu suscipiant te martyres.

天国で迎える 天使たちが。 お前をみちびく 殉教者たちが。

et perducant te, in civitatem sanctam Jerusalem. –

お前を迎える 聖なる街エルサレムに。

Chorus angelorum te suscipiat.

天使たちの歌声が お前をみちびき

et cum Lazaro quondam paupere aeternam habeas requiem.

貧しかったラザロと お前は授かる 永遠の安息を。

10月某日 三軒茶屋自宅
高橋悠治演奏会終了。アンサンブルで一番演奏が難しかったのは、「タラとシシャモ」だろう。予想通りではあったが、しかし悩めば悩むほど音楽は深まってゆく。決して不毛な悩みではなく、掘下げる痛みのようなもの。ドレスリハーサルのときに、悠治さんは、変な曲だと笑っていらしたが、実に美しい名曲だとおもう。今まで演奏されなかったのは実に勿体なかった。

「フクシア」も「石」も、演奏者が朗読してから弾くだけで、音楽が変化する不思議。朗読は聴き手のためのものであるはずだが、言葉は読み手の体内にも深く潜りこむ。

意外な効果があったのは、「ローザス」で、当初増幅しないつもりだったが、急遽有馬さんにお願いしてセットを組んでいただいた。楽譜には残響をつけるように指定があるが、当日のリハーサルで、左右両方のスピーカーに出していた残響を左スピーカーのみに限定し、右スピーカーからは残響なしの音を流すことになった。ものすごく据わりが悪く心地悪い音響なのだけれど、予定調和を逸したこの不安定さが悠治さんの意図だった。だから、次回もし演奏するときは、また違う不安定さを探す必要があるだろう。尾池さんの、あくまでも自然な演奏姿勢も、この曲にはとても合っている。

「石」で悠治さんが拘ったのは、最後の6音だった。実際山澤くんは、本番途轍もなく繊細な、信じられないほど神秘的な音を出した。演奏会後、偶然出会ったIさんから、「石」の最後の音は、物凄く美しかった、と指摘されたので、こちらが愕いてしまった。

家人の「メタテーシス」は、ずっと家で練習しているのが聴こえていたので、長いスパンでの大きな変化に愕いた。指で音を拾っている段階と、たとえ音を外してしまっても耳で弾く段階になると、音楽の深みがまるで変化する。当初はまるでクセナキスのように感じられる音群は、実際楽譜をよく読めば、音の選び方、ピアニズムは、近作と全く変わらないことに唖然とする。

それどころか、使っているフレーズすら、近作に酷似していたりするのである。ただ、その定着方法は違うし、密度も違う。フレーズはフレームを取っ払われ、広い空間のなかに自然体で置かれる。だから、これだけ密度が高い音楽であっても、最終的に必要になるのは、フレーズや音色や強弱であり呼吸なのだった。家人の本番の演奏は、その辺りを特に意識させるものだった。

野趣あふれる「ニキテ」は、思いの外演奏家が喜んで演奏に参加してくれた。棒の先に蓄えられた和幣を震わせ、小石を叩きながら、草を踏み、野を駆けぬける。森のなかを風が吹き抜けてゆく音が聞こえ、時に全員で耳を澄ます。とても素朴な音楽の喜びを改めて実感した。個人的には、女性二人の溌溂とした音に目が覚める思いだった。

「般若波羅蜜多」は、ドレスリハーサルで悠治さんが全員を一列に横並びにしたのが、実に効果的だった。音はよく通るようになったし、何しろ寺の楽師像のような姿を顕すことで、彼らの姿が神々しく感じられた。本番中は一人一人がそれぞれ大好きな仏像に見えて仕方がなかった。

特に経典を演奏している積りはなかったが、それでも無意識にそう感じられたのは、波多野さんが菩薩のように見えたからか。

演奏会後、打楽器の會田くんから頂いたメール
「プログラムの悠治さんが訳された般若波羅蜜多の訳詞が、まさに悠治さんの哲学を表していると感じ、なぜか涙が溢れました。「空」であること、往ける人たちへの思いが感じられました。きっと秋山邦晴さんやそのほか彼岸から聞きに来てくださった方もいらっしゃったと思います」。

10月某日 三軒茶屋自宅
静岡のリハーサルから戻り、松平頼暁さんの声楽作品を聴く。ちょうど「だんじく様の歌」や「ぐるいよざ」など、最近使ったばかりのオラショの旋律が何度も表れ、はっとする。

悠治さんが、枠組みを外して空間のなかに放ったとすれば、松平さんは、まるでコマ録りのアニメーションのように、何度も少しずつ変化させつつ、ひたひたと繰返してゆく。

(10月31日 三軒茶屋にて)

とりは巣に戻った(晩年通信その4)

室謙二

 私のはじめての音楽は、Jazzだった。
 それもチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーなどのビーバップであった。歌手ではビリー・ホリデイで、本格的なのである。
 兄は十三歳年上で、都立九段高校に入ったとき私は二歳だった。戦時中は学童疎開で両親と離れて暮らしていた兄は、戦後はJazzを聞き始め、高校に入って硬式野球を始める。ともに戦争からの解放である。アメリカからきたJazzは、戦争中は敵性音楽で聞いてはいけない。アメリカからきた野球はすでに日本に定着していたが、英語の用語は使ってはいけない。アウトは「引け」であり三振は「それまで」で、ワンストライクは「ヨシ一本」であった。

 敗戦のあとでもビーバップの日本語放送はなかったが、米軍兵士向けのFEN放送(Far East Network)で、一週間に一度だけ黒人兵士向けの番組があったらしい。次の日には野球部の練習中に、二塁ベース上でセコンドの選手とショートの兄が、昨日のバド・パウエルとディズー・ガレスピーはよかったなあ、などと話をしたとのこと。セコンドもビーバップのファンであった。
 兄は自宅では戦前の旧式ラジオでガンガンとビーバップを聞き(両親はもっと音を小さくしなさいと言い続けたが)、私もその恐ろしい音のビーバップを聞いて育った。そして幼稚園に行って、ビバビバ・ブーとスキャットしていたのである。

 しかしジャズだけではなく、浪花節も聞いていた。
 広沢虎造(二代目)大ブームの時代である。ラジオの時代である。清水のヤクザの次郎長伝である。片目の森の石松の、船上での「喰いねえ、喰いねえ、スシ喰いねえ」というところなどは暗記していた。ところが我がプログレッシブな小学校のPTAで、教師は母親たちに、非教育的な浪花節は聞かせないようにと言ったらしい。だからと言って、両親に聞いてはいけないとは言われなかったが。
 同時に、父親が戦前から持っていたクラシックのSPレコードがあって、ショパンのピアノ曲なども聞いていた。高級軍人の家には社交用のピアノがあったそうで、でも長男たるものは、ピアノを弾くなどという軟弱なことはしてはいけない。だが少年であった父は、将官の父親に隠れて弾いた。ピアノのないときは、紙に印刷されたキーボードで指の練習をした。
 ずっとあとになって父が高校の教師になったとき、生徒が校歌をうたうときは、ピアノの伴奏をしたらしい。でもいつも音を間違えてねえ、と言っていた。
 わが家にはスプリングの手回しポータブル蓄音機があった。電気はまったく使わない。と言っても、わからない人が多いかもしれない。知りたければGoogleしてください。その小さな音で、私はショパンを聞いていた。

 そして、はじめての楽器はウクレレだった。
 兄さんが友人からウクレレを借りてきた。戦後のハワイアンのブームのときであった。
 こんな風に私がいろんな音楽を聞いたり、ちょっと演奏してみたりするのは、いまも昔も同じことだね。

 病気とウクレレ

 今から二年ほど前、一六歳年上の姉さんに末期ガンが発見された。あと数週間かもしれない、と息子(つまり甥)が言ってきた。姉さんに電話をすると、「ケンちゃん、ウクレレを弾くわよね。それをもってきて一緒に弾こう」と言われた。姉さんは二十年ぐらい前から、もっと前かなあ、ハワイアンを踊っていて、ウクレレもぽつりぽつりと弾いていた。それにいちどいっしょに、ハワイに行ったことがあった。
 私がまだ子供の頃、兄のウクレレを借りて、遊んでいたのを覚えていたのだ。
 それであわてて、ウクレレをハワイに注文した。送られてきたウクレレを手にもつと、驚いたことにCとかFとかG7とかを手が覚えていた。この何十年間、ギターは思い出したように弾いていたが、ウクレレは四十年ぶりぐらいではないか。
 東京に行ったら、姉さんのアパートで一度だけ床に座っていっしょにウクレレを弾いた。ハワイアンではなくて、「赤とんぼ」「春の小川」などの童謡とか、唱歌「旅愁」だった。あとはもう力がなくて、「ケンちゃん、寝室のドアを開けておくから、廊下でウクレレを弾いてね。それを聞いて眠りたい」とのことだった。
 朝の四時に呼吸が止まったときは、私ひとりがいっしょだった。それで般若心経を唱えた。それに観音経の偈の部分を唱えた。それを聞いて、別室に寝ていた次男の海太郎がやってきて、ヒンディー語でお経を唱えた。海太郎は次の日にインドに発った。
 
 まだ話はある。焼き場が満員だったのである。それで姉さんは自分のアパートで五日も寝室で眠っていた。毎日、葬式やさんが来てドライアイスを変える。私は何週間かの看病と、何日も同じアパートで亡くなった姉さんと暮らしたためだろう、葬式の日には私が病気になっていた。焼き場にも行けなくて、姉さんのアパートにひとり戻って、ベッドではなくてリビングルームの床に横になった。
 こんなに弱ってしまったら、カリフォルニアまで一人で帰れるだろうか?
 ユナイテッド航空に電話をしたら、空港で車イスを用意しますとのことだった。なんとか荷物を持ってアパートの外に出て、タクシーを拾って羽田空港まで行った。チェックイン・カウンターには車イスがまっている。それに乗って、「ふー」、がっくりとした。車イスを押してもらって、滑るように空港を移動するのは新発見であった。
 飛行機に乗るのも手伝ってもらい、サンフランシスコ空港でも車イスが待っている。税関・入管も通り抜けた。ロビーでは妻がベンチに座っている。
 彼女が立ち上がって歩いてきて、
 Welcome Homeと言い、
 私は、Thank you, my loveといった。
 姉さんのと私の、二台のウクレレを持って、
とりは巣に戻ったのである。

干し草の山

高橋悠治

代官山ヒルサイドリブラリーのために 家にある本から10冊を選んでみた

1)三木亘『悪としての世界史』文芸学藝ライブラリー 歴26 2016
2)ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司・訳)ちくま学芸文庫 2011
3)ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(工藤普・訳)左右社、2014
4)岩田慶治『草木虫魚の人類学』講談社学術文庫 1991
5)Samuel Beckett:Selected Poems 1930-1989 Faber and Faber 2009
6)Ernst Bloch:Traces(tranlated by Anthony A. Nasser) Stanford University Press, 2006
7)蒲原有明『夢は呼び交わす』岩波文庫 緑32-2 1984
8)井筒豊子『白磁盒子』中公文庫 い59-1 1993
9)小松英雄『平安古筆を読み解く 散らし書きの再発見』二玄社 2011
10)安原森彦『源氏物語 男君と女君の接近―寝殿造りの光と闇』河北新報社、2013

一度は読んだはずだが 書いてあったことはほとんど忘れている この機会に読み返そうと思ったが できないうちに それらを紹介するイベントの日が来てしまった 

積み上げられた本の山のあちこちをめくりながら 目についたところから思いついたことを話していると 話はその本から離れていく 本には目につかなかった場所が隠れていて 別なページにあるその場所は そのとき話していることでますます隠れ 見つからなくなっていくかもしれない

一冊の本がことばの流れのなかに閉じ込めている 河底の小石のような いつもは目につかないが 光の加減で一瞬見えたような気がすること 確かめようとすると そこには跡もないし ことばとして書かれてもいない 振動の痕跡であり 予兆でもあるような 漂う気配のために ある本をとっておく

この10冊のなかに そういう本があるかもしれないし 一冊もないかもしれない それぞれのなかにはなく 10冊積み上げると 全体として感じられることかもしれない

そうして一山の本を しばらくのあいだ積んでおく

2019年10月1日(火)

水牛だより

カレンダーを10月にめくってみても、外は少し陰った夏のようです。もう季節はなくなって、暑い日と寒い日があるだけなのかもしれません。今日はコーヒーの日です。

「水牛のように」を2019年10月1日号に更新しました。
朝日カルチャースクールのサイトに、編み狂った結果できあがった赤いセーターを着ている斎藤真理子さんの写真を発見しました。編み上がった主役の「実物」を見ると、原稿がさらに楽しめると思います。
冨岡三智さんが書かれているインドネシアのソロのスタジアムは見たことがあるような気がします。ソロを訪ねたのはもう20年くらい前の一度だけですが、強い印象の街でした。スタジアムを見たような気がするその日、私はインドネシア語しか話さない運転手の隣りの助手席にすわって、走りながらその運転手と話す役割を負っていたのでした。インドネシア語はほんの片言しか話せないのに一日彼とつきあうのです。後部座席には同行の日本人たちがすわっていて、もちろんまったく助けてはくれません。なんとか必要なことを通じあうことに必死で、走りながら見たはずの風景は断片的な記憶にとどまっています。スタジアムもそのひとつだったことを思い出しました。

それではまた!(八巻美恵)

編み狂う(3)

斎藤真理子

編むときは必ず読んでいる。 

というか、読まずには編まない。

何らかの本を読むことと編み物を同時にやる。それが私の「編み狂い」のスタンダードな形だ。

編むのと読むのを同時にやるのは私にとってはきわめて普通のことなのだが、人には「えーどうやってんの」とけげんな顔をされる。別にたいしたことではない。まずテーブルに本を開いて固定する。本をよくよく開いてテーブルに置いてから、本の端を携帯とかペンケースなどで固定する。それを前にして座り、「編む」と「読む」を同時にやっていくんだよと丁寧に説明するのだが、「だーかーらー、どうやって、それを、やるの!」と詰問されることがある。困る。だが、いざ聞かれると自分でもよくわからない。

なので、実際にやってみて、目がどんな動きをしているか注意してみた。その結果、1目編むのと同時に目がちらっと動き、半行〜1行ぐらいの文章を脳が吸収していくみたいだった。目は絶えず、本と編み目との間を、非常に軽い動きでささささ、さささと行き来している。でもいちいち顔の角度を変えたりするわけではないので、すべての動きは非常に小さい。

編み方は3種類に限定しているので、ほとんど意識することなくすいすいと編める。本の方も、何十回となく読んだ小説などが中心なので、双方ともに親近感のあるものをまさぐっている感じ。だから並行できるのだと思う。

この状態は、「読みながら編む」というのとも違うし、「編みながら読んでる」ともいえない。中とって、「よぁむ」とでも称すると、気分的にはぴったりする。そして、この「よぁんで」いる状態はたいへん幸せである。私は自分の語彙の中に幸せという言葉がないが、瞬間的な状態として、「よぁんで」いるときはたましいが喜んでいる状態といっていい。たましいがあればだけど。

編むには本が要る。その関係は、ごはんと「ごはんの友」みたいな感じだ。海苔の佃煮とかふりかけとか、梅干しとか。編み物がごはんなら本は「ごはんの友」で、だから、それがなかったらわざわざ白いごはんだけ食べなくてもいいやーと、そういう感じになる。

そのため、「理想の編みかけ」を持って出かけたのに本を忘れたときは編まないし、極端なことを言うと、持っていく本が決まらないから編み物自体をやめることもある。

自分がいつからこんなことをやっているのかよく思い出せないのだが、どうしてこうなるのかというと、たぶん、編み物だけやってると脳が余ってしまうからじゃないかと思う。

先回、編み物には「マニュアルモード」で編めるところと「オートモード」で編むところがあると説明したけれど、私がゆったりと編み狂うのはオートモードでがんがん編んでいるときだ。そういうとき、編み物自体をずっと見ている必要はないし、また何も考える必要はないのである。

そうすると、編み物だけをやっているのでは脳にかなりの面積の「あき」ができるみたいなのだ。私のイメージでは、そのまま編み狂っていたらあいたところが空焚きになりそうだ。煮汁がなくなり……鍋底がカラカラになり……煙が上がる……そんなイメージ。そこへ本を投入すると、水気が回ってちょうどいい。

実は、本を投入してもまだ脳が余ることがある。そこで映画のDVDも動員している。よぁみながら、T映のやくざ映画などを、よく見る。いや、ほとんど見てはいないのだけど同伴してもらう。音は聞こえていて、ストーリーは把握している。私は編みながらどっちの物語にも程よく浸っている。

その結果、私が手にも心にも優しい絹糸を一心に編んでいるとき、本の中では「叔母ちゃんは、そこはあんじょう云うてはるけど、結局あたしが雪子ちゃんを引き留めると見て、あたしを説き付けに来てはるねんわ。そやよってに、気の毒やけど、あたしの立場も考えて貰はんと、………」(谷崎潤一郎『細雪』)というようなことが論じられ、一方モニターの中では「オヤジさん言うといたるがの、あんた初めからわしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでになるのに誰が血流しとるの。神輿が勝手に歩けるいうんなら歩いてみないや、おう!」というようなことが、言われ、私は非常に満足して編みつづけている。でもまあ、存在感としては圧倒的に本>映画だ。

編み物をするときにどんな本がいいかについてはとても気難しい好みがあって、書ききれないので次回にするが、間違いなくいえるのは『細雪』は最高だということだ。大きなドラマが起きず、しかし家庭内の小さなドラマが断続的に続き、女の人たちが衣食住のさまざまなことをしょっちゅう話しあっている。

食と服飾に関する具体的な記述があることは必須条件で、『細雪』でいえば「悦子の好きな蝦の巻揚げ、鳩の卵のスープ、幸子の好きな鶩の皮を焼いたのを味噌や葱と一緒に餅の皮に包んで食べる料理、等々を盛った錫の食器を囲みながら」とか、そういった箇所を舌なめずりして吸収しながら編んでいく。こういう細部が伴う物語は、本当に編み物と合う、編み物を駆り立てる。女の人が束になって出てきて、「もっと編んじゃえ、もっと編んじゃえ」とリヤカーのお尻を押すのですね。おかげでどんどん坂が登れて、さらに編み狂える。

そのため私は文庫版の『細雪』を使い倒して何度も買い換えている(強く開くので、本が痛む)。でも逆に、編まずにこの本を読むかと言うと、今さら……という気がするのも事実だ。

どうしてなんだろう。なんとなくわかってきたのは、さっき書いた「空焚き」とは、編みながらどんどん考えが暴走してろくでもないことばかり考える状態をさしているんじゃないか。だからそうならないように、編み狂っているときは、たえず他人様の物語で適度に薄めるというか、イメージで言うと、他人様の物語の上を滑るようにして時間とわたりあっていくぐらいがちょうどいいらしいのだ。そのためもったいないことに、『細雪』を私は、薄め液にしてしまったらしい。取り返しがつかない。

だが、他にも取り返しがつかない本がいろいろあって、次回はそのことを書こうと思う。よぁむための本については、「これは編める」「絶対編めない」という明確な峻別が可能なのである。

ちなみに、読むと編むを同時にやるのは私だけではないらしい。有名なところでは橋本治さんが、編み物は本を読みながらすると書いていらした。私の推測では、橋本さんは私みたいに何度も読み返したものなどじゃなく、新刊をバンバン読み倒しながら複雑な編み込みのニットを編まれたんじゃないかと思う。脳の生産性が比べ物にもならないという気がする。

製本かい摘みましては(149)

四釜裕子

藤原定家写本の「更級日記」とほぼ同じものを、河本洋一さんによる「書物の歴史:トークと実作」1回目の午後に作った。作業時間など考慮して、実際は10折のところ6折(5紙)として、紙は、実際より厚手だそうだが判型(天地約164ミリ×左右約145ミリ)に合わせて手切りしてくださったものと、定家によるタイトル文字をプリントゴッコで再現した表紙をご用意いただいて、遠藤諦之輔さんの『古文書修復六十年 和装本の修補と造本』(汲古書院 1987)を参考にしながら2色の糸での大和綴じだった。この「大和綴じ」という名称については、やっぱりいわゆる和本の呼び名はいまだ曖昧なんだそうだ。正確な名称というか、誰かに伝えるときにどう言えばいいのかずっと私もよく分からないでいたので、せめて自分の中ではノドを糊で貼ったものを粘葉装(でっちょうそう)、折丁を作り糸で綴じたものを列帖装、表からズブッと穴を開けて糸や紐で綴じるのを平綴じ、大和綴じは粘葉装以外の総称のような感じで区別してきた。今回は「大和綴じ」に「(別名 胡蝶装)」と記されてあったので、(列帖装のほうだ)と自分なりに理解した次第。胡蝶装は、列帖装で最後に糸を蝶々のように結んだ場合と考えている。

栃折久美子さんの「パピヨンかがり」は洋式製本と和本の綴じの似たところ、良いところを組み合わせて考案された方法だ。これを最初に習った頃は、日本の古い本はすべて四つ目綴じだと思っていたし、それを和綴じと呼ぶと思っていたし、四つ目綴じは日本のものと思っていたので驚いた。そもそもよく知りもしないのに驚くところがおもしろい。パピヨンかがりのモデルにもなった「大和綴じ(別名 胡蝶装)」については平安時代から用いられた日本オリジナルだと思ってきたけれど、改めて栃折さんの『美しい書物』(みすず書房)の「パピヨン」を読むと、〈「やまととじ」(この名称については、さまざまな異論があり、定説がない)というかがり方があって、こちらのほうは日本人の考案によるものだといわれている。平安朝の末期から和書の製本に用いられていたらしい〉。「いわれている」、「らしい」とあって、私は当時この文章で初めて知ったはずなのに、いつしか自分の頭の中で断定していたことになる。パピヨンかがりについては、〈洋式製本の原型であるルリユールの技術と、「やまととじ」の原理とを組み合わせ、十分に丈夫で比較的手間のかからない手製本のやり方が考えられないものかと、かなり前から試作品をつくったりしていたが、ようやく納得のいくものができるようになった〉(1979.12)。表現がどこまでも端的だ。

この「大和綴じ(別名 胡蝶装)」、綴じ方が違うかもしれないけれど敦煌写本にいくつかあると、河本さんからうかがった。むかわで見つかった「むかわ竜」が今秋「カムイサウルス」になったように、これから実物が見つかったり調査が進んで「大和綴じ」にもなにかいい呼び名が与えられるかもしれない。「大和綴じ」に「綴葉装」や「列帖装」という呼び名を当てたのは1930年代のことだったともうかがった。河本さんは私見として、「装丁の名称を増やしたくない。折り目を糸綴じ(中綴じ?)した大和綴じとか、平(ひら)で紐で綴じた大和綴じとしてはどうか」とおっしゃっていた。別々なものには別々の呼び名があったほうが便利だし、字面でそれがどんなものか想像できるのはとてもいい。そうでないと、教える側にとっても習う側にとってもそれぞれ不便なのはよく分かる。今、たったこれだけ書く中でも不便であった。でも、いつまでたっても決まった名称がないとか、名前はまだないとかいうのも悪くない。

河本さんが資料として用意くださった中に、A4サイズ一枚にまとめられた「紙・冊子・印刷から紐解く書物の歴史」があった。地中海世界と中国文明を左右に分けた年表で、紙と冊子と印刷についてそれぞれ色分けされている。パッと見て、地中海世界側がいかに「冊子」が先行、つまりパピルスや羊皮紙を折ることの工夫が進み、中国文明側は「紙」が先行して、いかにそれを折らずにつなぐことへの工夫が進んだかが分かる。往来があってもなぜそれが長らく交じり合わなかったのか、この一覧を見ながらお話を聞いていると、8世紀になって中国で木版印刷が始まって、版木の大きさが折りのきっかけになったのかなぁと思えてくる。806年に空海が持ち帰った『三十帖冊子』も見たくなる。実物が残っているんだものなぁ、すごい。河本さんの「書物の歴史:トークと実作」は次回に続く。次は「紙・冊子・印刷から紐解く書物の歴史」年表の左側、地中海・ヨーロッパの綴じのお話とコプト綴じの体験だ。

巻き物から冊子へという話を聞きながら、白石かずこさんが朗読する姿を思い出していた。その日に読む詩が巻き紙に手書きされていて、白石さんはステージにあがるとそれを巻き広げながらふわっとぐわぁっと読んでいくのだった。一枚の紙の表側にひと続きにしたためられた詩を全身でまるでひと息に読んでいく姿には圧倒されたし、読み終えた後にステージに伸び散らかった巻紙は脱皮後の白蛇のようだった。物理的にそう見えたのだけれど実際、そういうものだったのかもしれない、魂を抜かれて。いわゆるパフォーマンスとしてやっているのでは絶対にないのである。

白石かずこさんを巻き物詩人と呼ぶならば、前回も記した高橋昭八郎さんは頁詩人だ。さまざまなスタイルの作品があるわけだけど、頁をめくりそのたびに現れる見開きの連続を体験する期待において、昭八郎さんの作品はいつまでたってもいつでも必ず新しい。『ポエムアニメーション5 あ・いの国』という作品は、冊子に発表されたものではなく立体で函入りの本の形態にまとめられるが、中に帯状に刷ったものが8枚含まれる。しかしこれが丹念に折ってあって、さらに2枚ずつがこれまた丹念に組み合わされていて、いったん開いて無頓着にばらばらにすると元に戻すのはかなり難しい。まさに、ザ・頁詩人だけれど、巻き物詩人としての昭八郎さんの姿が実は、城戸朱理さん企画監修の「Edge」シリーズに記録され、今も公開されている。2004年、ワタリウム美術館のオンサンデーズで開かれた「高橋昭八郎 翼ある詩」のオープニングにおける観客ぐるぐる巻き。こちらから、ぜひ。

Edge 高橋昭八郎展 翼ある詩

しもた屋之噺(213)

杉山洋一

ルガーノの街を訪れるのは本当に久しぶりのことでした。駅の辺りはすっかり綺麗に様変わりしていましたが、街の人の表情は相変わらず穏やかで、とても親切だったことに癒される思いがしました。ルガーノの放送響とリハーサルをして、駅の喫茶店で楽譜を広げて仕事をする傍らで、ダニエレと呼ばれるウェイターが、一人で実に手際よく采配を奮う姿に感心していると、追加のエスプレッソのお金を受取ってくれませんでした。「あなたは実に感じが良い人だ。差し支えなければ、このエスプレッソはご馳走させてくれませんか」。初対面の初老から、それも何を話したわけでもない喫茶店のウェイターから思いもかけずそんな事を言われるのは、長いイタリア生活でも初めてで、感激しながらミラノへ帰途につきました。今日はこれからコモのオルモ宮にベリオ編曲のバッハを演奏しに出かけてきます。気持ちの良い秋晴れにかこつけて、折り畳みの自転車で出かけて、コモ駅から会場まで湖畔をのんびり走ってくることにします。


9月某日 三軒茶屋自宅
朝起きてバッハの未完のフーガを弾く。左手は先月自転車で転げてから全く動かず、薬指には激痛が走るが、憑かれたようで止められない。バッハは苦手だ。現代作品やどんな音の込み合った後期ロマン派より比較を超えて複雑で、そこには叡智が詰まっているようでもあり、その範疇を突き抜け漆黒の宇宙にまで及んでいると感じることがある。よろめきながら弾いていても、思わず涙が零れる。人の心を動かすために書いた筈のない音符に、何故我々の心の襞一枚一枚をなぞるような力が生まれるのか。
「フーガ」の作法が理由ではない。バッハが学んだというカベソンのティエンㇳも大好きだが、ずっと人間的な響きがする。

9月某日 三軒茶屋自宅
表参道で吉田さんと話す。作曲コンクールの演奏に関わるとき、そこに演奏者の解釈やスタイルが介在するかどうか、という話。どの作品であれ自分が演奏すれば、自ずと自らの姿勢が反映するだろうし、音楽は作品と演奏者の相乗効果によって生まれる。演奏によって作品が大きく変化するのは、寧ろ当然だろう。
太陽のようだった野坂さんが鬼籍に入られた瞬間から、彼女の姿は歴史となり後世に残されてゆく。友人だった野坂さんの存在が、ひょいと敷居の向こうへ足を踏み入れた瞬間に、彼女の存在が百八十度変化する。ジャーナリストの性ね、彼女は少し寂しそうに笑った。

9月某日 三軒茶屋自宅
野坂さんの葬儀ミサでお目にかかれなかったので、夕方少しだけ沢井さんの顔を見に自転車を走らせる。稽古場の中国風の円卓には、数年前の九州のツアーの折に取られたお二人のスナップ写真と、颯爽と筝に向かう野坂さんの姿が表紙に冠された雑誌が置いてある。
葬儀ミサに日本で参加するのは初めてで、伊語で聴きなれた文言を日本語で耳にするのは、不思議な心地がした。同じカトリックで国によって少しずつ意味合いも違う、ヨーロッパのカトリックと日本のカトリックの意味も勿論違うのよ、と大原さんが話してくださったのを思い出す。確かに日本の葬儀ミサは、より優しく柔らかい印象を持った。
説教が終わりに近づくと、ふと我に返り溢れるように悲しみが込み上げてきて、どうしようもない。

9月某日 三軒茶屋自宅
安江さんと加藤くんが演奏してくれた小さな新作を聴き、感慨に耽る。作曲家として作品に手を施さず、素材が素のまま提示されるのだが、演奏者の感情移入がそこに深い意味を与えてくれた。オラショがOgloriosa dominaに、ひきずる錫杖が中世のカリヨンが奏でるDies iraeに変化する。演奏者はそこに歴史的コンテクストを無意識に掬いとり、演奏に反映されてゆく。とすれば、我々がrequiemを演奏し、聴くときも、それに近い化学反応の連鎖が起きる。
同じ旋律が喜劇オペラのアリアで歌われるのと、レクイエムに転用されるとしても、歌詞は挿げ替えられるにせよ、楽譜から受ける我々演奏者、聴取者の感覚(イタリア語ではpartecipazione、その状況に能動的に参加する、と表現する)は、大きく影響を受ける。

9月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんの「般若波羅蜜多」のテープ録音。波多野さんはサンスクリットで歌っているから、般若心経の経文としては理解されないが、特に経文の終わり「即説呪日、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦」の下りは、歌詞も短く耳で追いやすいので、日がな一日お経に浸りながら録音し、集中力と体力が困憊してきた演奏者のあいだに、得もいわれぬ有難いような不思議な雰囲気が漂う。
この作品は、半世紀前サイケデリックなアメリカで自然に生まれた産物にも思えるし、そうだとすれば、当時のアメリカ人がこれをどう演奏したのかとても興味が湧いた。初演者たちは当時同じレジデンスに滞在する仲間で、この難解な作品を必要なだけ練習が出来たと聞いて納得した。悠治さん曰く、アンサンブルの真ん中に位置する歌とハープ以外、初演者は全員男性だったので、この二人を少し前に出すのは視覚的にもとても効果的だったとのこと。

9月某日 ミラノ自宅
ミラノに戻った翌朝、ダヴィデの0歳の娘の訃報と葬式の知らせを受け、慌ててバッジョの教会に自転車で駆け付けた。教会前の花屋でティートと会い、二人で一緒に白百合の花束を作ってもらい、本当に小さな柩の傍らに手向けた。
クーポラに描かれた子羊の巨大なモザイク画を背に、神父は「亡き子をしのぶ歌」の歌詞を引用して説教した。ダヴィデは娘から皆への感謝の手紙を読み、ダヴィデの弟は、「何故彼女が、何故今、何故この運命に巡り合わねばならないのか、答えが見つからない」と慟哭した。神父は、神の神秘は時に我々の理解のずっと先にある、と応えた。野坂さんのように、長い時間をかけ築いた人生の深さが悲しみにつながることもあれば、キアラのように、その可能性を毟り取られた悲しみもある。人を失う悲しみは、本来誰でも等しく同じだけ持っている。神父の説教を聴いていて、やはり自分には近づけない、理解できないと思うのと同時に、ふと、死ぬ前までに一度は真面目に信仰を持ちたい心地になったことに、自分でも新鮮な愕きをおぼえた。思わず息子の顔が脳裏に浮かび、麻痺から快復して元気で居られる幸福を噛みしめる。

9月某日 ミラノ自宅
ベリオのバッハ未完のフーガ編曲。途方もない高密度に封じ込まれていた音符を、真空状態のオーケストラの空間に放つ。数箇所原典と違う音が選ばれているのは何故だろう。シャイーの録音を聴くと、ベリオの音符通りに弾いていて、恐らくそれは正しい姿勢だろうと思うが、シャイーがそうなら、バッハの原点通りでも演奏してもよい気がして、結局音を直して弾くことにする。元来臍が曲がってい提出、素晴らしい作品を聴いて感動すれば、少しでも自分はそこから外れなければいけないと思い、素晴らしい演奏を聴けば、少しでもそれと違う方法を試さなければいけない強迫観念に駆られる。偉業は既に為されているのだから、自分がそれを真似するのは無駄だとも思い、無意味と感じるのも、尊大に過ぎる気もするが、それを自分が超えられないと理解しているのだから仕方がないのではないか。それでも影響を受けるものは無意識に受けているはずだから、その程度に留めておいて差し支えはないだろう。

9月某日 ミラノ自宅
階下で家人がメタテーシスを練習している。放射される音は、予め規定されているのか改めて偏った音で縒られた響きがして、錯乱しているようでもあり、中心の渦を遠くに望みながら、どこか巡り巡っているように聴こえることもある。
日がな一日カセルラをひたすら読む。譜読みは相変わらず極端に遅い。その上、振ればオーケストラが合わせて弾いてくれる訓練を受けて来なかったので、自分が何某か理解したと認識できるまで、本当にともかく振ることすら出来ないから、実に始末が悪い。カセルラで言えば、細かく音を読めば読むほど、複雑に音を聴きすぎて音楽にならない。彼が調性感、和声機能感の設定に関して実に保守的で、堅固な下部構造の上に、拡大し、それぞれ別の色を持たせた素材を展開したのは、彼がこよなく愛したマーラーの手法を踏襲している。結局は、少年時代から長年培ってきたワーグナーやマーラーの音楽の上に自身の音楽を展開したのだ。フォーレのクラスでラヴェルと一緒に学んだフランス的な和声に耳を傾け過ぎていた。たかがそれだけに気が付くのため、これだけ苦労し時間がかかるわけだから、自らの能力に絶望に目を向けないようにして、そこに何かが見えてくることを信じて、ただひたすら楽譜を開く。

9月29日 ミラノにて

仙台ネイティブのつぶやき(48 )猫をかかえて走る

西大立目祥子

 この20年ほど“猫まみれ”といっていいような生活を送ってきた。そもそもは家に迷い込んできたメスの野良の面倒をみたのがきっかけなのだけれど、そのうち一人暮らしになった母も猫を飼うようになり、そこにも野良の子猫が居着いたりして、一気に猫が身辺に増えていった。これまで世話をした猫の数は、20匹は下らない。いつか「私の上を通り過ぎて行った猫たち」とか…そんなタイトルで一匹一匹の思い出を書いてみたい。同じ猫族とはいっても、性格やふるまいはびっくりするほど違い、その生涯もそれぞれに完結していると感じさせられてきたから。

 生きものである以上、病気もすればケガもする。若くして大病するのもいれば、長患いに苦しむのもいる。もとは出入り自由にしていたので、大ケガをしてやっとの思いで帰ってくるのもいた。
 そのたびに、動物病院のお世話になってきた。近所の病院、ちょっと離れたところ、救急病院までいろいろ。動物のお医者さんもまたさまざまだ。ふだん私たちが「どこかいい歯医者さん知らない?」と聞いて行ってみるとそうでもないと感じることがあるように、病院選びは飼い主との相性が決め手だ。相性をもっと具体的にいえば、ことばを持たない犬や猫をどうとらえ病気にどう対応するか、それは動物との距離感をどのあたりに求めるかということになるだろうか。

 たとえば、私は猫にとって病院に行くことはストレス以外の何物でもないと考えているので、見立ても診察も早く病状を簡潔に説明してくれる先生が一番と思っているのだけれど、そんな信頼を寄せる先生のことを知人が「あの先生の診察は早く過ぎて、ゆっくり話をしてくれない」と評したことがあった。一方で、私は、長患いの猫を連れていくたび「この子も頑張っていますよ」という先生に、気づかいに違いないと知りながら、欲しいのはドクターとしての見地であって頑張っているのは私だってわかってますよと、いつも胸の中でぶつぶついっていた。こうしたやさしいひとことに救われる飼い主もいるだろう。何事もそうだけれど、じぶんとウマの合う人を見つけるのは難しい。

 動物病院に通い出したころは、人の治療とどこも違わない扱いにびっくりすることばかりだった。まず、診察台はスタンド式のアイロン台みたいな格好なのだけれど、猫を乗せるとすぐに体重がデジタル表示される。鼻水とか熱でウィルス性の病気が疑われるときは、私たちがインフルエンザの判定のとき使うのとまるで同じキットで陽性か陰性かが判断される。内蔵の病気があやしいとなればすぐに前足の毛を剃って採血され、10数分待つうちに結果が出て「肝臓と膵臓の数値が正常範囲の2倍です。今日から注射に3日は通ってください。飲み薬は5日分出しますね」という具合。目の前の猫よりデータを注視するってどうなのかしら…と疑問を感じたものだ。

 最初の診察のとき、私に問診を重ねながら触診を基本に観察する先生はやはり信頼がおける。あるとき、急に食欲が落ち込んだ1匹をある病院に持ち込んだことがあった。先生は診察台に猫を乗せ、ぎゅっと背中をつかむと「ずいぶん脱水しているね」という。肉の戻りが遅ければ脱水の証なのだ。さらにおなかの柔らかいところをあちこち押しながら「どこも腫れたり固くなったりしていないなあ」といい肛門に体温計を差し込んで平熱であることを確かめる。そうこうするうち「動きが鈍いわけではない」という私の一言にピンときたのか、「もしかすると…」と口を大きく開けさせた。口内が真っ赤に腫れ上がっていた。診断は口内炎。ひどい炎症でごはんが食べられなかったのだ。
 いま私自身が年に一度、検査のために通う総合病院では、医師は私の体を触診することなく画像と血液検査の結果を見るだけだから、動物病院の方が本来の診察が残っているといえるかもしれない。

 20年の猫歴なので、容体が急変してもそうおたおたすることはなくなったけれど、初心者のころは迷ったり、これでいいのかと自問したりの連続だった。ある日、後ろ足を痛めて帰ってきたのがいた。痛めた足は縮めたままで、横になるのにもつらそうに鳴く。病院でレントゲンをとると、大腿骨がきれいに折れていた。「骨を継ぐ外科手術は9万円です」と先生はいとも簡単にいう。ほおっておいてもいずれくっつくというので、迷ったあげく「今月は車検もあって…」などとつい本音を口に出して連れ帰った。すると足は1週間もしないうちに治ってしまった。犬と猫をくらべると、同程度のケガなら猫の方がはるかに治癒力が高いらしい。

 糖尿病の猫に数年の間、インスリンの注射を打っていたこともある。最初は1日1回の注射だったのだけれど、どうも効果が上がらず、先生に「1日2回、頑張れますか?」とたずねられ「はい」と返事をした。注射の回数を増やすと、猫は持ち直した。何もわからない猫にこんなことしていいのか、これはもしかすると私の満足なのではないのかと迷いながら、病院に薬と注射針を受け取りに通った。猫は糖尿病ならではのものすごい食欲をみせながら、しまいにはやせほそり亡くなった。

 猫は家族か、と問われれば、私にはそこまではいい切れない。でも一つ屋根の下に暮らす生きもの同士として、互いにその存在を認め合っているという実感は強くある。猫も私と同じように、じぶんの意思を持ち、じぶんの思うように行動し、おなかがすけば食事を欲し、風を感じ空を眺めているから。
 だから、そんな存在が弱り命の危険がある、となれば反射的に病院に車を走らせてしまう。そして病院とは、病気を治すところであり先生もスタッフも治すために最善を尽くす人たちなのだ。連れて行けば、ただちに治療が始まる。「延命治療はしません、もういいです」と断らない限り、そして病院に行くのをやめるという決断をしない限り、治療は続く。これは、じぶんと家族のこれからに押し寄せてくる病気や治療の予行演習かもしれない。弱っていく親しい存在を、受け入れるのには強い意思がいる。

 いま一番の信頼を寄せるK先生とは、余計な検査と延命治療はしない、と約束している。そうであっても、今晩もし誰かが急に呼吸がおかしくなったりしたら、私は外が土砂降りでも猫をかかえて走るだろう。

インドネシアで浦和レッズの試合を見に行った理由

冨岡三智

いま日本でラグビーワールドカップが開催されている。私はスポーツには全然関心がないのだが、熱気ある報道を見ていたら、昔インドネシアで観戦した浦和レッズの試合のことが思い出されてきた。というわけで、今回はその思い出話。

その試合はAFCチャンピオンリーグの浦和レッズ×ペルシク・ケディリ戦(インドネシア語の発音としてはプルシッ・クディリの方が近い)で、2007年5月9日(水)午後3時半からインドネシアのソロ市にあるマナハン競技場で行われた。当時、私は調査のためにソロ市に住んでいた(3度目の長期滞在)が、普段はテレビも新聞も見ていないこともあって、浦和レッズがインドネシアに来ることは全然知らなかった。

その試合前日の朝6時頃、突然の訪問者がある。ちなみに、朝6時というのはインドネシアでは他人に電話しても失礼ではない時間帯である。が…訪問者は見知らない青年で、近所の人が私の家まで案内してきた。その青年が言うことには、ある方の使いで、ここに日本人が住んでいると聞いて来ました、そのある方が日本のサッカーチームがソロに来るのを知って、垂れ幕を作って歓迎したいと言っています、垂れ幕を日本語で作りたいので、次の言葉を日本語に翻訳して紙に書いてもらえませんか?…そう言って、彼はインドネシア語のメッセージを差し出した。彼は本当にただの使いのようで、ある方というのは一体誰なのか、日本のチームがなぜ来るのか、どこで私のことを知ったのか、という私の疑問はちっとも晴れない。時代劇で、悪役が呼び出しの手紙を通りすがりの子供に預けたりするシーンがあるが、まさしくああいう使いである。それでも、見も知らぬインドネシア人の日本に対する好意には応えたいと思い、彼のメモを「サッカー天国 インドネシアに ようこそ」と訳して、パソコンでできるだけ大きなフォントで打って印刷してあげた。

その日の夕方、私はたまたま日本人駐在員の人から、その人が住んでいるホテル(ソロで一番グレードの高いホテルの1つ)に浦和レッズの一行がチェックインするらしいという情報を得た。その歓迎のガムラン演奏の練習がロビーであったと言う。朝の件はそのことだったかと合点してそのホテルに行ってみると、選手には会えなかったが、一行に同行する日本の旅行代理店と航空会社の担当者の人と話をすることができた。ここでやっと試合の詳細が分かったので、次の日、私は日本人留学生2人を誘って観戦することにする。

海外にいると多少は愛国的にもなる。日本にいればあえて見に行こうとは思わなくても、海外で住んでいる町にあの浦和レッズが来るなら見てみたい。しかもチケット代は2万ルピアである。新聞によると、これがVIPチケットの値段だった。当時のレートは1円=約70ルピア、日本円にして約285円で、日本で浦和レッズの試合を見ることを思えば安い…という計算も働いた。(普段は現地の金銭感覚で生活しているのだが)。

試合当日、私と友人は日本人サポーター専用だというA12ゲートから入った。この日本人席にはザッと数えて200人以上の日本人がいたので、びっくりである。ソロ在住の日本人は駐在員と留学生を合わせても20人くらいしかいないのだから。日本から駆け付けたサポーターの他、ジャカルタの日本人会(ジャカルタに駐在している日本人とその家族)の人たちも多かったらしい。ちなみに、地元ソロの日本人会に正式に連絡が来なかったのが腹立たしい。

それはさておき、向かいのペルシク・ケディリ側のスタンドに目をやると、インドネシア国旗やカラフルなインドネシア人サポーターの旗?が並ぶ中に、あの日本語垂れ幕も掲げられている!白地に黒字のシンプルな幕だが、1日で垂れ幕を準備してくれたのだ!選手や他の日本人サポーターはあの垂れ幕に気づいてくれただろうか…?結局、注文者が誰だったのか分からずじまいだが、こんな小さな、人知れない好意が寄せられていたのだということを知ってもらえたら嬉しい。

この当時の記事がないかネット検索してみたところ、試合に出場していた鈴木啓太選手が「印象的だったのが、ペルシク・ケディリとのアウェー戦。そんなに大きな都市ではなかったし、スタジアムも小さかったんですけれど、スタンドはけっこうお客さんで埋まっていて、すごい熱気でしたね。インドネシアではサッカーが根付いていることを実感しました」と語っている記事があって(注)、我がことのように嬉しくなる。

余談:鈴木氏が小さかったと言うマナハン・スタジアムだが、当時はインドネシア3大競技場の1つ(他はジャカルタとプカンバル)と言われていた。スハルト大統領を迎えて、1998年2月―退陣の約3か月前―にオープンしたという代物だ。この試合は当初、ペルシク・ケディリの本拠地である東ジャワ州クディリ市のスタジアムで開催される予定だったが、グラウンドの状態が国際大会には良くないとされ、中部ジャワ州ソロ市のスタジアムに変更されたといういきさつがある。

注)https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201801230007-spnavi

版画のように

北村周一

さみしいね、同じことばがあなたから版画のように波打ち際を

友はサクわれにはサクラチルという文のとどきし曇り日のこと

剪定を終えたばかりの木々のあのフォルム好きだな人工的で

上下左右の二本の線のこちら側にぼくはいるので逢えませんよね

あみ棚のフェンスもようが隣人の動画がめんに映えてうつくし

水溜りにあゆみ止まりしわが子らへおおらかに声をかけゆく保母さん

澱みなきひかり湛えし園庭の溜りのみずの静かなことも

葉枯れせし遮光カーテンまなび舎の屋根まで伸びて糸瓜となりぬ

ねむたそうなシグナルぬるきボールペン夜が明けたらドクダミを抜く

胸のべに触るるばかりに伸びいたる花のコスモス盛りは過ぎつ

童謡のうたのかずだけ白秋がいるようなあきのふかまり〈恋文〉を読む

足るを知れと言われて少しかんがえてコップをきょうはさかずきにする

町田駅連絡通路に躓いて泳ぐ左右の自分の手足

谷崎は鉄道病と名付けしがパニック障害病む時は病む

此れの世の未来おぞましひとつふたつ撥ねてみたっていいじゃないばか

ロシナンテ

植松眞人

 必死になって巨人を追い詰めたと思ったら、それが風車だった。その旅路はおそらくドン・キホーテにとってとても楽しいものであったに違いない。なにしろ、騎士として大きな成果を上げるという夢があっただろうし、なによりも腹心であるサンチョ・パンサとロバのロシナンテが一緒だ。
 そんなロシナンテが実際にいたとしたら、こんな風貌だったのではないか、と思える男がいた。私が二十歳のときに出会ったA君だ。のんびりとして人なつっこい風貌は、時に親しみやすく感じられ、また時には少々どんくさく思ってしまうこともあった。しかし、私はA君が好きだった。最初に会った時から、ああ、ロシナンテだ、と思ったのだが、もちろん、最初からそんなことを相手に伝えるほど私はデリカシーのない男ではない。おそらく、半年一年ほど経った頃だと思うのだが、私は恐る恐る、「A君って、ロシナンテみたいだよね」と言ってみた。すると、本人は、「どういうことですか」と聞くので、私はその親しみやすさなどをあげ、決して君はロバに似ているわけではない、と説明した。けれど、実際にはA君はやっぱりロバにも似ていて、これがあだ名として定着してしまうと困る、と言う気持ちにもなっていたのだった。

 しかし、実際のところ、ロシナンテの存在そのものを私たちの周囲が知らなかったのか、A君をロシナンテと呼ぶ人はいなかった。私自身もそんなふうに呼ぶ子とはなく、年に何回か、本人の前でロバの身体にA君の似顔絵をくっつけてみたり、他の人に紹介するときに「僕はロシナンテに似てると思うんだけど」と言う程度だった。
 それが三十年前の話。実は僕とA君はそれほど親しくもならず、でも、同じ監督の作品のスタッフとして参加したこともあり、表面的に親しげにA君のことを後輩として接していた。
 一緒に撮影の現場に入ったときなどに、ときどき話をすると、A君は僕が驚いてしまうほどの映画好きだった。とにかく本数を見ている。エンタテインメント作品からいわゆるアート作品まで、あらゆる作品を彼は見ていたのだった。そして、それぞれの映画に対して自分自身の見解を持っているのだが、その見解一つ一つの薄っぺらさが気になりあまり深い話はしなかったような記憶がある。僕はどちらかというと、A君を心のどこかで軽く見ていたような気がする。
 そんなA君と僕は五年ほど前に再会するまで二十年ほど顔を合わせることがなかった。僕が仕事の都合で東京にいたこともあり、また、もともと深い友だちでもなかったので、会う必要も会わなければと言う願望もないまま、月日は流れたのだった。久しぶりに会ったとき、A君は初めて会ったときと、何にも変わりがなかった。相変わらず人とのコミュニケーションが妙なテンションだし、相変わらず映画の表面的な話ばっかりだし、少し話すとすっかり退屈してしまうような男だった。ただ、人としては中年の域に達していて、その分、顔色はくすみ皺は深くなり、一言で言えば退屈そうで、もう一言付け加えれば幸せそうには見えなかった。
 それでも、僕たちはまた毎日のように顔を付き合わせるような環境で過ごすことになった。一緒に組んで何かをするわけではないのだけれど、同じ空間で同じ人たちを相手にレクチャーのようなことをしなければならず、彼はその空間では僕の先輩となった。
 それほど深い人間関係がなかったとは言え、古くから自分を知っている相手と時間を過ごすということは、私にとってはそれほど楽しいことではなかった。特に人に何かをレクチャーするということを長い時間生業にしている人が私は苦手だった。お金をもらって何かを教える、という仕事には二通りあって、教える個人が請われて始まる仕事と、教えるという環境の中で、決められたことを教えるという仕事がある。そして、全社ではない場合は、ほとんど教える個人を少しずつ歪めてしまうことになる、ということを知っているからだ。教えているうちに、人は尊大になり不遜になり、自分自身を見失ってしまう。人が生まれ成人するほどの時間を経て、再び顔を合わせたA君のことを僕はその典型的な例だと思って眺めていた。
 だからだろうか。僕もすっかり大人になっていたのにも関わらず、彼のことを「ロシナンテ」に似ていると思っていたことを思い出した。そして、様子を見ながら、必ず相手が僕のことを何かに例えて揶揄したときや、同じ現場に後からきたということを理由にしてものを言おうとしたときに、「いやいや、A先生はロシナンテだから、親しみやすくて学生さんにも人気なんですよ」などと言ってみたりしたのだ。
 A君はそのたびに「なんすか、それは」と言いながら笑い、すぐに続けて私に軽口を叩いた。ちなみに、再会してからの私はA君のことをA先生と呼ぶようにしていた。最初の出会いが後輩であっても、年齢がほぼ同じで、いまの環境ではA君のほうが先輩であるという微妙な状況では、A君などと呼ばないほうがいい、と私は考えたのだった。
 おそらく、そんな気遣いが必要な空気はお互いにあったのだろう。時には仕事の相談をしながら、時には愚痴を聞きながら、それなりにうまくやってきたと私は思っていた。今日の昼間では……。

「僕は傷ついてるんですよ」
 そうA君が怒気を含んだ声で僕に話しかけたのは、その日の仕事を終えた夕方の帰り際だった。何の話かわらからずに、私が聞き返すと、A君はさっきよりも大きな声で、
「僕は傷ついてるって言ってるんです」
 と声を荒げた。その場にいた職員や他の講座の先生たちが振り返るほどの声だった。その声だけで、A君が腹を立てていることはわかった。わかたけれど、内容はわからない。それよりも、私は自分の後輩であるA君が私に腹を立てているということに驚き、反射的に防御と反撃の気持ちを心の内に持ってしまったのだった。
「傷ついたって、なんの話?」
 あえて、後輩に話すような口調で私は聞いてみる。
「あなたは、ロバだのロシナンテだの。僕のことを人に言ってるじゃないですか」
 そんなことか、と私は思った。そんなことを悪口だと思って、この男は腹を立てているのか。しかも、もう何十年も前から言っていることを。
「そんなことか」
 と私は声にしてしまう。すると、A君はさらに声を荒げる。
「そんなことかってなんですか。僕はずっとあなたのそういう言動で傷ついてきたんです。似顔絵描いたり、生徒の前で言ったり」
「君だって、一緒に笑ってたじゃないか。それに、嫌なら嫌ってもう何十年も前に言えばいいじゃない」
「言えないでしょう。言えば言い合いになるし」
 こんな小学生みたいな会話をした覚えがない、と私は思ったのだが、そんなことはなかった。そう言えば、同じようにこの教える場所にやってきたとき、ほぼ同い年の講師から、「後から来たくせに」と言われたことがあった。ルールを破ったことに対して、怒り狂った同僚から吐かれた言葉だった。あの時にも、小学生か、と思った覚えがある。また、こんなことに巻き込まれるのか、と私は呆然としてしまう。いくら、いい歳をしたおじさん相手だとしても、相手が傷ついたと言う以上、謝るしかない。
「それは悪かった。あやまるよ」
 私がそう言うと、A君は、
「謝ってないじゃないですか」
 とこれまた子どものようなことを言う。
「すみませんでした。ごめんなさい」
 私はそう言って頭を下げた。A君はだっまっている。
「黙るのはおかしいよ。謝れと言ったんなら、これで終わりにするか、納得してないか、はっきり言葉にしたらどうだい」
 私が言うと、A君は今度ははっきりと気に入らない表情になる。
「そんなことを言われる覚えはありません」
「覚えがなくても、そういう流れになってるんだから、大人ならハッキリするしかないよ」
 そこまで話してから、私はだんだんと腹が立ってきた。
「それにさ、謝っているけど、やっぱりおかしいよ。大の大人が傷ついたの、傷つかないのって。なんだか、大上段にクソつまらない自分の気持ちを振りかざしているけど、お前だって、人の傷つくことを言ったりしてるわけでしょ」
 私が言うとA君はなんだか半笑いで言う。
「僕はあなたを傷つけたことなんてありません」
「ふざけるな。君はこっちの経済状況も知らずに、『社長なんだから領収証さえ切ったら、経費でなんでも落とせるじゃないですか、生徒たちにご飯でも何でもおごってやってください』みたいなことを言い続けてきたよね。お前は、うちの会社が金の工面をしながらギリギリでやってきたことなんて知りもしないくせに、よくそんなことが言えたな」
「その話と容姿の話は違います」
「ガキの喧嘩みたいに、僕の方が傷つきました、みたいなくだらないことをいうな」
 私がそういうと、A君は黙りこくった。そして、もういいですよ、と言う。本当にもういいと私も思う。
「百歩譲って、君が僕の会社のことなんて知らないというならそれでいい。でも、『あなたを傷つけたことなんてない』とは言わせない。もしかしたら、君がロシナンテと呼ばれる数十倍、数百倍、傷つけるようなことを僕じゃなくてもいろんな人に言ってるかもしれない。もちろん、僕だって同じだと思う。ロシナンテという言う言葉が、それほど君を傷つけていたとは思わなかったし、いままでのやり取りのなかで君の態度を見ていると、本当にそこまで傷ついていたとは今も思えないけれどね。でも、謝るよ。そして、君には謝ってもらわなくてもいいよ。謝っては見たけれど、君が傷ついてることも含めて、正直、どうでもいいと思うから。それに傷ついてもいい相手だしね、君は」
 私がそこまで言うと、ロシナンテは、悔しさの滲んだ顔で、何か言いたそうだった。けれど、私は知っている。ロシナンテは何も言わない。(了)

ボクシング

笠井瑞丈

20代前半の時
ひと時ボクシングに
夢中になっていた時期があった

毎日ジムに通い
毎日同じメニューを繰り返す

ジムの会長は小林弘会長
元世界チャンピオンで
6度防衛した名チャンピオンだ

玄人好みのチャンピオン
あまり知られていないが

カウンターの名手で
『あしたのジョー』の
モデルになったボクサーだ

午後3時に必ず会長が奥さんと
車でジムにやってくる
僕はいつも少し早くジムに着き
ジムの前で会長が来るのを待つ
3時になったら誰よりも早く
一番に練習するのが好きだった
夜に行くと混んでいるのと
汗とワセリンの匂いそして
ムンムンとしたジム内が苦手だったから

夜はこれから世界を目指す
プロ選手も多いため
4っつしかないサンドバックも空いてなかったっり
怒声が飛び交い
ジム内の空気も
全く昼間とは違う感じになる

僕は別に世界を目指すとか
プロになろうとも思ってもいなかったので
昼間のまだ人も少ない時間に
サンドバックを叩いて帰るというのが丁度良かった

そんな中
昼間の時間に練習に来る
数少ないプロボクサーが一人いた
ほんと無口で挨拶しても頷くだけ
毎日毎日黙々と練習をする

会長は彼には特別厳しかった
もちろん一般練習生ではなく
プロ選手なので
当たり前といえば
当たり前でなのですが

毎日しごきに近い練習を
顔色変えず耐えている姿に
僕は何か憧れみたいなものを感じていた

これがプロボクサーなんだ

根性気合いそのような事で
精神の向上を図る時代であり
拳闘という匂いが残っていた最後の時代だったと思う

(次月に続く)

夏のダマスカスで怪しいものを仕入れて大金持ちになるという夢

さとうまき

今回は、ダマスカスの旧市街の中に宿をとった。旧市街はローマ時代に作られた遺跡もあり、中世には、13世紀から14世紀にかけて、十字軍やモンゴル帝国の侵略を防ぐために、城壁で固められたそうだ。東門から石畳の狭い路地に入っていく。迷路のように入り組んだ狭い道に教会やら、モスクやらが混在している。

ダマスカスといえば夏でも日陰に入ればひんやりとしているし、朝晩はジャスミンの香りのそよ風が心地よい筈だった。ところが、今年の夏は暑くて、汗がたらたら出るし、湿気も感じる。夜になってもそれほど温度が下がらない。幸いにもホテルはキリスト教地区だったから、手軽にビールが飲めたので救われた。

今回のミッションは、赤ベコづくりを子どもたちに教えること。昨年僕がプレゼントにもっていった赤ベコを、シリアのアリさんというアーティストが子どもたちと一緒に樹脂で作ったのだ。いや、やっぱり紙の張り子のじゃないと。ということで教えるはずが、アリさんは研究して石膏の型を作って、張り子を自分で作ってしまったからすごい。彼がひとりで張り子のベコを50個以上作ってくれた。子どもたちが石膏の型に紙を張るところから体験して、あらかじめ作っておいた張り子に色を塗る。3日間で3か所、100人ほどの子どもたちと一緒に赤ベコを作ったのだった。

今回のテーマは、1)いろいろなところからダマスカスに避難している子どもたち。2)革命の都といわれたホムスに戻ってきた子供たち。3)小児がんの治療に来ている子供たちを対象にし、「みんなで平和のハーモニーを奏でましょう」というわけだ。この言葉は、子供たちが書いてくれたメッセージから選んだ。

例えばダマスカスの子どもたちが通う小学校から400メートルいくと、大通りを境に東側は空爆と迫撃砲で町がごっそりとがれきになっている。破壊される前に避難してきた子供たちが通っているそうだ。ホムスでは、レバノンに避難していたが数か月前に戻ってきたという子供もいた。お父さんは、レバノンでは仕事がなかったが、こちらに戻ってきてまた公務員の仕事に就くことができたと嬉しそうに話していた。

ともかく子どもたちは、大喜びでベコづくりに励んでいた。日本人が来てなんだか変なことをやっているのが面白かったのかもしれないし、赤ベコTシャツをみんなできてその一体感が楽しかったのかもしれない。

バスに乗って連れてこられた子供たちが手を振って帰っていく。ミッションは完了した、と報告しておこう。

シリアの内戦をテーマにした映画を何本か見たが、殆どは、民主化を訴えるデモから始まり、拷問を受けている映像や、破壊されたがれきの中から生き埋めにされた子どもたちが土埃というよりはコンクリートの粉で真っ白になり、血が混ざっているという残虐な映像、そして銃を撃ちまくる兵士たち。多くの人はそんなイメージをいまだに抱いていると思う。

ところが、行ってみて戦争のにおいはほとんどしなかった。前線から離れれば普通に人々は暮らしていた。避難していた人々も戻り始めている。国外に逃れた難民も62万人以上が戻ってきた。国内で避難していた人は130万人がもどっているという。でも全体からすれば10%から20%程度でしかないのだが。

去年は、政府が制圧し、仕掛け爆弾などの除去がおわると、もと居た住民たちが様子を見に来る場面にでくわした。でもとても人が住めるような状態ではないとわかればもはや誰も近づこうとしないから戦争の傷跡すら見えにくいものになってしまっている。

で、もう一つのミッションは、シリアの怪しげなものを仕入れて、商売して大儲けをするという計画だ。ダマスカスはお土産になりそうな寄木細工のモザイクの箱や、刺繍製品とか、いろいろ有名なものがある。スークに出かけて行って調査しながらいろいろ買ってみた。

そして、今回お目当てなのは、ナチュラルオイルで作ったシャンプー。中東によくあるのが、ハーブや、バラの花の乾燥したものやら、訳の分からない木の根っこだったり、サルノコシカケのようなものとかが、漢方のように売っているお店がある。サメの乾燥したものや、フグの乾燥したものまで天井からぶら下がっていて、一体何に使うのか怪しげなのだ。

アラブ女性は意外とシャンプーやトリートメントも、ナチュラルなものを気にしている。白髪染めもヘナを使ったり。そこで、売れそうなシャンプーも何本か買ってみた。ところが、暑すぎたせいか、いくらで買ったのか思いだせないのだ。ビジネスマンになるのはなかなか容易ではないな。

ダマスカス旧市街をあるけば、魔法のランプや空飛ぶ絨毯に巡り合えそうな気もする。どうせ怪しいものなら今度はそういうものを探しに行こうと思う。そのほうが、楽に暮らせて行けそうだ。

ウッドストックから遠く離れて

若松恵子

BS世界のドキュメンタリーで「ウッドストック~伝説の音楽フェス全記録」が、全編・後編の2日にわたって放送された。ウッドストックから50周年の今年、2019年にアメリカで制作されたドキュメンタリーだ。ウッドストックのエッセンスを紹介する良い番組だった。

フェス開催の経緯、4人の若いプロデューサー、会場を貸した農場主、フェスを支えたホッグファームというコミューン、ステージの裏方の人たちが主人公だ。そして何より集まってきた人々、観客の表情がみんな満ち足りていて、おだやかで、魅力的で、引き込まれてしまった。おおぜいの人たちが会場に集まってくる風景に、観客としてウッドストックを体験した人たちの回想がかぶさる。

「自分と同じように感じている仲間を探していたんです」

「自分たちが目指してきたのは、こういう自由なんだと思いました」

「40万人集まって何の暴力もいざこざも起きなければ、ここでの愛を社会に持ち帰って世界を変えられると思いました」

最初にフェスが計画されたウッドストックでは、ヒッピーたちの暴動を恐れて周辺住民が反対し、開催できなくなってしまったという。

ウッドストックフェスティバルに会場を提供した農場主のマックス・ヤスガー氏が観客に向かって話をさせてくれと言い、舞台でスピーチする場面が出てくる。

「この町だけでなく、全世界にむけて君たちは大事なことを証明したのです。50万人が集まって音楽を聴いて3日間楽しく過ごせたということ。それを成し遂げた君たちに神の祝福あれ」と彼は語りかける。

そして運営者の回想が続く

「彼は怒ったりせず私たちを認めてくれました。農場はめちゃくちゃになったでしょう。でも保守的な農場主があんなふうに感じるのなら、それはすごいことです」と。

音楽を聴こうという単純な動機で集まってきた若い世代を受け入れてくれた大人もまた存在していたのだということがわかる。大人も大人らしかったなと思った。食料を分け合う、毛布を広げて身を寄せ合って雨をよける、ホッグファームが引き受けてくれた警備はユニークなもので、「こうしなさい」ではなく「こうしてくれませんか」というお願い隊だったという。

「何もないところにきちんと機能する街ができたようでした」という回想が印象的だった。

4日目の朝、最後の出演者であるジミ・ヘンドリックス演奏のアメリカ国家が会場に響き渡る。ロケット弾やミサイルが炸裂する音を再現したギター。「世界で最も平和的なこの集まりを彼はベトナムと結びつけたのです」という運営者の回想が続く。

音楽を聴いた人たちが自分の街に帰って、できたことは小さなことだったかもしれないけれど、人間はウッドストックのように平和に集い、暴動を起こさずに分かち合うことができるのだと思えることは希望があると感じた。

リコーダー

璃葉

この街を選んだ理由はとくにない。6年前、不動産屋のお兄さんに紹介されたアパートは車も入れない小道の奥にあった。玄関には夾竹桃やよくわからない植物がもっさりと茂っていて、辺りの薄暗く陰気臭い雰囲気に少し警戒したけれど、裏手にある共用のベランダにまわったとき、目の前に広がる桜の木々を見て、即座にこのアパートに住むことを決めたのだった。肌寒いあの日、桜の葉がゆるやかな風に乗ってさらさらと散り、夕陽で黄金色に輝いていたのを今でも覚えている。

そして現在、私はこの部屋を出ようとしている。夏は大音量の蝉の声、秋は鈴虫、冬は枯葉の滑る乾いた音、そして春には怖いぐらいに乱れ咲く桜。それらとお別れすると思うと、素直に寂しい。案外自分はここをかなり気に入っていたのだと今更ながら気づく。それなのに、もうここにいてはだめだと感じていて、はやく移動しなければ、と焦っている。行き先も決まっていないのに、この感覚はどこからきているのだろう。

引越しを決めてからは、掃除をしながら今後必要なものとそうでないものを仕分けている。が、とにかく自分が所有しているものの多さに呆れかえっている。これは必要なもの、要らないもの、燃やしたいものと判断しながら、同時に自分にとって本当に大事なものはあるのだろうかと、もはや投げやりに近い妄想をしはじめ、気づいたら一日が過ぎようとしていた。

分子の集合体である物質に記憶やそのほかの何かが入り込み、それがただの素材ではなく、いつのまにか取り替えのきかないものになる。自分にとって何となくそうゆうものはある気がしている。でも、これだと言い切れるものはない。一体まわりの人は何を大事にしているのか。そもそも、そうゆうものがあるのか?と妙に気になりはじめた。

友人である中野さんに大事なものは何かと聞くと、“リコーダー”と答えが返ってきた。彼女とは4、5年ほどの付き合いになる。本作りの仕事で知り合い、いつの間にか飲み友達になった(毎回ついつい夜遅くまで飲みすぎてしまう)。プライベートではギターで弾き語りをし、春になると全国をまわっている彼女がティンホイッスルを吹くことも知っていたけれど、リコーダーの件については初耳だった。

1DKの眺めのよい中野家で赤ワインを飲みながら、彼女のつくったトマト煮込みやポテトサラダ、イチジクをつついていたときのことだ。どんなリコーダーなの?と聞いたとき、私は脳内に1本の笛みたいな物体をもわもわと浮かべていた。ところが彼女はそのことばを聞いたとたん、部屋の各所から次々とケースを取り出してくる。押入れの引き出しやその奥から、本棚の隅から。その動きのすばやさに吃驚する。クライネソプラニーノ、ソプラニーノ、ソプラノ、アルト、テナー、バス、そのほかティンホイッスルや知らない楽器もちらりと見える。リコーダーのケースがコンパクトだからか、まるで部屋中に武器を仕込んでいるような所有の仕方にげらげらと笑ってしまった。笛だけで20本はあるに違いない。

それぞれのケースを開けてもらうと、木製のつやつやしたリコーダーが分解されて入っている。美しい。中野さんはリコーダーを一つ一つ組み立てながら、小学校のころ、リコーダー部に入っていたときの話をしてくれる。教室の隅っこでこっそりリコーダーを吹く子だったらしい。こっそり吹いている感じがなんとなくどころか、すごく想像できる。

全て自分で揃えたものなのかと尋ねると、自分で買ったものと贈りものがあるそうだ。好きと言うと各方面から集まってくるのはよくわかる。私もそれには心当たりがある。ウイスキーだ。自分の大事なものとして挙げるのは違う気がするけれど。

組み立てたリコーダーをひとつずつ吹いていく酔っ払いの中野さんを眺めながら、赤ワインを美味しく飲む。0時をまわり、わたしはすっかり終電を逃していた。

蛇苺

イリナ・グリゴレ

手術後しばらく杖の支えで歩いた。そのときまで当たり前のようにできていたことができなくなった。病院の外の世界が覚えていた雰囲気と違って、暗かった。杖を置いたら少し歩けるのにまだ身体に自信がなかった。傷があまりに大きかったのだ。リハビリにバスで通うほかは、六畳の部屋にしばらく引きこもった。

今にしてみれば、それは自分の身体と向き合う充実した時間だった。杖がカタツムリのアンテナのように自分と世界の間にあって、それで世界を感じた。ただただ、ゆっくりと歩く辛さと喜びを感じて生きた。こんなに集中して歩いたことは今までなかった。筋肉が落ちてバランスが崩れて世界観が変わる。ただの数ヵ月間の時間が、昔話のように、深い森から出たら何年もたっていた。時間の感覚も、杖のような長い棒のような何かの塊になった。ゆっくり、ゆっくりと体があの自分の延長になった杖にだけに集中し、それ以上ものが考えられない。

ある日、宇宙探査機はやぶさの打ち上げの話を聞きに本郷まで出かけた。身体がこんな風になると、不思議に人間と宇宙の話が興味深くなる。杖でよちよち歩いて、本郷キャンパスが暗い中、いつか夢に出た雰囲気を思い出させた。

宇宙の話を聞いたからか、命は動きだと気付かされた。引きこもってばかりしてはいられない。旅に出ることにした。香港の空港に着いたのは夜九時ごろ。大学院の友達二人と学会に行くことになっていた。空港からタクシーに乗って街へ向かった。タクシーの運転手は若い男性で、車があまりに古くぼろぼろで、私たちの荷物をトランクに入れたらしまらなくなって、紐で縛ってすごいスピードで道を走り出した。テレビゲームのように運転していた。ニルヴァーナの曲が流れた車内や外から窓に映っていた高速ビルの夜景をみて目眩がした。カート・コバーンの声はなん年ぶりだろう。高校のころ、誕生日にIQテストの本と一緒にニルヴァーナのカセットテープを先輩からもらった。当時もほとんど部屋に引きこもって図書館の本を読みまくる生活だった。不思議なプレゼントだと思ったが、そのカセットテープを毎日繰り返し聴いていた。アルバムは、ニューヨークで録音されたMTVのアンプラグドバージョンだった。とくに”The Man Who Sold the World”と”Plateau”という曲が気に入った。プラトーという言葉が好きだった。

あのころ、わたしはとにかく遠いところへ逃げたかった。知らない地、知らない世界、知らないところの島のような地に行きたかった。コバーンの声はニューヨークで録音されていたが、私が聴いていた時もう彼はすでに死んでいた。

高校時代の私はなんであんなに寂しかったのだろうと思いながら、タクシーはものすごいスピードで走り、タクシーのミラーに映っていた高速道路はどこかのインスタレーションのような作品っぽい映像にみえた。暗いなか彼の集中している横顔が狼にみえた。そのぐらい私の杖で歩く日常のスピードとそのタクシーのスピードが違っていた。いつか前にシカゴにいたときもそうだったが、空港からのタクシーの運転手と、はじめて遠くに見えたその都会の夜景が一致していた。違う世へ導く案内役を務めるのはいつもタクシーの運転手だな。現代という時代では、タクシー運転手がステュクスの川を渡す役になっているのだろうか。

香港ではずっと目眩がしていた気がする。ショッピングモール、屋台、お店、ホテルのイメージが混乱する。新聞の朝刊をみたら、ポスト社会主義のルーマニアの写真集が紹介されていた。黒い布で頭を巻いて薪ストーブの近くに座っているおばあさんの白黒写真をみて懐かしくなった。あのおばあさんの目がなにか私に訴えていた。そのおばあさんとどこかで遇ったような気もした。その写真のことを考えながら駅前で売っていた焼き芋をどうしても食べたくて買って食べたが、パサパサしていておいしくなかった。どこへ行っても、食べものの味で落ちつきたい私。

香港に何日いたのか覚えてないが、杖で歩きながらその資本主義というイメージを理解しようとしていた。資本主義の人間が完璧な身体でいられることを求められるという感じもした。杖で歩いている若い白人の女性の私が違和感を与えた様子だった。ジロジロとみられた。

そのとき、なぜかベルイマンの『野いちご』という映画を思い出した。私も長い旅に出る死に近づいている人の感覚だった。建物の下にたくさんの人が歩いていて、その中に私がゆっくり、違うスピードで歩く。なぜか、人と建物の間のノイズがずっとその夢の感じを築いていた。ずっと暗かった。焼き芋の屋台の人以外、現地の人と会う機会はほとんどなかった。

へバスで移動したとき、信号で止まった車の中にいる人がはじめて近くから見えた。その男性は、鼻をかんでそのティシュを見てからそのまま外に捨てた。高速道路とビルの間からお月様が一瞬だけ見えた。そのとき友達が私の考えていることを言葉にしたかのように「よかった。自然がここにもあるね」と言った。なんだか、月が見えたことで、まだ地球にいるという安心感が戻ってきた。

もう一つ大事なエピソードが起きた。学会の遠足で、下町の暗い高架の下に占い師のようなおばあさんたちがまだいる、と案内された。そこで不思議な儀礼が行われるらしいから、若手人類学者の卵が見るべきところと言っていいだろう。意外と大勢の客が運勢を知るために来ていて、あたりは混んでいた。グループの中に占ってもらいたい人がおらず、私としては自分の身体で経験しないと気がすまないから、試しに占ってもらった。

占い師は、あなたの病気の原因がわかる、と言った。杖のせいか私が病人にしか見えなかったのだろう。それから占いのおばあさんは、歌うような不思議な抑揚の言葉で語ったが、私は向こうの店で売っている不思議な食べ物をぼんやりと眺めて見ていて、何も感じなかった。通訳した人はかなりの怖がり屋で、複雑な表情をしながら、あなたの病気の原因はすごく寂しいおばあちゃんの幽霊だそうです、と英語で言った。詳しく知りたいならもっとお金がかかると言われたのでそこでやめた。占い師の話に寂しいおばあさんの幽霊が出たのは、私がその朝に新聞でみたイメージのせいかもしれなかった。香港の旅はここで終わった。

香港から帰ってきても自由ではなかったが、リハビリで小さな代田川の近くを歩いた。すると、季節が一瞬で入れ替わっていた。やはり違う世界に入っていたに違いない。

そのあとすぐまた旅に出てルーマニアの実家に行った。杖をついて。そうしたら父もちょうど病院にいて大きな手術を受けていた。父の体にできた大きな立派な傷を、私の手術跡と見比べた。その瞬間、父の今まで許せなかったもろもろのことを許している自分に気付いた。次の日から、もう杖で歩くのをやめることができた。ゆらゆらしながらも自分の身体が解放された。人はなぜ互いに傷つける生き物なのだろう、と自問しながら。

すぐ日本に帰らなければならなかったので、生まれ育った家には一時間ぐらいしかいられなかったが、庭に入った瞬間驚いた。それはまた新しい世界への入り口だった。家の周りのすべての庭に美しい白い花が咲いていた。黒い土の上に、たくさんの白いすみれだった。あの家になん年もくらしたのに、白いすみれが咲くことはなかった。家も近くの森の一部だと感じた。

日本に戻って、リハビリを終えてからも、しばらくあの細い川の近くを歩き続けた。そうすると、香港の占い師にいわれたおばあさんの幽霊が、しばらく前に亡くなった父方の祖母のことだと分かった。彼女は若くして夫を亡くしたためか、一人息子である私の父が結婚して彼女のもとを離れたことが許せなかったようだ。

亡くなった人間をみたのも彼女が初めてだった。彼女を看護して最期をみとったのは私だったから。きっと寂しかっただろう。亡くなった瞬間、私のほうをみて、何か呼びかけようとしていたが、部屋に集まった黒い服に身を包んだ村の婦人たちは、私が彼女に近づくのを止めた。私が近くいると、魂がうまく体を出ていかないから、と村人たちは言った。あの日の村の女たちは、まるで死霊にしか見えなかった。彼女の孫である私も、もう一人の母方の祖母に育てられたから、最後まで彼女にあまり甘えることもなかった。彼女にはこれも寂しかっただろうか。

死がいよいよ近くなると、村の婦人はみな黒い服を着て病人の部屋と庭に集まり、臨終の時を待つというしきたりがある。きっと彼女にはそれがよかった、あまりにも一人での人生が寂しかったのだろう。そんなことを思いながら、代田川のほとりを杖なしでゆっくりと歩いた。

あのとき、踊りをみに行く前の夜のこと、祖母の庭に光る木の夢を見た。その木には蛍のような生き物がびっしりと取り付いて、それがうごめくたびに、木の全体が光って動いた。そして、その翌日、私が踊りを見ていると、暗い中に浮かぶ身体が小さな電球をぶら下げてうごめくように踊っていた。まるで、夢に見た動く光の木のように。全部が繋がっていると思った。

川のほとりを歩きながら、またベルイマンの『野いちご』を思い出した。主人公の息子は新しい人間をこの世に生み出すことに反対していた。そういう傷というのもある。なぜか香港で聞いた寂しい幽霊のことが心に浮かんだ。きっとあの幽霊となった寂しい祖母は、ほんとうは私自身のことだったのだ。そう思いながら川べりに実っている蛇苺に気が付いた。とても綺麗に見えた。どうしても味見したくなった。蛇が食べる苺とはどんな味がするのだろう。その赤い色がものすごくはっきり見えた。思わず一つ実を口に運んだ。あまくなかった。

(「図書」2017年9月号)

179 純水

藤井貞和

小サナ火ガ坂ノアタリデ泣イテイル。 アレハ妹ダ、

ト友人ハ 言ッタ。 電話ノムコウデ、

友人ハ ソウ言ッテ、ヒトシキリ泣イタ。

ドウシテ明ルク、ソノアタリガ見エテイタノダロウ。

小サナ火ガ、ト思イナガラ眠ル夢ニ、

友人ノ妹ガワタシニモ見エタ。 死ンダヒトヲ夢ニ見ルノハ、

ヒサシクナイコトダッタ、ト思イナガラ、

ワタシハ書イタ、ワタシノ問題。 「純(ひと)」トイウ題ノ詩。

水ハ 異界。

(純は妹の名前。万葉歌では「ひと」と詠む。なぜひとは詩を書くのでしょう。ただ、自分のなかでバランスを取りたかったから、と思います。)

浄土を見る(晩年通信その3)

室謙二

 記憶が悪くなって確かではないのだが、二十年以上前のことだと思う。

 浄土を見たいと思った。

 そんなものは、あるのかな?

 とりあえず、あるということにした。

 そこには明るい光があり、風が吹き、大きな木が育ち、鳥が歌い、水が流れ、無限のいのちのアミダ(阿弥陀)がいる。浄土を見たいと思ったのは、心理学者ユングの「観無量寿経」の解説を読んだからであった。

 もっとも、いろんな浄土があるらしい。華厳経(けごんきょう)には蓮華蔵世界という浄土がある。大日如来は密厳浄土(みつごんじょうど)にいるし、釈迦如来は霊山浄土(りょうぜんじょうど)、山の頂上で法華経を説いた。

 観世音菩薩の浄土は補陀落(ふだらく)浄土とある。しかしもっとも知られているのがアミダのいるの西方極楽浄土で、観無量寿経によれば、私たちは瞑想でアミダ浄土を体験することができる。

 それで観無量寿経にしたがって瞑想をして、浄土を見ようと思った。まずは観無量寿経の瞑想マニュアルの部分を、なんどもなんども読んだ。いくつもの日本語訳を読み比べて、原文の中国語にも目を通した。

 西方に沈む太陽を見るのである。それは目に焼き付いて、目をつぶっても太陽の形と光は残っている。次に水を見てその中に入っていく。

 私はバークレー・ヨットハーバーはずれの岩に座って、観無量寿経のとおりやってみようとしていた。沈んでいく夕日を見て、夕日が沈んだあとその太陽を想像する。頭のなかではっきりと見えるようにする。それから水を想像する。そしてその水の中に入っていって、大地を発見する。それが浄土である。

 そこにはさまざまな楽器があり、八種の風が吹き楽器を鳴らして、苦・空・無常・無我を説いている。そして中心には仏がいる。私たちが仏を思い描くとき、その心がそのまま仏である(是心作仏、是心是仏)、と観無量寿経は言う。そう言われてもなあ、私たちが仏を思い描く心がすなわち仏である、などとすぐには思えないよ。

 観無量寿経に書かれたとおりに、想像することは練習すればできる。しかしそれは観無量寿経というテキストを片手にそう思っているにしか過ぎない。何日もバークレー・ヨットハーバーの半島の岩に座って落ちていく夕日を見ていたが、観無量寿経のテキストのように想像はできても、手にしたテキストと関係なく、浄土が忽然と私の前に現れるわけではなかった。

 敦煌へ

 あとになって私は、法然の三昧発得記(さんまいほっとくき)を読んだ。そこでは法然が、念仏を唱え続けることによって、観無量寿経に書かれているような浄土を体験している。三七日間、毎日七万回の念仏(なむあみだぶつ)をとなえるのである。七万回というと、一日四時間は、眠ったり他のことで唱えないとして、だいたい一秒間に一回、一日二〇時間、三七日間、ナムアミダブツと唱え続けたのである。試しに、集中して一時間でもそれをやってみれば分かるが、毎日二十時間、三七日間やってみる気力はない。これは大変な修行である。

 そうしながら、観無量寿経の水想観(太陽が沈んだあと水をみる)、地想観(水の下にある大地をみる)、宝樹観(大地の大木を見る)、宝池観(そこには池がある)、宝殿観(アミダの宝殿を見る)を行う。

 観無量寿経には、まず書かれたとおりやって、これからさきは自分でやりなさい、自由に浄土を経験しなさいと何回も書いてある。だけど何日か夕日を見たところで、観無量寿経テキストのような浄土は想像できても、法然のようには浄土は浮かび上がってこない。

 法然は「建仁元年二月八日の後夜に、鳥のこえをきく、またことのおとをきく、ふえのおとらをきく、そののち日にした号て、自在にこれを聞く」と言っている。いろんな色も見えてくる。そんな風に、自在に浄土を体験することは無理だった。

 ところで浄土に言って何をするのか?

 浄土に行けば、欲望も悩みも様々な不都合も、一切がなくなるということではない。私たちは浄土で誰に邪魔されることなく瞑想ができて、修行(プラクティス)ができる。それは悟りに至るプロセスである。悟って浄土に至るのではなく、浄土での修行で悟りに至るのである。親鸞は、「アミダ浄土は、遠く離れたところではない」と言っている。さてテキスト片手で浄土は「体験」できたが、実際の浄土にどうやって行けるのかは分からない。それで敦煌に行ってみようと思った。

 敦煌の岩壁の掘られた横穴には、そこで修行をした僧たちが描いた浄土の絵がたくさんある。十数年前の六〇歳の還暦記念に、妻のNancyをさそってカリフォルニアから出かけていった。

 冬であったので、ゴビ砂漠(デザート)の外れにある敦煌は寒かった。ロス育ちで寒さに弱い妻は震え上がり、敦煌の街で服を何着も買って、着ぶくれであった。しかし一つの横穴にで出会った大仏に感激して、突然に床に臥して参拝したのには驚いた。何度も参拝する。私たち以外に誰もいなかった。大仏の顔は、外からの光で輝いていた。

 ともかく寒かった。

オノマトペからザーウミへ

高橋悠治

1972年に小杉武久に委嘱した Piano-Wave-Mix は どんな演奏をしたか忘れてしまった ピアノを弾いている写真があり そばに座っているのが小杉だろうか だれかわからない 楽譜(というか 演奏指示書) も長いこと行方不明になっていた 2009年にそのかわりに ver.2として書かれた新しい曲は 電子ピアノで既成の曲を弾き それを電子的に変調する 同時に声は Wave Code として 演奏者が選んだ 26種類のオノマトペを変化させる

今年の夏 初版の楽譜がおもいがけなく見つかった Wave Code は a からzまでのアルファベット26文字ではじまるオノマトペで Piano Code はピアノの88音を26の枠内に 重複しないように0音から13音までの音の音名と音域にランダムに配分し それらを単音・和音・フレーズのどれかのかたちに変えて弾く  Piano Code はどうやって枠内に音を分配したのかわからないが 音数の多い枠は 無調的な響きではなく それぞれにちがう色があるようだった 演奏がどのくらい 小杉の思い描いていたような空間や時間になっていたのか わからない

昨年亡くなった小杉を追悼するコンサートが9月にEgg Farm であった そこで Piano-Wave-Mix の初版を再演し for Kosugi というピアノ曲を作って弾いた Wave Code のオノマトペをピアノの上の手のうごきに変え 時々は小杉の「54音の点在」を思い出しながら 小さな音があちこちで鳴るような瞬間を入れた

オノマトペには それぞれの手ざわりがある 意味や論理では決められないが 子音や母音のちがいから 明るさやひらき うごきかたが感じられる エレーナ・パンチェワの日本語のオノマトペについての研究論文「日本語の擬声語・擬態語における形態と意味の相関について」(千葉大学、2006) や 隈研吾の「オノマトペ建築」(2015)もある 

ひとつの状態をオノマトペで声にする身体はそこにとどまらず 印象のなかから外へ出る いくつかのオノマトペをゆききしながら 逸れていき 名のない空間がひろがってくれば そこで自由にうごきまわれるだろうか

フレーブニコフの「ザンゲジ」のなかのザーウミ(意味を超えたことば)をとりだして 鳥のことば 神々のことばだけでなく 星のことばも作曲してみようと計画していて 日本語のオノマトペとはまたちがう音の空間 別な歌の調べがあるのかもしれない

プロセスの音楽を作り演奏するのは それ自体が先の見えないプロセスで それとともに変化する身体になっていくだろう   

2019年9月1日(日)

水牛だより

そこここに秋の気配は濃厚にあるものの、暑さだけはまだ現役でしっかりと活動中の東京です。今年は夏のはじまりが遅かったでの、終わりも延びるのでしょうか。

「水牛のように」を2019年9月1日号に更新しました。
管啓次郎さんが2017年1月から9月まで連載した『狂狗集』が小さな本になりました。うれしい展開です。この「水牛」ではあまりレイアウトなどに凝ることができませんが、印刷された本では縦書きで句(狗?)ごとに下揃えになっています。好きなレイアウトに固定できるのはやはり魅力があります。「ページをめくるたび、ぼくらの足は軽くなり、心は自由になる!」
大竹昭子さんは「カタリココ」という朗読とトークのイベントを続けていますが、この夏にトークをもとにした〈カタリココ文庫〉の出版をはじめました。創刊号は『高野文子「私」のバラけ方』です。おもしろそうですね。
こうした小さな本にする試みは水牛についてもときどき考えたりはするのです。〈水牛文庫〉ですね。しかし、これまでにみなさんが書いてくれたリソースは膨大といってもいいほどにあるので、さて、どこから手をつけようかというあたりで毎回挫折して今日に至っています。「ボーッと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうですが、まあ、もう少しボーッとしていてもいいのではないかとも思います。そのうちに「やりたい」という人があらわれるかもしれませんから。

それではまた!(八巻美恵)

178 南残の人々

藤井貞和

せんらん(戦乱)の火を、『太平記』って、

たいへい(泰平)の世にむかう、それはそうだけど、

あいつは「なぜ」と問いながら、

南河内城に入市(にゅうし)する、五十年まえ、

フィールド・ワーク「太平記、なぜ」。

手にとる「じんのうしょうとうき」(大系本)は、

国粋主義でばっちいし、(二度は読むな)

声のかぎり、子供が求めて斃れた歴史。

最悪の現実が、夕日とともにやってきたのは、

とうぜんなんだ、などと言っていた南残の人々。

あざわらう武者のあずき色の小便を分析して、

求めたのは不眠の亡霊。 生まれ継いだ、

残狼の仔だったよな、死して守り、

波しぶく南残の城、ふたたびは見ず。

あいつは偽書のやみから噴き上げる純白の火を、

いとしいもののようにふたたび殺す

(一九七〇年代に消えたまぼろしの若者たち。第二の現代詩みたいな詩があるならば、哀悼したい。第二の廃墟を建てて、入市する。第二の靖国神社をぶっ建てて、かれらを祀る。)

仙台ネイティブのつぶやき(47)水に揺れる灯籠

西大立目祥子

 台風がきたら灯籠流しは中止だよ、と聞いていたのだけれど、幸い台風は日本海に抜け風もやんだ。オレンジ色の夕焼け空を背中に感じながら、仙台の街中から海に向かって車を走らせる。20分も走れば海。向かうのは仙台東端をなだらかなに縁取る海岸にあった荒浜という集落だ。

 “あった”と書いたのは、荒浜は東日本大震災の大津波で流され、もう住むことのできない場所になったから。震災後の8年半の間に、集落の人たちは慣れ親しんだ土地を離れ、少し内陸に家を立てたり借りたり災害公営住宅に入ったりして生活を再建している。

 それでも、荒浜の人たちからは、あきらめてこの地を去るというような後退とは一線を画するような頑張りを見せつけられてきた。漁師さんはいち早く自力で作業小屋を立てて漁を再開したし、訪れる人と交流し活動する拠点を自前でつくり上げた人もいれば、80歳を過ぎて、大きな被害を受けたこの地を写真に撮り続け砂浜で写真展を開く人もいる。震災間もないころ、仮設住宅の集会所を訪ねて入居している人たちから話を聞く活動を手伝ったときも、率先して参加し大きな声で話を聞かせてくれるのは荒浜の人たちだった。そのたびに、負けん気の強い浜っ子気質が火花を散らしているように感じたものだ。

 その荒浜で夜にお盆の灯籠流しが行われるという。震災後も休まず夕方の明るいうちに開催してきた灯篭流しが今年はいよいよかつてのように、集落を流れる貞山堀(ていざんぼり)で行われることになったのだった。

 住宅地を抜け荒浜に近づくと道路の両側には田んぼが広がる。いまの季節、少しずつ実が入ってくる稲は薄く黄色に染まり始めているように見え、農業が再開されていることが実感できるというのに、なんとなくひりひりするような痛いような感覚になるのはなぜなんだろう。目の裏に、がれきが散乱していた風景がよみがえってくるからだろうか。と、道路が急にせり上がってきて、いままで交差していた県道の上を高架で超えた。びっくり。来るたび、風景がつぎつぎと変わる。津波被害の跡地はまだまだ普請中なのだ。

 着くとあたりが暗くなり始めた。荒浜の人たちが屋上に逃げて命を拾い、いまは震災遺構として使われている旧荒浜小学校の校庭に車をとめて貞山掘に向かうと、知り合いに会って、声をかけたり声をかけられたり。地域のお盆はこういうものだったのかなぁと思う。灯籠流しで里帰りをした幼なじみに会って立ち話をしたりしたんだろう。

 闇に包まれていく堀には中に明かりを納めた色とりどりの灯篭が浮かんでいて、暗くなるほどその色が鮮やかに浮かび上がってくる。堀のわきのテントの中では、荒浜に暮らしていた年配の女性たちが休むことなく御詠歌を唱和している。荒浜では震災で200人近い人が命を落とした。残されたほとんどの人たちが、家族や親族や友人、長年つきあいのあった近所の人を失っているはずだ。暗闇の中に浮かび上がる灯篭を眺めていると、亡くなった人とつながっているという思いが強まってくる。

 ぼうっと灯篭を眺めている間にも、いろんな人に声をかけられる。いまいっしょに聞き書きの活動をしている若い友人、震災遺構で働くスタッフ、荒浜のために奔走する知人、漁師の娘さん‥あらためて考えると震災のあとに知り合いになった人が多い。こうしたつながりに、私の遠い日の荒浜の記憶が折り重なる。

 それは、まだ就学前の夏の思い出だ。荒浜の漁師さんの家の一間を借りて、父や母、弟、叔父や叔母、従兄弟たちと1週間ほどを過ごしたことがあった。なぜか子どものころは私も弟も病気ばかりしていて、見るに見かねた祖母が潮風にあたって海水浴でもすれば少しは丈夫になるだろうと、知人のつてを頼んで逗留させてくれる家を探したのだと思う。いまでいう民泊だ。仙台で海水浴場といえば荒浜なのだった。

 立ち代わり叔父叔母がやってきたのは、借りた部屋がせいぜい6畳くらいだったからだろう。前廊下にはプロパンのガスボンベや鍋が重なっていた記憶があるので、鍋釜や布団まで持ち込んだのかもしれない。水着に着替えて庭に飛び出すと、そこはもう海岸と同じように砂地で、松林をくぐりぬければすぐ海だった。たしか4つ5つ年上の男の子と私と同じ歳くらいの姉妹がいて、3人とも浜の子らしくよく日焼けしてたくましい体つきだった。それにくらべて私は…。幼いながら、白くてひょろひょろした体が恥ずかしかったことをはっきりと覚えている。

 そのころの荒浜はまだ漁も行われていて、砂浜には舳先のとがった伝統的な木造船が並んでいて、早朝、漁師さんたちが乗り込んで沖に定置網を引き上げに沖に向かうのだった。漁のようすがいまでも目に浮かぶのは、父が撮った写真が残っていたからかもしれない。海は波が荒かったけれど、子どもの腰くらいまでの深さのところまで入って足先を砂に潜らせると、カチンとぶつかるものがあって拾い上げると二枚貝だった。おもしろいように採れて、廊下の隅においたバケツいっぱいになった。あの大量の貝はおつゆにでもして食べたのだろうか。

 泊まっていた漁師さんの家の主はよく焼けた小太りの背の低いおじいさんで、近所の人たちは「爺やおんつぁん」とよんでいた。いよいよ引き上げるという日、家の人たちと座敷に座って、たぶんスイカか何かをごちそうになっていたときだと思う。英語の教師をしていた叔父が、壁に掛けてある表彰状のようなものを指差したずねたのはそれが英語で書かれていたからだろう。爺やおんつぁんが、進駐している米兵が海でおぼれかかったとき泳いで助け、そのお礼にもらったのだと答え、ここの海は波が荒くて押し戻されるから浜に対して斜めに向かってこないと戻れないのだと説明した。私は小太りのおじいさんが見事に抜き手を切ってアメリカの兵隊さんを助けるようすを想像してほれぼれした。

 後年、荒浜の民俗誌を読んでいて「爺や丸」という船があったことを知り、きっとあのおじいさんの船だ、と膝を打った。さらに震災後、地元の人たちに聞き書きをして、あの大量の貝はアサリではなく、「ナミノコ」だと教えられた。「爺やおんつぁん」という名前を出して、「なんであんたそんなこと知ってるんだ」と驚かれたこともある。その家は、亡くなったり荒浜を離れたりしてすでに震災前になかったことも教えられた。50年以上の時間を経て、子ども時代の荒浜の記憶に新しい記憶が上書きされていくおもしろさと不思議さ。本編はとうに終わっていたかと思っていたら、いつまでも続編が続く。

 灯籠はゆらゆらと水に揺れている。家族連れも多く、あちらこちらからあいさつの声が聞こえる。静かに堀を眺める人もいる。7時20分を過ぎたころ、マイクで「今日はありがとうございます」とあいさつがあった。高山君の声だ。彼は荒浜出身ではないのに、荒浜への思い厚くここで活動を続けていまは震災遺構で働いている。「荒浜はもうだれも住めない場所になってしまったけれど、こうやって集うことはできます」。彼はいつもまっすぐなことばを繰り出してくる。途中で声が変わり、「これから花火を上げます。集まってくれた人たちのためにどうしても上げたくて」というこれまたまっすぐなアナウンス。震災後、この地に思いを持つ若い人がつぎつぎと集まって、この土地と人をつなぐ活動を続けている。だれもが本気で真剣だ。

 やがて数発の花火が上がり、胸の中にあたたかいものがわっと広がった。ほんの一瞬の花火。でも集う人たちがこんなにも同じ思いで見上げる花火はそうないかもしれない。

 負けん気の荒浜の人たちは空っぽになったこの土地から思い出を引き出そうとし、まっすぐなよそ者はそこに新しい物語を描こうとしている。どちらも、きっと、人はそう簡単に住んでいる場所を変えられない、と信じているのだ。宙づりになったこの土地がどうなっていくのかを、私もだらだらと続編を加えながら見届けたい。

ここ30年のインドネシアと日本 ~映像記録メディア~

冨岡三智

実は、『水牛のように』2006年3月号~5月号に「ここ10年のインドネシアと日本」と題して、スハルト時代の役所の習慣やら、電話やインターネットの事情やらについて書いた(バックナンバーには未収録)。ところが、それから10年あまりが過ぎて、もはや2006年に書いたことすら古くなってしまった。いつか、この駄文が風俗資料になるかもしれないと思いつつ、ここに30年間の変化を書き留めておこう。

1996年3月にインドネシアに留学するに当たり、私は初めてハンディカムのビデオカメラを記録用に買った。確か当時は20万円近くしたが、留学だからと奮発した。それはHi8という8ミリの上位機種で、アナログ式。SPモードで120分のテープに録画する。現在のデジタル画像に慣れた目で見ると、画質の差はいかんともしがたい。が、問題は記録があるかないかなのだ。70年代と80年代の調査記録を基に書かれた海外の舞踊研究書の序文に、80年代半ばに一般用8ミリビデオが発売されて研究が大いに進展したと書いてあったことが強く記憶に残っている。それまで舞踊研究に使われてきた資料といえば、伴奏音楽の録音、舞台写真、舞踊譜(動きを専門用語で書き留めたもの)、フォーメーション図(移動方向や向きを図で表したもの)しかなかった。これらの方法を併用しても動きを言葉で説明するには限界があり、しかも、その記録を基に動きを想像し再現することができるのはその舞踊の経験者だけだ。未経験者には無理なのである。しかし、映像なら未経験者でもどんな動きの舞踊かを知ることができる。そんなわけで、80年代の一般用ビデオの発売は舞踊研究において画期的な出来事だったと思う。

2000年2月、私は古いHi8カメラを携えてインドネシアに再留学した。が、4月以降に新しく留学してきた人たちが持ってきたのはデジタルのビデオカメラ。ちなみに、その人たちは写真カメラもデジタルだった。2000年頃を境に世はアナログからデジタルに移行しようとしていた。アナログ・データをダビングするには元データと同じだけ時間がかかるが、デジタルならすぐに複製でき、編集もできてしまう。画質以上に、この複製編集の手軽さこそがデジタル化の本質だ。

youtubeの設立は2005年らしい。私の周囲では2007~08年前後からyoutubeやfacebookなどに映像をまめにアップする人たちが増えたように感じる。たぶん、編集用コンピュータの容量増加やスマホの登場(2007年)も影響しているだろう。一方、Hi8時代―つまり1980~90年代―の記録は、デジタル変換されなければ存在しないも同然になってしまう。再生機もすでに製造中止になっているのだから。私は2005年頃に自分が記録したHi8映像の多くをDVD化したが、まだの分も少なくない。私より少し古い世代の人たちの記録なら世代ごと忘れられてしまう可能性もあるように感じる。デジタル時代の人たちがHi8時代の人たちより活躍しているというわけではないのだ。デジタル格差とは、インターネット等の技術を利用できる者と利用できない者との間にもたらされる格差のことを言うが、このように世代による記録情報の残り方の格差は含まないのだろうか。

アジアのごはん(99)ビルマの豆いろり

森下ヒバリ

ビルマ(ミャンマー)のシャン州、インレー湖のほとりの町ニャウンシュエに来ている。4月からずっと忙しかったので、この小さな町でゆっくりしているところ。毎日のんびりと町を歩き、市場に顔を出す。日本でのあれこれやることばかりの忙しい毎日がうそのように、こちらの人は仕事も用事もゆっくりだ。毎日スコールがあり、決まってしばらく停電するので、忙しくしてもしかたがないのだけれど。

さて、先日ニャウンシュエの市場で、名前だけ知っていた豆の調味料「ポンイェージー」を見つけたのである。このポンイェージーとは、豆の茹で汁を煮詰めてペースト状にしたものだ。ビルマでは納豆を主にホースグラムという大豆によく似た小さな豆から作るが、そのホースグラムの茹で汁から作られるという。

じつは万葉の時代から日本にも同じようなものがあったらしく、それは「いろり」と呼ばれ、大豆の煮汁で作るものとカツオの煮汁で作るものとがあったらしい。大豆は味噌やひしおを作る時の煮汁の利用で、カツオもカツオ節を作る時に出る煮汁を利用したものだ。もっとも、現代でもそのいろりが豆にしてもカツオにしても作られているという話は聞かない。

市場で友人がかごを物色しているのを待っていたら、ちょっと先でおばちゃんが二人、小さなビニール袋に入れた茶色いものを4袋並べて売っていた。「それ、ペー・ポウ(納豆)?」と尋ねると、おばちゃんが「ポンイェージー」と答えた、ような気がした。「え、ポンイェージー?」うなずく二人。豆天国のようなシャン州で、乾燥や生の納豆、炒り豆、豆の発酵ペースト・ペーパチンなどには常にお目にかかっているのだが、平安時代の日本でも食されていたという「豆いろり」に遭遇したのは初めてである。こういうものがビルマにあるらしい、という情報しかなくそれがどんな形なのか、色なのかも分からないので、なかなか探すのはむずかしい。ビルマ語もほとんどできないし。

さっそく入手したそれは、茶色い水分少な目のペースト。なめてみると・・豆の煮汁を煮詰めたような味。味噌ほどのコクはない。しかし、乳酸発酵しているような酸味が少しある。どんなにおいしい調味料だろうと期待していた分、肩透かしな気分だが、しかし日本でもいろりはあくまで出しの素のような存在であったらしいので、こんなものかもしれない。

こちらではどのように食べるのか、英語の上手な宿のおかみのマ・トゥイに聞いてみた。「ポンイェージーはねえ、うちではポークや魚のカレーの仕上げに水でちょっと溶いてスプーン一杯ぐらい入れる。最後にね。おいしくなるのよ」「あとは、ポンイェージーの和え物もあるわね。ポンイェージーに玉ねぎスライス、香菜、チリ、ライム汁、ピーナツ油、塩を混ぜ合わせる。好みで生ニンニクのスライスを入れてもいい」「今日は昼にシャンカオスエ(シャン族風米麺)を作ってあげるから、ポンイェージーの和え物も作ってあげる」朝食付きの宿なのに、いつも朝食を食べないわたしと連れになんとかして色々物を食べさせようとするマ・トゥイだが、ついに朝はあきらめたらしく、朝ごはんの代わりに昼ご飯を食べさせてくれるという。なんて親切なんだ。

「ポンイェージーはどの豆で作るの?」「ペー・ポウ・シッだと思うけど。ソイビーンよ。ビルマのソイ・ビーンはすごく小さいのと中くらいのと大きいのとあってね。一番小さいやつよ」「ペー・ピザ、ホースグラムじゃないの?」「それ何? う〜ん、よく分からない。もともとポンイェージーはバガン地方の特産だから自分では作らないし」

シャン州の市場で何度もホースグラムの生の豆を探しているのだが、どういうわけか見つけられていない。市場で売られている生の納豆で使われているのは、どう見ても小粒大豆ではない小さな平たい豆だ。市場の納豆で使われている豆の名前を聞いても、やはりみんな「ペー・ポウ・シッ」と答える。納豆のビルマ語が「ペー・ポウ」で、「ペー・ポウ・シッ」とは大豆、ソイビーンと訳されるが、直訳すれば「納豆の豆」という意味である。

どうやら、シャン州の人々はホースグラムを小粒大豆の一種としているようなのだ。種類としては全く違う系統の豆なのだが、納豆を作る豆ということで、小粒大豆も使うし、区別する意味がないのかもしれない。

マ・トゥイが作ってくれたポンイェージーの和え物は、予測を裏切って、ポンイェージーがメインで食べる味噌、みたいなものであった。麺もあるのに白ごはんも出してくれて、「ごはんと一緒に食べるのよ」と。味は、う〜ん、さっぱりした付け味噌みたいな・・。おいしいような気がする・・。あると、ごはんがすすむかな。

豆の煮汁、というのはじつはけっこういい出しになる。豆をよく食べるようになってから、それまで圧力鍋で煮ていたひよこ豆や花豆などを普通の鍋で煮るようになった。ひと晩水に漬けておけば、普通の鍋でもひよこ豆なら15分ぐらいで、青大豆なら7分もあれば歯ごたえを残していい感じに茹でられる。普通の鍋の方が、歯ごたえを残した茹で加減をするのが簡単なのに、いまさら気が付いたというわけ。

そして、圧力鍋で茹でた後の煮汁は苦みが出たりするのだが、普通の鍋でことこと煮ると、煮汁もおいしい。南インドのラッサムというタマリンドで酸味を付けたカレースープも豆を茹でたあとの煮汁を使って作るが、日本の家庭料理のカレーやスープの出しとして使える。大豆やひよこ豆の煮汁はタンパク質が多いので、泡だて器でかき混ぜると卵白代わりにメレンゲを作ることさえできるのである。手動でかき混ぜるのはかなり大変だが、ハンドブレンダ—で濃いめの煮汁をかき混ぜてみれば、えっと驚く変化である。ベジタリンの方には砂糖を加えてオーブンで焼けばメレンゲにもなるし、卵白代わりにシフォンケーキだって出来るはずである。

豆の煮汁をいろいろ活用するときに気を付けたいのは、豆を茹でる前にひと晩漬けて置いた水は捨て、新しい水で茹でることである。生の豆には動物の消化を阻害する毒成分が含まれていて、動物に食べられるのを防いでいる。水に浸って発芽の準備を始めると、この毒成分は水分中に溶け出ていくので、その水は必ず捨てることである。

ポンイェージーのように豆の煮汁をとことん煮詰めなくても、豆を茹でたあとの煮汁を使って、みそ汁でもカレーでも作ればけっこうおいしくできてしまうので、ぜひお試しください。

もうしばらくしたら、この町ともお別れだが、帰る前にたくさんの炒り豆と乾燥豆を買って帰ろう。直径7ミリぐらいの小さなひよこ豆の炒り豆が一番のお気に入りだ。

向こう岸

植松眞人

 吹く風がもう秋ではないと告げている。

 恭平が握った石も川風に表面から熱を奪われ、真昼の太陽にさらされたとは思えないくらいに冷たかった。

「辛いことがあれば石を投げろ」

 そう教えてくれたのは祖父の達明だった。達明は若い頃ボクシングをやっていて、一度は軽量級世界チャンピオンの挑戦者として取り沙汰されたことがあったそうだ。

「場末の小さなジムでいくら頑張っても、大きなジムには叶わへんのや」

 達明は理不尽な大手ジムのやり口に負けて、チャンピオンに挑戦することすらできなかったのだと笑う。ただ、息子の達也、つまり、恭平の父親に言わせれば、そもそもそれほど強くはなかったとのことだ。

「その証拠に、一度、駅前の飲み屋街でチンピラに絡まれたとき、すんまへん、すんまへんとずっと謝ってたんや」

 達也は達明の通夜の席でも楽しそうにその話を披露したが、祖母のめぐみはそんな達也にこれまで見たことのない形相で、

「あのな、お父さんは、あんたがまだ小さかったから、謝るしかなかったんや。警察沙汰になったらライセンス剥奪やし、なにより、あんたが怪我でもしたらと思いはったんや。そんなこともわからんのかっ!」

 と達也を弔問客の面前で叱りつけた。涙を流しながら達也をにらみつけていた祖母のことを小学校にあがったばかりだった恭平は忘れられないのだった。

 達明が逝ってしまってからもう三年が経った。気がついたときには手遅れと言われ、本人も周囲もあれよあれよという間に、達明は言ってしまった。めぐみも達明の後を追うようにちょうど一年後に逝った。

 二人が亡くなってしまうと、なぜか父の達也は急に防波堤をなくしてかのように人生の荒波を正面から被るようになってしまった。まず、達也の勤め先が事業の失敗で大規模なリストラを敢行した。社員に責任はなく、自社製品の検査結果隠蔽という上層部の体質の露呈ではあったが、そこそこの大手企業だったために、会社を倒さないように官庁が手を差しのべ、結果、末端の社員をリストラすることで事なきを得たのである。

 会社から振り落とされるような形で無職となった達也はなぜか立ち直ることが出来ず、絵に描いたような堕ち方をした。酒を適量以上に飲み、母にあたり、恭平にあたった。母は母で、酒臭い達也と顔を合わせるのが嫌で、パートが終わってもパート先の若い仲間と遊んでくることが多くなった。

 小学校三年生だった恭平は、父と母が急速に自分に感心をなくしていくのを感じてはいた。しかし、祖父が亡くなった時のショックに比べれば、父と母から心が離れていくことなど、小さなことだと思えた。そして、もしかしたら、祖父の達明が亡くなったときに、自分たち家族はもう壊れて閉まったのではないかと思うようになった。

 恭平は学校にいる間、授業に集中した。授業中の先生の言葉をじっと聞いていると、父と母のことをすっかり忘れることができた。そして、それだけではなく、あらゆる先生の言葉の間から、祖父の言葉が顔をのぞかせる瞬間があることに気付いたのだった。

 例えば、国語の先生が、この詩の語尾が揃っているのは韻を踏んでいるというのだ、ということを教えてくれると、ふいに達明の声で、そうや、韻を踏んでいるからこそこの詩はきれいなんや、きれいやという以外に詩には意味なんかないんや、と語りかけてくるのだった。例えば、音楽の先生が、ビバルディの四季を聴かせ、春の温かな風がいかに素晴らしいかを説明し、夏の躍動感がいかに旋律に置き換えられているかを説明していると、達明の声は、つらい春かて、死にたなる夏かてある、だまされたらあかんぞ、と囁くのだ。

 何をしていても、ふとした瞬間に祖父の声が聞こえるような気がした。特に河原で石を投げているときは、実際に祖父が横に立っているかのように、祖父の声が聞こえた。もしかしたら、実際にいたのかもしれない。一度、恭平は自分の立っているすぐそばの河原の石が、誰かに蹴られたように、川の中に飛んでいくのを見たことあった。

 恭平が初めての達明にここに連れて来られたのは、小学校に上がる少し前だった。恭平には大きな川に見えた。近所の二級河川で、普段の川幅は二十メートルほどだったろうか。両岸の河原が広く、大雨が降ると川幅は倍ほどに広がって見えた。その河原に立って、達明は向こう岸に石を投げた。達明の投げる石は、まっすぐに向こう岸に着いた。大きく弧を描くのではなく、石はまっすぐに一直線に向こう岸に着いた。水面の何十センチか上をまっすぐに、一度も水面にバウンドすることなく向こう岸に届く。恭平も真似をして投げるのだが、石は高く空に向かい、しかも川の真ん中あたりに落ちる。川の流れる音に消されて石が落ちる音さえ聞こえない。ただ、石が川の真ん中に落ちる度に、達明の笑い声が響いた。

 いま思うと、達明の投石のフォームは独特だった。ボクシングをやっていたからだろうか。振りかぶるのではなく、アンダースローのような低い姿勢から、まっすぐに拳を突き出すように投げる。恭平も最初の内は真似をしていたのだが、同じ投げ方では、まったく石は飛ばなかった。

 それでも、毎日のように河原に出かけ、手頃な石を見つけ、向こう岸に向かって投げていると、知らず知らず距離は伸びた。向こう岸には届かなかったが、石は川の真ん中あたりにまで届くようになり、少しずつ向こう岸に近づいていた。

 石を投げ出して半年ほどした頃だろうか。母親が風呂上がりの恭平を見て、悲鳴を上げた。

「あんた、右の肩だけパンパンやないか」

 実際に鏡に映して見ると、ひと目で分かるほどに右肩と左肩の大きさが違っていた。祖父と恭平が河原で何をしているのか知っていた母は、義理の父である達明に、

「こんなことさせてたら、恭平がかたわになってしまうわ」

 と泣きそうになりながら訴えた。

「わかった。もう石は投げさせん」

 そう言った達明だったが、その晩、恭平の部屋にやってきて寝ている恭平に声をかけた。

「こんなことでかたわになんぞならん。それに、肩を壊すからといってやめれるもんなら、最初から誰も石なんぞなげん。どうする。もうやめるのか。投げるのか」

 達明はそう恭平に迫った。達明がなぜそんなことを言うのか、わからなかった恭平は怖くなり寝たふりをしていた。

「寝たふりをするのは卑怯や。どうする、明日も投げるのか。投げんのか」

 恭平は、祖父から顔を背けたまま、投げる、と小さな声で答えた。

 翌日、母がパートに出かけるとすぐに、達明と恭平は河原へと出かけた。昨日のことなど何もなかったかのように、ごく普通にいつもの河原へ出かけ、いつものように石を拾い、いつものように全力で石を投げた。昨日と同じように石は川の真ん中あたりに落ちた。こんなことを続けていても、石は向こう岸に届かないと恭平は思った。すると、そんな恭平の思いを見透かしたかのように、達明は言った。

「お前はもう投げんでええ」

 なぜ、急に達明がそんなことを言うのか、恭平にはわからなかった。

「いやや、まだ投げる。向こう岸に届くまで投げる」

 恭平が言うと、達明は首を横に振った。

 その翌日から達明は恭平を河原へと誘わなくなった。恭平は一人で河原へ出かけるようになった。母親から毎日風呂に入る時に監視されているような気がして、右で十回石を投げたら、左でも十回石を投げた。両方の肩に同じくらい筋肉を付けていれば、河原で石を投げていることがばれないと思ったのだ。

 来る日も来る日も恭平は河原へ行き、向こう岸に石を投げた。友だちに誘われ公園で遊んだ日も、帰り道に河原へ立ち寄った。最初の日、空に向かった弧を描き、川の真ん中に落ちていた石は水平に飛ぶようになった。しかし、まだ向こう岸には届かない。焦りは無かった。繰り返し投げていればいつか石は向こう岸に届くという確信があった。恭平のなかには、石を投げている、という気持ちよりも、向こう岸を見つめているという気持ちのほうが強かった。向こう岸を見つめている間に、いつか石は届くようになる。恭平はそう思っていた。

 達明があっという間に逝ってしまってからも恭平は毎日河原に立った。達明が亡くなった日、恭平は父と母に連れられて、病室へと入った。祖母のめぐみは達明の手の甲をさすりながら、呆然とした表情で恭平を見た。笑いかけることも出来ず、恭平はめぐみを見た。めぐみは恭平の顔を見たまま、ほら恭平がきてくれたよ、と達明に呼びかけた。達明は力なく笑ったように見えた。そして、微かにまぶたを意図的に細めて見せた。手や他の部分を動かしたくても動かせない達明が懸命に恭平に呼びかけているのだとわかった。

 恭平は達明のそばに行くと、祖母と入れ替わり、達明の手の甲に自分の手を重ねた。すると、達明は顔を恭平のほうへと向け、小さな声で囁いたのだ。

「まだ、投げてるのか」

 恭平はうなずいた。

「投げてる。まだ投げてる」

 そう言ってから、母の顔を見た。母は涙を流しているだけで、恭平のほうを見ることはなかった。すると、達明は続けて言ったのだった。途切れ途切れの声でこう言ったのだった。

「辛い…ことが…あれば…石を…投げろ」

 なぜなのか、恭平にはわからなかった。けれど、恭平はうなずき続けた。そして、達明の手を握り続けた。

 達明はいったん眠りに落ちた。恭平は母と一緒に家に帰った。病室に残った父と祖母から連絡が入ったのは明け方だったらしい。恭平が達明の死を知らされたのは、翌日学校から帰ってからだった。

 その日もお通夜が始まるまでの間、恭平は河原で石を投げた。

 あれから三年、河原へ通い続けた。毎日同じ場所で石を投げるので、河原のその場所は草が生えなくなっていた。まるでピッチャーマウンドのように黒い土が円形に見える。その真ん中に立って、恭平は今日も石を投げている。

 今日は風が全くない。こんな日は気持ちが乗りにくい。追い風があれば、飛距離が伸びそうだし、向かい風があれば負けん気で力を込めそれだけで力が発揮できそうな気がする。しかし、今日は風がないのだ。

 こんな風のない日に、恭平はいつも以上に祖父の存在を感じていた。そして、祖父が亡くなって三年がたった今、そろそろ向こう岸に石が届くだろうという予感を感じていた。それがもしかしたら今日なのかもしれない。そう思いながら、恭平は淡々と石を選び石を投げた。あと、少し、後もう少し。石を投げる恭平の耳元に祖父の声が届いた。

「辛いことがあれば石を投げろ」

 この言葉を聞いたのは達明が亡くなった日、以来だった。いちばん思い出していた言葉ではあったが、祖父を感じ、直接その言葉を聞いたのは今日が初めてだった。そして、その言葉を聞いた瞬間に、石を投げかけていた恭平は小さく叫んだ。そして、もしかしたら、自分は間違っていたのかもしれない、と思ったのだ。毎日毎日石を投げるのではなく、辛いことがあったときにだけ、石を投げるのだと祖父は自分に言いたかったのではないのか、と。中学一年になった恭平はそう思い、投げかけた石に思いっきり力を込めた。いつも以上に、肩は身体の後ろに引かれた。歩幅も大きく広がり、恭平は身体が引き裂かれるのではないかと思った。限界まで引かれた右の腕がぐいっと前に回り、今度は限界にまで伸びた。その時、バチッと大きな音がした。すべての動きがストップモーションになった。石は目の前の川面に力一杯投げ込まれ、水しぶきを上げて沈んだ。風が吹き、草が揺れ、同時に、石によってたたき上げられた川面の水滴が恭平の顔に飛んできた。静止画のように動きを封じられながら、冷たいな、と恭平は思った。そして、過ぎの瞬間、信じがたい激痛が走り、恭平はその場に倒れ込んだ。(了)

製本かい摘みましては(148)

四釜裕子

背がある薄い本が好き。薄ければ薄いほど、なお。参加している同人誌「gui」はわりとずっとそのタイプで、直近の117号は90ページの厚さ5ミリだった。昨今薄くなってきた事情はさておいて、好みで言えばいい感じ。厚さ6ミリ(64ページ)だった1979年3月の創刊号を抜いたことになる。棚に並べたのをざっと見るに、2003年12月の70号あたりがいちばん厚そうだ。抜いて定規をあてると13ミリ、246ページだった。巻頭は飯田隆昭さんの翻訳でウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「あの医師はどう生きたのか」。この連載はのちに『オールド・ドクター ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ短編集成』(国書刊行会)になった。この号では他に、田口哲也「ロンドン日記」、遠藤瓔子「タンゴ・口には出せず」、岩田和彦「気まぐれ読書ノート」、山口眞理子「深川日誌」、吉田仁「千駄ヶ谷」、藤瀬恭子「ノストスからコスモスへ  H.Dの『ザ・ギフト』と黒マリアの発見」、奥成達「アイ・ガット・リズム 北園克衛『郷土詩論』を読む」、森千春「ふとんづくり」、奥成繁「麦粒腫の赤トンボとヘン」、殿岡秀秋「なぞなぞ」、中村恵「さおちんにゃんにゃん」、中津川洋「夏みかん」と、短いものを詩と言うなら詩ではないものの勢いがすごい。

飯田先生は今年5月に亡くなった。着替え持参の真夏の発送地獄から救ってくださったのは先生だった。イベントでも宴席でもいつもチャーミングでダンディだった。近田春夫さんが先生のことを書いた『僕の読書感想文』(2008 国書刊行会)を読み直した。『家庭画報』での連載「僕の読書感想文」をまとめたもので、1999年11月号で、飯田隆昭訳、トム・ウルフ『クール・クール LSD交感テスト』(太陽社)を取り上げている。〈私にとって飯田隆昭は特別な存在〉、先生訳のP・K・ディックは、〈翻訳を超えてすぐれたディック論だった〉。〈端正さに欠ける翻訳文が、逆にストーリーの奥にある作家そのものの持つ命のようなものをあぶり出してみせてくれた〉。〈ディックはプロットやストーリーではない。そこににじむ、ディックそのものの人間の面白さが価値なのだ、と教えてくれたのが飯田隆昭だった〉。飯田先生そのものの面白さが思い出される。「gui」のアイドルのような方だったと感じる。

さて創刊号を改めて開くと、背固め用接着剤がノドからはみ出て黄変している。糸かがりで、かがり穴は6つ。と思いきや、天ぎりぎりのところに糸の通っていない7つ目の穴がある。天地182ミリ。7つ目のこの穴をどう考えればいいのだろう。など思いつつページをめくると、高橋昭八郎さんの「穴」という作品がある。ページ中央に「■   これは穴である」。めくると「■  これは前ページより、正確には〇・〇一ミリ大きくなった穴である」。隣のページに「■  これは、さらに〇・〇一ミリひろがった空っぽの穴である」。さらにめくると「■  このようにして、穴がしだいにページを繰るにしたがって大きくなり、<本>のページを全面食いちぎって空へ出ていくときの、穴の面と最後の一ページの境界線について考える   穴」。筒である自分の体が内側からめくれていき今にも完全に引っくり返らんとする瞬間に目が覚めるという悪夢の一つが久しぶりに後頭部にわいたが、もう怖くなくなっていることが今分かってさみしい。

菊池肇さんの個人誌「drill」も薄い。こちらは表紙を含めて20ページの中綴じで、天地182ミリの2箇所を小さなホッチキスで留めてあるから穴は4つ。その4号(2019.7)に声を掛けていただいて、漠然と考えていた「刺繍詩」を書かせてもらうことにした。布表紙でハードカバー製本するときに本のタイトルを刺繍することがあって、布の表に行儀よく現れる文字に対して裏側はぐちゃぐちゃになる。刺繍はそうなるものだけれど、この場合、表紙の芯にするボール紙に布をぴったり貼り付けるので裏のモコモコが表に響くため、できるだけ無駄のない針運びを考える。あくまで「できるだけ」であって、そういうのはプロの製本家にはできないことだろう。だんだんシンプルになってくると、意味深な匂いもしてくる。表側の文字からは想像できない線が裏側に現れて、布をはさんだひとつの文字の、単純に表と裏とも言いがたい。

布を紙に換えて針で刺して糸で文字を描いてみる。表に現れた文字だけ消した状態にして、「ししゅうドリル」とタイトルして菊池さんに送った。数日後、刷り上がった「drill」4号をいただいて、その中の一冊に糸を使ってドリルした。一枚の紙の表から裏から。偶数ページで意味ありげに佇むラインを手がかりに(つまり裏が表になって)、糸を通した針をポチポチズブズブ刺していく。紙に折り山がつかぬよう、できるだけ丁寧に。元・表(=現在・裏)の奇数ページに気取った文字が現れる。おまかせなのさ。忌々しいやつめ!(貴方そのものが嫌いなわけじゃなくってよ)。「drill」という会場の「めくる」舞台で、忌々しさに針を向けた刺繍詩です。

かがみよかがみ

北村周一

画板胸にかかえて子らは中庭に わたり廊下のしずかなことも

限りなく平らかなるをかげとよび絵ふでにひろう繋がり止まず

きず痕のひとつひとつをしずめゆくごとき感触ふでさきにあり

絵画とは洋画のことか、ふる雨に額アジサイのさし木はぬれる

いまいちど絵をかけなおす初個展 壁にぴーんと糸張らしめて

芳名簿白紙いちまいとび越してサインしてありさくら五分咲き

アトリエの水場に老いし蜘蛛ひとつ餓死を選べり巣より零れて

描きなおすたびに消えゆく自画像のふたつ眼がわれをみかえす

ななめ左向いてなに待つ手鏡のなかの鼻さき 絵ふで手にして

かさねゆく絵の具のあつみ鼻さきは かがみよかがみ線描の的

喘ぎつつジャコメッティが口走る 鼻さきがすべて最もちかい

どこまでが顔なのかなと触れている 耳のましたの顎のつけ根

ここからは画家の領分かがみとの寂しき距離をつめつつ描くは

湯上がりの腰にタオルを巻きながら十字切るごと拭うすがた見

なぜかしらん無性に腹に据えかねて鏡をみがく身の透けるまで