言葉と本が行ったり来たり(24)太陽がいっぱい

長谷部千彩

こんにちは。六月最後の週末、海辺の部屋でこの手紙を書いています。昨夜の大雨のせいで今日は雲が多く、あいにく太陽は見えないけれど、十分すぎるほど明るいのは、眼前に広がる海に光が反射しているから。むしろ眩しすぎず、読書にはうってつけの日よりです。
この場所へ通い始めて半年が経ちますが、滞在の目的はバルコニーに椅子を出して、のんびりと海を眺めること。そして波の音を聞きながら本を読むこと。小さなボリュームで音楽を聴くことも楽しみのひとつです(時にはうたた寝も)。辺りを散策すれば、史跡名所や洒落たショップなどいろいろとあるようですが、ひとの多い東京で暮らす私には、海しか見えないこのバルコニーで過ごす時間が何よりの贅沢。日が昇り、日が沈むまで、できる限りここに座っていたいのです。
ひとつ発見したのは、私にとってリラックスできると思っていた曲が、ここで聴くと意外とテンポが早く、緊張感のあるものだったということ。波のゆらぎの前では、それらが都会の音楽であることを認めざるを得ず、同時にそれらを安らぐと感じるほど速度のある街で私は生活しているんだなと改めて気づかされました。
でも、だからといって、こちらのほうが、とはならないのですが。やっぱり私は都会の暮らしを愛している。海辺の部屋に滞在しながら、頭の片隅で東京に戻ったらあの美味しいお蕎麦屋さんに行こうとか、あの美術展にはまだ間に合うかしらと考えてもいる。先ほどバルコニーで過ごす時間が何よりの贅沢と書いたけれど、正しくは、文化をたっぷり享受できる場所と自然をたっぷり享受できる場所、その行ったり来たりが私には何よりの贅沢ということなのでしょうね。随分と平凡な結論になりました。
ちなみにいま聴いているのはパブロ・カザルスのバッハ 。無伴奏チェロ組曲です。ここ数年、クラシックはコンサートホールでしか聴かなくなっていたけれど、この部屋ではまたアルバムをあれこれ聴くようになりました。
東京へは今夜戻ります。それまでパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』を読むつもり。トム・リプリーの最後が映画とは違うと知り、原作を買ってみたのです。まだ前半で、彼らは船出さえしていないけれど、既に映画と違う描写が多々あり、これをああいう風に脚色したのかと興味津々でページをめくっています。東京では人文書ばかり読んでいる私ですが、この部屋では小説をよく読んでいます。作家の方々には申し訳ないけれど、小説って心に余裕がないと楽しめないものかもしれません。

2024年6月29日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(23)『歳月がくれるもの』ふたたび 八巻美恵

果実の身代わり

イリナ・グリゴレ

暴力の泉があるとしたら、山の森の奥にまだ誰も歩いたところに、黄色い岩から流れる黄色い水のようなものだ。傷がついたとき最初に出てくる鮮やかな血ではなく、血が止まった後の黄色いリンパ液のようなものだ、と彼女は想像していた。樹皮を包丁で削り、木にハートの形を刻み込む村の恋人たちを嫌っていた。自分達のイニシアルを刻み付け、それをハートで囲むあの人たちは、永遠の愛を得ていると勘違いをしているだけで、永遠の愛とは人間同士だと難しい、彼女はそう思った。木から出る黄色い液体を彼女は指ですくって食べて見たことがあるけれど、愛の味など感じたこともない。焼きたてパンと果物の方がよほど愛の味がする。樹液は数何千万年もの時間を経て宝石として採掘されると村の図書館で読んだ。最高級の石はハエ、 ハチ、アリなどの昆虫が中に閉じ込められたものだとあって驚いた。

樹液を毎日舐めていた9歳の自分はカブトムシとアリの身代わりになって、それはとても腹心地のいい満足のできる食べ物だと思っていたが、まさか食べている樹液に逆に食べられるなど一度も考えていなかったので恐れを覚えた。けれども同時に何千万年もアリの姿のままであの液体に閉じ込められ、宝石に磨かれて人間の首を飾るイメージはあまりにもおかしかった。本の中でしか見たことないが、あの虫入り琥珀の中のアリがまた動きだしたりしないか何度も確認した。目を逸らした瞬間にまた動くのでは、と。アリを殺すと悪いことが起きると思っていたから、樹液に殺され地中に埋もれていくあのイメージが頭から離れなかった。そう、彼女の生まれ育った村には暴力が溢れていたといつ気づいたのか。目の前で犬が撲殺された時か。いいや。飼っていた白いウサギは野苺のように赤い目玉をしていて可愛かった。ウサギは何匹も飼っていた。毎朝新鮮な草と木の枝をとってきて食べさせていた。たまにもふもふのウサギが毛皮になって洗濯物のように物干しにぶら下がっていた。野苺の眼がもう空っぽになっていると気づいて、命が入ってなかったとわかった。

彼女の村、彼女の世界は命で溢れていた。しかしあの樹液がアリを包み込み殺していくように、地球が同時に暴力で溢れていることに小さい頃から気づいていた。6人兄弟だったので貧しい家族の中で産まれたとも気づいていた。それでも牛を飼って、ヤギを飼って、鶏を飼って、うさぎを飼って、村は果実で溢れていたので食べ物に困ることはなかった。姉は16歳で結婚してすぐ妊娠したので、姉のために毎日下の弟と釣りに出かけていた。そんな人生、貧しい暮らしだったがそれを苦しいと思ったことはなかった。夏になると果実を食べることが一番の楽しみで、川に弟と向かう途中他人の庭に二人で入りこみ、少しだけ食べた。その家の人に気づかれたことは一度もなかった。これも小さい時から観察している虫から学んだことだった。自分と弟の気配を消す技だ。さくらんぼの季節にお腹いっぱいさくらんぼを食べた後で気づく。さくらんぼの中にたくさんの幼虫が入っていたこと。ラズベリーの中にカメムシがいたこと。

人間であっても彼女には虫から習うことがたくさんあった。大好きな果実の食べ方もその一つだった。虫は小さいから少ししか食べないと思われがちだが、実はわざとそうしているのだ。杏の実が庭に落ちている。拾ってみるとまだアリがついている。ハエもたかっている。他にも色々な虫たちがその実のところにやってくる。そして、どの虫も少ししか食べない。わざとたくさんの果肉を残し、他の生き物にもその庭、その土の美味しい実の甘さが届くよう、みんなとその味と喜びを分けている。果実は人間だけのものではない。それに、人間と違って虫の間には暴力という考え方がない。最後に人間は果実を収穫してジャムを煮たり果実酒に漬けたりするが、その前にたくさんの虫がその味を確認していたのだった。

虫と同じ気分で果物を食べ始めたら彼女は一度も大人に見つかることがなかった。虫の時間と動きで行動していたら、虫がカムフラージュするように、村のどこの家の庭に入って果実を食べても誰にも何も言われなかった。弟は彼女を太陽のように見ていた。いつも美味しい木苺、プラム、さくらんぼ、ナッツをくれる姉。彼女だって弟を小さな可愛い虫のように見ていた。彼はとても目が青くて、金髪で、まるで女の子のようだった。気が弱くて泣き虫で、守るべき存在だった。彼女も金髪だったが肌は日に焼けて黒かったし、草むらに入り、木の上に登り、膝や肘がいつも傷だらけで、まるで男の子のような格好だった。釣りも村の誰よりも得意で、自分は女の子だと思っていなかったかもしれない。いつも穴が開いっていたタンクトップと短パンで、髪の毛も短い。目の色は弟の青空の色ではなく、灰色に近い色だった。同年代の男の子よりネズミ狩り、釣り、木の実の知識、土地勘が優れていた。ただし、欲するままに取りつくすことは許せないのだ、と観察していた虫たちから教えられて覚えたので、自分と弟の食べる分しか取らない。

けれども、この幸せな暮らしは長くは続かなかった。ある日、彼女は泣く弟に腹を立てた。お腹が空いていた彼はもっとラズベリーが食べたいといつも入っていた空き家の庭で喚いた。彼女は代わりにモモをあげた。でも弟は泣きやまず、アリが食べていたそのモモを地面に投げつけ、足で潰した。モモのなかで食べているアリも潰された。彼女はこれをあまり良い兆しではないと一瞬で覚ったけれど、何もすることができなかった。それでも川に行ったさきでフナがたくさん釣れたことに気を取り直し、二人で牛と一緒に川に入り体を洗った。そうしたら、川から上がった後で彼女の腕に人生で初めて見たと思うほどの大きなヒルがついていた。それを見た弟はいきなり大声で泣き始めた。その声に彼女はびっくりして自分の身体を見ると、腕だけではなく身体全体にびっしりとヒルがたかっていて、自分の血が全部吸い込まれるのではではないかと感じたほどだった。落ち着いてくっついたヒルを一匹ずつ引き剥がして川に捨てた。何日間も皮膚に跡が残った。首と耳の下には一生消えないアザになった。小さな虫のようなものたちは暴力的ではないと思っていたけれど、あのヒルのせいでこの地球の全ての生き物が暴力的なのではないかと疑うようになった。そうだ、果実を食べていた自分はヒルの果実の身代わりとして食べられたのだ。

彼女にとっての本当の暴力がその後の人生から始まった。しばらく近寄りもしなかったラズベリーの庭に弟と再び入ってみた。すると家の中から音が聞こえ、窓を見ると家に一人の老婆が椅子に腰かけたままじっと座っていた。よく見ると足に怪我でもしたのか、象のように腫れ上がっていて皮膚も半分ほど腐っている様子だった。老婆は大柄な体つきで、椅子から何百年も動いてないという印象だったけれど、急に頭を動かして窓のほうを振り向いたのでびっくりして逃げようとした。そしたら背後にも誰かがいてぶつかって転んだ。弟が泣き始めた。高校生くらいの男の子が、家の中にいる老婆と同じようなメガネをかけ、その目で彼女と弟を見つめていた。

後でわかったことだが、その人物はあの女性の孫で、夏休みにいつも村に遊びに来ていた若者だった。何より驚いたのは、彼は彼女と弟が庭で果実を食べに来るのを知っていて、いつも見張っていたのだった。その家はそもそも空き家などではなく、足が腐ったおばあちゃんの住処なのだった。彼女が患った足が腐る病気は砂糖の取りすぎで、なにか難しい名前の病気だったので、「あなたたちも果実を食べすぎると病気になるよ」と言われた。でもたまに遊びに来て、と彼は寂しそうに誘った。彼女は初めて街の人と会って、砂糖をほとんど口にしたことのない二人に彼はチョコレートをくれた。彼女が止める前に弟はチョコレートを口に運び、口の周りを真っ黒にして、笑いながら美味しい、美味しいとあたりを飛び回って喜んだ。

彼女は怒って、喜ぶ弟を連れてすぐその庭から逃げた。もうすぐ秋で、夏の果実の季節も終わりに近づいて、入れ替わりにクルミ、トウモロコシ、ブドウの季節がやってくる。そしたらもうあの庭にいく必要はない。あの若い男性もとても恐かった。彼の周りはガとスズメバチが飛んでいるような暗い雰囲気があった。たまに村の唯一の店まで父親のタバコを買いに行った時に見かけたが、彼女を変な目付きで見て、チョコレート、角砂糖、飴など甘い物をくれようとする。すぐ逃げた。

ある朝、ヤギと牛のミルクを絞ってバケツに集め、煮沸消毒する手伝いのために弟を探すがいくら探しても周りにいない。牛の乳から直にミルクを飲むのが好きな弟は、普段なら近くにいるはずだが、その日は姿が見当たらなかった。半日経ってもいつも遊ぶ周りにさえいないので探し始めたけれどどこにも姿がない。最後に思いついたのはあの家だった。近づけば近づくほどたくさんのハチに刺されたように皮膚にブツブツが出ている気がした。庭から弟の声が聞こえたような気がして急いでフェンスをよじ登って乗り越え、家のすぐそばに降りた。そして窓から家の中を覗くと、ベッドの上で太った女性が死んだように寝ていた。足の傷から滲む血のせいで白いシーツが汚れていた。

彼女は気分が悪くなり吐きそうになったが、その後で目に入った光景が人生で一番恐ろしいイメージとなった。物置から声が聞こえ、すぐにそこへ向かった。中に入ると裸にされていた弟が泣いていた。彼の後ろにはメガネを外した汗だらけのあの街からきた高校生が興奮したような鬼のような形相で立っていた。床には溶けた飴が落ちていて、埃まみれのそれを食べようとアリがたかって黒く固まっていた。彼女は声を出そうとした。あのときもし声を出すことができていたら、その後はもっと違う人生となっていたはずだと何度も思った。でもその時は口を開けても声が出なかった。半分開け放ったドアに虫のようにぶつかって逃げた。弟を家に連れ帰り、祖父にあの家に行くように伝え、その後爆発のような光を脳裏に感じた。

彼女はしばらくの間言葉を喋れなくなった。大好物の果実を食べることもできなかった。ただただ、石に潰されるアリのように自分のその後の人生に潰された。姉と同じ16歳で結婚し、村の店で働き、夫の暴力を毎日受けながら子供を3人産んだ。彼女の願いはあの男が死ぬこと、それだけだった。あの日の出来事が何をしても忘れることができず、自分も砂糖の取りすぎからか糖尿病を患い、ずんぐりと太った身体を村の医師から何度注意されても賞味期限が切れたチョコレートと飴を店で買いあさって食べ続けた。そしてこの生活から解放される日がきた。あの男が自分で首を絞めて死んだという知らせが入ったのだ。彼女はあの庭に何年ぶりに戻り、草むらにラズベリーを見つけて食べた。口の中にカメムシの味が広がった。死んだら、アリになりたい、虫になりたい、と思った。

235 駅に鳴る

藤井貞和

駅に鳴る高田馬場の発車音。省線電車の通過 まぼろし 
電化こそ 戦後のあかし。夢灯る 稲沢駅の電気機関車
東海道本線、「つばめ」走り来る丹那トンネル、架線(がせん)のこすれ
停電を繰り返すなり、感電も。日に一度、二度、理科部員、われら
 ○
全児童をまえに研究発表する少年の結論――水は電気を通しません
アトム、ナウシカ、AKIRA、ゴジラ。四大アニメすべて原子力(川村湊)
誇るべき少年文化、幼きがいつか推進の徒になる原子力
ゆけ、われら、人力発電所を発明し、つみほろぼしの子々孫々に
黒雲の国に葦葺く二十一世紀。省線電車よ、われらを乗せて
  ○
回し読みする一冊の『少年』誌。われら御用学者の汚名をいまに
夢の原子力、平和産業の思い、黒雲となる御用学問
信じられる! 安全管理、その努力! だましたりうそついたりするはずがない!
御用学者われらよ、ラララ 科学の子。戦後を誇る平和のあかし

(御用学者とは「非難」じゃなくて、文学だっても御用じゃない? 『少年』は掲載誌、一九五一年四月かな、連載がはじまった。
 原発「増設」認める方針、経産省
  廃炉分、自社の他原発に建て替える
   二〇二四年六月一六日附け〈朝刊より〉。)

失敗の判断、判断という失敗

高橋悠治

先月の実験「白鳥の」は演奏してみて、そう悪くはなかった、と思ったのは、ピアノを弾いていて、「風ぐるま」の仲間たちと違和感なくできたからかもしれないが、楽譜として客観性があるのか、知らない演奏家たちが、指示なくわかる楽譜なのか、そこはわからない。

最少限の 記号を使う、という考え方自体、20世紀後半の考え方から脱け出せていないのかもしれない。「考える」ということ自体、あらかじめ構成した何かを試してみる時には、良いと思えることが多いかもしれないし、何かが起こってから判断するのでは、自分の手が加わっている以上、客観的な判断になっていないのかもしれない。だが、客観的な判断などというものがあり得るだろうか。

少ない記号だけを使って、それぞれの記号の範囲を広げてみると、記号自体が曖昧な(粥のような)になっているのか、せいぜい重なる範囲を持つ、と言ったらいいのか、たとえば、「短い音」は「長い音」との比較でしか決まらないから、それ自体ではなく、その環境のなかで初めて範囲が決まるものとなり、ドリーン・マッシーの「場所」のように、動かない点や、内外が決められた輪郭ではなく、時間とともに呼吸する空間の過程であるような、そうなると、時間も空間も、固定した軸ではなく、そのなかの物と一緒に揺れ動く膜であるようなもの、となると、定義された記号の束ではなく、前例に似た見かけ、その変化とも感じられる、厳密に定義されていない、自由な走り書き、空白の多いスケッチ(ルネ・ディドロの素描 rapidissimi)から思い描くなかで、多様で矛盾を含む線や斑点の遊びのあいだから、意図されない線が見えてくるならば、その先もあるだろうか。

考える習慣をやめて、感じるのはむずかしい。以前は、目覚めた時に、幻覚ではないが、音の動きを指に感じることがあったが、この頃は、空白のままだ。構成を通さずに、感覚の雫が降り積もる塔を、眼で計るより指で触れながら残していく忍耐を持てるだろうか。図書館で偶然眼にしたボリス・ピリニャークの『機械と狼』をめくりながら…

2024年6月1日(土)

水牛だより

きのうの天気予報では暑くなるといわれていた東京ですが、あにはからんや、晴れる時間も短くて涼しい夕方です。初夏ともいいがたい、不安定な夏に近い一日です。

「水牛のように」を2024年6月1日号に更新しました。
新年度の疲れがたまってくるころだからか、今月はお休みの人が多いのですが、年に一度くらいの割合で続いている「編み狂う」が届きました。
その昔、水牛通信を編集していたころ、津野海太郎さんが当時暮らしていた荻窪で、近くに住む女性から編み物を習っていたことがありました。どんなことも自分なりの論理で納得していた津野さんは、編み物っていうのはさ、毛糸を2本の編棒の左の棒から右の棒へ移していくことなんだな、と言うのでした。そうね、その通りです! あのとき、何を編んだのだったか、きっとメリヤス編みのちいさなマフラーくらいだったはず。でも、実際に手を動かしたからこそわかることもあるという、ひとつの思い出です。
神奈川近代文学館で明日までひらかれている橋本治展、手編みのセーターが展示されているのを見たいと思っていましたが、果たせず残念です。

それではまた来月に!(八巻美恵)

編み狂う(12)

斎藤真理子

「あと一段、あと一段」と思っているうちにどんどん時間が編み目に溶けてしまう。それが編み物の魔法。
 みたいなことをここに何度も書いてきたが、実は、「あと一段」というのは、正確じゃないと思う。
 なぜなら編み物(ここでは棒針編みを指す)は基本的に、二段がセットになって進むからだ。
 針を持ち、糸をひっかけ、右端から編み始めて左端まで至る。これで「表を一段編んだ」ことになる。
 そしたら次は編み物を裏側にひっくり返す。さっき編み終わった左端がこんどは右端になる。そこからまた編みはじめて左端まで至る。このプロセスが「裏を一段編んだ」ことになる。
 これが一緒になって、編み物ワールドの基礎地盤を作っている。
 行って帰って1セット。二段そろって1セット。編み物の表面にあらわれるいろんな模様は、表の段を編むときに操作を加え、裏の段を編むことでそれを定着させるというオペレーションで成立する。だから、完成形の編み物の段数は必ず偶数だ。奇数で終わることは、原則的にありえない。
 そして、どうやらこの「二段で1セット」というのが、時間を溶かす魔法のキモらしいのだ。
 特に私のような、模様編みばっかり編んでいる人間にとってはそうだ。表でやったことの結果を、裏で出す。繊細なレース模様も、大胆なアラン模様も同じ。この二段セットのリズムが、いっそうの馬力を蓄えて、編み棒を持った私を押すのだ。
「表・裏、表・裏」、「1・2、1・2」。このリズムに乗ってしまうと、あとは白熱するのみ。「早く裏を編んで、確認/納得/高揚したい」という強いモチベーションに駆り立てられて、二の倍数で時間が収奪される。階段を一段飛ばしでガンガン上っていくときみたいな乱暴な推進力である。
 このように駆り立てられた「表・裏、表・裏」のリズムは、例えば

 実行⇄定着
 実行⇄確認
 
 というプロセスの反復かもしれないし、また、

 呼⇄吸

 という身体の機能にも似ている。
 それはランニングのときの「スッスッ・ハッハッ」にもちょっと似ていて、だから編み物ってほんとに有酸素手芸だと思う。もう一度くり返すと、ここで言ってる編み物は、棒針編みだ。かぎ針や刺繍の規則性はちょっと種類が違っていて、このリズムは生まれない。
 そして、さらに恐ろしいのは、この「二段1セット現象」が、表と裏とで打ち消し合って、無の境地をかもし出すことだ。
 編み狂っていて加速度がついてくると、頭の中に「虚⇄実」とか「肯定⇄否定」とか「種まき⇄刈り取り」みたいな情緒が立ち込めてくる。実際には、編み物はどんどんできていくから、プラス、プラス、プラスの世界のはずなんですよ。でも、毎段裏返すからか、二段ごとに必ず原位置に戻るからか、手元にはプラスマイナスゼロの感触が残りつづける。
 輪をかけて白熱してくると、「虚無⇄充足」「妄想⇄現実」「一瞬⇄永遠」といったバリエーションがどんどん繁茂してきて、それは最終的にはどこかで「生⇄死」のプラマイゼロに通じているに決まっているので、編み物に油が乗ったときは最終的に無常感に接近するのである。
 だから、編んでいるときの実感としては、前へ前へと進んでいる感じはない。永遠に表と裏を反復して、足踏みしながら何かを目撃しているというか、ランニングマシンの上で無限に祈っている感じというか。
 そのとき、表・裏・表・裏のオペレーションに乗って、とてもネガティブな感情が湧いてくることもある。「アノヤロ、コノヤロ、バカヤロ」とか、「とりかえしがつかない、つかない、つかない」とか。
 たぶん、編んでいるときがいちばん身も蓋もないことを考えている。だけどそれも裏の段を編むときに去勢され、なし崩し/腰砕け/尻すぼみになってゆく。そういう効能も、糸と針にある。
「とりかえしがつきませんよ⇄つかなかったらそれが何だというのでしょう」。二の倍数で駆り立てられて頭の中には暴風が吹いてても、外から見れば凪に見えるだろう。表が裏を無効にし、裏が表を有効にする。反復だけが武器なのだ。たぶんとりかえしはつかないままで、一人が一生に編んだ編み目の全部がそろっていっせいにかがやく、そういう一瞬を想像する。きらきらと光を反射して、一匹の大蛇が全うろこを裏返す一瞬。
 

ひさ散歩

笠井瑞丈

久しぶりの休日
母を誘い出かける
どこか行きたい所あるかと尋ねる
どこでもいいよ連れてってくれるなら
いつもの定型文が返ってくるかと思いきや
行きたい所があるんだよねのビックリ回答
神代植物公園に行きたいとの事
ウチから車で30分で行ける所
早速車を走らせて向かう
途中コンビニに寄って
ミニシュークリームを買う
神代植物公園の駐車場到着
平日なのにかなりの混んでる
障害者専用の駐車場が一台空いてた
そこに停めさせてもらう
車椅子を下ろし正門に向かう
子供250円
大人500円
障害者無料
付き添いの僕まで無料になった
薔薇園に行きたいとの事だったので
入ってまずそこを目指す
沢山の種類のバラが大きな一画に
一杯キレイに区画され咲いている
その間を車椅子をゆっくり走らせる
写真を撮って家にいる叡さんに送る
そこから雑木林の方に向かう
車椅子を降りて自分で歩行する
車椅子をカート代わりに一歩一歩
数年前に寝たきりだったのに
よくここまで回復して歩けるようになった
これは本当に毎日のリハビリの成果だ
とても強い意志がないと出来ない事だ
しかし首が曲がってしまってるせいで
前を向いて歩く事が出来ず
歩くといつも下を向きっぱなし
だからアスファルトを眺めながら一歩一歩歩く
自分の内面に耳を向けてカラダの音を聞くのだ
母は僕にそのように言う
周りの景色
匂いを感じ
自分の中に新しい景色を想像する
途中雑木林の中でも一際目立つ木
母はその木々を興味津々で眺めてる
木々たちが踊ってるとポツリ

全ては想像の中に
また出かけよう

アパート日記5月

吉良幸子

5/1 水
新宿・末広亭昼席へ。トリが雷門助六師匠で、最後はみんなで踊って賑やかに。また桟敷席で足投げ出して観た。月頭から寄席行けるなんて最高やん!

5/2 木
仕事終わりに公子さんと古今亭始さんと打ち合わせ。始さんは9月に真打昇進で、甲賀さんの文字ののぼりが寄席に立つ。嬉しい。実物はむちゃくちゃ大きいから実物見るのが今から楽しみ。打ち合わせがてら誕生日とタロットで占ってくれはるおじさんがいる飲み屋へ行った。公子さんは前占ってもらったし、始さんと私だけ見てもらう。こっちからは何も言うてへんのに2人ともズバリ言い当てられて感服した。私の方は常識に囚われんと、とにかく好きなことをブレずにやったらええねんて。ほんで上手くいくかどうかは来年考えたらええから、今年はとにかくやりたいことを始めなさいと言われた。そうか、ほいだら始めてみましょか。

5/4 土
出稼ぎ先で一日下駄で働いてみた。立ち仕事で下駄履くのなんて初めて。お店も混んでよう走り回って足の裏はじんじんするほど疲れた。でも腰は全く痛くない。背筋が勝手にしゃんと伸びるようになってるんやね。お店に来てくれた80代くらいのおばあちゃんが、下駄かわいいねと言うてくれはった。

5/10 金
お客さんのおばあちゃんに捕まって立ち話。よう~喋る!同じ話を2、3べんするのはようあるけど、かれこれ10ぺん以上同じルートを辿って全く同じことを白熱して話さはる。最初は、いつ終わるんやろか…という感じやったけど、途中から「住吉駕籠」に出てくる酔っぱらいのおっちゃんみたいやん!と気付いて、最後の方は落語の中におるみたいでおもろかった。

5/12 日
友達と「大吉原展」へ。朝早く行ったのに地下の展示はものすごい人・人・人!御徒町の方へ行くとこれまた人の波がいつもよりうねっておる。なんでかいなと聞いたらお祭りらしい。神輿担ぐ格好した人もちらほらおる。ふんどし締めたおっちゃんらが立ち話してはって、そん中のひとりのふんどしが食い込んでて下スッポンポンに見える。昔はこんな風景が日常やったんかなァとおっちゃんのたくましいお尻を眺めた。

5/16 木
家でちょこちょこ練習して普段着の着付けだけ自分でなんとかできるようになった。早朝から必死で着付けして、やっと念願叶って着物で仕事に出る。電車を乗り継ぎ、自転車に乗り、働いて帰るまでやってみた。腰紐をむっちゃきつく結んだからか、案外家に帰ってくるまで問題なくいけた。一緒に働いてるおばちゃんは大喜びで写真まで撮ってくれはった。今日着たんは高橋茅香子さんにいただいたもので、茅香子さんも知人から譲り受けたものらしい。紺地に絣模様が入ってて、裏地に朱色が綺麗やった。

5/17 金
今日の着物は公子さんが中学の時に着てたお気に入り!当時の普段着、銘仙に初めて袖を通したけど、この上なく軽くてさらっとした肌触りやった。50年くらい前に公子さんがこれ着てはったんかと思うと不思議な感じ。着物の日は着物に合わせて帯やらを前の日に選んでおいたら、次の朝それを一生懸命着るだけでええからある意味むっちゃ楽チン。洋服やといつもあーでもない、こーでもないと時間ギリギリまで脱いだり着たりするし。

5/19 日
皐月のいわと寄席、古今亭始さんと神田松麻呂さんの回。先月末、大龍寺の法要に来てたお子たちがまた来てくれて、一番前の真ん中でかぶりつくように観てた。講談は初めてやったみたいで、松麻呂さんが張扇たたいてみる?と高座に少年をあげてくれはった。おお…こんな景色なんか…!てなことが顔に書いてある。パン、パンッパン!と笑顔で叩いて楽しそうやった。

5/22 水
友達と樋口一葉記念館へ。むちゃくちゃ充実していて面白かった。歩きまくって休憩しに友達んちに寄ったら、吉原神社が目と鼻の先でびっくりした。一葉さんちのご近所やがな。

5/23 木
昨日の友達が出稼ぎ先へ来てくれて、帰り道一緒に歩いてたら近所のおばあちゃんに話しかけられ、着物いいわね、私は終活中でもらってほしいから、今度ふたりでおいで!と言われた。いやはや、着物着てると色々あるわね。

5/24 金
風ぐるまのライブにお呼ばれして伺った。私にとってお久しぶりの悠治さんはいつも通りの登場で。ただ美恵さんを見つけられんかった。会えんでむっちゃ残念。

5/26 日
公子さんが経堂にあるさばのゆで、ちぃさい本の市を店主さんと企画。そこで売り子してhoro booksで作った本たちと古本を売った。後半には公子さんが甲賀さんのよもやま話をしはって、来てたお客さんたちも喜んではった。特製の飲み物やおつまみ食べながらみんなでわいわいして、こじんまりやけど楽しい会やった。美恵さんの本も一冊売れましたよ。夏に第二回を開催予定。

5/29 水
甲賀さんの文字ののぼりができたようで古今亭始さんから写真が届いた。素敵~そしてうれし~~!寄席に出るの、早く見たいなぁと公子さんと何度ももらった写真を眺めた。

製本かい摘みましては(187)

四釜裕子

4月末、今年も近所の公園のナンジャモンジャが白く細い花びらをもりもりつけた。区立の小さな御徒町公園という公園だが、その一部がちょっとした庭園風になっていたりミニ八幡神社があったり藤棚をはじめ草花の種類も多く手入れが行き届いているのは、元伊予国大洲藩主・加藤泰秋子爵の屋敷の一部であった名残りだろう。八幡神社の鳥居の横には八幡神社の文字が彫られた古い標柱があり、その側面には小さく「史蹟 旧加藤邸久森山跡」と彫り加えられている。このあたりは極めて平らだから、広い庭の一角に土を盛ったりしていたのだろうか。ナンジャモンジャにはこんな説明板がある。〈この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ、朝鮮・中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)のみで知られている珍しい木です。昔、青山練兵場にあった大木よりふやして、台東四丁目の荒沢鍈治郎氏が大事に育てたものです。(略)珍木であるため異称が多く、ロクドウボク(六道木)・アンニャモンニャ・フタバノキ・ナタオラシなどとも呼ばれています。  ヒトツバタゴ Chionanthus retusus  モクセイ科 ヒトツバタゴ属 【落葉高木】 台東区〉。

荒沢鍈治郎さんとはどんな方だったんだろう。ネットで検索したらイコモス国内委員会が明治神宮あてに出した「神宮外苑を象徴するヒトツバタゴ大径木の現地保存のお願い」(2023.11.21)がヒットした。”外苑を代表する元天然記念物である「ヒトツバタゴ」(通称ナンジャモンジャ)を事例とした環境影響評価において完全に欠落している歴史的樹木の検討”が示されていて、この中で、文言は台東区の説明の域を出ていないが荒沢さんと御徒町公園にも触れていた。それによると、ヒトツバタゴは江戸時代から外苑にあり、明治18年に青山に練兵場を作る頃にはそれがなぜか予定地近くの萩原三之助邸にあり、整備するにあたって買い上げられた。大正13年に天然記念物に指定されたが昭和8年に枯死。実生では増やせなかったが根接という方法で〈小石川植物園、その他、2、3の所に分根〉して命は繋がり、このたび〈小石川植物園、東京大学資源活用推進部、日本植物友の会の木川発夫様のご協力をえて〉調査したところ、そのうちの1つは、荒沢さんが育てて昭和6年に関東大震災の復興小公園として整備された御徒町公園に植えられたものだと〈推察される〉。公園で見るかぎり植物をうまく育てる荒沢さんという方がいたんだなと思うばかりだったけれど、何か奇妙な温度差を感じる。

現在の御徒町公園一帯は関東大震災でみな焼けている。震災後、加藤子爵邸の敷地には内務省復興局東京第三出張所が置かれていた。公園にはこの界隈(東京第31地区)の復興区画整理完成記念碑があり、背面に整理委員の名前が記されているのは見ていたので、もしかしてと思い改めて見に行ったがそこに荒沢さんの名前はなかった。なんとなく、なんの根拠もないのだけれど――荒沢さんは子爵のお屋敷のお抱えの植木屋だったのではないだろうか。外苑にあったヒトツバタゴ1世の子の一人は何かの縁で加藤子爵邸に引き取られて育てられていたが、震災で焼け出され、近くに住んでいたお抱え庭師の荒木さんがそれを救い出し、屋敷再建の折にはまたお庭にと慈しんで育てたが帝都復興計画によって叶わず、主人にそのことを話すと「今までよく尽くしてくれた。この木は好きなようになさい」と言われ、屋敷跡が公園になると決まると知ると、恩義に報いようというような、その地へ花をたむけようというような、そんな思いで一市民として提供した――。荒沢さん、すみません、勝手に妄想して。

こういうときは『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』(下町風俗資料館 平成11)だ。膨大な聞き書きを集めたこのシリーズは、ほしい情報がありやなしやのときには頭から読まないと見逃すので大変なのだが、「植木屋の荒沢さんが……」とか「ナンジャモンジャの木が……」とか何とかしゃべっている人がいないかしらと探したが見つからなかった。代わりに「伊豫の殿様」と料亭「伊豫紋」の話が目に入った。〈加藤様が江戸へいらっしゃる時にそれに付いて来て、きっと料理番だったんでしょう、あるいは家来だったか、その人がもんさんっていうんで、それで、伊豫のもん、伊豫紋という名前でやりましてね。(略)横山大観が非常に伊豫紋を愛好したそうですね〉。料理場は御影石が敷いてあり、しょっちゅう水が流してあって清潔だったそうである。森鴎外の『雁』や森茉莉のエッセイにも出てくるし、ここの庭は広かったと他で読んだ記憶もある。伊豫の殿様お抱えの植木屋は必ずやいただろうし、働く人を大事にするようすも感じられるし、落語の「青菜」よろしく荒沢さんが水撒きしていても全然おかしくないんだよなぁ。

などと思っていたらば、ASA上野御徒町発行の「あさネット」197号(2024.5.7)にここのナンジャモンジャが出てきた。月いちで新聞に挟み込まれてくるB4サイズ2C両面刷りのASA新聞で、チケットプレゼントのお知らせと所長さんによる地元ネタ中心の読み物が楽しいのだ。コロナでしばらく中断して、再開したときはうれしかった。やはり4月の末に同じ公園でナンジャモンジャを見たようで、牧野富太郎のエッセイを紹介したあと、〈ドラマの通り、植物採取のためなら何でもやってしまう人だったようです〉と締めていた。なにしろ明治の中頃、〈人力車夫を傭って〉夜中に青山練兵場に忍び込み、ナンジャモンジャの花を採集するために〈人力車夫に頼んで木に登らせ、その花枝を折らせた。夜中で、人が見ていなかったから自由に採集できたが、昼間ではとてもできない芸当だった。それに、その頃は練兵場も荒れていたので、自由に行動できた〉(「ナンジャモンジャの真物と偽物」より)というのだから所長さんが呆れるのも当然だ。ちなみに牧野は花の様子をこんなふうに書いている。〈白紙を細かく剪ったような白い花が枝に満ちて咲く〉。こちらは納得。

牧野をモデルにした昨年の朝ドラ「らんまん」はおもしろく見た。各地の植物愛好家とのやりとりは実際どんなものだったのか、それを裏付けるような話が昨年はたくさん出ていたと思う。木曽川流れる岐阜県恵那市はヒトツバタゴの自生地の1つで、市が大正11年6月の牧野の手紙を保管していたのもニュースで知った。同市の後藤治郎さんが送った標本に対する返事で、それはヒトツバタゴではないかと書いてあったそうだ。その後きっと現地を訪ねたのだろうし、翌年、地域のヒトツバタゴが天然記念物に指定されたのは牧野の影響があるのでは、という記事だった。実は加藤泰秋子爵(1846-1926)と牧野富太郎(1862-1957)にも接点があった。これも昨年そういう流れで何かで聞いたのだと思うが、その”加藤子爵”が御徒町公園の”加藤子爵”だとはそのとき気づいていなかった。北海道の洞爺湖周辺の開拓事業も手がけていた子爵は山草研究家でもあり利尻山への採集に牧野が同行したそうだ。さらに、岩手の早池峰山で見つかった新種に牧野が付けたカトウハコベの名は加藤子爵に由来するというのは定説のようだが、解釈はいろいろあるようだ。即席ながら御徒町公園派から言わせてもらうなら、子爵が望んだことでも、こびてつけられたものでもないだろう。

御徒町公園の説明にあったヒトツバタゴのもう1つの自生地、対馬については、帚木蓬生さんの『襲来』で読んだのが忘れられない。日蓮の蒙古襲来の予言を確かめるべく対馬に遣わされた見助が、地元の娘・なみを見送りながら隠れ家を探すシーンだ。〈春になると対馬は、ひとつばたごが咲き誇り、船からみると島全体が雪に覆われたように白一色になる〉。〈山道にも岩の上にも、ひとつばたごの小さな花びらが白く散り敷いていた〉。場所を決め、屋根をかけて岩などを積み、ヒトツバタゴの幼木を割れ目に植え込んで、生長すれば目隠しになるだろうと段取りしてその場を離れる。ここでなみと再会することを密かに夢見るも叶うことはなく、その地はまもなく真逆の色に染まった。博多湾に築いた”防塁”のおぞましさよ。

牧野富太郎つながりで最後にもう1つ、岡本東洋撮著『花鳥写真図鑑』第六集(非売品 昭和5 平凡社 装幀:辻永)のことを少々。全何巻かも知らずに1冊だけ買っていたものだが、牧野が植物の解説をしている。この本、表紙の芯が硬くて重くて、丸背ハードカバーで天金で見返しの刷りも金で函入りで豪華なのに、かがりが3穴のブッコ抜き(打ち抜き綴じ)なのだ。岡本東洋は竹内栖鳳や横山大観などに請われて絵画資料としての写真も多く撮っていたそうで、同じく岡本による『東洋花鳥写真集』全75集(芸艸堂 昭和8)は〈全75集、計1500点の写真が掲載された大部のもので、画家が使用しやすいように製本せずに、印刷した写真を封筒に入れて刊行するという工夫も凝らされ〉たそうだ(「うみもりブログ」竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い4 2020.7.17)。ならばこの本も、必要なページを簡単にばらせるようにとのはからいということになろうか。写真、特に動物の写真がものすごく柔らかくていいんだけれども、なにしろかがり糸が切れているし表紙もボロボロだし重たいからいい加減処分しようと見るたびに思うのだが、かがりと装幀のあまりのアンバランスがおかしくて今夜もまた棚に戻してしまいました。

『アフリカ』を続けて(36)

下窪俊哉

 前回は最後に少し話が逸れてしまったが、『アフリカ』を始めた直後に小川国夫さんと川村二郎さんが昔話をするのを目の前で聞きながら、『近代文学』や『青銅時代』の作家たちがとても身近に感じられた。あの夜くらい饒舌に語るふたりを、私は初めて見たような気がした。

『アフリカ』の1冊目である2006年8月号には小説4篇の他に、短い雑記を3つ載せた、と書いた。そのうち自分の書いた「好きな本のかたち その二」について少し触れておこう。冒頭は、こんなふうだ。

 先日、保坂和志さんのエッセイをインターネット上からもらってきた。それなりの長さがあったので、適当にレイアウトしなおして、プリントして読んでいた。そのとき、ふと思った。あ、ぼくはこれで十分なんだ、と。調子にのって、なんだ、本なんか買わなくても、自分で編集しなおしてしまえばいいんだ、などと思ったりもした。

 本をつくることにかんして恐怖心を呼び起こすまでになっていた自分には、「本」というものをあらためて捉え直す必要があった。インターネット上からというのは、保坂さん自身のウェブサイトで公開されていたものだろう。ウェブにあるものを読むのは、気が楽だった。本も、もっと楽に読んで、書いて、つくってゆくことは出来ないものだろうか、と考えていた。

 テキストだけ安く売って、つくりたければ「本」もつくればいい。そんな気楽な時代は来ないものだろうか。

 本も、「本」という思想を引き継ぎながら、どんどん変わっていくのだろう。そのことを悲観する必要がどこにあるだろうか。

 そんなことをつぶやくように書いている。しかし自分だけで「本」のことを考えるのには無理があるというもので、津野海太郎さんの『新・本とつきあう法』(中公新書)に影響を受けていた。その本のことにも、ちゃんと触れてある。まずは未来の自分へ宛てた記録と言えそうだ。
 久しぶりに『新・本とつきあう法』を出してきて、開いてみる。「活字本とつきあう」「電子本とつきあう」「インターネットでの読書」「図書館とつきあう」という4章に分かれているが、いまでは「電子本」と「インターネットでの読書」は混ざり合ったものになっていると言えるだろう。1998年の本である。あとがきには「この本をようやく書き終えようとしているころ、インターネットに「青空文庫」という小さな電子図書館が誕生した」とある。
「活字本とつきあう」は、「雑誌は破りながら読む」に始まる。次が「ふつうの本も破る」、次が「本はパンフレットである」、そして「読者も編集せよ」。こうやって項目を並べてみるだけで、何のことはない、この本に書かれていることを自分流に解釈して実践しようとしていたということがわかる。その次の「歩きながら読む」は、たぶん笑って読み飛ばした。
 その章の最後は「天幕(テント)生活者の読書」で、晩年の長谷川四郎さんを自宅マンションに訪ねたエピソードが出てくる。「書斎はなく、畳敷きの居間に中くらいの大きな書棚が一つ(いや二つだったか)置かれていた。たったそれだけ」だったらしい。津野さんはその書棚に『中国の思想』という「入門シリーズ」があるのに目をとめる。長谷川さんには『中国服のブレヒト』という「名著」があるのだが(2006年にはまだ読んだことがなかったが、数年後に古本屋で見つけて読んだ)、津野さんはそこでこう思う。「なるほどね、なにも自分の書斎におびただしい専門書をかきあつめなくとも、一般向けの啓蒙書や概説書だけでも、ちゃんとものを考え、あんな魅力的な本を書くことができるのだな」
 私は当時、これからどうやって生きてゆこう、と途方に暮れていたわけだが、「天幕生活者」であっても本は読めるし、書くことが出来るのだとわかれば、ははあ、それならやってゆけそうだ、となった。
 都市の中であっても移動して暮らす人にとって、大量の本を抱えては生きてゆけない。出来るだけ身軽でいたい。と、これからの時代を見据えてそう考えた。
 ところで、書店に積んである文芸雑誌も、大学発行の雑誌も、当時の私が手にしていたものはどれも分厚くて、電話帳のようで、寝転がって読もうとすると腕が疲れて仕方なかった。しかし『アフリカ』を始める前に書かせてもらった個人誌はどれも薄くて、軽やかで、好印象だったのだ。自分も今後はこれでゆこう、と思った。『アフリカ』2006年8月号はA5判・40ページ、「パンフレット」である。気分がよかった。
 関係各位に郵送で配るのは止めることにしたが、限られた人には送り、寄贈で送ってこられた本や雑誌への返信には『アフリカ』を同封することがあった。
 当時の反応には、どのようなものがあったのだろう。「どうしてアフリカなんだ」と言われた話はこの連載の(2)で書いたが、「小さくまとまっちゃったね」と言われたのもよく覚えている。その前にやっていた雑誌が大所帯だったので、そう見えるのもまあ仕方ないか。この話を先日、ある人にしたら「どうしてアフリカを小さいと思ったんですかね?」と言っていて可笑しい。
 富士正晴記念館で話した安光奎祐さんにも送ったのだが、その後、いつだったか『VIKING』の例会に顔を出したときに、「『アフリカ』読んだよ、フレッシュだねえ」と言われた。いまでも私には、空のうえの安光さんに送って読んでもらおうというつもりで、つくっているところがあるかもしれない。

 ここまで4回にわたって「2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクション」を書いてきて、ふと思った。自分の作品といえるものを書き始めたのが1999年なので、それまでの7年間、20代の大半を「文芸」の世界に生きて、いろんな人や本(や雑誌)と出合い、読み、書いて、つくり、考えていった先に導き出したとりあえずの結論が『アフリカ』だったのかもしれない、と。
 夏を越した頃、ようやく再就職して京都から大阪に戻り、ラジオの取材や企画をしたり、それを冊子にしたり、という仕事を始めて、生活は少し落ち着いた。それと並行して、続けるつもりのなかった『アフリカ』は年2回のペースで出すことになったのである。
 当時のノートによると、9/9(土)に京都の西院で行きつけになっていたDeep blue Cafeにて「アフリカの夜」が実現、とある。これは執筆者が集まって飲んだのだろう。誰と誰が集まったのか記録がないけれど、関西在住者のみだろうから、垣花咲子、神原敦子、守安涼、私の4人だったのではないか。守安くんから島村利正の本を紹介されたのは、その時らしい。二次会は西院駅そばの「印」、『アフリカ』がまず読まれることになった場所である、立ち飲み屋だ。
 その頃、向谷陽子さんから『アフリカ』のお礼が手紙で来ている。切り絵はもっと大きなサイズでつくった方がよかったかな、と言いつつ、「このサイズの方がよい緊張感は出ていると思います」。自らのことを「ポストカード・アーティスト」(ポストカードサイズの切り絵をつくる人)と言い出すのは、もう少し後のことだろうか。『アフリカ』を受け取って、読んでみて、読むのが得意ではない自分には苦手な作品もあった、でも「音のコレクション」は良かった、と書いてある。「最後のあたりが少し難しかったけど。相変わらずの音と色彩の感じられる小説で読んでいて心地良かったです。特に緑(の?)色と風の音が鮮やかでした。これで香りも感じられたらいいなあと思います。」
 私はこのような読者を頼りにして、『アフリカ』で再出発することにしたのだった。

 さて、3月に亡き向谷さんを訪ねるため広島に向かう新幹線の中で、何かがひらめいた話を前々回に書いた。そのひらめきを元に展開して、これからつくる『アフリカ』の36冊目は、18年前につくった『アフリカ』の最初の1冊を、この2024年に再びつくるとしたら、どのようになるだろうか、ということを思いついた。
 そのためにはしかし、短篇小説が4つ、集まらないといけないような気がする。近年の『アフリカ』がどのような雑誌だったかを思うと、誰か4人が小説を書くというのは、ちょっと難しいような気もした。そのうちの1人は自分として、あと3人。可能性がないわけではないので、そのつもりで待つことにした。そうしたらまた『アフリカ』が不思議な力を発揮して、意外な人が書き始めたのである。

メソポタミア

さとうまき

僕は数日前からメソポタミアにいる。つまりは、現在でいうところのイラクにいる。目的は、ギルガメッシュの物語のデジタル紙芝居の絵を頼まれたのでその取材のために博物館や遺跡を回っている。

20年以上前に、初めてイラクへ行った。バビロン音楽祭に参加する人達をコーディネートするように当事のイラク大使館から依頼されたのである。イラク戦争が始まろうとしていた2002年のことで、メソポタミアがどうのという今から5000年以上の前の話などには全く興味がなかった。アメリカがハイテク兵器を用いて攻撃してくるのに、日本で言えば縄文時代とか弥生時代がどうのと言ってる場合じゃない。

ところが音楽祭に参加するメンバーの日本人には、メソポタミア文明オタクが一人混ざっていて、遺跡に行きたいとめんどくさいことをいう。イラク政府も自分達こそ世界で一番最初に文明が栄えたことを強調して、アメリカへの抵抗心をあらわにする。メソポタミアは、政治的なプロパガンダとして使われていた。政府の案内で博物館も連れて行ってもらったがあんまり記憶に残っていない。

それが今回訪問したら、すごいのである。2日間通い模写したりしてタイムスリップしたりしている。バスラに辿り着いてこの文章を書いている矢先に停電だ。
詳しくは次号で。

仙台ネイティブのつぶやき(95)米づくりをあきらめない

西大立目祥子

「悪いけど、田植えだから先に出るよ。帰り『むすびや』寄る?だったら店から借りてたこの桶返してくれっかな。じゃあね」 そういって宿の主は軽トラで出ていった。
外はしとしと雨ふりだ。でもこのくらいの雨ならやるんだな。今日明日くらいで決めないと6月になってしまうから。仙台からここ鳴子温泉に来る途中の田んぼには水が張られ、青い空を写す鏡のような水面には植えられたばかりの細い稲が風に揺れていた。
館内はしんと静まっている。下駄箱には何足か靴があるから泊り客はいるんだろうか。でも人の気配はしない。ひとり、タオルを下げておふろに行く。この宿のお湯はぬるめ。琥珀色のお湯の中で体を伸ばすと、目の前には大きな曇ガラスを通して緑がやわらかく透かし見え、湯舟の隅から静かに流れ込む源泉からぽこぽこと泡が生まれ漂っては、ぱっと消える。おもしろくて、しばらく見入っていた。

前夜は「鳴子の米プロジェクト」の19年目の理事会だった。久しぶりに旧知の人たちと顔を合わせ、あれやこれやと話し合い、それから飲んだ。ここまでよく頑張ってきたねえという感慨に加え、少し明るい見通しも立ってきたこともあって和やかで気持ちのいい飲み会になった。

プロジェクトが始まったのは、2006年。政府が国際競争力を持つ農業の担い手を育てようと、経営規模の拡大や効率化、合理化を目的にした「品目横断的経営安定対策」という政策を打ち出した年だった。米に関していうと、4ヘクタール以上の規模の大きな農家に支援を集中するもので、小規模の農家は担い手とは認められず支援を受けられないことになった。当時、鳴子町には620戸の農家があったが、支援を受けられる大きな規模の農家はわずかに5戸。平野部と違って標高の高い山あいに田んぼを開き、雪解けの冷たい水を引き入れながら、それでもあきらめず続けてきた鳴子の農家の米づくりは危機に直面することになった。

当時は米の値段が下がり、農家はいつまで米づくりを続けることができるのか不安を覚えていた時期でもあった。何か手を打たなければ米づくりをやめる農家が増え、地域は耕作放棄地だらけになってしまうのではないか。危機感を抱いた役場職員の安部さんが動いた。以前から鳴子にも縁が深く東北を中心に地域づくりの提唱をしていた結城登美雄さんに相談に行き、中山間地域の鳴子でどうすれば農家がやりがいをもって米づくりができるか打ち合わせを重ねていった。

結城さんが提示した案はこうだった。事業を推進し支えるために鳴子内外の人を集めてプロジェクチームをつくること。農家と支え手(消費者ということばをあえて使わなかった)をつなぎ、ともによくなる道を探ること。それがブランドをつくり上げることになる。農家が希望をもって米づくりを続けられるよう1俵(60キロ)を2万4千円で販売し、1万8千円が農家に入り、6千円をプロジェクトの事務局の運営費にすること。まだ栽培されていない鳴子のような寒冷地でもよく育ち病気にも強いおいしい米を探し、試験栽培するところから始めること…など。

安部さんは古川農業試験場で、耐冷性がありイモチ病にも強く、食感はもちもちしておいしいという「東北181号」という米を見つけ出した。まだ名前がない米だった。これを鳴子の中でも最北、秋田県境の鬼首という地域の3軒の農家で試験栽培をしてもらうことになった。夏でも冷涼な気候で、宮城県の米はうまく育たず秋田県の「あきたこまち」を栽培してきたという地域である。5月に田植えをし、無事に稲刈りを終え、11月にはチームの関係者が集って水加減を変えて米炊き実験をした。この時は私も調理室にいて実験を見守っていたのだけれど、通常より2割以上水加減を減らした炊きあがりを試食したメンバーが、「これが一番おいしい」「粘りがあってうまい米だ」とつぎつぎと口にしていた記憶がある。

「東北181号」は翌年「ゆきむすび」と命名され、栽培する農家が増えていった。事業立ち上げのためにつくったプロジェクトチームはNPO法人となり事務所を構え、5年後にはおむすび店「むすびや」を開店させた。2万4千円という価格も取り組み内容もずいぶんと話題になり、地元のテレビ局から農業雑誌まで取材が相次いだ。このプロジェクトを卒業論文のテーマにしたいという学生も何人もあらわれ、農家に寝泊まりしながら取材と調査を重ねていった。鳴子の農家の人たちのホスピタリティに心打たれるのか、学生さんたちは卒業後も鳴子を訪れ、交流は何年も続いている。

私は農業のことも米づくりのことも経験も知識もないままこのNPO法人にかかわってきたのだが、地域を支えるための米づくりをきちんと理解して買ってくれる人が決して少なくないことに、世の中捨てたもんじゃないなぁと感じてきた。試験栽培をした農家の1人、曽根さんが稲刈りのあとの交流会で「つくりやすくてうまい。60年米づくりをしてきて本当によかった。そして山の中の鬼首に大勢の人たちが集まってくれるなんて、こんなにうれしいことはない」と笑顔であいさつしていたのが忘れられない。それまでは苦労して米をつくっても農協に出荷し、あとは口座に入金があるのを待つだけ。どんな人が食べてくれているのか、どんなふうに味わっているのか、知る由もなかったのだ。それが、直接「ありがとう、おいしかったです」といわれるのだから農家冥利につきることだったろう。

こんなふうに書くと順風満帆の19年のようだが、決してそうではなかったことも記しておきたい。到着が遅い、今年の米はおいしくないといった苦情が入り対応に追われるのは例年のこと。東日本大震災では鳴子はあまり被害がなかったので、かかわりの深かった地域に米を持って支援に入ったが、その後は福島原発の影響で注文が激減するという事態に見舞われた。そんな中、大口の注文が入り出荷して胸をなでおろしたら、それは詐欺で集金できず数百万という穴をあけることになった。震災後、東北ではあちこちの農家が同じ手口で被害にあっていたようだ。

そして、20年近い歳月は人も変える。50歳の人は70歳に、60歳の人は80歳になるのだ。プロジェクトでは基本、天日干しで米を生産してきたのだが、刈り取った稲の束を高い杭に掛け、途中天地返して日に当てるということが困難になってきた。いまは機械で刈り取るコンバイン生産も行っている。ずっと同じ顔ぶれで事業を継続するのも難しい。農家を続けてきてよかったと話していた曽根さんは、そのあと病に倒れた。私と同じように町外からかかわり活動の記録を担っていた千葉さんも、事務局を1人で切り回してくれていた高橋さんも…。

何人もの人を見送りながら、それでもプロジェクトは続いている。ここ数年の間に2世代目へとつながる農家が2軒あらわれた。人も農家も減っていく中でいい兆しだ。もしこのプロジェクトが立ち上がらなかったら…と考えてみる。鳴子の米づくりは消えていたかもしれない。そして私は米づくりのことなんて何も知らず安い米をスーパーで探していたに違いない。

5月、田んぼに水が入り青い空を映す風景は希望に思える。新たな季節の始まりだ。それは人が手をかけつくっていく風景であり、今日ごはんを食べることで守られていく風景だ。今年の田植え交流会は6月1日。この原稿がアップされるころ、私はたぶん田んぼの中にいる。

区民盆栽の会・定例会議

植松眞人

 都内に一つだけ残った都電の終着駅の目の前に喫茶店がある。窓際の席に座ると、ホームが窓いっぱいに広がっている。小さくブレーキがかけられる音が店内にも響いてきて、窓際の席に陣取っていた老人たちが一斉に、窓の外を見る。何人もの乗客たちが降りてきて、その中に南条がいる。
 南条を見つけた斉藤は、思わず声をあげる。
「南条くんだ」
 すると、他の老人たちも次々に声をあげる。
「あ、ほんとだ。若手だ」
「若手がいちばん遅いよ」
「走ってるよ。そんなに急ぐことはないんだ」
 などと、笑いながら言い合っている。南条はこの集まりでは最年少の六十九歳。若手と言っても、私も来年七十ですよ、というのが今年の誕生月である四月を過ぎてからの定型の挨拶になっている。それを面白がって、みんなが若手若手と呼ぶようになった。
 喫茶店のドアを開けて、南条が駆け込んできた。先に集まっていた五人の老人たちが席を詰めて、南条が座る場所をつくる。
「若手の登場だ」
 会長の佐竹が声をかける。
「若手、ここだ、ここ」
 会長の向かいの席で最古参の衣笠が言う。
「おはようございます」
 南条が汗をハンカチで拭きながら、席につく。
「若手のくせに、重役出勤かい」
「すみません。出がけに仕事の電話とかいろいろあって」
 南条が言うと、斉藤がコーヒーを飲みながら笑う。
「なんだよ。若手の仕事自慢かよ。どうせ、オレたちは隠居してて暇ですよ」
 自虐的に言って、笑う斉藤に、南条は深呼吸をするふりをしながらため息をつく。
「仕事じゃないですよ。孫からの誕生日プレゼントの催促ですよ。それに、若手と言っても」
「来年は七十なんだろ」
 会長の佐竹が笑いながら答える。
「南条くんとこ、孫がいたのか」
「うちは子どもが早かったもんで、孫も早くて、もう幼稚園の年中なんです」
「幸せだなあ。うちの娘なんて、四十でまだ家にいるよ」
 南条は、佐竹の話に肩をすくめながら、ショルダーバックからA4サイズの書類を取り出し、一部ずつ五人に配る。
 表紙には「区民盆栽の会・定例会議」と書いてあり、副題として「春の品評会の振り返りと夏の品評会に向けて」とある。
 南条が表紙をめくって、内容を読み上げようとするのだが、もう会長の佐竹が一枚一枚勝手にうなずきながらページをめくっている。数枚しかない書類はあっという間に終わる。それを見て、南条は書類を読み上げるのを諦める。斉藤も衣笠も同様に読み進めていて、同席している高橋と鈴木は書類を眺めているだけで、きちんと読んでいる気配はない。その様子を見ていた佐竹がふいに高橋に声をかける。
「高橋さん、あんたが出してた松」
 突然の声に、高橋が驚く。
「松?」
「うん、松。あれ、こないだの品評会で買いたいって言ってた人がいたよね」
「いたいた。あれ、商店街の前の会長でしょ」
 隣に座っていた鈴木の方が答える。
「ああ、あの話ね。あんなのまとまんないよ。それに、あの人にはオレは絶対売らない」
「なんでよ」
「いやなんだよ、あの人。前にさ、オレが大事にしてたのがあったじゃない」
「ああ、あれも松だった」
「そう、松。小さいけどさ、いい奴だったんだよ。それをさ、買いたいって言うから、売ったのさ。こっちも、認めてもらえるのは嬉しいからさ。それに、あいつ金は持ってるからね。ちゃんと前金で払ってくれてさ」
「じゃあ、いいじゃねえか。嫌わなくても」
「それがさ、オレがてめえで持っていってやったんだよ。わざわざ、あいつのボロ屋敷まで」
 ボロ屋敷という言葉に南条がコーヒーを吹き出しそうになっている。
「そしたら、あいつ、ゴルフのパターの練習してんだよ。庭の隅っこで。下手なくせに。で、ちゃんと盆栽のこともオレのことも見ねえで、その辺に置いといてくれ、なんて抜かしやがって。ゴルフなんて一旦やめて、ちゃんと受け取れっていうんだよ」
 最古参の衣笠が笑う。
「そういう奴なんだよ、あいつは。オレは同級なんだけどさ。ガキの頃からそういう奴。なんか気に入らねえ雰囲気出しやがるんだ」
「だろ!しかも、パターの練習を盆栽の置いてあるとこでやるなんざ、オレからすれば盆栽好きの風上にも置けねえわけよ」
「で、どうしたんだよ」
 会長の佐竹が聞く。
「いやまあ、置いてきたけどさ」
「置いてくるなよ。おめえなんざに売らねえって、持って帰りゃよかったんだ」
「ま、その晩に酒の約束もあったから、ちょっと金がね」
 高橋が照れながら言うと、みんなが大笑いする。
 笑いが収まったあたりで、最年少の南条が少し改まった声で切り出す。
「宴もたけなわですが、少しお願いが…」
 そう言って、南条が正面に座っている斎藤の方に向き直る。
「去年の終わりに田所さんが亡くなって、副会長が空いたままなんです。それで、私としては斎藤さんにお願い出来ないかと」
 斎藤が驚いた顔をする。
「えっ、オレ? 無理だよ。パソコンできないもん」
「いや、パソコンは必要ないんで。あったら、私がチャチャっとやるんで」
「だけどさ、メールでみんなに連絡とったりしなきゃいけないじゃない」
「あれは、去年からLINEに変わったじゃないですか」
「えっ、LINE」
「そうだよ、LINEだよ」
 斎藤がLINEに切り替わったことを知らなかったことで、みんなが驚いている。
「斎藤さん、私がLINEの設定とか、登録とかやってあげたじゃない」
 鈴木に言われて、斎藤が怪訝な表情でスマホを取り出す。斎藤のスマホの画面を正面からのぞき込んでいる南条。そこには、LINEの緑色のアイコンがちゃんと光っている。
「LINEのマークがあるでしょ。そこに小さな数字が59って書いてあるじゃないですか。それ、去年からのメッセージが59個たまってますよって意味ですよ」
 斎藤が呆れている。
「そんなこと言われても、字が小さくてわかんないよ」
 会長の佐竹が南条に目配せしながら、斎藤に話しかける。
「なんか、LINEで話しかけても、斎藤さんだけ返事しないと思ってたんだよ」
 斎藤は佐竹には答えずスマホの画面を見ながら、なるほど、そうかそうか、と独りごちている。
「じゃあ、あんた、なんで今日会合があることを知ったんだよ」
 すると、斎藤の代わりに高橋が答える。
「あれだよ、昨日、商店街でばったり斎藤さんに会ったんだよね」
 斎藤も嬉しそうに加わる。
「そうそう。酒のアテがないってかみさんに言われてさ。買いに出たら、高橋さんに会っちゃって。明日、来るんでしょっていうから、明日は空いてるからいいよなんて言ってさ」
 佐竹が呆れた顔をしている。
「斎藤さん…」
 佐竹に声をかけられても、斎藤はまだ笑いながら昨日の話をしている。
「斎藤さん」
 少し、緊張感のある声で佐竹が言う。
 斎藤と高橋が口を閉じて、佐竹を見る。
「斎藤さん、ちゃんとしなきゃだめだよ。ほら、LINEに変えましょうって話も、前の会合のときにして、あんたも賛成してたんだから」
 斎藤さんが少し椅子に座り直す。
「いや、ほんと、申し訳ない。家族とか、みんな電話で話してばかりなんで…」
「まあ、これからはちゃんと見てよね。ほんとに」
 斎藤が少し拗ねた表情で下を向いて、コーヒーカップを引き寄せる。
「もし、次わかんなきゃ、オレが教えるから。ね、ね」
 高橋が見かねて言う。斎藤はうなずきながら苦笑いをしている。
 南条が空気を変えようと、小さく咳払いをする。
「じゃ、みなさん。とりあえず、最後のページを見てもらえますか。これが前回の品評会の収支です。会費を貯めていた分から、会場費を引いて、残りが三万二千百五十一円。これはそのまま繰り越しておきますね」
 みんなが手元の用紙をめくる。そして、数字を追いながら、南条の言葉にうなずいている。
 一通りの説明が済むと、南条が、報告はだいたい以上ですね、と用紙をバッグにしまう。それをきっかけに、みんなも同じように用紙をバッグに入れたり、折りたたんでポケットに入れたりしながら、片付け始める。
 南条がみんなの手が落ち着いた頃合いを見計らって話し出す。
「みなさん、次の品評会が秋になるので、それまで元気で盆栽を楽しみましょう。では、会長の佐竹さんから一言しめてもらいます」
 言われて、佐竹が苦笑する。
「そこまで仕切れるんだから、若手が会長やってくれねえか」
「どこの盆栽の会で、最年少が会長やってるんですか」
 そう言われて、佐竹が少し身仕舞いを正す。
「今日もよく集まってくれました。区民盆栽の会がこの区に出来たのが昭和五十三年だそうです。四十年以上前ですね。都内のあちこちに盆栽の会はありますが、ちゃんと区が補助してくれているところは、三つくらいしかなくて、そのなかでもうちが一番古くて、一番大きいらしいです」
 ここで、佐竹はポケットから手帳を取り出し、自分で書いたメモ書きを探している。
「えっと、いまうちの会員数は三十二人。男性が二十五人。女性が七人です」
 そこで、衣笠が口を挟む。
「まあ、女性七人は元々旦那が会員で、旦那が亡くなって名前だけ残してるみたいな感じだけどね。オレたちで亡くなった旦那の盆栽を預かったりしてるから」
 すると、最年長の衣笠が声をあげる。
「そう言えば、去年、若いお姉ちゃんが二人ほど入会したんじゃなかったっけ」
「もう、退会しましたよ、きぬさん」
「え、もう?」
 佐竹が呆れた顔をしている。
「去年の秋の品評会の会場で、入会したいって二人がやってきたとき、あんたなんて言ったよ。こんな若いお姉ちゃん、久しぶりだなあ。良かった良かった、オレになんかあったら介護してよ、なんて言っただろ」
「そんなこと言ったっけ」
「言ったよ。おかげで、その日の夜、やっぱり辞めますって、電話があったんだよ」
 そう言われて、衣笠はしょんぼりしている。
「ということで、若い女性会員が次にやってきたら、若手がちゃんと対応して、オレたちはみんな口にチャックだからな」
 佐竹が半ば本気で言う。
 鈴木が急に思い出したように、
「あ、そうだ。去年の終わりに亡くなった田所さんの盆栽も預かってあげたほうがいいんじゃないの」
 と、心配そうな顔をする。
 会長の佐竹が、小さく頷く。
「そうなんだよ。その辺もちょっと心配なんで、明日にでも田所さんのとこに挨拶に行ってくるよ」
 神妙な顔をして聞いていた会員たちが、お願いします、と頭をさげる。
「そう言えば」
 今度は、南条が口を挟む。
「そう言えば、斎藤さんは、田所さんと仲が良かったですよね」
「うん。幼なじみなんだ。小中と同じ学校でさ。高校は別のとこに行ったんだけど、それでもたまに遊んでたなあ」
 斎藤が窓の外を見る。ちょうど、都電がホームに到着して、たくさんの人が降りてくるところだ。小学生の男の子が数人かたまりで降りてきて、ふざけ合っている。その後ろから降りてきた中年の男に叱られて、男の子たちは謝っている。しかし、中年の男が通り過ぎて行くと、男の子たちは、男の背中に舌を出したり、鼻の下を伸ばしたりして、ふざけた顔を見せる。斎藤はそんな男の子たちの顔を見て、笑う。
 南条は笑っている斎藤を見ながら、立ち上がる。みんなも南条につられて立ち上がる。
「では、一番若手の南条も頑張りますので、みなさんも元気で頑張りましょう」
 そういうと、みんなが口々に、頑張りましょう、と声を出す。
「あ、それから、斎藤さん。副会長の件、よろしくお願いしますね」
 南条が軽い調子で言うと、斎藤はさっき男の子たちを見て、笑ったままの笑顔で、
「うん、わかりました。頑張るよ」
 と答え、区民盆栽の会の役員たちは喫茶店を出て、それぞれの帰路につくのだった。(了)

ひとの心はどこまで拡張するかまたはどこ吹く風

北村周一

理由はよくわからないのですが
以前住んだことのある家らしき建物の
ほぼ三階の高さから妹が飛び降りてしまったのです
すべては夢の中の出来事なので
妙な夢を見てしまったくらいで済ませたいのですが
後味があまりに悪かったので
みどりの測量野帳にひっそりと
そのときの様子を書き留めておいたのでした
ほぼ三階の高さまで梯子が掛かっていたのに
妹はなぜそれを利用しなかったのでしょう
梯子はふつう外に背を向けて昇り降りするはずなのに
妹は違っていました
まるで滑り台から降りてくるような感じで
逆向きに梯子にぶら下がったのでありました
そしてそれから何を思ったのでしょうか
不意に飛び降りたのでありました
もともとスポーツが得意だったからかもしれませんが
モモンガみたいに舞い降りたのでありました
そして無事着地したまではよかったのですが
起き上がろうとして立つことは立ったのですが
頭を抱えてふたたび倒れ込んでしまったのです
それを見ていて家族の皆は慌てました
けれども不思議なことに階段が見当たりません
階下へ降りてゆきたいのに
この家のどこにも階段がありません
ではどうやってここまで昇ってきたのでしょうか
梯子ではとても恐くて昇り降りができません
皆で右往左往していると
どこからか声が聞こえて
こう言ったのでした
「曜日が違う」
えっ曜日が違う?

 夜の底の無垢のひのきの食卓の節目模様にやどる星々

本小屋から(8)

福島亮

 5月にはいって、それまでウンともスンともいわなかったバオバブがいっせいに芽吹いた。枯れ木にしか見えなかったそれに、緑のイボができはじめ、そのイボは日に日に大きくなり、ある日見覚えのある手のひらのような形の葉が飛び出してくる。そのタイミングをみはからって灌水すると、冬のあいだ一滴も水を与えられていなかった彼らは、我を忘れて飲み干す。耳をすませばグビグビと音が聞こえてきそうだ。根の先端から木の頂点まで、淀んだ粘液の沼のようになっていた樹液が水を含み、堰をきったように流れ出し、その奔流が一枚一枚の葉となって萌え出る。バオバブの葉っぱは食べられるそうだが、たしかに、この出たばかりの柔らかい葉を摘んでさっと茹でたり、油で香ばしく揚げたら美味しそうだ。

 去年の秋に購入し、ベランダに放置しておいたエケベリア(多肉植物)数鉢も、冬の寒さのなか肉をぎゅっと引き締め、その柔らかな成長点を北風や霜から守っていたが、暖かくなり、しかも最近は適度に雨も降るので、みずみずしく膨れあがり、赤ん坊の手の甲のようにふくふくとしている。もっとも、それを日々観察しているわけではなく、時々思い出したらじっと眺める程度の注意しか払っていないのだが、5月のある日、何の気もなしに目をやると、その赤ん坊の手の甲の幾つかから針金のようなものがにゅうっとのび、橙色をした小さな釣鐘のような花が咲いていた。その日は5月だというのに暑い日だったが、熱と湿気をふくんだ濃厚な風に吹かれて、橙色の釣鐘は、小さなモビールのように揺れていた。

 5月中旬、カリブ海で出版社を経営しているフロランが日本に遊びにきたので、滞在中何度か会った。ちょうど2年前、まだ私がパリにいた時分、それまで見ず知らずの人だった彼からメッセンジャー経由で連絡が来て、モンパルナスのカフェで会った。マルティニックとグアドループに拠点を置く小さな出版社の存在は知っていたが、それをどんな人が運営しているのかまるで知らなかった。約束の時間にカフェで待っていると、50代くらいの背の高い男性がやってきた。あとで訊くと、彼はケベック生まれで、いまはケベックとフランスの二重国籍を持っているとのことだった。

 大学卒業後、どういうわけかカリブ海で自動車関係の仕事につき、ある出来事をきっかけにその仕事を辞めてから、失業保険を元手にいまの出版社を立ち上げた。今年で17年目になる。彼の父親は68年5月の時——息子が生まれるのはその翌年だ——他の学生と同様政治青年だったらしい。ケベックでの子供時代、直接目にしたわけではないが、ケベック独立運動がもっとも苛烈な形をとった頃の生々しい出来事を周囲の大人を介して知った……早稲田から高田馬場まで、もうすっかり少なくなってしまった古本屋街を一緒に歩き、ときに何冊かの古本を手に入れながら、そんな話をした。ケベック生まれの青年が立ち上げた出版社は、いまではカリブ海の名だたる作家たちの書物を刊行しているし、セリーヌやエルノーといった有名作家のフランス語作品をクレオール語に訳したものも刊行している。数年前のことだが、ラファエル・コンフィアンと会った時に、これまでクレオール語で書かれた作品はフランス語に翻訳されなければ誰も見向きもしなかった、だが、これからはフランス語の作品がクレオール語に翻訳される時代だ、と言っていた。翻訳の試みは次々形になっているが、それを支えているのはフロランだ。

 彼が特に力を入れているのは児童書、そして青少年向けの書籍の出版だそうだ。マクドナルドは知っていても、「パンの実」が何なのか知らない子どもが増えてきた。そんな子どもたちに土地の動植物の名を教えるための児童書を多く刊行している。フロランが編集した本を通して、はじめて「パンの実」の存在を知った子どもたちは、もうじき親になる。 

傘を嘆ず

篠原恒木

傘について思うところを述べたい。
傘はなぜ進化しないのか。
ヒトは雨が降るといまだにあの傘をさしている。おれもそうだ。
だが、傘をさすたびにおれは思う。
「なぜこの傘は傘のままなのか」
不思議でならない。人類が雨に濡れない方法は「傘をさす」こと以外にないのか。だって、これだけテクノロジーが進歩しているんですぜ。
電車に乗るときも切符を買わずに済むし、駅員も改札口にいない。カードをピッとかざすだけだ。建物の中に入るときも入口に立てば自動でドアが開く。クルマだって自動運転機能が搭載されつつある。部屋の掃除もルンバが勝手にやってくれる。観たいTV番組、聴きたい曲はアレクサに言えばすぐ流れてくる。インターネットから3Dプリンター、VRまで登場してきた。そうそう、AIで音楽もアートも小説も作れちゃう。先端医療も日進月歩だ。

なのにだ。傘は相変わらず傘ではないか。これだけいろんなものが進化を遂げてきているのに、雨が降ると、いや、たかが雨ごときに対して、人類はあの傘に頼るしかすべはないのが現状である。雨に濡れたくなければ「やれやれ」と溜息をついて傘をさすしかないのだ。この現状は信じがたい。霊長類ヒト科が技術革新をいちばんなおざりにしてきたツールは間違いなく傘だろう。

傘の構造は原始的だ。和傘も洋傘もたいして変わりはない。はたして傘は目覚ましい進化を遂げてきたのだろうか。検証してみたい。
ジャンプ傘が登場してきたときは驚いたが、よく考えたら何のことはない、バネの力で自動的に開くだけだ。畳むときは自力で手がびしょびしょになる。折り畳み傘は不器用なので使ったことがない。ビニール傘は比較的安価だが、強風が吹くと悲惨な目に遭う。
「この暴風雨のなか、傘をさしていることにどれほどの意味があるのか」
と思いながら歩いていると、たちまち傘は裏返しになり、無残にも骨はバラバラに破壊されてしまう。あれは恥ずかしい。惨めだ。ずぶ濡れで新しい傘を買うためにコンビニを探すはめになる。

降っていた雨が止むと、傘ほど邪魔なモノはない。大荷物を抱えているときなどはなおさらだ。この傘さえなければ両腕の自由度が少しは増すのに、と歯嚙みしながら歩くことになる。
「傘を捨てればいいだろう」
という声もあるだろうが、どこに捨てればいいのだ。そんな場所は見当たらない。厄介極まりない存在だ。

傘というものがどうにも好きになれなかったおれは、ある名案を思いついた。十年以上も前のことだ。
「高級品を買えば、傘への愛着心が芽生えるかもしれない」
おれは思い切って英国王室で愛用されているフォックス・アンブレラを一本購入した。当時の値段で五万円以上だったと記憶している。分不相応だとは自覚していたが、傘という原始的なツールに価値を見出したかったのだ。
このフォックス・アンブレラは逸品だった。傘の生地に当たる雨粒の音が全然違うのだ。熟練の職人が手作業で高いテンションをキープしながら貼っているので、雨粒が弾かれるような、イキがよくてきめ細かい音を立てる。雨が傘に当たる音で心地良さを感じたのは初めてのことだった。
傘を畳むと、不器用なおれでも信じられないくらい細く畳めた。まるでステッキのように細身になる。素晴らしい出来栄えの傘だった。おれは傘も悪くないな、と初めて感じた。
だが、この傘はすぐに盗まれた。雨の夜、食事をするため店の外にある傘立てに置いたら、帰るときには消えていたのだ。おれは泣きながら帰った。おれの頬を濡らしたのは雨ではない。紛れもなく涙だった。

以来、おれはますます傘が嫌いになった。雨に濡れないためには傘しかないのか。あの傘が人類史上最終形の雨除けなのか。だとしたら人類はいままで何をしていたのか。「狼煙→手紙→伝書鳩→電報→固定電話→携帯電話→スマートフォン」という通信手段の目覚ましい進歩に比べて、雨除けは「傘→傘→傘→傘→傘」のままである。現代のテクノロジーをもってすれば、傘なんてささずに雨の中を歩ける方法くらいは朝飯前に開発できるのではないだろうか。

おれはツマにそのことを話題にした。すると敵、じゃなかった、彼女はこう言い放った。
「バッカじゃないの。傘だって進化してるじゃない。折り畳み傘、ジャンプ傘、ビニール傘、みんな世紀の大発明でしょ?」
「いや、傘でなくてさ、もっとこう、最新テクノロジーを活用してさ」
「たとえば?」
「うーん、手の平サイズのボタンを押せば、自分の体が透明なバリアに包まれて、そのバリアが雨を弾くとかさ」
「バリアの中でどうやって息をするの?」
どうやらツマは完全に論破モードに入っているようだった。
「そ、そうだね、この話は忘れてくれ」
「バッカじゃないの、本当に。寝言は寝て言ってよね! 傘がなかったらアンタの好きな映画『雨に唄えば』も『シェルブールの雨傘』も作られなかったでしょ?」
「そうだねそうだね、『カサブランカ』もそうだね」
「全然面白くない、それ」
ツマはカサにかかって攻めてきた。君の瞳に完敗。

しもた屋之噺(268)

杉山洋一

このところ、ミラノは本当に酷いにわか雨に見舞われています。スコールと言った方が近いように思いますが、実際は、酷い雨と風のなか雷があちらこちらに落ちる、轟音を立てて大粒の雹がふりつもり、街路樹は暴風で倒れていて、まるで世紀末的な情景です。驚くほどの降水量に道路は排水が追い付かず、歩道の高さまで水たまりが広がっています。その中を自転車を漕いで学校へでかけるのは、何ともデカダンスですし、気温もあまり上がっていません。異常気象と片付けるのは簡単ですが、これを引き起こした原因が、本当に我々にあるのなら、これから先、地球がどうなってゆくのか、一抹の不安を感じざるを得ません。

ーーー

5月某日 ミラノ自宅
一昨日、母は初めて平塚に住む従兄の操さんを訪ね、せつさんの話を随分聞いたという。生前のせつさんの様子を知る親戚も、もう操さんだけになってしまった。秦野だか鶴巻温泉あたりまで娘の美和さんが迎えにきてくださって、そこから車で平塚の操さん宅へ向かった。母が一人で、小田原までゆき、東海道線で平塚まで行くのは難儀だと心配していたから、とても嬉しい。
どういうわけか、このところ息子がよく話しかけてくる。怖いものやら、飛行機の揺れが怖くて、遺書を携帯電話に書いたとか。
それを無事に残すために呑み込もうか、などと考えていたらしい。
ずいぶん長い間リスがベランダの石壁の上にぺたりと身体を伸ばして日向ぼっこしている。なんだか、飛んでいるモモンガのようだ。小刻みに動いては身体の向きを変えるのだが、いわゆる、ネズミとゾウの時間のように、リスにとっては、のんびりと少しずつ身体を動かしている感覚なのかもしれない。ダルフールの人道状況悪化。

5月某日 ミラノ自宅
朝から日がな一日学校。漸く一曲譜割りが終了。全く先が思いやられる。
RAI(イタリア国営放送)大規模ストライキ。アナウンサーなど全てストライキに参加していて、ラジオもテレビもすべて前以て用意された収録番組を放送している。4月25日、イタリア解放記念日の放送内容に、メローニ政権側からの指導と検閲があったことへの猛反発と、妊娠、病気等の欠員分の補充をせず、他の労働者がしわ寄せを受けているという。
ハマスは停戦受入れ発表。イスラエルは反発。米イスラエル向け武器輸出停止を発表。

5月某日 ミラノ自宅
家人のニグアルダ病院、ジャルダ先生の診察に付添う。診察室は10年近く前、息子が入院していた北病棟にあって、息子がリハビリに通った、2階のフランカ先生の施術室もあった。尤も、フランカはもうリタイヤしたから、入口が開け放たれていた当時のフランカの部屋は、違う器具が置かれていた。
ドナトーニが最後に入っていた病院もここだし、彼が亡くなり夏の暑い盛りに一人、地下の霊安室を訪れたのもこの病院だった。

5月某日 ミラノ自宅
日がな1日学校。映画音楽作曲コースの指揮法試験。皆、見違えるほどさらいこんであって、すっかり驚いてしまった。
夜、受講生の一人、アレッサンドロから、授業に参加した皆がものすごく喜んでいます。この授業のお陰で、作曲の方法も音楽に対する考え方も変わりました。本当にありがとうございます、とメールが届く。
夜半、ボローニャに住むクラリネットのラヴァ―リアから「おい、お前RAIのテレビに出ているよ」とメッセージが届く。不思議に思ってテレビをつけると、確かに2000年にエミリオと一緒にやったノーノのプロメテオ公演の抜粋映像が流れていて、当時の自分の指揮は、格好だけは今よりエミリオに似ているけれど、圧倒的に音楽に横幅が足りない。推進力を全開にした細身の潜水艦のようである。何より四半世紀経ち、自分はずいぶん肥えたものだと呆れる。

5月某日 ミラノ自宅
「星雲」譜割りを途中までやり、諦めて庭の芝刈りをする。このまま芝刈りをせずに日本に戻ったら、月末には芝が育ち過ぎて簡単には刈れないからだ。「星雲」のフレーズ決めは大変だろうと想像はしていたが、文字通り遅々たる歩みである。母の日に因んで、町田に鹿児島のさつま揚げを贈った。

5月某日 ミラノ自宅
朝、学校へ出勤前に「星雲」譜割りを終え、マックマホーン通り角の喫茶店でコーヒーとパンを購い出勤する。聴覚訓練の授業の最後に、いつものようにシャランを皆で歌い終わると、今日は学生の間から自然と拍手が沸き起こった。どうやら学生たちはよほど曲が気に入ったようで、何故シャランを知っているのか、彼が他にどんな曲を書いたのか、まだ生きているのか、と矢継ぎ早に皆から質問を受ける。シャランと仏語風に発音する輩もいれば、チャッランと伊語読みする学生もいるが、さまざまな作曲家の倖せの形があるものだと感慨深くおもう。夕方、サンシーロ病院にて家人のレントゲン予約。

5月某日 ミラノ自宅
どうにも解せないので、イタリア内務省のサイトで住民票をくまなく調べ、ミラノ市役所の住民票には家人が同居人として登録されていないとわかる。当方、未婚でも既婚でもなくて、「不明」となっていた。最初に家人がイタリアに住み始めたときのビザは、家族を呼び寄せるためのビザだったから、当然夫婦として受け入れられていたのが、どこかで書き換えがおざなりにされて、未だ彼女だけ以前のモンツァに住民票が残っているらしい。尤も、家人は「未だわたしたちは結婚していなかったのよ」と、息子に面白そうに話している。「それでこれからどうなるの」と息子が尋ねると、「お父さんとお母さんはこれからまた結婚するのよ」と嬉しそうである。

5月某日 三軒茶屋自宅
目の前の小学校校庭で、毎日、運動会の応援合戦の練習をしている。自分が小中学生だったころの応援合戦を思い起こすと、長い学生服を着て、声を嗄らした応援団員が思い切り胸を張って叫んでいて、改めて考えてみれば、何とも不思議な伝統である。尤も、今はずいぶん円やかになった。その昔、時々日本の学校に通っていた息子は、どんな心地で参加していたのだろう、ともおもう。イランのライシ大統領が墜落死。イスラエル、ネタニヤフ首相が国際刑事裁判所から戦争犯罪人として告訴の可能性との報道。

5月某日 三軒茶屋自宅
戦争では一人でも多く殺した方が英雄になると信じて疑わなかったが、ネタニヤフ首相告訴のニュースを聞くと、これだけ簡単に情報が共有できる現代においては、一概にそうとも言いきれないのかも知れない。パレスチナとの共存を選択して、彼らの生活をより豊かにすることこそ、イスラエルを利するように思うが、それは素人の浅はかな理想論なのだろう。

5月某日 三軒茶屋自宅
イタリアのニュースでは、アイルランドがパレスチナを国家として正式に承認したことがセンセーショナルに報道されている。スペインとスロベニアも続く予定だそうだ。同日、ノルウェーもパレスチナ正式承認を発表。せめても平和に役立ちたいのだ、との政府のコメントが書かれている‘‘。

5月某日 三軒茶屋自宅
東フィルはいつも明るく肯定的な雰囲気で、音は情熱的。そのお陰で、こちらは練習をすっかり楽しんでいる。
帰宅してRAIのストリーミング放送をつけると、国際司法裁判所で、ネタニヤフ首相を戦争犯罪で告訴する映像が延々と生中継されていて、関心の高さがうかがえる。大戦中の日本は、今のイスラエルに近い感じだったのだろうか。結局誰であれ、自らのDNAの一部に、通常では想像もできない狂暴性がセットされているのかもしれない。

5月某日 三軒茶屋自宅
練習が終わって、夜、町田の実家へ食事に出かけた。江の島で揚がったかますを焼き、カボスを搾って頂くと、大変美味であった。久しぶりに口にする蕨も、適度なえぐみが実にうれしい。イタリアメローニ政権、EUで初めてパレスチナのムスタファ首相を公式に招待。

5月某日 三軒茶屋自宅
マーク・アントニーは、とてもチャーミングで深い音楽家であった。楽譜の表面ではなく、実際に音になったとき、自分の心に何が伝わってくるのか、それを大切にしたい、と話していた。ドレスリハーサルが終わり、チェンさんは、感激して思わず泣いてしまいました、と皆に話した。
ロベルト・ベニーニ、世界子供の日のためのモノローグを、ヴァチカンのローマ法王の前で演じたことが話題になっている。
「お前たち、どこまでも深く善人であれ、イエスは言ったよね。それが人生というものなんだ。愛なんだ。人の悲しみを理解して、限りない深い憐みをおぼえる。だからね、世界が君たちにやさしく手をさしのべるのを待っているのではなくて、君たちが世界に手をさしのべて、やさしくしてあげてほしいんだ。せめて、君たちのすぐそばにいる人を、愛してほしい。愛するんだよ、いいかい。誰でもいいから、君たちの傍らにいる人を、愛するんだ。善良な人間でいてほしいんだ。愛して欲しいんだ。愛すること、みんな、愛ってなんだか知っているよね。君たちが愛をなんだかわからないと言うのなら、君たち自身が愛そのものなんだよ。まさに君たちが目に見えるようになった愛そのものなんだ。子供たちは、目に見えるようになった愛なんだ。だから、もし君たちが愛がなんだかわからない、といってしまったら、一体だれが愛を説明できるっていうんだい。君たちのお父さん、お母さんもよく知っているよね。君たちがすごくちっちゃかったころ、ゆりかごをやさしく押してくれていたでしょう。覚えているでしょう。ある有名な詩人はね、こう言ったんだ。揺りかごをおす手こそ、世界をおさめる、ってね。その通りだよね。でも、慈悲が、愛がなにかを知らないような人たちが世界をおさめて、実に愚かな罪をおかすこともある。戦争だ。戦争。よく聞いてほしい、この言葉がどんなに汚らわしいか。戦争!君たちの前で、君たちと一緒に、この広場で、とにかく汚らしく、すべてをどす黒く塗りたくる言葉だ。まったく聞いてられない。戦争!絶対、こんなことは終わりにしなきゃいけない。子供たちが戦争ごっこをするときは、誰か一人、子供が傷ついたらやめるでしょう。戦争ごっこはおわり。それなのに、戦争がはじまり、最初の一人の子供が辛い思いをしているとき、傷ついたとき、どうして戦争をやめられないんだろう。どうして?どうしてなんだ。なんて卑怯なんだ。アメリカの詩人イヴ・メリアンは、生まれてくる子供が、お母さんに、戦争っていったいなあに、って聞くような世の中が夢だと言ったんだ」。
ライフ・イズ・ビューティフルと全く同じ口調で、飄々と、少し畳みかけるように我々に語りかけ、我々の胸を抉ってゆく。全世界からあつまった、小学生くらいの子供たちへ向かって語りかけていて、言葉はしごく簡単なのに、涙がこぼれた。家人と一緒に国営放送を眺めていて、家人がいみじくも、なんだか齋藤晴彦さんみたいね、と呟いた。

5月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんと佐藤さんによる、「待春賦」録音。沢井さんは、弾けば弾くほど音に力が漲る。二重奏だが、できるだけ二人の音が重ならないよう互いに心を配っていて、二つの楽器から繰りだす二本の糸は、一つに縒りあげられてゆく。沢井さんの名前を数字に読みかえながら調絃を決めたが、書いた時期もプロセスも全く違うのに、どこか先日の野坂さんのための「夢の鳥」に似た響きがするのが不思議であった。
夜Sさんから、本番の演奏のあとホセが涙を拭っていたと聞く。作曲家が音を書く作業の深さ、それは一体何に喩えることができるのだろう。

5月某日 ミラノ自宅
昨日は日がな一日、学校で今年最後の指揮のレッスンをやり、今日は朝早くからシャリーノに会いにいった。朝7時の特急でフィレンツェへ向かい、駅構内のバールで朝食を摂ってから急行でアレッツォに向かって、車でチッタ・ディ・カステッロを目指す。日帰りは流石に強行軍だが、他に仕方がなかった。
パスタチェーチとパンを削ってクスクス状にしたウンブリアの郷土料理に舌鼓をうちながら、Infinito NeroとDa gelo al geloは舞台ではなく、映像、つまり映画として作りあげたら自分の考えていた世界に近いものができる、と話していた。「ファウストの劫罰や、メフィストフェレスだって一緒でしょう。舞台で作曲者が望んだことを実現するのは、限りなく不可能に近い」。
シャリーノの最初期作「あかあかと」は、いつか浄書をしようと思いつつそのままになっていて、今実演しようと思っても、演奏するマテリアルがないそうだ。「あかあかと日はつれなくも秋の風」をはじめ、彼が日本文化に感化されたのは、まだわずか12歳のころ、先生から芭蕉の句集を見せられてからだという。

5月某日 ミラノ自宅
ずっと長いあいだ学校の隣の部屋で室内楽を教えていたMaria Di Pasqualeが亡くなった。暫く前にクモ膜下出血でたおれ、そのまま昏睡状態が続いていた。ブラジル音楽が好きで、自分でアンサンブルをつくって、振ったりすることもあり、少しでも時間ができると、こちらの部屋にきてじっと見学していた。時間が余裕があるときは、何度か指揮の手ほどきをした覚えがある。親しかった友人からユダヤ教に興味を覚え、改宗試験を経て無事ユダヤ教徒になっていたはずだ。
スロヴェニアがパレスチナを国家として正式承認。トランプ、有罪決定。

(5月31日 ミラノ自宅)

6/1バリ舞踊の日に思うこと

冨岡三智

日本では6月1日がバリ舞踊の日となっていて、バリ舞踊のイベントがよく行われている。1964年6月1日にインドネシア大統領の特派使節団が初来日し公演したことに因むらしく、2018年に日本記念日協会により正式に認定されたという。どこがこの認定を推進したのか私は知らないのだが、実はこの記念日について「なぜこの日にしたのだろう…?」とずっともやもやしたものを感じてきた。せっかくバリ舞踊界で盛り上がっているのに、水を差したくないという気持ちもあるのだが、日付を見直してもらえたらなあと正直思っている。

●大統領派遣芸術使節団

その理由は2つある。第一に、日本に初めて大統領特派芸術使節団が来たのは1964年の6月ではなく1961年の1月だから。その時にすでにバリ舞踊も披露されている。大統領特派芸術使節団が来日したのは、1961年、1964年、1965年の3回である。実は私の舞踊の師匠の義弟、義妹がこの1961年公演の出演者に選ばれていたので、私もいろいろ当時の写真をいただいている。

大統領特派芸術使節団(misi kesenian kepresidenan)の派遣は初代スカルノ大統領が打ち出した芸術政策で、公式の第1回は1954年で、行き先は中国である。ちなみに、私の舞踊の師匠夫婦はこの第1回目の出演者に選ばれている。インドネシアの複数の地域から代表を選出し、代表団はジャカルタで合同練習を行い、大統領がその成果を直接視察して送り出した。派遣先は、当時のインドネシアの友好国である東側諸国が多かった。スカルノが1965年9月30日事件で失脚するとこの政策も終了し、以後はインドネシアが送り出した芸術使節団は「大統領特派」ではなくなる。

この、1961年の初来日公演はインドネシア大使館と朝日新聞社の主催である。初来日とあって朝日新聞社の宣伝にも力が入っており、来日前の1960年12月29日から帰国後の2月5日まで10回にわたって新聞に記事が掲載された。以下、その記事に基づいて公演の詳細について記す。実は、この使節団の来日と合わせて、インドネシアの巡航見本市船:タンポマス号も来日している。使節団の来日は1月15日。24日と25日に朝日新聞東京本社講堂にて「インドネシア文化の夕べ」と題した音楽と舞踊についての解説があり、26日夜に東京神田の共立講堂で公演があった。公演はこの1日だけの予定だったが、チケットが完売したため、25日昼、朝日新聞東京本社講堂での公演が追加された。また、28日夜にはNHKで1時間の公開放送があった。ちなみに、私の師匠の義弟によると、インドネシアでテレビ放送が始まるのはこの翌年からで、おそらくインドネシア側もテレビ放送の現場視察を希望していたのではないかと言う。一行は29日に大阪へ向かい(記事にはないが、彼らは宝塚歌劇を見学している)、2月4日に香港、マニラ、シンガポール経由で帰国した。

この時の来日メンバーは75名で、内訳はバリから42名、スラカルタから13名、ジョグジャカルタから4名、バンドン(西ジャワ)から12名、ジャカルタから4名である。このジャカルタの4名はおそらく引率の政府役人を指すと思われる。私の師匠の義弟、義妹はスラカルタ代表である。当時はまだ生演奏による公演だったので、バリとジャワの楽器セットを舞台に置いた。西ジャワの音楽はスラカルタのガムラン・セットで代用が可能で、太鼓だけ西ジャワのものを用意する。ジョグジャカルタからの参加者は踊り手と太鼓奏者だけで、スラカルタの演奏者たちが太鼓以外の楽器を演奏した。バリからの出演者が過半数を占めるが、記事によればケチャの上演もあったそうなので、そのためかとも思う。

というわけで、インドネシアの公式の芸術使節団初来日に焦点を当てるなら、その日付は正しくは1月15日である。

●パンチャシラの日

そして、第二の理由がインドネシア舞踊代表が来日した日を「バリ舞踊の日」としたこと。しかもそれが6月1日であることである。上で述べたように、使節団はバリ舞踊団ではなく4地域の代表から成り、しかも、地域代表はいないものの、スマトラの舞踊も上演レパートリーに入っていた。インドネシア政府としては多様なインドネシア文化を紹介したかったのである。

昨年2023年6月号の水牛に寄稿した「パンチャシラの日によせて」でも書いたけれど、インドネシア政府は2016年に6月1日をパンチャシラ誕生の日として国民の祝日に指定した。パンチャシラはインドネシアの国家五原則のことで、当時国内外でイスラム過激派の動きが活発化したことなどを背景に、多様性の中の統一をあらためて確認するべく打ち出したと考えられる。バリ舞踊の日が認定されたのは2018年だから、すでにパンチャシラの日は祝日になっていた。もっとも、祝日制定以前からパンチャシラの日は記念日となっており、特に公認宗教以外の信仰を持つ人たちにとっては拠り所となる日で、その日に記念行事を行ってきた。そのような日をバリという特定地域の舞踊だけを称揚する日と定めることは、インドネシアの国家原則を尊重していないように見えてしまう。インドネシア芸術と関わるならば、そこには注意を払うべきではないか…と思える。実際、インドネシア教育省の元役人にこの「バリ舞踊の日」制定について話をしたら、やはり機嫌が良くなかった。

バリ舞踊の日を制定する動機となったのは、2015年にバリ舞踊がユネスコの無形文化遺産に登録されたことだったようだ。それならば、そのユネスコに登録された12月2日をバリ舞踊の日にすればよいのに…と思う。

落下すること

越川道夫

春はずっと林に路肩に菫を追いかけている。地面近くに薄紫の小さな花を咲かせる、あの姿が好きなのだ。雨の降った後に、泥だらけの顔で、それでも姿勢をなんとか保とうしているのもいい。きっと菫は、私たちが思っているよりも強靭なのだと思う。地面に這いつくばって菫を覗きこんだ写真を撮ったりしていると、大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか、と抱き起こされることもしばしばである。調子を悪くして倒れているのと間違われたのだ。まったく人騒がせなことである。

日本には50種類ぐらいの菫があると言われ、そのうえ亜種も変種もあるとしたら、私などにはとても同定することはできない。実のところ植物の名前には、ほとんど興味がなかいのだ。そもそもカタカナの名前が覚えられない。そこで生えている、その姿を眺めることが好きなのである。5月も半ばを過ぎれば、菫はすっかり姿を消す。林ではエゴノキの白い花が満開になって散り、今では樹の根元にびっしりと敷き詰められたように生えたドクダミが白い十字の花を咲かせている。その隙間からホタルブクロが背を伸ばし、首を垂れたように花を咲かせている。また春になれば、私は飽くことなく菫を追いかけることだろう。

二十代の後半は、撮影所の助監督に嫌気がさして、映画館で映写技師をしていた。映画は今ではデジタルのデーターの映像になってしまったが、私が映写をしていた頃はまだ35mmフィルムの時代である。映画は直径が50cmほどのアルミやプラスチックの缶に収められている。1時間45分の映画となれば、巻き方にもよるが、だいたいこの缶が4つか5つ。大体1巻が30分くらいだろう。これを映写室に備えつけてある2台のまるで恐竜のような映写機で交互に切り替えながら映写していくのである。即物的な意味で映画の正体は、これである。缶に収められた巨大なフィルムの塊。本のように読めるわけでもなく、絵画のように眺めるわけにもいかない。死んでいる。映写技師だった頃、そう考えていた。ただのフィルムの塊である時、映画はその生を生きてはいない。眠っているというよりは、生きていない、死んでいるのだと。それを映写機に掛け、機械が動き出し、一秒間に24回の明滅を繰り返しながらプロジェクションされ、映画はその「生」を生きはじめる。何度でも。映画は一からその「生」を生きる。

深夜、オールナイトの映画を上映しながらこんなことも考えていた。映画は多くショットで構成されているが、このショットには何が映っているのだろう。映画が表現しようとしている物語のことではない。カメラが一定の持続する時間、対象を見詰め続けそれがフィルムに映っている。これをショットと呼ぶのだが、このショット自体には何が映っているのだろうか。深夜の朦朧とした脳が導き出したのは、このような答えだった。いうまでもなく人生はすべて崩壊の過程である、と言ったのはフィッツジェラルドだったか。存在するものは刻々と崩壊している。1秒後の存在は1秒前の存在に比べて崩壊している。ショットに映っているのは、そのカメラが見詰めている存在の崩壊の過程なのだ。どのショットもどのショットも、その崩壊が映っている。すべて倒れんとする者。その倒れようとする姿をショットは掬いとっているのではないか。掬いとり、掬いとり続け、倒れる前に崩れ落ちる前に次のショットへ…その連続である。そう考えると、多くのショットが繋がれている映画というものが、まるでサッカーのリフティングのように思えてくる。ボールを地面に落とさないように宙で蹴り続けること。地面に落下してしまえば終わりである。

書くこともまた同じだろうか。「この『判決』という物語を、僕は22日から23日にかけての夜、晩の10時から朝の6時にかけて一気に書いた。」終わりを決めず、一度書き始めたら、可能な限り「一息に」、可能な限り中断することなく書いてしまおうとしたカフカ。彼は、作中人物がどのように発展するかを知ることなしに、暗いトンネルの中をペン先についていくように書いたと言われている。ペンが先に進もうとしなくなったら、そこで終わり。ノートには横線が引かれ、その後を書き継ごうとする余地さえ残されてはいない。そのように一気に書いたカフカには、書いている間に「落下している」という感覚がなかっただろうか。落ちていく、落ちていく。落ちていくものをジャグリングの芸人のように掬いとり掬いとり、言葉を継いでいく。そして、もう落ちる余地がなくなったら、そこで終わるのである。

フィルムは映写機によって1秒間に24回の明滅を繰り返し、止まっては掻き落とされていく。(映画の絵が動いているように見える原理は、いわゆるパラパラ漫画である)フィルムは掻き落とされ続け、落ち続け、落下し、落下し続ける。これは何もかも深夜の妄想であるだろうか。フィルムの一コマ一コマが掻き落とされていくのを見ながら、いつか見たアニメ映画『トイ・ストーリー』にこんな台詞があったのを思い出す。

「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。カッコつけてな」

話の話 第15話:本の虫

戸田昌子

その昔、わたしが若い頃、町の本屋は立ち読みには寛容で、中学生のわたしはよく本屋に行っては文庫本を立ち読みしたものだった。2時間ほどで2、3冊は読み切ってしまうくらいのペースだった気がする。なぜ文庫本だったのか。それは当時、わたしが読んでいたのが主に小説だったからだし、大きなハードカバーの本を立ち読みする勇気はなかったからである。そんな中で立ち読みの対象になりがちだったのは瀬戸内晴美(のちの寂聴)や五木寛之など、ちょっと読みたいけど、読み返す必要はないな、という類の本だった。それでも出家する前の瀬戸内晴美はいま思い返せば、とても純粋な心を持った人だなあという印象はあって、「信頼」ということについて独特の考え方を持っていたから、影響を受けた。だから後で実は出家していたのだと聞いたとき、さもありなん、と納得した覚えがある。当時、わたしが通っていた本屋には、ハタキをばたばたと振り回しながら「ゴホン、ゴホン」と咳払いをするなんていう、漫画に出てくるような意地悪な書店主はいなくて、静かな立ち読みの時間を過ごせたものだった。

物心ついたときから、ひたすらに本を読む子どもだった。絵本の読み方も独特だったようである。通っていた保育園で定期購入していた、うすっぺらい福音館のこどもの本のシリーズは、きょうだいが多かったせいで、数百冊にのぼる冊数が家にはあった。だからわたしは時々気が向くと、100冊ほどを床に積み上げ、1冊ずつ読んでは隣に置いていく、という読み方をした。もちろん最後の1冊までちゃんと読むのである。これは自分が読んでない本をチェックするための作業なのだが、そういう読み方は、たぶんあまり、普通ではない。

そういうわけで「本の虫」とわたしが呼ばれるようになったのは、かなり古いことのようだ。小学校低学年のうちに小学館の「世界少年少女文学全集」は読み終わってしまったので、もう一度、いや、もう二度、いやいや、さらにそれ以上にと、繰り返し読む。好きなものだけではなく、好きではない巻も何度も読んで、これは好きじゃない、ということの確認作業もする。あるとき、このシリーズを読んでいたときに、母が階下から、子ども部屋にいたわたしを大きな声で呼んだ。ふだんは呼ばれたらすぐに返事をするのだが、そのときはたまたま「返事をしなくてもかまわないだろう」と思った。なぜそう思ったのかはわからない。たまには無視しても怒られないかな、という浅はかな考えだった気がする。しかしそう思ったのが運の尽き、そのとき母はきっと虫のいどころが悪かったに違いなく、ドスドスと階段を登ってきて、わたしが持っていた本を取り上げ、怒ってびりびり引き裂いた。いくら意図的に無視したからと言って本を破くなんて、とショックを受けるわたしだったが、「あえて」無視したという後ろめたさもあるのでバチが当たったんだな、といたく後悔したものだった。ちなみに、そのとき破かれた本のタイトルは「愛の一家」だった。

小学生にしてはたくさん本を読む子だった。いじめられっ子で友達がいなかったことや、家では漫画やテレビが禁止だったので、本くらいしかエンタメがなかったせいもある。親が言うには、もう学校に行ったと思っていたら玄関に座りこんで本を読んでいた、なんてこともしばしばあったそうなので、少々、異常だったかもしれない。道を歩きながら本を読むのも得意だったし(漱石のようだ)、夜、布団に入った後も、かけ布団の中で豆電球をともして本を読んだりもした。そんなふうだからある日、小学校の先生が、「みなさん本を読みましょう。毎日、読んだページ数を報告して、1ページ1キロに換算して、地図につけて、みんなで日本一周しましょうね!」というアイデアを出してきたときは、こんなわたしでもクラスに貢献できると発奮したのである。先生は「1日5ページでもいいんですよ、みなさんで頑張りましょうね!」とおっしゃる。翌日、全員が読んだページ数を報告する段になって、みな27ページとか、がんばって50ページ、などと報告している中で、わたしはひとりで500ページ超えの数字を報告する。先生は一瞬とまどい、読んだ本のタイトルとページ数を書いた紙を見つめて沈黙する。数字のかさ増しを疑われているのかと思い、つい「解説のページは数えていません」などとごにょごにょ言ってはみるが、ドツボにハマった感が否めない。そして気を取り直した先生は、「戸田さんは特別だから、みんなこんなに頑張らなくていいよ!」とおっしゃった。いや、頑張ったわけじゃなくて、毎日これくらいは普通に読んでいるんです、と言うほどの勇気もなかったわたしは、翌日、さらに600ページ超えの数字を報告してしまう。次第にしらけていく教室。日本の海岸線は35,293キロメートルである。わたしひとりでもこの調子なら2ヶ月あれば一周できる、などという計算をわたしがしたかどうかは覚えていない。3日目、わたしの報告した数字が何ページであったかは覚えていないが、ともあれその読書マラソンが1週間と続かなかったことだけは確かである。

そんな調子だから、小学生のうちに、家中の本を読み尽くしてしまった。父の本棚に並んでいた「日本思想体系」にも手を出したが、さすがに「おもろさうし」は読んでも意味がわからなかった。父の持っていた岩波のアンデルセン全集は旧仮名旧漢字で書かれていて、最初はわからなかったのだが、他に読むものもないのでこころみに手に取ってみる。小学6年生くらいのことである。眺めているうちに、ああ、「體」は「体」だな、などと、なんとなくわかってくる。「畢竟」という字も、いつのまにか読めるようになる。辞書を引く習慣はなかったので、想像で補っているうちにほとんど正解が出せるようになってしまう。そもそも、わからない言葉を両親に尋ねようにも、共働きで不在なので、質問をする習慣はなかった。そのおかげで習わずとも、旧仮名旧漢字はすらすらと読めるようになってしまい、これは中学に入ってから、古文や漢文の授業で役に立つことになる。

中学に入るといよいよ、読む本がなくなってしまう。そのころハマったのが井上靖や遠藤周作である。でも家には数冊しかない。そうすると父があわれんで、「書籍代」を出してくれるようになった(そもそも小遣いは存在しない)。父は社団法人の研究員をしていたので、自分の書籍代が使いきれないときは、レシートをくれれば何を買ってもいいよと言って、わたしに本代を融通してくれることがあった。たぶん、半年に1度くらいの頻度で、1万円をくれていたと記憶している。もらったわたしが向かうのは八重洲ブックセンターである。なぜならそこは本のワンダーランドで、私の母は、近所の本屋には置いていないような本が欲しいとき、八重洲ブックセンターに電話で注文しては、わたしに取りに行かせていたからである。だからわたしは、父に1万円札を握らされると、いつも八重洲ブックセンターへ向かうのだった。

そんなある日のこと。わたしが八重洲ブックセンターで本を選んでいると、高校生くらいの少年が本棚を見つめているのに気がついた。自分のことは棚に上げて言うけれど、ここは少年少女が出入りするような本屋ではない。どうも気になってしまう。するとその子もなんとなく自分を気にしているような気がする。そう思うと急に緊張してしまう。本を選びながら、その子の後ろをさっと通り過ぎる。やはり気にされているような気がする。すっとした好ましい顔立ちの少年であるのは、通り過ぎた瞬間の印象である。わたしはさりげない風を装って本棚の間を歩き続けるが、緊張してしまってうまく本が選べない。仕方がないので、視線を振り切ってエレベーターに乗り、2階へと上がった。少年はついてはこなかった。

恋どころか友情さえもろくに知らない中学生の少女のことだから、そのときは緊張して逃げてしまったけれど、あのとき話しかけてみたりすれば恋が始まったりしたのかもしれない、そういえば八重洲ブックセンターには中2階にナイスなカフェも併設されているのだから、そこでお茶をすることもできたかもしれないのだ、などなど、後になって思い返すことが何度かあった。とはいえ、そんな勇気が中学生の少女にあるわけもないのである。もし万が一、声をかけたとしても、喫茶店で向き合ってから、さあ本の話をしよう、などと思っても、ろくな話になるわけもないのである。少女漫画のハラハラドキドキなど、完全に架空の世界の物語であった。

しかし世の中には奇妙なことがあるもので、自分はそのときの少年だと名乗るおじさんに、その後、わたしは再会することになる。「むかしよく八重洲ブックセンターに行ってたんだよね」とわたしが言うのをきいたその人は「僕もよく八重洲ブックセンターに行ってた!」と言った。「え、じゃあ、会っていたのかもしれないね」とわたしが言うと、彼は「買い物カゴで本をたくさん買ってた中学生くらいの女の子でしょ。」と言い始める。確かに、当時、わたしは買い物カゴで本を買っていたが、それは普通ではないのか。とわたしが言うと「買い物カゴで本を買う中学生の女の子なんて他にいるわけありません」と断言する。高校生のころ、八重洲ブックセンターで買い物カゴに本をぽんぽん入れていく中学生の女の子を見かけた彼は、その姿に「打ちのめされた」のだそうだ。そんなふうに誰かを「打ちのめしていた」ことには気づいていなかったわたしの買い物カゴに、そのとき入っていたのは『オーウェル対訳集』、『旧約聖書 出エジプト記』、そしてカフカの『城』あたりだったと記憶している。

クラスメイトと読んでいる本が違いすぎて困ったことがある。小学5年生くらいのころ、講談社の「コバルト文庫」というのが大流行した。ここのところ、クラスの女の子たちがみんなで文庫本を回し読みしている。かわいらしいイラストのカバーもついていて、みんなでキャッキャッと言いながら本を見せ合っている。ちらちら見ていると、どうやら挿絵もついているらしい。あの文庫本はなんだろう? しかし友達のいないわたしに、それを解説してくれる人もいない。でもどうやら文庫本ブームは来ているらしいから、わたしも文庫本を学校に持っていけば、仲間に入れるかもしれない。そしてあわよくば、友達ができるかもしれない。そう思ったわたしは、家にある文庫本を適当に選んで学校へ持っていく。そして教室でこれみよがしに読んでいると、クラスメイトの一人が声をかけてくる。「戸田さん、何読んでるの?」しめしめ。「うん、これね、半村良の『獣人伝説』!」そのあとのクラスメートとの会話の展開は、なぜか全く覚えていない。

代弁、ならぬ代読をしたこともある。わたしが中学生くらいのころ、父が読まなければいけない新刊書がしばしば山積みになってしまうようなことがあった。すると父は夜中にわたしの部屋へやってきて、デスクに本を積んでいく。特に「読め」と指示されたわけでもないのだが、暗黙の了解というやつで、本が積んであれば、わたしはとりあえず3日以内に全部読む。読み終わったころに、父がやおら「どうだった」とわたしに尋ねる。しかも父はそれを、いかめしい雰囲気で、重々しく言うのである。わたしはあらすじや感想を簡単にまとめて伝える。父は小さなノートを出して、わたしのコメントを小さな文字でしたためていく。しかし、それを彼がどのように「活用」していたかについては、わたしの関知するところではなかった。

考えてみれば、兄にもよく本を押し付けられていた。自分が読んで面白かった本は全部、わたしに読ませないと気が済まない兄である。わたしは遠藤周作が好きだったのだが、『イエスの生涯』や『キリストの誕生』『海と毒薬』などの硬派な本に偏っている。一方、兄は「孤狸庵先生」シリーズと呼ばれていた、遠藤周作の面白おかしいエッセイが好きである。趣味は違うものの、兄が持ってくる孤狸庵先生の本は、わたしも楽しく読むことができた。その他には、アガサ・クリスティーなども兄から渡されて熱心に読んだ。しかし問題もあった。わたしはホラー小説が苦手なのだが、兄がスティーブン・キングにハマったときは、次々に差し出される『ペット・セメタリー』や『イット』などの、背筋も凍る分厚い文庫本に圧倒されたものだった。しかも兄は、わたしが読まないと不機嫌になるのである。仕方がないから読む。そしてわたしは夜、眠れなくなってしまう。

中学1年生のころ、2つ年上の姉が登校するときに、いつも一緒に行く友達がいた。ある日、姉が体調不良で休んでいたとき、わたしがその彼女と一緒に学校へ行くことになった。彼女が「昌子ちゃんって本が好きなんでしょ? いま何の本読んでるの?」と聞くので「古事記です」と正直に答えたが、もちろんそれでは普通の中学生には二の句が告げない。とりあえず「古事記っていうのは、日本の古い神話時代の話が書いてあるもので、」と説明してはみるのだが、かえってドツボにハマってしまう。仕方なしに「あ、でも、井上靖も読んでます!『額田女王』がいちばん好きです」と言って、そのときカバンに入っていたその文庫本を見せたのだけれど、彼女は今で言うところの「ドン引き」の表情をしている。ああ、またやってしまった、と当時のわたしが思ったか、どうか。普通に考えれば赤面するところだが、当時はまだ、そこまで考えていなかったかもしれない。

そんなわたしでも、高校生になると、自分をはるかに凌駕する本読みの友達に出会うのである。その人とは演劇部で知り合って、たまたま家の方角が一緒だったので、学校帰りにおしゃべりをするのが楽しみだった。彼女が日本史オタクであったので、わたしも日本史オタクになり、彼女は梅原猛を端から順にわたしに貸してくれた。下校途中の電車のなかで、弓削皇子ってかわいそうだよね、いや、草壁王子もわりと辛くない? などと熱く語り合う女子高校生2名。そんなふたりがひたすらに語り合っているのを横合いからずっと聞いていた別の友人が、しまいに「お前らさあ! 会話ってのはキャッチボールなんだよ! ドッチボールじゃねえんだよ!? ふたりとも自分の話しかしてねえじゃん!」と呆れ果てて言ったのは、また、別の話。

わたしを神保町の古本屋街へといざなったのは、この彼女である。そして古本屋を回るだけでは飽きたらず、古書会館で金曜日に本を買うテクニックを教えてくれたのもまた、彼女である。彼女はわたしが知っている人の中では、夫を除けば最も博識な人物だったのであるが、神保町のドトールでバイトしながら本を買うのが一番いいから、という理由で大学へは行かなかった。必ずしも頭のいい人が大学へ行くわけじゃないんだな、ということを知らされたのは、彼女によってである。そういえばこの彼女とふたりで、早稲田にある高校の先生の家を訪ねたことがあるのだが、彼は古本マニアで専用の図書室を持っており、本を3冊まで借りてよろしい、と許可してくれたので、借りたことがある。そのとき借りた本はタイトルは忘れたが刺青の歴史についての本と、日本史関係の本、そしてロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』であった。その昔、その描写が「猥褻か芸術か」が話題になった「チャタレイ裁判」についてはぼんやりした知識しかなかったので、それが理由で借りたというわけではなかったのだが、なんとなく有名な本だから読んでみよう、というような気持ちだったと記憶している。それは伊藤整による翻訳ではあったものの、しかし肝心な部分、すなわち「みだらな性描写」はきっちりカットされていたバージョンであった。それでも男と女のむにゃむにゃとした繊細な機微の描写は面白かったし、森番とできてしまう主人公の満たされない思いにも説得力はあったようだ。本を返却に行ったとき、先生が「どれが面白かった?」と尋ねたので「『チャタレイ夫人の恋人』が面白かったです」と即答したら、「あっ……えっ……あっ、そう、そうなの。そう……」と動揺されていたのが、当時は不可解であった。しかし大人になったいまでは、そりゃ女子高校生が「『チャタレイ夫人の恋人』が面白かった」と平然と言ったなら、先生としては何も言えなくなるよね、ということは、さすがにわかるわたしではある。

234 夕暮駅

藤井貞和

JRの駅ビルで、
柱に凭れて口寄せしていると、
むらさき色のプラットフォームに、
母親が降りてくる

真っ青なかおを、
わたしのまえに俯せにして泣く。
姉はあの世に落ち着いたらば、
もういちど来たいと言っていると

人生の総仕上げを始めた矢先でした、
運がわるかったのよ、と、
あなたも駅ビルの柱に凭れて坐る

わたしの傍らにやってきてつぶやく、
だれも恨んではいないよと。
絹色の雲が舞い降りる夕暮駅
 

(一九八〇年代に九州でお会いした宗教芸能者のなかには、口寄せするらしい方もいた。山鹿良之師は口寄せしない。師は五十種近い語り物を演唱する。儀礼の一つ一つを伝承して語り物に番(つが)える。言葉がよくわからなかったので、いまになお残念である。閏月(うるうづき)は聞き返して理解できたものの、その年に「閏」があったと言うことか。友人の関根賢司が、『源氏物語』には閏月がないのではないか、と言い出して、私と議論したことがある。月がかさなるように見えるところもあるので、議論になる勘定である。でもそれは私の誤解で、正解値は太陽暦と太陰暦とのいわゆる「二元的四季観」というやつであるらしい。昨年は閏二月があったので、お月見のだんごのかずは十三個。旧八月十五夜は旧暦を守り続けるらしい。)

実験の続き

高橋悠治

時間の線に沿った音、響きの線、響きの揺れ動くのを書き留める、できるだけ少ない記号を使って。音の長さは周りの響によってその場で決まる、というか、その場でも決まらない、といった方がいいのか。一歩、次の一歩、一歩ごとの方向、目標や意図のない動きから、思っていなかった音の集まりが見える。

と期待して、試してみても、何も見えてこない。1950年代のセリエル、理論めいたこと、クセナキス、ケージ、響きの好み、武満、まったく違うが、小倉朗、ある種の潔癖さ、それらの混ざり合った状態から脱け出すのは難しい。だが、そんな必要があるのだろうか。

言いさし、ためらい、フレーズの中断、その時の突きと返し、あしらいと見計らい、そうした小さな発見を連ねて、思いつくままに、ピアノを弾いていくように、紙に書いていく。そんな試みを2021年の “Ion” のスケッチを見ながらクラリネット、ヴィオラとピアノのための『Ion 移動』と2022年の無伴奏ヴィオラのための『スミレ』を書いた。

今度は、ことばに頼りながら、歌の線を書き、ことばの切れ目とフシの切れ目をずらしながら、書き続ける、というふうにして、世阿弥のことばによる『夢跡一紙』(2023年)を作ってみる。

芭蕉の連句のように、付きと転じを繰り返しながら、始まりのフレーズから離れていく。「付き」は元の句の変形、「転じ」は前句と並べて繋がればよしとする。それ以上の定義は、「転じ」かたを縛ってしまうだろう。

今年は、アンサンブル「風ぐるま」のために「白鳥(しらとり)の」を作ってみた。万葉集から大伴坂上郎女の歌2首と笠女郎の歌1首、楽器の組み合わせを変えながら序と間奏2つを書いて、演奏してみたが、どうだったのか。

2024年5月1日(水)

水牛だより

東京は気温の低い雨の日です。この雨で、明日からの日々はさらに美しくなるのかもしれません。

「水牛のように」を2024年5月1日号に更新しました。
さとうまきさんの「たまには福島」に「恩返し」ということばが出てきますが、これは日本の文化を強く支えている思想だと思っています。ちょっと気をつけてみれば、日常にあふれている思想と実践であり、しかも資本主義経済からは逸脱している!

今月は水牛とかかわりの深い3冊の新しい本を紹介します。
アサノタカオさんの『随筆集 小さな声の島』
「サウダージ・ブックスの編集人である著者が雑誌、リトルプレス、ウェブマガジンに寄稿したエッセイを集成し、未発表の台湾紀行も収録。家族の歴史について、移動と定住について、小さな声を守る詩のことばについて、本のかたわらで考える随筆集。」

下窪俊哉「『アフリカ』を続けて」Vol.0
下窪さんは「水牛のように」に連載中の「『アフリカ』を続けて」をみずから一冊にまとめるらしく、その0号のちいさな冊子を送ってもらいました。100円という値段がついていますが、販売はしていないようなので、読みたければアフリカキカクのcontactから尋ねてみてください。

藤本和子『ペルーからきた私の娘』
1984年に出版されたものの新装版です。なんと40年ぶり! 収録されているいくつかのエッセイは、当時の水牛通信に掲載されたもので、懐かしさはあるものの、まったく古さを感じないのはさすがに藤本さんです。榎本空さんの解説もすばらしい。1984年にはまだ生まれていなかった榎本さんにバトンが渡ったのはとてもうれしい出来事です。

それではまた来月も無事に更新できますように!(八巻美恵)

たまには福島

さとうまき

原発事故から13年が経った。あれほどの事故が起きたのに、我々は多くのことを忘れていく。僕自身もここ数年は、原発のことにはほとんど向き合ってこなかったという罪悪感を感じていたので、4月の中旬に車を飛ばして出かけてみた。

震災当時、僕はイラク支援のチョコレートを売っていたのだが、なんだか、日本が大変な時に、海外のことをやっている場合ではないだろうという思いに打ちのめされた。それでチョコレートを売ったお金の一部を福島支援にも回すことにして、足しげく福島に通っていた。その一つが二本松の有機農業をやっている人達との出会いだった。

福島は、有機農業が盛んだったが、原発事故の影響をもろに受けた。放射能汚染で、今まで築き上げた顔と顔の見える関係を大事にした提携が一気に崩壊、消費者が半分以下にまで減った。福島で農業、有機農業を続けるのは困難ではないかと悩みながら、それでも作ってみなければ分からないと種をまき続けたという。僕たちも、ガイガーカウンターを片手に一緒に畑仕事を手伝いながら、放射能の勉強会を企画したりした。しかし所詮、部外者であり、ただ、彼らの悩みや苦しみをたまに出かけて行って一緒にお酒を飲んだりして聞くだけに過ぎなかった。

原発に頼らない生活を福島から発信しなくてはならない、という彼らの強い意思。そして僕ら東京の人間は、東京の生活が、福島原発に頼り切っていたことに恥じた。そこで、話に上がったのは、ソーラー発電だ。農地に太陽光パネルを設置し、下では畑を耕す(ソーラー・シェアリングという)。電機は売電する。2018年にはチョコレートの売り上げを300万円ほど寄付して、ソーラーパネルの購入に貢献した。パネルの設置作業を手伝ったのを覚えている。

今では、年間200万円をこえる売電収入が出ているそうだ。有機農業研究会のメンバーである近藤さんはサンシャインという会社を設立し、このソーラー・シェアリングを発展させている。麦を作り、クラフトビールも製造、さらに牛を購入して放牧させ、ソーセージも販売している。このビールを買いに行くというのが今回の旅の目的でもあった。

話は変わるが、僕は、去年からイラクへ行きはじめ、メソポタミアの研究を行っている。研究というほどものものではないのだが、紀元前3500年も前のイラクに人類最古の文明が栄えたことが気になってしょうがないのだ。シュメール人はすでにビールを発明して日常的に飲んでいたらしい。彼らは、楔型文字を発明し、やたらと粘土板に書き記していった。神々の神話から、料理のレシピ、ビールの作り方など。一説によると、彼らのルーツは縄文人だと言われている。あるいは、シュメール人が日本にたどり着いたとの説もある。にわかには信じがたい話だが、世界はつながっている感があっていい。最近、僕は、現代社会にはもううんざりしてしまったので、メソポタミアの時代のような、ビールを飲んで暮らしていきたいと思ったわけだ。

再会した近藤さんに、「メソポタミア風味のビールを作ってみたいんですけど」と相談すると、「いいですよ、イラクに恩返しできるなら!」と言ってくれた。恩返し! そうか、なんだかすっかり忘れていたが、僕は、チョコを売っただけでなく、恩も売っていたのだ。あらためて、農民の皆さんの当時の絶望の大きさを感じた瞬間だ。たとえちっぽけな支援でもしっかりと受け止めてもらえていた。なんだか僕は、この恩返しという言葉がうれしくなって、帰りに縄文資料館に立ち寄ることも忘れてしまい、温泉につかって帰ってきたのだった。

233 浮舟さん、その二

藤井貞和

f「甦った浮舟は、和歌の手習によって能力をひらき、つよい神がかりの君になります。
常陸のくにへもどって、カミサマとして名を馳せます。 薫の君も道心冷めやらず、
浮舟を追いかけて東国入りします。 しかし、かれには神がかりする能力がありません。
源氏の頭領ですから、武士たちが集まって、大きな領国をうち建てることになります。
京都では匂宮が即位して、国内は二つの政権あるいは王国からなる拮抗状態となります。
あやうくぶつかりそうで、薫と匂宮とはどこか意志疎通があって、昔のままです。
薫は出口王仁三郎になり、浮舟は教祖様になります。 世界の終わりが始まり、
ハルマゲドンです。 京都は潰滅し、東国では廃墟のなかから、
よろよろと起ち上がる薫と浮舟とが、しっかり抱擁して終わり、ってのはどうでしょう。」

m「きゃあ、古代インドの物語、ダイナミックな展開! ハルマゲドン!
想像の世界ですよ、わたしもあそびました。
浮舟さんは、シャーマンですね。心を離れなくて、いまも憑かれているきもちです。
神がかりする能力って、生まれ持った何でしょうかね…… でも、
教祖様になんかならないで、ディキンソンのような沈黙の詩人になってほしい気がします。
世界の終末、天が裂けて天使が顕われ、ラッパが鳴り、獅子が吼え、地上に闇が訪れ……、
舌の炎が降ってきて、ことばが生まれ直す。
クリムトの接吻(A・ウェイリー版『源氏物語』)は桐壺帝、桐壺更衣のイメージでしたが、
めぐりめぐって、浮舟と薫との抱擁のようにも見えてきます。」

(紫式部さん、国内物語に飽いて、大陸文学にも飽いて、さいご、インド神話に向かうのではないかという推測です。)

仙台ネイティブのつぶやき(94)母のこと街のこと

西大立目祥子

母が緊急入院となった。貧血がひどいことから病院で検査を受けると、心不全の診断が出て、即入院。私はもちろん、付き添ってくれた施設の看護師さんも予想だにしなかった展開である。胸の中に不安の黒い雲が広がっていく。この春は、本当に数年ぶりに晴れやかな気持ちで少しずつ開いていく桜を見上げ、やわらかな春の日差しを味わっていたのに。じぶんの時間が暗転する。

こういうことを、「禍福は糾える縄の如し」というのか。やさしい春のあとには、焼き尽くすような夏が来るのか。そう想像すると、来る前から、へろへろして倒れそうな気分だ。
この故事成語を印象的に使っていたのは、脚本家、向田邦子をヒロインにしたNHKのドラマじゃなかったっけ? 仲良しだった黒柳徹子が向田の部屋に遊びに行き、「“禍福は糾える縄の如し”ってどういう意味?」と聞くと、「いいことのあとには悪いことが来るっていうことよ」と答えた向田は、「あ、でもあなたにはいいことしか来ないかもね」とことばを重ねる。「ふーん」とよくわからない表情で返す黒柳。向田は、何事もいいことと受け止める、明るさとタフさを友の中に見ていたのだろうか。

この程度のことで動揺するへなちょこの私である。動揺するのは、年寄りの入院となると、医療と介護の間の渡れないような深い溝を思い知らされることも一因だ。いまどこにいるのか、何のためにこの治療をするのかわからない母を点滴の間じっとさせておくことなどとてもできないから、止むを得ず身体拘束が必要といわれ、家族は承諾書にサインを迫られる。それって本人にとっては虐待なのでは…という疑問を打ち消し、治療ができないからという理由をごくりと無理矢理じぶんに飲み込ませて書類に名前を書き込む。苦しい。動けなくなっている姿を想像すると、いたたまれない。
 
最近、80代の知人から聞いたひと言も何度も胸に浮かぶ。心臓の手術で入院してね、そうしたら退院するとき歩けなくなってしまってね。ベッドに横になったまま処置され食事をとる超高齢老人の2週間後はいかに。

母のことはさておき。今日4月30日。仙台市一番町にある老舗書店「金港堂」が店じまいした。地元で出版される本だけでなく、市民団体が制作した小さな冊子や地図までお願いすれば置いてくださる書店で、私もお世話になった。夜7時の閉店の店の前には200人ほどの市民が集まり、社長の藤原さんや書店員の方々に花束を贈呈、拍手が鳴りやまなかった。これで仙台市中心部にあった仙台資本の書店は、この20年ほどの間にすべて姿を消したことになる。

金港堂は当初は地下から2階まで3フロアの売場だったが、売場を縮小したあと、2階のフロアを古書市や仙台をテーマにした連続講座に提供してくださっていた。経緯の詳細はわからないが、個人商店のスペースを街に開放してくれたといっていいと思う。初めは、新刊を扱う書店が古書市を呼び込むなんてと驚きもしたが、本好きが集い、また仙台の街に関心を抱く市民の交流の場となり、それは回を重ねるうちにいつのまにかコミュニティに育っていった。

閉店が公にされると、この2階フロアに集っていたメンバーの中から感謝のイベントをやろうと声が上がり、4月20日・21日の2日間にわたり、トークイベント「まちとほんと13のものがたり」が開催された。社長の藤原さんをはじめ13人が歴史や文学、街や古地図などをテーマについて思い思いに話すという内容で、私も大正時代の地図についてしゃべったのだが、閉店の情報もあってか50人ほどのお客様が駆けつけ、フロアには最後のイベントを味わい尽くそうという熱気があふれた。

話しながら、こうやっていろいろな人が集い、話し込み、思いがけない人に会って雑談したりする、これが街に暮らす楽しさでありおもしろさと感じずにはいられなかった。人が交錯する中から、街の中につぎの動きが生まれてくる。小さくてよいから、たまり場のような、誰かのひと言を受け止めてことばを返すような、消費とは異なる場の必要。金港堂は本業は本業として守りながら、おおらかに隣り合わせのもうひとつのドアを開けてくれていたんだな、と思う。

いま地方都市はしんどい。仙台は人口110万人、東北の中心都市といわれるが、中心部繁華街は、ドラッグストアとコーヒーチェーンと高層マンションだらけとなり、地元の店は姿を消しつつある。本社の指示で動く店は、余計なコストと判断するのか七夕飾りも飾らない。地に足をつけない空中商店街みたいなものに変容しているといっていいのかもしれない。

閉店を見届けたあと、藤原社長と書店員さん、お世話になった人たち10数名が集い感謝の打ち上げをした。店の前の通りで一箱古本市を開催したいと社長に談判にいったら快諾してくれた話を披露する人、じぶんの著書の棚をつくってくださったと感謝を述べる作家さん、1階のレジを仕切っていたベテラン店員に何度もありがとうという人…。楽しく飲んで食べた3時間、その間はベッド上の母のことは忘れていたのでした。
 

水牛的読書日記2024年4月

アサノタカオ

4月某日 あたらしい年度の始まりに、神奈川・箱根の温泉旅館で一泊した。旅行中はオフライン状態にして、ネットやテレビを見ない。夜から朝にかけて熱いお湯につかり、大地のエネルギーをからだに蓄えて帰宅すると、メディアが台湾東部沖地震をいっせいに報道していて驚いた。震源地は花蓮だという。花蓮や台東出身の友人たちのことが心配で、胸騒ぎがおさまらない。数日前、横浜の本屋・生活綴方で会った、来日中の高耀威さんのことも思い浮かべる。かれがオーナーを務める「書粥」は震源地に近いはずだ。

ちょうどこの日の夜、東京・下北沢の本屋B&Bで高さんのトークイベントが開催されるので、自宅からオンラインで視聴した。台東のお店の被害はほとんどなかったと聞いて、すこし安心。トークでは、台湾書籍の版権エージェント業を営む太台本屋のスムースな司会と通訳で、高さんの書店や出版の活動を詳しく知ることができてよかった。いつか書粥を訪ねたい。

4月某日 文学研究者・阪本佳郎さんによる本格的評伝『シュテファン・バチウ——ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』(コトニ社)が届く。

台湾の友人から安否確認のメッセージへの返信が届いてほっとするが、誰も「大丈夫」とはいわない。自分のいる地域がこれだけ揺れたのだから、震源地・花蓮の被害が大きいのでは、と心配している様子だ。

4月某日 最寄りの書店、神奈川・大船のポルベニールブックストアへサウダージ・ブックスの新刊を納品しに行くと、取材でお店に来ていたBOOKSHOP TRAVELLER・和氣正幸さんとばったり遭遇した。本の世界の仲間とのこういう偶然の出会いは、いつもうれしい。ポルベニールで、中沢新一先生の新著『精神の考古学』(新潮社)などを購入。この本は、自分も読むつもりだが妻用のもの。

4月某日 午後、新刊の納品を兼ねて書店めぐりをした。横浜の本屋・象の旅をはじめて訪問。店名の「象の旅」は、ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴの小説のタイトルから。海外文学の棚が大変充実していて心が踊った。フェルナンド・ペソア関連の本を買う。しばらく使っていないポルトガル語の勉強を再開したくなった。

横浜から東横線に乗り込んで学芸大学前へ行き、SUNNY BOY BOOKSヘ。こちらにも新刊を納品。詩人・真名井大介さんのことばのインスタレーション作品の展示を開催中だった。

電車を乗り継いで最後に、東京・三軒茶屋のTwililightへ。すっかり日は暮れて、ひと休みしようとバナナタルトとチャイを注文。お茶をしてすこし本を読んだ後、お店のギャラリースペースへ足を運ぶ。そこで、saki・soheeさんの作品を鑑賞して目を見開かされた。中東オマーンを旅するレバノン出身の友人Amienさんにおこなったインタビューをもとにした、テキスト・写真・映像から構成されるインスタレーション。saki・soheeさんは済州島にルーツを持つ在日コリアンで、雑誌の編集などの活動をしているという。ふたりのあいだでアラブの国々へのアラブ以外の国々に住む人間の歴史的想像力、そして現在進行形のイスラエルによるパレスチナ人虐殺をめぐって、メッセージが交わされている。ことばには親密で落ち着いた雰囲気が漂っているが、他者とともに共に考えぬこうとする姿勢に揺らぎはない。この展示の記録集となるZine『mirage 蜃気楼』を購入。巻末に置かれたsaki・soheeさんの「内省 introspection」という文章がすばらしかった。

4月某日 東京・九段下のメトロ駅から地上にあがると、桜目当ての花見客の大群衆にぶつかった。混雑するなかを縫うように進んで二松学舎大学にたどりつき、非常勤講師の説明会に参加。今年度から「編集デザイン論」「人文学とコミュニケーション」の授業を担当する。その後、神保町へ移動し、韓国書籍専門店チェッコリへ。社長の金承福さん、スタッフの佐々木静代さんとおしゃべり。春から新しい企画がはじまりそうだ。

店内では、いわいあやさんの写真展「はじめての済州、それから」を開催していた。写真とそこに添えられた詩的なキャプションをじっくり鑑賞する。文章には、済州島四・三事件をテーマにした金石範先生の小説『鴉の死』への言及もある。「私の海」と題されたいわいさんの韓日バイリンガル詩も展示されていて、これは目の覚めるようなあざやかな言語表現だった。いわいさんの写真と文を収めた『庭の中』(気儘文庫)、韓国文学Zine『udtt hashtag# 若い作家賞受賞作家編』、そしてイ・スラ『29歳、今日から私が家長です』(清水千佐子訳、CCCメディアハウス)を購入。春だからか、あれもこれもと本に手を伸ばしてしまう。

4月某日 韓国の作家ハン・ガンの小説『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)を読む。すごい。この小説について語るには、腹の底の底から、自分ひとりだけのものではないことばが浮上してくる時間が必要だ。

4月某日 ポルベニールブックストアで、アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『初めて書籍を作った男——アルド・マヌーツィオの生涯』(清水由貴子訳、柏書房)を買った。以前から読みたかった一冊。大学や市民講座のために、この本の他にも図書館で借りたメディア論や書物論の資料を読みながら、授業の準備をする。

4月某日 編集者・ライターの小林英治さんの訃報に接する。『Casa BRUTUS』2010年3月号に掲載された、サウダージ・ブックスの紹介記事「さまざまな声が交わる場所で」の取材と執筆をしたのが、小林さんだった。ぼくらのスモール・プレスの活動を最初期から見守ってくれた恩人のひとり。ご冥福をお祈り申し上げます。

4月某日 二松学舎大学で「編集デザイン論」の第一回目の授業をした。学生の中には、『週刊読書人』の「書評キャンパス」(現役大学生が自ら選書・書評するコラム)に寄稿したり創作活動をしたりしている人もいるみたいだ。

その後、東京・水道橋の機械書房をはじめて訪問。前職の出版社の近くにあるビルの一室がお店だった。マイナーな著者の本も含めて魅力的な詩や小説の本がいろいろ並んでいて棚から目が離せない。店主の岸波龍さんから強くおすすめいただいた、姜湖宙さんの詩集『湖へ』(書肆ブン)を買う。さっそく電車のなかで読みながら帰ると、夜の自宅で同書が小熊秀雄賞を受賞したというニュースを知って驚いた。偶然のことだが、なんというタイミング。「瞬き」という詩がとてもよかった。お店では岸波さんの日記本『本屋になるまえに』も入手。岸波さんはラテンアメリカ文学の愛読者で、お店にはペルーから詩人のお客さんも来たという。日記本のタイトルにはきっと、レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(安藤哲行訳、国書刊行会)へのオマージュが込められているのだろう。キューバ出身の亡命作家による、ぼくも大好きな自伝的小説だ。

4月某日 読書会にオンラインで参加した。課題図書は、サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち』(寺門泰彦訳、岩波文庫)。この日までに、なんとか上下巻を読了。予備知識なく読み進めたのだが、これほど奇妙奇天烈なマジックリアリズム小説だとは思わなかった。独立後のインドの歴史を背景にしためくるめく物語の渦に飲み込まれて、なにがなんだかわからないけれどもすこぶるおもしろかった。ところで、文庫の巻末には「作者自序」が収録されていて出版までの経緯が書かれており、その中でこんな一節を見つけた。

「(ラシュディの原稿を検討した)最初の査読者の報告は短く、けんもほろろのものだったという。『この作者は長編小説の書き方を身につけるために、まずみっちり短編で修行する必要がある』というものだった」

もし査読者だったら、なんて想像するのは馬鹿馬鹿しいことだが、まったく同じコメントをしかねない小心者の自分の姿がそこにいるような気がして、震え上がった。オリジナルの原稿は語りの背景にある人間関係がより複雑で、時系列がもつれていたというのだから……。「もうすこしわかりやすくしてくださいね」的なことはかならず言うにちがいない。ラシュディの持ち込んだ原稿を不朽の名作の原石として見出した、のちの編集者はほんとうにすごいと思う。こういう人が、真の「エディター」なのだろう。

4月某日 豊後水道で地震が発生し、愛媛と高知が大きく揺れたらしい。まさに宮脇慎太郎写真集『UWAKAI』(サウダージ・ブックス)の舞台で、この本は印刷製本も愛媛・松山の松栄印刷所でおこなっている。まさか四国で……というのがニュースを見た直後の率直な感想だった。香川に住んでいたこともあり、地震が少ない地域と思い込んでいたのだ。電子メールやSNSで関係者の安否を確認。被害は少ないようでひと安心したが、住民にとっては不安な日々が続くだろう。ここのところ関東でも地震は続いていて、いつどこで災害に遭遇するかわからない時代だ。

4月某日 大阪・釜ヶ崎のココルーム(NPO法人こえとことばとこころの部屋)へ。ここを訪れるのは、コロナ禍をあいだに挟んで何年ぶりだろう。代表で詩人の上田假奈代さんと久しぶりに会って、居合わせた人たちと合作俳句などをして一緒に遊んだ。

4月某日 三重・津のHIBIUTA AND COMPANYへ。市民文化大学HACCOA(HIBIUTA AND COMPANY COLLEGE OF ART)で、昨年度に引き続き「ショートストーリーの講座」の講師を務める。前回の受講者の継続参加もあり、予想を上回る人数の熱心な受講者が集まった。この講座は、物語を書く人(書きたい人)のための編集講座としても設計されている。創作に役立つ編集の基本的な知識と技術を学ぶことで、受講者が「編集的思考」を取り入れつつ小説やエッセイのショートストーリーを完成させることが目標。第1回目の授業では、編集の歴史について駆け足で解説。これから受講者には一人二役、作家であると同時に編集者にもなってもらう。どんな物語が生み出されるのか楽しみだ。

講座の後、夜はHIBIUTAで自分が主宰する読書会を開催。お店に集う仲間とともに、宮内勝典さんの小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)を読み続けている。今回の課題、12章と13章は謎やしんどい描写の多い物語上の難所で、「これはどういうこと?」というさまざまな疑問をみんなで共有した。昼の講座の受講者も参加して、普段よりにぎやかな会になった。

HIBIUTAに行く道中では、孤伏澤つたゐさんの小説『ゆけ、この広い広い大通りを』(日々詩編集室)を読んだ。すばらしい小説で、多くの人にすすめたい。「地元」で生きる3人の元同級生、夫と子供と暮らす専業主婦のまり、トランスの女性で音楽の仕事をする夢留、都会からUターンしたフェミニストの清香の物語。お互いにわかりあえるわけではない。でも、わからないままにともにいることの希望が語られていて深く感動したのだった。HIBIUTAでは、孤伏澤さんの小説『兎島にて』(ヨモツヘグイニナ)を入手。

4月某日 HACCOAの講座の翌日、HIBIUTA AND COMPANY では文筆家の大阿久佳乃さんと対談した。拙随筆集『小さな声の島』(サウダージ・ブックス)の刊行トークという枠組みだったが、大阿久さんと語り合うのもこれで3回目になる。前半ではアメリカ文学エッセイ『じたばたするもの』(サウダージ・ブックス)を刊行した後の、大阿久さんの旅と読書についてじっくり話を聞いた。アメリカ南西部・先住民の保留地から、ニューヨークへの旅。気候変動、フェミニズム、クィア・アクティビズムへの現在の関心。フランク・オハラ、アドリエンヌ・リッチ、オードリー・ロード、エリザベス・ショップ、藤本和子さん、榎本空さんらの著作について……。『じたばたするもの』の最終章は「親愛なる私(たち)へ」と題されたアドリエンヌ・リッチ論ということもあり、対談では「リッチの詩はど根性!」なる大阿久さんの名言も飛び出し、ぼくとしては大変楽しく刺激的な内容になった。後半では、こんどは大阿久さんに聞き手になってもらい、『小さな声の島』で書いた台湾への旅ことなどを話した。最後に、大阿久さんがアメリカの詩人エリザベス・ビショップの訳詩を、自分が台湾の詩人・董恕明の訳詩を朗読してトークを締めくくった。

4月某日 三重から帰宅すると、島田潤一郎さんの新著の散文集『長い読書』(みすず書房)、申京淑の小説『父のところに行ってきた』(姜信子・趙倫子訳、アトラスハウス)、『現代詩手帖』2024年5月号が届いていた。『詩手帖』の特集は「パレスチナ詩アンソロジー、抵抗の声を聴く」。今月、パレスチナ侵攻を続けるイスラエルの本土にイランがミサイル攻撃をしたのだった。

4月某日 二松学舎大学で「編集デザイン論」の授業のあと、渋谷に立ち寄り、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERSへ。夜の書店では、本が蓄えることばの体温がすこし下がるように感じられて、それが自分には心地いい。

4月某日 読書会の課題図書、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳、岩波文庫)を読みはじめる。ラシュディ『真夜中の子供たち』につづいて、これも摩訶不思議な小説だ。人間の脳髄は、なにゆえにこんなわけのわからない(でも、おもしろい)物語をえんえんと生み出し続けるのだろう。

あする恵子さん『月夜わたしを唄わせて』(インパクト出版会)を読み続けている。本書のサブタイトルは「”かくれ発達障害”と共に37年を駈けぬけた「うたうたい のえ」の生と死」。「うたうたい のえ」は、著者・あする恵子さんの子どもで、2008年に亡くなった。ようやく第4章まで、「ノンフィクション作家」であることに徹するあする恵子さんのことばとまなざしを借りて、のえさんの生の軌跡をゆっくりと辿り直す。

『アフリカ』を続けて(35)

下窪俊哉

 3月から4月にかけては、この連載を本にするために毎日、少しずつ推敲を進めていた。(1)から(33)までを並べて、いろいろ試してみた結果、現時点では、書いた順に載せることにしている。全ての回にタイトルをつけた。本文にはかなり手を入れた。大きく削除した部分もあるし、逆に加筆の激しいところもある。部分的に書き直した回もあった。33回分、2年9ヶ月の試行錯誤があり、その中に『アフリカ』を始めてから約18年間の軌跡が見え隠れしている。その背景には、ミニコミや同人雑誌をやってきた人たちの歴史もある。それを過去の資料として見るのではなく、実践を通してどう感じられるか、ということに迫れていればいるほどよいのだが、それは今後もっと書いてゆきたい。読み返していて不思議な気もする。自分は果たして、『アフリカ』という雑誌をめぐる物語の作者なのだろうか、登場人物のひとりにすぎないのではないか。
 しかしその本をどうやって出すかという計画は、まだ立っていない。自分もいつ死ぬかはわからないのだから(と、いまはまだそういう気分が濃厚で)、この本はさっさとまとめておきたい、と思い込んでしまって、一気にやってしまった。あとは煮るなり焼くなり、どうにでもしてください、と言い出しっぺである守安涼くんに投げたところだ。
 どうせならこの本もアフリカキカクから出してしまえ、という話はしかし、もう少し後でしてくれ、ということになっている。大きな再出発になる次の一手は、『アフリカ』次号でなければならないという想いがあるからだ。私の単著より雑誌の方が大事なのである。『アフリカ』に助けられて、ここまでやってきたのだから。

 さて、前回からの続きで、2006年の『アフリカ』誕生の真実に迫るノンフィクションの、3回目。引き続き当時のノートや手紙を探りながら書いてみよう。

 6/3(土)の早朝、『アフリカ』用に書いていた自分の小説「音のコレクション」(400字×約35枚)をいちおう書き上げた。「出来はイマイチだが、自分には収穫があった」そうである。その創作ノートの中からは、こんなメモに注目しよう。「わからない」と「わかる」は対極にあるのではなく、「わかる」の周囲に「わからないA」「わからないB」「わからないC」が存在している。どういうことだろうか。
 まだ『アフリカ』の制作には入っていない。何をしているかというと、すぐに次の小説「静岡さんの街」に取り掛かったようだ。再就職活動もしてはいるが、前年のことが相当響いているらしくて、半ばひきこもり状態である。「静岡さんの街」は後に『アフリカ』で連載する「吃る街」のこと。当初は100枚くらいの予定だったようだが、実際にはその数倍の長さになり、いまのところ未完に終わっている。
 その頃はまだ文芸雑誌をたまに買っていて、その月には『新潮』最新号で小川国夫「潮境」、小島信夫「「私」とは何か」、柴崎友香「その街の今は」を読んでいる。この3篇は心に残っているので、書き添えておこう。
 6/15(木)の夜から翌日の朝にかけて、『アフリカ』のレイアウト作業。全ページを自分でつくるのは初めてだったが、守安くんのつくった『寄港』のフォーマットを元につくった記憶がある。ただし、下にあったノンブルと柱を上にしたり、タイトルまわりを変えたりしたので雰囲気は違うものになったはずだ。
 巷ではサッカーW杯ドイツ大会が話題になっており、『アフリカ』の作業をしている途中には、中継を見ている人たちから声が上がるのがたまに聞こえたかもしれない。あるいは自分もテレビをつけて中継を見ていた。
 6/24(土)は「世界小説を読む会」で、パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』(平岡篤頼・訳)をとりあげている。その日は主宰者が不参加で、いつもの会場ではなく(と言っても、その頃の「いつもの会場」がどこだったか忘れてしまっているが)京大文学部の部屋を借りて開催。ファシリテーターは当時『VIKING』編集人だった日沖直也さんで、人文書院の編集者や京大独文科の学生、少し後に文學界新人賞をとるTさんなどが参加していたらしい。どんな話をしたかは覚えていないが、全員が初対面だった若い女性のTさんが打ち上げで泥酔して困った記憶だけ鮮明に残っている。そのTさんからは後日謝りの連絡があって、少し原稿を見せてもらったりもした。
 6月末、半年ほどカナダへ留学(?)していた神原敦子さんから、京都に戻ったという連絡が来た。その同じ日だろうか、広島の向谷陽子さんから切り絵が届いている。
 その時の手紙を見てみると、風邪をこじらせて、思うように作業できなかった、とある。『アフリカ』の表紙に、と考えてつくってみたのはキリンのシルエットで、「間に合いそうになかったので、イラストレーターの原画を送ることにし」たそうである。ということは、6月末を〆切にしていたのだろう。「切り絵という約束とも違うし、使えない場合は本当に使わないで全然構わないので」と弱気なことを書いてから、「あと、私の切り絵の作品も何点か同封させてもらいました。挿し絵に使ってもらってもいいし、拡大してこちらを表紙に使ってもらってもよいです。」
 同封されていた切り絵は3作で、朝顔と、百合と、蝶だった。
 その日のノートには、こう書いてある。「守安くんへ装幀をお願いできないか、打診中。どうだろう。断られたら、それも自分ひとりでやろう。切り絵、スバラシイ。」
 打診した結果どうなったのかは、もう書くまでもない。表紙に蝶の切り絵を使おうというのも、すぐに決まったような気がする。
 これも同じ日のノートだが、「『アフリカ』が山場、でもとくに大変なことはない、話をした時点で信頼しているから、その気持ちが伝わっているような気がする」とある。『寄港』や前の職場で誰も信用ならんと感じていたのとは対照的に、『アフリカ』では他人を信頼している。これがリハビリの効果だと見ることが出来そうだ。
 同時期、村上千彩さんが恵文社一乗寺店の奥のギャラリーで銅版画展をやっているのを観に行っている。村上さんは前職でお世話になったフリーランスのイラストレーターで、ヴィルヘルム・ラーベの小説の翻訳本をつくる仕事では表紙に彼女の銅版画を使わせてもらった。久しぶりに会って、自分が退職した後の話などを聞いたのだろう。凍りついていた自分の心も、そうやって徐々に解けてくる。
 7月最初の月曜日だろうか、垣花咲子さんがわざわざ原稿を持って訪ねてきている。〆切を過ぎていたからだろうか。その原稿は小説「メンソールじゃないけどさ」で、翌日までに読んで、返事を出している。いま書きながら思い出したのは、そのタイトルを相談されて、自分がつけたのではないか、ということだ。たしか本文中のセリフからとった。
 樽井利和さんの「目に張り付くもの」にかんする記録は、ノートの中に見つけられなかった。その小説は会話が全て地の文のようになっている掌編で、奇妙な味わいがあった。
 あとは短い雑記を3つ、垣花さんが書いた「ヒゲのお話」、私の「好きな本のかたち その二」(たぶんその一もあったんだろう)、守安くんの「遠い砂漠」を載せることにした。「遠い砂漠」は表紙を開いたらいきなり始まる。同人雑誌は表紙をめくったら扉ページがあるか目次がある、というのをよく見ていたので、そうではないようにしたかった。
 7/24(月)、『アフリカ』2006年8月号の入稿、『寄港』に続いて堺市のニシダ印刷製本にお願いすることにした。2003年に『寄港』創刊号をつくった際、少部数の印刷と製本を(安く)引き受けてもらえるところを幾つか当たってみたが、殆どはコミケ(コミックマーケット)に出す人たちをターゲットにしていたと記憶している。ニシダ印刷製本は大阪文学学校で同人雑誌をつくっている方から紹介された。いわゆる紙版印刷という方法で、最初の頃にはプリントで入稿しており、ページの順番が変わってしまうというような大きなミスも起こったのだが、ニシダさんしかないという思い込みのようなものが当時の自分にはあった。『アフリカ』を始めた頃には、PDFデータから面付けを行うシステムに変わっており、そういったミスはなくなった。後年、社長さんと久しぶりに会った際に「よくぞ使い続けてくださいました!」と言われたのを覚えている。
 この連載の(1)で書いたように、『アフリカ』の入稿直後、7/27(木)のようだが、茨木市立中央図書館の富士正晴記念館を初訪問している。入ってゆくと、『VIKING』の安光奎祐さんとバッタリ会った(仕事で来られていた)。展示されている『VIKING』創刊号を見ながら、当時は糸が買えなくて綴じていないといった説明をしてくれたのは安光さんだった。
 その2日後に、神原さんと再会。その日のことは他に何も書かれていないが、四条河原町近くのフランソアで会って珈琲を飲んだ記憶がある。その時に「音のコレクション」の感想を聞いたはずなので、メールで先に送ってあったのだろうか。それとも、その記憶は少し後の会合だろうか。どんな感想を聞いたのかも覚えていないが、感触はよかった。
 8/1(火)に『アフリカ』納品、三条烏丸のカフェneutronで仕事上がりの守安くんと会って出来たてホヤホヤの『アフリカ』を手渡して見てもらい、ハイネケンの生ビールを2杯ずつ飲んだ。彼がその時、「なんかおもしろいね」と言わなければ『アフリカ』は続かなかったかもしれない。翌日には「音のコレクション」を褒めてくれて、「吃音の文体」と言っていたようだが、それについてはよくわからないと書いてある。
 完成した『アフリカ』は執筆者の残り3人と切り絵の向谷さんに送って、あとはまず小川(国夫)先生に送ったようだ。そうやって送ると、いつも「相変わらずやってるね」と嬉しそうにされるのだった。
 それでも本づくりにかんする悪夢は見たようで、よく眠れない日が続いた。しかしもっと眠れていないだろう人を、その直後に私は見ている。
 8/9(水)の早朝、吉野の櫻花壇という宿にいて風呂に入ろうとしたら、真っ赤な顔をした川村二郎さんが出てくるところだった。いつも眠れないんだと言っていた。70代後半になった川村先生と小川先生が大阪芸大を退任された送別会に、なぜか私も呼ばれて参加していた。他は教授陣で、学生上がりなのは自分ひとりだった。当時のことを思い出すと、有名・無名に関係なく年配の文学者たちからいかに自分が期待されていたか、いまとなっては思い知るばかりだ。小川、川村に加えて葉山郁生さんと私の4人は夜中の3時まで語っていたそうなので、数時間も寝ていないだろう。私が川村先生に会ったのはその時が最後になった。前夜遅くにふたりがやり合っていた記録も、ノートに残されていた。その場でメモはとらない。数日後に思い出して、書いておいたものだ。

 小川「東大は砂漠だった。(大阪)芸大は違った。」
 川村「東大が砂漠だったということすらわからなかった。小川さんと違ってうちは軍人で失業して、食っていくのに大学は良い求人だった。」

 小川「埴谷(雄高)さんと飲んでいて、小川くん、キリスト教の真髄は何かね? って言うから、永遠の生です、って返したら、俺の真髄は死だって。」
 川村「ただのカッコつけだよ、そんなの。」

 小川「埴谷さんは作品を仕上げることを考えなかった。それより”考える”こと自体を重んじた。」

 川村「戦後文学の作家たちのことは、自分は(評論の)仕事で持ち上げたが、殆どがくだらない。でも藤枝静男と小川国夫は別で、花田清輝もよかった。『青銅時代』の創刊号はいまでも綺麗にして持っている。「アポロンの島と十二の短篇」(正確には「八つの短篇」)は鮮烈だった。言葉が屹っていると感じた。」

 真夜中にかなり酔っ払って喋っていることを考慮に入れて読んでいただきたい。「くだらない」と言っている川村二郎がその作家たちと一緒にたくさん仕事をして生きてきたことを、その場にいるメンバーはよく知っていたのだから。しかし「くだらない」と言い切ってしまう清々しさというか、生の感じに、私は熱いものを感じた。そこに当時20代の自分がいたというのは、夢の中ではなかったかと思う。『青銅時代』というのは小川国夫が1957年、30歳の頃に仲間たちと始めた同人雑誌で、6号くらいまでは小川が編集していたと聞いている(勤めがなくて他の人より時間があったからだろう)。その『青銅時代』については、いつかじっくり書きたい。

 その前に、私は京都駅の新幹線口で小川先生を待ち受けて、吉野まで案内している。近鉄京都駅で特急に乗ろうとしていたら、千円札を出されて、ビールとお酒を買ってきなさい、ということになる。自分が飲みたいというより下窪くんに飲ませようということなのだろうが、私は小川先生の前で酔っぱらうわけにゆかないので幾らでも飲める(何か変でしょうか)。京都から奈良へ向かう車中で、『アフリカ』と「音のコレクション」の話をしてみた。いつも私が何か言うと百倍返してくるような小川先生だったが、その時だけは、微笑むようにして、何も言わなかった。それはずっと忘れられない時間になった。

髭の生えないところ

植松眞人

 四月だというのにいつまでも桜が咲かず、長袖の薄手の上着が手放せない気候が続いた。なんとなくはっきりしない気持ちで、映画館にふらりと入った。平日の昼間の映画館に人があふれるような時代ではなくなって久しいけれど、この日はもう驚くほど人がいなかった。三百人くらいは入ろうかというそこそこ大きな箱の中に客は私を含めてたった五人。カンヌ映画祭で主演男優賞をとった映画なのに、この様だと本当に映画は終わったコンテンツに成り下がってしまったのかもしれない、という考えがよぎる。
 映画はとても興味深い内容だった。主人公は小津安二郎の映画で笠智衆が演じていた男と同じ平山という役名を付けられていた。毎日、丁寧にトイレ掃除をして、銭湯に行き、馴染みの居酒屋で一杯引っかける。そんな毎日の合間に、主人公の平山は木漏れ日をフィルム写真に撮り、木の根っこあたりに芽吹いた若葉を持ち帰り、部屋の中で育てたりしている。週に一度くらいは行きつけのスナックに顔を出し、歌がうまくて色っぽいママに、ちょっとえこひいきしてもらってにんまりする。
 日本を代表する役者が主演し、若い頃に憧れたドイツの監督が演出したこの映画がとても好きになった。翌日も観に行き、翌週にも観に行って二ヶ月の間に五回観た。五回観たときに、いやもういいだろう、と思ったのだけれど勢いでもう一回観て、都合六回も観てしまった。その六回目に観たときに、妙に気になったのは平山が髭を生やしているというところだった。
 平山は髭を生やしている。鼻の下にだけ髭を生やし、その他はちゃんと電気シェーバーで剃る。そして、生やしている部分が長くなりすぎると、小さなハサミできれいに揃えたりする。その場面が二度ほど繰り返されるの見てふと気付いた。平山は人生をリタイヤして、ただそれ以上堕ちないように踏みこたえているのかと思っていたのだが、それは間違いだということに。だって、人生を絶望してリタイヤしてしまった人間は、たぶん毎日丁寧に髭なんて揃えないだろうと思ったからだ。
 それで、私も髭を生やすことにした。今年六十二歳になるというのに、私はこれまでの人生で髭を生やしたことがない。無精髭が生えていたことはあるけれど、ちゃんと髭を生やしたことがない。だから、生やそうと思ってもちゃんと生えるのかどうかわからないし、髭が似合うのかどうかもわからない。でも、決めたからには生やす。なんだか決意にも似た気持ちになって、毎日髭を撫でてみたりする。
 二週間もすると、なんとなく髭を生やしている、というふうに見えるようになった。朝、鏡を見ると鼻の下が黒い。ああ、私は髭を生やしているのだと、たぶん周囲から見てもわかるくらいにはなった。すると、私の鼻の下のは髭の生えない場所が出てきた。真ん中よりも少し右寄り、縦に一ミリくらいの幅で髭が生えないところがある。そこを見ていて、子どもの頃に鼻の下をケガしたことを思い出した。
 小学校にあがったばかりのころ、散髪屋さんに行く途中、道の隅っこにあった細いドブ川を飛び越えて遊んでいたのだった。ドブ川の向こうとこっちをピョンピョン跳んで遊びながら散髪屋さんに向かっていたのだった。そして、落ちた。私は鼻の下をざっくりと切り、血を流して、病院にかつぎ込まれて二針か三針ほど縫ったのだ。
 髭が生えてこないのは、その部分だった。まだ中途半端に生えかけている髭を触りながら、決して髭の生えてこない部分を撫でていると、不思議なことに、あのケガをした日に誰かに背負われて病院に運ばれているときの揺れを思い出した。あの時、私を背負って走ってくれたのは誰だったのだろうか。父親だった気もするし、通りすがりの人だったのかもしれない。
 私はその人の背中がドブ川の泥で汚れていることを気にしていた。その背中で、私は血が付いてはいけないと顔を背中から上げていた覚えがある。本当にそうしていたかどうかは、わからないけれど、なんとなくそうしていたような気がする。たぶん、私は痛くて泣いていただろう。泣きながら、揺れている背中を心地よく思いながら運ばれていた。いま、そのときのことを思い出そうとすると、映画の主人公の平山が朝日を浴びながら泣きながら笑っている、あの奇妙な顔が浮かんでくる。その顔は、背負われている私の顔なのか、それとも私を背負って走ってくれた誰かの顔なのか。もしかしたら、二人ともあんな顔をしていたのかもしれない。
 私は少し様になって生えてきた髭を撫で、髭の生えないところを撫でて、このまま髭を生やすかどうか迷っている。(了)

むもーままめ(39)スーパー田中さん、の巻

工藤あかね

近年コンビニエンスストアに行くと、外国出身らしい店員さん率が本当に多いと感じる。留学生なのかとても優秀で、たいてい流暢な日本語を話す。彼らは商品を陳列したり販売するだけではなく、コーヒーマシンを掃除したり、接客の合間に鶏の唐揚げを作ったり、特選肉まんと普通の肉まんの微妙な差を客に説明したり。おにぎりを2個買うと何かがもらえる、みたいなキャンペーンもちゃんと把握して、条件を満たしたお客さんにはスクラッチカードを配布して当選商品は何月何日以降引換可能です、なんて伝えたりもする。はてはコピー機の使い方がわからない人を助けたり、宅配便の手配まで行う。母国語でも追いつかないような仕事をよくこなしているなあと、いつも感心してしまう。

あくまでも私個人の印象だが、外国出身の店員さんを見かける率が低めなのが、スーパーマーケットのレジだ。わが家から最寄りのスーパーは、おそらく地元住民と思われる方々が勤務している。どうみても電車に乗って他の街から通っているとは思えないご高齢の店員さんもいるし、レジの前の客に「うん、そうなの~!〇〇ちゃんとこは?」などとフランクに話しかけられている店員さんを見かけたりもする。スーパーが混雑するタイミングはコンビニに比べれば波があるから、落ち着いた時間帯だと近所の知り合いがやってきて、店員さんに話しかける事態は発生しやすいのかもしれない。

けれどもレジで話し込まれて精算が滞り始めると、後ろに並ぼうとする客にとっては微笑ましいだけではない時もある。そんな最寄りのスーパーに、丁寧かつ完璧にレジ業務をこなしつつも、客とは絶妙な距離を保っている店員さんがいる。その名も「田中さん」。

実ははじめて田中さんを見た時は、「大丈夫かなこの人?」と思ったのだ。田中さんはポヤンとしていて、動作ものろく、値札を読み上げる声も他の店員さんよりだいぶゆっくりしている。そのため、田中さんの列に並ぶことをためらってしまったのだ。店内が混み始めると、少なからず動作がスピードアップする店員さんが多い中、田中さんは店内に何が起こっても動じない。自分のレジの列に人がどんなに並んでいても、暇な時と同じスローなスピードで業務を淡々と行うのである。

ある日ぼーっとしながら精算に進んだら、そこは田中さんのレジだった。「田中さんか…」(実はそのときに名札を初めて見た)。「ながねぎ298えん、とまと158えん、しめじ98えん…」田中さんの声は鈴が鳴るような良いトーンで、ちょっとした催眠作用があった。しかも商品を精算済みカゴに移す手さばきが美しかった。田中さんは顔も手もふっくらとしていて、血色がよい。赤ちゃんみたいなモチモチの手で、商品を取っては次のカゴに入れてゆくのだが、がしっと掴んだりは絶対にしない。ふんわりとぴたっの間くらいの絶妙な力加減で手にとっては、テトリスの名手のように、重く壊れにくいものから繊細なものまでを隙間なくカゴに詰めてゆく。その手には一切の迷いがない。しかも冷凍食品は冷凍食品、冷蔵品は冷蔵品で固まるようにグルーピングまでされていて、ちょっと感動的な詰め方なのである。田中さんはのんびりしているように見えるけれど、最初から最後まで商品をレジに通すペースが全くかわらない。急に急いだり、遅くなったりせず、全スピードを均等にするほうが結果的にスムーズであるというのは、電車内で時々遭遇する、駅での時間調整と同じかもしれないなと思った。それ以降、スーパーで田中さんのレジを見つけるとなるべくお願いするようになった。いつも安心の田中さんクオリティ。卵もバナナもイチゴのパックも、必ず一番安定のいいところに置いてくれる。


そんなある日、私が店内をフラフラしていると、レジでやっかいな不具合が出ているのを遠巻きに見かけた。そのレジを担当していた店員さんはあきらかに慌てていた。一人ではどうにもならなくなったのか、その店員さんは他の店員さんにSOSを出した。すると真っ先に、どこからともなく現れたのは誰あろう田中さんだった。田中さんはおっとりとそのレジに近づいた。そしてパニクっている店員さんの話をひととおり聞くやいないや、瞬く間にレジの不具合&トラブルを解消してみせたのだ。私は買い物の足を止めて思わず見入ってしまった。実は田中さん、相当有能な人だったのだ。能ある鷹は爪を隠す。すごいよ、スーパー田中さん!!

けれどもさらに衝撃だったことがある。それは、レジの不具合の原因を他の店員さんたちに説明する田中さんが、超早口だったこと。おっとりした物腰は、レジの前に立つ時の田中さんのキャラ設定だったのだ。やられた。