しもた屋之噺(217)

杉山洋一

巷で「断捨離」という言葉をしばしば耳にするようになりました。特に物欲があるのでもなく、趣味らしい趣味もなく、不要物など捨てるよう常に心掛けていても、少しずつ家に物が増えてきました。ただ最近では、それは自分が音楽を生業にし、生きてゆく上で、過去から連綿と続いてきた時間の重さを、誰かがそれとなく教えてくれているようにも感じるようになってきました。

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1月某日 三軒茶屋自宅
元旦、珍しく家族揃って町田の実家で朝を迎えた。目が覚めると、子供の頃から使っていた黒漆の重箱と屠蘇器が食卓に用意されていて、息子がさも嫌そうに屠蘇を呷るのが愉快だ。そうして、揃って幼少から食べつけた大根のみの雑煮を食べる。
昔はこれに巾海苔をかけて食べたが、何時しか巾海苔も手に入り辛くなってしまった。この雑煮は元来網元だった湯河原の祖父の処で食べていた。

日は既に沈んでいたが、元旦の晩少し時間もあり、ちょうど湯河原を通りかかったので、思い切って家人と二人で祖父母の墓前に駆け付け、線香を焚き手を併せた。流石に店はどこも閉まっていて、仏花は買えなかった。
英潮院に届く吉浜の波音が心地よく、顔を上げれば満天の星が輝く。日暮れ後に墓参するものではないと言うが、何時でも出かけられるわけもなく、幼少から通い馴れた墓だからと許してもらう。尤も、家人が電灯を照らしていなければ、漆黒に月明りだけでは石階段の足元も覚束なかった。

1月某日 ミラノ自宅 
息子に付添ってノヴァラに出かけた際訪れた、分割主義(divisionismo)展覧会に強い衝撃を受けた。以前から興味があった社会派の画家モルベッリ(Angelo Morbelli 1853-1919)の、ミラノの回顧展に行きそびれたから足を運んだのが切っ掛けだったから、当初分割主義そのものには興味はなかったが、実際に眼前で彼らの作品を目にして、鳥肌が立つほど強く心を動かされた。

モルベッリの作品は、写真でしか見たことがなかったので、実物にこれだけ感動するとは想像していなかった。モルベッリだけではない。セガンティーニ (Giovanni Segantini 1858-1899)もロンゴ―ニ(Emilio Longoni 1859-1932)もフォルナ―ラ(Carlo Fornara1871-1968)も、写真からは到底想像できない筆致の瑞々しさと生命力に圧倒された。
ただ、写真と実物の印象がこれだけ乖離した体験は生まれて初めてで、すっかり当惑してしまった。実物を見て改めて写真で鑑賞しても、やはりさほどの感動は蘇らない。そこに興味を覚えて、数日後また息子を連立って展覧会へ赴くと、やはり実物に刻み込まれた筆致の一つ一つは、そのまま身体に響いてくるようである。

当世流行りの三次元絵画などより、手で書き込まれている分、妙に生々しい。以前から特に愛好していたボッチョーニ初期作が生まれる源を目の当たりにしているのだから、興奮せずにはいられない。
分割主義はスーラの点描画法に似て非なるもので、フランス新印象派の点描画と比較すると、そこには音楽、料理、言語、全てに共通する、近くて遠い伊仏文化の差異が明確に浮彫りになる。

女性の社会進出や識字率向上、貧富格差への社会批判など、分割主義の作家が好んだ主題もフランス印象派とは一線を画すが、何より印象派一般の風景が浮き上がるような効果と、分割主義者らの風景をカンバスに刻みこんでゆく効果は、ほんの少しゴッホを思い起こすところもあって、寧ろ反対の印象さえ受ける。今改めてイタリア印象派と呼ばれるマッキア派(macchiaioli)の作品を眺めれば、何か違った印象を持つかもしれない。

分割主義からは、イタリア統一運動に寄り添うヴェルディの触感はもちろん、蓬髪派(scapigliatura)に参加したクレモナ(Tranquillo Cremona 1837-1878)に端を発して、同じ蓬髪派だったボイトの世界観、ヴェリズモオペラの誕生に至るイタリア近代音楽史にまで思いを馳せることができる。
あれだけ丹念に一本ずつ書き連ねた光線に至っては、やはり写真では絡み取ることができないのだろう。

1月某日 ミラノ自宅
アルフォンソよりメッセージが届き、「天の火」のDVDが出来たと聞いて、少々愕いてしまった。
この曲はアルフォンソも親しかったフランコ・モンテヴェッキ(Franco Montevecchi1942-2014)が亡くなった折、彼と残された夫人のために書いたのだが、フランコは裕福な家庭の生まれで、音楽にも幼少から親しんでいた。彼の母親はピアニストだったから、家には旧いスタンウェイが残っていて、フランコ自身もピアノをよく弾いた。

そうして晩年までミラノとトリノの工科大の教壇に立ちバイオエンジニアリングを教えていたが、数年癌で闘病したのち亡くなったのは2014年だったから、もう五年が過ぎたことになる。彼とミーラ夫人は、工科大近くに大きな邸宅を構え、そこで演奏会も何度となく開いていたが、残されたミーラは自分には広すぎるからと、昨年暮れ近所の小さなアパートに引っ越した。

そうして以前の邸宅に残っていた家具の多くを、ちょうど昨日、ミーラや生徒に手伝ってもらい、拙宅に運びこんだところだった。だから、アルフォンソからの便りに吃驚したのだ。

どの家具も元来フランコの家から受継いだもので、ミーラとフランコに子供がいなかったので、拙宅へやってきた。
どれも1900年かそれ以前のものらしいが、詳細はわからない。ただ、現在の家具と違ってそれぞれ強く主張し、個性的な存在感を醸し出している。それらが置かれていた以前の家は、寧ろ実にモダンな造りで、地下室の天井も一面ガラス張りだったが、消防法に抵触するから、売却するため天井もすっかり造り替えられ、演奏会やレッスンに使った、光が差しこんでいた地下の広間は、夜のように真っ暗だった。

この家で、友人たちとアンサンブルを練習を始め、何度となく試演会を開き、友人を招いては少しずつ活動を広めていった。フランコは家人のピアノが好きで、何度も演奏会を開いてくれ、フランコは最後まで彼女のCDを喜んで聴いていた。
真っ暗の家を出る時、ミーラが「Ciao! Casa! サヨナラ!家さん!」と声を掛けていて、流石に胸に込み上げてくるものがあった。

この家具を受け入れる用意をするべく数日間家の整理をしていると、「坊ちゃんのご誕生おめでとう!!洋一くんが僕んちに来てたときのことを思うと、夢のようですね。お母さんになった方ともどもお大事にね。幸せを祈ります。僕は今夏ここで静養しています。軽井沢 三善晃GIAPPONE」という端書きが出てきた。懐かしく読み返していて、ふと気が付くと、その日がちょうど三善先生のお誕生日だった。

年始に荻窪のお宅に伺ったとき、由紀子さんが留学中に同宿していたルーマニア人に教わったというカリフラワー煮込みと、彼女のお父上のチェコ土産のシェリーグラスで、美味のシェリーを振舞って下さったのを思い出す。それどころか前回に等しく、先生が使い残した五線紙と、宗左近さんから贈られた古い蕎麦猪口二客迄いただき、甚だ恐縮する。

ほぼ酒もやらず骨董のコの字も分からない輩には、猫に何某、豚に何某だが、もう何年も肉も食べていないから、そこだけ先生に近づいたかもしれない。先生も滅多に肉は召し上がらなかったと、亡くなった後で由紀子さんが教えてくださった。頂いた端書きを、四客の猪口の下に飾る。

1月某日 ミラノ自宅
林原さんから借りたヘルゲルの「日本の弓術」は、実に含蓄に富む。日本文化をヨーロッパ人が理解するためには、かかる噛砕いた説明が必須であって、ならば逆もまた然りかもしれない。
ヘルゲルは我々と正反対の疑問に苦悩していて、合点がゆく部分もあり、不思議でもある。

自分と音の間に空間があって、そこに感情を込めると音は鳴らないし、輪郭も曖昧になる。クラシック音楽は、西欧の構造やその階層に則って構成されているためか、ほぼこの傾向にある。

我々日本人の特質として、一音入魂が生来備わっているのは、ヘルゲルから見ればどれほど羨ましかっただろう。無になること、無心になること、これは西洋的に考えれば、一音入魂してそこに同化している状態かもしれない。確かにその特質こそが邦楽の美学の礎となっている気もする。

そう考えれば、感情から発音された楽音では、全体を構造的に構築すべき西洋音楽には、表現手段として向かないのが理解できる。音一つ一つが意味を持ちすぎて、文章にならないともいえるし、一語一語が本来それぞれ繋がりたいと欲しても、完結した感情通し関連できないのかもしれない。

それとは別かもしれないが、日本人であろうとイタリア人であろうと、気持ちが先走って音がすくむとき、ちょっとした切っ掛けで視点が変わって、まるで頭にぽっかり第三の眼が開いたように耳が開くのは何故か。自分と音との間に感情の澱が淀んでいなければ、発音された空間の向こうで、気持ちは自然にすっと響きに入り込み、聴き手までそのまま飛んでゆく。

学生たちの耳の訓練も長く担当しているが、そこでは、音を耳で聴かずに、気楽に目で音を見るよう口を酸っぱくして教える。耳で聴いていると、集中するほどに、それは脳が自分に読み聞かせる音となり、現実と相容れなくなる。発音の前に気持ちで押し出すと、脳内の音に気持ちが籠るだけで、現実の音には反映されないのかも知れない。
余程馴れてない限り、楽譜に書かれていることを正しくやろうとすればするほど、音は表情を失ってゆく。正しい音楽など本来存在しない筈なのに、それを求めようとするからか。

人それぞれ話す言葉も使う語彙もイントネーションも違うが、最低限の文法規則は守って話しているのと同じで、音楽上の文法さえ間違えなければ、話す言葉はそれぞれ違ってよい筈だし、誰かの真似をしても、それは似非音楽に終わるだろう。我々素人が正しい日本語を話そうとすればするほど、自らの感情から乖離した、規則的な別の言語になってゆくはずだ。

西洋音楽上の文法とは、音楽を構成する各要素を、順番を間違えずに階層状に並べてゆくことではないか。一番下に構造があり、その上に和声があり、その上に旋律があり、フレーズがあり、強弱や音色などがその上にあるべく、バロック期から後期ロマン派まで、一貫してこのヒエラルキー構造を保持してきた。

例えば、構造上にそのまま強弱を載せれば、強弱に幅がなくなる。強いか弱いか、その程度の意味しか為さないので当然だろう。実際は構造と強弱の間には、さまざまな層が複雑に入り組んでいて、その上に強弱が載っているから、一つとして同じ弱音も強音もない。

一切の強弱の記号を排し、書かれた音を繰返し吟味した後で、その上に載せられた強弱と対峙すれば、より積極的に強弱記号と向き合うことができる。古典派のごく簡潔な指定にも、ウィーン後期ロマン派の一見不可思議な指定にも、同じ姿勢で向き合えるはずだ。第二次世界大戦とともに、かかるヒエラルキーは崩壊したとも言えるが、連綿と継承してきた音楽形態で演奏する上に於いて、本質的にあまり変わっていないようにも見える。

そのようにして楽譜を勉強した後、では自分がこの楽譜からどんな風景を、どんな色を、どんな匂いを感じ、表現したいと思うか。音符から頭が離れて、自分の世界を映し出した途端に、溢れるようにそれぞれの個の言葉を話し始める。それは本人にも他者から見ても不思議な光景で、何故かと問われても、何が起きているのか尋ねられてもよくわからないが、ともかく楽譜から音が解放される様は詳らかになる。

たとえば、先日もベートーヴェンの交響曲一番第一楽章の勉強を始めた二人の生徒に何を表現したいかと尋ねると、一人は自分が住んでいるヴェローナからミラノまで、18世紀風の汽車に乗りながら車窓に眺める風景(実際その時代未だ汽車は通っていなかったが)と言い、もう一人は、自分の住むノヴァラの市民を沢山載せた大きな現在の汽船が、河で火災を起こして人々が逃げ惑う姿だと言う。

因みにその彼曰く、二楽章は光景こそ浮かばないが、一面銀色か黄金色に耀いていると言うので、哀れなノヴァラ市民が昇天し後光が差す様なのか、と皆に大笑いされていた。ベートーヴェンの一番で、かような想像は普通は出来ないが、奇天烈であればあるほど、寧ろ強烈に身体に残像が残るのかもしれない。

国立音楽院で長くチェンバロを教えているルジェ―ロがレッスンに来たときは、モーツァルト「リンツ」第一楽章は、ミラノ南部の田舎をよく晴れた五月の週末に夫人と散歩する様で、第二楽章は夫人と夜半、静かに語らう様だと言ってから、これだけ持ち上げたのだから、夫人には大いに感謝してもらうと笑っていたが、その後で振った彼のモーツァルトは、音も深く、春の風景の光と匂いが漂ってくる実感を伴っていて、一同驚いたものだ。

実際内容はどうでもよいのだが、自分で何某具体的に想像し、口に出した後で演奏すると驚くほど音が変化する。別に自分が思い描いているものを他人に説明する必要もないし、常にそうすべきものとも思わないが、少なくとも楽譜の中に音楽はないと実感するのは無駄ではないだろう。指揮に関して、技術は本質的には意味がないのかもしれない。

(ミラノにて1月25日)

モロッコ

管啓次郎

いつ地中海をわたったのか気づかなかった
モロッコに着いてから海を見に行った
赤い空に緑の星が浮かんでいる
海を見ると別の海のことを思い出す
波が思考に通信を送りこんでくるのか
それでぼくらはカーボヴェルデの歌を聴きながら
ハワイ諸島の海辺のようすを語った
黄色い夕方が雨のように降って
灰色の海を記憶の狩り場にする
鷹匠を呼んできて小鳥たちに
この海は迂回してよと知らせなくてはならない
Aは力士のように大きなモロッコ男の外交官(詩人)
Zはリスボンで暮らすフランス語教師のブルガリア女(詩人)
出会って一時間にもならないのに
もうわれわれは詩をサッカー試合のように
熱烈に議論している
並んで磯に立ち、波を浴びそうになりながら
世界の背後にある詩を競馬のように予想している
言葉よりもイメージの破線を
直接波から借りられるなら
やがて三人で同時に呼びかけてみた
海よ、来い
波よ、来い
ここにはいない栄螺よ、のろのろとやって来い
ぼくらが声をそろえて「海!」というとき
その一語の背後に世界のさまざまな海がある
時空に隔てられた遠い海たちが
呼びかけられてたちまち集結する
緑色、ターコイズ、青色、群青色
それぞれの声がひらめや昆布や
プランクトンを率き連れてやってくる
水と水が記憶かお菓子のように
層をなして現われる
風の薔薇のように並んだ鰯をつまみながら
立ったままビールを飲んでいるのだ
いつでも駆け出せることを願いつつ
実際いつでも過去に戻ってゆけることを望んでいる
そんな心にとって過去と未来の区別はない
町(Rabat)に戻ると心が落ち着いた
ずんぐりした椰子の並木を歩いていると
ジャン・ジュネがずんぐりした坊主頭で
にっこり笑っている
「おれはその先のホテルに住んでいるんだよ
駅のそばの」
サインを下さいといいかかったが
死者にペンが持てるものだろうか
イメージでしかないのだ
肉体も存在もないし声もない
すぐ別れて看板を頼りに進んでゆく
アラビア語とフランス語ともうひとつ
知らない言葉の文字をときどき見かけている
意味も音もわからないのでそれは
ぼくには文字とはいえない
砂漠よりももっと遠い土地に住む
知らない民族の言葉らしかった
バス通りをわたると
旧市街地(Medina)に迷いこんだ
働いている遠い土地の民族の
背の高い女が頭よりもずっと高く手をあげて
その位置から見事にお茶を注いでくれた
サルト・アンヘルのような細い細い滝に
つかのまの虹が浮かぶ
野原のようにたくさんの葉が入っている
甘いミント茶を飲んで力をつけて歩いた
細い石畳の道がひんやりとつづき
あらゆる街路が二つに分岐してゆく
犬たちがいつのまにか集まってきて
何もいわずに後をついてくる
犬を集める檻をろばが牽いて行く
五百年前にもここを歩く他所者がいただろう
その誰かはあるいは中国語の
いずれかの方言を話したかもしれない
梵字が読めて
アラビア語のカリグラフィをよくしたかも
石造りの家はどこもしずかで
時間の水に沈んでいるみたいだ
五世紀前
「私」はまだいなかったが
「私」に連なる遺伝子はすでに誰かに乗っていた
何も覚えていないけれど
「私」の兆しはすでにあった
その先にある噴水の広場には
いまと変わらず立っていたことがあったかもしれない
私になる以前の私が曖昧な顔をして
そこは世界=歴史のメタフォリックな中心?
メタフォリックな中心に立つとき自分もまた
メタファーになる
何かを携えている
それを見ている自分はそこにいながら
遠心的に世界の縁をさまようことになる
ひとつの建物からウードの音が聞えてきたので
ついふらりと迷いこむ
すると意外にも友人たち(AとZ)が待っていて
ここで俳句を作れというのだ
反対する理由もない

 青い町 青インクで夜に 町を描け
 赤い村 赤土で顔を 鬼にせよ
 白い都市 暦の白に 迷いこめ
 黒い空 カラスの群れを 焚きつけろ

Aがにやりと笑う
それは俳句としてはどうかしら、とイッサがいう
「季語」はどこにある?
一茶ではないモロッコ人の彼の名は
アラビア語でイエス(キリスト)のことだが
俳句の知識はぼくよりもずっとたしかなのだ
ぼくは困って照れ笑いをするが
「照れ笑い」とは翻訳可能なのだろうかと
自信が持てない
俳句のためのイメージがなかなか訪れない
雨乞いでもしてみるか
音楽は進む
つい  “Não sou nada…” (私は何でもない)と苦し紛れにつぶやくと
Zがにっこり笑って “Fernando Pessoa” といった
それで救われた
“Nunca serei nada…” (私はけっして何にもならない)
もう夕方だ
記憶が間歇的になってくる時間だが
ペソアのこの言葉が甦ってきた

Não posso querer ser nada.  (私は何かになろうと欲することができない)
À parte isso, tenho em mim  (そのことを除けば、私のうちには)
Todos os sonhos do mundo.  (世界のすべての夢がある)

湖にみんなで行こうとハッサンがいう
ニッサンの車に乗ってしばらく走り
美しい夕方の光の中で
野鳥が集う湖畔を歩いた
そのときの充実はどこか田舎の
郵便局員以外には理解できないだろうな
空が赤く染まり緑の星が見えてくる
いつかはネクロポリス(死者の都)を訪れなくてはならないが
いまは歩きながら白夜の森を思い出している
まだしばらく歩行はつづく
自転車を押しながら歩いたあの道
湖での水切り遊び
凧揚げの思い出
夏の湖が夕方のように光っていた
魚が跳ねたと思ってふりむくと
亀が水面に落ちたらしかった
芭蕉の反復
別のかたちで
誰かがウードをつま弾き
それに答えるように琵琶の音もする
方丈に住んだ鴨長明が
出てきてくれたのだろうか
歌い交わすように
語り合うように
しばらくこの音色を響かせてくれ
この湖畔の光の中で

長い足と平べったい胸のこと(4)

植松眞人

 学校までの道は真っ直ぐで、右にも左にも曲がらずに続いている。二車線の車道があり、両脇に広めの舗道がある。銀杏の並木があって、今はまだ葉っぱが青い。わたしは青い銀杏の葉っぱが大好きで、時々立ち止まって見上げてしまうことがある。
 でもいまはセイシロウとアキちゃんへの苛立ちでガサガサとスニーカーの底を擦りながら歩いている。わたしはいつもスニーカーの底を擦って歩くクセがあり、そうならないように気をつけて歩いているのだが、いまはそんなことに頭がまわらず、学校に着くまでに穴が開いてしまうのではないかと思うほど、靴底を擦りながら歩いている。もしかしたら、右の足と左の足の長さが違うのかもしれない、とわたしが小さなころパパが言っているのを聞いたことがあるけれど、気をつけして立っている時にどちらかに傾いているという気持ちはしない。だからきっと、片側の靴底だけがどんどんすり減っていくのはわたしの歩く姿勢が悪いからだと思う。ずっと前にママが、世の中を斜めに見ているから、身体が斜めになって片方の靴底だけすり減ったりするんだと言っていたけれど、なんとなくそうかもしれない、と思ったりもする。
 だから、いつもは意識して、ほんの少しだけ身体を起こして歩くように気をつける。そうすると、靴底がアスファルトを擦る音が少しだけマシになるような気がする。そんなことを考えていると、ちょっと気持ちが落ち着いてきた。歩く速度を落として、身体を少し起こして、よし、今日これからのことに集中しようとした、その瞬間だった。後ろから、肩を掴まれた。驚いて振り返るとセイシロウだった。
 いつも学校で大人しくて、誰とも話さずぼんやりとして見えるセイシロウが、いまわたしの肩を意外に強い力で掴んでいる。そして、わたしはそのことにかなり驚いていて、さっきまでの腹立ちのようなものを急激に思い出している。セイシロウはそんなわたしをじっと見ている。
「なあ、なんで蹴るねん」
 セイシロウが口を開いた。
「腹が立ったからだよ」
 わたしが答えるとセイシロウは
「藤村はおれのことが好きやったのか」
 と驚き顔で言うのだった。
 わたしは、藤村のその言葉に驚いて声が出ず、ただ呆然としていたのだが、このままだとわたしが図星を指されて恥ずかしくて声も出ないということになってしまう、と焦って、もう一度、藤村の足を思いっきり蹴り上げた。
 藤村はわりと大きな声を出して、私の肩から手を離すと大げさなぐらいに身体をくねらせて倒れた。わたしは、倒れたセイシロウの脇に立って、「誰がお前のことが好きやねん。むしろキショイ。むしろ吐きそう」
 そう言うと、わたしが再び黙って歩き出し、学校へと向かった。すると、後ろでアキちゃんが呼ぶ声がした。
「よっちゃん、ちょっとこいつ締めなあかん」とドスのきいた声で言う。私が振り返ると、アキちゃんは倒れているセイシロウの上にまたがっているのだった。
 不思議なもので、誰かがとんでもないことをしていると、さっきまでの腹立ちが霧散してアキちゃんを止めなければという気持ちになり、わたしは二人のところへと引き返した。
アキちゃんの加勢に戻ってきたと思ったのか、セイシロウが「なんや!」と叫びながら身体を起こした。そのタイミングでアキちゃんがひっくり返った。ひっくり返ったアキちゃんの身体につまずき、わたしは二人の身体を覆うようにうつ伏せに倒れた。わたしたちは三人で片仮名の「キ」という字を書いているように銀杏並木の端っこでしばらく倒れたままになっていた。
 同級生たちはそんな私たちが見えないかのように、うまく避けながら学校へと歩いていった。(つづく)

茹でじらす

北村周一

赤児なりし祖父を抱き上げくれしひと

 男次郎長歌詞に知るのみ

やさしかりし祖父の名を持つシラス舟

 熊吉丸は清水のみなと

海を背に網繕える祖父にして

 かえし来す笑み日焼けしてあり

日酒ちびりちびりとやるは老い人の

 特権にして漁師の午後は

茹で上がりし笊のしらすを簾のうえに

 開けてほころぶおみならの声

うで立てのしらすを口に撮みつまみ

 干しゆく甘きこの茹でじらす

一合の量り升からこぼれたがる

 茹でじらすそをお口へはこぶ

三保沖にシラスを掬いそを茹でて

 日々のくらしは海に賄う

漁終えてガラス徳利一合の

 酒をくきくきのみ干すこころ

羽衣の松はいつしか銭湯の

 極楽絵図となりて名を成す

カラフルな釣り具のわきに釣り師いて

 寡黙なり雨の江尻埠頭に

雨上がりみどり滴る山並みは

 かくも真近し港より見る

この町から抜け落ちてゆくさまざまの

 おもい閉ざしてシャッター開かず

はつなつの三保沖、江尻、生じらす

 月夜の晩に従姉をさそう

茹でじらす晩夏ほろ酔いゆうぐれは

 袖師、横砂、かぜふくままに

183 手紙二題

藤井貞和

若松英輔編『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房)を、私も求めました。
立川へ出て、ジュンク堂(書店)で装丁に引かれて手にすると、新編志樹詩集でした。
木村哲也『来者の群像—大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』では、(編集室水平線の、
ホームページによると)志樹さんが故人だったため、取材が叶わず、言及も、
わずかなものになったとのことです。 若松さんは解説で、

  神さまへ
  妻へ 友人へ 野の花へ
  空の雲へ
  庭の草木へ そよ風へ
  へやに留守をしている オモチャの子犬へ
  山へ 海へ
  医師や 看護婦さんへ
  名も知らぬ人へ
  小石へ     (「てがみ」より)

を引いて、明恵の手紙である「嶋殿へ」を思い合わせています。
嶋へ、そして嶋の大桜へ、明恵は呼びかけて手紙をしたためます。
込山志保子さん作成の年譜も、志樹を支える家族や仲間たちにふれて、
心を打つ労作でした。 古書ですが、
思想の科学研究会編『民衆の座』(河出新書、昭和30年)では、
志樹が「病人——西木延作の生活と思想——」という一文を寄せています。

(明恵の友達の義覚坊という人の詠歌は不思議なリズムで、「ウレシサノ アヲフチ(青淵)ニ シヅミヌル ウカブコトゾ カナシカル」という、およそ短歌のリズムから外れており、同道して上京することが、嬉しいのか、悲しいのか、青淵とは何だろう、岩波文庫『明恵上人集』の注には語調が整っていないが、欠脱によるものでなく、本来この形であったか、とある。不可解な「かりごろもこずゑも散らぬ山かげに ながめわぶる秋の夜の月」(これも破調)について、義覚坊じしんの解答に、「かりごろも」は雲のことで、月が着ているのだという。「こずゑ」は雲のね(峰あるいは根)で、雲の先に円座ばかりの雲があるのをいう。「山かげ」も曇れるを言うと。ようするにぜんぶ、雲という次第。一つ一ついわれがあるので、けっしていい加減に作る歌ではないという主張である。「嶋殿へ」のエピソードは『栂尾明恵上人伝記』上に見える。)

揺れる目盛り

高橋悠治

音階理論の前に音階がある 理論ができると 音階はこわばり 自由なうごきの足枷になる

音階理論の前に音程理論があった octachord の前に tetrachord や pentachord 8度周期の枠より もっとちいさい4度枠や5度枠からはじめれば メロディーの線ははるかに自由になる ミャンマーには trichord の枠もある それらの組み合わせだけでなく それらの転換 ベトナムの音楽学者 Tran Van Khe が metabole と名づけたはたらき この変形として 小泉文夫のテトラコルド理論 その洗練と一般化である柴田南雄の「骸骨図」 それとは別に クセナキスのアリストクセノスと中世ビザンティン音程理論や記譜法から抽象化した「篩の理論」など 領域と固定音と浮動音の区別による音楽分析理論があるが 近代啓蒙主義科学から すくなくとも18-20世紀の人間中心の論理ではない展望をひらけるのか 

デリダの本でタルムードの体裁をしたものがあった 何というタイトルだったか 中心にテクストがあり 注釈が四方から取り囲む タルムードでは 中心のテクスト自体も 口伝律法の注釈で その口伝は 神のことばを 人間が聴きとったとされる律法の注釈とすれば だれでもないものの ことばでないことばを 耳から口へ 口から手へと移し(/映し/写し)ているうちに浮かび上がる さわり かんじ タマネギの皮を剥いていくように はがしとり けずりとり ちいさく 閉じていく と そのなかに 最後に残るのも やはり皮にすぎなかった それはことばにさえならない ひびきのない 音でもなく 動きでもない ふるえ ゆらぎ のような かすかななにか

中心もなく 周囲もないことば 意味を別な意味で消し 色に別な色を溶かし込み 響きを別な響きの余韻でぼかす 線は曲がり くねり 反り 面から離れてとぎれても その先に着地する 目盛りの針は止まらない 付かず離れず 良い加減の 連綿

壁ではなく膜 張らず ゆるく 寛く 薄く 透けて通(透)す 染み染まり にじみ 漏れる 薄明かり おぼろげおぼろに 仄めきも仄かに 影は翳り ……

2020年1月1日(水)

水牛だより

あけましておめでとうございます。
ことしも水牛をどうぞよろしく!
東京は明るく晴れて、冬の日らしい寒さの元旦です。

「水牛のように」を2020年1月1日号に更新しました。
ことしはねずみの年。「ネズミのいる生活」は富岡三智さんだけでなく、わたしもたくさん経験しています。少し前までは東京でもネズミはふつうに家に住み着いていました。物置の隅や屋根裏に住んでいる彼らは夜になって人間が寝静まると、人間の居住区域に出てきて、食べ物をあさるのでした。朝になって、固形石鹸を齧ったあとを見つけたときには、石鹸を食べたらおなかのなかが泡だらけになるのに、と子供ごころに心配になったものです。屋根裏を忙しそうに走る足音も、そういうものとして、こわいとも思わない暮らしでした。

一年が暮れていき、新しい年を迎える時期には、過ぎた一年をふりかえって、いろんなできごとがあったと少し感慨にふけってみたりしますが、日々というものはすきまなくつながって単純に過ぎてゆくものだと思い直します。スヌーピー曰く「だれにでも未解決の問題はあるもんだよ!}

それではまた!(八巻美恵)

新年

管啓次郎

深夜に誰もいない道を歩いていると
新年がやってきた
新月のように暗い夜に無音の花火が上がり
風車がくるくると回り出す
小人たちの一群が釣竿と猟銃をかついで
がやがやと歩いてくる
中心にいるのは新年だ
ぼんやりと発光しているのでそれとわかる
いったいどこに行くんですか
きみも来ればわかるよといわれて
後についてゆくことにした
歌をうたうわけでもないのに
心がうきうきしている
何の声も出さないのに
にぎやかな集団だ
シャッターの降りた商店街をすぎ
夜通し仕事をしている新聞店をすぎ
小学校をすぎ信者のいない寺院をすぎて
河原の空き地にやってきた
ここで魔物と対決するんだよと
裸足で歩く小人のひとりが耳打ちしてくれた
見ると大きな黒い影が
ゆらゆらと体をゆらしている
実体があるかどうかわからないが
妙に存在感の強いやつだ
新年はそれに比べるとずっと小さくて
光も頼りないほど弱いのだ
ぼんやりして見える
心配しないで私には勇気がある
という声が響いて新年が女だということがわかった
名前はヌヴェラン
やさしいヌヴェラン
冷たい風が吹き辺りは
カンザスのように荒涼としている
小人たちは思い思いに釣竿を
鞭のように鳴らしたり
猟銃をかまえたりしている
牛乳売りがガラス壜をかたかたと鳴らしながら
荷台が前にある自転車で通っていった
人魂のようなドローンがいくつか旋回して
どうやらこの場面を世界に
同時中継しているようだ
夜の川ではときどき水音がする
この水系だけに住むカワウソが
不眠にまかせて夜通し遊んでいるのか
ぼくは不安と好奇心のはざまで
やじろべえのように揺れている
すると対決がはじまった
黒い影は邪悪な魔
姿を変えつつこの世を不幸にする
腐った魚のような臭いを放ち
風にさからって空気をよどませる
愛想がよく言葉が巧みだ
といっても音声なく直接に
人の心に偽の映像を送りこむので
人々は誘惑され影のいいなりになる
動物たちはまったくだまされない
小人たちが釣竿を振り空気を切って
目を覚ませ目を覚ませという
猟銃に弾をこめいつでも
空を撃てるようにしている
だが影は邪悪なやつらを意のままに使うのだ
利権まみれの政治屋や自信にみちた教師たち
その手先になる卑劣なギャングや無自覚な優等生たち
すべて嘘で固めたニンゲンたち
でも犬猫はだまされないので
いつのまにかそこに集まって観客となっている
ごろごろにゃーん、おわあおわあ
ばうわうわう、あいおーん
喧噪の中で突然戦いがはじまった
影が新年をおさえこむ
もがく新年がひどく苦しそうな顔をする
(彼女に顔はないのにそれがわかる)
影は姿を変え彼女の足をつかんで
逆さにして吊り上げ遠くへ投げようとする
新年の光が急激に弱くなる
見ているこっちは心臓がつかまれる思いだ
すると夜の中ではその金色の目しか見えない
黒猫ばあちゃんが怒りの鳴き声をあげた
世界各地の雷鳴を合計したような
驚くべき音量だ
(アイスランドにエチオピア高原
雲南省にパタゴニア
金沢に奄美大島など)
それに答えて夜の鳥たちが
瞬時のうちに集まってきた
夜カラス、夜タカ、夜鳴きウグイスが渦巻く
そしてすべてを知るフクロウが
あの昼間は眠い目を大きく見開いて
アラビアの科学者のように
影の急所を鳥たちに指示する
一陣の風が吹き起こり
ぐるぐると竜のように巻く
勇気を得た新年が閃光を飛ばす
夜空が一瞬、美しい青に染まる
音にならない悲鳴を上げて
影はひときわひどい臭気を放ち
そのままちりぢりになったようだ
鳥たちに助けられた新年は
しっかりまとまった光となって
地上10メートルくらいのところに浮かんでいる
それから彼女はしんと冷えた
美しい声で
集まったものたちにこう告げる
みなさん、今夜はありがとう
これから夜明けがやってきます
みんなで恐れることなく入ってゆきましょう
誰もが生きられる新しい年へ
犬猫の群衆が
にぎやかな鳴き声で答える
鳥たちもそれぞれの言葉で
歓声をあげる
小人たちはよろこんで釣竿を鳴らし
空に鉄砲を撃って祝祭のようにする
すると小人(さっきの、裸足の)が
ぼくにささやくのだ
「でもね、影が散るのは
ほんの一時のこと、あいつは
必ず帰ってくる、臭い息をして
新年の戦いは今夜だけのことじゃない
いつもまた新しくくりかえされる
おれだってもう
三百年くらいつきあってるよ」
そういって小人はキャラメルをくれた
それからまもなく朝が来て
みんな新しい年の中に帰っていった

ネズミのいる生活

冨岡三智

今年は子年というわけで、今月はネズミとの思い出をあれこれ語ってみよう。

●留学前の日本での話~
ある夜、風呂上がりのあと台所で本を読んでいたら、オーブンの下からすぐ近くの棚の下に何かが走った気配がする。直接姿を見ていないが、これはネズミだなと直感。しばらくすると、もう少し距離が離れたコーナーの物陰に走る影。またしばらくすると、今度は素早く移動せず、様子を伺いながら出てくる。果たしてネズミだ。物陰でない所にまで出て来たから、私の存在にはまだ気づいてなさそうである。このまま悟られなかったら私の勝ち…と勝負を挑む気になり、私は息をひそめ、視線は床に落とさず、気配を消した。…ネズミは物陰のない所を横断して、私のいる食卓の方に近づいて来た。が、まだ私に気づかない。…私は木になりきろうとする。…私の足元の近くまで来た。…私は緊張感を出さないように気をつける。…が、ここでネズミがいきなり私の足の甲に上ってきた!しばらく我慢したものの、ついに足が浮いてしまった。当然、ネズミの方も驚いてオーブンの下に一直線に逃げ込んでしまった!(実は食卓はオーブンの近く)ネズミにとっては、私の足は小山にしか見えなかったのかもしれないが、いくら何でも足に上った時点で気づきそうなものだ。私の気配の消し方がうまかったというより、あのネズミの方が鈍感だったように思えてならない。

●ジャワの話
最初の留学時に住んだ家には、二階の物干し場に上がる階段の中にネズミが住んでいた。何匹かいたかもしれないが、私が目にする時はいつも1匹だけだった。この家ではその階段がある家事部屋が一番奥で、次に水浴場と水屋があり、次に寝室があり、一番手前が客間になっていた。入居当初はネズミも警戒心が強くて家事部屋でもなかなか目にすることもなかったのに、いつの間にか水浴場に、さらに寝室に進出してくるようになった。とはいえ、私が気づくと猛ダッシュで階段の方に駆け戻る。私は家にいるときは客間で舞踊の練習をしていることが多かったが、そのうち寝室との境(ドアはついてない)の所にまで来る気配がするようになった。その頃には、私がネズミを目撃しても昔ほど速攻でダッシュせずに一呼吸おいて逃げ出したり、ダッシュしても途中で一瞬立ち止まってこちらを振り返ったりするようになっていた。

そんなある日、私は男踊りの練習に疲れて床に腰を下ろしていた。腰の両脇に垂らしたサンプールという布はつけたまま、無造作に後ろに払っていた。壁にもたれてお茶を飲みながらぼーっとすることしばし…、さて練習を再開しようとサンプールを見ると、なんとサンプールの上にネズミが後ろ座りに座っている!目と目が合い、お互いにフリーズしてしまった。とは言え、ネズミの方が一瞬早く我に戻り、ダッシュで逃げ出す。普段はネズミの気配が分かるのに、しかも私が身に着けている布の上に座られているのに、全然気づかなかったのが不思議だ。それにしても、なぜサンプールの上に座ろうと思ったのだろう…。

このネズミは一度水浴び場の水溜めに落ちたことがある。夜中に私が机に向かっていると、水浴び場から急にパーンと物が飛ぶ音が聞こえた。さてはポルスターガイストか!?と気味が悪くなりつつ水浴び場に行くと、水溜めからパシャパシャ水音がする。見ればネズミが足掻いていて、私の顔を見るやキーキーと声を出して必死に鳴く。横に水浴び用のプラスチックの手桶が転がっている。さては、ネズミがこの手桶に飛び乗ったところ、手桶がひっくり返ってネズミが水溜にはまり、その反動で手桶は宙に舞って床に音を立てて落ちたのだろう…。トム&ジェリーみたいな状況だが、それしか考えられない。それはともかく、手桶を横にして水面に平行にネズミの方に近づけて掬い上げ、床に放してやると、いつもほどに機敏でないが階段の方に戻っていった。

この家のネズミには他にもいろいろと思い出があるのだが、どうも私を警戒しつつも存在には気づいてほしくて距離を縮めてきたような気配があった。家ネズミは2年以上生きることもあるそうだから、同一のネズミだったのではないかなと思っている。日本の我が家にいたネズミもそうだが、はしこい割には間抜けなところがあって、そこが愛嬌のあるところかもしれない。

182 天の紙と風の筆

藤井貞和

天の紙に、風の筆で、雲間の鶴をえがくこと!
山という機織り機械に、霜の杼(ひ)をかけて、
もみじの錦を織ること! ああ自由に、
詩文をあやつることができるのならば!
金色のカラスは西の宿舎に臨もうとする、
つづみの音がはかない命をせき立てる、
よみじには客も主人もいない、たった独りで、
この夕べ、家を離れて向かう

(鮎川信夫が終戦時に立てこもったという福井県境の土蔵を見に行ってきました。「鮎川さーん」と声をかけたのですが、返辞はありませんでした。この年、『戦中手記』を書いていた鮎川です。十数メートルに及ぶ巻紙にぎっしりと書き込まれたその手記を、横浜の近代文学館で見たことがあります。足が竦みました。国家もなくなり、歴史もなくなり、荒地すらなくなったこの国への、辞世みたいな手記。上の「天の紙……」は大津皇子の辞世の漢詩でした。)

裏切りとコンプライアンス

さとうまき

人生は裏切りの連続だ。

12月4日には、ペシャワール会の中村哲さんがアフガンで凶弾に倒れたというニュースが舞い込む。今まで、同業者が殺されると、ショックを受けて落ち込んだりした。でも中村哲さんの訃報を聞いたとき、「ああ、志を果たされて天国に召されるのだろう」という思いしかなかった。正直うらやましかった。

知り合いが、彼が残した言葉をいくつか拾ってFBに乗せてくれた。その中で心に響いた2つがある。

「誰かに裏切られたと思っても、すべてを憎まないことが大切。その部分だけではなく、良い面もあると信じて、クヨクヨしないということが何よりも大切」

人は簡単に裏切るものだ。イラクやシリアに入っていった人達はフィクサーに裏切られて、殺されていった。多分、中村哲さんの場合も内通者がいたのだろう。多分、お金をちらつかせると人は簡単に裏切る。僕も、イラクやシリアに入るときには、信頼のおけるローカルスタッフにすべてを任せるって豪語していたが、イエス・キリストだって弟子のユダに裏切られたのだ。資本主義と拝金主義がはびこる日本。最もビジネスの世界では、裏切りではなく、それも競争でしかないのかもしれない。

2番目。

「ちょっと悪いことをした人がいても、それを罰しては駄目。それを見逃して、信じる。罰する以外の解決方法があると考え抜いて、諦めないことが大切。決めつけない『素直な心』を持とう」と哲さんが言っていたそうだ。

ちょうど、62歳の学校の教諭が廃棄処分になるパンを4年間持ち帰って家で食べていたことが発覚して懲戒処分、依願退職させられたニュース。6月に、「ルール違反ではないか」と匿名の通報があり発覚したらしい。

パン約1000個、牛乳4200本分として31万円を市に返金し12月25日のクリスマスに依願退職したそうだ。弁護士によると、「微妙な窃盗にあたる」らしい。確かにルールはルールなのだが、イエスがわざわいだといったパリサイ人のような人たちがコンプライアンスを掲げている。インターネットの時代なのに、イエスの時代にさかのぼったような寓話だ。

というわけで2019年は終わりを告げて、2020年という忙しそうな年がやってきた。なんといってもオリンピックだが、戦後75年に日本でオリンピックをやるからにはそれらしきものを世界に発信してほしい。

鶴見俊輔(晩年通信 その6)

室謙二

 私は二十一歳だった。精一杯の背伸びをしていたのである。
 私は知的な人間であると思っていた。タダたくさんの本を読んだだけのことであったが。神田神保町の書店街が私の書庫であって、どの書店のどの棚になんの本があるか記憶していた。自宅から都電に乗って神保町でおりて、書店を回って私の本を棚からとって読めばいい。
 頭を振ってみると、活字が頭の中でガラガラと鳴ったのである。
 そして鶴見俊輔に会ってみたいと思った。
 片桐ユズルは、私の父親が自宅で主催する、意味論と英語教授法の研究会に参加していて、同時に思想の科学の記号の会にも参加していた。ユズルから、記号の会の鶴見俊輔のことを聞いていたし、すでに俊輔の本を読んでいた。

 なんで会ってみたかったのか? 自分の中に危機があったからである。
 それは特別な危機のように思えたが、いまから思えば単なる青年期の危機である。そして話に聞く鶴見俊輔は、私のその危機を、繰り返せば私はそれは特別の危機だと思っていたのだが、助けてくれると思ったのだろう。それで会いにいった。五十年以上前のことである。
 ずっとあとになって、津野海太郎が鶴見俊輔を紹介してくれ、というので会わせたら、帰り道に津野さんが「人間離れした頭脳だ」と言った。不思議な表現だったがあたっている。最初に気がつくのはすさまじい記憶力で、つぎに気がつくのは、遠く離れたものを結びつける想像力である。
 最初のころは、鶴見さんが何を言っているのか分からない。私が精一杯背伸びをして発言すると、はっはっはっ、おもしろい。ムロさんの言った、何々となになにの関係なんか、ユニークな指摘ですよ。と言われても、へー、私はそんなことを言ったのかと思う。俊輔は私には面白い人であった。大インテリをつかまえて面白い人と評するのは失礼かもしれないが、実際ワクワクするぐらい楽しい。だけどわからない。
 当時、記号の会は折口信夫(釈迢空)を読んでいた。
 折口もよくわからない。でもそこで上野博正に会った。上野さんは江戸っ子であって、産婦人科医にして飲み屋を経営して、新内をうたうということだった。何回目の記号の会のあとに、みんなで浅草に行こうということになった。それまで浅草なんかに行ったことがない。東京山の手の少年だったのです。

 縁でこそあれ末かけて

 上野博正が案内して、たしか一階がお好み焼き屋だったような気がするけど、そこの女将に、ちょっと二階を借りるよと気安く言ってあがっていく。それについて、俊輔さんも私も上がっていく。そして、なんとかサンをすぐに呼んでよ、と上野さんは言って畳に座って待っている。新内の仲間だそうだ。
 現れたのは三味線を持った若い芸子さんで、彼女がちょっと三味線の調子をあわせる。それから上野さんが、頭のてっぺんから出すような声で、体をよじりながら、「縁でこそあれ末かけて、約束固め身を固め、世帯固めて落ち着いて、ああ嬉しやと思うたば、ほんに一日あらばこそ」と歌い出したときは、私はぶったまげてしまった。まずその声の出し方である。生まれてはじめて、新内というものを聞いたのである。これはあとで調べると、心中の話なんだな。五十年以上まえのことだが、このシーンをはっきりと覚えている。
 鶴見さんは大喜びで、例のワッハッハである。私は二重に驚いた。上野さんの、からだをよじって出すおんなの声色の新内と、鶴見さんの態度にである。ハーバード大学で哲学を学んだインテリが、こんなものに大喜びするとは。インテリというのは、こういうものを否定すると思っていたのである。
 私の両親はともに大正デモクラシーの時代に青春と大学を経験していて、家族に反発して駆け落ち同然に大阪から東京に走り、家族制度に反対して反封建主義であった。特に戦争中の軍部の日本主義の利用を経験したあとでは、アメリカ輸入のデモクラシーからではなく、自分たちの経験から封建主義に反対することと、見合い結婚に反対することに徹底していた。特に母親がそうである。古い日本文化の否定である。
 新内なんかとんでもない。私の経験から、インテリというものは日本の古い文化を否定するものだと思っていた。ところが俊輔は、ワッハッハの大喜びなのである。インテリがこういうものを喜んでいいのかなあ?

 また別の記号の会のあとに、参加者で小さな神社を訪ねたことがあった。私はそれまで神社仏閣に入ったことがなかった。自宅には神棚も仏壇もなかった。両親は戦争協力をした既成の仏教も神道も信用せずに否定していた。ずっとあとになって、大学を定年退職してから、父親は親鸞に従う仏教徒になった。もっとも戦争責任のある既成の仏教を信用しないので、お寺にはいかない。僧侶にも会わない。亡くなる前に手書きの遺書を書いて、私は仏教徒なので、私の死を日本の僧侶と寺に触らせるな、とのことだった。
 母親も神社に出入りしない。近くに靖国神社があって、あるとき母親は「あそこに弟たちが祀られているのよ」と言ったが、絶対に入らないのである。神道が弟たちを殺したと思っていたのである。それで私も神社仏閣に、二十歳をすぎても入ったことがなかった。そんなところに入るのは、両親に対する裏切りである。
 ところが俊輔さんは、さっさと神社に入って、紐を引っ張って鈴を鳴らし、賽銭をなげいてれ、お辞儀をして柏手を打った。私は立ち止まって、呆然とそれを見ていた。
 俊輔さんは振り返ると、即座に私の状態を理解して、そのへんは素晴らしい洞察力なんだな、ムロさんお金はこう投げ入れて、鈴をこう鳴らして柏手はこうする、と投げ入れるお金もわたしてくれた。リベラルなインテリがこんなことをしてもいいのか、と思ったが、鶴見俊輔を尊敬していたので、真似をした。こうやって私ははじめて神社の境内に入り、日本人みたいなことをしたのである。

 俊輔は生きている、ということにした

 俊輔が亡くなったのを知ったのは、孫たちといっしょのカリフォルニアの山奥のキャンプ地であった。そこでは朝の一時間だけ、オフィスでWiFi経由のインターネットが使える。ポケットにiPhoneを入れてオフィスの前を通ったら、iPhoneが自動的にWiFiにつながって、俊輔が亡くなったというニュースを受け取った。私がそれを読みながら暗い坂道を上っていくと、突然に鹿が近寄ってきた。
 次の日になっても、鶴見俊輔が死んだという気がしない。
 それで俊輔のお気に入りだったNancyに、俊輔が死んだという気がしないんだ、と言ったら、だったら「俊輔は生きているということにしたらいいじゃない」と言われた。
 だから俊輔は、まだ生きているのである。

しもた屋之噺(216)

杉山洋一

大晦日の東京の夕日は久しく見られなかったようなうつくしいものでした。一面が暗い赤に染まり、吹きすさぶ冷たい風で空気がすっかり浄化されて、澄み切った風景の奥で、山々の黒いシルエットが鮮やかに凛と浮き立つさまは、実に清々しいものでした。

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12月某日 ミラノ自宅
忙しい日本からイタリアに戻り、日がな一日イタリアの学生を教えていると、心が落着く。祖父から教会つきオルガン職を引継ぎ3代目のフェデリコと話す。同じレパートリーばかり同じ要領で即興し続ける生活に嫌気がさして、フェデリコは作曲を学びはじめた。

彼曰く、得てしてオルガニストは神父とは仲が悪く、信心深くもならないと言う。神父は押しなべて吝嗇だと殊更に強調するのは、相場はミサ一つ担当して25ユーロにしかならず、領収書も契約書も神父から発行されない不法就労も多いそうだ。この条件では、教会を複数掛け持ちしてどんなに稼いでも一か月750ユーロ、9万円強にしかならず、それでは食べられないので、兼業を余儀なくされる状況は、ドイツやイギリスとはまるで違って酷いと嘆く。その上、聖歌はプロテスタントの讃美歌を流用し、最近はオルガンを使用せず、ギター伴奏も多いそうだ。アメリカンスタイル。

葬儀ミサは殆ど形態に変化がないので神父と折合いがつくが、結婚ミサは、しばしば神父と揉める。宗教と無関係の曲の演奏リクエストが多く、神父が反対するらしい。

日曜ミサを無理に一日に4回5回と入れて、合唱リハーサルを一週間のどこかで1回やって、一週間の給金は50ユーロ程度にしかならない。それも税金に申告できない不法就労だったりするから、とてもじゃないが、と嘆息を漏らす。

因みに、オルガンの稽古は真夜中に一人教会を開けて行うそうで、彫像やら壁や床に犇めく聖人や有力者たちの墓の犇めくなか、恐いと思ったりした経験はないらしい。Studiare con spirito! 気持ちを高めて練習するんだ、と笑うのは、spiritoとは伊語では亡霊の意味にもなるから。

亡霊と一緒に勉強する、というと、気持ちを新鮮に保って、みたいな意味に使われる。

彼曰く、葬儀ミサは大歓迎で、段取りも単純で短いし、棺から亡骸が見えることもなく、特に死者を意識することもないという。何しろオルガニストの演奏場所は、通常参列者よりずっと高いところにある。ともかく、信心深いオルガン奏者などいるわけがない、とフェデリコが力説するのは愉快だった。

12月某日 ミラノ自宅
高校からの友人、年森宅を訪れて、彼女が携わっている音楽療法のヴィデオを見せてもらう。グランドピアノに癲癇の少女をのせて、二人で即興劇をやる。学校でもどこでも、突然癲癇のショックに襲われて記憶が抜け落ちる。先生からも友達からも彼女は「特別だから」と扱われているが、それが彼女の自信喪失に繋がる。小さな犬のぬいぐるみは、彼女の分身。この犬は「わたしは特別なんかじゃないの、わたしは特別なんかじゃないの」と即興で節をつけて繰返している。

昨日は東京で大石君と辻さんの新作本番だった。2回程練習の録音を聴かせていただいたが、二人ともそれぞれの世界が実に豊かで、作曲者が口を挟むこともあまりない。本番の演奏を聞いた垣ケ原さんより便りが届く。歌舞伎の冬をおもわせる和太鼓からはじまり、春夏をすぎ、最後は「奥山に紅葉ふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき」を想起したとのこと。演奏家も聴衆も、作曲者よりよほど感受性が豊かかもしれないし、演奏者の感受性が聴衆を直接感化することもあるだろう。

12月某日 ミラノ自宅
スタンザの譜割りをしてから昔の録音を聴くと、楽譜と多少違う部分もある。これは武満さんが望んだのかもしれないし、単に演奏が困難だったのかもしれない。実際演奏を聴いて作曲者が変更することも普通にあるし、曲者の趣味そのものも時間とともに変化してゆく。作曲時の演奏を蘇らせるのは、試みとして意義もあるし興味深いが、実際はその作家の人生の、ほんの一部分のみを切出すことになる。勿論それが悪いというのではないのは言うまでもないし、演奏の質とは無関係だ。

先日の京ちゃんの新作でも、fpとsfの表示でアタックについて、二人で意見が割れた。fpのfは発音の固くないsfに近いのでは、というと意外な顔をされた。イタリア語話者の演奏家なら、sfと書かれていれば、このsfはどの意味かとしばしば確認する。Sforzareは強調の意味だから、fpにはならない。全体の強弱がpの部分に、sfと書かれていれば、イタリア語としては、全体的にpの部分で、sfはpのなかで強調されるべき音、という意味になるが、音楽用語の慣用表現として、fpに近い表現を求める作曲家もいるだろう。つまり、何を強調するのか、演奏家の間で、意味を統一させる必要がある。尤も、相手がイタリア語話者でなければ、このニュアンスはわからないので、自動的にfpと同義と理解されるだろう。

先日カセルラを演奏した際、楽譜にAlquanto allargandoと書いてあり、このAlquantoの意味を巡って、演奏者間で意見がわかれた。意味としてはAssaiやAbbastanzaに近い言葉だが、現在は使わない表現で、「かなり」「随分と」という曖昧な意味をもつ。MalipieroでもPiuttosto lentoという意味としては似たような指示があり、これもオーケストラ団員通しでそれぞれ意見が割れた。

閑話休題。武満作品であれば、結局楽譜に書かれた通りに演奏するよう、努めるしかないだろう。録音でこうやってい、というのは、作曲者本人から直接聞いたわけでないのだから、確証としては弱い。たとえ、それが例えば晩年の武満さんの趣味と違っていても、残された楽譜を尊重するしかないだろう。案外、作品作曲時の武満さんの意図には、より忠実な演奏が実現できるかもしれない。

尤も、悠治さんや京ちゃんのように、作曲者が元気なうちは、彼らの意見を反映させた演奏を続けてゆくに違いない。一見楽譜と違っているようでも、たとえ彼らがそこにいなくても、彼らの意にそぐう演奏を目指すことになるだろう。ダブルスタンダードで矛盾していても、文化の形成とは元来そういうものではなかったか。

12月某日 ミラノ自宅
波多野さんのプラテーロを繰返し聴く。演奏の誠実さ、詩の翻訳の美しさ、感情に流されぬ、客体化された朗読の美しさが相俟って、ひたひたと作品の思いを伝え、プラテーロの魅力が凛と際立つ。カセルラに学んだカステルヌオーヴォ=テデスコは、日本ではピッツェティの高弟と紹介されることが多いが、カセルラの影響も等しく顕著だと思う。尤も、本国イタリアではピッツェッティとカセルラでは、圧倒的にカセルラの方が評価が高い。

12月某日 堺ホテル
堺で御喜美江さんの演奏会にうかがう。満席の観客が演奏に集中する姿に感銘を覚える。演奏のすばらしさは言うまでもなく、御喜さんはお話も実に上手で、演奏の緩急を活かした、効果的なプログラムと、聴衆の感情にしみわたるような音楽で充足感を覚えて帰途につく。
聴けば、聴衆のほとんどが堺地域の方たちだという。百舌鳥、古市古墳群がユネスコ世界遺産に指定されて、堺市民が自らの街の歴史、文化に目覚めたタイミングでもあるのかもしれない。

武満作品演奏会の準備において、演奏者全員が3日間堺に合宿する恰好になったのがよかった。演奏姿勢が共有できたし、リハーサル以外の時間も演奏者通し共に過ごしたりして、親睦も深めた。何より武満さんの60年代室内楽作品をこれだけ纏めて勉強したこともなかったので、自分にとっては、またとない貴重な機会となった。一見複雑なオーケストラ作品よりも、室内楽の方がずっと難しい。

12月某日 堺ホテル
60年代の武満作品を、まとめて実演できたことは、限りない喜びだ。残されている録音一つだけで音楽を判断するには、音楽が豊か過ぎる。聴こえる音にも対しても録音ではバラつきが生じるだろう。実演はやはり作品に空間性が生じる。何しろ、先日の悠治作品でも痛感したが、半世紀前の現代作品は、音の説得力がまるで違う。音の質量も現在とは比較にならないほど高いのは、これはどういうわけだろう。思わず自らを省みたくなる。

その音の説得力は、演奏者にも大きく影響を与える。演奏は極めて困難だったりするが、音の力が、演奏家を文字通り惹き込むのだ。そうして生まれる演奏は、聴衆に対する音楽表現としても、説得力が極めて高くなるのは、当然かもしれない。

今回、堺での武満ミニフェスティバルは3日通して、全て満席だったのにも愕いたが、一日目の60年代室内楽の演奏会でも、聴衆は最後の一音まで、集中を欠くことはなかったのに、心底驚嘆した。聴衆の潜在的な文化度、民度の高さと、作品がもつ世界の深さがあって、初めて成立する関係だったとおもう。

二日目の合唱演奏会では、歌っている合唱のみなさんの感動が、そのまま聴衆に伝わってくるようだったし、三日目、真樹さん、荘村さんとcobaさんの演奏会最後は、スタンディングオベーションで幕を閉じた。とても大切なものの手触りを実感させられる堺での滞在となった。

12月某日 町田実家
ここ暫くずっと気になっていて時間が見つけられなかった墓参に出かける。朝早く、三軒茶屋自宅脇から大森駅にバスで出て、東海道線で茅ヶ崎へ向かう。

仏花を探して、駅前の路地をしばらく徘徊しつつ、強烈な郷愁に襲われる。相模湾沿岸の鄙びた風景は、幼少から数えきれないほど通った街の潮の匂いに繋がってゆく。

この辺りは母の旧姓「三橋」の苗字が非常に多く、墓石はどれにも「三橋」と書いてある。異字で「三觜」と書いて区別しているものもある。うろ覚えのまま、花を手向け線香を焚き、念のため母に墓石の位置を確認してもらったのは、既に横浜まで東海道線で戻ったところだった。

今度いつ来られるかわからなかったので、茅ケ崎に戻り、母から聞き伝えの墓石を訪れると、白い杖をついた小柄の老人とその家族らしき人が7、8人集っている。

愕いたことに、操さんと言う88歳のこの老人は、母が幼いころに生別れた近しい従弟で、母が24歳くらいのときに彼の家を訪ねたとのだという。眼はよく見えないようだったが、「千恵子さんの住所は5の10でしたっけ」と実に闊達で、鮮やかな記憶力に舌を巻いた。「5の10」は、昔住んでいた住所だ。息子さん曰く、操さんは最近は英語を学んでいて、「自分の父親ながら、感心しますよ」と笑った。慌てて皆で写真を撮り、連絡先を交換して、待たせていたタクシーに飛び乗り、母に報告の電話をかけた。その瞬間ふと気が付いて、運転手に寺に戻ってほしいと懇願した。ウナギの寝床のような、車一台漸く通れるほどの辻を、そろそろとバックしながら寺まで戻ってみると、操さんたちもちょうど寺を出発するところだった。母に電話をつないだまま、慌てて操さんに駆寄り、直接二人で話してもらうことができた。

「もう兄弟で残っているのは僕だけですよ」と電話口で操さんは明るく母に話していた。

その表情は寂しさとか悲しみより、もう兄弟たちは皆とうにあちらで落合って楽しくやっているが、自分だけがまだ居残りでねえ、でもあちらで揃って待っていてくれるからねえ、という、安心感なのか、さっぱりとした口調が印象的だった。素敵な齢の重ね方に感じた。

昭和10年だったか11年だったか、母が生まれ直ぐに病死してしまった祖父は、最早、墓の近くにはいない気がしていたが、吸寄せられるように巡り合った操さんの家族を前に、自らの早計に恥じいる思いがした。

(12月31日町田にて)

そらの空白

北村周一

身にふかく落ちてはひらく点描の雨はしばしばこころにも降る

ふいの死のおもみをはかり損ねつつもどす受話器の意外な重さ

六月の雨に濡れたる家々のしずかなること 義弟さき立つ

草いろのけむり重たき雨の日の午後を鋭く蕎麦すする音

庭を降る雨と語らうひとときを写真のひとは嫋やかに笑む

低い声にときおり和する高い声 だれもがみとめ合うために死を

腰に巻くベルトをくびに添わしめて泳ぐ視線のさきざきに雨

不図われにかえりしきみがなにごとか躊躇うようにのぼる階段

折り方を思い出しつつオリヅルは通夜を彩ることばとなりぬ

いもうとよ、ぽつりぽつりと風呂おけに落つる水滴死に切れずあり

あかときのホテルに眠る現身の生きるというは音立てること

折り畳み傘をぺきぺき撓らせて死者の側へとそを差し出だす

任意の点見失いたるひとつぶの雨の軌跡をてのひらに受く

「止むかしら」蒼み帯びたる水無月のそらにちいさく息を吐くひと

一台の特種用途車しみじみと見送りしのちのそらの空白

編み狂う(5)

斎藤真理子

 誤算した。

 年末なので、師走に毛糸を買う話を書こうと思っていた。
 具体的には、何度か読んだ昔の小説の一場面だ。二人の女性作家が、年の瀬の賑やかな町で、舶来の毛糸を買うのだ。
 1930年代後半の話。

 舶来の毛糸。
 メーカー名も覚えている。ビーハイヴ、或いはビーハイブ。イギリスの有名な会社で、ここの毛糸は高級品だった。糸そのものの質が高いうえに、「トップ染め」という工法で染められていたからである。トップ染めとは、糸に紡ぐ前の羊毛の段階で染色すること。糸に加工してから染めるとべったりと平板な色になりやすいが、羊毛の段階で染めた毛糸はずっと色に深みがあり、また色褪せもしにくかったようだ。

(図版は『主婦之友』昭和九年十一月号の広告。主婦の友社が代理店となって、国産のアトラスという毛糸と、英国製のビーハイブの毛糸の両方を扱っていたらしい)

 憧れの毛糸だった。
 と、いうようなことを得意げに書こうと思っていたのだった。
ところが、いざその小説を読み返してみたらビーハイブが出てこない。

 そもそも毛糸を買うシーン自体がない。一冊読んでしまっても誰も毛糸を買わないので、あれーと思って、もう一冊思い当たるブツを図書館で借りて読んでみた。
 またもや、誰も毛糸を買わない。ほかのどうでもいいものばっかり買っている。そんなあ、と思ったがもう時間がない。

 こうなるともう、毛糸玉の糸端を見失ってしまったようなもので、手が出ない。
 毛糸玉の糸端なんて造作なく見つけられると思うかもしれないが、そんなことない。編み物をする人は、玉の内側から糸を引き出すのです。その方が糸が汚れず、きれいな状態で編めるからだ。そのため、内側の糸端にメーカーが紙のタグをつけてくれている。

 自分で「かせ」から玉に巻くときも、内側の糸端がちゃんと確保できるように気を配って巻きはじめる。ところが、「巻き」の強さとかいろんな条件によっては、糸端がこんがらがって出てこなかったり、たいへん手こずったりすることもある。
 どうも最近、私の記憶自体がそんなふうになっている。

 ビーハイブの毛糸を二人の女性作家が買う。もうちょっといえば、二人の作家は二人とも、プロレタリア作家と呼ばれる人たちだ。
 そういう描写が絶対、世界の中にあった。だって読んだんだから。けれども、毛糸玉の糸端がどっか別のところに結ばれてしまって、そこを引っ張っても呼び出されてこない。
 どこかこの界隈にはいるはずなのだが。

 年の瀬で町は賑やか。でも、時代が良くない方へ変化していくことをありありと感じながら輸入品の毛糸を買うという、それは贅沢だったのだと思うが、贅沢と覚悟とどっちの方が多かったのか、読むたびにその比率は変わって感じられるだろうと思って半ば予想していたから、また読み返すのが楽しみでもあった。のだが、ふたをあけてみたらそこになかった。毛糸玉が。

 なので、幻の糸端を持ったままで年越しをすることにします。

 1930年代後半の舶来毛糸は、あたたかく、色がよく、長持ちして、何度ほどいて編み直してもへたりが少なく、自分と家族を守るものだから買われたはずだ。そんなときにも、編み狂う一瞬は誰かのところに必ずあったと思うが、編み狂いだけに浸っていられるような時間が許されていたかどうか。
 私がそんなことをしていられるのは寿命が延びたからだ。
 そんなことを考えながら。

 セーターも毛糸玉もほぐせば一本の糸であることがよい。
 別に素晴らしくはなくて、単に、よい。

長い足と平べったい胸のこと(3)

植松眞人

「エモい」とアキちゃんが小さな声でつぶやいた。そう言ったままアキちゃんはセイシロウが女の子とつないでいるややこしい手元を見つめていた。わたしは「エモい」と「エロい」はどう違うのか、と思っていたのだけれど、アキちゃんはどう見たって少し興奮気味で、朝の通学の電車の中で妙な空気が出来上がっていた。

 前から思っていたのだけれど、アキちゃんはあんまり賢くない。どちらかというとアホだ。アホのくせに感覚的に賢そうなふりをしようとする。不思議なものでアホな子が賢そうなふりをしようとすればするほど、アホに見えてしまう。

 電車が揺れる。アキちゃんが冗談半分に揺れにあわせて、わたしの身体を押した。わたしはセイシロウのほうへ押し出される。おじさんを一人挟んで、わたしとセイシロウが立っている。わたしは身動きが出来なくなって、しばらくの間、セイシロウの横顔を眺めている。セイシロウはそんなに背が高くない。きっと一七〇センチあるかないか。わたしは女子の中では背が高い方だから、顔の位置があまり変わらず、ほんの少しだけ見上げる格好だ。わたしはじっとセイシロウを見ている。セイシロウは色が少し白い。そして、セイシロウはまつげが長い。だから、髪を伸ばせばもしかしたら女の子に見えるかもしれない。ただ、セイシロウを男らしくしている部分があるとすれば眉だ。セイシロウの眉は濃い。太いわけではなく、濃いのだ。キリッとしている。セイシロウが普段あまりしゃべらないのに、なにかちゃんとした意見を持っていそうに見えるのは、きっとこの濃い眉のせいだと思う。

 わたしがセイシロウの眉をじっと見つめている時に、セイシロウがふいにわたしを見た。顔を動かさずに瞳だけをこちらに向けて、わたしを見た。わたしはセイシロウと目が合ってしまって驚いた。驚いて視線を外すことが出来ず、ただじっとセイシロウを見つめてしまった。セイシロウは笑った。何を笑ったのかはわからなかったけれど、確かにセイシロウは笑った。そして、セイシロウが笑った瞬間にわたしは我に返って、セイシロウから視線を外して下を向く。下を向くと今度はセイシロウと女の子の握り合っている手が見えた。二人の手はさっきよりも、ほんの少し動いていて、これはもうアキちゃんいう「エモい」なんてレベルじゃなく、絶対に「エロい」だった。

 わたしの胸にはふいに怒りのようなものがこみ上げてきた。クラスでも大人しい、まともに女子と話もしないような男子が、朝っぱらから電車の中で女の子の手をエロく握っているという現実が受け入れられずにわたしは明らかにむかついていた。セイシロウ、てめえ!と思いながらわたしは視線をセイシロウの顔に戻した。セイシロウはじっとわたしを見たままだった。わたしを見ながら、セイシロウは他の女の子の手をいやらしく握っているのだった。わたしはまるで自分の手を握られているかのような気持ちになって混乱した。アキちゃんは自分自身が気付かないうちにエロい目になってセイシロウの手元を見ていた。わたしはそんなアキちゃんにもむかつきながら、おじさんの向こう側にいるセイシロウの足を蹴った。わたしの前にいたおじさんは驚いた顔をしたけれど、わたしにはわたしが止められなかった。おじさんの足と足の間から、わたしはセイシロウの足を目がけて、自分の足を蹴り上げた。わたしの足は、ほんの少しだけおじさんの足をかすりながら、セイシロウのふくらはぎあたりを蹴った。

「いてっ」

 セイシロウは小さく声をあげて、おじさんをはさんで、私の方に向き直った。ちょうど電車が駅について、私は一緒の駅に降りる同じ学校の生徒たちを押しのけながらホームに降りた。後ろから、「よっちゃん!」というアキちゃんの声と、「なんだよ藤村!」というセイシロウの声が同時に聞こえた。わたしはその声を無視して、誰よりも先に改札を抜けて学校への道を歩き始めた。(つづく)

製本かい摘みましては(151)

四釜裕子

江戸時代の明暦の大火や富士山の噴火、日本にはほとんど史料が残っていない肥前長崎地震(1725~26)の記録などが、長崎にあったオランダ商館の歴代館長の日記に残されていたそうだ。1年任期で来日した館長らは「日記」をつけることが義務付けられていて、1633年から幕末1833年までの197冊が、オランダのハーグ国立公文書館に収蔵されている。

フレデリック・クレインスさんの『オランダ商館長が見た江戸の災害』で読んだ。ワーヘナール、ブヘリヨン、タント、ハルトヒ、ファン・レーデ、シャセーという6人の館長を中心に紹介されていて、日記の中から災害についての記述をひろい、磯田道史さんが解説を寄せている。出島からの江戸参府の道中で、おのずと見聞きしたり体験もしたようだ。オランダ人の目には日本人は災害に対してあっさりして見えたようで、火事のあとなどは燃え残った材木を集めさっさと小屋を作ってしまうのに驚いた、ともある。後述する「江戸火災図」などでは人々が天を仰ぎ悲嘆に暮れているようすが描かれているが、実際は天を仰ぐ余裕もないわけで、ここは空想のバイアスを楽しむところだろう。

ハルトヒが就任した1725年10月からは半年以上地震が続いたそうだ。特に詳しく、その心情も記されている。〈ハルトヒはふたたび日記の「読者」に向かってこの状況下での生活がどれだけ惨めであるかについて長々と訴えている。そして、すでに七十四日間も続いている地震がまもなく終息してくれるよう、ふたたび神に祈りを捧げている〉。「読者」とは、東インド会社のえらいひとや後任の館長ということだろう。ならばこのハルトヒというひとはあまりに正直というかあまりにつらかったのかもしれない。上司が実際にその日記を読むのはだいぶあとだから、書いても「訴え」にはならず愚痴になるだけであろうに。ともかく、歴代館長の日記は書記によって「写本」が作られ、東インド会社のアジア本部があるバタフィアへ、そしてオランダへ送られた。公にされることはなかったが、いくつかは個人的に持ち帰られて、本になることもあったらしい。そうか。「写本」するのか。どのタイミングで、何冊ぐらい作ったものなのか。

たとえばワーヘナールの日記の写しは、没後、オランダの作家・モンターヌスが手にいれて、ほかの東インド会社社員の渡航日記と合わせて『オランダ東インド会社遣日使節紀行』(1669年)となった。オランダ人画家による挿画「江戸火災図」などは、画家でもあったワーナヘールの明暦の大火の記録を参考にしたようで、木桶で水をかけるようすや屋根にかけたはしご、荷車などが鮮明だ。それに比べて、日本人の顔、表情はともかくとして、体型、着物、髪型などはあまりにトンチンカンで笑える。仏像も下手。むずかしい、苦手、というより、興味が向く順番として下位なのだろうか。先に知った他のアジア人との区別がつかなかっただけかもしれない。『オランダ東インド会社遣日使節紀行』は英仏独語に訳されてぞくぞく出版、明暦の大火にいたってはたった12年の時差で海外に伝えられたことになる。

シャセー館長時代に商館付属の外科医として勤めていたアンブロシウス・ケラーというひとも、こちらは宛先はなかったが報告書をさまざま書いたそうだ。その「写本」もまもなく本国に渡り、島原の災害についてはなぜかケラーの名を記すことなく、「月刊オランダ・メルクリウス」(1794年3月号)に掲載されたという。その「写本」の一つは元商館長ティツィングの手にもわたって、やはりティツィングもケラーの名を記すことなく、島原の災害のことを『歴代将軍図譜』(1820年)に掲載したそうだ。こうなると、例えばケラーのそれは「写本」って言うのかしらと思ってしまう。書き写しただけじゃん。あ、だから、いいのか、「写本」で……。報告書や日記の写本は筆跡も真似るのかな。

『歴代将軍図譜』の挿画「島原地震噴火津波」は、四角く描いた島原城を中心にして、地震・噴火・津波のようすを俯瞰して一輪のバラの花のように描いていてすごくいい。これを描くひとに、誰がどう説明したのだろう。『オランダ東インド会社遣日使節紀行』も『歴代将軍図譜』も、国際日本文化研究センターのウェブサイトから見ることができる。

音の旅

璃葉

この冬、実家の空気を久しぶりに、たっぷり味わっている。

ひびの入った壁や黄ばんだ天井を見渡しながら、年季の入った家になってきたなあと、しみじみ思う。

朝の居間にはひんやりと冷たい空気が漂っていて、静かで青みがかった色。前の日のタバコの匂いが少しだけ残っているので、空気の入れ替えをする。日が高くなるにつれて部屋も明るくなっていき、光が差し込んでくる時間帯に、庭の椿、月桂樹、柚子の木にメジロや椋鳥が遊びにくる。そんな風景の見える窓際で、家族の誰かが珈琲を飲んでいる。

床や壁が汚くても、少々地盤がゆるくて家自体が傾いていても、家の素材である木材や石やタイルはこの数十年、季節の空気や目に見えない何かを吸収して、ちゃんと歳をとって生きてくれている。

父曰く、むかし、このへん一帯は川だったらしい。家とその目の前に広がる森が深い窪地になっているということは、ここは川底だったのだ。川底だったところにいま、木が生え家が並んでいるなんて、ちょっとおもしろい。庭の椿を眺めながら、なるべく綺麗な水が流れている川底に沈んでいるのを想像してみたが、なんだか寒気がしたのでやめた。

この先、この場所はどう変わっていくのだろう。時代の移り変わりの早さを考えれば、風景や情景なんて、一瞬で姿を変えてしまうものだ。川底から森になるぐらいなら一向に構わないけれど。

実家滞在の間、父の本棚やCDを物色している。嬉しいことに、ここには民族音楽の音源が山ほどある。すべての作業がひと段落した夜、ストーブの温まった部屋で赤ワインをちびちび舐めながらCDを漁っては、父と姉と、音の旅をする。

大陸を行き来し、東欧、北欧の音楽を聞いたかと思えば、次の日は南米、アジア、アフリカと、見境なく聴いている。聞いたことのないリズム、そのへんで拾ったであろう木や石をそのまま叩く楽器の原型のようなものが出てきてわくわくするときもあるし、明らかに植民地支配の影が見え隠れするような、西洋混じりの退屈な曲もある。音楽から、国や民族が辿ってきた歴史や文化の端くれを眺めているようだ。

師走最後の日、休憩がてら窓ガラスを拭いて(たばこのヤニがすごい)、柱やライトについた蜘蛛の巣や埃を払い、しめ縄を各部屋に飾る。一番上の兄も静岡からやってきて、力仕事を手伝ってくれた。

そんなことをやっているうちに薄明が過ぎて、上弦の月が梢の向こうに見えている。

さっきまで夕陽が差していた川底の森は真っ暗だ。年越し蕎麦の準備をしつつ、そろそろ黒豆を煮始めようか。

さっきまで夕陽が差していた川底の森は真っ暗だ。年越し蕎麦の準備をしつつ、そろそろ黒豆を煮始めようか。

そして一息ついたら、ふたたび音曲行脚を始めよう。


ボクシング(3)

笠井瑞丈

1998年6月16日23歳誕生日
後楽園ホールのリングの上に立つ
C級ライセンスのテストを受けた
そして無事合格
僕はプロボクサーになった

ジムに届いたテスト日の通知に
6月16日と書いてあった時

「誕生日の日か…!!」

何か特別なものを感じた
だからもし落ちたら
もうテストを受けるのは
やめようと決めていた

一回だけの挑戦
受かって良かった

ただ僕は最初からプロの試合に
出たいと思っていた訳ではなく
プロライセンスというものに
挑戦したかっただけだった

とりあえず挑戦は成功した

1998年6月16日23歳誕生日
僕は合格とともにボクシングを辞めた

正確に言えばそれから二ヶ月は続けていたけど
僕の中でもう情熱が消えてしまっていた

プロボクシングの世界で通用する器ではないことを
最初から自分でも分かっていたからだ
いいところプロライセンス取得止まりだろうと思っていた

情熱はボクシングからダンスに変わる
それからダンスをちゃんと習い始める

ダンスの世界で通用しているのか分からないけど
とりあえずあれからずっとダンスは続けている
少なくともボクシングよりは向いているのかと思う

数年前ふとジムの前に行く
もうジムは無くなっていた
もぬけの殻になっていた

ジムは晩年経営難になっていたそうだ
夜逃げのごとく会長は失踪したそうだ

そんな話をある人から聞いいた

今会長はどこで
何をしているのだろうか
ふとそんな事を考える

世界6度防衛
名チャンピオン
小林弘

雑草の男と
呼ばれていた

すぐ枯れる綺麗な花より
雑草のような力強さを持っていた
だから6度も防衛出来たのだろう

僕は花よりも
雑草と呼ばれる方が
素敵だと思う

またいつかボクシングをやりたいと思う

仙台ネイティブのつぶやき(51)宮城県美術館、その後

西大立目祥子

 宮城県美術館をめぐるあわただしいひと月が過ぎて、年が明けた。このひと月、美術館をめぐっては「寝耳に水」ということばが飛び交った。新聞の見出しに踊り、人に聞かされればじぶんも口にする。県が打ち出した、美術館を現在の場所から5キロほど東に新しい県民会館(音楽ホール)と集約移転するという方針は、この美術館に親しんできた人たちにとってはそれほど衝撃だったのだ。

 それは、2018年3月に宮城県が現地でリニュアルする基本構想を策定していたからなのだけれど、たぶんそれだけではない。この美術館が緑と川に囲まれたすばらしい立地にあり、その自然と一体となった建物は日本の建築界を牽引した前川國男の設計によるものであり、建物をめぐる庭のデザインも楽しさに満ちていて、コレクションもおもしろさがあり・・つまるところ訪れた人をとらえ魅了する何かがあるからだ。だから誰もが、えっまさか移転、いずれは壊される?とたじろいだに違いない。

 こういうとき表立って異を唱えないのが宮城人、仙台人で、仙台に歴史的建造物が少ないのは、これも要因の一つかもしれない。それがいやで、13年前、あるビルの保存活動を通して知り合った人たちと「まち遺産ネット仙台」という会をつくり、大切だと思う建物に危機が及んだときは行動をとってきた。
 今回もそう迷わずに、友人と会い、相談して行動することに決めた。なんというか、からだの反射みたいなものだ。こんなに誰もがいいと思うものを捨てようとするなんて、おかしい。そういう単純な反応、ですね。こういうとき素直にじぶんに従わないと、あとあと自分がおかしくなってしまうような気がするのだ、後悔とふがいなさとで。

 12月10日に、まち遺産ネット仙台から宮城県知事に現地保存を求める要望書を提出し、17日に宮城県議会に同樣の内容の陳情書を出した。両日とも、日本建築学会東北支部も意見書を出している。知事宛に提出したときは記者会見もしたので、テレビや新聞に取り上げられて、これはねらいどおり。議会に対して陳情するのは初めてで、どうなるか不安もなかったわけではないけれど、各会派をまわったり議長さんに手渡したり、すべてが小学生の社会科見学みたいで、行政と立法の仕事をあらため学ぶような新鮮さがあった。
 これまで、まち遺産ネットで3回保存活動をやって全部失敗している。そもそも対象物件の認知度が低く、だから迷いも多く、対応が遅く、なかなかうまくいかなかった。今回は、多くの人が実感としてその良さを知る公共の文化施設なのだ。迷いはないし、粘ってみたいと思っている。

 活動を始めたら、いっしょに動いてくれる若い人が出始めた。30代の人たちはすぐさまサイトを立ち上げ、工程表をつくり、ワークショップの記録を楽々とこなしていく。そして、要望書を出すのに賛同者を探して知人友人をたよりに声をかけると、力を貸してくださる方々とつながり、全国の同じような活動をする人たちがまるで旗を掲げているように見えてきた。その中には宮城県美術館の建設中に前川國男設計事務所所員で、その右腕として仕事をされた方もいて、遠くから発してくださる建物への思いは、そのまま私たちの活動の推進力になっていく。市民が起こすムーブメントが、人と人のつながりの中で実現されていくのを目の当たりにする思いだ。

 一方で、今回の宮城県の動きは知れば知るほど、疑問がわいてくる。数年かけて議論を重ね、現地でのリニュアル案を策定したのは教育委員会生涯学習課なのに、今回の方針を出したのは、知事部局の震災復興政策課。事務局案について「県有施設再編等の在り方検討懇話会」の6名の構成員が検討するだけだ。その名のとおり、老朽化した県の施設をどうたたむかを検討するのが目的だから、そこには美術家も建築家もいない。県の財産にかかわることだからなのか、議事録も公開されない。文化的側面からの評価は何もないままに、これだけ大きな決定がなされようとしている。

 これは国の方針であるらしい。人口減少の時代に入ったことを踏まえ、国はお荷物になりつつある老朽化した建物をたたむ方針を打ち出した。集約化すれば、国から借金して新たな建設ができ、いずれ借金の何割かは交付金となり、県の懐はそう痛まずにすむというわけだ。同じことが、東京都の葛西臨海水族園でも起きていると聞いている。
 でも、なぜこんなに宮城県は急ぐのか。移転集約を中間案にして、県は12月末にパブリックコメントの募集を開始した。1月末に締め切り、2月初旬の懇話会で了承されれば、この美術館の移転は決まってしまう。人口減少の時代だかこそ、何を残すのかをしっかりと議論し長く大切に使う方向性が大切であるのは、もう誰もが考えていることなのに。

 というわけで、私たちの活動は1月がカギだ。幸い、地元紙の河北新報が、この移転集約案に疑問を投げかけ連日のように報道してくれているのが追い風になってきた。
12月末にはHPに「考えよう、宮城県美術館のコト」という特集ページを開いている。
https://www.kahoku.co.jp/museum/

 私たちも「アリスの庭クラブ」というサイトを立ち上げた。宮城県美術館には誰もが好きになる「アリスの庭」という彫刻が点在する庭があって、その名にあやかったもの。ぜひご覧ください。
https://alicenoniwaclub.wixsite.com/website

1月5日に、ネットでの署名を開始しました。
ご賛同と拡散をお願いします。
前川國男が設計した宮城県美術館。 県民が愛する美術館の現地存続を求めます。

羊を忘れる

高橋悠治

ヴェリミール・フレーブニコフの『ザンゲジ』から 6平面(場面)を選んで ザーウミとよばれる音の文字を声の音楽にしてみる 世界が文字の絵となり その文字を描く手のうごきを 文字を読む声の抑揚でなぞり うごく線を音符で書きとめる 見聞きするものごと 経験しなくてもよその場所やちがう時代にあったことを 文字の線に変え その線を描く手を通して 手から身体に伝わる動きや変化の感覚 その文字を読み上げると 声のリズムと高さの変化が 発音する身体の感覚を変化させる 耳に聞こえる音の変化を 記号や線で楽譜にあらわしてみる そのことで だれかがどこかでいつか一度だけ声にした音の流れが 見える線やかたちをたどって 他の人 他の場所 他の時に移される このボール遊び 読むことが書くこと 読むことが歌うこと 眼から耳 耳から眼 眼から口 眼から手 手から耳 手から身体 身体から手 人から人へ それだけでなく 風景 動物や木や花 石や水 さまざまなものごとを巻き込んで続いていく

続けること くりかえされる手順 くりかえしを意識して その手順をとりだして 同じにしようとすれば 動きは安定するが 感覚は鈍り 抽象と大きな枠が見えてくる しっかり根を深く張った木のように 枝は風に揺れるが 幹は動かない

上から吊るされたものは揺れて定まらないが 糸で操られて 予測できない動きが起こることがある まぎれこんでくる偶然 失敗 はずれ それらをひきもどし 抑え 間合いをはかるのか それとも もっと押しやり 崩し 揺るがし かき分け ずらすのか

『ザンゲジ』から音楽を作ったのは 今度が初めてではない 1985年(フレーブニコフの生誕百年だったとは気づかなかった)に電子楽器のための『ザンゲジ断片』を作ったこともあったし 1987年にはピアノで『Lyeli-lili』という曲を演奏したこともあった 1982年にアールヴィヴァンの雑誌にロシア・アヴァンギャルド特集があり 亀山郁夫訳の「ザンゲジ』が載っていたからだろう 子どもの頃読んだ小笠原豊樹訳の『マヤコフスキー詩集』の階段状の行別けを覚えていたこともあり その頃 ロースラヴェッツやルリエーの実際の音楽は知らずに 紹介記事だけでそれらしいものを作ってみたこともあった フレーブニコフについても 何もわからずに 『運命の板』や『知恵の鐘』の音を作っていたのだろう

誤解や誤読から まったくかけ離れた試みをするのはおもしろい だが  残念なことに 論理も根拠もないので 長続きはしない そう思っていた だが 論理は空間を限り 根拠は変化と発見をきらうのではないだろうか 連続する線が途切れても 方向を失っても 危うい足どり 隙間 枝分かれ 迷宮は曲がり曲がって出口に近づくが 出口ではなく 曲がり曲がるのが迷宮を作る 多岐亡羊で むしろ羊を忘れる

2019年12月1日(日)

水牛だより

淡い陽ざしの冬の日曜日の午後。きょうから十二月というのはホントでしょうか?

「水牛のように」を2019年12月1日号に更新しました。
『大菩薩峠』がちくま文庫で出たときに読んでみようと思ったのは、室謙二さんの影響があったからかもしれません。はじめはストーリーのおもしろさにつられて読み進んでいくのですが、主人公と思っていた机龍之助があまり登場しなくなるころから、これはどういう小説なのかと頭のなかにクエスチョンマークが点滅するようになり、やがて挫折しました。今月の室さんの原稿を読むと、また読んでみようかという気持ちが沸き起こってきます。青空文庫でも公開されていますが、室さんはまず文庫本20冊を買ってしまいなさい、そして残りの人生で3回読むのだ、と言います。さあ、どうしよう。。。

本日、「水牛通信」のPDFを公開しました。まだ完全ではありませんが、残りはぼちぼちと進めていきます。
「水牛通信」の電子化計画をはじめたころは、日本語とアルファベットくらいしかフォントを使えず、また画像も容量や通信速度の問題があったため、テキストのみの公開でした。そんな作業を続けながら、どこかで今日の日が来ることも確信していたのです。PDFを作ってくれたのは福島亮さん、サイトのデザインなどは野口英司さんが担当してくれました。過去のアーカイヴではありますが、読んで楽しんでください。ツッコミどころもありそうな気がします。
福島さんには、この水牛だよりのコーナーで、通信についてあれこれと書いてもらうことになっていて、あ、すでに最初の投稿がされているようです。

もうひとつ、やらなければならないのは水牛楽団の音源を公開することです。来年の目標にしたいと思います。

それではまた! 良い年をお迎えください。(八巻美恵)

共和国(晩年通信その5)

室謙二

 「音無しの構え」は、知っていた。
 だが「音無しの構え」が、無実の人間を平気で殺す机龍之介の剣術であるとは知らなかった。子供にとっては、オトナシノ・カマエという発音が、格好よかったのである。
 チャンバラは、一九五〇年代の男の子にとっての毎日の遊びだった。適当な棒切れをみつける。棒を両手で日本刀のように構えて、叩きあう前に一瞬の沈黙をつくる。そこで「音無しの構え」と宣言するのである。
 それから棒きれで、バチバチと叩きあう。「大菩薩峠」の机龍之介は音もなく構え、剣に触れさせることもなく相手を斬り殺すのだが、我らが剣術は大騒ぎの棒の叩き合いであった。体を叩かないのはルールである。

 机龍之介が登場する「大菩薩峠」は、世界で一番長い小説らしい。文庫本で二十巻ある。子供たちは、そんなことは知らない。しかし「オトナシノカマエ」は知っていた。
 この長編には登場人物がたくさんいて、ストーリーも入り組んでいる。書き始めてから腸チフスの死で未完で終わるまで、中里介山は断続的に三十年間書き続けた。最初のプランは、途中で変わってしまう。最初に登場した机竜之助が、全巻を貫く主人公かと思ったら、話が進むとときどきしか出なくなった。
 あまり長いので、最初から最後まで通して読んだ人は少ない。文庫本の最初の巻はたくさん売れても、最後の方の巻はあまり売れない。刷り部数を見ればわかる。雑誌「思想の科学」の編集会議で鶴見俊輔さんが、「私は全巻通して読みましたよ、だけど二度通して読んだという人を知っている」と言ったので、「私は三度読み通しました」と言ったら目をむいて、膝を叩いて笑っていた。

 お松と駒井甚三郎

 お松は、最初のシーンで龍之介に意味なく斬り殺される老人のつれていた子供であった。殺されずに大人になったお松は、主要主人公の一人になる。そしてお松と旗本をやめた駒井甚三郎が、東経一七〇度、北緯三〇度の太平洋上の無人島に上陸して非君主国(共和国)を作るのが、この未完の小説の最後の物語である。
 そして二人は結婚する。その限りにおいて、これはハッピーエンドのように見える。しかし共和国(非君主国)がまた結婚が、成功するかどうかは分からない。作者は失敗を書くことなく亡くなったから。
 桑原武夫は、「ごく大ざっぱに言って」とことわった後で、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識の層」があり、その下に封建的・儒教的な日本文化の層があり、さらにその下に「ドロドロとよどんだ、規程しがたい、古代から神社崇拝といった形でつたわる、シャーマニズム的なものを含む地層があるように思われる」と書いている。そして大菩薩峠は、この第一層、第二層から第三層まで根をはっていると書いている。(文庫本第二巻の解説)
 また別のところでは、大菩薩峠の登場人物でもっともつまらないのは駒井甚三郎である、とも書いている。私はこの説には賛成しかねる。
 駒井甚三郎と結婚するお松は、登場人物の中でもっとも魅力的な女性である。駒井は自分が第二層(封建的・儒教的な層)から離脱して第一層(近代化した意識の層)にいることを知っているだろう。だからこそ第三層(古代からつたわる層)にまで根を持つお松と結婚する。お松なしには無人島の共和国は作れないことを知っている。この共和国は、第一層から第二層、第三層まで必要とするのである。
 「西洋の影響下に近代化した意識の層」に根を持ち、第二層の「封建的・儒教的な層」から離脱した元旗本の駒井甚三郎がもっともつまらない人間だとしたら、私たちは一体どうなるのか。桑原武夫でさえ、お松より、共和国を作ろうと西洋の科学を勉強する駒井であろう。もとより私は、その家庭環境から思うに、第三層のシャーマニズムでもなく、第二層の封建的・儒教的でもなく、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識」である。
 駒井がつまらない人間であれば、私などもっとつまらない人間になる。私はアメリカにやってきてその市民となり、日本を手放してしまったのである。市民権をとる口頭試問では、憲法について聞かれる。そこには政府が間違っている時は、その政府を倒していいと書いてある。私はすでに世襲君主国の人間ではない。

 無人島アナーキズムと天皇即位

 私は「西洋の影響下に近代化した意識の層」(第一層)にいる人間で、封建的・儒教的でもなくシャーマニズムでもない。だからこそ、私は大菩薩峠を三回も通して読んだのかもしれない。そして物語の最後にあらわれるアナーキズム国に興味を持つ。

 ここは我々だけの国であり、おたがいだけの社会でありますから、今までの世界の習慣に従う必要もなければ、反(そむ)くおそれもありません。もしこの島の生活を好まぬ時は、いつでも退いてよろしい。生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい、法律を定める人と、それを守る人との区別を置かないように、命令を発する人と、命令を受くる人との差別を認めますまい。

 無人島での駒井甚三郎の演説の中で、中里介山はアナーキズムという言葉を使わないが、アナーキズムを説いている。介山が幸徳秋水が天皇を暗殺しようとしたとして処刑された「大逆事件」に衝撃を受けたことはあきらかで、この島は幸徳秋水も住むところのアナーキスト国なのである。

 新天皇の即位の儀式と人々の反応のビデオの断片を、カリフォルニアから見ていた。
 行政の長である安倍首相が、奇妙な箱状の囲みの中に立つ天皇を、一段下がった場所から深く一礼、そして天皇陛下バンザイを三唱。まわりの人間も唱和する。
 憲法によれば天皇は国民の象徴とのことだが、その象徴に向かって国民に選ばれた行政の長が真剣に万歳三唱をするのは、憲法の精神に違反していると思うが。まあそれはヨロシイとしても、しかしこの儀式をみていて、日本はつくづく共和国ではないと思った。
 日本国は立憲君主国だそうで、天皇は権力をもっていないそうだが、しかしどうやら国民を支配する倫理的な権力を持っているように見える。いまだ世襲の封建制です。この国は年齢序列の考えも根深く、柳田国男は、日本の「友だち・友人」は「同世代」という考えに支配されていて、英語のFriendsではないと指摘する。英語では、同世代ではない老人と少年でも、Friendsなのである。
 介山の太平洋上の島はアナーキズムにもとずいて、お松や駒井やその仲間たちFrendsが集まった共和国である。そして、はるか北にある日本列島の、天皇陛下バンザイ三唱と日の丸をうちふる「君主国家」に、するどく対立している。大菩薩峠はこうやって未完のまま終わって、共和国はいまも続いている。

仙台ネイティブのつぶやき(50)いま、宮城県美術館

西大立目祥子

 「川内」という地名は、川に囲まれた山寄りの地域という意味であるらしい。仙台の川内は、仙台城があった青葉山のふもとのあたりを指す。山が迫り広瀬川が蛇行する風景が広がっていて、とりわけ新緑の季節や紅葉の季節は車で通り抜けるのにも見とれるほどだ。
 藩政期は家臣団の屋敷が置かれていたが、明治に入ると一帯は陸軍の用地となり、戦後、米軍が駐留したあとは、東北大学のキャンパスや仙台市博物館が立ち並ぶ文教地区となった。

 宮城県美術館はその一角にある。前川國男設計の薄茶色のタイル張りの建物は低層で、目立つことなくあたりの風景の中にすっぽりとおさまっている。南側がエントランスで、雲を積み重ねたみたいなヘンリー・ムアの金色の彫刻を右手に見ながら、吸い込まれるように入っていくと吹き抜けの大きな空間に迎え入れられる。建物は北側の庭に向かっても開かれているから外の光に誘われるまま歩を進めると、そこは広瀬川の崖の上だ。

 対岸の家並の向こうには丘陵の緑が望める。川辺だからなのだろう、この庭の縁にはクルミが育っていて、秋口にはたわわに緑色の実をつける。庭は緑豊かで、鯉が泳ぐ四角い池があり、彫刻がある。この彫刻がなかなか愉快で、風が吹くとゆっくり動く新宮晋の「風の旅人」(実はあんまり動かない)、太っちょのユーモラスな人物が馬の背にきゅうくつそうにまたがるF.ポテロの「馬に乗る男」は、見上げるたび風通しのいい気分にさせられる。この空間が好きで、企画展を見たあとゆっくりおしゃべりしながら歩いたり、いや、見なくても庭を散策するのを楽しみにしてきた。

 この北庭から、西側に増築された佐藤忠良館のゆるやかにカーブするガラスの壁面に沿って、「アリスの庭」と名づけられた彫刻の庭が続く。このステキなネーミングを思いついたのは、いったい誰なんだろう。『不思議の国のアリス』が下敷きにあるのは明らかで、壁面は鏡となっていくつもの彫刻をいろんな角度から映し出す。大きく立ち上がった姿のウサギがいたり、子どもなら4〜5人は背中に乗れるようなでぶった猫がいたり、仰向けにひっくり返ったカエルの上に四つんばいで乗っかるロボットがいたり…ユーモラスな彫刻がつぎつぎとあらわれる。いつだったか、カエルとロボットのまねっこを仲の良さそうな小学生の男の子2人がやろうとしているところに行き合わせて、いっしょにげらげら笑ってしまったことがあった。

 以前、白杖を携えた視覚障害者の人たちと彫刻を触りながら歩いたことは、このサイトにも書いた(2016年9月号)。あり得ない動物たちの姿に、誰もが気持ちを開いてにこやかな表情になっていく。日常の時間の中から、外の世界にぽっと抜け出すような不思議さ。一瞬であるのかもしれないけれど、そこにはわだかまる気持ちや考えたくない事を忘れさせる時間が存在している。

 1981年の開館から38年がたった。あらためて振り返ると、そう足しげく熱心に通ったわけではないけれど、美術館は私にとっては、あわただしい日常の時間を止めて考えさせてくれたり、記憶に残る1コマをつくってくれる場所であったと思う。

 20数年前、働き詰めに働いた会社をやめてフリーランスでやって行こうと決めたとき、最後の大きな仕事を印刷所に入れ終え、晴れやかな気持ちで、さぁて一区切りだ、どこかに寄って帰ろうと思った胸に真っ先に浮かんだのは、美術館だった。何年も訪れていなかった。しばらくぶりに訪れた美術館では、ロシアの女性作家ワルワーラ・ブブノワの企画展が開かれていた。戦前から長く日本に暮らしたこの画家のことを私はまったく知らなかったのだけれど、日本の版画や墨絵の影響も受けたような絵がとても印象に残った。なぜ日本に長くとどまったのか、その謎とともに、名前はずっと胸に引っかかっている。

 同じくこのサイトに書いたけれど、気仙沼市に暮らしていた高橋純夫さんが「世界のカイト展」に合わせ持ち込んだ、手づくりの鶴と亀の立体凧を高く踊らせたのも楽しかった。凧揚げが終わると館内のレストランでコーヒーを飲み、また揚げに行く。展覧会を見にきたお客さんは、動いている凧にまずびっくり。このパフォーマンスは誰の企画だったのだろう。空に舞ってこそ凧、と考えた学芸員がいたのだろうか。

 がん闘病をしていた父と「アリスの庭」を歩いたのもわすれがたい。苦しそうな息をしながらも、夏の終わりの日射しの中で父は楽しい彫刻になごんでいた。亡くなったのは、その秋のことだった。

絵や彫刻だけではない。クリスマスの時期に、ピアニストの中川賢一さんが何年か続けてメシアンを弾いたリサイタルに出かけたこともあった。ロビーにグランドピアノが持ち込まれていて、そこで私は初めて生で「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」を聴いた。夜なので正面玄関ではなくたしかレストランのガラス戸から出入りした記憶がある。

 こうあれこれ宮城県美術館の思い出を書いてきたのは、いまこの建物が解体の危機にあるからだ。2017年から、宮城県は老朽化している建物の今後を検討するために委員会を立ち上げ、昨年3月にはリニュアルの基本方針を策定していた。あくまで、現在の建物を残しながら大改修を行う内容だった。
 ところが、ここにきて、この建物を解体し、計画中の2000人規模のホールと集約化し複合施設として移転整備するという方針を打ち出したのだ。「県有施設再編等の在り方検討懇話会」がこれを了承した。これは経済成長期に建てられた県の施設の整理再編を検討する委員会であって、美術家は一人も含まれていない。懇話会では10の対象施設のリストと、更地となっている県有地のリストが配布されているので、始めから移転集約ありきで、簡単に結論が出されたのではないかと私は疑う。川内という場所性、前川國男の代表作の一つである建物の評価、40年近い歴史性、県民市民の愛着について、十分な議論がなされたとはとても思えない。そもそも、その前、2年間をかけて検討したリニュアル案は何だったのか。

この宮城県の方針についての疑問を、『美術手帳』がサイトでとりまとめた。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20915
地元紙、「河北新報」も同様に、社説で取り上げている。
https://www.kahoku.co.jp/editorial/20191129_01.html

 さて、どんな動きを起こしたらいいのか。全国のみなさま、お力をお借りするかもしれません。

181 お魚の台敷き

藤井貞和

お魚の台敷き

一人用の盆

ふとんかんそうき

そわかの剣

思いをのせて

今日か  別れの

まなびの宿

山いただきより

南天を見よ

カノープス

フォーマルハウト

たてしなのてらこや

ひいなたちが寄り合い

夜はほげて

あかときをうつる

さらなる

諏訪のまなび

変成(へんじょう)紀

世のうつり

首里天(しゅいてぃん)ぐすくが

赤い炎

哀しみを伝え

物部(ものべ)の神子

えんねんの舞い

花まつり

かぐらの村

わかきらも  わかからぬらも

つどうまなびの宿

(蓼科山荘をたたむと、山本ひろ子社中より連絡あり、お魚の台敷き、一人用の盆、布団乾燥機、そわかの剣など、すべて分け与えられる、と。南のかた、富士のかなたには、カノープスまたフォーマルハウト。縄文びとはかならず富士の見えるところに集落を形成したと、井戸尻考古館のもと館長の言うところ。新・諏訪学へと思いを継ぐ。「夜がほげる」の意味、不明。10月末、首里城を焼く。この悲しさには言葉がない。組踊り、いざなぎ流の神子たち、延年の舞い、花祭り、山ふところの神楽。)

製本かい摘みましては(150)

四釜裕子

中世の製本をやっと体験できた。河本洋一さんによる「書物の歴史:トークと実作」の2回目、「地中海・ヨーロッパの綴じ、Student Bindingを作る」でのこと。糸の運びはごく簡単そうだけれども、表紙にする板に小さな穴を開ける必要があり、今回はその穴開けから材料の一切をご用意くださるというので、からだひとつで出かけた。本文紙をかがるのに芯となる「支持体」を用い、表紙の板に開けた穴にその支持体を通してつなぐ。このような方法が生まれたのは8世紀、カロリング朝でのことだったから、「カロリング製本」と呼ばれている。それまでの冊子はナグハマディ・コデックスに見られる中綴じや、コプト製本に見られるリンクステッチなどで、いわゆる支持体を用い始めたのがこの時期ということらしい。本文紙の天地の向きと直角に支持体が交わり、それがさらに硬い表紙につながるわけだから、比べてだいぶ丈夫だ。写本作りが盛んになるにつれ学僧も個人で持つようになり、その頃の形をMark Cockramさんが「Student Binding」と名付けたそうで、この日はそれを習うのだ。

会場は浅草寺のすぐそば。宮後優子さんが代表を務める出版社Book&Designのギャラリースペースで、周りは観光客が多いけれど窓の外の公園では子どもたちがおおいに遊んでいた。午前の講義のあと、近くで親子丼(+生黄身、さらに茶碗蒸しとつくね付……)を食べて戻ると、午後の実作の材料と道具が並んでいる。6折分の本文紙、表紙用の板2枚、背に貼るセーム革のほか、支持体用の太めの麻糸と綴じ用の細い麻糸、木釘数本、細い白い革、D環、木ネジ、曲がり針。今回、花切れは編まない。表紙用の板は東急ハンズなどで売っているハガキサイズ5mm厚の樫材とのこと。1枚あたり、綴じ用の穴開けは6箇所。表から裏に突き抜ける4つはいいとして、5mm厚の側面からおもて面に向かって斜めに開ける2つが、想像を絶する。なぜ当時のひとはこんなことをわざわざしたのか、いや、わざわざではなかったろう、こんなことをしてみようとするわずかのひとはこれをいとう気持ちもなかったろう、など思いながら、「支持体を差し込む穴は側面から開けるのがいちばんいい」に到る過程があったわけで、どんな試行錯誤があったのか、想像して試すのも楽しそうだ。

実際にやって難儀したのは麻紐や革紐を木の穴に差し込むことだった。ゆるくてはダメなのだ。なかなか入らなくてなんとかやっと入るくらいがいいのであって、しかしこの日のように複数の人間が同時に作業をするのに、「なかなか入らないけど入らなくはない」という程度に材料を準備するのはどれほど難儀だろうと思ってしまう。数本ずつ用意された木っ端みたいなごくちっちゃい木釘も、いったい何に使うのかと思っていたら、麻紐を穴に通した最後、ゆるんで抜けないように金槌で穴に叩き入れ、すきまを埋めるためのものだった。はみ出た木釘を切り落とし、背にセーム革を貼る。この日の本文紙は洋紙だけれど、パーチメント(獣皮紙)時代は乾燥するともとの形に戻ろうとして波打って開いてしまうので留め金を付けていた。この日も準じて留め金を付けて完成だ。こんなごくシンプルな綴じに慣れてくると、職人も学生も徐々に飾りを楽しむようになっていったことだろう。

河本さんは古い綴じの再現もさまざまにしておられる。『東京製本倶楽部20年、ルリユールのあゆみ』展の図録の冒頭、「工芸製本少史」にそえられた、ナグハマディ・コデックス、コプト製本、カロリング製本、ロマネスク製本、ゴシック製本などの復元見本は、河本さんの手によるものではないだろうか。ほかにもミニチュアの復元品を原寸大に作り変えたり、形や素材のみならず古い資料のモノクロ写真に見た紙や革の汚れなど分かりうる限りを再現したりして、事情を知れば「すごい!」に違いないのだけれども、一見すると笑ってしまうものもあった。その河本さんが「すごい人がいましてね……」と教えてくださったのが、『イリアス』巻子本を再現しているという、古代ギリシャマニアの藤村シシンさん。古代インクを調合し、パピルス紙に葦ペンで『イリアス』を書写、棒に巻き、革紐で結んでタイトルタグを付けたものを、三省堂書店池袋本店でも展示したようだ。

いまの本の基本のかたちは1000年以上前にできていた。そのいっぽうで、巻子本も中綴じも四つ目綴じも、世界中の誰かが常に関心を持ち続けてきて今にいたっているというのはやっぱりすごい。電子本とかあるいは音声でとか読み方が変わっても、人のからだの仕組みが別のものにならないかぎり、本のかたちはこの先も変わりようがないのだろう。世界の全てを転写しようとする本の陰謀っていうのは、やっぱりあると思うんだよなあ。

璃葉

秋が始まったばかり、たいへん大きな台風が東京から去っていったころ。デンマークの松葉杖の輸入代理店を開くとともに、福祉について追求しているMさん、建築家のSさんと3人で老舗の釜飯屋で楽しく飲んだ日があった。ふたりとも本当におもしろく、話が尽きない。少し余白が空いたところで、大事なもの(物質)はなにかと聞いてみた。10月号に書いた、わたしの好奇心によるへんてこな質問だ。

突然振ったにも関わらず、ふたりとも真剣に考えてくれる。お酒を飲みながら頭を捻りしばらく考えて、その間色々な方向に話が飛び、話題は消えたかのように思えた。

「スニーカーかもしれない…」とSさんが突然呟いた。

会話というものはつくづくおもしろい。鎮火したかと思っているとじつは種火が残っていて、ふたたび燃え上がる。

Sさんいわく、自分の体を支えているものはお気に入りの靴(スニーカー)であり、裸足になると軸がぶれてしまう。それを履くことによって姿勢をちょうどよく保てて、一本の芯が通るらしいのだ。とあるブランドのとあるスニーカーがSさんにとってとても履き心地がよく、もし自分が棺に入るときがきたら、そのスニーカーを履かせてもらってあの世に行きたい、それぐらい大事らしい。

自分の体の軸をしっかり支えてくれるお気に入りの靴を履いていたら、三途の川もちゃんと渡れて、無事に浄土とやらに辿り着けそうじゃない?と、なんともお茶目に語る。

体というものについて薄ぼんやりと考えながら電車にのる。自分の体の状態を把握するのは案外難しいものだ。自分は靴を履いているときよりも裸足の方が好きだと思っていたけれど、考えてみればそれは柔らかい土の上や板張りの床、原っぱ、澄んだ水の中に入るときぐらいだけだ。靴というものについて深く考えたことって、そういえばなかったかもしれない。靴を履いての心地よさ、感じてみたいかもしれない。

全く関係ないが、たのしく酔っ払った体に電車の揺れは心地よい。

後日、小雨の降る夕暮れどき。何かの買い物のついでに、どうにも靴のことが頭から離れず、とうとうほんの少しいい靴を買ってしまった。ソールがきちんと自分の足裏に馴染んでいく革靴だ。もちろんご機嫌になる。浄土ではなくこの娑婆世界で、よりよい方向へ連れてってくれると信じながら大事に履いていくことにしよう。

編み狂う(4)毛づくろい

斎藤真理子

私は髪の毛をいじる癖がある。最初は思春期に入るちょっと前ぐらいのころ、髪質が急に変わったのがきっかけだった。まっすぐだった髪の毛に太いところと細いところができてきた。要するに「畝」、毛糸でいえばスラブタイプですね。しばらく経つとだんだん、さらにちりちりした箇所が出現した。こちらは毛糸ならブークレタイプ。

やがてそれがもっと進行して、ところどころ「節」みたいなものができてきた。毛糸でいえばこんどはネップタイプですね。ここまで来ると面白くて、触らずにいられない。このネップ、触っているうちに取れないかと思って髪全体を梳きおろすように触るのだが、触っても触ってもネップは解消しない。だからまた触って、きりがない。

そして気がついたら、単に、しょっちゅう髪を触る女の子になってしまっていた。そのころは髪質はまっすぐに戻っていたのだが、癖だけが残ったのである。どうして残ったのか自分でもわからなかったが、あるとき、仕事で若い精神科の先生にインタビューをしに行って、むちゃくちゃ納得できる話を聞いた。

その先生自身も髪の毛を触る癖があるのだという。そして、「たぶん僕、多動傾向があって、本来ならそのへんを走り回りたいけど、それは許されないってことをだんだん学習したんだと思う。そして子どもなりに、これなら社会的に許される範囲だと思って落とし込んだのが、髪の毛を触ることだったんじゃないのかな」とおっしゃるのであった。

その通りです。

あ、もう、私も絶対その通りです。

っていうか私、前からそのこと知ってた気がする。それ私が発見したことにしちゃいけませんか? と言いたいほど、マリアナ海溝より深く納得した。私はじっとしていられない子どもであり、露骨によそ見をする子どもだった。自分でも気づかないうちに、いつのまにか、それらの挙動不審行動をすべて髪いじりに置き換えていたのだった。

それに気づいたのはもう十五年くらい前のことだが、最近、さらに気づいた。

髪の毛は、毛糸だ。

組成からいってそうなのだった。髪の毛はウールである。毛糸を燃やしても髪の毛を燃やしても似たような、たんぱく質が燃える匂いがする。

ずっと前に父方の祖母が「シャンプーを切らしたらアクロン(大昔からある花王のウール用洗剤)で洗えばいい」と言ってたのを母が感心して聞いていたが、昔の人は髪の毛が何でできているかよく知っていたのだ。

もちろん人が羊でない以上私も羊ではないので、体表にあんなふわふわした毛が生えてはこないし、なかんずくアジア系の人間、しかも私のような剛毛体質の人間の毛髪を紡いで衣料を作ることなどできないが、それでも髪の毛と毛糸はもとをたどれば親戚なのだ。だから私が髪をいじるのも、編み物を手から離せないのも、根は同じなんじゃないかと思う。

基本的に私はウール、シルク、綿、麻といった天然素材しか編まず、今はほとんどがシルクだ。

シルク糸の玉をぼーっと見ているとくらくらする。これ一玉作るのにそもそも、何匹の蚕が参加していらっしゃるのかと思って。そしてそのめいめいが、どれだけの桑の葉を食べたのかと思って。動物が植物を食べた結果がこのような繊維になっているのは、すばらしいこととも思うし、薄気味悪いこととも思う。でもとにかく、それが必要なのでお世話になっている。

ちなみに、韓国では仕事の終わった蚕のさなぎを煮て、味付けして食べます。あれを食べても私たちは、糸を吐けない。

糸を吐けない私は糸を買ってくるしかない。

そして、買って買って買いまくった結果、もう買わなくて済む境地にまで私は到達した。

ここまで来るためにどのような行為を重ねたかはあまり思い出したくない。だって糸を買いまくることは終わりのない自分探しに近かったから。

気がつくと押入れに、一生涯アフガン・ハウンドとかそういう長毛種の犬の扮装をしても余るほど、もこもこのモヘア糸がたまっていたりする。または、ロックスターになって何年ドサ回りをしても余るほどのラメ糸がたまっていたりする。いったい、自分は何に変身したいのか。

何年にもわたる「糸戦争」を展開した後、自分はアフガン・ハウンドでもないし、ロックスターでもなく、多少寒がりの都市生活者にすぎないということがはっきりした。このようにして自分探しは一件落着し、細めのウールあるいはシルク糸という結論を得た。

ところが、それだけではすまなかった、自分を知るということは。

つまり、「身の程を知る」という宿題もついてくるのだった。

ウールはともかく、シルク糸というのは手編み糸の中でもダントツに高いのである。そこで、できるだけ良質の糸をできるだけ安く買うというミッションに向かって私は邁進した。その結果、気づくと、糸の町といわれる中部地方のI市の問屋さんから直接、シルク糸を取り寄せるおばさんになっていた。それも、大量に。

その問屋さんは主に工場に糸を卸しているらしいが、私のような個人とも取引してくれる。お値段は非常に安い。お願いすると、わざわざ作ったシルク糸の見本帳を送ってくださる。ありがたく、申し訳ないことだ。だが大量生産の糸メーカーと違って、個人に売れる量には限りがあるらしい。なので、この糸がいいと思って追加注文しても「ありません」ということがちょくちょく起きた。そこで私は、気に入った色の糸を見つけるとかなりの量を注文するようになった。

そのうち、あまり大量に買うので気がひけるようになり、「友人と分けますので」などと、嘘八百をメールに書くようになった。すると先方では、私を編み物の先生かニットデザイナーと勘違いしたのであろう、「お友達の先生にもよろしくお伝えください」などと書いてくださるようになり、私はどきどきしながら「友人もこの紫は気に入っていました」とか「来年のグループ展に使うそうです」などと書いてさらに大量注文するようになり、架空人格も取引量もどんどんエスカレートしていったのである。

そもそも、身の程を知り、節約するために問屋さんにたどり着いたのではなかったか?

それなのに何をやっているのだろうか?

結局、私はアフガン・ハウンドやロックスターでないばかりか、多少寒がりの都市生活者ですらなく、単なるお体裁屋だということがはっきりとわかり、それ以降糸は買っていない。

何と無駄な時間と無駄なお金を費やしたことだろうか。アフガン・ハウンドやロックスターになれそうな糸は、引き取ってくれる人もおらず、ヤフオクで売りました。

今振り返って思うのは、私が髪をいじったり編み物をするのは「毛づくろい」の一環であり、毛糸を買うこともたぶん毛づくろいの一種だったということだ。

消費生活的毛づくろい。

要るものもないのに何となくコンビニ行っちゃってスイーツ買っちゃうとか。

使わないのにステーショナリー買うとか。

皆さんいろんなことやってらっしゃるじゃないですか。

あれ全部、消費生活的毛づくろいだ。

兎も猫も毛づくろいをする。あれは、自分の体表を清潔にしたり温度調節をするほかに、リラックスするためという意味もあると、専門家は言う。そんなこと知ってらあと、私は思う。そんなこと髪の毛いじりと編み物をする私はよく知っている。

自分を退屈させる会議やシンポジウム、自分を困惑させる要求(締め切り)、自分を当惑させる提案(テレビに出てくださいとか)、自分を心底参らせる不測の事態(子どもが困っているとか悲しんでいるとか)、つまり人生上の大小の不都合が起きるとその五、六時間後とか翌日とかに、私は髪の毛をいじっている。すぐにいじるわけではないところがポイントだがなぜなのかはわからない、でもとにかく、髪の毛をいじっている。

私は髪の毛が長いのだが、長い髪を触りながら、どうやら時間の感覚を再確認しているらしい。

例えば、星を見て「あの光は何億光年も前に出発したもので、今はもう星自体はないのかもしれないよ」とか、言うでしょう。それに近い感じ。つまり長い髪の毛の根本と毛先には、時間差があるんですよ。「この毛先も、過去のあるときは根元だったんだよ!」って思うと「あの星はもうないかも」と言われたときの百分の一ぐらい、一瞬、くらくらしませんか?(しないか)。

けれども髪の毛にも毛糸にもシルクに糸も、生命体の時間の流れはしっかりと刻印されているのである。それに触っていると落ち着くというのは拍子抜けするほどまともな話じゃないだろうか。

関係ないけど「落ち着く」ってすごい言葉だと思う。落ちて、着くんだから。落ちても着かなかったら落ち続けることになるので、それはとても辛いし、怖いでしょうね。

落ち着いた私の押入れにはまだシルクの糸がいっぱいある。これだけの糸で、残りの時間、どれだけの毛づくろいができるのかな? これから目が衰え、手が衰え、脳が衰えていく。衰えのスピードと糸のストック量が追いかけっこするような最終ラウンドが、多分もうそろそろ始まる。でも、もし糸が足りなくなったら、編んだものをほどいて編みなおせばいい。

編み上がったものは面に見えるけど、ほんとうは線だということを私は知っている。編み損なったり、途中で嫌になった編み物も、ほどいて糸にしたらまた使える。糸である以上、線である以上、たぐり寄せることができるし、味方につけることができると暴力的に信じている。

それが糸で、細長いということ、そして糸には始まりと終わりがあるということ、つまりは直線の定義そのものだということ。それは、一人の人間の時間には始まりと終わりがあるということと相似形だ。そして編みはじめたら、一玉のシルク糸に濃縮された何十匹もの蚕の時間について私はもう考えない。

その代わり、蚕や羊の群れの方へ、髪の毛もろとも、頭から突っ込んでいくようにして、手持ちの時間を編み倒す。

AHAMAY

北村周一

ただしくは、AHAMAY~その右横におなじみの音叉のマークが並んでいる。

それは、ベージュの色のワイシャツに縫い付けられた刺繍の文字、この会社のロゴマークでもある。

もっとただしくいえば、それらはすべて目の前の鏡の中の現実だ。

ぼくはいま、洗面所の鏡の前に立っている。

音叉が三つ重なり合っている。

見ようによっては、アルファベットのYの字に見える。

このブランドの頭文字でもある。

ほんらいなら、アルファベットの左側に位置しなければならない。

AHAMAYのそれぞれのアルファベットが、いずれも左右対称なので、音叉三つのマークともども違和感がない。

そのロゴマークの上に、自分の顔がある。

見慣れた顔である。

目が二つ、こちらを見つめている。

鼻先に視線をうつせば、鏡の中の自分も同様の態度をとる。

まるで、鏡の裏側にもうひとりの自分が入り込んでいるようだ。

しかしながらどこか不自然である。

自分の顔は、まったき左右対称ではないはずだ。

鏡面に映っている顔は自分のものでありながら、自分ではない。

思いかえせば、若い頃、ずいぶんと自画像を描いた。

自画像といっても、ほかに描く相手がいなかったからそうしたまでのことで、廉価な手鏡に映し出された自分の素顔を紙やキャンヴァスに描きとめるしか方法がなかったのである。

それはそれで興味深い訓練でもあったけれど、描かれた自画像が、ほんとうの自分の顔といえるかどうかは釈然としない。

自分が見ている鏡の中の自分と、ほかの人が見ている自分とは、あきらかに異なっているはずだろうから。

なぜなら、鏡の中の自分以外の背景は、ことごとく左右が逆だからである。

しかし驚くべきことに、天地に間違いは見当たらない。

写真機の仕様が現在のようになって、百年近くが経過しただろうか。

写真という、新しい技術によって、ひとは初めて自分の姿かたちを知るようになった。

それは鏡や水面に映っていた自分とも異なるし、肖像画家が描いたひとの顔かたちとも違っていた。

とはいえ、文字通り天地が逆転するほどの驚きでもなかっただろう。

自然は左右対称を欲する、たぶん上下においても、そのように計らおうとする、ように見える。

ひとの顔も、微細なところを省けば、ほぼ左右対称に見える。

見るときに、なんらかの作用が働いている。

抽象(捨象)という概念がアプリオリに働いているように見えるのだ。

洗面所の大きな鏡の前に立ちながら、右手に櫛を持ち髪とかすとき、不意に左右の区別がつかなくなるときがある。

そんなとき、着ていたワイシャツの左胸に目を遣り、あらためて三つの音叉のロゴマークからそのアルファベットを読み直す。

*ヤマハ発動機と、楽器関係のヤマハとでは微妙にロゴマークが異なります。ここで取り上げているのは、ヤマハ発動機のロゴです。くわしくはこちらまで。➡ https://www.yamaha.com/ja/about/history/logo/

しもた屋之噺(215)

杉山洋一

ローマに向かう機中でこれを書いています。ふと気になって窓の日除けをあけて外を眺めると、雲一つない透き通った漆黒がうつくしく、凝らしていた眼が馴れてくると、右奥がほんの少しまだ黒い水平線と空との境界線が見えます。その奥深く、ほんの赤ん坊の足の爪のように細く小さな月が橙色に燃えていて、周りに星一つなく、孤高に光を放っています。どうやら星たちは、ずっと天の上の方で瞬いているようです。

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11月某日 ミラノ自宅
14年前から住んでいる拙宅の玄関の鍵が回らなくなって、ボローニ金物店に相談にでかけた。老夫婦二人で経営していて、外装といえばイタリアらしいくすんだ深緑のペンキで塗られたシャッターにFerramenta Boroniと書いてあるだけで、足を踏み入れれば、まるで数十年間変わっていないであろう古い鼠色の整理棚がびっしり並ぶ空間だったから、時々訪ねては老夫婦と話し込むのが好きだった。

鍵が壊れたので久しぶりに店に顔を出して四方山話をしている、右の棚に高さ20センチほどの黄金色のメダルが飾ってあるのに気が付いた。ミラノ市がこの金物店に贈ったもので、1929年から続く歴史的商店として表彰されている。反対側の壁を見ると、そのメダルの内容と同じ表彰状が、大切に額に入れられて飾ってあった。聞けば店主の祖父の代からミラノで金物店を営んでいて、このジャンベッリーノ通りには1930年後半に移ってきたという。1929年というのは、ミラノ市が商店開業に際しライセンスを発行するようなった年だそうで、実際は1922年から店主の祖父がポルタ・ロマーナで金物屋を開いていたと誇らしげに話してくれた。

ふと、目の前のA4ワープロ打ちの文章に目が留まる。「この11月16日をもちまして閉業いたします。長らく有難うございました」。別の商店のお知らせかともう一度読返すと、閉業するのは何とこの金物屋だった。

驚いて目の前の老夫婦に次第を尋ねると、すっかり歳を取ったので体力的に厳しいし、市から帳簿はインターネットを使えだの言われて困るし、息子は今は建築の仕事に携わっていて、高速道路を設計しているからね。この店なんて継がせられない。と、少し嬉しそうに話した。

店主に腕の効く鍵職人を紹介してもらい、拙宅の玄関扉は直ったので、家人のCDに「有難う!」とサインをして金物店を訪れたところ、もうすぐ閉店だと言うのに、店には老夫婦以外誰もいなかった。二人共うつろな顔をしていたが、CDを差し出すと急に嬉しそうに笑顔になった。ここで話しこむのはちょっと辛いと思い、「じゃあね、またね」と言ってすぐに外に出てしまったが、日本から帰るころには、この外装も変わっているかと思うと寂しい。ここで何度ナポリ式の旧型コーヒーメーカーを買ったことか。このコーヒーメーカーは普通の店には売っていない。鍵職人を紹介してもらったお礼に、売れ残っていたナポリ式コーヒーメーカーを二つ購入した。

11月某日 ミラノ自宅
音楽家をもう随分長い間やってきているのだが、未だに楽譜を広げる度、自分はどうしてこれ程譜読みが遅いのかと思う。譜読みが遅い上に性格は大雑把で、不器用である。乱視の老眼のお陰で目が困憊するし、いつも絶望しながら楽譜を広げる。

頭から精読してゆく性分ではないので、大雑把に全体を何度も眺めてゆくうちに、少しずつ細かい部分に目がゆくようにし、音が鳴るよう努力する。指揮の譜読みは気の遠くなる作業だと思う。初めてエミリオのところにシューマンの交響曲を持って行ったときも、この音符を一つずつ読むことは自分には到底できないし、根気も続かないと思ったが、辞めさせて貰えぬまま、未だに何故こんな慣れないことをやっているのか不思議でならない。単に他に食い扶持がなかったのだから仕方がなかったのだろう。指揮する上で、楽譜を読む作業は8割か9割の仕事量を占めるはずだ。

何度も根気よく続けてゆくうち、炙り出しのように、音が少しずつ浮かんでくる。それは現代作品であれ、古典であれ、ロマン派であれ同じ作業だ。音を単に音として認識するのと、音楽として認識するのは全く異質だ。文字として認識するのと、文字が連なって単語として意味を含めて認識する違いだ。音楽としてスコアから音楽が浮かび上がるときは、まるで三次元の写真や絵を鑑賞するような愉悦を味わうけれど、それは最後のほんの一瞬であって、そこに至る過程は、苦痛と絶望の連続だ。

京ちゃん曰く「洋一くんはやっぱり細かいよねえ」、だそうだが、こちらから言わせれば、正反対である。尤も、彼女と長らく親友として付き合えるのは、丁度反対の性格だからに違いない。

11月某日 ミラノ自宅
折り畳み自転車を抱えて、日帰りでジュネーブに出かける。必要最小限しか楽譜が読めていなくても、とにかくイサオさんと新作の打合せが必要なのは楽譜を開いた瞬間にわかった。自分が理解できるまで読み込むべきものと、実際にやって疑問を氷解させるべきものがある。ちょうどイサオさんがコンクールの審査員でジュネーブ滞在中だったので、コンセルヴァトワール・ポピュレールの地下の一室を借りていただき、リハーサルをした。

ワインセラーのように掘られた地下3階の部屋の入口は、思わせぶりの鉄格子がかかっていて、少し不思議な部屋だった。暴力とや迎合が主題の新作にはお誂え向きの場所だったのだが、それすら気が付かないほど、二人ともリハーサルに熱中した。途中、イサオさんが近所でサラダとフォカッチャを買ってきて、このワインセラーで一緒にお昼を食べながら、初対面だと言うのにすっかり話し込んだ。話題は音楽のみならず、子供の教育環境や政治にも及んだ。イサオさんは、カールスルーエに自ら友人たちと日本語の補習校を開いて、娘さんはそこで日本語を学び韓国語は別の韓国語学校で習得して、ドイツの公立学校を進学して、今は大学に通っているという。

イサオさんの音がとても生命感に溢れていて、愕くのと同時に一緒に演奏するのが本当に愉しみになった。聞けば韓国民謡に新曲のパートを当てはめ暗譜したそうだ。彼は躍るように演奏し、音は彼の音楽と共に躍る。

11月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりにジャコモ・マンゾーニからメールが届き、開いてみるとエウジェニアの訃報であった。11か月に及ぶ闘病生活はいよいよ苛烈になり、最後は手の施しようがなかった。気にかけてくれているのは知っているのでお見舞いなど一切無用だ、と教会嫌いの共産党員らしいメッセージが続く。

エウジェニアはヴェローナ生まれで、ドナトーニの幼馴染だった。戦時中ナチスがヴェローナを跋扈していた頃のエピソードなど、ドナトーニの話としばしば合致した。少し濁った音のヴェローナ訛もドナトーニと一緒で、本当に溌溂とよく話す、小柄で闊達な老婦人だった。戦時下、彼女の家にユダヤ人を匿っていて、そこにナチスの憲兵がピアノを練習させてほしいと訪ねてきた話など何度も聞きながら、戦後イタリアの文化人が揃って共産党員になったのは、戦時中のナチス体験や、その後の内戦が酷く影を落としているのを感じていた。マンゾーニやブソッティのような作曲家、アバードやポリーニような演奏家、パゾリーニのような文筆家のように政治色を詳らかにする時期もあった。

今の若いイタリアの学生からすれば、別の星の出来事のように感じられるかもしれないが、25年前にイタリアに住み始めたばかりの頃は、まだその雰囲気は微かに肌で感じられた。今となっては貴重な体験だったと思う。

11月某日 三軒茶屋自宅
ニュースに映る香港の理工大の大学生たちの姿が、半世紀前のボローニャ大学の占拠や、世界各国の学生運動を想起させる。思想的にはまるで違うが、それぞれの自由思想が行動を起こさせたところは似ている。天安門事件のニュースを見た時は、まだ何も理解出来なかったが、香港では中学生までも自らの信条に基づきデモに参加していて愕く。日本に滞在するチベット難民と知り合ってから、中国各地の民族浄化政策なども、より身近に感じられるようになった。

ところで、日本でポータルサイトのニュースを読むと、見たくもないインターネットゲームや成人漫画の宣伝ばかり写りこむのは何故だろう。その隣に、少女がSNSで知合った成人男性から事件に巻き込まれ、などと書かれてあって、暗澹たる気分になるので、ポータルサイトを読まなくなった。自己責任という言葉を誰もが気軽に口にするようになったのは何時からか。現在のようなインターネットに匿名性は必要ないし、SNSやインターネットゲームで子供が事件に巻き込まれるなら、目立つところになぜ宣伝を出すのか。子供に毒を撒き散らす、我々にも責の一端はないのか。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの新作も、京ちゃんの「むすび」も、悠治さんの「歌垣」にも、雅楽や雅楽の手法が使われているが、それぞれ全く異質な結果をもたらす。我々が継承してきた文化とは、実は幅広い可能性に満ちている。細川さんと悠治さんが繋がっている印象はなかったのだけれど、考えてみれば、イサン・ユンを通して近しかったに違いない。

細川さんの楽譜を読んでいて、音楽の本質とオーケストレーションとの同一性に感嘆する。当然のようだが、音楽の本質とオーケストラの質感が同意義である必要はないし、そうした作風は決して多くない気がする。

細川さんご自身、自作を書道に喩えられるから、本質と形象が密接に繋がるのは当然だが、細川作品の演奏のむつかしさは、演奏の瞬間、演奏者の意識が、たとえば書道で言えばどこにあるのか、それを理解する必要ではないだろうか。

筆を進める書家の魂なのか、手の動きを客観的に凝視する第三者の眼差しなのか、半紙の側から目の前に迫る筆先や垂れたり、ほとばしる墨汁を間近に見続けることなのか。書家の魂は、その意識が筆先に向けられているのか、空や宇宙に向けられているのか、或いはどこにも向けられず、自分の身体の中に留めておくべきものなのかによって、紡がれる音楽は大きく変化する。リハーサル中これらの意識をさまざまに試して、その度毎にオーケストラの音が移りゆくのは興味深い経験だった。これらの意識は細川作品に留まらず、どんな作品にも応用できるはずだ。

11月某日 三軒茶屋自宅
ライブラリアンの糸永さんの発案で、今回初めてアルファベット札に挑戦した。かなり複雑なので本番うまく出来るか心配だが、今のところ何とかやり過ごしている。多分これもアルファベットを使わなければ大変なことになっていただろう。

都響と演奏するときは、込入った事情の作品が多いからか、決まって、オーケストラの演奏者や、裏方一人一人の優しさと責任感に圧倒され、演奏していて言葉に表せない不思議な一体感に包まれる気がする。

前回の仕事も「作曲家の個展」だったが、同じ感銘を受けた。オーケストラ全体のプロフェッショナリズムが、音楽を包み込んで高次元の演奏へと昇華させてゆく。

具体的に言えば、最終的に、演奏が色を帯びてくる体験であったりする。今回ならば、望月作品でさまざまな色彩が走馬灯のように変化してゆき、細川作品では、単色の光度が非常に複雑に変化しつづけてゆく。光度がどんどん上がれば、どちらも大きな煌めきに収斂するのかもしれないが、そこに至るアプローチは全く違うものだ。

京ちゃんの「むすび」など、何となく皆が見えていた色彩が、練習するたびに明晰になり、彩りそのものが主張を始める。指揮者としてはその時間を共有できる愉悦に浸れて、それまでの苦労を忘れられる瞬間だ。音楽のもつ至福は、現代作品にもしっかりと存在している。

11月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、久しぶりに父の好きなショートケーキを携え、両親宅に顔を出す。好物のカキフライと一緒に、珍しく頂き物の「くさや」が食卓にのぼった。大学の作曲科合宿で毎年夏に新島に出かけると「くさや」を食べた。何十年かぶりのトビウオの「くさや」は殊の外美味で、幾ら食べても飽きない。

普段はあまり食べないのだが、もう少しで五十の誕生日ということで、今日ばかりは父に勧められるまま、自らの誕生日祝にと、一緒にショートケーキを食すことにした。

母曰く「この歳になるまで生きているとは思わなかった」そうだ。戦時中は天皇陛下は神さまだと信じていたから、戦争が終わって大人が手のひらを返したように言うことを変えて、子供心に人間不信に陥ったと言う。

「当時は皆荒れていたわよ」と言葉を続ける。学校の教師も、戦後は皆とても乱暴になった。当時水泳でオリンピック出場候補だった母の姉の水泳仲間はみな特攻隊に取られ、二人だけ生きて帰ってきたけれど、いつも眉間にしわを寄せ、酷く陰気でやさぐれていた。生きて帰ってこられて倖せとは到底思えない状況だったのだろう。

「あとは皆死んじゃったわよ。特攻に出かける前の最後の休暇には、よくうちに皆ご飯を食べに来てね。その度に着物を売ってお金を作っては、砂糖を買ってお汁粉を作ってあげたりしたものよ」。恋人でもなかったのに、何故わざわざ来たのか尋ねると、遠い郷里に帰る時間すら貰えなかった水泳仲間が、当時横浜に住んでいた母の家にご飯を食べに来たのだと言う。自分が生まれるほんの25年ほど前の話だ。

あなたには、小さい頃から人の意見に流されないで、自分の頭でしっかり物を考えるよう諭して来たのだけれど、覚えているか、と尋ねられて、覚えていないと答えると母は少し残念そうに笑った。言われてみればそんな気もするし、何れにせよそう諭され育てられただけの性格ではある気がする。

11月某日 三軒茶屋自宅
細川さんの作品を演奏していて、不思議な体験をする。目の前に別の透明の空間がふわりと口を開け、すっと音楽がそこに入り込み、まるで音符が天の川のように光りうねるのだった。かと思えば、清涼で穏やかな心地で、吹きすさぶ嵐に立ち尽くしている錯覚にも陥った。音を読み、楽譜上で理解できることは、音楽の一部でしかない。

11月某日 機内にて
京ちゃんより頂いた「作曲家が語る音楽と日常」を読む。表紙を開くと「杉山洋一さま いつも精一杯のお心尽くしありがとうございます! 私の音楽にいつも命を吹き込んでくださって、本当に感謝しています 京」と書いてある。

彼女の文章のリズムも言葉も実にうつくしく、彼女の書く音楽と同じ響きがする。このうちのいくつかの文章は、既に新聞紙上で読んだものもあったし、特にお父さまの下りは、彼女から直接話を聞いたことも沢山載っていた。

「音楽は特に好きというわけでもなかったが、”もう一度サントリーホールでみさとの曲を聴きたいなあ”と言われたときには思わず涙がこぼれそうになった(94頁)」を読んで、本当に泣いてしまった。

昨日確かにあそこにお父さまはいらしたと思う。不思議なことだが、最後のドレスリハーサルの時から、本番はうまくいく安心感があった。口には出さなかったけれど。もし本番の演奏を京ちゃんが喜んでくれたのなら、それはお父さまのお陰だと思う。

「そこには何より、この場に関わるあらゆる人々へのリスペクトがあった。それは、異なる時代や人々をつなぐ結び目という、芸術の重要な一昨日を照らし出していた(175頁)」。

この本にたびたび登場するご両親や妹さんたちと一緒の京ちゃんの結婚披露宴の席で、新郎のオーレリアンが「みさとさんが書いた”むすび”という曲があってとても好きなのですが、彼女は音楽を通して人びとを繋いでゆくんです」、そう愛情に溢れる顔で語った。あの結婚式で、オーレリアンの願いで京ちゃんが纏った十二単がとても美しかった。あれは震災から未だ一か月経つか経たないかで、日本中が大変な時だった。

(11月29日 ローマに向かう機中にて)