音の旅

璃葉

この冬、実家の空気を久しぶりに、たっぷり味わっている。

ひびの入った壁や黄ばんだ天井を見渡しながら、年季の入った家になってきたなあと、しみじみ思う。

朝の居間にはひんやりと冷たい空気が漂っていて、静かで青みがかった色。前の日のタバコの匂いが少しだけ残っているので、空気の入れ替えをする。日が高くなるにつれて部屋も明るくなっていき、光が差し込んでくる時間帯に、庭の椿、月桂樹、柚子の木にメジロや椋鳥が遊びにくる。そんな風景の見える窓際で、家族の誰かが珈琲を飲んでいる。

床や壁が汚くても、少々地盤がゆるくて家自体が傾いていても、家の素材である木材や石やタイルはこの数十年、季節の空気や目に見えない何かを吸収して、ちゃんと歳をとって生きてくれている。

父曰く、むかし、このへん一帯は川だったらしい。家とその目の前に広がる森が深い窪地になっているということは、ここは川底だったのだ。川底だったところにいま、木が生え家が並んでいるなんて、ちょっとおもしろい。庭の椿を眺めながら、なるべく綺麗な水が流れている川底に沈んでいるのを想像してみたが、なんだか寒気がしたのでやめた。

この先、この場所はどう変わっていくのだろう。時代の移り変わりの早さを考えれば、風景や情景なんて、一瞬で姿を変えてしまうものだ。川底から森になるぐらいなら一向に構わないけれど。

実家滞在の間、父の本棚やCDを物色している。嬉しいことに、ここには民族音楽の音源が山ほどある。すべての作業がひと段落した夜、ストーブの温まった部屋で赤ワインをちびちび舐めながらCDを漁っては、父と姉と、音の旅をする。

大陸を行き来し、東欧、北欧の音楽を聞いたかと思えば、次の日は南米、アジア、アフリカと、見境なく聴いている。聞いたことのないリズム、そのへんで拾ったであろう木や石をそのまま叩く楽器の原型のようなものが出てきてわくわくするときもあるし、明らかに植民地支配の影が見え隠れするような、西洋混じりの退屈な曲もある。音楽から、国や民族が辿ってきた歴史や文化の端くれを眺めているようだ。

師走最後の日、休憩がてら窓ガラスを拭いて(たばこのヤニがすごい)、柱やライトについた蜘蛛の巣や埃を払い、しめ縄を各部屋に飾る。一番上の兄も静岡からやってきて、力仕事を手伝ってくれた。

そんなことをやっているうちに薄明が過ぎて、上弦の月が梢の向こうに見えている。

さっきまで夕陽が差していた川底の森は真っ暗だ。年越し蕎麦の準備をしつつ、そろそろ黒豆を煮始めようか。

さっきまで夕陽が差していた川底の森は真っ暗だ。年越し蕎麦の準備をしつつ、そろそろ黒豆を煮始めようか。

そして一息ついたら、ふたたび音曲行脚を始めよう。


ボクシング(3)

笠井瑞丈

1998年6月16日23歳誕生日
後楽園ホールのリングの上に立つ
C級ライセンスのテストを受けた
そして無事合格
僕はプロボクサーになった

ジムに届いたテスト日の通知に
6月16日と書いてあった時

「誕生日の日か…!!」

何か特別なものを感じた
だからもし落ちたら
もうテストを受けるのは
やめようと決めていた

一回だけの挑戦
受かって良かった

ただ僕は最初からプロの試合に
出たいと思っていた訳ではなく
プロライセンスというものに
挑戦したかっただけだった

とりあえず挑戦は成功した

1998年6月16日23歳誕生日
僕は合格とともにボクシングを辞めた

正確に言えばそれから二ヶ月は続けていたけど
僕の中でもう情熱が消えてしまっていた

プロボクシングの世界で通用する器ではないことを
最初から自分でも分かっていたからだ
いいところプロライセンス取得止まりだろうと思っていた

情熱はボクシングからダンスに変わる
それからダンスをちゃんと習い始める

ダンスの世界で通用しているのか分からないけど
とりあえずあれからずっとダンスは続けている
少なくともボクシングよりは向いているのかと思う

数年前ふとジムの前に行く
もうジムは無くなっていた
もぬけの殻になっていた

ジムは晩年経営難になっていたそうだ
夜逃げのごとく会長は失踪したそうだ

そんな話をある人から聞いいた

今会長はどこで
何をしているのだろうか
ふとそんな事を考える

世界6度防衛
名チャンピオン
小林弘

雑草の男と
呼ばれていた

すぐ枯れる綺麗な花より
雑草のような力強さを持っていた
だから6度も防衛出来たのだろう

僕は花よりも
雑草と呼ばれる方が
素敵だと思う

またいつかボクシングをやりたいと思う

仙台ネイティブのつぶやき(51)宮城県美術館、その後

西大立目祥子

 宮城県美術館をめぐるあわただしいひと月が過ぎて、年が明けた。このひと月、美術館をめぐっては「寝耳に水」ということばが飛び交った。新聞の見出しに踊り、人に聞かされればじぶんも口にする。県が打ち出した、美術館を現在の場所から5キロほど東に新しい県民会館(音楽ホール)と集約移転するという方針は、この美術館に親しんできた人たちにとってはそれほど衝撃だったのだ。

 それは、2018年3月に宮城県が現地でリニュアルする基本構想を策定していたからなのだけれど、たぶんそれだけではない。この美術館が緑と川に囲まれたすばらしい立地にあり、その自然と一体となった建物は日本の建築界を牽引した前川國男の設計によるものであり、建物をめぐる庭のデザインも楽しさに満ちていて、コレクションもおもしろさがあり・・つまるところ訪れた人をとらえ魅了する何かがあるからだ。だから誰もが、えっまさか移転、いずれは壊される?とたじろいだに違いない。

 こういうとき表立って異を唱えないのが宮城人、仙台人で、仙台に歴史的建造物が少ないのは、これも要因の一つかもしれない。それがいやで、13年前、あるビルの保存活動を通して知り合った人たちと「まち遺産ネット仙台」という会をつくり、大切だと思う建物に危機が及んだときは行動をとってきた。
 今回もそう迷わずに、友人と会い、相談して行動することに決めた。なんというか、からだの反射みたいなものだ。こんなに誰もがいいと思うものを捨てようとするなんて、おかしい。そういう単純な反応、ですね。こういうとき素直にじぶんに従わないと、あとあと自分がおかしくなってしまうような気がするのだ、後悔とふがいなさとで。

 12月10日に、まち遺産ネット仙台から宮城県知事に現地保存を求める要望書を提出し、17日に宮城県議会に同樣の内容の陳情書を出した。両日とも、日本建築学会東北支部も意見書を出している。知事宛に提出したときは記者会見もしたので、テレビや新聞に取り上げられて、これはねらいどおり。議会に対して陳情するのは初めてで、どうなるか不安もなかったわけではないけれど、各会派をまわったり議長さんに手渡したり、すべてが小学生の社会科見学みたいで、行政と立法の仕事をあらため学ぶような新鮮さがあった。
 これまで、まち遺産ネットで3回保存活動をやって全部失敗している。そもそも対象物件の認知度が低く、だから迷いも多く、対応が遅く、なかなかうまくいかなかった。今回は、多くの人が実感としてその良さを知る公共の文化施設なのだ。迷いはないし、粘ってみたいと思っている。

 活動を始めたら、いっしょに動いてくれる若い人が出始めた。30代の人たちはすぐさまサイトを立ち上げ、工程表をつくり、ワークショップの記録を楽々とこなしていく。そして、要望書を出すのに賛同者を探して知人友人をたよりに声をかけると、力を貸してくださる方々とつながり、全国の同じような活動をする人たちがまるで旗を掲げているように見えてきた。その中には宮城県美術館の建設中に前川國男設計事務所所員で、その右腕として仕事をされた方もいて、遠くから発してくださる建物への思いは、そのまま私たちの活動の推進力になっていく。市民が起こすムーブメントが、人と人のつながりの中で実現されていくのを目の当たりにする思いだ。

 一方で、今回の宮城県の動きは知れば知るほど、疑問がわいてくる。数年かけて議論を重ね、現地でのリニュアル案を策定したのは教育委員会生涯学習課なのに、今回の方針を出したのは、知事部局の震災復興政策課。事務局案について「県有施設再編等の在り方検討懇話会」の6名の構成員が検討するだけだ。その名のとおり、老朽化した県の施設をどうたたむかを検討するのが目的だから、そこには美術家も建築家もいない。県の財産にかかわることだからなのか、議事録も公開されない。文化的側面からの評価は何もないままに、これだけ大きな決定がなされようとしている。

 これは国の方針であるらしい。人口減少の時代に入ったことを踏まえ、国はお荷物になりつつある老朽化した建物をたたむ方針を打ち出した。集約化すれば、国から借金して新たな建設ができ、いずれ借金の何割かは交付金となり、県の懐はそう痛まずにすむというわけだ。同じことが、東京都の葛西臨海水族園でも起きていると聞いている。
 でも、なぜこんなに宮城県は急ぐのか。移転集約を中間案にして、県は12月末にパブリックコメントの募集を開始した。1月末に締め切り、2月初旬の懇話会で了承されれば、この美術館の移転は決まってしまう。人口減少の時代だかこそ、何を残すのかをしっかりと議論し長く大切に使う方向性が大切であるのは、もう誰もが考えていることなのに。

 というわけで、私たちの活動は1月がカギだ。幸い、地元紙の河北新報が、この移転集約案に疑問を投げかけ連日のように報道してくれているのが追い風になってきた。
12月末にはHPに「考えよう、宮城県美術館のコト」という特集ページを開いている。
https://www.kahoku.co.jp/museum/

 私たちも「アリスの庭クラブ」というサイトを立ち上げた。宮城県美術館には誰もが好きになる「アリスの庭」という彫刻が点在する庭があって、その名にあやかったもの。ぜひご覧ください。
https://alicenoniwaclub.wixsite.com/website

1月5日に、ネットでの署名を開始しました。
ご賛同と拡散をお願いします。
前川國男が設計した宮城県美術館。 県民が愛する美術館の現地存続を求めます。

羊を忘れる

高橋悠治

ヴェリミール・フレーブニコフの『ザンゲジ』から 6平面(場面)を選んで ザーウミとよばれる音の文字を声の音楽にしてみる 世界が文字の絵となり その文字を描く手のうごきを 文字を読む声の抑揚でなぞり うごく線を音符で書きとめる 見聞きするものごと 経験しなくてもよその場所やちがう時代にあったことを 文字の線に変え その線を描く手を通して 手から身体に伝わる動きや変化の感覚 その文字を読み上げると 声のリズムと高さの変化が 発音する身体の感覚を変化させる 耳に聞こえる音の変化を 記号や線で楽譜にあらわしてみる そのことで だれかがどこかでいつか一度だけ声にした音の流れが 見える線やかたちをたどって 他の人 他の場所 他の時に移される このボール遊び 読むことが書くこと 読むことが歌うこと 眼から耳 耳から眼 眼から口 眼から手 手から耳 手から身体 身体から手 人から人へ それだけでなく 風景 動物や木や花 石や水 さまざまなものごとを巻き込んで続いていく

続けること くりかえされる手順 くりかえしを意識して その手順をとりだして 同じにしようとすれば 動きは安定するが 感覚は鈍り 抽象と大きな枠が見えてくる しっかり根を深く張った木のように 枝は風に揺れるが 幹は動かない

上から吊るされたものは揺れて定まらないが 糸で操られて 予測できない動きが起こることがある まぎれこんでくる偶然 失敗 はずれ それらをひきもどし 抑え 間合いをはかるのか それとも もっと押しやり 崩し 揺るがし かき分け ずらすのか

『ザンゲジ』から音楽を作ったのは 今度が初めてではない 1985年(フレーブニコフの生誕百年だったとは気づかなかった)に電子楽器のための『ザンゲジ断片』を作ったこともあったし 1987年にはピアノで『Lyeli-lili』という曲を演奏したこともあった 1982年にアールヴィヴァンの雑誌にロシア・アヴァンギャルド特集があり 亀山郁夫訳の「ザンゲジ』が載っていたからだろう 子どもの頃読んだ小笠原豊樹訳の『マヤコフスキー詩集』の階段状の行別けを覚えていたこともあり その頃 ロースラヴェッツやルリエーの実際の音楽は知らずに 紹介記事だけでそれらしいものを作ってみたこともあった フレーブニコフについても 何もわからずに 『運命の板』や『知恵の鐘』の音を作っていたのだろう

誤解や誤読から まったくかけ離れた試みをするのはおもしろい だが  残念なことに 論理も根拠もないので 長続きはしない そう思っていた だが 論理は空間を限り 根拠は変化と発見をきらうのではないだろうか 連続する線が途切れても 方向を失っても 危うい足どり 隙間 枝分かれ 迷宮は曲がり曲がって出口に近づくが 出口ではなく 曲がり曲がるのが迷宮を作る 多岐亡羊で むしろ羊を忘れる

2019年12月1日(日)

水牛だより

淡い陽ざしの冬の日曜日の午後。きょうから十二月というのはホントでしょうか?

「水牛のように」を2019年12月1日号に更新しました。
『大菩薩峠』がちくま文庫で出たときに読んでみようと思ったのは、室謙二さんの影響があったからかもしれません。はじめはストーリーのおもしろさにつられて読み進んでいくのですが、主人公と思っていた机龍之助があまり登場しなくなるころから、これはどういう小説なのかと頭のなかにクエスチョンマークが点滅するようになり、やがて挫折しました。今月の室さんの原稿を読むと、また読んでみようかという気持ちが沸き起こってきます。青空文庫でも公開されていますが、室さんはまず文庫本20冊を買ってしまいなさい、そして残りの人生で3回読むのだ、と言います。さあ、どうしよう。。。

本日、「水牛通信」のPDFを公開しました。まだ完全ではありませんが、残りはぼちぼちと進めていきます。
「水牛通信」の電子化計画をはじめたころは、日本語とアルファベットくらいしかフォントを使えず、また画像も容量や通信速度の問題があったため、テキストのみの公開でした。そんな作業を続けながら、どこかで今日の日が来ることも確信していたのです。PDFを作ってくれたのは福島亮さん、サイトのデザインなどは野口英司さんが担当してくれました。過去のアーカイヴではありますが、読んで楽しんでください。ツッコミどころもありそうな気がします。
福島さんには、この水牛だよりのコーナーで、通信についてあれこれと書いてもらうことになっていて、あ、すでに最初の投稿がされているようです。

もうひとつ、やらなければならないのは水牛楽団の音源を公開することです。来年の目標にしたいと思います。

それではまた! 良い年をお迎えください。(八巻美恵)

共和国(晩年通信その5)

室謙二

 「音無しの構え」は、知っていた。
 だが「音無しの構え」が、無実の人間を平気で殺す机龍之介の剣術であるとは知らなかった。子供にとっては、オトナシノ・カマエという発音が、格好よかったのである。
 チャンバラは、一九五〇年代の男の子にとっての毎日の遊びだった。適当な棒切れをみつける。棒を両手で日本刀のように構えて、叩きあう前に一瞬の沈黙をつくる。そこで「音無しの構え」と宣言するのである。
 それから棒きれで、バチバチと叩きあう。「大菩薩峠」の机龍之介は音もなく構え、剣に触れさせることもなく相手を斬り殺すのだが、我らが剣術は大騒ぎの棒の叩き合いであった。体を叩かないのはルールである。

 机龍之介が登場する「大菩薩峠」は、世界で一番長い小説らしい。文庫本で二十巻ある。子供たちは、そんなことは知らない。しかし「オトナシノカマエ」は知っていた。
 この長編には登場人物がたくさんいて、ストーリーも入り組んでいる。書き始めてから腸チフスの死で未完で終わるまで、中里介山は断続的に三十年間書き続けた。最初のプランは、途中で変わってしまう。最初に登場した机竜之助が、全巻を貫く主人公かと思ったら、話が進むとときどきしか出なくなった。
 あまり長いので、最初から最後まで通して読んだ人は少ない。文庫本の最初の巻はたくさん売れても、最後の方の巻はあまり売れない。刷り部数を見ればわかる。雑誌「思想の科学」の編集会議で鶴見俊輔さんが、「私は全巻通して読みましたよ、だけど二度通して読んだという人を知っている」と言ったので、「私は三度読み通しました」と言ったら目をむいて、膝を叩いて笑っていた。

 お松と駒井甚三郎

 お松は、最初のシーンで龍之介に意味なく斬り殺される老人のつれていた子供であった。殺されずに大人になったお松は、主要主人公の一人になる。そしてお松と旗本をやめた駒井甚三郎が、東経一七〇度、北緯三〇度の太平洋上の無人島に上陸して非君主国(共和国)を作るのが、この未完の小説の最後の物語である。
 そして二人は結婚する。その限りにおいて、これはハッピーエンドのように見える。しかし共和国(非君主国)がまた結婚が、成功するかどうかは分からない。作者は失敗を書くことなく亡くなったから。
 桑原武夫は、「ごく大ざっぱに言って」とことわった後で、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識の層」があり、その下に封建的・儒教的な日本文化の層があり、さらにその下に「ドロドロとよどんだ、規程しがたい、古代から神社崇拝といった形でつたわる、シャーマニズム的なものを含む地層があるように思われる」と書いている。そして大菩薩峠は、この第一層、第二層から第三層まで根をはっていると書いている。(文庫本第二巻の解説)
 また別のところでは、大菩薩峠の登場人物でもっともつまらないのは駒井甚三郎である、とも書いている。私はこの説には賛成しかねる。
 駒井甚三郎と結婚するお松は、登場人物の中でもっとも魅力的な女性である。駒井は自分が第二層(封建的・儒教的な層)から離脱して第一層(近代化した意識の層)にいることを知っているだろう。だからこそ第三層(古代からつたわる層)にまで根を持つお松と結婚する。お松なしには無人島の共和国は作れないことを知っている。この共和国は、第一層から第二層、第三層まで必要とするのである。
 「西洋の影響下に近代化した意識の層」に根を持ち、第二層の「封建的・儒教的な層」から離脱した元旗本の駒井甚三郎がもっともつまらない人間だとしたら、私たちは一体どうなるのか。桑原武夫でさえ、お松より、共和国を作ろうと西洋の科学を勉強する駒井であろう。もとより私は、その家庭環境から思うに、第三層のシャーマニズムでもなく、第二層の封建的・儒教的でもなく、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識」である。
 駒井がつまらない人間であれば、私などもっとつまらない人間になる。私はアメリカにやってきてその市民となり、日本を手放してしまったのである。市民権をとる口頭試問では、憲法について聞かれる。そこには政府が間違っている時は、その政府を倒していいと書いてある。私はすでに世襲君主国の人間ではない。

 無人島アナーキズムと天皇即位

 私は「西洋の影響下に近代化した意識の層」(第一層)にいる人間で、封建的・儒教的でもなくシャーマニズムでもない。だからこそ、私は大菩薩峠を三回も通して読んだのかもしれない。そして物語の最後にあらわれるアナーキズム国に興味を持つ。

 ここは我々だけの国であり、おたがいだけの社会でありますから、今までの世界の習慣に従う必要もなければ、反(そむ)くおそれもありません。もしこの島の生活を好まぬ時は、いつでも退いてよろしい。生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい、法律を定める人と、それを守る人との区別を置かないように、命令を発する人と、命令を受くる人との差別を認めますまい。

 無人島での駒井甚三郎の演説の中で、中里介山はアナーキズムという言葉を使わないが、アナーキズムを説いている。介山が幸徳秋水が天皇を暗殺しようとしたとして処刑された「大逆事件」に衝撃を受けたことはあきらかで、この島は幸徳秋水も住むところのアナーキスト国なのである。

 新天皇の即位の儀式と人々の反応のビデオの断片を、カリフォルニアから見ていた。
 行政の長である安倍首相が、奇妙な箱状の囲みの中に立つ天皇を、一段下がった場所から深く一礼、そして天皇陛下バンザイを三唱。まわりの人間も唱和する。
 憲法によれば天皇は国民の象徴とのことだが、その象徴に向かって国民に選ばれた行政の長が真剣に万歳三唱をするのは、憲法の精神に違反していると思うが。まあそれはヨロシイとしても、しかしこの儀式をみていて、日本はつくづく共和国ではないと思った。
 日本国は立憲君主国だそうで、天皇は権力をもっていないそうだが、しかしどうやら国民を支配する倫理的な権力を持っているように見える。いまだ世襲の封建制です。この国は年齢序列の考えも根深く、柳田国男は、日本の「友だち・友人」は「同世代」という考えに支配されていて、英語のFriendsではないと指摘する。英語では、同世代ではない老人と少年でも、Friendsなのである。
 介山の太平洋上の島はアナーキズムにもとずいて、お松や駒井やその仲間たちFrendsが集まった共和国である。そして、はるか北にある日本列島の、天皇陛下バンザイ三唱と日の丸をうちふる「君主国家」に、するどく対立している。大菩薩峠はこうやって未完のまま終わって、共和国はいまも続いている。

仙台ネイティブのつぶやき(50)いま、宮城県美術館

西大立目祥子

 「川内」という地名は、川に囲まれた山寄りの地域という意味であるらしい。仙台の川内は、仙台城があった青葉山のふもとのあたりを指す。山が迫り広瀬川が蛇行する風景が広がっていて、とりわけ新緑の季節や紅葉の季節は車で通り抜けるのにも見とれるほどだ。
 藩政期は家臣団の屋敷が置かれていたが、明治に入ると一帯は陸軍の用地となり、戦後、米軍が駐留したあとは、東北大学のキャンパスや仙台市博物館が立ち並ぶ文教地区となった。

 宮城県美術館はその一角にある。前川國男設計の薄茶色のタイル張りの建物は低層で、目立つことなくあたりの風景の中にすっぽりとおさまっている。南側がエントランスで、雲を積み重ねたみたいなヘンリー・ムアの金色の彫刻を右手に見ながら、吸い込まれるように入っていくと吹き抜けの大きな空間に迎え入れられる。建物は北側の庭に向かっても開かれているから外の光に誘われるまま歩を進めると、そこは広瀬川の崖の上だ。

 対岸の家並の向こうには丘陵の緑が望める。川辺だからなのだろう、この庭の縁にはクルミが育っていて、秋口にはたわわに緑色の実をつける。庭は緑豊かで、鯉が泳ぐ四角い池があり、彫刻がある。この彫刻がなかなか愉快で、風が吹くとゆっくり動く新宮晋の「風の旅人」(実はあんまり動かない)、太っちょのユーモラスな人物が馬の背にきゅうくつそうにまたがるF.ポテロの「馬に乗る男」は、見上げるたび風通しのいい気分にさせられる。この空間が好きで、企画展を見たあとゆっくりおしゃべりしながら歩いたり、いや、見なくても庭を散策するのを楽しみにしてきた。

 この北庭から、西側に増築された佐藤忠良館のゆるやかにカーブするガラスの壁面に沿って、「アリスの庭」と名づけられた彫刻の庭が続く。このステキなネーミングを思いついたのは、いったい誰なんだろう。『不思議の国のアリス』が下敷きにあるのは明らかで、壁面は鏡となっていくつもの彫刻をいろんな角度から映し出す。大きく立ち上がった姿のウサギがいたり、子どもなら4〜5人は背中に乗れるようなでぶった猫がいたり、仰向けにひっくり返ったカエルの上に四つんばいで乗っかるロボットがいたり…ユーモラスな彫刻がつぎつぎとあらわれる。いつだったか、カエルとロボットのまねっこを仲の良さそうな小学生の男の子2人がやろうとしているところに行き合わせて、いっしょにげらげら笑ってしまったことがあった。

 以前、白杖を携えた視覚障害者の人たちと彫刻を触りながら歩いたことは、このサイトにも書いた(2016年9月号)。あり得ない動物たちの姿に、誰もが気持ちを開いてにこやかな表情になっていく。日常の時間の中から、外の世界にぽっと抜け出すような不思議さ。一瞬であるのかもしれないけれど、そこにはわだかまる気持ちや考えたくない事を忘れさせる時間が存在している。

 1981年の開館から38年がたった。あらためて振り返ると、そう足しげく熱心に通ったわけではないけれど、美術館は私にとっては、あわただしい日常の時間を止めて考えさせてくれたり、記憶に残る1コマをつくってくれる場所であったと思う。

 20数年前、働き詰めに働いた会社をやめてフリーランスでやって行こうと決めたとき、最後の大きな仕事を印刷所に入れ終え、晴れやかな気持ちで、さぁて一区切りだ、どこかに寄って帰ろうと思った胸に真っ先に浮かんだのは、美術館だった。何年も訪れていなかった。しばらくぶりに訪れた美術館では、ロシアの女性作家ワルワーラ・ブブノワの企画展が開かれていた。戦前から長く日本に暮らしたこの画家のことを私はまったく知らなかったのだけれど、日本の版画や墨絵の影響も受けたような絵がとても印象に残った。なぜ日本に長くとどまったのか、その謎とともに、名前はずっと胸に引っかかっている。

 同じくこのサイトに書いたけれど、気仙沼市に暮らしていた高橋純夫さんが「世界のカイト展」に合わせ持ち込んだ、手づくりの鶴と亀の立体凧を高く踊らせたのも楽しかった。凧揚げが終わると館内のレストランでコーヒーを飲み、また揚げに行く。展覧会を見にきたお客さんは、動いている凧にまずびっくり。このパフォーマンスは誰の企画だったのだろう。空に舞ってこそ凧、と考えた学芸員がいたのだろうか。

 がん闘病をしていた父と「アリスの庭」を歩いたのもわすれがたい。苦しそうな息をしながらも、夏の終わりの日射しの中で父は楽しい彫刻になごんでいた。亡くなったのは、その秋のことだった。

絵や彫刻だけではない。クリスマスの時期に、ピアニストの中川賢一さんが何年か続けてメシアンを弾いたリサイタルに出かけたこともあった。ロビーにグランドピアノが持ち込まれていて、そこで私は初めて生で「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」を聴いた。夜なので正面玄関ではなくたしかレストランのガラス戸から出入りした記憶がある。

 こうあれこれ宮城県美術館の思い出を書いてきたのは、いまこの建物が解体の危機にあるからだ。2017年から、宮城県は老朽化している建物の今後を検討するために委員会を立ち上げ、昨年3月にはリニュアルの基本方針を策定していた。あくまで、現在の建物を残しながら大改修を行う内容だった。
 ところが、ここにきて、この建物を解体し、計画中の2000人規模のホールと集約化し複合施設として移転整備するという方針を打ち出したのだ。「県有施設再編等の在り方検討懇話会」がこれを了承した。これは経済成長期に建てられた県の施設の整理再編を検討する委員会であって、美術家は一人も含まれていない。懇話会では10の対象施設のリストと、更地となっている県有地のリストが配布されているので、始めから移転集約ありきで、簡単に結論が出されたのではないかと私は疑う。川内という場所性、前川國男の代表作の一つである建物の評価、40年近い歴史性、県民市民の愛着について、十分な議論がなされたとはとても思えない。そもそも、その前、2年間をかけて検討したリニュアル案は何だったのか。

この宮城県の方針についての疑問を、『美術手帳』がサイトでとりまとめた。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20915
地元紙、「河北新報」も同様に、社説で取り上げている。
https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191129_01.html

 さて、どんな動きを起こしたらいいのか。全国のみなさま、お力をお借りするかもしれません。

181 お魚の台敷き

藤井貞和

お魚の台敷き

一人用の盆

ふとんかんそうき

そわかの剣

思いをのせて

今日か  別れの

まなびの宿

山いただきより

南天を見よ

カノープス

フォーマルハウト

たてしなのてらこや

ひいなたちが寄り合い

夜はほげて

あかときをうつる

さらなる

諏訪のまなび

変成(へんじょう)紀

世のうつり

首里天(しゅいてぃん)ぐすくが

赤い炎

哀しみを伝え

物部(ものべ)の神子

えんねんの舞い

花まつり

かぐらの村

わかきらも  わかからぬらも

つどうまなびの宿

(蓼科山荘をたたむと、山本ひろ子社中より連絡あり、お魚の台敷き、一人用の盆、布団乾燥機、そわかの剣など、すべて分け与えられる、と。南のかた、富士のかなたには、カノープスまたフォーマルハウト。縄文びとはかならず富士の見えるところに集落を形成したと、井戸尻考古館のもと館長の言うところ。新・諏訪学へと思いを継ぐ。「夜がほげる」の意味、不明。10月末、首里城を焼く。この悲しさには言葉がない。組踊り、いざなぎ流の神子たち、延年の舞い、花祭り、山ふところの神楽。)

製本かい摘みましては(150)

四釜裕子

中世の製本をやっと体験できた。河本洋一さんによる「書物の歴史:トークと実作」の2回目、「地中海・ヨーロッパの綴じ、Student Bindingを作る」でのこと。糸の運びはごく簡単そうだけれども、表紙にする板に小さな穴を開ける必要があり、今回はその穴開けから材料の一切をご用意くださるというので、からだひとつで出かけた。本文紙をかがるのに芯となる「支持体」を用い、表紙の板に開けた穴にその支持体を通してつなぐ。このような方法が生まれたのは8世紀、カロリング朝でのことだったから、「カロリング製本」と呼ばれている。それまでの冊子はナグハマディ・コデックスに見られる中綴じや、コプト製本に見られるリンクステッチなどで、いわゆる支持体を用い始めたのがこの時期ということらしい。本文紙の天地の向きと直角に支持体が交わり、それがさらに硬い表紙につながるわけだから、比べてだいぶ丈夫だ。写本作りが盛んになるにつれ学僧も個人で持つようになり、その頃の形をMark Cockramさんが「Student Binding」と名付けたそうで、この日はそれを習うのだ。

会場は浅草寺のすぐそば。宮後優子さんが代表を務める出版社Book&Designのギャラリースペースで、周りは観光客が多いけれど窓の外の公園では子どもたちがおおいに遊んでいた。午前の講義のあと、近くで親子丼(+生黄身、さらに茶碗蒸しとつくね付……)を食べて戻ると、午後の実作の材料と道具が並んでいる。6折分の本文紙、表紙用の板2枚、背に貼るセーム革のほか、支持体用の太めの麻糸と綴じ用の細い麻糸、木釘数本、細い白い革、D環、木ネジ、曲がり針。今回、花切れは編まない。表紙用の板は東急ハンズなどで売っているハガキサイズ5mm厚の樫材とのこと。1枚あたり、綴じ用の穴開けは6箇所。表から裏に突き抜ける4つはいいとして、5mm厚の側面からおもて面に向かって斜めに開ける2つが、想像を絶する。なぜ当時のひとはこんなことをわざわざしたのか、いや、わざわざではなかったろう、こんなことをしてみようとするわずかのひとはこれをいとう気持ちもなかったろう、など思いながら、「支持体を差し込む穴は側面から開けるのがいちばんいい」に到る過程があったわけで、どんな試行錯誤があったのか、想像して試すのも楽しそうだ。

実際にやって難儀したのは麻紐や革紐を木の穴に差し込むことだった。ゆるくてはダメなのだ。なかなか入らなくてなんとかやっと入るくらいがいいのであって、しかしこの日のように複数の人間が同時に作業をするのに、「なかなか入らないけど入らなくはない」という程度に材料を準備するのはどれほど難儀だろうと思ってしまう。数本ずつ用意された木っ端みたいなごくちっちゃい木釘も、いったい何に使うのかと思っていたら、麻紐を穴に通した最後、ゆるんで抜けないように金槌で穴に叩き入れ、すきまを埋めるためのものだった。はみ出た木釘を切り落とし、背にセーム革を貼る。この日の本文紙は洋紙だけれど、パーチメント(獣皮紙)時代は乾燥するともとの形に戻ろうとして波打って開いてしまうので留め金を付けていた。この日も準じて留め金を付けて完成だ。こんなごくシンプルな綴じに慣れてくると、職人も学生も徐々に飾りを楽しむようになっていったことだろう。

河本さんは古い綴じの再現もさまざまにしておられる。『東京製本倶楽部20年、ルリユールのあゆみ』展の図録の冒頭、「工芸製本少史」にそえられた、ナグハマディ・コデックス、コプト製本、カロリング製本、ロマネスク製本、ゴシック製本などの復元見本は、河本さんの手によるものではないだろうか。ほかにもミニチュアの復元品を原寸大に作り変えたり、形や素材のみならず古い資料のモノクロ写真に見た紙や革の汚れなど分かりうる限りを再現したりして、事情を知れば「すごい!」に違いないのだけれども、一見すると笑ってしまうものもあった。その河本さんが「すごい人がいましてね……」と教えてくださったのが、『イリアス』巻子本を再現しているという、古代ギリシャマニアの藤村シシンさん。古代インクを調合し、パピルス紙に葦ペンで『イリアス』を書写、棒に巻き、革紐で結んでタイトルタグを付けたものを、三省堂書店池袋本店でも展示したようだ。

いまの本の基本のかたちは1000年以上前にできていた。そのいっぽうで、巻子本も中綴じも四つ目綴じも、世界中の誰かが常に関心を持ち続けてきて今にいたっているというのはやっぱりすごい。電子本とかあるいは音声でとか読み方が変わっても、人のからだの仕組みが別のものにならないかぎり、本のかたちはこの先も変わりようがないのだろう。世界の全てを転写しようとする本の陰謀っていうのは、やっぱりあると思うんだよなあ。

璃葉

秋が始まったばかり、たいへん大きな台風が東京から去っていったころ。デンマークの松葉杖の輸入代理店を開くとともに、福祉について追求しているMさん、建築家のSさんと3人で老舗の釜飯屋で楽しく飲んだ日があった。ふたりとも本当におもしろく、話が尽きない。少し余白が空いたところで、大事なもの(物質)はなにかと聞いてみた。10月号に書いた、わたしの好奇心によるへんてこな質問だ。

突然振ったにも関わらず、ふたりとも真剣に考えてくれる。お酒を飲みながら頭を捻りしばらく考えて、その間色々な方向に話が飛び、話題は消えたかのように思えた。

「スニーカーかもしれない…」とSさんが突然呟いた。

会話というものはつくづくおもしろい。鎮火したかと思っているとじつは種火が残っていて、ふたたび燃え上がる。

Sさんいわく、自分の体を支えているものはお気に入りの靴(スニーカー)であり、裸足になると軸がぶれてしまう。それを履くことによって姿勢をちょうどよく保てて、一本の芯が通るらしいのだ。とあるブランドのとあるスニーカーがSさんにとってとても履き心地がよく、もし自分が棺に入るときがきたら、そのスニーカーを履かせてもらってあの世に行きたい、それぐらい大事らしい。

自分の体の軸をしっかり支えてくれるお気に入りの靴を履いていたら、三途の川もちゃんと渡れて、無事に浄土とやらに辿り着けそうじゃない?と、なんともお茶目に語る。

体というものについて薄ぼんやりと考えながら電車にのる。自分の体の状態を把握するのは案外難しいものだ。自分は靴を履いているときよりも裸足の方が好きだと思っていたけれど、考えてみればそれは柔らかい土の上や板張りの床、原っぱ、澄んだ水の中に入るときぐらいだけだ。靴というものについて深く考えたことって、そういえばなかったかもしれない。靴を履いての心地よさ、感じてみたいかもしれない。

全く関係ないが、たのしく酔っ払った体に電車の揺れは心地よい。

後日、小雨の降る夕暮れどき。何かの買い物のついでに、どうにも靴のことが頭から離れず、とうとうほんの少しいい靴を買ってしまった。ソールがきちんと自分の足裏に馴染んでいく革靴だ。もちろんご機嫌になる。浄土ではなくこの娑婆世界で、よりよい方向へ連れてってくれると信じながら大事に履いていくことにしよう。

編み狂う(4)毛づくろい

斎藤真理子

私は髪の毛をいじる癖がある。最初は思春期に入るちょっと前ぐらいのころ、髪質が急に変わったのがきっかけだった。まっすぐだった髪の毛に太いところと細いところができてきた。要するに「畝」、毛糸でいえばスラブタイプですね。しばらく経つとだんだん、さらにちりちりした箇所が出現した。こちらは毛糸ならブークレタイプ。

やがてそれがもっと進行して、ところどころ「節」みたいなものができてきた。毛糸でいえばこんどはネップタイプですね。ここまで来ると面白くて、触らずにいられない。このネップ、触っているうちに取れないかと思って髪全体を梳きおろすように触るのだが、触っても触ってもネップは解消しない。だからまた触って、きりがない。

そして気がついたら、単に、しょっちゅう髪を触る女の子になってしまっていた。そのころは髪質はまっすぐに戻っていたのだが、癖だけが残ったのである。どうして残ったのか自分でもわからなかったが、あるとき、仕事で若い精神科の先生にインタビューをしに行って、むちゃくちゃ納得できる話を聞いた。

その先生自身も髪の毛を触る癖があるのだという。そして、「たぶん僕、多動傾向があって、本来ならそのへんを走り回りたいけど、それは許されないってことをだんだん学習したんだと思う。そして子どもなりに、これなら社会的に許される範囲だと思って落とし込んだのが、髪の毛を触ることだったんじゃないのかな」とおっしゃるのであった。

その通りです。

あ、もう、私も絶対その通りです。

っていうか私、前からそのこと知ってた気がする。それ私が発見したことにしちゃいけませんか? と言いたいほど、マリアナ海溝より深く納得した。私はじっとしていられない子どもであり、露骨によそ見をする子どもだった。自分でも気づかないうちに、いつのまにか、それらの挙動不審行動をすべて髪いじりに置き換えていたのだった。

それに気づいたのはもう十五年くらい前のことだが、最近、さらに気づいた。

髪の毛は、毛糸だ。

組成からいってそうなのだった。髪の毛はウールである。毛糸を燃やしても髪の毛を燃やしても似たような、たんぱく質が燃える匂いがする。

ずっと前に父方の祖母が「シャンプーを切らしたらアクロン(大昔からある花王のウール用洗剤)で洗えばいい」と言ってたのを母が感心して聞いていたが、昔の人は髪の毛が何でできているかよく知っていたのだ。

もちろん人が羊でない以上私も羊ではないので、体表にあんなふわふわした毛が生えてはこないし、なかんずくアジア系の人間、しかも私のような剛毛体質の人間の毛髪を紡いで衣料を作ることなどできないが、それでも髪の毛と毛糸はもとをたどれば親戚なのだ。だから私が髪をいじるのも、編み物を手から離せないのも、根は同じなんじゃないかと思う。

基本的に私はウール、シルク、綿、麻といった天然素材しか編まず、今はほとんどがシルクだ。

シルク糸の玉をぼーっと見ているとくらくらする。これ一玉作るのにそもそも、何匹の蚕が参加していらっしゃるのかと思って。そしてそのめいめいが、どれだけの桑の葉を食べたのかと思って。動物が植物を食べた結果がこのような繊維になっているのは、すばらしいこととも思うし、薄気味悪いこととも思う。でもとにかく、それが必要なのでお世話になっている。

ちなみに、韓国では仕事の終わった蚕のさなぎを煮て、味付けして食べます。あれを食べても私たちは、糸を吐けない。

糸を吐けない私は糸を買ってくるしかない。

そして、買って買って買いまくった結果、もう買わなくて済む境地にまで私は到達した。

ここまで来るためにどのような行為を重ねたかはあまり思い出したくない。だって糸を買いまくることは終わりのない自分探しに近かったから。

気がつくと押入れに、一生涯アフガン・ハウンドとかそういう長毛種の犬の扮装をしても余るほど、もこもこのモヘア糸がたまっていたりする。または、ロックスターになって何年ドサ回りをしても余るほどのラメ糸がたまっていたりする。いったい、自分は何に変身したいのか。

何年にもわたる「糸戦争」を展開した後、自分はアフガン・ハウンドでもないし、ロックスターでもなく、多少寒がりの都市生活者にすぎないということがはっきりした。このようにして自分探しは一件落着し、細めのウールあるいはシルク糸という結論を得た。

ところが、それだけではすまなかった、自分を知るということは。

つまり、「身の程を知る」という宿題もついてくるのだった。

ウールはともかく、シルク糸というのは手編み糸の中でもダントツに高いのである。そこで、できるだけ良質の糸をできるだけ安く買うというミッションに向かって私は邁進した。その結果、気づくと、糸の町といわれる中部地方のI市の問屋さんから直接、シルク糸を取り寄せるおばさんになっていた。それも、大量に。

その問屋さんは主に工場に糸を卸しているらしいが、私のような個人とも取引してくれる。お値段は非常に安い。お願いすると、わざわざ作ったシルク糸の見本帳を送ってくださる。ありがたく、申し訳ないことだ。だが大量生産の糸メーカーと違って、個人に売れる量には限りがあるらしい。なので、この糸がいいと思って追加注文しても「ありません」ということがちょくちょく起きた。そこで私は、気に入った色の糸を見つけるとかなりの量を注文するようになった。

そのうち、あまり大量に買うので気がひけるようになり、「友人と分けますので」などと、嘘八百をメールに書くようになった。すると先方では、私を編み物の先生かニットデザイナーと勘違いしたのであろう、「お友達の先生にもよろしくお伝えください」などと書いてくださるようになり、私はどきどきしながら「友人もこの紫は気に入っていました」とか「来年のグループ展に使うそうです」などと書いてさらに大量注文するようになり、架空人格も取引量もどんどんエスカレートしていったのである。

そもそも、身の程を知り、節約するために問屋さんにたどり着いたのではなかったか?

それなのに何をやっているのだろうか?

結局、私はアフガン・ハウンドやロックスターでないばかりか、多少寒がりの都市生活者ですらなく、単なるお体裁屋だということがはっきりとわかり、それ以降糸は買っていない。

何と無駄な時間と無駄なお金を費やしたことだろうか。アフガン・ハウンドやロックスターになれそうな糸は、引き取ってくれる人もおらず、ヤフオクで売りました。

今振り返って思うのは、私が髪をいじったり編み物をするのは「毛づくろい」の一環であり、毛糸を買うこともたぶん毛づくろいの一種だったということだ。

消費生活的毛づくろい。

要るものもないのに何となくコンビニ行っちゃってスイーツ買っちゃうとか。

使わないのにステーショナリー買うとか。

皆さんいろんなことやってらっしゃるじゃないですか。

あれ全部、消費生活的毛づくろいだ。

兎も猫も毛づくろいをする。あれは、自分の体表を清潔にしたり温度調節をするほかに、リラックスするためという意味もあると、専門家は言う。そんなこと知ってらあと、私は思う。そんなこと髪の毛いじりと編み物をする私はよく知っている。

自分を退屈させる会議やシンポジウム、自分を困惑させる要求(締め切り)、自分を当惑させる提案(テレビに出てくださいとか)、自分を心底参らせる不測の事態(子どもが困っているとか悲しんでいるとか)、つまり人生上の大小の不都合が起きるとその五、六時間後とか翌日とかに、私は髪の毛をいじっている。すぐにいじるわけではないところがポイントだがなぜなのかはわからない、でもとにかく、髪の毛をいじっている。

私は髪の毛が長いのだが、長い髪を触りながら、どうやら時間の感覚を再確認しているらしい。

例えば、星を見て「あの光は何億光年も前に出発したもので、今はもう星自体はないのかもしれないよ」とか、言うでしょう。それに近い感じ。つまり長い髪の毛の根本と毛先には、時間差があるんですよ。「この毛先も、過去のあるときは根元だったんだよ!」って思うと「あの星はもうないかも」と言われたときの百分の一ぐらい、一瞬、くらくらしませんか?(しないか)。

けれども髪の毛にも毛糸にもシルクに糸も、生命体の時間の流れはしっかりと刻印されているのである。それに触っていると落ち着くというのは拍子抜けするほどまともな話じゃないだろうか。

関係ないけど「落ち着く」ってすごい言葉だと思う。落ちて、着くんだから。落ちても着かなかったら落ち続けることになるので、それはとても辛いし、怖いでしょうね。

落ち着いた私の押入れにはまだシルクの糸がいっぱいある。これだけの糸で、残りの時間、どれだけの毛づくろいができるのかな? これから目が衰え、手が衰え、脳が衰えていく。衰えのスピードと糸のストック量が追いかけっこするような最終ラウンドが、多分もうそろそろ始まる。でも、もし糸が足りなくなったら、編んだものをほどいて編みなおせばいい。

編み上がったものは面に見えるけど、ほんとうは線だということを私は知っている。編み損なったり、途中で嫌になった編み物も、ほどいて糸にしたらまた使える。糸である以上、線である以上、たぐり寄せることができるし、味方につけることができると暴力的に信じている。

それが糸で、細長いということ、そして糸には始まりと終わりがあるということ、つまりは直線の定義そのものだということ。それは、一人の人間の時間には始まりと終わりがあるということと相似形だ。そして編みはじめたら、一玉のシルク糸に濃縮された何十匹もの蚕の時間について私はもう考えない。

その代わり、蚕や羊の群れの方へ、髪の毛もろとも、頭から突っ込んでいくようにして、手持ちの時間を編み倒す。

AHAMAY

北村周一

ただしくは、AHAMAY~その右横におなじみの音叉のマークが並んでいる。

それは、ベージュの色のワイシャツに縫い付けられた刺繍の文字、この会社のロゴマークでもある。

もっとただしくいえば、それらはすべて目の前の鏡の中の現実だ。

ぼくはいま、洗面所の鏡の前に立っている。

音叉が三つ重なり合っている。

見ようによっては、アルファベットのYの字に見える。

このブランドの頭文字でもある。

ほんらいなら、アルファベットの左側に位置しなければならない。

AHAMAYのそれぞれのアルファベットが、いずれも左右対称なので、音叉三つのマークともども違和感がない。

そのロゴマークの上に、自分の顔がある。

見慣れた顔である。

目が二つ、こちらを見つめている。

鼻先に視線をうつせば、鏡の中の自分も同様の態度をとる。

まるで、鏡の裏側にもうひとりの自分が入り込んでいるようだ。

しかしながらどこか不自然である。

自分の顔は、まったき左右対称ではないはずだ。

鏡面に映っている顔は自分のものでありながら、自分ではない。

思いかえせば、若い頃、ずいぶんと自画像を描いた。

自画像といっても、ほかに描く相手がいなかったからそうしたまでのことで、廉価な手鏡に映し出された自分の素顔を紙やキャンヴァスに描きとめるしか方法がなかったのである。

それはそれで興味深い訓練でもあったけれど、描かれた自画像が、ほんとうの自分の顔といえるかどうかは釈然としない。

自分が見ている鏡の中の自分と、ほかの人が見ている自分とは、あきらかに異なっているはずだろうから。

なぜなら、鏡の中の自分以外の背景は、ことごとく左右が逆だからである。

しかし驚くべきことに、天地に間違いは見当たらない。

写真機の仕様が現在のようになって、百年近くが経過しただろうか。

写真という、新しい技術によって、ひとは初めて自分の姿かたちを知るようになった。

それは鏡や水面に映っていた自分とも異なるし、肖像画家が描いたひとの顔かたちとも違っていた。

とはいえ、文字通り天地が逆転するほどの驚きでもなかっただろう。

自然は左右対称を欲する、たぶん上下においても、そのように計らおうとする、ように見える。

ひとの顔も、微細なところを省けば、ほぼ左右対称に見える。

見るときに、なんらかの作用が働いている。

抽象(捨象)という概念がアプリオリに働いているように見えるのだ。

洗面所の大きな鏡の前に立ちながら、右手に櫛を持ち髪とかすとき、不意に左右の区別がつかなくなるときがある。

そんなとき、着ていたワイシャツの左胸に目を遣り、あらためて三つの音叉のロゴマークからそのアルファベットを読み直す。

*ヤマハ発動機と、楽器関係のヤマハとでは微妙にロゴマークが異なります。ここで取り上げているのは、ヤマハ発動機のロゴです。くわしくはこちらまで。➡ https://www.yamaha.com/ja/about/history/logo/

しもた屋之噺(215)

杉山洋一

ローマに向かう機中でこれを書いています。ふと気になって窓の日除けをあけて外を眺めると、雲一つない透き通った漆黒がうつくしく、凝らしていた眼が馴れてくると、右奥がほんの少しまだ黒い水平線と空との境界線が見えます。その奥深く、ほんの赤ん坊の足の爪のように細く小さな月が橙色に燃えていて、周りに星一つなく、孤高に光を放っています。どうやら星たちは、ずっと天の上の方で瞬いているようです。

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11月某日 ミラノ自宅
14年前から住んでいる拙宅の玄関の鍵が回らなくなって、ボローニ金物店に相談にでかけた。老夫婦二人で経営していて、外装といえばイタリアらしいくすんだ深緑のペンキで塗られたシャッターにFerramenta Boroniと書いてあるだけで、足を踏み入れれば、まるで数十年間変わっていないであろう古い鼠色の整理棚がびっしり並ぶ空間だったから、時々訪ねては老夫婦と話し込むのが好きだった。

鍵が壊れたので久しぶりに店に顔を出して四方山話をしている、右の棚に高さ20センチほどの黄金色のメダルが飾ってあるのに気が付いた。ミラノ市がこの金物店に贈ったもので、1929年から続く歴史的商店として表彰されている。反対側の壁を見ると、そのメダルの内容と同じ表彰状が、大切に額に入れられて飾ってあった。聞けば店主の祖父の代からミラノで金物店を営んでいて、このジャンベッリーノ通りには1930年後半に移ってきたという。1929年というのは、ミラノ市が商店開業に際しライセンスを発行するようなった年だそうで、実際は1922年から店主の祖父がポルタ・ロマーナで金物屋を開いていたと誇らしげに話してくれた。

ふと、目の前のA4ワープロ打ちの文章に目が留まる。「この11月16日をもちまして閉業いたします。長らく有難うございました」。別の商店のお知らせかともう一度読返すと、閉業するのは何とこの金物屋だった。

驚いて目の前の老夫婦に次第を尋ねると、すっかり歳を取ったので体力的に厳しいし、市から帳簿はインターネットを使えだの言われて困るし、息子は今は建築の仕事に携わっていて、高速道路を設計しているからね。この店なんて継がせられない。と、少し嬉しそうに話した。

店主に腕の効く鍵職人を紹介してもらい、拙宅の玄関扉は直ったので、家人のCDに「有難う!」とサインをして金物店を訪れたところ、もうすぐ閉店だと言うのに、店には老夫婦以外誰もいなかった。二人共うつろな顔をしていたが、CDを差し出すと急に嬉しそうに笑顔になった。ここで話しこむのはちょっと辛いと思い、「じゃあね、またね」と言ってすぐに外に出てしまったが、日本から帰るころには、この外装も変わっているかと思うと寂しい。ここで何度ナポリ式の旧型コーヒーメーカーを買ったことか。このコーヒーメーカーは普通の店には売っていない。鍵職人を紹介してもらったお礼に、売れ残っていたナポリ式コーヒーメーカーを二つ購入した。

11月某日 ミラノ自宅
音楽家をもう随分長い間やってきているのだが、未だに楽譜を広げる度、自分はどうしてこれ程譜読みが遅いのかと思う。譜読みが遅い上に性格は大雑把で、不器用である。乱視の老眼のお陰で目が困憊するし、いつも絶望しながら楽譜を広げる。

頭から精読してゆく性分ではないので、大雑把に全体を何度も眺めてゆくうちに、少しずつ細かい部分に目がゆくようにし、音が鳴るよう努力する。指揮の譜読みは気の遠くなる作業だと思う。初めてエミリオのところにシューマンの交響曲を持って行ったときも、この音符を一つずつ読むことは自分には到底できないし、根気も続かないと思ったが、辞めさせて貰えぬまま、未だに何故こんな慣れないことをやっているのか不思議でならない。単に他に食い扶持がなかったのだから仕方がなかったのだろう。指揮する上で、楽譜を読む作業は8割か9割の仕事量を占めるはずだ。

何度も根気よく続けてゆくうち、炙り出しのように、音が少しずつ浮かんでくる。それは現代作品であれ、古典であれ、ロマン派であれ同じ作業だ。音を単に音として認識するのと、音楽として認識するのは全く異質だ。文字として認識するのと、文字が連なって単語として意味を含めて認識する違いだ。音楽としてスコアから音楽が浮かび上がるときは、まるで三次元の写真や絵を鑑賞するような愉悦を味わうけれど、それは最後のほんの一瞬であって、そこに至る過程は、苦痛と絶望の連続だ。

京ちゃん曰く「洋一くんはやっぱり細かいよねえ」、だそうだが、こちらから言わせれば、正反対である。尤も、彼女と長らく親友として付き合えるのは、丁度反対の性格だからに違いない。

11月某日 ミラノ自宅
折り畳み自転車を抱えて、日帰りでジュネーブに出かける。必要最小限しか楽譜が読めていなくても、とにかくイサオさんと新作の打合せが必要なのは楽譜を開いた瞬間にわかった。自分が理解できるまで読み込むべきものと、実際にやって疑問を氷解させるべきものがある。ちょうどイサオさんがコンクールの審査員でジュネーブ滞在中だったので、コンセルヴァトワール・ポピュレールの地下の一室を借りていただき、リハーサルをした。

ワインセラーのように掘られた地下3階の部屋の入口は、思わせぶりの鉄格子がかかっていて、少し不思議な部屋だった。暴力とや迎合が主題の新作にはお誂え向きの場所だったのだが、それすら気が付かないほど、二人ともリハーサルに熱中した。途中、イサオさんが近所でサラダとフォカッチャを買ってきて、このワインセラーで一緒にお昼を食べながら、初対面だと言うのにすっかり話し込んだ。話題は音楽のみならず、子供の教育環境や政治にも及んだ。イサオさんは、カールスルーエに自ら友人たちと日本語の補習校を開いて、娘さんはそこで日本語を学び韓国語は別の韓国語学校で習得して、ドイツの公立学校を進学して、今は大学に通っているという。

イサオさんの音がとても生命感に溢れていて、愕くのと同時に一緒に演奏するのが本当に愉しみになった。聞けば韓国民謡に新曲のパートを当てはめ暗譜したそうだ。彼は躍るように演奏し、音は彼の音楽と共に躍る。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりにジャコモ・マンゾーニからメールが届き、開いてみるとエウジェニアの訃報であった。11か月に及ぶ闘病生活はいよいよ苛烈になり、最後は手の施しようがなかった。気にかけてくれているのは知っているのでお見舞いなど一切無用だ、と教会嫌いの共産党員らしいメッセージが続く。

エウジェニアはヴェローナ生まれで、ドナトーニの幼馴染だった。戦時中ナチスがヴェローナを跋扈していた頃のエピソードなど、ドナトーニの話としばしば合致した。少し濁った音のヴェローナ訛もドナトーニと一緒で、本当に溌溂とよく話す、小柄で闊達な老婦人だった。戦時下、彼女の家にユダヤ人を匿っていて、そこにナチスの憲兵がピアノを練習させてほしいと訪ねてきた話など何度も聞きながら、戦後イタリアの文化人が揃って共産党員になったのは、戦時中のナチス体験や、その後の内戦が酷く影を落としているのを感じていた。マンゾーニやブソッティのような作曲家、アバードやポリーニような演奏家、パゾリーニのような文筆家のように政治色を詳らかにする時期もあった。

今の若いイタリアの学生からすれば、別の星の出来事のように感じられるかもしれないが、25年前にイタリアに住み始めたばかりの頃は、まだその雰囲気は微かに肌で感じられた。今となっては貴重な体験だったと思う。

11月某日 三軒茶屋自宅
ニュースに映る香港の理工大の大学生たちの姿が、半世紀前のボローニャ大学の占拠や、世界各国の学生運動を想起させる。思想的にはまるで違うが、それぞれの自由思想が行動を起こさせたところは似ている。天安門事件のニュースを見た時は、まだ何も理解出来なかったが、香港では中学生までも自らの信条に基づきデモに参加していて愕く。日本に滞在するチベット難民と知り合ってから、中国各地の民族浄化政策なども、より身近に感じられるようになった。

ところで、日本でポータルサイトのニュースを読むと、見たくもないインターネットゲームや成人漫画の宣伝ばかり写りこむのは何故だろう。その隣に、少女がSNSで知合った成人男性から事件に巻き込まれ、などと書かれてあって、暗澹たる気分になるので、ポータルサイトを読まなくなった。自己責任という言葉を誰もが気軽に口にするようになったのは何時からか。現在のようなインターネットに匿名性は必要ないし、SNSやインターネットゲームで子供が事件に巻き込まれるなら、目立つところになぜ宣伝を出すのか。子供に毒を撒き散らす、我々にも責の一端はないのか。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの新作も、京ちゃんの「むすび」も、悠治さんの「歌垣」にも、雅楽や雅楽の手法が使われているが、それぞれ全く異質な結果をもたらす。我々が継承してきた文化とは、実は幅広い可能性に満ちている。細川さんと悠治さんが繋がっている印象はなかったのだけれど、考えてみれば、イサン・ユンを通して近しかったに違いない。

細川さんの楽譜を読んでいて、音楽の本質とオーケストレーションとの同一性に感嘆する。当然のようだが、音楽の本質とオーケストラの質感が同意義である必要はないし、そうした作風は決して多くない気がする。

細川さんご自身、自作を書道に喩えられるから、本質と形象が密接に繋がるのは当然だが、細川作品の演奏のむつかしさは、演奏の瞬間、演奏者の意識が、たとえば書道で言えばどこにあるのか、それを理解する必要ではないだろうか。

筆を進める書家の魂なのか、手の動きを客観的に凝視する第三者の眼差しなのか、半紙の側から目の前に迫る筆先や垂れたり、ほとばしる墨汁を間近に見続けることなのか。書家の魂は、その意識が筆先に向けられているのか、空や宇宙に向けられているのか、或いはどこにも向けられず、自分の身体の中に留めておくべきものなのかによって、紡がれる音楽は大きく変化する。リハーサル中これらの意識をさまざまに試して、その度毎にオーケストラの音が移りゆくのは興味深い経験だった。これらの意識は細川作品に留まらず、どんな作品にも応用できるはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
ライブラリアンの糸永さんの発案で、今回初めてアルファベット札に挑戦した。かなり複雑なので本番うまく出来るか心配だが、今のところ何とかやり過ごしている。多分これもアルファベットを使わなければ大変なことになっていただろう。

都響と演奏するときは、込入った事情の作品が多いからか、決まって、オーケストラの演奏者や、裏方一人一人の優しさと責任感に圧倒され、演奏していて言葉に表せない不思議な一体感に包まれる気がする。

前回の仕事も「作曲家の個展」だったが、同じ感銘を受けた。オーケストラ全体のプロフェッショナリズムが、音楽を包み込んで高次元の演奏へと昇華させてゆく。

具体的に言えば、最終的に、演奏が色を帯びてくる体験であったりする。今回ならば、望月作品でさまざまな色彩が走馬灯のように変化してゆき、細川作品では、単色の光度が非常に複雑に変化しつづけてゆく。光度がどんどん上がれば、どちらも大きな煌めきに収斂するのかもしれないが、そこに至るアプローチは全く違うものだ。

京ちゃんの「むすび」など、何となく皆が見えていた色彩が、練習するたびに明晰になり、彩りそのものが主張を始める。指揮者としてはその時間を共有できる愉悦に浸れて、それまでの苦労を忘れられる瞬間だ。音楽のもつ至福は、現代作品にもしっかりと存在している。

11月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、久しぶりに父の好きなショートケーキを携え、両親宅に顔を出す。好物のカキフライと一緒に、珍しく頂き物の「くさや」が食卓にのぼった。大学の作曲科合宿で毎年夏に新島に出かけると「くさや」を食べた。何十年かぶりのトビウオの「くさや」は殊の外美味で、幾ら食べても飽きない。

普段はあまり食べないのだが、もう少しで五十の誕生日ということで、今日ばかりは父に勧められるまま、自らの誕生日祝にと、一緒にショートケーキを食すことにした。

母曰く「この歳になるまで生きているとは思わなかった」そうだ。戦時中は天皇陛下は神さまだと信じていたから、戦争が終わって大人が手のひらを返したように言うことを変えて、子供心に人間不信に陥ったと言う。

「当時は皆荒れていたわよ」と言葉を続ける。学校の教師も、戦後は皆とても乱暴になった。当時水泳でオリンピック出場候補だった母の姉の水泳仲間はみな特攻隊に取られ、二人だけ生きて帰ってきたけれど、いつも眉間にしわを寄せ、酷く陰気でやさぐれていた。生きて帰ってこられて倖せとは到底思えない状況だったのだろう。

「あとは皆死んじゃったわよ。特攻に出かける前の最後の休暇には、よくうちに皆ご飯を食べに来てね。その度に着物を売ってお金を作っては、砂糖を買ってお汁粉を作ってあげたりしたものよ」。恋人でもなかったのに、何故わざわざ来たのか尋ねると、遠い郷里に帰る時間すら貰えなかった水泳仲間が、当時横浜に住んでいた母の家にご飯を食べに来たのだと言う。自分が生まれるほんの25年ほど前の話だ。

あなたには、小さい頃から人の意見に流されないで、自分の頭でしっかり物を考えるよう諭して来たのだけれど、覚えているか、と尋ねられて、覚えていないと答えると母は少し残念そうに笑った。言われてみればそんな気もするし、何れにせよそう諭され育てられただけの性格ではある気がする。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの作品を演奏していて、不思議な体験をする。目の前に別の透明の空間がふわりと口を開け、すっと音楽がそこに入り込み、まるで音符が天の川のように光りうねるのだった。かと思えば、清涼で穏やかな心地で、吹きすさぶ嵐に立ち尽くしている錯覚にも陥った。音を読み、楽譜上で理解できることは、音楽の一部でしかない。

11月某日 機内にて
京ちゃんより頂いた「作曲家が語る音楽と日常」を読む。表紙を開くと「杉山洋一さま いつも精一杯のお心尽くしありがとうございます! 私の音楽にいつも命を吹き込んでくださって、本当に感謝しています 京」と書いてある。

彼女の文章のリズムも言葉も実にうつくしく、彼女の書く音楽と同じ響きがする。このうちのいくつかの文章は、既に新聞紙上で読んだものもあったし、特にお父さまの下りは、彼女から直接話を聞いたことも沢山載っていた。

「音楽は特に好きというわけでもなかったが、”もう一度サントリーホールでみさとの曲を聴きたいなあ”と言われたときには思わず涙がこぼれそうになった(94頁)」を読んで、本当に泣いてしまった。

昨日確かにあそこにお父さまはいらしたと思う。不思議なことだが、最後のドレスリハーサルの時から、本番はうまくいく安心感があった。口には出さなかったけれど。もし本番の演奏を京ちゃんが喜んでくれたのなら、それはお父さまのお陰だと思う。

「そこには何より、この場に関わるあらゆる人々へのリスペクトがあった。それは、異なる時代や人々をつなぐ結び目という、芸術の重要な一昨日を照らし出していた(175頁)」。

この本にたびたび登場するご両親や妹さんたちと一緒の京ちゃんの結婚披露宴の席で、新郎のオーレリアンが「みさとさんが書いた”むすび”という曲があってとても好きなのですが、彼女は音楽を通して人びとを繋いでゆくんです」、そう愛情に溢れる顔で語った。あの結婚式で、オーレリアンの願いで京ちゃんが纏った十二単がとても美しかった。あれは震災から未だ一か月経つか経たないかで、日本中が大変な時だった。

(11月29日 ローマに向かう機中にて)

アジアのごはん(101)台所の畑、モヤシマシーン

森下ヒバリ

ベランダにプランターはあるのだが、ほとんど勝手に生えてくる雑草のために置いてあるようなものだ。季節が巡ると、山芋のツルが伸びてきたり、西洋カタバミのピンクの花が咲いたりするが、基本食べられるものはない。いや、色々試しては見た。しかし、夏と冬に長い旅に出るために、ことごとく失敗、または留守の間に実って枯れる、という繰り返しで、もう諦めた。

しかし、ついに畑が台所に出現したのであ~る! しかも、かわいいインドのホウロウの丸缶に入っているのだよ。・・何ということはない、自家製モヤシ栽培を始めたのである。モヤシは前々から作って見たかった。しかし、市販のモヤシ製造機はとても大きいし、洗うのも大変そうだ。イージーにボウルとザルを重ねて使って・・置く場所はないし、めっちゃ邪魔そう、で却下。

タイ・バンコクの友人の料理家ジュジュがいつも食べさせてくれるモヤシ料理がとてもおいしい。マレーシアのイポーやタイピンで食べるモヤシ料理ぐらいおいしい。もちろん、料理の腕がいいのだが、使うモヤシがまた立派でつやつや。訊くと、自家製モヤシであるという。

ジュジュが台所で見せてくれたのは、小さな蓋付きバケツを改造したモヤシ製造機であった。直径は15センチ~20センチぐらい。緑色のプラスチック製で、底に穴が開いていて水はけが出来るようになっており、さらに中に小さなザルが仕込まれている。ザルに緑豆などを置き、1日に3~4回流しの上で水をかけてやれば、4、5日でモヤシがすくすく育つ、というものだ。ここまでのセットを菜食で有名な仏教新派のサンティアソークの自然食スーパーで売っており、ジュジュはこれにさらにもう一枚の小ザルを反対向きに底に仕込んでかさ上げし、より育てやすく改良していた。

「ほ~ら、上のザルから出た根っこが全部下に向って伸びるから、こう‥」ジュジュは伸びたモヤシが乗ったザルを持ち上げ、ざるの穴から出た根っこをナイフでざくざくとそぎ取った。「モヤシのひげ根とり、完了~」「すごい‥よ、ジュジュ!」

ヒバリがあんまり感動していたので、ジュジュはおみやげに新しいバケツのモヤシマシーンをプレゼントしてくれた。しかし、帰国用のスーツケースには入らないし、手荷物のカバンにも入らない。ジュジュには悪いが、「もやし、作って見た〜い」と言っていたプンに差し上げた。

プラスチックではなく、大きすぎもしない、台所に置いていて嬉しくなるような「モヤシマシーン」はないのか。探しているとありました。メイソンジャーという食品の保存によく使う広口ガラス瓶である。もちろん瓶は家でも使っている。その蓋は、基本は枠と平らな蓋の二重構造になったネジ蓋である。平らな部分がメッシュになっているステンレス蓋が「モヤシマシーン」として売られていたのであった。これは・・いいんじゃないか? さっそくその蓋を買ってみた。

手元にある800CC の瓶に緑豆を底が隠れるほどの量を入れ、メッシュのふたを閉め、浄水を注ぐ。消毒できるから塩素入の水道水を注ぐように解説が書いてあるが、塩素はいやだ。こまめに水でゆすげば問題はない。6時間ぐらい豆を水に浸した後は、瓶をひっくり返して水を捨てる。後は気がついたときに、浄水をさっとかけては水を切るを繰り返す。1日に4~5回。そして、暗い所がいいので、インドのホウロウの可愛い丸缶の中に入れて置いておくことにした。

一晩置くと、緑豆がぷくぷくとふくらんでいた。2日目、芽が出た。いやあ、可愛いですねえ。3日目、1~2センチに芽が伸びた・・と思っていたら、それは根っこであった。たいがいの豆はまず、根をのばし、それから茎をのばして豆部分を子葉に変えて緑の葉っぱにするのであった。

4日目、瓶の中はぐるぐるに伸びたモヤシでちょっとしたカオスである。緑豆は水が入るたびにかき回されるから、この瓶モヤシマシーンではまっすぐに伸びたモヤシは作れない。5日目、瓶から溢れんばかりのぐるぐるモヤシの出来上がり。モヤシは細く、まっすぐでもないが、まごう事なきモヤシである。さっそく味噌汁に入れたり、キャベツ炒めに入れたり、酢の物にしたりしてみたが、なかなか美味しい。そして、食べきれないものをジップロックに入れて冷蔵しておいても傷みが遅い。いつまでも元気だ。

メイソンジャーのガラス瓶で作るモヤシは細くて曲がっているけれど、ちゃんと美味しいうえに、片付けが楽なのがいい。瓶と蓋を洗うだけ!一日何度も水をかけるのが面倒と思うかもしれないが、正確に3時間おきに・・とか言うわけではないので気がついたらすればいいし、多少間が空いても問題ない。そして、何より芽が出てくる様子がガラス越しに観察でき、とても可愛らしい。まるでペットを飼っているような気分になる。育てば食べちゃいますが。

スーパーに行けば安い値段でモヤシは売っているのだが、やっぱり自分で作るのは楽しい。添加物の心配もない。無農薬の豆を探し、緑豆以外にもえんどう豆をもやしてみたり、と遊んでみたりもする。ひよこ豆は2日位もやして、ちょっと芽を出してから茹でると栄養価も高まる。

そういえば、インドで発芽させたひよこ豆を茹でてスパイスで和えたものをスナックとして道端で売っていて、たいへん美味であった。生の発芽豆で作っている場合もけっこうあって、それは不味かった。ガリガリの発芽生豆が好きな人もいるんだな、インドには・・。

タイ人は生のモヤシもよく食べる。パッタイという米麺を炒めた料理には具としてモヤシを一緒に炒めもするが、出来上がったら生のモヤシをさらに混ぜ込んで食べるのだ。炒めたモヤシのコクのある味と、生のシャキシャキ感を味わう両刀使いである。

さあて、そろそろ食べごろになったメイソンジャーの中のモヤシちゃん、今回はどうやって食べようかな。

ハルカゼ舎の日めくりカレンダー

若松恵子

小田急線「経堂」駅前、すずらん通り商店街にある文具店「ハルカゼ舎」の日めくりカレンダーを愛用している。

タテ5㎝、ヨコ5㎝の正方形。日付の数字と英字で曜日と月が印字されているだけのシンプルなデザインだ。掌に乗る小さなサイズながら、十分な余白が白く、美しい。ハルカゼ舎のレジの横に置かれていたこのカレンダーを初めて発見した時には、まずこのデザインのしゃれた可愛らしさに魅かれた。日めくりであるのに場所を取らない小ささ、うすい紙質も良かった、出会ったのは残りの枚数も少なくなってきた11月あたりで、思わず「これください」と言ってしまったが、その年の物はとうの昔に売り切れで、翌年用が店に並ぶのを楽しみに待って買ったのだった。使い始めてもうずいぶん経つが、ハルカゼ舎お手製のこのカレンダーは今年で10周年になるらしい。

日めくりには、毎日小さな言葉が添えられている。例えば今年の12月1日は「コクトーのパーティーに招かれる日」だ。その日1日を占うコトバとして読むとおもしろい。ちなみに11月1日は「澄み切った朝に水星をみつける日」だった。ハルカゼ舎をひとりで(たぶん)切り盛りしている美しい店主が、日々書き留めて置いた言葉が、次の年の日めくりの言葉になっているようだ。

最後に10月分のページが沢山あまったので、10月1か月分が落丁した物を何セットか作ってしまったかしれないと店主が心配そうに話してくれた年があった。10月が消えてしまった年というのも想像してみると面白い。9月の最後の日をめくって、10月が無いと気づいた時に、怒る人と、笑う人と・・・。

その年、ちょうど日めくりを片岡義男さんにプレゼントして(いつも手ぶらの片岡さんにも、この日めくりならポケットに入るからと)このエピソードを話すと、10月が丸1か月無い日めくりというものをたいそう面白がってくれた。いつか物語の片隅に登場しないかなと密かに楽しみにしている。

今年もあと1か月。日めくりも残り少なくなってしまった。1年の日々の合計の枚数が最初にあって、それは1日1枚ずつはがされていく。いつのまにか1年だね、ということではなくて、確実に1枚(1日)1枚(1日)なのだ。毎日毎日きちんとめくらないのは、ずぼらだからというだけではなくて、もしかしたらこの1日1日減っていくというのが怖いからなのかもしれないな、と今思った。

ボクシング(2)

笠井瑞丈

ジムに通い始め
ジムでも少しづつ話す友達が出来てきた

成瀬くん 

高校時代からアマチュアでやっていて
サウスポーのハードパンチャー
そして見るからに元不良少年
ジムで数々の練習生の顔面を骨折させ
鼻をへし折っていたヤツだ

彼とは最初
彼がサンドバックを
轟音で叩いているのを
横で眺めていたら
てめー何見てんだよと
言われたのがきっかけで
ジムで話すようになった
そして一緒に遊ぶようにもなった
彼のパンチはとにかく凄かった
元世界チャンピオンの会長も
彼のパンチ力は認めていた
彼は運送屋で働いており
ジムの近くで一人暮らしをしていた
よく彼の部屋でジムの他の友達と
たむろをし酒を飲んで過ごした
彼はいつも練習が終わり
ジムの一つ目の曲がり角を曲がると
ポケットからおもむろにタバコを取り出し
会長にバレたら殺されるなと言いながら
タバコをプカプカと吸い出す
ボクシングというスポーツにおいて
タバコを吸うというのはもっとも
御法度の行為である
練習前いつも彼は
僕にタバコの匂い
大丈夫かと聞いてくる
そんな事もあり
彼はいつも練習の時は
ガムを噛みながら練習をしていた
そして彼はプロボクサーを
目指す練習生でもあった

彼はロードワークも一切しない 
ただ彼には天性のパンチ力があった
そしてとても優しさを持った男だった
俺はスタミナはないけど
いつでも相手を一発で
倒せるから大丈夫だと言う
彼は酔っ払うと
ジムの中で俺が一番強いと
ふざけながら言っていた
そして僕も彼が一番強いと思っていた
ジムの多くの練習生は彼に期待し
彼のプロデビュー戦の日を楽しみにしていた

それから時が経ち

彼は難なくプロテストも受かり
デビュー戦が決まった

僕は彼を応援に
ジムの友達とみんなで
後楽園ホールに行った

彼がどれだけ早く相手を
倒せるかだけを期待していた

『カーン』

ゴングが鳴る
1ラウンドTKO

彼は負けた

僕は彼が負ける姿なんて
全く想像していなかった
彼は僕の憧れでもあった
世界が逆転してしまった

彼がセコンドの人に
頭を垂らしながら
コーナーに抱えられて戻る

僕は自分のことのように悔しかった

彼を見たのが
これが最後だった

(次号に続く)

長い足と平べったい胸のこと(2)

植松眞人

 朝、自分の部屋で目が覚めると、いつもわたしはちょっと幸せな気持ちになる。寝ている時よりも目が覚めた瞬間が幸せなような気がする。カーテンの間から太陽の光が差し込んで、ママが下のキッチンで朝ごはんを作っている音がして、ときどきパパが廊下を歩いている音がする。そんな目覚めの時間に、どんなに自分がえらそうなことを考えていても、ああ扶養家族なんだ、守られているんだ、と思う。

 まだ小学校の低学年の頃に、パパと一緒に駅前の商店街に出かけた。その時、前から歩いてきたちょっと怖いおじさんと、大学生風の大人しそうなお兄さんの肩がぶつかって騒ぎになった。パパが、間に入って収めようとしたのだけれど、怖いおじさんはお兄さんよりもパパに怒って、弱いくせにしゃしゃりでるな、と声を上げた。パパはなぜか笑顔になって、すみませんすみませんと謝って、まあまあまあまあ、とあとずさりしながら、私に向こうへ行け向こうへ行けと手をひらひらさせて合図を送ってきた。わたしはそんな合図を送られても怖くてその場から動けずにいた。

 結局、怖いおじさんは、その後、パパに二言三言何か大きな声で言って、パパはへらへらと笑ってその騒ぎは収まった。最初に絡まれた大学生風のお兄さんは、怖いおじさんが行ってしまってから、チェッと舌打ちをして私たちのほうも見ずに駅のほうへ歩いていった。パパはしばらく怖いおじさんの背中を眺めたあとで、小走りでわたしのところに戻ってきて、手を引いてマクドナルドへ入って、玩具がおまけでついているハッピーセットを買ってくれた。

 あの時に、わたしは初めてパパよりも強い人が世の中にはいくらでもいるんだということを知って、なるべくあの日のパパを思い出さないようにしていた。あの日のパパを思い出すと、いつ怖い人たちが家にやってきて、家の中の物を勝手に持っていったり、わたしやママに乱暴をするかもしれない、という変な想像をしてしまうからだった。

 高校生になったくらいから、わたしはもう一度パパはやっぱりえらいなあと思うようになった。世の中にはパパよりも強い人や怖い人や才能があって歌がうまい人やイケメンで映画に出られる人や絵を描けるような人がたくさんいるのに毎日会社に行ってわたしたちの暮らしをちゃんと守ってくれていると思うようになった。それはたぶん、高校二年生になってから担任の先生に将来のことをちゃんと考えるようにと言われるようになったからだと思う。

 担任のテラカド先生曰く、別にみんなを焦らせるように将来のことを考えろと言うのは本意ではないけれど学校がそのように進路指導をしろと言うので仕方なく言っているんだということだった。それを聞いた時に、わたしはテラカド先生のことをちょっとずるいぞとは思ったけれど、まあ実際に将来のことを考えないといけない年頃になっているのは本当のことなので素直にうなずいたのだった。

 朝になって目が覚めて、幸せな時間を過ごして、だいたいママと二人で朝食を食べて、時には働き方改革のための時間調整で遅番の日はパパも一緒に三人で朝食を食べて、わたしの幸せな時間は終わる。

 わたしの暮らしている街は郊外なので、市街地にある高校まで五駅だけれど私鉄電車に乗らなければならない。この電車がとても混んでいる。わたしは正直、通勤のおじさんやおばさんにギュウギュウ詰めにされるのは全然気にならない。それよりも、同じ学校に通う男の子や女の子と一緒に詰め込まれるとどうしていいのかわからなくなる。普通に会話ができる子もいるけれど、そんな子はほんの少しで、同じ通学路の子はアキちゃん一人だけだ。だけどアキちゃんは少し時間にルーズなので、いつもギリギリの時間に家を飛び出して電車に乗って、駅から学校まで猛ダッシュで通学している。わたしは朝から汗まみれになるのが嫌なので余裕をもって家を出るから、朝、アキちゃんと一緒になることはほとんどない。そうなると、顔はなんとなく知っているけれど話したことがないという男の子や、みんながビッチだと噂しているけれど真相は知らないという女の子と腕や肩や背中をピッタリくっつけあって電車に詰め込まれることになる。たった十五分ほどの時間だけれど、これほど苦痛な時間はない。

 玄関でスニーカーを履き、ショルダーバッグを肩に掛けると、わたしはイヤホンを耳につける。iPhoneを操作してクリープハイプを流し、心の中でよっしゃと自分にハッパをかけて街へ出る。クリープハイプがいてくれたら最強。電車のなかにどこの誰と一緒に詰め込まれようとなんとか生きていける。

 案の定、今日も電車のなかは同じ制服のオンパレード。右も左も前も後ろも、顔は知っているけれど名前まで知らない人でいっぱいだった。何組か朝ちゃんと時間を合わせて登校する仲良しグループがあって、その子たちはずっと話をしながらギュウギュウ詰めに耐えているのだけれど、それ以外の私のような人たちはみんなイヤホンをして好きな曲を聴きながら耐えている。一駅過ぎ二駅が過ぎた頃、急に私のイヤホンが引っ張られた。目をつむりながら引っ張られたイヤホンを首を揺らして取り戻す。するとまたイヤホンが引っ張られて、そっちを見るとアキちゃんがいた。アキちゃんは私の耳元でわざとくすぐったい声で、おはようと言い、その声がクリープハイプの演奏の合間にうまいぐあいにはまってわたしは耳がこそばくなって吹き出してしまう。するとアキちゃんはまたわたしの耳元で、シーッと言いながらわたしたちの目の前をあごで示すのだった。すると、わたしたちと同じ制服を着た女子の手を握る男子の手が見えた。でも、満員電車なので誰が誰の手を握っているのかがわからない。その手はただ女の子の手を男の子が握っているのではなく、女の子の指の間に男の子の指がややこしく組み合わせられていて握っているというよりも握りあっているという感じになっていて、これはもう一言で言うとエロかった。わたしが小さな声で誰と聞くとアキちゃんは、セイシロウだよ、とわたしたちの同級生の名前を答えた。(続く)

翔んでアンマン

さとうまき

ヨルダンの首都、アンマンに着いた。葉っぱが黄色く色づいて、秋が深まる。僕は中東のこの季節が一番好きだ。

アンマンのタクシーは以前から最悪だと思っていた。ドライバーのマナーが悪いし、メーターがついているのに、こっちがよっぽど言わないと回さないでぼったくる。そしてセクハラも多そうだ。そして、手を挙げてもなかなか捕まらない。

しかし、最近ヨルダンでもウーバーが出てきて、使ってみると、少し高いがとても便利だ。ウーバーというのはアメリカの配車サービス会社で、携帯にアプリを入れて、車を呼び出すと、近くにいる車がすぐやってくる。一般人が自分の空き時間と自家用車を使って他人を運ぶ仕組みだ。ドライバーの名前と電話番号も出てきて位置を確認できる。あとで評価を入力するから安心だ。難を言えば、ドライバーがあまり道を知らず、アプリに頼っていることで、お客がしっかりと目的地の名前と住所を知ってないといけないことくらいか。アメリカ人の考えることはすごくて、世界侵略にはたけた人たちだ。

ちょうど、僕がかつてヨルダンで雇っていたシリア人のドライバーのアバジッドさんから連絡が入る。彼は2年前にアメリカに移住してウーバーの運転手をやって安定した収入を得ていた。「ウーバーでの俺の運転の評価はとても高いんだよ」という。ちょうどヨルダンに来たという。今回は、シリアに里帰りしようと考えているらしい。というわけで、ウーバーはやめて、レンタカーを借りて彼に運転してもらうことになった。

アバジッドさんの家は、ダラーにあるが、政府軍に激しく攻撃され廃墟になっている。「娘たちはシリアに帰りたがっている。もし帰れるなら、夏休みだけでも子どもたちが過ごせるようにしたいなあと思って」

アバジッドさんは、反政府運動に積極的に参加したわけではなく、政府から目をつけられているとは思わないが、それでも、帰ってみないと安全かどうかはわからず、いろいろと情報を集めていた。

「マジドのお兄さんは、一か月前に殺されたんだ。」マジド君は、2013年、11歳の時、ダラーでロケット弾にあたって右足を切断した。そして一人だけヨルダンに運び込まれて治療を受けていたのだ。

その後、母と弟がヨルダンに難民として逃れてきて一緒に暮らしている。父と兄はダラア―に残っていた。マジド君は携帯電話の修理を覚えて、ヨルダン人が運営する携帯電話屋で月に3万5000円ほど稼いでいる。最初はリハビリに通っていたが、いつしかそれは筋トレに変わり、上半身にはしっかりとした筋肉がついてたくましくなっていた。

一年前に「来週、シリアに戻ることにしたんだ」といっていたのを思い出す。「父の話では『もう帰っても大丈夫』というので、帰ることにしたんだ。シリアには自由がないかもしれないけど、離れ離れになった家族が5年ぶりに再会できるんだ」

マジドの兄さんは、反体制派を支持していたが、最近になってアサド政権に協力して働くようになったという。「あれほど憎んでいたのに?」生きていくためには背に腹は代えられない。

しかし、そうはうまくいかなかった。今度は、反体制派の連中からしてみれば裏切り者だということで、白昼市場で射殺されたというのだ。マジドは、シリアに帰るという計画を断念した。ヨルダンでの生活は以前にもまして援助がなくなり、苦しくなっている。カナダが障害者を受け入れてくれると聞いて移住を希望しているという。

アバジッドさんにムラッド君19歳の家も訪問したいとお願いした。ムラッド君は13歳で、右腕と右足を切断した。

「俺は、あそこのオヤジを好きになれないんだ。なぜなら、行くたびに何かせびられる。特に君と一緒に行くと、あいつら期待するから」アバジッドさんの言うことはよくわかる。でもムラッドの成長を見ておきたいという親心がある。「なら、こう言ってくれ、俺は悪いやつに騙されて失業して、もはや、人道支援どころか、借金を抱えている身だ。わかるだろ、君もイスラム教徒だから、今は僕が施しを受ける番だってこと」

アバジッドさんは、俺が失業したから、何にも持っていけないことをまじめにムラッドの父ちゃんに電話で説明していた。「オッケーだ。彼は何も要求しないって」

それでもアバジッドさんは、お菓子を買って持っていくことにした。アバジッドはアメリカでそこそこ稼いでいるからたくましい。

「日本で仕事見つけるのはむずかしいのか?」

「ああ、この年になるとね」

「日本でウーバーやればいいじゃないか?」

「運転ねぇ、あんまり得意じゃないしなあ。すぐぶつけそうだし」

ムラッド君の家は、坂の途中に引っ越していた。親父が出てきて機嫌よさそうに迎えてくれる。なんでもカナダ行きが決まったそうだ。ムラッドはというとさらにでかくなって2メートルくらいありそうなのだ。スマホに入っている動画を得意に見せてくれる。

初めて彼に会ったとき、13歳の青年だった彼がスマホで見せてくれたのは自分が病院に担ぎ込まれた時の映像だ。足はぐちゃぐちゃにつぶれ腕は皮一枚でぶら下がっていたので、付き添いの若者がちぎってしまおうとしたとき、ムラッドは意識がもどって、「ああー」とうなるところで映像は終わっていた。僕はショックを受けた。ムラッドは臆することなく堂々と映像を見せてくれて、微笑んでいたのだ。僕は、彼のメッセージを世界に伝えなければならないと思い回りの人たちにこれがシリアの内戦なんだと訴えていたのを思い出す。

今回、19歳になったムラッドが見せてくれた映像は、イラク人のキャプテンと腕相撲をやって打ち負かしたというもの。イラク人は戦争でケガをした同僚のお見舞いに来ていたらしい。そのキャプテンはマジに悔しそうな顔をしていた。

「僕と勝負しない?」ムラッドが挑発するがそれには乗らない。

「こんなおっさんに勝ったところで自慢にならないよ」

「カナダで何をしたい?」

「勉強をしたい。ここ(ヨルダン)では、学校に行くこともできなかったからさ。読み書きもろくにできないんだ。そして車の免許を取りたいんだ。片腕、片足でも運転できるのかな」

アバジッドがいろいろと車の運転について説明していた。

ムラッドのお兄さんは、かつてアメリカ軍のトレーニングキャンプに入っていたことがある。ISと戦うために、訓練を受けると給料がもらえたのだ。しかし、アサド軍と戦わないなら意味がないとやめてしまった。その彼は、今、シリアに戻り、政府軍に入っているというのだ。そしてやがてはカナダで皆で暮らすという。

この家族にとって、感情的にアサドが憎いというのは変わらないみたいだが、状況は大きく変わった。したたかに生きていくためには受け入れる。背に腹は代えられないってことか。彼らがカナダで幸せに暮らせる日が早く来ますように。

アバジッドさんも、ムラッドの父さんが、何も要求してこなかったのでとても機嫌がよかった。

「あの親父は、いろんなところか支援してもらってもすぐ金を使ってしまうんだ!」そう言って僕らは、シリア人がたくさん住んでいるイルビッドという町まで出かけて、ホテルに落ち着くと、インド料理の店を見つけてブリヤニを食った。羊肉がうまかった。またいつかどこかでこのおっさんに会いたい。多分シリアで。

8年に1回の「飯炊きの儀」備忘録

冨岡三智

今回紹介しようとする「飯炊きの儀」は、ジャワのスラカルタ王家においてスカテン儀礼の時に行われるものである。スカテンは今年は11月2日から9日まで行われた…ので、実は先月に終わっている。しかも、この儀礼は8年に1回しか行われない。最近だと2017年に行われた…ので、全く以てタイミングを外しているのだが、先日唐突に昔のことを思い出したので、書き留めておきたい。

スカテンとはジャワ島中部の王家(スラカルタとジョグジャカルタ)で催される儀礼で、イスラム預言者ムハンマドの生誕を祝うため、王宮モスクの中庭で生誕祭までの1週間、巨大なガムラン楽器「スカティ」を昼夜演奏し続けるというものである。ちなみに、ジャワ島西部のチレボンという王宮でも同趣旨の儀礼・ムルダンがある。ムハンマドの生誕祭はイスラム暦(1年約354日)で執り行われるので、毎年約11日ずつ日がずれていく。

「飯炊きの儀」とは「アダン・セゴ Adang Sego」のことで、ジャワ語で文字通り「ご飯を炊く」という意味である。王自ら巨大な4つの甑(こしき)を使って米を炊き、家臣がそれをいただいて食べる儀礼で、パク・ブウォノII世(1726-1749)の時代、つまりスラカルタとジョグジャカルタが分裂する前のマタラム王国時代、まだ都がカルトスロにあった時から行われ、現在までスラカルタ王家で継承されている。日本の羽衣伝説に似た『ジョコ・タルブ』という伝説がジャワにあるのだが、甑はその人間の男性と結婚した天女(稲の女神でもある)と関係があるとされる。

この儀礼が行われるのは8年に1度巡ってくるダル年のみである。ジャワにはウィンドゥwinduという8年周期の暦――ちょうど十二支のようなもの――があり、ダル年はその5番目だ。ちなみに、ジャワの人々はウィンドゥが8周した時(64歳)や10周した時(80歳)に、還暦や傘寿のようなお祝いをする。それはともかく、ダル年が特別であるのはムハンマドがダル年生まれであるからのようだ。スカテン最終日(つまりムハンマド生誕祭)には、食物で作られた神輿が出るのだが、その数もダル年だけ倍になる。

私も留学中の2002年にダル年に巡り合っている。当時、私はスラカルタ王家の様々な儀礼を参与観察させてもらっていたので、「飯炊きの儀」も見たいと思っていた。8年に1回の儀礼というだけでなく、この年にはぜひ見たいという特別の理由もあった。実は、この「飯炊きの儀」にはその場に華人がいるとご飯が炊きあがらないという伝承があり、華人お断りの儀礼だったのである。2000年、インドネシアでは1965年以来行われていた華人の文化・慣習に対する制限が撤廃されたが、そのような状況下において、この儀礼はどうなるのだろうか?と興味を持っていたのだ。

「飯炊きの儀」で上記のような伝承が生まれたのは、実は1740年の華僑騒乱に関連する。バタヴィアでオランダ東インド会社による華僑虐殺事件が起こると、中部ジャワでも各地で華僑が反乱を起こしてオランダ人を殺した。パク・ブウォノII世は当初は華僑を支援し、東インド会社に反旗を翻したものの、後に敗れて謝罪。その変節ぶりに家臣や華僑が怒って王に敵対した。王は東インド会社の助けを得てこの反乱を収束させたために、会社に大きく譲歩する羽目になった。華僑騒乱の時、華僑は王宮の台所を突破したとも言われており、それが「ご飯が炊きあがらない」という伝承に転化したようだ。

結局、この「飯炊きの儀」は見れなかった。王家の事務に見学申請を出していたが、ぎりぎりになって「実は、外国人は入れなくなりました…」と申し訳なさそうに言ってきた。予想外の返事だった。伝統行事としてどうしても華人禁止にしたいが、2000年以降の社会的状況下でそれを明言することはできない、だったら外国人全般を禁止してしまおうという政治判断が働いたのだろう。それほど、王家は華人/華僑に裏切られたという記憶をこの儀礼に刻印しておきたいのか。それとも、そうしなければならぬという神のお告げでも出たのか。その後の2009年、2017年のダル年にはどうしたのだろうか…と思う。

潮目か

高橋悠治

たゞ飽きることだけが、能力だつた —。
あきた瞬間 ひよつくり 思ひがけないものになり替る。
                [折口信夫『生滅』1950 ]

一つのやりかたにあきて ちがうやりかたに替える それではたりない 書けば 書いたことばにしばられる 現れては消えることば うしろ向きに歩きながら 足跡を掃き消していく システムや方法は 純粋だとせまく 新しいほどすぐ古びる となると 試行錯誤しかないのだろうか どこからでも始められると思っているが 続くかどうか それから書きかた 複雑な始まりは あとが続かない 出口のない迷路に入りこむ 迷宮は曲がりくねって先が見えないが いつか出口にたどりつく その一本の脈を感じられたら 続ける そうでなければ 書きかたを換えてやりなおし

歌曲の場合は ことばがあるので 声の部分を先に書いてしまうこともできるだろう 楽器の場合は ホケットのように ひとつの楽器から他の楽器へ移る線を先に書いてしまえば それに「あしらう」こともできるが それでは迷宮ではなく 目標のある道は 直線に近くなり 発見がない 全体をひと目で見えない なりゆきを手探りでたどり ことばにならない変化を手で感じる 見え隠れ 浮き沈み 飛び飛びの時間 隙間だらけの空間

書き終わったら 忘れたころ 見返して 音を削るか 安定した動きを崩す
これが作曲の場合

構成や構造という 全体が閉じて見通せる20世紀音楽を離れて 蕉風連句の「付け・転じ」を参考にしたやりかた 邦楽の同時変奏 あるいはヘテロフォニーからも いまは遠ざかっている 音程を色彩 (chroma) として 半音 (chromatic) 単位で自由に変化する組み合わせは いまでは中心もなく それでは崩れというより移ろいにすぎなくなった これからは 枠が見えるように 音程ではなく 音の位置からはじめて それをあいまいにひろげてみようか 音の位置は点ではなく そのあたりのひろがり 節目 

図形楽譜を避けて 普通の音符の長さを 拍にしばられないで使うやりかたと 和音を同時ではなく崩したり 楽器の間の見計らいで絡まる線を織るやりかたは まだ可能性があると思う これは演奏にも使えるやりかた

演奏の場合は リズムも音もすでにあるだけでなく だれかの演奏もすでにあり 伝統もスタイルもある 演奏のスタイルは時代を映して変わる 音を削ったり リズムを変えたりすることは 今どきは認められないだろう それでもアクセントを変え リズムをずらし テンポを揺らしながら 音をつなぎとめていた網をほどき 光と陰の変化を幾重にもかさね ずらし 散らして 靄になる そのうち クラシックを弾くときに試してみようか

2019年11月1日(金)

水牛だより

一週間後は立冬なのに、いやに暖かな東京です。

「水牛のように」を2019年11月1日号に更新しました。
当事者にとっては、過ぎたことは過ぎたことで、ふだんはあまり意識することはありません。それを動かしてくれるのはいつも外からのまなざしです。来月公開予定の水牛通信のpdf化は福島亮さんによってもたらされるものです。
「しもた屋之噺」でおなじみの杉山洋一さんは「水牛通信」のころは中学生で、当時もっとも若い読者だったことは何度か書きましたが、福島さんは生まれてもいなかったのです。その福島さんに案内役になってもらって、もう一度「水牛通信」を読んでみようと思っています。次の更新を楽しみに待っていてください。

先月書き忘れたお知らせを。
1月13日、両国シアターχで行われたコンサートのDVDが発売されています。出演は谷川俊太郎、李政美、高橋悠治。三人がそれぞれ朗読と歌とピアノで「平和」のたねを。企画制作は「憲法いいね!の会」300枚限定なので、購入ご希望のかたはメールでお問い合わせください。kenpoiine@uni-factory.jp

それではまた!(八巻美恵)

『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』がまもなく公開されます

福島亮

「水牛通信電子化計画」というページをのぞいたことはありますか? 毎月更新される「水牛のように」の目次の下に「水牛通信電子化計画 1982年10月公開」と書かれたページあり(2019年11月現在)、そこをクリックすると「水牛通信100号の全目次」と1980年から1987年までの記事が表になっていて、青字の部分を押すと、『水牛通信』に掲載されていた記事を読むことができます。試しに、アップロードされているうち最も初期の「1980年2月号」をのぞいてみましょう。ひとつひとつ手で入力された11の記事の目次が最初にあって、ついで小泉英政の詩「ごえもん風呂」がこんな風に続きます。

 のら仕事を終え
 夜道を『てって てって』と帰ってくる。
 それから
 「つきよのあかりで せんたくをして
 まいばん かやをひとたば まるめ
 ふろに へいってよ
 それから
 つかれたときは
 さけを いっしょう かってくるわ
 それを こっぷさ にはいずつ のむ。
 そで
 きょうは くたびれたから
 もうすこし いいかなってんで
 もういっぱい のんじゃうね」。
 
僕の大好きな詩です。詩はこんな風に終わります。「赤々と燃えるおきを/ぼんやりと ながめながら/湯がわくのをまつ時間が 好きだ。/おきのなかに/よねがいて/仲間がいて/ひざがあたたかい/闘いが 見える。」

僕が「水牛」のホームページを最初に開いたのは中学生の頃でした。15年ほど前のことです。群馬県伊香保温泉の近くに暮らし、図書館や学校の音楽室に置かれたCDを頼りに現代音楽を聴き、のめり込んでいた当時の僕は、どこかで「水牛楽団」という楽団の名前を知ったのだと思います。実家のリビングに置かれた卓上パソコン(ノートパソコンではなく、起動やページを開くのに時間のかかるあれです)で「水牛楽団」と検索し、最初に出てきたのがこのホームページでした。その時から、時々のぞいてきた「水牛通信電子化計画」のページ。そこには手入力された文字がひしめいています。しかし、イラストや楽譜、写真は載っていません。

じつはこの「ごえもん風呂」という詩が『水牛通信』1980年2月号に掲載されたとき、二段に組まれた詩の言葉の周りにはインゲンやアスパラガス、カブなどのイラストが添えられていました。「のら仕事」が作り出す野菜、その土のにおいやみずみずしさをイラストは力強い線で伝えています。すべすべした紙の質感、インクのにおい、手で描かれたイラストの線、そして言葉の織りなす力が、「闘いが 見える」という言葉で締めくくられたページの次に置かれた「三里塚ワンパック」の闘いの言葉へと読者を引っ張っていきます。この力の充溢と動きは何なのでしょうか。晴れ晴れとした冬の青空の下に出て深呼吸した時のような気持ちのよさと、遠くの方の風景を眺めているような、たとえようもない懐かしさ——それとも遠さ? いずれにしろ、1980年には僕はまだ生まれていないので、本当は懐かしいと思うなんて変なのに、繋がっているような離れているような、そんな奇妙な時間錯誤、あるいは感覚の縺れがあります——は何なのでしょうか。

去年の7月、タブロイド新聞『水牛 アジア文化隔月報』(1978-1979年)と冊子『水牛通信』(1980-1987年)を紙媒体で読みました。その時、そんな遠いような近いようなねじれた感覚を僕は抱きました。1980年頃といえば、それほど昔のことではないはず。でも、もう40年ほどの歳月が経っていて、僕にとってはやはり「歴史」の一部、近いのにどうしても手が届かない、夢の遠近法のような時の隔たりがそこにはあります。まだ物語化されていない歴史。あるいは、遠くの方でまだ生きられている時間。『水牛 アジア文化隔月報』や『水牛通信』が手から手へと受け渡されていた時間とは、物語化、固定化、風化をまだどうにかすり抜けることのできる時間なのかもしれません。この錯綜した奇妙な時間感覚は、もしかしたら読んだのが紙媒体であったこと、打ち出された文字のインクのにおい、印刷された写真やイラストの質感、それらを支える紙が時間に耐え、時を超えて僕の手元にやって来てくれたこと、そういった諸々の物質性に起因するのではないか——いつしか、僕はそんな風に思うようになりました。そして、紙やインクがもたらすこの時間感覚が、僕は好きです。

会ったことのない誰かにも——手紙を入れた瓶を海に投げ込むように——この不思議な感覚を届けてみたい。そういう思いから、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』をPDFにし、「水牛」ホームページで公開していただくことにしました。PDFにしてしまうと、たしかに紙の手触りやインクのにおい、活版印刷ならば紙の表面に文字が刻印される凸凹、それから紙そのもののもろさは消えてしまいます。でも、『水牛 アジア文化隔月報』も『水牛通信』も、今では東京を中心とする限られたアーカイブの中に収蔵されているので、気軽にお茶を飲みながら誰かと読んだり、好きなページを自由に切り抜いてノートに貼り付けたりすることはできませんし、何よりも、遠くの誰かに文章だけでなくイラストや写真を届けるにはPDFにしてしまうのが手っ取り早いと思ったのです。このPDFは、予定では今年の12月1日に公開されるはずです。僕も、時間の錯誤と感覚の縺れを抱きながら、時にはPDF化された記事について思ったことや考えたことを書いていこうと思っています。もっとも、まだすべての資料がPDF化できたわけではありません。1982年第4巻9号、同10号、同11号、1983年第5巻4号、1984年第6巻3号、同7号、同8号、同9号、同11号、同12号は立教大学の共生社会研究センターや法政大学大原社会問題研究所にあることはわかったのですが、それでも見つからないものや、様々な理由から電子化が難しいものもあります。これらの欠落については、持っている方がいらしたら、あるいは偶然机の引き出しの中から出てきたら、声をかけてください。そしてPDF化させてくださったら嬉しいです。

『水牛 アジア文化隔月報』の巻頭に置かれた「水牛、でてこい!」という文章は次のようにむすばれて——ひらかれて——います。「『水牛』は、アジア民衆の解放運動の空間のなかへ、私たちのしごとをときはなすこころみだ。しごとがささやかなものにすぎないことを自覚し、しかもそれが他の場所での他の人たちのしごととひびきあっていることを感じる。魚が水を必要とするように、実践をたえずのりこえるための、ひろい空間が必要だ。制度化しているものを、自分の手にとりかえし、体系化したものをときほぐして方法に変える。そのために新聞は、引用し、編集し、モンタージュをつくりあげる。」時間と空間を超えて、「水牛」の名のもとに集められた幾つもの言葉やイメージ、質感、時に欠落がこれから公開されます。水牛、何度でもでてこい。そんな合言葉をつぶやきながら、遠くのあなたと一緒に、近いような、遠いような、気持ちいいような、苦しいような、こことあそこ、そちらとこちらとがひびきあい、力の縺れあう景色を見てみたい。もうすっかり寒くなり木の葉も落ちてしまったパリの片隅で、そんな風に思いながらこの文章を書いています。

PARADISE TEMPLE

管啓次郎

ポリネシア言語の母音を抜いて
子音だけを発音してごらん
みなしごの歌のように続けるんだ
母音がないので歌にはならない

存在がさまざまな音で軋んでいる
ひとつひとつの調音点が
十三万年のヒトの拡散の
経験をひきつれて

雷鳴とともに母音がやってくる
雷鳥と雉の喉のふるえ
灰色の空から白い経典が降ってきて
地上のすべてと海をまだらにする

極楽寺は裏寺に小さくうずくまり
虹色の天蓋を広げてこの世を被う
寺にむすばれるものがあるなら
それは文字と音、言語を超えて

ブッダに帰依します
ダルマに帰依します
サンガに帰依します
母音を欠いた無声の誓願

雷鳴と雪の誓願

イリナ・グリゴレ

昔から人の家の中を覗くことが好きだった。夕焼けの時、暗くもなく明るくもない時間帯で、レースカーテンの裏からぼやけた光が差している時。近所を散歩するとそれぞれのお家の中に家族の様子が見える。ごはんの支度するお母様が見えたり、テレビを見るおじいさんが見えたり、様々なシーンが見える。


今住んでいるところのすぐ近くに古い家があって、その家の一部は昭和の雰囲気の喫茶店だった。現在はお店をやっている様子はないが、木で出来ている立派な看板が残っている。その店の名はカタカナでメモリーという。もう誰も住んではいないのだろう。近くを通ると家の前に真っ白な猫がたまにいる。何かを守ろうとしている様子で家の周りをウロウロしていた。


ある日、家が完全に壊されて、木材しか残ってなかった。家のガイコツしか見えなかった。中にいい雰囲気のカウンターが見えて、いつかあそこでお酒を飲みたかったなと思っても間に合わない。


その翌日、そこは家の影もなく、土地は綺麗に更地になっていた。黒い土の上に何もなかったかのように。あのあたり見えた白い猫も、それ以来近所に姿を見せなくなった。家が無くなるのはこんなに早いのか。その木に刻まれた思いと家族の生き方があっという間に更地になるものなのか。


私の祖父母の生き方を思い出させる。迷わず自然とともに生きること。メモリーという看板をみて、幼い時のフラッシュバックが訪れた。


私が育てられた家のイメージが脳の裏に彫刻されている。「惑星ソラリス」という一九七二年のアンドレイ・タルコフスキー監督の作品を思い出した。研究者の主人公はソラリスという惑星に調査のため送られる。地球から離れる感覚が細かく伝えられ、人類の未来を問う作品でもある。その惑星には海しかないが、その海自体は生き物のようにみえて、巨大脳になっている。その海が、地球から来た人間の頭のなかを覗く。彼らの記憶と考えがすべてその海に映されている。宇宙ステーションに死んだ人が現われたり、そこにいる研究者が耐えられないほど不思議なことがおきる。


最後のシーンではステーションから見える黒い海の中に島が出来て、そこに主人公の育てられた家とそっくりの家が映されている。あのイメージは彼にとって、そしてあの惑星の海にとって一番印象的なイメージだったに違いない。私でいうと、どこかの未来の世界で私の脳のなかを誰かが覗いたら、きっと私が育てられた家のイメージが出てくると思う。遠く離れても私の身体の一部になっている。


日本に住みはじめてからだけど、何年も前に見た夢の中で、私は列車から降りて祖父母が住んでいるコマナという村にたどり着いた。幼い頃から慣れ親しんでいたコマナの小さな無人駅のすぐ近くには、沼があるから蛙の声が聞こえる。


真っ直ぐ歩くと交差点がある。右は修道院に行く道、左は森へ行く道、真っ直ぐは祖父母の家へ行く道だ。今は詩人の名前になっているこの道を迷わず歩く。夢なのにあまりにリアルだが、周りの木が全部ジャスミンの木だと気づく。しかも見事に咲いている。駅から家まで道の右左にたくさんのジャスミンの木が咲いていた。


この夢をみたとき、祖父母はもうこの世にいなかった。家で彼らが私を待っているという感覚は強かったけど。


私だけではなく、一緒に子供の頃あの家で過ごした弟も、似たような感覚があったという。祖父が亡くなったあとで弟は家の夢をみたそうだ。


薪ストーブがついている部屋にいたら、外から祖父がいつものように元気な笑顔でロシアンスタイルの帽子を被り、入ってきた。弟は、あなたは亡くなったんだよ、なんでここにいる? と聞いた。そうしたら、僕はずっとここにいたよ、と言われた。祖父が自分の手でコンクリートを流し込んで、祖母と二人で最初から最後まで作った家から、どうやって離れるのか。死んでもできないのかもしれない。


弟の話を聞いて、初めて家というモノに対して深く考えさせられた。

あの家に行くと、今は不思議なことに野良猫しか住んでいない。この猫は勝手に上がり込んで、毎年、一番綺麗な部屋で子供を七匹ぐらい産んでいる。


子供の時、私が連れてきた野良猫を祖母は追い出して、猫が大嫌いと言ったことを覚えている。その理由はあった。家を建てたばかりのことだったみたいだが、祖母の得意な伝統的なカーペットとタオルの作品をしまっている部屋に猫が上がり込んで、子供を産んでいたそうだ。部屋と作品は血だらけになって、それ以来、猫を見るたびに叫んで追い出す祖母だった。


だが亡くなってから不思議なことに、家に猫が上がり込んで子供をたくさん産んでいる。


今でも訪れると、木と庭の植物、祖父が植えたぶどう畑があるのが見える。家も小さくなったと感じるが、まだ生きている。あのぶどう畑に、昔はたくさんのチューリップが咲いて、時に青いネギができて、イチゴができていた。


子供の頃、家から出ると、朝はぶどうの葉っぱで向こうは何も見えなかった。森も近いから本当にぶどう畑の中に狼がいると信じていた。その話を祖母にしたら、祖母は近所の人に話し、更にぶどう畑の向こうの家に住んでいた九〇歳のバァバァ・レアナに話した。そしてその人が狼の声を真似して、私を驚かせた。怖かった。バァバァ・レアナがいなくなったら、狼もいなくなったが、そのことに気づかず、高校生になって、祖母から聞いた。


ある日、祖父がその中でものすごく大きな蛙を見付けたことも記憶に残っている。あの蛙は本当に大きくて、魔法使いの蛙みたいだったからすぐ庭の外に捨てた。


その蛙が来た年に、入り口の門の近くにあった大きなクルミの木が急に枯れて来て、秋までに大きなキノコだらけになっていた。そのキノコを家族で食べた。子供の頃にあの木の下でたくさん遊んでいた。記憶の中で、あの木の下で小人みたいな生き物が住んでいた。みんな、どこへ行ったのか。最後の最後まで私たち家族にたくさんのキノコを残してどこか違うところ行ってしまった。


そのあとは庭の木が皆枯れはじめて、それは最初のサインだった。門から入って、右にクルミの木、左にぶどうの木とりんごの木にライラックの木があった。みんな枯れてしまった。ただ、ぶどうの木だけが今でも強く生きている。


その次の春には、祖母が大きなクルミを土に植えて新しい木の芽が出るのを待っていたが、出なかった。幼い頃のジプシーの二人の女の子の友達の話によると、各家の下には足がついている大きな白い蛇が住んでいる。その蛇がいなくなると、家からその家族はいなくなると言われた。


最近よく家の夢をみる。夢の中で、私は子供の時に住んでいた家に戻った。祖母が待っていた。ずっとここにいたよと言われた。二人でパステルカラーの椅子に座って、テーブルで祖母が作ったジャガイモのトマト煮込みを食べた。庭で採れた野菜が甘くて美味しかった。肌で感じる祖母と洗濯したばっかりのレースのカーテン越しに外の光が穏やかだった。二人でいつも通り静かに食べた。ただそれだけの夢。祖父母があの家にずっといる、今でも、こう感じる。

映画「惑星ソラリス」の中で、主人公が家に戻ったかのようなシーンが最後にある。家のドアの前で自分の父親を抱いている。このノスタルジックなシーンは原作の本になかったし、タルコフスキー監督が作家と喧嘩もして、批判を浴びた。


この映画を何回もみたが、なんでこの終わり方を選んだのか、やっとわかった。ソラリスに預けていた一番大切な記憶があの家だったのだ。遠い未来では、違う宇宙の者が人間の脳を絞ったら、きっと最終的に幼いころの家のイメージが出て来る。お互いに傷つけたり、戦争したり、他の動物を食べたりするが、人間はとてもデリケートな生き物だ。記憶という海の中では必ず家という島がある。その島は未来と過去の家族と出会える場になっていると思いたい。


先日また夢の中で祖父母の家と庭が出てきた。世界の終わりのような背景の中で。地震が起きて、近くの森で火山の噴火まで発生した。庭と家の周りにすごいスピードで土砂崩れが起きた。最終的に宇宙のような真っ黒の中に祖父母の家と庭だけ残っていた。

(「図書」2018年11月号)

アジアのごはん(100)マコモ

森下ヒバリ

秋はマコモの旬だ。そろそろ終わりに近いが、今年はまだ入手可能だ。いつもの有機移動八百屋さんで売っていたので、すかさず買う。マコモを料理するようになったのは、ここ数年のことである。最初はいったいどうやって食べるものなのか、分からなかった。皮をむいて、炒めたり焼いたりして食べるとあっさりしていておいしいですよ、と教えてもらったが、その時は野菜炒めなどに入れて食べたが、ふ~ん?と言う感じだった。

マコモ(真菰)はイネ科マコモ属の多年草で、別名ハナカズキ。水辺に群生し、大きくなると2メートル近くに育つ。じかに見たことはないが、写真で見ると大型のイネ、というかサトウキビみたいな姿である。縄文時代から食べられていた思われ、万葉集にも歌われる。現代でも出雲大社の神事に使われたりしている由緒ある植物。

新芽に黒穂菌が寄生することで新芽の根元の茎が肥大して柔らかくなり、そこをマコモダケと呼んで人間がいただく。茎がよく太って来ると黒穂菌が繁殖して内部に黒い点々が出現れることもあるが、問題なく食べられる。近年はほとんど食材として流通に乗ることはなかったが、食物繊維も多いことから健康ブームで自然食系の店、高級スーパーなどで売られるようになった。

初めて食べた翌年、また有機八百屋さんにマコモが出たので、何となく買った。そのときは他の野菜と一緒に炒めて食べると、淡白だがしみじみおいしいな、と思った。濃い味のものになれていると、つい見過ごしてしまいそうな味であるが、ゆっくり食べているとなかなかいい感じ。そして、固い外皮とピーラーでむいた茎の内皮を捨てようとして、ふと思いとどまった。

黒穂菌が繁殖して茎が肥大する、というのはふしぎだが、皮には黒穂菌をはじめ、よさげな菌がたくさんついていそうである。そのころフルーツの皮や芯に砂糖と水を加えてつくる果実酢づくりにはまっていたのだが、このマコモの皮でもいい酢がつくれるんじゃない?

さっそくメイソンジャーに水1リットル、砂糖4分の1カップを入れよく溶かし、皮を投入。浮いて来るので小さいガラスの蓋で上から軽く重しをする。メイソンジャーのふたは外してガーゼで虫除けのふたをする。ときどきふってやっているうちに、ぷつぷつ発酵してきた。1週間で皮を取り出すが、すでにもうすっぱい酢の匂い。これはいい感じに発酵しているなあ。

皮を取り出したら、毎日1~2回ビンを振って上に白い膜がはらないようにする。白い膜はカビではなく、酢酸酵母の膜なのだ。これをカビと思って失敗だとする人も多いが、けして失敗ではない。かき混ぜてやらないと嫌気性の産膜酵母がもろもろと発生して表面に膜のように増える。まあ、これを放置していても嫌気性の菌が酢を作ってくれるのだが、空気を入れてやり、膜が張らない方にする方がよりすっきりした美味しい酢が早くできる。

2~3週間ほどして、かなり酸っぱくなっていたらガーゼなどで濾して、ビンに詰めふたを閉めて冷暗所に置いて熟成させる。甘みが残っているような場合はもう少し空気にさらしたまま置いておく。

半年ぐらいして味を見ると、パイナップル酢のような臭みもなく、りんご酢のようなりんごのいい香りもないが、淡白でしみじみとしたいい酢になっていた。この果実の皮や芯でつくる酢は、市販の米酢などより、すっぱさが少ないので酢の物をつくるときに重宝している。ソーダで割って飲んでも美味しい。

マコモを食べていると、その淡白なうまみに、ビルマのインレー湖のほとりでみつけた豆の煮汁を煮詰めてつくるポンイエージー(日本では平安時代の文献にも登場する豆いろり)を思い出した。いわゆるダシの素的な使い方をされるビルマの調味料なのだが、これを実際に使ってみると、あれっというほどうまみが少ない、いや・・淡白だ。現代の濃い味付けになれていると、なんだよ、これ、となってしまう。

マコモもゆっくり味わって、うまみを探さないとおいしく感じない。ばくばくっと飲み込んでは存在を感じられないのだ。縄文時代とか平安時代とかの食生活というのは、おそらくこういう淡白なものだったんだろうなあ。

北米アメリカにはワイルドライス、という赤黒いお米に似た穀物のようなものがあるが、何とワイルドライスはマコモの一種、アメリカマコモであった。先住民族のインディアンの伝統的食べ物で、やはりこれも食べるだけでなく神事的な使われ方もされる。マコモはどうやらスピリチャルな神聖な気配をまとっているのかもしれない。

たしかに、マコモはなにかいい感じだ。黒穂菌だけでなく、おそらく人間に有用な菌がたくさん共生している植物なのだろう。そして食繊維も多いから、有用菌とセットで腸内細菌も大喜び。どこかで見かけたら、食べてみてください。縄文時代の狩猟採集民になった気持で、ゆっくり味わってね。

ジョージアとかグルジアとか紀行(その6)

足立真穂

五月晴れの日本を離れて再びジョージアの地を踏んだ。

「一緒にワインを飲む旅に出かけてみない?」と声をかけてくれたのは、日本にジョージアワインを輸入する「ノンナアンドシディ」の岡崎玲子さん。FaceBookで「ジョージア」と連呼していたのが功を奏したらしい。となると、今回は、「ワインのプロ」との旅だ。昨秋この土地を離れる時には思いもしなかった展開だ。こうして書いたりSNSで投稿したり、投げた石はいつのまにか水紋となり広がっていく。

 二度目のジョージア

こうなったらワインの世界をもう少し掘り下げてみよう。

とはいえ、そう言えるほどワインの世界は簡単ではないので、違う目線で見ることにした。

「ジョージア人にとってのワインは、日本人にとっての『鍋』のようなもの」という仮説視点である。単なる思い付きだが、ジョージア人とワインを飲むと、鍋を大勢で囲んだときのような、あたたかい高揚がある。

それは、「同じ釜の飯を食う」感でもあり、安心できる人生の潤滑油のようでもあり、家族や仲間のつながりでもあり、と、ジョージア人にとってのワインは、日本人にとってのワインとは、存在に、桁の違うかけがえのなさを感じるのだ。

右から、ジョン、ショータ、ジョン・オクロ

帰国してしばらくして、3人のワイン醸造者を岡崎さんがジョージアから日本に招くことになったと聞いた。ちょうどこれを書く頃(2019年10月末)に来日し、その3人で、日本の生産者をまわったり、講演会や宴会を開くという。

3人の内、アメリカからやって来てジョージアの有機ワイン興隆の今をつくった立役者のひとりが「PHEASANT’S TEARS(フェザンツ・ティアーズ)」のジョン・ワーデマンその人だ。

もうひとりは、夜景がジョージア一と言われるレストランを持つ、物理学専攻でイギリスの大学で博士号をとったというジョン・オクロ(「OKRO’s Wines (GOLDEN GROUP)」)。ジョンとジョン・オクロ、この二人は同じシグナギという町に住み、ジョンの奥さんとジョン・オクロが幼馴染、だったかそんな近くて古い関係だ。

そして、首都トビリシでの観光業の仕事をやめて北東部の山あいにUターンした、もう一人のショータは30に手が届くかという、次世代のリーダー格(「Lagazi Wine Cellar」)。ジョンがワイン作りの師匠だという。
それぞれ、レストランから畑にまで足を運んだが、クヴェブリの伝統と土地柄を生かしたセンスの良いワインがおいしい。ジョージアのナチュラルワインの世界でも有名な3人だ。

 なぜジョージアなのか?

ジョージアのナチュラルワインの最近は、アメリカ・バージニア生まれのジョンのこれまでをたどるとわかりやすい。菜食主義のヒッピーだった両親の元に育ち、絵を描く才能に恵まれた彼は、モスクワで美術を学ぶ。卒業後、ポリフォニー音楽に惹かれてジョージア中を旅し、トビリシから真東に110キロほどの、「シグナギ」という街で歩を止める。

このシグナギは、ワインの名産地「カヘティ」という地方の地理的な真ん中に位置する。周囲を一望できる山上にあり、18世紀の城の壁に囲まれた、石畳の輝く有名な観光地で、ここから見るコーカサス山脈はこの世のものかという天空の景色だった。この絶景に、ジョンも惚れ込んだのだという。

シグナギの街を隣の丘からのぞむ

「愛の街」としても知られており(街の広場には、コインを投げると恋が成就するといったコイントスの泉もあった)、アートや音楽を愛するジョンには魅力的な街だったのだろう。さすが「愛の街」で、後に結婚するジョージア人女性とも出会い、時々旅をしながらも、落ち着くことになったという。そうそう、ジョンは180センチ近い大柄な体格で、俳優のラッセル・クロウに似ているという人が多い。確かに似ているのだが、ラッセル・クロウをテディベア化したというのが表現としてはしっくりくる。そして、「この人に任せれば大丈夫」と周りの人を安心させる不思議な空気があって、いつも人の輪の中心にいる。

シグナギの街にあるジョンのレストラン「フェザンツ・ティアーズ」。

「なぜジョージアだったの?」と、この話を聞いて、思わず私は尋ねてしまった。「アメリカはどうも性に合わなかったんだよね」と、ジョンは穏やかに答えてくれた。ジョージア人男性は、宴会でポリフォニーで歌うことがあるのだが、ジョンはこの名手と言われており、音楽に惹かれたことも大きいとは言う。けれど、ジョージアは、いまだに道路はガタガタでインフラが整っているのはトビリシなど都市圏だけだ。中心を離れると、電気や水が通っていない地方もまだ多い。豊かなアメリカの方が便利で快適な暮らしではないのか。

観光などで大都市に旅をしたことが数度あるだけの私には、アメリカの実情がよくわからない。ひとつ言えることは、ジョンの幸せの閾値は、アメリカにはなかったということなのだろう。絶景を前にすると、少なくとも便利さは幸せの絶対条件ではないように思う。

故郷で実家が農業を営んでいたわけでもなく、ましてやワイン造りにも土地にも縁がなかったジョンがワインづくりを始めた理由はなかなかおもしろい。「近くに住んでいたワイン農家の人に薦められたから」とだけ当初聞いたのだが、ジョンが親しくしているニューヨーク在住のジャーナリスト、Alice Feiring が書いたジョージアワインをめぐるノンフィクション『FOR THE LOVE OF WINE:MY ODYSSY THROUGH THE WORLD’S MOST ANCIENT WINE CULTURE』(ワインを愛するがため~世界最古のワイン文化をめぐる私の冒険/拙訳)にそれは詳しい。参照しつつ、私が取材したことも含めると、その経緯はこうだ。

子供にも恵まれ、お金はなくとも絵を描く満ち足りた生活の中、ある日、ジョンは畑で絵を描いていた。そこに来たのはトラクターに乗った農家のゲラさん。トラクターの上からいきなり夕食にジョンを誘い、「俺たちは話す必要がある」と叫んで去って行った。唖然とするばかりのジョンの家に次にはやってきて「子供たちを収穫に連れてきて、ぶどう踏み(ぶどうをジュースにする作業)をやればいい。その魔法を見たら考えは変わる」と言う。どうもワイン作りをさせたいらしい。それでもワイン作りには興味がない画家のジョンが放っておいたところ、収穫の最終日にぶどうをトラックに山積みで持参。結局ジョンは、ぶどうを家族と踏み、新鮮なぶどうジュースのおいしさに打ちのめされる。そして、いつしか彼の家でゲラさんの母親の手料理でワインを飲み、ジョージアのブランデー「チャチャ」を一緒に飲むことになっていた。おもむろにゲラさんは語りだす。

「少なくとも8世代にわたって家族でワインをつくってきたこと。ジョージアには520種類ものぶどう品種があること。害虫にも他国の侵略にも負けずにここまで守り抜いてきたこと。ソ連は、市場で人気のワインを大量生産するように仕向けてきたこと。だから手間のかかるクヴェブリは絶滅の淵にあること。でも、ジョージアの固有の品種を守りたいこと。伝統的なクヴェブリの醸造方法を知る最後の世代であり、誰かに伝えなくてはいけないこと。誰かの助けが必要なこと。そして、それはジョンであって、自分の土地を買ってワインづくりをしてほしいこと。」

当時のジョージアの問題を投影してあまりあるその言葉を聞き、農業の経験もない画家は、結局その土地で、ワインづくりを始める。ゲラさんの始めたPHEASANT’S TEARSに参画し、いまでは畑を拡大し、417種の固有種を植え、ワインを作りながら3軒のレストランを運営し、ジョージアのナチュラルワインの興隆ために日本やアメリカはもちろん、世界中を飛び回る生活だ。彼なりに、ジョージアにいる理由を確固とそこに見出したのだろう。

 人をもてなす喜び

ジョージアでは、客が来ると、ないしは少しでも人が集まると、宴会(スプラ)となる。手作りの料理が所狭しと並び、ワインが注がれていく。最初はビールで次はワイン、とチャンポンにすることはめったにないそうだ。このスプラを大事にする姿勢には驚くほどで、宴会を仕切り、盛り上げる「タマダ」という職業さえ存在する。有能なタマダはタレントのように人気があり、よく知られているそうだ。場を見て、うまくまとめるタマダは尊敬される存在でもある。

タマダは役割でもあるようで、参加者のうち、年長者、立場のある人、ホストの誰かが担うことも多い。家にやってきた客を神様が送ってくれたとするジョージアのおもてなしは、本気だ。タマダが最初に、そして参加者が順番にあいさつをし、杯を空けていく。たとえば、私は順番がまわってきたときに「このすばらしいワインをつくってくれたジョージアの大地に!」とやけくそで叫んだところ、大いに場がわいた(と、思わせてくれる)。そしてひとりが何かを言祝ぐたびに、立ち上がって全員が注がれたワインを飲み干すのが礼儀だ(飲めない場合は少な目に頼んだり断ったりすることもできる。そのあたりもタマダ役が見てくれている印象だ、と信じているが……)。その場の誰かの幸せや未来を互いに言祝ぎ、祈ることで場は高揚し、共鳴していく。

それほどに、その場にいる人間が同じ時間を共有し、一致することを尊ぶのだ。どうもこれは多民族多宗教のお国柄だからではないかと思う。ワインを通じて、友好や賛辞の言葉を重ね、杯を重ねることで時間や気持ちを共有し、関係性を築くのだ。それはもはやタマダを含むある種の「型」にさえなっている。

それが日本でいえば、鍋を囲むことに似ているのだ。多様性が高いので、鍋を囲むように悠長にはしていられないのかもしれないし、ジョージアでは自家製ワインを出せる家庭も少なくはない。たとえるなら本来の茶の湯もそうだったと思う。日本でも戦国大名は、武器を置き身動きの取れない狭い茶室で、ともに同じものを口に入れ、茶を一服することで融和を図った。現代でも、茶事で一緒になった相手に対しては強い親近感が生まれる。それと同じことをスプラで行うのだ。

今回、東京での「ジョージアワイン」をテーマにした講演会で彼はこう話をしめくくった。

「ジョージア人にとってワインはa way of life です」。

これをどう訳すかは解釈次第だが、人生のあるべき姿、とでもいえるだろうか。家族の生活の中心にあるものだとも強調していた。ワインを飲む宴会に参加すると、歌い踊り、料理を楽しみ、ひたすら語る。一緒になった人とは、家族のことまで含めて深く知り合い、親しくなれる。ワインは人間の間をつなぐ重要なものだ、と言うのだ。

結局、「ジョージア人にとってのワイン」を考えることは、人間関係の真髄にいつしか触れることになっていく。私が短期間のあいだにジョージアに再び来たくなったのは、この関係性が心地よかったからかもしれないと自分でも思う。

ジョージアで出会ったフランス人が言っていた。

「ワインを飲む原点がここにはあるんだよね。フランスでは、ボルドーの〇〇とか、格付けばかりになってしまっているから」。

日本は、どうだろうか。

<情報欄>

このジョージアの特異な自然派ワインによる人のつながりを描いたドキュメンタリー映画が、『ジョージア、ワインが生まれたところ』と題して日本でも11月1日(金)より公開とのこと(シネスイッチ銀座、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほかにて全国順次公開)、映像で確認できるかもしれない。

また、ジョンは、現在20種類以上のワインをつくっているという。ほかのふたりのものも含め大地を感じさせるジョージアの自然派ワインを飲みたい方はこちらから。

仙台ネイティブのつぶやき(49)ウィルス上陸

西大立目祥子

 ひどい風邪に見舞われた。
 熱が出たのは10月1日。「水牛」の10月号の原稿を書き上げた晩、動くのがいやになるくらいのだるさに襲われ、翌朝はノドの痛みと咳で目が覚めた。起き上がる気にもなれず、完全ダウン。
 咳が激しいので、2日目にすぐ近くの内科に行った。壁に寄りかかっていないと待っているのもつらいほど。ふらふらしながら帰ってきて、処方された薬を5日間、真面目に飲んだ。でも、よくなって行く感じがしない。たいてい風邪は3日目くらいから回復していくものなのに、7度台の熱がだらだらと続いた。

 この7度台の熱というのが曲者だ。頑張れば動けてしまう。母の介護もあって1日中寝ているわけにも行かず、とはいえ90歳の老人にうつしたら大変なことになるので、マスクを2重にして手を何度もアルコール消毒して、よろよろと買い込んだ夕食を食べさせに通う。予定に入っていた会議にも出席し、ずいぶんと迷ったけれど、前売りで買っていたチケットを持ってコンサートにも行った。でも、座って目を閉じると、すーっと気を失うような感じ。ステージに近い席なのにオーケストラの音もピアノもずいぶん遠くて鳴っているようで、結局、半分で切り上げて帰ってきた。

 こういう無理がいけなかったんだろうか。熱は1週間たっても下がらなかった。毎晩、発作のような咳で何度も目が冷め、食欲もないから、体重が減ってきて筋肉が落ちて行く感じがリアル。年寄りがひと月入院すると歩けなくなるとか、そんなことがじぶんの身にも起きるんじゃないかという気さえする。これって、ほんとに風邪? 不安にかられる。

 じぶんでも頼りない、力が入りきらない足腰。熱っぽくどこかふわふわした感覚。この感じ、覚えがあるよな…とたぐり寄せたのは中学1年、13歳のときわずらった病気の記憶だ。秋が深まったころに、両親、叔父叔母、従兄弟たち一族郎党で岩手のゆかりの地を訪れたあと、疲れがたまったのか寒かったのか家族みんなで風邪をひいた。扁桃腺が腫れ上がり熱が出て学校を1週間も休んだあと、もう大丈夫と家を出た朝の体がそんな感じだった。歩いていても地面にしっかりと立っている感覚が弱くて、カバンを下げてもひどく重たく感じ、通うこと3日。結局また体調が悪くなり、尿にたんぱくが出たのだったか腎盂炎と診断され、3週間も休むことになった。

 首まわりのリンパもあちこち大きく腫れていた。母も入院の事態となって、別居していた祖父祖母がひと月ほど面倒をみにきてくれたのだったが、祖父が「こんなに何カ所も大きく腫れて、何か他に病気が隠れているんじゃないか」と私のやせた首にできたグリグリをさわり、心配そうに顔をのぞき込む毎日が続いた。栄養になるからと、根菜から葉物まで、野菜を細かく刻んで煮て仙台味噌を溶いた具だくさんの汁物を、朝も晩も飲まされた。

 でも、病院にいっしょに行ってくれたことはなかったと思う。明治生まれの祖父母にとっては、13歳というのはじぶんの体の具合をじぶんで感知して医師に説明できる年齢という意識だったのだろうか。回復して通学するようになってからも学校から帰るとカバンを置き、日に日に夕暮れが早くなる道を10分ほど歩いて内科に通った。薄暗い診察室で診てくれるのは、眼鏡の年配の先生で、聴診器を当て、喉をのぞき、首をさわり、横にされると腎臓の具合を探るのか、お腹もていねいに触診された。たまたまいた看護婦さんは、同級生のお母さんでいつも何かと気づかってくれた。

 ずっとあとになって、祖父も同じ年頃のとき胸膜炎になって学校を長期休学し、一人薬をもらいに病院へ歩いて通っていたことを知った。病気の子どもは、一人で痛みや不安に耐えている。弱っているからこそ神経は鋭敏になるというのか、まわりの大人の気づかいがどんなに暖かいものだったとしても、思春期になればその暖かさの奥にある心配や不安をも察知する。思慮深かった祖父は、たぶん目の前の弱っている孫にじぶんも味わったその境地を重ね見ていたと思う。

 その頃は、一人薄暗い穴の中にいるようで、穴から見える外の風景は青くてまぶしくて、元気に動きまわる友だちの姿はずっと遠くにあるようだった。“からだの弱い子”というまわりからの視線に、情けないようなくやしいような思いもあるのだけれど、かといってそこに立ち向かう力が身の内からわき上がってこないどうしようもなさ。くぐもった気持ちを抱え、穴の中で黙って体が回復するのを待つほかになかった。

 それはもしかすると、野生の動物が傷んだ体を回復させるのに、群れから離れて静かなところで時間が過ぎるのに耐えるのと近いかもしれない。傷が深ければそこで命は尽きる。力が湧いてくれば、エサを獲りに穴蔵をあとにできるだろう。

 振り返ると、幼児期から思春期の入口までは病気ばかりしていた。畳の上の布団に一日中寝かされていると、窓の外には空ばかりが見える。この風邪でも、じっとして秋晴れの雲の流れを見ていた。外はまぶしい秋晴れなのになぁと感じながら。腎盂炎を診てくれた先生には「あなたは体力もないし、こういう病気をしたのだから、大人になってもあんまり無理はできないよ。ずっと体を大事にして過ごしなさい」といわれた覚えがある。

 学校を卒業して働くようになり、地域づくりの手伝いに海や山へ出かけるようにななった30代、私は一転してエラく頑健になり、めったに風邪をひくこともなくなった。出張して夜に会社に戻ってから原稿を書くとか、間に合わなければ朝までパソコンにかじりつくとか、そんなこともへっちゃら。社内でもタフなヤツと評され、「いやあ丈夫だよなぁ」と面と向かっていわれることもあった。

 それがどうしたことだろう。この風邪の居座り方は。
 結論をいうと、熱が下がったのは発熱の2週間後。それからさらに2週間、ゲボゲボと咳をしてひどい鼻声で過ごしてきた。今日は31日。ようやく咳がおさまりつつあるが、なんとひと月も体はウィルスに乗っ取られたままなのだ。

 人の一生を白い紙に曲線グラフで描いて、40歳くらいの壮年期のところで2つに折ると、幼年期のかたちと老年期のそれは相似形になる…というようなイメージが私にはある。社会の中で身につけたものが、老年期になるとほどかればらけれていって、子ども時代の「素」の状態に戻っていくような感じだ。

 としたら、まさかこの回復力の弱さって、寝込んでばかりいた幼年期を再現するような老年期の最初の一歩? いやいや、食べて寝てウィルスをまずは追い出しておきたい。

 みなさま、あちこちで聞きますよ、この一カ月に及ぶ風邪。どうぞご自愛ください。

バンドエイド

北村周一

ジーンズと同色のシャツを着こなしてジョン・ケージ氏は大股である

ケージ氏は無類のキノコ好きなればたまに搬ばれて胃洗浄する

鼻みずが出たり引いたり哀しみのボレロ真白きマスク震わす

仁丹の粒をふふみしくちもとに譜面をよせて武満氏あり

ミニマルは打楽器がよろしなかんずくマリンバにわれ感情移入す

私に遮られない休息を教えみちびく秋の日あらん

アスハルト上に貼りつくいちまいのバンドエイドを跨ぎゆく足

世界一目立たないから中古車の白のカローラ、テロにも使う

水槽は人寄せやすく処方箋受付薬局の嵌殺し窓

球根はビニール袋を突き抜けて鋭しアラビアン・レッドの発芽

魂のぬけ殻でしょうか葉先より葉枯れせしこのアガパンサスは

眠剤の種類をかえてまたひとつ色の異なるゆめに繋がる

満月やじいとばあとがいい合える平屋の家の前のしずけさ

奏でるとは同時に曲を作ることだとグールドが語りつつ弾く

始まりと終わりがどこにあるかさえほほ笑みのなかJohn Cage氏の

180 Dark Country

藤井貞和

                   In the same inn
                   Prostitutes(遊女), too, staying –
                   bush clover and moon
                          Basho(Okunohosomichi)

The wandering blind women singers
left behind their songs,
songs that encircle our visible world.

In Takada(高田) in Joetsu(上越) near the Japan Sea
the trees climbed all at once by visionary children
the dark beyond the told legends
colder than chilled sak?—the human chests …

Out of luck, it’s raining,
but you can hear screams
from after the songs.

1’ve never been in this town before
but I feel at home already.
When I imagine how thousands
of pale faces must belying asleep,
you bear visionary children.

      ”Dark country?
      It’s right here, the north country.
      A dark night you have to go through.”

You move
down my belly
like words.

      ”This is a winter town.
      Ha-ha, I sell my spring body
      and your mara,
      your prick’s bent, Karl(curled)Marx!”

You play the way words do,
the way words …
But what are my words?
Now, my words, where are they?

Hearing the blind women’s frank songs,
a moment’s sensual vision.

(Translated by Christopher Drake. 1990. Pornographic poem—porno means prostitutes. 瞽女唄のチャリに応えて。「まだいろんなことができるでしょ」に励まされながら。)

長い足と平べったい胸のこと

植松眞人

 バスタブに身体を沈めて、じっと息をひそめているとリビングルームで誰かがお茶でも入れているのか、食器がカチャカチャとぶつかる音が微かに聞こえてきて、もうそれ以上静かにはできないのに、もっと静かにしなきゃと身体をこわばらせながら、浴室の灯りを消せばいいのかと思ったけれど、もし、それがママだとして真っ暗な浴室のドアを開けて、わたしが息をひそめてお湯に浸かっているところを見つけたほうがきっと驚いて、灯りがついていたとき以上に叱られるに決まっている。

 いやもうそれ以上に、リビングの椅子の背もたれにわたしはブラジャーやパンツを引っかけるように脱いできたので、それがママであろうとパパであろうと、いまごろお茶を淹れながら、わたしがお風呂に入っていることはもうわかっているはずだよね、とわたしはわたし自身と話すように声に出さずに話してみる。そして、そんな会話が成立するなら、自分だけのセルフテレパシーみたいだ!と一瞬大発見をしたような気分になったのだけれど、そう言えば同じように感じたことが以前にもあって、それは大嫌いな数学の授業中のことで、数学のアキモト先生が発言した何かに、わたしが一人ぶつぶつと小さな声で人知れず反論していた時のことだった。でも、それは隣の席の誰かから見れば、いわゆる独り言を言っている状況で、いやもしかしたら、もっとややこしい多重人格的な何かかもしれず、少し前に学校の授業中に逃げ込んだ保健室のヨネダ先生にそう言ったら、先生はついこないだ大学を卒業したばかりで、高校生のわたしたち女子から見ても、かわいいという声しか上がらないくらいの見るからに勝ち組の容貌からは考えられないほどにえぐみのある声で、「よっちゃん、それやったら、自分の中に何人の人格がおるか、わかるんか」と言うのだった。わたしは「何人かはわからんけど、けど、二人以上はおる気がします」と、ちょっとえぐみのある声にビビってしまって答えたのだけれど、ヨネダ先生は今度は要望通りのこちらが女子にもかかわらず惚れてしまうやろと言ってしまいそうになる声で、「ほな、一人目はどんな人?」と小首をかしげながら聞くのだった。わたしは「えっとえっと、そうやな。なんとなく、私の弱いとこを責めてくるタイプの嫌なやつやねん」と答えると、またまたヨネダ先生は「そいつは、どんなこと言いやんの?」と優しく聞いてきて、わたしはその優しい声に誘い出されるように、アホみたいな声で「お前は大学にも通らへんようなだめ人間や!とか言いよんねん」と答えると、先生は「ほなあれやろ、また別の人がよっちゃんの中で、うるさい、うちかて頑張ったら大学通るかもしれへんやないの!とか答えるんやろ」と言うので、わたしが「そうそう!」と答えると、ヨネダ先生はさっきまでの優しい顔がプロジェクションマッピングで投影されていた顔みたいに、一瞬にして真顔に戻って、声までエグいオッサンみたいな声になって、「それは多重人格とかやのうて、ただの鬱陶しいウジウジした人間や!」って怒鳴りはってわたしは、漫画みたいに「ひゃっ」みたいな自分でも聞いたことのないような声出して保健室から逃げてきたんやった。

 バスタブのお湯がなんとなく冷めてきたので、わたしは追い炊きのボタンを押してから、唇ギリギリまでお湯に浸かって、またまた耳をすましてじっとリビングの物音を聞いてみるのだけれど、もう何の音もしない。きっと、こんな時間にお風呂に入っている出来の悪い受験生の娘を優しい気持ちで放っておこうと思ったのだと納得はしたけれど、それはそれで一声かけて言ってもいいんじゃないのという気持ちは拭えない。拭えないけれど、もう誰にもじゃまされることがないなら、とそっち立ち上がって、真っ裸でバスタブから出て、浴室のドアをほんの少し開けて、手首から先だけを出して、灯りのスイッチを探り、パチンと消した。すると、二つあったスイッチを同時に消してしまったようで、浴室の中も脱衣場も一気に真っ暗になり、わたしは身動きができなくなって、慌てて、そのままの体勢でもう一度、スイッチを押して灯りをつけた。今度は、浴室の中の灯りだけがついた。真っ暗な中でお湯に浸かろうと考えていたので、わたしはさっきの反省を踏まえて、浴室の中の動線を確認した。狭い浴室だけれど、間違えて洗面器を踏んでしまったらひっくり返ってしまうかもしれない。いまの体勢から一歩あるけばバスタブに突き当たる。そして、その縁を手に持って用心深くバスタブに入れば問題はない。と納得して、私は自分の通り道を何度か目視で確認した。すると、洗い場につけられている鏡に目が入った。わたしの生っ白い裸が映っている。長い足が映っていたので、わたしはその足を少し曲げたり伸ばしたりしながら、自分の足の長さに見とれた。見とれながら足とは正反対にあまり見たくない平べったい胸が見えてしまい、大げさにため息を吐いてみた。わたしの胸は実は同級生のなかでも早めに大きくなった。小学校の五年生あたりで、ちょっと大きくなった胸は同級生たちの注目の的で、六年生になると同時に担任先生がママに電話をして、スポーツブラを付けさせるように言ったそうだ。ママは、まだ大丈夫、娘の身体は母親がいちばん解っていますから、と言ってやったと興奮していたけれど、改めて私の上半身を裸にして、まじまじと胸をみて、翌日の土曜日には近所のショッピングセンターにスポーツブラを買いに行ったのだった。そして、わたしはそんな事態を迎えて、不安と期待が入り交じっていて、このままわたしの胸が大きく大きくなったらどうしよう、巨乳とかになったら恥ずかしくて高橋くんの前に行けなくなったらどうしたらいいんだろうとか、思っていたのだけれど、そんな心配をよそに、わたしの胸は誰よりも速く大きくなり始め、、誰よりも速く大きくなるのをやめてしまい、それと同時くらいに背が伸びて手足が伸びて、胸の膨らみは身体全体の中のバランス的になかったことのようになり、山でいうたら天保山くらいの、虫刺されでいうたら蚊に刺されたくらいにしかならなかった。

 そんな平べったい胸がいま鏡に映っている。わたしは悔し紛れに、フフッとニヒルに笑ってもう一度、浴室の灯りを消してみた。真っ暗になった浴室になかで、さっきまで鏡に映っていたわたしの裸が残像のように残っているようだった。わたしは何度も確認した動線の通りにバスタブに浸かり、頭でザブンと潜ってみた。お湯が溢れて、ザーッと言う音が、くぐもってわたしの耳に伝わり、しばらくすると静かになった。しばらくの間、じっと目をつむってわたしはお湯の中にいた。そして、ゆっくりと息を吐きながら、少し前にパパとみた『地獄の黙示録』という昔の戦争映画の主人公が濁ったメコン川から顔をのぞかせるシーンを思い出しながら、ゆっくりと顔を出した。目を開けても灯りが消えた浴室は真っ暗で、それなのに、さっき残像として映っていたわたしの裸が見えた。細くて長い、生っ白い足と、なんだかゴワゴワと毛が生えたあそこと、そして、平べったい胸が順番にわたしにわたし自身のことを思い知らせるように迫ってきた。真っ暗な浴室のなかで、わたしは自分の細くて長い足とゴワゴワしたあそこと平べったい胸の残像をずっと見ていた。それを見ていると、なんだか最近、世の中にもの申したい気持ちいっぱいで暮らしていたのに、おい、お前なんてまだまだ子供で、まだまだ男か女かわからないくらいに弱々した存在じゃねえか、と言われているような気がして、急に心細くなってきてこのまま浴室の灯りもつくことはなく、わたしは誰にも見つけられないまま、ずっとここで過ごさなければいけないのかもしれない。どうしよう、どうしようと思っていると、身体まで湯冷めしてきて、わたしはわたしの裸の残像も消えてしまった真っ暗な浴室の中で、まるで親からはぐれた鹿かなにかの草食動物のように手探りで、小さく震えながら湯船をさぐり、ゆっくりとお湯に浸かった。ざあっと、お湯が流れる音がして、私はさらにゆっくりと湯船の中に肩まで浸かった。湯船の中のお湯は、さっき追い炊きしたおかげで、ちょうどいい加減だった。いつまでも入っていられそうなくらいに気持ちもいい温かさだった。(了)